Last Update: November 17, 2024

聖書通読の会 2023: 今週(2024/11/18-2024/11/24)は、テサロニケの信徒への手紙一4章ーテモテへの手紙二3章

サポート・ページ

聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集したものです。聖書ノートは、各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、聖書協会共同訳聖書からのものです。過去の聖書ノートは、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のものです。新約聖書は二度ずつ読んでいますので、それぞれ(1)・(2)としています。

    旧約聖書
  1. 創世記聖書ノート過去の聖書ノート
  2. 出エジプト記聖書ノート過去の聖書ノート
  3. レビ記聖書ノート過去の聖書ノート
  4. 民数記聖書ノート過去の聖書ノート
  5. 申命記聖書ノート過去の聖書ノート
  6. ヨシュア記聖書ノート過去の聖書ノート
  7. 士師記聖書ノート過去の聖書ノート
  8. ルツ記聖書ノート過去の聖書ノート
  9. サムエル記上聖書ノート過去の聖書ノート
  10. サムエル記下聖書ノート過去の聖書ノート
  11. 列王紀上聖書ノート過去の聖書ノート
  12. 列王紀下聖書ノート過去の聖書ノート
  13. 歴代志上聖書ノート過去の聖書ノート
  14. 歴代志下聖書ノート過去の聖書ノート
  15. エズラ記聖書ノート過去の聖書ノート
  16. ネヘミヤ記聖書ノート過去の聖書ノート
  17. エステル記聖書ノート過去の聖書ノート
  18. ヨブ記聖書ノート過去の聖書ノート
  19. 詩編聖書ノート過去の聖書ノート
  20. 箴言聖書ノート過去の聖書ノート
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  23. イザヤ書聖書ノート過去の聖書ノート
  24. エレミヤ書聖書ノート過去の聖書ノート
  25. 哀歌聖書ノート過去の聖書ノート
  26. エゼキエル書聖書ノート過去の聖書ノート
  27. ダニエル書聖書ノート過去の聖書ノート
  28. ホセア書聖書ノート過去の聖書ノート
  29. ヨエル書聖書ノート過去の聖書ノート
  30. アモス書聖書ノート過去の聖書ノート
  31. オバデヤ書聖書ノート過去の聖書ノート
  32. ヨナ書聖書ノート過去の聖書ノート
  33. ミカ書聖書ノート過去の聖書ノート
  34. ナホム書聖書ノート過去の聖書ノート
  35. ハバクク書聖書ノート過去の聖書ノート
  36. ゼパニア書聖書ノート過去の聖書ノート
  37. ハガイ書聖書ノート過去の聖書ノート
  38. ゼカリヤ書聖書ノート過去の聖書ノート
  39. マラキ書聖書ノート過去の聖書ノート

    新約聖書

  40. マタイによる福音書聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  41. マルコによる福音書聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  42. ルカによる福音書聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  43. ヨハネによる福音書聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  44. 使徒言行録聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  45. ローマの信徒への手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  46. コリントの信徒への手紙一聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  47. コリントの信徒への手紙二聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  48. ガラテヤの信徒への手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  49. エフェソの信徒への手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  50. フィリピの信徒への手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  51. コロサイの信徒への手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  52. テサロニケの信徒への手紙一聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  53. テサロニケの信徒への手紙二聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  54. テモテへの手紙一聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  55. テモテへの手紙二聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  56. テトスへの手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  57. フィレモンへの手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  58. ヘブライ人への手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  59. ヤコブの手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  60. ペトロの手紙一聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  61. ペトロの手紙二聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  62. ヨハネの手紙一聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  63. ヨハネの手紙二聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  64. ヨハネの手紙三聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  65. ユダの手紙聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート
  66. ヨハネの黙示録聖書ノート(1)聖書ノート(2)過去の聖書ノート


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この会について

聖書を一緒に通読しませんかにお申し込み下さった皆様へ

登録ありがとうございます。できれば、多言語コミュニケーションをしたいのですが、わたしの語学力は非常に乏しいので、基本的に、すべて日本語で書かせていただきます。

Bible Reading Club からとって、略称は、BRC 2023 です。第一弾 BRC 2023 no.001 は 2022年12月30日に配信。

mailing list や、group をネット上に設定することも可能ですが、匿名参加も可とするため、BCC (Blind Carbon Copy) にアドレスをいれて、メールで送信する形式とします。 みなでグループとして共同体のようにして読んでいくのは楽しいのですが、いろいろな背景の方がおられますし、残念ながら途中でやめる方も出てくるかも知れませんので、原則は匿名とします。

投稿のときはイニシャルでも、全くの匿名でも構いません。

1月1日は創世記1章と2章を読んで下さい。 一日2章ずつ進みます。次の二種類のシート(pdf)を参考にしてください。わたしに声をかけてくだされば印刷したものをさしあげます。

通読表の1ページ目、出エジプトのあとに 2023.2.14 と書いてあるのは、その日に39章と40章を読み出エジプト記を読み終わるということ、
レビ記の最後に2023.2.28-1 と書いてあるのは、この日はレビ記の27章を読みレビ記を読み終わり、同じ日に民数記の1章を読むことを意味しています。つまり、レビ記の最後の章を読むのは2023.2.28に読む2章のうちの1章目だということです。

予定通りに進むことができないことは、何度も生じます。読んだ部分をはっきりさせておくことで、ある達成感と、どこから再開するかを考える助けにもなります。何度挫折してもよいのです、また始めれば良いですから。これらのシートを活用して頂ければ幸いです。

これに加えて、

https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2023.html
を参照して下さい。BRC2021 のものをベースにしていますが、少しずつ新しい気持ちで改訂しています。お時間のあるときに、お読み頂ければ幸いです。

卒業が近い方など、現在受け取っているものとは違うメールアドレスに送った方が良い場合は、早めにご連絡下さい。

はじめに

聖書を読む目的はいろいろだと思います。
わたしは、みなさんそれぞれ異なる目的で読むということでよいと思っています。
しかし、これからメールを送るにあたって基本的なことをまず書いておきます。
ここでは
「聖書またはその巻を書いた方(著者)が何を私たちに伝えようとしているのか。」
を読み取ることを第一の目的としてわたしは書いていこうと思います。

クリスチャンにとって(わたしもそうですが)は、聖書を読むことは、神様からのメッセージを読み取ることを含んでいると思いますが、そのことに集中する事は危険でもあります。 まず、その箇所で著者は何を伝えようとしているかを受け取ることはどんな読み方にしても基本的です。 基本的なだけでなく共通の目的ともなり得るものです。

クリスチャンでない方の中には、キリスト教の聖典にはなにが書いてあるのか、西洋人の精神的基盤を支えると言われるものはなになのか、それに、論理的、科学的矛盾は無いのか、クリスチャン以外にとっても有効な道徳的指針はなにかあるか。などという動機で読まれる方もいるかも知れません。しかしそのような方にとっても、まずは、著者が伝えようとしていることをしっかり受け取ることはたいせつでしょう。

クリスチャン、クリスチャンでない方と書きましたが、わたしは基本的な姿勢として、わけることはしません。神様は、すべてをみておられていると思いますが、人間世界では、そのような区別は、弊害はあっても、あまり良いことはないと個人的に考えているからもあります。わたしは、イエスに従うものでありたいと願っていますが、わたしがどういう者であるかの判断は、すべてを知っておられる神様のものです。

聖書の各巻についての基本的な情報は、読み進める上で助けになると思い書いています。しかし、長文になるので、メールでは配信せず、ホームページに載せることにしました。現在載っているのは、これまでに書いたものです。ときどき更新できればと思いますが、どうなりますか。すべての巻の簡単な解説がすでにありますので、通読とは別の目的にも使って頂ければ幸いです。個人的に書いたものですから、むろん、不十分ですし、極力学説に依存する部分をさけていますから、学問的な価値はありません。あくまでも、皆さんの通読の助けとなればと書いています。

教義や解釈、背景などをわたしが書くこともあるかもしれませんが、断定的には書かないつもりです。 ひとつには、私の専門は数学で、断定的に書くほどの学識がないこともありますが、 同時に数学で正しいというほどに確実な解釈や学説があるわけではないと私が考えているからでもあります。 さらに、私は、教義や解釈は、まずは聖書の中身の理解から帰納的に出てくることで、教義や伝統的な解釈から、聖書を理解していく(演繹する)のは方向が逆だと考えています。むろん、教義や伝統的解釈が、ひとりよがりの解釈を生み出すことをおしとどめたり、他の聖書の箇所に目を向けることを促す助けとなる面を否定しません。しかし、人間が理解できることは一部分だと思いますから、解釈の正しさの議論は、聖書を少しずつ読んでいくときには、極力避け、様々な読み方があるという豊かさを楽しんで頂ければと願っています。そこで、わたしが、教義や、伝統的解釈について書くときは、ひとつの参考として受け取って下さい。

質問、感想など、私宛に送って下さい。 どうしても個人的に答えてほしいという場合をのぞいて極力公開の質問、感想として下さい。 質問、感想の部分をわたしが転送しますので、できれば、ハイフンで線をひき(--- から --- で区切り)、 匿名にするか最後にイニシャル(または自分で決めたハンドルネーム)をつけて下さい。 前にも書いたように、お互いに知っているわけではないひとにも転送されますので、多少気をつけたいと思います。

最後に、聖書に頻繁に現れる単位と、聖書の箇所の略記法(実は何種類もありますが)を書いておきます。通読の記録でわたしがときどき使います。

キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン

OT 旧約聖書:Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth ルツ記、Sam or Smサムエル記、Kings or Kgs 列王紀、Chron or Chr 歴代誌、Ezra エズラ記、Neh ネヘミヤ記、Esther or Est エステル記、Job ヨブ記、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、Eccl 伝道の書、Song of Sol or Sg 雅歌、Is イザヤ書、Jer エレミヤ書、Lam 哀歌、Ezek or Ez エゼキエル書、Dan ダニエル書、Hos ホセア書、Joel ヨエル書、Amos アモス書、Ob オバデヤ書、Jon ヨナ書、Mic ミカ書、Nah ナホム書、Hb or Hab ハバクク書、Zeph ゼパニア書、Hag ハガイ書、Zech ゼカリヤ書、Mal マラキ書 NT 新約聖書:Mtt or Mt マタイ福音書、Mark or Mk マルコ福音書、Luke or Lk ルカ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Acts 使徒、Rm ロマ書、Cor コリント書、Gal ガラテヤ書、Eph エペソ書、Phil ピリピ書、Col コロサイ書、Thess テサロニケ書、Tim テモテ書、Tit テトス書、Phlm  ピレモン書、Heb ヘブル書、James or Jas ヤコブ書、Pet ペテロ書、1Jn ヨハネ書、Jude ユダ書、Rev 黙示録

1月1日からみなさんと一緒に聖書を通読できることを楽しみにしています。

2022.12.30


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創世記

創世記(1)

(1)はじめに

聖書はもともとは巻物です。合本になったのはかなりあとになってからです。 最初に我々が読むのは、旧約聖書、その創世記です。旧約聖書は一部を除いてヘブル語で書かれています。 創世記という名前ももともとの聖書にはついていません。 最初が「ベレシース(初め)」という言葉からはじまるので、ヘブル語ではベレシースと呼ばれ、ギリシャ語訳などの名前から創世記と日本語訳聖書ではなっています。 旧約聖書の最初の五巻は、トーラー(律法)また、モーセ五書とも呼ばれています。 「旧約」とは古い約束(または契約)という意味で、イエスを通しての新しい神の約束が「新約」の大体の意味ですから、 イエスの時代には新約聖書はなく、聖書といえば、旧約聖書ですが、もちろん旧約聖書という言葉もなく、「律法と預言者(マタイ7:12)」とか「モーセの律法と預言者の書と詩編(ルカ24:44)」などと呼ばれています。

創世記は50章あります。章という分け方も最初はなかったものです。 創世記の分け方はいくつも考えられますが、大ざっぱにわけると、 11:26(11章26節の意味です)までが「世界とひとのはじまり」について。 11:27 からが「イスラエルのはじまり」について。 となっています。前半は神様による世界と人間の創造からアブラハムまで、 後半は基本的にはアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語です。 前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。

1章・2章
ここには、神様による世界と人間の創造が書いてあります。 2:3 までとそれ以降で二つの物語が書かれているように思われます。 上に書いた目的にそって読んでみるとつぎのことを伝えていることがわかると思います。

神が世界を創造したこと。 混沌としたものがだんだん秩序をもったものとなったこと。 1:27 には「神は自分のかたちに人を創造した」とあること。 神は創造されたものをみて「それは、はなはだ良かった」と言っていること。 7日目を休んだことがかかれていること。安息日の起源(ただし日曜日は1日目です) 2:7 土のちりで人を造り、命の息をその鼻にふきいれ、人は生きた人となったこと。 2:17 に善悪を知る木からはとって食べてはいけないと言われたことが書かれていること。 2:20 に人には助け手が見つからなかった。それで女を造り、結婚のことが記されていること。

などです。いろいろと感想を持った方、ここに挙げなかったところで非常に印象にのこった所があるかたいろいろとおられると思います。 むろんそれでよいと思います。ひとつの読み方として、「何を伝えたかったか」の部分を記してみたまでです。

他にも神のことばは「ひかりあれ」と言われればその通りになる、ということを伝えていると言う部分を受け取った方もいるかも知れません。 神のことばは、人間のことばとはかなり異なるものですね。

このようにほんの少しだけ挙げてみても、たくさんのことがここにつまっていることに気づかれると思います。 科学的にみるとおかしいことがたくさんあると考える人もいるかもしれませんが、聖書は地球や人間の科学的ななりたちを伝えようとして書かれたものではないと思います。すくなくともそれは第一義ではないと思います。ひっかかることは引っかかることとして書き留め、ここで著者が伝えようとしていることを読み取ってほしいというのがわたしの最初のメッセージです。

2:7 だけとってみても、ひとは「ちり」であること、命の息を(神によって)ふきいれられてはじめて生きた人となったことが書かれています。 ここからみなさんが何を受け取るかは、みなさんに任せますが、聖書は、この創世記の記者は、この記述を通しても読者に何かを伝えようとしていると思います。

皆様の発見に期待しています。

3・4章 もうここに罪と堕落、殺人が出てきます。ここでもいろいろなことを読み取ることができると思います。聖書全体からすると、3:15 に最初のメシヤ預言があると見ることもできます。

まずはみなさんがどう読まれるか、どのような疑問を持たれるかに任せることにしましょう。 疑問に思ったこと、心に残ったことは、書き留めておくことをお薦めします。

(2)アブラハム

創世記11章と12章からアブラハム(最初はアブラム)の物語が始まります。新約聖書の最初はマタイによる福音書ですが「アブラハムの子であるダビデの子イエス・キリストの系図。」としてスタートします。イスラエルの人たちは自分たちをアブラハムの子孫だと言います(ヨハネ8:33, 39)。アブラハムは民族の父でも、信仰の父でもあります。ダビデがある意味で理想の王であるのと同じように、アブラハムは信仰の原点、民族の父です。また出エジプト記 3:6 では神自身が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言っています。また出エジプト記2:24には「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあります。

では、アブラム(後のアブラハム)はどのような人でどのように生きたのでしょうか。そして神はアブラムとどのような契約をしたのでしょうか。そのことが今日の箇所から書かれています。すでにここまでにも神様の約束が出てきますが、旧約・新約が古い契約・新しい契約をあらわすとすると、それらが何かは重要です。ヤコブの手紙2:23では、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。アブラハムにも問題行為があるように思われますが、それでもなぜこの様に呼ばれたのか、その理由を考えながら読んでみてください。

他には、アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。またパレスチナ問題をヤコブ(アブラハムの孫)の子孫とイシマエル(アブラハムの妾の子)の子孫やエソウ(ヤコブの双子の兄)との争いと表現する人もいます。神はイシマエルの母ハガルをどうあつかったのか、神の選びとは何なのだろうと考えながら読むのもよいと思います。

最初カルデヤのウル(現在のイラク)に住んでいたアブラム一家が、いずれはカナンの地に移り住みます。ウルからカナンの北までが三日月形肥沃地帯と呼ばれている土地です。

これからいろいろな人物が登場します。また地名もたくさん出てきますので、上のリンクに地図と人物の表も加えておきました。

  1. リンク1の日本聖書協会のトップページ (http://www.bible.or.jp/main.html) の検索(または詳細検索)を使い、たとえば「アブラム」「アブラハム」「カナン」などと入れると、聖書でそれらの言葉が現れるところがすべてリストされます。
  2. リンク4にある「通読のたすけ」 (http://biblestyle.com/help.html) には「聖書人物略図」があります。聖書を読むのがはじめてのひとは、名前も混乱すると思いますので、助けになると思います。基本的な名前しか書かれていません。何人くらい知っていますか。いずれ全員登場します。
  3. リンクの10, 11, 12 に地図を挙げておきました。たとえば、12 の中の Chapter 4, The Migration of Abraham, Abraham in Cannan を参照すると、これから出てくる地名がわかると思います。日本語が良い人は 10を使って下さい。最初の最後についている地図でも十分ですが。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフとつづく物語はいろいろと考えさせられること、興味深い部分などあると思います。感想や、質問を書いて下さっても良いですよ。-- から -- で囲って下されば、他のかたにも転送します。

(3)ヤコブ

25章ではアブラハムが175年の生涯を閉じ葬られます。最初の75年については聖書は何も語っていません。アブラハムはカナンの地をうけつぐとの約束を神から与えられますが、実際に得たのは、妻のサラと自分が葬られた墓とその周りのすこしの畑地だけでした。イサクを神に捧げようとするところは緊迫する場面ですが、それはモリヤの地と書かれていますね。モリヤということばはもう一回だけ聖書に出てきます。それは、歴代誌下3章1節。歴代誌記者は、神殿の建てられた場所を、アブラハムがイサクを献げ、神に義と認められた場所と関連づけているということになります。ヤコブの手紙2章23節でアブラハムが「神の友」と呼ばれている背景には、このことと、「神がそのひとり子をたまわった(ヨハネ福音書3章16節)」ことの類比があるのかもしれません。(単に他からの引用という説もあります。)前回のメールには「アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。」と書きましたが、何か気づいたことはありましたか。それぞれの周囲の人がアブラハムやロトをどう見ていたか、神の使いのもてなし方、神または神の使いへの祈りや願い、ひとつひとつ比較するといろいろな違いにも気づかされると思います。アブラハムは苦悩を語りませんが、おそらく苦悩が無かったわけではないでしょう。みなさんは何を感じられましたか。

さて25章には、アブラハムの子イサクの系図とあります。「前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。」と書きました。この区分で考えると、ここからイサクの時代ですが、じつは、イサクのことはあまり書かれていません。次に「系図」ということばが出てくるのは36章ですが、その直前でイサクが亡くなっています。そしてそれが、創世記に出てくる系図とういことばの最後です。さらにそれは、イスラエル(ヤコブの別名)の系図であるかと思うと、そうではないのですね。系図を追いかけるのも、奥が深いですよ。アダムの系図、ノアの子らセム、ハム、ヤペテの系図も。

35章おわりまで、話しの中心はほとんどがヤコブです。イスラエルの12部族の基本の部分(後に変更が加えられるので)を構成するヤコブの12人のこどものうち11人が生まれます。ヤコブはどのような人で、それぞれのときに、どのように行動し、どのように神に応答していくでしょうか。単純ではありません。あなたは、ヤコブの物語からなにを学ぶでしょうか。

疑問や感想お送り下されば幸いです。これから一週間ヤコブとの格闘を楽しんでください。

(4)ヨセフ

これまでは、ヤコブが中心でしたが、ヤコブの人生については、どんなことを感じられましたか。 ヤコブは、いろいろな策略をもちい、自分にとって都合の良いように進むように仕組んでいきます。わたしは昔、自分を「ヤコブ的」だと感じ、自分を嫌っていました。神様はそれと関係ないかのように、ヤコブを祝福し、そしてヤコブもヤコブなりにそれに応答していきました。

37章からはヨセフ物語が始まります。しかしその前に34章には、次男シメオンと三男レビ、35章22節には長男ルベンに関する記事が挿入され、その直前に12男末息子のベニヤミン誕生と、ヤコブ(イスラエル)最愛の妻ラケルの死が記され、38章には四男ユダの物語が、オナニーの語源ともなったオナンの物語と共に記されています。この行為自体が罪(悪)かどうかの議論もありますが、ここでは何が悪だと書かれているかは確認しておくべきでしょう。新約聖書は、最初がマタイによる福音書になっており、その最初には長い系図が書かれています。それが、アブラハムから始まっていることは、前に書きましたが、そこに通常は系図に書かない女性の名前がマリヤを含め4人含まれています。その最初がここ38章に出てくるタマルです。ここまでで、ヨセフ物語の背景ともいえる部分です。ヨセフ物語に登場するヨセフの兄弟達の行動の背景についても上に書いたことから考えられるのではないかと思います。さて、ヨセフは、どのように自分の人生を、神のなされることを受け入れ、神に応答していったのでしょうか。

あと少しで、創世記も終わり、出エジプト記に入ります。イスラエルがエジプトに移り住んだ背景がこのヨセフ物語になっています。これが歴史的にどの時代にあたるのか議論もあり、史実性をまったく否定する学者もいますが、創世記全体とヨセフ物語の高い精神性を見ると、エジプト王、ファラオ(パロ)にヨセフが特別な扱いを受けることがとても自然に思えます。みなさんは、どう思われますか。大体の想定年代は、アブラハムはBC2000年〜BC1700年、ダビデ王朝がBC1000年ぐらいとしておきましょう。

創世記(2)

いのちのことば社の「新聖書注解」から梗概を引用しておきます。大枠を把握しておくことは、通読で有用なことの一つです。創世記は舟喜信先生です。昔、お話しを聞きに行き、書斎で話させていただきました。いまなら、たくさんお聞きしたいことがあるのですが、当時は何を伺ったか覚えていません。 (詳細は省略)


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聖書通読ノート

BRC2023

Genesis 1:26,27 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。
やはり、人の創造の記事を選んだ。何が正しいかではなく、どんなメッセージがここで語られているかをまずは受け取りたいと思う。ここで語られているのは、おそらく、特別な一人を想像したのではなく、一般的に、人を神のかたちに創造したということだろう。それも、男と女に。「自分のかたち」については、明確にはわからないが、神と、関係を持ちうる存在とのイメージがある。その意味で、ひとは、特別である。創世記記者は、それを、神との関係の最初に置いたのだろう。素朴であるが、驚かされることでもある。
Genesis 2:18 また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」
第二の創造記事である。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」(7)ここでも、一般的な人の創造についてのべている。「神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた。」(8)東の方が人の活動するところという意味らしい。(「旧約聖書がわかる本」並木・奥泉)引用句でも、独りと訳しているが、社会的な交わりをいっているのであって、(単数形ではるが)数が一だとは言っていないということなのだろう。助け手も、どちらが、どちらを支配するという意味ではないのだろう。互いに助け合う可能性もある。しかし、そうではない、支配・被支配関係もある(3:15,16)。「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。」(17)も、相互関係、信頼関係を築くには、契約・協定・約束が前提なのかもしれないと今回考えた。
Genesis 3:12,13 人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」
神の命令を破ったことから、さまざまな変化が生じている。ここで取り上げたのは、パートナー、助け手(協力者と読んでも良い)に対する裏切りである。これは、信頼関係の喪失とも表現されるだろう。なぜかも考えてみたい。神の命令も、神を尊重するといういみでの、信頼関係維持のために守るということなのだろう。もし、どうしても、守りたくないなら、訴え、語り合えばよい。そうはしていない。ある方との相互性に問題が生じると、他者との間にも亀裂がはいるということか。これが神が教えたことと理解しても良いし、聖書記者が学んだことと考えてもよいだろう。
Genesis 4:13,14 カインは主に言った。「私の過ちは大きく、背負いきれません。あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、私はあなたの前から身を隠します。私は地上をさまよい、さすらう者となり、私を見つける者は誰であれ、私を殺すでしょう。」
この流れを見ていると、理不尽と思える点や、不明な点もあるが、まず、主が最初に語りかけたときに応答していれば、結果は違ったのではないかと思う。「主はカインに向かって言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。』」(4,5)対話だろうか。関係性だろうか。信頼関係、平和を築くものだろうか。これが、互いに愛し合うことにつながっているように、わたしには思われる。さらに、このような大きな罪を犯しても、カインは生かされ、守られる。これも、驚きである。
Genesis 5:32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。
いくつか気づくことがある。この章は、アダムの系図として、カインの系図とは分けられていること。また、「男と女に創造された」とあるものの、ここにあるのは、男系の系図で「もうけ」と男性が子を得る表現になっていること。基本的に、男の子の名前だけが記され、かつ、かなり歳がいってからこどもが得られたような表現になり、子どもをもうけてから、かなり長く生きていること。ただし、21節からのエノクは例外。また、ノアも例外である。ノアがセム、ハム、ヤフェトをもうけた年齢は、ほかのひとの死ぬまでの年齢を考えると、物語上、仕方がなかったと思われるが、エノクについては、突然「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(24)と記している。他の人が長寿だったことは、ノアの物語への背景としてのつながりなのかもしれないが、長く生きるかどうかに重要性はないとも言っているように見える。いずれにしても、不明なことが多い章である。
Genesis 6:18 だが、私はあなたと契約を立てる。あなたは、息子たち、妻、息子の妻たちと一緒に箱舟に入りなさい。
契約(בְּרִית(bᵊrîṯ):covenant, alliance, pledge)ということばが、聖書中、最初に現れる箇所である。「神が地を見られると、確かに地は腐敗していた。すべての肉なる者が、地上でその道を腐敗させたからである。」(12)とある。実際、洪水のあとも、この状態が変わるわけではない。変わるとすると、園での、命令(善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない(2:17))が、ここでは、契約という形式になっていることである。契約の内容は、(「ノアはすべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した。」(22)とはあるものの)ここには、記されていないと考えるべきだろうが、神が定めたように思われるが、ことばは、相互性を含んでいる。この契約という形式がここからスタートするということである。これは、ひとを分けることにもつながる。契約を受け入れるものと、受け入れないもの。しかし、それは、差別ではないのだろう。この違いもしっかり考えていきたい。
Genesis 7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである。
ネフィリム(6:4)は、あてにせず、主の目に適う者(6:8)として、ノアを選び、引用句のように記すが、ここには、その前の6章22節の「ノアはすべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した。」があるように思われる。おそらく、ノアも完璧なひとではなかったろう。しかし、相互の信頼関係を持てるとしたのだろう。異なるフェーズに入ったということである。箱舟に入ったものの記述のあと「神がノアに命じられたとおりであった。」(16b)としている。人と人との信頼関係でも、むろん、完璧なものは、存在しない。しかし、そのような関係性をたいせつにしていると表現していることは、確かなように思われる。
Genesis 8:1 神は、ノアと彼と一緒に箱舟にいたすべての獣、すべての家畜を忘れることなく、地上に風を送られたので、水の勢いは収まった。
神が「ノアと彼と一緒に箱舟にいたすべての獣、すべての家畜を忘れることなく」と表現され、それに応答するかのように「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた。」(20)とある。やはり、この応答性に本質があるように思う。これが、聖書が表現しているところの、信仰でもあるのだろう。しかし、それは、完璧なものではない。そして、「主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた」内容「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」(21,22)も絶対的なものと考えないほうがよいのだろう。エルサレムの陥落、バビロン捕囚などを考えると、すくなくとも、完全なものとして、記述もしていないように思われる。
Genesis 9:9-11 「私は今、あなたがたと、その後に続く子孫と契約を立てる。また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」
このあとに、契約のしるしの記述があるが、基本的に、引用箇所が、契約の内容である。ここに、契約ということばが、二回出てくる。契約とは、相互関係ではないのか。神と、わたしたちのように、同等でない者にとっては、相互関係であっても、対等ではないということだろうか。約束とは何が違うのだろうか。ここには、人間の側については、なにも記されていない。4節に「ただ、肉はその命である血と一緒に食べてはならない。」と、少し、命令のようなものがあるが、それが鍵だとは思えない。白紙ということだろうか。ゆっくり考えていきたい。
Genesis 10:25 エベルには二人の子が生まれた。一人の名は、その時代に土地が分けられたことにちなんでペレグと言い、もう一人の名はヨクタンと言った。
「以上が、国ごとの系図によるノアの息子の氏族である。洪水の後、地上の諸国民は彼らから分かれ出た。」このことが、この系図の中心であろうが、8,9節のニムロドの記事や、引用句のように、少し、それとは、直接関係のない記述が含まれている。すべてが繋がっているわけではないだろうが、いくつかの、伝承がべつにあり、それを含めたのだろう。何らかの歴史的できごとが関係しているのかもしれない。しかし、あまり多くはない。メソポタミヤや、エジプトの歴史を踏まえるようなことはしていない。伝えたいことがここに含まれているのだろう。
Genesis 11:9 それゆえ、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言語を混乱させたからである。主はそこから彼らを全地の面に散らされた。
一般的には、ひとが全地に散らされ、広がっていったから、言語が多様になり、互いの言語が理解できないようになったと考えるだろう。個人的にもそうだと考える。しかし、因果関係で物事をみるのは、非常に限られた視点なのかもしれないと最近思う。因果関係は証明できない場合も多く、現実は理解できても、現実の様々な見方を得ることのほうがたいせつに思われるからである。ここでは「全地の面に散らされることのないように」(4)名をあげるために、塔を築いている。それに対して「主は、人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来て、」(5)ことばを、混乱させる。「名をあげ、自分たちが中心となってなんでもすること」を主が嫌われたというのが(主の、または、聖書記者が受け取った)メッセージのようである。そう考えると、散らされ、互いの言語が理解できないことも、積極的な意味もあるのかもしれないと今回思った。本当に、そのことが、主が望んだ、中心だったかは、わからないが。このあとに、アブラハムが登場する。個人に視点が向けられていくとも言える。
Genesis 12:1,2 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ/私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。/あなたは祝福の基となる。
ここに、散らされていったひとりの人の物語が始まる。主が、個人に語りかけられている。出発は、このことばが起点となっているわけではない。「テラは自分の息子アブラム、ハランの息子で自分の孫であるロト、息子アブラムの妻である嫁のサライを連れてカルデアのウルを出発し、カナンの地に向かった。彼らはハランまで来て、そこに住んだ。」(11章31節)とあるように、出発したのは、テラである。しかし、ここに新たなる出発があると、聖書記者は記しているのだろう。旧約聖書の原型が今の形に近いものとなったのが、バビロン捕囚、離散後と考えると、様々な伝承や、記録を踏まえた上で、ここからのメッセージは、(聖書記者・編集者の)自分史の語り直しだとも考えられるかもしれない。丁寧に読んでいきたい。
Genesis 13:14,15 ロトが別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう。
イスラエルの土地を、アブラハムの子孫に与えるという主の約束が書かれていると取るのが普通だろう。しかし、今回読んでいて、ロトが別れていった土地も含まれており、すべたの場所が、あなたが自由にかつどうできる場と言っているのかもしれないと思った。土地所有は、人間が決めた、それも、統治政策に関係したものである。マサイランドのことなども思い出した。Private Land, Community Land, Public (State's) Land のように、個人の所有ではなく、活動の場所と考えると、見方も、ビジョンも変わってくる。
Genesis 14:14-16 アブラムは親類の者が捕虜になったと聞き、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者を動員し、ダンまで追って行った。夜になって、アブラムと僕たちは分かれて相手を攻撃し、ダマスコの北のホバまで追って行った。アブラムは財産のすべてを取り戻し、親類のロトとその財産、女たちとその他の人々も取り戻した。
マムレが13章18節にあるようにヘブロンであるなら、大変な距離を追いかけて、取り戻したことになる。「シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルの時代に、」(1)や、ケドルラオメル(4)など、一つ一つ王についても調べなければいけないが、何らかの歴史的事件があったのだろう。13章での約束とは、関係がないかもしれないが、土地を縦横に駆け巡っており、約束の一部の成就も感じさせる。すくなくとも、アブラムはこのようにして、土地を所有しようとは考えなかったようである。
Genesis 15:3,4 アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」すると、主の言葉が彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」
ここに子孫のことが書かれている。血筋は、本来は、本質的ではないだろう。しかし、部族(大家族)ごとに別れている、当時は、これ抜きには、語れなかったのだろう。興味深いのは、ここでの、神と、アブラハムの対話である。上に書いたことも含めて、絶対的な正しさを押し付けるわけではない。関係を構築しようとしているように見える。それが信頼関係であり、信仰なのかもしれない。このあとにも、「主は言われた。『私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である。』」(7)とあるが、このときは、まだ、テラの時代である。直接ではない関係も、信頼関係のもとにはあるのだろう。最後に、「そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」(16)とまことしやかな理由が書かれているが、それは、単に、一つの説明で、因果関係としては、理解しないほうがよいように思う。わたしたちの知る(受け取ることのできる)ところは一部。主の、たいせつな独立な存在と考えるなら、その尊厳も尊重すべきである。
Genesis 16:7-9 すると、主の使いが荒れ野にある泉のほとり、シュルへの道沿いにある泉のほとりで彼女を見つけ、尋ねた。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」彼女が、「私は女主人サライの前から逃げているところです」と答えると、主の使いは言った。「女主人のもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えなさい。」
ハガルの物語も興味深い。まず、ダマスコのエリエゼルは、家系として血では繋がれないが、ハガルは、アブラハムの子を宿している。しかし、ここでは、あくまでも「サライの女奴隷」である。今回興味深く感じたのは、「ハガルは、自分に語りかけた主の名を、『あなたはエル・ロイです』と呼んだ。『私はここでも、私を見守る方の後ろ姿を見たのでしょうか』と言ったからである。」(13)と言っているが、引用句では「主の使いが彼女を見つけ」となっている。探し出してくれたとも言えるし、主の使い(おそらくひと)が関与しているともとれるし、迷い出た奴隷を見捨てないとも言える。社会的背景もあり、単純な結論を出さず、丁寧に、いろいろな視点から読んでいきたい。
Genesis 17:23 アブラハムは、息子のイシュマエル、家で生まれたすべての者、銀で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家の人々のうち、すべての男子を集め、その日、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。
ほとんど一章をかけて、この割礼のことが書かれていて、少なくとも、これが書かれた時点では、非常に重要であったことがわかる。同時に、これがイスラエル民族に限ったものでないことも、よく知られていただろう。そうであっても、重要視されるのは、主の約束を、特別なものとして、部族で受け取るという表現なのだろうか。むろん、聖書に書かれている割礼は、男性のもののみで、女性のFGM などは、関連性はない。この、割礼の意味付けは、よくわからない。生殖行動と関係はあるのだろうが。
Genesis 18:32,33 彼は言った。「わが主よ、もう一度だけ申し上げても、どうかお怒りになりませんように。もしかすると、そこには十人しかいないかもしれません。」すると主は答えられた。「その十人のために、私は滅ぼしはしない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムは自分の住まいに帰って行った。
「旧約聖書がわかる本」(並木・奥泉)に、なぜ、独りだけでもいればと問わなかったかについて書かれていた。その箇所かどうかは忘れたが、「神の行動基準を人間が認識するのは、神の自由を制約することになるから。神の自由は徹底的に尊重される。神の自由が守られるから、人間も自由人として行動できる。」(p.201) と書かれていた。これには、考えさせられることが多かった。神の行動基準を人間が認識し、そこから演繹するようなことは、神の自由を制限するという考え方である。そうしないことによって、人間の自由も守られる。責任とともに、信頼関係がどういうものかについても、考えさせられた。
Genesis 19:1,2 二人の御使いが夕方ソドムにやって来たとき、ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって出迎え、そして地に顔を付けてひれ伏して、言った。「皆様、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして明日の朝早くに起きて、旅を続けてください。」ところが彼らは、「いえ、私たちは広場で夜を過ごします」と答えた。
今回は、この箇所を読んで、ロトの行動を見ると、予め、アブラハムから、使いが来るかもしれないこと、そして、ソドムが滅ぼされるかもしれないことを聞いていたのではないかと思った。わたしがアブラハムならもちろん知らせようとするだろう。アブラハムからの連絡が実際にあったかどうかは不明だが、ロトは、おそらく、できる限りのことをしている。御使いを引き止めて、招き入れ、もてなそうとし、街の人から守ろうとし、婿(許嫁(いいなずけ)なのだろう)たちに連絡をする。しかし、どれをとっても、もうひとつだと感じさせられてしまう。おそらく、天地が滅びるという連絡をもらったときにどう行動するかが問題なのではなく、日常的に、気をつけて、こころをととのえて、生活することなのだろう。それが「気をつけていなさい」と繰り返すイエスの教えにもつながる。危機のときにどう行動するかではなく、それに備えて日々を生きるものでありたい。街の人や、近しい人と信頼関係を築き、たいせつなことを共有し、つねに、旅人をもてなし、感謝して与え、神様の御心を求め続けることだろうか。
Genesis 20:7,8 さあ、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者であるから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたとあなたに連なる者は皆、必ず死ぬと覚悟しなさい。」アビメレクは次の朝早く起きて、すべての家臣を呼び集め、これらすべての出来事を語り聞かせた。すると一同は非常に恐れた。
イサクの誕生の前の物語である。アビメレクの「次の朝早く起きて」にも惹かれたが、ここでアブラハムが「預言者」と呼ばれていることにも興味を持った。神のことばに預かるものということなのだろう。そのようなものだから「あなたのために祈り、命を救ってくれる」その力があるわけではないだろう。主のみこころを求めて、とりなしの祈りをしてくれるということなのだろう。強制的な魔術ではない。やはり、対話、コミュニケーション、相互性が、底流に流れているように感じる。
Genesis 21:17,18 一方、神は子どもの泣き声を聞かれ、神の使いが天からハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子どもの泣き声を聞かれた。さあ、子どもを抱え上げ、あなたの手でしっかりと抱き締めてやりなさい。私は彼を大いなる国民とする。」
ハガルとイシュマエルの問題について神が語り、具体的な指示がされたかどうかは不明だが「アブラハムは朝早く起きて、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、肩に負わせ、子どもと共に送り出した。彼女は出て行って、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。」(14)とある。神が、アブラハムの友として、行動しているかのように見える。神様を信頼するとは、そのようなことなのかもしれない。単に、あることを委ねることではなく、日常的な信頼関係が育まれてこそでもあろう。友人とはそのようなものだろう。ここでは、それが描かれているようだ。
Genesis 22:14 アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、「主の山に、備えあり」と言われている。
イサクにとっては、トラウマになるのではないかとも言われる。しかし、やはり信頼関係の構築が最高潮に達したところと見るべきだろう。イサクも、自問自答しながら、この「主の山に、備えあり」を、こころのなかで唱えたことだろう。人生には、様々な危機がある。イサク物語は、アブラハム、ヤコブと比較すると非常に短いが、消化しなければいけない期間だったのかもしれない。いずれにしても、ものごとを点で捉えるのでは、ほんのいち部分しか見ることができない。それも、丁寧に見ていくたいせつな部分なのだろう。
Genesis 23:12,13 アブラハムはその土地の民の前にひれ伏した。そして、その土地の民が聞いているところで、エフロンに言った。「いやそれでも、私の願いを聞いてくださるのでしたら、畑地の代金はお支払いします。どうかお受け取りください。そうすれば、亡くなった妻をそこに葬ってやれるでしょう。」
引用句以外にもう一回「アブラハムは立ち上がり、その土地の民であるヘトの人々にひれ伏し、」(7)とも書かれている。ひれ伏すは、18章2節の三人のひとを迎えるときにも行っている。ロトも同じようにひれ伏し、さらに、モリヤでは、礼拝(22:5)と訳されているが、これも同じことばである。7節の立ち上がり、ひれ伏しは、動作がよくわからないが、いずれにしても、「私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。」(4)を表現するものなのだろう。小さな土地でも、正当に契約により取得したことに、意味があるのだろうが、おそらく、このような、アブラハムの謙虚さ、アブラハムが自分のこの地での位置をどのように理解していたかも大切なのだろう。今回、そのことがとても印象的に感じた。わたしたちも、この世では、寄留者である。謙虚な生き方をしたい。
Genesis 24:6-8 アブラハムは答えた。「いや、息子は向こうへ連れて行かないように注意しなさい。私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた天の神である主は、あなたの前に御使いを遣わされる。それであなたはその地から息子に妻を迎えることができる。しかし、もしその人があなたに付いて来るのを望まなければ、あなたは私との誓いを解かれる。ただ、息子を向こうへ連れて行くことだけはしてはならない。」
厳しい条件を課している。しもべもさらに、条件を課している。あとのヤコブ物語などを見ると、必ずしも、「息子を向こうへ連れて行かない」ことが本質であるとは思えない。しかし、このようなやりとりを、主と、アブラハムの関係を写し取ったものとして描いているように思われる。普遍化するのは危険であるが、神の友と呼ばれる信頼関係が背景にあるのだろう。「こうして『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2章23節)しもべは、15章2節のダマスコのエリエゼルかどうかは不明だが、アブラハムとの信頼関係がしっかり築かれていることも感じる。モリヤについていった二人の従者のひとりかどうかはわからないが、そのようなエピソードも知っていただろう。神とアブラハムの関係を知っていたことが背景にあるように思われる。
Genesis 25:18 イシュマエルの子孫が住んだのは、ハビラからエジプトに近いシュルまでの、アシュルに向かう地域であった。イシュマエルはすべての兄弟と対立して暮らした。
編集など様々な意図があるのかもしれないが、周辺の民族・部族と思われるリストを子孫とする、妻ケトラのことが最初に書かれている。続けて「アブラハムは財産のすべてをイサクに譲ったが、側女の子らには贈り物を与え、まだ自分が生きている間に東の方にあるケデムの地に移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(5,6)とあり、これからすると、イシュマエルとケトラの子がケデムの地に移住させられたようである。しかし、アブラハムの死と、イシュマエルとイサクによる埋葬の記事のあと、イシュマエルの系図が続く。ここには、十二人の族長(16)ともあり、ハガルへの預言(21章18節)も連想させられる。引用句には「すべての兄弟と対立して暮らした。」とあり、独立性を描いているようにも見える。近隣の民族を関連付けてしめすことが背景としてあると思われるが、つぎはぎのようなイメージもうける。いくつかの資料の編集なのかもしれない。アブラハムのいる土地に住む民族とは、区別しているのだろうか。これだけでは、判断が難しい。
Genesis 26:28,29 すると彼らは言った。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで、私たちの間で、つまり、私たちとあなたとの間で誓約を交わしてはどうかと考えました。私たちはあなたと契約を結びたいのです。私たちはあなたに害を加えることをせず、むしろあなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたがたを送り出しました。そのように、あなたも私たちに悪いことはしないでください。あなたは今や、主に祝福されている方なのです。」
この直前(23-25)に主のイサクとの契約更新のような記述があるが、それに引き続いて、ペリシテ人(1,8,15)の王アビメレク(20章のアブラハム時代のアビメレクはゲラルの王とされ、地域的にもかなり離れているように思われる。話は将軍ピコル(20:22,32)の記述も、契約についても含め酷似している。資料は同じなのかもしれない。)との、契約を結ぶ。イサクの記事が少なく、ゲラルをペリシテに代えて、転用したのかもしれない。時代的には、BC2000年からすこし下ったあたりが想定されており、他の地域でも、記録は十分ではない時代と思われる。(文書が極端に増えるのは、新バビロニア以降だろう。)いずれにしても、契約が紛争に終止符をうつたいせつなものとして記録していることは印象的である。異質な他者が出会った時、関係性、相互性を通して、信頼関係を築くことがたいせつであるが、その最初、完全な信頼関係がないときに、契約・条約のようなものが問題を大きくしない、武力衝突を避ける重要な機能をもっていることが、この時代からあったと言っていることは興味深い。
Genesis 27:40,41 あなたは剣によって生き/弟に仕えるようになる。/ただいつの日か、あなたは束縛から脱して/自分の首からその軛を解き放つだろう。」こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」
創世記記者の意図が感じられる。「いつの日か」を、ここでは「父の喪の日」と、個人的にむりやり解釈して、計画を練る姿が見える。創世記での記述では、これから、ヤコブが戻ってくるまで、20年以上(31:41)の期間があり、イサクがなくなるのはさらにそのあとのようである(35:28)。この期間が与えられたことが、エサウが考え直す期間となったように見える。信仰者には、祝福の約束があるが、それがいつどのような形でと、自分なりに解釈することは、気をつけないといけないのだろう。しかし、エサウの怒りと痛みにわたしのこころも苦しむ。様々なところに存在する、世界の紛争の種のように、映るので。
Genesis 28:20-22 ヤコブは誓いを立てて言った。「神が私と共におられ、私の行く道を守り、食べる物、着る物を与えてくださり、私が無事、父の家に帰ることができ、そして主が私の神となられるなら、その時、柱として私が据えたこの石は神の家となるでしょう。そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
ヤコブの主への応答としての、誓約である。ここに十分の一(14:20)が登場する。祭儀との関連性が記録としては意識されるが、主の約束ではなく、人間のがわの応答として、これが記録されていることは興味深い。問うことや、願うことは、これまでも記録されているが、ここでは、感謝とともに、自分がすることを規定している。信頼関係は、このようにして、築かれていくのだろう。6-9 のエサウのような行為を、わたしたちもするように思う。的外れだと批判することもできるが、悲しさも伝わってくる。愛すべき、エサウと感じる。
Genesis 29:31,32 主はレアが疎んじられているのを見て、その胎を開かれた。一方、ラケルは不妊であった。レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名付けた。「主は私の苦しみを顧みてくださった。これで夫も私を愛してくれるでしょう」と言ったからである。
わたしはこれを「信仰告白」と呼ぶが、二通りの理解がまず考えられる。レアが主がそのように働れかれたと受け取ったということの告白。もう一つは、創世記記者というより、もととなる伝承をつむいだひとたちが、主の憐れみ深さをこのように表現したということである。主は、そのように働かれるかもしれないが、それを普遍化するのは危険である。神の随意の働きを人間が見えている世界からの判断で制限してしまうからである。しかし、いずれにしても「疎んじられている」という痛みに応答される主と受け取ることは、素晴らしいと思う。主は、そのようなことに関心があり、働かれる。その憐れみ深さを告白する、それも、信仰告白なのかもしれない。
Genesis 30:22-24 一方、神はラケルを忘れず心に留めておられた。神は彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれた。彼女は身ごもって男の子を産み、「神は私の恥を取り去ってくださった」と言い、その子をヨセフと名付け、「主が私にもう一人男の子を加えてくださいますように」と言った。
前の章から引き続き、全部で11人の男の子が生まれる物語が書かれている。これが事実かどうかを問うことは、根拠を確かめることが不可能で、このころの資料が残っていることも考えにくいので、虚しいことだろう。ここから伝えられているメッセージを受け取るべきだろう。引用句には「神はラケルを忘れず心に留めておられた。」としている。非常に、個人的に、信仰的な関わりをみていることもわかる。それを、どう理解するかは難しい。人々との関係、神様が愛される一人ひとりとの関係が広がり、すこしずつ世界がひろがっていくと、観察できる部分も変わっていくからである。そのあたりを、どう考えればよいのか、尊厳と公平性とわたしが表現する部分だが、とても、難しようにも思う。しかし、神様の憐れみ深さを、自分も求めるという信仰と、それに基づいた生き方は、そのあたりを、丁寧に理解し、紡いでいくことにも深く関わっているように思われる。
Genesis 31:14-16 ラケルとレアは言った。「父の家には、私たちの取り分や相続分がまだあるのでしょうか。私たちは父に他人のように見なされているのではありませんか。父は私たちを売り渡しながら、私たちのそのお金を使い果たしてしまったのです。神が父から取り上げられた富は、すべて私たちのもの、また私たちの子どもたちのものです。ですから、さあ今すぐ、神があなたにおっしゃったことは何でもなさってください。」
ここには、あまり説明されていないことが書かれている。「父は私たちを売り渡しながら、私たちのそのお金を使い果たしてしまったのです。」の部分である。ラバンは、ヤコブを通しての祝福があることを見ながら、浪費してしまったようである。「ヤコブは、ラバンの息子たちが次のようなことを言っているのを耳にした。『ヤコブは父のものをすべて奪い取ってしまった。彼があのような財をなしたのは、すべて父のものによってなのだ。』」(1)ともある。神様の祝福と理解するか、不公平とみるか、それは様々だろう。公平だとみなが受け取る状況はないのかもしれない。すると、公平さは、人間の側の責任として委ねられていることなのかもしれない。わたしは、ラバンやその息子たち、その家族とともに祝福を受け継ぐものとなりたい。
Genesis 32:26,27 ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。男は、「放してくれ。夜が明けてしまう」と叫んだが、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と言った。
この格闘は、いろいろに理解できる部分だろう。わたしは、今回、ヤコブが自分の弱さを担いながら、どのように生きていくかの葛藤が表現されているのかと思った。ラバンとの関係においては、ラケルがテラフィムを盗んだことも考えるべきだろう。見つかっていたらどうなったのだろうか。ヤコブは、前の章で、ラバンの前で、自分の正しさを主張し続けている。それも、簡単に崩れてしまいかねないことである。この章の最初にある、神の使いたちに会い「これは神の陣営だ」(3)と叫び「マハナイム(2つの陣営)」と名付けた箇所、自分の正しさではなく、神の使いに目を向けたことの表現なのかもしれない。ヤコブは、おそらく、当時の人は、神の使いが現れた場所を大切にしたのだろう。
Genesis 33:2-4 すなわち、召し使いとその子らを先頭に、レアとその子らはその後に、そしてラケルとヨセフを最後に配置した。ヤコブは先頭に進み出て、兄に近づくまで、七度地にひれ伏した。するとエサウは走り寄ってヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
「ヤコブは先頭に進み出て」からすると、ヤコブは、後ろの方に居たのだろう。しかし、前に進み出ている。このあと、順に、妻や、子どもたちも前に進み出る。感動的であると同時に、エサウの側の物語や、この再会のときの詳細は書かれていない。あくまでも、ヤコブの側の物語ではあるが、ヤコブは、自分が主人公ではない、自分の制御できないことが起こっていることを描いているのだろう。エサウとは、一緒には住まない。トラブルを避けるためだったかもしれない。しかし、そのようなハッピーなときが、それで終わるわけではないことを、描くのが聖書である。
Genesis 34:27 ヤコブの息子たちは倒れている者たちに襲いかかり、町を略奪した。彼らが自分たちの妹を汚したからである。
このあとに、略奪についての詳細が続く。ヤコブは「厄介なことをしてくれたものだ。」(30)と言い、ディナの兄弟シメオンとレビは「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいというのですか」(31)と言い返している。ここには、主は登場しない。ヤコブの行動も最後の部分を除いて書かれていない。十二部族のシメオンとレビをここに登場させたことには、何らかの意味があるのだろうか。ヨセフ物語にはつながっているように思われるが。(42章24節、49章5-7節)あまり、因果関係を強調しないほうがよいのだろうが。創世記記者の意図を強く織り込むのは問題もあるのかもしれない。ここで、わたしがヤコブだったら、シメオンやレビだったら、どうしたら良いのだろうかと考えてしまう。ここまで、娘については、ほとんど書かれておらず、女性の社会的な存在や役割についても、わからないので、単純には、判断できないが。
Genesis 35:11,12 神はまた彼に言われた。「私は全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、そして諸国民の集まりが起こり、あなたから王たちが出る。私は、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」
この段落は「ヤコブがパダン・アラムから戻って来たとき、神は再び彼に現れ、祝福して、」と始まり、32章23-31節のペヌエルでのことが想定されているように思われるが、それに引き続き書かれている、引用句、祝福の言葉は、いつのことかは不明である。パダン・アラムから戻ってきたという出だしからして、祝福の言葉と似ている、逃亡のときに見た幻(28章10-21節)は想定していないように思われる。あまり、そう厳密にわけなくてもよいように思うが、ディナの事件とその顛末のあと、ベテルに礼拝に行くこの章の記述の中には、直接的に主との、やりとりが書かれていないことも、不思議であり、神は沈黙しておられるようにすら感じる。
Genesis 36:6-8 エサウは、妻、息子と娘、家のすべての者、家畜とすべての動物、カナンの地で蓄えたすべての財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へと赴いた。一緒に住むには彼らの財産があまりにも多く、彼らが身を寄せていた地は、その家畜のゆえに、自分たちの生活を支えることができなかったのである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
32章4節にすでに「ヤコブは自分より先に、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに使いを送り」とある。論理的には、引用句の説明はつながらない。資料にも混乱があるのかもしれない。ただ、ここでは、エサウの側から退いたことが語られている。いろいろな解釈があって良いのだろう。カナン人もおり、エサウの住む土地は、出エジプトのときまで、少し離れた地と理解されていたのかもしれない。少しずつ、謎が解けていく可能性もあるが。やはり、編集が入っている可能性も否定できず、難しい。
Genesis 37:26,27 ユダは兄弟に言った。「兄弟を殺し、その血を覆い隠したところで、何の得になるというのだ。さあ、イシュマエル人に売ってしまおう。彼に手をかけてはならない。彼は我々の兄弟、我々の肉親ではないか。」兄弟はこれを聞き入れた。
このあとに、ルベンは「ルベンが穴に戻ってみると、穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣服を引き裂き、兄弟のところに戻って言った。『あの子がいない。私は、この私はどうしたらいいのだ。』」(30,31)と語っている。ルベンもこのあとの偽装行為には、加担したようなので、正しい行動をしているわけではない。(35章22節参照)ユダも「彼に手をかけてはならない」と言いつつも、損得を、基準としている。(次章参照)これを記したひとたち、また、語り伝えた人たち、時代的には不明であるが、自分たちの先祖について、語り、このように表現することは、ある意味では自虐的である。それが、記録され、残されていることに価値があるのだろう。ある程度の、美化が入り込むほうが普通だから。
Genesis 38:23 ユダは言った。「では、保証の品はあの女に取らせておこう。蔑まれては困るから。いずれにせよ、私は子山羊を送り、あなたは女を見つけることができなかったのだから。」
ここにユダとしてのまとめがある。友人とは、このようなことをもしてくれる。助言をするものではないのだろう。このあと、タマルを売春によって、殺そうとしている。自分が、その買春をしたにも関わらず。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ。」(26)に至りはするが、神殿娼婦と交わる記述などもあり、このあたりには、主との交わりはない。ヨハネ物語の途中に挿入された形になっているが、イスラエルも子供の扱いに公平さがないなど、課題が多い。主との交わりが、それぞれの人の中で、大切なものとなっていくのには、時間がかかるということか。教育はたいせつでも、教育だけでも、達成できないのかもしれない。
Genesis 39:9,10 この家では、私より上に立つ者はおりませんし、私に禁じられているものは何一つありません。ただ、あなたは別です。あなたはご主人の妻ですから。一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は彼女のそばで寝ることも、一緒にいることも聞き入れはしなかった。
このあとの記述を見ると、もう少し注意をしたほうがよいと感じたり、主人は、信頼は得ても、友ではなかったなど、いろいろと考えることもあるが、それは、おそらく、あらさがしで、物語として、素直に受け取ることがたいせつなのだろう。イスラエルや、ヨセフの兄弟たちについては、主のことが書かれていないが、ここには「主がヨセフと共におられた」(2,3,5,21,23)と、かなりしつこく書かれている。それは、おそらく、他の兄弟たちや、イスラエルと共におられなかったということではないだろう。この、困難な期間、それを、ヨセフが、そして、イスラエルや、ヨセフの兄弟たちが、あとから、信仰告白として、表現したことでもあるのかもしれない。それは、イスラエルの一つの信仰の形に結びついていくのだろうか。
Genesis 40:16 料理長は、ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて言った。「私も夢を見たのですが、なんと三つのパン籠が私の頭の上にあったのです。
このような箇所から、この料理長の問題点を指摘することもできるが、物語の一部であり、自業自得というより、それ以前の、献酌官と料理長の日常に関係すると考えたほうがよいだろう。ヨセフは「解き明かしは神によることではありませんか。どうぞ話してみてください」(8b)と言っている。危険さも含むが、まさに、そのとおりであると思う。これが、ヨセフの信仰告白なのだろう。ヨセフの日常が、ここにある。むろん、願いは「そこで、あなたが幸運に恵まれたときには、私を思い出し、どうか私に慈しみを示してください。ファラオに私のことを話し、この獄から私が出られるようにしてください。」(14)に表現されているのだろうが。辛い期間でもあり、多くの制約があるが、神の働きを理解しようとした期間でもあるのかもしれない。
Genesis 41:15,16 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、あなたは夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオに平安を告げられるのです。」
当時は、夢で神様は、みこころを示されたのだろう。または、そのことを人々は信じ、行動していたとも理解できる。現代は、科学的に、様々な情報を得ることができる。神様はそれを通してみこころを示されるだろう。そして、そのことを十分に利用する責任が人間にはあるように思う。それが表現されていることばのひとつが、ナイチンゲールの「神の御心を知るには統計学を学ばなければならない」 “To understand God's thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose.” であるように思う。環境問題も、平和の問題も、ある自由と選択によって、人間に委ねられているのだから。
Genesis 42:36 父のヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、私から子どもを奪ってしまった。ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった。そして今度はベニヤミンを私から取り上げようとする。すべて私にばかり降りかかる。」
この最後の部分が気になった。神様の仕打ちとして、神に問いたいが、そこまでは、言えないヤコブがここにいるように思う。ヨブとの違いとも言えるが、ヤコブなりに、自分の人生、神様の導きを考えているのかもしれない。多くのことがひとには隠されている。おそらく、そこで残されるのは、神様に信頼することだけなのかもしれない。それは、神様が善いものを与えてくださるという信仰である。ひとつの価値観でもある。たんなる楽観主義とは、ことなる経験則なのだろうか。わたしも、神様が善いものを与えてくださることを信じ、神様の御心を求め続けることをたいせつにしたい。
Genesis 43:14 どうか、全能の神がその人の前でお前たちを憐れみ、もう一人の兄弟とベニヤミンとを返してくださるように。子どもを失わなければならないのなら、失うまでだ。」
ヤコブは、最後には、諦め、または神様に委ねるしかないとこのことばを発している。ユダは「あの子のことは私がその安全を請け合います。その責任は私が取ります。あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前に立たせることができなければ、私は生涯あなたに対してその罪を負い続けます。」(9)と言う。ルベンの応答は前章にかかれている。「もし、お父さんのところにベニヤミンを連れて帰らないようなことがあれば、私の二人の子どもを殺してもらってもかまいません。私に任せてください。私がお父さんのところに連れて帰ります。」(42章37節)それぞれの中で、この苦境に向き合う覚悟が出来ていったということのように思われる。ほんとうの家族となったのかもしれない。むろん、不信もあり、完全に互いに信頼できているわけではないが。(創世記50:16,17節)
Genesis 44:33,34 それでどうか僕をこの子の代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。この子が一緒でないかぎり、どうして私は父のもとへ上って行けるでしょう。父に降りかかる災いを見るに忍びません。」
ユダをイエスの予型とすることは、可能かもしれないが、まずは、ユダがなぜこのように言ったのかを考えてみたい。レアの最初の子らは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ。それぞれこれまでにエピソードが書かれている。ルベンは、父の寝床をけがしたこと。(35章22節)シメオンとレビはディナのことで、だまし討にしたこと(34章)。ユダについては、38章。明確に、自らの過ちを認めているのが、ユダである。(38章26節)それが関係しているかどうかはわからないが、43章9節の前から、ある覚悟ができていたのかもしれない。もう少し、考えてみたい。
Genesis 45:4,5 ヨセフは兄弟に言った。「さあどうか近寄ってください。」彼らがそばに近づくと、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。かし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。
「私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」が印象に残った。「こうしてヨセフは兄弟を送り出し、彼らは出発した。ただその時ヨセフは言った。『途中で争ったりしないでください。』」(24)でも争うなと言っている。過去のことは、簡単に霧消するわけではなく、自己正当化など、後ろ向き、内向きにこころが向かうことは自然であることが前提なのだろう。そうならないため、引用句では「神」を指ししめしている。人間の性(さが)は変わらない。しかし、そこに固執しないで、前を向き、神の恵みとして生きることを勧めているのだろう。むろん、これで、すべてが解決するわけではないが、現代の信仰者にとっても、同じであると思う。
Genesis 46:3,4 神は言われた。「私は神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。私はそこであなたを大いなる国民とする。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。ヨセフがその手であなたのまぶたを閉じるであろう。」
ここには、奴隷となるようなことは、書かれていない。ヤコブの憂いを取り、慰めを与えるためだったろうか。神は、そして、筆者が知っていても、それを伝えないことがある。隠されているとも取ることができるが、そこに配慮があるのだろう。将来について、わからないことは、不安でもあるが、何でも知ることが恵みではないことも確かだろう。たいせつなのは、恵みをうけとり、神様、そして、その御心にこころを向けて、今を生きることなのだろう。感謝を持って。
Genesis 47:4 さらに続けてファラオに言った。「私たちはこの地に一時、身を寄せるためにやって来ました。カナンの地での飢饉がひどく、僕どもの羊のための牧草がありません。そこでどうか僕どもをゴシェンの地に住まわせてください。」
前の章にあるヨセフの指示「次のように答えてください。『あなたの僕どもは、幼い頃から今に至るまで、家畜を飼う者です。私たちも先祖もそうです。』そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人が忌み嫌うものだからです。」(46章34節)と微妙に食い違っている。引用句の直前の「あなた方の仕事はなにか」(3)までは同じである。しかし、ヨセフは「そうすれば」と言っているが、ここで兄弟たちは「僕どもをゴシェンの地に住まわせてください」と願っている。すでに、ゴシェンにおり、そこが適した地であることを見ていたのだろう。その場所は、「ラメセスの地にある最良の地」(12)とある。おそらく、ゴシェンの中にラメセスがあるのだろうが、その中でも、最良の地が与えられたということだろう。ひとの浅ましさと、神の恵みが強調される構造になっている。
Genesis 48:21,22 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬ。だが神はお前たちと共にいてくださり、先祖の地に連れ戻してくださる。私はお前に、兄弟よりも一つ多く分け前を与える。それは私が剣と弓によってアモリ人の手から奪ったものである。」
このあとに、ヤコブの祝福のことばが続くが、基本的に、最後の言葉である。「私はあなたを子孫に恵まれる者とし、子孫を増やして、多くの民の集まりとする。また、この地をあなたに続く子孫にとこしえの所有地として与える。」(4)と神のことばが記されている。多くの民の集まりとしている。一つの民ではないところが注意をひいた。そのなかで、ヨセフに Double Portion 二倍の分け前、通常は、長男に与えられるものが、与えられている。経緯からも、だれが長子の権利を受け継いだかは、複雑な構造になっている。エサウと、ヤコブの関係の、延長線上にあり、単なる出生順などではない、祝福を表しているのかもしれない。十二部族のひとたちは、どのように、この物語を理解していたのだろうか。今度、ユダヤ人のひとたちに聞いてみたい。
Genesis 49:3,4 ルベンよ、お前は私の長子。/私の力、強さの初め。/堂々とした威厳、卓越した力量がある。だが水のように奔放で/もはやほかにまさる者ではない。/お前は父の寝台に上って汚した。/私の床に上った。
ヤコブの臨終の前の祝福のことばとされているが、内容はまちまちである。引用したルベンには、「長子」であるが「もはやほかにまさる者ではない」こと、「私の力、強さの初め」との祝福とも言える賞賛のことばとともに、「水のように奔放」と弱点とともに、過去の過ちを記している。シメオンとレビは二人一緒に記し、形式は、ルベンに似ている。ユダは特別で、ゼブルンはのちに住む地域、ガド、アシェル、ナフタリは非常に短い。過去のことなのか、預言なのか一定しない。しかし、なんらかの古い伝承がなければ成立しないようなもの、かつ、北イスラエルが滅びる前にそれができていたことも確実だろう。詩形式のものは、古いことが多いと言われるが、謎に包まれたヤコブの最後のことばである。
Genesis 50:22,23 ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生きた。ヨセフはエフライムの三代の子孫を見ることができ、マナセの息子マキルの子どもたちも生まれてヨセフの膝の上に置かれた。
三代の子孫は、エフライム、その子、その孫と、ヨセフの曾孫ということだろう。早婚であれば、60歳程度で、曾孫を抱くことも可能だろう。年齢がおそらく当時としては高齢であることが書かれていると同時に、祝福されたこともこのことばによって表現しているのだろう。「喪が明けると、ヨセフはファラオの宮廷の者に言った。「願いを聞いてもらえるなら、ファラオに次のように伝えてほしい。『父は私に誓わせて言いました。私は間もなく死ぬが、その時には、カナンの地に掘っておいた墓に私を葬りなさい、と。ですから、どうか上って行かせてください。父を葬ればまた帰って来ます。』」」(4,5)これを見ると、王の側近とは言えないように感じた。41章40節の王のことばなどは、誇張があるか、または、一定の時期または、穀物の管理などに限定したものなのかなと感じた。エジプトの、古文書からは、ヨセフの存在が明らかにされていないと言われている。しかし、イスラエルにとって、ヨセフは、偉大な先祖だったのだろう。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Genesis 1:18 昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。
新しい通読が始まった。とてもわくわくする。今回、聖書協会共同訳を読むことにしたからもある。BRC2019 開始のときにすでに出版されており、手元にあったが、電子版が公開されておらず、引用を考え、断念した。序文から読んだ。「礼拝で朗読するのにふさわしい格調高い日本語を目指した」とある。引照と注が付いているものを読んでいるが、それが新共同訳とは変化している。聖書学の研究も取り入れられており注が整理されている。引用箇所は「神は言われた。『天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。』そのようになった。」(14,15)と始まっている。全体として、「分ける」ことが記され、ここでは「光と闇を分けるため」となっている。分けることは、人間の世界では、差別を生む。しかし「良し」とされる状況には、分離が伴うのだろう。単純な読み方に偏らず、丁寧に読んでいきたい。「昼と夜」を「光と闇」と言い換えている。詩的であり、示唆的でもある。
Genesis 2:10 エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。
4つの川の名前、ピション、ギホン、ティグリス、ユーフラテスは、実在の川をイメージさせる。それらがエデンから流れ出ている。地域的にも、民族的にも、多様な時代は想定されていない。創世記が書かれた時代、世界はすでに、広がりをもち、多様になっていただろうに。地球の一箇所、それも、一つの民族から世の中を見ることの危なさを感じる。しかし、エデンを描くことで、最初は、ひとつであることを、思い起こさせているのかもしれない。神によって創造されたものとして。記者はおそらく、世界の広がりを知っていただろう。そのうえで、神が創造した世界を、神との交わりという経験を通して描いているのだろうか。あせらずに、断定的にではなく、柔軟性も持ちながら読んでいこう。
Genesis 3:22 神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
創世記がいつの時代に書かれたかわからないが、人間を、そして、人間と神の関係を、さらに、善悪といのちの問題をこのように記していることは、ほんとうに興味深い。神をそして、神のもとにある真理、善なるものを、真剣に求めた人たちの一つの告白でもあるのだろう。命の木は2章9節にあるが、食べることを禁止はされていない。善悪を知る木については、食べることを禁止はされているが、食べることが可能だったことも確かである。命の木の実を食べて生きるのがエデンの園での生活だったのだろう。引用句では、善悪を知りながら、命の木の実を食べることが問題だと言われていると解釈すべきだろう。善悪を自分で決める生活と、神との関係に育まれる生活は、両立しないと言っているのだろうか。すくなくとも、創世記記者はそう考えたのだろう。善悪を考えながら、自分の内にはない、真理をもとめて生きる生活。人間は大きな課題を背負って生きている。それは、変化が大きく、先が見通せない、いまの時代の難題であることは、確かである。神との平和の中で生きることはほんとうに難しい。主なる神も苦しんでおられるのだろう。
Genesis 4:6,7 主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」
翻訳が少しずつ変化し4節は「アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、」と訳され、肥えた羊の部分が強調される訳になっている。「アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。」(口語訳)とはかなり印象が異なる。原語ではそこまでのニュアンスが私にはわからないが、英語の訳でも原語の言葉の並びに近いと言われる NKJV や NASB を見るとそこまでの強調はない。統計学でまず学ぶことは "Correlation is not causation"「相関関係は因果関係にあらず」である。ひとは、ものごとを因果関係で捉えたがる。人間の思考の癖である。しかし、実際には、背後に多くのことがあり、因果関係を特定することは、簡単ではないばかりか、因果関係とは言えない場合がほとんどである。ナイチンゲールが言っているように、(統計学を通して)神様の行動の癖を知ることはたいせつだとわたしもおもう。人間が恵みがどうしても受け入れられないことの背景にもこのことがあるだろう。引用句も、様々なことが並行して起こっているなかで、どう生きるかが問われているようにおもう。思考において、因果関係に縛られやすい人間の癖には、気をつけないといけない。
Genesis 5:3-5 アダムは百三十歳になったとき、自分の姿やかたちに似た男の子をもうけ、その子をセトと名付けた。セトをもうけた後、アダムは八百年生きて、息子、娘をもうけた。アダムが生きた生涯は、合わせて九百三十年であった。そして彼は死んだ。
洪水以前の世界のひとたちが子孫を残した年齢と、寿命が書かれている。6章3節までの暫定期間である。数字も作った感じを否めない。いまとは違った状態であったことを、人々は悟っただろう。エデンで、善悪を知る木の実を食べたことに対する神様の対応だけでは、まだ、完成していない、または、現代に至るひとになっていないことを示しているとも言える。ひとの生い立ちを書きたかったのだろうから。こんなことはありえないという読み方ではなく、ここで伝えようとしているメッセージをうけとらなければならない。このあたりに、一つのハードルがあるのだろうが。
Genesis 6:3 主は言われた。「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」
「肉」は、2章21-23節で「女を造り上げ」(22)たところに出てくるのみで、はっきりしない。ひとは、神の霊が、ひとのうちに永遠にとどまる仕様にはなっていないということを言っている。ネフィリムも似たことの表現なのかもしれない。神との交わりをもつが、霊はいつまでもはとどまらない「ひと」。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、 地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(5・6)神の苦悩が表現されている。神は失敗したり悔いたりすることはないと考えることは普通だが、そうではない描き方をしている。そのようなことを凌駕する、難しい現実がここにあるのだろう。地上の悪は、今に至るまではびこっている。それを認め、悔やみ、心を痛められる神。「ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった。」この神とともに歩むこと、苦悩される神とともに歩むひとを、正しく全き人だと言っているのかもしれない。著者の意図を受け取っているかどうかは不明だが、深さを伴った、示唆に富んだ記述である。
Genesis 7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである。
ノアとその家族だけが残されたのは、ノアの正しさによると書かれている。家族の正しさは書かれておらず、動物については、滅ぼされたものも、救われたものもその選別の理由は書かれていない。「主は、地上のすべての生き物を、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまで消し去られた。彼らは地から消し去られ、ただノアと、彼と一緒に箱舟にいたものだけが残った。 」(20)しかし、このあとの展開を見ると、主のこの事業は、成功ではなかったように見える。つまり、主は、最初の創造を悔い、ノアの箱舟による再出発を図るが成功には至らせてはいない。事実かどうかではなく、そのように、聖書は語っている。まだ、急いではいけないだろうが、世の救いのために御子イエスを送られたことは、成功なのだろうかとも問いたくなる。聖書記者も、そしておそらく、主も、苦悩しておられるのだろう。その苦悩をともにして、主の願われる、ともに交わりを持ち、互いに仕え合い、愛し合うことを目指すことが、わたしが今回受け取っているメッセージのようである。
Genesis 8:21,22 主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」
聖書記者の人間理解なのか、神の理解なのか、はっきりはしないが、この創世記物語でのあらたな起点のように思える。結局、ここがスタート地点だよと。これが現実、環境だけれど、そのなかで、わたしたちは、どう生きるのだろうか。どの方向を向いて歩いていくのだろうか。このように書いてあるから、地球温暖化などは心配しなくてよいと Greta Ernman Thunberg さんにメッセージを送った牧師先生もおられるようだが、聖書のメッセージは、むろん、そのようなところにはないと思う。「心に計ることは、幼い時から悪い」人間がどう生きるか。聖書記者とそして神とともに、聖書を読み、世界を見ながら、苦悩していきたい。
Genesis 9:6 人の血を流す者は/人によってその血を流される。/神は人を神のかたちに造られたからである。
命は神が与えられたものと言う以上のことが書かれている。神のかたちである。神学的に昔から多くの論文が書かれ議論のあるところだろう。わたしの理解では、尊厳の基盤である。「『神を愛している』と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。」(1ヨハネ4章20節)の基盤を支えていると思う。人間の尊厳は、神なしにも説かれるが、それは、動物との違いについて、なにも言えない。動物や他の生物との違いをここでは言及できないが、聖書は、明らかな形で区別して始まっている。応答すべきものとして、優位というより応答責任を課せられているのだろう。そして応答は、互いに愛し合うこと、隣人となることである。むろん、多くの議論があるところではあるが。
Genesis 10:8,9 クシュはまた、ニムロドをもうけた。ニムロドは地上で最初に勇士となった者である。 彼は主の前において勇ましい狩人であった。それゆえこういうことわざがある。「主の前における勇ましい狩人ニムロドのようだ。」
単に名前だけではない記述は、9章にもあるハムの子カナンの記述、25節のペレグについての記述があるが、圧倒的なのは、このニムロドから始まる記述である。引用箇所のあと「彼の王国の初めは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。 彼はその地からアッシリアに出て、ニネベ、レホボト・イル、カラ、そしてレセンを築いた。レセンはニネベとカラとの間にあり、それは大きな町であった。」(10,11)アッシリアには、長い歴史があるので、定かではないが、イスラエル王国を滅ぼし、ニネベを首都とする、無視できない国である。バベルもここで登場し、ウルク、アッカドと続く。歴史的にはアッカドの文明は多く記録されている。ウルクはカルデヤのウル(11章28節)とは異なるだろうが、地域的にはニムロドの地がアブラハムが旅を始めた地域でもあるように思う。エジプトも含め、世の権力の系譜をも語ることで、アブラハム以降につながる、イスラエルの出自を示しているのだろう。なにを中心として伝えようとしているのだろうか。簡単には、言えないように思う。
Genesis 11:6,7 言われた。「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」
言語が混乱し、互いに言語が理解できないようになっている理由が書かれていると考えていたが、この章は、この次の章から始まるアブラハム物語の、序章という役割も果たしている。「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1章2節)が神の創造がはじまる状況だったように、そして、ノアの時代の混乱のように、ここでも、その混乱の時代に新しいことを始められたことの背景を記していると考えたほうが良いのかもしれないと思った。いまも、コロナで、混沌とした状態である。神は、どのようなことを考えておられ、そして、わたしたちは、その混沌と混乱の中で、なにを始めるのだろうか。考えてみたい。
Genesis 12:10 ところが、その地で飢饉が起こった。その飢饉がひどかったので、アブラムはエジプトへ下って行き、そこに身を寄せようとした。
アブラハム物語の最初は、神の祝福の約束で始まる。しかし、最初の物語は、飢饉とそこでのアブラハムの問題行動ではないかと思われる記事である。神様はなにを考えておられるのだろうか。また、失敗なのだろうか。まずはとてもむずかしいことをしておられるのだと受け取っておこう。神様とともに苦しむために。
Genesis 13:5-7 アブラムと一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。そのため、その地は彼らが一緒に住むには十分ではなかった。財産が多く、一緒に住むことはできなかったのである。それで、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが生じた。当時、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
この二人も、一緒に住むことができなかったという。原因は不明であるが、「アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。」(2)とあり、引用箇所には「アブラムと一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。」とある。それは原因ではないだろうが、それによって、争いが生じたとある。しかし、不思議なことに、当時すでに、「その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。」ともある。その人達との関係はどうだったのか。自らを寄留者と自認し、丁寧に対応していたのではないだろうか。かえって親しいものどうしのほうが、問題が起きる。対等なものとして見てしまうからだろうか。公平さは、平等を基盤として考えるとすぐに、崩れ去る。近くを見すぎているから。神様の見守りによって生かされていることに対する応答として生きることを根本におき、互いに仕え合い、愛し合う存在として召されているものの目指すものとして、公平をみる必要があるのだろう。争う前に。現実は難しい。
Genesis 14:14 アブラムは親類の者が捕虜になったと聞き、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者を動員し、ダンまで追って行った。
この戦いについては、不思議なくらい、詳細が書かれている。同盟を結んでいたエシュコルとアネルやマムレのこと(13,24)、引用箇所にある追跡していった人数、正確は距離は不明としても、ダンや、ダマスコの北のホバの地名まで書かれており、移動距離にも驚かされる。なんらかの実際の戦争が背景にあるのだろう。無論、焦点は、戦いではない。アブラハムがどう行動したかだろう。ロト一家を助けたこと、財産に関しては、人のものには手を出さないことを厳格におこなっていたこと、そして、サレムの王メルキゼデクには、特別の捧げものをしたことだろう。22節以降の、アブラハムのことばはよくは理解できないが、この地である平和を保って生きていくための知恵が隠されていると考えるのがよいようにおもう。むろん、絶対的なものではなく、アブラムが考えた知恵である。興味深い。
Genesis 15:2,3 アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」 アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」
この箇所まであまりアブラムのことばは記されていない。豊かなかつ祝福された何不自由もないひとのように描かれている。しかし、ここに、アブラムの苦悩が主の言葉への応答として現れる。ひとの苦しみは傍からみていてもわからない。自分でも、なるべく見ないようにしている場合もあるだろう。実際の約束を信じるというよりも、その苦悩と向き合うことが、主を求めることなのかもしれない。子孫に対する祝福をアブラムは十分には見ることはできない。しかし、その悩みと向き合うこと。12節に深い闇を見るように、単純な解決ができるわけではなく、闇は残るのだろう。そのなかで、神に希望を持ち続けることだろうか。そのように言う神の実態はよくわからないにしても。
Genesis 16:5,6 そこでサライはアブラムに言った。「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。あなたに女奴隷を差し出したのはこの私ですのに、彼女は身ごもったのが分かると、私を見下すようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。」 アブラムはサライに言った。「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライの前から逃げて行った。
これだけを見ていると、アブラムとサライの身勝手さが際立っている。ここだけを切り取ってはいけないのだろう。しかし、読者が、もっとよい方法があったはずだと考えるのは自然だろう。しかし、聖書は、ハガルの物語を通して、神はまた別の方法でも働いておられることを示しているように思われる。とはいえ、民族対立の火種をこのように描くのはとても危険でもある。現代的に見ると配慮にかけると言わざるをえない。自らの苦悩の歴史を語るときに、他者の視点を入れることは無理なのだろうが。キリスト教界での証になにか違和感を感じることが多い理由でもあるように思う。自らのストーリーをナラティブを通して、いやしを受けることを批判するわけではないが、それはその事に関する一つのストーリーに過ぎないことも、知り、見つめるべきである。難しいことは確かだが。
Genesis 17:1,2 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」
中心は、前半にあるように思う。神のかたち(1:26,27, 5:3(?), 9:6, 姿(5:1))かどうかはわからないし、それがなにを意味するのかもわからないが、神の子となるため。神の前に(「神を背負って・神の祝福を受け継ぐものとして」だろうか)歩むこと。ここに、(善く)生きることのすべてが入っているように思う。「私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである。」(7)とあるが、子孫がどうなるかは、その子孫の生き方によるのだろう。割礼のことが書かれているが、これは、人間としての応答だったろう。割礼は、いくつかの民族でなされていたようである。
Genesis 18:2 ふと目を上げると、三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、
引用句から一節一節読んでいくと、アブラハムがこの三人をこころを込めてもてなす様子が痛いほど伝わってくる。引用句の中でも「走り出て、地にひれ伏し」とある。神の前を歩むものとしての生活、神の御心を真剣にもとめながら歩むものの生活は、この三人のひととの出会いをとおしても神様からのメッセージをうけとりたい、または、神様の前を歩むものとして出会いたいと願っていたように感じさせられる。そのひとがイエス様であるかのように(マタイ25章40,45節)。まずこのひとは、神から来たものかどうか、疑心暗鬼に探ることから始めるのではないかもしれない。旅人に仕えるところから、そして、そのことが、イサクについての預言だけでなく、ソドムとゴモラに関する会話にも発展する。あたかも、神の苦しみや悩みを自分の苦しみや悩みと同期するかのような瞬間を経験する。神の前に全きものとして歩む生き方が、ここにあるように思う。
Genesis 19:19,20 確かに僕はあなたの恵みを得ています。あなたは私の命を救うため、慈しみを豊かに示されました。しかし私は山へ逃れることはできません。災いが襲いかかって来て、私は死んでしまいます。御覧ください。あの町は近くにあるので逃げ込むことができます。しかも小さな町です。どうかそこへ逃れさせてください。小さな町ではありませんか。私はそこで生き延びることができるでしょう。」
ロトを見ていると、残念な部分が多い。もてなし方(3)娘に対すること(8)優柔不断(16)そしてこの箇所。結局は、30節にあるように山に住んでいる。その中で引用句を選んだのは、恵みを得ていることを告白しているからである。因果を考えるのではなく、恵みに目をむけることが最初ではないかと、わたしが考えているからもある。今日の箇所には「彼らの叫びが主の前に大きくなり」とある。主の前に生きていることへの認識をたいせつにしていた、または、われわれはみな主の前に生きていると記者は告白しているのだろう。一人ひとりの生き方がどのようなものであれ。それを恵みとして認識するかどうかは、ひとによるのだろう。
Genesis 20:12,13 それに実際、彼女は私の父の娘で、妹でもあるのです。ただ母の娘ではないので、彼女は私の妻となることができたのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうしてくれると助かる。行く先々で、私のことを兄と言ってくれないか』と頼んだのです。」
系図が書かれている、11章27節から32節を見ると、テラの子が、アブラム、ナホル、ハラン、ナホルの妻ミルカはハランの娘、つまり、姪だとあるが、サラについては書かれていない。父親が同じであれば、母親は異なっても、遺伝的にも問題は起こりやすい。なにか、この場をつくろうための作文だったのかもしれないと思う。いずれにしても、不自然さを感じる。アブラムにもいろいろな問題があったということだろう。そして、聖書記者はそのことを知っている。
Genesis 21:1,2 主は、言われたとおり、サラを顧みられた。そして主は、語られたとおり、サラのために行われた。彼女は身ごもり、年老いたアブラハムに子どもを産んだ。それは、神がアブラハムに語った時期であった。
最後に「それは、神がアブラハムに語った時期であった。」は、これが偶然ではないことを示すことばであろう。約束は直接的には「主にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」(18章14節)を指すと思われる。しかし、アブラムにとっては、12章での祝福以降長い歴史がある。御使い、神からの使者からのメッセージ以外にも、様々な思いがあったろう。それを思い巡らし、信仰に生きること。イシュマエルが生まれたのは、アブラムが86歳のとき。(16章16節)世継ぎが生まれるかどうかだけではない、主への信頼をともなった期間だったろう。アブラム(アブラハム)の一生についても、一度、年譜を書いて学んでみたい。アブラハムの思いはほとんど記されていないが。(11など少しある)
Genesis 22:2 神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」
モリヤは検索すると聖書に二箇所しか現れない。この箇所と「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である。」(歴代誌下3章1節)である。同じ、モリヤの山と考えるのは、問題がある。14章のサレムがエルサレムかどうかは別としても、エルサレムも長い歴史がある街、その中のモリヤ山とする可能性は難しいし、歴代誌下にだけ一回出てくることも、問題であるように思う。ただ、信仰的に、それを結びつけて考えようとした人がいたということだろう。それは、十分理解できるように思う。モリヤの山が礼拝の場所となる。地理的には同一でなくても。
Genesis 23:4 「私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。あなたがたが所有している墓地を譲っていただきたいのです。そうすればこのなきがらを移して葬ることができます。」
この「寄留者・滞在者」ということばに惹かれる。このあとのエフロンとの商談の400シェケルは、異様に高額だとも言われる。しかし、その正当さよりも、異なるところに価値観があるのだろう。寄留者だと言うだけでなく、そのように生きることである。天に国籍があるということばは象徴的であるが、高慢な響きもある。神の支配を待ち望み、この地でも御心が行われるように願う、世とは異なる価値をたいせつにしていきるものである。そして、これが絶対に神の御心というものも、未だ持っておらず、それを、探し求めながら生きる民でもある。世の正しさ、多くの場合損得に依存した正しさ・公正さに縛られない、神様がたいせつなことをたいせつにしようとする生き方だろうか。寄留者はその意味で、放浪者、探求者でもあるように思う。
Genesis 24:7,8 私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた天の神である主は、あなたの前に御使いを遣わされる。それであなたはその地から息子に妻を迎えることができる。 しかし、もしその人があなたに付いて来るのを望まなければ、あなたは私との誓いを解かれる。ただ、息子を向こうへ連れて行くことだけはしてはならない。」
アブラハムは神の計画を完全に信頼している。しかし、そうであっても、このしもべ(財産のすべてを管理している家の老僕(2))への配慮も怠らない。信頼しているゆえ、また、謙虚さの故の、ことばだろう。最後は「息子を向こうへ連れて行くことだけはしてはならない。」には、アブラハムの強い意志が現れている。しかし、このあとのヤコブ物語などを見ると、そう単純でもない。アブラハムが思っていた御心と、実際には、やはりある隔たりがあったように思う。主は、しかしながら、アブラハムの願いと祈りに答えられたのだろう。恵みである。
Genesis 25:5,6 アブラハムは財産のすべてをイサクに譲ったが、側女の子らには贈り物を与え、まだ自分が生きている間に東の方にあるケデムの地に移住させ、息子イサクから遠ざけた。
側女の子とこのように分けることは、現代では、問題視されているが、そのことは一旦おくと、アブラハムの子はひとりであったことを証言しているのだろう。そのひとり子のイサクを捧げたことに、聖書の預言的価値があるのだろう。象徴的なことはどの程度意味があるのか不明であるが。気になるのは、アブラハムは、おそらく、近親者同士が近くにいることが、問題の種となることを配慮して、移住させただろうということである。賢いとも言えるし、悲しくもある。この章の後半では、エサウとヤコブのはなしが始まる。長子の権利を売り買いできるものではないだろうが、そこでは、エサウのほうだけが、長子の権利を軽んじたとしている。ヤコブは、それが欲しかったろうが、売り買いができるものとしたことから考えると、軽んじたことは確かだと思うが。
Genesis 26:4,5 私はあなたの子孫を空の星のように増やし、これらの地をすべてあなたの子孫に与える。地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるであろう。アブラハムが私の声に聞き従い、私に対して守るべきこと、すなわち、私の戒め、掟、律法を守ったからである。」
祝福の更新である。後半の部分について考えた。直後に、イサクが、アブラムのときと同じように(12章・20章)妻を妹と偽ったことに「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民の誰かがあなたの妻と寝るところであった。あなたは私たちに過ちを犯させようとしたのだ。」(10)というアビメレクのことばを加えている。アビメレクのほうがよっぽど、過ちに敏感である。むろん、イサクとの(対人)関係を注意していた結果だろうが。そう考えると、「私(主)の戒め、掟、律法」は、一つ一つの過ちをさすのではなく、第一義的には、主の声を聞こうとするかどうかを言っているのかもしれない。主に従って生きようとする基本姿勢だろうか。むろん、主がたいせつにされる他者をたいせつにすることも、含まれるはずであるが。「戒め、掟、律法」とまだこの時代には確立していないと思われるものを、含めているので、後世へのメッセージなのだととることもひとつの解釈である。
Genesis 27:41 こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」
ヤコブは、母リベカの兄ラバンのもとに身を寄せる。33章でエサウとヤコブが再会するまで、20年(31章38・41節)の年月が必要である。このあとのヤコブについては、記述があるが、エサウについてのそれはない。ひとには結局いつになっても見えない部分がある。このイサクによるヤコブの祝福の記事も、見えない部分もあるのだろう。ある程度認知症があると思われるイサクも、自分には制御できない部分があることを承知で、委ねたのかもしれない。エサウにも、そのことをある程度悟るための期間が必要だったのかもしれない。祝福を奪ったヤコブの記事も、ひとつの時点の描写であり、このあとヤコブが背負って、自分とも、他者とも向き合って生きていく、こころに焼き付いているシーンだったのだろう。
Genesis 28:20-22 ヤコブは誓いを立てて言った。「神が私と共におられ、私の行く道を守り、食べる物、着る物を与えてくださり、私が無事、父の家に帰ることができ、そして主が私の神となられるなら、その時、柱として私が据えたこの石は神の家となるでしょう。そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
いくつもの条件を並べ立てているようにも見えるが、それは、現代的な視点から、A/B の選択を考えているからで、ひとつの決意と見るほうがよいのだろう。このことを心にとめて、歩みを続けていくと、こころに誓ったと理解したい。「十分の一」が現れるのは、創世記では、14章20節でアブラハムが、サレムの王メルキゼデクに贈り物を贈った箇所とここの二箇所である。ひとつの起源として書いているとも、後の時代の慣習を使って表現しているとも取れる。自分以外のものに支えられていることへの感謝の表明だろうか、敬虔の表現ともいえるかもしれない。
Genesis 29:9,10 ヤコブがまだ彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊の世話をしていた。ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊を見ると、すぐに井戸に近寄ってその口から石を転がし、おじラバンの羊に水を飲ませた。
8節にある井戸のルールとは異なる行動のように思われる。「ヤコブはラケルに口づけし、声を上げて泣いた。 」(11)とあるように、かなり興奮していたのだろう。ルール違反はおそらく土地(ハラン)のひとが許さなかっただろうから、ルールを犯してはいないのだろう。ラケルが連れてやってきたのが、おそらく「最後の群れ」で、ヤコブは、他の人達と協力して、石を転がしたのだろう。しかし、周囲が見えていない様子が秀逸に描かれている。レアに対する「優しい目(rak: tender, soft, delicate, weak)」(17)はおそらく良い意味ではないだろうが、ヤコブの視野が狭かったとも言える。こどもたち(イスラエル12部族)の名前の由来も含めて、うまくまとめられている。文学的表現としても、優れているように見える。
Genesis 30:41 たくましい羊が発情する度に、ヤコブは群れの目の前の水槽に枝を置いた。これらの枝で発情させるためであった。
これらの科学的根拠は不明である。しかし、「縞やぶちやまだら」といった特性は、雄と雌の遺伝子の複雑な組み合わせによって定まる遺伝子の発現によって決まるであろうから、何らかの意味はもっているのだろう。特に、わたしは、羊や山羊のことに関しては全く無知であるが、イスラエルの中には、詳しい人がたくさんいたと思われる。明確ではなくても、そうかもしれないと思わせる表現なのかもしれない。ヤコブが学び得たある智をずる賢さとして活用したことは表現されているのだろう。裁くつもりはないが、「私が神に代われるというのか。あなたの胎に子を宿らせないのは神なのだ。」(2)とは言っているものの、ヤコブの神との交わりはまだとても限定的なものであったように、思われる。若いことの文学的表現なのかもしれない。
Genesis 31:52 この石塚は証しであり、この柱もまた証しなのだ。害を加えようとして、私がこの石塚を越えてお前の方に行くことがなく、お前がこの石塚と柱を越えて、私の方に来ることがないためである。
ラバンとヤコブ、お互いのことを十分理解できているわけではないだろう。しかしここで、契約を結ぶ。棲み分け、分離である。そしてこれはおそらく、有期の契約だろう。人の世界の契約は、紛争を避けるひとつの有効な手段であるが、本質的解決ではない。しかし、そのようなもので紛争を回避している。ここから学ぶことは多いように思う。この章は「ヤコブは山でいけにえを献げ、一族の者を食事に呼んだ。そこで一同は食事をして、山で夜を過ごした。」(54)と終わっている。ヤコブは礼拝をし、おそらく、ラバンはテラフィムも盗まれ、それがなければ、礼拝にこころが向かわなかったかもしれない。しかし幸いなことに、共に食事をし、平和な夜を迎えている。主の悩みはおわらないだろうが、この晩は、主も喜ばれたかもしれない。
Genesis 32:26 ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。
このあとには「ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日はすでに彼の上に昇っていたが、彼は腿を痛めて足を引きずっていた。」(26)ともある。この箇所もいろいろな解釈があるが、ヤコブの贈り物作戦とはべつに、苦悩の中での「男」との格闘の中で、肉体的にも、びっこになったそのへりくだった姿を、神様は用意されたのかもしれない。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」(29)と告げているが、この苦悩を正直にぶつけたこと、その苦闘は、簡単に解決できるものではないことを表しているのかもしれない。神様はそのヤコブを受けいれ、さらに、その苦悩を、足を引きずるすがたに変えている。ヤコブにとっても、これを見るものにとっても、これは、ある変化を表現している。策略を労するヤコブではない。神様は、おそらく、それとは別に、エサウもたいせつに、導かれているだろうが。創世記記者の表現力にも、驚かされる。
Genesis 33:19,20 彼は天幕を張った土地の一部を、シェケムの父、ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取り、そこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。
「エル・エロヘ・イスラエル」は、「イスラエルの神エル」の意味と注にある。イスラエルは、33章29節で「男は言った。『あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。』」として与えられた名前である。個人的な神との交わりに対する信仰告白であるとも言える。しかし「イスラエルと呼ばれる」とあるように、呼称であり、他のひとのヤコブの認識も関わっていることは興味深い。キリスト者についても呼称であったことを思いだす。(使徒11章26節)33章のヤコブの、エサウとの出会いは、裏に秘められた、注意深さも感じるが、やはり、感動的である。放蕩息子の帰還を思わせる。多くのことが、ヤコブに去来していたことは確かだろうし、それをこのように描いている著者にも驚かされる。
Genesis 34:30,31 ヤコブはシメオンとレビに言った。「厄介なことをしてくれたものだ。お前たちは私を、この地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者にしてしまった。こちらはごく僅かなのだから、向こうが集まって攻撃して来たら、私も家族も滅ぼされてしまうだろう。」だが二人は、「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいというのですか」と言い返した。
割礼を相手を攻撃する道具に使ったこと、有効的な解決を計れなかったこと、ヤコブが何もしなかったことなど、考えることは多い。ヤコブがシェケムの町の前に宿営したときから考えておくべきだったのかもしれない。しかし、全くの分離主義者として生きるのか、他の方法を取るのか、イスラエルの人たちにとっても、大きな課題だったろう。ユダヤ人の歴史においても、キリスト者の歩みにおいても。ゆっくり考えていこう。
Genesis 35:29 イサクは老いた後、生涯を全うして息絶え、死んで先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが父を葬った。
実は今回は引用箇所ではなく「時に、リベカの乳母であったデボラが亡くなり、彼女はベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。ヤコブはそこをアロン・バクトと名付けた。」(8)に惹かれた。24章59節に「彼らは、妹のリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを送り出すことにし、」とある乳母のことだろう。この二箇所しか登場しない。「アロン・バクト」は「嘆きの樫の木」の意味だとある。なにか、深いものを感じる。イサクは、28章の最初にヤコブを祝福するところ以降現れない。しかし、ここまで生きていたことを聖書記者は書いている。特別の伝承があったのか、聖書記者の心の通い方の凄さか。デボラは、家を支える重要なリベカの乳母として、覚えられていたのだろう。リベカの死については、書かれていない。物語の表面以外を支える人々。その死のあとに、この時代が終わるように、イサクが生涯を全うして息絶えていったのだろう。デボラの死を嘆きで表現し、イサクの死を二人の息子の和解の行為で描いていることについて、考えさせられる。
Genesis 36:6-8 エサウは、妻、息子と娘、家のすべての者、家畜とすべての動物、カナンの地で蓄えたすべての財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へと赴いた。一緒に住むには彼らの財産があまりにも多く、彼らが身を寄せていた地は、その家畜のゆえに、自分たちの生活を支えることができなかったのである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
すでに32章4節で「ヤコブは自分より先に、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに使いの者を送り、」とあり、同16節にも「そこでエサウは、その日セイルへの帰途に着いた。」とある。すなわち、この時点でエサウの本拠地はセイルであり、引用したような理由ではない。しかし、創世記記者はそのようにまとめているのだろう。エサウのほうがヤコブから離れていったと。イスラエルと呼ばれるヤコブが中心にいる。カナン中心の物語である。このあとも周辺のエドムの歴史から始める。イスラエルの歴史が中心だからだろう。しかし、エサウがヤコブを受け入れたように、イスラエルの歴史観とは、ちがった視点にも、神様はおられ、愛しておられるように思う。他者の尊厳を意識することは、難しいが。
Genesis 37:20 さあ、彼を殺して、穴の一つに投げ込もう。悪い獣が食い殺したと言えばよい。あの男の夢がどうなるか、見てみよう。」
ヨセフは一般的には「嫌な奴」である。そのような人と対するときに神を畏れるかどうかが試されるのだろう。神が愛しておられる存在として見ることができるかどうかだから。「ヨセフはこれを父と兄弟に話したので、父はヨセフをとがめて言った。『お前が見たその夢は一体何なのだ。私やお母さん、兄弟たちがお前にひれ伏すとでもいうのか。』兄弟はヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた。」(10,11)とある。「心に留める」ことは、神を畏れることのひとつの表れとも言える。人を憎み、神を試すことがこの兄弟たちのしていたことである。ルベンは長男として父に対する責任を負っていることとともに、35章22節のことも、(父に対する)負い目として自覚していたかもしれない。26,27節にある四男ユダの発言には、多少、他の兄弟の悪を和らげようという意図も感じられるが、とどめることはできない。シェケムで男たちを皆殺しにした、シメオンとレビは首謀者だったのだろうか(42章24節参照)。あれは、正しかったと考えていたか、そう単純ではない心が芽生えていたか。わたしなら、この場にいて、どうするだろうか。互いに愛し合うこと(ヨハネ13章34節)は、イエスの愛というモデルを失い、人間どうしの平和を維持することにおいて、神が愛されるひとりひとりの尊厳を考えることなしに求めると、大きな間違いを引き起こすことも心に留めたい。
Genesis 38:26 ユダはそれらを確かめて言った。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ。」ユダは再びタマルを知ることはなかった。
Levirate(ラビラト)婚を支える記事である。levir はラテン語で兄弟を意味するようだ。「その頃、ユダは兄弟のもとから下って行って、ヒラという名のアドラム人の近くに住んだ。」(1)とあり、ここから始まっている。「友人のアドラム人ヒラ」(12)とあり「友人のアドラム人」(20)がもう一度登場する。友好関係を結んでいたのだろう。群れを飼って生活するものは、拠点をもちつつ移動を繰り返す。ケニアのマサイ族を訪ねたときに、少し考える機会があったが、その長の責任は重大である。その土地の他の部族との友好関係を保つことと、子孫を残すこともその責任のひとつなのだろう。男性と女性で家畜に対する責任もことなり、遊牧地をめぐり、男性は争いにも頻繁に関与することになる。独立した部族の部族長がその部族を養い、存続するために、定められた慣習だったのかもしれない。オナニー(オナンがしたようなこと)や、単に倫理的な問題として議論するのは、的を得ていないだろう。おそらく、ユダ部族の歴史にも、一つの危機があり、それがどのように克服されていったかという記述でもあるのだろう。いずれにしても引用した「彼女のほうが私よりも正しい。」は、印象的なことばである。
Genesis 39:14 家の者を呼び寄せて言った。「見てごらん。主人がヘブライ人の男を連れて来たから、私たちが弄ばれるのです。あの男が私と寝ようと私のところに来たので、私は大声で叫びました。
ヨセフをすべてにおいて恵まれた主は、この事件の背後にもおられたのだろうか。興味をもったのは、引用箇所で「主人が」とし「『私たちが』弄ばれるのです」と語っている。主人の責任にしようとしていること以外に「私たち」とすることで、使用人など、ヨセフが高い地位につくことに不満を持っていたひとを味方につける効果があったろう。ヨセフが主人の信頼を失う背後に複雑な背景があったことも想像させる。創世記記者があまり細かい解説はせず、しかしこのような言葉をはさむことで、想像力を掻き立てることをしているようにも見える。文学的表現か。表面的な立身出世で評価できない世界があることも、示唆しているように思う。Against Reductionism. 還元主義に注意。限られた指標のみによる評価の危なさ、論理に頼りすぎる議論の不十分さでもある。
Genesis 40:15 私は実はヘブライ人の地からさらわれて来たのです。またここでも、私が地下牢に投げ込まれるようなことは何もしていないのです。」
兄弟のことは述べていない。それを述べると、複雑な関係が想起されるからだろう。ヨセフが、これら一連のこと、そして結局献酌官がこのことを忘れてしまったこともどのように受け止めていたかは不明である。背後におられる神様の計画について知ることはできない。そのなかで、どのようにひとは生きていくのか。大きな試練ではあるが、ヨセフの物語は、理不尽とも言える状況にあるひとに、希望を与えることも事実であるように思う。現実世界の日常的な、浮き沈み、一喜一憂の苦しみをも相対化する神様への信頼だろうか。信仰であると同時に、智恵でもある。
Genesis 41:34 そしてファラオが指示して、国中に監督を任命し、豊作の七年の間、エジプトの地で産物の五分の一を徴収なさいますように。
具体的な提言がヨセフの賢さを物語っている。夢の解き明かしには含まれていない部分である。夢の解き明かしも含めて、このような智恵も、神からのものとヨセフは考えていたのかもしれない。ヨセフはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻としている。ファラオが与えたとはいえ、原理主義的な行動はしていない。モーセもミデアンの祭司の娘と結婚している(出エジプト2章16節)。モーセの場合は異邦人の妻のことを後に批判されているが。(民数記12章1節)自然体である。無論、様々な困難は書かれていないだけかもしれないが。結婚はいずれにしても、異なる文化の結びつきであり、(価値観の)衝突がないほうがおかしいのだから。
Genesis 42:24 ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。やがて戻って来て、話をしたうえでシメオンを捕らえ、彼らの目の前で縛った。
このときの涙はなにを表しているのだろうか。ここでは、因果が語られている。罪の故とひとは考える。しかし、神の計画は、そんなことには、とどまらない。そう考えると、ヨセフの涙は、人間的には、自らが陥れられたことを思い出してのことだったろうか、しかし、神の涙は、このような人間の思いと行為、それによって引き起こされたことに対する悲しみだろうか。この涙からは、両方の要素が感じられるように思う。人間の涙のなかに、神の涙が垣間見えることもある。
Genesis 43:14 どうか、全能の神がその人の前でお前たちを憐れみ、もう一人の兄弟とベニヤミンとを返してくださるように。子どもを失わなければならないのなら、失うまでだ。」
前には「お前たちは、私から子どもを奪ってしまった。ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった。そして今度はベニヤミンを私から取り上げようとする。すべて私にばかり降りかかる。」(42章36節)と言っていたヤコブの言葉である。神に委ねる決意ができるには、様々なものを失い、生きるか死ぬかの瀬戸際にならないと(8)いけないのだろうか。必要条件ではなく、そうなってはじめて受け入れられることがあるということだろうか。ユダも「こんなにためらっていなければ、今頃はもう二度も行って来られたはずです。」(10)と、計算高い(または功利的な)発言をしているが、論理的な議論の範疇にはないのだろう。単純に信仰と言えるだろうか。贈り物を整えるなど、様々な配慮をしていることも伺える。「自立的な判断か」「委ねる信仰か」という二者択一で考えることも問題なのだろう。存在のすべてをかける部分に、神様のみ心を受け入れることをしっかりと持つということだろうか。表現をまた見直したい。
Genesis 44:32-34 僕は父にこの子の安全を請け合って言いました。『もし、この子をあなたのもとに連れ戻さないようなことがあれば、私は生涯、父に対してその罪を負います。』それでどうか僕をこの子の代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。 この子が一緒でないかぎり、どうして私は父のもとへ上って行けるでしょう。父に降りかかる災いを見るに忍びません。」
感動的な瞬間である。何度読んでも涙で目が潤む。「安全を請け合う」「その罪を負う」そして「父に降りかかる災いを見るに忍びません。」短絡的に、イエス・キリストの贖罪に結びつけるのは飛躍があるが、本質には相似性があると思う。日常的にも、愛するというときに、内包されるものの重さをずっしりと感じる。ユダがヤコブに述べたとき(8,9)そこまでの覚悟でいたかどうかは不明だが、この勇気には、ヨセフならずとも感動する。神様もこころが動かされているのかもしれない。ヨセフ物語のクライマックスである。これだけのものを書く、創世記記者にも驚かされる。
Genesis 45:24 こうしてヨセフは兄弟を送り出し、彼らは出発した。ただその時ヨセフは言った。「途中で争ったりしないでください。」
ヨセフは関係が正常になり平安のうちに共に生きるようになることは簡単ではないことをよく理解している。ヨセフにとっても「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。」(4b,5)と(信仰の)告白ができるまでには、長い長い道のりであったことは、よくわかっているからだろう。「ヨセフは兄弟皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟はヨセフと語り合った。」(15)の内容は不明だが、ヨセフがどのようにして現在に至ったかも、ある程度話されたろう。そうであっても、兄弟は、そして他者とはなかなか平安のうちに共に生きることはできない。(50章15節)それが罪に縛られた人生とも言えるが、一般的に、内面化し、(さらに、自分の中では理解し得ない部分として)神との関係の中でヨセフのような信仰告白に至るのは、単純なことではない。それは、こころしなければいけないだろう。共に平和のうちにいきるためには、これが非常に困難なことであることを覚え、正しさで判断しないことがたいせつであるように思う。無論、ヨセフが(引用句で)とったような他者への配慮と率直な語りかけをしながら。
Genesis 46:34 次のように答えてください。『あなたの僕どもは、幼い頃から今に至るまで、家畜を飼う者です。私たちも先祖もそうです。』そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人が忌み嫌うものだからです。」
ヨセフの頭の切れ味は、変わっていないようだ。「イスラエルは、ユダを前もってヨセフのところに遣わした。ゴシェンへと先導させるためであった。やがて一行はゴシェンの地に着いた。」(28)とあるように、おそらく、ルベン、シメオン、レビを差し置いて、四男のユダが、信頼される存在になっていることを示しているのだろう。ヤコブも、「父イサクの神にいけにえを献げた。」(1)とあるように、自分の持ち物(1)とともに、自分のものではない神に感謝をささげている。自分のいのちを生きているとは異なる感覚をもっていきていたのだろう。現代人が失ってしまっている「敬虔」神を畏れることだろうか。一通りに理解するのではなく、様々なことに目を向けたい。それだけの価値のある「ヨセフ物語」である。
Genesis 47:11 ヨセフはファラオが命じたように、エジプトに所有地を与え、父と兄弟を住まわせた。それはラメセスの地にある最良の地であった。
ヤコブとその子らは、エジプトで地を得ている。しかし、これが約束の成就だとは見ていない。「『私が先祖たちと共に眠りに就くときには、私をエジプトから運び出し、先祖たちの墓に葬ってほしいのだ。』ヨセフは答えた。『お言葉どおりにいたします。』」(30)イシュマエルが生まれたときと同じように、不完全な形では神の約束の成就としては受け入れていない。それは、ある程度先まで知っているものの書き方かもしれない。そして、さらに先までは理解できていない人間の限界でもある。わたしが求めるのは、達し得たところに従って、こだわりをもたず、誠実に、そして謙虚に歩むことだろうか。
Genesis 48:7 かつて私がパダンから帰って来るときのこと、途中のカナンの地でラケルに死なれてしまった。エフラタに着くまでにはまだ道のりがあったので、私はラケルを、エフラト、すなわちベツレヘムに向かう道のそばに葬った。」
創世記35章16-20節にラケルの死について書かれている。しかし、ここでなぜ急にそのことが語られ、また突然終わっているのか不明で不自然な感じを受ける。ラケルがベニヤミンを産んだ直後に死んでいることから、さらにラケルの子が生まれるはずだったことを思い、それを、ヨセフの子によって実現しているのだろうか。いずれにしても、ここでラケルのことが語られるのは、興味深い。
Genesis 49:28 これらすべてがイスラエルの十二部族である。これが、彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らをそれぞれにふさわしい祝福をもって祝福した。
創世記の成り立ちに興味を持つ。まず、今回の通読で考えたのは、祝福の順番である。祝福は通常、生まれた順、または祝福したい順でなされるのが慣習と思われるが、ここでは、生まれた順とはことなる。29章31節から30章24節と36章16節から18節によると、(レアの子)1. ルベン、2. シメオン、3. レビ、4, ユダ、(ラケルの召使いビルハの子)7. ダン、10. ナフタリ、(レアの召使いジルパの子)8. ガド、9. アシェル、(レアの子)6. イッサカル、5. ゼブルン、(ラケルの子)11. ヨセフ、12. ベニヤミン(数字は祝福の順番)。さらに、ここで十二部族ということばが使われているだけでなく、預言のことば、「王笏はユダから離れず/統治者の杖は足の間から離れない。/シロが来るときまで、もろもろの民は彼に従う。」(10)は、王国時代以降の成立を予想させる。またこの節にある「シロ」については不明。創世記ではここのみ。あとは、地名としては現れるが詳細は不明である。文学的には、このような祝福のことばが現実の特徴としてあるときに、それを背景として、物語を作成したとも考えられる。強く否定するひともいるだろうが、否定する心理にも興味がある。個人的には、共に生きるものとして、創世記記者の表現力と神理解の深さに驚嘆する。
Genesis 50:17 『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」この言葉を聞いてヨセフは泣いた。
この涙はどのような涙だったのだろう。ヨセフはゆるす、ゆるさないの地点には、もういない。兄弟たちの浅知恵を見抜いたとしても、関係なかったのだろう。神様によって導かれた人生が優先しているという表現が適切かどうかはわからないが、人生のたいせつな部分として、他者への態度も変化させている。兄弟たちはどうだったのだろうか。ルベンやユダ、そして、シメオンやレビのことばも聞きたい。それは、創世記記者の中になかったのだろうが。ヤコブの葬儀にも驚かされる、同行したメンバー(7)の豪華さと、場所として、ゴレン・アダド(アベル・ミツライム)が、マムレ以外に書かれていることである。カナン人の地ではできなかったのかもしれない。

BRC2019

Gen 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
最初の神の業が書かれている。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」状態からの変更である。秩序とも言えるし、神が望まれるものを示したとも言えるだろう。闇に留まらず、この光の中を歩むように招かれている。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(ヨハネの手紙一1章5節)「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(ヨハネ8章12節)創世記記者もこの光のことを書きたかったのだろう。神の本質を表すゆえに。
Gen 2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
耕す(abad: work, serve)・守る(shamar: to keep, guard, observe, give heed)。土(アダマ)の塵から作られたひと(アダム)が、仕え・守るとは、何を伝えようとしているのだろうか。1章とは、異なるメッセージを伝えようとしているのだろう。土から形づくられたひとが、土に仕え、守る。それも、自然に思える。この二つの物語が、並行して述べられているのは興味深い。
Gen 3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
敵意を置かれたのは神ということになる。すると、これも、創造の業の一部なのだろうか。おそらく、人間の世界がどのようにできたかを、記述したかったのだろう。惑わすものとの敵意の関係を。「お前は、苦しんで子を産む。」(16節)「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」(17節)男にも、女にも、この苦しみが与えられている。この苦しみは、敵意とは無関係なのかもしれないが、神に守られている状態とはおそらく異なることが記されているのだろう。
Gen 4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」(ヨハネ一3章12節)カインは闇を好んだのだろうか。光にこようとはしなかったのかもしれない。しかし、簡単には、分からない。
Gen 5:1,2 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
1章27節・28節の「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(「祝福」については、1章22節、2章3節参照)と呼応している。ここでは「似せて」とあり、両方に祝福されたことが書かれている。祝福と、増えることが同義なのか、それとも、もっと全体的な祝福なのか。いずれにしても、カインの系図(4章)とは、区別しながら、アダムの系図としていることは興味深い。3節には「自分に似た」とあるが、これもあるメッセージを送っているのだろう。なにが似ているのか、不明確であるが。
Gen 6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
"Noah was a just man, perfect in his generations.” [NKJV] とあり、あくまでも一人を意味するのだろう。他にいないとも書かれておらず、その世代の中でと、相対的とも思われる、表現が用いられている。無垢(tamiym: complete, whole, entire, sound)は、何が表現されているのだろうか。
Gen 7:2,3 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。
清くない動物にも、残す価値があることが表現されているのか。実際「清くない」は何を意味しているのだろうか。最後の「全地の面に子孫が生き続けるように。」がどこまでを受けているか明確ではないが、全体と取るのが自然だろう。聖書記者も、清いものだけにすることは考えていなかったのだろう。食べて良い清い動物で、地が保たれているわけではない。
Gen 8:22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」
おそらくこれが、このあとの聖書の記述(どの部分を意味するかは不明であるが)の基盤なのだろう。ある定常状態の中で、神様の御心が漸次的に示されていく。同時に、その日、そのときという、特別な日のメッセージも語られるということだろう。完全な救済を考えると、終末が鍵だろうが、基本的には、定常状態のなかで、神の御心にそって生きようとすることに、焦点があるように思われる。終末を無視することはないが、そこに、希望を置くことは、ここでは、語られていないようである。
Gen 9:10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
不思議なことが書かれている。滅ぼさないと契約をたてたということだろう。実際には、たくさんの生き物が滅んではいるが。定常状態と言うこと自体に、過去と今とで認識が異なるのだろう。世界の認識も、かなり変わってきたのだろう。
Gen 10:32 ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。
これが結論であろう。科学的かどうかは別として一つの種族から、別れでたことが言われている。他には、何が表現されているのか。この次にある、バベルにつながる一つのステップなのだろうか。当時の、共通の認識だったのかもしれない。
Gen 11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
興味深い。一つの民であることを願っている。それは、ある意味で、神が願っていることなのかもしれない。しかしそれは、互いに愛し合うことによって。しかし、ここでは「天まで届く塔のある町を建て、有名に」なることによって、それを達成しようとしている。そして、主の応答も、人間が神となることと解釈して、それを阻止する物語が書かれている。そしてその結果として「主がそこから彼らを全地に散らされた」としている。その方法は、コミュニケーションの混乱である。どのように、解釈するにしても、やはり、神の平和、互いに愛し合うには、単なることばでは、解決しないのかもしれない。
Gen 12:10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。
「祝福の源」として選び出された、アブラムにも飢饉は同じように臨む。そして、このあとの、アブラムの「知恵」から発生する混乱も。逆に考えると、アブラムを通しての特別のストーリーとして書かれていても、実は、ひとり一人に臨むことなのかもしれない。その中から、真理を得ていくかどうか。そこに、ひとり一人のストーリーがあるのかもしれない。
Gen 13:8,9 アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
兄弟姉妹・そして同胞の間の平和をまずもとめる。ここで、アブラムは公平さではなく、一方的に譲っている。ロトの性格・価値観を見抜いて、このようにする以外、平和は得られないとみたのかもしれないが、アブラムの家の者を納得させることも簡単ではなかったろう。日常的な信頼だろうか。しかし、ここで、二つのグループが向かっていった方向は決定的に異なる。おそらく、アブラムもその選択がもたらすものまでは、見通していなかったろう。もし、見ていたら、ロトに対して残酷だから。その中で、人は判断し、神に従っていく。その姿勢が、未来も変えていくのかもしれない。
Gen 14:3 彼らは十二年間ケドルラオメルに支配されていたが、十三年目に背いたのである。
このような記述は、背景があったように思われる。おそらく、歴史記述の研究者は、いくつかの判断材料を持っているだろう。そこに、アブラム、ソドムの王、メルキゼデクをおいている。中心的なメッセージは何なのだろうか。「わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」(24)を伝えたかったのかもしれない。
Gen 15:2,3 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
神の御心は理解できず、神の方法は不思議。ここでは「言葉をついだ(口語は『また言った』)」とある。理解できないことを、受け入れ、神に信頼し、神のなされることに希望をもって生きる。それが、信仰なのかもしれない。神の御心を求め続けること、それが信仰なのだろう。約束を自分なりに理解し、それを盾にとって、その成就をもとめることとは、大幅に異なる。神ご自身が、わたしの盾である。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」(1節a)
Gen 16:11,12 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
これを読んで、ムハンマッドがアラブ人は「イシュマエルの子孫」として、その祝福にあずかっていると認めたのは、大変な勇気と、謙虚さである。「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」(13節a)と告白する。クリスチャンがムスリムと出会ったときに、そのような人たちを、受け入れることはできなかったのか。バルト(K. Barth)は、晩年、温和になったと言われたことに触れ「事実私はずっと平和を好むようになり、人は結局その反対者と同じ舟に乗っているのだということをもっと容易に認めるようになり、また時には不当な攻撃をうけても自己防御のために敢えて乗り出そうとせず、他人を攻撃するにもそれほど熱心ではないということもあるようになった。『然り』ということが『否』ということよりも(それもまた重要なことであるにせよ)もっと重要であるように思われてきた。(『バルト自伝』より)」にあるように「同じ舟に乗っているのだということを」認めることはできなかったのか。わたしはあまりに、安易に考えすぎているのだろうか。
Gen 17:1,2 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
このあとに契約内容が続き、割礼規定が提示され、サライにイサクが生まれることを告げるという構成になっている。最初の「全き者になりなさい」が、強いメッセージである。「全能の神」とあるが、おそらく「全き者」にすることはしない(またはできない)のだろう。そこに、自由意志にゆだねられていることがあるからだろうか。契約という呼び方をしていること、そして「包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(14節)非常に難しい。創世記を記した人たちが共有していた世界にいないと理解できない部分が多いようにも思われる。
Gen 18:2,3 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
17章の人為的な背景を感じてしまう、契約とは異なり、この章は生き生きとして、非常に興味深い。アブラハムが、しもべとして歓迎する様子、そして、神の僕との、ソドムに関する対話、何度も学んで来た箇所だが、まだまだ学ぶことがあるように思われる。このことを記したひとたちの、神を求めるこころの豊かさを感じる。
Gen 19:16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
主、二人の客、そしてロトたち。特に、この二人の客については、よく分からないが、神が直接働いて避難させるわけではない。この19章を読んで「しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。」(ペトロ二2章7節)とは、必ずしも印象が一致しない。伝えている物語として、アブラハムとロトを対比していることは事実だろう。契約がロトの家族を直接的に含んでいるわけではないかもしれないが、民に、すでに、様々な神との関係が見えることは、興味深い。
Gen 20:11 アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。
「正しい者」(4節)とあるように、アビメレクは、適切に行動している。夢の中で現れた神にも、できる限りのことを応答として行っている。これは「神を畏れることが」あるといえるだろう。周辺部からはじめる、文学的叙述とも言えるが、契約のあと、ハガルとイシュマエルの物語、ロト物語と、モアブと、アンモン(ベン・アミ)の起源、そして、アビメレクとの関係が書かれている。それらを無視しているわけではない。かえって、友好関係の中で進んでいっているとも言える。このなかに、イサクの誕生が記されていることは興味深い。いつの時代に、書かれたかは不明であるが、この背後にいる記者の信仰には、驚嘆を覚える。
Gen 21:11,12 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。
この難しい紛争の決断が神にゆだねられている。このように、神の採択が得られれば本当に楽である。あとはそれに従うのみ。困難なのは、神の御心、または、そこでのよい解決方法が見えないとき。現代でも、祈りを通して、神の答えを得たとして、それに従う人もいる。しかし、その確信は、自分の中に根拠を求めざるを得ないことが殆どであろう。そう考えると、その困難をひとは、常に、抱えることになる。そのような人間に寄り添って下さる神の存在こそが恵みである。
Gen 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
ひとは、わからないことに立ち向かわなければならない。そして、わからないまま判断をせざるをえないときがおそらく殆どだろう。それを、自分の判断は正しいと、または、それが神の御心と自分を納得させることもひとつの方法だろうが、自分の Capacity(能力)の限界を受け入れて、誤っている、最適ではないとしても、謙虚に歩み続けようとする、その表現が「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」との信仰告白なのかもしれない。希望を持ち続け、感謝を持って歩んでいくことだろうか。
Gen 23:20 その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。
この土地を与えるという神の約束のほんの一部が現実のものとなったと言う意味でとてもたいせつな記録として書かれているのだろう。しかし、やはり、すべての民を滅ぼして、約束の地を取ることについては、もう少し、考えなければいけないと思う。パレスチナの、そして世界の紛争、ひとの心の中にある争いの根源的な原因がそこに潜んでいるように思われるからである。単純な正当化は、ひとり一人の心の傷と痛みを考えると、わたしがイエス・キリストを通して知っている神の御心として受け入れることはできない。これも、聖書をどのようなものとするかの問題とも絡んでくるが。
Gen 24:50,51 ラバンとベトエルは答えた。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」
ラバンが後のヤコブ物語に出てくるラバンと同じとは思えない誠実さである。このあと、リベカの意思も尋ねる(57節)。ラバンがベトエルより前に書かれているのは、すでに家長的な存在だったからか、それとも、ヤコブ物語の展開のためか不明である。しかし、ベトエル(アブラムの兄弟ナホルのおそらく八男である。11:26、22:20, 22)の存在の故か。他にもナホルの子孫はたくさんいたと思われるが、そのことは、記されていない。
Gen 25:11 アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。イサクは、ベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。
この呼び名「ベエル・ラハイ・ロイ」(24章62節参照)が残っていることは「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」(16章13節)のエピソードも残されていたことを意味するのだろう。そこに、イサクは住み、イシュマエルは17節で息を引き取ることが書かれており「イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」(18)つまり、ここには、住んでいない。このハガルの信仰体験も引き継がなかったのだろうか。他者の信仰から学ぶこともふくめ、謙虚に生きたい。それも、共に生きることの一部「兄弟の足もとにいのちを置くこと」(ヨハネによる福音書15章13節、ヨハネの手紙一3章16節参照)と言えるかもしれない。
Gen 26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。
井戸は生活そのものを支える貴重なものであるとともに、それが与えられた恵みを神様に感謝するものだったのだろう。このイサクの行為が信仰継承と直接的にいえるかどうかは別として、アブラハムの人生を肯定していたことは確かだろう。「父が付けたとおりの名前を付けた。」のだから。
Gen 27:36 エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」
ここに「引っ張り(アーカブ(aqab: to supplant, circumvent, take by the heel, follow at the heel, assail insidiously, overreach)」が使われているが、「その赤いもの(アドム)」(創世記25章30節)をエドムの由来としているように「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。 」からヤコブが取られているとしている。言語の詳細はもう少し調べないと分からないが、このようなことば遊びによって歴史を教える効果は、口伝時代には、とても重要だったろう。それだけ、この物語は古い可能性が強い。しかし、自分の民族を長子権が強い土地で、本来は長子ではない、それも欺いて得たものだとすることは、自己認識において、鍵となることだろう。それが、深さも生み出しているのかもしれない。ヤコブは、自立的にはなにもできず、このことが起こっていることも見逃せない。このあとの神との関係、自立と自律をみていくためにも。
Gen 28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ノア契約(9章)にもすでに部分的に現れているが、ここではっきりと「約束したことを果たすまで決して見捨てない(azab: to leave, loose, forsake)」ことを明確にしている。旧約で記述されている神の鍵となる性質である。このことが、イエス・キリスト誕生までつながっているように思われる。イエスの誕生から新しい世界に入る。不安と恐れの中にいる、ヤコブの神との出会いは、ヤコブ物語のはじまりである。記されたことをていねいに見ていきたい。
Gen 29:9 ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。
娘が父の羊を飼っているすがたがなかなか想像できなかったが、2018年に二度訪問した、ケニアのマサイ族では、羊や山羊などの小家畜の世話は、成人したばかりの若い女性がしていた。成人男性の仕事は遊牧または、牛など大きな家畜の世話である。大家族で、みながそれぞれ役割をもっている。家長の役割も大きい。マサイでは、国の土地所有制度が整備され、State Land、Community Land、Private Land 決められ、干ばつの影響もあり、遊牧はとても難しくなって、社会が変化しているが、この時代には、村と、家畜を飼う大家族の関係はどのようなものだったのだろうか。おそらく、ある多様性もあると思われるが、背景も知りたいと思う。
Gen 30:24 彼女は、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。
ヨセフ(Yowceph:Joseph = "Jehovah has added”)は、加える(yacaph:to add, increase, do again)となっている。ベニヤミンをさすのか、マナセとエフライムが他の兄弟たちと同じように数えられることをさすのかは、不明である。いずれにしても、十二部族(部族連合とも言われるが)の名前の由来紹介が目的なのだろうか、レアの子たちが6人、ビルハの子たち2人、ジルパの子たち2人、そして、ラケルの子、この時点で一人。そして、もう一人がラケルの子として加えられる予告である。もう一人が、いろいろな意味を含んでいることを、ここに記録しているのだろうか。
Gen 31:43,44 ラバンは、ヤコブに答えた。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。さあ、これから、お前とわたしは契約を結ぼうではないか。そして、お前とわたしの間に何か証拠となるものを立てよう。」
あまりにも「わたしの」が多く驚かされる。これが、ラバンの価値観として表現されているのだろう。ヤコブについては3節から14節に書かれている。神との関係をたいせつにしていることが書かれている。「神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった。」(7節b)「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。」(9節)「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。」(12節b)最後のものは、神の言葉として書かれている。どのように神の言葉と確信したかは、別として、辛いことの中で、ベテルの神(13節)に望みをおいて、問いかけていたことがわかる。この姿勢は、我々と共有できるものである。
Gen 32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
ここまで「祝福」をたいせつにすることに驚かされる。祝福無しには生きられないことを、神様に守っていただかなければ生きていけないことが、ヤコブの学んだことだったのではないだろうか。父の祝福を横取りして自分のものとしたヤコブが、神からの祝福を感じながら生きてきて、ここで、それを確かなものとして自分のものとすることが、エサウに会うために必要だと必死だったのではないだろうか。「祝福(barak:to bless, kneel)」はわたしも使う言葉だが、もう少し考えてみたい。この要求にこの人・神は応答している。ヤコブのところまで神様が降りてこられたということだろうか。「ソロモンはその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざまずき、両手を天に伸ばして、祈った。」(歴代誌下6章13節b・14節a)がこのことばを象徴していると辞書にある。
Gen 33:9 エサウは言った。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」
私たちには、見えない部分がたくさんある。ヤコブについては、ある程度記されているが、エサウがなぜ「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。』 」からどのように変わったのか。エサウにはエサウの物語があり、それをたいせつにできることは、すばらしいと思う。ひとり一人の尊厳をたいせつにするとは、そのようなことではないだろうか。ひとり一人の背景・将来・そのときの状況から、そのひとの行動が影響を受けることは当然のことだから。
Gen 34:1,2 あるとき、レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけたが、その土地の首長であるヒビ人ハモルの息子シケムが彼女を見かけて捕らえ、共に寝て辱めた。
エサウとの平和的再会の直後に書かれている。どのくらいの時が経っているかは分からないが、ヤコブにとっては、最大の難題、ラバンからの離別と、エサウとの再会が、平和裏に解決されたことで、平安があったことだろう。しかし、意識していない問題も潜んでいる。様々な要素を含む事件である。現在でも、簡単な判断はできない複雑な要素を含んでいる。しかし、寄留者として住む、ヤコブの家族にとって、重大な事件であったこと、こどもの教育、神との関係のもとでなされた割礼が、まったくちがう目的のために使われ、冒涜されていることなど、課題が多い。民族対立の起源の一つの物語をみる気もする。
Gen 35:2,3 ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」
ベテルは神の家という意味だとある。(28章29節,参照:12章8節、13章3節、31章13節)ひとは、危機のときに、どう行動するかが鍵である。ヤコブが神と出会って、ベテルと名付けた地、そして、アブラハムゆかりの地でもある。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」(5節)とある。様々な恐れがあるだろうが、ヤコブの毅然として態度は、特別な者と映ったのだろう。
Gen 36:12 エサウの息子エリファズの側女ティムナは、エリファズとの間にアマレクを産んだ。以上が、エサウの妻アダの子孫である。
エサウの系図はなかなか複雑である。まず妻が、3人書かれている。「ヘト人エロンの娘アダ、ヒビ人ツィブオンの孫娘でアナの娘オホリバマ、それに、ネバヨトの姉妹でイシュマエルの娘バセマトである。」(2b, 3)しかし、引用箇所には、側女も登場する。どのような明確な違いがあったか不明であるが、アマレクは、40節以降の首長たちのリストには登場しない。エサウの子孫は、おそらく、ヤコブの子孫よりも先に、王が治めるようになっていたこと、イスラエルの周辺には、多くのエサウの家系の部族がいたことなどが、書かれているが、実際には、周囲の民族が、近親の者たちであること、しかし、神との関係においては、異なる存在であることを、書いているのだろうか。目的がよく分からない。
Gen 37:5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。
夢、幻のなかで、将来のことを示されることは、よくあったのだろう。このあとに、その内容が続く。どのように伝えたかも、おそらく、問題ではあるが、内容に依存して考えるのは、これを神からの啓示ととらえるなら、問題もあろう。ここでは簡単に「憎むようになった」と書いているが、すでに、父の側女ビルハと寝たルベン(創世記35章22節)、シケム事件の中心メンバーだと思われる(34章25節)シメオンとレビ、このあと38章に物語が記述されるユダと、レアの子、上の4人は、それぞれに複雑な背景を持っていただろう。すべては書かれていないが、ヨセフの夢だけではなく、ヤコブとの関係、兄弟たちの中での位置など、興味深い、そしてその記述は、背景を明示しないこともふくめて、秀逸である。「ルベンは続けて言った。『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。』ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。」(21)
Gen 38:25,26 ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。
おそらく、ひもの付いた印章と杖は、身近なものたちの中には、誰のものか分かった人もいただろう。ユダは、この事件の背景にあることも、理解して告白している。「主の意に反すること」(10)という記述はあるものの、ユダに、主は現れないが、これも神との出会いの一つなのだろう。文学性も高いように思われる。記述したひとは、どのような人なのだろう。
Gen 39:8,9 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
このような、信仰、良識、謙虚さと言っても良いかもしれないはどのように、育まれたのだろうか。ヤコブの子として見聞きし、経験したことが、根付いていたのだろうか。神を畏れる心とでも、言うものだろうか。ヤコブの系図の中に置かれている、ヨセフ物語では、そのことは、言及していない。この物語の主旨は異なるところにあるとして、無視することも可能であるが、やはり気になる。わたしが生きることは、周囲の人と影響し合いながら共に生きることなのだから。神がそのような心を与えられたとするのは、簡単である。しかし、すべてに適用可能な答えは、答えになっていないともいえる。人の責任をなにも求めない、問わないことになってしまうから。
Gen 40:14 ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。
ヨセフの計画・はかりごとと、神の計画の違いを、ここで記述しているのだろう。しかし、それでも、寛容な心、忍耐を持ち続けられることには、驚かされる。資質なのだろうか。この物語では、その部分については、語られていない。「ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った。」(8)このことを知り、解き明かしの賜物(カリスマ)を、ヨセフが持っていたことは確かだろう。しかし、それ以外の部分については、どう考えたら良いかわからない。
Gen 41:9 そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。
物語とも言えるが、正直な、この給仕役のこの一言には、感銘を受ける。重要な役職についてしまうと、保身もあり、なかなか正直に、自分の過ちを言うことができなくなりやすい。忘れてしまったことも、ここで思い出して、かつ、自分の過ちを語り、王を助けることも、一人の神の愛されるひとの、歩みを見させられる思いである。この給仕役がこのことにより恩賞を与えられたかは不明であるが、王の信頼は得ただろう。
Gen 42:21,22 互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」
後半は、次男のシメオンを人質として残した理由として書かれているのだろう。前半には、当時の人の、思考が現れているのかもしれない。罪の報いによる災難である。自業自得だろうか。しかし、神の働きは、それをはるかに超えたところにある。神の世界は、因果応報からは、自由である。
Gen 43:9 あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。
どのように責任を負おうとしていたのかは不明であるが、覚悟なのだろう。そして、それは、真性でもある。(44章14節〜34節参照)ユダをして、このように発言させたのは、何故だろうか。ヨセフを売り飛ばしたこと(37章26節)、タマルとのこと(38章)の故だろうか。おそらく、隠されていることもある。まさにこのときも、葛藤のなかで、神の手で造り変えられているのだろう、個人の応答による、神との共同作業によって。それが交わり、永遠(神)の命に生きることだろうか。
Gen 44:30,31 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
魂(nephesh: soul, self, life, creature, person, appetite, mind, living being, desire, emotion, passion)多くの場合「命」と訳されている。もう少し、この言葉について調べてみたい。「父の魂はこの子の魂と堅く結ばれ」ていることが本質であり、それが失われると「悲嘆のうちに陰府(showl: sheol, underworld, grave, hell, pit)に下らせる」絶対に避けるべきことと言っている。ここだけではわからないが、この結びつきの存在は、人間にとっては、本質的なものであることを言っていることは、確かである。子があることではなく、子の魂と結びついていること。愛着だろうか、愛だろうか。
Gen 45:6,7 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。
このように明確に未来に起こる頃を確信できるのは何故なのだろうか。それは置いておこう。印象的なのは「残りの者」がここに言及されていることである。特にイザヤ書・ミカ書に特徴的な、見捨てない神を象徴することばである。引用箇所に続く「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」が、ヨセフの信仰告白なのだろう。兄たちは、これを十分理解しているわけではないようだが(50章15節)、ヨセフにとっては、真実。赦す、赦さないをすでに、超えている。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8章32節b)ここに至って、ヨセフの自由さが印象的である。どのように確信が得られたかは、詮索しなくて良いのかもしれない。
Gen 46:6 ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。
引っ越しをしたばかりで特に印象に残った。ファラオに「家財道具などには未練を残さないように。エジプトの国中で最良のものが、あなたたちのものになるのだから。」(45章20節)と言われているにもかかわらず、どうも、かなりのものを持って移動した様である。「この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します」(32節)にも繰り返されている。「神は言われた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。 』」(3節)と関係して、強調されているのかもしれない。連続であり、ここでリセットされているわけではない。大きな変化があっても、人は、人生をリセットすることは、そもそもできないのかもしれない。
Gen 47:3,4 ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。「お前たちの仕事は何か。」兄弟たちが、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、更に続けてファラオに言った。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」
「寄留(guwr: to sojourn, abide, dwell in, dwell with, remain, inhabit, be a stranger, be continuing, surely)」が使われている。すぐ帰ることは意味していないかもしれないが、兄弟たち、そして、ヤコブ(30,31, 48章4節・21節)は、エジプトの地が定住の場所だとは考えていなかったろう。飢饉は、遊牧・放牧にとって、重大な危機である。現代でも、このために、縮小または止めなければいけなくなり、大家族では住めなくなり、都市にでて、コミュニティが崩壊することが実際に起こっている。街に出ると、放蕩息子の状態までは行かなくても、一般的には、没落するのだろう。飢饉のとき、どのように守られるかは、当時も、現代も同様に命に関わる一大事である。
Gen 48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」
子供たちに手をおいて祝福することは、その父親を祝福することを意味している。そして「牧者(raah: to pasture, tend, graze, feed)」が日本語の言葉としては初めて現れる(原語では4:2, 13:7, 8, 26:20, 29:7, 9, 30:31, 36, 36:24, 37:2, 12, 13, 16, 41:2, 18, 46:32, 34, 47:3, 48:15, 49:24)にある。牧者のように、養ってくださったということで、それは、青草のあるところに導いてくださったことを意味しているのだろう。「贖われた(gaal: to redeem, act as kinsman-redeemer, avenge, revenge, ransom, do the part of a kinsman)」も日本語では初めてである。そしてこのことばは、原語でも、ここが初出である。出エジプトには二回(6:6, 15:13)贖いも学んでみたい。
Gen 49:28 これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。
「祝福(Berakah: benediction; by implication prosperity:—blessing, liberal, pool, present.)」とは何なのだろうか。どうみても良いものばかりではない。ヤコブが死に及んで、最後に神に向かって叫ぶ祈りで、良いか悪いかの色はないのか。ここでは、ヨセフの二人の子供は登場しない。あくまでも、イスラエルの十二人の子供たちである。ジルパやビルハの子供たちも、区別されていない。しかし、ユダと、ヨセフの部分が長いのが目を惹く。何を伝えたかったのだろうか。
Gen 50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
神に代わるとすると「すべての悪に仕返しをする」(15節)を指すのだろう。裁きは、神のもとのある。それを、自らなすことは、神から付託されているのでなければ、自分を神とすることなのだろう。「恐れることはありません。」もいろいろな取り方ができる。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネの手紙一4章18節)愛によって結びつくように呼びかけられているのだろう。

BRC2017

Gen 1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
第一章を読んで印象的なのは「神はこれを見て良しとされた。」(4, 10, 12, 18, 25)4節のみは「神は光を見て、良しとされた。」となっている。光は特別な印象を受ける。創世記そして、聖書に書かれている歴史に目を向けると、ほとんどが人間の神への反逆である。「良しとされた」という言葉は、人間を造られたところには、書かれず(六日目まで)最後にすべてのものをみるとそれは、極めて良かったと結んでいる。人間を含めて極めて良かったと取るのが自然かもしれないが、同時に、神と人間の関係がスターとするとすると、その環境は極めて良かったと言っているのかもしれない。いずれにしても、聖書記者が伝えたかったことについて考えさせられる。神は善い方。「良い・善い」ことこそが、神の属性としていることが、印象的である。それが、神を畏れることでもある。新鮮な気持ちで聖書を読み進めていきたい。
Gen 2:4-6 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。」が恒常的な「良さ」の表現だったのかもしれない。乾燥気候においては、雨に頼るのは非常に不安定なことだったのだろう。第一章の記述では第三日に「地は草を芽生えさせよ。」(11節)となっている。二章(より古いと言われている)の記述の方が、より人間に近い記述となっているのだろう。新しい発見が多い。個人的には、歳を重ねるたびに、衰えて行く面が多いだろうが、新たに(いのちを与えてくださる)神様の創造の業がわたしの身におこり(いきいきと生き)成長していくことができるように思う。ほんの少し分かるようになることを通して、自分が知らない広い世界に導かれていきながら。
Gen 3:7  二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
なにを伝えようとしているのだろうか。自由意志が与えられ(明確に書かれているとは言えないように思われる)、神から離れる(神の命令を守らない)。その帰結である。神から離れては無防備の、弱い、醜い状態であることを知らされたとも考えられるが、男性と女性の間と考えると、神抜きに、相手を性的対象として認識するようになったことの表現かもしれない。直接異性に(異性である必要はないかもしれない、他者)向き合うとき、自分の不完全さ、相手にどう見られるかという不安などが、生じる。このつぎの「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」は表現が美しい。風には、霊の動きも投影されているのかもしれない。そして足音、いずれも、科学的現実とは異なるかもしれないが、神の存在を感じ恐れる姿がよく表現されている。
Gen 4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
エデンの園からの追放の記事に続くこの箇所からは、希望を与えられる。「主によって」ということばから感じられる神に向かう態度と「得た」という言葉から連想される喜びである。こどもは、将来への希望でもある。過去だけの上に、われわれの生活が成り立っていないことからも、力が与えられる。むろん、そこからの自然な帰結でもある、こどもと、社会、さらに、精神と行動の向かう方向としての神に対する責任をも担うことになるが。そのようなプロセスの内に生かされていることを、喜びを持って、厳粛に受け止めたい。
Gen 5:1,2 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
ここからはじまるような書き方になっている。ここまでは、序章として、背景が書かれているのかもしれない。4章17節には「カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。」と父カインに祝福されたエノクについて記され、カインの系図が始まる。5章18節から24節までに記述されているエノクは「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」と書かれている。4章23節・24節のカインの子孫レメクのことばとの対比も考えさせられる。しかし、それをあまり大きく取り上げることは、聖書の本質ではないように思われる。背後に、神がおられることは意識されているだろうが。
Gen 6:1-4 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
不思議な箇所である。無理に解釈しない方がよいように思われる。現時点の考えを記しておくことにする。いずれ、変化するだろうが。5節以降につづく、ノア物語の前に記されており、神の霊が注がれた土の塊(2章7節)が罪(神からの離反)によって、主体的に、神を愛する存在ではなくなっていることへの懸念が表明されている。一方、王国時代までもネフィリムのような、神の力が特別に宿っていると思われるような存在が一般的に受け入れられていたのだろう。序章として書かれた、系図上の長生き(単純に祝福ととる必要はないだろうが)から、寿命の制限も記す必要があったろう。その混在したものが、この箇所なのではないだろうか。いずれにしても書き出しが「娘たちが生まれた」となっているが目にとまる。美し女性の存在は、男性にとって、神を通してみることができない、特殊な存在であることが、暗示されている。それ自体は悪でも何でもないが、神の(霊による)業と、相いれない、かつ、愛と、区別がつきにくい、微妙な存在であることの告白なのかもしれない。
Gen 7:2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。 
このあとの8節・9節では「清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、 二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。」後者は、つがいに強調点が置かれており、前者は、清い動物を七つがいずつ、清くない動物を一つがいずつということに強調点が置かれていると読めば、矛盾は起こらない。多少、奇妙な感じは残る。ここで、清い動物、清くない動物は、食用かどうかによっているのだろうか。それとも、洪水後、清い動物を増やそうと意図しているのか。不明である。
Gen 8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
自発的な献げ物である。神は、それを良しとして、受け入れられ、総括をしていると理解して良いだろう。神が主権的に、宣言しておられる。それは、人間との間に神が望まれることがあるからだろう。神と、人との長い歴史を見ていきたい。
Gen 9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
食用としてもよいことを述べているのであって、それ以上ではないだろう。ここでの「ゆだねる」は神の委託をあらわすことばであろうが、それに付随する責任のようなものは、述べられていない。現象として、人間が動物の頂点にたっていることを述べているに過ぎないかもしれない。ここから、多くを得ようとするのは、危険であるようにも思われる。自然と人間の関係における神の意思を理解するのは難しい。創世記記者は6節に「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」とのべ、動物との関係と、人との関係を区別している。しかし、そのことが、この部分の論点の中心ととることも、解釈を狭くしすぎているように思われる。焦らずに読んでいきたい。
Gen 10:19 カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ。
これが、王国が最大化したころの、領土とほぼ一致しているのではないだろうか。このあと「これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたハムの子孫である。」と続く。氏族・言語・地域・民族は、多少、言語についてのバベルの記述がある以外は、説明はない。それぞれに分かれてしまうこと、分かれて住むことは、自然のことで、避けられないのか。それとも、これを超えて、共生することを、神の御心としてよいのか。
Gen 11:31,32 テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。 テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。
27節・28節には「テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。 ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」すなわち、テラは息子一人(おそらく長男)であるアブラムと、早世した息子の一人(おそらく三男)のハランの息子と、アブラムの妻で「不妊の女」サライを連れて出る。20章12節には「事実、彼女(サラ、改名後のサライ)は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。」とある。なぜ、このような陣容で出発したかはいろいろと想像を駆り立てる。
Gen 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
カルデアのウルからハランまで移っていた時だろうか。11章の記述を見ると、ウルから、カナン地方に向かっているが、ハランでとどまっている。すでに、テラの家は、少なくとも、二家に分かれているようなので、父の家から離れるがどの程度の意味を持っているのかは分からない。まだ、この時点では、テラが目指した地まで到達してみようぐらいの気持ちだったかもしれない。ハランの死や(地名と同一)サラが不妊であったことなどから、周囲の目をさけることもあったのかもしれない。信仰の歩みは、ゆっくりスタートする。しかし神の計画は大胆に遙か彼方を見据えている。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(2, 3 節)「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19章21節)
Gen 13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。
いくつか疑問が残る。まずは、場所である。ツォアル(小さい)は、ロトが後に逃れる町として19章22・23節に現れ、モアブの町として聖書に記される。その位置からか、他の記録からか、ソドムとゴモラは、死海の南にあったと考えられているようだ。それをヨルダン川流域の低地一帯と言えるのだろうか。地形や呼び方が異なっていたのだろうか。もう一つは、ロトがここで地上的豊かさを選んだことがすでに「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)の先取りになっているのかと言うことである。このあと経緯は記されていないが「アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。」(12節)となっている。単に、アブラムの信仰者としての歩みの背景記述と取るべきなのだろうか。急いではいけないのだろう。
Gen 14:17, 18 アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
ケドルラオメルはエラムの王と記されている。イランの民族で、古代オリエントの重要な国だとされる。この戦いに関する歴史的記録は調べていないが、アブラムは「彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人」(14節)と、カナンの地の南の方から、ガリラヤ湖より北のダン、さらには、古代からの重要な町のダマスコ(現在のシリア)の北まで追いかけている。また10節で「天然アスファルトの穴」に落ちたとされるソドムの王がここに登場する。そしてここにサレムの王が登場する。古代史の重要な一ページなのか、そのような事件とアブラム、ロトの物語をリンクさせているのか、不明な点が多い。メルキゼデクはヘブル人への手紙5章から7章に現れるので気になるのだが、どのように向き合うのかは不明である。聖書の読み方は難しい。
Gen 15:1,2 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
ケドルラオメルとの戦いの後である。戦いの報酬としてのソドムの王の提示を断っている。十分神から与えられている認識もあったろう。しかし神のご性質の永続性において、アブラムは問題を抱えていた。それが、恵みを受け継ぐ者の問題だったと思われる。永遠のいのちにもつながる事なのかもしれない。わたしは、祝福を受け継ぐことについてどのように考えているのだろうか。わたしとおなじ時代に生きたすべてのひと、わたしの隣人すべてとあまりに普遍化するのも問題なのかもしれない。このときのアブラムから学びたい。
Gen 16:13,14 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
ハガルの物語は聖書を理解する上で非常に貴重であると思われる。当時の人たちはどのように理解していたのだろうか。さらに神殿礼拝を中心に宗教集団を築いていった捕囚帰還後のユダヤ教の人たちは。不明なことが多い。
Gen 17:10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。
神のアブラハムとその子孫への祝福とアブラハムとその子孫との契約の証として守るべきこととして与えられたのが割礼であることがわかる。この契約から離れること、割礼を無視することは、神とのつながり方をとおしてのアイデンティティーの問題であったろう。それを破棄することは、どのようにして可能だったのだろうか。ユダヤ人キリスト者において、それは、それほどのチャレンジだったのだろう。福音書において「割礼」は、ルカにバプテスマのヨハネとイエスの割礼が記されている以外は、ヨハネ7章22節・23節に安息日にして良いこととして「割礼」が挙げられ「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」(23節)のみである。イエスの言葉としては、このヨハネの箇所だけである。割礼を積極的に支持はしていない。初代教会にとって非常に難しい問題だったろう。
Gen 18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」(11節・12節)から続いている記事である。では、アブラハムはどうなのか。17章17節には「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」とあり、これをうけて「神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(19節)につながっている。笑うは、いずれの箇所も、laugh, mock, play の意味もある tsachaq が使われている。イサクは Yitschaq(彼は笑う) である。アブラハムの場合は、18節に「アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。』」と言い、神が約束を実現される方法が、他にあるかもしれないと言っていることぐらいだろうか。しかし、サラは、自分の身に起こっていることから、信じることはさらに難しかったであろう。アブラハムは、17章のことを、サラに話さなかったのだろうか。おそらく、話していただろう。それでも、信じられなかったのか、それが恐れとして生じてはじめて、神と向き合うこととなったのか。難しい箇所である。しかし、神は、人の思いや考え、そして不信仰とは独立に、笑わせて下さる方である。
Gen 19:14 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。
アブラハムとロトの対比をしてしまう、とても悲しい事件である。特に、3節の「ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。」と18章1節から8節とのもてなしかたの比較や、8節の「実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。」といって娘を差し出す場面は、ただ、あきれさせられる。おそらく、アブラハムからの連絡ももらい、待ち構えていたろう。そうでありながら、自分を守る以外は、考えていない。引用した箇所から嫁いだ娘たちがいること。おそらく、息子はいないことがわかる。ここでも、嫁いだ娘たち(複数)にではなく、婿に話している。当時は、その許可をもらえなければ、娘を連れ出すことはできなかったからだろう。子供もおそらくいただろう。すると、18章32節の「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」は、家族だけで、10人はいるとアブラハムは、踏んだのではないかと思わされる。このような状態でも「主は言われた。『よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。』そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。」(21節・22節)「二人の客」との言い方から16節から「主は憐れんで」と主語が「主」になっている。主の憐れみの大きさ深さに驚かされる。ロトは、これまでの、様々な経過から、アブラハムのもとに身をよせることは意地でもできなかったのかもしれない。
Gen 20:1,2 アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。
まず、アブラハムは、ある程度定住地をもちながら移動する遊牧民であることがわかる。そして、基本的に、ロトのように、都市は住まない。職業柄もあったろうが、信仰的な面もあったろう。12章13節でエジプトのファラオのもとに身を寄せたときと、なにも変わっていない。妻を「妹」と紹介している。夫が決断権をもっている社会構造は別として、この時点で、妻を差し出すことが、神に対する背信行為であることは、確かである。サラから子が生まれることを告げているのだから。アブラハムは11節に「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。」とあるように、保身のために、このことをしたのか。かえって、アビメレクの誠実さに守られた面が浮き彫りにされる。いずれにしても、アブラハムの信仰が賞賛されても、アブラハム自身が義人であったのではないのだろう。まさに、多くの周囲の人を通して、神から守られている。神がともにおられるということだろう。
Gen 21:6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」
17章でのアブラハム、18章でのサラ、ともに笑っている。それがここに、イサクという名前であらわれる。神は笑いを与えてくださる方である。象徴的な信仰告白である。しかし、みなが笑うわけではない。10節には「アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。』」神認識が自己認識だけでなく、他者認識に反映されるのは、特別なステップが必要なのかもしれない。イエス・キリストまでの歩みを見ていきたい。
Gen 22:7,8 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
「わたしのお父さん」「わたしの子よ」なんとも感動的な場面である。この関係を、神を通した関係のもとで、自分の中の子を、神の子とすること、が背景としてあるのだろう。それは、アブラハムが、イサクのお父さんでなくなることがある。それが「ここにいる」に込められている。神が備えてくださる。神にあくまでも信頼する歩みをわたしも歩んでいきたい。それこそが、愛の神に守られて、他者を愛すことでもあると信じて。
Gen 23:4 「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」
「寄留者」は一つのキーワードである。アブラハムも、そして、地に住む信仰者も「寄留」するもの「寄留者」だからである。(15:3, 21:23, 34, 口語訳ではヘブル11:13も寄留者(新共同訳は「仮住まいの者」))そのアブラハムがここで土地(畑とそれに付属する墓とする洞穴)を正式な契約のもとで得たことは、神がこの地を与えるという約束とも関係して、特別な意味があったと思われる。6節で「あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。」と言われていても、よそ者であることは変わらない。定住農牧民とは明らかに異なる。400シェケルが高いか安いかという議論もあるようである。シェケルは重さの単位で時代とともに変化したようで一応平均11.4g と言われている。4.56kg である。畑の広さは記録されていないが、おそらく、商取引の妙でかなり高かったのではないかとの説は有力であろう。いずれにしても、そのもとで、アブラハムは、正式に土地をはじめて得たことになるそれは、なにを意味しているのだろうか。なお、シェケルは1980年以降イスラエルの通貨単位となっている。1shekel = 30yen 程度である。
Gen 24:1 アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。
聖書の記述、特に散文においては、最初にある文がそのあとの総括であることが多いと考えると、この一文も、イサクがリベカと結婚することを意味しているのかもしれない。また、これが、土地の売買とサラを葬ったことも含んでいると考えると、アブラハムの信仰告白または、創世記記者の信仰告白ともとれる。両面があるからである。24章の物語は、繰り返しも多い。おそらく、口述されていたものがある時点で筆記されたことの名残だろう。忠実な僕は15章2節に相続する可能性のある者として記されているエリエゼルの可能性もある。いずれにしても、忠実な僕の行動は印象的である。
Gen 25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。
双子においてどちらが兄でどちらが弟かはそれほど重要ではないかもしれない。国によって決め方が異なると聞いたこともある。しかし、社会的には、重要だったことは確かである(相続分が倍と言われる。扶養の責任もあったのだろうか。)。ここで、ヤコブとエサウの約束で、そのような重要な権利が移動するというのはあり得ないようにも思われる。家族内での、席の着き方や、食べ物の配分などなどで、影響があった可能性はある。(43章33節)神がヤコブを選んだのはこれが理由だとは書かれていない。しかし、長子の権利を軽んじることは、自分では決められない、神に属することを軽んじたと言いたいのだろう。ただ、神に属することを奪い取ろうとするヤコブについては、なにも書かれていない。何を伝えたいのだろうか。ユダヤ人にとっては、価値判断は明かだったからだろうか。
Gen 26:4,5 わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。 アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」
神が、アブラハムに語りかけたのであって、祝福の根拠を、アブラハムが従い、守ったことに求めるのは、誤りであろう。同時に、この、神との関係が、イサクに引き継がれることを、神が願っておられら事も事実だろう。契機は1節にある「飢饉」である。イサクへの言葉は「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」(2節)から始まっている。「従い・守る」ことは、信頼関係の維持と捉えた方がよいかもしれない。信仰生活は、神の方向へ向かい神と共に生き続けること。神が、その関係を、イサクとも持ちたいと伝えた瞬間なのだろう。イサクの物語は非常に短い、エサウの物語は殆ど登場しない。しかし、それぞれに、神との物語があるのかもしれない。伝えられている部分は一部分に過ぎないが。
Gen 27:24 言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。
母のリベカに言われて、父イサクを欺いた事になっているが、この会話を見ていると、とても、リベカ主導とは思えない。20節の「『わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか』と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。『あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。』」からも、神を畏れない、しかし、この家が大切にしている信仰の表明をしており、恐ろしくすらなる。イサクは、ヤコブが戻ってくるまで、創世記の記述をそのまま受け取ると最低で、20年間は、生きることになる。22節に「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」 とあり、イサクは、半分気づいていたのではないかと思わされるふしもある。不思議な、おそらく、真実を理解することはできない、物語なのだろう。創世記記者が何を伝えようとしているのかは、よく分からないが、背後に神がおられることも感じさせられる。この物語が26章24節と27章46節に挟まれ、真ん中に、イサクの祈りが記されており、構成もしっかりしている。イサクの記述は多くない。イサクの子らについてエソウとヤコブ以外ここまで記述がないと思うが29節には「お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。」とある。
Gen 28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
神の祝福の内容は、アブラハムとの契約の更新であるが、約束の本質は「わたしはあなたと共にいる」ことだろう。これに対する、ヤコブの応答をみると「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 (16節)とあり、認識の大きな差を感じる。しかしこれこそ信仰のリアルな体験であり、このあと、創世記の最後まで続く、もしかすると、聖書全体におけるイスラエル(ヤコブの別名)の歩みの総括として、創世記記者は書いているのかもしれない。その記者の信仰に驚かされるとともに、創世記記者にしっかりと出会いたいとも感じる。断片的な古い口伝の物語を紡ぎさらに編集を加えたものであったとしても。インマヌエル(神我らとともにあり)の認識のもとで、神が何を喜ばれる方かを少しずつ知り、神に向かって神と共に、そして神にとってたいせつなひとり一人と神(そしてイエス・キリスト)を通してつながりながら、共に日々生きていくことが、信仰生活であろうから。
Gen 29:13,14 ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけした。それから、ヤコブを自分の家に案内した。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、 ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。」
詳細は不明だが、ラバンの娘は二人だったかもしれない。すると、両方とも、ヤコブに嫁がせることになる。また羊もラケルが女性一人で飼うことができる程度の数と言うことになるように思われる。ハランは、11章26節以降の記事によれば、早世した、ラバンの叔父の名前からとられており、ハランの子はロトだけが書かれている。通常は、重要人物となるはずであるが、そうとも限らないかもしれない。人生は様々なのだろう。あとで出てくるが、異教の神も礼拝しているようだ。ヤコブはラバンに事の次第をすべて話している。ヤコブはまさに自分の人生の進んでいく方向を求めているのだろう。ラバンは、自分の価値観からこの時点では動かない。うまくやってやろうという気持ちが読み取れる。記者は何を伝えようとしているのだろうか。神がヤコブとともにおられることは、大きなテーマだろう。
Gen 30:2 ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」
聖書を理解する上で、一つの困難が生じる。この箇所から「こどもは、神が制御している」のかどうかという問いである。ここは、ヤコブが怒って言っている箇所である。そして、中心は「ヤコブが制御できることではない」ことを主張しているに過ぎない。さらに、すべては、神の制御のもとにあるだろうという一般的思想(希望かもしれない)がある。しかし、それをすべて神が制御していると考えるのは、人間の責任を回避し、責任を神に帰することにも使え、適切かどうかは不明である。実際、この章の最後に、ヤコブはどの程度科学的根拠があるかは不明だが、羊の生殖を制御している。不明確な言い方だが、「神はすべての背後におられる。」ととり、具体的に制御しているかどうかは、明確にしない(わからないとする)立場がよいのだろう。神のしごとは、制御ではなく、いのちを与えることなのだから。これがわたしの現在の信仰的な立場である。
Gen 31:14-16 ラケルとレアはヤコブに答えた。「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。 わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。 神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。ですから、どうか今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください。」
43節には「ラバンは、ヤコブに答えた。『この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。』」とある。なんとも悲しい現実を見る。娘たちは、自分たちは父にとって他人といい、父にとっては異なる。詳細は分からないが、娘たちの「父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。」という言葉からは、ラバンの人格的な問題は十分あったと思われる。それが、この町でも、小さな羊の群れしか持てなかったことに関係しているかもしれない。ここで、ラバンと契約を結ぶ。54節と次の32章1節を見ると、平和裏に分かれたようであるが、決別とも言える別れである。3節などにあるように神がヤコブとともにおられることが鍵であろうが、全体としてはとても複雑。あまり、単一の尺度で読まない方がよいように思われる。ラバンとともにも神はともにおられてのではないかと思うが。認識しないものからすると共にいないのと同じなのかもしれない。
Gen 32:12,13 どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。 あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
10節からヤコブの祈りが記されている。まず、神からの指示に忠実に従って、旅に出たこと。11節は、自分が恵みを受けるにとるに足らない者であること、そして12節で語られる不安、13節での約束、おそらく、そこに身を委ねる決意だろう。しかし全体としては、さらに、様々なことが加わる。まずは、あいさつに使者を送り、祈りのあとも、全員は滅ぼされないように、エサウのご機嫌取りと、方策が組まれる。そして一人残って夜通し格闘する。何が良いことで、何が悪いことなどという単純な分け方ではなく、まさに、このすべてが、ヤコブが神の前に、神と共に生きている生き様なのだろう。非難すべき事、賞賛すべき事を分けて切り出すような読み方はふさわしくないように思う。神は、この揺れ動くヤコブを全人格を受け入れ、共にいてくださる神である。
Gen 33:4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
感動的な場面である。まるで、放蕩息子を迎える父のようである。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15章20節)わたしたちは、ヤコブの物語に集中して読む。しかし「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」(27章41節)のときのエサウとは明かに異なっている。ヤコブが「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。」(10節)と言っているとき、実は、兄に働いておられる、神を見たのかもしれない。ひとは、自分の物語だけを紡ぎ内省する。しかし、ひとり一人に神の物語「His Story = history」があることを認めることが、その人の尊厳を受け入れること。背後には、共にいた、イサクやリベカの苦悩と働きもあったかもしれない。(27章45節)聖書に語られていないそのことも、ひとは多くの場合見逃してしまう。18節からヤコブのねじれた生活が始まる。
Gen 34:5 ヤコブは、娘のディナが汚されたことを聞いたが、息子たちは家畜を連れて野に出ていたので、彼らが帰るまで黙っていた。
ヤコブの家には何人いたのだろうか。通常はこれだけの家族なら、牧童がいただろうが、ラバンから離れて来た状況を考えると、男はヤコブと息子たちだけだったのではないだろうか。正確には分からないが、戻ってきたのは、20年後程度であるから、7年後に結婚したとして、まだ子供たちは若い。むろん、戻ってきてからの年数は書かれていないが。エサウが400人もつれて出てきたときの恐怖はいかばかりであったかと思わされる。ヤコブは、自分で決めることはできなかったのかもしれない。しかし、このあと展開されるテーマは、割礼を通じて、一つの民になることである。後の時代であれば、ユダヤ教に改宗することを受け入れるならというのが、15節の主張である。22節のほうは、一つの民となること。そちらの方が普遍性が高いように思われる。むろん、ここでは、ヤコブの息子たちの怒りが背景にあるわけであるが。もう少し深く考えたい。
Gen 35:5 こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。
34章25節にあるように、ハモルとその子シケムおよび、シケムの町の人々を殺し、略奪したのは、ディナの兄弟、シメオンとレビであるとしている。23節にもあるように、レアの子、すなわち、ディナの兄弟は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンである。ユダ以下は若かったのかもしれないが、ルベンが加わらなかった理由は書かれていない。ルベンのことは22節に書かれている。シケムでのことは、ヤコブ一家にとって大いなる危機であったことは確かだろう。ヤコブは神に頼ることを選択し実行する。(1節-4節)それに続くのが引用箇所である。具体的に、どのようなことによって、周囲の町々を恐れさせたかは書かれていない。しかし、これが、創世記記者の記録したことで、信仰告白表現だともいえる。「神ともにいます」ことの。このあと、いくつかの、悲しみが記録されている。リベカの乳母デボラの死、そして、ベニヤミンの誕生とラケルの死、ルベン事件、さらに、イサクの死。「神ともにいます」ことは、幸せの連続の日々を意味しない。しかし、神の前に神と共に、そして、隣人と共に生きる生活は、神との交わりの生活、神を通しての隣人との交わりの生活、そのこと自体に、大きな価値があるのだろう。愛と忍耐をもって、共にいてくださる、神と共に、苦悩することも含めて。
Gen 36:6-8 エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った。 彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
エサウの側から考える見方もあるが、イスラエルの歴史から考えたみたい。近隣の民族との関係は、一般的に、多くの問題を抱える。聖書に記された歴史において、エドムとの関係が、友好関係であったことはないように思われる。(出エジプト時のこと:民数記20章など)聖書は、それが、ヤコブ(イスラエル)の兄として生まれた、エソウの民族だと語る。そして、引用箇所でも、問題の多い、ヤコブ家が移住しても良さそうなものだが、ヤコブがいなかった20年も含めて、ずっとこの地(カナン)にいたと思われるエソウが移住する。冷静に、創世記を読めば、ヤコブ(イスラエル)は謙虚にならざるをえない。神の忠実さ(pistis: 信仰とも訳されるギリシャ語)以外は何もないことを、ある意味で、普遍的な真理を、創世記は語っているように思われる。敵とも認識され得るエドムをこのように描いた創世記記者に思いを馳せる。
Gen 37:11 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。
このあとのヨセフ物語を知っていると、ヨセフの見た夢は、預言(神様からのことばのとりつぎ)を含んでいることがわかる。しかし、ヨセフが特別に信仰深かったわけではないだろう。ルベンは、ヨセフを助けようとする。(21節・22節)「ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。」とあるが、35章22節のビルハの件で失ったと思われる父の信頼を取り戻そうとしたのかもしれない。(49章3・4節参照)そして、ヨセフを売りわたすユダ(26節・27節)。ユダは後に非常に重要な役割を果たす。しかし、この時点では、欲得だけとも言えないこともない。兄弟たちが神を畏れるものとなるかどうかは、単純ではない。引用箇所で「父はこのことを心に留めた。」とある。冷静に見ることができたのは、ヨセフを特別に愛していたからか。それとも、神を畏れることを知っていたからか。信仰継承というよりも、ひとり一人が神の前に、神と共に生きることを意識するようになるのは、簡単ではない。それを、物語っているように思われる。
Gen 38:23 ユダは言った。「では、あの品はあの女にそのままやっておこう。さもないと、我々が物笑いの種になるから。とにかく、わたしは子山羊を届けたのだが、女が見つからなかったのだから。」
ユダはこれが物笑いの種になることを認めている。しかし、その中でも、ある正当化を図っている。「ユダは調べて言った。『わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。』ユダは、再びタマルを知ることはなかった。」(26節)ここでも、やはりまだ比較している。しかし、おそらく、神を畏れる気持ちが芽生えているだろう。うまくやって生きていくことができない「物笑いの種」かどうかはわからないが、自らの過ちを認めざるを得ない状態になったのだから。そして、それは「わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」という当時の慣例(Levirate Marriage, 後には律法 申命記25章5・6節)違反に対するものではあるが、個人的なモラルを超えたもの、神に目を開かれる機会だったと思われる。それがおそらく「ユダは、再びタマルを知ることはなかった。」と表現されているのだろう。ユダのヨセフものがたりでの役割の重要な背景でもある。
Gen 39:14 彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。
口語訳ではここまではっきりはしていないが、主人に対する非難も含んでいる。それが、主人の判断を狂わせたのか。ヨセフ物語を、どの程度まで、実際のことと理解するのは困難ではあるが、まだ若いと思われるヨセフにすべての管理を任せるなど、主人にも大いに問題がある。しかし、それにもまして、強く印象を受けるのは、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」(2節、参照:3節、5節)「主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(21節)これに対して、ヨセフの信仰的と思われる言葉は「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」(9節)のみである。21節などは、ポティファルの妻の事件の時も、神が共におられたと思わされる。神が共におられる生活は、単に、平穏無事な生活を意味しない。同時に、奴隷の身であっても、監獄のなかであっても、神は共におられ、祝福を与えられる。
Gen 40:23 ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。
16節で「料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。」と言われており、なにか、給仕役の長に追随した感じをうけ、ヨセフもさらりと残酷な解き明かしをしていることをみると(18・19節)この人に問題があったのかもしれないと思わされる。「三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。」(20節)とあるので、恩赦でも決めようとしたのかもしれない。「調べた」とあるので、実際、給仕役は問題があったのかもしれない。王の気まぐれだったかもしれないが。そして引用した最後の節にいたる。すべての背後に神がおられることの信仰告白とみるのが通常であろう。しかし、同時に、15節で無実を主張している(神から与えられた夢の解き明かしの賜物を自分の身の潔白の証明に利用しようとしている)、ヨセフが、神様に用いられる器となるためには、まだ時が必要だったのかもしれない。神様が共に歩んで下さることを、自分への祝福ととるのではなく、神に用いられる、用いて頂くためと知り、(神の業(=いのちをあたえること)のために)自分を用いて下さいと提供するまでには、ひとによるかもしれないが、多くの時が必要なのかもしれない。自分自身の人生を思う。
Gen 41:8,9 朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった。 そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。
物語として書かれており、夢の内容が繰り返されることなどは、口伝として伝えられていたことを意味していると思われる。現実のことであるとすると、この夢から、ヨセフの解き明かしと似た解き明かしをする魔術師と賢者はいたのではないだろうか。それでも「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」 (16節)と答えるヨセフとは異なっていたかもしれない。そこに、神の働きをみるかどうかである。かつ、ヨセフは、対処方法も語る。人間としての知恵も十分に用いている。ポティファルや、侍従長の庭にある牢獄の看守長のもとで30歳(46節)まで何年仕えたかはわからないが、様々な訓練の時であったことは確かだろう。給仕長が発言する。忘れることの背後にも神がおられると、創世記記者は語っているのだろう。すべてのことに神が関わっているとするのは、人間の責任を問わず、主体性を失わせることで、あまり普遍化して考えるもは問題があるとも思われるが。
Gen 42:36 父ヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」
ヤコブの苦悩が見える。おそらく、ヤコブは神を畏れはしても、好きになることはできなかったのではないだろうか。ここでは「お前たち」としているが、背後には「神」に対する不平が隠されているように思われる。神への信頼は、隣人への愛にもつながっているはずだから。神を直接は批判しないが、子供たち(隣人)を批判することで、それを実現している。しかし、苦悩を持つなということも、できないだろう。それをもちながら、生きていくのが十字架を負って歩んでいくことなのだろうか。もう少し考えたい。
Gen 43:14 どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」 
6節では「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」などと、少し考えれば分かるような、単なる嘆きと八つ当たりに近い行動をしてしまっている。ユダの冷静なそして、犠牲的なともいえる働きもあって、イスラエルはこのことばを発する。シメオンを「もう一人の兄弟」と呼んでいるところは、少し気になるが、物語として、ベニヤミンを際立たせているのかもしれない。ルベンも、ユダも、イスラエルも、他の子たちも、おそらく、ルベンの子らも(42章37節)、ユダの家族も、一族がそれぞれ神に向き合い、それぞれの思いをもったろう。ひとり一人が神にどう答えていくかはまた別のことでもある。ユダの働きが際立っているのは、このあとの、ダビデ王国時代を踏まえているのだろうか。むろん、この時点で、ユダが責任を負えるのは父にたいしてだけではあるが。(9節)
Gen 44:33,34 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」
12節など、順に年長のものから調べるなど、物語としても劇的に書かれており感動的である。そしてこの箇所に至る。ユダは、37章26節で「殺しても何の得にもならない」と売り渡す発言をしている。ヨセフはそれも聞いていたろう。38章にあるタマルのこと等、様々な物語が、ヨセフの知らないところで起こっている。そして、ヨセフの物語もみな知らない。我々もひとり一人の隣人の神様との物語を知らない。謙虚に神様を通して、ひとり一人と向き合いたい。そして、神の前に生きていきたい。
Gen 45:7,8 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。
7節は口語訳では「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。」となっている。新共同訳の「この国にあなたたちの残りの者を与え」はどのような意味なのだろう。"But God sent me ahead of you to preserve for you a remnant on earth and to save your lives by a great deliverance.” (NIV), "And God sent me before you to preserve for you a remnant on earth, and to keep alive for you many survivors. “ (ESV) 残りの者は、「地上の残りの食べ物」のことだろうか。おそらく「滅ぼさないで残す」ことを意味しているのだろう。イザヤ書を思い出す(Is 4:2, 3, 10:21,22)。ヨセフは、自分が神の業を担うものとなったことを告白している。しかし、この書を読む者は、このあとの歴史も知っている。「大いなる救いに至らせるためです。」は始まったばかりであることを。
Gen 46:33,34 ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。
ここでも、イスラエルの人たちは外国人であり、寄留者である。町に住まず、天幕を張り「羊飼い」を続けることが、彼らの生業なのだから。長く定住することも考えていなかったろう。それが神の約束として書かれている「神は言われた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。 わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。』」(3,4節)わたしたちも、常に途上にいるのかもしれない。大きな神様の救済の歴史の。救われることを目的として生きること自体が聖書のメッセージとはずれているのかもしれない。ましてや「救われている者」と、「救われていない者」を分けるなどは。
Gen 47:28 ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。 
「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。」(23:1)「アブラハムの生涯は百七十五年であった。」(25:7)「イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。」(25:17)「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。」(25:26)「イサクの生涯は百八十年であった。」(35:28)「ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。」(37:2)「ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。 (41:46)」「ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。」(50:26)となっている。すべてこの年齢が正しいとするかは、分からないこともある。ヤコブがラバンのもとに逃げていった年、そこには、20年いたことは大体分かるが。何歳のときに、ヤコブの子供たちが生まれたかは書かれていない。しかし、大体分かることは、ヨセフが牢にいたのは、13年弱、ヨセフが38歳程度の頃に、ヤコブがエジプトに下ってきたこと。そう考えると、そのときがヤコブ130歳。ヤコブ92歳の時にヨセフが生まれたことになり、ラバンのもとに行ったのは、レアが子供を生む年齢を考えると、72歳から77歳の間などとなる。イサクがまだ生きていたかどうか、微妙である。
Gen 48:5,6 今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、 その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし、彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。
これを直接的に、二倍の分け前として、長子の取るべきものを、ヨセフに与えたと取るのは、正しくないかもしれない。しかし、エフライムがイスラエルの中で長子的な役割を果たしたことを考えると、否定もできない。エフライムが北イスラエル王国の盟主、そして、ヨセフの弟ベニヤミンが南ユダ王国に加わる。この状況を考えると「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」(49:10)のような記述があったとしても、創世記の主たる部分の成立は、王国時代よりだいぶ前ではないかと思わされる。新約聖書の成立も複雑だが、旧約聖書はさらに難しい。
Gen 49:1 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。
これは預言なのだろうか。神はどこにおられるのだろうか。内容も様々だ。4節のルベンの記述、6節のシメオンとレビは、すでに創世記に書かれていることに背景があるように思われる。ヨセフについての記述が祝福に満ちたものであることも、ヨセフ物語の背景を思わされる。一方、ユダや、ゼブルンの部分は、実際に王国時代に起こることが書かれているように思われる。シメオンとレビの項で「呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。」(7節)とあり、特にレビが祭司、レビ人として、民の中に散らされて住むことになるのを、このように表現されることも、不思議に思う。通常、詩文体のものは、口伝として古い資料とすることが、多い。しかし、創世記全体の最後の重要な部分だとすると、内容的にも不整備で不思議である。いつかしっかり学んでみたい。
Gen 50:19,20 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。」(15節)とあるが、引用した言葉を聞いて、兄弟たちのどの程度がそしてだれが神信仰を堅固なものにしたか、それは書かれていない。ご存じなのは神だけなのだろう。その意味でも、ヨセフが「わたしが神に代わることができましょうか。」と言っている深さに思いを馳せる。まさに、神は多くの民の命を救って下さったと、ヨセフは告白することができたのだろう。兄弟たちを、神を通して見ている。兄弟たちは、直接、ヨセフを見ている。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ローマ8:32)神に信頼し、その方の導きのもとで他者と向き合う者でありたい。

BRC2015

Gen1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
創造記事全体としてみると、神の言葉により、混沌から多様性と秩序ができていくこと、良しとされたこと。さらに生き物の項20節から、祝福がなされたことであろうか。ものは、祝福されていない。
Gen2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
23節では「人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』」とある。そのような骨肉にたいして、恥ずかしいと思うようになる。罪の故だろうが、それは、自分に対して、恥ずかしいと思うことと同じなのだろう。このとき、ひとにとって神はどのような存在だったのだろう。
Gen3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
神は、ひとの状態がどのようにして生じたかもご存知である。しかし、予見もできたということに重点をおくべきではないだろう。自由意志をもった存在として神を愛することを望んでおれたであろうから。しかし、罪を負う存在との愛の関係と、その以前の存在との愛の関係の違いについては、考えてみたい。
Gen4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
主の選びは、チャレンジでもある。しかし、これは、いろいろな人に起こるのかもしれない。それは、試練でもある。しかし、神は、神に正しく向き合うことを願っておられる。
Gen5:23,24 エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
エノクについてだけ「そして死んだ」とは表現されていない。また、このリストの中で、地上で生きた年数は一番短い。その人生が、不幸だとは証言されていないのだろう。わからないこともあるということだろうか。この365という数にも、興味をもつ。1年の日数は、当時は太陰暦で365日ではなかっただろうが。
Gen6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
ノアの洪水の前におかれているが、一連のノアの洪水物語の総括である可能性もある。そう考えると、人生を限りあるものとすることは、良いことなのかもしれない。少しずつ、そのことがわかってきたように思う。どのような人生であっても、どのような長さであっても、神の前に誠実に生きたい。神が、地上からとられる日まで。あまりそれが長くないことも恵みである。
Gen7:13 まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。
「まさにこの日」はいつなのだろうか。洪水が起こった7日目だろうか。四十日四十夜雨が降り注いだ日ではないだろう。雨が降り始めた日より前ではないよう。間に合うように、準備していたということか。一度丁寧に学んでみたい。
Gen8:7 烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。
このあとの鳩との対比が面白い。鳩はある程度飼いならされていたのだろう。烏のような状態も希望として受け取れれば幸い。
Gen9:5,6 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
細かい内容はよくわからない。しかし「命である血」を流す行為はこれほど重大なことだということをまずは言っているのだろう。「人は神にかたどって造られたからだ。」尊厳ということばでは表現できない。何を意味しているのか。よく考えたい。
Gen10:5 海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。
言語、氏族、民族に従って、ともに住むことは夢であっても、これらの違いを乗り越えることはできないのかもしれない。それを単に結びつけようとするのは幻影なのだろうか。ある大きさになると、難しいのは明らか。神にあってひとつとなることを目指すのは、間違いなのだろうか。希望はあるのだろうか。大きな、重い課題である。
Gen11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
これをどうとるかは、むずかしい。しかし、洪水のあと10:5などにもあるように人々が別れて住むようになり、また、アブラハムも親からはなれて家を出て行くことになる背景説明なのかもしれない。そう考えると、コミュニケーションの困難さがこのことを引き起こしていると語っているのかもしれない。すぐ善悪に結びつけず、裁きを遅らせる、神の寛容と慈愛ととることすらできるのかもしれない。
Gen12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
祝福は神から来る。このことを忘れてしまうひとは祝福の源にはなれない。しかし、ひとはやはり祝福の源として人を見るのかもしれない。神を見ることはできない故に。マタイ5:16「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」立派な行いの源はどこにあるるのか。どのようにしてくるのか。
Gen13:12.13 アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。
アブラハムばかりでなく、ロトの選択と行動からは学ぶことが多い。神を畏れつつ、誘惑に陥る、神から離れはしないが、豊かな祝福のうちに生きることができない存在としてである。6節に二手に分かれて住むことになった理由が「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。」と書かれ、また、それゆえに、と書くのは行き過ぎかもしれないが、それに続く7節の「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。」も引き起こしてしまっていたのだろう。祝福が争いの元になっている。そして、ロトは邪悪な人々に近づいていく。自分は邪悪にならないという強い意志はあったろう。そしてそれは、確かに守られたのだが。
Gen14:22,23 アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。 あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。
この決然とした態度には圧倒される。邪悪なソドムからは祝福を得ないということだろうか。単に一般的に他人から祝福を得ないということではあるまい。サレムの王メルキゼデクからは祝福をうけ、捧げ物をしている。13節の同盟、14節の訓練を受けたものの存在などよくわからないことも多い。21節でソドムの王が人を選択し、富を放棄しようとした理由はなんだろう。
Gen15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
信仰義認の根拠でもある聖句である。(ローマ4:3、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23)しかし、ヤコブでなくても、信仰を切り離して考えることには違和感もある。アブラムもここに至るまで、すでに、神様がいつくしみ深い、信じるに足る、信じて余りある方であることを学んでいたはずである。おそらく、パウロの信仰義認自体の意味づけが特別なのだろう。
Gen16:8,9言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
サライは明らかに主の二つ目の問いには答えられなかったろう。戻るしか道はない。しかし、主は、ここで約束を与えらえる。11節「主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエル(シェマ+エル:主は聞き入れる whom God hears)と名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。」エル・ロイ(わたしを顧みられる神)(13節)と出会い、従順に仕えることも、単なる義務、女主人の奴隷としてではなく、主に従う信仰者としての希望の道が示されたのではないだろうか。主はまさに悩みをお聞きになる主である。
Gen17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。
このあと祝福と契約、その証としての割礼、さらにイサクが世継ぎとして生まれることが語られる。しかし、最初は、この1節である。全きものとなりなさい。マタイ5:48「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」を思い出す。ノアが「神に従う無垢な人」(6:9)で神と共に歩んだように、我々にもこのことが求められている。アブラムはこのときにも17節で「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」と神の約束をありえないことと思い自分勝手に解釈してしまうように、全き者とはとうてい言えない。しかし、全きものとなることを望み、神と共に歩むこと、その信仰を貫いた先達なのだろう。
Gen18:1-3 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
最初の一文はまとめまたは表題とすると、アブラハム(17:4以降アブラムはアブラハムと一貫して書かれている)は、暑い真昼にも神に仕える用意ができていたように思われる。そして、この三人への呼びかけを見ると、神の人であることを知らなかったのかもしれない。おそらくそれは関係無い。マタイ25のようにイエスとしらずに旅人をもてなしたのだろう。そのアブラハムはこの人たちを送っていく。そして17節「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」27節にあるように「塵あくたにすぎないわたし」との意識を持ちつつも主と喜びも悲しみもそして苦しみも共にする。これこそが主と共に生きることの内容だろう。わたしも苦しんでいる人の苦しみを知る主と悲しみや苦しみを共にしたい。
Gen19:18-20 ロトは言った。「主よ、できません。 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」
ロトにはいい加減嫌気がさす。最後のまとめのように29節に「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」とある。しかし、そう考えると、わたしがこのように立っていられるのも、いろいろな人のとりなしがあるからなのかもしれない。自分の救いだけを願って「わたしの命を救ってください」とは言わず、立ち止まって兄弟のために祈りたい。
Gen20:3 その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
この話は12章の記事との関係からも、26:7 からのイサクの記事との比較からも、不自然の思われる。ここでは、あアビメレクの話として解釈すべきだろう。アブラハムの周囲のひとにも直接働かれる。そして、へりくだるものには恵みを賜う。もう少し深く学びたい。
Gen21:10,11 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。
子が生まれるなどということは信じられない状況で与えられた子は、イサクと名付けられた。「サラは言った。『神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。』」(6節)その祝福のときが、大きな危機をもたらすとは。祝福のうちに平和に住むことは簡単ではない。このアブラハムの言葉も利己的に聞こえないこともない。しかしこの苦しみは、神の苦しみであったのかもしれない。イサクの子らと、イシュマエルの子ら、そして、神の子らも、神の祝福のもとで平和に暮らすことはできないのだから。一方この祝福のうちにいる、アブラハムは、周囲のひとに脅威でもある。22節、23節のアビメレクの言葉からも見て取れるように。神の苦しみは深いのだろう。
Gen22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
この章は「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。」と始まる。祝福を周囲も脅威と思うほどのアブラハム、そしてハガルとイシュマエルの苦しみ。その時に、アブラハムを主は試された。この大きな試練をアブラハムは「主は備えてくださる」と告白している。2:19 には「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」とありこれが2:23の「人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』」につながっている。神がなされたことをどのように内面化するかを主は見ておられることの表現なのかもしれない。神への応答、信仰告白でもある。神は、それにやさしく答えられる。たとえ、稚拙な応答であっても。ここでは15節から18節がそれにあたる。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(18節)
Gen23:17,18 こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、 町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。
この契約をみるとかなり細かくかつ厳正な感じをうける。(「これが書かれた時代の」かもしれないが)契約についてうかがい知ることができる。土着の農耕民または農耕をしながら住居の周囲で放牧をする民と、アブラハムのような寄留の遊牧民との明確な差があったのだろう。6節の「御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。」も特別な個別評価で、通常は、農耕民が遊牧民より優位である関係が、ある意味で逆転を起こしていることの表現なのであろうか。この背景のもとでカインとアベルの物語を読むべきという並木先生の視点は当を得ているのだろう。しかし、これは、いつの時代のものなのか。ずっとユダヤではそうだったのだろうか。
Gen24:26,27 彼はひざまずいて主を伏し拝み、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。
この章は「主の家令」の物語とも言える。2節には「アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。」となっている。この僕または家令が主人の願いを確かめながら、主人の喜びを自分の喜びとし、主人の神をほめたたえている。マタイ24:45の「忠実で賢しもべ」の例なのではないだろうか。ていねいに主人の望むことを聞き取り、主人の喜びを願って行動し、それを忠実に賢く行う。さらに、主人の指示が、無理難題ではないことも、注目に価する。(3-8, 37-41)最後まで貫徹する賢さと忠実さ(56節)にも心を動かされる。これらが、主人の信頼にもつながっているのだろう。そしてそれゆえ(単純な因果関係ではなく)家の全財産を任せられるようになっているのであろう。
Gen25:22 ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。
最後の部分は口語では「行って主に尋ねた」となっている。新共同訳で「主の御心を訪ねるために出かけた」となっていて注意を引いた。語順は口語訳の通り。尋ねたはダラシュという語だが求め相談する(to resort to, seek, seek with care, enquire, require)という感じだろうか。サムエル記上9:9,10:22 などで使われている。どこかに伺いをたてに行く場所(例えば先見者のところに)があったとまでは考えなくて良いかもしれない。
Gen26:12-14 イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、 多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。
祝福がねたみを生む構図は各所に現れる。カインとアベルにはじまり、23:6 のようにアブラハムに対しても、ここで、イサクに対しても(28, 29節参照)。この構図は続く。祝福は基本的に公平ではない。主の主導であり、争いの元にもなる。共に喜び、主をほめたたえることのなんと難しいことか。まずは、主は主であること、その主がなされることを受け入れること、比較ではなく、自分が主に従うことか。ヒューマニズムでは解決できない現実とも言える。
Gen27:38 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。
悲痛な叫びが感じ取れる。25:34では「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」となっているが、この度の母リベカと弟ヤコブのしたことを考えると46節にある妻の問題などもあったのかもしれないがエサウを責めることはできない。つまり、自分の落ち度によってもたらされたことではない不幸である。ヒューマニズム的視点からすると、悪者を探し出すか、理不尽としてそこで止まるかいずれかであろう。しかし、私たちが神様の恵みものとで生きている事実は、不公平な世界に生きていることでもある。この時にこそ、どう生きるかが問われるのだろう。エサウは「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。』」(41節)リベカの言うようにこのようなことになると「一日のうちにお前たち二人を失う」(45節)になってしまうだろう。そして、そうはならなかったところも、神様の恵みか。この「恵みの不公平性」と「信仰による応答」については深く学びたい。
Gen28:16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブの信仰による応答のはじめである。ここでも、神がまずヤコブに語りかけている。この神こそ私を導いてきてくださった神と同じ神である。ヤコブを導かれた神から学びたい。
Gen29:31,32 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。 レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。
31節は人の解釈で、これが、後々不妊がいろいろと解釈されていくひとつかもしれない。注目に値するのは、レアの最初の声が「主はわたしの苦しみを顧みてくださった」だということだ。上からの祝福ではなく、まずこの一人の女性のために降りてきて、苦しみを顧みる、苦しみをともに苦しんでくださる神である。本田哲郎神父の言葉(2014.10.4, イグナチオ教会, YouTube Video 有り)が思い出される。エレイソン(主よ憐れみたまえ)も痛みの共感がもともとの意味だと言っていた。このあとのレアの告白は「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)」「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。」「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と変化していく。苦難とともにいて共感し顧みてくださる主。イエスのスプラッグニーゾマイ(「深く憐れんで(はらわたが傷つく)」に通じる。
Gen30:1 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。
ヤコブに好かれたラケル、しかしそれで満足できなかった。レアと比較して、豊かなものが、かえって妬む構図がある。このラケルはなかなか主に向き合えない。ビルハによって子をえたときも「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」(6節)「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」(8節)である。このあとレアがジルパによって子を得たときの「なんと幸運な(ガド)」と(11節)「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」(13節)とかなりことなる。へりくだって学びたい。
Gen31:42 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」
この章には神の直接介入と思われる箇所が何回か書かれている。3節「主はヤコブに言われた。『あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。』」そして11節以降、さらに24節ではラバンに現れている。狡猾さに関しては、ヤコブもラバンに劣らない面があるが、ヤコブがこの祝福を神に帰したことは確か。その応答に神も応答してくださっているのだろう。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタイ13:12、マルコ4:25, ルカ8:18, 19:26(ムナのたとえのあと)参照)も信仰の応答、神との交わりを言っているのかもしれない。
Gen32:11,12 わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。 どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。
このへりくだりかつ恐れるヤコブと神はともにいてくださっただけではなく、組討をし、勝つことをしない。それだけ、自分を低くし、悩み苦しむヤコブとともにいてくださったということだろう。神は、突き放される神ではなく、心の貧しいものとともに貧しくなってくださるおそるべき方である。
Gen33:10 ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。
二人の側女とその子供達、レアとその子供達、ラケルとヨセフとした隊列はそのままだが、3節にあるように「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。」ヤコブには策略でこの危機を突破しようとする態度は見られない。10節も正直なことばだろう。この力は、ヤコブのところまで降りてきて組討をしてくださった神様から得られたものだろう。対立し続け、殺されそうにもなった(27:41)エサウが神のように見える、奇跡としか言えない。
Gen34:19 とくにシケムは、ヤコブの娘を愛していたので、ためらわず実行することにした。彼は、ハモル家の中では最も尊敬されていた。
「愛していた」はチャフェツ(chaphets: to delight in, take pleasure in, desire, be pleased with, 他に アヘバ ahabah, アハブ 'ahab)「とくに」は原語にないようだが、ためらわなく実行する。単純かもしれないが、こころが結びついていたのだろう。愛がもたらすものは、平和とは限らない。
Gen35:10 神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。
「イスラエル」という名は32:29「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエル(Israel = "God prevails")と呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」この意味は正確にはわからない。打ち勝つだろうか、誰が誰にだろうか。しかし、この時点でこの名前が出てくることは意味深い。家族としては危機だったろう。5節には「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」とある。信仰的な態度をとったヤコブ。それに、主が応答されたのだろう。もう少し意味を考えたい。付け加えておくこととしては、これですべてがハッピーになったのではないことである。その一つが22節。
Gen36:6エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った。
すでにエサウとヤコブと個人の問題ではなかったのかもしれない。しかし先住の民が移動するのは、嬉しいことではなかったろう。単に、エサウは狩りが好きだったから、山にセイルの山に移り住んだなどと考えてはいけないだろう。痛みは、どこにでもある。痛みをなくすことはできないのかもしれない。この世においては。
Gen37:4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。
このあとも憎さが増大していく。これを止めることはできないのか。「兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。 (8b)」しかし、11節には興味深い言葉がある。「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。 」憎さを止めるのは、主の働きに心を留めることか。難しい。
Gen38:26 ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。
ユダがここで踏みとどまることができたのも恵みか。自分の間違いを適切にみとめ、それ以上は、手を出さない。わたしもこのようでありたい。
Gen39:5  主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。
どのような時にも祝福は続く。21節「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、」祝福自体はかえって困難を引き起こす。祝福への応答は、維持されるべきもの。もう少していねいに学びたい。
Gen40:16 料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った。「わたしも夢を見ていると、編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。
「巧みに解き明かすのを見て」それ以上のことは、考えていなかったのかもしれない。つまり、人の能力に目がとまり、神を畏れ、神のみこころを求める心ではない。ひとは悲しい。人を見抜く力ではなく、神の心を謙虚に求め、その神の喜びを喜びとし、悲しみをともに悲しみたい。神を畏れることを学びたい。
Gen41:40 お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」
王の決断には驚かされるが、いま私が考えるのは、このヨセフにとっての祝福は、他の人にとって、喜べないことであるだろうということ。物語として、単純に喜ぶより、他の人のことにも配慮する心を持ちたい。そこに、神のより深いこころがあるように思われる。実際、このときは、ヤコブたちにとっては、困難の始まりであった。おそらく、多くの人にとってそうだったろう。神はその苦しみ痛みとも寄り添われる方である。そしてさらに私たちにメッセージを送りつつけられる。
Gen42:22 すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」
ルベンについては、35:22のことにより長男であるにも関わらずヤコブとの関係に問題が生じているという背景もあったろう。そして「ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。『命まで取るのはよそう。』 ルベンは続けて言った。『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。』ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。」(37:21, 22) とヨセフをこっそり助け、父親のもとに返そうと考えている。しかし弟たちとあからさまに対立することは避ける。そしてここでも持ち出すのは因果関係である。ひとはこのレベルで考える。しかし神の知恵、神の恵みは深く、次元が異なる。
Gen43:16 あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。
ユダのこの言葉は人間的にみればとても立派。しかし、人が人の命に対する責任を担うことはできない。その場合は父ヤコブと苦しみを共にするという表明だと取るのが限界だろう。しかしそれこそが愛の表現なのかもしれない。そのように言えるようになったのは、ユダの38章での経験が背景にあるのかもしれない。兄弟たちはまたもの(銀)のことでひとを恐れている。14節のヤコブの悲痛な叫び「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」にある憐れみは言語ではラケム(racham: womb, compassion)神が寄り添ってくださることを求めていると考えてよいのか。
Gen44:17 ヨセフは言った。「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」
ヨセフは弟ベニヤミンだけを残そうとしていたのだろう。実際ユダの言葉がなければ、そうなっていたかもしれない。もしそのように終幕していたら個人個人の利得の計算で終わっていたかもしれない。しかし一方に末息子と引き離されることが死にも匹敵するような老人がいる。その背景のもとでの34節「この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」の特に「苦悶」(口語訳は災、言語はラー、ra': bad, evil)にこころがひきつけられる。神の世界が見え隠れする一瞬である。隣人の「苦悶(酷い状態)」に寄り添う存在でありたい。それが “vulnerable” が意味のあるものとなる瞬間かもしれない。
Gen45:7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。
細かい言葉が興味深い。「残りの者(シェエリース shĕ’eriyth)」つまり、完全には滅びず残されるものがいること、そして、それが「大いなる(ガドール gadowl)救い(ペリター pĕleytah 逃れること)」に至ること。この神の導きが、キリストによる救いにつながっているということか。そこまでは語られていないにしても、同じ主による、救済の継続が意識されていることは確かだろう。
Gen46:27 エジプトで生まれたヨセフの息子は二人である。従って、エジプトへ行ったヤコブの家族は総数七十名であった。
この66名が「残りの者」「大いなる救いに至らせる」印であろうか。むろん、神はどこからでも、救いを起こすころがおできになるが、人間への約束の保証であろう。
Gen47:25 彼らは言った。「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。」
賢い政策、かつ、寛容(5分の1の租税)、そして民の感謝。なにも悪いことではないように思われる。しかし、国家の力が強くなり、民が、国に隷属する体制は、確立し、指導者が変わると同時に、これが悲惨な状況を生むことも、我々は知っている。聖書は、良い事の後に、かならず、問題の種について記しているように思われる。賢さを感じるとともに、我々への警告を読み落としてはいけないことも心に留めたい。
Gen48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
どのように考えたらよいかわからない。預言なのだろうか。一つ注意すべきことは、マナセにもエフライムにも祝福をあたえ、20節以降を見ると、それは、それぞれ大きな祝福である。また、これに起因した大きな争いがあったようにも思われない。また考えたい。
Gen49:25 どうか、あなたの父の神があなたを助け/全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福/下は横たわる淵の祝福/乳房と母の胎の祝福をもって。
この祝福を受け継ぐことを願いたい。わたしは心から神様に従おうと求めて歩んできた道は、祝福に満ちた道だと告白できるのだから。神の祝福と、人(父や母)の祝福については、もう少し学びたい。
Gen50:10,11 一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた。その土地に住んでいるカナン人たちは、ゴレン・アタドで行われた追悼の儀式を見て、「あれは、エジプト流の盛大な追悼の儀式だ」と言った。それゆえ、その場所の名は、アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)と呼ばれるようになった。それは、ヨルダン川の東側にある。
7節には「ヨセフと共に上って行ったのは、ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべて」と書かれている。驚くべきことである。しかし、なぜヨルダン川の東だったのだろう。カナン人は、十分強力だったのかもしれない。

BRC2013

Gen1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
時間の経過は見えない。見えないものを見ようとすると無理を生じる。「天地創造The Bible: In the Beginning」の映画を見ると映像なので分かりやすく、聖書の記述は、明らかに順序が現在の科学的理解とは異なることに気づく、科学的事実を読み込んだり、読み取ろうとするのは誤りであろう。
Gen2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。
神の宣言により一つとなる。もともと一つだったが、もとのものとは明かに違うものと一体となる。神業である。
Gen3:16 つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。
この様に人は解釈したのだろう。
Gen4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
このあとの「正しいことをしているなら」ということばが響く。どちらが先ということではないのかもしれない。
Gen5:5 アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。
このあとの人とも生きている。この記述はなにを意味するのか。アダムの時代か。
Gen6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
  神の子たちとは?いくつかの解釈はあるが、無理をしない方が良いように思われる。
Gen7:1 主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。
あなただけとは言っていない。選びなのか。
Gen8:31 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。
このあとのノアのことも見据えた言葉。アブラハム、イエスのことも見据えているのかもしれない。
Gen9:1 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。
このあとに、「しかし」が続く。神との契約とはどんなものなのだろう。あまり人同士の契約と同等に考えるのは問題があるだろう。
Gen10:15 カナンからその長子シドンが出て、またヘテが出た。
カナンの地がいずれ征服する場所。9章の呪いはその起源を一般の人に教えようと意図したものか。真理を直接的に伝える部分と、一般の人を対象として説明する部分、啓蒙の難しさも感じる。
Gen11:26 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。
系図は重要。ハランはアブラハムの兄か。
Gen12:11 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。
アブラハムはハランの弟か。
Gen13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
すでにこの時点で問題は発生している。
Gen14:22 アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。
ソドムの王へのチャレンジ。サレムの王の不思議。
Gen15:16  四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。
聖書に書かれていない神の意図はたくさんある。恐ろしい闇。そのことをも引き受けた契約である。
Gen16:6 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。
この家にも悲しみがある。子供の問題がなければ幸せだったろうか。
Gen17:17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。
アブラハムとサラは10歳程度しか離れていない。ハランは、アブラハムの兄とするのが妥当。次の章にある、サラが神の使いの言葉に対して笑ったくだりは有名だが、アブラムも笑っている。
Gen18:16 その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。
18:2 は「三人の人」19:1には「その二人のみ使い」となっている。あまり厳密に議論すると、危険かもしれない。
Gen19:1 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、
み使いが来るのを知って待っていたようである。アブラハムからの伝令によるものか。私がアブラハムなら必ず伝令を送るだろう。義人ロト(2Pet2:7)はその伝令の知らせを信じるだけの信仰は持っていた。cf v14
Gen20:11 アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。
子供が与えられるとの約束を受けていながらアブラハムは愚かな策略を用いた。約束の具体的実現と現実的神の守りが結びついていない。この愚かさを自らの弱さとしても省みる。この愚かなものをも神はご自身の約束・ご計画の実現の故に特別な介入によって守られた。
Gen20:12,16 また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。16 またサラに言った、「わたしはあなたの兄に銀千シケルを与えました。これはあなたの身に起ったすべての事について、あなたに償いをするものです。こうしてすべての人にあなたは正しいと認められます」。
やはりアブラハムの妹とするのが妥当なのか。もう一度11:27-30を確認。ミルカの方が年齢差が大きいのか。
Gen21:2 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
イサク Yotschaq: laughter (that is mockery) < laugh, mock, play, make sport サラ Sarah: mistress, that is female noble lady, princess, queen
Gen22:16 言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、
すでにイシマエルは「あなたの子」含まれていない。肉による子ではなく、契約の子が、神の子とされる。
Gen23:16 そこでアブラハムはエフロンの言葉にしたがい、エフロンがヘテの人々の聞いているところで言った銀、すなわち商人の通用銀四百シケルを量ってエフロンに与えた。
1シケル=8.33g, 銀の相場 1g=84円、3332g, 279888円、かなりの高額。これは、アブラハムに約束の実現を想像させる一つの要素とはなったろう。土地の取得と神様の約束の関連性と差異を思う。人の世では商取引の時間経過の中で契約の有効性も考える。土地は昔は人に属さず、契約も時間的限界があるものだろう。それを混乱させると問題が生じる。
Gen24:12 彼は言った、「主人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵みを施してください。
主人の神は自分にもしあわせを授けるもの。そしてそれが主人にとって恵みとなると信じる。私もそのようなしもべでありたい。
Gen25:11 アブラハムが死んだ後、神はその子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイのほとりに住んだ。
ベエルラハイロイは16:7-14で主がハガルに現れハガルが応答した場所。イサクにとってはどんな場所だったのだろうか。
Gen26:32,33 その日、イサクのしもべたちがきて、自分たちが掘った井戸について彼に告げて言った、「わたしたちは水を見つけました」。イサクはそれをシバと名づけた。これによってその町の名は今日にいたるまでベエルシバといわれている。
ba'er 井戸・穴、mayim 水、sheb'ah 七番目の、shaba' 誓い, A primitive root; properly to be complete, swear as if by repeating a declaration seven times。七回誓うことと結びついているとは始めて知った。ベエルシェバはそれゆえ「七番目の井戸」とも「誓いの井戸」ともいわれる。
Gen27:46 リベカはイサクに言った、「わたしはヘテびとの娘どものことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブがこの地の、あの娘どものようなヘテびとの娘を妻にめとるなら、わたしは生きていて、何になりましょう」。
これが本当の理由なのかと考えると人間に失望してしまう。今の時のみに目が行っている。同時に、どの時代も同じなのかと親近感も感じる。
Gen28:20,21 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。
主の選びとは、かなり異なる。この謙遜・敬虔そうな祈りに人の傲慢と罪が見えてくる。主はそれをご存じでありながらそれとは関わりなく祈りに答えられる。あたかも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われるかのごとく。
Gen29:13,14 ラバンは妹の子ヤコブがきたという知らせを聞くとすぐ、走って行ってヤコブを迎え、これを抱いて口づけし、家に連れてきた。そこでヤコブはすべての事をラバンに話した。ラバンは彼に言った、「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」。ヤコブは一か月の間彼と共にいた。
ヤコブは全てのことを話したとあるから、長子の特権や、祝福の話しもしたのであろう。次の節から、すぐ報酬の話が始まる。この「わたしの骨肉」には、ヤコブのずる賢さ以上のずる賢さがのぞく。それを意図したかどうかは別だが。「アラビア遊牧民」(本多勝一著)の世界を思い出す。
Gen30:16 夕方になって、ヤコブが野から帰ってきたので、レアは彼を出迎えて言った、「わたしの子の恋なすびをもって、わたしがあなたを雇ったのですから、あなたはわたしの所に、はいらなければなりません」。ヤコブはその夜レアと共に寝た。
なんともおぞましいと言いたくはないが、ラバンだけでなくヤコブですらも、レアも、ラケルも自分の益を求め策略をめぐらす。それぞれに全く神を知らないか、神を恐れないかの行動。ここに平和の神はいない。しかし、この中でも、神は働いておられる。その働きを見いだし認めることが信仰か。よいものを他者に、自分を利用するものに与え、自分については、神の祝福を、神に寄り頼んで信仰によって待つ。アブラハムにはその態度が認められた。信仰は血に依らないことの一つのあかしなのかもしれない。
Gen31:12 神の使は言った、『目を上げて見てごらん。群れの上に乗っている雄やぎは皆しまのあるもの、ぶちのもの、霜ふりのものです。わたしはラバンがあなたにしたことをみな見ています。
背景には、迷信的なヤコブの策略があるが、それにたいする、祝福にも神の介入があったことを物語っている。31章のやりとりは非常に興味深い。一番印象にのこるのは、Rm5:8。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ヤコブはこの真理をおそらくまだ悟っていない。ラバンといい勝負である。
Gen32:24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。
v20にいつもながらのヤコブの策略が書かれている。ここでは神、神の使い。v2 の記述は、そのあとに続く部分のまとめかもしれない。ここは、信仰の岐路でもある。重要なひととき。ヤコブがへりくだり、神に祈っている。
Gen33:9 エサウは言った、「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」
「弟よ」ということばに、「神のもとにある」敬虔さを感じる。アダムの場合、カインの場合、放蕩息子の兄の場合などを思い出す。27章のエソウとは、やはり少なくとも、表面的には変化が見られる。
Gen34:13 しかし、ヤコブの子らはシケムが彼らの妹デナを汚したので、シケムとその父ハモルに偽って答え、
聖なる契約のあかしである割礼を、いつわりと v25 痛みを利用する道具にしてしまう。そして v31 でヤコブもこの祝福である子らの行為をとがめられない。なんども哀しい。ここにも信仰の継承はない。
Gen35:1 ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。
Gen28:10-22 「石を神の家」とする、そして「10分の1」を捧げると約束したことを思い出させられたのかもしれない。神の誠実さと自分の不誠実さ、これを意識することが、たとえ貧弱な信仰であっても、大切なのだろう。
Gen36:3 また、イシマエルの娘ネバヨテの妹バスマテをめとった。
26:34, 35, 26:46, 28:6-9 技術的にも、エサウも努力したのだろう。イサクに好かれるために。しかし、人の努力では祝福はやはり得られないのかも知れない。神に目をむけないと。
Gen37:25 こうして彼らはすわってパンを食べた。時に彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。 
パンをたべた光景が恐ろしい。この食卓でももしかすると、アブラハム、イサク、ヤコブの神に感謝していたかも知れない。おそろしい光景。神はいない。しかしやはりここにも神はおられたのかも知れない。
Gen38:12 日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終ってその友アドラムびとヒラと共にテムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。
タマルは、ユダの妻が死に、喪があけるまで待ったのだろう。ある正しさを待った。ユダは、正しさを主張しようとした。この経験は、ユダの人生にも影響をおよぼしたに違いない。
Gen39:19 主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。
まず、この妻は、家の者に、言っている。おそらく、ヨセフはそんなことをしないと信頼していた人も多いだろうが、大きな家では、そんなうわさを受け入れてしまう人もいるだろう。そして使用人は、言葉をはさめない。しかしそんなヨセフにとって絶望的な、正義は無いのかと言いたくなるような状況でも神様は働いておられる。
Gen40:14 それで、あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。
ヨセフは、どのように信仰を訓練されていったのだろう。自分の人生をとおして神様を見いだしていったのだろう。精神性において突出していたのかもしれない。
Gen41:16 ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。
v28 にもあるように「神がパロに示された。」このヨセフ物語は、通常は、イスラエルがエジプトに移住した経緯と、12部族の由来を示すものとされる。しかし、神がパロに語り、平安を与える。パロはここでその声を聞き、それにこたえるストーリーともいえる。神はエジプト王の神でもあり、ひとりの献酌官のこころにも働かれる神である。
Gen42:28 彼は兄弟たちに言った、「わたしの銀は返してある。しかも見よ、それは袋の中にある」。そこで彼らは非常に驚き、互に震えながら言った、「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」。
神を恐れる心は当然あったのだろう。今の日本のように無神論が中心ではない。しかし、神がどんな方かを「知って」(交わりの中で)いるわけではない。ここでこのことを通して、兄弟たちも、神について知り始めることを表している。
Gen43:18 ところがこの人々はヨセフの家へ連れて行かれたので恐れて言った、「初めの時に袋に返してあったあの銀のゆえに、われわれを引き入れたのです。そしてわれわれを襲い、攻め、捕えて奴隷とし、われわれのろばをも奪うのです」。
神に信頼できないもの、自分の罪を告白しないものの心はこのようなものなのだろう。常に自分が思考の中心である。おそらく、神も、なにか自分の過ちを見つけて罰するものとしてのみ、意識されているのだろう。
Gen44:32-34 しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、この子供を連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」。
ここで永久に罪を負う覚悟(43:9)が表される。16節での「神がしもべらの罪をあばかれました」が、ここの言葉に結実しているのかもしれない。父への愛も言い表されている。罪の告白は、新生(あらたな一歩を踏み出し、新しい命に生きること)をともなっている。
Gen45:7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
ヨセフの中でも長い葛藤があったに違いない。ユダの言葉44:15, 19-34 を聞きながら、神への応答へと導かれたのだろう。神は、一人一人を、その時々にみちびかれ、応答を待っておられる。
Gen46:28 さてヤコブはユダをさきにヨセフにつかわして、ゴセンで会おうと言わせた。そして彼らはゴセンの地へ行った。
ユダは特別の役割をあたえられている。子どもは二人しかいない。しかし、長兄たち、ルベン(35:22)、シメオン、レビ(34)のこれまでの問題を考えると、ユダは、ヤコブにとって信頼できる存在だったのだろう。無論、ユダも、様々な経験をして、ここに導かれて来ているが。
Gen47:1 ヨセフは行って、パロに言った、「わたしの父と兄弟たち、その羊、牛およびすべての持ち物がカナンの地からきて、今ゴセンの地におります」。
誤植 コセン>ゴセン。現在読んでいるのは、「小型聖書(口語)BIBLE COLL. JAPANESE JC 44 Series JBS-ed. 64-50,000 1980 印刷 平版印刷 製本 星共社」
Gen48:22 なおわたしは一つの分を兄弟よりも多くあなたに与える。これはわたしがつるぎと弓とを持ってアモリびとの手から取ったものである」。
最後の記述は、ヤコブの言葉としては不自然。書かれた時期、背景を反映しているとしても、鍵括弧の外が適切。
Gen49:10 つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。
すでに起こったこと、これからのことが、一緒に書かれている。どのような起源で何をかたっているのだろう。
Gen50:15 ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。
「ことによると」のニュアンスがわからないが、なにか悲しい。神に委ねることはできないとする人生なのか。それとも、家族など委ねられたものを守るためには、すべての「人の知恵」を使おうということか。


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出エジプト記

出エジプト記(1)

旧約聖書は古い約束、契約の書、新約聖書は新しい約束の書、聖書全体は、一つの救済史を記しているとも言われます。神の救いの歴史です。出エジプトはまさにそのエジプトでの奴隷生活からの救済が書かれています。特にキリスト教にとっても特別の意味を持つ過ぎ越の祭りの起源も記されています。また旧約聖書最初の5巻(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)は律法とも呼ばれますが、出エジプト記20章にはその核となる、「十戒」がモーセを通して民に与えられることが書かれています。キリスト教の教派 (denomination) によって、十戒をどの程度重要視するかは変わりますし、そもそも10とはどのように数えるのかも教派によって異なっています。律法をどうとらえるかの分かれ道でもあります。

さて、創世記から出エジプト記への大きな変化は何でしょうか。創世記では、神が個人に現れメッセージが語られます。アダムにエバに、カインに、ノアに、そしてアブラハムに、ハガルに、イサクにヤコブに。他にはだれに語っていますか。アブラハム以降、族長達の神で、その神を、その家族も僕も信じ、周辺の人も、これら族長達が神の祝福を得ていることを認めます。信仰を守るためには、他の民または町からある程度離れて住みます。ロトはソドムに住みますが信仰的な意味では、アブラハムとは大分違う記述がされています。ヤコブはシケムの町の近くに住みますが、娘デナのことで問題がおきます。そしてまた町から離れて住みます。ここまでは、個人的な神との交わりの段階ですが、ヨセフのいるエジプトに移住してから、民が増え、一つの家族だったものが、民族、国民と言われるグループになったのが、出エジプト記の背景です。

個人が神に向き合い、それに神が応答する、神が語りかけ、個人がそれに応答する、このことは、出エジプト以降も続きます。たとえば、出エジプト記1章には、助産婦が王より神を畏れたことが書かれています。そしてモーセです。しかし、民族での出エジプト以降では、共同体としての規範が必要となります。そこで与えられるのが律法だとすれば、非常に自然なことと言わざるを得ません。創世記は興味深い話しが幾つも出てきますが、ひとつひとつの行動について、これは正しいのかと問うとなかなか判断が難しかったのではないでしょうか。その正しさの基準が神が与えられた律法です。

個人的な神から、民の神、神が個人に語りかけるところから、神が民を選び出す。そのことが書かれているのが出エジプト記ということになります。その最初が、3章の神が名を告げられることと、その神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主ということです。この神のもとでモーセを通して告げられる神のことばで、民は一つになれるのでしょうか。そのように、神のみこころに生きる者となっていくのでしょうか。神とモーセと民、神様が望んでおられる関係はどのようなものでしょうか。そして民にとって神はどのような存在なのでしょうか。

出エジプト記(2)

出エジプト記という名前は、創世記の時にも書きましたが、もともとのヘブル語聖書の名前ではありません。大体は、紀元前3世紀頃からエジプトのアレクサンドリアで翻訳されたというギリシャ語訳旧約聖書(Septuaginta, セプチュアギンタ、七十人訳と呼ばれ、略記は LXX)にある名前が、紀元4世紀ごろのヒエロニムスという教会のリーダーを中心とした人たちがラテン語に聖書を翻訳したウルガタ訳へと引き継がれて、我々がいま持っている聖書の各巻の名前になったと言われています。すべての巻の名前がそうかどうかは調べていないのでよくわかりません。

ICUの名誉教授の並木浩一先生(旧約学)の定年前の最後のキリスト教概論に一学期間殆ど出席したのですが、並木先生曰く、この七十人訳はアレクサンドリアに移り住んでいたたくさんのユダヤ人が、2世・3世となっていくにつれ、ヘブル語を話せなくなっていくこども達が大多数になってきた。そのこども達に信仰を継承すべく翻訳をしたもので、読み聞かせのような形式になっており、厳密な訳というより、聖書の信仰を伝えることを目的にしていると言っておられました。新約聖書の記者のルカなどのギリシャ人は、ヘブル語はおそらく読めませんから、基本的に旧約聖書の引用は、この七十人訳によっていると言われています。

脱線しました。さて、各巻の名前に戻り、七十人訳を紀元とした各巻の名前に対して、もともとのヘブル語の聖書は、それぞれの巻の最初の言葉をとって、その巻を呼ぶときに使っていました。このあたりまでは常識または通説です。創世記はヘブル語聖書の名前が「はじめに」であることは前に書きました。出エジプト記は「これらは」来週には読み始めるレビ記は「そして呼び寄せ」です。それぞれの1章1節を見て、これらのことばがどこから取られているか考えてみて下さい。

さて、出エジプト記という名前は、内容からして自然な気がしますが、そうはっきり言えるのは 15章21節あたりまでです。そして、荒野の旅が記され、19章から40章までは、シナイにおける契約について書かれています。そしてそのうちの25章からは神の幕屋に納めるものと、幕屋についてのことこまかな記述がずっと続きます。なぜこれまで細かく、書かれているのだろうと考えてしまいますよね。あまり面白いとは思えないのも自然かも知れません。

最初に遅れ気味の人ができてたのではないかと書きましたが、正直、このような聖書の内容にも関係しているのではないかと思います。

おそらく、なかなか興味を持てない理由がもうひとつあると思います。それは、創世記では、アダムとイブにはじまり、ノアを経て、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフとその兄弟達、それ以外にも、アブラハムの僕や、ロト、ハガルなど、個人に焦点があたり、様々な人々が登場、かつ、その一人一人が神様にどう答え、神様がどう導いていったかが、記されています。それに対して、出エジプト記は、アロンやミリアム、エテロ(エトロ)、ヨシュア、なども出てきますが、基本的に、傑出した人で、神が導き、それに応答していくのはモーセだけです。

20章の普通、十戒と言われる戒めが与えられるあたりまでは、アブラハムの契約に基づいて神様がイスラエルの民を購いだし、そのための指導者としてモーセを選びその器を整え、エジプトに送り出し、10の災厄の後に、エジプトを民と共に脱出し、葦の海をわたります。モーセがリーダーとして整えられるのに、荒野での40年を必要としたことなどは、考えさせられますし、しゅうとのエテロ(またはエトロ)が来て助言をするところなども、興味深いですが、それも、前半です。

この出エジプト記後半からレビ記はどんなことを考え、読んでいったら良いのでしょうか。このあたりが、聖書通読の第一関門です。

幕屋(会見の天幕)は、神様と会う場所、つまり神様が臨在する場所です。神様はイスラエルと共におられ、イスラエルは神様(主)と共に歩むというのです。これは、自分で行動規範を考え決める生活とも、だれかのリーダーシップに従って生きる道とも、合議制で進む方向を決めていく道とも違います。まったく新しい生活です。神様と会う場所はどのようなもので、どのように礼拝し、そして神様と共なる生活において、ひとはどのように生きるのか。聖なる生活とよぶわけですが、もし神の意思が明確に示されるのであれば、それは何から何まで違う生活でしょう。そのことが書かれているのが、出エジプト記後半から、レビ記です。

ガラテヤ人への手紙(新約聖書)3章24-25節では

こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
と言っていますから、律法に示された道は、神によって生かされる生活の完全な形ではないのでしょうが、神と共に生きる生活、いのちをもって生きる生活は、なにもかもみんな違う生活なんだということを教える役目はあったのでしょう。つまり清い(聖い)とはどういうことかを知らせる役目です。もちろん、一民族、聖書の記述によれば、成人男性だけで 60万人(民数記で出てきます)での出エジプトですから、エテロ(エトロ)の助言も含め、社会的な問題をどう扱えばよいかは大きな問題だったでしょう。個人で、個別に神に対してどう応答していったらよいか、ある意味ではかってに応答していた時代とは違うのです。

出エジプト記とレビ記に書かれている様々な規則は、モーセを通して与えられたと書いてありますが、基本的には祭司やレビ人のための規程ではなく、民全体、一人一人のための規程です。それが証拠に、レビ記は次のような言葉で終わっています。(レビ記 27:34)
以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。(新共同訳)
これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。(口語訳)
以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。(新改訳)

2011年2月6日のICU教会の礼拝では北中晶子牧師が「敵はどこに?」というタイトルでメッセージをして下さいました。聖書箇所はマタイ5章43-48節でした。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。」
「敵を愛することはできません。キリストがおられなければ。しかし、わたしたちもキリストによって愛することができます。神様の前に立つとき敵も味方もありません。もしそうでないなら、わたしたちは古い生き方をしているのです。イエス様は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと言っておられます。あなたがたの天の父の子となるためにと。イエス様がではなく、私たちが神様の子となるためです。小さな日常の中でつぎのように答えたいと思います。『神様わたしたちの敵は確かにそこにいましたが、あなたに助けを求めたとき、わからなくなってしまいました。あなたにあって、わたしもあの人も同じように哀れみをうけ、恵みをうけ、ほんとうのところ敵も味方もないことをあなたにあって知らされたからです。』」
それほどの大きな変化の一部を、イスラエルのひとたちも、出エジプト記・レビ記を通して教えられようとしているのでしょう。よくは分からない部分があっても、疑問をもちつつも、少しずつ読み続けましょう。神様の救いの歴史としての旧約聖書はまだはじまったばかりです。

出エジプト記(3)

出エジプト後半では律法が与えられるわけですが、前回書いたように、主が民の内に住まわれるということが出てきますね。
また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新共同訳)
わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 口語訳)
わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新改訳)
そして出エジプト記の最後40章には神の臨在の証である昼は雲夜は雲の中に火があり民を導いたことが書かれています。

もう一つ出エジプト記の大切なことは、エジプトを出てすぐからイスラエルの民の不信・不従順が繰り返されていることですね。特に32章の記事には驚かされます。そしてモーセが神に民についてとりなしの祈りをすることも記されています。32章32節には「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と書かれています。神と神を信頼するものとのコミュニケーションによって明かされる神様のみこころの記述とも表現できるかもしれません。

旧約聖書には明確には書かれていませんが、使徒行伝7章23節・30節にはモーセが荒野でエテロのもとにいた期間を40歳から40年間としています。モーセはユダヤ人に律法をもたらしたひととして記憶されますが、最初の40年間に王宮で教育を受け、次の40年間に人間として練られ整えられたのでしょう。(出エジプト記7章7節には「彼らがパロと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」という記述だけがあります。)モーセは何を支えに生きていたのでしょうか。モーセにとって主はどのような方だったのでしょうか。確実なのは、モーセは直接神と語り合い神からのメッセージを民に伝えたと書いてあることですね。

出エジプト記(4)

いのちのことば社の「新聖書注解」から梗概を引用します。出エジプト記は舟喜信先生です。
  1. 序文 1章
  2. 救いの準備 2章1節-7章7節
  3. 十の災害と出エジプト 7章8節-15章21節
  4. シナイへの旅 15章22節-18章27節
  5. 契約 19章-24章
  6. 幕屋 25章-31章
  7. イスラエル人の偶像礼拝と、モーセのとりなし 32章-33章
  8. 契約の更新 34章
  9. 幕屋の構成と建設 35章-40章
(詳細は省略)


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聖書通読ノート

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Exodus 1:6,7 さて、ヨセフとその兄弟たち、ならびにその世代の人々はすべて死んだが、イスラエルの人々は多くの子を産み、おびただしく増えて多くなり、ますます強くなって、国中に溢れた。
このあとには、エジプト人によるさまざまな方策がとられたが、(守られて)人数が増えていったことが書かれている。アブラハムの家族は、ウル(おそらく古代ウル王朝後)から、出てくるが、カナンの地での三代の間には、高々70人(5, おそらく男性の家長・族長の数)であったものが、エジプトでの何代(数代)かの間に、登録された男性だけで 60万人(出エジプト時)になる。一人から10人程度が生まれれば、不可能ではない数字であるが、脅威の増大である。いずれにしても、民族としては、エジプトがふるさとである。エジプトの異民族ということだろうか。エジプトは、イスラエルにとって、非常に重要な意味をもつのは、自然だろう。
Exodus 2:6 開けてみると、赤子がいた。それは男の子で、泣いていた。彼女は不憫に思って、「この子はヘブライ人の子です」と言った。
ヘブライ人(עִבְרִי: ʿiḇrî , Hebrew = "one from beyond")は、創世記14章13節に最初に現れ、その後、ヨセフ物語でエジプト人から見てよそ者を表すことがとして使われている。基本的に、よそ者が、イスラエルを表す言葉になったということだろう。ここで登場するモーセの姉は、ミリアムだと思って読んでいたが、その可能性は低いように思う。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるとき、お産の台を見て、男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ。」(1章16節)とあり、女性は、おそらく、エジプト人に嫁ぐことが普通に行われていたのだろう。この姉の行動から、10歳前後にはなっていると思われ、モーセがミデアンの地にいる間に嫁いだ可能性が高く、かつ、多産だったことから、姉も何人もいたのではないかと思われるからである。むろん、どちらにしても、確証はない。
Exodus 3:9,10 今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私はエジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」
モーセに使命が与えられる箇所である。引用句に、「今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。」とあるが、これは、それまで、届いていなかったというよりも、モーセに主も同じ思いであることが共有されたということなのかなと今回思った。モーセの出自を除くと最初の記事が「それから長い年月がたち、モーセが大きくなってからのこと、彼は自分の同胞のところに出て行き、彼らが苦役に服しているのを見た。モーセは一人のエジプト人が同胞のヘブライ人を打つのを見た。」(2章11節)である。ここでの行動は失敗するが、これが、たんなる苦役、虐げという状況ではなく「人々の叫び」として、主が、行動を起こされるような事態であることを、モーセが受け取ったということだと思う。ある意味の信仰告白であり、それは、主との関係のなかで、生じたものである。超自然的な、神の声というより、まさに、信仰の告白なのだろう。
Exodus 4:1 モーセは答えた。「しかし、彼らは私を信じず、私の言うことを聞かず、きっと、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
この「彼ら」は、エジプト人だろうか、ヘブライ人だろうか。おそらく後者なのだろう。この前に書かれているのは、民の長老たちに告げることばについてであり、モーセは過去のことからも、ヘブライ人からの信頼が得られるかに不安があったと思われる。むろん、ここで示される二つのしるしは、ファラオの前でも行われ、魔術的であるが、モーセにとって、生涯の課題は、民の信頼だったとも思われる。それを表している、エピソードと考えるのが自然であるように、思う。「さて、その途中、宿泊地でのことであった。主はモーセと出会い、彼を殺そうとした。」(24)については、よくわからないが、この前に「あなたの長子を殺す」(23b)とあり、文脈からは、頑なになるファラオの息子が殺されると取れるが、それだけの緊迫感、重大性が語られていることの表現かもしれないとも思った。
Exodus 5:1 その後、モーセとアロンはファラオのもとを訪れて言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『私の民を去らせ、私のために荒れ野で祭りを行わせなさい。』」
なぜ最初の要求が「祭り」なのかよく理解できなかったが、まず、エジプトの王のもとで言うべきこととして「彼らは(イスラエルの長老たち)あなたの声に聞き従うだろう。そこで、あなたとイスラエルの長老たちは、エジプトの王のところに行き、言いなさい。『ヘブライ人の神、主が私たちに現れました。どうか今、私たちに三日の道のりをかけて荒れ野を行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」(3章18節)とある。この実行である。しかし、単にそう命じられたからではいけないだろう。このあとの、ファラオの対応の方が、自然に見えてしまう。「主とは何者か。」「イスラエルを去らせはしない」(2)「彼ら(イスラエル)は怠け者」(8)「あの者たちの仕事を増やすべきだ。そうすれば、彼らはそれにかかりきりになり、偽りの言葉に目を向けなくなるだろう。」(9)自分達と行動様式が違う人たち、ひきこもりなども含め、理解不能な行動をする他者にたいして、現代でも多く身近にある対応である。礼拝も、そのひとたちが、たいせつにするものをたいせつにする基本なのだろう。同時に、良い悪いではなく、理解できないのも自然であると思う。ただ、理解できないものと出会った時に、どう対応するかについては、考えさせられる。
Exodus 6:2-5 また、神はモーセに告げた。「私は主である。私は、アブラハム、イサク、そしてヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名は彼らに知らせなかった。私はまた、彼らと契約を立て、カナンの地、彼らがそこにとどまっていた寄留地を与えることにした。私はまた、エジプト人が奴隷として働かせているイスラエルの人々の呻き声を聞き、私の契約を思い起こした。
引用箇所には、三つのことが書かれている。「主(ヤハウェ)の名の告知」「カナンの地を与える契約」「奴隷としての呻き」。このあとに「モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは落胆と過酷な労働のために、モーセの言うことを聞こうとしなかった。」(9)とある。労働が増えたあとであるので当然だとも言える。三つについて考えても、実際には、奴隷としての呻きが増大せざるを得ない状況になっていること、すでに、カナン人が住んでいる、カナンの地に行くことが適切なことなのかどうか、非常に疑問である。紛争が頻発し、増大することは確実である。そう考えると、最初に置かれている、「主の名の告知」が重要なのかなと思った。主のみこころとしても、イスラエルが受け取ったメッセージとしても。それは、主と、民との、人格的な(他に言葉が見つからないのでこの表現を使うが)交わり、関係性の構築の開始を意味しているのだろう。丁寧に見ていきたい。この章の最後には、レビがイスラエルの第三子でることとレビからモーセとアロンまでの系図がある。レビーケハトーアムラムーモーセとアロン。この三代、またはモーセやアロンの孫までをふくめても、五代という短期間に、70人から、60万人はちょっと異常である。驚異としておこう。
Exodus 7:5 私がエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの人々を彼らの中から導き出したとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる。」
ここから過越まで7つの災厄と言われるものが下され最後にイスラエルはエジプトを去ることになる。その前提として「しかし、私はファラオの心をかたくなにするので、私がしるしと奇跡をエジプトの地で重ねても、ファラオはあなたがたの言うことを聞かない。」(3,4a)と語られている。イザヤ書(6章9,10節)などの「悟ってはならない。よく見よ、しかし理解してはならない。」とも近いように思った。さらにこの章の最初には、「見よ、私はあなたをファラオに対して神とし、兄のアロンはあなたの預言者となる。」(1b)とある。本当に、主のみこころは「主が主であること」を知ることなのだろうか。歴史的にみると、それは失敗しているように思う。イスラエルの民にとっては、このことが「主が主であること」を理解する原体験になったとは言えるだろう。もっと、複雑なことを伝えようとしているのかもしれない。たとえ、これが、聖書記者が受け取ったものであったとしても。
Exodus 8:14,15 魔術師たちも秘術を使って同じように行い、ぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよは人にも家畜にもついたので、魔術師たちはファラオに、「これは神の指によるものです」と言った。しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が語られたとおりである。
この章では、最後、ファラオもイスラエルを去らせることを一旦受け入れることが記述されている。実際には「心をかたくなにして」(28)去らせないが。これまでは、魔術師たちが秘術を使って同じことをしたことが書かれている。(3, および、7章11, 22節)魔術師について、詳細は不明だが、現代で言うと、科学者といっても、良いのかもしれない。そんなまやかしならすることが可能だとか、そのたねはこんなことだと説明して、その背後にあるものを見ようとしないことは現代でもある。しかし、ここでは、同時に「これは神の指によるもの」と、告白している。人間の知識では理解できず、人間技では不可能だということなのだろう。そう書いているからといって、現代の知識や、技術でそれが解明できないということでは無論ない。ひとつの文学的表現なのだから。しかし、状況の変化の描写としては、興味深い。背後には、主の全能性があるのだろうが、それをもって、主が主であることを示すことが本当に、御心なのかと考えてしまう。聖書記者と一致できない点である。
Exodus 9:25,26 雹は、エジプト全土で野にあるすべてのものを、人から家畜に至るまで打った。雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。
この章には、疫病と、腫物と、雹の災いについて書かれており、疫病と、雹については、イスラエルと、エジプトの家が区別されたことが書かれている。また、雹についての記述が長く「しかし、主の言葉に心を留めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した。」(21)などの記述もある。非常に多くの家畜がいるときには、野ではないところに置くとは、どこなのか不明であるが、いずれにしても、自然災害における、ひとの区別は、おこらない。それは、一般恩寵のようなものである。(マタイ5章45節)引用句では、「イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。」とすることで、ある合理性を確保している。しかし、これは、ひとつの信仰告白と考えるべきで、普遍性のある事実だと考えるのは、問題がある。ひとりひとりの事情は不明、あるメッセージは含まれていても、神様にその責任を委ねることはできない。
Exodus 10:13,14 モーセがその杖をエジプトの地の上に差し伸ばすと、丸一昼夜、主は地に東風を吹かせられた。朝になると東風はばったを運んで来た。ばったはエジプト全土を襲い、エジプトの領土全体にとどまった。このようにおびただしいばったの大群は前にも後にもなかった。
この章には、ばったの災いと暗闇の災いについて書かれている。しかし、イスラエルとエジプト人をと区別することは書かれていない。一般的にも、雹は地域性が高いが、エジプトなどでのバッタの被害はかなり広範囲で、区別することなどは、当時も考えられなかったのだろう。わたしは、バッタの被害を経験したことはないが、映像ではみたことがある。訪問した、アフリカの地でのバッタの被害などを思い浮かべると、ほんとうになすすべがない、人間の無力さを感じる。同時に、あるときに、さっといなくなることも確かなようである。ひとのコントロールできないものなのだろう。三日間の暗闇については、不明である。厚い雲なのだろうか。
Exodus 11:2,3 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」主はエジプト人が民に好意を持つようにした。モーセその人もまた、エジプトの地でファラオの家臣や民から厚い尊敬を受けた。
「銀や金の飾り物」と「厚い尊敬」について考えた。荒野で、高価なものは、基本的には、不要である。食料などを購入するという記述もこのあとにもないので、おそらく、礼拝する、神の幕屋のためだろう。主の配剤(ほどよく取り合わせること)とも言えないこともないが、準備が良すぎるように感じた。厚い尊敬も、すこし唐突である。高価なものを求めれば得られる背景を説明しているのかもしれない。伝承として語り伝えられていく中で、加わっていった説明的なものかもしれない。
Exodus 12:39 彼らはエジプトから携えて来た生地で、種を入れないパン菓子を焼いた。パン種がなかったからである。エジプトから追われ、大いにせかされていたので、道中の食料を自分のために用意する余裕もなかったのである。
過越祭と除酵祭の起源が書かれている。しかし、調べてみると、旧約聖書では、除酵祭は、出エジプト記、レビ記、申命記、歴代誌下、エズラ記にしか記されていない。過越祭は、これらに加え、民数記、ヨシュア記、列王記下、エゼキエル書だけである。「王はすべての民に命じた。『この契約の書に記されているとおりに、あなたがたの神、主の過越祭を祝いなさい。』実に、イスラエルを治めていた士師の時代から、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われたことはなかった。ただヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われただけであった。」(列王記下23章21-23節)とあり、少なくとも、大々的には祝われていなかったことがわかる。国家存亡の時に、民族団結のために、使われたようにも感じてしまう。起源とともに、伝承・継承に興味を持った。
Exodus 13:14,15 将来、あなたの子が、『これはどういうことですか』とあなたに尋ねるときはこう答えなさい。『主は力強い手によって私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださった。ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』
なぜ雄なのか、初子なのかなどの社会的な疑問は、存在する。この章では除酵祭と過越祭の規定が書かれており、祭りは特別なことを思い起こすため、それを経験したものとしてのアイデンティティ、そして、団体としての結束を確認するものなのだろう。現代は、自由と平等も関係して、なにを伝えていくかによって団結することは、一般的には難しくなっている。宗教儀式も同様なのかもしれない。しかし、わたしたちの「子」の世代と共有すべきことはあるだろう。そこに、主がかかわっているという、普遍性と謙虚さは、やはり、たいせつなように思われる。強制はできず、任意団体、選択できる契約による集まりだろうか。それが差別的にならず、排除の構造を生じさせないようにも考えなければならず、難しい。
Exodus 14:21,22 モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
実際になにが起こったかは、再現性はなく、不明である。これに近い現象が起こることがあると証言するひともいるようだ。13章17節に「神は彼らをペリシテ人の住む道に導かれなかった。」とある、関連で考えた。海岸線沿いに行った方が明らかに近いが、それを避けたという記述だろう。しかし、葦の海のほうに回るのでは、海に行き止まることは確実で、そのことは知っていたと考えると、湖が点在している、スエズ運河の方向に進んだということなのかもしれないと思った。当時の地形は不明だが、スエズ運河を作るころの地図であればあるだろう。このようなことを考えること自体、あまり意味がないかもしれないが、解釈はいろいろとあり、規模などは不明として、故事の伝承がもととなっていることは、十分にあるのではないかと考えるからである。祭りをしなかった、長い期間があるとはいえ。
Exodus 15:25,26 そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」
マラでの出来事である。ここで「法と掟」とあるが内容は不明である。また、ここに、「彼を試みて」は、モーセなのだろうが、詳細は不明である。「癒すもの」とある「(民の)不平」(24)に対する、モーセとの交わりを述べているのだろう。すると「掟と法」も、モーセとの間のものなのかもしれない。ここで引用されているような。
Exodus 16:6,7 そこでモーセとアロンは、イスラエルの人々すべてに言った。「夕方には、あなたがたは主があなたがたをエジプトの地から導き出されたことを知り、朝には、あなたがたは主の栄光を見る。あなたがたの主に対する不平を主がお聞きになったからだ。あなたがたが私たちに向かって不平を言うとは、私たちを一体何者だと思っているのか。」
最初に、主がこれまで、どのように導いて来られたか、エジプトの地から導き出されたことと、主の栄光をみていることを思い出させ、引用句に続く箇所では「あなたがたが不平を言ったのは、わたしたちに向かってではなく、主に向かってなのだ」(8b)と言っている。民の指導者の問題か、主に不平を言っているのか。しかし、ここでは、生存欲求が背景にあり、民を責めることはできないように思う。おそらく、主に願う、主の御心を求めるように導かれる訓練なのだろう。この直後にうずらとマナを得るようになる。
Exodus 17:2 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争うのか。なぜ主を試すのか。」
このように、繰り返し繰り返し言い争い、不平を漏らす、自虐的な内容を、語り伝えた人たちについても考えた。自分達は、元来このようなものだと気づくのは、辛いことだろう。同時に「飲み水をください」は、基本的な生存欲求で、それを訴えるのは、当然であるとも言える。民にも、長老にも、モーセにも、いろいろな葛藤があったのだろう。ただ、モーセは主と語り合っている。そこに救いの可能性が潜んでいるのかもしれない。この章には、神の杖のことが何回か登場する。(5,9)いつも持っていたわけではないのだろうか。魔術的でもある。最後にアマレクについて「このことを書物に書き記して記念とし、ヨシュアに読んで聞かせなさい。私はアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」(14b)と命じているが、これによって、記憶が残るわけで、意味は理解できるが、ちょっとおかしい。
Exodus 18:17,18 しゅうとはモーセに言った。「あなたのやり方はよくない。あなたも、一緒にいるこの民も、きっと疲れ切ってしまう。これではあなたに負担がかかりすぎ、一人でそれを行うことはできない。
興味深い。「翌日になると、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセのそばで立って待っていた。」(13)この状態を改善する、問題解決は、主の命令ではなく、モーセのしゅうと、ミデアンの祭司(2章16節)のアドバイスによる。ひとの知恵を学び十分に適切に生かす柔軟性のたいせつさでもある。表面には出てきていないが、荒野で水をさがしたりなども、さまざまな人間の知恵を使っていたろう。十分は見えていない部分を切り捨ててはいけない。
Exodus 19:8,9 すると民は皆、口をそろえて答えた。「私たちは、主が語られたことをすべて行います。」そこでモーセは主に民の言葉を持ち帰って伝えた。すると主はモーセに言われた。「私は密雲に包まれて、あなたのもとにやって来る。私があなたと語るのをこの民が聞き、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」そこでモーセは、民の言葉を主に告げた。
このあとに、十戒を受け取る準備の命令が書かれている。引用句の前には「私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(4-6a)とあり、この言葉への応答が引用句である。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば」とあるが、これができないことは、主はご存じだろう。ただ、このような関係を望んでおられることを、明確に告げ、契約の民とするということのように思う。無理なことを負わせるということではないのだろう。
Exodus 20:24 私のために土の祭壇を造り、その上で焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして羊と牛を屠りなさい。私は、私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。
十戒のあとの礼拝規定である。「私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」場所を特定せず、そこに主が臨み、祝福する。形式は少しずつ、変化していくように思われるが、共におられ、祝福を与えてくださる神が、表現されている。基本的には、律法を守ればと条件のように取れるが、基本的な姿勢であると理解した方が良いのだろう。「もし」や「だから」の愛ではなく「でも」の愛だろうか。
Exodus 21:2,3 あなたがヘブライ人の奴隷を買った場合、彼は六年間仕えれば、七年目には無償で自由の身として去ることができる。一人で来たのなら、一人で去り、妻がいたのなら、妻は彼と共に去ることができる。
奴隷に関する規定である。奴隷制を認めていること、男奴隷と女奴隷の扱いの違いなど、現代的に考えると問題を感じることが多い。しかし、少し前の世界の状況を考えただけで、驚かされる基準でもある。これが、どの時代に、どのように、行われていたか、正確にはわからないが、このような律法を持っていることを長い間誇りとしていたことは確かだろう。ここでは、ヘブライ人の奴隷を買った場合とはじまり、主体は、契約をしている、ヘブライ人が想定されているが、ヘブライ人、ユダヤ人が、このような状況に置かれていたことも、多くあり、そのような、自身の経験も、この律法をたいせつにすることを支えていたのかもしれない。やはり、驚くべき民族であると言わざるを得ない。周囲の民族は、奇異と驚嘆の目を持って、接し、ある時は排除しようとしたことも、理解できるように思う。キリスト者はどうだろうか。そのような高い基準を、自らのものとして持っているだろうか。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハネ13章35節)
Exodus 22:1,2 もし盗人が家を壊しているところを見つかり、打たれて死んだなら、死なせた人には血の責任はない。しかし、もし日が昇っていたなら、その人には血の責任がある。一方、盗人は必ず賠償しなければならない。もし彼が何も持っていなければ、盗んだものの代償として、自分自身を売らなければならない。
盗みや、横領、未婚の女性との性交、呪術、寄留者の虐待などと続き、最後には、神や民の指導者を呪ってはならないと続く。神を畏れること、そして、自分勝手な判断をしてはいけないことが示されているのかもしれない。詳細については、現代的な公平性から考えると、問題があるように思われるが、公平性を求めることは、人間の責任だと、わたしは考えているので、変化するのは当然のようにも思う。引用句は、昼か夜かで、判断が異なることが興味深い。日が昇っていたら、共同体で対応すべきということだろうか。むろん、簡単ではない場合が多い。そして、かなり詳細に書かれてはいるものの、ここに書かれている基準だけでは、判断できないことが多いことも確かである。まさに、ひとに委ねられていたのだろう。本質を受け取りながら、主のもとでの、公平性を求めるのは、責任であると同時に、困難であることは確かである。
Exodus 23:1-3 あなたは根も葉もない噂を流してはならない。悪人に加担して、悪意のある証人になってはならない。多数に追従して、悪を行ってはならない。訴訟において多数者に合わせて答弁し、判決を曲げてはならない。また、訴訟において、ことさらに弱い者をかばってはならない。
興味深い記述が多い。わたしには、適切に言語化できないが、律法と法律の違いだろうか。まず、当たり前のことのような引用句も、実はとても難しい。Evidence Based Argument 根拠を明確にした議論と言われ、今は、データ・サイエンスを学び、まさに Data Based Argument データに基づいた議論、論拠をデータに戻って構築することを学んでいるが、さまざまな困難があり、簡単ではない。多数に追従しないことも、同様に難しい。興味深いのは、続いて「ことさらに弱い者をかばってはならない。」ともあることである。人間の責任と神様の働きについても考えさせられることである。このあとには、寄留者のこと(9,12)や、貧しい者(11)、女奴隷の子(12)などなどについての記述がある。少しずつ追記されていった、または、まとめられていったのではないかとも思うが、その思考には、神を畏れつつ、人の責任、その範囲についても、考えられていることが見て取れ、深さを感じる。
Exodus 24:12 主は、モーセに言われた。「山に登り、私のもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける。」
「石の板」とある。当時の正式な文書は「石板」であったことが、認識されているのだろう。絵画では、十戒が掘られた二枚の石板を持ったモーセが描かれるが、ヨシュアを伴ったのも「石板」の運搬のためだったかもしれない。十戒だけであれば、すでに示されており(20章前半)ここで言われている「律法と戒めを書き記した石の板」は、もっと詳細なものを、想起させる。また、このあとには、「モーセは長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。ここに、アロンとフルがあなたがたと共にいる。訴えのある者は誰でも、彼らのところに行きなさい。」(13)ともあり、ある程度長くなるかもしれないことが予想されている。アロンとフルそして、「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」(7, 3も同様)と応答した、民の責任が明らかにされている。契約とは、内容の明確化と、誓約、そして、誓約をお互いに誠実に守ろうとする責任を伴った、関係性の構築のように、思った。ちょっと破ったら終わってしまうものではなく、この関係性のなかから、信頼が生み出され、醸成されることが本来の目的のように思う。
Exodus 25:1,2 主はモーセに告げられた。「私のために献納物を取りそろえるようイスラエルの人々に告げなさい。あなたがたは、心から進んで献げるすべての人から、私への献納物を受け取りなさい。
山に登ったモーセと主との対話で、示されるのが、礼拝所、幕屋建設である。主と民との契約が適切に継続され、関係性が深まり、信頼(信仰)が醸成されるには、何が必要か。民の移り気、必ずしも、従順ではないことを、モーセも、主も、そして、後代のひとたちも、よく知っていたろう。しかし、まず、整えなければならないのが、礼拝所での礼拝、そのためには、立派なものが必要だと考えたのだろう。ここは、荒野であり、その行き着いたものが、幕屋である。詳細は、読んでいてもあまりよくわからないが、特別に大切なものとして、詳細が書かれているのだろう。神殿の予型でもあろう。
Exodus 26:30 このように、あなたが山で示された設計に従って幕屋を建てなさい。
これは、どのように、記録されたのだろう。世界的に見ても、文書が残され、それが継続的に伝承されることはない時代だと思う。石板に記録することはあったかもしれないが、このような詳細は、残されなかったろう。すると、伝承、口伝である。だいたいの形が伝えられ、ある時点で、書かれたのだろうか。神殿のことを知っている人はいても、幕屋は知らないはずである。不思議に思う。どのようにして、記録されたのだろうか。しかし、非常に熱い思いがあることは、読み取れる。
Exodus 27:21 会見の幕屋の中の証しの箱の前にある垂れ幕の手前で、アロンとその子らは、夕暮れから夜明けまで、その灯を主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。
この章には、祭壇と幕屋の庭のことが詳細に書かれている。最後に、引用句の灯火について書かれている。正直、幕屋がなくなり、神殿となった期間、その後、それも、消滅、再建などがあるわけだが、そのあいだ、この詳細を引き継ぐ努力をしたのは、なぜなのか、よくわからない。ただ、引用句は、理解できるように思う。どのような状況であっても、この灯火を消さないことは、どのような状況においても、守り続けたことなのだろう。
Exodus 28:43 アロンとその子らはこれらのものを身に着けていなければならない。会見の幕屋に入るとき、あるいは祭壇に近づいて聖所で仕えるとき、罪を負って死ぬことのないようにするためである。これは、彼と後に続く子孫にとって、とこしえの掟である。
この章には、祭司特に、大祭司とおもわれるひとたちの祭服についての規定が書かれている。詳細は、正直理解できないし、それぞれの期間に、それがどのていど実際に守られたのかも、不明である。ただ、引用句の最後にあるように、神に近づく祭司、民にかわって特別な役割を果たす祭司は、命がけのたいせつな仕事であることが強調されていることは理解できる。キリスト教のもとでは、万人祭司とされるが、このような畏れは強調されない。かえって不思議でもある。考えてみたい。
Exodus 29:38,39 あなたが祭壇の上に献げるものは次のとおりである。毎日欠かすことなく、一歳の雄の小羊を二匹、朝に一匹、夕方にもう一匹を献げなさい。
毎日欠かすことなくと始まる項目は、このあと、上質の小麦粉、オリーブ油、ぶどう酒が加わる。これができなかった期間が長いのではないだろうか。しかし、たとえそうであっても、これが大切だとして、伝えられたのだろうか。祭司の文化のようにも思うが、正直よくわからない。
Exodus 30:9 この祭壇の上で規定外の香をたいてはならず、焼き尽くすいけにえも穀物の供え物も献げてはならず、また、その上に注ぎの供え物を注いではならない。
規定外の香、それは、他の神のための香ということなのだろう。乱れていた時期もあるようなので、適切に守るべきことが強調されているようにも思う。礼拝の基盤ができるということは、大変なことであろう。やはり、多くの時間がかかったのではないかと思う。
Exodus 31:18 主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。
この章には、会見の幕屋、証しの箱などの、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工するために、ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエルを指名し、ダンの部族のアヒサマクの子オホリアブを共に任命すること(2-11)がまず書かれ、次に、安息日を守るべきことと、「安息日に仕事をする者はすべて、必ず死ななければならない。」(15b)ことが書かれ、最後に、引用句で締められている。まず、板に何が書いてあったのかが気になる。「二枚の証しの板」であると、24章12節に石の板のことが書かれて以降、たくさん命じられたことすべてが書いてあるとは思えないからである。絵画などでは、十戒が書かれたものが多く、分量としては適切なのだろうが、それが「証の板」なのかは、不明である。神の指でも気になる。神様との特別な関係を示すものだったのだろう。この章にある、安息日を守らないものは、死ななければならないということばは、処刑に処すということではなく、民から、または、神様との交わりから、さらには、契約関係から絶たれるという意味ではないかと思う。それにしても、厳しい。
Exodus 32:25 モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。
興味深い表現である。民と、アロンを分け、アロンについては「民に勝手な振る舞いをさせ」と表現していること、さらに、「敵対する者の嘲りの的になった」と表現していることである。これは、ひとつの信仰告白で、当時は、周囲に敵対する者がいた差し迫った状況があったとは、思われないからである。ただ、ヨシュアは「宿営で戦いの声がします」(17)とも言っており、それなりの脅威はあったのかもしれないが。このあと、レビ人が、自分の兄弟、友人、隣人を殺し、民のうち三千人が倒れた(27,28)という記事がある。アロン、そして、レビ人も、同じように滅びる存在であることを、確認した後に、このようなことがあったことが大切なのだろうが、やはり、違和感がある。
Exodus 33:15-17 モーセは言った。「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。そうすれば、私とあなたの民は、地上のすべての民のうちから特別に選ばれた者となるでしょう。」そこで、主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも行う。あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」
なかなか難しい箇所である。主が共にいるのは、なぜか。主が共にいるとはどういうことなのか。それは、主の目にかなうからか。これも、対話(Dialogue)の一部として、普遍化しないほうがよいのだろう。罪を犯し続ける、主に従い続けることができない民、人間、主はそのような人間と共にいてくださるのか。もし、そのような自分と共にいてくださるのであるとしたら、それは、自分が目に叶うからか。さらに、リーダとして、それをどう考えれば良いのかという問題もはらんでいる。ユダヤ人も悩んだことだろう。そして、キリスト者にも同じような問いがあることは確かである。単純に、恵みの教理として受け入れてしまえば良いのだが、それでは、主のみこころをうけとることには、至らないようにも思う。
Exodus 34:5-7 すると主は雲に包まれて降り、彼と共にそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎて、宣言された。/「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。/怒るに遅く、慈しみとまことに富み幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪とを赦す方。/しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方。」
どう理解するか、難しい。後半の引用文の後半をどう理解するかもあるが、引用文は、定型のものをここに入れたと考えることもできる。ここで引用したかったのは、前半だと考える。前半は、この箇所にまさにふさわしい句である。そして、その前にある、リード文は、共にいることが強調されている。共にいる主の表現として、引用しているということだろう。ことさら「主の名によって」とあるのは、従来は「私はある」と訳されていたものを、「私はいる、という者である。」「私はいる」という方、と、聖書協会共同訳で訳された、出エジプト3章14節を思い出させる。この訳が適切かどうかは不明だが。
Exodus 35:20 イスラエル人の全会衆はモーセの前から出て行った。
幕屋や祭服など、礼拝に必要なものを指示通りに作りようにとの奨励をうけ、出ていった箇所である。キリスト教の礼拝における、最後の、派遣の祈りと祝福に似ている。このあと、「人々は、(さまざまな)主への献納物を携えてきた」と「携えてきた」(21, 23, 24, 25, 27, 28, 29)の記述が続く。それだけでなく、「主に差し出した」(22)他にも「紡いだ」(25)などが続く。同時に「心を動かされた人」(21)や、「男も女も」(22)「心から進んで捧げる人」(22)「心に知恵のある女たち」(25,26)とあり、素晴らしい。と、思うと同時に、背後の一人一人のストーリーがないと、厚みは感じられないとも思う。
Exodus 36:20-22 また、幕屋の壁板をアカシヤ材で作った。一枚の壁板の長さは十アンマ、幅は一アンマ半であった。それぞれの壁板に二つのほぞを作り、壁板をつなぎ合わせた。幕屋のすべての壁板には、このようにした。
このあとには、「壁板を金で覆い」(34)とか「銀の台座を四十作った」(26)などの記述もあり、かなりのもので、分解は可能なように作ったのだろうが、運搬は、困難だったのではないかと思われる。そのために、レビ人が召されるわけだが。少し、現実から、離れてしまっているようにも感じる。祭りや、礼拝の記述が、聖書でも、出エジプト以降、あまり書かれていないことも気になる。
Exodus 37:1 ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。その長さは二アンマ半、幅は一アンマ半、高さは一アンマ半であった。
契約の箱、贖いの座、台、燭台、香を焚く祭壇の詳細が続く。正直、あまり意味を感じないが、これを書いた人だけでなく、引き継いだ人たちも、これを、大切にしたかったのだろう。そのほとんどは、幕屋をみたことがなく、神殿も見たことがない人たちだったろう。ある伝承を、語り伝える。このイメージは、私たちには、想像もできない価値を持っていたのだと思われる。通読時には、なかなか集中できないが、他者がたいせつなものと向き合う時、それを自分もたいせつにすることができないことはある。しかし、そのときは、せめて、なぜ、そのひとたち(書いた人、伝承した人)にとって、大切なのかを考えたい。共に生きるために。
Exodus 38:26 これは、二十歳以上の男で登録された者、六十万三千五百五十人が一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルを献げた量であった。
ここに「二十歳以上の男で登録された者」の数が登場する。「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。女と子どもは数に入れず、徒歩の男だけで約六十万人であった。」(12章37節)にあるが、正確な数は、民数記にもあるが、出エジプト記では、ここだけである。大雑把に、大人100万人から200万人と、わたしは考えているが、数え方によっては、もっと多い数なのかもしれない。金の総量は「二十九キカル七百三十シェケル」(24)、引用句は、銀の総量で「百キカル千七百七十五シェケル」(25)とある。キカルは、聖書巻末の表によると、約34.2kg、シェケルは、約11.4g とあるが、割ると、丁度、3000になる。つまり、3000シェケルが、1キカルである。どうしてこのような単位になったのだろうか。約であるので、後付けであることは十分あるだろうが。
Exodus 39:30 聖なる冠である花模様の額当てを純金で作り、その上に印章を彫るように、「主の聖なる者」と彫った。
この章には、アロン(大祭司)の祭服についての記述が続く。非常に高価なものが使われていることもあるが、引用句は、純金で冠を作成している。これが荒野で、アロンのために作成されたと考えるのは、非常に難しい。わたしは、詳細を知らないが、鋳造ではないにしても、加工もかなりの作業場の構築が必要だろう。衣裳は後の大祭司のものが入り込んでいるのだろう。記述者だけでなく、伝承、書写しの間に変更が加えられることは自然なことだから。そう考えると、最初のアロンがどのようなものを来ていたかを再現することは、難しいのだろう。同時に、大祭司の祭服の重要性を伝えたかった人たちも介在したということだろう。
Exodus 40:17 第二年の第一の月の一日に、幕屋が建てられた。
「第二年」と書かれているのは、出エジプト記でここだけ「第一年」はモーセ五書にはない。イスラエルが、エジプト王にエジプトを出ることを願い出た理由は、礼拝であった。(出エジプト記5章3節)奴隷としての扱いからの解放を中心に考えるが、何度も、礼拝、いけにえを献げることを願い出ている。単なる解放、自由になることではなく、自由になって、イスラエルが契約の民として、主との結びつきを持つことが目的だったとも表現できるのだろう。ルターの「何々からの自由」だけでなく「何々への自由」と結びつくことでもある。しかし、救いを語るときの難しさと同様に、何々からの自由、解放、救いは、理解できても、何々への自由、自由は何のためか、何をするのか、主とむすびつくことは何のためで、なにを望むのかは、簡単ではない。天国の生活を描写しようとすると、陳腐になることと似ている。単純に自由は責任とセットと原理的なことを語っても、やはり理解は深まらないように思う。


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Exodus 1:8-10 ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに立ち、自分の民に言った。「このとおり、イスラエルの民は、我らよりも多く、強い。さあ、知恵を働かせて、彼らが増えないようにしよう。戦いが起こると、彼らも敵に加わって我らと戦い、この地から出て行くかもしれない。」
新しい王からみた問題がまとめられている。人数が増えて十分な勢力になってきた。忠誠心があるわけではない。さらに、エジプトから出ていくことも恐れている。有益性は認めているようだ。この言葉から現実を推測することは、適切ではないかもしれないが、異質なしかし有能・有力な民で、統治のためには危険だと考えられたのだろう。解決方法は、奴隷化である。現代でも、このような問題は存在する。どのようにしていったら良いのだろうか。共に生きることは、この時代も現代も重要な課題である。
Exodus 2:19 娘たちは言った。「あるエジプト人が羊飼いたちから私たちを助けてくれたのです。私たちのために水を汲み、羊の群れにも水を飲ませてくれました。」
娘は「エジプト人」と言っている。みただけでは、土地の人も区別はつかなかったのだろう。服装などで判断したのだろうか。違いは些細なことである。この2章に書かれているいくつかのエピソードも興味深い。特に、裁こうとして、咎められるモーセ。正しさで、行動することでは解決しないことを、学ぶ必要があったのかもしれない。ヘブライは 'one from beyond’ の意味ということである。自らを呼ぶ言葉ではなく、他の人達にとってどのように認識されていたか、自らを他者に説明するときに使った言葉のようである。平たく言うと「よそもの」か。そう考えると、ここで、エジプト人と言ったことが少し、ポジティブにも聞こえてくる。「よそもの」よりはマシだから。
Exodus 3:14 神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」
聖書協会共同訳における改訂箇所として以前から知っていたが「私はある」と「私はいる」はかなり感覚が異なる。12節の「私はあなたと共にいる。」との関連性を理解しての訳とのことである。その前には、「今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私はエジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。 」(9)とあるが、神はずっと前からそんなことはご存知のはず。そして、創世記にも書かれていること。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。」(創世記15章13節)主が共におられるということは、私達の側、出エジプト記者の信仰告白でもある。そしてそれは、過酷な現実の中で告白される。それは、主が、そのような現実を、深く憐れまれる(スプラッグニーゾマイ:はらわたが傷つく)ことと呼応しているのだろう。主が憐れみ深い方で、その主がともにおられることを告白することが、信仰告白のように思われる。信仰というより、信頼関係ということばがより適切なのかもしれない。
Exodus 4:11,12 そこで主は彼に言われた。「誰が人に口を与えたのか。また、誰が口を利けなくし、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、見えないようにするのか。主なる私ではないか。だから行きなさい。私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう。」
杖が蛇になることも、手が「規定の病気」になったり治ったりするのも、水が血に変わったりするのも、主が共におられるからである。それぞれのもの、またはモーセにその力があるわけではない。さらに、他者(アロン)との協力も伝える。アロンをそこに置かれたのも主、そしてアロンにとっても主が共におられるかどうかが、鍵なのだろう。実際にアロンと会うのは、27節である。モーセは、主が共におられることの大きさを、17節の時点で理解していたと表現されているのだろう。アロンの雄弁さを信頼したのではなく、主が共におられることにかけたのだろう。
Exodus 5:2 ファラオは答えた。「主とは何者か。私がその声に聞き従い、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らないし、イスラエルを去らせはしない。」
ファラオは「主が何者か」(自らのいのちの営みに関係のある方としては)知らない。イザヤ書などには「主を知るようになる」という表現が現れるが、イスラエルの民にとって、このうえなくたいせつな「主が何者か」を、イスラエルも、イスラエルと関わる人々にも、知ってもらうことが、この出エジプト記や、聖書が書かれた主たる目的なのかなと思った。17節では、ファラオは、イスラエルの民を「怠け者」と見ている。他者を知ることは、そのひとのたいせつなひと、たいせつなことについて知ること。それがわからないと、異質なだけでなく、よくないものとある価値観を持って排斥してしまう。そのひとのたいせつなこと、その人にとってたいせつな方について少しでも、理解が進めば、見方も変わってくる。異質なものに出会ったとき「あなたのことを教えて下さい」という謙虚さをもつこととともに、自分にとって、たいせつなこと、たいせつな人について、他者が理解できるように、ていねいに伝えることも、たいせつなことなのだろう。理解は、和解を、そして、あたらしい平和、共に生きる世界を造り出すように思う。そのための努力を、わたしは、十分しているだろうか。この聖書通読の会も、そのようなものにもなりうるかもしれない。他者に自分のたいせつな営みをつたえ、他者の受け取り方を理解しようとすることによって。
Exodus 6:1 さて、主はモーセに言われた。「私がファラオに行うことを、今こそあなたは見るだろう。すなわち、力強い手によってファラオは彼らを去らせ、力強い手によってファラオは彼らをその地から追い出すことになる。」
この出エジプトという事件によって、イスラエルの民は、主を知るようになる。「私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。あなたがたは、私が主、あなたがたの神であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出す者であることを知るようになる。」(8)しかし、ファラオやエジプトに対して行うことは、乱暴でもある。主は、ほんとうに、そのような乱暴な方法に訴えて、自らを知らしめることを望んでおられるのだろうか。イスラエルの民が、主を知るようになった、経緯を絶対化しているようにも思う。他のひとが主(ほんとうに大切な方、普遍的真理(それがあるとして))を知る道筋は、違うかもしれない。14節から、27節まで、アロンの系図が書かれている。創世記などの執筆意図かもしれないが、自分もこの系図のどこかにつながっていることを発見することによって、関係性を知ることは、語られているイスラエルの民にとっては良いかもしれないが、やはり乱暴に思われる。血筋によらない、つながりを、発見または造り出すことが、お互いを知り、共に生きることにとっては、必要である。イエス様は、それを、神の御心を行う、神の子として生きることによって、モデルを示してくださったように思う。
Exodus 7:1 そこで、主はモーセに言われた。「見よ、私はあなたをファラオに対して神とし、兄のアロンはあなたの預言者となる。
これは誤解を生むからよくないことだと以前は考えたろう。しかし、そういうものなのかなと今は思う。わたしの周囲の人、学生などでも、わたしを通して、キリスト教を、キリスト教の神を、知る、知ろうとするひとはいる。わたしがそれは違うと言っても、その方たちにとって、神様を知る最も身近な存在なのだから、仕方がない。「私がエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの人々を彼らの中から導き出したとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる。」(5)ともある。私が主であるとあるが、この「主」はヤーヴェ(私はいる)をアドナイ(主)と読んでいる箇所だろうから、「神があなた方と共にいるものだということを知るようになる」とも訳せる。神がわたしたちと共におられる(インマヌエル)。まさに、イエス様は、神様の子として生き、イエス様を知った人は、神はこの方とともにおられると認識したのだろう。へりくだりつつ、この恐るべき事実を認識して生きなければいけないし、それこそが恵みであることを証することが、永遠の命を生きることなのかもしれない。「蛇になった杖を手に持ち」(15)も誤解を与えそうだと前は考えたが、上に書いたことから、異なる感覚を持った。聖書協会共同訳では「蛇」が「大蛇」となっている。
Exodus 8:18,19 しかし、私はその日、私の民の住むゴシェンの地を区別し、そこにはあぶの群れが入らないようにする。主である私がこの地のただ中にいることをあなたが知るためである。私は、私の民をあなたの民と区別して贖う。明日、このしるしは起こる。』」
このような区別の信仰はどの時代にもあるが、ひとの幼児期には、特に一般的である。自分が愛されていることの表現を、自分が他と区別されて愛されていると表現する。ここを通ることも、おそらくたいせつなのだろうが、そこにとどまっていては、神様をそして世の中を、他者を理解することはできないだろう。コロナ下にあっても、ひとりひとりは特別である。かけがえのない存在である。しかし、それは、他者も同じように、特別であり、かけがえのない存在、神様が愛し、共にいてくださる存在であることへと開かれていくべきことなのだろう。ファラオが、「一息つく暇ができたのを見て、心をかたくなにし」(11)たように、自らに起こることから、判断するのは、自然なことではあるが。一つのバイアス、宗教的には罪(まとはずれ)なのだろう。このような、神の普遍性を知ることは、むろん、わたしも含め、過去も、今も、これからも、人類の共通の課題である。
Exodus 9:19 それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう。』」
「主は翌日、このことを行われたので、エジプトの家畜はすべて死に、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。」(6)とすでに書かれており、読んだり聞いたりした人で文字通りではないことを悟ったひとは古代でも多かったろう。それでも、前章から、分離が書かれている。全体としては、あらゆる自然災厄といわれるものが書かれている。前章までには、杖が大蛇には災厄ではないが、水が血に変わり、蛙で溢れ、ぶよ、あぶと続き、この章でも、疫病、腫れ物、雹、次章では、ばった、暗闇、そして最後に過ぎ越しの起源とされる、初子である。これらは、みな神から来ている、神からのメッセージが込められていると考えていたことが背景にあるのだろう。自然の驚異をまともにうけていた時代である。それは「しかし、私があなたを生かしておいたのは、私の力をあなたに示し、私の名を全地に告げ知らせるためである。」(16)だと述べている。現代でも、このような自然災害から真理について考える面があるだろうが、日常的とは言えない。現代では、複雑な社会の中で、精神的な悩みのほうが、日常的になっているように思われる。いずれにしても、素朴とも言えるが、記述が、単純で、乱暴に感じられる。
Exodus 10:26 私たちは家畜も連れて行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも、そこに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきか、私たちには分からないのです。」
24節からのファラオとモーセのやりとりは複雑である。複雑さを表現しているのかもしれない。ファラオはなぜ、イスラエルを去らせることを拒んだのだろうか。奴隷としての労働力を失うことを避けたかったのだろうか。当時の正確な状況は不明である。欧米での奴隷解放の動き、そして現代にも残る人種差別、日本をはじめ、多くの国での差別の問題と枠組みは異なるかも知れないが、背後には、意識・無意識のうちの搾取があったのだろうか。引用箇所でのモーセのことばは、こじつけとも言えるが、同時に、すべてをもって、主に仕えることの表現とも言える。自由になること、解放は、すべてをもって主に仕える自由をもつことなのかもしれない。
Exodus 11:2,3 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」 主はエジプト人が民に好意を持つようにした。モーセその人もまた、エジプトの地でファラオの家臣や民から厚い尊敬を受けた。
不思議なことが書かれている。ここまでの災厄を文字通りに受け取れば、エジプトの地の民は、大きな苦しみが与えられたことになる。それを与えたモーセや、特別扱いされた民が厚い尊敬を受け、また、民が、高価なものを受け取ったことは、不思議である。いくつかの解釈があるだろう。個人的に、奴隷解放、植民地独立の時期を思った。それまで多大な搾取をしたにも関わらず、去っていくものに、厚遇はせず、そのあとにも、差別が残る。西洋での、Black Lives Matter も、日本での在日などの問題も。少しずつ、差別はなくなっていったとしても、搾取したものを返すことは、今後も起こらないのだろうか。さらに、このようにして去るときに、好意をもたれる秘訣については、じっくり考えたい。平和のうちに、生きる秘訣があるかも知れない。
Exodus 12:14 「この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしえの掟として代々にわたって祝いなさい。
「過ぎ越し」は元来、イスラエルと、エジプトの他の民との分離である。しかし、過越祭、そして、それに引き続いて行われる、除酵祭は、恵みの継承に主眼があったと思われる。親が恵まれていて、子がその恵みを受ける、物質的なこと、そして、愛情も含めて。親だけではなく、近親者、隣人、教師など、そして歴史のなかで、支えられることなしに、生きていくことは不可能であるにも関わらず、恵みはあまり継承されない。親や、隣人などに、感謝をする機会は多くはない。結婚式などでは、語られるが。定期的に、多くの人々から、そして、神様から頂いている恵みを覚えること、感謝すること、それは、人間にとって、根源的なことであると思う。それが、排他的にはたらくのではなく、緩やかな帰属意識と、共に生きることにつながっていくことを願いながら。
Exodus 13:15 ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』
ここまでは、家畜に関しては初子とのみ書かれているが「あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。」とあり、過越祭で屠る子羊はやはり雄が想定されているようである。牧畜業における、雄・雌の重要性については、知識がないが、遊牧においては、男の指導力は重要だったと思われる。いずれにしても、キリストの贖罪がこの背景を強く受けていることについては、特別な歴史的背景・文化的・社会的背景が影響していると考えざるを得ないのだろう。過ぎ越しの贖いのための子羊は、民族性があまりに強いことも、覚えるべきだろう。エジプトや、カナンの人たちにとっては、受け入れがたいものかもしれない。
Exodus 14:11,12 そして、彼らはモーセに言った。「エジプトに墓がないから、荒れ野で死なせるために私たちを連れ出したのですか。私たちをエジプトから導き出すとは、一体何ということをしてくれたのですか。 私たちはエジプトであなたにこう言ったではありませんか。『放っておいてください。私たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです。』」
不満に対して、主のことばとして「なぜ私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に出発するように告げなさい。」(15)とも記されている。一般的には、自分たちで決めたことではないからと考えるが、おそらく、物事はそれほど単純ではないのだろう。自分で決めたのだからという理由にされたら、それは、自己責任論である。多数決で決めるにしても、十分な情報が提供されていない場合もある。ひとが、自分の状況に不満をもつことは頻繁に生じる。すべてが満たされている状態にないことは明らかである。おそらく、神の国(神の完全な支配のもと)でも、すべてが満たされている状態ではないだろう。自分に見えていないことを覚え、まずは、恵みに感謝し、達し得たところに従って、謙虚に一歩一歩歩むことだろうか。月なみだが、わたしには、それしかいま書けない。Covid-19 下の世界を見ても、どのような政治体制、社会体制、文化的背景が適切なのか、答えをひとは持っていないように見えるのだから。
Exodus 15:25,26 そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」
一般的には伝承において、歌や詩文体のものは、古いことが多いと言われるようだ。しかし、このモーセの歌をみると、ことばは、かなり整えられているように、思われる。17節には「ご自分の山」が登場し「聖所」ともあり、エルサレムを想起させる。引用句はマラで苦い水に不平を言った民に答えて主の命令で木を投げ込むと甘くなったということの直後ににある。「戒め・掟」はなにか唐突に感じる。王国時代以降のエルサレム神殿と律法が中心のユダヤ教の影響も感じられる。ただ、ここで「あなたを癒やす(רָפָא:rapha')者」とあることには、魅力を感じる。イエス様を思い出す。9節に敵の思い「追いかけて、追いつき、戦利品を分け/思いのままに剣を抜き、この手で奪おう。」が書かれているが、追いかけるものの気持ちを理解することは難しいと思った。追いかけるものにも、神の前に生きる人生があったろうから。
Exodus 16:4,5 そこで主はモーセに言われた。「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。民は出て行って、毎日、一日分を集めなさい。これは彼らが私の律法に従って歩むかどうかを試すためである。六日目に持ち帰ったものを整えると、日ごとに集める分の二倍になるだろう。」
「律法(תּוֹרָה: towrah)」はすでに、Gen 26:5, Exod 12:49, 13:9 にありここが4箇所目である。辞書には、1. instruction, direction (human or divine), 2. Law, 3. custom, manner, 4. the Deuteronomic or Mosaic Law と意味が書かれている。4 を背景として、1, 2 の意味に取ることが多いが、3 も重要だと思った。一つには「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」(Mtt 6:11)主の祈りの中のことばの背景を思ったからである。引用句の後半に引き寄せられて、安息日の掟と考えることもできるだろうが、主たる部分は、前半、または、主の祈りにある、「日ごとの糧」を当然のこととしてではなく、恵みとして求め、恵みのうちに養ってくださる神様のご性質、方法、神様の御心とも呼べるものを、学び受け取るところに主眼があるのではないかと思う。そのうえで、5節が続く。ひとはまずしなければならないこと、命令や、それを守らないときの罰などに心が行ってしまうが、中心は、日ごとに糧をあたえてくださる、主の恵みを感謝して、受け取り、そこを起点にして神様を、自分を、人生を、そして他者を、さらに、真理を理解することなのかもしれない。
Exodus 17:13,14 ヨシュアはアマレクとその民を剣にかけて打ち破った。主はモーセに言われた。「このことを書物に書き記して記念とし、ヨシュアに読んで聞かせなさい。私はアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」
ヨシュアはこの章(9節)が初出である。アマレクについては「ティムナはエサウの子エリファズの側女であって、エリファズにアマレクを産んだ。以上がエサウの妻アダの子孫である。」(Gen 36:12)とあり、傍系から系図について述べる聖書の手法で、エサウの系統の最後に書かれている。ただ、初出は創世記14章7節である。ヨシュアは、モーセのあと、カナンを(侵略して)征服するときのリーダである。それが唐突にここで登場する。この章は水に関して民がモーセと争ったと表現されるマサとメリバの記事(7)がまずあるが、水がない、荒野であっても、すでに、その周辺をおそらく放牧地としていた先住民がいたことを表しているのだろう。男だけで60万人(Ex 12:37)とある。正確な数字はわからないが、大部隊が移動すれば、必ず争いが起こる。遊牧民では、水と牧草地を争って常に争いがあるようである。表面的なことを捉え、戦いの拒否を唱えてアマレクとの争いを批判することでは、本質的な解決にはつながらないだろう。しかし、もう少し大きなスケールで、背景にあることを丁寧に考えることは、重要だろう。共に生きることは極端に難しい。
Exodus 18:23,24 もしあなたがこのやり方を実行し、神があなたに命じてくださるなら、あなたはその任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の場所に帰ることができるでしょう。」モーセはしゅうとの言葉を聞き入れ、すべて言われたとおりに行った。
「モーセのしゅうとでミデヤンの祭司であるエトロ」(1)との再会を描くこの章はとても興味深い。「モーセのしゅうとエトロが神への焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを取りそろえたので、アロンとイスラエルの全長老たちがやって来て、モーセのしゅうとと共に神の前で食事をした。」(12)と表現には配慮されているように思われるが、助言を聞き入れての組織改革がここに書かれている。神権政治のような統治組織で、エトロの経験と智恵は有効だったと思われる。ある意味で、そのグループ外のものとの接触のたいせつさとともに、どのように受け入れていくのかは難しく、簡単に定式化はできない。その難しさと恵みをていねいに受け取ることも必要だろう。これからも、ていねいに考えていきたい。
Exodus 19:4-6 『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。 それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。 そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
主の山(シナイ山(11,18,20,23))で、モーセが、そしてモーセを通して民が受け取った主の言葉である。「鷲の翼」はなにかとても格好が良い。鷲は他にも出てくるが、このことばは旧約聖書ではここだけのようだ。その「鷲の翼の上に乗せ」主のもとに連れてこられたというのである。特別な背景を思い起こさせるには、十分である。わたしも最近、自分の人生を振り返って考えるのは、いま、このように生活しているのは、ある意味でまったくの偶然、ある意味で、特別な恵みだと感じるということである。他者にまさるものになる必要はないが、「鷲の翼の上に乗せ」てここまで連れてきてくださった主のものとして生きること、それが、他の人達にも意味のある生き方となるとの約束には、アーメンと唱えたい。互いに仕え合い、互いに愛し合い、ともに主の前を歩んでいくものとして。「契約を守るならば」は条件のように書かれているが、主がたいせつだと言われることをたいせつにすることだと考えれば、主との交わりのうちにとも解釈できる。み言葉を行い、み言葉に生きるものが、神の子として生きるものなのだから。
Exodus 20:18,19 民は皆、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音と山が煙るのを目の当たりにした。民は見て震え、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。そうすれば私たちは聞き従います。しかし神が私たちにお語りにならないようにしてください。私たちが死なないためです。」
十誡が与えられた場面である。主との交わりのうちに生きることは、イエスさま(インマヌエル:神は私たちと共におられる(Mt1:23))なしには、現実のものとして、考えられないだろう。ここでの民の反応は当然だったと思われる。これらのことばに続いて、「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」(20)とモーセは語っている。(偶)像を作ることの強い禁止もこのような特別な体験の上に乗っているのだろう。リアルな体験をひとつの像であらわすことは、そこで起こったことを冒涜することでもあるだろうから。福音書がすぐには書かれなかった背景もそのようなところにあるように思う。
Exodus 21:1,2 あなたが彼らの前に置くべき法は次のとおりである。あなたがヘブライ人の奴隷を買った場合、彼は六年間仕えれば、七年目には無償で自由の身として去ることができる。
法(מִשְׁפָּט:mishpat)は judgment, justice, ordinance で、法令または、判断基準と訳されるが、20章の十戒のときは、神の言葉とされているので、異なる。内容的にも、十戒のように、基本事項というより、詳細ついて語られている。聖書にあるのだから、これらをそのまま守るべきと考える人たちもいるが、おそらく、そのようなものではないのだろう。背景があり、実際の問題に対応することとして、その判断基準を示したものだろう。そう考えると、どのような問題が起こっていたのかを想像することはできる。引用箇所でも、ヘブライ人の中で奴隷となるもの、奴隷を買う者、使うものがいたことがわかる。奴隷の存在自体については、述べられていない。そうではあっても、当時としては、七年目には無償で自由の身として去ることができるなど、特記すべきことがあるように思われる。人間社会は、少しずつ変化していくものなのだろう。悪くなる面もあるが、よくなる面もあり、価値判断が難しいことが多い。人間社会が試されているとも言える。そして、その中にいる、わたしたち一人ひとりにある責任があることも、確かである。ある弁護士が、「司法には、多数決では決定することが不適切な個別の問題について、適切に対応する弱者保護が基本にある」と、言っていたことを思い出す。神ではなく、われわれの責任に属する営みである。
Exodus 22:21-23 いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。私の怒りは燃え上がり、あなたがたを剣で殺す。あなたがたの妻は寡婦となり、子どもは孤児となる。
勢いで(因果応報的な)最後の部分に着目することはないだろう。ここで言われているのは、寡婦や孤児を苦しめることは、主の怒りを買う(主が悲しむ)ということである。わたしが子供の頃は、寡婦や孤児が多かったが、現在のわたしたちの周囲には、離婚や、育児放棄で、母子家庭・父子家庭や、養護者不在の子供が多く存在する。自分は、そんなことに関わっていないというひともいるかも知れないが、われわれの住む社会の問題で、そこには、あらゆるレベルで、一人ひとりが関わっており、そのなかで生じる歪(ひずみ)のなかで、起きる問題のように思う。どのようなレベルの問題であっても、目を塞がず、自らの問題として、取り組まなければいけないと思う。それが、互いに仕え合うこと、互いに愛し合うことであり、共に喜び、共に泣きながら、共に生きることにつながるように思われる。聖書の時代から我々の目の前にある課題である。
Exodus 23:33 彼らはあなたの地に住んではならない。彼らのせいで、あなたが私に罪を犯さないためである。あなたが彼らの神々に仕えるなら、それは、あなたにとって罠となる。
この章は、前半にも、そして後半にも、興味深い記述が多い。しかし、最後の部分を考えてみたい。これは、出エジプトの時点に語られているが、これがイスラエルが学んだ一つの信仰告白なのではないかと思う。どの時点かはやはり不明であるが。ある時点での。「私はあなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海まで、荒れ野から大河までと定める。私はその地の住民をあなたがたの手に渡し、あなたは彼らを自分の前から追い払う。」(31)大河は通常、ユーフラテス(ときにはチグリスもあわせて)を意味するから、この全域を支配することは、ダビデ、ソロモンのころにもない。世界の様々なひとびとのことを考えると、アジア・アフリカ・ヨーロッパが交わる、その交流の十字路のようなパレスチナの地で、分離主義に持続性はない。すくなくとも、極端に困難である。それでも、それが神の御心として、それを頑なに守り、大国に滅ぼされて、一人になっても守ることも一つの信仰告白で、学んだことは大きいのだろう。しかし、引用句を見ても、背景はもっと普遍的な真理をもとめることに対する危険を逃れる道として書かれているように思われる。創造主が、他者をも愛しておられることを受け入れる、過渡期なのかもしれない。単純にグローバリゼーションを求めることも、同様な危険を孕(はら)む。ほんとうにたいせつなこと、その本質を探ることは、不可欠である。それを怠ると律法主義に陥り、たいせつなことに至る方法論を絶対化してしまう。無論、本質を探ることに、ゴールはないが。
Exodus 24:12 主は、モーセに言われた。「山に登り、私のもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける。」
「律法と戒め」ということばが目にとまった。このあとのことなどを考えると、おそらく、十戒の映画にも影響されていると思うが、十戒が刻まれた、2つの石を抱えて山を降りてくる、モーセをイメージしてしまう。しかし、「律法と戒め」というと、もっと詳細が書かれている、イメージがある。むろん、映画にあるように、超自然的な方法で、石に刻みつける必要はないが、やはりなにを絶対的な、神からのものとするかは、重要に思われる。たとえそれが人間側の応答としての、信仰告白であったとしても。わたしはいま、信仰を告白しながら、生身の人間として、生きていくことのたいせつさを感じ、文字として書かれたものを絶対化しない方向に進んでいる。聖書をも含めて。むろん、同様に、真剣に真理をもとめて歩んだひとたちと歩みを共にする中心に、聖書をおいていることも間違いがないが。まだまだよくわからないことばかりだと書いておこう。
Exodus 25:8 彼らが私のために聖所を造るなら、私は彼らの中に住む。
批判的に読むことには注意しよう。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」(1King 8:27, See Chapter 8)ソロモンの祈りである。そして、「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 」(John 4:21)さらにステファノの祈り(Acts 7:48,49)もある。しかし、聖書に引用句のように記されていることは、これらを許容して、わたしたちの、とても遅い歩みを主は見守っていてくださるとも言える。特に、他者に対して、異教の神を礼拝するものに対しても、上から目線で批判してしまうことがあるが、この出エジプトのときに、ひとはどのような気持ちで、持ち物を献げ、神の幕屋を作ろうとしていたか、それを、受け止めることをしたい。わたしより、ずっと純粋な気持ち、真実をもって、ささげものをしていたのではないかと思われるから。
Exodus 26:30,31 このように、あなたが山で示された設計に従って幕屋を建てなさい。青や紫、また深紅の糸、および上質の亜麻のより糸で垂れ幕を作り、その中に意匠を凝らしてケルビムを織り出しなさい。
正直、個人的には、あまり興味が持てない箇所である。しかし、2つのことは理解できる。これは、(民の宗教的指導者)モーセを通して、示されたことに従ったもので、個人がかってに、これが神が喜ばれるとして作ったものではないこと。そして、2つ目としては、意匠を凝らした、おそらく、当時の最高級品であったことである。もしかすると、現代においても、驚くようなものであったかもしれない。これは、Ex 31:1-11 にあるように、特別な職人が中心となって責任をもって作ったとある。ある、統率は取れている。民が揃って礼拝を献げるのであれば、混沌とした状態ではいけないのだろう。主は、不完全さを忍耐をもって見守っておられるとともに、カオスは望まれない。創世記の最初の天地創造を思い出させる。ていねいに見ていきたい。真理を求めて。達し得たところに従って。
Exodus 27:20 あなたは、イスラエルの人々に命じて、オリーブの実を砕いて採った灯のための純粋な油を、あなたのところへ持って来させなさい。灯を絶えずともすためである。
荒野でオリーブの実を砕いて採った灯のための純粋な油を得ることは不可能だろう。それも、長期間となれば。しかし、この章の記述から、イスラエルの民が、祭壇とこの灯火を非常にたいせつにしていたと思われることがわかる。灯(ともしび)は神秘的でもある。キリスト教会でも、永く守られている灯があり、仏教など他の宗教でもある。オリンピックの灯火リレーも関係しているのだろう。命の灯ということばについても考える。この灯もつねに、あなた(主)を覚えていますということの証なのだろうか。現代において、そのような象徴が失われても、本質が残っていればよいのだが、それはそれで困難であるように思われる。
Exodus 28:35 これをアロンは務めを行うときに身に着ける。その音は、主の前、聖所に入るときも出るときも聞こえなければならない。そうすれば彼は死ぬことはない。
かなりのものを身につけている。そして、周囲のひとたちは、それを見、一般のひとたちは、それを想像したのだろう。この「音」も含めて。万人祭司ということばは、とても、平らな横の関係を意味して心地よい響きをもつ。しかし、同時に、失っていることもあるように思った。畏れおののくこころだろうか。イエス様は、神の子として、わたしたちとともに歩んでくださった。素晴らしいことだが、近くに居た弟子たちが、それぞれの場面で伝える、畏れも受け取らなければいけないのかもしれない。形式を批判することは容易く、形式を維持することにもどることもひとつの選択肢として残るが、畏れをもって、主のみこころをもとめ、主の前を歩むことは、どちらにしても、それほど簡単なことではない。この音を神聖な気持ちで聞いたひとたちの心を想像してみよう。
Exodus 29:42.43 これは、代々にわたって会見の幕屋の入り口で主の前に献げる日ごとの焼き尽くすいけにえである。私はその場所であなたがたと出会い、あなたと語る。私はそこでイスラエルの人々と出会う。彼らは私の栄光によって聖別される。
ここまでに書かれている詳細になにか特別な意味があるのかと考えて、象徴的な意味もふくめて考えながら読んでいたことがある。今は、あまりそのような確かなものとしては、受け取ることができないことに頼ることに消極的になっている。これら細かい規定によって、アロンの子等(アロン直系の子孫 14)を通して、主がイスラエルの人々と出会う枠組みが踏襲されていくことに、制度的重要性があったのだと考えるようになっている。万人祭司は、カオス、混沌を生じさせる可能性が高いのかもしれない。それは、プロテスタント教会を見ていると、そうなのかもしれないと思う。カトリック教会では、最近またすこし、聖職者の女性がミサにおいてできることが増えたようである。その変化があまりに遅いと考えることもできるが、その遅さもプラスである面もないことはない。いずれにしても、礼拝の仕方というより、神と出会うことを続けることは、神がともに住んでくださり、そこに自分がいることは、困難を伴うことである。形式と単に批判することはできない。わたしも、このような、通読などのルーティンを生活の重要な部分においている。ひとつの、わたしにとって、かけがえのない形式である。
Exodus 30:15 主への献納物を納めて自分の命の贖いをするためには、富んでいる者も半シェケルより増やしてはならず、貧しい者もそれより減らしてはならない。
当時の生活様式に基づいた、文化・社会的背景を考慮しても、二十歳以上の男性だけ(代表?)であることの批判はあるとして、貧富の差とは関係なく、同額をひとり一人の命の贖いとして献げる。1シェケルは約11.4g ということは、5.7g となり、ペルシャなどで使われたシェケル銀貨の重さと近い。100円硬貨は 4.8g、500円硬貨は 7.0g だそうである。昔の穴の開いていない50円硬貨(5.5g)ぐらいだろうか。主への献納物との関係ははっきりしないが、いずれにしても、この贖いの銀が、会見の幕屋の仕事に当てられる。まったく同じ額ということは、興味深い。贖いは同じ代価という考え方が明確だったのだろう。登録の時とあり、頻度は不明だが、文脈からすると、毎年、これが献げられたとすると、イエスが納めた神殿税(Mt17:27)につながっているものだろうか。1デナリオン銀貨(兵卒一日の給与、なんとなく10000円ぐらいだろうか)は、4.5g 位のようである。これで二人分だったようだが。老若男女、成人は、みなが、500円玉を献げる(価値からすると5000円ぐらいのほうが良いかもしれないが)。いのちが一年守られた証として、神殿では、とくべつな香がたかれている。同じ割合で調合することは禁止されている(37)という特別な香の香りを嗅ぐ。それも、よいかもしれないと思った。人のこころの腐敗はどんなことにも生じるだろうが。
Exodus 31:6 今、私はダンの部族のアヒサマクの子オホリアブを彼と共に任命する。また、心に知恵のあるすべての者に知恵を授けて、私があなたに命じたものをすべて作らせる。
実際に荒野で起こったことかどうかは不明であるが、少なくとも描かれていることからは、様々な知恵と技術がここに結集された姿が映し出される。「彼(ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエル)を神の霊で満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けた。 」(3)特別な神さまからの賜物を与えられているリーダーのもとに、多くのひとたちが召し出され、荒野では、自分達が与えられていると感じていただろう賜物も、受けてきた訓練もなにも役に立たないと思っていたかもしれない。そして、このことを通して、自分に与えられていること・もの・ちからを発見したり、それが、神さまからの賜物で、まさに、このときのためにあったのだと考えた人もいたかもしれない。まさに、Be Available と、自らを整えていつでも、神さまに使っていただく準備と心構えが、荒野においても、発揮されるということを示しているのかもしれない。安息日を守るべきことが続いていることも、このことは、神様の前に生きることだということを、日々思い出させることであったかもしれない。そして、最後はその安息日(20:8)のことも書かれていると思われる神の指で書かれた板の記事で結ばれている。「主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。 」(18)
Exodus 32:27-29 そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。モーセは言った。「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる。」
この金の子牛事件については、考えることが多い。背景には、すべてのひとが救われることを望む、神様の葛藤が描かれているように思う。モーセとの対話の中に「私に罪を犯した者は誰でも、私の書から消し去る。」(33)という厳しい言葉があるとともに、すぐには、人々を滅ぼさない。このことの中にも葛藤が現れているように感じる。すでに裁かれている(John 3:18)のかもしれないが。そのなかでも、目を覆いたくなることが、引用句に記されている。この文章からわかるのは、ここで行動した人たちは、レビ人であったこと。殺されたのは、その兄弟、友人、隣人だったことである。レビ人が指導的立場をとったこととともに、おそらく、アロンを利用して、この子牛の事件を導いた中にも、多くのレビ人がいたということだろう。兄弟はレビ人、友人、隣人は不明であるが、一般的には、同族でわかれて生活していたようであるから。まだ、レビ人の宗教的行事における指導的立場は確立されていないが、モーセとアロンのもと、ある程度の指導力は持っていただろう。宗教的な指導的地位の根拠を示してるとも言えるが、その責任の表現でもある。最初にもどり、すべてのひとが救われることが主の望み(1Tim 2:4)であっても、現実はそうはならない、難しさがある。悩みがある。浄土真宗のように、万人救済と簡素化してしまったほうが、人々は受け入れやすいだろうが。世の中はもっと複雑である。主の悩み、葛藤を受け取りたい。
Exodus 33:16 私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。そうすれば、私とあなたの民は、地上のすべての民のうちから特別に選ばれた者となるでしょう。」
わかりやすく(?)主の心が描かれている。「乳と蜜の流れる地に上りなさい。しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない。私が途中であなたを滅ぼすことのないためである。あなたはかたくなな民であるから。」(3)しかし、モーセは、これに食い下がり「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。」(15)と言い、引用句が続く。まずは、モーセは主が共に歩んでくださらないのなら約束の地にのぼらせないようにという。興味深いことは、12節を見ると、目に適っているのは、モーセのようであるが、16節では、一緒にのぼっていくのであれば、あなたの民も目に適っているはずだ。その証拠を示せと迫る。32章に金の子牛のことが書かれており、「悪い民」であることは、明らかななかで、「主の目に適う」という。「目に適う」は、正しいという意味ではなく、恵みを注いでくださる、共に歩んでくださることを表現しているのかもしれない。何か、主よりモーセのほうが上のように描かれているが、恵み、こんな民と共に歩んでくださることと、それが特別に選ばれた民と理解した部分をどのように受け取っていったかが、書かれているのかもしれない。精緻に整えられていないだけ、かえって面白い。11節には、ヨシュアのことが書かれ、12節には「私と共に遣わされる者」についても言及されていることも興味深い。
Exodus 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜主と共にいて、パンも食べず、水も飲まなかった。彼は、板の上に契約の言葉、十の言葉を書き記した。
この章は「主はモーセに言われた。「前のような二枚の石の板を切り出しなさい。そうすれば、私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記そう。」(1)と始まる。二度目でありながら「四十日四十夜主と共にいて」ことばを「モーセ」が書き記したようだ。今回は、民もおとなしく待っていたようである。十の言葉とあり、20章の十戒を想像させる。32章19節で砕いた板とは内容がことなるのだろうか。「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。/怒るに遅く、慈しみとまことに富み/幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪とを赦す方。/しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方。 」(6,7)は、契約の重さを表現するものなのだろう。文章の乱れが感じられる。編集なのか、ソースが複数なのか、混乱も感じる。そのほうが自然かもしれないが。
Exodus 35:6 六日間は仕事をすることができる。しかし、七日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。その日に仕事をする者はすべて死ななければならない。
「仕事をすることができる」という表現は面白い。「死ななければならない」は、本来は、いのちに関わることだと言っているのかもしれない。主の命令(1)として最初に安息日のことが書かれている。十戒の数え方もいくつかあるようだが、第四戒だろうか。他に神々があってはならない、偶像を造ったりひれ伏したり仕えたりしてはいけない、主の名をみだりに唱えてはならないに続いている。このあとは、父と母を敬えが第五戒、そして、人間関係のことが第六戒の殺すなかれから、第十戒まで続く。安息日の規定はやはり十戒の中でも特徴的である。歴史的にも珍しいのではないか。このあとは、「心」が多いと感じた。(5,10,21,22,25,26,29,34,35)人々の心からの応答が強調されているのだろう。形式になってしまっては、意味はないのだろう。一つ一つの心の表現をていねいに受け取りたいものである。ここに書いてある人たちだけではなく、現代においても。応答は、生きていることの証明、生かされていることへの感謝なのかもしれない。
Exodus 36:8 仕事をする者のうち、心に知恵のある者たちは皆、幕屋を十枚の幕で造った。上質の亜麻のより糸、青や紫、また深紅の糸を使って、意匠を凝らしてケルビムが織り出されていた。
ケルビムは何回も現れ、重要な位置を占めるようなので、調べてみた。「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3章24節)が初出で、創世記ではここだけである。出エジプト記では、25:18, 19, 20, 22, 26:1, 31, 36:8, 35, 37:7, 8, 9 である。旧約聖書ではこのあとも、何回かあらわれるが、新約聖書では、Heb 9:5 のみのようである。以前の訳では、単数のケルブと区別して書かれていたように思うが、聖書協会共同訳ではその区別はないようである。ケルビムはどのような意味があるのだろうか。「私はそこであなたに臨み、贖いの座、すなわち証しの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために命じるすべてのことをあなたに語る。 」(Ex 25:22)とあり、神の世界と、人間の世界の中垣を守るものなのだろうか。創世記の記事は象徴的である。直接的には対面できない、仕組みになっているのだろう。しかし、そのケルビムの向こうにおられる、神と会見する。そのような感覚だろうか。「ケルビムは両翼を上に広げ、その両翼で贖いの座を覆い、互いに向かい合って、ケルビムの顔は贖いの座に向いているようにしなさい。」(Ex 25:20)とあり、天とつながっている感じが表現されており、王国の歴史(1,2 Sam, 1,2 King)には「ケルビムの上に座す主」に近い表現が多い。
Exodus 37:24 燭台とそのすべての祭具類を一キカルの純金で作った。
「純金」が多い。(2, 6, 11, 16, 17, 22, 23, 24, 26/出エジプト記全体で26)聖書全体でも、純金はこの章に集中している。זָהָב טָהוֹר: tahowr (pure, clean) zahab(ヘブル語は右から書くが、修飾は後ろからなので、ヘブル語の並びは、右から、金、純粋となる。)3節に鋳造も出てくるが、かなりの技術だったのだろう。しかし、純金は、用語の使い方からしても、おそらくかなり貴重であったろうから、素晴らしいものが結集されていたのだろう。それが、すべて民からのささげ物で、賄われている。(36:3-7)意匠を凝らした垂れ幕などとともに、人々はものも技術も、心も献げたのだろう。これが自発的になされたと記述さている。理想論かもしれないが、そのような中でないと、すばらしいものあできない。そしてそれは、このときの奇跡であり、形式だけを再現することは、できないのだろう。
Exodus 38:21 これらは、証しの幕屋である幕屋建設の記録である。モーセの命令に従い、祭司アロンの子イタマルの指導の下、レビ人の奉仕によるものである。
記録が詳細であることにも驚かされる。どのように記録されたのかは不明であるが、重さも総計が書かれている。1キカルは34.2kg と聖書の後ろについている表にある。金の総量は 29キカル730シェケル(24)とある。シェケルは11.4g とすると、ほぼ 1000kg = 1t である。精製の仕方にもよるだろうが、今日の価格で、68億5千万円ぐらいとなる。成人男性が 60万人であると、一人、1万円である。金だけでである。この記録は、なにを意味するのだろうかとも考える。実際の記録であったとしても、後代に編集したものであっても、驚かされる緻密さである。
Exodus 39:42,43 イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。 モーセがすべての仕事を見ると、主が命じられたとおりに彼らが行っていたので、モーセは彼らを祝福した。
「主がモーセに命じられたとおりであった。」は聖書に14回あるが、そのうち7回が39章、残り7回が40章である。その39章の部分が引用句で締めくくられている。二つのことを考えた。ひとつは、厳格に主が命じられたとおりにしないといけないと言う面を以前考えていたが、おそらく、モーセを注解としての、神と民とのコミュニケーション、そして交わり(当時はこのようには表現しないだろうが)が、適切に行われ、それを祝福しているということだと思ったことである。もうひとつは、このまえに金の子牛事件(32章)のあと、神様が望まれることが適切に伝えられ、望まれるように行うことがたいせつであることが認識されたことの表現なのだろうということである。自分勝手に、主のみこころを思い計ってはいけないということを教え、体験として共有することだろうか。そのためには、詳細な仕様を確実に、達成していくことが求められたのだろう。本質を見失わないようにしたい。形式主義に陥らないように。
Exodus 40:1,2 主はモーセに告げられた。 「第一の月の一日に、幕屋、すなわち会見の幕屋を建てなさい。
第一の月の一日、新しい生活の始まりである。出エジプトは何だったのかを考えると、神を礼拝することを中心とした生活の確立だったのかもしれないと思った。自由な身でないとできないことかどうかはわからないが(こころが自由でないとできないのかな)ファラオの前での奇跡を行うときにも、いけにえをささげる(礼拝をする)ことが目的のように書かれている。(3:18, 5:3, 8, 17, 8:4, 21, 22, 23, 24, 25)自由にされる、解放されることと、いけにえをささげる、めぐみを神に感謝し、献身をあらわすこととの関係についても考えてみたい。Free From ではなく、Free To であることが、キリスト者の自由としていわれるが、その本質がここにもあるのかもしれない。むろん、この礼拝によって、自由で無くなってしまうのであれば、本末転倒であるが。

BRC2019

Ex 1:1-5 ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、 イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、 ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
出エジプトの背景設定が書かれている。ひとつ気になったのは、順番である。生まれた順番と母を記すと、まずレアの子、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、次にラケルの召使いビルハの子、ダン、ナフタリ、次がレアの召使いジルバの子、ガド、アシェル、そして再びレアの子、イサカル、ゼブルン、最後に、ラケルの子、ヨセフ、ベニヤミンである(創世記29章など)。やはり、側女の子と、区別しているようである。背景は、もう少し複雑なものがあったのかもしれない。後に、直系ではないひとたちも、含まれることを考えると、通常、部族連合と称される背景も理解できるように思う。しかし、正確には、分からないことばかりである。
Ex 2:5,6 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
ファラオの王女も、それがヘブライ人の子だと認識できたのは、ヘブライ人特有の印の可能性もあるが、おそらく、このようなことがあることを聞いて知っていたのだろう。とすると、他にも、いたことになる。たまたまである。偶然のことを、重要なモチーフにしている。このあと、ファラオの前に立つことができたのも、知恵がそなわっていたのも、王女のもとで育てられたことは影響しているだろう。モーセ(Mosheh: Moses = "drawn")の名前の由来(引き出す mashah: draw)の物語としても、興味深い。ヘブル語三文字は等しく、付随する母音のみが異なる。
Ex 3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
「聖書協会共同訳」が2018年12月に刊行された。「その特徴と実例」のなか(p.4)に、この箇所に続く14節が取り上げられている。新共同訳では「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』 」となっているが、今回「神はモーセに言われた。『わたしはいる(エヘイェ)、という者である。』そして言われた。『このようにイスラエルの人々に言いなさい。「わたしはいる(エヘイェ)」という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。』」(14節)存在を臨在、それも、われわれと共におられるという、新約聖書に近い感覚が入ってきている。その根拠が、引用した12節である。言語的なことは、わたしには、分からないが、神の存在証明を云々することは、わたしには、正直言って関心がない。共に歩んでくださる神、共にいて、苦しみも喜びも共にして、かつ道を示してくださる神に、わたしは従おうとしたし、これからも、共に歩ませて頂きたいと思う。
Ex 4:14,15 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
11節・12節では「主は彼に言われた。「『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。』」と、創造と統御について書かれているが、引用箇所では「共にいる」が繰り返されている。アロンがいる、あなたの口とともにあり、彼の口と共にある。自分の認識だけに、頼らず、自分が持っているものだけではなく、神と共に、隣人と共に、神の喜ばれることを求めて生きたい。
Ex 5:1 その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」
非常に乱暴。ファラオが「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2)と答えるのは当然である。おそらく、これは、2章11節から15節の内容と同レベルのものと言える。そこに戻ってきたのかもしれない。そこからの、再出発である。このことは、当時の人には、どのように映ったのだろうか。やはり、一方的と感じた人もいただろう。すでに、様々な民族との交流は、最初から始まっているのだから。物語の中で、22, 23 節でモーセも訴えているように、神の義を求めていく、過程なのかもしれない。いろいろな良い方があって良い。そしてそれは、イエスのときまでは、少なくとも続く。
Ex 6:2,3 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。
「主」は、二箇所とも「わたしはいる(エヘイェ)」から来ている4文字を、アドナイ(主)と読み替えているものである。ここも「わたしはいる」と理解すると、特別な意味を持つように思う。つまり、超自然的な全能の神、通常「神」と言われる存在が「わたしはいる」または「共にいる」存在として、イスラエルの民に示されている。モーセにとっても、2章での時とは、異なる状況にあることが認識できたろう。すくなくとも、出エジプト記は、そのように、描いている。
Ex 7:22 ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。
「杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変え」(19)るという奇跡である。力があるなら、きれいな水になる奇跡をすればよい。おそらく、ここで伝えようとしていることは、へびの奇跡にしても、この奇跡にしても、程度問題程度で、秘術と見分けが付きにくいものであることを示しているのだろう。むろん、「主は更にモーセに言われた。」という言葉が多いが、それをどのように受け取るかは、モーセの特殊性、この時を特別な時として記述する出エジプトのイスラエルの歴史にとっての特殊性を描こうとしているとしか考えられない。
Ex 8:21 ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と言うと、
要求は、少なくとも7章16節の水を血に変える災いのころから、神に仕えさせることである。この章から幾つかの変化が書かれている。まず「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。」(14)イスラエルの民を区別すること「わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。」(19)さらに引用した礼拝の内容に関するファラオとのやりとり、そして、一部ファラオが認め始める下りである。出エジプトは、イスラエルの救いに関する「特別恩寵」の記述である。自分の身を顧みても、そのような救いの視点は、自分自身を中心としたものとなる。イエスが救い主だと言うとき、自分中心ではないものが、表現されているように、思われる。それを、わたしは、あまりに強く求めすぎているかもしれないが。普遍性をもとめて。すべての人が一人の例外もなく、平和に住む道をさぐることを求めた。すべてのひとが救いを得ることではなくても、すくなくとも、その呼びかけは、公平さを保って全員に及ぶように。深く考えた良い問いである。
Ex 9:14 今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。
災害をくだす理由が語られている。さらに、滅ぼし尽くさないのは「あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため」(15)としている。旧約聖書の文書資料説自身については、未確定で、わたしもよくわからないが、様々な考えが、旧約聖書の成立背景にもあったのだろう。しかし、そうであっても、イエス様を通して示される神様とは、異なる面を多く感じる。神認識(啓示と言うことも可能だが)が、イエスを通して深くなる、その以前だったと捉えることもできる。これを、絶対的な、神の意思ととるひともいるだろう。難しい。
Ex 10:27 我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでは、我々自身どれをもって主に仕えるべきか、分からないのですから。」
ファラオとの出エジプト交渉は、神を礼拝することに限られて進んでいく。約束の地に導かれることなのか、奴隷の身から解放されることなのか、それは、すべて神を礼拝することなのか、一つにまとめることは可能であるが、はっきりしていないように思われる。しかし、出エジプトがこの民の原体験となることは確かである。その意味でも「主はモーセに言われた。『ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。』」の信仰体験としての理由が、イスラエルにとって、決定的であったことは確かである。
Ex 11:3 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。
口語訳では「はなはだ大いなるものと見えた」とありニュアンスがことなる。新共同訳を読むと、若い頃のエジプトでの生活の影響を考えてしまうが、口語訳からは、このときの災いに関わる神的力によるように思われる。おそらく、基本は、後者なのだろう。これだけ災いを起こして、好意(chen: favour, grace, charm)、尊敬(gadowl: great)ということばがでることには、違和感を感じる。過越に続く、出エジプト時の「主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。」(12章36節)を指しているのだろう。まとめを書いて、そのあとに内容が詳述されるのが、一般的な書き方だから。
Ex 12:2 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
最初の月と定めたことからも(現在のユダヤ暦の正月は異なる。(古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦(または「教暦」「新暦」ともいう)と、秋から1年が始まる政治暦(または「政暦」「旧暦」ともいう)との2種類があったが、ユダ族(南王国)では後者を使っていたため、その流れで現代のユダヤ暦も政治暦のほうに準拠している。(Wikipedia))捕囚後のバビロニア暦の影響もあるようだ。)この民の出発の時である、原点ともいうべき時であることが分かる。しかし、今回は、なぜ、日もあわせなかったのかが気になった。正月一日としてもよいはずである。予定が10日から書かれているので、準備が必要だったとも言えるが、1日ではない。すでに、使われている暦があり、月のなかの日まで変えることには抵抗があったからだろうか。それは、エジプトの暦だろうか。パレスチナを含む、この地域(世界)全体で使われていたものだろうか。暦にも興味をもった。今まで読む機会のなかった青木信仰氏の「時と暦」を読んでみたくなった。暦は人間の生活に直結している。信仰の原点という見方だけでは、処理できないのかもしれない。
Ex 13:3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。
「記念(zakar: to remember, recall, call to mind)」通常はすぐ忘れてしまうことを意味する。2節の「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」も、直接的には、過越のことであるが、さらに本質的なのは、神によって生かされていることを意味する。自分中心、自分が自分の力で生きている、自分の成果のように考えてしまう、そこから自由になることだろうか。わたしは、なにを覚えようか。わたしにとって、たいせつなもの、わたしを生かしてきたものをどのように表現しようか。いま、表現しようとすると、上に書いたこととは裏腹に「イエス様が示してくださった生き方を知り、そのように生きることを求め続けた」という、自分の応答になってしまう。もう少し考えたい。
Ex 14:13,14 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
ここでは、モーセが答えている。なぜ、こんな凄いことを言えたのだろうか。このような経験を、してきたのかもしれない。「恐れてはならない」恐れると、神を愛することはできなくなる。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネ一4章18節)そして「静かにしていなさい」これこそ、信頼(信仰)なのだろう。自分ではどうにもならないことと共に、つねに守られて、日々生きていることを覚えることが根底にあるのか。日常と危機はつながっているのだろう。自分では、特別だと考えてしまうが。
Ex 15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。
一巻として書かれる前には、口伝での伝承があったことは、容易に想像できる。そしてそのときには、詩文体のものが伝えやすいことから、一般的には、詩文が古いとされる。そう考えると「馬と乗り手を海に投げ込まれた。」がこの基調をなす、主題なのかもしれない。4節・5節も「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。」とあり、10節で表現を変えて登場する。そして、その間に凄い表現がある「憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。」ただ、ここから、実際に起こったことを描写することは、難しいだろう。安易な解釈は、避けるべきで、このようにしか表現できないような特別なことが起こったことに目を留めるべきであるように思う。
Ex 16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
天からのパンはヨハネによる福音書6章を思い出させる。そこでは、イエスの側から、自らパンを差しだし、イエス自身が命のパンだとして群衆に語りかける。ここから、離反が起こるが。ここでは「民の不平」に対する応答として書かれている。神が与えるパンと言う意味では同じであるが、それは、民が神に従うかどうかを試すためとなっている。そして、従わなかった例がこのあとに続く。神に忠実に従うこと、それ以上を求めず、神に養われていることを感謝してうけることが中心なのだろう。それを否定するわけではないし、神への信頼は、常に鍵であるが、イエスの教え、されたことは、やはり、かなり異なるように思われる。(神・神の子)自らが、みずからを差しだすのだから。そこに、福音の本質があるように思われる。
Ex 17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
「主は我々の間におられるのか」主は「わたしはいる」であると言う意味にとれ、そのように訳せるとすると、この問いは興味深い。このときも、マナを食べていただろう。それが日常になってしまったのか。様々な救いの手によって、存在できる自分をわすれてしまうのだろうか。Remenber はたいせつなのだろう。それは、ずっと覚えていることでは無く、思い出すことなのかもしれない。恵みを数えてみることともつながるのかもしれない。
Ex 18:12 モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。
「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。」(3章1節)が最初にエトロが現れる場所であるが、ここでもしゅうととなっている。この時点でしゅうと(義父)と書かれていることに違和感もあるが、イスラエルの民にとって、モーセのしゅうとエテロは、特別な存在だったのかもしれない。ミディアンの祭司が「焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。」とある。この「神」は、そして、この礼拝は、寛容さの表れともとれる。「主」ではなく、一般名詞が使われ「今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」(11)と告白し、協力関係も結び、民の治め方に有益な助言もしている。祭司として民を裁く経験が豊富だったのだろう。正確には分からないが、エトロ一家は去って行ったようである。(民数記10章29節・30節)
Ex 19:5,6 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
「聞き従い・わたしの契約を守る」という条件のもとである。この最初のステップとして、神からのことばを受け取るために、身を清めることが語られ「角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。」(13b)と、主から言葉を受けるものの制限が語られる。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15章12節)と、自らの模範を示す。教えることから、学ぶことと教育で言われている変化にも通じる、旧約と新約の変化も見て取れる。それは、神観の大きな変化とも言える。旧約聖書をどのようなものとして読むかは、難しい。
Ex 20:5,6 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
神以外の何ものをも神としてはいけない(偶像礼拝の禁止)は、本質的でも、父祖の罪を問うこと、幾千代にも慈しみを与えることは、一つの文学的表現であるように思われる。罪は「三代、四代」慈しみは「幾千代」と違えている表現も興味深い。しかし、これを、具体性を持って取ることは、おそらく旧約時代にも殆どなかったろう。ただ、それが合理的な理解によって整合性を取ることに発展していくと、問題が生じるだろう。いずれにしても、イエス様の教えとは、かなり違う印象をうける。何をうけとり、何を受け取らないのか。おそらく、キリスト教の最も難しい問題だろう。一定した解釈もないように思われる。完全に、当時の人の神理解、信仰告白と取ることはできるのだろうが。それは、神認識をどうするかというさらに大きな問題を生じさせるようにも思われる。
Ex 21:2 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。
詳細な訴訟に関する規定が定められている。どの程度、守られたかは不明だが、興味深い点が多いと共に、普遍性という意味では、やはり十分とは言えない。そのなかで、人は、どのように、法を解釈するかを考えたのだろう。合理的な解釈や、例外条項などを考えるのも、おそらく、それ自体は、自然なこと、そこで、愛の法をそこから読み取るのは、やはり難しいと思われる。律法学者や、ファイサイ派のひとをこのことに関しては、非難する気にはならない。問題があるとすると、イエスの語りかけに、聞く耳をもたず、結局、神に従わなかったことだろうか。じっくり考えたい。
Ex 22:20-22 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
単なる罰ではなく、神の怒りについて書かれている。単純に、裁くことができないことも多いからだろう。神を畏(恐)れることを教えていると同時に、愛の律法とは、やはり異なる。愛の律法は、ひとには、従えないことを、知っていたのだろう。イエス様の模範だけでも、おそらく、不可能である。神の心を心とする、聖霊の働きがなければ。しかし、それは、また別の危険も誘発する。難しい。それを難しいとして、あきらめず、謙虚に、求めることが、ひとのつとめなのだろうか。できる、できないで、決めてしまってはいけないのだろう。
Ex 23:2,3 あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。
普遍性に疑問を感じる箇所が気になってしまうが、同時に、多くの人が陥る過ちについて指摘している。時代を超えて、考えさせられることが多い。すべては引用できないが「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。」(1)なども、fake news ということばが、よく語られる昨今、たいせつな教えである。「悪人」かどうか、それが「不法を引き起こす」かどうかは、最初はわからないこともある。しかし、「あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。」と続くと、考えさせられる。さらに「また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」ともある。弱い人はかばっても良いのではないのと、考えてしまう人も多いだろう。しかし、そうは書いていない。その判断を自分がしてしまっていることも、問題なのだろう。今日も、困難を抱えて、行き先のない学生と面談をすることになっている。安易に、同情し、なにか、策を講じるのでは無く、その一人のひとの人生と共にある一時としたい。解決は見えなくても。それが、神を畏れることだと、いまは、考えているから。
Ex 24:14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
フルは17章8節-15節で、アマレクと戦う場面で、アロンを助けるものとして登場する。ヨシュアがモーセの従者であったように、フルはアロンを助ける者だったのかもしれない。エトロの助言はそのあとにあるが、指導体制の整備のひとつかもしれない。この場面は、重要である。その二人、アロンとフルに依託されている。依託された責任を担うものとして、わたしたちひとり一人も限定された職権ではあっても、神から判断をゆだねられているという面を持っているだろう。神からの言葉がすべて答えてくれるわけではないのだから。この言葉も「モーセは、神の山へ上っていくとき、」に続いて書かれている。主がモーセに、そして、モーセが長老たちに依託し、アロンとフルに聞くようにとしている。神に従うことについて、これから起こることを考えていきたい。
Ex 25:2 イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。
規則としてではなく「おのおの進んで心からささげるわたしへの献納物」という書き方が印象に残る。必要が優先して、この本質が失われることのないように、日々の様々な働きをしていきたい。このことと「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」(8)は、無関係ではないのだから。
Ex 26:1 次に、幕屋を覆う十枚の幕を織りなさい。亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様を織り上げなさい。
ケルビムは、25章から出エジプト記に登場する。(18, 19, 20, 22 節)出エジプト記では、この章と次の章をあわせこの三つの章のみに現れる。それより前は「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3章24節)どのようなものと理解されていたかは、聖書だけからは、分からない。主の臨在の象徴なのであろうが、形などが、どのように理解されていたのか。伝承はあったのか。このときが、最初だとは、思えない。説明が全くないのだから。不明である。
Ex 27:8 祭壇は板で造り、中を空洞にする。山であなたに示されたとおりに造りなさい。
人々が、律法に書かれていることを一字一句守らなければいけないと考えたことは、このようなことからも分かる。私たちは、聖書をどのように、理解するのだろうか。祭壇の作り方、常夜灯の守り方。それを象徴的に、理解して、それを守るのだろうか。それとも、同じ神様を礼拝し、イエス様を送られた神様に生涯をかけて従い、神様からの言葉として、そして、信仰告白として記録した、人たちの生き方から、神様について学ぶのか。正直、良くは分からない。時代を経て、時代の中で、これらの箇所がどのように読まれてきたのか、興味を持つ。
Ex 28:1 次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい。
世襲制祭司職の始まりである。当然のこととして、受け入れられたわけではないだろう。あとで、問題も生じる。栄誉であるとともに、理由の示されない、階級差もあり、従えなかったひともいるだろう。多少の規定はあとにあるが、それでも、それを、守ろうとして、それが続いたのは、閉鎖性からだろうか。その人たちともつながりたい。
Ex 29:1 わたしに仕える祭司として、彼らを聖別するためにすべき儀式は、次のとおりである。若い雄牛一頭と傷のない雄の小羊二匹を取る。
アロンの子らの祭司任職式についての詳細が書かれている。このときは、アロンと、その子、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルである。それがいずれは、膨大な数にふくれあがる。その組織構造に驚かされる。どうじに、やはり構造化は問題も生じる。自発的な応答としての信仰ではないのだから。イエスの予型として、考えることはできないことはないが、この構造自体をなくすことが、キリスト教によってなされたように思われる。イエスがどの程度、そのことを意識し、パウロが考えていたかは、分からないが。そして、教会組織が構築される。交わりの域を出た、組織、人数が多くなると、仕方がないともいえるが、やはり、同様の問題が生じることも確かである。本質的な問いである。
Ex 30:38 また、類似したものを作って、香りを楽しもうとする者は、すべてその民から断たれる。
祭司と一般信徒を分けざるをえないことが、背景にあるように思う。ただ、現代は、その状況が改善されたとはいえ、まったく十分ではない。その中で、その区別をなくすことは可能なのだろうか。結局、それをこのまず、組織的に肯定しなくても、牧師と信徒の間の差が生じる。難しい。
Ex 31:13 あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。
安息日については、マナについて、16章に「明日は休息の日、主の聖なる安息日である。」(23)と記され、次に、20章に十戒の中で、なぜ特別なのかが「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(11)と説明されている。そして、ここで、安息日は「代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。」と、それが何であるのかと、目的が書かれている。さらに、続けて、安息日を汚す者は死刑だと繰り返される。(14, 15)安息日こそが、神との関係を示す、特別なものであるとされていたことが分かる。たしかに、安息日は、他の民族、宗教と区別するものだったのだろう。しかし、イエスは、それに挑戦しているように見える。イスラエルの民が、安息日を守ることによって、特別であることに、抗ったのだろうか。もう少し考えたい。
Ex 32:19 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
まず「その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。」(16)が目に付く。しかし、その板を、いとも簡単に、砕いてしまう。神の手になるものに、魔術的な力をみて、それによって、なにかをすることを、選んでいない。神の怒りが、自分のものとなったのだろう。神と心がひとつになれば、砕くことによって、それも表現される。凄い瞬間である。この石の板が残っていてはいけなかったのかもしれない。または、そのように、聖書記者は、考えたのかもしれない。後から語られる石の板は、表現が変わっているように思われる。(34章1節参照)
Ex 33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。
民の不信に対して、神は、約束の地に入れることはする「しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。」(3)と伝える。その応答が引用箇所である。その後、民の代表が神と会う場所が定められ、神が民と共に約束の地に上っていること、また、そのことの証拠を示す。意図的なものを感じると共に、当時の人たちが、礼拝についてどのように考えていたかは分かる。悔い改めを身をもって示し、神の約束を思い出しながら祈り、神に会って頂き、神と共に生きる道を求める。神がすぐに、語ったことを翻したり「使いをあなたに先立って遣わ」して先住民を追い出すなどは、結局過程上のことであるので、あまりこだわらない方が良いかもしれない。礼拝というものについて、たいせつな、本質的な部分が表現されていると共に、霊的なものから、形式的なものが整備されていく過程も見て取れる。弱い人間が、長い期間、大勢で、神に従っていくためには必要なこととすることでよいとは思われないが。
Ex 34:12 よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。
自分たちの弱さを知り、神の前に改めて出て、宗教生活が始まる。そこで記されているのは、まずは、他の人々からの分離、そして、神との関係を覚える「祭り」の制定である。イエスの時代、パレスチナを中心とした場所は、東西の交流の場となっている。分離による、現実との乖離のなかで、霊的な礼拝、より普遍的な宗教生活へと向かっていくのは、自然なのかもしれない。ムハンマッドのときも、アラブ世界の砂漠の民の間で、交易が活発になり、伝統が、挑戦を受けた時代である。普遍性へと向かうとき、分離、民の強い結合だけでは、乗り切れないように思われる。考えたいテーマである。
Ex 35:3 安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。」
安息日を守ることは、イスラエルの民のアイデンティティーであることは、すでに書かれていたが(31章13節)、ここでは「火をたいてはならない」と書かれている。幕屋での、常夜灯のようなものは、当然、燃やされていたろう。現代では、どれほど厳格な人たちでも、これを実行することは不可能だろう。すると、この「火をたく」とはなにを意味するのか、何は免除されるのかという議論になることは、自然である。規則で縛ることの限界である。自由意志で、こころから、神様に従うことを、続けることは人にはできない。規則で、あることを守ることもできない。原理で人を律することはできないことは、おそらく、早い時点から理解されていたろう。このような問いに対して、当時は、または、その後、どのように考えていたのだろう。この箇所では、安息日を守ることを、日常の煮炊きのレベルまでおろして、その大切さを、示しているのだろうが。
Ex 36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および知恵と英知を主から授けられ、聖所の建設のすべての仕事を行うに必要な知識を与えられた、心に知恵のある者は、すべて主が命じられたとおり、作業に当たらねばならない。」
「心に知恵のある者」という表現は、35章10節と36章8節にもある。それ以外にも似た表現がいくつか登場する。技術を持った者ではなく、心に知恵のあると表現され、それは、神から来ていることも強調されている。そのような者であっても、主が命じられたとおりに、作業に当たるべきことが命じられている。神から授けられるものと、そのようなものの応答として、神の喜ぶことをすること、人の側のことも書かれている。ただ、ここでも、掟を守ることの一部とされてはいるが。律法の問題は、難しい。
Ex 37:1 ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。
ベツァルエルはどのような人なのだろう。この仕事に関わった人の名前は、あとオホリアブ程度しか書かれていない。単に象徴的とも思えないが、語り継がれていたものを書き綴った面もあるだろう。聖書の成立は、やはり難しい。何でも神様のわざとしてしまえば簡単だが、そうすると、別の問題も生じるように思われる。燭台や、香をたく祭壇の詳細が書かれている。それらには、普遍的なメッセージがあるのだろうか。
Ex 38:24 仕事、すなわち聖所のあらゆる仕事に用いられた金の総額は、奉納物の金が聖所のシェケルで二十九キカル七百三十シェケル、
キカルは34.2kg、シェケルは、見つかっている分銅で平均11.4gと、新共同訳聖書の巻末の表にある。金だけで、約1トン、銀は、4トン近く、青銅は、約3トン。これらだけで、8トン。人が担いで移動できるのは、20kg とすると、400人が必要となる。どのように移動したのだろうかとの疑問が生じる。荒野での建設としては、異常な大きさと重さである。さらに、聖書が読まれた時代を考えると、幕屋が殆ど顧みられない時を経て、神殿があった時代へと移ったことを考えると、幕屋の設計図が詳細に残されたことの意味も考えてしまう。神と出会うこと、会見の幕屋とも言われるものに、込められた思いの凄さだろうか。すくなくとも、イエスのメッセージを考えると、本質的では無いものと思われる。
Ex 39:14 これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して十二個あり、それぞれの宝石には、十二部族に従ってそれぞれの名が印章に彫るように彫りつけられた。
どの十二部族か気になる。レビを入れた12なのか。それとも、レビは入れず、ヨセフを、マナセ、エフライムとした12なのか。このエフォドの機能について考えると、レビを入れなかったように思われる。もしかすると、ヨセフを二部族としたのは、逆に、レビを特別なものとして分けるためだったのかもしれない。ヨセフ物語もそのためとすると、あまりにも、拡大解釈しすぎているかもしれないが。どれにどの部族名が書かれていたかも気になる。母親によって順序づけられていたのだろうか。
Ex 40:33 最後に、幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の入り口に幕を掛けた。モーセはこうして、その仕事を終えた。
幕屋建設が出エジプトの最後を締めくくっている。出エジプトは、ファラオの前で述べたように(5章3節)、礼拝が目的だったのかもしれない。つまり、主に仕える集団として、選び分かつこと。少なくとも、それを、出エジプトは述べているのかもしれない。単なる奴隷の状態からの解放ではないのだろう。

BRC2017

Ex 1:16 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
モーセの名の由来「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」(2:10b)のための記述ともとれるが、名前も記されており、ある伝承が背景にあるとも考えられる。そのこととは離れて、勇気のいる行為である。ひとのいのちに関わりそれを生かすことが、自分の命を制約することにも関わるかもしれない。神を畏れたことが、命を与えられる神に反逆することをしないと表現されているのかもしれない。助産婦はおそらく嘘をついている。しかし、嘘をついても、神を畏れることを貫徹する。神を畏れることに関して、わたしも含めて、どの程度の人たちがその感覚を持っているだろうか。日本人にかぎることではないが。「神を畏れる」感覚について、もう少し考えたい。
Ex 2:14 「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。
モーセの青年時代の一つのエピソードだけが記されている。しかし、モーセにとって、そしてモーセの今後の働きにとってとても重要だったのだろう。モーセは2章の記述によると、王女のもとに連れてこられる。(10節)おそらく、イスラエル人が通常は受けられない、エジプトの高度の教育を受けることができたろう。同時に、自分の母が乳母だったと(9節)あり、イスラエルの歴史、ヘブル人について学んできただろう。もしかすると助産婦のシフラとプア(1:15)も知り合いだったか、または、その話を聞いていたかもしれない。しかし、勇敢さだけでは、問題は解決せず、同胞であっても、その同胞にとっての隣人となることは、簡単ではない。この発言をしたひとは、モーセがたしなめた「悪い方」(13)だと思われるので、問題の解決には、様々な要素があることも、学ぶ必要があったろう。明確な期間については、出エジプト記には書かれていないが、召命をうけるまでミディアンの祭司レウエル(口語訳はリウエル)のもとでの40年のときが必要だったのだろう。(使徒7:30)自分の人生についても、考えさせられる。
Ex 3:11,12 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
このモーセの召命の記述は、興味が多い箇所が多い。たとえば「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。」(9節)これよりも、前から、悲痛な叫び声をもって、叫んでいたと思われる。(2章23,24節)このときに、初めて届いたのだろうか。神の沈黙について考えさせられる。苦しみながら死んでいった人もいたかもしれない。しかし、おそらく、それよりも「神が聞かれた」ということに焦点があるのだろうが。そして、この時点での最後の神の宣言(21節・22節)など。大胆なビジョンが示されている。引用した言葉のあとモーセは「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」と答えている。この神の言葉でモーセは納得したのだろうか。人生の挫折を経験しているモーセ。そのモーセが立ち上がろうとしている。もしかすると、モーセも「イスラエルの人々の叫び声」を聞いたのかもしれない。「わたしは必ずあなたと共にいる。」このなんとも怪しげにもとれる「しるし」にかけたのだろうか。ここに、大きな信仰的決断があったろう。このときまでのミディアンの地での、モーセについては殆ど書かれていない。おそらく、その間も、神は共におられたのだろう。それを確信して、立ち上がる。自分の考えによってではなく、神の召命によって。
Ex 4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。 
主は「ついに」怒っておられる。忍耐強い神、同時に、主が求めておられるのは、信頼(pistis)であるように、思われる。「共にいる」この神様の側の忠実さ(pistis)を信頼する。それが通常信仰(pistis)と言われる者であり、この中での行為を伴った関係が、愛なのではないだろうか。神が愛し、神を愛する。互いに愛し合うとは、神との関係で、言えないが、この「共におられる」という宣言に忠実であられる神を信頼する関係の中で育まれる愛について、もう少しじっくり考えたい。主は、このようなモーセに対して、すでに、次の行為を始めておられる。アロンを旅立たせて。モーセに会うことを喜ぶ人を用意しておられる。アロンとの新しい関係が神を通してお始まる。
Ex 5:1,2 その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」 ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。
その後とあるが、それは「アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」(4章30・31節)ことを指していると思われる。ファラオが「主とはいったい何者なのか。」と言うのは、当然だろう。この章の記事を見ると、ここで終わってしまう可能性も十分あったと思われる。困難さは、信仰共同体としてのイスラエルの民の脆弱性にあるように思われる。興味深いのは、ここでのファラオの論理は「怠け者」としたことである。理解しがたいことを、一つのわかりやすい尺度で測った結果だろう。このことは、安息日を守るユダヤ人にも、キリスト者にも何度か、向けられた批判だろう。理解しがたいものに対して分かりやすい尺度を適用して判断し、除外する。どの時代にもある還元主義の考え方である。世界の広がりの認識に対し、より謙虚でありたい。
Ex 6:26,27 主が、「イスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出せ」と命じられたのは、このアロンとモーセである。 そして、イスラエルの人々をエジプトから導き出すよう、エジプトの王ファラオの説得に当たったのも、このモーセとアロンである。
二つの仕事に分けている。イスラエルを導き出す、リーダーと、ファラオの説得に当たった交渉人である。「モーセは主に訴えた。『御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。』」(12節)でも、イスラエルの人々を導くことの困難さと、ファラオとの交渉の困難さが述べられている。同時に「唇に割礼のないわたし」と困難の根拠を自分の無能さを述べている。神の働きに信頼することが教えられているのか。主は、モーセとアロンに語られる。言葉を聞いた者は、その言葉が神の言葉として実行されることを、担うことになる。神の働きをなすものとしての恵みと栄光と困難を担いながら。神様に用いて頂くことを感謝して受け取りたい。
Ex 7:1 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
とんでもないことが書かれているようにも思われるが「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章16節)や「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13章35節)なども、神とともに生きることは、神を証しする生活であることをも意味しているのだろう。神があがめられるようにという部分が、鍵なのかもしれない。
Ex 8:14,15 魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよが人と家畜を襲ったので、 魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言ったが、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。
これまでは、魔術師は秘術を同様に行っている。似た業がこの世でもあることを意味しているように思われる。ただ、ここでは、まず、魔術をするものが「これは神の指の働きでございます」と認めている。似た働きまたは、ある教養人の働きをしているものは、違いが分かるのかもしれない。ファラオの心がかたくなになっているのは、主がそのように働かれたと言うわけではないだろうが、やはり背後におられるように思われる。
Ex 9:20,21 ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、 主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。
この章には、さらに、家畜の疫病と、はれ物と、雹と、三つの災いが記されている。同時に、エジプト人の変化が、はれ物においては「魔術師もこのはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった。はれ物は魔術師のみならず、エジプト人すべてに生じた。」(11節)とあり、雹については、引用した箇所とともに、27節には「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。」とファラオの変化が書かれている。16節、17節には、すべては滅ぼさなかった理由も書かれている。6節の家畜の疫病の記述で「エジプト人の家畜はすべて死んだが」とあるのは、引用箇所と矛盾も見られる。全体としては、神の栄光が現れる。すなわち、人々が主こそ神であることを知るという構成になっているのだろうか。さらに、エジプト人の中にも、ある分裂が記述されている。
Ex 10:1,2 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、 わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」
この章には、いなごの災いと、暗闇の災いについて記されているが、引用した最初の二節について考えてみたい。前半の1節は、新約にも何度も引用されるイザヤ6章9節10節「主は言われた。『行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。』」を思い出させる。背景には、ヨハネ2章24節・25節にあるように「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」こともあるかもしれない。神の忠実さに信頼し、さらに神のみこころを求め、神が喜ばれることをする、神の愛に答え、神を愛するようになるのは、簡単ではないこと、さらに引用した後半の2節にあるように、それが伝えられるある種の時代を超えた共同体が必要であることを主は、ご存じであることを、聖書記者は記しているのだろうか。神が、人の不信仰とは、独立に、まず働いておられる。驚かされる。しかし、それが、我々の主体的な応答を不必要としているのではない。それほどに、愛は深く、神の御心は奥深い。
Ex 11:7 しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。
すでに、家畜が疫病で死ぬ項で「翌日、主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜はすべて死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。」(9章6節)さらに「ただし、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった。」(9章26節)「人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」(10章23節)とある。しかし、区別されるだけではなく、個人の救いに関わることが、この引用箇所の重要性なのだろう。イスラエルの起源と深く関わる出エジプトさらに過越という特別な神の裁きと救いの重要性と、終末的理解もあるだろう。しかしより重要なことは、命を与えること、命を取られることは神が主権的に行われる神の業であることを知らせるためかもしれない。そして、同時に、人は救いと裁きのもとにあることを覚えることだろうか。キリスト教は赦しの宗教、かつイエスはすべての人の救いのために十字架で死なれたことは多く証言されているが、同時に、すべてのひとが救われるわけではないことも、繰り返し言われていることである。自分の都合にようようにまたは、自分の好き嫌いで判断はできない。
Ex 12:1,2 エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
イスラエルにとって、記念すべき、最も大切な過越の月、ニサンの規定である。十日に小羊を用意し(3節)、十四日の夕暮れにそれを屠り(6節)、その地を鴨居に塗り(7節)、その晩に酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べること(8節)などが規定されている。曜日は明確に書かれていない。ユダヤ暦は太陰暦で月は29.5日程度で満ち欠けを繰り返すこと(平均朔望月(日) = 29.530 588 853)、一年は大体365.2422日で月の満ち欠けとはずれることなどからユダヤ暦は複雑である。しかし、一般には、過越の羊をほふるのが金曜日、その晩、すなわち、安息日が始まってすぐの日没に過越の食事を食べることになっているようだ。金曜日は、除酵祭の準備の日でもある。すると正式には、最後の晩餐は木曜日だから、過越の食事ではないということになり、共観福音書の記述よりも、ヨハネによる福音書の立場がより正確となるように思われる。すなわち、最後の晩餐は、過越の祭の前(13章1節)で、「神の小羊」であるイエスが過越の羊として十四日めに屠られたと言うことである。その議論に陥って本質を見落としてはいけないが。
Ex 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」
ヨハネによる福音書に「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」(ヨハネ1章29節)「そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」(ヨハネ1章36節)とある。「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」(13節)過越の小羊による購いが、ヨハネによる福音書では強調されていることが確かだろう。最後の晩餐も「過越の祭の前の事である」(ヨハネ13章1節)とあたかもそれを強調している表現が何カ所かある。過越の祭を毎年守ってきた人たちにとっては、購いであることが明かだったのだろう。外国人には論理的にしか理解できないが。あがないが、すべての初子だけでなく、すべてのひとのためである。すなわち、ぴったり対応しているわけではなく、これも、一つの解釈である。
Ex 14:10-12 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
エジプト脱出直後の描写である。エジプト人に対しては「民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。『ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。』」(5節)と記述している。結局、イスラエル人を、神を通して見る状態から、自分の欲得の対象物としてみる状態に逆戻りしてしまったと言うことである。では、イスラエルはどうだろうか。背景としては「恐怖」が書かれている。その中では、神に目を向け、神を求めることができない。ひとは本当に弱い。このなかで、信仰にたった、神を信頼して行った決断を覚えず、そこに至る前にあった、様々な論理といいわけを持ち出す。そして、(神が立てられた)人を責める。神はその約束への忠実さ故に、忍耐をもって、導かれる。イスラエルが、エジプト人より勝っているわけでは全くない。エジプト人の側にも個人レベルでは様々な神の物語(His Story)があるのだろう。(9:20, 12:38)
Ex 15:25,26 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
この前の節で「民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った。」(24節)とある。しかし、主はモーセと契約を結ぶ。「その所で彼を試みて」「もしあなたが」である。そして主の宣言は「わたしはあなたをいやす主である。」である。この章は、葦の海をわたったあとの讃美から始まっている。しかしその直後に民は不平を言う。すばらしい讃美をすることと神様への信頼は簡単には、結びつかないことをも意味している。悟る、深く知る、ことと、神との契約をもって、いのちをそこにかけることが必要なのかもしれない。よく考えたい。
Ex 16:6,7 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
日々の中で神の働きを覚えること、これが「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。」(13節)によって目に見える形で継続したのかもしれない。それでも、民は不平を言うが、大きな力となったことだろう。夕暮れに「うずら」を見て「主がわたし(あなたたち)をエジプトの国から導き出されたことを知り」朝に「露(のようにマナ)が降りる」のを見て「主の栄光を見る」。一つ課題として浮かび上がるのが、誰に対する不平かという点である。8節にあるように「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」が本質であるにも関わらず、指導者であるモーセに人間としての不平をぶつける形になっている。人が指導者に不平をぶつけるとき、指導者が人に命令をするとき、そこに神がおられることを覚えなければならない。ICUで古くから言われているように「I」と「U (YOU)」の間に「C (CHRIST)」をつねに、見なければならない。本当にその通りだ。
Ex 17:15,16 モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」
これは預言なのだろうか。聖書とは何なのだろうか。神を真剣に求めた記録。おそらくそれ以上のものだろう。イエスの教えとは異なるように思われる。教育の一つのステップなのだろうか。律法の養育係としてのつとめとして。イエスは、旧約聖書の細部にこだわらなかったように思われるが。どうなのだろう。
Ex 18:21,22 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。 
モーセのしゅうとエトロの助言である。モーセはすなおにそれにしたがっている。裁き自体も、この知恵者の助言にしたがっている。ミディアンの祭司、つまりは、異教徒である。神からの恵みを素直に受け入れているように思われる。一般恩寵だろうか。
Ex 19:4,5 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
シナイ契約である。主が為されたことがまず書かれ、約束が書かれている。人々の側には、主の声に聞き従うこと、契約を守ることが条件のように書かれている。民は「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(8節)と応答している。契約は、神も、人も、忠実さを約束したものと、言えるかもしれない。印象的なのは「あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来た」と述べられていることと、民がそのことを見たことである。神の命に生きる最初は、まさに、自分の命を神が救われたこのような神の働きを心に刻むことだろう。
Ex 20:20 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」
「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ」(18節)神からではなく、モーセから語るように願う。引用箇所は、それに対する応答である。「畏れ」とは何だろうか。英語では NIV も ESV も “fear of him (God)” である。NKJV は “His fear may be before you” 恐れは、愛を遠ざけるのではないだろうか。神に対する畏(恐)れ、恐怖から、罪を犯さないことが、神が求められたことなのだろうか。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8章32節)同時に恐れが、自己中心や、自己完結型の価値観から、遠ざかる動機付けともなる。それこそ、罪を犯させないことなのだろう。恐れと信仰と愛の問題は、じっくり考えたい。
Ex 21:2 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。
詳細な規定が始まる。最初は、ヘブライ人、すなわち、同胞の自由を奪う奴隷似関する規定である。7年目には解放すべき事、男女の奴隷で扱いが異なることが特徴的である。そのあとには、命を奪う殺人について書かれ、故意殺人は死刑、続けて「自分の父あるいは母を打つ者」(15節)「人を誘拐する者」(16節)「自分の父あるいは母を呪う者」(17節)と死刑が続く。何が命をもって購わなければならないかと考えると、興味深い。同時に、文字通り、現代に持ち込む問題性も感じる。しかしそれはなぜだろうか。問題性をどう表現したら良いだろうか。価値の多様性を許容する合意を大切にするからだろうか。それは、政教分離なのだろうか。慎重に考えていきたい。
Ex 22:25,26 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。
「償わなければならない」または「償わなくてよい」という規定が続く。正しさだけでなく、他者への償い規定が明確になっており、共同体の中での種々の決まり事と読むことができる。しかし、上の引用は、生活に密着した、当時の人たちの生活を想像させられる内容である。おそらく、夜は極度に寒かったのだろう。さらに最後の部分は、人に神に叫ばざるを得ない状況にしてはいけないと言っているように見える。他者に借りがあったとしても、その責任如何に関わらず、同胞がそして隣人が神に叫ぶような状況を作ってはいけない。ひとの責任を明確にしているとも言える。ひとが神に求めるままにし、すべての問題を神が解決するわけではない。さらにそれを「わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と結んでいるのも興味深い。より深く理解したい。
Ex 23:29,30 しかし、一年間は彼らをあなたの前から追い出さない。さもないと、国土は荒れ果て、野獣の数が増し、あなたに向かって来る。 わたしは彼らをあなたの前から徐々に追い出すので、あなたは子を産み、国土を受け継ぐに至る。
様々な思いを抱く。瞬時に平和が得られるわけではないこと。神の計画は人の思いを越えて深いこと、それを、出エジプト記者が知っていたこと。この章にあることが、実際にどのように訴訟に用いられたかは不明であるが、神が求められることの理解について、教えられることは多い。1節から3節など訴訟に関連することについても、考えさせられる。Martin Luther King Jr の言葉を書いておく。「人間を最終的に計る尺度は、快適な立場にいるときの振る舞いではなく、苦難と、論争に身を置いたときの振る舞いなのだ。」上の引用とも関連して、簡単に解決しない問題は多い野だから。
Ex 24:17,18 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
25章以降で告げられることは、「アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老」(9節)には理解できないことだったかもしれない。14節では「見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」と伝え、モーセはヨシュアを連れて行く。(13節)引用箇所を見ると、主の臨済を遠くから確認することはできたのかもしれない。しかし、思いも寄らない長さに、待つことができない者がでる。忠実さ、信頼は、忍耐を伴う。神に信頼し、かつ希望の光を見つつ、しかし、神無しに、困難な世界で生き抜く力である。主が共におられることを覚えることができるようにして下さい。
Ex 25:46 あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。
幕屋建設の指示と詳細が、契約の箱、机、燭台の作り方とともに、記されている。このあと、26章には、幕屋の作り方の詳細が書かれているその間のことばである。民のいる場所に神がおられそこで祭司が神と出会う幕屋を荒野に旅立って初期段階で建設することが指示されている。これらの指示がここに記載された順番でモーセに告げられたかどうかは不明であるが、待っている民にとっては、まったく理解できない時間がかかった原因ともなっているのではないだろうか。先見性故に、民との距離が離れていく。難しさを感じる。
Ex 26:1 次に、幕屋を覆う十枚の幕を織りなさい。亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様を織り上げなさい。
布を織ることと、模様を織り上げることが指示されている。あとには、青銅での細工なども、書かれている。実際に、実行してみないといけないが、アカシア材なども含めて、荒野で調達し、制作するのは、非常に困難、または不可能だったろう。あくまでも、この時点では、設計図なのだろうか。それとも、ある程度あとのものが、ここに記されているのか。旧約聖書の成立とともに、じっくり学ぶ必要がある。
Ex 27:20,21 あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。 常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。
司法についてまず取り決め、ここで祭儀についても、定められる。共同体として、継続的に、理念をもって活動するには、どうしても、しなければならないことなのだろう。常夜灯について語られている。光の神がともにおられる象徴なのだろうか。形式的になってしまっては意味がないが、象徴的なものも、必要なのだろう。継続には。Sustainability には様々な配慮が必要である。世界が互いに愛し合う共同体となっていくためには何が必要なのだろう。
Ex 28:12 この二個の石をエフォドの両肩ひもに付け、イスラエルの子らのための記念の石とする。アロンは彼らの名を記念として両肩に付け、主の御前に立つ。
これはウリムとトンミムと言われている石と同じだろうか。占いにつかわれたわけではないのか。12部族を担う。神に対するときに、集団の代表として責任を担うことでもあろう。祭司の役目については、少し整理したい。
Ex 29:42 これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。
37節によると「七日の間、祭壇のために罪の贖いの儀式を行って、聖別すれば、祭壇は神聖なものとなる。祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。」とあり、祭壇の聖別について語られている。「祭壇のために罪の購いの儀式」というのは、理解しがたいが、神は罪のあるところには、おられないという徹底した信仰なのだろう。その神が、御子をこの世に使わされるのだろうか。おそらく儀式的にいくら聖別しても、完全ではないのだから、変わらないと言うことだろうか。おそらく、それは、旧約の世界のひとたちに失礼であろう。神があって下さるため、御臨在してくださるため、最善のこととしての清めを行ったのだろうから。神はそれを受け入れられるのだろう。
Ex 30:6-8 それを掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置く。この掟の箱の上の贖いの座の前でわたしはあなたと会う。 アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、 また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。
主が会われることと、香を絶やさず燃やすことが命じられている。朝に夕に祈る。それがお会い下さる時なのだろうか。あまりに、儀式的で、距離を感じる。個人的にお会いすることなどは、考えられなかったのだろうか。
Ex 31:18 主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。
この章では「ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエル」とその助手として「ダン族のアヒサマクの子オホリアブ」を指名したことと、安息日について書かれており、最後にこの節がある。なにか、この三つの部分すべて唐突に感じる。あらゆる業をするものに安息日が定められ、その部分も含めて、石に神の指で記されたということだろうか。おそらく、聖書で神が直接記したと書かれているのはここだけだと思われる。これも、失われるのだが。
Ex 32:1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、
民は、待つことができなかったのか。自分の計画を、神の計画に優先したのだろう。それにしても、この章はすさまじい。アロンの責任は、とても大きいように思われるが。どうなのだろう。
Ex 33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
モーセの強い取りなしと願いの祈りである。神がともに歩まれる、これこそが祝福であることを、モーセは知っている。しかし、問題点もある。それは、最後の部分である。他の民族との比較に及んでいる。神は、この願いを聞き入れられる。多少の儀式的な距離を持って。律法は、養育係、ということがここでも現れているように思われる。そして、パウロの考え方は「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3章24章・25章)によく現れている。
Ex 34:28 モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。
1節では「主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。」となっているが、この節を見ると、モーセが自ら書き記したように記述されている。あまり重要ではないかもしれないが、神の直接の行為の後があると、問題も生じさせるようにおもわれる。神の言葉を受け取ったと確信したモーセの「顔の肌は光を放っていた」恍惚状態だったのかもしれない。しかし、この箇所にも問題がないわけではない。「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』」(6節・7節)聖書全体としては、一貫性を欠く。モーセが受け取ったのも、一部ではあったのだろう。
Ex 35:2,3 六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。」
モーセが最初に伝えた規定が、安息日規定である。そして、イエスが繰り返し犯し、批判の的となったのも安息日規定である。この後半部分を今でも守る人がいると聞いたことがある。律法をどう捕らえるかで人々が分裂していく事実は、覚えるべきだろう。正しさの性格である。同時にこの章には「心動かされ、進んで心からする者」「心に知恵を持つ女」たちの奉仕も書かれている。神を愛する業には、普遍性を感じる。
Ex 36:7 既にささげられた物は、作業全体を仕上げるのに十分で有り余るほどあった。
神様の与えておられるものは、有り余るほどのものであることが証言されている。現在の世界の状況もそうなのだろう。捧げる心を持って、分かち合うことができれば、みなが、豊かな嘱託に着くことができる。どうしたら、そのようになるのだろうか。妨げているものは、いくつか見えてくるが。
Ex 37:3-5 次に、四つの金環を鋳造し、箱の四隅の脚に、すなわち、箱の両側に二つずつ付けた。 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通した。
掟の箱、すなわち、十の掟が書かれた石の板を治める、最も重要な部分だと思われる。それは、担ぐことを考えて設計されている。このことは、後に、サムエル記下6章で問題が起きるが、数十年ならばいざ知らず、何百年も強度を保つのは、かなり難しいだろう。特にそれが金環であれば。どのように維持したのだろうか。映画にもなっているが、この契約の箱は見てみたい。
Ex 38:21 以下、掟の幕屋である幕屋建設の記録は、モーセの命令により、祭司アロンの子イタマルの監督のもとに、レビ人が担当した。
これに「ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエル」(22節)「ダン族のアヒサマクの子オホリアブ」(23節)が工芸を担当する。ここまで、モーセとアロンの家系として、レビ人ということばが登場しているが(2:1, 4:14, 6:25)幕屋関連の仕事を担う者として、初めてレビ人について言及されている。出エジプトでは、ここのみである。アロンの子孫が祭司を担うこと、さらに、レビ人が祭儀の支援をすることは、どのように決まっていったのだろうか。一民族、全員をこのために割り当てるのは、かなりの決断である。
Ex 39:15 次に、組みひも状にねじった純金の鎖を作り、胸当てに付けた。 
「組みひも状にねじった純金の鎖」は29章22節にもあり、39章24節には「上着の裾の回りには、青、紫、緋色の毛糸のより糸でねじったざくろの飾りを付けた。」も出てくる。さらに「ねじりひも」は、28章28・37節、39章21・31節に現れる、具体的にどのような細工物なのかよくわからないが、高度の技術が用いられたのだろう。エジプトの技術だったかもしれない。
Ex 40:17 第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた。
出エジプト記はほぼ一年の記録ということになる。幕屋の祭具が特別な用のために清められ、祭司の任職がされ、幕屋が建てられる。ここまでの道も平坦ではないが、荒野の40年を考えると、この後のことを様々に考えさせられる。幕屋奉献は、重要な出来事ではあるが、神に忠実に従う、単なるひとつの過程の中にある。一生、神と共に歩むことが、中心なのだから。

