できれば、多言語コミュニケーションをしたいのですが、わたしの語学力は非常に乏しいので、基本的に、すべて日本語で書かせていただきます。
Bible Reading Club からとって、略称は、BRC、今回は、2025-2026年で通読をする計画ですので、BRC2025 です。第一弾 BRC 2025 no.001 は 2024年12月31日に配信。
mailing list や、group をネット上に設定することも可能ですが、匿名参加も可とするため、BCC (Blind Carbon Copy) にアドレスをいれて、メールで送信する形式とします。 みなでグループとして共同体のようにして読んでいくのは楽しいのですが、いろいろな背景の方がおられますし、残念ながら途中でやめる方も出てくるかも知れませんので、原則は匿名とします。
投稿のときはイニシャルでも、全くの匿名でも構いません。
1月1日は創世記1章と2章を読んで下さい。 一日2章ずつ進みます。次の二種類のシート(pdf)を参考にしてください。わたしに声をかけてくだされば印刷したものをさしあげます。
通読表の1ページ目、出エジプト記のあとに 2025.2.14 と書いてあるのは、その日に39章と40章を読み出エジプト記を読み終わるということ、
予定通りに進むことができないことは、だれにでも、そして、何度も生じます。読んだ部分をはっきりさせておくことで、ある達成感と、どこから再開するかを考える助けにもなります。何度挫折してもよいのです、また始めれば良いですから。これらのシートを活用して頂ければ幸いです。
これに加えて、このページ、
https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.htmlを参照して下さい。BRC2021 のものをベースにしていますが、少しずつ新しい気持ちで改訂しています。お時間のあるときに、お読み頂ければ幸いです。
卒業が近い方など、現在受け取っているものとは違うメールアドレスに送った方が良い場合は、早めにご連絡下さい。
クリスチャンにとって(わたしもそうですが)は、聖書を読むことは、神様からのメッセージを読み取ることを含んでいると思いますが、そのことに集中する事は危険でもあります。 まず、その箇所で著者は何を伝えようとしているかを受け取ることはどんな読み方にしても基本的です。 基本的なだけでなく共通の目的ともなり得るものです。
クリスチャンでない方の中には、キリスト教の聖典にはなにが書いてあるのか、西洋人の精神的基盤を支えると言われるものはなになのか、それに、論理的、科学的矛盾は無いのか、クリスチャン以外にとっても有効な道徳的指針はなにかあるか。などという動機で読まれる方もいるかも知れません。しかしそのような方にとっても、まずは、著者が伝えようとしていることをしっかり受け取ることはたいせつでしょう。
クリスチャン、クリスチャンでない方と書きましたが、わたしは基本的な姿勢として、わけることはしません。神様は、すべてをみておられていると思いますが、人間世界では、そのような区別は、弊害はあっても、あまり良いことはないと個人的に考えているからもあります。わたしは、イエスに従うものでありたいと願っていますが、わたしがどういう者であるかの判断は、すべてを知っておられる神様のものです。
聖書の各巻についての基本的な情報は、読み進める上で助けになると思い書いています。しかし、長文になるので、メールでは配信せず、ホームページに載せることにしました。現在載っているのは、これまでに書いたものです。ときどき更新できればと思いますが、どうなりますか。すべての巻の簡単な解説がすでにありますので、通読とは別の目的にも使って頂ければ幸いです。個人的に書いたものですから、むろん、不十分ですし、極力学説に依存する部分をさけていますから、学問的な価値はありません。あくまでも、皆さんの通読の助けとなればと書いています。