BRC2015

Ex1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
17節には「助産婦はいずれも神を畏れていたので」とある。そのような人の名が聖書に記録されている。勇気を持って、神に応答した人たちだろう。向こう見ずな勇気ではなく、ひとを恐れることをしのぐ神を畏れる信仰を持っていたのだろう。わたしもそうでありたい。
Ex2:16 さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、
ミディアンの祭司との交流は、モーセの祭司の娘チッポラとの結婚にとどまらずつづく。宗教を問う姿勢は見られない。捕囚帰還後との差はなんなのだろう。そして、いまのキリスト教会も外と中を分けようとする。
Ex3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
「しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。」(1節)がその時である。モーセが下働きをしていたとき、その最中に起こったことである。山も山頂ではないように思われる。そして柴。特別なものとは思われない。ここで主が語りかけられる。
Ex4:30,31 アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、 民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。
順調である。核となることは「主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になった」ことであろう。苦しみをご自身の苦しみとしてくださったのだろう。
Ex5:3二人は言った。「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう。」
2節でファラオは「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答え、それに対するモーセとアロンの応答がこの3節である。神が、ファラオの神でもあり、すべての人の神という土台にはどちらも立っていない。そのもとでのファラオの判断は9節にある「この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう。」この策への民の反応が21節「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」自分の信仰も、それをどう伝えるかも、問われているように思われる。
Ex6:9 モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。
モーセは忠実に神のことばを告げている。しかし、民は、重労働のために意欲を失い、聞こうとしない。これがどのように変化していくのだろうか。今後が楽しみである。神、モーセ、民、ファラオ、エジプトの民、それぞれの信仰を学びたい。民の重労働に、神はどのように向き合われるのだろう。
Ex7:17 主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。
この章の冒頭のことばには驚かされる。「主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」モーセをファラオに対して神の代わりとするというのである。そのモーセに対しては、自分の支えとしてのアロンとともに、力強い神がともにおられることの象徴がこの杖だったのかもしれない。15節には「あなたは蛇になったあの杖」と書かれている。この杖は、アロンを通しても働いている。(9節)モーセ、アロン、ファラオ、それぞれの心とその変化を知りたい。
Ex8:6 ファラオが、「明日」と言うと、モーセは答えた。「あなたの言われるとおりにしましょう。あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります。
少しずつ変化が見える。モーセも伝えるべきメッセージがヘブル人をさらすことではなく「我々の神、主のような神がほかにいないことを知る」に変化しているように思われる。丁寧に一度学びたい。
Ex9:27 ファラオは人を遣わし、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。
物語としての脚色まで考えてしまうが、ひとは、まさにこのように言っておいて豹変してしまうものだのだろう。「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。」(34節)おそらく、自分を支えるものの多さがあるのかもしれない。真の悔い改めには、貧しさが関わってくる。同時に、10章1節も考えたい。
Ex10:1,2 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、 わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」
これを読んで思うことは、神の救済は、わたしたちの考える救済とは次元がことなることである。苦しいところから逃れさせること、それが救済ではないのだろう。「なになにからの救い」ではなく「なになにへの救い」と言われる所以だろう。まだその行き先がどこにあるかは示されていない。しかし、それは、世代を超えて受け継がれるべきことであることが示されている。
Ex11:7しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても 家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによ って、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るで しょう。
家畜は、財産を意味しているのか。おそれが生じることを表現しているように思われる。しかし、この区別は丁寧にしらべないといけない。区別する(パラー:palah, to be distinct, marked out, be separated, be distinguished)
Ex12:41,42 四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの 国を出発した。 その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番を された。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、 主のために寝ずの番をするのである。
ここでの全軍はなにを意味するのか。イスラエルの民だろうか。それとも、まさに神の全軍なのだろうか。「主が寝ずの番をされた」ということは、最も困難な、重大なときに、神はすべてを守り、共にいてくださったことの証言なのだろう。もう少し、深く学びたい。
Ex13:17 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
創世記50章でヤコブとともらうときに、なぜヨルダンの東に迂回したのかと書いたが、カナン人というより、ペリシテの影響だったのかもしれない。エジプトですら注意を払う、ペリシテはかなり強力な存在だったと思われる。同時に、それを向こう見ずに突破する信仰を主は求められない。ゆっくりとした成長や罪の自覚など、学ぶことは勇気だけだからではないからだろう。ひとをよく知っておられる主を信頼したい。
Ex14:31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
葦の海での奇跡の結論がこの一節である。そして、聖書記者は、このあとのことをよく知っている。単なるハッピーエンドを記録したかったのではないことは明白である。恐れおののきつつしかし感謝をもってこの一節を読みたい。
Ex15:2 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
喜ぶものとともに喜べ。このイスラエルと喜びをともにしたいが、素直に喜べない気持ちもある。おそらく、死んでいったひとりひとりのエジプト兵やその家族にも心を寄せるからだろう。それは、悪いことだとは思わない。しかし、このように考えるのは、人の世界、それも見える世界にのみ価値を置いているからかもしれない。賛美をしている人は、神の救いを喜んでいる、そして神をほめたたえている。完全な知識によらなくても、神のわざに目をとめる、それを批判しないで、神とともに、神をほめたたえているイスラエルの民のよろこびをともにしよう。
Ex16:8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
真実ではあるとしても、ちょっと厳しすぎる感じもする。ていねいに教え諭すことと、このようなアプローチは本質的違いではないのかもしれないが。一方、モーセが、つねに、神ではなく、神の指示に、導きに従っているだけとの謙虚さを持ち続けていたことの証拠とも考えられる。
Ex17:13 モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
ヨシュアが登場する最初の箇所である。レフィディムでの出来事で、この章には、水についての民の抗議に起源してして「マサ(試し)とメリバ(争い)」と名付けたことと、アマレクとの戦いが記録されている。エジプトを出て最初の戦い。勝利を得たとはいえ、まさに内憂外患、最も困難な時だったかもしれない。
Ex18:19-21わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。
モーセのしゅうとエトロの助言である。最も困難なときに、ミディアンの祭司(出エジプト3:1)エトロの登場は大きな助けだったろう。ここでは、三つの助言が述べられている。モーセが神に問うこと、掟を定め民に示すこと、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」を長として立てること。どれも素晴らしい。エトロはその知恵をすでに持っていたのだろう。学ぶことが多い。
Ex19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
この時点では祭司が決まっていたことは考えられない。6節の「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」からの先取りになっているのだろう。出エジプト記では 2:16, 3:1, 18:1 において「ミディアンの祭司であるエトロ」が登場する以外「祭司」は使われてない。エトロの影響の大きさとともに、イスラエルの新たなページが開かれようとしていることも感じる。その意味でも、このシナイ山でのときは、特別な時だったと思わされる。ひとの知恵としてのエトロの助言からの旅立ちのときである。
Ex20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
十戒の背景を今回は考えた。突然、すばらしい掟が与えらえたように、考えていたが、合理性もあり、創世記を背景とした、継続性もある。自然だったのだろう。この安息日は、しかしながら、ほかの近隣の民の宗教とことなるように思われる。いつかしっかり起源について学んでみたい。いつ頃から、安息日は守られていたのだろう。11節から分かることは、安息日は、天地創造の神信仰と結びつけられていることである。
Ex21:1 以下は、あなたが彼らに示すべき法である。
これも、主から直接与えられたと考えるべきなのだろうか。あまり気にしなくて良いのかもしれない。エトロの三つの助言の一つ(18:20)「掟と指示」を与える事。一つ一つモーセを通して神に問わなくてよいようにするための法(ミシュパット mishpat: judgment, justice, ordinance)である。判断基準といったところだろうか。心配なのは、これが修正されることはなかったのかということである。神から与えられたと信じるものは変えるのが難しい。個人的な指針であっても。
Ex22:20 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
自分自身のように愛することの基本かもしれない。自分が苦しかったときと同じような状態のものの苦しみを共にする。これができなければ、自分自身のように愛することはできないだろう。
Ex23:3 また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。
厳しさには驚かされる。しかし、配慮や助けあうことと、訴訟とは別なのだろう。6節にも「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。」2節の「あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。」も考えさせられる。そこまでの意識をしっかりもって恐れおののいて、法廷に臨む覚悟が出ているだろうか。法廷だけでなく、会議でもこのような場面がある。
Ex24:15モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
神の臨在だけでなく、それを民に知らせる必要があったのだろう。何を教えるためだろうか。
Ex25:22 わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。
幕屋に住まわれること、掟の箱の上のケルビムの間から語られることは、あまり意味を感じない。しかし、主が会って、語ることができることは、基本なのだろう。祭司たちの世界か。どう考えたらよいのだろう。イエスの死によって「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」というようなことを引いて、解決とするほど単純なことではないと思う。
Ex26:14 最後に、赤く染めた雄羊の毛皮で天幕の覆いを作り、更にその上をじゅごんの皮の覆いでおおう。
幕屋が作られた時の状況、この文書が書かれた時の状況と背景に興味を持つ。じゅごんの皮は十分あったのだろうか。エジプトから持ち出したなど理由はつくだろうが。じゅごんの皮は一般的だったのだろうか。そして、幕屋は、いつごろまであったのだろう。ソロモン神殿の前まで続いたのだろうか。設計図は、なにを伝えるものなのだろう。神殿が出来てからあとの創作だとは思えない。
Ex27:31 常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。
幕屋に関する記事も、いままで丁寧に読み、学ぶことを探してきた。この箇所でも、臨在の幕屋の灯火をこの時から、ずっと灯し続けたことから考えさせられることが多い。しかし、同時に、幕屋のことがここまで詳細に書かれたのは、いつのことかも考える。批判的な学者の言うように、ずっと後代とも思えない。神殿が出来てからであれば、なぜここまで詳細な記述が必要だったのだろう。無批判に受け入れることにも、単に、確実な証拠があることのみ受け入れることにも、疑問を感じる。批判的に考えることは、もっと適切にできるように思われる。そして、確実に言えることが少ないことも確かだろう。
Ex28:21 これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して十二個あり、それぞれの宝石には、十二部族に従ってそれぞれの名が印章に彫るように彫りつけられている。
十二部族は、レビ以外だろうか。何れにしても、イスラエルの子らについてのとりなしである。イエスの教えによって極端に普遍的となる前と後では、本質的な違いがあることは事実。同じ神の導きとして受け入れるかどうかであろう。
Ex29:45 また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。
このことを、イスラエルはどの程度意識したのだろう。そして、!Cor6:19 にある「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」のように、私自身の中に住まわれるということを、どのように受け止めて日々生きているのだろうか。こんなわたしのなかに、主が住むことなどできないはずなのに。これsこそ驚くべき、恐るべき恵み。
Ex30:16 あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。
12節には「あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。」とある。よくは理解できないが、「登録」して、「主の御前に覚えられるため」「命を贖う」必要がある。15節では「あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。」とある。神に買い取って頂くための代金なのか。よくわからない。
Ex31:6 わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる。
この二つの知恵に興味をもった。口語訳は「賢い者の心に知恵を授け」となっている。後の方はホッフマー(chokmah: wisdom)前の方は、ハハム(chakam: wise skillfull)だが、心の中のすべてをハハムのあるものにという表現だろうか。なかなか難しい。in the hearts of all that are wise hearted I have put wisdom (KJV)
Ex32:27彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。
この章は、民の要求でアロンが若い雄牛の鋳像を造り、神の怒りが燃え、それを、モーセがなだめ(11節)、モーセがアロンと民に怒り、アロンが「わたしの主よ」(22節)と赦しを懇願し、上の箇所に至る。レビの子らが応じる。マタイ10:21,22「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」を思い出させられる。この出エジプトの記事を背景にして語られているのだろうか。神のこころを心とすることは、このような怒りをも共にすることか。
Ex33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
神は、これに民がどのように応じるか、問うているのだろう。民が応答し(4節・6節)、モーセがとりなしがつづき、主がその願いを聞かれる。民の応答は「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。」(4節)であり、主の心を心とすることとはほど遠い、そして、このあともすぐ神に逆らう。そうであっても、それを知りつつも、主は応答される。主が主であり、これが主のご性質なのだろう。「主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。』」(19節)
Ex34:1主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。
神の指で記された板「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。」(31:18)さらに「その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。」とも書かれている。しかし、この板は砕かれてしまった。「宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。」(32:19)人にとっては一大事であるが、神にとっての関心はそこにはないのかも知れない。神は、もう一度それをつくることは何でもない。神の関心事にこそ心を向けたい。
Ex35:2 六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。
死刑とはあまりに厳しく感じる。1節には「モーセはイスラエルの人々の共同体全体を集めて言った。「これは主が行うよう命じられた言葉である。」とある。つまり、特別な共同体の象徴ということだろう。むろん、一般法としては、異常。神から離れては、いのちがない特別な共同体であることを教えているのかもしれない。すくなくとも、われわれには、メッセージがある。
Ex36:5 モーセに言った。「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます。」
こんな荒野の中、しかし、実際には、主の恵みは、十分すぎるぐらいである。主の豊かさを思う。
Ex37:1,2 ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。 純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作った。
「ベツァルエル」は出エジプトに6回名前が出ている。31:2, 35:30, 36:1, 36:2, 37:1, 38:22. 31:2では「ユダ族のフルの孫、ウリの子」とあり、つづけて「彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ」とある。歴代志上には系図があり、ユダの子、ペレツの子、ヘツロンの子、カレブの一人目の妻アズパの死後めとったエフラトの子、フルの子、ウリと続き、ベツァルエルがその子であることが書かれている。歴代志下1:5には「主の幕屋の前には、フルの孫でウリの子であるベツァルエルの造った青銅の祭壇があった。ソロモンは会衆と共に主に尋ね」とある。イスラエルの歴史では特別な人物だったのだろう。
Ex38:24-26 仕事、すなわち聖所のあらゆる仕事に用いられた金の総額は、奉納物の金が聖所のシェケルで二十九キカル七百三十シェケル、 共同体に登録された者のささげた銀が聖所のシェケルで百キカル千七百七十五シェケルであり、 この額は二十歳以上の登録された者の総数、六十万三千五百五十人が一人当たり一ベカ、すなわち聖所のシェケルで半シェケルをささげたものに当たる。
最後の半シェケルは、5グラム程度。キカルは約34kg で口語訳、新改訳ではタラントと記される。30:15 には「あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。」とある。購い金、神殿税とすると、イエスの時代には、2デナリである。
Ex39:43 モーセがそのすべての仕事を見たところ、彼らは主が命じられたとおり、そのとおり行っていたので、モーセは彼らを祝福した。
出エジプトは反逆の記録が書かれている、しかしその最後をしめくくるのは、理解しがたい、幕屋建設の記録が続く。この43節を見ると、主が命じられたとおりに行い、祝福をうけたモデルが書かれているのかも知れないと思う。非常に具体的な作業ではあるが。
Ex40:38 旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
主がともにおられることを目で確認できることは、幸せである。しかし、それは、教育的な一段階にすぎないのだろう。複雑なことが多く、ひとはそのけつだんを任されていなければ、自由がなく、愛することもできないし、悩みつつ従うこともできないのだから。そのようなものの中にも聖霊が宿って下さる事を感謝しつつ信じたい。

BRC2013

Ex1:10 さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。
何を恐れていたのだろう。おそらく恐るべきものもわかっていなかったのだろう。そして、主のみ旨だけが立つ。Prb19:21
Ex2:14 彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。
次の節ではパロもこのことを聞いていることが記されている。ヘブルびとたちは、モーセの行為によって、味方してくれるに違いないと考えていたのかもしれない。ことの善悪を知るだけでは、神はリーダーとして用いられない。ヘブルびとたちもv23-25のように、神への叫び以外に何もないという状態ではなかったのかもしれない。
Ex3:3 モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。
この探究心がモーセを神に会わせたのかもしれない。しかし、主はそのことをご存じでこのように導かれたのかもしれない。
Ex4:21 主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。
「かたくなにする」この意味をしっかり調べていきたい。Ex7:3, 14:4, 14:17, 1Sam6:6, Prb28:14, Heb3:13。この派生表現は他にもあるだろうが、これらは、みな興味深い聖書の箇所だ。
Ex5:2 パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。
このパロの言説は当然。主は、ご自身をパロに現される。現代においては、どうなのだろう。どのように神は、ひとり一人にご自身を現されるのか。
Ex6:12 モーセは主にむかって言った、「イスラエルの人々でさえ、わたしの言うことを聞かなかったのに、どうして、くちびるに割礼のないわたしの言うことを、パロが聞き入れましょうか」。
同様なことが、v29,30 にも記されている。主が語れということを語り、あとは、主にゆだねる。いうのはたやすいが、実際に困難がふりかかり、じぶんだけでなく、イスラエルの民も、さらに苦しむことになる。5:15,16など。この状況で、求められる信仰はどのようなものなのか。現代社会でも、似た状況がありうる。
Ex7:5 わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」。
このような時がくることを、モーセが、アロンが、イスラエルの民が信じることが、もとめられている。「主であること」無論、ヤーヴェであること。エジプトびとがイスラエルの神が主であることを知る。エジプト人にとっても主であることを知る。驚かされる。
Ex8:28 パロは言った、「わたしはあなたがたを去らせ、荒野で、あなたがたの神、主に犠牲をささげさせよう。ただあまり遠くへ行ってはならない。わたしのために祈願しなさい」。
いまだ、中途半端で、パロにとって、イスラエルの神が、主にはなっていない。自分の利益が損なわれない程度に認める、一般的なこの世の「寛容・受容」の姿勢である。我々も、このレベルで、この世での自分の利得に片足を残して、主に委ねるふりをすることがよくある。
Ex9:16 しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない。
エジプト王、そして全地が知るため。これを、イスラエルの神でははく、唯一神と理解すべきだろう。このあたりから、自分の身に降りかかる災厄によって示される。v27 の懇願も表面的な利得によるものであることがわかる。v30. 人と人との信頼を築くこととは異なる。10:1,2 には、他の目的も書かれている。
Ex10:7 パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。
すでに、イスラエルに対しては、去る目的の合理性を認め、寛容になっている。しかし、その目的は、損得勘定である。そして、その決断、判断は、すこし状況が変われば、すぐに変化する。
Ex11:3 主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。
銀の飾り、金の飾りが何のためなのか、民はまだ知らなかったであろう。好意と訳されている言葉は、chen: gracious, that is subjectively (kindness, favor), objectively (beauty) favor, grace(-ious), pleasant, precious, [well-]favored 確かに、好意を得させるという意味なんだ。
Ex12:47 イスラエルの全会衆はこれを守らなければならない。
どのようにすると、主の民の一員となるかは困難な問題である。女性に関する規定はない。過越の祭の食卓と聖餐式の関連性は、最後の晩餐の記事ともあいまって様々に語られるが、ここでの記述から、Open Communion は受け入れられないと、即断するのはあやまりであろう。ガラテヤ3:23-29 をどう読むかにも関連するのか。あまり歴史的解釈にしばられるのは、危険でもある。
Ex13:9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。
同じ句が v16 にもある。形式をどのようにするにせよ、神様からいただいた恵みをきざみ、日常的に覚え、主がそのように恵み深いかたであることを証するみ言葉を暗唱することは、苦しい時、悩みの時、神から離れそうになる時、真理を見失って形式にとらわれる時、大きな力となるであろう。
Ex14:5 民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。
「逃げ去った」としているが、この文からも、パロとエジプト人、自らの決断であることがのべられている。背後での神の働きを認めることはできなかったのか。逆説的に聞こえるが、神に委ねることは解放となる。神と共にいることを通して見出す真理は、我々を自由にする。Jn8:31,32.
Ex15:26 言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。
歓喜の救出の直後の水に関するつぶやき (v24)。ここでも、病にかからないことを祝福の証としている。人にとって基本的な健康、ここから「おきて」(v23) による訓練がはじまる。養育係り (Gal3:23-29) としての。信仰の訓練の第一歩なのか。おそらく迂回路ではあるまい。
Ex16:23 モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。
v4-5 に、主の定めが記されている。特に v4 には、これが、試金石であることも書かれている。一つの訓練として、宗教教育の第一歩として重視されたのはうなずける。ここから、主に信頼する信仰へと導かれず、この行為に救いの保証を求める方向に人は進みやすいのかもしれない。
Ex17:3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
何人かはかわきによって死んでいったのかもしれない。アマレクとの戦い (v8-13) においても、傷つき、倒れ、死んだ人もいただろう。主に守られていれば災いに遭うことがないというわけではない。しかしその中で主に信頼すること、信仰の指導者に寄り頼んだり、訴えたりではなく、神様が憐れみ深いかた、信頼するに値する方、この方以外にいのちがないことを信じ、告白する日々でありたい。
Ex18:17 モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。
エテロはミディアンの祭司 (2:15) とある。ミディアンはイシマエル人と混同されたかたちでヨセフものがたりに表れるが (Gen37:25-28)、アブラハムの妻、ケトラの子として記されている (Gen25:1-6)。この敬虔な(一般的に神をおそれ、主の偉大なことを知るが、一般的観点からすると、ラバンよりも遠い異教徒 (Gen37:11-55))経験のある民の指導者である近親に、モーセも、イスラエルも助けられる。この人の助言のことば (v21) は秀逸で、学ぶ点が多い。この criterion にマッチしたひとを十分与えられているかは重要。
Ex19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
律法が養育係りであるように、この言葉も、成長の一段階における教育の一つのステップなのかもしれない。確かに幼児期には、このような愛によって、自分だけのおとうちゃんと意識する時代が必要。
Ex20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
v5 から、像は、礼拝目的のものを想定していることがわかる。しかし、像を作ることから禁止している。特に「自分のために」とある部分が目にとまる。v24 は「わたしのために」見えるものイメージに心を寄せる、人の弱さと危険を配慮してのおきてであることを思う。そして、これは v2 にあるように、特別に主に救われたものへのおきてであり、一般的な人間への戒律ではない。
Ex21:5 奴隷がもし『わたしは、わたしの主人と、わたしの妻と子供を愛します。わたしは自由の身となって去ることを好みません』と明言するならば、
律法には秩序を生み出す一般的な法律も多く含まれている。神が人に与えられた一般恩寵としての知恵を例えばエテロの助けによって取り入れることは宗教的団体の謙虚さの現れとしても重要である。しかし、どのような規定であってもそこから、神様からの特別な恵の表現が抜け落ちてしまってはいけない。この句が律法に残されていることに感謝する。
Ex22:3b 彼は必ず償わなければならない。もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう。
この節には、三下とついている。このような節名は、どのくらいあるのだろう。新共同訳にもあるのだろうか。細かい判例が記されている。古い時代にこの判決を下さなければならなかったのだろう。しかし、それが、律法として固定された時、困難が生じる。言葉は限定的、神は生きておられるから。しかし、その不自由さを許容してでも、聖典として限られた文字を受け継ぐことを良しとしたのだろう。用い方には注意を要する。
Ex23:23 わたしの使はあなたの前に行って、あなたをアモリびと、ヘテびと、ペリジびと、カナンびと、ヒビびと、およびエブスびとの所に導き、わたしは彼らを滅ぼすであろう。
滅ぼすのは主であること、イスラエルの前に主の使いが行くことが語られている。v28 にも語られ、v27 には「わたしの恐れを使わし」となっている。働かれるのは主で、思い上がってはいけないことと共に、主の主導と責任の元でこのことがなされるということであろう。カナンの地の多くの人にとってそれは、裁きと、滅びをいみする。イスラエルにとってはどうだろうか。v29 には、簡単に滅ぼし尽くさないことがイスラエルへの配慮であることが書かれている。この表現は違った形でこれ以降も何回か現れる。主の御心を知り尽くすことはできない。
Ex24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
契約の血。血は命の象徴であるから、命をかけた契約という意味であろう。そして、それは、いのちの代価によって立てられる新しい契約の予兆でもあるのか (Mtt26:28)。自分たちの血と考えていた動物の犠牲の血が、実は神の血であったということか。
Ex25:8 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
Mtt12:6 には「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。」とある。この出エジプトで造られる幕屋(会見の天幕)は教育目的と取るべきだろう。主が、私たちの近くにおられ、私たちのうちに住まわれるということは何を意味するかを覚えるため。その最初として、v1 の「心から喜んでささげるものからわたしにささげるものを受け取りなさい。」がある。自発的な捧げ物を、神が住んでくださる場所の原資としてくださる。
Ex26:1 あなたはまた十枚の幕をもって幕屋を造らなければならない。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
ケルビムは臨在の印で、神自身を表現しなかったことには驚かされる。それを受け入れた信仰が、純粋に精神的なものを支え続けたのかもしれない。幕に遮られている中にも神を表すものはない。
Ex27:1 あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。
アブラハム、イサク、ヤコブ等族長たちの時代には、その時々に、個人的なレベルで、思うがままに、それぞれの方法で礼拝してきた。出エジプトという、大きな集団での宗教活動には、同じ神を礼拝しているというアイデンティティーの形成だけでなく、自分達の思うがままではなく、神が望まれる方法での礼拝形式を持つ大切さが教えられているのだろう。それが、ここの祭壇の仕様の詳細な記述となっている。
Ex28:9 あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。
v10 によれば、生まれた順に、六つずつイスラエルの子達の名が記されているとある。祭司はこのようにして、イスラエル12部族を担い、とりなしをし、ある時は重要な案件の決断をしていったのであろう。v29,30。25章では、契約の箱と燭台など、中心的な祭具、26章では天幕、27章では祭壇、28章では祭司の衣装の規定となっている。
Ex29:1 あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、
アロンとその子らの任職の道筋が語られている。動物の血によって贖われ聖なるものとして選び分かつ (v35,44) プロシージャが記されている。血によるあがないは、本来は命が取られる、つまりは地上で、命あるものの世界では不可能なことを、地上につなぎとめておく儀式か。他にも意味があるかもしれない。
Ex30:33 すべてこれと等しい物を造る者、あるいはこれを祭司以外の人につける者は、民のうちから断たれるであろう』」。
聖なる注ぎ油 (v22-33) である。これによって v29 にあるように「これに触れる者は聖となる」しかしこの節の規定からも推測されるように、聖とされるのはこの配合によって作られる油の魔術性によるのではなく、神の宣言によるのであろう。したがって、その効力を試したり、魔術的に用いたり、他の目的のために作ったり、使ったりすることは神への冒涜である。そう考えると、結婚も同じなのかもしれない。
Ex31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
安息日の規定がまた表れる。16章、20章につづいて第三回目である。23章12, 13節にも安息日の名前はないが、寄留者も休ませる規定が書かれている。出エジプトではあと35章に記されている。「いこわれた」(naphash)息をつくという意味からきて、refresh されるという意味もあるようだ。この箇所は、その前の ベザレル (v1)、アホリアブ (v6)、その他「すべて賢いものの心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをことごとく造らせるであろう」(v6) に続いている。神からの特別に賜物を与えられ、仕事を与えられる、そのようなものへの忠告であるように思える。
Ex32:35 そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。
27節の裁きとともに、アロンが罰せられないことに対する理不尽さも感じる。v1 のあとにも民に対して信仰的な特別の指導力を発揮したとは書かれず、24節にはあまりにも白々しいいいわけが書かれている。子牛の像は、エジプトであがめられていた神であると言われる。まず、もっともさけるべき、自分たちが信仰の旅路をあるき始める前の神に戻る行為。
Ex33:18 モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。
モーセもある意味で、しるしをもとめている。そして、主はこれにこたえられる。この章における、モーセの特別なとりなし、神との深い交わりの中で、このモーセにとっても本当に必要な時に、神はご自身の栄光をモーセに現される。アブラハムに秘密を語り、モーセとこのように語られる神、マタイ福音書12:39で、イエスが「邪悪で不義な時代はしるしを求める」という、心が理解できる気がする。
Ex34:7 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。
この箇所 (v6,7) は、これに続く、モーセの応答 (v8,9) と共に理解すべきであろう。神と信仰者のコミュニケーションを通して明らかにされる神様のこころ。そして、この関係の中で生み出されていくのが信仰であろう。このコミュニケーションを通して理解される神が、どのような方であるかが、その人の信仰の土台を形成する。
Ex35:21 すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。
この章は、安息日を覚えることが再度記され、モーセの奨励、民の応答、ベザレルとアホリアブの召命が続く。31章とは構造が一部反転している。33ー34章をはさんで途切れ、ここに戻ってきている。33ー34章の事件の故にも、「すべて感じたもの、すべて心から喜んでするもの」の意味の重さを感じる。
Ex36:5 モーセに言った「民があまりに多く携えて来るので、主がせよと命じられた組立ての工事には余ります」。
この光景は非常に印象的である。v2 にある「すべて心に知恵あるもの、すなわちその心に知恵を授けられた者」と共に、神は十二分のリソースを私たちに与えておられるのだろう。しかし、子牛の事件を、ここに至る一つのステップと見るかについては、深慮を要する。ここでは、すなおに、このような状況になるほど、奉仕する心を人に与えられた神を賛美したい。
Ex37:9 ケルビムは翼を高く伸べ、その翼で贖罪所をおおい、顔は互に向かい合った。すなわちケルビムの顔は贖罪所に向かっていた。
この二つのケルビムの中央に主が臨在すると想定していたのか、それとも、その間にも何も見えないことを確認し信仰を持って受け入れることか。おそらく、芸術品としても価値のあるものであろうが、それは、素晴らしいもので神を礼拝する以外の価値はない。
Ex38:24 聖所のもろもろの工作に用いたすべての金、すなわち、ささげ物なる金は聖所のシケルで、二十九タラント七百三十シケルであった。
1タラント=34kg、1シェケル=10g、ただし各種ある。一度しっかり理解したい。993.3kg
Ex39:14 その宝石はイスラエルの子たちの名にしたがい、その名と等しく十二とし、おのおの印の彫刻のように、十二部族のためにその名を刻んだ。
28章の記事との対応が疑われたが、しっかり書かれている。エポデの紐につける二つの宝石(しまメノウ)28:9-12 が、この章では v6-7 に書かれ、12の宝石については、ここでは、v8-16 それは、28:17-21。いい加減に読んでいたことも認識させられた。先日亡くなられた、宝石がお好きだった教会員を思いつつ、いつもは個人的に興味がないここを読んだ。v43 には「モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、モーセは彼らを祝福した。」
Ex40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
そこにいない人にとってその感動は理解できないのかもしれない。しかし、礼拝堂の献堂式を経験したものは、この感動を少しきょうゆうできるかもしれない。たといそれが、タイワークキャンプの献堂式であっても。問題発生のあと、主に共に上って欲しいと懇願し、それが目に見える形のしるしとなって現れた瞬間。この感動が一生続くことを祈る。


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レビ記

レビ記(1)

聖書の通読は続いていますか。通読する人の最初の関門は、習慣とできるかつまり毎日の予定に組み込めるかですが、第二の関門は、レビ記だというひとがたくさんいます。2月15日からそのレビ記を読み始めます。

レビ記の概要をまず書いておきます。そのときに読んでいる箇所を全体の流れの中でとらえることも、理解を助ける一つです。わたしにとっても復習のため。

レビ記(言葉は主として口語訳による)
副題:天幕での礼拝手引き

  1. 犠牲のささげものの仕方 1-7章
    1. 五種類のささげもの(コルバン マルコ7:4参照)1:1-6:7 火祭(焼き尽くす捧げ物・全焼のいけにえ burnt)1章、素祭(穀物のささげ物 meal)2章、酬恩祭(和解の献げもの・和解のいけにえpeace)3章、罪祭(贖罪のための献げ物・罪のためのいけにえ sin)4章、愆祭(罪過のためのいけにえ trespass)(けんさい)5章  
    2. ささげものの処理の仕方。6:8-7:38
  2. アロンの子達の祭司としての聖別 8-10章
    1. モーセによる聖別 8章  
    2. アロンと民のためのアロンによるささげもの 9章  
    3. ナダブとアビフの罪と聖なるものを食べることについてのおきて10章
  3. 儀式にあずかるための純潔 11-16章
    1. 地上の動物、魚、鳥に関する清いものと清くないもの 11章  
    2. 女性のきよめとそのささげもの 12章  
    3. ライ病(重い皮膚病)ー法、しるし、犠牲 13-14章  
    4. 体の清め 15章  
    5. 罪についての毎年のあがない 16章
  4. 聖なる事に関するおきてと聖なる祭り 17-26章  
    1. 命が聖であることに関する様々のおきて 17-22, 24  
    2. 毎年の宗教祭 23章
      a. 過越の祭 b. 初穂の祭 c. らっぱの祭り d. 仮庵の祭  
    3. 安息の歳と呼べるの歳 25章  
    4. 従うものへの祝福と従わぬものへの罰
  5. 誓いと十分の一、神への捧げ物に関する付言 27章
わたしがどのようなことを考え記録してレビ記を読んでいるか、例として書かせて下さい。あくまでも個人的感想です。

1:4 頭の上に手を置く:身代わりのために受け入れられるため、自分自身をささげることの象徴、完全に焼き尽くされ祭司も食べない。
1:14 羊や山羊を買えない貧しい人のための規程も決められている。同時に購いは貧しい人も必要。
2:13 契約の塩は契約が真実・不変であることの象徴。
3:16-17 脂肪はすべて主の物、脂肪も血も食べてはならない。
4:2-3 罪を犯した場合の購いの最初は祭司について、厳粛な思いを持つ。
 順序は、祭司・共同体全体・共同体の代表者・一般の人
4章は過失罪で、故意罪については民数記15:30-31に民からたたれなければならないことが書かれている。
5:1 もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。とても厳粛。
5:4 また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。これがみだりに誓ってはならないということの内容であろう。そしてこれは神に対して罪を犯したこと。
5:5 まずは罪の告白。
5:7 様々な経済状態に応じたささげものが定められている。
6:18 この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。家に持ち帰ったり、祭司以外のものが食べることは許されなかったのだろう。特別な物。
7:20 もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。汚れることを極度にさけた理由もここにあるのかも知れない。
8:33 あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。この次の34節につながるように、おそらくこの7日間は罪の清めという事だろう。大変な儀式だったろう。
9:24 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。これこそが神の臨在の象徴。脂肪をなめ尽くす、脂肪は神のものとの意味がここにもあるのだろう。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。詳細はよくわからないが大変な事件が起きてしまう。厳粛なとき、しかしこの次にある、
10:19-20 を合わせて理解すべきだろう。ここが無かったらたんに厳しい宗教でおわってしまう。「モーセはこれを聞いて納得した。」
11:43 あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。清さについての最後がここにあるのかもしれない。ひとつひとつあまり理由は考えたくないが、ある程度なぜ清くないのか想像できるような内容になっている。人々に神は考えるように促しているのかも知れない。
12:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。理解しがたいことが続く。血がいのちとしてそれが地にながされることに対して恐れがあったのだろうか。
13: 8 祭司はこれを見て、その吹出物が皮に広がっているならば、祭司はその人を汚れた者としなければならない。これは重い皮膚病である。最近の口語訳の版は「重い皮膚病」となっている。私が使っているものは「らい病」差別的に働く言葉の排除、またひとからげにライ病としているところに問題があるからだろう。しかし、当時はやはりライ病として恐れられ、共同体に伝染しないよう特別な注意が払われた。配慮は理解できるが、やはりこれは差別的なライ病認定として残った一因と思われる。
14:2 「重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、清められる希望を持ち、ある意味では誤診の可能性もこのようにして清め規程として持っていたのだろう。いまも、そう変わらない危うさがある。

ここまでとします。どんなことを考えながらわたしは読んでいるかを書いてみました。

レビ記(2)

通読でわたしが学んだことの中から書きます。
  1. 「いのちはどこにあるのだろう」

    レビ記 / 17章 14節(口語)
    すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

    レビ記では、血のことがたくさん出てきます。そして、ここでは「どんな肉の血も食べてはならない」となっています。以前、我が家の聖書の会では使徒行伝を読んでいましたが、そのちょうど真ん中の15章、通称エルサレム会議と呼ばれている箇所では、「異邦人(ユダヤ人以外)が救われるためには、ユダヤ教徒になって律法をみな、守らなければならないか」という問題と「クリスチャンになったら、律法を全部守るべきか」という問題について、議論されています。その結論は使徒行伝15章28・29節「すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。」これらの事項を書いてあるのは、ユダヤ人クリスチャンは、律法をしっかり守って生活していましたから、異邦人クリスチャンがこれらのクリスチャンと共に教会生活をするためには、このような基本的な事を守ることが必要だったからだとも言われています。

    それは、さておき、ここでも「血」が出てきますね。なぜ「血」なのかの答えが、レビ記の上にあげた箇所に書いてあります。「すべて肉の命は、その血と一つだからである。」つまり、血を食べないようにし、血を特別なものと考えたのは、それが命そのもの、命と一つだとされたからとなります。つまりは「いのち」を特別なこととした、命を特別なものとして大切にしたということです。つまり、命をむやみに食べてはいけないということです。神様はモーセを通して (レビ17:1, 8等)いのちと同一のものとして血をたべるなと命じたわけです。神様を前面に出さないなら、これを当時の人がいのちをたいせつに生きることを表現する信仰告白と取ることもできます。血といのちは違うだろうというひとも多いと思います。では、みなさんは、いのちはどこにあると思いますか。現代の人は命とは何だと思っているのでしょうか。

    日野原重明先生(1911年10月4日 山口県生まれ、現在聖路加国際病院理事長・同名誉院長・聖路加看護大学名誉学長)の「愛とゆるし」(教文館 ISBN 978-4-7642-6920-0) という本をご存じですか。そこに日野原先生がされた、オーストラリアの小学校での「いのちの授業」について書かれてありました。

    「命は目には見えないけれど、君たち命を持っているね。では、命はどこにあるのかしら」
    心臓とかをさす子もいますが、それは命ではないよねと語り、
    「君たちは昨日、朝起きてから何をしたか順を追って話してごらん」
    「君が持っている時間を君のためだけに使ってきた?」
    と問いかけます。そして、最後に
    「おとなになったら自分の時間をどのように使いたいかを考えて、私に送って下さい。」
    その応答として、
    「日野原先生は『人のことを考える』『仕返しはいけない。我慢しなければ』と言われました。『平和のことを深く考えて行動する』ということは、はっきり言うと、普段はできないと思います。だからそんな大きなことじゃなくて、まずは日常生活の中で友達や家族、周りの人たちのことを考えてみたり、普段の生活のちょっとしたことで気をつかったり、そういうところから行動していけるようになりたいです。」
    「自分という空っぽの器にどう詰め込んでいくかが大切だと思いました。」
    と素晴らしい手紙をもらったと書いてありました。みなさんは、自分のいのちはどこにあると考え、普段の生活を生きる中で、どのように自分という器に詰め込んでいるのでしょうか。いのちを大切に生きていますか。
  2. 「たいせつなひとをたいせつにすることは、たいせつなひとのたいせつなひとをたいせつにすること」

    レビ記 / 18章 7-8節(口語)
    あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。

    ちょっと異常なことが書かれています。しかし、聖書をここまで読んできた人は、思い当たる事件がありますよね。 そうです。ルベンの事件です。

    創世記 / 35章 22節(口語)
    イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。

    このあと、ルベンは、ヨセフ物語でも特別な役割を演じるのでした。「若いときの過ち」であったかどうかは分かりませんが、この事件については、創世記49章3,4節にも書かれています。一生の問題となったことでしょう。ビルハとのことが、父ヤコブをはずかしめることだということまで思いが到らなかったのでしょうか。

    実は似たそしてもっと悲劇的なことがあとから出てきます。列王紀上です。サムエル記下の問題も似た問題です。 このレビ記の箇所は、平たく言うと、「お父さんを大切にすること。それはお父さんにとって大切なお母さんを大切にすること。」ということでしょう。そして同様の関係の記述がこのあと続きます。すなわち、表題に書いたように「大切な人を大切にすることは、大切な人の大切な人を大切にすること」だと言うことです。

    皆さんにとって大切な人はだれですか。その人の大切にしている人を大切にしていますか。もし、ほんとうにその人が大切なら、その人の大切な人も大切にしますよね。その人に喜んでもらう為に。神様を大切にすることは、神様が愛しておられるわたしたちの隣人を愛することでもあります。

    実は、授業で「あなたにとって一番たいせつな(または、たいせつにしたい)もの、ことはなんですか。」と聞いています。大切なひと、もの、ことを大切にして生きることはあまり簡単ではないことなのかも知れませんね。

  3. 「あなたの隣人を愛さなければならない」

    レビ記 / 19章 18節(口語)
    あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

    レビ記で一番有名な聖書の箇所はここでしょう。聖書で一番大切な戒めとしてイエスが答えられる二つの戒めのひとつです。(マルコ12:28-34) 善きサマリヤ人の譬えで出てくる箇所でもあります。(ルカ10:25-37) このレビ記19章を読めば、隣人についてのことがたくさん書かれていることが分かりますね。ここだけを読めば隣人はやはり「自分の民」の人だろうなと考えてしまうかも知れません。この締めくくりが「わたしは主である」というのは、重いですね。

17章・18章・19章からひとつずつ聖書の箇所を取り上げてみました。わたしも今回の通読でまた思いを新たにさせられた箇所でもあります。みなさんは、どんなことを感じておられますか。


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聖書通読ノート

BRC2023

Leviticus 1:5 その人が主の前で若い雄牛を屠ると、祭司であるアロンの子らはその血を携えて行き、会見の幕屋の入り口にある祭壇の周りに打ちかける。
出エジプト記の最後は、幕屋が立ち上がったところで終わるが、レビ記の最初には「アロンの子ら」の務めが書かれている。このように、表現することで、実際の子だけでなく、祭司職一般について記しているのだろう。このあとの民数記を見ても、不信と混乱が続く荒野で、祭儀だけが、粛々と完璧な形で、行われたと考えるのは困難である。しかし出エジプトを起源として、アロンの子らの祭司職、礼拝形式を記述することは、特別な意味があり、必要不可欠と考えた人たちがいるのだろう。
Leviticus 2:1,2 人が穀物の供え物を主への献げ物にする場合、その献げ物は上質の小麦粉でなければならない。その小麦粉に油をかけ、乳香を載せ、祭司であるアロンの子らのもとに携えて行きなさい。祭司は油のかかった上質の小麦粉一握りとすべての乳香をつかみ、記念の分として祭壇で焼いて煙にする。これは主への火による献げ物、宥めの香りである。
荒野でマナとうずらだけを食べていたときの規定とは思えない。家畜は飼っていたとしても、収穫はずっとあとである。実際にそのようなことが始まってから、少しずつ整備されていったものを、書き加えていったのか。または、さらに、のちの時代に、それを忘れないように、詳細に書き記したのか不明であるが、それを大切にした人たちが連綿と続いていたのだろう。
Leviticus 3:16,17 祭司はそれらを祭壇で焼いて煙にする。これは食べ物としての、火による献げ物、宥めの香りである。脂肪はすべて主のものである。これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」
二つのことを考えた。一つは脂肪のこと。「脂肪はすべて主のものである。」として「脂肪も血も決して食べてはならない」とある。一番の活力源となる脂肪を食べない。どのような意味があるのかは、書かれていないが、「主のもの」ということが理由なのだろう。健康への影響など、あまり普遍性の高い理由を考えることは、意味がないのかもしれない。もう一つは、レビ記にはいり、現代にはあまり関係しない記述が延々と詳細に続くことである。継承されていったのは、これをたいせつだと考えた人がたくさんいたからだろう。実際に、神殿でこのことを生業としていた、祭司が、忘れてはならないものとして、神殿が亡くなったころから、記述を丁寧に伝承したのかもしれない。しかし、それが続くことにも驚かされる。そのころには、羊皮紙の巻物などでの伝承が容易になっていったのだろうか。
Leviticus 4:1-3 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて、人が過って違反した場合、次のようにしなければならない。もし油を注がれた祭司が違反して、民にもその罪責を及ぼすことになるなら、犯した過失のために、欠陥のない若い雄牛を清めのいけにえとして主に献げなければならない。
違反について書かれている。最初は、祭司、13節からは「イスラエルの全会衆が過失を犯した」場合について書かれ、22節からは「民を導くものが違反した場合」とあり、27節からは「この地の民の一人が誤って違反し」た場合について書いてある。だれでも、違反することが前提とされており、それをどのように扱うかが明確になっている。原因を追求するようなことや、改善については書かれていない。あるルーティンが書かれている。過ちを犯さないようにではなく「主が行ってはならないと命じた戒め」に違反するということが、契約に違反すること、主との関係が壊れる可能性を避けることに主眼があるように思う。
Leviticus 5:1 人が違反した場合、すなわち、証人として呪いの声を聞いているのに、目撃して知っていることを証言しないなら、罰を受ける。
このあとには、かなり詳細な例が続く。主を畏れ、主との関係を適切に継続するために、必要なこととして、書かれているのだろう。ただ、個別のことについては、より、詳細に議論しないと、適切かどうかはわからないと思う。そこには、主が愛され、また、主を求める、他者が存在し、その他者との関係も、主がたいせつにされるからである。そして、公平さ、互いに愛し合うことは、主が望まれることであると同時に、人間の責任でもある。すこしずつ、丁寧に見ていきたい。
Leviticus 6:1,2 主はモーセに告げられた。「アロンとその子らに命じよ。これは焼き尽くすいけにえについての指示である。焼き尽くすいけにえは、夜通し朝まで祭壇の炉の上に置き、祭壇の火を燃やし続ける。
アロンの子ら、すなわち、祭司職の務めが語られている。正直、このようなことが、どの時代に、どの程度、続けられていたのか、知りたいと思った。主との関係を、礼拝行為によって、適切に保つことは大切であるが、引用句も含め、正直、異常に感じる。ある時代に、これが行われていたかも、少し疑問である。どのように引き継がれていったのだろうか。
Leviticus 7:22-24 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。牛や羊や山羊の脂肪を決して食べてはならない。自然に死んだ動物の脂肪や、野獣に殺された動物の脂肪は、あらゆる用途に用いることはできるが、食べてはならない。
この章には「償いのいけにえについての指示」(1-6)「清めのいけにえ」(7-10)「会食のいけにえ・感謝のいいけにえ」(11-15)「誓願の献げ物、あるいは自発の献げ物のいけにえ」(16-18)とあり、その後に、汚れたものに触れた肉、そして、この脂肪のことに関する記述があり、供物を民が捧げる場合の詳細が書かれている。これらがどのような場合に献げられたのか不明である。聖書の訳によって異なる用語が用いられているので、口語訳などの名前を思い出すが、やはりよくはわからない。引用句の段落には、脂肪と血を食べてはならないことが「食べるものは一族から断たれる」(25,26)と強い言葉で書かれていることが印象的である。ただ、今回引用句を取り上げたのは「自然に死んだ動物の脂肪や、野獣に殺された動物の脂肪は、あらゆる用途に用いることはできる」とも書かれている点である。焼き尽くして「主への火による献げものとする」(2)ものではあるが、特定の死に方をした動物の場合は、その脂肪の有効利用がされていたということだろう。
Leviticus 8:1-3 主はモーセに告げられた。「アロンと彼と共にいるその子らを伴い、祭服と注ぎの油、清めのいけにえにする雄牛一頭と雄羊二匹、それに種なしパンを入れた籠を取りそろえて、会見の幕屋の入り口に全会衆を集めよ。」
任職式の詳細が書かれている。備忘録だろうか。つまりこれを行うことができないときに、正確に引き継ぐためか、理想的な形式を明示したものか、祭司の仕事、祭司がたいせつにしたことについては、正直よくわからないが、今でもある程度はなされているのだろうか。いつか学んでみたい。
Leviticus 9:1,2 八日目になり、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び、アロンに言った。「清めのいけにえにする欠陥のない若い雄牛と、焼き尽くすいけにえにする欠陥のない雄羊を選び、主の前で献げなさい。
任職式の7日間終了後最初にすることが書かれている。実際の祭司としての仕事ということだろう。アロンとその子らと書かれているが、このあとは、アロンはとなっている。アロンの子ら、すなわち、大祭司が行うものとして、アロンに行動が集約されているのだろう。しかし、いずれにしても、かなり詳細で、わたしのようなものが興味をもって読み続けるのは難しい。同時に、このことをいのちのようにたいせつにし、それが、行えないことを忸怩たる思いで(深く恥いって)いた人たちがいたということだろう。正直、理解が難しい。
Leviticus 10:4,5 モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼んで言った。「進み出て、あなたがたの兄弟を聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」彼らはモーセに告げられたとおり進み出て、二人を短衣のまま宿営の外へ運び出した。
「アロンの息子ナダブとアビフは自分の香炉を取って、火を入れて香をたき、命じられていない規定外の火を主の前に献げた。」(1)唐突にも感じられるが、事件の顛末は興味深い。ここでは、アロンやその子らではなく、アロンのおじ(モーセのおじでもあろうが)に依頼して、遺体の処理をしている。大祭司は、たとえ自分の家族であっても、死体のことなどで、穢されてはいけないという規定が背景にあるのだろう。しかし、ある程度、アロンのこころについても記されている。「アロンはモーセに告げた。『あの者たちは、今日、自分たちのために清めのいけにえと焼き尽くすいけにえを主の前に献げました。しかし、このようなことが私に起こってしまったのです。このような日に私が清めのいけにえの肉を口にして、果たして主の目に適ったでしょうか。』」(19)形式的に整えられているが、モーセのことばとして書かれている「『私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す』と主が言われたのは、このことであった。」(3b)を民に伝承するためだったのだろう。実際に何をして、何が起こったのかや、死との因果関係は、明らかではない。
Leviticus 11:16,17 これが動物、鳥、水の中でうごめく生き物、地に群がるものについて、汚れたものと清いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別するための指示である。」
この理由が直前に書かれている。「私は主、あなたがたの神である。私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい。地を這い、群がるどのようなものによっても、あなたがた自身を汚してはならない。」(44)主を畏れ、清くあらねばならないという気持ちから、このようなリストになったように思われる。しかし、それが主が告げられたこととして受け継がれていく。イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ15章11節)といい、さらにペトロに「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」(使徒11章9節)と示し、食べ物だけではなく、異邦人への福音宣教へと進んでいく。清くあらねばならないということが、膨大なリストを作っていったのだろう。おそらく、その中には、ある程度、健康のためなど理由のあるものもあったかもしれない。しかし、ひとの思いであり、主の思いとは異なるということか。判断は簡単ではない。
Leviticus 12:2,3 「イスラエルの人々に告げなさい。女が身ごもって、男児を産む場合、月経の汚れの日数と同じく、七日間汚れる。八日目には、その子の包皮に割礼が施される。
このように受け取ったということだろう。男性世界という背景もあるだろうが、いのちのもとと信じられていた血が流されることを、極度に怖れていたということだろうか。しかし、割礼も血が流れるように思う。論理的とは言えないものがたくさんある。このようにして、聖別が、区別を生み、それが差別へとつながる。主がどのような方なのか、まさに、Welcome 歓迎されるかた、Inclusive 包摂を尊ばれるかたと変化するには、時間がかかったということだろうか。人間の性(さが)でもあるように思う。
Leviticus 13:2 「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、その人は祭司アロンか、祭司であるその子らの一人のもとに連れて行かれる。
聖書協会共同訳では「規定の病」と訳され、新改訳では「ツァラアト」と訳され、口語訳は当初「らい病」と訳していて、そのご「重い皮膚病」と訳された言葉である。訳の背後には、さまざまな考えがある。新改訳のサイトでは「『ツァラアト』とは何ですか? と聞かれた場合、何と答えればよいでしょうか?」(https://www.seisho.or.jp/archives/about-3rd/q-and-a/)の回答が掲載されていたり、「聖書協会共同訳について」(https://www.bible.or.jp/wp-content/uploads/2021/03/si_bible.pdf)でも「規定の病」という訳語について説明されている。基本的に、科学的知見が十分ではないときに、また、差別の構造などを社会科学的にも十分深く考えられなかったときに生み出されたとも言えるが感染症、特に、目に見える形でおこる、病が’怖れられ、どうにか遠ざけることが、さまざまに試みられていたのだろう。御心を知るには、文字だけでなく、科学的にしめされることも、たいせつだとわたしは理解しているが、聖書解釈の根底がゆるぐと考え、明言をさけるというのが、現在の状況のように思われる。
Leviticus 14:1,2 主はモーセに告げられた。「これは規定の病を患っていた人が清められるときの指示である。その人は祭司のもとに連れて行かれる。
この章には、最後にまとめられているように、規定の病に限らず、さまざまな汚れが清められたとする手続きが書かれている。基本的には、祭司に見せる。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」(ルカ17章14節)のイエスのことばも、これを背景としている。社会的なとりあつかいは、重要だということだろう。科学的知見が欠けていたときは、祭司に頼る以外になかったのだろう。公平さとともに、知識人としての働きもあったと思われる。
Leviticus 15:31-33 あなたがたはイスラエルの人々を汚れから遠ざけなさい。あなたがたの中にある私の住まいを汚して、彼らがその汚れの中で死なないためである。以上は漏出による汚れについての指示である。精液を出して汚れた男、月経中の女、男であれ女であれ何らかの漏出があった者、また汚れている女と寝た男についての指示である。」
男性も女性も陰部からの漏出は汚れたものとみなされ、対応が必要だとして、詳細が書かれている。血や性交などいのちに関わることにおそれを持っていたことがわかる。科学的知見が十分でないことが背景にあるが、他者への感染を避けるための措置とも言えるだろう。しかし、このことにより、社会的に排除されることも、おこりうるので、問題でもある。明示的に「その者は汚れている」(3節など多数)、「彼女は汚れている」(25)という記述もあり、問題である。おそらく、さらに、広く、聖であることを単純に求めることが、差別を生む構造が見て取れるとも言える。「聖」であることを、主のみこころをもとめて生きると表現し直すことも大切であるように思う。
Leviticus 16:34 これはあなたがたのとこしえの掟である。年に一度、イスラエルの人々のために、あらゆる罪の贖いをしなさい。」アロンは主がモーセに命じられたとおりに行った。
年に一度の贖罪の日の規定である。この章の最初は「アロンの二人の息子が主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。」と始まっているが、大祭司という、特別な存在を担うものにおいても、滅ぼされるという緊張感が背後にあったのだろう。ナダブとアビフが異火を焚いて死んだという事件(10章1,2節)の詳細はわからず、単なる事故だった可能性もあるが、おそれが生じたことと、大祭司の家系であっても、特別ではないことを教える教訓にはなっていたのだろう。どのように、引き継がれていったかは、事件の詳細とともに、不明であるとしか言えないが、主をおそれることを徹底することが、このような儀式をたいせつにすることにも、つながっていったのだろう。しかし、それは、主との対話、交わりを遠ざけることにもつながる。イエスから浮かび上がる、主との関係は、すこし違って見える。
Leviticus 17:3,4 イスラエルの家に属する者が牛、羊、あるいは山羊を宿営の内、あるいは宿営の外で屠り、主への献げ物とするために、主の住まいの前、会見の幕屋の入り口に引いて来なければ、その者には血の責任が問われる。血を流したからである。その者は民の中から絶たれる。
恐ろしいことが書かれている。中央集権。幕屋、そして、神殿以外で、主への献げ物を献げてはいけないという規定である。ヨブのようなひとはどうなのだろうか。神殿がなくなったらどうするのだろうか。神殿を1箇所以外作らないとうのも、特徴的である。そのことも、興味深い。正統は一つということなのだろうか。
Leviticus 18:27,28 あなたがたより先にいた者がこれらの忌むべきことをすべて行ったので、その地は汚れた。あなたがたより先にいた国民をその地が吐き出したように、あなたがたがその地を汚して、その地があなたがたを吐き出すことのないようにしなさい。
この章は、「あなたがたは、住んでいたエジプトの地の風習に倣ってはならない。また私が連れて行くカナンの地の風習に倣ってはならない。その掟に従って歩んではならない。」(3)と始まり、「自分の肉親に近づき、これを犯してはならない。私は主である。」(7)に関係したことの記述があり、「あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父を辱めることである。」(8)この形式が続く。論理は不明としか言えないが、近親をたいせつにすることの延長にあるのだろう。ただ、引用句は、この書の成り立ちについても考えさせられる。鍵が、カナン侵入前に書かれたということだろうから。
Leviticus 19:20 男が、他の男のものになるはずの女奴隷と寝て交わり、まだ身請け金が支払われていないか、彼女に自由が与えられていなかった場合には、男に償いの義務はあるが、二人は死刑にはならない。彼女は自由の身ではなかったからである。
「聖なる者となりなさい。」(1b)が外面的な清さから他者に対する倫理的な面に及ぶ。「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」(16b)も現れる。その背後には「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である。」(34)として、他者視点も入っている。しかし、引用句は、女奴隷をその視点からは見ていない。エジプトでも、寄留者であったとして、奴隷とは書かれていない。自分と同一視する視点は秋からに広がっているが、限界もあるように思われる。バビロン捕囚もある自由が与えられていたようで、アッシリアの場合とは異なるのかもしれない。その後のさまざまな人類の歴史から学び、他者視点が広がっていかなければならないように思う。
Leviticus 20:24 それで私はあなたがたに言ったのである。『あなたがたが彼らの土地を相続する。私は乳と蜜の流れる地をあなたがたに相続させる。』私は主、あなたがたの神、あなたがたを他の民から区別する者である。
「必ず死ななければならない」が続き「民の中から絶たれる」もある。そして、引用句では「他の民から区別する者」とある。選民としての認識である。聖書で、一貫しているとは言えないが、時々現れるように思われる。聖であること、特別な律法を授かったことが特別な恵みとすることは、主観であるが、区別となると、差別につながり、交わりが制限される。他者視点との関係が、重要であると感じさせられる。いろいろな受け取り方があったのだろうが。
Leviticus 21:21,22 祭司アロンの子孫で、体に欠陥のある者は誰でも、主への火による献げ物を献げるために近づいてはならない。欠陥のある者が神の食べ物を献げるために近づいてはならないのである。しかし彼らも、神の食べ物である最も聖なるものや、聖なるものを食べることはできる。
祭司アロンの子孫は、聖なる仕事をするから、一般の人とは異なり、聖でなければならないことが詳細に書かれている。身近な肉親以外の一族の死者のことで汚れてはならない。(1-4)などなどである。汚れについては、正直よくわからず「処女をめとたなければなない」や、引用句にもある「体に欠陥のある者」についてなど、問題も感じる。しかし、それは、時代背景をもった、ひとの価値観なのだろうと思う。聖である主に仕えるのだから、聖でなければならないことを、できる限り表現したものだろう。逐次霊感説など、聖書の文字を重視する人には受け入れられないだろうが。「主のようにあること」が「主が聖であるように、聖でなければならない」と解釈され、主が聖であることの意味を十分吟味されずに、規定が膨らんでいくということだろう。これを避けることは一般的には難しい。しかし、立ち止まって、少しずつ修正していくことは、人間の責任であると思う。
Leviticus 22:4-6 アロンの子孫で、規定の病や漏出のある者は、清くなるまで聖なるものを食べてはならない。死者の汚れに触れた者や、精液を漏らした者、また汚れをもたらす群がるもの、あるいはどのような汚れにせよ、汚れている人に触れた人、このような人は夕方まで汚れる。体を水で洗わずに聖なるものを食べてはならない。
「聖である」は「欠けがない」ことを含むことが想定されているのだろう。理解できるし、ここでも、アロンの子孫、特別な任務にあたるものについて述べている箇所であるが、やはり、課題も感じる。主がどのような方であるかよりも、主がなにを望んでおられるか、そして、わたしたちが主と共に、どのように生きてほしいかを考えるべきであるように思う。そう考えると、わたしたちが「欠けがある」ことをも乗り越えられるように思う。公平さを求めることひとつをとっても、膨大なことであると同時に、基本的には「欠けがある」世界でどのように生き、御心がおこなわれる世界を共に喜ぶにはどうしたら良いかに視点が移って行くように思われるからである。
Leviticus 23:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたが聖なる集会を召集すべき主の祭り、すなわち私の祭りは次のとおりである。
祭りの規定が書かれている。「どこに住もうとも」(31b 贖罪の日の規定内)とあるが、基本的に農耕が想定されているように思われる。安息日、過越祭・除酵祭(第一の月)五旬祭(初穂の祭り50日後)贖罪の日・仮庵祭(第七の月)、安息日以外は、基本的には年三回にわけて祭りが行われるようである。この途中にある規定は、やはり目をひく。「あなたがたが土地の実りの刈り入れをするとき、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。」(22)単なる祭りの規定ではないことを示唆している。これも聖であることの表現か。
Leviticus 24:16 主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない。イスラエル人であれ、寄留者であれ、御名をそしる者は死ななければならない。
非常に厳しいと思うのと同時に、問題を感じる。イエスも言われているように、主の名をそしるどころか、「きょうだいに腹をたてるもの」(マタイ5章22節)などについても言及している。こころの中まで考えれば、裁くことはできない。おそらく、主も、このような裁きを望んでおられないのではないか。それよりも、悔い改め、敵を愛することに招かれること、互いに愛し合うことを求めることを望んでおられるのではないかと思う。しかし、このように文字で書かれると、そこに集中し、離れられなくなってしまう。ひとつのステップであるのかもしれないが。
Leviticus 25:55 イスラエルの人々は私の奴隷である。彼らは、私がエジプトの地から導き出した私の奴隷である。私は主、あなたがたの神である。
この章では、安息日からはじめ、ヨベルの年の規定が書かれている。神を畏れるとは、このようなことかと感銘をうける一方、奴隷に関することについては「あなたが男女の奴隷として所有できるのは、あなたがたの周りにいる異邦人である。彼らからなら男奴隷や女奴隷を買うことができる。」(44)とあり、イスラエルの人々と、それ以外の人々を区別する規定を見ると、他者視点、主の愛の普遍性の理解の欠如をもって、批判したくもなる。そして、この章の締めくくりが、引用句である。おそらく、イスラエルの人々とそれ以外を分ける、区別する根拠として書かれているのだろう。他者視点が未熟とも言えるが、意識はしているということのように思われる。ヨベルの年の規定がどの程度、守られていたかの議論もあろうが、厳格なユダヤ教徒は、ある程度守っていただろうから、神を畏れることを示す規定としての意義は十分にあったように思われる。これすら、差別や分裂を産むこともあるのだろうが。
Leviticus 26:33-35 私はあなたがたを諸国民の中に追い散らし、背後で剣を抜く。地は荒れ果て、町は廃虚と化す。その荒廃の期間に、地は安息を享受する。あなたがたが敵の地にいる間、地は安息して、安息年を享受する。あなたがたが住んでいた間、安息年では得られなかった安息を、その荒廃の期間に享受する。
「私の安息日を守り、私の聖所を畏れなさい。私は主である。私の掟に従って歩み、戒めを守り行うなら、私は季節に応じて雨を降らせる。大地は実りをもたらし、野の木は実を結ぶ。」(2-4)の祝福の約束と、「しかし私に聞き従わず、これらの戒めをすべて守らないなら、」(14)から始まる呪いのことばの箇所の後半には、引用句から始まる、イスラエルの人々が散らされること、その後に続くことついて書かれている。これがいつ書かれたかは不明であるが、モーセ五書をたいせつにしたひとたちの思いは、少し理解できるように思う。さらに、引用句にある、荒廃の期間が、イスラエルの民が住んでいた間、安息年では得られなかった安息を享受するとある。安息日から始まるこの章における、安息の重さを考えさせられる。主の、Give me a break! の意味もあるのかとすら考えた。
Leviticus 27:2-4 「イスラエルの人々に告げなさい。人を査定額に従って主に奉献する、特別な誓願を行う場合、二十歳から六十歳までの男の査定額は聖所のシェケルで銀五十シェケル、女は銀三十シェケルである。
この「特別な誓願を行う場合」がなにを意味するのかは不明である。願掛け(神仏に願いをかけること。その成就のため,百度参りとか断ち物をするといった一定の行為を自分に課すのが通例。)と通常いわれるようなものだろうか。ここには、その基本的な査定額が書かれている。このあとのさらに詳細な年齢・性別ごとの査定額が書かれている。不平等ということもできるが、賠償などが関連する事項がこのあとに続くことを考えると、訴訟や、税など、さまざまなものの基準として、公平さを期すために、定められているのかもしれないと思った。貧富の差は、ここでは関係ない。実際の運用がわからないとなんとも言えないが。この章がレビ記の最後で結語には「以上が、シナイ山で主がモーセに命じられた、イスラエルの人々への戒めである。」(34)とある。


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Leviticus 1:3,4 もしその人の献げ物が牛の焼き尽くすいけにえであるなら、欠陥のない雄牛を献げなさい。主の前でそれが受け入れられるよう、会見の幕屋の入り口にそれを引いて行きなさい。その人が焼き尽くすいけにえの頭に手を置くと、それはその人の代わりに受け入れられて、その贖いとなる。
献げるのは「欠陥のない雄牛」であること「その人の代わりに、その人の贖いとなる」ことが書かれている。献げるときは、自分のものとして不必要なものを献げようとすることへの戒め、それが受け入れられて、身代わりになる宣言である。このあとに、それがどのように扱われるか、その詳細が続く。詳細にはなかなか興味が持てないが、この細かいルーティンと、アロンやその子孫が適切に、定められた方法で扱ってくれることへの信頼と、神秘性によって、主に受け入れられ、自分が購われたものとなることを信じ、日々を生きることができるようになるのだと感じた。これは、ここでは、男性だけについて、言われていることだろうし、現代では、神秘的秘蹟によって、受け入れられることは困難になってきている。それは自然な流れだと思うが、それに代わるもの、主を信頼する、そして、(主の恵みによって(このようには言い切れなかったとしても)すくなくとも、自力だけで生きる存在ではなく)生かされている存在であることを、認識するためのなんらかの方策は必要なような気がする。人間の弱さは、当時も、今も変わらないだろうから。
Leviticus 2:10 残った穀物の供え物はアロンとその子らのものになる。これは主への火による献げ物の中で、最も聖なるものである。
祭司の取り分も明確になっており、透明性が高くなっている。ただ、当時は、アロンとその子らは、人数も少なく、どのようにされていたのかと考えてしまうが、時代とともに、修正されていったのかもしれない。構造的には、祭司である、アロンとその子らはよいが、レビ人は、何を受けるのかと思った。貧しい場合が多かったとも聞く。現代のキリスト教会でも、そのような不公平・不均衡は起こっている。透明性とともに、不公平さは、悲しい現実である。特に、女性が献身者として、聖職者となり、その後、病気をしたような場合の困難さを多く見ている。一般社会のひずみが現れるのだろう。カトリックや、聖公会、大きな教団では、多少ましなようだが。構造に安住せず、きめこまかな配慮と、体制の改善はやはり必要である。
Leviticus 3:3,4 その人は会食のいけにえから主への火による献げ物として内臓を覆う脂肪と内臓周辺のすべての脂肪、二つの腎臓と腱に付いた脂肪、そして腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を携えて行く。
動物をさばいているひとにとっては、よくわかることなのだろうが、わたしには、殆どわからず、意味をなさない。そして最後には「これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」(17)とある。これを主が定められたのだろうか。これをイスラエルが受け取ったということだろう。なぜ、脂肪と血なのかは、不明だが、とくべつに神秘的な、いのちと直接つながるものだと、考えていたのではないだろうか。それは、主のものとする。自由な考え方、普遍性、科学性を求める中で、失ってしまっているものもあるように思う。主から多くをいただいていることは確かである。主を畏れるものとして、なにを主のものとすべきだろうか。おそらく、共有すべきものがあるのだと思う。主の前を歩むために。共に生きるために。わたしにとって、主にささげるべきものは、共に感謝して食するものは何だろうか。
Leviticus 4:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて、人が過って違反した場合、次のようにしなければならない。
このあと、油を注がれた祭司、イスラエルの全会衆、民を導く者、この地の民の一人がそれぞれ過失を起こした場合の対応の仕方が書かれ、祭司の時以外は「祭司がその人のために過失の贖いをすると、彼は赦される。」(20,26,35)となっている。例外的な祭司の扱いも述べられていること、贖いによって、赦されるとしていることが、特徴的であろう。過失はどこにでも起こりうるものである。その配慮が欠けていては、適切なルールとは言えない。ここで、興味を持つのは、贖いの思想の源泉と、過失ではない過ちである。この二つはかなり困難である。また、それが出てきたときに考えよう。
Leviticus 5:4 また、悪いことのためであれ、良いことのためであれ、人が口で軽率に誓った場合、その人が軽率に誓ったあらゆることに対して、その時違反したことに気付いていなくても、後にそれと知るなら、これらの一つに対して罪責ある者となる。
様々な過失について書かれている。特に、気付いていないとき、「後にそれと知るなら、罪責ある者となる。」は興味深い。気付いていて、気付かないふりをすることが問題なのだろうか。過失があるにも関わらず、それを言い表さないことだろうか。聖書協会共同訳では「罪責ある者」であるが、訳によってそれぞれ異なる。「責めを負う」(新共同訳)「とがを得る」(口語訳)おそらく、対象は神に対してであろう。過失であっても、それが自分の前(気付いているなら)にあると、神との交わりの妨げになる、神の前に立てないということだろうか。または、そのように考えたということだろうか。ヨブの記載を思い出す。「その祝宴が一巡りする度に、ヨブは使いを送って子どもたちを聖別し、朝早く起きて、彼らの数に相当する焼き尽くすいけにえを献げた。『もしかすると子どもたちは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1章5節)念には念を入れである。神の前を歩くものとして、わたしはどのようにしたらよいだろうか。考えたい。形式にこだわらずとも、考えることはあるように思う。
Leviticus 6:8 穀物の供え物である油のかかった上質の小麦粉一握りとその上に置かれたすべての乳香をすくい上げ、祭壇で穀物の供え物の記念の分として焼いて煙にし、主への宥めの香りとする。
新共同訳とは区切りが同じだが、口語訳は異なっている。殆どの英語訳は、口語訳と同じ形式になってっているように見える。訳の元とした定稿がことなるのだろう。“The priest is to take a handful of the finest flour and some olive oil, together with all the incenseon the grain offering, and burn the memorial portion on the altar as an aroma pleasing to the Lord. ” (NIV Lev 6:15) 「すなわち素祭の麦粉一握りとその油を、素祭の上にある全部の乳香と共に取って、祭壇の上で焼き、香ばしいかおりとし、記念の分として主にささげなければならない。」(口語 レビ6:15)宥めの香りとはなんだろうか。主に喜ばれるにはどうしたらよいか、考えられていった結果なのだろう。祭儀の意味を考えるのは難しいと同時に、そのこころを継承するのは、おそらく、もっと難しい。
Leviticus 7:35 これはアロンとその子らが主に仕えるように献げられた日より、主への火による献げ物の中からアロンの取り分とその子らの取り分となった。
アロン子らは特別である。しかし、それは、この律法を知り尽くさなければいけないことを含んでいる。同時にそれは、規定に、形式にとらわれることにもつながる。神に奉仕するものの責任だろうか。カトリックの司祭もこれと近い存在であるだろう。女性はどうだったのだろうか。こどもは。「一族から絶たれる」(20, 21, 25, 27)とレビ記に他に三件しかなく(17:9, 19:8, 23:29)あとは民数記9:13にあるだけである。厳しさにも驚かされる。実際には、どうだったのだろう。
Leviticus 8:33 あなたがたの任職式の期間が明けるまでの七日間、会見の幕屋の入り口から外に出てはならない。七日間かけて任職式が行われるからである。
アロンの任職式について書かれている。これが、アロンの子らにも適用されたのだろう。7日間である。特別に重要な儀式で、会衆も集められている。(4)このような記述は、会衆にとっても特別なことだったろう。儀式の意味づけはよくはわからない。しかし、それだからといって、簡単にないがしろには、できない。難しい。
Leviticus 9:5 そこで、彼らはモーセが命じたものを会見の幕屋の前に取りそろえた。全会衆は近づいて、主の前に立った。
アロンの大祭司(祭司長)任職の八日目、初めて、その職をなすときの記録と思われる。「主の前に立(つ)」とあり、このあと、モーセは「これは、あなたがたが行うように主が命じられたことである。行えば、あなたがたに主の栄光が現れる。」(6)といっている。主の臨在の証が現れると言い、実際にいけにえを献げ、民を祝福すると「その時、主の栄光が民全体に現れた。」(22)とある。主が共に居てくださること(臨在)を願うが、われわれが主の栄光を目で見ることは無い。しかし、実際に見ているのかもしれない。いずれにしても、モーセとアロンの祝福と、栄光の顕現は、美しい光景に見える。最後つぎのように締めくくられている。「主の前から炎が出て、祭壇にある焼き尽くすいけにえと脂肪をなめ尽くした。これを見て、民は喜びの叫びを上げ、ひれ伏した。」(24)おそらく、奇跡を記述したのではなく、喜びを表現したのだろう。
Leviticus 10:1,2 アロンの息子ナダブとアビフは自分の香炉を取って、火を入れて香をたき、命じられていない規定外の火を主の前に献げた。すると主の前から火が出て、彼らをなめ尽くし、彼らは主の前で死んだ。
9章24節に引き続き起こったかどうかは不明だが、アロンの息子、ナダブとアビフ、そしてエレアザルとイタマルのことが書かれている。痛ましい事件であるが、おじに死体処理を依頼したこと、さらに、最後に、アロンとその子ら、おそらく、エレアザルとイタマルが規定に従わなかったことが書かれており、アロンのことば「あの者たちは、今日、自分たちのために清めのいけにえと焼き尽くすいけにえを主の前に献げました。しかし、このようなことが私に起こってしまったのです。このような日に私が清めのいけにえの肉を口にして、果たして主の目に適ったでしょうか。」(19)が書かれ「モーセはそれを聞いて納得した。」(20)と結ばれている。主に喜ばれることを求めることも、簡単ではない。単純ではないとも書いておこう。
Leviticus 11:46,47 これが動物、鳥、水の中でうごめく生き物、地に群がるものについて、汚れたものと清いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別するための指示である。」
この規定がそれなりに守られてきたようである。「しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。』」(使徒10:14,15)清い神様が共に住んでくださるという恵みを受けるために、自らを清く保とうとすることは、非常に自然なことで、推奨されるべきことである。しかし、問題もある。そのことが逆転し、共に住んでくださること、共に居てくださることを恵みとしてではなく、自らが清いからだという錯覚に陥りやすい。恵みという他力から、精進という自力に頼ることになることである。そして、もう一つは、その実践をしないものは、汚れていると判断してしまうことである。それは、やはり清いから共に住んでくださるという論理の逆転とともに、自らを清めてくださる(神との交わりがゆるされるようにしてくださる)のは神であることを忘れてしまうこと、さらには、神が望まれる清さとはなにかを、神がなぜ交わりを望まれるかを考えなくなることでもある。
Leviticus 12:1-3 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。女が身ごもって、男児を産む場合、月経の汚れの日数と同じく、七日間汚れる。八日目には、その子の包皮に割礼が施される。
適切な処理がされず、特に不衛生さから、母親やこどもが死ぬことは頻繁にあり、日本語でも産褥(産褥(さんじょく、英: puerperium)とは、妊娠および分娩によってもたらされた母体や生殖器の変化が、分娩の終了(医学的には分娩第3期、いわゆる後産期終了)から妊娠前の状態に戻るまでの期間のこと。)と言われ、産褥熱なども有名で、感染によって起こることなどがわかってきたのも近代になってからだと言われる。センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ (Semmelweis Ignác Fülöp, 1818 - 1865)医師による消毒法が提案されたのも、19世紀中頃である。そう考えると、その期間の扱いが特別なものとされていたことは、理解できる。しかし、それを表現するのに「辱:はずかしめる」という字が使われるのは、おぞましくもある。ここでは、一般的な出産ではなく、男児を産む場合となっている。割礼も不衛生ななかで行われると、問題も発生するだろうが、ナイフを火であぶる程度ですんだのかもしれない。良かれと考えてすることで、大きな問題を生じることは多々ある。無知であることをどのように受け止め、謙虚に生きて行くかは非常に難しい。
Leviticus 13:2,3 「皮膚に腫れか吹き出物、あるいは斑点があって、規定の病になるなら、その人は祭司アロンか、祭司であるその子らの一人のもとに連れて行かれる。祭司がその皮膚の患部を調べて、その患部の毛が白く変わり、皮膚の下まで及んでいるなら、それは規定の病である。祭司はそれを確認したら、その人を汚れていると言い渡す。
日本聖書協会の訳では昔は「癩(らい)病」と記されており、それはハンセン氏病をさす言葉だが、ハンセン氏病ばかりではなく、「癩病」と書くことは差別を生むとして「重い皮膚病」という表現に変化し、聖書協会共同訳では「規定の病」となっている。配慮はたいせつなことである。ここで書かれている本質は、重い感染病である程度目で見て判断できるものについて書かれており。その判断は、祭司が慎重に行うこと。完全にはわからない場合も多いこと。礼拝には参加できない(汚れている)とされたことだろう。十分な教育を受け知識があり、責任をもって判断できる指導的立場のひとは、この時代は祭司であったこと。感染を抑えることは、その民族(共同体として共に生活する集団)の存続にとって最重要項目といってもよいものであること。接触感染をまずは、防止することが必要だったということだろう。しかし、ハンセン氏病のことを考えると、実際に科学的な知見が増し、適切な対応法がわかっているにもかかわらず、分離の方策だけが残るということについて考えさせられる。ひとのこころの中の差別的な感覚に対しても、ていねいな教育の欠如だけでなく、この「変化するものである」ことをひとが受け入れることが苦手で、すり込まれていることに、頼った判断をしてしまう傾向が強いことも意味しているのだろう。人間の弱さが背景にあり、とても難しい。
Leviticus 14:2,3 「これは規定の病を患っていた人が清められるときの指示である。その人は祭司のもとに連れて行かれる。祭司は宿営の外へ出て行き、確認する。規定の病の患部が癒えているなら、
一過性の皮膚病の場合の対応である。公的なかつ見える形での宣言が差別が継続しないために必要だったことも背景にあるだろう。宿営の外というのも興味深い。皆の見ている前で、いろいろな意見がでることを避けているのか。判断が難しい場合もあったろう。祭司の判断を信頼することと共に、それが間違っていたときの対応も、適切にする必要があったろう。宿営の外に連れて行くのは、感染が広がらない配慮もあったかもしれない。しかし、ハンセン氏病のように、ゆるやかに進行したり、治癒してからも、皮膚にそのあとが残っている場合には、判断は困難だったろう。43節以降にある、家に生じるかびについても、似た規定があることは、興味深い。無知をあざけることは、本質をみていないように思う。それこそが人間の無知、弱さである。わたしたちも、ほとんどのことがわかっていないのだから。同時に、達し得たところにしたがって、理解したことに基づいて、そのときに受け取った科学的知見とその限界もわきまえながら、さらに、最先端の研究状況にも目を向けながら、少しずつ見直していくべきこともとてもたいせつな歩みである。単に、批判しているだけでは、いけない。愛に向かうことを妨げるのは、裁き続ける(批判ばかりする)ことであるように思う。
Leviticus 15:31-33 あなたがたはイスラエルの人々を汚れから遠ざけなさい。あなたがたの中にある私の住まいを汚して、彼らがその汚れの中で死なないためである。以上は漏出による汚れについての指示である。精液を出して汚れた男、月経中の女、男であれ女であれ何らかの漏出があった者、また汚れている女と寝た男についての指示である。」
現代的な視点からみると、不適切と思われること、汚れについて疑問をもつこともある。しかし、ひとつは、汚れを遠ざけることが言われていること。そして、いのちに関わることについてとくに注意をしていることだろう。いのちというものは人間のいとなみでありながら、神が直接関わっていると信じていたであろうこと、また一つ一つについては、理由もよくわからないことがあったのではないだろうか。表面的なことで裁くことには気をつけるべきこと。社会的分離は、必要な場合でも特別な配慮のものでされるべきこと。そして主がなにを求められるかも探し求め続けるべきことだろうか。おそらく、様々な社会において、このようなことが立法化されているかは別として存在し、現代にもあるのだろう。すくなくとも、ひとのこころの中には。難しい問題である。不明なことに囲まれていることを覚えることも含めて。
Leviticus 16:10 一方、アザゼルのためのくじに当たった雄山羊は、主の前に生きたまま留めておき、贖いの儀式を行って、荒れ野のアザゼルに放つためのものである。
「アザゼル」は、聖書全体でこの16章にしか現れない。不思議である。文脈から、贖いと関係しているのだろう。動物が贖いとして、ひとの身代わりとして献げられるが、動物においても、くじであるものは献げられ、あるものは、生かされて残されることを示すことで、このようにして生かされている者との意識を、ひとり一人が持つためだろうか。たしかに、偶然のように生かされているという感覚はときどき持つ。それを覚えることは、畏れることにもつながる。この章の最後には「これはあなたがたのとこしえの掟である。第七の月の十日には身を慎みなさい。どのような仕事もしてはならない。イスラエル人も、あなたがたのもとでとどまっている寄留者も同じである。」(29)と贖罪日について書かれている。罪が購われ生かされていることを覚える日なのだろう。過越に代表される贖い、すごいことを受け継いだ民がいたものである。驚かされる。
Leviticus 17:11 肉なるものの命、それは血にある。私はあなたがたの命の贖いをするために、祭壇でそれをあなたがたに与えた。血が命に代わって贖うのである。
「血」がキーワードのようだ。1-9節が何を語っているのか明確ではないが、「彼らが慕って淫らなことをしてきた山羊の魔神に、二度といけにえを献げてはならない。」(7a)とあり、おそらく、当時残っていた他の神にいけにえを献げる因習を禁止するものなのかもしれない。後半は血と命その贖いが結びつけられて、血は食べてはならないとしている。人間の体についてはわからないことが多いが、血もおそらくいまでも理解がむずかしいものなのだろう。血中にどのようなものが流れそれが体を制御するかは、健康維持や、あらゆる病に関わっているのだから。ただ、現代では、血を食べるな、特別な方法で血抜きをしたもののみを食べよということは、なかなか受け入れられないだろう。おそらく、本質は、自分が命購われた者であると考えるかどうかなのだろう。自分のいのちのことは自分で決めると考えることは、現代では一般的だが、不遜であるともいえる。知らず知らずに、たいせつなものが失われていることは確かだろう。どのように表現したらよいかわたしもよくわからない。
Leviticus 18:4,5 私の法を行い、私の掟を守り、それに従って歩みなさい。私は主、あなたがたの神である。私の掟と法を守りなさい。人がそれを行えば、それによって生きる。私は主である。
わたしには「法」と「掟」の違いもよくわからない。「戒め」はどう違うのだろうか。「神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです。」(1John3:23)またマタイ22章34-40節(マルコ12章28-34節)にある「最も重要な戒め」、マタイ19章16-22節にある金持ちの青年との対話の中での戒めなどを思い出す。それで十分ではないかと思ってしまうが、社会として、共同体として生活するときには、「最も重要な」(本質的な)戒めだけでは、そのたいせつなことも、失われるのだろう。この章に書かれている性交に関係する行為についての倫理規定がそれほど重要ではないとすることは、最も重要なことをも犯すことだと理解されたのかもしれない。中心的な戒めと法と掟の問題は、主要なことと些末なことの区別、扱い方は、とても難しい。自発的には守ることができず、教えられなければたいせつさがわからないことも多い。同時に、それを守っていれば良いと考えるのも人間の弱さの一つであり、無視することはできないのだから。
Leviticus 19:17,18 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を繰り返し戒めなさい。そうすれば彼のことで罪を負うことはない。復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。
レビ記の中で最も有名な節だろう。「隣人を自分のように愛しなさい。」の引用としてはこの箇所があげられるからである。ということは、これだけ基本的なことがここにしか書かれていないともいえる。おそらく、この章にも隣人に対することがいくつか書かれているように、このことにつながることは多く書かれているが、このことばで書かれているのはこの箇所だけだと言うことなのだろう。前章で「わたしの掟と法を守りなさい。」(18:26)とあるが、この章の前半(引用節まで)は、出エジプト記20章にある十戒と重なることの記述が多い。引用節を見てみると「心の中で兄弟を憎んではならない。」から始まっている。愛することの逆を憎むと表現しているのだろう。逆というより、「愛に向かわせない・愛に向かうことを妨げるもの」ということかもしれない。戒めることが書かれており「そうすれば彼のことで罪を負うことはない。」となっている。「罪」は、おそらくそれに続く、「復讐」や「(後々に影響する)恨み」に関係しているのだろう。非常に具体的である。隣人愛は、抽象的・観念的なことばではなく、具体的な生き方なのだろう。引用節以降は、何か問題を感じてしまう掟が続く。「隣人愛」といっても、いろんなことが世の中にあると言っているかのようだ。あなたはそれぞれ具体的な課題を前に日々どう生きるかと問われているようにも感じる。
Leviticus 20:8 私の掟を守り行いなさい。私はあなたがたを聖別する主である。
このまとめのようなことばの前には「モレク神に自分の子どもを献げてはいけない」ということから始まっている。イサクを献げたアブラハム、神の子イエスを献げた神と混同してはいけないと言っているようにも見える。背景にあるのは、神を畏れることかもしれない。掟を守ることが我々のつとめ、しかし、聖別するのは主である。このあと性的な交わりについて書かれ、「私があなたがたの前から追い払おうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらのことをすべて行ったので、私は彼らを忌み嫌った。」(23)「私は主、あなたがたの神、あなたがたを他の民から区別する者である。」(24b)とある。このように、受け取ったのだろう。すると、(滅ぼされてはいけないと)厳格になっていき、通常の性的な交わりに合わないものに対して死という究極の裁きを適用することになっている。モレクのことも、わかりやすく解釈して形式を踏襲してしまう過ちが含まれるように、聖別されている状態を形式から認識してしまうことだろうか。聖別は神様の愛を受け取るひとつの表現であるにも関わらず。難しい。
Leviticus 21:23 ただし体に欠陥があるからには、垂れ幕の前に出てはならない。祭壇に近づいてはならない。私の聖所を汚してはならない。私はそれらを聖別する主である。」
人の側から見て主が喜ばれると考えることと、主が願っておられることは違うのだろう。祭司長という特別な職において、欠陥のある者はその任にあたることができないということは、人間の側からはそれなりに自然である。しかし、最後にあるように、聖別(神様と交わることのできる特別に聖いものと)するのは主である。その主が望まれることを示されたのが、主イエスなのだろう。むろん、具体的な指示は多くないかもしれないが、イエスが悲しむものを悲しみ、イエスが喜ばれることを喜ぶ者でありたい。体に欠陥があることは、そのひとに神様の栄光が現れるためなのだから。(John 9:3)
Leviticus 22:32,33 私の聖なる名を汚してはならない。イスラエルの人々の間で、私は聖なる者とされなければならない。私はあなたがたを聖別する主、あなたがたの神となるために、エジプトの地からあなたがたを導き出した者である。私は主である。」
主のみこころをわたしたちがわからないことは、主はご存じなのだろう。そして、聖別されるのは主である。ただ、そのようなことは、他のひとにも、他の民にも起こりうることを知っていなければならないだろう。これが、主が喜ばれることとして受け取ったことを、主は喜ばれないのではないかと思ったとき、どうしたらよいのだろうか。主イエスならどうされただろうか。自分のすべてをもって主に仕えること。みこころだと信じることを謙虚に生きてみることだろうか。聖別してくださる主を思いつつ。
Leviticus 23:43 それは、私がイスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、仮小屋に住まわせたことを、あなたがたの子孫が知るためである。私は主、あなたがたの神である。」
祭りは、一般的に、ある出来事を思い出すために催されることもあるだろう。この章には、祭りの規定が書かれている。まず、安息日を主の祭りとし(1-4)次に、過越祭とそれに引き続き行われる除酵祭(5-7)。このときが最初の収穫を献げるときでもあるのだろう。(9-14)そして、50日後に初穂の祭り(15-21)。ペンテコステ(50日の祝い)で、聖霊降臨祭とキリスト教で呼ばれるときである。そして、贖罪の日(23-32)、その一週間後の仮庵祭(33-43)。この最後に引用句がある。また一節飛ばした22節には「あなたがたが土地の実りの刈り入れをするとき、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。」とあり、収穫の時に覚えるべきことが述べられている。これら一連の祭りをみていくと、祭りは、イスラエルの人々のアイデンティティを形成するのに、十分だったと思わされる。ルーティンのなかにある教育・継承だろうか。むろん、キリスト教も例外ではない。それが、他者との区別にもつながっていくわけであるが、それぞれのひとの尊厳の根幹にもつながっているように思われる。
Leviticus 24:16,17 主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない。イスラエル人であれ、寄留者であれ、御名をそしる者は死ななければならない。人を打って命を奪う者は必ず死ななければならない。
明らかに矛盾するようなことが、このように並べて書かれているところに、なにかすごさを感じてしまった。主を呪ったのはエジプト人との混血の寄留の人である。「彼はイスラエルの男と宿営内で争った。イスラエル人を母とする、その男が御名をそしって呪ったので、人々は彼をモーセのもとに連れて行った。」(10b,11a)とあるが、詳細がよくわかるわけではない。留置してから決めたとあり(12)、慎重におこなったのだろう。引用句にあるように「主の名をそしる者は必ず死ななければならない。」と「人を打って命を奪う者は必ず死ななければならない。」の狭間で苦しんだことの表現だとも考えられる。そして、それは、主の悩みと苦しみを共にした時だったのかもしれない。単に、正しさから、矛盾として片付けることでは、見えてこないことも多い。ほんとうに難しい。
Leviticus 25:55 イスラエルの人々は私の奴隷である。彼らは、私がエジプトの地から導き出した私の奴隷である。私は主、あなたがたの神である。
このことばは特に強烈であるが、この章全体のメッセージにはほんとうに驚かされる。基本的に、自分の働き方、産物を生成する土地にたいする考え方、雇い人や同胞にたいする根本に関わることでもあり、その結びが、引用句である。「七年目に種も蒔かず、その産物を収穫もしないのなら、何を食べたらよいのかと言う者もいるだろう。」(20)にも答えている。ヨベルの年というと、ジュビリー2000(Jubilee 2000 was an international coalition movement in over 40 countries that called for cancellation of third world debt by the year 2000. (Wikipedia))を思い出す。実際にどの程度のことが起こったのかはいずれ調べてみたいと思うが、現代の大きな課題だと思う。自由が利己的なものとしてしかとらえられていない現代。イスラエルの解放は、主の奴隷となるためのものであるというのが、ここのメッセージなのだろう。キリスト者の自由は、その自由によって、主と共に喜ぶ生き方をすることだろう。ヨベルは原義は雄羊の角で、転じてそれで作ったラッパを意味し、それが吹き鳴らされる年の意味を持つようになったようである。これを歓喜をもって迎えるか、そのために自分の利益を確保する算段をするか、全く無視するか。自由の使い方は、任されているだけに難しい。
Leviticus 26:13 私は主、あなたがたの神、奴隷にされていたエジプトの地からあなたがたを導き出した者である。私は軛を砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。
このことばにははっとさせられる。「私は軛を砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」この章には、基本的に、このことばの前に祝福が、このことばの後に呪いと裁きの記述が続く。そして、後半の方がずっと長い。おそらく、民も、この後半を読み、または聞き、自分は、自分達は、どこで間違ってしまったのだろうと考えたろう。しかし、メッセージはおそらくこの引用句に立ち戻ること。そして、主のこころをこころとして生きることを求めることだろう。この章の最後は「以上が、シナイ山において、主がモーセを通してご自分とイスラエルの人々との間に授けられた掟と法と指示である。」(46)で締めくくられている。まだ一章残っているが、レビ記の最後は重い。
Leviticus 27:2-4 「イスラエルの人々に告げなさい。人を査定額に従って主に奉献する、特別な誓願を行う場合、二十歳から六十歳までの男の査定額は聖所のシェケルで銀五十シェケル、女は銀三十シェケルである。
「査定額」ということばは、レビ記にしかないようで、聖書協会共同訳では全部で19回、27章以外では5章15,18,25節にある。「人が背信の罪を犯した場合、すなわち、主の聖なるものに対して過って違反したなら、主への償いのいけにえとして、羊の群れから査定額に見合う、聖所のシェケルで二シェケルの銀に相当する欠陥のない雄羊を引いて行かなければならない。」(5章15節)直接的に人間の査定額について言及しているのは、引用箇所から7節である。そして引用箇所にあるように、特別な誓願を行う場合についてである。それぞれの個人の聖別・年齢によって、誓願に関わる査定額がことなると言うのである。これをどう考えるかは、難しい。おそらく、個人の価値ではなく、その誓願をしたときの社会的責任のようなものを表しているのだろう。ということは、社会への関わり方によって変わってもよさそうであるが、そうはなっていない、それぞれのカテゴリーで均一である。正直、変わった共同体で、十分に理解することはできない。おそらく、この金額を説明できるひとは、いないのだろう。これが支払えない場合の例外規定も8節にあり、ある配慮はあるようである。

BRC2019

Lv 1:1 主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。
トーラーと呼ばれる律法が、モーセ五書、このレビ記が3番目である。人々は、この言葉を聞くと、祭司が中心に神との関係を保つことが分かるだろう。つまり、祭司以外に、できないことが多く書かれている。それは、祭司の権威を高めることであると共に、民の責任を減らすことでもある。それは、むろん、プラスとマイナスがある。神との関わりが、一部に限られたことは確かでアルトともに、個人に向けられた神のことばという意識も限られていったろう。イエスの教えはそうではない。そのようなステップのためには、神の権威、神から遣わされたことの証明なしには、困難であったことも確かだろう。レビ記を聞いた一信徒として、これから、読んでいきたい。神様に従うことについて受け取ったと思われることを受け取るために。
Lv 2:3 穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである。
人々はどのように受け取り、祭司の仕事をどのように理解していたのだろう。一般の人は触れることができない神聖なものを扱う者。しかし、個人的な思いもあったろう。民族のためだろうか。ともに、育ち、生活している、祭司を、特別な者とみることに、難しさはなかったのだろうか。おそらく、イスラエルの歴史の中で、その見方も変化して行ったろう。興味はあるが、私が学ぶべきことは、少し違うように思われる。現代の教会との関係だろうか。それも、限定的なことがらであるように思われる。
Lv 3:2 奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。
牛を屠るのが、誰なのか気になった。文としては、日本語も、英語も、奉納者が主語である。臨在の幕屋の入口で、屠ることになる。牛を屠るのは大変なこと。牧畜業の人には、それほど難しいことではないのかもしれないが、一般的には困難である。どのように、なされていたかが気になった。それは、この律法が実際に、実行されているかに興味があるからでもある。協力がなされ、ここでも、それをする仕事が生まれたのだろうか。
Lv 4:35 奉納者は和解の献げ物の羊から脂肪を切り取ったように、脂肪を全部切り取る。祭司はそれを祭壇で、燃やして主にささげる物に載せ、燃やして煙にする。祭司がこうして彼の犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。
「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合」(3)、「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、その違反の罪に気づいたとき」(13, 14a)「共同体の代表者が罪を犯し、過って、禁じられている主なる神の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたとき」(22, 23a)「一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたとき」(27,28a)と四つの場合に分けて書かれている。引用した「罪は赦される」という表現は、20, 26, 31節にもあるが、祭司の場合にはない。何故だろうか。罪を赦すことは、祭司が宣言していたのかもしれない。祭司の罪については、学んでみたい。
Lv 5:1 だれかが罪を犯すなら、すなわち、見たり、聞いたりした事実を証言しうるのに、呪いの声を聞きながらも、なおそれを告げずにいる者は、罰を負う。
このあと、罪と、罰と、その贖罪について書かれている。呪いと訳されている語は、アーラー(’alah: 1. oath, curse, execration)で、意味は分かりづらい。「これは善くないという心の声」だろうか。このあとは、汚れや、軽はずみな誓い(shaba`: to swear, adjure)のことが書かれ「それを知るようになったとき、責めを負う」(3, 4)とあり、罪の告白と、贖罪が続く。内容は、言語の意味も、よく分からず、明確ではない。しかし、個人の神との関係における責任が述べられているのだろう。神の選びの民の一員としての責任だろうか。
Lv 6:20 この献げ物の肉に触れる者はすべて聖なるものとなる。また、この献げ物の血が、これを振りまく祭司の衣服にかかったならば、その衣服は聖域において洗い清めねばならない。
「聖なるもの(qadash: to consecrate, sanctify, prepare, dedicate, be hallowed, be holy, be sanctified, be separate)」はレビ記ではここが最初であるが、出エジプト記でも29章、30章に多く出現する。神様のために分かたれたものだろうか。この言葉も、特徴的である。写本、翻訳にもよるようで、新しい訳も調べてみたい。神・真理を求める姿勢として、基本的であると同時に、他の人たちからの分離という問題をもはらむ。
Lv 7:37,38 以上は焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、任職の献げ物、和解の献げ物についての指示であって、主がシナイ山においてモーセに命じられたものである。主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられたのである。
ここまでの部分であっても、十分に複雑であるが、基本的には、献げられた場合どのように扱うかである。祭司や、補佐するレビ人は、これらの規定を学ぶこととなっただろう。このルールブックに戻りながら。一般の人はどうなのだろうか。レビ記がなにを伝えているかも考えながら読みたい。
Lv 8:35 あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい。わたしはそのように命じられている。
任職式についての規定があり、最後にこれが記されている。七日の間、昼夜を徹してには、驚かされる。「罪を贖う儀式」(34)の重さ、厳粛さを伝えているのだろう。
Lv 9:22-24 アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。
ここに記述されていることが、神との交わりの理想だとしているのかもしれない。適切な贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、すなわち、日常的な献身、そして祝福。このあとで、主の栄光が現れる。最後に礼拝。少なくとも、この後の人々は、これを読んだ人たちは、これを踏襲することによって、神の栄光が現れ、礼拝できると考えただろう。
Lv 10:10,11 あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。
アロンへ、アロンとその子らへの命として語られている。祭司の務めと考えるのが自然だろう。祭司の仕事は「聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」と「モーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えること」とある。指導的立場の人のなすべきこととしてもよいのかもしれない。現代では、指導的立場の人の位置が変わっている。ひとり一人にゆだねられているのか、それとも、このこと自体の意味が変わっているのか。万人祭司へと移行するときの、大きな課題である。
Lv 11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。
長い汚れたものリストが始まる。なぜ汚れたものとしたか、その理由を考えることは興味深いが、おそらく、明確にはならないだろう。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」(45節b, 44節参照)が、レビ記記者が伝えたかったことなのだろう。しかし、まず、らくだから始まることは、意味があるかもしれない。一般的には、ヘブライ人は、らくだを主としては理由していなかったようだが、うらやましくは思っていたかもしれない。ひとの欲望を抑えること関係しているかもしれないとは思う。
Lv 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。
このあとの記述(4,5,7)からも、出血が重要な要素であったことが分かる。「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記9章4節)にすでに書かれているように「血は命」だと考えられていたようである。「生き物の命は血の中にあるからである。」(レビ記17章11節a)恐れおののくことだったのだろうが、それが、なぜ、汚れとつながっていったのだろう。知識のなさが背景にあったことは否めないが、そこに話を持ち込むのは、自らをも、知識の無いものとされる、可能性もあり注意を要する。
Lv 13:3 祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。
伝染性の病気、ライ病(伝染力は低いと言われているが)などは、共同体にとっては、大きな脅威だったろう。祭司が最終的判断をする民にとっては、宗教的な汚れと、病気とが同じカテゴリーになることは、自然でもある。科学的知見が未発達、治療方法が確立していない状況では、隔離以外の方法はなかったのだろう。隔離は、民から絶つことではないにせよ、民としての尊厳(現代の言葉で表現するなら人権)が甚だしく犯される状態である。現代は、改善していることは確かだろう。同時に、背後にあることは、偏見など、現代でも、同種の問題がいくらでもあることなのだろう。差別・隔離する考え方は、知識だけでは解決せず、倫理的、精神的な面でも、解決しない。共に住むために、なにが鍵なのだろう。
Lv 14:54-57 以上は、あらゆる重い皮膚病、白癬、衣服と家屋のかび、湿疹、斑点、疱疹に関する、汚れと清めの宣告の時についての指示である。
非常に広い範囲に亘っていることと共に、網羅的でもないと感じる。ある程度古い記述が維持されているのではないだろうか。共同体として生活する場合と、街を作って住む場合は、明らかにことなる。どのようなことが背景にあり、人々はなにを恐れていたのかも考えてみたい。その恐れを、宗教的な汚れと考える、同時に、そこからの清めもある公的な方法を提示する。どのような方法によって、ひとは、尊厳が守られて、共に住むことができるのだろう。おそらく、現代でも、ひとは答えを持っていない。
Lv 15:32,33 以上は、尿道の炎症による漏出のある人、精の漏出のため汚れた人、生理期間中の人など、男でも女でも体からの漏出のある人、また汚れた女と寝た男に関する指示である。
すべてのことについて「聖である」ことを求める。特に、命に関わると思われることに関して。それは、神様が特別だと考える自然な帰結だったのだろう。これが、周囲の人からの区別と隔離をもたらす。科学的知見・考察と、inclusive であることについては、共通の土台をもとめる背景もある。特殊・特別にこだわることの問題だろうか。もう少し考えたい。
Lv 16:34 これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。
弱い人間が持続的に、信仰を持ち続けるために、儀式が重要な意味を持つことは理解できるが、儀式が中心になる社会には、普遍性はないだろう。儀式自体で幸せになれる人は、いるとして、つねに、全ての人に当てはまることではないからだろう。では、なにを求めれば良いのだろうか。ひとが、神との、そして隣人との関係の大切さを求めるためには。
Lv 17:4,5 イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。
屠る(shachat: to kill, slaughter, beat)は、単純に殺すことだから、牧畜を生業としている場合は、その機会は日常的なものだったろう。ここでは、犠牲を献げることについて述べていると考えて良いだろう。つまり、神に献げる以外の理由で、それ以外の行為をしてはいけないと言う項目であろう。興味をひいたのは「殺害者」と言う言葉が使われていたからであるが、どうも、原語には、その人が殺したというような表現のようなので、印象が少し異なる。しかし、命を奪うことについての、重大さが強調されているように思われる。
Lv 18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
様々な性的関係の禁止について述べられている。おそらく中心メッセージは、最後に述べられているように「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである。」(25)正当化にも見える。どの時点で、レビ記が書かれているか不明であるが、少なくとも、周囲がしているからという理由で、これらの行為に及ぶことは、禁止されている。それが、主に従うこととされたのだろう。このことは、注目したい。
Lv 19:34 あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。
通常は、隣人愛として「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(18)の後半が引用される。しかしこれは「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」(17)に続いており、おそらく、これは、ユダヤ人と呼ばれる同胞に対することと理解されていたろう。引用箇所は、もう少し広い。しかし、中心的な教えになることは、旧約聖書の範囲ではないように思われる。それは、この章の最後にも「わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。」(37)とあり、すべてを守ることが中心であるからである。ただ、イエスの時代に「最も重要な掟」が問われていたことは「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22章36節)だけでなく、実際にユダヤ教の範囲でも議論されていたようである。このレビ記19章を読むと、種々雑多と言ってもよい掟が並ぶ。それらをどう理解するかは困難である。それは、私たちにとってだけでなく、おそらく、イエスの時代のユダヤ人にとっても、困難なことになっていたのだろう。むろん、これらをある解釈の元で厳密に守ろうとする人は、ユダヤ教の中にも、キリスト教の中にも、どの時代にもいるのだろうが。
Lv 20:2 イスラエルの人々にこう言いなさい。イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。
この章には「死刑」が多い(9回、レビ記では他に24章に3回のみ)。そして「死罪」(6回、レビ記では他に19章に1回のみ)「民(の中)から断たれる」(全体に散らばっている)。その中で、石撃ちは、この箇所と、24章14, 16節の冒涜罪だけのようである。その意味で、子供を犠牲とすることは特殊な扱いがされていることがわかる。しかし、同時に、死刑、民から断つ、つまり、共に生きることと反対のことがたくさん書かれていることには、戸惑いも感じる。閉鎖的排他的、そして、分離主義である。そのようにすることが「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。」(7,8節)を実現することができないと考えたのだろう。たいせつなかたのたいせつなひとり一人に、目をむけたい。共に生きるために。That we may live together.
Lv 21:23 ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。
直前に「しかし、神の食物としてささげられたものは、神聖なる物も聖なる献げ物も食べることができる。」(22)とあることも注目に値する。しかし、祭司の家に生まれた障害者が、生きがいをもって生きることに、まさに障害があったろう。犠牲にしてもそうであるが、障害の意味を問うことで、神の御心の理解が深まる。ヨハネによる福音書9章でのイエスの対応は、その意味でも、画期的である。むろん、このことについて発言しているわけではないが、普遍性をもった、ことばではある。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネによる福音書9章3節)これに続く、イエスの言葉は、しかしながらよく理解してはいないことも確認した。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハネによる福音書9章4・5節)
Lv 22:32 あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。わたしはイスラエルの人々のうちにあって聖別されたものである。わたしはあなたたちを聖別する主である。
神様に聖別されたものということを、どのように意識するかを、求めながら、これこそ神様の御心と確信したことを、記録し、伝えていったとも言える。むろん、通常の聖書理解とは異なるが。こう考えるのは、この中に、人の性向を見るからである。神様に主体があると考えること、しかし、その神様は、あくまでも、人のこころの中にある神であり、わからないことを、わからないとすることが困難であること。神は、逐一、私たちに知らせるのでは無く、任せられていることをどのように見分けるのが困難であることなどである。もう少しよく考えたい。
Lv 23:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日は、次のとおりである。
単なる祭りの制定というより「あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日」としている。安息日(3)、過越の祭と除酵祭(5)、初穂祭り(10)、新穀の祭り(15,16)、贖罪の日(27)、仮庵祭(34)となっている。主の祝日は、主の恵みを覚え感謝するときなのか、共に、恵みを喜ぶときなのか。主と、民とともに、喜ぶことができれば幸せである。
Lv 24:10 イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。この男が宿営において、一人の生粋のイスラエル人と争った。
色々な要素が含まれている。冒涜罪での石撃ちの刑が記録されていること(23)、生粋のイスラエル人という言葉が使われていること、ただしこれは原語では「イスラエルの子」である。そして、処刑されたひとは、混血のようである。それも、母系である。どのような経緯かは不明であるが「主の御名を口にして冒涜した。」(11)とある。何があったかは分からないが、冒涜(naqab: to pierce, perforate, bore, appoint, to curse, blaspheme)とあるのは、ここが最初のようである。(原語では創世記30章28節にあるが、冒涜という意味ではない。)もう少し丁寧に見ないと分からない。
Lv 25:20,21 「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」とあなたたちは言うか。わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。
ヨベルに関しては、このレビ記25章に加えて、27章のみに現れ、例外は民数記36章4節のみである。ヨベル(yowbel: ram, ram's horn, trumpet, cornet)は、「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。」(2)からスタートしている。賢さとともに、不思議でもある。安息自体が、不思議なのかもしれない。宗教的な目的があったとしても、様々な実質的な意味も持っている。落ち着いて、このことを見つめてみたいと思う。人は、なぜこれを受け入れたのだろう。それ以前に、どのように、これを受け入れさせたのだろう。不思議である。
Lv 26:26 わたしがあなたたちのパンの備えを砕くときには、十人の女たちがパンを焼くにもわずか一つのかまどで足りるほどになる。焼いたパンは量って配り、あなたたちは食べても満腹することはない。
非常に分かりやすい表現である。幸せとは、苦しい状態とは何かをよく表している。お腹を満たせないこと、これは、おそらく、だれにも理解できるのではないだろうか。
Lv 27:2-4 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。もし、終身誓願に相当する代価を、満願の献げ物として主にささげる場合、その相当額は二十歳から六十歳までの男子であれば、聖所のシェケルで銀五十シェケルである。もし女子であれば、その相当額は銀三十シェケルである。
このあと、五歳から二十歳、1ヶ月から五歳、六十歳以上と分けて代価が書かれている。男性と女性の代価が常に、5対3となっている。男性優位にしているのか、そのような社会となっているのか、ある過程で、女性も終身誓願のときに、相当額を納めることに重点があるのか、これらの言葉がどのように受け入れられたか不明である。しかし、これが固定されていたとすると、議論はあったろう。遊牧が主な世界での役割分担とその責任という面もあるのだろうか。このあとに「もし、彼が貧しくて相当額が支払えない場合は、彼を祭司の前に立たせる。祭司が彼の支払額を定める。すなわち、彼が満願の献げ物をささげる資力に応じて祭司が決定する。」(8)とあることも興味をひく。共同体にとける責任の重さの評価が、祭司によって決められていた社会なのだろう。神に対する責任の重さは、どの人も同じなのだろうか。年齢について語られていることからも、権利だけで考えない方がよいように思われる。

BRC2017

Lv 1:3,4 牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、 手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
犠牲の最初は、罪の購いである。「その人」とあるので、手を置いた人だろう。身代わりを意味するものと思われる。イエスの死を「焼き尽くす献げ物」(全焼の犠牲)ととらえるか、過越の小羊ととらえるかは、解釈によるのであろうが、罪の購いのための犠牲という概念自体がない日本人にとっては、このように旧約聖書から学ぶ以外にないのかもしれない。
Lv 2:11 主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜のたぐいは一切、燃やして主にささげる物として煙にしてはならないからである。
このあとにも「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」(13節)など、詳細な指示が続く。なんらかの理由を考えることは、可能かもしれないが、それが本質ではないのだろう。本質なら分かりやすく書く可能性もあるから。「酵母や蜜のたぐい」は入れず純粋なものをという思いもあるかもしれないが、同時に、規定通りにとそれを守ることに意味があるのかもしれない。私たちにとってはどうだろうか。自分のやりたい方法ではなく、神の喜ばれることとの同期(シンクロナイゼーション)だろうか。神の喜びを喜びとしたい。
Lv 3:16 祭司はこれを祭壇で燃やして煙にする。これが宥めの香りとして、燃やしてささげる食物である。脂肪はすべて主のものである。
和解の献げ物について、牛、山羊、羊について献げ方が書かれている。特に、内蔵の脂肪を焼き尽くすことが書かれている。17節には血のことも書かれ、これは、後からも何回か出てくるが、内蔵の脂肪についてかなり徹底的に書かれている。聖書の中でも、中心的にはレビ記規定である。主の物ということだろうか。一カ所引用する「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」(イザヤ1:11)
Lv 4:3 油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。 
22,23a節には「共同体の代表者が罪を犯し、過って、禁じられている主なる神の戒めを一つでも破って責めを負い、 犯した罪に気づいたとき」の規定がある。祭司については「責めが民に及んだ場合」となっており、区別されている。「共同体の代表者」はあくまでも代表者であり、変更が可能であるが「油注がれた祭司」は、主に任命され取り消しができないことが背景にあるかもしれない。祭司は、神に任命され、その証として神の霊としての油が、注がれる。しかし、人間である以上、罪を犯す可能性が考慮されている。さらに、祭司の罪によって、責めが民に及ぶことが想定されている。厳粛な思いにさせられるが、同時に、そのような状況を判断することが、非常に難しく、腐敗する可能性を含んでいることも、確かである。「共同体の代表者」についての規定と共に、どのように、運用されていたかに興味を持つ。
Lv 5:26 祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。
儀式的なものは、形式的で、実質的な意義がないように思われる。しかし、罪を告白し、それが赦されると定められていることには、恵みを感じる。新たな出発が約束されているようだ。人は、必ず、間違いを犯す。罪を負うのだろう。儀式絶対化は、矛盾を多く含むが、儀式自体が不完全だとしても、神に告白し、赦しを請う、そして、赦されたと宣言される。これは、恵みである。
Lv 6:18 アロンとその子らに告げてこう言いなさい。贖罪の献げ物についての指示は次のとおりである。贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る。これは神聖なものである。
あとで、この項目が守られない事件が起こる。祭司が恐れおののき、ことに当たらなければ、贖罪の献げ物に意味はない。儀式自体に、意味があるのではないのだから。神を畏れるこころは、どのように、生まれるのだろうか。
Lv 7:36 これは主が彼らを祭司に任命した日に、これらの分を彼らに与えるようイスラエルの人々に命じられたものであり、代々にわたって守るべき不変の定めである。
アロンとその子らの取り分は、かなりの量になったと思われる。モーセの子らは、混血だったからか、含まれていない。しかし、レビ人が祭儀の補佐を執り行うことを考えると、かなりの差が生じており、この取り決めから、特権階級が成立したことが見て取れる。レビ人の扱いについて、丁寧に学んでいきたい。
Lv 8:34 今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主の御命令によるのである。
七日間の任職式である。祭司のための罪を贖う儀式の執行、それは、罪を贖う儀式を執り行う祭司にとって、欠くことのできない重要な任職の時だったことが分かる。おそらく、アロンの家系に生まれた、歴代の祭司にとっては、特別の経験であったろう。形骸化もむろん、起こったであろうが。人間社会での継続は、制度化とあいまって本当に難しい。
Lv 9:4 また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される。
アロンの任職の儀式が終了し、モーセとアロンが会見の幕屋に入る。そして、主がご自身を民に顕される。「アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、 モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。」(22-24節)ここまで、アロンは、民に語る者としての役割は勤めてきたが、幕屋に入ることはしていなかったと言うことだろう。「主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。」(出4:27)から始まる、アロンの神との出会いについても、調べてみたい。
Lv 10:1,2 アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。 すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。
詳細は不明である。モーセとアロンはナダブとアビフの埋葬には、関わらず、親戚に任せる様子、そして、他の二人の子供エルアザルとイタマルのことが書かれている。厳密性が問われることが強調されているともとれるが、10節などを読むと、神が喜ぶことは何なのかを考えながら求めていく人間の側の営みと責任が問われていることも見て取れ、興味深い。神が何を喜ばれるかを明確にすること、つまり正義を明らかにすることは、人には限界があり、指針が与えられたとしても、完全にはできないのだから。
Lv 11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 
なぜ、汚れたものとしたのかは、説明されていない。ある生物学者によると、もともと、イスラエルの民が食べてはいないが、周囲の民が食べていたものをあげ、自分たちに与えられているもので満足しなさいということを教えるものだと言っておられ、卓見だと思った。いずれにしても、主が与えられているもので、満足することは、神信仰の基本的な部分であろう。むろん、主が(清いとして、良しとして)与えられているものを、何であっても、感謝して受けることもそのとおりであるが。
Lv 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。
「女児を出産したとき、産婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。」(5節)律法は、むずかしい。キリスト者でこれを遵守している人はほとんどいないだろう。マタイ5章17節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とある。律法は、神がその民に求めることとして与えたものであろう。しかし、与えた主体は、おそらくモーセ。信仰者で民のリーダーであるモーセが、神との交わりの中で、これこそ神の求めることとして受け取ったことを記したのであろう。そして、信仰者として、モーセとわれわれはつながっている。イエスは、かなり大胆に、律法、または、神のもとめることの本質を解かれた。そのイエスこそが神(が喜ばれることを)完全に顕したとの信仰を我々はもっている。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1章17・18節)旧約聖書、さらには、聖書をどのような「神の言葉」として受け取るかによる差は大きい。結論を急がず、丁寧に求めていきたい。
Lv 13:2 もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。
以前はライ病と訳されてきた重い皮膚病に関する規定である。レビ記の成立がいつであるかは、不明であるし、このような病気に関する規定は、修正された可能性もあるが、いずれにしても、非常に古い時代のものである。十分調べたわけではないが、BC1300-BC500 ぐらいとしておこう。その時代における病の特定は、非常に困難、可能なのは、体の表皮に現れる疾患によって、問題を把握することだけだったろう。同時に、感染症は、共同体にとっては、重大な問題である。古代においては、いくつかの民族が、疫病によって消滅した可能性もある。それが、神の前に立つ清さと関連づけて理解されたのもわかる。科学的な根拠がある程度明確になってくることは、何を意味するのだろうか。人間の側の責任が明確になっていくことのように思われる。むろん、不明な点は、多く残っていることについては、古代と共通点を有するが。
Lv 14:34,35 あなたたちが所有地としてわたしから与えられるカナンの土地に入るとき、あなたたちの所有地で家屋にかびが生じるならば、 家の主人は祭司に「かびらしきものがわたしの家屋に生じました」と報告する。
かびも恐れられていたのか。現在も sick house の問題もあるのだから、健康に影響を及ぼす場合もあったのだろう。そして、すべてが、祭司のもとに持ち込まれる。ある意味で、一つの権威が重視されたとも考えられる。判断が為されなければならないのだから。そのシステムを現代に当てはめる必要はないだろうが、公的な機関による判断や、専門家による判断が必要なこと、個人的に判断すべきことがある。同時に、問題が生じたときに、その背景にある問題を考えることも、無視できない。個人の行為に端を発して、問題が生じたとき、神の前に静まるように。相似構造も見て取れるように思われる。しかし、古代において、祭司は多くの誤りを犯したろう。信頼を保つのは、困難である。
Lv 15:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。もし、尿道の炎症による漏出があるならば、その人は汚れている。 
この章の最後に「以上は、尿道の炎症による漏出のある人、精の漏出のため汚れた人、 生理期間中の人など、男でも女でも体からの漏出のある人、また汚れた女と寝た男に関する指示である。」(32節・33節)とある。汚れについては、十分学んでみたいが、体内から何かが出てくることに、恐れがあったのだろう。病気に対する知識が非常に乏しい中で、神を畏れることと、科学的な知識が少しずつ整っていく中で、神を畏れることに、違いが生じるのは、当然であろう。聖書が神の言葉であることの根拠を共有するのは難しい。
Lv 16:34 これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。
「これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。」(31節)贖罪の日の規定である。共同体全体として特別な贖罪の日が定められている。個人的に,罪を告白するだけでなく、共同体として神につながることは、民族主義的にもうつる。しかし、共同の行為が、その共同体にとって、不可欠なことの確認にもつながる。開かれた共同体、または実験場としての意識の謙虚さが鍵なのだろうか。
Lv 17:11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。
血が特別のもの、命と関係づけられているだけでなく、購いの本質ともされている。さらに「すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。」(14節)とあるように、肉を血とともに食べることが禁止されている。象徴なのかもしれないが、命への畏れ、神に属する部分だということを、明示していることからは、考えさせられる。
Lv 18:24 あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらはすべて、あなたたちの前からわたしが追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである。
この章の最初には「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。」(3節)そしてさらに「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。」(5節)とある。これが一つ一つ違反であることを、教えることと同時に、その価値観に魅力を感じることを戒めているように思われる。神を畏れることだろうか。神の価値観を神が喜ばれることを求め続けることだろうか。もう少し考えたい。
Lv 19:2 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
この章には、ユダヤ人もイエスも特別に重視した「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(18節b)があり、「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(34節)もある。その根拠が、イエスの言葉「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)にも通じる、上にあげた言葉にあるのだろう。「聖なる者」はどう考えたら良いのだろうか。マタイのように「完全な者」原語の区別することを含めれば「特別な者」ということだろうか。ここでは、共同体全体に語っており、特別さが「民族主義的ユダヤ教」の方向に向かう傾向も内包されているように思われる。だからこそ「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10章29節)の問いをどう受け取るかが重要なのだろうが。「聖なる者」について、学んでみたい。
Lv 20:2 イスラエルの人々にこう言いなさい。イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。
子を神に献げる。アブラハムがイサクを献げるよう命じられたこと(創世記22章2節)さらに、神の子イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章20節・36節)として献げられることを思う。しかし、ここでも、この行為が繰り返し語られ、死罪であることが記されている。子供を献げることは、一回限りの特別のことなのだろう。さらに、イスラエルが正しいからではなくその民が逆らうからだというのが、申命記9章4・5節でのメッセージであるが「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」(26節)とこの章でも書かれている。やはりそれが「聖なる者」の基本的な意味なのだろう。
Lv 21:1 主はモーセに言われた。アロンの子である祭司たちに告げてこう言いなさい。親族の遺体に触れて身を汚してはならない。
「祭司は、燃やして主にささげる神の食物を携えるのであるから、聖なる者でなければならない。」(6節, 21節参照)「聖所を離れて、神の聖所を汚してはならない。彼は神の聖別の油を頭に注がれている者だからである。わたしは主である。」(12節)と理由を述べている。このあと娘や、妻、障害者の場合などと記述が進むと同時に、祭司が特別の存在であることが述べられている。この章の最後に「モーセは以上のことをアロン、その子らおよびイスラエルのすべての人々に告げた。」(24節)とあるように、祭司も民も周知のこととしている。そのような存在の重要性が確認されたのだろう。神を畏れることの表現の一つであろうか。
Lv 22:31-33 あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさい。わたしは主である。 あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。わたしはイスラエルの人々のうちにあって聖別されたものである。わたしはあなたたちを聖別する主である。 わたしはあなたたちの神となるために、エジプトの国からあなたたちを導き出した者である。わたしは主である。
19:2 のように、神が聖であるから、あなた方も聖とならなければならないことが基本なのだろう。ここでは「聖別されたもの」「聖別する主」ということばが現れる。後者は「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。」(出エジプト31:13)とレビ記21:8, 22:9, 16 にもある。聖となるのは、神が聖別してくださるからであろう。神の選びである。
Lv 23:21 あなたたちはこの日に集会を開きなさい。これはあなたたちの聖なる集会である。いかなる仕事もしてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。
「主の祝日」(2節)の規定である。ここで目立つのは「いかなる仕事もしてはならない」という言葉である。この言葉は、レビ記では23章だけに、3節、7節、8節、21節、25節、28節、31節、35節、36節と、9回現れる。出エジプト記に2回、民数記に7回、申命記に2回あらわれる。わたしの苦手なことかもしれない。何もしないで、人々はなにをしていたのだろうか。お祝いはしていたのか。断食の日(第7の月の10日)もあったようだ。それぞれの日は何をする日なのか、もう少し学びたい。
Lv 24:15,16 あなたはイスラエルの人々に告げなさい。神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。 主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。
あまりの厳しさに目を背けたくなる。さらに「寄留する者も土地に生まれた者も同じく」とあり、その非寛容さに衝撃をうける。このあとは「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。」(17節)と続く。人を殺すことが、神を冒涜することなのか、神を冒涜することは、神を殺そうとすることなのか。関連性を感じる。拒否することは、受容すること、Welcome すること、愛することの反対なのだろうか。互いに受け入れる、互いに愛する、なんと難しいことか。
Lv 25:23, 24 土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。 あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。
土地は神のもの。所有はみとめていても、それは、永久的なものではないこと。特に貧しい者について、土地を買い戻す権利を放棄してもいけないし、奪ってもいけないことが書かれている。これが神を畏れることである。貧しい者が生じるのは、様々な理由と物語による。それを、単純な尺度で決めてはいけないし、神が求めることは、そのような貧しい者を助けること、それこそが聖なるもののつとめだとしている。現代に訴えることは多い。
Lv 26:2 あなたたちはわたしの安息の日を守り、わたしの聖所を敬いなさい。わたしは主である。
このあとに、祝福とのろいと言われるようなことが記述され、しかし契約を神が忠実に守ることが宣言されている。祝福においてものろいまたはさばきにおいても国が想定されている。たとえば「わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる。わたしはまた、猛獣を国から一掃し、剣が国を荒廃させることはない。」(6節)「国が打ち捨てられ、あなたたちが敵の国にいる間、土地は安息し、その安息を楽しむ。」(34節)一応、荒野での民が想定され、その後も、国としてのまとまりを持つのは、ダビデ以降であり、成立年代の議論の一つの根拠ともなっている。同時に、収穫や戦いにおける祝福など、通常の状態での祝福も語られている。神を畏れる日常生活が中心にある。その最初がこの2節である。安息の日と聖所である。イエスは、そして、ステパノの説教をみても、ヘブル人への手紙を見ても、これら二つに挑戦したともいえる。まさに、律法の完成なのであろうが、ユダヤ人が受け入れられなかった気持ちは十分理解できる。
Lv 27:14,15 もし、自分の家屋を聖なるものとして主にささげる場合、祭司がその良し悪しを評価する。祭司がそれを評価することによって、その価は確定される。 もし奉納した人がそれを買い戻そうとするならば、その相当額の銀に五分の一を加えて支払わねばならない。そうすれば、彼のものになる。
詳細は不明であるが、評価額が確定されることと、買い戻すことが可能であること、買い戻し額は、最初の評価額より高いことが書かれている。神のものと、自分のものを、分けること、そして、管理を委ねられており、評価額とは別に、責任と権利を持つということだろうか。実際にどのように行われていたかは、不明であるので、評価はできないが、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒言行録5章4節)とは関係がないのだろうか。考えてみたい。

BRC2015

Lv1:1 主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。
モーセだけが神との交わりをもっていた宗教集団のために、エトロの助言のように、ひとつひとつ書いたものを作っていかなければいけなかったのだろう。大変な作業である。
Lv2:14 初穂の献げ物を主にささげる場合は、麦の初穂を火で炒ってひき割りにしたものを初穂の献げ物としてささげよ。
この章をどう取り扱うかは、考えが分かれるであろう。1節は「穀物の献げ物を主にささげるときは、上等の小麦粉を献げ物としなさい。奉納者がそれにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ、」と始まる。そして、14節は「初穂の献げ物を主にささげる場合は」である。マナだけを食べているときに、詳細が整備されたと考えるより、あとから、少しずつ整備されたと考えることは自然だろう。モーセが与えた律法ということと矛盾するものではないと思う。しかしある時点から動かせないものとなっていくことも容易に想像がつく。なかなか難しい問題をはらんでいる。ひとが責任をもたなければいけないことは多い。
Lv3:1 献げ物を和解の献げ物とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。
このゆえに、障害を持った人を、汚れたものとするのは間違いだろう。献げる態度に重きがあるように思われる。ひとは、傷だらけである。
Lv4:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である。
3節からは「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合」、22節からは「共同体の代表者が罪を犯し」27節からは「一般の人のだれかが過って罪を犯し」となっており、まずは、民のリーダから始まっている。責めが及ぶことまで。非常にリアルである。
Lv5:17 過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合、それを知らなくても、責めを負い、罰を負う。
汚れ(3節)や軽はずみな誓い(4節)はそれを知るようになったときに罪を負う。しかし、禁じられているということは、そのことを知っているからであろうか。違いも興味深い。
Lv6:13 アロンが油注がれて職に任ぜられる日、アロンとその子らが主にささげる献げ物は次のとおりである。上等の小麦粉十分の一エファを日ごとの穀物の献げ物とし、半分を朝、残り半分を夕方にささげる。
アロンの任職はあったのだろうか。初期の任職はどのようになされたのだろうか。ある時点からはこのようにされたのであろうが。
Lv7:17,18 しかしこの残りの肉は三日目には焼き捨てねばならない。 もし三日たった残りの肉を食べるならば、これをささげた者は神に受け入れられない。また献げ物は神への献げ物と見なされず、不浄なものとなる。この肉を食べた者はすべて、その罪を負わねばならない。
期限を切ったのはなにが目的であろうか。いつのどのようなものであったかを覚えつつ頂く事であったかも知れない。日常的に、日々あらたな感謝をささげること、人の弱さを考えると、大切に感じる。
Lv8:35 あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい。わたしはそのように命じられている。
幕屋の入り口に七日間泊まり込み、任職の式を行う。それだけの重さは、重要だったろう。おそらく、意識としても、非常に高いものとなったと思われる。何回も大祭司が代わったイエスの時代には、このようなこともなされなかったのかも知れない。それともなされたにも関わらず、重大さが受け継がれなかったのだろうか。
Lv9:24 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。
これは何を意味しているのだろうか。祭壇は民からも見える位置かどうかは調べることができる。主が,受け入れられたことを記述することは重要だったろう。
Lv10:10,11 あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、 またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。
アロンの子のナダブとアビフの事件について、主は黙しておられる。しかし、この祭司の務めの故厳しさが強調されているのだろう。難しい。
Lv11:45 わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。
教育的目的のために、地上のあらゆる動物、水中の魚類、鳥類、地上を這う爬虫類についての指示である。意味はわからない。聖なる者となることを意識するためであることは明かであるが、これが何千年も続くことには違和感を感じる。改訂が必要であろうに。
Lv12:7 祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。
出産後の規定は、おそらくこの出血に由来していると思われる。いのちが出てしまうことに、特別なことを感じていたのだろう。
Lv13:3 祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。
感染症の診断はその共同体の指導者グループ(祭司)の重要な役割だったのだろう。感染症のなかで、重い皮膚病が特に取り上げられているのは、この時代、感染症と認知されていたもの、または、その代表が重い皮膚病または、ライ病だったのだろう。見てわかるものだから。これが律法で文字として固定化されるだけでなく、神から与えられたものとして、変えられなくなると問題が生じる。どうしたら良いのだろうか。
Lv14:54-57 以上は、あらゆる重い皮膚病、白癬、 衣服と家屋のかび、湿疹、斑点、疱疹に関する、 汚れと清めの宣告の時についての指示である。
重い皮膚病がこの章では拡大している。しかしおそらく、重い皮膚病が中心なのだろう。中心的なことを厳密に守ろうとすると、その周辺にも波及することになる。社会をしばることになるが、それがある程度、守ることにつながっていた時代が長かったのかも知れない。この問題は、聖書をどう読むかにも関連して重要な問題である。
Lv15:31 あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい。
様々な「漏出」に関わる「汚れ」とその「清め」の規定がこの章に書かれており、この節はその目的である。からだの一部がでてくることが異常に感じ、それをこのように表現したことは理解できる。さらに、神様の住まいに汚れを持ち込まないことを教えることとしても、学ぶことは多い。「汚れ」については、一度しっかり学んでみたい。
Lv16:6 アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う。
まず、大祭司である自分と祭司の職を担う一族のための贖罪である。アロンとその一族は、罪を担うことができない。贖いは不完全ではあっても、何か自分以外のものでなされなければならないことの表現だろう。「贖い」についても、学んでみたい。
Lv17:3,4 イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、 それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。
なにを意味しているのだろう。主に献げなければ肉食はいけないのだろうか。このあとの、血に関するおきてと関係しているのか。よく分からない。
Lv18:25 これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである。
24節では「以上のいかなる性行為」となっているが、21節「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」は例外であるように思われる。また「この地はそこに住む者を吐き出した」という言葉に驚かされる。主体が「地」であること、そして「吐き出す」という表現である。何を意味しているのだろうか。
Lv19:17,18 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
「自分自身を愛するように」愛することについて、23, 24節には、寄留者に対することが書かれている。ここでは、兄弟である。しかし「隣人」としています。神様がそれを望まれるから、というのが理由であろうが、神様が愛される隣人を愛することが、神様を愛することでもある。I Jn 4:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」
Lv20:26 あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。
区別は問題も作り出す。聖なる事を教えるためなのであろうが、そこに実際いきていたひともいたのだから。そして聖なるものとして生きることは実際には、できないのだから、さらに問題が問題を生む可能性を秘めている。
Lv21:17 アロンに告げなさい。あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。
聖なる神に仕える祭司の職を考えると、このように障がいのあるものを除いたことは十分理解できる。当時の人間の神理解はそこまでだったとも言える。しかしそのなかで、22節には「しかし、神の食物としてささげられたものは、神聖なる物も聖なる献げ物も食べることができる。」と述べられている。特別に、忌み嫌うべき者とはしていない証拠でもある。18節から20節に書かれている障がいのリストは、なかなか長い。
Lv22:27-29 牛、羊、山羊が生まれたときは、七日の間その母親のもとに置きなさい。八日目以後は主に燃やしてささげる献げ物として受け入れられる。 あなたたちは牛または羊を屠るとき、親と子を同じ日に屠ってはならない。 和解と感謝の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげる。
この最後のことばは明確ではないが、動物の親子に対しても、愛情を失ってはいけないと言っているようにもとれる。神様が、そのような方だからだろうか。聖書には、動物愛護に関わることばは多くない。当時の生活の厳しさと、イスラエルの民の職業にもよっていたのかも知れない。
Lv23:5-7 第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。 初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
23章には「イスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日」(1節)が書かれている。安息日からはじまり、主の過越と主の除酵祭が続く。主の祝日についてもまとめて見たい。マタイの記述によるとこの日「明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、」(27:62)とある。あまりに信じがたい。
Lv24:14 冒涜した男を宿営の外に連れ出し、冒涜の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す。
冒涜罪に関する共同体としての責任のとりかたが書かれている。共同体として問題とどう向き合うかについて考えさせられる。イエスも冒涜罪であるなら、この石打ちの刑であったろう。イエスが死についても十字架と預言しているところからすると、共同体をすでに越えたところに関わる死であることを、意識していたことになる。単に処刑方法ではなく、何に関わる死かという意味がここにあるのかも知れない。
Lv25:55 イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である。
神に買い取られた奴隷。それゆえ、他の者の奴隷になってはいけないと言うことか。この章の安息年、ヨベルの年と、買い戻しは、どの程度守られていたのだろう。人が決めるルールとはかなり異なる。安息日から派生して決められた考え方だろうか。
Lv26:44 それにもかかわらず、彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだわたしの契約を破らない。わたしは彼らの神、主だからである。
「祝福と呪い」には違和感があるが、この44節が背景にあるのだろう。「それにもかかわらず」「彼らの神、主」であられる神。「祝福と呪い」も不変な神の御性質を明らかにし、その神の約束に信頼する事を、学ばせるためであろうか。
Lv27:27 もし、それが汚れた動物の場合は、その初子の相当額に、更にその五分の一を加えて買い戻すことができる。もし、買い戻さないならば、その相当額で売ることができる。
26節によると「家畜の初子は生まれたときから主のものであるから、それが牛であれ、羊であれ、だれもそれをささげることはできない。」となっている。しかし、売ることはできるとある。売るときも、初子であることは、情報として引き継がれるのであろうか。汚れた動物だから可能なのだろうか。もう少し原理を理解したい。いずれにしても、自分のもとに、神のものが委ねられていることを、つねに意識することについては、考えさせられる。

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Lv1:4 彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。
「彼のため」の「彼」は誰か。直接的には、祭司となる。しかし、祭司はイスラエル12部族をエポデにつけた、玉によって担っているとすれば、神に対してとりなしをする人々、捧げる(献げる)人のためともいうことができる。いのちのあがないである。むろん動物では、永続的なあがない、完全なあがないは得られない。(Heb9:22, 25-28)
Lv2:13 あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。
「契約の塩」は何を意味するのか。捧げ物は単なる願い事の成就をもとめる代償ではなく、神との契約のうちにいることを覚えるもの。
Lv3:17 あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである』」。
ユダヤ教徒はいまでも特別な処理をした肉を食べている。「血はいのち」だと各所で書かれているが、脂肪はどう考えられていたのだろう。食物はいのちをとって、命とするもの。特別の畏敬のねんを感じる。
Lv4:3 すなわち、油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。
まず最初に祭司のことが書かれている。「とがを民に及ぼすならば」の部分は理解に幅があるが、いずれにしてもとりなしをする祭司の罪の贖いが最初に書かれている意義は深い。献げるものも全き子牛、全会衆の場合は雄の子牛 (v13)、つかさたるものは、雄やぎの全きもの (v23)、一般の人が誤って罪を犯し、主に背いて、してはならないことをした時は、雌やぎのまったきもの。(v27) 子羊は別に決められている。
Lv5:11 もし二羽の山ばとにも、二羽の家ばとのひなにも、手の届かないときは、彼の犯した罪のために、供え物として麦粉十分の一エパを携えてきて、これを罪祭としなければならない。ただし、その上に油をかけてはならない。またその上に乳香を添えてはならない。これは罪祭だからである。
この章は、証言に関するあやまち、宗教的にけがれを負うた場合、誓いをみだりに立てた場合についてである。どんなに貧しくとも、罪祭をささげるべきこと、そして、ほかの捧げ物と区別すべきことが書かれている。まさに、経済的に貧しくても、いい加減にしてはいけないとうこと。
Lv6:7 こうして、祭司が主の前で彼のためにあがないをするならば、彼はそのいずれを行ってとがを得てもゆるされるであろう」。
意図的であってもこのようにして赦されるのは、すこし寛容にすぎる感じもうける。しかし、v1-v3 にあるずるさを告白し、誠実にあがなうことは、自分のずるい性格と意図を人の前にさらすことでもある。このことを推奨しているとも取れる。1/5 を加えることもすこし、甘い感じがするが、1/10 との区別と、種々それ以外の規定とあわせて決められている一部だからであろう。
Lv7:34 わたしはイスラエルの人々の酬恩祭の犠牲のうちから、その揺祭の胸と挙祭のももを取って、祭司アロンとその子たちに与え、これをイスラエルの人々から永久に彼らの受くべき分とする。
どの部位をどの程度ということを詮索する必要はないのかもしれない。祭司の任職と連関していることなのだから。
Lv8:32 あなたがたはその肉とパンとの残ったものを火で焼き捨てなければならない。
残ったものを焼き捨てる。通常の価値観と違ったものを受け入れ、継続させることには、様々な誘惑が伴ったであろう。神がその御民を愛しておられることに、信頼を続けられるかだろうか。混乱の世の中の中で。
Lv9:8 そこでアロンは祭壇に近づき、自分のための罪祭の子牛をほふった。
出エジプト記32章の事件は、アロンに自分が罪人であることを自覚させるに十分だったろう。滅ぼされて当然と思っていたかもしれない。主のあわれみによって生かされ、かつ立ち上がらされたものを神は用いられる。
Lv10:19 アロンはモーセに言った、「見よ、きょう、彼らはその罪祭と燔祭とを主の前にささげたが、このような事がわたしに臨んだ。もしわたしが、きょう罪祭のものを食べたとしたら、主はこれを良しとせられたであろうか」。
v1,2の事件には驚かされる。アロンとその家族にとっては、どれほどのショックだったことか。この章がアロンとモーセのこのやり取りで終わっていることはすこし慰められる。アロンだけでなく、アロンの子等、祭司の職を担うものに対する、そして、民への教育のために通らざるを得なかったのか。アロンの悲しみ、それでも主に仕えるこころ、しかし、人としての心なしには、礼拝はあり得ないこと、いろいろと考えさせられる。もっと深く理解したい。
Lv11:46 これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、
ここに目的も書かれている。罪を負うこととは異なり、清さを保たないと神の前に出ることができないことを教えている。使徒行伝10章、特に10:15, マタイ福音書15:11,18と比較。単に律法の言葉を一字一句守ることが身を清く保つことではない。
Lv12:6 男の子または女の子についての清めの日が満ちるとき、女は燔祭のために一歳の小羊、罪祭のために家ばとのひな、あるいは山ばとを、会見の幕屋の入口の、祭司のもとに、携えてこなければならない。
ここには罪祭とある。いのちそのものと思われていた血が流れ出ることに、特別に罪深いもの、恐れを感じていたのかもしれない。それが、いのちを、神を尊ぶこととして。
Lv13:2 「人がその身の皮に腫、あるいは吹出物、あるいは光る所ができ、これがその身の皮に重い皮膚病の患部のようになるならば、その人を祭司アロンまたは、祭司なるアロンの子たちのひとりのもとに、連れて行かなければならない。
コミュニティーとして生活する時、伝染病にかかった人の隔離は重要問題だっとことは容易に想像がつく。その判断に祭司が関わることも理解できる。おそらく重要なのは、そのようにして「汚れた」ものをコミュニティーの中にとどめたことと、通常の状態に戻す規定を設けたことであろう。しかしこれが硬直すると、単なる、身を守るための異質なものの排除となる。その危険はいつも意識する必要がある。
Lv14:43 このように石を取り出し、家を削り、塗りかえた後に、そのかびがもし再び家に生じるならば、
このようにしても解決できないものはやはり何か別の問題をかんがえなくてはならない。科学的と現代の知識でいうことはできないが、むやみにあの家は汚れているとか、そのうち家族にらい病が出るとかといった風評を絶つ責任も祭司はになったということだろう。どの程度実際に行われたかは、調べてみたい。
Lv15:32,33 これは流出ある者、精を漏らして汚れる者、不浄をわずらう女、ならびに男あるいは女の流出ある者、および不浄の女と寝る者に関するおきてである。
肉体からの流出は、命が無為に損なわれ、何か特別なことが身に起こったと受け取られたのだろう。わからないことがたくさんあることは理解していただろう。現代人はそれを本当に知っているだろうか。
Lv16:29 これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。
贖罪の日の規定である。イスラエルの民の罪が清められ、贖い出された日として「身を悩ます」通常、断食とされることを、すべての民に求めている。寄留者も含められているのは、共同体としてのおきてだからか。この日について、もう少し深く理解したい。
Lv17:11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
肉の命は血にあるから。血は命であるゆえ、とある。またv14 には、肉の命は血と一つだとも書かれている。血を大切にし、血を食べない、飲まないことを通して、いのちをおろそかにしない、畏敬の念を教えている。科学的に、それは違うと宣言することを、非難はしないが、いのちを貴ぶことが軽視されるぐらいなら、この律法を守り続けた方がましかもしれない。脂肪については、明確ではない。v6 に「脂肪を焼いて香ばしいかおりとし」とあるので、おいしいところという意味かもしれない。ひとは、飢餓とずっと向き合ってきたため、食料が充分にあっても、脂肪を美味しいと感じ、食べてしまう傾向にあるとのことである。
Lv18:5 あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。
このあと、近親相姦が忌むべきことであることがしるされ、v24 からは、これから滅ぼす民は、「これらのもろもろのことによって汚れ、その地も汚れているから」追い出すのであること、あなた方も同じことをしたら同じ結末となることがかたられている。「地」が汚れることが書かれているが、v26 に寄留者のことも書かれているように、コミュニティー全体として、このような汚れ、神が憎まれることを遠ざけるべきことが求められているのかもしれない。
Lv19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。
頻繁に引用される v18 をはじめ、落ち穂を残しておくべき事 v9,10 ほかにも v13, 14 など通常の法律にはあり得ないものがいくつも含まれている。しかし、注目すべきは、最後に「わたしは主である。」がついている点である。(この節は「わたしはあなたがたの神、主である。」となっている。)Mtt5:43-48 でも最後に「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と結んでいる。神を主(あるじ)とすることは、あるじのスタンダードをもって応答することを意味するということか。
Lv20:13 女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。
性同一性障害、ホモセクシャル、バイセクシャルとキリスト教会はどのように向かい合うべきかが議論となっている。先日、イギリスBBC のニュース World Update で、一般的にはこれらを認めていない教派の牧師が、これらを認める発言をしていた。「聖書にいけないと書いてあるのではないですか」というキャスターの質問に「聖書に書いてあることを字義通りすべて守ろうとするなら、二種類の生地の着物を着てはいけないなども書いてあり、現代のすべての人が違反をしていることになります。そのようなひともふくめて互いに愛し合うことがイエスの教えです」という主旨のことを言っていた。レビ記を読んでいるとたしかに守ろうという意識もおこらない規定もあり、本質はその通りであろう。しかし、それは、いのちを生み出すいとなみと関連した快楽(よろこび)としての肉体的な愛の営みを、快楽をどのように求めるかの是非におきかえることをよしとするものではないだろう。同時に、性同一性障害を「障害・病気」としてたんなる異常として切り捨てることは、そのひとりのひとを愛することとはかけ離れた行為であることも思わされる。
Lv21:22,23 彼は神の食物の聖なる物も、最も聖なる物も食べることができる。ただし、垂幕に近づいてはならない。また祭壇に近寄ってはならない。身にきずがあるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしはそれを聖別する主である』」。
聖所に近寄ること、これを特別なこととしたのだろう。これが人の信仰告白だとすると、貴い。神の与えたものとするなら、新約的解釈から、教育課程の途中、人への強制であるなら、律法至上主義。これらは一体なのか。それとも一つの表現に至る前段階の、(言葉の不完全性をも含んだ)不完全な人間世界の矛盾が表現された見かけ上の分裂なのか。
Lv22:32 あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。
神の民であるゆえの特別命令だと言われている。ある人々の罪と不法のために、裁きを下すものへの教育か。神の民を神の子と言い換えても同じであり、外なるものを裁くためではない。マタイ福音書11:28-30の言葉に感謝する。
Lv23:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。
主の定めのまつりの最初は「住まいにおいて守るべき主の安息日」、このあと、過越の祭、初穂の祭、五旬節、贖罪の日、仮庵の祭が続く。安息日は、他の民と区別される特別な「祭」である。クリスチャンにとっての「主日(主が復活されとことを記念して礼拝する日曜日)」もそうである。
Lv24:23 モーセがイスラエルの人々に向かい、「あの、のろいごとを言った者を宿営の外に引き出し、石で撃て」と命じたので、イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたようにした。
イスラエルの民、寄留者、混血のものを加えた共同体としての処刑である。肉として(霊によってではなく)神の民が形成されている限り、避けられないことなのか。死罪以外の様々なレベルの処罰が整備されていなかったからか。神をのろうものに救いはなく、悔い改めの機会もないのか。Mtt12:31,32 参照。
Lv25:10 その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。
具体的な運用についてはこの記述だけでは不明な点が多い。7x7=49年のサイクルのあとの50年目とすると、その年は二年続けて休むのか。途中で開墾した土地はどうなるのか。どの程度厳密に守られたのか、調べて見たい。この負債を帳消しにする仕組みを持つことは素晴らしい。神の赦し、神が負債を帳消しにしてくださったゆえに、自由人をして生きることを許されているのだから。
Lv26:36 またあなたがたのうちの残っている者の心に、敵の国でわたしは恐れをいだかせるであろう。彼らは木の葉の動く音にも驚いて逃げ、つるぎを避けて逃げる者のように逃げて、追う者もないのにころび倒れるであろう。
恐れをいだいた者の悲しさがよく表現されている。しかしそれも主の救いのご計画の中、主は悔い改める機会を持っているように思われる。恐れの中でも、この章にたどり着き、これらの言葉と向かい合う機会を得るものは幸いである。
Lv27:26 しかし、家畜のういごは、ういごとしてすでに主のものだから、だれもこれをささげてはならない。牛でも羊でも、それは主のものである。
出エジプト時の過越によって、へブル人の初子が特別に守られたから (Num3:13) というよりも、次の世代を生み出すことを良しとされた、次の世代の最初、その祝福、または、世代の更新は神のみてのうちにあることを確認するためで、初子自体の価値を評価するものではないのかもしれない。


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民数記

民数記(1)

2月28日から民数記に入ります。レビ記の章の数が奇数だったので、これからは偶数章と奇数章と読んでいきます。例えば3月1日は2章と3章です。民数記の12章から15章などみなさんの中にもそれぞれ好きなかたもおられるのではないでしょうか。12章も考えさせられるところですが、13章・14章はカレブが登場するところでもあります。

まずは、民数記について少し概要を書き、13章・14章について考えてみましょう。

民数記は冒頭の言葉が「ワッイェダッベール(そして主は仰せられた)」ですから今まで読んできたものと同じように、ヘブル語聖書ではこの言葉で呼ばれていますが現代ヘブル語聖書では1節の4番目の単語をとって「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれているそうです。いのちのことば社の新聖書講解シリーズ 旧約3「レビ記・民数記」は山崎順治という日本基督改革派の牧師(2014年召天)が書いていますが、わたしは甲子園に在住時代この方が牧師をしている甲子園キリスト教会に所属していたので、懐かしくなって手に取ってみました。上に書いた民数記の呼び名についての説明もこの本から取ったものです。その呼び名についてギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)やラテン語に基づいて「民数記と呼ぶのは人口調査の出来事に基づいたものであるが、『荒野にて』という書名は、起源的には1:1のシナイの荒野を指しているが、それだけでなく、10:11以下のパランの荒野、20:1以下のツィンの荒野、22:1以下のモアブの荒野と、本書に書かれている出来事の舞台が荒野であることを考えると、極めて内容にふさわしい書名であると言える。」と書かれています。

内容は以下の通りです。

  1. シナイの宿営
    1. 荒野の旅の準備 1:1-10:10
      1. 人口調査・行軍の配置
      2. レビ族の配置と仕事
      3. ライ病人・結婚・ナジル人に関するおきて
      4. つかさたちの捧げ物
      5. レビ人の聖別
      6. 過越と雲の柱
    2. シナイからモアブの平野まで(反抗と離反) 10:11-22:1
      1. 出発・長老
      2. ミリアムとアロンのねたみ
      3. カデシュへの斥候とその報告・神の宣告
      4. コラ等の反乱
      5. 祭司とレビ人のつとめ
      6. モーセの罪・アロンの死
      7. カナン人・ヒビ人・アモリ人への勝利
  2. モアブの平原にて
    1. バラムをめぐるできごと 22:2-25:18
      1. バラムとバラク
      2. バアルペオル、ビネハスの望み(バラム事件の結果)
    2. カナン入国の準備 26:1-36:13
      1. 二度目の人口調査・征服と分配の準備
      2. 聖日の捧げ物
      3. ミデアンへの報復と勝利
      4. ヨルダンの東とカナンの地の分割・レビの町・のがれの町
      5. 嗣業に関する付則

民数記1:1はエジプトを出た第1年1月15日から約1年たった第2年2月1日からスタートしますが、次の申命記は 第40年11月1日から始まりますから、出エジプトからカナンに入る荒野の40年の殆どは、この民数記となります。その長い期間に起こった出来事が記されているわけです。そしてなぜそんなに長く荒野をさまよわなければならなくなったかも書かれています。もちろんその「なぜ」の部分は皆さん自分で読み取って下さいね。

日本聖書協会のページの左上にある検索窓にカレブと入れてみると、カレブが出てくる聖書の箇所が全部リストされます。それなりに人気のカレブですが、新約聖書には出てきません。

http://www.bible.or.jp/main.html
新改訳聖書を読んでいる人は次の新日本聖書刊行会の下のリンクの検索条件に入れれば出てきますよ。
https://www.seisho.or.jp/biblesearch/
http://www.kt.rim.or.jp/~ttakao/biblesearch.html(以前は富山国際大学の個人サイトがありましたが。退職されたのですかね。もう存在しませんのでリンクを消してきます。)
質問を書いておきます。自分にこのように問いながら読むのも聖書の読み方の一つです。

13章

  1. カレブが斥候(偵察員)として選ばれたのは、どのような選考基準によってですか。
  2. 斥候が派遣された目的は何ですか。
  3. 偵察から帰って来た人たちはどういう報告をしますか。
  4. カレブはどんな点で他の斥候に同調しないのですか。
  5. 他の斥候たちはカレブの意見を聞いてどうしたでしょうか。
  6. なぜカレブは妥協することを拒むのですか。
14章
  1. 斥候達の悲観的な報告を聞いてイスラエルの民はどんな反応をしますか。
  2. ヨシュアとカレブは民にどのようなことを言いますか。
  3. カレブとヨシュアの結論はほかのひととなぜ違うのでしょうか。
  4. 20節以降で神が民を裁く理由についてどう言っていますか。
  5. カレブについてはどう言っていますか。
  6. 民に対する神の審判はどのようなものですか。
民の不信と神のさばき、カレブとヨシュアの信仰についてあなたはどのように感じ、考えますか。

新渡戸稲造の『武士道』(原文は英文でProjekt Gutenberg にも入っていますね)

http://www.gutenberg.org/ebooks/12096
矢内原忠雄訳の日本語版では第4章に勇・敢為堅忍の精神として論ぜられています。 単に勇気であれば、称賛されるべきものではないはずです。単に勇気があったということではないと思います。カレブを考えるには、カレブ以外の人がなにに根拠を置いて判断していたかを考えるのも良いかも知れません。そした私たちはどうでしょうか。現代の日常のなかでこれと似たことはないでしょうか。

決定的な分かれ道となったこの事件、あなたはどう読みますか。

民数記(2)

民数記には出エジプト後の40年の旅路の殆どが含まれています。それは残念ながらイスラエルの民が神に従順には従わなかった記録ともいえるものですが、神に従って生きる生活とはどのようなものなのか考えさせられる興味のある話がたくさん詰まっています。新約聖書で引用されている記事もあります。

特に20章からの部分をみてみると、20章には、1節にモーセやアロンの姉妹であるミリアムの死が期されていますが、その直後に「メリバの水」の事件が記されています。詩編106篇32節には、次のようにあります。

彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので、モーセは彼らのために災にあった。
民数記20:2には「水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。」とあります。このあと7節から13節まで引用してみましょう。
7:主はモーセに言われた、
8:「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
9:モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
10:モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
11:モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
12:そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
13:これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。
ここでモーセとアロンが主の聖なる事を示さなかったために、二人は約束の地に入ることはできないと書かれているのです。そして実際、24節には
「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。
とあり、さらに、モーセについても、27章14節に
これは会衆がチンの荒野で逆らい争った時、あなたがたはわたしの命にそむき、あの水のかたわらで彼らの目の前にわたしの聖なることを現さなかったからである」。これはチンの荒野にあるカデシのメリバの水である。
とあります。いくつも疑問が生じます。アロンは何をしたのだろうか。アロンは、すでに、何回も問題行為と思われる事がありましたが、そのとがめは殆ど無く、アロンの関与は明確ではないこの事件が約束の地に入れない理由として挙げられている。モーセも、確かに、「主の聖なる事を示さなかった」と言われればその通りかもしれないが、不平をつねにモーセに持ってくる民のことを考えれば、この程度のことで、夢見ていたであろう約束の地に入れないとはあまりにも酷ではないだろうかということです。

しかし、これから先もまだまだ長い道のりで、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったとしてもまだまだ困難があることを考えると、この事件を理由に「約束の地」に入れないことを宣言されたことにも、神様の配慮があったのかもしれないとも思わされます。

前回引用した、山崎順治著「レビ記・民数記」にも上の12節を引用して、次のように書かれています。

しかし、この地がメリバと呼ばれるようになったことを説明して、「イスラエル人が主と争ったことによる」とは言われているが、モーセとアロンが主と争ったとは記されていない。確かにモーセとアロンは主のことばに従わなかった。しかし、そのように彼らを刺激し、仕向けたのはイスラエルの民であった。彼らはエジプトを出た時から荒野の旅の間中つぶやき、逆らい通しの民であった。40年を経て、ほとんど世代が交替した今も少しも変わっていないのである。アロンにしてもモーセにしても確かに主に逆らいはしたが、決して主に打たれて死んだのではない。むしろ彼らの死は、まさしく重荷からの解放であり、憩いへと移される主の慰めであったと言えないであろうか。123歳のアロンと120歳のモーセは、主に責められ自分たちの罪を認めただけでなく、その主のことばにねぎらいの響きさえも聞き取ったのではないだろうか。」
みなさんは、どう思われますか。

このあともシホンとオグを滅ぼす記事(21章)に始まり「蛇」の像こと(21章, ヨハネ3:14, 15)、バラムとバラクのこと(22-24章, 第二ペテロ2:15, ユダ1:11, 黙示録2:14)、バアル・ペオルの事件(25章)、第二回人口調査を経て(26章)、ゼロペハデの娘達のこと (26章・36章)、ヨシュアの任命(27章)、供え物についての定め(28章・29章)、女性の誓願について(30章)、ミデアンとの戦いとその後の分捕り品の問題(31章)、ルベンとガドとマナセの半部族など(32章)、興味深い話が続きます。バラムの話はとても興味深いですが、バラムは600kmも離れた「ユフラテ川のほとりにあるペトル」(22:5) から呼ばれたとあります。民数記はいろいろと考えさせられる記事が多いですよ。

民数記(3)

民数記32章について。

ここでは、ヨルダン川の東の地域をほぼ平定した時点で、12部族のうちのルベン族、ガド族および、マナセの子マキルの部族が、その地域をわれわれに与えてほしいと願い出ます。これに対して、

モーセはガドの子孫とルベンの子孫とに言った、「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。(口語訳 民数記32:6,7, 15節まで読んで下さい)

勝利をおさめた直後の分裂の危機です。このあと読んで下さればわかりますが、その分裂の危機は回避されます。そして最終的には、ヨシュア記22章にあるように、祝福をもって終わります (ヨシュア22:6, 22章全体を読んでみて下さい。もう一つの危機についても記されています)。

2011年の通読でこの箇所について書いたときは、東日本大震災の直後のときのことで、共同体についても考えさせられました。以下はそのときに、書かれた言葉として読んでください。

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。(口語訳 コリント人への手紙第一、12章26節) 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(口語訳 ローマ人への手紙12章15節)

ひとりひとりが他者のことを考えられなければ、そのような想像力をもたなければ、節電もできないでしょうし、食料品も無くなってしまうでしょうし、援助品も有効に用いられず、無駄となってしまうでしょう。ニュースでも、物を買うとき「本当に必要かを考えて」買ってほしいと言っていました。被災地での心的外傷後ストレス障害 (PTSD(Post-traumatic stress disorder)) を最低限に抑えるために大切なことは、「声を掛け合うこと」だとも言っていました。閉鎖的・排他的な共同体が、多くの問題をもたらすことは事実ですが、共同体としての意識がなければ、ひとは困難をのりきっていけないことは確かだと思います。ICU もやはり20世紀前半に2回の世界大戦を起こしてしまった現実を As neighbors we are one world. As brothers we are not. と表現し、これではいけないということで平和を作り出す人たちを育てるために作られた大学です。 この機会に、ICU を含め、地域の人たちが、日本中の人々がそして、世界の人たちが、兄弟姉妹だと感じられるようなひとつひとつのことによって、分裂ではなく、それぞれが出しうる物を用いて、互いに仕え合うことを学ぶことができればと願っています。

わたしも、そのことを考えたいと思っています。


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聖書通読ノート

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Numbers 1:2-4 「あなたがたはイスラエル人の全会衆を、それぞれの氏族と、その父祖の家によって調べ、男子一人一人の名を数え、兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者を軍に登録しなさい。あなたとアロンは、各部族の者、すなわちそれぞれの父祖の家の頭である者と共にそれを行いなさい。
十二部族について数が列挙された後「レビ人は彼らと一緒に父祖の部族へ登録されることはなかった。」(47)と書かれている。何のためにこのようなことがなされたかは、この時点では書かれていないが、中央集権的な国家体制では、税金を集めたり、軍を編成するなど国家のためになされることが多い。レビ記の最後の章は、「特別な誓願を行う場合」の査定額であったが、ここでは、「軍」への登録となっており、皆兵制がとられたことが書かれている。公平に分担するという意味と共に、常に戦いがあったことも、暗示している。
Numbers 2:2 「イスラエルの人々はそれぞれの旗の下、父祖の家の旗印ごとに宿営しなさい。会見の幕屋を囲み、幕屋から距離を置いて宿営しなければならない。
全軍の配置が描かれており、1章の登録者数と相まって、戦いの準備をしていることがわかる。しかし、本当に、これが、モーセの時代のものか、よくわからない。その後の、入植する地域にも関係するのだろうか。東西南北に分かれ、それぞれに、旗頭となる部族とそこに属する他の部族の配置が書かれている。東はユダ、南はルベン、西はエフライム、北はダンである。まずは、北に進むことが基本のように思われるが、北が一番弱そうに感じる。ダンが旗頭となる軍団となることには、後に北に遠征し、最も北の地域を得るように、別の意味があり、統一された編成方針があったわけではないのかもしれない。
Numbers 3:39 モーセとアロンが主の言葉に従って、各氏族によって登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。
他の部族の登録は二十歳以上であることを考えると(もしかすると軍の編成なので六十歳以下かもしれない、その可能性はレビ人の数においても同様であるが)レビ人だけ、極端に少ないように思われる。すくなくとも、最も少ない。一般的には、平均寿命は、四十歳ぐらいと思われるので、二十歳未満もほぼ同数いたと考えられるからである。なんらかの理由があったのだろうか。もしかすると、レビ人は、系図があきらかにならない人を加えなかったのかもしれないとも思った。むろん、推測の域を出ないが。
Numbers 4:46-48 モーセとアロン、およびイスラエルの指導者たちが、それぞれの氏族と、その父祖の家によって登録したレビ人は皆、会見の幕屋での仕事に就き、運搬の仕事をすることのできる三十歳から五十歳までの者たちである。登録された者の数は八千五百八十人。
3章39節には「モーセとアロンが主の言葉に従って、各氏族によって登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。」とある。30歳から50歳までは、8,580人である。全体では、22,000人であるから、この範囲に入らない人は、13,420人 である。50歳を超える人と、30歳未満の人の割合は不明であるが、19世紀までは、平均寿命が40歳または、40歳代であったことを考えると、ほとんどが、30歳未満であると思われる。それは、30歳になるまでになくなる人が多かったことも裏付けている。この割合は、かなりの精度で決定できるだろうと思われる。一度、考えてみたい。モーセ(120歳)やアロンの年齢は正確ではないかもしれないが、異常に長寿だったこともわかる。
Numbers 5:21,22 ――そこで祭司は彼女に呪いの誓いを立てさせ、こう言う――主があなたの腿をしぼませ、あなたの腹を膨れさせて、あなたを民の中で呪いと誓いとされる。この呪いの水があなたの体内に入って、あなたの腹は膨れ、あなたの腿はしぼむであろう。」彼女は「アーメン、アーメン」と言わなければならない。
かなり精神的な圧迫を伴う儀式であったろうと思う。しかし、同時に、毅然としていれば、無罪が証明されたこともあったかもしれない。いずれにしても、妬み・恨み・嫉みは難しい。訴えたものも、根拠が明確ではないのだろうから。この当時は、他に適切な方法がなかったと思われるが、むろん、今も、明確な判定方法はないだろう。それよりも、問題だと思うのは、信頼関係が回復されるのは、非常に困難であったろうことである。しかし、それは、現代でも同じである。
Numbers 6:2,3 「イスラエルの人々に告げなさい。男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身するナジル人の誓いをするときは、ぶどう酒と麦の酒を断ち、ぶどう酒の酢も麦の酒の酢も飲まず、どのようなぶどうの果汁も一切飲んではならない。また、ぶどうの実は、生であれ干したものであれ、食べてはならない。
さらに「ナジル人の誓願を立てている期間は、頭にかみそりを当ててはならない。その人は、主に献身している期間が満ちるまで聖なる者であり、頭髪をそのまま伸ばしておく。主に献身している期間は死体に近づいてはならず、」(5,6)と続く。酒を断ち、葡萄に関しては、果汁も飲まない、頭髪を伸ばす、死体に近づかない。とある。ナジル人の誓いは特別な誓いなのだろうが、詳細は不明のようである。葡萄は、イスラエルにとって、おそらく最も馴染みの深いものだったろう。それを断つことは、他者から明らかにわかることだったのだろう。男であれ女であれとはじまるが、女性の場合は、頭髪を伸ばすことも、酒を飲まないことも、あまり顕著な行為ではなかったのではないかと思われる。主に献身する誓いは、公的に認められる形で行われるということが特徴的に見える。誓いや、信仰は、個人のものではないと言っているように思われる。それは、他者から助けられ、支えられることも含んでいるのかもしれない。
Numbers 7:2,3 イスラエルの指導者たち、すなわち親族の頭たちも進み出て――彼らは部族の指導者であり、登録に当たった者たちである――、幌付き車六台と、雄牛十二頭を献げ物として主の前に引いて来た。すなわち、指導者二人につき一台の車と、一人につき雄牛一頭を、幕屋の前に差し出した。
このあとには、十二部族が毎日献げた記事が載っている。全く同じものが、12日間続く。以前、TEV (今は、Good News Translation というのだろうか)を見たときに、以下同様という感じで、部族と献げた人と献げもののリストだけが箇条書きになっていたので、驚かされたことがある。しかし、これが、荒野で献げられたものとはどうしても思えない。規格が統一されているからである。もし、そうでないとすると、いつのものなのだろうか。公平さが表現されることが大切なのかもしれない。また、第一日から第十二日となっており、安息日の記述もない。それとは、独立なカレンダーなのだろう。これが大切だとして、丁寧に、語り継がれ、筆写を続けていたことを考えると、そのこと自体にも驚かされる。
Numbers 8:19 私はイスラエルの人々の中から、アロンとその子らに仕える者としてレビ人を与えた。それは、イスラエルの人々がなすべき会見の幕屋の仕事に携わり、人々のために贖いをするためであり、イスラエルの人々が聖所に近づいて、災いがイスラエルの人々に起こらないようにするためである。」
レビ人が選ばれた経緯が書かれている。なぜ、レビ人かの説明はない。モーセとアロンがとくべつな存在だったということ以外には。一部属全体がこの役目を担うということには、驚きがあるが、ある家系が神職のようなものを担うことは、他の地域でもあると考えると、特別なことではないかもしれない。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は務めに就き、会見の幕屋における仕事に就く。だが、五十歳からはその仕事から身を引かなければならない。再びその仕事をしてはならない。あるいは、会見の幕屋でその兄弟たちが奉仕の務めを守るとき、彼らを助けることはできるが、自分で仕事に携わってはならない。あなたはレビ人の務めについて、このようにしなければならない。」(24-26)兵役は、二十歳であったから、差異が設けられている。学ぶ必要があったのかもしれない。単に、儀式についてだけでなく、共同体をどのように導くかも含めて。司法もすくなくともある程度担ったようなので。ここには、定年の規定もある。五十歳が現在の何歳ぐらいに対応するかは不明だが、定年の意義についても考えさせられる。この時期(いつかは不明だが)に定められたことにも驚かされることでもある。
Numbers 9:7,8 「私たちは死者の体によって汚れていますが、なぜ、イスラエルの人々の中で、この定めの時に、主に献げ物を献げることから除外されなくてはいけないのでしょうか」と言ったので、モーセは彼らに「待っていなさい。主があなたがたに何と命じられるか聞いてみよう」と言った。
祭りに参加できないことについての対応を求める箇所である。過越祭もその守り方も適切にという部分が衝突を起こしているとも言える。たいせつなことがふたつ、両方は取れない。解決方法を主に求めている。公平性の問題だとも言える。神知恵をもとめることは、大切であるが、基本的にはひとの責任なのだろう。律法も、人間が受け取ったとする神の掟なのだから。たいせつなものを共にたいせつにする、公平性の確保は難しく、正解はない場合があるが、ここでのモーセのように、丁寧に対応することこそがたいせつなのだと思わされた。それこそが、主を畏れることではないだろうか。
Numbers 10:11-13 第二年の第二の月の二十日、雲が証しの幕屋から離れて昇ったので、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパランの荒れ野にとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命によって、初めて旅路に着いたのである。
構造的には、出エジプト記19章でシナイ山に到着してから、ここまで約一年、ずっと、留まっていたことになる。出エジプト記18章1節にはモーセのしゅうとエテロの訪問が記されているが、この章の29節にあしゅうとの名前はホバブとなっているが、そのやりとりも記されている。14節から軍の出発順序が書かれている。民数記2章には、軍の配置が書かれているが、それを参考にすると、まず東側にいるユダを中心とした部族、次に南側にいるルベンを中心とした部族、次に、西側にいるエフライムを中心とした部族、最後に北側にいるダンを中心とした部族が出発する順序が書かれている。方角は北に向かうはずであるが、広がっていた部族が幕屋を中心に結集する感覚だろうか。ラッパのことなどもかかれており、整然と出発したように、記述されている。最後には、モーセの歌が記され非常に整っている。
Numbers 11:29 モーセは言った。「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいるのだ。」
前章末のモーセの賛美の直後に書かれていることには驚かされる。「民は主の耳に届くほど激しい不平を漏らした。主はそれを聞いて怒りに燃え、主の火が彼らに対して燃え上がって宿営の端を焼き尽くした。」(1)このような現実が描かれていることはとても興味深い。不満としては食べ物のことが書かれている。霊的なものだけでひとは生きているわけではないということだろう。このあとには、モーセが主にいのって火が収まったことが書かれているが、つづいて、モーセが「私一人ではこの民すべてを負うことはできません。私には重すぎます。」(14)と告白している。主の命によって「モーセが知っているもの」(16b)七十人をモーセが選ぶと「主は雲の内にあって降り、モーセに語りかけ、モーセの上にある霊の一部を取って、七十人の長老に分け与えられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは一時の間だけ預言者のようになった。」(25)とある。これをうけてのヨシュアが制止するようにもとめたことに対するモーセの言葉が引用句である。出エジプト記18章には、エトロの助言で千人の長百人の長などが立てられたと記述があるが、呼応している感じもする。構造的にも興味深い。
Numbers 12:6-8 主はこう言われた。/「聞け、私の言葉を。/あなたがたの間に預言者がいるなら/主なる私は幻によって自らを示し/夢によって彼と語る。私の僕モーセとはそうではない。/彼は私の家全体の中で忠実である。口から口へ、私は彼と語る。/あらわに、謎によらずに。/彼は主の姿を仰ぎ見る。/あなたがたはなぜ/私の僕モーセを恐れもせず非難するのか。」
モーセと預言者との違いが語られていて興味深い。モーセには幻で語るのではないと語り、そして、忠実さに言及する。忠実は、信仰と同じだろうから、信頼関係と言い換えることができるかもしれない。その信頼関係によって、主の姿を仰ぎ見て口から口へ(なぞなどを用いず)直接語るということである。人々も、それを理想としたのではないだろうか。ただ謎は残る。特別扱いされるのだろうか。一般化してある原理を導くのではなく、一つの表現として受け取ることで留めるべきなのだろう。
Numbers 13:32,33 偵察した地について、イスラエルの人々の間に悪い噂を広めて言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」
確かに、主への信頼は微塵も感じられない。しかし、さまざまな人々が住んでいるところを侵略して、とることを思いとどまらせようとすることに関して必死ならば、赦されることもあるように思えてしまう。いままであまり考えてこなかった視点だが、どう考えるべきなのだろうか。もしかすると、侵略の意味が豊かになってきているのかもしれない。共に生きることはできないのだろうか。難しい問いである。
Numbers 14:7-9 イスラエル人の全会衆に言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう。ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」
一般的には、カレブのことばがキリスト教会では賞賛される。しかし「彼らは私たちの餌食にすぎない」など恐ろしくなる。このような歴史観は、イスラエルに長くとどまり、キリスト教会にも引き継がれたとしたら、非常に残念である。実際には、イスラエルの民の規模などは、不明であろうから、侵略とか、大量難民とかとは、異なるのかもしれない。カナンの地における、部族連合を考える方が、かえって良いかもしれない。課題は、ほんとうに、このような歴史観を主の御心として、受け取るのかということだろう。おそらく、主に責任を被せているところに問題があり、人間としてなにを受け取るかを、慎重に考えるべきなのかと思う。継続して考えていきたい。
Numbers 15:30,31 ただし、イスラエル人であれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒瀆する者であり、その者は民の中から絶たれる。その者は主の言葉を侮り、その戒めを破ったのであるから、必ず絶たれ、有罪とされる。』」
カナン偵察とその後のことが書かれた前章の直後に「イスラエルの人々に告げなさい。私があなたがたに与えて住まわせる地に、あなたがたが入り、火による献げ物を主に献げるとき、すなわち、焼き尽くすいけにえ、誓願を果たすためのいけにえ、自発の献げ物や祝祭日のいけにえとして、牛か羊を主への宥めの香りとするとき、」(2,3)と献げものの規定が再開される。引用句にもあるように、誤って罪を犯したものと、故意に罪を犯したものについての言及もあり、興味を持った。これらは、内心の問題で、簡単にはわからない。裁判などにおいては、行動など外的なことから、内心を判断する。おそらく、ここで言われているのは、主との向き合い方なのだろう。主に対して罪を犯すかどうかが背後にあり、それは、偵察隊の報告をどう聞いたか、その反応にも、繋がることのようにも思う。同時に、叛逆の後に、襟を正すようなかたちで、おごそかに、「私があなたがたに与えて住まわせる地に、あなたがたが入り」(2b)とはじまる書き出しも印象的である。正確には、この章の位置付けはわからないが、考えさせられることも多い。
Numbers 16:15 モーセは激しく怒って主に言った。「彼らの供え物を顧みないでください。私は彼らからろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちの誰にも害を与えたことはありません。」
レビ人は、通常下級祭司と言われるが、アロンの子かどうかで、大きな差ができてしまうことに、憤りをもつのは、自然である。ここでは、珍しく、モーセが、怒って主に語っている。主とのやりとりが興味深いが、これは、対話とも言えないことはないが、信仰者の中の葛藤とも言えるかもしれない。この直後にモーセとアロンは「二人はひれ伏して言った。『神よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ。あなたは一人が罪を犯すと、全会衆に怒りを下されるのですか。』」(22)と訴えている。その前の主の言葉(20)から、モーセとアロンたち以外は、滅ぼされると思ったのかもしれない。これは、おそらく、14章11,12節のことばと繋がっているのだろう。主の考えが揺れているというより、主のみこころの理解がゆれているというのが現実だろうが。
Numbers 17:12,13 アロンがモーセの言ったとおりにそれを取り、集まっている人々の中へ走って行くと、民の間に疫病が広まり始めていた。アロンが香をたき、民のために贖いをし、死んだ者と生きている者との間に立つと、疫病は治まった。
「主はモーセに言われた。『この民はいつまで私を侮るのか。私が彼らのうちに行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまで私を信じないのか。私は疫病で彼らを打ち、彼らを捨てて、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう。』」(14章11,12節)がここにつながっている、または、この章の記事が、14章につながっているのかなと思った。集団生活、共同体にといては、疫病は、大きな課題である。ここでは、アロンが特別な役割を果たしたことが書かれている。祭司の役目ということだろう。現代では、科学的知見が拡大し、科学者の役割も増えているが、はっきりいって、不明なことばかりである。やはり、どこかで、科学的なものだけでは、解決しないことがあることも思わされる。
Numbers 18:4,5 彼らはあなたに連なり、会見の幕屋の務め、幕屋のすべての仕事に携わる。一般の人はあなたがたに近づいてはならない。あなたがたが聖所の務めと祭壇の務めを守る。そうすれば、再び怒りがイスラエルの人々の上に臨むことはないであろう。
これは、レビ人が、祭司を助けるのであって、一般の人が、幕屋の仕事をしてはならないと書かれた部分であるが、「一般の人はあなたがたに近づいてはならない。」だけを読んで、驚かされた。ただ、やはり、そのような面もあったのかもしれない。仕事中は、近づけないわけだから。この章の後半には「イスラエルの人々は二度と会見の幕屋に近づいてはならない。罪を負って死ぬことのないようにするためである。」(22)これは、主が聖であることの一つの表現であろうが、本当に主が望んでおられるかは、不明である。少なくとも、主イエスは、そのような方でなかったことは確かである。
Numbers 19:7 祭司は自分の衣服を洗い、体を水で洗う。その後、宿営に入ることができるが、祭司は夕方まで汚れる。
死体に触れたものが汚れるということについてこの章では書かれているようである。かなり徹底している。清さと汚れの問題は、神への畏れから来ているのだろうか。「これは、彼らにとってとこしえの掟である。清めの水を振りかけた者は自分の衣服を洗うが、清めの水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた者が触れるものはすべて汚れ、また、それに触れる者も夕方まで汚れる。」(21,22)あまりの徹底さに滑稽さすら感じる。主イエスの葬りに関係した、アリマタヤのヨセフやニコデモもこのようにしたのだろうか。(ヨハネによる福音書19章38-42節)そうかもしれない。そのあたりも、知りたい。イエスが死人に触り、生き返らせたときはどうなのだろうか。
Numbers 20:1,2 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。
この章の最後には、アロンの死とエレアザルへの引き継ぎ、また、モーセも約束の地に入れなさそうなこと(24)も書かれている。最初には、引用句のように、ミリアムの死が、書かれている。12章15節には、民が、ミリアムを見捨てないような記述があるが、やはり、ここでの扱いはとても軽いと感じさせられた。続いて、水のことが書かれている。マナは、継続的に、降ったようで、うずらは、一時的なもののように思うが、水は、つねに、問題だったのだろう。民の不満を責めることはできないように思う。主との信頼関係をたいせつにするとしても、民のなかに、そのような不満が出ない世界は、わたしには、想像できない。それを、不信として、切り捨てるとすると、人々が共に生きていくことはできないし、そのような思いは、口には出さなくても、だれのこころにもあると思うから。
Numbers 21:21 イスラエルは、アモリ人の王シホンに使者を遣わし、次のように言った。「私にあなたの土地を通らせてください。私たちは道をそれて畑やぶどう畑に入るようなことはしません。井戸の水も飲みません。あなたの領土を通り過ぎるまで『王の道』を進みます。」
20章14-21節には、エドム人の王と交渉するが決裂し、エドムの地を通ることを避けたとの記述があり、ここでは、アモリ人の王シホンとのことが書かれている。こちらは、滅ぼすこととなる。エドムも、アモリも、このあとの、モアブも、カナンに入ってからも、さまざまな関係・軋轢がつづくこともあり、このような記述があることは重要なのだろう。このときだけのことではない。しかし、エドムとの違いははっきりしているように思われる。創世記にある、血縁の近さだろうか。このあとの歴史の故か、周辺の民族との関係は、情報も乏しく、よくはわからない。
Numbers 22:2,3 さて、ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に行ったことをすべて知った。モアブはこの民を大いに恐れた。その数がおびただしかったからである。モアブはイスラエルの人々を前にして恐れをなした。
モアブのバラクの気持ちは、十分理解できる。このようなとき、ひとはどうすれば良いのだろうか。バラクとバラムの物語は、聖書の記述によると、残念な結末が待っている。(民数記25章)もしかすると、これは、モアブに関係する複数の伝承があり、それが書かれているのかもしれないが。わたしが、バラクならどうしたら良いのだろうかと考えた。簡単なことではない。しかし、相手を知ること。「あなたのことを教えてください」と「互いに平和に過ごしなさい」のみちを探ることだろうか。一般的にはとても難しいことである。しかし、このことに、わたしは、力を傾けたい。このような、小さな努力を、し続けてきた人たちに、囲まれて、いままで生きてきているのだから。
Numbers 23:25-27 バラクはバラムに言った。「もう彼らに呪いをかけることも、祝福することもしないでくれ。」バラムはバラクに答えた。「主が告げられることをすべて行わなければならないと、あなたに言わなかったでしょうか。」バラクはバラムに言った。「どうか来てほしい。別の場所に連れて行こう。恐らくそこからなら、神の目に適い、彼らに呪いをかけてもらうことができるかもしれない。」
バラクの必死さと、混乱が伝わってくる。このことが記録されているのは、自分達が見えないところでも、働いておられる主を知るためだろう。しかし、バラクは、バラクなりに、最善を尽くそうとしているようにも見える。ここでは、バラムに語りかける主が中心に置かれて理解される場合が多いが、バラクと主との関係にも注目したい。むろん、それは、主のみがご存じで、そして、バラクもすこしは、知っているだけなのかもしれないが。
Numbers 24:10,11 バラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵に呪いをかけるために私はあなたを招いたのに、あなたは三度も祝福してしまった。今すぐ自分のところに逃げ帰れ。私はあなたを手厚くもてなすと言ったのに、主はあなたをもてなすことを拒まれたのだ。」
このバラクのことばに続いてバラムの応答が書かれ、託宣が続く。そして、次の章では、異なるエピソードが書かれている。バラム視点から考えることが多いので、今回は、バラク視点から考えてみたいと思う。バラクはモアブの王である。難民とは言い難い、強い民族が迫ってくる。そして、近隣のアモリ人の王シホンを滅ぼしている。そして、そこに、神の力が宿っているとみれば、バラクのような対応は、非難できないように思う。引用句には「主はあなたをもてなすことを拒まれたのだ。」ともある。これ以上の、主の働きをみることは、困難だろう。そのような人に対して、わたしは、何も言葉が出ない。そこに、共にいることだろうか。そのことによって、イスラエルに、共に滅ぼされることになったとしても。
Numbers 25:7-9 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはこれを見ると、会衆の中から立ち上がって槍を手に取り、そのイスラエル人を追いかけて奥の部屋まで行き、この二人、すなわち、そのイスラエル人と女を突き刺した。槍は女の腹にまで達した。イスラエルを襲った疫病はこれによってやんだが、この疫病で死んだ者は二万四千人であった。
疫病のことは、この章には、これ以前には書かれていない。しかし、膨大な数のひとが疫病で亡くなったことが記録されている。前章までとは、別の伝承物語が、入り込んでいるとも考えられるが、違った視点とも言えるのかもしれないと思った。事実を確認することはできないが、疫病が起こったことは、規模は別として確かなのだろう。そのうえで、何が原因かを問う。聖なる主が働いておられ、大勝利を得させられたにもかかわらず、淫らな行為が、土地の人(モアブだかミデアンだか不明だが)との間で行われていたことに、目が向けられ、粛清が行われ、疫病が治まったという話なのだろう。主がどのように働いておられるかは別として、興味深い記述である。記録が断片的であることも、理解が困難な背景にはあるが、少しずつ、いろいろな見方を学んでいきたい。
Numbers 26:35-37 エフライムの家系の各氏族は次のとおりである。シュテラとシュテラ家の氏族、ベケルとベケル家の氏族、タハンとタハン家の氏族。シュテラの一族は次のとおりである。すなわちエランとエラン家の氏族。以上がエフライムの家系の諸氏族であり、登録された者は三万二千五百人。以上がヨセフの家系の諸氏族である。
創世記48章19節には、エフライムのほうがマナセより大きくなるとあるが、ここでは、マナセは「五万二千七百人」(34b)で、だいぶん多い。エフライムは、北イスラエルを代表して使われる部族名でもあり、勢力ではないのかもしれないと思った。中心に位置することと、また、なんらかの意味で、ヨセフに関連して、リーダーシップを持っていたのかもしれない。数も、一度、丁寧に調べてみたい。二度の人口調査の記録があるのだから。
Numbers 27:21 ヨシュアはこうして、祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、彼のためにウリムによる裁定を求める。ヨシュアと、彼と共にいるすべてのイスラエル人、つまり全会衆は、エルアザルの指示に従って出陣し、また帰還しなければならない。」
モーセとアロンの役割が、ヨシュアと、エルアザルに引き継がれたように、ぼんやり思っていたが、型式は変わっている。アロンもモーセのリーダーシップのもとにいたが、ここでは、ヨシュアが、エルアザルのもとにいる。とはいっても、ヨシュア記はあるが、エルアザル記はない。だんだんと軍事など、生活に関係するリーダーシップが強くなって、王制につながるのかもしれないとも思った。祭司がリーダーシップを取る場合もあるだろうが。
Numbers 28:1,2 主はモーセに告げられた。イスラエルの人々に命じて、彼らにこう言いなさい。あなたがたは、私への献げ物、すなわち私の食物を、火による献げ物、宥めの香りとして、定められた時に必ず私に献げなさい。
前の章で、ヨシュアが選ばれたことが書かれており、エルアザルと協力して、指導していくことが書かれている。そのあとで、また、祭儀についての記述が始まる。それをたいせつにしていたとも取れるが、それを特別に大切にしていた人が、書いた、書き込んだとも考えられると思う。この章には、基本的な献げものについて書かれている。火による献げものについて。安息日、毎月の第一日、第一の月の十四日の過越祭十五日からの一週間。初穂の日すなわち五旬節についてである。
Numbers 29:39 以上が、定められた時に、あなたがたが主に献げるものである。これらは、誓願の献げ物、あるいは自発の献げ物として献げられる焼き尽くすいけにえ、穀物の供え物、注ぎの供え物、会食のいけにえとは別のものである。
この章では、第七の月の第一日、十日、十五日からの七日間と贖罪の日の献げものが続いて、最後に、引用句がある。献げものについては、レビ記にも記述があり、どのような関係になっているかは、詳細に調べてみないとわからない。実際に、これがなされていたのは、どのような期間なのだろうか。それも興味を持った。
Numbers 30:9 しかし、もし夫がそれを聞いた日に反対するなら、彼女が立てた誓願も、軽率に口にしたその身に対する物断ちの誓いも、夫は取り消すことができる。主は彼女を赦されるであろう。
「軽率に口にしたその身に対する物断ちの誓い」に意味があるのかなと思った。男性は、教育を受けていることが前提とされていたのかもしれない。ということは、平等に教育されている場合は、意味をもたない。いずれにしても、最後の部分は、夫、おそらく、父にも厳しい。「もし夫が妻に何も言わずに翌日を迎えるなら、妻の立てた誓願や、物断ちの誓いは、すべて有効となる。それを聞いた日に黙認したからである。もし夫がそれを聞き、後になってそれを取り消すなら、夫は妻の罪を負わなければならない。」(15,16)いずれにしても、あまり普遍化することには問題があるが、保護を受けるものを大切にし、それは、保護者の責任であるということは、他の場合に、適用されることなのだろう。
Numbers 31:32-35 奪い取ったもの、すなわち兵役に就いた民が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭。人については、男と寝ておらず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。
この数がただしいなら、夥しい数の人が殺されたことになる。まさに、ジェノサイドである。男を知らない女を区別することも、血が混じることを避けたのだろうが、科学的でもない。歴史は、本当に残酷なことを記録する。共に、平和に生きることはできないのだろうか。
Numbers 32:1 ルベンの一族とガドの一族は多くの家畜を持っており、それはおびただしい数に上った。彼らがヤゼルの地とギルアドの地を見ると、そこはまさに家畜を飼うのに適した場所であった。
33節には「モーセは、ガドの一族とルベンの一族、また、ヨセフの子マナセの部族の半数に、アモリ人の王シホンの王国とバシャンの王オグの王国、すなわちその領内にある町、およびその周辺の地にある町を与えた。」と書かれ、マナセの半部族が加わっている。そして、その経緯は書かれていない。2章の記述によるとルベン軍は、46,500人、ガド軍はルベン軍の旗頭のもとにおり、45,650人、ここには、他にシメオン軍が 59,300人いるが、家族を守るために留まる人たちがいると、南側が少なくなることは確かである。マナセ軍は、エフラエムの旗頭のもとにおり、32,200人である。半部族は、ここからは、特定できないが、15,000人程度だろうか。全体からみると、6分の1位だろうか。このヨルダン川の東に住む人たちについて、もっと情報が欲しい。おそらく、最初に、離散した民だと思われる。
Numbers 33:34 アルシュを出発して、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
これまでも、水がなかったことは、何回も書かれているが、この旅程表では、引用句のみである。民数記では、20章に、ツィンの荒野で水がなかったことが書かれ(20章1節)さらに「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、飲み水さえもありません。」(20章5節)ともあるが、おそらく、十分ないということだろう。200万人程度が移動していることを考えれば、計画的に、水があるところに、移動することは当たり前である。しかし、荒野で、水があるところは、ひとがいたと思われるから、多くの軋轢も生み出される。それがどうなっていたのかも、聖書はほとんど語らない。水について民が不平を言ったことだけが記されている。それが重要だったのだろう。考えてみたい。
Numbers 34:1-3 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に命じてこう言いなさい。あなたがたが入ろうとしているカナンの地、すなわち、相続地として与えられるカナンの地の境界線は、次のとおりである。あなたがたの南側の境界は、エドムに接するツィンの荒れ野から始まる。すなわち南の境界線は、塩の海の端を東の境界とし、
このようなことばを主のことばとして書くことは、大きな問題を生じることは、明らかである。同じように、他の神がこう告げられたとして、異なる境界線がしめされたときはどうなるのか。衝突せざるをえない。本当に、主は、そのようなことを望んでおられるのだろうか。一つの考え方は、ずっと将来の先の先の目標を示すという考え方。もう一つは、境界線といっても、それは、独占的なものではないなどなど。言い訳はいろいろと考えられるが、いずれも、他者にとって、受け入れらるものではないだろう。まさに、自己中心である。信仰告白として、このようなメッセージを受け取ったとして書いてはいても、違ったメッセージを受け取ることもあり、主のみこころがかわるわけではなくても、これを絶対的なものとないことがたいせつだろう。われわれが、主の御心を学んでいく過程で、わたしたちの受け取り方も多くの間違いを含むのだから。
Numbers 35:10,11 「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたがヨルダン川を渡って、カナンの地に入ったら、幾つかの町を設けなさい。そこは逃れの町であり、過って人を殺した者はそこに逃げ込むことができる。
故意でない、殺人の規定は、出エジプト記21章12 節以下に書かれている。ここでは、逃れの町の規定が書かれている。ヨシュア記20章に、実際に定められたことが書かれている。それ以降も、逃れの街を背景としたことと思われる箇所は、ないことはないが、実際に、どのように運用されていたかは不明である。混乱期も長いので、確かなことは言えないのではないだろうか。ただ、このような、原則を、定めたことは、興味深い。「逃れの町に逃げ込んだ者のために贖い金を受け取り、大祭司が死ぬ前に、その者を地元に帰すようなことがあってはならない。」(32)とあり、そのようなことが実際にあったのではないかとも思われる。故意かどうかは、内心の問題で、人が判断するのは、難しいだろう。極端なことを言えば、自分でも、わからなくなることもあるだろう。殺人を大きな罪とすること、故意と、過失を分けることも合理性はあるが、実際は、非常に難しい。その公平さは、人間に委ねられているのだろう。
Numbers 36:8,9 イスラエル人の諸部族のうち、相続地を所有している娘は皆、その父の部族のいずれかの氏族の者の妻とならなければならない。これは、イスラエルの人々がそれぞれ、その先祖の相続地を所有するためである。相続地が、ある部族から他の部族に移るようなことがあってはならない。イスラエル人の諸部族はそれぞれ、その相続地を固く守らなければならないからである。」
ツェロフハドの娘たちの嘆願に発したこの土地所有に問題が、ここで、普遍化されている。相続する男子がいない場合には、女性も相続可能。ただ、嫁ぐ先が、他の部族であってはならない。部族内で留まらなければならない。ということである。詳細は不明だし、問いたくなることはいくつもあるが、原則は、部族ごとの相続地を固く守るということだろう。「ツェロフハドの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。娘たちは自分たちの気に入った者の妻となってよい。ただし、自分たちの父の部族の氏族の者に限って、その妻となることができる。」(6)と書かれていることも、興味深い。実際、ユダヤ社会で、特に、土地所有が関係しているときは、どうだったのだろうか。


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過去の聖書ノート

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Numbers 1:2-4 「あなたがたはイスラエル人の全会衆を、それぞれの氏族と、その父祖の家によって調べ、男子一人一人の名を数え、兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者を軍に登録しなさい。あなたとアロンは、各部族の者、すなわちそれぞれの父祖の家の頭である者と共にそれを行いなさい。
ヘブル語の聖書では、四番目の「荒野」を意味する単語 מִדְבָּר(miḏbār:ベミドゥバル)からとり「荒野にて」と呼ばれているようである。二回の人口調査について書かれているが、荒野での様々なことが書かれており、そのほうが書名としてもふさわしいように思う。また、人口調査といっても、限定的で、軍に登録する「兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者」を数えている。何歳までかは、書かれていない。各部族毎にまとめられているが、レビは含まれておらず、ここで、12部族は、ヨセフの二人の子がはいり、レビ以外で構成されることが明確になる。ある意味で(戦いという)職務分担のための人数である。また、ガドのみ、五十人(25)という端数が現れるが、そのガドの人数も含めて丸められている。実際の数と考えるかも、問題となるが、全体の人口を表しているわけではないことは、覚えるべきだろう。そしてその総数が「六十万三千五百五十人」(46)である。現在、わたしは杉並区に住んでいるが、東京都のサイトによると人口は、575,691人とある。軍隊は、つねに全員で行動するわけではないだろうが、そのぐらいの規模である。
Numbers 2:3 東側、日の出る方角に宿営する者は、ユダの宿営を旗頭とする軍団となる。ユダの一族の指導者はアミナダブの子ナフションであり、
書き方から、ユダがイスラエル軍の中心であるようだ。東側のユダが旗頭の部隊は、イッサカル、ゼブルン、南側のルベンが旗頭の部隊は、シメオン、ガド、それから、会見の幕屋に仕えるレビ、西側のエフライムが旗頭の部隊はマナセ、ベニヤミン、そして北側のダンの部隊は、アシェル、ナフタリとなっている。ユダ、ルベン、エフライムはリーダーとなる理由が多少あるように思うが、ダンが旗頭となっているのは、なにか理由があるのだろうか。ダンが最北の部分を嗣業地として得る部族であることは確かだが。勇猛?だったからか。おそらく、東に向かうことが想定されている。実際には、主として、東、北、西、ヨルダンを渡ってからは、北、南に向かうわけだが。後の、イスラエル、ユダ王国分裂のときの、ユダ、ベニヤミンが異なる部隊に入っており、ユダの中に嗣業地をうけることになる、シメオンも別の部隊に入っている。ヨルダンの東の地域を嗣業地として得る、ルベン、ガド、マナセ(の半部族)の中では、ルベンとガドは同じ部隊である。全体をバラバラに分けたわけでもなさそうだ。後の時代のことから逆に見ているが、実際にこのような部隊構成で戦ったとすると、一つの部隊に属する部族は、よりコミュニケーションが多かったとも、考えられる。いずれにしても、よくはわからない。
Numbers 3:40,41 主はモーセに言われた。「イスラエルの人々のうち、生後一か月以上のすべての男子の初子を登録し、その名を数えなさい。あなたはレビ人を、イスラエルの人々のすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を、イスラエルの人々の家畜のすべての初子の代わりに、私のものとして取り分けなさい。私は主である。」
この章ではじめて、レビ族の役割が定められている。アロンの(息)子が4人というのは、おそらく一般的には当時として少ないのだろう。このあと「レビ人をイスラエルの人々のすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜をイスラエルの家畜の代わりに取りなさい。レビ人は私のものである。私は主である。」(45)とあり、「イスラエルの人々の初子の数は、レビ人の数より二百七十三人多い。」(46)とある。どのように数えているかは不明だが、十二部族の軍が 603,550人とし「登録され、名を数えられた生後一か月以上の初子の総数は二万二千二百七十三人であった。」(43)ことを考えると、その商、約 30 は一人の(息)子の数としては、あまりにも多いので、子どもをまだ持っていない、長男の数だったのかもしれない。遊牧民時代は一夫多妻だったと思われることを考えると、この初子はどのように、数えたのか、興味を持つ。家族社会の構成原理だろうか。明確ではないが、家畜についても書かれているのは興味深い。
Numbers 4:18-20 「あなたがたは、ケハト家の諸氏族をレビ人の中から絶やしてはならない。彼らが最も聖なるものに近づくとき、死ぬことなく命を保つために、こうしなさい。アロンとその子らが中に入り、ケハトの子ら一人一人をそれぞれの仕事と運ぶべきものに割り当てなさい。しかし、彼らが中に入るとき、聖なるものを一目でも見てしまい、死ぬことのないようにしなさい。」
この章でまず目につくのは「じゅごんの皮の覆い」で7回書かれている。「じゅごんの皮(の覆い)」は出エジプト記(25:5, 26:14, 35:7, 23, 36:19, 34)およびエゼキエル書16:10 にあるのみである。תַּחַשׁ(タハシュ taḥaš: a kind of leather, skin, or animal hide)となっており、じゅごんかどうかは不明のようである。いずれにしても、それは聖なるものを覆うもので、それを扱ったのが、ケハト族で「一目でも見ない」で扱う配慮の表れのようである。(神ご自身に象る)偶像化とは区別されるとしても、なかなか理解しづらい。それは、神をどのような方と理解するかによっているのだろう。イエス様を通して示された、お父ちゃんとよぶ、神様があまりにも、身近に感じられるからか。このようなことは理解できるが、それによって神の理解が深まるとは思えない。
Numbers 5:29-31 以上が、嫉妬の律法である。妻が夫のもとにありながら、道を外して身を汚したとき、または嫉妬の念が起きた夫が妻を妬んだときのものである。その時、夫は妻を主の前に立たせ、祭司は彼女に対してこの律法をことごとく行う。夫は罪を負わず、妻は自らの罪を負う。
明らかに公平ではない。実際の例は、聖書には書かれていないと思うので詳細は不明である。呪いの水は、23節に苦い水とあるので、苦いのはあたりまえであるが「水を飲ませたとき、もし妻が身を汚して夫を欺いていたら、呪いの水は彼女の体内に入って苦くなり、腹を膨らませ、腿をしぼませる。彼女は民の中にあって呪いとなるであろう。」(27)とある。この帰結はすぐには、起こらないことだろう。その中で、夫婦が試されるということなのだろう。まったく不明であるが、実際に「腹を膨らませ、腿をしぼませる」ことはなかったのではないだろうか。しかし、少しの体の変化も不安を来すことは確かである。どの世の中でも、正直さは、試され、真実を得ることの困難さはどの社会にとっても、チャレンジである。それを暴くこと以外の解決方法を探すべきである。正しさに訴えるのではなく。
Numbers 6:1 「イスラエルの人々に告げなさい。男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身するナジル人の誓いをするときは、
今まで「ナジル人」(この章以外は、士師13:5,7, 16:17, 哀歌4:7, アモス2:11,12のみ )規定の方にばかり目が行っていたが、「その人は、ナジル人である期間は、主に献げられた聖なる者である。」(8, 5節参照)とある。出エジプト記22章30節a に「あなたがたは、私にとって聖なる者でなければならない。」(他にレビ記11:44, 45, 19:2等)とあるが、祭司やレビ人が特別に「聖なる者」として「聖なる」神に関わる、様々なことを行うことが述べられていると、祭司に任せておけばよいように考えてしまうのが常だろう。ここでは「男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身する」ものについて述べられている。共同体としても、このことを、尊重し、たいせつなこととしたのだろう。これは、たまたまだろうが、この章の最後は、礼拝の最後などでも唱えられる有名な祝福のことばで終わっている。結びは「彼らがこうして私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。」(27)となっている。個人個人が誓願をたて献身し、聖なるかたのように聖なるものとなり、交わりをもつことを祝福しているように感じられた。わたしは誓願は立てないが、主のこころをこころとし、イエスのように神の子として生きることをもとめていきたい。
Numbers 7:89 モーセが神と語るために会見の幕屋に入ると、証しの箱の上にある贖いの座、その上に据えられた二つのケルビムの間から彼に語りかける声が聞こえた。神は彼に語りかけられた。
幕屋の奉献式である。(1)12日間、毎日ささげ物が献げられていると言うことは、おそらく、毎日が安息日だったのだろう。安息日の規定には反することもあるように思われるが。最後が、以前、ケルビムのことで調べた箇所である。語りかけた相手は、モーセのようだが、この祭壇が、会見の幕屋の中心になったことを記録しているのだろう。主にお会いする場。それは、限定された場所ではないだろうが、通読で聖書を読みながら、単に、文字に引き寄せられるのではなく、神に出会う一瞬一瞬でありたいものである。二つのケルビムの間から、モーセが声を聞いたように。
Numbers 8:24,25 「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は務めに就き、会見の幕屋における仕事に就く。だが、五十歳からはその仕事から身を引かなければならない。再びその仕事をしてはならない。
これに引き続き、「あるいは、会見の幕屋でその兄弟たちが奉仕の務めを守るとき、彼らを助けることはできるが、自分で仕事に携わってはならない。あなたはレビ人の務めについて、このようにしなければならない。」(26)ともある。ボランティアはよいが、正式の職ではなくなるということである。イスラエルの人々の奉納物(11)だともあり、すべての初子の代わりにレビ人を主のものとする(16)ともある。そうであっても、定年制がある。そして、ボランティアになる。あくまでも補佐である。わたしも、その補佐として、ボランティアをしていきたい。それが、わたしの役目である。若い人に、大切な仕事は委ねつつ、仕える。この気持ちを持っていたい。
Numbers 9:21 雲が夕方から朝までとどまるときも、朝になって雲が昇れば、彼らは進んだ。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは進んだ。
これは考えてみるとたいへんなことである。特に、レビ人にとっては、たいへんだろうが、一般のひとにも負担が多く、次に水のあるところに着けるかどうかも不明である。正直、不可能だろう。そう考えると、これも、信仰告白なのかもしれない。後から考えると、まさにそうだったと告白するようなことなのかもしれない。
Numbers 10:30,31 だが、ホバブはモーセに言った。「私は行きません。私の生まれた地、私の親族のところに帰ろうと思います。」モーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは荒れ野でどこに私たちが宿営すればよいかをよくご存じです。私たちの目となってください。
「第二年の第二の月の二十日、雲が証しの幕屋から離れて昇ったので、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパランの荒れ野にとどまった。」(11,12)とあり、ここから(この章からでもよいが)第二幕である。ホバブについては、出エジプト記2:15-22, 18:1-12, 士師記1:16にあり、エトロとも、レウエルともとれるが、士師記によるとカイン人、出エジプト記によるとミデアン人の祭司である。幕屋が立てられたのが第二年の第一の月の一日で、準備ができ約束の地に向かっていく。ここまで、ホバブは一年ほどいっしょにいたのだろうか。ホバブの視点からは、イスラエルはどのように見えていたのだろうか。様々な問題を含めて。引用箇所では、しゅうと(義父)ということもあるのかもしれないが、モーセが懇願している。この理由が最大だったかどうかは、不明であるが、モーセにとっても、重要な存在だったことは、現れているのだろう。現代では、たとえば、支配者と被支配者など、さまざまな視点から歴史をみることができるが、当時のことは、わからない。残念である。
Numbers 11:17 私はそこに降って、あなたと語り、あなたの上にある霊の一部を取って、彼らの上に置こう。そうすれば、彼らはあなたと共に民の重荷を負うことができるようになり、あなた一人で負うことはなくなる。
民の不平とモーセの不平から始まる。出エジプト記18章にはエトロの助言によって、千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長を定めた記事がある。ここでは、もうすこし、ことなる部分を担うリーダーが立てられているのだろう。さらに、モーセは「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいるのだ。」(29)ともヨシュアに言っている。段階的であることも、たいせつなのだろう。実際、主の民すべてが預言者(主のことばにあずかるもの)になることが目標地点であったとしても、そう簡単ではないことは容易に想像がつく。民主的(わたしは Democratic のほうが好きだが)とか平等ということばは、耳に心地よい、しかし、悪魔の囁きのようにも聞こえる。平等ではなく、公平を、民主的というような名前はなくても、みなが、ゆるやかな帰属意識を感じ、一員であることが実感できるようななかで、ひとりひとりの尊厳を(たいせつな一人として受け入れられた)もった存在として、不平ではなく、めぐみをそして祝福をうけとることができればと願う。
Numbers 12:1,2 ミリアムはアロンと共に、モーセが妻にしたクシュ人の女のことで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にした」と言った。二人は「主はただモーセとのみ語られたのか。我々とも語られたのではないか」と言った。主はこれを聞かれた。
理解が困難な物語である。ただ、民数記記者が伝えようとしているメッセージはなんとなくわかる。主のことばを使って、モーセと神との関係について浅薄な言説をしたことについて批判している。引用箇所からすると、(クシュ(北アフリカ、ヌビア地方名称)の女の部分もツィポラ(Ex.2:21,4:25,18:2)のことなのか不明だが)もともとは、もっと生活に密着したある意味で些細なことが積み重なったことに起点があるように思われる。そのことから、つまり、神様との関係を度外視して考えたところから、出発して、神様との関係について非難している。おそらく、わたしたちは、逆の道をたどるべきなのだろう。すなわち、目には見えないし、他者のことで自分にはよくわからないが、神様がそのひとをたいせつにしている、愛していることを起点に、目に見える、自分にも関わってくる、日常的な不具合について、絶対的な判断をくださず、裁かないこと。「人を裁くな。」(マタイ7章1節)まずは、見え(てい)ないものからスタートすべきなのだろう。難しいが。
Numbers 13:22 彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイがいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。
これから征服する土地、カナンの地は、このヘブロンが中心だったのだろう。とても詳細に書かれているように感じられる。アヒマンとシェシャイとタルマイは名前なのだろうか。部族なのだろうか。エジプトのツォアン(Ps 78:12, 43, Is 19:11, 30:4, エジプトの高官たちが住む場所だろうか)もよくわからないが、七年前とは、いやに正確である。おそらく、アナク人(33)という、有名な勇者集団のなかでも特別な人達が住んでいることと、とても古い歴史のある町であることを伝えているのだろう。そしてエシュコルの谷で切り取った豊かなぶどう。これが、この物語の背景として淡々と、ある意味で客観的に、語られている箇所である。
Numbers 14:9 ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」
なんとも乱暴である。しかし、そこだけを取り上げて、批判してはいけないのだろう。この箇所もあとからある意図をもって書かれているであろうし、普遍性をもった愛のこころがこのときから、すでに存在していたら、イエス様は来られなかったろうから。そして、現代にしても、そして自分にしても、このことをもって、この時代の考え方をあざ笑ったとしても、まだまだ理解てきていないことばかり、できていないことばかりなのだから。結末のようにして書いてある「その地の悪い噂を広めた者は、主の前で疫病にかかって死んだ。」(37, 36-38 参照)とあるが、これも、そのときすぐに起こったとは書かれていない。事実を記しているというよりも、ある信仰告白のようなものなのだろう。それを取り違えると、語られているメッセージに耳を傾けることもできなくなってしまう。
Numbers 15:35,36 主はモーセに言われた。「その男は死ななければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」全会衆は、主がモーセに命じられたとおりに、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。
レビ記24章16,17節で、主の名をそしるものについて、石打にする記述があったが、今回は「安息日に薪を拾い集めていた」ことについてである。直前に「ただし、イスラエル人であれ寄留者であれ、故意に罪を犯した者は、主を冒瀆する者であり、その者は民の中から絶たれる。」(30)とある。留置をして主のことばを待つなど、慎重にしている。故意に主を冒涜するような行為であったのだろう。ここだけからは、判断できないが、同時に、主の裁きと、ひとの裁きの違いも感じる。モーセが主に聞いたとしても、主のみこころを完全に受け取ることができることもなく、主の苦しみを受け取ることはさらに、困難であろうから。謙虚でありたい。すくなくとも、これらを文字から得られる情報だけで、普遍化することには、注意しなければならない。
Numbers 16:1,2 レビの子ケハトの子であるイツハルの子コラは、ルベンの一族であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレトの子オンと組み、会衆の指導者、すなわち会衆の中から指名された二百五十人の名のあるイスラエルの人々と共に、モーセに反逆した。
この事件も考えるべきことが多い。しかし、まずは、枠組みを確認しておこう。自然に読むと、レビ族一人と、ルベン族二人(オンについては、ルベン族かどうか不明ともとれるが)に、会衆の指導者(会衆の中から指名された者)二百五十人が加わって造反(組織や体制の中からそのあり方に対して批判・抵抗を行うこと。〔中国で反逆・謀反(むほん)の意。))を起こした事件である。祭司職にない、レビ族や、本来は長子であるルベン族の中に不満があったととることもできるが、会衆の指導者が二百五十人も加わったということは、それだけの不満があったということだろう。リーダーシップのあり方について問うとともに「実際には私たちを乳と蜜の流れる地に導き入れもせず、相続地として畑もぶどう畑も与えてくれなかったではないか。」(14)と言っている。これは、否定できない現実である。結局、モーセは「これらすべてのことを行うために、主が私を遣わされたのであって、私の考えではない」(28b)ということに集約させている。モーセにとっては、あくまで神に従ってきたことであっても、人々は、現実的には、モーセに従ってきたと考えていたことの矛盾が現れたとも言える。神に従う民の形成、ここには「妻、子、幼子たち」(27)も含まれている、それは、わたしには、不可能に思われてしまう。ほんとうに主は当然にして起こったとも言えるこのことを善しとしておられたのか。わたしの願いは何なのかを問われているとも思った。
Numbers 17:3 命を失った罪人たちの火皿を打ち延ばして板金にし、祭壇の覆いを作らせなさい。それらは主の前に献げられ、聖なるものとなった。これをイスラエルの人々にとってのしるしとしなさい。」
この章の理解も難しい。まず、引用箇所は、聖となるのは、主により、そのものが特別に清いわけではないこと、さらに、それは、この場合は、この事件を思い出させる神様の特別の役割が付与されているということなのだろう。しかし「あなたがたは主の民を殺した」(6)と「全会衆」が不平を言う。疫病が起こり、アロンがモーセの命じたように、贖いをし、それがおさまったことが書かれている。モーセは、全会衆のリーダーの役割を果たしていても、疫病に象徴されるように、神との間に立つもの、神からのものを伝えるものなのだということを、明確にしているようにもとれる。しかし、人々の側から見ると、神権政治(統治者が神または神の代理者として支配の正統性を主張し,支配する政治形態。神政。テオクラシー。theocracy)である。簡単に結論を下すのは、問題であるが、生身の人間の集団の中で、神権政治のゆえに構造的に起こる問題、悲惨な事件とも表現でき、神権政治という形態が、神様の御心なのか大いに疑問である。このことを理解する過程が述べられているのかもしれない。
Numbers 18:26 「レビ人に告げなさい。私が相続分として与えた十分の一を、あなたがたがイスラエルの人々から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を主への献納物として取り分けなさい。
コラの子らの造反の続きだと考えられる。「あなたがたは分を越えている。会衆全体、その全員が聖なる者であり、その中に主がおられるのだ。それなのに、なぜあなたがたは主の会衆の上で思い上がっているのか。」(16:3)への答えの整備とも言える。祭司は、聖所に関する罪を負う存在であること(1)から始まり、職務と捧げものの管理、相続地を受けないこと、レビ人の職務と相続地などについて書かれている。その流れのなかで、贖いのことや、十分の一の捧げもののことが書かれ、それは、レビ人にとっても同じことを記しているのが、引用箇所である。長老派系では、教会での献金の十分の一は外部に捧げることが決められているようだが(どこに捧げるかの詳細はどの程度定まっているか不明だが)組織としても、このようなことを考える基盤は、こんなところ(引用箇所)にもあるのだろう。十二部族という背景のもとで、十分の一が決まっているようにも思われるが、最上のものを献げる、単なる規定、律法を超えた、こころを持っていたいものである。レビ族は貧しい場合が多かったようだが、そのような状態にならないように。レビ人も、献げることによって祝福を得られるように。
Numbers 19:21 これは、彼らにとってとこしえの掟である。清めの水を振りかけた者は自分の衣服を洗うが、清めの水に触れた者は夕方まで汚れる。
なかなか理解は困難である。背景として、祭司はつねに動物をほふるわけで、生死と直面することをする仕事であること、さらに、一般的に、命に対する畏敬だろうか、人々に、特別な気持ちがあったことはたしかだろう。いのちが特別なものであることは、現代でも変わらないが、ここでは、汚れと清めが語られている。よごれ、きたないという感覚とは異なると思われる。ただ、断定的には、わたしにはまだ語れない。清めの水に触れたものがまた汚れるということは、興味深い。生死の境界線にはたらくものと考えたのだろうか。
Numbers 20:28 モーセはアロンから衣を脱がせ、その子エルアザルにそれを着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルは山から下りた。
アロンの思いはほとんど記されていない。出エジプト記32章の子牛の像を作った事件のところぐらいしか思い浮かばない。「アロンは先祖の列に加えられる。私がイスラエルの人々に与えた地に、彼が入ることはない。あなたがたがメリバの水のことで私の言葉に逆らったからである。」(24)とあり、モーセとともにこの章に書かれているメリバでの対応が問題だったとされる。同じメリバは出エジプト記17章にも現れる。そちらはツィンの荒野ではなく、シンの荒野である。この件については、また考えたいが、今回は、アロンの人生について考えた。遊牧民の長(おさ)にとって、水を求めることなど、リーダーシップが問われることは多く、責任重大である。これだけ大きな部隊では、モーセとアロンの二人が役割を分けていたのだろう。しかし、聖書が主として記すのは、モーセのことである。アロンの気持ちを聞きたい。このアロンから、エルアザルへと大祭司が受け継がれる。そして、静かに去っていく。おそらく、多くの人が、自分の人生についてよくわからずに、この世を去っていくのだろう。ミリアムのときもそうだったかも知れない。(20章1節)それで良いのかも知れないが。元来、自分の人生について理解することのほうが特殊なのだから。いつかアロンやミリアムに焦点をあてても学んでみたい。神様をどのような方だと考えていたのだろうか。
Numbers 21:5,6 民が、神とモーセに対して「なぜ、私たちをエジプトから導き上ったのですか。この荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、私たちは、この粗末な食物が嫌になりました」と非難したので、主は民に対して炎の蛇を送られた。これらの蛇は民をかみ、イスラエルの民のうち、多くの者が死んだ。
「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」(列王記下18章4節)に出てくる、ネフシュタンの起源が書かれている。ただ「ネフシュタン」と出てくるのは、引用箇所だけである。WHO のエンブレムについては「The staff with the snake has long been a symbol of medicine and the medical profession. It originates from the story of Asclepius, who was revered by the ancient Greeks as a god of healing and whose cult involved the use of snakes.」(https://www.who.int/about/who-we-are/publishing-policies/logo)とあり、古代ギリシャのいやしの神だとの説明がある。わたしは長いこと、ネフシュタンだと思っていた。幸福の科学のマークも似ているがこちらは全く異なるようだ。現代でも、疫病退散を願って、アマビエなど、いろいろなものが祀られている。気持ちはわかるが、聖書を通じて頻繁に書かれているのは、少し観点が異なる。不平を漏らす民の姿である。基本的に神様が善しとすることが理解できないということなのだろう。たしかに、理解はできないが、そのときに、どのような行動を起こすかなのだろう。おそらく今のときにも。民数記の後半は忙しい。多くのことが書かれているが、前章のエドム、そしてこの章の記述、このあとの歴史の背景を急いで語っているように思われる。あとから追加していったのかも知れない。
Numbers 22:6 この民は私より強いので、どうか今すぐに来て、この民を呪ってもらいたい。そうすれば、恐らく私はこれを打ち破り、この地から追い払うことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、私は知っている。」
興味深い箇所である。バラクはひとを見ている(より多くの、位の高い高官を遣わすなど(15)からもそれを感じる)が、バラムは神に問うており、この章の最後に、「御覧のとおり、私は今あなたのところに来ました。しかし、私に何を告げることができましょうか。私はただ、神が私の口に授けられる言葉だけを語りましょう」(38)と言っている。少なくとも民数記の記述によると、バラムというアンモン人の地)ユーフラテス川のほとりのまちペトル(5)(アンモン人がこのあたりに住んでいたことは驚かされるが、創世記19章37節によると、モアブとアンモンがロトの子と記述されている)(23章7節ではアラムとなっており、地域としてはこちらのほうが自然。合理的に場所はアラムとすることも可能だが)は、神に問い、託宣を受けている。ろばとの会話など興味深い。22節にある、神の怒りの背景は、不明であるが、神のことばだけを告げなければならない(20)を軽く考え、受け取っていないと見たのかも知れない。イスラエル以外の人のなかにも、このように神と語るものがいたことを証言していることは興味深い。さらに、殆ど神となっているが「主」も使われている。(8,13,18,19,22-28,31,32,34,35)
Numbers 23:27 バラクはバラムに言った。「どうか来てほしい。別の場所に連れて行こう。恐らくそこからなら、神の目に適い、彼らに呪いをかけてもらうことができるかもしれない。」
バラクは「どうか私と一緒に、彼らが見える別の場所に来てほしい。そこから見えるのは彼らの一部だけで、全体を見ることはできないが、そこから彼らに呪いをかけてほしい。」(13)と言っているが、ここでは「神の目に適い」と言っている。バラクとバラムの話をどう理解するかは、難しいが、不平ばかり言っているイスラエルの民の話が続く中で、外から、イエスラエルがどのように見られているかを語っている点で興味深い。前の章にあったように「さて、ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に行ったことをすべて知った。モアブはこの民を大いに恐れた。その数がおびただしかったからである。モアブはイスラエルの人々を前にして恐れをなした。」(22:2,3)である。数の多さ(10)だけでなく「見よ、これは独り離れて住む民/自らを諸国民の一つとして認めない。」(9)と書いてある。これが、恐怖を感じさせたのだろう。それは、理解できる。
Numbers 24:25 バラムは立ち上がって去り、自分のところに帰って行った。バラクも自分の道を戻って行った。
民数記にはこのあと25章の最初と、31章に後日談が書かれている。「その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。」(31章8節)引用句を境に記述が変わるように思われる。民数記を書いたときの資料の入手経路や執筆意図もふくめて、不明な点が多い。イスラエル側でもモアブ側でも評価が定まっていなかった、わかっていなかった、ともとれる。しかし、民数記が与えられている、イスラエルに集中して考えると、外から見た自分たち、そして、その神への評価が高く書かれていることは、誇らしいとともに、それにふさわしくない自らを恥ずかしく感じさせたのではないかと思う。その意味で教育的効果はある。むろん、それをどのように、受け取り、どのように生きていくかは別問題である。自分のことを考えても、他者の評価は気になり、高評価はとても嬉しいとともに、それに、影響を受け、実際とは、離れ、高慢になったり、自らを実際以上に惨めな存在だと考えて、自暴自棄になったりするものである。評価は神様に任せる、神様の前にどう歩むかに常に戻るものでありたい。自分でもよくわからない自分に対する他者の評価は、完璧な神様からの託宣と信じる場合は別だろうが、同じ人間として、その人自身も、その人自身のことを含め十分にわからないのだから、示唆を与えることは多いが、絶対的なものではありえないのだから。
Numbers 25:1-3 イスラエルがシティムにとどまっていたとき、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。娘たちは民を招いて、自分の神々にいけにえを献げ、民はそれを食べて彼女たちの神々にひれ伏した。イスラエルはこうして、ペオルのバアルに付き従ったので、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。
実際にこれがどのような規模で起こったかは不明である。しかし「彼らはあなたがたを巧妙な手口で襲い、ペオルの事件を引き起こし、また、この事件が原因で疫病が襲った日に、殺された彼らの姉妹、ミデヤン人の指導者の娘コズビの事件を起こしたからである。」(18)とあり、ミデヤン人の指導者階層が関わっていたとある。このようなことが、バラクとバラムの情報入手経路だったかも知れない。ただ、ここでは、ミデヤン人、引用句では、モアブの娘である。イスラエルからみて、これは許されざるべきことだったろうが、モアブやミデヤンにとっては、滅ぼされないように、できることは何でもするという意味でも、自然な行為だったように思う。一方で、ピネハスは、高い評価を受け(13等)、以後、モアブに対する差別(申命記23章4節)や偏見にもつながっていることを考えると、複雑である。遊牧民がともに平和に暮らすことは生活様式からして、困難であはるが、平和の神の解決方法をわれわれは模索しなければいけない。モアブ(ダビデの曾祖母のルツの家系)やミデアンは隣人であり、このあとも何度も相まみえることになるのだから。
Numbers 26:9-11 エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムは会衆の中から指名された者であったが、コラの仲間が主に逆らったとき、共にモーセとアロンに反逆した。地がその時、口を開いて彼らとコラを吞み込み、その仲間は死んだ。火がその時、二百五十人を焼き尽くした。彼らはこうして、警告のしるしとなった。ただし、コラの息子たちは死ななかった。
民数記の16章の記事との相違が気になった。「地はその口を開き、彼らとその家族、コラに属するすべての者たちとすべての持ち物を吞み込んだ。」(16章32節)とあるからである。「コラの息子たち」のことを考えてしまった。生き残ったことを主の恵みとして生きていったか、常に後ろ指さされて、コラの息子たちとして生きることが辛く、警告と神の恵みを受け止められなかったか。これも、考えてみると、本人たちではなく、周囲の人たちがどう見、行動するかにかかっているとも思った。ここには「警告のしるし」とあり、どこにでも潜む、不満からくる不信、反逆である。さらに、聖書が誤りなき神の言葉ということを文字通り受け取る人たちにとっては、一つ一つに、説明を加えなければならず、その先を考えることが困難だろうなとも思った。第二の人口調査の意味は64,65節なのだろうが、その背後では、様々なひとの営みがあったことも覚えたい。そこには、私たちの営みも隠れているのだから。
Numbers 27:11 父の兄弟もない場合には、相続地を氏族の中で最も近い親族に与え、その人に相続させなさい。主がモーセに命じられたとおり、これはイスラエルの人々にとって判例による掟となる。」
この章の重要な箇所とは言えないが「判例による掟」ということばに目がとまった。「ツェロフハドの娘たち」のことは、このあと判例の修正も含め、何回か登場する。(民数記36章、ヨシュア17章、歴代誌上7章)詳細は、整合性と公平性のためには、本質だけでは決められない難しさがあるのだろう。「判例による掟」は一般論では決められないことに対応する。我々の日常の多くも、そうである。そのなかで、なにをたいせつにして生きるかが求められる。同時に、この章の中心とも言える継続性も大きな集団の中では重要である。たいせつなことを守ること、公平性を担保するために。本質論はたいせつだが、ひとは、些末なことの中で生きている。その中でも、主を求めること、教条主義に陥らないこと、ある程度普遍化し公平性をそこなわないかを考えることなど、チャンレンジは多い。しかし、わたしは、そのチャレンジもたいせつに受け止めて生きていきたい。
Numbers 28:22 また、あなたがたの贖いをするために、清めのいけにえとして雄山羊一匹を献げる。
この章にはもう一度贖いが出てくる「また、あなたがたの贖いをするために、雄山羊一匹を献げる。」(30)献げものについて、日ごとの献げもの(1-8)、安息日(9-10)、毎月一日(11-15)、過越祭(16-25)、初穂の日・七週祭(26-31)についてこの章には書かれている。そのうち、贖いは過越祭と初穂の日である。キリスト教では、日程的に、イースターと、ペンテコステに対応する。自分が贖われたものであることを、定期的に覚えることが、イスラエルには定着していたことがわかる。贖いについては、まだ、よく理解できていないので、少しずつ考えていきたいが、辞書には「罪のつぐないをする。あるものを代償にして手に入れる。また、買い求める。」とある。原語では כָּפַר(kāp̄ar: to cover, purge, make an atonement, make reconciliation, cover over with pitch)。もともとの意味は覆うという意味とのことである。本来は、神の前に立つことができない存在だということだろうか。恵みだろうか。イスラエルの人たちは、この言葉をどのような感覚を持って聞いたのだろうか。ゆっくり、少しずつ考えていきたい。
Numbers 29:5,6 また、あなたがたの贖いをするために、清めのいけにえとして雄山羊一匹を献げる。これらは、新月に献げる焼き尽くすいけにえと、それに添える穀物の供え物、および日ごとの焼き尽くすいけにえと、それに添える穀物の供え物と注ぎの供え物とは別のものである。これらのものを規定に従って献げ、主への宥めの香り、火による献げ物とする。
第七の月の一日、十日、そして、十五日からの一週間、通常贖罪の日と言われる期間の規定が書かれている。イスラム教のラマダンは5月から6月ごろで7月までかかることもあるが、イスラム暦で規定される。引用句にも、新月とあり、ユダヤ暦も、太陰暦である。一日は新月、十五日ごろは満月である。年に一度は、特別の贖罪の時を覚え、断食をしたようである。しかし、この章にかかれているのは、たくさんの動物のいけにえ。ラマダンのときは夜に食べるようだが、贖罪の第七月は、どうしていたのだろう。イエスの時代は、贖罪の日には断食をしていたと伝えられているが、断食はあとからのものだろうか。実際、モーセ五書には、断食ということばは無いようだ。清めと訳されているのは原語では、חַטָּאָת(ḥaṭṭā'āṯ: sin, sinful, sin-offering, purification from sins of ceremonial uncleanness)で、基本的に罪のためのいけにえという意味のようである。贖いとはペアなのだろうか。本当に基本的なことがよくわかっていない。
Numbers 30:4 女がまだ若く、父の家にいるとき、主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをした場合、父が彼女の誓願や、その身に対する物断ちの誓いを聞いて黙認するなら、その誓願も、その身に対する物断ちの誓いも、すべて有効となる。しかし、もし父がそれを聞いた日に反対するなら、その誓願も、その身に対する物断ちの誓いも、すべて無効となる。父が反対したのだから、主は彼女を赦されるであろう。
このあと、妻については、より詳細な規定が書かれている。不公平と切り捨てることは可能だが、それは、同じ規定を異なる状況に当てはめようとするために起こる不適当さだとも思う。遊牧または狩猟から生活を大きく変化させている途中のケニアのマサイ族を訪れて多少考えたことも背景にあるかも知れないが、我々の社会であっても、私の両親の世代と、我々の世代、そして子供たちの世代で大きな変化があることも感じるからでもある。おそらく、個人の尊厳がたいせつにされることは、よいとして、ひとは、歴史によって営みによって育まれ、また社会との関わりの中で生きており、未知のものの中で、一人ひとりが異なった弱さを担って生きているということだろう。では、たいせつにすべきことは何で、何が聖書のメッセージなのだろうか。やはりすぐには答えられない。すくなくとも、立法者・記者にとっての他者について、このばあいは、女性について、理解しようとしないといけないということだろうか。同時に、十分理解できない中で、現実と向き合わなければいけないことも多い。正しさで判断しなければいけないとしても、それが絶対的なものではないことを覚えることだろうか。難しい。
Numbers 31:16,17 イスラエルの人々にとって、彼女たちはバラムの言葉に唆され、主への背信の罪を犯させたペオルの事件の張本人であり、そのために、主の会衆のうちに疫病が起きたのだ。だから今、子どもたちのうち、男の子は皆、殺しなさい。男と寝たことのある女も皆、殺しなさい。
残酷である。「男と寝たことのない少女たち」を残したのは、男系社会であったことと、部族の繁栄を示すのだろう。幼い頃から、ずっと平和について考えて来たと思って来た。おそらく、相手を肉体的に傷つけるようには、戦わないことを考えてきたと表現したほうが適切かもしれない。非暴力無抵抗主義だろうか。しかし、実は、平和は考えていなかったのかもしれない。ケニアの国旗は、マサイ戦士の盾と槍が中心にあり、三本の線が背後にあり、黒は国民、赤は独立のために流れた血、緑は豊かな自然を表している。独立の歴史は多少複雑だが、ある時点で、戦わなければ植民地の状態から独立が得られなかったことは確かである。そして、血が流され、それを覚えることをたいせつにしている。引用句でも、背後にあるのは、宗教的なきよさを保つため、主から離れないため、その妨げになるものを排除する考え方である。ある意味では、イスラエルの独立を維持するためとも言えるかも知れない。現在の紛争についても考えさせらえる。共生、ともに生きる、共に喜び悲しみながら生きる道を模索することは、神様とともに喜び悲しみ、神様にとってたいせつな、神様が交わりを喜んでおられるかたと共に生きることだと思うのだが、道は果てしなく遠い。
Numbers 32:16,17 彼らはモーセのところへ進み寄って言った。「私たちはここに、群れのための羊の石囲いと、子どもたちのための町を築きます。私たちはそれから武装し、イスラエルの人々をその場所に導き入れるまで、彼らの前に立って進みます。ただ、私たちの子どもたちはこの地の住民から守るため、城壁に囲まれた町に住まわせたいのです。
背後には、様々な社会的要請もあったように思う。ヨルダンの東側は、イスラエルが移住を予定していた土地ではなかった。しかし、支配することになった。それをどうするかは、重要な問題だろう。人が住まなければ、荒れてしまうからもある。子どもたちとあるが、女性は残ることになったろう。町にすめば安全だったかもあるが、多くの家畜の世話は男性は必要なかったのかという疑問もある。ケニアのマサイ族を訪ねたときに知ったことでは、羊や山羊という小家畜は女性とこどもの仕事であるという。この当時は、牛のような大家畜は飼わなかったろうから、もしかすると、女性が担う仕事だったのかも知れない。リベカなどの記事からも、女性が羊を飼うことに関わっていたことはわかる。すると、男性のしごとは何だっのか、おそらく戦い、部族を守ることが重要な位置を締めていたと思われる。むろん、家畜の世話もしただろうが。表面で議論されていることとは別に、実際的には良い案だったのだろう。ここでは、ルベンとガドとなっているがこれにマナセの半部族も加わる。この背景のもとで、この課題の扱い方をみると、伝えたかったことも見えてくる。「心を挫く」が7節と9節に二回現れる。「ご主人様」(25,27)がモーセに対して使われるのはここだけだが、それも気になり、すべて「まあるく」収まったのかどうかは不明だが、意思決定のプロセスとしても興味深い。
Numbers 33:51,52 「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたがヨルダン川を渡って、カナンの地に入ったときは、その地のすべての住民をあなたがたの前から追い払い、すべての石像を打ち壊し、すべての鋳物の像を打ち壊し、高き所をことごとく破壊しなければならない。
ヨルダンの東側をどうするかの課題のすぐあとに旅程に付して、このことばが記録されていることが気になった。ヨルダンの東側は、詳細は不明だが、アッシリアによって北イスラエルが滅亡するころ、最初に占領されたところで、ルベン、ガド、マナセの半部族は他の部族より先に、歴史から消滅する。ルベン族が日本に来たなどという話にもつながるわけだが、ヨルダンの東側は、約束の地ではなかったのだろうか。現在は、ヨルダン川西岸地域とガザ地域という、最初の国連の裁定(これもよく理解はしていないが)にはなく、あとから、イスラエルが占領した地域の問題があり、ワクチンの分配にも、課題がある。BBC の PodCast Program で、MIRIUAM & YOUSSEF を聞いた程度の知識しかないが、引用句を変更不可能な神のことばとして受け入れ、それをその通りにしようとすることを、わたしは、愚かだと考えてしまう。聖書の理解の仕方はほんとうに、難しい。
Numbers 34:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に命じてこう言いなさい。あなたがたが入ろうとしているカナンの地、すなわち、相続地として与えられるカナンの地の境界線は、次のとおりである。
境界線が書かれている。いくつか問題を感じる。まず、神がそれを定められるのだろうかということ。二番目に、それは、どのような条件で相続地として受け継がれるのかということ。三番目に、ヨルダンの東側の境界線は定められていないようであることである。さらに、マナセの半部族がヨルダン川の東側を受け継ぐことがここで明らかになっているが、少し唐突に思ったことである。この四番目は、32章39-42節の背景を受けたものなのだろうと思う。境界線の中にはまだ他の民族が住んでおり、一番目のように、この境界線は主によって定められたものだとすることは、二番目のことをも考えずに、そのことを利用して、正しさの根拠とする可能性が高く心配である。おそらく、このような問題は、相続地だけのことではないだろうが、その土地の民の一人ひとりや、その人々に対する神の働きが見えないことは、現代においても、人間の弱点である。完璧を押し付けることは、今の状態をみてもできないことは確かである。ここに書かれている神のことば、境界線の指示を、どう捉えるかはいろいろだろうが、少なくとも、神の御心を理解していく人の営みは、とても時間がかかり、主は、おそらく、寛容さと、恵みと、忍耐、それにおそらく苦しみを持って、それを見守っていてくださることも、学ぶ必要があるのだろう。難しい。
Numbers 35:15 これら六つの町は、イスラエルの人々ならびにその中にいる寄留者と滞在者にとって逃れの場所であり、過って人を殺した者は誰でもそこに逃げ込むことができる。
逃れの町の規定は基本的には「過って人を殺した者」の保護である。人が殺されたときに、その人が死んだ事実のみから、それに関わった人に復讐のように罰することをさけることが主たる根拠だろう。特に、殺人者は殺されなければならないとする以上、適正な裁判が行われることは、非常に重要である。興味を持ったのは、ここでも「寄留者と滞在者」も同様の権利のあるものとして規定されていることである。よそ者は、とかく、差別されやすい。理解も困難であるため、悪者にされやすいこともあるだろう。どの程度、適切に行われていたかは不明であるが、一般的にイスラエルは、この時代も、それ以降も、イエスの時代も、そして今も、様々な人達が混在している世界だと思われる。成立背景からも理解できるし、このような句が頻繁に付け加えられていることからもわかる。出エジプト自体が、単純な純血のイスラエル(ヤコブ)の子らである、12部族の移動ではなかったかもしれない。イスラエルの人々は、その中で、公平さが試され、いろいろなひとがいろいろな方法で主に従っていたのだろう。その現実を思い、単純化することの危険も感じた。
Numbers 36:7 イスラエルの人々に属する相続地が、ある部族から他の部族に移ることはない。イスラエルの人々はそれぞれ、父祖の部族の相続地を固く守っていかなければならないからである。
これは、12部族という括りのことを言っているのだろうか。どの範囲であっても、とても大きな制限である。特に、牧畜から違うしごとに移った場合は、維持が非常に困難である。王国時代以降にこの制約を維持することはおそらく不可能だったろう。すると、この記述は、王国時代よりもずっと以前、このことが実行され得る時代に成立した証拠ともなるように思われる。現存のイスラエルは、基本的に、南ユダ王国の系統、つまり、ユダ、ベニヤミンとレビのみだと思われる。これは、地境も変更になることを意味している。当時のひとたちは、どのように考えていたのだろうか。神から与えられたとすると、変更はかなり困難である。

BRC2019

Nm 1:2 イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。氏族ごとに、家系に従って、男子全員を一人一人点呼し、戸籍登録をしなさい。
詳細が「兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての男子」(20等)と書かれている。レビ記27章の記述も、兵役が想定されているのだろうか。すると女性の価値は、独立に考慮しているのだろう。ここには、定年は書かれていないが、終身誓願に相当する代価という考え方(レビ記27章)は、現代でいうと、年金を支えるか、受給するかに関係しているようにも思われる。社会的責任が減じた年齢に達した者の責任について、考えさせられる。わたしは、どうなのだろうか。年齢はどのように関係してくるのだろうか。
Nm 2:32 以上が家系に従って登録されたイスラエルの人々であり、部隊ごとに登録された宿営に属する者の総勢は六十万三千五百五十人である。
1章では軍の構成(登録)人数が語られ、ここでは、全体の配置が語られている。これが、実際にシナイ山を出発する前にできたのか、その後のものか、さらに後に、追加されたものかは、不明であるが。人数が、それなりに、最後の桁に近いところまで書かれていることに意味があるのだろうか。誕生日が正確に分からないと、二十歳以上も不明であることを考えると、どのようにこれを決めたのかも興味をひかれる。同時に、歴史の中で、民族の一致のひとつの基盤とはなったろうが、普遍化のなかで、キリスト者がどのようにこれを受け取って行こうとしたかも、一度まとめてみたい。旧約の受け取り方は難しい。
Nm 3:4 ナダブとアビフはシナイの荒れ野にいたとき、規定に反した炭火を主の御前にささげて死を招いたが、彼らには子がなかった。エルアザルとイタマルは父アロンと共に祭司の務めをした。
このあと、規定に反したことをした、祭司の子孫は、どうしたのだろうか。そこから、祭司職を解かれたのか。この記述から気になった。普遍性には、かける。
Nm 4:18-20 あなたたちは、ケハトの諸氏族をレビ人の中から断やしてはならない。彼らが神聖なものに近づいたとき、死ぬことなく命を保つために、彼らのためにこうしなさい。すなわち、アロンとその子らが行って、彼らの一人一人をそれぞれの仕事と荷物に割りふる。そうすれば、彼らが中に入っても、聖なるものをかいま見ることはなく、死を招くことはない。
このあと、ゲルショム、メラリについて書かれているが「レビ人の中から断やしてはならない」は、ケハトの諸氏族のみについて記されている。「ケハトの子らの仕事は、臨在の幕屋と神聖なものにかかわる。」(4)とあり、アロンとその子ら(歴代誌上5章27-29節)が属していたと思われるが、特別扱いである。また、この章の記述をみると、運搬に関することが多い。幕屋が固定されてからは、どのような仕事があったのだろうか。十分な、割り当て(仕事と給与)はあったのだろうか。貧困に陥っていたレビ人も多かったと言われているが、実体は不明である。ウザの事件(サムエル記下6章、歴代誌上13章)も思い出される。
Nm 5:14 夫が嫉妬にかられて、事実身を汚した妻に疑いを抱くか、あるいは、妻が身を汚していないのに、夫が嫉妬にかられて、妻に疑いを抱くなら、
どの時代にもあり、難しい判断が求められたのだろう。ここでは、苦い水の呪いという、おそらく、判断を神に委ねたことが書かれている。長い間には、それでは、判断が付かない事例がたくさん出ていただろう。くじもそうであるが、普遍性は低い。やはり、はっきりしないことであっても、ひとが責任を持たなければいけない自覚もたいせつであると思う。
Nm 6:24-26 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。
この章には、ナジル人についての規定がある。それは、レビ人以外で、誓願を立て、主に献身した(2)人なのかもしれない。ここでは「アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。」(23)から引用箇所に続いている。主の定めによって、特別な役割を担った者にも、自ら誓願をして、主に献身したものにも、そして、すべての人にも、この祝福(barak: to bless, kneel)のことばが語られる。ともに、神様に願うと言う行為なのかもしれない。これが、宗教指導者が、共に、神を礼拝する意味なのかもしれない。個人主義とはことなるように思われる。
Nm 7:9 ケハトの子らには何も与えなかった。彼らの作業は聖なるものを肩に担いで運ぶことであったからである。
「臨在の幕屋の作業に用い」(5)るために「モーセは牛車と雄牛を受け取って、レビ人にそれを与えた。」(6)とあるのにたいして、引用箇所が記されている。ウザの事件(サムエル記下6章、歴代誌上13章)の背景が、牛車の割り当てのこの箇所から書かれていることをいままで気づかなかった。やはり、ウザの事件には、違和感が残るが。
Nm 8:15,16 その後初めて、レビ人は臨在の幕屋に入って、作業に従事する。あなたは彼らを清め、奉納物としなさい。彼らはイスラエルの人々の中からわたしに属する者とされている。彼らは、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして、わたしが受け取った者である。
レビ人の清めについて書かれ、それが、イスラエルの人々の奉納物(11,13-14)とすることが書かれ、引用箇所で、その理由が述べられている。あがないを基盤とした、神との契約の一部という理由付けなのだろう。一つの民族を、神に献げられた者とすることの、根拠は明確にして行かないといけなかったかもしれない。祭司は別として、レビびとは特権階級とは言えなかったようだが。実際について、もう少し学んでみたい。
Nm 9:10 イスラエルの人々に言いなさい。あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。
例外規定である。実際に行われたのだろうか。コミュニティによっては、一ヶ月遅れの祭は、開催困難だったのではないだろうか。しかし、例外規定を設けておくことで、律法として整備されたものであることは示すことができる。律法の限界だとも言える。難しい問題が背景にあることを感じる。
Nm 10:32 一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします。」
モーセが、その義兄に当たるミディアン人レウエルの子ホバブに言った言葉である。このあと、ホバブが同行したのかどうか、明らかではない。士師記4章11節にホバブがもう一回現れるがそれのみである。レウエル一族の一部は同行したのかもしれない。興味をひくのは、二段階になっていることである。主、わたしたち、あなた。幸せなものが、他のひとの幸せを望むことができるのかもしれない。幸せを受け取っていない者が、他者を幸せにすることはできないのだろう。幸せの本質について、考えさせられる。
Nm 11:10 モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。
10章の最後に幸せのことが書かれているが、その直後の記事を読むと、民は、幸せではなかったことが分かる。10章32節で条件付きのように描かれている背景を見る思いである。モーセはどうだったのだろう。ここで、苦しんだとある。それは、リーダーとしての苦しみとも言える。モーセは、幸せを超越していたのかもしれない。しかし、民が幸せになればと語る。幸せは複雑である。
Nm 12:7,8 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」
新約聖書では「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記18章15節、参照:使徒言行録3章22節、7章37節)を引用し、イエスが紹介される。この引用箇所が「モーセのような」という表現で表している内容なのかもしれない。しかし、逆に、モーセとは、何ものなのだろうかと疑問にも思う。神の子とは、異なるのだろう。神の子の意味は、神とのコミュニケーションだけではないと言うことだろうか。
Nm 13:16 以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。
ホシェア(Howshea`: salvation)からヨシュア(Yehowshuwa`: Jehovah is salvation)ヤーヴェ(共にいる神)が救いとより内容のある名前で呼んだことが書かれている。偵察に行く鍵となる時に、この名前の変更が書かれていることは、注目に値する。ヨシュアの自覚を促したのかもしれない。むろん、あとからの信仰告白という面もあるだろうが。
Nm 14:40-43 彼らは翌朝早く起き、山の頂を目指して上って行こうとして言った。「さあ、主が約束された所へ上って行こう。我々は誤っていた。 」モーセは言った。「あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない。敵に打ち破られてはならない。行く手にはアマレク人とカナン人がいて、あなたたちは剣で倒される。主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。」
とても興味深い。神が示したことを成し遂げることではなく、神に信頼し続ける者と共に主はおられるということだろうか。鍵は、主が共におられることである。善いこと(神が求めておられる)を達成することを追い求めようとすることがある。しかし、わたしは、神と共なる人生を歩みたい。御心を求め、信頼して、従うことを学びつつ。
Nm 15:26 イスラエルの人々の共同体全体の罪およびあなたたちのもとに寄留する者の罪は、こうして赦される。これは、過失が民全体に及ぶ場合である。
大きな転換点である13,14章のあとになぜこの献納物および、罪の問題が書かれているのだろうか。斥候の事件とそれに対する民の不平は、それほど大きな罪だったのだろうか。40年間におよぶ荒野の旅が運命づけられる大事件であり、神への信頼の大切さが教えられていることは、理解できるが、やはり無理もあるように思われる。14章のモーセと神のやりとりも、異様に感じる。神の子イエス・キリストの敬虔とはかなりことなる。よくわからない。
Nm 16:15 モーセは激しく憤って主に言った。「彼らの献げ物を顧みないでください。わたしは彼らから一頭のろばも取ったことはなく、だれをも苦しめたことはありません。」
コラ、ダダン、アビラムが「集会の召集者である共同体の指導者、二百五十名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆した。」(2)とある。大きな危機である。モーセはこのときは、神のみこころを問う(裁きの)場に、ダダンとアビラムが来ないと聞いて、激しく憤って怒っている。アロンとミリアムが逆らったときの「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(12章3節)という表現はかなりことなった印象を受ける。次から次から起こる反乱。公平性をもとめ「あなたたちは分を越えている。」(3)との批判も、実際の「あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか。我々の上に君臨したいのか。」(13)という不満が原因であったことも記録されている。十分理解できる。神の裁きで終わっているが、一方的に、反逆を批判する気には、なれない。このひとたちの痛みも感じるからだ。それは、間違っているのだろうか。
Nm 17:5 命を落とした罪人たちの香炉を打ち延ばして板金にし、祭壇の覆いを作りなさい。それらは、主の御前にささげられ、聖なるものとされているからである。これは、イスラエルの人々に対する警告のしるしとなるであろう。
記憶に留める、記念が、祭儀の中心である祭壇に記録されている。覚えることが重要であると共に、それを乗り越えることも、たいせつだと考えるが、どうなのだろうか。プラスの面とともに、マイナスの面も感じる。
Nm 18:32 あなたたちが最上のものをささげるときには、そのことで罪を犯してはならない。また、イスラエルの人々の聖なる献げ物を汚して、死を招いてはならない。
アロンに対し「あなたとあなたの子ら、ならびにあなたの父祖の家の者らは、共に聖所に関する罪責を負わねばならない。また、あなたとあなたの子らは、共に祭司職に関する罪責を負わねばならない。」(1)と命じることから始まる。アロンの子は、祭司、アロンの父祖の家の者らは、レビ人である。そして、この章の最後は、引用句で終わっている。受け取ったものの、10分の1を献げるが、それが最上のものとしている。分量だけではなく、最上のものを献げる。ここでは、イスラエルが10分の1をレビ人に献げ、レビびとは受け取った10分の1を祭司に献げる。最上のものは、おそらく、献げる心を言っているのだろう。罪を犯してはならないとあるのは、そのためであろう。
Nm 19:20 しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れている。
死んだ者の天幕に入った者、および、野外で死体に触れた者についてのきよめの規定である。よきサマリア人(ルカ10章25-37節)を思い出す。祭司やレビ人は、この汚れにこころが奪われていたこともあるだろう。サマリア人は、すくなくとも、祭司による清めは受けられない状態にあったろう。会衆の中から断たれるとは、とても厳しい。イエスは、このことからも自由である。この特別の律法というより、規定自体から自由であるように見える。その本質はなになのだろうか。律法が人のためであることを受け入れていたからだろうか。
Nm 20:21 エドム人はこのように、自分の領土をイスラエルが通過することを許さず、イスラエルは迂回しなければならなかった。
単純な記録なのだろうか。それとも、現状のエドムとの軋轢を説明する文章なのだろうか。どちらにしても、人々は、このことばに、しばられたことは、確かだろう。「取るに足らぬことです」(19)には価値判断が入っており、エドムにはそのようには思えず、懸念も多かったことは容易に想像できる。書物の権威、歴史の解釈、いろいろと考えてしまう。おそらく、良いことも、悪いことも、どちらとも言えない、様々な交渉がお互いの間にあったのだろうから、別の記録の方法もあったように思われる、もし、平和を求めるならば。インクルーシブな社会を求めるならば。
Nm 21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」
民数記は荒野の記録であるが、民の反逆の歴史と言ってもよいぐらい、何回も何回も記録されている。この章ではすでに、カナン人を一部滅ぼすことも書かれているが、不満は止まない。幸せでは無かったのだろう。実感はなかったのだろう。希望だけで、ひとは生きていけないように思われるが、それは不信仰なのだろうか。信仰告白として、なにも不足するものはなかったと言えるのは、なにが支えているのだろうか。事実と真実の関係を知りたい。
Nm 22:6 この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている。」
バラク(Balak = "devastator”)、バラム(Bil`am = "not of the people")呪う(’arar)、祝福する(barak: to bless, kneel)。これらを見ると、象徴的な名前を使っているように思われる。呪うことを願う、人間の欲望によって神から結果を引き出そうとする行為だろうか。呪術(超自然的な存在にはたらきかけて,種々の現象を起こそうとする行為およびそれに関連する信仰の体系。)と言われるものである。ひとは、このような仕方で、信仰を表現することが、あるように思う。気づいている、気づいていないにかかわらず。
Nm 23:21 だれもヤコブのうちに災いを認めず/イスラエルのうちに悩みを見る者はない。彼らの神、主が共にいまし/彼らのうちに王をたたえる声が響く。
これまで民数記を読んでいて、民の不平、反逆ばかりが続いている。そうであるにもかかわらず、外部からは、主が共におられることが明らかな様である。民数記著者が伝えたかったことは、何だったのだろうか。神が忠実な方であることは分かる。それが「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」(19)に表現されているのかもしれない。
Nm 24:1,2 バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟り、いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた。バラムは目を凝らして、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見渡した。神の霊がそのとき、彼に臨んだ。
バラムはどのように考えたら良いか分からない。イスラエルの外に、神の霊が臨み、預言をする者がいたということ、しかし、神の霊に従って生きたわけではなさそうであることなどを見て取ることができるが。イスラエルへの教訓は、幾つか含むように思われる。民の不従順と、神の真実だろうか。それに関するイスラエルの外の証言。すくなくとも、良いか悪いかに分けて判断することでは、理解できない世界であるとも思う。
Nm 25:1-3 イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。
「ベオル(Beor = “burning”)の子バラム(Balaam = "not of the people")」(22章5節など)と「ペオルのバアル(Baal-peor = "lord of the gap”: the deity worshipped at Peor with probable licentious rites)」は関係があるかと思っていたが、綴りもかなりことなり、単に日本語が似ているだけのようである。直後に出ていることもあり、関連はもう少し調べてみたい。どちらも、特異な事件なので。
Nm 26:33,34 ヘフェルの子ツェロフハドには息子がなく、娘だけであった。ツェロフハドの娘の名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。以上がマナセの諸氏族であり、登録された者は五万二千七百人。
「ツェロフハドの娘」の相続の件は、今後何度も登場する。娘だけの家族がツェロフハドだけだったとは、考えられないが、例示なのか、または、公式に訴えがあり、議論となった最初のケースだったため記録されたのかが考えられる。後者だったのではないだろうか。マナセの子孫の書き方も、28節から32節まで、特殊な記述をして、このツェロフハドの娘に至っている感じすらある。重要案件として語り継がれるものだったのだろう。小さな一歩だが、この娘たちの訴えが世界を動かしたとも言える。
Nm 27:8,9 あなたはイスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。もし、娘もいない場合には、嗣業の土地をその人の兄弟に与えなさい。
このあとも順に「その人の父の兄弟」「氏族の中で最も近い親族」と続くが、基本的に、男性系である。その最初に、娘が加わったことは、完全ではなくても、大きなインパクトがある。律法の不思議な点である。このあと、嗣業を受け継いだ女性の結婚に関することも議論されるが(36章5-12節)父系でありながら、興味深い。普遍的な公平な状況には一足飛びにはいかないが、議論と前進はどの時代にもこのような人の挑戦によってもたらされるのだろう。
Nm 28:16-18 第一の月の十四日は、主の過越である。十五日は祭りの日である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
祭りの規定は、出エジプト記12章、レビ記23章にあり、それと同時に、安息日の規定が各所に記されている。レビ記23章とは、一度比較して見たい。「初日」は明確ではないが、第一の月の十五日なのだろうか。ここに「いかなる仕事もしてはならない。」とあるが、祭りの規定では、この章(25,26)と次の29章(1,7,12,36)に繰り返される。当時は、可能だったのかもしれない。現代では、困難である。本質はなになのかの理解が必要である。祭り自体、わたしはあまり特異ではないように思う。共に喜び、共に泣くことの象徴なのだろうか。
Nm 29:1,2 第七の月の一日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。角笛を吹き鳴らす日である。あなたたちは、若い雄牛一頭、雄羊一匹、無傷の一歳の羊七匹を、焼き尽くす献げ物として主にささげ、宥めの香りとする。
通常「贖罪日」と言われる日の規定である。動物の犠牲が事細かにあげられており、特に、若い雄牛の頭数の変化が興味深い。1日1頭、10日1頭、15日13頭とあり、そのあと二日目以降、それぞれ、12, 11, 10, 9, 8, 7頭とあり、8日目には、1頭になる。何らかの思いがあったのだろう。意味が明確でないことも、儀式としては大切だったのかもしれない。祭は、やはりよく分からない。
Nm 30:17 以上が、夫と妻の間、父と父の家にいる若い娘の間に関して、主がモーセに命じられた掟である。
家父長権の強さが表現されている。しかしおそらく「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」(3)が最も大切なことだろう。夫、父に関しては、一族(大家族)の家長のリーダーシップが重要だったのだろう。もともとの職業が、遊牧民であれば、なおさらそのことは理解される。家長の決断が、つねに一族の盛衰、生き残れるかどうかに、影響したであろうから。自己決定権は、幸福の重要な要素であるが、それだけで、幸せが決まるわけではない。
Nm 31:16 ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか。
ここでは、「ベオルの子バラム」と「ペオルのバアル」が関連づけられているように思われる。「その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。」(8)とあり、ベオルの子バラムがここで殺されたことも記されている。「ミディアン人の長老たちに、『今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている』と言った。当時、ツィポルの子バラクがモアブ王であった。」(22章4節)とあり、ミディアンとモアブの関係も現れるが、それ以上は、ここからは分からない。背景まですべて書かれているわけではないのだろう。理解できているわけではないが新約聖書での引用箇所を記しておく。「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。」(黙示録2章14節)
Nm 32:14 それなのに、罪人であるあなたたちが父に代わって立ち上がり、またもや主の激しい怒りをイスラエルの上に招こうとする。もし、あなたたちが主に背くならば、主はまたもや、この民を荒れ野に置き去りになさり、あなたたちがこの民全体を滅ぼすことになるであろう。」
「主に背く」とあるが、このあとに解決策が提案されていく。主の命令は時として具体的に見えることもあるが、本質は、心なのだろう。行動や、現象だけからは、それが罪かどうかははっきりしない。この結果の是非は別として、このような記録があることは、興味深い。部族連合のヨルダン東側のルベンとガドとマナセの半部族の由来を説明するためであったとしても。
Nm 33:1,2 モーセとアロンに導かれて、部隊ごとに、エジプトの国を出たイスラエルの人々は、次のような旅程をたどった。モーセは主の命令により、出発した地点を旅程に従って書き留めた。出発した地点によれば、旅程は次のとおりである。
日誌の一部である。一つ一つの地名をみると、その背景にある、事件も思い出されるのであろう。民数記自体も、その記録から書かれたという位置づけだろう。人生において、省察・振り返りを通して学びを得、成長するためには、記録が欠かせない。ひとはすぐ忘れてしまうと共に、記録は、その時々の省察の記録でもある。今後、どのようにして行くかも考えてみたい。成長のために。
Nm 34:2 イスラエルの人々に命じて、こう言いなさい。あなたたちがカナンの土地に入るとき、嗣業としてあなたたちのものになる土地は、それぞれ境で囲まれたカナンの土地であって、それは次のとおりである。
どのようにして、この境界が決められたのだろうか。時代的にはいつなのだろうか。日本のような島国と異なり、境界は他の民族の土地と接している。実際、このあとに、聖書に書かれている歴史においても、境界はかなり変化しているように思われる。神が定められたことを示すためだろうか。イスラエルの人達にとっては、とても、大きな保証だったことだろうが。ダビデの頃に一番拡大したときはどうだったのだろうか。疑問が大きくなる。
Nm 35:13,14 あなたたちが定める町のうちに、六つの逃れの町がなければならない。すなわち、ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。
ヨルダンの東は、ルベンとガドと、マナセの半部族のみである。残りの、9部族半がヨルダンの西に住むにもかかわらず、なぜこのようにしたのだろうか。この段階だからだろうか。「あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき」(10)となっており、不思議である。
Nm 36:3 もしその娘たちが他の部族のイスラエル人のだれかと結婚するとしますと、娘たちの嗣業の土地はわたしたちの先祖の嗣業の土地から削られ、嫁いだ先の部族の嗣業の土地に加えられることになり、それは、くじによって割り当てられたわたしたちの嗣業の土地から削られてしまいます。
なぜこのようなことが重要なのだろうか。実は、最近、ケニアで、Private Land, Community Land, State Land という区分を経験した。遊牧をするときは、Community Land の範囲で、動いていた可能性はある。すると、飛び地のようなことになると、おそらく、お互いに不便である。部族連合ということばがしばしば用いられるが、部族が特別な区分だったということだろう。部族の中では、自由だったのかはこれだけでは不明であるが、上記の通り、遊牧の生活と密接に結びついていた可能性はあるように思われる。

BRC2017

Nm 1:1-3 イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。 イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。氏族ごとに、家系に従って、男子全員を一人一人点呼し、戸籍登録をしなさい。 あなたとアロンは、イスラエルの中から兵役に就くことのできる二十歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい。
出エジプト記は「第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた。」(40章1節)の記述で終わっている。その幕屋を中心とした宗教集団としてのイスラエル民族と寄留する者たちへの律法がレビ記、そしてその次の月、第二の月の一日から民数記が始まる。それはこの巻の名前にもある人口調査から始まる。目的は兵役に就くことのできる者の登録である。だから、レビ人を除外する。二十歳成人男子という決め方も、この目的のために選択された条件なのだろう。荒野での大部分が書かれている、民数記丁寧に読んでいきたい。
Nm 2:2 イスラエルの人々は、それぞれ家系の印を描いた旗を掲げて宿営する。臨在の幕屋の周りに、距離を置いて宿営する。
家系の印とは、何だろうか、ユダ隊が東、ルベン隊が南、エフライム隊が西、ダン隊が北となっている。他の部隊がそれぞれに加わっている。この四部族が中心なのだろうか。ユダ、ルベン、エフライムは、それぞれ、リーダー格または長子として扱われる可能性が創世記から見て取れるが、ダンについては、小部族であることからも不思議である。確かにいずれ、ダンは、北部を征服し、一番北に位置することになるようだが。方角できめるなら、ユダが南、ルベンが東、となるはずである。(旅立つ順番は、10章に書かれている。東、南、西、北の順である。)
Nm 3:43 登録され、名を数えられた生後一か月以上の長子は、総数二万二千二百七十三人であった。 
「以上が家系に従って登録されたイスラエルの人々であり、部隊ごとに登録された宿営に属する者の総勢は六十万三千五百五十人である。」(2章32節)とある。単純に総数を長子の数で割ると27となる。一方は生後一ヶ月となっており、他方は二十歳以上である。するとこの割合はもっと増える可能性がある。ひと家族単位で考えると非常に不自然な数である。アロンの子は5人、イスラエルの子も12人である。何を意味しているのだろう。何を伝えようとしているのだろう。「モーセとアロンが主の命令によって、氏族ごとに登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。」(3章39節)このあとの、差をどのように考えるかを伝えたかっただけで、数の根拠はないのだろうか。
Nm 4:46-49 モーセ、アロンおよびイスラエルの指導者たちが氏族ごとに、家系に従って登録したレビ人は全員、 臨在の幕屋で作業を行い、運搬の作業をすることのできる三十歳以上五十歳以下の者たちである。 登録された者の数は八千五百八十人。 以上は、モーセを通してなされた主の命令によって、一人一人その作業や運搬の仕事に就かせるためにモーセが登録した。彼らは、主がモーセに命じて登録された者たちである。
3章39節には「氏族ごとに登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。」とある。ここでは「臨在の幕屋で作業を行い、運搬の作業をすることのできる三十歳以上五十歳以下の者たちである。」となっており、それが、八千五百八十人。残りは、三十歳未満と、五十歳を越えたものと、それ以外つまり、三十歳以上、五十歳以内で、作業につけないものとなる。それは、一万三千四百二十である。二万二千人というかたちがまるめた数かもしれないが、ちょうど39パーセントが八千五百八十人にあたる。どのように、計算すればよいかわからないが、なんとなく、合理的な数であるように思われる。先に書いた長子の数とは、異なる。長子の数は、他の定義があるのかもしれない。
Nm 5:2,3 イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。 男女とも、必ず宿営から出しなさい。わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。
自然に読むと聖書は何と差別的なのか、となる。このあとには、不貞をおかした可能性のある女性をどのように見分けるかの規定もあり、男性にはそのような規定はないことや、科学的とはいえない判定方法で問題は起こらなかったのかなど、疑問はつぎつぎにわく。しかしそう考えるのは、絶対的な真理がモーセを通して人々に与えられていたとの仮定、聖書は誤りのない神の言葉であるというフレーズの一つの理解があるのだろう。いまからおよそ三千年も以前に、絶対的な真理を当時の人が持っていたと考える方がかえって問題であるだろう。人は神様から少しずつ学んでいく。理解できていない、なにか、理解が間違っている、真理と思っていたものが、間違っている、または、他の見方もあるとまさに学んでいく営みを否定することは、なんと貧弱な人の営みだろうか。この当時の人たちの「神が聖である」だから「我々も聖でなければならない」との信仰から学びつつ、この時代の信仰者と共に、神様が喜ばれることを求め続けていきたいものである。
Nm 6:24-26 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。
祝福のことばで、アメリカに住んでいた頃教会で毎週聞いていた言葉で、こころに残っている。「彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」(27節)「置く」は口語訳では「唱える」となっている。彼らは「アロンとその子ら」(23節)である。「御顔を向け(てあなたを照らし)」てくださる。なにか神秘的なものとともに、イエスが目をむけられた、ご覧になられた、様々な場面が思い出される。意味をよく、考えてみたい。
Nm 7:84 以上は、祭壇に油が注がれる日に、祭壇奉献のためにイスラエルの指導者がささげたものである。総計、銀の皿十二枚、銀の鉢十二個、金の柄杓十二。
ここまで十二部族の献げ物が丁寧にすべて記され、ここで総数が書かれている。すべて同じ献げ物である。それが可能だったことを思うと、ある感激を覚える。それは、つねに可能ではないのだから。感謝。
Nm 8:14 レビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人はわたしのものとなる。 
レビ人が祭司によって清めの儀式を終えて、イスラエルの長子にかわって神のものとして幕屋の仕事をすることが書かれている。一つの部族をそのために、区別するいうのは、非常に大胆で驚かされる。生活を成り立たせるのも、祭司制度を支えるのとは、まったく異なるレベルだからである。もう少し、個人レベルのことも知りたい。士師記に書かれているエピソードぐらいだろうか。
Nm 9:22 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。
「雲」の柱による誘導をあまり考えずに読んでいたが、主の命令が明確に届いた時代だと書かれている。通常はそうではない。御心は、明かではない。聖霊によって教えられると主張することは可能であるが、危険でもある。一方、御心を求め続けること、主が常に共にいて下さることを信じて、歩み続けることは、神が求めておられることだろう。もう少し、適切に表現したい。分からないことだと、決めつけることではないように思うから。聖霊の導きについて、考えたい。
Nm 10:11-13 第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、 イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった。 彼らは、モーセを通してなされた主の命令によって、初めて旅立った。 
13節に印象的に書かれているように、組織が整えられ、役割も決まり、隊編成がしっかりして、幕屋を中心として移動するのは、初めてである。殆ど、一年で形成されたというのは、驚きに値する。第二の月の二十日とあり、一回目の過越の祭と、そのときに、正統な理由によって過越の祭に参加できなかったひとが、一ヶ月遅れで祝った直後ということになる。
Nm 11:10 モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。
大変な状態である。モーセは、何を目指していたのだろう。民の気持ちも理解できたろう。主の怒りも理解できたと思われる。そのなかで、モーセは、神の名があがめられることを求めたのだろうか。それとも、神の苦しみを、自らの身で負うことを望んだのだろうか。神は何を望んでおられ,何をモーセに求めていたのだろうか。
Nm 12:6-8 主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば/主なるわたしは幻によって自らを示し/夢によって彼に語る。 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。 口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」
理解は難しい。しかし、かなり厳しい言葉で示されていることは確かである。「あなたたちの間に預言者がいれば」によって、預言者であることを認めていない。「わたしの家の者すべてに信頼されている」神の家なのか。信頼(aman: to support, confirm, be faithful)されるのも、他に例がないように思われる。「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(出エジプト18:21)にあり、民数記はここだけであるが、ヘブル語は、pistis と同じように、信仰、忠実を表す言葉なので多く用いられている。いずれにしても、上の主張は、驚かされる。モーセを評した言葉なのだろう。
Nm 13:27-29 彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。 しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」
これが、公的な報告である。ある程度客観的に伝えられている。このあとの記述とも一環性がある。ここから判断が揺れる。カレブの発言と、彼以外の斥候の発言である。前者は根拠が明確であるとはいえない精神主義。後者は、事実を曲げて誇張して結論を導こうとしている。ある意味で最近よく使われるフェイクニュースをも使うポピュリズムである。いまの私ならどうするだろうか。おそらく、人が住んでいない、荒野で生活するすべを見つけようとするのではないだろうか。神が喜ばれる道を見つけることは簡単ではない。民数記はそれが明確に示された時代と簡単に受け入れて良いのだろうか。
Nm 14:19 どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」
ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブの発言(6節-9節)と、モーセの主への訴え(13節-19節)は心を打たれる。しかし同時に、今のわたしは、これが信仰者のひとつの信仰告白であって、神の側はやはりさまざまな選択肢があったことを思う。不完全な信仰告白を神への忠実さゆえに良しとされたと考えるべきだと思う。しかし同時に、聖書に記されている神の言葉をどのように解釈するかの問題は、残る。本当に難しい。
Nm 15:39 それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。
このようなものは、必要であろう。人間は、弱いからである。この章で印象的なのは「イスラエルの人々が荒れ野にいたときのこと、ある男が安息日に薪を拾い集めているところを見つけられた。」(32節)この結末で「共同体全体は、主がモーセに命じられたとおり、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺したので、彼は死んだ。」(36節)と書かれていることである。この直後に、引用した節がある。忘れてしまったということがないようにすることが必要だったともいえる。信仰共同体とは何かについても考えさせられる。
Nm 16:12-14 モーセは人をやって、エリアブの子であるダタンとアビラムを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「我々は行かない。あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか。我々の上に君臨したいのか。 あなたは我々を乳と蜜の流れる土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてくれない。あなたはこの人々の目をえぐり出すつもりなのか。我々は行かない。」
エリアブはルベンの孫とある。首謀者は1節に「レビの子ケハトの孫でイツハルの子であるコラ」ともある。反逆については「不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。」(ユダの手紙11)にある。しかし、この主張は十分理解できる。ダタンとアビラムの願いとは異なる方向に行ったのだから。正直悲しい結末である。このときの、モーセの激しい憤り(15節)にも違和感を感じる。難しい。
Nm 17:6 その翌日、イスラエルの人々の共同体全体は、モーセとアロンに逆らって、「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」と不平を言った。
ここには「イスラエルの人々の共同体全体」とある。カレブとヨシュア以外は、約束の地に入ることができない。という14章28節から30節の言葉がここにつながっている。もしかすると、その説明が、コラの子らや、ここでの民の不平を顕しているのかもしれない。要約があり、詳細が述べられるという構造であれば。しかし、正直乱暴に感じる。指導者の難しさを十分理解した上で、神の御心をどう受け取るかと、それを求め続ける信仰の態度について考えさせられる。神の痛みと忍耐と寛容についても考えたい。
Nm 18:1 主はアロンに言われた。「あなたとあなたの子ら、ならびにあなたの父祖の家の者らは、共に聖所に関する罪責を負わねばならない。また、あなたとあなたの子らは、共に祭司職に関する罪責を負わねばならない。
このあとには、様々な規定が書かれている。献げられた肉で食べてよいものとそうでないもの。アロンの子らすなわち祭司の家系の取り分(嗣業)とレビ人の取り分。レビ記では詳細は決まっていなかったものだろう。しかし、レビ人が町の周辺の遊牧地をえるなどの規定はここにはまだない。詳細が順次に規定されていったある歴史的発展が見て取れる。これらの書がどのように成立したのか興味を持つ。おそらく、短い時間でできたものでもないのだろう。しかし、ある順次性をたもったということは、しっかりとした流れは歴史的に成立していたのかもしれない。勉強してみたい。
Nm 19:7 祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができる。しかし、祭司は夕方まで汚れている。
犠牲をささげる祭司が汚れる。これは、驚きである。これまでにも書かれているが「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。」(11節)では「人の死体」と限定されているから、動物の死体に触れることによって汚れるのかどうかは不明である。ここで献げられているのは「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛」であるから、やはり汚れは、屠ることと関係しているように思われる。本来は自分を献げるべきなのに、犠牲を献げることに起因しているのだろうか。動物であっても神に属する命のやりとりだからか。考えさせられる。おそらく、汚れることについて私がまだよく理解できていないからだろう。汚れる tame’: to be unclean, become unclean, become impure, a primitive root; to be foul, especially in a ceremial or moral sense (contaminated):—defile (self), pollute (self), be (make, make self, pronounce) unclean. レビ記に圧倒的に使用例が多く、次が民数記、そしてエゼキエル書、それ以外は少数で、列王記下とエレミヤ書が4回ずつである。エゼキエルは祭司だったからか。エレミヤは祭司の家系であるが祭司職は務めていない。初出はディナが犯されたとき。創世記 34, 5, 13, 27 で次は、レビ記である。
Nm 20:18,19 エドム人は彼に答えた。「わたしの領内を通ってはならない。もし、通るようなことがあれば、剣をとってお前を迎え撃つ。」 イスラエルの人々は言った。「わたしたちは広い道を通りますし、その際、わたしや家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価は支払います。徒歩で通過するだけです。取るに足らぬことです。」
申命記2章でも、エドム(エサウ)の地の通過について書かれ、他にも聖書の中でこの事件が引用されている。(士師11:17,18)しかし、思っていたほどは見つけられなかった。近隣の国、そして、イスラエル(ヤコブ)の血を分けた兄弟とされる、エサウとの関係は、複雑な歴史を持っていることは確かである。今回気になったやりとりは、原語を調べないと分からないが「取るに足らぬことです」という表現である。これだけの、人数が通過することは、単純ではない。出エジプトの噂を聞いていればなおさらである。しかし、ここで友好関係が十分に築かれていれば、カナンの近くまでもっと短い期間で到着したのかもしれない。それは、不従順な民が全員滅びるという神の計画とは異なっている。
Nm 21:8,9 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 
ヨハネ3章14節で「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と引用されている。しかし、1列王記18章4節に「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」とあるように、神から離れさせる原因にもなっている。個人的には、とても危険な迷い道に導くように思われる。いくらイエスの象徴がここにあると言っても。人々は理解できないのだから。
Nm 22:12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」
今のわたしの聖書理解では、これが完全な神のことばかどうかは、確定させない。しかし、バラムはそのようにうけとったと証言していると考えて良いだろう。気になるのは21節「バラムは朝起きるとろばに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた。」以降、なぜ、バラムは、バラクのもとに向かったかである。バラクは基本的に呪術(自らの要求を神の名によって実現させようとする試み)以上の信仰は持っていないように思われるが、バラムは神を畏れているようにも思われる。自分が信じた神の言葉であっても、自分の解釈がそこに残り、ある部分を無視することが簡単におこると言うことだろうか。謙虚に、神のことばを得ていないかもしれない。そして、理解していないかもしれない。このことを心に刻んで、神が喜ばれることと求め続ける者でありたい。
Nm 23:21 だれもヤコブのうちに災いを認めず/イスラエルのうちに悩みを見る者はない。彼らの神、主が共にいまし/彼らのうちに王をたたえる声が響く。
考えさせられることが多い。神が祝福されるイスラエルの民という現実または認識に基づいたバラムの考えだろう。実際には、ヤコブの中にも数々の災いがあり、悩みも多い。主が共におられることにも、両者に葛藤があり、王といわれるものの統率下にあるわけではない。わたしが、外からまたは中からであってもほとんど知らずに、International Christina University を見ていたときと似ている。非常に優秀なかつ何も欠けたところがないと思われる人と話すときの状況にも似ている。神の御心のうちに生きることはそれほど単純ではない。誰にとっても。そのことは覚えたい。
Nm 24:2-4 バラムは目を凝らして、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見渡した。神の霊がそのとき、彼に臨んだ。 彼はこの託宣を述べた。ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。 神の仰せを聞き/全能者のお与えになる幻を見る者/倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。 
バラムのこと、そして、それをイスラエルがどう見ていたかは非常に興味がある。まずここでは「神の霊が臨ん」で託宣を述べたことが語られ、自らを「目の澄んだ者」と呼んでいる。目が清いことではないかと思われるので「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」(マタイ5章8節)を思い出させる。31章には、バラムが剣で殺されたことが、31章16節に多少の説明はある者の、殆ど唐突に書かれている。「その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。」(民数記31章8節)他に、民数記31章16節およびヨシュア13章22節参照。この時点で気になるのは「バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟り、いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた。」(1節)の状況である。「主の良いとされること」を知ることは素晴らしいことであるが、それを知った自分に陶酔しているようにも思われる。神の祝福の受け方も難しい。謙虚でいたい。
Nm 25:1,2 イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。 娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。
モアブの気持ちは理解できるように思う。何らかの懐柔作戦をしなければ、自分たちが滅ぼされてしまうことを察知しているのである。バラクがバラムを呼んだように、ここでは女性を使って「ペオルのバアルを慕」わせている。必死さが伝わってくる。イスラエルがまさに姦淫の罪を犯したことは責められることとして、モアブを責めたくはないと考えるのは、神の民を神から引き離す悪魔の業を援護することであり、問題があるだろうが。難しい。
Nm 26:2 「イスラエルの人々の共同体全体の中から、イスラエルにおいて兵役に就くことのできる二十歳以上の者を、家系に従って人口調査しなさい。」
二度目の人口調査である。そして、これが荒野での最後の人口調査で、これにしたがって、嗣業の地が割り当てられることになると思われる。そう考えると、唐突であるだけでなく、荒野の40年と言われる期間にどのようなことがあったか、不思議に思われる。バラムの事件や、その前の、エドムの王とのやりとり(20章)は最後なのかもしれないが、その直前にある、ミミリアムとアロンの死が一つの区切りなのかもしれない。あまりよく考えていなかった。「ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」(出エジプト記7章7節)「ホル山で死んだとき、アロンは百二十三歳であった。」(33章39節)丁度40年となる。
Nm 27:1,2 ヨセフの子マナセの一族であるヘフェルの子ツェロフハドの娘たちが進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァといい、その祖父ヘフェルはギレアドの子、ギレアドはマキルの子、マキルはマナセの子であった。 娘たちは、臨在の幕屋の入り口にいるモーセと祭司エルアザル、指導者および共同体全体の前に立って言った。 
これに対してモーセは「ツェロフハドの娘たちの言い分は正しい。」(27章27節)と答えている。このあとの物語も、聖書に語られているが(27章・36節、ヨシュア記17章、歴代志上7章)女性が意見を言い、それが認められ、さらに、聖書に記録されて伝えられる。政治も司法も祭儀も男性が行っていたと思われるが、女性はどのように教育され、役割を担っていたのだろうか。
Nm 28:2 イスラエルの人々に命じて、こう言いなさい。あなたたちは、わたしの食物である献げ物を、燃やしてささげる宥めの香りとして、定められた時に忠実にわたしにささげなさい。 
「忠実」(aman: to support, confirm, be faithful, uphold, nourish) が使われているかとおもったが、単に、定められた時に献げなさいという言い方である。信仰の大切な面の「とどまる」ことと関係しているかもしれない。日々の献げ物、安息日、毎月の第一日、除酵祭、七週祭とつづく。
Nm 29:1 第七の月の一日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。角笛を吹き鳴らす日である。
祝祭日について28章から書かれているが、その最後が贖罪の日に関連する第七の月のことである。第一日、第十日、第十五日と規定がありそれからは、二日目、三日目と、八日目まで続く。39節にあるように、個人的なまたは収穫などに関する祝いではなく、毎年の定められた祭りである。それにしても、贖罪日の規定は詳細である。このときが、断食の時でもあり、やはり特別の機関である。10月ごろだろうか。
Nm 30:17 以上が、夫と妻の間、父と父の家にいる若い娘の間に関して、主がモーセに命じられた掟である。
聖書の理解を考える必要がある箇所である。継続しているのか、変更があったのか、社会状況をもとにした信仰表明をともなったひとの規約なのかという問題である。これ以外にも、背景として、理解すべきことはないか。現在の社会状況も違う価値観に立っているのだから、それを精査するところから始めるべきであるなどである。聖書が伝えていることは、父や夫の責任を娘や妻の責任よりずっと大きいとしていることだろう。若い男性が出てこない。判断は任せても、常に父の訓練の元にあったと言うことだろうか。コメントできるほどのものは、何も持ち合わせていないことを感じる。
Nm 31:19 あなたたちは七日間、宿営の外にとどまりなさい。あなたたちでも捕虜でも、人を殺した者、殺された者に触れた者は皆、三日目と七日目に、身を清めなさい。
毎回の戦いでこのようにしていたのだろう。水での清めであるが、七日間家に帰れない期間、何を考えたのだろうか。残酷な殺人の影に、厳粛さもある。当時の人々がどのように考え、受け止めていたかを学びたい。女性の扱いに関しても。現代的感覚からすると、人権無視の問題だらけであるが。単にそれで切り捨てると、理解すべきことも理解できないことになるのだろう。
Nm 32:5 もし、わたしたちがあなたの恵みを得ますなら、この土地を所有地として、僕どもにお与えください。わたしたちにヨルダン川を渡らせないでください。」
問題も解決提案も決断も、さらにその後の歴史を考えると、いろいろと考えさせられる箇所である。ここでは「あなたの恵みを得ますなら」に注意したい。民にとっては、モーセの決断と神のことばはすでに分かちがたいものとなっていた。もしかすると、モーセのことばが神のことば以上に重要だったのかもしれない。非常に危険な状況でもある。この状態が、士師記へと引き継がれ、サムエル記での王を立てることにつながる。ひとり一人が、神につながるのはおそらく不可能なのだろう。
Nm 33:51-53 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るときは、 あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。 あなたたちはその土地を得て、そこに住みなさい。わたしは、あなたたちがそれを得るように土地を与えた。
現代的に考えると、受け入れがたいことである。しかし、無理して理解しない方が良いのかもしれない。人の成長の営みでもある。固定して受け取らないことだけ、肝に命じればよいのかもしれない。背後に神がおられても、人間に任せられていても、成長には、時間がかかる。日々成長していることをまずは、望もう。
Nm 34:17 あなたたちにこの土地を嗣業として分け与える人の名は、次のとおりである。すなわち、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。
土地の分配にあたって、この二人の役割はどのようになっていたのだろうか。モーセとそれを助けるアロンという指導体制から、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアに移行する。祭儀と軍事は分離したのだろうが、政治については、よく分からない。ここまでモーセの語る言葉を、神の言葉として記録していたことも、大きく変化することになるだろう。エルアザルが「主が言われる」と神の言葉を伝える箇所はあるのだろうか。注意して見ていきたい。ヨシュアと神の言葉の関係も。
Nm 35:14,15 すなわち、ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。 これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、過って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる。
ヨルダンの東側に三つ、カナンの地に三つは、明らかにバランスを欠いている。しかし、この時点では、東側しか征服していない。これをどう考えるかは、難しい。征服していない時点で、ヨルダンの西側にも三つ町を指定することが、特別なことであるともとれるし、西側に入っていくのだから、西側にもないと機能しないことは確かだから、暫定的に書いたともとれるし、ある程度、征服した時点で、民数記が記録されたとも見ることができる。(後に実際、逃れの町の指定が増やされている、ヨシュア記20章)一方、これが、ずっと後代に書かれたとするとどうだろう。構想力の凄さに驚かされるとともに「構想」したことの痕跡も見つけにくいことに驚かされる。民数記はいつ成立したのだろう。長い年月があったのかもしれない。記述と編集の文化も知らないと理解は困難である。
Nm 36:6 ツェロフハドの娘たちについて、主がお命じになったことはこうである。娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。ただ、父方の部族の一族の者とだけ結婚できる。
結婚はどの程度自由だったのだろう。特に女性はどの程度自由があったのだろう。この文章は二つの面を伝えている。「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。」という自由な面と「父方の部族の一族の者とだけ結婚できる。」という制限の面である。安定性を大事にしている。現代にも似た構造がある。

BRC2015

Nm1:20 兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての男子を氏族ごとに、家系に従って一人一人点呼し、戸籍登録をすると、イスラエルの長子ルベンから生まれた子孫については次のようになる。
二十歳が最初に現れるのは、Ex30:14, 26 (登録)、次が Lv23:3,5(税金) である。ここでは、兵役。それまでは、登録はされなかったのかも知れない。とてもきっちりしている。これは、他の国でもすでにそうなっていたのだろうか。
Nm2:9 部隊ごとに登録された者で、ユダの宿営に属する者は総勢十八万六千四百人で、彼らが先頭を行進する。
ユダを中心とした宿営は先頭で東、二番目は、南のルベンを中心とした宿営十五万一千四百五十人、次「臨在の幕屋は、レビ人の宿営に囲まれて全宿営の中央を行進する。」三番目は、西のエフライムを中心とした宿営十万八千百人、四番目は、北のダンを中心とした宿営十五万七千六百人である。よくわからない点も多い。なぜ、東が最初で北が最後なのか。どちらに向かうのか。ユダ、ルベン、エフライムはリーダー的な存在と理解できるが、なぜダンなのか。この人数は、どのように決められているのか。入植のときのものとは、違っていそうである。おそらくダンは減る。
Nm3:38 幕屋の前、つまり、臨在の幕屋の東側の正面に宿営するのは、モーセおよびアロンとその子らである。彼らはイスラエルの人々のために聖所を守る。ほかの者がその務めをしようとするならば、死刑に処せられる。
まず、アビナダブの子ウザ(サムエル記6:8「ペレツ・ウザ(ウザを砕く)」、歴代志上13)を思い出すが、ウザの家系は調べなければならないだろう。サムエル記上7:1「キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブの家に運び入れた。そして、アビナダブの息子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。」を見ると、明確ではないが、名前から祭司の家系であったかも知れない。ウジヤ王はこれに該当するのか。歴代志下26:18「ウジヤ王の前に立ちはだかって言った。「ウジヤよ、あなたは主に香をたくことができない。香をたくのは聖別されたアロンの子孫、祭司である。この聖所から出て行きなさい。あなたは主に背いたのだ。主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはない。」これはヘブル人への手紙のテーマでもある。しかし、イエスが大祭司ということが中心で万民祭司については言及していない。1ペテロ2:5「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」, 2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」 は明確。ローマ15:16「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」は限定的。
Nm4:46,47 モーセ、アロンおよびイスラエルの指導者たちが氏族ごとに、家系に従って登録したレビ人は全員、 臨在の幕屋で作業を行い、運搬の作業をすることのできる三十歳以上五十歳以下の者たちである。
人数は、八千五百八十人とあまり多くない。レビ人が特別な任務を担うのは、モーセとアロンの故か。よいとも悪いとも、評価は簡単では無かったのだろう。
Nm5:29-31 以上は、女が夫ある身でありながら、心迷い、身を汚したために、 あるいは、夫が嫉妬にかられ、妻に疑いを抱いた場合の指示である。男は妻を主の御前に立たせ、祭司は彼女にこの指示どおりのことを行う。 男は罪を負わない。妻は犯した罪を負う。
やはり一方的であるとも感じる。逆の場合を考えるが、おそらくそれは、社会背景を理解していないからであろう。時代的なことを否定する必要はない。
Nm6:27 彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。
アロンとその子等による祝福のことばのあとに書かれている部分である。鍵は、わたしたちが、主の名を自分の上に置くこと、そのように行動したい。
Nm7:1 モーセは幕屋を建て終わった日に、幕屋とそのすべての祭具、祭壇とそのすべての祭具に油を注いで聖別した。彼がそれらに油を注いで聖別したとき、
「幕屋とそのすべての祭具、祭壇とそのすべての祭具に油を注いだ」とある。ここにも油をそそぐ。神の道具として用いられるためには、神による聖別と、聖霊のそそぎが不可欠であることを表現しているのか。
Nm8:24,25 以下はレビ人に関することである。二十五歳以上の者は、臨在の幕屋に入って務めに就き、作業をすることができる。五十歳に達した者は務めから身をひかねばならない。二度とそれに従事してはならない。
出エジプト30:14「登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。」民数記1:3「あなたとアロンは、イスラエルの中から兵役に就くことのできる二十歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい。」民数記4:3「それは臨在の幕屋で作業に従事することのできる三十歳以上五十歳以下の者である。」二十五歳が出てくるのは、ここだけである。兵役は二十歳以上、そして、このひとたちは、登録のために半シェケル(出エジプト38:26)を払う。幕屋で作業をすることができるものは、三十歳以上五十歳以下の者で、二十五歳から三十歳は見習いなのか。幕屋の務めに関しては、年齢が限られている。特別な務めだからだろう。
Nm9:12 翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。
ヨハネ19:33「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。」ヨハネ19:36「これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。」を思い出す。詩編34:21「骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」である。イエスは過ぎ越の羊との意識は明らかにあったのだろう。骨を折らなかったのは、まったきものということだろうか。
Nm10:31,32 モーセは言った。「どうか、わたしたちを見捨てないでください。あなたは、荒れ野のどこに天幕を張ればよいか、よくご存じです。わたしたちの目となってください。 一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします。」
モーセの義兄ミディアン人レウエル(出エジプト3:1「ミディアンの祭司であるエトロ」からすると、レウエルとエトロが同一人物かまたは義兄も広い意味かもしれない)の子ホバブへの言葉である。モーセの妻チッポラの父は祭司であり、ここでも、ホバブは国に帰ろうとしているから、基本的には異教徒としてよいだろう。モーセはこのホバブの知識と知恵に頼っている。さらに、幸せにしてくださるのは神であることを明確に告げ、神が幸せにしてくださるならとし、共同体の仲間としての祝福を約束している。これが宣教。
Nm11:34 そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである。
肉をもとめた事件の場所である。33節では「肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。」と述べられている。貪欲がひとつの鍵である。ルカ12:15「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」エフェソ5:5「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者」(5;3参照)とあるように、神以外のものに希望を託すことが貪欲なのだろう。「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。 エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。 今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。』(4-6)もしかすると、ホバブの関係者もここにいたのかも知れない。難しい問題をはらんでいる。
Nm12:1,2 ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。 彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。
この件もモーセとホバブの関係に関連していたのかもしれない。コミュニティの外からも学ぼうとする、協力を得ようとするモーセの態度に対する反対なのかも知れない。この重大な事件の、すぐ前に、ホバブの記事(10:20-32)が配置されていることを今回はじめて確認した。
Nm13: 1-3 主はモーセに言われた。「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」 モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。
ホバブの記事のあとの三つ目の重大な事件である。おそらく、ホバブなどから、モーセはかなりの情報を得ていたろう。しかし神の命令でこの偵察を行う。民の信仰なしに、これからの歩みは価値がないのかもしれない。とても、興味深い。
Nm14:18『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。
出エジプト34:6,7「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』」神ご自身の性質の自己宣言なのだろうか。ヨナ4:2b は「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」定型文だったのか。他にもあるのだろうか。
Nm15:15 会衆は、あなたたちも寄留者も同一の規則に従う。これは代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちも寄留者も主の前には区別はない。
これをどのように考えたらよいのだろうか。実際には、いろいろな人が共に住んでいるが、共同体が、国のようなものなのか。たしかに、一つの共同体が、違った規則のもとに生きることはできない。
Nm16:3 彼らは徒党を組み、モーセとアロンに逆らって言った。「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」
1,2節に「さて、レビの子ケハトの孫でイツハルの子であるコラは、ルベンの孫でエリアブの子であるダタンとアビラム、およびペレトの子であるオンと組み、 集会の召集者である共同体の指導者、二百五十名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆した。」とあり、最大級の反逆と言って良い。これも、もとはホバフの記事に続く一連の事件として書かれている。聖書は沈黙しているが、民族として異なると認識されているものを取り込み、15:15として引用したように、寄留者との差別をなくしたことから生じる、問題の故だったかも知れない。様々な事例があたまに浮かぶ。明確な理由は記されていないが、十分考えられるように思われる。エトロから学ぶこと、ホバフから学ぶことと生活の中での異質な者によって自分自身がかえられていくこととが両立するのは難しいのだろうか。
Nm17:25 主はモーセに言われた。「アロンの杖を掟の箱の前に戻し、反逆した者たちに対する警告のしるしとして保管しなさい。そうすれば、わたしに対する不平がやみ、彼らが死ぬことはない。」
なにかこのような見えるしるしを記憶のよりどころとしないと、大切な事を人は忘れてしまう。しかしこのようなものがあっても、それに頼ることになり、背景にある警告の本質を忘れてしまいかえって悪い方向へ導くものとなることすらある。どうすれば良いのだろうか。
Nm18:29 あなたたちは、贈られたもののうちから最上のもの、聖なる部分を選んで、主にささげる献納物としなければならない。
26節にあるように「レビ人に告げてこう言いなさい。わたしがあなたたちの嗣業として与えた十分の一を、あなたたちがイスラエルの人々から受け取るとき、そのうちの十分の一を主にささげる献納物としなさい。」レビ人が民から受けたものの中から献げる主への奉納物についてである。主に直接つかえるものが、最上のものを献げることをもとめている。模範としての意味も大きいが、こころ欺かれることも多いことを一般にも戒めているように思われる。
Nm19:20 しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れている。
清めの規定はよく分からないことが多い。しかし、その共同体を汚してはいけないところが大切なのだろう。よく考えたい。
Nm20:12,13 主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」 これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。
メリバの水の事件はよく分からない。確かに10節に「そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。』」と書かれている。非難すべきことを見つけることはできるかも知れない。しかし、神は、モーセとアロンのこころもよく知っていたろう。そう考えると「イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。」に要点があり、ここでの行為の故に、モーセとアロンに裁きを下されたと考えるのは、誤りなのかも知れない。また、モーセとアロンも聖なる神とは異なる自分の罪の故に死ぬことを明示しているのか。しかし、このような教義的な解釈には注意したい。
Nm21:23,24 しかしシホンは、イスラエルが自分の領内を通過することを許さず、全軍を召集し、イスラエルを迎え撃つために、荒れ野にあるヤハツに軍を進め、イスラエルと戦った。 しかし、イスラエルは彼を剣にかけて、南はアルノン川から北はヤボク川、東はアンモン人の国境まで、その領土を占領した。アンモン人の国境は堅固であった。
この事件はとても大きな結果を生む。ヨルダン川東岸の地域であろう。戦いの記述はない。単に、この占領地域の経緯について記録するためだったのだろうか。
Nm22:9 神はバラムのもとに来て言われた。「あなたのもとにいるこれらの者は何者か。」
バラムとバラクの話は詳細はよくわからないことがたくさんある。しかし、このようにイスラエルの共同体の外のひとにも語られることがここでのメッセージなのかもしれない。さらに、神が語られて、それにどう答えていくか、語られた者は、神のことばを聞いた者としての責任を担うということか。
Nm23:27 バラクはバラムに言った。「それでは、あなたを別の場所に連れて行きましょう。たぶん、それは神が正しいとされ、そこからなら、わたしのために彼らに呪いをかけることができるかもしれません。」
この章ではバラクの応答が何回か記されている。神のみこころを告げられたバラク、そしてその内容は、表面的には、自分に不利なことであった。それとどう向き合うか。バラクを責める気にはならないが、神のみこころを求めるとき、つねに生じる問題である。わたしは準備ができているだろうか。この27節はすでに提案の体をなしていない。しかし必死さはよく伝わってくる。
Nm24:13 『たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、わたしの心のままにすることはできません。わたしは、主が告げられることを告げるだけです』と。
このバラムが裁かれる。31:16に「ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもの」とあるだけで、あまり聖書には詳しくないが、その記述をそのまま受け入れると、神が言われたことはそのまま告げるが、そうではなかったことに関して、悪を行ったと言うことか。バラムの記事を学んだ者は、何を感じたのだろう。
Nm25:1 イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。
この事件の詳細は書かれていない。しかし14,15などを見ると、ミディアンもモアブだけではなく関与している。整合性を保つなら、この二つの民族は、同じ神を信じ、かつ一緒に住んでおり、その全体をモアブと呼んでいるということか。あまりそのようなことを考えることは、建設的ではない。呪いか祝福の宣言かではなく、主に従うかどうかが問われているのか。ミディアンは、エトロ、ホバフの家系であり、この問題は困難も伴ったろう。
Nm26:62 登録された者は、生後一か月以上のすべての男子、二万三千人であった。彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業の土地が与えられなかったので、イスラエルの人々と共に登録されなかった。
57節にあるように「レビ人で、氏族ごとに登録された者」の数と思われる。この章の中心をなす2節の「イスラエルの人々の共同体全体の中から、イスラエルにおいて兵役に就くことのできる二十歳以上の者を、家系に従って人口調査しなさい。」 とは異なるものの、なぜ1ヶ月以上なのかはよくわからない。3:14-39 でも同じように、1ヶ月以上となっている。その時の数は、二万二千人。微増。
Nm27:8 あなたはイスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。
分配の概要を告げたこの時点で、制度の欠陥を見つけ、対応できたのは1節に「ヨセフの子マナセの一族であるヘフェルの子ツェロフハドの娘たちが進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァといい、その祖父ヘフェルはギレアドの子、ギレアドはマキルの子、マキルはマナセの子であった。」と紹介されている、五人姉妹の声に耳を傾けたからだろう。36章には他の部族に嫁いだ場合も書かれているので、普通に考えると、嫁ぐ前だったと思われる。特に書いてないことを考えると、十分若かったのではないだろうか。長女が高校生ぐらいか。いろいろな想像をしてしまう。立派な女性たちである。
Nm28:26 初物の日、すなわち七週祭に新穀の献げ物を主にささげるときには、聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
Ex23:15-16 には年に三回の祭りについて記されており、その二番目が「畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭り」と表現されている。また、Lv 23:15-16に「あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。 七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。」とある。五旬節つまりペンテコステもこの七週祭から来ていると思われる。もう少し少なくともこの三回の祭りなど基本的な祭りについては、理解したい。
Nm29:7 第七の月の十日には聖なる集会を開く。あなたたちは苦行をし、いかなる仕事もしてはならない。
ここでいう苦行は断食のことか。贖罪の日といわれるものと思われるが、1節からはじまり、記述も長い。三回の祭りの三回目と同じなのだろうか。それもよくわからない。Ex23:16では「年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。」となっている。整理して理解したい。
Nm30:6 しかし、父がそれを聞いた日に、それを禁じる場合、彼女の誓願も物断ちの誓いもすべて無効となる。父が彼女に禁じたのであるから、主は彼女を赦されるであろう。
「女性がまだ若くて、父の家にいる」場合の規定である。これは、女性の自由がない、男性との差別であると取られることが多い。たしかに、そうだろう。しかし、同時に、神が、ある部分の決断を、ひとの責任に委ねている証拠でもある。さまざまな社会的組織の責任者が、ある権限をもつことを許容している。むろん、その責任は、責任者が神に対して負うことになる。個別の枠、すなわちどのような場合に、責任の委譲があるかは、社会構造に依るであろう。もう少していねいに考えたい。
Nm31:1,2 主はモーセに仰せになった。 「イスラエルの人々がミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい。その後、あなたは先祖の列に加えられるであろう。」
ミディアンのことを、モーセの舅と結びつけるのはうがちすぎかもしれないが、モーセが決断して、実行しなければならない最後としてここに書かれていることからも、重要性がわかる。バラクとバラムの話しなど、詳細はわからず、8節に「その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。」と言う形でもう一度、バラムが登場するのみで、バラクについては24:25に「バラムは立ち上がり、自分の所に帰って行った。バラクも自分の道を去って行った。」とある以降は、民数記には現れない。ミディアンとモアブの当時の関係は、正確に理解したい。
Nm32:31,32 ガドとルベンの人々は答えて言った。「主が僕どもに語られたとおりにします。 わたしたちは主の御前に武装して、カナンの土地に渡って行きますから、わたしたちの嗣業の所有地は、ヨルダン川のこちら側になりましょう。」
この章の記述は非常に興味深い。ひとつ気になったはここで「主」と言われていること、さらに、ここではモーセは主に問うてはいないこと。同時に、28節で次のリーダーたちに明確に伝えていることである。モーセが最初に怒り、これらの部族の人たちが対案を周到に準備する所などは、マネージメントとしても、興味深い。以前から興味のあるところではあるが、また、いつかしっかり学んでみたい。
Nm33:52,53 もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう。わたしは、彼らにしようと思ったとおりに、あなたたちに対して行うであろう。
精神的な部分は、理解できるだけでなく、学ぶ点が多い。聖霊の宮としてのわたしたちの体についてとうけとれば。しかし、実際、そこに住む民のことを考えると、おそらく、神のみが言いうること、神のみがなし得ること、神のみが責任を取りうることなのだろう。神の側のことをひとが口出しをすることに問題があるのであろうが、いつか、この神のこころと祈りの中で私の願いがシンクロナイズすることができるのであろうか。
Nm34:1,2 主はモーセに仰せになった。 イスラエルの人々に命じて、こう言いなさい。あなたたちがカナンの土地に入るとき、嗣業としてあなたたちのものになる土地は、それぞれ境で囲まれたカナンの土地であって、それは次のとおりである。
土地の分割をどう考えればよいのだろう。当時のこと、そして、現在のこと。現在のことについては、この土地の境界が意味を持たないこと、特に、この箇所をもって境界を定めることはできない。多くの、他の祝福と呪いと関連しており、一部だけを取り出して、神の永遠の約束とすることはできないからである。当時のことについては、Nm33:52,53 について上に書いたことをもって理解することになるのだろうか。聖書を、人間の信仰告白であることを根拠に、厳密な神のことばとして、霊の働きを拘束することは、かえって聖霊の働きを阻害するものとすることもできるであろうが。この解釈に立つと、聖書理解の幅が広くなりすぎ、信仰共同体で共有することは難しくなるようにも思われるので注意を要する。
Nm35:31 あなたたちは、死罪の判決を受けた殺害者の生命と引き換えに贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず死刑に処せられなければならない。
贖いはどのように考えたらよいのだろう。お金で解決はできないことがこの節では書かれている。しかし、動物によるいけにえはくり返し書かれている。死罪の判決は別なのだろう。人間に委ねられた部分なのかも知れない。人間に委ねられているからこそ、人間の中だけで価値のあるお金で解決することを否定しているのかも知れない。
Nm36:8 イスラエルの人々の諸部族の中で、嗣業の土地を相続している娘はだれでも、父方の部族の一族の男と結婚しなければならない。それにより、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖伝来の嗣業の土地を相続することができる。
これで盤石という法律はない。それは、当時も考えられていたのではないだろうか。そして、このあと、ヨシュア、士師とリーダーシップが変わって行く中で、リーダーがいないと、律法は守られないことも露見してくる。人間の世界は複雑。その原因は弱さだろうか、自己中心の要因にもなりがちな無知だろうか。

BRC2013

Num1:47 しかし、レビびとは、その父祖の部族にしたがって、そのうちに数えられなかった。
3章では、レビ人(レビ族とは言われていない)の数が数えられている。ここで言っているのは、v3 にあるように「イスラエルのうちですべて戦争に出ることのできる20歳以上のもの」としては数えられなかったということ。兵役とは異なった任務について奉仕するために。
Num2:2 「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。
合計で603550 (v32) とある。荒野でのこの数、そして、長期間にわたることを考えると、非現実的である。移動中の水の確保一つをとってみても至難の業である。このことから、なにが伝えられているのか。12部族が、会見の幕屋を中心に一つとなり、外敵と戦う整備された陣備えを表現するためか。
Num3:15 「あなたはレビの子たちを、その父祖の家により、その氏族によって数えなさい。すなわち、一か月以上の男子を数えなければならない」。
ここの数はよくわからない。書かれていない情報もあるように思われる。 他の部族は20歳以上、あとで、祭司の定年制の記述があるが、ここでは、何歳までとの終わりは記されていない。初子の数は、22273。これに、603550の中の初子も含まれているとすると、一つの家で、30人程度、もしかすると、2ヶ月以上のひとで考えると、男性だけで1/3は増えるから、40人程度となる。女性も加えると、1家族、80人となり、ちょっとおおい。もう少し情報は集められるかもしれない。子どもだけをある制限で数えているのか。
Num4:48 その数えられた者は八千五百八十人であった。
v2 などにあるように、務めにつき、会見の幕屋で働くことのできるものは30歳以上、50歳以下。三章で数えられているのは、1ヶ月以上。これを、[ ] に記す。コハテ 2750人 (v36) [8600, 3:28], ゲルション 2630人 (v40) [7500, 3:22]、メラリ 3200人 (v44) [6200, 3:34]、合計で、8580人 [22000, 3:39]。いろいろな情報を読み取れる。
Num5:31 こうするならば、夫は罪がなく、妻は罪を負うであろう』」。
公平でも、科学的でもない。不実な妻を持ち、そのままにしておくことは、夫の罪。また、一般的には、この方法で、害が与えられそうにないことを考えると、疑わしいということで、不信が募ることを、最小限に抑えようとしたものか。実際にこのようなことが行われていたかも知りたい。証拠がないことの処理、どの時代でも、難しい。
Num6:5 また、ナジルびとたる誓願を立てている間は、すべて、かみそりを頭に当ててはならない。身を主に聖別した日数の満ちるまで、彼は聖なるものであるから、髪の毛をのばしておかなければならない。
Judg13-16 のサムソンの物語を思い出す。サムソン本人の誓願ではなかったり、ナジル人は一定期間の誓願だったりとの違いはあるが、v2 にあるように「身を主に聖別」したものではあったろう。誓願をたて、誠実にまもる。神からなにかを要求することに主眼がいくのは、問題もあろうが、このような誠実な信仰生活の意義は感じる。
Num7:12 第一日に供え物をささげた者は、ユダの部族のアミナダブの子ナションであった。
すでにユダは12部族の盟主になりつつあるのか。このあとの部族の順番もふくめ理由は明らかではない。差献げものは、みなぴったり同じ、部族の大きさが重要ではなく、12部族のくくりが明確でそのようにまとまっていたことを意味するものであろう。エジプトで形成されたものだろうか。Gen48:21,22 のようなイスラエルの祝福はあっても、レビ族の扱いのこともあり、いつ成立したものかは明確ではない。
Num8:26 ただ、会見の幕屋でその兄弟たちの務の助けをすることができる。しかし、務をしてはならない。あなたがレビびとにその務をさせるには、このようにしなければならない」。
レビ人の公的な職務につく期間と、引退後の規定が定められている。一般の兵役とは区別され、民の代わりに (v16) 仕える特別な職務であるゆえだろうか。責任ある務めにおける定年がこのように規定されていることは、示唆にとんでいる。
Num9:23 すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。
雲と火による臨在のしるし (v15-23) は、イスラエルが荒野にいる時だけの一時的なものである。主の臨在が、見える形で確認できたら、どれほどの祝福だろうか。しかし、主は、そのようには、なされなかった。愛は、見えないもの、自発的な愛を持って、主に仕え、主の臨在とその働きを、信仰の目によって認めることに招かれているということだろうか。
Num10:10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの祝いの時、および月々の第一日には、あなたがたの燔祭と酬恩祭の犠牲をささげるに当って、ラッパを吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられるであろう。わたしはあなたがたの神、主である」。
喜びの日、祝の日、そして、定期的に、主に覚えていただくためにラッパを吹き鳴らす。自分の信仰の確認として、マンネリにならないように気持ちをただして、ラッパを吹きたい。
Num11:17 わたしは下って、その所で、あなたと語り、またわたしはあなたの上にある霊を、彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう。
民の「肉が食べたい」(v4) という叫び「このすべての民を負うことはできない」(v14) というモーセの give-up 宣言。神は、それぞれに答えられる。しかし、それは、これらの問題を完全に解決するものではない。神の霊を他のリーダーにも注ぐことは、v26-30 を生み出し、12章以下の事件にもつながる。肉をあたえることは、v33-34 をも生み出す。神は、何をこのことを通して、教えようとしておられるのだろう。
Num12:11 そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。
この話は、11章から続いていると見ることができる。また、12:1が発端である。この背景は、説明されていないが、モーセに非難されるべき点があったかもしれない。しかし、 非難はこの発端の事件に向けられていない。(v2) かつ、モーセの柔和さが対比されている。(v3) アロンは罰を受けていないようにもみえるが、姉ミリアムに対する裁きはアロンにとって、自分自身へ向けられたもの以上の苦しみだったかもしれない。11, 12章はいつかじっくり学びたい。
Num13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
このあとに「しかし」が続き、カレブが登場する箇所である。12人の斥候が遣わされ、40日間行き巡り (v25)、一房のぶどうを二人で担いで持ち帰る (v23)。この祝福が、恐れとなって現れたのは、祝福(おおきなぶどうの房)が、神からのものという信仰から離れ、物質的な豊かさにとって変わられ、神への畏れが、豊かさを享受している人々に対する劣等感と、恐れとなって現れたためか。
Num14:9 ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。
「わたしたちの食い物にすぎ」ないという表現はかなり乱暴。おそらく v3 の「わたしたちの妻子をえじきとされる」に反論しているのだろう。本質は表現されている。人への恐れが、主の背きとなっていること、大切なのは主に信頼し、従うことだということである。本質が、憶病さではないことは、最後の段落のアマレクとの戦いで示される。主は、乱暴と思われる、これらの言葉にも、v24で、「完全に従った」と肯定している。「あなたの信仰があなたを救った。」
Num15:22 あなたがたが、もしあやまって、主がモーセに告げられたこのすべての戒めを行わず、
「過失」が当然のようにしてあることが加味されているところが素晴らしい。また、ある回数を越えたら赦されないともしていない。しかし、v30 の「故意」との差を、実際に見極めるのは難しい。これは、本質的には神に判断を委ねることなのか、自分に厳しく問うことなのか。
Num16:49 コラの事によって死んだ者のほかに、この疫病によって死んだ者は一万四千七百人であった。
11章から始まる、モーセを通しての神の指導体制に対する反逆は、このコラの子等の反逆と、そのあとの民の不信で最高潮に達する。14:36-38の説明になっているともとることができる。「あなたは私たちに君臨しようとしている。(v13)」「あなたがたは主の民を殺しました。(v42)」これらの言葉に、どう対応すべきなのか。
Num17:12 イスラエルの人々は、モーセに言った、「ああ、わたしたちは死ぬ。破滅です、全滅です。
神を恐れることは知識のはじめ。(Prv1:7) しかしそれははじめにすぎない。かみは、ご自身に従うものに、少しずつご自身を現される。
Num18:7 あなたとあなたの子たちは共に祭司職を守って、祭壇と、垂幕のうちのすべての事を執り行い、共に勤めなければならない。わたしは祭司の職務を賜物として、あなたがたに与える。ほかの人で近づく者は殺されるであろう」。
賜物として与えられるとは、どういうことだろう。自分から選び取ったのではなく、神が与えてくださった職であること、かつ、それは、良いものなのだろう。世襲を押し付けられたようにも見えて、賜物として受けることは、信仰的行為。祭司以外になることはできたのだろうか。
Num19:11 すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。
汚れとは何を意味するのだろう。基本的には、聖でないということだろう。イスラエルにおいては、一時期、共同体の一員として通常享受できることができない状態となること。共同体の一員であることは維持されつつも。死と直面することは、髪の毛一本でさえも覚えられている存在から、土に戻る、厳粛ないっときと認識されていたのだろう。日本での穢れもよくわからないが、比較も含め、一度しっかり学びたい。
Num20:24 「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。
v13 に「これがメリバの水であって」とあるように、モーセにとってもアロンにとってもその罪を指摘される重要な事件である。しかし、アロンについて、この事件をことさら取り上げられているのはよく理解できない。v12 に「わたしの聖なることを現さなかった」とあるが行為自体は、モーセのもののように思われる。たくさんの罪があることは、前提の上で、一番、身近なこと「神の栄光をあらわすべきところでしなかった」ことをあげているのか。人は、どの罪が大きいかと比較するが、神の判断は異なるのかもしれない。
Num21:2 そこでイスラエルは主に誓いを立てて言った、「もし、あなたがこの民をわたしの手にわたしてくださるならば、わたしはその町々をことごとく滅ぼしましょう」。
ネゲブに住むカナンびとアラテの王との争いの記事である。イスラエルが誓いをたてたことが記されており、モーセは登場しない。そのいみで記述が特徴的。このあとシホンの王との戦いへと続くが、このアラテの王との戦いが、土地を占領したことに関する最初の記事であるようだ。移動記事が続くが、ある年月がかかっていることも考えられる。
Num22:18 しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。
バラクとバラムの話はわかりにくい。特に、バラムが神に背いたかという点である。結果的には、Num31:8 や新約の記事から神の言葉に忠実ではなかったと解釈される。その理解に立つと、v19 なども問題かもしれない。神があることをしめしているのに、自分の都合もあって、問い続けること、なにか他の面も示されないかとしらべること、それは、神に背いていることなのかもしれない。心当たりもないではない。
Num23:1 バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。
バラムの問題の二つめは、金銭的な厚遇を拒否できなかったことではないか。一方で、神の言葉を伝え、他方で、豊かさにつながるつてを断ち切ることができない。双方からの危険にはさらされていたと思われるが。
Num24:1 バラムはイスラエルを祝福することが主の心にかなうのを見たので、今度はいつものように行って魔術を求めることをせず、顔を荒野にむけ、
Num21:6にバラクはバラムに「あなたが祝福するものは祝福され、あなたがのろうものは呪われることをわたしは知っています」と言っている。これはバラムの魔術が神を動かすと信じられていたと取ることもできる。しかしここでバラムはその魔術にたよらない。「その時、神の霊が臨んだ (v2)」。
Num25:18 彼らはたくらみをもって、あなたがたを悩まし、ペオルの事と、彼らの姉妹、ミデアンのつかさの娘コズビ、すなわちペオルの事により、疫病の起った日に殺された女の事とによって、あなたがたを惑わしたからである」。
バラムの悪だくみの経緯は書かれていない。しかしシメオンびとのうちの一族のつかさジムリ (v14) や、ミデアンの民の一族のかしらの娘ゴズビ (v15) が中心的な人物として関わっており政略的なことも感じさせられる。モアブ (v1) とミデアンは系図的には離れているが、近いと思われていたのだろう。ここは、アロンの死後、アロンの子なるエレアザルの子のピネハスが、「自分のことのように (v11)」裁きを行ったことが記されている箇所でもある。神に祝福されたもの、その実態がさらけ出された箇所とも言える。祝福は謙虚にしか受け取れるものではない。
Num26:63 これらはモーセと祭司エレアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりにあるモアブの平野で数えたイスラエルの人々の数である。
これからヨルダン川を渡ってカナンの地に入って行く人口調査である。v62 までは確かに数の羅列の思われるが、まとめは違う。その数の中身を通してメッセージが語られている。v53-55には、嗣業の地の分配方法が記されているが、皆が満足することは、どう考えても難しい、と言わざるをえない。賜物と同じであろう。私たちが目を向けるべきことは、神様は我々に必要なものを与えてくださること、私たちはその主に信頼していくべきことか。
Num27:20 そして彼にあなたの権威を分け与え、イスラエルの人々の全会衆を彼に従わせなさい。
v21を見ると、ヨシュアと祭司エレアザルの関係は、モーセとアロンの関係とは異なることがわかる。v20に「権威を分け与え」という言葉で表現されている通りである。27章は、ゼロペハデの娘たちの申し立てに始まる、嗣業分配と相続の例外規定の整備、そして権威の移譲、神と顔と顔とをあわせて語ったモーセを通しての神による統治から、人間のシステムによって日常的なことが運営される体制へとの変化とも見ることができる。
Num28:31 あなたがたは常燔祭とその素祭とその灌祭とのほかに、これらをささげなければならない。これらはみな、全きものでなければならない。
香ばしい香りである、主への捧げ物について、毎日ささげる常燔祭、安息日の燔祭、月初めの燔祭、主の祭におけるささげものに分けて記されている。これだけのものがリストされ、最後に「全きものでなければならない」としめられている。全き心で主に仕えることについて教えられる。
Num29:1 七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。
前の章からの続きである。7月は1日、10日、15日から8日間、特に15日と22日は聖会を持つと定められている。もう少しまとめて学びたい。
Num30:15 しかし、もし夫がそれを聞き、あとになって、それを認めないならば、彼は妻の罪を負わなければならない」。
明らかに男性と女性は、平等ではない。夫と妻は平等ではない。しかし、平等さとは別に、かなりの責任が夫にあったことが証言されている。どのように考えれば良いのだろう。
Num31:16 彼らはバラムのはかりごとによって、イスラエルの人々に、ペオルのことで主に罪を犯させ、ついに主の会衆のうちに疫病を起すに至った。
懲りないということか。本質が見えていないということなのだろうか。それぞれの危機のときに、しっかりと反省したい。
Num32:8 あなたがたの先祖も、わたしがカデシ・バルネアから、その地を見るためにつかわした時に、同じようなことをした。
イスラエルにとって一つの大きな危機であったことは間違いないが、このやりとりと問題解決のための提案、そしてその後、一定の期間の後に、これらの部族が与えられた土地に戻っていったこと、そして、その後、アッシリアに占領され離散してしまったことなど、考えさせられる点は多い。Local には配慮に富んだ折衷案として、とてもすばらしい問題解決に思える。
Num33:52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち、すべての高き所を破壊しなければならない。
この箇所をどうとるかは簡単ではないが、偶像の破壊は、その地の住民を追い払ってからあとの作業ととすおが自然であろう。偶像に、神が、寛容であるわけではないが、異教徒の問題は、偶像礼拝ではなく、基本的には、子供を火で焼いて神に献げるなど「神を恐れない」不道徳である。不動族の基準を普遍化するのは、問題があると思われるが、この箇所における、偶像の破壊は、イスラエルの民の信仰・宗教生活のために、破壊すべきものであると解釈される。
Num34:29 カナンの地でイスラエルの人々に嗣業を分け与えることを主が命じられた人々は以上のとおりである」。
部族の代表が定められ、その筆頭には、エフンネの子カレブの名がある。順序についても、考えさせられる。ルベンとガドとマナセの半部族はすでに嗣業の地が与えられていると言うことでリストから外されているが、実際にこの2部族と半部族にどのように割り当てられたかは、明確ではない。ヨルダンの東の地域を確定することは、難しいだろう。
Num35:6 あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。
これら 48 の町については、町の周囲 2000キュビト幅(約1km)の放牧地のうち、1000キュビト幅をレビ人に与えることが定められている。(v4) 町の大きさにもよるが、半分に近い。専有とすると、かなりの優遇である。のがれの町の規定はとてもおもしろい、ヨルダンの東に3カ所、西に3カ所 (v14) と読むとかなり偏りがあるように、思われる。この時点での暫定的なものなのか。するとより、歴史性、実効性が高く感じられる。祭司、レビ人が司法権を司ることを考えると、とても興味深い制度である。他の古代民族にも似た制度はあったのだろうか。
Num36:5 モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った、「ヨセフの子孫の部族の言うところは正しい。
部族ごとの嗣業地を固定化するかどうかは、長期的には様々な問題をはらむことが予想される。このことに関する決定について、「主の言葉に従って」と記しているのは興味深い。神権政治の難しさも感じる。


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申命記

申命記(1)

申命記は、他の旧約聖書と同様、ヘブル語聖書ではその最初のことばから取って「エーレ・ハッデバーリーム(これらはことばである)」あるいは短く「デバーリーム(ことば)」と呼ばれています。17:18にある「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということば、または、短く「ミシュネー(写し)」と呼ばれることもあるようです。日本語聖書の申命記は、漢語の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。全体としては、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されています。

特に、ユダヤ人が朝夕、唱えている「シェマー(聞け)」は、申命記 6:4-9, 11:13-21, 民数記15:37-41 から取られ、熱心なユダヤ教徒は、これらに書いてあるように、これらの聖書のことばを書いたものを箱に入れて、額や体の一部に付けるくらい大切にしています。申命記6章4節から9節、11章13節から21節、民数記15章37節から41節の部分をこの順で新共同訳で引用します。

4: 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
5: あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6: 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
7: 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
8: 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
9: あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
13: もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、
14:わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。
15: わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
16: あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。
17: さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。
18: あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、
19:子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
20: あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
21:こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。
37:主はモーセに言われた。
38:イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。
39:それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。
40:あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。
41:わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。
申命記を読み始めると、今までの四書とは文体が違うことが分かると思います。聖書の研究者たちによっても、創世記から民数記とこの申命記の成り立ちは異なるとして、様々な推測がなされています。

新しい世代への律法の更新

  1. モーセの第一の説教 1-4章
     a. シナイからヨルダンへのイスラエルの歴史
     b. 神の命令を忠実にまもるようにとの訴え
     c. 歴史的な事への付加
  2. モーセの第二の説教 5-28章
     a. 十戒の再読と、神に下が枸杞との懇願
     b. 宗教的世界的生活に関する規則
     c. しっくりの板に書き留められるべき定め
     d. 祝福とのろい
  3. モーセの第三の説教 29-30章
     a. 契約更新と祝福とのろい
  4. モーセの最後 31-34章
     a. ヨシュアへの引き継ぎ
     b. 祭司たちへの律法の付与
     c. モーセの歌・祝福のことばと指令
     d. モーセの死

申命記(2)

申命記には、たくさんいろいろな命令が書かれていますが、10章12・13節には次のように記されています。新共同訳から引用します。

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。(「ただ」の部分は口語訳では「ただこれだけである。」)

これを見ると、最終的には神様が望んでおられることは私たちが「幸いを得ること」であることが分かります。少し前にICU教会の北中晶子牧師が説教の中で「神様はわたしたちに人生を楽しんでほしいと思っているのでしょうか。それともいろいろと楽しむことを我慢して、いわゆる正しい生き方をしてほ しいと望んでいるのでしょうか。みなさんはどう思いますか。」と問いかけておられましたが、神様の望んでおられることは、究極的には私たちが「幸いを得ること」であることが、ここからも分かります。そして、この律法といわれるモーセ五書における「幸いを得ること」の鍵がここに記されているわけです。テーマの一つです。

(1)では「申命記」の名前のもととなった17:18の「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということばを引用しましたが、これは14節から始まる王に関する規程の一部でした。馬を増やしてはいけないこと、妻を多くもってはいけないこと、金や銀をたくさん蓄えてはいけないと書かれ、その次に18節・19節には次のように書かれています。

彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。

そしてそれは、高ぶらないため(20節)となっています。馬は当時軍隊の力を象徴するものでした。多くの妻は「こころを迷わ」さないため、金や銀はそれをいのちの支えとしてしまわないためでしょう。神にのみ頼り、心を集中してこの律法(当時の聖書)を「生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」となっています。聖書を「生きている限り読み返」す目的がここに書かれています。「神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守」るためで、それは、上に書いたこととあわせると、「幸いを得る」ためです。

最後32章では次世代を担うヨシュアと共に律法のことばを民に読み聞かせ 46節・47節でつぎのように言っています。

「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」

聖書のことばは「命」だと信じますか。

今回は、申命記ひいてはモーセ五書のテーマの一つについて書いてみました。申命記には、ほかにもいろいろと興味深い話題が記されていますが、それは皆さんの発見に委ねましょう。


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聖書通読ノート

BRC2023

Deuteronomy 1:7,8 向きを変え、出発して、アモリ人の山地、またその近隣のすべての場所、すなわち、アラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方へ、さらにカナン人の地、レバノン、大河ユーフラテスにまで行きなさい。さあ、あなたがたにこの地を与える。あなたがたは行って、主があなたがたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブとその子孫に与えると誓われた地を占領しなさい。」
このように話してからモーセのモアブの地での説教(5)が始まる形式になっている。そして最初は「そこで、私は、あなたがたの部族の頭で、知恵と知識のある人たちを選び、その人たちをあなたがたの頭、すなわち、千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長、また、あなたがたの部族の役人とした。」(15)と統治組織のことが書かれている。指導者として、学ばなければならないことという意味があるかもしれない。引用句を上げたのは、やはりかなり乱暴だということである。これを、御心ととるのはとても危険である。世界の指導者がこのようなことを始めたら、平和は決して訪れない。
Deuteronomy 2:9-12 そこで主は私に言われた。「モアブを敵視して、戦いを挑んではならない。私がその地を領地としてあなたに与えることはない。アルは、ロトの子孫に領地として与えた。――かつて、そこはエミム人が住んでいた。その民はアナク人のように大きくて数が多く、背が高かった。彼らはアナク人と同じようにレファイム人だと見なされていたが、モアブ人は彼らのことをエミム人と呼んでいた。また、セイルにはかつてフリ人が住んでいたが、エサウの子孫が彼らを追い払って滅ぼし、彼らに代わって住んだ。ちょうどイスラエルが、主から与えられた領地に対して行ったことと同様である。――
この章の最初には、エサウについて、9-11節には、アンモン人についても似た記述がある。「あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられ、あなたは何一つ不自由しなかった。」(7)の記述は、後から振り返った信仰告白であり、事実とは、異なることは、これまでの記述からも明らかである。この言葉からも、かなり後代に書かれたものかとも思われるが、不明なことについては断言しない。引用句で、一つ注目すべきは、「ちょうどイスラエルが、主から与えられた領地に対して行ったことと同様である。」とあることである。「主から与えられた領地」は通常、カナンの地、ヨルダン川の西側を意味するから、モアブにいるときには、まだ征服していない場所である。同時に、ある意味で、侵略と非難する人もいるかもしれないが、いろいろな場所で、そのようなことが起こっていることを述べているようにも見える。もう一つ、気づいたのは、この章での記述には、フェライム人など、巨人族についての記述が何度も登場することである。そのような強さによって決まるわけではないことを強調するためか。
Deuteronomy 3:25,26 どうか私を渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの美しい地、美しい山、レバノン山を見せてください。」しかし主は、あなたがたのゆえに私に怒りを示し、私の願いをお聞きにならなかった。主は私に言われた。「もう十分だ。このことを二度と語ってはならない。
モーセはヨルダン川を渡っていけないのは、イスラエルの不信によるといっているようである。しかし、主のことばとして記されているのは「もう十分だ。」だけである。興味深い。わたしのいまの状況を、神様は「もう十分だ」と言ってくださるのだろうか。それとも、わたしは、もっともっと、主にお仕えすることをするのだろうか。いつか、「もう十分だ」と言っていただける日まで、誠実に生きていきたい。
Deuteronomy 4:2 あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。
これを原理としてとると、聖書は申命記で終わりということになるのだろう。それが、わたしの理解では、サドカイ派の解釈であり、預言書や諸書は含まれず、ましてや、新約聖書などを主のことばとすることはできない。聖書をどのようなものとするかに、大きく影響する。絶対的なことを言っているのではなく、自分勝手に変えて行ってはいけないと言っているのだろう。主の御心を求めることは、続けていなければならない。
Deuteronomy 5:1-3 さて、モーセはイスラエルのすべての人々を呼び集め、彼らに向かって言った。「聞け、イスラエルよ。私が今日あなたがたの耳に語る掟と法を。これを学び、守り行いなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。私たちの先祖とではなく、まさに私たちと、今ここで生きている私たちすべてと、主はこの契約を結ばれた。
「聞け、イスラエルよ。」から始まる。そして、根幹をなすものは、契約である。契約の内容は何なのだろうか。それがおそらく、このあとに続く、十戒であり、掟と法であり、これに応じるものにとって、契約となるのだろう。この契約関係を基としている以上、どうしても、中と外の区別は生じる。契約を結んだものと結ばなかったものである。だからといって、内容は、差別を生じるものではないということなのだろうか。基本的な点をしっかり理解できるようにしたい。
Deuteronomy 6:16 あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。
試すとはどういうことだろうか。この章には有名なシェマーがあり「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」(4,5)この主を愛することの反対なのだろうか。おそらく、試すとは、不信から生じる行為、そして、信頼しないということなのだろう。信仰・信頼・忠実が、愛することと深く結びついていることは確かだが、試すということとの対比で考えたことはない。試すことと、疑問を抱くことは、異なるだろう。懐疑的になるのはどうだろうか。ことばも、いくつもあげて考えてみたい。そして、わたしは、どうなのだろうか。主と、ずっと関係を保っていきたい、ともに歩んでいけたらと願っている。信頼し、互いに愛あってと表現できるように。
Deuteronomy 7:2 そして、あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない。
理由も書かれている。「それはあなたの息子を私から引き離すことになり、彼らは他の神々に仕えるようになる。そうすれば、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、たちまちあなたを滅ぼし尽すことになる。」(3)あまり表現は良くないが、排他的になる特徴は、イスラム教にもみられ、結婚するときなどは、イスラム教徒でないといけない、イスラム教とそれ以外を明確に分ける。キリスト教原理主義といわれるひとたちも同様である。ひとつには、自分達の弱さを知っているゆえに、このような方策をとるともいえる。イスラエルも、バビロン捕囚などを経て、他者・異教徒にどのように、神様が関わるかを考え始めて、少しずつ変化が生じきてきたように思われる。申命記は、それ以前のものなのかもしれない。そして、それは、ユダヤ教原理主義的なひとたち、サドカイ派のひとたちに、特別に大切にされる。すこし、乱暴な書き方かもしれないが。
Deuteronomy 8:15,16 この方は、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。
正直、このような解釈には、疑問を感じる。信仰告白として、主からの苦難を、益となったと告白することあるが、苦難の理由が、そのためであったとするのは、因果応報的な、単一の演繹であり、さまざまな理由があり、ひとり一人の受け取り方はさまざまであることを無視し、押し切るような部分があるからである。申命記記者は、それが主の御心と確信したのだろうから、それは否定しないが、このことばから、普遍的な解釈を得ることは、とても危険であると感じる。
Deuteronomy 9:4,5 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、「私が正しいから、主が私を導いてこの地を所有させてくださった」と考えてはならない。むしろ、この諸国民が悪かったから、主はあなたの前から彼らを追い払われるのだ。あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出すのである。こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。
何度かこの言葉について考えてきた。本当にそうなのだろうかとも思うが、これも、ひとつの教育的配慮なのかもしれないと思った。主の配慮ともとれないことはないし、申命記記者の配慮とも取れないことはない。多元的な解釈が可能であることを、認めることがまずは、たいせつなのかもしれない。
Deuteronomy 10:4 あの集会の日に山で火の中から主があなたがたに語られた十戒と同じものを、主は板に記して、私に与えられた。
「主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。」(4章13節)にも「十戒」ということばが現れるが、引用句と含めて、聖書協会共同訳では二回だけである。なにが、気になったかと言うと、「十戒」ということばが確立した経緯である。出エジプト記20章には、いわゆる「十戒」が書かれているが、石の板に書かれた言葉が、「十戒」であるとは書かれていない。膨大な戒め、教えがそのあとに続いており、どこまでが書かれたものかは不明だからである。しかし、現実的に、二枚の石の板と考えると、「十戒」程度の内容しか書けないことも理解できる。とはいえ、それは、「十戒」が独立して、重要視されてからのようにも思う。
Deuteronomy 11:10,11 あなたが入って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地とは違う。エジプトでは、あなたが種を蒔くと、野菜畑のようにあなたの足で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山や谷のある地で、天の雨で潤っている。
日本でも、降水量が乏しい地域はあるが、そこまで水を渇望するところではない。しかし、エジプトや、シナイ半島などと考えると、雨がとても重要だったのだろう。創世記でも、井戸のことが何度も現れる。大きな川がなく、乾季には干上がる場所が多かったのだろう。それゆえのことばだろう。ただ、イスラエルの土地も、北のエズレエルなどと、南のユダの山地ではかなり違うのではないかと思うが、実際に行ったこともないので、不明である。
Deuteronomy 12:12 あなたがたの神、主の前で、あなたがたも、息子も娘も、男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も、共に楽しみなさい。レビ人にはあなたがたのような割り当て地や相続地がないからである。
「あなたがたはヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに継がせる地に住むようにな」(10)ったら「あなたがたの神、主がその名を置くために選ぶ場所に、あなたがたは私が命じるすべてのもの、すなわち、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、主に誓った最良の誓願の献げ物などをすべて携えて行き、」(11)とあり、引用句に続いている。今回、印象的だったのは「共に楽しみなさい」という言葉である。共生は、生物学では、symbiosis、共に生きるといえば、living together だが、それ以外にも、conviviality(⦅かたく⦆ 陽気(さ), 友好的なこと, にぎやかさ.)を使うとかなり昔に聞いた。どんちゃん騒ぎも同じことばを使うので、このことばが、ほんとうによいのか不明だが、共に楽しむというのは、とても、よいことばだなと思った。むろん、その内容がたいせつなのかもしれないが。
Deuteronomy 13:2-4a あなたの中に預言者や夢占いをする者が現れ、しるしや奇跡を示し、その者が告げたしるしや奇跡が実現して、「さあ、あなたの知らない他の神々に従い、仕えようではないか」と言っても、あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。
この章の最初は「私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。」(1)と始まる。そして、引用句である。興味深いのは「その者が告げたしるしや奇跡が実現して」という部分である。それは「あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。」(4b)だと、解説まである。科学的視点が発達した現代であっても、奇跡的なことがおこり、それに、目を奪われることもある。そして、科学的には説明できないことも多々ある。それを、このように説明を付け加えることには、必ずしも同意しないが、たいせつな、教育と学習の一環だったのだろうと思う。学びをたいせつにしていきたい。不完全なのだから。
Deuteronomy 14:27 また、あなたの町の中にいるレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのような割り当て地や相続地がないからである。
地方にいるレビ人の生活が、なかなかイメージできない。多少の資産を持ち、家畜などもあったようだが、割り当て地がなく、十分な仕事も、祭司のようにあるわけではなく、かつ世襲であり、そこから逃れることはできない。ある程度の知識人として、司法の補助をし、祭儀を司る手伝いをし、長老的な役割はあったかもしれないが。このあたりも、勉強してみたい。
Deuteronomy 15:11 この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。
明確に「この地から貧しい者がいなくなることはない」と言っていることが印象に残った。現実直視、世の中の見方が、冷静である。皆が幸せになることを望んでも、そうはならない状態がずっと続くことを認識している。理想を目指すのはよいが、理想の状態を見るあまり、現実をていねいに評価しないのは誤りである。また、政治や指導者の責任として、問題を終わらせてはいけない。それを踏まえて、自分ごととして「あなたの神、主があなたに与えられた地のどこかの町で、あなたの兄弟の一人が貧しいなら、あなたは、その貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。彼に向かって手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさい。」(7,8)と語り、起こりそうなことを予測し「あなたは、心によこしまなことを抱き、『七年目の負債免除の年が近づいた』と言って貧しい同胞に物惜しみをし、彼に何も与えないことのないよう気をつけなさい。彼があなたのことで主に訴えると、あなたは罪に問われることになる。」(9)このあたりに、魅力を感じる。
Deuteronomy 16:13-15 麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだなら、七日間、仮庵祭を祝いなさい。 息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。あなたの神、主が、あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されるのだから、あなたは心から喜びなさい。
「年に三度、男子は皆、除酵祭と七週祭と仮庵祭のときに、主が選ぶ場所で、あなたの神、主の前に出なければならない。」(16b)とある。祭りの意味などを考えながら読んだ。引用句では、楽しみ、喜びということばが目に止まった。いろいろとあっても、やはり祭りは楽しいものなのだろう。仮庵祭についてこう書かれているのもわかる。最初の収穫のあとの祝いである。感謝を献げ、喜ぶのは、当然かもしれない。ついついストイックになることがキリスト教では言われるが、そのようなときも、大切にしていきたい。
Deuteronomy 17:18-20 王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。それは、王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。
なにか、反省のようにも、聞こえ、現実とは、違う世界を語っているようにも見える。申命記はヨシヤ王の改革と関係があるとも言われるが、いずれにしても、歴史の反省があるように思われる。この前には、「また、妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。」(17)ともあり、ソロモンをも明確に否定している。ダビデも否定することに繋がりかねない。いずれにしても、理想の統治は難しい。
Deuteronomy 18:21,22 もしあなたが心の中で、「私たちは、その言葉が主の語られた言葉ではないことを、どのように知りえようか」と考える場合、その預言者が主の名によって語っていても、その言葉が起こらず、実現しないならば、それは主が語られた言葉ではない。預言者が傲慢さのゆえに語ったもので、恐れることはない。
聞き従うことについて書かれ、「私(モーセ)のような預言者」(15)がたてられることが語られ、偽預言者の見破り方について、語っているのが引用句である。実現するか問う。簡単そうにみえて、そうでもない。いくつかは実現し、他は、解釈によって判断が分かれる場合が起こりうるからである。いずれにしても、自分で、判断すべきことが語られていることは興味深い。批判的思考(Critical Thinking)である。現代でも、これが難しいのだが。
Deuteronomy 19:21 あなたは憐れみの目を向けてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足である。
ここでは、文脈として、次のことばから続いている。「どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。悪意のある証人が立ち、相手に対して不利な証言をするならば、」(15,16)他にも、引用句は聖書に含まれる。「目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、」(出エジプト21章24節)「骨折には骨折、目には目、歯には歯。人に傷を負わせるなら、同じようにされる。」(レビ記24章20節)これだけあである。(マタイによる福音書5章 38節参照)丁寧にみていきたい。
Deuteronomy 20:10,11 あなたが町を攻めようとして近づくときは、まず降伏を勧告しなさい。その町が降伏を受諾し、門を開くならば、そこにいるすべての民は苦役に服して、あなたのために働くことになる。
このあとに、「このようにできるのは、遠く離れた町に対してであって、次に挙げる国民の町に対してではない。あなたの神、主があなたに相続地として与えるこれらの民の町からは、息のあるものを決して生かしておいてはならない。」(15,16)通して読むと、どうも、引用句は相続地には適用できないようである。論理的に、わかりにくい。ギブオンのようなこともこれから生じることを考えると、不徹底のようにも感じる。いずれにしても残虐である。主の命令として、行うだけの信仰はわたしにはない。
Deuteronomy 21:18-20 ある人にかたくなで反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、父母が懲らしめても聞かない場合、両親は彼を捕らえて、その町の門にいる長老たちのところに連れて行き、町の長老たちに、「私たちの息子は、かたくなで反抗し、私たちの言うことを聞かず、放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。
そして石打の刑になる。しかし、そうであれば、親は事前にどうにかするだろう。つまり、そのような掟なのかもしれない。それだけ、両親の責任は重い。しかし、むろん、事情は単純ではない。愛するのは、ほんとうに、むずかしいこと。
Deuteronomy 22:28,29 もしある男が婚約していない処女の娘と出会い、捕まえてこれと寝て、二人が見つけられたなら、娘と寝たその男は、娘の父親に銀五十シェケルを支払い、娘を自分の妻としなければならない。娘を辱めたのであるから、生涯、彼女を去らせることはできない。
「処女」にこだわる記述が多い。「処女の証拠」(14,15,16,17,30)も何箇所にもある。科学的ではないとも言える。どう解釈したら良いのか言語化は難しい。一定の秩序を守ることが、個人の尊厳を犯すことがあるとは、表現できるのだろう。これを理解することは、あまり簡単ではないということだろう。より、本質的なことがあることを見抜くのには、時間もかかるのかもしれない。
Deuteronomy 23:8,9 エドム人を忌み嫌ってはならない。彼は、あなたの兄弟だからである。エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである。彼らに生まれた子どもは、三代目には主の会衆に加わることができる。
この前には、アンモン人と、モアブ人について、主の会衆に加わることはできないとある。(4)エドムは別格、エジプトも特別扱いである。このような線引き、分類は、不適切であることは、ある程度の期間でわかるだろう。しかし、そこには、痛みもあり、苦しみもあるはずである。差別との関係は難しい。
Deuteronomy 24:1 ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。
ジェンダー(文化的・社会的役割としての性)的には、問題がある。当時、決定権をもっていた男性が考えた離婚、再婚に関する規定なのだろう。この章の後半には、非常に興味深い規定も含まれていて、それらをトータルに判断しなければならないことも確かで、粗探しをするのでは、全体を理解することはできないだろう。男性も女性も、若い人も年寄りも厳密ではなくても、バランスをもってそれぞれが尊厳をもって生きることに関わることに関しては、決定に関与することは大切であると思う。同時に、個人の考えだけではなく、ひとびとの福祉、幸せに配慮するためにも、「われわれ」ということばで表現されるものは、なになのかを、その都度、検証することは大切だろう。
Deuteronomy 25:19 あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。
アマレクに関しては、極度に厳しい。交流を持つなではなく、単に、滅ぼせでもなく「記憶を天の下から消し去れ」。ジェノサイドのような感覚さえ受ける。アマレクについては、聖書に何度も登場するが、詳細は不明である。しかし、他の部族とは異なる、独立して行動している印象を受ける。また、よく調べないといけないが、交戦的な印象も受ける。どのような人たちだったのか、興味深い。イスラエルにとっては、理解し難い、受け入れ難い存在だったのかもしれない。そのような存在、そして、実害を及ぼす存在に、どう向き合うかは、非常に難しい。
Deuteronomy 26:17,18 今日あなたは、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います」と明言したので、主も、今日あなたに向かってこう宣言された。「あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。
定型化されていて、随意(自由)契約ではないが、一応、ここには、整えられた、主と民の契約の形が書かれている。しかし、それが本質的なのか、正直よくわからない。人間の側に目を向けたときには、団体に加わる宣誓のようなものが加入において考えられるが、掟と戒めと法を守り、御心にそった道を歩む決意表明をどのようにすれば良いかも、不明確である。しかし、それが、キリスト教に引き継がれているのかもしれない。根本的な部分がよく理解できていないように感じる。
Deuteronomy 27:26 「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。
いくつかの、呪いのことばが、書かれている。引用句が、結びである。呪いは何なのだろうか。読んでいて、ここまでに書かれている、主の言葉とされるものが、書かれてはいるが、この呪いは、共同体のもので、共同体の一員でいたければ、これらをするなと言っているように感じた。また、自分達に言い聞かせる言葉なのかもしれないとも思った。克己(自分への誘惑に打ち勝つこと)が求められているのかもしれない。
Deuteronomy 28:1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
対応する聞き従わない場合の記述が15節から始まる。その方が長い。いずれにしても、背景にあるのは、因果応報の考え方で、すべては神から来ること。私たちがすべきことは主の声に聞き従い、モーセが命じるすべての戒めを行うこととなる。因果応報の世界観は、そのように理解したい、人間の特性でもあり、科学や、ビッグデータを扱えるようになった、近年にならないと、実際との乖離はいかんともしがたく、批判できるようなことではない。善いことをもとめること。神の御心を求めることも、大切なことである。しかし、鍵となるのは、ここで「私が命じる」と言い切ってしまうことである。歴史の中でも、これからも、神の御心はわからないもので、それを求めていくのが、信仰者の歩みであることを、認識すべきである。科学的認識も含めて、少しずつ、ひとは、神様から、教えていただいているのだから。
Deuteronomy 29:28 隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものであり、私たちがこの律法のすべての言葉を行うためである。
いろいろな解釈があるだろうが、人間の目からみて、隠されていることがたくさんあることを、認識することは大切である。同時に、現されたことも、受け取ったこととの間に、乖離がある可能性があることを、肝に銘じるべきである。知ることが一部であるということは、理解できること、範囲も、非常に狭いのだから。難しいことを、簡単に理解した気になって、理解したことだけを、心に止めるのではなく、たいせつなことは、求め続けること、ここにこそ、大切なものがあると思う。
Deuteronomy 30:4-6 たとえ天の果てに追いやられても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、連れ戻してくださる。あなたの神、主は、あなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れてくださり、あなたはそれを所有することができる。そして、主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やしてくださる。あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。
おろどかされる。通常は「地の果て」というと思われるが、ここでは「天の果て」である。さらに「所有することができる」と断言する。冷静に考えると、問題のある言葉でもある。そこに、だれも住んでいないことはあり得ないのだから。さらに「心に割礼を施す」どのようなことを表現しているのかは、明確ではないが、少なくとも、そのあとに「あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。」というのである。これが、旧約聖書としては、まだ、約束の地に入る前の説教で語られているという枠組みになっている。やはり「天の果て」とでも言いたくなるところに、追いやられることが現実となった背景が、あるように思われるが。サマリヤ陥落だろうか、それとも、バビロン捕囚? それは、不明ではある。
Deuteronomy 31:20,21 私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼らを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太り、他の神々のもとに赴いて仕え、私を侮り、私の契約を破るであろう。そして、多くの災いと苦難が彼らを襲うとき、この歌は、民に対して証言となる。子孫の口から忘れられることがないからである。私が誓った地に彼らを導き入れる前から、私は彼らが今、たくらんでいることをすでに知っている。」
次の章に書かれている「モーセの歌」について語られている。印象的なのは、主を侮り、主の契約を破ることを明確に書いていること。そしてそのことを知っていると述べていることである。むろん、これは、実際にそれらが起こってから、書かれたとすることもできる。おそらくそうなのだろう。しかし、これを読む人たちは、どの時代の人であっても、心を痛めたことは確かだろうと思う。いろいろな立場のひとにとってのメッセージ。自分ごととして、聞いたのだろうと思うとわたしも、胸が痛くなる。
Deuteronomy 32:26,27 私は考えた。彼らを切り刻み/人々から彼らの記憶を消し去ろうと。しかし私は敵が誇るのを恐れる。/敵対する者が誤解して/『我々の手が勝ちを得たのだ。/これはみな主がされたことではない』/と言うことを。
モーセの歌とされるものである。全体として、モーセが語るが、主の思いを代弁する形式になっている。ということは、御心を受け取ったとする、モーセの信仰告白であるとも言える。引用句なども、ほんとうに、主が、そのように、考えたと証言することではないだろう。私が主ならこう考える(裁いて滅ぼす)だろうが、そうでないのは、おそらく、このような理由だからだろうと、述べているように感じる。たとえ、主の御心をうけとっても、それは、一部なのだから。このような詩歌は一般的には、ある程度古いとされるが、これはどうなのだろうか。よくはわからない。興味深い言葉は多いが。
Deuteronomy 33:6 ルベンを生かし、殺さないでください。/その数が少なくなるとしても。」
ここから、十二部族について語るが、最初が、ルベン、長子である。それが、これだけと驚かされるほどである。最初に、失われた民なのかもしれない。もしかすると、アッシリア侵攻より前に、周辺の民族との争いで、すでに、ほとんど消滅していたのかもしれない。物語として、長子に据えたことも、不思議に思うが、何らかの言い伝えなのだろうか。そして、ある伝説では、このルベン族が日本人のひとつのルーツになったと言われる。証拠は、並べられても、正しいとは言えないが、それだけ、最初に消滅したということが、神秘性を醸すということだろうか。
Deuteronomy 34:5 主の僕モーセは、主の言葉のとおり、モアブの地で死んだ。
このように書かれていることはそれ自体興味深い。一人の人間として、死んだことの証言である。しかし、最後には、特別なことが書かれている。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった。」(10-12)「私の僕モーセとはそうではない。(略)口から口へ、私は彼と語る。」(民数記12章7節)と対応しているのだろう。ここでは「顔と顔を合わせて」とある。そのような存在はいないとして、特別であることを主張している。イエスはどう考えていたのだろうか。神の子ということばは、もっと自然で強いように感じられる。そしてモーセの場合は、上に引用したように、限定的な働きがあったように思われる。


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過去の聖書ノート

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Deuteronomy  1:5 モーセはヨルダン川の向こうにあるモアブの地で、この律法を説き明かし始めた。
律法(תּוֹרָה(tôrâ): law, direction, instruction)とあるが、ここで語られているのは、モーセによる説教である。しかし「第四十年の第十一の月の一日に、モーセはイスラエルの人々に、主が命じられたとおりに語った。」(3)とあり、神からのメッセージであるとしている。つまり、単なる決まりではない。神からのメッセージ、それが広い意味では、トーラーが聖書全体を意味するようになったのだろう。むろん、いろいろな解釈がありうるが。しかし、引用句では、モーセが主体として説き明かしたとして描かれている。なかなか複雑である。
Deuteronomy 2:6 食べ物は、彼らから銀で買って食べ、水も彼らから銀で買って飲まなければならない。」
この章の記述は気になることが多い。ヤコブ(イスラエル)の兄弟エサウ、ヤコブの祖父アブラハムの甥ロトの子とされるモアブとアンモンの土地の通過が書かれ、最後にアモリ人との戦いが書かれる構成になっている。「ただし、あなたはアンモン人の地、すなわち、ヤボク川沿いの全域と山地の町、また私たちの神、主が禁じられた地には一切近づかなかった。」(37)とあるが、実際は、様々な問題があったことが伝えられ、民数記には、モアブの王バラクやミデアンとの戦いについて記述されている。この章は、近親の部族に対して正当に振る舞ったことが書かれているのだろう。引用句では、商取引のような銀の使用について書かれているが、いくら、エジプトからとってきたものが多かったとしても、ためただけのものは、すぐに無くなる。商取引のようなものが存在しない限り。セイルの山地を長い間歩き回ったようであるから(1)様々な交流があったことが、想定されるが、聖書には、何の記述もない。あるひとつのまとめ方なのだろうが、かえって不安になる。
Deuteronomy 3:26 しかし主は、あなたがたのゆえに私に怒りを示し、私の願いをお聞きにならなかった。主は私に言われた。「もう十分だ。このことを二度と語ってはならない。
「だが、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。』」(民数記20章12節)の記述とは異なる。申命記は基本的に、モーセの最終説教集とされ、意図が異なるとして、終わりにすることも可能だが、申命記自体の成立の背景を問い、ヨシア王の時代など後代のものとする聖書学者たちの意見のほうが整合性が高いように思われる。判断はできないが、なにか、読んでいて、臨場感が無いばかりか、特に、当時の実際の問題(ここではモーセが約束の地に入れない理由など)への記述から深さを感じられない。伝えたいメッセージは他のところにあるのだろう。引用句については、傍観者的には「もう十分だ」ということばは、特に、出エジプト記と民数記の概観を眺めた時、人間的にはそのとおり、アーメンと言いたくなる言葉である。人間的な思いでもあるが。約束の地に入れないのは、恵みでもあったと思わされる。まだまだ、先は長く、現代に至るまで、殆ど終わりはないのだから。
Deuteronomy 4:2 あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。
申命記の神学と言われるものに興味をもつ。王国時代末期に書かれたなど様々な説があるようだが、どのように成立したものであれ、しっかりと向き合いたいからでもある。これは、新約聖書についても言えることだから、実際の著者が誰かで、その書の価値を定めることは適切ではないと思われるからである。もし、モーセだからという理由で、この申命記が価値あるものとなるのであれば、モーセを特別視し、我々から引き離していることになる。引用句は、この考え方で読むと、困難を生じるとも言える。モーセ以外の人が書いたとすると、すでに、自らを批判する記述になっているからである。しかし、記述目的による正当化を考えたのかも知れない。目的絶対化は目的を絶対化することで、危険でもあるが。この章を読むと、偶像礼拝に対する警告の面が強く(3,4, 15-26)、イスラエルは律法を与えられた特別な民であり(8)、神は、妬む神(24, Dt5:9, 6:15, Ex20:4, 34:14, Jo24:19, Nah1:2 参照)だとして、捕囚となる場でどう生きるかまで書かれており(27-31)、神は憐れみ深い方であることも書かれている(31)。また、出エジプトを確認している。(32-38)しかし、モーセが、約束の地に入れない理由は、民の不従順にしている(21)など他の書との食い違いも見られる。44節からは、モーセを第三者として書いており、他に著者がいることも示唆している。複雑な文書ということが、現在の印象である。
Deuteronomy 5:22 主はこれらの言葉を、山で、火と雲と密雲の中から、集会に加わったあなたがたすべてに大きな声で語り、これ以上加えられなかった。主はそれを二枚の石の板に書き、私に授けられた。
「十戒」(このことばは聖書協会共同訳では聖書全体で 4:13,10:4のみ。Ex34:28 に「十の言葉」)が述べられ、その最後にあるのが、引用句である。出エジプト記20章における十戒の記述では、このあとにも、掟、戒めが続いているが、ここでは、特別なものとされているように感じる。父と母を敬えに関する記述は、出エジプト記(Ex20:12)においても、祝福がともない特徴的であるが、ここでは「あなたの神、主が命じられたとおりに、あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生き、幸せになることができる。」(16)と、さらに「幸せになることができる」と付け加わっている。(人が持てるほどの大きさの)二枚の石がとても個人的には印象に残ってしまうが、そこに書こうとすると、ちょっと長過ぎるように思う。17節などの「殺してはならない。」ぐらいに短くしたものがいろいろと考えられ、教会でも利用されてきたのであろうが、決定版を作るのは難しい。
Deuteronomy 6:6,7 今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。
4節から9節はシァマー(שָׁמַע šāmaʿ: to hear, listen to, obey 聞け)と呼ばれて、とてもたいせつにされている言葉である。信仰継承である。とてもむずかしい課題である。特に、信仰のように、それを生きることに価値のあることは、ことばでは、伝わらず、受け取り側がそれを心のそこからそのとおりと受け取るには、経験も必要で、empirical((理論ではなく)実験[実証, 経験]に基づいた)とも言える理解が必要だからである。わたしも、一つ一つを受け取るまで、どれだけ、それに反することをしてきただろうか。失敗を繰り返しただろうか。ましてや、教えるものなどには、なれないと思う。それとは、全く違う次元で、今日注意をひいたのは「今日私が命じるこれらの言葉」である。人生を通して真理と確信したことを伝えるという意味で、真実な言葉だと感じると同様に、ここでモーセというひとが語ったとされることばが絶対化されることへの問題点である。信仰は生きたもの、信仰に生きてはじめて、意味があるもので、研究室・実験室での実証実験とは異なるからである。モーセにおいて真実であっても、そのことがことばでは、たとえ同じような表現になったとしても、本来伝えられないことのようにも思う。信仰・真理の普遍化の問題である。同時に、何らかの媒体がないと、伝わらないとも言えるが。それは、ともに生きるというようなことで置き換えることはできるのだろうか。わからない。
Deuteronomy 7:26 忌むべきものを家に持ち込んではならない。あなたもそれと同じように滅ぼし尽くすべきものとなる。憎むべきものを憎み、忌むべきものを忌み嫌わなければならない。それは滅ぼし尽くすべきものだからである。
6節から8節の主の恵みと憐れみと愛によって救い出されたことの記述や「あなたの神、主は、これらの国民を、あなたの前から少しずつ追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼすことはできない。あなたのところで野の獣が増え過ぎないためである。」(22)など、心に残ることばが多い。しかし、同時に、滅ぼすべき相手・敵についても、考えてしまう。最近では、人類の敵コロナ・ウイルスを滅ぼすなどとも表現される。たしかに、自分の内側をみても、滅ぼさなければならないと感じるものが存在する。日々、その戦いの中にいるとも言える。また、引用句は、人間、自分の弱さを考えると、真実である。危険を呼び込んではいけない。公衆衛生(Public Health みんながすこやかであるための営み)などは、その分野の営みだろうか。敵は、人間でなければ、よいのだろうか。なにか、そうも思えない。おそらく、コロナ・ウイルスにも、いろいろな働きがあるのだろう。滅ぼし尽くしても、ウイルスという敵が、野の獣に置き換わるだけかも知れない。といって、最初から、共生を求めるものでもないように思う。二分法のような、単純な思考に、わたしは抗っているのだろうか。その面はたしかにある。このような思考と経験を通して、少しでも、神様の御心・真理を受け取ることができればと願う。
Deuteronomy 8:2,3 あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。
これまで、マタイ4章4節(ルカ4章4節)に引用されている、最後の部分だけ読んでいたが、今回は、主が与えた試練の部分が目に止まった。後半には「あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。」(16)とある。さらに「あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない。」(17)と続く。実際には、主を忘れ、滅びる方向に向かう。引用句に戻ると、前半からは、神のために、試みがなされたようにもとれるが、やはり引用句の後半が中心で、ある意味で、超自然的な養いとも言える、マナで養うことで、手ずから収穫したように思われるパンだけで生きるものではないことを知らせることに中心があるのだろう。しかし、苦しみの意味を考えると、なかなか単純ではない。ひとは無知であること。学ぶ者であると同時に、十分に受け取ることは難しい存在であると思うからだ。「自分の強さと手の力で、この富を生み出した」のではないことが鍵だということは、普遍性もあり、たいせつなこととして、受け取ることができると思う。その一つの信仰告白が、イエスが言われた「『人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」(マタイ4章4節)であるように思う。
Deuteronomy 9:5 あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出すのである。こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。
ひとつのイスラエルの民へのメッセージ。イスラエルの民と主との関係の相対化があり、すばらしい。しかし、問題も感じる。まず、イスラエルがましなわけではないなら、このことは、繰り返され、皆、滅ぼし尽くされるであろうこと。つぎには、それを、父祖たちへの約束の成就に結びつけていることである。一つ目を、人間の弱さ、または、原罪により引き起こされていることとし、二つ目を重視し、神の壮大なご計画のうちのひとつのステップだと考えるのが、一般的なキリスト教神学であるように思う。救済史としての理解である。しかし、それは、小説を後ろから読むようなもので、そのときどきの、人々の苦しみや、葛藤に対して、メッセージを送っていない(その人にいのちを与えることにつながっていない)ように思う。救済史はひとを救わない。イエス様は、どう考えたおられたのだろうか。「なになにのため」ということであれば、やはり「神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)と、その人の痛みの中に見る、神の働きを注視することかと思う。これで十分な解決は与えられていないかも知れないが。謙虚に、求め続けたい。
Deuteronomy 10:12,13 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に、心を尽くし、魂を尽くして仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。
主が望まれることは「わたしが」幸せになること。強烈なメッセージである。このあと、「頑なになるな」(19)というメッセージがあり、主はどのような方であるかが続く(17-19)。そして、主こそあなたの誉れ(21)と続く。申命記記者がいちばん伝えたかったことなのかも知れない。この中でひとに関わる部分は、まず、最初の部分であるが、これは、「主との関係をたいせつにしなさい。」とまとめられられるかもしれない。しかし、難しいのは「頑なになるな」である。「だから、あなたがたの心の包皮に割礼を施し」(16)とあるが、それは、ひとには、できないのではないだろうか。わたしが言えることは、「主との関係をたいせつにしなさい。」を守ろうとする日々のなかで、少しずつ学んでいくことなのかと思う。それは、主について少しずつ知っていくことともつながるのかもしれない。それが、心の包皮に割礼を施すことなのだろうか。「割礼」の背景があることは、理解できるが、表現が卑猥である。女性はこころの中であっても唱えにくいだろう。やはり、どこかいのちを生み出すところに起源があるのかもしれないが。
Deuteronomy 11:11,12 しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山や谷のある地で、天の雨で潤っている。あなたの神、主が心にかけ、あなたの神、主が、年の初めから年の終わりまで、常に目を注がれている地である。
約束の地の潤いと、主の目が常に注がれていることが結び付けられている。なにか、とても物質的祝福を感じてしまう。一般的には、チグリス・ユーフラテス川流域からの三日月型肥沃地帯の先端部分とその南に広がる山地と言われる地である。わたしは、行ったことはないが、とくべつに恵まれた土地だとは思えない。アフリカ大陸とユーラシア大陸をつなぐ要の部分で、その意味では、重要な土地であろうが。エジプトの地との比較の問題ではなく、一年を通して、主の恵みを感謝するものでありたい。主の恵みが見えないとき、感じられないときもあるかも知れないが、そこに神様がおられることを覚えて。
Deuteronomy 12:8 あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。
おそらく一般論を言っていのではなく、礼拝する場所について語っているのだろう。約束の地に入ったら、今のように移動型ではなく「あなたがたの神、主がその名を置くために選ぶ場所」(11)で礼拝しなさい、ということだろう。「むしろ、あなたがたの神、主が、その名を置くためにすべての部族の中から選ぶ場所、その住まいを尋ね求めなければならない。あなたはそこへ行きなさい。」(5b)である。特に、北イスラエル王国において、ずっと、他の神に犠牲を献げることが続くことについて言われているように思う。「私は、私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」(出エジプト記20章24節)をどう取るかにもよると思うが、イスラエル入植後も、神の幕屋を移動しており、一定の箇所に定まるのは、ダビデの子のソロモンの時代である。この「場所」については、ステファノの説教の中でも語られており(使徒7章)、イエスのことば(ヨハネ4章21-24節)を見ても、70年に神殿が破壊されてから、再建されていないことなどを考えても、普遍性のある考え方ではないように思う。ユダヤ教にとっては、一定の重要さがあるわけだが。ただ、引用句に戻ると、これは、普遍性があるかも知れない。「無知な者の目には自分の道がまっすぐに映る。/知恵ある人は忠告に聞き従う。」(箴言12章15節)「自分にはまっすぐに映る道も/終わりは死に至る道ということがある。」(箴言14章12節、16:25参照)
Deuteronomy 13:1 私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。
これは、じっくり腰を落として考えるべき言葉である。「預言者や夢占いをする者は、死ななければならない。」(6a)とある。むろん、主から引き離すもののことを言っているが、そのときの体制を批判するようなもの、人々が聞きたくないことであれば、同様の判断をする可能性は高い。王国時代には、顧問預言者のような存在もあったようだが、歴史を通して、預言者のイメージは反体制、荒野で離れて住む存在である。批判に耳を傾けることなしには、神様の御心を理解することはできないだろう。サドカイ派などが、モーセ五書のみを聖典とした背景にも、このことばがあるだろうし、聖書のことばを絶対化し、無謬性を厳格に主張する場合にもは、同じ問題は生じる。わたしたちの求めるのは、神様のみこころ、真理であること、そして、わたしたしは、それを十分には、理解できていないことをしっかりと受け止めなければならない。謙虚に、みこころをもとめ、簡単に、聖書のことばを変更しない、誤っていると考えても、簡単には、拒否せず、まずは、御言葉を守り生きることも含まれるだろう。神様が愛しておられる一人ひとりの理解は、自己理解から始まり、隣人、異性、こども、病気の人、障害者、異邦人、他の宗教を信じる人達、自分たちを傷つける存在、まったく真理に無関心なひとたちへと、広がっていくのだから。謙虚に、御手の業に目をとめ、神様の愛に、応えていくものでありたい。
Deuteronomy 14:1,2 あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。死者のために自らを傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主はあなたをご自分の宝の民として、地上のすべての民の中から選んだのである。
前半がよくわからない。また、後半は、選民思想から問題が生じているように思う。神様に愛されていることを、自分たちが特別だと思ってしまう。幼児期には、あることであるが、それが、継続して、生き方にまで影響することは問題である。「自然に死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。子山羊をその母の乳で煮てはならない。」(21)このような生き方をしていると、差別が生活の中で、いろいろと生じてくるのは自然だろう。おそらく、引用句の前半も、主の子ら、主の民だから、他の世界のものに、命をさくなということなのだろう。神様が、自分を愛していることから、他者も愛しているところに、向かうにはなにが鍵なのだろうか。これも、公平さだろうか。特別な体験をすると、その経験が、そのひとを形作り、そこからのがれられなくなるということだろうか。難しい。
Deuteronomy 15:11 この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。
二つのことを感じた。ひとつは、対象が、同胞であること。もう一つは、このようにしても、やはり、貧しいものはいなくならないと宣言していることである。どちらも、難しい問題である。前者は同胞以外にある程度緩和できても、後者が真実なら、この地に住むと言われている適用範囲を無限に拡大することはできないということである。しかし、日々をどう生きるかは考えられる。何を大切にして生きるかである。神に愛されているものとして、ひとりひとり隣人を兄弟とするなら、まずは、ここに書いてあるように生きることだろうか。しかし、やはり、申命記の記述は気になる。「外国人からは取り立ててもよいが、同胞があなたに負っている負債は免除しなければならない。あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福されるから、あなたの中に貧しい者は一人もいなくなるであろう。」(3,4)貧困の問題は、本当に難しい。わたしには、なにも答えられない。
Deuteronomy 16:16 年に三度、男子は皆、除酵祭と七週祭と仮庵祭のときに、主が選ぶ場所で、あなたの神、主の前に出なければならない。主の前に何も持たずに出てはならない。
年に三度の祭について簡潔にまとめられている。「男子」とあるのは、当時の文化的背景から一家の代表はというような意味だったのだろう。主が選ぶ場所とここでも明示されている。エルサレムでの神殿が想定されているのだろう。移動が当然だった時代から考えると、違和感もある。そして、献げもの。これは、献身のしるし、贖われたものであることの確認だろうか。非常に整えられた感じをうけるのは、直後に書かれている、裁きとアシェラ像についても同様である。荒野では、まだそのような状態ではなかったとも考えてしまう。特に、イザヤ、ミカ時代のアシェラ像を切り倒すとの表現と「あなたは、自ら造った、あなたの神、主の祭壇の傍らに、いかなるアシェラの木像も立ててはならない。」(21)が対応しているとも思った。どの時代とは、特定しないが、信仰的行為の象徴だったのかとも思う。
Deuteronomy 17:2,3 もし、あなたの中に、あなたの神、主が与える町で、男であれ女であれ、あなたの神、主の目に悪とされることを行い、契約に背き、他の神々のもとに行って仕え、その神々や、私が命じたこともない太陽や月や天の万象などにひれ伏す者がいて、
信仰は、契約が基盤にあることがまず述べられている。この契約のもとにあるのだから、契約を破ったものは、よく調べてから証言者の証言を確認し、証言者からそして、すべての民が手を下してそのものを殺すことが述べられている。信じる信じないは自由という感覚とはかなり異なる。基本として、契約の元にない、外国人・異邦人を規定する法律ではないことである。しかし、人生には、いろいろな時がある。契約から派生する、様々な生活の制約や儀式など、派生的に人が定めたものの矛盾や問題点から、そこに属することに疑問を持つこともある。寛容さは、いろいろな問題をも含むが、宗教を基盤とした集団の存続を考えても、やはり問題があると思う。献げものにおいて、自発性がたいせつにされていることなどを考えても、ひとを全体的に理解することが必要だからである。ゆるやかな契約、ゆるやかな帰属意識、厳密には規定できないもののたいせつさを思うが、ことの性質上、明確にはできない。むずかしい。
Deuteronomy 18:6,7 レビ人は望むままに、彼が寄留している、イスラエルのすべての人々のどの町からもやって来て、主が選ぶ場所に移ることができる。彼は、主の前に立っているレビ人、すなわち自分のすべての兄弟と同じように、彼の神、主の名によって仕えることができる。
理解がしにくいが、レビ人は分散して、かつそれぞれのイスラエルの部族に寄留して住んでいるが、主が選ぶ場所(エルサレム)に移住して、そこで仕え、何らかの取り分(8)が与えられることのようである。「イスラエルの人々に、自分たちの所有している相続地の一部を、レビ人が住むべき町として与えるよう命じなさい。また、その町の周囲の放牧地もレビ人に与えなさい。」(民数記35章2節、以下参照)町の周辺の放牧地が、レビに与えられるが、主が選ぶ場所に移住は可能としているようだ。礼拝する場において、主が選ぶ場所を特別な場所とすると、地方ですることは、非常に限られることになる。さらに、この体制は、町に住み、職業が多様化すると、まずは、家族から、別の道を選ばなければいけなくなる。レビ族が、一般的には困窮する原因ともなるだろう。現代では、回復することはできないだろう。つまり、普遍性はないことである。
Deuteronomy 19:3 あなたは自分で道を整備し、あなたの神、主があなたに継がせる領土を三つに分け、人を殺した者が誰でもそこに逃げられるようにしなさい。
逃れの町の規定の詳細がこの章に書かれている。実際にどのようにこの規定が守られたかに興味がある。過失であっても、殺人者が逃げ込む町である。過失か故意かは判然としないことを考えると、その町のひとの負担が重いと同時に、様々な差別なども起こりうると思ってしまうからである。他方、裁判により、なんらかの方法で罪が確定されるまで、そのひとの権利が保証される手立てをこの時代に考えたことは、凄いことだとも思う。おそらく、正しさを考えることは、悪とは何かを考えることであり、その境目の決定が困難であることの認識とともに、どうにか区別することと、決定されるまでていねいに扱うべきことへと進んだのだろう。たいせつにする部分については、深い思考がなされるということか。同時に、実際どのように、なされるかをみながら修正していくことも必要である。その部分は、どうだったのだろうか。興味を持つ。
Deuteronomy 20:17,18 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように、必ず滅ぼし尽くさなければならない。これは、彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行いをあなたがたに教えて行わせ、あなたがたの神、主に対して、あなたがたが罪を犯すことのないためである。
戦争に関して書かれている。民の福利について書かれていることは、興味深いが、申命記によると、相続地の民は滅ぼし尽くすべきことと、その理由が、イスラエルの民が罪を犯すことがないためとしている。一般的に、分離主義(separatism: the advocacy or practice of separation of a certain group of people from a larger body on the basis of ethnicity, religion, or gender)と言われるが、日常的にも、危険なひとには近づかないようにしようという形で現れる。そして、絶対非暴力・平和主義者は、分離主義へと傾くことがある。実効性はある程度あるのだろう。しかし、それが他者の抹殺に及ぶことは、問題である。そう考えると、ここで語られている、ジェノサイド(genocide: the deliberate killing of a large number of people from a particular nation or ethnic group with the aim of destroying that nation or group)は、極端な例ではあるが、社会の中では、同様なことが多く存在するようにも思う。あるグループの排斥である。その社会で不道徳と言われる行為をするもの、薬物依存、アルコール依存、性的依存など、さまざまな依存症などもそうだろうか。人間を自己実現を目指す存在だと規定すると、「自己」という言葉を使う以上、他者の自己と調和は得られず、人間存在自体がこの難しい問題を孕んでいるとも言える。共に生きることは、つねに、様々なレベルで大きな挑戦である。だからこそ、イエスは、その本質を打破されようとしたのだろうか。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節b、15章12節参照)
Deuteronomy 21:22,23 ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。
この章では「あなたの神、主があなたに所有させる土地で、殺されて野に倒れている人が見つかり、誰が殺したのか分からない場合、」(1)、「あなたが敵に向かって出陣し、あなたの神、主が敵をあなたの手に渡され、あなたが捕虜を捕らえたとき」(10)「ある人に二人の妻があり、一人は愛され、もう一人は疎まれていた。愛されている妻も疎んじられている妻もその人の子を産み、疎んじられていた妻の子が長子である場合、」(15)「ある人にかたくなで反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、父母が懲らしめても聞かない場合、」(18)そして、引用句について書かれている。どれも解決方法以前に問題があるように思われるが、社会には、根源を断つことが困難で、対応しなければならないことがたくさんあるのだろう。難しい問題であるが、それらにも、誠実に対応していくことがひとのつとめである。公平性を求めることとも言える。公正とまでは言えないが。引用句は、多少特殊であるが、新約聖書で引用されているため、有名である。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木に掛けられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3章13節)なぜ、「木に掛けられた者」が呪われた者なのかは、わたしにはわからないが。
Deuteronomy 22:1 同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ずそれを同胞のもとに戻さなければならない。
かなり細かいことまで書かれている。また、後半は、強姦を含め、性に関わることが詳細に書かれている。どこまで詳細に書かれていたとしても、実際の問題を判断するには、不足するだろう。引用句も、例示だと考えたほうがよいように思う。社会の成り立ちの変化によって、問題自体が変化し、対応も変化する可能性は十分にあるからである。本質は、なにを伝えようとしているのだろうか。まず、目をひくのが「同胞」の所有物または管理を委ねられているものと「見ない振りをしてはならない」という言葉である。同胞にとってたいせつなものを、たいせつにあつかうとも表現できる。同胞を自分のようにとも、同胞の問題を、自分の問題としてとも言えるかも知れない。同胞は、共に生きるものとすれば「私の隣人とは誰ですか」(ルカ10章29節)と問わないですむ。その意味で「共に生きるとは」について書かれているとも言える。性に関わることも、同様の枠組みで考えるべきなのだろう。尊厳をもったひと同士がともに生きることである。これを脅かすものは、何なのだろうか。自己中心か、神を畏れない生き方か。
Deuteronomy 23:2-4 睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない。混血の人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。
自分たちを清く保つにはとして、考えられたことなのだろう。忌み嫌うべきものが書かれているとも言える。しかし、このように排他的に切り捨てていって、自らを清く保つことができないことは、十分理解できていただろう。また、ルツの物語なども、異邦人(この場合はモアブ)が、イスラエルの民以上に、同胞を、隣人を愛し、共に生きることの模範となるような例もいくつも知っていたろう。なぜ、このように、書いたのだろうか。純血・純潔がある程度可能で、それが重要だった時代だろうか。わからない。このように書いてもすぐ、ここに書いたような問題が生じることは、明らかだからである。背後にあること、清く保つべきことを教えるためだろうか。しかし、これを利用する人も現れるだろうから、やはり問題である。
Deuteronomy 24:21,22 あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。それゆえ私は、あなたにこのことを行うように命じるのである。
一つ一つ掟をとって、素晴らしいとか、欠陥があるとか考えていたが、もう少し、背後にある考え方を受け取らないといけないと思った。まずは、共助・共生の考え方が背後にあることである。自業自得とか、因果応報とか、自力本願ではないということである。恵みと憐れみによって生かされている存在であることをまずは覚えること。恵みの根拠が自分の中にあるわけではないことを「あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。」と表現しているのだろう。最近、思い立って賀川豊彦資料館まで散歩した。日本国が利益を得るため軍国主義へと進み、隣国から搾取しようとすることにも、貧しいものを放置することにも、革命によって労働者のための社会主義・共産主義国家を建設しようということにも、抗(あらが)い、貧困や、過酷な労働、病苦のひとなど、あらゆる生活苦と戦った賀川からもう一度学んでみたいと思ったからである。社会の中の活動に身を置けば、さまざまな問題と直接向き合わなければならない。正しさでは割り切れないことが山ほどある。単に、霊的な問題、信仰の範囲で解決することはできない。賀川にとっては、病気で死ぬのが当然であったことが「(イスラエルが)奴隷であったこと」と対応しているのかも知れない。そして新川の貧民街に身をおいて、貧しさの極致を垣間見たこともあるだろう。そのことを、共助・共生に向かわせるのは何なのだろうか。自動的ではないように思う。わたしの場合はどうなのだろう。神の恵み憐れみによって生かされていることについてはアーメンと言わざるを得ない。このことも、アーメンと言えない場合もあるだろうが。
Deuteronomy 25:18,19 彼らは道であなたと出会い、あなたが疲れ切っていたとき、あなたの後方にいる、疲れ切ったすべての者たちに背後から襲いかかり、神を畏れることがなかった。あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。
アマレクに関する記述である。出エジプト記17章8節から16節の箇所が対応しているように見える。最後に「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」(出エジプト記17章16節)とあるところも対応しているが、引用箇所の記述とは食い違いがあるように思う。民数記24章20節に、バラムの託宣の中には「アマレクは諸国民の頭、しかし、その末はとこしえの滅びに至る。」とある。何らかの言い伝えが背景にあるのだろうが、裁判の公平さについて述べている箇所であることを考えると、不公平である。たとえ、イスラエルと戦ったときに、卑怯なことがあったとしても、その子孫の滅亡にまで、言及するのは公平さを欠く。神様の御心について少しずつ理解していっていると考えるのがよいのだろう。わたしも、もちろん、殆ど理解できていないのだから。
Deuteronomy 26:17,18 今日あなたは、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います」と明言したので、主も、今日あなたに向かってこう宣言された。「あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。
契約や、取引のようにも聞こえるが、本質は、関係構築なのかも知れないと考えるようになった。何年か前から「互いに愛し合う」ということばの「互いに」について考えてきたが、これは、愛が一方的なものではなく、関係構築のなかで生きたものとなることを言っているように思うようになった。背後に、一方的な神の愛があるのかもしれないが、それが認識されるのは、応答したときである。そして、信仰と呼ばれる、信頼関係が育まれる。引用箇所では、民のことばがまず書かれ、それに応答する形で、主の宣言がある。しかし、たんなる応答関係ではなく、それがより深い関係を生み出している。その中で、さらに、お互いに答えていくことで、互いに愛し合う関係が成立していくのだろう。これを、ひとと人との間で、なされることが、「互いに愛し合う」ことであり、その背後に「わたしがあなたがたを愛したように」があるように思う。弟子たちにとって、わたしがあなた方を愛したようにが、単に観念的なものではなかったように、わたしたちが、互いに愛し合う時にも、実態が存在するのだろう。
Deuteronomy 27:18,19 「盲人を道で迷わせる者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。
ここに「十二の呪い」が書かれている。十二の部族が揃い、レビびとが宣言している。引用句は、四番目と五番目である。六番目から九番目まで性的交渉について書かれていることが特徴的に見える。最後は「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」(26)で結ばれている。盲人は、障害者の代表的なものだったのか、それとも、盲人は特別だったのか。おそらく、不衛生な状態や、他の病気によって失明するひとが多かったのだろう。賀川豊彦の妻ハルも、病人の看病をしていて自ら疱瘡にかかり、片目を失明している。「寄留者・孤児・寡婦の権利」とある、尊厳が守られるべきだと当時から考えられていたことには、やはり驚かされる。互助・共助の精神が根強くあったのだろう。現代においても、その理解は十分とは言えないのに。そして、おそらく、配慮すべき範囲を理解し(心の中でも)拡大しながら、実際にその権利を守ろうとする営みは、現代においても、ひとの営みの中で、基本的なことなのであろう。
Deuteronomy 28:15 しかし、もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従わず、私があなたに今日命じる戒めと掟のすべてを守り行わないならば、これらのすべての呪いがあなたに臨み、あなたに及ぶ。
「もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。」(1,2)と対応している。最初の祝福(3)と呪い(16)も対応している。しかし、明らかに呪いが長い。ていねいに見ないと中身について書けないが、神様からの祝福が実感できる状態と、なにをしても報いられず、不安の中に暮らす呪いの生活が対比されているようだ。現世利益とも言える。しかし、もっと深いものを意味しているようにも思われる。これを聞いたひとには、よく通じるものだったのだろう。確かに、呪いの世界は、辛いと感じさせられる。現代的なことばで書くとどうなるだろうか。一度、書いてみたい。
Deuteronomy 29:23 また、あらゆる国民は言うであろう。「主はなぜ、この地にこのようなことをされたのか。どうしてこのように大いなる怒りを燃やされたのか。」
なんとあまりに先のことが書かれているように思われる。捕囚の時代だろうか。その時代の人は、これを読んだら、どう感じただろうか。まずは、偶像礼拝のことを思っただろう。実際、捕囚後の民は、神殿を失い、律法を中心とした宗教集団となっていった。偶像礼拝は、すくなくとも、バビロンからの帰還者たちのあいだでは、見られなかったようである。これらのことばがしっかり受けとめられたのだろう。しかし、それで、祝福へと向かうわけではなかったようである。もし、祝福の道を歩んでいたら、イエスは来られなくてよかったろうし、十字架にも掛からなかったろう。複雑な気持ちである。
Deuteronomy 30:14 その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。
引用箇所で「その言葉」と呼ばれる律法とは何なのだろうと考えた。この章には「そうすれば、あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から連れ戻し、あなたを憐れみ、あなたの神、主があなたを散らした先のすべての民の中から再び集めてくださる。」(3)と捕囚からの帰還についてまで言及されている。(レビ記26章40-45節にもある)どの部分をいつ、誰が書いたかまで考えると特定はおそらく不可能だろう。いずれにしても、モーセを神格化し、モーセが書いたことに権威をもたせる考え方には注意をすべきだろう。王国時代はソロモン以降神殿を中心に礼拝をし、その礼拝が宗教の中心であったことは、想像できる。しかし、捕囚以後は、律法が特別な意味をもったことは、十分考えられる。そこにはある程度の普遍性もあり、エルサレムで礼拝できなくても、信仰の継承が可能になる。そして、引用句はそれに言及していると考えられる。しかし、その中身はどうなのだろうか。引用箇所の前には「私が今日命じるこの戒めは、あなたにとって難しいものではなく、遠いものでもない。」(11)とあり、引用箇所は、ことばを書いて箱に入れ、体につけるようなこと(実際にそうしているユダヤ教徒が今でもいるようだが)によって物理的に近くにみ言葉を置くことは可能かもしれないが、その背景にある神様のみこころを行うことはそれでは不可能だろう。しかし、わたしたちに委ねられたことを受け取りたいものである。
Deuteronomy 31:10,11 そして、モーセは彼らに命じた。「七年の終わりごとに、すなわち負債免除の年と定められた年の仮庵祭に、イスラエルのすべての人々が、あなたの神、主の前に出るために、主の選ぶ場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人々の前でこの律法を読み聞かせなければならない。
七年に一度、律法を読み聞かせたのだろうか。創世記から申命記だろうか。律法を読み聞かせることは、七年毎かどうかは不明だが、続いたようである。しかし、聞くだけで理解できるのだろうか。ましてや、行うことはできるのだろうか。確かに聞くことは最初かもしれないが。こう考えるのは、わたしにとっては、通読も、礼拝での説教も、単にストイックに、我慢の時間だったことが多かったからである。それでも、続けたことによって、いまこのように、聖書のことばと毎日向き合える幸いを得ている。しかし、辛かった時期も長い。祭りのときに読まれる律法はどのくらい時間がかかったのだろうか。そのことの恵みに深く感謝しているわたしのようなものが読み続けたのだろうか。それは、おそらく迷惑なことだったろう。どうしたらよいかは、難しい。このときも、今も。
Deuteronomy 32:1-3 天よ、耳を傾けよ。私は告げよう。地よ、聞け、私の語る言葉を。私の教えは雨のように降り注ぎ/私の言葉は露のように滴る。/若草の上に降る小雨のように/青草の上に降る夕立のように。私は主の名を呼ぶ。/栄光を私たちの神に帰せよ。
モーセの歌(31:30)として語られている。引用句には「私」が多い。ひとりの人として、主について、主との関係について(天に向って)告白していると同時に、民(地)に語りかける形式をとっている。美しいことばが多い。モーセは、イスラエルを導いてきたことについて、この枠組でどんなことを考えていたのだろうか。そして、イスラエルを導いたのは、大雑把に言って、聖書によれば、80歳から120歳であるから、モーセにとって、自分の歩みは、家族のこと、若かった頃のことなどどう考えていたのだろう。それを聞きたい。自分がそのように、振り返るときだからかもしれないが。申命記記者の伝えたいことは「(この書に記録されたことが)あなたがたにとって空しい言葉ではなく、あなたがたの命(である)」ということなのだろう。残念ながらわたしには、そのようなものとしては、映らないが、いのちとして養われていることは否定できないのかもしれない。
Deuteronomy 33:1 これは、神の人モーセがその死に臨んで、イスラエルの人々に述べた祝福の言葉である。
4節に「モーセは私たちに律法を命じ/ヤコブの会衆のものとした。」とあり、モーセのことばとしては違和感がある。創世記49章に記されているヤコブ(イスラエル)の最後のことばと形式は対応しているのだろう。そちらは「後の日に起こること」(創世記49章1節)と書きながら、過去のことについても言及している。この箇所はどうなのだろうか。なにか「ルベンを生かし、殺さないでください。/その数が少なくなるとしても。」(6)が一番印象に残った。もう一つは意味がよくわからないことば「エシュルン」(32:15, 33:5, 26, イザヤ44:2 のみ、イスラエルの民の総称のひとつか?)である。それぞれの部族についての表現は、いずれていねいに見ていくことができるか不明であるが、おそらく、ある時点での実際とあまり変わらない状態が表現されているのだろうから、とても気になる。
Deuteronomy 34:10-12 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった。
モーセが特別だったことと、その理由が書かれている。「あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。」(18:15)は、神の臨在を直接的に経験することにより死ぬことがないため民ば求めたこととある。またこの箇所は、イエス預言として引用されることもある。引用箇所では、出エジプトをイスラエルの原体験として、特別なものとし、イスラエルを自由にするようにファラオなどの前で奇跡を行うことと、人々の前で恐るべき業を行うためとしている。しかし、問題も感じる。イスラエルにも、そして、人生にも、その後、様々なことが起こること。従い続けることが荒野でもそうであったように、もっとも困難であることである。その応答が律法であり、この書なのだろうが。

BRC2019

Dt 1:16,17 わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」
裁判人の仕事は「言い分をよく聞く」ことである。そして「裁判は神に属することだから」とある。ヨセフの兄たちへの言葉「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」(創世記50章19節より)を思い出す。恐れおののく。裁きは神に属する。手に負えないときに無理に判断してはいけない。
Dt 2:30 しかし、ヘシュボンの王シホンは我々が通過することを許さなかった。あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。それは今日、彼をあなたの手に渡すためであった。
「あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。」を理解するのは、困難である。「不可思議で、受け入れればよかったものを、そうしなかった状況をうけ」このようにしか表現できないとすることも考えられる。神からのメッセージには応答すべきという教訓を示すため。最後に、神は、意図的にそうすることによって、この民を滅ぼしたとする考え。最初の解釈が、いまは、しっくりくるが、正直わからない。
Dt 3:27 ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。
モーセは、なにを見ただろうか。渡っていっても、苦難があることを理解したかもしれない。同時に、約束を遠く見ることを許されるのは恵みでもある。「もうよい」(26)は、興味深い。わたしにも、そのように言ってくださるときが来るのだろう。それまで、歩続けよう。誠実に。
Dt 4:7 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。
「律法(正しい掟と法)を持つ民」(8)と続けて表現されている。しかし、引用箇所に目がとまった。「いつ呼び求めても」応えてくださる。ではない。「近くにおられる」神の臨在に恐れおののくとともに、そのことこそが、この上のない素晴らしさであることを、覚える。応答が受け取れなくても、近くにいることを素晴らしいとできるのは、なぜだろうか。本質的な答のみなもと、善いといえるものが、そこにおられるという信頼だろうか。それは、人を傲慢にもさせる。それが意図ではないにしても。
Dt 5:7 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
なにか排他的な感覚をもっていた。しかし、神を「いつ呼び求めても、近くにおられる」(4章7節)と表現するのであれば、他の神を求めることは、自ら混乱に陥らせることではある。それを、はっきりさせることが、約束、契約という構造なのだろうか。他に神があるかどうかは、ここで言っていないのだろう。あくまでも「あなたには」である。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(6)これは根拠なのだろうか。関係の起源なのだろうか。契約を示唆しているのだろうか。もう少し、丁寧に考え、理解したい。
Dt 6:24 主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
21節から25節は「将来、あなたの子が、『我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか』と尋ねるときには」(20)の答えとして語られている。自らの過去(21)、主の救い(22)、そして引用箇所が続き、最後に「我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」(25)と閉じている。「主の御前で」と「忠実」が心をひく。忠実、約束を守られる主の御前という、相互性が背景にあるのだろう。24節にまず、ひかれたのは、結局の所「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」ことに中心があるように思ったからである。報いよりも、幸いに生きることだろうか。「今日あるように、常に」と言えるのは、幸いな告白である。
Dt 7:7,8 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
「主の愛のゆえ」この一方的な選びと、ただ受け取ることだけを願う主の御旨。これが本質的である。普遍的なのかどうかは、まだ、結論が出せない。「受け取る」「答えてくれ」という応答性がまだよく理解できていないからだろうか。愛についてよく分かっていないからかもしれない。「主の愛」と書かれているだけではなく、主が愛されるという表現も、この箇所が初めてであるだけでなく、殆どない。(参照:イザヤ48章14節)「神の愛」は言葉としては、旧約聖書にない。そうであっても、申命記のこの箇所は、印象的である。
Dt 8:16-18 あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
興味深い記述である。荒れ野でマナによって養われたこと、それは、苦しみであることを確認して、その苦しみの意味を問うている。苦しみは神が与え、自分が努力して富を築き、幸せになったと考えることもあるだろう。しかし、ここでは、苦しみは、試すこと、そして、幸福にするためとある。主との関係を思い起こすことが命じられている。そして、背景にあるのは、主の忠実さであると。その主がどのような方かを思い、その方との関係の中に生きる、申命記記者が、どのようにして、こう考えるようになったかに思いを馳せる。確かに、捕囚後、捕囚帰還後までも、完成には時間がかかったのかもしれないとも、思わされる。そういう思考をまったくしないことを否定はしないが。
Dt 9:6 あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
「あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。」(4)から始まり「あなたが正しく、心がまっすぐであるから」(5)ではないとあり、それに続いて引用した「あなたが正しいので」があり、このあと、いかにかたくなであったかが、事例をあげて続く。主との関係において、自らをどのような者とするか。それが、主をどのようなものとするかとも関係しているのだろう。
Dt 10:12,13 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節)と比較すると、なにか大きな矛盾があるわけではないのかもしれないと思う。主を愛することと、戒めと掟の中心部分が新約で説かれていると考えられるのだろうか。しかし、かなり視点は異なると言わざるを得ない。イエス・キリストと、隣人に視点が移っている点である。幸いはどうなのだろうか。イエスにおける幸いは、幸いを得ると表現される、幸いとは、異なるように思う。幸福についても考えてみたい。正直よく分からないので。
Dt 11:14,15 わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
これが祝福の中身であることに失望する面もある。物質的な祝福であると。しかし、よく考えてみると、現代は、それを感謝して受け取っていない時代なのかもしれないと思う。タイの山地族の村で、フィリピンや、インドネシアのサービス・ラーニングで訪れた地域で、土地の人々の生活の中で感じる平安、しあわせと感じるもの。それは、しっかりと認めることが困難になっていることの再認識でもある。それは、受けていることが見えづらいとも言えるし、さらなる欲望が覆い隠しているとも言えるのかもしれない。幸せについて考えてみたい。
Dt 12:30 注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。
論理的には、先住民が「彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげた」(31)から滅ぼされたのだから「彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。」としている。しかし、それは、自らも滅ぼされることをも意味し、さらに、分離主義が重要な教理となる。共に、主の御心(幸いを得ながら感謝して生きること)を求める生き方、インクルーシブな生き方とは異なるように思われる。互いに愛し合うこととは、区別される。特に、あるサイズになり、交流が始まると、分離を様々な形で、確立する必要がある。わたしが望む世界ではないように思う。
Dt 13:6 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」(7)との密かな誘いに断固対峙し、そのような誘惑者を民から除き去るべきことがこのあとに書かれている。正当化されるのは「あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主」という事実だけだろう。この歴史的事実を普遍化することはできない。それをイエスの十字架上での贖罪に取り替えることで、普遍化の道を、キリスト教は歩み始めることになる。絶対化の原理かもしれない。それなしには、普遍化はできないのかもしれない。互いに愛し合うこともできないのだろうか。
Dt 14:1 あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。
正直驚いた。こんな表現があるとは。口語訳では「あなたたちの神、主の子供」(原語では:こどもたち・あなたがた・ヤーヴェの・神の)となっている。この表現は、ここだけである。そして「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。」(2)が続く。そして、食べてはいけないもの、収穫物の十分の一を献げることが書かれている。申命記著者は、ほんとうに、一歩踏み出していると思う。
Dt 15:1-3 七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。
凄いことである。しかし、ここには「同胞である隣人」と「外国人」の区別がある。おそらく、基本的に別れて住んでいることが前提とされていたのだろう。イエスの時代は、そうではない。この区別が「隣人」が「外国人」をも含む形で取り去られるのが、イエスの教えである。ルカ17章18節に「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」とある外国人は17節を見ると、サマリア人であることがわかる。そして、そのサマリア人が、逆に隣人となったたとえが、ルカによる福音書10章25-37節にあるのだから。ヨハネによる福音書14章22節のイスカリオテでない方のユダの質問にたいする、イエスの応答も思い出される。
Dt 16:4 七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。
過越祭、除酵祭については、出エジプト記12章、13章、レビ記23章、民数記28章に記述がある。詳細に調べていないが、引用した記述は、ここが初めてのように思われる。さらに「過越のいけにえを屠ることができる」(5)場所の規定が加わっており、これも、新しいように見える。この時点で「国中どこでも」という書き方や、神殿を想定する規定まで考えることは、これらの祭りの本質ではないとも思われる。祭儀とは、そのようなものなのかもしれないが、主の恵みを覚えるという本質的なところから、どんどん離れているようにも思われる。申命記は、一定の価値観で書かれているように感じる根拠、背景でもあるかもしれない。
Dt 17:15 必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。
王を立てること自体には、特別、問題も提示されずまず、外国人を王にしてはならないことが述べられる。捕囚帰還後の抵抗運動の一つの原動力になったかもしれない。エジプトに戻ること、馬を多量に持つこと、王が大勢妻をめとること、金銀を蓄えることを禁止し、律法を守ることが強調されている。捕囚の原因をこのようなものとしたのかもしれない。おそらく、世界情勢など、様々な背景があったと思われるが。
Dt 18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
このあとに「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」(18)とある。「わたしのような預言者」は使徒言行録3章22節、7章37節で引用されている。キリスト教において、重要なキーワードである。しかし「同胞の中から」とあり、直接、主の声を聞いて死ぬことがないためであること(16)が、語られ、預言者自身についての教えが続くことを考えると、特別な預言者と理解するのは、困難かもしれない。あまり「モーセのような」をどのようなことにおいて、類似性があるかに、こだわらないほうがよいのかもしれない。
Dt 19:19,20 彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。
このあとに「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」(21)と続く。偽証人について語られており、これがいかに重大であるかを、知らせるためのものである。偽証人は、おそらく、それほど重大なことではない、ことばを少し変えるだけと考えるだろうが、それが他者にどのような影響を及ぼすかを、知らなければならない。共同体への責任、神に対する罪が扱われている。しかし、見せしめ的な面が語られているのは、人間がいくら弱いから、必要だとは言え、違和感を感じる。
Dt 20:18 それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。
なぜ「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」(17)を一人も残しておかず、滅ぼすのかに、疑問を抱くのは当然である。10節からの一般論も、公平性、整合性を欠いているが「あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」(17)は、本当にそうか、疑問がでてくる可能性はたかい。そこで、理由として挙げられているのが、引用箇所である。これも、むろん、大きな問題がある。なぜ民全員なのかということ、なぜ、この民で、他の民には適用されないのかなどである。それは、神、主が命じられたことに、帰さざるをえない。それが神の命令だと確信したことについては、確信したひとに、責任を帰さざるをえない。それを乗り越えることは、イエス様で解決しているのだろうか。考えてみたい。問いの立て方が、ここに書いたほど、単純ではないのかもしれない。
Dt 21:18 ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、
この行き先は、民による処刑である。おそらく、最終手段で、長子の権利を軽々しく扱ってはいけないことが言われているのだろう。ここまで、言われたら、それを受け入れることは、非常に大きな責任を負うことなので。ここに、父、母と両方が書かれていることも興味深い。こどもの教育は、両親の責任である。
Dt 22:9-11 ぶどう畑にそれと別の種を蒔いてはならない。あなたの蒔く種の実りも、ぶどう畑本来の収穫も共に汚れたものとならないためである。牛とろばとを組にして耕してはならない。毛糸と亜麻糸とを織り合わせた着物を着てはならない。
なにを考えていたかを考えるのはある程度意味があるように思われるが、詳細を実行しようとすることは、空しいと思わされる。このあとの、男女の関係も、一人一人が、特に女性がたいせつにされているとは思えないからもある。正直、人間の律法の空しさだと思う。これこそ神の御心としていたことは、確かだろう。しかし、様々な状況について配慮がない、人間の愚かさでもある。すべてこれが完全な神の御心だとすると、多くの他のことについてなぜ書かれないで、このことのみが書かれるかにも、疑問が生じる。せめて、これらが記録された背景を考えたい。
Dt 23:20,21 同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。
なんとも悲しい差別である。しかし、貸すことを、善意に基づくこととしていたのかもしれないとは理解できる。それを、利得を得ることに変更してはいけない。むろん、そのことも、規定とすることには、問題があるが。
Dt 24:18 あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
22節にも似た表現がる。エジプトで奴隷であったことが、繰り返し述べられていることが、申命記の特徴であるように思われる。それを思うことで、他者に対する生き方について、様々なことが教え、命じられる。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。」(17)「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」(19,20)などである。他者に目をむけることは、自分に目を向けることかもしれない。それだけではなく、やはり命令なのだろうか。
Dt 25:1 二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。
このあとに「もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合」として裁判人の責任が述べられている。刑が実際に執行される場所にも立ち会わなければいけない。重さを感じる。責任をとることでもあるかもしれない。自分が神の業に関与したことを最後まで見届け、それでよかったかを問うと共に、神を畏れることだろうか。
Dt 26:11 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。
5節から献げるときの口上が書かれている。自らがどのようにしてここに至ったか、神が「力ある御手と御腕を伸ばし」(8)エジプトから導き出され、この土地を与えられたことである。共に祝うのが、レビ人と、寄留者とある。その感謝に、寄留者も含まれることが興味深い。経験していない、ルーツを異にするものとも共有する喜びは、そのひとにも違ったルーツから、神を賛美することに導くこともあるのかもしれない。
Dt 27:9 モーセは、レビ人である祭司と共に全イスラエルに向かって告げた。イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。
このあと15節から、交唱が続く。偶像をつくったり、拝んではいけないこと、父母を軽んじてはいけないこと、盲人を道に迷わせてはいけないこと、寄留者など弱者の権利をゆがめてはいけないこと、性的倫理を犯してはいけないこと、隣人を虐げ、賄賂を取ってはいけないこと。儀式ごとに、思い出されると言うことだろう。
Dt 28:13 わたしが今日、忠実に守るように命じるあなたの神、主の戒めにあなたが聞き従うならば、主はあなたを頭とし、決して尾とはされない。あなたは常に上に立ち、決して下になることはないであろう。
この章には、祝福と呪いが書かれているが、圧倒的に、呪いが長い。注意を促すことが目的であろう。同時に、因果応報・信賞必罰は気になる。わかりやすい教えが、全員に語るときは重要であるにしても。引用箇所は、「頭」と「尾」、「上」と「下」について書かれていて驚いた。そして、この句が祝福の最後である。このメッセージで「頭」「上」などは、何を意味していたのだろうか。支配階級などということよりも、だれにも制約されず自由を持って神に仕える者と、奴隷の身分で、常に制約のもとで、生活する者の違いだろうか。その精神的な類似だろうか。
Dt 29:28 隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。
殆どの事柄は隠されているとわたしは認識している。それでよいのだろう。申命記記者も同じことを考えていたのかもしれない。啓示されたことそのことは、我々に託され、責任をもつとともに、隠されていることは、託されておらず、責任をとらなくてもよいのだから。謙虚に、達し得たところに従って生きていきたい。
Dt 30:6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
「心に割礼を施」すとある。「心に割礼のない」という表現でエレミヤ4章25節、「心に割礼を受けず」とエゼキエル44章7,9節にある。正確には何を意味するか分からないが、悔い改めによって立ち返ったものが「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができる」ことが約束されている。一旦神から離れ、立ち返ることが、必須なのだろうか。
Dt 31:14,15 主はモーセに言われた。「あなたの死ぬ日は近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、共に臨在の幕屋の中に立ちなさい。わたしは彼に任務を授ける。」モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、主は雲の柱のうちに幕屋に現れられた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。
「ヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つ」ことが書かれている。共に、神の臨在体験をすることである。民の前での任職については民数記27章12節から22節にあるが、ここは、少し異なる。ヨシュア(ホシェアから改名:民数記13章16節)はエフライム族(民数記13章8節、歴代誌上7章27節)であることを考えると、信じられないことでもある。レビ以外のひとが臨在の幕屋に入るのだから。なぜそのように記録したか、その意図についても考えたい。
Dt 32:19,20 主はこれを見て/御自分の息子、娘への憤りのゆえに/彼らを退けて、言われた。わたしは、わたしの顔を隠して/彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代/真実のない子らだ。
「彼らを退け」としており「わたしの顔を隠して」ではあるがやはり「彼らの行く末を見届けよう。」としている。親の愛を感じる。何にでも手を出すことが愛ではない。距離を取りながら、見守る愛もある。興味深い。
Dt 33:6 ルベンを生かし、滅ぼさないでください。たとえその数が少なくなるとしても。
ルベンだけでなく、ガドとマナセの半部族も、外敵の侵攻で、最初に消滅する部族である。しかしその中でも、ルベンが象徴的に扱われる。ヨルダン川東岸を嗣業とする、ガドとマナセの半部族のその後についても、もう少し理解したい。いずれにしても、ここで、引用箇所は、十二部族の一つとして残ることを願って祈っている。この申命記が書かれた時代とも強く影響するように思われる。何が想定され、何が理解されているのだろうか。
Dt 34:10-12 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。
申命記の最後である。重要な幾つかの点について書かれている。(申命記が書かれた時点までだろうか)「再びモーセのような預言者は現れなかった。」こと。さらに、モーセは「主が顔と顔を合わせて彼を選び出」したこと。その理由として挙げられているのが「エジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるため」と「全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すため」とある。イスラエルの前でなした業・出来事は明確には書かれていない。不思議と神の言葉については書かれていない。不出の預言者の理由は、奇跡であるようなイメージをうける。

BRC2017

Dt 1:9 そのころ、わたしはあなたたちに言った。「わたしは、ひとりであなたたちの重荷を負うことはできない。
リーダーシップは、代表の責任はどのように考えたら良いのだろう。合理性と機能を高めることを求め、このときのように、部分統治へと組織化することもひっつようだろう。互いに愛し合うそのようなコミュニティにおいて、仕え合うことをどのように実現したらよいのだろう。北欧の政府など学んでみたいことがいくつかある。同時に世界がどのようにして行ったら良いのかも考えたい。世の中の不合理は簡単には、対応できないモンスターになってしまっているから。祈りつつ。
Dt 2:24,25 「立ち上がって進み、アルノン川を渡りなさい。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に渡した。シホンに戦いを挑み、占領を開始せよ。 今日わたしは天下の諸国民があなたに脅威と恐れを抱くようにする。彼らはあなたのうわさを聞いて、震えおののくであろう。」
実際には、このあと、通過許可を取ろうとする記述もあり(27-29)、これはその後の概要であることが分かる。そして次に書かれていることも、あとで考えるとそのようなものだったと告白しているのかもしれない。歴史的に、どのような事実が背景にあるのだろうか。興味がある。
Dt 3:12,13 我々はそのとき、この地域を占領したが、わたしはアルノン川沿いにあるアロエルからギレアドの山地の半分、およびそこにある町々をルベン人とガド人に与えた。 マナセの半部族には、ギレアドの残りの地域と、オグ王国のあったバシャン全土、すなわちアルゴブ全域を与えた。――バシャン全土はレファイム人の国と呼ばれていた。
あまり今まで考えていなかったが、モーセのもとで、獲得した場所がこの土地だったと言うことになる。モーセは、約束の地には入れなかったが、約束がかなえられつつあることを、この経験から確認できたのかもしれない。ヨルダンの東側の地域は、最初の失われ、ルベン族などは、最初に消滅することになるようだが。どこまで分かっているのだろうか。おそらく、記録はこの聖書以外に、殆どないであろう。
Dt 4:39,40 あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。
ヨハネだけではなく、新約では「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)というイエスを通して示された愛が、論拠である。申命記の引用した箇所だけではなく、旧約では神が偉大であるからということだろうか。出エジプトを示して、イエスによる購いとの並行性を示すこともできるが。
Dt 5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
「我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。」(2節)にあるように、契約集団だと規定している。主人(あなた)が休むことのあとで、家族も、奴隷も、家畜も、寄留する人々も同様としている。最後に、奴隷については、あなたと同じように休むことができると締めくくっている。「奴隷の家から導き出した神」(6節)としていることも、関係しているかもしれない。契約団体については、やはり十分には理解できていない。これからの、大学を考える上でも、さらに深く理解したい。
Dt 6:10-12 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。
「自ら建てたのではない」「自ら満たしたのではない」「自ら掘ったのではない」「自ら植えたのではない」と同様のことが4項目続く。単なる幸運と見ることを意味しているのだろうか。いずれにしても、これは持続可能なものではない。根源的なこと、ここでは「奴隷の家から導き出された主」と表現されている方を忘れるなとなっている。基本的な構造は契約となっているが、背景には、恵みと言われるものがあるように思われる。共観福音書、ヨハネによる福音書からは、違った印象をうける。どう考えたら良いのだろう。
Dt 7:6,7 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
この前には「聖絶」とも呼ばれる滅ぼし尽くせとの命令がある。宝の民とされたことに関するある神学と信仰告白があるのだろう。引用した箇所で述べられているのは「(神が主権的に、神の)宝の民」とされたこと。それが「(他の民と比較して)多かったからではなく、貧弱であった」(恵みとしか表現できない)という点である。ご自身の栄光のためにと言っているのかもしれない。これに「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」(8節)と二つの理由が続く「愛(agape)」と「契約に対する忠実さ(pistis)」である。この点において、旧約と新約の継続性があると言うことなのだろう。ローマ1:17で引用されている「正しい者は信仰によって生きる」の信仰は単純に「ひと」の信仰ではなく、神の忠実さに信頼する相互関係なのかもしれない。
Dt 8:5 あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
訓練は、なにか目的がないと、耐えることはできない。神のいのちに生きることのためには、理解できるが、その素晴らしさが理解できない場合はどうなのだろうか。自分の不十分さと、成長のためだろうか。苦難をどう受け取るかの問題でもあり、簡単ではない。永遠のいのちに生きる者でありたい。
Dt 9:4 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
ここから5節、6節と三回、正しいからではないことが繰り返されている。また、この国々の民が逆らうから滅ぼすのであることが、5節にも繰り返されている。このことは、逆らえば、同じようになる可能性があることを示しているともいえる。さらに、6節には「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。」とあり、どのように理解したら良いかは簡単ではない。恵みとしか表現できないものがあることは別として、やはり、神のあわれみと、裁きをどう考えるかは、単純ではない。
Dt 10:12,13 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
神との関係が明確に示されている。人との関係は、戒めと掟にかかっており、主が求めていることとは、区別されている。しかし、神を愛することは、掟を守ることとも関係しているのだろう。主を畏れること、主を愛すること、主に仕えること、主の戒めを守ることの関係と実質的な意味についても考えたい。正直よくわからない。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15章15節)
Dt 11:26 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
このあと「主の戒めに聞き従うならば祝福を、 (中略)他の神々に従うならば、呪いを受ける。」(27・28節)となっている。二択で結果が書かれているので、逆にたどることができる。と考えるのは論理的に自然である。すなわち、祝福されている人は、良い人、呪われているような人生を送っている人は悪い人。非常に危険だけでなく、神が求められることとも異なっているように思われる。人はこの考えの呪縛から逃れられない。引用した聖句のように言う自然さと同時に、帰結についても、注意深く配慮しなければならない。
Dt 12:25 それを食べてはならない。こうして主が正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫も幸いを得るであろう。
「それ」は血である。ここではその理由は述べられていない。そのかわりに「主が正しいと見なされること」という表現が用いられている。他に Dt 13:19, 21:9 で用いられているが、他の書には見られない。28節には「わたしが命じるこれらのことをすべて聞いて守りなさい。こうして、あなたの神、主が良しとし、正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫もとこしえに幸いを得る。」との表現もあるが、「主が良しと」するという表現も、ここだけのようである。似た表現の「主の目にかなう正しい」は、列王記と歴代志の表現のようだ。わたしも、無造作に使っていたように思われる。
Dt 13:19 あなたの神、主の御声に聞き従い、わたしが今日命じるすべての戒めを守り、あなたの神、主が正しいと見なされることを行いなさい。
申命記は特に、主との契約関係が強調されている。この契約の中にない人については十分な世界観が述べられていない、または考察されていないが、それを批判するのは、本質から離れているかもしれない。「ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(ヨハネ21章21節・22節)「あなたは、わたしに従いなさい。」なのだから。
Dt 14:28,29 三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、 あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。
「十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、」(申命記26章12節)とあるが、モーセ五書で「三年(目)」ごとの記述があるのはこの二回である。26:12 では不明確であるが、引用箇所では、「その年の収穫物の十分の一」となっており、全体としては「三十分の一」となる。これでは、レビ人は、生活が苦しかったのではないか。十二分の一よりは数は少なかったようだが。レビ人以外に「町の中にいる寄留者、孤児、寡婦」のことが書かれていることも注意をひく。このことが祝福のもととなっている。この制度については、もう少し考えたい。
Dt 15:1,2 七年目ごとに負債を免除しなさい。 負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。
「主が負債の免除の布告をされた」ことが理由である。「赦す」ことと「負債の免除」はつながっているのだろうか。負債のもとのあるものには、自由はなく、奴隷状態である。そのような状況に陥ることはあるとしても、継続してはいけないと言うことだろう。とても重い。
Dt 16:6 ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。
エジプトを出たのが夕方であることは、ここにしか書かれていないように思われる。すると、他に記録があったか、伝承があったかなども考える。「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)の死の時間も考えるが、何より、夕方に出発して、次の日が安息日では困るだろということである。安息日はまだ定められていないとしても、夕方では遠くまではいけない。集合しただけなのかもしれない。いろいろと考えさせられる。
Dt 17:12,13 あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司あるいは裁判人を無視して、勝手にふるまう者があれば、その者を死刑に処し、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。民は皆、これを聞くと、恐れを抱き、もはや勝手にふるまうことはないであろう。
おそらくこのような統制は必要なのだろう。しかし「恐れ」はやはり「愛」を妨げるある種の対極にあるようにも思われる。しかし、社会システムを考えたときに、無視して考えられないことのように思われる。
Dt 18:15-18 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。 このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。 主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
15節は、旧約預言者およびイエスに関係する有名な箇所であり、少し長く引用したい。16節にはその背景が述べられ、17節には主がそれを支持したことが書かれている。このあとには、偽預言者とその見分けかについても書かれている。モーセ以降の枠組みがこれで規定されているともいえる。しかし、福音の立場、さらには、プロテスタントの考え方とは、異なっている。現代における、教育をどのように位置づけるかにも関係している根本的な問題だとも感じる。
Dt 19:15 いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。
司法についての基本が書かれている。逃れの町、厳正な処罰などとともに、複数証人による認定である。二人ないし三人は、複数であることを述べると共に、三人という原則に縛られすぎてはいけないと述べているのだろうか。
Dt 20:1 あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである。
このあとには「あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」(4節)としている。「主が共におられること」そして「主が共に進み、敵と戦って勝利を賜る」ことは、どのように理解されていたのだろう。続いて従軍免除規定が続く。主からの恵みを十分受け取ること、その日常があってはじめて、戦いにおいても、主がおられることを見ることができるのだろう。しかし、普遍性をここにみることはできない。相手も同様に主が共におられることを信じて戦う人たちがいると考えるからである。そして、勝利を得ないかもしれない。その中でも主をあがめること、その根拠は何だろうか。それは、主が共におられる日常であろう。すべて普遍性で解釈できないとすると、このときのイスラエルを特殊な使命をあたえられたものと位置づけることだろう。しかし、このことを絶対化することはやはり人間にはできない。
Dt 21:22,23 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。 
新約においても「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3章13節)と引用されている箇所でもある。この章でこの記事の直前に死刑宣告について書かれているのは「放蕩息子」の処刑である。(18-21節)この放蕩息子の呪いをも引き受けられたのがイエスなのかもしれない。申命記でのつながりは明確ではないが、考えさせられる面がある。
Dt 22:23,24 ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
判断が困難な状況である。女性が声を上げることは、町の仲でも困難であろう。むろん、この意図から、声を上げられる状況にあるにもかかわらずととることもできる。運用は常に、難しい。それ以上に、この状況での石打ちは、現代ではあり得ない。そのことは、どうなのだろうか。神が許容されているとみるべきか。旧約時代の社旗状況の上での守るべきルールと解釈すべきか。背景には、婚約という神と会衆の前での約束があるだろう。それを軽々しく考えるとすると、やはり問題ではある。しかしそうではあっても、どうなのだろうか。私には裁けない。
Dt 23:8,9 エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである。彼らに生まれる三代目の子孫は主の会衆に加わることができる。
この条項だけで会衆に加われることを意味していたのだろうか。そうすると、エドム人とエジプト人に限ってはいても、民族性が極度に強いユダヤ教の背景を考えると、やはり驚かされる。しかし、この後半は何を意味しているのだろうか。三代目にならないと加わることができないということだろうか。近隣地域との交流は想像以上に活発であったろう。異なる民族の人たちとどのように関わっていたかはとても興味がある。
Dt 24:18 あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
22節にも似た少し短い文章がある。様々な規定があるが、正確には確認していないが、すでに書かれていることに多少の解釈が付されているように思われる。いずれ調べてみたい。しかし「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」(5節)はここだけに現れるように思われる。新妻を喜ばせることは、家のためと結びつけられているように思われる。そうであっても、妻をめとることが共同体として重要視されていたことを物語っているように思われる。現代では、新婚旅行の休暇以外は、ほとんどなにも配慮されないであろうから。大切なこととされなければ、個人的にも軽視されていくのではないだろうか。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」(16節)を見ても、家と個人の関係について、もっと学びたいと思わされる。ある価値観を緩やかに共有する共同体をどう考えたらよいかも含めて。
Dt 25:17,28 あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。 彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。
「エサウの息子エリファズの側女ティムナは、エリファズとの間にアマレクを産んだ。以上が、エサウの妻アダの子孫である。」(創世記36章12節)アマレクは、エサウの子孫として記されている。アマレクとの戦いは、出エジプト記17章と、民数記14章にあるが、おそらく民数記の記述に関係している者と思われる。「山地に住むアマレク人とカナン人は山を下って彼らを撃ち、ホルマまで来て彼らを破った。」(民数記14章45節)斥候の報告からエジプトに帰ると主張、荒野に40年いることになるとモーセが告げ、それにも従わず戦いに行った部隊の結末である。解釈が難しいだけでなく、詳細は書かれていない。別の記録や伝承があったのだろうか。理解は難しい。
Dt 26:3 あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。
初物を献げるときの規定である。これは、単に、カナンに入って最初の収穫物だけではなく、その後も続いたのではないだろうか。自分の過去を振り返り謙虚になることが述べられているのだろう。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。」(5節)はそのことをよく表現している。「滅びゆく一アラム人」は印象的な言葉である。アラム人はパダンアラムのラバンについて創世記(25章、28章、31章)で使われているが、あとは、サムエル記下になるまで使われていない。このあとの記述を強調すると、神に聞き従うという条件とは関係なく、優越性を考えるようになるのだろう。
Dt 27:1 モーセは、イスラエルの長老たちと共に民にこう命じた。今日、わたしが命じるすべての戒めを守りなさい。
命令ではあるが、契約でもある。このあと、このことを覚えるために、「大きな石を幾つか立て、しっくいを塗り、」(2節)「その上にこの律法の言葉をすべて書き記しなさい。」(3節)と命じられている。さらに「自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。 また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。」(6節・7節)律法を覚え、これを守り、献げ物をし、神との関係のうちに生きる。これも、神の心を心とすることにつながっているのだろう。
Dt 28:34 あなたはそのような有様を目の当たりにして、気が狂う。
呪いが明らかに長い。むろん、それは警告であろう。しかし、やはり祝福と呪いは気になる。二項対立であれば、逆も必ず真になってしまうから。むろん、’警告の意図は別にあるだろうが。
Dt 29:2 あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。 主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。
このあと5節には「それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。」とある。どのようにつながっているのだろうか。理解したらよいのだろうか。福音書を読んでいると余計に考えさせられる。
Dt 30:6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
こころに割礼を施されたは何を意味ししているのだろうか。単に、聖別されたということだろうか。心から神の民となると言うことだろうか。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」(11節)とあるように、求めることができるようになることだろうか。考えさせられる。
Dt 31:29 わたしには分かっている。わたしの死んだ後、あなたたちは必ず堕落して、わたしの命じた道からそれる。そして後の日に、災いがあなたたちにふりかかる。あなたたちが主が悪と見なされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」
この発言は辛く聞こえる。モーセはこれをどのように受け入れたのだろうか。主への信頼だろうか。自分の責務は果たしたと言うことだろうか。簡単には、言えないだろう。おそらく、様々な思いが交錯していただろう。ヨシュアへの信頼も含めて。そこに真実がある。
Dt 32:19,20 主はこれを見て/御自分の息子、娘への憤りのゆえに/彼らを退けて、 言われた。わたしは、わたしの顔を隠して/彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代/真実のない子らだ。
「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。」(5節)とともに、神の子が神の子ではなくなることが書かれている。8節も参照。特にこの章では、モーセの言葉と、神の言葉が明確には区別されていないように思われる。46節・47節においてもそうである。モーセは、神の子としての意識が十分あったのだろう。そしてそれは、御心に従う、御心を求めて生きることに結びついている。それが切れてしまえば「もはや神の子らではない。」主の言葉を思い出す。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節、マルコ3章35節、ルカ8章21節)
Dt 33:4 モーセは我らに教えを授け/ヤコブの会衆の受け継ぐべきものとした。 
この章は「これは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉である。」(1節)と始まる。その中に「モーセは我らに」とあるのは、不自然である。モーセから受け取ったものとして語られているのかもしれない。各部族について語られている部分は、創世記49章と似た形式をとり、継続性も一部あるように思うが、内容的にはかなり異なり、かなり公平に感じる。比較してみることができれば面白いように思われる。この部分は、モーセではなく、民が編集したものなのかもしれない。むろん、ずっと後代のものとする見方もあるわけであるが。
Dt 34:4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
「目で見るが、そこに渡っていくことはできない。」これがモーセが受け入れたことなのだろう。モーセの謙虚さの表れでもある。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、」(10節)とあるが、主の心を心としたという点において、傑出していたと言うことだろう。イエスが現れるまではとするのが、新約、特に、ヨハネによる福音書の見方なのかもしれない。

BRC2015

Dt1:37主は、あなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。「あなたもそこに入ることはできない。
ひとは、自分の罪の故だけで裁かれるべきなのかも知れない。でも、モーセはまさに民と一体となって、とりなしをし続けていたようにも思われる。その意味で、自分を民と分けるのは、モーセにとっても祝福とは言えないだろう。民とそして民を愛される神を愛する、それゆえに、このさばきはすでに自分か民かという区別なくされているのかも知れない。
Dt2:27-29 「領内を通過させてください。右にも左にもそれることなく、公道だけを通ります。 食物は金を払いますから、売って食べさせ、水も金を払いますから、飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです。 セイルに住むエサウの子孫やアルに住むモアブ人が許可してくれたように、ヨルダン川を渡って、わたしたちの神、主が与えてくださる土地に行かせてください。」
エドムとモアブについての評価がこれでよいのかわからない。聖書には他の記述もある。また、アモリ人に関して、まずこのように「友好使節を送って」(26節)依頼をしたことを書くことがどのような意味合いを持っているのか、どの時代の背景のもとで書かれているのか、不明である。もう少し勉強してみたい。24節にある「立ち上がって進み、アルノン川を渡りなさい。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に渡した。シホンに戦いを挑み、占領を開始せよ。」は、結果を最初に書く、または後から真実として告白する技法だろうか。
Dt3:21,22 わたしはそのとき、ヨシュアに命じた。「あなたたちの神、主が二人の王に対してなさったことをすべて、あなたは自分の目で見た。主は、あなたがこれから渡って行くすべての王国にも同じようにされるであろう。 彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。」
ヨシュアにこの勝利を見させて、主が戦って下さる信仰を確かなものにするためだったと言っているのだろう。この章ではいろいろな解釈が現れる。それが神のみこころそのままかどうかは別として、この内省が申命記記者の信仰告白につながっていることは確かだろう。
Dt4:12 主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。
1:3では「第四十年の第十一の月の一日」となっており、この時点では、実際のホレブでの顕現を経験したものは、モーセ、ヨシュア、カレブしかいない筈である。しかしそれ故に、この世代にさも経験したように伝える事が重要だったのかも知れない。
Dt5:1 モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。
聞いたことを受け取り、学び、忠実に守ること。学びは単に覚えることだろうか。ラマッド(lamad: to learn. teach, exercise in)4:1, 5, 10, 14 などでは教えることに使われている。どのような単語なのだろう。5:31「しかし、あなたはここにとどまり、わたしと共にいなさい。わたしは、あなたに戒めと掟と法をすべて語り聞かせる。あなたはそれを彼らに教え、彼らはわたしが得させる土地においてそれを行う。」この「教え」である。Gesenius' Hebrew-Chaldee Lexiconによると “to chastise, especially beasts of burden, hence to discipline, to train cattle, recruits for war” これが最初の意味のようである。
Dt6:4,5 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
愛するは ‘ahab で to love. Gesenius' Hebrew-Chaldee Lexicon  によると “to desire, to breathe after anything, to love, to delight in anything, in doting anything” もう少し調べたい。to breathe after anything とはどんな事だろう。hab の部分が息を表しているようだが。
Dt7:8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
6節には「主の聖なる民」「御自分の宝の民」という表現がある。さらに7節には「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」しかし、主となる部分は、民の資質ではなく、そしてどのような民にされたかではなく、それが神の一方的な選びと約束を守られる神のご性質によるということだろう。それをむりに、ひとの側の基準に引き寄せて考えてしまうところに問題がある。ここに自己中心があり、われわれが学ばなければいけない点がある「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」(7:9)
Dt8:17,18 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
この章には、単純だが、神様のみこころをもとめる信仰者としてアーメンと唱えたい言葉が多い。「富を築く力をあなたに与えられたのは主」はその通りである。そうであるのに、なぜ、自分を誇ってしまうのだろう。見ることができる範囲が狭いからだろうか。今日、一日、謙虚に生きたい。
Dt9:6 あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
1, 2節ではこれから清風仕様とする民について語り、3節では戦われるのは主であることが書かれている、4, 5, 6 と「あなたが正しい」からではないことが三度繰り返され、4, 5 と二度「この国々の民が神に逆らう」から追い払われることが書かれている。そして5節にはこれは「主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされる」のだとしている。この節はそれに続いている。勘違いして傲慢になってしまうのだろう。ひとは何と弱いことか。
Dt10:19 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
このことばは16節の「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。」に続いて神の性質が書かれたことに続けて書かれている。「心に割礼を受けよ」ということは、何を意味しているのだろうか。かたくなにならず、神のこころをこころとするものにかえられること、それが寄留者を愛することにもつながっているのか。
Dt11:11,12 あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。 それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。
土地自体が「良い」のではないのかもしれない。「主が御心にかけ」てくださっていることが重要なのだろう。
Dt12:18 ただ、あなたの神、主の御前で、あなたの神、主の選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に食べ、主の御前であなたの手の働きすべてを喜び祝いなさい。
この章でまず注意を引くのは8節の「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。」でありこれは28節の「わたしが命じるこれらのことをすべて聞いて守りなさい。こうして、あなたの神、主が良しとし、正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫もとこしえに幸いを得る。」と呼応している。この間にエルサレムの神殿を指すと思われる「主の選ばれる場所」の特殊性が語られており、この18節がある。問題点も感じるが、エルサレムに行って食するときも「町の中にする」人たちが「共に食べ、主の御前であなたの手の働きすべてを喜び祝いなさい。」というメッセージは印象的である。神の国での宴会の先取りと考えると、様々なイメージが湧いてくる。
Dt13:4 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。
現代に移し替えるとこのことは極端に難しい。どのように、ひとりの信仰者が神の声に聞き従っていったらよいのだろうか。主が別の方法で試みておられるように思う。マタイ24:12「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」
Dt14:21 死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。
なにか異様な感じもする。主の聖なる民は、聖と俗、清いものと、汚れたものに常に注意を払わなければいけない、その意味で選びの民だということか。清くないものが絶対的に悪いのではないことを伝え、教育目的であることを述べているのだろうか。しかし何回か書かれている(Ex23:19,34:26)この最後のフレーズも唐突である。苦痛を感じやすい例証をもって、そのようなことをしてはいけないと告げているのだろうか。もっとよく理解したい。
Dt15:18 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、厳しくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍も働いたからである。あなたの神、主はあなたの行うすべてのことを祝福される。
このような感覚が人には教えられない限り欠如しているとも言える。世界人権宣言2条1「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」このことも、一つ一つ学ばないと、十分理解できないのだろう。序文の最初にあるように「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」まったく、その通りである。これを脅かしてはいけない。
Dt16:4 七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。
まさにこれが除酵祭といわれる所以で、徹底的に、酵母を除いたのだろう。しかし、祭りが終わってからどうしたのだろうか。ある形式で保存されたものは良いとされたのだろうか。現在でも行われていることを考えると調べればわかるはずである。祭りの初日の夕方は、二日目の直前と言うことであろうか。何曜日なのかもしりたい。金曜日だろうか。土曜日に屠るのは困難であるように思われる。
Dt17:18,19 彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、 それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。
ていねいに「原本からこの律法の写しを作り」とある。31:24にある「モーセは、この律法の言葉を余すところなく書物に書き終えると」とあるこの書物をさしているのだろう。これがモーセ五書ということばの由来かもしれない。王がこのように学ぶことに関しては、とても興味深い。
Dt18:15,16 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。
15節の理由が16節に書かれている。今も同じなのだろうか。聖霊によって直接語られると解釈するのだろうか。では、祈りはどうだろうか。当時は、祈りは何だったのだろうか。いまは、それをどう解釈すべきなのだろうか。こんな簡単なこともわからない。考えてみたい。
Dt19:16-19 不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
イエスの裁判を思い出す。公正を期すには、この規定では不十分である。
Dt20:16-18 あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。 それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。
あとから人が考えた理由付けだと言えない事もない。しかし、聖書の記述として考えると、主権が神にあること。神にしか判断できないことがあること。不完全であっても、われわれが、このようなことを行うことを主が命じられることがあることを、その理不尽さもふくめて受け入れることだろうか。まだわたしには、わからない。
Dt21:22,23 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。
ガラテヤ3:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」の引用箇所。十字架刑のあとを思い出すが、ここでは「死体」をとある。死ななければ、十字架に架けたままにしておくことはできたのか。とすると、他の囚人も足をおって、十字架からおろしたのは、途中で死ぬことが無いためだろうか。よくわからない。十字架は消耗刑。
Dt22:12 身にまとう衣服の四隅には房を付けねばならない。
これも唐突にでてくる。不可解であっても、霊的に適切に生きなければならないと言うことだろうか。本当に分からない。
Dt23:25,26 隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。 隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。
これは、共同体としての意識を持つためだろうか。すくなくとも、これで生活することは難しく、何らかの他の救済方法が必要である。
Dt24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。
文脈からも、ある社会的状況での、妻の保護を説いている箇所である。これを離婚して良いととるのは、明らかに誤り。
Dt25:13 あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。
自分をさばくはかりと、相手を裁くはかり、ひとはどれほど弱いのだろう。この節はそのことを教えている。
Dt26:5 あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。
告白を強いられているようにも読めるが、同時に、この事実を忘れてしまい、高慢になることを誡めているのだろう。われわれひとり一人にかかわる真実がある。取るに足らないもの。しかし、それだけでは終わらない。われわれが、神の恵みをどのように生きるか。それが問われている。
Dt27:3 あなたが川を渡ったとき、その上にこの律法の言葉をすべて書き記しなさい。こうしてあなたは、あなたの先祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主が与えられる乳と蜜の流れる土地に入ることができる。
口語訳は、異なる文章構造になっているが、原語をみると、この新共同訳の順序になっている。まず、律法のことばを書き記す。これが、約束の地に入る前提として確認されている。
Dt28:67 あなたは心に恐怖を抱き、その有様を目の当たりにして、朝には、「夕になればよいのに」と願い、夕には、「朝になればよいのに」と願う。
この章は、祝福と呪いが書かれている。祝福も呪いもわたしの望むもの厭うものとは異なるが、当時のイスラエルの人たちには、適切なものだったのだろう。呪いの記述の最後の方にこの節がある。生かされていることが辛いと感じる者の気持ちがよく表されている。このような状態のひとは多いのではないだろうか。このようなひとにどのように希望が与えられるのだろう。それを知りたい。
Dt29:24,25 それに対して、人々は言うであろう。「彼らの先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出されたとき結ばれた契約を、彼らが捨て、 他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたこともない神々にひれ伏したからである。
ここに集約されている。イエスの教えとはかなり異なるようである。しかし、イエスの言葉に留まることを考えると、その意味では同じだのだろうか。あまりこのレベルで理由を問わない方がよいように思われる。具体的な目の前の事象、たとえば苦しんでいる人とどう向き合うかを考えたい。
Dt30:15 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
イスラエルの民は、神が御言葉をごく近くに置いて下さった民だとも言うことができる。それを行うことができるとここでは言っている。その御言葉の意味がわからないと、文字から離れられなくなるのではないだろうか。それが律法主義となる。そのときあかしをしてくださったのがイエスであり、われわれに悟らせる聖霊だろうか。
Dt31:2 こう言った。「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。
モーセは、自分の限界も、自分の使命の終わり方を知っている。わたしもこの様でありたい。しっかりと引き継いでいくためにも。
Dt32:39 しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。
これを事実と受け取ることもできる。同時に、ある時代のイスラエルの人たちの信仰告白と取ることもできるし、モーセまたはある指導者たちのメッセージと取ることもできる。いずれにしても、何らかのメッセージを読み取るべきだろう。強く感じるのは、神の主権、その主権を持つ神である。いくら神の側がわれわれに近づいて下さっても、このことを無視することはできないというメッセージにもとれる。
Dt33:26 エシュルンの神のような方はほかにはない。あなたを助けるために天を駆け/力に満ちて雲に乗られる。
エシュルンは 32:15, 33:5, 26, イザヤ44:2 だけに現れる。Jeshurun = "upright one”, a symbolic name for Israel describing her ideal character, a tender and loving appellation of the people of Israel. 語源などは不明である。イスラエルの民を表すと考えるのは、おそらく誤りでは無い。
Dt34:10 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、
このあとミッションがつづく。この節で書かれているのは、選び出したということ。その一点である。民数記12:3に「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」とあるが、この故に選んだとは書かれていない。選びの出エジプト3章でも選びだけである。創世記7:1でノアに主が言った「主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」とは異なる。ノアの最後の評価は難しいが、人間の資質に選びの根拠をおくことは、ありえない。

BRC2013

Deut1:32,33 このように言っても、あなたがたはなお、あなたがたの神、主を信じなかった。主は道々あなたがたの先に立って行き、あなたがたが宿営する場所を捜し、夜は火のうちにあり、昼は雲のうちにあって、あなたがたに行くべき道を示された。
32節の民の不信と、33節の神の導きとの対比が興味深い。神は宿営する場所を探し、昼も夜も守り導いておられる。メリバでも、マッサでも、神が導いてこられた場所だということで、信仰を持って主を待つべきだったのか。民は、そしてわれわれは、主に不平をいう代わりに、モーセや、運命を呪おうとする。働き続けておられる主に目を向けたい。
Deut2:30 しかし、ヘシボンの王シホンは、われわれを通らせるのを好まなかった。あなたの神、主が彼をあなたの手に渡すため、その気を強くし、その心をかたくなにされたからである。今日見るとおりである。
この箇所は、民数記21:21-35に記述がある。カナン人アラデの王との小規模な戦いを除き、最初の勝利、制服である。v24は、まとめと考えて良いのだろう。最終的に神から出たことだと、信仰告白しているのか。一般化は危険に思える。
Deut3:26 しかし主はあなたがたのゆえにわたしを怒り、わたしに聞かれなかった。そして主はわたしに言われた、『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。
「おまえはもはや足りている。」十分だ。十分に主に仕えたということだろう。民数記20章のメリバの水の記事の再述はない。ここは、モーセの説教集として書かれていることを考慮に入れると、このように受け取ることもできるということだろう。主のしもべとして、このように人生を総括できることは幸せである。
Deut4:9 ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、あなたの子孫に知らせなければならない。
このメッセージが申命記の中心であるとして良いのかもしれない。実際に経験したこと、受けたことを、説教として伝え、それを次の世代に伝え、それによって、実際に経験していないものも、自分を含む民の信仰体験としてとらえ、それを元に信仰にいきるようになるために。
Deut5:29 ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。
「彼らの言ったことはみな良い」に続く「ただ」。われわれの心をすべてご存じの主は、どのような思いと計画を持って、われわれを導いておられるのだろう。
Deut6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。
命じられた通りにとは、18節によると「主が正しいとし、良しとされること」となる。これを行うことによって「われわれの義」が得られることは、聖書の教えの大原則であり、否定することはできない。
Deut7:22 あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。
野の獣が何を意味するか不明であるが、単に空っぽにするのではないことが書かれているのは興味深い。マタイ12:43-45の戻ってくる悪霊のたとえもおもいださせられる。「すみやかに」滅ぼすことを禁止され「徐々に」と表現されている。私たちの心もこのように、徐々に主に占領されていくことを願う。
Deut8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
主は、苦しめ、飢えさせ、養われるお方。それは「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きること」を私たちに知らせるためとある。表面的な苦しさ、欠乏のなかで、基本的なものが与えられていることのなかで、教えられることが、表面的には満たされ、基本的なものが足りないような感覚に陥っている時には、教えることが極度に難しいのかもしれない。
Deut9:5 あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
カナンの地の民が悪いことを追い払う理由としている。文脈から言っても、イスラエルの民が「まし」な訳でもない。そして、主権的な、契約を理由にあげている。おごらず、謙虚に、主の言葉によって生きるよう招かれている。約束を守られる主に信頼して。
Deut10:10 わたしは前の時のように四十日四十夜、山におったが、主はその時にもわたしの願いを聞かれた。主はあなたを滅ぼすことを望まれなかった。
また「40日40夜」。神様の側も v1 で「前のような石の板二枚」を求めている。もう一度最初からやり直してみよう。そう言える、信仰を持って生きたい。
Deut11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
これは、教育の一段階としてわかりやすい。これだけの価値観には疑問もあるが、ある時、じぶんを省みる時には、良いのかもしれない。
Deut12:8 そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。
特定のことについて言っているのだろうか。そう考えると、礼拝する場所のこととなる。(v5, 6)
Deut13:9 必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。
語りかけている相手は「あなた」である。つまり、祭司などに頼るのではなく、自分で決めなければならない。命に関わることで判断をする責任はおおきい。
Deut14:1 あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。死んだ人のために自分の身に傷をつけてはならない。また額の髪をそってはならない。
「あなたがたは、あなたがたの神、主の子供である。」ここまではっきり書いていることは、衝撃的である。死んだものとつながるのではなく、神の子として生きることが求められているのか。v21などは、なにを意味しているのか明確ではないが、聖別された民であることを意識するためか。このようなことが問題を引き起こす危険性をはらんでいることはわかっていただろう。
Deut15:18 彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。
「賃金をとる雇い人の二倍」は何を意味するのか。それだけの労働が強いられたのだろう。神をおそれる生き方がここで示されている。その反対は「神を恐れぬ事、貪欲」であろうか。
Deut16:11 こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。
16節にあるように、種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭について記され、種入れぬパンの祭については、3節に悩みのパンの事がかかれ、あとの二つの祭りについては、11節と14節に「共に喜び楽しまなければならない」となっている。苦しみも喜びも共に神様からの導きと覚えて日々を過ごしたい。
Deut17:15 必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。
神との契約を基盤とする宗教団体にとっては、このことを、外すことは出来ないであろう。しかし、いずれにしても、組織的運営は難しい。
Deut18:21 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。
このこたえが22節にあるが、これで十分とは思えない。あることが起こることを予言した時は、それが成就するまで、信じるところに価値がある。あることの意味づけを預言された時は、確かめる方法はない。Jn10 についても考えたい。
Deut19:19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
偽証罪をここまで厳しく罰することは、日本では考えられない。結果として起こりうる冤罪には、同様・同質の深刻さがある。
Deut20:5 次につかさたちは民に告げて言わなければならない。『新しい家を建てて、まだそれをささげていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれをささげるようになるであろう。
この章で語られている、戦いに出る時の心得は、興味深い。まず、戦いの中にも主がおられること、しかし、それでも戦いで死ぬことが想定されていること、全体として、戦いに勝つことを最終目的としていないことである。幾つもの興味ある項目の中で、ここでは、家を献げるとなっている。家は、主のため、これは、前提として記されている。マイホームをもつ願望とは本質的に異なるものを感じる。
Deut21:5 その時レビの子孫である祭司たちは、そこに進み出なければならない。彼らはあなたの神、主が自分に仕えさせ、また主の名によって祝福させるために選ばれた者で、すべての論争と、すべての暴行は彼らの言葉によって解決されるからである。
レビ人について三つのことが書かれている。主に仕えるために召されたこと、主の名によって祝福することが選ばれた目的であること。そして、論争や、暴行事件を解決する職務を担うこと。しかし、1節から語られている問題などの解決は難しかったろう。何らかのガイドラインと、訓練は、あったのだろうか。それとも、単なる、親から子への伝承だったのだろうか。
Deut22:11 羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。
以前引用したBBCでのバプテスト派の牧師が文字通り律法を守ることはとして引用した箇所がここであろう。そこでは二種類の糸を交ぜて織ったと言っていたと思うが、羊毛と亜麻糸については調べてみなければいけない。聖俗併せ持った着物という意味かもしれない。この次には、着物の四隅に房をつけることが続く。批判的に考える前に、もう少し勉強してみたい。
Deut23:3 アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。
ルツ記者はこの記事を知っていたのだろうか。それは、おそらく不可能だろう。それとも、バアル・ペオルの事件においても、処女は残したのだから、男性の事を特定したものか、いずれにしても、この章の内容は、兄弟にそしておそらくイスラエル民族に限定しており、旧約聖書の中でも、特異であるように思われる。
Deut24:6 ひきうす、またはその上石を質にとってはならない。これは命をつなぐものを質にとることだからである。
命の尊厳をつねに意識する訓練の一つか。そのようなセンシティビティの教育はひとであることに必要不可欠である。質草にかぎったことではない。他者の「いのちをつなぐもの」を、そのひとのいのちをたいせつにするのと同じように大切にすることである。
Deut25:3 彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。
むち打つ回数が40回を越すことはなにを意味するのだろうか。以前は、いのちに関わることと簡単に考えていたが、違うかもしれない。限度を撤廃することは、定められた処罰ではないことを意味するだろう。それはひとにゆだねられている限界を超えることなのかもしれない。限度を知るうちは、ひとは悔い改めるチャンスも自由意志として保有できる。
Deut26:12 第三年すなわち十分の一を納める年に、あなたがすべての産物の十分の一を納め終って、それをレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え、町のうちで彼らに飽きるほど食べさせた時、
「レビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦と」が飽きるほど食べることがあるのだろうか。大きなチャレンジである。しかし、自分たちの出発点が「さすらいの一アラムびと」(v5) であったことを、考えれば、今のめぐみの大きさを十分感謝としてかえすべきであることが分かるということか。命令として書かれているが、自発的な、神様への感謝として。
Deut27:9 またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。
「きょう」と書かれている。契約の更新であるはず。契約が何度も破られ、そのたびに、結び直されるということであろうか。「静かに聞き」たい。これにつづくのは「のろわれる」ことがらである。のろわれるとは、だれかによって呪われるということとは違うのだろうか。「祝福される」の反対の状態ということか。
Deut28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
「地のもろもろの国民の上に立たせられる」と約束されている。もし、そうなっていないとすると、神が約束を守らなかったか、イスラエルが約束を守らなかったかどちらかということになる。とてもわかりやすい。むろん、一般恩寵を考えると、神の祝福をこのように単純化することに問題などのがあることは確かである。しかし、すべてのひとの信仰生活を考える時単純なおしえが重要であることは確実である。この章に書かれている祝福は非常に具体的、当時の人がなにを祝福と考えていたかが良くわかる。
Deut29:29 隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。
このモーセのメッセージで注意すべきことは、一部占領して、全体はまだ見ていない状況であることであろう。信仰はそのときにこそ、重要である。隠されたことがたくさんあることをまずは認めなければならない。
Deut30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
そして、17節にあるように「あなた」(個人)が「命を選ばなければならない」とある。しかし、11節にあるように「むずかしいものではなく、また遠いものでもない」が真実であると信じるのは、神様がどのようなお方であるかを知ることと、つながっているような気がする。単に、技術的に、簡単か、難しいか、身近か、縁遠いものかということとは、ちがうだろう。これらすべてにアーメンと言いたい。
Deut31:23 主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた、「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」。
16節にあるように、主は、民が主を捨て、契約を破ることを知っている。上に引用した 30:11 との対比も考えてしまう。対してこのことを知らされたモーセも、25節でそのことを民に告白している。同じことを共有した神とモーセ、神は、この23節を言うことができるが、人には、おそらくモーセにも、それは難しいのかも知れない。知らずに 30:11 の勧めをする人間、知っていてかつ鼓舞する神、同時に、人間の弱さを知りながら、最後まで仕えるモーセにもやはり励まされる。申命記の32章から以降に書かれていることにも、注目したい。
Deut32:47 この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。
「いのち」とはどういう意味だろうか。それがないと死んでしまうもの。現代的には、人をいきいきといきさすものとも表現できるが「いきいき」の本質的意味も不明である。もう少し、深く理解したい。27,28節をみると、知恵による悟りが 鍵であるように読める。知恵とは何であろうか。箴言によると、神を恐れること、堂々巡りになってしまう。
Deut33:6 「ルベンは生きる、死にはしない。しかし、その人数は少なくなるであろう」。
イスラエルの長男の部族に関する預言である。ルベンびとヨルダン川の東に住んでおり、北イスラエル王国滅亡より早く消失離散したかもしれない。どの時期なのだろうか。興味がある。
Deut34:5 こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。
厳粛なことばである。主は、モーセが約束の地に「渡っていくこと」(v4) はゆるさなかった。しかし荒野でイスラエルを導いてきたモーセにとってだけでなく民にとっても、7節にあるように「目はかすまず、気力は衰えていなかった。」ことは大きな祝福だったろう。わたしは、一つ祝福を望むとしたら何を望むだろうか。今は「死に至るまで主の教えに忠実であること」としか表現できない。


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ヨシュア記

ヨシュア記(1)

4月4日、申命記が終わり、ヨシュア記に入ります。

モーセは申命記 34:10 口語訳に「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。」と書かれているほど特別な存在でした。しかし、このモーセは申命記3:25で「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と願いますが、神様はそれを許されませんでした。3:26 には「あなたたちのゆえ」と書いてありますが、他の箇所にもう少し明確に、その理由が書かれていますね。民数記20章と27章、そして申命記32章。

そこでモーセの後継者として任命されたのがヨシュアです。(民数記27章、申命記1章、3章、31章)さて、このヨシュアはどんな人だったでしょうか。出エジプト記17章、24:13, 32:17, 33:11, 民数記 11:28, 13:16 と 14章に出てきます。

ヨシュア記を読んだことがない人でも、黒人霊歌の "Joshua Fit the Battle of Jericho" は聞いたことがあるのではないでしょうか。ICU の Glee Club も演奏会ではかならず黒人霊歌を歌いますが、この曲もかなり頻繁に歌っています。YouTube には Mahalia Jackson や、Golden Gate Quartet のもあります。大学院生時代、アメリカの教会の聖歌隊の余興として barbarshop という形式(?)で男性4人の掛け合いのアカペラで spiritual を練習したことがあるので、ちょっと懐かしいです。楽譜もないのでほとんど忘れましたが。この曲は、Spritual とも Gospel とも Jazz とも言えると思います。

ヨシュア記からネヘミヤ記までは、カナン進入以降のイスラエルの歴史が書かれていますが、ユダヤ教の伝統では「預言者」に分類されています。上で触れたエリコの戦い以外にも、1章の激励や最後の24章は好きな人がいるのではないでしょうか。しかし、このヨシュア記を読むとどうしても避けて通れないのは、新改訳聖書で「聖絶」と表現されている「神様のものとする」としてカナンの地の人たちをすべて殺してしまうことです。聖書はそのことをどう記述し、これはどう理解したらよいのか。なかなかチャレンジングです。ヨシュア記に入る前にも、なぜカナンの地の民を滅ぼすのかその理由が何カ所かに書かれていました。覚えていますか。そして滅ぼす側のイスラエルの民はなぜ選ばれたのかも書いてありました。その記述を同時に考えながら、問題を問題としてしっかりもって、新約聖書まで読み進んでもらいたい、とだけここには書いておきます。キリスト教界でも、もちろん、議論のあるところです。

約束の地の所有

  1. カナン進入 1-5章
    a. 神のヨシュア任命、エリコへのスパイ 1, 2
    b. ヨルダンの横断、記念の石、割礼と過越 3-5
  2. カナンでの勝利 6-12章
    a. エリコ陥落 6
    b. アカンの罪とアイ 7-8:29
    c. エバルとゲリジムでの契約の確認 8:30-9
    d. 北と南での戦い 10, 11
    e. 勝利の概要 12
  3. カナンの分割・分与 13-21章
    a. ヨルダンの向こうの部族の境界 13
    b. その他の部族に与えられた土地14-19
    c. 逃れの町 20
    d. レビ人の町 21
  4. 定着 22-24章
    a. 2部族半、ヨルダンの向こうに戻る あかしの祭壇 22
    b. ヨシュアの最終の挨拶 23-24:15
    c. シュケムでの契約更新、ヨシュアの死 24:16-23

ヨシュア記(2)

ヨシュア記から、列王紀下までは、変化も多く、物語としても面白いので、興味をもって読めるのではないかと思います。

ヨシュア記6-12章はカナン征服、13-21章はカナン分割ですから、実感を持つには、やはり地図の助けが必要でしょう。いつも、一番下につけている、BRC ホームページのリンク爛の 12. Bible Atlas という site の地図はとても良くできています。まず一つだけみるなら

Chapter 7 The Tribal Allotments of Israel
http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/039.jpg
ですが、Chapter 7 の地図は、よく見るといろいろな情報が書かれています。 どうしても日本語でというかたは、少し古いですが、聖書地図の第3図でも概要はつかめると思います。
http://ja.wikisource.org/wiki/聖書地図_(JBS1956)

先住民のカナン人はフェニキアのセム語系の言語を話す人たちで、フェニキアは基本的には海洋民族で交易で発展してきた民族といってよいと思いますが、それは民族の起源ぐらいに考えるのがよいでしょう。2013年に、チュニジアで政変が起きましたが、チュニジアは、カルタゴ遺跡の観光収入が大きく、それが落ち込んでいるというニュースも出ていました。そのカルタゴは、フェニキアの植民地、カナンの地を一つの根拠地として栄えました。ペリシテ(パレスチナの語源ともなっており、パレスチナ南部の5都市を中心としている)も出てきます。海の民とも呼ばれますが、他のカナン人とは区別されているようです。カナン人もペリシテ人も交易を生業としていることからもわかるように、文明としてはかなり高く、ヨシュア記にも「鉄の戦車をもっている」と恐れられています。鉄を扱う技術はまだ未発達で、それを手にした民族が強いとされた時代です。ヨシュアに率いられたイスラエルは、その意味では、劣っていた、自他共に劣っていると認めたことは確かでしょう。(いのちのことば社「新聖書辞典」などいくつかを参照しています)

その背景のもとで、民数記13章にでてきた、斥候の報告とカレブの発言を理解しないといけませんね。ヨシュア記にも何カ所か、関連する箇所が出来ています。エリコ(2章・6章)についても、その後のアイ(7章・8章)についても、ギベオン(9章)についても 31王の土地の征服も(10章ー12章)。さらに、分割のときにおいても。17章14-18節も面白いと思います。モーセのリーダーシップと、ヨシュアのそれとは、大分違いますね。聖書はここからどんなことを語ろうとしているのでしょうか。(名称は口語訳のものを使いました)


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聖書通読ノート

BRC2023

Joshua 1:5,6 あなたの命の続くかぎり、誰一人あなたの前に立ちはだかる者はいない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。私がこの民の先祖に誓い、今この民に与える地を、彼らに受け継がせるのはあなただからだ。
「強く、雄々しくあれ」とある。これが、ヨシュアのなすべきことだったのだろう。それが、モーセとの一つの区別だったのかもしれない。モーセの幕が、終わり、ヨシュアのもとでの、幕が上がるということなのだろう。そして、軍事的な勝利が必要である。モーセのもとでの従順の訓練が、ここで、どのように発揮されるかを、見ていきたい。
Joshua 2:9,10 二人に言った。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたの前で葦の海の水を干上がらせたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたアモリ人の二人の王、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、私たちは聞いています。
この状況で、わたしは、ラハブのように行動するだろうかと考えた。奇跡的なことが起きているとここでは証言している。それに賭ける。しかし、十分な根拠を確認できるわけでもない。そして、ほとんどの人は、ラハブのようには考えていない。その状況で、わたしは、やはり、ラハブのようには、行動しないのではないだろうか。隣人との関係が大切だからである。では、どうなっていたら、決断できるだろうか。科学的判断ではないのかもしれない。主の恵みと憐れみだろうか。もう少し考えてみたい。
Joshua 3:15,16 ヨルダン川は刈り入れの季節の間中、水が岸まで満ちていた。ところが、箱を担いだ者たちがヨルダン川に達し、その水辺で、箱を担いだ祭司たちの足が水につかるや、上流から流れて来る水が、遠く離れたツァレタンのそばにある町アダムのところでとどまり、一つの堰となった。アラバの海すなわち塩の海へ流れて行く水は完全にせき止められた。民はこうして川を渡り、エリコに向かった。
手品の種明かしのように、ついつい、なぜこんなことが起こったのだろうかと考えてしまう。むろん、ある説明はあるだろう。しかし、それを考えることはあまり、有益ではない。これは、信仰告白として、真実を伝えようとしているので、事実を表現しようとしているのではないからである。「主はヨシュアに言われた。『今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする。私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。(略)』」(7)このあとにも続くが、そのためのことで、そのようになったことを証言していることが中心にあるのだろう。
Joshua 4:12,13 ルベンの一族とガドの一族、およびマナセ族の半数は、モーセが彼らに告げたとおり、隊列を組んで、イスラエルの人々の先頭に立って渡った。約四万人の武装した軍勢が主に先立って渡り、戦うためにエリコの平野に向かった。
少し、複雑な構造になっている。ヨルダン渡河ははすでに(前章で)完了しているので、その意味と、記憶すべきことがふりかえりとして書かれているのかもしれない。二つ気づいたことは、このあとに、エリコでの戦いに移っていくが、イスラエルを食い止めるなら、このヨルダン渡河の時が戦略的には良いと思われるが、それはされなかったこと。一つには、「約四万人の武装した軍勢が主に先立って渡り、戦うためにエリコの平野に向かった。」と引用句にあり、これを向かい打つことは困難だと判断したのだろうとも考えた。すでに、大軍による侵略である。引用句に続いて「その日、主はイスラエルのすべての人々の目の前でヨシュアを大いなる者とされた。彼らはモーセを畏れ敬ったように、生涯を通じてヨシュアを畏れ敬った。」(14)ともある。このような記憶をまとめるのが、この章の目的なのだろう。
Joshua 5:14,15 その人は「いや、私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ」と答えた。ヨシュアは地にひれ伏して礼をし、「ご主人様は僕に何をお告げになるのですか」と尋ねると、主の軍勢の長はヨシュアに答えた。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。
ここで終わっている。正直、中途半端である。ヨシュアに、主の使い、主の軍勢の長が現れたことが重要なのだろうか。この章の、最初には、割礼のことが書かれているが、全体として、チグハグで、さまざまな話を繋げた感じが否めない。しかし、それは、伝承に基づいているとも言えるのかもしれない。このときのことを、どうにか、記録する必要が生じたのだろう。何時ごろのことだろうか。ヨシュア記の成立は。
Joshua 6:1 エリコはイスラエルの人々を前にして城門を堅く閉ざし、誰も出入りする者がいなかった。
戦いの準備をしていたとも理解できるが、基本的に、外で戦っては勝ち目がないと恐れ慄いていたのだろう。「彼らは町の中にあるすべてのものを滅ぼし尽くした。男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで剣にかけた。」(21)それを、滅ぼし尽くす。明確には書かれていないが、大人だけでなく、子供も。以前は、主に従わないものは、滅ぼされることが原則だから、仕方ないと思っていた。本当にそうなのだろうか。今の、わたしには、許容できない。同時に、このことと向き合うことを避けてきた自分の愚かさ、弱さも、どうしたら良いのだろうと思う。このようなことだけではなく、さまざまなことに関して、似たことがあり、目が塞がれているのだろう。謙虚に、学び続けたい。互いに愛し合うことを求めて。
Joshua 7:25 ヨシュアは言った。「お前は何という災いを私たちにもたらしたのだ。今日この日に、主はお前に災いをもたらされる。」イスラエルの人々は皆、彼を石で打ち殺し、彼の全財産を火で焼き払い、石を投げつけた。
他者を滅ぼす主の手は清くなければならないという考え方が背景にあるのだろう。しかし、本当に、主がそのことを望まれたかどうかとともに、主がそのような理由から許容されるかどうかも、一つ一つ検証すべきである。あることを、主の御心と正当化することが、他のことへの演繹される。主が示されていることは一部に過ぎないことを、肝に銘じなければならない。難しいのだろうが。謙虚さ、自分は、ほんの一部しか知らないことを常に、覚えていたい。これも、難しいのかな。
Joshua 8:25-27 その日、倒れた者は、男女合わせて一万二千人。すべてアイの人々であった。ヨシュアは、アイの住民を滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差し伸べた手を元に戻さなかった。ただし、主がヨシュアに命じた言葉どおり、イスラエルはこの町の家畜と戦利品を自分たちのために奪い取った。
若かった頃は、ヨシュアの戦略が素晴らしいと思ったりもしていた。しかし、今は、違う。主の名による、虐殺についてどう考えたら良いのかという問題である。アイはあまり大きくない街とされるが、それでも「男女合わせて一万二千人」と書かれている。正確な数字かどうかは別として、殲滅を意味しているのだろう。ここでは、戦利品を自分たちのために奪い取ることも許容している。エリコの場合とは異なっており(6章24節、7章1節)また、「その後、ヨシュアは律法の言葉、祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。」(34)とも記して、主に従ったことを確認している。本当に、それで良いのだろうか。歴史を考えると、簡単には、答えが出ない。これからも、考えていきたい。
Joshua 9:4,5 彼らは賢く立ち回った。パンを調達し、古びた袋と、破れを繕ってある使い古したぶどう酒の革袋をろばに載せ、継ぎ当てをした古びたサンダルを履き、着古した上着を身にまとい、食料のパンはすべて乾いてぼろぼろになっていた。
神に誓ったことは、根拠が間違っていても、守らなければならないことを教えているが、同時に、賢さは、イスラエルか、他の民族かは関係ないこと、つまり、イスラエルが優秀であるとはいえないことも、示しているようである。ギブオンなどの住民は、奴隷となる。ここでは「今からあなたがたは呪われ、奴隷となる。わが神の宮のために薪を集める者、水を汲む者が、あなたがたから絶えることはない。」(23)と書かれている。奴隷にも、さまざまなレベルがあったのだろう。おそらく、代表的な例として記されており、他にも似た例があった、または、イスラエルの中に住む、異民族についての歴史的背景を記述しているものなのかもしれない。
Joshua 10:5 そこで、アモリ人の五人の王が結集した。エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムトの王、ラキシュの王、エグロンの王が、その全軍勢を率いて攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。
ギブオンを攻めるために集結した五人の王について記述している。イスラエルを攻めるのではなく、ギブオンを攻めることも、興味深いが、いずれにしても、このような戦いを避けられたかを考えると非常に困難である。しかし、どんどん、遡り、エジプトを出てきたこと自体に、はじまりがあるように思われるし、ある民族が大きくなったところにすでに、課題があるようにも思う。人数が多くなると軋轢が増えるからである。また、価値観を守ろうとするという課題にも遭遇する。人々が平和に生活するのは、とてつもなく、難しいのかもしれない。目先のことだけでなく、本質的な問いを考えることもしていきたい。
Joshua 11:14,15 これらの町の戦利品と家畜は、イスラエルの人々がことごとく自分たちのために奪い取った。ただ、人間は皆、剣にかけて討ち、滅ぼした。息のあるものは何も残さなかった。主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。
モーセがいても、同じことが行われたのだろう。しかし、それを、避けているのかもしれないとも感じた。これらが、本当に主の御心なのかは、残虐的行為の中で問い続けることは、難しいからでもある。ヨシュアは、しかし、それを成し遂げたということだろう。それが、彼にとって、主に従う道だったのだろう。単に、現代的観点から批判することはできない。しかし、武力制圧では、たとえ、「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼き払いなさい。」(6)のように、戦いの道具を消滅させても、平和は来ないと思う。人の心には、親族が、殺害されたことなどが、残るからである。平和的に、共存することが、たとえ、非常に困難だったとしても。
Joshua 12:7 ヨシュアとイスラエルの人々は、ヨルダン川の西側をも討った。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルの途上にあるハラク山に至る地を、イスラエルの各部族の割り当てに従って所有地として与えた。その地の王たちは次のとおりである。
この前には、ヨルダン川の東地域のことが書かれている。リストは、9節から始まり、31王のことが書かれている。「エリコの王一名、ベテルに近いアイの王一名、エルサレムの王一名、ヘブロンの王一名、」(9,10)とそのリストは始まるが、これを見ただけで、難しさを感じる。最初の二つについては、ストーリが記されていたが、次の二つのうち、エルサレムは、ダビデの町と言われ、エブス人が長らく住んでいたとされている、ヘブロン(キルヤト・セフェル)については、ヨシュア記14章と士師記の最初に書かれている。おそらく、一つ一つに、いろいろな物語があったのだろう。または、ヨシュアの戦いで、優勢が築かれ始めていたのかもしれない。しかし、それほど簡単ではないはずである。三十一の王が書かれているが、そこには、住民がいたはずである。それを、抹殺していったのだろうか。主の命令として。考えさせられる。実態は、おそらく、もっと複雑で、それを、信仰告白として書いているのだろうが。
Joshua 13:7 さあ今、この地を九つの部族とマナセ族の半数に相続地として割り当てなさい。」
前章で全体像が語られ、具体的なことが、この章から書かれている。最初が、ヨルダン川の東側である。しかし「ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。「あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。」(1)と書かれており、実際には、制圧されていない地域が多く含まれたいたこともわかる。それを、くじでわけるというのは、暴挙であるが、分割は、早い時点で決まっていたと、記録するためであったかもしれない。あまり、現実のこと、事実と、書かれた事実を混同しない方が良いだろう。そして、それから、批判的に考える時にも、冷静に、丁寧に。しかしである。やはり乱暴。そのように、記述することを許容したことには、驚かされる。20世紀の大きな二つの大戦のあとの時代に住んでいるものが、多少まなんだことをひけらかせて言うことではないのかもしれないが、ひとは、主の御心を学び続けなければいけない。
Joshua 14:10,11 御覧ください。主は約束してくださったとおり、私を生かしてくださいました。主がこのことをモーセに約束された時から四十五年がたち、その間、イスラエルは荒れ野を歩みました。今日、私は八十五歳になりました。今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。
わたしは、まだ、この年齢にはなっていないが、それでも「今の私の力は当時と同じです」には言えない。むろん、これも、信仰告白であり、事実を述べたものと混同してはいけないだろう。また、ヨシュア記として伝えたいメッセージもある。同時に、この背後にある「今の私の力は当時と同じです」と言いうるものを、考えてみると、私の場合は、御心とまでは明確に言えなくても、真理を求め日一日生きる力は、すくなくとも、今はまだ変わっていないように思う。すこし時間の余裕ができて、よりそのことに注力し、かつ、思考だけでなく、生きることにおいても、求め続けているように思う。このことをたいせつに、生きていきたい。
Joshua 15:63 ユダの一族は、エルサレムの住民であったエブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている。
この章の前半には境界線について書かれ、後半には町と村について書かれている。最後は、引用句である。境界線を勝手に決めているとも言える。他者との境界を決めることは、分断を意味する。合意によって平和的に決めることはすばらしいが、それが永続することはさまざまな意味で困難である。境界線を設けずに、共に生きることが理想かもしれないが、価値観を共有することは不可能かもしれない。困難な問題である。分離も問題だらけだが、理想だけを追いかけることもできないのだろう。答えはない。しかし、その中で、丁寧に生きていくことが求められているのかもしれない。
Joshua 16:9,10 また、エフライムの一族に配分された町は、マナセの一族の相続地の中にもあった。そのすべての町とそれに属する村もエフライムのものである。彼らはゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムの中に住み着き、今日に至っている。ただし、カナン人には苦役が課された。
どうみても、エフライムの割り当て地は小さいように思われる。また、マナセの一族の相続地の中にもあったとあるが、明確には記されていない。追い出すことができなかったとの記述は、他の部族にもあるので、これだけではわからないが、少なくとも、争いは続いたことがみてとれる。難しい状態であるが、それが良いのかもしれない。
Joshua 17:16 ヨセフの一族は言った。「山地だけでは私たちには十分ではありません。しかし、谷間に住むカナン人は、ベト・シェアンとその周辺の村落の住民も、イズレエルの平野の住民も皆、鉄の戦車を持っています。」
ヨセフの一族とあり、エフライムなのかマナセなのかは書かれていないので、両方だろうと思われる。この書き方からして、このあとの歴史でも何回か現れるが、イスラエルの中心をしめつつ、精神的に支えていたわけではないように見える。いろいろな反逆においても、現れるが、もしかするとそのような役回りが与えられているのかもしれない。
Joshua 18:1,2 イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の幕屋を設置した。この地はイスラエルの人々によって征服されていたが、彼らの中には、まだ相続地を割り当てられていない七つの部族が残っていた。
いままでは、あまり注意を払わなかったが、やはり異様である。すでに、割り当てを受けているものと、そうでないものたちがいて、この後を見ると、「ヨシュアはイスラエルの人々に言った。『あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか。(後略)』」(3)とかえって、責められている。みなで、分けるものではないのか。これも、ある程度、すでに、決まっている部族があり、それらと協力した他の部族はあとから、相続地を得ているように見える。すくなくとも、公平には見えない。エフライムとユダについてだけ、決める。そのあたりからも、ヨセフ、ユダ連合が中心になっているように見える。どうでもよいとも言えるが、そのような細部から見えてくる部分もあるのだろう。
Joshua 19:9 シメオンの一族の相続地は、ユダの一族の割り当て地からのものであった。ユダの一族の割り当て地が大きすぎたため、シメオンの一族が彼らと共に相続地を受け継いだのである。
前の章の終わりには、7つのくじでの割り当ての最初に、ベニヤミンが、エフライムとユダの中間が割り当てられ、この章には残りの六部族、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンについて書かれている。引用した、シメオンと、ダンには、特記事項があるように見える。かなり、不平等に見える。というより、平等は考えられていないということだろうか。なにをたいせつにしたのだろうか。むずかしい。
Joshua 20:7,8 そこで彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライムの山地ではシェケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。また、ヨルダン川の向こう側、すなわちエリコの東では、ルベンの部族からは台地の荒れ野にあるベツェル、ガドの部族からはギルアドのラモト、マナセの部族からはバシャンのゴランを聖別した。
「聖別した」という表現について考えてみることにした。ヘブル語では וַיַּקְדִּשׁוּ(And they appointed)となっていて קָדַשׁ(kaw-dash' カダーシュ: to consecrate, sanctify, prepare, dedicate, be hallowed, be holy, be sanctified, be separate)が用いられている。もともとの意味は、分ける(set apart, consecrated)と言う意味である。それだけといえば、それだけだが、引用句の次には「以上が、すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である。その者が会衆の前に立つまで、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにしたのである。」(9)と続く。後半ばかり考えていたが、寄留しているものにも、適用されている。この町のひとたちの、または、そのリーダーたちの責任も感じさせられる。
Joshua 21:43,44 主が先祖に与えると誓われた地を、ことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを所有し、そこに住んだ。主は、彼らの先祖に誓われたとおり、周囲から彼らを守り、安住の地を与えられた。彼らの敵のうち誰一人として彼らの前に立ちはだかる者はなかった。そのすべての敵を、主は彼らの手に渡されたからである。
ここで一段落であることがわかる。このあとには「主がイスラエルの家に告げられた恵みの言葉のうち、実現しなかったものは一つもなく、ことごとく成就した。」(45)のことばが続くが、この目的を考えてみた。つまり、安住の地が与えられたことがゴールなのだろうか。ということである。もし、主の選びの民であるなら、その土地のひとたちを滅ぼして、虐殺して、安住する。それでよいのだろうか。と言う問いである。たしかに、軋轢、紛争は、複雑で、避けるべきではあるが、避けられない場合もある。しかし、そのようなものを背負って生きているものとして、どう生きるか、そこに、中心がなければいけないように思う。そして、そこに、主の御心があるところをめざさなければいけない。
Joshua 22:4 今、あなたがたの神、主は、同胞に告げられたとおり、彼らに安住の地をお与えになった。あなたがたも自分の所有地の天幕へ、すなわち主の僕モーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側に帰りなさい。
この章は、前の章の最後のことば「主がイスラエルの家に告げられた恵みの言葉のうち、実現しなかったものは一つもなく、ことごとく成就した。」(21章45節)をうけて、ルベン人、ガド人、マナセ族の半数がヨルダン川の東側の割り当て地に戻っていく経緯が書かれている。しかし、少し異なることを考えた。それは、戦いはほんとうに終わったのだろうかと言うことだ。戦争ははじめるのは容易いが、終わるのは困難である。侵略された土地のひとには、殺された人が多く、生活が奪われた人が多い場合は、なおさらである。実際は、どうだったのだろうか。ほとんど描かれていない。これも、もともと居住していた十二部属連合を支持する理由なのかもしれない。痛みは、消えず、何代も継承される。それを、少しでも知っているのであれば、共に生きる生活を丁寧に、模索しなければならないだろう。互いに愛し合うために。
Joshua 23:15,16 そしてまた、あなたがたの神、主が約束されたすべての恵みの言葉が成就したように、主はすべての災いの言葉をあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が与えられたこの良い土地から、あなたがたを滅ぼされる。あなたがたの神、主が命じられた契約を破り、他の神々のもとに行って、これに仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りがあなたがたに対して燃え上がり、主が与えられたこの良い地から、速やかに滅びうせるであろう。」
あるバランスをとっているが、基本的に「因果応報」である。世の中の理解が、わたしは明らかに変わってきていると思う。少しずつ、わかってきたというより、視点が広くなってきたからだろう。たしかに、因果関係は、説明がわかりやすい。実際は、関係している項目が膨大であったとしても。世界観が変化していくとき、たいせつなこと、倫理観、共に生きること、互いに愛し合うことにどのように向かっていったら良いのだろうか。それこそが、課題であるように思う。
Joshua 24:31 ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた。長老たちは、主がイスラエルに行われたすべての大いなる業を見ていたからである。
シェケム契約(25)が書かれている。「ヨシュアが民に向かって、『あなたがたが主を選び、主に仕えるということの証人は、あなたがた自身である』と言うと、民は『私たちが証人です』と答えた。」(22)とあり、興味深い。困難であることは、みな知っていたようである。しかし、引用句には、素晴らしいことが書かれている。長老たちが生きていた間は、主に仕えたとある。「大いなる業を見ていたから」反復的に経験したことは、強いと言うことだろうか。しかし、同時に、伝えていくことは難しい。新しく経験しないといけないのだろう。


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Joshua 1:7 あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。私の僕モーセがあなたに命じた律法をすべて守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功を収める。
「強く、雄々しく」と「律法をすべて守る」ことである。構造上しかたないかもしれないが、とても単純に感じる。人生には、そのようなときもあるのかもしれないが。ヨシュアにはこれは可能かもしれないが、次の世代が継続できるものではない。環境も変化し、一人ひとりが、神の御心を少しずつ理解していく営みなしに、信仰が生きたものとして継承はされないからである。そして、それは、わたしも、どうしたらよいかわからなかったことでもある。毎日、失敗を繰り返しながらも、まさに、この単純なことを守ろうとしてきたのが、わたしの人生だったのかもしれない。そして、それで良かったのかは、今もよくわからない。難しい。
Joshua 2:12 私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたも、私の家族に誠意を尽くすと、今、主の前で誓ってください。そして、確かなしるしをください。
「確かなしるし」は何だったのだろうと思った。以前は斥候の選んだ先が遊女であることを疑問に思い、あまりにも整然と語っていることに驚いたこともあったが、おそらく、斥候の入り込んだ先として最も適切だったのだろうと思う。遊女は、個人的な通常は明かさない情報をたくさん聞いていただろうし、それを明かさないことが仕事上も重要な規範だったのだろう。さらに、遊女をしていることにも、多くの背景があるだろうし、ここには「私の父、母、兄弟、姉妹、そして彼らに連なるすべての者を生かし、私たちの命を死から救ってください。」(13)ともある。遊女ならだれでもよいわけではなかったろうが、適切な情報源が与えられたということだろう。「確かなしるし」も、ここで約束されていること、形はないが、それをしっかりと「確かなしるし」として受け取ることができるラハブだったのだろう。そして、マタイ1章5節の「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1章1節)にも登場する。むろん、エリコの住民に対しては、裏切り者であるが。
Joshua 3:7,8 主はヨシュアに言われた。「今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする。私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。今、契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水辺に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれ』と命じなさい。」
ヨルダン渡河の奇跡物語である。しかし、もっともたいせつなことは、引用句なのだろうと思う。奇跡は真実を語るもので、事実とはずれている場合もあるとわたしは今は考えている。この章には「ヨルダン川は刈り入れの季節の間中、水が岸まで満ちていた。」(15)と書きながら、これがいつだったかは4章19節「第一の月の十日」まで書かれていない。春分前(3月中頃)だから、収穫の時期(5月)よりはだいぶ前である。水の量は別途調べないといけないが、一番多い時期ではなかった可能性も高い。(季節によってはかなり水量が少ない時期があると記述しているものもある。)このヨルダン渡河の記述が、それなりに歴史的事実を反映しているとすると、何らかの措置はとり、渡河が驚くほど簡単にいったのだろう。ヨルダン渡河と、エリコ陥落が、ヨシュアの働きの中で、ハイライトだろうし、これがヨシュアが生涯信頼された要因であることも確かだろう。(4:14)真実は、(おそらく民は心配していたが)すごいことが起こったということだろう。単純に信じてもなにも問題はないとも思う。わたしは、いろいろな人たちの理解を助けたいとも思う。
Joshua 4:7 こう答えなさい。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる。』」
22節から24節にはより詳しく、葦の海を渡ったことも含め、主の手の力強さを知るため、主を畏れるためとある。信仰継承と「(記念の)もの」について考えた。背景に「ものをして自らを語らしめる」という題で最近研修があったからもある。ものには、執着しないわたしは、なにか「もの」を選んで参加するのが困難だったが、深いことを語るには、ものがないと抽象的になり、ものから語ることで、具体性をもつとともに、理解しやすいことを経験した。わたしが選んだのは「聖書の会」のときの靴がいっぱいにならんでいる玄関の写真(学内住宅のシンポジウムのチラシからとったもの)というわたしが避けてきた「写真」を選ぶことになった。それが信仰継承にここでは使われている。個人的にも、こどもたちの自由に委ねていると、たいせつなことをたいせつにする、そのたいせつなことを伝えることがとてもむずかしい。ついついことばにたより、抽象的になってしまうからだろう。かたちの無いものにあまりに偏ったからだろうか。また、考えてみたい。
Joshua 5:15 主の軍勢の長はヨシュアに答えた。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。
この章には、周囲のアモリ人、カナン人の王たちの心が挫けたこと、割礼のこと、過越祭とマナが途絶えたことが書かれ、最後に「抜身の剣を手にした人」(13)とヨシュアが会う記事が書かれている。このあとがエリコの記事であることを考えると、ヨルダン渡河のあとの非常に重要な時だったのだろう。新しい地、新しい経験のもとで、新たなとてもたいせつな一歩を踏み出す時、自ら、主との関係を確かめること、自らを省みることだろうか。この章は、非常に広範囲のことと関わっており、考えさせられることが多い。戦略的(strategic)なと思わせる、技術的(technical)配慮も感じさせられる。
Joshua 6:2 主はヨシュアに言われた。「見ていなさい。私はエリコとその王、力ある勇士たちをあなたの手に渡す。
見ていなさいは、רָאָה(rā'â: to see, look at, inspect, perceive, consider)まさに「見よ」である。ヨシュアが命じていることもいくつかあるが、それを神の働きを見よとまとめているのだろう。わたしも、特に、様々な困難の中で、神様の御手を見たいと願っている。同時に、そのときのエリコの状況を考えてみると、ラハブが斥候に語った言葉に「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。」(2:9)とある。ヨシュア軍の異様な行動は、この恐怖心をさらに大きなものとしただろう。戦略的にも、この場合に適していたのだろう。もう一つ、エリコの住民になって考えてみる。ラハブとその家族は助かるが、他の人達が自業自得で滅びるわけではない。わたしがエリコの町の一人なら、どうだろうか。自分の罪を悔い、神に祈るのではないだろうか。神の業を十分理解すること(こころの目で『見る』こと)はできない。
Joshua 7:7 ヨシュアは言った。「ああ、わが主なる神よ。なぜ、あなたはこの民に強いてヨルダン川を渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡し、滅ぼそうとされるのですか。私たちはヨルダン川の向こう側にとどまることで満足していればよかったのです。
ヨシュアの心が揺れている。ヨルダン川の向こう側は「約束の地」ではない。このひとつの敗戦を過大評価している。このあと、主のことばが臨み、背景が示されているが、おそらく、ヨシュアは、なにか自らに、そして、イスラエルに罪があったのかもしれないと考え調査したのだろう。新改訳聖書で「聖絶」と訳されていることばの重さの認識である。「くれぐれも言っておくが、滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出してはならない。あなたがたが滅ぼし尽くしたはずの献げ物に手を出すとき、イスラエルの宿営もまた滅ぼし尽くされるものとなり、災いがもたらされるだろう。」(6:18)を明確にすることで、エリコは神が滅ぼ(聖絶)される町として、自らの行為を正当化しているとも言える。そのための高い倫理性である。背景には、申命記7章など(恵みだろうか)の考え方があるのだろう。自業自得・因果応報に結びつけて理解するのは困難である。むろん、ここに書かれているのも、ヨシュアたちが受け取った、ひとつの神理解であり、その意味で信仰告白であり、神のみこころのすべてではないことも、確かだろう。
Joshua 8:29 ヨシュアはまたアイの王を夕方になるまで木につるし、太陽が沈む頃に死体を木から下ろすよう命じた。人々は町の門の入り口に死体を投げ捨て、その上に大きな石塚を築いた。それは今日に至っている。
「あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。」(申命記21章23節)がここで守られている。申命記とヨシュア記の共通性は高いように思われる。エバル山とゲリジム山での祝福とのろい(30節と申命記11章29-31節)、律法の写しを刻んだこと(32節と申命記27章8節)、「イスラエルのすべての人々が、あなたの神、主の前に出るために、主の選ぶ場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人々の前でこの律法を読み聞かせなければならない。」(申命記31章11節)も、34節・35節で実施されている。ヨシュアが律法に忠実であったことの証とも取れるが、申命記とヨシュア記の著者が同じであるとも取れる。また、この8章でヨシュアの栄光について、一区切りつける狙いもあったかもしれない。律法の書を読み上げるのは祭司エレアザルでも良かったはずだから。「ヨシュアはこうして、祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、彼のためにウリムによる裁定を求める。ヨシュアと、彼と共にいるすべてのイスラエル人、つまり全会衆は、エルアザルの指示に従って出陣し、また帰還しなければならない。」(民数記27章21節)しかし、ここでは、ヨシュアだけが中心にいる。民数記との違いも感じる。
Joshua 9:19,20 指導者たちは会衆全体に向かって言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちのなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。私たちが彼らに誓った誓いのゆえに、私たちの上に怒りが下ることはないだろう。」
ヨシュアと指導者たちの判断ミスに対し、会衆が不平を言ったことに対する、指導者たちの答えである。興味深いのは、二点。相手の虚偽があったにも関わらず、主にかけて誓ったことを守り通そうとしたこと。もう一つは、主に誓ったことを守り通すことを主は肯定してくださるだろうという判断である。神への忠実と、人への誠実が、ここに表されている。間違うことがあること、謙虚に、神や他者との関係を適切に行うことに誠実であろうとする姿勢からは、学ぶ点がある。間違いを修正しようとしないことにかえって、美しさを感じる。ヨシュアの判断に身を委ねるギブオンのひとたちの誠実さと謙虚さ(25)にも、心を打たれる。民はいつも不平を言うようだが、この不平の中身にも注意したい。ひとの欠けにたいして不平を言っているようだ。考えさせられる。
Joshua 10:40 ヨシュアは山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地などこの地のすべてを討ち、王たちを一人も残さず、息のあるものすべてを滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。
地域はこの書を読む人たちは、聞けばすぐ理解できた地域なのだろう。聖書地図によると、ヨルダン渡河を果たしたと考えられる、エリコの近くギルガルに陣を置き、その西南の地域である。最初に戦ったのは、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、ヤフィアの5人の王とあるが、エルサレムは歴代誌上11章の記述によると、王に指名された直後にエブス人から奪った町としている(士師記1章8-11節、21節参照)。ヘブロンは、カレブに割り当てられる地である。ヤルムトはこの5人の王(何回か述べられるが)の士師記の記述以外には現れず不明である。ラキシュはアッシリアが攻略した有名な町でもある。(歴代志下32章9節、大英博物館に壁画がある)、ヤフィアについては、あまりよくわからない。ヨシュア記の記述としては、神様の配慮により、いっぺんに、(イスラエルの南半分)南ユダ王国に属する地は平定されたということなのだろうか。なかなか現実は複雑である。
Joshua 11:23 ヨシュアはこうして、すべて主がモーセに告げられたとおり、この地のすべてを獲得した。ヨシュアはそれを、各部族の割り当てに従って、イスラエルの相続地として与えた。こうして、この地の戦いは終わった。
「ヨシュアは長い間、これらすべての王たちとの戦いに明け暮れた。」(18)ともあり、この章や、前の章にあることは、その概略なのだろう。王(מֶלֶךְ (meleḵ): king)と書かれているが、町を統治していた人なのだろう。部族長とは、少しことなる町・都市が成立していたということだろう。当時がどのような状況だったかも興味がある。王たちが連絡を取り合い、共闘している。同時に、それほど大きな集団にはなっていないようである。民数記にあるように、60万人かどうかは別として、大集団(特に遊牧民)が移動してくることは、歴史的には、現在のヨーロッパの形成も含め、民族大移動で世界地図を変えることが何回も記録されており、不明なことも多いのだろうが、この移動もその一つだったのかもしれない。その最初のほうの例だったのだろうか。世界史的なレベルでも、どのような意味があったのか学んでみたい。それと似た部分、ヨシュアたちの物語の特殊性も。
Joshua 12:7,8 ヨシュアとイスラエルの人々は、ヨルダン川の西側をも討った。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルの途上にあるハラク山に至る地を、イスラエルの各部族の割り当てに従って所有地として与えた。その地の王たちは次のとおりである。山地、シェフェラ、アラバ、傾斜地、荒れ野、そしてネゲブには、ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人がいた。
どのような状態だったかも、簡単にはわからないが、おそらく、エリコから見て西と西南の地域に少し北に広がった地域なのだろう。このあとに31人の王の名前が記されているが、引用句の記述からして、多くの先住民が住んでいたのだろう。現在のイスラエルの地域とは、異なるが、国連の統計では、面積が、22,072平方キロメートルで、日本の面積の6% 程度である。おそらく、いくつもの、他(異)民族の町が各所にあり、たくさん住んでいたのだろう。割り当てたというのも、現在のような国としての支配とは、異なることは頭に入れておかなければいけないだろう。牧畜と農耕が主であろうが、現在の土地所有の考え方とは異なる。逆に、仲間同士の放牧地を割り振った程度なのかもしれない。仲間通しでの争いが起こりにくいように。
Joshua 13:1 ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。「あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。
土地所有はどのような社会においても、重要だったろう。この時代どのような決まりになっていたかは、個人的には知らないが、ケニアで、わたしの理解するところでは、State Land(国の直轄地), Community Land(部族ごとの共有地), Private Land(個人の所有地)の区分けが明確になったことで、遊牧(一定の土地に定住せず,牛や羊などの家畜とともに水や草を求めて移動し,家畜を飼養する牧畜形態)が困難になり、族長を中心とした大家族や、部族ごとの生活が壊れ、都市化が進んだようである。おそらく、この時代には、Community Land の区分けがなされたのだろう。民数記の記述のように、兵役につくことのできる年齢の人口が、60万人とすると、全体で200万人程度だろう(現在は880万人)。人口も正確にはわからないが、かなりの人数であったとすると、社会が変化していくことになるだろう。士師記の時代はそのような時代だったのかもしれない。精神生活を考えると、引用句は、辛さを感じるとともに、自分の世代では解決できないことも、悟らされることばだったろう。そのなかで、どう生きるか、ヨシュアはどのように考えたのだろうか。約束の地に生きることをどのように考え、感じていたのだろうか。
Joshua 14:8 私と一緒に上って行った兄弟たちは民の心を挫きましたが、私はわが神、主に従い通しました。
民数記14章の記事である。特に、7節bから9節にカレブの言葉が記されている。「私たちが偵察のために行き巡った地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう。ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」特に、真ん中の部分の、信頼なのだろう。それを、引用句では「従い通しました」と表現している。そして、それは、その後の45年間においても、変わらないことがここに表現されているのだろう。信頼、信仰は、一度限りのことではなく、信頼関係であり、長い人生の中で試されるものだろう。おそらく、様々な反乱が起きる中で、カレブのこころも揺れることもあったろう。たとえそのように揺れることがあっても、わたしも「私はわが神、主に従い通しました。」と告白できるものでありたい。因果関係として「今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。」(11)を主張するわけではないが、健やかさの重要な要因であるとは思う。
Joshua 15:18.19 アクサは到着すると、父を唆して畑をもらおうとした。アクサがろばから降りると、カレブが「何か用か」と言ったので、彼女は「お祝いをいただきたいのです。私にネゲブの地をくださったのですから、泉もください」と言った。カレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。
これだけから判断することはできないが、アクサとカレブはかなり異なっていたように思う。父の信仰が子に引き継がれない例は、聖書でも多いように思う。統計における回帰のひとつだろう。「ある特定の性質について親が際立っている場合、子もある程度はそれを受け継ぐが親ほどではない」と Francis Galton は表現しているが、他の性質は際立つことが他のひとと同じようにあるわけで、このアクサさんについて、短絡的な判断は避けたほうがよいだろう。ひとは、たくさんの観点から判断することが苦手で、一つの指標で、そのひとについて判断してしまうことが多いものだから。カレブの気前の良さも気になる。公平性とは、程遠いように思うので。カレブは、弱さもたくさん持っていたのだろう。むずかしい。
Joshua 16:8,9 西の境界線は、タプアからカナ川に沿い、海に至ってその極限となる。以上がエフライムの家系の部族、その諸氏族の相続地である。また、エフライムの一族に配分された町は、マナセの一族の相続地の中にもあった。そのすべての町とそれに属する村もエフライムのものである。
イスラエルが地域の部族連合であるとされることもある。その真偽は確かめられないこともありここでは別とする。しかし「くじで割当てられた」(1)とされているが不自然であることは、確かである。ユダとエフライムという二大部族が中央部で南北にわかれ、ユダは山地、エフライムは、平地への入り口、しかし三日月型肥沃地帯からみると南端のさらに南だろう。さらに、マナセは東西に分かれるが(17章)、(ルベンとガドはヨルダンの東側にすでに割当地を得ているので)あとは、残りの七部族(18章2節)と記されている。公平とは言えない。引用句では、「以上がエフライムの相続地である」としたあとに、飛び地の記述がさらに加わっている。さらに「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムの中に住み着き、今日に至っている。ただし、カナン人には苦役が課された。」(10)も重要な記述であるように思う。
Joshua 17:18 山地の森林地帯をあなたのものにしなさい。そこを切り開き、隅々まであなたのものとしなさい。カナン人は鉄の戦車を持ち、強いだろうが、きっと追い出すことができるだろう。」
信仰的な記述とも言えるが、マナセ族についての記述は、非常に複雑かつ変わっていると感じた。系図と息子がなかったツェロフハドのことが再述され(民数記 26:33,34, 27:1-11, 36)そのあとは、領土の記述があるが、まだ割当地がきまっていない「アシェル領」(7)「イッサカル領」(10)を引用し、最後には、割当地の狭さへの不平があり、それに続いて、引用句となっている。カナンの地を平定し、それを分割するという形態をとっているが、そのような状況でなかったことは、確かなのだろう。真実は不明であるが。どのような背景のもとで、なにを伝えようとしているのだろうか。
Joshua 18:3-5 ヨシュアはイスラエルの人々に言った。「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか。あなたがたは部族ごとに三人ずつ選び出しなさい。私が彼らを遣わすから、すぐにこの地を巡回させ、相続地ごとに土地のことを調べ、戻って来てもらおう。そうしたら土地を七つに分割しなさい。ただし、ユダは南部の領土に、ヨセフの家は北部の領土に、それぞれとどまらなければならない。
くじ(6,8,10)で決めることは、ひとつの公平さの担保だろうが、あまりにいびつな、とても公平とは言えない決め方である。もしかすると、創世記のヨセフ物語あたりからつながっているのか、当時の人達にとっては納得できるものだったのかもしれない。そうでなければあまりに理不尽で、内紛がおこらないほうがおかしい。ヨルダンの東の地域については、不明であるが、そこには、長子のルベン族がおり、創世記の最後で祝福された、ヨセフの子ら、エフライムとマナセ、そして、ユダが特別扱い。そしてヨセフの弟のベニヤミンはすこし特別扱いされているように思われる。ある程度、その地域にすでに帰属していたのだろうか。不思議である。
Joshua 19:51 以上が、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、親族の頭たちが、イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた。
祭司エルアザルは、登場しない。しかし「シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた」と記述することはたいせつだったのだろう。今回は、今まで以上に、やはりイスラエルは、この地域の部族連合で、出エジプトは、ひとつになるためのエピソードと言われることがそうなのかもしれないと思った。そのようなことを学んだ牧師たちでさえ、キリスト教会の中で、それを語らないのは、それを認めた上で、聖書を神のことばとして受け取ることが簡単ではないからだろう。そのことは、十分理解できる。その意味で、わたしのような読み方を続けることも、例外的なものなのだろう。しかし、そのことが、ひとを活かす、神様のいのちに生かされる方向に進まず、教派間の争いや、協力が困難な状態を作り出したり、異教に対して不寛容を生み出すのは、とても悲しい。謙虚に聖書を読んでいきたい。明確にはわからないことも事実である。
Joshua 20:9 以上が、すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である。その者が会衆の前に立つまで、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにしたのである。
逃れの町についての最後には、それは、「(すべてのイスラエルの人々、ならびに、)寄留している者のために指定された町」ともある。「イスラエルの人々のうち、イスラエル人であれ、あなたがたのもとにとどまっている寄留者であれ、過って罪を犯した場合には同一の律法に従う。」(民数記15章29節)とあり、公平さを保つためであったのだろう。寄留者(sourjourner だが、現代では、migrants や refugees とも言える)への配慮は非常に多く聖書には記されている。期限は「裁きのために会衆の前に立つときまで、もしくは、現職にある大祭司が死ぬまで」(6)である。基本的には、未決のひとへの配慮であろう。それは、社会において、それなりに難しい問題である。差別を生む可能性は高いからだ。逃れの町の実際について、聖書には、書かれていないように思うが、どのようなものだったのか知りたいと思う。現代ではどうなのだろう。一般的保護規定はあるとしても、公平さの確保と特別な配慮はどうなっているのだろうか。
Joshua 21:41,42 レビ人の町はイスラエルの人々の所有地の間にあり、合計四十八の町とその放牧地であった。以上の町は、それぞれが周辺に放牧地を持っていた。すべての町がそうであった。
逃れの町がすべて含まれるのかは調べていないが、多く含まれるようである。レビにおいては、相続地ではなく、「住む町と家畜のための放牧地」(2)とあり、Community Land のような共同放牧地として与えられたのだろう。町での活動や奉仕が多かったのだろうか。実際の生活についても知りたい。会見の幕屋で礼拝をしていたころや、その後神殿を中心に礼拝をしていたころ、さらに、捕囚などで、離散してから。宗教的に指導的立場をとっていたのだろうか。それとも、単に、作業に定期的にかり出されるだけだったのだろうか。
Joshua 22:31 祭司エルアザルの子ピネハスは、ルベンの一族、ガドの一族、マナセの一族に向かって言った。「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知った。あなたがたが主に対してこの背信の罪を犯さず、こうしてイスラエルの人々を主の手から救い出したからである。」
事前のコミュニケーションを十分すべきだったと思うが、帰っていく途中で、このようなことに傾いたのかもしれないし、後の時代、分裂の危機があったときに、このように考えたのかもしれない。いずれにしても、引用したこのことばは、味わいがあるとも、難しいとも言える。「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知った。」これは、同じ主が主だという信仰告白なのだろう。同時にその理由として「こうしてイスラエルの人々を主の手から救い出したから」と言っているが、これは、分裂の危機、お互いにお互いを抹殺しなくて良くなったことを言っているのだろうか。主による救いは、どのように表現したらよいのだろうか。最近、わたしがよく使っている「ゆるやか」を使うと「主という共通の方、主にある一致という共通の目的を追求しながら、ゆるやかな、帰属意識をもち、それをお互いに認め合い、共有した」ということだろうか。それ以上をもとめると、中においても対外的にも、問題がおこるように思う。
Joshua 23:12,13 もしも、あなたがたが主に背を向け、あなたがたの隣に残っているこれらの国民に付き従って婚姻関係を結び、彼らと混じり合ったり、彼らがあなたがたと混じり合うならば、あなたがたの神、主がもはや、これらの国民を追い払うことはないと覚悟しなさい。彼らはあなたがたの罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭となり、目に突き刺さる棘となり、あなたがたは、あなたがたの神、主が与えられたこの良い土地から滅びうせる。
ここが、わたしが、理解できない、共有を拒むところだろう。しかし、だからといって、この分離主義を簡単に批判はできない。おそらく、それが「ゆるやかな」帰属意識で表現している内容なのだろう。混じり合うことは、どのように考えればよいのだろうか。追い払わなくてもよいように思うが、「罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭となり、目に突き刺さる棘」となると書かれている。さらに「主が与えられたこの良い土地から滅びうせる。」とある。捕囚を経験したものの、経験則のようにも見える。時代のなかでは、何度も繰り返されて来たことなのかもしれない。どのように生きたら良いのだろうか。許容と寛容の違いと簡単には、言えない。おそらく、日々の営みの中に、戦いのように、現れることだから。
Joshua 24:31 ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた。長老たちは、主がイスラエルに行われたすべての大いなる業を見ていたからである。
最後は「アロンの子エルアザルも死に、その息子ピネハスに与えられたエフライムの山地のギブアに葬られた。」(33)で締めくくられている。すなわち、主がイスラエルに行われた大いなる業をみていたヨシュアや長老たち、アロンの子、祭司エルアザルとその子ビネハスがが死ぬと、民は主に仕えなくなったということを結語とし、士師記につなげているのだろう。この章には、これまでのイスラエルの歴史(His-Story - History)が書かれ、ヨシュアの決意と民の決意表明が書かれている。これは、シェケム契約とも呼ばれる。その意味では、この人達は、ある程度、この決意表明、約束を守ったということだろう。このような決意表明・約束・契約・信仰告白は(枠組みは)任意であり、貴重なことであるが、引用したことばがすでに「主がイスラエルに行われたすべての大いなる業を見ていたから」という困難さの表明があるように、継承は困難である。

BRC2019

Jo 1:10,11 ヨシュアは民の役人たちに命じた。「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。おのおの食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。」
「役人」とは誰のことだろう。民数記11章16節に「民の長老およびその役人として認めうる者を七十人」とあり、申命記には、1章15節、16章18節、20章5節・8節・9節、29章9節にもあることを確認。「食糧」は何だろう。おそらくマナ以外のものもあったのだろう。緊張の一瞬である。希望も大きかったかもしれない。40年の年月の後である。わたしなら何を考えるだおろうか。ヨシュアは何を考えただろうか。
Jo 2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
斥候は攻め込む前の戦略的な諜報活動の目的で偵察に行ったのだろう。しかし、得た情報は、力づけられるものだった。知らされたのは、主の御名が、イスラエルの内部ではなく、外であがめられていることである。神が「上は天、下は地に至るまで神」であるならば、そして、そのように信じるなら、信頼することこそ、信仰なのだろう。
Jo 3:9,10 ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。
その内容は13節に書かれている。「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」このことは7節にあるヨシュアに告げた主のことば「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。」の実現でもあるのだろう。これらは、やはり、将来への希望の提示で、信仰を求められることでもある。むろん、そこで、滅ぼされる民に、こころは向いていないが。
Jo 4:24 それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」
12の石をヨルダン渡河の記念としてギルガルに立て、子供(子孫)に伝えることが書かれ、それが、葦の海を渡ったときと同様であることとともに、このことが書かれている。記念碑の重要性だろう。わたしには「すべての道で主を認めよ」(箴言3章6節、新共同訳:常に主を覚えてあなたの道を歩け。)が大切だと思うが、集団に語りかけるときには、記念碑は欠かせないのだろう。信仰の個人性と集団性について考えさせられる。わたしがいま考える信仰は、集団性の中では、宣誓のようなものを通して、合意する以外ないように思われてしまう。どうなのだろうか。
Jo 5:12 その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。
割礼と、過越祭のことが、書かれ、この記事が続いている。割礼は生まれて八日目に受けるべきことが、創世記17章にまず書かれているが(レビ記12章3節)、それは、特別な理由なしに、ここまで実施されなかったことになる。すこし唐突に感じる。収穫に関しては、過越祭(春分の頃)が、この地域では、最初の収穫の時期であったことがわかる。ただ、これも、農耕のことが書かれておらず、この記事が登場するのは、唐突である。背景はよく分からない。
Jo 6:26 ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は/主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い/城門を建てたときに末子を失う。」
これは神の御心なのだろうか。正直「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。」(21)も、この箇所も、わたしには、受け入れられない。特に、引用箇所は、ヨシュアが、神に代わってしまっているように思われる。主の御心と知る部分も曖昧に感じる。
Jo 7:11,12 イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。
一番の罰は、主が共におられないことのようである。それが重大であることを、理解したのだろうか。「わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。」ことのどの部分なのだろうか。契約を破ったことだろうか。具体的な行為だろうか。それらは、一体なのだろうか。なぜと問うてはいけないのかもしれない。しかし、やはり、ヨシュア記記者がなにも不思議に思わなかったらしいことが、不思議である。
Jo 8:15-17 ヨシュアの率いる全イスラエルが彼らに打ち破られたかのように荒れ野の道を退却すると、町の全軍も追撃のために呼び集められ、ヨシュアの後を追い、彼らはこうして、町からおびき出された。イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった。しかも、イスラエルの後を追ったとき、町の門は開けたままであった。
アイに賢いリーダーがいなかっただけのようにも思われる。モーセや、ヨシュアが、神を、真理を求める中で、得られた智恵が働いた部分も多いように思う。時代がくだり、そのようには、いかなくなる。信仰が成熟していくことにつながっていくのかもしれない。神理解も、進化・深化・成長していく必要がある、一人一人の中でも、集団の中でも。
Jo 9:18,19 イスラエルの人々は、共同体の指導者たちがイスラエルの神、主にかけて誓いを立てていたので、彼らを攻撃はしなかったが、共同体全体は指導者たちに不平を鳴らした。指導者たちは皆、共同体全体に言った。「我々はイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。今、彼らに手をつけることはできない。
十分考えた賢いギブオンの住民に欺かれたことにどう対応したかが書かれている。共同体全体の指導者批判に対して、このように答えている。「主にかけて彼らに誓った」ことを大切にする判断が、ここでメッセージとして書かれている。ヨシュア記がいつ成立したかわからないが、記者(達)の信仰が表現されている。人間の側の責任である。明確になっているために、混乱は、ないとは言えなくとも、共同体の理解は得られたのかもしれない。これを、絶対的な正解とすることも、問題があるのかもしれない。
Jo 10:41,42 ヨシュアは、カデシュ・バルネアからガザまで、ゴシェン地方一帯を経て、ギブオンまでを征服したのである。ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。
重要ないくつかの部分は、これで征服したのだろう。この地域の盟主のひとつとなったことは、確かなのだろう。しかし、このあとを見ると、残っている勢力はかなりある。メッセージとしては「主がイスラエルのために戦われた」ので、このような画期的なことが起こったと伝えているのだろう。ひとつの信仰告白である。聖絶は気になるが「紛争地域に中立はない。」という言葉も思い出す。わたしの思考の背景に、現在の日本の紛争の中にはいないことがあることは、謙虚に受け入れなければならない。
Jo 11:20 彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。主は、モーセに命じたとおりに、彼らを滅ぼし去られた。
これも信仰告白のひとつなのだろう。和を結ぶ事はしなかった理由である。共に住むことは、まだ、まだ、早かったのかもしれない。二度の世界大戦をしたあとでも、現在のように、それは、殆どできていないのだから。主のお考えは計り知れない。
Jo 12:10 エルサレムの王一名、ヘブロンの王一名、
士師記には「エルサレムに住むエブス人については、ベニヤミンの人々が追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの人々と共に今日までエルサレムに住み続けている。」(士師記1章21節)とあり、エルサレムは、ダビデが攻め、ダビデの町と呼ばれることになることを考えると、繰り返し繰り返し、攻防が続けられたのだろうということが分かる。それを含めて、この記事も読むべきなのだろう。ひとの人生も似た部分が多い。
Jo 13:6,7 およびレバノン山からミスレフォト・マイムに至る山地の全住民、すべてのシドン人。わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。この土地を九つの部族とマナセの半部族に嗣業の土地として配分しなさい。ヨルダン川から西の海まで、海沿いの地域をこれに与えなさい。」
「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」(1)と始まっている。そのあとに、占領すべき土地のリストがあり、その最後が上の引用句である。まだ、そこに人が住んでいるときに、分配をしている。ヨシュアの年齢もあるだろうし、ルベン、ガド、マナセの半部族をいつ帰らせるのかも大きな問題だったろう。ひとは「達し得たところに従って」歩んでいくもので、完全をもとめてはいけないのだろう。単純ではない中で、ひとは生きていくのだから。それが単純ではないひとの営み、ひとに託された生き方なのかもしれない。
Jo 14:9 その日、モーセは誓って、『あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる』と約束しました。
申命記1章36節に「ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。」とある。民数記13章・14章には生き残ることは書かれているが、土地の所有については書かれていない。「彼が足を踏み入れた土地」は解釈が難しい。さらに引用箇所には「永久に」とある。文学的表現が約束の一部となると、混乱を起こしやすいとも思う。たいせつな点はやはり「主に従いとおす」ことなのだろう。わたしも、そう生きていきたい。
Jo 15:14,15 カレブは、アナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイの三氏族をそこから追い出し、更にデビルに上り、住民を攻めた。デビルはかつてキルヤト・セフェルと呼ばれていた。
聖絶ではない。どのような区別があるのだろうか。「これらの町々の分捕り品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。」(1章14節)と、引用した「追い出し」と「攻めた」の違いである。「人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし」は特殊なことなのかもしれない。
Jo 16:1 ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は、エリコに近いヨルダン川、エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。
エリコはヨシュアが攻め取った最初のおそらく最大の都市なのだろう。まったく偶然なのか不明である。地図を見ると、エフライムは最大の部族と言われながら、面積は少ない。ユダとは比較にならない。中央に位置することが重要なのだろうか。土地分配は、部族連合という考え方との兼ね合いもあり、非常に不思議かつ、理解しがたい。イスラエルの中では、土地所有が部族をまたいでは、あまり起こらないようにしていたようだが、そう考えると、最初の状態は非常に重要だと思わざるをえない。歴史的な背景が分かることはもうないのかもしれないが。
Jo 17:1 マナセ部族もくじで領地の割り当てを受けた。マナセはヨセフの長男である。マナセの長男マキルは、ギレアドの父で、戦にたけ、ギレアドとバシャン地方を手に入れた。
ギレアドも、バシャンもヨルダン川東岸地域である。民数記32章を見ると、最初ルベンとガドの人々がヤゼルとギレアドの地方を欲しがったことが書かれ、同33節でマナセの半部族が登場、その経緯が、同39-42節に書かれている。「マナセの子マキルの子らはギレアドに行き、そこにいたアモリ人を攻め、これを追い出した。」(民数記32章39節)ギレアドは、マナセの子孫マキルの子である。(民数記26章29節、27章1節)
Jo 18:1,2 イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。この地方は彼らに征服されていたが、イスラエルの人々の中には、まだ嗣業の土地の割り当てを受けていない部族が七つ残っていた。
「この地方は彼らに征服されていたが」との表現はあるが、ルベン、ガド、マナセ、ユダ、エフライム以外は、まだ割当地が決められていない。多少の経緯は書かれているが、どうみても、あまり公平とは言えない。一団となって荒野を旅していたときとは大きな違いに見える。どのような背景があったか気になる。このあと、地図を作り、分割して、くじを引くことになる。様々な憶測をしてしまう。
Jo 19:9 シメオンの人々の嗣業の土地はユダの人々の領土の一部であった。ユダの人々への割り当て地が多すぎたため、ユダの嗣業の土地の中にシメオンの人々は嗣業の土地を受け継いだのである。
この章は「二番目のくじで割り当てを受けたのはシメオンで、シメオンの人々の部族が氏族ごとに割り当てを受けた。その嗣業の土地はユダの人々の嗣業の土地の間にあった。」(1)とあるが、引用箇所で「ユダの人々の領土の一部」とある。山地とはいえ、ユダの嗣業は非常に広い。ベニヤミンは、エフライムと、ユダの間、そして、シメオンは、ユダの一部である。残りは、ゼブルン、イサカル、アシェル、ナフタリ、ダン、ダンはあとで経緯が語られるが、最終的には、エフライムの北に属する地域である。三日月型肥沃地域の西南の端の平地で肥えており、耕作に適した地域のように思われる。やはり、分配には、多くの疑問が残る。この章の最後には、ヨシュアに嗣業の地を贈った事が書かれ、まとめとなっている。土地の分配は、もっとも困難な作業だったろう。どのように、ヨシュア記が書かれたのかはわからないが、このあとの経緯も勘案されているのかもしれない。この重要な時に、「くじ」という手法を除いて、神の働きは見えにくい。
Jo 20:9 以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。
この章の最初には、故意ではなく、過失による殺人の場合の逃れの町について書かれているが、最後には「寄留する者のために設けられた町」と書かれている。当初の規定には、おさまらないケースもいろいろと出てきたのではないかと思われる。規則には、例外を丁寧に定めていくことも重要なのだろう。その意味で、律法学者を単純に批判することはできない。イエスの批判が何に向けられたかを、丁寧にみる必要がある。現代ではどのようなものに当たるのだろうか。シェルターと言われている、家庭内暴力を受けている人の保護施設や、児童養護施設も、残念ながら、そのような役割を果たす場合もあるだろう。そう考えると、他にもたくさんあるように思われてくる。ひとの世界には、なくてならぬものなのかもしれない。
Jo 21:41,42 イスラエルの人々の所有地の中で、レビ人の町は総計四十八で、それに属する放牧地があった。どの町も例外なく周囲に放牧地を持っていた。これらの町はみなそうなっていた。
最後にレビ人の住む場所が決められ、放牧地が利用できるようになる。放牧地は町の住民の共同利用だったのだろう。気になったのは、どのように、町を配分したのかである。レビ人の家系による分類は書かれているが、それ以上はない。他の部族にも同様の課題はあったろうが、レビ人は、ある意味で仕事の割り振りとも言えるので、どのように決まったかにも興味を持つ。「モーセとアロンが主の命令によって、氏族ごとに登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。」(民数記3章39節)からすると、レビ族は人数が少なかったように思われる。全体では5万人程度だろうか。これらの町それぞれに、1000人ずつとなる。かなりの数に思える。これらの町の人口はどのぐらいだったのだろうか。
Jo 22:13,14 イスラエルの人々はまず、ギレアド地方にいるルベンとガドの人々、およびマナセの半部族のもとに祭司エルアザルの子ピネハスを遣わした。彼に同行したのは、イスラエルの各部族から、それぞれ家系の指導者一名、計十名の指導者であり、いずれもイスラエルの部隊の家系の長であった。
まず問題かどうかを確かめるため、この人たちを派遣している。どのような合議がなされたか不明である。最後の32節から34節においても「このことを良しとし」たことのみが語られている。ヨシュアは登場しない。すでに、老齢に達しており、十分な判断ができなかった、または、そのような役割を担っていなかったのかもしれない。おそらく、問題はその次なのだろう。イスラエルは、ヨシュアのあと、混乱の時代に入るように思われる。指導体制の欠如である。難しい状況である。
Jo 23:11 だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。
ここに「主を愛しなさい」とある。申命記には多いがヨシュア記には、22章5節「ただ主の僕モーセが命じた戒めと教えを忠実に守り、あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。」とここだけのようである。主を愛することについて、聖書を調べてみたい。系譜があるのかもしれない。神を愛するという表現は、旧約聖書には、ほとんどない。(Cf ヨブ記24章1節)士師記5章31節「このように、主よ、あなたの敵がことごとく滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。国は四十年にわたって平穏であった。」
Jo 24:19 ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。
「ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、」(1)となっており、直接的には、民の代表者に語りかけることで、民全体に語りかけている。最初に、アブラハムから語りはじめ、ここに至るまでの経緯と、ヨシュアとその家族の決意を述べる。次に民が、自分たちも、導き守ってくれた神を捨てることはしないと宣言し、そのあとに、この引用が続く。自分がヨシュアであったら何を語るだろうか。このように語るだろうか。難しい。

BRC2017

Jo 1:7,8 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
モーセは「主が顔と顔を合わせて彼を選び出された」(申命記34章10節)とあり、直接神の言葉を受けているが、ヨシュアは、ここにあるように、律法を守ることが命じられている。大きな質の変化があったことは確かだろう。我々は聖霊によって直接教えられるとされている。それだけの責任が生じていると言うことだろうか。聖霊による導きについては、ヨハネによる福音書を通じてこれからじっくり学んでいきたい。
Jo 2:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
遊女ラハブのことばが9節から13節にかけて記録されている。遊女の社会的背景に関して、既成概念をもってはいけないのだろうが、ここでは、家族、同族に対する強い結びつきが示されていて、驚かされる。遊女であることの背景、その思いは様々なのだろう。また、これを信仰と言えるかどうかは不明であるが、必死さは伝わってきて、神のあわれみについても考えさせられる。
Jo 3:16 川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。
合理的な解釈をすることにエネルギーを使うことはしたくない。このように表現するのが一番適切である、または、まさにこのように表現するのが、もっともふさわしい、または、このようにしか表現し得ない、現実があったと考えるのがよいだろう。当時の人にとっても、それが物理的な現象を覆すようなものであったかどうかは不明である。それを伝えたいのではなく、奇跡的に、この渡河が行われたことを伝えたかったのであろうから。現代でもむろん、起こり得ることである。このようにして、当時の信仰者と、私たちがつながっていることも分かる。同じ神様の信仰者として。
Jo 4:23 あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。
ここに伝えたかったメッセージの本質があるのだろう。このことは、今も同じように、神が働いて下さる希望をも与える。そして、その神の業によって命を得ることができることも。
Jo 5:4,5 ヨシュアが割礼を施した理由はこうである。すなわちエジプトを出て来たすべての民、戦士である成人男子は皆、エジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだ。 出て来た民は皆、割礼を受けていたが、エジプトを出た後、途中の荒れ野で生まれた者は一人も割礼を受けていなかったからである。 
割礼についてはまず「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(創世記17章10節、12-14節および34章参照)とあるが、出エジプトに多少記述がある以外、定めは「八日目にはその子の包皮に割礼を施す。」(レビ記12章3節)のみである。恐ろしく少ないと言わざるを得ない。ヨハネ7章22節に「しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。」の重要性を再認識させられる。
Jo 6:18 あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。
「滅ぼし尽くすべきもの」と「欲しがらない」について考えさせられる。人間の世界での価値の普遍化を考えると、そして、人間の知るところは一部分に過ぎないことを考えると、たとえ、大きな問題行為が蔓延していたとしても、尊厳を持った人間を、そのいのちを「滅ぼし尽くすべきもの」とすることはできないと考える。しかし、それは、現在の理解なのかもしれない。「欲しがらない」ことである歯止めがかかっている。神様が与えてくださるもので満足することは、自分の存在をどのようなものとして受け入れるかと関係しており、普遍性もある。謙虚に、よく考えたい。
Jo 7:12 だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。
アカンが欲しがり、自分のものとした、ここで問題となっている「滅ぼし尽くす」べきものは「一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板」である。6章24節には「彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。」とあるので、アカンの惜しんだものは、宝物倉に納めるべきものだったのかもしれない。結局は「滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ」(6章18節)ができなかったのだろう。この問題が指摘されている。人間のことではない。すぐ人のいのちにこころが向かってしまう。大切なことを見逃してしまっているのかもしれない。冷静に学ばなければいけない。
Jo 8:28 ヨシュアはこうしてアイを焼き払い、とこしえの廃虚の丘として打ち捨てた。それは今日まで残っている。
アイでのことは「その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。」(25節)と記されている。アイの住民にも向き合わなければならない。神の業の理不尽さや、イスラエルに対する恨みと怨念がたまっただろうか。アイだけではなくカナンの人たちへの影響もあったろう。簡単ではない。今回、一つ考えたのは、アイでの戦いの状況から、アカンのことや、ヨシュアの戦いの計画は、アイの人たちはなにも知らなかっただろう、ということ。非常にうまくいった、一回目の戦い、それに有頂天になっている状態である。人は、なんと、浅はかなのだろう。ちょっとしたことで、幸運や、不運を思い、あるときは、神に責任を課す。謙虚になることがどれほど難しいかと言うことである。イスラエルの側に正しさはないが、アイの側にも正しさはなく、人はみな、滅ぼされるべき存在なのだろう。同時に、神は、滅ぼされる神ではなく、愛し、救いをもたらす神であると言うことなのだろう。
Jo 9:3,4a ところがギブオンの住民は、ヨシュアがエリコとアイに対してしたことを聞き、 賢く立ちまわった。
ギブオンの住民の賢さと、ヨシュアや指導者たち(14節には「男たち」とある)の愚かさが対比されている。9節か13節のギブオンの人たちの説明も、エジプトでのことや、アモリ人の二人の王のことは、述べるが、エリコやアイのことは述べない。戦いの指揮は慣れていても、このような賢さはまったく持っていなかったのだろう。遊牧民の世界の難しさも思わされる。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」(ルカによる福音書16章8節)
Jo 10:24 五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼と共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。 
このあと、殺害し木にかけてもいる。現代ではこれを捕虜虐待という。そして1864年に赤十字国際委員会が制定した一連の「戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約(Convention relating to the Status of Refugees)」いわゆるジュネーブ条約(Geneva Protocol)から見ると、問題行為だろう。しかし、イスラエルにとって、それが捕虜虐待かどうかは、神を畏れるかどうかの一点にかかっていたように思われる。「しかし、太陽の沈むころ、ヨシュアは命じてその死体を木から下ろさせ、彼らが隠れていた洞穴に投げ入れ、入り口を大きな石でふさいだ。それは、今日まで残っている。」(27節、参照:8章29節)にあるように、日没後も、木に掛けたものにしていることが、神を畏れない行為だったのかもしれない。「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21章23節)これを見ると、わたしたの上記の考察とはずれている。「神に呪われたもの」をどう理解するかだろうか。難しい。
Jo 11:7 ヨシュアは全軍を率いてメロムの水場にいる敵を急襲した。
10章9節にも「ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進め、彼らを急襲した。」とある。大きな戦いは、エリコ、アイの記述以外は、この二つの戦いのみが書かれている。3節にあるように「東西両カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモン山のふもと、ミツパの地に住むヒビ人」の連合軍と、10章に記述されている「アモリ人の五人の王、すなわちエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たち」である。後者に関しては、ギブオンの事件が関係している。すべて神の計画とするのか、考えさせられる。おそらく、もっと深いところを学ぶべきなのだろう。
Jo 12:24 ティルツァの王一名、計三十一名の王である。 
アイ(8章25節に男女あわせ全住民22,000人とある)の王のことも記されている。どの程度の大きさから王を抱いたか不明であるが、すべて王と記されている。10章1節・2節には「エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを占領し、滅ぼし尽くし、アイの町とその王をも、先のエリコとその王と同じように取り扱ったことを聞き、またギブオンの住民がイスラエルと和を結び、彼らのうちに住むことを許されたと聞くと、 非常に恐れた。ギブオンはアイよりも大きく、王をいただく都市ほどの大きな町であり、その上、そこの男たちは皆、勇士だったからである。」とある。ギブオンに王がいたかどうかは不明であるが、イスラエルとは統治体制がことなるということだろう。イスラエルも記録によると登録された者だけで、六十万三千五百五十人(民数記1章46節)、六十万一千七百三十人(民数記26章51節)なのだから。モーセやヨシュアは外からは王と見られていたのだろうか。
Jo 13:1 ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。
ヨシュア記24章30節によるとヨシュアの生涯は百十歳であったとある。このときは、何歳だったのだろう。出エジプトの最初からモーセの従者として登場するから、カナンに入ったときすでに、六十歳にはなっていたろう。「占領すべき土地はまだたくさん残っている。」この状態で、土地の分割がなされる。先頭に立って戦うことはおそらくできなくなっていた状態での幕引き。自分のやってきたことにしがみつくことが良いわけではないと考えさせられる。そして、神の業に委ねる謙虚さだろうか。(14章7節・10節にあるカレブの年齢は参考になるかもしれない。斥候に行ったとき40歳、14章の時点で85歳)
Jo 14:8 一緒に行った者たちは民の心を挫きましたが、わたしはわたしの神、主に従いとおしました。
民数記13章・14章の記事について、カレブの証言として記されている。しかし同時に「しかし、わたしの僕カレブは、別の思いを持ち、わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ。」(民数記14章24節)と主の言葉として記録されている。直接的にはモーセが語ったかもしれないが、カレブへの励まし、確信にもつながったろう。「わたしは思ったとおりに報告しました。」とカレブも証言しているので、日常的な信仰ともとれるし、持って生まれたものという面もあるかもしれない。神に、そして、神との契約に生きる共同体に、ウェルカムされることは、大きな助けである。むろん、逆もあるわけで、慎重に考えないといけないが。
Jo 15:1 ユダの人々の部族が氏族ごとにくじで割り当てられた領土は、最も南にあって、エドムと国境を接し、ネゲブのツィンの荒れ野に及んだ。 
地図で見ると、圧倒的に、ユダに割り当てられた土地の面積が広い。理由を思いつくまでに書いてみる。第一に、十二部族の長子的な存在であったこと。隊列の組み方からもうかがえるが、ルベン、シメオン、レビとそれぞれ、創世記で問題が語られており、長子としては、振る舞っていない。第二に、ユダ王国の領土が想定されているかもしれないこと。ユダ王国に残るのは、特殊な役割のレビを除いて、ユダと弱小部族となっている、ベニヤミンである。第三に、この章でも、カレブの活躍が書かれている。カレブの例外的な存在の大きさと、カレブを中心として、領土拡大に、特に積極的だったのかもしれない。第四に、広いとはいっても、メソポタミヤから続く、三日月型肥沃地帯の端に位置する北部と比較して、山地からなる荒れ地が多かったため、少なくとも耕作地は少なかったのかもしれない。部族連合とも言われる、イスラエルの歴史的な背景を理解しないと、むろん、素人のあて推量の行きをでないが。部族連合の理解も、個人的にはまだ納得していないので、備忘録として記した。(19章9節参照)
Jo 16:1 ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は、エリコに近いヨルダン川、エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。
エフライムとマナセの半部族への割り当て地についてである。地図上では、死海の北から帯のように、東西に横断する形になっている。ただし、上の表現のエリコは、ヨルダン川およびその渓谷に近いが、ベテルは地中海までの丁度中間に位置している。南北に関しては、割り当て地の中心に位置し、盟主というにふさわしいが、面積は大きくない。「エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。」と表現されている。地図を見る限り、肥沃な土地とは思えない。さらに「ゲゼルに住むカナン人を追い出さなかった」(10節)とある。追い出せなかったではなく、追い出さなかったとあるのは、意味深である。ゲゼルはベテルと比較するとかなり海に近い。
Jo 17:17,18 ヨシュアはヨセフの家、すなわちエフライムとマナセに答えた。「確かにあなたは数も多く、力も強い民となった。あなたの割り当ては、ただ一つのくじに限られてはならない。 山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」
ヨシュアの信仰が色濃く表れている。常にポジティブである。エフライムとマナセについては、あまりに消極的であるが、やはり、土地の外の人たちに目が向いてしまう。それが、ヨシュア記が書かれた目的ではないことは、分かっていても。海洋民族で鉄の戦車を持っている人たちの側の歴史も学んでみたい。
Jo 18:2 イスラエルの人々の中には、まだ嗣業の土地の割り当てを受けていない部族が七つ残っていた。
なぜ一回にしなかったのだろう。不公平に感じる。ここまで決まったところを考えると、ルベンとガドとマナセ、これらは、ヨルダンの東に割り当て地がすでに与えられ、17章にマナセの残りの半部族についても記述されている。カナンの地で最初に割り当てられた、ユダ、そして、エフライム、ユダと、ヨセフの子らが長子の権利を持っていたのかもしれない。レビは別枠。この章では、ベニヤミンに割り当てられる。しかし、ベニヤミンを入れると、このあと割り当てられる順に、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンとあり、七部族になる。
Jo 19:9 シメオンの人々の嗣業の土地はユダの人々の領土の一部であった。ユダの人々への割り当て地が多すぎたため、ユダの嗣業の土地の中にシメオンの人々は嗣業の土地を受け継いだのである。
いろいろな混乱があったことが理解できる。しかし、これで、それぞれの部族は満足できたのだろうか。決める順番も、土地の大きさもまちまちである。これも、部族連合との話が出る一つの要因であろうか。
Jo 20:1 主はヨシュアに仰せになった。 
主がヨシュアに言われたのは、どのようなときだろう。「主はヨシュア」で検索すると、3:7, 4:1, 15, 5:2, 9, 6:2, 7:10, 8:1, 18, 10:8, 11:6 とこの「逃れの町」に関する箇所で、5章の割礼に関する箇所はあるが、基本的に、戦いに関することのように思われる。政治体制は、祭司のもとでスムーズに執行されていたのだろうか。6節にも「あるいはその時の大祭司が死ぬまで」とはあるが、エルアザルについての記述は少ない。ヨシュア記では、14:1, 17:4, 19:51, 21:1, 22:13, 31, 24:33。分からないことだらけである。
Jo 21:9,10 ユダの人々の部族とシメオンの人々の部族からは、次に挙げる町が指定され、 レビの子らのうちのケハトの諸氏族に属するアロンの子孫のものとなった。最初のくじが彼らに当たったからである。
レビも部族ごとに、12部族の町を割り当てられている。神殿の職務によって割り振られていたと思われるので、移動は大変だったろう。祭司がすべてユダとシメオンの地に住むのは、大きな影響を及ぼしたに違いない。裁きはどのように行われたのだろう。かなりの制度欠陥であるように思われる。
Jo 22:22 「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神はご存じです。イスラエルも分かってください。もし、これが主に対する裏切りであり、背信であったなら、今日、わたしたちを生かしておかないでください。
「神よ、主なる神よ。」という呼びかけは、この箇所しかない。さらにそれが繰り返されている。印象的な文章である。モーセの絶対的指導のもとで、民はただついてきたようにも思われるが、このような理解と信仰が育まれていたことには、驚かされる。将来のことへの予測と子孫たちへの配慮も考えられている。「焼き尽くす献げ物やその他の献げ物をするためではなく、 あなたたちとわたしたち、更にわたしたちの子孫との間柄を示す証拠とするためです。」(26b, 27a)と注意深く語られている。最初にそのことを説明してからすべきだとの反論もあるかもしれないが、将来のこのようなことを大多数は予測もできず、かえって、このようなことを考えること自体に反発を覚えるかもしれない。考えさせられることは多い。
Jo 23:7 あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。
自分たちの中に残っている民に同化されないようにとの命令である。他者が信じていることを撲滅することを求めているわけではない。しかし、そうであっても、相互理解は難しいだろう。絶対的正しさがやはり主張されている。律法による神との契約の民という存在の難しさも感じる。神がすべて備えたもうことを、信ぜず、神から離れて、他の神々を求めてはいけないという単純な命令ととることもできるであろうが。
Jo 24:7 彼らが主に助けを求めて叫ぶと、主はエジプト軍との間を暗闇で隔て、海を彼らに襲いかからせて彼らを覆われた。わたしがエジプトに対して行ったことは、あなたたちがその目で見たとおりである。その後、長い間荒れ野に住んでいた
「あなたたちがその目で見たとおりである。」は印象的な言葉である。実は、この中で、実際に見た人たちは、ヨシュアとカレブだけであるはずである。20歳未満だったひとはいたのかもしれない。このあと「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。」(15節)と迫る。信仰は、生き方は、選択でもある。「ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。」(31節)と書かれている。信仰継承の難しさである。イエスの死後のことも含め、考えてみたい。ここにあるように、神の御業を見たひと、体験したひとが信仰を守っていくのかもしれない。

BRC2015

Jo1:18 いかなる命令であっても、あなたの口から出る言葉に背いて、従わない者は死に定められねばなりません。どうぞ、強く、雄々しくあってください。」
ヨシュア記においても、神に従わなかった記録はいくつか書かれているが、常に、モーセに不平を言った民とは異なった記述になっている。この18節もかなりはっきりしている。ヨシュア記はどのように読むべきか、伝えられていることは何なのか、丁寧に考えていきたい。
Jo2:4 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
ラハブの物語は、情報として受け取らず、自律的にいきるひとりの人として受け取れなかったエリコの住民と14節にあるように「二人は彼女に答えた。『あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。』」と命をかけてこの遊女と連帯した二人に本質的な差があるのかもしれない。わたしたちは、どちらだろうか。
Jo3:17 主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
どのように起こったのかを詮索することよりも、このようにしか記述できない、またはこのように伝えるべき事実があったと受け入れることなのかも知れない。モーセから、ヨシュアこのリーダーの移行は単純ではない。宗教的指導は、ヨシュアには委譲されなかったようである。しかし、この、ヨルダン渡河は長く、イスラエルに覚えられるべき事。
Jo4:14 その日、全イスラエルの見ている前で、主がヨシュアを大いなる者とされたので、彼らはモーセを敬ったように、ヨシュアをその生涯を通じて敬った。
3:7の「主はヨシュアに言われた。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。」と呼応している。12の石を河床からとりギルガルに立て(4:20)子供への答え方も教え(4:21)24節「それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」に続く。しかし、従順さはなかなかひとのものとはならない。
Jo5:14 彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、
4:14でヨシュアは「大いなるものとされ」ている。しかしここでヨシュアは「地にひれ伏して拝し」ている。大いなる者となったのではなく、されていることを、自覚し、主にひれ伏す者でありたい。それこそが、自分がなしたように見えることであっても、それによって「主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬う」(4:24)に至る鍵である。神に栄光を帰す人生でありたい。
Jo6:25 遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。
21節「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。」がベースにあり、22,23節の救助をうけている。「ラハブに連なる者はすべて」となっているから、単に親戚ではないかも知れない。そして、親戚でも、ここに連ならなかったひともいるだろう。エリコの人たちがどのように福音に接したかわからないが、救いの道が最後に残されていたことは恵み。それ以上を人が善し悪し言うことではないかも知れない。
Jo7:7 ヨシュアは神に言った。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。
これがそのままヨシュアの考えだったかどうかはわからない。民の気持ちを代弁したのかもしれない。われわれもこのように主に語りかけることがある。この場合は罪だったが、神の答えも様々かも知れない。主に問うこと、主に問題を持って行くことをつねに考えたい。主と言えない人であっても「問い」を持ち続ける意思は大切なのではないだろうか。
Jo8:35 ヨシュアは、モーセが命じたことをひと言残さず、イスラエルの全会衆、女、子供、彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げた。
ここには、全会衆、女、子供、寄留者すべてが含まれる。このひとたちがともに住む共同体のメンバーだろう。共同体は、この御言葉を聞いた人たちである。
Jo9:20 我々のなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。彼らに誓った誓いのゆえに、御怒りが我々に下ることはないだろう。」
「彼らに誓った誓いのゆえに」はよくわからないが、ひとには決断が任せられている。間違った決断もある。しかし誓いは守らなければいけない。誠実さは、神への誠実さも含んでいるのだろう。
Jo10:6 ギブオンの人々はギルガルの陣営にいるヨシュアに人を遣わして、こう告げた。「あなたの僕から手を引かず、早く上って来て、わたしたちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人のすべての王たちがわたしたちに向かって集結しています。」
ギブオンを助けることがこの様なことを含んでいることを、みな承知していただろうか。疑わしい。しかし、このことにより、大きな地域が一度に占領されることになる。神の計画には驚かされる。
Jo11:20 彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。主は、モーセに命じたとおりに、彼らを滅ぼし去られた。
これをどう解釈すべきか、いつかわかるときが来るのだろうか。わたしには、わからない。本当に理解できず,悲しい。
Jo12:3 キネレト湖東岸からアラバの海、すなわち塩の海の東岸、ベト・エシモトを南下してピスガのすそ野の延びている地域に至る東アラバ地方である。
キネレト湖はあまり登場しない。Nm34:11, Dt3:17, Jo12:3, 13:27 いずれも境界線に関する記述で、おそらく元は一つであると思われる。アラバの海は、Dt3:17, 4:29, Jo3:16, 12:3, 1Ki14:25 でこれも領地の境界線に関する記述のみである。またアラバ地方はここのみ。ベト・エシモトは Nm33:49, Jo12:3, 13:20, Ez25:9, ピスガはもっとあると思ったが、Nm21:20, 23:14, Dt3:17, 27, 4:49, 34:1, Jo12:3, 13:20. これだけ。とはいえ、ピスガはなじみのある、記録に残る、名前だったろう。
Jo13:33 モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である。
13:14 には「ただ、レビ族には嗣業の土地は与えられなかった。主の約束されたとおり、イスラエルの神、主に燃やしてささげる献げ物が彼の嗣業であった。」とあり、レビ族ということばは、ヨシュア記でこの二つだけである。あとは、レビの子が一回で、残りはすべてレビ人。14 から 33 への発展も意図的でメッセージが伝わってくる。
Jo14:13 どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」
カレブの記事は、勇気が与えられる。8節「一緒に行った者たちは民の心を挫きましたが、わたしはわたしの神、主に従いとおしました。」にも逆説が現れる。民数記13章のもともとの記事においてもストーリはこの逆説である。神に信頼することのよる結論の違いである。ここにカレブ85歳、偵察の時40歳となっているが、当時20歳以上でカナンの約束の地に入れたのは、本当にヨシュアと、カレブだけなのか。年齢的に不思議に思う。これも、一つの文学的表現なのかも知れない。
Jo15:63 ただし、ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々と共にエルサレムに住んで今日に至っている。
サムエル記下5章に記述があるダビデによるエルサレム攻略までエブス人がエルサレムを中心にその地に住んでいたとすると、この記事は、それ以前を意識しているのだろう。実際にどのように伝承されていたのだろうか。
Jo16:10 彼ら(エフライム)がゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。ただし、彼らは強制労働に服している。
士師記1:29にも「エフライムは、ゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はその中にとどまり、ゲゼルに住み続けた。」といずれも「追い出さなかった」となっている。ヨシュア15:63「追い出せなかった」17:12「占領できなかった」となっているのと対照的。エフライムはこのあと、何回か紛争の鍵を握ることになる。
Jo17:18 山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」
ヨシュアとカレブの共通点をここにみる。それは、信仰者の態度だろうか。信仰者は勇気をもって行動することが勧められているのか。それとも、それは、一般的な事ではないのか。注意する必要がある。
Jo18:1,2 イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。この地方は彼らに征服されていたが、 イスラエルの人々の中には、まだ嗣業の土地の割り当てを受けていない部族が七つ残っていた。
臨在の幕屋の建設は、中心を据えることである。しかし、この割り当てはかなり乱暴に感じる。それとは別に、土地の測り方などどのようにしていたかも興味をもつ。記述の仕方から、広さよりも、町の数なのかもしれない。
Jo19:51 以上は、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエル諸部族の家長たちが、シロの臨在の幕屋の入り口で、主の前においてくじを引き、受け継いだ嗣業の土地である。土地の割り当ては、こうして終わった。
主の臨在を願い、その主の前でくじを引く。しかし、決める作業は、やはり人の責任のもとでなされるのだろう。神がその背後におられることを信じつつ、神にすべての責任を委ねない。もう少し丁寧な表現を考えたい。
Jo20:6 彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる。
「意図してでなく、過って人を殺した者」に対する「逃れの町」の規定である。意図したかしなかったかは判断が困難であった場合が多かったろう。「共同体の前に出て裁きを受ける」がどのように行われたのかわからないが、適切な裁判と「その時の大祭司が死ぬ」時に行われた恩赦が決められていたと言うことであろう。整備された規定とは考えにくいが、「意図してでなく、過って人を殺した者」に対しても配慮がなされていることには、驚かざるを得ない。他の古代法ではどうなのだろう。
Jo21:1,2 レビ人の家長たちは、カナンの土地のシロにいる祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュアと、イスラエルの人々の部族の家長たちのもとに来て、「主は、わたしたちに住む町と家畜の放牧地を与えるよう、モーセを通してお命じになりました」と申し出た。
レビ人の生活はどうなっていたのだろうか。割り当て地は、12部族からそれぞれ与えられたようだ。4節「祭司アロンの子孫であるレビ人は、ユダ族、シメオン族、ベニヤミン族から十三の町」5節「その他のケハトの人々は、エフライム族、ダン族、マナセの半部族の諸氏族から十の町」6節「ゲルションの人々は、イサカル族、アシェル族、ナフタリ族、バシャン地方に住むマナセの半部族の諸氏族から十三の町」7節「メラリの人々は、氏族ごとに、ルベン族、ガド族、ゼブルン族の十二の町」。
Jo22:13,14 イスラエルの人々はまず、ギレアド地方にいるルベンとガドの人々、およびマナセの半部族のもとに祭司エルアザルの子ピネハスを遣わした。 彼に同行したのは、イスラエルの各部族から、それぞれ家系の指導者一名、計十名の指導者であり、いずれもイスラエルの部隊の家系の長であった。
共同体の問題として、かつ軍事的な指導者ヨシュアではなくピネハスを派遣して解決しようとしている。ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族が前もって、共有しなかったところに問題はあると思われるが、それを不問として一致を保つ。現代にも通じることがある。
Jo23:8 今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。
このあと10節に「あなたたちは一人で千人を追い払える。」とある。信頼して何もしないわけではない。全体として神に信頼する事は簡単ではない。
Jo24:14,15 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
興味をひくのは「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々」という表現である。主のみが神という創世記などの記述との整合性を考える。特に、エジプトでの生活は、殆ど書かれていない。創世記と、出エジプト記の間の空白期間についても、興味をもつ。

BRC2013

Josh1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。
主の言葉からはじまっている。(v1-9) ヨシュア記全体、もしくはこれからのヨシュアの生き方を見ていくための鍵となる言葉であるように思われる。これに対する、1章に書かれているヨシュアの対応は非常に実務的である。ヨルダン渡河の準備を命じ (v10, 11)、ルベンびと、ガドびと、およびマナセの半部族に対する、ヨルダン渡河の確認である。(v12-15) 美しい言葉での応答ではなく、これが、忠実な僕の態度なのだろう。
Josh2:12 それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。
「確かなしるし」は何だったろう。この状況のもとでそのような物は、主に信頼する以外、つまり主以外には、ありはしない。ラハブは、マタイの最初の系図に出てくる二人目の女性である。城壁の上に住む (v15) 遊女 (v1) である。しかし家族としっかりと結びついている。どんな複雑な背景があったか分からないが、立派な信仰告白 (v8-14) が書かれている。一人の女性の立派な信仰がこの章の鍵である。戦争という通常、男性社会の価値観がすべてに優先されそうな時に、女性が活躍する、旧約の世界に驚かされる。パレスチナやシリア、イラン、イラクなどからも、女性の活躍が頻繁に報道されるようになってほしい。
Josh3:15 箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、――
ヨルダン渡河の奇跡の直前のことばである。これは、その後のこと、神が導いておられることを信じるためである。まさに、ひとが信じるための、しるしである。
Josh4:22 『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。
4節にも同様のことが書かれ、最後に「それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」とある。人の弱さを軽視してはならない。特にそのような形式にとらわれるのは無知な弱者だと思っているひとにとっては。神との出会いの原点、神のみわざをみとめた信仰体験を大切にし、記念として定期的に思い巡らし、記憶にとどめることを軽視してはならない。受難週、イースター、ペンテコステ、そして、根拠が明確とは言えないクリスマスを祝うことも同様かもしれない。
Josh5:8 すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。
Gen34:25 の記事を思い出す。さらにこのあと、過越の祭りも執り行っている。(v10,11) これらは、関連しているとはいえ、ヨルダン渡河、つまり、いわゆる敵地に突入したとたんに、この二つのことが行われたことには驚かされる。わたしなら、ある程度敵を討ち滅ぼし、安全な地を得てからすることにしたであろう。15節は、敵の地と思われるところも、実は、主が住まわれる土地、主が働いておられる土地であることを確認させられた記事ということか。
Josh6:26 ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、/その門を建てる人は末の子を失うであろう」。
この部分だけでは判断しにくいが、主が命令したことを超え、人の思いで神の業を引き出そうとする呪術ではないのだろうか。27節には、ほとんど26節との関連なしに「主はヨシュアと共におられ、ヨシュアの名声は、あまねくその地に広がった。」とある。歴史を冷静に見る必要を感じる。
Josh7:25 そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。
「なやます」は痛みを負うことか。アイの事件は、なぜ罰が、個人ではなく全体に及ぶかを考えさせられる。戦いに限らず、神の業は一人ではできないことが多い。それが神の業であるためには、神のように完全でなければいけないということだろう。(Mt5:48) 神の業として戦争や、他の通常の「愛」から外れる行為を正当化することは、不可能であることを裏付けしているともとることができる。読み込みすぎだろうか。
Josh8:27 ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。
6:21にあるエリコの場合と異なる。何か基準はあるのか。聖絶、すべてを神のものとすること。35節には「全会衆および女と子供たち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人の前で、読まなかったのは一つもなかった。」とある。会衆、そして信仰共同体の範囲がわかる。この地の他の民族も同じだったのだろうか。
Josh9:14 そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。
これは一つの理由であろうが、このことにすべての問題の原因を帰するのは問題があるだろう。モーセの時代との違いのなかで、どうしていくかの模索時代でもあろう。エリコ、アイ、そしてギベオン、そして 1節にある、ヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびと、それぞれに対してどのようにしていったかをとおして、メッセージが語られているのであろう。
Josh10:20 ヨシュアとイスラエルの人々は、大いに彼らを撃ち殺し、ついに彼らを滅ぼしつくしたが、彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだので、
この長い章には多くの要素が含まれている。議論のある問題のある表現もあるだろうが、大規模な戦争の記述にはつきものなのかもしれない。当時の事実として堅固な町に逃げ込まれると、攻め滅ぼすことは簡単ではない。(Num32:17) ギベオンも多少持ちこたえられたのも、そのせいかもしれない。しかし大軍をみて6節に「早く」と援軍を依頼している。ギベオンの件をとおして図らずも大軍をいっぺんに打ち破ることができたのは、町から出てきたからだろう。この戦い自体をどう評価するにしても。
Josh11:15 主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。
大征服が書かれた直後にこの節がある。これがヨシュアのすべきことだったと言うことだろう。複雑だが。
Josh12:4 次にレパイムの生き残りのひとりであったバシャンの王オグ。彼はアシタロテとエデレイとに住み、
レパイムについては、Gen14:5, 15:20. Deut2:11, 2:20, 3:11, 3:13, Josh12:4, 13:12, 17:15。これ以外にもレパイムの谷はこれ以降も出てくる。Deut3:11 には「バシャンの王オグはレパイムのただひとりの生存者であった。彼の寝台は鉄の寝台であった。これは今なおアンモンびとのラバにあるではないか。これは普通のキュビト尺で、長さ九キュビト、幅四キュビトである。」とありレパイムは、巨人との認識があるようだ。
Josh13:1 さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。
これは、つらい。しかし、その中で、希望をもち、与えられた仕事をしていき、次の世代に託すということか。これをしっかりと受け止めたい。
Josh14:4 ヨセフの子孫が、マナセと、エフライムの二つの部族となったからである。レビびとには土地の分け前を与えず、ただ、その住むべき町々および、家畜と持ち物とを置くための放牧地を与えたばかりであった。
レビは専業と考えていたが、家畜を持ち、放牧地が与えられていたということは、日常的な作業は十分あったろう。パートタイムだったのかもしれない。たしかに、祭司以外のレビ人に、日常的に十分な仕事があったかどうかは、不明である。しかし発展性はない割り当てではある。感謝して受けることに抵抗があるレビ人もいたかもしれない。
Josh15:13 ヨシュアは、主に命じられたように、エフンネの子カレブに、ユダの人々のうちで、キリアテ・アルバ、すなわちヘブロンを与えて、その分とさせた。アルバはアナクの父であった。
地図をみると、圧倒的にユダの地が大きい。ユダの山地といわれる部分が大部分だからという説明もあるかもしれないが(実際の耕地面積などは不明)カレブの活躍は、その説明の一つなのかもしれない。アナクについては、Num13:22, 28:33, Deut1:28, 2:10, 11, 21, 9:2, Josh11:21, 22, 12:21, 15:13, 14, 17:11, 21:11, 25, Judg1:20, Jer47:5。特に、Num28:33, Deut2:10, 9:2 を見ると背丈が大きく、強かったことがうかがい知れる。ここで殆どが、滅ばされたようだ。このあとタアナクという言葉は登場する。関連はまだ調べていない。
Josh16:4 こうしてヨセフの子孫のマナセと、エフライムとは、その嗣業を受けた。
1節では「ヨセフの子孫が、くじによって獲た地の境は」と始まっている。9節でも「このほかにマナセの子孫の嗣業のうちにも、エフライムの子孫のために分け与えられた町々があって、そのすべての町々と、それに属する村々を獲た。」となっている。Gen48:5, 22 にあるように、ヨセフの嗣業は二人分である。しかし、実際には、エフライムとマナセの嗣業はかなり混ざっている。民族、部族としてやはり非常に近いと言うことか。
Josh17:13 しかし、イスラエルの人々が強くなるにしたがって、カナンびとを使役するようになり、ことごとく追い払うことはしなかった。
これも読み飛ばせばどうと言うことのない節であるが、今のパレスチナを思うと、とても見過ごせない。同時に、このような問題をすべて解決することはできないのだろう。どのように考えたら良いのだろうか。
Josh18:7 レビびとは、あなたがたのうちに何の分をも持たない。主の祭司たることが、彼らの嗣業だからである。またガドとルベンとマナセの半部族とは、ヨルダンの向こう側、東の方で、すでにその嗣業を受けた。それは主のしもべモーセが、彼らに与えたものである」。
ここまではっきり言ってよいのだろうか。レビは、この7部族の中には、住まなかったのだろうか。祭司と言い切ることにもひっかかる。
Josh19:50 すなわち、主の命に従って、彼が求めた町を与えたが、それはエフライムの山地にあるテムナテ・セラであって、彼はその町を建てなおして、そこに住んだ。
エフライムがイスラエルの盟主であるのは、ヨシュアの貢献が大きいのだろうか。個人として嗣業地をもらうのは、カレブとヨシュアだけだったのだろうか。いずれにしても、立て直さなければならない町である。
Josh20:7 そこで、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンを、これがために選び分かち、
なぜ二カ所だけなのだろうか。ヨルダンの東に二カ所、西に二カ所なのか。
Josh21:45 主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。
これが、信仰告白だったということか。それも、良いかも知れない。
Josh22:18 しかもあなたがたは、今日、ひるがえって主に従うことをやめようとするのか。あなたがたが、きょう、主にそむくならば、あす、主はイスラエルの全会衆にむかって怒られるであろう。
この節からは、連帯責任を恐れたのではないかと推察される。27節に「こうすれば、のちの日になって、あなたがたの子孫が、われわれの子孫に、「あなたがたは主の民の特権がありません」とは言わないであろう』。」とあるように、ルベンびと、ガドびと、マナセの半部族は、連帯をもとめている。部族連合の結束という意味では、非常に濃いつながりである。しかし、士師記にいたると、そこまでのものを感じない。実態はどうだったのだろう。
Josh23:3 あなたがたは、すでにあなたがたの神、主が、このもろもろの国びとに行われたすべてのことを見た。あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である。
5節にも「あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。」とある。主に栄光を帰するとは、こういうことであろう。そしてそれは、信仰告白でもある。「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。」(Ps127:1) に込められた思いを、ヨシュアも共有していたのではないだろうか。
Josh24:16 その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。
15節をみると自由意志に任されているようにみえる。もし、部族連合とするなら、根拠は何だったのだろう。同族集団だとすると、自由意思に委ねることは奇異に見える。33節にエレアザルの死が記録されているが、ヨシュアとの二人での指導体制のように書かれながら、エレアザルは殆ど出てこない。なぜだろうか。エリ、サムエルの時代との大きな違いを感じる。


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士師記

士師記(1)

ヘブル語聖書でも「ショーフェティーム(士師(さばきづかざ)たち)」となっています。 背景は、1章・2章に書かれており、ヨシュア記とのつながりもよく分かるようになっています。特に、2章6節から23節でしょうか。これは背景というより、士師記の神学といっても良いものでしょう。

2:20-23 の新共同訳を書いておきましょう。

主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。 彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」主はこれらの諸国の民をそのままとどまらせ、すぐ追い払うことはなさらなかった。彼らをヨシュアの手に渡すこともなさらなかった。
わたしたちの内にもそのようなものがあるのかも知れませんね。

ヨシュア以後は、部族毎にわかれて住むことになりましたが (2:6)、実際には、イスラエルの民が、その地を支配していたわけでもなく、つねに、他の部族の脅威のなかで生きていたことが分かります。その救助者として士師が登場します。しかし、イスラエル全体を治めたわけではなく、ある部族が、ある民族に圧迫されると、士師が起こされて、救われる。このくり返しが書かれていると言っても良いでしょう。

しかし士師記には面白い物語もいくつか記されています。特に、ギデオンや、サムソンの話は、物語として面白いだけでなく、詳しく読み込んでいっても、いろいろと考えさせられるのではないでしょうか。そして、最後に二つの挿話があり、このあと、ルツ記をはさんで、サムエル記へとつながります。サムエルは、最後の士師とも、最初の預言者とも言える特別な存在です。楽しんで読んで下さい。途中で挫折してしまったかたも、ここから再度読み始めるのも良いですよ。

イスラエルの背教と救い

  1. 序 1:1-3:4
    a. 部族の移動 1:1-36
    b. 契約の御使い 2:1-5
    c. ヨシュアとその時代過ぎ去る 2:6-10
    d. 歴史の概略
  2. 士師のさばき 3:5-16:31
    a. オテニエルによるメソポタミヤの王からの救い 3:5-11
    b. エポデによるモアブの王からの救い 3:12-30
    シャムガル 3:31
    c. デボラとバラクによるカナンの王からの救い 4-5
    d, ギデオンによるミデアンの王からの救い 6-8
    ギデオンの子らの物語 9:1-57
    トラとヤイルのさばき 10:1-5
    e. エフタによるアモンの王からの救い 10:6-12:7
    イブサン、エロン、アブドンのさばき
    f. サムソンによるペリシテからの救い 13-16
  3. 付録 17-21
    a. ダンの移住と、ミカの物語 17-18
    b. ギベアの不法と、イスラエルとベニヤミンとの戦い 19-21
士師記を読むときに一つ指針となることばを書いて、今日は終わりとします。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師記21:25 新共同訳) 士師記の一番最後に出てくることばです。実はもう一回士師記の途中にも出てきます。見つけて下さいね。

士師記(2)

士師記が読み終わると、4章だけのルツ記、そして、サムエル記上・下と進みます。通読が、遅れてしまった人には、ルツ記から再開することがお勧めです。ルツ記、サムエル記上・下、そして、列王紀上・下、旧約聖書のなかで、わたしが最も好きな部分です。

士師記の最後には、何回読んでも、悲しいを通り過ぎて、目を背けたくなる、読みたくなくなる記事が二つ書かれています。以前書いたように士師記の最後21章25節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師17:6参照)と書かれています。神がひとりひとりに語りかけられその応答を記録した創世記、モーセを通して神のことばが語られた、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュアのリーダーシップのもとでカナンにはいり入植していったことの記されたヨシュア記と続きます。しかし定着して部族毎にわかれると、絶対的なリーダは不在、政治的なリーダーもそのときどきに起こされどうやら滅びないで済んだ士師記の時代、モーセはどの時代にもいるわけではないとすると、神の使いを第一として求めるのではなく、まず王を求めるのも自然な気がしてしまいます。その方向へ向かっていく方向付けがこの士師記です。しかしそのなんともたいへんな時代に、なにかほんわかと心地の良いルツ記、ナオミ、ルツ、ボアズの物語へと向かいます。この悲惨な時代にも、こんな人たちがいたのだと、慰められます。女性が活躍する、ひとの日常。戦争や紛争が絶えない時代が良いわけではありませんが、そのときにもひとのいとなみ全体、女性・男性の日常に目を向けると、神様の働きが、また違った形で見えるのかも知れません。


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聖書通読ノート

BRC2023

Judges 1:34 アモリ人はダンの人々を山地に追い込み、谷に下りて来ることを許さなかった。
ユダとシメオンの連合軍については、華々しい、勝利が描かれているが、そのあとは、課題が多く残ったことが書かれている。ヨセフの家とあり(22)そのあとには、マナセ、エフライムとある。多少、連合軍的なニュアンスを感じる。結局は、滅ぼすと言うより、苦役をさせる、ことが書かれている。状況理解は難しい。いろいろな時があり、必ずしても、イスラエルが圧倒していたわけではないことがわかるとだけしておこう。他に、推測できる証拠はあるのだろうか。
Judges 2:2 だから、あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇は壊されなければならない。』しかし、あなたがたは私の声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
前の章には、十二部族の割り当て地とその状況が語られ、この章では、士師の時代についての概要が語られる。最初にあるのが、引用句である。「二者と契約を結ぶことはできない」ことが前提にあるようだ。たしかに、複数のグループと契約を結ぶと、矛盾が起こりうる。しかし、協定・条約・約束は、共に住むにはどうしても必要なことだろう。おそらく、これを守ろうとすると、分離して、孤立しないと困難である。ほんとうに主はそれを望んでおられるのだろうか。単純ではないことは、主もご存じだろう。
Judges 3:9-11 イスラエルの人々が主を叫び求めると、主は一人の救助者、すなわちカレブの弟ケナズの子オトニエルを起こし、イスラエルの人々を救われた。主の霊が彼に臨み、彼はイスラエルを治めた。彼が戦いに出ると、主はアラムの王、クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。オトニエルの力はクシャン・リシュアタイムよりも強く、国は四十年にわたって平穏であった。こうしてケナズの子オトニエルは死んだ。
ひとつの定式なのだろうが、乱暴に感じる。そのような時代だったとも言えるかもしれず、学習過程と考えた方が良いかもしれない。いずれにしても、士師の最初は、カレブの弟ケナズの子オトニエルである。カレブの子ではないところも、興味深い。伝承があったのだろう。
Judges 4:11 カイン人ヘベルは、カインにいるモーセのしゅうと、ホバブの一族から離れ、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張った。
このあとに、ヘベルの妻ヤエルがカナンの王ヤビンの将軍シセラ(2)を殺し、バラクに引き渡したことが書かれている。ヤビンと、ヘベルの家は親しかったとある。この物語には、デボラの預言も加わっている(8,9)。十分な伝承があったのだろう。なぜ、ヘベルの妻ヤエルがシセラを殺したのかは明らかではないが、ホバブの一族と一緒にいたことが関係していると暗示している。イスラエルを助ける人たちが、周辺にも、それなりにいたこともわかり興味深い。
Judges 5:15,16 イッサカルの長たちは、デボラと共にいる。/イッサカルはバラクと同じく/歩兵と共に平野に送られた。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。なぜ、あなたは二重の柵の中で座り/家畜の群れを導く笛の音を聞いているのか。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。
なかなか一つになれないイスラエルの姿が描かれているように見える。特に、ルベンについて、ここでは2回同じ言葉で表現されている。長子の部族でありながら、戦いには、積極的に参加しなかったように見える。すでに、この時から、失われた民の性質を強めていたのか。枝分かれしも気になる。心も体も、分裂しているように見える。
Judges 6:13,14 ギデオンは答えた。「お言葉ですが、わが主よ。主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。先祖が『主は私たちをエジプトから導き上られたではないか』と言って、私たちに語り聞かせたあの驚くべき業は一体どこにあるのですか。今や、主は私たちを見捨て、ミデヤン人の手に渡してしまわれました。」すると、主は彼の方を向いて言われた。「行きなさい。あなたは持っている力を尽くして、イスラエルをミデヤン人の手から救うのだ。あなたを遣わすのはこの私だ。」
最初の「お言葉ですが」(「わたしの主よ、お願いします。」(新共同訳)「ああ、君よ、」(口語訳)「ああ、主よ。」(新改訳))がインパクトがある。嘆きと問いである。それに主は答えられ、問いかけたギデオン自身が行動することを促す。そして、このあとも、やりとりが続き、ギデオンはそのように行動することになる。むろん、答えたのが本当に主なのかという問いは残る。しかし、行動したのは、ある一定の事実なのだろう。構造的には、神と人との「対話」とも取れるし、また、主の責任と考えることが「自分ごと」となっていく過程とも捉えられる。どちらにもいかず、自分のまわりの社会がどうにか回ればよいと考える場合もあるだろう。そうならないところに、信仰があり、希望があるように思う。
Judges 7:20,21 三つの隊は角笛を吹き鳴らし、水がめを砕き、左手に松明を、右手には吹き鳴らす角笛を握りしめ、「主のため、ギデオンのための剣」と叫び、各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵陣の者は皆走り出し、叫び声を上げて逃げ場を求めた。
このあとには、同士討ちが始まったことが書かれている。混乱した状態がわかる。ギデオン物語は、意味不明のものが多い。ここでも、水がめを砕くことがなにを意味するのか分からない。ただ、手は2本だから、水がめは、捨てたということだろう。そして、剣は持っていないのか。十分な武器はなかったのかもしれない。ミデアン人の方はどうだろうか。13節に夢の話が書かれているが、一部に、すでに、ギデオンの噂から、おそれがあったように思われる。それが混乱を引き起こす。主への信頼がないといえばそれまでだが、ギデオンの主への訴えからはじまった物語は、普遍化しないほうがよいが、考えさせられることはある。
Judges 8:27 ギデオンはそれでエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。すると、イスラエルのすべての人々がその場所を慕い、淫行に走るようになった。このことはギデオンとその家にとって罠となった。
ギデオンは「私はあなたがたを支配しない。私の子もあなたがたを支配しない。主があなたがたを支配される。」と言っているが、結局、記念のようしして得たものも、罠となる。ただ、ここでは、「ギデオンとその家にとって罠となった」とある。ギデオンについては、「ヨアシュの子ギデオンは良き晩年を迎えて死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。」(32)とは書かれているが、実際には、望んでいたようにはならなかったということだろう。詳細はわかならい。士師記のパターン化もあり、簡単ではない。
Judges 9:4 彼らがバアル・ベリトの神殿から銀七十シェケルを取ってアビメレクに渡すと、彼はその銀で命知らずのならず者たちを雇い、自分に従わせた。
母方のおじたち、長老たちに、知恵がなかったということか。個別の問題よりも、荒れ果てた、時代だったということなのだろう。リーダーシップの欠如は、民主的な時代にも付き物なのかもしれない。難しい。バアル・ペリトが何かはよく分からないが、さまざまな偶像があり、ある意味では、ギデオンの計画性のなさに問題があったのかもしれないとも思う。戦いの強さで判断される時代なのだろうが。
Judges 10:3,4 その後、ギルアド人ヤイルが立ち上がり、二十二年間イスラエルを治めた。彼には三十人の息子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていた。それらは今日までハボト・ヤイルと呼ばれ、ギルアドの地にある。
この章は、トラと、ヤイルについての、短い記述から、はじまる。そして、イスラエルが主の目に悪とされることをおこなったとつづく。気付いたのは、引用句で、ヤイルが、三十の町を持っていた。という記述である。王ではないかもしれないが、かなりの勢力をもっていたことがわかる。このようなひとがたくさんいたのだろうか。部族長のようなものも考えられるが、町とあるので、首長だろうか。有力者である。どのようになっていたのだろうか。割り当て地は、変わっていたのだろうか。
Judges 11:34,35 エフタがミツパにある自分の家に戻ったとき、娘がタンバリンを持って踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、ほかに息子も娘もいなかった。エフタは娘を見ると衣を引き裂いて言った。「ああ、わが娘よ。あなたは私を打ちのめし、私を苦しめる者となった。私は主に対して口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
「アンモン人のもとから無事に帰ったときに、私の家の戸口から迎えに出て来る者を主のものとし、その者を焼き尽くすいけにえとして献げます。」(31)を受けてのことだが、文字通り、焼き尽くすいけにえとして献げたのかが問題である。何度も、考えた箇所だが、結局は不明である。しかし、こどもを実際に火祭とするのであれば、それは、やはり主に忌み嫌われることとということは、合意されていたと思われる。モレクへ献げるいまわしいことと何度か書かれているのだから。(レビ記18章21節および20章)また、この章にも、エフタが歴史的なことにも、明るく、単なる乱暴者ではないことは、明らかだから。断定はできないが。
Judges 12:6 彼らは「ではシボレトと言ってみよ」と言った。その人が正しく語れずに「スィボレト」と言うと、彼らはその人を捕まえ、ヨルダン川の渡し場で殺害した。この時、四万二千のエフライム人が倒れた。
このときすでに、ヨルダン川の東岸と西岸でことばの違いがあったことが書かれている。民数記の2度目の人口調査では、エフライムは32,500人とある。これは、軍に登録された人ではあるし、それからある時がたっていることは確かだが、ここで、42,000人が倒れたと書かれているのは、かなりの数であることがわかる。ギデオンの時も(8章1節)、エフタの時も(12章1節)文句を言っている。そのような役回りなのか。情報はあまり多くないので、適切な判断は難しいが。プライドがあると、謙虚になれないということか。
Judges 13:21-23 主の使いが再びマノアとその妻に現れることはなかった。マノアはその時、その人が主の使いであることを知ったのである。マノアは妻に言った。「私たちは神を見てしまったから、必ず死ぬことになる。」妻は夫に言った。「もし主が私たちを死なせようと望まれたのなら、私たちの手から焼き尽くすいけにえと供え物をお受けになることはなかったでしょう。今頃、私たちにこのようなことを見せることも、聞かせることもなかったでしょう。」
マノアは、原理・原則主義、マノアの妻は、現実主義である。興味深い。男女差ではないだろうが、考え方の違いが、くっきり現れている。わたしたちが、知ることが少ないのだとすると、現実主義のほうが、よいように思われる。演繹よりも、帰納である。原理原則は、現実をみながら、少しずつ修正していかなければいけないのだろう。それを教えているとも取れる。わたしたちは、主について、じつはまだほとんど知らないのだから。
Judges 14:3 両親は言った。「あなたの兄弟の娘の中にも、私の身内の中にも、妻になる女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは。」サムソンは父に言った。「あの娘を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです。」
ペリシテ人は、海洋民族のフェニキア人が住み着いた都市国家と考えられている。国際的にひらけた人々だった可能性が高い。文明もイスラエルよりも進んでいたと思われる。無割礼という宗教に関係した部分が強調されているが、国際結婚に始まる軋轢なのかなと今回考えた。「サムソンの父がその女のもとに下って来たとき、サムソンは若者たちの習慣に従って祝宴を催した。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れて来てサムソンと同席させた。」(10,11)にも、一定度、相手を探り合いつつ、交流を持つ様子が見て取れる。サムソンは、この章では、単なる力が強い、乱暴ものに映る。
Judges 15:1,2 しばらくして、小麦の刈り入れの頃、サムソンは一匹の子山羊を携えて妻を訪ね、「妻の部屋に入りたい」と言った。だが、彼女の父は彼を入らせず、こう言った。「あなたが彼女を嫌ったと思い、あなたの友人に与えてしまいました。妹のほうがきれいではないですか。彼女の代わりに、妹をあなたの妻にしてください。」
通い婚がどの程度一般的であったかは不明だが、「あなたの友人」とあり、妹について言及していることからも、父親には、敵対心があったわけではないだろう。このあと「ペリシテ人は言い合った。『こんなことをしたのは誰だ。』『ティムナ人の婿サムソンだ。サムソンの妻が友人のものになってしまったからだ。』ペリシテ人は攻め上り、女とその父を火で焼き滅ぼした。」(6)と書いてあるところをみると、この家族は、それほど、政治力があったわけではないこともわかる。ペリシテ以外の人との結婚に、父親は寛容だったのかもしれない。サムソンは「これがあなたがたのやり方だと言うのなら、私はあなたがたに報復せざるをえない」(7)と言って、「彼らが立ち上がれなくなるほど徹底的に打ちのめした」(8a)とある。乱暴な日常的な事件に見える。その背後に、主が働いていると、イスラエルの人は見るのだろう。
Judges 16:5 ペリシテ人の領主たちがこの女のもとに上って来て言った。「サムソンを説き伏せ、あの怪力が何によるのか、どうすれば彼を打ち負かし、縛り上げて苦しめることができるのかを探ってくれ。そうすれば、私たちはそれぞれ銀千百シェケルをあなたに与えよう。」
たまたま17章を先に読んだが、そこでは、銀1100シェケルが盗まれた話とともに、レビ人に報酬として、毎年、銀10シェケルを払うとある。ここでは、デリラに約束した金額は、銀1000シェケル。かなりの高額だったのだろう。「ソレクの谷にいる女」(4)とだけあり、デリラについては、不明である。デリラはこの1000シェケルを受け取ったのだろうか。そして、幸せだったのだろうか。
Judges 17:13 ミカは言った。「今や、主が私を幸せにされることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」
「このミカという男は神の宮を所有しており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人を任命し、自分の祭司としていた。その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。」(5,6)とあり、礼拝に関しても、ほとんど、無秩序状態のようだとおもったが、最後のことばは、レビ人が、それなりのプロと認めてられていたこともわかる。レビ人は、旅をしているようだが、よくはわからない。相続地をもたないということから、このようなひともいたということだろうか。
Judges 18:30,31 ダンの人々は自分たちのために彫像を立てた。また、モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、この地の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を務めた。こうして、神の宮がシロにあった間、彼らはミカの造った彫像を据えていた。
ヨシュア記と士師記はいつの時代に編纂されたものだろうかと思っていたが、ここには「捕囚とされる日まで」とある。通常はアッシリアに滅ぼされる時を意味するから、それ以降と考えられる。このあとの歴史を見て、これが書かれていると考えるのが自然なのだろう。ダンと名前を変えたライシュと彫像の由来を記した箇所である。受け入れ難い物語でもある。「五人は歩き続け、ライシュにやって来た。彼らが見ると、その地の民は安らかに暮らしており、シドン人のように静かで無防備であった。その地には人を辱め、虐げる権力者はなく、シドン人から遠く離れ、どの人とも交渉がなかった。」(7)とある。ライシュの人たちに目がいってしまう。悲しい歴史が、たくさんある。本当に乱暴。
Judges 19:23,24 家の主人は彼らのもとに出て行き、こう言った。「兄弟たちよ、どうか悪いことをしないでください。この人が私の家に入った後で、そのような恥ずべきことをしないでください。ここに処女である私の娘と、この人の側女がいます。この二人を差し出しますから、辱めるなり、好きなようにしなさい。しかし、この人にそのような恥ずべきことはしないでください。」
女性の地位の低さがよくわかる箇所である。家の主人は、娘を差し出す。このひとの側女について、どう了解をとったかわからないが、それは、問題ないと考えたように映る。しかし同時に、これが大きな戦いに向かうことを考えると、どこからが、この社会において、一線を超えていたかも、考えなければいけない。「イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう」(12)がかえって仇となったことが、背後にあるのだろうが、それは、脚色とも見える。世の中には常に痛みと苦しみがあると感じる。
Judges 20:4,5 殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私と私の側女は、ベニヤミンのギブアに着いて夜を過ごそうとしましたが、ギブアの豪族たちが私を襲って来ました。夜、私のいた家を取り囲んで私を殺そうとたくらみ、さらに私の側女を辱めて死に至らしめたのです。
19章22節には「町の男たち、町のならず者たち」とあるが、ここには、ギブアの豪族たちとある。背景は不明だが、ギブアが、襲った人たちを差し出さなかったことを見ると、有力者が絡んでいたように思われる。ベニヤミンが非常に少なくなった経緯が書かれている物語ではあるが、士師記に入って、はじめて、全体がまとまり、かつ、祭司ピネハスや、契約の箱も(26-38)についても記されており、宗教的な営みが続いていたことを証言もしている。不思議でもある。
Judges 21:13-15 全会衆は、リモンの岩場にいるベニヤミンの人々に使者を送り、和解を呼びかけた。この時、ベニヤミンが立ち帰ったので、彼らはベニヤミンに対し、ギルアドのヤベシュの女たちの中で生かしておいた娘たちを与えた。しかし、まだ数が足りなかった。民はベニヤミンのことを悔やんだ。主がイスラエルの諸部族の間を引き裂かれたからである。
理解し難い、不思議な記述が多い。最後には、民は悔やみ、主は引き裂かれたとある。この背後に、主がおられるというだけの表現なのだろうか。しかし、ここでの決定を見ると、同族意識が強く、悔いたことは伝わってくるように思う。主の思いの方が、もっと辛いだろうに。


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過去の聖書ノート

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Judges 1:21 ベニヤミンの一族は、エルサレムに住むエブス人を追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている。
この「追い出さなかった」という表現が、この章に21,29,30,31,32,33節と6回登場する(これ以外はヨシュア記16章10節のみ)「追い出さなかった・追い出せなかった・追い出そうとはしなかった」これを厳密にわけることはできないだろう。そして、問題だとも断言しにくい。しかし、これが火種であることを、士師記は言っているのだろう。実際は、もっと複雑なのだろう。多様性の中で、共に生きる。その困難さは、明らかである。イエス様は、このことにヒントと力を与えてくださったと思うが、解決をもたらしてくださったわけではないのだろう。いそがずゆっくり考えていきたい。
Judges 2:21-23 それゆえ、私もまた、ヨシュアが死んだときに残していた諸国民を、これ以上一人も彼らの前から追い払わない。これはイスラエルが、先祖が守ったように主の道を守って歩むかどうかを、この人々によって試みるためである。」主はこうして、諸国民を直ちに追い払うことなく、ヨシュアの手に渡すこともなく、そのまま残したのである。
この章には最初に「主の使い」の警告、そして、ヨシュア記24章にもあったヨシュアの死の再述、その後の世代の背信、士師(שָׁפַט -šāp̄aṭ: to judge, govern, vindicate, punish)を起こされたことが書かれ、引用箇所に至る。この士師記の背景設置であろう。しかし調べてみるとこの「士師」ということばは、士師記が初出で士師記には、この章の16-19節に出るだけのようである。ただ、引用箇所は、最後の文章は、帰結なのか、前提なのか不明で、主の方針が変わったようにも思われる。おそらく、これが、人々の受け取ったことなのだろう。王制へと移行する時代、これから士師について書かれているが、おそらく、狭い地域で活躍した勇者列伝なのだろう。書き方から、ヨシュア記と同じ記者のように思われるが、書かれたときの時代背景はどのようなものだったのだろう。偶像礼拝が最大の問題だったように思われるが。
Judges 3:1,2 カナンとの戦いの経験が全くないイスラエルを試みるため、主が残しておかれた諸国民は次のとおりである。それは、戦いを経験したことのないイスラエルの世代に、戦い方を学ばせて経験させるためにほかならなかった。
「紛争地に中立はない」アイルランドで、テロリストから牧師になった方のメッセージに出てきた言葉だが、残念ながら非暴力中立を維持することができない状況がたくさん世の中にはあるのだろう。たくさんの民族が混在し、かつ移動が欠かせない牧畜が中心で、農耕をはじめていた人達と混在していればなおさら、争いは日常的なものだったのだろう。現代の日本では考えにくいが、わたしも、日々、ぎりぎりの線で戦っているように思う。公平さをたもつために、問題が繰り返されることがないように改善することにおいて、傷つくひとたちを守ろうとして、気づきにくいことを知らせるために、そして、世の中の様々なできごとから学び日々の中で活かすために。どうでもよい。とすることの反対側に、戦いがあるのかもしれない。受容がたいせつなこともあるだろう。しかし、戦いも日々あるように思う。では、単に、肉体的に、他者を傷つけることだけが問題で、それを避ければよいのかという問にも、やはり NO と言わざるをえない。まだまとまっていないが、これからも戦いの記録をみながら考えていきたい。
Judges 4:11 カイン人ヘベルは、カインにいるモーセのしゅうと、ホバブの一族から離れ、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張った。
非常に唐突である。これは、17節の「シセラはカイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に徒歩で逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベルの家とは親しかったからである。」につながっている。親しくしていた、ヤビンではなく、イスラエルを支援したということだろう。何度か、カイン人と書かれている、モーセのしゅうとの家系である。イスラエルの中に住み、引用句では、最初に定められた土地からも離れ、住んでいたが、イスラエルへの帰属・寄留を重視したということで、詳細は不明であるが、非常に興味深い。4節には「その頃、イスラエルを治めていたのはラピドトの妻、女預言者デボラであった。」とあり、この章の中心人物は、ふたりとも女性である。女性が重要な役割をはたしただけでなく、おそらく、男性とはことなる勇敢さを発揮したことも伝えているのだろう。興味深い。
Judges 5:16,17 なぜ、あなたは二重の柵の中で座り/家畜の群れを導く笛の音を聞いているのか。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。ギルアドは、ヨルダン川の対岸にい続け/ダンは、なぜ安穏としてとどまるのか。/アシェルは、海辺に座し、舟着き場にい続ける。
イスラエルを治めていた(Judges 4:4)と言われている女預言者デボラがどの程度影響力を持っていたかは不明である。しかし、この(デボラとアビノアムの子バラク(1))の歌からみると、ここに(ギルアドが与えられた、マナセの子であるマキルの記述があることも含めると、エフライム、ベニヤミン、ゼブルン、イッサカル、ルベン、ダン、アシェル、ナフタリ)9つの部族の名が現れ、レビを除くと、現れていないのは、南に住む、ユダとシメオンと、ヨルダン川の東(ギルアド)の地の、ガドだけである。かなりの範囲を掌握していたのかもしれない。その中で、引用句は、ルベン、ダン、アシェルと、おそらくギルアドの、ガドとマナセの半部族は動かなかったことが書かれているのだろう。すでに、一つではないことが見て取れる。いずれ、もう少していねいに見ていきたい。関係はないだろうが、メロズ(מֵרוֹז Mērôz - refuge)が「駿馬の群れが駆け抜ける」の直後にあり「走れメロス」を思い出した。私の散歩コースに「入水の地」の碑がある作家は名前をこのようなところから見つけたのかもしれないとちょっと想像した。
Judges 6:10 そして、私は言った。『私は主、あなたがたの神である。あなたがたは今住んでいる地のアモリ人の神を畏れ敬うな。』しかし、あなたがたは私の声に聞き従わなかった。」
この章の最初には「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミデヤン人の手に渡された。」(1)とある。この悲惨な状況は、「主の目に悪とされることを行った」から、そして、主を主とせよ、と述べる。ギデオン物語の始まりである。ひとは、苦しみの意味を考え、意味のないことを受け入れられない。それが因果応報・自業自得につながる。しかし、わたしは、意味があるかないかではなく、原因は多岐にわたっていること、したがって簡単にはわからないことも受け入れなければいけないと思っている。科学的思考の功罪と書いておこう。しかし、真理の探求という個人的によりたいせつに思うことが背景にあることも確かである。同時に、このような状況のなかで、自分はどのように、考え、どのように行動するかもとてもたいせつである。わからないから何もしないという選択肢はない。わたしがギデオンなら、ギデオンの父親なら、アビエゼルのひとなら、マナセや同じ苦しみを抱えている人なら、そしてアマレクやミデアンのひとならと考えながら、読んでいきたい。
Judges 7:7 主はギデオンに言われた。「手で水をなめたこの三百人をもって、私はあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡そう。残りの兵は皆、それぞれ自分の家に帰しなさい。」
昔は、一つ一つ選びの理由を考えていた。おそらく、理由もある程度はあるのだろう。しかし、それで決められるのではないように思う。主の選びは多くの場合よく理由がわからない。恵みと同じだろう。因果応報のほうが、わかりやすいように思うが、少し考えればそう単純でないこともわかる。もう一点「ギデオンはその夢の話と解き明かしを聞くやその場にひれ伏し、イスラエルの陣営に戻って叫んだ。」(15a)とある。主は、敵陣の人を通して御心を伝えることもあるということである。熱心に求めれば神様の声を聞くことができるようになるわけではない。謙虚でありたい。
Judges 8:3 神はミデヤンの長、オレブとゼエブをあなたがたの手に渡された。あなたがたに比べて、私に何ができたと言うのか。」彼がこのように語ると、彼らの憤りは和らいだ。
この章には山のようにそのときそのときを誠実に生きることの難しさが書かれているように思う。それは、わたしが日々経験してきたことで、今も経験していることだ。エフライムの不満(1)、ギデオンのエフライム(3, 引用箇所)、スコト(7)やペヌエル(9)の対応、また、スコト(6,13-16)やペヌエルの住民・長老の対応(8,17)、ゼバとツァルムナ(18)、イエテル(20,21)、ギデオンの対応(21)、ギデオンの信仰告白(22,23)、その後(24-27)。それぞれの立場で、誠実に、神の前を歩くことは、本当にチャレンジングであり、日々戦いである。わたしは、自分の人生を振り返り、そして、今を思うと、まさに、そのようなチャレンジを受け止めて戦って来た日々だったと思うとともに、なかなかその重要さに気づかなかったり、できなかったり、しなかったことを思い出す。今日も、これからも、精一杯、誠実に、主の前を(神と共に神なしに)歩んでいきたい。一つ一つていねいに学んでいきたい。
Judges 9:5 彼はオフラにある父の家にやって来て、自分の兄弟であるエルバアルの息子七十人を一つの石の上で殺した。ただ、末の子ヨタムは身を隠したために生き残った。
「エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる母方のおじたちのもとに行き、母の実家に属する氏族全員に告げた。」(1)から始まっている。最近、アラビア語、現代ヘブル語を少しだけかじって、その言語の近さに驚いているが、メレクは王であることも知った。アビメレク(אֲבִימֶלֶךְ  - 'ăḇîmeleḵ - Abimelech = "Melek is father" or "my father is king")の名前は、通常は、ギデオンに引き寄せられて、父は王と訳されるが、アビメレクという名前は聖書に多く現れ、後ろから形容するので、直接的な意味は「王の父」である。呼称かもしれないが、ギデオンが「父は王」という名前を子につけるだろうかとも考えた。なお、ヨタム(יוֹתָם - Yôṯām - Jotham = "Jehovah is perfect")。上に引用した1節や5節からも、母が異なる子どもがたくさんいたのだろう。族長としては、別に珍しいことではなかったろう。しかし、やはり、問題を引き起こしている。これも、ギデオンが向き合うべき課題だったろうか。ある程度は、生前にわかっていたはずでもある。士師記は、それぞれが自分勝手に(自分が信じる生き方で)生きている時代だったとも言える。英雄に救われることもあるが、長く見ると問題ばかりであることが書かれているとも言える。編集なのか、現実なのか。おそらく両方だろう。
Judges 10:16 彼らは異国の神々を自分たちの間から取り除き、主に仕えるようになった。主はイスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。
非常にナイーブ(素朴)な記述・神理解である。士師記記者の神観とも言えるが、この時代を評価することばだとも言えるかもしれない。その意味でも、これを不変・普遍の真理と取るには問題もある。この章では、まず、イッサカル人トラ、そしてギルアド人ヤイルとその後が中心で、11章のエフタにつながっているようだ。ギルアドに焦点が移動するが、ギルアド人と書かれ、12部族名は記されていない。ヨルダンの東の地区、ルベン、ガド、マナセの半部族は、すでに、アンモンなどの影響のもと、明確な部族の独立性はどの程度存続していたのだろう。このあとの記述で確認していきたい。
Judges 11:28 しかし、アンモン人の王は、エフタが送ったこの言葉を聞き入れなかった。
歴史解釈の難しさを物語っている。エフタが語ったことはひとつの真理だったろうが、アンモン人の見る歴史ではなかったということだろう。ギルアドは創世記(31,37章)に地名として現れる。「マナセの一族は、マキルとマキル家の氏族。マキルはギルアドをもうけた。ギルアドとギルアド家の氏族。」(民数記26章29節)「ルベンの一族とガドの一族は多くの家畜を持っており、それはおびただしい数に上った。彼らがヤゼルの地とギルアドの地を見ると、そこはまさに家畜を飼うのに適した場所であった。」(民数記32章1節)とあり、さらに「モーセは、マナセの子マキルにギルアドを与え、そこに住まわせた。」(民数記32章40節)とある。正確にはわからないが、地名とマナセの子、マキルの子、ギルアドと、両方書かれていることを確認しておく。聖書協会共同訳では、エフタの娘に関する記述が和らいでいる。犠牲として献げたことを想像させる記述から、請願通り、一生処女でいたことを思わされる記述になっている。あまり解釈を明確にさせるのは、良くないかもしれない。やはり Study Bible と言えるような、他の訳し方についても、併記したものが個人的には望ましいと思う。わからないのだから。それがこの訳の方針「礼拝で読まれるのにふさわしい」ということなのだろうが。
Judges 12:7 エフタは六年間イスラエルを治めた。ギルアド人エフタは死んで、ギルアドの町に葬られた。
「イスラエルを治めた」がこの章には、7, 8, 9, 11, 13, 14 節と5回書いてある。イスラエルの地の部分的な統治のように思われるが、士師記記者としては、イスラエルを治めたと書く必要があったのだろう。なぜだろうか。だれかが、リーダで、一つにまとまっていたことは、継承されていたと証言するためだろうか。ただ、エフタと、エフライムの戦いは、熾烈である。当時、エフライムの兵力がどの程度であったかわからないが、殺された(倒された(6))のが、4万2千人とある。民数記での二度目の登録では、エフライムは、32500人である。(民数記26章37節)殆ど全員だとは、思えないが。
Judges 13:12 マノアは言った。「あなたのお言葉どおりになりましたら、その子が守るべきことや、なすべきことは何でしょうか。」
なにか、マノアがオロオロしている感じが微笑ましい。ナジル人の誓約が守るべきことであることは、理解しただろう。もう少し、他に聞き方はあったように思う。でも、「わが主よ。どうぞ、あなたが遣わされた神の人をもう一度私たちのもとに来させ、生まれてくる子に何をすべきか教えてください」(8)とともに、謙虚でもある。なにか、かえって、新鮮味を感じる。それが「不思議」(18,19)につながっているように思われる。
Judges 14:10,11 サムソンの父がその女のもとに下って来たとき、サムソンは若者たちの習慣に従って祝宴を催した。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れて来てサムソンと同席させた。
いままであまり気に止めなかったことが2つあある。一つ目は、サムソンの自由さである。イスラエルの中だけに閉じこもらる、外界のことに興味も多かったのかもしれない。15章2節にサムソンの友人という言葉も出てくる。なんども、ティムナに行っていたのかもしれない。また、引用箇所では、単に、若者たちの習慣に従ったサムソンを見て、人々は、負担をかけるために、三十人の客を同席させたのかもしれないと思った。微妙なやりとりがあるように思われる。その仕返しもあっての謎かけかもしれない。武勇伝・英雄伝として、語り継がれるなかで、興味深い話になっていったのかもしれない。むろん、士師記として伝える内容はあるのだろうが。
Judges 15:6 ペリシテ人は言い合った。「こんなことをしたのは誰だ。」「ティムナ人の婿サムソンだ。サムソンの妻が友人のものになってしまったからだ。」ペリシテ人は攻め上り、女とその父を火で焼き滅ぼした。
この女と父もペリシテ人であるから(14:1)仲間割れも招いたということだろう。サムソンがどの程度考えてしかけたのかは不明だが、ユダがペリシテ人に支配されているときに(11)驚くべきことで、これをもって「ペリシテ人の時代に、サムソンは二十年間イスラエルを治めた。」(20)と記しているのだろう。パレスチナの語源ともなったペリシテ人、海洋民族のフェニキア人の流れと言われているが、高度の文明をもっており、牧畜・農耕を生業としていたイスラエルとは、文明的に大きな差があったと思われる。このような差から生じる支配・被支配も歴史的には、様々な形で生じた、難しい問題で、現在も形を変えて、存在している。公平さは、ほんとうに難しい。
Judges 16:4    その後、彼はソレクの谷にいる女を愛した。女の名はデリラと言った。
相手の名前が書かれているのは、このデリラが最初であり、他では「彼女のもとに入った」(1, なお14:3 では「(見て(14:2))気に入った」)ここには「女を愛した」とある。記述の仕方も変えている。愛の関係の中で起こったこととして、神に献げられたものとについて、書かれているのが枠組みだろうが、なにかを教訓として教えるものではないのだろう。最後の「彼は二十年間イスラエルを治めた。」(31b)からも、この表現が必ずしも、通常の意味での統治を意味するのではなく、ある時代の英雄として描かれていることがわかる。なお治めるは שָׁפַט(šāp̄aṭ - to judge, govern, vindicate, punish)新共同訳は「裁いた」口語訳は「さばいた」。何でも、教訓に結びつけるのは、かえって危険でもある。
Judges 17:6 その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。
同じ表現がもう一度、21章25節に登場する。数は少ないが、士師記後半のキーワードのように思う。おどろくような、そして、正視できないような事件が二件書かれている。その最初の物語の序章である。2節の「銀千百シェケル」は、ペリシテの領主たちがデリラに約束した額(16章5節)と同じである。この章にもう一回現れるが、聖書全体でもこの三箇所のようだ。数の符合は気にすると、中心から外れることがあるので、注意を要するが、気づいたので書いておく。1シェケルは、11.4g。価値は簡単には、測れないが、この章の記述から、一生暮らすのに十分なお金だったのだろう。ローマ通貨では、デナリ2枚として、兵卒の2200日分の給与。2200万円ぐらいか。「今や、主が私を幸せにされることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」(13)このミカのことばから、少し、一般の人の価値観が見える気もする。引用句をどうとるかにも関係するだろうが。
Judges 18:7 五人は歩き続け、ライシュにやって来た。彼らが見ると、その地の民は安らかに暮らしており、シドン人のように静かで無防備であった。その地には人を辱め、虐げる権力者はなく、シドン人から遠く離れ、どの人とも交渉がなかった。
ライシュは理想郷のようにも思うが、おそらくそうではないのだろう。安らかで無防備の反対は、常に危険が迫り戦いの準備がされていることか。人を辱め、虐げる権力者がいることの中で、錬られることも多いのかもしれない。アラブの春とその後を見ていると、虐げる権力者を倒し、民主的な体制になることが、問題を解決すると考えるのは間違いなのだと思う。民主的な統治は長い歴史の中で、選択するようになったセカンド・ベストのようなもので、他よりは酷くはない程度のことなのだろうから。我々はどのような生き方をすればよいのだろうか。よく見ると問題・課題ばかりのこの世において、誠実に課題と向き合い生きようとすれば、戦いを常に意識することになるのだろう。だからこそ「あなたの敵を愛しなさい」が生き生きとしてくるのかもしれない。理想郷に見える状況は、単に、周囲が見えていない、見ていないだけなのかもしれない。むろん、だからといって、ダンの部族の乱暴なやりかたが正当化されるわけではない。しかしこれも、割当地が公平に与えられていなかったことが背景にあるとも言える。そこから遡れば、やはり我々は、課題ばかりの世界に生きていることもわかり、正当性の判断はとてもむずかしいことも見て取れる。
Judges 19:22  彼らがくつろいでいると、突然、町の男たち、町のならず者たちが家を囲み、戸を叩いて、家の主人である老人に言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」
「男色」のことを言っていると思い、いままで読んできたが、おそらく、「辱め、朝まで一晩中弄」(25)ぶことを言っているのだろう。嬲り者にする(人をからかったり苦しめたりして喜ぶこと)もしかすると嬲り殺し(すぐに殺さないで,苦しめながら殺すこと)だったかもしれない。この章の最初は「その頃、イスラエルには王がいなかった。」(1a, 18:1参照)から始まる。側女の父とこの男とのやり取りをみても、このあとのことを見ても、女性が人間として扱われていないように感じるが、おそらく、さらに酷いことととしてこの章の事件を受け取ることが期待されているのだろう。18章のことは、そんなこともあるかもしれないと思えるが、この章のことは、まったく受け入れられない、そう読者に思わせることが士師記の意図なのだろう。王がいない時代のことである。王がいれば解決することではないが、司法がある程度有効になることなのだろうか。
Judges 20:4,5 殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私と私の側女は、ベニヤミンのギブアに着いて夜を過ごそうとしましたが、ギブアの豪族たちが私を襲って来ました。夜、私のいた家を取り囲んで私を殺そうとたくらみ、さらに私の側女を辱めて死に至らしめたのです。
19章22節「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」のコメントとして「男色」ではなく「嬲り殺し」のことを言っているのではないかと書いたが、ここでは「私を殺そうとたくらみ、さらに私の側女を辱めて死に至らしめた」とあり、かなり逼迫した状況であったことが証言されている。このあとの戦いで双方で倒れた(「地に打倒した」)者の数が膨大であることに驚かされる。無論、年とともに語り継がれる中で数は変わっていく可能性は否定できないが、まだ鉄器の無い時代(「投石の名手」(16)「剣(おそらく青銅製)と携えた者」(35)の記述もある)で、倒されても簡単には死に至るものだったかは不明である。最後「皆殺しにした」(42)ともあり、原語も詳しく見てみないとわからない。これらの思考の背景には、どうも自分の中には、殺さなければよいかなという思いがあるようだ。一生障害を負うことなど、単に生きているかで判断するのは、不適切でもある。
Judg:es 21:21,22 よく見ていなさい。シロの娘たちが踊りを踊りながら出て来たら、ぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から妻とする者をそれぞれ捕まえ、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。もし彼女たちの父や兄が我々に文句を言いに来たら、我々は彼らに言おう。『私たちに免じて、彼らに憐れみをかけてください。私たちは戦いの間、それぞれ妻をめとることができなかったし、あなたがたも彼らに娘を嫁がせることができなかったからです。嫁がせていたら、あなたがたは罪に問われたでしょう。』」
ほんとうに乱暴である。単純に現代のそれもある地域・人々の価値観を適用することには、気をつけなければならない。しかし、意思決定と運用には、それに関わるすべてのひとが関わることが望ましい。こどもなど、それが困難な場合はあるが。同時に、このように一部の人(ここでは男性の指導者たち)の意思が極端に強く反映される背景には、価値観が狭く、評価項目(たいせつにすべこと)が少ない(認識されず多様性も受け入れられない)という面もあるのだろう。難しい。

BRC2019

Jd 1:3 ユダは兄弟シメオンに、「わたしに割り当てられた領土に一緒に上って、カナン人と戦ってください。あなたに割り当てられた領土にあなたが行かれるとき、わたしも一緒に行きます」と言った。シメオンはユダと同行することにした。
それぞれの部族について「追い出さなかった」という記述が続く(21, 29, 30, 32, 33)。特に、ユダ、そしてシメオンとの協力があるのは、シメオンが、ユダの中に嗣業をもった経緯を説明しているようにも思われる。ユダの嗣業地が大きかったことの説明ともとれる。部族連合と言われる所以でもあろう。
Jd 2:16-18 主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。
士師の働きが記されている。興味深いのは、士師にも民は耳を傾けないが、それでも、主は「士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださった」とあることだ。その理由が続く。士師は様々な地でおこり、様々な外敵に立ち向かったことが書かれている。一般化するのは、注意を要するが、小さな働きで、必ずしも、支持されないものであっても、主は、そのものと共にいて、働かれることを言っているようにも読める。主の御心をもとめて誠実に生きていきたい。
Jd 3:1 カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。
これも事実の表現というより、真実または、信仰告白と理解すべきだろう。カナン人には、カナン人に対する導きがあったと思われるからである。自分と他者との関係においても、似たことは起こりうる。信仰の目をもって省察することとともに、普遍化することは、気をつけるべきでもある。独善となってしまう。
Jd 4:17 シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベル一族との間は友好的であったからである。
関係は複雑である。「カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。」(11)とあるので、ヘベルはカイン人であることがわかる。カイン人は、創世記15章19節に始めて登場する。アダムの子、カインと関係があるのかもしれない。次は民数記24章21節、そして、この箇所である。サムエル記上、歴代誌上にも登場する。ここでは、ヘベルは、以前、モーセのしゅうとホバブと一緒に住んでいたようである。それが離れて、ヤビンと、友好関係を持っていた。これだけではわからないが、中心からはぐれたひとが生きていくのは大変だったのだろう。ゆらぎが見られる。このようにしてのみ、信頼を得られると考えたのかもしれない。時を読む力があったのかもしれない。ヘベル自身は、どう考えていたかは不明である。
Jd 5:28 シセラの母は窓から外を見て/格子を通して嘆いた。「どうして彼の車は遅れているのか。どうして馬のひづめの音は遅いのか。」
シセラの母の視点まで入っていることが興味深い。デボラ、ヤエルと、女性が中心的な役割を果たす中で、シセラの母の視点が出てきているのかもしれない。この詩が古いと考えると、もう少し、ゆっくり学んでみたい。この詩の内容をあとから、散文として書いたものが、4章の記述であるように思われるので。
Jd 6:13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」
ここにギデオンの出発点がある。同時に「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(15)という自分には、その力がないことを告白している。それを踏まえて「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(12)と天使が語りかけるところから始まっているのだろう。このあと、ギデオンが神の意思がそこにあることを、二度確かめることが記されている。ミデアンを撃つことが正しいかどうかではなく、神がギデオンと共におられるかどうかを問い、確認しようとしているように思われる。そのほうが、倫理性より、より本質的なのだろう。主は、すべての善いものの源なのだから。しかし、ひとは同時に、それが主から得たことであることの責任は負うことになる。同時に、ひとは、達し得たところに従って歩んでいかざるを得ないことも、確認しておくべきだろう。正しさは難しい。
Jd 7:4 主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」
6章を読んでも、なぜ、各部族から(6章33-35節)人々が集まってきたのか、はっきり理由はわからない。また、このあとの選別の根拠も、可能性をあげることはできるにしても、はっきりはしない。引用箇所では「あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者」が根拠である。これが本当に神の御心であるかの判定は困難であるが、それは「達し得たところ」のマジックワードで理解することとし、この選別が成功への鍵だったように思われる。成功も、単なる勝利だけを意味しないことが重要なのだろう。少なくとも「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」(2)さらに「恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ」(3)にあるように、信仰・主への信頼が試されているのだろう。そこに、ギデオンの信仰告白があり、士師記の神学があるのだろう。
Jd 8:29 ヨアシュの子エルバアルは、自分の家に帰って住んだ。
あまりにも考えることが多かったためこの引用箇所を選んだ。8章は栄光の記録とは言えない。エフライムや、スコトの人たちとの衝突、その扱い、ギデオン後の統治の問題、記念のつもりだったろうが、偶像礼拝のたねとなること、バアル信仰。エルバアルという名前は、「ギデオンがバアルの祭壇を壊したので、『バアルが彼と争うがよい』と言って、父はその日ギデオンをエルバアル(バアルは自ら争う)と呼んだ。」(6章31節)から来ているが、この言葉だけで、意味が明確とは言えないだろう。ひとに頼ることは、ひとの業績を崇めることにもつながるのかもしれない。ギデオンの乱暴さも、目には目をのようなことば「それはわたしの兄弟、わたしの母の息子たちだ。主は生きておられる。もしお前たちが彼らを生かしておいてくれたなら、お前たちを殺さないのに」(19)も気になる。こうしていればよかったなどと、方法論を考えるのは、的はずれなのだろう。
Jd 9:16 さて、あなたたちはアビメレクを王としたが、それは誠意のある正しい行動だろうか。それがエルバアルとその一族を正当に遇し、彼の手柄にふさわしく報いることだろうか。
わたしには「それは誠意のある正しい行動だろうか。」が虚しく響く、士師記著者はどうなのだろうか。嘆かわしいこととしつつ、そのことも、絶対化していないのかもしれない。そのような多重な歴史観はどのようにして、育っていくのだろうか。難しい。
Jd 10:15 イスラエルの人々は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」
人はなぜ真正な悔い改めができないのだろうか。ここでも、どうも、「ただ、今日わたしたちを救い出してください。」に中心があるように見えてしまう。「わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。」は何を言っているのだろうか。わたしは、どうだろうか。主の憐れみに、甘えてしまうのだろうか。そのなかで、なかなか「わたしたちは罪を犯しました。」とは言えない。自分自身、複雑である。
Jd 11:1 ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである。
不思議な始まり方である。そして、エフタは、正妻の子どもたちに、追い出される。そこにならずものが集まる。最後には、悲しい、娘の話が書かれている。これも、士師記の神学なのだろう。正しさがわからない。そのことを伝えているのだろう。
Jd 12:4 エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」と言ったからである。
ギレアドはマナセの子の名前で、ヨルダン川の東に住んでおり、エフライムは西の盟主であったと思われる。このあとに「そのときエフライム人四万二千人が倒された。」(6)とある。「以上がエフライムの子孫の諸氏族であり、登録された者は三万二千五百人。以上が、ヨセフの子孫で、その氏族に従ったものである。」(民数記26章7節)と比較すると、この数の多さに驚く。「この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。」(士師記20章46節)の記述のあと、ベニヤミンの男性は殆ど絶えたことを考えると、それと比較しても非常に多い。参考として「以上がベニヤミンの子孫で、その氏族に従ったものであり、登録された者は四万五千六百人。」(民数記26章41節)をあげておく。エフライムの嗣業が地図上で狭く書かれていることとも関係しているのかもしれない。どの程度、歴史的事実、厳密な数字と考えるかは、難しいが、エフライムが力を削がれたことは事実だろう。北イスラエル王国がまとまらなかった一つの理由もこのあたりにあるかもしれない。「彼をギレアド、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。」(サムエル記下2章9節)以外は、エフライムは地名と結びつけて書かれていることが多いように思われる。
Jd 13:23 だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。
マノアと比較して妻は自由である。なぜそのように考えられたのだろう。当時としては、マノアの反応の方が、普通だったと思われるが。「不思議」が印象に残ったというのは、あまりに、はぐらかしているだろう。実際に、自分の身に起こる現実を見据えて、たんに恐ろしいものではない、リアリティを感じたのかもしれない。現実主義が、冷静さをも、生み出すのかもしれない。実際の現実だけではなくその背景にある、主の意図から、自分の生き方を考えていきたい。それが、ひとつの自由さなのかもしれない。
Jd 14:16 サムソンの妻は、夫に泣きすがって言った。「あなたはただわたしを嫌うだけで、少しも愛してくださらず、わたしの同族の者にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません。」彼は答えた。「父にも母にも明かしていないのに、お前に明かすわけがないだろう。」
サムソンは「ペリシテ人の娘に目をひかれた。」(1)とある。そして「わたしは彼女が好きです 」(3)と両親に告げ、「彼は、女のところに下って行って言葉をかけた。サムソンは彼女が好きであった。」(7)と書かれている。そのあとに、この引用節がある。女はサムソンは自分を「嫌うだけで、少しも愛してくださら(ない)」とし、その根拠として「わたしの同族の者にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません。」と述べている。愛の性質について問われている。愛は、相手のたいせつなことをたいせつにすること。行動が伴うかのように表現されている。それが、好きか、嫌いかも、本質的には表していると、サムソンの妻は言っているようである。サムソンの妻に語らせているのかもしれない。結局、サムソンは、妻のたいせつにするもの(同族のつながりだろうか)を無視はできなかった。興味深い。
Jd 15:2 父は言った。「わたしはあなたがあの娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹の方がきれいではないか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい。」
サムソンは、嫌ってはいなかったのだろう。それは、14章にある行動からもわかる。しかし、父は、それに、気づかなかったのだろうか。結局「ペリシテ人は、『誰がこんな事をしたのか』と言い合った。『あのティムナ人の婿のサムソンがした。彼が婿の妻を取り上げ、その友に与えたからだ』と答える者があった。ペリシテ人はそこで、彼女とその父のところに上って来て、火を放って焼き殺した。」(6)とある。しかし、これを、父の過失と責めることはできないだろう。因果応報と考えるのは、人間。実際には、それほど、単純ではないことを知ることも、神をおそれることの一部ではないかと思う。
Jd 16:4 その後、彼はソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになった。
今回は14章と異なり、サムソンの側にも愛するということばが使われている。デリラの言葉には「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった。」(15)とある。「愛するようになった」とは何を意味しているのだろうか。14章の「目をひかれた」「好きです」「好きであった」と違うことを伝えているのだろうか。「心はわたしにはないのに」は「わたしのことをたいせつにしてくださらないのに」ともとれる。「こころ」とは言っているが、やはり「行為」が関係しているように思われる。このばあいには「秘密を明かす」ということだろうか。「来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた。」(16,17a)サムソンの悩みは、愛のたいせつな部分を表しているように思われる。
Jd 17:2 母に言った。「銀千百シェケルが奪われたとき、あなたは呪い、そのことをわたしにも話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです。」母は言った。「わたしの息子に主の祝福がありますように。」
ここが起点である。因果応報と考えてはいけないと思うが、「主の祝福」をたいせつにするとともに、自分のものとして扱っているようにも思われる。士師記のひとつの神学なのかもしれない。この時代を表現するときの。
Jd 18:1 そのころ、イスラエルには王がいなかった。またそのころ、ダンの部族は住み着くための嗣業の地を捜し求めていた。そのころまで、彼らにはイスラエル諸部族の中で嗣業の地が割り当てられていなかったからである。
「イスラエルには王がいなかった」と始まる。この次の19章1節も「イスラエルに王がいなかったそのころ」と始める。「神殿がシロにあった間」(31)も次の時代を想定して書いているように思われる。この事件自体が、統一したリーダーシップが定まっていないことの証なのかもしれない。「彼らはミカが造った物と彼のものであった祭司を奪って、ライシュに向かい、その静かで穏やかな民を襲い、剣にかけて殺し、町に火を放って焼いた。」(27)の表現も、今までにないものである。違う価値観が背景にあるように思われる。
Jd 19:11,12 彼らがエブスの近くに来たとき、日は大きく傾いていた。若者は主人に、「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしてはいかがですか」と言ったが、主人は、「イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい。ギブアまで進むことにしよう」と答えた。
他民族と自分の民族をこのように区別することは、現代では、民族主義のような捉え方がされるが、遊牧中心の世界では、当然だったのではないだろうか。すくない、いくつかの、部族同士で合意をとるだけでも、遊牧は困難だったろう。そのなかで、多民族と友好関係はもてない。別の背景としては、モラルの問題もある。それは、あまり、民族に依存しないのかもしれない。遊牧民の生活様式を、学ばないと、理解できないように思われる。学生の時に読んだ、本多勝一著「アラビア遊牧民」を思い出すが、ケニアのマサイ族を訪れると、まったく別の感覚を持った。
Jd 20:18 彼らは立ち上がってベテルに上った。イスラエルの人々は神に問うて言った。「我々のうち誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか。」主は、「ユダが最初だ」と言われた。
ここでもユダが戦いの戦闘にいる。すでに、リーダーシップは、ユダにあるかのようだ。このあと、イスラエル側の戦死者数が書かれている。「ベニヤミンの人々はギブアから出撃して、その日、二万二千人のイスラエル兵を地に打ち倒した。」(21)「しかし、ベニヤミンは、二日目にもギブアから出撃してそれを迎え撃ち、またもイスラエルの人々一万八千人を地に打ち倒した。彼らは皆、剣で武装した者であった。」(25)「野でイスラエルの部隊に死傷者が出始め、約三十人が倒れた。」(31b)「イスラエル人は戦線に復帰することになっていた。ベニヤミンは、イスラエル人に死傷者が出始め、約三十人の兵を打ち倒したとき、『初戦と同様に、敵を打ち負かした』と思ったが、」(39)そしてベニヤミン側については「この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。」(46)とある。壮絶である。痛みと、悲しみを伴っても、「連帯して」(11)「非道を制裁し」(10)「悪を取り除く」(13)ことをしようとしたことを描いているのだろうか。苦しみが伝わってくる。現代はどうなのだろうか。制裁は、司法にまかせる部分は、洗練されてきていると言えるかもしれないが、連帯はしているだろうか。
Jd 21:12 彼らはこうして、ギレアドのヤベシュの住民の中に男と寝たことのない処女の娘四百人を見いだし、カナンの地にあるシロの陣営に連れ帰った。
なんとも乱暴である。このあとのシロの祭の件は、さらによくわからないが、ここでは、説明も加えることが書かれている。これらが、末尾の「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(25)の背景として書かれていることはわかる。ベニヤミンとの戦いの時にも、祭司のことが、20章28節にも書かれており、神に問うことはしていたように思われる。しかし、控えめなのは、祭司では十分ではなかったと言っているかのようである。その人達は、考えていなかったろうが、祭司の決断を神の御心と信じることに、責任も生じているはずだが。

BRC2017

Jd 1:3 ユダは兄弟シメオンに、「わたしに割り当てられた領土に一緒に上って、カナン人と戦ってください。あなたに割り当てられた領土にあなたが行かれるとき、わたしも一緒に行きます」と言った。シメオンはユダと同行することにした。
この章はヨシュアの死後「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか。」(1節)と主に問うことから始まる。リーダー不在の混乱が始まる。ここをイスラエルのスタート地点として、部族連合と解釈する見方もあるのだろう。ユダとシメオンの関係は、ヨセフ物語における二人の役割をも思い出させる。人質となったシメオンと印象的な告白をするユダ。ヨシュア19章1節から9節にシメオンの嗣業が書かれているが、その決まり方は、もしかすると、ここに書かれている、近い部族の連合があったのかもしれない。いずれにしても混乱の時代。じっくりと学んでいきたい。
Jd 2:20,21 主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。  
「契約を破り」と表現されている。そしてその背景としては「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。」(10節)とある。契約の更新が適切に為されなかったことがあるのだろう。一つ考えるべきことは、異教徒が周囲にいなければ、契約を守ったかという問いである。もし、そうであるならば、まさに、聖絶こそが、信仰を保つ要因となる。現在でも「聖絶」的なことで、信仰を守ることを考えることもある。おそらく信仰は、神との関係のなかで育まれるもので「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない」と書かれているところに本質があるように思われる。神との契約を破る誘惑は、外からだけでなく、内からもたくさんあるのだから。「更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。」(マルコ7章20節)「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7章23節)神とつながっている以外に、神の業を認める日常以外に、信仰を保つことはできないのかもしれない。
Jd 3:4 彼らはイスラエルを試みるため、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。
なぜ試みるものがいるのだろう。サタンと表現されることもある。おそらく、試みるもの自体が悪ではないのだろう。それぞれの時に、神との関係に関する誘惑が生じる。そこで、神との契約を守るかどうかが試される。神と、より深い関係になっていくためだろうか。よく考えたい。
Jd 4:1-3 エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、 主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。 イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。
士師記の一つの形式である。「またも主の目に悪とされることを行い」「主は(中略)彼らを売り渡され」「イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。」人は、なぜこのような失敗を繰り返すのだろうか。おそらく、神に主権をわたすことを拒み、神から受けていることを自分のものと主張することから来るのではないだろうか。それは、神の素晴らしさに信頼していないからか。18節の「布」は、セミカー(semiykah)という聖書でここだけしか使われていない言葉である。おそらく、ベッドを覆っているキルトのようなもののようである。ヤエルができる限りのことをして信頼を得たことがうかがわれる。デボラとともに、女性が重要な役割を果たしたことが記されている。
Jd 5:24,25 女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女。 水を求められて/ヤエルはミルクを与えた。貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。
「シセラが彼女に、『喉が渇いた。水を少し飲ませてくれ』と言うので、彼女は革袋を開けてミルクを飲ませ、彼を覆った。」(4章19節)でのヤエルのことがここで歌われている。「貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。」と、更に詳しく書かれている。いずれにしても、特別な接待をしたことが分かる。「彼女は手を伸ばして釘を取り/職人の槌を右手に握り/シセラの頭に打ち込んで砕いた。こめかみを打ち、刺し貫いた。」(26節)このあと、シセラの母のことについて文学的な表現で記されているのが興味深い。
Jd 6:25 その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭、すなわち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。
主の約束は「わたしがあなたと共にいる」(16節)である。このようなチャレンジは、ギデオン以外にも為されたのではないかと想像する。しかし、この25節の主の要求を見ると、尻込みしてしまうのではないだろうか。ギデオンの強みは「ギデオンは召し使いの中から十人を選び、主がお命じになったとおりにした。」(27節a)とサポートがあり、続けて「だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った。」とはあるが、父は、ギデオンを支持していることだろう。(31節)もしかすると、この父から学んだこともあるのかもしれない。ギデオンのようには、できなかった人たちについても思い巡らす。
Jd 7:3 それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。
この前には「主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」(2節)とある。しかし、選別は、別のことで為されている。意味づけまたは御心は計り知れず別にあるということなのだろう。ここで去った人たちは何を考えたろうか。この次の選別で帰ることになった人たちは、納得したのだろうか。「彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。『犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。』」(5節)理由が納得できないものであることもあるのかもしれない。それでもよいのかもしれない。理解できなくても従い続け、神のもとにとどまり続けることも、神を畏れることの一つの形である。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15章9節、参照:ヨハネ8章31節)
Jd 8:4 ギデオンはヨルダン川に着き、彼の率いる三百人と共に川を渡った。疲れきっていたが、彼らはなお追撃した。
徹底的な追跡である。不思議に思うこともある。「エフライムの人々はギデオンに、『あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか』と言って、激しく彼を責めた。」(1節)とあるが、何も提供していない。ここで十分な食料などのサポートがあれば、状況は異なったろう。このあとの、スコトとペヌエルはヨルダンの東の町のようだが、ガドの地域であろうか。ここでも、何の援助も得られない。300人が精鋭だったからこそ、この追跡は成功したのだろうが、対応などはかなり乱暴で、物語的な性格が強い。伝えたいメッセージは他にあるのかもしれない。
Jd 9:56,57 神は、アビメレクが七十人の兄弟を殺して、父に加えた悪事の報復を果たされた。 また神は、シケムの人々の行ったすべての悪事にもそれぞれ報復を果たされた。こうしてシケムの人々は、エルバアルの子ヨタムの呪いをその身に受けることとなった。
「神は」となっている。「主は」の用法と区別されているのだろうか。アビメレクのことは難しい。シケムはマナセの嗣業の一部だったようだが、理解できることは、外患だけでなく、内憂どころか、まとまりは、全くなく、指導者不在だったという状況である。ヨシュアは、指導体制を定めなかったのだろうか。引き際はさわやかだが(通称シケム契約:ヨシュア24章)自主的に従うことでは、つまり個人の信仰では、持続性は確保できないのだろうか。カトリックとプロテスタントについても考えさせられる。
Jd 10:15,16 イスラエルの人々は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになり、主はイスラエルの苦しみを見るにしのびなくなった。
これが士師記の神学、信仰告白とも言えないこともないが、記者はもっと深い信仰を持っているのかもしれないと思った。記者は少なくともしばらくあとの人で、もしかするとかなり後代の人かもしれない。士師時代とは、異なる政治体制の時をも知っているだろう。そう考えると、当時の人たちはこう考えたのではないかということを語らせている面も無視できない。むろん、同時に自戒もふくめて。むろん、話をまとめ、次に続けるために、このように書いたともとれないことはないが。
Jd 11:39,40 二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。 来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。
議論のある箇所である。ささげたことが殺したことを意味するのか、単に、処女として一生を過ごすものとして神に献げたのかについてである。おそらく、ヘブル語原文からの解釈も何通りかあるのだろう。この新共同訳を読む限りにおいてはやはり「死」を意味していたととれる。史実性も議論される。子をモレク(レビ記18章21節、20章2-5節、列王記上11章7節、列王記下23章10節、エレミヤ32章35節)に献げることこそが、もっとも神が嫌悪することだとされているからもあるだろう。子供を神に献げること自体が嫌悪されるべきことでもある。誓ったことはそれが望ましいことでなくても必ず果たすという信仰が背景にあるが、神は、そのように誓約を守ることを望まれるのだろうか、という疑問もある。現代の価値観に照らして「処女として一生を過ごす」ことの価値の議論をここに持ち込むのは、あまりに中心から外れてしまうことだろう。そのうえで、イスラエルの娘たちがエフタの娘の死を悼む記事は、やはり美しい。来る年も来る年もは、強調であろうが、美しい。
Jd 12:8-10 その後、ベツレヘム出身のイブツァンが、士師としてイスラエルを裁いた。 彼には三十人の息子と三十人の娘があった。三十人の娘は一族以外の者に嫁がせ、三十人の息子には一族以外から三十人の嫁を迎えた。彼は七年間、イスラエルを裁いた。イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。
イブツァンについての記述はこれが全文である。実際の内容はなにも分からない。ただ、一族以外との婚姻関係が特別のこととして記されている。このあとのアブドン(13-15節)については「四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。」と書いてあるが、婚姻関係は記されていない。この婚姻関係によって一族以外との関係を広げ、その中でリーダーとしての役割をもったということだろうか。そして、それが新しいことだったのだろう。
Jd 13:22,23 マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。 だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。
マノアは原則論、マノアの妻は実際的である。ちょっと気になったのは、聖書では妻の名前も記すことが多いのに、ここでは記されていないことである。サムソンの母の名が全く記されていないかはまだ確認していないが。Jewish Women’s Archive によると Samson’s Mother の名は記されていないとある。原則論を打ち破り、夫をも納得させるこの女性からは、なにか力強さを感じる。女性の強さと簡単に結論するのは、問題かもしれないが、そのような女性の強さを思う。いずれにしても、マノアの妻の働きおよびここでの役割はとても際立っている。畑にすわっていた妻に二度目に使いが現れると、走ってマノアに知らせる。マノアは、妻について行くとあり、走ってはいないようである。子供ができなかったのだから、ある程度の年齢だったかもしれない。この妻の俊敏性と、不承不承、ある疑いをもってついていく夫の姿が生き生きと記されている。
Jd 14:19 そのとき主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。
なんとも乱暴なことである。ここに「主の霊が激しく彼に降り」とあり、そこに記者の神理解が現れている。最初から見ていくと「サムソンはティムナに下って行ったが、そのティムナで一人の女、ペリシテ人の娘に目をひかれた。」(1節)。サムソンにペリシテを撃つこころは少なくとも明確ではなかったろう。3節の両親をサムソンの会話からも、両親の懸念がある程度潜在的な意識にあったかもしれないが、意図的なことは見られない。「彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。」にもそれが現れているように思われる。4節には「主の御計画」とあり、獅子を倒す6節にも「主の霊が激しく彼に降った」とある。人の思いとはべつに救いの道、命を与える主の働きを見ようとしている。記者はどのような人なのだろう。
Jd 15:6 ペリシテ人は、「誰がこんな事をしたのか」と言い合った。「あのティムナ人の婿のサムソンがした。彼が婿の妻を取り上げ、その友に与えたからだ」と答える者があった。ペリシテ人はそこで、彼女とその父のところに上って来て、火を放って焼き殺した。 
ティムナは聖書では「エサウの息子エリファズの側女ティムナは、エリファズとの間にアマレクを産んだ。以上が、エサウの妻アダの子孫である。」(創世記36章12節)に最初に現れる。このあと「エサウ系の首長たちの名前を氏族と場所の名に従って挙げれば、首長ティムナ、首長アルワ、首長エテト、」(創世記36章40節)とあり、エソウ系の名前または部族名であることがわかる。このあとのユダとタマルの物語でティムナに下るくだりがある。(創世記38章)ネゲブにティムナ渓谷があり現在国立公園になっているようだ。いずれにしても、ペリシテ人の地に寄留していた、エドム系の家族であったのだろう。おそらく、ペリシテとはそれなりに友好関係をもって住んでいただろう。
Jd 16:20 彼女が、「サムソン、ペリシテ人があなたに」と言うと、サムソンは眠りから覚め、「いつものように出て行って暴れて来る」と言ったが、主が彼を離れられたことには気づいていなかった。
もの物語は「その後、彼はソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになった。」(4節)から始まっているが、その前の「サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った。」(1節)や、14章からはじまるティムナの娘のこととも関係しているかもしれない。サムソンが学ぶべきことがあったのかもしれない。しかし、中心部分は、デリラを愛するようになったサムソンと、主を愛することの葛藤だろうか。そして、それとは独立にも思われる、主のご計画、それを記者は伝えているのだろうか。「サムソンは主に祈って言った。『わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。』」(28節)から、力は神から来ていることへの信仰告白が見られる。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 (マタイ6章24節)
Jd 17:5,6 このミカという男は神殿をもっており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていた。 そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。
「息子の一人の手を満たして」は何を意味しているのだろう。口語では「その子の一人を立てて」となっている。原文も調べる必要がある。「わたしの家に住んで、父となり、祭司となってください。」(10節)「若者はその息子の一人のようになった。」(11節)とあり、レビ人の年齢はよく分からない。
Jd 18:27,28 彼らはミカが造った物と彼のものであった祭司を奪って、ライシュに向かい、その静かで穏やかな民を襲い、剣にかけて殺し、町に火を放って焼いた。 その町はシドンから遠く離れ、またどの人間とも交渉がなかったので、助けてくれる者がなかった。それはベト・レホブに属する平野にあった。彼らはその町を再建して住み着き、
記者はこの善悪を明確には語っていないが、様々な問題も感じながら記しているように思われる。このあとにも「ダンの人々は、自分たちが拝むために例の彫像を立てることにした。またモーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫」(30節)とあり、これが捕囚まで続いたことも書かれている。ダビデ、ソロモンの統一王朝の時を経てということだろう。冷静な見方とも言える。
Jd 19:1,2 イスラエルに王がいなかったそのころ、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた。彼はユダのベツレヘムから一人の女を側女として迎え入れた。 しかし、その側女は主人を裏切り、そのもとを去ってユダのベツレヘムの父の家に帰り、四か月ほどそこにいた。
背景を記した箇所であるが、不思議に思うことが多い。まず「イスラエルに王がいなかったそのころ」文脈には関係ないと思われるが、これが士師記執筆の背景を示すものとして、最後のはっきり言ってとんでもない事件について書き始めているのであろう。しかしこの言葉で人は何を思うのだろうか。単に時代的な背景か、それとも、王制に対するある価値観か。このひとがレビ人であったことが書かれている。ミカの話もレビ人が重要な役割を持っている。ここでは側女と書かれている。「側女」は、創世記にヤコブ物語に関連して少し現れ、他にも多少あるが、それ以降は、士師記8章31節に一回現れるのみである。この側女については、殆ど記されていない。ここで「迎え入れた」「裏切った」という記述だけである。側女がどのように扱われていたのかも不明である。士師の時代の悲劇を思う。人間の世界では政治体制はやはり重要なのだろう。
Jd 20:13 今、あのならず者の犯人がギブアにいれば、引き渡せ。犯人を殺してイスラエルの中から悪を取り除こう。」だが、ベニヤミンの人々は、その兄弟たち、イスラエルの人々の声を聞こうとはしなかった。 
イスラエルにこれだけの強い意志が残っていたことには驚かされる。さらに、911のあとに、まずは、このように、犯罪として扱えなかったのかとの疑問をもつ。おそらく、国の意思はべつのところにあるのだろう。この場合も、戦争となる。ベニヤミンが守ろうとしたものは何なのだろうか。同族の擁護だろうか。書かれているだけで、双方あわせて6万5千百人が命を落とす。他に解決の道がなかったのか考えると共に、自分たちを正すためには、これだけの痛みが必要だと言うことだろうか。考えさせられることが多い。
Jd 21:17 彼らはまた言った。「ベニヤミンに生き残る者を得させ、イスラエルから一つの部族も失われないようにしなければならない。
イスラエルが求めたものは何だったのだろうか。部族連合が維持されることだろうか。それとも、兄弟が失われないように保つことか。この事件の最後、士師記の締めくくりとして書かれている言葉が考えさせられる。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(25節)士師記記者、イスラエル、ベニヤミン、人々の歴史、それぞれについて考えたい。

BRC2015

Jg1:7 アドニ・ベゼクは言った。「かつて七十人の王の手足の親指を切って、わたしの食卓の下で食べかすを拾わせたことがあったが、神はわたしが行ったとおりにわたしに仕返しされた。」彼はエルサレムに連れて行かれ、そこで死んだ。
アドニ・ベゼクはこの章だけに出てくる。文脈からすると、カナン人、ペリジ人の王なのだろう。ここで現れるのは、「目には目を」を同害報復の法ととることともつながっている。このことによっては、平和はない。この章全体で書かれている、征服、強制労働、排除では、問題の解決は得られないだろう。イエスの到来はまだ遠い。
Jg2:20-22 主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、 ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。 彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」
士師記の背景説明とも言える文章を主のことばとして記している。わたしたちが現在住む地、時代を考えると、他の神々に仕える民が周囲にいることは、より普遍的な状況であるように思われる。すると、最後の一文も、現代に適用されるとも見ることができる。マタイ24:45「忠実で賢い僕」ルカ12:42「忠実で賢い管理人」。管理は恵みの管理であろうか。
Jg3:2 そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。
これがもう一つのまたはより具体的な理由だろう。士師の歴史は戦いの歴史でもある。我々の戦いは、霊的な戦いであるように思う。さらに普遍性があり、この世の終わりまで続く戦いである。
Jg4:11 カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。
重要人物ホバブの子孫と思われる人たちがここに現れている。1:16を見ると「モーセのしゅうと、あのケニの人々は、ユダの人々と共になつめやしの町からユダの荒れ野、アラド近辺のネゲブに上って来て、そこの民と共に住んだ。」ケニはここだけである。カイン人は創世記12:19に最初に現れる。Nm24:21,22(バラムの託宣の中)、Jg4:11, 17, 5:24, 1Sm15:6, 27:10, 30:29,Ch2:55。ホバブとカイン人の関係は、明瞭とは言えないが、カイン人のヘベルの妻ヤエルがここでイスラエルを救うのは、とても興味深い。
Jg5:31 このように、主よ、あなたの敵がことごとく滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。国は四十年にわたって平穏であった。
賛美形式のこのような詩は古いのではないかと思う。継承もしやすい。士師記には「国は四十年にわたって平穏であった。」などの記載があり、歴史の中での短さを感じていたが、40年は人が生活する十分な長さである。その期間、平穏であることは、どれほどの魅力だろうか。同時に、40年は、あることを良く知っている世代が死んでいく期間でもある。主を愛するものが祝福されるという記憶が薄れる期間でもあるかもしれない。愛が冷えないように(マタイ24:12)祈ろう。
Jg6:13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」
ここにギデオンの救出者としての資質があると考えて良いだろう。苦悩をもち、主に問うている。15節にあるように「彼は言った。『わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。』」彼の力や家系ではない。大切にされるのは、神が働かれる器としての資質である。
Jg7:15 ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」
神が背後におられることを確信した瞬間だろう。主の働きは多くの場合隠されている。10節・11節を見ると、敵陣に見に行くことも、主から示されたようだが。
Jg8:22,23 イスラエルの人はギデオンに言った。「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。」 ギデオンは彼らに答えた。「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」
召しをうけたときのギデオンと比較すると、雲泥の差の勇気と活躍である。しかしそこにも罠がある。民は、ギデオンが救ったのだと見ている。ギデオンはそうではないことを知っており、このように立派な応答をしている。しかし、残念なのは、このあとに続く言葉である。「ギデオンは更に、彼らに言った。」これぐらいならという要求だったのかもしれない。人は何と弱いことか。愚かなことか。
Jg9:49 民は皆それぞれ枝を切ると、アビメレクについて行って、それを地下壕の上に積み、そこにいる者を攻めたて、地下壕に火をつけた。ミグダル・シケムの人々、男女合わせて約千人が皆、こうして死んだ。
この悲しい現実をも、たんたんと記録する。すごさを感じる。神がこのことをゆるされたのか。おそらくそうだろう。同時に、これは、人間に対して、現実の姿と、ひとが持つべき責任を突きつける、神のご計画なのかもしれない。
Jg10:6イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。
余りにも悲しい事実が書かれているが、これも一つの文学的表現なのだろうか。この時にも、信仰を堅く守った人がいたであろう。国として、民族として、主に従わず、姦淫をおかして、他の神々に仕えたことを表現しているのか。筆者の意図もよくわからない。
Jg11:36 彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」
このエフタの娘については、いろいろと解釈される。士師記の最後21:25は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」で終わっている。これが中心のテーマだとすると、何が神の目から見て正しいかということで聖書を解釈すること自体に問題があるように思われる。この娘の純粋な応答と信仰にまず驚かされる。これが娘ではなく、たとえば、下女であれば、何も記載されなかったのか。それも変である。娘が自らを献げたこと、そしてそれは、危機に瀕していたとはいえ、エフタの不注意な誓いに依ったことは事実だろう。
Jg12:5,6 ギレアドはまた、エフライムへのヨルダンの渡し場を手中に収めた。エフライムを逃げ出した者が、「渡らせてほしい」と言って来ると、ギレアド人は、「あなたはエフライム人か」と尋ね、「そうではない」と答えると、 「ではシイボレトと言ってみよ」と言い、その人が正しく発音できず、「シボレト」と言うと、直ちに捕らえ、そのヨルダンの渡し場で亡き者にした。そのときエフライム人四万二千人が倒された。
マタイ26:73「しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。『確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。』」も発音を言っているようだ。英語(NIV, NKJV, NRSVで確認)では accent となっている。エフライムは、地域的には、ユダの北、ガリラヤの南の地域に住んでいたと思われるが、やはり訛が明白だったのだろうか。エフライムについては考えさせられる。イスラエルの盟主という自負があったのかも知れない。特に、この士師記ではそれからくる問題が生じている。
Jg13:22,23 マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。
マノアは原理的、教義的、妻は実際的、現実的。興味深い。ここでも、後者に真理があるだろう。神をどのようなものと見るかにかかっているのだろうか。日常生活からみていることも関係しているだろうか。もう少し掘り下げてみたい。
Jg14:4 父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。
「これが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられること」は、歴史の背後に神様がおられることの聖書記者による告白と捉えるのが適切に思われる。ひとの解釈の上に立った、信仰告白で、主はさらに深いお考えをお持ちなのかも知れない。聖書の読み方についても、考えさせられる。
Jg15:11 ユダの人々三千人が、エタムの岩の裂け目に下って行き、サムソンに言った。「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。なんということをしてくれた。」サムソンは答えた。「彼らがわたしにしたように、彼らにしただけだ。」
サムソンは、この人たちにとっては、トラブルメーカーであり、士師とか救助者ではあり得なかったろう。しかし、聖書には、このサムソンを士師のひとりとして記録し、他の士師と同じ表現で「彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。」と記録している。これも、士師記の神学といえるかもしれない。
Jg16:16,17 来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、 ついに心の中を一切打ち明けた。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」
通常は、これをサムソンの敗北と取るだろう。しかしそうだろうか。サムソンがデリラを愛しており、自分の強さの秘密と信じる根拠を明かしたからと言え、それを間違いという必要もないように思う。間違いであるなら、それは、価値を、ペリシテに対して勝利を得ることに置いているということである。そして、このサムソンの痛みは、十分理解することができる。理性的に上にのべた結果の一時的な局所的価値で判断すれば、別の結論に至ったかも知れないが。これは、あまりに自由すぎる解釈だろうか。
Jg17:6 そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。
士師記の一つのテーマとも言うべき言葉であるが、善悪判断が伴っていると考えるかは難しい。全く同じ言葉が、21:25にある。そして、それが結びの言葉となっている。そう考えると、もしかすると、通常の士師の物語は、16章のサムソンで終了し、このミカの物語から、最後までが、ひとつの括りだと呼んでいるのかも知れない。そう考えたくもなるほど、あまりに陰惨な物語が、このあとに続き、酷さをます18章も「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」という言葉で始まっている。
Jg18:30,31 ダンの人々は、自分たちが拝むために例の彫像を立てることにした。またモーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫が、その地の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を勤めた。 こうして、神殿がシロにあった間、ずっと彼らはミカの造った彫像を保っていた。
この結論をみると、名前が書かれていないレビ人はヨナタンの子孫になるのだろうか。いずれにしても、このときから、捕囚まで、ずっと、というと、ダビデ、ソロモンのころも、特別な祭司がおり、かつ、彫像を保っていたと書かれている。北の端である、ダン(ライシュ)だから起こりえたこととして記されているのだろうか。
Jg19:30 これを見た者は皆言った。「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」
毎回、毎回、この箇所を読むと、悲しくなる。今回は2節の「しかし、その側女は主人を裏切り、そのもとを去ってユダのベツレヘムの父の家に帰り、四か月ほどそこにいた。」も気になった。口語訳では「このめかけは怒って」となっている。どうしても、どちらに問題があったか、決めようとするが、それは、本質ではないのかも知れない。ここで、舅のもてなしも度を越して いるようにも感じるが、これが当時の習慣だったのだろうか。わからないことも多い。
Jg20:28 また当時、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが御前に仕えていた――イスラエルの人々は言った。「兄弟ベニヤミンとの戦いに、再び繰り返して出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す。」
イスラエルの人々は、一日目に2万2千人(v21)二日目に1万8千人(v24)打ち倒されたにもかかわらず、相手のベニヤミンを「兄弟」と呼んでいる。痛みの表現がここに隠されているように思われる。主と心を一つにしていたのではないだろうか。相手が「非道」(v11)であったとしても。
Jg21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。
17:6 にも同様の言葉があり、士師記はこの言葉で終わっている。この間に、二つの話しがおさめられている。ダン族の移動とミカとその家のレビ人の話、そして、ベニヤミンの非道とベニヤミンが滅びるほどの制裁。いすれも、神が正しいとしたことではないということを、この言葉は主張しているのかも知れない。特に、ベニヤミンの事件は、イスラエルの民にとっての痛みとも表現することができる。しかし、王を持つことも、主が基本的に望まれたことではないことを考えると、これらの事件は、主の痛みの記述とも言えるかも知れない。

BRC2013

Judg1:1 ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。
エレアザルはピネハスに引き継がれたのか。(Josh24:33) しかし、ヨシュアの後継はいない。これからが士師記、混乱の時代である。1章にカレブは登場するが、イスラエル全体の指導者ではない。
Judg2:16 その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された。
この章は、士師記のまとめとも言える部分である。しかし、基調となっている、11節,12節の「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。」は、わかりやすいがちょっと記述が単純すぎる気もする。
Judg3:31 エホデの後、アナテの子シャムガルが起り、牛のむちをもってペリシテびと六百人を殺した。この人もまたイスラエルを救った。
この章には、士師として、オテニエル、エホデ、そして、シャムガルと書かれているが、2章の形式はあまり認められない。長さもまちまちであるが、これが記録をまとめたものの、ありのままの姿なのかも知れない。
Judg4:11 時にケニびとヘベルはモーセのしゅうとホバブの子孫であるケニびとから分れて、ケデシに近いザアナイムのかしの木までも遠く行って天幕を張っていた。
9節では女助言者デボラが、このへベルではなく、その妻ヤエルの勇気ある行動を預言している。どちらも女性。戦いにおけるリーダーシップも、敵の王を殺すのも女性。聖書は、不思議な書物。聖書というよりユダヤ社会が変わっているのか。
Judg5:30 『彼らは獲物を得て、/それを分けているのではないか、/人ごとにひとり、ふたりのおなごを取り、/シセラの獲物は色染めの衣、/縫い取りした色染めの衣の獲物であろう。すなわち縫い取りした色染めの衣二つを、/獲物としてそのくびにまとうであろう』。
これも女性の歌である。なんともむなしいが、ここに、カナンの人のふるまいと、母親のこまやかな心情が歌い込まれている。歌い継がれている部分は古いかも知れない。
Judg6:12 主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。
11節には「時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていた」とある。ギデオンは「君よ」と丁寧に答えているが、主に言いたいことがあったことは、13節でわかる。そして、14節では「主はふり向いて彼に言われた」この瞬間の悪阻らしさを思う。
Judg7:14 仲間は答えて言った、「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」。
10節にある「もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもべプラと共に敵陣に下っていって、」に従って、聞いた言葉である。すでにかなり大胆。おそらく、主はギデオンを少しずつ、大勇士にしていっているのだろう。無理せずに。
Judg8:27 ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。
ギデオンは23節で言っているように「わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます」正直に治められるのは主だと考えていたのだろう。その礼拝のためのエポデがわなとなったとある。ギデオンは、どうすれば良かったのだろう。
Judg9:1 さてエルバアルの子アビメレクはシケムに行き、母の身内の人たちのもとに行って、彼らと母の父の家の一族とに言った、
エルバアル(ギデオン)の70人の子のひとりである。(8:30) 多くの妻の一人の家ということか。信仰を継承することは、本当にむずかしい。
Judg10:16 そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。
正直、偶像礼拝だけで、判断する、排他的になったユダヤ教を強く感じさせられる。あまりにも単純。ある、記録を紡ぐのに仕方がなかったのかもしれないが、神についての理解があまりにナイーブ。
Judg11:39 二か月の後、父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。彼女はついに男を知らなかった。
この解釈には諸説あるようだが、時が書かれていて、かつ「誓った誓願のとおりに」とある。いずれにしても、成熟していない信仰での誓願の愚かさを感じさせられる。それでも従順な娘。「男を知らなかった。」は単なる性交体験が無かったことを言っているのはないだろう。結婚生活、家庭生活と、両親の元を離れ、夫と新しい家庭をスタートする、その人生の転換点を過ぎていないという、より広い意味に使われていると思われる。
Judg12:4 そこでエフタはギレアデの人々をことごとく集めてエフライムと戦い、ギレアデの人々はエフライムを撃ち破った。これはエフライムが「ギレアデびとよ、あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの落人だ」と言ったからである。
Num26:29「マナセの子孫は、マキルからマキルびとの氏族が出た。マキルからギレアデが生れ、ギレアデからギレアデびとの氏族が出た。」によるとギレアデはマナセの部族であることが分かる。しかし、創世記にもギレアデは登場し、31:21, 23, 25 など、地名でもある。Num32:1「ルベンの子孫とガドの子孫とは非常に多くの家畜の群れを持っていた。彼らがヤゼルの地と、ギレアデの地とを見ると、そこは家畜を飼うのに適していたので、」よりルベン、ガドの二部族とマナセの半部族が嗣業としたヨルダン川の東の地域でもある。ヨルダン川の西の盟主がエフライム、東全体がギレアデということだろう。Num26の人口調査では、マナセ52,700、エフライム33,500、Judg12:6 でエフライムが42,000倒れたとすると、いくら増えていたとしてもかなりの痛手だったと言うことになる。
Judg13:18 主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。
マノアはかなり熱心に願い求めている。(v8) しかし、主が現れてもみとめることはできない。v19, 20 には確かに「不思議」が書かれている。主をみとめることは難しい。しかし、人生のさまざまな不思議のなかに主を認めることができることは幸い。無理して信じる必要は無い。確かに、偶然かもしれない。しかし、人が理解できないことが殆どといってもよい世の中で、謙虚にかつ、神の働きを認めることは、基本的にすばらしいことだと思う。
Judg14:7 サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。
4節には「父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。」とある。これと、この節は、どう関係しているのか。15節をみても、15:6 を見ても、この女性は大変な迷惑。かなり乱暴に感じる。
Judg15:19 そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。
このような願いを聞く、それも神様と言うことだろう。これを、レベルが低いと揶揄してはいけないのだろう。そして、ひたすら、この士師の時代を紡いでいる。サムエル、ダビデにむけて。
Judg16:19 女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。
最後の「苦しめ始めた」の意味は不明であるが、デリラの行動は周到である。デリラはお金だけを求めていたのだろうか、それとも、仕方がなかったのか。しかしサムソンは、16節に「来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、」とあるが、サムソンは、怪力の分あまりに心が弱かったのか。憐れむべき存在だ。しかし、神は、このようなサムソンをも用いられたと言うことか。
Judg17:2 彼は母に言った、「あなたはかつて銀千百枚を取られたので、それをのろい、わたしにも話されましたが、その銀はわたしが持っています。わたしがそれを取ったのです」。母は言った、「どうぞ主がわが子を祝福されますように」。
最初のいきさつは、全く不明である。しかし、ここで、また、銀1100枚ができたことには少し驚かされる。これは、ペリシテの王たちがそれぞれ、デリラに与えると約束した額と同じである。(16:5) それと比較して、いくら食事付きといえども、毎年銀10枚で家の祭司になることを承諾したレビ人、まったく理解できない。おそらく、銀10枚は本当に少額であったろう。
Judg18:7 そこで五人の者は去ってライシに行き、そこにいる民を見ると、彼らは安らかに住まい、その穏やかで安らかなことシドンびとのようであって、この国には一つとして欠けたものがなく、富を持ち、またシドンびとと遠く離れており、ほかの民と交わることがなかった。
ここからあと二つの話は、読むたびにこころが痛む。残酷きわまりない。25節「ダンの人々は彼に言った、「あなたは大きな声を出さないがよい。気の荒い連中があなたに撃ちかかって、あなたは自分の命と家族の命を失うようになるでしょう」。」もしかり。神が良しとされたということではないにしても、歴史の一ページとしてあまりに悲しい。
Judg19:12 主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。
これほど、単純ではないどころか、異邦人でもしないようなことが起こったと言うことだろう。すべてを、ひとつのキーワード「そのころ、イスラエルに王がなかった時」で始められているところも気になる。士師記は本当に悲しい。
Judg20:8 民は皆ひとりのように立って言った、「われわれはだれも自分の天幕に行きません。まただれも自分の家に帰りません。
まだ一致は保たれていたのか。しかし、少し、単純化されているように思われる。ユダがまず戦い、かなりの数が倒れている。
Judg21:10 そこで会衆は勇士一万二千人をかしこにつかわし、これに命じて言った、「ヤベシ・ギレアデに行って、その住民を、女、子供もろともつるぎをもって撃て。
ヤベシ・ギレアデが戦いに参加しなかったからとしても、なんとも解決が乱暴。士師記は読んでいて、辛い。この時代の現実が実際にこのようなものだったのか。


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ルツ記

全体が4章からなる小品で、ヘブル語原典では「諸書」の第5番目で雅歌と哀歌の間ですが、時代的には、1章1節が「士師が世を治めていたころ」とスタートするように、士師の時代の出来事を記述しています。そしてこの書の最後の4章22節は「オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。」で終わることからも、ダビデの系図の一コマを記録するものとなっています。新約聖書の一番最初にあるマタイによる福音書は系図からはじまりますが、そこに普通は記録しない女性の名前が4人記されています。その3番目が (マタイ1:5) ルツです。ルツはモアブ人ですが、モアブについて今まで出てきたことを覚えていますか。申命記23章4節には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」とあります。そのモアブ人ルツの美しい物語が聖書に含まれている事自体、素晴らしいことだと思います。中味は読んでのお楽しみ。ゲーテはルツ記を「倫理的かつ牧歌的響きをもってわれわれに伝えられた最も美しい小品」(いのちのことば社 新聖書注解) と言っているそうです。さてみなさんは、ルツ記からどのようなことを受け取るでしょうか。現代とは大分異なる世界であることも確かです。
  1. 序章 1:1-5
  2. ナオミのベツレヘムへの帰郷 1:6-22
  3. ルツとボアズの出会い 2
  4. 夜の出来事 3
  5. 買い戻しの交渉 4:1-12
  6. 終章 4:13-22


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聖書通読ノート

BRC2023

Ruth 1:16,17 しかしルツは言った。/「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰るなど/そんなひどいことをさせないでください。/あなたが行かれる所に私は行き/あなたがとどまる所に私はとどまります。/あなたの民は私の民/あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に/そこに葬られたいのです。/死に別れでなく、私があなたと別れるならば/主が幾重にも私を罰してくださいますように。」
すごい言葉だ。「国で飢饉が起こったので」(1b)とあり、どうにもならない状況、そこには、国も、民族もない。その寄留地で、どのようにして、これだけの信頼関係が結ばれたのだろうか。この言葉が表現するもの、それが、国境を越え、神様が与えてくださる、平安のように思う。無論、美化して書かれたのかもしれないが。表現されているものに、魅了される。
Ruth 2:22 ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、あの人の召し使いの女たちと一緒に出かけるのはよいことです。よその畑でいじめられずに済みますから。」
前章のボアズのことば(8)からも、同様のことが語られている。それだけの、危険があったのだろう。それを、ボアズも、ナオミも知っていた、と言うことだろう。士師記の時代は、そのようなまだらな世界。その中でも、美しいストーリが残されているのは、希望を与えられる。感謝を持って、読んでいこう。
Ruth 3:3,4 あなたは体を洗って油を塗り、上着を身に着け、麦打ち場に下りて行きなさい。ただ、あの人の食事が終わるまでは気付かれないようにしていなさい。あの人が休むときになったら、その休む場所を見届けておいて、そこに行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。あの人は、あなたがなすべきことを教えてくれるでしょう。」
物語として、秀逸である。この書の最後には、ダビデの名が出てくる。すなわち、ダビデの祖母がモアブ人であることを認めて、そのストーリーを書き残す意図があるのだろう。これだけ美しい表現が描かれていることで、おそらく「アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。」(申命記23章4節)を凌ぐ価値を加えているのだろう。モアブはミディアンとともに、バラム、バラクの事件にも関係していたとされる(民数記22-25章)。そのためにも、明確にしておいた方がよかったのだろう。
Ruth 4:18-22 ペレツの系図は次のとおりである。ペレツはヘツロンをもうけた。ヘツロンはラムをもうけ、ラムはアミナダブをもうけた。アミナダブはナフションをもうけ、ナフションはサルマをもうけた。サルマはボアズをもうけ、ボアズはオベドをもうけた。オベドはエッサイをもうけ、エッサイはダビデをもうけた。
士師記11章26節には「イスラエルはヘシュボンとその周辺の村落、アロエルとその周辺の村落、およびアルノン川沿岸のすべての町に住んで三百年になるが、なぜ、あなたがたはこの間に取り戻そうとしなかったのか。」との記述がある。単純に理解すると、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入って、300年となる。ペレツは、ユダの子だが、それから、ここには、ダビデまで9代、ユダから考えても、10代である。ペレツがユダとともにエジプトに行ってから、出エジプトまでは、明確にはわからないが、そのあと、荒野での四十年、少なくとも、400年と考えると、10代では、不足に思われる。それでも、ぎりぎり辻褄が合うようになっているのかもしれない。ダビデがユダ族の末裔であること、そこに、モアブの血が入っている、その説明とともに、この物語が作られたと言うことだろう。ヨシュア記、士師記とは、だいぶん、雰囲気がことなる物語である。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Ruth 1:1 士師たちが世を治めていた頃、国で飢饉が起こったので、ある男がユダのベツレヘムからモアブの野に身を寄せようと出かけて行った。妻と二人の息子が一緒であった。
「士師たちが世を治めていた頃」は短くはないだろうが、あまり落ち着いた時代ではなかったろう。そのなかで、ダビデ(ルツは曾祖母)の家系を描いた物語として書かれたのだろうが、人々の生活が描かれているのは興味深い。(4:18-22)引用句からも、家族でモアブに逃れたことがわかる。「アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。」(申命記23章4節)がこの当時どの程度有効だったかは不明であるが、偏見を持っている人は十分いただろう。その意味で「私は満ち足りて出かけて行ったのに/主は私を身一つで帰されたのです。/どうして私をナオミ(快い)と呼ぶのですか。/主は私を痛めつけ/全能者は私に災いを下されたのです。」(21)は、極端な表現で、冷静であるとは言えない。「それはいけません、娘たち。あなたがたよりも私のほうがはるかにつらいのです。主の手が私に下ったのですから。」(13b)も、おそらく視野が狭くなってしまっているのだろう。それが苦しみの表現だとも言える。
Ruth 2:8,9 ボアズはルツに言った。「よく聞きなさい、娘さん。よその畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから移ったりしてはいけません。召し使いの女たちのそばを離れず一緒にいなさい。刈り入れをしている畑に目を留めて、彼女たちの後に付いて行きなさい。私は僕たちに、あなたの邪魔をしないように命じておきます。喉が渇いたら水がめのところに行って、僕たちが汲む水を飲みなさい。」
「よそ者」(10)に対しても、「よその畑でいじめられずに済」(22)むように、ボアズはルツに語り、ルツを理解しようとし(14,15)親切にし(14)、僕たちにも命じている(15,16)。これが、「隣人となる」(ルカ10章36節)ことである。愛は、単なる行為ではなく、「主があなたのそうした行いに報いてくださるように。あなたがその翼のもとに逃れて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(12)と神と共に生きるもののひとりとして、互いに愛し合うものとなるように、少しずつ関係を築いていくことのように思う。応答を得るには時間がかかるとしても。無私の愛、犠牲的な愛と美化されるものとは、少し違うように思う。
Ruth 3:10,11 ボアズは言った。「あなたは主に祝福されるように。娘さん。この度のあなたの誠実さは、以前にも増して尊いものです。あなたは貧しい者であれ、富んでいる者であれ、ほかの若い男たちの後に付いて行くことはしませんでした。さあ、娘さん、心配することはありません。願うことは何でもしてあげましょう。あなたが立派な女性であることは、町の住民なら誰でも知っています。
美しく描かれている。いろいろな意味で十分な才能のあるひとが関わっているのだろう。現代の目からみるといろいろと問題も感じるだろうが、ルツ個人のすばらしさが本人の行為だけでなく、他者の証言によって書かれている。ボアズの描き方も同様である。ある当時の宗教・習慣・文化・社会的な枠組みの中で輝いて見える。それが、周囲に影響しあっている。それが祝福に満ちた豊かな人生だと描いているのだろう。現代ならそのようなことをどのように描くだろうか。
Ruth 4:6 するとその親戚の人は言った。「私には買い戻すことはできません。私が先祖から受け継いだ地を損なうことになります。親戚として私が果たすべき責任はあなたが果たしてください。私は買い戻すことはできません。」
背景は不明であるが、ナオミの夫のエリメレク(1:2)が土地を売った状態にあるのだろう。しかし、それを、買い戻す権利は、近い親戚に残っていたということか。民数記27章などにあるツェロフハドの場合は娘のみということで、嫁のみということとは多少ことなるが、その家系を大切にするということとは関係しているのかもしれない。すると、(この親戚の身代である)ある富を犠牲として支払って買い取った土地が、自分の家系の名前では呼ばれず、親戚の名前で呼ばれることをここで言っているのか。ドラマならハラハラする場面であるが、ボアズはよく習慣も知り、司法的な知識も持っていた、立派な人として描かれているということだろう。

BRC2019

Rt 1:1 士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
聖書は本当に興味深い書物である。あまりにも乱暴なそして、絶望的になる士師記を読んで、次に「士師が世を治めていたころ」として美しい物語が記されている。一つの見方で世の中を見ること、正しさで世をさばくことを拒否しているようでもある。このような豊かな心をもった民の背後には、やはり神様がいると、周囲の人は考えたのは自然かもしれない。引用した部分の詳細、その家族がどのような生活をしていたのかは、語られていない。一方で、ナオミは levirate marriage(ラビラタ婚)のことばかりかたり(11-13)おそらく、親戚との結婚には望みはないと見きっている時に、ルツはそしておそらくもうひとりの嫁もすがりつく。完全ではなくても、なにか、魅力的なものをこの外国人たちは、感じ取っていたのだろう。むろん、愛もあるかもしれないが、なにか豊かなものを。これらのことが引用句から始まるルツ記に単なるダビデの家系の紹介だけではない深さを感じる。
Rt 2:10-12 ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
とても美しい。ボアズは、主のすばらしさと、それが、自分たちや、イスラエルにとどまるようなものだとは、考えていないのだろう。見えない部分もふくめて、主のすばらしさを、讃えているのだろう。このように、表現する、ルツ記記者にも驚かされる。書かれたのは、士師が世を治めていたころではないかもしれないが、その時の豊かさを語る広さだろうかには、驚かされる。善いものと悪いものにわけ、裁く文化はないかのようだ。
Rt 3:1 しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。
口語訳では「娘よ、わたしはあなたの落ち着き所を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。」となっている。また新しい聖書協会共同訳は「娘よ、私は、あなたが幸せになるような安らぎの場を探さなければなりません。」となっている。口語訳に近いが、文章としては一番、自然である。原文を評価することはできないが、原文に近い形で訳す NKJV をみると "My daughter, shall I not seek security for you, that it may be well with you?” となっている。ヘブル語はわたしの知識は十分ではないが、単に「探そう」となっているような気がする。興味深い。
Rt 4:21,22 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。
なぜ、ルツ記が聖書の一部となったのだろうと考えてします。「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」(申命記23章3節)モアブとの関係は深い。創世記にはモアブとアンモンがロトの子だと書かれている。(創世記19章37節)また、後に、サムエル記上22章3節には、サウルに追われていた時、ダビデは両親をモアブ王に託すことが書かれている。またソロモンは、モアブ人の女を愛したこと(列王紀上11章1節)やモアブの神ケモシのためにエルサレムの東の山に高き所を築いたこと(列王記上11章7節)などが書かれている。近隣の地域とは様々な関係があったのだろう。申命記の神学だけがすべてではないことを、聖書を学ぶ人は知ってもいたのだろう。

BRC2017

Rt 1:16,17 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。 あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
ルツがどの程度、主を知っていたかは不明である。しかし、ここに表現されていることは非常に美しいと思う。この会話は「故国ユダに帰る道すがら」(7節)とある。ナオミには迷いがあったのだろう。「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」(13節)これがナオミの理解である。(20節・21節参照)ルツから受け取られるのは、そのようなナオミに対する愛情である。傷つき、苦しみ、主に罰せられていると感じている者とともにいる。なにかできると考えているのではないだろう。むろん、ナオミの家族を通して学んだこともあるだろうが。このルツのような関係の大切さを心に刻みたい。
Rt 2:15,16 ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。 それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」
「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19章9節・10節)とある。ルツの出身地でそれが為されていたかは分からないが、ボアズはその意味を知っている。許容することと、その背景の意味が実質化されることとは異なる。そのことが上の引用箇所に現れている。自分に不利であると思われることを守ることと、その意味を知り、そのようになることを行うことは天と地の差がある。
Rt 3:13 今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」 
神を畏れるとことは、このようなことかもしれない。神の前に自分がどのような責任を負っておるかを知り、いつでもそれを受け入れる覚悟でいること。それは、おそらく、規則を知っている以上のものなのだろう。完全ではなくても、その規則の意味、背景にある神の意思、またその価値を読み取ろうとする意思だろうか。もう少しよく考えたい。それぞれに緊張関係があることも、確かなのだから。
Rt 4:5 ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」 
レビレート婚(Levirate marriage)と土地の相続の両面が関係している。土地の相続は、部族間で土地が大きく移動しないように、近い親戚が相続するように、配慮されているのだろうが、寡婦をめとることは「故人の名をその嗣業の土地に再興するため」としている。この場合の「故人の名」は何を意味しているのだろうか。故人が覚えられる。故人のいのちがこのことを通して生きていることを意味するものだろうか。それは、安心して死に、安心して生きることにつながるのかもしれない。尊厳が守られることの一部かもしれない。現代は、一夫一婦制もあり、そこまでは配慮されていないと思われるが。相続制度とやはり対なのかもしれない。男性が相続するようにこの時代はなっていたのだろうから。制度についても考えさせられる。「名」については、継続して考えてみたい。

BRC2015

Rt1:12,13 わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、 その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
なぜ、娘たちがイスラエルの地で結婚することを考えなかったのだろうか。背景には差別があったのではないだろうか。まずは、イスラエルの人と結婚することはあり得ないと可能性として切り捨てていたと考えられる。もう一つの見方は、この最後「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」このナオミの言葉に鍵があるように思われる。すなわち、希望がたたれたと考えていることである。ある目標を考えた時、そこに到達する道は、限りなく困難または明らかに不可能と思えるような状況にあっても、主に希望をもつ、主が愛して下さっていること、主にとって大切な存在であることに目を向けること。さらに、自分に見えている存在は、ごくごくわずかに過ぎないという認識を、否定的にではなく、ある意味では公平に受け止め、希望の芽をつまないことにつなげることだろうか。
Rt2:2 モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。
ナオミも、律法の記載から、または、子供の頃から聞いていて、落ち穂は、寄留の者のために残しておくことは、大切にしてくれる同国人がいることを知っていたのかも知れない。しかし、それを頼みに行くこともしていない。プライドか、すでに心が萎えて、そのような気力もなかったからか。これは、恵みに身を委ねること。(自分を「マラ(苦い)」と呼ばせたいほどの (1:20))苦しみの中で、ひとは、なかなかそれができないのかも知れない。22節にあるように、差別は十分考えられたのだろう。「ナオミは嫁ルツに答えた。『わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。』」人種差別はどの時代にも本当に難しい問題である。
Rt3:1 しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。
2章の終わり「ルツはしゅうとめと一緒に暮らしていたが、」からつながっている。ボアズ以外にだれがいるかもおそらく調べたのだろう。その上での、計略だったと思われる。ひとのはかりごと、神様のご計画、この場合は、とても似ていたと言うことだろうか。
Rt4:5 ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」
ここでもう一人のより近親の相続人が引き下がる。「すると親戚の人は言った。『そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。』」 制度をもう少しよく知りたい。相続はどのようになされたのだろうか。なぜ、自分の嗣業をも損なうことになるのだろう。いくつか可能性は考えられるが、実際を知りたい。

BRC2013

Ruth1:7 そこで彼女は今いる所を出立し、ユダの地へ帰ろうと、ふたりの嫁を連れて道に進んだ。
このあと8節は「しかし」と続く。出発準備がととのったところで言い出したのか、途中まで行って、はじめて打ち明けたのか。いずれにしても、最後に打ち明けたイメージがある。
Ruth2:20 ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。
「死んだ者」は、夫のエリメレクや、マロンとキリオンを意味するのか。それとも、もっと深い意味をもっていると考えるべきか。
Ruth3:12 たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。
非常に誠実。このあとも、14節も、そして、15節には、6オメルの大麦を持たせている。冷静、配慮にも富んでいる。
Ruth4:14 そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。


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サムエル記上

サムエル記

以前にも「新聖書注解」いのちのことば社を引用したことがありますが、今回も確認のために使いました。サムエル記の前はルツ記でしたが、ルツ記の部分は鍋谷堯爾が執筆、サムエル記は榊原康夫です。まったく個人的なことですが、私は神戸ルーテル神学校に聴講に通っていた時期があります。そのときの校長が鍋谷先生でした。また、高校のころ始めて聖書注解というものに触れ感激したのが、榊原先生の「マタイによる福音書 I-VI」でした。大阪大学工学部中退で神戸改革派神学校に進みましたが、榊原先生の勉強のすごさは神話のようになっていると何人もの人から聞きました。このマタイによる福音書の講解は榊原先生が30歳にもならない頃書いたもので、とても強烈で、私が聖書を勉強するようになるきっかけとなったものでもありました。信仰に関係することは、信じることが大切で、あまり深く勉強しない方が良いのではないだろうかと思っていたことが、まったく覆されたものでした。学べば学ぶほどこころが開かれていく、そんな経験を若いときにする事ができたのはとても幸せだと思っています。高校から大学のころ、榊原先生の本がたくさん出版されたこともあり、むさぼるように読みました。そのあと断筆宣言。同時期に、内村鑑三の全集も出版され、人から貸して頂いてたくさん読みましたが、榊原先生は、お会いして話すこともできたので、特別な存在でした。わたしは後に日本基督改革派甲子園教会の教会員になった時期もありますが、じつは、榊原先生は若い時期にこの教会の牧師だったことを知っていたので訪ねたのがきっかけでした。まあ熱烈なファンだったと言うことですね。聖書の通読とは関係の無いことですが、旧約聖書を興味をもって読むようになったのも、鍋谷先生、榊原先生、このお二人の影響が大きいので、つい書いてしまいました。

サムエル記 上・下(サムエル記1,2)

さて、サムエル記は先の預言者とよばれる区分に属し、七十人訳とよばれる紀元前2世紀ごろまでに訳されたギリシャ語訳では、列王紀とともに「もろもろの王国」と呼ばれた4巻本の一部となっています。おそらく最初から上下という二巻の区分があったわけではないのでしょう。サムエル記という名前になっていますが、サムエルは、上の25章1節で死んでいますから、著者ではないことは明かです。しかし、下にある、目次のようなものからも分かるように、イスラエル最初の王の二人の任職がこのサムエルによってなされ、その一人目、サウル王の時代について書かれているのが、サムエル記上、サウル王の死のあとダビデ王の時代を中心としているのが、サムエル記下となっています。ダビデは、聖書を読んだことのない人にもそれなりに有名なのではないでしょうか。最近では歴史性を疑う人までいるようですが、ダビデが王位についたのは、大体紀元前1000年、イスラエルの人たちの星です。サムエルは、最後の士師であり、最初の預言者とも言われ、新約聖書の使徒言行録3章24節に「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。」(新共同訳)と語られています。これはペテロの説教に出てくる箇所です。中味については、皆さんに読んで頂くのが一番でしょう。大きな流れとしては、民が王を求めるところから始まります。

この時代の最大の敵は、ペリシテです。士師記のサムソンの箇所にも出てきました。エジプトの記録では「海の民」と呼ばれ、いまのパレスチナの語源にもなった地中海交易を中心に強くなっていった海洋民族ですが、聖書には5つの都市国家として記されています。ペリシテは鉄器を使っていましたが、イスラエルの人が鉄器を使うときはペリシテの許可が必要だったと書いてあります。サムエル記上13:19 の口語訳は「そのころ、イスラエルの地にはどこにも鉄工がいなかった。ペリシテびとが『ヘブルびとはつるぎも、やりも造ってはならない』と言ったからである。」となっています。新共同訳では「鍛冶屋」となっています。そのような中での、ダビデ王国確立への道です。使徒言行録13:22 では神様がダビデを「わたしの心にかなった人(英語 NIV では a man after my own heart)」と記しています。ダビデはどのような人で、なぜ神様のこころにかなったのでしょうか。

  1. 預言者(先見者)・士師サムエル 上1章1節-7章1節
    i. 大祭司エリとサムエル 1-3
    ii. 契約の箱の物語 4:1-7:1
  2. 預言者サムエルとサウル王 上7章2節-15章35節
    i. 王国の要請 7:2-8:22
    ii. サウル王即位 9-12
    iii. サウル王の遺棄 13-15
  3. サウル王とダビデ 上16章-下1章
    i. ダビデへの油そそぎ 16:1:13
    ii. サウル王ダビデを召し抱える 16:14-17:58
    iii. 王の婿ダビデ 18-20
    iv. お尋ね者ダビデ 21-26
    v. ペリシテ亡命のダビデ 27-下1
  4. ダビデ王国 下2章-8章
    i. ダビデ王国とイシボシェテ王国 2-4
    ii. ダビデ統一王国の確立 5-8
  5. ダビデ王位継承争い 下9章-20章
    i. ヨナタンの子メフィボシェテ 9
    ii. ソロモン誕生 10-12
    iii. 王子アムノンの死 13
    iv. 王子アブシャロムの死 14:1-19:8
    v. ダビデ王の都入り 19:8-43
    vi. ベニヤミン人シェバの乱 20
  6. 付録 下 21章-24章
    i. サウルの子孫7人の処刑 21:1-14
    ii. ペリシテ戦の英雄 21:15-22
    iii. ダビデ感謝の歌 22
    iv. ダビデの最後のことば 23:1-7
    v. ダビデの勇士 23:8-39
    vi. ダビデ王の人口調査 24
(榊原康夫「新聖書注解」いのちのことば社より)

サムエル記上

挫折という声も聞こえますが、このサムエル記から再開はお薦めです。この連休に再開してみませんか。

士師記からサムエル記への移行として、いままでも少し書きましたが、王を立てることを願うことをどう考えるかという問題について考えてみたいと思います。

士師記の最後を覚えていると思いますが、なんともおぞましい物語が二つ記されています。そして士師記の最後は次のように締めくくられています。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師記21:25)
そしてサムエル記上でサムエル登場。最後の士師とも最初の預言者とも言える特別のリーダーですが、実は祭司なのかどうかはよく分かりません。サムエル記上の最初には、サムエルのお父さんの系図は書かれており、
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
とあります。これを見ると、エフライム族のようですが、歴代誌上6:13(口語は6:28)をみるとレビ族であるように書かれています。歴代誌記者は、祭司とも位置づけていることになります。

さて、サムエル記上8章です。

1:サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。
2:長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。
3:しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた。
4:イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、
5:彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
6:裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。
7:主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
8:彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。
9:今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
そして王の権能について語ります。戦いの続く現実の前に、民が王を求めたのは十分理解できるように思います。主に信頼するといってただ敵に攻められるにまかせていけばよいのか。しかし7節は主のサムエルへの配慮も感じますがそれを差し引いても強烈です。このときの民の選択は間違っていたのか。皆さんは、どう思いますか。現代においても、起こりうる問題のように思います。エレミヤ17:5-8を引用します。
5:主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。
6:彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。
7:祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
8:彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。
詩編1篇を思わされるような聖句ですが、主に信頼する人生とはどのようなものなのでしょうか。 このあと、次のように続きます。
9:人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
10:心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
11:しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように/不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て/ついには、神を失った者となる。
12:栄光の御座、いにしえよりの天/我らの聖所、
13:イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。
これも信仰告白でしょうか。「現実はそんなに甘いものではない」と思ってしまうところに不信仰が入り込んでいるのかも知れません。


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聖書通読ノート

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1Samuel 1:26-28 ハンナは言った。「祭司様。あなたは生きておられます。私はここであなたのそばに立って、主に祈っていた女です。私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。私はこの子をその生涯にわたって主にお委ねします。この子は主に委ねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
美しいものがたりに仕上がっている。エリが「あなたの苦しみは何ですか」とは言えず「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」(14b)と、完璧とはいえない応答をしたことも含めて。願い事をするひとは、洋の東西を問わずたくさんいる。叶えられてからの行動だろうか。引用句には、「主」が3回現れる。それを強調した表現になっている。美しい信仰の表現は、変わっていないのかもしれない。
1Samuel 2:25,26 仮に人が人に罪を犯したとしても、神が間に立ってくださる。しかし、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれようか。」しかし、息子たちは父の声に従おうとはしなかった。それで主は彼らの命を絶とうとされた。一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。
物語として書かれており、詳細を議論することは、不適切だろうが、士師の時代、ヨシュア記、士師記と読むと、祭司のもとに、あるリーダーシップがあることだけでも、驚かされる。このように、後の年代の基準からのみ評価するのは適切ではないようにも思う。サムエルについて、その出自を証言するものとしての物語としては、興味深い。イスラエルの王が登場するまでには、特別な人物が必要だったのだろう。
1Samuel 3:13,14 私はエリに告げ知らせた。彼の息子たちが自ら災いを招いているのを知りながら、戒めようとはしなかった罪のため、私はエリの家をとこしえに裁くと。私はエリの家について誓った。エリの家の罪はいけにえによっても、供え物によっても、とこしえに償われることはない。」
少年サムエルに告げられた主の言葉とされている。少年とはどのぐらいの歳をいうのだろうか。この主の言葉を理解するのは難しい。表面的には、理解できるかもしれないと考えると、のちにまとめた言葉かもしれない。内容を丁寧に見ると、前半は、エリが息子たちが自ら災いをまねいているのを知らせたのに、戒めようとしなかったとある。すなわち、この内容は、エリも知っていることを意味する。後半は、いけにえや供え物によっては償われない。という内容。この時、悔い改めたらどうなるかを考えるが、おそらく、悔い改めないことを言っているのであって、悔い改めても赦さないと言っているのではないのだろう。
1Samuel 4:8,9 大変なことになった。一体誰が、この偉大な神の手から我々を救い出すことができるというのだ。これは、荒れ野においてあらゆる災いをもってエジプト人を打ったあの神だ。ペリシテ人よ、雄々しく、男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたがたに仕えていたように、あなたがたが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」
興味深いことが二つ含まれている。一つめは、エジプト人を打った場所を「荒れ野」としていることである。出エジプト記に書かれていることとは異なる物語が流布していたのだろうか。それとも、エジプト人を打ったという部分が中心で、荒野での生活を通してと、それが一つになった表現なのか。もう一つは、このあと、自分達を、奮い立たせることばである。フェニキア人の系列で海洋民族であると言われるが、すでに、歴史のさまざまな場面について知り、相対化ができているということだろうか。エジプトの強さと、強いからと言って、必ずしも、絶対ではないことを知っているのかもしれない。
1Samuel 5:1,2 ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ。ペリシテ人は神の箱を奪って、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンの傍らに安置した。
魔術的な力の物語である。伝承があったのだろう。アシュドド、ガド、エクロンと、たらい回しにすることが語られている。イスラエル居留地と接し、聖書に何度も登場する、ペリシテの街である。このように、災いをもたらしたことが書かれているのだろう。神の箱に、それだけの、魔術的な力があったと信じられていたのかもしれない。それは、だれもが接することができるものではなかったからもあるだろう。主が望んでいたこととは正直言って、思えないが。
1Samuel 6:17 ペリシテ人が主に対する償いのいけにえとして送り届けた金の腫れ物は、アシュドドのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガトのために一つ、そしてエクロンのために一つであった。
4節には、「ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金の腫れ物と五つの金のねずみ」とある。おそらく、五つは、引用句の、アシュドド、ガザ、アシュケロン、ガト、エクロンなのだろう。アシュドドが最初にあるのは、ダゴンの神殿の場所でもあり、中心であったのかもしれない。ペリシテについては、あまりよくわかっていないというが、もう少し調べて見たい。
1Samuel 7:15-17 サムエルは生涯にわたってイスラエルの人々を治めた。毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、これらの地でイスラエルの人々を治めた。それから自分の家があるラマに戻って行き、そこでもイスラエルの人々を治め、主のための祭壇を築いた。
ベテル、ギルガル、ミツパと、ラマをしらべてみた。エフライムとベニヤミンの地にあり時によってはユダの北部地方に含まれていたかもしれないが、非常に狭い範囲である。当時は、このあたりが、イスラエルの勢力の及ぶ範囲であったのかもしれない。エリコの陥落も、考古学的には、否定されているようだが、もう少し実態を知りたい。
1Samuel 8:7-9 主はサムエルに言われた。「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に聞き従いなさい。ただし、彼らに厳しく命じ、彼らの上に立って治める王の権利を知らせなさい。」
これが、サムエル記の歴史観である。しかし、状況を考えると、当時は、非常に狭い範囲に、留まっていたようで、約束の地という形では、占領していない。むろん、それが良いかどうかはわからないが、歴史的に、どの時代から見るかによっても、変わるように思う。少なくとも、王のリーダーシップに頼ることについては、否定的である。ただ、サムエルであったも、子どもは、不正な利益を求めた(3)とあり、王がそうではないことを、どのように考えたかは不思議である。軍事力だろうか。もう少し考えてみたい。
1Samuel 9:19 サムエルはサウルに答えた。「私がその先見者です。あなたはまず高き所に上って行き、今日は私と一緒に食事をしなさい。明朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にあることをすべてお話しします。
サムエル記についても、たくさんの疑問を持つ。サムエルは、「高き所」(12等)で、いけにえを献げる。かつ祭司とは書かず、先見者と呼ばれている。出自からも、歴代誌上(6章12,13節)以外は祭司の家系としては描かれていない。引用句では、「あなたの心にあることをすべて」と書かれ、主の御心を告げるわけではない。これは、理解が難しい表現である。このあとすぐ「三日前にはぐれてしまった雌ろばについては、案ずることはありません。もう見つかっています。それより、全イスラエルの期待は誰にかかっていると思いますか。あなたと、あなたの父の家のすべての者にではありませんか。」(20)と続く。チグハグな感じもする。サウルを王位につけることは、主の命令としつつ、早く先を急ぎたいかの如く、記述に精緻さが感じられない。
1Samuel 10:7,8 これらのしるしがあなたの身に起こったら、ふさわしいと思うことは何でも行いなさい。神があなたと共におられます。私より先にギルガルに下りなさい。私も焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げるために、あなたのもとに行きます。私が到着するまで、七日間待っていなさい。そうすれば、あなたがなすべきことを教えます。」
この後半は何なのだろうか。この先に起こることを預言しているようにも見える。(サムエル記上13章8節-14節)サウルが主お命令を守り主に従うことよりも「ふさわしいとおもうことは何でもする」ことをしてしまうことを。この背後には、主の霊の働きの理解が隠されているようにも見える。しかし、この時点で、それを理解するのは難しいだろう。神の子として生きる自由(権限)は、どのように使われるべきなのだろうか。弱さを担った人間にとって。
1Samuel 11:6-8 それを聞くや、神の霊がサウルに降り、彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえて切り分け、それを使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルに従って出陣しない者があれば、この牛のようになる。」主への恐れが民に広がり、彼らは一斉に出て来た。サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルの人々が三十万、ユダの人々が三万であった。
アンモン人のナハシュから、ギルアドのヤベシュを救った記事である。(1-8)後にまで、関係する事件であるが、神の霊によるサウルの激昂が描かれている。そして、信じられないような軍勢が記録されている。士師記の最後に、イスラエルがまとまった記事があるが、一体となって戦う姿が記録されていると考えても良いのかもしれない。ユダとイスラエルというこの後の王国の姿を表す分け方になっているところも興味を惹く。
1Samuel 12:12 ところが、アンモン人の王ナハシュが攻め上って来るのを見ると、神である主があなたがたの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々を治めるべきだ』と私に言った。
11章の記述とは少し異なる印象を受ける。しかし、主が出エジプトにおいても(6,8)、そのあとの士師時代の、ペリシテ人や、モアブの王との争いについて(9)のことと共に、主に従わなかったことが書かれ、上に至る。サムエルの告別の辞をこのようにまとめたのだろう。歴史観は、重要なのかもしれない。それが、将来どう生きるかの判断を決めていくのだろうか。このあたりが、わたしは、まだよく理解できていない。歴史観は人生観なのか。そのような部分はあるようにも思う。しかし、そうとも言い切れない部分もあるように思う。
1Samuel 13:5,6 一方、ペリシテ人はイスラエルと戦うために集結した。その戦車は三万、騎兵は六千、兵は海辺の砂のように多かった。彼らは上って来て、ベト・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。イスラエルの兵士は、自分たちが窮地にあるのを見た。兵は追い詰められて、洞穴、あざみの茂み、岩の間、穴蔵、地のくぼみなどに身を隠した。
この章で初めてヨナタンが登場し(2,3)、サムエル記上10章 08節に関係すると思われる「七日間」の問題が書かれているが、世界史的な観点から引用句を選んだ。ペリシテの状況が描かれており、また「その頃イスラエルの地には、どこにも鍛冶屋がなかった。ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないと、ペリシテ人が考えたからである。それで、イスラエルのすべての人々は、鋤の刃や鍬、斧や鎌を研いでもらうために、ペリシテ人のところへ下って行かなければならなかった。」(19,20)とあり、イスラエルは(青銅または)鉄器時代に入っておらず、剣や槍を持っていたのは、サウルとヨナタンだけ(22)とも書かれている。なぜ、サウルとヨナタンが持っていたのかも不思議だが、何よりも、ペリシテとの差には驚かされる。ただ、引用句にある、戦車と騎兵は、古代では広い平原のような場所で力を発揮するもので「洞穴、あざみの茂み、岩の間、穴蔵、地のくぼみなど」では力を発揮できない。とはいえ、とんでもない差で、明らかにかなう相手ではないことが表現されている。
1Samuel 14:3 そこにはエフォドを身に着けたアヒヤもいた。アヒヤはイ・カボドの兄弟アヒトブの子であり、イ・カボドはシロで主の祭司を務めたエリの子ピネハスの子である。兵もヨナタンが出て行ったことを知らなかった。
この章も内容満載である。引用箇所は、イ・カボドが登場したからである。2度も名前が書かれている。4章に書かれている、イスラエルの大敗のときに生まれたのがイ・カボド(栄光はどこにの意と注にある)である。その対比が描かれているのだろう。サウルが兵に、「私が敵に報復する夕方まで、食べ物を口にする者は呪われる」(24b)と誓わせていたことにまつわるエピソードが書かれているが、34節には、どうも、結局、皆、食べたようにも書かれている。焦点は、サウルのリーダーシップが崩れていく過程が書かれていると言うことなのだろう。ヨナタンは「私の父は皆を悩ましている。見よ、この蜜をほんの少し味わっただけで、私の目は輝きだした。もし今日、兵が敵から奪った戦利品を自由に食べていたなら、今頃は、ペリシテ人の損害はもっと大きなものになっていたであろう。」(29,30)と言い、裁こうとするサウルには、兵が「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないというのですか。とんでもないことです。主は生きておられます。彼の髪の毛一本なりとも地に落ちてはなりません。神が共におられたからこそ、ヨナタンは今日これを成し遂げたのです。」(45b)と正論をぶつけている。神の箱が登場し、主に問う場面もチグハグさが描かれている。「神の箱を運んできなさい」(18b)「もうよい」(19b)そして、主は答えられない(37)など。文学的記述としても、興味深い。さらに、血のついた肉についても、書かれていて著者の背景についても、ヒントがあるように思われる。
1Samuel 15:11 「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた。
興味深い章である。まず、引用箇所はこのあと「イスラエルの栄光である方は、偽ることも悔いることもない。人ではないので、悔いることはない。」(29)とも書かれているので、この矛盾を考えるために挙げてみた。両方とも、サムエルが受け取ったメッセージだとすれば、矛盾はない。サムエルの理解が、そして、信仰告白が深くなっていったと言うことだろう。もう一つの考え方は、主は、悩まれる方、苦しまれる方であるということである。イエスのように。いずれも、簡単な決断ではないのだから。民が、一人一人が「心して聞く」(22b)ことを願っておられるなら、そう簡単ではない。主は悩んでおられるように見える。むろん、わたしたちについても。この章はアマレクを滅ぼし尽くすことについて描かれている。「あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。」(申命記25章29節)から繋がっている。最後はアマレクの王アガグをサムエルが切り殺す(33)。アマレクを滅ぼすとは何なのだろうか。
1Samuel 16:12,13 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。彼がその人である。」サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
今回読んでいて、これも、信仰告白、歴史の内面化かと思った。サムエルがこのときに、ダビデを特別な存在と強い印象を受けたのかもしれない。すなわち、ここで油を注いだのは、内面的なことなのかもしれない。振り返って語っているのかもしれない。そのような考え方を批判するひとも多いだろうが、この書も、サムエルが後日かたったことなどを、根拠にしていると考えることは自然である。神様からのメッセージを受け取ることは、そのような真実を語ることのように思う。
1Samuel 17:26,27 ダビデはそばに立っている兵士たちに言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルから恥辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列を嘲笑うあの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」兵はダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を打ち倒す者はこのようにしてもらえる」と言った。
何か、褒美を確認しているようにも見える。このあとの、熊やライオンとの戦いについても、誇張があるのではないかと感じる。ダビデがそうだったというよりも、書き手の脚色なのかもしれない。不明である。この章には「青銅の兜」(38)と出てくる。ゴリアトについても鎧兜は青銅で、槍の穂先は鉄である。(5-7)青銅と鉄が使われていたことがわかる。まだ、軽く強い鉄はなかったのだろう。また、16章の終わりにダビデがサウルの前で琴をひいていた記事があるにも関わらず(16:14-23)、サウルはダビデを知らないという記述が出てくる(55-58)。今読んでいる、中西進著「日本神話の世界」に「日本書紀は養老4年(720)にできた歴史書である。(中略)昔から伝えられるうちにできた伝承上のちがいもけっして統一せずに、全部ならべてあげるところに大きな特徴がある。お蔭でわれわれは、さまざまな伝承を知ることができるのである。」(ちくま学芸文庫 pp.11-12)とある。複数の伝承を残してくれていることは、ポジティブに捉えるべきなのだろう。
1Samuel 18:1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結び付き、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
ダビデとヨナタンの物語がはじまる。これに続いて「その日、サウルはダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。」(2)ともあるので、ヨナタンとサウルのダビデとの関係の比較とも捉えられるかもしれない。「この日以来、サウルはダビデに猜疑心を募らせた。」(9)ともある。疑いと愛、まさに、反対のことを言っているように思う。そのあとには、長女メラブを妻として与えると約束して、与えなかった記事が続く。さらに「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。それをサウルに告げる者があり、サウルには好都合であった。」(20)とあり、サムエル記記者もある対比を意識しているように思われる。愛と嫉妬だろうか。ヨナタンと、ミカルの違いにも注意して読んでいきたい。
1Samuel 19:18 逃げて難を避けたダビデはラマのサムエルのもとに行き、サウルが自分にしたことをすべて話した。ダビデとサムエルはナヨトに行き、そこにとどまった。
このあとに起こったこと、最後に、サウルに神の霊が降り預言しながらナヨトまで歩き続けたという表現など、何を意味するのか不明の部分もあるが、サムエルとの交流が特別な意味を持っていたことを表すことなのかもしれない。その前の段落で、テラフィムが2回(13,16)登場する。תְּרָפִים(ter-aw-feme': idolatry, idols, image(s), teraphim, family idol)は、単に像という言葉だが、家族の信仰の対象としての偶像が通常の意味で、イスラエルでは偶像と嫌われたはずのものが、ここに使われていることに驚いた。しかし、ここは、単純に、人形のようなものを使ったということと理解してもよいように思う。
1Samuel 20:30,31 サウルはヨナタンに激怒して言った。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの息子に目をかけて自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。エッサイの息子がこの地上に生きているかぎり、お前もお前の王権も安泰ではないのだ。すぐに人をやって彼を捕らえ、私のもとに連れて来い。彼は死ななければならない。」
サウルのことばは、ヨナタンとダビデが性的交わりをもっているとの批判のように思われる。たしかに、それを想起させるほどの親密さではあるが。ヨナタンは「ダビデを自分自身のように愛していた」(17)と表現し、ダビデは慎重に「お父上は、私があなたの好意を得ていることをよくご存じです。それでヨナタンが悲しむといけないから、知らせないでおこうと考えておられるのです。主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」(3)と言っている。引用句を見ても、サウルがヨナタン、もしかすると自分の家の将来を心にかけていることが見て取れる。また「ヨナタンはダビデの家と契約を結んで言った。『主がダビデの敵に報復してくださるように。』」(16)とここにも家が登場することも注意を要する。
1Samuel 21:6,7 ダビデは祭司に言った。「言うまでもなく、私たちはこれまでと同様、女を遠ざけています。私が出陣するときには、部下たちは身を清めています。通常の出陣でもそうですから、まして今日は、部下たちは身を清めています。」そこで祭司は、聖別されたパンをダビデに与えた。その日は、パンを取り替えて焼き立てのパンを備える日で、普通のパンがなく、主の前から取り下げた供えのパンしかなかったからである。
この箇所は、イエスが引用する箇所でもあるが(マタイ12:3,4、マルコ2:25,26、ルカ6:3,4)「自分も供のものたちも」とある。しかし、ここには、供のものはいない。また、「女を遠ざけている」と語っているが、平穏な状態ではないことは確かだ。身を清めているとも思えない。また、ここでは、普通のパンがないとういことは、祭司たちがたべるパンは、これでなくなってしまうことも意味している。イエスの言いたかったことは別にあるとしても、難しい引用であることも確かだ。
1Samuel 22:1,2 ダビデはそこを出て、アドラムの洞穴に逃れた。それを聞いた彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆、彼のもとに集まって来た。ダビデは彼らの長になった。おおよそ四百人の者がダビデと共にいた。
唐突に感じられるが、このあとを読むと、ダビデは両親をモアブの王に託している。さらに、「サウルはダビデとその仲間たちを見つけたという知らせを受けた。」(6)とあり、ダビデを捜索していることがわかり、家族は危険な状態だったことも想像ができる。それが最高潮に達するのが、祭司アヒメレクとその家族の殺害である。(18)文学的にも、非常によく書けているように思われる。サムエル記上・下は、これに続く列王記上・下とともに、先の預言者と呼ばれるが、背後にある部分をも、解釈して書こうとしているように思われる。ただ、それがそのまま事実とは限らないことは、致し方ないが。
1Samuel 23:1,2 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪しているという知らせがあった。それでダビデは主に伺いを立てた。「行って、あのペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行って、ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」
ダビデが伺いを立て、それによって行動する姿が描かれ、それはサウルの行動にも影響を与えたこと(19-23)が、いくつかの例とともに描かれている。ダビデの行動の背後にあることを伝えるエピソードなのだろう。直接的に、主に伺いを立てたと書かれている場合(1,4)と、祭司エブヤタルにエフォドを持って来させて問う場合(9,10)が書かれているが、それ以外にも、ダビデが多くの情報を得ていることも書かれており、諜報活動や、または、友人などからの情報(16)もあったのだろう。当時としては、かなりのものだったのではないだろうか。ダビデの強みでもあり、アヒメレクなど祭司が殺されたことから学んだことなのかもしれない。著者の意図として、重要な決断のためには、主の声を聞くことを描ている面もあるのかもしれない。
1Samuel 24:21-23 今、私は知った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される。どうか今、主によって誓ってくれ。私の後に続く私の子孫を絶つことなく、私の名を父の家から消し去ることはないと。」ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の家に帰り、ダビデとその部下たちは要害へ上って行った。
ひとつの区切りを描いている。サウルの上着の端を切り取ったことを後悔し部下たちに「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ。」(7)と語ったことが書かれている。このあとの、サウル家の属するベニヤミン家との戦いなどに関わる重要な記述だったのかもしれない。戦略的とも言えるが、最終的になにを求めているかも、考えていたということかもしれない。単に誠実さ、忠実さで判断してはいけないのだろう。ダビデの描かれ方もあるだろうが、英雄について、イエスはほとんど語らない。
1Samuel 25:10,11 ナバルはダビデの部下たちに答えた。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者か。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。私のパン、私の水、それに毛を刈る者のために私が屠った肉を取って、素性の知れぬ者に与えろと言うのか。」
ナバル(נָבָל naw-bawl', foolish, senseless, fool, 愚か者)名前の由来が不明である。同音異義語で、なにかを表現したのかもしれない。しかし、サムエル記上では、愚か者であることが、強調されている。ただ、引用句を見ると、適切に判断ができないことを意味しているだけとも言える。何らかの障害があったのかもしれない。現代的な見方かもしれないが、このようなことも、乗り越えないと、平和はこない。「朝、ナバルが酔いからさめたとき、妻は事の次第を報告した。するとナバルは意識をなくして石のようになった。十日ほどして、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。」(37,38)とある。正直、不憫になってしまう。他者が自分と同じ知的判断力があると考えることは、他者の尊厳をたいせつにする公平さのようでいて、そうではないように思う。
1Samuel 26:23,24 主は人の正しい行いと忠実さに応じて、それぞれに報いてくださいます。今日、主はあなたを私の手に渡されましたが、主が油を注がれた者に手を下すことを、私は望みませんでした。今日、私があなたの命を重んじたように、主も私の命を重んじ、あらゆる苦難から私を救ってくださいますように。」
ダビデの神学をここに著者は表現しているのだろう。「正しい行い צְדָקָה tsed-aw-kaw': justice, righteousness」と「忠実さ אֱמוּנָה em-oo-naw': firmness, fidelity, steadfastness, steadiness」と書かれている。因果応報なのだろうか。もう一つ、主の主権を犯さなことが、主が油を注がれた者に手を下さないことなのだろう。24章の終わりで、一件落着するかと思われたが、またここで、同じことが繰り返されている。簡単ではないとも言えるし、伝承が複数ありそれをまとめたとも言えるのだろう。どちらにしても、単純ではない。
1Samuel 27:1 ダビデは考えた。「このままではいつかはサウルの手にかかるに違いない。ペリシテ人の地に逃げるほかはない。そうすればサウルはイスラエル全土で私を捜すことを断念するだろう。それで私は彼の手から逃れることができる。」
24章の終わり、26章の終わりでも、和解しているように見えるが、現実はそう単純ではないとダビデは考えており、このあとも抜け目なく生き抜く手段に訴えている。ガトの王、マオクの子アキシュ(2)のところに逃れた記事は、21章11-16節にもある。整合性をとるのは、難しいようにも思う。複数の伝承があるのか。いずれにしても、アキシュはダビデを信じ、完全に騙されてしまっている。「彼は自分の民イスラエルにすっかり疎まれてしまったのだから、いつまでも私の僕でいるだろう」(12)ダビデの巧妙さとも言えるが、目的のためには手段を選ばず、主はどのような思いで見ておられるのだろうか。
1Samuel 28:21,22 女はサウルに近づき、サウルが非常におびえているのを見て、言った。「仕え女はあなたの声に従いました。命を懸けて、あなたが言われたことに従ったのです。今度は、仕え女の声に従ってください。ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がってください。お帰りになる力がつくでしょう。」
すばらしい女性がいたものだと驚かされる。霊媒・口寄せは、一般的には避けられていた。おそらく、主のことばかどうか、はっきりせず、人心を迷わすからだろう。現代の AI 論争にも似たところがある。そのような女性が、ここでは、誠意を尽くす。また、ここで「ささやかな食事」と表現している内容が次に説明してある。「サウルは断って、『私は食べない』と言った。しかし家臣もその女も強く勧めたので、彼らの声に従い、地から身を起こして、台座の上に座った。女の家には肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。女がサウルと家臣にそれを差し出すと、彼らはそれを食べて、その夜のうちに立ち去った。」(23-25)感動的である。わたしはこのように生きられるだろうか。
1Samuel 29:6,7 アキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたはまっすぐな人間だ。私と一緒に戦陣に加わるのを、私は歓迎している。実際あなたが私のもとに身を寄せてからこの方、今に至るまで何の落ち度もない。だが領主たちはあなたを快く思ってはいない。だから今は引き返して、穏便に事を収め、ペリシテ人の領主たちの気に入らないことをしてはならない。」
このあとにもアキシュは「だから、明日、早く起きて、明るくなりしだい、あなたも、一緒に来た部下たちも立ち去るように。」(10)と、ダビデに配慮している。信頼を得ることが大切であるが、信頼は、最終目的ではないように思う。ダビデの欺きによる信頼獲得、憤りを感じる。戦略的には、優れているのだろうが。勝利も、信頼獲得も最終目的にはなり得ないということなのだろう。もっとも、たいせつにすべきことは何なのだろう。「互いに愛し合う」ことのようにいまは思う。信頼も勝利も、たいせつに見えるが。
1Samuel 30:6 ダビデは非常な苦境に立たされた。というのも人々は皆、自分の息子、娘のことで苦しみ、ダビデを石で打ち殺そうとまで言いだしたからである。だがダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった。
サムエル記記者は、ダビデのすべての行為を肯定しているように見える。戦略を用いて勝利を得ることは、最終的な目標ではないと思うが、それが、ここにも現れているように思う。不在の間にツィクラグは襲撃され「ダビデも一緒にいる人々も声を上げて泣き、やがて、泣く力も尽きた。」(4)とある。わたしは、策略を用いず、町に残ることを選んだろう。しかし、それが適切なのかどうかも、また、簡単に判断はできない。目先の「互いに愛し合う」状態を維持することだけでは、おそらく十分ではないのだろう。それにしても、「ダビデはツィクラグに戻ると、戦利品の一部を友人であるユダの長老たちに送り、こう言った。『これはあなたがたへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です。』」(26)のように、信頼関係を育む、戦略とも言える行為、わたしには、なかなかできない。ダビデの評価は本当に難しい。
1Samuel 31:7 谷の向こう側と、ヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの兵士たちは、イスラエル軍が敗走し、サウルとその息子たちが死んだのを見ると、自分たちの町を捨てて逃げ去った。ペリシテ人は町に入り、そこにとどまった。
意味がよくわからないことが書かれている。ペリシテがシュネム、サウルがギルボア山に陣取ったようだが(27章4節)、なぜ、これほど北の方で戦うことになったかがまずは不明である。ペリシテはすでに五つの都市国家ではなく、イスラエル全域を推させていたのかもしれない。谷の向こう側、ヨルダン川の向こう側もあまりよくわからないが、ヨルダン川の向こう側は、ギルアドだろう。そのようなところにいた人たちも、町を捨てて逃げ去ったということだろうか。このあと、サウルに恩がある、ギルアドのヤベシュの人たちは、サウルの死体を取りに来る。このヤベシュは、ヨルダン川から遠くない場所のようなので、より危険なようにも思う。地勢的な関係がよくわからない。


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過去の聖書ノート

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1 Samuel 1:12-14 ハンナが主の前で長く祈っているので、エリは彼女の口元を注意深く見ていた。ハンナは心の中で語っていたので、唇は動いていたが、声は聞こえなかった。エリは彼女が酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
誤解が最初にかかれている。しかし、人間は、基本的に他者の気持ちを、こころを受け取ることができないので、当然といえば当然である。しかし、物語が、動き出すのは、声をかけたことである。まさに、誤解のことばだが、このことばをかけなければ、このあとのやり取りもなく、エリの「安心して行きなさい。イスラエルの神があなたの願いをかなえてくださるように。」(17)もその応答としての、「あなたの仕え女が恵みにあずかれますように。」(18a)もなく、すなわち、「それからそこを離れて、食事をした。彼女の表情はもはやこれまでのようではなかった。」(18b)のような変化も生じなかったろう。関係構築は、誤解から、不器用に始まるかもしれないが、それこそが、たいせつなのかもしれないと思った。
1 Samuel 2:30 それゆえ――イスラエルの神、主の仰せ――私は確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえに私の前に歩むと言った。しかし、今は違う――主の仰せ。私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。
神の自由意志が表明されているのだろうか。ちょっと不思議にも感じる。主の前を歩むのは、全員ではないのだろうか。たしかにそのようには見える。主は最終的に、何を望んでおられるのだろうか。計画はされないのだろうか。痛みは、共有してくださるようだが。
1 Samuel 3:9 サムエルに言った。「戻って休みなさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って、元の場所で寝た。
私の家には Sir Joshua Reynolds の The Infant Samuel の絵がかかっておりそれを見て育った。「しもべ聞く、主よ語り給え」(文語)と言って祈っている「幼き祈り」とか「祈るサムエル」と呼ばれる絵だと父は説明していました。いつも名前がはっきりしない絵だったので今回調べてみてわかった名である。わたしは、日常的に頻繁に熱心に祈るわけではないが、祈りにおいて、いつも、この姿を思いだす。エリとの関係が美しく描かれている。おそらく「サムエルは成長し、主が彼と共におられたので、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでイスラエルの人々はことごとく、サムエルが信頼するに足る主の預言者であることを認めた。」(19,20)と書くまえのエピソードなのだろう。今でも、このように、主に聞くことを祈りにおいては、たいせつにしたいと願っている。「祈りはかみさまのこころとのシンクロナイゼーション」とわたしは何度か言っていたが、どのように表現するにしても、主との交わりに招かれていることを覚えて、主の前で祈ることをこれからも求めていきたい。
1 Samuel 4:7,8 彼らは神が陣営に来たのだと言い合いながら、恐れて言った。「大変なことになった。このようなことはついぞなかった。大変なことになった。一体誰が、この偉大な神の手から我々を救い出すことができるというのだ。これは、荒れ野においてあらゆる災いをもってエジプト人を打ったあの神だ。
歴史を科学的に調べる必要があるが、一般的に言われているのは、ペリシテ人(Philistines)は、フェニキア人で海洋民族で鉄器の使用など貿易で獲得した高度の文明を継承していたようで、イスラエル南部の海岸に近い地域に、紀元前12世紀 頃、都市を建設したり、植民したとされ、紀元前604年頃、ネブカドネザルに滅ぼされるまで続いたと言われている。初期のイスラエルのような、遊牧・牧畜民も移動が多く起源を特定しにくいが、海洋民族については、なおさら移動や土着化もあり、正確に、起源を特定することは困難のようだ。商取引で交流も多く、単一民族として純潔を保つことの正反対と言ってもよい存在だったかもしれない。科学的とは言えないが、引用句も興味深い。情報を正確に分析しつつ、それにどう立ち向かうかを考えている。一方、イスラエルは内面化はしているが、世界の理解については、どうみても十分とは言えない。我々はどうだろうか。キリスト教に限らず宗教では内面化が重要視されるが、(国や民族のではなく世界の)創造主信仰を重視するなら普遍性に目を向けること、世界全体をみること、科学的に考えることも、重要なはずである。
1 Samuel 5:11,12 彼らは人をやってペリシテ人の領主全員を集め、相談した。「イスラエルの神の箱を送り返し、元の場所に戻ってもらおう。そうすれば、私と私の民は殺されはしないだろう。」町全体が死の恐怖に襲われ、神の手がそこに重くのしかかっていたからである。死を免れた人々も腫れ物で打たれ、助けを求める町の叫びは天にまで達した。
アシュドドでも「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災いをもたらす。」との声が記録されている。このようなことが、神の箱に特別な魔力があったのか、神の介入による奇跡だったのか不明である。しかし、この人々の感覚・信条が背景として大きく影響していることは事実だろう。現代では、やはりこのようなことは起こらないように思う。そして、この記述を読んだ人も、それを素直に受け取ることができたのだろう。疑問に思う人もいたかもしれないが。そのような背景のもとでのメッセージである。真理は変わらないが、伝え方は、伝える相手に依存するので、普遍性はない。そのなかから、普遍的なメッセージを読み取るのが、たいせつなのだろう。現代ならどのように、表現するだろうか。他者(イスラエル)がいのちのようにたいせつにしているものを奪い取り、ぞんざいにあつかうことは、逆の立場にたつと、あってはならないこと。信条は、ひとりひとりの尊厳にも関わることだから、尊重しなければいけないと気づいたかもしれない。それが、争いが減る方向につながればよいのだが。
1 Samuel 6:4,5 ペリシテ人は言った。「それでは、返すにあたって、償いのいけにえには何がよいのか。」彼らは答えた。「同じ災いがあなたがた全員とあなたがたの領主に下ったのですから、ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金の腫れ物と五つの金のねずみにするとよいでしょう。腫れ物の像と地を荒らすねずみの像を造って、イスラエルの神に栄光を帰すなら、恐らくイスラエルの神は、あなたがたとあなたがたの神々、そしてあなたがたの地に重くのしかかっているその手を引いてくださるでしょう。
これをくだらないと思ってはいけない。黄金律とも言われる「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章12節)を実践したと理解するべきだろう。これは、それをすれば満点というような完全解答を示す黄金律ではなく、このようにすることが真理に近づく、不完全な人間の道だと示しているのだろうから。やってみながら、相手を理解し、真理に近づき、神の御心のほんの一部を理解していくのだろうから。
1 Samuel 7:13 こうしてペリシテ人は屈服し、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの生涯にわたって、主の手がペリシテ人を抑えていた。
「サムエルは生涯にわたってイスラエルの人々を治めた。」(15)とあり、サムエルを士師としても描いている。預言者であり、士師。この特別な存在を経て、王制へと移行していくことがここに語られているのだろう。ペリシテとの戦いはこのあとも続く。サムエルの時代、ある年月を経て「イスラエルの家は皆、主を慕い求めるようになっていた。」(2)と書かれている。歴史の解釈は難しい。科学的認識とは、かなりかけ離れたところにありながら、人間の行動様式を定めるものとしても、重要なのだろう。わたしは、まだよくその関係を理解できていない。内省はどのあたりに位置するのだろうか。
1 Samuel 8:7 主はサムエルに言われた。「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。
とてもむずかしい。宗教がすべてに先立っていた時代、それが平和な、良い時代だとは言えないだろう。「彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ。」(8)ひとは、常に信仰的に生きることはできないのだから。社会体制を整えることは、そのような人間社会の知恵だとも言える。かなり、方向性はことなるが、これも、科学的認識と信仰と対立するものではないが、特徴的な違いのように思われる。上の考察によると、人間の性質を理解することも背景にあることになる。それは、科学的認識でありながら、信仰の部分を侵食するように思われる。「今は彼らの声に聞き従いなさい。ただし、彼らに厳しく命じ、彼らの上に立って治める王の権利を知らせなさい。」(9)は、社会体制を整えるところに、完全な解決があるわけではないよということなのだろう。
1 Samuel 9:19 サムエルはサウルに答えた。「私がその先見者です。あなたはまず高き所に上って行き、今日は私と一緒に食事をしなさい。明朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にあることをすべてお話しします。
サムエルはサウルを見てこれとわかるが、サウルは先見者がわからない。興味深いことは「あなたの心にあること」という部分である。おそらく、それも、サウルにはわかっていないだろう。とすると、それは、サムエルに近い方、主が心に置かれたということを指しているのだろうか。それを汲み出すという考え方は表現としては、一般的だったのだろうか。以下の言葉を思い出した。「人の心にある企ては深い水。/英知ある人がそれを汲み出す。」(箴言20:5)「心にあることは何でも行いなさい。主はあなたと共におられます。」(2サムエル 7:3)これは、預言者ナタンがダビデに言った言葉である。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」(申命記8:2)「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。」(申命記30:14, ローマ10:8で引用)「心にあること」というのは、一つの慣用表現なのだろう。
1 Samuel 10:25 サムエルは王の権利について民に語り、それを書に記して、主の前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれ自分の家に帰した。
ここで言われている王の権利については8章11-18節に書かれている。徴兵や徴用、税の徴収、統治のための管理体制の設定などが書かれていて、最後に「こうして、あなたがたは王の奴隷となる。その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない。」(8章17b, 18)とある。この部分は含まれないであろうが、このような制度がそれまではなかったことも意味する。モーセのころはある程度整っていたとしても、部族ごとに別れてしまっているときは、効力を発揮する制度はなかったのだろう。そのような制度はなくてもよいのだろうか。人間の性質を考えると、そうも思えない。政治制度・体制は永遠の課題とも言えるほど困難である。非常に多くの因子が関係しており、目指す方向も、ひとつには定まらないからだろう。神様が愛しておられる一人ひとりの尊厳をたいせつにする以上。そして、人間は、孤立した存在ではなく、社会的存在であると同時に、それも、一部で、人間を規定することはできないのだから。
1 Samuel 11:12,13 民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言った者は誰であれ引き渡してください。我々は彼らを殺します。」しかしサウルは言った。「今日は誰も殺されてはならない。今日、主がイスラエルのために救いの業を行われたのだから。」
このあとには、サムエルがサウルを正式に王に任職する記述が続く。サウルに関する唯一の成功体験かもしれない。そう考えると、この前の記述も注意して書かれているように思われる。「声を上げて泣い」(4)ている民からその理由を聞き「それを聞くや、神の霊がサウルに降り、彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえて切り分け、それを使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。『サウルとサムエルに従って出陣しない者があれば、この牛のようになる。』主への恐れが民に広がり、彼らは一斉に出て来た。」(6,7)も、かなり感情的に書かれている。このあとの「サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルの人々が三十万、ユダの人々が三万であった。」(8)も多少の伏線があるのかもしれない。ギレアドのヤベシュは聖書地図によると、ガリラヤ湖と死海のほぼ中程ヨルダン川から遠くないところにある。ユダの本拠地の南部の山地とは多少距離があるが、ユダとそれ以外と書く理由があったのだろう。割合としては少なくないが、いままで先陣を任されたことが多いユダの記述としては少ないのかもしれない。
1 Samuel 12:16,17 今こそしっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今日は小麦の刈り入れの時ではないか。私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。それを見て、自分たちのために王を求めたことが主の目にどんなに大きな悪であったかを知るがよい。」
「主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見」そして主について「知り」、自らの悪について「知る」ことがとてもたいせつだと私も思っている。しかし実際には困難である。心の目で見なくてはいけないし、神の業として見抜きにくい。すべてが神の業というなら何も見ていないのと同じである。ここでは、「私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。」直後に起こることを示している。「今日は小麦の刈り入れの時ではないか。」が何を意味しているのか不明である。もしかするとそのときには、雨は降らないのかもしれない。ヨシュア記3章15節には刈り入れ期にはヨルダン川の水があふれるほどになっていることが書かれている。それより少し前に雨が多いということだろうか。現在のデータなら調べられるので今度調べてみよう。それほど長い川ではないが、乾燥地でもあるので、雨の時期は重要だったかもしれない。この章のサムエルのメッセージは興味深い点が多い。普遍的真理というより、サムエルがこれこそ主に従う道として誠実に歩んできた道なのだろう(3,23,24)。そこで主の働きを見ながら。主に従っているとはいえない息子たち(8章2,3節)を、民の側においてのメッセージということも感慨深いし、22節も印象深い。
1 Samuel 13:1,2 サウルは三十歳で王位につき、十二年間イスラエルを統治した。さてサウルはイスラエルから三千人を選んで、二千人は彼自身と共にミクマスとベテルの山地にとどめ、千人はヨナタンと共にベニヤミンのギブアにとどまった。残りの民はそれぞれ自分の天幕に帰らせた。
王の権利として最初に語られていた徴兵・徴用のことが書かれている。常備の軍が編成されたということだろう。1000人規模の軍をもてば、小さな争いにおいては、勝利できる。常に略奪など、圧迫を受けていたと思われるから、その意味では、ヨナタンが実践したように、王制は即効性がある。しかし、巨視的(macroscopic, holistic view)でみると、経済や技術的な側面も、鍛冶屋のことから書かれているように、複雑に絡み合っており、地勢的にみても、山地に済むイスラエルと、海岸沿いの平地に住むペリシテでは、様々な違いがあったろう。しかし、サムエル記記者は、いけにえを献げ、「主に願い求め」(12)ることは王のすべきことではないと責めているようである。理解は困難である。ただ、王制にすれば問題は解決するという見方は、近視眼的であることは、確かだろう。3節の「ヘブライ人よ、聞け」におけるヘブライ(עִבְרִי ʿiḇrî: one from beyond よそ者)の使い方に違和感を感じた。
1 Samuel 14:47,48 サウルはイスラエルに対する王権を握ると、周囲のすべての敵、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、そしてペリシテ人と戦った。向かうところ敵なしであった。彼は勇気を奮ってアマレクを討ち、イスラエルをその略奪者の手から救い出した。
サウルについて問題なエピソードが中心にかかれているが、ことは、それほど単純ではないのかもしれない。このあともふくめ、サウルの物語は複雑である。あまり簡単に、結論を引き出そうとしないほうがよいのだろう。サムエル記記者の見方はあるのだろう。「しかし今となっては、あなたの王権は立ち行かない。主は御心に適う人を求められ、その人をご自分の民の指導者として任命される。あなたが主の命じられたことを守ろうとしなかったからである。」(13 章14節)から、ダビデへと向かう過渡期との表現と考えるべきか。ダビデの友人ヨナタンの描き方には、注意が払われている。特にこの章は複雑である。もう少していねいに読んでみたい。
1 Samuel 15:35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルに会うことはなかった。サムエルはサウルのことで悲しみ、主はサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。
この章も文学的にもよく書かれている。「イスラエルの栄光である方は、偽ることも悔いることもない。人ではないので、悔いることはない。」(29b)と対比されている。サムエルは、サウルの故に、主と苦しみをともにしたのだろう。あたかも悔いているように。しかし、すでに、背後で、少なくとも、サムエル記の物語は進んでいる。アマレクのことは、サウルが悔い改めるチャンスだったのかもしれない。22, 23 節のサムエルの言葉も興味深い。「主が喜ばれるのは/焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。/それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。/見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる。/反逆は占いの罪に等しく/強情は偶像崇拝に等しい。/あなたが主の言葉を退けたので/主はあなたを王位から退けられた。」
1 Samuel 16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老たちは不安そうに出迎えて言った。「お出でになったのは、平和なことのためですか。」
なぜ不安そうに出迎えたのだろうか。神を恐れるように、サムエルを一般的に恐れていたのか。「サウルは兵を召集した。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、それにユダの兵士が一万いた。」(15章4節)のユダの兵士が異常に少ないことがすでに背景としてあるのかもしれない。ユダが、サウル王を支持していなかったかもしれない。そして、サムエルは、形式上、サウルの後見人である。サムエルについては、十分認められていたと思われる。不安は、確かではない理由でも起こる。他にも理由が隠されており、様々な背景があったのかもしれない。
1 Samuel 17:45-47 ダビデはそのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に渡される。私はお前を討ち、その首をはね、今日、ペリシテ軍の屍を空の鳥と地の獣に与える。全地はイスラエルに神がおられることを知るだろう。主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される。」
ダビデの言葉かもしれないが、それを採用した事も含めサムエル記記者のメッセージなのだろう。このことをしっかりと心に留めることがたいせつであると同時に、このことばが独り歩きする危険性も感じる。この告白のもと、生きることこそがたいせつなので、このことばを絶対化してはいけない。サウルの「アブネル、あの若者は誰の息子か。」(55)は16章14節から23節の記事とあわせて考えると不思議である。いくつかのエピソードを編集したものの可能性もあるが、文脈からは、その素性を知りたくなったと考えるのも自然なように思った。実際に知っている人について「いったいこのひとは何者なのか」と知りたくなることがあるのだから。
1 Samuel 18:3,4 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を、剣、弓、帯に至るまで与えた。
14章の記事などからすると、ヨナタンは、ゴリアトの挑戦(17章8-10節)に挑戦したかったろう。しかし、王子がそれをすれば、打ち負かされた場合の全責任も被ることになる。その状況を考え、ヨナタンではなく周囲の判断も相まってだろうか、挑戦できなかった可能性もある。そのときに現れたダビデの潔さである。新鮮に映ったことだろう。ヨナタンの愛、そして、サウルの次女で、ダビデの妻となるミカルの愛についても少しずつ見ていきたい。引用句にある「ダビデを自分自身のように愛し」は、上に書いたような、分裂した自分の一部と投影したこころのヒーローだったのかもしれない。この時点でのことである。愛は関係性であり、このあと、どのように愛の関係、二人の交わりが進展していくのかていねいに見ていきたい。ミカルの愛については、この時点ではわたしにはよくわからない。アイドル的な存在だったのだろうか。これについても、ゆっくり見ていきたい。
1 Samuel 19:13 ミカルはテラフィムを取って寝床に横たえ、その頭に山羊の毛で編んだものをかぶせて、それを衣服で覆った。
テラフィムが気になった。通常このことばが使われるときのように、偶像なのだろうか、単なる像なのではないかと。テラフィム תְּרָפִים(tᵊrāp̄îm: idolatry, idols, image(s), teraphim, family idol a kind of idol used in household shrine or worship)。創世記31章19,34,35節で使われているのは、おそらく、家の守り神だろう。士師記17章5節、18章14,17,18,20節でも、それに近いものかもしれない。礼拝に用いている。サムエル記上15章23節は「反逆は占いの罪に等しく/強情は偶像崇拝に等しい。/あなたが主の言葉を退けたので/主はあなたを王位から退けられた。」まさに偶像礼拝なのだろう。ことばは同じものまたはその派生語が使われており、原義は、像だが、ある時代から、厳格化から、イスラエルでは、その言葉は、偶像礼拝に使われるようになったのだろう。ここでは、わからないが、単なる像と考えてよいように思われる。ヨナタンとミカル、サウルの息子と娘である。そのダビデへの愛が描かれている。この二人がいなければ、たしかに、ダビデはサウルに滅ぼされていたのだろう。ただ、ダビデの努力によって、これらの二人がこのようなある意味では危険な行為をしたわけではない。背後に神様がおられるとしか表現できないことなのだろう。
1 Samuel 20:31,32 サウルはヨナタンに激怒して言った。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの息子に目をかけて自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。    エッサイの息子がこの地上に生きているかぎり、お前もお前の王権も安泰ではないのだ。すぐに人をやって彼を捕らえ、私のもとに連れて来い。彼は死ななければならない。」
前半の「心の曲がった不実な女の息子よ。」はサウルに何人か妻がいたことを意味しているだろうが、この次の「自分の母親の恥をさらしている」は、一般的には、同性愛を意味していると思われる。次の部分は後継のことで論理的にも見えるが、思いつきかもしれない。ここでは、事実とは異なる中傷、いわゆる汚いことばで罵ったという部類なのだろう。サウルが精神不安定であることも、見て取れる。ダビデも、ヨナタンも正しさを議論している。(1,8,12,13)隣の席にはアブネル(25)がいるが、このサウルの心を聴いてくれる友はいなかったのだろうか。
1 Samuel 21:12 アキシュの家臣たちはダビデについて言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。人々が踊りながら、/『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った』と歌ったのは、この男ではありませんか。」
王(מֶלֶךְ meleḵ: king)とあるが、基本的には、このあとに地名がつづき、何々の王となる。ここでも、הָאָרֶץ (haʼerets: the land)であるから、国の王を考える必要はないのだろう。ある地域の長であれば、おそらく、族長もある程度大きな部族なら、王だったかもしれない。なお、アヒメレク('ăḥîmeleḵ = "my brother is king" or "brother of Melek")は、王の兄弟である。この章の記事は、マタイ12章3,4節、マルコ2章25,26節、ルカ6章3,4節でも引用されている。イエスのダビデの行為引用は二箇所のみだと思うがその一箇所である。イスラエルの人々の認識と異なり、ダビデを高く評価していない、またはダビデと結び付けられることに注意していることを感じる。後に現れる、火種(ドエグのことなど)が書かれている。ダビデにとっても、非常に難しい状況だと思った。
1 Samuel 22:5 やがて預言者ガドが、「要害にとどまっていないで、ユダの地に出て行きなさい」と言ったので、ダビデはハレトの森に移った。
サムエル記下24章11節のダビデの晩年の記事に、ガドが現れ、歴代誌上29章29節には『予見者ガドの言葉』が現れる。同じガドと思われるが、歴代誌はこれら2つの記事を利用しただけかもしれない。ここの記述は、よく意味がわからない。この章には、ダビデのきめ細かな家族への配慮・対応が書かれ、アヒメレクの家族については、ドエグのことで懸念を持っていたが対応しなかったことを悔いるような表現(22)がある。ひとの配慮は十全とはいえないとも言えるが、やはり困難な時期だったことは確かだろう。また、ダビデの兄(弟)は、17章28節で、ダビデの行為に、批判的な発言をしているが、一般的にも弟に仕えるのは、単純なことでは無いだろう。しかし、危険を避けるためであったことは、十分伝わってくる。
1 Samuel  23:9 ダビデはサウルが自分に危害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに、「エフォドを持って来なさい」と言った。
ダビデが最初のケイラのときのように(1-5)単に自分で主に問うことをせず、エブヤタルを通して主の御心を問おうとしている。ここでエブヤタルはウリムとトンミムでうらないのようなことをして、皆に、主からの指示を伝えたのだろう。しかし、引用句にもあるように、「ダビデはサウルが自分に危害を加えようとしているのを知り」とあり、情報は持っていたようである。ケイラのときは、部下の反対を押して、自分が主から受け取ったと信じることを行っているが、今回は異なる。同時にエブヤタルの責任も重大である。主への信頼とともに、十分な情報分析もしていたのだろう。これらは、矛盾することではないと思う。自らのすべてを用いて、主に問い、信頼して生きていきたい。主は、様々な方法で、御心を知らせておられるのだろうから。
1 Samuel 24:6,7 だがその後でダビデはサウルの上着の端を切り取ったことを後悔し、部下の者たちに言った。「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
部下も「主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、この時のことではありませんか。」(5)主のことばを引用している。「それで」(5)とあり、ダビデもその判断に従ったあとの言葉が引用句である。「どうか分かってください。私には悪意も、背く意志もありません。あなたに対して罪を犯しておりません。」(12b)との整合性は難しいが、ひとつのことだけで、自分を納得させてはいないことも確かだろう。そして、全体として、自分の態度を示しているのだろう。ひとは、完全ではありえない。ここでも、ダビデを評価するとともに、揺れがあったことも、認識すべきだろう。このようなことを経験しながら、神理解が深まっていくことを願いたい。
1 Samuel 25:29 ナバルが死んだと聞いて、ダビデは言った。「主はたたえられますように。主は、ナバルが加えた私への恥辱に裁きを下し、僕に悪を行わせず、ナバルの悪をナバルの頭に返された。」ダビデはアビガイルに人を遣わし、彼女を妻にしたいと申し入れた。
様々な要素が書かれており、簡単には判断できないが、ダビデの行為(の記述)について問題も感じる。「あなたの判断はたたえられ、あなた自身もたたえられるように。今日、あなたは私が自ら手を下して、血を流すことのないように引き止めてくれた。」(33)とも言っており、ダビデも様々な見方ができたとサムエル記記者は書いているのだろう。この章を、自業自得、(ダビデの妻となる)賢いアビガイルと取ることは可能だが、本当にそのように単純なのだろうか。サムエル記記者は、そうは考えていなかったかもしれないが、引用句を見ると、一応、このように結論しているのだろう。ナバル נָבָל (nāḇāl: foolish, senseless, fool)なぜこのような名前を付けたのだろう。アビガイル אֲבִיגַיִל('ăḇîḡayil: my father is joy)ギル  גִּיל (gîl: a rejoicing, a circle, age)とあり、喜ぶ父が原義だろう。
1 Samuel 26:10,11 また、ダビデは言った。「主は生きておられる。時が来て死ぬにしろ、戦いに出て倒れるにしろ、主は必ずサウルを打たれる。主が油を注がれた者に手を下すようなことを、主はお許しにならない。今は枕元の槍と水差しを取って立ち去ろう。」
これがダビデがたいせつにしていたことと伝えているのだろう。しかしサウルの呼びかけ「私は罪を犯した。わが子ダビデよ、帰って来なさい。」(21a)には答えない。最後の「こうして、ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」(25b)の記述は印象的である。サムエル記上下、列王記上下は、預言者集団の中で書かれたのではないと言われているが、文学的筆致も優れていると思う。どのような人だったのだろう。エリヤ、エリシャや、イザヤ、エレミヤなどとは、また違った印象を受ける。
1 Samuel 27:6,7 その日、アキシュは彼にツィクラグを与えた。今日に至るまでツィクラグがユダの王に属するのは、そのためである。ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は、一年と四か月であった。
ガトの王アキシュとの関係については 21章11節から16節にもある。その記述は理解し難いが、ある信頼関係がなんらかの方法で築かれていたのだろう。今回は「一年と四か月」という、ある程度の期間であることが書かれている。ペリシテは、フェニキアの流れをくむ海洋民族が定住した都市国家のようなもので、商工業が中心だったろうから、牧畜・畑作のイスラエルとはある程度住み分けることができたのかもしれない。また、都市国家連合はあまり強い絆ではなく、特別のときだけ一緒に動いた独立国家だったのだろう。しかし、ダビデたちは、いわゆる「略奪隊(raiders)」である。生産活動を十分する基盤が得られていなかったのだろう。倫理的なことで責めても仕方がないように思う。現代においても。共生や福祉は難しい。このあとの部分は、地名をていねいに調べないといけない。ヨシュア記、士師記に地名は出てくる。おそらく、ユダの南の地域なのだろう。通常カイン人と呼ばれている。すこし、民族の系統としては離れていると理解されていた地域か。
1 Samuel 28:15 サムエルはサウルに言った。「なぜ私を呼び寄せ、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困り果てています。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神は私から離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべきことを教えていただくためです。」
ペリシテが連合して責めてくることは、あまりないことだったのだろう。その意味でたいへんなことが起こっている。ただ、その理由は書かれていない。税やルールなど、ペリシテが課していたものに従わなかったのだろうか。領土を取ることはあまり考えていなかったのではないかと思う。イスラエルも王制への移行過程で、単に、農耕・牧畜ではないものが生じていたのかもしれない。それが軋轢を生じ始めていたことは理解できる。サウルは困り果てている。サムエル記記者は「主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。明日、あなたとあなたの息子たちは、私と共にいるだろう。また主はイスラエルの軍隊をペリシテ人の手に渡される。」(19)のあと、サウルは卒倒したと書いている。アマレクに対して(15章)主に従わなかったことをここでも理由として書かれているが、それは、ひとつのわかりやすさで、やはりサウルには、問題もあったように思う。主を求め、御心を求めることではなく、自分のこと、人からの評価ばかりに、心が奪われていたように見える。しかし、この章の最後にあるように、霊媒の女や家臣を通して、主の憐れみが示されているように思う。女や家臣は、サウルを慕っていたからこうしたのではないだろう。ここに主の恵みと愛を感じる。
1 Samuel 29:4,5 だがペリシテ人の長たちはアキシュに腹を立てて言った。「この男を帰らせ、あなたが与えた居住地に引き止めておくべきだ。我々と一緒に、戦いに参加させてはならない。戦いの最中に裏切らないとも限らない。ここにいる者たちの首だけで、この男の主人を喜ばすのに十分だ。この男は、/『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」
おそらくこの考えが正しいだろう。わたしも、その場にいたら、そのように判断すると思う。持っている情報を分析してもっとも可能性の高いものを選択する。科学的とも言える。実際、ダビデたちは、何をしようとしていたのか不明である。少なくとも、ダビデや一緒にいた部下たちは、戦闘には長けていたようだが、いろいろな関係をもっているイスラエルの諸部族と戦うことを善しとはしなかったろう。(27章8-12節)「主は生きておられる。あなたはまっすぐな人間だ。」(6)「分かっている。あなたは申し分のない者で、私の目には神の使いのように映っている。」(9)わたしはこのナイーブ(純真なさま。また,物事に感じやすいさま。素朴。)なアキシュに同情してしまう。
1 Samuel 30:26 ダビデはツィクラグに戻ると、戦利品の一部を友人であるユダの長老たちに送り、こう言った。「これはあなたがたへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です。」
この章も興味深いことが多い。引用箇所は、ユダの諸部族との関係が強いことも示している。もしかすると、このような行為は、他の略奪においてもあったのかもしれない。すでに、ダビデの王権の道筋は、整い始めているとも言えるかもしれない。さらに、イスラエル全体が一つになることは難しかったのかもしれない。個人的に、様々な理由から、ダビデを好きになれないが、優秀な、おそらく素晴らしいリーダーであったことは確かなのだろう。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、あの襲って来た一団を我々の手に渡されたのは主なのだ。」(23)このように語り、みなもそれを受け取るだけのことをなしているのだろうから。
1 Samuel 31:11-13 ギルアドのヤベシュの住民は、ペリシテ人がサウルに行ったことを聞いた。勇敢な者はこぞって立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬にした。そして彼らの骨を拾って、ヤベシュのタマリスクの木の下に葬り、七日間、断食した。
ギルアドのヤベシュは、ベニヤミンと戦いベニヤミン族が滅びそうになったときにこの地の女たちとの婚姻関係でそれを防いだ経緯があり(士師記21章8-12節)、この地をアンモン人が攻めたとき、サウルが救った経緯がある(サムエル記上11章)。サウルが軍を率いた最初の戦いでもある。サウルの問題も知っていだろうが、それを最後まで支えたのかもしれない。死んだことではなく、これがサウルとその息子たちの最後だとも言える。ひとの一生は、善と悪で簡単にわけられるわけではない。なにか慰められる記事である。