教義や解釈、背景などをわたしが書くこともあるかもしれませんが、断定的には書かないつもりです。 ひとつには、私の専門は数学で、断定的に書くほどの学識がないこともありますが、 同時に数学で正しいというほどに確実な解釈や学説があるわけではないと私が考えているからでもあります。 さらに、私は、教義や解釈は、まずは聖書の中身の理解から帰納的に出てくることで、教義や伝統的な解釈から、聖書を理解していく(演繹する)のは方向が逆だと考えています。むろん、教義や伝統的解釈が、ひとりよがりの解釈を生み出すことをおしとどめたり、他の聖書の箇所に目を向けることを促す助けとなる面を否定しません。しかし、人間が理解できることは一部分だと思いますから、解釈の正しさの議論は、聖書を少しずつ読んでいくときには、極力避け、様々な読み方があるという豊かさを楽しんで頂ければと願っています。そこで、わたしが、教義や、伝統的解釈について書くときは、ひとつの参考として受け取って下さい。
質問、感想など、私宛に送って下さい。 どうしても個人的に答えてほしいという場合をのぞいて極力公開の質問、感想として下さい。 質問、感想の部分をわたしが転送しますので、できれば、ハイフンで線をひき(--- から --- で区切り)、 匿名にするか最後にイニシャル(または自分で決めたハンドルネーム)をつけて下さい。 前にも書いたように、お互いに知っているわけではないひとにも転送されますので、多少気をつけたいと思います。
最後に、聖書に頻繁に現れる単位と、聖書の箇所の略記法(実は何種類もありますが)を書いておきます。通読の記録でわたしがときどき使います。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
OT 旧約聖書:Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth ルツ記、Sam or Smサムエル記、Kings or Kgs 列王紀、Chron or Chr 歴代誌、Ezra エズラ記、Neh ネヘミヤ記、Esther or Est エステル記、Job ヨブ記、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、Eccl 伝道の書、Song of Sol or Sg 雅歌、Is イザヤ書、Jer エレミヤ書、Lam 哀歌、Ezek or Ez エゼキエル書、Dan ダニエル書、Hos ホセア書、Joel ヨエル書、Amos アモス書、Ob オバデヤ書、Jon ヨナ書、Mic ミカ書、Nah ナホム書、Hb or Hab ハバクク書、Zeph ゼパニア書、Hag ハガイ書、Zech ゼカリヤ書、Mal マラキ書 NT 新約聖書:Mtt or Mt マタイ福音書、Mark or Mk マルコ福音書、Luke or Lk ルカ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Acts 使徒、Rm ロマ書、Cor コリント書、Gal ガラテヤ書、Eph エペソ書、Phil ピリピ書、Col コロサイ書、Thess テサロニケ書、Tim テモテ書、Tit テトス書、Phlm ピレモン書、Heb ヘブル書、James or Jas ヤコブ書、Pet ペテロ書、1Jn ヨハネ書、Jude ユダ書、Rev 黙示録
1月1日からみなさんと一緒に聖書を通読できることを楽しみにしています。
2024.12.31
聖書は全部で66巻、1189章、からなっています。大体一章3分あれば読めますから、60時間もあれば読めます。わたしだけでなく、そう考えると読み通したいと考えている人も、おそらく、単に読み通すことを考えているのではないと思います。そこで、この読み終えるというより、毎日読むためにわたしが考えていることを少しだけ書きます。おそらく問題はつぎのように分類できるのではないでしょうか。
聖書通読の会 について
このページの管理人であるわたしは、2000年の「聖書を読む楽しみIV」でも話しているように、何回か通読をしたあと、1982年10月から、ノートを作り、各章に1枚ずつルーズリーフをあてて「聖書ノート」をつくり、通読を記録するようになり、ルーズリーフも一番少ない章でも5枚ほどになりました。それは、2018年12月、すなわち、BRC2017 が終了するまで続けました。しかし、サポートページはデジタルですし、ルーズリーフノートも40冊以上が満杯で、さらに、冊数を増やさなければならなくなり、勤務していた国際基督教大学の学内住宅からも2019年1月はじめに転出することにしたため、家の引っ越しにあわせて思い切って処分することにしました。家族でアメリカで過ごした2001年夏から2002年夏までの期間は、ルーズリーフは持っていけなかったのですが、そのときに別途記録したノートも出てきました。