BRC2019

1Sm 1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
まず「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」(10)とあり、苦しみを吐露し、御心に留めることを願い、誓いを立てている。神様にささげることは、直接的には、自分のもとのはしないことを意味しているだろう。少なくとも、自分を満足するための願いではないと言っている。エルカナもハンナを愛していただろうが「このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」(8)は、ハンナを理解できていたとは言えず、ハンナの願いとは異なっていたのだろう。エリにも「わたしは深い悩みを持った女です。」(15)と語っている。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」(15)とある。こころが通じる。事実の表現というより、文学的表現としても、サムエル記記者を通して、ハンナと心をあわせて、これを受け取られる主に共に祈りたくなる。自分や周囲の人の痛みを感じながら。1章には「主」ということばも何回か登場するが、断定的に、主の働きを語ってはいない。このハンナの苦しみや、エルカナや、エリの愛と祈りとつながり、実際に、こどもが与えられたハンナが、エルカナの支持もえて、その子をささげることにも心うたれる。現代的な感覚とは異なる面があったとしても。
1Sm 2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。
ハンナにとっての敵とはだれだったのだろう。こどもができないことを「主に呪われている」などと、責めるひとたちがいたのかもしれない。むろん、その人たちにも、一人ひとりことなる背景、苦しみがあっただろう。そうであっても、ハンナの祈りが聞かれたことは、他の人たちにも、驚き、そして、学びでもあったのではないだろうか。自分たちの主の働き(自分には見えていない世界)の認識が、そして、主ご自身(みえていない世界の背後におられる方)の認識が広がったかもしれない。(自分で理解したと思っていたことが砕かれて)迷路にはいるひともいたかもしれないが。ハンナの祈りをここに記録したサムエル記記者も、ことなることで、そのひとにとって救いと言われるものを経験していたのかもしれない。謙虚さの先に、新たな世界が見えてくることを期待しよう。ハンナとともに祈りつつ。
1Sm 3:13 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。
12節にも「エリの家に告げたこと」とある。2章27節から36節のことを言っているのだろう。詳細は異なるので、サムエルを通して新しいことを告げたと考えることを否定しているようにも取れる。内容的には、民の指摘もあり、みなが神の御心に反していることを知っていたろう。しかし、このエピソードは印象的である。サムエル記・列王記の優れた文学性とも言えるかもしれない。どのような人が背後にいるのだろう。その人からの神様についてのメッセージをしっかり受け取りたい。
1Sm 4:20 死の迫っている彼女に、付き添っていた女たちが語りかけた。「恐れることはありません。男の子が生まれました。」しかし彼女は答えず、心を留めなかった。
「イスラエル軍は打ち負かされ(中略)歩兵三万人が倒れ」(10)「神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。」(11)さらに「エリは城門のそばの彼の席からあおむけに落ち、首を折って死んだ。」(18)このような絶望的な、滅びの現実の前で、付き添っていた女性たちはたくましい。希望も与えているように思われる。もう一つ考えさせられたのは、神の箱や、祭司が注目されたのは、久しぶりとういことである。神の箱は、ヨシュア記3章13節以降出てきていなかった。「祭司」についても、士師記には、ミカのエピソード(17・18章)で、かってに祭司を立てる箇所のみに出てきている。アロン以降、実際にどのような、役割を持っていたかも、確定していなかったのかもしれない。サムエルは祭司ではないが(歴代誌の系図の問題はある(歴代誌上6章1-15参照、訳により章節は異なる))ここで、久しぶりに、神の名のもとでのリーダーシップの記述が現れている。
1Sm 5:5 そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。
どのような証言に基づいて書かれているかは不明であるが、メッセージは、ペリシテ人向けに書かれているのではなく、イスラエルに向けて書かれていることは、確かだろう。主の力ある方であること、その方を捨てるイスラエルの愚かさ。歴史的事実として、書くこととは、おそらく異なっているのだろう。実際に何が起こっていたかは、また別のことなのかもしれない。しかし、神の箱が奪われ、それが戻ってきたということは、あった可能性は十分にある。近隣の民族と、頻繁に争いがあったろうから。現代のクリスチャンが興味をもつこととは、異なるのかもしれない。
1Sm 6:5 はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。
ここに書かれていることが、イザヤ書にあるような「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56章6,7節)に発展していくのかもしれない。イエスさまによって、異邦人との区別が取り去られるまでの間は。キリスト者にも、イスラエルと、異邦人の区別を今でもする人はいるが。み心が少しずつ伝えられ・理解されていくとも取れるし、普遍性への一歩一歩ともいえるのだろう。
1Sm 7:2 主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。
二十年のことは書かれていない。最後には「ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。」(13)とある。雷鳴のとどろきによってペリシテ軍を混乱におとしいれたこと(10節)も書かれているが、詳細は不明である。ペリシテの側にも様々な理由があったのかもしれない。しかし、サムエル記記者はこのように、まとめている。因果応報に近い、神観が強いのだろうか。このあとのサムエル後をにらんだ王制への以降の背景を記述しているのだろうか。いずれの場合も、断定的な判断をすることは、注意を要する。
1Sm 8:6,7 裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
興味深い。主は、サムエルの心とともにいたとも表現できる。また、サムエルは、主の懐の広さ、深さ、不思議さに信頼しているとも言えるだろう。このような声を、主の声として受け取っているのだから。教育とはリスクを取りながら、共にいることだともいえる。王の役割分担を考える考え方もある。どう生きるかに、かかっているのだろう。
1Sm 9:15,16 サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」
「主はサムエルの耳にこう告げておかれた。」という表現が使われている。これはどのような意味で主のみこころなのだろうか。サムエルは、当時、というよりも、旧約聖書の時代を通じても、特別な、預言者だろう。先の預言者といわれる代表格である。しかし、本当に、このように聖書に書いてあることを、そのまま主の御心と理解してよいのだろうか。主に仕えていたサムエルがこのメッセージを受け取った、それを主が良しとしているとしても、それは、主の御心の一つの表現にすぎないかもしれないからである。主の御心には、もっと様々な思いも、苦しみもあったろう。そう思うからである。聖書に書いてあることをどのように受け取るか、ゆっくり考えてみたい。それは、このあとの結果から逆に考えていることばかりではない。
1Sm 10:7,8 これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」
エデンの園での主の命令「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2章16,17節)と構造が似ている。それは、問題を感じるとも表現できることである。サムエル記記者は何を伝えようとしているのだろう。このあと起こることを先回りして書いているのだろうか。おそらく、それよりもっと大きな深い神理解があるのだろう。記者の主との関係に特に興味を持つ。自由意志と全身全霊をもって主に従うかを試すものを同時に置かれる方だと認識しているのだろうか。荷物の間に隠れている(22)という滑稽さを含みつつも「サムエルは民全体に言った。『見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。』民は全員、喜び叫んで言った。『王様万歳。』」(24)のサムエルと民のやりとりの安易さを感じる。
1Sm 11:12,13 民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。」しかし、サウルは言った。「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」
興味深い。民は、サムエルに聞き、サムエルは答えない。12章には、サムエルからのメッセージがある。実際には、そうはならないが、自らイスラエルを指導することからは、身を引くことを考えていたろう。それが、ここで答えなかった理由なのかもしれない。サウルは、全イスラエルの支持が必要であることを知っていたろう。それがこのように言わせたのかもしれない。一コマとして興味深い。
1Sm 12:24 主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。
「あなたたちに正しく善い道を教えよう。」(23b)としてこの言葉が続く。内容はよくはわからないが、主との関係が中心にあり、サムエルはまさにそれを求めてきたのだろう。しかし、王のしごとは、多岐にわたり難しい。政治家が信仰者として誠実に生きることについても考えさせられる。神様に目を向け、そこから目をそらすことなく生きていきたいとは思うが、同時に、周囲に神様が置かれた、一人ひとりに目を向けることのなかで、それができるのか、課題は大きい。
1Sm 13:8 サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた。
「わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」(10章8節)を指しているのだろうか。この章のはじめには「サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき、」(1)となっているので、この間には、十分な時間があると思われる。ということは、聖書には書かれていない、様々な時に、サムエルが伝えていたということだろう。それは、これだけの時間の経過があっても、サウルが信用されていなかったことを意味するのだろうか。とても、寂しく感じる。悔い改めと成長は、サムエルのこころにはなかったのだろうか。主も、最初から、サウルは見捨てていたのだろうか。すくなくとも、後者は、否定したい。ヨナタンの描き方、サウルの行動、少しずつ、違和感がある。
1Sm 14:37 サウルは神に託宣を求めた。「ペリシテ軍を追って下るべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるでしょうか。」しかし、この日、神はサウルに答えられなかった。
不思議なやりとりである。祭司の勧めで、神にサウルが託宣を求め、神が答えられないと知ると、罪が何によって引き起こされたかを調べる。ヨナタンが、サウルの誓いを破ったことが判明し、ヨナタンも死を覚悟するが、兵士がそれを助ける。わかることは、正しさと言うより、一致がないことである。サウルの誓いと主の意思、サウルと、ヨナタン、サウルと、兵士。サウルのもとで、それなりの勝利をおさめたことが「向かうところどこでも勝利を収めた。」(47)とある。不協和音は聞こえてくるが、サウルのあら捜しをすることを、わたしは、したくない。罪とは何なのだろうか。
1Sm 15:10 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた。
まず、主の言葉がサムエルに臨んだとして「『わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。』サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。」(11)とあり、引用した言葉がある。主が悔いる事に関する、議論になる箇所である。いろいろな合理的な解釈はありうる。しかし、サムエル記として、サムエルの立場で(サムエルの死後も含めて)書かれていると理解することはできる。これはバラムの言葉であるが「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」(民数記23章19節)とある。このあとの経緯をみても、2, 3 節のアマレクを滅ぼすことも、そのまま主を主語として受け取るのは、問題かもしれないと思う。ひとが受け取れることの限界があるのだから。
1Sm 16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
サムエル記、列王記は、ユダの王の年代記を記した書物であることは確かである。聖書として書かれたわけではないだろう。あとから、聖書の一部となっている。歴史の中で導かれる主の働きがどのようなもので、人々はそれをどう受け取ったかを知るために。このように、明言してようかどうかわからない。しかし、それも、一つの理解であるように思われる。聖書の理解には、聖書の成り立ちは、無視することはできない。
1Sm 17:37 ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
16章14節-23節のエピソードとこのエピソードは様々な資料から含めたのかもしれない。整合性は十分ではない。ゴリアテの挑戦と、このサウルの言葉も整合性は十分ではない。その意味でも、詳細の事実関係よりも、伝えたいメッセージがあると考えたほうが良いのだろう。引用した節では、ダビデの信仰と、サウルの信仰が現れている。ダビデは善く、サウルは悪いとして読むのでは、理解はとても薄っぺらになってしまうだろう。ひとのこころはそれほど単純ではないし、主もそれを十分ご存知なのだから。
1Sm 18:28,29 サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。
「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」(1)ヨナタンの件は、まだ先のことだが、サウルのダビデに対する感情はどのように育まれていったかに興味を持った。「サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。『ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。』この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。」(8,9)ここでは「怒り」と「妬み」である。引用箇所では「恐れ」と「敵意」である。これらの反対はなんだろうか。すべて「愛」のような気がするが、あまりにも曖昧にしてしまっているのかもしれない。わたしの周囲のひととの人間関係においては、どうだろうか。サウルのようにあからさまではないにしても、ここに掲げたものがあるのだろう。過去にはいくつも記憶がある。サウルについても、性格を議論したり、過去の出来事に原因を求めたりすることもあるかもしれない。しかし、聖書は、少し違う見方をしている、または、許容しているように思う。上に書いたような、一般的なことを考えると共に、サムエル記のメッセージを読み取っていきたい。
1Sm 19:20 サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。サムエルが彼らの先頭に立っていた。神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。
「ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。」(10章10節)のことの繰り返しなのか、混乱なのか、まったく別の内容なのか不明な記事が19節以降に書かれている。「予言する状態」という表現は少なくとも新共同訳では、サムエル記上10章と19章にしか現れない。この章の最初でヨナタンにサウルが「罪を犯さないように」と諭されたことが書かれており、そのあとのミカルとのやり取りなど、サウルのこころの揺れが様々な形で表現されている。神様が直接働いておられるというより、主に向き合う瞬間が何度もあったことが表現されているのかもしれない。妬みから逃れられないサウルについては、どのように考えたら良いのだろうか。現実の状況を冷静に受け入れられない。自分勝手に考えてしまうということだろうか。
1Sm 20:32 ヨナタンは、父サウルに言い返した。「なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか。」
ダビデがヨナタンに言ったことば「わたしが、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか。」(1)を受けて代弁しているように取れる。ヨナタンは、嫉妬であることを知っていたろう。理由なしに、敵意を持つことが人にはある。そして、それは、人の弱さを表しているとも言えるし、個人の社会的価値が重視される社会では、様々な形で現れる自然なことでもあると思う。そのいみでも、自分が正しいかどうかで、自分の身に起こることを考えることは、的外れでもあることがわかる。自分の身におこることを、因果応報で考えるのではなく、主に信頼して、主の働きに目をとめ、主に委ねて生きていきたい。
1Sm 21:12 アキシュの家臣は言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」
すでに、ここでアキシュの家臣は、ダビデを王と呼んでいる。むろん、リーダーと言うような一般的な意味で呼んだのだろうが、預言的な意味合いを、サムエル記記者は込めているのかもしれない。この箇所は、不自然でもある。このあとの、27章から29章の経緯をみると、アキシュは、ダビデに好意をよせていたのではないだろうか。
1Sm 22:14 アヒメレクは王に答えた。「あなたの家臣の中に、ダビデほど忠実な者がいるでしょうか。ダビデは王様の婿、近衛の長、あなたの家で重んじられている者ではありませんか。
アヒメレクは、身の危険を感じていただろう。それでも、忠実に、信じることを語っている。真実を語ったがゆえに、誠意を持って仕えたがゆえに、殺されたとも言える。それは、ダビデの不注意だったのだろうか。(22)むろん、そんなことはない。このようなことを許される神様に委ねて生きることも、信仰生活の一部なのだろう。
1Sm 23:1,2 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、ダビデは主に託宣を求めた。「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」
聖書に書いてある「主が言われた」という言葉について考える。このあとに「ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。」(9)ともあるように、主に尋ねる方法も、記者も読者も知っていたろう。このことによって、伝えられたことを、主の言葉として書き記している。そのように信じたからだろう。同時に、それが、常に、完全ではないことを知ってもいたろう。達し得たところに従って、歩むことが人のなすことで、主の言葉と信じることの責任をも負うこと、そのことのためにも、祭司は、特別の責任を負って、託宣を求めることを意識していたろう。
1Sm 24:6,7 しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
正教会のいうように「悪とは不完全な善である。」「ひとの存在が罪なのではなく、そのひとの方向性の問題」罪に関してもプロテスタントの基本的な考え方が絶対ではないと思う。ここでも、ダビデの好意は、完全ではない行為だったと言っているのだろう。そのほうが、日常生活における感覚と非常に近く、この場合のダビデのように、それを修正することも可能になる。むろん、その修正も、完全ではないかもしれないが。それこそが、キリスト者がたいせつにすべきことでもあろう。正教会または教父の考え方をもう少し学びたいと思う。
1Sm 25:3 男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。
ダビデも「ダビデはこう言ったばかりであった。『荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。』」(21,22)と証言している。一般的には、ナバルの頑固さと、アビガイルの聡明さが際立つ物語である。おそらく、サムエル記記者もそのことを伝えている。しかし、そう解釈してよいのだろうか。頑固さは、自由に考え、そのもとで行動できないことを言っている。たしかに、望ましいこととは言えないが、それによって、その人の命が絶たれることを良しとしてよいのか。わたしも頑固さをもっている。行状だって良くない部分はたくさんある。ひとつの物語として、一つの説明として受け入れ、これを、一般化しないほうがよいだろう。他のストーリーもありうるのだから。
1Sm 26:11 主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」
絶対化せず、ダビデの信仰告白と捉えるべきなのだろう。槍と水差しを取ることは、是としている。なにが善で、何が悪かは、分かち難い。しかし、主との関係の中で、一つ一つを判断することを、神は善しとすることを、聖書は、一貫して証言しているように思われる。それを正しいことと置き換えてしまうことは、ずれを生じさせることにもなるのだろう。しかし、難しい。
1Sm 27:12 アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。
アキシュのお人好しさと、ダビデの狡猾さが際立つ章である。当時の価値観から言って、問題はなかったのだろう。しかし、民族の行き来、多くの部族との関わりがあると、価値観を問われることはあったのではないだろうか。この章には、主に託宣を求めるような記述はでてこない。王国時代またはその後の捕囚時代の人たちにとって、このようなことは、どう映ったのだろうか。誠実さは微塵もない。たとえば捕囚時代にこのような生き方をすれば、すぐに、命が危険な状態になったことだろう。そう考えると、この章で描かれている時代は、特殊だったということだろうか。アキシュとの関係は二度目の記述であるが、もしかすると、2つの独立したエピソードを載せて、取捨選択しなかったのかもしれない。
1Sm 28:24,25 女の家には肥えた子牛がいたので急いで屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。女が、サウルと家臣にそれを差し出すと、彼らは食べて、その夜のうちに立ち去った。
おそらく、豊かではなかったろう。しかし、肥えた子牛で、主に油を注がれたものとその従者をもてなす。口寄せについては、不明であるが、サウルが追放したのは、正統ではなかったからだろうか。不思議な記事であるが、この女の愛だろうか、主に仕えるこころに、感動する。
1Sm 29:9 アキシュはダビデに答えた。「わたしには分かっている。お前は神の御使いのように良い人間だ。しかし、ペリシテの武将たちは、『彼は、我々と共に戦いに上ってはならない』と言うのだ。
ダビデは、このとき、戦いに出ていたら、どうしていただろうか。このアキシュを裏切ったのではないだろうか。主の憐れみによって、そうはならなかったのではないかと個人的には考える。様々な、残酷さを抱える中で、サムエル記記者も、そのことに気づいていたのではないだろうか。アキシュとともにも神様はおられたのだと個人的には思う。
1Sm 30:16 彼はダビデを案内して行った。見ると彼らはその辺り一面に広がり、ペリシテの地とユダの地から奪った戦利品がおびただしかったので、飲んだり食べたり、お祭り騒ぎをしていた。
このことからも、ダビデは、ペリシテと、ユダのために、戦うことになる。話は単純ではなく、ダビデは、ここでおそらく非常に豊かなものをえたのだろう。むろん、大切なものもうしなったのだろうが。「ダビデと四百人の兵は追跡を続けたが、二百人は疲れすぎていてベソル川を渡れなかったので、そこにとどまった。」(10)処遇も興味深い。
1Sm 31:4 サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。
サムエル記記者は、これを事実として伝えている。おそらく、サウルの従者の行動を承認しているのだろう。サウルについての評価はどうなのだろうか。このあとの、ギレアドのヤベシュの住人の記事から、好意的な人たちがいたことも、記録していたのだろう。サウルを酷評することは、避けているように思われる。興味深い。

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1Sm 1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」 
民数記6章などに「特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となる」(民数記6章2節)規定があり、ここでの誓いもそれが背景にある。5節には「彼(エルカナ)はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。」6節には「彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。」とあり、またエルカナは「このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」(8節)と述べている。それぞれである。ハンナにとって子を得ることは何を意味していたのだろうか。神からの祝福を目に見える形で得たいということだろうか。ペニナが苦しめたのは、祝福が得られないのは、ハンナ自体に問題があると指摘したまたはそのようにハンナがとったからではないだろうか。エルカナの言葉もむなしい。すくなくとも、ハンナが祝福の実を自分のものとすることは考えていない。主が受け入れてくださることを単純に求めている。そこに、美しさを感じるのだろう。
1Sm 2:35 わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む。
祭司職の問題のひとつは世襲だったことだろう。それがエリの子らに顕著に表れている。サムエルが祭司の家系かは議論があり、祭司系文書の色彩の強い歴代志では祭司の家系にいれている。(歴代志上6章)しかしその歴代志においても「先見者サムエル」という呼称が一般的である。サムエル記からの記述からは祭司の家系ではないと思われる。引用箇所は、サムエルのことを述べていると考えるのが自然であるが、そうすると、ここでの「忠実な祭司」は、アロンの家系に縛られないヘブライ人への手紙にあるような霊的な意味での祭司となる。究極的にはイエスを意味し(ヘブライ2章17節、4章15節など)、ここで「わたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司」と書かれているサムエルについてじっくり学んでみたい。備忘録としてヘブライ7章12節を記録する「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。」
1Sm 3:8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
ハンナもエルカナも、エリの息子たちの悪行は知っていたのではないだろうか。そしてそれをとがめることが十分にできないエリの衰えも。しかし、サムエルは、三度までも「お呼びになったので参りました」とエリのもとに行く。素直な態度である。エリに仕えること、エリに応答することが自分が神様に仕えることであることだと考えていたからではないだろうか。そのようなものに、神は語られるとも言える。最初から、どれが神の声か、探し求める態度とは異なる。エリからも学ばされる。エリ自分の祭司、そして父親としての力不足を感じつつ「主の心、主の望みのままに事を行う忠実な祭司」を求めていたのかもしれない。
1Sm 4:1,2 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。
人々には悲劇であるが、祭司たちおよりエリも死に、イスラエルの危機的状況があり、その中で、サムエルの言葉は全イスラエルに及ぶ。主のこころが示され始めていることの記述である。ここに希望を見いだすものでありたい。
1Sm 5:6,7 主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。 アシュドドの人々はこれを見て、言い合った。「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。」
5節には「そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。」とも書かれており、いま、3節の記述「主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。」を検証することは困難であるが、十分な根拠があったのではないだろうか。しかし、主の働きとするのは、サムエル記の記者の信仰告白である。ここには「主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。」とある。7節には「この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。」と、アシュドド側の記述もあり、興味深い。神の働きの理解の状況は、科学的な検証、他者への理解も含め、現在は少し進み、そのことは神も良しとされておられると思う。
1Sm 6:18 金のねずみの数は、ペリシテの砦の町から田舎の村まで、五人の領主に属するペリシテ人のすべての町の数に合っていた。主の箱が置かれた大きな石は、今日でも、ベト・シェメシュの人ヨシュアの畑にある。
17節には「主に賠償の献げ物として送った金のはれ物」について書かれているが、それは5個、「金のねずみ」はずっと多かったとある。はれ物は、実際に生じた災厄として理解できるが、なぜねずみなのだろうか。ねずみを媒介とした感染症だったのだろうか。まったく別の理由だったかもしれない。しかし、記述によると、かなりの数、庶民のレベルにいたるまで関与していると主張しているようである。主の御手があまねくペリシテの地に重くのしかかったということか。
1Sm 7:10 サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
どこまで歴史的記録とするかは難しいが、正確だとして考えてみる。一つ目は、雷鳴でここまで混乱するかということ。それは、これまでの神の箱に関する記述を考えると、なにかあると、おびえる状況が、ペリシテに生じていたのかもしれない。二つ目は、イスラエル軍の戦闘について。何も書かれてはいないが、サムエルが献げる全焼の献げ物だけにたより、何もしなかったと考える方が、この状態では不自然だろう。それなら、明確な記述があるはずである。そう考えると、その状況を、このように記述するところに、サムエル記記者の信仰が現れていると言えるのだろう。この章にはたとえば「サムエルは生涯、イスラエルのために裁きを行った。」(17節)のように、士師記によく見られる記述の方法で、サムエルの士師としての時代がまとめられている。ここから次の時代へと変化がある。
1Sm 8:9 今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
6節には「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。」とある。サムエルがこの提案を受け入れるまでのプロセスが書かれているのが、この章である。「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。」(8節)の言葉を聞いて、神の痛みを共にする覚悟をしているように思われる。民の善悪を決定するのではなく、神の御心を聞き、寄り添おうとしている。まさに、神が望まれることとの同期を計っている箇所でもある。おそらく実際にどのように神の言葉を聞いたかは重要ではなく、そのように聞いてしたがったことが記録されているそこに目を向けるべきであろう。
1Sm 9:15,16 サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。 「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」
サウルと共にいて「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。」(6節)と述べるサウルと共にいる「若者」の存在、この町の「娘たち」のことば(12,13節)など興味深い。しかし、気になるのは、引用した、サムエルへの神の語りかけである。「王国の歴史(サムエル記・列王記)」は、預言者文書の色彩が強いが、このあと、サウルに問題行為が起こるとき、現代なら、この声が、神の声ではなかったのではないかとの疑念も起こるだろう。記者はそのようなことは、書かない。疑いもないのだろうか。
1Sm 10:24 サムエルは民全体に言った。「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳。」
気になるのは、サムエルの紹介の仕方である。見た目で素晴らしいことを述べているようである。23節には「サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」とある。もう一つ、気になるのは「あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている。」(19節)最初から、サウルではうまくいかないことが含意されているのではないかということである。それは、誰の意思なのか。神か、サムエルか、それとも、サムエル記記者か。おそらく、三番目だろう。聖書の読み方は難しい。特に、旧約聖書は個人的に、知っていることが少ない。文書も旧約聖書以外に殆ど伝えられていない。
1Sm 11:6,7 それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、 一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。
判断が難しい。まず、神の霊の働きが記されている。そして、乱暴(個人的な感情に動かされた)とも言える言葉がある。この程度は、当時当然だったのかもしれない。13節の「しかし、サウルは言った。『今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。』」とは大分異なる印象を受ける。後の場面では、サムエルがいたようにも思われる。3節にあるように「イスラエルの全土に使者を立てます。」と言わざるを得ない状況に王が誕生するのは、継続性のある王制が成立するのは、良いようにも思うが、難しいことも、最初の場面から表現しているのかもしれない。
1Sm 12:20 サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。
この章には、サムエル記記者の様々な歴史解釈が現れているように思われる。王を求めることは、主を捨てることとも言えること。しかし、王制自体を絶対悪とせず、悔い改めて「それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕え」ることを求めている。本質的には、制度自体に問題は無いのかもしれないが、神は「こころを見る」ことを示しているのだろうか。サムエル記の一つの神学であるように思われる。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16章7節)
1Sm 13:13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。
この話は難しい。何が悪かったのか、愚かなことなのかがよく分からない。しかし想像はできる。軍隊の整備、これも、王としてすべきことを神に問わなければいけなかったのかもしれない。また、出陣のときに、サムエルを待たない。自分でことを進めようとする。すでに、自分の顔をつぶすことをおそれる傾向が見られる。すべてが書かれているわけでもないのだろう。この後に続く、サウルについての記述や、引用した箇所のサムエルの言葉もあわせて考えなければいけないのかもしれない。
1Sm 14:45 兵士はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもないことです。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落としてはなりません。」こうして兵士はヨナタンを救い、彼は死を免れた。
21節には「それまでペリシテ側につき、彼らと共に上って来て陣営に加わっていたヘブライ人」や22節の「エフライムの山地に身を隠していたイスラエルの兵士」の存在など、興味ある状況が書かれている。また、「兵士は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べた。」(32節)創世記9章4節に「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」と最初に現れる記述もある。じっくり学んでみたい箇所である。引用した箇所は「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」(6節)それに「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です。」(7節) と答える従卒の絆が背景にあったのだろう。それと比較して、現実離れした、サウルの誓い、正しさであまり判断しないほうがよいかもしれない。
1Sm 15:10,11 主の言葉がサムエルに臨んだ。 「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。
この章には興味のある言葉で溢れていて、ゆっくり時間をかけて読んでみたい。アマレクの過去の対応に対する裁き、カイン人のこと。このあとの様々なサウルの行動と価値観。上の箇所は、まさに主の心と、サムエルの心の同期を記した箇所である。他の言い方をすると、サムエルが、現実を前に、神を理解しようとする苦悩とも言える。王制というサムエル自体好ましくないと思われることを、サウルに油を注ぐことによって始めたことへの後悔もあったかもしれない。ヘブル語の言葉も含めて、考えたい。
1Sm 16:14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
この言葉に引き続き「サウルの家臣はサウルに勧めた。『あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。』」とある。どう理解するかはいろいろだと思うが、主の方を向く、主と自分の関係に向き合うことをさけている状態は、裁かれている状態だという、ヨハネの記述はうなずける。サウルは、原因を自覚していたのではないだろうか。しかし、向き合えない。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)
1Sm 17:26 ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」
ここから、この少年が、油注がれた者と見るのは難しい。ダビデの若さ、ある意味での傲慢があることも確かである。しかし、聖書では、このダビデに油が注がれていることを語っている。(16章13節)見えていないものを見るのは、謙虚さだろうか。特に、若者に対して、謙虚でありたい。神が愛し、神が油注いでおられることを、その行為から、見ることは困難なのだから。
1Sm 18:1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
アーハブ (’ahab) がヘブル語で愛すると言う言葉である。この章には5回使われている。(1, 16, 20, 22, 28)ヨナタン、ミカルがダビデを愛したと書かれている。16章21節には、サウルがダビデを愛したことも書かれている。レビ19章18節も同じ言葉である。それぞれなぜ愛したのだろう。どのような愛なのだろう。旧約では人の愛、友愛以外の表現はないのだろうか。旧約での言葉についてもう少し理解したい。ダビデは愛された者という意味で、ドード(dod) から派生しているようだ。大分、ヨハネの印象とは異なる。
1Sm 19:10 そのとき、サウルがダビデを壁に突き刺そうとねらったが、ダビデはサウルを避け、槍は壁に突き刺さった。ダビデは逃げ、その夜は難を免れた。
狂気の沙汰である。聖書はそれを「ときに、主からの悪霊がサウルに降った。サウルは館で槍を手にして座り、ダビデはその傍らで竪琴を奏でていた。」(9節)と表現している。「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」(16章23節)とある竪琴ももう効果が無かったのかもしれない。もしかすると、竪琴を弾くダビデもすでに不安のゆえに安らかに弾けなかったのかもしれない。それをダビデのせいにすることはできないが。これは、神からでたことだと考えるかも、ひとつ問題である。ダビデはどう考えていたのだろう。神が背後におられると信じる信仰はもっていたかもしれない。
1Sm 20:30,31 サウルはヨナタンに激怒して言った。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの子をひいきにして自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、このわたしが知らないとでも思っているのか。
ヨナタンの尊厳がおとしめられている。ヨナタン自身の責任ではない出生について、あげつらっているからである。これは、明らかに普遍性に欠ける。サウルの妻をおとしめることであり、それは、自分をもおとしめることだからでもある。それだけ異常な状態であったのだろう。しかしそれは、おそらくサウルだけではない。このこととは、直接関係はないと思われるが「従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。」(41節)において、ダビデが「いっそう激しく泣いた」理由は何かと考えた。簡単には言えないのだろう。しかしそこに文学表現の価値もある。
1Sm 21:14 そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。
ダビデの一番の危機だったのではないだろうか。ガトはペリシテである。そこに、ゴリアテの剣をもち、逃げ込む。サウルから逃げる場所としては適切かもしれないが、非常に危険としか言いようがない。ここでの振る舞いに興味をもった。確かに軍の長としてのダビデではない状態を装ったことは理解できるが、気が狂ったものに対して寛容だったのだろうか。相手にされないことは考えられるとして、怪しければ、簡単に処分されてしまう可能性もあったろうに。祭司アヒメレクは、どう思ったろうか。異常であることは十分理解できたろう。混乱の中で、人の判断は困難である。
1Sm 22:22 ダビデはアビアタルに言った。「あの日、わたしはあの場に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた。わたしがあなたの父上の家の者すべての命を奪わせてしまったのだ。
このときは、すでに、仲間ができて、体勢を立て直していたことが1節から3節の記事から分かる。ダビデのもっとも弱かったときの出来事の結果として、祭司に関わる仕事をしていたと思われる85人とその家族が殺される。それを聞いたときのダビデの言葉である。ダビデも、なぜこのようなことになったのかと悩んだことだろう。しかし、気づかなかったなどと自分を弁護せず、正直に語っている。ダビデの行動については、考えさせられることが多い。
1Sm 23:1,2 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、 ダビデは主に託宣を求めた。「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」
託宣についてそしてその背景について、さらにはダビデの略奪行為についてどう理解すれば良いか難しい。まず、現代日本と同じ価値観で判断するのは、誤りだろう。最初にペリシテ人がケイラを襲ったことが書かれている。武力的に優位なペリシテそして海洋民族で生活自体も異なっていたペリシテが、略奪することはある程度日常化していたかもしれない。このあと祭司のアヒメレクの子アビアタルにエフォドを持ってこさせて託宣を求める行為が書かれている。しかし、上の2節では書かれていない。10節もダビデが問うている。ここで記されているのは、ダビデの行動がつねに、主に問うことから始まっていたことなのだろう。「主はダビデに言われた。」は、聖書記者の解釈と言い切るかは、また別のこととしても。
1Sm 24:21 今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。
サウルの預言とも言える言葉である。ダビデの行為が、サウルのことばを引き出した、と聖書記者は述べているのだろう。ここで完全に状況が変わるわけではなく、26章など、サウルはさらにダビデを撃とうとする。単純ではないことを、記者は丁寧に書いている。これは、事実だからか、それとも、神学の深さか。両方かもしれない。
1Sm 25:17 御主人にも、この家の者全体にも、災いがふりかかろうとしている今、あなたが何をなすべきか、しっかり考えてください。御主人はならず者で、だれも彼に話しかけることができません。」
ナバルの周囲の人たちの知恵に魅力を感じる。妻のアビガイルの賢さが讃えられているが、このナバルの従者のひとりの行動と発言にも驚かされる。ならず者であることも「だれも彼に話しかけることができません。」と説明している。粗暴な行為ではなく、傲慢さで説明している。10節ではナバルは「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。」と言っている。このような考え自体は、異常ではない。ダビデの「明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。」(22節)を考えると、この行動なしには、この人も滅ぼされていたかもしれない。ダビデが助けられたとも言える。内部告発という難しい課題もはらんでいる。
1Sm 26:15,16 ダビデはアブネルに言った。「お前も男だろう。お前に比べられる者は、イスラエルにいない。そのお前が、なぜ自分の主人である王を守れなかったのだ。敵兵が一人、お前の主人である王を殺そうと忍び込んだのだ。 お前の行いは良くない。主は生きておられる。お前たちは死に値する。主が油を注がれた方、お前たちの主人を守れなかったからだ。さあ、枕もとの槍と水差しがどこにあるか見てみよ。」
24章の記事以降、サウルがダビデを殺そうとする記事は出ていなかったが、ここでもう再度ダビデを追う。最後の追跡と思われる。このあと、サウルの子のイシュ・ボシェトの時代まで、ダビデ軍と、アブネルは戦うことになる。アブネルはサムエル記下3章27節でヨアブに殺され、次の節でヨアブの行為に対してダビデは「ネルの子アブネルの血について、わたしとわたしの王国は主に対してとこしえに潔白だ。」と言っている。ダビデの心も複雑である。ゆれもあったのかもしれない。長期にわたるサウルとの抗争で、ダビデが主に油を注がれた者に手をかけなかったことを証言しているのだろう。人間関係が複雑で、単純かされておらず興味深い。
1Sm 27:11 ダビデは、男も女も生かしてガトに引いて来ることはなかった。「彼らが我々について、『ダビデがこうした』と通報しないように」と考えたからである。ダビデがペリシテの地に住む間、これがダビデの策であった。
「これがダビデの策であった。」は、ある評価を感じる。それは、厳しい評価ではないが、神のみこころを求めた結果ではないことを主張しているようにうつる。「アキシュはダビデを信じて、『彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう』と思っていた。」 (12節)にも現れているように思う。背後におられる神の時は流れている。そのことをサムエル記記者はこの表現で伝えようとしているように思われる。
1Sm 28:16,17 サムエルは言った。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。 主は、わたしを通して告げられた事を実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる。
主が的となられたとかたりながら、隣人のダビデと言っている表現に注意をひかれる。隣人は rea (friend, companion, fellow, another person), レビ記19章18節にも使われている言葉である。サウルに、あるメッセージを伝えているように思われる。ダビデを隣人としなかったゆえに、主がダビデを離れ去ったかの感じをうける。主に結びつくことは、互いに隣人とすることでもある。
1Sm 29:11 ダビデとその兵は朝早く起きて出発し、ペリシテの地へ引き返して行った。ペリシテ軍はイズレエルに向かった。
多くのことを考えさせられる。善悪で決められないこと。神の働きも特定しにくいこと、ダビデの誠実さをどう考えるか、アキシュや、ペリシテの王についてどう考えるか。まさに現実の世界が投影されている。このあとのこととあわせて書かれているとも考えられるが、朝早くとある配慮をもって帰した、アキシュ、そして、30章の記事とともに、考えさせられることが多い。
1Sm 30:24 誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。」
「兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。」(6節)とある。ペリシテ軍に加わることにもおそらく両論あったろう。最後、朝まで待って軍から離れたことも、悔やむ人もいたかもしれない。さらに、ここでは、悩み、苦しみが書かれている。引用した箇所もどう理解したら良いか分からないが、軍の分業化にとって重要だった面とともに、悩み、苦しみを共にするリーダーシップについて考えさせられる。
1Sm 31:7 谷の向こう側と、ヨルダンの向こう側のイスラエル人は、イスラエル兵が逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見ると、町をことごとく捨てて逃げ去ったので、ペリシテ軍が来てそこにとどまった。
ギルボア山はサマリア北部、イズレエルの平地を望む東の山地のようである。驚いたのは、ヨルダンの向こう側のイスラエル人についての記述である。文字通り読むと、サウル軍には、加わっていないように思われる。しかし逃げざるを得ないほどの敗北だったことである。ペリシテの支配地域は、イスラエル全土に広がっていたことがわかる。まだ、全面戦争は不可能だったのではないだろうか。サウルとその三人の子らの死の記事、特にサウルの死の様子は、このあとの物語に引き継がれる。

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1Sm1:17,18「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。 ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
15節には「深い悩み」とあり、16節では「苦しいことが多くある」と言っている。このハンナに対して、言ったエリの言葉である。最初は酒に酔っていると思ったエリ、このように言うまでには、エリにも神様が働いておられたのではないだろうか。神に希望をもつ信仰を思い出すことができたのではないだろうか。それは、ハンナに大きな変化を与えている。「それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。」わたしも、このような神様の働きに、参与したい。
1Sm2:12 エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。
主を知ろうとしない。ここに問題がある。エリの信仰は、25節に表現されている。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった。主は彼らの命を絶とうとしておられた。」少し、たとえばハンナの信仰と比較して、消極的ではあるけれど。
1Sm3:19 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
口語訳では「しもべは聞きます。お話し下さい。」エリが教えたのは、「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」だから「主よ」が欠けている。15節に「サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。」とあるように、このような言葉が委ねられることの意味と責任については、まだよくわからなかったのかも知れない。主からのことばを受け取るという準備もできていなかったのかも知れない。その意味で、エリの存在は大きく、3節の「まだ神のともし火は消えておらず」にも注意を引かれる。主の箱が奪われていないことを意味しているのか。
1Sm4:4 兵士たちはシロに人をやって、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから担いで来させた。エリの二人の息子ホフニとピネハスも神の契約の箱に従って来た。
この二人は何を信じて行動していたのだろう。御利益があると考えていたのだろうか。それも考えなかったのだろうか。単に、自分の地位の故に、ここにいるのだろうか。社会的責任について考えさせられる。
1Sm5:11 彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、そして言った。「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。」実際、町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。
よくわからないことが書かれているが、サムエル記記者は、先に、イスラエルの罪、エリの子らの問題について書いたように、このことによって、神の栄光が表されたことを表現しているのだろう。恐怖の中で、神にこころを向けたひともいるのだろうか。
1Sm6:9 そして見ていて、それが自分の国に向かう道を、ベト・シェメシュへ上って行くならば、我々に対してこの大きな災難を起こしたのは彼らの神だ。もし、その方向に上って行かなければ、彼らの神の手が我々を打ったのではなく、偶然の災難だったのだということが分かる。」
誰の仕業か、因果関係からあることの理由を知ろうとする。人のさがなのだろうか。神がなされたか、偶然か。その程度にしか、神様を信じていないということか。わたしはどうだろうか。
1Sm7:13 ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。
サムエルの時代をどう定義するかにもよるが、この後、サムエルが生きていて時代を考えると、ペリシテはずっと強敵であったことを知っている。しかし、このように表現されたのは、最後の士師としてのサムエルの偉大さと「主の手はペリシテ人を抑えていた。」と表現するに足ることを見て、このように告白していると言うことなのだろう。
1Sm8:6,7 裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。 主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
おそらくこの箇所は、サムエル記記者の神学と表現できるのだろう。主は、サムエルの痛みを痛みとして感じつつ、サムエルの憤りの奥にある本質を告げる。むろん、政治体制がすべてを決定するわけではない。しかし、この民の声を内省へと向けることは、大きな価値がある。
1Sm9:6 若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。」
ここにも神の働きに参与しているひとりの信仰者がいる。サウルはサムエルのことを知らなかったのか。8節で「若者はまたサウルに答えて言った。『御覧ください。ここに四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げて、どうしたらよいのか教えていただきましょう。』」と言っている。1シェケルは 8.33グラム程度とすると、とても小さな額であることは確かである。かえってそこに、この若者の信仰を見る。無知としか考えない人もいるかも知れないが。
1Sm10:6 主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。
これを、自分が常に正しいと取ってしまうのは、悲しい。別人であっても、同じように、神に従う、自律的な信仰が求められる。
1Sm11:6,7 それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、 一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。
ギレアドのヤベシュの人々に対する深い同情(こころが一つとなりその痛みを共有すること)と、義憤(かみさまが喜ばれる義に反することが起ころうとしていることに対する怒り)として良いだろう。少し乱暴で、報復宣言をも含むが、それを責めることは適切ではないかも知れない。報復を実行しようとする民に「しかし、サウルは言った。『今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。』」(13節)と言っているのだから。
1Sm12:22,23 主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。 わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。
20-24節は民へのメッセージであるが、これらの節が主とサムエルに関する部分である。神への信頼と同時に、神の心を知るサムエルが、とりなしの祈りによって、民が悪の道に進まず「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕え」ることを願っている。これも、主の願いと、主が心を砕いていることと心を一致していることか。
1Sm13:6 サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた。
このとき、サウルは、サムエルなしには、民が留まらないこと、自分のもとに民がいないと、全てが瓦解すると感じたのだろう。サウルが頼りにしていたものは、何だったのだろう。ここで神様に信頼する事はできなかったのだろうか。
1Sm14:21,22 それまでペリシテ側につき、彼らと共に上って来て陣営に加わっていたヘブライ人も転じて、サウルやヨナタンについているイスラエル軍に加わった。 また、エフライムの山地に身を隠していたイスラエルの兵士も皆、ペリシテ軍が逃げ始めたと聞くと、戦いに加わり、ペリシテ軍を追った。
大変な状況が背景にあったことがわかる。同時に、この状況は現実の問題において、世の中を見るときにも、示唆に富む。このような人たちの助太刀で勝利が得られることも、無視してはいけないのだろう。
1Sm15:30 サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」
この章も難しい。11節の「悔いる」という表現と、29節の「気がかわったりすることはない」ということなど。しかしメッセージは伝わってくる。17節の「サムエルは言った。『あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。』」そしてこの30節の記述である。サウルについてももっと学んでみたい。
1Sm16:14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
ひとは主の守りなくして生きることはできない。しかし殆どそれを意識していない。このことは、その一つの表現なのだろう。Gen31:42「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら」のように、主が味方でなかったらと言う表現があったり、主が共にいることが、聖書にくり返しあるのを思い出す。
1Sm17:37 ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
なぜこのように見ることができるのか。ダビデがたまたま獅子や熊と戦った経験があるからか。それとも、日常のなかで、主が共におられることを認めているからか。おそらく両方だろう。わたしの信仰は、どうだろうか。多くの祝福を頂いているが、新たな問題にぶつかると、その度に不安におののいている。同時に、無謀な信頼は、盲信ではないかとの、考えも背景にある。
1Sm18:9 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
ねたみは一生消えない。28節29節「サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、 ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。」にもそれがよく表現されている。箴言27:4「憤りは残忍、怒りは洪水。ねたみの前に誰が耐ええようか。」ねたみは解決不可能なように思われる。しかしイザヤ11:13には「エフライムのねたみは取り去られ/ユダの敵意は断たれる。エフライムはユダをねたまず/ユダはエフライムに敵対しない。」とある。殆ど「ねたみ」を取り去ることなど、不可能と思われるが、それこそが神が働かれる場所なのかも知れない。そして、たとえそれが取り去られなくても、神に信頼し続けることもしたい。愛が冷えないように。
1Sm19:24 彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、「サウルもまた預言者の仲間か」と人々は言った。
19節から続く、興味深い話しである。この表現は、サウルが王となる時にも記されている。サムエル記上10:11-12 である。いろいろな理解があると思われるが、神に愛されている、神からのことばが委ねられているとは思えないときのひとにも、霊がくだり、神様の言葉を取り次ぐときがあると言う事とも言える。神の働きを無視せず、注意深くみていたい。同時に、このような時を通して、ひとり一人は心から悔い改め、神に従うことも求められているとも言える。
1Sm20:41 従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。
なんと美しい光景だろう。そして、最後の「ダビデはいっそう激しく泣いた。」は印象的である。悲しい状況に寄り添うことはできても、本当の悲しさを友も共にすることはできないのか。ヨナタンとダビデの心を思う。
1Sm21:2 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」
ノブは地名でそれ以上は不明。アヒメレクのこの不安は的中している。(22:22参照)ひとは、このような状況で、ダビデを責めるかも知れない。サウルを責めるべきであったとしても。このような状況はどう考えたらよいのだろう。神様のみこころをどのように求めれば良いのだろう。
1Sm22:3 ダビデはモアブのミツパに行き、モアブの王に頼んだ。「神がわたしをどのようになさるか分かるまで、わたしの父母をあなたたちのもとに行かせてください。」
ダビデはモアブ人ルツとボアズの子、オベデの子、エッサイの子である。したがって、父エッサイの祖母はルツでモアブ人ということになる。それ以上の情報はないが、モアブの人とも交流を続けていたのかも知れない。少なくとも、偏見は無かった、または、イスラエルの人と比べて非常に少なかったろう。モアブの王に頼むと言う下りからすると、ある信頼関係があったと思われる。
1Sm23:3,4 だが、ダビデの兵は言った。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか。」 ダビデは再び主に託宣を求めた。主は答えられた。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」 
このあとの経緯をみても、ダビデの兵の判断は現実的で適切である。しかし、ダビデは主の託宣に頼っている。これをどう解釈すれば良いか困難な点もあるが、ここでは託宣を再度もとめている。そのような謙虚さには学ばされる。わたしも難しい判断をすることが多い。謙虚さを大切にしたい。
1Sm24:5 ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。
この約束は、見つけられないが、主がこのような約束をダビデにすることは、十分考えられる。ダビデにとってこのとき、最大の敵は、サウルである。そう考えれば、この兵のことばも、もっともである。しかし、ダビデは「上着の端をひそかに切り取った」ことを悔いる。敵とみることに、躊躇を感じたとまでは言えなくても、神の働きの全体に思いを寄せていたのではないだろうか。矛盾はあっても、サウルに油を注がせたのも、主であることから目をそらさなかった。わたしもそのようでありたい。矛盾が見えたとしても。
1Sm25:31 いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように。主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。」 
この章に書かれている行動、31節に至る言葉を見ても、アビガイルは本当に聡明である。そして、ダビデを通しての主の働きを見ているように思われる。聖書の登場する女性で一番賢いのではないだろうか。このアビガイルの働きで、ナバルの一家は助かる。ナバルについては「十日ほどの後、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」とあるが。ナバルはカレブ人だとあるがカレブ人についても一度調べてみたい。カレブの名声とはことなり、残念ながらあまり良くないことで登場するような気がする。
1Sm26:24 今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」 
ダビデが信頼しているのは、主である。あらゆる善行がその人との間を良い関係に保つことをダビデも知っている。しかし、同時に、人に絶対的な信頼をおけないことも、知っている。わたしも、人との信頼関係を築きつつ、すべての信頼の根拠を主に置き、主が望まれる生き方を求めよう。人だけではなくむろん自分も絶対的に信頼できる存在ではないのだから。主に油を注がれた(という特別な存在でなくても、主が愛しておられる)一人の人を愛(大切に)することは、神様を大切にすること。
1Sm27:12 アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。 
21:11-16 にもガテの王アキシュのものに身を寄せたことが書かれている。不明の点も多いが、正直、このダビデの態度には批判的になる。アキシュの好意と信頼を裏切る行為、そして、略奪の正当化と残虐性。このことを、神は許容されているように見えることも受容しがたい。それがわたしの倫理観とも言える。しかし、おそらく、それと同等、またはそれ以上のことを、わたしもしているのだろう。そしてそれは自分には、見えない。神は、そのような私の許容しがたい行為も、ダビデの行為も、すべてを知りつつ、そして、それを正当化する我々の弱さ故の愛の無い私たちの状態に、痛みを感じつつ、寄り添っていて下さるのかも知れない。
1Sm28:17 主は、わたしを通して告げられた事を実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる。 
ここで隣人と言われているのは印象的。隣人(rea)は 15:28にもすでに「サムエルは彼に言い渡した。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。」と現れる。この書ではこの2回のみである。サムエル記下には12:11に「主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。」とあるのみ。考えさせられる。出エジプトに13回、レビ記に4回(ここには、19:18「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」も含まれる。)申命記15回、ヨシュア記1回、列王記上4回などである。一度、集中して勉強してみたい。
1Sm29:9 アキシュはダビデに答えた。「わたしには分かっている。お前は神の御使いのように良い人間だ。しかし、ペリシテの武将たちは、『彼は、我々と共に戦いに上ってはならない』と言うのだ。 
アキシュは、ダビデが実際に行っていた略奪行為を知っても、このように言えただろうか。ここまで書かれていることは、ひょっとすると、そうなのかも知れない。人間の世界は、不確実なことの上で動いている。信頼は、本当に難しい。神に信頼する以外は、無いのであろう。
1Sm30:23 しかし、ダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。 
ここでも、ダビデは略奪品を「主が与えて下さったもの」「我々を守って下さったのは主」「襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主」であると証言している。自分がそれをしたと言いたい。その欲望が神を見えなくしているのだろう。周囲の人の困難の原因をそのひとに求めることも同じ要因があるように思う。
1Sm31:4 サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。 
サウルはなにを恐れていたのだろうか。殺された後なぶりものにされることか。それなら、自殺をしても同じ結果になりうる。おそらく、半殺し状態で、さらし者にされるのを恐れたのだろう。自分の名誉または人間的な一時の栄光にすがったと言うことか。非難ばかりはできないかもしれない。わたしも似た形態のはかない賞賛や人の前で恥をかかないことをもとめることがあるように思われる。そして、そのような人生であっても、ギレアドのヤベシュの人たちのように(11節-13節、11章参照、関連箇所士師記21章)、サウルに手厚くする人たちもいる。簡単に評価することはやめておこう。わたしは常に主の前に、自分の十字架を背負って生きているだろうか。

BRC2013

1Sam1:16 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。
これにエリは「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。(v17) と応答し、ハンナは「彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。と応答し、そのあとには、「こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。」と記されている。心を注ぎだし、エリを通しての「主の平安」の宣言をを聞き、信仰による応答をし、平安が与えられる。形式が整っていること以上に、感動を覚える。何も成就はしていないが、そこで、平安が与えられている。
1Sam2:15 人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司のしもべがきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。
エリの子、ホフニとピネハスは、知識として律法を知っていただけでなく、そのことが何を意味するかを考えようともしなかったのではないか。神の思いを知ろうとする。神とこころを一つにしようとする、この態度なしに、主を恐れることはできない。独りよがりの礼拝となる。Col2:23「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」
1Sam3:13 わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。
エリは18節で、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と答えている。11-14節で主が告げられたことは、すべて、エリにも伝えられていたことだろう。2 :25でエリは息子たちを注意し、それにつづけて「しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。」とある。エリには、できなかったのだろう。しかし「彼がそれをとめなかったからである。」を受け入れている。表面的には分からないこともあるのだろう。
1Sam4:3 民が陣営に退いた時、イスラエルの長老たちは言った、「なにゆえ、主はきょう、ペリシテびとの前にわれわれを敗られたのか。シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主をわれわれのうちに迎えて、敵の手から救っていただこう」。
これが呪術であろう。魔術的な利用とも言えるかも知れない。神のみこころをあらわすのではなく、人の欲望をみたすために、神を動かそうとするということか。もう少し洗練された表現が必要。検索をすると磯部隆著「神の箱: ダビデとその時代」という歴史小説もある。興味をもった。神の箱が呪術的に使われていた時代からの変化が書かれているのか。
1Sam5:4 その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。
このような力を信じていた時代、人々、それを批判することはできない。聖書信仰の幅をも感じる。
1Sam6:21 そして彼らは、使者をキリアテ・ヤリムの人々につかわして言った、「ペリシテびとが主の箱を返したから、下ってきて、それをあなたがたの所へ携え上ってください」。
キリアテ・ヤリムはどんな町だったのだろう。Josh9:17, 15:9, 15:60 キリアテ・バアルすなわちキリアテ・ヤリム、18:14, 28 ベモヤミンの嗣業、Judg18:12 ユダのキリアテ・ヤリム、1Sam6:21, 7:1, 7:2, 1Chr. 2:50, 52, 53 カレブの子孫、13:5, 6, 2Chr1:4, Ez2:25, Neh7:29, Jer26:20
1Sam7:12 その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。
エベン=石、エゼル=助け。ここで「今に至るまで」とある。「いまやっと」ではないところが印象的。13節には「こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。」とあるが、文字どおりとは言えないのではないか。
1Sam8:8 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
サムエルに聞き従わないのは、神に従わないのと同じと伝えている。主が、サムエルと同じレベルに降りてきている。実際には、サムエルの息子たちの不実など、問題があるにもかかわらず。怒りを共にしてくださる主、サムエルも力を得たろう。神は、その先の先まで見ておられるのだろう。
1Sam9:26 そして夜明けになって、サムエルは屋上のサウルに呼ばわって言った、「起きなさい。あなたをお送りします」。サウルは起き上がった。そしてサウルとサムエルのふたりは、共に外に出た。
何か特別な時を感じる。このように選ばれたサウルがそれには、十分答えられない。なぜなのだろうか。
1Sam10:27 しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。
サウルは何を考えていたのだろう。このあとを知っているからか、24節はむなしく響く。「サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。」
1Sam11:8 サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルが三十万、ユダが三万であった。
サウルはベニヤミン、分裂後のことを考えても、ベニヤミンはユダ、しかし、分裂時代の国をも意味する、イスラエルとユダがここでも使われているのかも知れない。
1Sam12:21 むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。
具体的な偶像への批判はともかく、むなしいものに、なぜわれわれは頼ろうとしてしまうのだろう。少し考えれば、むなしいことは分かるにもかかわらず。どう考えるべきか。
1Sam13:1 サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき、
二年はあまりにも短い。このあと、サウルのストーリーは続くが、いつからいつまでが二年間なのだろう。
1Sam14:52 サウルの一生を通して、ペリシテ人との激戦が続いた。サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた。
1Sam7:13に「こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。」とある。これは、事実というわけではなく、信仰告白なのか。理解は難しい。
1Sam15:9 しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。
主の命令を恐れをもって実行することからは大きく離れている。サウルは何を大切にしていたのだろう。人を恐れ、神を恐れなかったということか。
1Sam16:13 サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。
主の霊の働きは何なのだろう。サウルにも同じように霊は働いたはず。(1Sam10:9,10) これだけですべてが解決したとは言えないのだろう。
1Sam17:15 ダビデはサウルの所から行ったりきたりして、ベツレヘムで父の羊を飼っていた。
55節の「サウルはダビデがあのペリシテびとに向かって出ていくのを見て、軍の長アブネルに言った、「アブネルよ、この若者はだれの子か」。アブネルは言った、「王よ、あなたのいのちにかけて誓います。わたしは知らないのです」。」と、16:14-23 の記述との矛盾を指摘されることがある。理由を言うことはできるし、この15節を利用することもできるが、当時のサウルの支配が限定的だったことを考えると、多少不自然。
1Sam18:8 サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。
サウルは国を自分のものだと思っている。20節の「サウルの娘ミカルはダビデを愛した。人々がそれをサウルに告げたとき、サウルはその事を喜んだ。」にも恐ろしさを感じる。娘の心をも利用するのか。サウルにとって、大切なものは、何だったのだろう。
1Sam19:9 さてサウルが家にいて手にやりを持ってすわっていた時、主から来る悪霊がサウルに臨んだので、ダビデは琴をひいていたが、
「主から来る悪霊」とはどういうことか。サウルのこころの安定も、神の御手のうちにあるのか。どう考えたらよいのだろうか。主の主権ということか。
1Sam20:16 ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。どうぞ主がダビデの敵に、あだを返されるように」。
すでに、ダビデの家が堅く立つことを確信しているのか。人をあいするということは、このような事なのだろうか。
1Sam21:6 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。
マタイ12:4 そして マルコ2:27 を思い出す。「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」レビ記24:5-9。
1Sam22:16 王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。
なぜ、ここまでサウルは、過激になってしまったのだろう。おそらくもう自分では制止することができない状態だったのだろう。
1Sam23:12 ダビデは言った、「ケイラの人々はわたしと従者たちをサウルの手にわたすでしょうか」。主は言われた、「彼らはあなたがたを渡すであろう」。
解しがたい面もある。これでは、ケイラの人の不信を買うことにもなろう。しかし、ここでも、アビアタルを読んで (v6) エポデをつけさせ、主に問うたことが、賞賛に値すると言うことなのだろう。行動規範が示されていると言うことか。
1Sam24:21 それゆえ、あなたはわたしのあとに、わたしの子孫を断たず、またわたしの父の家から、わたしの名を滅ぼし去らないと、いま主をさして、わたしに誓ってください」。
これに、ダビデは、応え、誓うが2Sam21:8, 9 にもある。ヨナタンの子、メピボセテ以外には、冷たいこともたしか。
1Sam25:3 男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。
Nabal は「愚か者」という意味とすると、史実的には問題もあるだろう。しかし、それを象徴するような話が書かれている。おそらく、いずれダビデの妻となる、アビガイル紹介の記事ととるべきだろう。設定として短く記されている、「彼はカレブ人であった」という短いことばは、かれのプライドのようなものも背景にあることを感じさせられる。
1Sam26:10 更に言った。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。
「主が油注がれたもの」これは「主が愛されているもの」とも言いかえられるかもしれない。9節「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。」、11節「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。」これと比較して、サウルは25節で「サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」といっている。サウルの興味は、その個人、人間の活躍である。
1Sam27:7 ダビデがペリシテびとの国に住んだ日の数は一年と四か月であった。
13:1には「サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。」とある。この1年4ヶ月は、サウルの治世の2年に含まれるのか。かなりの内容が書かれているが、ここまでの記述は、8ヶ月足らずに含まれていたと言うことだろうか。それとも、厳密な記録と考えるのが間違いなのか。
1Sam28:24,25 その女は家に肥えた子牛があったので、急いでそれをほふり、また麦粉をとり、こねて、種入れぬパンを焼き、サウルとそのしもべたちの前に持ってきたので、彼らは食べた。そして彼らは立ち上がって、その夜のうちに去った。
サウルのもとを主が離れたことは、この女はよく知っている。それでも、このように肥えた子牛を屠り、もてなす。主をおそれるということか。とても美しいものを感じる。
1Sam29:11 こうしてダビデとその従者たちとは共にペリシテびとの地へ帰ろうと、朝早く起きて出立したが、ペリシテびとはエズレルへ上って行った。
これも主から出たことなのだろう。ダビデは、ペリシテびとを背後から撃つつもりだったのか。それも悲しい。そしてそれでは、おそらく、歴史は動かなかったろう。
1Sam30:22 そのときダビデと共に行った人々のうちで、悪く、かつよこしまな者どもはみな言った、「彼らはわれわれと共に行かなかったのだから、われわれはその人々にわれわれの取りもどしたぶんどり物を分け与えることはできない。ただおのおのにその妻子を与えて、連れて行かせましょう」。
これは、当然な主張にも思える。しかし、王国までを考えると、とても重要な決断だったのだろう。信頼をえることができ、ひとつにまとまることができたのは、才能か、それとも、主を思う心か。
1Sam31:7 イスラエルの人々で、谷の向こう側、およびヨルダンの向こう側にいる者が、イスラエルの人々の逃げるのを見、またサウルとその子たちの死んだのを見て町々を捨てて逃げたので、ペリシテびとはきてその中に住んだ。
単に王や王子達の闘いではない。同時にヤベシ・ギレアデのことなどもこころに残る。十分なリーダーではなくなっていたときに。


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サムエル記下

サムエル記下(1)

サムエル記については、何を書こうかなかなか決められませんでした。わたしはこのサムエル記上・下と、列王紀上・下が旧約聖書でもっとも好きです。わたしの今までの歩みの中で、ここに記されている一つ一つを通して教えられたことがいっぱいあって、なかなかこれということが書けないのです。さらに、教えが書かれているわけではないので、いろいろな解釈も可能ですし、登場人物のだれに焦点を当てるかによっても、読み方が変わってきます。さらに、これは、通読の会ですから、そのストーリーのダイジェストをわたしが書くのも適切ではないでしょう。みなさんの人生の中で何回も読んで頂きたい箇所です。

1章はダビデの元にイスラエルがペリシテ軍に打ち破られ、サウル王もその子ヨナタンも死んだという知らせが伝えられるところから始まります。上の29章から31章にその背景が記されています。ヨナタンはサウル王の息子で、民からも人気があり、かつダビデを愛し、ダビデと堅い友情で結びつけられたいたことが記されています。たとえば上20章などを読み返して下さい。このヨナタンとのこころのつながりは、下巻にはいっても重要なこととして引き継がれます。サウルは、くり返しくり返し人気のあるダビデを殺そうとします。ダビデはそれでもサウルを「油注がれたもの」つまり神様にたてられた王として逃げ回り何度もチャンスがあるにもかかわらず、サウルを撃つことはしません。サウル王も主がダビデといることをみとめ、なんどもダビデを殺さないと誓いますが、また殺そうと謀ります。それが(少なくとも結果的には)一段落するのが、上巻26章の最後なのですが、ダビデの方が「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地にのがれるほかはない。」といって、イスラエルにとっては敵方のペリシテのガテの王マオクの子アキシのもとに身を寄せるのです。(上21章参照)そのような背景のもとで、最初に書いた報せが届けられました。これにダビデはどう応答したでしょうか。

ダビデの従兄弟とされるヨアブとその兄弟も重要な役割を演じます。このヨアブに焦点をあてて読むのも面白いと思います。歴代誌の方ではすこしことなる評価をしているのも興味深い点です。これらの書に出てくる、女性に焦点をあてて読むのもいろいろと考えさせられると思います。いろいろな女性が非常にいきいきと描かれています。イスラエルとユダとの区別に目を向けてよむのもよいでしょう。なぜ、サウルは退けられて、ダビデは祝福を得たのか。ダビデは聖人のような人だったのか。サウルには、チャンスは無かったのか。サウルの最大の弱点は何だったのか。他にも興味深い登場人物がたくさん出てきます。一人一人が丁寧に書かれています。神様の働きをどのように記しているかに注意して読むのも良いでしょう。

単純な偉人伝でも、良い人と悪い人の記録でも、神様がすべて解決するのでもありません。読めば読むほど奥が深いと感じられると思いますよ。聖書はわたしたちになにを語りかけているのでしょうか。これらの話しを背景として、詩編が書かれたり、イスラエル復興ののぞみが語られ、預言書が書かれたりします。

サムエル記下(2)

サムエル記の項で、サムエル記上下の流れを書きましたが、区切りをサムエル記下8章の終わりと、20章の終わりにおいています。8章の終わり、15節には
こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。
そして、「ゼルヤの子ヨアブは軍の長、アヒルデの子ヨシャパテは史官、」などと続きます。20章の最後にも23節から「ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはケレテびと、およびペレテびとの長、」と続きます。記者に区切りの意識があることは確かでしょう。このようなものを見つけながら流れを読むことで、その区切りでなにが書かれているかを考えるきっかけともなります。

そう考えると、9章からが、サムエル記下の後半の二つの区切りとなります。上に引用したように、ダビデがイスラエルの全地を掌握した後のこととなります。とはいえ、外敵との戦いはまだ続き、10章には、アンモン人と、その援護に来た、スリヤ人との戦いが記されています。まさにそのころ、あることがおきます。

1:春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
2:さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。
3:ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。
4:そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。
5:女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。
6:そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。
7:ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。
8:そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。
9:しかしウリヤは王の家の入口で主君の家来たちと共に寝て、自分の家に帰らなかった。
(サムエル記下11章1節-9節)
ダビデは、ヨアブに命じ、戦いの激しいところにウリヤを置き、退却させて、ウリヤを殺します。12章にナタンがダビデにその罪を悟らせる場面が記されています。是非、11章、12章を読んでください。このあとの章は、ダビデの苦難について記されています。それが神から来ていることを知っているダビデ、ダビデがそのなかでどのようにいきようとしていくのか、じっくり読んでいただきたいと思います。しかし、ダビデの苦難が、単なる、神からの罰と考えるのは、短絡のように思います。皆さんは、どう読まれるでしょうか。最後に12章13節を引用します。
ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。


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聖書通読ノート

BRC2023

2Samuel 1:10 そこでおそばに行って、とどめを刺しました。すでに倒れており、もはや生き延びることはできないと分かったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕に付けておられた腕輪を取って、ご主人様に届けに参りました。これでございます。」
詳細な説明を書かないのが、サムエル記の特徴だとは思うが、暗示するだけで、正確にはよくわからないと思ってしまう。サムエル記上31章4,5節に、サウルの死が書かれていることからも、このアマレク人の寄留者が褒められると思って、したことと断定しているように見える。ただ、王冠と腕輪と、サムエル記上31章9節にある武具との関係はわからない。王冠と腕輪はこのアマレク人が盗んでから、ペリシテ人がサウルの死体を発見したということだろうか。いずれにしても、ここでも、アマレク人が登場する。かなりの敵意も感じられる。
2Samuel 2:8,9 サウルの将軍、ネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェトを擁してマハナイムに移り、彼をギルアド、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。
地名が大切だと感じた。ヘブロン(2,3)、最初にカレブやオトニエルがとったユダの古い町なのだろう、ヤベシュ・ギルアド(4,5)、サウルを葬ったと書かれているが、サウルとの関係に関して重要な町、マハナイム(8,29)、創世記22章にも登場する、さらに、ギブオン(12,16,24)、最初にイスラエルと協定を結んだカナン人の町、などである。引用句では、全イスラエルとして、リストされ、部族名と、アシュル人と「人」がついているもの、ギルアドや、イズレエルという昔からの地名が、併記されている。部族としては、アシュル、エフライム、ベニヤミンと並べられていて、これらが全イスラエルを代表するということも興味深い。ベニヤミンは、ある鍵を担っていたのかもしれない。ヤベシュ・ギルアドに対することなど、ダビデの忠義心にのっとった、独特の計らいとして、描かれているが、戦略とも考えられると共に、ギルアドへの入り口の拠点として、重要だったのかもしれないとも思った。ヨルダン川の両岸で分裂する可能性もあるわけだから。
2Samuel 3:8-10 アブネルはイシュ・ボシェトの言葉に激しく怒って言った。「私がユダにくみする犬の頭だとでも言われるのですか。今日まで私は、あなたの父上サウルの家とその兄弟、友人たちに誠実を尽くし、あなたをダビデの手に渡さないでいました。今になって、あの女のことで私を罪に問おうとなさる。主がダビデに誓われたことを、私がダビデのために行わないなら、神がこのアブネルを幾重にも罰してくださいますように。それは、王権をサウルの家から移し、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に、ダビデの王座を打ち立てることです。」
さまざまな要素があり、興味深い。まず、アブネルも、ダビデも、女性関係のことがとても重要な要素になっている。アブネルは、サウルの側女のアヤの娘のリツパ、ダビデは、サウルの次女で、ライシュの子パルティエルの妻となっているミカル。この章は「サウルの家とダビデの家との戦いは長引いたが、ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は次第に衰えていった。」(1)と始まっているが、その状況を一番良く知っているのは、アブネルだったのだろう。引用句では「私がユダにくみする犬の頭だとでも言われるのですか。」と始まっている。意図が明確にわかるわけではないが、このあとの、自分は「サウルの家とその兄弟、友人たちに誠実を尽くし」に、思いが表れている。アブネルの状況分析と、自分がたいせつにしてきたことが書かれ、さらに、著者の脚色も感じられるが「主がダビデに誓われたこと」を持ち出している。この物語は、最後、アブネルは、ヨアブに殺され、ダビデがアブネルの死を悼むことに「兵は皆これを知って、良いことだと判断した。王のしたことはすべて、兵士全員の目に良いことと映った。」(36)として、終わっている。原理原則ではないものが、判断基準に付されているのも興味を惹く。
2Samuel 4:1,2 アブネルがヘブロンで死んだと聞いて、サウルの子イシュ・ボシェトは力を落とし、イスラエルのすべての人々がおののいた。このサウルの息子のもとに略奪隊の長である二人の男がいた。一人の名はバアナ、もう一人はレカブと言い、共にベニヤミンの者で、ベエロト人リモンの息子であった。というのも、ベエロトはベニヤミンに属すると見なされていたからである。
バアナとレカブは、略奪隊の長と紹介されている。アブネルとの違いは明らかだ。とは言え、ダビデの決断には、作為的なものも感じられ、判断が難しい。最後には「ダビデが命じたので、従者は二人を殺し、両手両足を切り落として、ヘブロンの池のほとりにつり下げた。そしてイシュ・ボシェトの首はヘブロンに運ばれ、アブネルの墓に葬られた。」(12)とあり、ヤベシュ・ギルアドのタマリスクの木の下(サムエル記上31章13節)のサウルの墓ではないことも印象的である。ダビデの判断に普遍性はないように見える。それでも、人々から人気があれば、よいのだろうか。アブネルとの違いも考えさせられる。
2Samuel 5:1-3 イスラエルのすべての部族はヘブロンのダビデのもとに来て、こう言った。「御覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であった時にも、イスラエルの進退を決めていたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる。』」イスラエルの長老たちは皆、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。
ここでも、契約である。結んだのは、ダビデとイスラエルの部族の長老たちであり、ダビデの子孫と結んでいるわけではない。まさに、部族連合で、それぞれの独立性が、保たれていたのだろう。簡単に、国の王となったと、考えるのは誤っているように思われる。注意して、見ていきたい。
2Samuel 6:21,22 ダビデはミカルに言った。「あなたの父やその家の誰でもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者と定めてくださった主の前なのだ。その主の前で私が踊ろうというのだ。私は今にも増してもっと卑しくなろう。自分の目にさえ卑しい者となろう。だが、あなたの言う仕え女たち――彼女たちからは、誉れを受けるであろう。」
ミカルの「今日のイスラエルの王はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから。」(20b)に対する応答で、このあと、「サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。」(23)となっているが、ウザのこともふくめて、因果関係を決めつけすぎているように見える。また、引用句の最後のことばは、たんなる意地悪とも聞こえる。ダビデを称賛することが、サムエル記の基本的な路線なのだろうか。イスラエルの統一王朝を築いたことを考えると、重視するのは当然かもしれないが。
2Samuel 7:15,16 私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」
サムエル記記者は、イスラエルやユダの滅亡を知っているのではないかと思うが、このことばをどのような思いで記したのだろうか。かえって感動的である。ダビデは「主なる神よ、あなたこそ神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこの良いことを約束してくださいました。どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主なる神よ、あなたが約束してくださったのです。あなたの祝福によって、この僕の家がとこしえに祝福されますように。」(28,29)と応答している。これも、契約と受け取っているのだろう。もうすこし、契約について、学んでみたい。
2Samuel 8:2 また、モアブを討った。そして、彼らを地面に伏せさせ、測り縄で測り、縄二本が必要な者たちを殺し、一本分の長さで済む者たちは生かしておいた。モアブはダビデに隷属し、貢を納める者となった。
この章には、ペリシテ、引用句のモアブ、ツォバ、アラム・ダマスコ、ハマトなどのアラムの王、さらにエドムに勝利を収め金銀青銅などを奪い取ったことが書かれている。近隣ではペリシテが強く、もう少し広い範囲では、アラム、そして、ハダドエゼルが強大だったのだろう。もう少し調べないといけないが。連戦連勝であったことが書かれているが、この前の章では、神殿建設を思い止まらされたことが書かれているが、この戦いに明け暮れたことが、神殿を建てられなかった原因であると同時に、神殿を建てるための準備は、やはりこの戦いによって得たものであるという事実も見えてくる。ソロモンの神殿も、悲しい神殿である。
2Samuel 9:12,13 メフィボシェトには、その名をミカと言う幼い息子がいた。ツィバの家に住む者は皆、メフィボシェトの僕となった。メフィボシェトはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が不自由であった。
この直前には「ツィバには十五人の息子と二十人の僕がいた。」(10b)ともある。ツィバはそれなりの大家族、メフィボシェトは、両足が不自由で、自分を「この僕など何者でありましょう。死んだ犬も同然のこの私を顧みてくださるとは。」(8)のように表現している。この二人の、問題はあとで起こるが、ダビデの個人的関係によって、個人の判断でする施作の問題と、背後に隠されている、課題と、残忍さも見え隠れする。策略を自分で意識しているかどうかは不明だが、サムエル記記者はある程度、それに気づいているようにも見える。このあたりは、いずれ丁寧に調べてみたい。人生は短いが。
2Samuel 10:2,3 ダビデは、「ハヌンの父ナハシュは私に誠実であったのだから、私もその子ハヌンに誠意を示そう」と言い、使いを送って彼の父に弔意を表そうとした。ところが、ダビデの家臣たちがアンモン人の地にやって来ると、アンモン人の高官たちは主君ハヌンに言った。「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の使いを送って来たとお考えですか。ダビデがあなたのもとに家臣をよこしたのは、この町を調べ、探り、覆すためではないでしょうか。」
信頼関係を、さらに進んで互いに愛し合う関係を築くのは非常に難しいという一般論からの見方もあるだろうが、ここに書かれていることからも問題を感じる。課題だろうか。まず、このような一つのことで、戦いや、相手を滅ぼすことを考えるようでは、平和は来ない。このあと、アンモン人はアラム人など(6)の傭兵を雇い入れて戦いに臨むことが書かれている。最終的には、実利が関係しているのだろうから、このような対応も自然なのかもしれない。サムエル記記者は、このように、ダビデが制圧していった世界を描いているのだろうが、ダビデ側に立って、賞賛して終わってはいけないと思った。引用句の最初に、誠実や誠意ということばが書かれているが、相手がどうであるかに関わらず、それが貫かれるために、どう生きるかを学びたい。そしてそれを共有することができるように。
2Samuel 11:11,12 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営しておりますのに、私だけが家に帰って食べて飲み、妻と寝ることなどできましょうか。あなたは確かに生きておられます。私には、決してそのようなことはできません。」ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、あなたを送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。
このあとも、何日かそのようなことが続いたと書かれている。(13)編者の脚色があるだろうが、それにしても、立派に映る。「あれはエリアム(אֱלִיעָם (el-ee-awm'): God of the people, or God is kinsman)の娘バト・シェバ(בַּת־שֶׁבַע (bath-sheh'-bah): daughter of an oath)で、ヘト(Hittite)人ウリヤ(אוּרִיָּה (oo-ree-yaw'): Jehovah (Yahweh) is my light (flame))の妻です」(3)とあるが、名前からして、ヘト人とはあるが、イスラエルにある程度長くいる人ではないかと思われる。そのような名前にしたのかもしれないが。ウリヤは情報を得ていたのだろうか。おそらくそうではなく、ダビデについて知っていたのではないだろうか。策略家であることを。ここでも、私の主人ヨアブと言っている。ヨアブにはある信頼を抱いているのだろうか。そのように呼ぶことで、ダビデへの立場を示しているのだろうか。サムエル記記者についても考えさせられる。背後にあるものについても、おそろしく、考え抜かれているように感じさせられる。
2Samuel 12:24,25 ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに入り、床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、その名をソロモンと名付けた。主はこの子を愛し、預言者ナタンを送って、主のために、その子の名をエディドヤとも呼ばせた。
「エディドヤ」は主に愛された者の意と欄外にある。ナタンが主がその子を愛すると告げそのような名で読んだのだろう。この名は聖書中ここだけに記されている。ここにこのように記すことで、主の御心を伝えるという構成になっているのだろう。ナタンの譬え話から始まるこの章は、罪を犯したと指摘され「私は主に罪を犯しました。」(13b)と告白したダビデに「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。しかし、あなたがこの行いによって大いに主を侮ったために、生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬであろう。」(13d,14)とし、この子が死ぬことも書かれている。ダビデ王朝への配慮とも取れる。これは、解釈であって、主の御心がそこにあったかどうかは、不明としか言えないが、かえって、問いとして、人々が考える種とはなったろう。人生、わからないことが多いのだから。王朝への配慮と書いたのは、このあとの、ラバの占領において、「ヨアブはダビデに使者を送って言った。『私はラバを攻め、さらに水の町を攻め取りました。今すぐ残りの兵を集めてこの町に陣を敷き、これを占領してください。さもないと、私が町を占領したことになり、この町が私の名で呼ばれることになってしまいます。』」(27,28)ナタンの預言の剣がダビデの家からとこしえに離れないこと(10)ことの表現以外にもそのような政治的なことが背景にあるのかと考えたからである。聖書は内容豊かであると共に、わからないことも多い。それが良いのかもしれない。
2Samuel 13:20-22 彼女の兄アブシャロムはタマルに言った。「兄アムノンがあなたと一緒だったのか。妹よ、今は黙っていなさい。あれはお前の兄なのだ。このことで気に病むことのないように。」タマルは兄アブシャロムの家でわびしく暮らした。ダビデ王は事の一部始終を聞き、激しく怒った。しかし、彼は息子アムノンを罰することはなかった。アムノンは長男だったので、ダビデは彼を愛していたからである。アブシャロムはアムノンに対して、良いとも悪いとも言わなかった。だがアブシャロムは、アムノンが妹タマルを辱めたので彼を憎んでいた。
前章のナタンの預言は、剣がとこしえに離れることがないことと、子が死ぬことと「主はこう言われる。『見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす。あなたの目の前で、あなたの妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼は白日の下で、あなたの妻たちと寝るだろう。あなたはひそかにこれを行ったが、私はイスラエルのすべての人々の前で、白日の下にこれを行う。』」(12:11,12)とある。このことの序章がここから始まっている。死んだ子に思いがいくことが多いが、生きているものの世界にも、さまざまな波紋があることをも言っているように見える。ダビデの権威の失墜である。ダビデの後半生は、おそらく、苦しみに満ちたものだったろう。ダビデの人生は、美化された英雄の人生として書かれてはいないことに興味を持つ。サムエル記記者に会ってみたい。
2Samuel 14:22 ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福の言葉を述べて言った。「今日、あなたの僕は、王様のご厚意にあずかっていると悟りました。王様は僕の願いを聞き入れてくださったからです。」
この章は「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた。」(1)と始まる。引用句やこのあとのアブシャロムとのやりとりを見ると、ヨアブの謙虚さ、大きな野心はないこともみて取れる。特に、アブシャロムを担ぎ出して、王にしようとする野心があるようには、思えない。一方、アブシャロムの扱いは難しい。結局、ヨアブのとりなしも、よくない結果を得たとも言える。難しいことが多い。ダビデの力が衰え、アブシャロムと向き合う力が残っていなかったところに課題があるようだが、後付けで、批判的になるのは、適切ではないだろう。丁寧に書かれていることに驚くとしておこう。
2Samuel 15:6 アブシャロムは、王に裁定を求めてやって来るイスラエル人すべてにこのように振る舞った。こうしてアブシャロムは、イスラエルの人々の心を盗んだ。
「盗んだ」ということばが印象に残った。アブシャロムは策略家である。しかし、それは、ダビデのものを受け継いだようにも思われる。ダビデも、主に自分の道を委ねつつも、祭司のツァドクの子ら、アヒマアツとヨナタンや、フシャイを残し、策略を用いる。どちらが賢いかは言えないが、ダビデがツァドクに言ったことばとして記されている「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の目に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるであろう。しかし、もし主が、『私はあなたを喜びとしない』と言われるなら、主がその目に適う良いことを私にしてくださるように。」(25b,26)からすると、少なくとも、サムエル記記者はそれが大きな違いだとしているように見える。主の御心を完全に知ることはできない。しかし、求め続けること、それこそがわたしたちに委ねられていることのように思う。
2Samuel 16:11,12 そしてダビデは、アビシャイとすべての家臣たちに言った。「私の身から出たわが子でさえ、私の命を狙っている。ましてこのベニヤミン人なら、なおさらのことではないか。呪わせておきなさい。主が彼に命じているのだから。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
危機にさまざまな人間模様が展開するそんな章である。ダビデの「主が彼に命じているのだから」を少し考えてみた。ダビデは、明確には主が命じているとは、判断できなかったろう。ただ、ナタンのことば12章7-12節は、何度か心に去来していたのではないか。シムイが言っていることが全体として、また、シムイが正しくはないとしても、その背後に主がおられると考える。それはその通りであるように思う。引用句の最後には、「主が私の苦しみを御覧になり」とある。単純ではないが、主との関係を生き生きと描いていることは確かだろう。ダビデについては、多くの批判をわたしも持っている。また、考え方に同意できない面もあるが、ここにも主を愛したひとりの人がいることは否定できないと思う。しかし、主を愛したということで、すべてが免罪になるわけでもないとも思う。
2Samuel 17:1-3 アヒトフェルはアブシャロムに言った。「私に一万二千の兵を選ばせてください。私は今夜にも出発してダビデを追跡して、急襲します。ダビデは疲れて力を失っているところですから、恐怖に陥れることができます。彼と一緒にいる民は皆逃げ出すでしょう。私は王だけを討ち取ります。花嫁が夫のもとに戻るように、私は民のすべてをあなたのもとに連れ戻します。あなたの捜しているすべての者が戻って来れば、民のすべてが平和になるでしょう。」
アヒトフェルの助言が機能したかどうかは、不明である。しかし、ダビデを撃つことができたかもしれないとは思う。ダビデの行動をみていると、狡猾さは残っているように見えるが、以前の策略をめぐらす勇者ではないように見える。ただ、全体としては、引用句の後半のようにはならないように思う。ダビデを支える人たちも多く、アブシャロムを必ずしも信頼していないように見えるからである。ここまでは表面的な状況分析だが、どうなったとしても、主がダビデに与えた苦しみという表現は当たっているように思う。そのような苦しみのなかでひとは生きていくのだろう。そうであっても、主に従う喜びを最後の望みとして持って。
2Samuel 18:14,15 ヨアブは、「このまま、お前につきあってはいられない」と言って、三本の投げ槍を手に取り、テレビンの木の真ん中でなお生きていたアブシャロムの心臓を突き刺した。そして、ヨアブの武器を持つ十人の従者がアブシャロムを取り囲み、彼を打って殺した。
心臓を突き刺せば、とどめは必要ないように思うが、ヨアブに忠誠を尽くす、従者がいたことも記録しているのかもしれない。ヨアブに知らせに来たもの。このあとの、アヒマアツ、伝令として走るクシュ人、いろいろなことを考えてしまう、それは、ひとつの文学的表現なのだろう。18節には、アブシャロムには、子がいなかったことが書かれている。アブシャロムが後をついだとしても、安定した国になることはなかったように思う。ヨアブのような人物の存在がたいせつだとわたしは考えるが、聖書記者はどう考えて表現しているのだろう、それは不明である。
2Samuel 19:41,42 王はギルガルに向かい、キムハムも共に進んだ。ユダの人々全員とイスラエルの半分の人々もまた王と共に進んだ。するとほどなく、イスラエルの人々が皆、王のもとに来て、王に言った。「なぜ、我々の兄弟ユダの人々はあなたをひそかに連れ出し、王様とご家族、また同行する王様のすべての家臣たちにヨルダン川を渡らせたのですか。」
複雑な状況がいろいろと見える。アブシャロムのことは、ある意味で、ダビデ王への不満が噴出したとも考えられるのかもしれない。この直前にあるバルジライのことば「私はもう八十歳になります。善悪の判断もおぼつきません。何を食べても何を飲んでも僕には味がよく分からず、男女の歌い手の声さえもよく聞こえません。どうしてこの上、王様の重荷になれましょうか。」(36)は、私にも身近になってきたと感じる。まだ10年ほどはあるかもしれないが。謙虚にバルジライのように身の引き方も含めて、適切な判断をしていきたい。引用句に戻ると、イスラエルの人々の真意は分かりづらい。ただ、ユダの家の内紛のように、理解していたのかもしれない。部族の違いは大きいのだろう。ベニヤミンはことなる対応をしているようだが。不明なことが多い。
2Samuel 20:6,7 そこで、ダビデはアビシャイに言った。「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ。彼が城壁に囲まれた町を手に入れ、我々の目を逃れることのないよう、あなたは自分の主人の家来を率いて、彼を追跡しなさい。」ヨアブの兵、クレタ人とペレティ人、および勇士全員が彼に従ってエルサレムを出発し、ビクリの子シェバを追跡した。
ベニヤミン人、ビクリの子シェバの事件は、不明な点が多い。ダビデも強い支持はユダ部族だけだったことが背景にあるのかもしれない。そして、ユダ族も一枚岩ではなかったろう。「王はアマサに言った。『ユダの人々を三日のうちに召集して、ここに来なさい。』アマサはユダの人々を召集するため出て行ったが、手間取って、王が定めた期日には間に合わなかった。」このことも何らかの関係があるかもしれない。また、ヨアブとダビデの確執が拡大していることがわかる。わたしは、どうしても、ヨアブを支持してしまう。実務的な面だろうか。ダビデへの忠誠は、尽くしているが、ダビデが個人的な思いからなす施策・判断を支持しない。さらに、実質的に、ヨアブがダビデを支えてきたことも確かだろう。ダビデも、ヨアブに聞かざるを得ない面もある。最後がどうなるかは、知っているが、簡単には、結論が出せない問いのように思われる。あまりにもナイーブ(純真・素朴・幼稚)なダビデにはついていけないと私自身は思ってしまうが、それは、わたしが生きてきた時代に関係しているのかもしれない。
2Samuel 21:8,9 王は、アヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子アルモニとメフィボシェト、そしてサウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、ギブオン人の手に渡した。ギブオン人は彼らを山で主の前にさらした。これら七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは、刈り入れの初め、大麦の収穫が始まる頃であった。
「ダビデの時代に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデが主に伺いを立てると、主は言われた。『サウルとその家に責任がある。ギブオン人を殺害し、彼らの血を流したからである。』」(1)から始まる。何事も因果関係を考えるのは、簡単な説明を欲する人間の性ではあるが、ここでも、それは、悲しい結果を導く。引用句にあるアヤの娘リツパはサムエル記下3章7節、ミカルの夫メホラ人バルジライとあるがサムエル記上18章19節では、メラブの夫がメホラ人アドリエル、ミカルの夫となったのは、ライシュの子パルティエル(サムエル記下3章15節)であり、混乱があるように思われる。もしかすると「ゴブで再びペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを討ち取った。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒のようであった。」(19)が正しく、このことをダビデに寄与したのかとすら考えてしまう。
2Samuel 22:48 この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせる方。
この詩は、詩篇のものと似た表現が多い。詳細は、今は調べられないが、素朴な信仰を感じた。引用句は、すこし、恐ろしくもなる。機能的に、主の御心を受け取るときは、そのようなこともあるとだけに限らなれければいけない。体験できることは、あまり多くないのだから。しかし、同時に、そのように、告白できるのは、幸せなのかもしれない。すべてを知ることはできないのだから。神が、許されなければ、報復することはできないし、民が従うこともないとは、考えていたことがわかる。他者視点は、十分とは言えないが。
2Samuel 23:3-5 イスラエルの神は語り/イスラエルの岩は私に告げられる。/人を正しく治める者、神を畏れて治める者は太陽の輝き昇る朝の光/雲一つない朝/雨の後、地に若草を芽生えさせる日の光。私の家は神と共にある。/神は永遠の契約を私に賜り/すべてを整え、すべてを守られる。/私の救い、私の喜びを/すべて神はかなえさせてくださる。
ダビデの最後の言葉とされる。このあとには、勇士たちのリストが続く。ダビデは戦いに明け暮れた指導者だったことは、確かだろう。しかし、その働きによって、カナンの地を支配下に置くことになる。聖書の記述をそのまま信じると、それは、ダビデとソロモンの時だけである。それが約束の地、ここでも、永遠の契約とするのは、困難があるように思うが、それが、サムエル記記者の歴史観ではあるのだろう。前半の「人を正しく治める者、神を畏れて治める者」の記述はさわやかである。戦いで勝利をするのとは異なり、より複雑な判断を必要するのだろうが。
2Samuel 24:14,15 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の手に陥らせてほしい。主の憐れみは深い。人の手には陥りたくない。」そこで主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされ、ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。
この章は「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主はダビデを唆して民に向かわせ、『すぐにイスラエルとユダの人口を調べよ』と言われた。」(1)と始まる。主の怒りとありながら「主が唆した」とある。このときに、ヨアブが調査した土地も興味深い。ガド、ギルアド、タフティム・ホドシ(ヘト人の地のカデシュ)、ダン・ヤアン、シドン、ティルス、ヒビ人のカナン人の町、ユダのネゲブにあるべエル・シェバ。まあまあ全国を回っているようだ。ただ、このあとの報告は「ヨアブは調査した民の数を王に報告した。イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」(9)となっている。引用句を興味深く思ったのは、ダビデの判断と、主の手に陥ることが、疫病だと考えられていたこと。ダビデの信仰は、主との個人的な結びつきだったのだろう。また、サムエル記下には、ダビデの問題行為がいろいろと書かれているが、イスラエルの人々はダビデの子の出現を望んでいる。全体を熟知していたわけではないのかもしれないと思った。


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過去の聖書ノート

BRC2021

2 Samuel 1:19 「イスラエルよ、かの麗しき者は/お前の高い丘の上で刺し殺された。/ああ、勇士らは倒れてしまった。
ダビデは勇士としてサウルたちをたたえることから始め、最後も「ああ、勇士らは倒れた。/戦いの器はうせてしまった。」(27)で閉じている。ヨナタンとの関係は「あなたを思って私は悲しむ。/兄弟ヨナタンよ、あなたはまことに私の喜び。 /あなたの愛は女の愛にもまさってすばらしかった。」(26)と述べるが、サウルとの関係、サウルの主との関係については述べない。問題はいろいろと思っていたことだろうが、このような詩が付与されているのは、ダビデを称賛することにもつながっているのだろう。そしておそらく、全イスラエルを結びつけることにも。しかし、この戦いの経緯をみると、複雑である。背景としては、王制に移行し、常備軍を持ったからといって、戦いですべてを解決できることはないことも、告げているのかもしれない。
2 Samuel 2:1 その後ダビデは主に尋ねた。「どこかユダの町に上って行くべきでしょうか。」主は答えた。「上って行きなさい。」ダビデは言った。「どこに上って行けばよいでしょうか。」主は答えた。「ヘブロンへ。」
この章を読んでいて、それぞれの地名もたいせつなのだなと思った。ヤベシュ・ギルアドもそうだが、マハナイムは「ヤコブは彼らを見たとき、「これは神の陣営だ」と言って、その場所をマハナイムと名付けた。」(創世記32章3節)に出てくる場所であり、「ガド族からは、人を殺した者の逃れの町ギルアドのラモトとその放牧地、マハナイムとその放牧地、」(士師記21章38節)で逃れの町に指定された場所である。ヨルダン川の東、ギルアドでもかなり奥にあり、陣営を立て直すには、歴史的にも、安全性からも、戦略的にも良い場所だったのだろう。ヘブロンは「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築いた。」(創世記13章18節)場所であり、アブラハムの妻サラが葬られた土地でもあり(創世記23章2節)イサクも一時アブラハムと共に住んでいた場所である。(創世記32章8節)また、「ヨシュアは(ユダ族の)エフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えた。」(ヨシュア記14章13節)土地でもある。ユダの嗣業地の中心に位置している。またここも逃れの町に指定されており、祭司アロンの一族が住んだ場所でもある。(ヨシュア記21章13節)この陣の敷き方で、多くのことを人々は理解したのだろう。わたしは、改めて調べないとよくはわからないが。その地に住んでいる人とは、理解できることがとても違うのだろう。
2 Samuel 3:37 すべての兵と、イスラエルのすべての人々はこの日、ネルの子アブネルの殺害は王の意図によるものではなかったと知った。
この章にあることは、どれも、興味をひく。個人的には、人心掌握術を持ち、ある種の誠実さを貫く、ダビデよりも、現場で手を汚すことを恐れず、信じたことに忠実に生きるヨアブに共感する。自分の生き方とも通じる、または、ヨアブを意識して、このようなひとの存在がとても貴重だと思い生きているからかもしれない。ダビデがアブネルの申し出を受けたのは「アブネルはダビデに使いを送って言った。『この地は誰のものですか。』またさらに言った。『私と契約を結んでください。そうすれば、私はあなたに協力し、全イスラエルがあなたの味方となるように計らいましょう。』」(12)この故か、ミカルの故か。パルティエルの件も残酷である。「サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えた。」(サムエル記上25章44節)経緯はともかく、長く一緒に生活していれば、いろいろな変化が生じるものである。ミカルのことばは記されていないが、ライシュの子パルティエルのこの様子を見ると、ダビデの行為はどうしても、受け入れられない。
2 Samuel 4:2,3 このサウルの息子のもとに略奪隊の長である二人の男がいた。一人の名はバアナ、もう一人はレカブと言い、共にベニヤミンの者で、ベエロト人リモンの息子であった。というのも、べエロトはベニヤミンに属すると見なされていたからである。ベエロトの人々は、かつてギタイムに逃げて来て、そこで寄留する者となり、今日に至っている。
略奪隊 גְּדוּד(gᵊḏûḏ: a band, troop, marauding band)ということばに引っかかった。原語的には、確定はできないが、徴兵制でもなく、遊牧をしていたひとが多いときには、略奪行為は、普通だったのかもしれない。「アブネルがヘブロンで死んだと聞いて、サウルの子イシュ・ボシェトは力を落とし、イスラエルのすべての人々がおののいた。」(1)とあるが、ギルアドのような離れた地にとどまり、共存する道はなかったのだろうか。戦いにおいて、サウルに従ったという程度のことだったかもしれない。良し悪しを議論しても仕方がないのかもしれない。
2 Samuel 5:3 イスラエルの長老たちは皆、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。
サムエルが油を注ぎ(サムエル記上16章3節・13節)、そして今、イスラエルの長老たちが油を注いでいる。「いけにえを献げるときには、エッサイを招きなさい。あなたがなすべきことは、その時に私が教える。あなたは、私がそれと告げる者に油を注ぎなさい。」(サムエル記上16章3節)とあり、サムエルは、主に告げられた者に油を注いだのだろう。しかしそれは、ダビデがまだ、羊飼いの少年のときである。それからかなりの年が経ている。サムエルはすでに亡くなっている。これを主のみこころの成就と理解するにしても、長い時間が背後にあり、その期間に起こったことを考えると、サムエルに油を注がれたことは、そんなこともあったな。ぐらいだったのかもしれない。これも、意味の理解の一つで、因果関係として、主の御心として油が注がれていたから、王となったとは考えないほうがよいように思う。サウルは、実際、王とよべるかどうか、不明なのだから。そして、他に、サムエルが油を注がなかったという証拠もないのだから。
2 Samuel  6:6-8 だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。ダビデも怒りに燃えた。主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。その場所はペレツ・ウザと呼ばれて今日に至っている。
以前から気になる箇所ではあったが、今回は、事故がおこり、それを人々がどのように受け取り、ダビデも、どう応じたかが書かれているのだと思った。主や神の主体で起こったように書かれているが、むろん、これは、そのように受け取ったサムエル記記者の信仰告白である。神様の心を理解しようとして、神様を真剣に求めていた記者が受け取ったことからわたしたちは、多くを学んでいる。しかし、それは、そのひとの中での内面化があり、一つの解釈であることも、忘れてはいけない。神様も、もっと他のご計画、意味も持っていた可能性は高い。聖なる箱をそれこそが特別なものとすること自体偶像礼拝の要素を含む。すべての業は神の業、すべてのものは神のものだとも言えるのだから。この中で、ダビデも、神の箱について、自分の考えだけでは決められないことを学んだことだろう。ひとつの敬虔の表現である。この章のミカルについての記述も「サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。」(23)とあり、これが、サムエル記記者のミカル評価に結び付けられ、背後に主がおられるようにも見えるが、ライシュのパルティエルと一定期間過ごした後、そう簡単に、関係がうまくいくとは限らない。特に、パルティエルはミカルをたいせつに思っていたようなので。わたしが書いたことが正しいわけではないだろうが、いくつもの解釈(内面化、主のメッセージとして受け取ること)があることは、確かだと思う。
2 Samuel  7:29 どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主なる神よ、あなたが約束してくださったのです。あなたの祝福によって、この僕の家がとこしえに祝福されますように。」
いままで、サムエル記下のとても感動的な箇所として読んでいたが、サムエル記記者は、それなりに注意して、ダビデ全面支持ではない面をのぞかせているのかもしれないと思った。前の章の「ウザ撃ち」も同様に単純に考えてはいけないように思った。ここでは「ダビデの家の祝福」が語られている。これは、「主は告げられる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。」(11b,12)と呼応している。ある人は、これらの中にキリスト預言があると読む。系図や血のつながりを意識し過ぎで、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3章9節)の方が普遍的で本道だと思う。ダビデの家系が、このあと、ユダ王国では守られるわけだが、それも終焉が訪れる。この時代も、主の御心を受け取る過渡期であることを忘れてはいけない。むろん、キリスト以後の今もそうである。
2 Samuel  8:5,6 アラム・ダマスコがツォバの王ハダドエゼルを助けに来たが、ダビデはこのアラム軍二万二千人をも討ち、アラム・ダマスコのもとに守備隊を置いた。こうして、アラム人もダビデに隷属し、貢を納める者となった。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。
アラム・ダマスコという言い方は珍しい。この二箇所と、同じ文章を引用した歴代誌18章5,6節だけである。特別な意味を持っているのかもしれないが、アラムはイスラエルの北に位置し、この地域で、アッシリアなどの侵攻までは、最大の国だったと思われるので、驚きである。ただ、守備隊と書いてあるものも、出張所のようなものかもしれず、ある関係を持ったという程度なのかもしれない。最後は「主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。」と締めくくられ、金や青銅を奪い取ったことが書かれている(7,8)。これらは、神殿に納められるものである。単純な見方はできないが、サムエル記記者も、一つの判断を下すこと無く、歴史を記述しているように見える。だから、かえっていろいろなことが見えて何度読んでも、新たな気持で読めるのかもしれない。
2 Samuel  9:7,8 ダビデは彼に言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに誠意を尽くそうと思う。あなたの祖父サウルの地所は、すべてあなたに返そう。また、あなたはこれからいつも私の食卓で食事をしなさい。」メフィボシェトは礼をして言った。「この僕など何者でありましょう。死んだ犬も同然のこの私を顧みてくださるとは。」
「その日、ダビデは言った。『エブス人を討とうとする者は誰でも、水汲みのトンネルを抜けて町に入り、このダビデを憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。』このため、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。」(5章8節)とかなり乱暴なことを言っているが、ここでは、両足の萎えたメフィボシェトの権利回復をしている。整合性、公平性という概念は未発達なのだろう。個人的信仰においては、ありうることでもある。ここでは「あなたの父ヨナタンのために」とある。ダビデの気持ちはわかるが、本人とどのように関係を築いていくことが(愛においては)本質であるはずである。ここでは、土地を返却することと、王の食卓で食事をすることが語られている。王権が確立していたとすると、重要なことであるが、このあとの記述(19章25-31節)から考えると、信頼関係まで十分築けていたかは不明である。
2 Samuel  10:2,3 ダビデは、「ハヌンの父ナハシュは私に誠実であったのだから、私もその子ハヌンに誠意を示そう」と言い、使いを送って彼の父に弔意を表そうとした。ところが、ダビデの家臣たちがアンモン人の地にやって来ると、アンモン人の高官たちは主君ハヌンに言った。「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の使いを送って来たとお考えですか。ダビデがあなたのもとに家臣をよこしたのは、この町を調べ、探り、覆すためではないでしょうか。」
このあとに「そこでハヌンはダビデの家臣たちを捕らえ、ひげを半分そり落とし、衣服も半分、尻までに切り落としてから追い返した。」(4)と続く。これは酷い、野蛮だと思ったものだが、適切にコミュニケーションが取れていなかっただけだと今回感じた。アンモンとイスラエルも長い歴史があり、サムエル記上11章では、サウルがアンモン軍を破っている。王がダビデになったからといって、不信は十分に残っているのが当然である。平和を求めるものは、屈辱をも甘んじて受け、そこから学ばなければいけない。しかし、この章の中心は、次の章に続く後半のヨアブ軍(とアブシャイ軍の)の必死の戦いなのかもしれない。アンモンを助けたアラムとの戦いである。「アラム人は、自分たちがイスラエルに敗れたのを見ると、団結した。ハダドエゼルは使者を遣わし、ユーフラテス川の向こうにいたアラム軍を出動させ、ヘラムまで呼び寄せた。彼らの先頭に立つのはハダドエゼルの将軍ショバクであった。」(15,16)これは、たしかに特筆すべきことである。8章の、アラム・ダマスコは、アラムの本体ではないという意味で区別する記述だったのかもしれない。
2 Samuel  11:1 年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を皆殺しにし、ラバを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。
前の章での記述からも、戦いはヨアブにまかせてよいと思われる状況だったのだろう。これまでいのちをかけてしていたことから離れて、こころのすきが生じる。十戒(出エジプト記20章、申命記5章)の後半5つは、隣人との関係で、基本的に、その最後にある「隣人の家を欲してはならない」つまり、自分のものでないもの、神様がそれぞれのひとに与えられたもの、そのひとの真実を自分のものにしようとしてはいけない。自分に与えられたものを感謝して受けること、とまとめられる。ダビデは、すでに、何人も妻を持っていた。これに対して、ヘト人ウリヤの忠誠を際立たせることばは脚色としても凄い。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営しておりますのに、私だけが家に帰って食べて飲み、妻と寝ることなどできましょうか。あなたは確かに生きておられます。私には、決してそのようなことはできません。」(11)自分の分をわきまえている証言である。なおヘト人は「それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る。」(出エジプト記3章8節)などとあるように、カナンの地の被征服民である。このようなひとたちがそれなりにいたのだろう。
2 Samuel  12:13,14 ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯しました。」ナタンはダビデに言った。「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。しかし、あなたがこの行いによって大いに主を侮ったために、生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬであろう。」
ダビデは「主は生きておられる。そのようなことをした男は死ななければならない。」(5)と、このような罪は死ななければならないと自ら言っているが、ナタンは「あなたは死なない。」と言い、さらに「生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬ」と続ける。罪を犯したものが死に、その故に生まれてくるいのちは生きるほうが良いと我々は思う。自業自得に縛られているからだろう。実際には、責任など、負うことが出来ないにもかかわらず。そして、罪をそのときの失敗と捉えてしまうからか。ここで語られているものは、もっと深いのだろう。これから、サムエル記下では、ダビデは経験したくないことを、いくつも経験する。これは、罪の結果というより、へりくだり、神理解が深くなるためのように思う。そして、それを通して、後代のわたしたちも、学ぶことができるように。この息子については、主の御手にあることを思う。わたしたちがどうにかすることではないのだろう。中心にはないが、「今すぐ残りの兵を集めてこの町に陣を敷き、これを占領してください。さもないと、私が町を占領したことになり、この町が私の名で呼ばれることになってしまいます。」(28節)忠実に、自分の与えられた使命を果たし、それを自分の栄誉としない、わたしがダビデではなく、ヨアブに憧れるいくつかの理由の一つである。
2 Samuel  13:7 そこでダビデは、宮殿にいるタマルのもとへ人を遣わし、「あなたの兄アムノンの家に行き、彼のために食べ物を作ってやってほしい」と伝えた。
あまり問題点を探すのは適切な読み方だとは思えないが、思春期から青年期と思われる異母兄妹に注意を払うことは当然だと思ってしまう。このあとにも、アブシャロム事件を避けることができたと思われる機会は何回もあったように思う。「ダビデ王は事の一部始終を聞き、激しく怒った。しかし、彼は息子アムノンを罰することはなかった。アムノンは長男だったので、ダビデは彼を愛していたからである。」(21)との記述があるが、サムエル記記者の編集意図が反映しているだけかもしれない。そのような、ダビデを描いているのだろう。神を恐れつつも、様々な問題のあったダビデを描いていたとも言える。単なるヒーローにしたり、いいもん、ワルモンに分けず、ていねいに描くことが記者の視点だったとも言える。むろん、それは、事実を忠実に描くこととも、異なるのだろう。わたしたちは、それぞれ、どんなメッセージを受け取るのだろうか。
2 Samuel  14:21,22 王はヨアブに言った。「よかろう。そのようにしよう。行って、あの若者アブシャロムを連れ戻すがよい。」ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福の言葉を述べて言った。「今日、あなたの僕は、王様のご厚意にあずかっていると悟りました。王様は僕の願いを聞き入れてくださったからです。」
ヨアブに興味があるが、ヨアブとダビデの関係、特にヨアブがダビデをどう見ていたかにも興味がある。その意味でもこの章のやりとりは興味深い。ヨアブとダビデはどちらも戦いにおいて優れていること、おそらく、軍の信頼を得ることにおいても、ある程度共通点を持つが、価値観も異なり、地位も異なる。社会においては、頻繁に起こることである。実際、この件は、ヨアブのそしておそらく二人の望む方向には進まないが、ある努力をしたことは伝わってくる。ダビデの影が薄いのは、全体の流れの中で、バト・シェバ事件のあと、この時期のダビデをそのように描いているのだろう。表現していることばもすばらしいと思う。このようなこと、そしてそれを記述するもの、学ぶことが多い。
2 Samuel  15:25,26 王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の目に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるであろう。しかし、もし主が、『私はあなたを喜びとしない』と言われるなら、主がその目に適う良いことを私にしてくださるように。」
主の御心に委ねているように見える。しかし、イタイのことについては別の記述をしているが、この「ツァドクと、神の契約の箱を担ぐレビ人」(24)と、「ダビデの友フシャイ」(37)へのダビデの言葉をみると、以前のような狡猾な、ダビデが戻ってきているように、描かれている。サムエル記記者の描き方であることではあるが、このあたりに、ダビデの本質を見る。批判するつもりはないが、このような面も含めて、ダビデであることは、覚えるべきだろう。アブシャロムについても、考えてみたい。残念ながら、アブシャロムは、見えている範囲が狭く、周囲にも十分なアドバイザーはいなかったように思う。聞く耳を持たなかったのかもしれない。個人的な判断には、いろいろな要素があるが、全体を治めることを考えると、たいせつな要素は多い。そのことにおいて、王制・王政はコントロールが難しいのかもしれない。個人の資質に依存してしまうので。
2 Samuel  16:3,4 王が「あなたの主人の息子はどこにいるのか」と尋ねると、ツィバは王に答えた。「あの方はエルサレムにとどまっています。『イスラエルの家は、今日、父の王国を私に返す』と申しておりました。」王はツィバに言った。「それならば、メフィボシェトに属するものはすべてあなたのものにしてよろしい。」ツィバは言った。「伏してお礼を申し上げます。王様のご厚意にあずかることができますように。」
19章25-21節に後日談があるわけで、ツィバのことばと比較すると、メフィボシェトの言葉の方に真実性を感じる。しかし、ツィバのことが書かれている9章を見ると、ダビデのヨナタンへの思い(気まぐれとも言えなくもない)に、新たな歩みと思っていたことが翻弄されたのかもしれない。そして、このときが好機会だと考えたのだろう。大きな転換期には、賭けに出ることもあるだろうから。しかし、日常的にたいせつにすべきことは背景にある課題を丁寧に受け止めることかもしれないと思った。
2 Samuel  17:1,2 アヒトフェルはアブシャロムに言った。「私に一万二千の兵を選ばせてください。私は今夜にも出発してダビデを追跡して、急襲します。ダビデは疲れて力を失っているところですから、恐怖に陥れることができます。彼と一緒にいる民は皆逃げ出すでしょう。私は王だけを討ち取ります。
「その頃、アヒトフェルが提案する助言は、神に伺いを立てた言葉のように受け取られており、ダビデにとっても、またアブシャロムにとっても、アヒトフェルの提案はそのようなものであった。」(16:23)は、こちらの提案につながっているのだろう。たしかに、ダビデに惹かれているひとは多かったろうから、ダビデが死ねば、人心を掌握することは、可能だったかもしれない。「アブシャロムも、イスラエルの兵士も皆、アルキ人フシャイの提案はアヒトフェルの提案より優れていると思った。これは主がアブシャロムに災いを下そうとして、アヒトフェルの優れた謀を打ち壊そうと決めておられたからである。」(14)も、サムエル記記者がそれを支持していることを示すものだろう。このあと、アヒトフェルは自殺してしまうわけだが、プライドが高かったのだろうか。正しさに固執していたのか。よくはわからない。
2 Samuel  18:19-21 ツァドクの子アヒマアツは言った。「私が走って行って、主が敵の手から王を救ってくださったことを伝えます。」ヨアブは彼に、「今日、あなたが知らせに行くのはよくない。日を改めて報告するがよい。今日は知らせずにおきなさい。王の息子が死んだのだ」と言い、クシュ人に命じた。「行って、あなたが見たとおりに王に報告せよ。」クシュ人はヨアブに一礼して走り去った。
それぞれの思いが伝わってくる。ヨアブは、自分が手を下したが、その痛みを知っている。特に「王の息子が死んだ」という表現において、王の気持ちも十分理解していただろう。そして、アブシャロムに手を下すことも、自分がせざるをえないことも理解していただろう。ツァドクの子アヒマアツはどうだろうか。王の痛みは十分予想し理解していただろう。だから、アブシャロムのことを知っていても告げない。しかし、喜び「あなたの神、主はたたえられますように。主は、王様に手を上げる者どもを引き渡してくださいました。」(28b)とともに、悲しむダビデがどうするか、共にいたかったのかもしれない。クシュ人はそれは理解できていない。アブシャロムは木にひっかかって身動きがとれなくなるが、14章25,26節の髪の毛の豊かさが美しさとともに仇となったのかもしれないと思った。「足の裏から頭のてっぺんまで、非の打ち所がなかった」(14章25節)アブシャロムの最後である。
2 Samuel  19:38,39 どうか、僕が帰って行くのをお許しください。父と母の墓のある私の町で死にたいのです。ここに、あなたの僕キムハムがおります。これに王様のお供をさせますから、あなたの良いと思うようにお使いください。」王は言った。「キムハムには、私と共に来てもらおう。あなたが良いと思うように、キムハムを使おう。また、あなたの望みはすべてかなえることとしよう。」
バルジライは、マハナイムで王の暮らしを支えたとある。2章8節にあったように、イシュ・ボシェトを擁した、アブネルが拠点としたのも、マハナイムだった。バルジライはどのときはどうしていたのだろうか。引用句は興味深い。ダビデの配慮が伝わってくる。バルジライは、キムハムを、ダビデの良いと思うようにお使いください、といい、ダビデは「あなたが良いと思うように、キムハムを使おう。」と答える。おそらく、このダビデの一番の理解者は、ヨアブである。22節では、サムエル記記者は、アビシャイに答えさせている。ダビデは「ツェルヤ(歴代誌上2章16節の記述によるとダビデの姉妹、おそらく年上の姉だろう。)の息子たちよ」と言い、この時点では、息子たちは、ヨアブとアビシャイであると思われるので(三人兄弟)、ヨアブも同意見であることを知っている。しかし、ヨアブは結末も知っていたろう。ダビデと、ヨアブのそれぞれの個性と二人のバランスがとても興味深い。
2 Samuel  20:1,2 そこに、ベニヤミン人ビクリの息子で、シェバという名のならず者が居合わせた。彼は角笛を鳴らして言った。/「ダビデのうちに、我々の受け取るべき分はない。/エッサイの子のうちに/我々の受け継ぐべき分はない。/イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰るがよい。」そのため、イスラエルの人々は皆ダビデから離れ、ビクリの子シェバに従った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、彼らの王に従った。
ユダとそれ以外のイスラエルの部族の分裂は、それなりに、過去からあったことを示しているようだ。しかし、ここで、ダビデが「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ。」(6)とまで言う根拠は明確ではない。実際「シェバはイスラエルのすべての部族を巡り歩いて、アベル・ベト・マアカに来ていた。ビクリの一党も皆集まって来て、彼に従った。」(14)とあり、従ったのは非常に限定的であったようだ。その意味でも、ダビデの判断はある程度は当を得、程度の判断は十分ではなかったのかもしれない。アマサは、ダビデの考えを十分受け取っていなかったのかもしれない。全体的判断は間違っていなかったかもしれないが、人の関係までは、十分把握できていなかったということか。
2 Samuel  21:14 彼らはサウルの遺骨とその子ヨナタンの遺骨を、ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの地の祈りに応えられた。
この章は「ダビデの時代に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデが主に伺いを立てると、主は言われた。『サウルとその家に責任がある。ギブオン人を殺害し、彼らの血を流したからである。』」(1)から始まっている。「主」「神」が主語で書かれている部分をどう受け取ればよいのだろうか。わたしは、かなり自由に読んでいる。それは、これも、われわれと同じ信仰者が受け取ったメッセージなのだから、軽く見てはいけないが、絶対視してはいけないとして読んでいるからである。しかし、それは、キリスト教界で一般的ではない。いまのところ、大きな問題は生じていないが、どうなのだろうか。歴史的には、わたしのように考えると、様々な部分から信仰が失われていくと考えられているのかもしれない。その危険性も同時に学ばなければいけないということだろう。この章には、サウルやヨナタンのことだけでなく、ギブオン人のこと、アドリエル(ここは、ミカルではなくメホラだと思われる(サムエル上18章19節))のこと、ヤベシュ・ギルアドのことなども登場する。知識人は、歴史を知り、そこから物事を評価することも多かったことを意味しているのだろう。そして、ダビデの行動を見ても、どちらかを正しいとすることは、単純にはできない。
2 Samuel  22:2-4 「主はわが岩、わが城、私を救い出す方。わが神、わが大岩。私はそこに逃れる。/わが盾、わが救いの角、わが砦。/私の逃げ場、救い主。/私を暴虐から救ってくださる。ほむべき方、主に呼びかけると/私は敵から救われる。
ここまでサムエル記上・下とダビデについての記事を読んできた。「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った。」(1)とあり、いつの歌かは不明であるが、まさに、信仰告白なのだろう。むろん、これだけでは語り尽くせないもので、あくまでも、ダビデが危機から脱したときに「主に語った」ものである。だからこそ、肯定的なものが中心となっている。そして、全てではなくても、この表現の一部は、わたしも「アーメン(אָמֵן 'āmēn: verily, truly, amen, so be it)」と唱えたくなる。ことばが美しいからもあるだろう。さらに、皆で唱和することもあるだろう。他者の信仰告白であるにも関わらず。ここに、宗教が誕生するのだろうか。
2 Samuel  23:18,19 ヨアブの兄弟でツェルヤの子アビシャイ。三兄弟の頭。槍を振るって三百人を殺し、三勇士と並ぶ名を上げた。彼は三十人の頭の中で最も誉れが高く、彼らの長となったが、三勇士には及ばなかった。
三兄弟は、ヨアブ、アビシャイ、アサヘル(2章18節)である。アサヘルはほとんど、2章にしか登場しないが、アビシャイは、何箇所か特別な機会に登場する(サムエル記上26章、アサヘル関連のサムエル記下2章, 3 章、それ以後も、16, 18, 19, 20, 21 章)。勇士としては、卓越していたのだろう。ヨアブとは違った働きのように思う。しかし、ここで、アビシャイを、ヨアブの兄弟としつつ、三兄弟の頭としているのは、興味深い。前線において戦うとき、常に先頭に立って戦ったということに、いまはしておこう。いずれゆっくり調べてみたい。
2 Samuel  24:14,15 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の手に陥らせてほしい。主の憐れみは深い。人の手には陥りたくない。」そこで主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされ、ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。
13節で「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか。三か月間、敵の前を逃げ回り、敵に追われることか。三日間、あなたの国に疫病が起こることか。」とある。これらは、みな、主の手に陥ることのハズである。ここでは「疫病」が引き起こされている。理由は不明だが、王としての誤りは、民に大きな影響が及ぶことを示しているとも言える。現在のコロナ禍のなかで、人はどう思っているだろうか。人間の自然破壊が進んだからだとか、特定の国で、情報公開が進んでいないからだとか、他者から学ぶことが特に政治の世界では進まないからだとか、いろいろと理由は言われるが、実際に、因果関係を特定はできない。神の意図をうけとることは、困難である。しかし、実際に生じていることの意味を理解し、改善していこうとする営みは、ひととして人間らしい営みであると思う。直接的な主の働きをどう受け止めるかは様々だろうが。ここでは、正式な軍隊が存在していたわけではなく、現在の軍の兵卒の数を把握するのとはことなることも、たいせつだろう。ダビデはなにを知りたいと思い、ヨアブは、なぜ止めたのか、そして、サムエル記記者ななにを伝えようとして書いているのか、これも、丁寧に理解したい。

BRC2019

2Sm 1:10 そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます。」
この評価は難しい。ダビデの評価は記しているが、それに対しては、何も、サムエル記記者は述べていないように思われる。評価を避けているのかもしれない。サウルが願い、生き延びることは困難だと思ったのも当然であろうから。アマレク人であったことが低く評価されたのだろうか。アマレクは、何回も登場する。1度、調べてみたい。
2Sm 2:26 アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまで剣の餌食とし合うのか。悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい。いつになったら、兄弟を追うのはやめよ、と兵士に命じるのか。」
戦いは悲しい結末であることは、だれにもわかっている。ましてや、同族の争いは。ここで「兄弟」ということばが使われていることが印象的である。サウルの子のイシュ・ボシェトを擁立したアブネル、ダビデのがわのヨアブ、その前は、ペリシテと戦っていたことを考えれば、同族とは言える。同族の概念が広がり、神に愛されているものたちが神の子と考えれば、同様のことが言えるのだろう。しかし、ひとは、そこに、至ることはできない。争いは、そして、戦争による殺し合い、テロなどもふくめて、無くならないのだろうか。
2Sm 3:29 その血はヨアブの頭に、ヨアブの父の家全体にふりかかるように。ヨアブの家には漏出の者、重い皮膚病を病む者、糸紡ぎしかできない男、剣に倒れる者、パンに事欠く者が絶えることのないように。」
なんとも差別的な発言である。アブネルを大切に扱ったことが、その後の王国の確立には重要だっただろうが、わたしには、明確には、判断ができない。ここでは、呪いのことばを言っている。ヨアブが手にあまるとしても、問題だと感じる。この時代のことを考えてもである。
2Sm 4:11 まして、自分の家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺したのだ。その流血の罪をお前たちの手に問わずにいられようか。お前たちを地上から除き去らずにいられようか。」
正しいことの定義は何だったのだろう。神に逆らってはいないということだろうか。サムエル記記者にとってそれは明白だったのだろうか。イシュ・ボシェトは、サムエルに油を注がれたわけではない。正統な王位継承者とみていたのだろうか。そうであれば自ら「ユダの家の王」(2章11節、5章3節-5節)となり、他の部族と対立することになることは、問題ないと考えたのだろうか。おそらく、背景となる、部族についても、十分理解していなければ、わからないのかもしれない。いずれにしても、今の時代にまで続く永続的な価値観ではないように思われる。
2Sm 5:6 王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
このあとで「ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者」(8)という表現はとっていない。サムエル記記者は、そのへんのずれも理解していてこう書いたのかもしれない。もし、障害者を神の意思として排除することが記者の目的であるなら、対応させることは簡単なのだから。サムエル記記者はどのような人たちなのだろうか。とても、興味をもつ。
2Sm 6:21,22 ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」
この次の節は「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。」となっている。22節のことばをとって、ダビデは「お前の言うはしためたちからは、敬われ」お前(ミカル)は蔑まれると言っているのだろう。しかし、最初の部分「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主」と主を語る部分も含めて、まるでどこにでもある夫婦喧嘩である。サムエル記記者は、それでも、ミカルに子がなかったことを、主の働きと見ているのだろう。一つ一つこのように議論していくこと自体が、わたしのうちにある、聖書とは何かという問いのこたえが、揺れている証拠なのかもしれない。
2Sm 7:15 わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。
ひとつの区切りである。この章は「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。」(1)と始まり、ダビデが、神殿建立について問い、それについて、ナタンが告げ、ダビデが主に祈る。いくつかの重要な要素が含まれているように思われる。サムエル記のひとつのハイライトなのかもしれない。サウル王朝とは異なること、慈しみが永遠に続くことが主のことばとして語られ、それに、ダビデが応答している。預言者を通しての主の語りかけにどのように応答するかが、信仰なのだろうか。これをもって、ダビデは主の心にかなったとしているのだろうか。
2Sm 8:6 ダマスコのアラム人に対して守備隊を置いた。こうしてアラム人もダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。
14節にはエドムについて似た表現がある。「また、モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄ではかり、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた。モアブ人はダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。」(2)などは、信じられないほどの残虐さである。遊牧・放牧のこの時代、略奪は日常的なことだったのだろう。そうであっても、残虐である。そして、そのあとに、引用箇所は「主」を主語にしている。それが、サムエル記記者の理解とも言えるが、背後に主がおられるとしか思えないほどの破竹の勢いを表現しているとも言える。普遍性は、イエスの言われた「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26章52節b)にある。そこに行き着くには、まだ1000年以上の時が必要だったのかもしれない。それを人が学ぶには、さらに何千年もかかるのだろうか。
2Sm 9:13 メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。
5章6-8節の障害者に関することとの整合性は十分とは言えない。最初の書き出し「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」(1)も、ダビデの信仰とも言えるかもしれないが、単なる思いつきのようにも、思われる。一通りに理解しようとすること、ダビデの生き方を、絶対化すること、どちらも、サムエル記記者は、書いていないのかもしれない。読む側の問題なのかもしれない。リバタリアン(libertarian: 倫理的な価値判断は個人の領域として行動する人)のような印象を受ける。福音書の記述されている、イエスのダビデ引用が基本的に2つしかなく、一つは、祭壇にささげたパンについて(マタイ12章3節など)、もう一つは、ダビデの子についての言及(マタイ22章42-45節など)、いずれも、ダビデをヒーローとしては扱っていないことも、注意をひく。
2Sm 10:19 ハダドエゼルに隷属していた王たちは皆、イスラエルに敗北したことを認めて和を請い、イスラエルに隷属した。アラム人は恐れて、二度とアンモン人を支援しなかった。
アラムがこの当時ダマスコを首都としていたかどうかは不明だが(サムエル記下8章6節)、イスラエルの北に隣接する、古い国で、大勢力だったと思われる。エジプトがシナイ半島を越えて攻めてくる機会はこの時点では多くなかったろうが、アラムとは隔てるものもなく、つねに争いがあったことが書かれている。アンモンの王ハヌンの行為が愚かであることは、簡単にわかる。他国との交流がまだ多くない時代だったのだろう。そのような背景のもとで、ダビデ軍、ヨアブ、アビシャイが協力して戦う様子を記述し、当時はアラムをも圧倒していたことを記録しているのだろう。ダビデがナハシュとの関係を保とうとして行ったこと、ヨアブが神の町々のため戦うといったことだけに、目を向けると、非常に薄っぺらい解釈に陥ってしまう。
2Sm 11:11 ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」
12章でダビデがナタンの叱責にどう向き合ったかが核なのだろう。すると、10章も近隣の最大の敵に、ダビデも出陣して勝利したという背景記述の意味が強いのかもしれない。詳細は書かれていないが、ヨアブも状況を把握していると思われるところをみると、ダビデのバト・シェバとの情事は、多くの人達が知っていたのかもしれない。そして、ウリヤも。それが、家に帰ることを「妻と床を共にしたりできるでしょうか」と結びつけているのかもしれない。このカナン人であるヘト人ウリヤ、正しい人、忠実なしもべを丁寧に描くことで、12章の歴代誌には書かれていない、サムエル記下の重要なエピソードを際立たせている。やはり、サムエル記記者に興味を持つ。一般に言われているように、ナタンなど(宮廷と関連の深い)預言者集団と近い人たちなのだろう。「預言者ナタンの言葉」などが底本となっているのだろう。「ダビデ王の事績は、初期のことも後期のことも、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されている。」(歴代誌上29章29節、参照:歴代誌下9章29節)先見者と預言者の違いも気になる。「昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。」(サムエル記上9章9節)
2Sm 12:13,14 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
難しい。特にわからないのは、罪の赦しと、この子が死ななければいけない理由。十分東方教会の考え方を学んだわけではないが、罪を不完全さ、ねじれと考えれば、ある程度、理解できる。後者は、理由を考えることではないのかもしれない。一人ひとりの生と死に理由を考えたいと願い、主に食ってかかるが、自然界のなかのひとつの事象という面が主で、特定の生と死の理由は問えないのかもしれない。かえって、不倫によって生まれた子だと指さされるような悲しみを取り去るためなどと理由を考えることに問題があるのだろう。このあとのダビデの苦しみをみると(16)ダビデに対する一つの罰ではあったとサムエル記記者、またはナタンは言っているのかもしれないが。ひとつの回答をもとめてはいけないのだろう。
2Sm 13:27 アブサロムが重ねて懇願したので、アムノンと王子全員をアブサロムに同行させた。
この事件は、アブサロムがダビデに「僕は羊の毛を刈る者を集めました。どうぞ王御自身、家臣を率いて、僕と共にお出かけください。」(24)と願ったところから始まっている。結局、ダビデは行かない。ダビデもアムノンの事件は知っていたろう。自分で責任をとすることを避けているように思われる。アブサロムはアムノンを行かせるように懇願し、結局、ダビデは、全員の王子を行かせる。配慮があるとともに、責任はとらない。むろん、そのようにだけ理解できるわけではないだろうが。サムエル記記者はなにを伝えたかったのだろうか。
2Sm 14:14,15 わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます。王様のもとに参りまして、このようなことを申し上げますのは、民がわたしに恐怖を与えるからでございます。王様に申し上げれば、必ずはしための願いをかなえてくださると思いました。
ヨアブの案か「知恵のある女」(2)の即興か、はたまたサムエル記記者の脚色か不明であるが、驚かされる考え方がいくつか入っている。「民がわたしに恐怖を与える」とはどういうことだろうか。この女性が語ったストーリーから推察すると、分断が続くと、王国自体が外部から攻められて危機に陥るということだろうか。そこまで政治的でなくても、王家の分断は、忍ぶことができないということだろうか。この物語は、13章39節の「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた。」から始まっている。そして最後はアブサロムの不満で終わっている。様々な人間関係があり、興味深い。この背後には、今後の展開を含む預言の成就があると、記者は言っているのだろうが。
2Sm 15:14 ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」
ダビデが恐れていたのは、エルサレムを戦いの場として、破壊と殺戮が起こることだろうか。まだ神殿はないが、宗教的な重要さも考えていたろう。さらに、ダビデは、アブサロムたちと戦いたくはなかったのかもしれない。ダビデの顧問でもあったアヒトフェルという知者も気になっただろうし(12, 31, 34)総合的な判断だったろう(16章23節「そのころ、アヒトフェルの提案は、神託のように受け取られていた。ダビデにとっても、アブサロムにとっても、アヒトフェルの提案はそのようなものであった。」参照)。正しいかどうかは、おそらく、誰にもわからない。『王の家臣たちは言った。「主君、王よ、僕たちはすべて御判断のとおりにいたします。』」(15)そして、密偵も準備する。(24-37)あまり、技術的分析をすることはやめておこう。
2Sm 16:11,12 ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
ダビデと主の関わりかたがわかるような箇所である。個人的な交わりが、ダビデにはあったのだろう。叱られたり、憐れまれたり。親しい交わりとも言えるし、主観的とも言える。それは、信仰におけるたいせつな面かもしれないが、それが全てではない。イエス様の関わり方は、少し違うように思われる。そのあたりを、もう少しじっくり考えてみたい。
2Sm 17:23,24 アヒトフェルは自分の提案が実行されなかったことを知ると、ろばに鞍を置き、立って家に帰ろうと自分の町に向かった。彼は家の中を整え、首をつって死に、祖先の墓に葬られた。ダビデがマハナイムに着いたころ、アブサロムと彼に従うイスラエルの兵は皆、共にヨルダンを渡った。
詳細は不明だが、どうも、イスラエル兵は、フシャイの助言にも、アヒトフェルの助言にも従わず、ダビデを追った様に見える。もしかすると、アブサロムも各所に偵察隊を送り、ダビデの動向を調べていたのかもしれない。そのいみで、すんでのところの脱出劇だったのかもしれない。アヒトフェルは自らを正しいと主張することはできたろうに、覚悟の自殺をしている。自分の助言は聞かれるもの、正しいと確信していたのだろう。複雑な状態では何が起こるかわからないとも、主のなされることは不思議だともいえるのかもしれない。ダビデにも信頼されていたアヒトフェルについては、あまり記述はないが、その心情、正直に計り知れない部分が多い。
2Sm 18:5 王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた。
なぜ、ダビデは、アブサロムを助けようとしたのだろうか。ヨアブは抹殺しなければならないと考えたのだろうか。わたしだったら、どうしただろうか。ダビデは、サムエル記によれば、ナタンを通して示された神のことばを受け取っていただろう。(サムエル記下12章)ダビデは、単に子を守りたかったのか、それとも、アブサロムと和解したかったのか、いわゆるハッピー・エンドを求めていたのか。どれも、わたしは、これまでの、ダビデの生き方から、個人的な価値観が背景にあることを考えてしまう。ヨアブはどうだろう。戦略として、政治的に、怒りも手伝ってだろうか。官僚的な判断も感じるが、思考停止では決して無い。イエスさまならどうされるだろうか。イエスさまは、その背後にある、罪(神様のみこころがわからない状態)をみて、愛を示されることを考えただろうか。生き方自体が、まったく異なるので、ここに当てはめることはできないが、わたしにとって、教師、先生は、常に、イエスさま。イエスさまがどうするかを考えたい。そして、わたしもそのように、行動したい。
2Sm 19:8 とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう。」
このあとの民の反応を見ると、ヨアブのこの判断は間違っていたかもしれない。しかし、ここで、ダビデが民の前に現れなければまた違ったことが起こっていたかもしれない。それぞれの非常に分厚い物語が、書かれている。おそらく、サムエル記記者のある人達は、このあとの王国の歴史(列王記に書かれている記録)も知っているのだろう。単純に一つの解釈をくだすことをしない。できない面もあるのだろう。そして、この困難なときに、主のことばを記さない。人々の責任、そして、あなたは、ここで、どう生きますかと問うているようにさえ感じる。
2Sm 20:6 ダビデはアビシャイに言った。「我々にとってビクリの子シェバはアブサロム以上に危険だ。シェバが砦の町々を見つけて我々の目から隠れることがないように、お前は主君の家臣を率いて彼を追跡しなさい。」
ダビデが最初にアマサを派遣し、次に、アビシャイを送る背景は理解できるが、個人的には、すでに、判断の不正確さが出てきているように思われる。後半をみると、シェバが危険だとは思われない。また、民のヨアブへの信頼も大きいこともわかる。個人的な感覚、よく言えば、誠実さであるが、普遍性がない。キリスト者または信仰者の陥りやすい弱点ではないだろうか。ヨアブの軍も、アビシャイに委ねられているようだが、23節では、依然、ヨアブがイスラエル全軍の司令官としている。サムエル記記者の伝えようとしていること、意図に興味がある。
2Sm 21:14 サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの国の祈りにこたえられた。
神の行為として記述されていることを拾うことの意味については、よくわからないが、久しぶりに「神」が登場している。ダビデの生涯の終盤である。本当に、このことが神様のみ心にかなったことだとは個人的には思われないからもある。このように書かれていることは、少なくとも、この部分を書き記した記者にとって、サウルの行為の責任をその子らを7人選んで負わせるが、神のみ心だと考えたのだろう。「ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。『ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。』」(1)理由をもとめる気持ちは理解できるが、このような行為の問題性を強く感じる。イエス様ならどうしただろうか。神の御心をおこなうこと、生きようとすることに関しては同じであっても、神がどのような方かを受け取っているかどうかの違いだろうか。ここの記されていることは、互いに愛し合うこととはあまりに遠い。
2Sm 22:18-20 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。
ここで敵はサウルであることが1節に書かれている。理由なしに(1Sm 20:1,32 ダビデはそう考えている)命を狙われ、危機を乗り越えてきたダビデが語っているとされる言葉である。具体的な敵はわたしは持っていないが、戦いは日常的にある。その中で、主に問い、主に導かれながら歩むことが信仰者の生き方なのだろう。ダビデの場合は、その個人的な主との交わりが非常に強い。特別恩寵に生きているといってもよいかもしれない。危険性も感じるが、引用した最後は、具体的な意味は異なるであろうが、共通の感覚を持つ。「主はわたしの支えとなり わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」感謝を持って、喜びをもって、広い所に導いてくださる助けにより頼みたい。
2Sm 23:2-4 主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は 太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。
主の霊と自分のことばの関係、そして、神に従って人を治めるという表現は、危険性を多くはらむ。しかし、このあと、列王記へと向かう中で、サムエル記記者は、一つの理想のモデルだとしたとしても、それを責めることはできない。この章の後半の勇者のリストをみると、ダビデが人気があり、信頼されていたことは確かである。引用したように、表現するかどうかは別として。民や、周囲の兵は、ダビデの弱さも十分知っていただろう。その上で、信頼しているのだから。
2Sm 24:25 そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。
最後の章の記事としては不思議である。「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた。」(1)と始まっていることも異様である。主が誘われ、主が怒る。いくつかの、可能性は考えられるが、もしかすると、特別に意味はないのかもしれない。列王記とつながっており、サムエル記をしめくくる最後の章という認識が誤っているのかもしれない。ダビデの最後の国家的エピソードとして記し、それが疫病で、その理由を考えたのかもしれない。神殿のことを想起させたり、最後のアラウナとのやり取りが、アブラハムのエフロンとのやり取り(創世記23章)と似ていることなどは、感じるが。事実として、疫病は当時、大きな脅威であったろうし、その理由を何らかの自らの誤りに求めることは非常に自然な人間の行動様式であることはあるが。

BRC2017

2Sm 1:14 ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」
この記事は、正直理解できない。この文章に表れる、ダビデの信仰告白とともに、アマレクに対する差別もあったのではないだろうか。ダビデらしい判断で、良くも悪くもこれがダビデだとも言える。サムエル記記者はこのようなダビデを好んだのだろうか。それとも、ここに、主のことばが登場しないことを考えると、神も、記者も沈黙を保っているのか。
2Sm 2:10 サウルの子イシュ・ボシェトは四十歳でイスラエルの王となり、二年間王位にあった。だが、ユダの家はダビデに従った。
4節には「ユダの人々はそこに来て、ダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。」との記述がある。ユダとイスラエル王国という図式は、ソロモン以後であり、またベニヤミンは、ユダ側につくことになるが、すでにここで、その構図が示されている。17節、28節に「イスラエル軍」の記述はあるが「ダビデの家臣はベニヤミン族とアブネルの兵のうち三百六十人を打ち殺した。」(31節, Cf. 25節)をみると、主力は、ベミヤミンで部族抗争に近い印象をうける。
2Sm 3:9,10 主がダビデに誓われたことを、わたしがダビデのために行わないなら、神がこのアブネルを幾重にも罰してくださるように。 わたしは王権をサウルの家から移し、ダビデの王座をダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に打ち立てる。」
アブネルとヨアブの間を判断するのは、簡単ではない。アブネルもこうは言っているものの、最初は、ダビデと戦っており、ここでも、サウルの側女のアヤの娘リツパのことをイシュ・ボシェトに非難されたことが背景にある。ダビデも、多くの妻を持ち、さらに、ミカルを取り戻す。ここでは、記者が沈黙を保っているようだ。考えさせられる。
2Sm 4:9 ダビデはベエロト人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる。
通常の取り扱いとは異なるが、ダビデとしては一環していたのかもしれない。サムエル記下4章2節に「このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバアナとレカブといい、共にベニヤミンの者で、ベエロトのリモンの息子であった。ベエロトもベニヤミン領と考えられるからである。」とあるが、微妙な表現でもある。ベエロトは申命記4章6節に「ベエロト・ベネ・ヤアカン」という地名が出てくる。ヨシュア記9章7節に「イスラエルの人々はそこをたって、三日目に彼らの町ギブオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリムに着いた。」とあり、同書18章25節にもギブオン、ラマなどと共に出てくるので、イスラエルの地名と思われる。ベエロト人がどの程度、ダビデを理解していたか、律法を知っていたかが気になる。この時期、律法の記述はないが。
2Sm 5:25 ダビデは主の命じられたとおりに行動し、ゲバからゲゼルに至るまで、ペリシテ人を討ち滅ぼした。
23節には「ダビデが主に託宣を求めると」とある。具体的には、どうしていたのだろうか。同行の祭司にウリムとトンミムで占いをさせたのだろうか。サムエル記上30章7節「ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じた。『エフォドを持って来なさい。』アビアタルがダビデにエフォドを持って来ると」とあるが、どのような行為があったかは不明である。このあと「アヒトブの子ツァドクとアビアタルの子アヒメレクは共に祭司。セラヤは書記官。」(サムエル記下8章17節)とあり、祭司はこの二名が務めていたようだが、実際にどのような機能であったか不明である。
2Sm 6:21-23 ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。 わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」 サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。
主の前で踊る精一杯のことをダビデはしたかったのだろう。しかし、ミカルのことばに「お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで」はやはりとげも感じる。ミカルを呼び戻した経緯など問題がないとは言えないのだから。つぎの「わたしはもっと卑しめられ」がなにを意味しているのか不明であるが、ミカルによってが第一義的意味で、さらに預言的意味を含んでいるのかもしれない。最後にミカルに子が無かったことが記されているのは、当時の神の祝福に関する表現か、ダビデと、ミカルの価値観は、その「卑しめられ」にあるように、どんどん離れていったことを意味しているのかもしれない。
2Sm 7:8 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。
ダビデの応答が「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。」(18節)と記され、ダビデの家の将来について述べたことへの恐れおののきと感謝が述べられている。神の選びと、同時に、ダビデが神との関係をよろこぶことへの応答として将来についてのべている。神の友との記述はないが「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。」(使徒13章22節)と述べられている。この関係において預言を伝えているともいえるが、それこそが神との信頼関係の実体なのではないだろうか。
2Sm 8:18 ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。ダビデの息子たちは祭司となった。
17節に「アヒトブの子ツァドクとアビアタルの子アヒメレクは共に祭司。」とあり、それに引き続き、上の句がある。ダビデの息子たちが祭司であるとは、どのような意味だろうか。ユダ族である。祭司といっても、別の意味があるのだろうか。祭司はヘブル語は kohen が使われている。17節と同じ単語で、priest, principal officer or chief ruler とある。もう少しよく調べたい。口語訳でも祭司である。
2Sm 9:8 メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」
正直偽りのない言葉だったろう。同時に、恵みとはこのようなものだろう。この章は「ダビデは言った。『サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。』」から始まっている。気まぐれとも言える。一方的な理由無しの恵みとも言える。神様はどうなのだろうか。
2Sm 10:11,12 ヨアブは言った。「アラム人がわたしより強ければ、こちらを助けてくれ。アンモン人がお前より強ければ、そちらを助けに行く。 我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」
聖書での評価がむずかしい、ヨアブの言葉である。このヨアブの働きと信仰は、ダビデにとって非常に大きかったことは確かである。個人的な信仰に偏りがちのダビデに対して、神のとらえ方が異なるようにも思われる。聖書における評価はあまり高くないように見えるが、個人的には、ヨアブの生き方にならいたい。アラムは当時最大の国家で、歴史を通してイスラエルの近隣の強い国である。この章の基調も、アラムが滅ぼされたとはなっていない。絶対的な力ではなくなったということである。あるバランスを保つことができたのは、ヨアブの働きが大きかったと思われる。ここまで、ペリシテ、モアブ、アンモン、アラム、近隣の諸国が脅威とならない状態となったことが書かれているのだろう。これは、簡単ではない。
2Sm 11:16,17 町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。 町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
おそらく、ヨアブはある程度知っていたのだろう。ウリヤを送り返すようにダビデから指令が来たときから(11:6)。ヨアブの関心事と異なっていたのかもしれない。「なぜそんなに城壁に接近したのだ』と言われたなら、『王の僕ヘト人ウリヤも死にました』と言うがよい。」 (21節)もしかすると、ウリヤも知っていたかもしれない。そしてウリヤがたいせつにしていたことも別にあったのだろう。さらに、ウリヤの妻は拒否できない状況だったろう。だんだん闇が深くなる。ダビデのさまよっている闇が。
2Sm 12:7-9 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
主はナタンは何を責めているのだろうか。事実は「ヘト人ウリヤを殺し、その妻を奪って自分の妻としたこと」だろう。直接的に非難しているのは「主の意に背くことをした」ことである。「主の意に従う」ことがすべての前提にあったと考えると、契約的な関係が重要である、むろん、対等ではないが。権限も名誉も豊かさもすべて神から来ていることを忘れると言うことだろうか。もう少し適切なことばで表現したい。
2Sm 13:35,36 ヨナダブは王に言った。「御覧ください。僕が申し上げたとおり、王子たちが帰って来られました。」 ヨナダブがこう言い終えたとき、王子たちが到着した。彼らは声をあげて泣き、王も家臣も皆、激しく泣いた。
これだけのストーリーを書ける記者の力量に驚かされる。ヨナダブは正しいことを主張したかもしれないが、王と家臣と共に泣くことはできなかった。3節で「大変賢い男」と表現されているが、サムエル記記者はその賢さの内容まで知っている。シムアの子とされちるが、サムエル記上16章でのダビデへの油注ぎの時からの怨念だろうか。13節に表現されているタマルの賢さ、小道具として現れる「レビボット(『心』という菓子)」、ダビデは「激しく怒った」(21節)とあるが、何かしたようには書かれていない。自分の罪、神の意に背く者であることの自覚と、ナタンの預言がこころを支配していたのかもしれない。憎悪もひとつのキーワードである。そしてこの章は「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた。」(39節)と結ばれている。神様の背後での働きとは別に、多くのことを考えさせられる。
2Sm 14:22 ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福の言葉を述べた。ヨアブは言った。「王よ、今日僕は、主君、王の御厚意にあずかっていると悟りました。僕の言葉を実行してくださるからです。」
13章の最後の言葉に応える形で、この章が始まる。「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向かっていることを悟り、」(1節)そして「知恵のある女」の働き、最後はアブサロムとヨアブの関係。複雑である。ヨアブの目的は、王の心を試すことだったのだろうか。たしかに、弟アサエルを撃ったアブネルの殺害(3章)で王の心が離れたと考えたかもしれない。ウリヤの事件にも関係しているのかもしれない。複雑。
2Sm 15:19,20 王はガト人イタイに言った。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。 昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。わたしは行けるところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように。」
こころにしみる場面が続く。ウリヤの妻の事件からの主の裁きという位置づけなのかもしれない。王が以前ほどの絶対的カリスマを持っているとはいえないとき、なすことすべてが祝福されているとはいえないときの、それぞれのひとの行動とも言える。40歳になったアブサロムが求めたこと、このときのダビデ、分からないことが多いが、ガト人にひかれた。ガト人が最初に現れるのは、6章10節にある神の箱が置かれたオベド・エドムの家、そしてこの章である。18節には「家臣がまず王の傍らを通り、次いでクレタ人全員とペレティ人全員、それに続いてガトからダビデに従って来た六百人のガト人が王の前を通った。」経緯はわからないが、分離してきたのだろう。引用した箇所でも「兄弟たちと共に戻りなさい。」となっている。ダビデは、そしてイタイはなにをたいせつにしていたのだろうか。
2Sm 16:11,12 ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。 主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
10節では「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、」とあるが、ここでは「主の御命令で呪っているのだ。」と断言している。背景には、何事も神の御手の内にあること、神の許しがなければなにも起こらないとの信仰があるのだろう。さらに神のあわれみを乞う以外に祝福を受ける道はないことを。立派な信仰である。しかしそれは、一つの神理解だとも言える。時代とともに神理解が深化していると理解すればだが。そのことは、また、深めることにして、まずは、ダビデの信仰から学びたい。
2Sm 17:5 アブサロムは、「アルキ人フシャイも呼べ。彼の言うことも聞いてみよう」と言い、
歴代誌上27章33節には「アヒトフェルも王の顧問、アルキ人フシャイは王の友人であった。」すなわち、フシャイは「王の友」と呼ばれる。サムエル記下でも15章37節、16章16節でも「ダビデの友、アルキ人フシャイ」と表現されている。同17節では「アブサロムはフシャイに言った。『お前の友に対する忠実はそのようなものか。なぜ、お前の友について行かなかったのか。』」と問われている。顧問とは異なる存在なのだろう。友について興味をもつ。ヨハネ15章のイエスの友についても考えながら、友の役割について考えたい。
2Sm 18:17,18 彼らはアブサロムを降ろし、森の中の大穴に投げ込み、その上に石を積み上げて非常に大きな塚を作った。イスラエルの全軍はそれぞれの天幕に逃げ帰った。 アブサロムは生前、王の谷に自分のための石柱を立てていた。跡継ぎの息子がなく、名が絶えると思ったからで、この石柱に自分の名を付けていた。今日もアブサロムの碑と呼ばれている。
どのように戦いになったのかは不明である。アヒトフェルの策だけでなく、フシャイの策も、結局は実施されなかったのかもしれない。アブサロムについて、引用箇所の最後に記されている。何かを残したいというのは、人間の欲望として自然なのかもしれない。それとは別に、人々は、塚を作る。「非常に大きな」が印象的である。
2Sm 19:7 あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。わたしは今日、将軍も兵士もあなたにとっては無に等しいと知らされました。この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。
どうしても、この助言を与えたヨアブに惹かれる。冷静に見ると、ヨアブの問題もある。ヨアブのような異なった考えのリーダーがダビデの側近にいたことがたいせつなのかもしれない。本当にいろいろと考えさせられる。注意をひくのは、9節の「イスラエル軍はそれぞれ自分の天幕に逃げ帰った。」である。すでに、ユダ対イスラエルという構図ができあがっていたのかもしれない。ユダ対イスラエルについて、もう少しまとめてみたい。
2Sm 20:22 女は知恵を用いてすべての民のもとに行き、ビクリの子シェバの首を切り落とさせ、ヨアブに向けてそれを投げ落とした。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、兵はこの町からそれぞれの天幕に散って行った。ヨアブはエルサレムの王のもとへ戻った。
「そこにベニヤミン人ビクリの息子でシェバという名のならず者が居合わせた。」(1節)から始まっている。イスラエルは主導権争いだろうか、つねに、ユダの王に従うことには、警戒感を持っていたのだろう。しかし、この物語にも、驚かされる。この「ならず者」問題を解決し、古い町をまもったのは、知恵のある女性だったと言うことである。イスラエルの当時の社会について、あまりにわたしは分かっていないことを示しているのだろう。しかし、興味深い。
2Sm 21:1 ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」
ギブオンはヨシュア記9章に書かれている欺いてイスラエルと契約を結んだ民である。契約を絶対的なものだと考えていたことがわかる。ヨシュア記21章17節を見るとギブオンはベニヤミンのなかにいたようである。サムエル記下2章では、ギブオンでの戦いで、ヨアブの弟アサエルが殺された記述があるが、ギブオン人殺害については、調べられなかった。託宣についても、興味があるが、問題があったとき、過去を振り返り反省するのは、自然な行為だろう。「この後、神はこの国の祈りにこたえられた。」(14節)と記されている。ダビデの一連の行為が良しとされたとの記録なのだろう。
2Sm 22:1-3 ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に、次の言葉をもって主に歌をささげた。 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え/不法から救ってくださる方。
ダビデの信仰告白といってよいだろう。この歌を、普遍的なものとして、受け入れようとしていたが、おそらく、そうでなくてよいのだろう。主は、ダビデに、このように現れたのだろう。関係であるのだから。しかし、ここに、ダビデの人生のすべてがある。わたしは、どうだろうか。どのような歌を歌うだろうか。主の歌を。
2Sm 23:15 ダビデは、「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに」と切望した。
「以下はダビデの最後の言葉である。」(1節)から始まり「以下はダビデの勇士たちの名である。」(8節)とあり、勇士のリストが書かれている。引用したところはそのなかで、際立っているが、ダビデに命を預けた者が多かったのだろう。おそらく、ダビデの個人的な思いに振り回されているとも思ったであろうが、それ以上の魅力と、ヨアブのようなしっかりとした軍の長によって、統率力を維持しつつけたように思われる。これも、ダビデや、ダビデの関係者だからなしえたことのように思われる。普遍化は、危険でもある。
2Sm 24:3 ヨアブは王に言った。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」
ダビデはなぜ民の数を知りたかったのだろう。おそらく、その心には、複雑なものもあるだろう。しかし、そこに信仰に反するものを、ヨアブは、見取っていた。そして、それは、正しかったのだろう。聖書は、しかし、ヨアブの行為については、殆ど沈黙している。聖書記者がヨアブをどのように見ていたか、とても興味がある。

BRC2015

2Sm1:13 ダビデは、知らせをもたらした若者に尋ねた。「お前はどこの出身か。」「わたしは寄留のアマレク人の子です」と彼は答えた。 ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」 
寄留の外国人の地位は不明であるが、ここでは、寄留しているにもかかわらず、主が油注がれた方を敬わなかったということだろう。しかし、これまでの状況を考えると、兵士や側近でさえ、サウルを殺そうと助言している。あまりに酷、それも、寄留者の弱さを考えると、同情してしまう。上30章など、ダビデのアマレクに対する厳しさの故か。差別は本当に難しい。信仰を伝える事も。
2Sm2:16 彼らはそれぞれ相手の頭をとらえ、剣を相手の脇腹に突き刺し、皆共に倒れた。その場所はヘルカト・ツリムと呼ばれ、ギブオンにある。 
壮絶かつ痛々しい。兵士同志に憎しみや怒りはない。ひとはそれでも戦い殺し合わなければならないのか。26節・27節の言葉はそれぞれの認識としても貴重である。「アブネルはヨアブに呼びかけて言った。『いつまで剣の餌食とし合うのか。悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい。いつになったら、兄弟を追うのはやめよ、と兵士に命じるのか。』ヨアブは答えた。『神は生きておられる。もしお前がそう言い出さなかったなら、兵士は朝までその兄弟を追い続けたことだろう。』」 兄弟とわかっていても、兄弟として愛することができない。その状態が痛々しく、さらに痛々しい現実を生み出す。
2Sm3:6-8 サウル王家とダビデ王家の戦いが続くうちに、サウル王家ではアブネルが実権を握るようになっていた。 アヤの娘でリツパという名の女がいた。この女はサウルの側女であった。ある日イシュ・ボシェトはアブネルに、「なぜ父の側女と通じたのか」と言った。 アブネルはイシュ・ボシェトの言葉に激しく怒って言った。「わたしをユダの犬どもの頭とでも言われるのですか。今日までわたしは、あなたの父上サウルの家とその兄弟、友人たちに忠実に仕えてきました。あなたをダビデの手に渡すこともしませんでした。それを今、あの女のことでわたしを罪に問おうとなさる。 
十分理解できる状況であるが、ここから崩れ始める。1節の「サウル王家とダビデ王家との戦いは長引いたが、ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は次第に衰えていった。」が暗示している。自分の力が強くなっていっても、それは、非常に狭い世界での評価であることを、アブネルは知っていたろう。もう、自分自身を支えきれなかったのかも知れない。いずれにしても、このあとのダビデの行動と、パルティエルのことなど、聖書は、きれい事を好まない。英雄を美化しない。歴史というべきか、現実と言うべきか、それを直視するすごさを感じる。
2Sm4:10,11 かつてサウルの死をわたしに告げた者は、自分では良い知らせをもたらしたつもりであった。だが、わたしはその者を捕らえ、ツィクラグで処刑した。それが彼の知らせへの報いであった。 まして、自分の家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺したのだ。その流血の罪をお前たちの手に問わずにいられようか。お前たちを地上から除き去らずにいられようか。」 
これがダビデの誠意の尽くし方である。美しいとして思考を打ち切ることもできる。しかし、冷静に見ると、サウルの時と、イシュ・ボシェトには、ギャップはある。主に(サムエルであるが)油注がれたものと見るかどうかである。もう少し普遍的な価値、すなわち、主を畏れるものが取るべき態度という考え方もあったかも知れない。ここではベエロト人リモンの子レカブとバアナについて語られているが、ベエロト人については、ここ以外に、23:37 および 1Ch11:39に、ダビデの特別な三十人の兵士としてベエロト人ナフライの名前があるだけであり不明。イスラエル人ではなかった可能性が高い。それにしても、12節の行為は残忍。無批判に是とすることはできない。
2Sm5:6-8 王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」 しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。 
これがエルサレムがイスラエルに帰した記録である。8節については、前回も記録しているが、このことが是正されるにはどのくらいかかったのかと考えると、本当に悲しい。神殿という意味では、是正されなかったのかも知れない。少なくとも記録されているのは、たとえ「目の見えない者、足の不自由な者でも」と、ダビデ軍の弱さを例えているに過ぎない。最後の部分は、ダビデが決めたのではないかも知れないが、このような習慣には特別に目を光らさなければならない。まったく非合理的かつ神様の御心も無視している。このような判断も人に委ねられているのだから、人の責任は大きい。
2Sm6:6-8 一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。 ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたためである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。
いろいろと考えさせられる。9,10節で、「ダビデは主を恐れ」「自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。」とある。さらに、主の箱を向入れるためのダビデの行動が書かれ「人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。」(17節)とある。さらに22節には、ミカルとのやりとりで「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」 との預言的なことばも記録されている。少なくとも、祭司・レビ人による祭儀が適切に行われなかったゆえに、神が怒られたという単純な構造として理解するのには無理がある。じっくりと考えたい。
2Sm7:7 わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。 
聖書を読んでいると、常に、神のことばに注目する傾向がある。しかし、それも注意を要するかも知れない。たとえばこの箇所も、預言者ナタンが伝えた言葉として書かれている。サムエル記の神学と言える部分もあるだろうし、ナタンが受け取った言葉として帰されている面もある。やはり、神への応答のひとつとも言える。18節から最後に書かれている、ダビデ王の祈りとあわせて、ていねいに読みたい。聖書が神話を排除しているなら、読むものも、そのように読まなければ、理解できないはずである。聖書は誤りなき神のことばとの理解も、非常に大きな幅と深さがあることが感じさせられる。
2Sm8:1,2 その後、ダビデはペリシテ人を討って屈服させ、ペリシテ人の手からメテグ・アンマを奪った。 また、モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄ではかり、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた。モアブ人はダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。 
このあと、様々な地域を支配し、隷属させていく記事が続く。その最初が、ペリシテとモアブである。この二つは特別とでも表現しているようだ。ペリシテは、この当時、イスラエルと隣接し、殆どイスラエルを支配していたとも言える民族であるが、同時に、ダビデが、サウルから逃亡中に身を寄せていた地域でもある。モアブは、ダビデの曾祖母の出身民族である。そのような知識を十分持っている人たちにこのように語っている。一つ一つの解釈には幅があるだろうが、全般的には、ダビデの支配によって、イスラエル民族主義の傾向が強くなっていったとは言えるだろう。順調に見えるときに、すでに、問題は明らかになりつつあるとも言えるかも知れない。歴史を直視する感覚には、驚かされる。
2Sm9:1 ダビデは言った。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」 
このことが、複雑な問題を生じさせることを、われわれは知っている。表面的には、ヨナタンとの友愛と忠誠、しかし同時に、個人的な判断であり、道楽といえば怒られるとしても、ある地位の者が恵みを施す感覚が見え隠れしてしまう。また、前にも書かれ(4:4)、13節にも「メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。」とあるように、メフィボシェトは障害者である。5章のエルサレム攻略の記事と比較すると、障害者に対する感覚も、疑われる。個人的な経験と感覚が、ダビデの主に対する愛の素晴らしさであると同時に、公平さを欠き、民族主義を助長していることも、否めない。難しい。
2Sm10:2 ダビデは、「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ」と言って、使節を遣わして哀悼の意を表そうとした。ところが、ダビデの家臣たちがアンモン人の領地に入ると、 アンモン人の高官たちは主君ハヌンに言った。「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の使節を送って来たとお考えになってはなりません。この町を探りうかがい、倒そうとして、家臣を送り込んだにちがいありません。」 
アンモン人との戦いは、士師記10章から12章に書かれている。申命記23:4には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」地境を接した隣国であれば、問題は複雑だったろう。ここでも、ダビデは、個人的な関係に焦点をあてて、判断をしている。それは、重要ではあっても、それだけで決定されるわけではないだろう。イスラエル側からだけでなく、敵対する側から聖書を読むこともできるのだろうか。しかしそれができなければ、おそらく中東の平和は来ない。
2Sm11:11,12 ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」 ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。 
ダビデは、ここで悔い改めることはできなかったのか。2節は「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。」と始まっている。人は、簡単に罠に陥る。ひとのこころがわからなくなってしまう。常に、現場とつながっているという表現は、正確ではないかも知れないが、真摯なことばに、聞き、その背後にある、その人の生活と、痛みと、思いに、共感できるような者でありたい。それが極度に困難だと思われる、世の為政者のためにも祈らなければいけないのだろう。特別な困難を背負っていると同時に、その難しさを克服しなければ、重大な問題を生じるのだから。
2Sm12:24,25 ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。 
主が特別に愛されたことがわかる。ナタンもそのことを伝えることに関与している。バト・シェバとの最初の子が死んだことと、無関係ではないように思われる。そのことで、ダビデが苦しんだように、そして当然、バト・シェバも苦しんだろう。それにも増して、主の側にも苦しみがあったのではないだろうか。愛されているもの、幼子が死んでいくのだから。
2Sm13:13 わたしは、このような恥をどこへもって行けましょう。あなたも、イスラエルでは愚か者の一人になってしまいます。どうぞまず王にお話しください。王はあなたにわたしを与えるのを拒まれないでしょう。」 
このあとの、15節とともに、いろいろと解釈ができる。ひとつには、自分の愚かさを指摘した、この正しさを、アムノンは受け入れられなかったのかも知れない。アムノンも、アブサロムも、若い時期は難しい。親の教育か、それとも、成長の一段階として受け入れるしかないのか。友人の影響も考えてしまう。ヨナダブはこのことをおそらく予想していたろうから。
2Sm14:15 王様のもとに参りまして、このようなことを申し上げますのは、民がわたしに恐怖を与えるからでございます。王様に申し上げれば、必ずはしための願いをかなえてくださると思いました。 
口語訳は「わたしがこの事を王、わが主に言おうとして来たのは、わたしが民を恐れたからです。つかえめは、こう思ったのです、『王に申し上げよう。王は、はしための願いのようにしてくださるかもしれない。」となっていて、その方がわかりやすいように思われる。このアブサロムのこと、そしてその事後処理は困難な問題である。自分がヨアブの立場ならどうしただろうか。ひとつひとつ判断が難しいことが起こっている。単純に12章にあるナタンの叱責による預言の成就ともとれるだろう。それが、サムエル記の神学なのかも知れない。しかし現実を読み取ろうとするとさらに難しい。
2Sm15:30 ダビデはオリブ山の坂道を登ったが、登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った。彼と共にいる民もみな頭をおおって登り、泣きながら登った。 
たくさん書きたいことがある。しかし今はこのダビデに寄り添ってみよう。この嘆きには、息子アブサロムへの愛もあったろう。自分の罪への悔いもあったろう。そこで32節「ダビデが山の頂にある神を礼拝する場所にきた時、見よ、アルキびとホシャイはその上着を裂き、頭に土をかぶり、来てダビデを迎えた。」とある。ホシャイこそ、友と言える人なのだろう。ダビデの心と共にある。30節に戻って、ダビデは自暴自棄のようにも見えるが、実際は、情報網も残し、かなり賢く行動している。最終的な判断・裁きを神に委ねつつも、可能なことをすべて冷静に実行しているようにも見える。考えさせられることが多い。
2Sm16:21 アヒトペルはアブサロムに言った、「あなたの父が家を守るために残された、めかけたちの所にはいりなさい。そうすればイスラエルは皆あなたが父上に憎まれることを聞くでしょう。そしてあなたと一緒にいる者の手は強くなるでしょう」
何とも悲しい。そして、愚かでもある。人の心は、このようにしてつかめるのだろうか。それとも、それほどまでに、この時のダビデは、疎まれるようになっていたのだろうか。単に若いと言うことか。ダビデの子として、ダビデから学んだことは、殆ど無いと言うことだろうか。少なくとも、神に信頼する事は、伝わっていない。それは、ダビデの責任なのだろうか。
2Sm17: 19 女はおおいを取ってきて井戸の口の上にひろげ、麦をその上にまき散らした。それゆえその事は何も知れなかった。 
この女についても、記されているのはこれだけである。このときこの家の主人はなにをしていたのか。いずれにしても、この女の機転で、ヨナタンとアヒマアズが助かり、そして、それによって、ダビデは助かる。ダビデへの信頼だろうか。それは、なぜアブサロムには伝わらなかったのだろう。ひとの心は複雑、そして不思議。
2Sm18:12,13 その兵はヨアブに言った。「たとえこの手のひらに銀千枚の重みを感じるとしても、王子をこの手にかけたりはしません。王があなたとアビシャイ、イタイに、若者アブサロムを守れ、と命じられたのを我々は耳にしました。 仮に、わたしが彼の命を奪ってそれを偽ろうとしても、王には何一つ隠せません。あなたもわたしを非とする側に立つでしょう。」 
ここでアブサロムを撃つことは、この戦いの目的であったことは確かだろう。ダビデの望んでいたことはそうでなかったこともわかる。この兵や、王のことをよく理解して、一人の兵卒として活動している。最後にあるように、弱い立場であることもわきまえているが。わたしも主にたいして、このような兵卒でありたい。同時に、この世においては、正しいか間違っているかはそれほど、単純ではなく、ダビデが正しいとも言えない事も感じる。ヨアブの物語もとても興味深い。
2Sm19:36 わたしはもう八十歳になります。善悪の区別も知りません。この僕は何を食べ何を飲んでも味がなく、男女の歌い手の声も聞こえないのです。どうしてこの上主君、王の重荷になれましょう。 
この章は本当に興味深い記事が満載である。その中で、この節について書いてみようと思う。わたしも61歳となり、退職の時も近づいてきている。そのあとのことは、まだ決まっていない。ボランティアのようなことができればよいが、それで、生き生きと生きられるかどうかは不安もある。しかし基本的に、このバルジライのように、自分の状況を謙虚に理解していたい。さらに、バプテスマのヨハネのように、神様からの使命のなかにおける、自分の役割も謙虚に把握しておきたい。退くときに適切に退くことができるように。その鍵は、おそらく、神様への信頼であろう。そして、どのような状態でも、神様と共に生きることを楽しむ、神様を喜ぶことに集中する事であろうか。いまのように、忙しい毎日であっても、なにかしなければいけない事が定まっていない毎日であっても、神様を喜ぶ生活を、送りたい。それは、自分のいのちを犠牲にする生活ではなく、ますます生き生きと生かす、そして生かされる生活だと信じる。そのような生活に、神様が導いて下さる事を信じる。
2Sm20:6,7 ダビデはアビシャイに言った。「我々にとってビクリの子シェバはアブサロム以上に危険だ。シェバが砦の町々を見つけて我々の目から隠れることがないように、お前は主君の家臣を率いて彼を追跡しなさい。」 ヨアブの兵、クレタ人とペレティ人、および勇士の全員が彼に従ってエルサレムを出発し、ビクリの息子シェバを追跡した。 
ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、アサエルのうちアサエルはすでに死んでいる。(2Sm2)アビシャイについては 1Sm26 にも記されている。アブサロムを殺したヨアブを退け、アマサ(ヨアブ達のお母さんの姉妹の子)を軍の長につけたダビデ、ヨアブはどんな状態でも、勇士として、戦っているように見える。むろん問題もないことはない。サムエル記記者はこれらのこととのち、20:33 に「ヨアブはイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。」と記している。どの社会もつねに困難がある。欠けの多い人間の集団だから。わからないことだらけである。
2Sm21:16,17 ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは、三百シェケルの重さの青銅の槍を持ち、新しい帯を付けて、ダビデを討つ、と言った。 しかし、ツェルヤの子アビシャイは、ダビデを助けてこのペリシテ人を打ち殺した。それ以来、ダビデの家来たちはダビデに誓わせた。「以後、我々と共に戦いに出てはなりません。イスラエルの灯を消さぬよう心掛けてください。」 
ダビデがゴリアテを倒したのは、これらの初穂であったかもしれない。ペリシテは大きな脅威だったのだろう。ここにダビデのことが記され、以前のように、常に中心ではいられないことが書かれている。ダビデの、心はどうだったのだろう。この章の記事を読んでも、戦いに明け暮れ、どうみても簡単に正しさが主張できない、悲しみと苦しみを伴った人生のなかで、主に従い通したダビデ、これが十字架を負って生きることかも知れない。そしてそれは、正しい道ではなくても、人がなし得るすべてなのかも知れない。
2Sm22:26-28 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には策略を用いられる。 あなたは貧しい民を救い上げ/御目は驕る者を引き下ろされる。
本当にそうだと思うが、なぜダビデはこのように告白できるようになったのだろう。多くの事が語られているが21節の「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。」延長線上として、上の言葉があるのだろうか。主に従うことから、この因果応報的なことばを越えて、神の性質と出会っているのかも知れない。
2Sm23:3b,4 神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は 太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。 
ここでは三つの光に例えている。太陽の輝きです朝の光、雲もない朝の光と共に、最後の「雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。」は特別な感じがする。雨にも思いがいく。
2Sam24:10 民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」 
この気持ちはよくわかる。わたしも歳をとってきて、自分が何をなしたかが気になり始める。そのようなことで、罪を犯さないようにしたい。神様なしには、何も為し得ないことを知ることか。

BRC2013

2Sam1:8 彼は『おまえはだれか』と言いましたので、『アマレクびとです』と答えました。
このあとのやりとりは理不尽きわまりない。この青年が殺されたのは、アマレク故か。ウソの故か。
2Sam2:22 アブネルはふたたびアサヘルに言った、「わたしを追うことをやめて、ほかに向かいなさい。あなたを地に撃ち倒すことなど、どうしてわたしにできようか。それをすれば、わたしは、どうしてあなたの兄ヨアブに顔を合わせることができようか」。
どういう関係だったのか。もしかすると、サウルと共に、一時期、一緒に戦いに出たこともあったかもしれない。アブネルはヨアブの性格をよく知っていたのだろう。
2Sam3:37 その日すべての民およびイスラエルは皆、ネルの子アブネルを殺したのは、王の意思によるものでないことを知った。
ダビデは何を考えていたのだろうか。分裂を恐れたのか。
2Sam4:2 このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバアナとレカブといい、共にベニヤミンの者で、ベエロトのリモンの息子であった。ベエロトもベニヤミン領と考えられるからである。
歯切れのよくない記述である。おそらくベニヤミン族では無かったのだろう。しかし、ベニヤミン族に加えられた。略奪隊の長とあるが、いろいろな結びつきがあったのだろう。同族や、一つの信仰でひとつにまとまっていたと考えるのは妄想だろう。
2Sam5:8 そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。
なんともひどい、v6でエブスびとが言ったのは「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」この時代は、ダビデが言ったこと行ったことすべて是とされたのだろう。たとえそれが正確に伝えられなくても。主もそれを受け入れられたのか。
2Sam6:16 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。
ミカルはダビデを愛していた。(1Sam18:20) 1Sam19 では、サウルに狙われているダビデをすんでのところで逃がしている。しかし、1Sam25:44 では、ガリムの人であるライシの子パルテに、サウルによって嫁がされている。1Sam3:15 でここでは、ライシの子パルテエルと言われているが、その夫からダビデのもとに連れ戻されている。そして、この6章の記述が最後である。このときには、すでに、ダビデから心が離れていたのかも知れない。そして、ダビデも。
2Sam7:17 ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。
記述がすこしわかりにくいが、ダビデに神殿のことと、将来のことが告げられる箇所である。ナタンがあきらかに、ダビデの意思ではなく語っていることが分かる。これが信仰の表れであろう。
2Sam8:6 そしてダビデはダマスコのスリヤに守備隊を置いた。スリヤびとは、ダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。
「ダマスコのスリヤ」という表現がよく分からないが、世界で一番古いとも言われる町、ダマスコにまで守備隊を置いたと記されている。大変な事なのだろう。ダビデの曽祖母のルツがモアブだったことをどうとったとしても、この残虐さには、驚かされる。すべての人の救いとなるためには、これは、克服されなければならない。
2Sam9:11 ヂバは王に言った、「すべて王わが主君がしもべに命じられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。
このあとの、ヂバの行動も解しにくいが、ヂバにも複雑な思いがあったのかも知れない。多く語られていないだけに、興味を持つ。
2Sam10:12 勇ましくしてください。われわれの民のため、われわれの神の町々のため、勇ましくしましょう。どうぞ主が良いと思われることをされるように」。
この言葉と、11章のダビデの行為との落差に驚く。筆者の構成力にも驚かされる。どんな人だったのだろう。
2Sam11:27 その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。
ダビデは何を考えていたのだろう。7章の故だろうか。このような危機がどのようなときに起こるのか知りたい。
2Sam12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
ここは、サムエル記下のなかで一番良いところかも知れない。しかし、このダビデは、なぜ、こうも単純に、罪を認められたのだろう。ナタンの前にいることを、神の前にいることと受け止めることができたのだろう。ダビデにとって、生かされることはひとつの裁きだったのだろうか。
2Sam13:15 それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った、「立って、行きなさい」。
アムノンのこころをいろいろと想像することはできる。しかし基本的には、自分が求めていたものそれを手に入れたときの失望は、手に入れた者に対する失望ではなく、自分への失望、自分という存在への失望だったのではないだろうか。「非常に賢い」と3節で言われている、ダビデの兄弟シメアの子ヨナダブ、それは、どのような、賢さだったのか。32節をみると、恐ろしさも感じる。
2Sam14:27 アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。
13:1 によると「さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。」この事件から、ひきこもっていたタマルのことを思い、娘にその名前をつけたのかもしれない。話としても細部までさりげなくよく書かれている。
2Sam15:6 アブサロムは王にさばきを求めて来るすべてのイスラエルびとにこのようにした。こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を自分のものとした。
新共同訳では「イスラエルの人々の心を盗み取った」となっている。自分のものとする。そこに興味があったということか。
2Sam16:11 ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。
ダビデは自分の罪がこのことを招いたことを知っていた。ただ、ひたすら、神の憐れみを求める、待つことだけが、ダビデがすべきこととわきまえていたのだろう。2Sam12:11,12.
2Sam17:23 アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。
アヒトペルについては理解できないが、ダビデとしては、これが幸いしたのかも知れない。「そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった。」(2Sam16:23) たとえそうであっても、はかりごとに、神の意思はないように思われる。
2Sam18:15 ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。
ヨアブの武器を執る者は、ヨアブと心を共にしていたと言うことか。しかし、ここで、ヨアブを攻める気にはならない。
2Sam19:6 それはあなたが自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、軍の長たちをも、しもべたちをも顧みないことを示されました。きょう、わたしは知りました。もし、アブサロムが生きていて、われわれが皆きょう死んでいたら、あなたの目にかなったでしょう。
ダビデとはどういう人だったのか。このヨアブの表現は正確ではないにしても「きょう」以下のことばは、当たっていることは確かだったろう。ダビデは、すべて個人的な神との関係でとらえていたのだろうか。
2Sam20:7 こうしてヨアブとケレテびととペレテびと、およびすべての勇士はアビシャイに従って出た。すなわち彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シバのあとを追った。
ヨアブはアマサを撃つ機会を狙っていたのだろう。19:13 など、やはり、ダビデのリーダーシップの問題を感じてしまう。
2Sam21:1 ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」。
ギベオン人は、イスラエルにとって、なんと大きな意味を持っているのだろう。ヨシュア記7章からつづくとげのようなものか。しかしこのサウルとギベオンの時期が明確に記されているわけではない。2章、および 3:30 にギベオンが地名として現れる。
2Sam22:25 それゆえ、主はわたしの義にしたがい、/その目のまえにわたしの清きにしたがって、/わたしに報いられた。
このようにいうことは、ここまで読んできた読者には、受け入れられないだろう。この部分の時期を、ウリヤの妻のこと以前におくこともできるかもしれないが、もしかすると、ダビデの罪を含めて、これが信仰告白なのかもしれない。主が赦してくださった、そのことをそのまま受け入れて、このように告白しているのかもしれない。
2Sam23:24 三十人のうちにあったのは、ヨアブの兄弟アサヘル。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。
そしてこの段落の終わりは、39節の「ヘテびとウリヤ。合わせて三十七人である。」となっている。アサエルは、2Sam2:23 でアブネルによって戦いの中で殺され、ウリヤは、11章でアンモンとの戦いで戦死する。リストの他のひとについて、詳細は書かれていないが、みな、そのように戦死した人なのかもしれない。
2Sam24:3,4 ヨアブは王に言った、「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。そして王、わが主がまのあたり、それを見られますように。しかし王、わが主は何ゆえにこの事を喜ばれるのですか」。しかし王の言葉がヨアブと軍の長たちとに勝ったので、ヨアブと軍の長たちとは王の前を退き、イスラエルの民を数えるために出て行った。
主にひたすら信頼することから離れその祝福の豊かさの限界を定めることをよしとしなかったのか。ヨアブだけではなく、他の軍の長たちも同じであったことが見て取れる。分裂の前触れともなっているのかもしれない。9節「そしてヨアブは民の総数を王に告げた。すなわちイスラエルには、つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。」


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列王紀上

サムエル記の項でも書きましたが、サムエル記上・下と列王紀上・下あわせて4巻(もともとは巻物ですから)が「王国の歴史」です。サムエル記上・下は、サウル王とダビデ王という、サムエルが神様から示されて油を注いで任職した二人の王についての記述でした。サムエル記上はサウル王がペリシテとの戦いで死ぬまで、サムエル記下はダビデ王の治世について書かれていました。しかしサムエル記ではサムエルはかなり早い時点で亡くなりますし、サウルがどの程度の支配力を持っていたかも不明です。記事としてはサムエル記上でもダビデが中心に描かれています。そう考えると「王国の歴史」の少なくとも半分はダビデの記録ということになります。ユダヤにおいて「王国の回復」は「ダビデ王国」の復興と結びついて考えられるのは当然とも言えるでしょう。そしてそれは単なる支配地域や戦力を意味するのではなく、王国のリーダーとしてのダビデがどのように神に従っていったかを中心として、語られています。そのなかに、何回か、明かなダビデの過ちが記されており、かつこれはどうだろうかと思わされる行為もいくつも記されていることを確認することは、聖書全体を理解する上でも大切でしょう。

すでに、お気づきの方もおられると思いますが、翻訳により書名も「列王記」となっていたり「列王紀」となっていたりします。もしかするとわたしの記述にも混在があるかもしれません。この記事は、口語訳を中心に書いており、通読記録は、そのときに読んでいる訳のことばを基本としています。(口語訳は「列王紀」、新共同訳および新改訳は「列王記」となっています。I, II か、上・下かも訳によって異なっています。)

2011年のキリスト教週間の特別キリスト教概論に並木浩一先生をお招きしてお話しいただきましたが先生の言い回しをまねさせていただくと「歴史の神話化に抗い、イスラエルの民の体験を内面化して経験として認識し継承する」ことがなされているのが聖書ということになるでしょうか。

列王紀上・下はダビデ後の王朝の歴史となります。最初はアドニヤが自ら王位継承を宣言するところからはじまって、ソロモンが正式に王位を継承する記事が書かれています。前回もわたしはヨアブ(ダビデのいとこで軍の長)に興味があると書きました。ダビデは御しがたいとしてヨアブの扱いに苦慮していたことがサムエル記下に記され、遺言にもそのことが記されていますが、結局ヨアブはこのアドニヤ事件がきっかけでソロモンに殺されます。さてそのソロモンはどのような王だったのでしょうか。ソロモンを最後に王国は二つに分裂します。北イスラエル王国と南ユダ王国と呼ばれています。

何がまずかったのかという読み方もできると思いますが、神との契約、神のいつくしみ(いつくしみとは何でしょうね)、神の祝福、つまり、神様との約束、神様の救いをこの「王国の歴史」から見るとするとわたしは列王紀上8章がよいのではないかと思います。残念ながらここが転換点ともなっていますが、じっくりそれまでの歴史をふまえて8章を読んでみて下さい。長いこと聖書神学舎という浜田山にある神学校(キリスト教の牧師・宣教師になるための勉強をする学校)の校長をしていた船喜信牧師はいのちのことば社の新聖書講解シリーズ「列王紀」でこの「王国の歴史」4巻は旧約の使徒行伝(使徒言行録・使徒の働き)のような位置を占めていると書いています。王国とともに神がどのように働かれたか、そしてそれを「王国の歴史」を記したひとたちがどのように受け取って伝えようとしたかを見ていくのもよいでしょう。

列王紀

  1. ソロモン 列王紀上1-11
  2. 王位継承(その1)列王紀上12-16
  3. エリヤとエリシャ 列王紀上17-列王紀下10
  4. 王位継承(その2)列王紀下11-25

通読とは無関係ですが、わたしは家内と朝「アパ・ルーム」(Upper Room) という黙想のための小冊子を日本語と英語で読んでいます。これは殆どが信徒、それも世界中の地域の信徒の書いた記事で構成されているところがほかの同種類のものと違うところだと思います。非常に多くのことばに訳されています。その2011年5月23日の記事につぎのようなものがありました。

アメリカのニューヨーク州のシンシア・クラークさんというかたの「おばあさんの神様」という寄稿です。「私の祖母は、子供たちにとって理想の祖母でした」からはじまり、「祖母が応接室に落ち着くとすぐに、私は母が裁縫箱に貯めているボタンの入った瓶をもって祖母のところにいきました。私はボタンをきちんと分けて種類ごとに集めておいて、祖母が私のベッドの横に座ったとき、二人でそれを見ながらおしゃべりするのが大好きだったのです。私は、私よりずっとボタンの好きな祖母がいるなんて何と幸せだろうと思ったことを思い出します。勿論今は、祖母がボタンが好きなのではなく、私が好きだったのだということがわかっています。」として最後に「この祖母についてのわたしの記憶のうちに、神の美しいイメージがあります。度々私は、神が近くにおられるのを感じます。それは、神が、私がしていることに特に興味を持っておられるのではなく、私と私が愛しているものに興味があるからなのです。宇宙万物の創造主は、私の単純な喜びを共有することを選ばれます。それは私のうちにあるこの驚くべき神の喜びの故です。」最後には次のフレーズが書かれていました。「神は私と、私たち一人一人を喜ばれます。」

聖書に書かれている神は、正しい方ですが、われわれを見張っていて間違いを見つけ出しそれによってさばくことを欲しておられるのではなく、私たち一人一人の喜びに興味を持ち、共有することを欲しておられるのではないかと思います。祈りは神様のこころとのシンクロナイズとよくいわれますが、わたしたたちが完璧に神様の思いと同じになることを意味してはいません。それは不可能でしょう。神様の愛故に、ダビデのことを使徒行伝 13:22 で 'I have found David son of Jesse, a man after my own heart; he will do everything I want him to do.' と言っています。その意味で、神様のこころを心とすることができると良いですね。

最後に列王記を読む助けとなる資料のリンクを二つあげます。英文は膨大ですので、日本語のもののみ。

  1. 「聖書大百科」のサンプルとして出ている2ページ「ユダ王国の王たち」
    http://www.sogensha.co.jp/biblica/pdf/04.pdf
  2. 北イスラエル王国、南ユダ王国年代表
    http://meigata-bokushinoshosai.info/swfu/d/auto_Z0Olvq.pdf
    (北海道砂川市にある空知太栄光キリスト教会の牧師 銘形秀則先生のホームページより。内容をしっかり読んでいないので紹介はさけますが、膨大な量の情報がこの方のホームページにもあります。インターネットの普及による貢献の一つですね。)


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聖書通読ノート

BRC2023

1King 1:5,6 さて、ハギトの子アドニヤは思い上がり、「この私が王になるのだ」と言って、戦車と騎兵と五十人の護衛兵をそろえた。こうなったのも、彼が生まれてこの方、父親が、「どうしてこんなことをしたのか」などと言って厳しくしつけることがなく、またアドニヤ自身、容姿端麗で、アブシャロムの次に生まれた子だったからである。
このあとに、二派に分かれたことが書かれていて「彼は、ツェルヤの子ヨアブと祭司のエブヤタルに話を持ちかけたので、彼らはアドニヤを支援した。しかし、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、預言者ナタン、シムイとレイ、およびダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。」(7,8)となっている。ダビデのリーダーシップが弱まったことを意味しているのだろう。老人になったこともあると思われるが、自信喪失もあるだろう。人生は、難しい。個人の信仰ではなく、民のことを考えなければ、個人的にも平安は得られないことをいっているのだろうか。先の預言者の神学をもう少し理解したい。
1King 2:31-33 王は言った。「彼の言うとおりにし、打ち殺して、葬り去りなさい。こうしてヨアブが訳もなく流した血を、私と私の父の家から拭い去るのだ。主は、ヨアブが流した血を彼自身の頭上に返される。父ダビデが知らないうちに、ヨアブは自分よりも正しく善良な二人の者、イスラエルの将軍ネルの子アブネルと、ユダの将軍イエテルの子アマサを討ち、剣にかけて殺していた。二人の血は、ヨアブとその子孫の頭上にとこしえに降りかかるように。だが、ダビデとその子孫、王家とその王座には、いつまでも続く主からの平和があるように。」
ダビデからソロモンへの言葉を忠実に実施していることが書かれている章である。ソロモンの名でもある「平和」が鍵となっている。ただ、正しいわけではないことも感じる。たしかに、アブネル、アマサ殺害を快く思っていなかった一群がいたことは確かだろう。しかし、この二人が殺害されたために安定したと考えた人たちもいただろう。この章の最初には「あなたの神、主への務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおりに、主の掟と戒め、法と定めを守りなさい。そうすれば、何をしても、どこに行っても成功するだろう。また、主は私に告げられた次の言葉を実現してくださるであろう。『あなたの子孫が、誠実に私の前を歩もうと、心を尽くし、魂を尽くして、その道を守るなら、イスラエルの王座に着く者が絶えることはない。』」(3,4)後半は、引用だとは思えないが、列王記の鍵となる言葉なのかもしれない。また、「律法」ということばは、サムエル記上・下にはなく、列王記上ではここだけで、列王記下から登場する言葉である。
1King 3:11,12 神は言われた。「あなたが願ったのは、自分のために長寿を求めることでもなく、富を求めることでもなく、また敵の命を求めることでもなかった。あなたが願ったのは、訴えを聞き分ける分別であった。それゆえ、あなたの言うとおりに、知恵に満ちた聡明な心をあなたに与える。あなたのような者は、前にはいなかったし、この後にも出ないであろう。
この章は「ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚関係を結び、ファラオの娘をめとった。ソロモンは彼女をダビデの町に迎え入れ、宮殿、主の神殿、エルサレムを囲む城壁の建築が終わるまで、そこに住まわせた。」(1)と始まる。カナンの地が平定されて、エジプト王が一目置くようになったということだろう。文化的な交流も始まると思われる。引用句はそのあとに置かれている。逆の順序にはおそらくならないのだろう。注意深く配置されている。ダビデの機略に富んだ戦い、ヨアブなど周囲を固める軍事力とはべつのものとして、訴えを聞き分ける分別と書かれている。このあとに有名な例が続くが、民を治める分別は、難しい。なにを目的とすべきかはまだ明確ではないように見える。主に従うことが何を意味するのかは、難しい。
1King 4:1-4 ソロモン王は全イスラエルの王であり、その高官たちは次のとおりであった。ツァドクの子アザルヤは祭司。シシャの二人の子、エリホレフとアヒヤは書記。アヒルドの子ヨシャファトは史官。ヨヤダの子ベナヤは軍の司令官。ツァドクとエブヤタルは祭司。
このあとも続く。ダビデの時代にも多少の記述がある。(サムエル記下8章15-17節、同20章23,24節)しかし、非常に簡単である。また、全軍の指令官は重要で、つねに最初にあり、ヨアブなどがそれにあたるが、ソロモンの時代では、祭司から始まり、文官が続く。また、12人の知事の記述が続く。地方統治が確立したのは、この時期と考えるのが適切なのだろう。ダビデの時代は、内戦のさなかなのかもしれない。しかし、そう簡単に落ち着かないのは、悲しい。まだ十分な知恵が確立していなかったということだろうか。
1King 5:24,25 こうしてヒラムは、彼の望みどおり、杉の木材や糸杉の木材をソロモンに提供した。一方ソロモンはヒラムに対し、王家のための食料として、小麦二万コル、オリーブの実を砕いて採った油二十コルを提供した。このようにソロモンは、毎年、これらのものをヒラムに提供した。
経済学などにとっては、興味深い取引があるように思われる。未発達の部分もあり、ここでは、見返りとして支払っているのは、王家のための食糧である。小麦二万コルとある。対する、ソロモンのほうは毎日三十コル(2)。一年に換算すると、大体一万コルぐらいだから、その倍である。ティルスは、フェニキア人系の海洋都市国家と思われるから、商取引には、長けていたのかもしれない。材木なども、巨大建築とともに、大きな船を作るために重要だったと思われる。この交易は、ソロモン王朝にとっても、非常に重要だったろう。サムエルによる王についての記述(サムエル記上8章10-18節)の内容は、このソロモンにおいて実現しているように見える。奴隷や徴用ということばが使われており、この章の記述もおそらく近いものなのだろう。賃金を払う契約についてもヒラムとの間には書かれているが、民との間には、そのような概念がまだなかったのかもしれない。
1King 6:1,2 イスラエルの人々がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となって四年目のジウの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の神殿を建て始めた。ソロモン王が主のために建てた神殿は、長さ六十アンマ、幅二十アンマ、高さ三十アンマであった。
ソロモンの治世は970–931 BCE ごろとされるので、957BCEごろであろうか。ただし、完成については「第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿はその設計どおりに完成した。神殿を建てるのに七年かかった。」(38)とある。すると、エジプトを出たのは 1436BCE。色々な説があるようだが現在認識されているよりも古い。しかし、一つには、ここでも、エジプトの地を出てからと、基準を出エジプトに置いていることである。この章は、神殿の詳細が書かれているが、設計について、祭司などは登場しない。近隣の神殿などを参照したことも考えられる。できる限りのことをしたのだろう。エジプトから、妻を迎えてもいるので(3章1節)かなりの交流があったと思われる。これも、知恵がなければなされない技だったろう。ソロモンを批判することも多いが、ダビデと比して信仰的にもどう評価するかはあまり簡単ではない。そして、通常信仰的という言い方にも問題があるのだろう。主の見方はおそらくわたしたちの見方とは異なる。
1King 7:51 ソロモン王は、主の神殿のためになすべき製作すべてを終えた。ソロモンは父ダビデが聖別したもの、すなわち、銀、金、祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた。
この記述には少し驚かされた。これだけの金や銀などはどこから集めてきたのだろうと思い、おそらく、ダビデがあつめたもの(略奪したもの「ダビデ王はこれらの品々を、すでに征服した国民から奪って聖別しておいた銀や金に加えて、主のために聖別した。」(サムエル記下8章11節))を使ったのだと考えていたが、どうも、そうではない表現になっている。交易であるとすると、ソロモンが即位して4年、完成まで7年、あわせて11年未満ということになる。そのように推測するのではなく、ソロモン神殿の細部や祭具もふくめ、段々と整えられていったと考えた方が良いのかもしれない。しかし、膨大な金などの量に思える。
1King 8:31,32 ある人が隣人に対して罪を犯し、その人が呪いの誓いを立てさせられるとき、この神殿のあなたの祭壇の前に誓いに来るなら、あなたは天でそれを聞き、あなたの僕たちを裁いてください。悪しき者は悪しき者として、その行いの報いを頭上に下し、正しき者は正しき者として、その正しさに従って報いてください。
願い事の最初は引用句から始まる。しかし、このあとは「あなたに罪を犯したため」(33,35)と続き、さらに「罪を犯さない者は一人もいませんから、人々はあなたに罪を犯し、あなたは怒ってその人たちを敵の手に渡されるでしょう。人々は敵の捕虜として遠く、あるいは近くの敵地へ連れて行かれるでしょう。」(46)とまで書かれている。その地での悔い改めにまで言及されている。捕囚帰還後までが視野に入っているということだろう。そして最後は「それは地上のすべての民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るためです。」(61)と結ばれている。スケールの大きな、歴史を見通し見据えての祈りとも言える。しかし、そのようなものも、隣人に対する罪から始まっているところに興味を持った。矮小化、個人主義と見る面もあるが、隣人に対する罪と、主に対する罪がつながっていなければ、主との交わりも、互いに愛し合うこともできないと思うからである。わたしはどう祈るだろうか。
1King 9:15,16 ソロモン王が、主の神殿と王宮、ミロとエルサレムの城壁、およびハツォル、メギド、ゲゼルを築くために課した労役の事情はこうであった。かつて、エジプトの王ファラオが攻め上って来て、ゲゼルを占領し、火を放って焼き払い、その町に住んでいたカナン人を殺すということがあった。その時ファラオは、この町をソロモンの妻である自分の娘に贈り物として与えていた。
この前には、ヒラムにガリラヤの二十の町を「カブル(無に等しい)の地」(13)と呼んだことも書かれている。町を贈ることは、一般的だったのだろう。ここにも、ファラオの娘であるソロモンの妻のことが書かれている。友好関係が緊密であったことが窺われる。それだけ、一目置いていたのだろう。経緯は明確ではないが、おそらく、歴史的にも根拠があることなのだろう。引用句にも「労役」のことが書かれている。労働力を税のようなものとして使ったことを意味するのだろう。これが、のちに、重荷になってきているようだ。民が誇りとするものはあったかもしれないが、喜ぶものは作らなかったのかもしれない。平和はたいせつではあるが。
1King 10:22,23 海には、王のタルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった。三年に一度、タルシシュの船団は、金や銀、象牙、ひひや猿を運んで来た。ソロモン王は、富と知恵において、地上のいかなる王にもまさっていた。
シェバの女王の訪問から書き出し、ソロモンが以下に富と知恵とに富んでいたかが書かれている。疑問に思うのは、原資である。労働力などは、民のちからを利用したのだろうが、それだけでは、ここまで一代で豊かにはなれないだろう。引用句にある貿易は重要であるが、ヒラムの船団の指導のもとである程度可能だったのだろう。タルシシュの船団があたかも、王のものであるかのごとく書かれている。これも、海洋民族だろう。友好関係を持ったのだろうか。クエからの馬(28)エジプトからの戦車(29)など購入のことは書かれているが、なにを売ったのだろうか。ヒラムの協力を得て、レバノンの杉だろうか。ダビデの収奪したものがそこまで多かったとは思えない。
1King 11:35,36 私はソロモンの子の手から王権を取り上げ、十部族をあなたに与える。ただ彼の子には一つの部族を与える。私の前で、私が名を置くために選んだ都エルサレムで、いつも僕ダビデが灯を保つためである。
ソロモン王国への敵対者について書かれ、最後にヤロブアムについて書かれ、29節からアヒヤ預言が始まる。引用句はその一部で、このあとに「だが、私はあなたを選んだのだから、あなたは自分自身の望みどおりにすべてを治め、イスラエルの王となりなさい。私が命じたすべてのことに聞き従い、私の道を歩み、私の目に適う正しいことを行い、僕ダビデが行ったように掟と戒めを守るなら、私はあなたと共にいて、ダビデのために建てたように、あなたのために揺るぎない家を建てる。そして私はあなたにイスラエルを与える。このために、私はダビデの子孫を懲らしめるが、いつまでもというわけではない。」(37-39)これが契約の民における預言者の役割か。ソロモンの良い点は評価されない。なかなか納得はできない。ダビデとヨアブについても同様のことが言えるのだろうか。
1King 12:28,29 王は周囲に助言を求めたうえで、二体の金の子牛を造り、そして言った。「あなたがたがエルサレムに上るのは大変である。イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った神々である。」彼は一体をベテルに置き、一体をダンに配した。
ヤロブアムは、周囲にも助言を求め、ベテルとダンという、イスラエルの北の南に、象を据えている。これ以上分裂しないことにも配慮している。律法を重んじるという面から見ると「このことは罪となった。」(30a)とあるように、大きな罪である。しかし、施作としては、適切であるように見える。かえって、レハブアムの方に問題があるように思われる。しかし、これも、列王記記者の歴史観なのだろう。あまり、一面的に判断したくはないが、このことも覚えながら今後も丁寧に読んでいきたい。
1King 13:2 その人は主の言葉に従って、祭壇に向かって叫んだ。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤと言う。彼は、お前の上で香をたく高き所の祭司たちを、お前の上で屠り、人の骨をお前の上で焼く。』」
この列王記、または、王国の歴史(サムエル記上・下、列王記上・下)は、ヨシヤによる宗教改革の歴史観のもとで書かれていると言われているが、たしかに、ここにヨシアが登場している。これまでの記述も考えると、その根拠は十分理解できる。むろん、それだけではないだろうが。この神の人の話は、不思議である。正直に言うと、結論が短絡過ぎ、それがヨシヤによる改革をもとにした、歴史観の一部であるなら、すこし残念でもある。そのような仮定にとらわれず、丁寧に読んでいきたい。
1King 14:8,9 私はダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。だが、あなたは僕ダビデのようではなかった。ダビデは私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。あなたはこれまでの誰よりも悪を行い、自分のために他の神々や鋳像を造り、私を怒らせ、私を背後に捨て去った。
二つ気づいたことがある。一つ目は、このあとに「それゆえ、見よ、私はヤロブアムの家に災いをもたらす。奴隷であれ、自由な者であれ、イスラエルにいる男子で、ヤロブアムに属する者を滅ぼす。人が汚物をきれいに除き去るように、ヤロブアムの家を除き去る。」(10)とあることである。ユダの王、レハブアムについて、21節から書かれているが、厳しさがかなり異なることである。そして、もう一つは、引用句にあるように、ダビデに対して「私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。」と述べていることである。これは、サムエル記上・下ではなかった表現である。王国の歴史とひとまとめにされているが、やはり、サムエル記と列王記にかなりの違いがある。別に存在したサムエル記につなげる形で編集が行われたのか。いつの時代かは、不明であるが。
1King 15:16 アサとイスラエルの王バシャとの間には、二人が生きている間中、戦いが絶えなかった。
この章には、レハブアムの子アビヤムとアビヤムの子アサの治世について述べられている。ソロモン以降は、評価が単純化され、ダビデとの比較になっている。14章30節には「レハブアムとヤロブアムの間には絶えず戦いがあった。」とあり、また「レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、主の神殿の宝物および王宮の宝物を奪い取った。何もかも奪い取り、ソロモンが作った金の盾もすべて奪い取った。」(14章25,26節)との記述もある。ソロモンの時代は、書かれていない。世界状況の変化だろうか。同時に、ユダとイスラエルの間に常に戦いがあったこともわかる。世界史的な背景もあるように思われる。
1King 16:19 これは彼が犯した罪のためである。ジムリは主の目に悪とされることを行ってヤロブアムと同じ道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を犯し続けたからである。
この章にはイスラエルの王バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、アハブまでが短評とともに書かれている。パターン化しており、評価も雑であるように感じた。引用句は、ジムリに関してであるが、実際には、7日間統治(15b)とあり、これだけで判断するのは、一般的には不可能である。アハブまで、ずっと主の目に悪とされることを行った王が続いたことを記したかったように思われる。ここに登場するオムリは、モアブの碑の中で、オムリの国と記されている有力な王で、サマリアに首都を置き、このあとずっとそこを中心とした王でもある。場所的にも良いところのようで、他のことの評価は一切排除している。それが、列王記記者の歴史観なのだろう。もしかすると、分裂以後の歴史観、それも特定の人たちのなのかもしれない。聖書に書いてあるというだけで、評価を確定することは問題があるように思う。聖書にも、他の見方もあるのだから。
1King 17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人、あなたは私と何の関わりがあるというのですか。あなたは私の過ちを思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
サレプタのやもめのことばである。この章から、エリヤが中心となる。引用句は、当時、不幸があることは、何らかの罪の結果だと考えられていたことがわかる。しかし、同時に、そこに限定してはいけないことも事実だろう。ここでも、最後に女は「あなたが神の人であることが、たった今分かりました。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(24b)と告白るところで終わっている。因果応報が基本だと考えられているなかでこそ、恵の大きさを受け取ることができるのかもしれない。同時に、普遍化しにくい、難しい案件でもある。列王記の別の面がここに表現されているように思う。
1King 18:40 エリヤが、「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな」と言ったので、民は彼らを皆捕らえた。エリヤは彼らをキションの渓谷に連れて行き、そこで彼らを残らず殺した。
旧約聖書最大の預言者と言われるエリヤの有名な働きである。しかし、わたしには、これは、受け入れられない。これで、本当に、民や王が、主に従うようになるのだろうかと考えてしまう。一瞬、主の聖名が崇められることに価値を置いて良いのだろうか。それが主が求めることなのだろうかと考えてしまう。このあとの動向も見ていきたい。オムリの家の裁きというひとつの契約更新の実行が重要なのか。たしかに、私たちは、御心を知らない。その一部であっても、それを信じて従うべきなのか。正直わたしにはよくわからない。
1King 19:20,21 するとエリシャは、牛を打ち捨て、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と答えた。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を引いて来て屠り、牛の軛を燃やしてその肉を調理し、人々に振る舞って食べさせた。それから、直ちにエリヤに従い、彼に仕えた。
「また別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ9章61節・62節)を思い出す。普遍化・一般化することの危険性がある。エリシャが決断していたことは明らかである。エリヤも、主の御心を確認しようと思っていたのかもしれない。弱さのゆえに。ルカは、これを記したかったのかもしれない。主の御心は簡単にはわからない。丁寧に求めていきたい。
1King 20:34 ベン・ハダドは言った。「私の父があなたの父から奪った町はお返しいたします。ですから、父がサマリアでしていたように、あなたはダマスコで市場を開いてください。」アハブは答えた。「それでは、私は、協定を結んだ上であなたを釈放することにしよう。」アハブはベン・ハダドと協定を結び、彼を釈放した。
興味深い章である。アラムの王ベン・ハダドとの争いについて書かれている。軍勢の記述からもわかるように、当時アラムはイスラエルの北の大国だったと思われる。ここで、主に従わないアハブに無名の預言者(13,22)が現れ、危機を救う。引用句の提案を受け入れるアハブへの預言を語るのも「預言者のうちの一人」(35)である。譬え話まで入れてある。基準がよくわからないが、絶対者との契約が厳密である世界では、他者と契約を結ぶことは、主との契約の下にあることを否定する考えがあるのかもしれない。また「232名の首長に仕える若者たち」の働きも興味深い。
1King 21:21,22 『見よ、私はあなたに災いをもたらし、あなたの子孫を除き去る。奴隷であれ、自由な者であれ、イスラエルにいる男子で、アハブに属する者は滅ぼす。あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたが私を怒らせたためであり、またイスラエルの人々に罪を犯させたためである。』
この章も興味深い。個人の罪のその人への罰ではないことが当時は当たり前だったのだろう。このあとへりくだったアハブに対し、この災いは、その子の時代(29)となっているので、さらに次の代への持ち越しとなっている。原罪の考え方のように、それを代々担っていくのが人間だとも言えないこともないが。ナボトは「ナボトはアハブに言った。「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」(3)とも言っている。これも、主の契約が背景にあるが、絶対的ではない。契約の地が相対化される、全世界的視点の必要があるのだろう。
1King 22:39 アハブの他の事績、彼の行ったすべてのこと、彼が建てた象牙の家、彼が築いたあらゆる町、それらは『イスラエルの王の歴代誌』に記されているとおりである。
エリヤの記述があるからもあるが、アハブについての記述が長く、詳細である。アラムと商取引契約を結んだことも書かれており、ここにも、象牙の家とあり、国はある程度繁栄したのだろう。対してユダの王ヨシャファトは、主に従い通すが「ヨシャファトは金を求めてオフィルに行こうとして、タルシシュの船を数隻造った。しかしながら、船団はエツヨン・ゲベルで難破したため、行くことができなかった。」(49)とあり、成功していない。詳細は不明であるが、アハブの家と戦いはしなかったが、協力しなかったことが、背景にあるように見える。(50)ミカヤの話もあり興味深い。


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過去の聖書ノート

BRC2021

1 Kings 1:30 イスラエルの神、主にかけてあなたに誓ったこと、『あなたの子ソロモンが、私の後に王となり、私に代わって王座に着く』ということを、今日この日、私は確かに実行する。」
13節のナタンのことばを、17節でバト・シェバが実行している。「ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに入り、床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、その名をソロモンと名付けた。主はこの子を愛し、預言者ナタンを送って、主のために、その子の名をエディドヤ(主に愛された者)とも呼ばせた。」(サムエル記下12章24,25節)とあり、ナタンとも近いことがわかる。しかし、引用句のようにダビデがバト・シェバに誓ったのかどうかは不明である。おそらく、そんなことは言ったのだろう。しかし、それがここで、持ち出されるかどうかは、また別のことである。「今日、アドニヤは下って行って、雄牛、肥えた家畜、羊を多く屠り、王様のご子息全員、軍団長、祭司エブヤタルを招きました。皆はアドニヤの前で食べたり飲んだりしながら、『アドニヤ王、万歳』と叫んだのです。」(25)からみても、アドニヤの高慢さ(5,6)は見て取れる。ヨアブなども、現状を十分理解していなかったかもしれない。または、衰えがあったのかもしれない。もうこれは、王制である。王権の争いが権謀術策を用いるレベルになっているのだから。難しい。
1 Kings 2:5,6 またあなたは、ツェルヤの子ヨアブがこの私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の将軍、ネルの子アブネルとイエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは二人を殺し、平和なときに戦いの血を流し、腰の帯と足のサンダルに戦いの血を付けたのである。あなたは知恵を働かせて行動し、彼の白髪が安らかに陰府に下ることを許してはならない。
ことの判断は、難しい。正直、アブネルと、アマサが残っていたら、様々な困難が生じていただろうと思う。ヨアブに、軍の長としての権勢欲がなかったとは言えないと思うが、あるバランスをもって冷静に見る目は持っていた。早めに、芽をつんでおくことは重要だと、自らが手を下したのだろう。そしてそれはダビデは好まないことも知っていただろう。それでも、それを実行する。そのような強い男の最後は、寂しく悲しい。ちょっと集中力が足りない。
1 Kings 3:26 すると、生きている子の母親は、その子を哀れに思って胸が張り裂けそうになり、王に言った。「王様。お願いでございます。生きているその子は、その女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もう一人の女は「私のものにも、あなたのものにもならないよう、切り分けてください」と言った。
ソロモンの願い事のひとつの成就として、このエピソードが語られているのだろう。このようなとんちは、たくさんあったのだろうか。昨晩も遅く、今日は昼寝もできなかったので、ちょっとつらい。明日の分は、すこしでも進めておきたいのだが。
1 Kings 4:1 ソロモン王は全イスラエルの王であり、その高官たちは次のとおりであった。ツァドクの子アザルヤは祭司。
サウルには、このようなリストはなく、ダビデ王については、サムエル記下23章に勇士のリストがあるが、この高官たちのリストをみると、王制が整ってきていることを見て取ることができる。かなりの変化である。後代に書かれたと言われる歴代誌の書き方とは異なる。(歴代誌上11章等)高官は שַׂר(śar: prince, ruler, leader, chief, chieftain, official, captain)、イスラエルでこのことばが最初に使われるのは、アブネル(サムエル記上26章5節)のようだ。最初に、ツァドクの子アザルヤとあるが、このあとに、「ツァドクとエブヤタルは祭司。」(4)とある。まだ代々の役職について記述するようにはなっていないのかもしれない。また、全イスラエルとあるが、このあとに続く地域をみると、エフライムから始めており、北イスラエルを含むことを言っているのだろう。しかし、同時に、ヨルダン川の東側の地域が目立つのと、最北部のゼブルン、ナフタリ、アシェル、ダンの地域は見えたらない。国境などがあるわけではないので、ここは、概略なのだろう。
1 Kings 5:5 ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでも皆それぞれ、自分のぶどうの木や、いちじくの木の下で安心して暮らした。
章の区切りが、訳によって異なっている。多くが5章14節までが4章となっており、聖書協会共同訳では他の訳の4章21節から5章になっているようだ。ソロモン שְׁלֹמֹה(Šᵊlōmô: peace)は平和である。ここに出てくる表現「皆それぞれ、自分のぶどうの木や、いちじくの木の下で安心して暮らした。」が平和の象徴として使われることは聞いたことがあった。わたしたちは、それをどの様に表現するだろうか。最近、あるかたのメッセージを聞いていたら「ぶどうの木」が「いのち」を表すと言っておられた。すると「いちじく」は「知恵」なのだろうか(ヨハネ1章48節)。非常に根本的なことも、わたしは思い至らなかったことを知った。イスラエルの人にとってはそのようなイメージが有り、その完全なかたちのものがエデンの園にあり、それが平和と結びついているのかもしれない。また勉強してみたい。わたしは、これまで、アダムや、エバが、りんごのような果物ではなく、ぶとうをたべている様子はなかなか想像できなかった。
1 Kings 6:1 イスラエルの人々がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となって四年目のジウの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の神殿を建て始めた。
「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である。ソロモンが建設を始めたのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった。」(歴代誌下3章1,2節)いずれ、列王記と歴代誌の対比はしてみたい。歴代誌は、神殿を建てた場所が歴史的にも意味がある特別なところだとあり、列王記は、エジプトを出てから480年経ていることを記している。列王記は、その間の様々なことをこの数字に込め、特別な主張はしていない。むろん、その間、ずっと、契約の箱は天幕の中にあり、神殿はなかったと主張することは可能であるが、もっと様々なことがこの背後にあることを示唆しているかのようだ。むろん、この480年が現代的な正確さで記述されているかは不明である。しかし、何らかの根拠があり、そして、ある真実を伝えているのだろう。この歴史の上に建てられる神殿。11-13節が、列王記記者にとってたいせつなメッセージなのだろう。
1 Kings 7:13,14 ソロモン王は人をやって、ティルスからヒラムを連れて来させた。彼はナフタリ族出身の寡婦の子で、父はティルス人で青銅の細工師であった。ヒラムは青銅のいろいろな細工をする知恵と英知と知識にたけていた。彼はソロモン王のもとにやって来て、そのあらゆる仕事をした。
宮殿の造作について書かれている。柱頭には百合の花の細工があり、側面が膨らんだ格子模様が施され、二百個のざくろ、などとあり、さらに「海」のまわりにはひょうたん、さらに牛などなど。造作が実際どのようなものなのか、わたしにはわからないが、これを読んだだけで、素晴らしいものだったろうとの印象を受ける。この責任を担ったのがヒラムである。イスラエルの血を引いているが、父はティルス人、イスラエルと比較すると、海外との交流が圧倒的に多く、技術的にも非常に高かったのだろう。そして、当時の世界で価値のあるものが表現されていたのだろう。芸術性は、どう考えたらよいか難しい課題である。人の感性、神様が与えた可能性を表現するものであるとともに、やはり神様から離れていく面も感じる。宗教改革においても、問われ、宗派によって、さまざまな解釈がなされた難しい問題でもある。おそらく、ソロモンのころにも、賛否両論だったろう。どう考えるのか、困難な課題である。
1 Kings 8:11,12 その時、ソロモンは言った。/「主は、密雲の中に住む、と仰せになりました。そこで私は、あなたのために荘厳な神殿/とこしえのあなたの住まいを建てました。」
この前に「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。」(10)とありその部分と、ソロモンのことばの最初が対応している。このあとに、「イスラエルの全会衆の方に向きを変え、彼らを祝福した。」(14a)とあり、民へのメッセージと、祈りが続く。いままでソロモンの信仰告白と考えていたが、ひょっとすると原稿執筆者がいたのかもしれないと思うようになった。むろん、ソロモンがそれでよいとして語り、祈ったのだろうが。それも含めてソロモンの知恵なのだろう。「荘厳な神殿」はダビデには建てられなかったろう。ましてサウルには、そしておそらくサムエルにも。列王記記者が、このメッセージを(多少の記録はあったかもしれないが)書いたのかもしれない。そう考えると、列王記記者の信仰告白とも言えるかもしれない。執筆者(Writer)が誰であれとてもたいせつなメッセージと祈りであることに変わりはない。ひとつ気になったのは、この章の出だしである。「ダビデの町、シオンから主の契約の箱を運び上げるためであった。」(1b)シオンと、神殿のある場所とを区別していることである。また「ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。」(29)も、申命記(申命記12:11,21)、歴代誌(創世記22:2, 歴代誌下3:1)解釈とも関係して、おそらく、宗教改革においても議論されたであろう、そして、ステパノの祈りにも現れる、特定の場所に関する解釈の分かれるところなのだろう。ここだけを読むと、どちらにもとれるように思う。
1 Kings 9:25 年に三度ソロモンは、主のために築いた祭壇で、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げ、主の前で香をたいた。こうして彼は神殿を完成した。
この一連の記事の締めに興味をもった。「こうして彼は神殿を完成した。」は定期的にソロモンが礼拝したことをもって完成したという記述である。神殿は礼拝する場所なのだから。そして、ソロモンは、それを継続したことも証言している。このあとには、次の章へと続く、ソロモンの他の業績が書かれている。この章には、主のことばがソロモンに語られたことが書かれているが、神殿を建てたばかりのときに、神殿が廃墟となる預言のようなものを含む、祝福とのろいが書かれている。どの時代に、この列王記が書かれたかとも関係する。たしかに、捕囚まで書かれているのだから、完成時には、その後どうなったかわかっていたのだろう。それを反省し、思い返して書かれたとすると、預言の要素は減っても、かえってその重さも伝わってくる。列王記記者の痛みが。おそらく通常第二神殿と言われる、捕囚後に再建された神殿は知らないのだろう。
1 Kings 10:8 あなたの国民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの御前に仕え、その知恵を耳にしている家臣はなんと幸せなことでしょう。
サウル、ダビデ、ソロモン、それぞれに特徴がある。しかし、王たる者の資質は非常に難しいことも、露呈している。王制は、その王に依存してしまうが、それでは「国民はなんと幸せなのでしょう」といえる状態にはならないのだろう。一番困難なのは、どの時代も、平等ではなく公平性と、 繁栄ではなく、持続性だろうか。このあたりに、平和と豊かないのちを生きることが関係しているのかもしれない。ひとは、歴史を通して、さらに、謙虚に求め続けることによって、すこしは、平和と豊かないのちに近づけるのだろうか。シェバの女王が驚いたように、その驚きでまずは、よいとすべきだろうか。
1 Kings 11:9,10 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。主はかつて二度ソロモンに現れ、このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。
これが、列王記記者の歴史観なのだろう。捕囚になった頃から、歴史をさかのぼって、なにが問題だったのだろうと考えて行き着いたのが、この時点、ソロモンの背信だったのだろう。確かに 6章12節と9章6節に警告が記されている。しかし、それが絶対的かというと、疑問も残る。ソロモンの知恵は、この多くの外国人の妻により支えられていたかもしれない。「その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。」(7,8)もその知恵故に、普遍的な宗教にこころも向かい、他民族、他宗教にたいして寛容になっていったのかもしれない。それは、絶対に許容される道ではないと考えるのも、ひとつだが、神・真理の理解がそれほど単純ではないことを、知ったとも言える。しかし同時に、国としては衰退を余儀なくされる。一人の知者によっては、ひとの心は変わらず、育むには、さらに最低でも、3000年程度は必要なのだから。ソロモンが自分は間違っていなかったと言ったとしても、それも、適切とは言えないだろう。難しさは、現代にも引き継がれている。愚者よ学べ、知者よ驕るな。主を畏れよ。
1 Kings 12:7 すると、彼らは次のように答えた。「もしあなたが、今日にでも、この民の僕となって彼らに仕え、彼らの求めに応じて利益になることを約束されるなら、彼らはいつまでもあなたの僕となるでしょう。」
通常 Servant Leadership と呼ばれる形式が不完全かもしれないが表現されている。「存命中の父ソロモンに仕えていた長老たち」(6)と書かれている。この章には、危ういとも思われる歴史解釈がいくつも存在する。1つ目は「このように、王は民の言うことを聞かなかったが、それは主が仕向けられたことであった。主は、シロ人アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに語られた言葉を実現しようとされたのである。」(15)である。すべてのことの背後に主がおられることよりも、踏み込んでいて、特定の解釈を与えている。「今のままでは、私の王国はダビデの家に戻ってしまう。この民がいけにえを献げるため、エルサレムの主の神殿に上るようなことがあるとすれば、民は再び彼らの主君であったユダの王レハブアムのもとに戻ってしまうだろう。彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに戻ってしまうだろう。」(26)ヤロブアムのこの言葉は、冷静で知恵に満ちている。そうであれば、簡単に、主が仕向けられたとは言えないように思う。そして「このことは罪となった。」(30a)としている。サムエル記の慎重な筆致と変わっているようにも思う。このヤロブアム革命による分裂ををどう捉えるのか、難しかったのだろう。実際、ユダとイスラエルが一つになること自体かなり難しかったろうから。
1 Kings 13:18,19 だが預言者は言った。「私もあなたと同じ預言者です。御使いが主の言葉に従って、私に、『その人を家に連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませなさい』と告げられました。」彼は噓をついたのである。そこで神の人は預言者と一緒に戻り、その家でパンを食べ、水を飲んだ。
不思議なはなしである。一方で「この後も、ヤロブアムはその悪の道から立ち帰ることがなかった。」(33)とあり、ヨシア王預言ともいえる(2)が書かれており、北イスラエルの地にも、預言者が誠実に主に従おうとしていたこと、それは、常に試されることであったと証言しているのだろう。しかし、納得はできない。もしかすると、ソロモンのころかそれ以後でもかなり早い時点で、サムエル記が成立し、そのあと、付け足されていったのかもしれない。サムエル記は、一気に書かれたように見えるが(多少の追記や修正はあったとしても)列王記は、追記につぐ追記だったのかもしれない。サムエル記に続くものとして編纂しようとして、揺れが生じているようにも思う。まったくの推測でしかない。
1 Kings 14:7-9 行ってヤロブアムに言いなさい。『イスラエルの神、主はこう言われる。私はあなたを民の中から取り立て、わが民イスラエルの指導者とした。私はダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。だが、あなたは僕ダビデのようではなかった。ダビデは私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。あなたはこれまでの誰よりも悪を行い、自分のために他の神々や鋳像を造り、私を怒らせ、私を背後に捨て去った。
正直、ヤロブアムも困るだろうと思った。ダビデを選んだときのような慎重な記述は書かれていない。単に、ソロモンの子だけではない状態になったところに、ヤロブアムは関わっているが、それ以上の役目は、すくなくとも、ヤロブアムは最初から考えていなかったろう。背景に、列王記記者の歴史観があるのだろう。この章には、『イスラエルの王の歴代誌』(19)『ユダの王の歴代誌』(29)が現れる。これが、聖書に含まれる歴代誌とどのように関わっているかは不明である。『ヤシャルの書』(サムエル記下1章18節)『ソロモンの事績の書』(列王記上11章41節)以降は、上の2書だけが引用されているようである。歴代誌のほうは、それと比較して、引用が多い、いずれ調べることにして例として上げておく、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』『予見者ガドの言葉』(歴代誌上29章29節)『預言者ナタンの言葉』『シロ人アヒヤの預言』『ネバトの子ヤロブアムに関する予見者イエドの幻』(歴代誌下9章29節)『預言者イドの注解』(歴代誌下13章22節)『ユダとイスラエルの列王の書』(歴代誌下16章11節、25章26節 )『ハナニの子イエフの言葉』『イスラエルの列王の書』(歴代誌記下20章34節、33章18節、36章8節)『ユダとイスラエルの列王の書』(歴代誌下28章26節、32章32節)『預言者であるアモツの子イザヤの見た幻』(歴代誌下32章32節)『哀歌』(歴代誌下35章25節)これで全てではないだろうが。
1 Kings 15:14,15 人々は高き所を取り除かなかったが、アサの心は生涯を通じて主と一つであった。アサは、父が聖別したものと自分自身が聖別したもの、すなわち、銀、金、祭具類を主の神殿に運び入れた。
このように書いた直後に、イスラエルの王バシャとの戦いのために、背後にいる「ダマスコに住むアラムの王、ヘズヨンの子タブリモンの子であるベン・ハダド」(18)に「主の神殿の宝物庫、および王宮の宝物庫に残っていた銀と金のすべて」(18)を贈ったとある。むろん、このあとにも、宝物は残っているので、誇張表現が入っているのだろうが、一時しのぎのような面が伺える。列王記記者は、明らかにアサを高く評価しているが、アサが治めた41年間(10)をどう評価するのかは難しいように思う。エリヤ・エリシャ物語へといそぎ、丁寧に書いていないのかもしれない。サムエル記とはかなり異なるように見える。サムエル記記者は「ダビデは主の目に適う正しいことを行い、ヘト人ウリヤのことを除けば、生涯を通じて主が命じられたすべてのことに背くことがなかったからである。」(5)とはまとめなかったのではないだろうか。
1 Kings 16:23,24 ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間統治した。彼は、六年間、ティルツァで統治した後、シェメルからサマリアの山を銀二キカルで手に入れ、山を切り開いた。彼は切り開いたその町の名を、山の所有者シェメルにちなんでサマリアと名付けた。
歴史的にはアッシリアの記録にもオムリの国(英語では Omrides)と記録に残っているようだ。イスラエルでは、このあと、アハブ、アハズや、ヨラムと、オムリの家系が収めることになるからだろうか。聖書としては、アハブの時代の記述が多い。オムリについては「オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前の誰よりも悪を行った。彼は、ネバトの子ヤロブアムのすべての道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返し、空しい偶像によって、イスラエルの神、主を怒らせた。」(25,26)とまとめられているが、北イスラエル王朝の首都ともなる、重要な町サマリアを建てたわけで功績は大きいとも言える。サムエル記の歴史観からみると狭く感じるが、書きたいことは、中心的な預言者、エリヤとエリシャの記述に向かっているのかもしれない。
1 Kings 17:12 すると彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には、焼いたパンなどありません。かめの中に一握りの小麦粉と、瓶に少しの油があるだけです。見てください。私は二本の薪を拾って来ましたが、これから私と息子のために調理するところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬばかりです。」
有名な箇所であるが、あまり無理に合理的な説明をしないほうがよいのだろう。この章は「ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。』」(1)と始まっており、このやもめのような状態の人はたくさんいたろう。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。」(ルカ4章25,26節)ルカにおいてはほとんど最初のイエスの説教の中に出てくる。こちらも、どのように解釈したらよいか難しい箇所だが、一般的なものとは違った見方をイエス様がみていたことは確かだろう。背後に、イエスの痛みがあったのかもしれない。引用句の背後にも神の痛みが隠れているように思った。
1 Kings 18:39,40 これを見た民は皆その前にひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。エリヤが、「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな」と言ったので、民は彼らを皆捕らえた。エリヤは彼らをキションの渓谷に連れて行き、そこで彼らを残らず殺した。
エリヤと「イゼベルの食卓に連なる四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者」(19)の対決である。そこには「全イスラエル」も招集されている。カルメル山は、ガリラヤ湖の西、地中海に突き出た半島にある。エリヤはそのときのイスラエルの状態を憂えていただろうが、なにを目指していたのだろう。民が、主こそ神であることを知り、民の信仰を惑わす、他の宗教の預言者を滅ぼすことだろうか。オバドヤの存在は興味深い。19章にも出てくるが、おそらく、主の預言者はエリヤ一人ではなかったろう。「主の預言者としては、ただ私だけが一人残った。」(22)は真実ではないことになる。主は、このことを通しても、一つのことではなく、いくつものことをなされているように思った。また、バアルは、豊穣神、アシェラは豊穣の女神・神々の産みの親のようだ。非常に自然な信仰形態で、このような対決で、イスラエルの心と生活が、主に向かうことはないように思う。だからといって、冷ややかに見ているのもいけないのだろうが。難しい。
1 Kings 19:7,8 すると、主の使いがもう一度エリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。エリヤは起きて食べ、そして飲んだ。その食べ物で力をつけた彼は、四十日四十夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。
眠ることと食事がまずは与えられている。規則正しい生活とも言えるかもしれない。すでに、べエル・シェバから先に1日路行っていたとすると、ホレブはそれほど遠くない。200km ほどだから、4日ぐらいだろう。これは、四十年間さまよい続けた出エジプトの民のように、さまよい続けることを意味しているようにも思われる。ここにある期間の省略があることも、重く受け止めなければならないのだろう。いずれにしても、18章のあとにこの章の記述が続いていることは、とても貴重である。エリやは、バプテスマのヨハネはエリヤの生まれ変わりではないかと語られるだけでなく、変貌の箇所でも(マタイ17章1-13節など)イエスがエリヤを読んでいるとも取られており(マタイ27章45-56節)、ローマ11章1節から6節では、この19章について語られており、旧約最大の預言者とも言えるかもしれない。しかし、なぜそれほどまでに語られるのかは、すこし疑問に思う。
1 Kings 20:42 預言者は王に言った。「主はこう言われる。『私が滅ぼし尽くすと決めた人物を、あなたは手元から逃がしてしまった。それゆえ、あなたの命が彼の命の代わりとなり、あなたの民が彼の民の代わりとなる。』」
この預言者はこのメッセージをアハブ王に告げに来ている。自ら傷を負い、その命に従わなかったひとにさばきを下してまで。(36)アラムは頻繁に聖書の現れるが、アラム側でなにが起こっていたかは記されていない。ベン・ハダトが「私の父があなたの父から奪った町はお返しいたします。ですから、父がサマリアでしていたように、あなたはダマスコで市場を開いてください。」(34)と語っていることからも、様々な交流があったのだろう。ダビデ・ソロモンの時代にも、様々な交流がある。ここでは、山岳地帯の神、平野の神という表現も現れる。(23,25,28)しかし、おそらく、列王記記者は事はそれほど単純ではないことをよく知っていたろう。アッシリアやバビロンというような巨大な王国がこのあと、攻めて来て、巨大なエジプトすら滅ぼしてしまうのだから。つまり、「主はこう言われる」ということばが使われていても、それが直接的に主の御心の全体像ではないことは、知っていたのだろう。深いとも言えるし、恐ろしいとも言える。預言者集団、主により頼んだ当時の教養人を見くびってはいけない。
1 Kings 21:22 あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたが私を怒らせたためであり、またイスラエルの人々に罪を犯させたためである。』
エリヤ再登場である。20章にも「神の人」(20:28)、「預言者のうちの一人」(10:35)が登場するが、おそらく、エリヤではないのだろう。ナボトのことば「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」(3)からも、まさに「バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者(七千人)」(19:18)がこのように存在したのだろう。ナボトの町の「貴族」(8)のように、アハブ・イゼベルに簡単に従ってしまう人も多かったのだろうが。引用句では、ヤロブアムの家、バシャの家と出てくる。イスラエル王国は、アハブはオムリの家系、すでに、3つ目の家系となる。家系のことは、あまり意識していなかったが、この預言を見ても、意識されていたことを意味するのだろう。へりくだったアハブをみて「アハブが私の前にへりくだったのを見たか。彼が私の前にへりくだったので、その生きている間は災いを下さない。その家に災いを下すのは、その子の時代においてである。」その子の時代と記されている。現代の感覚とは異なる。
1 Kings 22:45 ヨシャファトはイスラエルの王と友好的であった。
通常は、まとめがあり、そのあとに具体例が続く。ラモト・ギルアドの戦いにヨシャファトがアハブと一緒に行ったことが書かれ、ここは、ヨシャファトについて引用句のように書かれている。これも、列王記は、北イスラエル王国中心に書かれたことの証と捉えればよいのかもしれないと思った。ここに付け足しのように、ヨシャファトについて書かれている。「ヨシャファトは父アサの道をそのまま歩み、そこから離れず、主の目に適う正しいことを行った。」(43)ともある。有効的にすることは、特別良いとも悪いとも書かれていない。ヨシャファトの子ヨラムの妻は、アハブの娘で、その子アハズヤがユダで王となるわけで、王家にアハブの家系が入り込むことはあったわけだが。(列王記下8章)平和は、難しい。列王記の区切りは、エリヤの時代とエリシャの時代とも言えるが、基本的には、やはりアハブの死で区切られているのだろう。

BRC2019

1Kg 1:11,12 ナタンはソロモンの母バト・シェバに言った。「お聞きになってはいませんか。我らの主君、ダビデの知らないうちに、ハギトの子アドニヤが王となったということを。あなたの命とあなたの子ソロモンの命が助かるように、わたしの言うことをすぐさま実行しなさい。
様々な想像はできるが、それは、やめておこう。この記事から、招かれなかった重要人物が多かったこと、特に祭司、ナタン、ダビデの勇士たちが呼ばれていない。そして行動を起こすのが、ナタンである。宮廷預言者などということばがこの時点で適切かどうかは不明であるが、重要な助言者であったことは、ダビデの家の人達は知っていたろう。それは、アドニヤが正統な継承者とは言えないことも意味している。そうであっても、このナタンに興味を持つ。ある策略をたてて、政治的に動いている。王位継承は、もっと早くに明確にしておかなければ、いけないことは、皆が知っていただろうに。ひとの営みは難しい。わたしなら、どうしただろうか。以前なら、ナタンのようなことを考えただろう。今は、少し違った道を選んだように思う。
1Kg 2:28 この知らせがヨアブにまで届いた。ヨアブはアブサロムには加担しなかったが、アドニヤに加担したので、主の天幕に逃げ込み、祭壇の角をつかんだ。
ヨアブが頼るものはもう何もなかったのだろうか。アビシャイは、もういなかったのだろうか。ヨアブは哀れに思う。神は、ヨアブをも十分に用いたように思われる。ダビデも、ソロモンも、残酷である。そしていずれも、ヨヤダの子ベナヤが死刑を執行している。「ヨアブはイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。」(サムエル記下20章23節、参考:サムエル記下8章28節)「ヨアブはイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。また彼は、屈強のエジプト人をも殺した。エジプト人は槍を手にしていたが、ベナヤは棒を持って襲いかかり、エジプト人の手から槍を奪い、その槍でエジプト人を殺した。以上がヨヤダの子ベナヤの武勲であり、三勇士と共に名をあげ、ピルアトン人ベナヤ。」(サムエル記下23章20-30a節)列王記上1章の記事から、ソロモンが王位につくことを強く支持したことがわかる。(1章36,37節)おそらく、軍人でソロモン王朝成立を積極的に支持したのが、ベナヤだったのだろう。しかし、アドニヤの振る舞いはどうみても、賢いとは言えない。バト・シェバもよくわかっていない。なにか、記述が雑な感じをうける。
1Kg 3:15 ソロモンは目を覚まして、それが夢だと知った。ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った。
夢の中で「主はソロモンのこの願いをお喜びになった。」(10)こと、そして、神のことばを聞いたことを自覚している。夢の中だからと、疑ってかかったり、不確かということは、無いのだろう。しかし、たいせつなのは、それを、神のことばとして受け、神によりたのみ、忠実に、誠実に、謙虚に生きることなのだろう。その生き方を見ておられる、主を恐れつつ。
1Kg 4:20 ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かった。彼らは飲み食いして楽しんでいた。
なぜこのように記述したのだろうか。「海辺の砂のように」は慣用表現なのだろうが(5章9節、創世記41章49節など他にも多数)まずは、海辺の砂ではないが「あなた(アブラム)の子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(創世記13章16節)と、同じく創世記の「あなた(アブラハム)を豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」(創世記22章17節)「あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなた(ヤコブ)に幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」(創世記32章13節)との関係が気になる。これらが、この時点で成就したという、神学的理解または、信仰告白だろうか。主は約束を果たしておられる。繁栄や祝福の記述がもう少し続くが、全体としては、頂点のようにも思われる。列王記記者は、このことばで何を表現したかったのだろう。
1Kg 5:4,5 ソロモンはティフサからガザに至るユーフラテス西方の全域とユーフラテス西方の王侯をすべて支配下に置き、国境はどこを見回しても平和であった。ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。
ソロモンは平和(peace, peaceful)から取られた名前だろうが、あまりに絵に書いたような表現で記者の意図をも感じる。前半は実質的に国として戦いがなかったこと、後半は、人々が安らかに暮らしていたことの表現である。この2つは密接に結びついていることは当然であろう。これだけ広い範囲を支配して、国境が平和であるとは、不思議にすら感じる。もし、これが事実の表現であるなら、ソロモンの知恵によるとしか言えないだろう。それとも、神様が特別な時を祝福として与えられたとして、それ以上は議論しないことだろうか。このあとを知っているだけに、不安も感じる。
1Kg 6:1 ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王になってから四年目のジウの月、すなわち第二の月であった。
難しい記述である。突如、480年が登場し、ジウの月は、1節と、37節にしか登場しない。ソロモンの治世の第4年という記述も、ここが最初であろう。以前から気になっていたが、年齢も殆ど現れない。列王記記者は、なにを根拠に、これらの年代を記しているのだろうか。王制が確立し、記録がたいせつになることは、十分理解できる。そこで、ソロモンの治世の記録が明確になっていくのだろう。しかし、ダビデの治世は、40年もあったにも関わらず、どの年かは記されていない。無理に、記録しなかったのかもしれない。その中で、480年である。歴史学的にも、出エジプトに関して議論が起こる、重要な箇所である。おそらく、明確にはならないのだろうが、列王記記者の意図も気になる。
1Kg 7:36 その支柱の表面と鏡板にはケルビムと獅子となつめやしが、そのそれぞれに空間があれば周りに唐草模様が彫り込まれた。
「唐草模様」ということばが気になった。この章にのみ現れる。(29, 30, 36)これは、口語訳と聖書協会共同訳でも「花飾り」となっている。おそらく、原語はローヤー(loyah)辞書によると、wreath, garland とあるが、同時に、意味は不確か(meaning dubious)とある。特殊な言葉なのだろう。特別な技術者が呼び寄せられて作成されており、見たこともないようなものも多かったのではないだろうか。なにか、芸術の広がりも感じさせる。わかった気にはならないことが大切なのだろう。家人には「からくりからくさ」を読むように奨められた。
1Kg 8:57 わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。
神殿は「主の名をとどめる」ところであるとある。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」(29)「名を置く家」(16)とも言えるかもしれない。しかし、本質は、引用した句のように「共にいてくださる」ということ、そしてその信仰表現なのだろう。しかし、この表現も、排他的に用いられ得る。個人・民族主義的、ローカルで普遍性に乏しいものになりうる。これに、普遍性が伴わないと、宗教は正しさのみを主張するものになりうる。
1Kg 9:20,21 イスラエル人ではない者、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民のすべて、彼らの後、この地に生き残った子孫で、イスラエル人が滅ぼし尽くすことのできなかった者を、ソロモンは奴隷として労役に服させ、今日に至っている。
民族主義的とも言えるが、基本的に、区別だろう。キリスト教会においても、一部例外があるが、同様である。神様との結びつきは、霊的なもの、魂に関することで、内心の問題であるはずである。これを取り去り、完全に、インクルーシブにすることは、できないのだろうか。確かに、ある人数になると、人は組織を必要とし、すると、中と外を区別することが生じる。難しい。わたしは、その解決の道が見えていない。特別恩寵と一般恩寵の調和の問題なのかもしれない。
1Kg 10:23-25 ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。彼らは、それぞれ贈り物として銀の器、金の器、衣類、武器、香料、馬とらばを毎年携えて来た。
このあとには軍事増強について書かれている。ソロモンの治世のひとつの総括であろう。このあとの11章に問題点を思われることが書かれ、ソロモンの治世についての記述は終わる。ダビデとその周辺の人たちや、サムエル、サウルと比較しても、あまりにも、ソロモン個人の記述が少ない。公的な記録でありながら、ある距離をとっているような印象を受ける。情報となるものとして王家の公文書のようなものはあったろうが、個人的に、ソロモンを知っているものの筆致ではないと思われる。エリヤ、エリシャまで待たなければならないのだろうか。列王記記者が伝えようとしていることを受け取りたい。
1Kg 11:30,31 アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。
シロの預言者アヒヤの言説が詳しい。それだけではなく最後の「こうしてわたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、いつまでもというわけではない。」(39)などは、預言としか言いようのない、かなり踏み込んだ内容である。ソロモンの行動を危惧した人たちがいたこと、それは、預言者集団であったろうこともわかる。ダビデの時代には、ナタンなどが常に、話せる状態にいたと思われ、また、祭司に神託を求める場面も多い。ソロモンは、知恵者であったことが、このように仇となっているのかもしれない。しかし、預言者のこのような行動・介入の是非も考えてしまう。それは、信仰者がどう生きるべきかとも関係しているのだろう。難しい。
1Kg 12:7 彼らは答えた。「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」
サーヴァント・リーダーシップと呼んで良いものだろう。この章には「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは主の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」(15)とあり、さらに「しかし、神の言葉が神の人シェマヤに臨んだ。」(22)として「こうなるように計らったのはわたしだ。」(16)とある。分裂も、ここでのサーヴァント・リーダーシップの試みを妨げたのも主の主の働きだと言っているようだ。細かい議論は、できないが、この後ろには、多くの民がいる。サーヴァント・リーダーシップが、絶対的なものだとは、思わないが、そうであっても、それを退けることを神の御心とすることは、理解できない。歴史がどう動いたかを見た人の、あとからの、信仰告白だとしても。正直、とても、残酷だと思う。「愛によって互いに仕え」(ガラテヤ5章13節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5章21節)を生きようとする者にとっても。
1Kg 13:26 神の人をその道から連れ戻した老預言者はこれを聞くと、「それはあの神の人のことだ。彼は主の御命令に逆らったので、主はお告げになった御言葉のとおりに彼を獅子に渡し、獅子は彼を引き裂き、殺してしまったのだ」と言い、
不思議な話である。老預言者が欺いて、神の言葉だと語ったことに従った預言者の話である。これも、おそらく、列王記が、預言者由来であることを示す証拠なのだろう。預言者は恐れおののいただろう。欺きを見破る、解決策はない。結局のところ、ひとができるのは、達し得たところに従って、謙虚に従うことだけなのだろう。
1Kg 14:1-3 そのころ、ヤロブアムの息子アビヤが病気になった。ヤロブアムは妻に言った。「立って、ヤロブアムの妻だと知られないように姿を変え、シロに行ってくれ。そこには、わたしがこの民の王になると告げてくれた預言者アヒヤがいる。パン十個と菓子、それに蜜を一瓶持って彼のもとに行け。彼なら幼い子に何が起こるか教えてくれるだろう。」
ヤロブアムは優秀な人だったのだろう。レハブアムが王となったユダとの分裂が明らかとなったころ、イスラエルの人たちが、エルサレムの神殿に上るなら、心では離れていくと考え、金の子牛を二体造っている。(12章26節-29節)しかし、民を導く王がなしたこと故に、責任が重いということだろう。(10)このあとも、列王記では、つねにヤロブアムの罪について語られている。それを明確に告げるのが、このエピソードである。ヤロブアムは、神がだれだか、そして「真の」預言者についても知っていたのだろう。列王記記者の信仰がここに現れているように思う。この時点では、リーダーシップの責任をもつ王の責任が語られているが、究極には、個人一人ひとりにその責任があるのだろう。主は心をみるから。
1Kg 15:6 レハブアムとヤロブアムとの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった。
「戦いが絶えなかった。」という表現が、14章30節に初めて登場し、この章には、引用箇所以外に、7, 16, 32 節にある。あとは、歴代誌下12章15節にあるが、それは、引用箇所と同じ文章である。列王記記者がここで伝えたかったことがあったのだろう。サムエル記記者または、その下地になっているものと、列王記との違いも感じる。サムエル記の神学、列王記の神学という言い方は好まないが、記者の信仰について考えさせられる。
1Kg 16:23,24 ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間王位にあった。彼は六年間ティルツァで国を治めた後、シェメルからサマリアの山を銀二キカルで買い取り、その山に町を築いた。彼はその築いた町の名を、山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けた。
オムリは、ヤロブアムの子ナダブを殺したバシャ(15章27節)の子エラを、殺したジムリの軍の司令官だった人である。この一つの文章だけでも、めまぐるしい変化が見て取れる。このオムリの子がアハブであり、17章でエリヤが登場する。引用節からもわかるように、サマリアを首都としたのは、オムリ、また、「オムリの国」と残されている文献もあるようである。キカルは34.2kg とある。オムリの記述が短いことから、列王記記者は、アハブまたはエリヤの記述を急いでいるように思わせる。
1Kg 17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
人は、因果応報に思考が縛られ、自業自得、自己責任として、悲しい出来事を理解しようとする。しかし、神は因果応報からは、自由である。ここでも、善に報いられると理解することもできるが、おそらく、神様が憐れみに富んでおられる方であること、エリヤを通して、恵みを示されたことが中心なのだろうか。女は告白している、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
1Kg 18:40 エリヤは、「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じた。民が彼らを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した。
民の心を主にむける一つの方法だったかもしれないが、残酷なやり方でもある。そして、このやり方は、ますますバアル信仰者との対決へと向かう。偶像礼拝を長く続けてきた民に、主が大いなることを示すこと、12の石で民が一つであることを示すこと(31)これ以外にないと、エリヤは確信し、列王記記者も確信しているのかもしれない。同時に、このエリヤの物語が、この英雄的な行為で終わらず、19章そして、エリシャの物語へと向かっていくことも興味深い。分厚さだろうか。聖書は単純ではない。
1Kg 19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
第一声は「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 (4)である。弱い人間にできることは、ここまでということだろう。まず、食事を与え、主とゆっくり向き合うときを持たせ、そして、引用句がそのときの、エリヤの言葉である。しかし、それを、遥かに超え、特に「わたし一人」ではないことを、反論によってではなく、実際に、交わりを経験することによって示す。従者(3)もいたはずで、従者をも残して、わたし一人と言っているエリヤの、エリシャとの出会いは、特別な交わり、主との交わりを共有できる、特別なものだっただろう。信仰生活は、一人ひとりへの恵みであると同時に、共有の素晴らしさと豊かさが鍵であるように思われる。
1Kg 20:1 アラムの王ベン・ハダドは全軍を集めた。三十二人の王侯、軍馬と戦車をそろえてサマリアに軍を進め、これを包囲し、攻撃を加えた。
この章の記事の理解はいろいろとあるだろうが、エリヤとエリシャのことを思った。「主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。(続く)』 」(19章15節)このことを、エリヤは実行したのだろうか。列王記下8章に、エリシャとハザエルのやり取りがある。この章では預言者は何人も出てくるがその名前は書かれていない。あまりにも、複雑であるので、可能性を書くことは避けたいと思う。過渡期のエピソードを書き残しているのかもしれない。
1Kg 21:19 彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」
この構図は、ナタンの指摘した、ダビデの罪と似ている。そして、アハブは悔い改めに至る。「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。」(25)とある。イゼベルに唆された結果だったから、赦されたのだろうか。「わたしはあなたが招いた怒りのため、またイスラエルの人々に罪を犯させたため、あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家と同じように、またアヒヤの子バシャの家と同じようにする。」(22)と子孫にまで影響することが単純には受け入れられないが、これも、悔い改めを促しているのかもしれない。もしかすると、後日、アハブの子孫の行く末を見て、このように書いているのかもしれない。様々な理解ができるとてもむずかしい箇所でもある。
1Kg 22:15 王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。
原語では明確とは言えない。"Then he came to the king; and the king said to him, 'Micaiah, shall we go to war against Ramoth Gilead, or shall we refrain?’ And he answered him, 'Go and prosper, for the Lord will deliver it into the hand of the king!’” (NKJV)この ‘it’ もitalic で原文にはない。いろいろに理解できるところではある。あいまいさが、たいせつなのかもしれない。このあとの、主の御座の前での議論が確実なものとは、言えないが、それこそが、記録されたことなのだろう。このまま理解すると、他の預言者は、主の命に従ったことになる。しかし、全体としてそのようには、記されていない。

BRC2017

1Kg 1:5,6 ハギトの子アドニヤは思い上がって、「わたしが王になる」と言い、戦車と馬と五十人の護衛兵をそろえた。 彼は父から、「なぜこのようなことをしたのか」ととがめられたことが、一度もなかった。彼の体格もまた堂々としており、アブサロムの次に生まれた子であった。
アドにヤについては、殆どわからない。「思い上がって」とのことばから、列王記記者のある評価が分かるが、同時に、次の言葉からは、その冷静な評価も見て取れる。単純ではない。ダビデを単純に責めてもいないのは、興味深い。ゆっくり時間をかけて考えたい。
1Kg 2:15 彼は言った。「ご存じのとおり、王位はわたしのものであり、すべてのイスラエル人はわたしが王となるように期待していました。しかし、王位は移って弟のものとなりました。主のお計らいによってそうなったのです。
ハギトの子アドニヤは自分が王となることの合理性と正しさを主張している。さらに、主の働きに言及している。全体としてこの章の最後にある「こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなった。」へと向かっていることは確かであるが、書き方が雑であるように思われる。なぜだろうか。主要な人物が消えていく。多様性も失われていっているように思われる。
1Kg 3:14 もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」
神の掟と戒めを守ることの実体と意味が失われると、恵みが目的となってしまうと、迷い道に入り込んでしまうのだろう。恵みとにた効果を得る道は、他にもあるように思えてしまうから。神を畏れることを考えたい。
1Kg 4:20 ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かった。彼らは飲み食いして楽しんでいた。
章の区切りが訳によって異なる。口語では、新共同訳の5章1節から14節が4章21節から34節となっている。新共同訳ではこの句が4章の最後である。「多かった」ことと「彼らは飲み食いして楽しんでいた。」が何を意味するのか興味がある。一般的には繁栄を表現すると思われるが、聖書ではおそらく異なるだろう。聖書は、神との契約を守ること、すなわち掟を守ること、本質的には神の喜ばれる生き方をすることこそが求めることだと列王記でも言っているのだろうか。興味がある。
1Kg 5:9 神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。
口語訳などでは4章29節である。4節には「国境はどこを見回しても平和であった。」とあり、さらにそれに引き続いて「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。」(5節)が続き、平和な様子がうかがわれる、これ以上のことはないのではないだろうかとさえ思われる。しかし、このときに、すでに、問題の種のようなものがあったことを後半で記しているのかもしれない。サムエル記・列王記は、ひとつのまとまりと言われるが、書き方、物語の薦め方は、大分ことなるようにも思う。記者の時代認識の差かもしれないが。
1Kg 6:1 ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王になってから四年目のジウの月、すなわち第二の月であった。
ソロモン王はWikipediaによるとBC1011頃からBC931頃、在位BC971-931となっている。これで考えると、神殿建設は、BC968年、エジプトの地を出たのは、BC1448年となる。歴史学者はこの年代を支持していないが、その根拠と、もし、その年が異なっているなら、なぜ、ここに480年と書いたかも知りたくなった。根拠に基づいた歴史検証は重要である。しかし、根拠が非常に少ない場合、通常は、上限と下限(または下限のみ)しか確定できないはずである。基本的にはエジプト王朝の形態や、部族連合の成り立ちなどから考え、出エジプト自体も否定したりもするのであろうが、もう少し研究者の考えを知りたい。
1Kg 7:51 ソロモン王は、主の神殿で行われてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他の祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた。
これらはいずれエジプト(14章)やアッシリアなどに運び出されることになる。どのように用いられたかは不明であるが、やはり空しさを感じる。ダビデやソロモンがこのようにして主をほめ讃えることを目指したのは理解できるが、それは限定的なこの世での小事にすぎないことを意識できていたかが問われるように思われる。わたしもそれをしっかりと考えて生きていきたい。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6章20,21  節)
1Kg 8:12,13 ソロモンはそのときこう言った。「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。 荘厳な神殿を/いつの世にもとどまっていただける聖所を/わたしはあなたのために建てました。」
10節には「雲が主の神殿に満ちた。」ことが記されており、密雲はそれを指していると思われる。しかし、13節の部分が気になる。口語訳では単に「とこしえの住まいを建てた」となっているが、ひとにそのようなことができるとは思えない。喜びの時に、些細なことをあげつらうことなのかもしれないが、ソロモンのこころに誘惑が忍び込む隙間があることを感じてしまう。
1Kg 9:26 ソロモン王はまたエツヨン・ゲベルで船団を編成した。そこはエドムの地の葦の海の海岸にあるエイラトの近くにあった。
おそらくアラバの海、インド洋につづく場所だったのだろう。もう少し調べてみたい。ソロモンの計画は壮大で、王としてなしたことは、絶大であると思わされる。全体像も一度把握してみたい。聖書はそのことをどのように評価しているのだろうか。ソロモン後のことを知っているので、ついつい批判的に見てしまうので。
1Kg 10:4,5 シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、 また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。
ここで挙げられていることが、9節にあるシェバの女王の主の讃美のことば「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」につながっていることは確かである。素晴らしい。小事(この世のことに)に忠実であったともいえる。しかし、おそらく、ヨハネならば「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15章5節)のことばを伝えただろう。「主(イエス様)を離れては、ソロモン王も何もできないのだから」と。
1Kg 11:4 ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。
3節を読むと「彼女たち」は「七百人の王妃と三百人の側室」であることがわかる。ソロモンが愛した女性たち、すなわち、こころが分裂していったのだろう。「老境に入ったとき」に目がとまり、この節を選んだ。しかし、この章を読むと「主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められた」(9節・10節)とあり、敵対者としてあげられているエドム人ハダド、エルヤダの子レゾン、そして、後にイスラエル王国を率いるネバトの子ヤロブアムは、すでに、備えられている。老境に入ったときは、重要な鍵であるが、同時に、高慢にならないための多くの肉体のとげが与えられている。パウロのようにその意味を受け取ることが必要だったのだろう。主につながることによって。「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(2コリント12章7節)わたしも主につながって生きていくことができるように祈りたい。神からのサインを見逃さず。
1Kg 12:7 彼らは答えた。「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」
「この民の僕となり」にこころひかれた。サービスの重要さをいずれまとめてみたい。当時の状況はかなり複雑であったようである。レハブアムのおごりもあるが、「ヤロブアムは心に思った。『今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。 この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。』」(26節・27節)からは複雑さもみてとれる。このあと、ずっと、預言者集団が北イスラエルで活躍し続けたことを考えると、学びたいと思うようになった。並木先生の著書も読んでみよう。 
1Kg 13:21,22 彼はユダから来た神の人に向かって大声で言った。「主はこう言われる。『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、 引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない。』」
複雑な事件である。18節には「彼はその人を欺いたのである。」とあり、18節でつたえた言葉は欺きであったと記されている。列王記においては、神のことばか否かは、明確に判断できると考えていたのだろう。しかし、そうであれば、この老預言者の行為は何を意味しているのだろうか。欺きによる試験も、主からでたことなのだろうか。その部分については、聖書は沈黙を守る。ことばが主からかどうかは不明であるとの現代的解釈は危険もはらむが、深さもともなうように思う。一方に決めずに、求め続けたい。
1Kg 14:8,9 ダビデの家から王国を裂いて取り上げ、あなたに与えた。しかし、わが僕ダビデがわたしの戒めを守り、心を尽くしてわたしに従って歩み、わたしの目にかなう正しいことだけを行ったのとは異なり、 あなたはこれまでのだれよりも悪を行い、行って自分のために他の神々や、鋳物の像を造り、わたしを怒らせ、わたしを後ろに捨て去った。
これは老預言者アヒヤのことばである。アヒアのことばは、ヤロブアムの子に関してほぼ正確に成就するが、完全ではない。「あなたが足を町に踏み入れるとき」(12節)と「彼女が家の敷居をまたいだとき」(17節)の違い、「ヤロブアムに属する者で墓に入るのは、この子一人であろう。」(13節)と「彼は先祖と共に眠りにつき」(20節)おそらく、この差を、列王記記者は、知って書いたのだろう。13節にある、ヤロブアムの子の記述も興味深い。
1Kg 15:14 聖なる高台は取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。
11節の「アサは、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い」がここでは「アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。」と表現されている。完全に一致することは不可能だが、ヨハネ15章5節のようにつながって、留まっていたい。5節には「ダビデが主の目にかなう正しいことを行い、ヘト人ウリヤの一件のほかは、生涯を通じて主のお命じになったすべてのことに背くことがなかったからである。」と記されている。そのような評価が気になるのは、わたしも自分の評価を気にしているのかもしれない。聖書記者の評価、聖書に書かれている評価、それを超えて、神の評価、イエス様の評価を独立して考えられるのだろうか。イエス様が喜ばれる生き方はしたいが、評価は二次的であるようにも思われる。
1Kg 16:23,24 ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間王位にあった。彼は六年間ティルツァで国を治めた後、 シェメルからサマリアの山を銀二キカルで買い取り、その山に町を築いた。彼はその築いた町の名を、山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けた。
キカルは重さの単位で34.2gとある。シェケルは11.4g。聖書の記述から簡単には、価値が分かるわけではないが、おそらく、あまり高額ではないのだろう。オムリは、以前に読んだ榊原先生の本によると、イスラエル以外の文献にも登場し、イスラエルはオムリの国と呼ばれていると記憶している。オムリは、アハブの父でオムリは12年、アハブは22年間王位にあったことがこの章に記されている。サマリヤを首都とし、そこに異教の神を持ち込む明らかに、湯田とは異なる道をとったことが分かる。しかし、王位がどんどんクーデターなどにより代わっていくなかで、イスラエルとひとつにまとめられていることにも違和感を感じる。部族間の争いは殆ど無かったのだろうか。
1Kg 17:13 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
困難な箇所を理解しようとすると、どうしても無理が生じる。まずは「数年の間、露も降りず、雨も降らない」(1節)とのエリヤの預言がアハブに伝えられるところから始まる。そしてエリヤには「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」 (3,4節)と主は命じる。水はイスラエルにはないが、ケリテ川には一定期間あったのだろう。(7節)それから、サレプタに移住する。その最初の出会いでの言葉である。まず、水を求める。これは、おそらく多少会ったのだろう。そして、パンを要求。エリヤが十分な知識を持っていたかどうかは、不明である。このことばを聞いたやもめはおそらく、少し自分たちの分として残しておいただろう。つまりここは奇跡ではない。しかし、最後の粉を分かち合ったことから道が開ける。そして事実としては「こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。」(15節)と記され、この物語は「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」と締めくくられている。これに後日談が続くわけである。ここまででは、神のわざを神のわざとしては、見ることができなかったのかもしれない。我々の日常に思いをはせる。
1Kg 18:5,6 アハブはオバドヤに言った。「この地のすべての泉、すべての川を見回ってくれ。馬やらばを生かしておく草が見つかり、家畜を殺さずに済むかもしれない。」 彼らは国を分けて巡ることにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバドヤも一人でほかの道を行った。
アハブもかなり必死だったことと、オバドヤは非常に信頼されていたことがわかる。このあと、バアルの預言者と、アシェラの預言者が450人殺されるが、民衆はどのような存在だったのだろう。あまりに簡単になびくこころに、かえって違和感を感じる。(39節・40節)
1Kg 19:21 エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
特別な記事である。「イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ9章62節)を思い出す。おそらく、そのような形式が問われているのではあるまい。エリヤの「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」を見ると、かえってエリシャの覚悟がよく見えるように思われる。
1Kg 20:3 こう言わせた。「ベン・ハダドはこう言う。あなたの銀と金はわたしのもの、あなたの美しい妻子たちもわたしのものである。」
ベン・ハダドはアラムの王で、イスラエルの王アハブに告げた言葉である。十戒の中(出エジプト記20章17節)には「隣人の家を欲してはならない。」とある。アハブも他の神々を欲した。イゼベルを通して、もう少し実質的なものを欲したのかもしれない。隣人のものを自分のものとする世界には持続性はない。利害相反となり、衝突するからである。それを、34章のように「協定」で回避することはある程度可能であろう。しかし「隣人のものを欲する」ことが変わらない限り、争いは続く。エリヤが油を注いでいずれアラムの王となるハザエル(19章16節)は、エリシャの時代(列王記下)まで登場しない。ここでの預言者は、エリヤではないと思われるが、エリヤはこの一連のこと、そして42節の預言をどのように聞いていたのだろうか。難しい箇所でもある。
1Kg 21:26 彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。
このあとに、アハブの悔い改めの記事がつづいている。冷静に見ると、アハブは16:29にあるように、サマリヤで22年間治め、預言者の声にしたがい、アラムと戦い、勝利するとアラムと協定を結び、悪を指摘されると、へりくだる。幼稚に見えるところもあるが、妻イゼベルに頭があがらない、軟弱な指導者とうつる。列王記記者も、エリヤとコミュニケーションしているようにもとれる。神とエリヤという形式をとっているが。聖書の奥深さであるように思われる。「そこで主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。 『アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。』」(20,21節)
1Kg 22:7 しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、
まず5節でヨシャファトは「まず主の言葉を求めてください」とアハブに依頼し「イスラエルの王は、約四百人の預言者を召集し」たことが書かれている。引用した箇所では「主の預言者」となっており「預言者」と区別しているようにも思われる。このあとのことも、分かりやすいとはいえない。どの預言者の言うことが正しいかは、基本的に不明だろう。聖書の基準からある程度判断できることはあるかもしれないが。列王記記者はどのように考えていたのだろうか。アハブは何をたよりにしていたのだろう。そしてヨシャファトは。

BRC2015

1Kg1:6 彼は父から、「なぜこのようなことをしたのか」ととがめられたことが、一度もなかった。彼の体格もまた堂々としており、アブサロムの次に生まれた子であった。 
自由奔放、体格も良かったこのアドニヤが、52節で「ソロモンは言った。『彼が潔くふるまえば髪の毛一筋さえ地に落ちることはない。しかし、彼に悪が見つかれば死なねばならない。』」と告げられる。この状況では、アドニヤは生きていけないことは、ソロモンは知っていたかも知れない。
1Kg2:46 王がヨヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出て行ってシムイを打ち殺した。こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなった。 
ソロモンによる粛正の記録である。この章のはじめには、ヨアブとシムイについては、ダビデの意思であることが記されている。ソロモンによる粛正は、アドニヤに始まり、ヨアブ、アビアタル(祭司解任)、シムイと続いて、最後にこの言葉が記されている。以前は、神が善しとされたと考えていたが、そうでもないのかも知れない。人間の側の自由意思と、淺知恵を考えると、神はなすがままに任せたのかも知れない。それの現実が書かれていることに、さらに聖書の深さを感じる。列王記記者の神学(信仰者の神への応答)、そしてそれを最終的な結論ともしない記述。これが、聖書を何回読んでも、新たな発見へと誘ってくれる秘密であるように思われる。歴史とその内省の記録。
1Kg3:27 王はそれに答えて宣言した。「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」 
現代では、子を育てない母もいる。育児放棄である。父親の育児放棄には長い歴史があるように思われる。すなわち、親が子を放棄しないということは、普遍性がないのかも知れない。しかし、普遍的な価値があると信じたい気持ちも強い。ここでの王の裁きは、そう考えると「その女がこの子の母となった」のかもしれない。隣人となること、尊厳をみとめてひととしてかけがえのない存在であることを認め合うこと、それは、もともとそうなのではなくて、そのようになるのであると思う。そしてそうなるべきだという価値観にのっている。合意できる範囲をていねいに決めていかなければならないが。
1Kg4:5 ナタンの子アザルヤ、知事の監督。ナタンの子ザブド、王の友で、祭司。 
祭司と書いてあるのが2節のツァドクの子アザルヤ、4節のツァドクとアビアタル、そしてこの5節である。王と祭司による政治という体制なのだろう。同時に、ナタンは預言者のナタンであると思われるので、ナタンも祭司であったことがうかがわれる。さらに、祭司であれば、当然であるが、世襲制も多い。そのなかで順調そうな滑り出し、20節の最後「彼らは飲み食いして楽しんでいた。」は不気味である。
1Kg5:4,5 ソロモンはティフサからガザに至るユーフラテス西方の全域とユーフラテス西方の王侯をすべて支配下に置き、国境はどこを見回しても平和であった。 ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。 
これが平和の表現である。他者との境界が平和であること、その前に書かれているように、食卓が豊かであること、そして、それを精神的にも、豊かに楽しむ時があるという表現だろうか。しかし、6節からの馬の調達など、すでに罠ともなり得る項目が顔を出している。なんと難しい事か。まずは、この平和の時を楽しむべきなのか。
1Kg6:31 ソロモンは内陣の入り口にオリーブ材の扉を付けた。壁柱と門柱は五角形であった。 
五角形の柱には驚かされる。それをまだ引きずっているかのごとく、33節には「同様に外陣の入り口にもオリーブ材の門柱を付けた。これは四角形であった。」とある。五角形はやはり奇抜なアイディアだったろう。しかし、壁柱と門柱とあるから、正五角形ではなかったのかも知れない。正五角形だと構造的に複雑になるから。
1Kg7:13,14 ソロモンは、人を遣わしてティルスからヒラムを連れて来させた。 その母はナフタリ族出身でやもめであった。父はティルス人で青銅工芸の職人であった。ヒラムは知恵と洞察力と知識に満ち、青銅にかけてはどんな仕事にも通じていた。彼はソロモン王のもとに来て、ゆだねられたあらゆる仕事をした。 
このような才能を生かすのはとても難しい。父は外国人であったろう。そして神殿の祭具、備品の製作である。批判もあったかも知れない。このヒラムはどう考えたろう。その才能が生かされる、しかし初めての神殿。ことばはひとつも記されていない。神が、ヒラムに与えられた知恵と洞察力と技術をとおして、栄光を現されたのだろう。言葉もふくめ、よく考えたい。
1Kg8:61 あなたたちはわたしたちの神、主と心を一つにし、今日そうであるようにその掟に従って歩み、その命令を守らなければならない。」 
この神殿奉献時のソロモンの祈りは、列王記の出発点かもしれない。この祈りのようにならなかったことは反省しなければならないが、理由を詮索することに終始するのも問題かもしれない。この完璧とも思える祈りをしているこのソロモンも生涯完璧には生きられないことをすぐ露呈するのだから。
1Kg9:13 ヒラムは、「わたしの兄弟よ、あなたがくださったこの町々は一体何ですか」と言った。そのため、この町々は「カブルの地(値打ちのない地)」と呼ばれ、今日に至っている。 
ソロモンがヒラムに送ったガリラヤの20の町を視察したあとで言った言葉である。この値打ちのない町、またはそれから遠くない町が、ナザレ、何のよいものが出ようかと言われる、イエスの出身地である。
1Kg10:8,9 あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。 あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」 
口語訳では「あなたの臣民」は「あなたの奥方たち」となっている。言語の直訳は「おとこたちとしもべたち」となるようだ。KJV は "Happy are thy men, happy are these thy servants”, NIV は "How happy your people must be! How happy your officials, “ とし、この後の言葉を、official だけに限定している。いずれも、神の賛美へとつながっている。ここには、列王記の神学があるのか。
1Kg11:7,8 そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。 また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。 
非常に寛容。何が問題なのかをじっくり考えたい。自分の信仰、イスラエルの民の信じるものが分裂していくと言うことか。現代では、異なった宗教、信仰のものが共に住む社会にいる。個人の問題と切り離すことにも、限界があるように思われる。より本質的な課題を突きつけられているようにも思われる。
 
1Kg12:4 「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」 
キリスト者がこのようなことに目をとめなければ、福音は受け入れられないと思う。ソロモンの時代、神殿などの素晴らしさをたたえても、労働が大変であったことは、容易に想像がつく。人々への愛がなければ、その人達は、偶像礼拝に向かう。しっかりと考えたい。キリスト者の責任は思い。そして、キリスト者以外との協力が現代では最重要課題である。
1Kg13:18 しかし、老預言者は言った。「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」彼はその人を欺いたのである。 
聖書記者はここで「彼はその人を欺いたのである。」と記している。口語もそうなっているから、訳も問題ないであろう。この話しをどう理解するかは、難しい。神のことばを告げる者の厳しさとして、終わることもできる。この老預言者はそのような役目を担ったことを知っていたのか。さらに厳しさを感じる。もう少し落ち着いて考えたい。
1Kg14:1,2 そのころ、ヤロブアムの息子アビヤが病気になった。 ヤロブアムは妻に言った。「立って、ヤロブアムの妻だと知られないように姿を変え、シロに行ってくれ。そこには、わたしがこの民の王になると告げてくれた預言者アヒヤがいる。
ヤロブアムの妻と書かれていて、この子の母かどうかは、暫く書かれていない。12節に「あなたは立って家に帰るがよい。あなたが足を町に踏み入れるとき、あなたの子は死ぬ。」とあるが、この妻の悲しみ、辛さは書かれていない。なぜだろうか。この妻に、イスラエルの民のこころが結びつけられているようにも思われる。この預言の意味を、しっかり受け取るようにと。つまり、これよりも、もっと悲しいことが起こることを知るようにと。13, 14節は印象的である。「イスラエルのすべての人々はこの子を弔い、葬るだろう。まことにヤロブアムに属する者で墓に入るのは、この子一人であろう。ヤロブアムの家の中でイスラエルの神、主にいくらか良いとされるのはこの子だけだからである。 主は御自分のためにヤロブアムの家を断つ王をイスラエルの上に立てられる。今日にも、いや、今にもそうされる。」今日にも、今にも。回心を迫っているのか。
1Kg15:27 イサカルの家のアヒヤの子バシャは、彼に謀反を起こした。バシャはナダブが全イスラエルを率いてギベトンを包囲しているところを襲い、ペリシテ領ギベトンで彼を撃った。 
このあと29節には「彼は王になるとヤロブアムの家の者をすべて撃ち、ヤロブアムに属する息のある者を一人も残さず、滅ぼした。これは、主がその僕、シロの人アヒヤによって告げられた言葉のとおり、」となっている。アヒヤの預言は、いつから成就し始めていたのか定かではないが「今日にも、いや、今にもそうされる。」は偽りではなかったと言うことだろう。
1Kg16:20,21 そのとき、イスラエルの民は二派に分かれた。民の半分はギナトの子ティブニに従い、これを王にしようとしたが、他の半分はオムリに従った。 しかし、オムリに従う民は、ギナトの子ティブニに従う民を圧倒し、ティブニは死んで、オムリが王となった。 
これしか書かれていないが、書かれていることは深刻である。北イスラエル王国が二分されて戦ったようである。そこで勝利をおさめたのが、オムリ。北イスラエル王国は、オムリの国とも呼ばれた歴史的な記録があるようである。オムリが治めたのは12年、そしてその子がここかははじまる物語の中心人物のひとりで22年間治めるアハブ王である。混乱の中から平定したことは、十分な価値があると思われる。しかし、列王記記者の評価は厳しい。25節「オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪い事を行った。」
1Kg17:15,16 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。 
この章は、エリヤがアハブに主のことばを告げに行くところからスタートする。「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。』」この影響は甚大である。このことで苦しむ民は、大変な数だったろう。その痛みをどう考えるかは難しい。しかし「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」は文学的誇張表現の部分もあるだろうし、さらに、このやもめのように、ひとりひとりのストーリーが隠されているのかも知れない。
1Kg18:45,46 そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。アハブは車に乗ってイズレエルに向かった。 主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。 
なんとも凄まじい、かつ滑稽な光景である。この章の物語はとても有名であるが、詳細に学ぶ価値もある。その最後がこの文章で締めくくられているのは、興味深い。聖書のおもしろさでもあろう。
1Kg19:19-21 エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。 エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。 エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。 
エリシャは、エリヤからのメッセージを、完璧に捉え、それに自分の人生をかけて応答している。この前18節には「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」がある。エリヤは、あまり期待していなかったかも知れない。18章のオバドヤのような忠実さをもった人はいるかも知れないぐらいに思っていたのではないか。ここから、エリシャは、エリヤが天にあげられるまで、ずっとエリヤに従う。神様が備えられることは、私たちの期待とは、別の次元である。
1Kg20:14 アハブが、「誰を用いてそうなさるのか」と尋ねると、預言者は、「主はこう言われる。『諸州の知事に属する若者たちである』」と答えた。王が、「誰が戦いを始めるのか」と尋ねると、彼は、「あなたです」と答えた。
不思議である。この不思議さが、主から出たことの証なのか。アハブのしたことは微妙に違う。15節「そこでアハブが、諸州の知事に属する若者たちを召集すると、その数は二百三十二名であった。続いてすべての民すなわちイスラエル人七千人を召集した。」そのことを問う必要はないのか。13節「見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいてこう言った。「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」 の最後の部分が鍵なのであろうが、それを知ることはなかったのだろうか。
1Kg21:27 アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。 
列王紀では26節にあるように「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。」を評価としている。異教徒を妻としてはいけないということの反映であろうか。しかし、このあとの27節に「彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。」との評価があるにもかかわらず、悔い改めたアハブが赦されているように書かれている。神の寛容と赦しを伝える構造にはなっている。もう少し時間をかけて学びたい。
1Kg22:28 ミカヤは王に、「もしあなたが無事に帰って来ることができるなら、主はわたしを通して語られなかったはずです」と言い、「すべての民よ、あなたたちも聞いておくがよい」と言った。 
痛快な物語だが、ていねいに読んでみたいとも思う。なぜミカヤはここまで確信が持てたのだろう。神がこのような状態を許されるはずがないという義憤では、不十分である。神のこころと同期していた確信があったのだろう。これは、超自然的な告知によるのか。謎は残る。

BRC2013

1King1:29, 30 すると王は誓って言った、「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。わたしがイスラエルの神、主をさしてあなたに誓い、『あなたの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしに代って、わたしの位に座するであろう』と言ったように、わたしはきょう、そのようにしよう」。
12節のナタンが言った「あなたに計りごとを授けて」の意味も分かりにくい。すべてナタンの画策なのか。それとも全局的にみて、過去の約束をここで利用したのか。しかし、ダビデの「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。」という言葉はこころに響く。たとえ、もう、十分な判断力は残っていなかったとしても。
1King2:25 ソロモン王はヨヤダの子ベナヤを送ってアドニヤを討たせたので、アドニヤは死んだ。
一連の粛正は、残酷。アドニヤを撃ち、アビヤタルを主の祭司職から追放したことは、ダビデの遺言にもない。しかし、2:46 には「こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなった。」とあり、列王紀記者は、この一連に粛正を是認しているようにも思われる。
1King3:28 王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。
「神の知恵が王のうちにあって」となっている。ソロモンの治世の初期において、神の知恵の働きを記者は、強調していると言うことであろう。
1King4:25 ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで、安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。
新共同訳では5:5。章節がかなり異なっている。イスラエルにおける平安の象徴がこの表現なのだろう。日本ならばどのように表現されるだろうか。
1King5:11 またソロモンはヒラムにその家の食物として小麦二万コルを与え、またオリブをつぶして取った油二万コルを与えた。このようにソロモンは年々ヒラムに与えた。
1コルは230L。0.2L 一食とすると、2万コルは、2300万食程度だろうか。かなりの量にうつる。
1King6:7 宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。
これは、主への配慮として記されているのだろうか。それともほかの意味があったのだろうか。技術としては、かなりの者であるように思われる。
1King7:14 彼はナフタリの部族の寡婦の子であって、その父はツロの人で、青銅の細工人であった。ヒラムは青銅のいろいろな細工をする知恵と悟りと知識に満ちた者であったが、ソロモン王のところにきて、そのすべての細工をした。
つまり、外国人である。すばらしい技術がこのようにして使われたということだろう。
1King8:43 あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。
異邦人について、これだけ明確に言えるのは、自信の表れか、それとも、神理解の深さか。たとえ、イスラエルを中心においていたとしても。驚かされる。
1King9:7 わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。
神殿の奉献の時に、宮を捨てることまで言及されている。8章には各所に、悔い改めて立ち返るならという言葉があるが、そのことの言及は、ここには含まれていない。実際に歴史のなかで背教・背信によって主にすてられることを見据えてのことか。
1King10:8 あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞く家来たちはさいわいです。
近くにいる人たちはこのようには感じられないのかも知れない。しかしこのシバの女王の探究心と行動と言葉には、感銘をうける。
1King11:11 それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。
ソロモンの妻たちがこころを引き離したとある。ソロモンにもいいわけがあっただろう。しかし、ここの言葉は厳しい。これは、一般にもそうなのか、それとも、王だからだったのだろうか。
1King12:29 そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。
二つの金の子牛、主を捨てたことの象徴であろう。それを、イスラエルの南の端と北の端に位置したということか。ダンは、士師記以来重要な地となったのだろうか。
1King13:18 彼はその人に言った、「わたしもあなたと同じ預言者ですが、天の使が主の命によってわたしに告げて、『その人を一緒に家につれ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と言いました」。これは彼がその人を欺いたのである。
預言者が預言者を欺く。この話は何のために書かれているのだろう。正直よくわからない。明かなメッセージ性を持ってではなく、そのまま書かれていることが神話性に抗う歴史の見方なのか。
1King14:13 そしてイスラエルは皆、彼のために悲しんで彼を葬るでしょう。ヤラベアムに属する者は、ただ彼だけ墓に葬られるでしょう。ヤラベアムの家のうちで、彼はイスラエルの神、主にむかって良い思いをいだいていたからです。
ヤラベアムの子アビヤについては、1節とここにしか、書かれていない。意図を感じるが、ヤラベアムについての記述、13:4-6, 14:7-9 などを見ると、この時代が、岐路だったのかも知れない。このあと、イスラエルは、神に立ち返ることはなく、滅びてしまう。少なくともそれが、この記者の歴史観であったろう。
1King15:20 ベネハダデはアサ王の言うことを聞き、自分の軍勢の長たちをつかわしてイスラエルの町々を攻め、イヨンとダンとアベル・ベテ・マアカおよびキンネレテの全地と、ナフタリの全地を撃った。
ユダのアサ王は、イスラエルのバアシャに痛めつけられ、ダマスコのスリヤに助けをもとめる。もうこういう事態となれば、統一はあり得ない。
1King16:11 ジムリは王となって、位についた時、バアシャの全家を殺し、その親族または友だちの男子は、ひとりも残さなかった。
ジムリとオムリについて記されている。ジムリは、15節によると7日間治めたとあるが、これは、治めたと言えるのだろうか。この節では「友だち」との記述もあるが、これは、めずらしい言葉であるように思われる。全家だけでなく、友だちまでも殺している。オムリは24節にサマリヤを銀2タラントで買ったとある。当時としても高くは無かったのではないか。
1King17:9 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。
ルカ4:26には「エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。」とある。この意味づけを一般的にしてはいけないということか。共通のこととするのと、演繹は違うのか。
1King18:9 彼は言った、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか。
オバデヤは、深く主を恐れるひとである。しかし、主の働きの範囲が限定されてしまい、神のみわざを見ることができなかったのだろう。しかし、ここで新しいことを見ることになる。
1King19:3, 4 そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。
ベエルシバはユダの南端、ここからさらに1日の道のりをいく。ユダには、信仰者もいただろうに。気になるのは、このような預言者に不都合なことが書かれていることだけが、神話化に抗っていることなのか。あまりに、人への説明のための理論になっていないか。
1King20:22 時に、かの預言者がイスラエルの王のもとにきて言った、「行って、力を養い、なすべき事をよく考えなさい。来年の春にはスリヤの王が、あなたのところに攻め上ってくるからです」。
このときが十分に用いられなかったのか。内面化がなされ、悔い改め、神に寄り頼んでも、人間の責任を果たすことができない。そのためには、何が必要なのだろうか。
1King21:29 「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。
なんともひどいアハブ、しかし、主のあわれみは、深い。しかし、それは、現代においても、同じ事なのかも知れない。
1King22:8 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「われわれが主に問うことのできる人が、まだひとりいます。イムラの子ミカヤです。彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言するので、わたしは彼を憎んでいます」。ヨシャパテは言った、「王よ、そう言わないでください」。
イスラエルの王アハブは、自分の救いについては、興味があったのだろう。しかし、それが他のこととはつながらない。しかし、それにしても、ミカヤの行動と信仰には驚かされる。その確信はどこから得られるのか。おそらく、確信より、そうでなければいけないとの理解がしっかりとしていると言うことなのかもしれない。


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列王紀下

列王紀下(1)

私は2009年にヨーロッパを旅行しましたが、その時に、短い時間でしたが、大英博物館 (British Museum) にも行きました。印象にのこったのは "Siege of Lachish" という沢山のレリーフでした。Wikipedia からもある程度の情報が得られます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Lachish
聖書では列王紀下18章と歴代誌下32章に書かれています。アッスリア王のセナケリブがユダに攻め入ってラキシュを滅ぼした BC701 の記事です。たくさんのレリーフが大英博物館の一つのコーナーを埋めていたのでそこだけは時間をかけて見ました。囲んでいる軍隊、城壁の中の人、降伏する様子などが克明に描かれていました。

前回年表へのリンクをお知らせしましたが、実はダビデ王朝の年代などはいくつかの説があります。しかし、BC722年にサマリヤが陥落し北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされることと、BC586年に南ユダ王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされることは世界史の教科書にも書かれていると思います。この間、すなわち、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国はまだ続いていた時期に起こったのが、上記の記事です。

サムエル記上下と列王紀上下は何度も書いているように、非常に興味深い記事が満載されていますが、ユダヤ民族の盛衰についてはどう記されているのでしょうか。出エジプトからカナン侵入、現代の通常の言葉で表現すれば、侵略となります。それに対して、聖書はどのように言及し、その後の王朝の盛衰についてはどう記しているのでしょうか。それを考えながら読むのも良いと思います。ただ、旧約聖書のそれぞれの巻によって、少しずつ強調点が違うことも注意して下さい。

申命記から一箇所だけ引用しておきます。9:4-6 (新共同訳)

あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
申命記12章や18章にカナンの民の忌むべき事が書かれ、おそらくその最たるものとして「彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。」と書かれています。

では北イスラエル王国、南ユダ王国はどうだったのでしょうか。そのことが記されているのが列王紀下17章です。そのような背景も考えながら17章を読んでみてはいかがでしょうか。ここで北イスラエル王国が滅びます。北イスラエル王国の最後の王はホセアですが、このホセアについて、列王紀は次のように書いています。

彼は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。(列王紀下17:2)

イスラエル王の評価を注意深く読みながら列王紀を読むのもよいと思いますよ。歴代誌の評価とは少し異なります。列王紀下14章のヤラベアム(北イスラエル王国の最初の王ヤラベアムと区別してヤラベアムII とよく記されています)の記事のように、主の目の前に悪を行ったと書かれていても、王国は繁栄したという記事もあります。ここには、おそらくヨナ記の主人公として描かれているヨナと同一人物と思われる預言者ヨナのことも出てきます。預言者の役割も含めて列王紀のいろいろな面を考えながら読んで頂ければ幸いです。

列王紀下(2)

このコラムにも何度か書きましたが、個人的に、サムエル記上下、列王紀上下には、好きな箇所が多く、人生の様々な時に、考えさせられてきたのですが、最近は、すこし違うことを考えながら読んでいます。これらの王国史の記者は、なにを我々に伝えたかったのだろうかということです。列王紀上下の概略については、列王紀(1)にも書きましたが、いのちのことば社「新聖書注解」の列王紀I, II(新改訳を用いているため I, II となっています)服部嘉明注解部分の「列王紀概略図示」から流れをまず確認したいと思います。

  1. ソロモン伝承
    1. 王位継承(列王紀 I:1-2章)
    2. ソロモンの繁栄(列王紀 I:3-11章)
  2. 王位継承変遷史 南北両王国紛争(列王紀 I:12-16章)
  3. エリヤ・エリシャ伝承
    1. アハブ王の暴君政治 (後半:預言者主義形成)(列王紀 I:17-22章)
    2. 南北両王朝と近隣諸外国(列王紀 II:1-10章)
  4. 王位継承変遷史(列王紀 II:11-17章)
    1. 南北両王朝における王位継承紛争(11-17章)[北イスラエル王国の滅亡]
    2. ユダ善王と悪王 [残された南ユダ王国]
これらは、次の歴代誌上下もそうですが、次の箇所が示すように、いくつかの資料をもとに書かれたとされています。
ソロモンのそのほかの事績と、彼がしたすべての事およびその知恵は、ソロモンの事績の書にしるされているではないか。(列王紀上11章 41節(口語訳))
レハベアムのその他の事績と、彼がしたすべての事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。(列王紀上14章 29節(口語訳)似た記述 列王紀上15章7節, 23節, 22章45節, 列王紀下12章19節, 14章18節, 15章6節, 36節, 16章19節, 20章20節, 21章17節, 25節, 23章28節, 24章5節)
ヤラベアムのその他の事績、彼がどのように戦い、どのように世を治めたかは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされている。(列王紀上14章 19節(口語訳)似た記述 列王紀上15章31節, 16章5節, 14節, 20節, 27節, 22章39節, 列王紀下1章18節, 10章34節, 13章8節, 12節, 14章15節, 28節, 15章11節, 15節, 21節, 26節, 31節)
しかし、内容から、まとめられたのは、ユダのバビロン捕囚後であることは明らかでしょう。内容を、簡単にまとめることは難しいことではありますが、概要も参考にしながら書いてみると、以下の事が中心ではないかと思います。
  1. ダビデのあとの、王の信仰的態度、特に、主の導きを求め従うか否か(直接的に求めることから、預言者の声に聞き従うかへの変遷もふくめ)、偶像礼拝(主以外の神々への礼拝と、神殿礼拝以外の異教的な礼拝)に対する態度。
  2. 預言者、特に、エリヤ、エリシャ、イザヤの一般的活動と、王への神のことばの告知。
  3. 北イスラエル王国と、南ユダ王国の相互の関係、および諸外国との関係のなかでのイスラエルの国家と宗教。
これらを通して、何を語ろうとしているかは、みなさんに読んでいただくことにして、王国史の記者がおそらくもっていたであろう、問いはいくつか書いておこうと思います。
  1. 神の民の王国が分裂し、再統一はできず、異教徒に滅ぼされたのはなぜだろうか。
  2. 預言者の役割は何であるか、そして、預言者のことばから、歴史をとおしての神様の働きをどう受け止めたらよいのか。
この最初の問いについては、「リーダーとして王の宗教性に焦点をあてて歴史を省みる。」ことがなされているように思います。しかし、後半は少し単純化がされ過ぎているようにも見えます。しかし、それこそが、捕囚からあまり時期を経ていないときに、簡単に見つけられる原因だったのかも知れません。預言者については、活動は書かれており、ある場合には、神話のようなものとしての記述もありますが、明確にはなっていないように思われます。それは、もしかすると、預言者集団と近いひとたちが、列王記の編集に携わっていたからかも知れません。いずれにしても、王国を失い、生活の場を無理矢理に移動させられ、神殿を失い、イスラエル民族のかなりの部分が引き裂かれ、四散するという希望をうしなう時の流れの中で、列王紀記者たちの信仰告白ともいうべき本書から、後世に伝えようとしていることがらを、しっかりと受け取りたいと思います。


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聖書通読ノート

BRC2023

2King 1:8 使いの者が、「毛衣をまとい、腰に革帯を締めた人でした」と言うと、彼は、「それはティシュベ人エリヤだ」と答えた。
このことをよく知っているイスラエルの民は、バプテスマのヨハネを見て、エリヤだと考えたのだろう。マラキ書との関連もあるだろうか。以前から興味がある「アハズヤはエリヤの告げた主の言葉どおりに死んだ。彼には息子がなかったので、代わってヨラムが王となった。それはユダの王、ヨシャファトの子ヨラムの治世第二年のことである。」(17)であるが、ユダの王がイスラエルの王にもなったのだろうかと考えてしまう。正確にはわからない。アハブの子の一人なのか。アハブは、ユダの王とも婚姻関係があったようだが。
2King 2:25 エリシャはそこからカルメル山に行き、カルメル山からサマリアに戻った。
エリシャがエリヤの霊の二倍の分け前(9)を受け取り、継承者として歩み始めることが記されている。その最後が引用句で、列王記上18章のバアルの預言者との戦いの場所であったカルメル山に行き、その後、サマリアに戻ったことが書かれている。サマリアは、北イスラエル王国の首都、王がいる場所である。そこが本拠地であることがわかる。継承は、簡単ではない。ただ、エリアの最後のときを共に過ごして、継承するということはどういうことか、自分に欠けているものはなにかを考えたのかもしれない。エリヤは旧約最大の預言者と言われる。エリシャは何を使命として受け取ったのだろうか。新たな世界、エリヤが見なかったものも見据えているのだろうか。この章に書かれていることは、多少魔術的に感じる。
2King 3:27 そこで彼は、自分に代わって王になるはずだった長男を取り、城壁の上で焼き尽くすいけにえとして献げた。するとイスラエルに対して激しい怒りが起こったので、彼らはそこを引き揚げて国に帰った。
事実関係ははっきりしないが、エリシャが主のことば(17)を取り継ぎ、イスラエル、ユダ、エドム連合軍が、モアブを打ち破ったことが書かれ、最後に引用句が書かれている。子供を献げるということは、宗教儀式としてあったのかもしれないが、興味深いのは、ここで、「イスラエルに対して激しい怒りが起こった」とあり、モアブに対してではない。それほどまでに、苦しめてはいけないということだろうか。この四つ巴の戦いは、この時代、さまざまな形であったのだろう。エジプトや、アラムなどの勢力がそれほどではなかったのかもしれない。他の地域はどのような状況だったのだろうか。
2King 4:27 山にいる神の人のもとに来ると、その足にすがりついた。ゲハジは引き離そうと近寄ったが、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女は苦しい思いをしているのだ。主はそのことを私に隠し、知らされなかった。」
エリシャの奇跡記事の一つである。興味深いのは、「エリシャが、「それでは、彼女のために何をしてあげたらいいだろうか」と言うと、ゲハジは、『実は、彼女には子どもがなく、夫は年を取っています』と答えた。」(14)とあり、エリシャは、シュネムの女の欠乏はわからない。そして、引用句では、「苦しい思い」もわからない。奇跡的なことができても、他者の痛みはわからないということなのだろう。同時に、この女の好意に報いようともしている。それが、深い話になっていく。一般的には、奇跡物語だが、それ以外にたいせつなことがあるのだろう。25節には、エリシャがカルメル山にいたことも書かれている。巡回もしていたようだが、エリヤとも関係が深い、カルメル山は、特別だったのだろう。
2King 5:26 エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて、あなたを迎えたとき、私の心もそこに行っていなかったとでもいうのか。今は銀を受け取る時であろうか。衣服、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男や女の奴隷を受け取る時であろうか。
この最後の部分が不明である。ゲハジが受け取ったのは「銀二キカルと、着替え二着」(23)である。1キカルは、34.2kg とあるから、銀ニキカルは 68.4kg。それは、一人では担えない。しかし、ここには、衣服に続けて、「オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男や女の奴隷」となっており、さらに「受け取る時であろうか」とある。一般化しているように見える。受け取ったものを知らなかったわけではないのだろう。このあと、規定の病にかかることが書かれている。不明なことも多い、エリシャの奇跡物語である。なお、ここでは、エリシャはサマリア(の近く)にいることになっているようだ。
2King 6:23,24 王が盛大な宴会を催したので、彼らは食べて飲んだ。王は彼らを主君のもとへと送り返した。アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった。その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集して攻め上り、サマリアを包囲した。
二つの対立することが続けて書かれている。丁寧な編集作業を経ているのではなく、伝承を一つ一つ書いていったように見える。それにしても、奇跡物語が多い。なぜだろうと不思議になる。エリヤ伝承とは、性格が異なるように見える。何を伝えているのだろうか。エリヤ以後、預言者集団の働きが活発化し、伝承を伝える人が多くなったということだろうか。一貫性はなく、それぞれの人が伝えたエピソード集に見える。
2King 7:6,7 主が、戦車の響き、馬のいななき、また大軍のどよめきをアラムの陣営に響き渡らせたので、彼らは、「イスラエルの王が我々を攻めるため、ヘト人の王たちやエジプトの王たちを雇ったのだ」と互いに言って、夕暮れには、逃げ去っていたのである。彼らは、天幕も馬もろばも捨て、陣営もそのままに、命からがら逃げ去っていた。
アラムとの闘いについて書かれている。なにか、奇跡的なことで、イスラエルは滅亡を免れる。しかし、このあたりの内容を見ると、ある程度危機的な状況になっていることもわかる。すでにこの頃には、大帝国、アッシリアが力を増しているのだろう。アラムもその影響を受けていたことだろう。ただ、アラムと書かれていて、正確にはわからない。15節にはヨルダン川の方向に逃げたことが書かれている。ダマスコを首都とする国というのではないのかもしれない。このあたりの中東の状況をもう少し理解しておきたい。
2King 8:16,17 イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第五年、この時、ユダの王はヨシャファトであったが、ユダの王、ヨシャファトの子ヨラムが王となった。彼は三十二歳で王位につき、八年間エルサレムで統治した。
このあとには「イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第十二年に、ユダの王、ヨラムの子アハズヤが王となった。」(25)との記述もあり、同じヨラムがアハブの子となっている。ヨシャファトの子ヨラムについては、列王記上22章5節にも書かれており、繰り返しの記述は、資料が複数あるのではないかとも思わされる。王国の歴史は一貫した書物と思っているのが間違いなのかもしれない。たしかに、この時代には、いくつかの資料がすでにあったかもしれない。ヨシャファトの子ヨラムについては引用句の後「彼はアハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩んだ。アハブの娘が妻だったからである。彼は主の目に悪とされることを行った。しかし主は、僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えず灯を与えると約束されたからである。」(19)と続く。このあたりは、列王記記者の編集方針が一貫しているように見えるのだが。
2King 9:6,7 イエフは立って、家に入った。若者はイエフの頭に油を注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『私はあなたに油を注ぎ、主の民、イスラエルの王とする。あなたは主君アハブの家を打ち倒さなければならない。こうして私は、僕である預言者たちの血、イゼベルの手にかかって流されたすべての主の僕たちの血の復讐をする。
エリシャが預言者仲間の一人を遣わしてイエフに油を注ぐ箇所である。王にすると言っているが、特定の目的が掲示されている。イゼベルが生き残っており、エリヤ預言を実現させたように取れる。しかし、乱暴でもある。同時に、エリヤの影響のもとでことが推移しており、エリシャが中心ではないようにも見える。あくまでも、エリヤの後継者なのだろうか。エリシャ物語は項目数も多いが、エリヤの後継者以上ではないのか。御心もよく見えない。
2King 10:30,31 主はイエフに言われた。「あなたは私の目に適う正しいことをよく成し遂げ、私が心に定めていたことをことごとくアハブの家に対してやり遂げた。それゆえ、あなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座に着く。」しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。
主の言葉は、預言者が告げたのだろう。非常に残酷な記事が描かれている。アハブの家のものを殺し、バアルの祭司を殺す。エリヤ預言を実施したということで、功績が評価されている。ここには、信仰深いものの、評価があったろう。ただ、神に従って生きることは、そして、ひとの心が神に向くことは、このようなことのよっては生じないように思う。このあとには「この頃から、主はイスラエルを切り崩し、ハザエルはイスラエルの全領土に侵攻した。」(32)とあるが、因果関係で見るのは危険であると思う。当時の人々がどのように考えたか、少なくとも、列王記記者の考えは受け取りたい。
2King 11:20 国の民は皆喜んだが、都は静まり返っていた。彼らはアタルヤを王宮で剣にかけて殺したのである。
ユダの王、ヨシャファトの子、ヨラムの妻でその子アハズヤの母であるアタルヤは、アハブの娘であることもあり、ここで、ユダ側でも粛清が行われたことが描かれている。確認しないと、わたしも自信がないほど、複雑である。正直、アハブの子孫を殺すことに、どれだけの意味があるのかと考えてしまう。遺伝子で、神に従うかどうかが決まるわけではないのだから。背景には、エリヤ預言があるのだろうが、このような子孫を殺すと言うことが、ものごとの解決にはならないことを示しているとも言えるかもしれない。簡単ではないだろうが。
2King 12:5,6 ヨアシュは祭司たちに言った。「主の神殿に納められるすべての聖なる献金、すなわち各人にその割り当てに従って課せられた献金と、主の神殿に自発的に献げられるすべての献金は、祭司たちがおのおの自分の担当の者から受け取り、神殿の破損を修理しなければならない。神殿で見いだされるすべての破損についてである。」
ヨアシュの改革について記されている。祭司ヨヤダの教えを受け(3)、また、「母の名はツィブヤと言い、ベエル・シェバの出身」(1)とあるので、北イスラエルのアハブ王の家系およびイゼベルと関係が薄かったのだろう。7歳から40年統治した(2)とあるが、単純には、神殿の修理もうまくいかなかったようである。「生涯を通じて主の目に適う正しいことを行った」(3)とはあるが、実質的には、気持ちだけではできないように思われる。しかし、この記録は興味深い。これがこのあとにつながるのかもしれない。
2King 13:4,5 しかし、ヨアハズが主に願い求めたので、主はそれを聞き入れられた。イスラエルに対する抑圧、アラムの王が彼らを虐げるのを見られたからである。主がイスラエルに一人の救い手を与えられたので、彼らはアラムの支配から脱することができた。それでイスラエルの人々は、以前のように自分たちの天幕に住むことができるようになった。
列王記の史観は単純にも見えるが、そうではない部分もある。ここでは、ヨアハズの治世についてある程度詳しく書いてある。このあとにエリシャがなくなる記事もあり(20)、この章にも「ユダの王ヨアシュの治世第三十七年に、ヨアハズの子ヨアシュがサマリアでイスラエルの王となり、十六年間統治した。」(10)とユダの王とイスラエルの王に同じ名前のヨアシュが登場し、個人的にはすぐ混乱してしまうが、交流もあり、いくつか資料があったと言うことだろうか。引用句では「主がイスラエルに一人の救い手を与えられたので」と、士師記のような記述がある。そのあとには「天幕に住むことができるようになった」ともあり、逃げ惑っていたのか、サマリヤに住まなければならず、生活の基盤が失われたのか、不明なことも多い。
2King 14:10 あなたはエドムを討ち破って思い上がっている。誇ってもよい。しかし自分の家にとどまっているがよい。なぜ、災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」
引用句はイスラエルの王ヨアシュのことばとして記されている。王国の歴史は、先の預言者と呼ばれ、預言者文書、北イスラエルの預言者が関与していると思われる。ダビデに基準を置いて、王の評価を単純化しているようにも見えるが、それは、設定であって、記者はそうは考えていないのかもしれないとも思った。この章には、「しかし、モーセの律法の書に記されているとおり、殺害者の子どもは殺さなかった。主が次のように命じておられるからである。『父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される。』」(6)と申命記24章16節も引用されており、引用句も含め、複雑化している。単純な読み方ではいけないのかもしれない。
2King 15:36 ヨタムが行ったその他の事績、それらは『ユダの王の歴代誌』に記されているとおりである。
この章でイスラエルがアッシリアに敗北し、捕囚となったことが記されている。(29,30)少し前から記述があるが、歴代誌の記述が増えているように思ったので、調べてみることにした。『イスラエルの王の歴代誌』(上14:19, 15:31, 16:5, 14, 20, 27, 22:39, 下1:18, 10:34, 13:8, 12, 14:15, 28, 15:11, 15, 21, 26, 31, )、『ユダの王の歴代誌』(上14:29, 15:7, 23, 22:46, 下8:23, 12:20, 14:18, 15:6, 36, 16:19, 20:20, 21:17, 25)この15章以降は、ユダの王の歴代誌しか登場しないのは当然だが、やはり、このあたりに集中している。上では、イスラエルの歴代誌の方が多少多い。これだけからは、詳細はわからないが、いずれも、上の14章あたりから記述が始まっている。歴代誌の記録が安定したと言うことだろうか。
2King 16:7-9 アハズは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使いを送ってこう言った。「私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王の手とイスラエルの王の手から、私を救い出してください。」またアハズは、主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送った。そこで、アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに連れ去り、レツィンを殺した。
このように表現されているが、おそらく、事実は、アッシリアが、ダマスコのアラム人を打ち破ったと言うことなのだろう。アハズの治世の何年目か不明だが、北イスラエルの王ペカが、アッシリアに打ち破られるのも同時期なので、ここでも、アッシリアへの従属を先手を取って、表明した記事なのかもしれない。今考えるよりも、ずっと、国際情勢についての情報を持っていたように思う。とはいっても、ダマスコの祭壇のことなど(10-16)悲しいとしか言えない混乱も見受けられる。それを批判してもいけないのかもしれない。アッシリアは、中東最大の巨大帝国になっているのだから。
2King 17:24 アッシリアの王は、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりに、彼らをサマリア各地の町に住まわせた。そこで、彼らはサマリアを所有し、各地の町に住むことになった。
この章には、列王記の史観のようなものもまとめてあり興味深い。ただ、一つの史観であり、他の考えもあったのではないだろうか。引用句に描かれているのは、アッシリアの移民政策である。住民を移住させ、そのあとに、他の地域から移民させる。そこで、トラブルが起こったことも描かれている。サマリア教団の発生とまでは、言えないかもしれないが、イスラエルの歴史的にも、混乱を招いたことが起こっている。この経験は、イスラエルにとって、たいへんなことだったろう。移住させられた民はどうなったのだろうか。詳細は不明である。
2King 18:31,32 ヒゼキヤに聞き従うな。アッシリアの王はこう言われるからだ。『私と和睦し、降伏せよ。そうすれば、お前たちは皆、自分の畑のぶどうやいちじくを食べ、自分の水溜めの水を飲むことができるようになる。私が来て、お前たちを、お前たちの土地と同じような土地、穀物と新しいぶどう酒の土地、パンとぶどう畑の土地、新しいオリーブ油と蜜の土地に連れて行くまで、死んではならない。生きよ。』ヒゼキヤに聞き従うな。彼は、『主が私たちを救い出してくださる』と言って、お前たちを欺いている。
詳細がよくわかるわけではない。この章の最初には、アッシリアがサマリアを占領してから、ユダに攻め入ってきたことが描かれている。(9-12)そして、ヒゼキヤは、要求を完全に満たすものかどうかは不明だが、貢ぎを送る。(13-16)そして、ラブ・シャケが攻めてくる。そして、ヘブル語だろうか、地方のことばで語りかける。引用句を読むと、やはりアッシリアの政策として「連れて行く」移住させることは明確に語られている。言語の使用も含めて、状況としては、明らかに、ユダは負けている。そのことを、イザヤ登場までに、確認しているかのように見える。
2King 19:29-31 これがあなたへのしるしである。/今年は自然に実った穀物を食べ/二年目は自生したものを食べ/三年目は種を蒔いて刈り入れ/ぶどう畑を作ってその実りを食べよ。ユダの家に残り、難を逃れた者は/再び根を下ろし、上に実をつける。エルサレムから生き残った者が/シオンの山から難を逃れた者が現れ出る。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げられる。
このあとには「私のため、また私の僕ダビデのため/私はこの都を守り、これを救う。」(34)ともある。ラブ・シャケのことばを否定していることは確かだろう。そして、ダビデのために。ただ、それだけでは、問題が解決しないことがこれから起こる。ここで、すぐには、滅ぼさず、しばらく残ることが重要だったのかもしれない。主の憐れみとも、歴史的に、受け取るための神認識を深めるためにも、この期間が必要だったのかもしれない。同時に、世界史的な動きもあり、世界規模の信仰、主は、世界の主であるとの認識になることは、不可能に近いような、変革が民のこころにも必要だったのだろう。
2King 20:19 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」と答えた。自分の在世中は平和と安定が続くと思ったからである。
いろいろな解釈が可能だろうが、このあとには、「ヒゼキヤは先祖と共に眠りに就いた。その子マナセが代わって王となった。」(21)と続く。マナセのことをある程度知っているからかもしれないが、やはりヒゼキヤが自分というより自分の時代にしか関心がなかったことは、やはり残念な気がする。共に生きるのは、自分の時代に生きる人だけではなく、時代を超えて、他の人たちも含まれると思うからである。そのような希望を持って、今を生きて行きたい。
2King 21:3 父ヒゼキヤが破壊した高き所を建て直し、バアルの祭壇を築き、イスラエルの王アハブが造ったように、アシェラ像を造った。また天の万象にひれ伏し、これに仕えた。
列王記の評価なのだろうが、少し、寂しい感じを受けた。王だけ、または、マナセ個人の責任だけではないと思うからである。本当に、このことが重要ならば、それを協力して守らなければならない。逆に、ダビデに希望を置き過ぎているようにも感じる。むろん、この時代を知らないものが言うことではないかもしれないが。また、55年王位にあったマナセの記述が、このことに集中していることも、残念である。歴代誌下33章には、多少、他のことも描かれている。列王記の時点では、なぜ、王国が異教徒に滅ぼされてしまったのだろうという問いが中心だったのかもしれない。その重さを受け止めなければ、列王記も理解できないのだろう。
2King 22:14 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女はハルハスの子ティクワの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネに住んでいた。彼らがフルダに尋ねると、
ヨシヤ王の時代に「あるとき、大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『主の神殿で律法の書を見つけました』と伝えた。そしてヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。」(8)のあとのことである。このことはさまざまに解釈され、申命記がこのときに成立したとも言われる。いくつか感じたことがあった。一つ目は、直前の7節にある「監査は不要」ということ。なぜ、監査を日常的にするのかという理解には達しておらず、一部の人のリーダーシップに頼らざるを得ない実態があったこと。引用句でも、預言者フルダのところに行くわけだが、もっと、さまざまなひとに聞くことはないことなどである。律法の書についても、理解は一部のひとにとどまっていたのだろうと思う。「彼らが私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったあらゆるものによって、私を怒らせたからである。」(17a)とあるが、彼らは、民の指導者以上ではないように思う。
2King 23:25,26 彼のようにモーセの律法に従い、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼以前にはいなかった。また彼以後にも、彼のような者は現れなかった。しかしながら、主はユダに対して燃え上がった激しい怒りの炎を鎮めようとはされなかった。マナセが主を怒らせるようなあらゆることを引き起こしたためである。
後半は、このあと「ヨシヤの治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かって、ユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王は彼を迎え撃つために出て行ったが、ネコはメギドで彼を見つけて殺した。」(29)とあり、改革は貫徹できなかった背景から、原因をマナセに求めたように思われる。ヨシヤの宗教改革と言われる、旧約聖書の成立にも関係すると言われる大改革である。しかし、王や祭司の主導では、人の心は変わらないように思う。キリスト教では、聖霊を助け主として重要視するが、現実はそれほど単純でもない。永遠の課題なのだろうか。ひとはなにが幸せなのかも、よくわからないのだから、主の御心を求め続けるところから始める以外にないように思う。
2King 24:2,3 主はカルデアの部隊、アラムの部隊、モアブの部隊、そしてアンモン人の部隊を送られた。僕である預言者たちによって告げられた主の言葉のとおり、ユダを全滅させるために送られた。ユダでこうしたことが起こったのは、まさに主の命令によるものであり、ご自分の前からユダを取り去るためであった。それはマナセの罪のためであり、彼の行ったすべてのことのためである。
この章の終わりには、ユダ最後の王、ゼデキヤが王位に就く。そして、引用句が歴史観なのだろう。ここでは、マナセの罪に帰しているが、当時の人でも、必ずしも、皆がそう考えていたわけではないように思う。マナセが悔い改めた記事も歴代誌下33章13節, 18節などにあり、王一人に罪を帰すことはできない。ひとの心が神に向かうのは難しい。自分の幸せが何であるかもわからないのだから。
2King 25:3,4 第四の月の九日、都の中では飢えが厳しくなり、ついに国の民の食料が尽きてしまった。その時、都の一角が破られ、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通り抜けた。カルデア人が都を取り囲んでいたが、一群はアラバ方面へと向かった。
シリアスな書き方になっている。飢えが厳しくなり、そのとき、都の一角が破られる。このあとの状況も、混乱である。敗者は、このようなものなのかもしれない。しかし、ここから、ユダヤ教が成立していったと考えるのは、とても意味があるように思う。出発点でもあるのだろう。しっかりと受け止め、主の御心を求めていきたい。


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2 Kings 1:13-15 アハズヤはさらに、三人目の五十人隊の長と部下五十人を送り出した。五十人隊の長は上って来ると、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人、私の命と、あなたの僕であるこれら五十人の命が、どうかあなたの目に尊いものとなりますように。見てください。天から火が降り、先の二人の五十人隊の長と、その部下五十人を焼き尽くしました。どうか、私の命をあなたの目に尊いものとしてください。」主の使いがエリヤに、「彼と一緒に下りて行きなさい。彼を恐れるには及ばない」と言ったので、エリヤはすぐに、隊長と一緒に王のもとへと下って行った。
前の二人の隊長は「神の人、王が下りて来なさいと言われています」(9)「神の人、王が急いで下りて来なさいと言われています」(11)と言っていることに、滅ぼされた理由を求めることもできるだろうが、ここでは、エリヤの神理解が進んだとも言えるかもしれない。「私の命と、あなたの僕であるこれら五十人の命が、どうかあなたの目に尊いものとなりますように。」とあるが、主の恵みに生きる感覚がこの隊長には、あったのだろう。因果関係としては、捉えないが。「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに伺いを立てに行くというのは、イスラエルには神がいないためなのか。」(3,6)と問うているが、この問も、列王記記者の問だろう。エリヤの解く、神に仕えることは喜ばしいことには見えなかったのだろう。それは、ある程度、わかるように、思う。その感覚と、この隊長二人と、その部下100人が殺されたこととも交錯する。
2 Kings 2:24,25 エリシャは振り返り、彼らを見て、主の名によって呪った。すると、森から二頭の熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人を引き裂いた。エリシャはそこからカルメル山に行き、カルメル山からサマリアに戻った。
神はやはり恐れるものなのかもしれない。このように、主の預言者を侮辱またはからかった子どもたちがたくさん熊に引き裂かれたことが記録されているのだから。それは、列王記記者にとっては、自然な表現だったのだろう。「どうかあなたの霊の二倍の分け前をくださいますように」(9)このエリシャの願いが叶えられたことの表現がこの章の後半のテーマなのだろう。最後は、エリシャがカルメル山に行ったことが記されている。列王記上18章のときは、すくなくともその場にはいなかったろうから、エリヤの経験したこと、バアルやアシェラの預言者と対峙したことを、こころに刻みたかったのだろう。そこではなにを受け取ったのだろうか。「主がエリヤをつむじ風で天に上げられた」(1)ことはどのように理解すればよいのだろうか。
2 Kings 3:4,5 モアブの王メシャは羊を飼っていて、イスラエルの王に十万匹の小羊と十万匹分の雄羊の毛を納めていた。しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。
具体的な隷属関係・契約が書かれていて興味深い。モアブは、羊の牧畜が主たる産業だったのだろう。「十万匹の小羊と十万匹分の雄羊」が全体のどのような割合なのかは不明だが、おそらく、かなりの量だったろう。ここでは、「モアブの王メシャは羊を飼っていて」と始まるので、おびただしい数の羊を飼っていることが、モアブの王の権威で、それが辱められていたのだろう。イスラエルでも牧畜が重要な位置を占めていただろうから、これらは、他の産品との商取引に用いられていたのかもしれない。アハブがかなりの力をもっていたことがわかる。イスラエルの王に背いたことが書かれているが、アハブの子ヨラムは「彼は主の目に悪とされることを行った。ただ、父や母ほどではなく、父が造ったバアルの石柱は取り除いた。しかし、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪にしがみつき、それから離れなかった。」(2,3)とあり、なにか評価として薄っぺらい感じがするが、まだイゼベルが生きていた頃であるから、大変なことだったろうと思う。ただ、アハブのように威圧的ではなかったことが、モアブが背いたことと関係しているようである。ここには、エドムも登場する。イスラエル、ユダ、モアブ、エドム、アンモンもそうだろうか、長い歴史的な複雑な力関係があったことが伺える。しかし、おそらくそれも、アッシリア以前のことである。まだ、平和な時代だったのかもしれない。平和の時代に育むべきことは何なのだろうか。
2 Kings 4:43,44 従者は、「どのようにして、これを百人の人たちに配るのですか」と尋ねた。エリシャは答えた。「皆に配って食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べても、なお残すだろう。』」そこで配ってみると、主の言葉どおり、彼らは食べて、なお残した。
この章には、エリシャの奇跡と言われるものが書かれている。最初は多くの器を油で満たし、次には、こどもを生き返らせ、そして3つ目がこのパンである。イエスのなされた、カナの婚礼での水をぶどう酒に、そして青年や少女を生き返らせ、さらに、パンで養うことを彷彿とさせる。同じことをしているというより、イエスは、エリシャの働きを通して、神の国、神様が支配されている世界を生きることについて、考え、生き、伝えているように思う。相違をどう理解したら良いのか、わたしには、まだわからない。これらの奇跡を全体として捉えたことがいままでなかったように思う。丁寧に見ることで、イエスの働きについても、よりよく理解したい。
2 Kings 5:11,12 ところが、ナアマンは怒って立ち去り、こう言った。「私は、彼が自ら出て来て私の前に現れ、彼の神、主の名を呼んで、患部に手をかざし、病を癒やすものとばかり思っていたのだ。ダマスコの川であるアバナやパルパルのほうが、イスラエルのどんな水よりも良いではないか。それなのに、これらの川で洗っても、清くなれないというのか。」ナアマンは身を翻し、憤って立ち去った。
このあとに家臣たちは「ご主君、あの預言者が大それたことを命じたとしても、あなたはきっとそれをなさったことでしょう。ましてあの方は、『身を洗って清くなれ』と言っただけではありませんか。」(13)と進言している。まず、ナアマンは、自分の願いが、叶えられる道筋までを願いの一部にしてしまっている。いままで、十分苦しみ、そのなかで、こうであったらと、様々な期待や夢を妄想する中で、本当に願っていることがぼやけてしまっているのだろう。他方、周囲の家臣たちは、なにか、困難なことをすることで、願いが叶えられるかもしれないと考えていたかもしれない。そのどちらもが覆された。それを受け入れるのは、当事者のほうがより困難であることも証言している。それだけ、悩み、苦しみが深かったのだろう。同時に、それを消化して、受け入れる時間と機会が与えられてもいる。神の国に生きることは、自分の思いから自由になることなのだろうか。そして、背後には、神の恵みがある。
2 Kings 6:23,24 王が盛大な宴会を催したので、彼らは食べて飲んだ。王は彼らを主君のもとへと送り返した。アラムの部隊がイスラエルの地に来ることは二度となかった。その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集して攻め上り、サマリアを包囲した。
4章から8章途中までエリシャのエピソードが続き、その間はイスラエルの王と記され、名前は書かれていない。3章と8章を見るとアハブの子ヨラムの名が記されているので、おそらく、ヨラム王の時代なのだろう。しかし、切り離して記されているように思われる。それは、このような奇跡物語が普遍的な歴史記述とは異なるレベルで記されているからではないかと思った。引用箇所は、連続した2節であるが、普通に読めば矛盾している。これも、エピソード集で、歴史的事実として記述しているものとは異なることを意味している。このエリシャのような存在がいれば、アッシリアにも、バビロンにも、滅ぼされなかったかもしれないと思ってしまうが、おそらく、列王記記者は、そのことは主張していないのだろう。同時に、エリシャの近くで起こったことの記述が多く、エリシャに近いものたちからの、伝承も多かったのだろう。それらを編集せずに掲載していることが、かえって価値があるのかもしれないと思った。編集すると、列王記記者の視点・解釈が強くなりすぎてしまうので。
2 Kings 7:1,2 エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今頃、サマリアの門では、上質の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルとなる。』」王の介添えをしていた侍従が神の人に、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはありえない」と答えると、「あなたは自分の目でそれを見ることになる。だが、それを食べることはない」とエリシャは言った。
この章の最後にこれがどのように実現するかが書かれている。しかし、エリシャのエピソードの始まる前の3章1節から3節のアハブの子ヨラムについての記述が、エリシャの時代の背景を記述しているのかもしれないと思った。「彼は主の目に悪とされることを行った。ただ、父や母ほどではなく、父が造ったバアルの石柱は取り除いた。」(3:2)エリヤについては、列王記19章でその内面がある程度書かれているが、エリシャについては、シュネムの女との関わり以外は、それが表現されていないように見える。エリシャが語ったことではなく、その周囲の人が語ったことが書かれているのかもしれない。エリシャの奇跡物語は、おそらく、そのような背景もあり、理解が難しい。
2 Kings 8:16,17 イスラエルの王、アハブの子ヨラムの治世第五年、この時、ユダの王はヨシャファトであったが、ユダの王、ヨシャファトの子ヨラムが王となった。彼は三十二歳で王位につき、八年間エルサレムで統治した。
毎回混乱するのでまとめておく。アハブ אַחְאָב('aḥ'āḇ, Ahab : father's brother)、アハブの子ヨラム יוֹרָם(Yôrām, Joram: Jehovah is exalted)はイスラエルの王、ユダの王ヨシャファト יְהוֹשָׁפָט(Yᵊhôšāp̄āṭ, Jehoshaphat:  Jehovah has judged)の子も同じくヨラム  יְהוֹרָם(Yᵊhôrām, Jehoram or Joram: Jehovah is exalted)だが、こちらのヨラムには、ה ハーが入っている。厳密には異なるのだろうか。ただ、ה はいろいろな形で付け加えられるので、大きな差はないのかもしれない。その子は、アハズヤ אֲחַזְיָה('ăḥazyâ, Ahaziah: Jehovah (Yahu) holds (possesses))で、その母は、アタルヤעֲתַלְיָה(ʿăṯalyâ, Athaliah: afflicted of the Lord)でオムリ עָמְרִי(ʿāmrî, Omri: pupil of Jehovah)の孫娘とあるが、言葉としては、単に娘 בַּת(Baṯ: daughter)である。オムリは、クーデターを起こし、ヤロブアムの家系を絶やしたジムリを7日後に滅ぼした王で、アハブはその子、アタルヤはその娘なので、孫娘という訳になっているのだろう。たしかにそのような関係もこのことばで表現されたようである。
2 Kings 9:22 ヨラムはイエフを見ると、「どうしたのか、イエフ」と尋ねたが、彼は、「何がどうしたのかだ。あなたの母親イゼベルの淫行と呪術がはびこっているというのに」と答えた。
4節から、エリシャに託された言葉を、若い預言者が告げる場面が書かれているが、興味深いのは、11節から13節のイエフと他の将軍たちとのやり取りの方だ。引用箇所からも、イエフはおそらく、アハブ、その妻イゼベル、その子ヨラムについて、これではイスラエルは滅びると考えていたのだろう。「ヨラムは、全イスラエルを率い、アラムの王ハザエルに対して、ラモト・ギルアドを防衛していたが、アラムの王ハザエルとの戦いでアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに戻っていた。」(14b,15b)とあり、イエフや他の将軍は、アラムの王ハザエルと戦っていた最中である。現場では、王の命令系統の乱れなどから、これではいけないという実感が強かったのだろう。しかし、敵と対峙しているときに、簡単には動けない。しかし、ここで、他の将軍たちの支持を取り付け、急いで、イズレエルに向かっている。時間も大切だったのだろう。それが、エリシャの言葉「それから戸を開け、逃げなさい。ぐずぐずしてはいけない。」にも乗り移っているのだろう。平穏にみえる世界が一変する出来事である。列王記上19章で、エリヤに告げられた預言の成就である。
2 Kings 10:31,32 しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。この頃から、主はイスラエルを切り崩し、ハザエルはイスラエルの全領土に侵攻した。
イエフはエリシャによって油注がれ、アハブ家を滅ぼす任務を負う。まずは、イスラエルの王ヨラムと、アハブの娘の子であるユダの王アハズヤ、その後もアハブの家系のものを徹底的に滅ぼし、かつバアルに仕えるものも殺す。しかし、列王記記者の記述を見ると、あまり好意的ではない。ヤロブアムの罪(ベテルとダンに金の子牛を置いたこと)の故である。まずは、アラムのハザエルの侵攻を記している。これが歴史観なのだろう。偶像礼拝から離れなかったことこそが鍵とも言えるが、ヤロブアムの罪は、ユダにある、エルサレム神殿にイスラエルの民の心が向かわないようにしたこと、分裂を固定化しようとしたことなのだろう。そこに問題を集約することはひとつの歴史解釈だろうが、罪人は救われないというのに近い。アッシリアやバビロンに滅ぼされることは、あまりに大きなことではあるが、主を知ることは、単純には、達成できないように思う。到達点を明示するよりも、求め続ける謙虚さだろうか。
2 Kings 11:20 国の民は皆喜んだが、都は静まり返っていた。彼らはアタルヤを王宮で剣にかけて殺したのである。
興味深い表現である。この章では、アハブの子アタルヤが殺されるが、アタルヤの孫でもある、アハズヤの子ヨアシュは助け出され王となる。結局、アハブの家系を根こそぎにすることは、できない。国の民が喜んだのは、イスラエルの影響が減ったことも原因かもしれないが、都は、このクーデターのような状態の中で、血が流されたことを喜べなかったということだろうか。ヨシェバ、ヨヤダについても、あまりよくわからない。おそらく、まだ、基本的なことも、十分理解できていないのだろう。アタルヤはイスラエル・ユダを通して唯一の女王であるように思う。その事自体については、ほとんど記されていない。たんなる、レッテルを貼っているだけのように思われる。少なくとも、イスラエルとユダが統一されるのぞみはないのだろう。
2 Kings 12:15-17 実際、献金は工事担当者に渡され、それで彼らは主の神殿を修理した。工事担当者に渡すように献金を託された人々が、監査を受けることはなかった。彼らは忠実に仕事をする者だったからである。償いのいけにえのための献金、清めのいけにえのための献金は、主の神殿に納められず、祭司たちのものとなった。
ヨアシュの改革が書かれている。神殿での献金は、いけにえに関わる分は基本的に祭司の取り分として定められているが、それ以外について、別の管理の仕方にしたことが書かれている。神殿の改修がなかなか行われなかったことが背景にあるようだ。祭司の管理のもとですることも可能だったろうが、祭司以外が担当することになり、それが適切になされたようである。「監査を受けることはなかった」とあるが、これは、不適切と指摘されるようなことはなかったという程度の意味だろう。神殿や宗教の運営が世俗に移行していったとも言える。そのもとで適切になされることはたいせつだろう。世俗(secular)の人々が、責任を持つことで、改善されていくことも、多いと思う。ただ、このあとには、ハザエルに主の宝物庫のもののすべてを渡さざるを得なかったことが書かれている。(18,19)一般の人の関与だけではなく、政治が適切に行われていることも関係している。ユダ王国では、神殿を中心とした、王制が整っていく中で、課題が多くあったことも見えて興味深い。
2 Kings 13:14 さて、エリシャが死に至る病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが彼のところに下って来て、その前で泣いて言った。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。」
ヨアシュについては「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムのあらゆる罪から離れず、それに従って歩み続けた。」(11)と書かれているが、おそらく、それほど単純ではないのだろう。エリシャの死に臨んで、会いに来ている。つねに「ネバトの子ヤロブアムのあらゆる罪」と表現されている。これが解決されなければ、エルサレムでの礼拝によって、主を主とすることができないとの判断が背後にあるのだろう。次の14章には、ヨアシュの子ヤロブアム(2世)が領土を回復したことが書かれており、列王記には、書かれていない多くのことがあったのだろう。エリシャの記述も、奇跡の記述となっており、その背後にあるものは、なかなか伝わってこないように思う。歴史解釈はとても、むずかしいということだろう。
2 Kings 14:5,6 アマツヤは国を掌握すると、父であった王を殺害した家臣を打ち殺した。しかし、モーセの律法の書に記されているとおり、殺害者の子どもは殺さなかった。主が次のように命じておられるからである。「父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される。」
「父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される。」(申命記24章16節)を引用しているのだろう。イスラエルでは、イエフによってアハブの家系を根絶やしにすることが行われた。結局、完全にはできなかったようだが。このように、引用するのは、なにか虚しく響く。また、父であった王とはだれだろうか。ヨアシュと考えるのが普通である。(1)このあたりも、イスラエルの王とユダの王に似た名前があり、混乱しそうになる。記録も、不正確なのかもしれないと思ってしまう。一般的に考えると「主の目に悪とされることを行う」(24)ヤロブアム二世のもとでの繁栄(23-26)をどう解釈するべきかの混乱もあるように思われる。
2 Kings 15:5 主が王を打たれたので、アザルヤは死ぬ日まで規定の病にかかり、離宮に住んだ。そのため、王の子ヨタムが宮廷長として国の民を治めた。
アザルヤは「その子ヨタムが代わって王となった」(7,32)という記述の共通性から、ウジヤと同一と考えられている。ウジヤについては、主が王を打たれた経緯も含め、歴代誌下26章に詳しく書かれている。ただ、列王記記者は、歴代誌に書かれていることがこの規定の病(癩病と総称されていた伝染病)にかかったことの原因であるとは、証言していない。補完しあってより完全な出来事の記録(account)を作成することが一般的だが、それは、それぞれが書かれた意図を無視することでもあり、気をつける必要があるとも思う。共通するのは、「主が王を打たれた」背後に主の存在を告白することだろう。ただ、これも、重い病を主からの罰と考えることが文化的背景にあったと思われ、世の光(ヨハネ9章4節)であるイエス・キリストのメッセージ「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)をしっかりと受け取ることもたいせつであると思わされる。聖書を読む最大の目的は「主(真理)を知る」ことなのだから。
2Kings 16:17,18 アハズ王は台車の鏡板を切り離し、台車の上から洗盤を取り外し、「海」をその下にある青銅の牛の上から引き下ろし、敷石の上に置いた。また、アッシリアの王のために、神殿の中に建てられている安息日のための廊と、外側にある王の入り口を、主の神殿から取り除いた。
アハズの事績(19)であるが、当時、中東はアッシリア中心に動いていることがわかる。北イスラエルはまだ完全には滅ぼされていないが、すでに一回目の捕囚によりアッシリアの属国となっている(列王記15章29節)。そして、長い歴史を持つこの地域の最強国アラムの王レツィンもアッシリアによって殺されている。(7-9)このことに、ユダのアハズが加担しているわけだが、この時点では、選択肢がなかったのかもしれない。アッシリア自体の衰退を待つよりなかったかもしれない。アッシリアに敗れたアラムのダマスコの祭壇を築くことに祭司ウリヤが従順に従うことも書かれている。外から見ると滑稽に感じるが、それは、当時の危機をまったく理解しないものの感覚なのだろう。列王記記者はどうなのだろうか。まだ、希望が残っていたはずだと信じているように思われる。
2Kings 17:27,28 そこで、アッシリアの王は命じた。「あなたがたが捕囚として連れ去った祭司の一人を、元いたところに連れ戻しなさい。連れ戻してそこに住まわせ、その地の神のしきたりを教えさせなさい。」こうして、サマリアから捕囚として連れ去られた祭司の一人が戻って来て、ベテルに住み、どのように主を畏れ敬うべきかを教えた。
サマリア教団とでも言えるものの起源(の一つ)が24節から31節に書かれている。実際にライオンのことが重要な契機だったのか、祭司一人だけだったか、不明である。目的は、ヤーヴェ礼拝の復興ではなく、「その地のしきたりを教え」混乱を回避することであり、その責任を、この祭司の流れを組むものたちに押し付けることはできないだろう。実際、自分がそこに派遣されたらと考えてみると、状況は非常に困難である。北イスラエルと、南ユダに分かれたときがこの起点のようにも見えるが、その前から、かならずしも一体ではなかったことを考えると、人間の性(さが)なのかもしれないとも思ってしまう。主を主として平和に暮らすことはどれほど困難なことなのだろうか。ひとは、しかしながらそれを求め続けるものとして造られているのかもしれない。そして、その困難さは、神様が一番よくご存知なのかもしれない。
2Kings 18:31,32 ヒゼキヤに聞き従うな。アッシリアの王はこう言われるからだ。『私と和睦し、降伏せよ。そうすれば、お前たちは皆、自分の畑のぶどうやいちじくを食べ、自分の水溜めの水を飲むことができるようになる。私が来て、お前たちを、お前たちの土地と同じような土地、穀物と新しいぶどう酒の土地、パンとぶどう畑の土地、新しいオリーブ油と蜜の土地に連れて行くまで、死んではならない。生きよ。』ヒゼキヤに聞き従うな。彼は、『主が私たちを救い出してくださる』と言って、お前たちを欺いている。
アッシリアのラブシャケの言葉である。ラブシャケはユダの言葉で話したようである。(26)「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上って来たと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ。」(25)を見ても、相手を理解し、兵を失わずに、屈服させる技術も持っているように思われる。引用箇所は、通常言われている、アッシリアの征服民に対する政策について書かれている。つまり、他の土地に移動させることで、地域での結びつきを希薄にさせることである。結局は、このゆえにアッシリアに対する反発が大きくなったとも言われているようだが、残念ながら、世間知らずのユダとは、かなり異なるように思われる。列王記記者は、ヒゼキヤを最高の王としているようだ。(1-4)確かに、モーセが作ったネフシュタンであっても、偶像礼拝につながるのであれば、打ち砕く(4)など、信仰的態度に関しては称賛に値する。しかし、本当に、それをもって最高の王として良いのだろうか。難しい。それは、何を幸せとするかにも関わっていることなのだろう。そしてそれを全体的に捉える(holistic view)だろうか。わたしも、もちろん、よくわからない。
2Kings 19:19 私たちの神、主よ、どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地上のすべての王国は、あなただけが神、主であることを知るようになるでしょう。」
ヒゼキヤの祈りとして記されている。「主よ、確かにそうです。アッシリアの王たちは諸国民とその国土を荒廃させました。」(17)まず、このようにも述べて、アッシリアが善いものをもたらしてはいないことを観察して、これは主からのものではないと確信しているようである。列王記記者は、ヒゼキヤの何代かあと、またはヒゼキヤ後も、ヒゼキヤのような王が続けば、ユダは滅ぼされなくて済んだと考えているのだろうか。巨大帝国時代の魁(さきがけ)としてのアッシリア、このあとも、多少途切れはするが、強大な王国が続く。因果応報として、神の働きを捉える事自体に問題があるのではないだろうか。おそらく、列王記のように、神の選びの民が捕囚となるという大事件をあとに控え、歴史を振り返る営みをしていてくれることが、われわれにヒントを与えてくれているのだろう。難しい課題であるが、その難しさをしっかり受け止めたいと思う。それが、ヒゼキヤが使っている意味とは異なるだろうが、新たな神理解「あなただけが神、主であることを知る」ことなのかもしれない。
2Kings 20:3 「ああ、主よ。私がまことを尽くし、誠実な心で御前を歩み、あなたの目に適う良いことを行ってきたことを、思い起こしてください。」ヒゼキヤは涙を流し激しく泣いた。
結局、ヒゼキヤの思いは因果応報である。列王記の記述によると、それを、主がうけとめて答えたように書かれている。これも、恵みなのだろう。そして「ヒゼキヤはイザヤに、『あなたが告げられた主の言葉はありがたい』と答えた。自分の在世中は平和と安定が続くと思ったからである。」(19)とある。報いも、自分の時代だけのことを考えているかのようである。むろん、この19節の言葉には、様々な解釈があるが。そして最後「ヒゼキヤの他の事績、すべての功績、貯水池と水路を造って都に水を引いたこと、それらは『ユダの王の歴代誌』に記されているとおりである。ヒゼキヤは先祖と共に眠りに就いた。その子マナセが代わって王となった。」(20,21)と結ばれている。このマナセが問題だったと、このあと続くのだろう。ヒゼキヤ絶賛(18:1-4)から始まったヒゼキヤについて記した結びである。淡々としてもいるが、全体としては、トータルに評価しようとしているようでもある。サムエル記記者や、列王記記者なら、わたしの人生をどう記述するだろうか。おそらく、それは重要ではない。神の御心・真理をもとめて日々悩みながら、しかし、委ねながら謙虚に歩むことなのだろう。主の恵みに生かされていることを覚えつつ。
2Kings 21:3,4 父ヒゼキヤが破壊した高き所を建て直し、バアルの祭壇を築き、イスラエルの王アハブが造ったように、アシェラ像を造った。また天の万象にひれ伏し、これに仕えた。主の神殿には、他の神々の祭壇を築いた。そこは主が、「エルサレムに私の名を置く」と言われた所である。
わたしはあるときに、このことを学んだと思っている。いくら適切なことをしても、一瞬のうちにそれが失われることが頻繁にある。適切なことと言っていてもそれでは、自己満足と大きく変わらない。どのように、それが受け継がれていくべきか、それにはなにが必要で、それは、人間の普遍的性質を考えたときに、適切になされうるものかを十分に考えなければいけない。先見性と言われまた普遍性にも関わることである。おそらく、それこそが、教養人・知識人、そして、当時であれば、そしておそらく、現代でも、預言者の責任であり、役割であるのだろう。実際にことをすすめるひとは、どうしても、その時々の益を求める。それは、ある程度仕方がない。しかし、しっかりと伝え続けるとともに、それが受け継がれ、検証もされなければならない。信頼を得られるために。この最後の部分「エルサレムに私の名を置く」は検証が必要な部分である。聖書的基盤も薄弱である。そして、イエスは、この部分を開放されたかただとも言える。当時、そのことを理解することは無理であったかもしれない。われわれはほとんどのことを理解できていないように。謙虚(それが本当に主のみこころか継続的に検証をしながら求め続けると共)に同時に Proactive に(先のことを考えた, 事前に対策を講じ)行動しながら。ヒゼキヤ・マナセ父子から学ぶことは多い。
2Kings 22:15-17 彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたがたを私のもとに遣わした者に言いなさい。』主はこう言われる。『見よ、私はユダの王が読んだこの書の言葉どおり、この場所とその住民に災いをもたらす。彼らが私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったあらゆるものによって、私を怒らせたからである。私の憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。』
ヨシヤ王の記事が書かれている、まずこの章では、神殿修復については、12章の(ユダの王)ヨアシュの神殿への献げものについての記述と酷似している。しかし同種類のことであることも書かれていない。そのあとに、「あるとき、大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『主の神殿で律法の書を見つけました』と伝えた。」(8)とあり、シャファンは読み、それを王に報告し、さらに、女預言者フルダに使いをよこしている。引用句はそのときのフルダのことばの前半である。最後は、ヨシアが主の前にへりくだったことが書かれ「それゆえ、私はあなたを先祖の列に加えるので、あなたは安らかに自分の墓に葬られ、私がこの場所にもたらすいかなる災いも、その目で見ることはないであろう。」(20)と結ばれている。しかし、23章29節にはエジプトの王ファラオ・ネコとの戦いの中で死んだことも書かれている。列王記記者はそれも知っている。いろいろと議論はできるだろうが、評価は困難である。民も含めて神の御心に生きることは不可能である。では、求められていることは何なのだろうか。小さなヒントはいくつかあるが、難しい。
2Kings 23:21-23 王はすべての民に命じた。「この契約の書に記されているとおりに、あなたがたの神、主の過越祭を祝いなさい。」実に、イスラエルを治めていた士師の時代から、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われたことはなかった。ただヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われただけであった。
これは驚くべきことである。レビ記23章5節、民数記9章2-14節、申命記16章2-8節に書かれている。それだけではなく、出エジプト記の記事をすこしでも知っていれば、過越の祭は非常に自然なことでもある。律法が確定していなかったのか、考えるのは自然でもある。ダビデのころから記録が詳しくなっているが、だんだんと祭司などを中心として、それまで蓄積されていたものが、まとめられ確立していったのかもしれない。このときに、できたと考えるのも、不自然に思う。さらに後代の成立として、神殿もなくなり、律法を中心に宗教集団が形成された、エズラのころまで下がる説もどうなのだろうか。たしかにその頃に、極度に重要なものになったことは確かだろう。聖書はいったいどのような書物なのだろう。今回の通読では、列王記記者も、知らなかったのかもしれないと思った。聖書学として、いろいろな議論があることはある程度知っているが、個人的通読者としての感想である。
2Kings 24:1,2 ヨヤキムの治世に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。ヨヤキムは三年間彼に隷属していたが、一転して反逆した。主はカルデアの部隊、アラムの部隊、モアブの部隊、そしてアンモン人の部隊を送られた。僕である預言者たちによって告げられた主の言葉のとおり、ユダを全滅させるために送られた。
アッシリアがいつの間にかバビロンに代わっている。ヨシヤはエジプトの王ファラオ・ネコとの戦いの中で死ぬが、その戦いの経緯も書かれていない。世界史的観点は、欠落している。できごとの内面化だけでは、神様がどのように働いておられるかを知ることはできないと思う。認知しなければ、考察できないとしても、認知する範囲を限定すれば、適切な考察もできないのだから。引用句には、カルデアの部隊、アラムの部隊、モアブの部隊、そしてアンモン人の部隊についても書かれている。これらの背後に主がおられることを告白しているが、他者を知ることはどこまでできていたのだろうか。まだ、そこまでの交流・交易がなかったのかもしれない。アッシリア、バビロンと続く、大帝国時代は、中東の交流・交易の枠も広げたことだろう。その渦に、むりやりに入れられている面もあるのかもしれない。あまり醒めすぎてみるのは、適切ではないが。もう一つ考えたのは、この時代にエリヤやエリシャがいれば、ユダ(やイスラエル)は滅びなかったかという問いである。おそらく、問題をそう単純化はできない。このあと、預言書を読むが、その時代の預言者もいるのだから。
2Kings 25:8,9 第五の月の七日、すなわちバビロンの王ネブカドネツァル王の治世第十九年に、バビロンの王の家臣、親衛隊長ネブザルアダンがエルサレムにやって来た。そして主の神殿と王宮を焼き払い、エルサレムの建物をすべて、大きな建物もみな火で焼き尽くした。
「王の軍勢は皆、王を見捨てて散って行った。」(5)とあり、無残な最期である。バビロンの王に反逆した(20)王の政策の失敗を批判し、もしかすると平穏な日がくると思ったひともいるかも知れない。一ヶ月弱で、親衛隊長が事後処理に訪れる。このときの破壊と略奪が書かれている。親衛隊長の役得もあったのだろうか。(15)シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤについては不明だが、系図が三代書かれており、ユダに関係した人物だったかもしれない。アッシリアのラブシャケが土地の言葉で語りかけたように、イスラエル・ユダについて、他の国では十分な知識を収集していたのかもしれない。そうでなければ、アッシリアやバビロンのような大帝国はできなかっただろう。イエスが現れるのは、一般の人の間の国際的な交流が進んでからである。考えるべきことは多い。

BRC2019

2Kg 1:2 アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じた。
欄干から落ちて病気になるという描写が不明である。なぜペリシテを頼ったのだろうか。アハズヤはイゼベルの子だったのだろうか。アハズヤは、エリヤについても知っていたようだが(8)、生存も不明だったのかもしれない。エリヤは、一線を引いていたようにも見える。エリヤ最後のエピソードとして記されているのかもしれない。少し乱暴に感じる。
2Kg 2:2 エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。
このあと、エリコへ行き、次に、ヨルダンを渡る。エリヤの命令には従わず、ついていく。エリヤもそれを許容している。それぞれの場所で何をしたかは、書かれていない。すでに、記述の焦点は、エリシャに移っているようである。エリシャは、つねについていったのだろう。そして、エリヤはそれを許容した。仕えるとも表現できることかもしれない。エリシャが学んだことは書かれていないが、長子としての分(9)を受け取ったということが、この章に記されていることか。他の預言者は、なぜついていかなかったのか気になる。エリヤもそれを許さなかったのかもしれない。
2Kg 3:9 イスラエルの王は、ユダの王およびエドムの王と共に出発したが、迂回するのに七日を費やし、部隊と連れて来た家畜のための水が底をついてしまった。
背景はよくわからないが、イスラエルの王ヨラムが、ユダの王ヨシャファトに提案した、エドムの荒れ野の道を通るということ自体に、欠陥があり、水がなくなってしまったようである。このときの、エドムの勢力、モアブの勢力がどのようなものか不明であるが、エドムとは共闘し、モアブを攻めている。近隣の民について、聖書に記述されていることだけでも、ゆっくり調べてみたい。この章で特記しているのは、モアブ王の次の行為である。「そこで彼は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った。」(27)許容できないことであることが記されている。エドムはそのようなことは、していなかったのだろうか。勢力とともに、モラルについての記述が興味深い。
2Kg 4:27,28 山の上にいる神の人のもとに来て、その足にすがりついた。ゲハジは近寄って引き離そうとしたが、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女はひどく苦しんでいる。主はそれをわたしに隠して知らされなかったのだ。」 すると彼女は言った。「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか。」
奇跡の簡単なエピソードで溢れている。しかし、この記事は、詳細が語られ、内容が伴っている。特に、この苦しみについては、考えさせられる。エリシャも考えさせられたのではないだろうか。ひとのたいせつなものを、決めつけてはいけない。しかし、この奇跡をとおして、エリシャも、この夫人もそれぞれ学んだことがあったろう。杖に魔法のちからがあったわけではない。しかし、死んでいるこどもの上に乗るすがたはやはり感動する。自分にはできないと思うからだろうか。「そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。 」(34)考えさせられることが多い。
2Kg 5:26 エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか。今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。
「今」はどのようなときなのだろうか。神に栄光を帰す時、ナアマンとともに感謝すべきときなのか。わかったようで、わからない。もう少し、落ち着いて考えてみたい。
2Kg 6:23,24 そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、攻め上って来て、サマリアを包囲した。
これほど、連続した章節で、食い違った事実を述べているのは興味深い。おそらく、いくつかの記事が貼り合わされているのだろう。これも、合理的に解釈しようとする人たちはいるのだろうが。いずれにしても、エリシャの記事は、おそらく、エリシャから少し遠い人が書いているように思われる。預言者集団の中の伝承だろうか。推測の域をでないが、かなりの集団であったろうことは、1節などからもわかる。
2Kg 7:9 彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」
いくらか、略奪をしたあとではあるが、気づいている。自由になったときに、何をするか。このあとは、混乱もあり、略奪が続く。しかし、この重い皮膚病のひとたちの、勇気と、倫理観について、考えさせられる。教育か文化なのだろうか、それとも、突発的なことなのだろうか。興味深い。
2Kg 8:11,12 神の人は、ハザエルが恥じ入るほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、ハザエルは、「どうしてあなたは泣かれるのですか」と尋ねた。エリシャは答えた。「わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです。あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」
「主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。』」(列王記上19章15節)の続きとも言える。エリヤは、実際には、油を注がなかったように思われる。エリシャも、油を注いだわけではないだろう。しかし、エリシャは、エリヤからメッセージを受け取っている。このようなメッセージを伝えることには大きな苦しみがあったろう。エリシャも実際にハザエルに会ったのはこれが最初だったかもしれない。ハザエルはどのような人だったのだろうか。「ハザエルは、『この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか』と言ったが、エリシャは、『主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された』と答えた。 」(13)ここだけからは、よくわからない。
2Kg 9:12,13 彼らは言った。「それは違う。我々によく説明してくれ。」そこで彼は言った。「あの男はわたしにこのように告げた。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とする。』」彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて、「イエフが王になった」と宣言した。
イエフの場合だけではなく、ハザエルの場合も、エリシャの行為が、引き金になった可能性は高い。神のことばがと言ってもよいかもしれない。すると、それを伝える、または伝えさせるものの責任は、重い。むろん、その背後には、それを神の言葉だとの確信がないといけない。わたしには、よくわからない。
2Kg 10:28 このようにして、イエフはイスラエルからバアルを滅ぼし去った。
イエフによるアハブ家とバアルの祭司抹殺は徹底的である。引用句にもあるように、あくまでも、イスラエルからの排除である。そして、列王記記者は「しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。」(31、参照:29)と二度にわたり記している。個人的に気になるのは「このころから、主はイスラエルを衰退に向かわせられた。ハザエルがイスラエルをその領土の至るところで侵略したのである。」(32)イスラエルから偶像を排除したからといって、それが祝福にはつながっていないことである。「金の子牛」(29)をその原因とする書き方はしていないが、そのことも、意識していたのだろうか。結局は、イエフも民族主義的行動ともいえるかもしれない。そして、記者もそこから自由ではないのかもしれない。現代的視点からすると、本当に残忍、正しさからは平和は生み出されないと思ってしまう。
2Kg 11:3 こうして、アタルヤが国を支配していた六年の間、ヨアシュは乳母と共に主の神殿に隠れていた。
「アハズヤの母アタルヤは息子が死んだのを見て、直ちに王族をすべて滅ぼそうとした。」(1)とあるように、アタルヤは、アハブの子、二年間サマリヤで王位にあったアハズヤ「アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャファトの治世第十七年にサマリアでイスラエルの王となった。彼は二年間イスラエルの王位にあった。」(列王記上22章52節)の母である。「イスラエルの王アハブの子ヨラムの治世第五年に、――ヨシャファトがユダの王であったが――ユダの王ヨシャファトの子ヨラムが王となった。彼は三十二歳で王となり、八年間エルサレムで王位にあった。彼はアハブの娘を妻としていたので、アハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩み、主の目に悪とされることを行った。」(列王記下8章16-18節)ともある。読んでいて、いつも系図が混乱する箇所である。アタルヤは6年間イスラエルを治める。アタルヤに関しては「アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘であった。」(列王記下8章26節)この時期にヨラムは二人いる。アハズヤはどうなのだろうか。整理されてもいるだろうが。イスラエル王国6代目:オムリーアハブーアハズヤーヨラムーエフー、ユダ王国4代目:ヨラムーアハズヤーアタルヤーヨアシュ(日本語 Wikipedia など)背景も調べてみたい。
2Kg 12:9 祭司たちは民から献金を受け取らず、従って神殿の破損を修理する責任を負わないことに同意した。
「政治とはめまぐるしく移り変わる状況の中で絶えざる判断と実行を繰り返していく営為、また、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整すること。」「経営とは、方針を定め,組織を整えて,目的を達成するよう持続的に事を行うこと。」いろいろと定義はあるだろうが、ヨアシュの40年間の治世で記録されているのは、神殿の補修に関する役割分担と、アラムの王ハザエルに神殿の宝物を与えて、エルサレムを守ったことである。政治と経営だろうか。polytics and management ひとつひとつが適切だったかは、判断できないが、適切にことを進める責任を担っていることは確かである。特に保守的なキリスト者はこれらを軽視することが多いが、それが丁寧に、聖書にかかれていることも、興味深い。「ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った。」(3)
2Kg 13:14 エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。
この章の最後には、エリシャの預言どおり「ヨアハズの子ヨアシュは、父ヨアハズの手から奪い取られた町々を、ハザエルの子ベン・ハダドの手から取り返した。ヨアシュは三度彼を撃ち破り、イスラエルの町々を取り返した。」(25)と書かれている。しかし、列王記の評価はあっさりしている。「彼(ヨアシュ)は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」(11)ヨアシュと、エリシャの間にはどのような交わりがあったのだろうか。引用箇所一回だけだとは思えない。
2Kg 14:24-27 彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れなかった。しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである。つながれている者も解き放たれている者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。
ヤロブアム(2世)によるイスラエルの回復の記事である。ヤロブアムの評価が書かれたあとで、ヨナの預言についての記述があり、そのあと、主についての記述が続く。現実をどう理解するのか、主の目に悪とされることを行うものによって行われる主のあわれみのわざ。神学的にも、列王記記者も、主の御旨がなかなか見えない、または、新たな視点を与えられた、ときだったのではないだろうか。良い王を主が祝福され、悪い王を貶めるという構図ではない。信仰者が成長せざるをえないときでもあろう。
2Kg 15:29 イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。
サマリアの陥落と北イスラエル王国の滅亡は17章に記されている。しかし、この章では「アッシリアの王プルがその地に攻めて来たとき、メナヘムは銀一千キカルをプルに貢いだ。それは彼の助けを得て自分の国を強化するためであった。」(19)とも書かれている。政治的には、常に争いがあったペリシテなど近隣の国々、そして北の古い国、ダマスコを首都とするアラムとは異なる大国が攻めてくる事態になっている。中東の世界自体が変化しているときなのだろう。世界史的な大きな流れに、民族主義が強いイスラエル、特に、暗殺やクーデターが何度も起こり政治的に不安定な北イスラエル王国は、対応できなかったと見るのだろう。南ユダ王国も、いずれは例外ではなくなる。そのような変化が避けられないのではと思われるようになった大きな事件がこの章に書かれているように思われる。主に従うことで、そのような流れに棹さすことができるのか、それは、どのような意味において可能なのか。列王記下の後半は、そのことについて問うことになる。難しい。
2Kg 16:10,11 アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会おうとしてダマスコに行き、ダマスコにある祭壇を見た。アハズ王が祭司ウリヤにその祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書を送ったので、祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送って来たものそっくりに祭壇を築いた。しかも祭司ウリヤは王がダマスコから帰って来るまでにそれを仕上げた。
たいせつなひとのたいせつなものをたいせつにしていく。この章には、さまざまなゆらぎが書かれている。世界史的にも、巨大な帝国が出現し、世界が狭くなり、民族主義的なものが維持できなくなっているのだろう。まさに、Globalization のなかで、なにをたいせつにしたら良いのだろうか。イエスは、その答えを十分に示しているのだろうか。まずは、そこに耳を傾けたい。
2Kg 17:2 彼(エラの子ホシェア)は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。
北イスラエル王国最後の王である。評価の表現から痛ましさも感じる。この章には、なぜこのような事態に至ったかが書かれている。列王記の神学とも言えるかもしれない。しかし、北イスラエル王国についてだけでなく、南ユダ王国についても「ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルの行っていた風習に従って歩んだ。 主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた。」(19,20)とある。主に従わず、周囲のひとに従う、または、うらやましく思う、十戒の基本思想と同じである。一貫していると取るべきか、同時代と取るべきか難しい。
2Kg 18:12 こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。
「こうなった」は、ヒゼキヤの治世第6年にサマリヤが占領されたことを指すであろう。この背景のもとで、ヒゼキヤがいるエルサレムをヘブル語も利用するラブ・シャケによって攻められたことが書かれている。利用した資料はあるだろうが、列王記記者・編者は、すくなくとも、捕囚となることも知っている。捕囚からの帰還までを知っているかどうかは不明である。印象的なのは、ラブ・シャケとのやりとりなどが、丁寧に書かれていることである。正しさを持ちつつも、問も持ちつつ記録しているのではないだろうか。辛い作業であるが、信仰者の営みの真実の姿も感じる。
2Kg 19:25 お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を/瓦礫の山にすることとなった。
ヒゼキヤがイザヤに祈ってほしいと願い、そのときに伝えられた言葉である。壮大な主の主権を表現することばである。このことばは、捕囚とされ、バビロンなどにいる民にも、大きな力となったろう。同時に、悩みも大きかったのではないだろうか。主の歴史 His Story をどう理解するか。短絡な解釈は、うすっぺらな信仰態度にもつながるように思われる。よく考えたい。
2Kg 20:6 わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。』」
主が実際にこのように語られたかよりも、この事実を、主を求め続けたひとたちがどう受け止めていったかを考えることがおそらくたいせつなのだろう。列王記記者は、すでに起こったことを書いているのだから。「そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンは、ヒゼキヤが病気であるということを聞いて、ヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。」(12)は、不思議である。そのようなことがあるのだろうか。預言的には、重要な意味をもつ箇所ではあるが。人の交流の中で、これに近いことはあったのかもしれないが。この章の記述は、雑な感じを受けてしまう。背後には、苦しさ、そして、不透明さがあるのかもしれない。後のことを知っている者にとっては、本当に難しい時期である。その苦しさに寄り添いたい。
2Kg 21:13 わたしはサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去る。
「測り縄」と「下げ振り」はいずれも、正確な基準ということだろう。「主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。主はわたしに言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『下げ振りです。』主は言われた。『見よ、わたしは/わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。』」(アモス書7章7・8節)さらに「わたしは正義を測り縄とし/恵みの業を分銅とする。雹は欺きという避け所を滅ぼし/水は隠れがを押し流す。」(イザヤ書28章17節)とある。恵みの業の分銅なしには、ひとはすぐ滅ぼされてしまうことも示唆しているのかもしれない。もしかすると「測り縄」と「下げ振り」は、まったく異なる概念を伝えているのかもしれない。
2Kg 22:20 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。』」彼らはこれを王に報告した。
引用は、女預言者フルダの言葉である。(14)これを記述した人も、ヨシヤ王の死を知っていたろう。「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。ヨシヤの家臣たちは戦死した王を戦車に乗せ、メギドからエルサレムに運び、彼の墓に葬った。国の民はヨシヤの子ヨアハズを選んで、油を注ぎ、父の代わりに王とした。」(23章29,30節)これは、預言の成就なのだろうか。またヨシヤの神殿整備は、12章のヨアシュの神殿整備と似ている。
Kg 23:15 彼はまたベテルにあった祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台、すなわちその祭壇と聖なる高台を取り壊し、更に聖なる高台を焼いて粉々に砕き、アシェラ像を焼き捨てた。
ヨシヤ王の改革は、かなり徹底している。ネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台は、北イスラエル王国にあったものだろう。それをも破壊している。イスラエルとしての一体感を大切にしたのだろうか。しかし、ヨシヤ王の改革について、イザヤは書かない。いろいろな解釈の幅はあったとしても、やはり、不思議である。
2Kg 24:3,4 ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。
ヒゼキヤの子、マナセが最終的な原因だったとしている。それが列王記記者の結論である。マナセについては20章21節から21章18節に書かれている。しかし、歴代誌下32章33節から33章20節にも記述があり、歴代誌下33章12・13節には「彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、 祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。」とある。記者が異なることが原因であろう。へりくだる前と後を歴代誌下33章20節では区別している。サムエル記上下・列王記上下記者またはその背後にいると思われる預言者たちは、すでに、見限っていたが、役人などとして王国を支え王宮にいたものは、違った見方で仕えていたということだろうか。情報は少ないが、もう少し丁寧に見てみたい。
2Kg 25:21 バビロンの王はハマト地方のリブラで彼らを打ち殺した。こうしてユダは自分の土地を追われて捕囚となった。
「彼ら」は、「祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤ、入り口を守る者三人」(18)「戦士の監督をする宦官一人、都にいた王の側近五人、国の民の徴兵を担当する将軍の書記官、および都にいた国の民六十人」(19)だろうか。「この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。」(12)ともある。これが、エルサレム陥落後の、状態である。おそらく、アッシリアから、バビロン、そのあとにも、様々な大帝国支配のなかで起こっていたことが、ここでも例外ではなかったということだろう。人々はそれをどう受け止めたのだろうか。わたしなら、どう受け止めるだろうか。神の主権に委ねることの、恐ろしさも感じるだろう。そして、単純には、だれかを悪者にすることはできない。現代の様々な問題でも同じことが言えるように思われる。

BRC2017

2Kg 1:13,14 王は更に三人目の五十人隊の長とその部下五十人を遣わした。三人目の五十人隊の長は上って来て、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうかわたしの命と、あなたの僕であるこの五十人の命を助けてください。 御覧のように、天から火が降って来て、先の二人の五十人隊の長と彼らの部下五十人を焼き尽くしました。どうか、わたしの命を助けてください。」
確かにこのあとに主の御使いが「彼と共に降りて行け。彼を恐れるには及ばない」というように、この五十人隊長は恐れるに足りないかもしれない。しかし、これで51人の人の命が助かったとすれば、良かったのではないだろうか。エリヤも神の力が現れることは、様々な方法があることも悟ったかもしれない。神の御心は計り知れない。
2Kg 2:12 エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。
この言葉は何を意味しているのだろうか。父は分かるが、戦車、騎兵は、何を意味しているのだろう。11節には「見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。」とあるので、それを表現しているのか。それとも、強さだろうか。最後の衣を引き裂くのは、悲しみの表現だろうか、エリシャの自然な、精一杯の感情表現なのかもしれない。
2Kg 3:27 そこで彼は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った。
この章に書かれている物語には、他とは異なる点がいくつかある。一つは、イスラエルとユダの王に、さらにエドムの王が加わったこと。二つ目は、エリシャのことば「わたしは、ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ、あなたには目もくれず、まして会いもしなかった。」(14節)預言者が王に敬意を抱いているという記述は他にはないと思う。そして三つ目は、音楽。「楽を奏する者が演奏をすると、主の御手がエリシャに臨み、」(15節)他にはない記述である。上にあげた部分は、モレクに子を献げるようなことを思い出させるが、聖書がもっとも嫌う行為が、子を献げることである。ここに現れる「激しい怒り」がだれの怒りなのか、それは何を意味し、何が原因なのかは、明確ではないが、3章は不思議な章であると感じる。
2Kg 4:9 彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。
シュネムの裕福な婦人は、どのようにして、エリシャが聖なる神の人であることがわかったのだろうか。この章に書かれていることは、確かに奇跡と言えるかもしれないが、そして人を生かすものではあるが、なにか魔術的で、あまりよく分からない。しかし、ここで彼女がなにかを見て取ったように、単なる力ではないものがあったのだろう。油、子に恵まれるようにする、子供の復活、鍋の解毒、パンによる給食。何を読み取ったらよいのだろう。
2Kg 5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
ここにあることが、列王記の書かれた目的だろうか。イスラエルの神こそ、神であり、他に神がないこと。エリシャをどう見ていたのだろうか。神の人だろうか。エリシャは贈り物を受け取らない。神との混同をさけたのだろうか。神に栄光を帰すためか。不明である。
2Kg 6:33 エリシャがまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか。」
ひとは、完全にはわからない。だから、希望も持ちうるとも言えるが、常に、主に信頼する、心を持っていたい。
2Kg 7:19,20 その侍従は神の人に、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と答えたので、エリシャは、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」と言った。 それがそのとおりに実現し、彼は門で民に踏み倒されて死んだ。
これは、神を畏れさせることにつながっただろう。信頼だろうか。どのように、それが起きるか分からなくても、自分の判断を絶対化してはいけない。
2Kg 8:11,12 神の人は、ハザエルが恥じ入るほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、 ハザエルは、「どうしてあなたは泣かれるのですか」と尋ねた。エリシャは答えた。「わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです。あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」
ハザエルについては、列王記上19章に、エリヤにハザエルに油を注ぐようにとの命令が下ることが書かれているが、実際に油を注いだのかどうか不明である。そして、ここで再登場し、預言が成就する。もし、ハザエルに実際に油が注がれたとするなら、非常に長い間かかっており、殆ど忘れられても板だろうと考えてしまう。さらに、ハザエルのことは、エリシャは聞いて知っていたろう。それでも、するべきことは残っていたのだろう。
2Kg 9:36,37 彼らが帰って、そのことを知らせると、イエフは言った。「これは主の言葉のとおりだ。主はその僕ティシュベ人エリヤによってこう言われた。『イゼベルの肉は、イズレエルの所有地で犬に食われ、イゼベルの遺体はイズレエルの所有地で畑の面にまかれた肥やしのようになり、これがイゼベルだとはだれも言えなくなる。』」
列王記上21章23節に「主はイゼベルにもこう告げられる。『イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。」とあり、その実現としている、イエフがたいせつにしていたことは、何なのだろう。神の言葉を神の言葉として受けるだけでは人の人生は代わらないのかもしれない。
2Kg 10:31 しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。
この前の節には、主の祝福があり、この次の節は「このころから、主はイスラエルを衰退に向かわせられた。ハザエルがイスラエルをその領土の至るところで侵略したのである。」と続く。主の言葉の実現をどのように証言しているのかの問題とともに、列王記記者の歴史観も考えさせられる。おそらく、このあとの北イスラエル王国滅亡を知って、何が問題だったのかを把握しようとしているのだろう。神のみこころを問いながら。そう考えると、異教の神を取り除いたことの評価と、エジプト起源の「ベテルとダンにある(ヤロブアムが建てた)金の子牛」(下10章19節)のことが語られている、列王記上下で「ヤロブアムの罪」は14回現れる。これら、すなわち偶像礼拝に、原因を求めていることは確かだろう。
2Kg 11:1 アハズヤの母アタルヤは息子が死んだのを見て、直ちに王族をすべて滅ぼそうとした。
この前の節は「イエフがサマリアでイスラエルの王位にあった期間は二十八年であった。」(10章36節)だからこれでユダのダビデ王朝のことを言っているとする分かるのは簡単ではない。並行記事の歴代志下22章10節では「アハズヤの母アタルヤは息子の死んだのを見て、直ちにユダの家の王族をすべて滅ぼそうとした。」この前後も列王記の記述とは多少異なる。歴代志の方があとに書かれたと思われるが、独自資料も持っていたのだろうか。わかりにくいところを補ったとも言える。旧約成立について学んだのも何十年も前のことなので、もう一度学んでみたい。
2Kg 12:4 ただ聖なる高台は取り除かれず、民は依然として聖なる高台でいけにえを屠り、香をたいた。
「聖なる高台」は北イスラエル王国におけるヤロブアムが立てた金の子牛に対応するものとして、ユダにおいて扱われていると思ったが、調べてみるとすでに次の箇所がある。「わたしはあなたたちの聖なる高台を破壊し、香炉台を打ち壊し、倒れた偶像の上にあなたたちの死体を捨てる。わたしはあなたたちを退ける。」(レビ記26章30節)サムエル記上では7件あり、サムエルが捧げ物を捧げるのが、聖なる高台である。エルサレムに神殿ができるまでは、存在したものであることは確かである。「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた。」(列王記上3章2節)問題となるのは、次の箇所である。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。」(列王記上11章7節)「彼(ヤロブアム)はまた聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じた。」(列王記上12章31節)もう少ししっかり調べたい。
2Kg 13:14 エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。
「エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。」(列王記上2章12節)の引用だとも言える。ヨアシュの父、ヨアハズの記述も変わっており、不思議である。「しかし、ヨアハズが主をなだめたので、主はこれを聞き入れられた。主はイスラエルが圧迫されていること、アラムの王が彼らに圧迫を加えていることを御覧になったからである。 主はイスラエルに一人の救い手を与えられた。イスラエルの人々はアラムの支配から解放されて、以前のように自分たちの天幕に住めるようになった。」(4,5節)「ヨアハズが主をなだめた」は何を意味しているのだろう、「一人の救い手」は誰を意味しているのだろう。なぜ詳細が書かれていないのだろう。
2Kg 14:26,27 主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである。つながれている者も解き放たれている者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。 しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。
通常ヤロブアム二世と言われるヨアシュの子ヤロブアムの治世に、イスラエルはかなり力として回復していることが、このように表現されている。因果応報ではないことも興味深い。領土の保全、国勢の回復、しかし、同時に、助ける者もいないと不思議な表現も入っている。ここで悔い改めが必要だったのか、そうとも書いてはいない。
2Kg 15:2 彼は十六歳で王となり、五十二年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエコルヤといい、エルサレムの出身であった。
五十二年間はどうみても短くはない。それが、いとも簡単にまとめられている。この時代の記述の特徴でもある。エルサレム出身の母親の存在は大きいように思われる。すくなくともある程度の理解者である。ここでも「ただ聖なる高台は取り除かず」(4節)が登場しているが、あまりに、ワンパターンに思われる。
2Kg 16:10,11 アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会おうとしてダマスコに行き、ダマスコにある祭壇を見た。アハズ王が祭司ウリヤにその祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書を送ったので、 祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送って来たものそっくりに祭壇を築いた。しかも祭司ウリヤは王がダマスコから帰って来るまでにそれを仕上げた。
アハズの扱い方は特別であるように思われる。悪と言われる最大のものを列挙した後、引用箇所になるが、祭司の働きも明確に書かれている。歴代誌下28章に対応する記事があるが、祭司のことは書かれていないようである。預言者文書といわれる、列王記と、祭司文書であると言われる歴代誌の違いであろうか。そんなに単純であるととても悲しい。
2Kg 17:15 彼らは主の掟と、主が先祖たちと結ばれた契約と、彼らに与えられた定めを拒み、空しいものの後を追って自らも空しくなり、主が同じようにふるまってはならないと命じられたのに、その周囲の諸国の民に倣って歩んだ。
北イスラエル王国が滅んだ理由を列王記記者が書いているが、やるせなさが現れているように思われる。「空しいものの後を追って自らも空しくなり」は本当にむなしい。それを強調したかったのだろう。神のもとにある、豊かなものに目を向けたい。それだけである。そしてそれは、示されているように思う。私たちに理解できる形で。
2Kg 18:4 聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタン(a thing of brass)と呼んで、これに香をたいていたからである。
3節にある「主の目にかなう正しいこと」の内容である。これまで「聖なる高台」までは取り除かなかった(列王記上12:14, 22:44、下12:4, 14:4, 15:4, 15:35, 16:4)が、ヒゼキヤは違うことが主張されているのだろう。ネフシュタンはここだけであるが、青銅の蛇については、民数記21:9 にある。7節には「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。」とあるが、16節、17節にはアッシリアに様座な贈り物をしていることも書かれている。全体としての評価なのだろう。外交交渉はしているのである。同時に、ラブシャケとのやりとりは非常に興味深い。アッシリアにも有能な将軍がいたことが見て取れる。
2Kg 19:21 主がアッシリアの王に向かって告げられた言葉はこうである。おとめである、娘シオンは/お前を辱め、お前を嘲る。娘エルサレムは/お前に背を向け、頭を振る。
引用したことばは、どのようにヒゼキヤに伝えられたか書かれていない。その前の祈りに答えて、直接示されたのかもしれない。このまえにイザヤを通して「見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」(7節)と伝えられ、実際「クシュの王ティルハカ」(9節)についての噂を聞くがアッシリアの王は動揺しない。結局、聖書が期しているのは「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。」(v35)である。イザヤ預言以上のことがなったということだろうか。預言も完全な形でしめられるのではない。イザヤもすべてを知らされているわけではないことの例かもしれない。
2Kg 20:4 イザヤが中庭を出ないうちに、主の言葉が彼に臨んだ。
ここでもイザヤはいったんヒゼキヤに告げた「主のことば」を覆すことになる。同時に7節にある「干しいちじく」のことがあるように、おそらく適切な助言も与えている。イザヤのこれらの態度には恐れ入る。柔軟なのか、そのときに聞く神の言葉を、自分の確信とは別に、受け入れることができるようになっているのか。自由である。とらわれていない。わたしもそのようにいきたい。
2Kg 21:16 マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした。
マナセについてはありとあらゆる悪が書かれている。しかし「ヒゼキヤは先祖と共に眠りにつき、その子マナセがヒゼキヤに代わって王となった。」(20章21節)とあり、母、ヘフツィ・バは、ヒゼキヤの妻であったことになる。名前からして、異国の人であったイメージをうける。ヒゼキヤについても不明であるが、書き方から、祭司の家系のひとが母だった可能性がある。列王記を通して貫かれている一つの判定条件でもある。王が主に従うかどうか。連続性は、期待できないのだろうか。家庭教育は難しい。マナセは、ヒゼキヤの生涯から何を学んだのだろう。
2Kg 22:7 ただし、彼らは忠実に仕事をしているから、彼らに渡した金の監査は必要ではない。
教会の役員会委員長をしていると、このような一文も気になる。アカウンタビリティーなどは、信頼関係の中ではいらないのかもしれない。しかし、現代はそうではないし、この時代であっても、おそらくそうだろう。このヨシヤのときの特殊事情としてかかれていると考えた方がよいのかもしれない。だから特記されている。歴史の中では、特殊事情である。ヨアシュ王の項でも現れ非常に内容が類似している。「工事担当者に与えるように献金を渡された人々は忠実に仕事をする者であったので、会計監査を受けることはなかった。」(列王記下12:16)
2Kg 23:19 ヨシヤはまたサマリアの町々にあった聖なる高台の神殿をすべて取り除いた。これらはイスラエルの王たちが造って主の怒りを招いたものであった。彼はベテルで行ったのと全く同じようにこれらに対しても行った。
北イスラエル王国が滅ぼされてから以降のことで記されている数少ない記事に思われる。この前には、神の人の墓、石碑、預言者の骨のことも書かれている。預言者集団を支持した集団がいたことがわかる。しかし、明確に書かれていないのは不思議でもある。列王記はどのようなひとによって書かれたのだろうか。単純に預言者集団とは言えないのだろうか。その預言者集団は、南の人たちなのだろうか。イザヤのような。
2Kg 24:4 またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。
21章の引用でもあげた、このことを、列王記記者は、主が、ユダを滅ぼすことにした原因としている。しかし、歴代誌33章では、マナセが悔い改めたことも書かれている。列王記との編集者が異なることも意味している。神にしか分からないが、同時に、わたしたちは、歴史から学ぶ責任もある。おそらく、すべては情報を持ち得ない状況の中で。そして聖書の言葉についても考えながら。
2Kg 25:30 彼(ヨヤキン)は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された。
列王記はそしてサムエル記から連なる王国の歴史はここで終わっている。なぜ、ヨヤキンのバビロンでの復権を終わりとしたのだろうか。希望を残したかったのか。イザヤやミカの残りの者、切り株メッセージだろうか。歴代誌は、ペルシャ王キュロスの宣言を最後に置いている。列王記はいつ頃書かれたのだろう。まとめられたのだろう。そして誰によって。とても興味を持つ。

BRC2015

2Kg1:15,16 主の御使いがエリヤに、「彼と共に降りて行け。彼を恐れるには及ばない」と告げたので、エリヤは立ち上がって彼と共に王のところに降りて行って、 王にこう告げた。「主はこう言われる。『あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして使者を遣わしたが、それはイスラエルにその言葉を求めることのできる神はいないということか。それゆえあなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」 
9節には「エリヤは山の頂に座っていた。」とあるから、そこから降りてきたのであろうが、光景はよくわからない。記述されているのは「王のところに降りて行って」という表現だけである。王との関係が興味深い。
2Kg2:11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。 
有名な箇所である。これは、9節の「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。』エリシャは、『あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください』と言った。」からつながっている。おそらく見たのはエリシャだけであろう。そして、たいせつなことは、エリシャがエリヤのうちに働いておられた神の霊を受け継ぐと思われる活動をこの時以降始めたと言うことであろう。何があったかを詮索することは、おそらく重要ではない。
2Kg3:14,15b エリシャは言った。「わたしの仕えている万軍の主は生きておられる。わたしは、ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ、あなたには目もくれず、まして会いもしなかった。今、楽を奏する者を連れて来なさい。」楽を奏する者が演奏をすると、主の御手がエリシャに臨み、 
ヨシャファトとエリシャの関係ははっきりしないが、11節でエリヤとの関係を知ると、ヨシャファトは「彼には主の言葉があります」と答えている。(12節)そしてこのエリシャの言葉につながる。エリシャは、ここで楽を奏する者を連れてこさせ、それから、預言を始める。自分の固定観念を打ち破り、あたらしい場所に身を置いて神のことばを聞き、伝えるためには、音楽が重要だったのだろう。もしかすると、詩編の朗唱などもあったのかもしれない。自分が知らない世界に導かれたとき、神のことばに謙虚に聞く工夫を大切にしたい。
2Kg4:30 その子供の母親が、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしは決してあなたを離れません」と言ったので、エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。 
子供の母親は、自分の信仰が十分ではないと思っていたのかも知れない。その助け手が必要だと。実際、ゲハジが指示されたことをしても、なにも起こっていない。エリシャは、主に祈り(33節)「そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。」(34節)自分のいのちがこの子供に流れ込むことを願うかの如く。すくなくとも、この子供とピッタリ一つとなることにより、その悲しみを自分も引き受けようとしているように思われる。
2Kg5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 
河の水で清められるということから、霊的な神への信頼に導かれている。同時に、このような家来の存在が、皆でともに、主を賛美することにもつながっている。家来の方が、権威に対して敏感だったのかもしれない。権威に従うことで、恵みを得る経験をしていたのかも知れない。
2Kg6:16-18 するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、 主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。 アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、「この異邦の民を打って目をくらましてください」と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目をくらまされた。 
アラムの大軍がエリシャを捕らえに来た場面である。エリシャは、エリシャ達と共にいるもの(主の軍勢)の方が多いことを知っている。従者にそれが見えるように祈る。そしてアラム軍は、なにも見えなくなる混乱状態に陥るという構造である。エリシャによる奇蹟物語が続く箇所で、殆ど興味がなかったが、この様な記述は、それぞれに興味深い。しかし同時に、イエスを捕らえに来た大祭司たちに対して『わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。』」(マタイ26:53,54)や「イエスはペトロに言われた。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』」(ヨハネ18:12)これらの言葉の重さを感じる。自由はそれを支える力を根拠としている。しかし自由をもってその力を行使することではなく、力の源であるかたの御心を行う自由を求めたい。
2Kg7:13 家臣の一人がそれにこう答えた。「ここに残っている馬の中から五頭を選び、それに人を乗せて偵察に送りましょう。彼らも、ここに残っているイスラエルのすべての民衆、また既に最期を遂げたイスラエルのすべての民衆と同じ運命にあるのです。」 
12節のような判断をする王とこの提案をする家臣の差は何に由来するのだろうか。「彼らも、ここに残っているイスラエルのすべての民衆、また既に最期を遂げたイスラエルのすべての民衆」と言っている。ここでの「彼ら」は誰だろうか。文脈からは、アラム軍の兵隊に思われる。「ここに残っているイスラエルの民衆」は飢え死にしようとしている存在ということか。それらをさらに「既に最期を遂げたイスラエルのすべての民衆」と同一視している。神の前の小さな存在である、ひとりひとりを平等に見ていると言うことだろうか。ゆっくり考えてみたい。
2Kg8:7,8 エリシャがダマスコに来たとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。「神の人がここに来た」と知らせる者があって、王はハザエルに言った。「贈り物を持って神の人を迎えに行き、わたしのこの病気が治るかどうか、彼を通して主の御旨を尋ねよ。」  
アラムは隣国で中東の最も古い大国である。その王にも信頼されていることが書かれている。それだけ大きな影響を持っていたと言うことを伝える記事だろう。エリシャの務めは何だったのだろう。神の力が宿った凄さはわかるが、正直よくわからない。
2Kg9:32,33 彼は窓を見上げ、「わたしの味方になる者は誰だ、誰だ」と言うと、二、三人の宦官が見下ろしたので、 「その女を突き落とせ」と言った。彼らがイゼベルを突き落としたので、その血は壁や馬に飛び散り、馬が彼女を踏みつけた。 
この時まで、イゼベルの力は続いていたと言うことか。その王女を突き落とすことがここで決行される。乱暴ではあるが、この決然とした行動とそれに呼応する宦官にこころが惹かれる。この世でもこれと似たことが頻繁に起こっているように思われる。神のみこころを求めるのは難しい。
2Kg10:30-32 主はイエフに言われた。「あなたはわたしの目にかなう正しいことをよく成し遂げ、わたしの心にあった事をことごとくアハブの家に対して行った。それゆえあなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座につく。」 しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。 このころから、主はイスラエルを衰退に向かわせられた。ハザエルがイスラエルをその領土の至るところで侵略したのである。 
最後の部分はあたかも30節と31節から希望がなくなったと言っているようである。これは、列王紀記者の味方で、主はさらに大きな救済計画をお持ちなのだろうが。
2Kg11:20 こうして、国の民は皆喜び祝った。アタルヤが王宮で剣にかけられて殺された後、町は平穏であった。 
1節に「アハズヤの母アタルヤ」とある。8:29b には「ユダの王、ヨラムの子アハズヤは、病床にあるアハブの子ヨラムを見舞うため、イズレエルに下って行った。」アハズヤはユダの王でヨラムの子で、アハブの子ヨラム(同名)と同盟関係にあったと言うことだろう。名前からも複雑。
2Kg12:8,9 ヨアシュ王は祭司ヨヤダおよびほかの祭司たちを呼んで言った。「なぜ神殿の破損を修理しないのか。以後あなたたちはあなたたちの担当の者から献金を受け取ってはならない。それは神殿の破損を修理するために使われるべきものだからだ。」 祭司たちは民から献金を受け取らず、従って神殿の破損を修理する責任を負わないことに同意した。 
10節以下を見ると、祭司ヨヤダは、この改革に関わっている。なぜ、神殿の破損の修理に献金が用いられなかったかは不明である。しかし、4節の「ただ聖なる高台は取り除かれず、民は依然として聖なる高台でいけにえを屠り、香をたいた。」という状況からして、祭司やレビ人が十分に受け取っていなかったのではないかと想像される。特に、南ユダ王国以外は、壊滅的な状況にあることを考えると、レビ人も自給自足で、他の部族からのサポートはなかったのではないだろうか。仕組みをどのように変えていったかは興味深いが、おそらく、一時的、かつ限定的な改革であったろう。16節の「工事担当者に与えるように献金を渡された人々は忠実に仕事をする者であったので、会計監査を受けることはなかった。」についても、サステイナブルなシステムであったかどうか不安になる。
2Kg13:20,21 エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。 人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。 
エリシャ物語はよくわからないと思ってしまう。いつかじっくり学ぶときがあるだろうか。おそらく、エリヤにおいては、列王紀上19章のように、その内面を推測できるような記事があるが、エリシャについては、それが読み取れないからだろう。それが、書かれていなければ受け入れられないというわたしのこころに問題があるのか。
2Kg14:10 あなたはエドムを打ち破って思い上がっている。その栄誉に満足して家にとどまっているがよい。なぜ挑発して災いを招き、あなただけでなく、ユダも一緒に倒れるようなことをするのか。」 
イスラエルの王ヨアシュがユダの王アマツヤに送ったメッセージの一部である。アマツヤについては3節に「彼は父祖ダビデほどではなかったが、父ヨアシュが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」と書かれている。ヨアシュについては13章11節に「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」と評されている。そしてこのあと、11節にはアマツヤがこの忠告を聞き入れなかったこと、12節にはユダが惨敗したことが書かれている。この忠告が正しかったと言っているのだろう。誰からの助言かではなく、神はすべての主である。すべての声に聞く者でありたい。
2Kg15:12 主はかつてイエフに、「あなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座につく」と告げられたが、そのとおりになった。
主は、つねに忠実である。そして、それは、われわれが悔い改めるのを待っておられるように寛容である。それに答えるのは人間の責任。
2Kg16:10,11 アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会おうとしてダマスコに行き、ダマスコにある祭壇を見た。アハズ王が祭司ウリヤにその祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書を送ったので、 祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送って来たものそっくりに祭壇を築いた。しかも祭司ウリヤは王がダマスコから帰って来るまでにそれを仕上げた。 
アハズについては、1節に「レマルヤの子ペカの治世第十七年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となった。」とあり、4節までに概要が書かれている。5節には「そのころ、アラムの王レツィンとイスラエルの王、レマルヤの子ペカがエルサレムを攻めようとして上って来た。彼らはアハズを包囲したが、戦いを仕掛けることができなかった。」とあるが、不明の点が多い書き方である。そしてそのあとに記されているのがこの記事である。どのように評価するかは単純ではないにしても、当時の政治情勢の混乱と、祭儀の実践に関する問題などが見て取れる。一つ一つ詳細に倫理的な批判することよりも、もう少し大きな視点で考えることが必要なのかも知れない。
2Kg17:7,8 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。
ここからまとめと、王国の歴史著者集団の神学の開示が始まる。ゆっくり一度学んでみたい。中心は、偶像礼拝を重要な判断基準にしているように思われる。
2Kg18:14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。 
これに答えたヒゼキヤを完全に屈服させるためにセナケリブは上ってくる。このときに、どうすれば良いのだろう。信仰者の態度としても、非常に難しい。個人的な信仰ではなく、民に対する責任も担っている。わたしならどうするだろうか。
2Kg19:34 わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」 
これは、列王紀記者の信仰告白なのか、それとも、主の言葉なのか。むろん、後者だと言っているのだろう。しかし、わたしには、前者であることを除外できない。聖書に単に言葉として書かれていること以上のメッセージを聖書から読み取ろうとしているからか。むろん、それは、危険性をもはらんでいる。
2Kg20:19 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた。 
この解釈は困難であろう。様々な見解があり得る。わたしは、しかし、神の心にあることの大きさをヒゼキヤに知らせると共に、ヒゼキヤを試している、またはそれによって、われわれに、意思を示しているように思う。個人としての神への忠誠と、王として委ねられている国の問題への向き合い方。ヒゼキヤの信仰は、国の将来または、神の思いを探るところには達していなかったと言うことではないだろうか。
2Kg21:16,17 マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした。 マナセの他の事績、彼の行ったすべての事、彼の犯した罪は、『ユダの王の歴代誌』に記されている。 
最後の「彼の犯した罪」が「『ユダの王の歴代誌』に記されている」ことに驚いた。これは、公式な記録ではないのだろうか。公式な記録であっても、批判的な記述が許されたのか。それとも、なしたことが書かれていてそれが、罪であるとここで判断されているのか。むろん、公式の記録はなく、ユダヤ人としての宗教集団の記録として、この王国の歴史や、『ユダの王の歴代誌』が存在するのだろうか。
2Kg22:1 ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエディダといい、ボツカト出身のアダヤの娘であった。 
ポツカドについては、ヨシュア1:39 にユダの町としてリストされている。ヨシアが実際にしたことについては「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」と2節にまとめられている。ただ、歴史を変えるほどの大きなこととは認識されなかったように思われる。20節に個人的な祝福のみが記されている。因果応報的に考えすぎているのだろうか。王が正しく治めれ、それに民も従えば、この世で、通常言われている祝福をうけると単純に考えてはいけないのかも知れない。
2Kg23:29 彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。 
ヨシアの死の記録である。22章にある預言者フルダの言葉は「それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。』」彼らはこれを王に報告した。」(22章20節) で終わっている。これが安らかな死なのだろうか。それとも、預言者フルダの預言が間違っていたのか。すでに非常に複雑な世界が広がっているようにも感じる。歴史理解において。
2Kg24:14 彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。 
11節には「部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。」とある。このような大々的な捕囚を各所で行ったのだろうか。それだけの奴隷、労働者が必要だったのだろうか。有能な人を殺さずに連れて行ったと言うことは、それを上手に活用する術も持っていたと言うことだろうか。それだけでも、驚かされる。
2Kg25:27 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。 
支配政策が変化したと言うことだろう。自らが戦った相手ではなく、その有能さも認められるようになれば、人は寛容になれる。怒りと個人的な経験が判断を支配している間は、それは、困難である。それまでにかかる期間が、37年ということだろうか。捕囚から期間するには、まださらに、35年ほどかかる。

BRC2013

2King1:13 王はまた第三の五十人の長を部下の五十人と共につかわした。第三の五十人の長は上っていって、エリヤの前にひざまずき、彼に願って言った、「神の人よ、どうぞ、わたしの命と、あなたのしもべであるこの五十人の命をあなたの目に尊いものとみなしてください。
テシベびとエリヤの心が動かされる。エリヤは、最強の預言者と思われるが、同時に、弱さをあわせもち、主に聞く耳を持ち、自ら変わりうるものとして、主の前に立つ存在であったことを思わされる。この五十人の長のことばにも、心撃たれる。
2King2:10 エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。
まさにそのときまでエリやについて行こうと決心して、三度もエリヤのことばを振り切ってついてきている。エリヤもここで、あなたの希望通りになるようにという気持ちをこめて、このように言っているのかもしれない。
2King3:27 (モアブの王は)自分の位を継ぐべきその長子をとって城壁の上で燔祭としてささげた。その時イスラエルに大いなる憤りが臨んだので、彼らは彼をすてて自分の国に帰った。
イスラエル、ユダ、エドムの連合軍対、モアブの戦いである。しかし、最後は、この長男を献げるということで終わっている。これは、イスラエルにとって大きな憤りであったろう。あってはいけないこと。
2King4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
「初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋」である。Mt14:17 パン五つと魚二ひき、Mt15:34 パン7つと小さい魚少し、Mk6:38, Mk8:5, Lk9:13, Jn6:9 にある、おそらく二つのエピソードに似ている。イエスの奇蹟を思いだす。
2King5:26 エリシャは言った、「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか。今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。
v23によると銀2タラントと晴れ着二着である。上の後半は何をいみしているのか。単なる、奇蹟物語でおわらない。興味深い。銀2タラントは1KIng16に出てくるサマリヤを買った値段と同じである。
2King6:23 そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった。
2:19以降、エリシャの奇跡物語が続く。おそらく細切れのものが記されているのであろう。この記事の次には「この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、」と続く。略奪隊とは違うとしても、エリシャの働きによって人々がずっと平安を保った生活を送っているわけではない。
2King7:9 そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。
個人主義と通常言われるものとは、かなり異なる。国というものを失った、ユダヤ人の中で、たいせつなものとして明確に認識されたこと、これが個人での体験の内面化のよる経験化と、それを行動として、または、明確なことばによって告白する、その信仰告白の系譜が、ここにもある。これを今も大切にしたい。
2King8:10 エリシャは彼に言った、「行って彼に『あなたは必ずなおります』と告げなさい。ただし主はわたしに、彼が必ず死ぬことを示されました」。
実際にこのことが言葉通りに成就する。このあとの節には、預言者の苦しみも記されている。神の言葉を委ねられた故の苦しみ。一般の人には、分からない苦しみである。これをエリシャはどう受け取ったのだろう。
2King9:11 やがてエヒウが主君の家来たちの所へ出て来ると、彼らはエヒウに言った、「変った事はありませんか。あの気が変な人は、なんのためにあなたの所にきたのですか」。エヒウは彼らに言った、「あなたがたは、あの人を知っています。またその言う事も知っています」。
こたえは「それは違います。どうぞわれわれに話してください」家来たちは「気の変な人」と呼んでいる。わたしの持っている古い版の口語では「気違い」となっている。緩和されているとしても、エリシャとそのともがらにたいする認識は、このようなものだったことは、たしか。そして「その言うことは知らない。」
2King10:30 主はエヒウに言われた、「あなたはわたしの目にかなう事を行うにあたって、よくそれを行い、またわたしの心にあるすべての事をアハブの家にしたので、あなたの子孫は四代までイスラエルの位に座するであろう」。
イスラエルの王の中ではエヒウだけ別格である。しかし、列王紀記者は、エヒウにも厳しい。この主のことばの記載と列王紀記者の判断、このときに、ヨルダンの東、ギレアデの地がハザエルに占領されていったことがこの判断の根拠なのか、それとも偶像礼拝を厳しく断罪するためか。
2King11:17 かくてエホヤダは主と王および民との間に、皆主の民となるという契約を立てさせ、また王と民との間にもそれを立てさせた。
契約で信仰に生きることができるようになるのだろうか。疑問をもってしまうが、v20 はこのように続く。「こうして国の民は皆喜び、町はアタリヤが王の家でつるぎをもって殺されてのち、おだやかになった。」喜びとかかれているところに、とくべつなものを感じる。
2King12:7 それで、ヨアシ王は祭司エホヤダおよび他の祭司たちを召して言った、「なぜ、あなたがたは主の宮の破れを繕わないのか。あなたがたはもはや知人から銀を受けてはならない。主の宮の破れを繕うためにそれを渡しなさい」。
「ヨアシ王の二十三年に至るまで、祭司たちは主の宮の破れを繕わなかった。」とあるから、かなり長い間、適切に宮の特別会計が適切に運用されていなかったのであろう。ユダ王国の信仰が乱れ、適切に神殿の運営、そして、献金もなされていなかったことも伺われる。しかし、この改革は限定的だったように見える。
2King13:4 しかしエホアハズが主に願い求めたので、主はついにこれを聞きいれられた。スリヤの王によって悩まされたイスラエルの悩みを見られたからである。
ヤラベアムは、エヒウと同じく、ヤラベアムが立てた二つの子牛の像を取り除くことはしなかったが、ユダ王国と断交状態で、国としてのアイデンティティー保持からそれはできなかったのかも知れない。この節で、エホアハズの祈りを聞き、神は民を救われる。エホアハズへの憐れみより、イスラエルの苦悩をみて。最後は、すぐそこにある。
2King14:26 主はイスラエルの悩みの非常に激しいのを見られた。そこにはつながれた者も、自由な者もいなくなり、またイスラエルを助ける者もいなかった。
ヤラベアム2世による領地回復の記事である。しかし、これは、何を言っているのだろうか。領地を回復したことが書かれており、ある繁栄がもたらされたのだろう。しかし、自由人も、救助者もいない。ここからはどのように解放されるのだろう。
2King15:10 ヤベシの子シャルムが徒党を結んで彼に敵し、イブレアムで彼を撃ち殺し、彼に代って王となった。
エヒウ - エホアハズ - ヨアシ - ヤラベアム - ゼカリヤ、これが12節に10章30節を引用して書かれている「主はかつてエヒウに、「あなたの子孫は四代までイスラエルの位に座するであろう」と告げられたが、はたしてそのとおりになった。」の成就である。イスラエルのこの5人については、もう少し調べてみたいと思う。
2King16:2,3 アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、自分の神、主の目にかなう正しいことを行わなかった。彼はイスラエルの王たちの道を歩み、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。
アハズのことを見ていると、ユダの方がより問題があったようにすら思われる。王の行為だけで判断するのは、間違いだとしても。
2King17:6 ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた。
3年間の包囲のことが記されているにしても、あまりに、あっけない。どのように、読むのが良いのだろうか。列王紀下には、王以外あまり個人の信仰について記されていないように思われる。
2King18:4 高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。
Num21:6-9 の記事に出てくるへびであろう, Jn3:14 にも引用されている。このへびの像を打ち砕くことは、かなりの勇気が必要だったのではないだろうか。しかし、その理由だけで、後世に偶像礼拝への厳しさが強くなってからの追記と考えるのは、問題がある。
2King19:35 その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。
これはどのように理解したら良いのだろうか。奇跡なのか。それとも別の解釈をすべきか。
2King20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところにきて言った、「主はこう仰せられます、『家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』」。
預言者イザヤと神のコミュニケーションについては、別として、イザヤの忠実さ、勇気には、驚かされる。このような厳しいことを、忠実な信仰者に告知すること、そして、このあとの4, 5節ですぐ引き返して、べつのことを告げる忠実さ。神は、12節からの、バビロンの王メロダクバラダンの使節のことまでふくめて、ヒゼキヤを見ているのか。
2King21:13 わたしはサマリヤをはかった測りなわと、アハブの家に用いた下げ振りをエルサレムにほどこし、人が皿をぬぐい、これをぬぐって伏せるように、エルサレムをぬぐい去る。
測りなわ (measuring line) と、下げ振り(plumb) 建設につかうためと考えるが、破壊を意味しているのかも知れない。「マナセが人々をいざなって悪を行った」(v9) これが、2節にあるように「マナセは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国々の民の憎むべきおこないにならって、主の目の前に悪をおこなった。」度合いが、滅ぼされるに値するものというのが、この列王紀の進学としてよいだろう。
2King22:11 王はその律法の書の言葉を聞くと、その衣を裂いた。
この律法の書が何であれ、19節にあるように「心に悔い、主の前にへりくだり、衣を裂いてわたしの前に泣いた」というような心で、その言葉を聞き、受け入れ、自分自身が変えられる者でありたい。
2King23:25 ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。
列王紀記者としては、最大の賛辞である。おそらく、徹底的な偶像の破壊を高く評価しているのであろう。しかし、26節、そしてその後の、ヨシヤの戦死の記事を読むと、本当にそのように単純に理解できたのか、列王紀記者としても、どのように受け止めていたか不確かな部分がのこる。ユダ王国の滅亡にむけて、列王紀といえども、歴史のなかから、神からのメッセージの総体を受け取るのは、難しいのであろう。
2King24:3 これは全く主の命によってユダに臨んだもので、ユダを主の目の前から払い除くためであった。すなわちマナセがすべておこなったその罪のため、
ここは、近隣各国の略奪隊に侵略についての記事だが、列王紀記者の味方は、マナセ王の罪である。王国を失うイスラエル。それは、あまりにもいとおしい事なのか。
2King25:16 ソロモンが主の宮のために造った二つの柱と、一つの海と洗盤の台など、これらのもろもろの器の青銅の重さは量ることができなかった。
20章22節からに書かれていることの実現であろう。贈り物としてささげていても、休戦事態は、十分な価値のものとして残っていたと言うことか。


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歴代志

歴代志上(1)

列王紀のあとは、歴代志に入り、そのあと、バビロン捕囚後の歴史に関するエズラ記と、ネヘミヤ記、捕囚時代のエステル記、そして、人生の苦難について書かれているヨブ記と進み、8月28日には一旦旧約聖書をはなれ、新約聖書の最初マタイによる福音書から読み始めます。遅れてしまった人は、夏休みに追いつくことができると良いですね。

歴代志(口語訳をもとにこの記事を書いていますが、新共同訳および新改訳は「歴代誌」となっています。I, II か、上・下かも訳によって異なっています。)の最初は長い系図から始まります。新約聖書の最初のマタイによる福音書も系図から始まります。創世記もある意味では「系図」が一つのキーワードでした。歴代志は創世記の初めのアダムからスタートします。しかし、カインやアベルはでてきません。細かく見ていくと、すこし違う部分もあるようです。それにしても長々と系図が続きます。一段落つくのが8章の終わり。9章1節は

このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。(口語訳)

サムエル記上・下、列王紀上・下はひとつづきで、最後はネブカデネザル王に滅ぼされ、バビロンに捕囚される (BC597, BC586) まで書かれていますから、それ以降にまとめられたことは、確かでしょう。この歴代志は、そのバビロン捕囚が起点になっています。かなりの並行記事がはいっていますが、違ったグループの人によって、異なった目的のために書かれたことは確かでしょう。

実は、ヘブル語(旧約)聖書では、歴代誌上・下が最後に置かれています。BC537ごろから何回かに分けてユダヤに帰還していきます。聖書ではその捕囚の期間は70年と書かれています。このあとに読む、エズラ記、ネヘミヤ記にそのあたりのことが書かれているので、楽しみにしていて下さい。帰還後に書かれたとして、イスラエルの民にとって、そのリーダにとって何が大切なことで、なにが気がかりなことだったのでしょうか。考えながら読んでみて下さい。

サムエル記上・下、列王紀上・下を思い出しながら読むのも、それらとの違いを書き留めながら読むのも、捕囚帰還後のイスラエルの民に思いをはせながら読むのも、ここで語られているイスラエルの民の希望とは何なのか想像しながら読むのもよいと思います。

歴代志上(2)

歴代志上・下は、上ではダビデ王朝について書かれ、下ではソロモン王朝から始まり、それ以後バビロン捕囚まで南ユダ王国を中心に書かれています。特に最初は、系図から始まりますから、迷子にならないように、概要を記しておきます。いのちのことば社「新聖書注解」歴代誌(新改訳の名称、新改訳にあわせ 上下ではなく I, II を使います)梗概(岩井清執筆)からの抜き書きです。

  1. 系図 I:1-9章
    1. アダムーイスラエル (1)
    2. ユダの子孫 (2-3)
    3. その他のユダの子孫 (4:1-23)
    4. シメオンの子孫 (4:24-43)
    5. ルベン、ガド、マナセ (半部族)の子孫 (5)
    6. レビの子孫 (6)
    7. その他諸部族の子孫 (7)
    8. ベニヤミンの子孫 (8)
    9. (捕囚からの帰還後)エルサレムに住み着いた人々 (9:1-34)
    10. サウルの系図 (9:35-44)
  2. ダビデ I:10-29章
    1. サウルの死 (10)
    2. ダビデ王の勇士たち (11-12)
    3. 神の箱移動・その I (13)
    4. 王権の確立 (14)
    5. 神の箱移動・その II (15)
    6. 賛美と感謝 (16)
    7. 神の宮建設の意図をめぐって (17)
    8. ダビデ王とその軍勢の勝利 (18-20)
    9. 人口調査の罪 (21:1-22:1)
    10. 神殿建設の準備 (22:2-19)
    11. 奉仕の組み分け (23-27)
    12. 晩年の励ましと賛美 (28-29)
  3. ソロモン II:1-9章
    1. 統治の開始 (1)
    2. 神殿の建設 (2-4)
    3. 奉献式 (5-7)
    4. その他の統治 (8)
    5. 知恵と富 (9)
  4. 歴代の王たち II:10-36章
    1. レハベアム (10-12)
    2. アビヤ (13)
    3. アサ (14-16)
    4. ヨシャバテ (17-20)
    5. ヨラム (21)
    6. アハズヤ (22:1-9)
    7. アタルヤ (22:10-23:21)
    8. ヨアシュ (24)
    9. アマツヤ (25)
    10. ウジヤ (26)
    11. ヨタム (27)
    12. アハズ (28)
    13. ヒゼキヤ (29-31)
    14. マナセ (33:1-20)
    15. アモン (33:21-25)
    16. ヨシヤ (34-35)
    17. 最後の王たち (36)


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聖書通読ノート

BRC2023

1Chronicles 1:34 アブラハムはイサクをもうけた。イサクの子らはエサウ、イスラエル。
系図が続く。短い時間では、創世記の記事との違いをみることはできない。しかし、たとえばアブラハムにしても、まずは、「アブラハムの子らはイサク、イシュマエル。」(28)とあり、イシュマエルの子らの名前があり、次に、側女ケトラの子ら、そして、引用句に至る。順序も重要なのだろうが、明らかにわかることは子供の数、イシュマエルの子らとして記されているのは、12人(12部族か)、ケトラの産んだ子は、6人、そのあとにも、ミデアンの子として、5人が続き、11人と見るべきかどうか不明だが、ケトラの一族と書かれている。引用句のあとは、エサウの子らが5人、長男エリファズの子らが、7人、次男、レウエルの子らが4人書かれ、そのあとにセイルの子らについて書かれている。省略や、混乱もあるように思われる。さまざまな伝承があるのだろう、創世記以外にも。やはり成立について知りたくなる。
1Chronicles 2:21-23 その後、ヘツロンはギルアドの父マキルの娘のもとに行き、これをめとったが、その時彼は六十歳であった。この娘は彼との間にセグブを産み、セグブはヤイルをもうけた。ヤイルはギルアドの地に二十三の町を持っていたが、ゲシュルとアラムがその中からハボト・ヤイル、ケナトとそれに属する六十の町を奪い取った。以上は皆、ギルアドの父マキルの一族である。
ギルアドの父マキルの一族とあるが、民数記27章などにあるマキルの子、ギルアドの子、ヘフェルの子、ツェロフハドとも関係していて、別の伝承があったのだろう。この町のとりかたからしても、いくつもの部族が住んでいたと思われる。出エジプトのときがどのような状態だったかは、不明である。
1Chronicles 3:9 以上が側女らの子を除く、すべてのダビデの子である。タマルは彼らの姉妹である。
ここには、ヘブロンでの7年6ヶ月の間に生まれたダビデの子6人、エルサレムでの33年の間に生まれた子が、バト・シュアの子4人と、それ以外の9人、あわせて、19人の名前が書かれている。そして、引用句には、これ以外の側女の子は書かれていないとある。一般的には、これだけの子供を丁寧に教育することは難しいだろう。さまざまな問題も生じる。側女の子はどのような位置付けだったのか。女の子については、事件が関係している、タマルだけが名前が記されており、あとは書かれていない。おそらく、息子と同じぐらいはいただろうから、40人ぐらい子供がいたことになる。首長とは、このようなものだったのかもしれない。そしてそれが、ダビデの家や、ユダの力を増やすことにも貢献していたのかもしれない。批判的にはなれないが、サムエル記の記述にはない記録がたくさんあったのだろうとも思う。
1Chronicles 4:27 シムイには息子が十六人、娘が六人いたが、兄弟の子は多くなかったので、これらの氏族はどれもユダの一族ほどに多くはならなかった。
この章には、ユダの系図と、シメオンの系図が書かれ、後半は、シメオンの範図が書かれている。ユダについては2章3節からにもあり、二つ目である。シメオンについては、系図とはあまり言えないほど簡単である。おそらく、系図というより、シメオンに属する部族とその居住地域について書いてあるのだろう。シメオンは、ユダの地域の中に住んだことがこれまでも書かれていたが、引用した「ユダ一族ほどに多くはならなかった」という記述以外に、「以上は、ダビデが王となるまで彼らの町であった。」(28b)との記述もある。このあとには「ここに名を記した人々は、ユダの王ヒゼキヤの時代にやって来て、ハム族の人々の天幕とそこにいたメウニム人を討って滅ぼし尽くし、今日に至っている。そこには羊の群れのための牧草地があったので、彼らが代わって住むようになったのである。」(41)や「シメオンの一族のうち五百人は、イシュイの子孫ペラトヤ、ネアルヤ、レファヤ、ウジエルを先頭に、セイルの山へ行った。彼らは、逃れて生き残っていたアマレク人を制圧してそこに住み、今日に至っている。」(42,43)のような興味深い記事もある。ここでいう、今日は、捕囚帰還後を意味するのだろうか。
1Chronicles 5:1,2 イスラエルの長男ルベンの一族は次のとおり。ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、その長男の権利はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。そのため彼は長男として登録されていない。兄弟の中で力があったのはユダで、そこから指導者が出たが、長男の権利はヨセフのものとなった。
このことが記されているのは、おそらくここだけだろう。はじめてである。しかし、だれでも、疑問に思い、これが理由だろうとも考えていたとは思う。そして、それがヨセフの子らに与えられたことも予想はできる。ただ、ここでは、子らとなっており、エフライムか、マナセかは不明である。さらに、部族間で、長男の権利は何らかの意味があったのか。盟主なのだろうか。どのように、認識され、実質的な意味を持っていたかは興味がある。
1Chronicles 6:12,13 その子エリアブ、その子エロハム、その子エルカナ。サムエルの一族は、長男ヨエル、次男アビヤ。
レビの系図にサムエルが入っている。祭司のような仕事をしていたことは、確かであるが、サムエル記には、レビ族である記述はない。エルカナの子とだけある。ここには、8節、11節、12節とエルカナの名が3回登場する。サムエルについては、エルカナの子とは、書かれていない。系図を調べている中で、このような記述を見つけ、それを書くことで、明示的にではないが、サムエルはレビ族であるかのごとく、しかし、嘘はつかずに、書いているように今回感じた。どうかわからないが。いずれにしても、膨大な系図、それだけの系図を確認することが重要だった時代なのだろう。契約よりも、または、契約とともに、血筋だろうか、これも自然ではある。
1Chronicles 7:23,24 彼は妻のもとに行き、妻は身ごもって男の子を産んだ。彼はその子の名をベリアと付けた。妻が災いの中、彼の家にいたからである。エフライムの娘はシェエラ。彼女は下と上のベト・ホロン、およびウゼン・シェエラを建てた。
系図が続く。引用箇所は、エフライムに関する箇所だが、エピソードがいくつか含まれている。エフライムの子供2人について「その子ザバド、その子シュテラ。それにエゼルとエルアドもいたが、この地の生まれであるガトの人々が二人を殺した。二人が下って行って彼らの家畜を奪おうとしたからである。」(21)の後のことが、引用句である。女性が複数登場する。一人目は、エフライムの妻、表現をみると、通い婚、そうでなくても、天幕が分かれていたように見える。そして、エフライムの娘シェエラ。有力者であったことがわかる。男性が乱暴をして、その種族が苦境にあるときに、明るい話題であったのだろう。このようなエピソードは、文字で残されていたのだろうか。そのあたりに興味が行く。普通に計算すると、BC15世紀から、BC12世紀頃となるのだが。神話の世界ではないように思える。
1Chronicles 8:28,29 以上は、系図に記された親族の頭である。頭である彼らはエルサレムに住んだ。ギブオンの父はギブオンに住んでおり、妻の名はマアカと言った。
系図だけではよくわからない。士師記に書かれているベミヤミンが激減した事件などは、どの時代なのだろうか。ここでは、エルサレムに住んだとあるので、ダビデの時代以降なのだろう。そして、ギブオンからは、サウルにつながる系図が書かれている。系図をたどって、物語を記録することが一般的だったのか。どのような家族の記録を持っていたかも知りたい。
1Chronicles 9:1,2 イスラエルの人々はすべて登録された。彼らのことは『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは背信の罪のために、バビロンに捕囚として連れ去られたが、最初に自分たちの町の所有地に戻って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿に仕える者であった。
さらに「さらに、彼らの同族であり、親族の頭である者が千七百六十人いた。彼らは神殿奉仕の仕事に秀でた人々であった。」(13)とも書かれている。この親族の頭にもヒントがあるのかもしれないが、捕囚にならなかった貧しい人たちについての、記述がないことが残念である。むろん、これは、現代的視点である。神殿での礼拝を中心とした民、ここにイスラエルの中心と、ユダヤ教の成立がかかっていたように思う。一般の人は文字も読めなかったろうから、このころに、あまり大きなことを期待するのはいけないかもしれないが。
1Chronicles 10:13,14 サウルは主に対する背信の罪のために死んだ。彼は主の言葉を守らず、霊媒に伺いを立て、これに尋ねながらも、主に伺いを立てようとはしなかった。そのため主は彼の命を絶ち、王権をエッサイの子ダビデに渡された。
霊媒(口寄せ)に伺いをたてたことは、サムエル記上28章に詳しく書かれている。また、同じサムエル記28章3節には、このときすでにサムエルが死んでいたことと「サウルは国内から霊媒や口寄せを追放していた」とある。この内容を読んでも、それを、ここで背信の罪として取り立てて書くことには、疑問を感じる。しかし、それが、歴代誌の歴史観なのだろう。「祭司、レビ人、神殿に仕える者」(歴代誌上9:2)にとっては、まったく自然な帰結だったのかもしれない。
1Chronicles 11:6-8 ダビデは「真っ先にエブス人を討つ者は誰であれ、頭となり、将軍となるであろう」と言った。するとツェルヤの子ヨアブが真っ先に攻め上り、彼が頭となった。ダビデがこの要害に住んだことから、そこはダビデの町と呼ばれるようになった。彼は町の周囲、すなわちミロから石囲いに至るまでを再建した。町の他の部分はヨアブが修復した。
この記事は、対応するサムエル記下5:6-10 などにはない。「真っ先にエブス人を撃つ者」は特定できるのだろうかと思った。それが可能なような戦いだったのかもしれない。一般的な武器である刀も皆が持っていたわけではなかったようなので、そのなかで力があるものだけが可能だったのかもしれない。さらに、ヨアブが町の再建にも、ヨアブの名前が書かれている。サムエル記または列王記を含む王国の歴史の記者とは、個人に関する異なる評価があるのかもしれないと思った。概して、人間は、他者の評価を公平にすることは、不可能なのだから。それを主の判断に帰するとしても、それは、記者、または当時の人が受け取ったと信じている主の御心、または、主の御心の一部だと、わたしは考えている。
1Chronicles 12:9 荒れ野の要害にいるダビデのもとに、ガド人を離れて力ある勇士がやって来た。彼らは戦いにたけたつわものぞろいで、盾と槍を携え、その顔はあたかも獅子のようであり、速さは山を駆けるガゼルのようだった。
この章は最初に「ダビデがまだキシュの子サウルを避けていたとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである。彼らも勇士たちに連なり、戦場でダビデを助け、弓を手放さず、右手でも左手でも石を投げたり弓矢を射たりした。彼らはサウルと同族で、ベニヤミン出身であった。」(1,2)とある。ベニヤミン出身のサウルと対峙していたダビデのもとにベニヤミン出身の人たちが加わったという記述である。南ユダ王国を形成する、ユダとベニヤミンの結びつきは、ダビデ個人の資質によった面もあるのかもしれない。引用句は、「ガド人を離れて」と表現されている。当初は、ダビデは略奪隊のような形で生活基盤を持っており、あぶれ者もいたのかもしれない。わたしは、ダビデの行為をあまり肯定しないが、戦いに次ぐ、戦いの中で、このようなチームを束ねるのは、おそらく、簡単ではなかったろう。わたしが理解できていない部分は、大きいと感じる。
1Chronicles 13:5 ダビデは神の箱をキルヤト・エアリムから運んで来るために、エジプトのシホルからレボ・ハマトまでのイスラエルすべての人々を召集した。
エジプトのシホルは地図上では特定できなかった。しかし、エジプトの中なのだろう。レボ・ハマトは列王記8章65節に「ソロモンはこの時、イスラエルのすべての民、すなわちレボ・ハマトからエジプト川に至るまでの大会衆と共に、私たちの神、主の前で祭りを執り行った。それは七日間、さらに七日間、合わせて十四日間に及んだ。」とある。しかし、地図上では、シリアの北である。そこまでの範図をイスラエルに含めるのは、誇張もあるのだろうが、捕囚になった民にとっては、それが最大の回復すべきイスラエルとなったのかもしれない。エジプト川は特定の川の名前としては、見つからないので、ナイル川のことを意味しているのかもしれない。このウザ撃ちが関係した記事の背後には、さまざまな思想が見える。
1Chronicles 14:14,15 ダビデがもう一度神に伺いを立てると、神は言われた。「彼らを追って攻め上るのではなく、彼らを避けて回り込み、バルサムの茂みの反対側から彼らに向かいなさい。バルサムの茂みの先から進軍する音が聞こえたその時、戦いに出なさい。神があなたに先んじて出陣され、ペリシテ人の陣営を打つからである。」
作戦も神に伺いを立てているように見える。まさに神がかりだったということだろう。それが「こうしてダビデの名声はすべての国々に及んだ。主は、諸国民が皆、彼を恐れるようにされた。」(17)へとつながっている。神に寄与することは、謙虚さの現れともとれるが、合理的な作戦を、神に委ねることで、神の力を使う魔術的な意味もあるように思う。そのあたりに関して、ダビデは非常に長けていたということだろう。ダビデの評価は難しい。
1Chronicles 15:2 その後、ダビデは言った。「神の箱を担ぐのはレビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、とこしえに主に仕えるために主に選ばれた者である。」
歴代誌6章4節には、レビ人のなかにもウザの名前がある。混乱もあるかと考えたが、ベニヤミン族にも、ウザの名があり(8章7節)そこに、アヒフドもある。これらの二人かどうかは定かではないが、ダビデの近くに、ベニヤミン族も何人もいたことを考えると、可能性はある。ただ、そうではあっても、ダビデの時代に、律法を根拠に、ここまで考えられたかどうかには、疑問がある。神の箱も、顧みられず、祭儀は行われず、過越の祭りなども、ずっと後代まで記録がないのだから。歴代誌記者の歴史観のようにも思われる。むろん、断定はできないが。
1Chronicles 16:35 そして言え。/「我らの救いの神よ、私たちを救い/国々から集め、救い出してください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。」
ダビデによる主への感謝の最後に、「そして言え」として、引用句がある。明らかに、捕囚以後の言葉なのだろう。ただ、それを、責める気にはならない。主の箱のための天幕を据えたダビデの祈りに合わせて、自分たちの祈りを加えているのだろう。わたしたちの聖書の読み方にも、そのような面が常にあるように思う。正しさだけでひとが伝える言葉を受け取らないようにしたいものである。
1Chronicles 17:20,21 主よ、私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。この地上に、あなたの民イスラエルのような国民が一つでもありましょうか。神はこれを贖うために来られて、ご自分の民となさいました。大いなる畏るべき御名を置くために、エジプトから贖ったあなたの民の前から、諸国民を追い払ってくださいました。
バビロン捕囚のあと、キュロスの勅令もあり、帰還した民、また、バビロンに残っているひとや、他の地域で生活をしている人たちもいる。その背景をもったひとにとって、謙虚にならざるを得ない面もあるのだろう。この章でもう一つ興味深かったのは「昔、私の民イスラエルの上に士師を立てた頃のように、私はあなたの敵をことごとく服従させる。私はあなたに告げる。主があなたのために家を建てる。」(10)と士師の時代のことが述べられ(6参照)ていることである。士師の時代を取り扱った記事は他には知らない。(サムエル記下7章11節、列王記下23章22節とこの二箇所のみ)
1Chronicles 18:7,8 ダビデは、ハダドエゼルの家臣が携えていた金の盾を奪って、エルサレムに持ち帰った。ダビデはまた、ハダドエゼルの町ティブハトとクンから大量の青銅を奪い取った。ソロモンはこれを用いて青銅の「海」、柱、青銅の品々を造ったのである。
歴代誌の歴史観でも、ソロモンが神殿に用いた、金・青銅は、略奪品であったとの結論なのだろう。労して得た正当な報酬の一部を献げるという考え方は、まだなかったのだろう。戦いについてどのように考えていたかも、興味を持つ。ダビデの時代は、戦いに次ぐ戦い、そのようなダビデを称賛すること自体にも、嫌悪感をもつのは、あまりに現代的なのか。
1Chronicles 19:4 そこでハヌンはダビデの家臣たちを捕らえ、ひげをそり落とし、衣服も半分、腰までに切り落としてから追い返した。
この章は、サムエル記下10章とほとんど同じように思われる。詳細は調べていないが。あまり注意してみていなかったが、隠しどころも隠せなかったということなのかもしれないと思った。「ひげが生えそろうまでエリコに止まり、それから帰るように」(5b)とあるが、殺されるよりも大きな恥だったのだろうか。戦争以外に、手立てはなかったのだろうか。
1Chronicles 20:1 年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ヨアブは軍勢を率いてアンモン人の地を荒らし、ラバに来てこれを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを討ち、破壊した。
サムエル記下11章1節は「年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を皆殺しにし、ラバを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。」とあり、酷似しているが、このあと、2節から「ある夕暮れ時、ダビデは寝床から起き上がり、王宮の屋上を散歩していたところ、屋上から一人の女が水を浴びているのを見た。女は大層美しかった。」と始まる部分は、書かれていない。どのような意図なのか、やはり考えてしまう。
1Chronicles 21:5-7 ヨアブは調査した民の数をダビデに報告した。イスラエル全土には剣を扱うことができる男子が百十万人、ユダには剣を扱うことができる男子が四十七万人いた。しかし、レビ人とベニヤミンをその中に含めることはしなかった。ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものだったからである。このことは神の目に悪とされ、神はイスラエルを打たれた。
サムエル記下24章9節「ヨアブは調査した民の数を王に報告した。イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」と異なる。また、ベニヤミンをその中に含めることはしなかったとの記述は、サムエル記下にはない。別の記録があるのかもしれない。歴代誌では「このことは神の目に悪とされ、神はイスラエルを打たれた。」とあり、ウリヤのことは、書いていない。また、ここでも、何が実際に問題なのかは、明確ではない。理解も難しいように思う。
1Chronicles 22:2 ダビデはイスラエルの地にいる寄留者を集めるよう命じ、彼らを神殿建築に用いる石材を切り出す石切り工に任じた。
寄留者としているが、労役を課したということで、奴隷に近い存在として使ったということだろう。ダビデは多くの血を流し、征服していった王でもある。そのことが、「ところが主の言葉が私に臨み、こう告げた。『あなたは多くの血を流し、大きな戦争を重ねた。私の前で、あまりに多くの血を大地に流したため、あなたが私の名のために神殿を建てることはない。」(8)と表現され、ソロモンについては「見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人となる。私は周囲のすべての敵からその子を守り、安らぎを与える。その子の名はソロモンである。私は、彼の生涯の間、イスラエルに平和と静けさを与える。」(9)と書いている。どの時点での言葉か不明だが、預言的に表現されている。王位継承でもめたことが、列王記上には書いてあるが、それについては、記されていない。
1Chronicles 23:1-5 ダビデが年を取って最期の時が近づくと、息子ソロモンをイスラエルの王とし、イスラエルの全高官、祭司、レビ人を集めた。三十歳以上のレビ人を数えると、男子は三万八千人であった。そのうち、二万四千人は主の神殿の仕事の責任者に、六千人は役人と裁判官に、四千人は門衛に、四千人はダビデが賛美のために作った楽器を奏でて主を賛美する者になった。
今まで気づかなかったが、ここには、レビ人のことが書かれている。男子は全員で 38000人、それらを、神殿の仕事の責任者、役人と裁判官、門衛に分けたことが書かれている。最初に、全高官、祭司、レビ人を集めたとあるので、全高官には、レビ人以外もいたのかもしれないが、レビ人を役人に配置したということである。おそらく、誇張や、背後に特別な意図があるのだろうが、ある部族にこのような役割を与えることは、代々継承することにもなり、問題も起こると思われる。しかし、これは、捕囚帰還の民の役割を反映しているのかもしれない。行政が整えられたのは、列王記をみると、ソロモンの頃だと思われるが、それをダビデ由来とすることにも、ある価値があると考えたのだろう。帰還当時の苦労を思うとともに、問題も感じる。
1Chronicles 24:31 彼らは、頭である父たちも、弟の家系の者も、同族であるアロンの一族と同じように、ダビデ王やツァドク、アヒメレク、祭司とレビ人の親族の頭たちの前でくじを引いた。
レビ人が系図によって、確実に登録されることが、祭司を中心とした統治体制を捕囚帰還後に確立するためには、必要だったのだろう。そこで、ここでも「アロンの一族の組分けは次のとおりである。アロンの子らはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。ナダブとアビフは父に先立って死に、息子もなかった。そこでエルアザルとイタマルが祭司となった。」(1,2)とアロンの子孫から始めているが、レビの系図は、明確ではない場合もあったと思われる。それが、ある程度整理されたことが書かれているのだろう。血筋に依存することの、課題も感じる。われわれ、人々、すべての人、一人一人を出発点にすることが非常に困難になる。
1Chronicles 25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを奉仕のために選び分けた。彼らは琴、竪琴、シンバルを奏でて預言する者となった。この奉仕を務めとする人々の数は次のとおりである。
整備された賛美のグループが組織されている。サムエル記下や、列王記上・下を読むと、このように、整備されたのは、かなり後になってからではないかと思われる。少なくとも、歴代誌記者は、礼拝のためのこのような整備が基本的であることと、それは、ダビデの時代に起源を持つことを記述することがたいせつだったのだろう。組織だった組分けなど、アロンの子孫とレビ人の役割が書かれているが、アサフ、ヘマン、エドトンについては、同名の人が少し現れるが、少なくとも、ダビデの時代の人としては、王国の歴史には現れない。また、「将軍たち」という言い方がされているが、ダビデの時代には、将軍たちが力を持っていたことは確かだろうが、このような組織だった行政に関わったことは、考えにくいように思う。
1Chronicles 26:31,32 ヘブロン人の頭はエリヤ。ヘブロン人の親族の系図はダビデの治世第四十年に調査され、彼らのうちから、ヤゼル・ギルアドに力ある勇士が見いだされた。エリヤの同族である勇者二千七百人は親族の頭であり、ダビデ王は神と王に関わるすべての事柄のために、彼らにルベン族、ガド族、マナセ族の半数を管理する役割を任せた。
サムエル記下4章4,5節によると、ダビデの在位は40年である。おそらく、そのことは、皆知っていたと思われるので、引用句が最後になされたことだということは理解できただろう。ヘブロンは、ユダ族の本拠地のような場所だから、その人たちが、他の部族を管理する役割を持っていたとしたら、これは、大きな出来事のはずである。軽々に、判断できない、問題を孕んでいる。エズラの時代以降、困難が多かったと思われるが、将来を見据えて、歴史を書くことも、様々な問題があったろうと想像する。
1Chronicles 27:1 イスラエルの人々の数は次のとおりである。親族の頭、千人隊と百人隊の長、それに役人たちは王に仕え、一年中どの月も、月ごとに交替する各組のあらゆる事柄に当たった。一組は二万四千人から成る。
不思議な書き方になっている。イスラエルの人々の数とあるが、このあとに、あるのは、輪番での統治体制である。また、名前をみると、私が知る範囲では、まだ、ダビデが王になる前に、集まってきた、ユダや、略奪隊の長などの名前が並ぶ。12部族による統治ではなく、ダビデの仲間による統治に近いように思われる。しかし、同時に、ここにあるような組織化までは、完成されていなかったようにも思われる。捕囚帰還は、祭司、レビ人が多かったと予想されるが、それ以外の人たちも、適切に、組織に組み込まないと行けなかったのだろう。むろん、ある程度の、文書が残されていた可能性はあるが、捕囚帰還という背景を考えると、それらを収集するのは、それほど単純ではなかったことは、容易に想像がつく。
1Chronicles 28:9 わが子ソロモンよ、あなたは父の神を知り、誠実な心と自由な魂で神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。もし主を尋ね求めるならば、主はあなたの前に現れてくださる。もし主を捨てるならば、主はいつまでもあなたを拒まれる。
この章にも、「イスラエルの神、主は私の全家族の中から私を選び、とこしえにイスラエルの王となるようにされた。主はユダを指導者として選び、そのユダの家の中でわが父の家を選び、わが父の子らの中でこの私を全イスラエルの王として喜び迎えてくださったからである。」(4)と、「ユダを指導者として選んだ」ことが書かれている。王国の歴史までには、書かれていなかったことである。歴史の帰結からは、受け入れざるを得なかったと思われるが。そして、引用句。美しい言葉が、ダビデの言葉として、書かれている。ここからも、主に拒まれ、捕囚となった起源を求めようとしているように見える。しかし、同時に、預言書から、罪を担うのは一代限り、父の罪が子に引き継がれることがないことも、言われている。しかし、まだ、指導者の問題として捉えることが一般的だったのだろうとも思う。
1Chronicles 29:4 すなわち建物の壁を覆うためのオフィル産の金三千キカルと、精錬された銀七千キカル。
このあとに「すると、親族の長たち、イスラエル諸部族の長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の仕事に携わる高官たちが自ら進んで、神殿の奉仕のために金五千キカルと一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。」(6,7)とある。比較すると、金に関しては、同じ単位なので、約3割増しの献げものがイスラエルの諸部族の長たちなどによって献げられたとある。聖書の末尾の表によると、キカルは、34.2kg、しかし、ダリクについては、ダリク金貨として、8.4g とある。この単位を使うと、8.4kg となり、銀7000キカルとは、バランスが取れない。単位が異なるのかもしれない。いずれにしても、なにか、整えられたもので、明確な根拠があるようには見えない。わかることは、略奪したものであることである。「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(14)これも、神様からの報酬なのだろうが、現代的にはいろいろと考えてしまう。


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1Chronicles 1:46 フシャムが死んで、代わりに王となったのはベダドの子ハダド。彼はモアブの野でミデヤン人を討ち破った者で、その町の名はアビトと言った。
創世記25章の記事からとったものだろうか。「主はソロモンに敵対する者として、エドム人ハダド הֲדַד(Hăḏaḏ: Hadad = "mighty")を起こされた。彼はエドムの王家の血筋を引く者であった。」(列王記上11章14説)とあり、また、イシュマエルの子にもハダド(30)がおり、アラムの王ベン・ハダド(ハダドの息子の意。列王記上15章)も登場する。一般的な名前であるととともに、エドムにとっては、重要な名前だったのかもしれない。「モーセのしゅうとであるカイン人の一族」(士師記1章16節)など、カイン人の記録は多い。系図は、イスラエルとの近さを表現したものなのだろうか。どこまでが記録で、何を伝えたかったのはは、不明である。イスラエルは、系図を大切にしたことは確かなのだろう。
1Chronicles 2:16,17 彼らの姉妹はツェルヤ、アビガイル。ツェルヤの子らはアブシャイ、ヨアブ、アサエルの三人。アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシュマエル人イエテルであった。
あまり系図のことで議論したくないが、列王記までの資料にないことが書かれている場合、それなりの意味をもたせるものと、知られていることを加筆している面があるだろう。ここでは、アマサの父がイエテルであることは、列王記上2章5節、32節にかかれているが、母がダビデの姉妹(おそらく姉)であったことや、イエテルがイシュマエル人であることは書かれていないように思われる。イシュマエル人がそれなりに登場することを考えると、近い関係にあったのだろう。少なくとも、エッサイ家は。それが軍事力の背景にあったかもしれない。このあとには、ベツァエル(出エジプト31章2節)がカレブの孫であることも書かれている。おそらく、ウリの子とは書かれているが、カレブの孫だとはこれまでに書かれていないのではないか。そうだとすると、指導者の家系ではあるが、若かったのかもしれない。むろん、最初に書いた、加筆のどの種類によるかにも関係するが。
1Chronicles 3:15,16 ヨシヤの子らは長男ヨハナン、次男ヨヤキム、三男ゼデキヤ、四男シャルム。ヨヤキムの一族は、その子エコンヤ、その子ゼデキヤ。
ダビデの子らについて詳しく記したあと、次に詳しいのは、このヨシヤの子らである。このあとに、捕囚の身となった人たちのリストが続く。ダビデ王家としての起源とともに、血筋を明確にして書きたかったのだろう。当然、北イスラエル王国については現れない。おそらく、この時点で、ユダとその近くに住んでいた部族とユダの中に住んでいたレビ以外は、ほとんど失われていたのかもしれない。しかし、ダビデに結びつけることで、少数いた、イスラエルの他の部族を含めようとしているのか。詳細はわからない。
1Chronicles 4:21-23 ユダの子シェラの子らは、レカの父エル、マレシャの父ラダ。彼らはベト・アシュベアで上質の亜麻布の仕事に就く氏族であった。それにヨキム、コゼバの人々、モアブの主人となったヨアシュとサラフ、そしてヤシュビ・レヘム。これらの記録は古い。彼らは陶工で、ネタイムとゲデラの住民であった。王の仕事を手伝うため、そこに住んだのである。
この章には、王家以外のユダ族とシメオン族について記されている。このあと他の部族について記されているが順序についてはなぜこのようにしたか不明である。自分たちが持っている古い記録はすべて記そうとしたように感じる。引用箇所では、亜麻布の仕事、陶工について記され、それが王の仕事を手伝うためとあり、代々そのような働きをしたのだろう。
1 Chronicles 5:17,18 彼らは皆、ユダの王ヨタムとイスラエルの王ヤロブアムの時代に登録された。ルベンの一族、ガド人、およびマナセ族の半数は勇者の一族であり、盾と剣を取る者、弓を引く者、戦いに熟練した者など、四万四千七百六十人が兵役に就いていた。
これまで、歴代誌は捕囚帰還後にひとつの歴史認識のもとで編集された文書と考え、なかなかていねいに読めなかったが、そう簡単には記述できないことを、書こうとしている面も今回はみつけて新しい気持ちで読めるかなと思っている。この章はヨルダンの東側の「ルベンの一族、ガド人、およびマナセ族の半数」について書かれ、最後にレビのことについて書き始めている。ガドは人として区別している。ガドは、レアの召使いジルパの子だが(創世記30章9-11節)ここでは「ユダの王ヨタムとイスラエルの王ヤロブアムの時代に登録された。」となっている。ヤコブ(イスラエル)の直系というわけではないのか。引用句の後半は、兵役に就いたもののかずが書かれいる。これは、いつの時代のものなのだろうか。このあとには、戦いにおいて、神の助けがあったことが書かれている。ひとつの解釈なのだろう。「彼らがハガル人、エトル、ナフィシュ、ノダブと戦ったとき、神は彼らを助け、ハガル人とその味方を皆、彼らの手に渡された。これは、戦いに際して彼らが神に叫び求め、神への信頼のゆえにそれが聞き入れられたからである。」(19,20)整理されたいないことがかえって興味深い。わたしの歩みについて考えても、整理して表現する部分は、内面化の後であり、単純な事実の記述ではないのだから。
1 Chronicles 6:39-42 領内の宿営地ごとに彼らの居住地を挙げると、次のとおりである。ケハトの氏族に属するアロンの一族には、くじが当たったため、ユダの地のヘブロンとその周辺の放牧地が与えられた。ただし、この町の畑と、町に属する村落はエフネの子カレブに与えられた。またアロンの一族には、逃れの町であるヘブロン、リブナとその放牧地、ヤティル、エシュテモアとその放牧地、
このあとにはまだまだ続く。系図をある程度修正することは考えられても、居住地を変更することは知っている人が多いため困難だろう。ここでは、ヘブロンがカレブの町だっただけではなく、アロンの一家の居住地であったことが書かれている。それがユダの中にあり、中心地でもある。ダビデはエルサレムに移る前、そこを拠点としている。ユダが祭司との交流が多かったことは容易に想像がつく。ヤロブアムが北イスラエルを独立させるときに、ユダの影響から離れることを考えたことは当然だろう。そしてその後、国が一つになることはない。逃れの町がどの程度実効性を持ってその機能を発揮したかは不明だが、レビ族との関係が深かったことは、確かだろう。レビ族では、ゲルションの家系は、北イスラエルとともに大半は消滅したのかもしれない。
1 Chronicles 7:13 ナフタリの子らはヤフツィエル、グニ、イエツェル、シャルムで、ビルハの一族である。
ナフタリについてはこれだけである。ラケルの妾ビルハの子である。軍の数も書かれていない。「ダンの息子はフシム。ナフタリの息子はヤフツェエル、グニ、イエツェル、シレム。以上が、ラバンが娘ラケルに与えたビルハの子らである。ビルハがヤコブに産んだのは、これらすべて合わせて七名である。」(創世記46章23-25節)を見ると最初からエジプトに行った人数が少なかったこともわかる。(歴代誌上6章47,62節参照)しかしそうすると、他の部族も気になる。ダンとゼブルンである。歴代誌上12章34節にはゼブルンについて、36節にはダンについて書かれ、レビに与えられた放牧地について、ゼブルンは歴代誌上6章48,62節に登場する。つまりこのまとまりには、ダンとゼブルンは登場しない。ゼブルンはレアの子であり、正妻かどうかが関係しているわけでもないようである。少なくとも、歴代誌が書かれた頃には、部族の人数や記録の多寡にも差があったのだろう。
1 Chronicles 8:28 以上は、系図に記された親族の頭である。頭である彼らはエルサレムに住んだ。
ベニヤミンの子孫について書かれ(7章6節から12節にも記録がある)ている。注目すべきは、ここに、頭はエルサレムに住んだことである。サムエル記上・下を通して書かれている、ダビデのサウルとその子ヨナタンへの対応がここに反映しているのだろうか。三年続いた飢饉をサウルの家に責任があるとして、サウルの家系の者を7人一度に処刑することもしているが。(サムエル記下21章1-14節)少なくとも、北イスラエル王国ではなく、南ユダ王国にとどまったベニヤミンの家系のものが多かったのだろう。その子孫の中に、使徒パウロもいることになる。
1 Chronicles 9:2,3 最初に自分たちの町の所有地に戻って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿に仕える者であった。エルサレムにはユダの子孫の一部、ベニヤミンの子孫の一部、エフライムとマナセの子孫の一部が住んだ。
この章の第1節は「イスラエルの人々はすべて登録された。彼らのことは『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは背信の罪のために、バビロンに捕囚として連れ去られたが、」と始まる。最初の一文は前章につながっているのかもしれない。気になったのは、イスラエルはなにを意味するのかである。7章にはダンとゼブルンは入っておらず、ここでも、レビ以外で名が書かれているのは、4部族のみである。たしかに、これらが、イスラエル全体を代表するという考え方もあるが、このあとに人数が書かれていることを考えると、それほど単純でもないだろう。歪(いびつ)さも気になった。エルサレムに住んだ部族の人数かどうかは不明だが、ユダ 690人、ベニヤミン 956人、祭司の同族 1760人。最後はレビを表しているかもしれないが、これで町を形成するのは不可能である。そして、このリストには、エフライムとマナセは登場しない。南ユダ王国に少数のエフライムとマナセが住んでいただろうことは別として、北イスラエル王国の人たちがどうなったかはとても興味がある。ユダ滅亡よりも180年程度前に滅びており、こちらは、アッシリアにより、おそらく様々な場所に捕囚となったであろうから。歴代誌からは歪みが感じられるが、それは、その社会自体が、歪んでいる苦しさを表しているのかもしれない。批判的にではなく、その歪さの中に身をおいて、読んでいければと思う。
1 Chronicles 10:13,14 サウルは主に対する背信の罪のために死んだ。彼は主の言葉を守らず、霊媒に伺いを立て、これに尋ねながらも、主に伺いを立てようとはしなかった。そのため主は彼の命を絶ち、王権をエッサイの子ダビデに渡された。
毎年、この箇所を考えている。サウルに問題があったことは、否定できないが、本当に、ここに書いてあることを死の理由とする解釈でよいのだろうか。霊媒については、サムエル記上28章3-25節にかかれているが、「主に伺いを立て」る行為の一部として書かれている。サウルの苦しみを切り捨てることは簡単だろう。しかし、他者理解の範囲が広がりつつあることを踏まえての神理解という視点からは、サウルの精神状態。確かに欠けのある人間であったとしても、サウルの苦しみとそれを理解しその背後におられる主に目をむけることがたいせつなのではないだろうか。歴代誌記者は、ダビデに望みを抱いているのだろうか。それは、これから読んでいくこととする。キュロスの解放令により、帰還してはみたものの、幸せについて考える時、やはり安定した基盤、強い国家は必要不可欠なものだったのかもしれない。なぜ、ダビデを追い求め、イエスはダビデの子とよばれ、しかしながら、イエスは神の子として生きようとし、その道を説いたのか、理解していきたい。
1 Chronicles 11:1 イスラエルのすべての人々はヘブロンのダビデのもとに集まり、こう言った。「御覧ください。私たちはあなたの骨肉です。
1節から3節は、サムエル記下5章1節から3節と同じである。骨肉ということばは、とても強いように思うが、契約はあくまでも、ダビデとだったのだろうか。統一王朝はそう長く続かない。この章のリストをみても、ダビデが戦士として人望が篤かったことはわかる。26節からのリストには、外国人と思われる名前も多い。しかし、それに混じってルベン人とあるのも興味を引く。ルベンはどのような存在だったのだろうか。
1 Chronicles 12:1,2 ダビデがまだキシュの子サウルを避けていたとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである。彼らも勇士たちに連なり、戦場でダビデを助け、弓を手放さず、右手でも左手でも石を投げたり弓矢を射たりした。彼らはサウルと同族で、ベニヤミン出身であった。
ツィグラグ時代からの者の中に、サウルと同族の者が含まれているのは興味深い。あとからまとめたものにも、「サウルの同族であるベニヤミンの一族からは三千人。その大多数はそれまでサウルの家への忠義を守ってきた。」(30)とある。引用句の人たちとは、別なのだろうか。ただ、ここに書かれた部族ごとの人数に比して「ヨルダン川の向こうのルベン族、ガド族、マナセ族の半数からは、あらゆる武器を携えた者十二万人。」(38)この人数は多い。なにを意味しているのだろうか。不明である。
1 Chronicles 13:3 私たちの神の箱を私たちのもとに移そうではないか。サウルの時代には、これをおろそかにしたからである。」
「これをおろそかにした」に直訳「これに伺いをたてなかった」と注がついている。新共同訳「サウルの時代にわたしたちはこれをおろそかにした。」(口語訳も似た表現)となっている。主語は一人称複数である。むろん、一人称複数は人々をさすこともあるが。このあとの記事はサムエル記下6章1節から16節にある。「力の限り」(8)はサムエル記にはないなど、細かい違いはいくつかある。この「力の限り」はサムエル記下6章14節からとったものかもしれない。サムエル記6章を読んだときにも考えたが、やはり事故だったかもしれないと思った。問題は事故で人が死んだときその理由をどう受け取るかなのだろう。一般的には、事故の背後に神がおられたとしても、その意図は示されない。「宿営の移動の際には、アロンとその子らが聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後で、ケハトの子らが中に入って担ぎ上げる。だが、彼らは聖なるものに触れてはならない。触れると死ぬであろう。以上が、会見の幕屋のものでケハトの一族が運ぶものである。」(民数記4章15節)から、契約の箱の運び方に問題があったと理解する場合が多い。(歴代誌上15章2節参照)個人的には疑問を持つ。主はそのような方なのだろうか。むろん、聖であることを教育するある段階として、このようなことを用いられたことを否定はできないが。気になるのは、ウザの家族や子孫のことも、考えてしまうからである。そして、そのようなことは、現代でも多い。
1 Chronicles 14:12 ペリシテ人が自分たちの神々をそこに捨てて行ったので、ダビデは火で焼き捨てるよう命じた。
サムエル記下5章17-25節に並行記事がある。引用箇所については「ペリシテ人が自分たちの偶像をそこに捨てて行ったので、ダビデとその部下たちはそれを運び去った。」(サムエル記下5章21節)となっている。印象はかなり異なる。歴代誌記者の強調点なのだろう。ダビデが伺いをたてる部分は詳細に比較してはいないが、少なくともこの記事をいれたということは、その重要性も主張しているのだろう。かならず主のみこころを求める。これは、たいせつなことである。しかし、一般的には、占いのようなことをしなければ、答えは得られない。一つ一つに関して御心を求める重要性を強調することで、祭司や儀式を行うもの、または宗教が重要視される(おろそかにされない)ことは確かだろう。しかし、祭司や宗教儀式を行うものが、答えを得られないと悩む側ではなく、神の側に立つことになる。とても危険であると同時に、堕落も誘発することになるだろう。宗教に頻繁におこる罠でもある。謙虚に求め続けるものでありたい。
1 Chronicles 15:12,13 彼らに言った。「あなたがたはレビ人の親族の頭である。あなたがたとあなたがたの兄弟たちは身を清め、イスラエルの神、主の箱を、私が用意した所へ運び上げなさい。以前にはあなたがたがいなかったので、私たちの神、主は私たちに怒りをあらわにされた。定めに従って神に伺いを立てなかったからである。」
「あなたがた」は「祭司ツァドクとエブヤタル、レビ人のウリエル、アサヤ、ヨエル、シェマヤ、エリエル、アミナダブ」(11)であるが、おそらく「祭司一般」だろう。三つのことが気になった。一つは「レビ人の親族の頭」という表現である。モーセ五書にはなかった表現である。(出エジプト6章25節、ヨシュア21章1節と比較)もう一つは、アロンの家系はヘブロン、すなわちユダの町で、ダビデが最初に王となった場所にいたことである。 (歴代誌上6章39-42節)これでは、ユダのダビデ家に代々支配されることを望まない他の部族は、この構造を受け入れることは、できなかったろう。三つめは「以前にはあなたがたがいなかった」とあることである。2節の「神の箱を担ぐのはレビ人でなければならない。」は多少理解できるが、祭司までもいなかったというのは、不思議である。ダビデのころまでには、まだ、祭司・レビ人の祭儀での役割はできていなかったのかもしれないとも思わされる。モーセ五書(全部ではないにしても)の成立時期についても考えさせられる。
1 Chronicles 16:35 そして言え。/「我らの救いの神よ、私たちを救い/国々から集め、救い出してください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。」
サムエル記にはない歌なのだろう。サムエル記上7章18節から29節のものは、かなり個人的な祈りに思われるが、ここでは最後に「私たちを救い/国々から集め、救い出してください。」とある。歴代誌記者の祈りなのだろう。そう考えると「主の僕イスラエルの子孫よ/主に選ばれたヤコブの子らよ。」(13)とあるように、イスラエル全体に向けられている。すべての部族が均等にいたわけではないが、様々な部族がある程度ずついる中で、イスラエルがひとつのまとまりなのだろう。イスラエルとそれ以外は、おそらく、ダビデ・ソロモンの頃は弱く、その後消滅し、捕囚帰還後にそのアイデンティティがつよくなっていったのだろう。興味深い。
1 Chronicles 17:13 私は彼の父となり、彼は私の子となる。私は、あなたに先立つ者から取り去ったようには、その者から慈しみを取り去ることはしない。
まず注目すべきはここに「彼」が「わたし(神)の子」となるという表現である。このあとには「私は彼をとこしえに、私の家と私の王国に立たせる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。』」(14)と続く。引用は7節途中から「万軍の主」の言葉として預言者ナタンが語ったことになっている。(『』は原文にはない。)「彼」をどう理解するかは、明確ではない。「あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの末裔、あなたの子の一人を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。」(10)とあり、あなたの末裔、あなたの子となっており、ダビデの子を意味するが、必ずしも、第2代目を指してはいない訳し方になっている。キリスト教では、この彼をイエス・キリストと理解することが主流なのだろう。しかし、イエスは「ダビデの子」を否定している(マタイ22章11-46節)。歴代誌記者はどのように理解していたのだろうか。不明である。しかし、ダビデが告白しているように、ダビデを特別な者としていることが、中心であることは、文脈からは確かだろう。「主よ、あなたこそ神です。あなたは僕にこの良いことを約束してくださいました。どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主よ、あなたが祝福されたものは、とこしえに祝福されるのですから。」(26,27)「私達の知識は一部分であり、預言も一部分的だからです。」(コリント前書13章9節)として、ここで、キリストを指し示しているが、完全ではないと理解することもできるが、文脈からすると、やはり「ダビデの子」に期待をもたせる形式になっている。いずれにしても、無理に読み込みをせず、歴代誌記者や同時代の人々、つまり、捕囚から帰還した人にとっての願いが詰まっていると考えるのが自然であるように思う。
1 Chronicles 18:13,14 エドムに守備隊を置いた。こうしてエドムのすべての人々はダビデに隷属した。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。ダビデは全イスラエルを統治し、すべての民のために公正と正義を行った。
この前にも軍事的勝利が書かれており、それは、サムエル記下8章にある記述と似ている。後半の「公正と正義」もサムエル記下8章15節と同じである。その意味で目新しいことがあるわけではないが、ダビデの活動の詳細を省いており、これが、歴代誌記者が描きたかったダビデ像であるとともに、ダビデの子に期待することなのかとも思った。公正と正義はなにを意味するのだろうか。あくまでも、すべての民は、イスラエルの民(または寄留・帰属したもの)で、周囲の国としては「一時的に」劣勢に立たせられた軍事にたけた指導者だったろう。そうであっても、公正と正義についてもう少し理解したい。ひとが、望む平和は、不完全であるばかりか、神の平和とはかけ離れていることがおおいと思うからである。歴代誌記者にとっての公正と正義の中身が知りたい。
1 Chronicles 19:9-11 アンモン人は出陣して町の入り口に陣を敷き、援軍に駆けつけた王たちはそこから離れた野に陣を敷いた。ヨアブは戦線が自分の前と後ろにあるのを見て、イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり、アラム人に向かって陣を敷き、残りの軍勢を兄弟アブシャイの指揮に委ね、アンモン人に向かって陣を敷かせた。
16節からアラムとの戦いがもう一つ書かれているが、この記述からして、この最初の戦いが重要だとしているのだろう。ただ、後のほうは、ユーフラテス川の向こうにいたアラム軍(16)となっており、本体ではないかもしれないが、族長のようなものとは異なる軍だったのだろう。最後に「ハダドエゼルに仕えていた人々は、自分たちがイスラエルに敗れたと分かると、ダビデと和を講じ、彼に隷属した。アラム人は、二度とアンモン人を助けようとはしなかった。」(19)とあり、あくまでもアラムとしては和を講じたのみで、アラムが隷属したわけではないのかもしれない。引用句に戻ると、アンモンは「町の入口」に陣を敷いたとあり、いつでも逃げられる態勢であることを感じさせられる。8節には「ヨアブをはじめ勇士の全軍」という表現がとられ、引用句でも、「イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり」とあり、ヨアブはここを叩くことが鍵だとしてそこに力を注いだのだろう。アラムも「銀千キカルを送って、アラム・ナハライム、アラム・マアカ、ツォバから戦車兵と騎兵を雇った。」(6)傭兵で、おそらく土地の族長または豪族だったのだろう。興味深い記述と多少の誇張がアラムとの関係の記述にはあるようだ。ヨアブは客観的(一種科学的)な分析のもと戦略を練ったように思われるが、周囲はそのようなことは受け取れなかった可能性も高い。
1 Chronicles 20:2,3 ダビデもやって来て、彼らの王の頭から冠を奪い取った。それは金一キカルの重さがあり、中に宝石がはめ込まれていた。これはダビデの頭を飾るものになった。ダビデはこの町からおびただしい戦利品を持ち出した。また、そこにいた民を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、斧を持たせて働かせた。同様のことを、ダビデはアンモン人のすべての町に行った。こうして、ダビデと兵は皆、エルサレムに凱旋した。
「年が改まり、王たちが出陣する季節になった。」(1)を読むたびに、サムエル記下11章のウリヤの妻バト・シェバの件を隠していると思っていた。どうもそうでもないと今回思った。引用句はダビデが自分を飾ることに移行していることが書かれている。ダビデはおそらく優秀な戦士だったろうが、将軍として作戦を立てて軍を動かすことのできるヨアブに任せたことで、その力が発揮できなくなり、このような嗜好に移っているとも言えるかもしれない。歴代誌記者は、そちらのほうが問題だったと考えていたかもしれない。個人的な罪よりも、国家の指導者として責任を全うしていないということだろうか。ある意味では、歴史を通して見たとき、課題は、不倫ではなく、王の個人的嗜好のもとでの蓄財だと考えた可能性もある。
1 Chronicles 21:1 サタンがイスラエルに対して立ちはだかり、イスラエルの人口を調べるようにダビデを唆した。
歴代誌ではサムエル記下11章から24章にとんでいる、さらにこの記事と対応するサムエル記下24章の記事との対比は興味深い。一度時間を作って比較検討してみたい。引用箇所についてのみ簡単に書いておく。引用箇所に対応するのは「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主はダビデを唆して民に向かわせ、『すぐにイスラエルとユダの人口を調べよ』と言われた。」(サムエル記下24章1節)唆したのは、主なのか、サタンなのかがまず気になるが、サタンはヨブ記のように、神のもとにいる「誘うもの」と考えると、どちらも、主から出たこととしているとも言える。歴代誌は表現を弱めているだけかもしれない。罰としておこる疫病も、すべては主の主権のもとで起こる。主の主権という考え方、さらに主がある理由のもとでそのようにされたのだろうといる考えが強いのだろう。実際に起こったと記述されていることを考えると、反対するものもいる中人口調査をする。すると、そのあとで、疫病が起こる。特別な祭壇を築き祈ると収まる。この一連のことをどのように、理解するかである。預言者やほかの人達も、主の御心としてその理由を告げただろう。わたしたちは、どのように、そのメッセージを受け取り、または、冷静にわからないとすべきなのか、考えさせられる場面でもある。
1 Chronicles 22:5 ダビデは言った。「わが子ソロモンは若く、経験もない。また、主のために建てるべき神殿は、この上なく壮大で、万国に名声と誉れを得るものでなければならない。それならば、この私が彼のために準備をしよう。」こうしてダビデは死ぬ前に多くの準備をした。
批判するわけではないが、このような親心が問題なのかもしれないと思っている。自分は、公平性をずっと考えてきて、こどもがある程度に育ってからは手を出さなかったことも関係しているかもしれない。ソロモンにやらせたほうがソロモンは信仰的にも成長できたかもしれない。むろん、歴代誌記者の執筆意図として、ダビデが準備していたことを書きたかったのかもしれない。「見よ、私は苦労して主の神殿のために金十万キカル、銀百万キカルを準備した。」(14a)の表現も気になる。寄留者を集めたり、石材を切り出すことなど(2)は、列王記上5章31,32節によるとソロモンがしたことになっているのだから。ただ、手を出してしまう一番大きな原因は、自分の価値観に照らして、その事業の価値を最大化してしまうことだろう。子のソロモンに対する配慮があるように見えて、やはり価値観を押し付けている。ある意味では神への信頼が欠ているともいえる。わたしは、すこしダビデに厳しいのだろうが、世の中によく見え隠れする構造でもある。そしてこのように考えること自体、実は、わたしの、自分のこどもにたいする考え方を、このように書くことによって正当化しているのかもしれない。構造は複雑である。
1 Chronicles 23:28 彼らの役目は、アロンの子らの傍らで主の神殿の奉仕に就き、それぞれの庭と部屋を管理し、すべて聖なるものの清めをつかさどることであった。すなわち、神殿の奉仕を行うこと、
わたしの今日の気分が背景にあるかもしれないが、アロンの子ら以外のレビ族の身になって考えると、階級が固定化されるたいへんな記述だとも感じた。それは、レビ以外の部族もそうかも知れない。この章はダビデからソロモンへの移行の時代を背景として書かれている。しかし同時に、捕囚帰還後のひとびとの社会で書かれている。歴代誌上7章の捕囚帰還後(おそらく歴代誌が書かれた背景にある時代の)エルサレムの住民の構成の歪(いびつ)さとあいまって、新たな出発はたいへんだったのだろうと思わされる。まだ、整理して書けないが、ダビデのことばとして「イスラエルの神、主はその民に安らぎを与え、とこしえにエルサレムに住まわれる。レビ人はもはや、幕屋とその奉仕に用いる祭具一式を担ぐことはない。」(25,26)がひとつの鍵として書かれている。神殿中心かつ、役人はレビ人(1-6)これを理想として、捕囚帰還後の世界を構成しようとしたのだろうか。今朝は、緻密な思考は困難なのかもしれない。少しずつ理解していきたい。
1 Chronicles 24:3 ダビデは、エルアザルの一族の一人ツァドクと、イタマルの一族の一人アヒメレクと共に、それぞれに与えられている奉仕の役割に応じて、アロンの一族を組に分けた。
系図とともに、組織図が書かれている。捕囚帰還後の人たちは、一旦は各地に分かれ、それがまとまった集団を作ってエルサレムとその周辺の町に戻ってきているのだろう。自分たちのルーツを確認することは、重要だったのだろう。そして、捕囚のころまで遡ることは可能な場合も多かったのかもしれない。問題は、そこまで辿れないもの。そして、祭司やレビ族であれば、引用句のようなわけかたの構造の一部だと確認できなかったものだろう。捕囚の期間は、70年程度としても、その前には、荒廃した期間が続き、いくつもの集団に分かれて帰還し、帰還後も困難が続いていたことを考えると、自分のルーツの確認ができたひとと、できなかったひとの関係も難しかっただろう。今の、イスラエルもそうかも知れないが、破壊のあとの再構成は、不可能なのかもしれない。新しい社会を創らない限りは。自分で書いていても、空なることばに感じる。
1 Chronicles 25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを奉仕のために選び分けた。彼らは琴、竪琴、シンバルを奏でて預言する者となった。この奉仕を務めとする人々の数は次のとおりである。
ダビデと将軍たちとまずなっている。もともとは、略奪隊から出発したダビデたちが、琴・竪琴・シンバルを奏でて予言するものを組織している。ダビデが琴を奏でる記事がサムエル記上16章14-23節に登場する。将軍たちに戦いを任せるようになって、ダビデが楽しんだのが賛美で、それが組織されていったのだろう。アサフについては「ヘマンの右手に立つのは兄弟アサフ。彼はベレクヤの子、ベレクヤはシムアの子、 シムアはミカエルの子、ミカエルはバアセヤの子、バアセヤはマルキヤの子、マルキヤはエトニの子、エトニはゼラの子、ゼラはアダヤの子、アダヤはエタンの子、エタンはジンマの子、ジンマはシムイの子、シムイはヤハトの子、ヤハトはゲルションの子、ゲルションはレビの子である。  」(歴代誌上6章24-28)となっている。実にレビからは、15代目となる。ヘマンは、やはり、歴代誌上6章18b-23 にあり、レビの子ケハトの子孫で、レビから、21代目とある。ちょっと違いすぎるようにも思う。エドトンについては、書かれていない。ダビデの信仰にも、平安にも関係しているのだろうか。
1 Chronicles 26:30-32 ヘブロン人ではハシャブヤとその同族、すなわち勇者千七百人が、主に対するすべての仕事と、王に対する奉仕がなされるように、ヨルダン以西のイスラエルを監督することとなった。ヘブロン人の頭はエリヤ。ヘブロン人の親族の系図はダビデの治世第四十年に調査され、彼らのうちから、ヤゼル・ギルアドに力ある勇士が見いだされた。エリヤの同族である勇者二千七百人は親族の頭であり、ダビデ王は神と王に関わるすべての事柄のために、彼らにルベン族、ガド族、マナセ族の半数を管理する役割を任せた。
よく見ると、ヘブロン人が、ヨルダンの以西のイスラエルも、ヨルダン以東のルベン族、ガド族、マナセ族の半数もヘブロン人が管理・監督しているようだ。ヘブロンは、カレブの町で、ユダの主要な町さらに、祭司が住んだ町でもある。エルサレムに移るが、結局、ヘブロン出身のひとたちが、全イスラエルを支配していたのかもしれない。そこまでは考えていなかった。それを、捕囚帰還後の人たちは知っていたのだろう。
1 Chronicles 27:25,26 王の貯蔵庫の管理はアディエルの子アズマベト。畑、町、村、塔にある貯蔵庫の管理はウジヤの子ヨナタン。地を耕して畑仕事を行う者の管理はケルブの子エズリ。
軍の組織については、違和感がある。サムエル記下24章9節には「ヨアブは調査した民の数を王に報告した。イスラエルには剣を扱うことができる勇敢な者が八十万人、ユダには五十万人いた。」となっている。ここでの月ごとの常備軍は、どのようなものだったのだろうか。引用句はそれに続く箇所だが、ここでは、王の貯蔵庫の管理と、農地の管理などが書かれているが、あくまでも、王に関する部分の管理で、ユダ、イスラエル全土には及んでいないようである。そうであれば、全土から兵を集めることはできない。ヘブロンやエルサレム中心のそこにいる十二部族だったのだろうか。ちょっと唐突にも感じる。
1 Chronicles 28:19 「すべては主の手によって記されたもの、主が私に悟らせたもので、この見取り図が作業のすべてである。」
この章の最後は「見よ、祭司とレビ人の組が神殿のあらゆる奉仕に当たっている。どの務めを果たすにも、あらゆる奉仕に必要な知恵を身に着け、献身的に働く者たちが、あなたと共にいる。高官も民衆も皆、あなたの指示を待っている。」(21)と結ばれている。将来の幻をみて語っていると取れないこともないが、主たることは、神殿が、ソロモン神殿ではなく、ダビデに由来するものだと主張しているようだ。引用句では、見取り図は、ダビデが主から受け取ったものとしている。「わが子ソロモンよ、あなたは父の神を知り、誠実な心と自由な魂で神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。もし主を尋ね求めるならば、主はあなたの前に現れてくださる。もし主を捨てるならば、主はいつまでもあなたを拒まれる。今、心に留めなさい。主は聖所とすべき家を建てるためにあなたを選ばれた。勇気をもって行いなさい。」(9,10)と書かれているが、これでよいと思ったとすると、なにか悲しくなる。少なくともソロモンには、反発があるだろう。これは、編集意図で、実際とは異なるのだろうと思った。すべてをダビデに帰することが、捕囚帰還後のリーダーたちがまず考えたことなのだろうか。
1 Chronicles 29:18,19 私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にあるこのような思いをとこしえに保たせ、彼らの心をあなたに向かうものとしてください。わが子ソロモンが、あなたの戒めと定めと掟を守って何事をも行い、私が準備した神殿を建てることができるよう、誠実な心をお与えください。」
ダビデに続いて「親族の長たち、イスラエル諸部族の長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の仕事に携わる高官たち」(6)が自ら進んで、神殿の奉仕のために金・銀・青銅・鉄を寄贈したことが書かれ、それをダビデが大いに喜んで10節からの祈りが始まっている。主の賛美、とくにすべては主のものであること、また、自らは取るに足らない者であることを「私たちは、先祖が皆そうであったように、あなたの前では寄留者であり、滞在者にすぎません。私たちの地上での生涯は影のようなもので、希望などありません。」(15)と表現している。神殿のために献げたものもすべてあなたのものと再度告白し「わが神よ、あなたが人の心を試し、正しいことを好まれることを私は知っています。」(17a)とし、民が進んで献げたことに対する喜びをのべ、引用箇所に至る。厳密なことばは、後代のものかもしれないが、現代の教会に引き継がれている表現も多い。今回は、特に、民とソロモンについての祈りが印象的だった。このような祈りが、歴代誌記者の祈りだったかもしれないし、わたしも、最近、このような祈りのたいせつさを、特に感じているからだろう。世界中の人々、わたしと関係の強い人々、そして、家族や子どもたち・孫たち、さらに、これから生まれてくるすべての人々のことを覚えて「主が、誠実な心をあたえ、ひとりひとりの心が主に向かうように」祈っていこう。神の前に、神とともに、そして、すべての人々と共に生きるものとして。

BRC2019

1Chr 1:1 アダム、セト、エノシュ、
イスラエル(ヤコブ)の子らについて書かれる2章以前のことがまとめられている。しかし、アダムの子ら、カイン、アベルのことは、書いておらず、ノアのことも書かれていない。そこが関心事ではないのだろう。しかし、少ないが、言葉が加えられていることもある。歴代誌の伝えたいことがあるのだろう。ユダ王国、ダビデ王朝のことと、決めつけないほうがよいだろうが、王国の歴史と、その背景を伝えるものとして、系図が書かれているのかもしれない。視点が狭いようにも思われる。
1Chr 2:8 ヘツロンに生まれた子は、エラフメエル、ラム、ケルバイ。
この章を通じて、「ヘツロン」および、18節に登場する「ヘツロンの子カレブ」に関する記述が多いように思われる。「エフネの子カレブ」(民数記13章・14章など)とは、同一人物だろうかそれとも別人だろうか。ヘツロンの子となっているが、引用した最初のリストにはない。このカレブには、まず「フルにはウリが生まれ、ウリにはベツァルエル(出エジプト記31章2節など)が生まれた。」(19)との記述がある。カレブについては、側女も、エファ、マアカと出てくる。そして、最後に「カレブの娘はアクサである。」(49)とあり、士師記1章から「エフネの子カレブ」と同一人物であることが示唆されている。ケルバイ(Chelubai)が、カレブなのかもしれない。基本3文字構成とすると、主要子音は同じである。ただ、エジプトに居た期間や、詳細を考えると、無理があるとも感じる。系図の議論が、歴代誌の重要部分ではあるが、王国の歴史のように先の預言者と言われているものより、かなり後代のものとすると、すこし後に活躍した人の系図が詳細であることには、疑念も生じる。あまり、議論しないのが、良いのかもしれない。証拠は少ないのだから。
1Chr 3:4 ヘブロンで六人の息子がダビデに生まれた。ダビデはそこで七年と六か月、エルサレムで三十三年間王位にあった。
ここでは「長男はアムノン、母はイズレエル人アヒノアム。次男はダニエル、母はカルメル人アビガイル。三男はアブサロム、ゲシュルの王タルマイの娘マアカの子。四男はアドニヤ、ハギトの子。五男はシェファトヤ、母はアビタル。六男はイトレアム、母はダビデの妻エグラ。」(1b-3)サムエル記下3章2節から5節にも同様のリストがあるが、次男は、キルアブとなっている。ヘブロンは、ユダの中心都市だったのだろうか。創世記にあるように、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴は、アブラハムがサラを葬るために購入した場所、最初に所有地をもったところでもある。ヤコブも住んでいて、ヨセフを兄弟たちのところに送り出している。士師記には、カレブに与えられたことも記されており、非常に記述の多い地名でもある。
1Chr 4:27 シムイには息子が十六人、娘が六人いたが、兄弟たちの子は多くなかったので、これらの氏族はどれもユダの子孫ほど大きなものにはならなかった。
部族の大きさはどのようにして決まるのだろうか。ベニヤミンやエフライムのように戦いで減少することは、十分考えられるが、日本やドイツの人口、そのあとでは、カンボジアの人口などをみると、様々な要素が関わっていると思われる。族長時代、離れて住んでいれば、疫病による死は少なかったのかもしれない。シメオンはどうして、小さな部族だったのだろうか。おそらく、簡単な答えはないのだろう。「ここに名を挙げられた人々は、それぞれの氏族の中の首長であり、彼らの家系は非常に大きくなった。」(38)どの範囲の人々に言及しているのか明らかではないが、ある時期に、系図に載っているかどうかは、重要だったことがうかがえる。それが、この歴代誌の背景にあるのだろう。そして、系図は現代人からすると、ユダヤ人は別として、ごくわずかなひとだけの関心になっていることも確かだろう。個人主義のひろまりでもあるが、自分の背景に目をむけない残念な部分と、家系を重んじすぎることへの平民の反発と両方があるのだろう。その意味でも、歴代誌の始まりは、現代の視点から見るとやはり異様である。主の視点からもそのように思われるが、その結論は、出さないことにしよう。
1Chr 5:1,2 イスラエルの長男ルベンの子孫について。ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、長子の権利を同じイスラエルの子ヨセフの子孫に譲らねばならなかった。そのため彼は長男として登録されてはいない。彼の兄弟の中で最も勢力があったのはユダで、指導者もその子孫から出たが、長子の権利を得たのはヨセフである。
ヨセフを長子としたことは、創世記48章の記述からは、明確だとは言えないと思う。創世記49章3, 4節「ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。」からすると、ルベンではないと考えられたのだろうが、これも、全く明白とはいえない。しかし、長子を決めることは重要だったのだろう。エフライムとマナセ、二人分もらったということなど、長子の権利として、考えられなくもない。そのため、エフライムとせず、ヨセフとしているのだろう。もうひとつは、他の兄弟の祝福の前に、エフライムとマナセの祝福が置かれ、埋葬についても、依頼していることから、このように理解されているのだと思われる。やはりひとつの解釈に過ぎないとは思う。
1Chr 6:46 ケハトの他の子孫には、半部族、すなわちマナセの半部族の諸氏族から、十の町がくじによって与えられた。
レビ族が割り当てられた牧草地などを見ると、当然のことながら、すべての部族に散らばっている。ということは、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされたときに、同時に補修されたひとたちも居たのだろう。また、北イスラエル王国で、どのように暮らしていたのだろうか。いろいろと疑問が起こる。レビ人で、預言者になったひとも居たのだろうか。
1Chr 7:23 彼は妻のもとに行き、妻は身ごもって男の子を産んだ。彼は名をベリアと付けた。その家が災いのさなかに(ベラア)あったからである。
20-23節に記されているエピソードは、他には記録がないようである。他の資料があったのか、単なる名前の由来を伝えた伝承なのか不明であるが、興味深い。歴代誌では、ユダの系図が詳細に二回(2章・4章)記され、それに続いて、シメオンの系図があり、5章からルベン、ガド、マナセの半部族とおそらく、ヨルダンの東の部族について記され、次にレビ、祭司の系図が、5章後半から6章、そしてこの7章では、イサカル、ベニヤミン、ナフタリ、マナセ、エフライム、アシェルと続く。8章には、もう一度ベニヤミンに関する記述がある。系図には、統一はできない複雑さもあったと思われ、引用したエピソードにもあるように、他部族との交流、争いもあったろう。基本的には、戦闘員として登録となっている。サムエル記下24章、歴代誌上21章にある人口調査の記録が断片的にも残っていたのかもしれない。しかし、系図ですべて捉えようとするのは、非常に複雑困難である。この調査自体を、批判的に記述しているのは、単に神様の恵みの受け取り方だけではないのかもしれない。ひとは歴史の中で、個人の尊厳と全体としての普遍性のせめぎあいの中に存在しているのだから。
1Chr 8:29 ギブオンにはギブオンの父が住み、妻の名はマアカといった。
ギブオンは、ヨシュア記9章・10章で、寄留民として加えられたカナン人どどういつであるかもしれない。そのあとも、さまざまな形で登場する。それが、問題もあった、サウルの直前、ベニヤミンの項に記録されているのは興味深い。系図には、問題も感じるが、ある程度、系図を確認できる時代ではあったのだろう。族長のもとでのかたまりとして捉えることができたこともそれが可能であった理由としても考えられる。当時の人達の暮らしにも興味を持つ。
1Chr 9:1-3 イスラエルの人々はすべて登録され、『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは神に背いたためにバビロンに捕囚として連れ去られた。最初に自分たちの町の所有地に帰って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人であった。また、エルサレムにはユダの一族の一部、ベニヤミンの一族の一部、エフライムとマナセの一族の一部が住んだ。
非常に簡単に「ユダは神に背いた」とまとめられている。それが、歴代誌の神学なのだろう。興味を持つのは、捕囚帰還後、最初に住んだひとたちの記述である。エフライムとマナセの一族は、どのような経緯で戻ってきたのだろう。北イスラエルの一部ではなく、南ユダ王国に寄留していたのだろうか。一般的には、土地所有の変更は難しかったはずである。
1Chr 10:13,14 サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。
歴代誌の歴史部分は、ここから始まっている。サウルへの裁きである。ダビデ王朝を中心としているからだろう。鍵は何なのだろうか。この引用箇所を見る限りにおいて「主に尋ねようとしなかった」ことが原因のようである。それがやはり信仰生活の中心であることは確かだろう。自分を相対化するときである。
1Chr 11:10 ダビデの勇士の頭は次のとおりである。彼らはダビデの統治に協力し、イスラエルのすべての人々と共に、主がイスラエルに告げられたとおり、ダビデが王となるように尽力した。
おそらく、歴代誌の名士の定義がこれで、その名士のリストが続いているように思われる。順序はよくわからないが、ダビデが王になるように尽力し、ダビデの統治に協力したことのようである。歴代誌がどうしても好きになれないのは、この価値観にわたしが向き合えないということなのかもしれない。
1Chr 12:39 このすべての戦陣に臨める戦士たちが、全き心をもってヘブロンに集まり、ダビデを全イスラエルの王とした。イスラエルの他の人々も皆、ダビデを王位につけることに同意した。
「ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装兵」(24)の記述が興味深い。ユダ:盾と槍を携える武装兵、シメオン:戦いに備えた勇士、ベニヤミン:その大多数はそれまでサウルの家を守り続けてきた、エフライム:勇士で、その家系では名のあるもの、マナセの半部族:ダビデを王とするために来るよう指名された者、イサカル:時に応じてイスラエルが何をなすべきかを見分けることのできる頭たちと、その指揮下にある同族のすべての者、ゼブルン:あらゆる武器で身を固めた戦闘員、彼らは心を一つにして戦う者、ナフタリ:盾と槍を携える者、ダン:武装した者、アシェル:武装した戦闘員、ヨルダン川の向こうのルベン族、ガド族、マナセの半部族:あらゆる武器を持った者。人数には不均衡がある。それを、これらの表現で区別しているのだろうか。
1Chr 13:9-11 一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を押さえようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。 ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。
サムエル記下6章にも記述があり、歴代誌およびサムエル記の両方の記者とまったく異なる解釈をすることになるが、今回初めて、単なる事故だったのかもしれないと思った。通常は、運び方またはウザの行為に主による「ウザ撃ち」の理由をもとめるのだろう。しかし、たとえ、主がこの背後におられたとしても、わたしたちには、理解しがたい理由である可能性もある。そう考えると、明確には理由が特定できなかったのではないかとも解釈できる。理由を考えること自体は自然であるが、つねに、主がその理由を明かされるわけではないのだから。その意味で、歴代誌およびサムエル記の両方の記者の解釈とも全く異なるわけではないのかもしれない。
1Chr 14:14 ダビデが再び神に託宣を求めると、神は次のように答えられた。「彼らを追って攻め上らず、彼らを避けて回り込め。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。
ダビデは、頻繁に神に託宣を求めたことが、記されている。つねに、主との交わりを持とうとすることとして、すばらしいと感じるとともに、課題も感じる。ある手法による託宣であると思われるので、神の沈黙を受け入れることが困難であったろうとも思う。ある種の占いは、道を示してほしいという自分の要求に、神のみこころを合わせようとすることとも言えるので。
1Chr 15:1,2 ダビデは、ダビデの町に宮殿を造り、神の箱のために場所を整え、天幕を張った。ダビデは言った。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」
二箇所気になった。天幕もそしておそらく神殿も、神の箱を置く場所が中心であるように読めること。そして、神の箱を担ぐべきは、レビ人であることを、ダビデが述べていることである。前者は、後者の内容を語るため、このようにしたのかもしれないが。「ウザ撃ち」と関連していることは、ほぼ確かだろうが、サムエル記下6章とは、違った印象を受ける。背後にダビデを理想とする祭司がいるように思われる。民数記1章、4章、申命記31章などから、神の箱を担ぐのはレビ人の勤めとするように思われるが、明確に書かれているのは、申命記10章8節「そのとき、主はレビ族を選び分けて、主の契約の箱を担ぎ、主の御前に立って仕え、主の名によって祝福するようにされた。それは今日まで続いている。」。一定していなかった。または、一定しない時代が長かったのかもしれない。聖書の権威ではなく、ダビデの権威に帰したことも、興味深い。同時に、モーセ五書の祭儀に関する部分がいつごろ今のものとなったのか、気になった。ダビデが聖書を読んでいる記録は全く無いのだから。
1Chr 16:7 ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した。
祭司、レビ人の職務の割当は、ダビデの権威にゆだねている。この時というよりも、順に整備されていったのかもれない。制度については、よくわからないことが多い。歴代誌は、それを明確に記することをひとつの目的としたのだろう。旧約聖書の成立と相まって、とても、難しい問題だが、それが現実なのかもしれない。
1Chr 17:17,18 神よ、御目には、それも小さな事にすぎません。あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。神なる主よ、あなたはわたしをとりわけ優れた人間と見なされたのでしょうか。 あなたは僕を重んじてくださいました。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。あなたは僕を認めてくださいました。
ダビデの祈りは、サムエル記下7章18節から29節とほとんど同じであるが、異なるところもあるようである。引用箇所の「とりわけ優れた人間と見なされた」が気になり調べてみた。サムエル記では表現がことなるまたは存在しない。短絡に結論を下すのは、危険であるが、ダビデを特別視しているようで気になっている。丁寧にみてみたい。帰還後、どのように立て直していくかというときに、モデルが必要だったのかもしれない。聖書を何回も読んでいても、わからないことばかりであることを感じる。謙虚に求めていきたい。
1Chr 18:3,4 ダビデは次に、ハマト地方のツォバの王ハダドエゼルが、ユーフラテスに覇権を確立しようと行動を起こしたとき、彼を討ち、戦車一千、騎兵七千、歩兵二万を捕獲し、戦車の馬は、百頭を残して、そのほかはすべて腱を切ってしまった。
正確にはわからないが、このあと、ダマスコのアラム人がハダドエゼルの援軍として参戦したとある。アラムの豪族のようなものなのかもしれない。三日月型肥沃地帯の西南の端に位置するアラムはつねに、イスラエルにとっては驚異だったろう。ダビデは、そのアラムをも従わせている。しかし、ここの書き方は、気になった。サムエル記下8章3節では「ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルがユーフラテスに勢力を回復しようと行動を起こしたとき」となっている。イスラエルとは反対側のはずであるが、何を意味するのだろうか。ユーフラテスまで派遣を拡大しようとしていたときという、覇権拡大の時を単に意味しているのかもしれない。すくなくとも、正当防衛ではなく、積極的平和主義なのだろう。この時代の外交について現代の尺度で批判するのは、適切ではないだろうが。
1Chr 19:6,7 アンモン人はダビデの憎しみをかったことを悟った。ハヌンとアンモン人は銀千キカルを送って、アラム・ナハライム、アラム・マアカ、ツォバから戦車と騎兵を借り受けようとした。こうして彼らは戦車三万二千両を借り、またマアカの王とその民の加勢を得た。彼らはメデバの前に来て陣を張った。アンモン人も町々から戦うために集まった。
19章は、ほとんど、サムエル記下10章と同じである。しかし、何箇所か異なる点もある。写本や、翻訳の違いの可能性もあり、丁寧に見る必要がある。多少異なる箇所の一つが引用箇所である、「アンモン人は、ダビデの憎しみをかったと悟ると、ベト・レホブおよびツォバのアラム人に人を遣わして歩兵二万を傭兵として要請し、マアカの王には兵一千、トブには兵一万二千を要請した。」(サムエル記下10章6節)サムエル記では、軍についての記述が詳細である。歴代誌ではあまり興味がなかったのだろう。この前に、バト・シェバのことがサムエル記では記されているが、歴代誌にはない。二書で多少の表現は異なるが「アラム人は、二度とアンモン人を支援しようとはしなかった。」(19)が重要だったのであろう。
1Chr 20:1 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ヨアブは軍隊を率いてアンモン人の地を荒らし、ラバに来てこれを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを攻略し、破壊した。
対応箇所は「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。」(サムエル記下11章1節)で、このあとバト・シェバの記事が続く。歴代誌には書かれていない。しかし、わたしもそうだったが、この書き出しを見ると、これが、バト・シェバの事件の時だと読む人はだれでもわかったのかもしれない。強調しないということで、書かなかったのだろう。隠すのであれば、引用した箇所の書き出しを他のものに変えただろうから。
1Chr 21:4-6 しかし、ヨアブに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブは退き、イスラエルをくまなく巡ってエルサレムに帰還した。ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を取りうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であった。ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものであったので、彼はその際レビ人とベニヤミンの調査はしなかった。
サムエル記下の対応記事は24章である。非常に長い部分を省略している。それは、ダビデの危機の時期である。かつ、この箇所の記述も異なる。長いが引用する。「しかし、ヨアブと軍の長たちに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブと軍の長たちはダビデの前を辞し、イスラエルの民を数えるために出発した。彼らはヨルダン川を渡って、アロエルとガドの谷間の町から始め、更にヤゼルを目指し、ギレアドに入って、ヘト人の地カデシュに至り、ダン・ヤアンからシドンに回った。彼らはティルスの要塞に入り、ヒビ人、カナン人の町をことごとく巡ってユダのネゲブの、ベエル・シェバに至った。彼らは九か月と二十日をかけて全国を巡った後、エルサレムに帰還した。ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。」(サムエル記下24章4-9節)歴代誌は、人数に詳しい。それは、この調査の結果を使ったのではないかと考えたが、サムエル記と人数もことなる。また、レビ人と、ベニヤミンの調査をしなかったことは、どこから来ているのだろう。それらを別途数えると、上の数になるというのだろうか。なぜ、人口調査がいけないのだろう。神の祝福を、人数ということで計算することだからだろうか。還元論である。しかし、明らかではない。
1Chr 22:1 そこでダビデは言った。「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルのために焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ。」
神殿の場所が特別な場所であるべきだと考えた人たちと、それを重要視しなかった人たちが居たと思われる。祭司集団は前者で、預言者集団は後者であったかもしれない。歴代誌は、場所が重要であるとの立場のようだが、一貫しているのかどうかは、詳細に調べる必要がある。イエスや、イエスの弟子たちへの非難は、律法の解釈と、神殿についてだとすると、イエスは、預言者集団に近かったのだろうか。それは、おそらく、遠く外れてはいない。しかし、すると、教会組織がやはり、問題になってくるように思われる。乱暴な議論をしてしまったが、じっくり考えたい問題である。
1Chr 23:1,2 老人となり、長寿に恵まれたダビデは、その子ソロモンをイスラエルの王とし、イスラエルの全高官、祭司、レビ人を呼び集めた。
歴代誌上は29章まであるが、22章以降は、サムエル記下には、基本的にない独自項目である。それは、神殿と祭儀に関することのようである。それを、すべて、ダビデの権威のもとで、整えられたものとしている。神殿はまだ建てられていなかったことを考えると、完全に整備されたのは、ソロモンの時期以降だろうが、ダビデの時期に確立したように記することに重要性があったのだろう。必然的にダビデの価値も高くなる。その一部として、長寿に恵まれとしている。列王記上1章1節では「ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった。」として、火種のひとつのアビシャグについて書かれている。違いをあまりに意識するのは良くないのかもしれないが。
1Chr 24:19 このように彼らはその奉仕に任命され、イスラエルの神、主がお命じになったように、先祖アロンによって伝えられた法に従って主の神殿に入った。
歴代誌には、神殿に関する記述が多いが、ダビデのことを主として書いている、歴代誌上にも、多く記述が見られる。主たる部分は、22章以降に集中している。「最初に自分たちの町の所有地に帰って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人であった。」(9章2節)とある。エルサレム帰還に最も熱心だったのが、この人達で、実際にその人達が多く帰還したことが、関係しているのだろう。歴代誌の特徴でもある。
1Chr 25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。この奉仕を職務とする者の数は次のとおりである。
歴代誌は、9章冒頭にもあるように、捕囚帰還後に書かれている。神殿の状態がどのような時期かはわからないが、祭司集団は、祭儀を整えることを目標としたのだろう。南ユダ王国の混乱も長かったことを考えると、どの程度、25章にかかれていることが、なされていたかは不明であるが、それを目標としたことは、確かだろう。しかし、民族全体で祭儀を整えることは、それだけの、共通の意思がないと続かない。かつ、それが、本質的かどうかはわたしには、わからない。特に、福音書のイエスを見ていると。
1Chr 26:1 門衛の組分けについて。コラの一族ではアサフの子らの一人、コレの子メシェレムヤ。
門衛と神殿の宝物庫の管理(20節から)司法に関することが、この章に記されている。門衛は、基本的な職務であるから、他の書にもある程度出てくるが、レビ人の職務としては、歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記と、捕囚帰還後に多く使われている。現実的に、周囲の異教徒および(明確ではないが)サマリヤ人の驚異が強かったのかもしれない。また、帰還時に持ち帰った、宝物の管理も重要なことだったのだろう。
1Chr 27:23,24 ダビデは二十歳以下の者を人口に加えなかったが、それは主がイスラエルを空の星のように数多くすると約束されたからである。ツェルヤの子ヨアブはその数を数え始めたが、数えきることはできず、数え始めたために御怒りがイスラエルに臨み、その数は、『ダビデ王の年代記』の記録に載せられなかった。
「イスラエルの子らの数は次のとおりである。家系の長、千人隊と百 人隊の長、役人たちは、王に仕えて、一年中どの月も、月ごとに交替する各組のあらゆる事柄に当たった。一組に二万四千人いた。」(1)と始まっている。引用箇所のあとには「王の貯蔵庫の責任」をもった人について書かれている。二十歳以上のものを加えなかった理由が書かれている。そして、ヨアブについての言及。ダビデの責任のようには、書かれていない。レビ人の構成の次には、軍隊、それから財務ということだろうか。これら人間的に見ると基本とおもわれることを整えるのも、帰還後は大変だったのだろう。「夢はそれを目指したときから目標に変わる」と羽生善治さんは、言ったそうだが、本当に、このような夢の数字を目標としたのだろうか。考えてしまう。
1Chr 28:21 見よ、組分けされた祭司とレビ人が神殿のあらゆる奉仕に就こうとしている。何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」
ダビデの、ソロモンおよび、民へのことばとして記されているが、これを、ソロモン以降の王や指導者にも、民にもメッセージとして届け、自分達の責任を顧みるようにしているのかもしれない。歴代誌のメッセージとしては、ダビデのときに、すべてが整えられたのだよ、ということなのだろうか。
1Chr 29:15 わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。
「寄留民」ということばにひっかかった。「寄留」は多くても「寄留民」は少ないだろうということと共に、イスラエルの民が「寄留」者であることは、いつごろから、認識するようになったのだろうかということである。まず「寄留民」は歴代誌のみで、かつ、自分達が、寄留民であると書いているのは、上の引用箇所だけである。「寄留者」などについては、詳細に調べないといけないが、申命記を中心に、モーセ五書など、各書に登場する。しかし、自分達が、寄留者であるということは、創世記におけるアブラハムの記述、出エジプト記などのモーセの記述にも見られ、エジプトで寄留者であったことが、申命記などに登場する。しかし、ヨシュア記以降、列王記までは登場しない。預言者文書は異なるのだろうか。むろん、捕囚の民は、寄留者である。それ以降、その意識は高くなっていくだろう。そのなかで、モーセ五書にあらわれる、寄留者は、重要な位置づけになっていったと思われる。一番興味があるのは、イスラエルの民は、王国の滅亡と、捕囚を通して何を学んだかである。それ以前と、それ以後で、宗教は、大きく変わったと思われるからである。わたしには、まだほとんどわからない。

BRC2017

1Ch 1:10 クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。
創世記10章8,9節にニムロドの記事がある。8節は全く同じ、9節はここでは省略されている。歴代誌を「アダム、セト、エノシュ」とはじめたことについてはいろいろと考えさせられる。1章は殆ど独自資料が無いように思われる。一つ印象的なのは、アブラハムの登場の仕方である。(27節)特別な家系というわけではないことを、創世記から確認しているのだろうか。周辺部からイスラエルの歴史に迫る手法は、創世記などとも、似ている。
1Ch 2:17 アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシュマエル人イエテルであった。
サムエル記下17章25節には「アブサロムはヨアブの代わりにアマサを軍の司令官に任命した。アマサはイトラというイスラエル人の子で、イトラの妻はナハシュの娘アビガル、ヨアブの母ツェルヤの姉妹だった。」とあり、こちらは「イトラというイスラエル人の子」となっている。列王記上2章5節と32節には「イエテルの子アマサ」とあり、そちらを採用したのだろう。しかし、イシュマエル人としたことには、なにか意図も感じる。ヨアブの従兄弟であったことは確かなようだが。
1Ch 3:5 エルサレムで彼に生まれた息子は次のとおりである。シムア、ショバブ、ナタン、ソロモンの四人。母はアミエルの娘バト・シュア。
ダビデの兄弟にシムアがいるが(サムエル記上13章・21章、歴代誌上3章)、ダビデの子の名としてははじめて登場したように思われる。最初に出てくるので、これが、ウリアの妻として身ごもって、生まれて間もなく七日目に亡くなる子だろうか。(サムエル記下12章)調べてみると「エルサレムで生まれた子供たちの名は次のとおりである。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、」(サムエル記下5章14節)とある。シャムアがシムアということか。「エルサレムで生まれたダビデの子供たちの名は次のとおりである。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、」(歴代誌上14章節)もある。歴代誌が利用した資料については、不明である。ダビデの子が非常に多かったことだけは確か。側女の子は除いていると9節にある。
1Ch 4:9,10 ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。 またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。
ヤベツは、2章55節で地名として現れるが、突然ここに「兄弟たちの中で最も尊敬されていた」と登場するが、系図の中で系図に組み込まれていない名前でもある。不思議である。ヤベツの祈りの本が出版されたことがあるが、正直、ここのいのりから伝わってくるものも少ない。「神はこの求めを聞き入れられた。」とあるが、背景に神がおられたことを、歴代誌記者が証言している以外、なにか個人的な感じを受ける。様々な伝承はあったのであろう。
1Ch 5:20 彼ら(ルベンとガドの子孫およびマナセの半部族)は戦いに際して神に助けを求め、その信頼のゆえに祈りは聞き入れられて敵に打ち勝つ助けを得、ハガル人とそのすべての援軍が彼らの手に渡された。
このあとの 22節には「多くの敵に傷を負わせ、倒した。彼らが神によって戦ったからである。彼らは捕囚として連れ去られるまで、ハガル人に代わってその地に住んだ。」ともある。ルベンとガドの子孫およびマナセの半部族についての記述は、ヨシュア(ヨシュア記22章)による分割以後殆どない。(列王記10章33節参照)ここでは、ハガル人という初出の言葉と共に、神への信頼に関する言葉も記録されている。22節も含め、サムエル記上下などと比較すると、乱暴な気がするが、他の資料もたくさん存在していたことをうかがわせる。この章の最後にある、大祭司の系譜はさすがによく整って書かれている。
1Ch 6:18 この任務に就いた者とその子孫は次のとおりである。ケハトの子孫では、詠唱者ヘマン。その父はヨエル、祖父はサムエル、
サムエルについて13節でも「サムエルの子は、長男ヨエル、次男アビヤ。」とあるが、そこには、エルカナの子としては、書かれておらず、不整合も感じられる。サムエル記上1章1節には「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。」とある。この記述によればエフライム人であるが、歴代誌では、レビの家系に位置づけている。しかし、そのあとのヘマンにも結びつけていることを考えると、さらに複雑である。一度、丁寧に調べる必要も感じる。個人的には、祭司文書との固定概念から意図を読み取ろうとしてしまうので。注意したい。
1Ch 7:21,22 ザバド、シュテラと続く。またエフライムの子としてエゼルとエルアドがいた。この二人はガトへ下り家畜を奪おうとして、その地の者に殺された。 二人の父エフライムは長い間喪に服し、その兄弟たちは彼の慰問に訪れた。
当時の様子がうかがえて興味深い。この事件は、他の箇所には記録されていないようである。歴代誌記者は、別の資料を持っていたことになる。系図を調べる中で、伝承など、記録したかったということは、十分考えられる。歴代誌の成立について興味を持つ。
1Ch 8:33 ネルにはキシュが生まれ、キシュにはサウルが生まれ、サウルにはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルが生まれた。
ネルについては、記されていない。サムエル記上14章51節には「サウルの父キシュとアブネルの父ネルは、共にアビエルの息子である。」どちらが正しいか分からないが、系図に詳しい歴代誌が必ずしも正しいとも言えないように思われる。何を書きたかったのだろう。
1Ch 9:27 彼らは神殿の周囲で夜を過ごした。神殿を警備し、毎朝その扉を開くことが彼らの責任であった。
21節から説明がある。ダビデと先見者サムエルに任ぜられ、メシェレムヤの子ゼカルヤの管轄の220人が担当していた仕事である。このあとにも、様々な仕事が割り当てられていたことがわかる。祭儀用具の責任を負う者、香料の調合をする者、平らな菓子の製造を任せられた者などである。神殿が軽んじられたとき、この人たちは、どのように考えて生活したのだろう。苦しいときが長かったに違いない。
1Ch 10:13 サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。
これが歴代誌記者のサウルの評価である。サムエル記の記載と比較すると、非常に狭い気がする。実際は何を言っているのだろう。歴代誌も丁寧に読んでいきたい。
1Ch 11:4 ダビデはすべてのイスラエル人と共にエルサレムに向かった。この町はエブスと言われ、エブス人がその地の住民であった。
サムエル記下5章6節には「王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。『お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。』」とある。注意をひいたのは「すべてのイスラエル人と共にエルサレムに向かった」という記述である。これは、サムエル記にはない。11章1節にも「すべてのイスラエル人」が現れる。列王記上にも12章1節まで6回現れるが、それ以後はない。この言葉の使い方は、おそらく意識されていたのだろう。レハベアムの時に分裂を迎える。そのことの評価であろうか。
1Ch 12:17 ベニヤミン族とユダ族の人々も、要害にいるダビデのもとに来た。
1節は「ダビデがまだキシュの子サウルを避けていなければならなかったとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者」と始まり、ここでは「要害にいる」となっている。この章後半のリストがどの程度正確か分からないが、23節には「毎日のように、ダビデを助ける者が加わり、ついに神の陣営のような大きな陣営ができた。」とあり、このリストの中には「サウルと同族のベニヤミンの一族からは三千人。その大多数はそれまでサウルの家を守り続けてきた。」(30節)もある。自発的に、集まってきたことが表現されている。これは、ペリシテなどに対抗するためだろうか。ダビデを救世主としてあがめていたからだろうか。後者がここでは、ある程度意識して書かれているように思われる。
1Ch 13:2,3 イスラエルの全会衆に言った。「もしあなたたちが賛成し、またわたしたちの神、主の御旨でもあるなら、わたしたちはイスラエル全土に残っている兄弟、および放牧地をもつ町にいる祭司とレビ人に使いを送ってここに集め、 わたしたちの神の箱をここに移そうではないか。サウルの時代にわたしたちはこれをおろそかにした。」
サムエル記下6章の記事とはかなり異なることが分かる。歴代誌ではおそらくこのダビデの信仰的なリーダーシップに価値を置いているのだろう。ことばも丁寧に記述されている。民の支持と、主の御旨、兄弟たちと、祭司、レビ人。ダビデはどのように考えていたのだろう。そして、これを記述した人たちは。
1Ch 14:10 ダビデは神に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。あなたの手に渡す。」
この姿勢を聖書記者、サムエル記記者も、歴代誌記者も評価しているのだろう。対応する箇所は、サムエル記下5章19節「ダビデは主に託宣を求めた。『ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。』主はダビデに答えられた。『攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す。』」最初の神か主か以外、まったく同じだと考えて良いだろう。ただ、正直稚拙にも感じる。おそらく、主に問うても、通常は答えが明確ではないと思うからだろう。これも不信仰なのだろうか。
1Ch 15:12,13 言った。「レビ族の家系の長であるあなたたちは、兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、わたしが整えた場所に運び上げよ。 最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」
サムエル記下6章と歴代誌上13章での出来事が背景にあり、その問題を「最初のときにはあなたたちがいなかったので」とまとめている。人は、問題が生じたときに、その原因をさがし、改善しようとする。問題点はみつかっても、果たしてそれを修正すれば解決するのかどうかは不明である。様々な問題が複合的に絡み合って起こった可能性が高いからである。科学的な検証が必要である。(科学的検証を厳密に行うと、結局原因は不明であるとなる可能性が大きいことも確かである。分からないから学び、探求し、分からないから信じるのですから。謙虚さを失わない様にしたいものです。)神の御心に依存してしまうと、迷い道に入ってしまうこともあるように思われる。自らに問うことは重要であるが、それだけを原因とするのは、問題の本質に行き着いていない可能性もあるからである。
1Ch 16:10,11    聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き 主を、主の御力を尋ね求め/常に御顔を求めよ。
何が喜びだろうか。主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めること。さらに続いている。しかし、主の御力を得、御顔を見ているときが、喜びと言うことではないと思う。感謝を持って生きること。謙虚に真理を求めること。いのちに生きること。
1Ch 17:2,3 ナタンはダビデに言った。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。神はあなたと共におられます。」 しかし、その夜、ナタンに臨んだ神の言葉は次のとおりであった。
預言者について考える。顧問とか助言者、賢者ではない。神のことばを取り次ぐことに徹しているように思われる。むろん、一般的なことも告げるが、特別に神から示されたことも率直に伝える。少なくとも、自分の正しさを確保することは、感じられない。もう少し、このような預言者の生き方を学んでみたい。
1Ch 18:7,8 ダビデは、ハダドエゼルの家臣がそれぞれ携えていた金の盾を没収してエルサレムに運んだ。 またダビデは、ハダドエゼルの町ティブハトとクンから大量の青銅を奪い取った。ソロモンはこれを用いて青銅の「海」、柱、青銅の祭具を造った。
前半の記事はサムエル記下8章7節と同じである。この盾と同一か作り直したかは明確ではないが、列王記上14章26節および歴代誌下12章9節にはこれらがエジプトの王シシャクによって奪われたことも書かれている。後半はサムエル記下8章8節に「また、ダビデ王はハダドエゼルの町ベタとベロタイから大量の青銅を奪い取った。」とある。町の名前が異なるが、対応箇所だろうか。神殿に用いられた金・青銅は、このようにおそらく、かなりの部分、奪ってきたものであろう。ダビデはサウルから逃れていたときも、略奪を繰り返していた。普遍的な神の平和が求められていた時代ではない。しかし、この記述があることは、興味深い。
1Ch 19:17 報告を受けたダビデもイスラエルの全軍を集結させ、ヨルダン川を渡って彼らに近づき、戦列を整えた。ダビデは戦列を整えてアラムを攻撃し、戦った。
アンモン、アラムとの戦いは、前半のヨアブの働きが中心に据えられている。ヨアブも「ヨアブは戦線が前方と後方にあるのを見て、イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり、アラム軍に向かって戦列を整え、」(10節)とあるので、イスラエル全体が軍に参加していることは確かだろう。引用箇所では、アラムの本隊と、ダビデ軍の本隊との戦いとなっている。おそらく、このときも、ヨアブは戦いに加わっていたろう。わたしは、どうしても、ダビデではなく、ヨアブの働きにひかれてしまう。なぜなのだろう。すこし理由は分かっているが。
1Ch 20:8 この者たちはガトにいたラファの子孫で、ダビデとその家臣の手によって倒された。
1節の書き出しから、読み手は、背景を思い出すだろう。サムエル記下11章の1節と同じだからである。ここでウリヤの妻バト・シェバとのことが起こっていることが書かれている。そして、その後の様々な、問題である。アムノンのこと、アブサロムのこと、エルサレムからの脱出などなど、そして、24章の人口(またが全軍)調査へとつづく。すべてが、この20章に入っていると思われる。つまり、その時期の評価をしていないのだろう。そのことも、これだけ、前の章のアンモンとアラムとの戦いにつなげつつ、勝利に次ぐ勝利を記録しながら、主の働きについて書かなかったことに関係しているのではないかと考えるのは、あまりにうがった読み方だろうか。考えさせられる。
1Ch 21:1 サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。
引用はBRC2017は新共同訳であるが、この箇所の口語訳は「時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。」となっている。対応する、サムエル記下24章1節は「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた。」となっている。口語訳は「主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、『行ってイスラエルとユダとを数えよ』と言われた。」となっている。なかなか難しい。サタンと主についての表現がそれぞれに現れており、歴代誌においては、大きく、サムエル記の記事の取捨選択をしている箇所の次だからである。私には、歴代誌記者は、この事件の最後に記されている、ダビデが献げ物を献げる場所が重要なのではないかと思われる。歴代誌下3章1節に「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」とあるからである。その場の由来はある人たち、特に祭司には重要であったろう。ここでは、他に根拠を持たない、モリヤ山(創世記22章2節)すらも結びつけられている。正確かどうかというより、記した意図はあるだろう。
1Ch 22:1 そこでダビデは言った。「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルのために焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ。」
かなり強い主張に聞こえる。上でも引用した歴代誌下3章1節につながっているのだろう。ダビデの神殿建設計画がこのあと詳細に書かれている。丁寧に、列王記上と比較する必要があるが、ソロモンが王と定められたのは、かなりぎりぎりになってからのように列王記には書かれており、歴代誌では、話が単純化されているとも言える。もう少し、丁寧に学んでみたい。
1Ch 23:24 以上がその家系によるレビの子ら、すなわち一人一人名を挙げて数えられ、登録された家系の長で、主の神殿の奉仕を職務とする二十歳以上の者であった。
2節には「三十歳以上のレビ人を数えたところ、その男子の数は、三万八千人であった。」とある。こちらは、批判の対象ではないらしい。21章6節には「ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものであったので、彼はその際レビ人とベニヤミンの調査はしなかった。」とある。この記述は、サムエル記下にはない。レビを数えないと、役割分担など、祭司業務にとって必要不可欠なことが実行できない。それを、独立にしたのかもしれない。背景もふくめて、人口調査については、考えさせられることが多い。
1Ch 24:31 彼らは、その頭の家系の者もその弟たちの家系の者も、アロンの子らである兄弟たちと同様に、ダビデ王とツァドク、アヒメレク、祭司とレビ人の家系の長たちの前でくじを引いた。
祭司の家系の正当性から整理することが、帰還後の重要事項だったと思われる。神殿中心の祭儀を整えることこそが、神様の祝福を得る道だと考えたろうから。それには、系図も役割分担も重要である。それを権威をもって伝えることも。真摯にこの作業にあたったろう。貴い働きとして、敬意を表したい。
1Ch 25:2,3 アサフの子らについては、ザクル、ヨセフ、ネタンヤ、アサルエラ。アサフの子らは王の指示に従って預言したアサフの指示に従った。 エドトンについては、その子らゲダルヤ、ツェリ、エシャヤ、シムイ、ハシャブヤ、マティトヤの六人。竪琴を奏でながら預言して主に感謝し、賛美をささげた父エドトンの指示に彼らは従った。
1節は「ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。」と始まっている。「竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。」者たちでありながら、将軍の命令なのか。王の指示にしたがった預言ということにも、驚かされる。音楽の役割も、考えさせられる。
1Ch 26:6 その子シェマヤにも息子が生まれた。息子たちは有能な者だったので、その家系の者たちに対して主導権を握っていた。
特別に、シェマヤの子らについて書かれているのは、なにか特別な意味があるのだろうか。このあとも続く影響なのだろうか。それとも、一時的なものであろうか。歴代誌に記した理由は何なのだろう。8節にも「奉仕にふさわしい力を持つ勇者たちであった。」とあり、その後の9節にも「勇者」とある。
1Ch 27:23,24 ダビデは二十歳以下の者を人口に加えなかったが、それは主がイスラエルを空の星のように数多くすると約束されたからである。 ツェルヤの子ヨアブはその数を数え始めたが、数えきることはできず、数え始めたために御怒りがイスラエルに臨み、その数は、『ダビデ王の年代記』の記録に載せられなかった。
経緯を考えると、微妙な表現である。この章の軍の編成もすべて2万4千人体制で24組に分かれているが、この時代にここまで組織されていただろうか。組織されていたとすると、人口調査は非常に有効なことだったのではないだろうか。軍であれば、二十歳以下を数えないのは、非常に自然であり、歴代誌の中の記事においても、数えなかったなかに、軍に当然加わったと考えられるベニヤミンも含まれている。(21章6節)少なくとも、第九の月にベニヤミンの一族のアナトト人アビエゼルが登場している。複雑である。
1Ch 28:21 見よ、組分けされた祭司とレビ人が神殿のあらゆる奉仕に就こうとしている。何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」
非常に周到に見える。それ故に、むなしくも感じる。長くは、続かなかったのだから。しかし、見方によっては、ダビデの準備の周到さに焦点が当てられているのだろうか。もう少し、歴代誌記者がなにを伝えたかったかを考えてみたい。
1Ch 29:3 更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。
1節は「わが子ソロモンを神はただ一人お選びになった」と始まり、2節は「わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。」となっている。そして引用した3節でも「更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに」とあり、さらに「わたしの神の神殿」と続く。「わたしの神殿」ではないものの、個人的思いが強すぎるように思われる。それがある意味では福音的であり、ある意味では、国家宗教としては続かなかった原因かもしれない。しかし、なぜ、歴代誌記者は、それほど、このことを強調するのだろうか。意図がよくわからない。

BRC2015

1Ch1:11,12 エジプトには、リディア人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、 上エジプト人、カスルヒム人、カフトル人が生まれた。このカフトル人からペリシテ人が出た。 
歴代志の系図は、アダムから始まり、最初の特記事項は10節の「クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。」そしてこの12節である。クシュはエチオピアと考えると、ニムロドの出身地としては、驚かされる。創世記10章8, 9節にもそのように書かれている。そして12節にはペリシテが現れる。創世記ではクシュもエジプトもハムの子孫、カナンもそうである。これらが、イスラエルにとって、近隣の脅威であったろう。それも、同じアダムからつながっているということが、聖書の歴史観なのだろう。そのアダムを造られた神を礼拝する。誇りと共に、謙虚にもさせられる瞬間である。
1Ch2:18,19 ヘツロンの子カレブには、妻アズバとエリオトによって子が生まれたが、その子らがイエシェル、ショバブ、アルドンである。 アズバの死後、カレブはエフラトを妻とし、このエフラトはフルを産んだ。 フルにはウリが生まれ、ウリにはベツァルエルが生まれた。 口語訳
斥候に行ったカレブはエフンネの子カレブ。おそらく、ヘツロンの子カレブとは異なるだろう。しかしここには、ベツァエルが登場する。出エジプトで会見の幕屋を造る「ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエル」である。ユダヤ人が系図を大切にしたことが、伝わってくる気がする。
1Chr3:19 ペダヤの子は、ゼルバベル、シムイ。ゼルバベルの子は、メシュラム、ハナンヤ、彼らの姉妹シェロミト、 
ここに女性の名前が入っている。驚いたことに、シェロミトは聖書内にたくさん現れる。しかしどれも、このシェロミトとは異なるようだ。少なくとも、女性ではなさそうである。謎は深まる。もう少し調べてみたい。
1Ch4:40,41 彼らは豊かで良い牧草地を見つけた。その土地は広く、平穏で、ハム族がその土地の先住民であった。 ここに名を記した人々は、ユダの王ヒゼキヤの時代にそこに来て、彼らの天幕とそこに居たメウニム人を撃って滅ぼし尽くし、今日に至っている。そこには羊の群れのための牧草地があったので、彼らは代わってそこに住んだ。 
シメオン族に関する記述である。このあと、43節にも「彼らは、逃れて生き残っていたアマレク人を打ち殺し、そこに住んで今日に至っている。」と書かれている。この時代ということで、許容されることなのか。価値判断は抜きに、事実が書かれているのだろう。おそらく、それが聖書。それに、聖書記者の評価が加えられていることがある。しかし、それは、神への応答であり、神が直接的に言われた事かどうかは、わからないのか。聖書解釈も難しい。もうすこし、論理だけでも整理したい。
1Ch5:1,2 イスラエルの長男ルベンの子孫について。ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、長子の権利を同じイスラエルの子ヨセフの子孫に譲らねばならなかった。そのため彼は長男として登録されてはいない。 彼の兄弟の中で最も勢力があったのはユダで、指導者もその子孫から出たが、長子の権利を得たのはヨセフである。 
最初の記述は、創世記35:22にある記述「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」で 49:4にも「お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。」と書かれている。しかし、長子の権利についての記述は、ここだけだと思われる。イスラエルにおける、共通理解だったのか。それとも、後付けなのだろうか。歴代誌記者としての公式見解なのかも知れない。
1Ch6:1 レビの子は、ゲルション、ケハト、メラリ。 
これがイスラエルにおいてとても大きな意味を持つとは。いまもそうなのだろうか。ちょっと圧倒される。
1Ch7:21b,22 またエフライムの子としてエゼルとエルアドがいた。この二人はガトへ下り家畜を奪おうとして、その地の者に殺された。 二人の父エフライムは長い間喪に服し、その兄弟たちは彼の慰問に訪れた。 
この記事は創世記などには、記されていない。伝承だろうか。系図は、ある程度たどれるとしても、伝承はどのように残されていたのだろう。ここで言われている「兄弟たち」も注意をひく。ヨセフの子らは、マナセとエフライムだけなのだろうか。イスラエルの子とされたのは、二人であるが。不明な記事が多い。
1Ch8:29 ギブオンにはギブオンの父が住み、妻の名はマアカといった。 
ギブオンについては、9:35にも記述がある。ギブオンというとヨシュア記9章などにある記述を思い出す。ここでは、ベニヤミン部族のなかに数えられているので、違うギブオンなのかもしれない。ヨシュア記21:17には、ベニヤミンの地名としてのギブオンも現れる。やはり関連はあるのかもしれない。
1Ch9:2,3 最初に自分たちの町の所有地に帰って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人であった。 また、エルサレムにはユダの一族の一部、ベニヤミンの一族の一部、エフライムとマナセの一族の一部が住んだ。 
バビロン捕囚帰還後の記述である。70年を越して戻ってきた人たちの定住の困難さは、容易に想像がつく。思いは強かったろうが、どんな困難があったのだろうか。エズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書などから多少は推測がつくが、生活の基盤の構築も、地域住民との問題も大きかったであろう。しかし、このメンバーからも宗教集団としての位置づけは確固たるものがあったように思われる。理想を求める姿、そして、その理想自体も、人によって異なっていたかも知れない。拡散型のピューリタンなどのアメリカ定住との相違も興味がある。
1Ch10:9b,10 ペリシテ全土に使者が送られ、彼らの偶像と民に戦勝が伝えられた。 彼らはサウルの武具を神々の神殿に納め、その頭はダゴンの神殿にさらした。 
これが一方からの見方である。この記述以外に、ギレアドのヤベシュの人々の勇敢な行為とともに、サウルについての歴代誌記者の評価が書かれている。その評価にかかわらず、これらが書かれているところに、神を畏れるこころを感じる。都合の良いことだけを綴り合わせてはいけない。
1Ch11:5 エブスの住民はダビデに、「お前はここに入れまい」と言った。しかし、ダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。 
サムエル記下5:6-8 には『王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。』 しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。」の記述がある、後代になって書かれた、歴代誌でこの障がい者に関する記述がなくなっているのは、どの程度意図されたことかわからないが、嬉しい。歴代誌は、王国の歴史(サムエル記上下、列王紀上下)と比較して、常に否定的に読んでいたが、良いことも見つけることができて救われた気になる。
1Ch12:1,2 ダビデがまだキシュの子サウルを避けていなければならなかったとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである。彼らも戦いの補助要員として、勇士たちに連なっていた。 彼らは弓の名手で、右手でも左手でも石を投げ、矢を射ることができた。また、サウルと同族で、ベニヤミン出身であった。 
「右手でも左手でも石を投げ」が興味深い。原始的で、現代の戦争との違いを感じる。
1Ch13:10,11 ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。 ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。 
どのように理解するかわからないが、ウザがまったく主の祝福からたたれたと考えることも間違いなのかも知れない。多くがここから教えられているが、同時によくわからないことが多くある。ひとは、その理由を想像するが、ひとに隠されていることも多くあることも心に留めるべきである。
1Ch14:17 こうしてダビデの名声はすべての国々に及んだ。主は諸国の民が皆、彼を恐れるようにされた。 
ダビデは、主に問うことを忘れない。しかし、それは同時に、適切な預言者が周囲にいて、サポートしたからでもあろう。軍師という意味づけもあったのかも知れない。主が味方でなかったらと表現しても良いかも知れない。これは、ひとつの信仰告白であり、単純に「信仰」の問題とみなすのは、問題を生じる。
1Ch15:2 ダビデは言った。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」 
これがウザ撃ちからの結論だと言える。しかし、サムエル記下6章以下には、そのように書かれていないところからすると、歴代誌の神学と言えるかも知れない。このようなことは、難しく、判断が困難である。
1Ch16:10,11 聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き主を、主の御力を尋ね求め/常に御顔を求めよ。
命令ではないだろう。信仰者による信仰者への勧めだろうか。主に中心を定めて主に仕えることを喜びとして生きて行くこと。この喜びをどのように人に伝えたらよいだろうか。
1Ch17:7 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。 
どれほど祝福されたときにあったとしても、自分はどのようなものであったかを認識していることは大切だと思う。誇らないため。謙虚であるため。
1Ch18:1 その後、ダビデはペリシテ人を討って屈服させ、ペリシテ人の手からガトとその周辺の村落を奪った。 
これは単純なことではなかったろう。イスラエルは長くペリシテに従属し、かつ技術的にも、かなり劣っていた。さらに、ダビデはペリシテのもとに身を寄せていたこともあり、知人も多かったであろう。そのような現代的な感覚は関係ないのであろうか。
1Ch19:5 この人たちが甚だしい辱めを受けたという知らせがダビデに届くと、ダビデは人を遣わして彼らを迎えさせ、王の伝言として、「ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るように」と言わせた。 
ダビデの個人への配慮に感銘をうける。単に、怒りから、アンモン人を撃つことではなく、まず辱めをうけたダビデの家臣を大切にしている。有力な家臣だったかもしれないが、ダビデの個人に関わる部分の取り扱いは興味深い。
1Ch20:1 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ヨアブは軍隊を率いてアンモン人の地を荒らし、ラバに来てこれを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを攻略し、破壊した。 
聖書を知っていれば、この表現からすぐサムエル記下11:1「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。」を思い出すだろう。バト・シェバのことである。しかし、歴代誌はこの記述をサムエル記と同じににしつ、バト・シェバのことは記していない。興味深い。
1Ch21:17 ダビデは神に言った。「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。あなたの民を災難に遭わせないでください。」 
ダビデの苦悩は理解できる。しかし、これこそが、王としての責任の重さだろう。ダビデはつねに個人として主に向き合っている。それは素晴らしいこと。しかし同時に、王としての権威は神から委ねられたものとして、それに忠実に生きる責任も求められている。ダビデのもとにいたヨアブ(最後はダビデの遺言もありその子ソロモンに殺される)をわたしは悪者には絶対にできない。3節「ヨアブは言った。『主がその民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王よ、彼らは皆主君の僕ではありませんか。主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか。』」
1Ch22:8 ところが主の言葉がわたしに臨んで、こう告げた。『あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。 
この記述は、歴代誌にしかない。歴代誌記者の神学と言えるものだと思われる。このあとには、ソロモンについての記述が続く。主の言葉としても、主が真実の一部を伝えられたとも理解することができる。神殿は一時的なものであり、礼拝する者に求められるのは霊とまこととを持って礼拝することなのであり、場所は重要ではないのだから。ヨハネ4:21「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(略)』」
1Ch23:32 彼らは、主の神殿の奉仕に際して、臨在の幕屋の務めと聖所の務めと彼らの兄弟アロンの子らの務めを果たした。 
1, 2節には「老人となり、長寿に恵まれたダビデは、その子ソロモンをイスラエルの王とし、 イスラエルの全高官、祭司、レビ人を呼び集めた。」となっており、これらの組織は、ダビデ由来だとしている。モーセ由来とダビデ由来とするものと、神殿の奉仕に関してどの程度区別できるのだろうか。文献の成立時期にも関わってくるのかも知れない。1節の「長寿に恵まれたダビデ」という表現にも興味をひかれる。長寿は一般的に祝福である。現代のように退職後も体が衰えてからも長く生きることが良いかどうかはわからないが。マタイ25:21, 23「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」と言われるときまで、自分の十字架を背負って歩いて行きたい。
1Ch24:1-3 アロンの子らも組に分けられた。アロンの子らはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。 ナダブとアビフは父に先立って死に、子も残さなかった。そこでエルアザルとイタマルが祭司の務めを果たした。 ダビデは、エルアザルの子らの一人ツァドクとイタマルの子らの一人アヒメレクと共に、それぞれ任命されている奉仕に従って、アロンの子らを組に分けた。 
ナダブとアビフについてはレビ記10:1と民数記3:4, 26:61 に記述があり、イスラエル人には周知の事実だったろう。アロンの子らの組み分けも、ダビデ由来としている。モーセの時からはどうしていたのだろう。特に、士師時代の混乱を考えると、祭儀システムは、整っていなかった可能性も高い。
1Ch25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。この奉仕を職務とする者の数は次のとおりである。 
音楽隊である。実際に、どのような音楽を、どのように演奏していたのだろう。なにかそれを知る手立てはないのだろうか。音楽隊は世襲である。訓練は十分できたと考えられるが、まだ音楽や音楽による賛美が人々のものとなってはいなかったのだろう。もう一つ、ここで「預言した」と書かれていることにも目がとまる。神のことばの取り次ぎとしての働きと捉えられていたのか、それとももっと実質的なことがあったのだろうか。
1Ch26:1 門衛の組分けについて。コラの一族ではアサフの子らの一人、コレの子メシェレムヤ。 
門衛は基本的にはエルサレムの門であろうか。この記録は、帰還後の配置にも反映されていたのだろうか。記録としての価値は十分あるように思われる。名前が職務分担表に入っていることは、栄誉なことだったろう。
1Ch27:23,24 ダビデは二十歳以下の者を人口に加えなかったが、それは主がイスラエルを空の星のように数多くすると約束されたからである。 ツェルヤの子ヨアブはその数を数え始めたが、数えきることはできず、数え始めたために御怒りがイスラエルに臨み、その数は、『ダビデ王の年代記』の記録に載せられなかった。
12の月それぞれに24000人ずつの部隊が編成されていたとの記録のあとに、不可解な記述が続く。実体は不明である。サムエル記下24章が背景にあるが、ここでは、極力ダビデに罪を負わせないようにしているとも言える。上の23節も、単に兵役に就くかつかないかで数えていなかったように思われるが、ここでは異なった記述になっている。また、サムエル記下では24:8に「彼らは九か月と二十日をかけて全国を巡った後、エルサレムに帰還した。」との記述もあり、途中で終えたとは思われない。しかし、歴代誌にはサムエル記下24:9にある「ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。」は無い。
1Ch28:2,3 ダビデ王は立ち上がって言った。「わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。わたしは主の契約の箱、わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めてきた。 しかし、神はわたしに言われた。『あなたは戦いに明け暮れ、人々の血を流した。それゆえ、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない』と。 
28:8でもこの理由が述べられている。戦いに明け暮れたことは、実際事実だったろう。そして、サウルから逃れていたときの、ダビデの行動と、王となり特にエルサレムに都を構えるあたりからは、問題が多くないとは言えない。ことさら列挙するかどうかは別として。マタイ5章の山上の説教の冒頭部分を思い出す。
1Ch29:17,18 わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。また今、ここにいるあなたの民が寄進するのを、わたしは喜びながら見ました。わたしたちの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、これをあなたの民の心の思い計ることとしてとこしえに御心に留め、民の心を確かにあなたに向かうものとしてください。 
「わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。」ひとはこのように言う時でも、自分の心の中にあることすら理解できていない。主の導きなしには一瞬たりとも、平和はない。18節にある「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。」は当時実感としてもつことのできる言葉だったのだろう。「人生は影のようなもの」それでよいのかもしれない。あとは、神の御手に委ねて。

BRC2013

1Chr1:1 アダム、セツ、エノス、
なぜ歴代志ではアダムからの系図からはじまっているのか。それも、何の注釈もなしに。ダビデを登場させるまでには、アダムからのものが必要だったのか。諸民族を俯瞰するためか。ダビデをなにもなしに登場させたくなかったことは確かだろう。
1Chr2:16,17 彼らの姉妹はゼルヤとアビガイルである。ゼルヤの産んだ子はアビシャイ、ヨアブ、アサヘルの三人である。アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシマエルびとエテルである。
ダビデは7番目であるから、ゼルヤとアビガイルはどのあたりなのか不明である。しかし、ここに、アビシャイ、ヨアブ、アサヘル、そして、アマサがでてくる。これら姉妹は、少し、上の年代に属しているのかも知れない。
1Chr3:16 エホヤキムの子孫はその子はエコニア、その子はゼデキヤである。
2King25:7 によると「ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。」となっている。この系図も、エコニアの子らとして続いている。おそらく、捕囚帰還後へとつながっており、著作年代のひとつの根拠となっているであろう。
1Chr4:9,10 ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。その母が「わたしは苦しんでこの子を産んだから」と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。
ヤベヅについて書かれているのは、これのみである。しかし、系図が続く中では、特別な記述である。系図でありながら、9節の書き方は、だれの子かすら明確ではない。しかし、最後の言葉は、とても暖かい。
1Chr5:1,2 イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――
ここまでの記事の中では、長子については、不明確である。そして、その理由についてはなおさらである。この章には、ルベン、ガドとマナセの半部族について書かれている。聖書のほかの箇所にない資料、そして判断も多く含まれている。どのような背景があるのだろう。
1Chr6:54 アロンの子孫の住む所はその境のうちにある宿営によっていえば次のとおりである。まずコハテびとの氏族がくじによって得たところ、
アロンの子らへの割り当てが記されている。ほかに記されていない詳細な内容を含む。これは、捕囚帰還後に書かれたことはほぼ間違いない。ここに記してあることは、宗教集団としてのイスラエル復興の夢、そして信仰表明なのだろうか。
1Chr7:40 これらは皆アセルの子孫であって、その氏族の長、えりぬきの大勇士、つかさたちのかしらであった。その系図によって数えられた者で、いくさに出てよく戦う者の数は二万六千人であった。
2節には「ダビデの世には」とある。この数は、サムエル記下24:8, 9の「つるぎを抜く勇士」の調査結果なのか。資料や、サムエル記上(王国史4巻)との関連、実際の数の比較などに興味がわく。
1Chr8:40 ウラムの子らは大勇士で、よく弓を射る者であった。彼は多くの子と孫をもち、百五十人もあった。これらは皆ベニヤミンの子孫である。
戦うことのできるものを数えるのがこの目的であることが、この記述からも伺われる。あまり、際だった記述は、系図以外には見当たらない。例外は、括弧内を除いて、9節、12節。
1Chr9:1 このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。
まとめの印象が強い文章である。このあと、エルサレム住民のリストが続く。捕囚帰還後を考えると意味があったのだろう。ここに列王紀が出てくる。列王紀では、ユダの王の歴代志の書が引用され、歴代志では、列王紀が引用される、成立時期は同じなのか。引用はしていても、すくなくとも、系図に関しては、我々が手にしている列王紀には、書かれていないことが殆どである。
1Chr10:13, 14 こうしてサウルは主にむかって犯した罪のために死んだ。すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、主に問うことをしなかった。それで主は彼を殺し、その国を移してエッサイの子ダビデに与えられた。
これが、歴代志の結論。主の言葉を守らず、主に問うことをせず。そしてこれが実質的な歴代志の始まりでもある。
1Chr11:21 彼は三十人のうち、最も尊ばれた者で、彼らのかしらとなった。しかし、かの三人には及ばなかった。
「彼」は、ヨアブの兄弟アビシャイ。かの三人は特定が難しい。この文章以前に書かれている勇士三人は、ゼルヤの子ヨアブ (v6)、三人の長であるハクモニびとの子ヤショベアム (v11)、アホアびとドドの子エレアザル (v12) である。この時代は、戦果によって評価されたのだろう。しかし、この21節の記述は興味深い。「最も尊ばれた」「かの三人には及ばない」
1Chr12:23 主の言葉に従い、サウルの国をダビデに与えようとして、ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装した軍隊の数は、次のとおりである。
この言葉は、11:3「このようにイスラエルの長老が皆ヘブロンにいる王のもとに来たので、ダビデはヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らは、サムエルによって語られた主の言葉に従ってダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。」から続いているのだろう。ヘブロンからエルサレムに移る時期を表しているのかも知れない。「サウルの国をダビデに与えようとして」この記述は、政治的なものを感じる。サムエル記に書いてあることとは、ことなる背景も、あったとすることは、十分考慮に値する。
1Chr13:2 そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。
2Sam6:1-4 に並行箇所があるが、この1-4節はの部分は、含まれていない。祭司・レビ人、そして祭儀の取り扱いが歴代志とサムエル記で違うことをここからも感じる。律法は、どう扱われていたのだろうか。公的なものでは無かったのかも知れない。
1Chr14:16 ダビデは神が命じられたようにして、ペリシテびとの軍勢を撃ち破り、ギベオンからゲゼルに及んだ。
ダビデの意識は常に神に向いていた。そして、11節に「神は破り出る水のように、わたしの手で敵を破られた」と、あるように起こったことの、内面化もなされていると言うことか。ダビデの信仰生活は「問い、聞き、従い、黙想」。
1Chr15:15 レビびとたちはモーセが主の言葉にしたがって命じたように、神の箱をさおをもって肩にになった。
13章の通称「ウザ撃ち」の理由が13節に「さきにこれをかいた者があなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました。これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」と総括されている。サムエル記下6章では、書かれておらず、歴代志記者の背景にあると思われる、祭司集団の見解と思われる。後世からみれば、たしかにこれが路理由であったと言えるかも知れない。
1Chr16:40 主がイスラエルに命じられた律法にしるされたすべてのことにしたがって燔祭の壇の上に朝夕たえず燔祭を主にささげた。
この章では、祭司・レビ人の集団が整えられ、礼拝形式が確立されたことが書かれている。そして、この節にいたる。ダビデをイスラエル第一の王とし、サウルのことすら殆ど記さない歴代志の歴史観または信仰告白とも言える。同時に、これは、捕囚以後または捕囚帰還以後の歴史観に依っていることも考えると、ダビデの時期にどこまで実際に祭儀が整えられていたかは、興味を持つ。神殿が無かったことを考えると、あまり整備されているとは思えない。
1Chr17:23, 24 それゆえ主よ、あなたがしもべと、しもべの家について語られた言葉を長く堅くして、あなたの言われたとおりにしてください。そうすればあなたの名はとこしえに堅くされ、あがめられて、『イスラエルの神、万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、またあなたのしもべダビデの家はあなたの前に堅く立つことができるでしょう。
主は、このようなダビデの祈りに答えられるであろう。批判ではなく「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」Lk7:50。
1Chr18:14 こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に公道と正義を行った。
これが歴代志記者のまとめである。すこし単純すぎるようにも思われるが、たとえ、周囲を傷つけても、これも信仰生活。考えさせられる。
1Chr19:16 しかしスリヤびとは自分たちがイスラエルの前に打ち敗られたのを見て、使者をつかわし、ハダデゼルの軍の長ショパクの率いるユフラテ川の向こう側にいるスリヤびとを引き出した。
この時代のスリヤの中心は不明だが、ダマスコだけが中心ではなかったこと、北方に広がっていたことが分かる。そのスリヤを打ち破り、19節の「ハダデゼルのしもべたちは味方の者がイスラエルに打ち敗られたのを見て、ダビデと和を講じ、彼に仕えた。」は、どの程度の帰還のどのような和を言っているのかわからないとしても、当時の中東において、重大はことだったろう。
1Chr20:1,2 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ヨアブは軍勢を率いてアンモンびとの地を荒し、行ってラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまった。ヨアブはラバを撃って、これを滅ぼした。そしてダビデは彼らの王の冠をその頭から取りはなした。その金の重さを量ってみると一タラント、またその中に宝石があった。これをダビデの頭に置いた。ダビデはまたその町のぶんどり物を非常に多く持ち出した。
1節は、2Sam11:1 と全く同じである。この文章をみると、読者は、ウリヤの妻バテシバの事件を思い出すように書かれていると思われる。つまり、隠しているのではなく、他の側面を記していることを、強調しているのであろう。むろん、歴代志編集意図を踏まえつつ。
1Chr21:6 しかしヨアブは王の命令を快しとしなかったので、レビとベニヤミンとはその中に数えなかった。
サムエル記下24章と対応する記述であるが、食い違いも多い。特に、サムエル記下24章9節と比較すると、イスラエル(1Chr 110万, 2Sam 80万), ユダ (1Chr 47万, 2Sam 50万)、そして、この 1Chr21:6 の記述は、2Sam にはない。1Chr の最初に書かれている、ある程度詳細な数との比較も含め理解したい。いずれにしても、ヨアブはしっかりとした意思を行動で表現する。わたしには、立派に見えるが、王であるとすると、ダビデのような信頼は得られなかったかも知れない。
1Chr22:5 ダビデは言った、「わが子ソロモンは若く、かつ経験がない。また主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。それゆえ、わたしはその準備をしておこう」と。こうしてダビデは死ぬ前に多くの物資を準備した。
ダビデには、ソロモンの将来はその優れた点と弱点も見えていない。同時に自身の弱点をも見えていないのだろう。それを非難することは、神もしない。どう理解するかは、われわれに委ねられているのだろう。
1Chr23:4,5 ダビデは言った、「そのうち二万四千人は主の家の仕事をつかさどり、六千人はつかさびと、およびさばきびととなり、四千人は門を守る者となり、また四千人はさんびのためにわたしの造った楽器で主をたたえよ」。
全部で38000人 (v3)。63% が主の家の仕事にあたる。16% がつかさびと。どの程度、精度が守られていたかは、調べてみないと分からないが、この 60000人は、地方で裁判にあたる。世襲制には、驚きもあるが、一番よい訓練の場だったのかも知れない。
1Chr24:20 このほかのレビの子孫は次のとおりである。すなわちアムラムの子らのうちではシュバエル。シュバエルの子らのうちではエデヤ。
アロンの子たち以外は、どのように分けられたのだろう。23章の仕事分配は、固定していたのだろうか。これらについても調べてみたい。
1Chr25:8 彼らは小なる者も、大なる者も、教師も生徒も皆ひとしくその務のためにくじを引いた。
1節からはじまる記事の実態はよくわからないが、5節によると女性も含まれている。軍の任務の中で特別にきめた神に仕える職のようだが、様々な関与がそれも 7節にあるように、かなりの訓練をともなって行われたということなのだろう。
1Chr26:5 第六はアンミエル、第七はイッサカル、第八はピウレタイである。神が彼を祝福されたからである。
「祝福」の実態なのかもしれないが、このあと 6節「有能な人々」、7節「力ある人々」、8節「その勤めに適した力ある人々」10節の記述や、14節の「思慮深い議士」も興味をひく。
1Chr27:1 イスラエルの子孫のうちで氏族の長、千人の長、百人の長、およびつかさたちは年のすべての月の間、月ごとに交替して組のすべての事をなして王に仕えたが、その数にしたがえば各組二万四千人あった。
ダビデの時代として書かれているが、サムエル記・列王紀に全く書かれていない、これらの組織には、違和感を感じる。ダビデの活動としても、不自然さを感じる。もう少し、調べてみたい。
1Chr28:9 わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもしかれを捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう。
主に従うことはなんと難しいことか。そして、次の世代に託すことはさらに、難しい。しかし、信仰を伝えていくことこそが、信仰者の営みなのだろう。
1Chr29:29 ダビデ王の始終の行為は、先見者サムエルの書、預言者ナタンの書および先見者ガドの書にしるされている。
これらの書は、一部分だけでも、確認されているのだろうか。サムエルー列王の「王国史」も、これらと関係していると思われるが、その記述はない。しかし、歴代志にも「列王紀」の記述がある (1Chr 9:1 など) ことを考えると、資料としては複雑である。(聖書で他に出てくるのは 預言者ナタンの書 2Chr9:29 のみ)


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歴代志下

歴代志下(1)

歴代志は最初の部分を除くと、列王紀との並行箇所が多いため、比較しながら読むとそれぞれで何を伝えることに中心が置かれているかが分かると思います。歴代志は、その内容・記述からもバビロン捕囚から帰還後に書かれたことが分かりますが、その当時の重大問題も背景にあったこと、そして「神の選びの民であるイスラエルが異教徒の国に滅ぼされたのはなぜか」、「今は異教徒の王の庇護の元にどうやら宗教集団として存続が認められている、このような状況をどう受け止めたらよいのか」、問いを持ちながら、歴史を振り返り書かれたことは確かです。それも、列王紀の記述とは違った解釈のもとで、または強調点をおいて書かれています。少しだけ、わたしが考える、そのような観点を列挙しておきます。

  1. ユダ王朝を正統王朝とし、北イスラエル王国については殆ど記さない。一方、北イスラエル王国から、南ユダ王国に逃れてくるものについての記述を含む。(歴代志下15:9)
  2. ベニヤミン族のサウルを含めず、ダビデ王朝をはじめとする。これは、ユダ王朝を正統王朝とする当然の帰結でもあったでしょう。同時に、信仰的な規範をもって神に問い、神の声に聞き従い行動し、黙想する、ダビデの特性を模範としている。ダビデの罪については殆ど書きません。
  3. ダビデ王の時代から、政治体制も、祭儀の詳細も整えられていたことが記されている。
  4. ダビデの家系、神殿の場所としてのエルサレムに特別の位置を与えている。(歴代志下6:6)
  5. ソロモンを殆ど批判せず、神殿を建てた王としてのみ記述する。
  6. ソロモンも含め、異教徒との結婚が問題の始まりだとする。(エズラ10章の背景を考えると当然)
  7. 偶像礼拝が滅びの鍵であるとする。
  8. 異教徒の妻をめとる。偶像礼拝に陥る。外国から攻めてくる。悔い改め、偶像を排除する。神が憐れんで助ける。この様式が何度も出現する。
  9. 祭司・レビ人を中心とする祭儀が中心に置かれるべき事を再三記述する。
王のリーダーシップによる宗教集団の維持を望めない現実の中で、限界をも確認し、その体制とは異なるありかたを模索しようとしているようにも思われる。エルサレム神殿における祭司・レビ人のリーダーシップのもとでの復興を中心としているが、あらたな次の時代を模索しながら待っているということなのかも知れませんね。

歴代志下(2)

わたしは前にも書いたように、何回も通読していますが、この歴代志が苦手です。人によって違うと思いますが、私が苦手なのは、レビ記、歴代志、そしてエゼキエル書。歴代志は、系図から始まりますが、主要部分は、ダビデ王朝以降ですから、サムエル記下、列王紀上・下と対応しています。一部、イザヤ書に対応する箇所があります。

前にも書いたように、あまり、聖書学の知識を使わないようにしています。それは、学者が完全に一致しているわけではなく、よくわからないことが多いので、それぞれの論点を整理したり、根拠資料に直接あたったりすることができないわたしのようなしろうとが扱うことはしたくないからです。でも、何度か読んでいけば、サムエル記上下、列王紀上下は、預言者たちの影響が大きそう、歴代志上下は、祭司たちの影響が大きそうということは、わかるのではないかと思います。歴代志上下は、ユダ王国のバビロン捕囚のあと、何回かにわかれて、パレスチナに帰還して来た民が、悔い改め、祭司のリーダーシップのもと、エルサレムにある神殿での礼拝を中心にして、神様に従っていこうという意図が各所に見受けられます。それに基づいた歴史観と単純すぎる論理で、書かれているところが、わたしには、抵抗があるのだと思います。新約聖書を土台として考えるといろいろと問題を感じてしまいます。すこしそのへんを見てみましょう。歴代志にのみ書かれている記事です。たくさんあるのですが、歴代志下のわたしのメモから抜粋します。

  1. 歴代志下3:1 には神殿が建てられたのは、モリヤ山と書かれている。その説明には、ダビデが関係する、オルナンの麦打ち場だという説明が入っていますが、モリヤと来れば、みな、創世記22:2 を思い出します。それだけ特別の意味があるのであれば、それまでにもそのことが書かれていて良いはずですが、歴代志下でのみ書かれています。
  2. 歴代志下12章7節にあるような神の前にへりくだると救われるというパターンがよく書かれているが、対応する列王上14章にはそのような記述はない。
  3. 歴代志下13章14節の「主に向かって呼ばわり、祭司たちはラッパを吹いた。」は列王紀上13章1-8節だが、このようなことは書かれていない。
  4. 歴代志下14章。マアカのことは、列王紀には書かれていない。列王紀には、アサの時代も一生の間、戦いがあったとあるが、歴代志では、この「主の目にかなったことをおこなった」王では、戦いは殆どなかったように描かれている。
  5. 歴代志下16章、アサの足の病気のことも、歴代志では、単純化。
  6. 歴代志下19章3節も評価を単純化している。

挙げればきりがないのですが、歴代志のみに書かれていることは、偶像をはなれ、へりくだって神にしたがうと、祝福されるというパターンで統一されているように思われます。わたしには、その単純化がなかなか受け入れられないのだと思います。よい子はこの世においても祝福される。というメッセージです。

しかし、考えてみると、祭司エズラなどがリーダーシップをとった時代は、それ以外に道がなかったのかなとも思います。いずれ、エズラ、ネヘミヤ、そして預言書のハガイ、ゼカリヤを読むと分かるのではないかと思います。もう一つは、預言者は、当時の教養人で、世の中の先をかつ、深い洞察力をもって見たかもしれないが、やはり一握りの当時のエリート集団です。祭司たちのリーダーシップでまとめるときには、民がみなわかるようなメッセージを語らなければいけなかったということもあるのかもしれません。

リベラル・アーツがエリートの為のものから、市民のためのものになるかどうか、そのときに、質を下げたり、単純化したりして、コピーとしてメッセージを伝えようとするのかという現代的な問いも、ここに含まれているような気がします。


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聖書通読ノート

BRC2023

2Chronicles 1:16 ソロモンの馬は、エジプトとクエから輸入されたものであった。王の御用商人は代価を支払い、クエからそれを買い入れたのである。
クエについて調べてみたが、はっきりとはわかっていないようだ。トルコあたりかとも言われている。馬は、おそらく、軍隊に使われるものだろうから、当時の国の勢力図も関係しているのだろう。また、調べてみたい。
2Chronicles 2:16,17 ソロモンは父ダビデが数えたように、イスラエルの地にいるすべての寄留民を数えた。すると彼らは十五万三千六百人であった。彼はそれらのうち、七万人を荷役、八万人を山で働く石切り工、三千六百人を民を働かせるための監督とした。
最初には「ソロモンは荷役七万人、山で働く石切り工八万人、彼らの監督三千六百人を動員した。」(1)とある。数があっていることからも、これらは、寄留民であろう。しかし、寄留民は、被征服民が一般的だろう。結局、この神殿は、略奪によって得られた金・銀などで建てられ、その労力は、被征服民によって提供されたということだろう。それが、隠さず書かれている。当時としては当然のことだったのだろう。華美な神殿は、その力の象徴だったのだろう。
2Chronicles 3:1 ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた。そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である。
ここには地名が二つ出てくる。「モリヤ山」と、「オルナンの麦打ち場」である。その歴史的に重要な場所に神殿を建てたということを記述している。「オルナンの麦打ち場」は、歴代誌上21章にエピソードが書かれている。「主の使いは、ダビデにこう告げるようにガドに言った。『ダビデはエブス人オルナンの麦打ち場に上り、主のための祭壇を築かなければならない。』」(18)のあとに、オルナンから買い取った土地とある。また、「モリヤ山」は、創世記22章に出てくるイサクをささげ、神が止められ「主の山に備えあり」とした場所である。これがすべて一致しているという根拠はおそらくないと思われる。エルサレムは、古くから城壁に囲まれた街だったのだから、このことも考えにくい。しかし、重要な場所を結びつけたのだろう。非難することではあるまい。ただ、このように、検証なしに神話がつくられていくことには、やはり違和感は感じる。
2Chronicles 4:3,4 「海」の下には牛の像がその周囲を取り巻いていた。牛の像は、一アンマにつき十頭の割合で「海」を取り巻いていた。牛の像は二列であったが、これは「海」の鋳造のときに鋳られたものである。「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はそれらの上にあったが、牛の後部はすべて内側に向いていた。
神殿の設計はどのようにしたのか、考えているが、少なくとも、出エジプト記25章〜27章に書かれている幕屋の建設のときのような、主からの設計図の提示は書かれていない。牛は、エジプトの影響が強いのではないかと思い、引用した。しかし、詳細に書かれている。おそらく、再建のときに、参照するための記録だったのではないかと思うが、この神殿の作りや、天幕の設計図がいつごろ文書として成立したかにも興味をもった。おそらく、科学的(反証可能性 falsifiability を伴った)な議論は難しいのだろう。
2Chronicles 5:9,10 担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の箱からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。箱の中には二枚の石の板のほか何もなかった。それは、主がエジプトを出たイスラエルの人々と契約を結ばれたとき、モーセがホレブでそこに納めたものである。
気になったことがいくつかある。一つは、捕囚帰還後に再建された通常第二神殿と呼ばれるものには、「二枚の石の板」はあったのかという疑問。そして、棒について「今日に至るまで」と書かれていることについてである。契約の箱の記述の前に、この句があることを考えると、これが記述されたときには、二枚の石の板は失われていたのだろうかと思う。一方、契約の箱と担ぎ棒は、作られたのだろう。契約の箱には、アロンの杖やマナを入れた壺も契約の箱の前に納められていたとの記述がある(民数記17章、出エジプト記16章33,34節)が、それも失われていたと思われる。これらも失われ、契約の箱は、第二神殿では、空だったのだろうか。
2Chronicles 6:41,42 神である主よ、今、立ち上がってください。/あなたご自身も、その力の箱も/あなたの憩いの場にお進みください。/神である主よ、あなたの祭司たちが/救いの衣をまとい/あなたに忠実な人々が/恵みの内に喜びますように。神である主よ、あなたが油を注いだ人を拒まず/あなたの僕ダビデに約束した慈しみを/思い起こしてください。」
ソロモンの祈りの最後が引用句で閉じられている。さまざまな思いが、ここに込められていると思うが、「神である主よ、今、立ち上がってください。」は特に、印象的である。この祈りを、日々口にしたのかもしれないと思った。捕囚帰還後の祈りであっても、祈りが伝わってくるようで、心が痛くなる。
2Chronicles 7:19,20 もしあなたがたが背を向け、私が与えた掟と戒めを捨て、他の神々のもとに行って、これに仕え、これにひれ伏すなら、私が与えたこの土地から彼らを引き抜き、私がその名のために聖別したこの神殿を、私の前から投げ捨てる。それをすべての民の中で、物笑いの種とし、嘲りの的としよう。
因果関係で説明することは限界がある。しかし、このように祈る時の、心は伝わってくる。まさに、自分たちの罪を認め、悔い改めが背後にあるからだろう。イスラエルの民は、物笑いと嘲をどのように聞いていたのだろうか。驕りが嗜められたと感じただろうか。このときも、希望を持ち続けただろうか。少し、好転したときに、それこと、神が顧みてくださったと感謝したのだろうか。
2Chronicles 8:7-9 イスラエル人ではない者たち、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人など、生き残りの民すべて、すなわち、イスラエル人が滅ぼし尽くすことができず、この地に生き残った彼らの子孫を、ソロモンは労役に徴用し、今日に至っている。しかしソロモンは、自分の工事のためにイスラエルの人々を奴隷にすることはなかった。彼らは戦士や補佐官の長、戦車隊や騎兵隊の長だったからである。
これがソロモンの支配体制ということだろう。しかし、このことができたのも、ダビデとソロモンの戦力の所以だろう。さらに「フラムも家臣たちに託して、船団と航海の心得のある者たちを送り込んだ。彼らはソロモンの家臣たちと共にオフィルに行き、そこで金四百五十キカルを手に入れ、ソロモン王のもとに運んだ。」(18)正確には、分からないが、貿易でも、高額の収入があったことを示しているのだろう。
2Chronicles 9:31 ソロモンは先祖と共に眠りに就き、父ダビデの町に葬られた。代わって王となったのは、その子レハブアムである。
ソロモンについての記述は、十分な長さがあるが、家族のことについては、ほとんど何も書かれていない。知恵においても、地上のいかなる王にもまさっていた(22)との記述はあるが、次のリーダーを育てる力はなかったのか。レハブアムをみていると、訓練も足りなかったように見えてしまう。ただ、多くの外国からの妻を娶ったことによって、信仰から離れたことについては、書かれていない。神殿を建てて、基礎を築いたことで、十分だとの評価だろうか。難しい。
2Chronicles 10:16,17 イスラエルのすべての人々は、王が自分たちの言うことを聞かないのを見て取り、民は王に次のように答えた。/「ダビデのうちに/何か我々が受け取るべき分があろうか。/エッサイの子のうちに、受け継ぐべき分はない。/イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰るがよい。/さあ、ダビデよ、自分の家は自分で見るがよい。」こうして、イスラエルのすべての人々は自分の天幕に帰って行ったが、ユダのすべての町に住むイスラエルの人々は、レハブアムが統治した。
列王記上12章とほとんど同じである。ヤロブアムについては列王記上11:26-43に記述があり、有能なエフライム出身の人であることはわかるが、シロ人アヒヤの預言が大きく影響したように取れる。ソロモンの評価が低かったのだろうか。正しさが分裂を生む。非常に残念な結果でもある。レハブアムの統治に反対したことは理解できるが、イスラエルが一つにまとまる合理性はない。ダビデの時代またはそれ以前からも、基本的には、ユダと、エフライムと、少数部族だったのだろうか。よくはわからない。
2Chronicles 11:16,17 また、祭司とレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族のうち、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちは、先祖の神、主にいけにえを献げるために、エルサレムにやって来た。彼らは三年間、ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを励ました。彼らが三年間、ダビデとソロモンの道を歩んだからである。
やはりよくわからない。おそらく、このような人たちが、イスラエルのリーダーシップをとることはできなかったのだろう。おそらく、それは、以前から。このあたりの書き方も、列王記とほとんど同じで、別の情報がないために、判断ができない。それが、ダビデ、ソロモン王朝についても、事実ではないのではないかとの疑念を抱かせる元になっているのかもしれない。このあたりの経緯(いきさつ)は不明としか言えないのかもしれない。
2Chronicles 12:1,2 レハブアムは王権を確立し、自らが強くなると、主の律法を捨てた。イスラエルのすべての人々も彼に倣った。レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上った。彼らが主に背いたからである。
このあとにも、「主が彼らのへりくだった様子を御覧になると、主の言葉がシェマヤに臨んだ。『彼らがへりくだったので、私は彼らを滅ぼさず、間もなく彼らに救いを与える。私の憤りがシシャクの手でエルサレムに注がれることはない。しかし、彼らはシシャクに仕えることになり、私に仕えることと、地の王国に仕えることの違いを知るだろう。』」(7,8)解釈が書かれているが、「しかし」とあり、単純ではない表現である。捕囚帰還後、一つ一つの歴史の場面を復習しているようにも見える。一つ言えることは、因果関係で捉えていることである。冷静に分析しつつ、行動を律し、また、それによってのみ状況が変化するわけではないことを受け入れるのは難しい。訓練が必要だとも言えるし、主の御心の求め方の難しさも感じる。この背景にある、エジプトや中東に歴史についても学びたい。最後に引用句で「イスラエルのすべての人々も彼に倣った」という表現にも興味を持ったことを加えておく。レハブアムはユダの王で、イスラエルの統一王ではない。それでもこのように表現する記者にも興味を持った。(列王記上14:21-31参照)
2Chronicles 13:12 見よ、頭には神が我々と共におられ、その祭司たちは出陣のためのラッパをあなたがたに対して吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、あなたがたの先祖の神、主と戦ってはならない。あなたがたが勝利を手にすることはないからである。」
立派なメッセージが書かれているが、実際には、ヤロブアムと、ユダの家との間には、戦いが絶えなかったようだ。他者視点がとてもたいせつである。しかし、このように、書くことで、ユダの歴史を振り返り、問題点を探っているのだろう。それは、ひととしてたいせつな営みだとも思う。しかし、原因を特定することには、注意を払う必要がある。さまざまな理由が背後にあるのだから。そこから、さらに、主の御心を受け取る。簡単ではない。
2Chronicles 14:6 彼はユダの人々に言った。「我々はこれらの町を築き、城壁を巡らそう。塔、城門、かんぬきもだ。この地はまだ我々の前にある。我々が、我々の神、主を求めたからだ。我々が求めたからこそ、主は周囲から我々を守り、安らぎを与えられたのだ。」こうして彼らは建設を始め、これを完成した。
アサ王の時代のことである。このあとの10節の祈り「主よ、あなたにとって、力の強い者を助けるのも、力の弱い者を助けるのも変わりはありません。我々の神、主よ、我々を助けてください。我々はあなたを頼りとし、あなたの名によって、この大軍に向かってやって来ました。あなたは我々の神、主であって、いかなる人間もあなたには対抗できません。」など、信仰を感じ取ることができるが、結果は、クシュ人が攻めてきたとき、皆殺しにしたり、周囲の街を打って多くの戦利品を得るなど、自分たちが得をしたという表現である。これが少しずつ変化するには、捕囚を通して遜ることも必要だったのだろうか。
2Chronicles 15:2,3 彼はアサの前に出て言った。「聞け、アサよ。ユダとベニヤミンのすべての人々よ。あなたがたが主と共にいるなら、主はあなたがたと共におられる。もしあなたがたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主はあなたがたを捨てられる。長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。
歴代誌の神学が表れている箇所であるが、最後の「律法もなかった。」ということばは強烈である。וּלְלֹא כֹּהֵן מוֹרֶה וּלְלֹא תוֹרָֽה׃ (KJV: and without a teaching priest, and without law.)これほどはっきりと書かれている箇所があることは知らなかった。このアサの道から離れてしまったと言いたいのだろう。
2Chronicles 16:8,9 クシュ人とリビア人は大軍で、戦車と騎兵は非常に多かったのに、あなたが主を頼りとしたので、主は彼らをあなたの手に渡されたではないか。主の目は全地を行き巡り、心が主と一つである者たちに御力を示す。このことについて、あなたは愚かなことをした。今後、あなたには戦争が続く。」
アサに対して厳しい。イスラエルやアラムとの関係は常に微妙である。敵対することが本当に良かったのだろうか。わたしには、とうてい簡単には、受け入れられない。このような簡単な因果関係でひとを判断して良いのだろうか。そこから、変化していく途中なのかもしれない。
2Chronicles 17:9 彼らは主の律法の書を携え、ユダの教育に当たった。ユダのすべての町を巡って、民の教育を行ったのである。
「教育」という語を検索すると、旧約聖書では、ここと、7節にあるだけである。ただし、לָמַד (to learn. teach, exercise in)は、他にも使われている。民を教えたではいけなかったのだろうか。律法の書がでてくるところから、特別なものを感じた。「主の律法の書」も多くない。ここと「彼らが主の神殿に納められた献金を取り出したとき、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけた。」(歴代誌下34:14)、「彼らは自分たちの場所に立ち、その日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、また四分の一は、罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した。」(ネヘミヤ9:3)のみ。起源は不明だが、歴代誌に重要な影響を及ぼしているように見える。
2Chronicles 18:33 ところが、一人の兵士の引いた弓が、図らずもイスラエルの王の鎧の継ぎ目の間を射抜いた。王は御者に、「手綱を返して、戦場の外に出せ。傷を負ってしまった」と言った。
言い伝えは、プロパガンダ(宣伝)として、利用されるのだろう。アハブの人生も、ヨシャファトの人生もなにかはかない。しかし、信仰とは、主への信頼とは、それも、受け入れることなのかもしれない。それを素直に受け入れる気にはなれないが。
2Chronicles 19:5-7 彼はその地に、すなわちユダのすべての城壁に囲まれた町に、それぞれ裁判官を配し、その裁判官たちに言った。「あなたがたは自分のすることに十分注意をしなさい。あなたがたが裁くのは、人のためではなく、主のためだからです。裁きが行われるとき、主はあなたがたと共におられます。今、主への畏れがあなたがたの上にあるように。気をつけて行いなさい。私たちの神、主には不正も、偏り見ることも、賄賂を取ることもない。」
司法体制を整備したということだろう。これは、人々の信頼を得ることには寄与するのではないだろうか。むろん、これだけで、良いわけではない。「ヨシャファトはまた、エルサレムでは、レビ人と祭司たちの一部、イスラエルの親族の頭たちの一部を、主の裁きと訴訟のために任命した。こうして彼らはエルサレムに帰った。」(8)これなどは、問題だろう。しかし、それを、人間の歴史の中で、この時点で責めることはできないのかもしれない。
2Chronicles 20:9 『もし、裁きの剣、疫病、飢饉などの災いが私たちに臨むなら、私たちはこの神殿の前で、あなたの前に立ちます。御名がこの神殿にあるからです。苦難の中からあなたに叫び求めるとき、あなたがそれを聞き入れ、救ってくださいますように。』
この章には、モアブ人とアンモン人、さらに、メウニム人、加えて、エドムからも、大軍が攻めてきたときのことである。ただ、このような、対応の仕方が、対アッシリア以降、大変化を遂げる。このような祈りでは、聞き届けられなかったということだろう。さらに、深い、神学的解釈が必要になる。
2Chronicles 21:20 ヨラムは三十二歳で王位につき、八年間エルサレムで統治した。彼は惜しまれることなく去り、ダビデの町に葬られた。人々は彼を王の墓には納めなかった。
最後の件(くだり)はすごい。王に対して、このようなことができたのも、驚かされる。民の力が強かったということだろうか。この章には、エリヤからの手紙も記されている。それも「また、あなたは内臓の病で大病を患い、日に日に病が進み、内臓が外に出るまでになる。」(15)まで書かれている。一人一人の王について、もう少し丁寧に、学んでみたい。
2Chronicles 22:10 アハズヤの母アタルヤは、息子が死んだのを知り、直ちにユダの家の王族をすべて滅ぼそうとした。
名前が多く、何度読んでも混乱する。ユダの王とイスラエルの王に同じ名前が登場することも一因ではある。一応、名前をあげてみよう。ユダの王ヨラム(ヨシャファトの子)、その末の子アハズヤ(年長の王子はすべて殺されてしまった(1)とある)、その母、アタルヤ(イスラエルの王オムリの孫娘(2)でアハズヤの相談役、オムリの子イスラエル王アハブとその妻イゼベルの子)、アハブの子ヨラムとアハズヤが、アラムの王ハザエルと戦い、ヨラムは傷をうける(5)。アハズヤ、サマリヤに潜むが、アハブの家を絶つ使命を帯びたニムシの子イエフに殺される。引用句の状況で王子ヨアシュを助けたのは、王女ヨシャパト(ヨラム王の娘で、祭司ヨヤダの妻、アハズヤの姉妹)。少し整理できたかな。引用句に戻って、王族を滅ぼすという計画があったことは、興味深い。そして、ダビデの家系を守ろうとする人たちがいる。同時に、深い姻戚関係にあるアハブの家を滅ぼすために、イエフは油を注がれている。すでに、矛盾をさまざまに孕んでいるようにも見える。
2Chronicles 23:7,8 レビ人はおのおの武器を手にして、王の周りを固めよ。神殿に入る者は殺される。王が出入りするときは、常に王のそばにいなければならない。」レビ人とユダのすべての人々は、すべて祭司ヨヤダが命じたとおりに行った。彼らはそれぞれ安息日が当番の者と、安息日が非番の者を引き連れて来た。祭司ヨヤダが組分けを解かなかったからである。
レビ人が神殿と王の防衛のために、武器をとって、守ったことが書かれており、そのあとに、あまり連続性のない記述がある。このあとに、ヨアシュを王にする特別な時であったので、安息日の当番と非番両方投入したということなのだろう。安息日にも、武器をとって警護していたものがいることをも、記そうとしたのかもしれない。ダビデ王朝のひとつの危機がこれによって、守られたという記述なのだろう。
2Chronicles 24:9,10 そして、荒れ野で神の僕モーセがイスラエルに課した税を主に納めるようにとの布告がユダとエルサレムに出された。高官も民も皆、喜んで納め、いっぱいになるまで箱に投げ込んだ。
「高官も民も皆」と書いてあるが「ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪責のため、ユダとエルサレムに怒りが下った。」(17,18)となっている。風見鶏だったのか。神殿を整えることでは、こころは整えられなかったのか。いろいろと考えさせられる。しかし、まず、歴代誌記者が、神殿整備を重視していることはわかる。同時にこのあと預言者やヨヤダの息子などが正そうとするがそうはならない。難しさを感じる。
2Chronicles 25:18,19 だが、イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに使いを送ってこう言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使いを送って『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか』と言った。ところが、レバノンの野の獣が通りかかって、あざみを踏みにじった。あなたはエドムを討ち破ったと言って、思い上がり、誇っているが、今は自分の家にとどまっているがよい。なぜ災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」
列王記下14:8,9 の再録である。しかし、ユダの側から見ると、このことが記されていることの意味を考える。一般的に言われているように、イスラエル王国のほうが、繁栄していたのかもしれない。神殿中心のユダ王国には、できなかったことが多かったのか。預言者の活動も、イスラエルの方が活発に思われる。ユダでは祭司である。図らずも、このような関係が浮き彫りになっているように思われる。むろん、どちらも、超大国に、滅ぼされる運命にあるわけだが。
2Chronicles 26:14,15 ウジヤは全軍のために盾、槍、兜、鎧、弓、投石用の石を準備した。彼はまた、エルサレムで、技術者の考案した兵器を造った。それは塔や城壁の角の上にあって、矢や大きな石を放つものであった。ウジヤの名は、遠くにまで及んだ。彼が神の驚くべき助けを得て、強くなったからである。
ダビデの時代には、ほとんどの人たちが武具をもたず、日常的なものを武器にしていたことを考えると、大きな違いである。それをしないと、どうにもならない状況が周辺にあったのだろう。しかし、引用句のあとには「ところが、彼は強くなると、その心が驕り高ぶり、身を滅ぼすことになった。彼は自分の神、主に背き、主の聖所に入り、香をたく祭壇の上で香をたこうとした。」(16)と続く。どちらか一方ではなく、主のみこころを求め続ける、学び続けることなしには、ひとは、傲慢になってしまうのだろう。
2Chronicles 27:1,2 ヨタムは二十五歳で王位につき、十六年間エルサレムで統治した。母の名はエルシャと言い、ツァドクの娘であった。彼は父ウジヤが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。
最後の「ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。」を除いて、列王記下15章 33節〜34節と同じで、列王記ではそのあと3節に続く。ツァドクについては、不明であるが、名前は、祭司の家系になんどか現れるので、祭司の家系なのだろう。最後の、民についての記述からは、捕囚帰還後の祭司たちの厳しい目を感じる。祭司と、祭司に近いものは、問題なかったと言いたいのだろうか。そこまでいうのは、言い過ぎかもしれないが。
2Chronicles 28:9-11 、そこには主の預言者がいた。その名をオデドと言った。彼はサマリアに帰って来た軍勢の前に出て、彼らに言った。「あなたがたの先祖の神、主はユダに対して怒り、彼らをあなたがたの手に渡された。あなたがたは、天に届くまでの憤りをもって彼らを殺した。ところが、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従わせ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたがた自身も、あなたがたの神、主に対して罪責があるではないか。今、私の言うことを聞き、あなたがたの同胞の中から連れて来た捕虜を帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたの上にあるからだ。」
この章には、アハズ王時代のユダがアラムや、イスラエルに、敗れ、多くの人が捕虜となったことが書かれ、引用句に至る。ほとんど信じられないことが書かれている。レマルヤのペカについては、列王記下15:27-31、アハズについては、列王記下16章にあるが、上の記事は書かれていない。しかしすでに、アッシリアが攻めてきており、壊滅的な状態になりつつもある。そのなかで引用句が記録されているのは、何が目的なのであろうか。
2Chronicles 29:10,11 今こそ、私はイスラエルの神、主と契約を結ぶつもりである。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるであろう。わが子らよ、さあ、安穏としていてはならない。主があなたがたを選ばれたのは、あなたがたが御前に出て主に奉仕し、主に奉仕する者や香をたく者となるためである。」
ヒゼキヤの改革である。このような改革が無駄だとは思えないが、主のみこころを狭めて考えてはいけないのではないかとも思う。わからないことをたいせつにすることも覚えておきたい。当時の、祭司やレビ人はどのような生活をしていたのだろうか。
2Chronicles 30:25-27 ユダの全会衆、祭司たち、レビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者たち、ユダに住む者たちは喜んだ。 エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことはエルサレムになかった。祭司たちとレビ人は立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き入れられ、彼らの祈りは主の聖なる住まいである天に達した。
これが大切なことだと、歴代誌記者は考えたのだろう。そして、ここにあるように、喜びがあると、わたしも、ここに委ねたいとも思う。歴史を知っているからだろうか、やはり虚しくも感じる。主の御心には、やはり遠いと感じるからだろうか。安全なところにいて、裁いているのだろうか。そうかもしれない。この時点でどうすればよかったかはおそらく、だれも、現在においても、わからないのではないだろうか。
2Chronicles 31:20,21 ヒゼキヤはユダの全土でこのように行い、彼の神、主の前に良いこと、正しいこと、真実なことを行った。彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた。
列王記下20章の記述とは異なっているが、丁寧には、比較できない。歴代誌においては、このヒゼキヤによる祭司とレビ人の奉仕の整備を重要なことだと考えていたのだろう。それは、センナケリブがエルサレムを落とせなかった理由としているのだろうか。よくはわからない。
2Chronicles 32:24-26 その頃、ヒゼキヤは病を得て死にかけたが、彼が主に祈ると、主は彼に答え、彼にしるしを与えられた。ところが、ヒゼキヤは受けた恩恵に報いることをせず、かえってその心を驕り高ぶらせたので、彼の上に、またユダとエルサレムの上に怒りが下った。ヒゼキヤはその心の高ぶりを捨ててへりくだり、エルサレムの住民もそのようにしたので、主の怒りがヒゼキヤの時代に襲うことはなかった。
センナケリブが攻めてきた時のことが書かれたあとに、この記事がある。当時、または、歴代誌の歴史観は、因果応報に強く結びつけられていると感じる。現代的な科学的視点がまだないからだろう。現代でも、因果応報に強く影響される考え方が多いことを考えると、批判的になることはできない。脳がサボろうとするという言い方も正しいのだろう。少しずつ学んでいきたい。
2Chronicles 33:15-17 異国の神々と偶像を主の神殿から取り除いて、主の神殿の山とエルサレムに築いたすべての祭壇も町の外に投げ捨てた。そして、主の祭壇を築き、その上に会食と感謝のいけにえを献げて、イスラエルの神、主に仕えるようユダに命じた。しかし民は、彼らの神、主に対してではあったが、依然として高き所でいけにえを献げていた。
マナセについての記述は列王記下21:1-9 にある。そのあと、列王記下21:10-18にマナセの評価が書かれ、いずれも、厳しいもので、ユダが滅んだのは、マナセが原因という書き方をしている。しかし、歴代誌は異なる。冷静にしらべたときに、そうではないことが見つかったということなのかもしれない。違う味方としては、歴代誌は、偶像礼拝が悪の根源という考え方に集中しているため、引用句のような表現になり、この点に関してある貢献をしたマナセに全責任を取らせることはせず、民についての記述を加えているのかもしれない。他方、預言者文書といわれる、列王記では、王のことを書くことで、民を代表させているのかもしれない。難しい。
2Chronicles 34:31-33 それから王は自分の場所に立って、主の前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記された契約の言葉を実行することを誓った。王はエルサレムとベニヤミンにいるすべての者をこの契約に加えた。エルサレムの住民は先祖の神であるその神の契約のとおりに行った。ヨシヤはイスラエルの人々のすべての地から忌むべきものを取り除き、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主から離れることはなかった。
ヨシヤの宗教改革について書かれている。主の律法の書を見つけた(14)ところから、始まっており、これが、申命記で、このころ成立したのではとも言われている。それは、不明であるが、引用句にあるような契約のことばが読まれたり、契約更新がされたりはしていなかったことは確かなのだろう。過越の祭もヒゼキヤのときに帰している。危急存亡のときに、宗教回帰が起こったことは、理解できる。アッシリアからバビロニアへの覇権が移っていったことなども、知っていたのだろう。しかし、それについは、記さない。社会状況を通して、神様の御心を知ることは、未発達だったことは確かだろう。そして、この歴代誌も、エルサレム陥落、バビロン捕囚、そこからの一部のユダヤ人の帰還後に書かれたものであることも、考える必要がある。
2Chronicles 35:18,19 預言者サムエルの時代以来、イスラエルでこのように過越祭が祝われたことはなく、イスラエルの歴代の王も、ヨシヤ、祭司、レビ人、そこにいたユダとイスラエルのすべての人々およびエルサレムの住民が行ったような過越祭を祝ったことはなかった。ヨシヤ王の治世第十八年に、この過越祭は祝われた。
「このように過越祭が祝われたことはなく」と規模のことを言っている。ヒゼキヤの時代にも祝われた記述がある。しかし、「また、すべてのイスラエルを教え導く者たちで、主のために聖別されたレビ人たちに言った。『イスラエルの王、ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めなさい。もはやあなたがたの肩に担う必要はない。あなたがたの神、主とその民イスラエルに仕えなさい。』」(3)の記述をみると、契約の箱ですら、神殿に収められていたわけではないこともわかる。ヨシヤの死もあっけない。当時、どのように受け取られていたのだろうか。
2Chronicles 36:20,21 彼はまた、剣を免れた生き残りの者をバビロンに連れ去った。この人々は、ペルシアの王国が統治するようになるまで、バビロンの王とその息子たちの僕となった。これは、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである。
イスラエルが捕囚になったときや、ヨヤキンの時とは異なり破壊と殲滅と捕囚が徹底されたように見える。ここで「僕となった」ということばは、強烈である。しかし「安息を取り戻すため」は、なかなか理解できない。言葉である。考えてみたい。


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2 Chronicles 1:11 神はソロモンに言われた。「あなたの心にあったのは、富を求めることでもなく、財宝を求めることでもなく、栄誉を求めることでもなく、憎む者の命を求めることでもなく、また長寿を求めることでもなかった。あなたが願ったのは、私の民を治めるための知恵と知識だった。私があなたをその民の王として立てたのだ。
ソロモンに続く王たちは、このようには求めてなかったのだろうか。そして、ソロモンも、当初の願いとは、異なる方向に向かっていったのだろうか。誠実に、常にこころを主にむけて歩むことの難しさだろうか。それを、歴代誌記者はどう考えたのだろうか。これらを求めて祈る美しさと、実際には、そこから心が離れ、主の喜ばれることよりも、自分を喜ばすことに向かってしまう、その両方を併せ持つのが人間であることを覚えていたい。
2 Chronicles 2:2-4 彼はまた、ティルスの王フラムに人を遣わして言った。「あなたは父ダビデに、彼の住む王宮を建てるためにレバノン杉を送ってくださいましたが、私も、わが神、主の名のために神殿を建てようとしています。それを主のために聖別し、御前にかぐわしい香をたき、供え物のパンを絶やさず、朝と夕に、安息日と新月祭に、我らの神、主の祭りに、焼き尽くすいけにえを献げます。このことは、とこしえにイスラエルに命じられていることです。私が建てる神殿は壮大なものです。我らの神はすべての神々よりも大いなる方だからです。
前の章の最後に「ソロモンは主の名のために神殿を、自分の王国のために王宮を建てようと思った。」(1章18節)とある。ティルスの王フラムは(10)「天と地を造られたイスラエルの神、主はたたえられますように。主はダビデ王に悟りと分別をわきまえた知恵ある息子をお与えになりました。その者は今、主のために神殿を、王国のために王宮を建てようとしています。」(11)と返信しており、この膨大な追加依頼が「王国のための王宮」のためであることを理解している内容になっている。列王記上5章15節から7章51節までに書かれていることの要約とも言えるが、抜書きされているフラムの手紙の内容は、神殿のことだけを強調しているように見える。列王記の記述からはこのような依頼は何度もあったと思われるから、あまり、細かいことを気にしてもいけないかもしれないが、歴代誌記者は、ソロモンが、華美なものに力を注いだことに多少批判的になっているのかもしれないと思った。個人的には、それよりも、神殿建設について考えた。現代でも、教会堂建築で問題がおきる教会は多いからである。個人の嗜好にもよるのかもしれないが、ここでも、重い労役などが、王国の分裂につながることを考えると、問題を感じる。単に、ひとに投資すべきだと短絡に結論したくもないが。
2 Chronicles 3:17 これらの柱を神殿の前に、一本を右、一本を左に立て、右の柱をヤキン、左の柱をボアズと名付けた。
以前読んだときは神殿の場所をヤハウェ・イルエ(主は備える)と呼ばれる「モリヤ山」(1、創世記22章2,14節)としたことが気になったが、神殿を建てた場所をそれになぞらえたとも考えられるのであまり、同一の場所と考える必要もないかとも思った。引用句の表現を読んで、ヤキンとボアズを調べてみたくなった。ヤキン יָכִין (Yāḵîn: He will establish)シメオンの子など人名にも使われるが、特別な人は現れないように思う。もしかすると聖書の書かれていないだけかもしれないが。ボアズ בֹּעַז(Bōʿaz: fleetness)やはり、なぜ、これらの名前を選んだのか不明だった。なにか、名前に込めた思いや、特別な意味があるのだろう。しかし、あまり考えなくてよいのかもしれないとも思った。
2 Chronicles 4:3,4 「海」の下には牛の像がその周囲を取り巻いていた。牛の像は、一アンマにつき十頭の割合で「海」を取り巻いていた。牛の像は二列であったが、これは「海」の鋳造のときに鋳られたものである。「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はそれらの上にあったが、牛の後部はすべて内側に向いていた。
いままであまり気にしないで、軽く読み飛ばしていたが、このような記述も議論を呼ぶ難しいことを含んでいるのだろうなと感じた。芸術的造作で、おそらく素晴らしいものだったろう。そこには、人間の思い描く、神殿の至高の表現があり、それを見る人にも、畏怖の念と神を褒め称えるこころを起こさせたかもしれない。(見ることができるのはほんの一部の人だったろうが。)同時に、あくまでも、ある個人の想像であり、おそらく、他の宗教的背景も含まれ、分析的にみると、問題を呈した人もいるだろう。宗教改革後に起こった議論も思い出される。教会の装飾などについてである。制作の中心にいたフラム・アビ(2章12,13節)は、ダンの一族の女の息子で、父はティルス人である。その技能の高さとその造作は目をみはるものだったろう。両側の意見が聞こえてくるようで当惑もする。個人的には、その素晴らしいものを鑑賞することと、神殿のようなものの、価値を普遍化・絶対化しないことが、肝要に思うが。
2 Chronicles 5:9 担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の箱からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。
おそらく、そしてほぼ確実に、歴代誌が書かれたときには、契約の箱はそこになかったろう。「失われた聖櫃(アーク)」である。むろん、担ぎ棒だけは、残っていたと主張する人たちもいるだろうが。それは置くとすると、「今日に至るまで」はなにを表現しているのだろうかと思った。この時点のものを永遠化する文学的表現だろうか。読者を、この時点、少なくとも、それよりあまり時間がたっていない、または神殿の栄光の姿に釘付けにするためだろうか。単に、引用句として、そのまま残ったということだろうか。おそらくこの最後のものなのだろう。「担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。」(列王記上8章8節)逆に、引用する者の気持ちを考えてしまった。辛かったろう。ここにある「今日」は、もう「今日」ではないのだから。分析的・客観的に考えたあとで、そのひとの辛さに寄り添うものでありたい。
2 Chronicles 6:1,2 その時、ソロモンは言った。/「主は、密雲の中に住む、と/仰せになりました。そこで私は、あなたのために荘厳な神殿/とこしえのあなたの住まいを建てました。」
ソロモンによる神殿奉献式の祈りで、列王記上8章に同様なものがあるが、詳細は異なるようだ。ひじょうにたいせつな祈りだと思うので、いつか分析してみたい。でも、できないかな。「密雲」は「すると主はモーセに言われた。「私は密雲に包まれて、あなたのもとにやって来る。私があなたと語るのをこの民が聞き、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」そこでモーセは、民の言葉を主に告げた。」(出エジプト記19章9節)「民は遠く離れて立っていた。モーセは神がおられる密雲に近づいて行った。」(出エジプト記20章21節)にある。十誡が与えられる重要な箇所である。「主は密雲を足元に従え/天を傾けて降り」(サムエル記下22章10節)ダビデのほぼ最後の祈りの中である。「その時、ソロモンは言った。/「主は、密雲の中に住む、と仰せになりました。」(列王記上8章12節)の対応箇所である。そして、引用箇所、あまり数は多くない。ただこのあとヨブ記、詩篇などある程度登場する。気になったのは、列王記でも同じであるが、そこで、とつなげることである。神殿が絶対化している鍵かと思ったが、おそらく、そうではないのだろう。神殿で礼拝してきた、礼拝の場所としてのたいせつさ以上をもとめるのは、問題であることは、当時も認識されていたのかもしれない。
2 Chronicles 7:21,22 かつては比類なく高かったこの神殿に、そのそばを通る人は皆、驚いて言うであろう。『主はなぜ、この地とこの神殿に、このようなことをされたのか。』すると人々は答えるであろう。『それは彼らが、先祖をエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々にすがってこれにひれ伏し、仕えたからだ。それゆえ、主は彼らにこのあらゆる災いをもたらされたのだ。』」
同様の記述が、列王記上9章8,9節にあるが、申命記29章23,24節にもある。理由は、ここにあるように「主を捨て、他の神々にすがってこれにひれ伏し」たからなのだろうか。そう考えるのは自然であるが、そして、それは一つの理由かもしれないが、今のわたしにはそうは思えない。世界史的な大きなながれを、その時代を、自分の生きている時代を、広い目で、分析的に見ながら、主の御心を探り求めることがなかったことも、とても大きいと思う。内面化はたいせつであっても、それを急ぎすぎると、自分の外の世界が見えなくなり、いびつになる、ひとつの精神の病でもある。むろん、とても、難しいことである。外を見回しているだけで、内面化できないことも多いのだから。
2 Chronicles 8:11 ソロモンは、ファラオの娘をダビデの町から、彼女のために建てた宮殿に移らせた。「私の妻はイスラエルの王ダビデの宮殿に住むべきではない。そこは主の箱が納められた聖なる所だ」と考えたからである。
この節の背景は複雑である。「ダビデの宮殿」ということばはここだけである。すなわち、同じ表現は、列王記にない。「ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚関係を結び、ファラオの娘をめとった。ソロモンは彼女をダビデの町に迎え入れ、宮殿、主の神殿、エルサレムを囲む城壁の建築が終わるまで、そこに住まわせた。」(列王記上3章1節)「ソロモンが住まいとした建物は、この広間の後ろの庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは、妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。」(列王記上7章8節)とあり、少なくとも「私の妻はイスラエルの王ダビデの宮殿に住むべきではない。」との価値観は表現されていない。歴代誌では「さらに、父ダビデの定めに従い、祭司の組をその役目に就かせ、またレビ人たちをその務めに就かせて、日課のとおりに、祭司の前で賛美と奉仕をさせた。また、門衛たちをその組分けに従い、それぞれの門に配した。これが神の人ダビデの命令だったからである。祭司とレビ人に関する王の命令はすべてのことに及び、宝物庫に至るまでおろそかにされることはなかった。」(14,15)とあり、ダビデの定めに従ったことと、祭司とレビ人に関することを適切に管理したことが書かれている。これを伝えたかったのだろう。11節もその適切さの表現の一つだろうか。15節のほうは、ダビデの命令というより、ソロモンの知恵によっているかもしれない。ヨアシュ(列王記上12章)やヨシヤ(列王記上22章)の神殿修復との関連性も思う。歴代誌記者に、そのような管理の大切さにたいする意識もあったのだろうか。
2 Chronicles 9:8 あなたを王座に着け、あなたの神、主のために王とすることをお望みになった、あなたの神、主はたたえられますように。あなたの神は、イスラエルをとこしえに続くものとするほど愛しておられるので、公正と正義を行うために、あなたを王とされたのです。」
対応箇所は「あなたをイスラエルの王座に着けることをお望みになった、あなたの神、主はたたえられますように。主は、イスラエルをとこしえに愛しておられるので、公正と正義を行うために、あなたを王とされたのです。」(列王記上10章9節)である。「とこしえに」を神の愛の対象から「イスラエルをとこしえに続くものとするほど愛しておられる」に変更している。歴代誌記者のメッセージを痛みと希望とともに受け取りたい。シェバの女王は、ソロモンの知恵の称賛としても引用されるが、列王記にあるもう一つの記事は引用されていない。列王記上3章16節から28節の「二人の遊女」に対する裁きである。遊女だから省略したのか、それとも、イスラエルがとこしえに続くための知恵を中心に据えたかったのか不明であるが、おそらく、後者ではあろう。しかし、前者もあるかもしれない。視野に入っていない課題として。
2 Chronicles 10:17 ユダのすべての町に住むイスラエルの人々は、レハブアムが統治した。
何箇所か気になるとことがあった。一つは「このように、王は民の言うことを聞かなかった。しかし、それは神が仕向けられたことであった。主は、シロ人アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに語られた言葉を実現しようとされたのである。」(15)アヒヤを通して語られたことばは、歴代誌には書かれていない。9章29節に『シロ人アヒヤの預言』と書かれているだけである。この書については、存在も不明である。列王記上11章29-32節を仮定しているということであろう。引用句は、列王記上12章 17節にもあるが「ユダのすべての町」とあり、その町にいる、他の部族が含まれることを意味していたのだろう。シメオン、ベニヤミン以外にも、いたようであるから、すでに、複雑に絡み合っている。そんなに、簡単に部族でわかれたとも思えない。どのように、国境が定まったのか、不思議に思った。
2 Chronicles 11:23 王は賢く行動し、息子全員をユダとベニヤミンの全土、すなわちすべての砦の町へ配置し、彼らに食料を豊富に与え、また大勢の妻を探し与えた。
レハブアムについては、列王記上12章1節から15節に分裂の経緯について書いてあるが、それ以外は、列王記上14章21節から31節に簡単にまとめてあるだけである。その最後に『ユダの王の歴代誌』が登場するが、それがいま読んでいる歴代誌だとは思えない。今読んでいるものは、捕囚帰還から書かれているのだから。しかし、列王記とは別の資料があったことを否定するものではない。11章の記述は、レハブアムに好意的である。また、分裂後「全イスラエルのあらゆる領域から、祭司とレビ人がやって来て、レハブアムのもとにとどまった。」(13)および「また、祭司とレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族のうち、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちは、先祖の神、主にいけにえを献げるために、エルサレムにやって来た。」(16)とも書かれており、「ソロモンの子レハブアムを励ました。」(17)ともある。それは、3年のみだったようだが(17)なぜ、変化するのか。一応、12章1節には書かれているが、これも、主から出たことなのか。(4)よくわからない。
2 Chronicles 12:1,2 レハブアムは王権を確立し、自らが強くなると、主の律法を捨てた。イスラエルのすべての人々も彼に倣った。レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上った。彼らが主に背いたからである。
わたしはこのようなことの総称を「内面化」と呼んできたが、もう少しわかりやすく、様々なことばで表現しないといけないとても重大なことだと考えるようになった。わたしが使う「信仰告白」ということばも同様の意味に使っているかもしれない。この1,2節のような考えは、信仰者にとっては、とても大切である。なにか重大なことが起こった時、神様との関係を見直し、そこから生き方を立て直す信仰的決断を生み出す。しかし、客観的に見ると、正しくない。背後に神様がおられるとすると、このような面を完全に否定することはできないとしても。エジプトの王がエルサレムに攻め上った理由は、様々にあるのだろう。「エジプトの王シシャクは、エルサレムに攻め上って来て、主の神殿の宝物および王宮の宝物を奪い取った。何もかも奪い取り、ソロモンが作った金の盾をも奪い取った。」(9)これをみて、物欲のために、金をめあてに攻め上ったのだと考える人も多いだろう。それを完全に否定することはできないものの、それも一つの理由に過ぎないだろう。他者を理解することは困難であるし、おそらく、政策的な両者の間の軋轢も様々にあったと考えられる。困難な問題である。ここでは、ここに書いた面があることに注意して、簡単に結論をくださないようにしたいと自分の決意表明を書いておこう。
2 Chronicles 13:17 アビヤとその民は彼らに大打撃を与えた。イスラエルの打ち倒された者たちは五十万で、いずれも精鋭であった。
列王記上15章1節から8節ではアビヤムとなっている。その記述と、この章の記述は極端に異なる、評価はかなり異なる。「ネバトの子ヤロブアム王の治世第十八年に、アビヤムがユダの王となり、三年間エルサレムで統治した。母の名はマアカと言い、アビシャロムの娘であった。アビヤムは、かつて父が犯したすべての罪を犯し続け、その心は、父祖ダビデの心と異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。」(列王記上1-3)北イスラエルからみるか、南ユダからみるかなのか、預言者視点なのか、祭司視点なのかだろうか。それほど簡単に分類はできないだろう。引用句には驚かされる。「アビヤムの他の事績、彼の行ったすべてのこと、それらは『ユダの王の歴代誌』に記されているとおりである。アビヤムとヤロブアムとの間には戦いが絶えなかった。」(列王記上15章7節)との比較は興味深い。これまで記述されていたイスラエル全体の戦力からして、もし引用句に書いてあることを事実ととると、北イスラエルは維持できないだろう。客観的事実の分析の大切さについても、考えさせられる。だからといって、それだけで良いわけではないが。とても、興味深い。
2 Chronicles 14:8,9 クシュ人ゼラが、百万の兵士と三百の戦車を率いて、マレシャまで出て来た。アサは彼の前に出た。彼らはマレシャ近くのツェファタの谷で戦いに備えた。
アサについては列王記上15章9節から24節にあるが、引用句の記述はない。北イスラエルとの戦いについて書かれ、それを有利にするために、宝物庫に残っていた銀と金でアラムに助けを求めたことが書かれている(列王記上15章18-20節)歴代誌の記述にしても、最後は戦利品の略奪ばかりである。「アサとその兵は、彼らをゲラルまで追った。クシュ人は倒れて、主とその陣営の前で砕かれたので、生き残った者は一人もなかった。アサとその兵は非常に多くの戦利品を運んだ。彼らはまた、ゲラル周辺のすべての町を打った。主への畏れが彼らの上にあったからである。彼らはそのすべての町で略奪した。そこには奪い取れるものが多かったからである。彼らは家畜の天幕も打ち払い、多くの羊とらくだを捕らえて、エルサレムに帰った。」(12-14)10節の告白は立派だが、それだけで判断することの問題性を強く感じる。ひとを盲目にしている。これらのことを踏まえつつも、共に生きることを目指す。困難ではるが、そこに喜びと平和がある生き方だと信じて。
2 Chronicles 15:11-13 その日、彼らは戦利品の中から牛七百頭、羊七千匹を主にいけにえとして献げ、契約を結んだ。心を尽くし、魂を尽くして先祖の神、主を求め、子どもから大人まで、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はすべて死ななければならないこととした。
とんでもないことが書かれている。いけにえとして献げるのも、戦利品である。しかし、この章の最初にある「オデドの子アザルヤ」(1)のことばを見ると、国の内外に、様々な混乱があったことが見て取れる。その中で、自分たちを顧みてなすべきことを求めた結果がこれなのだろう。単に、字面だけで、さばいてはいけないと思う。しかし、外圧が強まる中、または、環境が悪化する中、ひとはどういきたらよいのか、おそらく、短期的、自分の人生のスパンでは、見えないことが多いのかもしれない。それは、希望を持つことでもあるが、絶望と捉える人もいるだろう。その時代に生きることは、本当に、むずかしい。
2 Chronicles 16:7,8 その時、先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った。「あなたはアラムの王を頼りとし、あなたの神、主を頼りとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍はあなたの手から逃げた。クシュ人とリビア人は大軍で、戦車と騎兵は非常に多かったのに、あなたが主を頼りとしたので、主は彼らをあなたの手に渡されたではないか。
歴代誌記者は、このハナニが正しい神のことばを伝えていると評価しているのだろう。正直よくわからない。北イスラエルとの抗争はずっと続いている。アラムを頼らざるを得なかったことをどう評価するかは簡単にはわからないが、列王記には無い記述でもある。ここでは「アサは先見者に対して怒り、彼を獄に投じた。このことで、彼に激しい怒りを覚えたからである。この時、アサは民の中のある者たちを虐げた。」(10)とも書かれている。さらに「アサはその治世の第三十九年に、足の病にかかり、その病は非常に重かった。その病の中でも、彼は主を求めず、医者を求めた。」(12)ともある。このようなことで判断するほうが簡単であることは確かで、わかりやすいとも言える。しかし、神が世界の人々を創造し愛しておられるのであれば、もっと複雑であることは十分理解できる。この時代にそれを求めることも、不適切でもあるが。真理の探求によりすぎているのだろうか。わたしの聖書の読み方もすこし、ここにきて淡白になってきているように思う。
2 Chronicles 17:9,10 彼らは主の律法の書を携え、ユダの教育に当たった。ユダのすべての町を巡って、民の教育を行ったのである。主への畏れがユダの周囲の地のすべての王国にあったので、彼らはヨシャファトと戦おうとはせず、
教育のことが書かれている。エズラなどの帰還後の学者のモデルなのか、エズラなどが大切にしたことがここに強調されているのか不明だが、興味深い。ただあくまでも、王の行動として書かれ、どのように民が受け取ったかは不明である。また「主への畏れがユダの周囲の地のすべての王国にあった」が具体的になにを意味しているのかも不明である。実際には、ヨシャファト(BC872-848頃)の時代にも戦いがあり、この時代は、北イスラエルのアハブ(BC874-853)の時代と大きく重なっているので、エリヤが活躍した時代でもある。一切交流の記載がないことも興味深い。預言者の視点と祭司の視点とが大きく異なるからだろうか。やはり、理解は難しい。
2 Chronicles 18:1,2 ヨシャファトは大いに富と栄誉に恵まれたが、アハブと姻戚関係を結んだ。数年の後、彼がサマリアのアハブのもとに下ると、アハブは彼とその民のために多くの羊と牛を屠り、ラモト・ギルアドに攻め上ろうと彼を唆した。
アハブとの関係についてこのことだけ記録しておきたかったのだろう。歴代誌上22章の記事である。ラモト・ギルアドは11節からもわかるようにアラムと争っていた場所のようで、列王記下9章14節などにも登場する。列王記上4章13節が初出であるが、ある地域を意味し、そこにいくつも町があったようなので、その攻防がアラムとの間に続いていたのだろう。ミカヤの預言の詳細は不明だが、エリヤ・エリシャの時代であるが登場しないことを考えると、ミカヤは王が相談する預言者のような役割だったのかもしれない。冷静に、アハブの政策に反対していたと取ればよいように思う。その勇気には、学ばされる。
2 Chronicles 19:8 ヨシャファトはまた、エルサレムでは、レビ人と祭司たちの一部、イスラエルの親族の頭たちの一部を、主の裁きと訴訟のために任命した。こうして彼らはエルサレムに帰った。
予見者ハナニの子イエフのことばとして「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛するのですか。そのため、主から出た怒りが、あなたに下るでしょう。しかし、あなたには良いことも見いだされます。あなたはこの地からアシェラ像を取り除き、心を定めて神を求めました。」(2,3)の良いこととして司法について語られているのかもしれない。ただ、5-7節と8節以降の関係はよくわからない。混乱があるようにすら思われる。引用句を見ると、「エルサレムでは」とはじまり、「エルサレムに帰った」と文章が終わっている。''Moreover in Jerusalem, for the judgment of the Lord and for controversies, Jehoshaphat appointed some of the Levites and priests, and some of the chief fathers of Israel, when they returned to Jerusalem.'' (NKJV) ''In Jerusalem also, Jehoshaphat appointed some of the Levites, priests and heads of Israelite families to administer the law of the Lord and to settle disputes. And they lived in Jerusalem.'' (NIV)「イスラエルの親族の頭たちの一部」もよくわからない言葉である。北イスラエルから逃れてきた人などがユダにはたくさんいたことは確かだが。
2 Chronicles 20:10 今、アンモン、モアブ、セイルの山の人々を見てください。かつてイスラエルがエジプトの地からやって来たとき、あなたは彼らの中に入るのを許されませんでした。そのためイスラエルは彼らから離れ、彼らを滅ぼすことはしませんでした。
多くの問題を感じてしまう。引用箇所と似た記述は何度か出てくるが、「アンモン、モアブ、セイルの山の人々」にとっての歴史解釈はおそらく異なるものだろう。他者のことを理解できないことを理解し、自分の見方にも反映させるのは非常に困難である。人を裁くことの背後には、自分はわかっているということがあることは確かである。おそらく、苦しみもあるのだろうが。しかし、他者の苦しみはわからない。それがわかっていないこともわからない。ある状況から「主がイスラエルの敵と戦われたことを聞くと、神への畏れが地のすべての王国に臨んだ。ヨシャファトの王国は平穏であった。神は周囲から彼を守り、安らぎを与えられた。」(29,30)でおしまいにすることは可能かもしれない。しかし、それで神様のみこころを理解したことになるのだろうか。求め続けていきたい。
2 Chronicles 21:12-15 彼のもとに、預言者エリヤから次のような手紙が届いた。「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。『あなたは父ヨシャファトの道、ユダの王アサの道を歩まず、イスラエルの王たちの道を歩み、アハブの家が淫行を行わせたように、ユダとエルサレムの住民に淫行を行わせた。また、あなたの父の家で、あなたよりも優れた兄弟たちを殺した。それゆえ、主は大きな災いをもって、あなたの民、子ども、妻、財産のすべてを打たれる。また、あなたは内臓の病で大病を患い、日に日に病が進み、内臓が外に出るまでになる。』」
エリヤという名前は歴代誌に他にも登場するが、預言者エリヤは、この一箇所のみである。列王記下1章および2章の記事からは、エリヤが天にあげられる時期ともとても近いように思われる。ここで、エリヤが登場する重要性については不明である。もっと交流はあったのではないだろうか。列王記上19章でエリヤがホレブまで行ったときも、ユダを通ったはずであるし、アハブやイゼベルとのことで、ヨシャファトやヨラムについても、何らかのメッセージを伝えていたのではないかと思われる。いずれにしても、この状況下においても「しかし主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えず灯を与えると約束されたからである。」(9)とあることばの複雑さを歴代誌記者はよく知っていただろう。引用句はもうすでに単純にダビデとその子孫との約束に、頼ることができないことを示唆しているのだろうか。
2 Chronicles 22:9,10 さらにアハズヤを捜し求めたところ、サマリアに潜んでいたアハズヤは捕らえられ、イエフのもとに連れて来られて処刑された。人々は、「これは心を尽くして主を求めたヨシャファトの子だ」と言って、彼を葬った。こうして、アハズヤの家には国を治める力を持つ者がいなくなった。アハズヤの母アタルヤは、息子が死んだのを知り、直ちにユダの家の王族をすべて滅ぼそうとした。
アハズヤは、ダビデの家系、ヨシャファトの子、そして、母アタルヤはオムリの孫娘、アハブの娘である。ダビデの子孫の統治が揺らいでいることを記述しているともいえる。神様がダビデにしたとされる約束と、イエフを通してアハブの家系を絶やすこと。その矛盾が出ているとも言える。むろん、合理的に解釈しようとするひともいるだろう。ただ、家系・系図から自由になることも、すでに見え隠れしているように思われる。それは、救い主としての「ダビデの子」についても、同様である。と思う。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3章9節)
2 Chronicles 23:20,21 さらに百人隊の長、有力者、民の支配者および国の民全員を率いて、主の神殿から王を連れて下った。彼らは王宮の上の門の中に入り、王を王座に着けた。国の民は皆喜んだが、都は静まり返っていた。彼らはアタルヤを剣にかけて殺したのである。
興味深い記述である。「国の民は皆喜んでいたが、都は静まり返っていた。」民はこのクーデターのために集まってきた民を指しているのだろう。都は、ヨシャファトの息子ヨラムが32歳から8年間(21:5,20)、その末の子アハズヤが42歳から1年間(22:2)治めたとある。この記述自体に問題があるが、そのあとアタルヤが治めていたと思われる期間が7年(23:1)である。イスラエルの王、オムリやアハブ、そしてその娘アタルヤ関係のひとや、その統治を助けたひとたちもエルサレルムはたくさんいたことだろう。この困難ななかでも、どうにかできないかと苦しみながら、助けたひとたちも。その複雑さがこのことばで表現されているのだろう。痛みも感じる。
2 Chronicles 24:17,18 ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪責のため、ユダとエルサレムに怒りが下った。
ヨヤダはクーデターにおいて大きな役割を果たしたのだろうが、それが全てではなかったろう。神殿改修においても、制度を定め「荒れ野で神の僕モーセがイスラエルに課した税を主に納めるようにとの布告」を出したのはヨアシュのようである。ヨヤダができたこととできなかったことがあったのだろう。しかし、歴代誌記者はこのようにまとめている。何が悪かったかを単純な理由で説明したかったのかもしれない。人間の性(さが)とも言える。客観的に、分析的に、考えると、単純に、悪者をみつけることも困難になる。そこから一歩を歩み出せるかでもある。
2 Chronicles 25:19 あなたはエドムを討ち破ったと言って、思い上がり、誇っているが、今は自分の家にとどまっているがよい。なぜ災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」
イスラエルの王ヨアシュのことばを引用している(列王記下14章9,10節参照)が、ここに本質をまとめているのだろう。これも、ひとつの解釈ではある。アマツヤのこの章の記述は、いろいろな要素があり、複雑に見える。おちついて、列王記とも比較してみたい。いつそれが可能かわからないが。
2 Chronicles 26:5 神を畏れることを教えたゼカルヤの在世中は、ウジヤも神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を繁栄させられた。
ウジヤは列王記ではアザルヤ(列王記下15章1節から7節)となっているが、その記述は短い。「主の目に適う正しいことを行った」(2Kg15:3)「主が王を打たれたので規定の病にかかり、離宮に住んだ」(2Kg15:5)である。歴代誌ではかなり詳細に記述されている。引用句のように、主の目に適うことを行った理由、規定の病にかかった理由まで書かれている。まさにひとつの解釈が書かれている。因果の「因」を特定している。おそらく「果」のほうの規定の病は事実なのろう。列王記を書いたと思われる預言者集団は、ウジヤが正しいことを行った「しかし、人々は高き所を離れなかった。」(2Kg15:4)としそのあとに、規定の病のことが続く。規定の病は主が背後におられると信じられていたようだから、そのことは書いているが、それを罪の結果、それもどのような罪とは特定していない。歴代誌を記述したと思われる祭司集団が、特別な情報を持っていたとも考えられるが、預言者集団はそれを知っていても、書かなかったかもしれないとも考えた。「因」を特定することで、他の課題が見過ごされるからである。正解(神様のみこころ)は不明であるとしながら、預言者集団や、祭司集団そして、アザルヤ(ウジヤ)や、民と共に、真理を生きる生き方を求めたい。それが、今のわたしの信仰告白である。聖書の解釈に一定の枠をはめることも可能だろうが。列王記下15章36節に『ユダの王の歴代誌』についても書かれていることを付け加えておく。情報の量の違いで片付けるのは、問題があるように思う。
2 Chronicles 27:2 彼は父ウジヤが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。
ここにも、ウジヤの背景がある。ウジヤの名前についても調べておこうとおもった。ウジヤ עֻזִּיָה(uzzîâ = my strength is Jehovah:主は我が力)アザルヤ עֲזַרְיָה(ʿăzaryâ = Jehovah has helped 主の助け)どちらも良い名前である。ヨタム יוֹתָם(Yôṯām = Jehovah is perfect 主は完全または完全な主)これも良い名前である。ウジヤについては、あまり批判する気にはなれない。まずは、病で苦しんだ人にたいし、その原因を罪と特定することに、問題を感じるからでもある。むろん、そのように解釈する人を、間違っているとして、交わりを切ることは問題だと思うが。「弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である』」(ヨハネ9章2-5節)わたしは、このイエスを主としているのだから。この世に住まわれた、生きてくださった主から学びたい。
2 Chronicles 28:12-14 エフライムの一族の頭のうち、ヨハナンの子アザルヤ、メシレモトの子ベレクヤ、シャルムの子エヒズキヤ、ハドライの子アマサは、軍から帰って来た者たちに対して立ち上がり、彼らに言った。「捕虜をここに連れて来てはならない。我々の上にある主に対する罪責を、あなたがたは我々の罪の上に増し加えようとしている。我々の罪責は大きく、燃える怒りがイスラエルの上にある。」そこで、武装した者たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を捨てた。
列王記下16章にアハズ王のことが書かれているが引用箇所のことは書かれていない。この章を読むだけでも、少なくとも、アラムだけでなく、アッシリアの脅威が大きかったこともわかる。歴史的には、北イスラエル王国は風前の灯で、列王記下17章で、サマリヤが陥落する。そのような背景のもとでのこととして、引用句が記されている。すごいひとたちがいたことがわかる。それも、ある程度の数いたのだろう。サマリヤや北イスラエル王国が滅んだ理由や、その後、南ユダ王国も滅んだ理由を検討することは大切だろうが、簡単な因果関係では理解できないことは、この記述からもわかるように、思う。王国の滅亡の裏だけでなく、これらの人々の背後にも、主はおられたのだろう。理解できたとせず、ていねいに、求め続けていこう。謙虚に、誠実に生きながら。
2 Chronicles 29:6 私たちの先祖は背信し、私たちの神、主の目に悪とされることを行い、主を捨てた。彼らは主の幕屋から顔を背け、背を向けた。
列王記下18章の記述によれば、ヒゼキヤの治世の第4年に、アッシリア王シャルマナサルがサマリアを包囲、三年後(長く持ちこたえたことになる)第6年にサマリヤを占領している。その背景のもとで、ヒゼキヤがどのように生きたか、統治しようとしたかが、書かれている。アハズ、ヒゼキヤについては、列王記でも、歴代誌でも、記述が詳細である。そして違う内容も含まれている。資料がたくさんあったのだろう。世界史をある程度知っているものとすると、虚しいことのようにも思えてしまう。しかし、それは、現代でも同じかもしれない。コロナ禍や、これからどのように世界が動いていくかはわからないが、それとはべつに、または、それだけでは評価できないものとして、ひとりひとりのいのちの営みがあるのかもしれない。わたしがどう生きるかだけでなく、それぞれのひとがどう生きるか、そこに神様は関心を持っておられるのかもしれない。たとえそうでなくても、そこに尊厳と価値があるように思う。預言書から読み取ることができることもあるかもしれない。簡単に、結論を導かず、ていねいに読んでいきたい。
2 Chronicles 30:1 ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使者を遣わし、エフライムとマナセには手紙を書いた。エルサレムの主の神殿に集い、イスラエルの神、主のために過越祭を祝うためである。
大々的な過越祭について書かれている。第二の月(2)とはあるが、何年かは書かれていない。3年間の包囲後のヒゼキヤの治世(BC729-BC687)の途中(BC722)にはサマリヤが陥落している。(列王記下17章)これは二度目で一度目の陥落は南ユダ王国も関与しているようだが、それより前である。これがいつのことだか不明だが、祭司が身を清めていなかった(3)との記述もあり、常に過越祭をしていてそれを拡大したものではおそらくないだろう。「そうすれば主は、アッシリアの王たちの手から逃れて生き残ったあなたがたのもとに帰って来てくださる。」(6b)の記述もあり、背景はわかるが、歴代誌は、北イスラエル王国の滅亡については書かない。全イスラエルと書かれている範囲に使者を遣わしたり、手紙を送ったりしてこのような企画をするということは、おそらく、滅亡後なのだろう。配慮に富んでいるとも言えるが、北イスラエル滅亡に関しては、アッシリアに加担したとも思えるので、背景は複雑である。ゆえに「急ぎの使いはエフライムとマナセの地を町から町へと渡り、ゼブルンまで行ったが、人々は彼らを物笑いにし、嘲った。それでも、アシェル、マナセ、ゼブルンから、へりくだって、エルサレムに来た者もいた。」(10,11)この解釈のしかたも、難しいのかもしれない。もう少し、この期間の出来事を丁寧に紡ぎ合わせて理解したい。ヒゼキヤは、主を求めようとしたことは確かだろう。それゆえ美化しようとすることは起こりうる。実際には、世界史的に、巨大王国時代に入り、小国が生き残ることは非常に困難になっている。このことも確かだろう。
2 Chronicles 31:19,20 また、アロンの一族、すなわち、町の放牧地に住む祭司たちのために、どの町にも指名された人々がいた。彼らは、祭司ならすべての男子と、レビ人なら登録されているすべての者に、取り分を分配した。ヒゼキヤはユダの全土でこのように行い、彼の神、主の前に良いこと、正しいこと、真実なことを行った。
21節「彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた。」の最後の部分の証拠を示しているのだろう。しかし、アッシリアにも貢をおくっており、北イスラエルや南ユダからもアラムやエジプトにも助けをもとめるような状態で、レビ族への分配がすぐにできるようになるとは思えない。おそらく、歴代誌記者の理想とする社会がこの(北イスラエルは滅び、南ユダも風前の灯火の)時代にもまだあったことを記述しようとしているのだろう。ヒゼキヤのようにすれば可能だったと考えたのだろうか。それほど単純ではないと考えてしまう。このときに、ユダの多くの町がアッシリアの侵略にあっているのだから。(列王記下18章13-16節参照)そして、おそらく、歴代誌記者もそのこともわかっていただろう。その苦しさも一緒に受け取らないといけない。主の平和をもとめる旅の途中では、正しさは限定的な意味しか持たないのだから。
2 Chronicles 32:27 ヒゼキヤは比類のない富と栄誉に恵まれた。銀、金、宝石、香料、盾、その他あらゆる宝物のための宝物庫を造り、
大英博物館にはラキシュの戦い(9)のレリーフがあり(YouTube: Lachish Battle Reliefs (https://www.youtube.com/watch?v=ZqFbxHZz_bU), Siege of Lachish in 3D (British Museum,   他にもたくさん関連のビデオや資料がネット上にある。)時間をかけて眺めたことがある。高い櫓をたてて攻めるなど、そのスケールに圧倒された。そのときに、なぜ、アッシリアが北イスラエルを制服し、ユダを攻めたのだろうと思った。(エジプトを含む地域の)覇権かなと思う。それは、税だろうか。支配欲もあるかもしれないが。それだけでは、帝国の拡大は続かないように思う。引用箇所には、ヒゼキヤが誇ったのも、富であったことである。比較もされていないので規模もわからないが、これを書くことで、アッシリアに圧倒されなかったことを示しているのかもしれないと思った。考え始めると難しい。ラキシュのあとエルサレムなのだろうが、人々は、いろいろなところに住んでいたわけで、エルサレムは、王や祭司にとっては重要だったろうが、ユダのひとたちにとっては、ほかのまちもたいせつだったろう。戦争、大国の覇権。そのなかで、ひとは一人ひとりどのように生きればよいのだろうか。考える要素はたくさんあると思った。
2 Chronicles 33:7,8 彼はまた自分が造った彫り物の偶像を神殿に置いた。その神殿について、かつて神はダビデとその子ソロモンにこう言われていた。「私はこの神殿に、イスラエルのすべての部族の中から選んだエルサレムに、私の名をとこしえに置く。私が命じたすべてのこと、モーセによるすべての律法、掟、法を行うように努めさえすれば、私があなたがたの先祖のものと定めた土地から、イスラエルを二度と移すことはしない。」
この約束も、聖書の中で、時代とともに、少しずつ表現が変わってきている。丁寧に比較することもたいせつだろう。しかし、受け取り側はこのように確信していったのだろう。「私が命じたすべてのこと、モーセによるすべての律法、掟、法を行うように努めさえすれば」これは、簡単なことではない。そして、イスラエルの外の世界との関係も重要性が増してきている中で、どのように、生きていったら良いのかは、すでに困難な状況に陥っているように見える。律法を守ることがなにを意味しているのか、解釈に幅があり、すくなくとも、主の御心に生きることからは離れてしまう。そして、主の御心がなにかを求めることは置き去りにされてしまう。さらに、人類全体における、真理(神のみこころ)探求との整合性、普遍性もなくなってしまうからである。ほんとうにむずかしい。しかし、この時代に生きていた一般のひとは、声さえあげられず、信仰深く生きようとしていたかもしれない。現代も似たりよったりのようにも思う。
2 Chronicles 34:33 ヨシヤはイスラエルの人々のすべての地から忌むべきものを取り除き、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主から離れることはなかった。
ヨシヤは歴代誌記者たちが望むすべてを完璧におこなったように見える。しかし、気になることもある。たとえば、預言者フルダのもとに向かったこと。もっと、意見を聞くひとは、たくさんいたのではないか。信仰的決断の弱点は、特定のひとから聞いたことを、神の言葉として絶対化することのように思われる。このときには、たとえば、アモツの子イザヤはいなかったのか。ミカや、イザヤの流れをくむ預言者集団はいたのではないだろうか。現代において考えると、セカンド・オピニオンや、宗教指導者に議論してもらうことは、多くの場合困難である。個人的に、これが神様から与えられた御言葉としてうけとり、内面化し、信仰告白としてそれを生きることは、信仰生活の重要な部分である。しかし、それを、他者にとっても、同様に、神の言葉として普遍化することは、注意すべきことである。宗教の場合、それがとてもむずかしいように思う。一人ひとりと神様の関係、そして神様が一人ひとりに示されていることをどう受け取るか。集団として何かを決めなければいけないとき、方向性をもとめるときは、やはり客観的な視点が必要である。ひとは、それをバランスよく、扱えるだろうか。
2 Chronicles 35:25 エレミヤはヨシヤのために哀歌を詠んだ。男も女もすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝え、今日に至っている。それはイスラエルのしきたりとなり、『哀歌』に記されている。
まず、ヨシヤのあっけない死について書かれている。エレミヤ書の冒頭は「ベニヤミンの地アナトトにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、主の言葉が彼に臨んだ。さらにユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。」(エレミヤ書1章1-3節)とあり、ヨシヤの治世は、31年(34:1)だから、エレミヤはかなりの期間を知っていることになる。引用した節の引照箇所は「死んだ者のために泣くな。/彼のために嘆くな。/去って行く者のために大いに泣け。/彼は二度と帰らず/自分の生まれ故郷を見ることがないからだ。」(エレミヤ書22章10節)「レバノンに上って叫び/バシャンで声を上げ/アバリムから叫べ。/あなたの愛する者が皆、砕かれたからだ。」(エレミヤ書22章20節)であるが、どうもピンとこない。エレミヤは、たとえば「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。」(エレミヤ22:3)のように、民に呼びかけているように、思われる。王の過越祭の壮大なパフォーマンスはどう評価していたのだろうか。歴代誌記者と、預言者集団の末裔とはどう関わっていたのだろうか。
2 Chronicles 36:21 これは、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである。
ヒゼキヤとその次のマナセ(33章)までは、アッシリアのことが書かれ、ヨシヤのときはアッシリアは登場せず、エジプト(35章)、そしてこの章で、バビロンのネブカドネツァルが登場する。カルデヤ人とも書かれている。南ユダ王国は滅び、エルサレムは神殿を含めて破壊され「彼はまた、剣を免れた生き残りの者をバビロンに連れ去った。この人々は、ペルシアの王国が統治するようになるまで、バビロンの王とその息子たちの僕となった。」(20)とある。最後に、「主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。」(22b)として、ペルシャ王キュロスの神殿建設の布告が書かれ歴代誌は終わっている。どの程度、世界の歴史を南ユダ王国は理解していたのだろう。そして、歴代誌記者は。神様のみこころ、そして、神の御手の働きは、自分が認識できる範囲から読み取る。非常にすくないサンプルから、帰納的に結論する。それは、仕方がないとして、自分がどの程度のことを認識できているかを知ることはとてもたいせつだと思った。自分には、わからないこと、神様の御心と確信したことであっても、他の理解の仕方をするひとがたくさんいるだろうということを認めることは必須であることも、理解しないといけないのかもしれない。神様のみこころとしてうけとめ、それを内面化し、自らを省み、神様のみこころにそう生き方をもとめることは、すばらしいことだと思う。しかし、受け取ったことを普遍化し、帰納的に得たことから演繹することは、サンプルがすくないときには、非常に危険であることも知らなければいけない。謙虚でありたい。引用句の「地は安息を得た」は、心に響く。現実は「荒廃」である。そして、他の民族が移り住んでくる期間でもある。出エジプトのイスラエルがそうであったように。そして、現代にも同じようなモデルがあるように。しかし、それをここでは、安息と表現している。主を求める民不在の期間を表現しているとも取れないこともなく、良い意味でも、悪い意味でも、考えさせられる。

BRC2019

2Chr 1:17 また彼らはエジプトに上り、戦車を一両銀六百シェケル、馬を一頭百五十シェケルで輸入した。同じように、それらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。
ソロモンは与えられた「知恵と識見」で何をしたのだろうか。「民をよく導くことができるように」(10)と、イスラエルの民を裁くために求めたものであった。そして「富と財宝、名誉」はあわせて主が与えられたこととある。実際には、ここでは、商取引のことが書かれている。それも、戦車と馬という軍事用のものである。何をしたかでは、判断できないのかもしれない。しかし、ソロモンについて、列王記記者や、歴代誌記者は、どのように判断しているのだろうか。ひとつひとつについても評価していたのだろうか。判断が難しい。
2Chr 2:12,13 今わたしは、聡明で熟練した者、職人の頭フラムを送ります。 ダンの娘を母とし、ティルスの男を父として生まれた彼は、金、銀、青銅、鉄、石材、木材、深紅の織物、青の織物、麻の織物、緋の織物を扱い、どんな彫刻も作り、ゆだねられればどんな計画でも立てる能力があり、そちらの熟練した者、かつてのわたしの盟主、あなたの父ダビデの熟練した者に力添えをすることができます。
ソロモンの依頼に答える、ティルスの王フラムの「主は御自分の民を愛して、あなたをその王とされた。」(10)と始まる返書の一部である。そして「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように。」(11)と主を讃美している。信仰していた神は異なるだろうが、最大限の配慮をしているように思われる。ティルス人の中からではあるが、イスラエル人の母を持つものを選んでいる。ある理解も必要だろうから。気になるのは、ソロモンの要求したものだが、神殿だけではなく、宮殿のものも多かったのではないだろうか。ダビデが、どの程度、神殿のために準備していたかは不明であるが、ダビデは、十分と考えていた量とも思えるからである。(歴代誌上22章・29章)また、寄留民を労役に賦している。これは、以前からあったことかもしれないが。ソロモンの行動には、すでに問題を少し感じる。このあとを知っているものの、あら探しなのかもしれないが。
2Chr 3:6 宝石で神殿を美しく飾った。金はパルワイムの金であった。
豪華絢爛たるものだったのだろう。もしかすると、ダビデが考えていたものとは、違っていたのかもしれない。このあと、この神殿の金などが、どうなるかを考えると、むなしさを感じる。しかし、ソロモンの威光は輝き、賞賛するものも多かったろう。どう考えれば良いかは本当に難しい。個人的には、物質的なものに対する警戒感が強く、主とどうむきあい、もとめ、生きていくかに集中すべきだと思うが。豪華な神殿が必要だと考える人も多いのだろう。
2Chr 4:3,4 「海」の下には周囲に牛の像があって、それを取り巻いていた。すなわち、その「海」の周囲には、「海」と共に鋳造された牛が一アンマにつき十頭の割合で二列に並べられていた。「海」は十二頭の牛の像の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いて「海」を背負い、牛の後部はすべて内側に向いていた。
「牛の像」というと、出エジプト記32章の「若い雄牛の像」ヤロブアムが作った「金の子牛二体」(列王記2章)を思い出す。牛はエジプトの守護に関わるのだろう。もちろん、牧畜が主たる生業の当時のイスラエルの人たちにとっては、牛は他にもいろいろな意味をもっており、捧げ物でもっとも大切だったのは、牛だったろう。しかし、牛の像とあり、やはり、少し気になる。
2Chr 5:12,13 レビ人の詠唱者全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子らと兄弟らは、麻布の衣をまとい、シンバル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立っていた。ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。
契約の箱の神殿への移動。最大限のことを、こころから行ったのだろう。おそらく、そのことを、主は喜ばれる。心からの捧げ物だから。しかし、部族の長たちの捧げ物は、多少書かれているが、一般の人がどのように関わったかは、あまりよくわからない。エルサレム以外に在住の人たちはどうしたのだろうか。そして列王記6章から8章の記述とはだいぶん違うように思われる。いつかしっかり比較してみたい。
2Chr 6:41 神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなた御自身も御力を示す神の箱も。神なる主よ、あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。
「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(18)と祈っているが、最後には、特定の場所に、入るよう祈っている。この章には「この神殿」ということばが頻繁にあり、38節には捕囚後、神殿の方をむいて祈ることも書かれており、特別な場所となっている。使徒言行録7章のステファノのメッセージのひとつの重要な要素でもあり、キリスト者が、エルサレム詣をしないことにもつながっている。しかし、これは、捕囚にあった人たちにとっての慰めだったのかもしれない。あまり普遍主義を全面にだしても、慰めは得られないのだから。
2Chr 7:15,16 今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。
「この所」「この神殿」をキリスト教徒が重要視しなかったのは、イエスの説いたことにも依っているだろう。普遍性が高いメッセージである。しかし、ときも重要なのかもしれない。この当時のひとに、普遍的なことを説いても、理解できなかったろう。AD70年に神殿が破壊され、民も、散り散りになったことも、関係しているだろう。そして、異邦人に、特定の場所を示すことはせず、霊的な宮を大切にしたということだろうか。イスラム教は、場所と大切にしている。シオニズムの擁護者は、キリスト者にも多く、エルサレムを特別なものとしている。このあとの歴史にも大きな影響があったことは確かである。
2Chr 8:11 ソロモンはファラオの娘をダビデの町から、彼女のために建てた宮殿に移した。「わたしの妻はイスラエルの王ダビデの宮殿に住んではならない。そこは主の箱を迎え入れた聖なる所だ」と考えたからである。
列王記では、まず「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った。」(列王記3章1節)とあり、「彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。」(列王記7章8節)「ファラオの娘が、ダビデの町から彼女のために建てられた宮殿に移って間もないころ、ソロモンはミロを建てた。」(列王記9章24節)と記録がある。歴代誌のような記録はないが、ファラオの娘の家については、丁寧に書かれている。その背景の説明または理解が書かれているのだろう。信仰的な決断だとしているのだろう。好意的である。
2Chr 9:8 あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです。」
シェバの女王の記事は列王記10章1節から5節と同じで、この引用箇所もまったく同じであるように思われる。基本的に同じで、宗教に関する部分のみ、コメントを足しているのだろう。違いを拾い上げる読み方がどの程度たいせつなのかは、わからないが、記者について、そのメッセージについては理解したい。帰還後どのように考えたかは重要だろうから。
2Chr 10:17 レハブアムは、ただユダの町々に住むイスラエル人に対してのみ王であり続けた。
10章は、列王記12章1節から19節と一字一句異ならないのではないかと思う。しかし、列王記上12章はそのあとに、ヤロブアムの金の子牛のことなどが続く。引用した節も同じである。今回気づいたのは「ユダの町々に住むイスラエル人」という表現である。レビ族をのぞいても、部族で完全に分かれていたわけではないのだろう。分裂後の移動については書かれていないが、十分あり得ることである。ユダを中心としていることは、確かだろうが。
2Chr 11:13,14 イスラエル中の祭司とレビ人は、そのすべての領土からレハブアムのもとに集まって来た。レビ人が自分の牧草地と所有物を捨ててユダとエルサレムに来たのは、ヤロブアムとその子らが彼らを遠ざけ、主の祭司であることをやめさせたからである。
上に書いた移動について書かれている。列王記にはないようである。自分の牧草地と所有物を捨ててという記述がある。大きな決断だったろう。また、それが、歴代誌に書かれていることも、印象的である。レビ以外は、移動が難しかったかもしれない。例外的なものはあったかもしれないが。(16節参照)金の子牛はここでは「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた。」(15)と記述されている。列王記上12章25節〜33節参照。
2Chr 12:5 預言者シェマヤが、シシャクのことでエルサレムに集まっているレハブアムとユダの将軍たちのところに来て言った。「主はこう言われる。『あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す。』」
このあとには、レハブアム王と共に将軍たちもへりくだって、主に立ち返ったことが書かれているが「彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王国に仕えることとの違いを知るようになる。」(8)と結んでいる。『預言者シェマヤと先見者イドの言葉』の記録もあると書かれている。「律法を捨てた」(1)などの記述は列王記には無いようである。イスラエルおよびユダが捕囚となった理由では無く、ソロモンの次のレハブアムの時代ですでに、このように因果関係を明確にしている。困難な状況に陥ったとき、それをどう考えるかは、本当に難しい。旧約のこれらを、記述通り、主がこのように示したと理解するのだろうか。ひとつの教育の一段階なのだろうか。個人と国の盛衰は同じなのだろうか。イエスのメッセージはすこし違うように思われる。
2Chr 13:9 また主の祭司であるアロンの子らとレビ人を追い払い、諸国の民と同じように自分たちの祭司を立てているではないか。若い雄牛一頭と雄羊七匹をもって任職を願い出た者が皆、神でないものの祭司になっている。
この記述は興味深い。まず、祭司とレビ人を追い払ったこと。それとは別に、捧げ物をもって、任職を願い出たものは、ヤロブアムとそれに従うもの達の祭司としているという。この者達も「主の祭司であるアロンの子らとレビ人」であったのか、まったく一般公募であったのか、不明であるが、ヤロブアムの賢さも感じてしまう。歴代誌としては、最悪なことなのだろうが。なにか、ヤロブアムの賢さからは、伝わっているものがある。考えさせられる。
2Chr 14:13,14 彼らはまたゲラルの周辺にあるすべての町をも撃った。主への恐れが彼らを襲ったからである。彼らはそのすべての町で略奪をほしいままにした。そこには奪い取れるものが多かったからである。彼らは家畜の群れの天幕も打ち払い、多くの羊とらくだを捕獲して、エルサレムに帰った。
これらの行為が「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。」(1)のまとめのもとで書かれている。クシュ(現在のエチオピアのあたり、ナイル川上流だが、このときエジプトはどうなっていたのだろう)を打ち負かした後に、その周辺の土地を略奪したという記事である。そのことを、正しいとした人たちとも、共に生きたい。互いに愛し合う者となりたい。むろん、ゲラルの人々や、クシュのひとたちにも寄り添って。寛容(互いに異なる歴史・文化・アイデンティティーをもつ人びとの集団の平和共存)とともに、頑固さやある人々の間の伝統を維持することが大切と、村上陽一郎氏は言うが、確固たる価値観を持ちつつそれを他者と共に生きる中で絶対化しない、それは、個人の努力でできるものではないように思われる。観念的に理想化しすぎているのかもしれない。毎日を誠実に生きながら考え続けたい。
2Chr 15:13 子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられるという契約を結んだ。
この章に書かれている事柄を神様の御心としたということだろうか。大変な不寛容である。内部に対して厳しいという考えもあるが、内部と外部を区別することの問題もある。それと、変化を許容してもいない。捧げ物も略奪したもの、このようなことに服従することを喜ぶ。キリスト教会でもあるのかもしれない。たとえそうであっても、そのようなひとたちともともに生きることを求めたい。すくなくとも、それが、今、神様から受け取っていることだから。主観的なのかもしれないが。いたしかたない。
2Chr 16:14 彼はダビデの町に掘っておいた墓に葬られた。人々は特別な技術で混ぜ合わせた種々の香料の満ちた棺に彼を納め、また彼のために非常に大きな火をたいた。
正確な意味は不明であるが、人々からは慕われていたということの表現ではないだろうか。41年もの長い間治めたアサに対しては、様々な思いがあったろう。バシャとの戦争において、アラムに援助を求めたこと、それを先見者ハナニに指摘され、投獄したり、他の人を虐待したり、また、病の時に薬をもとめたことなど、単純には判断できない面がある。気づいたことは、政務と個人のことは分けて記述しているのかもしれないことである。他も調べないとわからないが「アサの事績は、初期のことも後期のことも、『ユダとイスラエルの列王の書』に記されている。」(11)の位置が気になった。個人的には、歳をとると気をつけるべきことがあることである。アサの行為は、年寄りが陥りそうなことだと思う。ハナニの厳しさに対し、わたしのように「それほど単純では無いよ」と言ったのかもしれない。
2Chr 17:1,2 アサに代わってその子ヨシャファトが王となり、イスラエルに対抗して勢力を増強した。彼はユダの砦の町のすべてに軍隊を配置し、ユダの地と父アサが占領したエフライムの町々に守備隊を置いた。
兵力増強や、守りを固めることは、批判の対象ではないらしい。しかし、この記述をみると、すでに、アッシリアなどが興っているときに、非常に地域的な争いに終始している気もしてしまう。アサもヨシャファトも真摯に主に従おうとしたことは、おそらく、正しいのであろうが。具体的なことは、判断が難しい。軍備についても、1度調べてみたい。このときが最大だった可能性もある。人口も増えたのだろうか。それとも、兵の割合が増えたのだろうか。
2Chr 18:34 その日、戦いがますます激しくなったため、イスラエルの王はアラム軍を前にして夕方まで戦車の中に立っていたが、日の沈むころ息絶えた。
わたしは、列王記上にも記事のある、問題のあるアハブ王にも、同情もする。身近に感ずるという方が正確だろうか。完全に自己中心なら、傷を負って、戦車の中に立ち続けることはしないのではないだろうか。ヨシャファトとの対応も、誠実に行っているように思われる。むろん、問題もいくつもある。しかし、問題を見つけることで、あり因果関係をみつけ、理解したようになること、それを、主は願っておられるのだろうかと考えてします。もっと複雑、神様の名は不思議だから。
2Chr 19:2 先見者ハナニの子イエフは、ヨシャファト王の前に進み出て言った。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。
引用した言葉についての評価は書かれていない。列王記には「ヨシャファトの他の事績、彼のあげた功績、また戦いについては、『ユダの王の歴代誌』に記されている。」(列王記上22章46節)とあるので、記録としての歴代誌は、列王記と同時代に存在していたことになるのだろう。この章の記述は、列王記にはないようだ。「ベエル・シェバからエフライムの山地まで」巡回して、民を先祖の神に立ち返らせたこと、ユダの砦の町に裁判官を立て、「人のためでは無く、主のため」を強調していること、さらにエルサレムでの司法の整備、「主に関する事柄」と「王に関する事柄」さらに補佐の任命など、現代にも通じる、組織作りもしている。素晴らしいと考えてしまうのは、間違いなのだろうか。ひとのできることは、すべきことは何なのだろうか。
2Chr 20:9 もしわたしたちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください。
ヨシャファトの祈りである。「この神殿にこそ」と強調されている。この戦いについて書かれていることは、不思議でもある。「彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。するとアンモン人とモアブ人は、セイルの山の住民に立ち向かい、一人残らず討って、全滅させた。セイルの住民を絶やすと、彼らは互いに戦って自滅した。」(22, 23)賛美の歌と伏兵とで混乱して、ユダに攻め込んできたはずの、アンモン人、モアブ人が、脅威であった、セイルの山の住人を打ち破っただけでなく、同士討ちをして倒れたということだろう。世界史的に見ると、ユダ周辺の部族間の争いに過ぎないように思われる。(21章8節参照)同時に、このようなひとつひとつを振り返りながら、なぜ、預言者の働きが活発でありながら、神に反抗し続けたイスラエルだけでなく、神殿を中心とした礼拝をしているユダも滅ぼされたのかを問うているのかもしれない。
2Chr 21:19 来る日も来る日も苦しみ、二年ばかり後には、その病のために内臓が出るようになり、彼はひどい苦しみにあえぎながら死んだ。民は、その先祖のために火をたいたようには、彼のために火をたくことをしなかった。
歴代誌下16章14節には、「彼(アサ王)のために非常に大きな火をたいた」とある。火をたくことがともらいにおいて大切で、ここではそれをしなかったということだろう。病のことも、その他のことも、因果応報だと言っているのだろうか。説得力はある程度あるが、わたしには、イエスの教えとだいぶん距離があるように感じる。また、ヨラムの周囲にも、多くの人たちがいたであろうから、ヨラムだけに責任を負わせることにも、問題を感じる。絶対王政といわれるほど、確立していたとは思えない。だれかの責任にすることで良いのだろうか。
2Chr 22:1,2 エルサレムの住民は、ヨラムの最年少の子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラブ人と共に陣営に攻め込んできた部隊によって年上のすべての王子が殺されてしまったからである。こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアタルヤといい、オムリの孫娘であった。
わたしがいつも混乱する場所である。「ヨラムは三十二歳で王となり、八年間エルサレムで王位にあった。」(21章5節)とあり、引用箇所では、ヨラムの最年少の王子がこのとき、42歳とある。さらに「アハズヤは彼らの勧めによって、イスラエルの王、アハブの子ヨラムと共にアラムの王ハザエルと戦うため、ラモト・ギレアドに行った。しかし、アラム兵がヨラムに傷を負わせた。」(5)とある。イスラエルの王がこのときヨラムである。まずは、自分でじっくり考えてから、解説を見てみたい。
2Chr 23:11 そこで彼らは王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡して、彼を王とした。ヨヤダとその息子たちは彼に油を注いで、「王万歳」と叫んだ。
ほとんど同じ文章が列王記にある。「そこでヨヤダが王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡した。人々はこの王子を王とし、油を注ぎ、拍手して、『王万歳』と叫んだ。」(列王記下11章12節)「掟の書」に関する記述は、この二カ所だけである。ダビデの名が何回か書かれている。「ダビデ王の槍と大盾と小盾」(9)まで書かれており、驚かされる。列王記の記述と少しずつ異なる。「祭司は主の神殿に納められているダビデ王の槍と小盾を百人隊の長たちに渡した。」(列王記下11章10節)
2Chr 24:22 ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」
ヨアシュも、ヨヤダの教育を受けたと思われるが、追従していただけだったのかもしれない。すると、ヨヤダにも責任がないとはいえない。その子、ゼカルヤが、おそらく、ヨヤダ存命中には、なにも言えなかった、役人たちと共謀して殺される。このなかで、ゼカルヤは、責任の追及を願い、歴代誌記者も、それを支持しているように思われる。正直、混沌としている。記者にとっても、明確では無かったのかもしれない。
2Chr 25:7,8 ところが、ある神の人が来て言った。「王よ、イスラエルの軍隊を同行させてはなりません。主はイスラエルの者、すなわちどのエフライム人とも共においでにならないからです。もし行くなら、単独で行って勇敢に戦いなさい。そうでなければ、神は敵の前であなたを挫かれます。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。」
非常に立派な助言に聞こえるが、預言者の対応として一貫性があるわけではない。気になるのは、たしかに、セイルの軍に勝利はおさめるが、同時に「他方、アマツヤが戦いに同行させずに送り返した部隊の兵士らは、サマリアからベト・ホロンまでのユダの町々を荒らしまわり、三千人の住民を打ち殺し、略奪をほしいままにした。」(13)とも書かれており、このあとのセイルの神々をまつることなどを考えると、かなりの混乱が見られる。アマツヤの最後を見ても、おそらく、民の評価も幅があったのだろう。むずかしい。
2Chr 26:15 彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
ウジヤについては列王記下15章にアマツヤの子アザルヤとして登場する。重い皮膚病については「主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。」(列王記下15章5節)とあるだけで、何の経緯も書かれていない。比較すると、歴代誌での記述が詳細であること、重い皮膚病の原因が重視されていると思われることである。「神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、彼も主を求めるように努めた。」(5)との記述もあるが、24章21, 22節のゼカルヤとは別人なのだろうか。混乱ともとれる。しかし、他にも、上に引用したような記述がある。ウジヤは、農業を愛したり、軍を整備したり、さらに、高度の技術も使ったようである。「神の驚くべき助けを得て」とある一方「彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。」(16)と歴代誌の評価は厳しい。
2Chr 27:2 彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。
ウジヤもそれなりに評価はされていることがわかる。しかし、気になったのは、この彼(ヨタム)のときに、北イスラエルは、一回目の捕囚を経験していることである。 「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。 」(列王記下15章29節)なにかとても悲しさを感じる。歴代誌記者は、世界情勢については、まったく関心が無かったのか。信仰とは、どのようなものだったのだろう。考えてしまう。
2Chr 28:23 彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげ、「アラムの王の神々は、王を助けている。その神々に、わたしもいけにえをささげよう。そうすればわたしも助けてくれるだろう」と言った。しかし、その神々はアハズにとっても、すべてのイスラエルにとっても、破滅をもたらすものでしかなかった。
このあとにも、悲しい施策が続く。「神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じ」(24)「聖なる高台」を至る所に築き、他の神々を拝む。混乱の時期である。これを「彼(アハズ)は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。 」(1)と最初にまとめている。様々な民族の間で争いがあるようだが、アッシリアの巨大化によって、この地域は、大きな混乱の中にいるように思われる。
2Chr 29:7 また彼らは前廊の扉を閉じ、ともし火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたくことも、焼き尽くす献げ物をささげることもしなかった。
アハズのしたことからの回復である。かなり徹底して行ったことがこのあとの記述からもわかる。現代と比較すると、このように、心を込めて、主に従おうとしているものたちを結局は滅ぼしてしまう、主の意図を理解することは、困難だったろう。わたしたちは、イエスを通して、何を学んだのだろうか。
2Chr 30:25 こうして、ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った。
ヒゼキヤが行った過越祭についての記事である。その布告は「イスラエルの人々よ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち帰れ。そうすれば主は、アッシリアの王の手を免れて生き残った人々、あなたたちに帰ってくださる。」(6b)と始まる(6-9)。ヒゼキヤが「そうすれば」と語ったこと、さらに「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。」(9a)なにか、むなしく映る部分もある。しかし、このように、主に従おうとし、引用したように、共に喜び祝うことは、素晴らしいことだと思う。過越祭は、主の恵みと憐れみ深さを顧みることだろうから。
2Chr 31:21 彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。
これ以上はない賞賛がここにあるように思われる。しかし、同時に「更に彼はエルサレムに住む民に、祭司とレビ人の受けるべき分を提供するように命じた。これは、祭司とレビ人が主の律法のことに専念するためであった。 」(4)を読むと、これがなされていなかった時期がおそらくかなり長かったことも推測される。嗣業地は町の周辺に限られていた、祭司・レビ人は、どのように生活していたのだろうか。特に、北イスラエルにいた祭司や、レビ人は、どうだったのだろうかと気になる。一部、ユダに逃れてきたことが書かれているが、記述があまりにも少ない。それを予想はできても、知ることはできないのかもしれない。
2Chr 32:15 そのようにしてヒゼキヤに欺かれ、唆されてはならない。彼を信じてはならない。どの民、どの国のどの神も、わたしの手から、またわたしの先祖の手からその民を救うことができなかった。お前たちの神も、このわたしの手からお前たちを救い出すことはできない。」
これらの言葉は非常に「科学的・実証的」である。ここでそれに対抗するものとして書かれているのは「神風」的な「特殊性」である。米国には、この米国だけはとくべつという考えが強いという。建国のもととなったプロテスタントの移民も分離主義者が主であった。主を信じているわたしたちだけは違う、例外である、という論理である。しかし、そう考えると、どうしても、誰が例外かを決めることになる。大切にしているのは、こっちかあっちかではない、という考え方もあるだろう。共に、喜び、共に、悲しむことは、できないのだろうか。敵を愛することはできないのだろうか。
2Chr 33:19 彼が祈って聞き入れられたこと、彼のすべての罪や背信の行為、また、へりくだる前に聖なる高台を築き、アシェラ像と彫像を立てた場所については、『ホザイの言葉』に記されている。
マナセがへりくだった記事は、列王記にはない。そしてこのマナセこそがユダを滅ぼしたとしている。「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。」(列王記下23章26節、参照:列王記下24章3・4節)ここでは、『ホザイの言葉』という聖書の他の箇所には出てこないものを証拠としてあげている。実際には、不明である。おそらく、評価も人によって異なったのかもしれない。神様の意図はどこにあるのだろうか。難しい。自らを省みながら、イスラエル・ユダのひとたちと共に、悲しみ、苦しむことは、できるかもしれない。
2Chr 34:25 彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって注がれ、消えることはない。
繰り返し、他の神々に香をたく、人々のことを考えた。苦しみが多く、頼れる者なら何にでも頼りたいという気持ちだったのかもしれない。そして、この預言者フルダの言葉も、厳しいように見えるが、状況を生活に捉えていたのかもしれない。ヨシヤの改革で、完全に回復するわけでは無いことを。苦しみの時である。簡単な処方箋はない。衰えるばかりだ。最近は、ずっと、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の友人のブログを読んでいる。この病との戦いを、その病を背負った生が綴られている。日に日に衰えていく、状況を克明描写しながら。真摯な営みにわたしも加わりたいと願う。
2Chr 35:21 しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」
「ヨシヤはエルサレムにおいて主の過越祭を祝い、第一の月の十四日に過越のいけにえを屠った。」(1)ヨシヤは、レビ人にも指導力を発揮している。祭司が表に出ること、預言者に導かれること、王が主導すること、いろいろである。そして、ここでは、ネコからの言葉もある。敵はバビロニアだろうが、巨大帝国がエジプトにとっても、脅威となってきたのだろう。世界の動きを、ヨシヤはわかっていないように見える。どうしようもなかったのか。神の御心を見極めることはとても難しい。神も、逐一知らせるようにはしておられないのかもしれない。どうじに、この苦しみをも、見ておられると信じたい。
2Chr 36:3 しかし、エジプトの王はエルサレムで彼を退位させ、その国には科料として銀百キカル、金一キカルを課した。
正確にはわからないが出エジプト25章39節によると金一キカルは燭台に使った量である。他にも王冠の重さであったりする。(サムエル記下12章30節)科料としては、とても少ないように思われる。エジプトにとって、エルサレムは重要では無かったのかもしれない。このあとの、展開が非常に早く、詳細があまり書かれていない。「先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(15, 16)に記者の評価が集約されている様である。ヨシヤ以降は記述するに値しないとしているのかもしれない。この痛みは、痛みとして、詳細を記述して欲しかったと思うが。

BRC2017

2Ch 1:1 ダビデの子ソロモンは自分の支配を固めた。彼の神、主が共にいて、彼を高め偉大な者とされた。
祝福の内に主と共に生きることは、とても難しいように思われる。13節で犠牲をささげ祈ってからエルサレムに帰ったことが記されてからすぐ「ソロモンは戦車と騎兵を集め」となっている。祝福を人間的な手段で確保しようとし始めるのだろうか。わたしも注意したい。祝福の生活を確保しようと考え始めるとき、ひとは、自分で自分にわなをかけはじめることになる。
2Ch 2:16,17 ソロモンは、父ダビデが人口を調べたように、イスラエルの地にいるすべての寄留民の人口を調べたところ、その数は十五万三千六百人であった。 そのうち七万人を荷役の労働者、八万人を山で石を切り出す労働者、三千六百人を民を働かせるための監督とした。
この記述も様々な事を考えさせられる。まず列王記上5章30節付近に記述があるが、人数は監督が3300人と微妙に異なっている。また、同じ数が、1節にも現れるが、列王記と1節には現れない、寄留民のことがここに書かれている。この記事によると、まず、寄留民の人口を調べ、それらを、労働者としたとのことである。この前には、職人の頭フラムのことが書かれ、混血のひとで非常に有能な人が神殿建設の指揮をとったことも書かれている。歴代誌記者はなにを伝えたかったのだろう。そして、この労働者の記述は正確なのだろうか。寄留者の立場は当時どのようなものだったのだろうか。混血のひとは。
2Ch 3:1 ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。
ここで神殿の位置の正当性を述べているように思われる。モリヤは創世記22章2節に「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」と書かれている場所である。おそらく、だれでもこの話を知っていたろう。そしてこの箇所である。つまり、モリヤは聖書に二回しか登場しない。オルナンの麦打ち場については、歴代誌上21章に、ダビデが疫病のあとに犠牲を献げた場所として現れるが、それも、サムエル記下にはない。この二つを併せて、神殿の位置を定めたように書かれている。歴代誌記者にとっては、神殿がエルサレムのこの場所、つまり、ソロモンによって建てられら神殿の場所が絶対的なものだったのだろう。いまの、ユダヤ教ではどのように、考えているのだろうか。「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。』」(ヨハネ4章21節)「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4章23,24節)この主のことばの意味を理解したい。
2Ch 4:1 ソロモンは青銅製の祭壇を造ったが、その長さは二十アンマ、幅は二十アンマ、高さは十アンマであった。
アンマは肘から中指の付け根までの長さとされ、44cm 程度と書かれているものもある。(9 m) x (9 m) x (4.5 m) となる。高さがかなりあるので、作業台のようなものも必要だったろう。遠くから見えるためだろうか。この記事が書かれたのが、通常第二神殿といわれる、帰還後の神殿再建のころと考えると、第一神殿(ソロモンが建てた神殿)についての詳細な記述は、重要だったろう。同じようにはできなかったと考えられるが、何をそこに求めたのだろうか。
2Ch 5:10 箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトから出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセが納めたものである。
出エジプト記16章などと、申命記5章1節から5節に「箱」についての記述がある。申命記31章26節には「この律法の書を取り、あなたたちの神、主の契約の箱の傍らに置き、あなたに対する証言としてそこにあるようにしなさい。」の記述もあるが、これは、実施されていたのだろうか。また出エジプト記16章33節・24節には、マナをいれた壺も「掟の箱の前に置いて蓄えた」とある。また民数記17章25節などに「アロンの杖」も箱の前にあったこともわかる。しかし、調べた限りでは、確かに、箱の中にいれたのは、掟が記された石の板二枚だったようである。箱のまわりのものは、どうなってしまったかと考えてしまう。それが、神殿が汚されたことの実際的な面だったのかもしれない。
2Ch 6:40,41 わが神よ、この所でささげる祈りに目を向け、耳を傾けてください。 神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなた御自身も御力を示す神の箱も。神なる主よ、あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。
6章は歴代誌の神殿奉献の祈りである。列王記上8章12節から53節にソロモンによる神殿奉献の祈りが記録されている。通読の中では、詳細を比較することはできないが、似ている部分と異なっている部分の両方があるように思われる。いつか丁寧に学んでみたい。神殿の建てられた場所エルサレムが重要であることを歴代誌ではまず強調しているように思われる。引用箇所は最後の部分である。ここには、祭司と民についてあり、祭司の存在は「救い」に関わること、そして、民の幸せは「神の慈しみ」に生きること、としている。祭司の役割に特に興味をひかれる。
2Ch 7:15,16 今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。
エルサレム神殿への究極のこだわりがここに表現されている。その原理から考えると、イエスの教えや、ステファノのメッセージは受け入れられないだろう。このことばは「その夜、主はソロモンに現れ、こう仰せになった。」(12節)から始まっている。列王記には「ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。」以下の1節から3節の記事もないようだ。そして、ソロモンに再度現れる記事はあるが、奉献のあとのここにある神のことばもない。ゆっくり比較してみたい。イエスは、ここにも立ち向かっている。
2Ch 8:1,2 ソロモンは、二十年を費やして主の神殿と王宮を建て終わると、 フラムから贈られた町を次々と再建し、そこにイスラエル人を住まわせた。
ソロモンが為したことが次々に記録されている。評価は簡単ではないかもしれないが、多岐にわたる施策には、驚かされる。賢かったことは確かなのだろう。その上で、歴代誌記者は何を伝えようとしているのだろうか。単に、事績の記録ではあるまい。取捨選択や、編集もあるだろうから。
2Ch 9:29 ソロモンの他の事績は初期のことも後期のことも、『預言者ナタンの言葉』『シロの人アヒヤの預言』『ネバトの子ヤロブアムに関する先見者イエドの見た幻』に記されている。
歴代誌上29章29節には「ダビデ王の事績は、初期のことも後期のことも、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されている。」とあるが、『シロの人アヒヤの預言』はここのみ(アヒヤはこのアヒアと特定できない者もあるが多数)「先見者イエド」はここのみである。つまり、引き写しをしていないとすると、これらが歴代誌が書かれた時代に存在下のだろうか。最初の二つとサムエル記上下との関係なども、気になるが、全く不明としか言えない。しかし、何か記録が存在したことは、十分考えられる。
2Ch 10:15 王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。
ヤロブアムの言葉は、列王記上11章29節から32節にあるが、歴代誌には記されていない。列王記では預言者のことばの実現が重視され、歴代誌ではさほど重視されていないとも言えるし、歴代誌の中で話が完結していないことを示していると言っても良いだろう。列王記上12章15節の引用である。「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは主の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」なぜ「主の計らい」が「神の計らい」に帰られているのだろうか。その次は「主は」を維持していながら。
2Ch 11:23 また彼は賢明に行動し、その息子たちの何人かをユダとベニヤミンの全土に、すなわちそのすべての砦の町々に配置して、豊富な食糧を彼らに与え、また大勢の嫁を彼らのために探し求めた。
列王記上では14章21節から30節にレハブアムに関する記事があるが、かなり内容がことなり、引用箇所は書かれていない。それが何を意味しているかは、内容を詳細に比較検討しないと分からないであろう。一つは、上記の箇所から人間としての賢明さが伝わってくること、そして「レハブアムの他の事績、彼の行ったすべての事は、『ユダの王の歴代誌』の中に記されている。」(列王記上14章に29節)がこの記事を指しているのかどうかという疑問が残ることである。他に似た記録があったのだろうか。歴代誌記者が、列王記の変更はしていないと思うが。
2Ch 12:1 レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた。
列王記上24章22節から24節の記述とはかなり異なる。22節は「ユダの人々は、主の目に悪とされることを行い、その犯した罪により、先祖が行ったすべてのことにまさって主を怒らせた。」とあり、ユダの人々について書かれており、エジプトの王シシャクが攻めてきたことが書かれているが、この悪とはリンクされていない。歴代志下本章の後半には「王がへりくだったので、主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった。ユダにも良い事があった。」とあるが、見方が狭量であると感じさせられる。帰還後に宗教中心の国家建設に取り組んでいた人たちにとっては、単純なメッセージが必要だったのかもしれない。そのいみで、歴史を記録する書とは異なるのだろう。
2Ch 13:10 しかし、我々にとっては、主が我々の神であり、我々は、その主を捨てはしない。主に仕える祭司はアロンの子孫とレビ人で、その使命を果たしている。
列王記上15章1節から8節にある記事とはかなり異なる。その4節には「彼の神、主は、ただダビデのゆえにエルサレムにともし火をともし、跡を継ぐ息子を立てて、エルサレムを存続させられた。」とあり、契約に忠実である、神の側に焦点が当てられている。他に文書があったことは、考えられるが、なぜこれほどまで違う記事が入っているのだろうか。引用箇所以下祭司関連の記述とともに、ヤロブアムとの戦いの記述が詳しい。列王記上15章6節はアビヤムについての記事の途中でありながら「レハブアムとヤロブアムとの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった。」と記録するのみである。歴代誌記者は、かなり丁寧に書こうとしていることも事実である。
2Ch 14:6 彼(アサ王)はユダの人々に言った。「我々はこれらの町を築き、城壁を巡らし、塔を建て、城門を造り、かんぬきを付けよう。我々は、我々の神、主を求めたので、この地を保有することができる。主を求めたからこそ、主は周囲の者たちから我々を守って、安らぎを与えてくださったのだ。」そこで彼らは建設を始め、完成した。
これも、歴代誌固有記事と思われる。「我々は、我々の神、主を求めたので」「主を求めたからこそ」を「主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。」(5節)の原因としている。同時に、町の防御を固めている。賢さもうかがえる。しかし、歴史のなかの神の働きをどう捕らえるかは、おそらく、そう簡単ではないのだろう。つまり、因果関係または相関関係を科学的には証明または推定できない。だからこそ、無神論も増える。この問いは、持ち続けることがたいせつであるように思われる。
2Ch 15:19 アサの治世第三十五年まで戦争はなかった。
列王記上15章16節には「アサとイスラエルの王バシャの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった。」とある。アサの治世は41年であったことが、列王記上15章10節にも、歴代誌下16章13節からも分かる。16章1節は治世第36年にイスラエルの王バシャとの戦いがあったことが記されている。記述の差を事実の差ととることは十分できるだろうが、歴史観、だれがそのように見たかにも依ることも事実だろう。上に書いたやすらぎについて、歴代誌記者は書きたかったのだろう。そして、実際の戦いについて16章のように記述する。しかし、同時に同じ著者が書いているという単純な逐語霊感説に対しては、ある程度の疑問も提示する箇所ではあろう。「戦争はなかった」ということを、信仰告白的なものと捕らえるのは、無理があるのだから。
2Ch 16:9 主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く。」
19章2節とこの箇所(7節)に現れる先見者ハナニのことばの最後の部分である。アサ王がイスラエル王バシャがユダに攻めてきたときに、アラムの王ベン・ハダドに贈り物を送って、援軍を得たことを批判したものである。注意をひくのは「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」という一文である。このあとに続く判断は別として、非常に広い視野に驚かされる。イスカリオテでない方のユダに「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と聞かれて返した答え「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14章21節・22節)「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)との関連も感じさせる、ある普遍性がある。
2Ch 17:7 彼はその治世第三年に、高官たちベン・ハイル、オバドヤ、ゼカルヤ、ネタンエル、ミカヤを遣わして、ユダの町々で教育を行わせた。
これに加えて「彼らは主の律法の書を携え、ユダで教育を行い、ユダのすべての町を巡って、民の教化に当たった。 主への恐れがユダを取り巻く地域の国々を襲い、ヨシャファトと戦いを交えるものはなかった。」(9節・10節)とある。歴代誌の独自記事で詳細はわからないが、ネヘミヤ9章3節に「彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。」と「主の律法の書」という言葉が現れる。「律法の書」ということばは、聖書に多く現れるが、「主の」がつくのはこの二箇所だけである。教育の記録があったのかもしれない。主への恐れがユダにではなく「ユダを取り巻く地域の国々を襲い」とあることは、注目に値する。実際のことはわからないが、歴代誌記者が伝えたかったことであることは確かだろう。
2Ch 18:1 ヨシャファトは大いなる富と栄光に恵まれるとともに、アハブとも姻戚関係を結んだ。
2節からこの章の終わりまでの記事は、列王記上22章2節あたりから35節前半までの記事と並行している。内容を丁寧に比較することはできないが、歴代誌では、アハブについては、殆ど述べず、しかし、アハブと姻戚関係を結んだことからこの記事を始めている。列王記では、アハブが家臣に対して述べたところからはじめ、そこにヨシャファトもいて、この話につながるが、構成が変更されている。しかし、おそらく、列王記の記述は、聖書に親しんでいる人なら知っていただろう。すくなくともアハブについては。非常に長い記事をあまり大きな変更無く入れたのは、歴代誌記者がこの記事を好んだからだろう。旧約聖書成立の歴史も含めて、丁寧に学んでみたい。
2Ch 19:11 主に関する事柄についてはすべて、祭司長アマルヤがあなたたちの上に立って責任を負い、王に関する事柄についてはすべて、ユダの家の指導者イシュマエルの子ゼバドヤが責任を負う。レビ人が書記としてあなたたちの補佐をする。勇気をもって行え。主が善を行う者と共にいてくださるように。」
列王記では、アハブの記事が中心で、列王記上は22章で終わり、エリヤから、エリシャへと預言者の活躍が移っていく。この19章の記事はない。4節、5節でヨシャファトが教えた内容が、最後の部分に書かれていると考えて良いだろう。どの程度の記録があったかは、わからないが、指導者のモデルと考えていたようにも思われる。だからこそ、問題点を指摘するところから始めているのだろう。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。」(2b)
2Ch 20:28 ユダとエルサレムの人々は皆、ヨシャファトを先頭にして喜び祝いながらエルサレムに帰った。主が敵を破って、彼らに喜びを与えられたからである。
模範的なリーダーシップなのだろうか。このあと、(讃美の)音楽を奏でながら、主の神殿に入ったこと「地のすべての国がどこも神への恐れに襲われた。」が書かれている。逆に考えると、このような国がなぜ滅んでしまったかという問いもあるのかもしれない。この章は「モアブ人とアンモン人が、メウニム人の一部と共にヨシャファトに戦いを挑んだ」から始まっており、10節・11節には出エジプトのときのこれらの人々との経緯が書かれているが、むろん、これだけではなく、関係は複雑である。正しさを確認しているのであろう。9節には「この神殿」が二回現れる。
2Ch 21:18,19 その後、主は彼(ヨラム)の腹を不治の病で打たれた。 来る日も来る日も苦しみ、二年ばかり後には、その病のために内臓が出るようになり、彼はひどい苦しみにあえぎながら死んだ。民は、その先祖のために火をたいたようには、彼のために火をたくことをしなかった。
列王記上22章51節にヨラムがユダの王になったことが書かれているが、そのあと、記述は飛ぶ。エリヤ、エリシャ関連の記事が続くからである。わたしの頭の中でもよく混乱を起こすのは「イスラエルの王アハブの子ヨラムの治世第五年に、――ヨシャファトがユダの王であったが――ユダの王ヨシャファトの子ヨラムが王となった。」(列王記下8章16節)の記事にもよるように思われる。このあと、列王記下では8章16節から24節までヨラムに関する記事が続くが、歴史認識に関しては、歴代誌とはかなり異なる。5節によるとイスラエル王アハブの娘を妻とし(列王記下8章18節参照)、ヨラムの兄弟たちを殺害している。(4節)丁寧に読むのは、時間もかかりかなり難しいと感じる。
2Ch 22:1,2 エルサレムの住民は、ヨラムの最年少の子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラブ人と共に陣営に攻め込んできた部隊によって年上のすべての王子が殺されてしまったからである。こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアタルヤといい、オムリの孫娘であった。
たくさんの王族の人たちが殺されたことが、21章4節、22章9節に書かれている。上の引用箇所には「ヨラムの最年少の子アハズヤ」とあり、さらに「四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった」とある。しかし、ヨシャパトの子「ヨラムは三十二歳で王となり、八年間エルサレムで王位にあった。」(21章5節,20節)文字通り受け取ると、ヨラムは退位のとき40歳、その最年少の子アハズヤや即位のとき42歳となる。また9節には「更にアハズヤを捜し求めていたところ、人々はサマリアに潜んでいるアハズヤを捕らえ、イエフのもとに連れて来て、その命を絶った。彼らは、「これは心を尽くして主を求めたヨシャファトの子なのだ」と言って、彼を葬った。」とある。今回は、列王記との比較はできなかったが、理解は困難である。混乱の時期であったこと、王族がほとんど死に絶えたことは事実なのだろう。ダビデ王朝と考えると、その意味では大きな危機ではある。
2Ch 23:19 またヨヤダは主の神殿の門に門衛を立て、いかなる汚れであれ、汚れのある者は入れないようにした。
列王記下11章の記事がほぼ書かれているが、引用箇所はないように思われる。ヨヤダの活躍と共に、歴代誌記者にとって重要であったことをここに記載したのだろう。汚れの問題は、イエスもあつかっており、学びたい。しかし、ここの記述と、歴代誌記者の記述、イエス時代のファリサイ派や、サドカイ派などの対応は、一般的な意味で拒否反応を起こしてしまう。
2Ch 24:24 攻めて来たアラム軍の兵士は少数だったが、ユダとエルサレムの人々が先祖の神、主を捨てたので、主は極めて大きな軍隊をアラム軍の手に渡された。こうして彼らはヨアシュに裁きを行った。
24章には不明な部分がいくつかある。まず「ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」(2節)列王記下12章全体がヨアシュについて書かれ「ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った。」(3節)となっている。アラムに聖別した物、神殿の金を送ったことは書かれているが、引用した箇所のような記述はない。「しかし、レビ人たちは速やかに取りかからなかった。」(5節)とあるが、対応する箇所は「だが、ヨアシュ王の治世第二十三年になっても、なお祭司たちは神殿の破損を修理しなかったので、」(列王記下12章7節)である。祭司たちが、レビ人に変えられている。「ヨヤダは年老い、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった。」(5節)の記事は、列王記下には見当たらない。族長たちの年齢を想起させる。さらに「ヨヤダの子ゼカルヤ」のことも、他には見つからず、不明である。
2Ch 25:9 アマツヤは神の人に言った。「イスラエルの部隊に払った百キカルはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれより多くのものをを与えることがおできになります。」
列王記下14章1節から22節にアマツヤの記事がある。歴代誌記者が別資料を持っていたことは事実だろう。基本的に、列王記は北イスラエル中心に書き、歴代誌は南ユダ中心に書いているので、列王記では、南ユダ王朝の文書はあまり使われていなかったろうから。神の人のことばはこのような混乱の時期にあって唐突ではあるが新鮮でもある。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」(箴言10章22節)
2Ch 26:8 アンモン人もウジヤに貢ぎ物を献上した。ウジヤの勢いはこの上もなく増大し、その名声はエジプトに近い地方にまで届いた。
列王記下ではウジヤではなく、アザルヤとなっている。(列王記下14章21節、15章)十六歳で王となり五十二年間エルサレムで王であったとある。かなりの長さである。しかし「主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。」(列王記下15章5節)ともある。このことが、歴代誌ではかなりリアルに記述されている。引用箇所は、エジプトとはしないで、エジプトに近いとなっている。エドムやその周辺の民を想定しているのだろうか。
2Ch 27:6 ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。
「エラの子ホシェアはレマルヤの子ペカに対して謀反を起こし、彼を打ち殺し、代わって王位についた。それはウジヤの子ヨタムの治世第二十年のことであった。」(列王記下15章30節)列王記にもウジヤの名前は出てくる。おそらく、何らかの意味があるのだろう。引用箇所は、歴代誌記者の歴史感ともいえるが、もしかすると、民の教育のためだったかもしれない。「彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。」(2節)の記述も興味深い。民は堕落していたことが書かれている。注意を促しているのかもしれない。
2Ch 28:9,10 ところが、その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「見よ、あなたたちの先祖の神、主はユダに対して怒りに燃え、彼らをあなたたちの手に渡された。あなたたちも、天に届くほどの憤りをもって彼らを殺した。 しかし今、あなたたちはユダとエルサレムの人々を服従させ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたたち自身はあなたたちの神、主によって罪に問われずに済むだろうか。
列王記下16章にユダの王アハズの記事がある。アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わす(列王記下16章7節)など、興味深い記事も多いが、ユダの人々を殺し、捕虜としたことについては、書かれていない。ユダの裁きに勝ち誇ってはいけないという単純であるが、明確なメッセージ、さらに直ちにエフライム人の頭たちヨハナンの子アザルヤ、メシレモトの子ベレクヤ、シャルムの子エヒズキヤ、ハドライの子アマサ(12節)など、これに聞き行動に移すだけのものをもっていたひとたちがいたことには、驚きを覚える。さらに最後は感動的である。「そこで兵士たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を放棄した。 そこで前に名を挙げられた人々が立って捕虜を引き取り、裸の者があれば戦利品の中から衣服を取って着せた。彼らは捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者がいればろばに乗せ、彼らをしゅろの町エリコにいるその兄弟たちのもとに送り届けて、サマリアへ帰った。」(14,15節)
2Ch 29:34 ただ祭司は数が少なく、焼き尽くす献げ物全部の動物の皮をはぐことができなかった。そこで、その作業が終わるまで、あるいは他の祭司たちが自分を聖別するまで、彼らの兄弟であるレビ人が彼らを助けた。レビ人は自分を聖別することについて祭司たちよりも忠実だったからである。
最後の一文がとても興味深い。レビ人は宮の勤めをしても、中心的な役割ではない。忠実に、おそらく、裁きをうけないように、注意深くきよめを行っていたのだろう。そのような人たちに、祭儀が支えられていると言うことである。
2Ch 30:18,19 民の大多数、エフライム、マナセ、イサカル、ゼブルンの多数の者が身を清めていなかった。それにもかかわらず、彼らは記されていることに違反して、過越のいけにえを食べたので、ヒゼキヤは彼らのために祈って言った。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。 彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。」
北イスラエルの人たちを同胞として過越祭に招いてたことから起こったことである。殆どの人は「冷笑し、嘲った」(10節)とあるが「ただアシェル、マナセ、ゼブルンから、ある人々が謙虚になってエルサレムに来た。」(11節)この人たちに対する、ヒゼキヤのとりなしの祈りである。「こうして、ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った。」(25節)を記録している。このときすでにかなり危機的な状況になっていたことも見て取れる。「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。」(9節)列王記下15章にはアザルヤ(ウジヤ)の時代にすでに、アッシリアが攻めてきて大きな被害があったこと、さらに、17章にはアハズの時代にサマリヤが陥落したことが書かれている。北イスラエルはこの頃、どのような状況だったのだろうか。
2Ch 31:1 このようなことがすべて終わると、そこにいたすべてのイスラエル人はユダの町々に出かけて、石柱を砕き、アシェラ像を切り倒し、聖なる高台と祭壇を破壊し、ユダ全土、ベニヤミン、エフライム、マナセからそれらを徹底的に除き去った。こうしてイスラエルの人々は皆、それぞれ自分の町、自分の所有地に帰って行った。
「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」(列王記下18章4節)これは、ヒゼキヤがしたこととして記録されているが、歴代誌では主語がイスラエル人となっている。さらに、まずは、ユダの町々からはじめ、イスラエルの町々でも徹底的に行ったことがかかれている。北イスラエル王国は、まだ存在していたとしても、すでに指導力は失っていたのだろう。エリシャも列王記下13章14節から21節、イスラエル王ヨアシュの時代、ユダ王アマツヤの時代だろうか。このようなとき、人はどうすれば良いのだろうか。わたしならどうするだろうか。
2Ch 32:31 しかし、バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた。
興味深い記事である。具体的には、列王記下20章12節から21節、イザヤ書39章の記事を解釈しているのだろう。この章は「ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。」(1a)から始まっている。そして「主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいる勇士、指揮官、将軍を全滅させられた。」(21a)となる。ヒゼキヤの病について書かれ、さらに「しかし、ヒゼキヤは受けた恩恵にふさわしくこたえず、思い上がり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた。」(25節)の記事が続く、さらに続けて「ヒゼキヤはエルサレムの住民と共に、思い上がりを捨ててへりくだった」(26a)と記している。これが上の背景として歴代誌記者が記していることである。ヒゼキヤの「心にある事」を神はご存じであろう。しかし、ここではそれを「知り尽くすために」としている。「捨て置かれた」についても、考えてしまう。ここでは、背景の記述から、ヒゼキヤに焦点が当てられているが、もっと広い範囲、つまり、ひとの営みについて言っているのかもしれない。記者がそう感じていたかどうかは別として。
2Ch 33:16,17 そして、主の祭壇を築き、その上に和解と感謝の献げ物をささげ、ユダの人々にイスラエルの神、主に仕えるよう命じた。 しかし民は、彼らの神、主に対してではあるが、依然として聖なる高台でいけにえをささげていた。
マナセについては列王記下21章1-18節に書かれているが、バビロンにひいていかれことや、へりくだって祈り求めたこと(12,13節)の記録はない。歴代誌では、次のアモンの項でも「だがアモンは、父マナセがへりくだったようには、主の御前にへりくだることなく、罪悪を積み重ねた。」(23節)と記しており、マナセの悔い改めが確認されている。実際に何が起こっていたのかは、確かめようがない。書かれていることがすべて事実だとしても、列王記記者は、このことを重視せず、歴代誌記者は、書かずにすますことができなかったのだろう。歴代誌の観点からすると、民への教育が重要なのかもしれない。王が「イスラエルの神、主に仕えるよう命じた。」とある。民は「主に対してではあるが」という句をはさんで「依然として聖なる高台でいけにえをささげていた。」としている。エルサレム神殿の重要性が確認されているように思われる。
2Ch 34:32 王はエルサレムとベニヤミンにいるすべての者に誓わせた。エルサレムの住民は先祖の神、その神の契約に従って行動した。
ヨシア王の宗教改革と呼ばれているものが書かれており、その最後が上の句である。列王記下22章1節から23章30節にヨシア王の記事が書かれている。歴代誌ではこのあと35章でも、過越の祭などについて書かれているが、引用した文章とともに、最後の節で一旦区切っているように思われる。「ヨシヤはイスラエルの人々のすべての土地から忌むべきものを一掃し、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主に従う道からはずれることはなかった。」(33節)おそらく、祭司たちが望んでいた、ほとんど全てを行ったヨシア、しかし総括は悲しさで溢れているように思われる。「彼が生きている間」である。王によって「誓わせ」られて「行動し」ても、すぐ離れてしまう。方法論で解決することがないことまで示唆しているのかもしれない。歴代誌記者はどのように受け取っていたのだろうか。
2Ch 35:20,21 ヨシヤが神殿を整えるために行ったこれらのすべての事の後、エジプトの王ネコがユーフラテス川の近くのカルケミシュを攻めようとして上って来た。ヨシヤはこれを迎え撃つために出陣した。 しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」
列王記下23章29節には「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。」と書かれているが、殆どそれだけである。歴代誌の内容が多い。神のみこころを求めなかったこと(記録はない)など、責めることはできるかもしれないが、神との関係をつぶさに、第三者が判断することはできないことを思うと、それは止めるべきだと思う。ここで記録されているのは、ヨシアの宗教改革と、祭司、レビ人の編成と職務の確認と、彼がおそらく26歳ぐらいのときに行った、大々的な過越の祭である。それとは、殆ど無関係に、ネコがカルケミシュを攻めようとして上ってきたこと、そして、ヨシア王への忠告を「ネコ」の言葉として語っていることである。ヨシアの死を通して、理不尽、結局神などおられないのではないかと問うことも可能だろう。しかしまた、より広い、普遍的な信仰(これらのことばの使い方は注意を要する)、神の働きの本質を問うこともできるのかもしれない。
2Ch 36:23 「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」
この言葉をもって、歴代誌は終わっている。そして全く同じ言葉がエズラ記の最初(1章2節)にある。(4節はエズラ記のみ)ユダの最後の王ゼデキヤの時代の記述は「へりくだらなかった」(12節)「イスラエルの神、主に立ち帰らなかった」(13節)「祭司長たちのすべても民と共に(中略)神殿を汚した」(14節)そして「彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(16節)と記している。キュロスのことばは、どのように受け取られたのだろう。現在も続く、イラク(バビロン)とイラン(ペルシャ)の抗争(現在はこれにサウジアラビアが加わる三つの大国)についても考えさせられる。イスラム教、キリスト教以前の世界を、その歴史を、イスラエル、ユダの人たちはどのように受け取ったのだろうか。わたしには、まったく想像もできない。

BRC2015

2Ch1:10 今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。そうでなければ、誰が、あなたのこの大いなる民を裁くことができましょうか。」 
民を導くために必要な「知恵と識見」。神はこれを良しとしているようである。しかし、本当に、これで十分なのだろうか。11, 12節を見ると、それで良いとも言われていない。「天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」イザヤ55:9, そしてその前の8節のように、まことに「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なる」
2Ch2:11 彼はまたこう言った。「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように。主はダビデ王に賢明で聡明な洞察力のある子をお与えになり、その子が主のために神殿を、国のために王宮を建てようとしています。 
記事が、歴代誌記者の創作ではなく、なんからの、歴史的記録が背景にあると仮定して考察を加える。2節にはダビデの依頼した内容に王宮を入れているが、そのあとすべて神殿のためと強調している。それに対して、ティルスの王フラムの対応は冷静である。宗教を中心にして治める国の危うさも感じる。このあたりですでに、宗教が道具とかしているように見えてしまうからである。民には聞こえが良く、王宮のことを強調しないことで、他国の王も刺激しないようにしていることがうかがえる。
2Ch3:9 釘は金で重さが五十シェケル、階上の部屋も金で覆った。 
至聖所の造作の記述であるから、特別なのであろうが、金で造られた釘では十分な力にはならなかったであろう。釘以外の力で、固定される工夫もされていたのだろう。おそらく、このような表現が、神殿の説明として使われたと言うことだろう。
2Ch4:17 王は、ヨルダンの低地、スコトとツェレダの間の粘土の豊かな所でこれらを鋳造した。 
青銅の鋳造は鉄のそれと比較してそれほど困難では無かったのだろう。場所も特定されている。これは歴史的根拠として価値があるものだろうか。歴代誌は、つねに、どの時代まで資料がさかのぼれるものか、心配になる。むろん、他の聖書の巻も同様の問題があるが。
2Ch5:13,14 ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。 その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。 
大事業が完成した特別な時を表現しているのだろう。しかしこのときにも感情移入ができないのは何故だろうか。建物としての神殿に限定的な価値しか認めないからか。このあとの歴史を垣間見ているからか。それらを否定しようもない。しかしおそらく一番の問題は、この人たちと心が結びついていないからだろう。教会の会堂や、ワークキャンプでの献堂式では、感動と霊の働きと言えるようなものを喜びとするのだから。自分勝手な自分の心をみる気がする。
2Ch6:30 あなたはお住まいである天から耳を傾け、罪を赦してください。あなたは人間の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。まことにあなただけが人の心をご存じです。 
まず、似た言葉が2回出てくる。「あなたは人間の心をご存じです」「まことにあなただけが人の心をご存じです。」イエスについて表現されている ヨハネ2:24,25「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とも呼応している。さらに冒頭に「あなたはお住まいである天から耳を傾け、罪を赦してください。」とある。この後に続く「どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。」を文字通りに取るのは、拙速かも知れない。神が罪を見逃されなかったら、だれも主の前に立つことはできないのだから。ひとの心をご存じであることはもっと深く認識したい。
2Ch7:16 今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。 
この文には正確には、14節の条件が伴う。「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」そしてそれが守れなかったことがバビロン捕囚の原因とするのが歴代誌の神学であろうが、神の側はどう考えておられたのだろうか。そう考えると、この記述を神のことばとするときに、深慮が必要である。冷静にあらゆる知的な理解力も総動員して考え瞑想したい。
2Ch8:7,8 イスラエル人ではない者、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民のすべて、 彼らの後、この地に生き残った子孫で、イスラエル人によって滅ぼされなかった者を、ソロモンは労役に服させ、今日に至っている。 
民族・国籍による差別は、どの時代にもある。戦いがある以上、当然なのだろうか。それは、いけないことだと、世界人権宣言のように、そのような差別をまずは、なくそうとする意思を示すことが最初のステップのように思うが、それは、現実の問題の深さと解決の困難さを際立たせることで留まってしまうようにも思う。個人としてできること、そして、国や集団としてしていくべき事は何なのだろう。
2Ch9:26 こうして彼はユーフラテス川からペリシテ人の地方、更にエジプトとの国境に至るまで、諸国の王をすべて支配下に置いた。 
どこまで根拠があるか不明であるが、シリヤ全土とシナイ半島が含まれるのか。三日月型肥沃地帯の西端は含まれるのであろう。そして、これがソロモンの最後である。
2Ch10:19 このようにイスラエルはダビデの家に背き、今日に至っている。 
聖書に何度も現れる表現である。いままでは、これが書かれた時代を考えていたが、歴代誌で読むと、単なる一つの表現にも思える。比較して、調べてみたい。「今日に至っている。」で調べてみると、申命記 2:22, 3:14, ヨシュア記 5:9, 6:25, 7:26, 13:13, 14:14, 15:63, 16:10、サムエル記上 30:25, サムエル記下 6:8, 列王記上 9:13, 21, 12:19、列王記下 2:22, 8:22, 14:7, 16:6, 17:23、歴代誌上 4:41, 4:43, 13:11、歴代誌下 8:8, 10;19, 20:26, 21:10, 35:25
 
2Ch11:13,14 イスラエル中の祭司とレビ人は、そのすべての領土からレハブアムのもとに集まって来た。 レビ人が自分の牧草地と所有物を捨ててユダとエルサレムに来たのは、ヤロブアムとその子らが彼らを遠ざけ、主の祭司であることをやめさせたからである。 
このあとの歴史を理解するためにも、重要な瞬間である。簡単に、このことが起こってしまうのか。ここで残った人もいたのかも知れない。それが預言者だろうか。もう少し、北イスラエルの状況を知りたい。
2Ch12:8 ただし、彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王国に仕えることとの違いを知るようになる。」 
メッセージとしては伝わるが、どうすればこの違いを全ての民が知るようになるのだろうか。それとも、知っているにもかかわらず、そうしないのだろうか。とても重い。
2Ch13:18 このとき、イスラエルの人々は屈し、ユダの人々は勝ち誇った。先祖の神、主を頼みとしたからである。 
レハベアムの子、アビヤのもとで、ヤラベアム率いるイスラエルを撃ち大打撃を与えた記事の総括である。教育的な面もあるのだろうか。歴代誌の神学がここにある。私はどうだろう。主を頼みとすることはその通り。しかし、そこにすべての原因を求めるほど、単純ではないように思われる。
2Ch14:8 クシュ人ゼラが百万の軍隊と戦車三百両を率いてマレシャまで出て来たとき、 
マレシャについてはヨシュア14:44にネゲブの町の中に数えられているユダの町で、歴代誌11:8にはレハベアムが砦を築いたとある。しかし、このクシュ人の数は多い。12:2,3にある「レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが主に背いたからである。 彼は戦車千二百両、騎兵六万を擁し、彼がエジプトから率いてきたリビア人、スキイム人、クシュ人の民は数えきれないほどであった。」シシャク軍と比較すると少ないが。
2Ch15:5,6 そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。 神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。 
ここでも混乱を起こしたのは神とある。そのような見方もできるだろうが、やはりこれを人の問題と捉えることも、重要だろう。実際、このあとを読んでも、アサのリーダーシップによる回復が記されている。しかし、ダビデ以来、個人的な信仰の立脚点に責任の中心がおかれているように思われる。本当にそうなのだろうか。そのような見方しかできないのだろうか。
2Ch16:7 そのとき、先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った。「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍隊はあなたの支配を離れる。 
16章に対応する記事が列王記上15:16-24にあるが、歴代誌下16:7-10の記事はない。この部分は、歴代誌における挿入である。原因を「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。」としているが、やはり神の働きを単純化しすぎているように思われる。そのような理解が進展したことは、しかしながら、信仰の高度化も要求されているように思われる。そうなのだろうか。ここにおいても、成長が求められているのだろうか。それとも、信仰はもっと単純なものなのだろうか。
2Ch17:1 アサに代わってその子ヨシャファトが王となり、イスラエルに対抗して勢力を増強した。 
当然に見える。しかし、この状態はすでに、世界が見えておらず、衰退の一途をたどる一ステップになってしまっているように感じる。争いがあり、それが一旦納まったとき、次のステップに行くとき、争いへの対応よりさらに高いレベルの対応が求められていると言うことだろうか。考えさせられる。
2Ch18:34 その日、戦いがますます激しくなったため、イスラエルの王はアラム軍を前にして夕方まで戦車の中に立っていたが、日の沈むころ息絶えた。 
イスラエルの王は1節からするとアハブである。列王記上22章に並行記事がある。これはエリヤの時代であり、21章にアハブがへりくだったことが書かれてある直後の記事である。この死の状況も、ある王としての尊厳をもった記述になっているが、列王記とは、様々に異なる記述になっているのは、興味深い。ていねいに学んでみたい。
2Ch19:6,7 彼は裁判官に言った。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。 今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」 
ヨシャファトについて列王記上では22:41-47 に短い記述があるだけである。この章には裁判官と祭司に対することばが記されている。誰にとっても「主のため」は重要であろうが、裁判官には特にたいせつであることが強調されている。ひとが神と共に責任を担う部分だからだろう。
2Ch20:8,9 彼らはここに住み、ここにあなたの御名のために聖所を建てて言いました。 もしわたしたちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください。 
「この神殿にこそ御名がとどめられている」わたしたちはいまそのようには考えていない。しかし、同時に、この人たちの、神を畏れる信仰は、時代を超え、私たちに語りかける。神との関係は変わらないからだろう。このなかで、みこころを少しずつ知ることができる。神のこころに自分の願いが重ね合わすことができることを願う。
2Ch21:12a 次のような一通の手紙が預言者エリヤから彼のもとに届いた。
歴代誌におけるエリヤの記述は、歴代誌上にベニヤミンの子孫として一回(8:27)ヘブロンの子として(23:19, 24:23, 26:31, 32)に現れるが、おそらくどれも、預言者エリヤとは異なる。すると、この記述だけが、預言者エリヤについての記述である。時代としては間違っていないが、唐突かつ内容も、エリヤを彷彿とさせるものではない。
2Ch22:1 エルサレムの住民は、ヨラムの最年少の子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラブ人と共に陣営に攻め込んできた部隊によって年上のすべての王子が殺されてしまったからである。こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。
すでに大きな混乱状態である。アハズヤの母はアタルヤ、1年でニムシの子イエフに殺される(6-9)。そのあとは、アタルヤがダビデ王家の王子たちをみな殺しにして(祭司ヨヤダの妻でアハズヤの妹の王女ヨシェパの助けで、ヨアシュだけ神殿にかくまわれる)王位につく。一つ興味をひくのは「エルサレムの住民は」という表現である。王位と関連させて書かれているのはここだけかもしれない。それだけの力があったのだろうか。サンヘドリンのようなものがすでにあったのだろうか。一つわかるのはこの章の記事からも、南ユダ王国では、ダビデの家系の王位継承についての合意は強かったということだろう。
2Ch23:1 七年目に、ヨヤダは決意を固め、百人隊の長たちエロハムの子アザルヤ、ヨハナンの子イシュマエル、オベドの子アザルヤ、アダヤの子マアセヤ、ジクリの子エリシャファトを連れて来て、彼らと契約を結んだ。 
周到な準備のもとでのクーデターである。七年間はアタルヤのすることを見ていたのかもしれない。大きな決断をして、成功を得る。賭けでもあったろう。しかし、残念ながら、大きな流れは変えられない。単に、イスラエルの人たちの信仰の問題ではなく、アッシリアや、新バビロニアと、大国支配の時代が近づいていたことも事実である。
2Ch24:6 そこで王は祭司長ヨヤダを呼んで言った。「なぜあなたはレビ人に要求し、主の僕モーセとイスラエルの会衆が、掟の幕屋のために定めた税をユダとエルサレムから徴収しないのか。」 
以前からこのことばが気になっていた。ヨヤダの死後、17, 18節にあるように、ユダの高官たちに従い、主をの神殿を捨てることを考えると、余計に意味深である。ヨヤダはなにを考え、何を見ていたのだろうか。このあとの、人々の熱心さの記述にも、こころが動かされる。なんと人のこころは当てにならないものなのだろうか。
2Ch25:24 また彼は、オベド・エドムの管理下にあった、神殿のすべての金、銀、祭具、更に王宮の宝物および人質を取って、サマリアに凱旋した。 
オベド・エドムはサムエル記下6:10-12(歴代誌上13:14)にあるように、一時的に神の箱が置かれた家である。「三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。」(11節)歴代誌上15, 16章に門衛として記述され、26章にも記述がある。「彼らは皆オベド・エドムの子らで、彼らとその息子たち、兄弟たちと共に奉仕にふさわしい力を持つ勇者たちであった。オベド・エドムに属する者は六十二人であった。」(8節)「南の門を守るくじはオベド・エドムに、その息子たちには倉庫を守るくじが当たった。」(15節)家系として、主に仕えていたのだろう。
2Ch26:1 ユダのすべての民は、当時十六歳であったウジヤを選び、父アマツヤの代わりに王とした。 
22章のアハズヤ選択のところでも書いたが、民がどのように王の即位に関わっているかにも興味がわく。長老なのだろうか。もうすこし、広い民の意思が何らかの方法で反映されたのだろうか。アマツヤの治世後半の悲惨さと比較して、ウジヤの治世は政治的には充実していたように思われる。52年間。しかし、最後は重い皮膚病で終わる。人生をどう考えたらよいのだろうか。主はすべてをご存じである。
2Ch27:2 彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。 
最後の民についての記述が強烈である。アンモン人は征服していたようだが、すでに、アッシリアが興っていると思われる。王の善政と民の態度、それが国の安泰につながるかという視点で歴史を見る見方は、歴代誌記者の視点とは近いかもしれないが、主のこころにあることとはずれているのかもしれない。イエスによって語られる真理に目を向けることも適切に行いたい。すべてそこから解釈しようとすると無理が生じる面もあるが。
2Ch28:9 ところが、その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「見よ、あなたたちの先祖の神、主はユダに対して怒りに燃え、彼らをあなたたちの手に渡された。あなたたちも、天に届くほどの憤りをもって彼らを殺した。 
アハズに関しては列王記下16章にあるが、9-15の記事についてはまったく記載がない。特徴的なのは、ユダの視点が強く、ユダの罪を記述するとともに、イスラエルの悔い改めをも記録していることである。オデドについては 15:1, 8 にあるがこれは、アサ王の時代でかつ「オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。」と始まっているので、ここで言われているオデドはアサ王以前の時代の預言者となる。したがって、28章のオデドはこれとは異なるオデドということになろう。しかしこれだけの単独行動。エリヤを登場させたように、昔の預言者にこのことを帰しているのかもしれない。15節は印象深いがもう一度別の機会に考察したい。
2Ch29:5 言った。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ。 
3節にある「その治世の第一年の第一の月」に始めたヒゼキヤによる宮清めと祭礼典の改革の記事が29章から31章まで続く。対応する列王記下では「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」(18:4)のみである。(ネフシュタンの記事は興味深いが)これこそが、ヒゼキヤが正しい王であったことの証拠でもあるかのごとく、またはこれを模範にしようとしたのかのごとく。しかしどうしても、むなしく感じてしまう。イエスの宮清め(ヨハネ2:13-25)との差であろうか。締めくくりのことば「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」つまりわたしたちひとりひとりの心の中、聖霊の宮の中にあるべきものを見通しておられたという記事の故だろうか。
2Ch30:1 ヒゼキヤはすべてのイスラエルとユダに使者を遣わし、またエフライムとマナセには書簡を送り、エルサレムの主の神殿に来てイスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけた。 
いつのことだか書かれていないが、年代的には、かなり初期、29章の記事が1年目であるならそれに引き続いておこったこととしないと列王記との整合性にもかけるように思われる。この記事も列王記にはないが、列王記下18章1節では「イスラエルの王、エラの子ホシェアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。」とありその前の17章1節には「ユダの王アハズの治世第十二年に、エラの子ホシェアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間王位にあった。」とあり、9年目にはサマリヤが陥落している。その前、3年間アッシリアの包囲があり、その前も貢を納めていたことからも、ヒゼキヤが王となったところは、すでに北イスラエルはすでに危機的な状況であることがうかがわれる。ヒゼキヤの呼びかけに答えた北イスラエルの人々もいたことが記されている。南ユダはヒゼキヤ時代にはアッシリアから奇跡的に守られるが、信仰の問題をどう考えるかは、簡単ではない。ダビデ譲りの(?)ヒゼキヤの信頼は貴重に思える。「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、御顔を背けられることはない。」(30:9)
2Ch31:20,21 ヒゼキヤはユダの全土にこのように行い、自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った。 彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。 
32章にはアッシリアのセンナケリブの侵攻が書かれている。北イスラエルはすでに滅ぼされているのだろう。そこで起こる奇跡の前提として、29章、30章があり、この20節と21節で締めくくられているというのが歴代誌の神学であろう。捕囚帰還後の民族自決を支えた祭司による宗教集団としての一致である。神はなにを見ておられるのだろう。ひとり一人の心を見ておられると同時に、その人々の社会正義も見ておられるのだろうか。権力者の責任はどうなのだろうか。簡単に結論を出さず、丁寧に見ていきたい。
2Ch32:1 ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。彼はユダに侵入し、その砦の町々に対して陣を張り、町々を攻め取ろうとした。
列王記の記述とはかなり異なる。列王記下18:10によるとこの前、ヒゼキヤの治世の第六年にサマリヤは占領されている。そしてこれは、十六年のこととなっている。対応する記事が書かれている直前の列王記下18:12には「こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。」と書かれている。すなわち、2Ch32:1はこの北イスラエル王国との対比を書くことで、何が鍵であるかを浮き彫りにしたいのであろう。しかし、そのような宗教祭儀を適切に行うことを中心に据え因果応報的な理解で本当によかったのだろうか。その殻を完全に破ったのがイエスだったと短絡に結論してよいのだろうか。冷静に歴史の背後におられる神様に目を向けたい。
2Ch33:11,12 そこで主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った。 彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、 
アッシリアに引いて行かれたことも、悔い改めの記事もともに列王記下21章にはない。様々に想像してしまう。すべて事実と仮定したとき、列王記記者は、それは重大なこととは見なかったのだろう。大きな流れを重視し、個人の悔い改めだけに因果の根拠を求めなかったともいえる。歴代誌は、徹底して一つの思想を貫いている。背景にいる人とその信仰に興味を持つ。
2Ch34:6,7 マナセ、エフライム、シメオン、更にナフタリにまで及ぶ地方の町々でも、その周りの荒れた地方でも、 イスラエルの国中で彼は異教の祭壇やアシェラ像を取り壊し、偶像を打ち砕いて粉々にし、香炉台をすべて切り倒して、エルサレムに帰った。 
このとき、北イスラエルはどのような状況になっていたのだろう。ユダが占領された後は多少書かれているが、北イスラエルについては、書かれていないように思われる。この記事をみると無政府状態で、完全にアッシリアの支配下にあったのではないのだろうか。もう少し情報を得たい。
2Ch35:7 ヨシヤ王は民のために羊、小羊、子山羊を提供した。これらは皆、そこにいるすべての人の過越のいけにえのためであり、その数は三万匹、牛も三千頭に及んだ。これらは王の財産の中から提供された。 
ヨシヤ王の改革は、どうしても悲観的に見てしまう。19節にあるように「この過越祭はヨシヤ王の治世第十八年に祝われた。」どうも盛大な過越祭は1回だけであったようである。さらに、ここでもいけにえは王が提供している。つまり自発のささげ物ではない。このあと、主の巻物が発見された記事も続くが、最後の嘆きを吐露するに過ぎない。さらに22節ではパロ・ネコの「わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」に従わず、この言葉の通りになってしまう。24節にあるように「ユダとエルサレムのすべての人々がヨシヤの死を嘆いた。」ことは確かであるが、34:28にある女預言者フルダのことば「見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られ、わたしがこの所とその住民にくだす災いのどれも、その目で見ることはない。」も実現したとは思えない。神のさらに深いみこころを読み取る必要がある。
2Ch36:1 国の民はヨシヤの子ヨアハズを選び、エルサレムで父の代わりに王とした。 
ネコとの戦いの中で死んだヨシヤのあとのヨアハズの治世は3ヶ月とある。このあとエルヤキム(エジプト王にヨヤキムと改名させられる)11年、ヨヤキンは3ヶ月と10日、ヨヤキンはネブカドネツァルに退位させられ、ゼデキヤが11治める。ずっと国としては悲惨な時代が続き約23年でネブカドネツァルに滅ぼされる。希望が潰えたと思わされる時だったろう。歴代誌記者は何も語らない。

BRC2013

2Chr1:17 彼らはエジプトから戦車一両を銀六百シケルで輸入し、馬一頭を銀百五十で輸入した。同じようにこれらのものが彼らによってヘテびとのすべての王たち、およびスリヤの王たちにも輸出された。
なぜ、ソロモンは、これだけ豊かになったのだろうか。おそらく、ダビデによる軍事的征服による略奪と、ソロモンによる交易による利益だろう。まずここに現れる、交易品をみると、軍事的にも、周囲の国を圧倒しつつあったことも見て取れる。それは、優位に交易を勧められる条件だったかも知れない。
2Chr2:6 しかし、天も、諸天の天も彼を入れることができないのに、だれが彼のために家を建てることができましょうか。わたしは何者ですか、彼のために家を建てるというのも、ただ彼の前に香をたく所に、ほかならないのです。
ソロモンの信仰はどのようなものだったのだろうか。あまり豊かには語られていない。知恵と神殿、あまり個人的な事に関する信仰は語られていない。
2Chr3:2 ソロモンが宮を建て始めたのは、その治世の四年の二月であった。
列王紀上1-3章にあることが落ち着き、その4章にあるように、全地を掌握してすぐを意味しているようだ。
2Chr4:16 つぼ、十能、肉さしなどすべてこれらの器物を、達人ヒラムはソロモン王のため、主の宮のために、光のある青銅で造った。
「光のある青銅」は何か特別なものを意味しているのだろうか。ツロの王ヒラムが使わした達人ヒラム、1King7:14には「彼はナフタリの部族の寡婦の子であって、その父はツロの人で、青銅の細工人であった。ヒラムは青銅のいろいろな細工をする知恵と悟りと知識に満ちた者であったが、ソロモン王のところにきて、そのすべての細工をした。」とある。「ソロモン王のため、主の宮のため」という表現が限界だったと解するのは、厳しすぎるか。
2Chr5:9 さおは長かったので、さおの端が本殿の前の聖所から見えた。しかし外部には見えなかった。さおは今日までそこにある。
「今日」はいつを指しているのか。通常の解釈では、書かれたときだと思うが、この契約の箱は、捕囚帰還後にもあったのだろうか。どうなっていたのだろう。「契約の箱」という言葉自体は、この直前の 5:7 が最後である。Cf Jer 3:16
2Chr6:6 わが名を置くために、ただエルサレムだけを選び、またわが民イスラエルを治めさせるために、ただダビデだけを選んだ』。
ただ「エルサレム」ただ「ダビデだけ」違和感を感じないことはない。神殿奉献における信仰告白なのだろう。それを、絶対化することは、危険。また、ここも「主が言われた」として引用になっているが、どこからの引用かは不明。このときに示されたということだろう。Jn4:21 にあるように、エルサレム以外の場所で礼拝をするとき、Acts 7:48 にあるように「しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。」
2Chr7:14 わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。
神との契約に加わって、わたしたちは、主の民となる。しかし、それは、人間同士の対等の契約ではない。神を受け入れることで、神のものとされている、このことをまずは感謝したい。
2Chr8:11 ソロモンはパロの娘をダビデの町から連れ上って、彼女のために建てた家に入れて言った、「主の箱を迎えた所は神聖であるから、わたしの妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない」。
列王紀上 3:1, 7:8, 9:24, 11:1 にパロの娘についての記述があるが、歴代誌ではここのみ。なぜ他の町に移したかは、明確ではない。この歴代志の記述が背景にあるとすると、列王紀ではことさらそこにふれないようにしているとも言える。そのかわり、上にあげた 11:1 では「ソロモン王は多くの外国の女を愛した。すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。」と記し、その章に、なぜソロモンが心が神から離れていったかが記されている。歴代志のこの注が祭儀中心主義に依拠し意図的だとわたしが感じてしまう要因であろう。
2Chr9:30 ソロモンはエルサレムで四十年の間イスラエルの全地を治めた。
歴代志はソロモンの批判を書かない。この40年がダビデが王であった 40年と同じでかつ平和であったことを印象づける終わりとなっている。対比のため列王紀上11:11を記す。「それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。」
2Chr10:2 ネバテの子ヤラベアムは、ソロモンを避けてエジプトにのがれていたが、これを聞いてエジプトから帰ったので、
レハベアムとヤラベアムのやりとりは、王国分裂を決める決定的なものである。歴代志下12章は、列王紀上12:1-18と完璧に一致していると思われる。列王紀には、このあと神の人シマヤがレハベアムに告げる神の言葉(歴代志では11章)と、ヤラベアムが子牛の像をつくる記事が続く。シマヤ自身は歴代志にもこのあと12章5節にも現れる。
2Chr11:16 またイスラエルのすべての部族のうちで、すべてその心を傾けて、イスラエルの神、主を求める者は先祖の神、主に犠牲をささげるために、レビびとに従ってエルサレムに来た。
この記事は列王紀にはないようである。11:1はレハベアムはと始まっているが、列王紀ではソロモンの子レハベアムはとなっている。ソロモンの子という言葉はここでは入れたくなかったのかも知れない。従順さをあらわす17節にはソロモンの子という言葉が含まれている。ソロモンの場合も、レハベアムの場合も異教徒の妻をもったことを信仰から離れた理由として批判的に書いているのは、帰還後の事件とそのあとの痛みをともなった処理(エズラ10章)があったからだろう。
2Chr12:1 レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。
1King14 にはない記述がたくさんある。歴代志は単純に感じてしまうのは、列王紀ではイスラエルが中心でその関係で書かれているからだろうか。いずれにしても、歴史解釈が強い。
2Chr13:9 またあなたがたはアロンの子孫である主の祭司とレビびととを追いだして、他の国々の民がするように祭司を立てたではないか。すなわちだれでも若い雄牛一頭、雄羊七頭を携えてきて、自分を聖別する者は皆あの神でない者の祭司とすることができた。
北イスラエル王国で、ヤラベアムが立てた子牛の像を礼拝することとの差が語られている。なにかむなしく響くのは、わたしが現代にいるからだろうか。捕囚帰還後の一時代をもうすこし寛容な心を持って見るべきなのか。
2Chr14:9 エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。
エチオピアが有力な国であったことは、2King19:9 のテルハカ、2Chro12:3 にあるエジプト王シシャクに従ってきたとの記述、2Chr16:8 などあるが、数からしても驚かされる。Est 1:1, 8:9 の「インドからエチオピヤまで百二十七州」という記述からもうかがい知られる。
2Chr15:9 彼はまたユダとベニヤミンの人々およびエフライム、マナセ、シメオンから来て、彼らの間に寄留していた者を集めた。その神、主がアサと共におられるのを見て、イスラエルからアサのもとに下った者が多くあったからである。
北イスラエルのひとたちの動きをもう少し知りたい。移動は問題なかったのか、礼拝に来る人はどのくらいいたのか。北の預言者と、エルサレムはつながっていたのか。等々。不思議・不明なことの一つである。
2Chr16:9 主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」。
「自分に向かって心を全うする者」の箇所は新共同訳では「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」となっている。この言葉の使われ方は、排他的イメージもあり、すこし短絡に感じるが、とても魅力的な響きをもっている。このような言葉遣いに感謝。
2Chr17:7 彼(ヨシャパテ)はまたその治世の三年に、つかさたちベネハイル、オバデヤ、ゼカリヤ、ネタンエルおよびミカヤをつかわしてユダの町々で教えさせ、
これに続く記事から、つかさたち、レビ人、祭司をユダの町々に、主の律法の書を携え、遣わし、教えさせたことがわかる。エズラ 7:10 を思い出させる。
2Chr18:16 彼(イムラの子ミカヤ)は言った、「わたしはイスラエルが皆牧者のない羊のように山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は主人をもっていない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。
歴代志は様式が単純で、祭司を中心とした儀式的なものが多いが、北イスラエルに関しては、預言者の存在が重要であったことを証言している。全体としてこの一連の物語は、長く語り継がれたものが集約されたのであろうが。
2Chr19:8 ヨシャパテはまたレビびと、祭司、およびイスラエルの氏族の長たちを選んでエルサレムに置き、主のために裁判を行い、争議の解決に当らせた。彼らはエルサレムに居住した。
ユダヤ最高議会(サンヘドリン)の設立を意味しているのか。地方を巡回して人々を「主に導き返し」(v4) 「裁判人を置き (v5) 整備する。制度改革がこのときに起こったのであれば、驚かされる。列王紀上15:24-列王紀下8:14 がヨシャパテの時代であるが、北イスラエルに関する記述は非常に豊かである。
2Chr20:35 この後ユダの王ヨシャパテはイスラエルの王アハジヤと相結んだ。アハジヤは悪を行った。
歴代志記者が悪とするひとつに、不信の支配者との協力があげられる。様々な外敵に対抗するためには「肉親」のような北イスラエルと協力することは当然のように思われるが、それを拒否する強い姿勢が見て取れる。わたしたちの母、兄弟について問い、血のつながりによって決めることに対する警告でもあるのか。
2Chr21:4 ヨラムはその父の位に登って強くなった時、その兄弟たちをことごとくつるぎにかけて殺し、またユダのつかさたち数人を殺した。
3節には、ヨシャパテが子らに財産や町を分配したことが記されているが、最後は「ヨラムは長子なので、国はヨラムに与えた。」と終わっている。それではいけないと言うことなのだろうか。こどもの教育、残していくものの選択・分配のむずかしさを感じる。
2Chr22:11 王の娘エホシバはアハジヤの子ヨアシを王の子たちの殺される者のうちから盗み取り、彼とそのうばを寝室においた。こうしてエホシバがヨアシをアタリヤから隠したので、アタリヤはヨアシを殺さなかった。エホシバはヨラム王の娘、またアハジヤの妹で、祭司エホヤダの妻である。
ヨシャパテの長子がヨラム、その子がアハジヤとすると、アタリヤはヨラムの妻か。9節にはヨシャパテの子となっているのは、子孫といういみなのだろう。女性が二人登場する。アタリヤとエホシバ。男性も、女性も、様々であることが生き生きと書かれている。王が中心の歴代志であっても、男性も女性も、人間、ひとり一人がすでに表舞台に登場している。
2Chr23:18 エホヤダはまた主の宮の守衛を、祭司とレビびとの指揮のもとに置いた。このレビびとは昔ダビデがモーセの律法にしるされているように、喜びと歌とをもって主に燔祭をささげるために、主の宮に配置したものであって、今そのダビデの例にならったものである。
新約聖書にも宮守がしら (Lk22:4, 52, Acts4:1, 5:24, 26) が登場するが、宮野軽微組織がこのようにして整備されたと言うことか。ここで目的は「喜びと歌とをもって主に燔祭をささげるため」となっており、19節には、汚れた者の排除が書かれている。普遍性は感じられない。
2Chr24:17 エホヤダの死んだ後、ユダのつかさたちが来て、うやうやしく王に敬意を表した。王は彼らに聞き従った。
7歳で王になったヨアシ、治世が40年 (v1) ということは、47歳にもなっていたことになる。それまでに、学んだことは無かったのだろうか。しかし、エホヤダはある信頼をうけてはいても、民も、指導者も替わってはいなかったことがすぐに露呈されることを示している事実であろう。
2Chr25:2 アマジヤは主の良しと見られることを行ったが、全き心をもってではなかった。
人はこのように採点されるのだろうか。わたしはどうだろうか。主はご存じである。もし、自分で評価するとすると、人生のある時点、それは、30歳の頃であるかも知れないし、40歳の頃であるかも知れないし、50歳の頃であるかも知れないが、そのときまでは、まさにこのアマジアのような過ごし方をしていた。そのあとは、全き心で主につかえることに人生をかけたが、それゆえにかえって、どうすることもできない、神に背をむける部分が浮き彫りになった気がする。そのような評価とは別に、恵みによる救いがあると考えて良いのか。そのような評価を考えること自体が、すでに神の支配のもとで生きることとずれがあるということか。
2Chr26:16 ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。
列王紀下15:1-7 が対応し、そこでは、ウジヤはアザリヤとなっている。この歴代志の記録は、列王紀と比較してとても豊かである。様々な軍事施設・軍隊の整備、農業、科学技術、十分な才能があったのだろう。そしてその恩恵も民に会ったと考えられる。しかし高慢となり自らを滅ぼしている。優秀なことをどう考えれば良いのだろうか。すべては失敗だったのだろうか。
2Chr27:1 ヨタムは王となった時二十五歳で、十六年の間エルサレムで世を治めた。その母はザドクの娘で名をエルシャといった。
ザドクはだれか明らかではないが、祭司の家系なのだろうか。このあとの2節をみると、ヨタムについての記述でありながら、ウジヤについての歴代志記者の評価がわかる。「ヨタムはその父ウジヤがしたように主の良しと見られることをした。しかし主の宮には、はいらなかった。民はなお悪を行った。」最後の記述が気になる。
2Chr28:17 すなわち、彼は自分を撃ったダマスコの神々に、犠牲をささげて言った、「スリヤの王たちの神々はその王たちを助けるから、わたしもそれに犠牲をささげよう。そうすれば彼らはわたしを助けるであろう」と。しかし、彼らはかえってアハズとイスラエル全国とを倒す者となった。
分析的に論理的に信仰の対象を決めること自体が間違っている。しかし、その対極にあるものをどのように表現したらよいのだろう。
2Chr29:6 われわれの先祖は罪を犯し、われわれの神、主の悪と見られることを行って、主を捨て、主のすまいに顔をそむけ、うしろを向けた。
選択の要素がある歴史を反省をもって見直す作業、これが内面化、そのもとで行動するのが、信仰的決断なのか。
2Chr30:18,19 多くの民すなわちエフライム、マナセ、イッサカル、ゼブルンからきた多くの者はまだ身を清めていないのに、書きしるされたとおりにしないで過越の物を食べた。それでヒゼキヤは、彼らのために祈って言った、「恵みふかき主よ、彼らをゆるしてください。彼らは聖所の清めの規定どおりにしなかったけれども、その心を傾けて神を求め、その先祖の神、主を求めたのです」。
サマリヤがアッシリアの前に陥落したのがBC722。ヒゼキヤが王位についたのは、BC720 頃だから、陥落から2年後。この時期をどのように乗り切り、アッシリアの攻撃から王国を守るかが、重要案件である。その時のヒゼキヤの行動は、完全とは言えないまでも、共感することが多い。この引用箇所は、長く過ぎ越しの祭りをしていなかった北イスラエル王国の民で捕囚からは免れた一般庶民によびかけて行った祭の時のことである。
2Chr31:16 ただしすべて登録された三歳以上の男子で主の宮に入り、その班に従って日々の職分をつくし、その受持の勤めをなす者は除かれた。
実際のつとめを担うのは20歳以上であるはずである。3歳から訓練をうけるという意味なのであろうか。身の清め方などから、ひとつひとつ。もし、そうなら驚かされる。
2Chr32:8 彼(アッスリヤの王セナケリブ)と共におる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におる者はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代って戦われる」。民はユダの王ヒゼキヤの言葉に安心した。
リーダーのことばは力がある。それゆえリーダーシップの責任も大きい。さらに、市民はリーダーのことばに頼ってもいけないのだろう。このことは、リーダーシップのありかたとしても、共同体の構成原理としてもとても難しい。
2Chr33:12,13 彼(マナセ)は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身を低くして、神に祈ったので、神はその祈を受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。これによってマナセは主こそ、まことに神にいますことを知った。
個人的なレベルとしては、明確な悔い改めである。そのあとの行動 (v14-18)もそのことを示している。屈辱的な姿でのバビロン捕囚 (v11) のあとでは当然だったとも言える。しかし、国のリーダーとしては、これで良いわけがない。神は、どのように判断されるのだろうか。
2Chr34:3 彼はまだ若かったが、その治世の第八年に父ダビデの神を求めることを始め、その十二年には高き所、アシラ像、刻んだ像、鋳た像などを除いて、ユダとエルサレムを清めることを始め、
ヒゼキヤのあとマナセ55年、アモン2年、あわせて57年の偶像礼拝の時が過ぎている。その期間においても、若き指導者を支えるだけの信仰を守り続けたひとたちが残されていたことを証言しているように思われる。14節のヒルキヤによる巻物の発見も、申命記などの創作というより、本当に、この57年間失われたものが少しずつ回復していく過程だったのかもしれない。
2Chr35:21 しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。
カルケミシでおそらくアッシリアと戦うために出てきたエジプトの王パロの言葉である。歴代志貴社は、このことばを注意深く記し、これは主からでたことばのような扱いにしている。そのことは、驚かされる。実際にこのことばにようになったこと、神に背いては、ことはならないことから判断してのか。全世界をすべ治める主のまえにへりくだったとまでは言えないのかも知れない。
2Chr36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。
祭司によるエルサレムの神殿における祭儀中心に復興を図ろうとする意図が、歴代志の背景として強いが、ここでは、祭司のかしらたちが「はなはだしく罪を犯した」ことが記されている。異邦人の道にいくことが罪であるという背景はあるが。この反省こそが次の出発点であるはず。可能ではなかったとしても。


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エズラ記

エズラ記、ネヘミヤ記にはいずれも、捕囚からの帰還と神殿再建を中心に帰還後のエルサレムでユダヤ教を中心にエルサレムでユダヤ民族のアイデンティティーを再建していったことが書かれています。まずは、南ユダ王国滅亡後の歴史的な背景を簡単にまとめておきましょう。

BC586 ユダ王国の滅亡。バビロン捕囚
BC550-530 ペルシャ王クロスの治世
BC539 バビロン陥落
BC538 クロス王の第一年
BC536 エルサレム帰還と神殿再建工事の開始
BC530-522 カンビュセス王の治世
BC522-486 ダリヨス一世の治世
BC520-515 神殿再建工事の再開と完成
BC486-465 クセルクセス一世(アハシュエロス)の治世
BC479 エステル、王妃となる
BC475 ユダヤ人虐殺計画
BC465-424 アルタクセルクセス一世(アルタシャスタ)の治世
BC458 エズラ帰還
BC445 ネヘミヤ帰還、城壁完成
BC433 ネヘミヤ再度帰還
「エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」勝原忠明、工藤弘雄著、いのちのことば社新聖書講解シリーズ 旧約9, p.14-15.