9・11も、アメリカで経験し、このノートは、私にとって、日記のような存在でもあるので、懐かしいものです。正直、非常に残念だったので、廃棄をする前に、何日かかけてスキャンをしたのですが、実際には、それ以後、スキャンしたものを見返すことはありません。不思議なものです。ただ、ルーズリーフに各章をまとめてあるということは、前回の通読で印象に残った箇所の確認など、過去の通読を振り返る良い機会でもあったので、ホームページの方で、そのような機能をもてるように、対応していこうと、毎年少しずつ改善していき、BRC2021のときに、章ごとにまとめた頁も作成しました。そのようにして積み重ねていったものが現在のこのホームページです。2年に一度の更新が、少し負担ですが。
わたしは、国際基督教大学の学内住宅で、学期中毎週1回「聖書を一緒に読みませんか」(通称:聖書を読む会、読書会、すずきサロン、ホーム・パーティ)を開いていましたが、引っ越しのため、その聖書を読む会も、2018年12月20日を最終回として終了いたしました。2020年に再開しましたが、3回ほどで、コロナのこともあり、中断となりました。2024年4月から再開、聖書の学び として公開しています。非常に細々と続けていますが、現在は、マルコによる福音書を読んでおります。わたしだけでなく、多くの方がたいせつにしてくださった会なので、なんらかの方法で続けられると良いのですが。実は、この聖書を読む会の2010年の最後のあつまり(第162回・12月16日)に「聖書ノート」のことと、もうすぐ今回の通読が終わることを話しましたら、クリスチャンのかたも含めて「一度読み通してみたい」「なかなか通読できない」という話しがでました。わたしにとっては生活の一部となっているので、2011年1月1日から次の通読を始めることは決めていましたが、いままでの経験を生かして、通読をサポートしてみようと考えるようになりました。
このようにしてスタートしたのが聖書通読の会2011(BRC2011)です。ヨブ記を終えると一旦、旧約聖書をお休みして、新約聖書を読みますが、そのときや、旧約聖書に戻るとき、もう一度、新約聖書を読み始めるとき、学内サイトなどで呼びかけ、最終的には、36人のメンバー登録がありました。殆どは国際基督教大学の学生ですが、途中で卒業していった学生もいますし、職員や、学外の方も少数ですがメンバーになって下さいました。
さらに、BRC2011のときの、聖書各巻の解説も土台として、聖書通読の会2013(BRC2013)を引き続き始めました。わたしがつけている聖書通読ノートも聖書各巻の解説と共に送ることで、わたしがどのようなことを考えて通読しているかも分かち合うことにしました。12月26日に終了しましたが、基本的に毎日曜日の二通ずつ全部で211通のサポートレターを送りました。BRC2011の終わり頃に、サポートレターの内容をホームページに掲載し、BRC2013では、最初からホームページにも同じ内容を掲載しました。
BRC2015 では、それまでの記録を一つにまとめ、形式を統一しました。聖書の各巻の概要は、とても十分とは言えませんし、思いつきでトピックを決めて書いた面もあるので、どの程度お役に立てるかは分かりませんが、多少、背景を確認しながら読み勧めることで、通読をより豊かな機会にして頂ければと願っています。
BRC2017では、過去の聖書ノートの部分を分けました。新約聖書は二回読むにもかかわらず、リンクの区別をしていなかったので、BRC2019では、それを改訂し、さらに、あまりに、重くなったので、目次と旧約と新約に分けることにしました。また、BRC2019 から、メール配信記録も公開するようにしました。上にも少し書きましたが、退職して少し時間ができたこともあります。
BRC2021では、念願だった、聖書の各章ごとにまとめたサイトを作成しました。紙媒体の、聖書ノートは、過去に書いたことが、そこにあり、それを見ることができたことが、大きなメリットだったので。現在は、旧約聖書は5回分、新約聖書は10回分の、わたしの感想を読むことができます。まったく個人的感想で、時間があまりないとき、体調や、精神状態も万全ではないとき、いくつかの日常的な懸念があるときなど、そのことが感想に影響していることもあり、とても、お手本とは、言えませんが、こんなことを考えて読んでいる人がいるのだとか、こんな読み方でも良いのだとか、これはおかしいのではないかなど、いろいろと感想を持って眺めてくださればと思います。なにも感想がうかばないときや、聖書の箇所に疑問を感じたりしたとき、このひとは、どんなふうに読んでいるのだろうと見てくださる方もおられるようです。嬉しいことですね。それが、一緒に聖書と向き合い、共に読むということのように思います。