エズラ帰還は BC398との説もあります。

エズラ記、ネヘミヤ記、それぞれ問いをもって読むためにも、昔、聖書の勉強会のおりに作った質問のリストを書いておきます。

    エズラ7章

  1. エズラはどんな人物ですか。その血筋、仕事について分かることを挙げてみましょう。
  2. エズラの一行が無事にエルサレムに到着したことについて、どんな理由が挙げられていますか。
  3. エズラが人生をかけていることはどのようなことだと言っていますか。
  4. 手紙の内容を要約してみましょう。
  5. この手紙から判断して、王はエズラをどのように思っていたと思いますか。
  6. エズラはこの手紙にどのように応じますか。
  7. エズラの帰還の目的は何ですか。

    エズラ8章1節, 15-36節

  8. なぜレビの部族の人々が加わるまで出発しないのですか。
  9. エズラは集まった人々にまず、何を呼びかけていますか。
  10. エズラは、なぜ王に旅行中の保護を頼まなかったのでしょう。
  11. エズラは12人を選びますが、それは何の目的の為でしょう。
  12. 旅行について、エズラはどんな証をしていますか。
  13. エルサレムに到着したことを、出発前の預言と比較しながらまとめてみましょう。

    エズラ9章

  14. エズラの帰還の目的は何でしたか。
  15. どんな問題が報告されましたか。
  16. エズラはなぜこれほど嘆くのでしょうか

    エズラは祈りをみてみましょう。

  17. 捕囚に到った理由をどのように述べていますか。(6, 7 節)
  18. 帰還を赦された現状についてどのように述べていますか。(8, 9 節)
  19. 異教徒との結婚についてどんなことを述べていますか。(10-12節)
  20. エズラは何を畏れていますか。

    エズラ10章

  21. 人々はエズラの祈りにどのような反応をしますか。
  22. シェカニヤはどのような提案をしますか。
  23. エズラは人々に何を提案しますか。
  24. 改革はどのように実行されますか。
  25. 9, 10節からエズラのどんな態度が見られますか。なぜ、エズラはこのように応答するのでしょう。
  26. 神の律法、きよさ、愛に関するあなたの知識は、自分の罪に対する態度にどう影響しますか。
  27. あなたは、ネヘミヤとエズラからそれぞれ何を学びましたか。


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聖書通読ノート

BRC2023

Ezra 1:5,6 ユダとベニヤミンの親族の頭、祭司やレビ人など、神に霊を奮い起こされた人々は皆、エルサレムにおられる主の神殿を建てるために帰還しようと立ち上がった。周囲の人たちは、自発の献げ物のほかに、銀の器、金、財産や家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。
神殿を建てる旅に出た人たちについて書かれている。生活のことは、考えられていたのだろうか。空白の数十年についても。しかし、宗教的には、このような行為は讃えざるをえない。わたしにもわからないが、やはり、微笑みを浮かべて見送った頃だろう。
Ezra 2:64,65 会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百人いた。
これだけの数の人たちが移動するのはたいへんだったと単純に感じる。この書き方からして、女性の数も数えられていたのだろう。一族という以上、こどももいたはずである。さらに、男女の奴隷も登場する。この数から、皆が、奴隷を持っていたわけではないが、ある程度の地位を得ていたものもあったのだろう。ネヘミヤのように王に仕えていたひとも多かったのだろう。どのような生活だったのかも気になる。そして最後に、男女の詠唱者も出てくる。これが、会衆全員に含まれていないことから、異国人なのだろう。バビロンなどでも、詠唱がなされていたということだろう。もう少しよく知りたい。
Ezra 3:4,5 また、書き記されているとおりに仮庵祭を祝い、毎日、規定の数に従って、日ごとの焼き尽くすいけにえを献げた。ほかには、日ごとの焼き尽くすいけにえ、新月祭、聖別された主の祭りのいけにえ、主に自発の献げ物を献げるすべての人のいけにえがあった。
前の章に「彼らの馬は七百三十六頭、らばは二百四十五頭、らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。」(2:66,67)とあるが、規定の数通りに、いけにえをささげていたら、すぐ、家畜はそこをつくように思われる。しかし、そうであっても、忠実に、いけにえをささげることに、心が向いていたのだろう。痛々しくさえ感じる。さまざまなこころがあいまって、最後の言葉になっているように思う。「昔の神殿を見たことのある多くの年配の祭司、レビ人、親族の頭たちは、この神殿の基礎が据えられるのを目にして大声で泣いた。多くの者が喜びの叫び声を上げた。そのため、誰も喜びの叫び声と民の泣き声を聞き分けることができなかった。民が大きな叫び声を上げ、その声が遠くまで聞こえるほどだったからである。」(12,13)
Ezra 4:1,2 ユダとベニヤミンの敵対者は、捕囚から帰って来た人々がイスラエルの神、主のために神殿を建てているということを聞きつけた。彼らはゼルバベルと親族の頭たちに近寄って来て言った。「私たちにも一緒に建てさせてください。私たちも同じように、あなたがたの神に伺いを立てております。アッシリアの王エサル・ハドンが私たちをここに連れて来た時から、この神にいけにえを献げています。」
この章は、神殿の建設を中止命令が出た経緯が書かれている章であるが、いくつかの情報がわかる。まず、この人たちは、アッシリアの移民政策によって連れてこられた人たちであること。また「アルタクセルクセスの時代には、ビシュラム、ミトレダト、タベエル、およびその同僚たちがペルシアの王アルタクセルクセスに書簡を書き送った。その文面はアラム文字で書かれ、アラム語に翻訳された。アルタクセルクセス王に宛てて、長官レフムと書記官シムシャイはエルサレムに関する一通の書簡を書き送った。」(7,8)から、上記の移民と、長官レフムと書記官シムシャイは、深い関係にあったこと、さらに返書には「長官レフムと書記官シムシャイ、およびサマリアとアバル・ナハラ州に住む彼らの同僚たちに平和があるように。」(17b)とあり、サマリヤ人と言われている人たちとも関係があったことである。移民政策と統治者がアッシリアから、バビロンに変わり、さらに、ペルシャになった時代、さまざまな混乱のなかでのことなのだろう。難しい判断であったことも推測される。
Ezra 5:1-3 預言者ハガイと、預言者であるイドの子ゼカリヤは、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に向かって、彼らの上におられるイスラエルの神の名によって預言した。シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアが立ち上がり、エルサレムにある神の宮の再建に取りかかった。神の預言者たちも共にいて、彼らを援助した。その時、アバル・ナハラ州の総督タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその同僚たちが彼らのもとにやって来て言った。「誰があなたがたに命じて、この神殿を建て、内部を仕上げようとしたのか。」
4章の長官とこの総督は異なる役職なのだろう。時も経ているかもしれない。再建が、細々と続いていたらしいことがわかる。また、「彼らは次のように返答してきました。『私たちは、天地の神の僕であって、今から何年も前に建てられた神殿を再建しているところです。それはイスラエルの大いなる王が建てて完成したものです。ところが、私たちの先祖たちが天の神を怒らせたため、神は彼らをカルデア人であるバビロンの王、ネブカドネツァルの手に渡されました。王はこの神殿を破壊し、民を捕囚としてバビロンに連れ去りました。」(11,12)ともあり、ある歴史認識が語られている。預言者の活動と必死さ、そして、複雑さ、困難も伝わってくる。
Ezra 6:8-10 この神殿を再建するために、あなたがたがユダヤ人の長老たちになすべきことについて、私は命令を下す。その経費は、アバル・ナハラ州からの税収による王の資産から、これらの人々に確実に支払われるようにし、滞ることのないようにしなさい。また必要なもの、すなわち、天の神に焼き尽くすいけにえとして献げる若い雄牛、雄羊、小羊、それに小麦と塩、ぶどう酒と油が、エルサレムにいる祭司の提言どおり、日々彼らに支給されるようにし、手抜かりのないようにしなさい。彼らが天の神に宥めの香りを献げ、王とその一族の長寿を祈るためである。
第二神殿と言われるものも、このように、ペルシャ王の支援のもとで建てられ、いけにえも、支給されていたことが書かれている。そして、神殿での礼拝の目的は、「王とその一族の長寿を祈るため」である。これを潔しとしない人たちもいただろうが、ペルシャの支配下での再建では、致し方なかったのだろう。最後には、「捕囚から帰って来たイスラエルの人々、またイスラエルの神、主を求めてこの地の異国の民の汚れから離れてきたすべての人々が食事をした。」(21)とあるが、ここにも分断の種があることは、感じる。難しい。
Ezra 7:23,24 天の神の宮のために、天の神によって命じられていることはすべて注意深く行いなさい。王とその一族の国の上に怒りが下ることのないようにするためである。祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿に仕える者など、この神の宮に奉仕するすべての者には、税として、銀、物品、あるいは兵役を課すことは許されていないということを通告しておく。
最初にエズラに至る系図が書かれ、また「次に記すのは、アルタクセルクセス王が、祭司であり書記官であるエズラに与えた書簡の写しである。彼はイスラエルに授けられた主の戒めと掟に通じた書記官であった。」(11)とある。おそらく、捕囚帰還後のユダヤ教の基礎を据えたと思われる、エズラ登場である。引用句には「王とその一族の国の上に怒りが下ることのないようにするため」とあるが、対ローマにおいても、護教論の中で使われた論理であるように思う。ペルシャでは、すでに、書記官という地位に捕囚民がついていたこともあり、スムーズだったのかもしれない。それと比して、ローマでは、市民権が政策の道具であったため、キリスト者が、役職をえることが簡単ではなかったのかもしれない。純潔をたもつのも、政治利用も、それなりに困難がある。
Ezra 8:21-23 私はアハワ川のほとりで断食を呼びかけた。それは神の前にへりくだり、私たちのため、幼い子らのため、その他の財産のために、道中の無事を求めてのことであった。私は道中、敵から我々を守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に頼むことを恥としたからであり、また、私たちは王に次のように言っていたからである。「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」それゆえ、私たちは断食して神に願い求め、神はその祈りを聞き入れられた。
この章から「私」とエズラが一人称で書かれ、まずは、祭司はいたが、レビ人がいないといことで、レビ人を集めたことが書かれ、引用句に至る。断食をしている。単に、帰還すること以上のビジョンがあり、そのために、自らを顧みて、身を苦しめたのだろう。断食の基本的な姿勢が現れているように思う。
Ezra 9:15 イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。まさに今日ここにあるように、私たちは逃れて生き残った者です。御覧ください。このようなままで、誰もあなたの前に立つことなどできませんが、私たちは罪責の中であなたの前におります。」
民、祭司、レビ人も、この地の民の習慣に倣い、この地の民の娘をめとり、この地の民と混じってしまった(1,2)と聞き、祈った言葉である。早く帰還したひとたち、土地のひとたちの反対や妨害にあったり、生活が苦しくなっていたひとたちと、帰還して意気揚々のエズラたちとでは大きなさがあったろう。このような中から、ユダヤ教が出来上がっていったことも、無視できないように思う。
Ezra 10:13,14 しかしながら、民は多く、長雨の季節でもあり、外に立っている力はありません。また、この件に関して私たちは多くの背きの罪を犯しましたので、一日や二日で解決できることではありません。全会衆の上に私たちの長を立て、外国の女と結婚した町の者が皆、約束の日時に、その町の長老および裁判官と共に来るように命じてください。そうすれば、この件に関して、神の燃える怒りは私たちから離れるでしょう。」
この章には、外国の女性と結婚した人たち、特に、祭司、レビ人の問題について書かれている。そして、この章すなわちエズラ記の最後は「以上は皆、外国の女をめとっていた。それらの女の中には子を産んだ者もあった。」(41)とリストで、終わっている。容易に想像がつくが、容易ならざる事業だったのだろう。引用句には、長老および裁判官も登場する。この時代に、どこまで結婚契約書(ケトゥバー(Ketubah)・イスラム教ではマハール(Mahr)と呼ばれたらしい)があったのかどうかは不明だが、契約の民には、ある程度、結婚に関する正式な合意があったのかもしれない。むろん、大変なことだが。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Ezra 1:1,2 ペルシアの王キュロスの治世第一年のことである。主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。王は国中に布告を発し、また文書をもって次のように述べた。「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。
歴代誌36章22,23a節のことばと一言一句同じである。歴代誌36章23節後半は「あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」となっており、エズラ記1章3節とは少しことなるが、そこで歴代誌を閉じている。両方の書の記者(集団)に強い関連性があることが見て取れる。この布告の原文はわからないが、3節の「その方はエルサレムにある神である」というちょっと不自然な表現を見ると、ある程度、原文に忠実なようにも思われる。これに続く「残る者は皆、どこに寄留している者であっても、自分のいる所で、エルサレムにある神の宮への自発の献げ物を用意し、また銀や金、財産や家畜をもって彼らを援助しなさい。」(4)はさらに興味深い。バビロンからペルシャに変わり、捕囚になったイスラエルの民はどのような状態だったのだろうか。ネヘミヤ記やエステル記などから部分的にしかわからないが、ある程度の自由はあったのかもしれない。「自分のいるところで」は、"Bloom where you're planted" 「植えられたところで咲きなさい」だろうか、を連想させる。ここでは、それが、寄附に結び付けられており、このあとに、「周囲の人たちは、自発の献げ物のほかに、銀の器、金、財産や家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。」(6)とあるが、規模はわからない。神殿再建がまず先という気持ちはわかるが、礼拝の場所から始める、それは不自然でもある。困難の始まりであるが、そのことは、簡単に予想もできたことだったろう。それを敢えてしたと受け取ろう。
Ezra 2:64,65 会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百人いた。
2つ気になった。一つは、奴隷の存在。もう一つは、会衆のほかとして、男女の詠唱者について記録されていることである。2つ目は、会衆の中であるが、別途最後に記述した可能性もあるが、神殿に仕える(58)会衆の中にいれていても良かったはずである。奴隷は、バビロンなどにいたころにすでに、奴隷を所有していた裕福なひとがかなりいた可能性を感じる。異民族だったのか。このあとに、馬、らば、らくだ、とともに、非常に多くのろばの数が書かれているが、奴隷も、労働力として、重要だったのだろう。特に、中心は、裕福な、支配階級のひとたちだったろうから。しかし、神殿建築を考えると、やはり問題も感じる。また、1節には、エルサレムとユダのそれぞれの町に帰ったとあるので、やはり南ユダ王国の末裔だったのだろう。サマリヤのグループとは、最初から断絶して活動を開始したように思われる。
Ezra 3:11 彼らは「主は恵み深く、その慈しみはイスラエルの上にとこしえに及ぶ」と、主への賛美と感謝をもって唱和した。主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな喜びの叫びを上げた。
批判的な目でも見てしまうが、喜んでいるもの、たいせつにしているものが蘇っていくひとたちのこころと一緒にいたいとも思う。主のかわらない愛を強く感じられるのは、このようなときなのだろう。わたしも、人生で何度か、そのような時をもったのかもしれない。あまりそれを味わうことが得意な性格ではなかったが。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ書12章15節)これが難しいのはなぜだろうか。考えさせられる。「貧しい人を嘲る者は造り主を見くびる者。/災いを喜ぶ者が罰を免れることはない。」(箴言17章5節)のように、貧しい人を嘲り、他者の災いを喜ぶほうが自然なのだろうか。
Ezra 4:2 彼らはゼルバベルと親族の頭たちに近寄って来て言った。「私たちにも一緒に建てさせてください。私たちも同じように、あなたがたの神に伺いを立てております。アッシリアの王エサル・ハドンが私たちをここに連れて来た時から、この神にいけにえを献げています。」
このときの対応はどうすればよかったのかと思う。とても悩ましい。この人たちは「ご存じのように、私たちは王宮から俸給をいただいておりますので、王様に対する非礼を見過ごすわけにはまいりません。それゆえ、私たちは王様に使いを送ってお知らせする次第です。」(14)とも書いており、「そこで、アッシリアの王は命じた。「あなたがたが捕囚として連れ去った祭司の一人を、元いたところに連れ戻しなさい。連れ戻してそこに住まわせ、その地の神のしきたりを教えさせなさい。」こうして、サマリアから捕囚として連れ去られた祭司の一人が戻って来て、ベテルに住み、どのように主を畏れ敬うべきかを教えた。」(列王記下17章27,28節)とある人たちの末裔だろうか。この政策が、アッシリアから、バビロン、ペルシャに引き継がれているのか。理のあることでもある。しかし宗教的には、エズラ記記者たちとは、かなり離れてしまっていることも確かだろう。さて、どうしたら良いのだろうか。神様のあらたなチャレンジにようにも見える。そして、このようなことは現代でも頻発しているように思う。このひとたちの社会的・政治的役割を理解し、かつ、その人たちが担ってきた、神様から委ねられてきたものを受け取り、少しずつ協力を模索する。とても、難しいだろう。わたしなら「一緒に聖書を読みませんか」かな、または、通読をいっしょに始めてみることだろうか。時間もかかるように思う。妥協と思われることもあるかもしれない。
Ezra 5:17 それゆえ、王がお許しになりますならば、キュロス王がエルサレムにあるこの神殿を再建する命令を下されたのかどうか、バビロンにある王の保管庫をお調べください。そして、この件に関する王のお考えをお知らせください。」
ここに引用されている「アバル・ナハラ州の総督タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその同僚であるアバル・ナハラ州の統治者たちがダレイオス王に送った書簡の写し、」(6)は秀逸である。ペルシャやバビロンの政治も十分理解しているひとが、自らの背景と、経緯を簡潔にまとめて書いているのだろう。このようなひとが与えられていることは感謝である。そうであっても、近隣のひとたちとの関係を適切に築くことはできなかったのか。正しさが前面にあり、義を確立することをつねに望んでいたのだろう。「隣人を自分自身のように愛し」「互いに愛し合う」ことを正しいとするのではなく、神の子らとして、この言葉に生きようと目指すには、まだ時間がかかるということだろうか。現代でも、そこに目を向けることに至るのは、遠いが。それを目指していきたい。
Ezra 6:8,9 この神殿を再建するために、あなたがたがユダヤ人の長老たちになすべきことについて、私は命令を下す。その経費は、アバル・ナハラ州からの税収による王の資産から、これらの人々に確実に支払われるようにし、滞ることのないようにしなさい。また必要なもの、すなわち、天の神に焼き尽くすいけにえとして献げる若い雄牛、雄羊、小羊、それに小麦と塩、ぶどう酒と油が、エルサレムにいる祭司の提言どおり、日々彼らに支給されるようにし、手抜かりのないようにしなさい。
敵対者もいることから、おそらくこの文書の内容は正確であると思われる。イスラエルの人から見て完璧である。キュロス王の記録の内容が確認され、総督に手を引くように命じ、引用句のように、再建のときの経費の支出、礼拝のために必要ないけにえに関わる支出についても記し「王とその一族の長寿を祈る」(10)の記述も内部の非難をさけるためにも重要だったろう。さらに、最後に、反対者への罰についても述べられており、「私ダレイオスは、これらが注意深く実行されるように、この命令を下す。」(12)と締めくくっている。おそらく、起草者の中に、イスラエル人またはよく知るものがいたのだろう。完璧であるが、心配もある。いくら財政基盤が貧弱だとしても、ペルシャの税収で賄われることである。これは、最初に神殿を再建するというビジョンに関係しているとも言える。気持ちはわかるが、一時しのぎであることも覚えないといけない。それだけの準備が整えられていくか、緊張感を失っていくか、信仰生活は単純ではない。神殿建設がゴールでは無いのだから。同様のことは、現代でも形を変えて起こることなのだろう。
Ezra 7:27,28 私たちの先祖の神、主はたたえられますように。主は、エルサレムにある主の神殿を誉れあるものとするために王の心を動かされ、王とその参議、および有力な王の高官すべてが私に対して好意を向けるようにされた。私の神、主の手が私の上にあったので、私は力を得て、共に上って行こうとする頭たちをイスラエルから集めた。
不明な点もあるが、王の側近との間にも、信頼関係が築かれていたことがみてとれる。「私」は「祭司であり書記官であるエズラ」(11)のようにも思われるが、文脈からは明確とは言えない。それと、書記官がイスラエルの書記官か、「アルタクセルクセス王」(11)の書記官であるか不明である。しかし、いずれも、「是 YES」 なのだろう。「このエズラが、バビロンから帰還した。彼はイスラエルの神、主が授けられたモーセの律法に精通した書記官であり、その神、主の手が彼の上にあったので、王は彼が求めるものすべてを与えていた。」(6)とあり、ここにも書記官とある。イスラエルで任命されることは、まだできないと思われるので、ペルシャの役職なのだろう。大勢いるひとりだったろうが、仲間も多く、それが、6章の手紙や、7章の手紙を書いていると思われる。どこにおいても、忠実に仕事に当たり、信頼を得ることの大切さとともに、利益誘導ではないかとも心配になる。不公正ではなくても、不公平を誘発する。考えることは多い。
Ezra 8:20,21 また、神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者として二百二十人を連れて来た。彼らは皆、指名された者であった。私はアハワ川のほとりで断食を呼びかけた。それは神の前にへりくだり、私たちのため、幼い子らのため、その他の財産のために、道中の無事を求めてのことであった。
エズラと共に帰還したひとたちのリスト、さらに、レビ族のひとたちがいないので召集をかけていることを考えても、目的は、神殿で神に仕えることが最優先であることがわかる。引用句には「神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者」についても記されている。レビ族ではなく、下請けなのだろう。この人達がいなければ、実際の仕事はできない状況だったとも言える。ダビデが整えた神殿周辺の仕事(ダビデの時代にはまだ神殿は無いはずだが)も継続しようとしたこともわかる。引用句には、幼い子らも登場する。男何人という記述が続くが、家族での帰還だったのだろう。その体制も維持しての帰還である。「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」(22)をどのように行うかは、あまり簡単ではない。わたしも、「神を尋ね求める者」でありたいと願っているが、なにがよいのかは、正直よくわからない。エズラたちは、それを過去の栄光にもとめたのか、それとも、律法を逐一守ることに求めたのか。わたしは、どうしたら良いだろうか。
Ezra 9:8,9 ところが今、僅かな間、私たちの神、主の憐れみによって、私たちを生き残る者とし、その聖なる所によりどころを与え、私たちの目に光を与え、奴隷の身の私たちに僅かに生きる力を与えられました。確かに、私たちは奴隷です。しかし、神は奴隷の身の私たちを捨て置かれず、ペルシアの王たちの前で私たちに慈しみを示されました。それは私たちに生きる力を与えるため、私たちの神の宮を再建するため、廃虚を復興するため、ユダとエルサレムで私たちに城壁を与えるためでした。
この自己分析には驚かされる。「奴隷」ということばが2回登場するがこれは具体的にはなにを意味しているのだろうか。ペルシャの王のものにあるということか、それとも、霊的な実態を含むのか。主が慈しみが示された目的が与えられている。「生きる力を与える」「神の宮を再建する」「廃虚を復興する」「城壁を与えるため」奴隷とはあまり結びつかない。さらに、キュロスの詔勅は、神殿建設について述べているが、それ以外は、どのような状態だったのかも不明である。エズラの計画なのか。それとも、ペルシャの命令か。奴隷の身のものが、慈しみを施され、生きる力を与えられたら、それが、私自身だったら、なにをするだろうか。あまりよくわからない。考えてみたい。
Ezra 10:2,3 エラムの一族であるエヒエルの子シェカンヤはエズラに言った。「私たちは神に対する背信の罪を犯し、この地の民である外国の女と結婚しました。しかし、この件についてイスラエルには希望があります。この度、私たちは神と契約を結び、これらの女、および彼らから産まれた子らをすべて追い出します。わが主と、神の戒めを畏れ敬う人々の勧めに従ってのことです。律法に従って行いましょう。
この人たちなりに誠実に行ったことで、非難すべきことではないのだろうが、とても残念である。正しさが生む悲劇とも言える。現代における聖書理解にも影響があることだろう。「しかしながら、民は多く、長雨の季節でもあり、外に立っている力はありません。」(13a)ともあるが、外的要因もこの決断の背後にあるかもしれない。「アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤはこれに反対し、メシュラムとレビ人シャベタイが彼らを支持した。」(15)反対したひとがいることが書かれているのは、救いでもある。声をあげた理由は様々だろう。その中には、到底許容できないものもあったかもしれない。しかし、同時に、耳を傾ける必要のあるものもあったろう。引用句の「私たち」があくまでも、自発的な集団なのか、強制をふくむものなのかも、気になる。「同意」はとったようだが。(19)「三日のうちに出て来ない者は皆、長たちと長老たちの勧告に従って、その全財産が没収され、捕囚の民の会衆から除名することになった。」(8)からすると、ある範囲は限っているものの、強制的ともいえる。裁判官のもとでの離婚という整然と、「律法」にしたがってこのことがなされることにも恐れを感じる。そのようなことは、現代でもおそらく、起こっているのだろう。

BRC2019

Ezra 1:5 そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。
ユダ王国の主要人物をさして「皆」と言っているようだ。捕囚になったのも、エルサレム住民など、指導的立場にあった人たちだろうから、たしかにこれらが中心なのかもしれないが、ほかにもいろいろな人たちがいたはずである。このくくり方で、よいとされたのだろう。非常に細かいことだが、「以上金銀の祭具の合計五千四百。」(11)の書き方が気になった。「以上」は「など」として欲しかった。全体として、配慮が行き届いていないように感じてしまうのは、わたしだけだろうか。
Ezra 2:2 彼らはゼルバベル、イエシュア、ネヘムヤ、セラヤ、レエラヤ、モルドカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと共に帰って来た。イスラエルの民の男子の数。
最初に名前が連なるのは、指導者なのだろう。このあとに、リストが続く。「男子」とはあるが、「一族」という書き方と、「ベツレヘムの男子」(21)のように、男子と明確にしている箇所とがあり、祭司、レビ人については、「イエシュアの家族」(36)という表現もあり、さらに「男女の詠唱者」(65)とあり、その理由は書かれていない。おそらく、もともとは、ユダやレビではなく、単に、ユダに住んでいた人たちも、様々な人たちが含まれていただろう。部族も、所属部族のような者だったかもしれない。戦士となりうるとする、男子の数え方が基本なのだろうが、それぞれからの報告を、記録したのかもしれない。かえって、様々な記載があることが、現実の複雑さを表現しているとも考えられる。
Ezra 3:12,13 昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。 人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。
このひとたちと共に喜び、このひとたちと共に泣くとは、どのようなことなのだろうか。むろん、喜びの声と、泣き声が交差する状況はある程度理解できる。しかし、その複雑さは、ひとり一人の歴史にまで寄り添わないと、受け取れないように思われる。筋萎縮性側索硬化症(ALS: amyotrophic lateral sclerosis)に罹っている数学者の友人のブログを読んでいて、強く感じた。勇気をもち、また、その文才をももって、時にはユーモアも交えて、闘病記をも書いてくれるから「受け取れない」ということを、受け取れるのだろうが。捕囚帰還後のユダヤ教には、批判的になってしまう面が強い。しかし、その前に、共に喜び、共に泣く者でありたい。
Ezra 4:1.2 ユダとベニヤミンの敵は、捕囚の子らがイスラエルの神、主のために聖所を建てていることを聞いて、 ゼルバベルと家長たちのもとに来て言った。「建築を手伝わせてください。わたしたちも同じようにあなたがたの神を尋ね求める者です。アッシリアの王エサル・ハドンによってここに連れて来られたときから、わたしたちはこの神にいけにえをささげています。」
この申し出を拒否、その後「ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。 」(5)とあり、どうも、何度も送っており、アルタクセルクセス王に書き送ったものが功を奏したようである。Wikipedia からの情報だと、アケメネス朝のキュロス2世(紀元前550年 - 紀元前529年)がここでペルシャの王キュロスと呼ばれているものと思われ、このあと、カンビュセス2世(紀元前529年 - 紀元前521年)、スメルディス(紀元前521年)、ダレイオス1世(紀元前521年 - 紀元前486年)、クセルクセス1世(紀元前486年 - 紀元前465年)、アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)となっていることを考えると、長期間にわたり、工作をし、手紙を送り続けたように思われる。その人達の側からも考えると、やはり、敵として遇するしかなかったのか、考えてしまう。パレスチナ問題は、綿々と続く。
Ezra 5:6 ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイおよびその仲間であるユーフラテス西方の巡察官たちがダレイオス王に送った手紙の写し、
様々な人達が関わっていることがわかる。アルタクセルクセス1世のあとは、クセルクセス2世(紀元前424年 - 紀元前423年)、ソグディアノス(紀元前423年)、ダレイオス2世(紀元前422年 - 紀元前404年)と続く。引用箇所のダレイオス王は、2世のことだろうか。4章の手紙と5章の手紙を比較すると、行政官や、王の側近のしごとの丁寧さが、大きな影響を及ぼしていることもわかる。かなりのレベルで、行政が行われていたことも、見て取れる。アケメネス朝ペルシャについても、勉強してみたくなった。
Ezra 6:8,9 この神殿を建てるために、あなたたちがそのユダの長老たちを援助することを、わたしは命ずる。その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。天にいます神に、焼き尽くす献げ物としてささげるために必要な雄牛、雄羊、小羊、それに小麦、塩、ぶどう酒、油をエルサレムの祭司たちの要求に従って、毎日欠かさず与えなければならない。
これは、神殿建設に反対していた人たちにとっては大きな痛手だったろう。イスラエル人たちの勝ち誇った顔がうかぶが、本当にそれでよいのかは不明である。ともに生きることを目指せないのだろうか。これも、正しさは確保されているかもしれないが、結局の所「ユダの長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言に促されて順調に建築を進めていたが、イスラエルの神の命令と、ペルシアの王キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの命令によって建築を完了した。」(14)とあるように、様々な人達の支援が関係しているのだから。ここに、アルタクセルクセスも登場することは、よくわからない。また、22節に「主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである。 」と、アッシリアと記されていることも、不明である。地名ではないように思うが。
Ezra 7:23 王とその子孫の国に怒りが下らないように、天にいます神の命令であれば、天にいます神の神殿のために、すべてを滞りなく実行しなければならない。
ペルシャの政策は、それまでのアッシリア、バビロニアからの大きな変更である。「これらの事があって後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、エズラがバビロンから上って来た。」(1, 6a)節も入り組んでいるが、6章14節にあるアルタクセルクセスは、こちらの、アルタクセルクセス2世(紀元前404年 - 紀元前343年)(参照:アルタクセルクセス3世(紀元前343年 - 紀元前338年))のことで、4章にある、アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)ではないのだろう。明らかに、イスラエルが自律的に、これらのことができているわけではない。ということは、主が、イスラエルだけの神という考え方では理解できないことが出現しているとも見ることができる。当時の人達も、そのことを強く意識した可能性も高い。すでに、グローバルである。民族主義、神殿を中心とした唯一神信仰とともに、普遍性も重視される時代だったのかもしれない。
Ezra 8:21-23 わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。
エズラのリーダーシップのもとでの誠実さとともに、これが方法論となっていく危険性をともに感じる。最後の「祈りは聞き入れられた」も事実として受け取るのか、信仰告白として受け取るのかの違いもある。幼子のためだけでなく「持ち物」のためにも祈っているが、このあとの文章からもわかるように、神そして、神殿にささげられた、そして主にお返しするものとして大切に扱っていることも見て取れる。アルタクセルクセスのもとでも、丁寧な仕事がなされていたのだろう。その信頼も背後にあるように思われる。
Ezra 9:11 御命令は、あなたの僕、預言者たちによってこう伝えられました。『これから入って所有する地は、その地の住民の汚れによって汚された地である。そこは、その端から端まで彼らの忌まわしい行いによって汚れに満たされている。
このあと申命記7章3節「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。」などが引用されている。基本的には、申命記のようである。このあとも、分離主義を貫いていく。イエスは、違った態度を取られる。主権的な力をもった言葉なしには、過去の言葉に従うことも理解できるし、それにとらわれることによって、その背後にあるみ心を理解できないこともある。へりくだり、み心を求めることの難しさでもある。わたしが「達し得たところに従って」というときのむろん、自由も、真実も、危険も、そこにあるように思われる。
Ezra 10:15 ただアサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤがこれに反対し、レビ人メシュラムとシャベタイがその二人に加担した。
現在のわたしであれば、おそらく、この人達のように、自分の状況がどうであれ、反対しただろう。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。」(9章1節)と始まっている。今後のユダヤ教の指導を考えると、祭司、レビ人については、明確にしないといけないと考えたのだろう。しかし「以上の者は皆、異民族の女をめとった。その女の中には子を産んだ者もあった。」(44)ともある。正しさの悲しさを感じる。普遍的な真理に行き着くのは、難しいということなのだろう。反対しつつも、この指導者たちとも、ともに生きる道を見つけていきたい。

BRC2017

Ez 1:4 すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
歴代誌での引用に加わっている部分である。このあと周囲の人たちの支援について書かれ、さらに「キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めた祭具類を取り出させた。」(7節)と続く。ダビデ、ソロモンの時代からは、様々な略奪や、贈り物としてささげた記録もあり、どの程度のものが、ネブカドネツァルによってバビロンに運ばれたかは不明である。歴代誌下36章にエジプトに貢を納めることが課されたことも書かれており、大国の間では、おそらく、十分なものは無かっただろう。しかし、そうであっても、大きな恵みと受け取ったことは確かだろう。異邦人の異教徒の支配者のめぐみの大きさ、それを神のあわれみと感謝して。祝福と呪いとしての単純ではなく、複雑でもある。
Ez 2:1 捕らえ移された先から上って来たこの州の人々は次のとおりである。彼らはバビロンの王ネブカドネツァルによってバビロンに連行されたが、それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰った者たちである。
このあとには、11人の名前がまず記され「彼らは(中略)と共に帰って来た。」とあり、これから部族毎の人数が続く。人数は、帰還者のそれであり「バビロンに連行されたが、それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰った者たち」だととるのは誤りであろう。70年以上の捕囚の年月を考えると、殆ど残っていなかったかもしれない。しかし、戻ったのは、自分の町であり、まさに、連行された者たちだったのだろう。その歴史を両親または祖父母からつぶさに聞かされていたであろうから。リーダーの名前にも興味をもつ。モルドカイは、エステルの叔父だろうか、ネヘムヤは、ネヘミヤと同一人物だろうか。リーダーとはどのような人たちだったのだろうか。
Ez 3:12 昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。
どの程度いたのだろうか。現実的に考えると非常に少なかったと思われる。BC586がユダ王国の滅亡。クロスの第一年はBC538、エルサレム帰還の第一陣はBC536と言われている。すると、滅亡の時に、生まれたひとは、50歳、祭司の勤めは30歳からだから、そのような人は80歳となる。エレミヤ預言が70年間の捕囚だったので、それから、もう少し期間があると思っていたが、そうでもないのかもしれない。この人たちの、感動は伝わってくる。大声でなく人と、喜びの声をあげる人。このあとも、困難の連続であるが、ここにあらたな原点があるのだろう。それは、尊重して考えなければいけない。ヨシア王の死はBC609とすると、ヨシア王のことを知っているひとはさすがに殆どいなかったと思われる。
Ez 4:4,5 そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、 ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。
この人たちにも言い分はあるだろう。50年もしてから、帰還してきて、神殿建設を始めたのだから。お金もある程度持って帰ってきたであろうし。キュロスの存命中にすでに始まったことも書かれている。複雑であることは確かである。ひとは、このようなときに、どう考えたらよいのだろうか。人の行動と、神の働きについて。だれも悪くなくても、困難が生じている。
Ez 5:5 しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、その報告がダレイオスになされ、それに対する王の返書が送られてくるのを待った。
1節をみると「預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言した」とある。このことが影響していることも確かであろう。なぜ、このときに、成功したのかを厳密に問うことはできないであろう。しかし、引用した箇所の「神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので」は素晴らしい信仰告白である。神に信頼して生きる者でありたい。
Ez 6:21 捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかった。
確実とは言えないが、この後半「イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々」は、捕囚にはならず、土地にのこった、どちらかというと、支配階級ではない平民のことを言っていると思われる。少なくとも、捕囚の地から帰ってきた人々とは区別されている。また17節には「全イスラエルのために贖罪の献げ物としてイスラエルの部族の数に従って雄山羊十二匹をささげた。」ともある。イスラエルの捕囚はアッシリアの頃であり、ユダ王国は、ユダとベニヤミン、それ以外は、それぞれの一部だけだったと思われるので、ここで十二部族が同等に扱われ、民族としての一致が守られたことにも意味がある。「イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。」(16節)のことばによく現れている。
Ez 7:6 エズラは、イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた。
1節から5節に系図が書かれているが、祭司として、アロンの家系であることが、捕囚という、祭司職が殆ど意味の無い時代においても、意識されてきたのだろう。おそらく、エズラは捕囚二代目ぐらいであろうが、親からの教育をしっかりうけつつ王の「書記官」という職を得て、その力を発揮してきたのだろう。教育を受けた、教養人としての働きでもある。この短い文章にも「イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法」「その神なる主の御手の加護を受け」と表現されている。捕囚帰還後の宗教国家設立には、個人的には、受け入れがたいものを感じるが、その中心人物の生き方には同じ神を信じるものとして、学びそしてつながりたい。
Ez 8:15 わたしはアハワに向かって流れる川のほとりに彼らを集めた。そこでわたしたちは、三日間野営した。そこには民も祭司もいるのが分かったが、レビ人が見当たらなかった。
アルタクセルクセス王の親書をもって、エズラは旅立っているが、何をすべきなのか、目的も明確にもち、かつ、それを実行するために必要な人員についても、単に「わが国にいるイスラエルの人々、祭司、レビ人でエルサレムに行くことを望む者はだれでも、あなたと共に行ってよい。」(7章13節)だけで、ボランタリーに集まった人と、託された金銀などでは、十分ではないことを知っていた。書記官として、実際の職務の遂行に習熟していたと言うことだろう。神への信頼を忘れてはいけないが(21節・22節)それだけで、ことがなるわけではない。エズラを待ち受けている物は、単純な作業ではないのだから。
Ez 9:3 わたしはこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。
「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。」(1節)から始まる。これは、土地の住民との結婚を指している。(2節)「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。 あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。」(申命記7章3節・4節)を根拠としていると思われる。申命記は、カナンに入るときのことを言っているが、歴史的には、ずっと複雑な状況は続いており、ダビデの家系も、タマルや、ルツなどとの結婚によって続いている。しかし、エズラたちは、これこそが、民を神から引き離した重大な要因だと結論していたのだろう。クリスチャンとクリスチャン以外の結婚など、現代でも同じ種類の問題が議論される。ひとは弱さをになっている。このことが、試練となることは事実であり、それをさけても、試練がなくなるわけでもない。イエスは、このような悩みを抱えた民を、友とされたように思う。正しさではない価値観だろうか。
Ez 10:12-14 会衆はこぞって大声で答えた。「必ずお言葉どおりにいたします。 しかし、民は大勢であり、雨の季節でもあって外に立っている力はありません。また、わたしたちはこの罪を数多く犯しましたので、その処理は一日や二日では終えることができません。 わたしたちの長を全会衆の上に立て、わたしたちの町の者で異民族の嫁を迎え入れた者が皆、定められたときに、それぞれの町の長老と裁判官と共に出頭するようにしていただけないでしょうか。この罪に対して燃え上がったわたしたちへの神のお怒りもついに治まることでありましょう。」
長く引用した。集団離婚というおそらく歴史的にも類をみない大変な事態である。いま、是非は問わないが、雨の季節であることが述べられている。困難さを象徴しているようでもある。なぜ「外に立っている力がない」と言っているのだろうか。説得だろうか、反省だろうか。苦しみが伝わってくる。宗教共同体としての新たな出発と捉えると、多くの人が心を一つとしたと言うことだろう。この記事がエズラ記の最後、そしておそらく中心であることも、考えさせられる。

BRC2015

Ez1:3 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。 
この文章をみても、このあとの財務官ミトレダトによって選び出させた祭具類のリストを見ても、背後に王の近くで働いていた「主の民に属する者」がおそらく何人もいたことは確かである。この通達文書を見て信仰を鼓舞された人は多かったろう。同時に新バビロニアが滅ぼされ、ペルシャになるまで希望を捨てなかった人たちの喜びも目に浮かぶ。しかしこれが神の国の到来ではない。
Ez2:64-67 会衆の総数は、四万二千三百六十人であった。 ほかに男女の使用人がいて、それが七千三百三十七人いた。また、男女の詠唱者が二百人いた。 彼らの馬は七百三十六頭、らばは二百四十五頭、 らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。
大変な数の人たちの帰還である。どのように生活したのだろうとまず心配になる。家畜の数も書かれているが、八千程度で、一人一頭にはほど遠い。ろばが多いことからも、物資の輸送に使ったと思われるが最小限の数であり、そのあとの生活のためではないここともわかる。ここに北イスラエルの人々はどのように加わったのだろう。混血や寄留の外国人はどうなっていたのだろう。この人たちが一つになるには、宗教しかなかったのかもしれない。
Ez3:13 人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。 
この感動の声はわたしの耳にまで伝わってくるようだ。「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」(11節)と、唱和するにふさわしいときだったろう。しかし、ひとが生きていくことは、これだけによっているのではない。
Ez4:3 しかし、ゼルバベルとイエシュア、他のイスラエルの家長たちは言った。「わたしたちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、わたしたちに託された仕事です。ペルシアの王キュロスがそう命じたのですから、わたしたちだけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます。」 
妨害に遭い24節には「そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。」とある。あまり長くなく1年半ぐらいかとあるが、このような時の対応は非常に難しい。責任問題にもなり得る。評価をするのは、とても困難に思われる。
Ez5:13 しかし、バビロンの王キュロスはその治世の第一年に、この神殿の再建をお命じになった。 
キュロスは1:1ではペルシャの王となっている。ここではバビロンの王。通常世界史ではアケメネス朝ペルシャ帝国(BC550-330)と言われ、メディアやリュディアや新バビロニアを征服したキュロス二世(在位BC559-529)、エジプトを征服したカンビュセス二世(在位BC530-522)をへてダレイオス一世(在位BC522-486)で最盛期となる。
Ez6:8 この神殿を建てるために、あなたたちがそのユダの長老たちを援助することを、わたしは命ずる。その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。 
原文はアラム語で書かれたものであろう。ここはおそらくヘブル語。しかし、内容は正確に伝えられていると思われる。金額は不明であるが「その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。」とある正確さをもって記されている。ユダヤ人という名称が適切かどうか不明であるが、この人たちにとって貴重な文章で、多くの人の前で何回も読まれたことが想像できる。15節には「この神殿は、ダレイオス王の治世第六年のアダルの月の二十三日に完成した。」とあり、5章24節からすると再開は治世の第二年であるから四年あまりでの完成である。経費は潤沢だったように思われる。
Ez7:7-9 アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエルの人々、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人から成る一団がエルサレムに上り、 同王の第七年の第五の月にエルサレムに到着した。 彼らは第一の月の一日をバビロン出発の日とし、神の慈しみ深い御手の加護を受けて、第五の月の一日にエルサレムに到着した。 
アルタクセルクセス王は一世(在位BC464-424)と思われるがダレイオス王(在位BC522-486)との間にはクセルクセス一世(BC486-465)統治の期間もある。年はユダヤ暦とどのようにあわせていたのだろう。何か第一の月の一日はユダヤ暦を想像させる。
Ez8:21-23 わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。 わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。
これらのことばは31節と対応している。そこでは「道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて、免れることができた。」と書かれている。実際に攻撃があったのかどうかは不明であるが、かなりの危険の可能性が示唆されている。このような一連の信仰に基づいた行動をどう評価するかは困難である。これらの節にあることを主張する信仰者に対して、対案を出すことは非常に困難である。しかし、ひとり一人が責任をゆだねられていることも事実である。マタイ10:16「「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」をどのように解釈するかも難しい。
Ez9:1,2 このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、 彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」 
困難な問題の報告である。わたしには、この問題の解決法はわからない。しかし、イエスはエズラのように行動しただろうか。そうとは思われない。「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』」 (ヨハネ8:7)
Ez10:15 ただアサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤがこれに反対し、レビ人メシュラムとシャベタイがその二人に加担した。 
イエスはどうしただろうか。この人たちが相談に来たときに、どう答えただろうか。わたしには、このエズラの決断を支持できない。しかし、エズラが主に従おうしたとしてこのようにしたことに疑いはない。意図がよければそれでよいのだろうか。愛の行為といえるのだろうか。神が愛する人を愛していることになるのだろうか。

BRC2013

Ezra1:1 ペルシャ王クロスの元年に、主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動されたので、王は全国に布告を発し、また詔書をもって告げて言った、
これだけでは、クロスを決断させて背景についてよく分からない。しかし伝えようとしていることは「主の言葉の成就」であること。そのために「(主が)クロスの心を感動され」これにクロスが応答したことが書かれている。
Ezra2:2 彼らはゼルバベル、エシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レホム、バアナと共に帰ってきた。そのイスラエルの民の人数は次のとおりである。
歴代志上3:19 によればゼルバベルは王族でエホヤキムの子、ゼデキヤの父である、エコニヤの孫にあたる。エズラ3章・5章、ハガイ1:1、ゼカリヤ4をみるとこの帰還グループの長の役割を果たしている。ネヘミヤ7:7のリストと比較。エシュアはエズラ2章・3章などに現れるヨザダクの子の祭司か。ひとりひとり調べてみたい。
Ezra3:9 そこでユダの子孫であるエシュアとその子らおよびその兄弟、カデミエルとその子らは共に立って、神の宮で工事をなす者を監督した。ヘナダデの子らおよびレビびとの子らと、その兄弟たちもまた一緒であった。
2節には「そこでヨザダクの子エシュアとその仲間の祭司たち、およびシャルテルの子ゼルバベルとその兄弟たちは立って、イスラエルの神の祭壇を築いた。これは神の人モーセの律法にしるされたところに従って、その上に燔祭をささげるためであった。」と出てくる。祭司のヨザダクの子エシュアと、ユダの子孫である(従って祭司ではあり得ない)エシュアがいたことになる。
Ezra4:2 ゼルバベルと氏族の長たちのもとに来て言った、「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します。アッスリヤの王エサル・ハドンがわれわれをここにつれて来た日からこのかた、われわれは彼に犠牲をささげてきました」。
1節は「ユダとベニヤミンの敵である者たちは」からスタートする。北イスラエル王国の民で残された者もいたはずであるがそれには言及されていない。ここでは、アッスリヤ王による移住政策によって移動してきた民のみが言及されている。判別困難な混乱もおそらくたくさん生じていたであろう。その基準は、何で、どのように決められていったのだろうか。
Exra5:12 われわれの先祖たちが、天の神の怒りを引き起したため、神は彼らを、カルデヤびとバビロンの王ネブカデネザルの手に渡されたので、彼はこの宮をこわし、民をバビロンに捕えて行きました。
ユダヤ人の長老たちの真摯なこころが見える。それを5節にあるように「しかしユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので、彼らはこれをやめさせることができず、その事をダリヨスに奏して、その返答の来るのを待った。」と書かれているところにさらに共感をもつ。現代のキリスト者の考えとは多少ずれがあるとしても、立派な教養人、信仰者、リーダーである。
Ezra6:3 クロス王の元年にクロス王は命を下した、『エルサレムにある神の宮については、犠牲をささげ、燔祭を供える所の宮を建て、その宮の高さを六十キュビトにし、その幅を六十キュビトにせよ。
この記録が見つかったことが決定的だと記されている。この文書の記述・正確さを見ると、クロスの周辺には、ユダヤ人が仕えていたことが見てとれる。クロスの制作の影には、無名のひとたちの多くの働きがあったのであろう。
Ezra7:25 エズラよ、あなたはあなたの手にある神の知恵によって、つかさおよび裁判人を立て、川向こうの州のすべての民、すなわちあなたの神の律法を知っている者たちを、ことごとくさばかせよ。あなたがたはまたこれを知らない者を教えよ。
アルタシャスタの信頼が高かったことを意味する。学者は基本的に律法の専門家ではあるが、メディアの法もふくめたあらゆる学識に通じてもいたのであろう。それを学ぶ位置と経験を得ることができたリーダーのひとりがエズラであったということか。
Ezra8:31 われわれは正月の十二日に、アハワ川を出立してエルサレムに向かったが、われわれの神の手は、われわれの上にあって、敵の手および道に待ち伏せする者の手から、われわれを救われた。
21節から23節の部分とつながっている。この当時、護衛をつけないでの大移動はかなり危険が伴うことだっただろう。王からうけとった神殿のための高価な祭具などもある。これを一般化すべきかは、考えさせられる。しかし、このエズラの主導でこのことがなされたのは、大きな意味があったのだろう。
Ezra9:15 ああ、イスラエルの神、主よ、あなたは正しくいらせられます。われわれはのがれて残ること今日のとおりです。われわれは、とがをもってあなたの前にあります。それゆえだれもあなたの前に立つことはできません」。
8章のエズラの指導のもとでの帰還グループの献身と、すでに帰還し、混乱のなかで生活していた民とのあいだには、大きな溝ができてしまっていたと考えると、これは、ひとつの逆カルチャーショックの物語として片付けることもできる。しかし、神からのチャレンジとしてうけとめて、どうしていくか、歴史を振り返り、内面化し、現代をいきるものの選択として決断していく、非常に困難な、しかし、おそらくこれが信仰に生きることなのだろう。
Ezra10:44 これらの者は皆異邦の女をめとった者である。彼らはその女たちをその子供と共に離縁した。
15節にもあるように、反対もあったろう。困難な決断、この名前ひとつひとつに悲しみと信仰による決断があったろう。わたしがこの場にいたらどうするだろうか。いまなら、信仰のない妻であっても、信仰をもった妻であっても、そして神の前に不信の罪を得たと確信したとしても、そのことによっては離縁せず、この集団から離れるだろう。しかし、この人たちにとっては、信仰を守ることと、ユダヤ教の教団に属すること、異教の習慣を遠ざけることは一致していたのかも知れない。イエス様はどうされただろうか。


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ネヘミヤ記

大まかな歴史を振り返ると、BC722 に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされますが、南ユダ王国はかろうじて滅亡を免れます。アッシリア帝国はニネベが首都で今のイラク北部を中心とした国です。アッシリアは支配のために、被征服民族を移住させる政策をとり、北イスラエル王国の多くの人たちが移住させられ、逆に他の被征服民族が北イスラエルの地に移住してきます。その後、新バビロニア帝国とも呼ばれているバビロニアがアッシリアを滅ぼします。このバビロニアは現在のイラクの中央にあるバビロンに首都を置き、BC586にエルサレムを陥落させ、南ユダ王国を滅亡に至らせます。バビロニアもユダ王国の王族など、主要人物をバビロンに捕囚として連れて行きます。アッシリア滅亡後に興った国の一つがメディア人の国ペルシャ(メディア王国)です。首都はエクバタナで今のイランが中心です。このメディア王国がバビロニアを滅ぼし、バビロンによって捕囚となった民族の帰国を許可します。BC536頃のことですから、北イスラエル滅亡からは、186年、南ユダ王国滅亡からは、50年たっています。

まず、イスラエル12部族の人たちの中には、定住地のパレスチナに残っていた人もいたと思われますが、指導者たちは捕囚となり、残った人たち、特に北イスラエル王国の人たちは、混血が進んでいったと思われます。一方、南ユダ王国の人たちは、まだ捕囚から50年でしたし、エレミヤが捕囚の期間は70年と預言していたこと(歴代志下36:21, エレミヤ11:11, 12, 29:10, ダニエル9:2)を知っていた人もいましたから、記憶のあるユダ、エルサレムに帰ることを夢見て祈っていた人たちもいたでしょう。一方、ユダに残った人たちは、カナン人や、他から移住させられてきた人、派遣されてきた地方行政官などでしょうか。

このような状況で、ユダの地に戻りエルサレム再建を志したひとたちの物語が、このエズラ記、ネヘミヤ記、そして、だいぶん先になりますが、ハガイ書とゼカリヤ書になります。すでに、半世紀以上が経過し、その地で地位を得、生活も安定していた人も多かったと思われます。ネヘミヤは、王のそばに仕えていましたし、エズラも律法だけでなく、メディアの法律や学問も学んでいたと思われます。支配体制が変わったとはいっても、豊かなひとたちはそうはいなかったでしょう。国に帰ってもいいよ。と言われたひとたち。しかしそこは荒れ果て、町も神殿もない。まったく知らない人たちが住んでいる地、どのような思いで、どのような決意で帰還していったのでしょうか。

このように決意して帰って行った人たちが、一つのまとまりをもって神殿を中心に、そしてエルサレムを中心に生活の場を築いていく。過去のあやまち、神への不従順に陥った原因など考えたことでしょう。エズラ、ネヘミヤを読みながら、その人たちがどのように考え、生きたかをぜひ読み取ってください。

エズラ記、ネヘミヤ記、それぞれ問いをもって読むためにも、昔、聖書の勉強会のおりに作った質問のリストを書いておきます。

    ネヘミヤ1章

  1. ネヘミヤはどんな知らせを聞き、どんな応答をしていますか。
    ネヘミヤの祈りを見てみましょう。
  2. どんな告白をしていますか。
  3. 彼は何を根拠に希望を述べていますか。
  4. ネヘミヤは何を願っていますか。(v11 のこの人とはだれのことでしょうか。)

    ネヘミヤ2章

  5. 官邸でネヘミヤはどんな地位にありますか。
  6. ネヘミヤは王に何を求めていますか。
  7. 王はそれに対してどのように答えていますか。ネヘミヤの祈りがどのように答えられたか考えてみましょう。
  8. エルサレムについたネヘミヤはまず何をしますか。それは何故ですか。
  9. ネヘミヤはエルサレムにいるユダヤ人にどのように語りかけていますか。また、それにユダヤ人はどのように応答していますか。
  10. サンバラテたちはどんな罪を犯しているとネヘミヤは責めていますか。またネヘミヤはこれに何と答えていますか。

    ネヘミヤ4章

  11. 城壁が修復されつつあることを知ったサンバラテたちはどんな妨害をしますか。
  12. これに対するネヘミヤの対応を挙げてみましょう。
  13. あなたは、ネヘミヤとエズラからそれぞれ何を学びましたか。


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聖書通読ノート

BRC2023

Nehemiah 1:3 彼らは私に言った。「捕囚の生き残りで、その州に残っている人々は、大変な苦悩と恥辱のうちにいます。またエルサレムの城壁は崩され、門は火で焼かれてしまいました。」
どの時点のものか不明であるが、再建しては、壊されることが、繰り返されていたのかもしれない。その歴史は残っているのかもしれないので、調べてみたい。エズラBCE538、ネヘミヤBCE445、ハガイ・ゼカリヤBCE520 ごろとして、アポクリファも今なら興味をもって読むことができるかもしれない。
Nehemiah 2:10 ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のために援助しようとする人間が来たということを聞いた。それは彼らにとって甚だ不都合なことであった。
ユダヤ人が長官(役職は不明)となって着任することは、予期せぬ事態だったに違いない。ホロニ人はどのような人だろうか。どうも、聖書の中ではネヘミヤ記にしか登場しないようである。いくつか説(サマリアの町ホロンに関係があるのではなど)はあるようだが、基本的には不明のようだ。一方、アンモン人の記録が多いが、中東における位置については、あまり知らない。現代のヨルダン人、アラブ人の祖先なのかもしれない。
Nehemiah 3:3-5 魚の門を再建したのはハセナアの子らである。彼らはそれに梁を置き、扉と錠とかんぬきを取り付けた。彼らの隣ではハコツの子ウリヤの子メレモトが修復に当たり、またその隣ではメシェザブエルの子ベレクヤの子メシュラムが修復に当たり、その隣ではバアナの子ツァドクが修復に当たり、さらにその隣ではテコアの人々が修復に当たった。しかし、彼らの中の有力者たちは自分たちの指導者たちの仕事に敬意を表さなかった。
総動員ではあるが、最後にあるように、テコアの有力者たちの中には、敬意を表さなかったひともいることが書かれており、かえって真実性を補償するように思われる。ペルシャから派遣された、政治的リーダもおり、財政的な支援もある、そのなかで、支援をしないのは、自分の街ではないからか、関係ないと思っていたからだろうか。たしかに、エルサレムの城壁再建は、民族的な事業ではあり、完全に一つになることはできなかったのかもしれないが、すくなくとも、ネヘミヤの記事としては、貧富や地位の差なく、多くの人がこの事業に参加したことがみて取れる。
Nehemiah 4:4-6 しかし、ユダは言った。「荷役の力は衰え、瓦礫の山はおびただしい。城壁を再建するなど、私たちには不可能だ。」我々の敵は言った。「気付かれず、見つからないように彼らの中に入り込んで、彼らを殺害し、工事をやめさせよう。」彼らの近くに住むユダヤ人がやって来て、十度も私たちに、「あなたがたが私たちのところに戻って来ると、あらゆるところから私たちは攻められます」と言った。
ユダということばで、代表されているのだろうか。状況は危機的である。外部(サンバラトとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドド人)の反感と妨害、内部(ユダ)の傷心、傷つき折れる心、そして中傷。このときには、戦わなければならないのか。「そこで私は城壁の後ろ、低い所の空き地に、民を氏族ごとに、剣と槍と弓を持たせて配置した。私は彼らの様子を見て、立ち上がり、貴族、役人、および残りの民に言った。『彼らを恐れるな。大いなる畏るべき主を思い起こし、あなたがたの仲間のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。』」(7,8)この状況下で、わたしならどうするだろうか。やはり、ネヘミヤにつくしかないように思う。神に従う、他の生き方もあるように思うが。
Nehemiah 5:4,5 またある者は言った。「王の税金のために、私たちは畑やぶどう園を抵当にして金を借りた。しかし、私たちの体も同胞の体と同じであり、私たちの子どもは彼らの子どもと同じである。それなのに、私たちは息子や娘を奴隷にしなければならない。私たちの娘の中にはもう奴隷になっている者たちもいる。私たちの力ではどうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものになっているのだ。」
なんとも悲しい状況である。しかし、ここでも、ネヘミヤはこの問題を解決していく。知恵というより、彼の日々の献身だろうか。夜も、城壁内にとどまり、臨戦体制でいたことも、評価していたのだろう。信頼をえていたということか。単なる提案や、問題の指摘では、解決しなかったろう。「あなたがたのしていることは間違っている。私たちの敵である異国の民にそしられないように、私たちの神を畏れて歩むべきではないのか。」(9)このことばは、信頼なしには、受け入れられない。
Nehemiah 6:10 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家を訪れると、彼は閉じこもっていた。彼は言った。/「神殿で、聖所の中で会おう。/聖所の扉は閉じておこう。/彼らがあなたを殺しにやって来るから。/夜、彼らがあなたを殺しにやって来る。」
これも、ネヘミヤを陥れる罠だったのだろう。正しいことをし続けることは、信頼を維持すること。どちらが大切かと言えば、むろん、信頼を維持すること、それは、神様との交わりをつねにもっていることか。いずれにしても、落とし穴は色々なところにある。ここでは、ネヘミヤや「私のような立場の者が逃げてよいものだろうか。私のような者で、聖所に入って、なお生きている者があろうか。私は行かない。」(11b)と答えている。命に関わることに関して、失敗は許されないということだろう。
Nehemiah 7:66-68 会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百四十五人いた。らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。
非常に細かいことが気になった。エズラ記2章64-67節には「会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百人いた。彼らの馬は七百三十六頭、らばは二百四十五頭、らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。」これだけ、細かい数が並んでいて、違いが1箇所である。男女の詠唱者。写本の影響だろうか。
Nehemiah 8:9-12 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラと、民に律法を説明していたレビ人たちは、民全員に言った。「今日はあなたがたの神、主の聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らはさらに言った。「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」レビ人たちも民全員を静かにさせて言った。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」民は皆、行って、食べ、飲み、分かち合い、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。
美しい光景である。あまり、聖書にそのような記述はない。最後には、民は皆「分かち合い、大いに喜んだ」とある。さらに「教えられたことを理解した」ともある。読まれたのが、どの部分だったのかは、不明だが、創世記だったのかもしれない。
Nehemiah 9:36,37 このとおり、今日私たちは奴隷の身です。/その実りと恵みを享受するようにと/あなたが私たちの先祖にお与えになった/この地で/このとおり、私たちは奴隷の身です。この地の豊かな産物は/私たちの罪のゆえに/あなたが私たちの上にお立てになった/王たちのものとなっています。/彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。/私たちは大変な苦しみの中にいます。」
税金を納めることが、奴隷と言われているようだ。他者の支配のもとにあるということなのだろう。しかし後半を見ると、「彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。」とも告白している。労働や、収奪などもあったのだろう。「祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿に仕える者など、この神の宮に奉仕するすべての者には、税として、銀、物品、あるいは兵役を課すことは許されていないということを通告しておく。」(エズラ7:24)とはあるが、これも、一部に限られたのかもしれない。帰還者の中での分裂も考えられる。
Nehemiah 10:31-33 私たちは娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘を私たちの息子の妻に迎えない。私たちは、この地の民が安息日に商品やいかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日や聖なる日には彼らから買わない。私たちは七年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する。私たちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルを納入する規定を設ける。
新たな誓約である。ネヘミヤの名前が筆頭にあるが、8章に登場する祭司エズラの名前はない。すでに、亡くなっていたのかもしれない。律法の説明も、レビ人がしており、エズラがしていないことも、不思議であった。(8:7)ここには、律法に書かれていることの一部が取り出されて、契約とされている。取り決めとしては、正確性が十分ではないようにも見えるが、新たな出発だったのだろう。ただ、異邦人との分離ははっきりしてきていることも確かである。
Nehemiah 11:1 民の長たちはエルサレムに住んだが、他の民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人は他の町に住むようにした。
また「イスラエルの他の人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の受け継ぐべき地に住んだ。」(20)ともあり、耕地の近くに住んだことも書かれている。これも、ネヘミヤが総督だったからこそできたのだろう。その土地に、すでに、住んでいた異邦人もいたはずである。ネヘミヤの政策は、素晴らしいとは思うが、同時に、現代的な軋轢も産んだと思われる。ペルシャの支配下においては、政策決定がこのあとも、ネヘミヤのようにはできないだろうから。その中でも、契約は守られるのかもしれない。分離は維持しつつ。
Nehemiah 12:43 その日、人々は大いなるいけにえを献げ、喜んだ。神が大いなる喜びを彼らにお与えになったのである。女も子どもも喜び、エルサレムの喜びは遠くまで響いた。
この章の最初には「シェアルティエルの子ゼルバベルとイエシュアと共に上って来た祭司とレビ人は次のとおりである。」(1a)があり、そのあとに「エルサレムの城壁の奉献に際し」(27)とあり、引用句がある。城壁の完成を祝うときであるとともに、神殿での祭儀が行えるようになった証という面があるように思う。エズラも登場するが(33)重要な位置をしめていない。すでに代替わりがあったのだろうか。単に、神殿ができれば礼拝ができるわけではなく、ともに喜んで、礼拝するためには、ネヘミヤのような存在が不可欠であると思う。あまり、キリスト教会では、強調されないが。
Nehemiah 13:1-3 その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆にとこしえに加われないとそこに記されているのが分かった。彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の人をすべてイスラエルから切り離した。
この章には、一時期的にバビロンに帰還していたときに起こったことが次々と書かれている。ネヘミヤなしには、問題の解決ができなかったこととともに、ネヘミヤが求めていた神殿を中心とした礼拝が、ほんとうに、このような形でよいのかという、課題も提示しているように思われる。分離、分断、ほんとうに、主はこのことを望まれるのだろうか。引用句の部分を守れば、ダビデは神の会衆に加われないのではないのか。考えさせられる。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Nehemiah 1:1,2 ハカルヤの子ネヘミヤの言葉。第二十年のキスレウの月に、私がスサの都にいたときのことである。私の兄弟の一人ハナニが、数人の者と共にユダからやって来たので、私は捕囚を免れて生き残っているユダヤ人について、またエルサレムについて尋ねた。
第二十年は「アルタクセルクセス王の第二十年」(2章1節)ともあり、現代の日本の元号についても考えさせられた。世界的にも元号(王朝のよる年代)が残っている国は、他にもあるのだろうか。ネットを調べると、紀元前465‐424年がアルタクセルクセス王の治世とあるので、第一年(元年)が465年とすると「第二十年」は、紀元前444年ごろだろうか。カレンダーの決め方も気になった。「捕囚を免れて生き残っているユダヤ人」についての記述も興味をひいた。応答は「捕囚の生き残りで、その州に残っている人々は、大変な苦悩と恥辱のうちにいます。またエルサレムの城壁は崩され、門は火で焼かれてしまいました。」(3)で、サマリヤの方のことは、知らされなかったようにも思われる。複雑な背景もあったはずである。エズラ記の最後を見ると、捕囚にならなかった人の中では、混血も進んでいただろう。さらなる分裂も心配される。それと、ヨーロッパやアメリカに連れてこられたアフリカからの黒人奴隷とは、捕囚の民は扱いが違っていただろうことも、このネヘミヤの例だけではないが、気付かされた。どのように、扱われていたのだろうか。背景として気になることが多い。
Nehemiah 2:20 私は彼らに反論した。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。その僕である私たちが立ち上がって再建する。あなたがたには、エルサレムの中に取り分も、権利も記録もない。」
「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のために援助しようとする人間が来たということを聞いた。それは彼らにとって甚だ不都合なことであった。」(10)エルサレムから来た同胞(ネヘミヤの兄弟の一人ハナニと数人の者:1章)からサンバラトとトビヤについても聞いていただろう。そう考えると、まずは、このグループを排除することが肝要だと思ったことは自然である。城壁修復など任務を持っており、城壁は、外敵を防ぐこと、外と中を分け、中を安全にすることなのだから。しかし「あなたがたには、エルサレムの中に取り分も、権利も記録もない。」と一蹴している。受け入れられる条件や、なにが問題なのかを明らかにできなかったのか。それは、傍からみているものの、見方で、仕方がなかったのだろう。しかし、望ましくはないが、その時点では、解決できなかった問題であるとの意識は持っていたい。それも、理想論で、現実的には難しいのだろうが。わたしが、ネヘミヤだったらどうするだろうか。そして、サンバラトやトビヤだったらどうするだろうか。
Nehemiah 3:38 私たちは城壁を再建し、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には復興への意志があったのである。
この章に記述されている場所で、エルサレムの城壁がすべて修復されるのかは、調べてみないといけないが、かなりの部分が修復されることになったのだろう。引用句「民には復興への意志があった」は、たしかに全員ではないだろうが、特別なことが起こったことは見て取れるように思う。サンバラトやトビヤも、これは信じられないことが起こっているとして、どうにかしなければいけないと思っただろう。祭司で書記官のエズラのように、神により頼み、護衛を頼まない(エズラ記8章22節)姿勢からも学ぶ点はあるが、献酌官で、王のそばで、統治について学んできた、ネヘミヤが総督として赴任したからこそできたことは多かったろう。これも、信仰的決断と、科学的判断の両方に適切に目をむけるたいせつさの一つだと思う。そして、このネヘミヤの準備周到な働きが、人々の協力と、一丸となる協働性も生み出している。ネヘミヤについては、学ぶことが多いように思う。
Nehemiah 4:11 城壁を再建する人々、荷を担いで運ぶ人々は、一方の手で作業をしつつ、もう一方の手は投げ槍を握りしめた。
以前この句を引用し、霊的に解釈して、証をしていたことを聞いたことがある。それが悪いわけではないが、この章を読むと、状況の認識・分析、それに対応するネヘミヤの指揮官としての有能さ、こまかいところまで行き届いた指示によって信頼をえることなど「荷役の力は衰え、瓦礫の山はおびただしい。城壁を再建するなど、私たちには不可能だ。」(4)とユダがつぶやいても「あなたがたが私たちのところに戻って来ると、あらゆるところから私たちは攻められます」(6)と、十度も訴えても、仕事を忠実にかつ精密に計画して行っている。ネヘミヤの資質もあるだろうが、異教徒の異邦の政府における訓練から多くを学んでいるのだろう。それがここに生かされているように思われる。単に、信仰を持ち出しても、解決しないことは多くある。信仰を否定するのではなく、神が働かれる、すべてを、それがどのようなことかわからなくても、受け取ろうとする、謙虚に、御心を求める姿勢が、必要なのだろう。いくつか、具体的に拾ってみよう。サンバラトやトビヤの意図を理解し行動を予測し、仲間内にも、それが入り込んでいることを理解している。(1,2,5,9)ユダの不安・心配・不審など、気持ちを受け止めつつも、それの根源を考えて、それらを考慮しつつ任を全うしようとしている。(4,6,8)書かれている具体的な指示は、すべてこれに当たるかもしれない。単なる、正しさで、任を全うしようとはしていない。そこに人がいて、その人々の信頼を得なければ、ことはなされないことを理解している。ネヘミヤとその部下が身をもってその中心に居続けたことも、重要なのだろう。ネヘミヤから学ぶ点は多い。
Nehemiah 5:6,7 彼らの叫びとこれらの訴えの言葉を聞いて、私は大いに怒り、よく考えた末、貴族と役人を責めて、彼らに言った。「あなたがたは同胞どうしで利息を取り合っている。」私はまた大きな集会を召集して、
「大いに怒り」とあるが、そのあと「よく考えた末」となっている。しかし、それだけではない、ネヘミヤの基本的姿勢、日常的な営みと神をどのような方と見るかが大切なのだろう。それなしに、単に怒りのあとの考慮を結びつけても無意味だろう。「労役がこの民にとって重荷となっていたからである。」(18b)の基本的理解の上で、この問題を解決している。おそらく、前の章で不平を言ったり、訴えたりしていたのは、ユダの中心的な人たち、リーダーだったろう。ことが動き出すと、この章では、内部の問題、指導者と一般の貧しい人たちの具体的な問題が浮上する。こちらは「叫びと訴え」(6)となっている。このネヘミヤならば、彼ら・彼女らの根本的な苦しみ、悩みも解決できるかもしれないと思ったのかもしれない。もしかすると、これは解決できないだろうと思いつつも、ネヘミヤをテストしているのかもしれない。指導者や富裕層が違法なことをしているとするのではなく、自分たちの姿勢をモデルとして示して、より本質的なこと、神様が喜ばれることへと導いている。「あなたがたのしていることは間違っている。私たちの敵である異国の民にそしられないように、私たちの神を畏れて歩むべきではないのか。」(9)それこそが、信仰的歩みであり、信仰者が「神を畏れて歩む」実質だろう。そのことに、向かい、共に、歩むものでありたい。ネヘミヤからは多くを学ばされる。
Nehemiah 6:10 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家を訪れると、彼は閉じこもっていた。彼は言った。/「神殿で、聖所の中で会おう。/聖所の扉は閉じておこう。/彼らがあなたを殺しにやって来るから。/夜、彼らがあなたを殺しにやって来る。」
ここでは、最後の挑戦のようにしてこのことが書かれている。この策略に動じず、最後には「城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちのすべての敵がこれを聞いたとき、私たちの周りの異国の民は皆、恐れを抱き、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16)とまとめている。これが信仰告白なのだろう。この背景には、忠実に、誠実に、それまで学んだことを最大限活かして、できる限りのことをしている。おそらく、それが、誠実さ、忠実さなのだろう。全身全霊ということだろうか。しかし、疲れている中で、何度も何度も、挑戦を受け、それを避けられるような別の方向からの誘いを受け、それに適切に答えるのは、そう簡単ではないだろう。わたしも、注意して、少しずつ歩みを修正して行きていきたい。
Nehemiah 7:69 親族の頭の幾人かは、工事のために寄付をした。総督は、資金として金一千ドラクメ、鉢五十個、祭司の短衣五百三十着を差し出した。
最初に「また私は、私の兄弟のハナニと城塞の長ハナンヤにエルサレムを治めるよう命じた。ハナンヤは誠実な人物で、誰よりも神を畏れていたからである。」(2)を見ると、ハナニが登場する。このハナニは、ネヘミヤ書の冒頭1章2節に登場するハナニだろう。引き継ぎとしても適切だと考えたのだろう。ハナンヤについては書かれているが、ハナニについては、ほかに情報がないので、少し心配ではある。この章6節以降は、エズラ記2章とほとんど同じである。微妙に異なる部分があるのが不思議なほど符合している。正確に違いは拾っていないが、写本の違いぐらいにしか、思えない程度の差である。しかし、引用句は少し違う。エズラ記2章68節の途中からであるが、最初から引用する。「エルサレムにある主の神殿に到着すると、親族の頭の幾人かは、その場所に神殿を建てるために自発の献げ物を献げた。彼らは自分の力に応じて工事資金として金六万一千ドラクメ、銀五千マネ、祭司の短衣百着を差し出した。」(68,69)
Nehemiah 8:16,17 民は出て行き、枝を取って来て、各自、家の屋上や彼らの庭に、そして神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に、自分たちのために仮庵を作った。こうして捕囚から帰還した全会衆は、仮庵を作り、その仮庵で過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのように祝ったことはなく、それは大変大きな喜びであった。
8章は「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」(10)とあるように、喜びの日である。エズラが律法を読み(3)、レビ人が律法を民に解説し(7)ネヘミヤと、エズラとレビ人たちが、民を励まし(9)、二日目に仮庵祭をしていないことに気づき、引用句に至る。十分な家もない状況(7章4節)で、町の城壁や、門の修復作業をしていた人たちにとって、出エジプトの時を思うことは、とても意味があることだったろう。これまでの様々な労苦が喜びとなる時、それを共に祝える時、それはなんと喜ばしいことだろうか。むろん、問題が消滅したわけではないが。そのようなときも大切にしたい。
Nehemiah 9:36,37 このとおり、今日私たちは奴隷の身です。/その実りと恵みを享受するようにと/あなたが私たちの先祖にお与えになった/この地で/このとおり、私たちは奴隷の身です。この地の豊かな産物は/私たちの罪のゆえに/あなたが私たちの上にお立てになった/王たちのものとなっています。/彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。/私たちは大変な苦しみの中にいます。」
レビ人の賛美が5節から最後まで続いており、引用句がその最後である。レビ人のリスト(4)のうち、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ホディアは、8章7節のリストにも入っている。イスラエルの歴史を内面化して告白しているもので興味深い。最後は現状について述べ、奴隷の身としている。ネヘミヤ記を読んでいると、とても自由に行動しているように見えるが、収穫のどの部分かはわからないが、自分たちのものとはならないことが奴隷という意味なのだろうか。おそらく、もっと様々な不自由さがあったのだろうが。この章に含まれている、精神の自由さをみると、奴隷とはとても言えない、自由なこころの人たちだと思ってしまう。
Nehemiah 10:1 これらすべてを顧みて、私たちは誓約し、書き留め、私たちの長、レビ人、祭司が捺印した。
これは特別な新しい歩みである。これまでは、ユダヤ人すべてが国として、民族として、宗教集団として捉えられていたが、ここでは、誓約をしたものが核となっている。明確にはわからないが、他を排除するものではなかったろう。いくつかのことを考えた。まずは、ネヘミヤは王に任命され赴任しており、任期も明確だったろう。(2章6節)ハナニとハナンヤにエルサレムを治めるように命じ、そしてここでは、宗教的集団を契約によって形成している。教会や教団に近い。「以上は祭司である」(9)のリストが、ネヘミヤから始まっているが、かならずしも、ネヘミヤが祭司だということを言っているわけではないだろう。「ネヘミヤ、そして(וְצִדְקִיָּֽה  (2)」と次のツィドキヤの前にワウがある。気になったのは、エズラの名前がないこと。30節から誓約の内容が書かれているが、詳細である。しかし、それだけで書き尽くせないこともあることも意味し、このゆえに、分裂もあったのかもしれないと思う。難しい。
Nehemiah 11:1,2 民の長たちはエルサレムに住んだが、他の民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人は他の町に住むようにした。民は、自ら進んでエルサレムに住む人々すべてを祝福した。
このあとのリストにいくつか説明が加えられていることも興味深い。「ジクリの子ヨエルが彼らの監督であり、セヌアの子ユダが町の次官であった。」(9)監督は他の集団にも書かれている場合があるが、町の次官も登場する。町はエルサレムだろうから、ある程度の組織があったこともわかる。「イスラエルの他の人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の受け継ぐべき地に住んだ。」(20)とあるが、このときの状況はどうだったのだろうか。まったくの廃墟が広がっていたわけではないだろう。前からいた人たちとの関係も様々だったことが想像される。捕囚にならずに、残された人たちも居るだろうから、どのように迎え、迎えられたかも気になる。そして、他民族で移住してきたひととの関係も。エルサレムに住むにしても、そうでなくても、大きな困難があったことだろう。
Nehemiah 12:47 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの人々は皆、詠唱者と門衛のその日一日の分を提供し、レビ人には聖なる献げ物を与え、レビ人はアロンの子らにその聖なる献げ物を分け与えた。
これまで読んできて、ゼルバベルの時代とネヘミヤ時代の関連が明確ではなかったが、ある程度この章に書かれている。ゼルバベルの時代とあるのは、最初のキュロスの勅令で帰還した第一陣のことだろうから、BC538年ごろ、エズラの帰還は BC458年ごろ、そしてネヘミヤが総督として赴任するのは、BC444年頃となる。ネヘミヤの時代に、エズラたちも含まれているのだろう。すると、1節のエズラは別人なのだろうか。しかし、この最初のリストに、ネヘミヤと共に労したひとたちと同じ名前がたくさん含まれるように見えるが、おそらく同じ名前が多いのだろう。このあと、年代は、「エルヤシブ、ヨヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代」(22)などと大祭司の名前で呼ばれているようである。どの程度厳密に、終生大祭司制が実行されていたかは不明だが。ペルシャなどで、王の第何年と呼ばれたり、日本の元号と共通点があるのかもしれない。しかし、後代のものには、わかりにくい。おそらく、まずは、整理することとして、この時代に、記録されていったのだろう。
Nehemiah 13:29-31 私の神よ、祭司職を、また祭司とレビ人の契約を汚したことについて、彼らを覚えていてください。私はすべての外国人から彼らを清め、祭司とレビ人のそれぞれの仕事における任務を定めました。また定められた時の薪の献げ物と初物について定めました。私の神よ、私を心に留めて、お恵みください。
ネヘミヤ記の最後の部分である。10章か11章で終わっていれば、ハッピーだったろう。しかし、ここまで記録したことの重さも感じる。私たちへの警告でもある。「この間ずっと、私はエルサレムにはいなかった。バビロンの王アルタクセルクセスの治世第三十二年に、私は王のもとに行っていたからである。やがて私は王にいとまを請い、エルサレムに帰り、エルヤシブがトビヤのためになした悪事、すなわち神殿の庭に彼のために部屋を手配したことを知った。」(6,7)最初の派遣から12年(BC432年頃)程度たっている。このあとには、宮清めのようなことが記録されている。ネヘミヤは素晴らしいリーダーだと思うが、そう簡単ではない。これも、大祭司の孫の代では、誓約は守られていなかったことが発端のようである。難しい。どうしたら良いのだろうかと、ネヘミヤも思ったことだろう。その難しさを、わたしたちも引き継いでいるように思う。しかし、イエスさまから学び担うというヒントも与えられつつ。

BRC2019

Neh 1:5-7 わたしはこう祈った。「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。
主語は「わたしも、わたしの父の家も」となっている。列王記、歴代誌にも、民の不従順についての記録があるが、これらは、王の記録、国としての記録のために、個人のことについて、あまり書かれていないのかもしれない。熱心な信仰者の個人のレベルでの告白は、表面には現れにくいことも確かである。当時の人達がどのように考え、告白していたかを表す、貴重な表現でもある。
Neh 2:6 王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、
王妃のことも書かれている。おそらく、単なる業務をしていただけではなく、信頼されていたことを表現しているのだろう。「わたしは王の前で暗い表情をすることはなかった」(1)ともある。さらに、このあとには、かなり、詳細な計画をあらかじめ考えていたと思われることが記録されている。そのような、ネヘミヤをもちいたことに意味があるのだろう。ネヘミヤに与えられた賜物とも言えるだろうし、日々の業務への忠実さによって錬られた性質とも言えるかもしれない。まさに、このときに、available だったのだろう。そのように、もちいられることを、考えてはいなかったと思うが。
Neh 3:38 わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。
一つ一つ丁寧に記されているように思われる。オールスターである。むろん、それは、社会的、政治的なリーダーと言う意味ではない。様々な人達が積極的に関わっている様子が見て取れる。その中に、そうではないことも加わっているが。(5)「大祭司エルヤシブ(と)仲間の祭司」(1)「鋳物師ハルハヤの子ウジエル」(8)「香料調合師のハナンヤ」(8)「自分の家の前」(10)「エルサレムの他の半地区の区長ハロヘシュの子シャルムが、その娘たちと共に」(12)「ベト・ケレム地区の区長レカブの子マルキヤ」(14)「ミツパ地区の区長コル・ホゼの子シャルン」(15)「ベト・ツル半地区の区長アズブクの子ネヘムヤ」(16)「ケイラ半地区の区長ハシャブヤ」(17)「彼らの兄弟」(18)「ケイラの他の半地区の区長ヘナダドの子バワイ」(18)「ミツパの長イエシュアの子エゼル」(19)「ザバイの子バルク(熱心に)」(20)「ハコツの孫でウリヤの子であるメレモト」(21)「盆地の男子である祭司たち」(22)「ビンヤミンとハシュブ」(23)「アナネヤの孫でマアセヤの子であるアザルヤ」(23)「ヘナダドの子ビヌイ」(24)「ウザイの子パラル」(25)「神殿の使用人」(26)「テコアの人々」(27)「祭司たちがそれぞれ自分の家の前」(28)「イメルの子ツァドク」(29)「東の門の守衛シェカンヤの子シェマヤ」(29)「シェレムヤの子ハナンヤとツァラフの六男ハヌン」(30)「ベレクヤの子メシュラム」(30)「鋳物師マルキヤ」(31)修復した部分も含めるとさらに興味深い。
Neh 4:17 わたしも、兄弟も、部下の者も、わたしに従う警備の者も、わたしたちはだれも、服を脱がずにいて、各自投げ槍を右の手にしていた。
最初は「わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。しかし、ユダもこう言うのだった。『もっこを担ぐ力は弱り/土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など/わたしたちにはできません。』」(3,4)からスタートしている。指導力だろうか。エズラは、警備を依頼せず(エズラ8章22節)、ネヘミヤは警備の兵とともに、来ている。役割が異なるからもあるが、単純に表面だけで判断してはいけないのだろう。むろん、軍事力以外の平和を希求したいが。
Neh 5:15 わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シェケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった。
長官(14,18,12:26)であるネヘミヤには状況は十分理解できただろう。しかし、この税の負担を、同国民に向けている、貴族と役人を非難している。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。」(9)どちらが悪いかの判断ではなく、苦しい状況の中でも、どのように生きるかを考える先に、平和があるように思われる。
Neh 6:1 サンバラト、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他わたしたちの敵は、わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを耳にした。
直接的な脅しと殺害の陰謀、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤを買収して神殿に入るという罪を犯させようとする(12)、女預言者ノアドヤによる脅迫(14)さらに「そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。ユダの多くの人は彼と互いに誓約を交わす関係にあったからで、トビヤはアラの子シェカンヤの娘婿であり、トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた。彼らはわたしの前ではトビヤへの賛辞を述べ、トビヤにはわたしの言葉を密告した。トビヤはわたしに脅迫の手紙をよこした。」(17-19)と、捕囚から帰還した民の状況が浮き彫りになっている。この中での作業は、困難を極めただろう。これでよいのかと、確信を失うような状況もあったろう。信頼を得て、民とともに喜ぶのは、ほんとうに困難である。
Neh 7:4,5 町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてはいなかった。わたしは心に神の指示を受けて、貴族と役人と民を集め、家系に従って登録させようとしたところ、最初に帰還した人々の名簿を発見した。そこには次のように記録されているのを発見した。
二方向の意味はよくわからないが、伝えていることは、その中には、あまり人が住んでいなかったということだろう。町としての機能は、まだ、持っておらず、生活のためには、町ではなく、他のところのほうが機能的ということだろうか。おそらく、基本的な理論もあるのだろう。名簿を発見したと書かれている。まだ、それらの整理もされていなかったということだろう。まず、その住民を把握するところから始めるように考えるが。様々な意味で興味深い。
Neh 8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
「彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」(3)とあり、そのあと、「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」(8)とある。ヘブル語を理解しない民も多かったのだろう。そして、聞いただけでは理解できなかった人たちも。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。 」(9)という中で、引用句が言われている。悲しむことがあるなかで、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」は、明記すべき、素晴らしい言葉である。
Neh 9:36 御覧ください、今日/わたしたちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地/その実りと恵みを楽しむように/与えられたこの土地にあって/御覧ください/わたしたちは奴隷にされています。
なかなか強烈である。「奴隷」という言葉が二回出てくる。実際は、どのような状況だったのだろう。かなり自由に見えるが。「王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も/あなたの律法に従わず/度重なる命令にも戒めにも/耳を貸しませんでした。」(34)ともある。総懺悔である。みな、不従順と奴隷状態にあることを理解していたのだろうか。この祈りについて、理解したい。
Neh 10:1 これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。
いずれ誓約や契約について調べてみたい。「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。」(列王記下23章3節)「それから、王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った。」(歴代誌下34章31節)このあとにも、ネヘミヤ記13章25節にも誓が記されている。特殊な状況で、重要な決断をしたということだろう。誓約と契約の明確な違い、oath, vow, pledge 英語も違いを十分考えたことがなかった。わたしが使うときの区別はあるが。内容とともに、罰則、そしておそらくその運用も関係するのだろう。
Neh 11:1,2 民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。
いくつか疑問なことがある。1つ目は、自発的な選択と、くじとはどのようになされたのかということ。もう一つは、このあとのリストに、「勇敢な人物」(6, 14)とあることである。7章4節にあるように、エルサレムに住んでいる人は少なかったことを考えると、このような行政措置も意味があったのだろう。細かく見ていくと、様々な混乱があるなかで、ネヘミヤは一つ一つ施策を展開している。献酌官だったことが書かれていたが(1章11節)他の役もかなり経験したから、総督に任命されたのだろう。召命と、それに、応答することの背景、availability の背後には、計り知れない、導きがあるのかもしれない。このネヘミヤにとっても、わたしたち一人ひとりにとっても。
Neh 12:44 その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。
ここでは「礼物と初物と十分の一」という言い方をしている。王国時代や捕囚時代とは、異なるこの時代に、どのように、献げものを集め、管理していたのかが少しだけ分かる。実際どのように変遷していったのだろうか。政治的な指導者が(ここではユダの人々といわれている)民のなかにいるわけではない。興味深いのは、最後に「実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。」とあることである。エズラ記やネヘミヤ記の記述などを徴収も、管理も、その背後にある、人々のこころも単純ではなかったろう。土地を失ったり、非常なる貧困に陥ったり、混血や、その土地に残っていた人たちもいたであろうから。宗教集団としての命を取り戻していった過程とも考えられ、興味深い。おそらく、困難も多々あったろう。
Neh 13:26 イスラエルの王ソロモンすらも、このようにして罪を犯したのではなかったか。数ある諸国の中でも彼のような王はおらず、神に愛され、神によってすべてのイスラエルの王に立てられた、その彼でさえ、異民族の妻たちによって罪に引き込まれてしまった。
この章は「その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。」(1)と始まる。十分調べないといけないが、基本的に申命記23章4節からの引用であろう。「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」ダビデはモアブの血を引くことを証言するルツ記はいつ書かれたのだろうか。系図をたいせつにする文化は、純血性を誇ることにもつながりかねず、排他的になる。ソロモンが神から離れたという、列王記の記述から学ぶことと、他者をさばくことは異なるはずである。申命記については、議論もあり、様々な問題も感じるが、イエスが多く引用している書でもあることも、覚えたい。

BRC2017

Nh 1:3 彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」
2章1節には「アルタクセルクセス王の第二十年、ニサンの月(BC445年)」とあるので「第二十年のキスレウの月」(1節)も同じ年だろう。キュロス(第一年はBC538年)からはすでに100年近くたっていたのかもしれない。すると、ネヘミヤは最初の帰還した世代から考えても、何代かたっている。エルサレム帰還を望む民の一人としての気持ちは、理解できる気がする。
Nh 2:20 そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」
反対する、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムに対する反論である。痛快にも聞こえるが、同時にとても悲しい。やはり、そう感じるのは、後半の故だろう。めんどくさいひとたちと、反対するひとたちと、友となることは、できないのか。すぐにそれは、ならなくても、神に祈り求めることはできるのではないだろうか。それを、神が望んでおられるなら。滅びの者は、自然に滅んでいくのだから。それを、完全に止めることはできない。
Nh 3:38 わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。
延々と続く、補修者のリスト「しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」(5節)とはあるがこの連綿と続く補修参加者、グループは圧倒的である。「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った。」(2章18節)が具現化されていると見ることができる。反対者もいる中で、専門家でも無いものが力を合わせる。常に起こることではないことが現実となっている。
Nh 4:6 彼らの近くに住むユダの人々がやって来て、十度もわたしたちに、「あなたたちが戻ると、あらゆるところからわたしたちは攻められます」と言った。
この文に多くの情報がはいっている。ネヘミヤが率いる部隊がいなければ、簡単に攻められてしまう。巡回をしているようだが、エルサレム以外に住むひとたちもおり、そのひとたちの保護も課題。おそらく、ネヘミヤはまずエルサレムの城壁の再建を重視したのだろう。そこに逃げ込めばよいような堅固なものとすることを。しかし、長期的に見ると、ネヘミヤの任期もあり、簡単に解決できる問題ではない。高まっていた士気がくじかれる可能性が高い時期である。施策の評価も簡単にはできない時期でもある。
Nh 5:9 わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。
多くのことがこの章には含まれているが、ネヘミヤの態度から学びたい。おそらく、ネヘミヤにも責められることはあったろう。しかし常に自分を省みて、神を畏れて生きたのではないだろうか。敵である異邦人に辱められないためにには、そのことがよく現れている。だからこそ、貴族や民の指導者にもいえたのだろう。ユダの地の長官としての権威は絶大だったろう。しかしそれだけでは人は動かない。信用しない。これが、Servant Leadership だろうか。一つ一つ考えてみたい。「彼らはそれに答えた。『返します。何も要求しません。お言葉どおりにします。』わたしはこの言葉どおり行うよう誓わせるために祭司たちを呼んだ。 わたしはまた衣の折り重ねたところを振るいながら言った。『この約束を守らない者はだれでも、このように神によってその家と財産から離され、振るい落とされるように。このように振るい落とされて無一物となるように。』会衆は皆で、『アーメン』と答え、神を賛美した。民はその言葉どおり行った。」(12節・13節)祭司の前で誓わすこと、民としての団結など、いろいろな要素が詰まっている。問題点の指摘はおいておいて、エズラのやりかたよりも、実際的に写る。
Nh 6:10 わたしが、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤの家に行くと、彼は閉じこもっていた。彼は言った。「神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来る者がある。夜、あなたを殺しにやって来る。」
このあとには「彼は神が遣わした者ではなく、トビヤとサンバラトに買収されてわたしに預言したのだということをわたしは悟った。」(12節)巧妙な罠である。保身を第一にして、民を見捨てることも含まれているが、同時に、ネヘミヤのように祭司でもないものが、神殿にはいることは、ウジヤ王の例(歴代誌下26章)と同じく、罰せられるべきものと、民も考え、離反者がおこることは、十分予想ができる。それも、自分の演技でそれを強いる。シャマヤもある危機を脱しようとしたのかもしれない。ネヘミヤは試されているのだろうか。われわれにもそのような機会は多い。
Nh 7:72 祭司、レビ人、門衛、詠唱者、民の一部、神殿の使用人、すなわちイスラエル人は皆それぞれ自分たちの町に住んだ。
このことが「町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてはいなかった。」(4節)とあるように、エルサレムを守る住人が確保できなかった原因であろう。なかなか困難な問題である。
Nh 8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
主に従っていない、自分および同胞に目を向けるのは当然であろう。しかしここでは「主を喜び祝うことこそ、力の源である」と言っている。その力なくして、自らの弱さをもって生きることはできないのかもしれない。「喜び祝うこと」は具体的に何を意味しているのだろうか。
Nh 9:3 彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。
この状況の前に、エズラに記されている、土地の人との婚姻関係解消があったのだろうか。それは、ここに書かれていない。しかし、一般的な過去の民族としての苦しみ以上のものがあったのではないだろうか。「その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。」(1節)も単なる宗教的な儀式とは思えない。
Nh 10:30 そのまことに貴い兄弟たちに協力するものであり、神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約するものである。
このあとに確約の内容が続く。最初が地の民に嫁がせないこと、安息日に商売をしないこと、年に三分の一シェケルを宮に納めること、初物、初子を献げること、地の産物の十分の一はレビ人に献げることである。レビ人は、基本的に土地を所有しない(厳密ではない)ことからも、十二部族としては、地の産物の十分の一を献げて、神殿などの仕事を専業とするために必要だったのだろう。十分の一についても、もう少し学びたい。
Nh 11:20 他のイスラエルの人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の嗣業をもって住んだ。
この章には、エルサレムに住むことになった人たちのリストがあり、そのあとに、この節が続く。いくつかの町に分かれて住んだことが書かれているが、状況はどのようなものだったのだろう。すでに定住者もいたはずである。出身の町をそれぞれが立て直すほどの人数はいなかったろう。それが、よくわからない場合、破壊されてしまっている場合もあったろう。いまのパレスチナのような衝突は起きなかったのだろうか。アッシリア時代は、他の被征服民族を移住させて違う土地に定住させていたとも聞く。この時代について、もう少し知りたい。
Nh 12:22 エルヤシブ、ヨヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代にレビ人は、その家長が祭司と共にペルシアの王ダレイオスの治世まで記録された。
すでに帰還第一世代からは何代か経ている。それが丁寧に記録されている。この系図が大切にされたことがわかる。血筋がそれほど大切にされたのは、祭司、レビ人だけなのだろうか。他のひとについては、どのようにしたのだろうか。興味がある。会衆の定義にもつながる。
Nh 13:1 その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。
申命記23章4節の「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」によっていると思われる。モアブはダビデの家系のルツもそうである。これこそ律法主義である。悲しいが、丁寧に見ていく必要もあるだろう。このあとも、律法に書いてあること一つ一つをチェックして、そのとおり指示したのに、そのようには、なっていないことが書かれている。ネヘミヤは「わたしの神よ、それゆえわたしを心に留め、神殿とその務めのために示した、わたしの真心を消し去らないでください。」(14節)とこれを「わたしの真心」といっているのだから。この章の最後は「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。」(31節)で終わっている。個人的な正しさとはいえないが、まずは、律法にしたがうこと、ここに飢えていたのだろう。それこそが、神に従うことと同じだったということか。その信仰も尊重したい。

BRC2015

Ne1:11 おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。 
「志」が与えられた瞬間だろう。献酌官として仕えていたネヘミヤがチャレンジをうけた。ここには、現代に生きるわたしたちと共通のものを感じる。しかし捕囚後は難しい。
Ne2:6 王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、 
ネヘミヤが王や王妃に信頼を得ていることが見て取れる。不確定な要素が多い。だからこそ信頼が必要である。それは、日常でのこと、この世での営みだろう。
Ne3:1,2 大祭司エルヤシブは、仲間の祭司と共に羊の門の建築に取りかかり、それを奉献し、扉を付けた。次いでハンメアの塔まで、更にハナンエルの塔まで奉献した。 その傍らにはエリコの住民が一方に、イムリの子ザクルが他方にいて建築に携わった。 
5節をみると「更にその傍らではテコアの人々が補強に当たった。しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」とあるが、特記すべきこととして書かれている。つまり、あらやる人が身分の違いを超えて、この作業に取りかかったと言うことである。いろいろな思いもあったろうが、それを乗り越える共同作業。あまりに美化してもいけないのかもしれないが、感動を覚える。
Ne4:8 わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」 
ネヘミヤとその部隊の存在は大きかったろう。エズラのようなひとも、預言者たちも、そしてこのようなネヘミヤというリーダーも。時代の一コマと考えればよいのか。土地の人たちとの関係を築くことはできなかったのか。このようなことが、現在の紛争につながっているともいえなくもない。
Ne5:19 神よ、わたしがこの民に尽くしたすべてのことを快く心に留めてください。 
このことを、自分の救いの根拠としていると考える必要はないだろう。ネヘミヤは神様から与えられた自分の十字架としてこのことに当たることによって、神に対して忠実であろうとし続けたのだろう。謙虚さは必要でも、非難はあたらない。
Ne6:17,18 そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。 ユダの多くの人は彼と互いに誓約を交わす関係にあったからで、トビヤはアラの子シェカンヤの娘婿であり、トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた。 
3章5節「更にその傍らではテコアの人々が補強に当たった。しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」にすでに兆候はある。ネヘミヤもすでにある程度の情報を得ていたろう。「ユダの多くの人は彼(トビヤ)と互いに誓約を交わす関係にあった」理由はいろいろと想像することもできる。現実社会の難しさである。嘆き、主に祈り、王の支援もうけて、大志を抱いて乗り込んできたネヘミヤ、エズラもそうだったが、困難は足下にある。しかし同時に、それによってすべてを判断できないことも確かである。神にその判断を任せないといけない。
Ne7:61,62 テル・メラ、テル・ハルシャ、ケルブ、アドン、イメルから上って来たが、自分の家族と血筋がイスラエルに属するかどうか示せなかった者は次のとおりである。 デラヤの一族、トビヤの一族、ネコダの一族、六百四十二人。 
このリストはエズラ2章59,60節のものと同一である。ゼカリヤ書6章10, 14節にも「帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族」と記されている。ネヘミヤ記では「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤ」または「アンモン人のトビヤ」と記されているので、別人と考えた方がよいかもしれない。しかし、61節にあるように「自分の家族と血筋がイスラエルに属するかどうか示せなかった者」として名前が挙げられていることは示唆的でもある。何らかの関係をまったく否定することはできない。最初には「アンモン人の僕トビヤ」と書かれていることも気になる。イスラエル人、またはその関係者が、寄留して生活しなくてはいけない状況も十分あったろう。このトビヤに関して断定はできないが。
Ne8:8 彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。 
ヘブル語からアラム語だろう。ヘブル語教育はどのようになされたのだろう。一般の人にとっては、日常語がアラム語で、捕囚されていたところでも、公用語がアラム語であるなら、ヘブル語は失われていったろう。しかし、意味が明らかにされなければ、翻訳だけでは理解できない。さらに、理解しようとする心が与えられなければ9節のように「律法の言葉を聞いて泣」くことはできないし、「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」(10節)と言われて「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。」と表現された状況にはならない。
Ne9:37 この土地の豊かな産物も/あなたがわたしたちの罪のためにお立てになった/諸国の王のものとなり/わたしたち自身も、家畜も/この支配者たちの意のままに/あしらわれているのです。わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです。」 
3節には「彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。」とある。この罪の告白をうけて始まるのが5節以降に記されている主に対する賛美である。しかしその最後の37節を見ると状況はかなり厳しいことがわかる。アッシリアや新バビロニア時代の統治で他の地域の民も多く移住してきていただろう。総督は置かれても、十分な秩序はなかったかもしれない。この当時の状況をもう少し知りたい。 
Ne10:1 これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。 
これに祭司23、レビ人17(+アルファ(兄弟たち))、民の頭44人の名が続く。このようなことを経て最高議会(70人)が形成されていったのだろうか。33節には神殿税と思われる記述もある。「わたしたちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。」1シェケルは11.4g。イエスの時代にはローマの1デナリと対応している。三分の一シェケルが当時どのような貨幣価値なのかは不明。ユダヤ教の基本が形成されていったことは読み取れる。
Ne11: 1 民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。 
行政政策まで行っている。だれもいないところならともかく、様々な困難が伴ったことは予想できる。ユダのバビロン捕囚から、最初の帰還まで約50年、ネヘミヤの帰還までにはすでに約130年程たっている。この期間の記述は非常に限定的である。
Ne12:46,47 ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。 
過去とこの時とその後が対比されている。これも内省であり、信仰告白なのであろう。そしてさらに教育なのかもしれない。これらの言葉からも、考えさせられる。イエスの教えからは、これらは、この世でのことで、究極の普遍的真理追究とは異なっているのだろうから。
Ne13:28 大祭司エルヤシブの孫でヨヤダの子の一人が、ホロニ人サンバラトの娘婿となっていた。わたしは、彼を遠く追放した。 
2章10節と19節に「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤ」として出てくる。4節には「これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていたが、」とも出てくる。サンバラトとトビヤは様々な姻戚関係によってイスラエル人の中枢に入り込んでいたことがわかる。イエスなら、そして私はこの場でどうするだろうか。本当に難しい。

BRC2013

Neh1:9 しかし、あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの戒めを守って、これを行うならば、たといあなたがたのうちの散らされた者が、天の果にいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ所に連れて来る』と。
Deut30:1-5 からの引用か。4節は「たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。」となっている。預言書にもこの思想は多い。Is 11:12, Jer 23:3, 31:8-10 Exe 20:34, 41, 36:24, Mic 2:12, 「あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまい」(Deut12:5) は揺るがすことのできないものだったのだろう。考えさせられる。
Neh2:5 王に申しあげた、「もし王がよしとされ、しもべがあなたの前に恵みを得ますならば、どうかわたしを、ユダにあるわたしの先祖の墳墓の町につかわして、それを再建させてください」。
1章3節を見るとネヘミヤの聞いた報告は「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」であることがある。町の再建が、尊厳をもって生きることと密接に結びついていたのだろう。
Neh3:1 かくて大祭司エリアシブは、その兄弟である祭司たちと共に立って羊の門を建て、これを聖別してそのとびらを設け、さらにこれを聖別して、ハンメアの望楼に及ぼし、またハナネルの望楼にまで及ぼした。
大祭司が祭司たちと協力して、町を再建している。このあとも、5節に「その貴人たちはその主の工事に服さなかった。」とあるが、「川向こうの州の知事の行政下にあるギベオンとミヅパの人々」(v7)、「製香者」(v8)、「エルサレムの半区域の知事ホルの子レパヤ」(v9)、「エルサレムの他の半区域の知事ハロヘシの子シャルムがその娘たちと共に」(v12)、「ベテ・ハケレムの区域の知事レカブの子マルキヤ」(v14)、「ベテズルの半区域の知事アズブクの子ネヘミヤ」(v16)、「ケイラの半区域の知事ヘナダデの子バワイなどその兄弟たち」(v18)、「エシュアの子でミヅパの知事であるエゼル」(v19)、「低地の人々である祭司たち」(v22)、「オペルに住んでいる宮に仕えるしもべたち」(v26)、「祭司たち」(v28)、「金細工人のひとりマルキヤという者」(v31)、「金細工人と商人たち」(v32)とある。名前のみの人は記していないが、なんと多様な人たちええあろう。知事、大祭司、祭司、金細工人、製香者、商人、そして女性。さらに、かなり遠くからも来ているようである。協力しなかった人のことが記されているのも、興味深い。ユダヤ人以外が含まれているのかは不明。
Neh4:31 そして、わたしも、わたしの兄弟たちも、わたしのしもべたちも、わたしを護衛する人々も、われわれのうちひとりも、その衣を脱がず、おのおの手に武器を執っていた。
かなり大変な状況で、様々な人が関わるグループをまとめ、仕事を続ける大変さは、簡単に表現できるものではなかったろう。ネヘミヤも献酌官のような仕事をしていたことを考えると、かなりのチャレンジであったろう。それを支えたもの、このことにかけた思いに惹かれる。
Neh5:9 わたしはまた言った、「あなたがたのする事はよくない。あなたがたは、われわれの敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか。
そのとおりだと思っても、わたしはそれを言えるだろうか。個人の利害に関係すること。影響をいろいろと考える余り、大胆に言えないのではないだろうか。このことができ、それが実現したのも奇跡。
Neh6:11 わたしは言った、「わたしのような者がどうして逃げられよう。わたしのような者でだれが神殿にはいって命を全うすることができよう。わたしははいらない」。
「メヘタベルの子デラヤの子シマヤ」がどのような人か分からないが、ネヘミヤは、「『ユダに王がある』と言わせている」(7節) という中傷にも、この節における「神殿にはい」るという誘いにも、適切に対応している。自分の職、神の前の位置も、神から与えられているものとして受け入れている。それが「ぶれない生き方」ということなのだろう。わたしもそのように生きたい。
Neh7:5 時に神はわたしの心に、尊い人々、つかさおよび民を集めて、家系によってその名簿をしらべようとの思いを起された。わたしは最初に上って来た人々の系図を発見し、その中にこのようにしるしてあるのを見いだした。
捕囚から帰ってきた人は、それを選んだ人(何もないところに戻っていくことも、そのままの生活を続けることもできた)、その人たちの集団が、第二神殿時代を築いているという永田先生のコメントを思いだす。エルサレム再建、新たなユダヤ教再建の同志のリストを創ろうという気持ちはよく分かる。
Neh8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。
このときが、ユダヤ教の新しい集団が組織されたときと見なす見方もあるのかもしれない。律法、預言書の成立がやはり気になってくる。王国時代は、どのように礼拝がなされていたのだろうか。
Neh9:6 またエズラは言った、「あなたは、ただあなたのみ、主でいらせられます。あなたは天と諸天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、これをことごとく保たれます。天の万軍はあなたを拝します。
この章は非常に興味深い。エズラがイスラエルの歴史(民と神の関係の歴史)を振り返って語っているから。この神理解の最初にあるのが、この節である。「すべてのものを造り、これをことごとく保たれます」創造とともに、保持が書かれている。自然現象の背後におられるだけでなく、環境を調和をもって保たれる神という面がいままで十分理解されてこなかったのだろう。
Neh10:29 その兄弟である尊い人々につき従い、神のしもべモーセによって授けられた神の律法に歩み、われわれの主、主のすべての戒めと、おきてと、定めとを守り行うために、のろいと誓いとに加わった。(新共同訳では30節)
このあと誓願の具体的な内容がつづく。土地の人(異邦人と一般化して良いのかは不明)と婚姻関係をもたない、安息日・聖日に売買をしない、7年ごとに耕作をやめ負債をゆるす。さらに、宗教集団を維持するための税金の既定が続く。この誓願に加わらなかった人にも適応したのか。
Neh11:2 またすべてみずから進みでてエルサレムに住むことを申し出た人々は、民はこれを祝福した。
荒廃した町、やっと城壁ができたなにもないところで生活を始めることは、かなりの大変さだったのであろう。敵の襲撃にそなえることなど、他の困難さもあったかもしれない。
Neh12:45 彼らはダビデおよびその子ソロモンの命令に従って、神の勤めおよび清め事の勤めをした。歌うたう者および門を守る者もそのように行った。
「ダビデおよびその子ソロモンの命令に従って」は何を意味するのだろうか。律法ではなく、レビ人の組織化をいみしているのか。どのように伝えられていたのだろう。
Neh13:6 その当時、わたしはエルサレムにいなかった。わたしはバビロンの王アルタシャスタの三十二年に王の所へ行ったが、しばらくたって王にいとまを請い、
Neh2:6 に「期間を定めて」とあるので、その期間が満ちたのかも知れない。 すると、さらに延長を願ったと言うことか。状況の報告は重要だったと思われる。しかしこのネヘミヤ記の最後をみると、道半ばで終わっている。きりがないほど問題はあっただろうことは容易に想像がつく。


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エステル記

エステル記の内容が実際に書かれていたように起こったことなのかは、確認できませんが、1章1-3節と2章16節にこのことがアハシュエロス王の時代に首都のスサで起こったこととして、正確な年や月も書かれていますから、すこし歴史的背景を書いておきます。今のところ、王妃ワシュティや、エステル、モルデカイの名は、ペルシャの記録からは見つかっていないようです。

BC722に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、BC586に南ユダ王国も新バビロニアに滅ぼされ、指導者たちを中心に多くのユダヤ人が捕囚となります。アッシリアは、新バビロニアに滅ぼされ、その新バビロニアもクロス王(キュロス2世)に率いられたペルシャ(ハカーマニッシュ朝、ギリシャ語名は、アケメネス朝、BC550-BC330) にBC539に滅ぼされます。ペルシャの主たる宗教はゾロアスター教で、首都はスサ(ヘブル語ではシュシャン)、ペルセポリスなどでいまのイラン中央部にありました。エステル記8章9節には「インドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。」とあります。この文章からも、統治に力をいれたことがわかりますが、被征服民に寛容だったと言われ、ユダヤ人は、BC536ごろからユダヤに戻りエルサレムの神殿再建や、城壁の復元などをすることになります。そのことを記したのが、エズラ記、ネヘミヤ記でした。しかしもちろん、ペルシャ帝国内のそれぞれの地域に残っていたユダヤ人もいたわけです。エステル記は、その人たちの物語です。

クロス王が BC530に戦死、カンビュセスが継ぎますが、内紛などがあり、BC522にダリヨス(ダレイオス1世)が実権を握ります。ダリヨスはギリシャに出兵し、マラトンの戦い (BC490) で敗れ、BC486に亡くなります。その後を継いだのが後にクセルクセス1世と呼ばれるクセルクセス (BC486-BC465) でそのヘブル語の呼び名がアハシュエロスです。クセルクセス1世もギリシャに遠征 (BC483-BC480)し、サラミスの戦いでギリシャ軍に敗れます。

エステル記の1章3節にある、第3年はBC483、2章16節 の第7年はBC479となります。ギリシャ遠征のことを考えるといろいろと想像も膨らみますね。

エステル記には、最後にプリムの祭りのことが記されていますが(エステル記9章23節-32節)、これは、今に至るまで祝われている祭りで、エステル記はその起源を記した物語です。ユダヤ暦は太陰暦なので、太陽暦だと日がずれますが、2月または3月に守られています。ユダヤ民族にとっては、忘れることのできない物語、そしてそれを記念する祭りということでしょう。

エステルと、その叔父のモルデカイが中心ですが、その二人のことばを記しておきます。

モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。(エステル記4章13節-17節)

最後に、いのちのことば社「新聖書注解」エステル記梗概(大山武俊執筆)を記します。

  1. 王妃ワシュティの失脚 1章
  2. エステル王妃となる 2章
  3. ハマンの陰謀とユダヤ人虐殺の布告 3章
  4. モルデカイとエステルの決意 4章
  5. エステルの宴会 5章
  6. 屈辱のハマン 6章
  7. ハマンの失脚 7章
  8. モルデカイの布告 8章
  9. ユダヤ人の勝利とプリムの祭の制定 9章
  10. モルデカイへの賞賛 10章


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聖書通読ノート

BRC2023

Esther 1:10-12 七日目に、クセルクセス王はぶどう酒で上機嫌になり、王の前に仕える七人の宦官、メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスに、王妃の冠をかぶらせて王妃ワシュティを王の前に連れて来るように命じた。彼女は容姿が麗しいので、その美しさを民と高官たちに見せるためであった。ところが、王妃ワシュティは宦官たちが伝えた王の命令に従わず、行くことを拒んだ。王は大いに憤り、怒りに燃えた。
これがどのようなことであったかについても、いくつか説があるようだが、いずれにしても、このあとの、側近の一人のメムカンのことばは、現代とあまり変わっていないと感じる。ただ「酒は金の杯で供され、その杯は一つ一つ異なっていた。王室用ぶどう酒が、王の寛大さにふさわしく、惜しみなく振る舞われた。しかし法に従い、飲むことは強いられなかった。王が宮廷のすべての役人に、人々がめいめいの好みのままにできるように命じていたからである。」(7,8)とあるのは、興味深い。おそらく、王のお好みのグループの中では、一人一人の意思が尊重されるということはあったのだろう。その適用範囲が広がっていくのがとても難しい。
Esther 2:8 さて、王の命令と法が布告され、多くの娘がスサの都に集められて、ヘガイの手に託されたとき、エステルも王宮に連れて行かれ、女たちを監督するヘガイの手に託された。
このあとも間接的には、連絡が取れたようだが、連れて行かれたのは、強制的だったのだろう。なぜ「エステルは、自分の属する民と出自を明かさなかった。」(10a)のか、よくはわからない。非征服民かどうかは、王の側でわかっただろうから、ユダヤ人で、とくべつの宗教を信じているということが理由だろうか。「エステルはモルデカイに命じられたように、自分の出自と自分が属する民を明かしていなかった。エステルは、モルデカイに養い育てられていたときと同様、彼の言葉に従っていた。」(20)は多少、そのことを匂わす。このあと、謀反の計画について「モルデカイはそのことを知ると、王妃エステルにこれを告げた。エステルはモルデカイの名を挙げて、これを王に話した。」(22)とあり、これは、あとに続く情報であるが、「エステルはモルデカイの名を挙げて」とあり、少し、どのように情報を得たか、制約があり、自然とは言えない。
Esther 3:8 ハマンはクセルクセス王に言った。「あなたの国のすべての州に、諸民族のうちに散らされ、分離されている一つの民族がいます。彼らの法はどの民族のものとも異なり、彼らは王の法を守りません。彼らをそのままにしておくのは、王にとって益ではありません。
「王の門にいる王の家臣たちは皆、ハマンにひざまずいてひれ伏した。王が彼のためにそのように命じていたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、ひれ伏しもしなかった。」(2)においても「モルデカイは自分がユダヤ人であることを彼らに告げていたからである。」(4b)とあり、跪かないことは、主以外に跪かないことを理由にとしたと思われる。日本における、神棚や、御真影に拝礼するかとも関係するように思う。強要は問題ではあるが、政教分離問題として捉える考え方もあり、簡単ではない。やはり本質は、引用句にあるような、異質のものを排除する人間の単純化バイアスにあるように思われる。同時に、それと戦うことができるのも、人間である。
Esther 4:11 「王の家臣と王の諸州の民が皆知っているとおり、呼ばれないのに内庭に入って王のもとへ行く者は、男であれ女であれ、殺されなければならないという一つの法があります。ただ、王が金の笏を差し伸べた者だけが死を免れます。私はこの三十日間、王のもとに行くよう呼ばれておりません。」
エステルの住む世界のルールである。モルデカイの住む世界とは、その制約条件が異なる。そうであっても、共通の喜びと悲しみがあるということなのだろう。「あなたは行って、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために断食してください。三日の間、夜も昼も、食べても飲んでもいけません。私も私の侍女たちも、同じように断食します。このようにしてから、法に背くことですが、私は王のもとに行きます。もし死ななければならないのであれば、死ぬ覚悟はできております。」(16)それを結ぶものは、主に結びつきながらする断食、そして書いてはないが、祈りだろうか。これには、エステルの侍女も含まれている。このことの影響の及ぶ範囲についても、考えられているように見える。
Esther 5:11-13 ハマンは、自分の富の豊かさ、息子たちの多さ、自分が王に重んじられたこと、王が他の大臣や家臣たちより上に自分を昇進させたことを、彼らに余すところなく語り聞かせた。ハマンはまた言った。「王妃エステルは、彼女の催した酒宴に、私のほかには誰も王のお供として招かなかった。明日もまた私は王と共に彼女に呼ばれているのだ。だが、ユダヤ人モルデカイが王の門に座っているのを見る度に、このすべてが私には空しいものとなる。」
興味深い表現である。ハマンが誇りだと思っていたこと、そして、それを承認しないようなモルデカイの行動・存在が描かれている。妻のゼレシュとハマンの親しい者たちは、モルデカイを抹殺することを王に進言するように、提案する。自分の評価を人の評価に依存していることが不安につながるのだろう。なにを喜びとすべきか、それは、簡単ではない。しかし、それを求めながら、そこに生きるものでありたい。
Esther 6:13 ハマンは妻ゼレシュと彼の親しい者たち皆に、自分に起きたことをことごとく話した。そのうちの知恵ある者たちと妻ゼレシュは彼に言った。「あなたは、すでにモルデカイに負け始めているのに、もし彼がユダヤ人の子孫なら、あなたは彼に勝つことはできません。あなたは必ず彼の前に敗れるでしょう。」
妻ゼレシュは、ハマンの抹殺提案にも加担している。しかし、ここでは、知恵のある者たちと共にハマンに言っている。柔軟だとも言えるが、ハマンの心を理解しないで生きてきたとも言える。夫婦が、多くの子供達をもうけても、互いの大切なものを知り、一緒にたいせつなことを求めていく歩みは、簡単ではない。夫婦ではなくても、共に集う人々のもとでも、同じように考えるべきことであると同時に、難しいことでもあるのだろう。
Esther 7:4 私と私の民は売られて、根絶やしにされ、殺され、滅ぼされようとしています。もし私たちが、男も女も奴隷として売られただけなら、その苦難は王様を煩わすほどのことではないので、私は黙っていたでしょう。」
無論、こんなことが起きてはいけない。しかし、この時代、多くの民族に生じていたことなのではないかと思った。ユダヤ人が、恵を得たのは、たまたま、エステルのゆえだろうか。そして、ユダヤ人も同様のことを過去に行っている。それについては、どのように理解したら良いのか。日本人に対しても、同じことを考えてしまう。公平は視点は、難しい。
Esther 8:7,8 クセルクセス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った。「私はハマンの家をエステルに与え、ハマンを木につるさせた。彼がユダヤ人たちを殺そうとしたからである。あなたがたはユダヤ人について、あなたがたがよいと思うように王の名によって書き、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書かれ、王の指輪で印を押された書面は、撤回することができないからである。」
分断を生じる、復讐も。ひとは、この方向以外には、進めないのだろうか。わたしには、分からない。
Esther 9:4,5 モルデカイは王宮で大きな勢力を持ち、その名声はすべての州に広がった。このモルデカイという人物は、ますます勢力を増していった。ユダヤ人は敵をすべて剣で打ち、殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者たちに対してほしいままに行った。
モルデカイがペルシャのクセルクセス王(おそらく一世)の記録に残っているかどうか不明だが、このようなことを通して、エズラや、ネヘミヤが登用されていったのかもしれない。かなり乱暴で、目をしかめたくなるが、あとの歴史に影響を及ぼしているのかもしれないと今回思った。どの程度まで、記録に残っているのだろうか。
Esther 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位に就き、ユダヤ人にとって偉大な者となり、多くの兄弟たちに愛された。彼はその民の幸福を求め、そのすべての子孫に平和を語ったのである。
多くの兄弟たちに愛されても、憎む人はいただろう。クセルクセスの好みもあって、重用されたのだろうが。この辺りは詳細は分からないので、それ以上はわからない。ただ、このような記録が、ユダヤ人に残ったことが、祭りとしても祝われ、さらに、実質的にも意味があった可能性がある。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Esther 1:1,2 これは、インドからクシュに至るまで百二十七州を統治していたクセルクセスの時代のことである。クセルクセス王がスサの都で王位についていた頃、
「クセルクセス王の治世の第三年」(3)とこのあとに続く。クセルクセス(Xerxes I, 治世 BC486-465, アケメネス朝第4代の王)はダレイオス(Darius the Great, 治世 BC522 – 486)の子であるので、BC484年 頃ということになる。歴史背景が正確に書かれているが、歴史性は疑われており、本書の最後に書かれているプリム祭の由来として書かれたと考えられているようだ。最初に王妃とのトラブルかが書かれており、全体として興味深い。モルデカイは帰還民のリストにもあり、一般的な名前のようだが、エステルはユダヤ系にはない名前のようである。
Esther 2:10,11 エステルは、自分の属する民と出自を明かさなかった。モルデカイが彼女に明かすなと命じたからである。モルデカイは毎日、エステルの安否と彼女がどう扱われるのかを知ろうとして、後宮の庭の前を行ったり来たりした。
現実離れしているように思われる。この章の最後には「その頃、モルデカイが王の門に座っていると、王の部屋の入り口を守る王の二人の宦官ビグタンとテレシュが、怒りに任せてクセルクセス王を討とうと謀っていた。」(21)と陰謀とこの二人が処刑されたことが記録されているが、絶対王政では、このような陰謀はつきもので、王妃候補者の出自を調べることは、当然のことと思われる。また、物語としては、モルデカイの行動も必要であるが、「後宮の庭の前を行ったり来たりした。」から明らかな不審者と認識されるであろうこともわかる。後宮の庭に入れることが異常、そこで、「王の部屋の入り口を守る王の二人の宦官」の情報をえることも、できすぎているようにも思う。この時期は、クセルクセス王の治世の第7年の第十の月とされているが、1章のときから、あまりに時間が立ちすぎていることも、気になる。
Esther 3:10,11 王は手から指輪を外し、ユダヤ人の敵、アガグ人ハメダタの子ハマンに与えた。そして王はハマンに言った。「その銀はあなたに与えられる。その民はあなたがよいと思うようにしなさい。」
この前にも「王の門にいる王の家臣たちは皆、ハマンにひざまずいてひれ伏した。王が彼のためにそのように命じていたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、ひれ伏しもしなかった。」(2)とあるが、引用句では、指輪を外して、ハマンに与えている。「こうして第一の月の十三日に、王の書記官たちが召集された。彼らは、王の総督たち、各州の長官たち、および各民族の長たちに宛てて、ハマンが命じたことをすべて書き記した。それは各州にはその書き方で、各民族にはその言語で、クセルクセス王の名によって書き記され、王の指輪で印が押された。」(12)まさにその指輪でこのことがなされている。「AI新生」などの本で、AI が発達した世界について学んでいる。副題は「人間互換の知能を作る」である。"Human Compatible: Artificial Intelligence and the Problem of Control" が原題である。王も自分の意思を実行する人材をえたと思ったかもしれない。しかし、その課題や、目的から生み出すものを見通すことはできない。おそらく、絶対王政の周辺で、AI の課題と似た現象が様々に実験されてきたのだろう。非常に難しい問題である。
Esther 4:14 もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解放と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか。」
暗唱もして何度も考えた句である。モルデカイの信仰がよく現れている。しかし、正しくはないかもしれないと思った。因果応報は、主のなされることの本質ではない。また、ナチスや他の迫害で死んでいった人たちも同じように、このような信仰をもって死んでいったのではないか。父の家が滅びるということも、価値判断にずれが生じているように思う。しかし、「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(ダニエル3章18節)の「たといそうでなくても」は日本帝国主義にもとで抵抗した韓国人が書いた書名にもなっているが、応報を求めるのではなく、信仰告白し「たといそうでなくても」誠実に忠実に主のみこころを求めていく生き方を探していきたいと思った。それが、主が喜ばれることそのままかどうかは不明だが。
Esther 5:13,14 だが、ユダヤ人モルデカイが王の門に座っているのを見る度に、このすべてが私には空しいものとなる。」妻のゼレシュとハマンの親しい者たちは皆、彼に言った。「五十アンマもの高さの柱を立て、明日の朝、モルデカイをその上につるすように、王に申し上げなさい。そして王と一緒に、楽しくその酒宴にお行きなさい。」ハマンはこの言葉が気に入り、その柱を立てさせた。
こころの闇を見るようだが、作り話のようにも見える。ひとのこころはわからない。そうであれば、モルデカイ以外にも、喜んでいないものが多くいることはわかるはずである。そして、同調圧力かもしれないが、妻やハマンと親しい者たちが皆いうことにしては、異常すぎる。事実とすると、エステル記記者もハマンや、ゼレシュを理解できていないということなのかもしれない。
Esther 6:13 ハマンは妻ゼレシュと彼の親しい者たち皆に、自分に起きたことをことごとく話した。そのうちの知恵ある者たちと妻ゼレシュは彼に言った。「あなたは、すでにモルデカイに負け始めているのに、もし彼がユダヤ人の子孫なら、あなたは彼に勝つことはできません。あなたは必ず彼の前に敗れるでしょう。」
物語としての効果を高める一つの演出なのかと思う。事実かどうかを、詮索しないほうがよいのかもしれない。この箇所も、劇場でのナレータの役をゼレシュとハマンの親しい者たちに演じさせているように思われる。ハマンの10人の息子は処刑されるが(9章13節)ゼレシュとハマンの親しい者たちはどうなったのだろうかと気になってしまう。文脈からすると、処刑されたように思われるが、つまり、ナレータではなく、当事者であるもののこのような発言が、わたしは、受け入れられないということなのだろう。集中して読めなくもなっているように思う。これは、自分の問題なのかもしれない。
Esther 7:7 王は憤ってぶどう酒の宴の席を立ち、宮殿の庭へ向かった。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王が自分に害を加えることが決定的になったのを見たからである。
なかなかの文学的才能だと思う。言葉ではなく、態度でこの瞬間の重さを伝えようとしている。整理をしていたのだろう。ハマンのことも、いろいろと考えながら。しかし、やはり正直、脚色が強すぎると思わされる。素直になれないのはなぜだろうか。
Esther 8:8 あなたがたはユダヤ人について、あなたがたがよいと思うように王の名によって書き、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書かれ、王の指輪で印を押された書面は、撤回することができないからである。」
なんともおぞましい民族主義である。具体的には「その中で王は、すべての町にいるユダヤ人に、集まって自分たちの命を守り抜き、迫害しようとする民族や州の軍隊を、子どもや女に至るまでことごとく根絶やしにし、殺し、滅ぼし、その財産を奪い取ることを許した。」(11)とあり、「ユダヤ人には光と喜び、楽しみと誉れがあった。」(16)ともある。これが喜びと楽しみと誉なのか。わたしには、受け入れられない。これはたんなる復讐である。
Esther 9:21,22 アダルの月の十四日と十五日を毎年祝うことを定めた。すなわちユダヤ人が敵からの休息を得た日として、悲しみが喜びに、嘆きが祝いの日に変わった月として、これらを祝宴と喜びの日とし、互いに食べ物を贈り合い、貧しい人々に施しをすることとした。
ユダヤ教も現在はいくつもの派に分かれているのでそれぞれがどのようにプリム祭を祝っているのか不明だが一応調べてみた。ユダヤ敬虔主義のサイト(https://www.chabad.org)には、Jewish Holiday の中に、Purim が入っており、次は来年の3月16日・17日だとあり、由来やそのときにすべきこと、すべきでないことが書かれている。(https://www.chabad.org/holidays/purim/default_cdo/jewish/Purim.htm)この章にも、ハマンの十人の息子たち(10)だけでなく、スサだけで500人(6)、全体で75000人を初日に殺したことが書かれている。「私と私の民は売られて、根絶やしにされ、殺され、滅ぼされようとしています。もし私たちが、男も女も奴隷として売られただけなら、その苦難は王様を煩わすほどのことではないので、私は黙っていたでしょう。」(7章4節)エズラ記でも、ネヘミヤ記でも「奴隷の身の私たち」、「確かに、私たちは奴隷です。」(エズラ9章8,9節)「今日私たちは奴隷の身です。」(ネヘミヤ9章36節)と語るものとは、差を感じる。しかし、あまり批判的にだけ見るのではなく、歴史上で、アンチシオニズムによって、迫害されてきた期間は長いのだろう。世界中に散らされながら、民族主義を守り続けたとも言えるのかもしれない。考えさせられる。
Esther 10:1 クセルクセス王は国土および海の島々に労役を課した。
全体としては、この一句はクセルクセス王が偉大な王であることを印象付けることばのように思われるが、「海の島々」には、少しおどろきを感じた。ただ、アケメネス朝ペルシャの4代目の王として、サラミスの戦いで敗れるまでは、ギリシャも征服しており、アフリカの東海岸にもかなり進出していたようなので、周辺の島にも進出していたのかもしれない。最後に、モルデカイのことは書かれているが、エステルについては、書かれていない。「ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位に就き、ユダヤ人にとって偉大な者となり、多くの兄弟たちに愛された。彼はその民の幸福を求め、そのすべての子孫に平和を語ったのである。」(3)エズラが書記、ネヘミヤが献酌官をしていたことなどを考えると、有能なユダヤ人が様々に登用されていたのかとも思う。

BRC2019

Es 1:8,9 しかし、定めによって酒を飲むことは強いられてはいなかった。王の命令によって給仕長たちは、人々に思いどおりにさせていたからである。王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女のための酒宴を催していた。
「人々に思いどおりにさせていた」とあり、アルハラのようなことはなかったと取るのが普通だろうが、酒宴に来ることは強制されなかったという意味も含んでいるかもしれない。すると、ワシティのことの解釈にも多少影響を及ぼすかもしれない。しかし、それぞれが、思い通りに楽しんでいた祝いではあっても、目的が「こうして王は、百八十日の長期にわたって自分の国がどれほど富み栄え、その威力がどれほど貴く輝かしいものであるかを示した。」(4)であることから「支配者と共に食卓に着いたなら/何に直面しているのかをよく理解せよ。 あなたが食欲おうせいな人間なら/自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。」(箴言23章1,2節)を思い出してしまった。自由を、自分の自由と理解してはいけないのだろう。あくまでも、王の自由なのである。パウロはローマの信徒への手紙1章24節で「なすがままにまかせる」ことをさばきの一つとして捉えているぐらいだから。
Es 2:17,18 王はどの女にもましてエステルを愛し、エステルは娘たちの中で王の厚意と愛に最も恵まれることとなった。王は彼女の頭に王妃の冠を置き、ワシュティに代わる王妃とした。次いで、王は盛大な酒宴を催して、大臣、家臣をことごとく招いた。これが、「エステルの酒宴」である。更に、王は諸州に対し免税を布告し、王の寛大さを示すにふさわしい祝いの品を与えた。
1章にも関係するが、寛大さが王の威光をしめすことだと考えられていたのかもしれない。クセルクセス王は、一般的には、1世 Ahasuerus (Xerxes I, reigned 486–465 BCE) と考えられているようである。もしそうであれば、ギリシャとの戦いを何回も行った、ペルシャ戦争の王であり、これらは、サラミスの海戦以前の、ペルシャが優位であった時期のことなのかもしれない。ヘロドトスの「歴史」も読んでみたい。ペルシャ側の記録はないのだろうか。
Es 3:4 来る日も来る日もこう言われたが、モルデカイは耳を貸さなかった。モルデカイが自分はユダヤ人だと言っていたので、彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。
「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(2)この背景のもとで、引用箇所がある。「彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。」の部分は、ユダヤ人一般がひざまずかないということかどうかか、ユダヤ人が他の民族と異なることは認知されていて、ハマンにひざまずかなかったことを、個人のことにとどめたくなかった人がいたことを示すのか詳細は不明である。事実は、後者であると思う。ネヘミヤなど、ひざまずく機会は多かったであろうし、礼拝することと同じことばが使われているからといって本質的には、ことなると考えた人もいるだろうから。捕囚の地でのユダヤ人の生活について、もう少し知りたい。
Es 4:1,2 モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。 更に彼は王宮の門の前まで来たが、粗布をまとって門に入ることは禁じられていた。
「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(3章2節)と比較すると、役人ではなかったかもしれないが、モルデカイは、王宮の門でなんらかの役をなしていたとも考えられる。苦悩の背景には、自分はそれで良かったかどうか、他の選択はなかったかも考えたかもしれない。正しさについては、疑わなかったのかもしれないが。このあとの、モルデカイのことばと、それに対する、エステルの応答、物語としては、最も興味深い箇所である。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」(14)むろん、信仰は、もっと広いものだと思うが。このモルデカイの苦悩を、主は、正しさだけによって、無視せず、自らの苦悩として受け取られたかもしれない。
Es 5:7,8 「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。 「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」
なぜ、すぐに、エステルは望みをいわなかったのだろうと考えた。新共同訳では、7節と8節をまったく独立に訳している。ここに間を感じる。実際には不明であるが、勇気を持って、言い出せなかったのかもしれないと考えた。実際に、一日延ばしたことが、非常に有効であったことがわかるわけだが、もしかすると、主は、そして、エステル記記者も、エステルの弱さをも、もちいられたことを伝えているのかもしれない。4章16節には三日三晩の断食を願い、おそらくそれを受けて「それから三日目のことである。」(1)とこの章は始まっている。最初は、この日に、王に願いを伝えようと計画していた可能性も高い。文学的にも優れている。
Es 6:12,13 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。彼は一部始終を妻ゼレシュと親しい友達とに話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」
「妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「五十アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。 」(5章14節)柱にモルデカイを吊るすように進言したのは「妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと」であることが書かれている。ここでも「妻ゼレシュと親しい友達」となっている。その中に「知恵ある者」もいたようである。その知恵をもって、前の段階で助言ができなかったのか。おそらく、価値観の問題だろう。要職についている、ハマンのとりまきは、周辺にいる恩恵を手放すことができなかったのだろう。知恵が生かされるかは、それを与えられた人がどのように生きるかにかかっているのだろう。
Es 7:4 私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」
いくつか、気になることがある。1つ目は、奴隷として売られるなら王を煩わすほどのことではないということ。もう一つは、このあとの経緯をみると、ユダヤ人抹殺に関することは、ハマンだけの考えではなかったようであることである。後者はとてもむずかしい問題なのだろう。どのようにしたら、ともに生きることができるのだろう。神様、教えてください。
Es 8:4,5 王が金の笏を差し伸べたので、エステルは身を起こし、王の前に立って、言った。「もしお心に適い、特別の御配慮をいただき、また王にも適切なことと思われ、私にも御目をかけていただけますなら、アガグ人ハメダタの子ハマンの考え出した文書の取り消しを書かせていただきとうございます。ハマンは国中のユダヤ人を皆殺しにしようとしてあの文書を作りました。
この時点でも、エステルは命がけだったのだろうか。絶対王政の危険性を感じる。また同時に、「こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。」(11)がなされることは「奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございません」(7章4節)とはかなりかけ離れているだけではなく、大変な残虐行為である。これが問題の解決と考えていたとすると、持続的だとは思えない。
Es 9:10 ユダヤ人の敵ハメダタの子ハマンの十人の息子を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。
このあとにも、15節と16節に「持ち物には手をつけなかった。」が繰り返されている。8章11節では「その持ち物を奪い取ることが許された。」とあるが、その部分は実行しなかったということだろう。しかし、14節にあるように、「『そのとおりにしなさい』と王が答えたので、その定めがスサに出され、ハマンの息子十人は木につるされた。殺したあとで、さらに、名誉を傷つける行為はしている。 やはり、正直、このエステル記は好きにはなれないが、このユダヤ人も受け入れるかを問われているように思われる。本当に難しい。
Es 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。
かなり偏っているように思われる。クセルクセス王の寵愛、そして、支持を受けて入るが、結局は、同じことをしているようにすら感じる。クセルクセス王にも良いときや、大変なときがあったはずである。それについては、何も書かれていない。難しい。

BRC2017

Es 1:9 王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女のための酒宴を催していた。
ワシュティも王が計画したのとおなじようなことをしている。おそらく、王もそのことを知っていたろう。任せていたかもしれないが。その状態で呼びつける。呼びつけてこないと怒る、それに同調する家来たち。ユダヤ人たちは、これをどう読んだのだろうか。ユダヤでは起こらないこととして読んだのだろうか。十分、どこでも、おそらく、ユダヤでも、そして現代でも、起こりそうなことではあるが。背後におられる神様も意識して読んでいきたい。ある意味で沈黙を保たれる神を。
Es 2:15 ルデカイの伯父アビハイルの娘で、モルデカイに娘として引き取られていたエステルにも、王のもとに召される順番が回ってきたが、エステルは後宮の監督、宦官ヘガイの勧めるもの以外に、何も望まなかった。エステルを見る人は皆、彼女を美しいと思った。
単純な事実の列挙だろうか。無欲が表現されているのだろうか。エステルはこのとき、何を考えていたのだろうか。王妃となることを望んでいたのだろうか。それはわからない。神にゆだねていたというところが一番正確かもしれない。自己決定権があるわけではない。自己決定権がないことについてひとはどう向き合うのがよいのだろうか。
Es 3:8 ハマンはクセルクセス王に言った。「お国のどの州にも、一つの独特な民族がおります。諸民族の間に分散して住み、彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません。そのままにしておくわけにはまいりません。
このことばは当たっているのではないかと思う。ある真実を語っている。さらに、exceptionalists を表してもおり、現代の状況にもつながる。モルデカイはひざまずくこと、礼拝することにこだわったのだろうか、それとも、ハマンに問題を感じたのだろうか。もし、前者であるとすると、日本人クリスチャンの戦前・戦中の状況とも重なり、難しい問題を提示していることにもなる。わたしのいまの信仰は、もっとも重要とはいえない部分にいのちをかけないこととして許容することを選ぶだろう。しかし、それは良心が許せないひともいるだろう。本当に難しい。
Es 4:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
断食祈祷の部分が以前はよくわからなかった。信仰の表明の普遍的な部分は、帰属性にも関係するのだろうか。イエスのことばで言うなら互いに愛し合う者たちだから。自分だけが正しい好意をすることとの違いと、その意味をより深く考えたい。自立性・自律性があり、自発的にまたは自己決定権をもつものの共同体とはどのようなものなのだろうか。まだ観念的にしかわからない。
Es 5:13,14 だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」 妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「五十アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。
ハマンは不安を抱え、実際平安ではなかったのだろう。なぜなのだろうか。自分への閉じた価値観だろうか。開かれた価値観では、一部の問題によって崩壊しないということか。おそらく、モルデカイを亡き者にしても、その種はあらゆるところに会ったのではないだろうか。自分を価値あるものとして、しかし、相対化されたものとして、受け入れる。かつ、同じように価値あるもの同士のひとりとして行動する。昨日学んだ、Gandhi の Trusteeship もしっかり学んでみたい。
Es 6:12,13 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。 彼は一部始終を妻ゼレシュと親しい友達とに話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」
物語として興味深いが、ゼレシュと親しい友達についても気になった。このあとのことからすると、この人たちも、殺されるか、ひどい目に遭うのではないだろうか。その是非は別として、この人たちも、冷静に見てはいても、自分たちの価値観を問うたり、ユダヤ人について理解しようとはしていないように思われる。どう考えたらよいのだろうか。この人たちを責めることはできるのだろうか。
Es 7:9 宦官の一人、ハルボナは王に言った。「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。五十アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています。」王は、「ハマンをそれにつるせ」と命じた。
エステル記は文学的で構成もよくできているので、あまり詳細に至るまで議論するのは、適切ではないかもしれないが、宦官は、状況を十分把握していたことが書かれている。ありそうなことでもある。みなが、問題点を把握していながら、勇気を持って言うことができない。内部告発ができない状況である。エステルは「私と私の民族」と言っている。自分をつく別扱いせず、民の一人をしている。共同体意識、それは、王と対峙させている、しかし、同時に、内部のものであることも、意識されているのだろう。もう少し考えたい。
Es 8:11 こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。
この仕返しがわたしにはどうしても受け入れられない。神が創造されたもののなかに、滅びの子がいることは理解できても、それをひとが裁くことに非常なる違和感があるのだろう。やはり民族性が強い文書である。わたしは、モルデカイや、エステルにつながることはできるのだろうか。
Es 9:31,32 こうしてユダヤ人モルデカイが王妃エステルと共に定めたとおり、また彼らが自分たちとその子孫のために断食と嘆きに関して定めたとおり、プリムの祭りの日付が定められた。 エステルの言葉によってプリムに関する事項は定められ、文書に記録された。
プリムの祭りの由来を記すのが目的だったと考えてよいだろう。同時に、この記述に仕方が、当時のユダヤ人に受け入れられるものであったことも確かだろう。「スサのユダヤ人はアダルの月の十四日にも集合し、三百人を殺した。 しかし、持ち物には手をつけなかった。」(15節)スサでは二日にわたり合計八百人が殺されている。全国では、七万五千人と16節にある。だいたいの数字であろうが、かなりの数であることがわかる。それを是としたこと、しかし「持ち物には手をつけなかった。」も同時に記録すべきことだったのだろう。
Es 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。
大変な絶賛である。同時に、2節には公式記録にあること、そして、ユダヤ人にとって重要であるということに限定もされている。ある限定をおいていることは、謙虚さの表れととることもできるのかもしれない。

BRC2015

Es1:5 それが終わると、王は七日間、酒宴を王宮の庭園で催し、要塞の町スサに住む者を皆、身分の上下を問わず招いた。
この王については1節に「クセルクセスの時代のことである。このクセルクセスは、インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者であった。」とあるが、アケメネス朝ペルシャのクセルクエス一世(アハシュエロス)の治世(BC486-465)と思われる。ギリシャとの戦争(3回目)のペルシャ側の王でもある。国の統治もダリヨス王以来整い、単なる強い国ではなく、統治にも心を配っていたことが、今日の箇所からもうかがい知ることができる。まず3節にあるように「その治世の第三年に、酒宴を催し、大臣、家臣のことごとく、ペルシアとメディアの軍人、貴族および諸州の高官たちを招いた。」とあり、この節はその後に位置する。このような配慮の裏でも、神は働いておられるのだろう。同時に人間の知恵としての統治も恵みの忠実な管理者として見過ごしにすることはできない。 
Es2:23 早速この件は捜査されて明らかにされ、二人は木につるされて処刑された。この事件は王の前で宮廷日誌に記入された。 
このことは、しばらくの間隠される。神の配慮ともいえる。しかし、より大切なことは、神は、わたしたちのことをご存じだと言うことである。この世で紙に書かれたものが、人目に触れようと、隠されたままであろうと、それは、重要ではない。神に対して忠実な僕、神に信頼される僕として生きることができるか否かがたいせつである。それをどのように用いるかは、神の主権による。
Es3:10,11 王は指輪をはずし、ユダヤ人の迫害者、アガグ人ハメダタの子ハマンに渡して、 言った。「銀貨はお前に任せる。その民族はお前が思うようにしてよい。」 
信頼するとはどういうことだろうか。王は、理解せずに、行動に移している。2節に「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」とあるが、この時点ですでに、確認せずに、敬意をはらうようにされている。民にそれを求めた者は、自分もそのことの奴隷になるということかもしれない。私たちが知ることができるのはほんの一部である。最後は、神様にゆだね、信頼しなければならない。しかしそれは、信頼をした自分が責任を負うことでもある。
Es4:1 モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。
モルデカイの苦悩を想像する。3節には「勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。」とある。この悲嘆を想像する。ナチのもとでのユダヤ人の苦悩と悲嘆も想像する。すると単に結果によって判断してはいけないことがわかる。モルデカイは、自分の態度「モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(3:3)を後悔しただろうか。そうかもしれない。しかし、そのあとでも、希望を失わなかったろう。それは、処刑されていったナチ政権下でのユダヤ人も同じだったのではないだろうか。希望を失わず、神を愛し、隣人を愛し続ける。ここに信仰がある。
Es5:13 だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」 
友人を招き、妻も同席させ「彼は、自分のすばらしい財産と大勢の息子について、また王から賜った栄誉、他の大臣や家臣にまさる自分の栄進についても余すことなく語り聞かせた。」(11節)さらに、王妃エステルに招待されての王との宴会のことを語る。そのあとの言葉が13節である。わたしの喜びは何で、誇りは何だろうか。そのすべてを取り去るものは、何だろうか。あるとすれば、それは、神様ご自身、イエス様から見捨てられることだろうか。おそらく、それは、わたしが信じていたものが、すべて真実ではないとなったときだろう。パスカルのように、それは無に帰するだけだから、結局損はない、という言い方はしない。わたしの一日一日に命を託して生きる。それを教えてくれた聖書のメッセージに感謝しつつ。そう考えると、創造主の存在は、わたしの信仰の大切な部分ではあるが、絶対ではないのだろうか。わたしのいのちをむなしくするものは、いったい何なのだろうか。
Es6:12 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。 
5章9節の「この日、ハマンはうきうきと上機嫌で引き下がった。しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれを見て、怒りが込み上げてくるのを覚えた。」に対応している。5章13節の「むなしさ」が現実となり出したということだろうか。このあとの「親しい友人たちの」うにの「知恵ある者もゼレシュも」ハマンを愛をもってさとし悔い改めを促し支援することはできなかったのか。すでに遅かったのかもしれない。思慮の浅い王に知恵をもって進言してこなかった責任も問われているのか。
 
Es7:7 王は怒って立ち上がり、酒宴をあとにして王宮の庭に出た。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王による不幸が決定的になった、と分かったからである。 
ハマンは王の顔色を見ることに関しては長けていたのかもしれない。高い地位には就いていても信頼は得ていたのだろうか。ハマンの栄誉はあっという間に吹き飛んでしまう。しかし、同時に王についても考える。王は何を考えたろう。単にハマンへの怒りだろうか。自分の浅はかさだろうか。王にも問いかけがあるはずだ。本来の責任は、ハマンではなく、王にあるはずだ。それを、エステル記記者は記さない。しかし、淡々と記述しているこの文章が、読む者に省察を促している。神は、どのようなメッセージをそれぞれに伝えようとしておられるのだろうか。
Es8:6 私は自分の民族にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのでございます。」 
エステルは仕返しまでも考えていたのか。これはモルデカイによるのか。それまでにかなりの迫害下にあったとしても、復讐では平和は来ない。しかし背景にもう一つ問題を感じる。2節の「王はハマンから取り返した指輪をモルデカイに与え、エステルは彼をハマンの家の管理人とした。」である。復讐は、王が始めたことなのかもしれない。そして王は、ここでも自分の責任を安易に、モルデカイにゆだねている。なにも、改善されていない。モルデカイにはそれを止めることはできなかったのか。神を畏れ、王にもそれを促すことを。これが当時のユダヤ教の世界なのだろうか。悲しさと憤りを感じる。
Es9:3 諸州の高官、総督、地方長官、王の役人たちは皆、モルデカイに対する恐れに見舞われ、ユダヤ人の味方になった。 
このあと5節には「ユダヤ人は敵を一人残らず剣にかけて討ち殺し、滅ぼして、仇敵を思いのままにした。」とある。これが、このことの顛末である。あまりに悲しい。これを祝い続けるのがプリムの祭りなのか。恐れによって見方になった者が、愛によって結びあわされることはあるのだろうか。ひとりひとりの信仰が問われているように思われる。段階的啓示の一部分としても、イエスの名による救いを求める者にとっては、重大な問題である。
Es10:1,2 クセルクセス王は全国と海の島々に税を課した。 王が権威をもって勇敢に遂行したすべての事業と、またその王が高めてモルデカイに与えた栄誉の詳細は、『メディアとペルシアの王の年代記』に書き記されている。 
これは何のために記されているのだろうか。ユダヤ民族が、捕囚となり、離散し、寄留している土地にあっても、ペルシャ王国の中で臣民として暮らすひとつの善良な民であることを、主張するためであろうか。エステル記については、もう少し学んでみたい。どのような解釈がなされているのだろうか。

BRC2013

Est1:8 その飲むことは法にかない、だれもしいられることはなかった。これは王が人々におのおの自分の好むようにさせよと宮廷のすべての役人に命じておいたからである。
7節には「王の大きな度量にふさわしく」「惜しみなく」とあるが、実態は12節で「ところが、王妃ワシテは侍従が伝えた王の命令に従って来ることを拒んだので、王は大いに憤り、その怒りが彼の内に燃えた。」のように明らかになる。一貫性のない人間の寛大さを見る思いがする。自ら省みると共に、神がそのような方ではないことに感謝。
Est2:22 その事がモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに告げ、エステルはこれをモルデカイの名をもって王に告げた。
密告は危険を伴う。エステルを通したことによってその危険は少し減ったかも知れない。しかし、モルデカイが、このことを告げたのは、彼の良心が働いたからか。危険はある程度かくごしての事だったかも知れない。
Est3:2 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。
モルデカイはなぜ敬礼しなかったのだろう。モルデカイは、王に対しても敬礼しなかったのだろうか。他のユダヤ人も敬礼しなかったのだろうか。王や、他のひと、もしかすると、ユダヤ人にも、たいしたことと思われていなかったこの「敬礼」にいのちをかけてチャレンジしたのかも知れない。わたしは、どのような生き方をしているだろうか。仲間にとっても迷惑な生き方だろうか。単に迷惑な生き方では、悲しい。
Est4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。
立派な信仰であるが、絶対的なものなのかは、考えさせられる。おそらく、そのように考えず、それぞれのときに、信仰によって応答することが大切と考えるべきか。しかしそれは、かなり主観的になる。主がこたえられないことを、どう受け取るべきなのか。北中先生が紹介しておられた Elie Wiesel のことばまで行き着き、答えられない神様と和解することまで考えると、本当に難しい。はたからなにかを言うことはできるかも知れないが。
Est5:8 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。
なぜすぐ答えなかったのだろう。話はこのあととても劇的変化を遂げるが。慎重に事を動かすため、時が必要だと考えたのか。やはり恐れがあったのか。ハマンの行動を見極めるためか。Prob 19:21「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」
Est6:13 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
文章がすこしこなれていない感じがするが、預言的役割を含んでいるからか。自分の人生にこのようなときが与えられる、どのような預言的ことばを告げられるときもあるかも知れない。悔い改めの機会なのかも知れない。
Est7:6 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。
「あだ」「敵」「悪い」が気になる。ハマンは何が悪かったのか。王に重んじられ、自己中心になったと言うことか。王に重んじられることもむなしい。神は、善い方であるから、信頼によって平安が得られる。
Est8:2 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。
非現実的に思われる。報償は与えても、管理を委ねるとは、王としては失策である。モルデカイについての記述をみると、実際に、役人だったのかも知れない。物語として読むだけでよいのか、それとも史実を読み取るのか。
Est9:5 そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。
なんとも悲しい。これが聖書に含まれていることに、恐れを抱く。神の働きとしては殆ど書かれていないことが、ひとつの信仰告白なのか。時代的なもので、当時は、ここに神の意思とはことなるものを見る人はいなかったのか。物語なのかもしれないが、モルデカイを要職につけたのも、軽率と思う。
Est10:3 ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。
「すべての国民に平和を述べた」は何を意味するのだろう。この短い章にも、考えさせられる。1節の「アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。」の海に沿った国々は、インド洋だろうか。征服せずに属国とした国がたくさん合ったことが分かる。エステル記は、不思議な書である。成立など、背景もいつか学んでみたい。


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ヨブ記

諸書、ヨブ記(1)

聖書の一つの区分では、旧約聖書は、律法と預言者と、その他の諸書と呼ばれる部分に分かれると書きました。サムエル記、列王紀は、預言者に、歴代志は諸書に含まれるのでした。良く知られているのは、AD1世紀のヨセフスの書いたアピオン反駁論 (Against Apion) I- 1-8 に書かれているものですが、Project Gutenberg (http://www.gutenberg.org/ebooks/2849) に見つけましたので、ちょとだけ引用します。
For we have not an innumerable multitude of books among us, disagreeing from and contradicting one another, [as the Greeks have,] but only twenty-two books, which contain the records of all the past times; which are justly believed to be divine; and of them five belong to Moses, which contain his laws and the traditions of the origin of mankind till his death. This interval of time was little short of three thousand years; but as to the time from the death of Moses till the reign of Artaxerxes king of Persia, who reigned after Xerxes, the prophets, who were after Moses, wrote down what was done in their times in thirteen books. The remaining four books contain hymns to God, and precepts for the conduct of human life.
この最後に書かれている四つ、ただこれは、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌 でヨブ記はヨセフスのリストには無かったようです。当時は合本聖書ではありませんから、もちろん一冊というくくりではありませんが。全体も22と書かれていますね。現在の旧約聖書は、39巻と数えています。無論、上下というような分け方はしていませんでしたし、ネヘミヤ記は、エズラ記の一部に入っていましたから、数え方が違いますが、全部が聖書としてどの時点で確立したかは、なかなか難しい問題のようです。

さて、ヨブ記に戻りましょう。非常に敬虔な生活をし、神様に祝福された生活を送っていたヨブが、祝福をすべて取り上げられ、財産を失い、子ども達を失い、自分自身も潰瘍を生じる病に冒されます。そこに訪ねてくる「友」と苦難の意味について議論する、そして最後の神様が語られるという構成になっています。苦難の意味、神の沈黙、人間の正しさ、神の主権と愛などについて考えさせられるもので、好きな人も多いようです。全てを失ったとき、

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
というのです。病を得たとき
彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。(ヨブ2:9,10 新共同訳)
旧約聖書学の並木浩一先生によると、この妻のことばは「神を呪って」ではなく「神を祝福して」と訳すべきだとのことです。ここはヘブル語の「バラク」という言葉が使われていますが、直接的な意味は、祝福する (bless)、跪く (kneel) です。だいぶん意味が変わってくる気がしますね。考えさせられる訳です。しかし、おそらく、このあとですね、問題は。構成は次のようになっています。散文と書いてある部分以外は、詩文体で書かれています。

  1. プロローグ (散文) 1:1-2:13
    1. ヨブの人となり (1:1-5)
    2. 第一回目の試練 (1:6-22)
    3. 第二回目の試練 (2:1-10)
    4. 三人の友人の来訪 (2:11-13)
  2. ヨブの独白 3:1-26
  3. ヨブと友人たちの対話 4:1-27:23
    1. エリファズの第一回弁論 (4:1-5:27)
    2. エリファズに対するヨブの答え (6:1-7:21)
    3. ビルダデの第一回弁論 (8:1-22)
    4. ビルダデに対するヨブの答え (9:1-10:22)
    5. ツォファルの第一回弁論 (11:1-20)
    6. ツォファルに対するヨブの答え (12:1-14:22)
    7. エリファズの第二回弁論 (15:1-35)
    8. エリファズに対するヨブの答え (16:1-17:16)
    9. ビルダデの第二回弁論 (18:1-21)
    10. ビルダデに対するヨブの答え (19:1-29)
    11. ツォファルの第二回弁論 (20:1-29)
    12. ツォファルに対するヨブの答え (21:1-34)
    13. エリファズの第三回弁論 (22:1-30)
    14. エリファズに対するヨブの答え (23:1-24:25)
    15. ビルダデの第三回弁論 (25:1-6)
    16. ビルダデに対するヨブの答え (26:1-27:23)
  4. 知恵の賛歌 28:1-28
  5. ヨブの独白 29:1-31:40
  6. エリフの弁論 32:1-37:24
    1. エリフの登場 (32:1-22)
    2. エリフの第一回弁論 (33:1-33)
    3. エリフの第二回弁論 (34:1-37)
    4. エリフの第三回弁論 (35:1-16)
    5. エリフの第四回弁論 (26:1-37:24)
  7. ヤハウェの弁論とヨブの答え 38:1-42:6
    1. ヤハウェの第一回弁論 (38:1-39:30)
    2. ヨブの答え (40:1-5)
    3. ヤハウェの第二回弁論 (40:6-41:34)
    4. ヨブの最後の答え (42:1-6)
  8. エピローグ(散文) 42:7-17
    1. 友のためのとりなし (42:7-9)
    2. ヨブの回復 (42:10-17)
(いのちのことば社、新聖書注解 ヨブ記 安田吉三郎著を参照)

この真ん中の詩文体の部分は、おそらく何通りも解釈が可能で難しく感じるかも知れません。上の聖書の箇所のような正しいヨブとは、別人とも言えるような言葉がたくさん出てくるのです。学者の中には、最初と最後は、別の記者による付け足しとするひともいるくらいです。ヨブ記は特に日本では、浅野順一のヨブ記講解が有名で、岩波新書から「ヨブ記―その今日への意義」も出ています。わたしもこちらは読みました。青山学院大学の教授で、牧師としても有名な浅野先生によるとこの中心部分は「ヨブの内的葛藤」だと言われていますが、わたしもこの歳になってやっと少しその意味が分かってきたように思います。若い頃は、この真ん中は無くても良いのではないかと思い、通読の時は読むのが苦痛でした。よく分からない議論が延々と続くからです。早く、エリフ(3人の友人についてきたと思われる若者という設定)が出てこないかな正直に思っていました。正しさの議論に終始する友と、友に問い、神に問い、神からの応答をひたすら求めるヨブ。わたしはそれだけ真剣に神を求めているだろうかと感じながら最近は、一つ一つのことばの背後にあるヨブの痛みを感じながら読んでいます。みなさんは、どうでしょうか。

ヨブ記(2)

ヨブ記は、前に書いたように、大きく四つの部分に分けられます。序章(1章から2章)、ヨブの独白(祈り・神への訴え)とヨブと三人の友との対話(3章から31章)、エリフの弁論(32章から37章)そして神のメッセージ(38章から41章)、終章(42章)です。分量からしても、ヨブの独白とヨブと三人の友との対話の部分からなる中間部分が中心となっています。なかなか難しい部分でもありますが、ヨブ記の中心の部分、浅野先生の言葉を借りると「ヨブの内的葛藤」3章から31章について少し書きたいと思います。ヨブ記の概略は、ヨブ記(1) を参照して下さい。

ヨブ記の核は、やはり前回も引用した次の箇所でしょう。

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
全てを失ったときに語ったヨブの言葉です。全体的な枠組としては、中間部分のあと、32章からエリフがヨブと、3人の友人に怒りを発し語り、それを受ける形で、38章から神が語り継ぎ、ヨブを戒めます。しかし、同時に神は、ヨブを正しい者とし、ヨブの祈りを聞かれます。

中間部分は、3人とヨブとの対話が2回繰り返され、そのあと、ヨブと二人の対話が短く繰り返され、ヨブが暫く語り続けます。しかし、3人とヨブとの対話の部分も、ヨブの語る部分がかなり長く、友人は少ししか語りません。ヨブの苦難の一般的、またはこの世的な解釈を、3人の友人に代弁させ、ヨブもおそらくそのような事も思考しつつ、それに反論していく姿が書かれています。おそらく、かっこのよい、最初のヨブの信仰告白の背景に、これだけの、葛藤がある。逆に、これだけの葛藤をともなって、なお、最初のヨブの信仰告白が存在するところに、神が良しとされる信仰者の姿があるのでしょう。神は、その複雑さと人間の弱さを十分ご存じで、その人間の祈りに答えられるのです。

テマン人エリパズ:Chapters 4, 5, 15, 22
シュヒ人ビルダデ:Chapters 8, 18, 25 (short)
ナアマ人ゾパル:Chapters 11, 30
以下に、例として、2011年の通読で私が書き留めた箇所をいくつか記します。引用は口語訳です。 ここまでとしましょう。若い頃は、わたしはなかなかこの中間部分から伝わってくるヨブの苦悩と向き合えませんでした。神様からみことばが隠されていたのかも知れません。毎日の日課のなかで、もっと瞑想したいものです。ヨブの苦しみと、賛美と、知恵と、信仰告白を。

ヨブ記(3)

ヨブ記が終わると、旧約聖書は一旦お休みして、来週、8月28日から新約聖書をマタイによる福音書から読みはじめます。

三人の友人たちとの対話・ヨブの独白のあと、エリフが登場し、神が語られる 32章以降の最後の部分について少し書いてみようと思います。

この箇所は次のようにはじまります。

このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。(ヨブ記32:1-3 (口語訳))
エリフは謙虚に黙っていたわけですが、次のようにも言っています。
しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。(ヨブ記32:8. 9 (口語訳))
確かにそうですよね。わたしは、まだ老いてはいないと思っていますが、年とった者の部類に入ってきましたが、いつも若い牧師先生の説教や、聖書の会での学生さんたちの発言を聞いて、本当にその通りだと思います。このあと、エリフは、神に応答を要求するヨブに次のように言います。
神は一つの方法によって語られ、/また二つの方法によって語られるのだが、/人はそれを悟らないのだ。(ヨブ記33:14 (口語訳))
聞け、神の声のとどろきを、/またその口から出るささやきを。(ヨブ記37:2 (口語訳))
そして神の正しさと、神への信頼をもって待つこと、へりくだって、静かに神の声を聞くことをヨブに求めます。そして、主が語られます。
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。(ヨブ記38:1-4 (口語訳))
主が語られたと書きましたが、おそらく、エリフのことばから考えると、このとき、ヨブは神の声を聞いたのでしょう。神は、ヨブにメッセージを送っておられたのかも知れません。そして、最初の言葉がこの言葉です。「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。」このあと、神は、谷間のやぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、たかと、野生の生き物のことを「知っているか」とヨブに問い続けます。ヨブの無知、神の働きを知らないことを知らせるために。このあと想像上の動物なども現れます。現代人ならそんなこと知っている、これはウソなどと言うかも知れませんが、それで本当に神の働きを知っていると言えるのでしょうか。特に、調和に関することを考えると、おそらくひとには、なにも答えられないでしょう。ヨブへのヨブ記での神の答えは、このようになされますが、おそらく、ヨブの悩みにも神は様々な答えをお持ちでしょう。このような書を残したヨブ記記者にも驚かされるとともに、神の智恵に思いをはせるときとしてくださればと思います。


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聖書通読ノート

BRC2023

Job 1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。
いくつかの候補があるようだが、ウツの位置は不明のようである。このヨブ記自体が、歴史的事実を記しているわけではないので、それを問うことは無駄かもしれないが、いくつかの候補をみていて、イスラエルの中ではないようだということは、興味を持った。ヨブ自体が何人だかは不明だが、ユダヤ人、またはその強い宗教的背景からは、離れたところの義人という設定なのだろう。それが、儀式などにおける落ち度のなさなどに囚われずに、書けた理由なのかもしれない。
Job 2:11-13 さて、ヨブの三人の友人は、ヨブに臨んだこのすべての災いを耳にし、それぞれの場所からやって来た。それは、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルである。彼らは互いに相談して、ヨブをいたわり慰めるためにやって来た。遠くから目を上げて見ると、それがヨブであると見分けることもできなかった。彼らは声を上げて泣き、それぞれ上着を引き裂き、天に向かって塵をまいて自分の頭の上に散らした。彼らは七日七夜、ヨブと一緒に地面に座っていたが、その苦痛が甚だしく大きいのを見て、話しかける者は一人もいなかった。
非常に真摯な向き合い方である。それでも、人は、批判を始める。なぜなのだろうか。自分の生き方と交錯するからだろうか。この謎を解き明かさなければ、平和や共に生きることはできないのだろう。このあとどのように変化するのか、ここで引用したことは、上部だけのことなのか、注意してみていきたい。
Job 3:26 私は安らかではなく、憩うことはない。/私に休息はなく、心は乱されている。
ヨブが語り始める。「この後、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日を呪った。」(1)この言葉が中心に置かれるが、引用した最後の言葉の方が真実を表しているように見える。ヨブは1章21b節で「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう。/主は与え、主は奪う。/主の名はほめたたえられますように。」と言っている。真実の信仰告白だろう。しかし、休息がなく、魂が憩うことがない時には、「主は与え、主は奪う。」のどちらもなかった方がよいと感じるのは、当然だろう。そのようなヨブに何かをいうことはわたしには、できない。
Job 4:6,7 神を畏れることが/あなたの頼みではなかったのか。/その歩みが完全であることが/あなたの望みではなかったのか。思い起こしてみよ。/罪がないのに滅びた者があったか。/正しい人で絶ち滅ぼされた者がどこにいたか。
ヨブにとって、このときも、「神を畏れることが頼み」だというのではないかと思う。しかし、これに続く因果応報には、受け入れられない。わたしは、因果応報を相対化しているが、丁寧に考える必要はあるだろう。無視するわけにはいかないのだから。これからの議論を丁寧に見ていきたい。
Job 5:8,9 しかし、私は神に尋ね求め/私のことを神に委ねる。この方は偉大なことをなされ、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。
ヨブもこれについては、同じ気持ちではないだろうか。しかし、エリファズはそう言いつつも、「神から懲らしめを受ける人は幸いである。/全能者の諭しを退けてはならない。」(17)とも語る。これも真実だろうが、苦しみの中にいるものには、神に尋ねもとめている真中においては、苦しみを増大させる言葉でしかないのかもしれない。苦しみの中にいる人に、語りかけることは本当に難しい。
Job 6:24,25 私に教えてほしい、そうすれば沈黙する。/私がどんな過ちを犯したか/私に悟らせてほしい。まっすぐな言い方は/なんと苦しみをもたらすことか。/あなたがたは何を懲らしめているのか。
生まれた日を呪ったヨブ、ここでも「どうか私の願いがかなえられ/神が私の望むものをくださるように。神が私を打ち砕くことを良しとし/御手を下して私を絶たれるように。」(8,9)と語る。エリファズへの応答は、引用句だろう。神に尋ね求めている。求め続けているヨブの信仰生活の核心がそこにあるのだから。真剣に求めている人には、その立ち位置が、わたしの立ち位置と異なっていても、その姿勢を大切にしたい。共に、尋ね求めるものとして。
Job 7:19-21 いつまで、私から目を離さず/唾を吞み込む間も/私を放っておかれないのですか。人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても/あなたに何をなしえるでしょうか。/どうして、私を標的にしたのですか。/どうして、私が私自身の重荷を/負わなければならないのですか。どうして、あなたは私の背きを赦さず/私の過ちを見過ごしてくださらないのですか。/今、私は塵の上に横たわります。/あなたが私を捜しても、私はいません。
「私は命をいといます。/いつまでも生きたくはありません。/私に構わないでください。/私の日々は空しいのです。」(16)と告白するヨブ、主が見放さないことが重圧となる。これは、一つの信仰告白でもあるように感じた。そうであっても、主は答えてくださらない。このように苦しんでいる人もいるのだろうか。他の表現で、同じようなことを語るのか。簡単に死なせてくれないと感じている人はいるだろう。命の重さだろうか。
Job 8:3 神は公正を曲げるだろうか。/全能者は正義を曲げるだろうか。
シュア人ビルダドの言葉である。その通り。しかし、同時に、主の働きを理解できていないことでもあろう。主が望まれるのは、公正と正義が最終目標ではないのだからだろう。主が、この世を造られた理由それを考えてみたい。それを理解していきたい。どこかに書かれているだろうか明確に。
Job 9:21,22 私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。/私は生きることを拒む。すべて同じことなのだ。/それゆえに私は言う/「完全な者も悪しき者も神は滅ぼす」と。
「私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。」は興味深い。この章では、引用句が大切であるように思うが、全く関係のない「神は大熊座、オリオン座、プレアデス/そして南の星座を造られた。」(9)が気になった。ヘブル語では、עֹֽשֶׂה־עָשׁ כְּסִיל וְכִימָה וְחַדְרֵי תֵמָֽן׃ で、כְּסִיל(ケシール)は、星座のこと、כִּימָה (キーマー)は、ななつ星のことのようである。ギリシャの名前を引用しているのではないようである。しかし、おそらく、古代社会には、現代で考えるよりも、さまざまな交流があったのであろう。そして、七十人訳では、対応するオリオン座、プレアデスなどが用いられているようである。
Job 10:2,3 私は神に言おう。/「私を悪しき者としないでください。/どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。
このことを聞きたいのだろう。主に。主の御心を求め続け、主の喜ばれる生き方をしたいと願ってきたことは、確かだろう。たとえ、欠点は、いろいろと見つかったとしても。わたしは、そこまでは言えないかもしれないけれど。「また会う日まで」の、最初の部分を思い出す。その姿こそに、真実があり、主は喜んでくださるのではないのだろうか。
Job 11:4,5 あなたは言った。/「私の教えは純粋で/あなたの目にも私は清廉だ」と。ああ、神が語りかけ/あなたに対して唇を開いてくださるように。
「ナアマ人ツォファルが答えた。」(1)と始まる章である。短絡かもしれないが、神の沈黙と、神との対話は、ヨブ記の重要なテーマだと思ってしまった。ヨブ記では、最後に神が答えられるが、一般的にはそうとは言えない。つまり、そこに解決の糸口を見つけることはできない。それを、ある程度可能にしてくれているのが、仲保者としてのイエスとの対話、そして、神を信頼しつつ人間通しの対話である。しかし、まさに、いま、友との対話が行われており、すべての解決を、仲保者としてのイエス、または聖霊との対話とするのも、問題があるように思う。やはり、難しい。
Job 12:24,25 神はその地の民の頭から悟りを取り去り/彼らを道なき不毛の地に迷い込ませる。彼らは光なき闇の中で手探りする。/神は彼らを酔いどれのように迷わせる。
主、神の自由、自律性だろうか。それを、制限することは、他者を支配することでもある。しかし、その神の自律性のもとで、人生が翻弄される人間を考えると、問題は単純ではない。この神の自立性・自律性だけでは、痛みはそのまま残るように思う。整理はたいせつである。
Job 13:1-3 見よ、私の目はすべてを見た。/私の耳は聞いて、それを悟った。あなたがたが知っていることは私も知っている。/私はあなたがたに劣らない。しかし、私は全能者に語りかけ/神に訴えたい。
ヨブがいまの世界を知っていたら、こうは言わなかったのではないかと思う。全能者と語りたい、このことは、理解できるが、周囲を排除してしまっている。たしかに、知識は、ヨブのもっているものに勝らないとしても、他者や、自然など、さまざまなところから、主が語りかけられると、わたしは、考えている。真っ直ぐとは言えるが、やはり、寂しく感じる。
Job 14:6 その人から目を離してください。/そうすれば、休息を得て/雇い人のように/その日を楽しむことができるでしょう。
最初には「女から生まれた人間は/その人生も短く、苦悩に満ちている。」(1)と始まり、後半には、死のあとには、なにもない。虚しさが書かれている。しかし、引用句が響いた。ずっと、主にみられていることが重荷だということだろう。なにか、もっと、のびのびとしたいというより、背後に、すべてのことを裁かれるという感覚があるのだろう。わたしは、人生をどう思っているのだろうか。正直、よくわからない。それは、主との関係も、はっきりしないということなのかもしれない。
Job 15:2-4 知恵ある人は風にすぎない知識で答え/東風で自分の腹を満たすだろうか。無益な言葉で論じ/役に立たない議論をするだろうか。あなたは神への畏れを捨て/神の前で祈ることをやめている。
ヨブは神の前で祈ることをやめているのだろうかと考えた。神に問うていること、それこそが、祈りであり、神に信頼を残していることの表れではないだろうかと思った。同時に、知恵や知識は静的なもので、関係性ではない。関係性の中で育まれるものかもしれないが、性質が違うのだろう。背後には、他者を理解できないという、これも関係性の問題があるように思う。それは、どのように変化しうるのだろうか。
Job 16:6,7 たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。/語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。
この前には、もし、自分が友の立場なら「私の口はあなたがたを励まし/私は唇を動かしてあなたの苦痛を和らげる。」(5)と語り、引用句では、この人々のことばは、友情をことごとく壊したとある。苦しい時こそ、知識ではなく、関係性なのかもしれない。関心を持つこと。簡単ではないのかもしれないが、それは、神様が、関心を持っておられることと関連しているように思う。
Job 17:3,4 どうか、私を保証する者を/あなたの傍らに置いてください。/ほかに誰が私の味方をしてくれるでしょうか。彼らが悟ることのないように/あなたが彼らの心を閉ざしたからです。/ですから、あなたが彼らを/高めるはずはありません。
ヨブ記は難しい。つい、この3節を選んでしまう。逃げ道を探っているのか。イエスに。一緒に次の節も選んでみた。この「彼ら」とは誰だろうか。友人だろうか。そして、あなたは、神だろうか。彼らのかわりに、私を保証するものを置いて欲しいというのだろうか。イエスが共におられることに感謝したい。
Job 18:2 いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。/まず悟りなさい。それから私たちは語ろう。
なぜ、ここまで理解し合えないのだろうか。平行線が続くのだろうか。痛みがわからないのだろうか。自分の知識や経験で、世の中をみてしまうからだろうか。それは、当然なのかもしれない。そうであっても、そこから、自由になることができるのかもしれない。それは、他者との関係からだろうか。やはり、そのような経験をしないと、無理なのだろうか。
Job 19:19 親しい仲間たちは皆、私を忌み嫌い/愛していた者たちも私に背を向ける。
興味深い表現が多い。「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。」(4)そうであっても、ヨブを責め立てる。そして、中心は「さあ、知るがよい。/神が私を不当に扱い/罠で囲っていることを。」(6)にあるという。その神がされることとして「神は私から兄弟を遠ざけ/知人たちもまた私から離れて行った。」(13)とあり、ここから、周囲の人から疎まれることが書かれている。そして「あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。」(21)と言い、最後には「あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後/私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。」(25,26)交わりが、究極的には、神との交わりを真摯に求めている。これが信仰者の姿なのだろう。
Job 20:27-29 天は彼の過ちをあらわにし/地は彼に向かって立ち上がる。彼の家の実りは消えうせ/神の怒りの日に滅び去る。これは、悪しき者が神から受ける分/神から告げられた受け継ぐべきものである。
信賞必罰なのだろう。因果応報だろうか。ヨブ記のテーマは、他者の痛みは、わからないということのようにも思う。ひとは、ある程度のことを知っている。そして、それを、大切にしている。しかし、他者の痛みを知り得ない。これは、とても、重要なことである。もう少し、考えたい。
Job 21:15,16 全能者とは何者なのか/我々が仕えなければならないとは。/彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と。彼らの幸いはその手の内にないというのか。/悪しき者の謀は私から遠い。
この章は理解が難しい。もしかすると、反語的なことばで語られているのかもしれない。それぞれの、裏にあることを主張しているようにも見えた。論争のなかの、詩文体なので、論理的に理解できると考える方に無理があるのかもしれない。
Job 22:29,30 低くされた者たちに/あなたが「立ち上がれ」と言えば/神は目を伏せている人を救う。罪ある者さえ神に救われ/あなたの手の清さによって救われる。
テマン人エリファズの三度目の弁論である。すでに、完全に、分裂してしまっているようにも思われる。ここでも、ヨブが神に問い続ける姿勢に対して、エリファズは因果応報の神の姿を語り続ける。しかし、引用句など興味深い。ひと(あなた)のはたらきにたいして、神が応答されると言っているようにも見える。そのようなことを、普遍化することは危険だが、そのようなことに、希望を持つこともあるのかもしれない。
Job 23:3-6 私は知りたい。/どうしたら、私はその方に会えるのか/御座にまで行けるのか。私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。/いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。
ここにヨブの願いが凝縮されていると思う。神にお会いすること。抗議し、神の答えを聞くこと。しかし、同時に、最後には、「私を心に留めてくださる」と語る。そこにあるのは、おそらく、論争ではなく、交わり、関心を寄せておらることを知り、共にいることなのだろう。それを願っても、ヨブは得られない。わたしにとっては、イエスと会うことが、この交わりを支えてくれるものだと信じている。そして、真理を求める人たちと共に。
Job 24:9-12 みなしごは母の乳房から引き離され/貧しい人の乳飲み子は質に取られる。衣服もなく、裸で歩き/飢えたまま麦の束を運ぶ。オリーブの並木の間で油を搾り/搾り場でぶどうを踏んで、なお渇く。町から男たちの呻きが聞こえ/傷ついた者たちの魂が叫ぶが/神はその惨状を心に留めない。
神に答えてもらえないものの苦しみが、自分だけではなく、社会的不公正、苦悩の部分について語られている。ここに表現されているものを、ヨブの時代にも、見ることができている人がいる。それにも驚かされる。最後に「神はその惨状を心に留めない」とある。おそらく、それを神も苦しんでおられるのだろう。それを共有すること、それが、その神と会うことなのかもしれない。
Job 25:2 支配と恐れは御もとにあり/神はその高みに平和を作る。
シュア人ビルダドの言葉、6節しかない。最後には「まして、人は蛆/人の子は虫けらにすぎない。」(6)と人が正しくなく、清くないことを表現している。神観の違いだろう。そのような神観にも訴えているのが、ヨブ記の特徴なのかもしれない。ユダヤ教ど真ん中にはなっていない。ユダヤ教の教義からの反論もない。神をどう考えるか、人間が創り出すものだとも言える。神自身を知るには、やはり啓示に依るしかないのだろうか。しかし、それが危険であることも、人間は知っている。
Job 26:2-4 どのようにして、あなたは力のない者を助け/無力な腕を救ったのか。どのようにして、知恵のない者に助言し/豊かでよき考えを授けたのか。あなたは誰に対して言葉を告げ/誰の息があなたから出たのか。
ヨブの言葉である。神との関係は、ひととの関係と不可分であることが想定されているように見える。神を人間の社会、自分と断絶した超然とした存在として捉えるのではなく、他者との関係性の中で捉えて、はじめて、神のさばきもあるという考え方にも取れる。神の望むことがまず存在するということだろうか。そして、それは善いことを願っていることでもある。
Job 27:2-4 生ける神は私の権利を奪い/全能者は私の魂を苦しめる。私の息が私の内にあり/神の息吹が私の鼻にあるかぎりこの唇は不正を語らず/この舌は欺きを言わない。
ヨブは、毅然とした態度で語る。しかし、続けて「私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。」(5)と続け、神理解の独白が続く。正直、この章だけでは、意図は読み取れない。一度、ゆっくり全体を読むことが必要なのだろう。
Job 28:12-14 では、知恵はどこに見いだされるのか。/分別はどこにあるのか。人はそこに至る道を知らない。/生ける者の地には見いだされない。深い淵は言う/「それは私の中にはない」と。/海は言う/「私のところにもない」と。
ヨブのことばである。「知恵は生ける者すべての目に隠され」(21)とあり、「神はその道を悟り/神がその場所を知っておられる。」(23)と断言する。しかし、このことが、断絶を生み、相互に理解できない関係を産んでいるのかもしれない。わたしは、神様もその道をご存知ないのかもしれないと思っている。それゆえに苦しんでいると。おそらく、両方の面があるのだろう。人間と比較すれば、神様は知恵を持っておられると。しかし同時に、神様も苦しんでおられることを否定することも、理解の幅を狭めることのように思う。
Job 29:15-17 私は見えない人の目であり/歩けない人の足であった。貧しい人の父であり/見知らぬ人の訴えに力を尽くした。不法な者の顎を打ち砕き/その歯の間から獲物を取り戻した。
ヨブは「今が昔の日々のようであったらよいのに。/神が私を守ってくれた日々のように。」(2)と始め、充実していた日々を語る。引用句はその一部である。このあとには「私の巣で私は死のう。/砂のように日々を増やそう。私の根は汀に広がり/露は私の枝に宿るであろう。私の栄光は私と共に新しくなり/私の弓は私の手の中で勢いづく」(18b-20a)と語っている。気持ちはよく理解できる。わたしにもそのように思う時が来るのだろうか。来ないとは限らない。そして、因果応報も、偶発的なことも、やはり受け入れるのは、難しいと思う。どう備えて生きたら良いのだろうか。
Job 30:19,20 神は私を泥の中に投げ込み/私は塵や灰のようになった。私があなたに向かって叫び求めても/あなたは答えず/私が立ち尽くしても、あなたは私を顧みない。
ヨブの祝福が取り去られたときを思うと、人為的なことと、天災とが含まれている。この章でも、前半は、人為的に、ヨブを貶めたことについて語っているように見える。しかし、ヨブの一番の悩みはやはりこの神への訴えに現れていると思う。このあとには、「私は知っている/あなたは私を死へと/生ける者すべてが集まる家へと帰らせることを。」(23)とも書いている。限りある命の中で、神に問い続ける。その歩みが尊いのだとは思うが、やはり苦しい。「私の腹は煮えたぎって、鎮まらないのに/私は苦しみの日々に向かい合わなければならない。」(27)
Job 31:33,34 もし、私がアダムのように背きを覆い隠し/過ちを私の胸に隠したことがあったならもし、私の天幕の人々が/「あの人の肉で誰もが満足した」と言わないなら 群衆の騒ぎに震え上がり、一族の蔑みにおののき/沈黙して戸口に出なかったことがあったなら。
このような言葉が並び、「私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう。」(37)と言い切っている。わたしには、そんなことはできないが、引用句は興味深いので書いてみた。まずは、アダムについて「背きを覆い隠し」とある。そのように明言されていることに、ちょっと驚いた。そして、それに続く、ことばは、また、かなり異なったものである。いずれも、すべてを持って、毅然として、神の前に出る覚悟を表しているのだろう。この章で、ヨブのことばは完結し、エリフが語りだす。
Job 32:9,10 多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない。それゆえ、私は言うのだ。/聞け、私もまた自分の意見を述べよう、と。
謙虚さのある若者は貴重だが、やはり、自由に語れることが優先されるべきだと思う。たとえ浅薄であったとしても、それを語り、違った意見を聞くことが、来るべき世界を作っていくのだから。その意味でも、年をとったわたしも、若い人のことばに、極力耳を傾けなければいけない。そうありたい。なかなかできていないのが現実だが。
Job 33:12-14 これについて、「あなたは正しくない」/と私は答える。/神は人より偉大であるからだ。なぜ、あなたは神と争うのか/自分の言葉に神が一つも答えないからといって。神は一度語り、また再び語るが/人はそれに気付かない。
ヨブが正しさを主張することについては、神の偉大さを語ることにより、正しくないとし、神が応答されないことについては、応答を気づいていないかもしれないと応じる。これが適切な答えかどうかは不明だが、これら二点について、特に、二点目について、ヨブが語ることを受け取っていることはエリフが他の友人との違いだろう。ただ、やはり、痛みにどう寄り添うか、痛みは、自分にはわからないことをはっきりとさせることは出発点として、逃せないように思う。
Job 34:17 公正を憎む者が統治できようか。/あなたは正しく力ある方を悪しき者とするのか。
正直、エリフの言説について、十分は批判的に理解できないが、引用句は、最近考えさせられてことともあっていて、そうだなと思う。短期間統治するものは、さまざまであるが、長期間、それも、最初からずっと責任を持って統治するのであれば、それは、公正を求めないと成り立たないと思う。神にそのことを帰するのは自然である。「人は神に言えるだろうか。/『私は懲らしめに耐えました。もう不正はしません。私に見えないものを私に教えてください。/不正を働いたならば、もう二度といたしません』と。」(31,32)これも確かにそうだろう。ただ、ヨブが主張していることとはずれているようにも思う。
Job 35:14-16 確かに、「あなたはそれを顧みられない」と/あなたは言っている。/しかし訴えは御前にある。/あなたはただ神を待つべきだ。今、神は怒りをもって罰せず/愚かさを少しも心に留めないので ヨブはその口を空しく開き/知識もないのに言葉を重ねている。
エリフの箇所は難しい。あとから、追記されたのではないかとも言われているようだが、たしかに、三人の友人のことばとは異なるが、それが適切かどうかは判断できない。また、主イエスによる啓示もないので、神との交わりという部分もほとんどない。引用句においては、「待つべきだ」とある。たしかにその通り。しかし、苦しんでいる人にそれは慰めとなるだろうか。
Job 36:2-4 しばらく待て。あなたに知らせたい。/神についてまだ言うべき言葉があるのだ。私は遠い時代からの知識を携え/私の造り主に義を帰する。本当に私の言葉に偽りはない。/完全な知識を持つ者があなたと共にいる。
最初のことばは、このあと、神が語り始められるのを知っているようにも見える。しかし、それに続く言葉は、危険でもある。ここまでは、ひとには、断言できない。ヨブ記の成り立ちにも関係するので、それ以上は書けない。物語として、語ることの限界だろうか。
Job 37:14,15 ヨブよ、耳を傾けてほしい。/立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。
一部だけを取り上げたが、この辺りから、次の章の主が嵐のなかから答えられる内容に、つながっている。それをみて、挿入したとも言えないこともないが、流れとしては、エリフが語っている途中から、ヨブが神の声を聞いたとするのも自然だと思う。エリフが神の代弁者というわけではなく、他者が語ることを聴きながら、それが引き金となって、異なった思考を通して、新しい発見をすることがあり、啓示を受けることがある。むろん、エリフのことばは、十分とは思わないが。
Job 38:33 あなたは天の掟を知り/その法則を地に据えることができるか。
ここに書かれている、かなりの部分が自然科学的視点である。当時は、ほとんど何もわかっていなかった。わかっていなかったことを書いたのだろう。今は、ほんの少しわかっている。しかし、ほとんどは今もわかっていない。これらすべての背後に主がおられるとして、それを、人間にある程度理解できるようにしておられるとしたら、その法則を知ろうとし、それを、地においても、据えようとする努力は、たいせつな営みなのではないだろうか。じっくり考えてみたい。
Job 39:1 あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。/雌鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。
このあとも、自然の不思議についての記述が続く。それは、神の領分と言っているようだ。このいくつかは、誤っていることが確認され、他にも研究されていることがあると聞く。わからない部分を、神が支配しておられるとするのは、ひとつの考え方だが、おそらく、アインシュタインが言うように、神の働かれる部分をどんどん、闇の中に追いやることのように思う。神にとっても、人間にとっても、ほんとうに、困難なことに目を向け、それと共に向き合う方向に行くべきだというのが、わたしの現時点での考え方である。神様と痛みと苦しみを共にする。そこから、神様の御心を受け取って、生きる。やはり、かなり難しいが。
Job 40:25 あなたはレビヤタンを釣り鉤で/引き上げることができるか。/綱でその舌を押さえつけることができるか。
このあとも、レビヤタンについての記述が、29節まで続く。レビヤタンは海に住む龍、すなわち、神に抗うものなのだろう。ここで、神には、ここに描かれてあることができると理解することも可能だが、それは、できないと理解することもできるように思う。まさに、神が、人間のことばを使って、格闘していることについて、述べているとも言える。神の苦しさまでは、表現されていないが。すくなくとも、わたしの解釈と、整合性はあると思う。勝手な解釈かもしれないが。いずれにしても、神は全知全能としてしまうことは、神の苦悩、御子(神の子として、神に愛されたものとして生き抜かれたイエス)が死ななければならなかったことには、つながらない。神義論の難しさが全知全能にあるように思う。
Job 41:25,26 地の上にはこれに肩を並べるものはない。/レビヤタンは恐れを知らぬ被造物だ。これはすべての高ぶるものを見下す/誇り高い獣たちすべての王である。
この章にも、レビヤタンに関する記述がながく続く。「日を呪う者/レビヤタンを呼び起こすことのできる者が/これを呪え。」(3章8節)以外は、40章(3回)と、41章(7回)に集中し、あとは、聖書には、詩篇に2回(74:14,104:26)、「その日、主は/鋭く大きく、強い剣によって/逃げようとする蛇レビヤタンと/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また、海にいる竜を殺される。」(イザヤ27:1)だけに限られる。制御しにくい、どちらかというと、悪の役割を果たすものという存在なのだろう。実際には、さまざまな理由があっても、それをレビヤタンとすることは理解できる。科学的とは言えないが。
Job 42:12-16 主はその後のヨブを以前に増して祝福した。彼には羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛千軛、雌ろば千頭が与えられた。また彼には七人の息子と三人の娘が与えられた。彼は長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのような美しい女は地のどこにも見いだせなかった。父は、彼女たちにも兄弟たちの間に相続地を与えた。この後、ヨブは百四十年生き、子、孫、四代の先まで見届けた。ヨブは老いた後、生涯を全うして死んだ。
回復が語られている。特徴的だと思ったのは、娘のことである。息子は名前すら書かれていないのに、娘たちについては、「彼女たちにも兄弟たちの間に相続地を与えた」とも書かれている。これが、ちょっと変化した祝福の記録なのかもしれない。所有物や、こどもたち、長寿、この世での祝福は、神の祝福としてわかりやすい。それが文学的表現なのだろう。


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BRC2021

Job 1:20-22 ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、言った。/「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう。/主は与え、主は奪う。/主の名はほめたたえられますように。」このような時でも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。
ここで表現されているのは、神の前の正しさである。しかし、その以前に(またはそれと同時に)悲しみ、苦しみ、喜びが取り去られた感情と痛みがある。この痛みを、他者は、たとえそれが神であっても、理解できない。それは、他者であることと同義といってもよいほどのことでもある。この痛みと苦しみは、存在に関わるひとにとって非常に大きな部分である。そして、おそらく、神にとっても、そうなのだろう。それを、たとえばイエスは「深く憐れまれた(はらわたが傷んだ)」という表現で表すこともある。しかし、ここでは、一貫して、正しさが語られている。この関係もていねいに読み取っていきたい。
Job 2:7,8 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫れ物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って体をかきむしり、灰の中に座った。
「このような時でも、ヨブはその唇によって罪を犯さなかった。」(10b)ここでも肉体の痛み、おそらくかゆみ、力をうしなっていくことと、ひとの神の前の正しさは分離できるように記述している。しかし、いのちを生かすことはできないように思う。重い障害をもった友人、日々衰えていく筋萎縮性側索硬化症(ALS)の友人を思い出し、また、そのひとたちのことばの重さを受け止めようとすると、無力感だけが残る。それがすべてではないことを信仰告白してはいても、正しさを相手に向けることはできない。神がひとの痛み辛さを、ご自身の痛みとしておられるかも知りたい。周囲の、ここでは、三人の友人たちとの対話を通しても。ひとは一人、総体としての存在なのだから。
Job 3:20-22 なぜ、労苦する者に光を与え/魂の苦しむ者に命を与えるのか。死を待ち望んでも、それは来ない。/彼らは隠された宝よりも死を求めている。彼らが躍り上がるほどの喜びに溢れるのは/墓を見いだしたとき。
ここに今回のテーマの苦しみと喜びが書かれている。苦しみとは何なのだろう。これは、ある意味で、信仰を神の前の正しさと解釈するなら、信仰とは独立のようにも思う。しかし、そう単純に言えないのは、我々には、人の子として、来られた主イエスがおられるから。そして、その苦しみを少なくとも理解してくださるかたがおられるからである。超然とした神ももしかすると、そのような存在なのかもしれないが、痛みや苦しみ、そして喜びは神のものとは異なるように思う。そこに一人ひとりの尊厳のもとがあるように思う。
Job 4:3-5 あなたは多くの人を諭し/その萎えた手を強くした。あなたの言葉はつまずく者を起こし/弱った膝に力を与えた。しかし今、あなたにそれが降りかかると/あなたは耐えられない。/それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。
苦しみ、怯え、そこから逃れたいと願うのは、不信仰なのだろうか。たしかに、そのように言うこともできるのかもしれない。神への信頼が不足しているからと。しかし、苦しみ、悲しみは、人間の本質であり、それを避けることは、人間であることをやめてしまうことだとも言える。だからこそ、それが尊厳のもとなのだろう。では、ひとは、この苦しみのなかでどう生きたら良いのだろうか。神の栄光をもとめることか。それほど、簡単には、表現できない。
Job 5:7-9 人は苦しむために生まれ/火の粉は高く舞い上がる。しかし、私は神に尋ね求め/私のことを神に委ねる。この方は偉大なことをなされ、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。
最初の「人」は文脈から「無知な者」「思慮なき者」(2,3)を指すのだろう。それに対比して「私(テマン人エリファズ)」が告白している。すばらしい信仰告白である。このあと、神が「信賞必罰(手柄のあった者には必ず賞を与え,あやまちを犯した者は必ず罰すること。情実にとらわれず賞罰を厳正に行うこと。)」「因果応報」的なことが事実かどうかは、不明であるが、エリファズの言っていることは、ある真理でもあるだろう。しかし、それは、苦しんでいる人には何にもならない。正しさはひとを癒やさないのだろう。事実を確認すること、その理解を促すことは、立ち直るときには必要な要素であるが、苦しんでいるその只中で、かけることばは難しい。「神から懲らしめを受ける人は幸いである。/全能者の諭しを退けてはならない。」(17)わたしはこうは言えない。しかしではどうすればよいのか。通常、一緒にいることがたいせつと言われるが、それだけでもないように思う。一緒にいる時間の過ごし方もたいせつなのだろう。少しずつ考えていきたい。
Job 6:11,12 私にどんな力があって、待てるというのか。/どんな結末があって/私の魂が忍耐できるというのか。私の力は石の力だろうか。/私の肉は青銅だろうか。
今回のヨブ記の通読では「ひとの、悲しみ、苦しみ、喜びが取り去られた感情と痛み」について考えながら読んでいる。引用箇所は、精神力にも限界があると言っているようだ。その前には、神に打ち砕かれることを望んでいる。おそらく、死を望んでいるのだろう。それによって、自分の正義が保たれる(10)ことも言っているようだ。過ちを具体的に指摘してほしい(24)と願うヨブ。懲らしめが、罪によるならその「過ち」を知りたい。もし、それが「過ち」によらないのであるなら、その理由が知りたい。それなしに、ひとの体と精神をもって耐えることはできないと言っているように思える。以前からわたしには、よくわからないことがある。「ひとは意味のない人生を生きることができないのだろうか。」ということだ。神様の側にその意味が隠されているかどうかは別として、わからないことが自然なように思う。そして、自分の人生の意味をことばにしてしまうことは、危険でもあるように思う。それは、この苦しみ、悲しみ、痛みについて、そしておそらく喜びについても、わたしがよく理解できていないということなのだろうが。
Job 7:1-3 地上の人には苦役があるではないか。/その日々は雇い人の日々のようではないか。奴隷のように日陰をあえぎ求め/雇い人のようにその賃金を待ち望む。そうだ/私は空しい月日を受け継ぎ/労苦の夜が割り当てられた。
雇い人は小作のようなものだろうが、このように表現されると、雇い人や奴隷の人生は虚しいとなる。そうかも知れない。ヨブに見下されているようにも思われるが、本質は「苦役」であり、その「空しい日々」が、「それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。」(11)とあるように、「霊の苦悩」「魂の苦痛」だと言っている。ひとの人生は、そのようなものであることは一面そのとおりだと思う。充実した日々から、「意味のある人生」と思うことでよいのだろうか。それも、幻影かもしれない。高慢かもしれない。ただ、人生は、自分だけで完結していないことも、知るべきだろう。自分だけの収支を見て、無意味な人生とすることは、できないように思う。しっかりと向き合ってみたい。
Job 8:8,9 先の世代に尋ねてほしい。/先祖たちの究めたことを確かめよ。私たちは昨日生まれた者にすぎず、何も知らない。/私たちの地上での日々は影にすぎない。
シュア人ビルダドのことばである。1-7節では「もし、あなたが清く正しいならば/今や神はあなたのために目を覚まし/あなたの義の住まいを回復する。」(6)と、苦しみは罪のため、罪がなければ、義の住まいを回復するとしている。神が因果応報であるとして、現在のヨブを見ていると同時に、引用句のように、過去の人々の英知から学べとしている。哲学的手法のように思われる。知恵を得、虚しさから開放されれば、痛みも霧散するというのか。しかし、それが自らの罪と結びつき、かつ解決できないものならどうなのだろうか。神の憐れみと、ひとの苦しみの問題を直視しないと、いけないように思う。簡単な解決をもとめてはいけないのではないか。そこに、苦しんでいる人がいるのだから。
Job 9:11 見よ、神が傍らを通り過ぎても、私は気付かず/神が過ぎ去っても、私は悟れない。
この章は「ヨブは答えた。確かに、そのとおりだと私は知っている。/人はどうして神に対し正しくありえようか。」(1,2)と始まる。さらに「私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。/私は生きることを拒む。」(21)おそらく、神に対して正しくありえない、自分でも、正しさがよくわからないなら、正しくありえず、それを神が裁くとしても「神は私のように人ではないから/『裁きの場に一緒に出ようではないか』/と私は応じることはできない。」(32)と。引用箇所は、神の働きを知ることができないことを象徴的に描いている。この状況のもとで神によって裁かれ、罪あるものとされ、その罰を受ける人生であるなら「私は生きることを拒む」ことも当然に思える。正しくあること、正しくないと神は罰を与えられる。この病や苦しみのように、と考えることが矛盾をはらんでいることを記している。「神は私のように人ではない」「我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない。」(33)キリスト者はここから希望も見出すのだろう。キリストがおられると。しかし、それは前の問題をしっかりと受け止めてはいない。イエスによって、上の議論にたいして、どのような答えが与えられたかをしっかり受け止めなければならない。わたしも、完全に理解しているわけではないが。
Job 10:2,3 私は神に言おう。/「私を悪しき者としないでください。/どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。
「私の魂は生きることを拒む。」(1a)と始まる。9章21節の繰り返しである。そして引用句のあとには「あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか。」(4)と続く。わたしが今考えている重要な課題である。「神様は、わたしたちの苦しみ、痛みをも理解したいと願っておられるが、完全にわかるわけではない。」と私は考える。ここでもそれが問われている。おそらく、ヨブが語っていること、そして論理が間違っているのではなく、ヨブが、そして、わたしたちが神様のことを理解できていないということなのだろう。聖書にも十分は書かれていないということも言えるかもしれない。しかし、特に、イエスを通して示された神様について、神の子として生きることを、少しずつでも理解し、歩んでいきたいと願う。それが、達し得た所なのだから。
Job 11:16 こうしてあなたは労苦を忘れ/それを流れ去った水のように思う。
この「こうして」に至るために「ナアマ人ツォファル」(1)が語っているのは、神の崇高さと、苦しみは不義の結果であるということのようだ。ヨブとの議論が噛み合っていない。「ああ、神が語りかけ/あなたに対して唇を開いてくださるように。」(5)ここで言われていることとはずれているのかもしれないが、ヨブもまさにこれを求めているのだろう。しかし、苦しみ、痛み、病む、生身の人間に、どれだけのなぐさめ、力となるだろうか。やはり、神の子として生きることが、鍵となるように思う。神様だったら、人の子である、神の子なら、どうするかと考えることだろうか。やはり、難しい。
Job 12:4,5 私は友人たちの笑いぐさ。/神を呼び、神が答えてくださったのに/完全で正しき人が笑いぐさとなっている。安楽な思いの中には不運な者への侮蔑があり/人が足を滑らせるのを待っている。
ナアマ人ツォファルや、すでに語った、テマン人エリファズ、シュア人ビルダドのことばもやはり「不運な者への侮蔑」があるのかは、断定しないが、暖かく、そばにともに居るようには、見えない。隣人になること、隣人であることは、そのような存在なのだろうか。少なくとも、「完全で正しき人が(を)笑いぐさ」にしたり、「侮蔑」を与えてたり「足を滑らせるのを待っている」のは、隣人ではない。
Job 13:21,22 あなたの手を私の上から遠ざけてください/あなたの恐怖で私をおびえさせないでください。そして、呼びかけてください。私は答えます。/あるいは、私に話させ、あなたが答えてください。
この章の前半は、ひとの批判は不要であることを伝え、後半で本当の望みを書いているようだ。引用箇所から、神の前に自由の身で、神と語りたいことが書かれている。このあとには、「私にはどれほど過ちと罪があるでしょうか。/私の背きと罪とを私に知らせてください。どうして、あなたは御顔を隠し/私をあなたの敵と見なすのでしょうか。」(23,24)と続くが、おそらく、神と自由に語りたいことに尽きるのだろう。自分の苦悩の説明を求めている。神を敬い(16)信頼するものとして。引用句の前半もたいせつだと思う。恐怖がなく、自由でないと、本当には、語れないから。少しずつ、ヨブの痛みを受け取っていきたい。
Job 14:7-10 木には望みがある。/たとえ切られても、また芽を出し/その若枝は絶えることがない。たとえその根が地中で古び/幹が土の上で死んでも 水気に会えば芽を吹き/苗木のように枝を伸ばす。しかし、人間は死ねば横たわる。/人は息絶えれば、どこにいるのか。
死には集中していないように思える。ヨブが求めているのは、「あなたが呼べば、私は答えます。/あなたの手の業を尋ね求めてください。」(15)のように、神と語り合うことのように思う。しかし、ひとは、やはり人生の意味がわからず、苦しみがの意味がわからず、朽ち果てて行くものなのではないだろうか。それを求めることと、完全回答をえることは異なるように思う。そして、全く答えが得られないわけでもないように思う。
Job 15:7,8 あなたは最初の人間として生まれ/丘に先立って生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり/知恵を自分のものにしたのか。
テマン人エリファズの二回目のことばである。同じことばはないが、38章以降の神が語られるテーマの一部でもある。すなわち、有限な人間と、到底及ばない、神との違いである。それはそのとおりであり、その神に、答えてほしいと望むヨブは、高慢なのかもしれない。しかし、信頼関係、交わりを求められる神は、やはり答える必要があるのかもしれない。どのようにしてかは不明だが。これは、とても、大きな問である。神は、ひとが求めさえすれば、得ることができるように、真理を提示しておられるのだろうか。これは、正直わからない。究極的には、NO だが、必要なものは与えてくださるのだろうか。ヨブにとって必要なものは、結局最後に、答えられたのか。わたしたちにとっては、どうだろうか。
Job 16:6,7 たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。/語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。
ここにも、苦しみについての記述がある。最後の部分は何を意味するのだろうか。私の仲間とは誰だろうか。苦しんでいる人を罪あるものと批判することは、その友をも離れさせるということだろうか。「まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。」(7, 口語)これはなにのことかわからない。"Surely, God, you have worn me out; you have devastated my entire household." (NIV) これはわかりすぎて言語との乖離が心配になる。"But now He has worn me out; You have made desolate all my company." (NKJV) おそらく、このあたりが、原義に近いのだろう。難しい。
Job 17:1,2 私の霊は破れ、私の日々は消え去る。/私にあるのは墓ばかり。ただ嘲りが私を取り囲み/私の目は彼らの挑発の中で夜を過ごす。
「霊は破れ」はよくわからないが、精神・こころがずたずただということだろうか。希望がない状態。そして、嘲笑に囲まれている。希望とする神はいくら叫んでも答えず、滅び以外、死しかない。わたしは、そのような中で、どう生きることを求めるだろうか。いままでの恵みを感謝するだろうか。それは、神の愛のもとにいると、告白できるときだろう。ヨブは、その危機のもとにある。わたしは、そのような危機について、理解できないのだろう。自分も絶望の中にいたときはあるが、そこには、まだ甘えがあったように思う。自分を悲劇の主人公にするような。ヨブについて、もう少しだけでも理解したい。
Job 18:3 どうして、私たちは獣のように見なされるのか。/あなたがたの目に汚れたものとされるのか。
シュア人ビルダドの二回目である。これをみると、「いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。」(2a)とも言っており、ビルダドも途方に暮れ、自らが責められていることに耐えられないようだ。それは、お互いにとって悲しい。たしかに、そのような状況は起こりうるように思う。一つの悲劇が、人々の間にさらなる悲劇を生じる。これはまたあらたな問題でもある。ヨブ記はやはり、とてもむずかしい。手に負えない部分が大きい。
Job 19:21,22 あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。なぜあなたがたは神のように私を追い詰めるのか。/私の肉で飽き足らないのか。
「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。」(4)も興味深い。もし、誤りがあるとしても、それは、神との関係だけに限られていることを主張しているのだろうか。ヨブは、神と向き合い、そこに集中している。引用句は、そのようなヨブの側に共にいて憐れむものがおらず、神との関係においても、自分を追い詰めるだけの存在になっていると言っているようだ。せめて、このような深刻な課題をともに考えてくれる人はいないのかと訴えているようである。以前は「私は知っている。/私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる。」(25)からイエスによる救いを見て「ほっと」していたが、おそらく、そうではなく、このヨブと苦しみをともにしながら、神と向き合うヨブのそばにいることなのだろう。それとも、それも、正しさに寄りすぎていて、イエスがされることとは違うのだろうか。よくはわからない。
Job 20:2-4 心がいらだち、答えよと私に迫る。/私はせきたてられているのだ。諭しが私を辱めるのを私は聞く。/しかし、霊は私の分別によって私に答える。あなたも昔からのことを知っているのではないか/人が地上に置かれて以来のことを。
「ナアマ人ツォファルは答えた。」(1)とあるが、ツォファルはヨブと向き合っては答えていないように思う。たしかに、ヨブは、友人たちを非難しているようにも聞こえる。しかし、ヨブの求めているのは、自分に起こったことについて、自分と神との関係についての、ヨブの苦しみを前にして、神に向き合うものとして、問うものとして、ともにいてほしいということだろう。しかし、ここでも、一般論、ある意味では、正しさで答えている。どうしたらよいか、わかるわけではない。そして、神からの答えが得られるわけでもない。そのなかで、ひとはどうしたら良いのだろうか。ヒントはあるかもしれないが、よくはわからない。
Job 21:23-26 ある者は十分に満ち足りて死ぬ。 /彼らは皆、平穏で安らかだ。彼の器は乳で満ち/骨の髄まで潤っている。しかし、ある者は魂の苦しみを抱いて死に/幸せを享受することがない。彼らは等しく塵に伏し/蛆が彼らを覆う。
この問題は深く重い。人生の不平等である。因果応報と考えてしまうことから、恵みに生かされていることに考え方を変えることは一つである。しかし、それでは、解決できない、普遍的な課題である。「満ち足りたいのち」vs「魂の苦しみとともなるいのち」それは、気持ちの持ち方だなどとは言えない。ひとつ探求しているのは、いのちは、ともに生きるものと捉えることである。満ち足りたといえる人も、そうでないひとたちの魂に思いを致し、そして、恵みを分かち合う。十二分に。それで、解決するかどうかは正直わからないが、個々のいのちで考えると、つねに行き詰まるように思う。ひとりひとりの尊厳をまもりつつ、他者と喜びも悲しみも共有できなければ豊かになれない、そのようなものをいまは、求めたい。
Job 22:2,3 人は神にとって益となるだろうか。/悟りある者も自分を益するだけだ。あなたが正しいとしても/それが全能者を喜ばせるだろうか。/あなたの道が完全でも/それが神の利益になるだろうか。
「テマン人エリファズ」(1)が語る三回目である。翻訳もあるだろうが「あなたは神と和解し、平和を得てほしい。/そうすれば、幸いが訪れる。」(21)はこころをうたれる。引用句について考えてみたい。わたしにとって、神様は、イエス様を通して表された神様で、深く憐れみ、つねに、Available で、かつ、くびきを共に負ってくださり、vulnerability をもって、本質的な困難をも、取り除こうとしてくださるかたである。「益」かどうかはわからないが、共に喜び、共に泣いてくださる方だと信じている。そしてそれは、イエスさまだけでなく、我々も、共に喜び泣くものとなることをも目指している。「神を畏れるからといって、神はあなたを弁護し/あなたと共に裁きの場に臨むだろうか。」(4)イエス様は共にいてくださるように思う。「あなたの悪は多く/あなたの過ちは果てしないではないか。」(5)これは否定できない。「あなたはやもめを空しく去らせ/みなしごの腕を砕く。」(9)共に生きることを否定する、このようなことを認識することはたいせつだが。わたしも、どうしたら良いかわかるわけではない。
Job 23:4-6 私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。/いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。
この章のヨブには揺れもあるように思う。しかし、主に問い、答えを得たいという強い気持ちは変わらない。「きっと私を心に留めてくださるだろう」と告白できるのは、これまで、明らかにではなくても、神との交わりの中を生きてきたものの、告白のように見える。神の答えなく、ただ、滅ぼされる恐怖はあるように、思う。このように、問い続けること、それは、わたしの神のみこころ、真理の探求とは、少し違うように思う。それは、イエスのことを知っているからだろうか。そうなのかもしれない。しかし、そこに行き着くのは、ヨブにとっては、不公平、卑怯であるようにも、思う。やはり、難しい。
Job 24:24,25 彼らはしばらくの間、高くされるが/やがて姿を消す。/彼らは低くされ/すべての者と同じように刈り集められ/麦の穂先のようにしおれてしまう。  もしそうでなかったら/一体、誰が私を偽り者とし/私の言葉を空しくすることができるだろうか。
やはり、ヨブの中に、不法を働くものが、平安を享受し、義を求め続けた自分は、苦しむことへの、非合理さ、神への疑問があるのだろう。神の公平さ、因果応報を問うている。そうでなければ、どうなのだろうか。神の子として、生きることに、希望を持てるだろうか。それほど簡単ではないように、思われる。ヨブの、そして、ヨブ記の問をしっかり受け取りたい。
Job 25:6 まして、人は蛆/人の子は虫けらにすぎない。
「シュア人ビルダド」(1)が語る三回目であるが、とても短い。神と人との距離・違いを述べている。たしかに、これも、ひとつの見識だろうと思う。ヨブにとっての神は、違うし、イエスにとっても、わたしにとっても違う。しかし、ともすると、神を自分のものとあまりに近く考えてしまう、自分を省みると、この引用箇所は、強烈である。このような謙虚さ、このような告白は、やはり素晴らしいと思う。これがないと、神は、自分の神観が生み出したものになってしまう。創造者は神であって、私ではない。
Job 26:14 見よ、これらは神の道の一端。/神について聞きうる言葉はなんと僅かなことか。/その力ある雷鳴を誰が悟りえようか。
シュア人ビルダドが語る三回目に対するヨブの応答である。正直、もう、混乱してきて、わたしには、よくわからない。ここに書かれているのは、神について知りうることは限られていることである。たしかに、わたしたちは、神について、神の御心についても、ほとんどしらない。そのことは、理解しているように思う。ビルダドのようには断言できないということか。しかし、ヨブの明確な問は、正当なのだろうか。人生の意味、それは、ひとに、知らされるものなのだろうか。ほんの一部分しか知らないものに、神は語り得ないかもしれない。神との交わりのうちにあるものとしては、違うのだろうか。正直、よくわからない。
Job 27:5-7 私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。私は自分の義を保ち、手放さず/心は私の日々を責めることはない。私の敵は悪しき者のようになれ。/私に立ち向かう者は不法な者のようになれ。
かなり意固地に聞こえる。この次には、「神は彼(神を敬わない者)の叫びを聞くだろうか/苦難が彼に臨むときに。」(9)としている。自分に対してはそうではないはずだと自分の潔白・義を主張している。それを批判しても、仕方がないのだろう。ヨブの訴えは、自分を神よりも正しいとすることではなく、神を敬わないものとおなじでよいのか、神よ答えてほしいということなのだろうから。神との関係を第一にしていると読もう。しかし、たとえそうだとしても、神を敬わないものとの違いを主張するのは、わたしにはできない。そして、神との関係もすこし、捉え方が異なるように思う。難しい課題だが。
Job 28:20 では、知恵はどこから来るのか。/分別はどこにあるのか。
引用句が「そして、人に言われた。/『主を畏れること、これが知恵である。/悪を離れること、これが分別である。』」(28)と呼応しているように、思う。知恵を探し求めることは、ここでは、主を畏れることと言い換えられている。おそらく、わたしは、まだ、このことをよくわかっていない。単に、知恵を探し求めることで良いのではないかと。ゆっくり、考えてみたい。主を畏れることについて。それが、知恵のはじめ、分別であり、悪を離れること、すなわち、主のみこころなのだろう。
Job 29:4,5 私の人生が盛りであったとき/私の天幕には神との親しい交わりがあった。全能者が私と共におられたとき/私の周りには若者たちがいた。
「神が守ってくれた日々」(2)をまず記述している。これを読みながら2つのことを考えた。一つは自分のこと。もう一つはイスラエルのこと。自分も、今になって思い出すと、最後の何年かは、Service-Learning も含め、学習支援においても、聖書の会においても、数学の研究においても、データサイエンスに出会ったことについても、本当によかったなと思う。こどもたちが独り立ちしていったことについても。それらがヨブのようにすべて失われたとき、どう考えるのかはよくわからない。イスラエルについては、この章の後半に書かれているように、誠実に神を真理を求め歩んできたひとのことも、想定されているのかなと思った。代々、信仰を守り抜き、「私は見えない人の目であり/歩けない人の足であった。貧しい人の父であり/見知らぬ人の訴えに力を尽くした。不法な者の顎を打ち砕き/その歯の間から獲物を取り戻した。」(15-17)このように生きてきた人たちにとって、むろん、完全ではないにしても、奴隷の身になってしまった捕囚を振り返るとき、ヨブのような気持ちになるだろうとも思う。ヨブ記の成立にも、興味を持つようになった。
Job 30:16,17 今や、私の魂が私の上に注ぎ出され/苦しみの日々が私を捕らえる。夜が私の中から骨をえぐり取り/私の痛みはやむことがない。
わたしには、ここまでの苦しみ、痛みを感じたことが無い。すなわち、そのようなひとの心も理解できない。それは、わたしの感覚が鈍いからか。最近考えていることとして、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びをを感じ取ることができない存在、それが「他者」の定義かもしれないということである。それは、絶対他者とよぶ神との関係においても、同様である。聖霊は、神の心だとも言えるが、神の痛みを感じることができるのは、むろん、ほとんどゼロに近い。神も、有限の体を持った人間について、その痛みがわからないことはご存じでも、やはり、ひとの、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びは、わからないのだろう。
Job 31:13-15 僕や仕え女が私と争ったとき/もし、彼らの権利を私が退けたことがあるなら神が立ち上がるときに、私は何をなしえようか。/神が尋ねるときに、私は何と答えようか。私を胎内に造った方は/彼らをも造られたのではないか。/唯一の方が私たちを/母の胎に形づくられたのではないか。
ヨブは自分に罪があるなら、過誤があるなら示してほしいとしてあらゆることをあげている。ここでは、社会的な問題にまで言及している。社会的な課題、他者、それも、複数以上の他者と関わる問題に関して、特に公平性に関しては正解がないことが多いとも思い、ヨブのようにはなれない。しかし、これは、ヨブ記のひとつの設定、問題提起として受け入れるべきなのだろう。同時に、それが仮定なら、現実ではないなら、生きてみることから始めることとはズレが生じている。わたしには、大きな問題ではなくなってしまうようにおもう。
Job 32:1,2 この三人の者たちはヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと考えていたからである。そこで、エリフの怒りが燃え上がった。この人はラム族出身のブズの人、バラクエルの子である。彼の怒りがヨブに対して燃え上がったのは、ヨブが神よりも自分を正しい者としたからである。
エリフが語り始める設定を書いた部分で、いままではそのまま受け入れていた。そして、若いエリフがかっこいいとも思っていた。しかし、地の文は、聖書にあるのだから、すべて正しいとせず、丁寧に読もうとすると、今回はすこし違うのではないかと思った。たしかに、「ヨブが自分を正しいと考え」は、そのとおりだろう。「ヨブが神よりも自分を正しい者とした」かどうかは不明だが、ヨブは、神に応答を求めていることが中心だろう。それが、ヨブが神様に向き合うことなのだから。わたしは、そのように、み心を求めることはしないが。やはり、難しい。いつか、ヨブ記をある程度理解するときが来るのだろうか。
Job 33:12-14 これについて、「あなたは正しくない」/と私は答える。/神は人より偉大であるからだ。なぜ、あなたは神と争うのか/自分の言葉に神が一つも答えないからといって。神は一度語り、また再び語るが/人はそれに気付かない。
正直にいって、ヨブ記はこのエリフのことばをどのような位置づけし、どう理解したら良いかという問いも投げかけていて難しい。「私は清く、背きの罪はない。/私は潔白で、過ちはない。それでも、神は私を責める理由を見つけ/私を敵と見なし私に足枷をはめ/行く道すべてを見張っている。」(9-11)ヨブのことばについてここで表現されているエリフの理解はわたしのそれと似ている。そして引用した応答も、今のわたしの応答と近い。神は様々なことでみこころを示されており、ひとはそれ受け取ろうと求めるが、そうであっても、受け取る部分は、一部分に過ぎない。しかし、同時に、これから受け取っていく部分も少しあるように思う。人文学、社会科学だけでなく、自然科学も少しずつではあるが発達してきている。それを通して、神様のみ心を受けとることも、あるように思う。他の視点もさらにあるのかもしれない。すくなくとも、わたしは、神が語られていることを少しずつ受け取っていきたいと願う。
Job 34:35-37 「ヨブは知識もないのに語る。/その言葉は悟りある者と共にはない。どうか、ヨブが終わりまで試されるように。/彼は悪事を行う者のように答えている。彼は自分の罪に背きの罪を加え/我々の間で手を叩き/神に向かって言葉数を多くしている。」
エリフの理解するヨブについて「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒やされない」(5,6)とまとめている。神の公正さについての問いである。これについて、引用句では、「ヨブは知識もないのに語る。」「ヨブが終わりまで試されるように。」としている。今回、テーマとして読んでいる、ヨブの苦しみ、痛みに寄り添っているとは言えない。しかし、正しさにおいて、おおよそ、わたしのもつヨブの言説に対する印象と近い。前章の「神は人より偉大である」ことから導かれることとも言える。ただしさを、ひとは主張することはできないのだろう。しかし、やはり、神が、ひとの苦しみ、悲しみ、喜びを共にすることはできないとしても、たとえ、異なる苦しみ、悲しみ、喜びであっても、神がともにいてくださり、苦しんでくださることを、イエス様を通して示されているようにも思う。自分の苦しみ、悲しみ、喜びとするということだろうか。共に喜び、共に泣くことの本質なのかもしれない。すこし、ヒントを得ているようにも思うが、エリフのことばとともに、考えていきたい。
Job 35:14 確かに、「あなたはそれを顧みられない」と/あなたは言っている。/しかし訴えは御前にある。/あなたはただ神を待つべきだ。
これもそのとおりだと思うが、今回はなぜかエリフの言葉を素直に受け入れられない。自分で肯定しているにも関わらず。エリフがヨブの正しさの主張に対して、正しさで答えているからだろうか。今のわたしには、共に痛みを担う存在がたいせつに見える。共に生き、ともに苦しみ、共に泣き、ともに喜ぶ存在なのか。たとえ同じことは経験できなくても、そして、そのひとの行動が誤解に基づくものであったとしても。しかし、それもあまりに単純すぎるように思う。イエスの深い憐れみの内容が知りたい。形式的なものでは無いはずだ。エリフが語るように、一方で神に深く信頼することだろうか。
Job 36:15,16 神は苦しむ人をその苦しみによって救い/彼らの耳を虐げによって開く。まさしく、神はあなたを苦しみから/束縛のない広々とした場所にいざなう。/あなたの食卓には憩いがあり/豊かな食物で満ちる。
エリフもやはり正しい者は、苦しみから救われると言っているようである。このことは、難しい。ヨブは、この引用句のようなことばを受け入れられるだろうか。ひとの苦しみには、ある限界もあるように思う。それを、精神的な頑強さによって乗り切ることはできないだろう。ただ、それでも、このような信頼を持つ頃は意味があることのようにも思う。いずれにしても、やはりエリフのことばはよくわからない。ヨブ記の枠組みと、三人とのやり取りがあり、あとから挿入されたのだろうか。やはりヨブ記の成立についても知りたい。決定的ではないにしても。
Job 37:14,15 ヨブよ、耳を傾けてほしい。/立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。
エリフは自然現象のことを様々に語る。その背後に主がおられることを認めても、それらについてほとんど知らないことを表明しているように思われる。このような読み方が適切かどうかはわからないが、現代において、自然科学は発達し、多少自然について理解が進んでも、こころの問題、神と人との個人的な関係に集中して行き詰まっているように見える、神理解と宗教界の動向にも一石を投じているように見える。現代はさらにAIや、データサイエンスによって、環境要因を意思決定に結びつけることがある程度可能になり、それを駆使する世の中において、宗教界がそれにまったく背を向けているのではと危惧する。エリフは次のように結んでいる。「全能者を見いだすことは私たちにはできない。/この方は力と公正に優れ/正義に満ち、苦しめることをしない。それゆえに、人々は神を畏れる。/神は心に自ら知恵があると思う者を/顧みることはない。」(23,24)すこし短絡に感じる。わたしは、全能者を見出すとは言わず、真理を、神のみ心を少しずつ理解することと表現するが、それが、神を畏れる生き方なのではないかと思う。
Job 38:10,11 私は海のために境を定め/かんぬきと扉を設けた。私は言った。/「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。/あなたの高ぶる波はここで止められる」と。
この二つの節は関連しているようにも思われる。詩文体であり、翻訳も難しいのかもしれない。海の境なら理解できるが、神がひとが到達できる境を設けているとはわたしには思わない。単に、人間というものには、とうてい到達できないもので満たされているだけのことのように思われる。それは、直線的な距離だけでなく、複雑さも関係しているように思われる。複雑系とは、単純に、因果が特定できない世界とも表現できるだろう。その中にわたしたちは暮らしている。そして、その背後に神様がおられ、働いておられると、わたしは受け止めている。神様がどのような実体なのかはわからないが。だから、真理と言い換えたりするわけだが。
Job 39:1-3 あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。/雌鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。これらが月満ちるのを数え/産むべき時を知ることができるか。これらは身をかがめて子らを産み/陣痛の実を送り出す。
自然界のことが並べられている。ヨブ記記者の不思議に思う探究心もここに披瀝されていて興味深い。むろん、この中に、誤りの記述があったり、現在は、よくわかっていることもある。しかし、エリフの唱えるような、神の偉大さ、ひとと異なることが書かれている。しかし、これらも、エリフの言葉として聞いていたとしたら、ヨブのこのあとの応答にはつながらなかったのではないだろうか。難しいところである。実際は、エリフなどが語ったことであっても、ヨブの中で、神の声としてうけとめることが生じてきたとも言える。一つ言えることは、自然環境の背後に、神様がおられることを、明確に示していることだろう。そこからも、神は語られているはずである。
Job 40:27 レビヤタンがあなたに嘆願を繰り返し/あなたに優しい言葉で語るだろうか。
15節から24節にはベヘモット(Behemoth)のこと、そして、25節から32節には、レビヤタン(Leviathan)のことが書かれている。聖書によっては、41章とにわかれている。これらについては、よくわからないが、引用句の表現は、興味深い。おそらく海にいる、おそろしい悪魔的存在も、神には嘆願を繰り返し、やさしく語るということなのだろう。悪をもコントロールするということだろうか。神様が用いられると表現すると問題があるのかもしれないが、ヨブ記の冒頭との関係も興味深い。
Job 41:4 私はレビヤタンの体について/語らないではいられない。/その偉大な力の物語と見事な調和とに。
前章からのレビヤタンの記述が続く。話をはぐらかしているようにも見える。引用句はレビヤタンに神が敬意を払っているようにも読める。レビヤタンがなにかを正確に理解することは困難であるが、主のもとにはあるが、神様も、完全に理解できているとは言えない存在なのかもしれない。神様にはできないこと(他者と互いに愛し合うようになること、人が神様を真の意味で愛させるようにすること)、神様にはわからないこと(有限な存在の痛み苦しみ悲しみ喜びなど、他者の定義といってもよいこれらのもの)がある、その部分を表現するものなのかもしれない。1章ともつながるように思われる。これが真実というより、神の側の混沌、それは、人間のものとは完全にことなるが、それを、ヨブ記記者が表現しているのかもしれない。もう少し丁寧に読み、理解していきたい。
Job 42:2,3 私は知りました。/あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」/そのとおりです。/私は悟っていないことを申し述べました。/私の知らない驚くべきことを。
ここには、二つヨブが受け取ったとメッセージが書かれている、引用句が1つ目だが、二つ目はよくわからない。「聞け、私が語る。/私が尋ねる、あなたは答えよ。」(4)これも、最初のものと、同じなのだろうか。結局、神の働きは、わからない、見えていないということだろう。それは、わたしも、そのとおりだと思う。ここではエリファズたちについて、「確かなことを私に語らなかった」(7,8)と表現されている。ひとつわかることは、神に問うことをしていなかった、自分の知識で答えようとしていたことは確かだろう。今回は、その程度しかわからなかった。十分時間は取れていないが、これからも、ヨブ記と、そして、聖書と、丁寧に向き合っていきたいと思う。

BRC2019

Job 1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
おそらく、これが問題設定なのだろう。知恵文学で、実際に起こったことの描写ではない。しかし、内容は、多くの人々にとって、神にそして人生に向き合う、深刻な課題を含んでいる。軽々しく、思考実験などとして扱うことも誤っているだろう。おそらく、ヨブ記にそのこたえがあるとして読まなくてもよいのだろう。同時に、人間にとって、そして信仰者にとって、本質的な問い(明確に言語化するのは簡単ではないが)を含んでいる。ヒントを得ることを期待したい。
Job 2:4,5 サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。 手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
二種類のことを考えた。1つ目は、反論はいくらでもできるなということ。サタンが二度目の挑戦をすることについてである。もうひとつは、やはり、体の健康は、霊的なものにも、関係することである。忍耐力をとっても、体が弱くなっていると、なかなか続かない。希望をもつことも、困難である。その意味でも、病に苦しむひと、そして死と向き合っている人、そのひとを介護している人など、その困難は、軽視できないと思う。今日、こうして、聖書を読んでいられることにも、感謝したい。
Job 3:1-3 やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、 言った。わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
いままで、簡単に生まれてこないほうが良かったと、よく聞くことばと同じだと考え、あまりよく考えてこなかった。しかし、真剣に向き合うべき、問いなのかもしれないと思った。「なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」(20)「行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる。」(21)そのような状況のなかで、「彼らは死を待っているが、死は来ない。」(21a)とある。神に生かされているという信仰をもちつつ、闇の中に捨て置かれ、かつ、生かされ続ける。ていねいに、このメッセージを受け取る努力をしたい。「苦難と神の沈黙という」論理の遊びではないのだから。驚いた。2節は「言った。」だけである。新共同訳では最短の聖句ではないか。口語訳ではイザヤ書3章21節、英語では一般的に、11章35節だと言われているが。むろん、本質的ではない。
Job 4:3 あなたは多くの人を諭し/力を失った手を強めてきた。
たしかにそうなのだろう。批判はあたっている。しかし、それで解決しない問題もある。問いは続く。傍観者ではなく、真理を求めつづけることその過酷さをともにするものでありたい。自分も真理を求め続けるものとして。真理は、知識ではないのだから。
Job 5:6,7 塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
エリファズが語り続けている。この節をみると、原因がなければ、苦しむことは起こらないはずなのに、実際には、そうではないことを、ある程度、認識しているようである。それを、火花が必ず上に向かって飛ぶようにとしている。上に向かった火花の火の粉は下におちてくるのだから。それをうけて「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。」(8,9)としているように読める。むろん、苦しむものの苦悩とともにいるわけではないのだろうが。エリファズのことばも、二回目以降変わっていくのかもしれない。
Job 6:9-11 神よ、どうかわたしを打ち砕き/御手を下し、滅ぼしてください。仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。
神によって滅ぼされる、そしてその滅びが神から来ていることがわかることが慰めだといっているようだ。そして、かつ、自分には、もう力が残っていないと。共に待つことだろうか。死後の救いなどに話を移すのは適切ではないように思われる。
Job 7:17 人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。
この章には、多くの要素が入っている。おそらく背景には、神に訴えている、神の応答を引き出したいことがあるのだろう。生きる目的というより、なぜ生かされているのかがわからず、神からの裁きのように苦しまなければならないことを訴えている。背景に、引用した箇所のように、自分の経験している、一つ一つに意味があり、それは、神から来ているという信仰、そしてそれを神に問う信仰者の生き方がある。この考えを弱め、一つ一つに神様は関与されるわけではないとすることは可能である。しかし、背後に神を追いやり、結局、日常生活には関わらないこととすることで、神の存在すら、なくても変わらないものにしてしまう危険性もある。むろん、そこに人間の責任もあるとも言えるが。わたしの信仰の態度もはっきりしない。しかし、この章のヨブのように、神に問い続ける姿勢は、わたしの信仰の目指す生き方でもある。
Job 8:3,4 神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。
具体的な子らの背きを指摘しているわけではないだろう。考え始めれば、思い当たることがあるかもしれないが。7節には「過去のあなたは小さなものであったが/未来のあなたは非常に大きくなるであろう。」と支援もしている。しかし、ヨブはおそらく、なにか具体的な問題が指摘されたとしても、納得はできないだろう。自分が生かされている意味を知りたいのだから。問われていることは、とてもむずかしい。やはり、じっくり考えたい。
Job 9:22,23 だからわたしは言う、同じことなのだ、と/神は無垢な者も逆らう者も/同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ/殺される人の絶望を神は嘲笑う。
結局、神がおられるということは、人間にとって何なのか。信仰をもって神の導きを求め、神の御心を行おうとすることが、何を意味するのかを問うているとも言える。信仰の意味だろうか。とても、難しい。神の側だけに集中すると、スピノザの神のようになり、神と人との関係に集中すると、このヨブの問いが出てくる。人の側だけに集中すると、おそらく、わたしは、自分がこの立場に近くなっており、それで良いのかと問うているのだろうが、真理の認知論のようになり、どのような神であるかということに関しては、ぼやけてくる。
Job 10:13,14 しかし、あなたの心に隠しておられたことが/今、わたしに分かりました。もし過ちを犯そうものなら/あなたはそのわたしに目をつけ/悪から清めてはくださらないのです。
ビルダドに答えているのだろうか。それとも単に、自分の考えを述べているのだろうか。神に駄々をこねているのだろうか。それぞれによって、解釈は少しずつ変化するように思われる。しかし、それぞれの要素があるのかもしれない。人は語る時、それを明確にしないことが多いのだから。
Job 11:2 これだけまくし立てられては/答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと/認められるだろうか。
このあとを読むと、ナアマ人ツォファルの主張は、「神は究めることができないかた」(7)であるといい「神が隠しておられるその知恵を/その二重の効果をあなたに示されたなら/あなたの罪の一部を見逃していてくださったと/あなたにも分かるだろう。」(6)である。さらに「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ/神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ/あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ/あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく/恐怖を抱くこともないだろう。」(13-15)としている。神の偉大さと、因果応報とはいわないが、やはり、罪の故の苦しみであることを言っているのだろう。しかし、自分が理解できず、十分な反論がある場合も、静かに受け止め、ことばの背後にあるものを探る応答もあるように、いまは思う。「あなたのことを教えて下さい」と。神について十分知らないのと同じように、ひとについても理解することはとてもむずかしいのだから。
Job 12:22 神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される。
「神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。」(4)とあり、ヨブは神にこたえて頂いたことがあることを言っているようだ。同時に、神の主権ともいうべき、神のなされることが単純ではないことが、縷縷のべられている。引用箇所のように。「この地の民の頭たちを混乱に陥れ/道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。」(24)とある。おそらく、ヨブは自分のようなことが孤立したことではないことを、認めているのだろう。そのようにさまよっているものの代表という意識はないにしても。
Job 13:19 わたしのために争ってくれる者があれば/もはや、わたしは黙って死んでもよい。
ヨブと親しい人たち(または友)(2章11節)に黙れ、わたしに語らせろ(5,13)と、かなり乱暴である。確かに、友ができるのは、黙ることだけなのかもしれない。ヨブのために争ってくれる者、それはおられるとするとイエス様だけ。イエス様ならこの場面でどうされるのだろうか。ヨブの願いは二つ「わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。」(21,22)2つ目は「わたしの罪咎を示してください。」とも表現されている。神から来ているとヨブは確信している苦しみの理由とも言える。このように、求め続けることでよいのかもしれない。そのようにして死んでいったひとがなんと多いことか。もしかするとすべてのひとがその苦しみを味わいながら生きているのかもしれない。その苦しみ自体に意味があると切り捨てるつもりはないが。本当に難しい。
Job 14:13 どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまで/わたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてください/わたしを思い起こす時を。
これを知識の欠如とするのは、まったく誤りだろう。すべきことではない。興味深いのは、後半である。いつかは、思い起こして「その時には、わたしの歩みを数えてください。わたしの過ちにもはや固執することなく わたしの罪を袋の中に封じ込め/わたしの悪を塗り隠してください。」(16,17)と言っている。あくまでも、神との交わりの中で、平安をもとめる。たとえ死んだあとであっても。圧倒される。その信仰に。はっきりはこたえが得られなくても、求め続ける、これを信仰と呼ばないで、なにが信仰だろうか。
Job 15:13 神に向かって憤りを返し/そんな言葉を口に出すとは何事か。
通読では、詳細に分析はできないが、エリファズの一回目と二回目には、違いがあるように思われる。心理学的な要素も含んでいるのだろうか。神との交わりを基本的なものとするヨブとはことなり、絶対他者としてしか見ていないエリファズの神学の問題もあるだろうが、同時に、ヨブを受け入れられない、理解できない苛立ちも感じる。現象面だけを捉えれば、批判はいくらでもできる。しかし、ヨブ記記者が伝えようとしていることについては、よくわからない。詩文体でもあり、きっちりとした理解は難しいのかもしれない。
Job 16:4,5 わたしがあなたたちの立場にあったなら/そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね/あなたたちに向かって頭を振り口先で励まし/唇を動かすことをやめなかっただろうか。
ヨブが言いたかったことは、おそらく以下のことではないだろうか。「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(19,20)真の友は、このような弁護してくださる方、執り成してくださる方とともに、いるものだと言いたいのだろう。ヨブは真の友を天にもっていたのだろうか。どの程度実感を持っていたかわからないが、神が孤立したものではなく、その交わりは、個人的なものではない交わりであることを理解していたのだろうか。それは、驚くべきことである。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネの手紙一1章3節)
Job 17:11 わたしの人生は過ぎ去り/わたしの計画も心の願いも失われた。
希望が無いことが様々なことばで表現されている。かろうじて「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が/わたしの味方をしてくれましょう。」(3)は神への信頼を失っていないことの表現だろう。真の友にはなれず、できる限りのことを考えても、ヨブには届かないのだろう。しかし、そうであっても、共に生きる誠実さを持っていたい。信仰が、もしまったく個人的なものであるなら、隣人を愛することも、高慢ではないだろうか。神との主との交わりの中で共に生きる。そしてその交わりのなかに生きる。それは、可能なのだろうか。近くには見つけられないかもしれないが、そのような友とつながっていたい。おそらく、このように、共に聖書をそしてヨブ記を読みながら求めることなのかもしれない。
Job 18:2,3 いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。
「言葉の罠の掛け合い」はよくはわからないが、理解できない状態がおこっていることはたしかである。ビルダドはそれでも、語り続ける。それは、多少の希望でもる。わからない、理解不能をどう克服するか、おそらく、そこに鍵があるのだろう。あなたのことをおしえてください、は、たんなる希望をつなぐことなのか。おそらく、その姿勢がたいせつなのではないだろうか。見えない希望のなかで、共に生きることにのぞみを託しているのだから。
Job 19:15-17 わたしの家に身を寄せている男や女すら/わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず/わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ/子供にも憎まれる。
単なる病による苦しみではない。人間として Respect されないのだろう。息は “ruwach” であり、霊など、他に訳すこともできる。しかし、かえって、息のほうが、実感がこもっている。「よそ者」とはなにだろうか。あわれみを請い、寄留するものすら、敵視するとある。しもべは、すでに、下僕ではない。関係が逆転しているようだ。卑しめられているという表現がより適切かもしれない。単なる信仰・神学論争ではない。
Job 20:27-29 天は彼の罪を暴き/地は彼に対して立ち上がる。神の怒りの日に、洪水が起こり/大水は彼の家をぬぐい去る。神に逆らう者が神から受ける分/神の命令による嗣業はこれだ。
これが普通の見方なのかもしれない。しかし、そうではないと言いたい。この神からのさばきをうけているとしか思えない、ヨブの姿を見ても、このヨブと共にいたい。そのようなものでありたい。たとえ、自分も、その裁きが嗣業となったとしても。神の憐れみをともに、求めたい。
Job 21:4 わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか。
人を避難しているわけではない。友に反論しているわけではないとヨブはいう。たしかに、ヨブは神の方を常に向いているのだろう。そして「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。」(7)から世の中の理不尽について語る。神に逆らうものの人生と、神に従うものの人生と、この世での祝福を考えると同じではないかと。答えとして、実際の生活における祝福による評価の価値を下げることはあるだろう。しかし、それも重要であるはずである。神のみこころの、深さを考えなければいけないのだろう。わたしも、むろん、答えはない。
Job 22:21 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。
この言葉に限らず、この章のエリファズの三回目の弁論は、ここだけを読めば、多くのキリスト者も同意するかもしれない。「あなたはやもめに何も与えず追い払い/みなしごの腕を折った。 」(9)など、罪人とみとめない人に対して、使われることがあるかもしれない。しかし、そのようなことが、ヨブの訴えをかえって際立たせているように思われる。ヨブ記に完全な答えがあるとして読まなくてもよいのだろうと、わたしは今考えている。むろん、間違っているかもしれないが。
Job 23:6,7 その方は強い力を振るって/わたしと争われるだろうか。いや、わたしを顧みてくださるだろう。そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ/わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。
最後の部分を丁寧に学んでみたいが、省みるということではないのではないだろうか。争われるという部分は、明確ではないが、争われると表現しても良いように思う。にも関わらず、おそらく、ヨブは、神の前に正しいとされ、訴えは解決されるように思われる。最初の部分は、やはり、友人にも訴えているように思われる。ヨブは直接的には上に向けているのに関わらず。このことも、興味深い。
Job 24:25 だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか。
この章でヨブは「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。」(1)と始め、そのあとに、社会正義が行われていないことが、書かれている。一つ一つ重い課題である。いつか丁寧に見てみたい。悪がさばかれず、栄えていることを「権力者が力を振るい、成功したとしても/その人生は確かではない。 安穏に生かされているようでも/その歩む道に目を注いでおられる方がある。だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ。」(22-24)と最後にあり、引用箇所が続く。
Job 25:2 恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。
ビルダドの三回目である。非常に短い。神が絶対者であって、超然として善であること、人は神の前に正しくはありえないこと(4)が述べられている。おそらく、不可知であることも、含んでいるのだろう。キリスト教の理解とは異なっていても、おそらく、非常に一般的な神観ではないだろうか。そして、むろん、キリスト教の神観にも含まれる。特に、引用箇所は美しい。人間の世界と隔絶していると捉える必要はないのかもしれない。プラトン主義とも関連しているのだろうか。
Job 26:2-4 あなた自身はどんな助けを力のない者に与え/どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え/どんな策を多くの人に授けたというのか。誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。
この「あなた」はビルダドだろう。自分は、そうではないと言っているのか。それとも、神について教える資格はないと言っているのか。あるいは、ヨブとともにいることを暗に願っているのか。神観の違いをどう乗り越えるかは難しい。なにか、解決の糸口はあるのだろうか。それは、愛だけのように思われるが。
Job 27:5,6 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。
もう手に負えない。しかし、原罪について考えた。アダムの犯した罪によって罪人になったというより、神の前には、正しくはいられないということかもしれない。人間の正しさ自身が不完全なのだから。そう考えると、やはりそれが許されるということではないのだろう。神とイエスとの交わりに入れていただき、互いに愛し合うようになることがやはり救いであるように思う。むろん、言い切ることはできないが。
Job 28:27,28 神は知恵を見、それを計り/それを確かめ、吟味し そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」
ヨブの独白の章である。27章のヨブの叫びによって、ツォファルの三回目を消し去ってしまったのだろう。しかし、この章では、冷静を取り戻しているように見える。「知恵」がどこにあるのか、ひとは知らない。しかし、上の引用箇所で言っているように、神は知恵を持っている。そして、人へのメッセージが語られる。これは「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」(詩篇111篇10節)および、箴言の各所に見られる言葉である。神を通して以外に、知恵を求めることを、神は望んでおられたいということだろうか。それとも、知恵の本質をここで語っているのか。これも、難しい。じっくり考えたい。
Job 29:4,5 神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた。
ヨブの独白とも言えるものが「どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。」と始まっている。内容を見ると、人々との関係である。その平和な充実した日々が記述されている。引用箇所では「神との親しい交わりがわたしの家にあり」とあるが、それは、主観的なものだったのだろうか。しかし、そうすると、信仰生活を否定することにもなってしまう。神が共におられることは、認知できるとすることが危険なのかもしれない。大きなテーマであるように思う。弱い人間は、自分だけでは生き生きと生きられないだろうから。この章に表現されていることを、祝福ととることを非難はできない。
Job 30:1,2 だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず/何の気力も残っていないような者らだった。
「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ/不幸な者を救おうとしないだろうか。わたしは苦境にある人と共に/泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。」(23,24)とあるが、なにか、引用箇所との整合性が欠けているように思う。見下していながら、同情し、助けるのか。おそらく、論点が二箇所で異なっているのだろうが、不自然さを感じる。自分の歩んできた道と現状との乖離を述べているのだろう。しかし、29章とは少しトーンが違うようにも思われる。丁寧にいつか読んでみたい。
Job 31:15 わたしを胎内に造ってくださった方が/彼らをもお造りになり/我々は同じ方によって/母の胎に置かれたのだから。
ここでの「彼ら」は、13節にあるように、「奴隷たち」や「はしため」である。神の前の平等、尊厳が語られている。この章は、ヨブの最後の弁論で、そんなことはしていない。という罪を犯しておらず、自分は、潔白であることが、述べられている。当時、考えられていた、倫理の最高のものが連ねられているのだろう。知恵文学で、実際のことを述べているのではない。このヨブに、神はどう答えられるのだろうかと、読者に期待をもたせる。「ヨブは語り尽くした。」(40b)このあとは、エリフのことばが始まるのだが。
Job 32:13,14 「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。ヨブはわたしに対して議論したのではないが/わたしはあなたたちのような論法で/答えようとは思わない。
興味深いのは、神に任せるという態度ではいけないと言っている。また、エリフは、三人の年長の者たちとは違う論法で答えるという。エリフの評価は難しいにしても「しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」(8)は、自分が、ある年齢になった今、いろいろな意味で、たいせつにしたいことばである。自分は、真の悟りを得ておらず、神は、様々な人を通して語られるのだから。
Job 33:13,14 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを/いちいち説明されない。神は一つのことによって語られ/また、二つのことによって語られるが/人はそれに気がつかない。
「そのとおり」と言いたいところだが、論理的矛盾は明らかである。神が、人が気づかないようにかたるのであれば、語ったことにはならない。神は、むろん、そのことをご存知のはずである。前半の13節は、そのとおりなのだろう。それでは、神がおられないことと、どう区別するのかという疑義は起こる。そして、ヨブは、まさに、この部分を問うているのだから、ヨブにとっては受け入れられないだろう。
Job 34:35-37 「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮に欠けている。 悪人のような答え方をヨブはする。彼を徹底的に試すべきだ。まことに彼は過ちに加えて罪を犯し/わたしたちに疑惑の念を起こさせ/神に向かってまくしたてている。」
「理解ある人」「知恵ある人」のことばとして語られている。エリフの言説は、すでに、他のひともいっていることなのではないかと今回思った。すくなくとも、大同小異である。神の主権の前に、苦しみながら、沈黙を守るしかないことを、ヨブは神に訴えているのだから。ヨブは、一般論を語っているのではなく、神との関係について語っているのだから。
Job 35:14 あなたは神を見ることができないと言うが/あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。
これは、私の現在の信仰の態度に近い。待つことは、積極的な意味がある。「今はまだ、怒りの時ではなく/神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので ヨブは空しく口数を増し/愚かにも言葉を重ねている。」(15,16)と続くが、怒り、語り続けると、神からの応答を受け取りにくいように思われる。ヨブ記においても、エリフにヨブは答えない。そして、神が答えられる。それぞれの内容は、わたしには、理解できない部分が多いが、様々な答えがあるのに、わたしは、それをていねいに受け取っていないと感じるからである。
Job 36:16 神はあなたにも/苦難の中から出ようとする気持を与え/苦難に代えて広い所でくつろがせ/あなたのために食卓を整え/豊かな食べ物を備えてくださるのだ。
少しは、ヨブへの答えになっているのだろうか。ヨブのような状態でも、感謝を持ち、神への賛美を語ることができるのだろうか。ヨブは、このメッセージを受け取れるだろうか。神は、おそらく、それを受け取ることを要求される方ではない。しかし、そのように、苦難の中に生きるものを、痛みをもって、喜ばれるのかもしれない。神の子と苦難をともにするものだから。わたしは、そのような、ものでありたい。私の望は、イエスに従い、イエスに学ぶことだから。
Job 37:5 神は驚くべき御声をとどろかせ/わたしたちの知りえない/大きな業を成し遂げられる。
このあとに、わたしたちが知り得ない多くのことを神がなさっておられることが続く。人間の側から見れば、まったくそのとおりだと思う。しかし「全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。」(23)で、不可知論が徹底されること、ヨブの問題をこのひとことによって解決することはできないように思う。しかし、全体の流れとしては、引用箇所が、主が語られる背景を提供しているように思われる。
Job 38:2,3 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
エリフの部分をどう考えるかは難しいが、主の応答の最初の部分(38章)は、エリフの言っていることとつながっている。主は「お前は知っているか」と尋ねる。しかし、このあとに、書かれていることは、科学の知識のあるものは、ある程度答えようとしてしまうのが、最初の反応ではないだろうか。例を取り替えることはできても、その問に満足できないひとも多いだろう。問自体を考えることが、重要な課題なのだから。無知を、自然界のことに向けることは、自然と離れて生活する多くの現代人にとって、もっともたいせつなこととして結び付かない面もあるのだろう。現代におけるヨブ記の限界なのか、現代人があまりに、特殊な生き方をしてしまっているからか。難しい。
Job 39:5 誰が野生のろばに自由を与え/野ろばを解き放ってやったのか。
39章でも自然界の神秘について書かれている。はっきり言って、古い。現代人が、自然について知らないことは多いが、自然と離れた生活をする人が多く、この章を書き換えたとしても、人が書き換えるなら、限界があるだろう。専門家にしか通じない問かもしれない。また、16節の駝鳥の記述は誤りだとされる。この5節も適切ではないだろう。神の領域が狭まっている、神を無視しても生活ができると、考える人が多いのは、自然なのかもしれない。わたしは、どのように答えるだろうか。
Job 40:27, 28 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。
彼はレビヤタン(25)である。ヨブ記には「日に呪いをかける者/レビヤタンを呼び起こす力ある者が/その日を呪うがよい。 」(3章8節)にある。それ以外に、詩篇74篇14節、104篇26節、イザヤ書27章1節に登場する。悪をなすものであるが、1章のサタンとは区別されている。その悪の働きを、制御し、僕にすらすることのできるものとの主張なのだろう。イエスの働きとともに、考えたいが、同時に、このヨブ記のテーマを考えると、苦難の意味について、さらに、混乱をもたらすようにも思う。
Job 41:25,26 この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。
こんなに、レビヤタンのことばかり書いてあると認識したことがなかった。引用箇所が最後である。これを見ると、主の支配下にはあるが、良きライバル、友のような感覚さえ持つ。すくなくとも、主は楽しみながら語っているように感じる。それは、おそらく、ひとにとっては、苦痛なこと、苦難をもたらすものなのかもしれない。そう考えると、とても興味を持つ。ヨブ記者が行き着いた、神理解だとすると。次回、ヨブを読むときは、もう少し、しっかりと読めるだろうか。
Job 42:8 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
最後の部分が美しい。祝福の回復に目が行くのはおそらく、方向が違っているのだろう。それは、この引用箇所が主のみこころであり、そのことに伴って起こることが、祝福なのだと今回は、思えた。ヨブをどう読むかが、長い間わからなかった。今回、ほんの少し、光が見えたように思える。ヨブ記者の信仰告白に目を留めたからだろうか。むろん、理解していることは本当に表面的ではあるが。

BRC2017

Jb 1:20,21 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
二つのことが目にとまった。まずは、ヨブの行為。「立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った」とある。毅然とした態度、苦しみの表現、神の前の謙り、髭ではなく髪なのだろうか。裸を意味しているのかもしれない。そして二つ目は「主は奪う」である。ヨブがこのことをどのように受け止めていくのか。罰として受け取るのは世の通常の習わしでもある。最近は、すべての背後におられる主という面を、大切にしてきた。しかし、ここでは、主の働きを、または人生への働きかけ、介入をどう理解するか。じっくり考えてみたい。
Jb 2:10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
ヨブは意識的に、罪から遠ざかろうとしていたのだろう。だから神を呪うことからは、離れている。しかし、それは、行為の世界で、こころの中の問題と一致しているわけではない。その葛藤の吐露と外(友人たち)とのこころとこころの戦いがここから始まる。こころの中からすべて消すことをも行為と結びつけるのは、すこし違うように思われる。この問題も、いつかじっくり考えたい。
Jb 3:25 恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。
やはりヨブも恐れていたのだ。何を恐れていたのだろう。危惧していたとういからには、知っていたのだろう。神の自決権だろうか。神が好きなようにすることができると言うことだろうか。しかし、同時に神に愛されているということから来る信頼もあるのではないだろうか。神がこころを試されることへの恐怖だろうか。完全ではないものがつねに抱く不安でもある。私はどうなのだろうか。そこまで真剣に神を求めていないのだろうか。
Jb 4:8 わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている。
因果応報として、切り捨てることもできる。しかし、これはひとつの真理でもある。自分の身に災いやそれから来る労苦を招きながら生きている人が多くいるようにも思われる。エリファズの部分についても、あまり善悪を早く決めてしまうことは避けよう。それは、ヨブ記の本質ではないかもしれない。議論によって、平安は得られないから。
Jb 5:8,9 わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。
今回の通読では、ヨブの友にも寄り添ってみたいと思う。多くの真理を得ている。たしかに、ヨブの苦しみを理解はできていないようの思われるが、エリファズのことばに、真実がたくさん含まれている。善いと悪いの二つにわけてこれはよいのかわるいのかと考えながらよむことだけが、読み方ではないのではないだろうか。人生の深い問い、そしておそらく答えのない問いについて、書いているのだから。この言葉の背景に、エリファズの人生が詰まっているとしたら、それを否定することはできない。
Jb 6:21 今や、あなたたちもそのようになった。破滅を見て、恐れている。
15節には「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。」とある。理解が間違っているかもしれないが、ヨブの破滅状態を見ても、流れが去った後の川床を見て、恐れるのと同じように、うろたえ、恐れ、しかし、その状態を直視はできないと言うことか。ヨブは言う「絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ。さもないと/全能者への畏敬を失わせることになる。」(14節)たしかにそうである。しかし、人はそれができない。恐怖の中で愛がわき出てこないと言うことかもしれない。人間の弱さを見ると共に、この友たちをも批判することはできないと感じる。人の苦悩の深さ、重さを感じることはできないのだから。
Jb 7:20 人を見張っている方よ/わたしが過ちを犯したとしても/あなたにとってそれが何だというのでしょう。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。
すべて一つ一つのことが神様の制御のもとにあることが仮定されている。神のみ手のうちにあるということは、何を意味しているのだろうか。一つ一つのことに意味を求めるのは、成長のためで、その部分も、ひとにゆだねられているのだろうか。自律性をもった信仰。まだわたしにはよく理解できていないように思われる。すべてが神の制御のもとにあると考えた方がずっと楽でもある。悩みはヨブのようにつきないが。
Jb 8:11,12 沼地でもない所で、パピルスが育とうか/水もないところで葦が茂ろうか。芽を出すや否や、切られもしないのに/どんな草よりも早く枯れる。
このあとにも続く葦についての表現は、美しい。ビルダドはそこから学ぼうとしている。そして「わたしたちはほんの昨日からの存在で/何も分かってはいないのだから。地上での日々は影にすぎない。」(9節)のようにも言う。学ぼうとしていること、素晴らしいことである。そして、十分理解できていないことを知ることも。ヨブの問うている問題とはずれているとしても。
Jb 9:35 恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。
ヨブの言葉を字義通り受け取ってはいけないかもしれない。ヨブは神とひとりの人との大きな隔たりを十分理解している。それでも「このように、人間ともいえないような者だが/わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」(32節)違いがあっても、尊重されるべきものがある。どんなこどもであっても。その感覚に近いのではないだろうか。愛の関係の中でとらえるとき、同じ平面にいることができ、それは、自分の苦しみと神の苦しみを同時に味わうことにも通じるのかもしれない。「正当に扱われていない」というとき、神もその痛みを吐露することになるのかもしれない。それを知ることが許される。そのような平面。
Jb 10:2 神にこう言おう。「わたしに罪があると言わないでください。なぜわたしと争われるのかを教えてください。
争っているのではないのだろう。愛している。それこそが、ヨブの状態。しかし、ヨブには理解できないだろう。そして、誰にも。神も苦しんでいるのだろうか。愛の故に。沈黙の故に。ヨブ記の中心はそこではないだろうが。
Jb 11:4 あなたは言う。「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。
「わたしが正しいと主張しているのに/口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。」(9章20節)ともあるが、ヨブの主張はそこにはないだろう。議論がずれてしまっているが、よく起こることのようにも思う。難解な議論の中で、あるひとつの言葉に躓き、疑問を投げかける。ナアマ人ツォファルの言いたかったことの背景には、もっとあるかもしれない。
Jb 12:22 神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される。
ヨブの苦悩の範囲は広い。「すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。」(10節)では創造物すべてが知っていることを語っている。これを自明の理としている。「御手の内にある」ことの実質の解釈を「神はすべてのことの背後におられる」とすることで、変えようとしているのだろうか。神の理解が深くなっているのだろうか。正直よくわからない。簡単に解釈すべき事ではないのだろう。並木先生の「ヨブ記」もいずれ読んでみたい。できれば、質問ができるうちに。
Jb 13:22 そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。
ヨブの願いは、この一点にかかっている。神と向き合いたい。もし、神が背後にいるだけで、手は下していないとヨブが聞いたら、どうらろうか。神への信頼は、薄らいでしまうのではないだろうか。わたしは、どのように理解しているのだろうか。
Jb 14:22 彼はひとり、その肉の痛みに耐え/魂の嘆きを忍ぶだけだ。
わたしは何を求めているのだろう。希望をもって生きることだろうか。ここで表現されているひとと何がことなるのだろうか。ヨブはもう一度、整理して読んでみたい。新しい観点で読むことができると期待したが、すでに行き詰まっているように思われる。体調が完璧ではないことも関係しているかもしれないが。
Jb 15:6 あなたを罪に定めるのはわたしではなく/あなた自身の口だ。あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ。
エリファズの二度目の弁論である。なぜ、罪に定めるのが「神」といわず「あなたの唇」と言っているのだろうか。はっきりとは分からないが、注目すべき点を指摘しているのかもしれない。気をつけるのは、わたしのことばではなく、あなたの唇。この一つの文章でも、理解は簡単ではない。
Jb 16:6 語っても苦しみはやまず/黙っていても、それは去りません。
正直なヨブの気持ちだろう。この前には「わたしがあなたたちの立場にあったなら/そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね/あなたたちに向かって頭を振り口先で励まし/唇を動かすことをやめなかっただろうか。」(4,5節)ヨブは黙して、苦しみに寄り添ったと言っているのか。しかし、それでは、このようなヨブ記は生まれない。できることは何なのかも考えてしまう。サービスとは何なのかを。
Jb 17:11 わたしの人生は過ぎ去り/わたしの計画も心の願いも失われた。
このあと15節には「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。」と印象的なことばが続く。希望は復活を信じてはじめて得られるものだのだろうか。11節には二つの「わたしの」が続く。それが「わたしの希望」に関連しているようにも思う。ヨブはこのように問いながら「神の希望」「神の思い」を求めているのかもしれない。その中に「わたしの希望」を位置づけることを願いながら。わたしは、そのように生きたい。そのなかに「復活」もあり、復活がなければ「希望がない」わけではないように思われる。
Jb 18:4 怒りによって自らを引き裂く者よ/あなたのために地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか。
ビルダドの二回目の弁論は「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。」(2節)と始まる。しかし、かえってこの言葉によって溝が深まっているように思われる。理解することはとても難しい。「まず理解せよ」と求めることだけは、避けたい。互いが近づくことにはならないのだから。
Jb 19:6 それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし/わたしの周囲に砦を巡らしていることを。
口語訳では「神はわたしをしえたげ」となっている。「非道なふるまい」は何を意味しているのだろうか。ヨブ記において、ヨブは首尾一貫しているのだろうか。このことも、疑問に思っている。変化しているのか、それとも、論理の一貫性が十分ではないのか。それとも、詩文体での心情の表現のゆえに、そのような幅が生じるのか、翻訳の問題なのか。この節だけをとすと、神からの者を感謝して受けるととることは困難で、明らかなる神批判だからである。不明ではあるが、現時点では、こころのはばとゆれとしておこう。
Jb 20:3 あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。
ナアマ人ツォファルの二度目の弁論である。一回目は11章なので、その部分を受けていると思われる。11章では、成長しうるのだから、謙虚に求め続けよと言っているように思われる。それに対して、ヨブは結論を急いでいると。その点については、わたしも同様に思う。不明な点を不明とする。そして求め続ける。感謝の心をもちながら。わたしは、そのように生きたい。
Jb 21:2 どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。
ヨブはさらに自分は神に向かって訴えており、人に対してではないことを語り、つづけて「わたし自身、これを思うと慄然とし/身震いが止まらない。」(6節)と述べている。そして、ここから不正な者が裁きをうけない現実が述べられる。神の正しさについての訴えである。信仰者は、この部分を信仰の問題と切り離し問わない。しかし、神理解には、神義論は避けて通れない。問うことによらなければ、理解は得られない。「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。」(7節)
Jb 22:21,22 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。 神が口ずから授ける教えを受け/その言葉を心に納めなさい。
エリファズの三回目の弁論である。神と人との関係において、神は超然としており、人の側からは何もなしえず、神は自律的に裁きを下されることがまず書かれ、引用句に到達する。問うこと、そして応答を求めることについて批判的である。それも、ひとつの信仰者の態度であるように思われる。しかし、わたしは、ヨブにつながりたい。神もそれを求めておられるのではないだろうか。神の苦しみをも理解しようとする者と関係を築くことを。
Jb 23:3 どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。
あきらかにわたしはヨブのようには、神を求めていない。「今日も、わたしは苦しみ嘆き/呻きのために、わたしの手は重い。」(2節)というような中で、ヨブはこの一点に集中して、神を求め、神に問うこと(4節)を願っている。わたしは、神の義にそこまで興味がないのか。委ねられている部分により集中しようとしているのか。神をすべての背後に追いやってしまっているのか。あきらめだろうか。わたしには、答えられない。
Jb 24:9 父のない子は母の胸から引き離され/貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
このあとには「町では、死にゆく人々が呻き/刺し貫かれた人々があえいでいるが/神はその惨状に心を留めてくださらない。」(12節)と続く。これを神の責任とせず、われわれがあわれみのこころを起こして行動することが求められているのだろうか。貧しい人はいつもわたしたちとともにいる。
Jb 25:4 どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
シュア人ビルダドの弁論は6節しかなく、前の弁論の繰り返しにも思われるし、よくは分からない。しかし、自分に語りかけるような面を人は持っているように思われる。「恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。」(2節)は、神の超然とした様子が語られており、そこにはある価値も示されている。ヨブの求めるものとは、異なっているが、これも一つの恐れおののく姿勢なのだろう。「女から生まれた者」という表現が少し気になった。女性蔑視と人間の存在注視と両面があるように思われる。15章14節にも似た表現がある。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11章11節(ルカ7章28節も同様))には違和感はない。「自由な身の女から生まれた」(ガラテヤ4:22, 23, 30, 31)ここでは「女奴隷から生まれた子」と対比されている。この対比は、難しいと感じる部分もある。人間の出生に、このような象徴、比喩を入れて解釈して良いものかどうか。わたしが、パウロ神学を受け入れることに抵抗がある理由でもある。
Jb 26:2 あなた自身はどんな助けを力のない者に与え/どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
ヨブの生涯は、おそらく、このようなサービス、奉仕に満ちていたのだろう。ビルダドのように、神を超然としたものとして、ひとと切り離すことは、とうていできないたいせつな生き方があったのだろう。考えさせられる。
Jb 27:9,10 災いが彼に臨むとき/その叫びを神は聞いてくださるだろうか。 全能者によって喜びを得/常に神を呼び求めることができるだろうか。
人生における理不尽さ、自然災害、人為的な過ちによる人災、これらに対する神への問いである。神義論につながっているものである。この問いこそが、ひとはどのようなものか、神とは、神とひととの関係とはと問う、根源的な問いであるように思われる。これを避けるのが、宗教ではあるまい。平和の希求もふくめて、ひとはこの問いにより、成長させられていくように思う。
Jb 28:20,21 では、知恵はどこから来るのか/分別はどこにあるのか。 すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。
このあとにさらに「滅びの国や死は言う/『それについて耳にしたことはある。』」と興味深い表現が続く。いままでは、28節の「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」で満足していた。しかし、それでは、ヨブのこころに迫ることができないように思う。全体を理解しようと試みないと。
Jb 29:4,5 神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。 あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた。
このように考える根拠は何なのだろうかと思う。このあと、豊かさと民の賞賛と祝福が書かれているが、実体は12節から17節にあるのだろう。孤児、貧しい人、死にゆく人、やもめを助け、正義を行い「わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。」(16節)ともある。しかし、である。そのことが、人生の祝福とは結びついていない。神の御心、神が望まれることを、真剣に求める、神とともに人間の弱さとも真摯に向き合って生きようとする。このヨブ記について考えさせられる核心であろう。
Jb 30:11,12 彼らは生意気にもわたしの右に立ち/わたしを追い出し、災いの道を行かせ 逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。それを止めてくれる者はない。
卑しいものが自分をなじることは、神の名をおとしめることにもなるのではないかと考えているのだろうか。そのように考えることも可能である。たしかに世の中を見ていると、そのような状況を神に訴えたくなる。結局、空の空なのだからと。虚無主義が産む快楽主義である。ヨブはそこまでは言っていない。あくまでも、自分と神との間から離れはしない。その姿勢についても、考えさせられる。
Jb 31:4 神はわたしの道を見張り/わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。
口語訳は「彼はわたしの道をみそなわし(「見る」の尊敬語)、わたしの歩みをことごどく数えられぬであろうか。」となっている。このことが前提である。知ることができることと、知ろうとすることは別であるとも考えられる。ひとに任せられるということである。人の責任のもとで。神義論の難しい部分である。神がすべてをコントロールしているとの仮定から始めるのか、そうはしないのか。神の業とはなになのかということである。神の問いかけにもこの面がある。「どこにいるのか。」「何をしているのか。」
Jb 32:8 しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。
エリフについての評価は困難である。しかし、異彩を放っていることは確かである。人は、神から与えられる息吹をうけてそれを理解することができるとしている。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)また「わたしも話して、気持を静めたい。唇を開いて、答えたい。」(20節)はよくその気持ちが伝わってくる。評価を急がず、味わいながら読んでいこう。
Jb 33:13,14 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを/いちいち説明されない。 神は一つのことによって語られ/また、二つのことによって語られるが/人はそれに気がつかない。
ここだけでは判断できないかもしれないが、13節の「神はそのなさることをいちいち説明されない」と言う部分と、14節の「神はさまざまな方法で語られる」という部分は、神の主権を主張しているのだろう。たしかにその通りである。もう少し考えると、個別的にすべて答えられるわけではないが、自然現象は、歴史など、ひとが良心と理性をもって神を求め続ければ理解できることもあるあることを語っているようにも思う。わたしの理解とも近い。エリフの評価は難しいだろうが。
Jb 34:3,4 耳は言葉を聞き分け/口は食べ物を味わう。 わたしたちは何が正しいかを見分け/何が善いかを識別しよう。
たしかにひとは、理解力をある程度与えられている。それを十分つかうことは、大切なこと、神を讃美することでもある。むろん、完全に理解できないことも覚えつつ。「知恵ある者はわたしの言葉を聞き/知識ある者はわたしに耳を傾けよ。」(2節)と語っている。これは、ヨブへの語りかけである。理解できる部分が残っている、それを求め続けることを勧めているのか。苦しみに寄り添うことばは、みられないが。
Jb 35:8 あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に/あなたが正しくても/それは人の子にかかわるだけなのだ。
6節・7節には神に影響しないこと、そして、この8節には同じ人間に関係するだけであることが書かれている。事実はその通りだろう。しかし、神は、その人間を愛しておられること。人間の世界での不条理や、人間に任せておきながら、それが適切に為されない状態を悲しんでおられることはないのか。こころに懸けておられる。これは、新約的な解釈なのかもしれない。
Jb 36:15,16 神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し/苦悩の中で耳を開いてくださる。 神はあなたにも/苦難の中から出ようとする気持を与え/苦難に代えて広い所でくつろがせ/あなたのために食卓を整え/豊かな食べ物を備えてくださるのだ。
「貧苦を通して」とある。「苦難の中から出ようとする気持ちを与え」る。19節には「苦難を経なければ」とある。「夜をあえぎ求めるな。」(20節)は、そこで終わりにしてしまうことを求めてはいけないと言うことなのだろう。「苦悩によって試されている」(21節)「神のような教師があるだろうか。」(22節)エリフの苦難に対する信仰、苦難によってはじめて神のみこころを知る重さに感銘をうける。聖書の中心的解釈とはずれているかもしれないが。
Jb 37:23,24 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。
エリファズの論理に近くなってきているようにも思う。神は超然としておられる。おそらく、これは「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。」(21・22節)の説明ととるのがよいのだろう。神の為されることの奥深さと、神に希望を置くこと。だろうか。これがエリフの最後の言葉となる。
Jb 38:33 天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か。
ここで神は、ヨブには知り得ないこと、制御し得ないことを問うている。第一ステップは、ギャプに働かれる神の考え方とも言えるかもしれない。しかし、引用箇所は面白い。点の法則を理解して、それを地上に及ぼす。自然法則とも言えるし、神のみこころとも言えるかもしれない。これを書いた人はどのような人なのだろうか。驚かされる。
Jb 39:19 お前は馬に力を与え/その首をたてがみで装うことができるか。
古代のひとの神の賢さ、God’s Intelligence だろうか、について様々に書かれている。進化の背後に神の配在があるのだろうか。背後とすればあるように思われる。ひとつひとつ個別選択的には行動されないようにも思うが。しかし、いずれにしても、不思議なことはたくさんある。ひとはそれを極めることができないのと同じように、不思議だと思うことも、尽きることがないように思われる。そして、真理をもとめる。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレト3章11節)
Jb 40:27,28 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。 彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。
「彼」は「レビヤタン」である。ヨブ記もう一箇所「日に呪いをかける者/レビヤタンを呼び起こす力ある者が/その日を呪うがよい。」(3章8節)に登場する。詩篇74編10節、104編26節、そして「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。」(イザヤ27章1節)にある。一般には、サタンであろう。しかし、創世記でも、ヨブ記でも、サタンは、神のもとにある。そして、神との約束をまもり、永久に神の僕である。理由を理解することは困難であるが。
Jb 41:25,26 この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。 驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。
レビヤタンについての記述が続いている。(海という)神秘の世界を支配する(へびのような)ものについて書かれている。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。彼のからだの各部について/わたしは黙ってはいられない。力のこもった背と見事な体格について。」(3節b・4節)とあるが、神と彼との関係は具体的とは言えない。神秘の部分の存在、おそらくそれが、理不尽ともいえることに関係していると表現しているのかもしれない。これが、神の主張の最後の部分である。
Jb 42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
「それゆえ」は何を指すのだろうか。直接的には「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。」(3節b)「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」(5節)一つ目は理解できるが、二つ目は、神を目の前にして、ことばを失うということだろうか。自分の求めていたことが実現し、かえっておそれおののくということだろうか。7節の「お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」も、このあとの祝福の回復も十分には理解できない。しかし、今回、あらたに、ヨブ記と向き合えたことは確かである。ほんの小さなステップではあるが。並行して「進化をめぐる科学と信仰」大谷順彦著、を読んでいたことも良かったと思う。感謝を持って。

BRC2015

Jb1:4,5 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。 
この周到さには驚かされる。あらゆるときに、考えられる、つまりひととしてできうる限りを尽くして、神に仕えていたということが表現されている。今回の発見として、18,19節でしもべは「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 と報告している。つまりいけにえをささげて程なくということになる。また、最初の二つは人災で、これは天災。これも人災ならと考えてしまう。そのように考えることを排除しているのかもしれない。
Jb2:13 彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。 
友人たちのひととしてのまごころを見る。ヨブに寄り添う最大限のことをしている。議論は、ここからはじまる。今回のヨブ記通読は楽しみである。
Jb3:20 なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。 
この重い問いをもって生きること。それが十字架なのだろうか。しかし、われわれには、希望もある。ともにくびきを追ってくださるイエスがそこにおられるから。ボンヘッファーの「神の前に、神とともに、神なしに生きる」を想起させる。もう少し深く理解したい。
Jb4:18,19 神はその僕たちをも信頼せず/御使いたちをさえ賞賛されない。まして人は/塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。 
その通りだろう。そうであるにも関わらず、神の愛のうちに生きている、そして、塵の中に基を置く土の家に住む者のひとりが滅びることも神の許しなしにはおこらない。これを切り離しては「なぜ」と問うことも無益だ。
Jb5:17,18 見よ、幸いなのは/神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。 彼は傷つけても、包み/打っても、その御手で癒してくださる。 
エリファズの最初の発言。8節にあるように「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。」と語る。これが中心であろう。それに「計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。」と続く。17,18節はこれに対応している箇所である。わたしも同じように言うかもしれない。そしてそれは、間違いではないのではないだろうか。ヨブの痛みと苦悶の中で、3章11節から4回続く「なぜ」苦悩の意味のついての「問い」には対応していないが。
Jb6:10 仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。 
8節には「神よ、わたしの願いをかなえ/望みのとおりにしてください。」とあり、3章21節に「彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって/死を探し求めているのに。」命が取り去られることがいまやヨブの願いであり望みであるともいえる。しかしそこで終わらない。ヨブはこの節で「わたしの慰めとなるのは」「聖なる方の仰せを覆わなかった」ことだと言っている。意味ははっきりしないが、このように「苦痛のなかでもだえ」つつも正面から神に問い、神に訴えている精神、神との対話をもとめる自分の立ち位置を、正当化するのではなく、自分を客観的に見て、言葉にしているように思われる。もし、そうだとすると、ひとの一生の目的は、神のこころと自分のこころを一致させようとするいとなみともいえるかもしれない。その営みのなかに、ヨブは確かにいる。
Jb7:1,2 この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。 奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む。 
奴隷や傭兵のようだと言い、その労苦と弱さを述べ、また夜も平安でないことが続き、そのような人間と関わりを持ち続ける神に問う。「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。」(17節)「なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。」(20節b)そして「なぜ、わたしの罪を赦さず/悪を取り除いてくださらないのですか。今や、わたしは横たわって塵に返る。あなたが捜し求めても/わたしはもういないでしょう。」(21節)で終わる。ひととの関係を持たれない、超然とした存在で神がおられるなら、ヨブにはこのような問いは、苦悩はなかっただろう。神との関わりの中で日々を生きているからこその問いである。それが神のみこころに近づき、みこころを行おうとするが、ひととしての限界からそれにはるか及ばない信仰者の自然な葛藤だから。
Jb8:11 沼地でもない所で、パピルスが育とうか/水もないところで葦が茂ろうか。 
4節で「あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。」とは言うものの、6節で「あなたが潔白な正しい人であるなら」というように、ヨブが正しいかどうかは決定的ではない。ビルダドが展開するのは、因果応報。さらには、目に入るのは、ヨブの物質的、社会的、肉体的苦悩の状態であり、神の前の存在としての苦悩には、目がいかない。現在目に入る状況が目を覆ってしまっているからか。
Jb9:34,35 わたしの上からあの方の杖を/取り払ってくれるものがあるなら/その時には、あの方の怒りに脅かされることなく 恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。 
神と同じ立場で議論しても、議論にならないことを認めつつ「神と論争することを望んだとしても/千に一つの答えも得られないだろう。」(3節)神に対して正当に扱われていないと主張したい。神の応答を求めている。興味深いのは、この直前の33節「あの方とわたしの間を調停してくれる者/仲裁する者がいるなら」調停してくれる者、仲保者を求めているのだろうか。このテーマも、注視しよう。
Jb10:7 わたしが背く者ではないと知りながら/あなたの手から/わたしを救いうる者はないと知りながら。
これを高慢だと責められるだろうか。ヨブは神に問うている。「神にこう言おう。「わたしに罪があると言わないでください。なぜわたしと争われるのかを教えてください。」(2節)しかしこの問いには、最後まで主は答えられないようだ。苦しみの中でももだえることに価値があるのだろうか。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイ24:12,13 のような忍耐による希望の勝利の立証をもとめているのか。ヨブの時代では、それは、難しいように思われる。
Jb11:4-6 あなたは言う。「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。 しかし、神があなたに対して唇を開き/何と言われるか聞きたいものだ。 神が隠しておられるその知恵を/その二重の効果をあなたに示されたなら/あなたの罪の一部を見逃していてくださったと/あなたにも分かるだろう。 
「ナアマ人ツォファルは話し始めた。」(1節)正しさについて語っている。確かに神の知恵の深さを知ることはできない。恐れおののくのみである。しかしそれによって解決しない「ヨブのなぜ」がある。人間の罪と救済の問題と深く関わる。人間は確かに神の前に無垢ではいられない。その罪なのだろうか。キリスト教では原罪と表現されてきているが、神を(または「真理を」)求め、神のみこころ(または「愛」)を生きることができなくなっている状態、と表現してもよいだろうか。小さな罪ではなく、本質的な罪である。しかしそれは罪ということばで表現されるべきなのだろうか。信仰告白として「罪」としか表現できないものということなのかもしれない。
Jb12:4 神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。 
「友人たちの物笑いの種」とはちょっとけんかを売っているような感じもないことはないが、ヨブが問うていることは、そんなことではないよ。ツォファルの言っていることは、もちろん知っているよと言っているのだろう。興味を引くのは前半である。神との近しいやりとりのなかで生きていたと思っている者だからこそ、大きな問いがが存在するのだろう。
Jb13:19 わたしのために争ってくれる者があれば/もはや、わたしは黙って死んでもよい。 
9:33 に現れた仲保者のイメージのおそらく第二回目の出現である。ここでは、友人たち(直接的にはナアマ人ツォファル)が神の立場に身を置いて責め立てることに対して、神に答えてほしいと願う場面である。自分に代わって、神と争ってくれるそのような存在との対比でもある。自分の訴えが聞かれているという確信の欠如だろうか。後者については、最後に満たされるが、神はヨブの「なぜ」には答えられず、仲保者もこの段階では与えられない。
Jb14:13,14 どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまで/わたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてください/わたしを思い起こす時を。 人は死んでしまえば/もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから/交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。 
7節には「木には希望がある、というように/木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない。」とあり、10節には「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」として希望がないことを語る。しかし完全に希望の存在を否定しているわけではない。それが、この13, 14節である。具体的にはよくわからない。しかし、神が自分を思い出すとき、怒りがやみ解放されるときに望みを託している。完全には希望を失わない。ここに信仰があるのだろう。その希望を実質的なものとして表現することは、困難であったとしても。
Jb15:13 神に向かって憤りを返し/そんな言葉を口に出すとは何事か。 
テマン人エリファズの二度目の議論である。10節には「わたしたちの中には白髪の老人もあり/あなたの父より年上の者もある。」とある。一般的には、エリファズは一番年齢が上とされているが、そうすると10節はどう解釈するのだろうか。議論がかみ合っていないことは、ヨブ記記者も十分理解しているのだろうか。しかし、エリファズのようにとらえることも可能であるように思える。冷静に考えてみたい。
Jb16:19,20 このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。 わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。 
この執り成す方の実在にヨブはどの程度確信をもっていたのだろうか。福音的に解釈することもできるが、同時に、この章の前半はイエスの受難を表現しているともとれる。10節・11節「彼らは大口を開けて嘲笑い/頬を打って侮辱し/一団となってわたしに向かって来る。 神は悪を行う者にわたしを引き渡し/神に逆らう者の手に任せられた。」などである。ヨブが神ののろいともとれる皮膚病を身にまとっていたことにより、救い主の本質や、ヨブの内面の苦悩が読み取れなかったのかもしれない。その状況でヨブは、執り成す者に希望のすべてをかけているのかもしれない。
Jb17:15,16 どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。 それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。 
ヨブが神と向き合うということから判断して、希望をもっていると言えると思われる。そう考えると、ここでは反語のように神に問いかけているのかもしれない。「塵」はいのちがとられてしまっているものの象徴として、自分がいずれ行き着く者として語られているのだろう。
Jb18:5 神に逆らう者の灯はやがて消え/その火の炎はもはや輝かず 
基本的に友人たちが説く基本原理は「因果応報」である。そうであれば、罪の結果とみえるヨブの苦しみだけでなく、「神に逆らう者の灯がやがて消える」こと「その火の炎はもはや輝か」ないことも真なのだろう。ヨブは異なる基本原理に生きている。それは、どのようなものと表現すればよいのだろうか。
Jb19:25 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。 
この章では友人たちへの非難の部分が大きい。「わたしが過ちを犯したのが事実だとしても/その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。 ところが、あなたたちは/わたしの受けている辱めを誇張して/論難しようとする。」(4節・5節)特に、4節の「その過ちはわたし個人にとどまるのみ」という表現も注意を惹く。他人に迷惑をかける罪ではなく神との関係おけることで、少なくとも友人たちとは無関係であるにもかかわらず、ヨブの誤りを「論難しようとする」と言っている。さらに21節では「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ/神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。」とあり、25節の背景をなす。「神の手」に触れられ、友人もそれを見て、自分を責める。そんなときにも「わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵(口語では「土」)の上に立」たれる。敬語の使い方からも、たつのは、購う方である。「塵」であるなら余計、人間の側にともにたたれることが強調される。
Jb20:2,3 さまざまな思いがわたしを興奮させるので/わたしは反論せざるをえない。 あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。 
ナアマ人ツォファルの二度目の弁論である。このように、批判を続けることが、結局は神の出現を生んだのかもしれないと、今回思うようになった。神のこころをこころとして、ヨブに語りかける、もしくは、ヨブの苦悩を共にする友の存在を求めているのかもしれない。19:25 からはそうではないから、購い主は必要だとなるのかもしれない。ヨブ記の一つのテーマとして考えたい。
Jb21:7 なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。 
ヨブは、世の中を見る限り「因果応報」とはなっていないことへの神への訴えを、徹底的に「因果応報」をヨブに適用しようとする友人に語る。この章はそのことがよく現れている。17節・18節「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い/神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。 藁のように風に吹き散らされ/もみ殻のように/突風に吹き飛ばされたことがあろうか。」たしかに、因果応報の根拠は不明確である。このようなこともあるが、そうでない場合も多い。子孫の時代に報いられるのかとの自問に対する20節は強烈である。「自分の目で自分の不幸を見/全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。」正面からこの問いと向き合うのは、素晴らしい。
Jb22:21 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。 
テマン人エリファズの第三回目(最終弁論)は2節の「人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。」から始まる。おそらくこれを重要な根拠とする故、人間の側の罪にまみれた生活(5-9節)から「全能者のもとに立ち帰り/あなたの天幕から不正を遠ざけ」(23節)神に従う生活への転換による神との和解のみが祝福への道(23-30節)だと説く。しかしイエスが求めるものは、少し違うと思う。神を愛し、自分のように隣人を愛することによって「人間が神にとって有益でありえ」るのではないだろうか。これは、ヨブのように、神からの応答、神との交わりを徹底的にもとめる姿勢とも関係している。
Jb23:15,16 それゆえ、わたしは御顔におびえ/考えれば考えるほど、恐れる。 神はわたしの勇気を失わせ/全能者はわたしをおびえさせる。 
おびえる理由はその前に書かれている。「神がいったん定められたなら/だれも翻すことはできない。神は望むがままに行われる。 わたしのために定めたことを実行し/ほかにも多くのことを定めておられる。」(13節・14節)自分では故意の罪はないと確信している。しかしそれでも、神が自分を罪ありとすることを否定はしない。このなかで神が応答をされれば「答えてくださるなら、それを悟り/話しかけてくださるなら、理解しよう。」(5節)解決するとの確信を持っている。ここでヨブがおびえるのは、そのような応答なしに、理由なしに、苦しみ、かつなかなか滅ぼされず(17節)かつ、神の「望むがまま」の裁きによって滅びるはかない存在としてであろう。この「恐れ」と「おびえ」はわたしも共有する。
Jb24:4 乏しい人々は道から押しのけられ/この地の貧しい人々は身を隠す。 
前の章での内面的な恐れから、ヨブは今度は、社会正義に目をむける。理不尽といえるもので世の中はあふれている。単純に因果応報ではない世界である。それは、認めざるを得ないだろう。問題の一つの確信でもある。
Jb25:6 まして人間は蛆虫/人の子は虫けらにすぎない。 
いくら何でも、ビルダトの三回目の弁論は短すぎる。その通りである。しかしその人の子らを神は愛しておられる。ヨブの問いは「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。 朝ごとに訪れて確かめ/絶え間なく調べられる。」(7:17,18)神が超然としてひとと関わらないのであれば、ヨブの苦悩も異なったものとなっていたろう。神との交わりを持っていたからとしてよいだろうか。安易にそうしてはいけないのかもしれない。私たちにしても、それは、約束ではあっても、実態として日々感じるかどうかは、単なる主観かもしれない。
Jb26:14 だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは/なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。
本文通りとして読むと、ビルダドを遮って始めたとも思われるヨブの弁論は乱暴にも聞こえる。4節「誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。」などは、誰も答えられないだろう。ヨブの心を変化を読み取るのは、行き過ぎだろうか。友人との対話の最初とは異なり、少なくともヨブは、友はすでに、自分とともにはいないと感じているのだろうか。
Jb27:5,6 わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。 
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ1:8)のように一般的には、上の主張は偽である。しかしヨブ記は物語であり「主はサタンに言われた。『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。』」(1章8節) さらに、2章3節でも、神自体がこのように宣言して始まっている。その設定の中での苦難が問われている。ただそうであっても、この章の記述は、戦闘的であり、神に対して挑戦的な態度であることは、否定できない。
Jb28:9-11 だが人は、硬い岩にまで手を伸ばし/山を基から掘り返す。 岩を切り裂いて進み/価値あるものを見落とすことはない。川の源をせき止め/水に隠れていたものも光のもとに出す。 
鉱山で金・銀・宝石を得る人の姿を、知恵を求める姿になぞらえている。箴言を意識しているのか、それと関連しているのか。最後の部分は、砂金の収集だろう。とても興味深い。23節からの、神との対比でも、この違いが著しい。哀れにも見えてくる。しかし、このように、自己を活写することができる「謙虚さ」と「明晰さ」には驚かされる。
Jb29:14 わたしは正義を衣としてまとい/公平はわたしの上着、また冠となった。 
この内容が15節から17節に続く。「わたしは見えない人の目となり/歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり/わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。 不正を行う者の牙を砕き/その歯にかかった人々を奪い返した。」神様から与えられている能力・冨の分かち合いとともに、社会正義に立ち向かう姿が書かれていることを覚えたい。この章は次のように始まる。「どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。」(2節)そのなかで不変のもの(神様の側にある真理)はなにかを考えていく過程なのかもしれない。なにがが変わったのだろう。そして、なにが、変わっていないのだろう。神様が善しとするものは、変わらないはずだから。
Jb30:25 わたしは苦境にある人と共に/泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。 
この章は「だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。」と周囲の変化の描写から始まる。9節の「ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種/嘲りの言葉を浴びる身になってしまった。」の嘆きは深い。その中で20節から神への訴えが始まる。25節はその一節である。変わってしまったことの記述のあとで、神に「普遍的な価値」について問うている。「神の御心を求めそれに生きること。」とも表現できるかもしれない。あなたが求めておられるのは、このようなこと(25節)ではなかったのですか。痛切な叫び、本質に近づいてるように思われる。
Jb31:10 わたしの妻が他人のために粉をひき/よその男に犯されてもよい。 
この章はヨブが潔白を訴える部分、さらに最後の言明となっている。一つ一つの項目を学ぶことは、当時の正しさの背後にあるものを理解する意味でも、とても興味深い。上の10節は今の私たちの目で見ると疑問符がつけられるが、当時は、このことこそが、妻に対することではなく、夫に対する最大の侮辱、裁きととらえられていたのだろう。一つ一つの正当性を検証するのは、おそらくあまり意味はない。ヨブ記の枠組みが「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1章8節)この人間にはあり得ない、際だった設定自体、それも、ユダヤ教主流派には、受け入れがたいかもしれない「ウツ」という外国の人に起こったことが、すごいのだろう。さて、出口はあるのだろうか。この章は「ヨブは語り尽くした。」(40節)で終わっている。
Jb32:2 さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。 
今までは、エリフはなかなか立派だと考えていたが、エリフも「ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張する」ことで立ち上がるなら、ヨブ記の設定の中での回答は得られない。創世記22:21に「長男はウツ、その弟はブズ、次はアラムの父ケムエル」ナホルとミルカの子の名前である。ヨブの出身地としている、ウツの語源と思われる人の兄弟である。「ブズ」は、他に歴代誌上5:14、エレミヤ25:23にも登場する。
Jb33:1 さてヨブよ、わたしの言葉を聞き/わたしの言うことによく耳を傾けよ。 
この章でのエリフの主張で目にとまるのは、二つ。一つは、ヨブに聞くように促していること。(1節・31-33節)そして、もう一つは、神の沈黙の理由は、わからないが、同時に、語る方法も様々であり築かないかもしれないということ、であると思われる。神の応答を求めているヨブに、向き合っている。その意味では、3人の友人とは、異なる見解をもつ。たしかに、ここですぐヨブが答えていたら、神は語られなかった、またはヨブが、神の声を聞き取れなかったかもしれないと思わされてしまう。言語的には、エリフの部分は加筆と考える学者もいるようだが、個人の聖書読者としては、まずは、本文のメッセージを読み取りたい。
Jb34:28,29 その時、弱い者の叫びは神に届き/貧しい者の叫びは聞かれる。 神が黙っておられるのに/罪に定めうる者があろうか。神が顔を背けられるのに/目を注ぐ者があろうか/国に対してであれ人間に対してであれ。
「その時」は23節「人は神の前に出て裁きを受けるのだが/神はその時を定めてはおられない。」を指すであろう。「神が黙っておられる」は「神はその時を定めてはおられない。」を受けているように思われる。最後の審判のときには、正しく裁かれる。その前に、まだ神が沈黙しておられるときに、神を告発するのは、誤りだと言っているように思われる。その中で、神との交わりをもち、限定的であっても、神から応答を得る。神秘主義に問題を追いやっているようにも思われるが、十分、エリフのメッセージは伝わってくる。
Jb35:12-14 だから、叫んでも答えてくださらないのだ。悪者が高慢にふるまうからだ。 神は偽りを聞かれず/全能者はそれを顧みられない。あなたは神を見ることができないと言うが/あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。 
直接的な論理としては、ヨブは高慢にふるまっている者とも、偽りを言っている者とも区別されているようだ。しかし、そのような状態から距離を置いて、神を待つべきだと言っているのかもしれない。これは、陰府に下るとのみ考えている、ヨブに希望を与えられるのだろうか。そして、永遠の命についてのメッセージをうけとったわたしたちは、単純にそこに希望をおいて、待つのだろうか。もう少し深く理解したい。
Jb36:19-21 苦難を経なければ、どんなに叫んでも/力を尽くしても、それは役に立たない。 夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ/悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは/まさにこのためなのだ。 
苦難の意味が語られている。興味を惹くのは、20節と、その意味を説明していると思われる21節前半。もう夜でよいとあきらめてしまう、絶望してしまうことを、戒めているのだろう。希望を持ち続けるように。
Jb37:21,22 今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。 
不可知をどう取り扱うか。死後の世界などを語らないとしても、やはり、希望の源は、重要であるように思われる。ヨブには、その確信がないように思われる。この章での、自然界での神の働きの不可知性、そして、不可知性の彼岸を思う、信頼、このあと、主が語られる。
Jb38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 
まず、ひとは「知識」がないと断言し(2節)その証拠として、創造世界について語る。それは、創造の行為自体とともに、制御・管理、創造世界の統治についてを含む。その目的は何だろうか。人間世界(共同体として)の倫理(そこでの正義)についての審判以外の世界の広がりをまずは、示しているように思われる。このあと、どのように展開するのだろうか。直球による応答ではないが、心が知的に啓かれる瞬間であることは、確かだろう。
Jb39:1 お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。 
外部世界に目を向けること。これは、マタイ5:24-33 も近いのだろうか。神が統治・制御される世界というだけではなく、共同体の倫理基準とは、異なることがあると言うことだろうか。神の働きの違った面を受け入れることが、内省につながるのかもしれない。
Jb40:15 見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。 
「ペヘモット」は口語訳では「河馬」となっていた。このあとの記述以外に、手がかりはない。19節には「これこそ神の傑作/造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。」とある。このあとには「レビヤタン」(15節)の記述が続くことを考えると「ペヘモット」も想像上の動物か。なにか、象徴的な意味があるのかもしれない。これらは、神のヨブに対する問いかけなのかもしれない。単に、知り得ない空間の提示では、おそらくないだろう。しかし、それとは、別に、我々は不可知をどのように、考え、向き合ったら良いのだろうか。
Jb41:1 勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。 
口語訳では41章9節となっており、章の切れ目が異なる。レビヤタンについての記述の続きである。レビヤタンについては、一度調べてみたいが、ヨブ記3:8, 40:25, 詩編74:14, 104:26, イザヤ27:1 に現れる。これと、黙示録にある蛇とが同一かどうかは、不明。しかし、サタンととれないこともないのかもしれない。神以外に押さえつけることができない、レビヤタン。その力の表現がこの箇所である。「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。 驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。」(25, 26節)
Jb42:10 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。 
これは、単なる時系列として「祈ったとき」なのだろうか、それとも、とりなしの祈りによって、その結果として、祝福が与えられたのか。こどもができるなど、もとにもどったとはいえないとしても、それも文学的手法でやはり「元の境遇に」戻ったと考えるべきなのだろう。

BRC2013

Job1:20, 21 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
ヨブは1節にウヅの人と出てくる。Gen10:23, 22:21 に現れるが、地名としては聖書ではここのみで、場所は分からないようだ。オズが東なのでそれから転じたかという説もあるとか。ヨブは、ここでシバびとの襲撃、家畜を襲った神の火、カルデヤびとの襲撃、大風による家の倒壊によって、家人、家畜、そして、子供たちとその家族がすべて失われたことを、主が取られたとしている。このように思う人は、それなりにいるかも知れない。ここでどう応答して生きるかが問われている。
Job2:6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
主は手を下されない。主は、しかしこの試練の背後におられる。神はヨブを「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」としている。これは、1:21 およびそれに続く 1:22「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」を受けているのだろう。「神を非難」することない部分だろうか。この意味を、このヨブを読みながら探りたい。
Job3:20, 21 なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。このような人は死を望んでも来ない、/これを求めることは隠れた宝を/掘るよりも、はなはだしい。
なぜ、これほど苦しみ、悩んで生きることを強いられるのかという問い。死をもとめることは、隠された宝を掘るよりも難しい。まさに苦しんで生きる意味が問われている。真剣な問いである。
Job4:6 あなたが神を恐れていることは、/あなたのよりどころではないか。あなたの道の全きことは、あなたの望みではないか。
今回は、ヨブ記を新鮮な気持ちで読める気がする。この箇所は、エリパズの言葉である。いままで気にならなかったが、わたしは、そしておそらくヨブも「神を恐れていることは、(わたしの)のよりどころではない」。もし、そうであるなら「完全他力にあらず。救いは恵みによる。」3節から5節の「見よ、あなたは多くの人を教えさとし、/衰えた手を強くした。あなたの言葉はつまずく者をたすけ起し、/かよわいひざを強くした。ところが今、この事があなたに臨むと、/あなたは耐え得ない。この事があなたに触れると、あなたはおじ惑う。」とあるが「神を恐れることを人に勧め、いま、落伍者になっている。」との論理も、神との関係とは異なるように思う。しかし、悩みは、実際にあり、神に問い続けたい。いま、なぜ生かされているのかと。この大きな苦しみと、我が身の弱さをご存じな神に。私は、底までは言えないにしても。
Job5:8 しかし、わたしであるならば、神に求め、/神に、わたしの事をまかせる。
おそらく、この態度がヨブと違うのだろう。だからといって、エリパズを責めることもできない。これに続く9節「彼は大いなる事をされるかたで、測り知れない、/その不思議なみわざは数えがたい。」から続くテーマも、17節からの「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。」もアーメンと唱えたい。しかしそれが、この章の最後に、4章7節にもある神を恐れるものは、この世でも祝福されるとして因果応報を主張するところには、違和感がある。
Job6:14 その友に対するいつくしみをさし控える者は、/全能者を恐れることをすてる。
12節には自分の弱さ「わたしの力は石の力のようであるのか。わたしの肉は青銅のようであるのか。」13節には神以外に救いがないことが語られている。「まことに、わたしのうちに助けはなく、/救われる望みは、わたしから追いやられた。」このような告白のあとに、この言葉が続く。全能者はこのようなときのために、友を与えられた、このようなときに、神は、友に対するいつくしみを求めておられるということだろうか。9節の「どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、/み手を伸べてわたしを断たれるように。」は、神から離れた状態で、悩み続けることを求められる神への独白なのだろうか。悩み続けることを、主から与えられた賜物とすること、それを友と共にできれば幸いである。
Job7:5 わたしの肉はうじと土くれとをまとい、/わたしの皮は固まっては、またくずれる。
この段落は読んでいてもつらい。そのなかでも、ヨブは問い続ける。17節・18節「人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、/これにみ心をとめ、朝ごとに、これを尋ね、/絶え間なく、これを試みられるのか。」ヨブのひとつひとつの言葉よりも、この姿勢からチャレンジをうける。毎日、苦しみだけで過ぎていく日のなかで、主を求め続ける。すさまじい。
Job8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
このとがを受けるのは、当然だということか。因果応報。一般的には、なにか問題があったとして、その問題を探し出し、その贖いをすることにより、そこから逃れられるとする。自然な考えなのだろう。罪の可能性を示されるだけでは、食い改めも、伴わない。そして、ヨブの問いに対する答えは得られない。
Job9:2 「まことにわたしは、その事の/そのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。
罪を暴き出して、8章20節「見よ、神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。」と主張する。それに対して「その通りである」とヨブは言う。一方で生身の人間の苦悩と、それから超然としている、全能の神「不公平」だとまでは言っていないが、それに近い感覚が表明されている。神の側には「苦悩」は無いのであろうか。
Job10:21 わたしが行って、帰ることのないその前に、/これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。
この章は「わたしは自分の命をいとう。」とはじまる。結局、死のあと何もない。死はすべての終わりであるとすることにより、救いは見つけられないのか。自分にとっての「死後」を定めるか、自分を神の国と一体化するかということだろうか。安易に、死を滅ぼされたイエスに到達せず、この問題を見つめたい。イエスのメッセージを思い巡らしながら。
Job11:6 知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも/軽くあなたを罰せられることを。
ナアマびとゾパルのことばである。言葉自体は興味深い。13節には「もしあなたが心を正しくするならば、/神に向かって手を伸べるであろう。」そして「そうすれば」とつづく。ヨブの苦悩、問いには答えていないのだろう。一つ一つの言葉ではなく、全体の修辞を丁寧にみないと全体を見失ってしまう。
Job12:24, 25 地の民の長たちの悟りを奪い、/彼らを道なき荒野にさまよわせ、光なき暗やみに手探りさせ、/酔うた者のようによろめかせる。
ヨブがゾパルに答え、ゾバルが述べる知恵は、わたしも持っている。として、語る部分の章の最後にこの言葉がある。主権を明確に述べつつ、自分の問いとかすかに結びつけているように思う。もしかすると、結びついてきてしまってやめたのかも知れない。
Job13:15, 16 見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を/彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救となる。神を信じない者は、/神の前に出ることができないからだ。
3節にあるように「神と論ずることを」望み、22節にあるように、神に答え、神からの応答を望む。この一時をねがっている。神とのこのような関係こそが、神の前に立つことなのだろう。すでに、ヨブは神の前に立っている。応答を聞き取ることはまだできないが。わたしは、そこまで真剣に望んでいるだろうか。ヨブが恋い慕うような神との関係を。
Job14:13, 14 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。
死後については、あまり論じられていない。それは、大切なことなのかも知れない。いま、生きているときに希望を持つために。しかし、同時に、死がすべてのものの終わりとするのも、希望を失わせる。解放はやはり信じて、死に、それを知りつつ、いまを精一杯生きるのだろう。
Job15:4 ところがあなたは神を恐れることを捨て、/神の前に祈る事をやめている。
テマンびとエリパズの二度目の登場である。ヨブはまさに祈りのなかにいるのだろう。ただ、それが祈りと理解されないということは、祈りを丁寧に定義し直す必要があるのかもしれない。エリパズのこの章の言葉から考えると、一般的に祈りは「感謝」(11節)・「罪と自分の弱さの告白」(35節)・「願い」であろうか。しかし、このような言葉でかいた時点で、その内容を問わないと、エリパズの祈りと、ヨブの祈りを比べることができないことに気づかされる。また、神に対する「ヨブの姿勢」「キリスト者の姿勢」「当時のユダヤ人の姿勢」「一般のひとの姿勢」を整理しなければ、論じられないことも感じる。
Job16:6, 7 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
4節・5節と対比されている。ヨブの苦悩の一部が言い表されている。19-21節の告白がのちに現れる。単純に仲保者の必要性と受肉前の基督へと結論づけるのは、問題があるように思われるが、ヨブはひとでも、神ご自身でもないものに、望みを置こうとしているのだろうか。苦しみの極限を知ったものだけが到達できる場所なのか。
Job17:3 どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために/保証となってくれる者があろうか。
この章は「わが霊は破れ、わが日は尽き、/墓はわたしを待っている。」ではじまり、11節でも「わが日は過ぎ去り、わが計りごとは敗れ、/わが心の願いも敗れた。」と絶望的状態を吐露している。ヨブの孤独の独白なのかもしれない。そのなかで、神以外に理解してくれる存在がないとして、祈願しているのが、この節だろう。この思いは理解できる。わたしもこのように思ったこともあるのだから。しかし、救いは、神の働きは、見えないところで、わたしたちを取り囲んでいる。
Job18:3 なぜ、われわれは獣のように思われるのか。なぜ、あなたの目に愚かな者と見えるのか。
シュヒ人ビルダデの第二回の弁論である。弁論とは言っても、すでに決裂のにおいがする。ビルダデには理解できない。わたしがヨブを理解しようとするのは、イデオロギー的に、ヨブが正しいとしているからか、ほかの要因があるのだろうか。ビルダデのような言葉を発することも十分理解できるように思う。他者の痛みをどのように受け取るか、信仰をどのように見るかだろうか。
Job19:13 彼はわたしの兄弟たちを/わたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
「彼」は6節からの続きと考えると神であろう。この節から、ヨブがみなに見捨てられ、疎まれることが書かれている。親類および親しい友 (14節)、家に宿るものおよびはしため (15節)、しもべ (16節)、妻および同じ腹の子ら (17節)、わらべたち (18節)、親しい人々およびわたしの愛した人びと (19節)、20節には自分の肉体のことも書かれている。2章までのこと以上にヨブは苦しんでいたのだろう。孤独の戦い。そこで25節のように「わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」なぜ告白できるのだろう。
Job20:5 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、/神を信じない者の楽しみは/ただつかのまであることを。
ナアマ人ゾパルの二回目の弁論である。この5節にあることについて、ヨブはどう考えていたのだろう。イエスの毒麦のたとえ (Mtt13:24-30) から、一般的には、最後の審判まで悪しきものも残されるとキリスト者は、理解されているだろう。
Job21:34 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、/わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。
20:5 に対するヨブの応答がこの章に書かれている。この最後のことばはきっぱりしている。悪しきものが「その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。」(13節)、さらに「彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。全能者は何者なので、/われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。」(14, 15節) これは、「人生に神はいらない。何も問題はない。放っておいてくれ。」というのに似ている。それに、「いずれ神様からの罰が下るよ」という応答に対する、ヨブの決然とした応答だとも取れる。わたしは、どう答えるだろうか。
Job22:30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、/救われるであろう」。
テマン人エリパズの3回目の弁論である。「あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない。」(5節) と非難はするが、トーンは落ちている。「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」(21節) 委ねるしかないと考えるようになっているのかも知れない。難しい。
Job23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
ヨブの憐れみ深い神への信頼は、17節にあるように「わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。」このような状況においても、変わらない。言い過ぎと思われる箇所があっても、神がよしとされる理由だろう。
Job24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を/定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。
世の中の理不尽さそれをヨブは問う。人はみな罪人だから?死で終わりではないから?本当に価値のあることは、この世で言われている通常の祝福とは異なるから?この世でも神とともに生き生きと生きる恵みを受けること自体が喜びだから。だろうか。キリスト教で、これは明確になっているのだろうか。
Job25:2 「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
シュヒびとビルダデの三回目の弁論である。信仰は、少なくとも、このヨブ記において、神理解と、神と人間との関係の理解、および認識の問いであるように思われる。うじは聖書に何回か現れるが、6節「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」。」は強烈。(Cf. Job 17:14)
Job26:14 見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所は/いかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、/だれが悟ることができるか」。
いくら、善行を積んでいても、神のなされるわざを見切ってはいけないということか。ヨブのこの修辞はどこにつながるのだろう。
Job27:10 彼は全能者を喜ぶであろうか、/常に神を呼ぶであろうか。
7節の「どうか、わたしの敵は悪人のようになり、/わたしに逆らう者は/不義なる者のようになるように。」からつながっており、10節の「彼」は「わたしの敵」「悪人」を意味するのだろう。しかし、このようにいうことで、ヨブ自身とは異なるものを示しているように思う。ヨブは、この時に及んでも、「全能者を喜」び、「常に神を呼んでいる。2節などから、あら探しをしても仕方がないであろう。自分の正しさの主張と言うより、神の応答を求めているのだから。
Job28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。
箴言を思わされ、なにか関連性があるのではとさえ感じる。この章は、宝をさがすような言葉で始まり、12, 13節の「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。」と問い、23節の「神はこれに至る道を悟っておられる、/彼はそのある所を知っておられる。」との確信そして、この節である。「自由と敬虔」の行き着くべきことばであるとも思わされる。
Job29:24 彼らが希望を失った時にも、/わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。
2節には「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、/神がわたしを守ってくださった日のようで/あったらよいのだが。」とある。過去の「良き時」の回顧である。24, 25節のように、周囲のひとを力づけ慰める者でいたいと願う気持ちはよくわかる。わたしもそれを望む。そのような自由も奪われたとき、ひとは尊厳をもって自由に生きられるのだろうか。ヨブの苦悩は深い。
Job30:11 神がわたしの綱を解いて、/わたしを卑しめられたので、/彼らもわたしの前に慎みを捨てた。
ひどいやからがヨブを笑いものにする。神の義もおとしめられている、ち言っているのだろうか。たといそうであっても、主に訴えるのみ、ということか。たしかに、神への訴えをやめてしまうことは、信仰を捨てることかも知れない。
Job31:15 わたしを胎内に造られた者は、/彼をも造られたのではないか。われわれを腹の内に形造られた者は、/ただひとりではないか。
このことを明確に根拠にしていることはすばらしい。貧しい者、みなしご、着物が無いもの、死にゆく者などにたいする憐れみと同時に、もしかするとさらにむずかしいことが13節に書かれている。「わたしのしもべ、また、はしためが/わたしと言い争ったときに、/わたしがもしその言い分を退けたことがあるなら、」そして14節が続く「神が立ち上がられるとき、わたしはどうしようか、/神が尋ねられるとき、なんとお答えしようか。」まさに、これが神を畏れることであろう。
Job32:8, 9 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
老いた者、年とった者が、道理をわきまえるのは、神との関係のもとで生きた歩みを、真摯に内面化し、造り変えられることによるのだろう。わかいひとのことばを丁寧に受け取りたい。
Job33:14-18 神は一つの方法によって語られ、/また二つの方法によって語られるのだが、/人はそれを悟らないのだ。人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、/夢あるいは夜の幻のうちで、彼は人々の耳を開き、/警告をもって彼らを恐れさせ、こうして人にその悪しきわざを離れさせ、/高ぶりを人から除き、その魂を守って、墓に至らせず、/その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。
エリフの最初のポイントは、神が様々な方法で語られるということだろう。生かされていること自体が、神が答えておられること、そのすべての背後におられる、神からのメッセージを受け取るべきことを伝えているのか。
Job34:12 まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない。
エリフの第二のポイントは、この12節にも、そして10節にもあるように「神は断じて悪を行うことなく、/全能者は断じて不義を行うことはない。」との確信であろうか。しかし、36節を見ると、厳しすぎるように思われる。「どうかヨブが終りまで試みられるように、/彼は悪人のように答えるからである。」ヨブが神に聞くことを信じ、神の働きに信頼しているからか。
Job35:13, 14 まことに神はむなしい叫びを聞かれない。また全能者はこれを顧みられない。あなたが彼を見ないと言う時はなおさらだ。さばきは神の前にある。あなたは彼を待つべきである。
まず、目を閉じ、聞くこと、思い巡らすことを静かにするべきなのかもしれない。限定したひとつの方法で神が答えられるのを望むのも、ひとの傲慢かもしれない。
Job36:5 見よ、神は力ある者であるが、/何をも卑しめられない、/その悟りの力は大きい。
「何をも卑しめられない」は新共同訳では「たゆむことなく」となっている。ここに、ひとりひとりに対する神の働きが表現されている。7節から10節も興味深い。「正しい者」が苦難にあい(8節)、とがをおかし、たかぶる(9節)ときのことも書かれている。これらすべてをも含んで、26節で「われわれは彼を知らない」と告白する。もう少しじっくり読んでみたい。2年後また戻ってこよう。
Job37:2 聞け、神の声のとどろきを、/またその口から出るささやきを。
大きな声と小さな声ともとれるが、とどろきも、ささやきも聞き取りにくい。耳をすまさなければいけないのだろう。エリフの語る最後の章で、このあと、神が語られる。もしかすると、神の声をヨブが聞くようになるのかも知れない。エリフのことばを通して、耳が開かれていったのかも知れない。エリフのことばの最後は23節、24節「全能者は――/われわれはこれを見いだすことができない。彼は力と公義とにすぐれ、/正義に満ちて、これを曲げることはない。」それゆえ、人々は彼を恐れる。彼はみずから賢いと思う者を顧みられない」。
Job38:2-4 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。 わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
主が語られる。おそらく、主はいつも語っておられるのであろう。それを、聞き取る時が、ひとに来る。神は、まずヨブと向き合うところからはじめ、ヨブに問う。ひとつひとつの記述が興味深い。ひとの思い至るところは本当に狭いなとも思うと同時に、このような書が残されていることに、ひたすら驚く。
Job39:5 だれが野ろばを放って、自由にしたか。だれが野ろばのつなぎを解いたか。
この章で神は、ヨブに自然界の神秘を知っているかと説く。谷間のやぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、たかとつづく。自然・野性は神秘の象徴だったのだろう。おそらく、今も、それを神秘ではないかのごとく人間が生き、調和を乱しているところに問題があるのだろう。静まって、ひとが何を知り、何を知らないか、考えてみたい。
Job40:15 河馬を見よ、/これはあなたと同様にわたしが造ったもので、/牛のように草を食う。
「あなたと同様にわたしが造ったもの」考えさせられることが多い。このあと、河馬の生態の記述がつつく。そしてその背後に神がおられることを感じさせられる。ヨブと神の対話とともに、このように記した、ヨブ記者に思いを巡らす。どんな人だったのだろう。
Job41:1 あなたはつり針で/わにをつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。
新共同訳では「わに」は「レビヤタン」となっている。想像上の生き物である。ひとが、知っていること、知りうることの範囲を、謙虚に認めることは、基本的であるということだろう。想像上の生き物についてこれだけ長く書いてあることに違和感を感じることもあるだろうが、おそらく、そのときに、ひとが考えるべき事は、それだけの長さを必要とすると言うことだろう。
Job42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
エリパズたちにとっては、屈辱とは写らなかったのか。理解できたのだろうか。ヨブにとっては、このとりなしが、神の新しい理解の元での最初の仕事たっだのだろう。


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詩編

詩編(1)

詩編は聖書の中でもちょっと変わっていますね。まず、他はすべて章で区切られていますが、詩編は第1篇、第2篇と続き、第150篇まであります。なかなか長いですね。非常に長い第119篇などというのもありますが、それ以外は比較的短く、とても短いものもたくさんあります。通読であっても、一篇一篇を味わう余裕もあると思いますよ。

引用するときに、ちょっと混乱する可能性があるのは、節の振り方が翻訳によって違うことです。これは、表題を節として数えるかどうかに依っています。表題はついていないものもありますが、殆どについていて、日本聖書協会の新共同訳ではこれを本文の一部として節がふられ、口語訳や、日本聖書刊行会の新改訳ではふられていません。そこで多くの場合1節ずれます。現在は、新共同訳が一番普及していると思うので、ここでは、特に断らない限り、新共同訳の節番号を使います。ちょっと違うときはその周辺を探してみてください。理由はここでは書きませんが、新共同訳が元にしたヘブル語聖書にはこの表題にも節番号がついているとだけ書いておきます。

もう一つの特徴は、第一巻から第五巻までに区切られていることです。そして、それぞれの最後は、頌栄とよばれる言葉で終わっています。区切りとその締めくくりの言葉を新共同訳から引用しておきます。

第一巻 第1篇-第41篇
41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。

第二巻 第42篇-第72篇
72:18-20 主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。エッサイの子ダビデの祈りの終り。

第三巻 第73篇-第89篇
89:53 主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。

第四巻 第90篇-第106篇
106:48 イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ。

第五巻 第107篇-第150篇
150:1-6 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

ハレルヤは「主をほめたたえよ」の意味ですが、詩編全体が、賛美・賛美の書となっているのですね。

では、どのような内容なのでしょうか。それは読んで味わって頂くのが一番ですが、一般的には、 祈り、賛美、悔い改め、国家、エルサレム、諸国のためのとりなし、神様への信仰告白、神の知恵、力などの表現、国家や神に対する敵への呪い、義人の苦しみ、悪人の繁栄の嘆きなどです。

大きくとらえると、祈りとも言えますし、信仰告白とも言えると思います。つまり人から神へのことばです。こう言い切ってしまうと、聖書は神のことばではないのかと言われる人もいるかも知れませんが、人生や聖書を通して示される神からの語りかけに対して、応答によって神を指し示すと考えられるのではないかと思います。読むときには、わたしたちのような生身の人間の言葉として、苦しみや喜びを読み取ってくださればと思います。その先になにが見えるかはそのあとの問題ですね。

おそらく「呪い」については、ちょっとショックを受ける面もあると思います。しかしこれも人間の一つの告白でしょう。キリストによる神様の愛が明確な形では示されていない、そのときのひとの苦しみ悩みの表現は、すなおにうけとってよいと思います。そして、キリストの愛が示された今は、そのような悩みは存在しないと言えない事も明らかでしょう。

最後に神様の名前の用法、ちょっと難しいですが、をちょっとだけ書いておきます。いまは、いろいろな方法で検索もできますが、 神をヤハウェと特別な言葉で表現する場合と、一般名詞としてのエロヒームと記す場合があります。実は、上の5巻ではこの用法はかなり違っていることが良く知られています。1, 4, 5 巻はヤーウェが圧倒時に多く、エロヒームは殆どでてこない。それに対して、2, 3 巻はエロヒームの方が圧倒的に多く出てきます。日本語聖書でこの違いを見分けることができるかな。

詩編(2)第一巻

41篇までが詩編は第一巻となっています。 詩編はむろん詩文体で散文体ではありません。ヘブル語は三文字で構成される単語が多く、それが詩文体で並んでいると翻訳も難しく、違う翻訳をみるとかなり違った印象を受ける箇所、または、明らかに意味が違うところもいくつもあります。ただ、BRC は通読を基本としていますから、丁寧な比較まではできません。以下、ここでは、口語訳で引用させて下さい。

1篇は次のようになっています。

1. 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2. このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3. このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
4. 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
5. それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6. 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
2節に「主のおきて」「そのおきて」と出てきます。新共同訳では「主の教え」「教え」ですが、この言葉はトーラーという言葉で律法という意味で、通常はモーセ5書と呼ばれる、聖書の最初の5巻を意味します。詩編でもトーラーという言葉はたくさん出てくるのですが、翻訳ではいろいろな訳になっています。1節、2節は、日本語で考えると、2節は、1節で言われているようなひとが、「おきてをよろこび」「おきてを思う」となりますが、おそらく因果関係などは考えない方がよいでしょうね。1, 2, 3 と並列に書いてあるのです。「さいわいだな!」からはじまって「皆栄える」となります。そして「悪しき者」最後は6節で締めくくられています。最後から前に戻ると、正しいものについてうたわれている詩だということがわかります。そして、主はその道を知っておられます。その道は、1に書いてあるような生き方ですね。みなさんにとっては、1節はどのような生き方でしょうか。犯罪に手を貸さないというような事でしょうか。2節には「主のおきてをよろこび」とありますよね。この感覚はしっくり来ますか。

詩編1篇は第一巻をまとめるような内容なのかもしれません。第一巻最後の41篇もとても印象的な詩編です。

1篇の3, 4 節以降をみると、正しい者は栄え、悪しき者は滅びる。本当にそうでしょうか。現実を見たときに。

不正や悪ではなくても、先天性の病気や障害をもって生まれてくる人、何も悪くないのに、交通事故にあったり、戦争などに巻き込まれて命を落としていく人もたくさんいます。それほど単純ではないと言いたいこともたくさんありますよね。

ひとの生き方も、それなりに、かみさまが望まれるように生きようとしていても、そうでないこともしてしまう。

実際第一巻の最後の41篇には、そのようななやみも出てきます。

わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。
わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
(詩編41篇4,5節 口語訳)
それを知りつつ、この1篇。みなさんは何を考えられますか。

いろいろな詩編に出会われることと思います。

皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。

詩編(3) 第一巻

22篇、23篇はよく知られていると思います。

少しみてみましょう。今日は、新共同訳を中心に使います。前回も書きましたが、翻訳によっては、節がずれる事がありますので、注意してください。22篇は「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」とはじまります。

マタイ27:44 には、イエスが十字架上で次のように叫んだ事が記されています。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15:34にも同様の言葉が記されています。この詩編に記されている事ひとつひとつが、十字架でのイエスの苦しみを暗示させます。

この詩編がいつ作られたか確定はできませんが、この詩編22篇に記されている苦悩は、その作者のものでもあったでしょう。まずは、詩編自体をみてみましょう。

「指揮者によって。『暁の雌鹿』に合わせて。賛歌。ダビデの詩。(1節)」と表題がついています。「暁の雌鹿」もよくはわかりませんが、神殿で犠牲を捧げるときに唱えられた詩編なのかも知れません。

2節・3節には、見捨て、沈黙される神への訴えがあります。

わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
4-6節には、つねに、主に救われてきた先祖たちと、その賛美をうける主について書かれていますが、7--9節はなんと、
わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
詩編記者の苦悩、神から見放され、人から嘲笑されている姿が記されています。さらに12-18節には、肉体をおそう苦痛と苦悩も表現されています。しかしそれでもなお、最後は、主をよびもとめ、賛美へとかわっていきます。神からの助けがなく、人に捨てられあざけられ、肉体もばらばらになっていく、ここまで過酷な状態があるでしょうか。そしてそれでも、神に信頼と賛美を唱える。凄まじささえ感じます。

最初に書いたように、この姿は、十字架上のイエスといろいろな面で重なります。上で引用した 4-6節も次の箇所と類似しています。

ルカ23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

では、イエスはどのような意味で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだのでしょうか。むろん本当のところはわかりませんが、みなさんはどう思われますか。十字架上でこの詩編を唱えておられたのかもしれません。そして、本当にイエスは神に見捨てられた状態になったのかも知れません。もしそうだとしたら何がおこったのでしょうか。

イザヤ52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。

イザヤ53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

詩編23篇は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まります。

主の牧場、主の支配、神の国に住むものの平安が語られます。しかしなにも問題がないという意味での平安ではありません。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

と続きます。みなさんは「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」という経験がありますか。

詩編(4) 第一巻

詩編32篇をみてみましょう。今日は口語訳聖書から引用します。 この詩編は「ダビデのマスキールの歌」と書かれていますが、マスキールは「さとし」「おしえ」といった意味ですね。つぎのように始まります。
1. そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
2. 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
しかしこれは、単なる一般論ではないことが直後にわかります。
3. わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
4. あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
この苦しみは並大抵ではありません。みなさんは、このような経験はありませんか。おそらく、この詩編記者もなにか訳がわからず苦しんでいたのではないでしょうか。おそらく祈っていなかった訳ではないと思います。もしかすると、苦しみの原因をだれか他の人の責任にしたりしていたかもしれません。しかし、苦しみとは別に、自分に問題があることを、少しずつ気づかされます。苦しみが、主の御手として認識され、罪、不義を自覚させられます。
5. わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
とてもあっさり書かれていますが、おそらく、葛藤の末に、ここに至ったのでしょう。そして次のように告白します。
6. このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
7. あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
津波のような大水に襲われても、沈んでしまうことはないと告白します。口語では「このゆえに」とあります。祈る、基本的な理由は、主からゆるしを得、圧倒されそうになるときにも、支えてくださる、この確信ゆえなのでしょう。いのるのは、ゆるしていただくためかもしれません。そして主に信頼するものはゆるされたものです。そして、この詩編記者はそのことを「あなた」に教えています。
8. わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
9. あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
自分勝手に暴れ回る、統制のとれない馬や騾馬のようであってはならないと教えています。
10. 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
11. 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
主に信頼する以外に、救いはない。ゆるしが得られるものは、本当に幸いですね。イエスによって、まさに、そのゆるしが与えられるのでしょう。
1ヨハネ1:9-11 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
「告白してゆるされる」そんな単純ではないのではと思われるかもしれません。そうですよね。でも、詩編33篇にはつぎのような言葉もあります。
7. 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
深淵を倉におさめてしまうのです。神様だからこそできることでしょう。罪のゆるしはそれゆえ神業以外のなにものでもありません。そして、人間の世界では「ゆるすること」と「愛すること」の間には、隔たりがあるように見える化も知れませんが、神様においては、同じなのではないかと思います。

詩編34篇18節には、こうあります。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
そして次のようにむずばれています。
22. 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに/罪に定められることはない。
ゆるしをえるために主の前に出て祈る。信頼の生活の基盤がここにあるように思います。最後に、イエスが、いのりについて教えてくださる普通「主の祈り」といわれるものの次にかいてある箇所を引用しましょう。マタイによる福音書 6章14, 15節
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
オランダ人でナチの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人をかくまい、家族全員が強制収容所に入れられ、自分だけ解放されそのあとは、愛と赦しを説いてまわった「隠れ家」の著者コリー・テン・ブーンのことばを最後に書きます。
赦しとは、囚人を解放することであり、その囚人とは自分であったと気づくことです。
Forgiveness is to set a prisoner free, and realize that prisoner was you.

詩編(5) 第二巻

神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。なかなか記者のこころがピンとこないこともありますが。同時に150篇からなる詩編を選択して、この一巻にまとめたひと(たち)もいるわけですね。そしてそれが聖書の中にくわえられている。わたしもよくわからないことが多いですが、イマジネーションを働かせて、一篇一篇味わうようにして読んでいます。

いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編46篇

この詩編は、宗教改革者マルチン・ルターの愛称詩編で常に唱えていたようです。

1: 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
2: このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
3: たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ

ルターもずっと苦しいときを生き続けたのだと思います。そしてその苦しいときにも、たくさんの手紙を書いたり、隠れ住んでいるときに聖書の翻訳をしたり、この詩編はまさに、そのようなルターを支え続けたのでしょう。

8: 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
9: 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10:「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
11: 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

ルターは、おそらくその思いとは反して、農民戦争で農民をたすけたり、領主側に立ったり、これらのことによって批判を受けることになります。それぞれの階層の人たちの教会の権威や、農民の領主の圧政からの解放という社会的なうねりのなかで、知名度が高くなり、影響力が大きい人物となった責任がルターにのしかかり、そのひとたちを啓発したり、利用されたりしていったのです。ひとつひとつこの詩編のことばをかみしめていたのだと、そのときのルターのこころに思いをよせます。

詩編49篇

5: わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。

世の中には理不尽なこと、悪人が栄えること、どんなに正しいことを貫いても報われないことがあります。おそらくそれは、どの時代にもあることでしょう。ここでは、いのちを究極のものとして、そこに目を向けています。

7: まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
8: とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
10: まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。

すると、結局、賢いひとも、愚かなひとも、獣のようなひとも同じとなります。詩編の次の次伝道の書(新共同訳ではコヘレトの言葉)の底を流れる問いの一つとつながります。さて、ここで希望はどこにあると記者は言っているのでしょうか。究極まで考えると結局、賢いひとも愚かなひとも、獣のようなひともおなじではないか。おそらくそれに答えるのが次のところなのでしょう。復活に関する記述だともとれます。

14: 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
15: しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ

死に対する勝利、詩編記者はそれをどのように信じていたのでしょうか。

詩編51篇

ダビデの詩編として有名です。サムエル記下11章・12章が背景にあります。是非、もう一度、サムエル記下の記事を読んでみてください。わたしは、この事件は、11章・12章で終わるものではないと考えていますが、それはまたの機会にしましょう。個人的には、51篇はすこし不満です。そこで、かなりあとになってから振り返って作った詩篇なのか、ダビデのこの事件を想定して作った詩篇なのかとさえ思います。もちろんわたしがまだ十分理解できていないのかもしれません。おそらくそうなのでしょうね。じっくり読んでいただければ幸いです。

詩編53篇は、次のように始まります。「愚かな者」「『神はない』という」これは、詩編にはもう一回出てきます。この愚かは、ギリシャ語ではモロスですが、賢いは、ソフォス、それが一緒になって、ソフォモアということばになっているそうです。それが混在している、またはそれが分かれていく学年ということでしょうか。聖書では、詩編のつぎの箴言で、この賢いと愚かが中心的トピックとして扱われます。しかし、なぜ、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」のでしょうか、論理的には、「神はない」と言わないものは、愚かな者ではないとなります。ここには、なかなかの真理がふくまれていると思いますが、みなさんは、どう思われますか。「『神はない』という」者が愚かだとは言っていません。

53:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。

14:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

詩編(6) 第二巻

神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。特に救いを待ち望む祈りと賛美の詩編がたくさんありますね。敵からの救いとして、敵が滅びることを祈り求めるものもたくらんあります。平和な日本にすむ私たちにとっては、抵抗があることは確かですが。

この BRC のサポートページもおいてある私のホームページには、わたしの証やメッセージも載せていますが、2003年の大学礼拝でのメッセージ「平和の中で育むもの」に「先日、C-Week で、もとテロリストで現在は牧師をしている方が、メッセージをされました。その方も冒頭で『紛争地には中立はない』と言っておられました」このことをイメージしながら考えないと理解できないことも多いのかもしれません。また同時に、物理的に紛争地ではなくても「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15 口語訳)を現実のことと考えると、緊迫した状況の中にいる私たち自身をも見いだすことができるかもしれません。

いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編62篇

1: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
5: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。

みなさんは「もだして」ということばはわかりますか。漢字で書くと「黙して」となります。思考・行動などとの関連で「口を開かない」ことのようです。上にあげたように、この詩編には二カ所この言葉が使われていますが、他の聖書の箇所にもほとんど使われていません。聖書に使われていることばとして、普段はあまり使われないので、わたしには特に印象が強い言葉です。確かに救いを神にもとめ、願いをもって神に訴えます。しかし、最終的にこの態度が、自分の望みのように、自分が考える救いのようにことが運ぶことを願うのではなく、神の主権のもとで、神の国がくることを願う、御心がなることを願う、ひとりの人間の態度・姿勢なのだなと思います。上の1, 5節にはそれぞれ次の節が続きます。

2: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
7: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
8: わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。

そして、私たちの日常にも関係するような次の言葉が続きます。

9: 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
10: あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。

以前、詩編は詩文体なので、訳によりかなり意味も変わってくると書きました。その問いを投げかけるため、9節に対応する新共同訳を引用しておきます。

9: 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。

詩編64篇

1: 神よ、わたしが嘆き訴えるとき、わたしの声をお聞きください。敵の恐れからわたしの命をお守りください。
2: わたしを隠して、悪を行う者の/ひそかなはかりごとから免れさせ、不義を行う者のはかりごとから免れさせてください。

敵からの救いを求める詩編です。この次の節からその敵のことが書かれています。

3: 彼らはその舌をつるぎのようにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、
4: 隠れた所から罪なき者を射ようとする。にわかに彼を射て恐れることがない。
5: 彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、「だれがわれらを見破ることができるか。
6: だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。

これに対して神はどう応答されるのでしょうか。それがその次に書かれています。

7: しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
8: 神は彼らの舌のゆえに彼らを滅ぼされる。彼らを見る者は皆そのこうべを振るであろう。

神が矢を射られる。その理由は「彼らの舌のゆえ」となっています。つまり、自分を陥れようとしたことを理由としているのではなく、隠れたところから、罪のないものを射、そのことは暴かれないと言ってはばからない。その故です。

最後は次の言葉で締めくくられています。

9: その時すべての人は恐れ、神のみわざを宣べ伝え、そのなされた事を考えるであろう。
10: 正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる。

紛争の中にいる、詩編記者のことを考えると、いまから 2500年から3000年も前に、このような祈りがなされていたことに驚きを禁じ得ません。正直、詩編によっては、身勝手な祈りと思われるものもありますが、詩編全体でみたときに、戦いの中にいて、神をほめ讃えるものの信仰に圧倒されてしまいます。

詩編66篇

5: 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
6: 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。

6節は出エジプトのできごとを踏まえています。出エジプト14章と、ヨシュア記4章です。 ここで終わりません。

9: 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。

と書いた直後に、

10: 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
11: あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
12: 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。

簡単にかかれていますが、14節を読むと、実際に悩みの時に神に求めていたこともわかります。

14: これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。

そして

18: もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。

皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。

詩編(7) 第三巻

第三巻の最初の詩編73篇と81篇について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編73篇

このように始まります。

1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
2: しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
3: これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

21: わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
22: わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
23: けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

どう思われますか。なかなか苦しみの中にいるとき、このように告白できるかどうか分かりませんが、2, 3 節は、自分が「こころの清い者」ではなかったことを具体的に表現しているのでしょう。

マタイによる福音書5章 8節には「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」とあります。論理的に考えると「神の救いをみることができないのは、心が清くないということだ」ともなります。2,3 節から考えると、悪しき者が栄えるところに目がいってしまい、こころが分裂してしまって、神の救いに預かれない、神の業としての救いを見ることができないとなります。21-23節では、自分が「愚かで悟りがなく」神に対して「獣のようであった」と告白しています。この状態なのでしょう。

しかし、その次の23節には「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。」とあります。前半は、自立的に常に、神とともにあったというより、このことを発見したということかもしれません。気づいてみたら、このようだった、といって神を褒め称えているのです。

この1-3節の後も是非読んでください。悪しき者の忌まわしき様が書かれています。そして、

10: 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
11: それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
12: 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
13: 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
14: まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
15: わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
16: もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
17: しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
18: わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
19: まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
20: なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。

どのように読むべきか確定的ではない部分もありますが、悪しき者の非道を行い、それを謳歌するなか、民も心を変え、それを褒め称える。神を誹謗し、かつ、世の富、祝福も悪しきものとともにある。14 には義憤のようなものも現れているでしょう。しかし「いたずらに」は、新共同訳では「むなしかった」と書かれていますが、悟りなく正しさのみを追い求める苦しさが表現されています。16節は、その現実を後代に語ることを表現しているのでしょうか。さらに、17節はおもしろいですね。悟りを得ようと考えたのでしょうが、それは、面倒にも思えたというのです。(新共同訳は訳がかなり違います)そして、18節を迎えます。この人は「聖所」で悟りを得たのです。19, 20 には、悪者が滅ぼされる光景が書かれていますが、悟りが、聖所で得られたのだとすると、現実というより、神のみわざを悟ることだったのでしょう。悪者の栄華に「虫が食い、さびがつく」マタイによる福音書6章19節だったのかもしれません。そしてそれが全体として 1節に表現されているのではないでしょうか。

1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。

詩編81篇

この詩編は今度は、神様に従わない民の側のことが次のように書かれています。

11: しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
12: それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。

逆らう民に対する、神のこころが記されているとともに「わたしは彼らを、そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。」

とあるのです。ローマ人への手紙1章24節

ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

を思い出させられます。これもひとつの裁きの形、しかし同時に、13節のように神様は望んでおられるのでしょう。

13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。

詩編(8) 第四巻

第四巻は106篇までです。各巻はどのようなまとまりになっているのでしょうか。テーマはあるのでしょうか。詩編の最初に神をなんと読んでいるか、用語の使い方が異なることは書きましたが、正直わたしにも、テーマなどはよく分かりません。ただ、この第四巻は、公的な賛美といっても良いような統治者としての主への祈りと賛美が多いですね。それ以外にも、いくつか連続したテーマの詩編があるとか、なんとなく雰囲気はことなることはわかるのですが。2月27日から最終の第五巻に入ります。全体を五巻にまとめたのは、旧約聖書の最初のモーセ五書とよばれ、トーラー(律法)として特別な価値を付される五巻に対応してのことではないかと考えられているようです。なにか発見があれば、教えていただければ幸いです。

公的な賛美と上に書きましたが、公の場での使われたと思われるものが多いことは確かだと思います。礼拝において、司式(司会)者と会衆が交互に読む「交読文」という形式がありますが、その形式にぴったりの詩編もいくつもあると思います。今回も口語訳を中心とします。

詩編100篇

感謝の供え物のための歌
1:全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
2:喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
3:主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
4:感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
5:主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

あまり詩編を読まないというかたでも知っておられる方がいるのではないでしょうか。「全地よ」ではじまります。そして「われらを造られたのは主」だから「われらは主のもの」「その民」「その牧の羊」だと続きます。「全地」とはどの範囲なのか、「われら」とはどの範囲の人を想定していたのかなどと、現代的な世界観から、当時の世界観を批判的にみることもできますが、このように言い切ることによって、このようにしか表現できないとして告白し、唱えるなかで、逆にこの言葉の内実が迫ってくると言うこともあるのではないでしょうか。人間の側では、これにいろいろな解釈を施して、限定的に解釈しようとする、しかし、われわれを創造し、われわれを所有し、そしてわれわれを牧している、この主こそ神と言い切るときには、排他的な人間のこころは場所を失います。

その上で、この主のみ前に集い、その門に入り、大庭に入る、この光景は、天国(かみさまのみこころがかんぺきになるせかい)は近づいたと告白できるのかもしれません。

最初にテーマを決められないと書きましたが、この次の詩編101篇以降は「われら」が「わたし」に変わります。

101:1a わたしはいつくしみと公義について歌います。(a はこの節の前半を表す慣用記号です)

102篇の表題は「苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈」となっています。

102:1 主よ、わたしの祈をお聞きください。わたしの叫びをみ前に至らせてください。
102:2 わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。

そして 103:1, 104:1 では「わがたましいよ、主をほめよ。」となり、この巻の最後の二つの詩編は

105:1 主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。
105:2 主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ。
105:3 その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。
105:4 主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
106:1 主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

詩編においては、全世界のことと、個人のなやみ、そしてわれわれの隣人のことが分けられないものとして織りなされているということでしょうか。

以前、International Baccalaureate という国際学士資格と関連して、International Education の基礎を築いた Marie-Thérèse Maurette の言葉から、考えさせられることがありました。"Is There a Way of Teaching for Peace?," をキーワードに探すととくに UNESCO 関連のサイトが出てきますが、Maurett 女史の唱える、平和教育の基礎には、とても共感させられました。

Five UNESCO mandates to its Education-based NGO’s (including IB):

  1. Downplay nationality in teaching, lest the kids identify too strongly with their country.
  2. Teach “peace” - defined by the UN as more than the absence of war, requiring social equity (redistribution of resources)
  3. Teach “sustainable development” (putting resources out of reach and redistributing others under the guise of social and environmental justice).
  4. Teach local-to-global activism; and
  5. Execute UNESCO’s educational objectives and report back to UNESCO on activities and results.
[UNESCO handbook, “Is There a Way of Teaching for Peace?” (trans.) Marie-Therese Maurette, 1948; UNESCO document, Mainstreaming the Culture of Peace, http://unesdoc.unesco.org/images/0012/001263/126398e.pdf; (UNESCO Constitution §7.1(a) ](IB_-_Connecting_the_Dots.ppt より)

あまり、詩編と強くリンクさせるのは問題があるかもしれませんが、ある普遍性を覚えさせられます。最後は、個人的な思惟から、中心を外れてしまったかもしれませんが、人生全体と関わりながら聖書を読む、みなさんもいろいろなことを考えながら読んでいただければと思います。

今週は、聖書の中でもっとも長い章でもある詩編119篇があります。いろは数え歌にもなっています。律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。楽しんでいただければ幸いです。

詩編(9) 第五巻

第107篇から詩編最後の第五巻にはいります。この第五巻に、わたしが特別に好きな詩編がたくさんありますが、第119篇を取り上げてみましょう。これは、へんな言い方ですが、通読をしているとなかなかつらい詩編でもあります。それは、長さ。176節あります。一日に読む量としてはちょっと多いですね。ほかの日とで調整しても良いのですが。一日二章というのはわかりやすいので、そのままにしています。今回も、口語訳からの引用を中心とします。
105:あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
わたしも、この詩編記者と同じようにこころからそう思っています。極端に言うと、聖書にすべての真理が入っていると。この詩編はそのことの告白の詩編です。あるひとは、だから聖書以外なにも読まなくても良いのだとすら言います。もちろん、これは、信仰告白としては、よいのですが、字義通りとると問題です。科学的観察・分析・考察を受け入れないなどということにもなりかねません。神様がひとりひとり(聖書の神様を信じる人にも、そうとは思わないで求めている人にも、まったく関係なく真理をもとめているひとにも、さらに、すべてのひと)に働き、その人生の中で、ひとりひとりの心を開いて、真理の理解を助けるのだとすると、ほかのひとの人生、そのことば、考えから学ばなければならないことは明らかです。また、自然をもふくめ、神様がつくられ治められているものからも、神がどのようなかたで、なにを求めておられるのか、なにを「善い」としておられるのかについても、たくさんのことを知ることができるでしょう。そのうえで、わたしも、上の、105節のように、告白したいと思います。

前回も最後に書きましたが、この詩編は、いろは数え歌になっています。日本語聖書にもアレフ、ベスなどと記されていますが、これは、ヘブル語のアルファベットで、8節ずつ区切りで、22文字ありますから、合計176節となります。かつ、実はギリシャ語でもそうなのですが、このアルファベットを数字の代用にもしているのですね。アレフはだから1でもあります。数え歌と書いたのは、たとえば、最初のアレフと書かれているものは、最初がすべてアレフで始まっているのです。(聖書には数え歌形式のものがもうひとつありますが、完全な形のものは、この119篇です。)百聞は一見に如かず、ネット上にある、ヘブル語聖書を見てみましょう。ひとつだけ言わなければいけないのは、ヘブル語は右から左に書くということです。

1. 聖書全体:https://mechon-mamre.org/p/pt/pt0.htm
2. 詩編119:http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Hebrew_Index.htm
4. 詩編119:http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/psa119.pdf
詩編の英語名は Psalm です。

上の 2. 詩編119を見てみると、真ん中にヘブル文字が書かれていますが、それは、節番号です。最初の文字はアレフです。その左がヘブル語本文ですが、最初の8節はすべてこのアレフで始まっています。すべて8節ずつ組になっていて、全部で22文字、すなわち、なにかそのアレフの下に細かいものがついていますが、これは母音記号と呼ばれているものです。

音声で聞いてみたいというかたは、やはり最初に紹介したサイトにあります。
5. 聖書全体:https://mechon-mamre.org/
6. 詩編119:https://mechon-mamre.org/mp3/t26b9.mp3

他にも YouTube で検索すると、さまざまなものを聞いたり、学んだりできるようになっています。

上で紹介した Interlinear 4 詩編119 をみると、たとえばアレフで始まる最初のことばがそれぞれどんな単語に対応しているのかもわかります。最初の単語は、アシュリーで「幸せ」ですね。

わたしは、ヘブル語も神学校の聴講生として少し勉強しましたが、聖書を読むことができるまではいけませんでした。でも、いまはネット上にいろいろなサポートがあり、便利になりました。

もう一つ、前回、「律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。」と書きました。道というのもあります、ちょっと拾ってみましょう。最初に書いたように、口語訳とします。

おきて、あかし、さとし、さだめ、戒め、み言葉、約束、真理の言葉、 道、あなたの道、あかしの道、さとしの道、真実の道、戒めの道、

いくつか拾ってみましょう。

9:若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。
10:わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから/迷い出させないでください。
11:わたしはあなたにむかって/罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。

18:わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちの/くすしき事を見させてください。

25:わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。

36:わたしの心をあなたのあかしに傾けさせ、不正な利得に傾けさせないでください。
37:わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください。

45:わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。

67:わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。

71:苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。

92:あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。

129:あなたのあかしは驚くべきものです。それゆえ、わが魂はこれを守ります。
130:み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。

147:わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。
148:わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。

160:あなたのみ言葉の全体は真理です。あなたの正しいおきてのすべては/とこしえに絶えることはありません。

ほかにもほんとうにたくさん珠玉のことばがたくさん詰まっています。この詩編だけでも一年かけて学んでも良いかもしれません。
実は、上に引用したひとつひとつ(全部ではありませんが)に思い出があります。その記憶も詰まっている詩編です。

この詩編、1節は「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。」で始まり、最後は、次の句で終わっています。

176:わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。

不思議だと思いませんか。これだけみ言葉を思い巡らして、これだけの詩編を詠んできて、最後がこの言葉なのです。主の戒めを忘れないならば、迷いでないのではないのでしょうか。自分の思い、願いとは別に、このことこそが真実だと知っているのでしょう。「わたしはあなたの戒めを忘れない」は偽らざる告白と誓いであっても、神様が、「あなた」とよびかける個人的関係にあるその神様が、「しもべ」を、探し出していただかなければ迷ったままなのです。もう一度、9, 10, 11節を読んでみてください。

詩編 (10)第五巻

詩編第五巻(第107篇から第150篇)から少し書きたいと思います。今回も、口語訳からの引用を中心とします。

詩編130篇はつぎのように始まります。

1: 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
2: 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
3: 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
4: しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
5: わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
6: わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
7: イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
8: 主はイスラエルを/そのもろもろの不義からあがなわれます。

みなさんには、どこが、印象的でしょうか。わたしは聖書ノートを毎日つけていますが、この箇所を読んで印象的だったのは、ゆるしと希望です。この詩編記者は、神様の救いに希望をもつことができるのは、神様が「もろもとの不義に目をとめられる」かたではなく「ゆるし」があるかただからだと言っています。なぜそんなことを言い切ることができるのでしょうか。経験でしょうか。5節6節にある「待つ」ことをずっと続けることができるほどの希望、確信はなにからくるのでしょうか。みなさんはどう思われますか。5節には「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」とあります。新共同訳では「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。」となっています。このみ言葉はなにを指しているのだと思いますか。神からの応答でしょうか。聖書の約束でしょうか。かみさまとの霊的な交わりの中で与えられるみことばによる平安でしょうか。

詩編139篇は次のように始まります。

1: 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
2: あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
3: あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
4: わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。

このあとも、すべてを知っておられることが続きます。この神がゆるしの神、愛の神です。23節には「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを/知ってください。」とあります。試みることも含まれています。その上で、すべてを知り尽くしていて、赦される。見ないようにする。どうでもよいことにする、というのとは、まったく違うすごさを感じるとともに、われわれの思いが及ばない、畏れも感じます。


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聖書通読ノート

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Psalm 1:1,2 幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
前半は、本当に、その通りだと思う。わたしは、このことを求めてきたようにも思う。しかし、後半に対する感覚は異なる。それは、主の教えは、よく理解できていない、求め続けなければいけないと考えているからだろう。主の教えと言い切ることができるのは、互いに愛し合いなさいぐらいのように思う。そして、それも、実際に、どのように生きれば良いのか、わたしには、まだよく理解できていない。
Psalm 2:10-12 王たちよ、今こそ悟れ。/地上の裁き人らよ、諭しを受けよ。畏れつつ、主に仕えよ。/震えつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ。/さもなければ、主の怒りがたちまち燃え上がり/あなたがたは道を失うだろう。/幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。
この詩篇は「なぜ、国々は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。」(1,2)と始まる。それがここでは、子に口づけせよとなっている。「私は主の掟を語り告げよう。/主は私に言われた。/『あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。』」(7)の言葉もある。イエスについて、どのようにここから、解釈するかは別としたほうがよいようにも思う。預言的な要素は、断片に過ぎないのだから。
Psalm 3:2,3 主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。/多くの者が私に立ち向かい /多くの者が私の魂に言っています/「あの者に神の救いなどない」と。〔セラ
「賛歌。ダビデの詩。ダビデが息子アブシャロムから逃げたときに。」(1)となっている。同時に「私は決して恐れません/私を取り囲む幾千万もの民を。」(7)ともあり、立ち向かうもの以外にもこころを向けているので、丁寧に読む必要があるが、個人的には、あまり響かない。それは、単に、住んでいる世界が異なるからか。社会的な構造も異なるのかもしれない。それもあって、ここまで、「多くの者が私に立ち向かい」「あの者に神の救いなどない」という状況は想像できない。そうであっても、この詩篇記者の思いを受け取りたい。分断ではなく、共に生きるために。
Psalm 4:5,6 怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ /義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。
美しい言葉である。前半の根拠が、後半にあるように思う。ただ、わたしは、異なる感覚を持っている。後半からは、正しさを主に帰し、その裁きに信頼している印象をうけるが、わたしは、正しさは、結局わからないのではないかと考えている。正しさでは、解決できないことばかりのように感じているので。信頼は、この最後のことばで表現されている。「平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。」(9)わたしには、正直、そこまでの信頼はないと思わされるが、しかし、少なくとも、自分に望みを置いて、罪を犯すことはないようにしたい。
Psalm 5:9-11 主よ、義によって導いてください。/私に敵対する者がいます。/私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。彼らの口は確かなことを語らず/その腹は腐っています。/舌は滑らかでも、喉は開いた墓。神よ、彼らに罪を負わせてください。/その謀のために、倒れますように。/度重なる背きのゆえに、彼らを追い出してください。/彼らはあなたに逆らったのです。
旧約聖書では主として義が大切にされる。そしておそらく、私たちも、倫理的な生き方というと、まずは、正しい生き方を思い浮かべるだろう。それは、ここにあるように、敵対する者にどう対応するかの問題とも関係する。しかし、それは、自然と分断を生み出し、それを深刻化する。それを乗り越えるには、どうしたら良いのか。たとえ、悪とみえるものが、自分の周囲に存在しても、そちらに目をむけるのではなく、神の国の到来を想像することだろうか。とても、難しいが。イエスはそれを、チラリと見せてくださったようにも思う。
Psalm 6:5,6 主よ、帰って来てください。/私の魂を助け出し/慈しみによって、お救いください。死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。/陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう。
この人の恐れ、苦しみには、死の恐怖があるのだろう。昔は、常に、死と向かい合っていたとも言える。その次に来るのは、死なない、永遠の命を求めることだろう。しかし、イエスは、そのようには、永遠の命について、示さなかったと思う。神と、その子、イエスとの交わりのような、みこころを知り、生きようとする交わり、そこにこそ、永遠の命の本質があると伝えていると思う。それを本質的に理解することは、難しいが。
Psalm 7:4-6 わが神、主よ/もし、このようなことを私がしたなら/私の手に不正があり/親しい友に悪事を働き/私を苦しめる者を故なく助け出したなら/敵が私の魂に追い迫り、追いつき/私の命を地に踏みにじり/私の栄光が塵にまみれてもかまいません。〔セラ
正しさを主張している。そして、義の神に裁きを求めている。そして、この詩篇は、ダビデ由来としている。しかし、人は、正しくはない。そして、悪を行うように見える他者にも、さまざまな背景があり、神は、その人をも愛しておられることを考えると、あまり、語り得ない。しかし、そのなかで、みんな違うということを乗り越えていかなければならない。どうしたら良いのだろうか。
Psalm 8:4,5 あなたの指の業である天を/あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
このような感覚は理解できる。しかし、わたしは、おそらく、天を見上げ、実際にこの天と地、または宇宙を創造した主として、その神に信頼しているのではないように思う。むろん、そのように信頼される方はそれはそれで素晴らしいとは思う。おそらく、わたしが、信頼しているのは、福音書で語られている、イエスを通して示された神なのだろう。むろん、非常に断片的にしかわからないが。その神に、希望をもち、信頼しているうように思う。
Psalm 9:19-21 貧しい人が永遠に忘れられ/苦しむ人の希望が滅びることは決してない。/主よ、立ち上がってください。/人が己の力を頼むことなく/国々が御前で裁かれますように。/主よ、国々に畏れを抱かせ/思い知らせてください/己が人にすぎないことを。〔セラ
詩篇記者が「貧しい人が永遠に忘れられ/苦しむ人の希望が滅びることは決してない。」と語れるのは、なぜなのだろうか。現実そうなのだろうか。おそらく、そうではない。根拠には、正しさがあるように思う。こうであるはずだ。こうでなければいけない。それは、必ずしも、御心とは食い違っているかもしれないが、とても、貴重な信仰だとも思う。わたしは、神を、どのように信じているのだろうか。
Psalm 10:4 悪しき者は鼻高々で神を尋ね求めず/「神などいない」と/あらゆる謀をたくらむ。
「神などいない」という本質は何なのだろうか。このあとには、「私は代々に揺らぐことなく/災いに遭うはずがない」(6b)「神は忘れているのだ。/顔を隠し、永遠に見るまい」(11b)「神はとがめなどしない」(13b)といずれも「彼は心の中で言う。」とそれに近いことばが付されている。そして、詩篇記者は、そうではないと宣言しているのだろう。自分に望みを置いて生きることで良い。自分以外の他者や、自分以外の世界、周囲のこと、環境などは、関係ないと言っているのだろう。自分を自立・独立系と見ているということだろう。そこに問題があるということか。たしかに、それでは、互いにという概念は生じない。生かされているとも言えない。自立・独立の概念もしかしながら大切でもある。難しい。
Psalm 11:2,3 見よ、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。/闇の中、心のまっすぐな人を射るために。礎が崩れてしまっては/正しき者に何ができよう。
個人的に、正しさは分断を生み、共に生きることはできなくなると考えている。しかし、ここで表現されている状況をみると、簡単ではない。究極の状況、ここでは、礎が崩れてしまったことが書かれているが、悪き者が、今にも矢を放とうとしている。そんなとき、わたしのように言ったとして、それが何になるだろうかとも思う。イエス様は、どう考えておられたのだろうか。神様に委ねて、御心を生きようとする。そして、それは、嘲をも、死をも受け入れる生き方か。それを求めるのではなく、それは、あくまでも結果。今は、御心を求め続けたいと思う。
Psalm 12:6 主は言われる/「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。/今こそ、私は立ち上がり/あえぎ求める者を救いに入れよう。」
前半は、まさに、その通りだと思う。しかし、後半は、そうなのだろうかと思う。わたしには、わからない。もしかすると主も解決方法をご存じないのかもしれない。それは、ひとに委ねられておられることがあるから。同時に、時代を超えて、苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いているというのは、ほんとうに悲しい。その世界のなかで、わたしも生きていることを覚えたい。
Psalm 13:3,4 いつまで私は魂に思い煩いを/心に悲しみを日々抱き続けるのですか。/いつまで敵は私に対して高ぶるのですか。わが神、主よ、私を顧み、答えてください。/私の目を光り輝かせてください/死の眠りに就くことのないように。
ダビデの詩となっている。ダビデは、つねに戦いの中にあり、敵がいる。それを責める者ではないが、その敵から救い出し、自分の目が光り輝き、元気となり、死なないことを願うのが、信仰なのだろうかとは思う。旧約聖書に連綿と続く、個人的な神との交わりは、非常に貴重な基盤であるが、その内容をよいものとするのは、おそらく違うのだろう。求め続けること、そこにこそ、真理を見出していきたい。
Psalm 14:2-4 主は天から人の子らを見下ろし/神を求める悟りある者はいないかと探られる。/すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。/善を行う者はいない。一人もいない。/悪事を働く者たちは誰もこのことを知らないのか。/パンを食らうように私の民を食い尽くし/主を呼び求めようとはしない。
最後は「シオンからイスラエルに救いがもたらされるように。/主が民の繁栄を回復されるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜びに包まれる。」(7)と結ばれている。イスラエルの位置付けがよくわからない。イスラエルにも、神を求める悟りのあるものはいないと言っているのか。それなら、ある程度理解できるが、すると、最後にどう繋がるのかわからない。悔い改めは、説かれていない。最初は、「シオンからイスラエルに救いがもたらされるように。/主が民の繁栄を回復されるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜びに包まれる。」(1b)と始まり、暗唱した聖句だが、最後とどう繋がっているのだろう。
Psalm 15:1 賛歌。ダビデの詩。/主よ、誰があなたの幕屋にとどまり/聖なる山に宿ることができるのでしょうか。
この言葉に続いて、どのような人かの記述が続く。そして最後は「これを行う人はとこしえに揺らぐことがない。」(5b)で閉じられている。義なる方のもとに共にいることは、できない。そう考えるのは自然であろう。しかし、同時に、神様は、それでも、Welcome してくださる方であるとも思う。歓迎しにくいひとを歓迎する。神様が義なる方だとの認識から、自らを正しく保とうとすることは、良いことだろう。しかし、そこに、神様との交わり、永遠の命に生きることの本質はないように思う。同時に、このような詩篇を残してくださった記者や撰者は、尊敬し、敬愛し、感謝したい。そして、共に生きていきたい。
Psalm 16:7 諭してくださる主をたたえよう。/夜ごと、はらわたが私を戒める。
「はらわた כִּלְיָה (kil-yaw': kidneys a) of physical organ (lit.), b) of seat of emotion and affection (fig.), c) of sacrificial animals」が目に止まった。自分のうちなるものなのだろう。そこに、主が語りかけるということだろうか。あまり、感覚として、伝わってこないが、少なくとも、外側ではないということだろう。静まって、主に向き合わないと、その声を聞くことはできないのかもしれない。そのように、考えられていたのか、この詩篇記者がうけとった信仰告白か。わたしも、静まる時を持つようにしたい。
Psalm 17:1 祈り。ダビデの詩。/主よ、私の正しさをお聞きください。/叫びに心を向けてください。/耳を傾けてください/偽りのない唇から出る私の祈りに。
ダビデの詩とある。この分類については、注意して見たことがないが、この詩篇も正しさの主張になている。それが、歴史の背後に色濃くあるように思われる。歴史的には、人間の歩む道のようにも思う。イエスは、そのあとの時代である。ダビデのことを語らない。自らが、ダビデの子として、政治的な王にされることを避けた面が強いと思っていたが、この正しさをさけることも背後にあったのかもしれない。
Psalm 18:47,48 主は生きておられる。/わが岩をたたえよ。/わが救いの神を崇めよ。この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせた。
このことばを、正しいと受け取る人が多いのだろう。それが報復がやまない理由でもあるのかもしれない。報復は権利であると。しかし、それは、報復の繰り返し、連鎖となることも、我々は知っている。どのように、脱却できるのか。当時のひとや、その考えを切り捨てるわけではない。しかし、次のステップを求めることもしなければならない。
Psalm 19:8,9 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めはまことで、無知な者を賢くする。主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせ/主の戒めは純粋で、目を光り輝かせる。
求めるのは、主の御心。しかし、御心を知る、教育係が、律法なのだろう。定め、諭しなどの区別はわからないが。律法、旧約聖書から学ぶことは多い。しかし、それが、目標だとしてはいけないように思う。まさに、律法主義に陥る。この詩篇記者のように、魂を生き返らせ、心を喜ばせ、目を光輝かせると告白できるのは幸せ。そのような純粋な心で、主の御心を求めていきたい。
Psalm 20:7,8 今、私は知った/主が油注がれた者を救ったこと/聖なる天から彼に答えることを。/右の手による救いの力をもって。ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。/しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。
後半は、よく引用され、わたしも覚えていた。しかし、その背景に、前半が書かれていることを、見ていなかった。これが、この詩篇記者にとっての、救い、目に見える救いなのだろう。具体的に、なにが語られているのかはわからない。しかし、ここに抽象的なものではなく、リアルな生活の一場面が投影されているのだろう。わたしとは、かなり違う経験なのだろうが。
Psalm 21:9,10 あなたの手はすべての敵を探り出し/右の手はあなたを憎む者を探り出す。主よ、御顔を現すとき/あなたは彼らを火のついた炉のようにする。/主は怒りで彼らを吞み尽くし/火は彼らを食らい尽くす。
主は、自分が正しいことをご存知で、相手に対して、裁きをしてくださると信じているように見える。朝のラジオで、警備をしていた息子がハマスに殺された女性が、「殺した人が憎い、しかし、対話をしなければならない。対話は、相手の苦しみや痛みを少しでも理解する営みである」と語っていた。他者のことはわからない。しかし、そのことを実際の行動で表すことは、とてつもなく、難しいのだろう。
Psalm 22:2 わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。/私の悲嘆の言葉は救いから遠い。
イエスの十字架上でのことばで、イエスは、この詩篇を暗唱されたのではないかとも聞いた。しかし、今回読んでみて、そうだろうかと疑問に思った。「だが私は虫けら。人とは言えない。/人のそしりの的、民の蔑みの的。」は、イザヤ53章の預言のように取れないこともない。しかし、イエスは、まさに、神ともにおられることを、生き抜かれた方、そして、神の国は近いと宣言しておられた方、単純に、その方の叫び、祈りととるのでよいように思う。「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。」は主旨としては、詩篇にたくさんあるモチーフのように思う。あまり、ことばに引き寄せられない方がよい。
Psalm 23:4,5 たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
「あなたの鞭と杖」は、羊飼いの道具なのだろうか。羊飼いの自己満足のようにも響く。しかし、実際、それによって羊が助かることもあるのだろう。人間のこころの表現である。後半には「私を苦しめる者」が登場するが、その人との和解は語られない。多少、その状況を受け入れているようには見えるが。
Psalm 24:7,8 門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ。/栄光の王が入る。栄光の王とは誰か。/強く勇ましい主。/戦いの勇者なる主。
主、神に治めてもらうことが最善と考えられていたのだろう。「栄光の王とは誰か。/万軍の主、主こそ栄光の王。〔セラ」(10)しかし、それはどうなのだろうか。互いに愛し合うように、わたしたちに、責任が委ねられているのではないだろうか。前半は、この主を迎える心構えだろうか。「汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。」(4)とある。少し違った性質も、求められているのかもしれない。
Psalm 25:2 わが神よ、私はあなたに信頼する。/私が恥を受けることがないように。/敵が勝ち誇ることがないように。
この詩篇でも敵が出てくる。最後の方にも「見てください、どれほど私の敵が多く/残忍なまでに私を憎んでいるかを。」(19)今とは、状況が違うとはいえ、また、これも、ダビデの詩としているからもあるだろうが、やはり背後には、正しさがあるように思う。「私の若き日の罪や背きを思い起こさず/主よ、あなたの慈しみにふさわしく/あなたの恵みのゆえに/私を思い起こしてください。」(7)も、自分を正しいものと認めてほしいとの願望、それが、主が助けてくださることへの根拠としても、語られているように見える。
Psalm 26:1 ダビデの詩。/主よ、私を裁いてください。/私は全き歩みをしてきました。/私は主に信頼し/揺らぐことはありません。
裁きは שָׁפַט(shaw-fat': to judge, govern, vindicate, punish, i) to act as law-giver or judge or governor (of God, man), ii) to decide controversy (of God, man), iii) to execute judgment)神の支配のもとにいるということだろうか。それが、神の正しさ、ひいては、自分のほうが正当であることに、結びついているように思う。それは、主であり、王でもあるのかもしれない。特に、イスラエルでは、そのような権威が必要だったのだろうか。人が、絶対権力者には、なり得なかったときに。少しずつ考えていきたい。
Psalm 27:1,2 ダビデの詩。/主はわが光、わが救い。/私は誰を恐れよう。/主はわが命の砦。/私は誰におののくことがあろう。悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき/私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえって/つまずき、倒れる。
これも、ダビデの歌とされるが、今回は、救いについて考えてみた。現代の複雑な世界においては、救いを定義するのは難しい。さまざまな項目によらなければ、それを掬い取ることができない。しかし、ダビデにとっての救いはもっと単純だったように見える。殺されないこと。敵の手に落ちないこと。そのなかで、主への信頼を深めていく。それも、ひとつの信仰の形なのだろうが、正直、距離を感じてしまう。
Psalm 28:8,9 主こそ、その民の力/油注がれた者の救いの砦。あなたの民を救い/ご自分の民を祝福してください。/とこしえに彼らを養い、担ってください。
非常に、純朴な祈り、信仰である。わたしたちも、それを求めれば良いのだろうか。複雑な社会、そして、ある程度の情報が得られ、背景も見えるようになってきている中で、わたしたち一人ひとりのなすべきことも増えてきているように見えるのだが。そして、問題・課題自体に、わたしたちが、関わり、それを作り出しているようにも見えるのだが。当時とはかなり違うのだろうか。
Psalm 29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。
ちょっと変わった詩篇である。このあとも、主の働きを表現するのに「主の声は杉の木を砕き/主はレバノン杉をも砕く。子牛のようにレバノンを/野牛の子のようにシルヨンを踊らせる。」(5,6)などと続く。何を表現しているのだろう。主の力強さを表現しているのか。人が、恐るものにも、主が働いておられるということだろうか。最後は「主がその民に力を与えてくださるように。/主がその民を祝福してくださるように/平安のうちに。」(11)と終わっている。主の力強さが表現されているのだろうか。
Psalm 30:7,8 安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。
非常に正直である。ひとの弱さなのだろうか。信頼しているからこそ、このように揺れるのだろうか。ただ、やはり、狭いところに集中し過ぎているようにも見える。難しい。
Psalm 31:20 あなたの恵みはなんと豊かなことでしょう。/あなたは主を畏れる人のためにそれを蓄え/人の子らの目の前で/あなたのもとに逃れる人に施された。
残念ながら、この詩篇にも、敵(9)が登場する。常に、敵の前にいるのだろう。今回は、恵みを取り上げた。そして、目が止まったのは「主よ、まことの神よ/私の霊を御手に委ねます。/あなたは私を贖われた。」(6)に現れる「贖われた(פָּדָה (pāḏâ): to ransom, redeem, rescue, deliver)」ということば。もともとは 、切って分ける(sever(divide by cutting or slicing))からきた言葉のようだ。もとあった場所から、切り取って、自分のものとしてくださったということだろうか。よくわからない。恵は、自分についてのものは、ある程度、気づくことが可能だが、他人へのものは、わからない。他者には、厳しくしてしまうようにも思う。難しい。
Psalm 32:10 悪しき者には痛みが多い。/主に信頼する人は慈しみに囲まれる。
この有名な詩篇は「私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/『私の背きを主に告白しよう』と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ」にもあるように、罪を隠さず告白し、許されたものの詩篇である。そして、振り返り、引用句を語る。問題は、論理を逆にしてしまうことだろう。「痛みが多いものは、悪きもの」と。そのように、考えてしまう弱さが、ひとにはあるのだろう。単純化バイアスだろうか。丁寧に、考え、語っていければと思う。
Psalm 33:18,19 見よ、主の目は主を畏れる人に/主の慈しみを待ち望む人に向けられる。彼らの魂を死から助け出し/飢饉のとき、彼らを生き長らえさせるために。
興味深い句が多い。敵は登場しないが、戦いの中にあることは、16,17 節などから見てとることができる。そのなかで、主の性質について、理解したと思われることを詩として述べている。探究が背後にあるのだろう。主を求める心である。そのなかで、引用句のように、主の御心を知っていく。これは、現代でも同じように思う。主の御心を知っているというとたんに、問題がおこるのだろう。
Psalm 34:19,20 主は心の打ち砕かれた者に寄り添い/霊の砕かれた者を救い出す。正しき者に災いは多いが/主はそのすべてから助け出してくださる。
美しい言葉である。これが、信仰告白なのだろう。心の打ち砕かれた者は、正しい者なのだろうか。後半では、正しい者に災いが多いと、語っている。こう言い切るのは、勇気のいることだろう。"The LORD is nigh unto them that are of a broken heart; and saveth such as be of a contrite spirit. Many are the afflictions of the righteous: but the LORD delivereth him out of them all." קָרוֹב יְהוָה לְנִשְׁבְּרֵי־לֵב וְאֶת־דַּכְּאֵי־רוּחַ יוֹשִׁיעַ׃ רַבּוֹת רָעוֹת צַדִּיק וּמִכֻּלָּם יַצִּילֶנּוּ יְהוָה׃ 韻を踏み、かつ、アルファベット詩になっている。詩篇は、聞いてわかるようになると、格段と意味が増すのかもしれない。
Psalm 35:1,2 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。盾と大盾を手にし/私を助けるために立ち上がってください。
ダビデの詩とあり、戦いの中にいることが想定されている。これほどまでに、そのような詩篇が多いことに、いままで気づかなかった。詩篇記者の信仰的なことばのみに注意し、背景についてあまり考えていなかったからだろう。相手への呪いを求めるような言葉もある。「私の命を狙う者が恥と屈辱を受け/私に悪をたくらむ者が退き、辱められますように。」(4)このあとにも、延々と続く。わたしは、このようには、祈れない。詩篇全体について、しっかり学んでみたい。まず「敵 אֹיֵב ('ōyēḇ)」は詩篇で96回。案外少ないとも思う。どの巻かに固まっているわけでもないようだ。また、調べてみよう。ヘブル語でしらべても、詩篇が圧倒的に多い。
Psalm 36:6,7 主よ、あなたの慈しみは天にあり/あなたのまことは雲にまで及びます。あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。/主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。
ちょっと変わった表現だ。正義は神の山々、公正は深淵、人も獣も救う。さまざまな表現は、嬉しい反面、理解を難しくもする。この最初の「背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。」(2)わたしには、このような経験がないからだろうか。
Psalm 37:7,8 主の前に沈黙し、主を待ち望め。/成功の道を行く者/謀を遂げる者に怒りを燃やすな。怒りを解き、憤りを捨てよ。/怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。
自戒の詩篇だろうか。その意味で、興味深い表現が多い。成功の道を行く者/謀を遂げる者も、歓迎し、交わりをもてるようになりたい。自分の弱さをみとめ、主により頼みつつも。分裂に抗うすべについて学びたい。詩篇を読んでいると、難しいと感じるが。
Psalm 38:4-6 あなたの憤りのために/私の肉体に健やかなところはなく/私の罪のために、骨に安らぎはありません。私の過ちは頭を越えるほどにもなり/重い荷物のように重くのしかかります。私の傷は、愚かな行いのために/膿んで悪臭を放ちました。
直前には「あなたの矢が私を射抜き/あなたの手が私の上に降りて来ました。」(3)とあり、この詩篇は、神に撃たれたものについての表現がとても豊かである。少し自虐的にも感じるが、ここで表現されているようなことを自覚することも大切なのだろう。少しずつ味わっていきたい。
Psalm 39:5-7 主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。/そうです/あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。/私の寿命など、あなたの前では無に等しい。/確かに立っているようでも/人間は皆空しい。〔セラ/人は影のように歩き回り/空しいことであくせくしている。/積み上げはするが、誰が集めるかを知らない。
美しい表現である。自分の無力、自分のむなしさを表現して、主に願う。しかし、本当にそれでよいのかと、最近考える。周囲の問題は、人の活動によって起こっていること、自分たちも、主とともに、歩もうとすること、主の痛みを痛みとして受け取ることが、必要なのではないだろうか。
Psalm 40:13 数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。
表現が美しい。詩篇は、洗練された詩文体なのだろう。信仰を、このように表現したことに、感動を持つ。しかし、同時に、それを、わたしたちも、しなければいけないように思う。現代の信仰者の応答として。わたしには、できそうにないが。
Psalm 41:12 このことで、私は知りました/あなたが私を喜びとされていることを/敵は私に勝ち誇れないことを。
この詩篇にも敵の存在が色濃くあらわれている。その中で、主が自分の味方であるという信頼を表明している。ある段階として、これで良いのかもしれないが、イエスの教えとはかなりかけ離れているとも感じる。救済にのみ、集中すれば、許容することになるのかもしれない。難しい問題である。この詩篇もダビデ由来だとしているが、ダビデをどう捉えるかは、大きな課題である。
Psalm 42:11,12 私を苦しめる者は私の骨という骨を砕き/日夜、私を嘲って言う/「あなたの神はどこにいるのか」と。私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(2)で始まる有名な詩篇である。しかしこの詩篇にも「敵」(10)は現れる。分断を、避けることはできないのだろうか。敵から、主に目を移すこと、それが最初のステップなのだからよいのか。歓迎しにくいものを、歓迎する。そこに、愛があるのではないのか。考えさせられる。
Psalm 43:1 神よ、私を裁き/私のために争ってください。/神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から/私を救い出してください。
「神に忠実ではない国民」は何を意味するのだろうか。国民は、みなそうなのだろうか、それとも、そのような国民がいると言うことだろうか。いずれにしても、自分は、そうではないと言い切っているように感じ、やはり、敵と味方、神は味方の構造が見える。それが、信仰の最初の段階では、基本なのかもしれない。この詩篇には、最後に、前の詩篇で2回登場する句がある。「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/『御顔こそ、わが救い』と。/わが神よ。」(5)奮い立たせているのだろう。これも、自然なのかもしれない。
Psalm 44:10-12 しかし、あなたは私たちを拒み、辱め/私たちの軍勢と共に出陣されませんでした。あなたが私たちを苦しめる者の前から退かせたので/私たちを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。あなたは私たちを餌食の羊とし/国々の中に散らしました。
この詩篇は「あなたはその手をもって国々を追い払い/先祖を植えられました。/諸国の民を災いに落とし、先祖を広がらせました。」(3)と始まり、対照的に、今は、戦いに敗れ、略奪され、国々の中に散らしたことが書かれている。「コラの子の詩。」(1b)とあり、祭司由来としていることは、バビロンによる、エルサレム陥落以降のことか。自らの歩みを振り返り、主に訴えている。主との交わりにもどることが、ひとつの詩篇の鍵なのだろうか。
Psalm 45:1,2 指揮者によって。「百合」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。私の心に湧き立つ美しい言葉/私の詩を王のために歌おう。/私の舌は巧みに物書く人の筆。
王国時代の一つの詩の形式なのだろうか。勇者が王の敵を撃ち倒し、娘が王に傅(かしずく)く。比喩的に理解することは、形式的にも、困難なのだろう。これも、ひとつのひとの営みか。「神よ、あなたの王座は代々とこしえに。/あなたの王権の笏は公平の笏。」(7)と、神が王の王とすれば、それで良いのか。未発達は、普遍性に欠けているからのように思う。
Psalm 46:8 万軍の主は私たちと共に。/ヤコブの神は我らの砦。〔セラ
同じことばが、12節にもある。この後に「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」(11)が続くが、この、分裂をどううけいれるかが、難しい。ヤコブの神と、全地で崇められる神。天地創造の神である。神がひとのこころの中にあるとは、言わないが、ひとのこころの中に神があることは、確かだろう。それを、たいせつにしないことは、そのひとを愛することにはならないのだから。
Psalm 47:3,4 まことに主はいと高き方、恐るべき方/全地に君臨する偉大な王。もろもろの民を私たちに従わせ/諸国の民を私たちの足元に置かれた。
神がどのような神だと信じるかが、根底にあると感じる。この詩篇では、全地に君臨する偉大な王である。そのような神を期待し、その神に願うということになるのだろう。神支配ということでは、そのような表現も可能なのかもしれないが、王ということばは、人間社会の言葉、それを神にあてるのは、混乱を生じさせるようにも思う。むろん、人間の正直な願いの表現自体はたいせつなのだろうが。
Psalm 48:11,12 神よ、御名のように/あなたへの賛美は地の果てまで及びます。/右の手には義が満ち溢れている。あなたの裁きのゆえに、シオンの山は喜び/ユダの娘は喜び躍る。
正義とそれにもとづく正しい裁きに対する期待が背後にある。神は、やはり、人間の欲望、期待が作り出すものなのだろうか。それを否定することはできないように思う。同時に、神みこころを探求することは、それを理解しようとするこころみとあわせて、ひとに委ねられているように思う。難しいが、わたしは、残された日々、その探究をしたいと思う。なにも理解できていないことは確実だから。
Psalm 49:6-8 災いの日に、なぜ恐れることがあろうか/私を追う者の悪に取り囲まれるとも。彼らは財宝を頼みとし、富の力を誇る。しかし、人は兄弟を贖うことができない。/神に身代金を払うことはできない。
「まことに人が見るのは/知恵ある者が死に/愚かな者や無知な者と共に滅び/財宝も他人に遺さなければならない、ということ。」(11)ともあり、ルカ12章13-21節の愚かな金持ちの譬えを思い出す。しかし「陰府に置かれた羊のように/死が彼らの牧者となる。/朝には正しい人がその者らを支配する。/彼らの姿は消えうせ、陰府がその住まいとなる。」(15)をみると、イエスの譬えの趣旨とは、異なることもわかる。イエスも、この詩篇などから、みこころについて考えたのかもしれない。
Psalm 50:1,2 賛歌。アサフの詩。/神々の神、主は語りかけ/日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。この上なく麗しいシオンから/神は光を放たれる。
神々の神が登場する。これは、他の民の神を意識しているようにみえる。さらに「私のもとに集めよ/私に忠実な者を/いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを。」(11)ともある、これも、優位性を唱えているようにも見える。むろん、信仰生活を中心にのべている。底流にあるものに、多少の危険を感じる。ほとんどのキリスト者は、そう感じないだろうし、他の解釈をするだろうが。
Psalm 51:5,6 私は自分の背きを知っています。/罪は絶えず私の前にあります。あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。/あなたの前に悪事を行いました。/あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
立派な告白だとも言えるが疑問も感じる。まずは、「あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。」は、おそらく、主の前に悪事を行ったということが、いちばん、重大だと言っているのだろう。それは、素晴らしい信仰告白であるとともに、主が愛する他者に目が向いていないとも言える。考えることは多い。イエスは、異なる見方をしたのではないかと思う。
Psalm 52:3-5 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。/神の慈しみは絶えることがない。あなたの舌は破滅を思いたくらむ。/それは刃物のように鋭く、人を欺く。あなたは善よりも悪を/正しい言葉よりも偽りを愛する。〔セラ
このあとには、裁きを願う。そこから、抜け出さなければいけない。イエスの愛のもとに。他者を愛される神様を理解するのは難しいのかもしれないけれど。未発達ということだろうか。難しいことは確かだが。
Psalm 53:6 恐れる必要のないところで、彼らは恐れおののいた。/神が、あなたに対して陣を張る者の骨を/まき散らしたから。/神が彼らを退けたので/あなたは彼らを辱める。
「愚か者は心の中で言う/『神などいない』と。」(2)から始まる。神を恐れないものが、恐れなくて良いものを恐るという枠組みなのだろう。しかし、引用句をみると、背後に、神は、敵を退けてくださる方という見方と、滅びに至るものと自分を同一視して恐れるものの姿があるように見える。愚か者は、神がいないかの如く生きるものなのだろう。それは、理解することができない隙間を、自分のはかない思いで埋める者なのかもしれない。謙虚にいきたい。
Psalm 54:5 見知らぬ者が私に逆らって立ち/荒ぶる者が命を狙っています。/彼らは自分の前に神を置こうとしません。〔セラ
「ジフ人が来て、サウルに『ダビデが私たちのもとに隠れていないか』と言ったとき。」(2)理解できないことばである。引用箇所は、サムエル記上23:19, 26:1 とある。2回、似たことがあったようだが、ジフ人がサウルにダビデの居場所を知らせたことを、反語表現しているようだ。つまりは、隠れていることを告げているのだろう。引用句には「自分の前に神を置こうとしない」もののことが書かれている。これも、「神などいない」(53:2)という者と同義語に響く。いずれも、神がないかのように、自分が世界の中心のように、真実を覆い隠す者だからである。
Psalm 55:10 わが主よ、滅ぼしてください。/彼らの舌を引き裂いてください。/都の暴虐と争いを、私は確かに見たからです。
ダビデの詩として、敵の中で歌っている。(4,13)敵ということばは、あまり多くないことも感じた。しかし、その存在は強く、その敵の謀略を見て、自分の救いと、敵の裁きを願っているという形式のようだ。そのなかで、主への信頼をうたう。「あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。」(23)現代の信仰と共通点は、見出されるが、やはり、違和感も大きい。
Psalm 56:10 私があなたを呼び求める日/その時、敵は退きます。/私は、神がそばにおられることを知っています。
「指揮者によって。『はるかな沈黙の鳩』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ペリシテ人がダビデをガトで捕らえたとき。」(1)「はるかな沈黙の鳩」が何かはわからないが、何度も詠われたことを意味しているのだろう。危機において、つねに、神がそばにおられる。そのためには、自分の身を清く保つ。そして、感謝をする。そのような信仰が語られているように見える。やはり、自分視点からは、出られていないように見える。イエスが現れるまでは、難しいのだろうか。旧約にも、この線を超えている部分がいくつもあるように見えるが。
Psalm 57:4,5 神が天より使いを送り/私をお救いくださいますように。/私を踏みにじる者が嘲っています。〔セラ/神が慈しみとまことを送ってくださいますように。/私の魂は雌獅子の群れのただ中に/人の子らを貪り食らう者たちの間に伏しています。/その歯は槍、矢。/舌は鋭い剣。
最初のことば「私を憐れんでください。/神よ、私を憐れんでください。/私の魂はあなたのもとに逃れました。/災いが過ぎ去るまで/あなたの翼の陰に私は逃れます。」(2)は美しい。このように祈れたらとも思う。しかし、引用句を見ると、詩篇記者は、争いの中にいることがわかる。さらにこの詩篇は「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき。」(1)と始まっている。やはり、まずは、その争いのもとに対応しなければいけないように思う。むろん、そう簡単ではないどころか、できないのかもしれないが。ひとの責任、神の助けだろうか。
Psalm 58:11 正しき者はこの報復を見て喜び/悪しき者の血で足を洗う。/人は言う。/「まことに正しき者には実りがある。/地には裁く神がおられる」と。
御心を求める旅は、一生続き、それでも、ほとんどわからない、求め続けることこそに、我々のなすべきことがあるように思う。しかし、それは、だれでも、できるわけではないのかもしれない。途中で心折れてしまう。難しい問題である。しかし、わたしは、できるかぎり、それを求めていこう。ほとんどわからないということを、ある程度知り得たのだから。
Psalm 59:13,14 彼らの口の罪、唇の言葉/その高ぶりに彼らが捕らえられますように。/彼らは呪いと欺きを語っています。/憤りによって絶やしてください。/絶やし、一人も残さないでください。/その時、人は知るでしょう/神がヤコブを地の果てまでも治めることを。〔セラ
この詩篇も敵について語ることからはじまる。「わが神、私を敵から助け出し/立ち向かう者から高く引き上げ、守ってください。」(2)引用句では、彼らが根絶やしになるように祈っている。せめて、「彼らのこころに語りかけてください」とか、「悔い改めさせてください」と祈るならまだしも。わたしが、状況をよくわかっていないことは、確かだろう。わたしも詩篇記者を裁いてしまっているのだから。この詩篇記者も、この詩篇記者にとっての敵をも、愛される、神様の Welcome から学びたい。
Psalm 60:12-14 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。/私たちを敵から助け出してください。/人の与える救いは空しい。/神によって私たちは力を振るいます。/神が敵を踏みにじってくださいます。
最初に「指揮者によって。「百合」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教えのため。ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。」(1,2)となっている。「教え」とあるように、最後の「神が敵を踏みにじってくださいます。」には、その前が必要であることを伝えているのだろう。ダビデなり、ダビデを通して学んだことが書かれている。なかなか、共感することは、できないが。
Psalm 61:6,7 神よ、あなたは私の誓いを聞き入れ/あなたの名を畏れる人に/継ぐべきものを与えてくださいます。王の日々になお日々を加え/その年月を代々に長らえさせてください。
これも、ダビデの詩となっているが、王は、だれを想定しているのだろう。王国が長く続くことを願う詩の定型を作ったのだろうか。そのような詩だから、ダビデ由来としたのだろうか。ジャンルとしては、身近さを感じないが、リーダーについて祈ることはたいせつなことなのだろう。自分だけではなく、多くの人に影響があるのだから。
Psalm 62:6,7 私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。/私の希望は神から。神こそわが大岩、わが救い、わが砦。/私は揺らぐことはない。
神に向かって沈黙せよということばは、わたしの感覚にはないが、それが信頼のひとつの表現だと考えているように見える。このあとにも、「民よ、どのような時にも神に信頼せよ。/御前に心を注ぎ出せ。/神は我らの逃れ場。〔セラ」(9)民も、そして自分も、神への信頼がたいせつだと言っているのだろう。敵をそうしてしていることもあるのだろうが。信仰者のひとつの信仰表現なのだろうか。
Psalm 63:10,11 私の命を根絶やしにしようとうかがう者が/地の底へと入り込みますように。剣に渡され/ジャッカルの餌食となりますように。
これまで、このような箇所は読み飛ばしてきた。おそらく、詩篇記者との仲間意識から、ことなること、ぶつかりそうなこと、受け入れ難いことを避けてきたのだろう。しかし、直視して読むようにすると、このような句があまりにも多い。敵にたいする裁きを願う祈り、詩篇である。わたしには、それが、イエスご自身が、ダビデにたいして、好意的な発言をしなかった理由であるようにも見える。
Psalm 64:4,5 彼らは舌を剣のように鋭くし/苦い言葉の矢をつがえています。物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。
ここにも「悪をなす者の群れ」の記述があり、そのあとに続くのが上の句だ。このようなことばは受け入れ難いが、正しく生きることが、よいことと考えられていなかった時代なのかもしれないとも思った。現代は、社会的に、それがよいことだと受け入れられ、教育もされている。むろん、まったく不十分ではあるが。それがなかった時代、そこでは、ひたすら苦しみ、祈るしかできなかったのかもしれないとも思う。イエスも教育制度がユダヤではある程度確立している頃に生きたこともあり、ある距離をもちつつ、批判もしなかったのかもしれない。
Psalm 65:2,3 シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。祈りを聞いてくださる方よ/すべての肉なる者はあなたのもとに来ます。
「あなたは地を訪れてこれを潤し/大いに豊かにします。/神の水路は水をたたえ、あなたは穀物を備えます。/あなたがそのように整えたのです。畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/萌え出でたものを祝福してくださいます。」(10,11)と自然の恵についてさまざまに語っている。美しい感謝と賛美の詩篇である。しかし、同時に、エルサレム優越でもある。この時代にとっては、仕方がないことのようにも見える。恵にまず、感謝しよう。
Psalm 66:5,6 来て、神の業を見よ/人の子になされた恐るべき業を。神は海を乾いた地に変えた。/人は大河を歩いて渡り/そこで、私たちは神を喜び祝った。
賛美で始まる。その背後には、このように、紅海をわたり、ヨルダン川を渡河したことが、あるのだろう。現在のことかた褒め称えることもあるが、原点は、つねに出エジプト。それは、ずっとそうなのだろうか。イスラエルの信仰と、アメリカ福音派の信仰は、似ているのかもしれない。福音派と言っているが、イエスは、そこにいないのだろうか。
Psalm 67:5 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ
「指揮者によって。弦楽器で。賛歌。歌。」(1)となっている。どのようなときに詠われていたかは、わからないが、内容の核心は、やはり、引用句であるように思う。つまり、神の、公平な裁きである。それは、現代的にみると、不可能に感じてしまうし、人間の側に責任があることが多いように思う。人間の世界理解が、すこしずつ広がり、かつ、変化していったからか。しかし、いまでも、同様のことを神に帰するひともおおいのかもしれないとも思う。難しい。拙速に、決断を出さないようにしたいものである。
Psalm 68:29 神は命じられる/あなたが力をさらに増すように、と。/神よ、あなたは私たちのために働いてくださる。
このような拡大していく意識が、あったのかもしれない。それが「エジプトから青銅の品々が到来し/クシュは神に向かって手を伸べる。」(32)と表現されているのかもしれない。たしかに、ソロモンの時代、これに近いことが記されている。ただ、それを望むことで良いのだろうか。それが、現代まで引き継がれていることも、確かだと思うと、本当に、難しい問題だと思う。
Psalm 69:5 いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く/私を滅ぼそうとする者/偽り者の私の敵は強いのです。/私は自分が奪わなかったものさえも/償わなければなりません。
これも「ダビデの詩」とある。「私は自分が奪わなかったもの」とあるが、ダビデは、略奪隊の隊長のようなことをしていたので、多くの略奪を繰り返していたことも、事実であろう。このような表現には、どうも、親近感を感じない。この詩篇の後半には、「彼ら」への罰について語られている。主は、そのようなかたと認識されていたのだろう。どうしても、受け入れられないが、信仰のはじめは、そうなのかもしれないとも思った。そして、わたしのような考えが、中心ではないとも。
Psalm 70:4,5 「あはは、あはは」とはやす者が/恥を受けて逃げ出しますように。あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「神は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。
この対比が、信仰の源泉だったのだろう。私は、不可知論者ではないが、簡単に決断をくだそうとはしない。それは、広くうけいれられるものではないのかもしれない。
Psalm 71:16-18 わが主よ、私はあなたの力によって進みます。/主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。/神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。/神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。
私は、このようには、祈れない。まず、最初の正義。ポストモダンの多様性重視に、毒されているからか。奇しき業についても語れない。イエス様の愛しか。しかし、それを語ること、そして「来るべきあらゆる代に語り伝える」ことは、していきたいと願ってはいる。そうであっても、やはり、迷いがある。私は、まだ、ほとんど、知らず、そのほんの少しを語ることは、他者をかえって迷い道に導くのではないかと。残るのはやはり、イエスについて、共に学ぶことだけのように思う。わたしが老いても生かされている期間。
Psalm 72:20 エッサイの子ダビデの祈りの終わり。
これが、この詩篇72篇の終わりなのか、詩篇全体において、ダビデの祈りの終わりなのか、五巻に分かれていると考えて、その一巻の中でのダビデの祈りの終わりなのか、わからなかった。実際、73篇以降にも、ダビデの祈り、ダビデの詩は続く。この詩篇が、第二巻の終わりであることは確かで、この直前に頌栄がある。「栄光に輝く主の名をとこしえにたたえよ。/栄光が全地を満たしますように。/アーメン、アーメン。」(19)しかし、五巻への区分は、現在の、聖書協会共同訳には含まれていない。五巻の区分についても、少し調べてみたい。
Psalm 73:1-3 賛歌。アサフの詩。/神はなんと恵み深いことか/イスラエルに、心の清い者たちに。/それなのに私は、危うく足を滑らせ/今にも歩みを踏み誤るところだった。/悪しき者の安泰を見て/驕り高ぶる者を妬んだ。
自分の過ちに目を止める。すばらしい。しかし「あなたは滑りやすい道を備え/彼らを廃虚に落とされる。」(18)と、結局、因果応報へといくようにみえる。たしかに、裁きは神のものという考え方は良いのだろうが、神様の御心は、なかなか見えない。因果応報は、非常に狭い考え方だと感じる。
Psalm 74:21,22 虐げられた人が再び辱められることのないように/苦しむ人、貧しい人が/あなたの名を賛美できるようにしてください。神よ、立ち上がり、ご自分のために争ってください。/愚か者が日夜あなたをそしるのを/心に留めてください。
神様の御心は、深く、ひとには、理解できないことが多いということを、まずは自覚すべきだろう。これらの節では、神の義が行われていないと断言しているように見える。自分は、見えている、わかっているということが根幹にある。それで良いのだろうか。
Psalm 75:2,3 神よ、私たちは感謝します。/あなたに感謝を献げます。/その名は近くにあり、人々は奇しき業を語ります。「私は時を選び/公平に裁く。
この詩篇の最後は、「私は悪しき者の角をことごとく折る。/正しき者の角は高く上げられる。」(11)で終わっている。結局、最初の裁きにしても、最後の表現にしても、因果応報が神の公平さだと讃えられ、賛美されているように見える。昔はそれこそが公平だと考えたのかもしれない。見えていない部分は、生まれながらの継承された不平等、さまざまな状況を見えてはいないからだろうか。それとも、公平さの重要な要素として、因果応報があるということだろうか。難しく感じる。
Psalm 76:2 神はユダに知られ/その名はイスラエルで偉大である。
いまは、このような言葉にも反発を感じる。イエス以外に、ユダ、イスラエルを導いた歴史の中の神をあまり重視しないようになってきているからか。旧約の神を大切にするゆえに、正しさによって、他者を裁くことに、反発を感じるからか。難しい。この詩篇記者とも共に生きることを求めていきたい。
Psalm 77:3,4 苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手を差し伸べた。/しかし、私の魂は慰めを拒む。/神を思い起こし、呻き、思い巡らそう/私の霊が萎え果てるまで。〔セラ
最後は、出エジプトでのことから神を讃えているが、引用句には、非常に微妙な葛藤が表現され、このあとも、その表現が続く。あまり、具体的な内容は見えないが、それゆえに余計、普遍性があり、共感を呼ぶのかもしれない。なにを伝えるのかは難しい。
Psalm 78:37,38 彼らの心は神のもとにとどまらず/その契約に誠実ではなかった。しかし、神は憐れみ深く/過ちを覆って、滅ぼさず/怒りを幾度も抑え/憤りをことごとくかき立てることはなかった。
過去の経験を次の世代に語りかけることは、重要なのだろう。たとえ、次の世代が経験することは、全く異なることであっても。伝えるものの謙虚さと、その変化を受け入れつつ、語ることだろうか。わたしは、まさに、そのときにいるように思う。できることは、何なのだろうか。
Psalm 79:12,13 わが主よ/近隣の民があなたをそしったそのそしりを/彼らの身に七倍にして返してください。私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。/とこしえにあなたに感謝し/代々にあなたの誉れを語り伝えます。
わたしも知っている箇所がある詩篇だが、結局、このようなことばで終わることを知らなかった。自分が好きな部分のみを、つまみ食いしながら読んでいたのだろう。結局、背後にあるのは、因果応報、そして、仕返しである。これでは、平和にはならない。わからない他者にどう向き合うか、わたしがいまいるところで学んでいきたい。
Psalm 80:5-7 万軍の神、主よ、いつまでなのですか/民の祈りにもかかわらず、怒りの煙を吐かれるのは。あなたは彼らに涙のパンを食べさせ/溢れんばかりの涙を飲ませました。あなたは私たちを隣国のいさかいの的とし/敵は私たちを嘲ります。
この詩篇も、バビロン捕囚後だろうか。「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。/力を奮い起こし、救いに来てください。」(2)ともあるので、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡だろうか。それとも、全体について、だいぶんあとに、振り返っているのだろうか。よくわからない。しかし、そのような詩篇が続くことは、ある編纂方針があるのだろう。もう少し丁寧に見ていきたい。
Psalm 81:16,17 主を憎む者が主に屈し/その災いの時はとこしえに続くがよい。「私は最上の小麦で民を養い/岩から出る蜜であなたを満たそう。」
引用した、最後の2節はよくわからない。最後は、神からの祝福のことばを思い出しているのかもしれない。いずれにしても、正しさと、対比、敵対、この中に住んでいたのだろうか。考えてみると、いまも、そうなのかもしれない。そのなかで生きることは、簡単ではない。難しい。
Psalm 82:8 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての国民をご自分のものとされます。
すべての国民は、イスラエルの民なのだろう。しかし、わたしには、そのようには、祈れない。神が愛されるものたち、むろん、そのものたちが、神を愛するわけではない。そして、滅びのなかにいることも、現実なのだろうが。わたしは、何を求めたら良いのかもわからない。しかし、求め続けたい。
Psalm 83:2,3 神よ、沈黙しないでください。/神よ、押し黙らないでください。/静まり返らないでください。御覧ください。/あなたの敵が騒ぎ立ち/あなたを憎む者は頭をもたげました。
自分の敵と神の敵が同一視されている。しかし、沈黙しないでくださいからは、必ずしも、自分の敵が神の敵ではないことも、加味されているように見える。その意味では、自分の敵を、神の敵として滅ぼしてくださいという祈りかもしれない。それは、十分理解できる。同時に、神の御心を求めるときに、そこから、いったん、離れて、自分も知らない、神の真理を求めなければいけないのだろう。
Psalm 84:4,5 あなたの祭壇の傍らに小鳥さえも住みかを見つけ/つばめも巣をかけて、雛を育てています。/万軍の主、わが王、わが神よ。/幸いな者、あなたの家に住む人は。/彼らは絶えずあなたを賛美します。〔セラ
祭壇や、神殿に巣をかけているつばめを見て詠んでいるのだろう。主の家に住むことは、主と共にいること。それを願っているのだろう。それが素晴らしいことだと、この詩篇は詠っている。わたしは、そこまで強い感覚を持っていない。それは、ひとつには、主が共におられることが当然だと考えてしまっているから、もうひとつは、神の前を、神なしに生きることを考えていつももがいているからか。もう少し、丁寧に表現したい。
Psalm 85:5-7 我らの救いの神よ、私たちを元に返し/私たちに対する憂いを鎮めてください。あなたはとこしえに私たちを怒り/その怒りを代々にまで及ぼすのですか。再び私たちを生かし/民があなたを/喜び祝うようにしてくださらないのですか。
最初には「主よ、あなたはご自分の地に恵みを示し/ヤコブの繁栄を回復してくださった。」(1)と始まる。しかし、どうも、ことは、単純ではないようだ。思いつくのは、バビロンからの捕囚帰還後の状況だろうか。元には返してくださらない。そのなかで、主の平和を求め、希望をも述べている。このように、自らを省み、神様の御心を求め続けることが信仰生活、すくなくとも、旧約聖書でそれなりに一貫しいたことなのかもしれない。あまり単純な結論を得ようとしてはいけないように思う。
Psalm 86:14 神よ、傲慢な者が私に逆らって立ち/荒ぶる者の群れが私の命を狙っています。/彼らは自分の前にあなたを置くことをしません。
受け入れがたい他者と向き合うときが難しい。いまは、その相手(の背景、内在的論理、価値観)を知ることこそが、最初に取るべき一歩だと思っているが、当時は、もっと、単純に考えられていたのだろう。そして、受け入れがたい、単純な悪が多かったのかもしれない。そして、それに寛容に対応すると、自分も、自分の家族も、一族も、隣人が滅ぼされる。それは、どう対応したら良いか難しい。むろん、わたしにもよくわからない。しかし、敵として、その滅びを待つことでは、解決は得られないように思うし、神様のみこころは、もう少し高いところにあるように思う。
Psalm 87:4,5 「私はラハブとバビロンを/私を知る者として挙げる。/見よ、クシュと共に、ペリシテとティルスも。/この者はそこで生まれたと。」シオンについては/「この者もあの者もそこで生まれた」と言われる。/これを堅く据えるのはいと高き方。
イスラエル中心史観、そして、周囲に拡大する、普遍主義。知っている範囲のみが、シオンが関係する範囲なのだろう。ここに現れない、メソアメリカや、アンデス文明のもとで育まれたひとたち、黄河流域からはじまって、東アジア文化圏のひとたちを、神様はしらないという史観である。しかし、このような旧約聖書を神のことばとして読んでいれば、そのような自己中心史観を周囲に少しずつ拡大していく、考え方から、逃れられないのは、仕方がないのかもしれない。そして、それは、イエスと出会わなければ、変わらないのだろうか。難しい。
Psalm 88:6 死人の中に捨てられ/刺し貫かれ/墓に横たわる者のようになりました。/もはやあなたはそのような者に心を留められません。/御手から切り離されたのです。
死が恐怖であり、絶対的な最後を表すと考えられていたのだろう。たしかに、死のあとは、わからない。まったく存在が消滅してしまうのかもしれない。とはいえ、そのひとの関係は、他者の中に生き続けることも、好むと好まざるとにかかわらず真実である。詩篇記者はこのなかで、主を呼び続けることで、主に望みを託している。それが、旧約の時代を生きたひとたちの基本的な信仰だったのかもしれない。
Psalm 89:50-52 わが主よ/あなたがまことをもってダビデに誓われた/かつての慈しみはどこにあるのでしょうか。わが主よ/僕が被っている嘲りを心に留めてください。/私はもろもろの民のそしりを/すべて胸に耐えています。主よ、あなたの敵が嘲るのです。/あなたの油注がれた者の足跡を嘲るのです。
主がダビデを選ばれたこと、ダビデに「あなたの子孫をとこしえに堅固なものとし/あなたの王座を代々に築こう」(5a)と誓ったことが書かれ、そのあとも、ダビデ王権についての記述が続く。しかし、本質的な部分は、引用句なのだろう。ここから、信仰が始まるのかもしれない。ここにも、敵に囲まれ、嘲られる存在としての詩篇記者、イスラエルの状況の記述がある。神様の御心を求め続け、受け取り続けることは、あまり簡単ではない。
Psalm 90:17 我らの神、わが主の麗しさが/私たちの上にありますように。/私たちの手の働きを/私たちの上に確かなものにしてください。/私たちの手の働きを力あるものにしてください。
ひとの命の儚(はかな)さが語られている。それを認めた上で、引用句のように語っている。その気持ちは理解できるが、わたしの感覚とは、ずれがあるように思う。それは、なぜだろうか。他者との交わりのなかに生きることに、価値を置いているからだろうか。そう簡単でもないのだろう。丁寧に考えたい。儚さのゆえに、苦しんでいる人も多いのだから。
Psalm 91:1 いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。
この「いと高き方を隠れ場とする者」についての描写がつづき、最後に主の宣言のような箇所で終わる。「彼は私を慕う。/私は彼を助け出そう。/彼は私の名を知っている。/私は彼を守ろう。彼が私を呼び求めるとき/私は答えよう。/苦難の時には彼と共にいる。/彼を助け出し、誉れを与えよう。長寿を授けて彼を満たし/私の救いを見せよう。」(14-16)これが信仰告白なのだろう。批判的に考えるよりも、わたしなら、どう語るか、考えてみたい。
Psalm 92:10 主よ、あなたの敵は必ず/あなたの敵は必ずや滅び/悪事を働く者は皆、散らされる。
これが信仰告白なのだろう。あなたの敵と表現する。神は、痛みをもって、苦しむ方というよりも、裁きの神なのだろう。イエスによって、違ったことが表現されたのか、それとも、わたしが勝手にそう考え、表現しているのか。丁寧に、聖書を読んでいきたい。
Psalm 93:1 主は王となられた。/主は威厳をまとい/力の衣を身に帯びておられる。/世界は固く据えられ/決して揺らぐことはない。
サムエル記では、民が王をもとめることを、心良しとされていない。それは、イスラエルにとって、どの程度重要な歴史観なのだろうか。先の預言者の文書と、そのあとでは、変わってしまうのだろうか。イエスは、どう考えていたのだろう。現実主義だったのだろうか。少なくとも、王については、発言しておられないように見える。
Psalm 94:1,2 報復の神、主よ。/報復の神よ、輝き出てください。地を裁かれる方よ、立ち上がり/高ぶる者に報いてください。
むろん、これだけが、神理解ではないが、このことが色濃く現れている詩篇である。神がどのような方であるかを知ること、それが信仰に大きな影響を及ぼす。神の支配(神の国)とはどのようなものかを知ることが、信仰の本質なのかもしれない。それを、イエスは示しておられる。しかし、それをひとは、受け取らないように見える。受け取りたくないからか。それとも、イエスの伝え方が悪いのか。難しい。
Psalm 95:10,11 四十年の間、私はその世代をいとい/そして言った。/『彼らは心の迷える民/私の道を知らない。』私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは私の憩いに入れない』と。」
詩篇は、詩篇記者の考えたことだろう。聖霊による導きはあるのだろうが。これも、神はそう考えるだろうという信仰告白に見える。おそらく、神様は、ずっと高いところから、ひとの思いを、「彼らは心の迷える民/私の道を知らない。」とみておられるのではないかと思う。その意味で、シンクロナイズもしている。
Psalm 96:5 もろもろの民の神々はすべて空しい。/主は天を造られた。
やはり、優越思想が強い。他者を理解することは、ひとには、難しいのだろう。しかし、主は天を造られた。そして、ひとりひとりを愛しておられるのだろう。天を造られた神が、もろもろの民を愛さないことがあろうか。ご自身のあらわし方は少し異なるかもしれないが、神の愛の大きさ深さをみくびるような、神理解は貧しいと感じてしまう。
Psalm 97:1,2 主は王となられた。/地は喜び躍れ。/多くの島々は喜べ。雲と密雲は主を囲み/正義と公正が王座を支える。
ここに詩篇記者の理想があるのだろう。鍵は、正義と公正である。しかし、人間の責任が、いまは、どんどん大きくなってきているように思う。かつ、それが難しい問いいうことも。正義と公正を、神様は持っていると信じていることは確かだろう。わたしは、そのようには見えない。苦しまれる神様が浮き彫りになるが。
Psalm 98:2,3 主は救いを知らせ/正義を国々の目の前に現された。/イスラエルの家に対する/慈しみとまことを思い出された。/遠く地の果てまで/すべてのものが我らの神の救いを見た。
この詩篇は「賛歌。/新しい歌を主に歌え。/まことに主は奇しき業を成し遂げられた。/主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。」(1)と始まる。実際に、イスラエルの回復があって言っているのか、讃歌なのかは、不明だが、中心は、イスラエルの救いである。それを通して、主を賛美する。イエスは、少し違うように見える。それも、イエスが受け入れられなかった理由だろう。
Psalm 99:1 主は王となられた。/もろもろの民は震えよ。/主はケルビムの上に座しておられる。/地は揺れよ。
この詩篇も「主は王となられた」から始まる。調べてみると、詩篇93篇、96篇、97篇、99篇に、96篇10節以外は、すべて、冒頭にある。人間の王との対比もあると思われるが、公義、ただしい裁きが行われるためには、主が王になられる以外にないと考えられていたのだろうか。主の支配と考えると、神の国が来たと表現するのと、似ている。しかし、イエスが唱えたのは「神の国は近い」この違いをしっかり考えてみたい。この詩篇の終わりの方には「主、我らの神よ、あなたは答えられた。/あなたは彼らを赦す神。/しかし、彼らの悪行には報いる方。」(8)とある。わたしには、短慮に思えてしまう。わたしの聖書の読み方は、かなり特殊になっているのだろうか。
Psalm 100:2,3 喜びながら主に仕えよ。/喜び歌いつつその前に進み出よ。主こそ神と知れ。/主が私たちを造られた。私たちは主のもの。/主の民、その牧場の羊。
有名な詩篇である。主に仕えるとあるが、神殿などでの奉仕を意味しているのだろうか。万人祭司の考え方から、主に仕えることを考えると、難しい。主のみこころが、明確に示されていないことが多いからである。そのときに、喜びは、あまりよく理解できない。やはり、難しい。
Psalm 101:8 朝ごとに、私は/この地の悪しき者をことごとく滅ぼします。/主の都から悪事を働く者をことごとく絶やします。
最初は「ダビデの詩。賛歌。/慈しみと公正を私は歌い/主よ、あなたに向かってほめ歌います。」(1)で始まる。公正である。そして、最後は「この地の悪しき者をことごとく滅ぼします。」これでは、平和は来ない。それを、ダビデに、そして、旧約に求めるのは、無理なのだろう。現代でも、同じことが起こっているのだから。もしかすると、これでは平和は来ないと言って、結局、わたしも正しさを求めてしまっているのかもしれない。どうしたら良いのだろうか。とても、深い問いに思える。
Psalm 102:3 苦難の日に、御顔を隠さず、私に耳を傾け/呼び求める日に、速やかに答えてください。
この詩篇は「苦しむ人の祈り。弱り果て、主の前に嘆きを注ぎ出すときに。」(1)と始まるが、その解決には至っていないようだ。「これは、あなたの怒りと憤りのゆえ。/あなたは私を持ち上げ、投げ捨てられた。」(11)ともあるように、人には、あやまりがある。不完全さがつきまとう。すると、自分の苦難は、そのゆえと考えてしまう。ただしい、神の前ではなおさらだろう。「主は道半ばで私の力を挫き/私の生涯を短くされた。」(24)そして、このように告白し、最後は「あなたの僕の子らが住まいを得/その子孫が御前に堅く立てられますように。」(29)で終わっている。このひとの苦悩は、続いているように感じる。難しい。苦難は、時代を超えて共通であるとも感じるが。
Psalm 103:2,3 私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな。主はあなたの過ちをすべて赦し/あなたの病をすべて癒やす方。
「ダビデの詩。/私の魂よ、主をたたえよ。/私の内なるすべてのものよ/その聖なる名をたたえよ。」(1)と一貫して讃美の詩篇である。その最初が引用句。罪を赦し、病を癒すから始まる。個人的な関わりが最初に来ているところが興味深い。そのような宗教として、続いていったのが、ユダヤ教なのだろう。宗教はみなそうなのだろうか。「罪を赦す」は、因果関係からのがれて救われることを意味するのだろうか。その証拠はないが、それを過去のことに求める。イスラエルの場合は、大きな歴史の出来事に。
Psalm 104:33-35 私は命のあるかぎり、主に向かって歌い/長らえるかぎり、わが神をほめ歌う。私の思いが御旨に適うように。/私は主によって喜ぶ。罪人は地から消えうせ/悪しき者はもはやいない。/私の魂よ、主をたたえよ。/ハレルヤ。
この詩篇の最後の部分である。讃美は、わたしが、あまり得意としない部分であるように思う。神様と共に悩む、それは、イエス様と共にということだが、そこにわたしの信仰生活があるように思う。すくなくとも、わたしには、「私は主によって喜ぶ。罪人は地から消えうせ/悪しき者はもはやいない。」とは喜べないからだろう。神様も悩んでおられるのではないだろうか。これは、価値多様性にあまりにも、大切にしすぎなのかもしれないが、少なくとも、今、わたしが探求していることではある。
Psalm 105:43-45 主は民を喜びのうちに/選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。彼らに国々の土地を与え/彼らは諸国民の労苦の実りをわが物とした。これは彼らが主の掟を守り/主の教えに従うためである。/ハレルヤ。
この出エジプトの意味づけは明確である。出エジプトでも、礼拝をするためとなっているが、ここでも、「主の掟を守り/主の教えに従うため」となっている。ピルグリム・ファーザースともつながることなのだろう。しかし、歴史は、実際には、この結果を産まなかったことも証言している。主の御心を求め続けること、そのなかで、主の働きを認めることだろうか。イエスは逃げ出さなかった。十字架にはかかってしまったが。
Psalm 106:48 イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ。」
イスラエルが、結局は、従わなかったことが、この詩篇には、書かれている。その上で、引用句が語られて終わっている。第四巻のおしまいである。105篇と106篇は区切りとする詩篇なのだろう。しかし、現在読んでいる、聖書協会共同訳には、5巻の区切りはついていない。
Psalm 107:28-30 苦難の中で主に叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出した。嵐を沈黙させたので、波は収まった。彼らは波が静まったので喜び/主は彼らを目指す港に導いた。
これが詩篇記者のことばである。しかし、この前には「主が言葉を発して暴風を起こすと/波が高くなった。」(25)ともあり、苦難の原因は、主にあることも書かれている。イエスが伝える主は、そのような方ではないとわたしは思う。苦しみは、神も同じように持っておられる。愛するが故に、自由意志をあたえ、かつ、従わない故に。
Psalm 108:12,13 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。私たちを敵から助け出してください。/人の与える救いは空しい。
主が全知全能で、すべてを統べ治められると考えると、いろいろなところに、不具合が生じる。イエスは、そうではない中で歩んでおられるように見える。イエスは、神との交わりのなかで、生きておられたのだろう。そこに信頼したい。そして、そのイエスから学びたい。
Psalm 109:29 私を訴える者らが辱めを衣とし/恥を上着としてまといますように。
わたしのメンタリティとはかなり異なる。わたしには「わが神、主よ、私を助けてください。/あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください。」(26) と訴える気持ちもない。神様の痛み苦しみを、イエスを通して、知ったからだろうか。むろん、ほんの一部だが。イエスと共にいることは、イエスの痛みを痛みとすること。それが神様の痛み苦しみを考えること、御心を知り、行うというわたしにとっての信仰告白ということになる。むろん、それは難しい。しかし、それが、イエス様に従っていくことだと思う。
Psalm 110:1 ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」
マルコ12:36、マタイ22:44、ルカ30:42,43に引用されている箇所である。このあとの「わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。」(5)からも、主、私の主、私の関係があり、私は、ダビデだと想定されている。しかし、この詩篇での、私の主がだれなのかは、明らかではない。ただ、このなかに「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(4)という、創世記14:18 にしか登場しない、メルキゼデクが登場し、それは、後にヘブル人への手紙で5:6,7:17,21 でイエスの祭司職と関連されて述べられているところからも、キリスト教の中で特別に重要な詩篇であることも事実である。ただ、ダビデにとっての我が主は、信頼するだれかだったのだろう。もしかすると、ダビデではないかもしれない。これは、よく学んでみたい。
Psalm 111:6,7 御業の力をその民に知らせ/国々の受け継いだ地を彼らに与えた。御手の業はまことと公正/その諭しはすべて真実。
やはり、神様が、どのような方なのか、どのように認識するのかが、大切なのだろう。その意味で、'The true foundation of theology is to ascertain the character of God. It is by the art of Statistics that law in the social sphere can be ascertained and codified, and certain aspects of the character of God thereby revealed. The study of statistics is thus a religious service.' by F.N. David は、その通りだと思う。いまなら、Data Science というだろうが。詩篇記者と認識がある程度違うのは仕方がないのだろう。生きる時代が異なり、観察することも異なり、イエスの生涯も見ていないのだから。
Psalm 112:1 ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。
信仰は、受動的な面が強かったのだろう。しかし、神様の御心を受け取ることが他からも受け取れるようになった今、もっと能動的になることができ、そして、協力も不可欠になってきているように見える。その背後にあるのは、互いに愛し合うこと、分断を避けることだろうか。もうすこし丁寧に言語化していきたい。
Psalm 113:6,7 天にあっても地にあっても/低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こし/貧しい人を芥の中から高く上げ
このように告白するひとがいたことは、主の特性を現代とも共有できるように思う。ただ、ここに普遍的な面が加わるかだろうか。聖書の不思議な点、イエスが、旧約聖書の中から生まれてきた点も関係しているように見える。低きもの、弱い人、貧しい人の痛みは、おそらくわからない。しかし、そこに下って、共にいて、引き上げてくださるということか。
Psalm 114:1,2 イスラエルがエジプトから/ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき/ユダは主の聖所となり/イスラエルは主の治めるところとなった。
このような告白は理解できる。それほど、イスラエルにとって、大きな経験だったのだろう。しかし、だからといって、主にとっても、絶対的な価値があるかはわからない。それでも、良いのだろうか。いろいろな問題が生じさせていることも確かである。難しい。
Psalm 115:1 主よ、私たちにではなく/私たちにではなく/あなたの名にこそ、栄光を与えてください/あなたの慈しみとまことのために。
このあとには、偶像との比較、そして、主に信頼せよと続く。最後は、ハレルヤで終わり、賛美の詩篇でもある。しかし、最近は、違和感を感じてしまう。主がなにを望んでおられるか、みこころを、自分たちは知っているということが背景にあるように思えてしまうからだ。すくなくとも、わたしには、わからないし、イエスを人々が受け入れられなかった原因も、それがわからないからであるように思うからだ。まずは、謙虚に求めていきたい。
Psalm 116:15 主に忠実な人たちの死は/主の目に重い。
自然ではあっても、やはり、素直には受け入れられない。主に忠実な人は、往々にして、主に忠実だと自認しているひとを意味するからだろう。実際に主に忠実な人がどのようなひとなのか、それを、わたしは知らない。たしかに、主は、主に忠実な人たちを愛してくださっているとは思うが。同時に、そうなれないひとたちをも、憐れみ、愛してくださっているのではないだろうか。そして、苦しんでおられるのではないだろうか。わたしの主の理解が、間違っているのだろうか。
Psalm 117:1,2 主を賛美せよ、すべての国よ。/主をほめたたえよ、すべての民よ。その慈しみは私たちに力強く/主のまことはとこしえに絶えることがない。/ハレルヤ。
これがこの詩篇の全文である。賛美の詩篇である。印象的なものは「すべての国」「すべての民」「慈しみ」が「私たちに力強い」、そして「主のまこと」だろうか。最初の二つは、少し、気になってしまう。このように賛美することは、やはり、自分の信じるものを中心に置くところだから。後半は、私たちとなっており、それは、ひとつの経験からの信仰告白、賛美であり、理解できるが。
Psalm 118:22,23 家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。
福音書にも(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17)使徒言行録にも(使徒4:11)、書簡にも(エフェソ2:20、ペトロ前書2:6,7)登場する、有名な言葉である。しかし、あまり、背景を考えなくても良いのかもしれないと今日思った。言い回しを引用することもあるのかもしれない。主をどう理解するかが、鍵なのだろう。
Psalm 119:71 苦しみに遭ったのは私には良いことでした。/あなたの掟を学ぶためでした。
有名なそして聖書でもっとも長い詩篇・章である。戒めや、引用句にもある、掟など、神のことばの置き換えがたくさん入っていることは知っていたが、今回は「あなたの」に目が止まった。あなたの諭し、あなたの戒め、あなたの掟、あなたの正しい裁き、あなたの言葉、あなたの仰せ、現在読んでいる聖書協会共同訳で、163件ヒットした。詩篇全体で485件であることを考えても多い。それが、引用句にもある、学びに直結しているのだろうと思った。敵に近い概念は何度か登場するが、この学ぶ姿勢にひかれる。いつかゆっくり学んでみたい。
Psalm 120:6,7 平和を憎む者と共に/私の魂が久しくそこに住むとは。私が平和を語っても/彼らはただ戦いを好む。
この直前には「ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。」(5)とある。よくは理解できないし、これは象徴的に語っているのか、それとも、実際のこの地名を挙げているのかわからないが、たしかに、平和を憎むと思われるものはいる。そして、自分も他者にとっては、そうなのかもしれないとも思った。そうでないように生きるにはどうしたら良いのだろうか。それは、とても大きな問いである。
Psalm 121:5 主はあなたを守る方。/主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。
この主のもとにいる。主が近くにいる。このように実感できるときは良いが、いつもそうではないだろう。すくなくとも、そう感じられないひともいる。やはり、感覚的なものに響く。主との個人的な交わり、主に問い、主から学ぶ、そういうのは、簡単だが、やはり、イエスからではないと、学べないように感じる。どうだろうか。
Psalm 122:8,9 私の兄弟、友たちのために、さあ、私は言おう/「あなたの内に平和があるように。」我らの神、主の家のために私は願おう/「あなたに幸いがあるように。」
兄弟、友たちと、神、主の家について語られている。絶対他者と、他者である。平和と幸を願う。そのようなものでありたい。そして、神と、人間としての他者の関係にも、目を向けながら。
Psalm 123:3,4 私たちを憐れんでください。/主よ、私たちを憐れんでください。/蔑みは飽きるほど受けました。私たちの魂は飽きるほど受けました/高ぶる者らの嘲りを/傲慢な者らの蔑みを。
わたしは、辛い経験は、あるが、ここまでの蔑みを経験したことは、ないように思う。ということは、この詩篇記者を理解することはできないということだろうか。あわれんでください、と祈る経験がないということだろうか。神は、単に、憐れみを乞うかたではないと考えているからか。イエス様の苦しみ、痛みを、見過ぎているからかもしれない。
Psalm 124:1 都に上る歌。ダビデの詩。/「もしも、主が我らの味方でなかったなら」/さあ、イスラエルは言うがよい。
味方か、敵か、このような感覚は、わたしには無い。普遍主義に毒されているからか。わたしの理解している、イエスの教えは、限られているだろう。しかし、わたしには、いま、理解している、イエスを通して知っていると思う、主のみこころを大切にする以外にないとも思う。ただ、これも、敵か味方かではなく、もし、主の思いが、わたしの理解と正反対だったらと問うことはできるかもしれない。その可能性は十分にある。わからないのだから。
Psalm 125:5 しかし、曲がった道にそれる者らは/悪事を働く者らと共に/主が去らせてくださるように。/イスラエルの上に平和があるように。
排除による平和である。わたしには、やはり、受け入れられない。それは、いろいろと解釈もできるだろう。しかし、これは、主のみこころに沿わないと告白することもたいせつなことのように思う。同時に、詩篇記者を排除してはいけない。詩篇記者も、御心を求め続け、「主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に/幸いをもたらしてください。」(4)と賛美する中で、上の、ことばを書き記しているのだから。ともに、御心を求め続けるものでありたい。
Psalm 126:1 都に上る歌。/主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。
この喜びを否定してはいけない。どれほどのものか、わたしには、わからないのだから。ひとの悲しみ、苦しみと、喜びは、他者には、なかなか理解できない。しかし、ともに、喜び、ともに、泣くものでありたい。感謝を持って。
Psalm 127:1,2 都に上る歌。ソロモンの詩。/もし、主が家を建てるのでなければ/それを建てる人々は空しく労苦することになる。/もし、主が町を守るのでなければ/守る人は空しく見張ることになる。/空しいことだ/朝早く起き、夜遅く休み/苦労してパンを食べる人々よ。/主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。
有名な詩篇であるが、1節の2節の関係を考えたかったので選んでみた。1節は主が背後におられる、主のもとでの仕事ではないは、主がともにいてくださらなければ、それは、虚しいことを言っている。しかし、一般的には、主のみこころかどうかは、わからない。2節は、主に信頼することの大切さだろうか。しかし、神様は、わたしたちにさまざまなヒントを与え、自分で考えてすることも望まれるように思う。ともに、生きるために。神様と協働するために。やはり、求め続けるところに、鍵があるように思う。ここに書かれていることはたしかでも、主がそこにおられるか、みこころなのか、主が、どのようにすることを望み、ともに働こうとしておられるのかわからないのだから。
Psalm 128:1,2 都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。あなたの手が苦労して得た実は/必ずあなたが食べる。/あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。
自分の労苦の実が報われず、他者のものになることが、災いだとされているのだろう。しかし、それでも良いのではないだろうか。もし、主が喜ばれるなら、よしとされるなら。もともと、ともにいきることをめざせば、だれが労苦の実を得るかは、あまり問題ではない。それよりも、共にといえない、分断した社会に問題があるのではないだろうか。
Psalm 129:3,4 悪しき者らは私の背に鋤を当て/長い畝を作った。」主は正しい。/悪しき者らの縄を断ち切ってくださった。
キリスト教会の中でも、詩篇やカトリックの祈祷文や、プロテスタントの式文に多く現れる。しかし、おそらく、かなり、排除しているのだろう。聖書は、好きなところだけ、読めば良いのだろうか。それとも、新約だけで良いのだろうか。基本的には、キリスト教会は、それにたいして、NO という。それであれば、その向き合い方を、適切にすべきだと思う。そのことの教育も。それがなおざりにされていることが、分断を助長しているのではないだろうか。
Psalm 130:7,8 イスラエルよ、主を待ち望め。/主のもとに慈しみがあり/そのもとに豊かな贖いがある。この方こそ、イスラエルを/すべての過ちから贖ってくださる。
「しかし、赦しはあなたのもとにあります。/あなたが畏れられるために。」(4)と説いた美しい詩篇である。しかし、最後は、イスラエルである。シオニズムに結びつき、世界の分断を誘ったことにも結びついている。許しは、だれにたいしてもあることへ、昇華するのは、難しいのだろうか。この次のレベルに進まなければいけない。それには、普遍的な考え方が必須である。
Psalm 131:2 私は魂をなだめ、静めました/母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。/私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。
何を表現しているのだろう。この前には、「都に上る歌。ダビデの詩。/主よ、私の心は驕っていません。/私の目は高ぶっていません。/私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。」(1)とある。「奇しき業に関わることはしません。」が関係しているのだろう。無知を可とするということだろうか。神の領域に手を出さないということは、理解できるようで、そう簡単ではない。それが、なにか、正確にはわからないのだから。
Psalm 132:17,18 ここに、ダビデのために一つの角を生やす。/私が油を注いだ者のために一つの灯を据える。彼の敵には恥をまとわせる。/しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」
ダビデが、神殿を建てることを望んだことが背景にあるようだ。それをうけて「都に上る歌。/主よ、ダビデを思い起こしてください/彼が受けた苦しみのすべてを。」(1)となっている。しかし、なにか、わたしには、同意できないものがある。詩篇記者がたいせつにしたものが、受け取れないということなのだろうが。排除や、分裂はしないようにしたい。
Psalm 133:1 都に上る歌。ダビデの詩。/兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。
兄弟に限定していることが気になるが、兄弟が他人・他者のはじまりであることも確かなのだろう。そしてこの兄弟を、きょうだいとして男性・女性に関係なくとらえたり、「人類はみなきょうだい」としてとらえたり「被造物」みなについてかんがえたりと広がっていくのかもしれない。そして、きょうだいは、おやたちの子でもある。それは、自分と親の関係ではなく、親の視点でみると、自分も、きょうだいもおなじであること、それが神様が愛しておられる人々につながるのかもしれないとも思った。たしかに最後にあるように「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。」(3b)なのかもしれない。旧約聖書をみていると、部族ごとの対立もいろいろと書かれているのだから。
Psalm 134:3 主がシオンからあなたを祝福してくださるように/天と地を造られた方が。
主に結びつけることが、宗教の分断をあおるようにも感じる。しかし、同時に、絶対他者に結びつけることは、自分の中、人間世界を相対化することにもなるのだろう。さらには、神様のみこころを求める態度さえ失わなければ、傲慢にはならない。宗教が分断を作り出すのは、神様のみこころを、自分たちは知っていると、結局、自分たちに目を向けてしまっているからなのかもしれない。宗教と平和・分断回避の問題は、これからも考えていきたい。
Psalm 135:10-12 主は多くの国を打ち、強大な王たちを殺した/アモリ人の王シホン、バシャンの王オグ/カナンの王国をことごとく。/彼らの領地を相続地として与えた/ご自分の民イスラエルに相続地として。
主が、自分に恵み深いことを感謝することは、宗教心の始まりなのかもしれないが、やはり、主が造られた他者に向かわないと、自己中心になってしまう。自己中心のおそろしさとも言える。自分の歴史を、HIS-STORY と神の歴史に置き換えてしまうところに、問題が生じるのかもしれない。自分の味方を相対化することは、やはりとても難しいが。
Psalm 136:5-7 英知をもって天を造った方に。慈しみはとこしえに。水の上に大地を広げた方に。慈しみはとこしえに。大きな光を造った方に。慈しみはとこしえに。
この方が他者にとって、どのような方なのか、やはりここでも「天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)まで、理解が向かわないと、自己中心になってしまうということか。それは、宗教人、おそらく、だれでも考えることだろう。しかし、具体的な問題の中では、そこに、こころが向かわない。その難しさなのかもしれない。
Psalm 137:5,6 エルサレムよ/もしも、私があなたを忘れたなら/私の右手は萎えてしまえ。私の舌は上顎に張り付いてしまえ。/もしも、あなたを思い出さないなら。/もしも、エルサレムを私の最上の喜びとしないなら。
エルサレムは、ユダヤ人にとって、神を最も近く感じられる場所なのだろう。その意味で特別である。「イエスは言われた。『女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。』」(ヨハネ4:21)これは、エルサレム以外で礼拝している、サマリヤの女との会話から生まれている。そのような他者との出会いが、新しい、真実に導いているとも言える。相対化だろうか。難しい。
Psalm 138:2-4 聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝を献げる。/あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされた。/私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。/主よ、地上の王は皆、あなたに感謝を献げる/あなたの口から出る仰せを彼らは聞いた。
感謝、賛美、そして、それが広がっていく。おそらく、その次に、相対化されることが必要なのだろう。それが、ポストモダンの考え方なのだろうか。相対化なのだろうか。しかし、単純な相対化ではないようにも思われる。中心が動いているのではないのだから。どう考えたら良いのだろうか。自分と神との関係をたいせつにしつつ、神と他者、自分と他者の関係を大切にするためには。
Psalm 139:19-21 どうか神よ、悪しき者を殺してください。/血を流す者ども、私から離れよ。/彼らはたくらみを抱いてあなたのことを語り/あなたの敵として空しい反抗をする。/主よ、あなたを憎む者を私も憎み/あなたに立ち向かう者を私も忌み嫌います。
なんとも激しい。「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。」(1)から始まるが、わたしたちが、主を知っているわけではないというこの不均衡が難しい。それが、他者を理解できない、背景にもある。求め続ける謙虚さ以外には、わたしには、ことばがない。
Psalm 140:9,10 主よ、悪しき者の欲望を許さず/そのたくらみを遂げさせず/彼らを高ぶらせないでください。〔セラ/私を取り囲む者の頭には/彼らの唇の害悪が覆いかぶさるがよい。
わたしは、このようには、祈れない。祈りたくない。祈るようなものでありたくない。だからといって、このようなことを望むこころが、わたしにないというわけではない。このように、吐き出すことによって、ひとりの弱い人の魂が守られるのだろうか。聖書をどう理解するかに、鍵があるのかもしれない。そこまで、丁寧に読むことが、わたしの使命のようにも思う。考えさせられる。
Psalm 141:9,10 私を守ってください/彼らが仕掛けた網の罠から/悪事を働く者の罠から。悪しき者がこぞって自らの網に落ちますように。/私はその間に逃れ去ります。
やはり詩篇は、いや、聖書は恐ろしい。探究を続けてきて、いま、わたしは、ここにいる。福音書を学ぶとき、特に、いま、マルコを学ぶときとかなりことなる。しかし、これからも、詩篇もたいせつに読んでいきたい、この詩篇記者とともに生きるために。
Psalm 142:7,8 私の叫びに心を向けてください。/私は弱り果てました。/追い迫る者から私を助けてください。/彼らは私よりも強いのです。私の魂を牢獄から引き出してください。/あなたの名に感謝するために。/あなたが私に報いてくださるので/正しき人々が私の周りに集まります。
わたしも昔、このように祈っただろうか。問題に引き込まれたとき、問題を起こしたことを気づいたとき、このような思いだったろうか。そうだったのかもしれない。いまは、正直覚えていない。しかし、今のわたしは、このようには祈れない。語れない。そうであっても、詩篇記者を無視したり、断交したりするきにもなれない。難しい状況である。
Psalm 143:11,12 主よ、あなたの名のゆえに、私を生かし/あなたの義によって/私の魂を苦しみから引き出してください。あなたの慈しみによって、敵を消し去ってください。/私の魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。/私はあなたの僕です。
救いと、敵を滅ぼすことは、表裏一体ということなのだろう。神の御心がなることを妨げる存在を悪魔と呼ぶなら、それを滅ぼすことが救いだとも言える。しかし、イエスの言動を見ていると、「神の国は近い」というメッセージにおいて、それが目的だとは思えない。神のみこころから離れるよう誘うものぐらいだろうか。それがなければ良いと考えるのは、自然であるが、単純化バイアスに陥っている様にも見える。少しずつ学んでいきたい。
Psalm 144:3,4 主よ、人とは何者なのか/あなたがこれを知るとは。/人の子とは何者なのか/あなたがこれを思いやるとは。人間は息に似ている。/その日々はさながら過ぎゆく影。
主の被造物だからか。正直、わからない。神は人間の創造物なのかもしれない。しかし、人間にとって、とてつもなくたいせつな存在であることは、確かだと思う。この詩篇のように、告白できるだけでも、ゆたかな命の営みになるだろう。善と悪ではなく、絶対他者視点を求め続ける生き方をしたい。
Psalm 145:14-16 主は、倒れそうな人を皆支え/うずくまる人を皆立ち上がらせる。/すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと/あなたは時に応じて食べ物をくださる。/あなたは手を開き/命あるものすべての望みを満ち足らせる。
最初の部分は、そうかなと思うが、のこりの二つは同意できない。最初のものも、単純ではないように思う。そう考えるのは、おそらく、わたしが科学的理解の世界をある程度経験しているからの様に思う。つまり、神様のこの世に関する関わりに関して、当時の人が、王の王のようなものだと考えていたのとは異なるということだろ。それは、仕方がないことなのかもしれない。しかし、異なる人が、どのように、考えているかも受け入れられるものでありたい。
Psalm 146:5,6 幸いな者、ヤコブの神を助けとし/望みをその神、主に置く人。天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り/とこしえにまことを守る方。
このあとに、主について書かれている。おそらく、それが大切だろうが、その前にある部分を選んだ。天地を造り、守かたが主であるという告白である。そうなのかもしれない。しかし、よくはわからない。主は、やはりひとりひとりの心の中におられるのかもしれない。すべてのこの世のものにとって、大切な存在であることも、確かだろうが。難しい。普遍的なことばでは語れない。
Psalm 147:6 主は苦しむ人々を支え/悪しき者らを地に倒す。
毎回毎回、このような言葉がある。少なければ、その背景を考えることもあるだろうが、詩篇には、おそらく旧約の時代には、まったく当たり前のことだったのだろう。それは、少しずつ変化しているのが人間社会のように思う。変化せずに残っており、聖書を引用して、それを助長するようなこともあるが。正直、キリスト教や、宗教を擁護する気にはなれない。それらの弱さを、しっかりと受け入れるべきだろう。特に、指導者は。
Psalm 148:14 主はその民の角を高く上げた。/賛美は主に忠実なすべての人のなすこと/主のそばにいる民、イスラエルの子らのなすこと。/ハレルヤ。
賛美は、主について知らないとできないと思ってしまうがどうだろうか。主のご性質を理解して、それを賛美する。問題は、わたしたちが、それを十分、理解できていないのではないかということである。むろん、それでも、賛美は自然にでてくることもある。神様は、それをよしとしつつ、求め続けることを願われるのだろうか。難しいが、謙虚でいたい。
Psalm 149:4 主はご自分の民を喜びとし/苦しむ人を救いによって輝かせる。
このように告白することがわたしはできない。問題ばかり感じてしまうから。そして、さらに、苦しむ人がいるのは、人間が、わたしたちが、その理由だとも思うからである。それが、少しずつ、見える様になってきた。むろん、すべて人間が原因だとは言えない面もある。たとえそうであっても、このようには、告白できない。それほど、厳格にならなくてもよいのだろうが。キリスト者以外への弁明を考えると、そうせざるを得ない様に感じる。
Psalm 150:6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。/ハレルヤ。
詩篇の最後のことばである。最後のいくつかの詩篇は、すべて、賛美である。わたしに欠けているものなのかもしれない。主を賛美せよ。ハレルヤ。賛美はきらいではないが、相対化しているのは、確信がないからだろうか。考えさせられる。


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Psalm 1:2 主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
「幸いな者」と始まる美しい詩である。信仰告白でもあるだろう。主の教えを喜びとする。これは、十誡のような禁止ではなく、主の喜びを喜びとすることを言っているように思われる。律法をどのように、人が受け入れているかにかかっているように思われる。禁止か教えか、難しいこともあるのだろう。わたしは、やはり、御心と真理を近いものとして、それを求め、そのように生きたいと願っている。むろん、禁止が関係していないわけではなく、御心とはことなることに、心が奪われることは頻繁にある。これからも、主の教えを学び続けるものでありたい。真理を求めて続けることと表現してもよいが。
Psalm 2:7-9 私は主の掟を語り告げよう。/主は私に言われた。/「あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。求めよ。私は国々をあなたの相続地とし/地の果てまで、あなたの土地としよう。あなたは彼らを鉄の杖で打ち砕く/陶工が器を叩きつけるように。」
新約聖書で「あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。」の部分が引用されている(使徒13章33節、ヘブル1章5節、5章5節)こともあり、イエスに結びつけて語られるが、この詩篇自体についてはよくわからない。また、福音書には、マタイ3章17節・17章5節と、イエスの受洗のときと、山の上での変貌のときの神の声が「これは私の愛する子、私の心に適う者」と記されているが、関係性は明白ではない。イスラエルの王国が背後にあるとすると「なぜ、国々は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。」(1,2)は別の様相を呈する。世界の一部の記述とも読めるからである。王は、主によって立てられ、子のように、主が愛されるということの表現だと考えるにとどめておくのがよいようにも思う。
Psalm 3:2,3 主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。/多くの者が私に立ち向かい多くの者が私の魂に言っています/「あの者に神の救いなどない」と。〔セラ
ダビデの詩とある。作者がダビデなのか、ダビデによせて創られたのかは、わからないが、このような苦悩は、仕事を委ねられたものの常である。わたしも、並べてはいけないかもしれないが、そのような、苦悩はなんども経験している。その苦悩のなかで主を呼ぶ。主にしか希望を持てないということだろう。それがひとを支える。信仰の為せるわざであるが、独善のあぶなさもあるのだろう。「救いは主のもの。/あなたの民の上に祝福を。〔セラ」(9)救いは、この詩篇作者も、自分にとどまらない祝福を願っていることだろうか。
Psalm 4:9 平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。
この背後に「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ 義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。」(5,6)のような苦悩と戦いがあるところが印象的である。詩篇記者のように「あなたは私の心に/穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを/与えてくださいました。」(8)といえる経験を積み重ねていくことも、ひとを成長させていくのかもしれない。そのひとだけでなく、神様との交わりや、他者との関係、多くのひとのなかでの生き方。
Psalm 5:11 神よ、彼らに罪を負わせてください。/その謀のために、倒れますように。/度重なる背きのゆえに、彼らを追い出してください。/彼らはあなたに逆らったのです。
このあとには「あなたのもとに逃れるすべての者が喜び/とこしえに喜び歌いますように。/あなたは彼らを覆い/御名を愛する者があなたを喜び祝いますように。」(12)と続き、善悪、敵味方の二分があり、神が自分の側にいることを根拠に祈っている。他者と出会いながらこれは変化していくのだろうか。わたしは、ほとんどこのような考え方をしなくなっている。しかし、だからといって、清い思いだけをもっているわけではない。引用句に「彼ら」そして「彼らの神」と自分の神、双方にとっての神、真理を考える必要があるということだろうか。しかし、それだけで、ことは解決しないように思う。「主よ、義によって導いてください。/私に敵対する者がいます。/私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。」(9)このような、主との対話、自分と向き合うことは、かわらないことでもある。他者と向き合えば解決することではない。解決するとすることは、主と向き合わず、自分を主とすることでもあるだろう。難しい。
Psalm 6:3,4 主よ、憐れんでください。/私は病み衰えています。/主よ、癒やしてください。/私の骨はおののいています。私の魂は震えおののいています。/主よ、いつまでなのですか。
この詩篇も詩篇5篇と同じく、最後は「敵が皆、恥を受けておののくように。/恥にまみれて瞬く間に逃げ帰るように。」(11)と終わっている。敵への裁きを願う言葉だ。しかし、背後には、引用句のような病み、痛み、苦しみ、魂の震えおののきがあり、主の憐れみにすがる以外にない状態があるのだろう。自分の弱さとも言えるかもしれない。自分には、どうすることもできない状態、そのなかでの裁きである。相手の状態に思いを馳せることをしていないとするのは、単に正しさで、この詩篇記者をさばいていることにすぎないのだろう。まずは、この詩篇記者の痛みにこころを向けたい。そこにこそ、たいせつなことが隠されているように思う。苦しんでいる人に、そんな考えではだめだよといってもどうにもならないのだから。
Psalm 7:7 主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。/身を起こしてください/私を苦しめる者に激しい憤りをもって。/目を覚ましてください、私のために。/あなたは公正をお命じになりました。
公正はたしかに主が喜ばれることだろう。とすれば、それを行わないものを、裁かれる方と考えるのも自然だろう。「悪しき者の悪を絶ち/正しき者を堅く立たせてください。/神こそ正しき方/心と思いを試す方。」(10)しかし、同時に、特定のことについては、自分の潔白と正しさを、自分で理解できる範囲内で主張できるかもしれないが、他のことについてはそうとは言えない。また、公正は公平とも関係し、単純になにが公正か公平かを判断できないことも多い。そのいみで、現代の解釈、すべてのひとを罪人とする考え方は、進化しているとも見える。同時に、地上で公正さ、公平さが行われていないことに対するいらだちは、神の権威を貶(おとし)めているようにも見える。神の苦しみ、痛みの理解へと向かうのは、ハードルが高い。正しさでは、判断できない世界、ほんとうに、難しい。
Psalm 8:5 人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
この畏(おそ)れ慄(おのの)くこころは、人間にとって、共通のもので、時代をはるかに超えるものであるように思う。科学でほとんどのことが理解できるとして、ここに心が向かわないひともいるかもしれないが、科学者こそが、この気持を持っているのではないだろうか。向かう相手が、キリスト教でいう主、神かどうかは別として。わたしは、それでよいと思っている。ひとは、被造物にすぎない。140億年の進化など、自然の産物だとしてもよい。そのある時点の、ほんの瞬間に存在している自分について考えたとき、そして、人類について考えたとき、謙虚にならざるをえない。この感覚はやはり宗教的と言えるものだと思う。
Psalm 9:13 流された血の償いを求める方は/彼らを心に留め/苦しむ人たちの叫びを忘れない。
「主は義によって世界を裁き/公平に諸国の民を裁かれる。主は虐げられた人の砦/苦難の時の砦。」(9,10)とあり、この詩篇でも主は裁き主である。そして、虐げられた人の砦、苦難のときの砦で、流された血の償いを求め、苦しむ人たちを忘れない方である。しかし、実際に世の中をみると、そのような裁きが行われているとは見えないのではないだろうか。それを、詩篇記者はどのように考えていたのだろうか。その中でこそ、信頼することが信仰だとしていたのだろうか。わたしは、いまは、異なる考え方をもっているが、それが正しいかどうかはよくわからない。この詩篇記者とも語り合ってみたい。おそらく、このような感覚をもった、すばらしい、信仰者が、現代にもいるのだろう。謙虚に学びたい。
Psalm 10:17,18 主よ、あなたは苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。/彼らの心を確かなものとし/耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた人のために裁き/この地の人が/二度と脅かされることがありませんように。
すばらしい告白、祈りである。「(主は)苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。」は実体験なのだろうか。あることを経験して、それが信頼に結びついているのか。この詩篇には、この信仰に対する考え方が書かれている。「悪しき者は鼻高々で神を尋ね求めず/『神などいない』と/あらゆる謀をたくらむ。」(4)「彼は心の中で言う。/『私は代々に揺らぐことなく/災いに遭うはずがない』と。」(8)「彼は心の中で言う。/『神は忘れているのだ。/顔を隠し、永遠に見るまい』と。」(11)「なぜ悪しき者は神を侮り/『神はとがめなどしない』と心の中で言うのか。」(13)これは間違っている、こうではないと言っているようだ。葛藤の表現でもあると思う。この詩篇記者の痛みと葛藤も正しさとともに、受け取りたい。
Psalm 11:1,2 指揮者によって。ダビデの詩。/主のもとに私は逃れた。/なぜあなたがたは私の魂に言うのか/「小鳥よ、山に飛んでゆけ」と。見よ、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。/闇の中、心のまっすぐな人を射るために。
意味はよくわからないが、おそらく、悪しき者にもてあそばれている状況が描かれているのだろう。なかなか、想像ができない。しかし、あからさまに、このようにいう人が居たのかもしれない。そう考えると、現代は、良い時代である。たしかに、他人を陥れる人はいるが、それに、一定の歯止めはかかっているように思われる。社会によるのかもしれないが。当時のことをもう少し知りたい。
Psalm 12:2,3 主よ、お救いください。/忠実な人が消え/真実な人は人の子らの中から去りました。人々は互いに空しいことを語り/滑らかな唇で、二心をもって語ります。
このあとには主のことばとして「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。/今こそ、私は立ち上がり/あえぎ求める者を救いに入れよう。」(6)ともある。今は、こうではないのかと問われると判断は難しい。状況はいまも、同じだとも言える。同時に、改善しようとするひとも多く、努力もなされているように思う。二心は気になるが、一心のほうが問題がある場合も感じる。それほど、単純ではないように見える。社会をどうみるのか、その問題の核心はなになのか、それは、簡単には言えない。改善策は、単純ではないからである。複雑な問題を、整理することは大切でも、実際に課題に向き合うには、課題をひとつのことに押し込めてはいけないように思う。
Psalm 13:4 わが神、主よ、私を顧み、答えてください。/私の目を光り輝かせてください/死の眠りに就くことのないように。
主の応答、主が共に居てくださることを実感していたい。それが、訴えに答えてくださる神として表現されているのだろう。神の側にも、いろいろな事情があるだろうが、この詩篇記者の背景にある苦しみ・痛み、これだけの熱心さ、そして、そこに頼る信仰、いずれも、わたしには、ない。すくなくとも批判をすることはできない。学ぶことをしていきたい。最後は、「私はあなたの慈しみに頼り/私の心はあなたの救いに喜び躍ります。/『主に歌おう/主が私に報いてくださった』と。」(6)と締めくくっている。このことばを発するまでには、ある時間の経過もあるのかもしれない。そのような信仰告白の詩篇なのだろう。
Psalm 14:4 悪事を働く者たちは誰もこのことを知らないのか。/パンを食らうように私の民を食い尽くし/主を呼び求めようとはしない。
「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。/善を行う者はいない。一人もいない。」(3)とあるが、どうも、それは、引用句につながっているようだ。「パンを食らうように私の民を食い尽くし」はなにか具体的な問題が背景にあったことを暗示させる。このときにその背後にいる人たちを「悪事を働く者たち」と呼び「善を行う者はいない。一人もいない。」と宣言する。ある意味では正しいのだろうが、民族対立も背景にあることがわかる。(7)正しさだけでは、平和は訪れないように思う。ともに生きるためには、どうしたらよいのか。むろん、解決策を持っているわけではないが、問題の難しさは感じる。
Psalm 15:1,2 賛歌。ダビデの詩。/主よ、誰があなたの幕屋にとどまり/聖なる山に宿ることができるのでしょうか。それは、全き道を歩み、義を行い/心の中で真実を語る者。
このあとに、少しずつ具体的にその内容が書かれ、最後は「利息を取って金を貸さず/賄賂を取って罪なき人を苦しめない。/これを行う人はとこしえに揺らぐことがない。」(5)と終わっている。「全き道を歩み、義を行い/心の中で真実を語る者」は、日常をどう生きるかに関わっていることを表現しているのだろう。そして、それは、かなり広範囲に及ぶことも告白している。ある程度まとめることはできても、それが具体性を伴わなければ空虚になる。ことばに終わらない、生き方、これは、一人ひとりに委ねられているように思う。他者との関わりで、矛盾のように感じられることもあるのかもしれない。そんなときにも「舌で人を傷つけず/友に災いをもたらさず/隣人をそしることもない。」(3)ものでありたい。
Psalm 16:5,6 主はわが受くべき分、わが杯。/あなたこそ、私のくじを決める方。測り縄は麗しい地に落ち/私は輝かしい相続地を受けました。
"To understand God’s thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose. – Florence Nightingale" 「神の御心を理解するには、統計学を学ばなければいけません。それは神様のご計画のものさしだからです。」(私訳)比較をして価値判断をするときのものさしについて知ることができると言っているのだろう。引用句は、そのようにして決められたものは、すばらしいものだと言っているのだろう。測り縄については、正確には調べていないが、土地の境界線を決めるようなときに用いられたのだろう。偶然のようにみえるものを、感謝して受ける。しかし、その偶然にみえることも、ある程度、神様は、人にわかるようにしておられる。それをしっかり学びなさいというのが、ナイチンゲールが主張することだろう。Decision Making Science 意思決定の科学と呼ばれる、Data Science データサイエンスの萌芽である。たしかに、わからないことばかりである。しかし、わかることも少しはある。それは、神様がわたしたちに、情報提供していることなのだから、しっかりと受け取るべきだということ。信仰者にとって、ひとつのチャレンジでもある。
Psalm 17:14 主よ、人々から、あなたの手で。/人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から。/あなたがかくまった人に/十分な食べ物を与えてください。/子どもたちも満ち足り/その幼子たちにも豊かな富を残せますように。
「人々から」が二回現れるがよく意味がわからない。「主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、/あなたの宝をもってその腹を満たされる/世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、/その富を幼な子に残すのです。」(口語訳)こちらのほうが意味は通るが、おそらく、言葉を加えて訳しているのだろう。詩文体の難しさでもある。児童養護施設に週二回行き「子どもたち」のことを、考えている。多くの困難が凝縮されたかたちで、存在している。現代でも、迫害されている人、難民のことなどを聞くと、子どもたちだけではないのだろう。主がかくまってくださる。十分な食物が与えられ、満ちたり、祝福を受け継いでいくことができますように。そう祈ろう。
Psalm 18:48 この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせた。
わたしはこんなことは死んでも言えない。詩篇記者にとっては、違っていたのだろう。民の争い(48)の中から、敵や暴虐の者(49)から救い出された経験からこのように、告白しているのだろう。それを批判はできない。しかし、正直、この詩篇記者とともに、同じ主を賛美できるかは自信がない。この詩篇の一部は共有できても、全体としてそのひととともに生きることができるか、わたしには、わからない。
Psalm 19:2-4 天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる。昼は昼に言葉を伝え/夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく/その声は聞こえない。
美しい詩である。引用句を含む前半では、自然のことを神の栄光を語っているとしている。そして、後半は「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」(8)と主の律法について賛美している。おそらく、見ているものは、同じなのだが、見方は違っているのだろう。大自然の中で過ごすことを実感することは現代では少ない。律法は、書物として聖書を読むが、こころに残っている律法のことばをたいせつにいきることとはすこし違っているのかもしれない。わたしのような聖書の読み方は、おそらく、詩篇記者の時代にはしなかったろう。この違いも考えてみたい。
Psalm 20:8 ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。/しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。
これが信仰的な態度だと教えられてきた。しかし、わたしは、いまは、少し違うことを考えている。自然からも、環境からも、人々との関係からも、無論、ひとの内面のこともふくめ、あらゆることから、神様からのメッセージを受け取るべきだと。神様が、あらゆることを通して示そうとしておられることを受け取らなくてよいのかということである。そのうえで、主のいつくしみに感謝し、その愛のうちに生きる。あまりに、内面化されすぎたものを宗教的とすることに、違和感を感じている。もう少し、ゆっくり考えたいとは思うが。
Psalm 21:2 主よ、王はあなたの力を喜び/あなたの救いにどれほど喜び躍ることか。
王を支援しそのために祈る。現代の民主主義と言われる世界では希薄になっている。みなで議論してというのは、良いが、どちらがよいかは不明のことについて、決断せざるをえないのは、政治家であり、多様な人々への影響を考えて、きめ細かな対応をするのは、行政者である。行政者の部分でよいことばが見つからなかった。civil servant は、公僕が対応するのだろうが、現在はほとんど使用されない。おそらく、これも「公」の解釈が日本語では、People(人々・人民) や civil(市民社会)ではないからだろう。しかし、祈ることはたいせつだろう。どのように、祈ったらよいのだろうか。しっかり考えよう。国や地方公共団体の長や職員だけでなく、世界中で、このような責務を担っている人を思って。
Psalm 22:27 苦しむ人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美する。/あなたがたの心がいつまでも健やかであるように。
「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。」(2a)から始まる有名な詩篇である(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。最後は引用句とそれに続けて「地の果てまで/すべての人が主を心に留め、立ち帰るように。/国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように。」(28)となっている。この詩篇記者は恵みと平安を受けたのだろうか。よくわからない。しかし、苦しむ人の中には、おそらく、自分と、そして同じように、苦しむ人が入っているのだろう。わたしは、さらに、なかなか、29節のようにはなっていかないことの背景も含めて、状態を苦しむ主がおられるように思える。主の苦しみと共に生きるものでありたい。それが、主の御旨とともに、主のこころをこころとして、生きるものなのだから。
Psalm 23:4,5 たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
正確にはわからないが、詩篇記者は、かなりの苦しい状態、それも、複雑に絡み合う困難の中に居たのだろう。それが、表現され、その中での平安を告白しているように思われる。ダビデの詩と書かれている。サムエル記上・下の中に、十分表現されているとも思える。ダビデのそれぞれのときの、対応や決断は、問題なしとは言えないが、そのなかで、主に信頼していったことは、そのとおりだと言えるように思う。信仰と正しさは、必ずしも同期していない。しかし、謙虚さを保ちつつも、ひとのできることの重要な部分が神信仰なのかもしれない。
Psalm 24:4 汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。
わたしは、これは、とてもたいせつだと思っている。しかし、同時に、それでは、不十分だとも思っている。しかし、それは、かえって混乱をきたすこともある。同時に、他者にとっての価値判断も加味しないと、適切とは言えないことが、膨大に生じてしまうようにも思う。まだ、整理はできていないが、この点が、一番、自分の中で混乱していることのように思う。自分の内面の問い、それは、神との関係でもあるが、神からのメッセージは、直接ではなく、わたしの周囲の環境や状況、そして他の人からも、知らされると考えているからだ。もう少し学問的に、社会学的、自然科学的、または総合的に知らされる神からのメッセージに耳を澄まさなければいけないと考えている。それは、引用句のような、内面の問だけでは答えられないものに思える。
Psalm 25:9 主は苦しむ人を公正に導き/苦しむ人に道を教える。
わたしが決して祈らない、祈りもあるが、「主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください。」(4)は、わたしの祈りと同じである。しかし、引用句にたどり着いて、わたしの心には迷いが生じる。わたしには、このように、告白できないばかりか、「主は、苦しむ人とともに、苦しまれる」としか言えない。苦しみの背景は複雑で、解がない場合がほとんどであると思われるからである。互いに愛し合う、そのことができない。そのことを悩まれる主を思ってしまうのだろうか。主は、それを力づくでは解決されない。それは、互いに愛し合うことにはつながらないから。他の困難はどうなのだろうか。やはり、複雑に絡み合い、それほど、簡単には、解決できないように思われる。
Psalm 26:11,12 私は全き歩みを歩みます。/私を贖い、憐れんでください。私の足は平らな所に立つ。/集会の中で、私は主をたたえよう。
わたしも、たしかに、このように、告白するときがあるだろう。そして、それは、常にではない。しかし、いつも、主を思い、主に語っていれば、そのようなときもあるのかもしれないと思った。信仰告白の普遍化に問題があるとすると、信仰告白を取り上げて、普遍的ではないとすることも、同様に、問題があるのかもしれない。ひとの苦しみや悲しみの日常を考えると、それがそのひとを形作っており、尊厳の源だとも思っている。そうであれば、普遍性をもってすべてに当てはめることも、不適切である。このことを、もう少し、適切に言語化したい。
Psalm 27:4 私が主に願った一つのこと/私はそれを求め続けよう。/命のあるかぎり主の家に住み/主の麗しさにまみえ/主の宮で尋ね求めることを。
主の家とは、主がおられる場所、それは、主とお会いできる場所なのだろう。それは、地勢的な場所ではなく、主の宮と通常言われている場所でもないのだろう。しかし、逆に、そのような場所に住むことは困難でもある。常に、主を尋ね求め、主に心を開いて、主に聴くことが求められているのだろう。同じ場所にいても、会っているとは言えないことは、よくあることなのだから。主は常に、わたしの近くにおられると信じている。しかし、それでも、わたしが、主の近くにいるとは限らない。主の家に住み、主ある限り、主を尋ね求めたい。
Psalm 28:3 悪しき者や悪事を働く者と共に/私を引いて行かないでください。/彼らは友に平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。
確かに、ここに描かれている悪しき者や、悪事を働く者はいる。多いのかもしれない。しかし、わたしは、そのようなひとと最近関係を持っていないように思う。多少は、そのようなことを考えている人はいるのかもしれないが。それは、わたしの活動の場が限られているからか。それとも、ここで言われている心の中まで、入り込んでいないからか、はたまた、わたしが鈍感になっているからか。好んで、そのような人の中に入っていくことが良いことなのかどうかわからない。おそらく、利害関係が生じる、厳しい場面に、最近は、あまり遭遇していないのかもしれない。それも、詩篇記者との距離を遠くしてしまっているのかもしれない。
Psalm 29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。
最後の方にも「主は洪水の上に座し/主は王として、とこしえに座した。」(10) とあるが、これらは何を意味するのだろうか。基本的には、乾燥地帯である。「荒ぶる大水」、「洪水」は何を意味するのだろうか。むろん、イスラエルの民は、ナイルや、チグリス、ユーフラテスの氾濫も知っていたろう。水を豊かに湛(たた)えた世界を、主の座所としているのだろうか。まったく不明である。
Psalm 30:7,8 安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。
自分の不安を吐露し、哀れみを乞うている。正直な詩篇である。これが通常のひとの様子なのだろう。詩篇記者も、そして、一般の信仰者にも、様々な状態がある。そのもとで、信仰とは、主の憐れみとはと考えることなしには、救いはないだろう。
Psalm 31:8 私はあなたの慈しみに躍り上がって喜びます。/あなたは私の苦しみを見つめ/私の魂の苦悩を知っておられる。
このあとを見ると、「主よ、憐れんでください。/私は苦しんでいます。/目は憂いによって衰えました/魂もはらわたも。悲しみによって、私の命は/嘆きによって、私の歳月は尽き果てました。/過ちによって、私の力はうせ/骨は衰えました。」(10,11)とあり、苦しみの原因は、自分にもあることを告白している。いずれにしても、主は、自分の苦しみを見つめ、その苦悩を知っておられることが、一番大きなことなのだろう。苦しみは、ひとを、衰えさせる、力をなくさせる。まずは、その状態を知っておられる方、その方に信頼するものであることを願っているのだろう。
Psalm 32:5,6 私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/「私の背きを主に告白しよう」と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ このゆえに、忠実な人は皆/時に応じてあなたに祈ります。/荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません。
引用句の最後を見ると、大洪水にも影響されない忠実な人は、罪、背きを告白するひとなのだろう。そのような関係こそが、基本なのだろうか。興味深い。背きの罪を告白できないものが、悪しきもの(10)そして、痛みを抱え続けるものなのかもしれない。
Psalm 33:1 正しき人よ、主によって喜び歌え。/賛美はまっすぐな人にふさわしい。
たしかに、主も、それが嬉しいだろう。しかし、同時に、主が愛されるのは、そのような人ばかりではない。そのような人たちの救いを願い、苦しまれるのも主。そうであれば、そのような主を覚え、祈るものでもありたい。それは、さらに、隣人との関係にも帰ってくる。たいせつなかたをたいせつにするために。
Psalm 34:7 苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き/あらゆる苦難から救ってくださった。
続いて「主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き/彼らを助け出した。」(8)とあるが、そうなのだろうか。わたしには、そうは思えない。主は、憐れみ深い方だから。主を畏れない者をも哀れんでおられる。その状態を望んでおられないだろう。わたしがすべきことはなんだろうか。主のこころとともに有りたい。
Psalm 35:1 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。
詩篇記者の敵、争うものとの対立の中での詩篇である。戦い以外にも具体的な記述がある。「彼らは訳もなく私に落とし穴と網を仕掛け/訳もなく私の魂を狙って穴を掘りました。」(7)「悪意のある証人が立ち上がり/身に覚えのないことばかりを問い詰める。彼らは私の善に悪をもって報い/私の魂を不毛なものにした。」(11,12)まったく想像ができないわけではないが、わたしは、相手の背景を考えるだろう。詩篇記者の生きていた世界では、それはできなかったのかもしれない。しかし、このようなことをされていると感じるとき、どのように生きるかこそがたいせつなように思う。敵を呪うことはしたくない。主により頼むことは、共通しているが。
Psalm 36:7 あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。/主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。
主の、正義と公正が賛美され、人も獣も救ってくださるとなっている。主は、これゆえに、苦しんでおられるように思う。真理は複雑だとも言える。しかし「あなたの公正は大いなる深淵」ということばに、詩篇記者も理解し難いが、深い真理がそこに潜んでいることを見ているように思う。獣をも含めているところに、すくなくとも、主の恵みが自分や、人間にはとどまらない範囲に及んでいることも見て取れる。わたしなら、どのように、主について語るだろうか。それなしに、批判的になるのはよそう。わたしには、賛美は難しく、詩は書けないように思うが。
Psalm 37:16 正しき者の持つ僅かなものも/多くの悪しき者の富にまさる。
美しいことばが多く、わたしの好きな詩篇のひとつだ。悪しき者との対比もあり、個人的には違和感があるが、主への信頼、他者への憐れみや施しの箇所が印象的である。引用句は、ほんとうにそのとおりだと思う。しかし「日ごと憐れみ、貸し与える人/その子孫は祝福にあずかる。」(26)については、そうではないのかもしれないと思う。統計的回帰だろうか。やはり、それぞれのひとが、どのように生きるかに依っているように思う。箴言のような詩篇でもある。アルファベット詩とあるので、いつかゆっくり味わってみたい。
Psalm 38:18,19 私は今にも倒れそうです。/常に痛みが私の前にあります。私は自分の過ちを告げ/罪のためにおびえます。
この詩篇記者の痛みとともに、後半が気になった。苦しみや痛みは、自分の過ちや罪の故ではないかと自らを省みている姿に見える。そして、このひとは怯(おび)えている。わたしにも、そのような時期はあったように思うが、いまは、なぜか鈍感になってしまっている。主は、一人ひとりをたいせつにされることは信じているが、一人ひとり個別に、対応されるのではないだろうとも思うからである。どのように、表現したらよいかは、よくわらかないが。
Psalm 39:2-4 私は言った/「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。/悪しき者が私の前にいるうちは/口にくつわをはめておこう」と。私は黙り込み、口を閉ざし/善いことについても沈黙した。/だが、私の苦痛は募り私の内で心が熱くたぎった。/私の呻きで火は燃え上がり/私の舌で私は語った。
不思議な詩篇である。まず「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。」とあり、エドトンと、ダビデの関係が不明である。引用句のあとは、「主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。」(5)と人生のはかなさが語られており、どうも、詩篇記者は、病気だったようである。「あなたによる病を私から退けてください。/あなたの手に打たれ/私は尽き果ててしまいました。」(11)そして、その背景に罪が関係しているのかを問うている。そしておそらくそのことについて「私は黙り込み、口を開きません。/あなたがそうなさったからです。」(10)と語る。全体として、理解できるのは、人間のはかなさ。理解できる部分のいかに少ないか、だろうか。その謙虚さと、実際の苦しみの中での葛藤が引用句や詩篇全体を通して表現していることなのだろうか。こころひかれる詩篇であるが、よくは理解できない。それでよいのかもしれない。
Psalm 40:17 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「主は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。
このように祈るということは、そのようには見えないということだろう。正しく生き、それを伝えてきた詩篇記者が「数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。」(13)と書いている。最後も「私は苦しむ者、貧しい者。/わが主が顧みてくださるように。/あなたこそわが助け、わが救い。/わが神よ、ためらわないでください。」(18)苦しさと信仰・賛美と、祈りが交錯している。生き生きしたすごい詩篇だと思う。わたしも、このように祈りたい。わたしは、ここまでの苦しみや、葛藤を経験していないが。
Psalm 41:2 幸いな者、弱い者を思いやる人は。/災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
このあとには、どのように祝福を受けるかが書かれている。「主が守り、生かし/彼はその地で幸いな人と呼ばれる。/その人を敵の思いのままにさせないでください。主は彼が病の床にあっても支えてくださる。/その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる。」(3,4)とある。丁寧に読むと、前半も「敵の思いのままにさせないでください」との祈りであり、後半も「主は彼が病の床にあっても支えてくださる」とあり、病にかからないとか、癒やされるとはしていない。幸いな者とは、主を愛し、主に信頼しているものであって、祝福を受けているものではないのだろう。いずれにしても、きっぱりと、幸いな人を「弱い者を思いやる人」と言い切る潔(いさぎよ)さには、感銘を受ける。それこそが、主を愛する、主の御心に生きることなのだろう。
Psalm 42:12 私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。
まったく同じことばが6節から7節にかけてある。「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(2)は美しいフレーズだが、おそらく、その内容は、引用句で表現されているような、葛藤なのだろう。信仰は、そして、神を、主を、魂からあえぎ求めることは、このような葛藤と一体なのだろう。自らを省み、現実を見て、あえぎならが、叱咤(しった)激励している姿が目に浮かぶ。そのようなものなのだろう。わたしは、そこまでの葛藤を最近していないように思う。
Psalm 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。/それらは私を導き/聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。
この詩篇の最後5節には詩篇42篇12節が再度引用されている。「神に忠実ではない国民」(1b)をさばいてくださいと始まる。正直、そのような部分は読みたくないが、そうしていると、この詩篇記者とは、共に生きることができなくなるだろう。引用句では「光とまこと」を求めている。どのようなことばで表現するかは別だが、神のみこころを求めそれに照らされ、導かれることを願っていることは確かだろう。他の部分も拒否せず、共に受け入れ合い、歩んでいきたい。
Psalm 44:24,25 我らの主よ、目覚めてください。/なぜ、眠っておられるのですか。/私たちを永遠に捨て置かず/起き上がってください。なぜ、御顔を隠されるのですか。/私たちの苦しみと受けている虐げをお忘れですか。
ゆっくりと歴史を語り始める。しかし、最後には、引用句のように激しい言葉が続く。導かれてきた歩みとともに、救い、さばきを訴えている。現代にも通じる神の義についてがテーマである。わたしは、主の苦しみに思いがいっているが、それは、まったく一般的ではない。そして、わたしも、それを、語ることには、注意している。正しさでは、この痛みは癒やされず、この叫びには、答えられないのだから。どうしたらよいのだろうか。
Psalm 45:11,12 娘よ、心して聞け。/よく見て、耳を傾けよ。/あなたの民と父の家を忘れよ。王があなたの美しさを慕うなら/王はあなたの主人。彼の前にひれ伏すがよい。
王に召されるときの詩なのだろう。「百合にあわせて」(1)ともある。儀式の中で歌われたのだろうか。宗教が社会・政治の一部分であった時代なのだろう。しかし、ひとこと書いてみたい。「父の家を忘れよ」はわかるが「民を忘れよ」は、問題を感じてしまう。中央集権ということなのだろうが。主人の前には、そうなのだろうが、主人が誤りを起こすときは、それに従うことで良しとされたのかもしれない。
Psalm 46:9-11 来て、主の業を仰ぎ見よ。/主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」
美しいことばである。このように、願うことは、時代を超えたものなのだろう。そして、それは、最後の部分にあるように、主こそ神であることを、世界中の人たちが認め、崇めることによってなることも自然なのだろう。しかし、人の願い、ひとの考えた、神の計画かもしれないが、主の御心は、違うかもしれないと思う。主は、さらに、驚くべきことを考えておられるように思う。問題は、それほど、簡単ではないのだから。静かに、主の業を仰ぎ見ていたい。
Psalm 47:9,10 神は国々の王となられた。/神は聖なる王座に着いておられる。もろもろの民の諸侯らは集められ/アブラハムの神の民となる。/地の盾は神のもの。/神は大いに崇められる。
最終的な望みが表現されているのだろう。すべての人々、国々が、神の民となる。おそらく、キリスト者でも、それを夢見ている方々が多いだろう。しかし、わたしは、少なくとも、神様は、それが最後の形だとは考えておられないのではないかと思う。たとえそれを望んでおられたとしても。人々の関係は、もっとずっと複雑である。そして、愛によって結び付けられる関係は、単純に語ることはできない。わたしは、この詩篇記者にかわって何を書き、どのように賛美すればよいのかわからないが、そうであっても、この詩篇記者の背後にある祈りとは、こころを合わせたいと思う。それは、主の願いであるかもしれないから。
Psalm 48:5,6 見よ、王たちは時を定め/共に進んで来たが 彼らはこれを見てひるみ/恐怖に陥って逃げ去った。
このようなときもあったのだろう。そして、主を賛美する。しかし、そうでないときも、ある。その中で、信仰は、そして、神理解は、成長していくのだろうか。ある事件・できごとについての解釈には、その解釈者の神理解が影響している。しかし、それが、そのできごとではない、または、それだけが背景ではないことが、ほとんどである。我々が知るのは、一部分だから。世界史的な展開、技術革命、指導力の強い指導者の誕生、そして、気候や、偶然、様々な要素がありうるからである。それらを、どのように、考えたら良いのか、わたしは、まだ整理はできていない。しかし、これらの背後にも、主はおられ、これらの人々にも、主は働いておられるだろうとは、思う。丁寧に、いろいろな面について考えていきたい。主のみこころを求めて。
Psalm 49:21 人間は栄華によって悟ることはできず/屠られる家畜に等しい。
引用句と似たことばが途中に「人間は栄華のうちにはとどまれず/屠られる家畜に等しい。」(13)とある。栄華、富よりも、たいせつなことがあることをこのように表現している。その「悟り」の中心部分と思われるのが次の箇所である。「しかし、人は兄弟を贖うことができない。/神に身代金を払うことはできない。魂の贖いの値はあまりに高く/とこしえに払い終えることはない。」(8,9)ここで「兄弟を贖うことができない」と表現されているのは、興味深い。自分の命ではなく、まず「兄弟」と書いている。これが、たいせつな「悟り」なのだろう。この詩篇をまたゆっくり味わってみたい。
Psalm 50:14,15 感謝を神へのいけにえとせよ。/いと高き方に誓いを果たせ。苦難の日には、私に呼びかけよ。/私はあなたを助け出し/あなたは私を崇めるであろう。」
「私のもとに集めよ/私に忠実な者を/いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを。」(5)と語るが、このあとには「いけにえ」が自分の求めるものではないとの神の声を記している。そして行き着いた表現が、引用句である。この詩篇記者が、神が求めるものとして上げていること。「感謝」と「呼びかけ」である。非常に、シンプルであるが、わたしも、そうかなと思う。感謝は、恵みとして受け取ること、このふたつで、神様との交わりが表現されている。わたしも、そのように、これらをたいせつに生きていきたい。
Psalm 51:3 神よ、私を憐れんでください/あなたの慈しみによって。/深い憐れみによって/私の背きの罪を拭ってください。
美しい有名な詩篇である。「ダビデがバト・シェバと通じたことで、預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(2)と記され、サムエル記下12章1節のことが背景に想定されている。しかし、そのときに、すぐにこの詩篇を詠んだわけではないだろう。「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」(1)サムエル記下にあるダビデの葛藤は書かれていない。ダビデが関与したとしても、あとからの信仰告白のようなものと考えるべきだろう。罪は、神様との交わりの断絶とも表現されるが、その痛みが伝わってこない。最後は「御旨によってシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。」(20)ともあり、国家または民族全体として、神の前にへりくだる、儀式のなかで詠われた詩篇のように思われる。
Psalm 52:11 私は、あなたの計らいのゆえに/とこしえに、あなたに感謝します。/私は忠実な人たちを前に/恵み深いあなたの名に望みを置きます。
「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(2)とあり、サムエル記上21章7,8節、22章9節の、ダビデのサウルからの逃避行の故事が背景に想定されている。「主の計らい」とともに、「忠実な人たち」が記されている。ダビデには、友がおり、そして、相談するひとが近くにいたのだろう。それは、ダビデとの相互信頼関係でもあるだろうが、そのことを「前に」「恵み深いあなたの名に望みを置きます」とされていることが印象に残った。信仰は、自分個人のものだけではない。そして、神様の恵みは、友の存在を通しても示される。
Psalm 53:2 愚か者は心の中で言う/「神などいない」と。/彼らは堕落し/忌むべき不正をなす。/善を行う者はいない。
何度も読んできた詩篇だが、理解は難しい。特に、この「善を行う者はいない」は、4節にもあるが、それは、「神などいない」という者の中にいないということなのか、一般的なことなのか、不明確。文脈からはおそらく、前者なのだろう。「神などいない」は、おそらく、当時は、裁きを恐れないことと関係していたのではないかと思う。現代では、多様性故と考える人が多いのではないだろうか。神義論からそう考える人もいるだろうが。「神などいない」については、もう少し、丁寧に考えてみたいと思う。
Psalm 54:6,7 見よ、神はわが助け。/わが主は私の魂を支える人々の中におられる。敵対する者に悪事を突き返してください。/あなたのまことによって彼らを絶やしてください。
これも故事(サムエル記上23章19節・26章1節)を背景としていることが、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデが私たちのもとに隠れていないか』と言ったとき。」(2)と書かれている。真ん中の2つの文「わが主は私の魂を支える人々の中におられる。敵対する者に悪事を突き返してください。」が気になった。魂を支える人々、詩篇記者はこのことばの中にどんな思いが込めているのだろうか。わたしにとっては、それは、どのような人だろう。たくさんいるようにも思うし、ほとんどいないようにも思う。「悪事を突き返」すなどという表現は、わたしは思いつかない。ついつい、そのひとの背景を考えてしまう。共感するのは、難しい。
Psalm 55:23,24 あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。神よ、彼らを滅びの穴に突き落としてください。/血を流す者と欺く者が/人生の半ばにも達しませんように。/私はあなたに信頼します。
一番ショックなのは「私を嘲るのは敵ではない。/そうであるなら耐えられる。/尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。/そうであれば彼から隠れられる。」(13)からの三節である。 「心を許した人」(14)「一緒に親しく交わり/神の家を群衆と共に歩いた」(15)人が嘲っていることが書かれている。そして、引用句が最後に二節である。「重荷を主に委ね」ることとともに「彼らを滅びの穴に突き落としてください」と祈っている。相反することのようにも思うが、これが人間なのだろう。わたしも表立ってはそのようには、言わないし、そう考えないように思うが、実際は、そのようなこころが強くあるようにも思う。その葛藤のなかで「あなたの重荷を主に委ねよ」と自分の魂に語りかけるものでありたい。
Psalm 56:9 あなたは私のさすらいの日々を/数えてくださいました。/私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。/あなたの記録にはそうするよう書かれていませんか。
訴えからはこの詩篇記者のこころの痛みが伝わってくる。基本的には、自分は正しいと主張しているようだが、理不尽さを訴えているようにも見える。悲しみ、苦しみ、これを、本当に理解して自分の葛藤を理解してくれるひとは、いない。それは、無理なのだろう。それは、主のみ。このことが背景にあるように思う。自分と主。この痛みを、苦しみを受け取ってくださる方、それが主だと信じているのだろう。とても、深い。主、神の側には、ひとには、はかりしれない痛みが、苦しみがあるのだろうが。
Psalm 57:2 私を憐れんでください。/神よ、私を憐れんでください。/私の魂はあなたのもとに逃れました。/災いが過ぎ去るまで/あなたの翼の陰に私は逃れます。
「あなたの翼の陰」美しい詩的表現である。しかし、わたしは、これでは、感覚的すぎるとも考えている。Ego Gram でいうと、わたしは、Adult Ego State 志向が強すぎるからか。なんとなく神様を呼ぶだけで、良いことにしてしまう。わたしは、どうだろうか。神様が求めることを探求し続けるだろう。どこが、主の翼の陰かを知るために。それほど、簡単に決められるものではない。しかし、同時に、探求の期間、ただ、主に憐れみをもとめることはあるように思う。ひとは、そのようなものなのだろう。
Psalm 58:11,12 正しき者はこの報復を見て喜び/悪しき者の血で足を洗う。人は言う。/「まことに正しき者には実りがある。/地には裁く神がおられる」と。
わたしは、このようなことがどうしても受け入れられない。それは、ひとの正しさに忌避感があるからだろう。しかし、ただしさ、主のみ心でもよい、それを求めることは、素晴らしいこと。それが簡単には、わからないとしている。同時に、み心はわからなくても、これは、み心ではないと思うことはある。そうであれば、それをし続けるひとに批判的になっても良いはずである。しかし、それも、なかなかしない。わたしにも、少し、違ったことではあっても、み心ではないと思っていても、それをし続けることがあるからだ。だからといって、それでよいと思っているわけではないが。他者に、厳しくはなれない。
Psalm 59:17 しかし私はあなたの力をたたえ/朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。/あなたはわが砦。/苦難の日の逃げ場になってくださいました。
共にいてくださる方、語りかけ、聞いてくださる方。実際には、その神について、よくわからなくてもよいのだろうか。自分に語りかけていることとの差は何なのだろうか。おそらく、自己を相対化するものがそこにあるのだろう。しかし、それも、外からの情報があったとしても、自分の中から、発せられたもののように思う。あまりに、分析的になりすぎてもいけないと思うが、この、神のとの交わりについては、丁寧に考えていきたい。他者にも説明ができるように。
Psalm 60:3,4 神よ、あなたは私たちを拒み/打ち倒し、怒っておられます。/私たちを回復させてください。あなたは地を震わせ、引き裂かれました。/どうかその裂け目を癒やしてください/地が揺らいでいるのです。
最初には「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。」(2)とある。なにか、内容と符合していないように思われる。最後の方でも、「神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。」(12)と書かれている。サムエル記下8章3-14節の解釈の問題があるのだろうか。何度も戦いはあったろうから、特定できないのかもしれない。よくわからない。
Psalm 61:3 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。/私よりはるか高くそびえる大岩へと/私を導いてください。
正直よく理解できていない。前半は神との関係が書かれ、次に「神よ、あなたは私の誓いを聞き入れ/あなたの名を畏れる人に/継ぐべきものを与えてくださいます。」(6)そのあとには、王についての祈りが書かれている。詩篇記者の中ではつながっているのだろう。その中で、引用句は、印象的だった。自己達成ともとれるが、神様の御心を知る歩みとも取ることができる。自らが、地の果てにいることを認識しており、それを「心が挫けるとき」としている。神が近くおられると感じられるときだけでなく、その距離が絶大であると感じるときにも、このように祈りたい。主の導きに希望を持って。
Psalm 62:11 暴力に頼るな。/略奪に空しい望みを置くな。/富が増えても、心を奪われるな。
若い頃は、殺人が最大の悪で、いのちが残れば、どうにかなると思っていた。しかし、暴力は、ことばの暴力もあり、社会的圧力、経済的貧困によってもたらされるものもある。略奪も、本来は、自分が適正に受け取るべきものではないものに、手を出すことも含まれるだろう。公平性が損なわれることは、略奪でもある。そのようは背景のもとで、富が増えたり、心が、自分がほんとうに求めていることではないことに奪われたりする。引用句に続く「一つのことを神は語り/二つのことを私は聞いた。/力は神のもとにある、と。」(12)はよく理解できないが、神からの語りかけは、様々な形でなされているように思う。上のような考察をしている背景にある、これまで受け取ってきた問いかけを考えても。そして、わたしが受け取ったと思っていることも、暴力の最たるものとして、殺人だけを考えていたように、適切に受け取れてはいないのかもしれない。
Psalm 63:7,8 私が床であなたを思い起こし/夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら あなたは必ずわが助けとなってくださる。/あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。
ここで表現されている信仰はやはり、いとしい人との愛とも近い、関係性であるように思う。床、夜回りのときは、静まったときだろう。そのときに、思うのが主、神である。応答は、受け取ることができるのだろうか。それは、簡単ではないだろう。しかし、そばにいる人であっても、通じ合うことはほんの一部分なのかもしれない。具体的にはわからなくても、信頼する、それは、何によるのだろうか。
Psalm 64:3-5 悪をなす者の群れから/悪事を働く者の騒ぎから私を隠してください。彼らは舌を剣のように鋭くし/苦い言葉の矢をつがえています。物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。
このように見えることはある。しかし、なぜ、そのようにするのかの背景はここには書かれていない。神を恐れないからだろうか。やはり、そのような行為に至る理由があるはずである。わたしは、それを知りたい。あたなのことを教えて下さい。共に、生きるために、ともに喜ぶために。それは、夢物語なのだろうか。正しいものと、悪をなすものを分けなければいけないのか。分けられるかとの問とともに、神様は、それを望んでおられるのかを問いたい。神は、その一人ひとりをも心にかけ、憐れみをもって、見ておられるのではないだろうか。はらわたが傷つくような思いで。
Psalm 65:2 シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。
「あなたには沈黙も賛美」すごい言葉だ。ひとは軽々しく口を開く、おそらくわたしだけでなく。大口をたたくくことばかりではなく、自分にはできないと言ってしまう事も含めて。課題を前にして、おそらく、全知・全能といわれる神ですら、すべてを、一人ひとりに対して適切なこと、恵み豊かな、憐れみにとんだ、業をなすことは、難しいだろう。そうであるにも関わらず、わたしたちは、口を軽々しく開く。神様の思いを抱くこと、だいそれているが、それは、沈黙から始めることなのかもしれない。「沈黙は賛美」と心に刻もう。
Psalm 66:5,6 来て、神の業を見よ/人の子になされた恐るべき業を。神は海を乾いた地に変えた。/人は大河を歩いて渡り/そこで、私たちは神を喜び祝った。
神がどのように導かれたかが書かれ、神殿での礼拝へと進んでいる。実体験、神様がどのように、人生を導いてこられたか、世界を導いてこられたかを振り返ることが最初なのだろうが、神への賛美へと向かえないときが多い。あまりにも、御心がわからなすぎて。それでも、神の業を見させてくださいと、祈りつつ、現在起きていること、過去のことをもしっかりと受け止めたい。
Psalm 67:5 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ
「神さまの裁きの公平さ」について考えてみたいと思った。裁きをどう定義するかは大きな問題だが、まずは、神様がなされていると思っていることとして考えてみる。病気、天災、不慮の事故、疫病などの影響、人間のちからではどうにもならないと思われることについて、「神はいない」と言うひとがおり、多くの場合「神様それはどうしてですか」と問いたくなる。戦争、経済格差や、人種差別、生活環境の違いなど、ある程度人間由来であっても、自分ではどうにもならない場合にもこういうだろう。そして、このようなときに、神の裁きは公平なのかとも問いたくなる。すべてがよかったと言われる、神様が創造された世界。これらが、すべて人間の罪の故とするのも、不適切に思う。すこしずつ整理して考えてみたい。神様は、もっと違うところに思いがあり、悩みを持っておられるのかもしれない。
Psalm 68:20 わが主をたたえよ。/我らの救いの神は/日々、私たちを担ってくださる。〔セラ
「神様からの恵み」について考えてみたいと思った。科学的な事実を知るたびに、(神様が創造された世界では)奇跡的にさまざまなことが組み合わさってわたしたちが生かされていることを知る。ひとと人との関係でも、(神様が置いてくださった)多くのひとに支えられて、感謝の日々を送ることができていると感じる。事故や災害や病気などを考えると、(神様によって)それらから守られていると感じることもある。それを、偶然と取ることも、できないことはない。たとえそうであっても、偶然のなかの、そのような状態に置かれたものとして、感謝のこころを持つことも、奇跡的ではあるがすばらしいことのように思う。神の裁きを考え、神の恵みに感謝する。その事自体がとても幸せであるように思う。
Psalm 69:33,34 苦しむ人はこれを見て喜びます。/神を尋ね求める人よ/あなたがたの心に命が与えられますように。主は貧しい人に耳を傾け/捕らわれた民を決して侮ることはありません。
複雑な詩篇であるが、それ故にこの詩篇記者の苦しみと悩みが伝わってくるようでもある。引用句はその最後の方にある。正しい人ではなく、「苦しむ人」「神を尋ね求める人」「貧しい人」「捕らわれた民」に目が向けられている。この詩篇記者の痛みを思い、祈りをともにしたい。最近、いろいろな相談を受ける。どうすることもできないものが多いが、痛みは伝わってくる。求める心、どうすることもできない無力感だろうか。この詩篇記者と同じなのかもしれない。
Psalm 70:5 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「神は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。
暖かい言葉である。しかし、実際には困難なこともある。自分の敵とすら考えてしまうような相手も、神様を尋ね求めるひとであったりする。異なる神とすることもできるかもしれないが、それは、この詩篇記者のことばを裏切ることにもなってしまうだろう。真理を尋ね求める人すべてが、喜び楽しみ、救いを得る、それをわたしも願い、そう祈りたい。真理はどうなのだろうか、神様は、どう思われているのだろうか。実際は、とても複雑であるようにも思う。
Psalm 71:17,18 神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。
前半はわたしの告白としても言えるように思う。しかし、後半は、少し違う感覚になっている。今のわたしは、主に信頼しつつも、自分でできる限り、主を求めることに集中したいと願っている。そのなかで、主を認めていきたい。それは、自己中心なのだろうか。その面が頭をもたげることは確かにある。しかし同時に、自分でしなければいけないことが山ほどあるとも感じている。おそらく、神様から委ねられたものとして。
Psalm 72:17 王の名がとこしえに続き/その名が太陽のあるかぎり栄えますように。/すべての国民が彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。
わたしは王制のもとにいたことがなく、戦前の天皇制の課題を教えられてきたこともあり、背景になかなか実感がわかない。しかし、教育が十分行き渡っていないときには、強いリーダーシップが必要であることは理解できる。それだけではなく、制度自体が問題を解決すると信じ、単純に民主主義を唱えることにも問題も感じている。しかし、統治が適切になされることについて祈るのは自然で、必要である。自分ですることはできず、様々な知恵も必要なのだから。問題をあげて、責任を追求するより、課題をみなで、さがして、協力して改善していくものでありたい。統治者たちについて祈りつつ。
Psalm 73:3-5 悪しき者の安泰を見て/驕り高ぶる者を妬んだ。彼らには苦しみがなく/体も肥えて健やかである。人間の負うべき労苦もなく/人々のように打たれることもない。
このように妬みや羨む心があるときは、結局、その人たちと同じものを求めていることが露呈している。祝福を得ることが、最終目標なのか。祝福とは何なのか。神様との信頼関係のもとでの祝福とは。それを考え直したい。綺麗事だろうか。
Psalm 74:18 主よ、心に留めてください/敵があなたを嘲るのを/愚かな民があなたの名を侮るのを。
そのときに、神の痛みを覚えたい。主は、どのような苦しみを感じておられるだろうか。おそらく、嘲りや侮りよりも、さらに深いことのように思う。そのようなひとのこころ、その背景を思っておられるのではないのか。そしてそのような敵対している世界を。主のみこころを求めたい。
Psalm 75:3,4 「私は時を選び/公平に裁く。地とそこに住むものすべてが揺らいでも/私は地の柱を堅くする。」〔セラ
最後には「私は悪しき者の角をことごとく折る。/正しき者の角は高く上げられる。」(11)とあるが、このような二分法をわたしは、支持していない。神様もそうなのではないかと思う。引用句における「公平に裁く」これは、人間には、到底理解できないように思う。「公平」は、一人ひとりが同じ地平に立つものとしてという意味だろうが、裁きを、そのようには、人間には語れないように思う。それで良いのかもしれないし、その葛藤や、痛みを、しっかり持ち続けないければいけないのかもしれない。「公平」とはなにかを問いつつ。
Psalm 76:10,11 神は裁きのために立ち上がり/地の苦しむ人をことごとく救われる。〔セラ 憤る者さえあなたをたたえ/怒りを免れた者はあなたを祝う。
「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。/怒りを発せられるとき/誰がその前に立ちえようか。」(8)この感覚は、理解できる。そして、引用句の「地の苦しむ人をことごとく救われる」に期待するのだろう。しかし、次の「憤る者さえあなたをたたえ/怒りを免れた者はあなたを祝う」は興味深い。「憤る者」をどう捉えるかはいろいろだろう。単に、神の裁きが遅いと、義憤を持っているものととることもできる。しかし、裁きが理不尽に見える人とも取ることができるかもしれない。御心をひとは、完全には理解できないのだから。
Psalm 77:8-10 「わが主はとこしえに捨て置き/もう二度と顧みてくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われ/約束は代々にわたって絶たれてしまったのか。神は恵むことを忘れ/怒りのあまり憐れみを閉ざされたのか。」〔セラ
主の救い、恵みが受け取れず、自分は、完全に捨て置かれたと感じたことが引用句に書かれている。この詩篇記者はそのあと、歴史を思い、過去にどのように、主が導かれたか、恵みを賜ったかを、書いている。主からの応答は、なかなか受け取れない、みこころがわからないときが長く続くときは多い。まずは、恵みを思い、どのように、恵みを賜ったか、さらに、その背後にある、主のみこころを受けとりたいものである。
Psalm 78:1 マスキール。アサフの詩。/民よ、私の教えを聞き/私の口の言葉に耳を傾けよ。
民に伝えたい、たいせつな事、それは、主がどのように導かれたか、そして、どのように、我々その民が反抗してきたかの歴史のようだ。わたしは、何を、後代、こどもたち、まごたち、わかいひとたちに伝えようか。主の恵み深さ、主がどのように導かれたかも伝えたい。しかし、どのように、求め続けてきたか、主のみこころを求め続けることについて伝えたいと、今は思っている。それは、まだ、自分を伝えたいことになっているのかもしれない。まだまだ、わたしが学ぶべき、基本的なことがたくさんあるのだろう。謙虚に求めたい。
Psalm 79:8 先祖の過ちを思い起こさないでください。/あなたの憐れみが/私たちを速やかに迎えてくださいますように。/私たちは弱り果てました。
つらい詩篇である。どの時点のものかはわからないが、エルサレムとあるので、南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされたことが背景にあるのだろう。先祖たちの過ち、そして「私たちの罪をお赦しください。」(9b)ともあるので、自分たちの過ちも自覚している。主と、イスラエルの民との関係について、幼児のように考えてはいけないと、することも可能だろうが、あらゆる面で、大きな危機の時代であったことは、想像できる。批判することは、容易いが、この詩篇記者のところに自分を置いて、ゆっくり考え、感じてみたい。その痛みを。そして、主の痛みにも、思いを馳せてみたい。可能かどうかはわからないが。
Psalm 80:20 万軍の神、主よ、私たちを元に返し/御顔を輝かせてください。/その時、私たちは救われるでしょう。
「万軍の神、主よ」の呼びかけが「神よ」(4)「万軍の神よ」(8)と、少しずつ力が入ってきているが、ほとんど同じことばが3回記されている。「私たちを元に返し/御顔を輝かせ」が「救い」だと告白している。印象的である。「元に返し」こそが願いなのだろうが、それを「御顔を輝かせ」ることに結びつけている。いまは、わたしたちの方を見ていないという表現なのだろうか。教会での派遣の祈りにも使われる「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように。」(民数記6章24-26節)を思い出す。わたしがなかなか実感をもって受け取ることができない聖句でもある。ゆっくり、味わってみたい。
Psalm 81:16,17 主を憎む者が主に屈し/その災いの時はとこしえに続くがよい。「私は最上の小麦で民を養い/岩から出る蜜であなたを満たそう。」
主語がわかりにくいが、交読・交唱していたのかもしれない。ひとの声と、神の声。すると、引用句の前半は、人の声、後半は、神の声なのだろう。そう考えると、前半の思いも、許容できるように思える。詩篇の中で、主の思いと、人の思いを、明確に分けることはできないし、現実的には神の声も、ひとが受け取ったものであることに間違いない。しかし、そのように、少しずつ、こころが清められ、主の思いを受け取っていく過程が表現されているとすると、とても興味深い。交読文は、礼拝で読まれ・唱えられる。これからは、もう少し丁寧に、意識して考えながら唱えてみよう。
Psalm 82:5 彼らは知らず、悟らず/闇の中をさまよう。/地の基はことごとく揺らいでいる。
悟らない内容は、この前に引用されている部分だろう。「 あなたがたはいつまで不正に裁き/悪しき者におもねるのか。〔セラ 弱い人やみなしごのために裁き/苦しむ人や乏しい人を義とせよ。弱い人や貧しい人を救い/悪しき者の手から助け出せ。」(2-4)しかしこれが行われない現実が目の前に広がっている。それをうけて、最後には「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての国民をご自分のものとされます。」(8)と叫んでいる。葛藤と祈り、理想と自戒。ひとを「あなたがたは神々。/あなたがたは皆、いと高き方の子。」(6)神の子としていることでも有名な詩篇であるが、その現実の複雑さも表現している。興味深い。
Psalm 83:12,13 彼らの諸侯たちをオレブとゼエブのように/王侯たちすべてを/ゼバとツァルムナのようにしてください。彼らは言いました/「神の牧場を我らのものにしよう。」
オレブとゼエブは、士師記のギデオン物語の中にあるが、引用の後半は書かれていない。記録があったことを否定はできないが、伝承はあったのだろう。これをとんでもないことと評価しているのだろう。しかし、いまのわたしは、神様がどう見ておられるかはわからないよと思い、冷ややかな目で見てしまう。冷静さ、客観さは、必要では有り、危機においては、とくにたいせつにすべきことではあるが、同時に、共感をし、ともに生きることを困難にさせるようにも思われる。他者のこころは基本的には理解できないなかで、他者の思いをみずからのおもいとすることはほんとうに難しい。よくわからないで同情することは、その他者をかえって傷つけることにもなる。共観が困難ななかでの共感、それが必要だとは思うのだが。
Psalm 84:10 神よ、私たちの盾を見てください。/あなたの油注がれた者の顔に目を向けてください。
なかなか、詩篇記者とこころをあわすことができない。背景には、リーダー、王を「あなたの油注がれた者」ということに、抵抗があることもひとつだろう。信仰に、儀式が加わり、このことが実際にそのとおりであることが、民に共有される。「神である主は太陽、盾。/主は恵みと栄光を与え/全き道を歩む者に/良いものを惜しむことはありません。」(12)もう一つは「全き道を歩む者に」といいきるところに、抵抗があるからか。王にも、リーダーにも、そして、全き道を歩む者ににも、迷いさまよっているものにも、愛を注がれる主に出会ったことが、かえってひとをさばくことになってしまっているのかもしれない。注意したい。イエス様ならどうされるだろうか。共に、聖書を学ぶことができたらと思ってしまう。
Psalm 85:9 主なる神が何を語られるかを聞こう。/主は平和を語られる/その民に、忠実な人たちに。/彼らが愚かさに戻らないように。
前半はアーメンと唱えられるが、後半は今の私にはアーメンとは言えない。このあとに、以前は好きだった美しい言葉が並ぶが、ただしさについて少し違う感覚を持ってしまっているからだろう。しかし、主なる神が何を語られるかを聞こう。そして、他者が、このことばに、アーメンと唱えているときには、静かに黙想し、その方の声にも耳を傾けよう。その結論に至る、考え方、そして、その方が、経験してきたことを通して、主は語られるのではないかと思うから。あまり、自分は、それが得意ではないかもしれないが、その大切さは、少しずつ理解してきているつもりである。たとえ、教条的な理由をその方が述べたとしても、それでもよい。その、背後にある声を、聴きとりたい。神様からのことばとして。
Psalm 86:11 主よ、あなたの道を示してください。/私はあなたのまことの内を歩みます。/私の思いを一つにし/あなたの名を畏れる者にしてください。
「祈り。ダビデの詩。/主よ、私に耳を傾け、答えてください。/私は苦しむ者、貧しい者です。」(1)とあり、引き続いて、様々な願いが書かれている。まずは、わたしの祈りと同じではないと読んでしまうが、そうではなく、この方を理解しようと心を向けるのがよいのかもしれない。引用句のように、わたしと同じように、主、神様の道を求めて、歩んでいる一人の神様が愛しておられるひとがおられるのだから。少し読み方が広がるかもしれない。それを期待することも、あなたの道を示してください。わたしは、あなたのまことの内を歩みますの一部分なのかもしれない。
Psalm 87:4 「私はラハブとバビロンを/私を知る者として挙げる。/見よ、クシュと共に、ペリシテとティルスも。/この者はそこで生まれたと。」
ラハブは何回か聖書に現れるが、ここでの意味は不明である。おそらく、バビロンの並べてあるので、罪人または、悪人の代表をしているのだろう。そのあとには、クシュ、ペリシテとティルスが現れる。明らかに、イスラエルとは、異なる民族を表現しているのだろう。「そこ」もまた不明であるが、この前の節は「神の都」とあるので、それを意味しているのかもしれない。「主はもろもろの民を数え上げる/『この者はそこで生まれた』と記すときに。〔セラ」(6)とも呼応して、すべての民がそこで生まれたと唱えられているのだろう。結びは、「歌う者も踊る者も言う/『私の泉はすべてあなたの内にある』と。」(7)である。自分たちにとどまらない者たちの主という賛美なのだろう。問題はあるとは思うが、そのような発想ができていることは、やはり素晴らしい。
Psalm 88:19 あなたは私から愛する者と友を遠ざけ/闇だけが私の親しいものとなりました。
この詩編の最後のことばである。このように終わる詩編は珍しい。しかし、それ故に、とても、現実味と真実味が感じられる。ひとは、まさに、そのような中で生活しているのだろう。愛するものと友が遠ざけられた状態。闇だけが私の親しいもの。私も、かつてそのような感じた時があった。おそらく、現実は、心配してくださった方が何人もおり、愛するものも、友も、近くにいたのだろうが。ひとの痛み、苦しみ、やはりよくは理解できない。
Psalm 89:47,48 主よ、いつまでなのですか。/永遠に隠れておられるのですか。/憤りはいつまで火のように燃え続けるのですか。心に留めてください。/私の寿命がどれほどのものなのかを。/あなたがすべての人の子を/いかにはかなく創造されたかを。
「私は私が選んだ者と契約を結び/僕ダビデに誓った。『あなたの子孫をとこしえに堅固なものとし/あなたの王座を代々に築こう』と。」(4,5)からはじめ、現在、主に見捨てられ、荒廃した状態であることが書かれ、引用句に至っている。どの時代のものなのかは不明である。一般的には、バビロニアによって最終的に滅ぼされて以降と考えて良いのではないかと思う。この祈りは、最後「主をとこしえにたたえよ。アーメン、アーメン」(53)と唐突に終わる。しかし、それ故にこそ、信仰者の葛藤が伝わってくるようである。そして、おそらく、その寿命の間に、光を認めることができずに、なくなっていったかたも多かったのだろう。考えさせられる。
Psalm 90:12 残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。
ある年齢に達するととてもこころに響くことばである。しかし、この詩篇記者は続けて「主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。/あなたの僕らを憐れんでください。」(13)と言っていることからも、当惑したなかにいるように思う。単に、余生をどう生きるかを、問うているのではない。そのなかで、賛美もしているが、この葛藤こそが、人生、信仰なのだろう。もっと、この詩篇記者に寄り添って、丁寧に読んでみたい。悠久の中を生きる神と、一瞬の中で苦しむ人間、その対比が美しいことばで語られている詩篇であもる。
Psalm 91:1,2 いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。私は主に申し上げる/「わが逃れ場、わが城/わが神、わが頼みとする方」と。
このあとに、「まことに主はあなたを救い出してくださる。」(3a)として、様々な災厄から守られることが書かれている。わたしはすぐこれは危険と思ってしまう。逆に、守られていない人は、主に信頼していない人だとして裁きが始まると思うからだ。しかし、おそらく、そのときに、踏みとどまればよいので、ここでは、この方の信頼を称賛すればよいのだろう。災厄には「闇に忍び寄る疫病も/真昼に襲う病魔も。あなたの傍らに千の人が/あなたの右に万の人が倒れようとも/その災いがあなたに及ぶことはない。」(6,7)とも書かれている。コロナ禍で、わたしがすべきことは、わたしにできることを探すこと、他者とこころをあわせること、そして、できないことについて、主に祈ることなのだろう。主の御心を求めて。すくなくとも、このような信仰を持った方を裁くことではない。
Psalm 92:5,6 主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。/私はあなたの手の業を喜び歌おう。主よ、あなたの業はなんと大きく/あなたの計らいはいかに深いことか。
この詩篇は「賛歌。歌。安息日のために。」(1)と始まる。わたしは、賛歌、賛美が苦手である。いろいろと考えすぎてしまうのだろう。それが自分の思考の傾向であることを認めて、他者の考えや、行動を感謝できるものでありたい。そして、わたしのようなものをも、主が、よころんで、愛してくださることを感謝しよう。謙虚に。
Psalm 93:1 主は王となられた。/主は威厳をまとい/力の衣を身に帯びておられる。/世界は固く据えられ/決して揺らぐことはない。
このあとには、出そうな反論に答え、少し修正するかのごとく「王座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえよりおられる。」(2)しかしこの微妙な感覚が、信仰告白だとも考えられる。主は常に主権をもって統べ治められる方、しかし、完全にそのようになっているようには、人間の側からは見えない。同時に、それは、信仰者の望みであり、祈りでもある。「御国が来ますように。/御心が行われますように/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)の主の祈りもそれと通じるのか。ゆっくり考える必要のある課題であると思う。
Psalm 94:1,2 報復の神、主よ。/報復の神よ、輝き出てください。地を裁かれる方よ、立ち上がり/高ぶる者に報いてください。
「報復の神」には驚かされる。しかし、「主よ。/幸いな者/あなたに懲らしめられ/あなたの教えを受ける人は。あなたはその人の災いの日々にも/憩いを与えられる。/悪しき者には滅びの穴が掘られる。」(12,13)ともあり、単純に「報復」を「仕返し」ととるのは、誤りなのかもしれない。同時に、背景には、現実世界の矛盾・理不尽さの認識もあるように思われる。信仰とは、それを単に自分の人間の怒りに変えず、その意味、背後におられる主の御心を問うところにあるのかもしれない。そのような相対化が、あらたな視点を生み、世界を違ったかたちで捉えることができるのだから。それが「あなたはその人の災いの日々にも/憩いを与えられる。」のような見方も生むのだろう。不思議だが、魅力的な言葉である。信仰告白であり、普遍的な事実、他者にも適用可能なこととして述べているわけではないが。
Psalm 95:1,2 さあ、主に向かって、喜び歌おう。/救いの岩に喜びの声を上げよう。感謝のうちにその前に進み/賛美と共に喜びの声を上げよう。
「その前」が印象に残った。おそらく「救いの岩」をさすのだろう。主は救い、その前を進むということは、様々な解釈が可能だろう。一つは、常に、後ろには、主の救いがあるという確信のもとに歩むこと、もう一つは、救われたことにとどまらず、前に進んでいくこと。信仰と希望だろうか。どのように進んでいくかは課題としても、委ねられたものに忠実に、主のみこころに生きることをこのように表現して歩んでいきたい。
Psalm 96:13 主の前に。/主は来られる。/地を裁くために主は来られる。/主は義によって世界を/まことをもってもろもろの民を裁かれる。
最初にある「主の前に」は直前の「天は喜べ。地は喜び躍れ。/海とそこに満ちるものは、とどろけ。野とそこにあるものも皆、喜び勇め。/森のすべての木々も、喜び歌え」(11,12)が対応しているのだろう。「喜び歌え」引用句からすると、それは、希望につながっているということだろうか。正直、裁きを期待をもって待つことは、個人的にはできない。自分が裁かれることも、人が裁かれることも、地が裁かれることも。神様は、それを望んでおられないのではないだろうか。しかし同時に、裁きを望む、理不尽さの中に生きているひととともに生きることをしたい。難しいけれども。
Psalm 97:11,12 光は正しき人に/喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。正しき者よ、主によって喜べ。/主の聖なる名に感謝せよ。
これだけを取り出せばそのとおりかなと思う。同時に「正しき者」について考えてしまう。神様からみて「正しき者」であろう。それは、判断が困難である。しかしそうであっても、この詩篇の最後の「主によって喜べ」は、わたしもアーメンといい、それを自らにも語りかけたい。喜びのもとは、自分のうちにはなく、希望は人々の中にではなく、主のもとにあるのだから。それが、よくわからないことも、希望と言う名にふさわしいように思う。
Psalm 98:1,2 賛歌。/新しい歌を主に歌え。/まことに主は奇しき業を成し遂げられた。/主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。主は救いを知らせ/正義を国々の目の前に現された。
「新しい歌」の内容は「救い」と「裁き」である。それだけ、地上は、不義で満ちているということだろう。理不尽に思うことがあるとも表現できるかもしれない。しかし、どのような状態がよいかは、正直ことばにできない。正に、複雑系である。神様のもとに答えがあるかどうかは不明で、神様も悩んでおられるかもしれないが、主を、みこころを求めよう。それは、単に、祈るだけではなく、神様からのあらゆるメッセージに耳を傾け、目をを凝らして。
Psalm 99:4 王は力ある方、公正を愛される。/あなたは公平を堅く打ち立てられた。/ヤコブの中に公正と正義とを/あなたは成し遂げられた。
「主は王となられた。」(1a)から始まるので引用句での「王」は「主」だろう。公平は、とても困難で、定義も難しいが、わたしが、いちばんたいせつなものとして追い求めているものだが、ここでは「公正と正義」も現れる。そして「ヤコブの中に」とある。おそらく、「王」ということばも「ヤコブ=全イスラエル」に結び付けられているのだろう。6節から8節には「モーセとアロンは祭司の中に/サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。/彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。」(6)から、関係が書かれている。主をどのような方として賛美するかは、難しい。
Psalm 100:2 喜びながら主に仕えよ。/喜び歌いつつその前に進み出よ。
「喜びながら」が印象に残った。喜ぶことは、人に強いられたり、勧められたりするものではないだろうが、「喜びながら主に仕える」ものでありたいとどうじに、わたしにとって「主に仕えることは喜び」という日々と思えるときは本当に幸せである。わたしはどうだろうか。おそらく「主に仕えることは喜び」と言ってもよいと思うが、実際には、様々な痛みや、苦しみなどが、その思いを覆い隠しているように感じる。しっかり、内省してみたい。ゆったりとした気持ちで。
Psalm 101:1 ダビデの詩。賛歌。/慈しみと公正を私は歌い/主よ、あなたに向かってほめ歌います。
慈しみと公正は愛と義だろうか。しかし、それは、個人がどのように生きるかについて言っているようにも思う。「私はこの地の誠実な者に目を向けます。/彼らは私と共に住みます。/全き道を歩む者が私に仕えます。欺きをなす者は/私の家の中に住むことはありません。/偽りを言う者が/私の目の前に立つことはありません。」(6,7)主の慈しみと公正について、もっと学びたい。同時に、この詩篇記者とともに「慈しみと公正」について語り合えたらと思う。お互いに、Welcome しあい、共に生きるために。
Psalm 102:24 主は道半ばで私の力を挫き/私の生涯を短くされた。
このあとには「私は言う。/『わが神よ/生涯の半ばで私を取り去らないでください。/あなたの歳月は代々にわたります。』」(25)ともあり、先があまりないことを想起させる。病気だろうか。他の理由だろうか。わたしは、結婚前は、特に米国で、いまから考えると、かなり危険なことをいろいろとしていた。そこで、生涯が終わっていたかもしれない。そして、その後、子どもたちが小さかった頃、あとすくなくとも何年は生かしてくださいと祈っていた。いまはもう十分生き、いつ主に召されてもよいと正直思っている。しかし、特に、30代、40代に、この詩篇記者のような状態になったら、自分はどう向き合っていただろう。ひとの苦しみは、わからない。そして、自分の苦しむ姿が想像できないことが、他者の苦しみにより添えない理由でもあるように思う。
Psalm 103:3-5 主はあなたの過ちをすべて赦し/あなたの病をすべて癒やす方。あなたの命を墓から贖い/あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。あなたの望みを良きもので満たす方。/こうして、あなたの若さが/鷲のように新しくよみがえる。
直前には「私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな。」(2)とありその「計らい」について書かれている最初の部分を引用している。アーメンと言いたいところだが、なにか、こころからは言えない。それがわたしの性格なのだろう。わたしなら、どのように「主の計らい」を表現するだろうか。共に考え、悩んでくださり、どんなときにも、じっとそばにいて支えようとしてくださる。おそらく、わたしが表現しているのは、わたしがしっくり来ることではあるが、ほかにもいろいろとあり、他のかたがたには、また別の計らいが受け止められているのだろう。
Psalm 104:14,15 家畜のために草を/人間の働きに応じて青草を生やす方。/こうして主は地からパンと人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し/油で人の顔を輝かせる。/パンは人の心を強くする。
主がどのような方かを語り、賛美している詩篇である。青草、パン、ぶどう酒、油と出てくるのが興味深い。おそらく、いまは、素晴らしいものとして誉め讃えるものが、人工物に変わってしまっていることも、主にこころが向かないことなのかもしれないと思った。しかし、実は、この箇所だけではなく、現代では目が向かないが、様々なものに養われていることは確かで、人工物では立ち向かえない。人工物はひとの欲の部分に答えるものだからだろうか。ゆっくり、じっくり、恵みを数えてみたい。
Psalm 105:45 これは彼らが主の掟を守り/主の教えに従うためである。/ハレルヤ。
「主に感謝し、その名を呼べ。/もろもろの民に主の業を知らせよ。」(1)から始まり、引用句で終わる。中心には、アブラハムとの契約からはじめ、ヨセフのことと、出エジプトについて語られている。これらすべては、主のみこころに生きるためということだろう。それは、なにも、主の言いなりになるというわけではなく、完全な平和の中で喜びに満ちて生きることが言われているのだろう。同時に「主の僕アブラハムの子孫よ/主に選ばれたヤコブの子らよ。」(6)とあるが「もろもろの民に主の業を知らせよ」(1b)と、目は世界に開かれている。最後にハレルヤとあるが、次の詩篇は、ハレルヤで始まっている。
Psalm 106:47,48 我らの神、主よ、私たちを救い/国々から集めてください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ。」
最後の2節、そして、写本によっては、第4巻の終わりである。前の105篇とも同じ記者なのではないかと思わされる継続性がある。105篇では主の恵みが、106篇では民の不従順のなかで守られたことが書かれている。引用句を見ると、国々に散らばっていることがわかる。細部は、十分読み取れていないが、美しい言葉も有り、捕囚後の苦しみの中で、105篇、106篇が書かれたと考えると、やはり、印象深い。
Psalm 107:6,8 苦難の中で主に叫ぶと/主は彼らを苦しみから助け出した。主に感謝せよ。その慈しみと/人の子らになされた奇しき業のゆえに。
6節と8節は、微妙なことばの違いはあるが、13節と15節、19節と21節、28節と31節にあり、その前に、背景が、その間に、どのように贖われたか(2)が書かれている。興味深い詩篇である。最初には「国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。」(3)とあるが、まさに、様々な背景のものが、様々に、主のもとに集められていることが表現されているのだろう。それこそが、主の民なのだろう。ゆっくり学んでみたい。
Psalm 108:6,7 神よ、天の上に高くいませ。/あなたの栄光が全地にありますように。あなたの愛する人々が助け出されるように/右の手で救い/私に答えてください。
賛美は、苦難のときの祈りと一対であるように思われる。たしかに、何もないときの賛美は、薄っぺらになりやすい。そのときであっても、自らの経験や、周囲のひとたちの苦悩の中での賛美であるはずなのだろう。わたしも、祈りのときに、苦しんでいる人に思いをはせ、すくなくとも、思い出すようにしている。形式的になってしまうことも多いが、それでも、そのときをたいせつにしていきたい。
Psalm 109:3-5 憎しみの言葉が私を取り囲み/理由もなく戦いを挑んで来ます。私の愛に反して、彼らは私を訴えます。/私は祈るばかりです。彼らは善には悪をもって/私の愛に憎しみをもって報います。
今回は、なぜ、このように考えるのか考えてみた。わたしはそう考えないというわけではない。少なくとも、若い頃は、このような思考も一つの要素だった。いまは、自分がそうであるように、他者もいろいろな理由によって、あることを決断し、行動するのだろうと思っている。そして、その理由の殆どは、他者にはわからない。そして、自分でもわかっていないかもしれない。後に少し見えてくることもあるかもしれないが、わからないこともあるだろう。その背景のもとで、理由を、悪を、問題を特定することは、問題の解決に、近づく道ではない。かえってそれを遠くしてしまうように思う。共に、課題として、考えること、悩むことはできないだろうか。背景にあるもののいくつかは、そうすることができるかもしれない。難しいかな。これが、解決に近づける保証はまったくないのだが。
Psalm 110:5 わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。
有名な詩篇である。マタイ22章44節、マルコ12章36節、ルカ20章42,43節でイエスが引用した以外にも、使徒2章34,35節、ヘブル1章13節でも引用され、イエスは主である、と証言しているように、理解されているが、イエスの引用は、ダビデの子ではないことの立証に使っているのであって、もしかするとずれているかもしれない。旧約聖書の記述、詩篇記者の記述を絶対化することは、危険であるようにも思う。この箇所も祈りであり、一般的には、ここで「私の主」とされている存在は、明確ではない。メシアはダビデの子かという問に限定して考えたほうがよいようにも思う。裁きは、本当に中心的なことなのだろうか。
Psalm 111:2 主の業は偉大/それを喜びとするすべての人が求めるもの。
このあとも、主の働きの偉大さが語られている。正直、同じようには、主の偉大さを讃えられない。なぜなのだろう。少しは理由はわかっているが。それなら、わたしは、主の働き、神様はどのような方かをどのように語るのだろうか。これも、最近、明確ではない。どんどん、わからなくなってきているというのが、正直な気持ちである。だからといって、神様から離れていっているともあまり思っていない。大きな反論はないのであれば、単純に、この詩篇の記者に心をあわせ、ハレルヤと叫ぶのもよいのだろうか。
Psalm 112:1,2 ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。彼の子孫はこの地で勇士となり/正しい人々として祝福される。
この二節について考えた。正直、わたしは、こどもたちに、一定のことについては、家のルールとして厳しくしたが、それが、良かったのかどうかまったく不明である。信仰については、あまり、強くは言わなかったように思う。そして、今の子供たち。一人ひとりの成長、そしてその家族の状態、感謝している。それぞれに、様々な困難を抱えていると思うが。しかし、それで良かったのかと言われると、よくわからない。任せるしかない。委ねるしかないと思っているからか。おそらく、それだけでなく、こどもたちやその家族を、ひとびとのうち、近くに神様が置いてくださった何人か程度にしか考えていないからもあるように思う。自分のこどもたちという意識を極力、薄めたいと、こころの奥で考えているのだろう。たいせつにしてきた、公平さのゆえに。
Psalm 113:6 天にあっても地にあっても/低きに下って御覧になる方。
主についての描写である。続いて、7,8節と9節に例が挙げられ、最後 「ハレルヤ」で終わっている。例は、詩篇記者が具体的に思い描く人、または、経験とも関係しているのだろう。主との関係は、このようなもの、それ故に賛美に至るのだろう。わたしも振り返ると、主に祈り、答えを受け取り、力を得た経験をいくつか思い出す。それを、客観的に、主の働きと立証することはできないが、同時に、わたしの歩みの中で単なる偶然と消し去ることもできない。ひとは、そのように、力を得て、生き、生かされているものなのだろう。信仰はそれゆえに、共有には大きな困難が伴う。
Psalm 114:7,8 地よ、主である方の前で身もだえせよ。/ヤコブの神の前で。それは岩を池に/硬い岩を泉に変える方。
出エジプトのときの奇跡が書かれている。しかし、引用句は、それを、表現したものと考えられないこともないが、そうではではないように思われる。岩を池に、硬い岩を泉に。乾燥地帯においては、これこそ、日常的に願うことだろう。そして、象徴的には、わたしたちにとっても、象徴的な意味で、伝わってくるものがある。「地よ、主である方の前で身もだえせよ。」という表現、すごい。
Psalm 115:17,18 主を賛美するのは死者ではなく/沈黙の国に下った人々でもない。私たちこそ、主をたたえよう/今より、とこしえに。/ハレルヤ。
死者の国、沈黙の国については、わからない以上、アーメンとは唱えにくい。しかし、まさに、このごちゃごちゃした現実の中でこそ、主に信頼し(9-11)日々、主を賛美するものでありたい。自らを、騙すことなく、裏切ることなく、誠実に歩みつつ。わからないことばかりだが。
Psalm 116:9-11 主の前を私は歩む/生ける者の地で。私は信じる/「とても苦しい」とあえぐときも。「人は皆噓つきだ」と口走るときも。
「主の前を私は歩む」どんな時も。だろうが、その表現がとてもおもしろい。そして、身近にも感じる。このあと、どうなったかは、書かれていない。しかし、このように言うときも、主の前を歩んでいるのだろう。それが、信仰者の姿である。おそらく、わたしも、そうである。
Psalm 117:1 主を賛美せよ、すべての国よ。/主をほめたたえよ、すべての民よ。
二節しかない詩篇。そこで、すべての国よ、すべての民と、賛美を促している。自己中心とみることもできるが、同時に、この神は、自分たちだけのものではないとの、信仰表明でもある。わたしは、そのように、言えるだろうか。いまは、わからないとしか言えない。
Psalm 118:8 主のもとに逃れるほうが/人間に頼るよりもよい。
少し、このことについて考えてみようと思った。知恵にたよらず、主に祈る。人に頼らず、主のもとに逃れる。これらは、もう少し深く掘り下げないといけないと考えているからだ。困難ななかで、人に頼ることを最終手段とするのは、問題があるだろう。相手も生身の人間で、いろいろな環境のもとにあり、変化もする。しかし、人と協力してできること、人の力を借りることは、素晴らしいことだとも思う。主は、そのことを通しても働かれると思うからだ。知恵に頼らずも、主をとおして与えられ、自分の一部となっているものを最大限活用することを、主は喜んでくださるだろう。むろん、それも、祈りの中で、慈しみ深い主(1-4)が示してくださることなのかもしれないが。
Psalm 119:124,125 あなたの慈しみにふさわしく/あなたの僕をあしらってください。/あなたの掟を教えてください。私はあなたの僕です。/私に悟らせてください/あなたの定めを知ることができますように。
律法、掟、戒め、教え、定め、諭し、仰せ、(御)言葉など、様々な言葉が使われているが、それが、どのようなものか、文字として、固定されたものかに興味を持って、今回読んだ。引用句以外にも、何箇所か、学ぶものとしての姿勢が明らかで、文字として書かれたもの以外にも、その背後にある意味、指し示すもの、そこには、書かれていない自然や経験から学ぶものも含まれているようである。わたしが時々表現する、御心に近いように思う。この美しい詩篇が、アルファベット詩で書かれているというのも驚きである。いまは、YouTube などで聴くこともできるが、やはり、その美しさを味わうことまではわたしにはできない。
Psalm 120:5-7 ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。平和を憎む者と共に/私の魂が久しくそこに住むとは。私が平和を語っても/彼らはただ戦いを好む。
「苦難の時に主に呼びかけると/主は私に答えてくださった。」(1b)と始まり、その苦難は「偽りの唇、欺きの舌」(2)から来ていることも書かれているが、最後は引用句で終わっている。「ああ、何ということだ」は印象的である。「メシェク・ケダル」をどう理解するかははっきりしないが、この交錯した思いが生き生きと描かれ、興味深い。こんな詩篇も面白い。
Psalm 121:5,6 主はあなたを守る方。/主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。昼、太陽があなたを打つことはなく/夜、月があなたを打つこともない。
美しい詩である。イスラエルのように乾燥した土地で、かつ、夜は寒くなると思われる場所では、このように、表現されるのだろう。この詩篇を読むと、自然の厳しさも伝わってくる。現代では、その意識が薄れてきており、そのことが、主の守りを認識する感覚も、鈍化させているのかもしれない。外を歩くとき、自然の中で、主を思うときを大切にしたい。
Psalm 122:5 そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられてあった。
都に上る歌(1)である。しかし、引用句は、過去形で書かれている。これにつながる表現も、王位が安定しているときではないことを想起させる。「エルサレムの平和を求めよ。/『あなたを愛する人々が安らかであるように。あなたの城壁の内に平和があるように。/あなたの城郭の内に平安があるように。』」(6,7)さらに続けて、「あなたの内に平和があるように。」(8b)「あなたに幸いがあるように。」(9b)とある。より普遍的なものへと移動しているようである。他者の、平和と、幸いを祈ろう。どのようなときでも。
Psalm 123:3,4 私たちを憐れんでください。/主よ、私たちを憐れんでください。/蔑みは飽きるほど受けました。私たちの魂は飽きるほど受けました/高ぶる者らの嘲りを/傲慢な者らの蔑みを。
激しい訴えである。この前には「見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように/女奴隷の目が女主人の手に向かうように/私たちの目は我らの神、主に向かう/主が私たちを憐れんでくださるまで。」(2)ともある。しかし、この巧みな表現にも関わらず、すこし冷めた感じがする。「都に上る歌。」(1a)からもそれを感じてまうからか。巧みな表現だからこそ、かえって、白々しさを感じてしまう。おそらく、最初に、この詩篇を書いたかたは、真剣に、主の憐れみを乞うていたのだろう。そちらにこころを向かわせたい。
Psalm 124:4,5 その時、大水が私たちを押し流し/激流が私たちの上を越えていったであろう。その時、荒れ狂う水が/私たちの上を越えていったであろう。」
「もしも、主が我らの味方でなかったなら」(1b)で始まる。そこで、引用句。津波を思わせる。こんなことを、経験し、現実のものと思えるようなひとがいたのだろうか。急に水が湧くことは乾燥地でもあるだろうが、もしかすると、チグリス・ユーフタテスや、ナイルなどの大河の周囲で経験したことなのかもしれない。自分は経験していないとしても、東日本大震災(2011年3月11日)や、スマトラ沖大地震(2004年12月26日)のあとのように、なにか、目に浮かぶものがなければ、このようには、表現できない。両方とも、映像がはっきりと脳裏に刻まれている。
Psalm 125:4,5 主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に/幸いをもたらしてください。しかし、曲がった道にそれる者らは/悪事を働く者らと共に/主が去らせてくださるように。/イスラエルの上に平和があるように。
わたしには、このようには、祈れない。よい人々の弱さと、曲がった道にそれる者らの、弱さとともに、背後にある困難な状況、複雑に絡み合った、要因に目が行くからである。それでも、その人の責任を問う部分は、ないとは言えない。同時に、その責任を問える部分は非常に限定的だとも思う。おそらく、限定的であっても、責任を問えるなら問うべきとの考えもあるのだろう。比較は困難で、尺度は、絶対的ではなくても、何らかの判断をして、行かないといけないのだからと。本当に、困難な問題である。人々の上に平和があるように。主の平和。
Psalm 126:1 都に上る歌。/主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。
主語は、主である。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)と、最後に美しい言葉が有り、こちらが強調されることにより、ひとにスポットライトがあたってしまう。さらに、苦境における努力を訴えることにもつながる。すくなくとも、この詩篇は、そこに焦点はないだろう。とはいえ、このような、慰めは、そのときどきに、少なからず、力になることは事実である。それも、信仰なのかもしれない。
Psalm 127:3,4 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。/胎の実りは報い。若い頃生んだ子どもたちは/勇士の手にある矢のようだ。
わたしは、子どもたちの存在をほんとうに感謝し、喜んでいる。そしていまも、こどもたちやその家族から多くを学び喜びも得ている。しかし、それを強調したくないとも思ってきた。単純に祝福と捉えることは、やはり、単純化で、還元論的な意味合いが強い。また、子どもたちは、自分のものというより、ある期間、預かっているという面が高く、成長してからは、隣人だと思っている。特別な隣人ではあるが。少なくとも「幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。/町の門から敵を追い払うときも/恥を受けることはない。」(5)とは思っていない。児童養護施設で接するこどもたちも、まったく同じようにたいせつ。関わっているものとして、悩みつつ、喜びを感じつつ、関わっている。わたしの近くにはいない、こどもや、隣人たちを思いながら。
Psalm 128:3,4 妻は、家の奥にいて/豊かな房をつけるぶどうの木のよう。/子どもたちは、食卓を囲んで/オリーブの若木のよう。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
このように見ることは、おそらく、自然なのだろう。主を畏れるものかどうかは、本来は、家族が、こどもたちが、祝福をうけとるかどうかにかかっているように思う。それもまた、難しいことだが。家族で、感謝し、祝福を受け取れるかどうかには、主を畏れることが関係していると思う。その延長線上に、引用句のような告白があるのかもしれない。こどもたちに、主を畏れることを伝えることに関しては、ずっと、躊躇と悩みがあった。他者の悩みとは異なるのかもしれないが、神を畏れるゆえに、悩むこと、かつ、神や聖書についても、わからないこと、どちらかというと、反発を感じることが多かったから。それでも、子どもたちが、主を畏れるものであってほしいと強く願うのだが。
Psalm 129:2,3 「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。/しかし、私に勝つことができなかった。悪しき者らは私の背に鋤を当て/長い畝を作った。」
前半はある程度想像できるが、後半の表現がよくわからない。私を傷つけようとしたが、実際には、人生の溝を掘り、より豊かなものにしたということだろうか。英語では "Plowmen have plowed my back and made their furrows long." (NIV) となっており、わたしに傷つけながら、得を得たという解釈のようだ。しかし、そのような歴史の中で、キリストによる贖いがもたらされたとのメッセージもあるようだが、そう考えると、わたしの、最初の解釈も、Their Furrows かどうかは言語的にしらべる必要があるが、あながち外れてはいないようにも思える。誰の畝なのかは、あまり重要ではないのかもしれない。
Psalm 130:3,4 主よ、あなたが過ちに目を留めるなら/わが主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあります。/あなたが畏れられるために。
事実として、そのとおりと読んでいたが、神様の側には、べつの論理があるのかもしれないと最近考える。主のみこころは、正しさではなく、互いに愛し合うことであるなら、そして、それは、主と、我々、そして、人間同士も同様な交わりをと望んでおられるなら、過ちも、そして、赦しも、べつの意味を持ってくるだろう。そして、おそらく、互いに愛し合うことは、その場で終わるものではなく、広がりをもっていくものなのだろう。そこに、答えは、終わりは見えない。「私は主を望みます。/私の魂は望みます。/主の言葉を待ち望みます。私の魂はわが主を待ち望みます/夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。」(5,6)わたしも、このように、祈りたい。みこころを求めて。
Psalm 131:1 都に上る歌。ダビデの詩。/主よ、私の心は驕っていません。/私の目は高ぶっていません。/私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。
最後の言葉が印象的である。それこそが、驕(おご)らない、高ぶらないことだと言っているのだろう。'God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed'(神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。)で始まるラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の Serenity Prayer を思い出させる。これを深めたものなのかもしれない。ゆっくり、ニーバーの祈りも考え、味わってみたいが、まずは、この詩篇とも向き合いたい。自分には、すべきことが他にあると、受け取ることをまずは考える。他には、わからないことをわからないこととし、神を訴えることをしないということもあるだろうか。丁寧にかんがえると、なかなか難しい。
Psalm 132:11,12 主はダビデに確かな誓いを立てられた。/主がそこから引き返されることはない。/「あなたの胎の実りの中から/あなたの王座に着く者を定める。あなたの子らが、私の契約と/私が教える定めを守るなら/その子らも、永遠にあなたの王座に着くであろう。」
「都に上る歌。/主よ、ダビデを思い起こしてください/彼が受けた苦しみのすべてを。」(1)と始まる。儀式的な要素が強いように思う。引用句は、サムエル記下7章12節-16節 が背景にあるのだろう。しかし、祈りの答えとして記されていることを文字通り受け取ったり普遍化することは危険でもある。同時に、イスラエルの人たちにとって、この約束をたてに、神に訴えるというより、ここに、希望の拠り所を求めていた面は強いのだろう。宗教の難しさも感じてしまう。影響を考え、その後の歴史を見ていると、素直に受け取ることはどうしてもできない。
Psalm 133:1 都に上る歌。ダビデの詩。/兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。
最後は「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。」(3b)で締めくくられている。「そこ」はその直前の比喩として書いた場所とともに、最初の「兄弟が共に住む」にかかっているのだろう。口語訳の「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。」に馴染みが強く、新共同訳の「【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」も覚えているが、ここでは「住む」となっている。「共にお(居)る」「共に座っている」「共に住む」と少しずつ、継続性が強調されているように思う。真意は継続性にあるように思う。兄弟も、ある程度広い関係の範囲が想定されているかもしれない。共に住む、その日常に、様々な軋轢が起こりそうな状況を想像する。「共に」の深さを感じる。
Psalm 134:1 都に上る歌。/さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。/夜通し、主の家に立つ人たちよ
「夜通し、主の家に立つ人たち」がどのようなひとか不明であるが、霊的な意味に受け取ることも可能かもしれない。「主の僕たち」の中にも、さらに、「夜通し、主の家に立つ」ことを言っているのかもしれない。新共同訳では「夜ごと、主の家にとどまる人々よ」、口語訳では「夜、主の家に立って/主に仕えるすべてのしもべよ」ということばが使われている。言葉通り取ろうとするとかなり印象がことなるが、その共通部分に目を向けるのもたいせつなのかもしれない。「夜ごと、様々な課題に向き合おうとする」わたしの生活とは、やはり、かなり異なるように思う。簡単に、善悪を判断しようとは思わないが。
Psalm 135:3,4 ハレルヤ、主はまことに恵み深い。/その名をほめ歌え。その名はまことに麗しい。主はヤコブをご自分のために選び/イスラエルをご自分の宝とされた。
主の素晴らしさをほめたたえること。あまりわたしはしていないかもしれない。感謝は常にある。引用句の後半は、この感謝に当たるのかもしれない。この事が、主の恵み、その名をほめたたえることの根拠のたいせつな部分に、なっているのだろうが、それは、この詩篇記者にとって、と言っても良いかもしれない。この後半は、受け取り手によって異なる。わたしも、主が導いてくださり、生かしてくださったり、誤解を恐れず書くなら、ご自分の宝のように愛してくださったことに感謝し、それ故に、主はまことに恵み深いとこころから思う。あまり違いは無いのかもしれない。このことを、他者に敷衍(ふえん:おしひろげること。展開すること。)するときにていねいにしないといけないのだろう。自分の経験と理解が根拠になっているから。ほめたたえることに躊躇があるのは、他者に敷衍する部分が、そう簡単にはできないと考えているからだろう。
Psalm 136:1 主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。
感謝することは、一人ひとりにとって異なるだろう。同時に、共に、感謝できることは、素晴らしい。それは、共通の、体験をしているからだろうか。それができない状況で、共に、感謝することはできるのだろうか。それが、宗教なのかもしれないが、やはり、不安が残る。人間が文字とした事柄の正しさが根拠となる部分が大きいからである。少しずつ、共に、感謝することを広げていくことはできるかもしれないが。本当に、難しい。普遍的な真理とは何なのだろう。それは、主に関することでどのように表現できるのだろうか。
Psalm 137:8,9 娘バビロンよ、破壊者よ/幸いな者/お前が私たちにした仕打ちを/お前に仕返しする者は。幸いな者/お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は。
恐ろしいことばが書かれている。特に、後半は、目をそむけたくなる。しかし、怒り、憤りがこころに溜まっていることを非難はできない。このようなことばは、決して言ってはいけないと自戒の念をもって心に刻み、この詩篇記者にも、時を待って、語り合えるようになりたい。そこに、神様の御心を求めるプロセスがあるように思う。そして、おそらく、このようなプロセスを通して、学ぶことがたくさんあるのだろう。怒り、復讐心なども、その方の尊厳を形成するものなのだろうから。単純な拒否ではないことを学びたい。
Psalm 138:3 私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。
背景やどのような祈りなのか不明であるが、このようなことがあれば、主に感謝し、主をほめたたえたくなるだろう。それに対して、あれこれいうのは、不適切である。良かったね。といいつつ、共に、横に座って、そのときのことを、もう少し一緒に考えるときが持てればとも思う。いろいろな時があり、それをうけとめる一人ひとりに様々な状態がある。その中で、感謝し、主のみこころを探っていきたい。
Psalm 139:1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。
主について語っていると思い読んでいたが、「主に知られている」ことをたいせつにしている詩篇なのかもしれないと今回思った。いずれにしても、それが、最後にあるように「御覧ください/私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。/とこしえの道に私を導いてください。」(24)偶像礼拝をしているかどうかによって、敵と味方を二分しているようだ。敵の一人ひとりも、主に知られているという方向には進まないのだろうか。偶像礼拝も、様々な形があり、自分で、神以外のものを神としているかどうか判断はとてもむずかしいのに。そうであっても、特に最初の部分は、美しい表現の詩篇である。この詩篇記者ともゆっくり話してみたい。
Psalm 140:13 私は知っている/主が苦しむ人の訴えを取り上げ/貧しい人のために裁きを行うことを。
最初は「心に悪をたくらみ・日ごとに戦いを挑んで来る」(2)「邪悪な人間・暴虐の者」(1)から守ってくださいと始まる。わたしが歳をとったからか、わたしの住む世界がある程度落ち着いているからか、他者理解が、あまりにも違うと、詩篇を読んでいて感じる。しかし、困難なときにも、主の救いに希望を持ち、主がどのような方か認識する方向は、引用句を含めて、共通性も高いように思う。世界では、現代でも紛争が絶えない。今回のロシアのウクライナ侵攻を見ても、アメリカのアフガニスタン侵攻、イラク侵攻との違いや区別の評価は、なかなか困難でもある。友人が支援しているイエメンのひとたち、シリアのひとたち、世界中で混乱の中にいる人達は多い。平和は、単純ではないことが、これら一つ一つを考えても、わかる。ほんとうに、わたしは、何をしたらよいのかも、わからず、無力さを感じる。主の御心を知りたい。
Psalm 141:1,2 賛歌。ダビデの詩。/主よ、私はあなたを呼び求めます。/急いで来てください。/あなたに呼びかけるとき/私の声に耳を傾けてください。私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように。/高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。
わたしも祈るが、同時に、すべきことがたくさんあるように思い、それをどのようにするかを考えている。それは、自分中心、自分の中に救いを求めることとは異なると思うが、そうなる危険性があると指摘されれば否定することはできない。同時に、神様が、いろいろな解決方法を示しておられるのに、すべて、神業に頼ることを、神様が求めておられるとは思わない。究極的には、友となり、互いに愛し合うものとなることを求めておられるように信じているからだが。おそらく、ここは、とても、判断が、難しいのだろう。
Psalm 142:4 私の霊が萎え果てるときも/あなたは私の小道を知っておられる。/私が歩むその道で、彼らは私に網の罠を仕掛けた。
最後の一文はどうしても引っかかってしまうが、知られていること、それは、愛されていることと深く関係していると思う。主に、知られていることが、主に愛してくださっていることとどう関係しているか、書いてみようと思ったが良くはわからない。しかし、自分のすべてを知っていてくださる方がいることは、自分の尊厳が守られていることにもつながっているように思う。尊厳の源は、悲しさ、苦しさ、痛み、喜びなど、通常は、他者に理解し得ない、共有できないことに依っているからだろうか。その方が、違うことであっても、同じように、苦しんでおられることを知ることはさらに、慰めにもなるように思う。あまりに、感傷的だろうか。もう少し深めていきたい。
Psalm 143:8 朝に、あなたの慈しみを聞かせてください/私はあなたに信頼しています。/歩むべき道を知らせてください。/私はあなたに向かって魂を高く上げます。
"Cause me to hear Your lovingkindness in the morning, For in You do I trust; Cause me to know the way in which I should walk, For I lift up my soul to You."(NKJV)"Let the morning bring me word of your unfailing love, for I have put my trust in you. Show me the way I should go, for to you I entrust my life." (NIV) 慈しみは、これらの訳では、lovingkindness, unfailing love である。常に、愛し、わたしとの関係を保ってくださるということだろうか。それに、導きがつながっている。英語を調べてみたのは、慈しみとともに、魂を高く上げることがよくわからなかったからである。おそらく、NKJV のように、原語近いのだろう。わたしも、わたしの命を委ね、主に向かって、主と顔を合わせられるように、生きていきたい。
Psalm 144:11 私を解き放って助け出してください/異国の子らの手から。/彼らの口は空しいことを語り/その右手は欺きを行う右手。
いろいろなことが書かれている詩篇であるが、ロシアのウクライナ侵攻二日目を迎え、いろいろなニュースが入ってくる中で、その中にいるひとたちの思いを考えて、この箇所を選んだ。わたしには、想像できないことであっても、なにか、できないか、考えてしまう。一人ひとりは本当に無力である。黒白で判断はしたくないが、やはり、現実を受け入れられない。一方的であるように思えてしまう。様々な、困難が背後にあるとしても。
Psalm 145:20 主は、ご自分を愛する者を皆守り/悪しき者はことごとく滅ぼします。
このようなことばに違和感を感じるのだが、常に戦いがあり、悪がはびこり、略奪が横行している世界では、こう考えることも仕方がないのかもしれないと思う。悪しきものが滅びる以外に、救いは見いだせないのだろう。そう考えると、現代は、社会自体が良い方向に変化していると思えてくる。しかし、それは、わたしが生きている場だけではないにしても、そうではない世界がたくさんあるのだろう。単純に、引用句のような考え方を切り捨てることはできないのだろう。そのような世界で苦しんでいる人がおられる以上。難しい。
Psalm 146:3,4 諸侯を頼みにするな/救うことのできない人間を。霊が去れば、彼は土に帰り/その日、彼の企ても滅びる。
偶像礼拝を忌避することに近いが、このような思想・祈りの中で、信仰が純粋になっていったことには、やはり驚かされる。人間の側の協力、日々の誠実な歩み、誠意をもった働き・労働を適切に位置づけることが難しくなる危険性はあるが、まず、このことを、受け入れ、決断の基盤とすることは大切なのだろう。正しさについても、どうようなことが言えるのかもしれない。一つ一つのことばだけにとらわれることは気をつけないといけない。原理主義的になってしまうから。
Psalm 147:17,18 氷をパン屑のように投げる。/その冷たさに誰が耐えられようか。主が御言葉を送ると、それらは溶け/息を吹きかけると、水が流れる。
様々な角度から、主の偉大さが詠われている詩篇である。引用句では、御言葉の力が表現されているとともに、氷、冷たさが印象的である。このときにも、避難壕のなかで凍えているひとがたくさんいることを思うと、その冷たさをわたしも感じてしまう。主のことばは、どのように働かれるのだろうか。凍えてしまっているひとびとのこころの氷が溶け、水が流れることを祈る。
Psalm 148:3-5 太陽よ、月よ主を賛美せよ。/輝く星よ、こぞって主を賛美せよ。天の天よ/天の上にある大水よ主を賛美せよ。主の名を賛美せよ。/主が命じ、それらは創造された。
自然に覆われた世界。このなかでしか、生きられない人間が、それを破壊してしまっており、それは限界に来ているとも言われる。自然と深い関係を持つことが希薄になっていることも大きいように思う。わたしも、その一人。なにも考えずに享受だけしている、その恵みを、味わう日々を大切にしたい。
Psalm 149:4 主はご自分の民を喜びとし/苦しむ人を救いによって輝かせる。
わたしは、聖書にいくら書いてあろうと、選民思想は、御心ではないと考えている。御心につながる、過渡的なものとしては、神様は受け入れてくださるのだろうが。ずっと、公平さについて、考えてきたからだろうか。他者視点を探ることで、自分の弱点を見つけ、克服しようとしてきたからだろうか。そして、その根本にあるのが、ひとの尊厳をたいせつにすることであり、そこには、ひとそれぞれの苦しみ、痛みを、相対化しないことがある。十分に、まだ言語化できていないので、何回も書いてみているのだが。公平さという視点と、一人ひとりの尊厳をたいせつにしたいという気持ちは、これからも変わらないように思う。
Psalm 150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。/竪琴と琴を奏でて神を賛美せよ。
角笛は、ホルンのように、音楽を奏でられるものなのかはよくわからないが、様々な楽器が登場する。音楽は、嫌いではないが、愛しているとは言えない。それだけ、浸ったこともないのだろう。静かに聴くのは好きだが、やはり人によっても好みがいろいろとあるのだろう。神様は、なにを喜ばれるのだろうか。兄弟が和合しているようなことのように思う。そこに、音楽が流れているのかもしれなが。芸術というものが一般的によくわからない。尊厳から派生した、多様性と、深く関係しているように思う。

BRC2019

Ps 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
山上の垂訓の最初は、おそらく、この詩編第一編が意識されているだろう。イエスの応答から発展したものなのかもしれない。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(2)と続くが、イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7章21節)としている。ルター以後、信仰のみが強調されるが、大きな部分が失われてしまっているように思われる。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」(6)イエスは、これにどう返したのだろうか。山上の垂訓は「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7章27節)で終わる。
Ps 2:10-12 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。
不思議な詩編である。しかし、治める者について、言われていることは確かだろう。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」(6)の宣言があり「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」(7)と続く。引用句の「子に口づけせよ」は印象的である。神の子として、神に即位させられたものが、子に口づけするようにへりくだるべきことが、言われているのだろう。イエスは、そのように生きられたのかもしれない。そのような王として。
Ps 3:2,3 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ
「ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。」(1)となっているが、そのときのダビデの信条はもっと複雑だったのではないだろうか。しかし、この状況の苦しさは理解できる。自分も完璧ではないことは、自認せざるを得ないだろう。自分を非難するものと比較しても、仕方がないことも、理解できるだろう。しかし、その中で「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。」(6)には、主への信頼が感じ取れる。最後の「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ」(9)は印象的である。自分を主の救いのもとにある一人だと認識すること。わたしも、そのような心を持っていたい。
Ps 4:8,9 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
「麦とぶどう酒」もたいせつな、祝福だろう。しかし、主が与えてくださる、平安こそが、ここに住まわせてくださるものなのだろう。そこまでの確信をわたしは、告白できるだろうか。
Ps 5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。
このように、賛美することがあるのだろう。おそらく、わたしも、そうだったと思う。しかし、いまは、なかなか、単純にこのように、言えない。なぜだろう。おそらく、避けどころとするという内容を聞きたくなり、それによっては、アーメンと言えないからだろう。もっと、素直になっても良いのだろうか。欺瞞を裁きはしなくても、自分のものとしては、受け入れがたいからだろうか。
Ps 6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。
続く苦痛は、分かるように思う。しかし、あまりにも、個人的な祈りに、アーメンと言えない。ダビデの個人的に見える信仰に拒否反応を持ってしまうのだろう。この詩編もそれと同種類に感じてしまう。これでも、おそらく、問題は、ないだろうが。わたしが求めている信仰、真理とは、異なる気がする。耳を澄まして、聞きたい。主に、こころを向けて。
Ps 7:8,9 諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと。
個人的な敵に対する裁きの祈りがあり、後半は、裁きを期待する祈りに戻る。その間に、より一般的な祈りがこの二節に含まれている。祈りの幅が、神理解の幅となるように思う。敵を愛することは、主イエスに出会うまでは、待たなければいけないのだろうか。
Ps 8:6,7 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
このあとに、動物が続く。「人間中心主義の」教理として取る必要はないのだろう。「神に僅かに劣るもの」の定義も簡単ではないだろう。「その足もとに置かれた」目的は何だろうか。「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」(10)と、神を誉めて讃えるためだろうか。ここからだけ、読み取る必要もないのだろう。
Ps 9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
「敵」に対する裁きが気になり、批判的になってしまうが、「虐げられている人」が常にたくさんいる状態。他の言い方では、理不尽な状態がはびこっていて、そのなかで「神などいるものか」という人たちが多い中で、このような詩をつくり、賛美しているのかもしれないと思った。「乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。」(19)が王として、神に最初から委ねることになってしまっては、問題だが。「ムトラベン」(1)とは何なのだろう。聖書でもここだけに出てくる単語の様だ。英語訳(Muthlabben)不明のようだが、「ムトラ」は死、「ベン」は子を意味することから、子の死が関係しているという節や、演奏法だろうとの推測があるようだ。
Ps 10:16-18 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。
「異邦の民」はユダヤ人以外を意味するのだろうが、神を神としないと理解することもできるだろう。「主の地」はどうだろうか。ユダヤを意味するのだろうが、より広く、パレスチナが念頭にあるだろうか、きなくささを感じるが、地はすべて主のものであることを考えると、全地の意味なのかもしれない。祈りとして、心を合わせたい。主の御心がなるようにと。
Ps 11:1-3 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
ひとは、二心で(清い心ではなく)生きるように促すのか。主を避けどころとしながら、現実面では、異なる行動を取るべきだと揺さぶりをかける。「世の秩序が覆っている」とある程度客観的と言えることに訴える。このあとには「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4)と続くが、希望をどこに置くかが問われているのだろう。
Ps 12:3 人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
人は二心、主は清い。この対比が語られている。「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。 」(2)とあるが、主が清いように、こころを清く保ち(二心ではなく)歩むことが、「信仰・信頼・忠実」「主の慈しみに生きる(こと)」の一つの表現なのかもしれない。
Ps 13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。
通常は「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(2)からの苦しみの祈りから始まり、この節でハッピー・エンドを迎えると理解するかもしれないが、もしかするとそうではないかもしれない。主の「慈しみに依り頼(む)」詩編記者が、過去の経験を思い出してか、信頼する喜びを確信してか不明であるが、希望を告白しているのかもしれない。わたしは「わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います」と言えるだろうか。主の慈しみに依り頼む日々でありたい。
Ps 14:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。
「喜び躍(る)」が詩編には19回現れる。あとはイザヤに8回現れる。他は1回または2回である。ここでは「主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき」となっている。すると、最初の「【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 」(1)は、捕囚時代をあらわしているのかもしれない。むろん、「ダビデの詩」とあり、他の可能性も否定できないが。いずれにしても、絶望しかないときが、背景にあるのだろう。そして「ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。」からすると、まだ起こっていないことでもあるようだ。そのときに、「喜び躍(る)」ことをわたしは、このように賛美の祈りとして告白できるだろうか。
Ps 15:1,2 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
「心には真実の言葉があり」から具体的な記述に入る。最初の問いの答えは「完全な道を歩き、正しいことを行う人」である。「完全」という言葉からは「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(マタイ19章21節)そして「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(コリント一13章2節)を思い出す。「完全である天の父のように完全になることを目指すことは」わたしたちは、完全ではないことを認めることと、完全な道を歩くことはできないわたしたちが、どう生きるかが、問われている。
Ps 16:10,11 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
原語はよくわからない。口語訳は「あなたの慈しみに生きる者」を「あなたの聖者」としている。chaciyd (faithful, kind, godly, holy one, saint, pious)をどう訳すかに関わっているようだ。陰府や、死、命をどう考えていたのだろうか。ここだけを見ても、単なる肉体的命ではないようである。
Ps 17:14,15 主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。
「御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」(2)とあり、主の裁きを願い求めている。「御心が地で行われますように」との祈りと近い。しかし、引用箇所などから受ける印象は、自分を正しい側に置き、相手が滅びることを願う祈りでもある。イエスの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)を聞いて、この詩編作者はどう思うだろうか。律法の完成・成就として受け入れるだろうか。むろん、わたしも、このようにして正しさを求めているのなら、同じだろうが。
Ps 18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】
51節あり詩編としては比較的長い。ある程度安心した状況の中で作られたと想定されているのだろう。「主は勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。」(51)が最終節である。これを見ると、決定的ではないにしても、ダビデ王朝が想定されているようでもある。そう考えると、作られたのは、だいぶあとになってからだろうか。「あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。」(26-28)など、主のこころを心とする基本がよく現れているように思う。因果関係ではなく、相関関係として観察されることなのだろう。主との交わりが背景にあって起こることだろうが、適切な表現形式がないのかもしれない。
Ps 19:8,9 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
このようには、わたしは、律法や主の戒めを受け取っていなかったように思う。これは、一つ一つの律法や戒めにこころが向かうと言うより、それを通して、主の心を思うことを表現しているのだろう。律法主義とはかなり離れている。だからこそこれを受け取って「主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(10,11)と続くのだろう。
Ps 20:8,9 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。
いままで、自分達を利するためにこのように言うのだと思ってきた。純粋に、このように語れることは幸せだと今回は思った。主との関係、主のことばを喜ぶ、そのような日常的な交わりが、このような告白につながり「苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。」(2,3)につながっているのだろう。批判的に読むより、この詩編作者の信仰生活から学ぼう。
Ps 21:9 あなたの御手は敵のすべてに及び/右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
常に、逼迫した状況の中に、暮らしていたのだろう。その人達の信仰を、批判することはできない。現在の、紛争地にいる人も、戦争の中にいる人たちもたくさんいるのだから。それを、安穏としているものが裁くことはできない。平和を祈ろう。
Ps 22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(2)から始まる、イエスが十字架上で唱えたとされる有名な詩編である。引用句のように、主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれないことを告白しているのだろう。これは、義のために迫害されているひとと同じ祝福として(マタイ5章3節・10節)と通じるものでもある。
Ps 23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
どのような状況が背景にあるのだろうか。眼前の状況は絶望的なものであっても、主は羊飼いとして、その牧の羊をいつくしみをもって、養ってくださるという告白だろう。食卓、油、杯とある。それぞれに象徴しているものがあるのかもしれない。
Ps 24:3,4 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。
清い心は、二心ではないという意味とすると、そのあとの「魂をむなしいものに向けず」「偽りの誓いをしない」は、その具体的例だと解釈することができる。他にも、いろいろと表現することはできるかもしれない。
Ps 25:15-17 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。 御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。
「わたしは貧しく、孤独です。」「どうかわたしの罪を取り除いてください。」に惹かれた。正しさが前面に出ているように感じることがあるが、背後には、苦しさ、悩みがあり、それを、主に注ぎだしている。そして、罪、聖い神様と隔てているものを、すべて取り除いていただきたいと祈るこころ。おそらく、わたしは、いまのままでもよいと考えているのだろう。救いを求める心、わたしには、あるのだろうか。(実は昨日(2019年12月30日)日本聖書協会の「聖書本文検索」を使ったとき、フォーマットが変化していることに気づいたが(フォーマットは数日前に変更になったように思うが、正確なところは不明)「聖書協会共同訳」が加わっていることに気づかなかった。今日の箇所であまりにも、異なった訳で確認して気づいた。通読は、BRC2019は「新共同訳」で始めたので、これからも、それを続けようと思う。2018年末、「聖書協会共同訳」を購入したがそのときは、検索がまだなく「新共同訳」を使う決断をしたのだった。「聖書協会共同訳」も検索できるようになり、とても嬉しい。)
Ps 26:1,2 【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。
この詩編の最後の11節/ 12節「わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。 わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」と呼応している。「完全な道」の定義が、通常考えるものと異なるのだろうか。ちいさなミスも犯さないということではないのだろう。清い心を持ち、一心に、主をもとめている。そこから揺らいでいないことなのだろうか。そう考えると、ウリヤの妻、バテシバと通じたときも、そうだったのかもしれない。しかし、「天の父が完全」(マタイ5章48節)でいうときの、完全とは異なるように思う。主イエスによって、天の父が表されているのだから。
Ps 27:1 【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。
「光 'owr」は何を意味しているのだろうか。希望だろうか。「私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(1ヨハネ1章5節)にあるように、「神は光」であるという、神のひとつの性質を表現しているのだろう。ヨハネでは、なにも隠れることができない「確信 parreesia」とも通じるものだろうか。ここでは「主はわが光」となっている。主が共にいてくださることがどのようなことなのか、考えてみたい。
Ps 28:1 【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。
わたしは、ここまでの自信はない。主に信頼はするが、自分が主の救いに足るものであるかは、まったく自信がないからである。憐れみに、すがるしかないが、それは、他者とも同じだろう。他者も、同じように、主に頼る以外に救いがないものであるのだから。
Ps 29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ
詩編には「神の子」は個々だけである。旧約には非常に少ない。ネフィリムに関する創世記6章2節・4節、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。」(申命記32章5節)「いと高き神が国々に嗣業の土地を分け/人の子らを割りふられたとき/神の子らの数に従い/国々の境を設けられた。」(申命記32章8節)「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。 」(ヨブ記38章7節)、「王は言った。『だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。』」(ダニエル書32章25節)「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。」(ホセア書2章1節)だけである。訳にもよるようで、一度丁寧に調べてみたい。
Ps 30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
人生を生きていく中で学んで行くことが多い。主の業をどのように受け取るかは、つねに変化するのだろう。神の側が、心変わりするわけではないとしても。命を得させることは、悲しみを、喜びに変えてくださることと関係しているように思う。
Ps 31:8 慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
喜び踊る背景として、苦しみ、悩みを知っていてくださることだけが、ここに書かれている。このあとに、「主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。」(10)と続くことを考えると、一つの信仰告白なのかもしれない。これが、引用箇所の直前にある「主に、信頼します。」なのかもしれない。
Ps 32:5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1章9節)の背景となっている言葉なのだろう。引用した節は「【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 」(1,2)と呼応している。この背景に「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。」があり、日常的な主との交わりがあるのだろう。
Ps 33:15 人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。
この詩編には創造の業が語られている。「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。」(6)「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。」(9)そして引用箇所では「人の心」にいたる。人はどちらをさきに思うのだろう。世界の創造だろうか、人の心の創造だろうか。わたしにとっては、人の心を知っておられる主は、それを創られた方と告白することから始まって、創造主なる神様を思っている。それが必然なのか、教えられたことなのかは、わからないが。
Ps 34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
「どのようなときも」は印象的である。「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」(19)の背景にある「苦難」(18)だけではなく、様々な状況があるのだろう。表面には出なくても。「【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】」(1)ともある。サムエル記上21章に関わることであろうが、アヒメレクは祭司(歴代誌上18章16節では、アビメレク)、ペリシテの王はアキシュ。アビメレクという名は、他にも登場する。一つの解釈は、マルコ12章26節で「モーセの書の『柴』の個所で」と言っているように、ここが、ダビデがアヒメレクを訪ねたときのことを書いた箇所でと理解することである。
Ps 35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」
「【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。」(1)と始まる詩編において「貧しい人」は唐突にも感じる。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」(マタイ5章3節)と「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」(マタイ5章10節)の呼応と似たものがここにあるのかもしれない。すなわち「貧しい」とは、正しさをたもちつつも、理不尽に扱われ、消え入るばかりになっているもの。いつか「貧しい」について調べてみたい。詩編だけで「貧しい」は32件もあるようである。おそらくたいせつなキーワードなのだろう。
Ps 36:2,3 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。
不思議な印象を受ける。「背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。彼は自分の過ちを認め、憎むはずが/自分の目で自らにへつらった。」(聖書協会共同訳)だいぶん印象が異なる。なぜ、神に逆らうものに語りかける声が聞こえるのか。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6章22節・23節)を思い出す。自分を偽っているものは、目が澄んでいないもの、体のともし火が消えているものなのかもしれない。
Ps 37:1 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
冒頭のこのことばと近いことばとして「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」(7,8)とある。さらに「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」(11)ヨブが問うているように(ヨブ24章25節など)悪事を謀るものが、滅びるとは限らない。しかし、貧しい人への祝福はあるように思う。「主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」(16)と言われている通りである。神の国については、語られていない。「貧しい人」受け継ぐのは「地」である。「主に従う人」が受け継ぐのも「地」なのだろう。「主に従う人は地を継ぎ/いつまでも、そこに住み続ける。」(29)今の私にとってもっとも大切なのは「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。」(23)この言葉に信頼することのように思われる。この詩編もっと味わってみたい。
Ps 38:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。
「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます/わたしが愚かな行いをしたからです。」(5,6)とある。その中で、主にこのように叫ぶことができる信仰、信頼、真実はどこから来るのだろうか。「仕方がない」とはならないのだろうか。すべてが、おそらく、罪を犯してしまうことも、愚かな行いをすることも、主の御手の内にあるということだろうか。神の義について、困難な問題をひきおこすと共に、とても重い問いでもある。罪を犯してしまう存在であることを、神はご存じであろう。キリスト贖罪論は、やはり、救いの真理の全体を表しているようには思えない。むずかしい。
Ps 39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
口を閉ざし続けることから苦しみがつのり(2)主に語り始める。ひとの人生のはかなさと、罪を責められる神が背景にある。しかし「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。 」(13b)と告白し、主に救いを求める以外にないと、信頼を表明している。これこそが「心の貧しいもの」なのかもしれない。そして、おそらく、そこにとどまるものではない。喜びと平安に生きることがゆるされているのだろう。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)ここに行き着きたい。
Ps 40:18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。
「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き/わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」(15,16)を読み、このひとは、本当に「貧しく」はないのではないかと思ってしまう。ひとを裁いている自分を発見する。それは、正しさの追求であり、敵を愛すること、隣人を愛することでも何でもないのだろう。主にすがりつくだけでよいのかという心もあるように思う。難しい。
Ps 41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
この詩編は「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」(2)と始まっている。互いに支え合い、愛し合うことを重視していることはわかる。引用箇所から考えたのは、現実社会で「罪を犯したなら罰せられるのは当然だ」自業自得という考えが強いことへの違和感を持っているからだ。罪を犯した人にすべての責任を負わすことは楽だが、それでは、もっと大きな問題は解決しない。さらに、だれでも罪を犯すからというよりも「弱いものに思いやりのある」ことの価値が高いからである。ひとり一人の罪をみな同じと薄めてしまうことは問題がある。それは、やはりまだ、正しさの地平にいるのだろう。簡単に愛とよびたくはないが、違った次元に目を向けること、そこに生きる場をもとめることを考えたい。罪を犯した人を見るときに、切り捨てることでは、なにも生じず、神の栄光をみることはない。
Ps 42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
6節も全く同じである。自分を鼓舞することばである。これが、神への信頼であろう。そして、ダビデの姿勢を思い起こす。しかし、そこで行き詰まってしまう。どう生きるかは、このさきにあるのだろう。イエスはそれを神の子、神の国としてつたえたように思う。
Ps 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。
この詩編は「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」(1)から始まる。個人的には、好まないものだが、様々なことが混在しており、それを素直に注ぎ出すのが祈りなのだろう。そして引用箇所にいたり、最後5節は、42篇6節・12節と同じことばが並ぶ。この「光とまこと」は聖書中ここだけでの実体は不明である。しかし、それがイエスを表しているのではないかと思うのは自然であろう。それを求めている。その呼応に驚く。
Ps 44:25,26 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。我らの魂は塵に伏し/腹は地に着いたままです。
「貧しい」が気になり、この箇所を選んだ。詩編には32回登場ずる。「虐げられ」は詩編で8件だった。関係しているのかもしれない。そう考えると、貧しいは、経済的な乏しさだけを意味していないことは確かである。考えさせられる。
Ps 45:11-13 「娘よ、聞け。耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。 王はあなたの美しさを慕う。王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え/あなたが顔を向けるのを待っている。」
王について「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」(8)と書かれ、王妃について書かれている。ここにあるのが、王妃の務めなのだろう。ひととして、または、神の子としての尊厳より、その役割を全うすることによって、神に愛されるものでいることが求められたと言うことだろうか。その時代にいないと理解しがたいのかもしれない。
Ps 46:9,10 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
「地の果てまで」とある。詩編記者はどこまでを思い描いているのか。中東で、イランと米国の緊張が高まっている。その中で、一般の人たちが多くの被害に遭う。命を落とす人も絶えない。引用箇所などは、単なる願いなのだろうか。むなしいことばではあって欲しくない。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(11)
Ps 47:10 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
「自由な人々」が目にとまったが、大枠では、諸国は異邦人をさし、その中で、偶像に心を奪われていない、自由な民が、アブラハムの神の元に来て、その民となり、地の盾となるといわれているのだろう。「地の盾」も正確にはわからないが。普遍性は、イエスから出たことなのだろうか、それとも、パウロから出たことなのだろうか。イエスの自由さが本質的だと思うが、「キリスト教」として、明確化したのは、やはりパウロなのだろうか。
Ps 48:11,12 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。
神の力は、全世界に及ぶことを宣言しているのだろう。しかし、中心はあくまでも、エルサレムである。「この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」(15)とあり、死をも超えて、わたしたちを導いていかれると言われているが、当時、何が信じられていたのだろう。死後について、一般的には否定的だったろうが、死を越えることは、なにを意味していたのだろう。
Ps 49:13 人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。
人が「屠られる獣」にたとえられていることに、驚いた。似たものが「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」(21)にある。「自分の力に頼る者の道/自分の口の言葉に満足する者の行く末。〔セラ」(14)とある。しかし、「屠られる獣」ではない人生があるのだろうか。神に捧げられるなら、それで良いようにも思う。結局なにを伝えようとしているのだろうか。空しさだろうか。おそらく、そうではない。
Ps 50:23 告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」
似た節がある。「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。」(14)「告白」は、捧げ物なのだろうか。それだけの、決意と、神へのいけにえとして、信仰を告白しているだろうか。いのちを賭けたものなのだろう。そして、それは、言葉だけではなく、行い、生き様もそうだろう。そのような生き方をしたい。
Ps 51:5,6 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(2)とあるにも関わらず「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。」と言っていることに違和感を感じる。常に主にのみ信頼するダビデをよく表しているともとれるし、社会的責任という言い方は適切かどうか不明であるが、ヘト人ウリヤを殺害したこと(サムエル記下11章)も、主に対する罪とすることでよいのかという疑問である。特に、王という特別の社会的地位にいたダビデ、主の憐れみ(サムエル記下12章22節など)に望みをおいていたダビデ、おそらく、そのようなダビデを受け入れられない・赦せない心がわたしの中にあるからなのだろう。自分がウリヤの子どもであるときにダビデのしたことを知ったらどうだろうか。すべてを神との関係とすることを個人の責任に帰して良いのだろうか。詩編記者と神様に問いたい。どうしたらよいのか、わたしには、わからない。
Ps 52:10,11 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。
「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(2)とある。危機の時である。「生い茂るオリーブの木」はいのちに満ちていることが表現されているのだろうか。わたしには、このような信仰はない。心の貧しいものではないからだろうか。こころの中で「甘い」と叫びたくなる自分がいるからではないだろうか。しかし、完全に主に信頼して委ねることを拒否する自分に、ある希望ももっている。難しい。わたしが、ヨアブを好む傾向が背景にあるのかもしれない。
Ps 53:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。
「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」(2)と始まる。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(4)という状態を認めている。その人間の状態を変えることが、救いなのだろうか。そうなのかもしれない。
Ps 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
「ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。」(2)とし、サムエル記上23章19節が背景にあるとしている。詩編記者は、ダビデのこころをどのようにとらえていたのだろうか。「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ 」(5)この節などは、どうも、状況にぴったりはあっていない。「わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。」(7)これも、サウルが想定されているのだろうか。最初の部分が新改訳では、節に組み込まれているので、丁寧に読もうとしているが、背景として、厳密には考えない方がよいのかもしれない。
Ps 55:23,24 あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。神よ、あなた御自身で/滅びの穴に追い落としてください/欺く者、流血の罪を犯す者を。彼らが人生の半ばにも達しませんように。わたしはあなたに依り頼みます。
背景はよく分からないが、引用句で注目したのは「とこしえに」と「人生の半ば」。簡単に言うと、主に従うものには、生きている間にいつか、救いが来、そうでないものは、長く生きることはない、ことを願っている。死後の世界での救いを考える必要はないが、死を絶対的なものとする必要もないように思う。もし、神と人との関係に目を向けているなら、一方にとって、人の死は、決定的ではなく、そのことは、他方も、十分にご存じなのだから。
Ps 56:2,3 神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ 陥れようとする者が/絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ/多くの者がわたしに戦いを挑みます。
常に争いの中にいる理由は、おそらく分からないのだろう。世の中には、争いを引き寄せているように思われる場合もある。しかし、困難が次から次へと生じ、やはり、その理由が分からない場合がある。この中で、神はどこにいるのかと叫びたくなることも理解できる。わたしは、どうだろうか。人の困難を見ると、関わらざるを得ないように考える。といって、その人に益になることだけを考えているわけではない。それは、その周囲の人も目にとまるからだろう。絶対的な善は、見えない。わたしのような生き方もまた偽善なのだろうか。すくなくとも、「貧しい」状態ではないようには思う。貧しくならないといけないのだろうか。正直よくわからない。
Ps 57:8 わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして/あなたに賛美の歌をうたいます。
「心を確かにする」とはどういうことだろう。「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。」(口語訳7節)「神よ、私の心は確かです。/私の心は確かです。/私は歌い、ほめたたえよう。」(聖書協会共同訳)ヘブル語は「心」は leb: inner man, mind, will, heart, understanding、「確か」は、 kuwn: to be firm, be stable, be established である。揺るがないことを言っているのだろう。不信仰の反対だろうか。不安はないことはないだろうが、それでも、心は確かにすることは、できるかもしれない。理性的なものの制御下にいる間は。
Ps 58:4 神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。
さらに「なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。」(9)とまで呪っている。救いようがない。というようにとれる。「悪い木だ」というのと同じだろうか。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」(マタイ7章17・18節、偽預言者を警戒せよの項で)イエスの教えには、希望もあるが、なにか、ここからは、希望が見えない。世の中(の人)がそのように見えるのは、理解できるように思うが。わたしの希望の根拠はどこにあるのだろうか。「偽預言者」と「偽預言者となっている者」をわたしが区別しているからか。
Ps 59:15,16 夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。彼らは餌食を求めてさまよい/食べ飽きるまでは眠ろうとしません。
前半の15節と同じことばが7節にある。「犬のようにほえ」は、この詩編だけである。しかし、これほどの悪がはびこっている状態を表現している。現在とは異なるのだろうか。それとも、現在でも似た状態なのだろうか。天の父なる神様は、このように表現される人たちをも愛しておられるのではないのだろうか。神が愛し、ひとり一人に呼びかけておられることを理解するように、導かれているのだろうか。そうであるはずだと、思い込んでいるのだろうか。背景にある、根本的な部分が難しい。
Ps 60:12-14 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
直前には「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」(11)とある。状況は不明であるが、エドムなどに責められ窮地に陥っている中での叫びなのだろう。引用箇所3節も、訴えから始まり、信仰告白へと導かれ、最後に決意をもって、おそらく行動に移すことが記述されている。それだけ、切迫した、そして、現実の課題のなかで、神と、神の救いに向き合い、それなしには、生きられないと、告白する信仰が表現されている。わたしは、だいぶん、距離を置いているように思う。冷静ではあるかもしれないが、冷徹な、醒めた面も持っている。詩編記者とつながるのは難しい。
Ps 61:7,8 王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。
どうしても、王制、政治と宗教の問題から、忌避されるが、落ち着いて考えてみたい。政治制度は、相対的なもので、どれがベストと言うことはないだろう。ひとは、ある政治体制のもとで生活する。それをすべて宗教のもとで行うことは、おそらく、イエスは目指していなかったと思われる。しかし、政治は、日々の生活に、大きな影響を及ぼす。地域の安寧か、地球規模のものかは、十分考慮すべきシステムの問題も含むが、どのレベルであっても、政治が安定し、信頼できるものであることは、だれにとっても、たいせつであろう。ひつようなものを神にもとめることは、自然なことなのだろう。わたしには、すべてを理解することはできないが、祈りを持っていたい。
Ps 62:10,11 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」(7)全く同じことばが、3節にもあるが、このことばと、対応するものとして、引用句があるのだろう。軽さ、空しさ、この「人の子ら」には、自分も入っているのだろう。信頼しうるものではないことを告白しているのだろう。しかしわたしは単純に「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」(13)とは言えない。自業自得ではない恵みに希望をおいているから。たとえ恵みを思っても、基本線は自業自得だというのか。わたしは、違うように思う。
Ps 63:12 神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
突然「王」が現れ戸惑いを覚える。主に信頼するものが、報いを受け、主は結局、答えられないとして、主を侮る者は、罰せられるということが書かれているのだろうか。「誓いを立てる者」と「偽って語る口」の対比が興味深い。「誓い」は自分が成し遂げることの宣言ではなく、神に委ねて、神の働きを祈り求めることなのだろうか。主を侮ることなく、謙虚でありたい。
Ps 64:4-7 彼らは舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ 隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。
恐ろしいことが書かれているが、現実には確かにこのようなことがあるだろう。主を侮ることであることは、間違いがないが、無神論のひとにとっての倫理基盤はないのだろうか。自分にも返ってくることから判断する普遍性だけなのだろうか。「見抜かれることはない」という価値観は、プラトン時代から議論されていたことのようだ。そして、心理学的には、人の判断基準として逃れられない一面を含んでいる。「人は胸に深慮を隠す」は、たしかにそうだろうと思ってしまう。そのなかで、すべての人が平和を愛し、互いに仕え合う世界は、求められないのだろうか。
Ps 65:9 お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。
このあと自然の恵みを覚えることばが続く。現代では、神秘的なものが、科学的な見方とそれを誇大評価した科学信仰がとってかわり、自然と距離を持って暮らす生活が、自然を通しての神への畏敬を衰退させている。いのちをも、操作できると思わせるような部分が増えてきたことも、関係しているかもしれない。本来は、人間が捉えることができたものは、そこまで多くはないのだろうが、上にのべた感覚を、完全に否定することはできない。肉体的いのちを含む自然への畏敬を冷静に見ると共に、世界を全体的に捉えることで、神の働きを見ることが必要なのかもしれない。難しい問題である。
Ps 66:5,6 来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。
このあと歴史の中で働かれる主を覚えることばが続く。自分の人生に引き寄せて、神の働きを見ることができれば賛美ができるかもしれないが、それを見取ることができないとき、世界の歴史の中から神の働きを見るのは、難しいのかもしれない。進歩・発展はあるように思われるが、同時に新たな問題が増え続ける世の中、理不尽さは、どうしても残る。人の歴史から神の業を認めることは、難しくなっているのかもしれない。ある種のポストモダンの考え方で、歴史を神の歴史と紡ぐ考えからは、なにかひとの浅はかさを感じてしまうことも否めない。なにが良いことなのかと、価値について考え、真理を探究するこころは、永遠であるように思われるが。
Ps 67:4 神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。
全く同じことばが6節にあり、その間には「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 」(5)とある。イスラエルでは、すべての民、諸国の民をどう捉えていたのだろうと考えた。まず「すべての民」と「諸国の民」は同じだろうか。5節を見ると、同じように使われているように思われる。祝福の中心は「わたしたち」であり(2,7,8)「この地」もおそらく、イスラエルが想定されているように思われるが、それが全世界に及ぶことが祈られている。喜びや、公平さは、すべての民でともに喜ぶものとの理解が十分あったのだろうか。「あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。」(3)興味深い。この考えは、キリスト教にも引き継がれているように思われる。
Ps 68:2-4 神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る。煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。
「敵」が登場すると反応してしまい、「誇らかに喜び祝(う)」も気になってしまう。ただ、このあとに続くことを見ると、神をどうみているかは、共感を覚える。「神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。」(6,7)神は聖なる宮にいますとあるが、ここで表現されていることが、清い心の発現なのかもしれない。この詩編は長く、このあとにも数々の記述があるが、通読では十分には読み込めない。次回また少しずつ理解していきたい。
Ps 69:6,7 神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。万軍の主、わたしの神よ/あなたに望みをおく人々が/わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ/あなたを求める人々が/わたしを屈辱としませんように。
37節ある長い詩編で、十分理解することはできない。様々な要素が入っているようだ。「理由もなくわたしを憎む者は/この頭の髪よりも数多く/いわれなくわたしに敵意を抱く者/滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら/償わねばなりません。」(5)および、引用箇所は、複雑な状況が表現されており、それは、このあとも続く。この混乱の中で「叫び続けて疲れ」(4a)「目は衰え」(4b)と表現している。7節も正確には、わからないが、自分が躓きとならないように祈っているようである。わたしの現状は、少し異なるが、この複雑な中で、主に栄光を帰して生きることの難しさ、もだえは、共感できるものがある。詩編は、特に背景を理解することが難しいが、いつかていねいに読んでみたい。
Ps 70:6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。
ここにも「わたしは貧しく」とある。理解できない部分が多いが「わたしの命をねらう者」(3)「はやし立てる者」(4)に囲まれているのだろう。「身を屈めてい(る)」それが、「貧し(い)」と表現される状態なのだろう。
Ps 71:13 わたしの魂に敵対する者が/恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が/嘲りと辱めに包まれますように。
詩編のこのようなことばを避けてきたが、そろそろ向き合うときなのだろう。この時代の神認識は、自分の神で、かつ、周囲の人も敵も、自分の神をもっていたのだろう。普遍化を前提に、すべてのひとにとっての真理から、ひとり一人にとっての、真理に落とし込むことは、まだ現れていないか、原始的なかたちでしかないのだろう。信じる神様の偉大さの故に、それは、他者・敵にとっても神、従わない場合は、罰を下されるとなり、さらに、神はそのような他者にも恵み深いと導かれるのかもしれない。急がず、少しずつ考えていきたい。そのもとで、全人格的な交わりを、詩編記者としていきたい。
Ps 72:12-14 王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い 不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。
義を思うこころが、王に対して、義を望み、それが神の義・憐れみとつながる。それは、自然なことなのかもしれない。宗教集団は、倫理的な集団でもあり、その政治的な部分の長が王という位置づけだろうか。王が指導力をもつ範囲はどうかんがえられていたのだろうか。宗教的なこととの間を、完全に切り離すことはできないし、判断困難な問題もたくさんあるだろうから。やはり一人の王に委ねるには、複雑すぎる、といって、民主主義がよいのかも、不明ということだろうか。引用した価値観には、普遍性があると考えてよいだろうか。おそらく、具体的な問題に落とし込むと、単純ではないのだろう。
Ps 73:3-5 神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。
この状態を「【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」(1,2)と表現している。神は、なぜ裁かれないのかという、神義論のひとつの形式である。この詩編においては、「聖所を訪れ彼らの行く末を見分けた 」(17)とあり「あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え/彼らを迷いに落とされるのを彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし/災難によって滅ぼし尽くされるのを 」(18,19)と告白している。結局、裁かれているということだろう。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマの信徒への手紙1章24節)と通じるのかもしれない。「見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。」(27)と結んでいる。もっと知りたい。考えたい。
Ps 74:21 どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように。
じっくりと読むことはできないが、底に、このような価値観があることは、本当に素晴らしい。繰り返し繰り返し、詩編に登場する。現代人は、そのことをこころに秘めているだろうか。行動や思考の重要な部分を占めているだろうか。「虐げられた人」「貧しい人、乏しい人」に目をとめて生きていきたい。それが共に生きることにつながるように思う。
Ps 75:11 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り/従う者の角を高く上げる。」
一つの信仰なのだろう。しかし、これは、つねに、敵を想定しているようにも思われる。神は、何を望み、なにをなしておられるのだろうか。イエスの説く主も、すべてを赦す主であっても、全員が救われるわけではない。この詩編にはもう二回角が登場する。「わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな。」(5,6)一度、角についても、調べてみたい。角笛などを除くと、詩編には「救いの角」(18:3)「御旨によって、我らの角を高く上げてください。」(89:18)「わたしの真実と慈しみは彼と共にあり/わたしの名によって彼の角は高く上がる。」(89:25)「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ/豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(92:11)「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(112:9)「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。」(118:27)「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。」(132:17)「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。」(148:14)難しい。
Ps 76:10 神は裁きを行うために立ち上がり/地の貧しい人をすべて救われる。〔セラ
どうも、ここでも、裁きは、貧しい人を救われることである。他のひとは、どうなるのだろうか。何が期待されているのだろうか。貧しさについて、もっと理解したい。天の国、神の国が近いことと、貧しい者が幸いであることは、つながっていることは、旧約から続いていることなのかもしれない。
Ps 77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
神の変わらぬ愛に捉えられていた(と個人的に考えていた頃)ときがあって、この祈りに至っている。最近、世の中の急激な変化の中で、世界中の人々が、神の変わらぬ愛に寄り頼むことは困難になっているのではないかと考えている。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」 (11)これも、自分の状態ではなく、世界の人々の声として叫びたくなる。大きな変化の時代にも、変わらぬ神の愛に信頼していけばよいのだろうか。今までの恵みを糧に、新たな行動を起こさなければならないのか。この二つを一つに統合したところに救いがあるのか。地球環境、コミュニケーション環境、それにともなって人とひととの関係が大きく変化している中で、平安を求め祈る。
Ps 78:72 彼は無垢な心をもって彼らを養い/英知に満ちた手をもって導いた。
「僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り 」(70)とありこの主語はおそらく「主」(67等)である。ここで「無垢な心」「英知に満ちた手」とある。わたしには、この前者が気になり、ヨアブに同情し、なかなか、ダビデを好きになれないが、後者をもっと、ていねいに受け止めるべきかなとも思った。すくなくとも、詩編記者のとらえ方に、示唆をうけた。興味深い。
Ps 79:1 【賛歌。アサフの詩。】神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い/あなたの聖なる神殿を汚し/エルサレムを瓦礫の山としました。
この悲惨な中で、信仰者は何を神に訴えうるのだろうか。4節まで残酷な異国の民と、周囲のあざけりを描き「主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。」(5)と訴えている。続けて、「(主を)知ろうとしない異国の民」への怒りをもとめ(6,7)、次に、罪の赦しと、救い出してくだっさることを願い、周囲の民のあざけりは主へのものであることをかき栄光のために裁きと救いをと願っている。「倍返し」どころか「七倍返し」(12)も祈り、最後に「わたしたちはあなたの民/あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ/代々に、あなたの栄誉を語り伝えます。」(13)としている。これが、エルサレム陥落・捕囚時の定型の祈りだったのかもしれない。アサフが民の思いを代表ししているのだろう。「アサフの詩」と書かれた詩編が12篇ある。いつか調べてみたい。
Ps 80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり/御自分のために強められた/人の子の上にありますように。
これがキリストを指し示すとすることも可能であるが、まずは、この詩編の文脈でていねいに読むべきだろう。この詩編記者の神への嘆きと、神への問いを。無神論への挑戦でもある。わたしのこころにも、ひょっとしたら、神はいないのかもしれないとのこころもある。絶望の中で、この詩編記者のように訴える信仰についても、御心についても、真剣に考えたい、そして祈りたい。
Ps 81:12,13 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。
これも「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマの信徒への手紙1章24節)と通じる部分がある。掟が与えられているにもかかわらず、神に従わないイスラエルの民をどのように、見るか、神はどのようにしておられるのかについての一つの告白である。ローマの信徒への手紙は、それを拡大して、すべての人に対して述べていると思われるが。この拡大は普遍的価値とともに、問題をも生じさせる。「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。」(10)を、異邦の民にも適用しようとする。これは、同じではないと思う。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13章35節)が中心ではないだろうか。
Ps 82:2-4 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
不思議な詩編である。「【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 」(1)と始まる。「神々」はもともと議論があるところであろうが、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。」(5)と引用箇所に続き、さらに、「あなたたちは神々なのか」(6)と問う。最初の「神々」は、「人間として」(7)ではなく「神々」のように生きる者を指しているのかもしれない。この詩編の最後は「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(8)と終わる。人間の世界、神の世界と分離して考えないこともできるのかもしれない。「父なる神と御子イエス・キリストとの交わり」は「わたしたちの交わり」であるように。
Ps 83:6-9 彼らは心をひとつにして謀り/あなたに逆らって、同盟を結んでいます。天幕に住むエドム人/イシュマエル人、モアブ、ハガル人。 ゲバル、アンモン、アマレク/ペリシテとティルスの住民。アッシリアもそれに加わり/ロトの子らに腕を貸しています。〔セラ
どの時代のもので、どの程度正確なのか不明であるが、イスラエルの東と南の諸部族がすべて含まれているようだ。近隣部族との関係はつねに重要だったろう。ただ、歴史的にみると、アッシリアが台頭、北イスラエル王国が滅ぼされる。(BCE722) それ以降のことか。おそらく、単独の国で盛衰を語れなくなっていた時期でもあろう。この連合国も、アッシリアの脅威を強く感じていたはずである。すると、信仰者にも、世界をどう捉えるかが問われていたときなのかもしれない。そして、現代も、そのような大きな変化の時なのかもしれない。
Ps 84:3,4 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
後半(4節)をみると、これは、現実の神殿ではおそらくないだろうと思う。主のおられる場所、神の国、天の御国と言ってもよいかもしれない。それは、神様の支配が完全に行われているところと考えられている。まさに「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 」(マタイによる福音書6章10節)しかし、続けて主の祈りから引用すると、それは、あこがれではなく「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイによる福音書6章12節)の祈りが実現する世界、わたしたちにも関わってくることなのかもしれない。
Ps 85:2,3 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ
帰還後の描写とすると、5節から8節に「あなたはとこしえにわたしたちを怒り/その怒りを代々に及ぼされるのですか。」(6)などをどのように理解の方向性は二種類あるように思う。ひとつは、帰還に至る前の苦悩を覚え、主が与えられた「平和」(9)を感謝すること、もうひとつは、帰還しただけで、救いの実感はまだまだで、混乱も続いている中で、主の怒りはまだ続いていると解釈するもの。おそらく、両面があるのだろう。9節から最後は、主への信頼を述べている。信仰は、そのような、複雑な状況のなかで、こころも揺れながら、悩むこととつながっているように思う。
Ps 86:16 わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。
詩編記者が自らを僕とよび、はしための子と言って、憐れみを乞うているのだろう。ここだけを取り上げて、主イエスを読み込むこともできないことはない。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)をどのように受け取るかにも関わってくるが、ていねいに少しずつ読んでいきたい。分からないことばかりでも。
Ps 87:4-6 「わたしはラハブとバビロンの名を/わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも/この都で生まれた、と書こう。シオンについて、人々は言うであろう/この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。 主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。〔セラ
「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される/シオンの城門よ。」(2)とあり、エルサレムが主にとっても特別であると始まる。しかし、引用した箇所には、驚かされる。ここで「わたし」はその前をみると「人々」のようである。最後には「歌う者も踊る者も共に言う/『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」(7)と結ぶ。普遍性へと向かっている。自然なことなのかもしれない。そして、エルサレムも相対化されるのだろう。
Ps 88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。
詩編は、苦難からの救いを訴えても、最後には、主への信頼、賛美へと変わるものが多いが、この詩編は最後まで暗闇である。「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。」(4)と叫んでいる。その叫びは「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」(14)となり、平安へと向かうかと思うとそうではない。「主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」(15)そして、引用箇所で終わる。このような詩編が含まれていることに、かえって真実と希望を見る。その苦悩の深さが偽りなく表しているからだろうか。
Ps 89:50 主よ、真実をもってダビデに誓われた/あなたの始めからの慈しみは/どこに行ってしまったのでしょうか。
「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(4,5)この神の約束が変更になるはずがない。この背景からもとめる、ダビデの子への救い主願望は、外からはなかなか理解できないものなのかもしれない。むろん、これも、原理主義ともいえないことはないが。それを取り出して、バサッと切ることは、わたしにはできない。ここに希望の根拠もあるのだから。本当に難しい。
Ps 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
「生涯の日を正しく数える」とは何をいみしているのだろうか。「あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。 」(16,17)と言われているように、神の業に目をそそぎ、子らもあなたを見失わず、主に喜ばれる存在として、営みが神のまえに確かなものとされることだろうか。
Ps 91:14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
詩編記者が、神の介入(God’s intervention)について記している。どう考えたら良いのだろうか。現代の科学の理解は、量子論の不確定性や還元論では解決できない問題と向き合うこと、宇宙論などの不思議のなかで(完全な)決定論から離れているが、それでも、神が現実の世界につねに介入する余地はほとんどないように思われる。古代のひとのようなナイーブな信仰は持てないことは、自然であるとも思う。実際に起こった・起こっていることの意味を考えることは可能である。それだけでよいのだろうか。ある場合は、それを神の介入として信仰告白することで。
Ps 92:15,16 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。
このように生きる可能性はある。そうでないかもしれない。このように、告白することが幸せなのか。このように、告白できないことは、幸せではないのか。わたしには、わからない。周囲の、このように告白できない人を、主を自分の岩と頼まない人とは、いえない。ひとのこころは、わからない、そして、神様のはたらきをすべて見ることはできないから。
Ps 93:3,4 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
すべてのことにおいて、主を誉め讃える。これが、わたしには、苦手なのかもしれない。おそらく「神以外のものを神(絶対的なもの)としない」習慣が、神をも、または、神の様々な働きをも、一つ一つ相対化して考えているように思う。主を誉め讃えることは、完全なるもの、絶対のものに目を向け、それを求める上で、不可欠なのだろう。同時に、あまりに、それとは異なる現実を見て、課題と向き合うことに時間と勢力をかけるからか。主を誉め讃える詩編記者から、学んでみよう。
Ps 94:9-11 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。 人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。
創造の業、自分の存在は自己完結的に規定することはできないということに目をむけることはが「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。」(8)と語り初め、引用句につながっている。なぜ、ひとはこのことをなかなか自覚できないのだろう。それを自覚させてくださるのが、創造主(の概念)である。それが「人間の計らい」の空しさにつなげられている。では、どうすればよいのだろうか。創造主なる父なる神に寄り頼むだけだろうか。おそらくそうではない。その次の段階も、ていねいに考えたい。
Ps 95:4-6 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
このあとには、主と自分たちとの関係が述べられる。「すべては主のもの、主が造られた」との告白は、裏返すと、自分のものと言えるものは、何もないこと。自分で生み出したものは、何もないことを告白することなのかもしれない。そして、この主との関係こそが自分を存在させ、生かすものということか。この告白に生きることが、信仰によって生きることだと言っているようだ。この関係を認識して生きることは、無視して生きることと、大きな違いを生じるのだろう。
Ps 96:13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。
引用句の最初「主を迎えて。」は前につながるものとして訳してある。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え 」(11,12)とあり、期待が強いことがわかる。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」(コリントの信徒への手紙一16章 22節)「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書6章10節)こう並べてみると、やはりパウロは厳しい。イエスの言葉との違いを感じる。
Ps 97:1,2 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ/正しい裁きが王座の基をなす。
地上の王、為政者はどうなのだろうか。限定的に、裁きの正しさが求められるのか。正直、地上の世界はとても判断が難しいと思う。人が多くなり、複雑さも増しているからだろうか。主にも、人にも、正しさのある基準はあっても、それで、問題が解決するようには思えない。どちらに進むべきかもとても難しい世の中に、わたしたちは、生きているように思う。その状況を、主の前にていねいに広げよう。委ねるのも難しいかもしれないが。
Ps 98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
「新しい歌」は、主の救い、主の働きを発見したことを意味するのだろうか。日ごとにあたらしい神の働きを認めることはあまり簡単ではない。しかし、主の働き、この世におけるとも言えるし、他者を通しての場合もあるだろうし、他者に働いておられる主の業を認めることができれば、常に、新しい歌を歌えるかもしれない。深い霧の中で、それが神の業かどうか、疑心暗鬼になり、そこで終わってしまう場合もあるだろうが。そこにも真実があるのかもしれない。
Ps 99:4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。
裁き・公平・恵みとある。まず、ここでいう公平とは何なのかと考えた。「御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」(詩編17:2)などとあるが、どのような公平なのかは、よく分からない。新約には少ない。「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ4:1)「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」(1ペトロ1:17)の二カ所だけである。「神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。」(7,8)とある。律法を与えたことは公平さの基盤かもしれないが、与えられたのは、イスラエルのみである。公平はどの範囲なのか。「赦す」と「咎に報いる」もよくわからない。
Ps 100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。
ここで言われている「真実」とは何なのだろう。「虚偽」ではないことか。「真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。」(詩編119:43)「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 」(詩編19:8)「主よ、あなたは近くいてくださいます。あなたの戒めはすべて真実です。」(詩編119:151)すばらしいものという意味だろうか。「わたしの真実」「あなたの(主の)真実」にも興味を持った。考えてみたい。
Ps 101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。
「卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず」(3)このあとにも自らが行っていることが続く。期待をもって待つこと、そして、自ら、主を迎えるために、日々の生活を整えること。それが信仰生活なのかもしれない。「わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」(7,8)と判断が難しいものもあるが。
Ps 102:19 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
この詩編は「【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】 」(1)となっている。特に、「わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。」(4,5)と始まる部分は、心が痛い。しかし、引用句を挟む、13節から23節は力強い。それに続く後半の24節から29節は「あなたの僕らの末は住むところを得/子孫は御前に固く立てられるでしょう。」(29)で終わっており、非常に整っている。どのような詩編なのか、いろいろな人生の時期のものを集めたものなのか、考えてしまう。じっくり読むときをいつか持ってみたい。
Ps 103:14-16 主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ/生えていた所を知る者もなくなる。
全体の中での位置づけはよく分からない。(自分を含む)ひとり一人に慈しみ深い主について語られ、引用句があり、そして「主の慈しみが主を畏れる人の上にある」(17)と告白し、賛美で終わっている。引用句のメッセージが理解できない事を感じると共に「主は(何を目的として)わたしたちを/どのように造」ろうとされたのかを考えてみたい。
Ps 104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ/主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。
十分はこの詩編を理解できなかった。引用した、最後のことばは、アーメンと言いたいが、そうすると、すべての人が消え去ってしまうように思う。自分も含めて。わたしたちの祈りは「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)を含む、主の祈りにつきるように思う。
Ps 105:15 「わたしが油を注いだ人々に触れるな/わたしの預言者たちに災いをもたらすな」と。
アブラハムと結ばれた契約、イサクに対する誓い(9)ヤコブに対する掟(10)とし「宣言された/『わたしはあなたにカナンの地を/嗣業として継がせよう』と。 」(11)とある。しかし、引用箇所は、聖書には見られない。このあと、ヤコブの子らから、出エジプトと歴史の中での救いを記述し「それゆえ彼らは主の掟を守り/主の教えに従わなければならない。ハレルヤ。」(45)と結んでいる。個人の歴史、民族の歴史から、世界を見る目は、養われるのだろうか。どのように、普遍化が行われるのだろうか。考えさせられる。
Ps 106:32,33 彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。彼らがモーセの心を苦しめたので/彼がそれを唇にのせたからであった。
これは、メリバの出来事(民数記20章7-13節)のひとつの解釈なのだろう。聖書に書いてあるからと絶対的な解釈とする必要はおそらくないと、個人的に考えるが、違った考えのひともいるだろう。「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。 」(23)このモーセに関するこの事件は、ゆっくり考えてみたい。
Ps 107:1,2 「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
このあとに、主に購われたひと、事例が続く。その最初には、「国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。」(3)とあり、そのような人々は、全世界におり、主のみもとに集まってきていることが説かれているようだ。その主は、どのような人を購うかについては、最後の方に書かれている。「主は貴族らの上に辱めを浴びせ/道もない混沌に迷い込ませられたが 乏しい人はその貧苦から高く上げ/羊の群れのような大家族とされた。」(40,41)必ずしも、お金持ち、貧乏人ではないにしても、この思想が底流にあることは、しっかりと受け止められるべきだろう。「正しい人はこれを見て喜び祝い/不正を行う者は口を閉ざす。知恵ある人は皆、これらのことを心に納め/主の慈しみに目を注ぐがよい。」(42,43)
Ps 108:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。
賛美から始まり、「シケム、スコト、ギレアド、マナセ、エフライム、ユダ、モアブ、エドム、ペリシテ」もすべて主のもとにあることが語られ「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」(11)が、引用句の前にある。苦しい状態が、語られているのだろう。人々は、その中をずっと生きてきた。それが、信仰の歴史なのでもあろう。いまは、ひとの責任で解決すべき事が多く、その外に目を向けることが、極端に減ってはいるだろうが。
Ps 109:3-5 憎しみの言葉はわたしを取り囲み/理由もなく戦いを挑んで来ます。愛しても敵意を返し/わたしが祈りをささげてもその善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます。
このような状況は十分想定できる。しかし、そのときに、自分の正しさは、必ずしも、担保はできない。すくなくとも、わたしの場合は。背景が複雑なことが多いことも原因する。同時に、そのような困難や悩みを、神の前に開示しつつも、逃げることなく、それと向き合っていくものでもありたいと願っている。最終的な判断・裁きは神様に委ねて。
Ps 110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
このわが主が、イエスなのかどうかは不明である。「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。 」(マタイ22:41-45、Cf. マルコ12:36、ルカ20:42,43、使徒2:34,35)神の子として生きることだけが、イエスのこころにあったのかもしれない。そして、わたしたちにも、誰かをダビデの子とするのではなく、神の子として生きることを願って。
Ps 111:2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
当時と現代の違いは何なのだろうか。主の御業を尋ね求める人が、減っている。おそらく、日常生活において、人間にはどうにもならないこと、天候や、天災や、まったく未知の民族による略奪・侵略などが満ちている世界に人々は住んでいたのだろう。現代にも、人間にはどうにもならないこと、自分では解決できないことが山ほどある。しかし、同時に、情報が多く、ある程度の制御もでき、対応が可能になっている、その中で、これらの問題と対峙しているのだろう。日常的なことでは、倫理的な問題、個人のこころの制御の問題は、対応が難しい課題で、そこから、この問題を考えるようになっているのだろうか。自らの外に目を向けること自体が、難しいのかもしれない。出自を制御できないこと、過去の様々な営み、文化・歴史を背負って、生まれてきていることは確かであるにもかかわらず。
Ps 112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
昨日何気なく見ていたテレビで、ミャンマーのマンダレーで自分の商売は、9時からなのに、朝2時から準備して、たくさんのお坊さんたちに朝食を20年間、無償で提供している人(毎日1万5千円かかると言っていた)、すこしでも、たくさん喜捨できるようにと祈っている人など、功徳をたいせつにするひとたちが映し出されていた。来世でよい生活ができるようにとも言っていた。なにか、批判的な気持ちは、まったく起きなかった。自分にも返ってくることを願っているとしても、憐れみ深く、貸し与える人は良い人だと、わたしは思う。主も祝福されるのではないだろうか。あまりにも、この逆の人、知ってか知らずか、人の富を奪って生活することに何も疑問を感じない人が多いのだから。そして来世のことを考えることは、自分がこの世で完結する存在ではないことの自覚がある。次の世代に大きな負債を残すことになにも具体的な行動をおこさない多くの人たちを考えると、前世や来世の考えも、重要度が増すように思う。
Ps 113:7,8 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。
弱いもの、乏しいものには、自由がない。その自由を主が与えてくださることが述べられている。これに続けて「子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」(9)この希望をもつことが、信仰なのか。しかし、現実は、単純ではない。せめて、互いに愛し合うため、弱いもの、乏しいものには、自由がないことを心にとめ、どのようにしたら、共に生きることができるか考え、なにかの一歩を踏み出すものでありたい。
Ps 114:1,2 イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。
最近、Multilingualism の本を読み、言葉と文化の問題を考えるようになった。ここで言われていることは、分離だろう。聖となることには、分離が重要な要素とされている。ここには、ユダとイスラエルが分けて書かれているが、最近学んでいる、Histroy of the World によると、ユダはアッシリアに協力して、イスラエルの滅びに至らせたとされている。たしかに、聖書の記述をみても、あまりにもあっさりと書かれている。兄弟をも愛せない、この分離の思想は、さまざまな分野にはびこっている。注意して考えなければいけない。
Ps 115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。
「同じ」は、その前の5節から7節「口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。」とあるが、厳密に神だとしているわけではないだろう。偶像をとおして、神とのコミュニケーションができるとしていた場合も多いと思われる。むろん、そのことが良いかどうかは別として、偶像礼拝批判には、問題も感じる。ここでは、「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(9)以下展開するが、自らが信頼するものを求めることがたいせつで、他の神々よりすぐれているからではないのではないか。
Ps 116:10,11 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
苦しむ現実があるのだろう。「死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして」(3)とある。「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」(9)とあるように、どんなときにも、わたしもこのように、告白して生きていたい。しかし、これらのことばも、上っ面をすべってしまうような感覚に、時々陥る。いのちの営みともつながり、論理やデータにおいても、整合性があり、他者と自由に語ることができ(パレーシア)、互いに愛し合いながら生きることが基盤にないといけないのではないだろうか。
Ps 117:1,2 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
117篇はこの2節ですべてである。賛美はその多様さからも日常的なものだったのだろう。その核が、主の慈しみだろうか。ヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)よく分かるわけではない。日本語の「慈しみ(慈愛、恵み)」とはだいぶん異なった感じをうける。
Ps 118:1-4 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。
「慈しみはとこしえに。」が続く。この詩編は最後にも「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(29)とある。慈しみとは、何なのだろうか。正直よくわからない。Strong の定義は kindness; by implication (towards God) piety; rarely (by opposition) reproof, or (subjectively) beauty:—favour, good deed(-liness, -ness), kindly, (loving-) kindness, merciful (kindness), mercy, pity, reproach, wicked thing. となっている。248回旧約聖書に現れるが、詩編に一番多く現れる。いつか、ていねいに考えてみたい。
Ps 119:25 わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。
この詩編には「命を得させてください。」という祈りが多いことが分かった。25節以外に、40節、77節、88節、107節、116節、114節、149節、154節、159節、他にも「命を得ることができますように。」(37)などもある。御言葉をもとめ、それを守ことの目的が、ここにあるのかもしれない。命を得ること。これは、神の命に生きることだろうか。この長い詩編をしっかりと読むことができる日は来るのだろうか。
Ps 120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
偽りや欺きから窮地に陥っているのだろうか。わたしの周囲の世界ではあまり、そのようなことは、見聞きしない。ユダヤではたくさんあったのだろうか。メシェクや、ケダルでの事なのだろうか。そうかもしれない。「平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。」(7)このことは、現代でもあるように、思われる。大きな不満が背景にあるのかもしれない。不公平に思えるような亀裂が。
Ps 121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
美しい祈りである。しかし、このあと「イスラエルを見守る方」とあり「あなた」はイスラエルを意味しているようである。さらに「昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 」(6)は、主の特別介入を求めているのだとすると、現代では受け入れがたいかもしれない。しかし、最後の節の「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(8)から思うのは、客観的になにが起こるかではなく、たいせつなひとをたいせつにしてくださいという願いの祈りなのかと思う。いろいろな読み方もあるのだろう。
Ps 122:8,9 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」
いくつかの発見がある。この長くはない詩編に「平和」が5回も現れる。そして最後は「幸い」で終わっている。完全な平和が幸いであり、平和はたんに戦争がない状態ではなく、神が良しとされる状態なのだろうか。平和(シャローム:1. completeness, soundness, welfare, peace, A. completeness (in number), B. safety, soundness (in body), C. welfare, health, prosperity, D. peace, quiet, tranquillity, contentment, E. peace, friendship a. of human relationships b. with God especially in covenant relationship, F. peace (from war), G. peace (as adjective))については、ゆっくり考えたい。「幸い」は、towb:good, pleasant, agreeable で、単に良いといういみのようだ。
Ps 123:4 平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。
主の憐れみを乞うている。憐れみはカナン(chanan: I. to be gracious, show favour, pity A. (Qal) to show favour, be gracious B.  (Niphal) to be pitied C.  (Piel) to make gracious, make favourable, be gracious D.  (Poel) to direct favour to, have mercy on E.  (Hophal) to be shown favour, be shown consideration F. (Hithpael) to seek favour, implore favour II. to be loathsome)最初に出てくるのはヤコブがエサウと再会する場面。「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」(創世記33章5節b)「どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」(創世記33章11節a)どちらも恵みと訳されている。そしてもう一カ所は、ヨセフ物語である。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(創世記42章21節:助けを求めた)、「ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、『わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように』と言うと、」(創世記43章29節)感動の場面である。それは、背景があるからだろう、この引用箇所のように。
Ps 124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
このようなことは、殆どおきない。奇跡的に救われたと言うことか。それを告白することは、素晴らしいが、そうではない人たちも多くいただろう。歴史は、勝者が記録すると言われるが、勝者ならずとも、他者の多様な視点から、歴史を見るのは、とても難しい。
Ps 125:4,5 主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。よこしまな自分の道にそれて行く者を/主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。
自然な願いではあるが、これが、イスラエルに平和をもたらすのだろうか。人々に平和をもたらすのだろうか。心のまっすぐなひとが常にまっすぐに生きられるわけではなく、曲がった道にそれる者、悪事を働く者が、常にその状態であることを願うわけではないはずである。同時に、その問題を引き受けることにこそ、人間への神様からの問い・使命があるのではないだろうか。主に寄り頼みつつ、平和を祈る。この詩編記者とも、似た考えの人とも共に語りたい。
Ps 126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
表題が何を意味するのか分からないが、この詩編記者は、都に上れる状態にあるのだろうか。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)と喜びが重ねられ、主を賛美しているのだろう。歴史と文化は重い。そのひとと神様のつまりは、宗教そのものだろうから。
Ps 127:2 朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
わたしも「朝早く起き、夜おそく休み」疲れ果てていることは、否めない。だから、むなしいとは思わないが、自分がなにか達成したいという思いは、いくら消し去ろうとしても、残ることも確かである。主に感謝をささげて、静かな眠りにつく生活を整えたい。形式だけではなく。
Ps 128:1,2 都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。あなたの手が苦労して得た実は/必ずあなたが食べる。/あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。
裏返しの現象があったのだろう。苦労して得た実を自分では食べられない。幸せを、恵みを感謝するに至らない。しかし、単純な因果関係では現すことができないことも、おそらく当時もたくさんあったろう。しかし、これは、そのような論理や事実を語ったものではなく、讃美歌なのだろうか。
Ps 129:1,2 【都に上る歌。】イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。
「彼らはわたしを苦しめ続けたが」が繰り返されている。外部・他者からの圧迫の中で生きてきた、それが平安を破壊していた。しかし、ということだろう。他者の行為に自分の苦しさの根拠を求めることは、一般的には問題があるだろうが、そうしか言えない、状況と、こころの痛みがあるのだろう。正しさから批判はできない。「イスラエル」となっている。この存在自体が、様々な軋轢を生んでいたのだろう、それは、主をこころから礼拝していたからだろうか。難しい問題である。
Ps 130:3,4 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
主にのぞみを持つことができる根拠は、ここにあるのだろう。罪をすべて裁かれることには耐え得ない。しかし、そこで終わるわけではない。この詩編は非常に美しい後半が続く。「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」(6)待ち望む、ここには、心が分裂していない、清さと、身を委ねる服従と、信頼があるのだろうか。他は、何だろうか。
Ps 131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
マザーテレサのカレンダーにあったことば「大きな事をする必要はありません。小さな事に大きな愛を込めればよいのです。」"You do not have to do anything great. Do a little thing with great love.” を思い出す。ひとは、大きなこととは言わなくても、自分がすべき特別なことがあるはずだと、それを探し求めることが多いのではないだろうか。この詩編は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。」(2)と続く。幼子は、母の愛をうけることだけを考えているのだろうか。少なくとも、多くのひとから評価されることは求めていないだろう。「主を待ち望め」(3)とあるが、難しい。
Ps 132:13 主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。
シオニズムの原点となったような言葉で、問題だともとらえるかもしれないが、イエスを通しての福音、律法の完成を求めて、生きることによって、それを克服することができるのかもしれない。聖書のみが、Biblical Literalism となることは、自然である。しかし、論理的帰結ではなく、必然ではないのだろう。
Ps 133:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
おそらく、このような状態がいつもあるわけではないのだろう。兄弟が共に座っている。なんと難しいことか。それこそが、恵み、喜びである。その現実を思いつつ、この詩編も味わいたい。
Ps 134:1 【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
この詩編は、133程、批判的な視点から読まなくても良いだろう。しかし、単純ではないことも、確かである。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 」(ヨハネ2章23節〜25節)
Ps 135:15 国々の偶像は金や銀にすぎず/人間の手が造ったもの。
最近、The History of the World Podcast を聞いていて、学問的にも、ユダヤ人の起源や、一神教、像を持たないことなどがどのように成立したかがよくわからないのだということに興味を持った。それは、聖書においても、あまり明確ではないように思う。ただ、聖書によれば、出エジプト以来は明文化されたことになっている。明文化は、継続性を生んだのだろう。むろん、様々なことが起こるわけだが。父と呼ぶ、アブラハムはどうだったのだろうか。神を、そして自らの存在を知るようになっていく、歩みでもあるのかもしれない。
Ps 136:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
非常に短いが、慈しみはとこしえにが繰り返されているので、ヘブル語をみてみた。最初の恵み深いは、おそらく、Tob で良い、あとの、慈しみは、Hesedo で憐れみのようだが、原文を特定するのも難しく、聖書の学びの先は長いと感じた。ギリシャ語も、ヘブル語も、理解できるようにはならないのかもしれないと思う。でも少しずつ学んで行きたい。
Ps 137:1,2 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
悲しい詩である。それが伝わってくる。しかし、今回は、このようなことは、世界中のひとたちに、あるのだろうと思った。パレスチナの人たちにも、キリスト教徒から、迫害されたひとたちにも。もう一つは、シオンへの思いが強いこと。わたしは、いろいろな場所を移動してきたこともあり、ふるさとはない。それでも、多くの問題はあっても、日本に心地よさを感じるが。それこそが、自分の帰属場所なのかもしれない。そして、それは、いろいろな形で多くの人たちにあるのだろう。
Ps 138:6,7 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
すばらしい、信仰告白だと思う。しかし、背景としてあるのは、主は、ひとり一人を愛し、心にかけておられると言うことなのかもしれない。この敵さえも、こころにかけておられるのだろう。主に信頼して生きることは、しかしながら、自分を愛して、慈しんでおられることを抜きにしては語れないのだろうが。むずかしい。
Ps 139:21,22 主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。
主は、自分のすべてを知っておられる。そのことが、美しく書かれている詩編の最後の部分は、引用句になっている。主との親密さが、逆に、主が自分の味方であると考えるようになってしまうのだろうか。「主を憎む者、主に立ち向かう者」明確に判断できるのだろうか。わたしは、揺れているように思う。それは、正しさだから。それも、おそらく、人の正しさだから。愛の神は、違うところにいるように思う。
Ps 140:13 わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。
この詩編にも正しさからの厳しい言葉がならぶ。「わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。」(10-12)たしかに、このように、主に逆らうものに取り囲まれていたのかもしれない。しかし、そうであっても、その裁きでは、問題は、解決しないように思われる。引用句には、真実があるように思われるが。
Ps 141:5 主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません/彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。
明確に意味がとれるわけではなかったので、他の訳を見てみた。「正しき人が慈しみをもって私を打ち/私を戒めますように。/悪しき者の油が私の頭に塗られることが/ありませんように。/彼らの悪行の中にあっても/なお私の祈りを献げます。」(聖書協会共同訳)意味としては、こちらのほうがよくわかる。だいぶん、印象が異なる。通読では詳細には、調べられないが、謙虚さは感じられる。最後は「主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」(10)となっているが。
Ps 142:4 わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。
「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。」(2)としか、言えない状況なのだろう。肉体的にも、精神的に、弱り果てているとき、不安もあり、誤った道に陥る危険も高い。主に声を上げて、叫び、求める。それが、信仰なのだろう。自分の中に、解決がないことを認めているのだから。
Ps 143:10-12 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。
10節の「御旨を行うすべを教えてください。」は、わたしの祈りでもある。11節の「災」12節の「敵」が出てくると、ついつい注意してしまう。御旨を行い生きようとするひとを妨げるものを現代的に考えても良いのかもしれない。ある公衆衛生(Public Health)の専門家によると、感染症の世界的な流行、金融危機、世界大戦、地球温暖化、極度の貧困が五大リスク。現在は、この最初のものの危機に、世界中、日本は特にあたふたしている。わからないもの(不確定性)への恐怖は、昔も今も変わらないのかもしれない。
Ps 144:3,4 主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。
「息に似たもの」危ういものとの認識が出発点であるように思われる。それは、つねに、不確定性の高いリスクにさらされていることだろうか。それが、今は、かなり緩和されていることは確かだろう。子どもの死亡率は減少し、寿命は延び、交通事故や自然災害死も減少している。しかし、それは、人間の謙虚さを欠く結果を招いたことは事実だろう。どう考えれば良いのだろうか。信仰は、限定的なものになってきたと言うことだろうか。そして未来的には。
Ps 145:14-16 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。
このように告白し賛美できるひとは、幸いである。そうではないように、見えてしまうときは、どうしたらよいのだろうか。ひとつの考え方は、主の働き、いのちを与える営みに、加わることだろうか。倒れようとするひとの支えとなり、うずくまっている人を起こそうとする。主が命を与えてくださっている者すべてとともに生きようとすること、そのような社会の一人となることだろうか。そのことを通して、主を賛美することができれば、幸いである。
Ps 146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
このような祈りに普遍性を感じられなかったが、わたしの祈りとそれほど変わらないのだとも思った。霊的幼年期は、自分からみた世界から神を誉め讃えるのだから。それを、批判するのは、おそらく当たっていないのだろう。ただ「ヤコブの神」が一人歩きし出すと問題が起きる。
Ps 147:19,20 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。
「自分だけ」という受け止め方は「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」(ローマの信徒への手紙3章2節)にもあるが、危険でもある。ユダヤ人を迷わせただけではなく、誰でも迷わせうるものだろう。幼子の信仰においては、自然かもしれないが。その注意をどのように受け取るか。あまり簡単ではない。ただ、引用箇所に「掟と裁き」と書かれていることは、注意に値する。それは、新しい掟(「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節))においては、どうなのだろうか。裁きは、少し違う形で述べられている。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3章18節)
Ps 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
ハレルヤは、ハラル+ヤで、神を誉め讃えよ。ハラルが賛美、誉め讃えることである。halal: a primitive root; to be clear (orig. of sound, but usually of color); to shine; hence, to make a show, to boast とある。賛美は、正直に言うと、わたしは、よく理解できていない。つねに、考えてしまうからだろうか。自然には、出てこない。音楽に、没頭できないのも、似た背景があるのかもしれない。それは、性質なのだろうか。問題なのだろうか。ときどき、それを問いながら生きている。形式的には、賛美するのだが。
Ps 149:1 ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
「新しい歌」は、詩編では、33:3、40:4、96:1、98:1、144:9に登場するが、「新しい歌」の「新しい(chadash: new, new thing, fresh)」は何を意味するのだろうか。新しい気持ちで、心を一新させてということだろうか。マンネリではない(mannerism ではなく)ということは、少し理解できるように思う。習慣になってしまう傾向が強いのだろう。日々、主の働きを見ることを願いたい。
Ps 150:2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
最後の詩編で、讃美の場所、方法以外、理由について述べている、唯一の節である。主の「力強い御業」「大きな御力」に目を留めることが、讃美の一番たいせつなことなのかもしれない。そしてその背景は、常に、神との関係を密にしていることだろうか。なかなか、困難である。

BRC2017

Ps 1:1,2 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 
正直わたしもそうありたい。そうできているのだろうか。おそらく、不安があって良いのだろう。前半と後半はどうだろうか。後半は、明らかにできていない。前半はよくは分からない。自分はそのような道を歩んでいるのだろうか。謙虚に生きていきたい。
Ps 2:12 子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。 
「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。 」(7節)からして、主から子と呼ばれるその存在に口づけせよと、言っているのだろう。しかし、あまり、根拠は述べられていない。主がそのように呼ばれたと言うことだけだろうか。ヒントはあるのだろうか。
Ps 3:2,3 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ 
「ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。」となっている。信仰者が、そしてあるときは、イエスが、詩篇を好み、ダビデの祈りに、こころをあわせることは自然に思われる。どの時代にも、理不尽と思われる、批判、攻撃がある。正しさをもって、それに立ち向かう道もあるかもしれないが、同時に、信仰によって、神とつながり、神に苦しみを委ねる、または、神がその苦しみを知っていて下さることに、望みをおく道がここにあるのかもしれない。
Ps 4:8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。 
6節から8節は特に印象深い。麦とぶどうの収穫の喜びをこの人は知っているだろう。しかし、神は、それにもまさる喜びを与えてくださることを信じ、その神に信頼を置いている。それは、おそらく、その喜びを経験して知っていることによるのではないだろうか。信仰告白でもあり、その喜びに生きることにかけているように、思われる。その喜びにわたしも生きよう。
Ps 5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。 
詩篇記者の信仰告白としてよいだろう。すべての善いもの、喜ばしいものが、主のもとにある。それを、あなたとよびかけるたしかな対象として、信仰を告白する。わたしも、その語りかけをたいせつにしたい。思想および思考をまとめるための形而上学的存在ではない。
Ps 6:7,8 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。 
主は、このように、語りかける存在。嘆き、涙、苦悩、自分を苦しめる存在、命を衰えさせる存在をご存じで、そのことを取り扱って下さる方であることの、確信が背景にある。それが信仰者の歩み、神にかたりかける内容なのだろう。それに応じて下さる存在がこの詩篇記者にとっての、主である。
Ps 7:10 あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。 
正しさをどう考えるかは簡単ではない。しかし、ここでは「神は正しくいます。」と、神のただしさと、その神が、自分の心と、こころがある場所と考えられていた「はらわた」を調べられるとしている。それが、前半の部分を受けているとしても、謙虚さが現れているとも言える。謙虚さを失わない者でありたい。基本的には神の前で、だからこそ、ひとの前でも。
Ps 8:2,3a 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。
口語訳も新共同訳も「幼子、乳飲み子の口によって。」で区切られている。そのため、2節のあとに、句点がないのだろう。しかし、なぜ「幼子、乳飲み子の口によって」なのだろうか。幼子はまだしも、乳飲み子が賛美を歌うことはないだろう。神の威光の現れを表現しているのだろうか。人間の存在にたいするおそれだろうか。定かにはわからない。
Ps 9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。 
正しい裁きをされるかたと、わたしは、信じているだろうか。正しさを、ひとの正しさと重ねるから、問題を感じるのかもしれない。神は、自律的に裁かれ、因果応報に縛られているわけではない。同時に、ひとり一人の訴えを取り上げて下さることも、聖書信仰の一部だろう。苦しみ、悩みのそばにいて下さる神様ということと結びついて。それは、ひとの生きる方向性と結びついているのだろう。
Ps 10:10 不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり 心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。 
「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。 」(3節)も気になる。ひとは、神の業を、見極めることはできない。人に、どのような自由、自律性と、それにともなう、責任があるのかが、鍵だろうか。これも、限定的だろう。そのはっきりとは言えない中で、生きていく。どのように、生き、行動するかを問いながら。そのように、謙虚に生きることが、人の生なのであろう。
Ps 11:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。 
「主を避けどころとする」とはどういうことだろうか。主に信頼する、希望をおく、救ってくださると確信を持つことだろうか。よく分かるとは言えない。3節に「世の秩序が覆っているのに」とある。確かに、主への信頼が揺らぐこと、聖書における価値観が揺らぐことはあるように思われる。それでも主を避け所とするのは、主のすばらしさゆえだろうか。それを知らなければできないのだろうか。
Ps 12:5 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」 
鍵は無知だろうか。それとも、不従順だろうか。自分のものは、自分のためではないこと。委ねられているものであることを知らない。普遍性からも語ることはできるだろう。そこにあまりに依拠して良いのかどうか、まだ分からないが。主への信頼と自己中心、どちらも、丁寧に学んでみたい。
Ps 13:2 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 
「主の働きが見えない、救いがないように見える」こと(この表現も難しい)は、どのように、理解したらよいのだろうか。神の自律性と応答性、関係性すべてが係わってくる。愛の神であるなら、これらを、断ち切ることはできないが、同時に、これらも、互いに矛盾し合う内容を含んでいる。そこには、明らかな解答がないとも言える。主の救いを求め、それに信頼すること、主の働きを求め、希望をもって、主が望まれること、互いに仕え、互いに愛することを続けることだろうか。
Ps 14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。 
詩篇の一節をとりだして、事実として用いることはできない。この節も一つの例だろう。「神を知らぬ者は心に言う/『神などない』と。」(1節)から始まり、「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。 」(5節)もあり、主は「貧しい人」の避け所となられることが続いている。(6節)少なくとも「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 」(ローマ3章12節)の引用は適切なのか疑問をもつ。これが、罪の贖いに結びついている。現実からの乖離がある。それは、神の働きを矮小化することでもある。
Ps 15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 
「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 」(1b節)の問いかけから始まり、引用した句が続く。完全、正しさ、真実には、すぐ反応してしまうが、ここでは、自分の主張ではなく、完全な道、おそらくそれは、主が望まれる道のことだろう、それを歩くとなっている。さらに、正しいことも、神が判断することとすると、それを行う人となっている。自分の正しさを主張しているわけではない。正しさはあり、完全さも、神の元にはあるとの基盤に立っている。次は、心に真実の言葉がありとし、次の「舌には中傷をもたない人」(3節)と続いている。単純ではあるが、わたしも、そのように歩きたい。
Ps 16:5,6 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。 
嗣業地という感覚は、現実的になかなか伝わってこないが、自分が与えられているもの、すばらしいものなのだろうか。他のものに依存しないということだろうか。さらに、他を求めないということだろうか。与えられている分を、その恵みをしっかりと受け取る。賜物ではない。主こそわたしに与えられた分。主の御心を、真理をもとめ、主に従って歩むことを、一生の歩みの基盤としたい。他の杯をもとめたり、飲み比べたりせず。謙虚に飲み干したい。
Ps 17:10 彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。 
様々なレベルで自分の肥え太った心の虜となり得ると感じる。「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて 」(4節)もその温床のように思われる。では、どうしたらよいのだろうか。自戒の念を持つ以外に、謙虚に生きるにはどうしたらよいのだろうか。「あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」(5節)は、その姿を表現しているように、感じる。わたしは、どのようにして、肥え太った心の虜とならず、貧しい人として歩むことができるのだろうか。
Ps 18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 
ここから、賛美が始まる。信仰告白でもある。神への応答でもある。しかし、それが、文字通りの真理ととるひともいる。文学とは何なのだろう。聖書が神の言葉であるとは、なにを意味するのだろう。「神の言葉は人間の言葉と別な何ものかではなく、神の力が働くとき、人間の言葉が、同時に神の言葉です。逆に、もし教条的に『神の言葉』を繰り返しても、神の力が働かなければ、ただの『騒がしいドラ、やかましいシンバル』です。」これは、永田竹司先生の説教集の「はじめに」からの引用である。共有できる部分と「神の力が働くとき」ということばを挟んでいる事への多少の違和感と両方を感じる。わたしは、どう応えるだろうか。
Ps 19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。 
美しい詩篇である。構成も素晴らしい。最後には、神の御前での人間存在へと焦点が移る。全体と深く結びついている。わたしも、このように、告白したい。それは、宇宙や、自然に目を向け、神の働き、そして神のもとにある、普遍的真理を愛でることから始まるのだろう。そして、神への信頼で終わる。そうありたい。
Ps 20:10 主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。
美しいとりなしの詩篇である。最後の方で、それは、王に向けられている。全体が、王に向けられているのかは、正確には分からない。7節から視点が変わっているのだろうか。よくは分からない。わたしも、とりなしの祈りをしよう。神に信頼して。
Ps 21:8 王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。 
政教分離が良いのだろうと、なんとなく、考えていた。それは、西洋の歴史を通して人間が学んだことに深く依拠しており、それだけが人間が学んだものではないと、考えるようになった。このことを含め、より多くの問いを得る。それこそが学ぶということなのだろう。知識も、発散してしまい、結局、なにも決断できなくなるのではないかとの不安も同時にある。謙虚に、求め続ける姿勢を大切にしたい。より多くのひとたちに寄り添い、共に生きることを求めながら。
Ps 22:31-32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。 
ヨハネによる福音書の19章以降を読んでいると、この22篇が背景にあることを色濃く感じる。共観福音書を通して伝えられたことも踏まえられているのかもしれない。たしかにそうだとアーメンとヨハネも是認したのだろう。むろん「ことば」である主イエスは、自ら証言することができ、旧約聖書に依存する必要もないだろう。それでもヨハネはこの詩篇をとおして理解している。「貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 」(27節)この命にも息を吹き入れて。「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 」(30節)にも命がある。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 」(23節)も「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 (ヨハネ20章17節)を思い出させる。
Ps 23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 
この美しい詩篇が22篇の次におかれていることをはじめて考えた。おそらくイエス様は全体をご存じで、そのなかで、22篇を十字架上で周囲の人々に伝えられたのだろう。十字架のあとに来るもの。それが23篇の平安なのかもしれない。ここで歌われている世界に住む者でありたい。
Ps 24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。 
「潔白な手」悪を行わないことか。「清い心」ふたごころではない、すなわち、こころが分裂していない、日本語での用法では表裏がないことか。「むなしいものに魂を奪われることなく」これはとても難しいが、世の煩いに心が行き、神様から目がそれてしまうことだろう。「欺くものによって誓うことをしない」はどうだろうか。おそらく不正に荷担することで、社会ではよく起きることのように思う。「それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ 」(6節)そのように生きたい。
Ps 25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 」(1節)から始まり「わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」(2節a)と続く。しかし、主のまことはひとは持っていない。謙虚さをもって、教えてくださる主を仰ぎ見るのだろう。それこそが、主に依り頼むことなのかもしれない。つねに、主に目をむけていること。そのような生き方でありたい。
Ps 26:2 主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。 
あまり自信と考えないほうが良いのかもしれない。わたしは、そう言えないと思いつつも、真摯に真理を求め、主の導きを願い歩んできたことも確かである。神の道を離れた記憶もあるが、満点でなければ、主の前に立てないと言うことでもないのかもしれない。主の前から離れては生きられないのだから。
Ps 27:13,14 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。 
「命あるものの地で」は、生きている間にという意味だろう。「主の恵みを見る」は明確とは言えないが、主の働きを見ることを間接的に述べている。その最初が「わたしは信じます」明確ではない部分があることを確認している。だからこそ、後半部分があるのだろう。信じることと、心を強くして待ち望む事は、深く関係している。
Ps 28:6 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
神との関係の中で、そのように、告白できる時があるのだろう。そう思えないときもある。それは、神を求める営みの一部なのだろう。それで良いのかもしれない。求め続けることこそ、信仰生活なのだから。はっきりとそれがなったかどうかが中心ではない。
Ps 29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ 
「神の子」はどのように理解されていたのだろうか。創世記のネフィリムに関する6章2節・4節、申命記32章5・8節、ヨブ38章7節、ダニエル3章35節「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/『生ける神の子ら』と言われるようになる。 」(ホセア2章1節)以外は旧約聖書ではこの詩篇だけである。申命記やホセアから考えるとイスラエルの人々、またはその中で、神に従う人たちだろうか。しかし、この詩篇は冒頭にあり、大胆である。ともに、神の前に集うもの全員に呼びかけているようで「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)を思い出す。
Ps 30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
「死」が終わりではないことが、どれほど重要であるかを示すことばだろう。しかし「死」が終わりではないことと「死」のあとを考えることには、ギャップがあるように思われる。「死」の後についても、神様に委ねることもできるのだから。終わりではない、その信仰で十分なのかもしれない。
Ps 31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
「主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。 」(10節・11節)の嘆きは深刻である。苦悩の故に肉体、それもひとの本質の部分が衰え、さらに罪の故に、その人を立たせる部分が衰えていくと言っている。しかし、引用箇所では「わたしにふさわしいときに」と最初に語っている。神様に委ねる信仰、神の自律性を認めている。その神に信頼する信仰、これはどこから来るのだろうか。
Ps 32:4,5 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ 
最初は「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」から始まる。しかし、この人には平安はない。「わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 」(3節)とまで言っている。31篇と共通するものも含んでいる。弱り果てた中で、罪を告白する。神との関係回復がそれによって起ったことを告げている。これが絶対化されると問題があるように思うが、ひとつの重要なステップであることは、確かである。意識もできない間に、赦していただいていることも多いと思われるが。
Ps 33:3 新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
聞き慣れた「新しい歌」という言葉に興味を持った。黙示録5章9節、14章3節にも使われている。旧約聖書では詩篇以外はイザヤ書42章10節「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。 」主の僕の詩の一節である。詩篇はこの箇所が初出で、40篇4節、96篇1節、98篇1節、144篇9節、149篇1節にある。特別なこころで特別な賛美をということなのだろうか。新しいに他になにか意味があるのだろうか。
Ps 34:18,19 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。
単純であるが、基本である。このことが、少しずつ進んで、神の僕、イエスにつながっているように思われる。「打ち砕かれた心」は感覚的にはわかるが、何を意味しているのだろうか。詩篇にはもう一箇所使われている。「打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」(147篇3節)イザヤ書に二箇所「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。 」(57篇15節)と「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 」(61章1節)である。「包む」に興味を持つ。
Ps 35:13,14 彼らが病にかかっていたとき/わたしは粗布をまとって断食し、魂を苦しめ/胸の内に祈りを繰り返し 彼らの友、彼らの兄弟となり/母の死を悼む子のように嘆きの衣をまとい/うなだれて行き来したのに
直前の「わたしの魂を滅ぼそうとして、子供を奪いました。 」が何を意味しているのか、不明である。最後「うなだれて行き来したのに」とあり、このあと「彼ら」の仕打ちが書かれている。理不尽なことは多い。同時に、引用箇所で表現されているのは、共感は伝わらないということかもしれない。共感を拒否されているように思われる。うわべだけと言うことではなく、本当の痛みは、共有することはできないのだろう。単なる、サービスと考えてはいけないのだろう。
Ps 36:6,7 主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
慈しみは checed ヘセド(1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)である。二番目の意味は難しい。ここでは、人をも獣をもに驚いた。獣の救いについても調べてみたい。獣も神様が養っておられること、そして、賛美をすることも聖書にあるが、救いはどうなのだろう。そして救い yasha`ヤーシャー(to save, be saved, be delivered)とは。
Ps 37:24,25 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを。
倒れることと、捨てられることを分けている。信仰的な見方なのだろう。ここから見えるのは、主は見捨てない方、これが愛と表現されることでもある。そして神の愛をこのように表現することが、信仰告白である。神様のご性質を証言することだから。
Ps 38:17 わたしは願いました/「わたしの足がよろめくことのないように/彼らがそれを喜んで/尊大にふるまうことがないように」と。
12節には「疫病にかかったわたしを/愛する者も友も避けて立ち/わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。 」とあるが、実際の疫病なのだろうか。それを問うことは、意味がないのかもしれない。その前後に書かれていることは、いずれも、危機的な状況なのだから。「わたしが過ちを犯したからです。 」(4節)「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。 」(5節)そのように悩む姿勢こそが、信仰者の姿なのだろう。
Ps 39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。 」(11節)が背景にあるのだろう。罪を犯さないように、口をつぐむ。そして苦しむ。「わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。 」(3・4節)ここから人の空しさが語られる。神と向き合う、信仰者の姿の真摯さに衝撃を受ける。わたしはどうだろうか。自分の存在自体にもしっかり向き合いたい。
Ps 40:18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。
人の歩みは複雑である。主による救いが語られ、次に、それを証ししていることが語られる。(10節)しかし同時に、様々な困難があることが語られ、引用した句で終わる。ここに、現実とともに、信仰者の姿が明示されている。「貧しく身を屈め」るとはどのような姿を現しているのだろうか。
Ps 41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」(2節)から始まる詩篇は「わたしは申します。『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。』 」(5節)と詩篇記者自身のことに移り、引用箇所では、急にどろどろとして現実が見える。最後は主の賛美で終わっている。これが信仰に生きる、神の前に、神と共に生きることなのだろう。この人とも命を共有していると思う。
Ps 42:9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 」(2節)から始まる。引用の箇所は、その神とのコミュニケーションが美しく描かれている。祈りに対して、慈しみを送って下さるとは言わない。主の歌は、賛美なのだろう。わたしは、それをしているだろうか。感謝の祈りから始めたい。
Ps 43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
自分を奮い立たせる。これも信仰生活の一部であろう。弱い体をもち、人間としてこの世で生きていくのだから。「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。 」(1節)から始まっている。委ねること。善きことは神から来ることを信じていれば、神のみこころをへりくだって待つこと。これが信仰の大切な部分であることは、明らかである。「わたしはなお、告白しよう」と。
Ps 44:26,27 我らの魂は塵に伏し/腹は地に着いたままです。立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
神の主権をみとめつつ、主に訴える。異教徒にはずかしめをうける現実。そのなかで、訴える。「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。」(24節)「なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。 」(25節)そして「立ち上がって下さい。」と。わたしは、ここまで祈っていない。信頼してもいないとは言いたくないが。信仰の成熟だろうか、弱体化だろうか。
Ps 45:8 神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。
不思議な詩篇にも見えるが、祝福とは、このようなものを言うのだろうと思わされる。こころから、そのように、祝福の歌を歌い、それを受けるとき、それも、神が許されているのだろう。神様に結ばれた人々の前で、喜びの油を注がれるとある。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節)のような事だろうか。
Ps 46:3,4 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
ここまで言えるだろうか。本当に、小さな事でも、夜、眠れないことが頻繁に起こる。なんと、小心ものなのか、神に頼ることができないのか。神を避け所とすることができないのか。神に信頼しよう、そしてそれは、神への愛のゆえだろうか。愛は恐れを取り除くから。
Ps 47:9,10 神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
「地の盾となる人々」とはどのような人のことだろうか。口語訳は「地のもろもろの盾は神のものである」となっている。また「もろもろの民の君はつどい来て」ともなっており「自由な人々」とは書かれていない。英語訳もいろいろのようである。詩とはそのようなものだろうか。神が王として君臨されることを考えると、やはりそれを守る盾となることを想像する。それは、どのような人のことだろうか。この世の様々な拘束から自由であるひとだろうか。
Ps 48:13,14 シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ
シオンの堅固さを誇っているのだろうか。しかし、最後の節は「この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 」(15節)となっている。口語訳は「とこしえに」である。やはり、ヘブル語が十分理解できるようにならないと、判断できないように思われる。しかし、いずれにしても、いつまでもの意味だろう。エルサレムの堅固さ、それからしか人は想像できなかったとしても、神の町はそれ以上のものなのだろう。見える部分と見えない部分、人を裁くことをやめよう。表現の完璧さは、かえって、人間の告白から超越してしまうかもしれないのだから。
Ps 49:8,9 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。 魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。
魂のことをいっているのだろうか。そのひと自身だろうか。いのちを与えるのは神と、深い認識をもっていたのだろう。自分でどうにかなることではないと考えてもよいのかもしれない。だからこそ、神をもとめ、信仰をもつのだろう。
Ps 50:7 天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。〔セラ
天と神は別なのか。天は神の被造物。それが、神の正しいことを告げ知らせるということだろうか。あまり、そのように、論理的に考えてはいけないのかもしれない。すべてはと言うことなのかもしれない。
Ps 51:12-14 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
主日礼拝で、丁度この箇所からのメッセージで、瞑想する機会があった。「清い心」の創造、「新しく確かな霊」、「あなたの聖なる霊」はおそらく、全く同じではなくても、共通する実体を表現しているのだろう。それによって、生かされていると、詩篇記者は信じている。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 」と告白する者が。「実体」はいくら美しい言葉で表現されていても、表現し尽くせないものかもしれない。しかし、それが神から来ている、自分の中からではなく、このように表現できるものをたいせつにする意識は、十分読み取れる。わたしも、そのように生きるものでありたい。
Ps 52:9 「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
「自分の膨大な富」だけではないかもしれないが「神を力と頼まず」ということは、そこかしこにあるだろう。ここまでは、普通の表現である。しかし、それを「自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」と表現するひとは、どのような人だろう。その反対が「自分を生かすもの」が「神を力と頼む」生活であることを、知っているのだろう。二元的なというよりも、はっきりとその方向性を見ていると言うことだろう。
Ps 53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
この詩篇記者の確信には驚かされる。「だれもかれも」「皆ともに」「ひとりも」現代もそうなのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、その人々のなかで生きていく、神が忠実であり、清いお方であり、善なる方であることを証しながら、かつ、自分も、背き去り、汚れ、善を行わないものの一人であることを告白しながら。
Ps 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
敵対する者に対する詩篇はなかなか受け入れられないが、信仰者のある時期に詠んだものと考えれば、別の感覚を持つようになる。そのようなこころのときにも、詩篇を詠んでいると言うことなのだから。わたしは、調子の良いとき、確信をもったときしか、賛美をしないように思う。それは、ある意味で、正しくいようという意思の現れでもあるが、同時に、自分の弱さ、そのときに、神に頼ることを、表現しないことでもある。
Ps 55:13 わたしを嘲る者が敵であれば/それに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば/彼を避けて隠れもしよう。
「だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。 」と続いている。この痛み・苦しみは大きい。だれも信頼でいないのだろうか。最後は、神に信頼する。人への非難へ向かっても、解決には至らない。信仰の根本的な部分がここにあるのかもしれない。理不尽さだろうか。
Ps 56:14 あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます。
最初に表現されているのは「踏みにじられて」いる姿である。「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。 」(6節)と告白するが、苦しみは続く。苦悩が、相対化されると言うこともあるだろう。自分や他者だけに向かわない。命のみなもとなる神に訴えること、その神に依り頼むこと。ここに救いがある。
Ps 57:5 わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。
このなかで詩篇記者は祈っている。「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。 」(2節)と、さらに「天から遣わしてください/神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りから/わたしを救ってください。〔セラ 」(4節)わたしなら、神様との距離をある程度とり、神様に委ねることを選択するのではないだろうか。この人は違う。わたしは、なぜ、このように求めないのかも考える。不信仰と切り捨てることもできるかもしれない。しかし、違いとして受け入れることもあるかもしれない。神は、そのどちらにも、神でおられるのかもしれない。
Ps 58:2 しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。
公平さに思いを寄せる。英語でコースを教え始めて、様々な批判、改善提案に接するからもある。全体に対して公平ではなく、ひとり一人にとって公平、これはどのようにしたら可能なのだろうか。絶対的なものを求めているのではない。そのような配慮であろう。「信じない」というトマスの要求に応えるようにして応答されたイエスのように。弱さに寄り添うことはできるはずである。そのひとがひととして行動し、学び、働き、生きることができるように。この節で語られる「正しさ」「公平さ」はおそらく、わたしがいま悩んでいるものとは異質だろう。しかし、神の正しさ、神の公平さを考えることとは、大きくずれていないように思われる。「ひとり一人にとって公平」「ひとり一人をたいせつにすること」について、もっと考えたい。
Ps 59:12 彼らを殺してしまわないでください/御力が彼らを動揺させ屈服させることを/わたしの民が忘れることのないように。わたしたちの盾、主よ。
なかなか複雑であるが「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。 」(11節)からも、主に対する信頼には、驚かされる。神の支配のもとにあることを信じ切っているのだろうか。平安もあるのだろう。しかし、このように、言えるときもあると言うことなのかもしれない。それも、主が与えてくださるもの。
Ps 60:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。
共に出陣されることとの違いを考えたい。共におられるとは何を言っているのだろうか。ひとりで、御心をなして生きることができるのだろうか。祝福がないことを感じているのだろうか。複雑で、混乱してくる。「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。 」(13節)これだけ言えることが幸せなのかもしれない。
Ps 61:4 あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。
戦いの中の祈りはわたしにはなかなかこころに響かない。しかし、常に戦いの中にいる人が神を求めるのはどのようにしてだろうかと考えると、引用したことばを読み、この詩篇記者にこころを寄せることができるように思われる。信仰者の多様性を意識することは、神が愛されるひとり一人に目を向けることでもある。単に、理論的にそれが正しいからではなく、こころを少しでもあわせることができれば、ともに生きることができ、時代と状況を超えて、同じ神に仕えていることを共有することもできるかもしれない。
Ps 62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
深く考えさせられる。わたしは「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」と言えるだろうか。神に問うことはある。神を自分の側に引き寄せようとすることもある。願いをし、とりなしをし、正しさに不安があるとき。しかし、沈黙してただ神に向かう魂は、これらのいずれとも異なっているように思われる。詩篇記者もこのあと語り出す。根本的な姿勢について、学びたい。
Ps 63:2 神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。
ここまで飢え乾きをもって神をさがし求める姿にうたれる。しかし、わたしも、いま、それを求めていることは確かである。神のもとにあるという真理を、わたしの魂を解放し、生かしてくださる永遠の命を。この詩篇記者のように表現はできないが、わたしは、それを捜し求める。友と、隣人と分かち合うことができるように。
Ps 64:5 隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。
神を畏れない人の姿である。自分の中に最大の価値を置きそこに閉じこもっていると、知らずにこうなってしまうのだろう。様々なレベルはあるだろうが。「人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。 」(10節)そのような時が来るのだろうか。わたしは神に期待しているだろうか。単に世の中を斜に構えて見ているだけではないのだろうか。希望についても、考えたい。
Ps 65:4 罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。
罪がなぜ重要な関心事なのかすこし分かった気がする。常に神の前に立つこと、礼拝する毎日だからだろう。だから、罪があると、それができない自分を嘆くことになる。神の前に立てない自分を省みているからかもしれない。それを日常的に欲していない者は、罪の感覚は薄い。人の前に立てるかどうかは重要であっても、完全であられる神様のまえに、たつことは、その人の日常にはないのだから。真理の探究においても、似た構造はあるが、全人格的なものではない点で、異なっている。
Ps 66:18,19 わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
「しかし」といえる日常があったのだろう。それは、常に、神に願い、その応答を求める毎日の中でのみ、起こることである。そして自分の心が悪事を見ているかどうか常に検証している生き方があったのだろう。その日常が異なる中で、福音を説いても上の空だろう。
Ps 67:4 神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。
「すべての民」が5回「諸国の民」が1回、この詩篇には現れる。英語では、All Nations や People と書かれている。少し調べないといけないが、異邦人も含めた、すべての民が想定されていると思われる。スケールの大きさに驚かされる。5節は "May the nations be glad and sing for joy, for you rule the peoples with equity and guide the nations of the earth.” (NIV) とある。「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 」単に従わせるいことが歌われているわけではない。これこそが主への賛美なのだろう。
Ps 68:7 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。
「身を寄せる家」は、家族なのだろう。しかし今は、住宅を提供するだけのように思われる。孤独な人は、詩篇が書かれた時代にもいたのだろう。そして、それは、ある社会問題として認識されている。神が超自然的な方法で、それを与えられると信じていたのではあるまい。孤独な人の存在を認識し、そのためにこころが動かされる人、そこにも神様が働かれると言っているのではないだろうか。二番目の部分は意味がよく分からなかったので英語で見てみると "he leads out the prisoners with singing;”(NIV) となっている。分からないことには、変わりないが、こころにかけてくださることが分かる。背く者は「既に裁かれている」(ヨハネ3章18節)という状態なのかもしれない。
Ps 69:19 わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。
敵の手中にある状態は、魂が捕らわれていると捉えられているということか。単なる身体的不自由ではなく、精神の不自由。神による魂の贖いが、解放の本質であることを述べている。ここで言われている敵も、もっと本質的な意味があるのかもしれない。魂の贖い。その本質を見つめてみたい。
Ps 70:6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。
「わたしは貧しく、身を屈めています。」はどのような状態を表現しているのだろう。特に「貧しく」は、何だろう。神以外頼る者がない状態だろうか。身をかがめているは、自分には頼ることができないことの表現だろうか。へりくだるとは、自分で自分のこころを制御することなのだろうか。おそらく、それは異なる。もう少し理解したい。
Ps 71:5-7 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。
主が私を母の腹から取り上げたとあるのには、驚かされる。おそらく、詩篇記者は、若いときからと書き始めて、いやもっと前から、母の胎にあるときからなんだと至り、それからこの言葉にたどり着いているのだろう。そしてさらに、多くの人は私に驚くと書く。それは、むろん、主の故であることを、記者は知っている。私も同じように告白しよう。「主よ、あなたはわたしの希望です。」「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。 」(9節)と。
Ps 72:12 王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。
神様に丸投げしているわけではない。神が立てられた、王についても祈っている。人間世界の連帯だろうか。それとも、神のそのような働きに信頼しているのか。または、神のこの祈りにあるような、介入を期待しているのか。全体としての、神の働きに信頼しているのか。いろいろと考えてしまう。
Ps 73:3 神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。
神義論だろうか。だれでもそうおもうことだろう。結局、それからくる神の報酬、神に逆らうことは悪だとは言えないのだろう。神は因果応報から自由であられること、憐れもうとするひとを憐れむことも知らなければならない。では、なにか良いことがあるのだろうか。この詩篇は「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。 」(78節)で終わっている。この前をみると、やはり、悪は滅びることに信をおいているようだが、自分が生きていく動機、たいせつにしていることこそがたいせつなのだろう。自分を見直しながら生きていきたい。
Ps 74:11 なぜ、手を引いてしまわれたのですか/右の御手は、ふところに入れられたまま。
このような気持ちになることはわかる。それこそが、神への訴え、神のこころとの同期なのだろう。それでよいのだ。真実がどうかではない。謙虚に神の前に生きたい。
Ps 75:7 そうです、人を高く上げるものは/東からも西からも、荒れ野からも来ません。
裁きは神によって為されることへの確信の表明である。人からの評価ではなく、最終的な神の評価に身を委ねる。だから安心して生きることができるのかもしれない。しかし、同時に、わたしにはとても遠い感じをうける。なぜだろうか。人の責任が書かれていないからだろうか。いまは、わからない。
Ps 76:10 神は裁きを行うために立ち上がり/地の貧しい人をすべて救われる。〔セラ
これが神の国の到来なのだろうか。これこそが救いなのだろうか。距離を感じてしまう。とても遠い世界のことのように。それでも、それを、期待して待つのだろうか。
Ps 77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし/深淵はおののいた。
大水も深淵もイスラエルの民にとっては、遠い存在、それゆえに、得体の知れない恐ろしいものだったのかもしれない。それゆえに「あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。 」(20節)の中に神の神秘が表現されているのだろう。神の業を見極めることはできないという謙虚さを表現するとともに、信頼を表しているのだろうか。
Ps 78:4 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう/主への賛美、主の御力を/主が成し遂げられた驚くべき御業を。
わたしなら、おそらく、自分で考えたことを伝えたいだろう。しかし、ここでは、そうではない。主への賛美、主への御力、主が成し遂げられた驚くべき御業である。たしかに、一人の人の考えなど、むなしい。このあと、おそらく、出エジプトと思われる記事が続く。わたしにとって、それは、何だろうか。民としての、共通のものが必要にも思われる。主への賛美として。
Ps 79:12 主よ、近隣の民のふところに/あなたを辱めた彼らの辱めを/七倍にして返してください。
わたしには、そして、おそらく、キリスト者は、このようには、祈れない。イエスは、この祈りをどう受け止められるだろうか。じっと、このひとの目を見つめられるのかもしれない。正しさでは無いものを、ここから学びたい。神は、この詩篇記者も愛し、導いておられるのだから。この熱心さ、まねのできないものがあるのだから。
Ps 80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。
破壊されたエルサレムの回復、捕囚からの帰還、民の回復、これらを主の救いとして求めていたことは確かで、それは、当然とも言えるだろう。それを、単純に批判はできない。イエスの時代に、さらに、普遍的な、神の御心が新たにまたはさらに進んだ形で示されたととるべきだろう。神に栄光を帰す、詩篇記者の祈りは、わたしたちの祈りと本質的に何も変わっていないのだから。
Ps 81:16 主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。
神に従わない者たちがいる。それを、主を憎む者と表現している。この運命については、明確ではないが、屈服が永劫に続くことを祈っているのだろう。聖書の他の記述とは食い違っているのかもしれないが、それを願うのは自然、そして、健全なことだろう。批判などとうていできない。悪の問題をどう克服するか、わたしも解決策は持っていないのだから。
Ps 82:2-4 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
この詩篇は「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 」から始まる。それと、対比して、人間の世界を描いているのか。しかし「神々の間で」は良く意味がわからない。このあとも、不思議な詩篇である。独特とも言えるかもしれない。いつかよく考えてみたい。「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」(6節)などの問いも含まれており、トピックも特殊に感じる。
Ps 83:6 彼らは心をひとつにして謀り/あなたに逆らって、同盟を結んでいます。
二つの要素が書かれている、共謀があること。逆らっている相手は、神であること。どちらも、直接的に観察・証明できることではないだろう。しかし、確かに、そうなのかもしれない。闇にとどまること、神のもとにある命に来ないことは、共謀していることなのかも。自分もそうかもしれないと、謙虚に顧みていきたい。決めつけることのないように。
Ps 84:6,7 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
「そこを泉とする」の「そこ」とは何だろうか。「広い道」だろうか。「広い道」とはなんだろう。その前にあなたによってとあるが、広い道を神とはせず、あなたによって勇気を出し、となっている。神の元にある真理に限定していないのだろうか。このあとには、嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするとある。「彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 」(8節)ともあり、勇気を出して、心に広い道をみているひとが、神にまみえるという素晴らしいことが記されている。考えてみたい。
Ps 85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメス)」「正義(ツェデク)」と「平和(シャローム)」当時の人たちのこれらに関する思いはわからないが、それなりに、これらがどれも欠けてはいけないものでありながら、一致することは、難しいと感じていたことは理解できる。
Ps 86:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。
耳を伸ばし、広げてが、耳を傾けになるのは、理解できる。「貧しい(アニー)」「身を屈める(エヴィオン)」は何を意味しているのだろう。ヘブル語についても、いずれ、しっかりと学びたい。詩文体は、理解できないかもしれないが。
Ps 87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を/わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも/この都で生まれた、と書こう。
このあとにも「この人もかの人もこの都で生まれた」「主は諸国の民(も)この都で生まれた者」と すべての民が含まれる宣言が続く。これを、しかし中心は、「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される/シオンの城門よ。 」から、エルサレムと考えるか、主が住まわれる場所とするか。普遍的な喜びと祝福がここにある。
Ps 88:2 主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。
この詩篇は闇の中で苦しんでいる信仰者の祈りである。このような時も、わたしにもあった。答えが、救いが見えないときの祈り、ゆっくり味わいたい。
Ps 89:52 彼らは、主よ、あなたの敵であり/彼らは辱めるのです。彼らはあなたの油注がれた者を追って/辱めるのです。
自分たちを苦しめている国、民を敵とする。この当時はとても自然だったろう。疑うことはできなかったろう。いまは、その認識において進化しているのか。それは分からない。神の御心が深いことを告白すると共に、信頼が弱くなっていることもあるかもしれない。この記者を心から兄弟として愛することができるだろうか。考えさせられる。
Ps 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
わたしは、自分の生涯の日を肯定的に数えている。しかし、この詩篇記者のように、神からの救いが見えず苦しみ、人生の終わりに神から「帰れ」と呼ばれている声だけが聞こえるとき、わたしはどうしたらよいのだろう。神の命に生きることについて語るかもしれない。しかし、それは、やはり、正しさ。寄り添うことが最善であるように、思う。共に生きているものを互いに感じることができるように。
Ps 91:1,2 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
「神のもとに身を寄せて隠れる」という意識はわたしの日常にはない。何から隠れるかという問題とも関係しているのかもしれない。しかし、様々な困難の中で、神に信頼することは、あるように思われる。詩篇記者にわたしはどのようにつながることができるのだろうか。神について、生活において、何を共有することができるのだろうか。
Ps 92:2,3 いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
わたしも、感謝の内に、日々を送り、皆をほめうたう。しかし、同時に、独りよがりではないのか、不安があることも事実である。感謝をささげること、ほめ歌うことにも、価値判断があるからである。すなおに、それを語るしかないのかもしれない。客観性は、限界があり、主体としてのわたしを殺しては、いのちはないのだから。喜びを持って生き、感謝をささげながら生きること、それがどのように、共に生きることにつながるかは、自分で制御することは、できないのだから。
Ps 93:1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
「主こそ王」という感覚は、よく分からない。すばらしい王様がどのような方なのかがイメージできないからであろう。世界を統べ治めるということについても、よく分からない。そのなかで、God’s Intervention のようなことだけを、考えても、偏ってしまうように思われる。神の統治についても、十分な内容を学ぶ必要を感じる。当時の人の理解と共に。
Ps 94:1,2 主よ、報復の神として/報復の神として顕現し 全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。
わたしは、これまで、このような言葉にどう向き合ったら良いか分からなかった。これは、ひとの痛みを表現する、理不尽さを、神に訴えているのだろう。おそらく、神も「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」(7節)という人たちの前で、苦しんでおられるのだろう。簡単には、答えは得られない。それで良いのかもしれない。
Ps 95:5,6 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
いろいろな地域や民族で創造者信仰はあるように思われる。聖書における創造者信仰はそれと同じなのだろうか。起源がなければいけない。自分たちの存在にも起源と意図を持った創造者が。ここでも、世界と、私たちの創造が語られている。啓示としてしか、真理としては認識できないものであるが、わたしにとってそれは何を意味するのだろうか。あまり良くは考えていないように思う。普遍的な真理という面でも理解できるのだろうか。
Ps 96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
感謝と賛美と宣教はひとつなのだろうか。自分の外のものに向かって感謝と賛美をすることにより、自分の存在を豊かなものの一部として捉えることができることは確かである。閉鎖的に、自己中心的になることとの違いは大きい。そうなりがちな人たちに、御救いの良い知らせを告げることは、賛美の一部だとも言えるかもしれない。それは告げることであって、議論すること、説得することとは異なるのだろう。自分の理解、主体的行動に基盤があり、他者のそれらも、尊重しなければ、存立し得ないのだから。
Ps 97:11 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。
極力、前回とは異なる箇所を選び、書いているが、この箇所は、前回と同じである。そして書こうとしていることも、前回BRC2015と同じである。「喜びを種蒔いてくださる」それを、喜べるかどうかは、主に従い続け、主を認めるかどうかにかかっているのかもしれない。人生は、神様が蒔いてくださった喜びを、収穫していくことなのかもしれない。
Ps 98:2,3 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。
イスラエルの救いが中心である。普遍主義は、ユダヤ教の中にもあり、民族主義は、キリスト教の中にもある。少しずつ、神様の前で、神様の求めるものに、近づこうとしていると思いたい。その過渡期での信仰告白とすると、まったく、つたない信仰、不完全な聖書理解、神理解である、わたしも、詩篇記者と、つながることができる。それが、神様と共なる歩みであることを願う。
Ps 99:6 主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。
「主こそ王」から始まる幾つかの詩篇の一つである(93篇・96篇・97篇・99篇)。「主はシオンにいまし、大いなる方。」(2節)とあり、主の御座は、シオンである。こう見ていくと、引用した箇所も含め、非常に、民族主義的な傾向が強い。しかし、これは、どのような時代のどのような人によって書かれたものだろうか。それによって、かなり、解釈に幅が出てくる。同時に、すなおに、この詩篇記者の心とともに居ることもできるように思う。世界を統べ治められる主に期待を持って。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。国々にふれて言え、主こそ王と。 」(1Chr16:31)
Ps 100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。
「主こそ神」であることを「知れ」と言っているが、同時に「神」であることにおける、我々との関係がこのあとに続き、それを知ることに、導かれているように思われる。我々は主の被造物であること。今も、主のものであること、そして、主に日常的に養われている羊の群れであることである。牧者は、神、よい羊飼いは、イエス様。
Ps 101:7 わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
この詩篇記者は、裁きの座にある、または民の指導者の地位にいる人のように思われる。「完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。 」(2節)からは、主を待つ姿勢とともに、家での働きが、完全な道について解き明かすもののすることとして描かれている。これが、引用箇所にもつながっている。小家族の現代を考えると、家といっても、もう少し大きな、職場・コミュニティなどを想定しても良いように思われる。そこでのマネージメントにおける適切な指導者の配置について述べられている。具体的に書かれている「完全な道」についての記述も、それが行動とともに書かれていることについて考えさせられる。
Ps 102:1 【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】
口語訳を主として読んでいたので、詩篇のこの部分にあまり注意を向けてこなかった。新共同訳では、この部分が第1節になっている。どのような起源があるのか分からないが、この表題はすごい。神の前の信仰者の姿、神が助けてくださるものの姿が現されているように思われる。
Ps 103:14 主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。
何を語っているのだろう。「どのように」なのだろうか。不明ではある。詩篇記者が知っていると言っているわけではないのだろう。しかし、このように告白することのなかに、神への信頼が表現されている。
Ps 104:10 主は泉を湧き上がらせて川とし/山々の間を流れさせられた。
このことを見せていただこう。おそらく、目が開かれることによって、すでにそのようになっていることを見ることができるのだろう。わたしの身近なところでも。
Ps 105:42 主は聖なる御言葉を御心に留め/僕アブラハムを御心に留められた。
人間的な表現ともとれるが、主はご自分の言葉、約束を忘れることはないということの表現だろう。神の言葉は、それが発せられたときに、成就することとも通じることか。人にはそれが実現したことが見えないことはあるとしても。
Ps 106:14-16 荒れ野で欲望を燃やし/砂漠で神を試みた。主はその願いをかなえられたが/彼らをやせ衰えさせられた。 彼らは宿営でモーセをねたみ/主の聖なる人アロンをねたんだ。
最後のねたみについて書こうとしたが、15節のことばに引きつけられた。願いをかなえられるが、やせ衰えさせられる自分。人間の愚かさがよく現れている。欲望は、自分と神の関係を、自分とものの関係で見てしまう愚かさ、ねたみは、それを、他人との比較において見てしまう愚かさなのだろう。
Ps 107:12 主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは倒れ、助ける者はなかった。
「主」が主語となっている。このように告白する詩篇記者は、どのような人なのだろうか。このあとには「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し/束縛するものを断ってくださった。 」と続く。自分には、どうにもならないこと。それを、実体の不明な「悪」や「悪魔」の仕業にせず、善いものを与えてくださる根源である神様に帰する。主の祈りの「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。 」(マタイ6章13節)について教皇フランシスが主が誘惑をもたらすと訳すのは聖書全体から考えると誤りだと発言したが、考えさせられる問題である。
Ps 108:8 神は聖所から宣言された。「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。
正直、何が語られている不明であるが、イスラエルの領土を失いそうな状況が語られているのかもしれない。それがどの程度重要なことを、地理的にも、時代的にも離れているわたしには、分からない。しかし、ここに、その痛みを注ぎだして、神に訴え祈っている一人の人の存在は、身近に感じる。
Ps 109:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】わたしの賛美する神よ/どうか、黙していないでください。
このあと「神に逆らう者」について語られ、20節あたりから、自らについての神の恵みについて語る。具体的な問題がある人との間にあったのではないかと思わされる。それを、神が黙っていないで、裁いてくださいという形での祈りになっている。わたしの感覚とは少し異なる。それは、何なのだろう。
Ps 110:4 主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
この詩篇は「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』 」から始まる。ダビデによせて「わが主」とは誰なのかが問われる。一つの鍵が引用した箇所である。これがイエス・キリストの預言なのか、これを預言とみて、解釈されたのかは、もう少し、注意してみる必要はる。メルキゼデクは創世記14章18節に登場し、ヘブライ人への手紙5・6・7章で引用されるまでは、この詩篇のみに書かれている。
Ps 111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
記念は、感謝の一つの表現の形態であるとともに、単なる自発的なものとは、異なり、思い出し、他者と共に感謝する機会を与えるものなのだろう。形式的になることを恐れるが、ひとにとって、基本的なことだと思う。
Ps 112:9 貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
1節には「主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人」とあり、4節には「まっすぐな人」5節には「憐れみ深く、貸し与える人」6節には「主に従う人」とある。9節はそのような人のことである。社会正義に係わることは、主の業をおこなうこと。そこに、宗教心といわれるものがあるのか。それとも、それとは、独立なものなのだろうか。
Ps 113:7,8 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。
ハレルヤから始まる。わたしは、賛美をあまりしないように思う。それは、ここにあげられているような、神の業を見ていないからか、神がそのような方であることを信じていないからか。しかし、このようなことに、希望を持って生きていることは確かである。それだけで、賛美へと向かっても良いのかもしれない。それが、その希望を信じることであり、神の業を見る機会も得ることになるのだから。このような素晴らしい表現をもって、神様を賛美している友人を持っていることも、忘れてはいけない。
Ps 114:2 ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。
この詩篇はいつごろ書かれたものなのだろうか。ユダを「神の聖なるもの」イスラエルを「神が治められるもの」と言っている。国として分裂していた時代なのだろうか。それとも、その時代を思い出して、捕囚または、その帰還後に書いたのだろうか。ユダヤ人たちにとって、神と民との関わりは、特別なものとして、語り継がれ、それが信仰の基盤となっていたことを、相対化することは、できないのだろう。この告白を、アーメンと受け取ることとしよう。同じ神様を礼拝するものとして。
Ps 115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。
「人の手が造ったもの」に依り頼み(4節)、「口があっても話せず、目があっても見えず」(5節)、「耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができず」(6節)、「手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」(7節)が「偶像と同じようになる」の中身なのであろう。人にすべての根拠を置き、それ以外のものに支えられていることを知らないとも言える。造ったものに魂が入るなら、魂を入れる方に目を注ぐべきなのかもしれない。しかし、信仰は、自分の中に救いがないことから発していることとも言える。すると本質は、偶像にはなく、自分の中にすべての解決を見つけようとする、自分を神とすることなのかもしれない。
Ps 116:1,2 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
神様が望まれることは、主が為されることなのだろう。すると、ここでは、愛されることと、嘆きに耳を傾けることとなる。愛することよりも、愛されることの方が、難しいだろう。むろん、愛することも、簡単ではないことは確かだが。耳を傾けること。主は、仕えてくださっているのかもしれない。わたしも「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 」(9節)この詩篇記者とともに。それが「わたしたち」の告白になることを、直接的に求めるのは危険かもしれないが。
Ps 117:2 主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
「慈しみ」と訳されているのは、ヘセド(1. goodness, kindness, faithfulness, 2. a reproach, shame)とある。2 の意味はどのようなことなのだろう。「まこと」はエメス(firmness, faithfulness, truth, 1. sureness, reliability, 2. stability, continuance, 3. faithfulness, reliableness, 4. truth)とある。ヘブル語は、いつか、丁寧に学んでみたい。もう時は残されていないかもしれないけれど。
Ps 118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
同じことばが、1節と、歴代誌上16章34節、歴代誌下20章21節にある。あとの節は、「モアブ人とアンモン人が、メウニム人の一部と共にヨシャファトに戦いを挑んだ。 」ときにヨシャファトが主に御心を求めたときのものである。この信仰告白とともに、戦いに出ている。慈しみはもう少しよく理解したい。NIV は "his love endures forever” NKJV は "For His mercy endures forever.” NRSV と ESV は "his steadfast love endures forever!”
Ps 119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8章12節)とは、大分印象が異なる。イエス自体を光として従うことができる、それほど素晴らしいことはないとともに、大きな驚きであることも確かである。最後の言葉も印象に残った。「わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。 」(176節)ここでも、イエスが「善い羊飼い」であることを思い出す。
Ps 120:1 【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。
わたしは、そのように、賛美することができるだろうか。共にいて下さるとは、信じているが。続きを読むと、この詩篇記者も、この節以外は、苦しみと、理不尽さを吐露している。最初は、信仰告白だとして良いのだろうか。
Ps 121:1,2 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
山々は何なのだろう。自然を見ているのか、押し迫る、困難の山を見ているのか。天地を造られた主以上のものは、ない。周囲の人たちも、この言葉を聞いては、何も言えないだろう。しかし、それで十分かどうかは分からない。
Ps 122:3 エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
このエルサレムが、ユダヤ教と、キリスト教徒、イスラム教徒が結び合う都となる日が来るのだろうか。すべてを含みはしなくても、そのときには、エルサレムは、まさに、都として建てられたと言えるだろう。
Ps 123:2 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。
これは、何を求めているのだろうか。指図を待っているのだろうか。ご褒美を待っているのだろうか。それすらも分からない。文脈からは、憐れみを待っているようだが。憐れみを待つとはどういうことだろうか。主よ憐れんで下さい。祝福だろうか。
Ps 124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
これこそが、主が逃れさせて下さった、救いの表現なのだろう。「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」(8節)
Ps 125:1 【都に上る歌。】主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。
このあとも「山々はエルサレムを囲み/主は御自分の民を囲んでいてくださる/今も、そしてとこしえに。 」と続く。しかし、エルサレムもダビデがとった町、いずれは滅びてしまうことも知っている。シオンの山は、もう少し普遍的な意味があるのかもしれない。とこしえに座るから、なにか、神がそこにおられることが伝わってくる。
Ps 126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
すでに、祈りがかなえられたのかどうか、よく分からない詩である。しかし、その中でも、希望と喜びの歌が歌われている。涙が何を意味しているか分からないけれど。
Ps 127:1 【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
空しさは、二通りにとれるように思う。一つ目は、どんなに努力しても、主の仕事でなければ、簡単に瓦解してしまう可能性があること。もう一つは、なすこと自体が、主の仕事、それを、為しているのでなければ、なにをなすこともむなしいと言うこと。いずれにしても、このように、断言し、それを詩として、歌うことができることに、潔さと、驚きを感じる。
Ps 128:1 【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。
主を畏れることと、主の道に歩むこと、これこそ、信仰者の道のように、思われるが、詩篇でこの組み合わせは、ここだけのように思われる。主の道を歩むとは、主が備えられた道という意味と、主が喜ばれる道という意味と両方あるのだろうか。主を畏れることについては、十分理解できていないのかもしれない。いつか、学んでみよう。
Ps 129:3 耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った。」
「イスラエルは言うがよい。」とあり「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが 」が二回繰り返されている。それに続く節である。苦しみが、畑を耕し、次の実りの準備であることを言っているのだろう。そして、主に信頼すべきことを、教えている。世を教えるメッセージという詩篇の役割もあるのだろう。
Ps 130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
赦される方。愛される方。捨てない方。これは、共有されていたのだろう。それが希望を生む。しかし、あくまでも、神の主権のもとでである。
Ps 131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
この謙虚さを、わたしは、たいせつにしたい。人生を丁寧に、神に向かって生きるために。わたしもこう言いたい。「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」
Ps 132:8 主よ、立ち上がり/あなたの憩いの地にお進みください/あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。
シオンを示している。普遍性と民族性、この後者のなかで、語られるとき、常に、違和感を感じるが、それこそが、そこに人がいる証拠なのだろう。主体が失われては、生きていないのと同じなのだから。
Ps 133:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
肉親の兄弟のことからあまり思いが発展しなかったが、そこに限定されるものではないだろう。まさに、互いに愛し合う状態がここに表現されているのだろう。最後は、なんと「主は布告された/祝福と、とこしえの命を。 」(3節)永遠の命の宣言で終わっている。驚かされる。
Ps 134:1 【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
「夜ごと」とは、主の家が宿となるのだろうか。昼は、そこから、送り出されるのだろうか。それが、主の僕。主をたたえるもの。そのようなものの一人でありたい。
Ps 135:6 天において、地において/海とすべての深淵において/主は何事をも御旨のままに行われる。
難しい課題に追われているように感じるときが多い。そのときにこそ、神の働きに信頼すべきなのだろう。天、地、海、深淵について、当時の人たちがどのような感覚を持っていたのかは分からないが、そのスケールは、理解できるように思われる。これを、宇宙と言い換えても、全く意味は無い。すべての深淵において、御旨のままに行われる主に委ねたい。
Ps 136:23 低くされたわたしたちを/御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
出エジプトについて語り、最後に一般的なことを讃えている。わたしは、どのように、神を賛美するだろうか。確かに、普遍性ばかりを中心とするのではなく、このようなものをもひとり一人こころに留めてくださる神を見失っては、神の愛を理解することは、決してできないのだろう。難しさもある。
Ps 137:1 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。
わたしは、泣けるだろうか。おそらく、いまは、泣けない。自分の姿を見つめられていないから。あるべき姿を、見ていないから。感謝の根拠を確認していないから。希望をしっかり持っていないから。そのなかで、人生の終焉と向き合おうとしていてよいのだろうか。
Ps 138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
命を与えてくださるのが、神の業。その神様としっかり向き合いたい。「主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。 」(6)とわたしは、告白できるだろうか。
Ps 139:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
神が、私たちひとり一人について知り尽くしておられることが書かれている。造られたときから、そして最後は「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 」(23節)おそらく、これが告白したいこと。しかしそこに留まらず、神が知っておられることを賛美している。そこに信仰と信頼があるのだろう。
Ps 140:14 主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。
神の前に座る、神の前を歩むも似たものだろう。神の御前を避ける生き方にはなりたくない。神に従おうとする意思と、感謝なのだろうか。
Ps 141:8 主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。
最後が印象的である。うつろは、神不在でおこることか、神との関係性が希薄になることによって起こることか、神が愛される隣人との関係によって満たされることもあるのではないだろうか。Social Capital についても学んでみたい。
Ps 142:5 目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。
このときに、神に目を向けて祈っている。しかし、同時に、神は、人をおいてくださってもいるのではないだろうか。目を開いて、それを見ることができるように。神を信頼して。
Ps 143:12 あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。
「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。」(9節)とありそれに続いて「御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」(10節)ともある。「御旨を行うすべ」を求めることから「敵を愛する」御旨自体を問わなければいけないのかもしれない。しかし、そのように、わたしは、この詩篇記者を裁くのであれば、それは、おかしい。どうすれば良いのだろうか。
Ps 144:4 人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。
この謙虚さが神への畏れを抱かせるのか。神への信頼は、これを不安とはしないのだろうか。わたしはどうだろうか。もう十分という気持ちもある。十分生かしていただいたので。そして、日々、学ぶことだらけであることも事実である。
Ps 145:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
「ひとりひとり」は詩篇33:13, 62:13、イザヤ27:12、エレミヤ12:15(言葉自体は以下の箇所にも:哀歌3:39、エゼキエル18:30)にある。ヘブル語で特別な言葉が使われているわけではないようだ。七十人訳では「すべての pantas」。しかし、倒れようとする人、うずくまっている人、いずれも、いのちを失いそうになっているということだろう。10節には「すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 」ここに神の働きが、または、人の希望があるのだろう。
Ps 146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
ハレルヤからスタートしている。様々なひとの救いが述べられ、「主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 」(8節)から引用した箇所が続き、ハレルヤで終わる。社会的弱者を守られる主、その方を礼拝し、賛美する宗教はやはり素晴らしい。
Ps 147:6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
「貧しい人々」はたくさん聖書にあるようだ。詩篇だけでも、72:2, 4, 74:19, 112:9。何を意味しているのだろうか。「打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。 」(3節)にある「打ち砕かれて心」と関係しているのだろうか。「傷を包む」はなにか、いやし以上のものを感じる。
Ps 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
主を賛美せよ。とあるが、素晴らしさは、分からないのだろう。それでも、賛美する。それは、主に委ねること。しかし、自分は何もしないことではおそらくないのだろう。賛美することが伴うことは、どのようなことなのだろうか。
Ps 149:7-9 国々に報復し/諸国の民を懲らしめ 王たちを鎖につなぎ/君侯に鉄の枷をはめ 定められた裁きをする。これは、主の慈しみに生きる人の光栄。ハレルヤ。
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 」(ヨハネ12章31節)「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。 」(ヨハネ16章11節)を思い出すが、同時に、少し乱暴にも感じる。この世をどう解釈するかに依っているのだろうが、そうであっても、はっきりとそれを規定することはできるのだろうか。疑問を感じる。
Ps 150:6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。
賛美すること。わたしも、学びたい。むずかしく、感じてしまう。希望の先取りとはしないで、主自体を、賛美することに集中できればよいのだろう。イエス様を送って下さった神様、イエス様によって知ることができた神様について。

BRC2015

Ps1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
主の教えを知り、主の教えを理解したい。ここでは教えはおそらく律法を意味しているだろう。その背後にある主のこころをこころとしたい。そのような生き方をしたい。願うこと、信じることを生きることができるように、主に祈る。1節に「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」とあるように、謙虚に、かつ主の教えに逆らう者に与せず生きていきたい。
Ps2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
これはメシヤ預言の詩編なのだろうか。この箇所から「わたし」を特定することは困難である。しかし10節の「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。」はメシヤ性のあるメッセージである。同時に、この詩編の最後の「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。」(12b)は印象的である。詩編もいずれ学んでみたい。
Ps3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。
ダビデ(詩編記者としてもよい)が「救いは主のもとにあります。」(v9a)と言っている主と、私が主と呼んでいる者とが同じであることが信仰が一つである基盤である。わたしは、このダビデと同じ神を主と呼んでいるのだろうか。自分の不完全さ故に、他者を敵とは呼べないわたしは、単に歴史や個人的背景の産物なのだろうか。何をもって共通の神を礼拝する信仰とするのか。もう一度、よく考えてみたい。
Ps4:3 人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
ここに「人の子ら」が使われている。この「わたし」はおそらく詩編記者であって、神ではないだろう。それが人の子らと言っている。同じ人の子である。そこにある同等性もこれらの言葉に含まれているのかもしれない。人の子らの世界と、主がこの世でなされると思われること「主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。」(4節)を行き来しながら。表現の違いだけなのかもしれない。今回は詩編を集中して読んでいきたい。
Ps5:8,9 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。
この二つの節が対になっているのだろうか。それとも独立だろうか。教義的には独立ととるべきだろう。しかし強い相互関係にある。「恵みの御業のうちにわたしを導き」は具体的に何を言っているのだろうか。反対の「のろい」ではないと言うことだろうか。神の導きは必ずしもいつもは見えない。導きの中を歩むことの確信は何から来るのだろうか。単純に恵みを感じるかどうかではないだろう。このような応答関係の中で、神のみこころを求め続けていくことか。
Ps6:5 主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。
この祈りと 10節にある「主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」この組み合わせがこの詩編記者の信仰である。神からの応答はすぐにはない。しかし、6節に「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。」とあるように、救いを自らが見ることを期待している。このような信頼の根拠はなのだろうか。ある意味で驚かされる。
Ps7:18 正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。
「正しくいます主」これはイエスの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)の内容とは異ならないだろう。しかし、神のさばきを福音とするのではなく、神の救いを、御心を中心に据えるところに、違いがあるのか。苦しむ人の願いを受け取りつつ、神の御心のなることを宣言する。もう少し丁寧に言語化したい。
Ps8:2,3 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
3節冒頭は、この文章からすると2節を終わる文である。その方がおそらく自然なのだろう。いずれにしてもここで幼子、乳飲み子を持ち出すことに驚かされる。何が意識されているのだろうか。純粋さだろうか。最も弱い者ということだろうか。それとも、イエスがこの時に何らかの方法で意識されているのか。
Ps9:20,21 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。 主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ
6節、16節、18節と異邦の民の裁きを祈る。しかし、基本は、貧しい者、虐げられた者の救いであるようにも思われる。さらに、12節で「諸国の民に御業を告げ知らせよ。」と語られ、それが、この20, 21節につながっている。イスラエルの民の信仰する神が、世界をすべ治められる神だとの確信があったのだろう。神の愛が、イスラエルの民に限定して示されていたと考えると、自然なのかもしれない。
Ps10:17,18 主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。
なぜ聖書の神は、貧しい人、みなしごと虐げられている人に目を向けるのか。常に、マイノリティの側にいた者たちの中で育った信仰だからだろうか。いつ頃からなのだろうか。このような信仰が重要な位置を占めるようになったのは。通常の支配者の宗教ではあり得ない。捕囚以降なのだろうか。
Ps11:3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
口語訳では「基がこわされるならば」となっている。正常にことが進まないように思われ、つまり神の国(支配)が遠いように思われるとき、1節にあるように「主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。」との言葉を聞く。愛が冷える時、神様にかけた者たちに忍耐が必要なときである。この詩編記者のように「主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(7節)と確信して生きていきたい。この神様に望みを置いて。[2016.1.10 通読箇所:2015.12.31 記]
Ps12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
口語訳は「卑しいことが人の子のなかにあがめられているとき」となっている。2節には「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。」とある。これらは、周囲の人に向けたことばであろうが、自分の中、つまり自分に対して語る言葉としても意味をもつ。すなわち「わたしの中で、卑しむべきことがもてはやされるこのとき」「主の慈しみに生きようとする意思が絶えようとし」「わたしの中で、信仰が敗北を宣言しそうになるとき」「わたしの中でも、主に逆らう心が勝手に動き出す」わたしが、本当に苦しんでいるなら、その苦しみを主はご存じである。「主は言われます。『虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。』」(6節)わたしは神の前にどのように立っているのだろう。へりくだって生きることを望む。それができない、自分と日々戦いながら。
Ps13:2 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
救いを求めてもそれが来ない。ここに信仰もあり、神の主権もある。この節に続いて「いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」とある。まさに、宗教の質が問われるところかもしれない。この詩編は「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/『主はわたしに報いてくださった』と。」これも、おそらく完全な解決を意味していないだろう。この悩みと信仰について、もっと深く学びたい。
Ps14:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
口語訳は「愚かな者は心の内に」と始まる。この背景には、詩編13篇のような状況があるのかもしれない。紙一重の差である。それをわけるものはなんだろう。人を腐敗さすものは、なんだろう。希望を捨て去ることだろうか。神のより深い心、人生の意味といっても良いかもしれない、を求め続けることか。
Ps15:1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
「あなたの幕屋」「聖なる山」を、神殿やエルサレムと考えていた。よく考えると、これは神と共に住むこと。または、神の国、天国に住む事とも捉えられる。つまり、神の御心が行われるところに住む者。さらには、神の御心を自分の心として住む人はどのような人かとの問いかけともとれる。イエスを通して、主を示されたものは、そのように理解すべきだろう。
Ps16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
15篇にある神と共に住む者の喜びがこの詩編に語られている。なにか窮屈な、息が詰まる、そして自分には出来そうもないものではない。9節にあるように「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」喜び、安心して憩う場所であり、11節にあるように「命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」そこで命を得る道を教えた頂く場所でもある。命が育まれる場所でもあるのだろう。
Ps17:3,4 あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて
このように言えることというより、このようなことが聖書にあることに、違和感を感じていた。それは、聖書は神の言葉で完全、かつ整合性も完璧と考えていたからだろう。信仰者のこころをそのまま表現したものだと考えれば何の不思議もない。このように思うときもあるだろうし、そのように表現するひともいるだろう。そして、それを即座に神様があなたはよくわかっていないと拒否すると考えるわたし自身にも問題があることを感じる。このような信仰者も、そして、わたしのような信仰者もすぐに切り捨てられる神様ではないのだろう。
Ps18:24,25 わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
これは自然な願望。これから行いと信仰を議論するのは、少しすれているのだろう。神様の心を心とする、ひとつの過程に過ぎない。
Ps19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
神の天地創造とそれが素晴らしいものだと言うことを表している。それ故に、悪の問題は、困難な難題となっていることは確か。悪は善の反対ではないのだろうか。正義はどのような関係にあるのだろうか。このあとの3節「昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。」は分からない。創造なのか統治なのか。引用箇所とされている74:16 には「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」とある。昼と夜を定められたのも神だということだろう。
Ps20:2,3 苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。
苦難の意味を問うよりも、神に救いを求め、神の応答を願い求めることに中心が置かれている。苦難の先にあるものに価値があると考えているのかもしれない。取るに足らないことともせず、解決される事ともせず、そのときを通して得られる神との関係の構築に価値を置いていると言うことか。
Ps21:2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い/御救いのゆえに喜び躍る。
王についての祈りはわたしには実感がなく、王の周囲の人の祈りとしても、受容が困難である。一方、このような祈りの姿勢自体に、驚かされる。王を絶対化するのではなく、あくまで、主を絶対化し、その主からの助け、救いを求める。そのような祈りが他の国でもあるのだろうか。神のみこころを問うことを王が独占することから、権力を絶対化する危険性ははらむが、この姿勢には、信仰者のそれと共通のものがある。信仰者にとっても、同時に、神に問うことを自分の独占的かつ個人的祈りに求める危険性があるとも言えるだろう。詩編を通して、王についての祈りをもう少しじっくり学びたい。
Ps22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
最終的な目標はここにあり、普遍性がある。それは、25節「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」からも見て取れる。この詩編は、イエスの十字架上の祈りとも言われる。最初の言葉が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27:46, etc)を想起させるからだろう。しかしそれは一つの見方に過ぎない。イエスは、べつに詩編の引用する必要はないのだから。しかし、同時に、見ている世界は、この詩編に書かれているものと、通じているのかもしれない。「貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(27節)
Ps23:1-3 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 
これがこの詩編記者の信仰告白である。羊飼いの仕事が目に浮かばないので、部分的にしか理解できないが、主の導きに信頼する信仰は、共有できる。そしてそれが長い間、主に従おうとしてきた者に与えられる事なのかもしれない。2節のなんと美しいことか。ここまでは正直告白できない。
Ps24:1,2 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。 主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。
主のもの、そして、主が築かれたのであれば、そして、それを神が「良しとされた」のであれば、その全体を感謝して受けるのがスタート地点であるように思われる。私たちの時間で、今の不具合についてつぶやいていてはいけない。
Ps25:15 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。
この詩編には記者の罪の問題が何回か書かれている。「主よ、あなたの御名のために/罪深いわたしをお赦しください。」(11節)「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。」(18節)しかしそれにもまして圧倒的なのは、主への信頼である。この節では、「わたしの足を網から引き出してくださる方に。」とあり、そのような罠に落ちる、またはその危機につねに瀕していることが書かれている。上で引用した18節にもあるように「貧しさと労苦」この謙虚さが逆に信頼のもとなのかもしれない。「心の貧しい人々は幸いである。」(マタイ5章3節a)
Ps26:9 わたしの魂を罪ある者の魂と共に/わたしの命を流血を犯す者の命と共に/取り上げないでください。
わたしはこのようには言えない。そして傲慢にも感じる。しかしこの詩編を読むと「【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」(1節)と始まっており、その前提のもとでは、まさに、神の国(神の完全な支配)の到来、悪の問題の解決を伴った世界の刷新が語られているとも言える。聖書の読み方の幅は広い。
Ps27:5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ
6節には回復の記述が続く。しかしこの5節は4節「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。」との対比で読むべきだろう。「主の家」「主の宮」と「仮庵」「幕屋」である。もう一つ気づくのは、4節は「わたしの願い」であるが、5節では主語が「主」に変わっている。私の願いが、主の願いと近づいていく信仰生活でありたい。
Ps28:8,9 主は油注がれた者の力、その砦、救い。 お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。
国と王とに関係した詩編はなかなか実感がわかず理解できない。これをそのまま、新約の主の民として良いのか。それ以外と分けることに違和感を感じる。主が愛する者とするなら、概念的になるのか。主の嗣業の民という概念も聖書に何回か現れるが、やはりよく分からない。一度学んでみたい。「嗣業の民」で検索すると、Dt4:20「しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。」が最初である。他には、Dt 9:26, 9:29, 1Sm10:1「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」,Ps28:9, 106:5,40, Is47:6「わたしは自分の民に対して怒り/わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず/老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。」Jer10:16,51:19, Mc7:18「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。」引用を見ても興味深い。
Ps29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
10節には「主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。」とある。創世記6章・7章のノアの箱船の記事が有名だが、洪水に関しては雅歌8:7「大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。」を思い出す。ヨブ20:28には「神の怒りの日に、洪水が起こり/大水は彼の家をぬぐい去る。」とある。圧倒的な力、すべてを押し流すものとして洪水があり、それを支配しておられることが言われているのだろうか。支配とは書かれていないが。
Ps30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
3節の「あなたは癒してくださいました。」4節の「わたしに命を得させてくださいました。」が印象的である。癒やし、生かしてくださる、命を得させてくださることが御旨である。それは、喜びの歌と共に朝を迎えられるような命である。
Ps31:10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。
衰えていく三つの部分が書かれている。目を肉体と捉えると、体と、魂と、そしてはらわたである。最後のはらわたからは、スプラッグニーゾマイ(深く憐れむ)ということばのもとの「はらわたが傷つく」を思い出す。このように三つが表現されているのは興味深い。詩編記者は、この三つをどのように区別し、これらで何を表現していたのだろう。詩編にでてくる「はらわた」のみ記す。「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。」(7:10)「主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。」(26:2)「わたしは心が騒ぎ/はらわたの裂ける思いがする。」(73:21)「呪いを衣として身にまとうがよい。呪いが水のように彼のはらわたに/油のように彼の骨に染み通るように。」(109:28)そしてこの第31篇10節である。また時間をとって、もっと調べてみたい。
Ps32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
今までこの詩編を読むとき、5節までの罪の告白にいたる部分に中心をあてて読んでいたように思われる。それまでに聞いたメッセージの影響も多いだろう。この6節には「あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」とある。ここでも因果関係は、どちらが原因でどちらが結果なのか明かではないが、神様を見いだしうる間に祈る。常にそうなってはいない、時があることは、確かであるように思われる。アーメン。
Ps33:1 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
主を賛美することは、まず、主のなされることを肯定するところからはじまる。「主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。 主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。 御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。 主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。」(4-7節)これが神への信頼ともなるのだろう。自らの姿に対する不満と未熟さから、神を賛美することもできない。主に従うのであれば、主のなされることをまずは肯定したい。しかし、現実を見たときに、なかなかそれができないし、単純に肯定することに、違和感も感じる。賛美についても、根本的な部分をもう少し理解したい。
Ps34:19-21 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。
20節の「主に従う人には災いが重なる」これを否定的には語っていない。その背景には19節があり、21節に対する信頼があるからか。自分にとって都合がよいことではなく、主の御心に近い生き方に、喜びをもつ生き方を良しとしているからか。もう少し適切な言葉で表現したい。
Ps35:1 【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。
わたしには、このような祈りはできない。独善的だから。わたしにとって、祈りは、神の意思とのシンクロナイゼーションである。しかし、そうであっても、考えてみよう。27節をみると「わたしが正しいとされることを望む人々が/喜び歌い、喜び祝い/絶えることなく唱えますように/「主をあがめよ/御自分の僕の平和を望む方を」と。」とある。ダビデが王として詠んだ詩篇とすれば、ここには、民の代表として、自分の責任を担い、神の導きを願う、姿勢もあるのかもしれない。また、内容からも、24節・25節のように「主よ、わたしの神よ/あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで 『うまく行った』と心の中で言いませんように。『ひと呑みにした』と言いませんように。」神を畏れない人々に、向き合う姿勢なのかもしれない。ひとつの言葉をきっかけに、心を閉ざさず、向き合って詠むことができるようになりたい。
Ps36:10 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。
2節の「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」に対して6節から始まる主の慈しみ「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。」が対比されている。慈しみについても、学んでみたい。慈しみにつづいて、この命が語られている。慈しみ深い神の、変わることのない愛のうちに歩むことが、光の内に命をもって生きることなのか。
Ps37:1,3 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。3. 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
人は、もしかすると、ある文化的背景(アジアのひとのような)のもとでは、自然災害などは、受け入れる。しかし、悪事を謀る者にたいしては、別の感覚をもつ。不正を行うことをうらやむと言う気持ちも、理解できる。しかし、ここで 3節以降繰り返されるのは、主への信頼である。信頼は「主に自らをゆだねよ」(4節)「あなたの道を主にまかせよ。」(5節)「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」(7節)などと続く。さらに、驚かされるのは、上の3節で「この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」と語られている事である。天にあげられる時を待ち焦がれよではない。それこそが神は善いかたであること、その方に信頼して生きることである。
Ps38:4 わたしの肉にはまともなところもありません/あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません/わたしが過ちを犯したからです。
ここでは「肉」と「骨」について語られている。肉は自分の外側、骨は自分の内側を象徴しているのだろうか。これらは、一点「あなたが激しく憤られたから」にかかっている。主に信頼するとともに、様々な困難、平安のなさを、神との関係に求める。お題目となってしまっては、意味はないが、ここに内省があり、信頼があり、献身があるのだろう。
Ps39:5 「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。」
このあと「この人生も無に等しい」(6節)「人はただ影のように移ろうもの」(7節)と続く。またこの5節だけカギ括弧で語りかけるようになっている。そして「主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」(8節)とあり、そのあとで「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。」(11節)が続く。最後は「あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。」(14節)と締めくくられている。どのように理解すれば良いか、あまり簡単ではない。しかし5節は、罪の赦しを、主に撃たれた苦しみのなかで望みを神に起き神に救いを求める前に、自分の存在が神の前には、はかないものであることをまず自分が思い知るように語られている。神にとっての自分に視点を向けている。そのことが、わたしの心に響くのか。
Ps40:13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。
わたしには、この感覚がないが、実際には、このような状況なのかもしれない。簡単には悪と同定しないようにしているからだろうが、イエスのことばも響く。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(ヨハネ7:7)「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3:20)特に7章7節を考えてみたい。
Ps41:2 いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。
「その人」は「弱いものに思いやりのある人」だろう。なぜ「主はその人を逃れさせ」てくださるのだろう。倫理的に高い良い人だからだろうか。おそらく「神様のわざ」「命を与えること」に関与しているからだろう。4節を見ると「主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」とある。これは、祈りであって、神がそうなされると言っているわけではないが、詩篇記者の中にも、上に書いたのと同じ思いがあるのではないだろうか。主こそがそれをなしてくださる方という信頼である。それを、経験もしているのだろう。その信仰告白でもある。
Ps42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
詩人のことばは美しい。しかしこの詩篇はそれだけでは終わらない。4節から5節には「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/『お前の神はどこにいる』と。 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。」この葛藤。ただものではない。周囲には「喜び歌い感謝をささげる声」そして「祭りに集う人」さらに「お前の神はどこにいる」と絶え間なく批判され、うなだれ、呻く。信仰者の忍耐だろうか。その究極のものとして、復活信仰もあるのかもしれない。
Ps43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。
ここでいう「あなたの光とまこと」とは何なのだろうか。「光とまこと」として書かれているのは、この箇所だけである。これが神から来る者という理解は良いとして。これがキリスト預言なのだろうか。直ちに、そこに結びつけるのは危険に思われる。
Ps44:4 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも/自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく/あなたの右の御手、あなたの御腕/あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。
ここでも「御顔の光」が現れる。これによって勝利が与えられたと言うことだろう。そして、それが神様の望み。分からないことはないが、救いは、神の主権だけを示しているのだろうか。
Ps45:2,3 心に湧き出る美しい言葉/わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。 あなたは人の子らのだれよりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。
どのような詩篇なのか、特定は難しいが、3節の「あなた」の賛歌ではある。8節には「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」とある。神に従う「あなた」に神の霊が注がれるようにと歌う。このような賛美、祈りについても、学んでみたい。わたしの生活の中では、どのような意味があるのだろうか。自分の周囲の神を畏れる人への思いの表現であろうか。
Ps46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
この句のみこの訳では括弧で囲まれ、神の宣言としている。「力を捨てよ」この前9節10節には「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。 地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」とある。その日の到来を待っているひとの詩なのだろう。
Ps47:10 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
「自由な人々」という言葉にまずひかれる。しかし口語訳は「もろもろの民の君たち。大分ことなる。また「地の盾となる人々」についてもひかれる。口語では「地のもりもろの盾」である。ゆっくり考えてみたい。
Ps48:15 この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。
「死を越えて」詩篇記者はなぜここまで言えたのだろう。「世々限りなくわたしたちの神」であるならば、当然だと言うことだろうか。死はすでに眼中にない。神のいのち、神が生かしてくださる命、永遠のいのちに生きているからか。
Ps49:16 しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる。〔セラ
20節に「彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない。」とあるように、死のあとは、ない。復活は、永遠の命はかたれていない、この16節は陰府について語っている。永遠に光を見なくなる一つ手前を想定しているのだろう。しかしこれらすべてを、霊的な死、霊的に瀕死の状態についての記述と考えることも出来るかもしれない。この詩篇はいつか学んでみたい。
Ps50:12 たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。
前半は何を言っているのだろう。神が「飢えることが」あるのだろうか。仮定上の話で、そのようなことはあり得ないと切り捨てることはできる。しかし、神も、苦しみ、悲しみ、痛み、飢えるととることもできる。そうであっても、だからと、ひとに助けを求めるのではない。はっきりとした自覚があることを、この詩篇記者は見ていると言うことなのだろう。そのように考えると、驚かされる。
Ps51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
「あなたのみに」は何を意味しているのだろうか。口語訳は「あなたに向かい」となっている。この詩篇では、最後の部分を除き、神と向き合うことに集中している。2節には「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」となっている。この場面で神との対峙のみが取り上げられていることも、考えさせられる。
Ps52:8,9 これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
教育的にも大切なのだろう。しかしわたしは、自分を省みることにこの聖句を用いることに限ろうとする。その性向は行きすぎなのかもしれない。他の人の魂に関心があっても、このようなことばを伝えると、それを目的として、結局、神には心を向けないことを危惧し、あきらめているからか。結局のところ、わたしも、神に望みを置いていないのだろうか。自分の心の中も調べたい。
Ps53:3,4 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
ヨハネ7:17「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」を思い出す。「御心を行おうとするもの。」「神を求める人」主はそのような人を求める。しかし、次の節が続く。これはローマ3:12に引用されている。「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」このフレーズは2節にもあるが、他にも詩篇14:1,3にも出てくる。この二つの詩篇は共に「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。」で始まり、似た部分が多い。
Ps54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
「異邦の者」はすなわち神を知らない者として排斥し、個人的に神とつながり、裁きをもとめる。特に、ダビデに強いように思われるが、イエスの教えは少し異なるように思われる。神の国という、普遍的価値がある。御旨、御心、神の心を心とすることにより集中することには、普遍性がある。まさに「神以外の何者をも神とせず」立派な信仰告白だと思わされる。
Ps55:3 わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。
23では「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」となっている。ここにいたる背後には何があるのだろうか。この二つの節は、同じひとから出てきているところに、信仰の本質を感じる。「悩みの中にあってうろたえて」いる自分をすなおに出して「重荷を主にゆだね」る、そのようなものでありたい。
Ps56:4,5 恐れをいだくとき/わたしはあなたに依り頼みます。 神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。
この詩篇は「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます。」(14節)で結ばれている。この確信をもって生きること、わたしも自分の人生の中心におきたい。死ではなく、命の光の中に歩ませてくださる主をみつめて。
Ps57:2 憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。
「憐れんでください」は何を言っているのだろう。神に自分の惨めな状態を知ってもらいたい。そのような意味だろうか。しかし、おそらく、神は、そのことをご存じで、かつ、それ故に、心が痛んでおられるように思われる。神が憐れまれることと、私たちが憐れんでいただきたいと願う部分は、異なるかもしれないけれど。まさに、イエスが深く憐れまれたように。
Ps58:2,3 しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。 いや、お前たちはこの地で/不正に満ちた心をもってふるまい/お前たちの手は不法を量り売りしている。
「お前たち」「人の子ら」は誰なのだろうか。特定の人なのだろうか。4節では「神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。」と続けている。7節から10節では、このような人たちへの裁きを願い、11節、12節には「主に従う人」との対比が記されている。全体として、世の不正などに対する、そしてそれは、自分をも含むかもしれない世界にむけての詩篇記者の信仰告白なのかもしれない。真理の記述と考えて詠むと、混乱を来す。
Ps59:14 御怒りによって彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さないでください。そのとき、人は知るでしょう/神はヤコブを支配する方/地の果てまでも支配する方であることを。〔セラ 
この前の12節には「彼らを殺してしまわないでください/御力が彼らを動揺させ屈服させることを/わたしの民が忘れることのないように。わたしたちの盾、主よ。」とある。1節には【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。】 とあるので、この背景のもとでの詩篇とすると、理不尽に付け狙われるダビデの姿が浮かび上がる。しかし同時に、ダビデは主に油注がれたものに対する畏れから、サウルを殺すことはしない。12節はそのこととは異なる根拠による「彼らを殺してしまわないでください」だろう。最初にあげた「彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さない」こととあいまって、望むことは、ひとが神が神であることを知ることとして、神に栄光を帰すところにつながっているのだから。
Ps60:13,14 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
ここで「人間の与える救い」は何を言っているのだろう。「神と共に力を振るうこと」「神が敵を踏みにじ」ることとの違いは何なのだろう。ヨハネ7:18の「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」を思い出す。「人間の与える救い」は「自分の栄光を求める」救い、「共に力を振るって」くださる「方の栄光を求める」こととの違いだろうか。神が神としてあがめられること、神以外の何者をも神とせずから、この部分が抜け落ちてしまってはいけないのだろう。
Ps61:9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い/日ごとに満願の献げ物をささげます。
「満願の捧げ物をささげます」の部分は口語では「もろもろの誓いを果たすでしょう」となっている。神への願いをもちつつ、それをいただいたから、感謝ではなく、献身の意思を示したものと思われるが、この詩篇については、まだよく理解できない。
Ps62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
この言葉を、ひとを裁くために用いてしまう。5節にある「人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。〔セラ」このような状況のもとでこそ、この詩篇記者のように「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」(6節)人への批判ではなく、神にこころを向けたい。
Ps63:12 神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
1節には【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】 とある。これは、サウルから逃れていたときのものだろうか。いずれにしても、苦しい状態の時だろう。そのときに、このような詩篇を詠むことができることに驚く。さらにこの最終句12節にいたる最初の2節は「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」となっている。この渇きが最後の祈りにつながっているのか。宗教性の訓練ということばは当たらないだろうが、驚かされる深さがある。
Ps64:7 巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。
3節の「わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」始まる「悪を行う者」の記述の最後である。神を神とせず、自らを誇る恐ろしさを感じる。
Ps65:2 沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。
沈黙して、賛美を献げる。音楽だろうか。音はなくても、賛美を献げられるのだろうか。賛美は、何を意味しているのだろうか。レビ7:16「和解の献げ物を満願の献げ物ないしは随意の献げ物としてささげる場合は、ささげた日にそれを食べ、翌日にもその残りを食べることができる。」が「満願の献げ物」の初出である。口語は「誓願のささげもの」NIVでは上の箇所は”Praise awaits you, our God, in Zion;     to you our vows will be fulfilled.” となっている。英語はいくつか訳をしらべたがすべて vows だった。満願は誓いと考えるのがよいだとう。もう少し調べてみたいが。
Ps66:1 【指揮者によって。歌。賛歌。】全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。
地が賛美すること、詩篇では何回も出てくるが、何を意味しているのだろう。深く考えたことがない。詩篇に現れる「全地よ」だけ調べてみた。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(96:1)「主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。」(97:1)「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。」(98:4)「【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(100:1)「全地」は神の被造物、それは、良いもの、神の栄光を表すものということが背景にあるのだろう。
Ps67:5 諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ
この詩篇は「神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように〔セラ」(2節)から始まる。様々な要素を含むが、最初は「わたしたち」である。そして、3節では「この地」「すべての民」(通常はユダヤ人)となる。そしてこの節では「諸国の民の喜び」へと発展する。ひとりひとりの信仰の広がりなのかもしれない。この節を頂点に「すべての民」そして最後は「神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべてのものが神を畏れ敬いますように。」(8節)となる。興味深い。
Ps68:6,7 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。
これらのことをなされる神が、聖なる宮に住まわれる方という意味なのだろう。このようなことをされるかただから、聖なのでもる。最後は「背く者は焼けつく地に住まねばならない。」として、住まわせるとはなっていない。ヨハネ1:18「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」を思い出す。
Ps69:33 貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には/健やかな命が与えられますように。
ここでの貧しい人は経済的な貧しさではないだろう。マタイ5:3の「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」を思い出すが、マタイ11:5の「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(イザヤ26:19「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」)聖書の貧しさの意味をもっと根本的に学びたい。この節はそれが「健やかな命」につながっている。「天の国はその人たちのもの」につながっているのかもしれない。
Ps70:5 あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。
尋ね求めるもの。ここに鍵がある。ヨハネ7:17の「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」御心を行おうとする者とも関係している。
Ps71:18 わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。
9節には「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」とある。詩篇記者は「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。」(5, 6a)と言い、この直前の17節に至るまでこの人がどのように生きてきたかが分かる。「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。」それまでに生きてきたようにしか生きられない。老いて白髪になったとき、それは、今と同じ。
Ps72:1 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
このあとに、神による裁きがどのようなものかが語られている。たとえば、直後には「王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。」王がこのように裁かれるのであれば、しかし、それを条件としてはいけないのかもしれない。
Ps73:1 【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。
非常に興味深い詩篇である。1節は、主題なのか、背景なのか、それとも、最終的な記者の告白を最初に持ってきているのか。「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「心の清い」という表現は、聖書で二カ所だけである。イエスもこの詩篇を意識したとも考えられるだろう。2節には「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」そしてこのあとには「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。」(3-5節)と続く。これも一つの世の不条理とも言えないこともない。一つ一つ印象に残る言葉が多いので、ここに書き切れないが25節「地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。」を心に留めたい。この詩篇記者と共に神に向かって生きるために。神を見ることが出来るかもしれない。
Ps74:21 どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように。
この詩篇も衝撃的である。「永遠の廃虚となったところ(シオンの山, 2節)に足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました。 あなたに刃向かう者は、至聖所の中でほえ猛り/自分たちのしるしをしるしとして立てました。」(3節・4節)神に逆らう者たちのしるしが立てられ、至聖所がまったくけがされてしまっている状態である。その中での祈りである。アサフの詩となっているが、捕囚後を思わせる。
Ps75:9 すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み/おりまで飲み干すでしょう。
裁きの杯である。詩篇16:5では「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。」とあり、杯は特に裁きではない。詩篇23:5bには「わたしの杯を溢れさせてくださる。」とあり、詩篇116:13には「救いの杯を上げて主の御名を呼び」とある。様々に用いられているが、神から与えられたものを受けるという意味合いなのだろう。上の箇所では、神に逆らっている者が、神から受けるものについて、あまりよく考えず、結局は、裁きを飲み干している様を表現しているのだろう。あまり杯にこだわらず、神様の主導であるが、それが、人間世界のことばで美しく表現されているととるのがよいかもしれない。
Ps76:7 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると/戦車も馬も深い眠りに陥る。
4節には「そこ(サレムの幕屋・シオンの宮)において、神は弓と火の矢を砕き/盾と剣を、そして戦いを砕かれる。〔セラ」とある。戦いが日常的であった時代に、どのような気持ちから、このように詩篇記者は書いているのだろう。日常的であったからこそ、神がそこに働かれることの表現は、このようになり得るのかもしれない。周囲で最も困難なところにも、主は、そこでも主導権をもって働かれるということだろう。
Ps77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
口語では「あなたはわたしのまぶたを支えて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほど悩みます。」となっている。口語は分かりやすい。原語での意味は分からないが、NIVは、"You kept my eyes from closing; I was too troubled to speak.” である。目に入るものの悲惨さから、悩み苦しみの深いことが読み取れる。そして9節10節では「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ」とあり、これが、12節以降は「わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け」と主の恵みに目をむけ賛美をしている。これだけの深さの苦悩をわたしは神に持って行っているだろうか。こころの底(おそらく「はらわた」)が傷つく。
Ps78:19,20 神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整えることが/神にできるのだろうか。 神が岩を打てば水がほとばしり出て/川となり、溢れ流れるが/民にパンを与えることができるだろうか/肉を用意することができるだろうか。」
ヨハネ7:38「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」に関係している。(Ps78:15,16)ここでは、それでも疑う民のことが語られている。つぶやきの根は深い。
Ps79:1,2 【賛歌。アサフの詩。】神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い/あなたの聖なる神殿を汚し/エルサレムを瓦礫の山としました。 あなたの僕らの死体を空の鳥の餌とし/あなたの慈しみに生きた人々の肉を/地の獣らの餌としました。
異国の民であるわたしには、この感覚はなかなか理解できない。そして、キリスト者としても、わたしはこの感覚を持っていないように思われる。神の民という概念を否定しないが、神が愛されるひとり一人を区別することの問題点をより大きく感じるからだ。そこを越えないと、詩篇記者と信仰告白を共にできない、つまり同じ神を信仰していると言えないのだろうか。このことはいつかしっかり考えてみたい。
Ps80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
ぶどうの木はまず9節に「あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。」としてあらわれ、ここにもぶどうの木がでてくる。このぶどうの木はイエスキリストではないのだろうか。神につながる木として植えられたと考えると、同じなのかもしれない。すでに、人々は、このぶどうの木から離れてしまっていることを気づいていないのだろうか。全体としてそう考えるのは、この詩篇に関しては適切ではないだろうが。
Ps81:17 主は民を最良の小麦で養ってくださる。「わたしは岩から蜜を滴らせて/あなたを飽かせるであろう。」
ヨハネ7:37,38「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」を学んでいるので、イエスという岩から流れ出る水についても考えている。1コリント10:4「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」などを背景とした解釈である。ここでは「蜜を滴らせ」とあり、さらに驚かされる。この詩篇は13節の「わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。」や、詩篇記者が取り次ぐ神のメッセージという面、偶像礼拝禁止はイスラエルに向かって述べていることなど、興味があるが、深めることはできない。備忘録として記す。
Ps82:8 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
この詩篇は「【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」と始まる。「すべての民を嗣業とされる」ということは未来形なのだろうか。すると、ユダヤ人に限ったことではない。口語では「すべての国民」となっているので、異邦人も含むのだろう。1節の解釈は、いろいろあるようだが、全世界を意識しているのかもしれない。そして神の完全な支配は、神が「地を裁」くことであると共に「神々の間で裁きを行われる。」事なのかもしれない。少なくとも詩篇記者がそれを意識していたのかもしれないとも思う。
Ps83:13 彼らは言います/「神の住まいを我らのものにしよう」と。
このようにはっきりと言う民がいるのだろうか。一部の声かもしれない。しかし9節の「アッシリアもそれに加わり/ロトの子らに腕を貸しています。〔セラ」を見ると、これはある程度古い詩篇であることも、わかる。世界観は、神観とも、人間観とも密接につながっている。しかし、神がどのように見られるか、それを大切にしたい。
Ps84:6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。
最後の「心に広い道を見ている人」とはどのような人だろうか。口語訳は「その心がシオンの大路にある人」となっている。神の道に希望を置くということだろうか。自分の見える範囲、自分で解決できる範囲の視野で物事を見ないことかもしれない。そして神への信頼へと導かれるときに、勇気が与えられる。背景に、自分の小ささ、弱さの認識がなければ、無批判の盲信と変わらないのかもしれない。区別はしかしながら簡単ではない。
Ps85:7 再びわたしたちに命を得させ/あなたの民があなたによって/喜び 祝うようにしてくださらないのですか。
神の業は命を得させること。そしてそれは、私たちが喜び祝うようにされることである。しかし、この詩篇をみると、詩篇記者は、微妙なことばで揺れている。1節では捕囚から連れ戻られたことが書かれ4節では「怒りをことごとく取り去り/激しい憤りを静められました。」と書いているが、同時に6節では「あなたはとこしえにわたしたちを怒り/その怒りを代々に及ぼされ るのですか。」と声を上げている。帰還後の微妙な状況が背景にあるのだろうか。
Ps86:11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中 を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。
まさにこれがわたしの願うこと。このように生きたい。主のみこころを自らの心として。神様、あなたの道を教えてください。あなたの御名を畏れうやまうことができるように。
Ps87:6 主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。〔 セラ
この詩篇では、4節でも5節でも、諸国の民のことが語られているだけではなく、神を諸国の民の創造者と告白しているのが「人々は語る」と表現されている。神でも、詩篇記者でもないところが注意を引く。他国との関係は、必ずしも良好とは言えなかったときに、国名まで出すこの告白にも驚かされる。「ラハブとバビロンの名」を主を知るものの名としてあげ「ペリシテ、ティルス、クシュ」をもエルサレム、主の都の出身としている。
Ps88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。
この詩篇の最後の節である。4節には「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。」これほどの絶望で終わる、詩篇は他にもあるのだろうか。しかし他の考え方をすると、この最後の節においても、目は「あなた」に注がれ、希望を持っているようにも思われる。中途半端な信頼とは、異なる。
Ps89:35 契約を破ることをせず/わたしの唇から出た言葉を変えることはな い。
32節から34節では戒めをまもらないようになったとしてもと書かれている。そのような主の不変の契約を覚えている。しかし最後をみると、その背景は、平穏ではないことが分かる。「主よ、御心に留めてください/あなたの僕が辱めを受けていること を/これら強大な民をわたしが胸に耐えていることを。」(51節)そして「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。」で結ばれている。これが信仰なのだろう。
Ps90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。
この詩篇はひとのはかなさと神の雄大さを語っているが、中心は、そのはかないひとの人生に目を留めていただくことを願っている部分だろう。わたしは、確かに若い頃、苦難とはいえないかもしれないが、もがいていた時期があった。しかしいま喜びを返していただいているように思う。12節にあるように「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」と祈り、これからの人生を生きていきたい。
Ps91:14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
そうなのだろうか。この詩篇は「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ/『わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方』と。」(1,2節)とはじまる。なにかそのように言うことが重要で、それに神が応じられると書かれているように思われる。しかし、単に、神との関係、応答関係を伝えているのかもしれない。単純で、かえって難しい。
Ps92:15,16 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。
このようでありたい。このように述べ伝えること自体が、命に溢れ、いきいきと生きることなのかもしれない。生きがいをもって老いることは、老いてもなお実を結ぶ事なのだろう。そのことに挑戦したい。
Ps93:2,3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
聖書で海の記述はあまり多くないように思っていたが、詩篇だけで37件ある。あまり多くないと考えたのは、海を船で移動する、つまり海伝いでの海外との交流を精神的なことに反映した例は、旧約時代にはあまりなかったように思われるからかもしれない。ヨナや、ソロモン時代の交易などはあるだろうが。それと比較して大水は特別な意味があるように思われる。詩篇は17件。巨大な御しがたいものとして現れる。いつかしっかり考えてみたい。
Ps94:11 主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。
このようにこの詩篇記者は告白している。自分の計画に頼ることがむなしいこと、そしてこれにつづく12節13節「いかに幸いなことでしょう/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は。 その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。」静かに待つ信仰。それが主を主とすることかもしれない。
Ps95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
次の8節で「荒れ野のメリバやマサ」を回顧し9節は「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。」と続く。上に引用した7節はこの背景のもと「今日こそ」と言っている。これを傲慢とは言えない。自分が何者かを理解し、自己義認ではなくへりくだる、そして自らを鼓舞するさらに神に助けをもとめ委ねる。信仰者の態度だろう。
Ps96:13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。
最初のことばは口語訳には入っていないように思われる。主が来られる、その裁きが、神の国の到来と多くの人は考えていたろう。そして、バプテスマのヨハネも。神の到来は、神の御心が完全に地に成るときであることは、イエスについても同じで、裁きも語られるが、さらに新たな面が含まれている。それこそが、神の御心が完全に行われることであり、神と共に生き、神の栄光を表すことなのだろう。
Ps97:11 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。
この詩篇では主について詩篇記者が語る形式をとっており、この部分も記者の告白である。興味深いのは、与えてくださるとせず、種まいてくださるとしているところである。趣がある。そしてこれに続く12節では「神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。」と結んでいる。これが信仰なのだろう。
Ps98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
おそらく、特定の救いについて述べているわけではないだろう。これに続いて「主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。」(2,3節)となっている。イスラエルの救いについて述べているが、その影響は地の果てまでである。当時は、確かにイスラエルの救いについて述べているが、これはまさに、全世界の民の救いにつながる、神の業としての救いなのだろう。
Ps99:8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。
4節では「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。」となっている。「裁き」これは「公平」に結びついているが、さらに「赦す神」「咎に報いる神」と続く。一つ一つを強調しない方がよいかもしれない。聖書全体で理解しないと。いずれも、一部分を表しているに過ぎず、かつある信仰告白なのだから。
Ps100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。
主の真実とは何だろう。ひとつ分かるのは、わたしの真実は永遠ではないこと。それに、対するものとして理解することである。もう一つは、なにが起こっても、理解できないことがあっても、主は常に真実であるという告白だろうか。神は善い方、善いということばは、神だけに対して使われる言葉である。「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』 イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。』」(マタイ19:16,17)
Ps101:3,4 卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず 曲がった心を退け/悪を知ることはありません。
神の前にあゆむ、決意表明だろうか。神の業は命を与えること。私たちの業はその命をうけとり生きること。すこしヨハネ的かもしれないけれど。その命を生きることは、よりよく生きることと世の賢人が表現したことなのだろう。1節のほめ歌うことにつづき、2節には「完全な道について解き明かします。」となっている。みこころを理解する事とも通じているのかもしれない。自分を縛ることだけではなく書かれている。御心を知りたい。
Ps102:19 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
この詩篇は難しい。あまりにもいろいろなことが書いてあり、なにを言おうとしているのかがよく分からない。その中で、この節が突出して見える。ひとの営みは御心をもとめて、全力で生きること。それは、その命を与えてくださる、カミオン素晴らしさを表現することなのかもしれない。
Ps103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
このあとに、主のお計らいの内容が続く。罪の赦し、病の癒しと3節にあるが、このあとには「命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。」(4,5節)と続く。具体的にどのようなことを言っているのだろうか。思い巡らすことが多いが、いずれ考えてみたい。
Ps104:15 ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。
みなポジティブな影響を与えるものが書かれている。油は化粧に用いられたのだろう。これについては、実感がないが、ぶどう酒と、パンをこのように表現しているのは、興味深い。
Ps105:41 主が岩を開かれると、水がほとばしり/大河となって、乾いた地を流れた。
Ex17:5,6には「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」とあるだけである。しかし、ここでは「大河となって、乾いた地を流れた。」との表現になっている。ヨハネ7:37,37「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」と呼応して興味深い。
Ps106:23 主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。
エゼキエル22:30には「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」とある。一般的には破れは城壁の破れに多く使われている。たしかにそれは町を守るためには、鍵となる。モーセの行為は何を意味するのだろうか。主との対話を通して、主の性質をよりよく表すためか。
Ps107:9 主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
主の主権的なはたらきが、裁きと救い、導きと恵み、種種記されている。そして最後は「知恵ある人は皆、これらのことを心に納め/主の慈しみに目を注ぐがよい。」(43節)と締めくくられている。扱われている内容は広く、要点は、まだ把握できない。しかしこのような広さをつねに心に納め、主のはたらきに目を注ぐことも大切にしたい。
Ps108:13,14 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
人間の与える救いのむなしさを知っているこの記者はどのような人だろうか。わたしは、ここまで、はっきりと、神と共に力を振るいたいと言えるだろうか。神の価値観に本当に委ねることができるだろうか。この世で実感をもって把握できない、神の救いよりも、むなしさを多少感じてはいても、ある実感を持つことのできる、人間の与える救いを受け取ろうとしてしまうのではないだろうか。この弱さと戦い、神の救いを自分のものとしていく、日々の営み、それが神と共に力を振るい生きることなのかもしれない。
Ps109:31 主は乏しい人の右に立ち/死に定める裁きから救ってくださいます。
今日は、ただ、このことを感謝しよう。混乱とまでは、いかないが、限界も感じている。神様は、そのように導いておられるのかもしれない。わたしが本当に乏しい者になったとき、主を見ることができるのかもしれない。救いは、死以外になにも見えなくなったときに得られるのかもしれない。
Ps110:7 彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。
彼はだれだろう。1節の「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」から考えると、マタイ22:43-45「イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」」このような有名な箇所でもあるので、メシヤのことだろうか。ここでも、大河から水を飲みと、水が現れる。知らなかった。
Ps111:7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実
ヨハネ5:21「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」これがイエスが行う神の業であるというのが、ヨハネにおけるメッセージである。この詩篇では、裁きとなっている。命を受け取るかどうか、それが裁きになると言うこととして良いのだろうか。もう少し、丁寧に確認したい。
Ps112:10 神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。
例えばヨブ12:6で「略奪者の天幕は栄え/神を怒らせる者/神さえ支配しようとする者は安泰だ。」とヨブが語るように、必ずしも、世の中で一般的なことではない。しかしもう少し深い意味があるかもしれない。この直前の9節には「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」特にこの前半である。このような価値観に生きる者の存在自体が、神に逆らう者の敗北といえるのかもしれない。
Ps113:6 なお、低く下って天と地を御覧になる。
4節では「主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。」と述べ、その上で、この5節が語られる。「低く下って」とともに「天と地」と書かれていることにも興味を持つ。さらに、7節以降には、その具体的な神の働きが語られている。「弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。 子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」一つ一つ丁寧に学んでみたい。「自由な人々の列」も最後の記述も、わたしには、分からない事だらけである。
Ps114:8 岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
岩は水とは全く関係ない、水がでるとは考えられないとことなのだろう。そこから、水が溢れる。硬い岩が泉となる。ペテロを思うが、教会や、そして、神の子にもこのことが関係しているのかもしれない。これほど、詩篇に岩からの水が語られているとは知らなかった。
Ps115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。
よくは分からないが「偶像と同じようになる」考えてみたい。「人間の手が造ったもの」(4節)に頼る。人間のそのものの大切さ、自然から学ぶことも含め、人間が理解できないことが多くあることを認めておらず、制限している。「口があっても話せず/目があっても見えない。 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。」(5節,6節)認識は、自分の中にないものを取り込むこと、自分の中であっても、見えないものを理解すること。それに目を閉ざすことは、自殺行為だと言うことか。
Ps116:10,11 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
痛みの中では、考えることすらできなくなる。まして、人は必ず欺くと考え、不安の中にいるときはなおさらである。痛みや、不安そして、その背景にあるものをすべて神の御手に委ねる。それが9節で言っている「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」主の御前に歩み続けることなのだろう。わたしもそのように生きたい。
Ps117:1,2 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
2節しかない聖書でもっとも短い章である。目にとまるのは「すべての国」「すべての民」と全世界に呼びかけている点と「わたしたちを超えて」の部分だろうか。そこに賛美、ハレルヤが結びつけられている。現実には、受け入れられない様々な問題を前にして、主に委ねる部分も、この「わたしたちを超えて」に秘められているように思われる。
Ps118:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
「慈しみはとこしえに。」が4回続く。慈しみとは何だろうか。ヘブル語ではヘセドである。goodness, kindness, faithfulness とともに a reproach, shame とある。Vines によると、in a good sense, zeal towards anyone, love, kindness, in a bad sense, zeal, ardor against anyone, envy hence reproach. なかなか難しい。いずれしっかり学びたい。ここは、KJV は mercy, ESV, NIV, RSV は (steadfast) love である。日本語の慈しみや、仏教における慈悲を連想させる。といっても、中身はよくわからないが。
Ps119:19 この地では宿り人にすぎないわたしに/あなたの戒めを隠さないでください。
詩篇119は「みことば」を中心に数え歌形式で書かれている。この句では「戒め」が「みことば」に対応するが、わたしの好きな「宿り人」という言葉に反応してしまった。口語訳では「寄留者」である。主の「戒め」意外に寄る辺とするものはない。それを隠さないでくださいと、御心を求める。そこにひかれるのだろう。他にもいくつもの御言葉が心に残るが、どのようにこの詩篇を学んだら良いか、困難も感じる。ゆっくり何日かかけて学んでみたい。
Ps120:7 平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。
6節には「平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。」とあり、それは5節によると「わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」となっており、近隣との関係が嘆かれている。しかし遊牧民と農耕民との間には、常に戦いがあったろう。そのなかで、7節はどう理解すれば良いのだろうか。私には、よく分からない。
Ps121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
2節は「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」とあり、これが全体の核にあるように思われる。しかし、この3節は「あなた」となっている。これは誰に向けられているのだろう。王なのかもしれない。しかし、何も書かれていないことを考えると、誰に対しても、適用できるともいえる。自分の確信ととりなし。共に都に上るときに口ずさむ。そのような実際の光景を見てみたい。
Ps122:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。
このような連帯と喜び、わたしも共にしたい。わたしはその喜びが、共にできない人を裁くことになるのではと慎重になりすぎているようにも思われる。主をともに喜びたい。
Ps123:3,4 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。 
2節の「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。」から分かるように、救いは神からのみ来ることを知り、信頼している。個人的に、この詩篇記者の告白のようにまでは、嘲笑、侮りにさらされてはいないかもしれないが、理不尽さ、誤解などから、平安を保てなくなることはある。そのときに、この記者のように、神に憐れみを請う、そのように、わたしはできるだろうか。
Ps124:3-5 そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。 そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。」
「敵意」は誰のものだろうか。おそらく、敵のものが想定されているのだろう。しかし、そうでないと理解することもできる。すなわち、わたしたちの「敵意」である。この詩篇は「イスラエルよ、言え。『主がわたしたちの味方でなかったなら』」と始まる。主が共におられることは、平和を与える。2節にあるように「わたしたちに逆らう者が立ったとき」にも。「大水」に「押し流」されることも「激流」が「超えて行」くことも。これらはすべて神の支配のもとにあるのだから。
Ps125:3 3:主に従う人に割り当てられた地に/主に逆らう者の笏が置かれるこ とのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。
1,2節では「都に上る歌」として「主に依り頼む人」とエルサレムの堅固さが対比されている。他方この3節では、そのエルサレムが占領されることと、主に従う人が悪に手を伸ばすことが対比されている。そのことが全くないとするのではなく、そうならないよう祈っているところに謙虚さと信仰を感じる。
Ps126:1 1:【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/ わたしたちは夢を見ている人のようになった。
捕囚からの帰還について述べているのだろうか。そうすると、最後の5節6節「5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」を努力が報いられるととるのは、誤りである。あくまでも、神の憐れみによって、喜ぶのだから。
Ps127:3-5 見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。 いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。
前半とのつながりは難しい。いずれじっくり考えたい。後半は、他者への配慮もあって、いままで取り上げてこなかったが、感謝の内に、このことばをアーメンといいながらとりあげたい。私は結婚もそれほど早くはないが、こどもたちは「主からいただく嗣業」だとこころから思っている。あまり強い願いを、こどもたちにかけなかった。自分のものではないと最初から考えていたからだ。しかし同時に、神様についての伝え方はもっとほかにあったのではないかと、何度も考えた。わたしの信仰を顧みると、十分証になっていないことは容易に想像がつくから、こどもたちによい影響をあたえていないことは事実なのだろうが。それでも、自慢(人から見るとそうかもしれない)をしているわけではないが、こどもたちに誇りを持ち、ひとと語れることは事実である。わたしは、心よりの感謝を抱いている。
Ps128:1,2 【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。 あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。
幸せであることは「(自分の)手が労して得たもの(が)(自分の)食べ物となる」こととある。遊牧民が互いに略奪していた時代だからともいえるが、人生の労苦が、祝福として見ることができることは、どの時代にも幸せであろう。わたしも、何度も、多くの時間をかけたことが、引き継がれず、水泡となったことを経験したが、それから学んだことも事実である。主を畏れ、主の道に歩んでいきたい。
Ps129:4 主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。
あまりよくは分からないが、主に逆らう者から自由で得られるのはすばらしい。いつでも、主に従う状況が整っているともいえる。世の中には複雑な難しいこともあり、そこまで告白できない、現在の複雑さと、個人的な信仰の弱さを感じる。まさに主が断ち切ってくださることに信頼することが求められているのだろう。
Ps130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
「【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」と始まる。「深い淵の底」ということばにまずひかれる。3節には「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」とあり「赦しが主のもの」であることが4節に書かれている。7節の「贖い」は何を言っているのだろうか。罪の購いだろうか。それとも、買い取られた状態からの購いだろうか。購いひとつについても、わたしは何も理解できていないことを感じさせられる。
Ps131:2 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。
「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。」から始まるこの詩篇で「幼子のように」は驕らないことの象徴として語られていると思われる。イエスが「言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3 および 4, 5, 19:13-15)で「子供のように」と言っているのと同じだろうか。「幼子のように」はパウロの書簡で二回使われる以外は、聖書でここだけである。傲慢についてのこの詩篇は興味深い。
Ps132:17 ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。
ダビデの謙虚さ(1節)から始まる。それは、神殿建設への希望を語っている。それを受け継ぐ者として、油注がれた者を望んでいるのだろう。メシヤはこの系譜なのだろうか。
Ps133:3 ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
「シオンの山々に滴り落ちる」は2節の「かぐわしい油」である。そして1節は「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」と始まっている。その中で考えると、主が布告される「祝福と、とこしえの命」の重さも感じる。
Ps134:3 天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福してくださるように。
天地創造の神を主とする宗教はおそらくいくつもあるだろう。しかし、それがどのような意味を持っているかまで、発展する段階で、質が問われるのだろうか。難しい。
Ps135:1 ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を/賛美せよ、主の僕らよ
詩篇は祭りでの賛美にも多く使われ、今でもいくつも使われていると聞くが、この詩篇もそのような目的があるかもしれない。個人の信仰告白とともに、民としての賛美の要素を軽視すると、理解できないことも多いのだろう。キリスト教会には、なかなか理解しにくい部分だが。
Ps136:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
この詩篇の中に多くの思いが込められていると思う。ひとつひとと味わいたい。そのこころが、祭りでの賛美、過越の食事での賛美につながっていったのだろう。ひとつひとつの神の慈しみを覚えること、それは、人にではなく、神に目を向けることであり、私たちにとっては、慰めであり、喜びであり、希望でもある。
Ps137:1-4 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。 どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。
嘆きが伝わってくる。しかし、同時に、限定的な状況について語っていることも注目すべきだろう。賛美をしないと言っているわけではない。柳の木に掛けたという言葉も、永続的なことではないことの表現でもある。主のための歌を結局このように歌っているのだから。
Ps138:3 呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。
2節前半の「聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。」を見ると、今と異なることも感じるが、解放してくださり、力を与えてくださる主、その主を呼び求め、希望を置くことは、変わらない。詩篇の時代の信仰者も、わたしたちも。いのちを与えてくださる主。そのいのちに生きることを一生学んでいきたい。
Ps139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
内蔵はキリヤ(kilyah)が使われている。肝臓や犠牲の内蔵とともに、人間の感情や愛情のある場所の意味をもち、転じて手綱の意味ももつ。日本語では「こころ」なのかもしれない。だからといって分かったことにはならない。この詩篇は、神が自分のすべてをご存じであること、そして最後には「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」(23節24節)で締めくくっている。自分に主体的な部分があるとすればそれがキリヤで、それを作られたのは主と言っているのかもしれない。神との関係の中で自分の価値を判断していることは、確実。
Ps140:13 わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。
主の働きに希望を持っている。主がいのちを与えてくださる方、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを知っている。それが信仰なのだろうか。
Ps141:4 わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。
誘いはつねにある。決然として自分の心(leb レイブ:inner man, mind, will, heart, understanding)が悪に傾くことに抗したい。主の支え以外にないことを、詩篇記者は知っているのだろう。9節に「どうか、わたしをお守りください。わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。」とあるようにわたしも祈りたい。
Ps142:4,5 わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。 目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。
このような状況にいると感じることがある。現実はわからないが、それこそが「わたしの霊がなえ果てているとき」なのだろう。その状況を「御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。」(3節)と訴える。神との関係の中で、自分の弱い状態も見つめ、かつその救いが自分の中にないことを認めているのだろう。それこそが信仰生活である。
Ps143:4,5 わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。 わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。 
心が挫けるとき、この人の向かう先が、自分の歩みの中における神の働きである。恵みを数えることとも言われる。苦しみは霊がなえ果てるところからくるのかもしれないが、それは、自分の内にあるものである。自分の内なる世界をみながらその行き着く先が、そとに向かうことがやはり必要であると思わされる。
Ps144:3,4 主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。 人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。
この詩篇は「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。」(1,2節)そして唐突にこの3,4節があり、さらに5節からは「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。」と天地を治められる神の出動が語られる。この3,4節はそのような句の間にある。思い上がらない、自覚がここに込められているのかもしれない。
Ps145:9 主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
「【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。」(1節)と始まる。どこまで意識を神が造られ、統べ治められるものに向けられるのだろうか。そしてそれが他者にとって何を意味するのかに。他者にとっての理解が大きくことなるとき、どのようにしたら良いのだろうか。共通のものを築いていくこと、丁寧な営みとしかいえない。
Ps146:8,9 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
このような主に希望を置くのはやはり素晴らしい。それは、捕囚などの惨めな状態を通して形成されたのだろうか。この価値観は素晴らしくとも、これに反することに人は惹かれる面も無視できない。放蕩息子の兄、ぶどう園で朝から働いた労働者のように。ここが鍵でありながら、イエスに指摘されても気づくことができないまたは悔い改めることができない。神のこころとシンクロナイズするのは、なんと難しいことか。
Ps147:3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
直前には「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。」(2節)があり「打ち砕かれた心の人々」は「追いやられた」イスラエルの人々なのだろう。「癒す」はラファ(rapha')to heal, make healthful である。興味深いのは「その傷を包んでくださる」とあり、完全に治るのではなさそうなことである。主が包んでくださった傷跡を見ながら、神の恵みに感謝し「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。」(1節)とあるように、神をほめ歌いたい。
Ps148:5,6 主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。 主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。
この詩篇は最初から最後まで「ハレルヤ、主を賛美せよ」(1節)である。その途中に創造と超ええない掟が書かれている。口語訳では「越えることができないその境を定められた」である。掟・境は、ヘブル語はホーク(choq = statute, ordinance, limit, something prescribed, due)である。とても、考えさせられる。聖書での使い方も考えさせられる。掟の積極的な意味も感じさせられる。主を賛美することの中に、人に越えることのできない境、掟を神が定められていることを自ら告白することも含まれているのかもしれない。
Ps149:4 主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる。
「自分の民」すなわちユダヤ人と「貧しい人」とは同義語とは言わないまでも、意識的にかなり強くつながっていたのだろう。主に希望を置く民の信仰を表すと共に、排他的な面が含まれることも確かだろう。「貧しい人」がどのような意味で使われているかは、いずれ丁寧にみてみたい。
Ps150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
音楽とは何なのだろう。この節のあとも、太鼓・弦・笛・シンバルが踊りとともに賛美と結びついて語られる。人の心を楽しませるものとして、自然なのかもしれない。そして、人が喜ぶことを神も喜ばれるのかもしれない。神様が音楽をこよなく愛されるかどうかは別として。