BRC2025 では、ページの構成をだいぶん変更しました。本質的な内容は変わっていないと思います。このページの上から、リンクをたどっていただければと思います。
基本的なサポートはメール行います。聖書通読の会 2025 にある聖書各巻の解説は、少しずつ、誤字などを、修正していますが、もう少し、内容を充実できればと願っていますが、そこまでは手を出せないかもしれません。継続は力ですから、次回の改善に回すかもしれません。聖書通読ノートについては、個人的な瞑想を書いていますが、最近は、多少、読んで下さる方のことも考えながら書いてはいます。しかし、基本的には、個人的瞑想、毎回、わたしの聖書観、考え方も変わってきていますので、その精神史を記録したものともなっているとも言えます。それが、成長させてくださっている神様のすばらしさを表すものであるとよいのですが、正直に書くと、自信はありません。
サポートレター以外に、聖書通読の会のメンバーからのメッセージは、記名・匿名いずれも可ですが、メールでシェアします。はじめにを参照してください。この会の登録管理は、わたしが手動で管理するリストを用いて行い、自己紹介の形で、紹介することも、最初から最後まで、秘密とすることも可としました。私を信頼して頂くという形式です。今回も基本的に同じ方針でいこうと思います。手間から考えると、ネット上のメーリングリストを使ったり、ソーシャルネットワークサービスなどを利用する方法もあり、そのほうが人の繋がりとしては今は一般的だと思いますが、今回もその方法をとることは避けました。単純に、わたしが、ソーシャルネットワークサービスについて、十分理解できていないからです。理解しないで利用することで、たいせつな仲間を傷つけてしまうこと、傷つけ合うことをさけたいからです。むろん、メリットもとても大きいのでしょうが。古い人間なのだと思いますが、便利なものは、背後に隠されている不便なことや、ある人にとっては、適切でないこともあるのではとまず考えることにしています。一人ひとりを大切にすることでしょうか。みんなが幸せな世界と、ひとりも幸せでないひとがいない世界は論理的には同じかもしれませんが、わたしは、自分が見える世界が狭いので、後者のみかたをたいせつにしたいと願っています。このBRC2023も、わたしが責任をもてる範囲でと考えています。
投稿は、それぞれの BRC によって異なりますが、二年間合計で 200件程度となっています。それは、このような会をしているものにとって、とても嬉しいことであることは、みなさんもわかると思います。わたしの方から書くサポートメールも、力が入ってきたように思います。2年間には、様々なこともあり、あまり時間をかけられなかったこともありますが、記録として、サポートメールも公開しようと考えています。みなさんからの投稿、感想・質問はお約束ですし、わたしが責任を取れることではありませんので、公開はいたしません。
なかなか通読を続けることは大変です。これまでの会でも、多くの人が実際には、続けられなかったり、何度も中断しては、再開したり、サポートメールだけを読んで下さったりとまちまちのようです。あまり、目的貫徹に価値をおかず、ゆったりとした気持ちで、読んで頂ければと思います。べつに通して読まなければいけないなどというルールはありません。1回通して読んだから理解できるわけでもありません。中断してしまっても、また途中から読めばよいのです。メンバーの中には、なかなか続かないからと、仲間で集まって朝読んでいた人もいるようです。みなで聖書全体を読むことを通して、世界中のひとたちのこころを揺さぶり、何千年もの間多くの人たちの心をとらえ、啓発し、指針を与え、人生を変え、歴史を変え、そしてあるときは多くの問題をはらむ引用をされ、批判され、非科学的と読みもせずに遠ざけられてきた聖書はどのような本で、何を私たちに語りかけているのか、ほんの少しでも知る(経験する)機会となればと願っています。同時に、最近、強く感じているのは、そのことによって、実際に聖書を記述した人たちともつながる素晴らしさです。当時のひとたちが、苦しみ、悩み、喜びながら、真摯に神様を、真理を、御心をもとめて生き、そのなかで、これこそ、神様からいただいた言葉として伝えているメッセージを丁寧に受け取ることによって、その聖書記者たちと、神様の交わりに、わたしも加えていただき、その方たちとも神様の前にともに生きることができると考えるからです。そして、ひょっとすると、それは、神様の苦しみ、悩み、喜びのあらわれなのかもしれないと、最近、考えるようになっています。みなさんは、どう思われますか。
お気づきの方も多いように、単に通読が目的であれば、他の方法もたくさんあり、まとめて読んだ方が速いと考えるかたも多いと思います。そのような読み方もたしかに一つです。しかし、日々の生活の中で、少しずつ読むことで、聖書のいろいろな場面をゆっくりとしかしある意味では確実に味わっていくことができるのがこの通読の会だと思います。多くの批判も含め、考えながら読むには、このぐらいのペースがよいと思っています。
クリスチャンの人たちは、毎日少しずつ聖書を読み祈る生活を「黙想の時」「Quiet Time」「静思の時」「Devotion」などなどと呼ぶこともあります。それぞれの精神生活の重要な部分として位置づけているからです。わたしはこのような意味をこめて聖書を通読していますが、この会に参加する人はそのような意識をしなければいけないとは思っていません。疑問をたくさん持ち、あるときはそれを自らに問うこと、すぐ問題の解決をもとめず、「問い」としてしっかり持ち続けること、そしてグループの他のメンバーの感想も時々目にすることを通して、聖書からのメッセージを受け取っていただければと願っています。
最初の案内は日・英で出しましたが、英語でサポートレターを書くことはわたしには難しいので、日本語のみで書きます。また、国際基督教大学とは関係のないかたで、このホームページをご覧になり、参加したいというかたがおられるかも知れませんが、その場合は、まずは、自己紹介や、この会に参加を希望される思いを書いて、メールを私宛、送ってください。メールアドレスもトップページなどに公開してあります。基本的には、ゆるやかな意味で「内輪の会」とさせて頂きます。それは、安心して投稿していただきたいからです。
聖書を読むことを中心におきながら、全体としてゆるやかな、しかし、お互いに Welcome(歓迎)し合うような、そして、ゆるやかであっても、帰属意識をもち、共に仕え合い、共に歩み、共に生きていることをほんのすこし感じることができる会であることを願っています。これは、ある意味で、神様の恵みで、だれかの努力によって可能になるものではないと思っていますが、同時に、ひとりひとりが、緩やかであっても、ある希望を共に共有したいという意識のなかで成立することかなと思っています。
むろん、この会の通読予定表などを参考に、一緒に読んで下さる方は歓迎です。その方達のためにもなると思われることは、このページに書いていきたいと考えています。
準備をしていて、これは、いつまで続けられるのだろうかと考えています。いままでは、そんなことは、考えたこともなかったので、それが「老い」ということなのでしょう。だれかに、引き継ぐことができるようなことではありませんが、どこかで、だれかが、そのひとなりの方法で、このような、個人的な聖書の通読の会や、聖書を一緒に読む会を、おこしていっていただければ嬉しいなと感じています。
ご意見・リクエストがあれば、お寄せください。
テモテへの第二の手紙3章16節
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
ペテロの第二の手紙1章20節・21節しかし、この二書も、実際の著者は、著者とされているパウロやペテロとは、異なるだろうとされています。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
一つの解決(?)は、「聖書は誤りなき神の言葉である」という信仰の表明をこのことにも適用して、信じることにし、そのように疑問を持つことをやめてしまうことです。キリスト教会にはそのような立場をとる人たちもたくさんいます。もう一つのグループはひとのなせるわざとして、その当時の必要からペテロやパウロの名前を利用したりすることは当然だとして、または、純粋に(明確な根拠を問う)学問として合理的な理由を提案する人たちです。いずれにしても、歴史的証拠は非常に少なく、決定的な結論を出すことは難しいように思われます。正直に書くと、わたしは、このどちらの立場にも疑問を感じます。
混乱したまま終わるのは適切ではないと思うので、最後にわたしの考えを簡単にまとめておきます。
まず、著者に対する最初の疑問は、まったくお門違いだということです。キリスト教会は最初のころも、一枚岩とはいえなかったと思いますが、いまとは比較にならないほど、一致が守られていたと言うことです。それは、現代のキリスト教会が数え切れないほどの宗派に分かれている状態から推察されるべきではなく、多くのことが、信仰共同体の共通知、またよく使われていた表現だということです。(ただし、今と異なり、そのグループが活動する地域が異なっていれば、今のように、即座に意見を交換し、議論しということは、無理であったことも確かです。ローマ帝国の中での行き来は、ある程度可能だったようですが、だれでも、自由に地中海地域を往来できたわけではありません。エルサレムが AD70 に陥落してからは、シリアや、小アジア、アレクサンドリアなどにいくつかの多少異なる集団があったのではないかと考えることを否定はできないと思います。ただ、旧約聖書のように、伝承を含めると、おそらく、700-800年以上の期間に書かれたものが元になっているのと比較すると、新約聖書は、おそらく、100年以内に書かれたものだと思われますし、他の文書も残されていますから、ある程度一致しているとも言えると思います。)
以前「ICUの一般教育」という文章をまとめたことがありました。書き下ろしといっても良いものですが、おそらく7割程度の文章は、いままですでに何かに書いてあった文章の焼き直しになりました。かつ書いてからだれの文章にしようか考えるのです。大学の名前にするか、学長の名前にするか、教養学部長の名前にするか、一般教育委員会の名前にするか、わたしの個人の名前にするか。なんらかの承認は大学では必要ですが、目的に応じて著者をきめています。
次に注意すべき事は、聖書から教義が出てくるのであって、それも、いろいろな問題を背景として、その問題を整理するために、教義ができるのであって、教義をもとにして聖書を読むのは、本末転倒だということです。読むのは、聖書自体であって、聞いたことのある教義を読み取ろうとするのは、誤りだと思います。それぞれの巻がなにを伝えようとしているかに、向き合うべきです。教義は、全体として、整合性のある、理解をするための面もありますが、同時に、コミュニティないに、様々な問題が生じたときに、その時々に、それらの問題に対応するために、整備されていったものという面が大きいように思います。つまり、(現代とは、かなり異なる可能性も高い)歴史的背景があるということです。
三番目に、現在の聖書は、キリスト教の歴史のなかでかなり早い時点で、確定していたということです。その時期は多少議論があるので、ここには書きませんが、歴史的に、現在の聖書が他の書物とは異なるとして特別なものとされてきた、そのように告白されてきたということです。それが聖書ですから、その聖書をわれわれが読んでいるわけです。この過程が完璧であったかどうか、わたしにも分かりませんが、この聖書をしっかりとまずは読みたいですね。(わたしは、福音書を比較して読むことが多いのですが、最初に書かれたとされるマルコ、そのあとの、マタイ、ルカというこれら三つの共観福音書と、時期としてはこれらよりも前に書かれた、パウロ書簡との重点の置き方に、かなり差があると思います。しかし、福音書の中では最後に書かれたとされる、ヨハネでは、それらがある程度統合ざれていることも見て取れます。イエスとともに生きた人たちが亡くなっていくなかで、一致をたいせつにしたひとたちもいたのでしょう。)
最後に、聖書は、そして特に新約聖書の書かれた目的は、次の、聖句に要約されているということです。
ヨハネによる福音書20章31節聖書記者が何を伝えたいと思って書いたのかから離れないようにして、今後も聖書を読んでいきたいと思っています。わたしが時折、聖書記者は何を伝えようとしているのかを受け取ることをまずしたいと書く理由でもあります。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。ヨハネの手紙一1章3節
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。