BRC2013

Ps1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
なにか特別な悪人のように思っていたが、これは、単に神に敵対する者ということかも知れない。神を畏れないという言い方がよりぴったり来るかも知れない。周囲の人の生き方で、そして私の生き方の中で、良い面でも悪い面でも、このようなものを見つける作業をしてみたい。
Ps2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
詩編記者は、どの世界を思い描いていたのだろう。普通に考えると、ダビデ王朝と、周囲の異邦人の国または、遠い地の強国であろう。しかし、この内容をみると、記者もそれ以上のことを意識していたように思われる。なぜそのようなことができるのだろうか。
Ps3:5, 8 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ
この信仰告白と、祈りの幅に驚かされる。この詩編は「主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。〔セラ」から始まっている。このような状況下で、平安の根拠を主に帰し、民全体の祝福をいのる。わたしもこのような、主への信頼に生きたい。
Ps4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。
3:5 と共に、安らかな眠りについて、考える。平安をもって生きることの象徴のようなことが、この安らかな睡眠なのだろう。安らかに眠らせてくださる方に感謝。
Ps5:8 主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
その道を歩みたいということだろう。最初の「わたしのあだのゆえに」は十分は、わからないが、様々な悪をなすひとたちが周囲にどれだけいようとも、このような主の義の道をあるきたいという告白には、心を撃たれる。
Ps6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
怒りの背景は分からない。しかし、その苦しみを神に投げかける。そのような生き方をわたしもしたい。本質をしっかり見据えて。
Ps7:10,11 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。
並木先生が言っておられた「『神』は私にとっての超越的な他者のことですが、この他者も私に愛のかたちで、あるいは怒りのかたちで働きかける存在です。その意味で、神=愛、とは言えません。神は愛を私に対して優先させるか、怒りを選ぶかは神の『自由』です。」を思い出す。新約にあらわれる福音書のイエスは、少し違う印象がある。
Ps8:3,4 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
この驚きの創造主が、とるにたらないものと関係を大切にされる。不思議としか言いようがない。独りよがりの解釈だと人は言うのだろうか。
Ps9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。
「貧しい者」はマタイ5:3, ルカ6:20 を思い起こさせられるが、ここでは、悪い者との対比で出てくる。そう考えると、義のために迫害されまたは冷遇され、または、貧しさを強いられているという意味かもしれない。ルカには、幸いと共に、わざわいについて書かれているように、ここには対比があるのか。
Ps10:1 主よ、なにゆえ遠く離れて/立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
この詩編は、いろいろなことを考えさせられる。悪しき者と貧しい者 (vs1, 9, 15)、寄るべの無いもの (vs10, 14)、そして柔和なもの (v17)。そして、悪しき者の言葉の中に (vs6, 11) v1 の自分の認識と同じものを発見する。そして、叫ぶ。「主よ、立ちあがってください。神よ、み手をあげてください。苦しむ者を忘れないでください。」(v12)そして、17, 18節で、主への賛美としての信仰告白へと導かれる。主との交わりによって (Jn17:3) 神様がどのような方かを信仰体験によって知っていることが、内面化されているからできる告白であろうか。それとも、その交わりの中で、その告白・賛美い導いていただく奇跡を体験できるのか。
Ps11:5 主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
この主の前にわたしは立てるのだろうか。「乱暴を好む者」の反対が、マタイ12:20「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。」だろうか。
Ps12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。
この詩編は「主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。」(v1)ではじまり、「卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています。」(v8) で終わっている。その真ん中にこの言葉がある。これがこの人の信仰の中核にあるのだろう。
Ps13:5 しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
この詩編は次の有名な言葉ではじまる。「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。」(vs1,2) そしてこの5節、冒頭の「しかし」に信仰がかかっている。物理的状況ではない、神との関係、内省の世界を保つことか。では、それは、根拠のないものなのか。物質的なもののみを根拠とする人も、人との関係、起こったことの内省なしには、人は生きていけないことを知っているのではないだろうか。
Ps14:4,5 すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。 その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。
信仰者もやはり苦しみ悩む。しかし平安を与えられる神に信頼するとき「恐れ」は消え去る。ひとの中に「平安」の根拠がないことは、神を畏れる人にとっても、おそれない人にとっても同じように思う。しかし、この詩編の様に、悪を行う者は、神だけではなく、神に信頼する者をも恐れるのか。具体的にはなにを恐れるのだろう。自分が犠牲にして生きている大切なものがそこに見えるからだろうか。謙虚に生きたい。
Ps15:2,3 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、 その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、
このことばのとおりに生きたい。後半は、人生でなにを大切にしているかにかかっているように思われる。その大切なことは、神様が大切にしていることだと言うことか。
Ps16:4 おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない。
神以外のものを大切にする事だろうが、価値基準だけではないだろう。どのように表現したら良いのだろう。
Ps17:1 主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に/耳を傾けてください。
今までこのような祈りは、高慢だと思ってきた。しかし、自分が正しい者ではないことをあげつらい、謙遜を装い、実際には、罪を悔い改めようとせず、隣人との和解の心を閉じているのであれば、それの方が高慢であろう。神の前に、このように祈れる者であることを願い、このように祈れる者であるかを省みると共に、そうでないときには、その問題をまずは、解決していただくことを祈るべきだと強く感じた。
Ps18:27,28 あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。
この詩編はサムエル記下22:2-31と殆ど同じであるが、多少違うことも発見した。28節によると、主は、二種類の光を与えられる。一つは、わたしたちにともしび、そして、もう一つは、神ご自身の世界を照らし出す光。優しい光と、すべてをあらわにする光、27節にもつながる印象をうける。
Ps19:12,13 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
12節には、無意識のあやまち、13節には、故意の罪について書かれている。それらが大いなるとがとされ、それから逃れるためにも、神の導きが必要だとされている。本当にその通り、そのことを神様に願い求めたい。
Ps20:6 今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって/その聖なる天から彼に答えられるであろう。
詩編記者はこのことを示されている。事実が示されたというより、信仰によっって「アーメン」その通りだといっているのだろう。だからといって、根拠がないわけではない、まさに「からしだねほどの信仰」のように、神様の約束の一部の成就をみて、その神様の約束全体に信頼していることを表現している。
Ps21:13 主よ、力をあらわして、みずからを高くしてください。われらはあなたの大能をうたい、かつほめたたえるでしょう。
主の「大能」をあらわすか表さないかも主の選択、しかし、われわれのために、それを表していただくことを望んでいるのだろう。
Ps22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
Mt27:46 などに現れるこのことば、イエスは十字架上でこの詩編をとなえたとも言われている。関係する箇所を考えながらていねいに読んだが、どこまでが関係するとするかは難しい。同時に、この詩編が最初に詠まれたときの状況に興味を持った。イエスの死には適切であっても、通常の状況を想像しにくい箇所もある。いつか、ゆっくり学んでみたい。
Ps23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
ダビデのように、つねに命を付け狙われていたのかも知れない。この次の節にも「わたしの敵の前で」という言葉がでてくる。しかし、そのような「死の陰の谷を歩む」ときも、主がともにおられるという実感があり、主のつえによって導かれ、主との交わりの中にいることを「慰め」ますと表現しているのだろうか。主との日常的な、交わり、これが信仰生活そのものだろう。
Ps24:3,4 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
後半では「栄光の王」とあり、それは主だとされている。すると、ここで言われているものは、王または祭司なのだろうか。しかし、一般的な人とすると教えられる点が多い。手が清くは、なす事が清いこと、心は、その行為の背景にもある、意図だろう。それとは区別される実在として、その人の本質的生き方を支える魂の活動があるのか。そして、最後は偽って誓わないものとなっている。これは、神の前の態度を言っているのではないだろうか。四つに明確に区別することはかえって混乱を生じる。しかし緩やかな区別なのかで、ひとつひとつ考えさせられる。
Ps25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
7節に少し過去のことが現れるが、ここではじめて現実の苦しさが吐露される。ここまでは、信頼と、それに応えられる主について語られる。まずは、自分を省み、主がどのような方かを、振り返っているのだろう。この深い、主との交わりは、わたしにはないように思われる。
Ps26:1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。
わたしは、主のさばきを喜べない。それは、なぜだろう。マタイ18:21以下の僕のように1万タラントも負債があることを知っているからか、裁かれたらひとたまりもないと考えているからか、他のひとが気になるからか、主に信頼することを学びたい。裁きを、神の国がくることを喜ぶことができるように。
Ps27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
このあとには「それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。」と続く。私も、まさにこのことの故に、主のことを知ることに集中したいと願っている。しかし、この詩編記者はさらに「今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。」となっている。私のような歳をとっての人生の整理ではなく、現実の問題に関係しているようだ。いずれにしても、現実に生きる世界の違いか、これを理解するのは難しい。
Ps28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって/耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。
この詩編の最後は、王と民についての祈りとなっているが、前半は、この詩編記者のこころ、誠実さが伝わってくる。しかし、主が黙っておられることが、滅びととらえることは、神の働きを無理に誘導しているようにも観ぜられ、祈りの過程としては、理解できるが、呪術的なものも感じてしまう。その人の祈り全体で判断すべきであろうが。
Ps29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、とこしえに王であらせられる。
何を言っているのだろう。英語は NIV で「The Lord sat enthroned at the Flood, And the Lord sits as King forever.」となっている。洪水は文字通りの意味だろうか。エジプトでの経験が反映しているのか。ユダヤで洪水が頻繁にあったとは思われない。
Ps30:3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。
当時の人にとって死はすべての終わりを意味していたのだろう。「いのち」この理解が、信仰が中心だったのかも知れない。
Ps31:22 わたしは驚きあわてて言った、「わたしはあなたの目の前から断たれた」と。しかしわたしがあなたに助けを呼び求めたとき、わたしの願いを聞きいれられた。
信仰者が慌てたと書かれているのは、慰めである。12節・13節からも苦しさがうかがわれる。そのときに、希望を失わず、救いを経験する。神の慈しみ深さを体験しながら、神との関係性が築かれていくのだろう。
Ps32:3,4 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
この状態はだれにもくるのだろうか。この詩編記者は、主をよく知っている故に、これだけ良心にさいなまれるのではないだろうか。しかし、それが、神の像(imagio dei)が残っているということによって、すべての人にあり得ることだと信じられるのだろうか。
Ps33:7 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
これだけスケールの大きな告白をどのようにこの詩編記者は得たのだろうか。わたしには、とうていそこまでの認識は得られない。しかし同時に、この言葉(告白・賛美)にふれることによって、その主のスケールに思いをはせ、想像力を飛躍させることができる。
Ps34:18,19 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
いつも、18節に引きつけられて、19節を見落としていたように思われる。19節には驚かされる。しかし、もしかすると、これこそが、18節と対をなしているのかも知れない。「災いの中にいても正しいもの」は「心の砕けたもの、たましいの悔いくずおれた者」もう少し、言葉を錬りたいが「正しい」という日常語に感覚が引きずられすぎていたように反省する。さらに、ある時間的経過で考えるのも、適切ではないかも知れない。
Ps35:13,14 しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、 ちょうど、わが友、わが兄弟のために/悲しんだかのように。わたしは母をいたむ者のように/悲しみうなだれて歩きまわった。
1節にあるように「わたしと争う者」からの救いの詩編はたくさんあり、理解しがたい面があるが、この中でも、13, 14 で書かれていることは目にとまる。日常的な愛、とりなし、憐れみが背景にあることには、思いを新たにさせられる。
Ps36:6 あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。
文字通りとると、獣も救いの対象であることになる。何からの救いなのだろうか。私には、分からないが、獣には、獣の救いがあるのかも知れない。むろん、ここを文字通りとらない方法もあるだろうが、すると少し唐突である。
Ps37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
主の前に黙し、耐え忍び、主を待ち望む。これが信仰生活だろう。特に「おのが道を歩んで栄える者」という表現には、惹かれる。このような人のために、心を悩ますことをやめよう。
Ps38:4,5 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
この苦しみが伝わってくる。ひとは、このような時を持っているのではないだろうか。わたしには、確かにある。だからこそ、いま、生かされているのかもしれないが。
Ps39:12 主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。
この直前には「まことにすべての人は息にすぎません。」とあり、4節・5節では、命がはかないことが述べられている。ここでは、主のもとに身を寄せる旅人とされている。天国から、この世への旅人ではない。もう少し、学んでみたいと思う。
Ps40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
「滅びの穴」「泥の沼」から引き上げて「岩の上」において下さる主、何という信仰告白だろう。1節に「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。」さらりと書かれているが、この背景にある苦しい時については知るよしもない。しかし、そのような信仰者だからこそ13節にあるように「主よ、みこころならばわたしをお救いください。」と祈ることができるのかも知れない。
Ps41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。
新共同訳では「弱い者に思いやりのある人」となっている。貧しい、弱い、そのひとを、神の名のゆえに、かえりみることで愛をあらわし、神様のすばらしさをあらわし、さらに、兄弟を得る。それを神様は望んでおられるのかも知れない。
Ps42:11 わが魂よなにゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
新共同訳では「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」となっている。「わが助け」の部分が、5節とこの11節で驚かされる。新教同訳のようにする根拠はあるのだろうか。
Ps43:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
神に訴え (v1)、神に助けを求め (v2,v3)、礼拝し (v4)、自らを鼓舞する (v5)。神は、その力をも与えてくれると信じて良いのだろうか。それともあまりに神を擬人化しすぎる考え方か。
Ps44:17 これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。
このような潔癖さをみると、すぐ疑ってしまう。確かに神の目からみて、完全に神に従っているとは言えないとしても、このような潔さを持つことはすばらしい。汚れた衣にならないように、自らを省みつつ。
Ps45:3,4 ますらおよ、光栄と威厳とをもって、つるぎを腰に帯びよ。 真理のため、また正義を守るために/威厳をもって、勝利を得て乗り進め。あなたの右の手はあなたに恐るべきわざを/教えるであろう。
正義の戦い (Just War) のその醜さをいやと言うほど見せつけられたとき、聖戦も、ここで言われている「真理のため」の戦いも、疑問を感じる。人を殺すということがどのようにも正当化されないという気持ちからだろうか。もう少し、しっかり考えたい。
Ps46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
そのあとに続く、2,3節「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ」のように、表現することはわたしにはできない。ちっぽけな信仰なのかも知れない。驚かされる。
Ps47:9 もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。
新共同訳などでは、このように一つの節だが、わたしの持っている古い口語では、二つに分かれている。3節では「主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。」とあり、パシフィストとしては、不安を覚えるが、7節「神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。」の告白を持つことはすばらしい。
Ps48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちで/あなたのいつくしみを思いました。
わたしもこの聖書を読むとき、あなたの慈しみを思いたい。
Ps49:8,9 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
これに続いて10節には「まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。」となっている。いのちと死の問題は、当時どのように考えられていたかも含めて、じっくり学んでみたい。ここで短絡に書くことは避けよう。
Ps50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。
この詩編は、「全能者なる神、主は詔して、日の出るところから日の入るところまで/あまねく地に住む者を召し集められる。」と始める、明確ではないが、ある程度広いひとびとの救いを想定しているように思われる。悩みの日に主をよぶものが増えることを願う。
Ps51:11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
有名な詩編であるが、ここで「あなたの聖なる霊」と言っている。命を取らないでという意味だろうか、それとも、それ以上の意味があるのだろうか。ひとに宿る「聖なる霊」についてもう少し調べたい。
Ps52:1 力ある者よ、何ゆえあなたは/神を敬う人に与えた災について誇るのか。あなたはひねもす人を滅ぼすことをたくらむ。
神に逆らう者の姿は、まさにこの通りだろう。そして、そのつもりではないと言いつつ、こころの中で「神はいない」という。信仰者の戦いは、そのようなこころとの戦いでもある。自分の中にある神への反逆のこころとの。
Ps53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。
「恐るべきことのない時に」恐れる。ひとは常に信頼できるかたがおらず、嵐に耐える基盤の上に立っていないときに、このようになるのではないだろうか。それが「神はない」(v1) という愚かさだろうか。根源的には、人の弱さを知っているかと言うことか。そしてひとの大切さを本当に認識しているかということかも知れない。
Ps54:5 神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。
こうは祈れない。しかし、このような危機に直面したときにも、4節のように「見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。」と告白し、6節のように「わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。」感謝の犠牲をささげ、7節のように「あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。」信頼する者でありたい。
Ps55:22 あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。
主に訴え、祈りの生活のなかで、このように勧める。この詩編記者の濃密な、主との関係と比較して自らを省みる。わたしは、ひとにこのように勧められるような祈りの生活をしているだろうか。
Ps56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。
「いのちの光のうちで」と’いまの私の生活を表現して良いのだろうか。へりくだり、祈りつつ、このような生き方を求めたい。
Ps57:9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。
もろもろの民は通常異邦人といわれるユダヤ人以外のすべての人を含む。このことは、その人たちにも大きな影響を与えるだけでなく、その人たちも、感謝と賛美に加わることを意味するのかもしれない。スケールの大きさに驚かされる。
Ps58:10 正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう。
この感覚はとても遠く感じるが、基本的には、神のさばきは、喜んで受け入れるもの、神の御心がなりますようにと祈るべき事なのだろう。同時に、この詩編記者の背景にある、人間の弱さも覚えることも必要だろう。
Ps59:13 憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。〔セラ
この言葉をとやかくいうことはすまい。それは、分裂をもたらすだけかも知れない。どう対応したらよいか、分からないけれども。
Ps60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
何があったか具体的には分からないが、神がともにおられれば、神が戦って下されば、こんな事にはならなかったと確信できる状況だったのだろう。これも、信仰か。
Ps61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
「君が世は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで。」とまったく同じと言って良いだろう。どのように、向き合うべきか整理しておきたい。
Ps62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
この詩編にあるように、だから、主に信頼するのだろう。神には救うことができる。しかし、このように明確に言い切る人にはみこころがあかされる。そして、そのように生きる人にはさらに驚かされる。
Ps63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
全体的には十分理解できているわけではないが、この1節は美しい。わたしは、自分のことをこのように澄み切った心としては、表現できない。違いは何なのだろうか。近代以降の批判的思考のせいだろうか。
Ps64:7 しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
この前の5,6節で「だれがわれらを見破ることができるか。 だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」に対応している。神の矢は、すべてを射貫かれる。
Ps65:7 あなたは海の響き、大波の響き、もろもろの民の騒ぎを静められる。
ここにある三つのどれが一番難しいかは、簡単ではないが、航海の安全を祈るのと同じように、民の騒ぎも静められると信じることはすばらしい。私は本当に信じて祈っているだろうか。
Ps66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
「神を喜んだ」という表現は印象的。わたしは、そのような機会を持っているだろうか。
Ps67:6 地はその産物を出しました。神、われらの神はわれらを祝福されました。
5節に「神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。」とあるが、まさに、一般恩寵には、垣根がない。それがまずは基本なのだろう。
Ps68:5,6 その聖なるすまいにおられる神は/みなしごの父、やもめの保護者である。 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、めしゅうどを解いて幸福に導かれる。しかしそむく者はかわいた地に住む。
どのような方かを表現する基本がこのようなおとということに、うれしくなる。感謝。
Ps69:5 神よ、あなたはわたしの愚かなことを/知っておられます。わたしのもろもろのとがは/あなたに隠れることはありません。
現実を受け入れる、この謙虚さを、つねにもって生きていきたい。
Ps70:4 すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/つねに「神は大いなるかな」ととなえるように。
主を喜び楽しむ。そうありたい。主を訪ね求めることが、その基本なのだろうか。
Ps71:5 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの/わたしの望み、わたしの頼みです。
長い期間、主なる神との交わりのうちに生きる。その中で培われる信頼だろうか。一日一日の交わりを大切にしたい。
Ps72:1,2 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。彼は義をもってあなたの民をさばき、公平をもってあなたの貧しい者をさばくように。
わたしもこのように祈りたい。なぜ祈れないのだろう。神を信頼していないからだろうか。
Ps73:2,3 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
1節の「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。」と呼応している。そして、4節につづく。信仰告白に至るのは、痛みもあるだろう。神様は、それを導いてくださる。
Ps74:19 どうかあなたのはとの魂を/野の獣にわたさないでください。貧しい者のいのちをとこしえに忘れないでください。
こんな箇所があるのは、知らなかった。もう、40回程度読んでいるだろうに。マタイ(「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。」12:20)でも引用している、イザヤ書42章3節の言葉を思い出す。「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。」
Ps75:2 定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく。
イエスのたとえばマタイ4:17「悔い改めよ、天国は近づいた」。 とは少し違う感触がある。共通点は、さばきに関わる希望だろうか。
Ps76:1 神はユダに知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大である。
第73篇からはじまっている第3巻はスケールが小さい気がする。もう少していねいに見ていきたい。
Ps77:19 あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。
絶望の中で備えられている主の道、恐れおののきはよく表現されている。紅海での奇跡(Ex14:22-29)も盛り込まれているのか。
Ps78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
この伝承が第78篇に書かれている。しかし、内容の一つ一つを聖書と照らして特定することは、難しい。おそらく無理であろう。他方、信仰体験として、内面化した歴史的経験として、それを伝えることの価値は、大きいと思わされる。
Ps79:12 主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを/七倍にして彼らのふところに報い返してください。
祈りは「神様のみこころと、わたしたちの思いとのシンクロナイゼーション」と考えると、その途中段階のものがあることは、当然でり、批判することではない。だれの祈りも完全ではないのだから。ここに「隣り人」という言葉が登場することは、注意をひく。これは「シャヘイン」(住人、隣りに住む人)で、Lev19:18 の「レーアー」(友・仲間)とは別の単語。
Ps80:14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。
ここでもイスラエルは、ぶどうの木にたとえられている。背景は何なのだろう。もう少し知りたい。
Ps81:12,13 それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。 わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
ここに神がどのような方かを告白する、詩編記者のこころが現れているように思う。なすがままに任される神、その背景にある思い。Rm1:24 を思い出す。
Ps82:1 神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。
神の集団的な機能の表現なのだろうか。もうすこし、ナイーブに考えても、良いのではないか。神と言われるものそれらすべてのを裁かれる方。この詩編全体を読むと、神のかたちにつくられた人間ひとりひとりがこの背後にあるようにも思える。
Ps83:1 神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。
主とつねに語り合えれば良いのだが、おそらく、この世では、神の国ではないかぎり、無理なのであろう。しかし、そうであっても、神が答えてくださることを信じて、求めていきたい。なにが鍵なのだろう。
Ps84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
このように、告白できたらすばらしい。わたしは、まだそのようには言えない
Ps85:10,11 いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし、まことは地からはえ、義は天から見おろすでしょう。
これが平和、神に守られた世界のイメージなのだろう。わたしは同表現するだろう。
Ps86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
しかしこのような時にこそ、神に近いのかも知れない。貧しく、たましいのくいくずおれた者。
Ps87:4 わたしはラハブとバビロンを/わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
この詩編は十分理解できているわけではないが、シオン(エルサレム)は特別であることをいっていると共に、神を知り、知られている者は、イスラエルにとどまらないことが言われているように思う。この4節のラハブはカナン人(イスラエルの中または近隣の異邦人)の象徴か、そして、バビロンは広く、繁栄する異邦人の象徴か。このあと、ペリシテ、ツロ、エチオピアと近隣から、遠くへとその世界を包括するようにあげていることも興味をひく。
Ps88:9 わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。
目が悲しみによって見えなくなる。これは、神の働きが見えなくなることを意味しているのだろう。Mt6:22, 23「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」まさに、心の扉だからだろう。
Ps89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた/昔のいつくしみはどこにありますか。
主への訴えと、主の御心がひとつになることはあるのだろうか。いのりは難しい。
Ps90:3,4 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。 あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
ひとはちりに過ぎないことを思い出すときは、大切。
Ps91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
親鳥の羽の下に守られた、卵、そして幼鳥、常に目にしていたのだろう。そして大館、小盾は、それぞれに利用目的が異なったのかも知れない。生活に結びついた表現だと思われる。現代では、どう表現するのが適切なのだろうか。個人、個人の表現があるのかも知れない
Ps92:14,15 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
「主はわが岩です。主には少しの不義もありません。」と告白して、死に至るまで、忠実にありたい。そして、主が「年老いてなお実を結」ばせてくださるように祈ろう。実を結ばせて下さるのは、主だから。
Ps93:3 主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。
水は恐ろしい者だったのだろう。大きな混乱を意味していると思われる。そして4節に「主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。」とある。現代においては、どう表現されるだろうか。
Ps94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
とても深い印象を与える。信仰生活をしている者の告白だろう。魂が生き生きと生きる、それが永遠のいのちに生きることか。そしてその力は、神から、われわれの喜びとして与えられる。
Ps95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
これを礼拝することは、ユダヤ教の中では考えられないが、これらが特別な神聖さをもって、考えられていたと言うことには、人間の共通の怖れと、畏敬を感じる。
Ps96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
このことばを、わたしは、素直には喜べない。国民性だろうか、同胞への撞着だろうか、自分の罪故だろうか。おそらく、この御言葉自体も十分理解していないからだろう。神の国が来ること。主のみこころが天で行われるように、地でも行われるように望むこと。基本から、学びなおしたほうが良いように思われる。
Ps97:6 もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た。
この感覚がわたしには、まだよくわからない。このひとたちは、どのように、世界を見ていたのだろうか。
Ps98:9 主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。
正しさに執着するのは、当然かも知れない。しかし、いつか人の正しさになりさがる。どうしたらよいのだろう。
Ps99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。
主はもともと王。しかし、このように告白するのは、王として治められていることを告白することか。
Ps100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
羊飼いと羊の様子をみてこのように告白しているのだろう。日本では、どのように表現できるだろうか。
Ps101:3 わたしは目の前に卑しい事を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
このように潔くいきたい。しかし、やはりわたしの生き方とは違うように思われる。なぜだろう。二番間の文章だろうか。
Ps102:18 きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。そうすれば新しく造られる民は、主をほめたたえるでしょう。
このビジョンには、驚かされる。この事はこの前の17節の「乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられないからです。」だろうか。新しく造られる民に希望を持つ。いま、それが成就しているのだろうか。
Ps103:12 東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
この103に書かれていることは、驚くような表現が多い。一つ一つが2節にある「そのすべてのめぐみ」なのだろう。
Ps104:34 どうか、わたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ。
わたしの気持ちに違いが、本当は、主の思いが、わたしの喜びとなるようにと祈りたい。
Ps105:44 主はもろもろの国びとの地を彼らに与えられたので、彼らはもろもろの民の勤労の実を自分のものとした。
ここで「もろもろの国びとの地」という言葉が使われている。それはさておき、勤労の実をえることも、神が与えられたことであることを、ここで覚えているのか。そしてその目的が45節に続く。「これは彼らが主の定めを守り、そのおきてを行うためである。主をほめたたえよ。」
Ps106:23 それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは/破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。
「とりなし」は神の御心との同期以上のものを含むのだろう。神の御心が地上で行われるそのことを神に喜んでいただくことだろうか。神の御心が天で行われるように、地でも行われるようにシンクロナイズすることだろうか。そう考えると、「とりなし」というより「信仰に生きること」そのものかもしれない。ここで第4巻終了。
Ps107:6 どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。
「彼ら」は2節の「主に(悩みの中から)あがなわれた者」である。そのような者が感謝をする。当然のことに思えるのだが。むろん、現実はそうではない。
Ps108:12 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいからです。
この詩編は「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」と始まる。「いのち」の生き方を選び取る。そのことに「心が定まった」と言うことだろうか。
Ps109:2 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、偽りの舌をもってわたしに語り、
この詩編は「わたしのほめたたえる神よ、もださないでください。」と始まり、最後までこの「彼ら」への訴えが続く。これが、同じ信仰者なのか、やはり、人の違い、おそらく文化の違いに驚かされる。
Ps110:6 主はもろもろの国のなかでさばきを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる。
このようなことは、私は望めない。たとえ、この人たちが、明らかに神に敵対する人たちであっても。
Ps111:10 主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。
「これ」は「主を恐れ」ることか。人に対する説明ではなく、神の前にたつとき、口を閉ざすしかなくなる。
Ps112:4 光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。
すごい信仰。正しい者は「惜しげなく施す人」v9 かもしれない。おそらく、日常的な主への信頼を表しているのだろう。だからこそ、暗黒の中で光を認めること、神が働かれておられることを認めることができるのかも知れない。
Ps113:7,8 主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、 もろもろの君たちと共にすわらせ、その民の君たちと共にすわらせられる。
驚くべき信仰である。しかし、同時に、神とひととの隔たりは、詩編を詠んでいてとても大きいと感じさせられる。背景として、イエスによる神の顕現がわれわれの信仰に非常に大きな影響を及ぼしていると言うことなのだろう。
Ps114:8 主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。
この詩編は3節に「海はこれを見て逃げ、ヨルダンはうしろに退き、」ともあるように、出エジプト時の紅海およびヨルダン渡河の奇跡を背景としている。この8節もその一部と取れないこともないが、同時に、より身近な、現実世界における、神のおそるべきみわざを讃えているように思われる。
Ps115:16 天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた。
これは様々に解釈することができると思う。しかし、一つは、この地の営みに、人の子らは責任があることの意味しているように思われる。そして祈る。「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」Mt6:10
Ps116:6 主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。
無学であっても、高慢になることはあるのだろう。ここには「わたしが自らを低くしたとき」と書いてあると思っていた。しかしそうではなかった。「わたしが低くされたとき」すべてが恵みなのだろう。しかし、すべてをそれでわたしが納得できているわけではない。また考えてみよう。
Ps117:2 われらに賜わるそのいつくしみは大きいからである。主のまことはとこしえに絶えることがない。主をほめたたえよ。
For His merciful kindness is great toward us, And the truth of the Lord endures forever. [NKJV], For great is his love toward us, and the faithfulness of the Lord endures forever. [NIV], For great is his steadfast love toward us, and the faithfulness of the Lord endures forever. Praise the Lord! [ESV] 慈しみとは何かと問われて、答えられなかった。英語は上のようになっている。ヘブル語は「ヘセド」In a good sense, ‘zeal’ toward anyone, ‘love’, ‘kindness’, specially of men among themselves. [Gesenius' Hebrew-Chaldee Lexicon]
Ps118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。
この歌は何回歌っただろうか。しかし、これが「家造りらの捨てた石は/隅のかしら石となった。 これは主のなされた事で/われらの目には驚くべき事である。」(22, 23) に続く節であることを意識したことは無かった。さらに、それは、その前の21節「わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。」から続いているように思われる。2/20 今年度最後の聖書の会は「ザアカイ」の話だったが、その一人の人の救いにも、この詩編の一節がよみがえる。私の救いも、このようなものだったと思う。主が設けられた日の出来事。
Ps119:1 おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。
この176節ある詩編の最後は「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。」で終わっている。この詩編のテーマは「主のおきて」であり「あなたの戒め」であるが、その道に歩むことが難しいこと、そしてそれは神の憐れみによって可能であり、迷い出たときに見つけ出してくださらなければ可能ではないことを証言している。いつか集中して学んでみたい。
Ps120:6 わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。
これは単に戦争を好むということではなく、神の与えられる平安のうちに住むことを望まないと言うことかもしれない。
Ps121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
そうであれば、すべてのひとの助けも、この主から来ることは、明白であろう。
Ps122:1 人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」/と言ったとき、わたしは喜んだ。
わたしも何人かの事を覚えて祈ろう。われらは主の家に行こうとかたりあう共をえるために。
Ps123:1 天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。
ひとにではなく「天に座しておられる方に」目をそそぐ。そのような者でありたい。
Ps124:7 主はほむべきかな。主はわれらをえじきとして/彼らの歯にわたされなかった。
この詩編は「今、イスラエルは言え、主がもしわれらの方におられなかったならば、」と始まる。すこし表現に違和感はあるが、主が共にいてくださるとの約束のもとに生きる幸い、神のあわれみこそが、わたしの、日々を支えている。
Ps125:5 しかし転じて自分の曲った道に入る者を/主は、悪を行う者と共に去らせられる。イスラエルの上に平安があるように。
新共同訳では「よこしまな自分の道にそれていく者」となっている。正しい主の道に歩み続ける者がこれに対応することばか。
Ps126:5,6 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
何か、一時点でのことを思い浮かべるが、これは、日常的なことなのかも知れない。
Ps127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
この言葉には違和感がある。一つには、子供を戦いの道具としての矢にたとえること、もう一つは、子供のない人が多い社会に住んでいるから感じることか。しかし前者は、時代のずれを持ちながら共に生き、夢と神への信頼を共有する言葉だと考えれば良いかも知れない。後者は、マタイ18:1-5、19:1-15 を考えると、基本的な神の祝福と、個々のひとへの配慮を併せて考えることが大切だと言うことなのだろうか。
Ps128:3 あなたの妻は家の奥にいて/多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んで/オリブの若木のようである。
なんでも普遍化して考えてはいけないのだろう。この詩編記者が考えた「さいわい」(v1) が、2節の「あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。」に表現されているだけなのだから。では、わたしはどのように表現するだろうか。普遍的な言葉を使うメリットと、個人的な告白の大切さ、両方あるだろう。
Ps129:6 彼らを、育たないさきに枯れる/屋根の草のようにしてください。
わたしは、こうは祈れない。なにが違うのだろう。このように、祈る心を理解できなければ、聖書が理解できないだろうか。
Ps130:7 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
これが信仰。わたしも、この人と共に、あなたを呼ぶ。主よ、あなただけが希望です。あなたを待ち望みます。
Ps131:1 主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。
これこそが「敬虔」の表現かもしれない。人は、力のおよぶことを、ていねいにする責任を担っています。
Ps132:14 「これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む。
これは「シオン」である。いまも、物理的に、この約束が続いているのだろうか。
Ps133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。
イエスが「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。」とマタイ23:8で言っているように、兄弟は、肉親の兄弟よりひろい兄弟を想定しているとしてよいだろう。しかしそう考えると、これは、大変な事である。この詩編は「これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」と終わっている。主が祝福を「命じ」られ「命を与え」られたには、驚かされる。もう少し考えてみたい。
Ps134:1 見よ、夜、主の家に立って/主に仕えるすべてのしもべよ、主をほめよ。
毎晩、灯火を絶やさず、宮を守っている祭司がいたのだろう。驚かされる。形式的などと、排除することではないだろう。謙虚にさせられる。
Ps135:3 主は恵みふかい、主をほめたたえよ。主は情ぶかい、そのみ名をほめ歌え。
これは恵まれているから、憐れまれているから、このように言えるのだろうか。そうではないのだろう。主の御業をずっと見ているから。様々な御業をみているから、このように言えるのだろう。どうぞ、主のお働きに目をとめるようにさせてください。
Ps136:23 われらが卑しかった時に/われらをみこころにとめられた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
「いつくしみ」は「ヘセド」の変化形である。この前半には、驚かされる。詩編のようなところだからこそ、自然に、このような言葉が含まれているのか。
Ps137:9 あなたのみどりごを取って/岩になげうつ者はさいわいである。
この「あなた」は「エドム(近隣の敵)」や「バビロン(遠国の敵)」への復讐をこめて使われている言葉だろう。新共同訳では「おまえ」となっている。しかし、真の平和の到来には、イエスが「岩になげうたれる」ことが必要だったのかも知れない。
Ps138:7 たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。
「わが敵の怒りを防ぎ」は特別な意味合いを感じる。敵かどうかは別として、人の心に起こることは、わたしには、制御できない。そして、それが恐れていた方向に進まなかった経験をたくさん持っている。この背後にも神がおられることを覚えたい。
Ps139:23 神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを/知ってください。
神に知られていること以外に、試みても書かれている。わたしには、まだまだ理解して切れないレベルか。
Ps140:12 わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。
主は、このような方だと知っていることは、すばらしい。
Ps141:3 主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。
聖書にくり返しくり返し書かれており、わたしも同感と思ってきたが、いま、もう一度、名誉欲(ひとから評価されたいという願望)と関連しても、舌を御することが、わたしのとても大きな困難というより、本質的な罪の入り口のように思われてきた。有効なコミュニケーションを追求し、神様の前での謙虚さが失われる。つまりは、自分を前に置いてしまう。自分で御すことができないことをもっと自覚しなければならないだろう。リペラル(自由さ)が一人歩きしてしまう、危険性でもある。自由にして敬虔、これを追い求めたい。
Ps142:5 主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。
「生ける者の地で」となっている。この時代は、死ぬと、塵にかえり、もはや賛美はできない。と一般的には思われており、死後の天国と地獄のような感覚はなかったと思われるが、それであっても「生ける者の地でわたしの受くべき分」と言い切る詩編記者には、特別な信仰を感じる。3節には「わが霊のわがうちに消えうせようとする時も」とあり、4節には「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。」とある。わたしは、そのように今を生きているだろうか。
Ps143:2 あなたのしもべのさばきに/たずさわらないでください。生ける者はひとりもみ前に義とされないからです。
神の、さばきと、憐れみは、紙一重、気まぐれなのか。そのように見えるだけなのだろうか。
Ps144:4 人は息にひとしく、その日は過ぎゆく影にひとしいのです。
放っておかれたら、すぐ滅びてしまう存在であることを、訴えているのか。そう考えると、3節「主よ、人は何ものなので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何ものなので、これをみこころに、とめられるのですか。」をどうとるかは、考えさせられる。
Ps145:13 あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに/絶えることはありません。
「あなたの国」と「地上の国」をどの程度、意識的に区別しているかはわからないが、神様の国、神様の支配は、永遠だと告白して、そこに望みを置いて生きて行きたい。
Ps146:7 しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。
「しえたげられる者」「飢えた者」「捕らわれ人」は自分とは関係ないと、思ってしまってはいけないかも知れない。二つの文章に分けられていることを考えると、あらゆることに捕らわれている人の解放、まさに、リベレーションがここで言われているのかも知れない。
Ps147:19,20 主はそのみ言葉をヤコブに示し、そのもろもろの定めと、おきてとを/イスラエルに示される。主はいずれの国民をも、このようにはあしらわれなかった。彼らは主のもろもろのおきてを知らない。主をほめたたえよ。
賛美が続き、ここに行き着く。これこそが特別の恵みであることを悟ったのだろう。そして、それは、この前に続く、神様をまさに表すみ言葉であることに意味がある。
Ps148:14 主はその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、主に近いイスラエルの人々の/ほめたたえるものである。主をほめたたえよ。
この詩編は「すべてのものに主をほめたたえさせよ」ということで一貫している。天使も、日も月も、地のすべてのつかさも。しかし、ここで一つの角がほめたたえるものとして突然現れる。詩編記者はなにを想定していたのだろう。
Ps149:2 イスラエルにその造り主を喜ばせ、シオンの子らにその王を喜ばせよ。
後半が素直に受け入れられない。シオンの子らは、エルサレムの住民だろうか、それとも、主の宮に集う者という意味だろうか。新共同訳では「その王によって喜び踊れ」となっている。主の権威がそこにあるということだろう。もう少し深く理解したい。
Ps150:1 主をほめたたえよ。その聖所で神をほめたたえよ。その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。
新共同訳では「大空の砦で」となっている。「”raqiya` ‘oz” 力の領域」というような意味ということは、神の力の元でというような意味かも知れない。KJV は “in the firmament of his power” (力の天空)


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箴言

箴言(1)

箴言は、ヨブ記、伝道の書(コヘレトの言葉)とともに、知恵文学と呼ばれています。一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。

箴言の最初(新共同訳)は

1: イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

となっています。列王記上3:1-15に、ソロモンが王になったときのことが書かれています。

5:その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。

9:どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
10:主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
11:神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
12:見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。
13:わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
14:もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」

と書かれています。この次の15節から28節に有名な逸話が挿入されています。ソロモンの知恵については、列王記上5章に

9:神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。
10:ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。

と書かれ、列王記上11章 には

41: ソロモンの他の事績、彼の行ったすべての事、彼の知恵は、『ソロモンの事績の書』に記されている。

と書かれています。ですから、1章1節は、そのソロモンの箴言だと言っているわけです。ただ、少なくとも箴言31章、32章をみると明らかにソロモン以外に由来するものも含まれていることがわかりますから、すべてソロモンのものというより、偉大な知者であるソロモンの名前のもとに集められたものというような意味でしょう。

エレミヤ書18:18 には

彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」

エゼキエル書7:26 には

災いに災いが続き/悪い知らせが相次いで来る。彼らが幻を預言者に求めても得ず/律法は祭司から失われ/助言は長老たちから失われる。

とあります。この二つを見ると、律法を教える者として祭司、助言を与える者として賢者・長老、御言葉・幻を与える者として預言者が想定されていることが分かりますが、この人たちが、民の各界のリーダーということでしょう。現代的な言い方をすると、聖書の言葉を教えるのが祭司、神のことばを取り次ぎ伝えるのが預言者、知恵を語る賢い人が長老です。長老は民事事件も扱っていましたから、実際の問題について判断しなければいけなかった訳です。そこで、知恵は、神との交わりの経験をもって、神のことばを実生活に適用することを教えるものと言ってよいでしょう。

サムエル記下14章2節には「一人の知恵のある女」が、サムエル記20章16節にも「知恵のある女」が現れます。「知恵」は、一般にも浸透しており、「知恵あるもの」が大切にされていたのでしょう。

箴言1章7節、9章10節では、それぞれ

1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。

と書かれています。これらの言葉から考えると、一般的格言といえるものもかなりおさめられてはいますが、基本は、上の言葉に要約されている知恵なのでしょう。

箴言に書かれている、知恵、悟り、思慮深さ、知識、分別などはどのようなものなのでしょうか。賢い者と対比して、愚か者、怠け者についても書かれています。アメリカ英語で使われる2年生を表す sophomore は、(原義は違うようですが、)ことばのつくりとしては、sophos(ギリシャ語の「賢明な」)とmoros(ギリシャ語の「愚かな」)があわさってできたと言われています。どのようにとるかはひとそれぞれかも知れませんが、賢明さと愚かさ両方が入り交じったわれわれがそれらを分けるものについて、箴言を通して学ぶことができればと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」から、箴言の梗概(尾山令二)を引用しておきます。

  1. 表題、目的、標語  1:1-7
  2. 知恵についての賛美 1:8-9:18
  3. ソロモンの箴言 10:1-22:16
  4. 知恵ある者のことば 22:17-24:22
  5. 続・知恵ある者のことば 24:23-34
  6. 続・ソロモンの箴言 25:1-29:27
  7. アグルのことば 30:1-33
  8. レムエル王のことば 31:1-9
  9. 優れた妻 31:10-31

箴言(2)

箴言で語られている「知恵」は長老たちのことばであり 「神との交わりの経験をもって、神のことばを実生活に適用することを教えるもの」と書きました。実生活への適用ということで、身近に感ぜられることばが多いと同時に、これはつねに正しいとはいえないのではないかと思われる部分もあるかと思います。しかしそれが「神のことばを実生活に適用することを教えるもの」であり、実際的な有用性があるとともに箴言だけからすてのを理解することもできないのでしょう。その上で、聖書の一つの巻として、箴言を楽しんで頂ければ幸いです。

箴言から何カ所かひろって書いてみたいと思います。新共同訳から引用します。

箴言8章

ここでは、知恵と英知(口語:悟り)が擬人化され語りかけています。

4:「人よ/あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。

8:わたしの口の言葉はすべて正しく/よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
9:理解力のある人には/それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には/それがすべてまっすぐであると分かる。
10:銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。
11:知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。

上に「箴言だけから真理を得る危険性」と書きましたが、なんと 8-10 を読むと「知恵と英知」は完璧だと語っていますね。箴言に記されている実際の言葉ではなく「知恵と英知」というものがある人格をもち、かつ完全なものとして存在すると語っているのでしょうか。

14:わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
15:わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。
17:わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

ここでは「知恵と英知」が主権者、神のように描かれています。

22:主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。

この22節以降には、「知恵と英知」がすべてのものに先だって造られたことが30節まで書かれており、それに引き続いて

30:御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
31:主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。

と記されています。そして最後は、

35:わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。
36:わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」

「知恵と英知」が命と直接的に結びつくものであることが記されこの箴言は終わっています。

あまり短絡に結論を急がない方がよいと思いますが、なにかヨハネによる福音書の書き出し(第1章冒頭)を想起させませんか。

1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

箴言の記者はどのようなことを考えながらこの箴言を記したのでしょうか。

ひとの計画と紙の計画について記されている箴言を16章から、すこし拾ってみましょう。わたしが好きな箇所でもあります。

箴言16章

2:人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。
3:あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。

9:人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。

19:貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
20:何事にも目覚めている人は恵みを得る。主に依り頼むことが彼の幸い。

25:人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。

33:くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。

25節は 14:12 にもまったく同じ聖句があります。また、口語訳では、

人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。

となっています。人生のそれぞれの岐路において、いのちに至る道か、死に至る道かを見分けるのが「知恵と英知」なのでしょうか。


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聖書通読ノート

BRC2023

Proverbs 1:1 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。
詩篇は、ダビデ由来、箴言は、ソロモン由来ということなのだろう。どの程度、直接的にソロモン由来かは不明だが、編集者としては、個人的な主との交わりとしての信仰と賛美をたいせつにした、ダビデと、知恵をもって、イスラエルを治めた、ソロモンに、紐づけることの意味は大きかったのだろう。批判的に読むと、この箴言にも、裁きが色濃く現れているように感じる。「これが不正な利益を求める者の末路/それを得た者の命は奪い去られる。」(19)「その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。/探し求めても、私を見いだすことはできない。」(28)裁かれないため、主に答えてもらうため、因果応報が、底流にあるのは、仕方がないのかもしれない。恵みを絶対化することも、問題なのだから。
Proverbs 2:9 その時、あなたは見極められるようになる/正義と公正と公平が/幸いに至る唯一の道のりであることを。
正義と公正と公平。これらを正確に定義することはおそらくとても難しいだろう。"Then you will understand what is right and just and fair—every good path." (NIV) "צֶדֶק וּמִשְׁפָּט וּמֵישָׁרִים" 言葉の意味は、צֶדֶק が justice, rightness, righteousness, מִשְׁפָּט が judgment, justice, ordinance、מֵישָׁר が evenness, uprightness, straightness, equity. わたしには、これらも、相対的なものに見えてしまう。そして、人の合意と、努力によって、そのときそのときに、気づかれていくものだろうか。最終的な基準があるわけではないように見える。
Proverbs 3:2 あなたには長寿と命の歳月が与えられ/平和が増し加わる。
「長寿と平和」が望んでいたものなのだろう。他にも「知恵の右の手には長寿/左の手には富と誉れがある。」(16)ともある。知恵の勧めが書かれているが、その祝福として書かれているものにも興味をもった。因果を期待しているではないのだろうが、他にも興味を持った節があったので、書いておく。「あなたの手に善を行う力があるなら/なすべき相手にそれを拒むな。」(27)いろいろと応用もありそうだ。
Proverbs 4:1-3 子らよ、父の諭しを聞け。/分別をわきまえるために思いを向けよ。あなたがたに良い教訓を授ける。/私の教えを捨ててはならない。私も父の子であり/母にとっては、いとしい独り子であった。
父と母から受け継いだものを祝福として、子らに伝えていく。それは、幸せなことだと思う。しかし、どうも、現代は、変化の速度が大きすぎて、必ずしも、このようにはいかない。時代遅れになってしまうことがあまりにも多い。それだけではなく、普遍的ということが難しくなっている様にも思う。本当にそうかどうかも、確信はないが、個人的に、とても難しいことに感じている。
Proverbs 5:10 よその者があなたの富と/あなたが労苦して得たものによって/異国人の家を満たさないために。
この箴言では「よその女の唇は蜜を滴らせ/その口は油よりも滑らか。」(3)とあり、後半には「あなたの水溜めから水を飲め/あなたの井戸に湧く水を。」(15)と自分の妻、自分のもとにあるものをたいせつにせよ、他人のものを欲しがってはならないという教訓も伝えている様である。そのあたりは、十戒に近い。引用句は、すこし引っかかった。結局、他人のものを欲しがる人から自らを守ることによって、ものが大切だとする生き方を是としているのではないかということである。もう少し、表現も含めて、考えたい。
Proverbs 6:1-3 子よ、もし友の保証人となって/よその者に手を打って誓い/あなたが自分の口から出た言葉によって罠にかかり/自分の口から出た言葉によって捕らえられたなら/子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。/あなたは友の手中に落ちたのだから/気弱にならず、友にうるさく求めよ。
興味深い状況である。わたしは、すぐ諦めてしまうが、そのように簡単にできない場合もあるだろう。そのときには、どうしたら良いのだろうか。ここでは「気弱にならず、友にうるさく求めよ。」としている。どうも、わたしは、その気にはなれない。
Proverbs 7:1,2 子よ、私の言葉を守り/私の戒めをあなたの心に納めよ。私の戒めを守って生きよ。/私の教えを目の瞳のように守れ。
このあとには「知恵に「わが姉妹」と言い/分別に「わが親族」と呼びかけよ。それはあなたをよその女から/滑らかに話す異国の女から守る。」(4,5)と続き「女」に関するものが続く。わたしには、引用句のようには、子供たちに教えられなかった。言えなかった。一つには、価値相対化の中で生きてきて、自分の価値も、何度も揺さぶられたこと、さらに、時代の変化の中にあり、普遍的な真理というものが、わからなくなっていたこと、そして、自分は、適切には生きられなかったという後悔からか。それは、人である以上、当然のことなのかもしれないと思うと、そうであってもやはり、もっと大人になっていた子供達に、積極的に伝えるべきだったかとも思う。そのずれを甘んじて受けることが、自分の分だと思っているが、それではいけなかったのかもしれない。これからでも、機会があれば、話していきたい。伝えることは難しくなってはいるのだろうが、わたしのようなものにも、聞いてくれることもあるのかもしれないと思う。子供達も成長しているので。
Proverbs 8:12,13 私は知恵。熟慮と共にあり/知識と慎みを備えている。/主を畏れることは悪を憎むこと。/高ぶり、高慢、悪の道/そして偽りを語る口を、私は憎む。
わたしの若い時を考えると、このような熟慮は備えておらず、知識と慎みもなかった。このように言えないことは明らか。いまになって、少し、このことを思う。子どもたちはしかしながら、まだ、わたしが若い頃のこども、わたしには、伝えられなかった。そのようには、振る舞えなかった。難しい。これからでも、できるのだろうか。どのように語るかも難しい。
Proverbs 9:7-9 嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。/嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。/知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。/知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。/正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。
悲しいけれど、見つめなければいけない現実であるように思う。分断の根がここにもある。このようにして分断が広がっていく。背後にあるのは、無理解だろう。しかし、知的理解に偏ることが引き起こしているのかもしれない。箴言の性格上仕方がないのかもしれないが、平和を求め、共に生きることを目指すのであれば、乗り越えなければいけない、障害である。
Proverbs 10:1 ソロモンの箴言。/知恵ある子は父を喜ばせ/愚かな子は母の悲しみとなる。
家族の絆がつよいとこのことはいっそう増幅されるだろう。わがやはどうなのだろうか。自分自身が苦しみ、迷っている。この箴言のように、簡単には、表現できない。ただ、子は、それぞれの人生を歩むとするのは、やはり無責任なのかもしれない。喜びも、悲しみもともにするのが、家族である様にも思う。箴言のことばにも、丁寧に向き合っていきたい。知恵は、人間にとって、歴史を超えて、かなり共通なものであるのかもしれない。
Proverbs 11:13 中傷して歩く者は秘密を漏らす/真実な思いを持つ人は事を覆い隠す。
興味深い。中傷自体は、秘密ではないのだろう。ただ、中傷して歩くことは、人への配慮が欠けていることを表していると言うことか。ことを覆い隠すは、悪い意味にも取られるが、ここでは、中傷の反対で、他者の悪いことを言いふらさないことなのだろう。不満があると、それを、ひとにぶつけることが私にもある。真実な思いを持ちたいものである。
Proverbs 12:9,10 軽んじられても自ら働く者は/重んじられていながらパンを欠くことにまさる。正しき者は動物の思いが分かる。/だが悪しき者の憐れみは、残忍の域を出ない。
ひとつひとつ考えさせられる。重んじられていながらパンを欠くは、対比であるなら、自ら働いてはいないことをも内包しているのかもしれない。重んじられることを好むことは、人からの評価を優先していることの象徴なのかもしれない。わたしは、動物の思いがわかるとは思えないので、十分理解できないが、さまざまなひとと置き換えれば、理解できる様に思う。悪き者の憐れみは、そこに真実がないと言うことだろうか。一つ一つ考えさせられる。
Proverbs 13:12 望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。
このような自然なことばも、大切だと最近思う様になった。若い頃はがむしゃらに、望みが叶えられることが目的ではないと生きてきた様に思うが。ここにも、真実があると思う。このようにして、平安が、そして、生きるエネルギーが与えられるのだから。喜びを大切にし、喜んでいる人とともに、喜ぶ者でありたい。
Proverbs 14:31 弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。/造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。
箴言のことばを紡いだ人たちは、どのような人たちなのだろう。造り主のことを知ろうとしていたことは確かだろう。それが、たとえ、わたしの認識とは異なっていても。そして、行き着くところは、とても近いように思う。弱い人、貧しい人も造り主は愛しておられることを知っているのだろう。神様の特別な目的のために造られたとは、解釈したくないが。
Proverbs 15:13 一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし/一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。
真実であると共に、そうでもないとも感じてしまう。他者の心と共にいることが難しくなっていると言うことだろうか。共に喜び、共に泣く、そして、互いに仕え合い、互いに愛し合う。その前提が、さまざまにあると言うことなのかもしれない。ただ、お題目の様に唱えていてはいけないのかも。考えたい。
Proverbs 16:32 怒りを遅くする人は勇士にまさり/自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。
箴言は一節選ぶのがあまり簡単ではない。この句を選んだのは、最近、思い当たることがあったから。わたしは、あまり怒る方ではないと思っているが、やはり、理不尽なことに対して、なかなか心が収まらず、他者にあたるような、責任を問う様なことがある。自分の心を治めるものでありたい。たしかにそれには、勇気も必要なのだろう。考えさせられる。学んでいきたい。
Proverbs 17:7 愚か者に優れた唇はふさわしくない。/高貴な人に偽りの唇などなおのこと。
たしかにこのようなことは真実であると思う。それが、人間社会の難しいこと。公平は本当に難しい。共に、公正をたもって生きることはなおさら。愚か者が聞き分けることができたら、おそらく、すでに愚か者ではないのだろう。難しい。
Proverbs 18:14 人の霊は大病にも耐えられるが/霊が沈めば誰が支えることができようか。
この霊は、スピリットだろうか。どのような者だろうか。たしかに、意気消沈してしまっていては、それをどうにかしなければなにもできない。それは、人為的にコントロールできる者なのだろうか。それなら、かえって、軽いものに映ってしまう。難しい。
Proverbs 19:1 貧しくても誠実に歩むことは/曲がったことを語る愚かな者にまさる。
わたしは、このように歩んできたと思う。べつに、貧しいことが、大変だとは思っていないが。現在望むのは、「見識ある人は怒りを遅くし/背きの罪を赦すことがその人の誉れ。」(11)このような生き方だろう。怒りは、すくなくとも、人間の怒りは、なにも良いことがない。何かの原動力になると言う人もいるかもしれないが、原動力を怒りに求めること自体に問題があるように思う。
Proverbs 20:24,25 人の歩みを確かなものとするのは主である。/人間は自らの道について一体何を見極められるのか。/人間の罠となるのは/これを聖別しようと軽々しく言い/後にその誓願を思い直すこと。
とても深いことと、ドキッとする様なことが書かれている。前半は、納得するだろう。しかし、次は現実の世界が活写されているように見える。神に誓ってとか、これこそが御心だからとか、安易に言って、新しいことを始めることはよくある。なんとも愚かなことだ。みこころを得たとせず、求め続けるものでありたい。
Proverbs 21:13 弱い人の叫びに耳を閉ざす者は/自分が呼び求めても答えを得ることができない。
強いものは、自分でできると考えるのだろう。そして、たしかに、それで問題ない場合が多い。それが、弱い人の叫びに耳を閉ざすことになる。たしかに、自分が呼び求めるときはこないかもしれない。すると、やはり価値観の修正が必要になる。それは、どうしたらできるのだろうか。難しい。
Proverbs 22:29 技に秀でた人を観察せよ。/その人は王の前に仕えるが/闇の者の前に仕えることはない。
箴言の構成をよく知らないが、この章は、少し他の章とは違った内容になっている様に感じる。ここでは、技術者というより、おそらく職人について語っているのだろう。そのひとは、必ずしも皆に理解されるわけではないが、宝を豊かに持っていることを知っているのだろう。その誇りが、闇の者の前に仕えさせない。しかし、あまりにも遇せられないと、そうはいかないかもしれない。そのような人は、秀でているとまでは言えないのだろうか。社会の構造との問題はやはり難しい。
Proverbs 23:17,18 心で罪人を妬むことなどせず/日夜、主を畏れよ。/そうすれば、未来もあり/希望が絶たれることもない。
信心深いユダヤ人は、このように生きているのだろう。素晴らしいことだと思う。しかし、この考えは、分断も生じさせる様に思う。このように、生きられない人が多いからだ。そして、違った価値観と交わることをも拒否しているように見える。主が求めることを、知っていると思ってしまうからだろうか。弱さをもったひととどのようにともに生きるかは、ほんとうに難しい。
Proverbs 24:28,29 理由もなく友に対する証人となるな。/唇で惑わしてはならない。/「人が私にしたように、私もその人にしてやろう。/それぞれの行いに応じて報いてやろう」/と言ってはならない。
あまり関係がないが、対になって書かれている。友があるという状態を維持したいからだろうか。証人は、そのような気持ちではできない。証言は、神の前で、人々に対してするのだから。そして、それは、十分理由を考えていないと、ひとびとを欺くことにもつながる。浅はかさである。後半は、浅はかさの極みであるが、わたしも、そこに陥ることがある。Prospective Theory について学んでみたいと思う。
Proverbs 25:2,3 事を隠すことは神の誉れ/事を極めることは王たる者の誉れ。/天は高く、地が深いように/王たる者の心は究め難い。
現代では、このようなことは、王と言わず、一人一人に関わってくることだと感じた。むろん、誰でもというわけにはいかないだろう。昔は、王のところに、富も、知識も、力も集中しており、その王だけが、事を極めることができたのだろう。現代では、事の定義にもよるが、多くのことが一人ひとりの責任のもとにできる可能性がある。それは、素晴らしいことでもあり、責任が重大なことでもある。また、特に、その中でも、富や力のあるものの、責任は重い。神の力が、少しずつ分配されているかの如く感じる。
Proverbs 26:4,5 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな/あなたがその人に似た者とならないために。/愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。/その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。
この章には、愚かなものについての言葉が並ぶ。聖書では、愚かなものとは、神をしらないとするものである。神にきくことよりも、他のことに価値を見出すものなのだろう。その受け答えに丁寧に対応していると、自分も、その価値に引き摺り込まれてしまうことは確かにある。それに注意することであって、頭の回転が悪い人のことを言っているのではないのだろう。
Proverbs 27:3,4 石は重く、砂も重しとなる。/無知な者の悩みはこれらのものよりもなお重い。/憤りは残忍、怒りは洪水。/妬みの前に誰が耐ええよう。
この章も考えさせられることが多い。ここは、愚かではなく、無知になっている。無知は、知識の広がりがないということだろう。そのことだけで、悩んでしまい、それを、過大評価してし、絶望の淵に陥る。それから抜け出すことは難しい。憤り、怒り、妬みの難しさは、わたしも感じている。そこから、自由になりたいが、なかなか簡単ではない。
Proverbs 28:22 悪に捕らわれた者は財産のためにあくせくするが/やって来るのが欠乏だとは知らない。
箴言は、考えさせられる言葉が多い。財産を増やすためにあくせくするという表現が秀逸だが、そのあとの欠乏もある真実を語っている様にみえる。あくせくすると、こころを失うのだろう。そして、何のために、あくせくしているかもわからなくなり、いくら富んでも、満足できず、残るのは、欠乏だけなのだろう。そのことは、理解できる。
Proverbs 29:18 幻がなければ民はちりぢりになる。/教えを守る者は幸いである。
湯浅八郎のICUへ寄せた言葉である。幻がなければ、民は滅びる。幻は、さまざまに解釈されうるだろう。あまり、強烈なプロパガンダ(思想・教義などの宣伝)は、害悪をももたらす。しかし、まったく方向が定まらなければ、まさに、民は滅びるだろう。現代は、合理的に目的を追求するモダンからの脱却を試みた、ポストモダン(正確には定義できない様に思う)のなかで、価値多様をうけいれつつ、それぞれがなにかを求めて、ざわついている状態なのだろう。まさに、ある意味で、幻がなくなっている状態なのかもしれない。どう生きたら良いのか、難しい時代でもあるのかもしれない。
Proverbs 30:21-23 大地は三つのことに震える/いや四つのことに耐えられない。/奴隷が王となること/愚か者であるのにパンに満ち足りていること/憎まれている女が結婚すること/仕え女であるのに女主人の座を継ぐこと。
どのような背景でこのように言っているのか不明だが、たしかに、王の素養を持っていないものが支配者となることは、恐ろしく、かつ悲しいことではある。愚か者、これは、神が無いという人だろうか。それがパンに満ち足りる。これは、神に従いながら、パンもなく飢え、死んでいくものが一方にいることを嘆いているのだろう。しかし次の女性の項は、かなり複雑である。作者が男性だからか。ちょっと公平には’みていない様に感じる。
Proverbs 31: 28-30 子らは立ち上がって彼女を祝し/夫も彼女をたたえて言う。「有能な働きをなす女は多いが/あなたはそのすべてにまさっている。」あでやかさは偽り、美しさは空しい。/主を畏れる彼女こそ、誇ることができる。
「レムエル王の言葉。/これは母が彼に与えた諭し。」(1)と始まり、これは、母親のことばだと思っていた。しかし、いま読んでみると、母親から学んだ、レムエルの言葉のように思う。つまり女性視点ではない。聖書には、女性視点が大幅に欠けているという人がいるが、それは、確かなのだろう。女性が登場すると、ここに、女性視点があると言いたくなるが、おそらく、それは誤りである。人間の尊厳という面では、キリスト教から、または、聖書に根拠があるとよく言われるが、本当にそうかどうかも、疑問に思うようになっている。人間が、長い期間を通して、学んできたことなのかもしれない。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Proverbs 1:2,3 これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。見識ある諭しと/正義と公正と公平を受け入れるため。
今朝(3月3日)の天声人語に「戦前の満州事変のあと、日本の立場もかくのごときものだったか。日本軍は自作自演の線路爆破をきっかけに部隊を展開し、傀儡(かいらい)国家「満州国」をつくった。強引なやり方に批判が集まり、国際連盟の総会で44カ国のうち42カ国が満州国を否認した」とあった。反対は日本のみ、棄権がシャム(タイ)一カ国。ロシア侵攻に反対する国際連合の決議案に、反対したのはロシアのほか、ベラルーシ、北朝鮮、エリトリア、シリアだけだったという。(棄権した国は多かったようだが。)箴言というと知恵を思い出すが、諭しも何度も書かれていることを今回発見した。引用句は、現在のウクライナ侵攻を続けるロシアにも、戦前の日本にも当てはまり、おそらく、われわれ一人ひとりも、「見識のある諭し」、「正義と公正と公平」に、もっと向き合わなければいけないのだろうと思った。「分別ある言葉を見極める」これは、単純に信仰があれば、とは言えない、精神も、訓練も、学びも必要なものなのだろう。「主を畏れることは知識の初め。/無知な者は知恵も諭しも侮る。」(7)主を知ることが、知恵も諭しを知ることに繋がりますように。
Proverbs 2:16 また、よその女、滑らかに話す異国の女からも/あなたは救い出される。
文脈からは、救い出してくれるのは「慎みがあなたを守り/英知があなたを見守る。」(11)とあるので、慎みと英知のようだ。この箴言の最初に戻ると「知恵に耳を傾け/英知に心を向けるなら さらに分別に呼びかけ/英知に向かって声を上げ」(2,3)とある。これらが、女性の誘惑から守ってくれるというのだろう。「よその女」「異国の女」については、よくわからないが、家族から、自分の属する民族から引き離され、難民のようになって、売春をしていたのだろうか。高校生の頃にシンガポールで、私の乗っていた貨物船に、おじいさんに連れられて来た、中学生ぐらいの、コールガールの女の子を思い出す。今は、どうしているのだろうか。高校生のわたしは、ただ、その状況が恐ろしく、部屋に閉じこもって、布団にくるまっていたのを思い出す。いまも、わたしには、どうしたらよいかわからない。
Proverbs 3:27 あなたの手に善を行う力があるなら/なすべき相手にそれを拒むな。
このあとも、非常に具体的な教えが並ぶ。具体性が高くなると、汎用性は低くなるばかりか、その評価もどうしても下がる。しかし、この具体的な生き方なしには、真理は生きたものとはならないのだろう。「心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。」(5)暗証もしている好きな言葉だが、上に引用した句の背後にあるように思える。自分で細かい評価基準を作り、損得を考えてしまうために、それを行うことができるにも関わらず、躊躇したり、実行が遅れてしまったりするのだろう。そして、結果も目減りしてしまう。真理が生きたものとなるように、学び、実行することが、教条化することなく、真理への(神様の御心知る)入り口となるようにと願う。それが、「心を尽くして主に信頼」することなのかもしれない。
Proverbs 4:6,7 知恵を捨てるな、それはあなたを守る。/分別を愛せ、それはあなたを見守る。知恵の初めとして知恵を得よ。/あなたが得たすべてを尽くして分別を得よ。
「分別(物事の是非・道理を判断すること。わきまえること。)」がたいせつと教えられていることに、気付かされた。英語は understanding 、ヘブル語は בִּינָה(bina; understanding, discernment)。分別が特別な気がするのは、辞書には、分別として、〘仏〙 虚妄(事実でないこと。うそ。いつわり。)である自他の区別を前提として思考すること。転じて,我(が)にとらわれた意識。とも書かれている。なかなか理解できないが、いずれにしても、表面的な理解で、知恵を得たとするのではいけないのだろう。
Proverbs 5:21 人の道は主の目の正面にある。/主はその道のりのすべてに気を配っておられる。
性欲について男性を戒めている。女性視点はない。異国の女性との関係を求めたと思われる記述のあとに「どうして、私の心は諭しを憎み/懲らしめを軽んじたのだろう。導く人の声を聞かず/教える人に耳を傾けなかったのか。集会の中で、会衆の中で/私は追い詰められていた。」(12b-14)ともある。そのような状況で語られているのが、引用句である。「正面」という言葉が印象的である。主がどのように、気を配っておられるかは、不明である。しかし、主がそのような存在であること、自分の中にない配慮に目を向けることが、語られているのだろう。アーメンと言いたい。
Proverbs 6:2,3 あなたが自分の口から出た言葉によって罠にかかり/自分の口から出た言葉によって捕らえられたなら 子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。/あなたは友の手中に落ちたのだから/気弱にならず、友にうるさく求めよ。
このような教えも書かれているのは興味深い。友にうるさく求めて自らを救えという。これが効果的かどうかは不明だが、「友」とあるので、問題の原因は理解してくれる可能性が背景としてあるのだろう。そのようなことが、お互いに起こる可能性があるということか。たしかに納得ができないことでも、受け入れることはある。ただ、この戒めのあとには、もっと、様々なことが追加されるべきことだと思うが、どうだろうか。この「友」への配慮など。
Proverbs 7:4 知恵に「わが姉妹」と言い/分別に「わが親族」と呼びかけよ。
「知恵」と「分別」これらは、文脈からは、教えられるものだとある。「知恵」は、神の御心だけではなく、人々が神からうけとったとして学んだことも含まれるだろう。多少、間違ったこと、表現が不完全なものも含まれるだろうが。一方「分別 underdatanding」は、それを受け取る主体である、自分がなければ、成立しない。深い理解が必要である。とくにそれが生きるものとなるために。そして「わが姉妹」「わが親族」と言えるほど、親しいものとなれと言っている。知恵を、理解したことを生きてみて、少しずつ身について行き、自分の一部のようになっていくということの表現なのだろう。学ぶことは多い。
Proverbs 8:5,6 思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。/愚かな者よ、心を見極めよ。聞け、私は唇を開いて語ろう/高貴なことを、公平なことを。
「熟慮」「心」「高貴なこと」「公平なこと」について考えたい。「高貴なこと」は、人の目から見ても美しい、神に属することだろうか。わたしのことばでは「御心」である。そして「公平なこと」は、人が、できるかぎりの知恵を用いて、そのときに、実現すべき、人々の間の平和だろうか。絶対的なことではないが、公平を求め、改善を続けることに大きな価値がある。そこに必要なのが「熟慮」と「心」だろうか。心は、よくわからないが、究極的には「御心」だが、おそらく、他者と自分の「心」その言葉や行動の背後にあるものだろうか。これらを、見極めることは難しい。しかし、その方向に進み、探求していきたい。
Proverbs 9:7,8 嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。/知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
「嘲る者を諭すな」「悪しき者を懲らしめるな」と直接的には言っているように見えるが、おそらく、ここでも、直前の「思慮のない業を捨て、生きよ。/分別の道を進み行け。」(6)や直後の「知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。/正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。」(10)にある、知恵と、分別・判断力を教えているように思った。嘲る者を諭し、悪しきもの懲らしめることで、問題が解決するなどとは考えるなと言っているのだろう。まさに、これが、ここで教えられている、知恵と分別・判断力である。完璧とは思えない格言もあるが、やはり、考えさせられる知恵である。
Proverbs 10:16 正しき者の働きは命のために/悪しき者の収穫は罪のために。
命は、生かすものとも言え、罪は、滅ぼすものとも言えるように思う。そして、これは、自分だけではなく、他者を生かすためのもの、他者を苦しめるためのものも含むのかもしれない。さらには、「正しき者の望みは喜びとなり/悪しき者の希望は滅びる。」(28)も、正しき者の喜びだけではなく、多くのひとの喜びにつながるようにも思う。悪しき者の希望については、現実を見ると、正直よくわからない。滅びると言い切れるのかどうか。おそらく、平安は無く、おそらく、そうなのだろう。
Proverbs 11:27 善を探し求める人は主が喜びとすることを尋ね/悪を求める者には悪が訪れる。
対をなした表現が続く。それほど単純だとは思わないが、対比を考えるには、よいのだろう。わたしは「探し求める」「尋ね」が好きで、究極的には「主が喜びとすること」とも表現される主の御心を求めていきたいと思っているので、この句を選んだ。対比として書かれている「悪」おそらく「善」に対応するものとして書かれているのだろうが、すこし表現に豊かさが欠ける。おそらく「悪を探し求め」「主が忌み嫌うことを尋ねる」ひとはいないだろう。やはり、的外れのことが言われているのかもしれない。もうひとつ、印象に残った句を引用しておく「主は人を欺く秤をいとい/正確な量り石を喜ばれる。」(1)商取引が想定されているのだろうが、根拠を確かめない議論も同様に人を欺く秤であると思う。
Proverbs 12:25,26 人は心の憂いを抑えようとする。/しかし親切な言葉は憂いをも喜びとする。正しき者は友に尋ねて道を探す。/悪しき者の道は人を惑わす。
とても興味深い節である。ひととの関係が人を生かすと表現されているようだ。親切な言葉、そして、探求において、友に尋ねる。ということは、友が助けてくれることを言っているのだろう。自分で、憂いと向き合うことは、避けられないし、たいせつなことだろう。しかし、それだけで、解決することはないだろう。親切な言葉は、簡単ではないが、探していきたいものである。
Proverbs 13:23 貧しい人の耕作地で多くの食物が実っても/公正が行われないところでは奪われてしまう。
本当に、これは、残酷。理不尽である。公正は、ひとに委ねられているのだろうか。公平とともに。神様は、それを、見守っておられるのかもしれない。これも、愛の神のなさることなのかもしれない。魔法によって、解決したとしても、それは、なにも生み出さないのだろう。今回のロシアのウクライナ侵攻はなにかを生み出すのだろうか。神様が望まれるなにかを。
Proverbs 14:31 弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。/造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。
興味深いことばである。主のみこころを求める人は、それを実行する人、造り主と共に喜ぶ人なのかもしれない。他方、弱い人をしえたげる人は、主に責任を押し付けつつ、主の御心は受け取ろうとしない人なのだろう。「心は自分自身の苦しみを知っている。/その喜びに他人はあずかれない。」(10)神様の苦しみを知り、その喜びにあずかるものとなりたいものである。
Proverbs 15:22 計画は相談しなければ挫折し/多くの助言があれば実現する。
このようなことばに惹かれるが、聖書では、そして、箴言に限定しても、少ないように思われる。ダイナミックな人との関係の中で、協力してことを進めることが少なく、まだ未発達だったからだろうか。現代での重要性とともに、その難しさは、際立っているように思う。相談、助言、それぞれの取り扱い方、すなわち、相談を受けたり、加わったものや、助言をする側が、なにを考えなければいけないかなどである。単に、神を畏れるものの助言や、共に、祈りつつ相談するといったことの枠をでることが、有効である場合が多いばかりか、そこに、神様の御心があることもあると思われるからである。難しい。
Proverbs 16:31 白髪は誉れある冠/正義を行う道に見いだされる。怒りを遅くする人は勇士にまさり/自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。
聖書には歳をとって毛が薄くなったりはげになったりする記述がほとんどないように思われる。これは、民族性なのか、ほかの捉え方がされているのか、毛が薄くなった自分は、気になる。それに続く、引用の後半は、前半と関係しているとは言えないが、自分のことを考えると、明らかに、自制心が高まり、怒りが遅くなっている。そう簡単には、判断できないと思うからだ。心を治めるというより、自分の弱さ、知らないことの多さを痛いほど、学んできたからだろうか。
Proverbs 17:16 愚かな者が代金を手にしているのはなぜか。/思慮もないのに知恵を買おうとしている。
意味がわからないので、他の訳を調べてみた。「愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。」(新協同訳)「愚かな者はすでに心がないのに、/どうして知恵を買おうとして/手にその代金を持っているのか。」(口語訳)「愚かな者が良識もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはどうしたことか。」(新改訳2017)'Why is there in the hand of a fool the purchase price of wisdom, Since he has no heart for it?' (NKJV) NKJV は直訳に近いため選んだ。おそらく、いくつも、意味のとり方があるということなのだろう。じっくり読むと、聖書協会協同訳の意味も浮かび上がってくる。名訳だと思えてくる。不思議なものである。NKJV の疑問符は、とても興味深い。日本語には、ない表現なのだろうか。自然さを欠くのかもしれない。「愚かな者が代金を手にして何かを買おうとしているのはなぜか。思慮もないのに知恵を買おうとしているのだろうか。」(私訳)
Proverbs 18:14 人の霊は大病にも耐えられるが/霊が沈めば誰が支えることができようか。
箴言記者は、様々なことを観察している。そして、それを知恵として伝え、単純に、主に祈ればよいとは書かない。引用句においても、ひとはすぐ回答を、慰めを求める。しかし、ことばを言葉として、受け取ることがたいせつなのかもしれない。直前には、「よく聞きもせずに言葉を返す/無知も恥辱もこういう者のこと。」(13)ともある。ひとは、解決策を求める。しかし、それは、簡単には得られないことを、しっかりとわきまえるべきなのだろう。自分の問題か、他者におこったことか、それぞれの場合に、簡単に答えがみつかるわけではない。
Proverbs 19:13,14 愚かな子は親の破滅/いさかい好きな妻は滴り続ける雨漏り。家と財産は先祖から受け継ぐもの/悟りある妻は主からいただくもの。
まずはそのとおりだと思う。同時に、父・夫の責任については述べられておらず、一方的でもある。たしかに、因果応報的に、適切にすれば、こうならないとは、わたしは考えていない。適切な対応はむろんあっても、それだけで、このような事態を避けられるわけではないのだから。背後に主がおられることが書かれているが、主がどのように、関わっておられるのかは不明である。混乱の元となる「愚かな子」「いさかい好きな妻」を神様はどのように見ておられるのだろう。そして「賢い妻」「家や財産」の分配についても。
Proverbs 20:3 争いを避けることは人の誉れ。/無知な者は皆、争いを引き起こす。
争いによって得られるのは虚しさ、失われるものが多いこと、よいことを考えることさえエネルギーを残さないということだろう。その火中にはいっていくことを、わたしは望むのだろうか。よく、わからないが、それが、争いを最小限にすることなら。争いが始まる、または、大きくなりそうな時、身を引くことも、ひとつの選択肢だと思っており、時間も必要なのかもしれないと考えている。しかし、争いを避けることは、もっと、もっと深いものが必要なのだろう。わたしには答えられない。英知がないからか。「人の心にある企ては深い水。/英知ある人がそれを汲み出す。」(5)
Proverbs 21:26 その者は日夜欲望を満たそうと願うが/正しき者は与え、惜しむことはない。
与えるものも、自分のものというより与えられたものとの意識があるからだろう。「虚偽を語る証人は滅び/よく聞く人は永遠に語り続ける。」(28)とくに後半は興味深い。語り続けるのは、短くであっても、よく聞いた人のことばは、生きたものとして語り続けるのかもしれない。語るのを待つというより、自分の中には、たいしたものがないことを知っているということだろう。「知恵も、英知も、謀も/主の前には無に等しい。」(30)聞き方を方法論としてではなく、学びたい。
Proverbs 22:2,3 富める者と貧しい人が行き会う/どちらも造ったのは主。賢い人は災難が来ると見れば身を隠し/思慮なき者は向かって行って罰を受ける。
ゆっくり考えたい言葉だ。身を隠すことも、わたしには、よくわからない。どうしようも無いときに、あらがっても仕方がないということか。神様の働きは、様々で、見極めることができないこととも通じるのかもしれない。おそらく、神様も、理解できているわけではなく、ただ、望んでおられることが、御心としてあるのかもしれない。神様は、身を隠されるのだろうか。罰を受けることがあるのだろうか。前者はあるかもしれないが、後者はないのだろう。
Proverbs 23:4,5 富を得るために労するな。/分別をもって思いとどまれ。目を富に向けても、そこに富はない。/自ら鷲のような翼を生やし、天に飛んで行く。
箴言が書かれた時代にも、富を得るために労しているひとたちがたくさんいたのだろう。少し驚かされる。富は、それ自体に、自分を満足させる魔力があるのだろうか。なんでもできるという気にさせるのか。昔から、富は、それ自体が目的ではなく、それによってなにをするか、何のために富を蓄えるのかがたいせつだと思ってきた。時間ともにているが、二次的な存在を中心に考えるのではなく、本質的にどうありたいか、なにをしたいのかに目を向けるべきだと。むろん、だからといって、富に目が奪われることと無縁とは言えないことも確かだが。引用句では、富よりも、さらに、一歩手前の、富を得ることについて語られている。労したくなる、そのような魔力があるのかもしれない。
Proverbs 24:13,14 子よ、蜜を食べよ。実に良いものだ。/滴る蜜は口に甘い。魂にとって知恵も同じと知れ。/それを見いだせば、未来があり/希望が絶たれることもない。
未来と希望につながるという表現に惹かれた。蜜もそのようなものなのだろうか。体によく、エネルギーのもとだと考えられていたのか。「悪に未来はない。/悪しき者の灯は消える。」(20)が対応している。そのようなものに、心を奪われるなということだろう。知恵のたいせつさは、箴言の中心テーマでもあるが、ここでは、「それを見い出せば」と言っている。知恵を求めることはわかるが、見出してはじめて未来があるのだろうか。すこしずつ、見出すことをも表現しているのかもしれない、としておこう。
Proverbs 25:10,11 銀細工に付けられた金のりんごは/時宜に適って語られる言葉。それを聞く耳に与えられる知恵のある懲らしめは/金の輪、また純金の飾り。
「時宜に適って」これがとてもむずかしいことは、おそらく、多くの人が知っているだろう。「言葉」や「語る」ことだけに、本質があるのではなく、他の様々な要素が働いて「それを聞く耳」に届くのだろう。「金のりんご」「金の輪」「純金の飾り」となりうるが、それ自体だけに価値をもとめるのは、誤りであるように思う。その複雑さの背後で、神様が働いておられるように思う。
Proverbs 26:4,5 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな/あなたがその人に似た者とならないために。愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。/その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。
「愚かな者」への対し方である。平等を教えられてきた学校教育の中で、愚かな者と賢い者を区別するのはいけないことだと学んできたように思う。しかし、より多様な人々の社会の中で生きていると、「愚かな者」の愚かさと「賢い者」の賢さが、いかんともしがたいものとして存在することも、経験する。「愚かな者」は、簡単には「賢い者」にはならず「賢い者」は完璧には程遠いものの、やはり、あらゆる場面で賢さを発揮する。この箴言のことばをこころの片隅に蓄えることは、注意喚起にはなるのかもしれない。そして、平等ではなく、それぞれの場で適切なことばをさがし、行動を考える縁(よすが)となるように思う。
Proverbs 27:1 明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。
このことばをそのとおりだと思う人と、そうではない人といるのだろう。戦争の中にいる人ではなくても、自然災害も含め、多くの人が、そのような環境に生きてきたのだろう。いまは、そうではない環境で生きている人が増えていると思われる。そして、そうではないひとも多く存在する。そのようなひとたちに心を向けたい。「満ち足りている者は極上の蜜をも踏みつけるが/飢えている人には苦いものもみな甘い。」(7)貧しい時代を知っており、日本が豊かになってからも、貧しい国や地域に何度も訪れ、このことはよく分かる。自分も、乏しい食事、極上ではないもので、日常を生きることをたいせつにしてきたが、実際に苦いものもみな甘いといえるわけではない。「鉄は鉄で研がれ/人はその友人の人格で研がれる。」(17)有名な言葉だが、わたしも、異なった環境にいる友を大切にしていきたい。みんな、それぞれどうしているかな。
Proverbs 28:8 利息や高利によって財産を殖やす者は/弱い者を憐れむ人のために蓄えることになる。
最初は意味がよくわからなかった。しかし、その後のいくつかの節を読むと、「利息や高利によって財産を殖やす」ような行為は、結局は破綻し、その逆のような「弱い者を憐れむ人のために蓄える」ことになるよ、と言っているのではないかと思った。「正しい人を悪の道に迷い込ませる者は/自分の掘った穴に落ち/完全な人は良いものを受け継ぐ。」(10)この節もその路線であり「富める者は自分を知恵ある者と思い込むが/貧しくても分別ある人はそれを見破る。」(11)も、真理を見抜くことについて語っている。「貧しい人に与える人は欠乏することはない。/貧しい人に目を覆う者は多くの呪いを受ける。」(27)つねに、このような世界とは言えないとやはり思ってしまうが、イエスが「神の国が近い」といわれたことを、信じて、現実からは、必ずしも、そのように見えない場合でも、神の支配(神の国)のもとに生きることが、イエスが生きられたように、神の子としていきることなのだろう。
Proverbs 29:11 愚かな者は自分の感情をすべてさらけ出し/知恵ある人は最後にこれを鎮める。
感情については、よく理解できていない。感じる主体は、個人であるので、他者からは直接的には理解できない。すなわち、自分の感情をさらけ出しても、理解できる人はいない。むろん、感情を吐露しているひとを前に、自分の経験の記憶を思い出し、共感の努力をすることはできるかもしれない。喜怒哀楽の中で、それを無視するのではなく、冷静に考えるべきことがあるということだろう。後半の「最後に」が興味深い。知恵ある人も、悲しいときは悲しく、苦しいときはやはり苦しいのだから。あまり関連性はないが「貧しい人と虐げる者とが行き会うとき/主はどちらの目にも光を与える。」(12)にも興味を持った。主は公平なのだろう。悲しさ、苦しさ、そして喜びを感じるとき、そして、他の人はそうではない状況においても、神様はどちらの目にも光を与えておられるのかもしれない。受け取り方、その光によって、見える世界は、異なるかもしれないが。
Proverbs 30:1-3 ヤケの子アグルの言葉。託宣。/その人は言う。/神よ、私は疲れた。/神よ、私は疲れた。/吞み尽くされてしまいそうだ。私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない。知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない。
最初の「神よ、私は疲れた。」の繰り返しが印象的である。何を伝えているのだろう。印象に残る言葉、そうでもないものが混在しているように思う。おそらく、箴言の他の部分と違って、精査・取捨選択されていないのだろう。「空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ/貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください。」(8)若い頃から、このことばで御何度祈ったことだろう。いまも、そう願っている。アーメン。
Proverbs 31:6,7 麦の酒は滅びようとする者に/ぶどう酒は苦い思いをかみしめる者に与えなさい。飲めば貧しさも忘れ/労苦も思い出さなくて済むでしょう。
女に溺れることについて注意し、次に酒について述べ、少しずつ目を向ける内容が変遷している。前半は、すこし乱暴にも見えるが、後半は、貧しいものに寄り添い始めている。そして、続いて「あなたの口を、ものを言えない人のために/捨てられた人の訴えのために開きなさい。あなたの口を開いて/苦しむ人と貧しい人の訴えを正しく裁きなさい。」(8,9)としている。レムエル王(不明)が母の言葉として書いているという設定になっているので、このように書かれているが、王でなくても「ものを言えない人」を思い「捨てられた人の訴え」「苦しむ人と貧しい人の訴え」を聴くことはできる。もとに戻ると、女や酒に溺れることが言いたいことの中心ではなく、もっと、価値のあることにこころを向け、エネルギーを避けと、教えているのだろう。母の教えである。わたしも、いろいろな方から、このような教えを小さい頃から学んできたように思う。

BRC2019

Prv 1:23 私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたがたに注ぎ/私の言葉を知らせる。
「懲らしめ」とあるが、たいへんな経験をすることなどを考えると、知恵を得ることは、生きながら、生活を通して得られるものが多く含まれると思われる。「恐怖が嵐のように襲うとき/災いがつむじ風のように起こり/苦難と困難があなたがたを襲うとき」(23)こそが当時の人たちが一番恐れていたことなのかもしれない。続けて「その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。/探し求めても、私を見いだすことはできない。」(24)とある。「知ること・主を畏れること」(28)「勧めに従い、懲らしめをないがしろにしない」(29)教えなのだろう。
Prv 2:1-3 子よ、もし私の言葉を受け入れ/私の戒めをあなたの内に納め 知恵に耳を傾け/英知に心を向けるなら さらに分別に呼びかけ/英知に向かって声を上げ
極端に変化が大きい時代に、教えをこころに納めるだけでは、いけないことを今考えている。これらも、方法論であり、本質ではないのではないかと。しかし、学ぶことも、方法論であり、求めるものではない。「その時、あなたは主を畏れることを見極め/神の知識を見いだすだろう。」(5)ここに目的があると断言することに躊躇を覚えている。これも、ことばあそびに見えてしまうからである。真理とか神の御心とは何なのだろうか。求め続ける先にあるものとしか言えないのかもしれない。
Prv 3:1,2 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。
ここには、「(父の)教えを忘れず、戒めを心に納める」目的らしきものが書かれている。「命の年月、生涯の日々は増すこと」と「平和が与えられる」ことである。前者は単に寿命が延びることのみを意味するものではないだろう。命は神が与えられるものと考えると「主との交わりが豊かに続くこと」を意味すると表現しても良いかもしれない。「平和(シャローム)」は単に戦争・争いがない状態ではなく、完全で、安心していられる、最高の状態を現すと考えると、それは「主の御心が成る、神の国・天の御国」を現しているのかもしれない。
Prv 4:3,4 わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけない独り子であった。父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。
「わたし(父)も父の息子」連続性が語られている。「独り子(yachiyd: only, only one, solitary, one)」は何を意味するのだろうか。本当に一人だったのだろうか。当時としてはめずらしいだろう。特別な感情が含まれたものか。連続性は、変化が少ない世のものである。だからこそ、変化の時代である現代では、学んで応用する力が求められる。知恵・分別(6-8)は、単純に本質的なこと以上のものが含まれているのだろう。
Prv 5:15 あなた自身の井戸から水を汲み/あなた自身の泉から湧く水を飲め。
「その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。」(17)とあり、独占的所有が書かれている。むろん、文脈からは「よその女」(3)を「遠ざけよ」(8)という教えの一部であり「あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。」(18)に続く。しかし、この関係性は、やはり問題がある。ただ、表現は難しい。「よその女」「若いときからの妻」との関係である。「わが子よ/どうしてよその女に酔うことがあろう/異邦の女の胸を抱くことがあろう。」(20)を見ると、これは、女性問題、異性についてだけではなく、主が与えてくださっているもの以外、他者のものをむさぼることを戒めているととる方が良いのかもしれない。
Prv 6:3 わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから/行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。
「わが子よ、もし友人の保証人となって/他国の者に手を打って誓い あなたの口の言葉によって罠に陥り/あなたの口の言葉によって罠にかかったなら」(1,2)この状況に関する対処方法である。なんとも乱暴である。おそらく、それだけ、危機的な状況であり、それは、時々起こったのだろう。どうしたらよいだろうか。謝る以外になにも思いつかないわたしには、正直どうしたらよいかまったく見当もつかない。
Prv 7:10 見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。
「よその女・滑らかに話す異邦の女」から守る教えが書かれている。描写が物語り仕立てになっていて、非常に興味深い。「浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。」(7)から男性の描写が少しあり、引用した10節からは、女性の描写がなんともいかがわしく表現されている。「和解の献げ物をする義務があったのですが/今日は満願の供え物も済ませました。 」(14)などという脚色もある。しかし、読んでいて気になったのは、女性の視点は、殆ど無視されていることである。男性が書いた限界だろうか。神様に性別はないと言われるが。この箴言に対応する、女性版も個人的には興味がある。
Prv 8:18,19 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。
知恵の与える実りとは何なのだろうか。ここでは、富と名誉、財産と慈善が語られ、それにまさるものとして、実り、収穫が語られている。なにが平和で、主との交わりとはなになのか。それを求めたい。
Prv 9:13 愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。
「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(1テモテ2章14節)など、聖書に女性はあさはかであるという記述はいくつかある。ここでは、愚かさを女でたとえている。騒々しい、浅はかな女が軽蔑されていたからだろう。しかし、これらは、すべて男性視点だとも言える。ひとは、他者の目から見た世界は殆ど理解できない。さらに、著者がおそらく全部男性ということで、女性視点の記述がない。バランスをとることは、まず、必要だろう。女性が書いたら、どうなるのだろうか。単なる、男性・女性の置き換えではなく、新たな視点が広がるのではないだろうか。そのような記述も知りたい。
Prv 10:11 神に従う人の口は命の源/神に逆らう者の口は不法を隠す。
「神に従う人」は箴言11章など他の箇所にも現れるが、この章には、12回現れ、24節・25節以外は、すべて冒頭、かつ、「神に従う人」とそうではない人の対比が続く。「神に逆らう者」以外にも「無知な者」(21)「暴言をはく舌」(31)が登場する。引用句では「神に従う人の口は命の源」とある。命を与えるのは、神の業、神に従うものは、神の働きをするようになるということなのだろう。他は、ほとんど、自らの利益と神の祝福が語られているが、この箇所は特に、印象に残る。
Prv 11:24,25 散らしてなお、加えられる人もあり/締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。
与えることは、ものは失うかもしれないが、目に見えない多くのことで豊かになっているのだろう。最大のものは、神様からの祝福だろうが、他者との関係性のたいせつさに目をとめることは、神様との関係性を強めることにもつながる。「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」(30)となりたいものである。
Prv 12:10 神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情すら残酷だ。
家畜を飼ったことのないわたしには、「家畜の求めるもの」など、よくわからないので、考えてみることにした。ここで家畜はなにを意味するのだろうか。「家畜の求めるものすら」となっているから、まずは、他のこと、おそらく、家族や使用人、そして友人や隣人などの他者が想定されているのではないだろうか。「神に逆らう者」について「同情すら残酷」とあるので、「神に従う人」は、同情のしかた、同情において留意すべき事はもちろん、知っているのだろう。いずれにしても、隣人との関係である。「同情すら残酷」はわかるようで、はっきりはしない。不作為なのか、作為的なのか。ただ、「神に逆らう者」とあるので、神が望まれることを求めず、それとかけ離れたまたはずれた思いを抱く者はということかもしれない。「同情」は究極の目的ではなく、ひとつの方策なのだろうから。
Prv 13:12 待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。
聖書協会共同訳では「望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。」となっている。この箴言には「怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる。」(4)とあるように、勤勉さなど、生活における経済的な記述が多い。そう考えると、聖書協会共同訳のほうが一貫性が高いように思う。しかし、この箴言でも様々なトピックがちりばめられており、一つのことばでまとめるのは、問題もあるだろう。「命の木」は創世記2章・3章および黙示録に登場するが、それ以外は、上の引用箇所を除くと、箴言3章18節、11章30節と、15章4節である。箴言に多く現れていることを知らなかった。知恵を勤勉に求めるものことは、命の木を得ることと関係しているのかもしれない。
Prv 14:21,22 友を侮る者は罪人。/苦しむ者を憐れむ人は幸い。悪を耕す者は必ず迷う。/善を耕す人には慈しみとまことがある。
神を畏れることの、一般生活との関わりが書かれているように思う。このような倫理観は、神を畏れるという以外にも表現できるかもしれない。自分の存在は、生まれてきたことにおいても、受け継いできたことにおいても、いままで生きてこられたことに、人びとと関係し合いながら生きていることについても、自然の恵みについても、自立的存在ではなく、自己完結ではないことは、明らかであるのに、ひとは、それを忘れ、傲慢に振る舞う。やはり、神を畏れるという表現が一番適しているように、わたしには映る。
Prv 15:15-17 貧しい人の一生は災いが多いが/心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは/乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは/青菜の食事で愛し合う方がよい。
真実であると同時に、注意する点も含まれる。このことを、貧しい(苦しむ(聖書協会共同訳))人に(貧しくても、苦しくてもいいのだと)押しつけてはいけないことである。あくまでも、真実(主への信頼を通して学んだこと)の信仰告白である。それを普遍的事実(科学的正しさ)と置き換えると問題がおこる。ひとのいのちの営み(信仰生活)が消されてしまうからである。
Prv 16:19 貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
本当にそう思う。「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」(18)は教訓としては、その通りだと思う。何度か似たフレーズが登場するが、まさに「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(25)なのだから。
Prv 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。
その通りだと思うが、どうすれば、裁判沙汰にならぬうちにやめられるのだろう。続けて「悪い者を正しいとすることも/正しい人を悪いとすることも/ともに、主のいとわれることである。」(5)とある。正しさをうやむやにして、切り抜けることではないのだろう。しかし、正しさの主張となれば、争いは収まらない。「愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く。」(9)やはりここに至るように思われる。「貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。」(5)をたいせつにしたい。造り主をみくびることの反対が、主を畏れることのように思う。「貧しい人を嘲る」「(他者の)災いのときに喜ぶ」背景に潜む闇は、自分にもあるように思う。
Prv 18:8,9 陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。仕事に手抜きする者は/それを破壊する者の兄弟だ。
こころに残る知恵が多く語られている。「離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。」(1)こころにあることを、見透かされているようにもうつる。言語化されていることも、重要なのだろう。味わい、こころに蓄え、そのことばを生きることができればと思う。むろん、それが終着点ではなく、ことばは、表現も変えながら、成長していくようにも思うが。
Prv 19:22,23 欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い。主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。
仏教の「煩悩(ぼんのう)」が欲望と近いのかと思うが原語のサンスクリットのクレーシャは、単に苦しめる・汚すといった意味のようだ。ここでは、貧しい人と、欺く者が対比されている。欲望は、欺くこととつながっているのか。貧しいは、単に経済的に苦しいひとではない。神以外に、救いがない状態にあるものなのだろう。主を畏れるひとがそれに近いということか。災難は、天災などを考える必要はなく、ここでは、恥を受けることがないといういみなのかもしれない。
Prv 20:5,6 思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。親友と呼ぶ相手は多いが/信用できる相手を誰が見いだせよう。
直前の4節は「怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない。」とあり「英知のある人」はこれに対応する語でもあるようだが「思い計らい(聖書協会共同訳は単に「企て」)」を「くみ出す」とはどのような事だろうか。ひとの思い、考えることより、自分の外に目をむけることをたいせつにしようとしてきた。謙虚に。しかし、じっくりと考えることともうすこし、ていねいに向き合ってみたい。確かに「思い計らい」を「くみ出し」ているひとでなければ「信用できる相手」とは言えないかもしれない。信用しようとしても、怠け者だったり、心の中の深い水に目をむけないひとは、実際的に、信頼には値しないのだから。わたしにとって、イエス様は、信用できる相手である。
Prv 21:29,30 神に逆らう者は厚かましく事を行う。正しい人は自分の道を整える。どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。
このあとの21章最後の節は「戦いの日のために馬が備えられるが/救いは主による。」とある。「自分の道を整える」は、おごらず、謙虚にを表現しているのだろう。しかし、それは、正しい人を目指す道で、互いに愛することを向いているようには思えない。イエス様が来られるまで待つ必要があったのか。「救いは主による」謙虚に、「主の御前」での価値を思いつつ、主のみこころを求め続けることだろうか。
Prv 22:2 金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。
このように宣言するのは、勇気のあること、または、現実を、しっかりと直視していることだろう。「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。」(7)これも、現実の直視である。しかし、そこで終わるわけではない。「寛大な人は祝福を受ける/自分のパンをさいて弱い人に与えるから。」(9)祝福を求めるからではなく、主を思い、主の御心を求めることだろうか。現実を直視することから、主に目をそらすことではない。
Prv 23:29,30 不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か/いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か/理由なく傷だらけになっているのは誰か/濁った目をしているのは誰か。それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。
富、食、遊女などとあるが、この表現だけ、特別である。酒におぼれるものが、多かったのだろう。現実から逃避していることは、確かである。もっとたいせつなものを見つめず、それを忘れようとしているのか。気分転換は、すでに、過ぎてしまっているのだろう。もう少し、ゆっくり考えてみたい。
Prv 24:1,2 悪者のことに心を燃やすな/彼らと共にいることを望むな。悪者が心に思いめぐらすのは暴力。唇が語るのは労苦を引き起こすこと。
わたしには「悪者」という考え方は受け入れられない。結局、そのようにしか表現できないことはあるだろう。その意味で、悪者の存在は、真実である。しかし、自分の目の前にいる人間を悪者と判断することは、できない。つまり、事実として、それを正しいとすることはできない。自らも、悪と善の間で揺れ動き、その間をさまよい歩く存在である。真理、主のもとにある知恵を尋ね求め、自らを省みながら、他者とともに生きる道をめざすことだろうか。次のことばは心地よい。「わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。滴る蜜は口に甘い。そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」(13,14)「魂にとって知恵は美味だと知(り)」未来に向かって希望を持って歩んでいきたい。
Prv 25:20 寒い日に衣を脱がせる者/ソーダの上に酢を注ぐ者/苦しむ心に向かって歌をうたう者。
「ソーダの上に酢を注ぐ」とどのような化学反応が起こるのだろう。よくわからず、聖書協会共同訳をみると「寒い日に衣を脱がせ、傷の上に酢を注ぐ。/それは苦しむ心に向かって歌を歌うこと。」とある。新改訳2017では「ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」とあり、原語は見ていないが、聖書協会共同訳が一番、意味が通る。英語もいくつか調べてみたい。しかし、ここは、文脈からすると、相手にまったく配慮がない行動を表現しているのだろう。このあとには「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」(21)とある。アーメンと言いたい。しかし「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(22)には驚かされる。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ローマの信徒による手紙12章20節)が引用箇所にあるが、個人的には、全く理解できない。 
Prv 26:23-25 唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は/混じりもののある銀で覆った土器のよう。唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は/腹に欺きを蔵している。上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。
ことばだけでは、こころはわからないことが、表現されている。こころは、自分でもわからないこともあり、ましてや、他者のこころは、理解できないことが多い。それを、みられるのが、神様なのだろう。わからないということを、謙虚にうけとめ、ていねいに生きていくこと、自分にできる、誠実さを貫くことだろうか。「七つの忌むべきこと」は慣用句かもしれない。具体的に、何をいみするのだろうか。
Prv 27:1,2 明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
明日のことは、わかならい。この自覚が、信仰へと向かったのかもしれない。現代では、明日のことを自ら制御できると考えられる時代でもある。科学が発達し、事故や病気もある程度対応できるようになってきた。しかし、最近は、未曾有の出来事が多い。地震、台風、感染症。未曾有ということは、予測がしにくいということでもある。謙虚にさせられる。自分の口、他人、異邦人とだんだん、遠くなってく。おそらく、普遍性が増し、主観的なものから、自由になっていく様も現しているのだろう。大きなわくでみると、自分は、ちっぽけな者、価値も小さく見える。謙虚さを生み出すかもしれない。それも、知恵、神を畏れることなのだろう。
Prv 28:3 貧しい者が弱者を搾取するのは/雨が洗い流してパンがなくなるようなものだ。
聖書協会共同訳には「弱い人を虐げる貧しい男は/収穫を押し流し、台なしにする雨。 」とある。こちらの方が意味がとりやすい。「貧しくても完全な道を歩む人は/曲がった道を歩む富める者にまさる。」(6、聖書協会共同訳)こちらも、わかりやすいが、原語まで調べないといけないとも思う。「弱い人を虐げる貧しい男」貧しい者は、聖書で特別な意味に使われることが多いから、他の言葉を使ったのだろうか。いずれにしても、悲しいことが書かれている。しかし、実際、そのようなことは、世にもある。社会が悪い、環境が悪いということを、考えることも大切だが、やはり、悲しいことに向かわないが良い。
Prv 29:1 懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。
深いことばだ。教育でも、上手にほめることがたいせつだという。しかし、本質は、こちらにあるように思う。人生で辛いことが多いと、素直でいることはできない。論理的帰結でもある。しかしまるでカタストロフィーのように、あるところまで頑張っても、現象は、突然坂を転げ落ちる。悲しいのは、最後に、もう癒やすことができないとあることだ。希望はもちたいが、このようにならないようにするひとと人との関係が作られていかなければいけない。懲らしめられることが多い(と感じている人)を放置しておいてはいけない。わたしにできることを探していきたい。
Prv 30:18-20 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。そうだ、姦通の女の道も。食べて口をぬぐい/何も悪いことはしていないと言う。
「男がおとめに向かう道。」「姦通の女の道も。」これらは、個人の倫理感の問題だと考えていた。おそらく、それでは語り尽くせないだろう。一般的には、社会的にそのことがどのように評価されるかが影響されるからである。一つ一つの行為だけで倫理的価値判断がされることが減った。そのこと自体は、多様性・寛容性・全体的な視点からも、おそらく、たいせつなことだろう。しかし、その社会が維持する倫理基準が緩くなると、倫理自体の実体が消滅する方向に向く。非常に難しい問題である。わたしも、答えを持っていないだけでなく、端緒・ヒントすらない。
Prv 31:3 あなたの力を女たちに費やすな。王さえも抹殺する女たちに/あなたの歩みを向けるな。
箴言には「女」に関わることを注意せよとの言葉が多い。性的誘惑だけではなく、それと関係するような女性との関係が「女」ということばで表現されているのだろう。箴言記者は男性と思われ(父が多く現れる)教える相手も男性が多いように思われる。男性と女性との人としての関係、それは、おそらく、共に労する、全く同じ仕事ではなくても、一つの目的のために、共働することによって、始まるのではないだろうか。箴言が書かれた時代にも、そのような関係は、牧畜を営んでいる者、農業によって生計を立てていた者には多くいたはずである。協力なしには、生活できなかったろうから。そう考えると、ソロモンの箴言は、少し偏ったものであることも、留意すべきかもしれない。王や、王宮にいるものまたは、役人など、給与生活者が想定されていたのかもしれない。

BRC2017

Prv 1:4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。
わたしもそのような知恵を語りたい。自分は、それが乏しく、失敗してきたのだから。しかし、それが、まさに、その目的であって、自分自身を持ち上げるためではないようにありたい。
Prv 2:5 あなたは主を畏れることを悟り/神を知ることに到達するであろう。
これこそが、わたしの求めている道、これ以上のことを、わたしは望まない。それは、この箴言を学べば得られるのだろうか。じっくり思い巡らしてみたい。一つ一つの言葉を。
Prv 3:27 施すべき相手に善行を拒むな/あなたの手にその力があるなら。
この章の具体的な教えは「わが子よ、力と慎重さを保って/見失うことのないようにせよ。 」(21節)と、引用した箇所にまとめられる。隣人に対する善行は「友に対して悪意を耕すな/彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。 」(29節)で悪意についても語られている。21節は正直、方法論に陥らないように注意はしたいが、本当にその通りだと頷きたい。
Prv 4:25 目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに/まなざしを正しく向けよ。
これこそ、わたしが、求めている、そのように生きようとしていることのように思われる。それ以外のことに、こころを迷わせない。そして、まっすぐ前がなになのかのみを問い、そこから目を離さない。分からないこともあるかもしれないが。
Prv 5:8 あなたの道を彼女から遠ざけよ。その門口に近寄るな。
「よその女の唇は蜜を滴らせ/その口は油よりも滑らかだ。 」(3節)からよその女におぼれることを、戒めている。妻以外の女に引かれることについて、続けて書かれている。なぜ、引かれてしまうのだろう。神様が与えてくださる恵みに満足できないことが、一番大きいのだろう。感謝は、おそらく、見える部分も、見えない部分も、過去のことも、未来のものも、すべてを通してすることなのだろう。やはり信頼だろうか。
Prv 6:3 わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから/行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。
友人の保証人となって危機に陥ることは、それなりの頻度であるのだろう。しかし、解決策が、厳しい。お人好しで受け入れていてはいけないと言っているのだろう。友人とはどのようなひとかが鍵であろうが、なんでも、自分でかぶるのは良いわけではないと言っているのだろう。わたしは、どのように、行動するだろうか。少なくとも、自分と友人との関係だけで考えないことは確かだろう。神はなにを望むのだろうか。
Prv 7:22,23 たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。 やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく/自分の欲望の罠にかかったことを知らない。
「浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。 」(7節)からつながっている。「浅はかで、意志が弱い、経験も少ない若者」がこのプロフィールだろうか。「無知な者への教訓となって」とあり、繰り返されていることであるとともに「矢が肝臓を貫く」と命に関わる結末も書かれている。何を表現しているのだろうか。肝臓と内臓、こころは一緒だろうか。
Prv 8:12 わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。
知恵は、単なる、技術ではないことが、ここからも、読み取れる。知識が、熟慮や、慎重さと共に書かれている。行動様式ととることができるかもしれない。それは、一生をかけて、学び取っていくもので、一瞬に与えられるものではない。
Prv 9:17,18 「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまいものだ。」 そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる。
死霊は何を意味しているのだろう。少なくとも、そこにいのちはなく、いのちを失っていくということだろう。あまり、霊の実体を求めない方がよいのかもしれない。深い陰府は戻ってこれない場所ということだろうか。神を畏れないものの、行く末と言うことか。
Prv 10:22 人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。
主によって、豊かになることは、確か。しかし、人間が苦労しても、何も加えることはできないと、言い切ることには、驚かされる。わたしは、そのように、告白できるだろうか。
Prv 11:23 神に従う人の望みは常に良い。神に逆らう者の期待は怒りに終る。
わかる気がする。神の御心を求めるひとには裏切られることはない。しかし、神の御心を求めない人の望みは、自分から出たものであるので、限界があり、運任せになる。望みについても、自分の外に求めること。そこに命があるように思われる。
Prv 12:23 思慮深い人は知識を隠す。愚かな心はその無知を言いふらす。
わたしは明らかに、愚かな心である。しかし、愚かになって、練習しているつもりでいる。思慮深いとみられる必要はないから。神に真実に向き合いたい。それだけがわたしの望みである。
Prv 13:24 鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
体罰容認のように見える。同時に、この後半の重要性とでバランスをとっているのだろう。体罰によって教えることを是とはしていない。当然のこととして受け入れられているからこのように書けるのか。体罰についても、1度よく考えてみたい。クリスチャンが80%程度のケニアではいまも、学校で体罰があるようである。
Prv 14:10 魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない。
これはその通りだと思う。その魂の苦しみを、神様は知っていてくださるのだろうか。神様の苦しみはどうだろうか。聖霊によって、ある部分、知ることができるのだろうか。喜びはどうだろうか。神の喜びを喜びとすることはできるのだろうか。
Prv 15:15 貧しい人の一生は災いが多いが/心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。
確かにぎりぎりの生活の中では災いが大きな影響を及ぼし、人を滅ぼしかねない。しかし、ここで言われている「心が朗らか」は何を意味しているのだろうか。災いをも、喜べることだろうか。神への信頼の故だろうか。
Prv 16:22 見識ある人にはその見識が命の泉となる。無知な者には無知が諭しとなる。
前半はある程度わかるが、後半は何を言っているのだろう。良いことを言っているのだろうか。無知がかえって諭しとなることは実際あるように思われる。神は、無知をも用いられると言うことだろうか。
Prv 17:17 どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。
友は兄弟より勝ることはあっても、ここでは、友が、兄弟となることが暗示されているのだろう。友と、兄弟は、やはり異なるもの。真の兄弟姉妹として生きることが、やはり、共に生きること、友の共に願うことなのだろう。肉親としての兄弟からはじめては、なにも生まれない。
Prv 18:1 離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。
離反はすでに、一つになっているもの、あることによって結びあわされた共同体から、離れることを意味するのだろう。しかし、この後半を見ると、わからないように、離反することを、暗示している。すると、離反とは、単なる裏切りであるように思われる。口語訳はあまりに異なるので、驚かされる。「人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。 」(An unfriendly person pursues selfish ends and against all sound judgment starts quarrels. [NIV]) いろいろな訳を見るよりも、やはり原典を当たったほうが良いのだろう。いつか、ここに戻ってこられることを期待して。 
Prv 19:23 主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。
主に信頼することと、主を畏れることは同じだろうか。主を畏れるとは、主の主権にゆだねることだろうか。主がなされることに信頼を置くことだろうか。命をあたえてくださる方のなされることに信頼すれば、命を得て生きることができ、さらに、平安に暮らせるだろう。死に至るまで。わたしは正直、そのように生き、そのように死んでいきたい。それがだまされていることだとは私には思えない。私が知ることは、ほんの一部分で、そのもとで、精一杯生きることを否定するものではないのだから。
Prv 20:5 思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。
「思い計らい」とはなんだろうか。しかし、この後半を見ると、それは、非常によいものである。確かに、神様からあたえられたものをすべて用いて、思い計れば、そこからくみ出すものは、無尽蔵のように、わたしには、思われる。それが英知といえるかどうかは、そこから生まれたものを生きてみないとわからないが、生きながらまた、くみ出すことができるのかもしれない。そのような生き方を、わたしはしていきたい。
Prv 21:30 どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。
私は、数学を学んだからだろうか。すくなくとも、このことがその通りだと、心の底から思っている。このように、証言する知恵すら、むなしいということも含めて。わたしにできることは、神の前にへりくだることを、決して忘れないで謙虚に生きることである。
Prv 22:2 金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。
あまり、その答えを性急に求めない方がよい。しかし、それは、主のご計画でもあり、よしとされたことなのではないだろうか。金持ちと貧乏なひと、それだけで価値が決まるわけではない。問いを持つことも、自分に問いかけることも、そこから生じてくる。主がそのどちらも造られたと、証言できるひとは幸せ。無責任ではまったくないのだろう。
Prv 23:4 富を得ようとして労するな/分別をもって、やめておくがよい。
身にしみているひとの言葉なのだろう。分別をもってとある。それで何でもできるように思ってしまうが、そのときには、何もできないことを知っている人の言葉なのだろう。すでに、目標が変わってしまっているからだろう。
Prv 24:27 外ではあなたの仕事を準備し、畑を整え/それから、家を築くがよい。
人はこの逆の順番を好むのかもしれない。家を築けば、畑を整えられ、そうすれば、しっかり働けると。実際は、その逆なのだろう。
Prv 25:13 忠実な使者は遣わす人にとって/刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。
使者の仕事は、完全に、主人の使命を果たすことである。イエスにとっては、このことが、常に中心にあり、それを完遂して、弟子たちに新たな使命を与えたのだろう。主は、魂を生き返らせるものを得ておられるのだろうか。なにか、わたしには、とても、不安に感じる。主の使者としての使命に忠実なのだろうか。伝えるべきことを、理解もできていないのではないかと。
Prv 26:20 木がなければ火は消える。陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる。
陰口は、多くの場合、明確ではない根拠に基づいて語られる。虚偽ではなくても、不正確、または、ほんの一部を伝えることが多い。そのような陰口を言うものはどのようにして消えるのだろうか。論理は、とても不完全である。自分の利を引き寄せるために、そのような論理を使うことも多い。これもまた、いさかいを助長する。
Prv 27:2 自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
最後が興味深いが、口語訳では「ほかの人」となっている。解釈は、おそらく、簡単ではないが、仲間内ではないことを意味しているだろう。異なる背景の人に評価されることには、普遍的な観点が含まれるのだろう。
Prv 28:26 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。
ここでは「知恵によって歩む人」が「自分の心に依り頼む者」と対比されている。つまりは、知恵は、自分の心とは別のところにあると言うことだろう。自分の外にある、自分の内にはないものに、救いはあるのだろう。自分の中にあるものに救いがあるとしたら、救いと言えるものではないのかもしれない。
Prv 29:1 懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。
「神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。 」(7節)ともある。しかし、実際、暴力団などの人の訴えは聞かないだろう。背景は、引用箇所のようなことが多いにもかかわらず。イエス様はどうだったろうか。イエス様は、このような人の心からの訴えをも聞き、癒すことがおできになるのではないだろうか。わたしの知らない、考えていない世界は、広い。
Prv 30:1 ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
わたしもこのように言いたくなるときはある。大切なのは、それが神に語りかけられているかどうかだろう。疲れもご存じの神に訴える。そこで力が与えられていくのだろう。神を見上げて、謙虚に生きていきたい。「まことに、わたしはだれよりも粗野で/人間としての分別もない。知恵を教えられたこともなく/聖なる方を知ることもできない。 」(2,3節)
Prv 31:30 あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。
これは、女性に言っているのか、男性に向かって言っているのか。おそらく、両方だろう。ひとは、目に見えることから、判断してしまう。あでやかさ、美しさは、性的アピールもあり、ひとに魅力を感じさせることは、自己肯定感にもつながり自然な傾向である。主を畏れることは、それとは、かなり異なるベクトルを持つ。長期的な、深い考察、普遍的な価値に依っている。聖書は、しかしながら、これを求めることも、ひとの本質にあると言っているのかもしれない。

BRC2015

Prv1:28 そのときになって/彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず/捜し求めても/わたしを見いだすことはできない。
「そのとき」が語られている。20節の「知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。」のように「知恵」が擬人化されていることも興味深い。22節「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。」からがその内容である。29節に「彼らは知ることをいとい/主を畏れることを選ばず」とあるように、反知性主義は不信仰だと言ってのけている。ヨハネ3章19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」が思い出される。そう考えると、箴言を格言集などととるのは、大きな間違いである。
Prv2:9 また、あなたは悟るであろう/正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。
あまりこの言葉を真剣に考えてこなかったように思う。正しさに対してある意味で拒否感があるからだろう。その背景にあるものは、良しとして「正義と裁きと公平」を正しく理解したい。ひとり一人の尊厳が守られる根拠なのかもしれない。最近、このことを学ばされている。
Prv3:21 わが子よ、力と慎重さを保って/見失うことのないようにせよ。
3章の様々な言葉の中で、今回はこの節が一番心に残った。様々な難しい問題が周囲にある。個人的にも、大学の中でも、社会でも、世界でも。なにを見失うなと言っているのだろうか。この前の段落を見るとそれは主の知恵・主の英知・主の知識(19,20)であり、それはいのちの木となるものである(18)。では「力と慎重さ」はなんであろうか。むろん、これらも主によって与えられるものであろうが、わたしはそれよりも、主体的な行動力と思考に思える。人は、神が与えてくださったものを判断する役割もあるから。わたしは、いままで十分できていないが、これらのことを、子供にも責任を持って伝えたい。
Prv4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
中島みゆきの「命の別名」には「君にも僕にもすべての人にも、命につく名前を『心』と呼ぶ、名もなき君にも名もなき僕にも」とある。感覚ではなく、根拠は何なのだろう。神からの知恵、主との関係の中で学んだことが、すべて心に入っているからなのか。21節22節には「見失うことなく、心に納めて守れ。 それらに到達する者にとって、それは命となり/全身を健康にする。」とある。それこそが全身を健康にするものである。
Prv5:3,4 よその女の唇は蜜を滴らせ/その口は油よりも滑らかだ。 だがやがて、苦よもぎよりも苦くなり/両刃の剣のように鋭くなる。
「よその女(口語訳は遊女)」に惹かれることへの戒めがこの章のテーマである。対比されているのは「あなた自身の井戸から水を汲み/あなた自身の泉から湧く水を飲め。 その源は溢れ出て/広場に幾筋もの流れができるであろう。」(15・16節)である。抗うことが難しい誘惑がある。まさに「わが子よ、わたしの知恵に耳を傾け/わたしの英知に耳を向けよ。」(1節)知恵と英知が必要である。ここに「わたしの」と言われているように、教育とその結果を自分のものとすることが鍵である。
Prv6:9-11 怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。 しばらく眠り、しばらくまどろみ/しばらく手をこまぬいて、また横になる。 貧乏は盗賊のように/欠乏は盾を持つ者のように襲う。
7節からのこれらの言葉の背景を考えていなかった。それが、1,2節に書かれている。「わが子よ、もし友人の保証人となって/他国の者に手を打って誓い あなたの口の言葉によって罠に陥り/あなたの口の言葉によって罠にかかったなら」自分の責任を全うすること、単に嘆いていてはいけないことが書かれているのだろう。できる限りのことをすることが求められている。ここまではっきりと。
Prv7:6,7 わたしが家の窓から/格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。
この記述のみなにか特殊である。しかし、記者のやさしさと心の痛みをなにか現実のことのように際立たせる。さらに、浅はかなものと、意志の弱そうな若者を区別しているのも興味を惹く。後者に特にこころを寄せている。意志があるのに弱いために罠に陥ってしまう。わたしも、自分をも含めて、そのようなもののために祈りたい。
Prv8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え/愚か者は反省することを覚えよ。
7章にある「浅はかな者」が心に残っていてこの節にひかれた。教育について言っているように思われる。8章の核は「わたし」だろう。最後だけ引用すると「わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。 わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」 (35,36節)「わたし」の言い換えは考えられるが、それを言い換えることはしない方が良いのかもしれない。「わたしを見いだす者」「わたしを憎む者」愛する者の反対としての憎む、これもヨハネを思わされる。7章7節だけ引用する「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」他には、12:25, 15:18, 19, 23 に「憎む」が現れる。
Prv9:3-6 はしためを町の高い所に遣わして/呼びかけさせた。 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。 「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい 浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」
1節に「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。」とあるように「知恵」の言葉として語られている。対比として13節に「愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。」とあり「道行く人に呼びかける/自分の道をまっすぐ急ぐ人々に。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言う。 『盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまいものだ。』」(15-17)いろいろなものが微妙に変化を持たせて対比されている。そして真ん中の10節に「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。」とある。かなり計画された構造があるように思われる。
Prv10:21 神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。
わたしは、多くの人とまではいかなくても、いのちを養う唇をもちたい。後半は何を言っているのだろう。神への信頼が鍵だろうか。そうすると、前半も、養われるのは神、神との関係によるいのちのことばだから、他の人のいのちさえも養うことになるのかもしれない。
Prv11:18 神に逆らう者の得る収入は欺き。慈善を蒔く人の収穫は真実。
「慈善」が、2, 4, 5, 6, 18, 19節に現れる。これらはすべてツェダカー(tsedaqah: justice, righteousness)である。17節の「慈しみ」はヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness, 2. a reproach, shame)明らかに異なる。「慈善」は、口語訳では「正義」大分異なる印象を受ける。施しはまた別なのだろうか。
Prv12:28 命は慈善の道にある。この道を踏む人に死はない。
口語訳では「正義の道には命がある、しかし誤りの道は死に至る。」である。ここでも慈善は正義である。愛の行為だろうか。考えさせられる。もう少し調べてみたい。
Prv13:9 神に従う人の光は喜ばしく輝き/神に逆らう者の灯は消される。
因果応報ととることもできるが、ヨハネ3章20,21節「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」このように見ると、自らが光に来るか、来ないかが背景にあるともいえる。それが明らかになるのが、イエスの到来、神の子が世に来られたことによるのだろうか。
Prv14:13 笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。
14章には「心:レイブ (leb: inner man, mind, will, heart, understanding)」が5回現れる。10, 13, 14, 30, 33節である。(箴言全体では92回)なかなか深いことばである。自分自身でも、把握できないものなのかもしれない。
Prv15:31,2 命を与える懲らしめに聞き従う耳は/知恵ある人の中に宿る。 諭しをなおざりにする者は魂を無視する者。懲らしめに聞き従う人は心を得る。
年長になってくると、助言を受け入れることが困難になる。経験から、反論もできるからであろう。しかし、諭し(助言に含まれる)の中に真実を見取ることは多くある。懲らしめ(怒り・憤りを感じるとき)を通して背後にあるものを、受け取るとき、その人の信頼をも得ることができることは確かである。まさに33節にあるように「主を畏れることは諭しと知恵。名誉に先立つのは謙遜。」
Prv16:5 人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
19:21には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とある。ここで使われているのはカシャブ(chashab: to think, plan, esteem, calculate, invent, make a judgment, imagine, count)19:21 はマハシャバー(machashabah: thought, device)。今回この「一歩一歩」にひかれた。口語訳は「しかし、その歩みを導くものは主である。」上に引用した新共同訳は味わいがある。
Prv17:1 乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。
乾いたということは、スープがないということだろうか。いけにえの肉で家を満たすとは、どのような状況なのだろうか。最大の捧げ物を豊富に準備すると言うことだろうか。自分の正しさの証明にこだわり、神が求めておられることに、目を向けられないのかもしれない。
Prv18:24 友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。
いろいろと考えさせられる。真の友、それは、イエス様。兄弟よりも、愛し、親密になってくださる。わたしは、人に対してどうであろうか。真の友となっているだろうか。今日も何人かのひとと語った。しかし、真の友になれただろうか。
Prv19:3 人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。
この章は個々の格言を集めた感じもある。ただ、理解できないものもある。たとえばこの章は「貧乏でも、完全な道を歩む人は/唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。」(1節)から始まるが、何がポイントなのか分からない。あまりに当然なことであるからだ。3節の「無知」と「憤り」が結びついていることに興味を持った。本当にその通りである。ひとは、なんと浅はかなことか。
Prv20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
無知であることを知ることの大切さ、それが知恵なのかもしれない。そしてそれは、神に信頼することとつながっている。5節の「思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。」にもひかれる。「思い計らい」は口語では「計りごと」である。何を意味しているのだろうか。
Prv21:26 欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。
口語訳はかなり異なる「悪しき者はひねもす人の物をむさぼる、正しい者は与えて惜しまない。」全体で7語、いろいろな訳があり得る。前半は共同訳が、後半は口語訳が直訳になっている。前半は、仏教の「煩悩(人間の心身の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望,他者への怒り,仮の実在への執着など。(スーパー大辞林))」を思い出す。仏教では「修行によって消滅させることによって悟りを開く(スーパー大辞林)」聖書においては、この後半は異なる。正しい者、聖書では、神に従う人は、与え、惜しまないとなっている。神を善い方として受け入れるかどうかに大きな分かれ道があるのだろう。
Prv22:3 思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。
2節には「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。」とある。箴言は「いのちの言葉」と「長老の知恵」が集められている。それを、区別することは、あまり良い結果を生まないであろう。詩篇と同じように、信仰者の知恵としてうけとるのが、良いのかもしれない。そこには、神によって養われた、神からの知恵が豊かに宿っている。その知恵を得て、生きる。これこそが、信仰者の生き方なのだろう。科学者とも似ている。どちらも、真理探究で、知恵の上に築かれていく。浅はかにならず、思慮深くしかし、神を畏れて生きていきたい。
Prv23:35 「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
前半は接待による食事一般が語られているが、後半は酒に酔うことについての注意である。そしてそこに流れがある。行き着くところが、この最後の節である。現実を見ることができなくなるだけでなく、それを無意識に避ける状態に陥る、それこそが酔いなのだろう。そう考えると、酒に限ったことではない。たたかれても痛くもなく、感じもしない。その状態に甘んじる状況。これは、神から与えられるいのちに生きることの正反対にある生き方なのだろう。注意して、自分の状態を見守りたい。
Prv24:10-12 苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ 死に捕えられた人を救い出さず/殺されそうになっている人を助けず 「できなかったのだ」などと言っても/心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される。
神に依り頼まないものの姿が描かれているのだろうか。苦難の襲うとき気力を失うのも、力を出し惜しみするのも、おそらく、自分の中に救いをもとめ、神に依り頼まないからだろう。心を調べる方、魂を見守る方に信頼したい。16節aにあるように「神に従う人は七度倒れても起き上がる。」
Prv25:25 渇いた喉に冷たい水、遠い地からの良い便り。
昔、この言葉は特別な意味があった。遠い地からの便りがどれほど待ち遠しかったか。いまは、このことの喜びが薄れてしまった。かえって、乾いた喉に冷たい水の方が普遍性を持つようにも感じられる。肉体の感覚が他のことにも通じるから。そう考えると、遠い地からの良い便りも、もう少し、象徴的な意味にとることもできるのかもしれない。遠いと感じる存在は、多々あるのだから。
Prv26:25 上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。
ヨハネ2章23-25節「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」を思い出す。しかし同時にイエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7章50節)などとも言われる方である。ヨハネと他の福音書の違いもあるだろうが、ヨハネでも平和を与えられる方である。(ヨハネ14:27, 16:33)おそらくこの世では「七つの忌むべきことを持っている」状態の中で、平和が与えられるのだろう。
Prv27:1,2 明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
「異邦人」に驚かされた。口語訳では「ほかの人」である。ノックリー(nokriy: foreign, alien)で、他人と最初に訳されている語とは、異なる。少なくとも、全く関係ない人ということだろう。1節を見ると、何か達成した事に対する評価が関係しているのかもしれない。確かに、評価は謙虚でなければならない、人の制御できないことばかりなのだから。
Prv28:26,27 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。 貧しい人に与える人は欠乏することがない。目を覆っている者は多くの呪いを受ける。
「自分の心に依り頼む」と対比されているのが「知恵によって歩む」である。知恵は長老からの教えだろうが、神からの知恵を根源的には、意味するだろう。自分の中にあるものに依り頼んではいけないことをつげ、27節はその行動を言っているように思われる。行動においても、自分の中での損得勘定に頼らないということだろう。
Prv29:13 貧しい人と虐げる者とが出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる。
「出会う」は口語訳では「共に世におる」。様々な状況が目に浮かぶ。ここで「主はどちらの目にも光を与えておられる。」と言い切る信仰に圧倒される。これが、長老の知恵なのだろう。クリスチャンとノンクリスチャンを分けて考えることの第一の問題は、ここであるように思われる。神の前に謙虚に生きたい。’
Prv30:8 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。
神のみこころに生きる、すなわち「公平と正義」に生きることをひたすら願うということだろうか。「むなしい」とは、どのようにわかるのだろうか。神が良しとされるものではないということだろうか。「偽りの言葉」も考えさせられる。本質ではないことにこだわることも多いから。
 
Prv31:4 レムエルよ/王たるものにふさわしくない。酒を飲むことは、王たるものにふさわしくない。強い酒を求めることは/君たるものにふさわしくない。
最初の酒はヤイン(yayin: wine)後の強い酒はシェカール(shekar: strong drink, intoxicating drink, fermented or intoxicating liquor)前者は非常に一般的で聖書にも多数現れるが後者は20回程度。「酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない。」(20:1)この章の6節でも「強い酒は没落した者に/酒は苦い思いを抱く者に与えよ。」と使い分けている。酒-強い酒-強い酒-酒の順序で現れるのも一つの表現形式であろう。そう考えると、王-君-没落した者-苦い思いを抱く者にもある関係があるのであろう。考えさせられることも多い。苦い思いを抱くときは、おそらくいろいろな場合に生じる。没落することはどうであろうか。そして基本的に、酒ではない解決を勧めている

BRC2013

Prv1:4 思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
思慮のない者に悟りなど得られるのだろうか。その言葉を学びたい。慎みは、神を畏れることから得られるのか。
Prv2:3 しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、
どちらも声が出ている。なぜだろう。なぜそれが大切なのだろう。わたしは声をあげるほどに、求めているだろうか。
Prv3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
自分の知識に頼らず生きたい。神に信頼することを学びたい。
Prv4:6 知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。
守ってくれるのはいつかは分からない。だから捨ててはいけない。そして、知恵に保たれる。今の、私もそうかも知れない。
Prv5:15 あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。
なぜ、こうしないのだろうか。神に愛されていること、神の恵みの大きさに気づいていないからだろうか。自分の井戸から水を湧き出させて下さるのは主。
Prv6:17-19 すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、 悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、 偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。
「主の憎まれるもの」としてあげられている。他にも思いついたであろう。しかし、ここでやめている。もう少していねいに、考察したい。
Prv7:4 知恵に向かって、「あなたはわが姉妹だ」と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ。
このあと「そうすれば、これはあなたを守って遊女に迷わせず、言葉巧みな、みだらな女に近づかせない。」とつづく。よい友、すばらしい姉妹を持ちたい。
Prv8:36 わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」。
この詩編での「わたし」は必ずしも明らかではない。王とするのは限定的「知恵」と「悟り」とするのは、箴言では一般的だが、この章を読む限り、その大本をさすように思われる。すると「神ご自身」だろうか。しかし22節には「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。」とある。キリストなるロゴスなのだろうか。ここからヨハネ1章が生まれたのだろうか。
Prv9:8 あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。
このことは、12節の「もしあなたに知恵があるならば、あなた自身のために知恵があるのである。もしあなたがあざけるならば、あなたひとりがその責めを負うことになる。」へとつながる。なにか、考えが浮かんだとき、どうするか、根本にかえって考えたい。わたしはあまりに軽率であるようだ。
Prv10:22 主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。
主のゆるし、主のなぐさめ、主のあわれみ、主の祝福、すべて完全。人からくるこれらのものは、悲しみをともなうものも多い。こころに刻んでおきたい。
Prv11:12 指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全である。
示唆に富んでいるが、助言者によるだろう。新共同訳では「参議」となっている。わたしが助言者となれればよいのだが。
Prv12:15 愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。
「自分の目に正しく見える」このことが愚かさの証拠なのだろう。そして「勧めをいれる」ことが知恵あるものの証明。この逆をも示しているように思われる。
Prv13:11 急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。
これは、この時代から真実だったのか。驚かされる。今は、しかし、そうは思われていないかも知れない。
Prv14:1 知恵はその家を建て、愚かさは自分の手でそれをこわす。
本当にそのとおり。わたしは自分で建て、自分で壊しているのだろうか。
Prv15:24 知恵ある人の道は上って命に至る、こうしてその人は下にある陰府を離れる。
すごい。これこそ、ここにこそ、命があるということか。それを見いだした人は、どんな人なのだろう。それこそ神様から与えられた知恵なのだろうか。
Prv16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
「人の道」は外側、しかし、主は「魂」をも見通すということか。神様の目によって、自分のこころを省みることが赦されるように祈りたい。
Prv17:27 言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。
わたしは、どうみても、そのような者ではあり得ない。どうしたらよいのだろう。それほど、ピントが外れていないかもしれないが、長い目で見て、考えると、さとくはないと感じてもいる。
Prv18:20 人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
これは何を意味しているのだろう。「満ち足り」は自己満足だろうか。わたしの危険な状況を表しているかもしれない。
Prv19:14 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。
個人的には、家や富は選んで生まれてきたのではないので、神からのもの、賢い妻は、自分で選んだので、失敗しても、自分の責任を思うかもしれない。ここの力点は、後半におかれているのだろう。賢い妻は主から賜るももの。アーメン。
Prv20:6 自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。
新改訳では「信用できる」となっている。そのような人でありたい。これも、神が与えられるものかもしれない。
Prv21:4 高ぶる目とおごる心とは、悪しき人のともしびであって、罪である。
新共同訳は「愚かな女、高慢なまなざし、傲慢な心」とはじまる。ヘブル語をみてもよく分からなかった。ここでは、これらが罪である、と断定している。人は、これらは、罪に誘うものと考えるかもしれないが、こころで自分を高くすること自体が罪だと言っている。
Prv22:24,25 怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。 それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである。
この後半が興味深い。自分もそのようにならないため。自分は大丈夫と人を批判していても、いつしかそのようになってしまうのだろう。そのことは理解できる。
Prv23:17 心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。
なぜ普遍的でないことをもとめ、それによって一喜一憂するのだろう。神ではなく、人を見ているから、自分の目に入るものに頼っているからだろう。神を恐れることは、知恵のはじめ。
Prv24:16 正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる。
本当だろうか。おそらく真実である。それだけの力が与えられるのだろう。主が背後におられるから。ともいえるが、生きることに価値を求めているからだろうか。
Prv25:16 蜜を得たならば、ただ足るほどにこれを食べよ、おそらくは食べすごして、それを吐き出すであろう。
この言葉は、27節「蜜を多く食べるのはよくない、ほめる言葉は控え目にするがよい。」に続く。ほめること、賞賛をうけることは、そのようなことなのだろう。しっかりと心に刻みたい。
Prv26:4,5 愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、自分も彼と同じようにならないためだ。 愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ、彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。
答え自体に目的をみてはいけないのだろう。二つの言葉は、興味深い。
Prv27:3,4 石は重く、砂も軽くはない、しかし愚かな者の怒りはこの二つよりも重い。 憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう。
「その通り」だと考え込んでしまう。賢者として行動するときには、心に留めるべきことだろう。しかし、箴言はそこでとどまるものもあると考えてよいのだろうか。あまり固く考えない方がよいのかもしれない。通常の格言と区別する必要はないのだろう。
Prv28:13 その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。
「その」は新共同訳にはない。わたしは、ここにあるように「(罪を)言い表してこれを離れる者」でありたい。
Prv29:11 愚かな者は怒りをことごとく表わし、知恵ある者は静かにこれをおさえる。
6節・7節は「悪人は自分の罪のわなに陥る、しかし正しい人は喜び楽しむ。正しい人は貧しい者の訴えをかえりみる、悪しき人はそれを知ろうとはしない。」とある。正しい人は、神様の正しさにたとうとする人のことだろうか。知恵ある人は、怒ろうとすることの背後に働く神様の働き、真理をみようとするということだろうか。
Prv30:18 わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。
悟ることができないことがあることは、残念かもしれないが、そのことを知るのは、幸せなこと。いま、知っていることから、少しずつさとっていけばよい。謙虚に生きていきたい。
Prv31:8 あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
6節・7節には「濃い酒を滅びようとしている者に与え、酒を心の苦しむ人に与えよ。 彼らは飲んで自分の貧乏を忘れ、その悩みをもはや思い出さない。」とある。王が母に教えられたこと。完全な真理ではないかもしれないが、すばらし知恵と指針に富んでいる。おごらず、みなしごの訴えをしっかり聞きたい。


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コヘレトの言葉

コヘレトの言葉(1)

「コヘレトの言葉」は、新共同訳の書名で、口語訳は「伝道の書」、新改訳は「伝道者の書」となっています。 1章1節は
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。(新共同訳)
ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。(口語訳)
となっています。この「コヘレト」「伝道者」の原語は集会を招集する者とか、説教者、伝道者を意味する言葉で、ギリシャ語訳のタイトルから英語訳聖書では、Ecclesiastes となっています。対応するギリシャ語もほぼ同様の意味です。この1節からすると、このコヘレトは、ダビデの子でエルサレムの王ですから、ソロモンということになります。ただ、12節を見ると、
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。(新共同訳)
伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。(口語訳)
と完了形で書かれていますが、ソロモンは終生王でしたから、違和感があります。実は、ルターの頃にはすでに、著者はソロモンではないと考えられていたようです。知恵に満ち、非常に富んでいた王。そのようなひとのことばということが大切なのでしょう。今回は「伝道の書」と呼ぶことにします。この伝道の書には何が書いてあるのでしょうか。
2:コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。(新共同訳)
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。(口語訳)
3:太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。(新共同訳)
太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。(口語訳)
ヘブル語ではことばを重ねることによって最上級をあらわすので「空の空」が訳し方によっては「なんという空しさ」となるわけです。この「空(ヘベル)」は元来、息の意味ですぐに消えてしまううつろいやすいものを意味しており、創世記4章に出てくるアダムとイブの子「アベル」とおなじ言葉です。アベルは登場してすぐカインに殺されてしまいます。この言葉は、旧約聖書に現れる72回のうち37回が伝道の書に使われていますから、この語が伝道の書のひとつの鍵であるとも言えます。

では、この伝道の書は虚無思想の書なのでしょうか。もしそうだとしたらどのような意味で「虚無」だと言っているのでしょうか。この書に記されている虚無的な思想の記述については、それぞれ、ギリシャ、バビロニア、エジプト、仏教、フェニキアなどの影響の指摘する学者がいるようです。

もう一つよく出会うことばが、「太陽の下」(新共同訳)「日の下」(口語訳・新改訳)です。この世の中のことといった意味でしょうか。それを知り尽くしたコヘレトということでも、最初にソロモンを想起させる記述があるのでしょう。

さて、みなさんは、どのようにこの伝道の書を読まれるでしょうか。わたしは高校時代なんどもこの伝道の書を読みました。学園紛争の中で「虚無」について考えていた時代的背景もあるでしょう。同時に、これをして、こう頑張って、つぎにこうなれば、こんなものを得ることができ、こんなに幸せになれるよと、若者にバラ色の人生をもとめて頑張るよう語る声の中に虚の響きを聞き取っていたからかも知れません。

徹底的に、この世の空しさをしっかりと正面から認めることが、そうではない世界に光をあてる事になるのだと、わたしは考えています。 それをソロモンの名を借りて語ることで、ユダヤの人には重要な響きとなって伝わったでしょう。また、たとえば、上に書いた3節、この言葉を聞いた人は、同時に詩編も知っている人です。詩編127篇1.2節(新共同訳)には

1:主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
2:朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
目新しいものを追い求めるものには、コヘレトはこう語ります。
1:9 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
移ろいやすい快楽を求めるものには、
2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
しかし、すべてを無価値としているわけではありません。時について
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
友について
4:9:ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
神を畏れることについては、
5:6 夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。
次のようなことばもあります。
11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
そして最後に若者に語ります。
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
12;1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
この書が聖書の中の一巻として含まれていることの恵みを感じます。最後にいのちのことば社「新聖書注解」から、伝道の書の梗概(本間正巳)を引用しておきます。
  1. 序文 1:1-3
  2. 主題の実証 I 1:4-2:26
  3. 主題の実証 II 3:1-4:16
  4. 忠告のことば A 5:1-7
  5. 主題の実証 III 5:8-6:12
  6. 忠告のことば B 7:1-8
  7. 主題の実証 IV 8:10-9:16
  8. 忠告のことば C 9:17-12:8
  9. 結論 12:9-14


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聖書通読ノート

BRC2023

Ecclesiastes 1:17,18 知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば、悩みも深まり/知識が増せば、痛みも増す。
真実を感じる。そして、最後のことばはとても響く。つまり、知識や知恵は、悩みや痛みには効果がないということだろう。悩みや痛みは、ここでは、自分のものを言っているのだろうが、他者の悩みや痛みもある。それを理解するには、知識や知恵は一定の力を発揮する様に思われる。しかし、そうであっても、自分の悩みや痛みがやわらがないように、他者の悩みや痛みにはほとんどなにも届かないのだろう。丁寧にコヘレトの言葉を読んでいきたい。
Ecclesiastes 2:18,19 私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦をいとう。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ。その者が知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう。太陽の下で私が知恵を尽くして労したすべての労苦をその者が支配する。これもまた空である。
この虚しさは、わたしも役職を経験して理解した。時代を超えてともに生きることは本当に難しい。自分のときだけに集中するのは、自己満足なのだろう。本当に、貢献できること、それは、それほど簡単ではない。そのときの人々と協力し、かつ次の時代の人とも協力しなければならない。それは、前の時代のひとの貢献をしっかりと評価することも含まれているのだろう。評価が難しい事柄について、これらはとても難しい。
Ecclesiastes 3:22 私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。/彼の後に起こることを/一体誰が彼に見せることができようか。
「すべての業に時がある。」これも、深い言葉である。時代を超えてなにかを達成したり、求めたりは、虚しいことなのかもしれない。普遍的なこと、それは、なにを意味するのだろうか。わたしは、数学を学び、聖書を学び、この普遍性を追求してきた様に思うが、それほど、単純ではない。世の中は。普遍性ということばは、魅力的であるが、適切に定義できないのかもしれない。数学を学んでそれが少し見えてきたと言えるかもしれない。本当に難しい。
Ecclesiastes 4:1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。/見よ、虐げられる者の涙を。/彼らには慰める者がいなかった。/また、彼らを虐げる者の手には力があった。/彼らには慰める者がいなかった。
考えさせらえる句が多い。虐げられる者にも、虐げる者にも、慰めるものがいないと続く。そしてこのあとには、「幸せなのは、まだ生まれていない人たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。」(3b)とある。感傷ではあっても、重く感じる。この次も印象的である。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」(4)妬みである。一般的には、そうなのかもしれない。ここから抜け出すことはできるのか。
Ecclesiastes 5:1,2 神の前に言葉を注ぎ出そうと/焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。/神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。/言葉を控えよ。仕事が増えれば夢を見/言葉が増せば愚かな者の声になる。
重いことばである。たしかに、軽薄になってしまうことが多い。そして、それは、仕事が増えると余計なのかもしれない。いまのときを丁寧に生きていきたい。神を畏れて。言葉数を減らし、神が愛される一人一人を愛する様になっていきたい。難しいかもしれないが。
Ecclesiastes 6:12 空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。
たしかに、何が幸せなのか、判断は難しい。わたしは幸せだろうか。幸せだと思っている。自己満足なのだろうか。少なくとも、貪欲にはならないで生きていきたいが、わたしが貪欲なものがあることも否定できない。難しい。それがわかることが大切なのだろうか。
Ecclesiastes 7:21,22 人が語る言葉にいちいち心を留めるな。/そうすれば、あなたの僕の呪いの言葉に/耳を貸すこともない。あなた自身が何度も他人を呪ったことを/心は知っているはずだ。
人の評価を気にしてしまうのだろう。全ての人が、自分を心に留めているわけではないのだから、一人でも、呪いの言葉を語れば、それに引き寄せられてしまう。しかし、それでも、それは、一人の呪いの言葉なのだろう。そして、最後が、秀逸である。たしかに、自分も、他人の責任にすることがある。それも、深い考えもなしに。
Ecclesiastes 8:1,2 誰が知恵ある者でありえよう。/誰が言葉の解釈を知りえよう。/知恵はその人の顔を輝かせ/その顔の険しさを和らげる。/私は言う。/神との誓いのゆえに、王の言葉を守れ。
いろいろと考えさせられる。確かに、ほんとうの知恵は、その顔の険しさを和らげるものなのだろう。わたしには、それだけの知恵はない。次のことばも興味深い。神との誓いのゆえにとある。単に、媚びへつらい自分を守ろうとするのとは異なるのだろう。なかなか解釈も難しいが。
Ecclesiastes 9:3 太陽の下で行われるすべてのうちで最も悪しきことはこれ、すなわち一つの運命がすべての人に臨むこと。生きている間に、人の子らの心は悪に満ち、無知に支配される。そして、その後は死者のもとへ行く。
おそらく、努力が報われないことを言っているのだろう。そうかもしれない。しかし、やはり神と真剣に向き合うことによって、見えてくるものもある。自分の愚かさ、知っていることの乏しさ、なんとひとを傷つけることが多いかなど。運命は同じ様に臨むとしても、やはり違った生き方の様に思う。神様とともに生きることは、神様の苦しみをも向けとることではないかと思う。
Ecclesiastes 10:1 死んだ蠅は香料職人の油を臭くし、腐らせる。/少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。
ある程度理解できる。そして、ある程度、このことを言っているのかなと思う経験もある。なぜ、ひとは、そのようなところに陥ってしまうのだろう。やはり、なにか損をしたくないという心理が働くのだろうか。そうかもしれないと思う。それから自由に生活したいと願いつつも、なかなかできない。でもそれに抗って生きることも大切な様に思う。
Ecclesiastes 11:1 あなたのパンを水面に投げよ。/月日が過ぎれば、それを見いだすからである。
少しこの意味がわかってきたのかもしれないと思う、アメリカと中国の旅だ。よいことも、悪いことも、満足できなかったことも、いろいろとある。しかし、そのすべてが何かの形で帰ってくること、それを見出すことも確かである。思っていたこととは少し違うのかもしれない。しかし、それは、とても、感慨深いことではある。いろいろと考えさせられる。
Ecclesiastes 12:1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。/災いの日々がやって来て/「私には喜びがない」と言うよわいに/近づかないうちに。
何度も何度も、この言葉に接してきたが、いま、考えてみて、わたしも、このように言いたいと思う。本当に、それが答えなのか正直にいうと、私にはわからない。しかし、これだけが言えることの様に思う。箴言の最後は「聞き取ったすべての言葉の結論。/神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。/神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。」(13,14)わたしは、正直に言って、ここまでの因果関係を認めていない。神様には、もっと他にたいせつなことがあるように考えているからである。神様の苦しみは、よくわからないが、神様も、人間の苦しみがやはりわからないのかもしれない。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Ecclesiastes 1:2,3 コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。
印象的な言葉である。この章の最後は「知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば、悩みも深まり/知識が増せば、痛みも増す。」(17,18)と結ばれている。わたしは、最近、神様とともに、悲しみ、苦しみ、喜び、労すること、それが求めることかな、と考えている。背景には、神様がどのような方かが、あるわけだが。自分や有限のものに目を向けている限りにおいて、知恵や知識も虚しく、一切は空であるという結論に達するのは、自然なように思う。むろん、神様の思い(みこころ)にまで昇華させないことも可能である。互いに愛し合うこと、他者と、悲しみ、苦しみ、喜びをともにしながら、共に生きようとすること。その他者の範囲を限定せず、広げていくことだろうか。人間の範囲は有限かもしれないが、関わる世界には、無限の広がりがある。そこに、神様もおられるように思う。
Ecclesiastes 2:22,23 太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は休まることがない。これもまた空である。
この章では、喜び、快楽のこと、知恵のことが、語られ、そして、労苦のことについて述べられている。「私はぶどう酒で体を元気づけようと心に決めた。私は知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした。」(3)これも興味深い。苦悩は理解できるように思う。引用句では「その人にとって」「彼の一生は痛み、その務めは悩みである。」とあるが、一人ひとりの問題と考えると、行き詰まるのだろう。しかし、単純には、それを人類とか、神の国と広げることもできない。それは、かえって、無責任なのかもしれない。み心が、普遍的な価値がわからないと。それは、こうだと決めてしまえば簡単なのだろうが、同時に、時代とともに、揺れ動くことも確かだろう。不思議なものである。
Ecclesiastes 3:22 私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。/彼の後に起こることを/一体誰が彼に見せることができようか。
おそらく「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」(11)と対応している。とても、説得力がある。わたしの言葉では、「神様のみ心、真理、普遍的な価値は、求めても、見極めることはできないのだから」となるように思う。ここでは、「自分の業を楽しむ」となっているが、生きることを楽しめるかどうかは、やはりとてもたいせつな要素であるように思う。わたしが、神様のみ心、真理、普遍的な価値をもとめるのは、少しずつ発見をしていくこと、それが、自分の業に関係していることが、楽しいからなのかもしれない。わたしと同じではなくても、そのようなものを持っているかどうか、そこに、行き着くと、行き止まりでもある。難しい。
Ecclesiastes 4:1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。/見よ、虐げられる者の涙を。/彼らには慰める者がいなかった。/また、彼らを虐げる者の手には力があった。/彼らには慰める者がいなかった。
この章も考えることが多い。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」(4)妬みは、本当に深くひとのこころを蝕(むしば)む。「一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。」(9)有名なことばだが、今回は「一人より二人のほうがましだ」と読めた。ここでも、空ではないものに本質的には行き着いてはいないようなので。引用句は、戦争のあるなしに関わらず、日常的に、あらゆる場所であることなのだろう。興味深いのは、どちらにも「彼らには慰める者がいなかった」としている点である。これが「一人より二人のほうが幸せだ」につながっているとも言える。慰めるものは「貧しくても知恵ある少年のほうが/もはや忠告を聞き入れない/老いた愚かな王よりまさる。」(13)にもつながっているように思う。慰めるものすら拒否することが、忠告を受け入れないと対応し、慰めを感謝できること、それが知恵なのかもしれない。謙虚さと結びついているのか。
Ecclesiastes 5:17 見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。
今回の通読では、この句を読んで、本当にそうだなと頷(うなづ)いた。ひとの受ける分。わたしが若い頃から暗唱していた「夢が多ければ、ますます空しくなり/言葉も多くなる。/神を畏れよ。」(6)が、この背後にあるように思う。夢は良いもののように一般的には言われるが、神を畏れることの反対側に向かわせるものなのか。夢を抱くことは、健全でも、それを絶対化し、それが、または、その結果が幸せをもたらすように、考え始めたときには、すでに、御心を求めるところからは、離れているのかもしれない。絶対化までは、いかなくても、陶酔する状態になることは、あり得るように思う。特に、若い頃は、そして、夢がやぶれると、絶望の淵に落とされる。
Ecclesiastes 6:7,8 人の労苦はすべて口のためである。/だが、それだけでは魂は満たされない。愚かな者にまさる益が知恵ある者にあるのか。/人生の歩み方を知る苦しむ人に/何の益があるか。
とても深い。人の労苦は、すべて経済活動、生きていくためと言っているかのようだ。愚かな者にまさる益、なにかを挙げることはできるかもしれないが、ほんとうに、そうだと、言いうるだろうか。幸せとはなにかを問い「空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。」(12)とこの章を結んでいる。「人生の歳月は豊かであったのに/その幸せに心は満たされず」(3b)ともある。豊かさと幸せの違いだろうか、わたしは、コヘレトの言葉(伝道の書)を高校生の頃から愛ししっかり読もうとしてきた。しかし、完全には、答えられない。どこまで、真剣に向き合っているかを問われているように思う。
Ecclesiastes 7:18 一方をつかむとともに/他方からも手を離してはならない。/神を畏れる者はいずれをも避ける。
この章は「名声は良質の香油にまさる。/死ぬ日は生まれる日にまさる。」(1)と「まさる」ということばで始まる。絶対的なものではないが、こちらのほうがマシだよと言っているようだ。そして「空である日々に私はすべてを見た。/義のゆえに滅びる正しき者がおり/悪のゆえに生き長らえる悪しき者がいる。」(15)と、実際に見てきたことを述べ、それが、「あなたは義に過ぎてはならない。/賢くありすぎてはならない。/どうして自ら滅びてよかろう。」(16)さらに、引用句の「他方からも手を離してはならない」につながっているように思われる。若かったころ「そうだな」と自分の悩みを照らす鏡のようだった、壮年のころは、自分なりに、答えらしきものが持っていると思い、がむしゃらにできることに力を注いだ、しかし、今、もう一度、ゆっくり向き合ってみたいと思う、コヘレトの言葉に。
Ecclesiastes 8:12,13 百度も悪を重ねながら/生き長らえる罪人がいる。/しかし、私は知っている/神を畏れる人々には/神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には/神を畏れることがないゆえに幸せはない。/その人生は影のようで、生き長らえることがない。
印象的なことばである。幸せの尺度(measure)について言っているようでもある。世俗のはかりで計って一喜一憂しているのであれば、結局、悪しきものも、神を畏れるものも違いは見えない。なにをたいせつにするか、それがそのひとを幸せにするのかもしれない。興味深い。神を畏れるからこその幸せ、しっかりと考え、求め続けていきたい。
Ecclesiastes 9:9,10 愛する妻と共に人生を見つめよ/空である人生のすべての日々を。/それは、太陽の下、空であるすべての日々に/神があなたに与えたものである。/それは、太陽の下でなされる労苦によって/あなたが人生で受ける分である。手の及ぶことはどのようなことでも/力を尽くして行うがよい。/あなたが行くことになる陰府には/業も道理も知識も知恵もない。
秀逸である。生きていることこそたいせつだ(4,5)とのべ、どう生きるかに行き着いている。空であると認めつつ。まさに「力を尽くして」生きていきたい。知恵と武力そして貧しさについての言及(17,19節)も興味深い。コヘレトのことばを楽しめるようになったということだろうか。
Ecclesiastes 10:19 食事を整えるのは笑うため。/ぶどう酒は人生を楽しませる。/銀はそのすべてに応えてくれる。
この章では、さまざまな理不尽が世に起こっていることを柔らかく語っている。興味深い、または、考えてみたい節もあるが、引用句を選んでみた。食事を整えるのは何のためだろうか。酒を飲むのは何のためだろうか。ここでは、笑うため、人生を楽しませるためとしている。それは、すばらしいこと。おそらく、銀、お金や富も、笑ってともに食事をし、人生を楽しくするものなのだろう。お金や富が目的ではないのだから。笑いや、楽しみについても、学んでみたい。
Ecclesiastes 11:10 あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け。/若さも青春も空だからである。
悩みが取り去られるなら取り去りたい、痛みを取り除けるなら取り除きたいと思うのは自然である。しかし、ここでは、そのようなものではない、悩み、痛みを言っているのかもしれないと思った。たしかに、若者を見ていると、まだその世界が狭いために、狭い部分に力が入りすぎて、悩み、苦しみ、それでも、体に痛みを伴うことから離れない傾向もある。それは、よい経験だとも言えるが、もっと、学ぶことがあることも確かなのだろう。そして、それは、この前の節にも関係しているのかもしれない。「若者よ、あなたの若さを喜べ。/若き日にあなたの心を楽しませよ。/心に適う道を/あなたの目に映るとおりに歩め。/だが、これらすべてについて/神があなたを裁かれると知っておけ。」(9)信仰深く生きることではなく、神様の視点も考えてみようよと語りかけているように聞こえた。
Ecclesiastes 12:14 神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。
「裁き」はできれば考えたくないものである。それだから言葉を弱めているのかもしれないが、わたしは「すべての一人ひとり業をご存知である。」と読み替えたい。神の言葉を改変する大逆だと言われればそれでもよい。神様はともに悩んでくださる方だと思っている。この章は「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」(1a)と始まるが、わたしは、子供の頃から、主を心に刻み、主の御心を求め続けてきた。むろん、そのみこころの反することもたくさん行ってきた。それを、神様が裁かれ、永遠の火の中に投げ込まれるのであれば、それで良いと思っている。引用句の直前には「聞き取ったすべての言葉の結論。/神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。」(13)とあるが、みこころを求め、みこころをなすにはどうしたらよいかを考え、そして行動してきたことが、わたしのすべてだと告白したい。闇の部分が多く残っていることを正直に認めつつ。

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Eccl 1:9-11 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい。
「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(2, 12章8節参照)とあるが、この空しさはどのようなものを表現しているのだろうか。引用箇所では、歴史は、世の中は繰り返しであるが、その一つ一つは、後の人たちは、心に留めない、とある。心に留められるようなことを求めているのだろうか。今は、変化の時代でもある、しかし、そこで何か新しいことをすることがたいせつなのだろうか。歴史になにかを刻むために生きているのだろうか。そうかもしれないが、最近は、そうではないことがたいせつに思える。共に生きること、みこころを味わいながら。
Eccl 2:18,19 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
コヘレトのむなしさは、ここに依拠しているようだ。労苦の結果を受け継ぐ者が信頼的ないということ。たしかに、ソロモンの場合も、他の様々な聖書に登場する人の場合にも、言えること、現代でも同様なことは、数多くある。時代を超えて価値のあるもの、同時代のひとたちに価値のあるもの、自らが生き生きと生きるために価値のあるものを整理すべきだとまず思う。ここでは、時代を超えて価値のあるものが論じられているようだが、それは個人に委ねるのではなく、たいせつなこととして受け継がれるように考えることとともに、自分は価値があるものと考えても、後の世の人たちに委ねること、主に任せる謙虚さもたいせつだと思う。価値判断自体、正確にはできないのだから。
Eccl 3:21 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
すこしこの言葉が理解できるようになったと思う。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。」(18)のように、「人間を特別なものと扱うこと」も「地球が人間の住む典型的な惑星だ」という考えも、謙虚につつしむべきことなのだろう。もし、人間が特別なことがあるとすれば(そしてそれは、人間だけに特別ではないかもしれないが)神との関係が与えられていることだけなのかもしれない。自分が思考するときには、自分は特別な存在であらざるを得ない。しかし、思考とはそのようなものであることを、忘れてはならない。
Eccl 4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
このあとに「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」(2,3)と続く。生まれてこなかった者がより幸福だと思うぐらい、虐げられる人の涙は悲しく、慰めるひともいないと言っているのだろう。虐げる者の手にある力とある。たしかに、見てはいけないもののような虐げを記者は見ているのだろう。どうにもならないのだろうか。確かに紛争地でのできごとなどは、どうしようもないとわたしも思ってしまう。
Eccl 5:11 働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。
心地よく眠れることは幸せなのだろう。ここにあるように、勤労の実なのかもしれない。富、財産を殖やすと、眠れないのだろう。それは、理解できる。もう少し、もう少しと欲張る心の虜になり、失うことも怖れ、そこに、人生がかかってしまうからだろうか。
Eccl 6:12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
コヘレトの空しさは「ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」(2)にもあるように、受け継いでいける永遠に続くものを残すことはできない、つまり、自分の存在、営みが残ることはないことにあるようだ。コヘレトの言葉2章18,19節では、後継者が信頼できるものではないことを嘆いているが、ここでは、より一般的に語られているのだろう。自分の存在を誇示できるものとして残せなくても、人や自然と影響し合いながら、そして、神と向き合いながら生きていれば、その存在を消すことはできないとも言える。それでよいとわたしは思う。
Eccl 7:28,29 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
「見よ、これがわたしの見いだしたところ/――コヘレトの言葉――/ひとつひとつ調べて見いだした結論。」(27)とあり、この二節が続く。最初の「わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。」も考えたいが、それ以外に、二点興味深いことがある。一つは男女の違い。もう一つは最後のことばである。コヘレトは男性で男性として自分が持ちたい資質を思い描いて「千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。」と言っているのだろう。女性はこれを逆にしたことを考えるのだろうか、興味を持つ。同時に、助け手、協力者、足りない部分を補う存在と見れば、異なることを見出すのではないかとも思う。二つ目は「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる」こと。この表現が最善であるかどうかは別として、雰囲気は伝わってくるように思う。神の失敗作なのか。おそらく、互いに愛し合う存在の難しさもあるのだろう。「複雑な考え方」についても、こころにおさめ、思いめぐらしたい。
Eccl 8:12,13 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり 悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。
微妙なことばである。このあとにまた「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。」(15)がある。「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり」とある。「快楽」がなにかは、不明である。「飲み食いし、楽しむ」ことだろうか。神を畏れること自体が、幸せだととることもできる。それが、広い意味での「快楽」なのかもしれない。わたしは、そのように、生きているように思う。
Eccl 9:3 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
このようにも表現できるかもしれないが、因果応報は、主の道とは異なるように思う。ひとり一人が因果で裁かれたら、それで良いのだろうか。単にまじめだからと言って、心の中はわからない。それを主は見られるのだから。恵みに信頼したい。それ以外に、救いはないのだから。
Eccl 10:18-20 両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる。親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え/翼あるものがその言葉を告げる。
聖書になぜこのように書かれているのか、以前は不思議だった。おそらく、すべてを霊的な信仰、神の義に結びつけるべきだとの考えがあったのだろう。ひとの営みの現実を肯定するというよりも、そうだな、そうなのかな、と自然に読めば良いのだろう。そうかもしれない。なるほどね。
Eccl 11:3,4 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても/木はその倒れたところに横たわる。風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
完全にはよくわからないが、「木はその倒れたところに横たわる」は、興味深い。それが、次の「風向きを気にすれば種は蒔けない。」につながっているのかもしれない。「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」(5)たしかに、世の中わからないことばかり。神のみこころをわかったなどとは言えない。謙虚に求め続けよう。
Eccl 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
なぜ「青春の日々にこそ」なのかを考えた。このあとには「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」(2)と続く。若い日々に主との交わりを持っていること、主が恵み深い方であること、神の義は人の義と異なること、主に信頼し、主の掟を守ろうとする人々との交わりの深さ、互いに仕え、愛することの素晴らしさを少しでも知っていることだろうか。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」(13)コヘレトの言葉を真摯に受け取りたい。

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Eccl 1:13 天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。
最後のことばは、実感がこもっている。神と、神の為されること、神が制御される世界の中に住む者としての実感なのだろう。その観察の上に、考察が始まる。自らを、誰でも知っている、知恵の王、ソロモンに身を置いて。最初は「知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(18節)である。しっかりと、コヘレトの言葉記者と向き合ってみたい。
Eccl 2:18,19 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
特に、ある役目を負って精一杯仕事をし、ほとんど一日にして、それが消え去った記憶もある。しかし、それは、適切に、後を継ぐ者に残せなかった、残さなかった、大切なものなら、それが残るにはどうしたらよいかを、十分考えてことを為すべきことを学んだ。そうであっても、おそらく、このことばは真実なのだろう。神が建てられるのでなければ。そして、自分の結果を求め続けるうちは。
Eccl 3:22 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
楽しみは、(良くない意味での)快楽だと思っていた。しかし、自分にとって、これが喜びだとする生き方を、精一杯するという意味であれば、その通りだと思う。そして、わたしも、そのように、生きているように思う。幸せである。謙虚さを失わないこと。神を求めて、成長し続けることを求めることも、自分のわざとしての楽しみであることを自覚して。
Eccl 4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
最後の「彼ら」は「虐げる者」ではないかとすら思った。単数・複数を考えれば、それは間違っているだろう。「彼ら」は「虐げられる人」だろう。しかし、「虐げ」の理不尽さは感じる。聖書記者も、そのつらさを知っているのだろう。なぜ、そのようなことが起こるのだろう。逆転させて、それは権力の問題だとするのは、短絡だろう。そして、すべてを、神の責任にすることも。
Eccl 5:1 焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。
続けて「夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。 」ともある。神の前に黙すこと、これが敬虔、畏敬なのだろうか。神の前に謙虚に歩むことについて考えさせられる。「分からない」ことを、たいせつにしていきたい。わたしは「地上にいる」のだから。
Eccl 6:12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
確かに、幸福が何かを言えない。わたしは、これで幸福だと言うことはできるかもしれない。それで良いようにも思えるが、永遠の時のもとでは、何も分からない。それで良いのかもしれない。
Eccl 7:18 一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。
分からないからだろうか。神を畏れ敬うことは、神に信頼することでもある。神に任せることだろうか。それで良いのだろうか。悩みつつ、委ねる。分かりやすいが、どこまで悩むのか、それも、わからない。
Eccl 8:5 命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている。
幼児時代から祖母(鈴木ハナ(父の養母))に言われていた「新政府には従え。しかし、新政府が正しいわけではない。」を思い出す。若い頃は、そんなことは、理不尽に思われた。しかし、今考えると「神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。 」(17節)にこそ真実があり、正しさは、限定的な状況で言えることであると知り、納得できるようになった。だから、求めないわけではもちろんない。そしてこの知識も求めたからこそ得られるものなのだろう。
Eccl 9:3 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
因果応報を求めるのは、むなしいことを伝えているように思われる。ひとは、他人の幸福を喜べないことに起因している部分もあるだろう。なにかを得ること、与えられることによって、幸せを評価しては、いけないのだろう。つながっていることに、価値がある。神様をもとめて生きること自体が素晴らしいということだろう。それが、My Tribute.
Eccl 10:14 愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。
未来のこと、死後のこと、分からないことをみなが共有できることだろう。そうであるのに、それらに関わることを、分かっている如く語る。まさに、それが愚か者と言うことなのだろう。謙虚にさせられる。一方「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」(10節)ともある。
Eccl 11:2 七人と、八人とすら、分かち合っておけ/国にどのような災いが起こるか/分かったものではない。
どのような災いが想定されているのか「分かったものではない」が、天災とともに、国が滅びること、世界にちりぢりになることも含まれるだろう。「分かち合っておけ」が何を意味するのか分からないが、助け合い、共同体のようなものが想定されているのだろう。「国」が滅んでも残るものがここにある。
Eccl 12:9,10 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。 コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。
コヘレトの人としての営みが書かれている。この貴重な営みが、これを生み出したのだろう。むろん、その背後に、神のおられること、他の表現としては、コヘレトの真摯に(神のもとにある)知恵を深める姿勢があることを、無視できないが。

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Eccl1:18 知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。
確かにそうだろうが、それが悪いことなのだろうか。憂うべきことなのだろうか。知恵が神を知ることから来るとすると、神の悩み、神の痛みを自らのものとすることともいえる。世界の状況、様々な紛争と人々の争い、ひとり一人の苦悩、痛み、病と死、愛と憎しみとねたみは、知れば知るほど、そしてその複雑さを学び考えればさらに、悩みは深くなり痛みも増す。わたしは、それを受け入れたい。自分の罪による、神様への不従順から来る痛みと悩みでなければ。
Eccl2:24-26 人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。 自分で食べて、自分で味わえ。 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。
結局のところ人間にとって最も良いものは何なのだろう。限定的には「飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること」も悪くはない、と言っているのだろう。このあとの展開も興味深い。そして最後は「これまた空しく、風を追うようなことだ。」確かに、注意して表現を選んではいるが、因果応報に対する、疑いも含まれている。人間がこれが「最も良いこと」とは定めることはできないし、自分はそれをしているともいえないのだろう。様々な神の知恵を求めながら生きることだろうか。少なくともコヘレトの言葉の最後までこの問いを考えたい。
Eccl3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
1節の「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」から続いている。この言葉は重い。つまり結局は分からないのだ。人生の意味、自分にとって最も良い生き方は。興味深いのは18節「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。」そして22節「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」これがこの章の最後になっている。深い思索がある。しかし個人的には、疑問がある。価値が自分の内面にのみ目が向けられていることだろうか。もう少し的確に表現したい。
Eccl4:13 貧しくても利口な少年の方が/老いて愚かになり/忠告を入れなくなった王よりも良い。
年をとってきた自分の愚かさを感じつつこの節がとても響いた。しかし、15節「太陽の下、命あるもの皆が/代わって立ったこの少年に味方するのを/わたしは見た。」を見ると、特別な少年のことを言っているようである。口語訳は「かのわらべのように王に代わって立つのを見た」となっている。ダビデを意識しているともはっきりとはいえない。さらに16節「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」へと続く。名もなき少年を思って語っているのかもしれない。忠告を入れなくなることはいずれあるだろう。いますでにその兆候が始まっているのかもしれない。聖書のことばに聞き、謙虚でいたい。それを神様がゆるしてくださるように。
Eccl5:10 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
17節には「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。」とある。コヘレトの言葉の著者がいいたいのはこのことなのだろう。なにか快楽主義のようにも映るが、最後のことばはこころに響く。この逆は、自分の日を思い返し、自分の人生を褒め称え、それに付け加えてそのようにしてくださった神様を誉め讃えることだろうから。わたしも、そのような人生でありたい。ひたすら前に向かって歩むことでそのようになることも考えていたが、それとは、別の方法で、このような生き方をすることもできるのかもしれない。さらに、そのような日々の中での喜びは、喜びを周囲の人と分かち合うことかもしれない。
Eccl6:11 言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。
こころからそう思う。自分の中にはなにもないのに、言葉多く語る。自分が考えていることがさも相手にとってもたいせつであるかのごとく。そのような自分を反省することは多々あると共に、それを止められないだけでなく、そして、そのことの空しさを思いつつ、自分を正当化することも忘れない。人間とは不思議な者。自分という人間を見ていると、むなしい。このあとコヘレトは次のように続ける「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(12節)また、考えよう。
Eccl7:29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
そうなのかもしれない。世の中はよく分からない。不透明なことばかりである。しかしその中で、神のみこころをもとめて生きていくように創造されたのかもしれない。しかし、主体的に。主体性を取り除いてしまうことは、神様の愛のご性質からされなかったのだろう。主体性がなければ愛することもできないから。その中でつい10節「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」のようなことが起こるのかもしれない。冷静な分析とはいえないことをしてしまう。
Eccl8:12-14 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。
「にもかかわらず」といいつつ、最後「この地上には」とはじめ「これもまたむなしい」と締めくくる。このつぎには「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。」が続く。非常に興味深い。それゆえに至るまでの思考である。「にもかかわらず」にはいのちそのものの見方の単純ではないという洞察が含まれているのだろう。現実は「この地上には」に続くと同時に、9, 10 節なども、現実をしっかりと直視している姿を現している。「それゆえ」は、恵みとしての快楽をたたえることであろうか。快楽に現をぬかすこととは異なる。
Eccl9:10 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には/仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
この地上でわたしはこのように生きたい。賢い忠実な僕として。今日も「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。」ここでいわれることを行いたい。すこしずれるが11節の最後と12節の最初にまたがる「時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ。」が真実だと考えているからだ。わからない、それを受け入れること、それも、ひとが神の前に謙虚に生きる鍵だと思う。
Eccl10:16,17 いかに不幸なことか/王が召し使いのようで/役人らが朝から食い散らしている国よ。 いかに幸いなことか/王が高貴な生まれで/役人らがしかるべきときに食事をし/決して酔わず、力に満ちている国よ。
わたしにはこのような心はない。しかし、責任をもって治めるものが、高貴であり、役人たちも、きっちりと仕事をすると言うことは、すばらしいこと。王もおそらく十分な信頼を得ているのだろう。力に満ちている状態。神の働きを因果関係に結びつけると困難も生じるが、麗しい状況であることは、確かである。
Eccl11:5 妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。
すこしこのような事が分かってくると、ひとは傲慢になる。しかし、このコヘレトの言葉の背景にあるのは「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」ということ、その中で、人はどう生きたら良いのかという問いのように思われる。前半を現代でも解明が不可能な、非常に困難な問題に取り替える必要はないだろう。このコヘレトの言葉を読む者は、様々な問いをすでに投げかけ続けられているのだから。その中で、コヘレトは言う。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。」(9, 10節)この一部分のみに、価値を置いては、コヘレトの言いたいことは受け取れない。ひとつ一つにこの聖書記者の信仰告白と、若者に伝えたいことがある。
Eccl12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
共同訳の「こそ」にひかれた。その通りだと思う。それが、老境に達したと思われる、そして一生、創造主への信仰の問いと格闘してきた、コヘレトの言葉なのだろう。わたしもそう言いたい。「心を留めよ」となっている訳にもひかれる。口語訳は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、」となっている。単に、信じよということとは、違ったニュアンスが、共同訳で明確になったように思われる。新しい発見である。

BRC2013

Eccl1:2,3 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
生きることに何も意味がないならば、神がいないならば、そうだろう、ということは簡単である。しかし、同時に、神を知らないひとも、生き生きと生きる姿、そのような生き方を求める姿は、それ自体価値があるように思われる。空には思えない。この伝道の書を読みながら、このことを考えてみたい。
Eccl2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
よくわかる訳ではないが、仕事と、知恵と喜びは、違うレベルのことなのだろう。しかし、最後のことばは、何だろう。よくはわからないということだろうか。
Eccl3:14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
古典的な世界観としてよいのか。自然科学もそのようにとらえられてきた。しかし、これをそうとらず、アインシュタインのように、科学の背後に神がおられるととることもできる。直接介入はしないが、神の配慮のうちにある。それは、意味の問題なのだろうか。まだまだわからない。
Eccl4:4 また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
ひとのいとなみは、ねたみ合いなのかもしれない。近くのひとと比較してしまうのか。新共同訳では「仲間に対して競争心を燃やしているからだということもわかった」となっている。いろいろと考えさせられる。
Eccl5:20 このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。
これが平安が与えられて生きる生き方なのかもしれない。ただ、自己満足と紙一重ではないかとも思わされる。冷静に自らを省み、神から与えられているものを喜びたい。
Eccl6:2 すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。
「悪しき病」と断定している。たしかに、目標をもって、得たものが結局は、自分のものにはならない。かつそういうものに、命をかける。何と、人は近視眼的なのか。
Eccl7:24 物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見いだすことができよう。
新共同訳では「存在したことは、はるかに遠く」となっている。原語は調べていないが、極め尽くすことは難しいということだろう。しかしそれ以上であるように、思う。知ることはできない。そのことを知ることも、さらに、神にもわからないことを思いめぐらすことは、無駄ではないように思われる。
Eccl8:17 わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。人はこれを尋ねようと労しても、これを窮めることはできない。また、たとい知者があって、これを知ろうと思っても、これを窮めることはできないのである。
まさにその通りである。そのことを否定して、そのことに覆いをかぶせて生きていてはいけない。さらに、知ることができることも、ほんのわずかであることも。
Eccl9:15 しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。
わたしは、この貧しい知恵のある人の生き方をしたい。10節前半で「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。」とあるように、生きたい。謙虚にそのように生きるものにならせてください。
Eccl10:1 死んだはえは、香料を造る者の/あぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。
「愚痴」は、神への不満、神を見ず、神の働きを見えなくしているということなのだろうか。比較されている「知恵」より重いことは、多少思い当たるが「誉」よりも重いのは、よくわからない。
Eccl11:5 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。
前半の表現は変わっても「すべての事をなされる神のわざを知らない。」事実を深く受け止めなければならない。知ることができないことも。そして、神にも知ることができないことがあるかもしれないことにも、思いを巡らすことか。
Eccl12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
この背景にあるのが 8節の「伝道者は言う、『空の空、いっさいは空である』と。」詩編127編のように「主が建てられるのでなければ」「主が守られるのでなければ」だろうか。人の営み、人の努力、それによって得るものは、何も残らないことを知れということだろうか。もう少し、深みがあるように思われる。


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雅歌

雅歌(1)

「雅歌」は。ヘブル語聖書では「シールハッシーリ」と呼ばれていますが、これも単数形+複数形の「歌」という単語が重ねられているので、最上級を意味し「歌の中の歌」「最高の歌」と言う意味です。英語では、Song of Songs と訳されています。これを書いていたときに丁度、平原綾香の Not a Love Song という歌が流れていましたが、ちょっと通じるものがありますね。Not a Love Song は「(たくさんあるラブソングのうちのひとつではない)特別なラブソング」というような意味でしょう。内容からするとこの雅歌は「ラブソングの中のラブソング」と言っても良いかも知れません。日本語訳の書名は漢訳聖書から引き継がれたようです。1章1節は
ソロモンの雅歌。
となっています。確かに読んでみるとソロモンを念頭において書かれていることは確かでしょう。旧約聖書39巻の中で神の名が出てこないものが二巻あり、一つがエステル記、もう一つがこの雅歌です。エステル記は、神様は表舞台に出てこなくても、ユダヤ人の歴史として、危機的状況の中で神が働いておられることが記されていますが、この雅歌は、恋愛詩ですから、これが聖書に含まれていることに戸惑いを感じる方もおられると思います。実際、学者たちの中にも、排除しようとしたひともいるようですし、また、解釈もまちまちなようです。

今回もいのちのことば社の「新聖書注解」を見てみましたが、そこでも、6通りほどの解釈が紹介されていました。多少わたしの解釈を加えてありますが、以下のようなものです。

  1. ユダヤ人の比喩的解釈「神とその民との間の愛」
  2. キリスト教の比喩的解釈「キリストと教会との間の愛」
  3. 劇詩としての解釈「ソロモンと羊飼いの娘」「ソロモンと羊飼いの娘とその恋人の羊飼い」
  4. 恋愛詩の断片をあつめたものとする解釈
  5. 宗教祭儀文、他の宗教のものをユダヤ教に調和させた形に取り入れたとする解釈
  6. 祝婚歌、自然の恋愛詩歌とする解釈
みなさんは、どのように読まれるでしょうか。わたしは、b を強調して教えられてましたが、個人的には、この中から選択するとすると、c と f が一義的には、有力かなと考えています。つまり基本的には、人間的な恋愛を歌った詩歌で、形式的には劇詩の形をとっているというものです。人間的な恋愛感情は、時として、ひとを傷つけたり、利己的に働いたり、肉欲的な面が制御できなくなったりしますが、特に異性の間の特別な感情そして生理現象は、やはり神様が祝福として人間ひとりひとりに与えておられるものだと考えるからです。祝福として受け取るべきものだと思います。しかし同時に、読んでみると、雅歌は正直わかりにくい。それぞれの部分がだれの言葉なのかわかりにくいのです。そうだとすると、d なのかもしれません。実は新共同訳にはかなりこまかく「小見出し」がついていますが、むろんこれは、もともとの聖書にあるものではありませんから、それは忘れて読んだ方が良いかも知れません。演劇の好きな方は、ちょっと分析してみて下さいませんか。どんな登場人物を想定するのがよいでしょうか。わたしも毎回考えながら読んでいますが、これ以降は、みなさんにお任せして、書かないことにします。

雅歌から少し拾ってみましょう。以下は新共同訳から引用します。

1:2 どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。 ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く
1:3 あなたの香油、流れるその香油のように/あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。
1:4 お誘いください、わたしを。急ぎましょう、王様/わたしをお部屋に伴ってください。 わたしたちもあなたと共に喜び祝います。ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます。人は皆、ひたすらあなたをお慕いします。
3節と4節を同じ人のことばとするかどうかも難しいですね。この雅歌に 2:7 と 3:5 に出てくる次の言葉、みなさんはこの気持ち分かりますか。
2:7 エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。 [口語訳 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。]
8:4 にも似た言葉があります。そしてつぎのように続きます。
4: エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
5: 荒れ野から上って来るおとめは誰か/恋人の腕に寄りかかって。
りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。
6: わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。
愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
7: 大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。
これだけでも、十分、美しいと思いませんか。こんな胸ときめき、恋愛、魅力的ではないですか。 最後は次の言葉で終わります。 8:14 恋しい人よ/急いでください、かもしかや子鹿のように/香り草の山々へ。 例により最後に慷慨(本間正巳)を「新聖書注解」から書き出しておきます。

梗概

  1. 花嫁と花婿の互いの愛情 1:1-2:7
  2. 春の訪れ。花嫁の夢 2:8-3:5
  3. 婚礼の行列。花嫁の第二の夢。エルサレムの娘たちと花嫁の対話 3:6-6:3
  4. 花婿の花嫁賛歌 6:4-8:4
  5. 互いの愛の告白 8:5-14


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聖書通読ノート

BRC2023

Song of Songs 1:5,6 エルサレムの娘たちよ/私は黒くて愛らしい。/ケダルの天幕のように/ソロモンの幕布のように。/私を見つめないでください。/日に焼けたので、私は黒いのです。/兄弟たちが腹を立て/私にぶどう畑を見張らせたのです。/けれども、自分のぶどう畑は見張りませんでした。
雅歌は、劇の台詞のようになっているが、どこからどこまで誰が話しているのか、状況設定などもよくわからない。劇を記録したテープおこしをした文書のように見える。引用句には、明らかに、ひとつの対話がある。黒いことについて語られている。黒いものも愛らしいのか、女性はそれをよくないことの様に思っている様である。そして黒い理由が書かれている。どんな時代にも、このような搾取があったのだろうか。雅歌とは一体何なのだろう。
Song of Songs 2:7 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。
このあとには「私の愛する人はガゼルや若い雄鹿のようです。/ほら、あの方は私たちの家の壁の外に立ち/窓からのぞき、格子の間から見ています。」(9)とある。しかし、どうも、愛が目覚めるところまではまだいっていない様である。その表現が、これらの句のようにも見える。思い出深い句だが、あまり対話になっていないところが興味深くもある。相手のこころは弄ぶことができないだけでなく、やはりわからないのかもしれない。しかし、なにかがそこにおこっていくのだろうか。
Song of Songs 3:4,5 彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。/この方を抱き締めました。もう離しません。/私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。/エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。
男性か女性かよくはわからない。前の章でのことば(たとえば2:7)は、男性が語り、ここでは、女性が行動している様に見える。しかし、男性側は、急速に近づくことを望んではいないように見える。少し贅沢にも感じるが。相手のこころを受け止めるのは簡単ではない。波長が合うには、複雑な条件があるのだから。少しずつ理解していきたい。
Song of Songs 4:4 あなたの首は/武器庫として建てられたダビデの塔のよう。/千の盾がそこに掛けられている。/それらは皆、勇士たちの小盾。
この章の表現はよくわからないことが多い。引用句は、首が長く、そこに、首飾りなどの飾りがたくさん付いている様子を描いているのだろうか。女性のことばも書かれている様に思えるが、やはり男性目線のように見える。最後は「北風よ、目覚めなさい。/南風よ、吹きなさい。/私の園を吹き抜けて/その香りを振りまいてください。/愛する人が自分の園に来て/見事な実を食べますように。」(16)となっている。香りも大切なものなのだろう。認識は難しいが。
Song of Songs 5:8,9 エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。/私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。女たちの中で誰よりも美しい人よ/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。/私たちにそれほどまでに誓わせるとは/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。
この章は特に、だれが何をいっているのかよくわからない。いろいろな解釈があって良いのかもしれないが、最初は、あることが意識されたのだろうから。この最初の話者は、男性だろう。女たちの中で誰よりも美しいひとを求めている。このあなたの愛するひとは、誰なのだろうか。この前には、「私は愛する人に扉を開きました。/けれども、愛する人は背を向けて/去ってしまった後でした。/あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。/私は捜し求めましたが/あの方は見つかりません。/私は呼び求めましたが/あの方は答えてはくれません。」(6)ともある。抽象的に捉えることもできるだろうが、おそらく、通常の恋物語なのだろう。難しい。
Song of Songs 6:2,3 私の愛する人は自分の園へ/香料の花壇に下りて行きました。/園で群れを飼い、百合を集めるために。私は愛する人のもの。/私の愛する人は私のもの。/あの方は百合の中で群れを飼っています。
聖書協会共同訳には、だれの台詞かが書かれている。しかし、おそらく、それは、翻訳者である、研究者がつけたものなのだろう。訳によるのかもしれない。引用句では、おとめたちの語りかけに対して、おとめが答えているとしている。信頼関係があることを、表現しているのだろうか。「私は愛する人のもの。/私の愛する人は私のもの。」このような所有のような関係性は、自然なことなのだろうか。わたしには、よくわからない。
Song of Songs 7:11,12 私は愛する人のもの。/あの方は私を求めています。私の愛する人よ/さあ、野原に出かけましょう。/ヘンナの中で夜を過ごしましょう。
おとめの言葉とされる。最後のヘンナは何なのかよくわからない。KJV では、節数も違っているが、おそらく、כָּפָר(kāp̄ār:village, hamlet)だろうが、城壁にまもられた村のことなのだろうか。日本聖書協会共同訳には、何の注もついていない。詩文体は難しいのだろう。
Song of Songs 8:11,12 ソロモンはバアル・ハモンにぶどう園を持ち/番人たちに任せていました。/彼らは収穫に従って銀一千を納めます。/私の前にあるのは私のぶどう園。/ソロモンよ、あなたには銀一千/収穫物の番人には銀二百。
雅歌はやはりよくわからない。この最後の部分は何を表しているのだろう。もしかすると、ある断片が残ったのかもしれない。解釈は難しい。いつ頃の時代のものなのだろう。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Song of Songs 1:4 私を引き寄せ/あなたの後ろから付いて行かせてください。/さあ、急ぎましょう。/王はその部屋に私を連れて行ってくれました。/楽しみましょう/あなたのもとで喜びましょう。/あなたの愛をぶどう酒よりもたたえましょう。/彼女たちはあなたをひたすらに愛します。
正直、わたしには、状況設定がよくわからない。舞台上で、再現して見せてほしいと思う。混乱させるのは、引用句を語る「おとめ」と「若者」と「王」の関係がよくわからないことなのだろう。いろいろと解釈もあるのだろう。でも、それに頼らず、読んでいきたい。「王」と「若者」は同一なのだろうか。考えていきたい。なお「おとめ」「若者」「おとめたち」「王」と書かれた部分は、原語から話者が判断できるので、記されているが、議論もあるとのこと。(NIV注)
Song of Songs 2:4,5 あの方は私をぶどう酒の館に誘いました。/私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。干しぶどうの菓子で私を力づけてください。/りんごで私を元気づけてください。/私は愛に病んでいます。
後半を読んで、このおとめの願いは、祈りなのかもしれないと思った。恋の中で、息苦しくなり、愛に病んでいると表現している。その中で、干しぶどうの菓子、りんごは、現実的で、興味深い。肉体に力を与えることで、こころもからだも安定することを、客観的な事実から、経験から知っているのだろう。雅歌には、主の名が現れないと言われる。しかし、表現の豊かさは、興味深い。聖書の幅を広げていることは確かである。
Song of Songs 3:1 夜ごとに寝床で/私の魂の愛する人を探しました。/あの方を探しましたが、見つかりません。
状況を理解するのは、簡単ではない。単に想像することはできるかもしれないが。このあと、外に出て、探し回り、夜警にも聞き、しかし、その直後に見つかることが書かれている。「彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。/この方を抱き締めました。もう離しません。/私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。」(4)この気持はわかるように思うが、たしかに、これは、「愛に病んでいる」(2章5節b)なのだろう。あまり思考を働かせず、そのようなこころに思いを寄せればよいのか。やはり「病」であり、課題も多いように思うが。こう考えるのは、自分が年寄りだということだろうか。
Song of Songs 4:9,10 私の妹、花嫁よ/あなたは私の心をときめかせる。/あなたの一瞬のまなざしも/首飾りの玉の一つも私の心をときめかせる。私の妹、花嫁よ/あなたの愛はなんと美しいことか。/あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく/あなたの香油は/どのような香料よりもかぐわしい。
この章の最初には「若者」とあり「なんと美しい、私の恋人よ。/なんと美しい。ベールの奥の目は鳩のよう。/あなたの髪は/ギルアドの山を駆け下りる山羊の群れのよう。」(1)と始まる。引用句は「私の妹、花嫁よ」となっている。同一人物のことばだと無理やり解釈することはできないことはないが、見ているのは、花嫁であっても、語り手は異なると思うようになった。原語的に、若い男性のことばだと特定してそれがわかるように「若者」としているだけで、切れ目を限定しているわけでは無いように思う。しかし、どこで切れるのかは判然とはしない。それも、理解を困難にしているように思われる。
Song of Songs 5:7,8 町を巡る夜警たちが私を見つけました。/彼らは私を打ち、傷を負わせました。/私からかぶり物を剝ぎ取ったのは/城壁の見張りたちでした。エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。/私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。
正確にはよくわからないが、恋人が訪ねてきて、躊躇していて去ったあとに、夜中に、探しに出て、不審がられて起こったことなのかもしれない。この「愛に病んでいる」状態を際立たせているのが、このあとの「女たちの中で誰よりも美しい人よ/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。/私たちにそれほどまでに誓わせるとは/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。」(9)でもある。「愛に病む」ほどの状態は、客観的には、そとから、わからないものなのだろう。おそらく、肉体や脳で、あるプログラムが動いていて、通常の働きができない、または、違うモードになっているということなのだろう。
Song of Songs 6:8,9 王妃は六十人、側女が八十人/若い娘は数えきれない。私の鳩、私の汚れなき人はただ一人。/彼女は母の一人娘。/彼女を産んだ母にとって輝いている娘。/娘たちは彼女を見て、幸せな人だと言い/王妃も側女も彼女をほめたたえる。
状況はあまりよくわからない。この女性の愛らしさを、褒め称えているひとつの表現なのだろう。王妃、側女、若い娘はたくさんいても、その全員に幸せな女だと言われ、ほめたたえられるということか。これも、おそらく、一瞬のこと、しかし、特別なことでもあるのだろう。
Song of Songs 7:7 喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい。
この前の6章の最後には「知らぬ間に、私の魂が/私をアミナディブの車に乗せていました。」(6章12節)と急に具体性を伴う表現が登場し、この章に入ると「戻れ、戻れ、シュラムの女よ。」(7章1節a)「ナディブの娘よ」(7章2節a)と具体的な表現がある。しかし、引用句は、非常に一般的である。急に現れたようで、前後関係がよくわからない。しかし「喜びに溢れた愛」はよいことばで印象に残った。「喜び」は自分の中の感覚と関係し「愛」は他者との関係である。そして、それが「美しく、麗しい」と表現されている。おそらく、他者視点なのだろう。他のかたの解釈も聞いてみたい。正直わたしにはよくわからないので。
Song of Songs 8:6,7 印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。/愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。/愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。/洪水もそれを押し流すことはありません。/愛を手に入れるために、家の財産をすべて/差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。
雅歌をしっかりと読むことが今回もできなかった。難しい。「エルサレムの娘たちよ、私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(4)は印象的である。この後半「私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」は、2章7節、3章5節にもある。こちらは、恋について言及しているとも、愛の相互性について述べているとも理解できる。引用句は、愛の強さ、激しさなど、特別な価値について述べている。愛について述べていることはそのとおりだが、イエスが説いた愛とは、なにか距離を感じる。恋心と呼ばれる、心の燃え上がりではないものを、イエスは説いているからだろうか。

BRC2019

Sg 1:6 どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。
おとめと、「恋人よ」とおとめに語りかける若者と思われるものの歌のようである。どちらが支配することもなく、対等に感じられること、さらに、おとめに、さまざまなひとが登場すること、引用句のように、畑で、見張りをしていたようなおとめも登場することに興味をもつ。豊かな世界が展開しており、それが書き留められているように思う。正直、雅歌はよくはわからないが、少しずつていねいに読んでいきたい。
Sg 2:15,16 狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。恋しいあの人はわたしのもの/わたしはあの人のもの/ゆりの中で群れを飼っている人のもの。
恋をしている間、邪魔が入らないように、不要なことに、こころを配らなくて良いようにといっているのだろうか。「わたしのもの・あの人のもの」は、そのような心を表現しているのであって、持ち物であることを主張しているのではないだろう。雅歌は、どのようにして読まれたのだろうか。現代では、過越の祭の日曜日に読まれるという。過越の祭は、最初の収穫を祝う祭りでもある。神とイスラエル、キリストと教会の関係にたとえられることもあるが、直接的には、恋人関係であろう。劇のようなスタイルをとっていることからも、単純な男性目線ではなく、女性のこころも、表現されているように思われるが、どうなのだろうか。
Sg 3:4 彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
恋い慕う気持ちは良く表れているが、通奏低音のように、何回か(2:7, 3:5, 8:4)現れる「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(5)が、深みを与えているように思う。恋心は不可解。
Sg 4:7 恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。
このことばに象徴されているように、すべてが美しいというように「恋人よ、あなたは美しい。」(1a)からはじめて、様々な表現をしている。表現自体は、理解できなかったり、現代ではこのようには表現しないのではと思うこともあるが、いずれにしても、これが恋なのだろう。このあとは「わたしの妹、花嫁よ」(9,10,12)とあるが、意味は必ずしもはっきりしない。恋人を、妹と表現しているのか、花嫁の妹を、恋人のようにほめているのか。あまり、堅く考えなくて良いのかもしれない。
Sg 5:6,7 戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。恋しい人の言葉を追って/わたしの魂は出て行きます。求めても、あの人は見つかりません。呼び求めても、答えてくれません。街をめぐる夜警にわたしは見つかり/打たれて傷を負いました。城壁の見張りは、わたしの衣をはぎ取りました。
詳細は不明であるが、香油を塗り、街をさまよい歩き、遊女としてとがめられたのかもしれない。暴力も書かれている。ただ、これに続けて「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/もしわたしの恋しい人を見かけたら/わたしが恋の病にかかっていることを/その人に伝えると。」(8)と「恋の病」と表現しており、暴力を受けた部分は強調されていないのかもしれない。「恋の病」のひとつの表現は、なにか心苦しくなる。
Sg 6:8,9 王妃が六十人、側女が八十人/若い娘の数は知れないが わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘/産みの親のかけがえのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し/王妃も側女も彼女をたたえる。
「かけがいのない娘」この視点が失われてはいけない。ただ、かけがいのなさをどのように、たいせつにするかは、よく考える必要があるが。この雅歌と似たものが、演じられたことが、あるのだろうか。そのようなものを観てみたい。いろいろな、演出方法があり、それによって、かなり多様に変化するだろうが。
Sg 7:14 恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も/恋しい人よ、あなたのために取っておきました。
恋人を表現するのに、当時もっとも適切な表現が「恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。」だったのだろう。それを、あなたのために。いまは、それをどのように表現するのだろうか。
Sg 8:6 わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。(合唱)愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
最後の章(区切りは原文にはないだろうが)は「あなたが、わたしの母の乳房を吸った/本当の兄だと思う人なら/わたしをとがめたりはしないでしょう/外であなたにお会いして/くちづけするわたしを見ても。」と始まる。それぞれの登場人物をどう理解すればよいか正確にはわからない。「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(4)と「荒れ野から上って来るおとめは誰か/恋人の腕に寄りかかって。(おとめの歌)りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。 」(5)の「わたしはあなたを呼びさましましょう。」が対応しているのだろうか。そして引用句に続く。愛と熱情を対比している。愛はどのようにとらえられているのだろうか。

BRC2017

Sg 1:5,6 エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。
黒人ではないようだが、肌の色が黒いことを魅力としている。背景も、興味深く描かれている。雅歌は、理解が難しい。楽しむこともしてみたい。
Sg 2:8,9 恋しい人の声が聞こえます。山を越え、丘を跳んでやって来ます。 恋しい人はかもしかのよう/若い雄鹿のようです。ごらんなさい、もう家の外に立って/窓からうかがい/格子の外からのぞいています。
なにか、ドキドキする瞬間を感じる。この前の「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」と「恋しい人は言います。「恋人よ、美しいひとよ/さあ、立って出ておいで。」に挟まれている。聖書の中に、このような表現があることに大きな価値があるのだろう。自然に読みたい。
Sg 3:3 わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
夜警に見つかったと言う表現のあとに、その夜警にも、この質問をしている。こころがこのことでいっぱいであることが分かる。その世界が表現されているとして読むので良いのだろう。
Sg 4:16 北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。わたしの園を吹き抜けて/香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして/このみごとな実を食べてくださるように。
直前には「園の泉は命の水を汲むところ」と霊的なことを感じるが、おそらく、純粋に恋の歌と受け取って良いのかもしれない。相手に、よかれと、自分のものを捧げる、それが、自己犠牲とか、真実の愛と言えるかどうかは不明であるが。
Sg 5:5 恋しい人に戸を開こうと起き上がりました。わたしの両手はミルラを滴らせ/ミルラの滴は指から取っ手にこぼれ落ちました。
恋する人の気持ちがよく表れている。ミルラは香料の様である。「上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラの樹脂五百シェケル、シナモンをその半量の二百五十シェケル、匂い菖蒲二百五十シェケル、」(Ex 30:23)「十二か月の美容の期間が終わると、娘たちは順番にクセルクセス王のもとに召されることになった。娘たちには六か月間ミルラ香油で、次の六か月間ほかの香料や化粧品で容姿を美しくすることが定められていた。」(Es 2:12)「あなたの衣はすべて/ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち/象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。 」(Ps 45:9)「床にはミルラの香りをまきました/アロエやシナモンも。」(Prv 7:17)あとはすべて雅歌である。1:13, 3:6, 4:6, 14, 5:1, 5, 13「恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。」(Sg 1:13)香料を確認したと言うことだろう。
Sg 6:4 恋人よ、あなたはティルツァのように美しく/エルサレムのように麗しく/旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。
様々な恋歌が重なっていると考えてもよいだろう。ティルツァは、嗣業を受け継ぐツェロフハドの娘の一人の名前として出ており(民数記26:33等)、その後、北イスラエル王国の首都なっていた時期もある(列王記上15:33等)が、ここでの記述との関係は、不明である。最後に恋人に対して「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」は興味深い。通常の感覚で理解して良いなら、伝わってくるものがある。
Sg 7:13 朝になったらぶどう畑に急ぎ/見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか/ざくろのつぼみも開いたか。それから、あなたにわたしの愛をささげます。
気持ちが良く伝わってくる。何をしても楽しい。その時を大切にしたいのだろう。共有する時間、それは、何かと共に残したいという願望なのだろうか。
Sg 8:4 エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。 」(2:7, 3:5)二箇所似た箇所がある。どのように、違うのだろうか。一つは、エルサレムおとめたちよ、と呼びかけ、舞台は、エルサレムであることを、連想させる。そして、この表現こそ、恋を感じさせる、なにか、わくわくするものであること。「野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください」は私には、分からない。

BRC2015

Sg1:15-17 恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。 恋しい人、美しいのはあなた/わたしの喜び。わたしたちの寝床は緑の茂み。 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。
雅歌はこのようなものとはっきりはいえない点で、よく分からない。単純に恋の歌でも、神に捧げるものでもないように思われる。まったく抽象的に歌っているのでもないように思われる。今回は少し丁寧に読んでみたい。そのようにできるかは不明だが。
 
Sg2:7 エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
個人的な思い出のあることばである。同じことばが3章5節にもある。ここでは明らかに、掛け合いになっている。実際に舞台で劇またはミュージカルのように上演されたかどうかは疑わしいが。ここは、新共同訳の区分では「おとめの歌」の途中にある。ということは、他のおとめたちに、恋心を起こさないでね。わたしの愛しい人に。と言っているのだろうか。それとも「愛がそれを望むまでは」は別の解釈があるのか。詩文であるから、論理的に綴られてはいないことは当然であるが、解釈は難しい。
Sg3:11 いでよ、シオンのおとめたちよ/ソロモン王を仰ぎ見よ。その冠を見よ/王の婚礼の日に、喜びの日に/母君がいただかせた冠を。
4節には「彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。」とある。このあと、2章7節と同じ言葉が続き、合唱がはじまる。恋人を慕うおとめに語らせながら、じつは、王宮に迎え入れられるおとめについての、歌っているのか。想像をかき立てられる。
Sg4:9 わたしの妹、花嫁よ/あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も/それだけで、わたしの心をときめかす。
7節は「恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。」と恋人にむけて語られている。8節は、花嫁にむけて、そして、この9節は「わたしの妹、花嫁よ」となっている。8節からは、語り手が代わっているのではないだろうか。新共同訳では、4章はすべて若者の歌となっているが。1章から「若者」は「おとめ」の「恋人」だとすると、ここでの語り手を区別しても良いのではないだろうか。
Sg5:1 わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。香り草やミルラを摘み/蜜の滴るわたしの蜂の巣を吸い/わたしのぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。
新共同訳には、この章の最初にも「若者の歌」とある。ここも、わたしの上の4章に書いた考え方からすれば、1章2章と続いている「若者」とは区別すべきではないかと思われる。しかし、もし、本当に妹なら「愛する者よ、愛に酔え。」という気持ちの背後には、何があるのだろうと考える。少しずつ味わって読んでいきたい。
Sg6:5 わたしを混乱させるその目を/わたしからそらせておくれ。あなたの髪はギレアドを駆け下る山羊の群れ。
口語訳は「あなたの目はわたしを恐れさせるゆえ、わたしからそむけてください。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。」となっている。「あなた」は4節からすると「恋人」おとめを指すと思われる。1節は「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ/あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。」不安から始まり「わたしの恋しい人は園に/香り草の花床に下りて行きました。園で群れを飼い、ゆりの花を手折っています。」と続く。「ゆりの花を手折る」ことになにか象徴的な意味があるのだろうか。それによって解釈がかなり変わって来るように思われる。なかなか難しい。
Sg7:14 恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も/恋しい人よ、あなたのために取っておきました。
おそらく、長い間、恋人が離れていることを表現しているのだろう。一心に思う心「わたしは恋しい人のもの/あの人はわたしを求めている。 恋しい人よ、来てください。」(11, 12a)そう考えると、6:2 の「ゆりの花を手折っています」は、混乱のなかの、悩みを表現しているのかもしれない。
Sg8:13,14 園に座っているおとめよ/友は皆、あなたの声に耳を傾けている。わたしにも聞かせておくれ。 恋しい人よ/急いでください、かもしかや子鹿のように/香り草の山々へ。
雅歌の結びである。新共同訳では13節を「若者の歌」14節を「おとめの歌」としている。もし、若者が最初から同じ若者で、おとめがそうであるのであれば、中間部分の微妙な表現をもう少し丁寧に読まなければいけないのかと思った。そう考えると2章15節「狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。」の狐がすでに気になる。

BRC2013

Sg1:2 どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり、
この雅歌は混乱もあるように思われる。そうではないのかもしれない。しかし、誰が誰に対してということが明確にはわからないように書かれていることは確かであろう。男性なのか、女性なのか、神に対してなのか、もう少しほかのことが想定されているのか。今回、その辺も考えながら読んでいくことができればと思う。
Sg2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。
この章は「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。」から始まる。2節のつなぎの節があり、3節以降を見ると、これに答えるように、台詞ともいえるものが続く。 それは、7節で立場が変わるのか、7節もその一部なのか、7節だけなのか、構造はなかなか難しい。その7節を記す。「エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。」若い頃を思い出す。この言葉が書かれた手紙を受け取ったときのことを。
Sg3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。
これは、もう、恋人。このあとしかし、5節には、2:7 と同じ言葉がつづき、6節からはソロモンの輿(のりもの)のことが続く。ソロモンに恋している娘たちなのか、ソロモンを想定しているのかさえ、わたしには、わからない。
Sg4:9 わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。あなたはただひと目で、あなたの首飾のひと玉で、わたしの心を奪った。
なぜ「わが妹、わが花嫁よ」なのか。具体的な話だと考えるのが行けないのかもしれない。愛する美しい人の象徴と考えるべきなのか。謎は深まるばかり。愛しさというものの表現なのか。
Sg5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
4節では「わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。」となっている。この結末が、この6節である。なんとも切ない。それが恋の表現なのかもしれない。それに対する、9節の「女のうちの最も美しい者よ、あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあるか。あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあって、そのように、わたしたちに誓い、願うのか。」が恋の一面を表現していて興味深い。
Sg6:3 わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。彼はゆりの花の中で、その群れを飼っています。
恋心が如実に現れている。周囲とは切り離された主観的な世界なのだろう。この雅歌を理解するには、しかし、男性女性がどのように理解され、原語では表現されていることも重要に思われる。語り手が変わるのがわかるも関係しているので。文法的な性と意味のこともあり、単純には、わからない。
Sg7:12 わたしたちは早く起き、ぶどう園へ行って、ぶどうの木が芽ざしたか、ぶどうの花が咲いたか、ざくろが花咲いたかを見ましょう。その所で、わたしはわが愛をあなたに与えます。
美しい光景である。ともに、自然を愛でる。人を愛でるのは、恋人たちには難しいのかもしれない。
Sg8:6,7 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
雅歌はむずかしい。誰の言葉か、男女の愛はどの程度関係しているのか、信仰はと、基盤が不明なことが多すぎる。しかし、そう考えず、この言葉を記したかったのかもしれない。恋について記し、そして、愛がどのようなものかを表現する、この二つの節に至る。「恋するものの心、愛の讃歌」とでもしようか。


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イザヤ書

イザヤ書(1)

イザヤ書から旧約聖書の最後まで基本的には預言書が続きます。預言は、予言ではありませんから、未来告知ではなく、神様の言葉に預かる、それを伝えるものですが、その中には、予言的な要素も多く含んでいます。また、かなり現実に密着した問題について語られています。さてその預言書でも、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書は大預言書と呼ばれています。さらにその中でもイザヤの名前は聞いたことのある方が多いのではないかと思います。おそらくその大きな理由は、新約聖書でたくさん引用されているからでしょう。イザヤ書からの新約聖書での引用は50箇所ほどありますが「預言者イザヤによって」など、イザヤという名前が出てくる、イザヤ書以外の箇所をリストしておきます。

旧約聖書では、列王記下 19, 20 章、歴代志下 26, 32章、新約聖書では、以下の箇所です。

さて、イザヤ書の最初を見てみましょう。新共同訳から引用します。

1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。(新共同訳)
イザヤは「主の救い」と言う意味の名前ですが、ユダとエルサレムについて見た幻について書いてあること、それもユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことだと書いてありますから、すこしこの当時のことを復習しておくことが必要でしょう。上にも書いたように現実の問題と密接に関わりのあることについて語っているので、その当時のことを知ることは、大切なのです。

大体BC1000年頃、ダビデがイスラエル王国の王となり、そのあとソロモンが王となりますが、その死後BC922に王国が分裂します。12部族のうち、ユダとベニヤミン族からなり、ダビデ王家の血筋をひく南ユダ王国と、残りの10部族からなる北イスラエル王国での二つの王国です。同盟関係を持っていた時代もありますが、敵対関係にあった時期のほうが長かったでしょう。南には、エジプトという超大国があり、北にはアラム(シリヤ)がありました。その首都であるダマスコは、世界史上最古の都市といってもよいほど古くから栄えた都市でした。

上に引用した1章1節に現れるウジヤは、列王記下14章・15章では アザルヤと呼ばれています。ウジヤについては、歴代志下25, 26章にも書いてありますので是非読んでみて下さい。神に従った良い王様で、外交においても、内政においても、実績を上げ国は繁栄していたことが、歴代志に書かれています。しかし晩年、祭司しか入ってはいけない、神殿にはいり、香をたいたため、神に打たれて重い皮膚病になった、と書かれています。歴代志下26章から、少しだけ引用しておきます。

15: 彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
16: ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした。

20: 祭司長アザルヤと祭司たちは皆彼の方を向いて、その額に重い皮膚病ができているのを認め、直ちに去らせた。彼自身も急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。

イザヤが預言を始めたのは、この時代です。

わたしは 1987年頃二年ほど神戸ルーテル神学校に聴講に行っていたことがありますが、その校長先生が鍋谷堯爾(なべたにぎょうじ)というかたで、イザヤ書が専門でした。時々引用している、いのちのことば社「新聖書注解」のイザヤ書もこの先生が執筆していますので、そこから、背景となる歴史と梗概を引用しておきます。上に書いた国の関係が、アッシリアの台頭によって崩れて、北イスラエル王国などが滅ばされてしまうのです。南ユダ王国はアッシリアのあと中東を制したバビロニア王国に滅ばされるまで細々と残ります。

* は諸説あり。

慷慨 (いのちのことば社「新聖書注解」鍋谷堯爾による)

1章から39章はひとつのまとまりがありますが、そのあと、かなり記述が変わっていくので、40章-55章は 第二イザヤ、56章-66章は 第三イザヤによると言ったりしています。イザヤ書は 66章あります。聖書も66巻、旧約聖書は 39巻ですから、このイザヤ書の切れ目は、(章の切れ目は後代に作ったものですから)たまたまですが、旧約聖書と新約聖書の巻の数と同じように分かれています。

イザヤ書(2)

今回はイザヤ書はどんなことについて書いてあるかを、特に最初のいくつかの章から少し見てみましょう。まずは、1章から少し見てみましょう。前回と同じく引用は新共同訳です。
2:天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
3:牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。
まず、イスラエルの民が主(神様)の子と表現され、その子らが神様にそむいたことが書かれています。これに続いて、神によって撃たれたこと。憐れみによって残されたものがいることが書かれています。(1:5-9)

では、神様は何に怒っておられるのででしょうか。

4:災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
主を捨てたとあります。
11a:お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
14a:お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。
15a:お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
これをみると、宗教的儀式によって救われることはなさそうです。犠牲・祭り・祈りを受け入れないとされています。
16:洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
17:善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
18:論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
神が求めておられること、そして、清められると書かれています。 簡単にいうと「あなたたちは、神にそむいた。御心と行うものとなれ。神は(神の前に立つことのできる)清いものにしてくださる」ということです。

2章4節・5節は、聞いたことがあるというかたもいるかと思いますが、主が与えられる平和について凄いことが書かれています。

4:主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
5:ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
前回、時代的背景について少し書きましたが、東のアッシリアが強くなり、それまで北イスラエル王国(その盟主の名からエフライムとも言われている)や、そのさらに北にあるアラム(口語ではスリヤ、首都のあったダマスコと呼ばれることもある)と争っていたのが、そんな状況ではなくなっていました。アッシリアに対抗するため三国同盟の案もあったようですが、南ユダ王国はこれを拒否したためでしょうか、北イスラエル王国とアラムが攻めてきます。しかし、これらの二つの国は、アッシリアに滅ばされてしまう。(7章)このような時代ですね。上の4節・5節はそのような時に語られているのです。

では、イザヤはどうだったでしょうか。7章には、王と直接やりあう姿が書かれています。すくなくとも、困難な国際政治状況のもとで、これは背いた民に対する神の裁きだからと、道徳的に清い生活をするために、隠遁生活をするというのではなく、王を批判したり、世界の状況についての神のことばを伝えています。イザヤ書を読み進めるとわかりますが、イザヤの時代のひとびとにとっての全世界といえるようなあらゆる国々についての預言が語られています。そしてそれぞれの国を神が用いておられることも語られています。10章にはつぎのようなことばも登場します。

5:災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。
6:神を無視する国に向かって/わたしはそれを遣わし/わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ/野の土のように彼を踏みにじれ」と。
この時代にこのようなことばを言うことは勇気のいることだったでしょう。そして、同じ10章にアッシリアについての裁きも書かれています。神が全世界の国を動かしておられると確信しているのでしょう。イザヤが書いている範囲は地域的にも広いですが、社会的にもいろいろな人たちに語りかけています。
主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。
これは3章16節のことばですが、このあと、18節からは装身具のリストが挙げられています。聖書の他の箇所には現れないことばも多いそうです。女性達が身を飾る飾りのひとつひとつも、神のことばの一部として用いられているのです。

わたしには、イザヤ書の内容について解説を書くというようなことはできませんが、イザヤが扱う広さ、神の働きの大きさは、地域的にも、釈迦的にも、時代的にもたいへんなスケールであることは、驚きをもって読んでいます。

みなさんは、イザヤ書を読みながらどんなことを感じておられるでしょうか。

イザヤ書6章1節から13節を引用して、ICU教会の礼拝で証をしたことがあります。読んで頂ければ幸いです。 「アベイラブルであること」

イザヤ書(3)

イザヤ書(1)に全体の流れを書きました。イザヤ書は66章ありますから、大体の流れが分かっていることは助けになると思います。

下に書いてあるものは、いのちのことば社「新聖書注解」から引用の一部分です。(1)の再引用です。

第一部 ユダとエルサレムについての幻 1-12章
第二部 諸国に関するメッセージ 13-23章
第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35章
第四部 歴史的付加 36-39章
第五部 新しい出エジプトと主のしもべ 40-53章
第六部 新しい民の賛美と礼拝 54-66章
第一部は大体ユダとエルサレムについて書かれていますが、その中に、6章のようなイザヤの(再)召命体験、7章のスリヤ(アラム・ダマスコ)とイスラエルの連合軍によるエルサレム攻撃に、イザヤがどのように関わったかが書かれた記事が挿入されていました。 第二部はバビロンからはじまり、当時の世界の国々に対するメッセージが書かれていました。
  1. バビロン 13:1-14:23
  2. アッシリア 14:24-27
  3. ペリシテ 14:28-32
  4. モアブ 15-16
  5. ダマスコ(アラム)とイスラエル 17
  6. クシュ(エチオピア) 18
  7. エジプト 19
  8. 裸になったイザヤ 20
  9. 海の荒野(バビロン) 21:1-10
  10. ドマ(エドム) 21:11-12
  11. アラビヤ 21:13-17
  12. 幻の谷(エルサレムとユダ) 22
  13. ツロとシドン 23
ここにも20章のように、アッシリアの王サルゴンがペリシテの街のひとつを攻略したときから3年間、イザヤが裸、はだしで歩き、エジプトとエチオピアのしるしとしたことが挿入されています。外国に対するしるしをイザヤが演じることを命じられそれをする姿は、なにかこの世のものとも思われないものを感じます。

最初は当時の世界の最強のバビロンから始まり、最後はツロとシドン、フェニキアという商業によって栄えた海洋民族の港町で、イスラエルからほど遠くない町について記され、さばきのあと70年たって神様がツロをふたたび顧みられることが書かれて終わっています。

第三部 世界のさばきと、神の国成立の条件 24-35

  1. 世界の裁きと、終わりの日の救い 24-27
  2. 世のはかりごとへの宣告 28-33
  3. さばきと贖いに現される神の栄光 34-35
さて、どんな救いが語られているのでしょうか。新改訳で引用します。25章6節から10節です。
6:万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7:主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8:死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9:その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
10:主の御手はこの山の上にとどまる。
すべての民の祝宴が開かれるときのことが書かれています。
  1. 神様が、われわれをおおっていた布を取り除かれる。
  2. 神様が、死が滅ぼされ、涙と恥をぬぐい去って下さる。
  3. 人々が神の救いを自分たちの救いとして告白する。
  4. 神様の御手がつねに近くにあって守って下さる。
と言うことでしょうか。この救いについて語る部分にも、31章のように、アッシリアから逃れてエジプトに頼っていく人に対する警告などが挿入され、主に立ち帰るべき事が語られています。預言はつねに、その現実の中で、主に頼るべき事を示す一部なのでしょう。

このあと、36章から39章の第四部がつづき、そこでイザヤ書の前半が終わります。この36章からの部分は列王記下18章13節から20章の終わりまでの部分と全く同一または平行記事になっています。イザヤの人生のハイライトだったかもしれません。40章から始まる後半の前に、これが挿入されていることになります。わたしはその理由について言い切ることはできませんが、このあとにつづく大いなる神のメッセージ、神のしもべについてのメッセージの確かさについての「保証」と、そのメッセージを受け取るべき「姿勢」が書かれているのではないかと思います。そのような、気持ちをもって、今週、36章から39章を読んで頂ければと思います。

預言書はわたしにとっても、分からないことばかり、これからも少しずつ勉強していきたいと思っています。しかし、みなさんと一緒に読むことで、そして、このような文書を書くことで、今までとは少し違った視点で読むことができることを感謝しています。

イザヤ書(4)

イザヤ書は40章から第二部にはいり、歴史的叙述はほとんどなく、詩文体の預言が続きます。皆さんの中には、特別な思いをもっている節や、好きな聖句としている箇所をお持ちの人もいるのではないでしょうか。ひとつだけ人気の箇所を挙げてみましょう。40章31節です。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
なにか力を与えられますね。通読のひとつの価値は、イザヤ書全体の中でどのような箇所にそれぞれのことばが書かれているかを確認できることではないかと思います。どうしようもない真っ暗な現実が書かれている直後、40章の最初「慰めよ、わが民を慰めよ」とはじまったメッセージに現れるのですね。

もう一つ、40章からの第二部が特別なのは、新約聖書でも頻繁に引用されている、しもべの歌と言われているものが書かれているからだと思います。いくつかありますが、鍋谷堯爾氏の「現代に語るイザヤ書 鷲のように翼をかって」(いのちのことば社)にしたがうと、4つあります。しもべはヘブル語ではエベド「はたらく」という動詞からきたもので、奴隷とか家来の意味として使われたり、謙譲語として、へりくだって、自分をしもべとぶときに使っていますが、聖書では、特に、かみさまに特別の目的をもって用いられるといういみが強いでしょう。今回は、わたしになじみの深い口語訳から引用させてください。

第1番目のしもべの歌 42章1節-4節

1:わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
2:彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
3:また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
4:彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。
この3節は、新共同訳では
傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
となっています。「裁きを導き出して」というと、恐ろしい感じがしますが、「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」の部分は、なにかとても平安が与えられますね。このことばは、マタイ12章20節にも引用されています。

第2番目のしもべの歌 49章1節-6節

1:海沿いの国々よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。主はわたしを生れ出た時から召し、母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
2:主はわが口を鋭利なつるぎとなし、わたしをみ手の陰にかくし、とぎすました矢となして、箙にわたしを隠された。
3:また、わたしに言われた、「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。
4:しかし、わたしは言った、「わたしはいたずらに働き、益なく、むなしく力を費した。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」と。
5:ヤコブをおのれに帰らせ、イスラエルをおのれのもとに集めるために、わたしを腹の中からつくって/そのしもべとされた主は言われる。(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)
6:主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

第3番目のしもべの歌 50章4節-9節

4:主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。
5:主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。
6:わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。
7:しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。
8:わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。
9:見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。

第4番目のしもべの歌 52章13節-53章12節

13:見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
14:多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――
15:彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
1:だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2:彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3:彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4:まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6:われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
7:彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
8:彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
9:彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
10:しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
11:彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12:それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
特にこの第4のしもべの歌は新約聖書でもたくさん引用されています。興味のあるかたは是非調べてみて下さい。(1) に新約聖書でイザヤという名前が出てくる箇所を挙げておきましたので、参考になると思います。

また、使徒行伝8章32節-33節には、伝道者のピリポがエチオピアの宦官にこの箇所からイエスについて解き明かし、宦官がその場で洗礼をうける話しが書かれています。特に53章1節から9節は主のしもべというには異常ですよね。そこがまさに引用されているのです。

マタイによる福音書8章17節も引用してみましょう。

これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
マタイでは実際の病を癒す箇所で引用されていますが、このイザヤ書の文脈からしても、マタイに書かれていることからも、単なる医学的病気ではないことを読み取れるのではないでしょうか。おそらくイエスが弟子達に伝えた時から、そして初代教会のときから、この箇所をまさに起点として、ここで言われている主のしもべがイエスだと信じられて来たのです。そして、そのイエスは、このような主のしもべの姿が受け入れられないひとたちの、「暴虐な裁きによって取り去られ」ました。しかし、イザヤはその原因は、われわれ、われわれの不義にあると言っています。そして「その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」さらに驚くべきことに「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」

現在のイザヤ書に完全になったのは、もう少し後かも知れませんが、紀元前700年のイザヤをとおして、語られた、主のしもべ、ここに語られている、内容には、ただ驚かされてしまいます。

イザヤ書(5)

イザヤ書はわたしにとって本当に驚きです。なぜこのようなことが書けたのか。まだ断片的にしか理解できませんが、これが、人間イザヤが創造した神観であったとする方が、信じられない気がしてしまいます。最後の部分に少しだけ、イザヤの葛藤のようなものも書かれていますから、その箇所も含め、最後までの短い部分について、少しだけ書いてみようと思います。引用は新共同訳です。
56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
アモツの子イザヤの時代、一つの弱小国から、もしくはもう少し後の時代に、すべての民の祈りの家となるところまで見えていたのだろうか。これは、マタイによる福音書21章13節 で「そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」」と引用されている。異邦人の庭でのこと。すでにすべての民の祈りの家であるはずなので、それをその人たちから奪っているということなのかもしれない。強盗の巣という言い方は、エレミヤ書に出てきます。
7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
イザヤ書の次に皆さんはエレミヤ書を読むことになります。この箇所の意味もそのときに考えてくださいね。

神様は全能だと言われていますが、わたしは聖書を読んでいると、それは一つの表現にすぎないと思います。たとえば次の箇所です。

59:1 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2 むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
おそらく、神様は、私たちが神様を愛するようにさせることはできない。愛は強制によって成立するものではないからです。上の箇所も、それを表現しているように思います。神様はもちろん、すべての人が救われることを望んでおられる。しかしそれができない。これは、大変な葛藤と苦悩だと思います。苦しまれる神、それを思い描くことが難しいということでしょうか。そして神様の働きを妨げているものがわれわれの悪そして罪、その虜になっていることでしょう。そして救いは、そこからの解放です。
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
イザヤは次のように書いています。これは預言なのか、祈りなのか、つぶやきなのか。突如現れる、生身のイザヤのような気がします。
64:11 それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。
引用したい箇所はたくさんありますが、最後の章から引用しましょう。
66:2 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
イザヤが明確に語り続けるのは、イザヤの信じている、常に語り合っている、イザヤの心のあるところにある神が明確だからではないでしょうか。66:2 のような神と心を一つにして、この世を生きることができればと思います。


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聖書通読ノート

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Isaiah 1:2,3 天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。/主が語られる。/私は子どもたちを育て上げ、大きくした。/しかし、彼らは私に背いた。/牛は飼い主を知っており/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/しかし、イスラエルは知らない。/私の民は理解していない。
冒頭の時代的な背景を除き、冒頭の文である。イザヤの召命記事(6章)までの部分の時代的背景が議論されるが、この部分は、あとから、総論のようなものとして書かれたのかもしれないと今回読んで思った。しかし、かなり深く検討しないとわからない。預言書の理解は難しいのだろう。
Isaiah 2:2,3 終わりの日に/主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。/国々はこぞって川の流れのように/そこに向かい/多くの民は来て言う。/「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。/主はその道を私たちに示してくださる。/私たちはその道を歩もう」と。/教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出るからだ。
この章の初めには「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。」(1)とあり、特別な感じを受ける。終わりの日に関する預言。現状に問題があると、理想的な終わりを考えるのだろう。その初めの部分が引用句である。これが決定的なことというよりも、ここから、イザヤは、主について、主のみこころについて祈り考え求め始めたということの様に感じた。終わりの日のことは、基本的にわからないからである。そして、おそらく、それは、主にもわからない。丁寧に読んでいきたい。
Isaiah 3:1-3 見よ、万軍の主なる神は、エルサレムとユダから/頼りとなり、支えとなるもの/頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。/勇士と戦士、裁判官と預言者、占い師と長老/五十人の長と身分の高い者/参議、熟練の魔術師と巧みな呪術師を取り去る。
このあとに「私は若者たちを長とし/気まぐれな者が民を支配する。」(4)とあり、若者をこのように扱うのは違和感があって、丁寧に読むことにしたが、中心的なメッセージは、「頼りとなり、支えとなるもの(中略)を取り去る。」という部分なのだろう。ひとつの見方をすると、これは、バビロン捕囚を意味しているとも取れる。このような状態にならざるを得ないことを言っているのだろう。それだけ、イザヤが見た現実(幻かもしれないが)は厳しいものだったのかもしれない。表面的なことばではなく、メッセージを受け取りたい。
Isaiah 4:2,3 その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。こうして、シオンに残った者とイスラエルに残された者は、聖なる者と呼ばれる。その者たちはすべてエルサレムにおいて命の書に書き記されているのである。
この章の最初のことば「その日には、七人の女たちが/一人の男を捕まえて言う。/『私たちは自分のパンを食べ/自分の服を着ますから/どうか、私たちがあなたの名で呼ばれるようにし/そしりを取り去ってください。』」(1)に違和感を感じて丁寧に読めなかったが、前の章の4節の「若者たち」とも呼応し、「主の若枝」が登場している様にも見えた。エルサレムとユダの「頼りとなり、支えとなるもの」を取り去ったあとに、主の若枝が光り輝くというメッセージなのだろうか。丁寧に読んでいきたい。
Isaiah 5:30 その日には、主は彼らに対して/海鳴りのようにうなり声を上げる。/主が地に目を注がれると/見よ、闇と苦悩ばかりだ。/光は雲に閉ざされ、闇となる。
この章はぶどう畑の歌から始まる(1,2)。主のめぐみにこたえない民をどうするか。その裁きに行かざるを得ないと考えるのは、とても自然なことなのだろう。ただ、そのあとにみる、主のみこころにこそ、イザヤの神観が現れてくる様に思う。わたしにそれが読み取れるかどうかわからないが。
Isaiah 6:11 私は言った。/「主よ、いつまでですか。」/主は言われた。/「町が荒れ果て、住む者がいなくなり/家には人が絶え/その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」
イザヤ書でおそらく最も知られている、召命記事、それに続く、頑なにするメッセージの直後にあるものである。この「いつまでですか」の中に、信仰と希望は隠されている様に見えるが、その答えは、まずは、厳しい。そしてこのあとに、「主は人を遠くに移し/見捨てられた所がその地に増える。その中の十分の一は残るが/これも荒れるに任せられる。/切り倒されても切り株が残る/テレビンの木や樫の木のように/聖なる子孫が切り株となって残る。」(12,13)個人的には、一つ一つ、預言が成就したかどうかという感覚では、預言書を読まない方がよいと考えているが、そうであっても、さまざまなエッセンスが詰め込まれている。ここから出発して、イザヤはどのようなメッセージを受け取って行くのか、少しでも、イザヤの内面、そして、受け取ったものを受け取ることができればと願う。
Isaiah 7:13,14 イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
ウジヤ(792-740)のあと、ヨタム(750-732)をとばして、アハズ(743-716)の時代になっている。丁寧に見るべきことが多いのだろう。この次が、ヒゼキヤ(729-687)である。その意味では、このインマヌエルは、ヒゼキヤを意味しているのかもしれない。「その子が悪を退け善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れている二人の王の領土は必ず捨てられる。」(16)ともなっており、成就から逆算すると、難しい。あまり、これが何を意味するかを考えない方が良いのかもしれない。
Isaiah 8:13-15 万軍の主のみを、あなたがたは聖としなさい。/この方はあなたがたを恐れさせる方。/この方はあなたがたをおののかせる方。主は聖所となる。/だが、イスラエルの二つの家にとっては/妨げの石、つまずきの岩となり/エルサレムの住民にとっては網と罠となる。多くの者はそれに妨げられ/倒れ、打ち砕かれ/罠にかかり、捕らえられる。」
基本的には、主のみこころは、理解できず、かえって、妨げの石、つまづきの岩となるのかもしれない。そして、イザヤでさえも、主のみこころを完全にはわからず、誤解することもあることも、こころしておくべきなのだろう。なにか正解が見えたいた方が簡単で、そうでない世界は難しいが。
Isaiah 9:16 それゆえ、主は若者たちを容赦せず/みなしごもやもめも憐れまない。/すべての者が神を敬わない者となり、悪を行い/すべての口が愚かな言葉を語るからだ。/それでもなお、主の怒りは去らず/その手は伸ばされたままだ。
「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(5)このようなことばに希望をもってしまうが、じっくり読むと、そこに重点はない。聞きやすいことばを拾い読みしてしまうことには、十分注意しないといけない、それがメッセージであると思う。捻くれているかもしれないが。
Isaiah 10:20 その日になると、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者は、自分たちを打った者にもはや頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
あまり完全な御心と考えない方がよいかもしれない。しかし、イザヤが受け取ったものとして、これは、どうしても必要ということが書かれているのだろう。その一つが、ここにある。主に真実をもって頼る。その反対は、主に頼らず、自分勝手な生き方をすることだろうか。あまり適切には表現できない。イザヤがこれはいけないと考えたことと、これは最低必要だと考えたことを、少しずつ受け取っていきたい。
Isaiah 11:16 アッシリアに残されたこの民の残りの者のために/大路が備えられる。/エジプトの地から上って来た日に/イスラエルのために備えられたように。
イザヤの時代は、アッシリアによって、北イスラエルが滅ぼされた時、同時に、南ユダにも危機が迫っていた時である。おそらく、何回にもわけて、危機があったのだろう。そして、アッシリアにある部分は滅ぼされる。そのなかで、主のみこころを求め続け、受け取ったことなのだろう。この章には、周辺の民族についても登場する。それらが裁きを免れないことはありえないとの認識もあっただろう。しかし、世界史的には、巨大帝国時代へと動いている。イザヤと一緒に、神様の御心を求めていきたい。
Isaiah 12:6 シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。/イスラエルの聖なる方は/あなたのただ中にいます偉大な方。」
その日の回復について書かれている箇所である。しかし、やはり、エルサレム、イスラエルということばに、抵抗を感じる。どこまで、これらの制約があるのだろうか。正直わたしにもわからない。キリスト教の中でも、様々だろう。やはり、正しさで判断してはいけないように思う。回復においても。
Isaiah 13:20 そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。/アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。
バビロンについての託宣とある。当時の、巨大帝国の首都をバビロンとしているのだろう。実際には、アッシリアの首都はバビロンではないと思うが、それは関係ないのかもしれない。抽象的な意味を持っているのかもしれない。そうであれば、誰も住まないとある部分も、場所的なものではないのかもしれない。どうなのだろうか。
Isaiah 14:22,23 万軍の主の仰せ――「私は彼らに立ち向かう。私はバビロンからその名も、生き残った者も子孫も末裔も絶ち滅ぼす」――主の仰せ。「私はそこをふくろうの住みか、沼地とし、滅びの箒で一掃する」――万軍の主の仰せ。
このように敵を滅ぼす、その預言によって希望を見出す。それで良いのだろうか。しかし、同時に、そのような希望が示されなければ、ほとんどの人は、力を与えられないことも確かだろう。イエスも、パウロがいなければ、パウロの解釈、信仰告白がなければ、普遍性を受け入れられなかったのかもしれない。しかしそうであっても、わたしは、問題を感じる。神様の御心とは何なのだろう。
Isaiah 15:1 モアブについての託宣。/一夜のうちにアルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。/一夜のうちにキルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。
バビロン、そして、アッシリアのあとは、モアブ、近隣の異民族である。もしかすると、異なる背景を持つ、同族なのかもしれない。いずれにしても、つねに、軋轢があったと思われる、モアブの滅びを預言している。それを、冷静に読めなくなっている。だからといって、わたしが解答を持っているわけではない。それも、大きな問いだ。丁寧に読んでいきたい。拒絶反応が強くなると、どうしても、メッセージを受け取ることはできないのだから。
Isaiah 16:4,5 モアブから追放された者たちを/あなたのもとに宿らせ/破壊する者からの隠れ場となってください。」/抑圧する者が消え、破壊がやみ/踏みにじる者がその地から絶えるとき/王座が慈しみによって堅固に立てられる。/一人の裁く者/公正を求め、正義を速やかにもたらす者が/ダビデの幕屋で、真実をもって、その座に着く。
モアブへの託宣(15:1)の続きのようである。しかし、モアブから追放されたものという表現など様々な混乱が起こっているのだろう。そして、ダビデの幕屋から平和が来ることが宣言されているのだろう。細かいことを批判的に書くことは控えよう。わからないなかで、救いの希望が見えることを語っているのだろう。モアブについても、もう少し理解したい。なにか文書は残っているのだろうか。聖書では、複雑な関係があるにしても、モアブほとんど常に敵役である。
Isaiah 17:14 夕方には、見よ、恐怖がある。/夜明け前には、彼らは消えうせる。/これは私たちを略奪する者たちが受ける分/私たちを強奪する者たちの運命である。
ダマスコについての託宣(1)である。近隣の諸国と平和に過ごすのは、難しい時代なのだろう。もしかすると現代でもそうなのかもしれない。どうしたら良いのだろうか。平和に暮らすことはできないのだろうか。
Isaiah 18:7 その時、万軍の主に贈り物がもたらされる。/背が高く、肌が滑らかな民から/ここかしこで恐れられている民から/その国土が多くの川で分かたれている/強い力で踏みにじる国から/万軍の主の名が置かれた所/シオンの山へともたらされる。
「災いあれ、クシュの川のかなたで/高い羽音を立てている国に。」(1)と始まる。エチオピアあたりとされる。わたしたちが知る以上に、様々な交流があったのだろう。近隣のモアブ、そして、北のダマスコ、そして、南のクシュとなっている。このあとに、エジプトについて語られるのだろう。周辺部からだろうか。シオン中心、その史観からは、自由にならないのだろうか。普遍主義にわたしは毒されれているのだろうか。
Isaiah 19:23-25 その日には、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。「祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに」と。
世界情勢を知っており、その中で、イスラエルについて神様のみこころを知ろうとしているのだろう。平和はなかなか訪れない。そして、エジプトも、アッシリアも永遠には続かない。そして、イスラエルはその国々に、結局は蹂躙されてしまう。このなかで何をのぞみ、なにを御心とするのかは難しいだろう。しかし、そのようなものの中で、真理を求める心は強く深くなっていくのかもしれない。
Isaiah 20:4,5 アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若者も老人も、裸、はだしで、尻もあらわにして引いて行く。それはエジプトの恥となる。彼らは、自分たちが望みをかけていたクシュのゆえに、また誇りとしていたエジプトのゆえに、おののき、恥じ入るであろう。」
クシュとエジプトに対する表現の微妙な違いがよくはわからない。しかし、アッシリアに対して、旧来から交友のあったエジプトやクシュに望みを抱いていたのだろう。むろん、主に頼らないことが背後で批判されているのだろうが、当時としては、当然だったのではないだろうか。しかし同時に、国際状況が変化していることも確かなのだろう。それは、難しい。単に、啓示として、受け取ったことを、共有して、決断することは、困難である。神様が愛される、一人ひとりを大切にするという意味での民主主義は難しい。
Isaiah 21:2 厳しい幻が私に示された。/「裏切る者は裏切り/荒らす者は荒らしている。/エラムよ、上れ。/メディアよ、包囲せよ。/私はすべての嘆きを終わらせる。」
いつの時代に記されたかがやはり気になる。アッシリアの侵攻について前章で書かれており、そのアッシリアが、エラム、メディアによって滅ぼされることを言っているのだろう。現代の歴史理解と完全に一致しているかどうかは別として、預言がのちに、信頼を得るために、預言のある部分が強調して書かれる場合もあるのだろう。エラムはイラン南西部、メディアはイラン北西部の国のようである。
Isaiah 22:15,16 万軍の主なる神はこう言われる。/さあ、あの執事のところへ/宮廷をつかさどるシェブナのところへ行き/言いなさい。あなたはここで何をしているのか。/あなたはここの誰との関わりで/自分のためにここに墓を掘るのか。/高い所に自分の墓を掘り/岩をえぐって自分の住まいを造るとは。
シェブナについては書記官として、イザヤ36:3,22,33,37:2 に登場する。また全くの並行箇所とは言えないが、同様の記述が、列王記下18:18,26,37にもある。一つだけ引用すると以下のようである。「アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケを、ラキシュから大軍と共に、エルサレムのヒゼキヤ王のもとに送り込んだ。彼らはエルサレムに向かって上って来た。彼らは上って来て、洗い場に至る大通り沿いにある、上貯水池の水路に現れた。彼らが王に呼びかけると、宮廷長であるヒルキヤの子エルヤキム、書記官シェブナ、史官であるアサフの子ヨアが彼らのもとに出向いて行った。そこでラブ・シャケは言った。「ヒゼキヤに言うのだ。大王、アッシリアの王はこう言われる。お前が頼りにしているものは一体何なのか。」(列王記下18:17-19)これだけで評価するのは、公平性を欠くように思われるが、問題はラブ・シャケが来たとき以前にあったということだろうか。
Isaiah 23:17,18 七十年が終わると、主はティルスを顧み、彼女は再び遊女の報酬を得るようになる。そして、地のすべての王国と地の面で淫らな行いをする。しかし、彼女の利益と報酬は主の聖なるものとなり、積み上げられず、蓄えられもしない。その利益は、主の前に住む者たちのものになり、彼らは飽きるまで食べ、最上のもので着飾ることになる。
あまり正しさを検証することに固執したくないが、このようには、ならなかったように思う。ティルスが、新バビロニアに滅ぼされ、それからしばらく廃墟であったことは確かだろうか。とういことは、いろいろな解釈も可能だということなのだろうか。預言書の扱いは難しい。
Isaiah 24:1,2 見よ、主は地を空しくし、荒廃させ/地の面をゆがめ、そこに住む者たちを散らされる。民も祭司も、奴隷も主人も、女奴隷も女主人も/売る者も買う者も、貸す者も借りる者も/債権者も債務者も同じようになる。
このあとに「地はくまなく空しくされ、ことごとく略奪される。/この言葉を主が語られた。」(3)と続くので、他国に敗北することがどのようなことなのか、その次の世界を、イザヤは見ているのだろう。そして、その結果の一つとして「それゆえ、東の地で主を崇めよ。/海のかなたの島々でイスラエルの神/主の名を崇めよ。」(15)と、当時のイスラエルの人たちにとってはおそらく、考えられもしないことが語られている。同時に、イザヤでは最後(23節)に、シオン、エルサレムの回復が語られる。わたしにとっては、この最後の部分は、少し異なるように思うが。預言者は、時代の先の先を考え、見ていたことは確かなのだろう。
Isaiah 25:6-8 万軍の主はこの山で/すべての民のために祝宴を催される。/それは脂の乗った肉の祝宴/熟成したぶどう酒の祝宴。/髄の多い脂身と/よく濾されて熟成したぶどう酒。/主はこの山で/すべての民の顔を覆うベールと/すべての国民にかぶせられている覆いを破り/死を永遠に吞み込んでくださる。/主なる神はすべての顔から涙を拭い/その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。/確かに、主は語られた。
ここからイザヤの視野が広がっていくのだろうか。前の章の最後に、エルサレムの復興が語られていたが、ここでは、それは、すべての人、国民のためであることが書かれている。そうでなければいけないと考えたのだろう。驚かされるとともに、やはり、イザヤが見ることができなかったこともあるように思う。
Isaiah 26:1,2 その日には、ユダの地でこの歌が歌われる。/私たちには堅固な町がある。/主は救いのために城壁と塁壁を築かれる。/門を開け/真実を守る正しい国民が入ることができるように。
この前には、さまざまな国の裁きと滅亡が語られている。ここで、正しい国民と出てくるが、基本的には、ユダヤの民、イスラエルを意味するとしても、神の国の民を意味しているとも取ることができる。堅固な町の門を開く。やはり、救いを理解することは難しいように思う。この章に書かれている、主に信頼するものの記述は、興味深いものが多いが。
Isaiah 27:12,13 その日になると/主は、ユーフラテスの流れから/エジプト川まで穂を打つ。/イスラエルの子らよ/あなたがたは一人一人拾い集められる。その日になると/大きな角笛が吹き鳴らされ/アッシリアの地に失われた人々と/エジプトの地に散らされていた人々が来て/聖なる山エルサレムで主を礼拝する。
不思議なものだ。このような預言があり、アケメネス朝ペルシャのキュロスによって帰還を許されても、戻ってきたものは、一部分に過ぎない。それは、主に従わなかったというわけではないのだろう。もう少し、異なる価値観が広がったということだろうか。
Isaiah 28:24-26 耕す者は、種を蒔くために/いつも耕すだけであろうか。/その土地を起こして畝を造るだけであろうか。/地面を平らにしたら/黒種草を蒔き散らし、クミンを蒔き/小麦を畝に、大麦を定められた場所に/デュラム小麦を土地の境に植えるではないか。/神はふさわしいしかたを彼に示し、教えられる。
フローレンス・ナイチンゲールの「神のみ心を知るために、神の目的を計り知るものとして、われわれは統計学を学ばねばならない。("To understand God's thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose." Florence Nightingale, quoted in Karl Pearson, Life of Francis Galton, vol.II, ch.xiii, sect.i)」を思い出す。神は、さまざまなことについて、さまざまな方法で、教えられる。教え続けておられるとも言える。しかし、これを一般化することの難しさも感じる。
Isaiah 29:13,14 主は言われた。/「この民は口で近づき/唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。/彼らは私を畏れるが/人間の戒めを教えられているにすぎない。/それゆえ、私は再びこの民を/驚くべき業によって驚かす。/この民の知恵ある者の知恵は滅び/悟りある者の悟りは隠される。」
痛烈であるが、真実でもあるのだろう。ただ、やはり、神の心は、ひとには、わからないのは当然ではないのだろうか。わかったとしてしまうこと、探究をやめてしまい、人間の知恵で置き換えてしまうことに問題があるのであって、わからないことを責めるのはどうだろうか。驚かす。これは、一つの方法なのだろう。常識、人間の知恵が通じない状態を表現することなのだろう。これでわかるのは、間違っていたということのみ。正しい、真実、神のみこころがわかるわけではない。
Isaiah 30:1 かたくなな子らに災いあれ――主の仰せ。/彼らは謀を巡らすが/それは私から出たものではない。/同盟を結ぶが/私の霊によってではない。/こうして彼らは罪に罪を重ねている。
このあとには、「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」(15b)とあり、さらに「しかし、あなたがたはそれを望まなかった。」(15c)と続く。主に信頼することの大切さを述べているのだろう。後半には、主に信頼することの帰結も書かれている。基本なのだろうが、偽預言者などさまざまな声があるなかで、どうしたらよいかわからなくなる状態は、容易に想像がつく。幸せの重要な要素は、人生の意味を知ることだと言われるが、それは、簡単ではない。自己満足との差は僅かのようにも感じる。
Isaiah 31:8,9 アッシリアは滅びる。/人間のものではない剣によって。/人間のものではない剣がアッシリアを食い尽くす。/彼らは剣の前から逃げ/若者たちは労役に服す。その岩でさえ恐れのゆえに消えうせ/その長たちはおののいて旗を捨てる。/主の火はシオンにあり、その炉はエルサレムにある/――主の仰せ。
確かに、イザヤの時代に、アッシリアは超巨大王国から、滅亡の道をたどる。そのなかには、人間のものではない剣によると思われる部分もあるのだろう。しかし、現代的にみると、やはり人間によって滅ぼされる。主に従わず背いていることも確かだろう。しかし、それだけで時代を理解することも難しいように思う。主のみこころを知るのはほんとうに難しい。
Isaiah 32:6,7 愚か者は愚かなことを語り/その心は悪事を行う。/神を敬うことなく/主について惑わせることを語る。/飢えている者を空腹のままにし/渇いている者に水を飲ませない。ならず者のやり方は悪質である。/彼は謀を巡らす。/たとえ貧しい者が正当な申し立てをしても/苦しむ者を偽りの言葉で破滅に陥れる。
このあとには「しかし、高貴な人は高貴なことを計画し/高貴なことを常に行う。」(8)が続く。イザヤはそのようなひとも知っていたのだろうか。愚かさを指摘することはできるだろう。しかし、高貴な生き方を生きることは簡単ではない。御心は基本的にわからないのだから、それを求め続ける生き方が、わたしは高貴な生き方だと思うが、実際には、どろどろとして、愚か者に見えるのかもしれない。
Isaiah 33:6 主はあなたの時代の確かな支え/救いの富、知恵と知識。/主を畏れることこそ、主からの宝である。
このぐらいしか、わたしにも言えないように思う。それ以上は、何も言えない。それが現時点でのわたしなのだろう。わからないことは、幸いとは言えない。しかし、それを一歩踏み出すことは、主を畏れることから離れるようにも感じる。難しい。イザヤとともに生きることができるだろうか。
Isaiah 34:16,17 主の書を調べて、読め。/これらのうち、一つも欠けるものはない。/それぞれが相手を見いだせないことはない。/主の口が命じ/その霊が集めたからである。/主が彼らのためにくじを引き/手ずから測り縄を用いて/彼らに土地を分け与えた。/彼らはとこしえに土地を所有し/代々そこに住むであろう。
エドムへの裁きについて述べられ、その最後に上の節がある。「烏とふくろうがその地を住みかとし」(11)から続いているように見える。全体の構成とともに、引用句に興味を持った。意味がよくわかるわけではないが、世界を統治しておられるということか。Anthropocene(パウル・クルッツェン。和訳「人新世」人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした年代)を考えると、衝突する概念でもある。長い歴史の中では、これは一時期のことかもしれないが。
Isaiah 35:8 そこには大路が敷かれ/その道は聖なる道と呼ばれる。/汚れた者がそこを通ることはない。/それは、その道を行く者たちのものであり/愚かな者が迷い込むことはない。
回復の希望が書かれているが、それが、このような分断、正しさの確立であるなら、わたしは、それを望まない。平和は訪れないからである。神は本当にそれを喜ばれるのだろうか。イザヤとも対峙しないといけないのかもしれない。
Isaiah 36:7 お前は、自分たちの神、主を頼りにすると言っている。だが、その神がヒゼキヤに高き所と祭壇を取り除かせたのではないか。ヒゼキヤがユダとエルサレムに向かい、この祭壇の前で礼拝せよと言ったのはそのためだ。
「この祭壇」がなにを指すのか不明だったが、文脈からするとおそらく、エルサレムの神殿のことなのだろう。ラブ・シャケについては詳細はわからないが「だがラブ・シャケは答えた。『主君が私を派遣されたのは、お前の主君やお前にだけ、これらのことを伝えるためだというのか。むしろ、城壁の上に座っている者たちのためではないか。彼らもお前たちと一緒に、自分の糞尿を飲み食いするようになるのだ。』」(12)からすると、もしかするとイスラエル人なのかもしれない。「ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダの城壁に囲まれた町すべてに攻め上り、これらを占拠した。」(1)とあり、これらの占領下のひとかもしれないし、おそらく、すでに占領されている、北イスラエルの人かもしれない。
Isaiah 37:33-35 それゆえ、主はアッシリアの王についてこう言われる。/彼がこの都に入ることはなく/彼がこの都に矢を射ることも/盾をかざして立ち向かうことも/この都に向かって塁を築くこともない。彼は元来た道を引き返し/この都に入ることはない――主の仰せ。私のため、また私の僕ダビデのため/私はこの都を守り、これを救う。」
この前のヒゼキヤのことばをみると、「彼らはそれらの神々を火に投げ込みました。しかし、それらは神ではなく、木や石であり、人の手で造られたものにすぎないので、滅ぼすことができたのです。」(19)とも言っている。このことばへの応答でもあるのだろう。しかし、このあとバビロンには滅ぼされる。意味づけをすることは大切だが、ここで知らされているのも、一部分に過ぎないことも確かなのだろう。
Isaiah 38:4-6 その時、主の言葉がイザヤに臨んだ。「行って、ヒゼキヤに言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す。私はこの都を守る。』
列王記下の記事と同じだと思っていたが、調べてみると多少異なる。「イザヤが中庭を出ないうちに、次のような主の言葉が彼に臨んだ。『引き返して、私の民の君主ヒゼキヤに言いなさい。「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。あなたは三日目に主の神殿に上るだろう。私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手から、あなたとこの都を救い出す。私自身のため、また僕ダビデのために、私はこの都を守る。」』」(列王記下20:4-6)この直後の7節に「イザヤが、『いちじくを干したものを取って来なさい』と言うので、人々はそれを取って来て腫れ物に当てた。するとヒゼキヤは回復した。」も含まれている。すなわち構成が変化している。同じ著者かどうか、背後にどのような資料があるのかを考える時にも重要であろう。個人的には、「イザヤが中庭を出ないうちに」(列王記下)「その時」(イザヤ書)にも興味を持った。イザヤはどのようは人だったのだろう。
Isaiah 39:5,6 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主の言葉を聞きなさい。『見よ、王宮にあるものすべて、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものすべて、それがバビロンへ運び去られる日がやって来る。何一つ残されはしない』と主は言われる。
命が長くなると、困難も増え、間違いも増えるのだろう。このあとの、(ヒゼキヤの)自分の時代におこらないということが告げられる部分も印象的だが、人生が短くおわるか、長く続くかにいまは、関心があるのかもしれない。個人的には、それは、あまり重要ではないと思っている。そのような時が来たら、どう考えるかはわからないが。1日1日を誠実に生きていきたい。
Isaiah 40:3-5 呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。」
マタイ3:3, マルコ1:3、ルカ3:4、ヨハネ1:23 と四福音書にバプテスマのヨハネとの関連で引用されている有名な箇所である。イエスが、山上での変貌からの帰途に語った、「しかし、言っておく。エリヤはすでに来たのだ。そして、彼について書いてあるとおり、人々は好きなようにあしらったのである。」(マルコ9:13)がもとにあるのかもしれない。同時に、ここにある、「彼について書いてあるとおり」は何を意味するのだろうか。イエスは、自分の進む道を確認し、それを弟子たちに示した時だったのだろう。もうすこしよく考えたい。
Isaiah 41:17 苦しむ人や貧しい人が水を求めても、水はなく/彼らの舌は渇きで干上がるが/主である私は彼らに応え/イスラエルの神である私は彼らを見捨てない。
しばらく、神様のわざを人々がどのようにあしらったかをみていきたい。ここには、主が恵深く、憐れみ深いことが書かれている。人間がどのよう応答するか、それが鍵なのだろう。一方的に、受けるだけのことを望んでおられないのだろう。丁寧に考えていきたい。
Isaiah 42:24 ヤコブを略奪者に渡し/イスラエルをかすめ取る者に渡したのは誰か。/それは主ではないか。/この方に対して我々は罪を犯し/その道を歩むことを望まず/その教えに聞き従わなかった。
主のしもべの歌である。エリヤのような存在を「好きなようにあしらった」ことについて考えている。イザヤ書にもそのような記事があるのだろうか。主のしもべに従わなかった。主のしもべのようには歩まなかったという箇所ならいくらでもあるように思う。この章にも「傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。」(3)のような箇所が何箇所か現れるが、このような生き方は、受け入れられないのかもしれない。
Isaiah 43:10 あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕である――主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。
このように、ひとは、生きられないのだろう。証人(עֵד(ayd)witness)はなにをするのだろうか。そのように生きることではないのだろうか。イザヤはおそらく、イエス様にとっても大切なものだったと思う。丁寧に読んでいきたい。
Isaiah 44:21,22 ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。/イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。/私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。/イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。私はあなたの背きの罪を雲のように/罪を霧のようにかき消した。/私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。
イザヤ書は、新約聖書で最も引用されている預言書だと思うが、イエス様がどのように、それを読み、聞いていただろうかと考えた。ここにも購いが登場する。神様がどのような方かということに関して、イエス様は、さまざまなことを考えておられただろう。贖われる主ということも、その一つだったに違いない。
Isaiah 45:6,7 それは、日の出る所からも、日の沈む所からも/人々が知るためである。/私のほかは無に等しい/私は主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し/平和を造り、災いを創造する者。/私は主、これらすべてを造る者である。
イエス様は、普遍性についてどのように認識しておられたのだろう。一般的な知識は持っておられただろう。しかし、一人一人のこころの中の問題により関心があったかもしれない。「イエスは言われた。『まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。』」(マルコ7:27)イエスの心の中をのぞくことはできないが、イエス様のそして神様の御心が知りたい。
Isaiah 46:4 あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。
イザヤが語る神は、やはり特別であるように思う。イエスも、イザヤ書から、神についていろいろと考え、神の子として生きることについて、学んでいったのではないだろうか。僕の生き方、神の子の生き方。
Isaiah 47:4 私たちの贖い主、その名は万軍の主。/イスラエルの聖なる方。
この章は、「おとめである娘バビロンよ/下って、塵の上に座れ。/カルデア人の娘よ、王座のない地に座れ。/あなたはもはや/優美でしとやかな娘とは呼ばれない。」(1)と始まる。バビロンの裁きについて書かれている。そして、その合間に、引用句がある。贖いが、裁きなのだろうか。やはり、やりきれない。
Isaiah 48:20 バビロンから出よ、カルデアから逃れよ。/喜びの声をもって告げ、聞かせよ。/地の果てまで響き渡らせよ。/「主はその僕ヤコブを贖われた」と。
イザヤ書に「贖い」がこれほど多いとは知らなかった。引用句は、バビロンの滅亡と裁きについて書かれ、その中から、僕ヤコブを贖うことが書かれている。悪を滅ぼすという内容は、一面的なように思うが、贖いは、買い取るということだろう。神様の側が損失をうけとって、救うことだろうか。キリストの贖罪の根のようなものをしっかりと理解したい。
Isaiah 49:7 イスラエルの贖い主、聖なる方である主は/人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者/支配者らの僕に向かって、こう言われる。/「王たちは見て立ち上がり、高官たちはひれ伏す。/真実であり、イスラエルの聖なる方である主が/あなたを選んだからである。」
僕の歌の一部のようである。ここでも、贖い主が登場する。イエスは、イザヤ書を読み、聞き、神様のみこころを考えていったのかもしれないと思うようになった。同時に、自由に、神様との個人的な祈りを通しての交わりのなかで、形成されていったのだろう。神様のイメージ、神の子としていきるということについて。丁寧に考えていきたい。
Isaiah 50:10,11 あなたがたのうち、誰が/主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。/明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする者だ。見よ、あなたがたは皆、火をともし/松明で身を守る者。/あなたがたの火の光によって/あなたがたが燃やす松明を持って歩くがよい。/私の手によって/このことはあなたがたの身に起こり/あなたがたは苦痛のうちに倒れ伏すであろう。
興味深い。「明かりを持たずに闇を歩くとき」に主に信頼することと共に、「松明で身を守る者」とが対比されている。しかし、同時に、裁く神も提示されている。イザヤの時代について、そして、第二イザヤだろうか、この時代について、もう少し理解しないと、わからないのだろう。学び続けたい。
Isaiah 51:22,23 あなたの主なる神/ご自分の民を弁護してくださる神はこう言われる。/「見よ/私は、よろめかす杯をあなたの手から取り上げた。/私の憤りの大杯をあなたが再び飲むことはない。私はこれを、あなたを悩ます者の手に置く。/彼らはあなたに言った。/『ひれ伏せ、我々は踏みつけて行く』と。/あなたは自分の背中を地面のように/踏みつけて行く者の道のようにした。」
購(あがない)と裁き、裁きを受け入れられないのは、ひとは正しくはいられないこと、弱さを抱えているからだろうか。そのなかで正しさはやはり求めなければいけないだろう。どう考えたら良いのだろうか。そう簡単ではない。ひとは、強欲なのだから。
Isaiah 52:7,8 なんと美しいことか/山々の上で良い知らせを伝える者の足は。/平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え/救いを告げ/シオンに「あなたの神は王となった」/と言う者の足は。/聞け、あなたの見張りが声を上げ/共に喜び歌う。/主がシオンに帰られるのを/彼らは目の当たりにするからだ。
このあとには、12節から主のしもべの苦難が描かれている。回復、慰め、喜びの直後である。これは、主の僕について学ぶものにとって、衝撃だったろう。イエス様にとっても、その理由を考えた重要な箇所だったかもしれない。
Isaiah 53:6 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。
主の僕とは、主の思い、痛み、苦しみを体現するものなのだろう。それをイザヤはこのように表現し、イエスも、ここからしっかりとメッセージを受け取ったのだろう。いつからかわからないが。それは「それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。/彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。/多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(21)このようなことまで含んでいたのだろうか。人でなければ味わえない苦しみを、主にかわって担うためだったのかもしれない。すこし安直な感じがするが。
Isaiah 54:7,8 ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが/深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。怒りが溢れ/僅かな間、私は顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ/――あなたの贖い主、主は言われる。
しものべ歌の続きなのだろうか。よくわからない。しかし、引用句は、捕囚以後のことを思わされる。このあとには、「攻撃を仕掛けるものがあっても、(中略)あなたの前に倒れる」(15)とある。戦いで応じるわけではないが、やはり、正しさは気になる。
Isaiah 55:3,4 耳を傾け、私のところに来るがよい。/聞け。そうすればあなたがたの魂は生きる。/私はあなたがたと永遠の契約を結ぶ。/ダビデに約束した、確かな慈しみだ。見よ、私は彼を諸国の民への証人とし/諸国の民の指導者、司令官とした。
この「彼」は誰なのだろう。しもべなのだろうか。イザヤがすべて受け取っているとは思わないが、イザヤがうけとったものを、丁寧にうけとりたい。イエス様が好きだったのは、おそらく、イザヤ書なのだろう。すべてが心に残っているとは限らないが。
Isaiah 56:1,2 主はこう言われる。/公正を守り、正義を行え。/私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。なんと幸いなことか、このように行う人/それを揺るぎなく保つ人の子は。/安息日を守り、これを汚すことのない人/いかなる悪事にも手を出さない人。
このような規範がたいせつにされ、それで十分な世界だったのだろうか。現代は、そうはいかない。それだけではなく、多様性が、問題の波及効果を限定することにもつながっているように思う。戦争にむかわないためにもこのことは大切である。一方、結局、なにも改善されないこともあり、ここで述べられている、公正、公平は担保されない。正直、難しい。
Isaiah 57:17-19 彼の貪欲の罪に私は怒り、彼を打ち/姿を隠して怒った。/しかし彼は背いたまま、心の赴くままに道を歩んだ。/私は彼の道を見た。/私は彼を癒やし、導き/慰めをもって彼とその悲しむ人々に報い/唇に賛美の実りを創造しよう。/遠くにいる人にも近くにいる人にも/平和、平和があるように。/私は彼を癒やそう――主は言われる。
正確にはわからないが、興味深い記述である。貪欲の罪について描かれているが、これは、人間の性のようにも思う。神は、そのようなことにも関わられるのだろうか。人間の貪欲は、神様には理解できないのではないだろうか。
Isaiah 58:10,11 飢えている人に心を配り/苦しむ者の願いを満たすなら/闇の中にあなたの光が昇り/あなたの暗闇は真昼のようになる。主は常にあなたを導き/干上がった地でもあなたの渇きを癒やし/骨を強くされる。/あなたは潤された園のように/水の涸れない水源のようになる。
「なぜ、私たちが断食をしても/あなたは見てくださらず/苦行をしても、知ってくださらないのですか。」(3a)から、どのような断食が大切なのかについて、前半のようなことばが並び、応報の部分はこの後半だけである。因果応報を目的としても、原則としてもいけないように思う。基本的に、神様に喜ばれることを求めることのなかで、主は、導いてくださるように思う。それを感謝して受けよう。
Isaiah 59:1,2 見よ、主の手が短くて救えないのではない。/その耳が遠くて聞こえないのでもない。/ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て/あなたがたの罪が御顔を隠し/聞こえないようにしている。
このような目で見ることができるのは、素晴らしいことだと思う。後半には、因果応報のようなことも描かれているが、主をもとめること、それが、何なのかもわからないし、それが、この聖書の神様なのかも正直、はっきりとはわからないが、さまざまな見方を学びながら、真理を求めていきたい。それも、一つではないのだろうが。
Isaiah 60:16,17 あなたは国々の乳を飲み/王たちの乳房から飲む。/こうして、あなたは知るようになる。/私があなたの救い主、主であり/あなたの贖い主、ヤコブの力ある者であることを。私は青銅の代わりに金を/鉄の代わりに銀をもたらす。/木の代わりには青銅を/石の代わりには鉄をもたらす。/私は平和をあなたの管理者とし/正義をあなたの監督者とする。
難しいが興味深い箇所である。国々や、王たちは、すでに、イスラエルではないのだろう。そのなかで、主を知る。その結果も、当時のことがわからないと理解しにくい。鉄が二度出てくるが、おそらく、戦争ではなないのだろう。暴虐がなくなることなのかもしれない。後半の鉄は、技術なのだろうか。なにを良いとみるか、同じものを何に使うか(dual use)、難しい問題も含まれている。
Isaiah 61:5,6 他国の人々が立ってあなたがたの羊の群れを飼い/異国の子らがあなたがたの畑を耕す者/ぶどうを作る者となる。あなたがたは主の祭司と呼ばれ/私たちの神に仕える僕と言われ/国々の富を享受し/その栄光を誇る。
「主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。」(1)と始まり、メシヤ預言のようになっている。しかし、イザヤ書における「わたし」が誰かは判然としない。引用句も、ある特別な存在となることは理解できるが、幻だとしかわからない。
Isaiah 62:1 シオンのために、私は口を閉ざさず/エルサレムのために、私は沈黙しない。/その義が光のように現れ/救いが松明のように燃えるまで。
シオン、エルサレムの回復なしには、救いはなく、慰めは得られないと考えたのだろう。それは、仕方がないことなのかもしれない。どうしても、ひとは、自分の側に、神様のみこころを引きこもうとする。しかし、同時に、これらから、完全に自由になることもできないのだろう。真理への長い旅、それを続けていく覚悟を持ちたい。
Isaiah 63:15 天から見下ろし/聖なる美しいお住まいから御覧ください。/あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか。/あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、私には届きません。
ここからは、祈りになっている。懇願になっている。これより前も、そのような祈りと混在することは避けられないのかもしれない。それが、自分の側に引き寄せること。それを排除することはできない。わたしは、聖書にキリスト教に、イエスに何を求めているのかを丁寧に考えていきたい。
Isaiah 64:6,7 あなたの名を呼ぶ者も/奮い立ってあなたにすがる者もおりません。/あなたは私たちから御顔を隠し/私たちを罪の力に渡されました。しかし主よ、今、あなたは私たちの父。/私たちは粘土、あなたは陶工。/私たちは皆、あなたの手の業です。
主を創造主とすることは、主にこのように語りかけることにも繋がっているのだろう。創造神という考えはいつ頃から始まったのだろう。そして、それが、すべての人の創造主として理解するようになったのは、どのような経緯によってなのだろう。ここでは、最後に、「私たちの聖なる、栄光の神殿/私たちの先祖があなたを賛美した場所は/火で焼かれ/私たちが喜びとした場所はことごとく/廃虚となりました。/主よ、それでもなお/あなたはご自分を抑えて黙し/私たちをひどく苦しめられるのですか。」(10,11)と救いを求めている。
Isaiah 65:17 見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。/先にあったことが思い出されることはなく/心に上ることもない。
新しい天と新しい地について描かれているが、先にあったことが思い出されることはないと、断絶がある。それでは、どのような意味があるのだろうか。ノアのときは、八人だろうか、何人かによって、それが引き継がれたことが設定されている。もし、だれもいなければ、または、まったく記憶が引き継がれなければ、それは、どのようなものと受け取ったら良いのだろうか。そのようにしか、表現できなかったのかもしれない。または、このように表現されるほど、以前とは違う世界という修辞的・誇張・文学的表現なのだろうか。
Isaiah 66:24 彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。/それに付く蛆は絶えず/それを焼く火は消えることがない。/それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる。
この言葉がイザヤ書の最後であることを知らなかった。この直前には、「私の造る新しい天と新しい地が/私の前にいつまでも続くように/あなたがたの子孫とあなたがたの名も/いつまでも続く――主の仰せ。/新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者は私の前に来てひれ伏す/――主は言われる。」(22,23)とあり、新しい創造の業について描かれている。あたかも、それでは、終わらないと書いているかのようである。このことを伝えたいとおもっても、人々をみると、自分たちをみると、それが必ずしも、神のことばだとは確信できないということだろうか。そう簡単ではないことは、伝えているように見える。


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Isaiah 1:23 長たちは反逆者となり/盗人の仲間となっている。/彼らは皆、賄賂を好み、贈り物を要求する。/孤児のために裁かず/寡婦の訴えは彼らのところまで届かない。
イザヤの義憤が背後にあると感じた。引用句のあとに「それゆえ――万軍の主なる神/イスラエルの力ある方の仰せ――/ああ、私は反抗する者たちを罰し/敵たちに報復する。」(24)と続いており、裁きにつながる、御心とはことなる生活をしていることとして挙げていることが、長たちの不正のように見える。「牛は飼い主を知っており/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/しかし、イスラエルは知らない。/私の民は理解していない。」(3)と言い「もう二度と空しい供え物を携えて来るな。/香の煙はまさに私の忌み嫌うもの。/新月祭、安息日、集会など/不正が伴う集いに私は耐えられない。」(13)とする、その背景にあるものは、引用句のようなものなのだろうか。イザヤはなにを糾弾しているのか、義憤を覚えているのか。いま起こっていることにも照らしてじっくり読み進めてみたい。
Isaiah 2:4 主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。
世界各地で戦争や紛争が起こっている現状をみると、はやくこのようにならないかと思う。それは、自然な考えだろう。この章は「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。」(1)と始まり続けて「終わりの日に」となっている。ある時間軸で、将来的にこうなることを期待するのは自然である。しかし、落ち着いて考えてみると、そうではなく、イザヤが、神様が望まれる世界として、御心をうけとったその表現ではないかと思う。これが主が望んでおられる世界だよというメッセージを語っているのではないかということである。この受け取り方の違いは大きい。御心をうけとったものが、御心がこの世になるようにと、生きる、そちらに重点が移るからである。むろん、そのようにしなさいと、神様が命じておられるわけではない。謙虚に、待つ姿勢も必要である。しかし、待っていればよいということとは、違うように思う。ゆっくり考えながら、預言書を読んでいきたい。
Isaiah 3:1 見よ、万軍の主なる神は、エルサレムとユダから/頼りとなり、支えとなるもの/頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。
前の章の最後は「人間に頼ることはやめよ/鼻で息をするだけの者に。/人に何の値打ちがあるのか。」(2章22節)と終わっている。引用箇所のあと神が取り去られるものが列挙され続く。頼りとなるひと・人材、システム、食べ物、水、他者を思う心、礼儀、仕えるこころ(serving heart)、自らを用いてくださいという謙虚な積極性(availability)、醜さを悔いる心、そして、通常はリーダーシップを取らない、こども、女性が支配し、抑圧し、勇士は、戦いで倒れる、などなど。疑問符がつく箇所もあるが、主旨は伝わってくるように思う。主に信頼するのではなく、それ以外のものに、頼っていることを嘆いているのだろう。そのように描かれているものには、たいせつなものもあるように思う。おそらく、そのたいせつなものの背後にある、万軍の主への信頼なしにということなのだろうか。それが、このようになるとの裁きの形に現れている。裁きの表現としてのメッセージを受け取るべきだろう。
Isaiah 4:3 こうして、シオンに残った者とイスラエルに残された者は、聖なる者と呼ばれる。その者たちはすべてエルサレムにおいて命の書に書き記されているのである。
「その日」(2:11, 17, 20, 3:7, 18, 4:1,2 など)の記述である。最終的には、命の書に書き記されているものだけが残るということのようである。イザヤが見た、理想の世界が書かれているのだろう。たしかに、そのことは、素晴らしいが、神様が見ておられる世界と一致してるのだろうか。神様が望んでおられる世界ではあるかもしれないが。互いに愛し合う世界は、単純ではない。わたしは、では、どのように、記述するだろうか。それは、また、困難な課題である。神様も、見えておられないのかもしれない。わたしは、軽々に、その世界を描くことはできない。たとえそうであっても、入り口で引き返すのではなく、イザヤを通して示された世界をしっかりと、受け取っていきたい。
Isaiah 5:2 彼は畑を掘り起こし、石を取り除き/良いぶどうを植えた。/また、畑の中央に見張りのやぐらを建て/搾り場を掘った。/彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。/しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
神の業は失敗だったのだろうか。このあとには「ぶどう畑に対してすべきことで/私がしなかったことがまだあるか。/私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに/どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。」(4)ほんとうに、このような幼稚ともいえる表現を、イザヤも受け入れていたのだろうか。たしかに、神が、そしてイザヤが望んだ世界にはなっていない。そうだからと言って、失敗だと決めることはないように思う。すばらしいこと、しかし、困難な歩みをしているのだから。丁寧に読んでいきたい。
Isaiah 6:11 私は言った。/「主よ、いつまでですか。」/主は言われた。/「町が荒れ果て、住む者がいなくなり/家には人が絶え/その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」
「行って、この民に語りなさい。/『よく聞け、しかし、悟ってはならない。/よく見よ、しかし、理解してはならない』と。この民の心を鈍くし/耳を遠くし、目を閉ざしなさい。/目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず/立ち帰って癒やされることのないように。」(9b,10)のことばを受けている。これが「ここに私がおります。/私を遣わしてください。」(8b)の直後に与えられた言葉である。イザヤの原点なのかもしれない。よくわからないことばを伝える。それが神のことばの啓示であったことは、興味深い。イザヤも手探りで、進んでいくのかもしれない。明確に、御言葉が示されるときも、そうでないときもあっただろう。精神的には、かなり苦しい日々であったことも想像できる。
Isaiah 7:11,12 「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。」しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。
「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。」(申命記6章16節)「イエスは言われた。『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある。』」(マタイ4章7節、ルカ4章12節参照)を思い出す。この違いをどう理解したら良いのだろうか。こころの状態のように思われる。信頼だろうか。信頼があるから試さない、信頼していないから試さない。両方があるように、思われる。この箇所では、このときに与えられるとされる「しるし」は、次のように書かれている。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14)通常イエスの誕生預言と呼ばれる。(マタイ1章23節)正直、この解釈は、乱暴である。まず、この文脈でなにが語られているのかを丁寧に理解すべきだろう。インマヌエルということばが現れるのは、この二箇所に加えて、次の一箇所のみである。「ユダにみなぎり、溢れ、押し流し、首にまで達する。/インマヌエルよ/その広げられた翼はあなたの国土を/隅々まで覆う。」(8章8節)宿題としておこう。
Isaiah 8:4 なぜなら、その子がまだ『お父さん、お母さん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの財産とサマリアの戦利品は、アッシリアの王の前に持ち去られるからである。」
わたしは世界史を十分学んでいないが、おそらく、中東の大きな変革期だったのだろう。エジプトとは人の行き来があったと思われるが、戦争・紛争はないように思われる。ダマスコは、シリア、サマリアは北イスラエル王国で、長い間、紛争や様々な関係を繰り広げてきたのは、この二国である。それとは全く異なり、それらを凌駕するアッシリアが中東世界最初の世界帝国を作り始める頃である。イザヤはこの時代に生き、この歴史的大変化の背後にある、主のみこころを聴こうとしたのだろう。丁寧に考えていきたい。
Isaiah 9:5,6 一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。/ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。
ルカ2章11節にも引用されている、有名な箇所である。しかし、ダビデの王座と結び付けられており、イエスが、どう考えていたかは不明であると思う。当時、通常考えられていた、ダビデの王国は、とこしえには続かない。ヒゼキヤや、(ひょっとするとウジヤや、)ヨシヤを想定していたと考えたほうが良いのかもしれない。しかし、国際社会の大きな変化のなかで、まずは、このような預言をしていることには、驚かされる。単なる楽観主義ではないことも確かなので。イザヤはどのような人だったのだろうか。
Isaiah 10:1,2 災いあれ、不正な掟を定める者/苛酷な判決を書き記す者に。彼らは弱い者の訴えを退け/私の民の苦しむ者から権利を奪う。/寡婦を餌食とし、孤児を獲物とする。
この章の記述は複雑である。しかし、基本的には「災いあれ、私の怒りの鞭であるアッシリアに。/その手にある杖は私の憤り。」(5, 参照 12, 24)とあり、アッシリアに対する裁きが語られている。すると、引用箇所も、アッシリアのことを言っているのだろうか。より、一般的なことをまずは述べているのだろうか。20節から23節には残りの者という、イザヤ書のモチーフの一つも現れる。「その日になると、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者は、自分たちを打った者にもはや頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。」(20)残りの者だけであることが書かれ(23)、この章の最後は、アッシリアを恐れるなと語っている。一段高いところからのメッセージには聞こえる。
Isaiah 11:16 アッシリアに残されたこの民の残りの者のために/大路が備えられる。/エジプトの地から上って来た日に/イスラエルのために備えられたように。
「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。」(1,2)から始まるこの章は「水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。」(9b)にも表現されているように、救いが語られている。しかし、おそらく、遠くに、神の子イエスの誕生が預言されていたとしても、直接的には、現実の危機にたいする救いなのだろう。「主は国々に向かって旗を揚げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放された者を集め/ユダの散らされた者を呼び集める。」(12)ともあるように、イスラエルの滅亡とともに、ユダもかなりひどい目にあっている。逆に、残りの者に対する、福音なのかもしれない。残りのものについて明確に限定しているわけではないが。
Isaiah 12:1 その日に、あなたは言うであろう。/「主よ、私はあなたに感謝します。/あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。」
「その日」を検索すると、イザヤ書には47件あった。(他に多いのは、エレミヤ41件、エゼキエル20件、ゼカリヤ24件)その日を期待するということだけではなく、ここでは、先取りして、慰めに関する感謝を述べている。(4節参照)このあとにも、ほめたたえることばが続く。当時の人は異常に感じたかもしれない。すくなくとも、この主への信頼が、預言者を預言者たらしめているのだろう。
Isaiah 13:20 そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。/アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。
「そこ」は、「諸王国の麗しさであり/カルデア人の高き誉れであるバビロン」(19a)である。そのままではないが、周辺に町が建てられ、いまでも、栄えている。精神的な意味で、バビロンをとっても、世界各地で、バビロンのような存在は、各所にあるように思う。むろん、完全な預言の成就は、まだ、なっていないとも取ることができるが、預言は、正確に、未来を予知・予言することではないのだろう。しかしすると「その日」について、そして「そこ」について問いたくなる。メッセージを正確に受け取ることは、とてもむずかしい。
Isaiah 14:1,2 しかし、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び、彼らの土地に住まわせる。/寄留の民も彼らに加わり、ヤコブの家に連なる。もろもろの民は彼らをその地に連れて来る。イスラエルの家は主の土地で、もろもろの民を男も女も奴隷として所有する。かつて自分たちを捕らえていた者を捕らえる者となり、かつて自分たちを虐げていた者を支配するようになる。
どの時点で書かれたものかは不明だが、基本的には、バビロンの滅亡とヤコブ(イスラエル)の家の回復について書かれている。歴史的には、このようにはなっていない。それも、直視すべきだろう。さらに、回復の状態として、寄留の民は相変わらず寄留の民、そして、諸国民を奴隷として所有するとある。報復としての記述もある。イザヤだけではなく、信仰者一人ひとりがみ心を求める過程で、様々な不完全さを担っていることの証であるとも思う。捕囚の前に書かれた可能性が高く、その意味では、先の先を見る預言者が希望を伝えているとも取れる、しかし同時に謙虚になりたい。
Isaiah 15:1 モアブについての託宣。/一夜のうちにアルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。/一夜のうちにキルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。
Encyclopedia Britanica によると、モアブは紀元前8世紀ごろ栄え、その後アッシリアの一部となり、バビロンにアッシリアが滅ぼされてからは歴史から消えたとある。聖書の記述は多いが、不明な点が多いようである。近隣の民族との軋轢は、ずっと継続して続き、大きな問題であったことがわかる。しかし、神様が働かれるのは、神様が世界を創造されたなら、もっとずっとずっと広い世界なのだろう。隣人との諍(いさか)いの痛みの傷が、ひとを形作っているように、世界との関係も、特に国際社会との関係が広がり深まるなかで、大きな影響を持つに至っているのだろう。現在の世界の状況を見ると、遠い国の出来事ではなくなっている。
Isaiah 16:11,12 それゆえ、私のはらわたはモアブのために/私のはらわたはキル・ヘレスのために/琴のように震える。モアブが疲労に耐えて高き所に出向いても/祈るために聖所に赴いても、何の力にもならない。
この章もモアブの裁きについての預言がつづき最後に「そして、今、主は語られる。『雇い人の年季のように三年のうちに、多くの群衆がいたモアブの栄光は侮られ、生き残る者は極めて少なくなり、力を失う。』」(14)三年とあり、イザヤはその滅亡または凋落を見たのかもしれない。わたしが知りたいのは、神様はどう見ておられ、そしてわたしはこのことをどう見るべきなのかということである。「私たちは、モアブの高ぶりのことを聞いた。/その高慢は甚だしい。/思い上がり、高ぶり、横柄さ。/その自慢話には根拠がない。」(6)これだけではよくわからないが、モアブに問題はあったのだろう。しかしそれは、アッシリアに頼り生き残りを計ったことなのかもしれない。それが、隣国から見ているとこう見えるのかもしれない。そして、引用句。「わたし」はイザヤなのか、神様なのか、明瞭ではないが、はらわたが震えている。こころの奥底が揺さぶられる表現である。それ以上はわからないが。
Isaiah 17:3 エフライムからは砦が/ダマスコからは王国が消え去る。/アラムで生き残った者は/イスラエルの子らの栄光と同じようになる/――万軍の主の仰せ。
この預言が何年ごろなのかは不明であるが、イザヤの時代に、北イスラエル王国は、アッシリアにより滅ぼされる。ダマスコと書かれているシリアについて正確には理解できていないが、アッシリアに飲み込まれてしまったことは確かだろう。この激動の時代、イザヤはなにを見、神様のみこころをどのように受け取ったのだろうか。「あなたは救いの神を忘れ去り/自分の砦である岩を心に留めることはなかった。」(10)これはおそらくイスラエルまたはその盟主であるエフライムについて語ったものだろうが、これは、南ユダにとっても、自らを省みなければいけないときだったのだろう。時代が大きく変化している。世界史的にも。ひとは、どのように、神様の声を聞き、普遍的な価値、真理をもとめていったらよいのだろうか。今も、そのような時代なのかもしれない。
Isaiah 18:1 災いあれ、クシュの川のかなたで/高い羽音を立てている国に。
クシュは、北スーダンと南エジプトのあたりのヌビア地域の国。エジプトと関係が深いが、独立した地域として、存在し続けたようだる。ただ、文字を持っていなかったようで、記録が乏しく、殆ど、エジプトの文書によっているとのこと。「その国はパピルスの舟を水に浮かべ/海路を通じて使節を遣わす。/行け、足の速い使者たちよ。/背が高く、肌の滑らかな国民のもとへ。/ここかしこで恐れられている民のもとへ。/その国土が多くの川で分かたれ/強い力で踏みにじる国のもとへ。」(2)とあり、最後にも「背が高く、肌が滑らかな民」(7b)との記述がある。記述に乏しいとも言えるが、恐れられてもいたようだ。
Isaiah 19:23 その日には、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。
「その日」の記述が興味深い。このあとにも「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。『祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに』と。」(24,25)と続く。この章はエジプトについて記述されており「私はエジプトをエジプトに刃向かわせる。」(2a)ともある。エジプトの歴史も学んでみたい。第何王朝という名前が続くことも不思議に感じていた。似た王朝のことも、外部からの侵入のこともあったようだが。ナイルの恵みは多くのひとに魅力的だったのかもしれない。「その日」は、イザヤが見ていたほど単純ではないように思われる。しかし、そのようなビジョン自体が、主の、みこころの理解のひとつの形態、探求の歩みなのかもしれないとも思う。すくなくとも、批判するようなことではないのだろう。
Isaiah 20:5 彼らは、自分たちが望みをかけていたクシュのゆえに、また誇りとしていたエジプトのゆえに、おののき、恥じ入るであろう。」
アッシリアによる、エジプトとクシュ攻略について書かれている。歴史的には、完全には滅びなかったと記憶しているが、望みや誇りは砕かれたのだろう。クシュとエジプトの友好関係もあったことがわかる。クシュ(BC920年頃成立)については、あまり、資料がないのかもしれないが、学んでみたいと思う。現在の北スーダンから南エジプト、黒人の支配者による大きな国だったようである。アッシリアは、クシュにも影響を及ぼす大帝国となったのだろう。アッシリアについては、あまり文書の記録がないらしいが、アッシリアについて、その戦略や、統治政策についても、学んでみたい。
Isaiah 21:12 見張りは言った。/「朝は来る、だが、まだ夜だ。/尋ねたければ尋ねよ。/もう一度来るがよい。」
この章ではバビロンが倒れることが書かれ、ドマ、アラビアと続く。引用箇所は、ドマについてのものである。(新)アッシリアの首都はニネベとされているが、中心的地域はアッシュール、バビロンはもっと南だが、この地域の帝国をバビロンと呼んでいたのだろうか。見張りが登場する。イザヤは世界の状況を知るべく、情報を集めていたのだろう。先の先の世界を見ていたのかもしれない。とても、興味深い。ドマは、イシマエルの子の名として現れるが(創世記25章14節、歴代誌上1章30節)詳細は不明。ひとつの近隣の民族なのだろう。引用句の表現は興味深い。「朝は来る、だが、まだ夜だ」信仰者が暗い世界を見る心持ちのようにも見える。
Isaiah 22:12,13 その日、万軍の主なる神は/「泣き、嘆き/髪をそり落とし、粗布をまとえ」と呼びかけられた。ところが、お前たちは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲み/「食べたり飲んだりしよう/どうせ明日は死ぬのだから」と言う。
「幻の谷についての託宣」(1)と始まるが、この人達がどのような人たちかは不明である。引用句から、神から離れた存在であること「その日になると/私は私の僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び あなたの衣を彼に着せ/あなたの飾り帯を彼に締めさせ/あなたの支配権を彼の手に与える。/こうして彼は/エルサレムの住民とユダの家の父となる。」(20,21)とあるので、ユダの一部なのだろう。もしかすると、そのような民族名や国名では分けられない状態に、あるのかもしれない。悔い改めなければならない状態か、自分で気づくことは難しく、人から言われてできることでもないのだろう。
Isaiah 23:18 しかし、彼女の利益と報酬は主の聖なるものとなり、積み上げられず、蓄えられもしない。その利益は、主の前に住む者たちのものになり、彼らは飽きるまで食べ、最上のもので着飾ることになる。
ティルス、そして、シドン、タルシシュについて書かれている。通常、海の民と言われ、各地に都市国家を作ったフェニキア人たちについてである。歴史的には、アッシリアにも抵抗するが隷属、勢力は削がれるが、滅ぼされず、新バビロニア王国にも抵抗、アレクサンダー大王の東征にも、唯一抵抗したとも言われているようだ。カルタゴなどもふくめ、この海の民については、ぜひ学んでみたい。
Isaiah 24:5 地はそこに住む者たちの下で汚された。/彼らが律法に背き、掟から逸脱し/永遠の契約を破ったからだ。
この直前には「地は乾き、しぼみ/世界はしおれ、しぼむ。/天も地と共にしおれる。」(4)とある。凄い表現である。その理由をのべたのが引用箇所。預言者の心持ちは理解できるように思うが、狭いように思ってしまう。批判的にならず、共に、考えたいきたい。最後にもやはりなかなか心を共にできない部分があった。「月は辱められ、太陽は恥じる。/シオンの山において、万軍の主が王となられ/エルサレムにおいて/長老たちの前にその栄光を現されるからだ。」(23)これで、被造物がすべて神を崇めるようになるのだろうか。世界は広い。それがイザヤにはある程度見えていたと思うのだが。
Isaiah 25:4 まさに、あなたは弱い者の砦/苦難の中にある貧しい者の砦/豪雨を避ける逃れ場/暑さを避ける日陰となられる。/横暴な者たちの勢いは壁を叩く豪雨
「主よ、あなたは私の神。/私はあなたを崇め/あなたの名をほめたたえよう。/あなたははるか昔の驚くべき計画を/忠実に、誠実に成し遂げられた。」(1)前の章の最後のことばに続いてその日について書かれている。わたしが、素晴らしいと思うのは、引用句のような倫理性のように思う。神がどのような方かを表現するとき、弱いもの、貧しいものの避ける場所としての表現が現れる。弱者がどうなるかに目線がある限りに於いて、大きく道を踏み外さないようにも思う。
Isaiah 26:7 正しき人の道は平坦であり/正しき人の道筋を、あなたはまっすぐにされます。
背景にある価値観の違いなのかなと最近は考えるようになっている。同じことが起こっても、その評価は異なる。神様の目から見たものさしをしっかりと学んでいくことが、このことばの背景にもあるのかもしれない。「正しき人の道筋」は主の、みこころにつながっているということだろうか。
Isaiah 27:12,13 その日になると/主は、ユーフラテスの流れから/エジプト川まで穂を打つ。/イスラエルの子らよ/あなたがたは一人一人拾い集められる。その日になると/大きな角笛が吹き鳴らされ/アッシリアの地に失われた人々と/エジプトの地に散らされていた人々が来て/聖なる山エルサレムで主を礼拝する。
ここにも「その日」が二回現れる。アッシリアによって荒廃した地、失われた人々がどうなるのかが、この当時の一番の問題だったのだろう。「その日」について知ることは、「当時」について知ることでもあるのかもしれない。わたしたちは「今日」をどのうように見「その日」にどのような希望を持つだろうか。
Isaiah 28:26 神はふさわしいしかたを彼に示し、教えられる。
なにを示されるかはその前に書かれている。「耕す者は、種を蒔くために/いつも耕すだけであろうか。/その土地を起こして畝を造るだけであろうか。地面を平らにしたら/黒種草を蒔き散らし、クミンを蒔き/小麦を畝に、大麦を定められた場所に/デュラム小麦を土地の境に植えるではないか。」(24,25)自然を通して示し、それを農夫はそれを受け取っているということである。このことによって「黒種草は脱穀板で踏まれることはなく/クミンの上に脱穀車が回されることもない。/黒種草は棒で、クミンは杖で打たれる。穀物を砕いて粉にするとき/いつまでも脱穀することはない。/脱穀車の車輪と馬を動かしても/それを砕き尽くすことはしない。」(27,28)とあり、最後には「これもまた万軍の主から出たことである。/主は驚くべき計画を行われ/大いなる洞察を示される。」(29)と結んでいる。残念ながら、わたしには、農夫が学んでいることがあまり理解できないが、農学であろうか、当時の科学的知見、それらも、主から与えられる洞察であるとの解釈には、納得させられる。すぐその霊的な意味を説いていないことも、興味深い。このこと自体に価値があることをみな知っていたのだろう。
Isaiah 29:24 心の迷った者は悟りを得/つぶやく者は教えを学ぶ。」
救いとはなにか、「その日」について預言者は何を語るのかを考えている。おそらく、これが、神様の喜ばれる、みこころのなる世界として受け取ったことを書いているように思う。真理を求め、それを、公正と正義とよび、みこころを求め、受け取ったことを、伝える。それが、まさに、神の言葉に預かる、預言者の歩み・営みなのかもしれない。時系列で、その日がいつかと問うことは、的を射ていないのかもしれない。引用句のようになってほしい。そして、神様はそれを願い、喜ばれると、わたしも思う。
Isaiah 30:10,11 彼らは先見者たちには、「見るな」と言い/予見者たちには/「我々に正しいことを予見するな。/我々に甘言を語り、欺瞞を予見せよ。道から離れ、進路から外れ/イスラエルの聖なる方を/我々の前から取り除け」と言う。
この前には「彼らは反逆の民、偽りの子ら/主の教えを聞こうとしない子らなのだ。」(9)とあり、あとには「あなたがたはこの言葉を拒み/抑圧と不正を頼み、それを支えとしている」(12b)とある。そのあとで、主なる神、イスラエルの聖なる方のことばとして「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」(15b)がある。このことばについて何回も考えたことがある。信頼がすべてで、自分で解決しようとしなくて良いのかと。判断は、とても、難しいと思う。特に、政治のように、複雑な課題においては。確かに「抑圧と不正」があったのだろう。そしてそれは許されざるべきものだったのだろう。それを、神様はどう見ておられるか。現実世界の様々な困難な問題を見ると、ここにイザヤが記したことも、神様のみこころだろうが、それは、その一部かもしれないと思った。
Isaiah 31:8 アッシリアは滅びる。/人間のものではない剣によって。/人間のものではない剣がアッシリアを食い尽くす。/彼らは剣の前から逃げ/若者たちは労役に服す。
実際に、巨大なアッシリアは、滅びる。記録があまりないこともあり、経緯は十分には、わかっていないのかもしれないが、「紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落(ニネヴェの戦い)。 亡命政権が、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡。」(Wikipedia)とある。ただ、このあとも、アッシリア人は、いろいろな政権に加わっていたようだ。神様が背後におられる。たいせつな視点だが、それだけで片付けられることでもないように思う。
Isaiah 32:1 見よ、正義によって一人の王が統治し/公正によって高官たちが治める。
預言書は、預言者が神様の御心として受け取ったことを書いている。イザヤが受け取った神のみこころは、すばらしい王が、正義(神の望まれる正しさ)に拠って統治し、高官たちが、それを補佐して公正(神の正しさが一人ひとりにどのように行き渡るべきかを考えること)によって、統治の仕事を行う、と言っているのだろう。次に、素晴らしいことが次に書かれている。「彼ら(王と高官だろうか)はそれぞれ、風の時の逃げ場/嵐の時の隠れ場のように/また、乾いた地にある水路のように/荒れ果てた地にある大きな岩陰のようになる。」(2)さらに「見る者は目をそらさず/聞く者は耳を澄ます。気短な心が知ることを得/もつれた舌が速やかにはっきりと語る。」(3,4)しかし、気になることもある。「もはや愚か者が高貴な人と呼ばれることはなく/ならず者が尊い人と言われることもない。」(5)このあとにも続く。そのように、二元的に区別できるのだろうか。ひとは、それほど単純ではない。そして希望もある。同時に、だれでも、その希望を持てると短絡に結論することもできないが。
Isaiah 33:15,16 正義によって歩み/正しいことを語り/虐げによる利益を拒み/手を振って賄賂を取らず/耳を塞いで流血の謀を聞かず/目を閉じて悪を見ない者 このような人は高い所に住み/その砦は岩の要害となる。/そのパンは与えられ/水は絶えることがない。
イザヤが(神様の前で)正しい人と信じているひととについて、記述されているように思う。同時に、そうではない、人たちが多い世界が、イザヤの前に広がっているのだろう。わたしたちは、今の世の中で、それをどう表現するだろうか。単純に、イザヤの記していることに、そうだそうだというのではなく、丁寧に、求めていきたい。神様の前で正しい人について、考えており、それは、それほど単純にわかるわけではないのだから。
Isaiah 34:4 天の全軍は朽ち果て/天は巻物のように巻かれる。/その全軍は枯れ落ちる。/ぶどうの葉が枯れ落ち/いちじくが木から枯れ落ちるように。
不思議な文章である。天の全軍について理解できるわけではないが、それが朽ち果てるとはどういうことだろう。不思議な状況は他にもある。「烏とふくろうがその地を住みかとし/森ふくろうと烏が住み着く。/主はその上に混沌の測り縄を張り/空虚の重りを下げる。」(11)単なる、イザヤの義憤の表現、神の裁きの預言とは少し違うものを感じる。確かに、神の怒りについて書かれ(2)最初には、エドムについての裁き(5-10)について書かれているが。ここだけでは、正直よくわからない。
Isaiah 35:5,6 その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。/荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る。
回復の預言が書かれている。神の御心がなる世界の描写だろう。イザヤ書の記述は、不思議である。まず、目の見えない人、耳の聞こえない人、歩けない人、口の聞けない人と障害者についての記述から始まり、次には、自然についての描写である。政治的な支配者の問題や、外国の侵略についてなどの、正義の記述ではない。そして、この章の最後は「主に贖い出された者たちが帰って来る。/歓声を上げながらシオンに入る。/その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。/喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。」(10)と喜びの記述になっている。わたしなら、回復について、神の御心がなる世界についてどのように記述するだろうか。まずは、イザヤのそれをしっかり受け取りたい。
Isaiah 36:7 お前は、自分たちの神、主を頼りにすると言っている。だが、その神がヒゼキヤに高き所と祭壇を取り除かせたのではないか。ヒゼキヤがユダとエルサレムに向かい、この祭壇の前で礼拝せよと言ったのはそのためだ。
アッシリアの王、センナケリブがエルサレムに攻めてきたこととヒゼキヤ王に関しては、列王記下18章13節から20章20節(歴代誌下32章9節-24節参照)に書かれており、そこには、イザヤについての記述もある。この類似からも、列王記は預言者文書とも言われる。この書記官ラブ・シャケのユダヤのことば(いわゆるヘブライ語)で語った言葉は、非常に興味深い。そのとおりにはならなかったということがこのあと続くが、ある程度はそうなったと思われるし、いずれは、ネブカデネザルによって似たことが起こっていることを考えると、否定することはできないひとつの預言のようにも思われる。引用句は、どうも、民は、偶像も自分たちの神と思っており、それを、ヒゼキヤが排除したと想定されているのかもしれない。翻訳にもよるかもしれないが、興味深い。
Isaiah 37:27 住民たちは力を失い/おののき、恥に覆われ/野の草、青草のように/育つ前に枯れる屋根の草のようになった。
このあとに、ヒゼキヤに語る。「あなたが立つのも、座るのも/出るのも、入るのも/私は知っている。/私に対して、あなたが怒りに震えているのも。あなたが怒りに震え/あなたが高ぶるのが私の耳に届いたので/私はあなたの鼻に鉤をかけ/口にくつわをはめ/あなたを元来た道に引き戻す。」(28,29)リーダーシップを取るものの責任、そして、信仰(なにをたいせつにして生きるか)はたいせつである。しかし、同時に住民たちがどのようなものをたいせつにして生きるかこそが、鍵となるように思う。時代的にも、そして、おそらく、現代でも、すばらしいリーダーの出現を期待し、求める。それは、たいせつだが、それでは、継続しないのだろう。一般市民が、変わっていくことができるか。これは、非常に難しい。
Isaiah 38:15,16 私に何が語れるだろう。/主が私に語り、ご自身でそうされたのだから。/私はすべての年月をゆっくりと歩んで行こう/魂に苦悩を抱えながら。主よ、こうしたことによって人は生きる。/私の霊の命もすべてこうしたことに従っている。/私を健やかにし/どうか私を生かしてくださるように。
「病気であったユダの王ヒゼキヤが、その病気から回復して記したもの。」(9)とあり、まとまっているため、逼迫感は感じられないが、引用箇所は、興味深い。主の主権を肯定しながら、弱さを担っている、ひとの苦悩について語り、願いを祈りとしている。個人の尊厳を考えると、神も、ひとの尊厳をたいせつにしてくださるのではないかと思う。その尊厳のもとにあるもの(の、おそらくひとつ)が、死の病(1)の中に苦しみ、おそらくそう表現するより、深いのが「魂の苦悩」である。「私はすべての年月をゆっくりと歩んで行こう」には、有限の人生をひとに与えられている神様への興味深い応答も感じられる。わたしも、生き急ぐのではなく、ゆっくりと歩んでいきたい。
Isaiah 39:6,7 『見よ、王宮にあるものすべて、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものすべて、それがバビロンへ運び去られる日がやって来る。何一つ残されはしない』と主は言われる。『また、あなたがもうけた息子の中には、連れ去られてバビロンの王の宮殿で宦官になる者もいるであろう。』」
預言者イザヤに見えていた世界は広いだけでなく、遠く先の世界も含むのだろう。教養人の最たるものなのかもしれない。このあとには、いろいろな解釈がされている「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」(8b)と、ヒゼキヤのことばが含められている。結局の所、自分が生きている限り、将来のことも、考えながら、丁寧に生きることなのだろう。将来のことを恐れるだけでは、いまのときを台無しにしてしまうように思う。
Isaiah 40:3-5 呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。」
福音書で引用される箇所である。今回の通読では、この言葉が、バビロンの王によるエルサレム攻略と捕囚預言の直後に書かれていることについて考えさせられた。荒廃の時期は、歴史的には、様々にある。しかし、預言者イザヤは、ここからは、第二イザヤによる預言とも呼ばれているが、アッシリア帝国衰退後の、新バビロニアの悲惨な時代を、ヒゼキヤに伝えた・預言した直後にこのことを記している。神理解の深さと将来を見る力と、信仰に驚かされる。27節以降の力強い、ことばは、どの時代の人にも、大きな力となってきただろう。
Isaiah 41:27 私は初めにシオンに告げた/「見よ、これらを見よ」と。/エルサレムに良い知らせを伝える者を/私が与えよう。
「良い知らせ」は「福音」である。福音は、滅ぼされ、荒れ果てた、希望もないような状態の中で語られるものなのだろう。まさに、現実の、荒れ果てた状況を直視しつつ、福音を語ること、福音の中身をしっかりと受け取ることが、福音信仰なのだろう。福音を紋切り型にことばにし、それを、信じるかどうかがたいせつではないのだと思う。イザヤ書をしっかり読み込めているとは言えないが、丁寧に読んでいきたい。
Isaiah 42:18,19 耳の聞こえない者たちよ、聞け。/目の見えない者たちよ、まじまじと見よ。私の僕ほど目の見えない者があろうか。/私が遣わす使者のように/耳の聞こえない者があろうか。/私に買い取られた者のように/目の見えない者があろうか。/主の僕のように目の見えない者があろうか。
「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」(1)で始まるしもべのうたにこのような記述があることを知らなかった。見よ、と、目の見えないが現れる。「目の見えない人の目を開き/捕らわれ人を牢獄から/闇に住む者を獄屋から連れ出すためである。」(7)「私は目の見えない人に知らない道を行かせ/知らない道を歩かせる。/私は彼らの前で暗闇を光に変え/起伏のある地を平らにする。/私はこれらのことを行い/彼らを見捨てない。」(16)「目の見えない」は、59章10節にも現れるがそれだけである。この章は、ゆっくり読んでみたい。
Isaiah 43:14,15 あなたがたの贖い主、イスラエルの聖なる方/主はこう言われる。/あなたがたのために、私はバビロンに使いを送り/かんぬきをすべて引き降ろし/歓声の上がる船の中にいるカルデア人を引き降ろす。私は主、あなたがたの聖なる者/イスラエルの創造者、あなたがたの王である。
最初に目に止まったのは、「イスラエルの創造者」ということば。次には「カルデヤ人」である。カルデヤ人は一般的には、新バビロニアのことを指す。「創造」についても調べてみたいが、この文脈で、イザヤは、神をカルデヤ人の創造者として捉えていないのだろうかということ、アッシリアではないのかということである。第二イザヤと言われる所以だろうか。わからないことが多い。イザヤはどのように見ていたのだろうか。
Isaiah 44:21 ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。/イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。/私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。/イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。
イザヤには、主が全世界の創造者であるという認識はないのか。この章では、偶像礼拝の虚しさが書かれている。引用箇所のような認識、主との信頼関係が根幹にあることを持ってすれば、偶像礼拝の儚(はかな)さを、簡単に受け入れられるのかもしれない。しかし、全世界の創造者とすることは、また、別のことのようにも思う。創造信仰に至るには、民族宗教の枠を出ることが必要であるとともに、他者との関係をどう認識するかも関係するように思う。単なる創造信仰というより、それが影響することを丁寧に考え、受け取ることは、それほど簡単ではないように思う。イザヤの信仰を丁寧に受け取っていきたい。
Isaiah 45:18 天を創造された方、すなわち神/地を形づくり、造り上げ/固く据えられた方/地を空しくは創造せず/人の住む所として形づくられた方/主はこう言われる。/私は主、ほかにはいない。
ここには、創造主としての神が登場する。この章の最初には「主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。」(1a)と、イスラエルの帰還を許可する、ペルシャの王、キュロスについて書かれている。その根拠として「地を造り、その上に人間を創造したのは私だ。/私はその手で天を広げ/その万象に命じた。私は義によって彼を奮い立たせ/彼の道をすべてまっすぐにする。/彼は私の都を再建し/私の捕囚の民を解き放つ。/代価によってではなく、賄賂によってでもない/――万軍の主は言われる。」(12,13)としている。キュロスの寛容な政策を見て、ここにも、主が働いておられると認めたのだろうか。アッシリア、バビロニア、ペルシャの歴史を、しっかり学んでみたい。
Isaiah 46:4 あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。
偶像に関する記述が続き「金を袋から惜しげもなく出し、銀を秤で量る者は/細工師を雇い、それで神を造り/ひれ伏して、拝みさえする。彼らはそれを肩に乗せ/背負って行き、しかるべき場所に据える。/それは立ったまま、その場所から動かない。/人がそれに叫んでも応えず/苦しみから救ってはくれない。」と対置されているのが、引用句の言葉だろう。主に対する、わたしの感覚とはかなり異なるが、イザヤ書の表現は、印象に残り、秀逸である。イザヤ書が、好まれる理由の一つは、そのような表現のうまさにもあるのかもしれない。
Isaiah 47:9 これら二つのことが/一日のうちに、瞬く間にあなたを襲う。/子を失うことと、やもめになることが。/どれほどあなたの呪術が多く/あなたの呪文の力が強くても/それらは必ずやって来る。
まず、「おとめである娘バビロンよ/下って、塵の上に座れ。/カルデア人の娘よ、王座のない地に座れ。/あなたはもはや/優美でしとやかな娘とは呼ばれない。」(1)とあり、さらに「カルデア人の娘よ、黙って座り、闇の中に入れ。/あなたは二度と諸王国の女王と呼ばれることはない。」(5)と、カルデア人の娘という表現で、カルデア人、新バビロニアについて書かれている。国を女性になぞらえる慣習があったものと思われる。しかし、女性になぞらえて語られた引用句、表現の幅の広さとも言えるかもしれないが、国についてこのように表現することには、現代的感覚では違和感を感じ、驚かされる。
Isaiah 48:12,13 ヤコブよ、聞け。/私が呼び出したイスラエルよ。/私がそれだ。/私は初めであり、また終わりである。私の手は地の基を据え/私の右の手は天を押し広げた。/私が呼びかけると、それらは共に立ち上がる。
直前には「私は、自らのために、自らのために行う。/どうして私の名が汚されてよいだろうか。/私は自らの栄光を他の者には与えない。」(11)とあり、このあとには「主に愛された者が主の望みをバビロンに行い/その腕をカルデア人に下す。」(14b)ともある。なにか、自己中心のような表現だが、真理、御心のたいせつさを、他のものに変えてしまっている民を嘆き、このように書いているようにも思う。イザヤが預かったメッセージを、どのように、みこころとして受け取るか、それは、受け取るものの、信仰と、技術も問われているように感じる。ていねいに読み続けたい。
Isaiah 49:6 主は言われる。/「あなたが私の僕となって/ヤコブの諸部族を立たせ/イスラエルの生き残った者を連れ帰らせるのは/たやすいこと。/私はあなたを諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。」
このあとには、イスラエルの回復について述べられている。すでに、45章1節にキュロスのことについても言及されており、預言者は、いろいろな意味で、イスラエルの回復が見えていたのだろう。その事も踏まえて、引用句が語られる。しかし、正直、主にとっても、回復は、簡単ではないと、個人的には思う。悔い改めは、継続的な姿勢であり、単純に、回復へとはつながらないことを、おそらく主は、よくご存知だろうから。互いに愛し合うこと、それが、民の中でも実現すること、さらに、主が基を据えられた地に住む、すべてのものが、このことに価値を置いて、御心を求めつつ生きることが、どれほど困難であるかを、ご存知だろうから。たといそうであっても、引用句に希望を持ちたいと思う。
Isaiah 50:10,11 あなたがたのうち、誰が/主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。/明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする者だ。見よ、あなたがたは皆、火をともし/松明で身を守る者。/あなたがたの火の光によって/あなたがたが燃やす松明を持って歩くがよい。/私の手によって/このことはあなたがたの身に起こり/あなたがたは苦痛のうちに倒れ伏すであろう。
この章は「主はこう言われる。/私が追い出したという/あなたがたの母親の離縁状はどこにあるのか。/私があなたがたを売り渡したという/私の債権者とは誰か。/見よ、あなたがたは自らの過ちのゆえに売り渡され/あなたがたの背きの罪のゆえに/母親は追い出された。」(1)と始まる。この部分だけでも、理解がたやすくはない。全体的に見ると、信仰・信頼について語っているようである。主が、追い出した、主に、捨てられた、そう考えて、信仰を捨て、信頼をやめるのではない道について語られているのだろう。引用箇所も興味深い。そして、理解も簡単ではない。「明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする」ことと「(自分で)火をともし/松明で身を守る」者とが対比されている。後者が間違いだとは個人的には思わないが、信仰・信頼の欠如を伝えようとしているのだろう。イザヤの表現は複雑である。
Isaiah 51:22 あなたの主なる神/ご自分の民を弁護してくださる神はこう言われる。/「見よ/私は、よろめかす杯をあなたの手から取り上げた。/私の憤りの大杯をあなたが再び飲むことはない。
「聞け、義を追い求める者たちよ/主を探し求める者たちよ。/あなたがたが切り出されてきた岩に/掘り出された石切り場の穴に目を留めよ。」(1)と始まり、信仰の歩みを振り返れと言っているようだ。引用句の前では「あなたは主の手からその憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した。」(17b)としている。さばきをうける次の段階に進むことを示しているようである。希望が見えない時、絶望の中で、「我にかえり」(ルカ15章17節)父の愛のうちにある自らを振り返り、父のもとに帰っていく、放蕩息子を思い出す。
Isaiah 52:1 目覚めよ、目覚めよ/力をまとえ、シオンよ。/美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。/無割礼の汚れた者が/あなたの中に入ることは二度とない。
この章の最後から「主の僕の詩(うた)」が始まる。最初が引用句である。「無割礼の汚れた者」ということばに反応しすぎているのかもしれないが、悪の排除を、民族的伝統に関わる言葉で語り、かつ、回復を堕落を消し去ることによって描くことに違和感を感じた。現実を描写していないからである。いまの、世界をまったくやめて、新たに創造するなら可能かもしれないが、それは、救いではない。主が創造された世界にいると告白し、その主に信頼するなら、連続性を切り捨てることはできない。しかし、そうであっても、このあとの傷ついた僕のすがた、イザヤがつたえる主の僕の像からは、わたしたちの日常生活も含め、考えさせられる。
Isaiah 53:4,5 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
有名な箇所である。イザヤ書記者は、このようなひとを知っていたのではないだろうかと今回思った。おそらく、完璧にそうだというわけではないかもしれない。しかし、そのような人を通して、主の僕の姿を見たのかもしれない。現実の世界と神のみこころはつながっている、それが、神の国は近いということだろう。そして、イエスのように、わたしたちが生きるように招かれている。わたしたちが、主の僕としていきることをイエス様は願っておられる。
Isaiah 54:9,10 これは、私にとってノアの洪水の時のようだ。/ノアの洪水を二度と地上に起こさないと/誓ったように/私は、あなたに対して怒らず/あなたを責めないと誓う。山々が移り、丘が揺らごうとも/私の慈しみはあなたから移らず/私の平和の契約は揺らぐことはない/――あなたを憐れむ主は言われる。
ノアの洪水の記事、おそらく、創世記も、イザヤの時代にはよく知られていたのだろう。しかし、この「ノアの洪水を二度と地上に起こさない」を、イザヤ書が書かれた時代にどのように理解するかは、簡単ではなかったのだろう。民の堕落、不信をあげつらうことは、可能だろう。そして、現実は、主の裁きのもとにあるように、感じられる。そのときに、主の憐れみ、主の平和の契約をどう解釈するか。現代でもおなじことが言えるようにおもう。おそらく、どちらかによりすぎる判断は、できないのだろう。しかし、両面とも、無視することはできない。ともに、主の御心なのだろう。
Isaiah 55:10,11 雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく/必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ/種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も/空しく私のもとに戻ることはない。/必ず、私の望むことをなし/私が託したことを成し遂げる。
前半から、後半のような結論を見て取ることもできるが、一般恩寵と言われる、恵みを受け取ることもできるだろう。これらの言葉の前には「天が地よりも高いように/私の道はあなたがたの道より高く/私の思いはあなたがたの思いより高い。」(9)とある。主の御心・思い、真理といってもよい、それは、私達の思い、こころにあるもの、脳で理解できることをはるかに超えているという謙虚さ、学ぶ心だろうか、それを、イザヤ書記者は、持ち続け、求め続けていたように思う。わたしも、イザヤ書記者のように、生きるものでありたい。主が与えてくださっている、周囲の、様々なもの、事柄から学びながら。
Isaiah 56:4,5 主はこう言われる。/宦官が私の安息日を守り/私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば 私の家と城壁の中で/私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え/消し去られることのないとこしえの名を与える。
「主はこう言われる。/公正を守り、正義を行え。/私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。」(1)と始まる。イエスの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3章2節)と近いメッセージである。「悔い改め」で検索したが、この言葉は旧約聖書には「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。」(ヨブ42章6節)だけであることをはじめてしった。もうすこし詳しく調べてみたい。ヘブル語はナハム(nāḥam: נָחַם to be sorry, console oneself, repent, regret, comfort, be comforted)が使われており、これは、旧約聖書にも多い。さて、宦官と異国の子らについて語られている。おそらく、宗教的に差別されていたのだろう。安息日は、律法の中でも、象徴的なことなのかもしれない。「私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば」にわたしは、普遍性を感じてしまうが。
Isaiah 57:17-19 彼の貪欲の罪に私は怒り、彼を打ち/姿を隠して怒った。/しかし彼は背いたまま、心の赴くままに道を歩んだ。私は彼の道を見た。/私は彼を癒やし、導き/慰めをもって彼とその悲しむ人々に報い 唇に賛美の実りを創造しよう。/遠くにいる人にも近くにいる人にも/平和、平和があるように。/私は彼を癒やそう――主は言われる。
明らかな転換が感じられる。背くものの道を見、その人を癒やし、導き、慰め、唇に賛美の実りを想像する。イザヤが受け取ったメッセージの深さに感銘をうける。しかし、このあとには、やはり難しいことも添えられている。「悪しき者はかき回された海のようで/静めることはできず/その水は泥とぬかるんだ土とを吐き出す。悪しき者に平和はない――私の神は言われる。」(20,21)難しさも、付け加わっているところに、真実味を感じる。
Isaiah 58:6-8 私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか。その時、曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。/あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
「断食」と書かれているが「礼拝」としてもよいし、他の宗教的行為に置き換えても良いだろう。イザヤ書では、虐げられた人、飢えた人、苦しむ人にこころを開くことが語られている。御心に生きること、それは、神様の憐れみが、人の世界に、反映されること、そして、それこそが「あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る」ことになる。その前には「曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。」ともある。すばらしい表現だと思う。
Isaiah 59:21 これが彼らと結ぶ私の契約である――主は言われる。/あなたの上にある私の霊/あなたの口に置いた私の言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/その子孫の子孫の口からも/今より、とこしえに離れることはない/――主は言われる。
直前には「贖い主がシオンに来る。/ヤコブのうちで/背きの罪から立ち帰る者のもとに来る/――主の仰せ。」とあり、「贖い主」が来る世界を描いている。これが、イザヤが、神様から受け取ったとする、御心のなる世界なのだろう。「私の霊」まさに御心(主のこころ)「私の言葉」とあるが、それもまさに、御心なのだろう。御心がわたしたちの上にあり、私達が語る言葉も御心。わたしは、どう表現するだろうか。このイザヤ書の表現は、本当にすばらしいと思う。
Isaiah 60:1 起きよ、光を放て。/あなたの光が来て/主の栄光があなたの上に昇ったのだから。
「あなたの光、主の栄光」から、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(マタイ5章16節)を連想した。その光の発出源がどこなのかというよりも、主の栄光との結びつきと関連させて理解すべきだろう。神の国が近いことが、見て取れる。マタイでは、さらに、具体的である。おそらく「あなたがたの立派な行いを見て」を、皮肉のように取る、すなわち、不可能なことと理解する人もいるだろうが。不完全ながら、素直にとる方法もあるように思う。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(マルコ5章34節)と言われる方なのだから。
Isaiah 61:1,2 主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために。
「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4章18節・19節)はこの箇所からの引用と思われる。イザヤ書では、シオンの回復預言であるが、イエスは、ナザレで、この聖書の箇所から「この聖書の言葉は、今日、あながたがが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4章21節b)と語っている。神の国が近づいたことを、このように証言しているのだろう。捻じ曲げられた引用も新約聖書にはあるように思うが、これは、おそらく、イエスの真正の証言そのとおりなのだろう。
Isaiah 62:1,2 シオンのために、私は口を閉ざさず/エルサレムのために、私は沈黙しない。/その義が光のように現れ/救いが松明のように燃えるまで。国々はあなたの義を見/王たちは皆、あなたの栄光を見る。/あなたは、主の口が定める新しい名で呼ばれる。
この章の最後は「彼らは聖なる民、主に贖われた人々と呼ばれ/あなたは、尋ね求められる女/見捨てられることのない町と呼ばれる。」(12)とあり、イザヤ書記者が見た御心が、このように表現されていると見てよいだろう。引用句からは、正直に書くと、主の声なのか、イザヤ書記者の声なのかわからない、シオン、エルサレムへの熱愛(想い焦がれる気持ちだろうか。うまく表現できない)が感じられる。それがかえって、リアルでひしひしと迫ってくるように思う。一人の、真理の、御心の探求者の姿が。
Isaiah 63:17 主よ、なぜあなたは私たちを/あなたの道から迷い出させ/私たちの心をかたくなにし/あなたを畏れないようにされるのですか。/立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの所有の民である部族のために。
この章を読んでいて、イザヤ書記者の主との交流、相互性を強く感じた。むろん、イザヤ書記者には、主の声が(すべて)聞こえるわけではない。まさに、探求者として、耳をすますが、それだけの関係ではないのだろうと感じた。もう一つ、感じたことは、根拠が明確なわけではないが、イザヤ書は基本的に、アモツの子イザヤが記者なのかなということである。預言者集団に引き継がれる中で、多少の修正が加わっていったことを否定しないが。引用句の前半、これは、表現は少し変化があるのかもしれないが、一貫しているように思う。
Isaiah 64:3,4 神を待ち望む者のために事をなしてくださる方は/あなたのほかにありません。/昔から聞いたことも耳にしたことも/目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます/喜んで正義を行う者を/あなたの道を進みながら/あなたを思い起こす人々を。/しかし、あなたは怒られました。/私たちは罪を犯し、久しくその罪の中にいます。/私たちは救われるのでしょうか。
「神を待ち望む者のために事をなしてくださる方」に、イザヤ書記者の姿勢がよく現れているように思う。わたしなら「みこころを求め続けるものを導かれる方」と表現したいようにおもう。同時にここには、苦悩も表現されている。「あなたは迎えてくださいます」と始めるが、やはり、そこには、条件があるのだろうということ。そして、自分たちの現状を考えると「私たちは救われるのでしょうか。」となってしまう。イザヤ書記者の問いかけ、これが、相互性の高いものであることを願う。「互いに愛し合いなさい」と、主イエスが言われたように。真理なのか、わたしの単純な独りよがりの願いなのかわからないが。
Isaiah 65:8 主はこう言われる。/「ぶどうの房に発酵しかけの果汁があるのを見たら/それは潰すな、そこには祝福があるのだから」/と人は言う。/そのように、私は私の僕たちのために/そのすべては滅ぼさない。
前の章は「主よ、それでもなお/あなたはご自分を抑えて黙し/私たちをひどく苦しめられるのですか。」(11)と終わっている。このイザヤ書記者の苦悩の答えが、引用句から始まるのかもしれない。残りのもの「私は私の僕たちのために/そのすべては滅ぼさない。」ここまでが、イザヤが受け取ったことのように思う。いずれにしても、イザヤ書の表現は、美しいものが多い。それは、イザヤ(書記者)の生まれ持った、神様から特別に与えられたものなのか。わたしには、それを、丁寧に鑑賞する力もないが、このような苦悩の表現であっても、豊かさを感じさせられる。
Isaiah 66:2 これらはすべて私の手が造ったもの/これらはすべて私のものである――主の仰せ。/私が目を注ぐのは/苦しむ人、霊の打ち砕かれた人/私の言葉におののく人。
イザヤ書最後の章である。引用句の次には「牛を屠る者は、人を打ち殺す者。/羊をいけにえとする者は、犬の首を折る者。/穀物の供え物を献げる者は、豚の血を献げる者。/乳香をしるしとして献げる者は、偶像をたたえる者。/これらの者は自分の道を選び/その魂は憎むべきものを喜んだ。」(3)と続く。一般的に言って、正しい礼拝、犠牲を献げることに、異議を唱えているようだ。主が目を注ぐものとして、イザヤ書記者が書いているのは、みっつ。「苦しむ人・霊の打ち砕かれた人・私(主)の言葉におののく人」どれも、苦しい、辛い状態にあり、新たな一歩は踏み出していないひとのように思われる。その一歩、希望を与えられるのが、主ということだろうか。同時に、主も、同じように「苦しみ、霊が打ち砕かれ、自ら善いと宣言することの重さに畏れ慄いて」おられるのではないかとさえ思う。非常に困難な道を、歩まれる決意をされているから。イザヤは、そこまでは、明言はしないが、目を注いでいる対象は、主と近いのではないかと思わされる。

BRC2019

Is 1:2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
イザヤ書は、イエスも引用され、新約聖書でも多く引用され、救いの預言書との印象があるが、最初は、主に背いたことから始まる。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」(1)とあるが、いつの時代なのだろうか。荒廃した状況の描写から始まる。しかし、荒れ果てた状況にあっても、回復が常に語られているようだ。それは、国の状況の回復ではない。「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。」(27)悔い改めから始まる恵みの御業による贖いである。裁きをとおしての部分は、この時の状況を表現しているのだろうか。それとも、一般的な人類の「(信じない者は)既に裁かれている」(ヨハネによる福音書3章18節)状態を言っているのだろうか。
Is 2:9 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。
ヤコブの家が「異国の子らと手を結んだからだ。」(6b)としてそのことを糾弾しているようだ。嘆いているのかもしれない。「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。」(7)この状態を、引用箇所では「人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。」としている。ひとは、どのようなときに、卑しめられ、尊厳を失うのか。イザヤの目には驚かされる。この章の最初は「終わりの日」の記述から始まり、この状況の中で、そしてそのような中だからこそ「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(4)と終わりの日を表現し「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(5)と激励している。訴えているのかもしれない。ヤコブの家は北イスラエル王国ではなく、南ユダ王国も含むのだろうか。異国との同盟なしには、滅ぼされてしまうときだったことも確かである。特に、アッシリアは強大になっている。イザヤは、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされるBCE722(ユダ王国アハズ王の時代)に生きていたようである。時代的なことも考えさせられる。
Is 3:4,5 わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。
「見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。」(1)から始まる。この裁きによって起こることの記述に驚かされる。「気ままな者が国を治め」「民は隣人どうしで虐げ合う。」そして「無礼」。政治的、社会的、倫理的混乱だろうか。ただ、このすべてのことをイザヤは「主なる万軍の神は」として語っている。また、イザヤ書と向き合うことができることを幸せに思う。
Is 4:1 その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。
「シオンの男らは剣に倒れ/勇士は戦いに倒れる。」(イザヤ3章25節)と直前にあり、男がいなくなっている状況がわかる。同時に「主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。 主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い/彼女らの額をあらわにされるであろう。」(イザヤ3章16,17節)の裁きとしても表現されているのだろう。詳細はわからない。しかし、表現は豊かである。
Is 5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
このたとえは、二つの面から、よくはわからない。一つは、主のなされることで、主は原因をご存じなのではないかと言うこと、二つ目は、責任を、ぶどうに問うことの理不尽さである。このあとの推移からは、主はなすべきことをすべてした、となっている。神との関係は、いくら譬えだとは言え、少し異なるのではないだろうか。
Is 6:11,12 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
「ウジヤ王が死んだ年のことである。」(1a)と始まっている。BCE742年のこととされる。アハズ(735年 - 715年)の時代にアッシリアに隷属、次のヒゼキヤ(715年 - 687年)時代に、アッシリアのセナケリブに攻められる。そしてユダ王国がバビロンに滅ぼされ、最後の王となるのはゼデキヤ(597年 - 587年)のときである。北イスラエル王国が滅亡したのは BCE722年。この背景のもとで書かれている。しばらく、安泰だった時期もあり、イザヤのことばが現実になったとはっきり言えるまでには、まだ、150年もある。「かたくなに」するメッセージ(9,10)に対して、「主よ、いつまででしょうか。」と問う、重さを感じさせられる。その間の歴史も思い描きながら。
Is 7:1,2 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
北イスラエル王国滅亡には、南ユダ王国も荷担したと言われており、単純ではないが、北イスラエル王国との兄弟げんかのようなものが、アラムという大国を巻き込んで始まっている。背景には、アッシリアの脅威があるのだろう。「その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。」(20)を見ても、アッシリアの前に、危険を察知していたことがわかる。預言者として、まだ民が理解する前に、先を見て、警告しているのかもしれないが。不安なときの行動が問われている。
Is 8:3,4 わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」
「主はわたしに言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と。 」(1)から始まっている。この時期に、アラム(首都はダマスコ)とイスラエル王国(首都はサマリア)が同盟を結んで、ユダ王国を攻めてきている。背後のアッシリアも強大になっているときであると思うが、ここでは、そのことは書かれていない。イザヤも部分的に理解していったのかもしれない。しかし「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という言葉を受けて、そのことが何を意味するか、考えたのだろう。このことばの実現は、まだ先のことだったかもしれないが、歴史の事実ではなく、より本質的なその奥にあることを、女預言者と、その子と生活しながら、毎日考えたのかもしれない。それが預言者なのだろう。
Is 9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
アラムとイスラエルの攻撃が大きなダメージとはならなかった時かどうかは、わからないが、この時点で、単に、その戦いに限らず、壮大な、主の救いの御業と、さばきについて、預言している。まさに、このなかで、主がより普遍的なこととして、なにを伝えようとしているかを、考えていたのだろう。そのうけとったものを、言語化している。学ぶべきは、預言が成就したかどうか、この預言者の背後に主がおられるかどうかではなく、このように、主のみこころを求める姿勢、より本質的なことを見ようとする生き方なのかもしれない。しかし、一つ一つの言葉に驚かされる。
Is 10:20,21 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。
「残りの者」の救いがイザヤの預言の特徴の一つである。「残らなかったものは」と聞くことは自然だろう。さばきは、動かしがたいことだったのだろう。二つのことを考えた。ひとつは、永遠のいのちのメッセージがまだないこと。すなわち、死は、絶対的に生と分かつものであること。もうひとつは、神のめぐみをつたえる神の救済の全体的提示なのではないだろうか。欠点を考える良い、ここから受け取れるメッセージを考えるべきだろう。イザヤが受け取ったこと、信じて頼ったことから、希望を受け継ぎたい。
Is 11:6-8 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」(1)から始まる。一般的に、救い主預言だとされる。どのような救い主かが書かれ、引用箇所に至る。こころから驚かされる光景である。同時に、救いの範囲は、イザヤにとっては「残されたもの」である。「地の四方から」(12)とは言われているが、中心には「エジプトの地から上った日に/イスラエルのために備えられたように/アッシリアに残されていた/この民の残りの者にも、広い道が備えられる。」(16)アッシリアである。限界を、はっきりと見ながら、この預言者が受け取った者から学びたい。
Is 12:1,2 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
救いのときに、このように考えるのだろうが、主は変わらないのかもしれない。このあとに「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」(3)と続く。美しい表現である。イザヤの特徴のひとつのように思われる。最後は「シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」(6)とあるが、シオンに集中していることが気になる。シオンに住まない一般の人はどうなのだろうか。「シオンに住む」は、広い意味なのだろうか。
Is 13:19 バビロンは国々の中で最も麗しく/カルデア人の誇りであり栄光であったが/神がソドムとゴモラを/覆されたときのようになる。
「アモツの子イザヤが幻に見た、バビロンについての託宣。」(1)とあるが、このときのバビロンはどのような状況だったのだろうか。当時は、アッシリアの時代で、そのことが繰り返されている。アッシリアをバビロニア王朝に含める見方もあるようだが、聖書の記述からは、ユダが滅ぼされる時代までそのような記述はないように思われる。ここでは、バビロンという町について言っているのだろうか。いつか、しっかり学ぶ時を持ちたい。
Is 14:1,2 まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり/ヤコブの家に結び付く。もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。
イザヤは、主との交わりの生活の中で、主はどのような方で、どのようなことをされるかを確信したのだろう。それが、預言となっても現れる。引用箇所などは、わたしは、読み飛ばすようにしていた。イスラエル中心であること、諸国民を奴隷として自分のものとすることを、救いの一部としていることからである。イザヤの視点からは、それは、とても自然だったのだろう。それを、あげつらっていると、イザヤから学ぶことはできない。
Is 15:1 モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。
この章の最後には「ディモンの水は血に染まる。わたしが、ディモンに災いを加え/モアブの難民とアダマの生き残りの者に/獅子を送るからだ。」(9)近隣の国・民族とは様々な交流、紛争、思いがあったろう。さばきを思うと同時に、隣人も主が憐れまれることを確信するのは、困難なのかもしれない。自らを思い見る前に、主との契約と長い歴史があり、それが選択肢を広げることもあるが、狭めることもあるのかもしれない。
Is 16:10,11 わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくなり/わたしは喜びの声を終わらせる。それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレスのために/竪琴のように嘆く。
「わがはらわたは・・・嘆く」とある。単に、悲しい状況になることを言っているのだろうか、それとも、本当に嘆いているのだろうか。はらわたに感じるほどに。「それゆえ、わたしはヤゼルのために/また、シブマのぶどうのために泣く。ヘシュボンよ、エルアレよ/わたしは涙でお前を浸す。お前の果物の取り入れと麦の刈り入れに/鬨の声が襲いかかったからだ。」(9)ともある。さばきとしての滅びを、この預言者は、どのように受け取っていたのだろうか。
Is 17:13,14 国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。
「災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。」(12)このどよめきは、なにをあらわしているのだろうか。ダマスコ(アラム)とエフライム(北イスラエル)の滅びをこの章では語っているようだ。正直詳細はよくわからない。預言者は、どよめきのときの主の働きもみているのかもしれない。現代は、そして、いまは、どのような時なのだろうか。イザヤはどのように、見るのだろうか。
Is 18:1,2 災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。
クシュは Wikipedia によると「クシュ(Kush)は現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。」とあるが、他の資料(ネット上にも多数)を見ると、起源や繁栄の時期など諸説あるようだ。現在のエチオピアの地域と同一視して、クシュはエチオピアとする場合もあり、わたしも基本的にはそう思ってきたが、詳細は、よく調べる必要がある。奥地にあることで、アッシリアなどの影響は限定的だったのかもしれない。しかし、国際的交流の広さに驚かされる。日本のような極東の島国にいるのとは、世界観もかなり異なるのだろう。イザヤを含めて、預言者の視野の広さも、このあたりに背景があるのかもしれない。
Is 19:24,25 その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。
イザヤの視野の広さに驚かされる。「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。」(23)とある。中東を見ると、ものごとをどのように理解したとしても、いまも、この状況にはほど遠い。これは、単に、イザヤの願いだったのか。おそらく主との交わりをもっていた、イザヤからすると、主がなされることとして、明らかだったのだろう。わたしたちは、これをどう受け取ったらよいのだろうか。
Is 20:6 その日には、この海辺の住民は言う。「見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」
「海辺の住民」が、エジプトやクシュ、そしてアッシリアという巨大王国とは別に、重要な時代だったようだ。正確にはわからないようだが、ペリシテやツロなどを含むもともとは海洋民族で王国の盛衰にも大きく影響したと言われる。どのように評価するか難しいのだろう。この時代からフェニキア人の地中海での活動がまた活発化しているという説もあるようだ。背後にある地中海沿岸の歴史も学んでみたい。それにしても、イザヤの身を挺しての預言、驚かされる。
Is 21:11,12 ドマについての託宣。セイルから、わたしを呼ぶ者がある。「見張りの者よ、今は夜の何どきか/見張りの者よ、夜の何どきなのか。」見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ/もう一度来るがよい。」
「今は夜の何どきか」は、朝が待ち遠しくて寝ていられない。夜が早く去って欲しい。という表現なのではないだろうか。その夜を見張っているものもいることも興味深い。人生でそして、世の中が、真っ暗と感じるときなのだろう。夜警は「もう一度来るがよい。」としか答えられないとしても、辛い期間なのだろう。夜明けが近い明け方が一番暗いという。
Is 22:5 混乱と蹂躙と崩壊の日が/万軍の主なる神から来る。幻の谷に、騒音が響き渡り/山に向かって叫ぶ声がある。
「その日」(8, 12, 20)はいつのことなのだろう。「その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」(20,21)に現れる、ヒルキヤの子エルヤキムは、ヒゼキヤのときに、アッシリアのセナケリブに攻められたときの人のようである。(列王記下18章18節)すると、引用箇所の「混乱と蹂躙と崩壊」は目の前にあることなのかもしれない。「ユダの防備をはぎ取った」(8)もそのときに符合する。時が記されていないと、どのように理解するか混乱する。通読ではなかなか深くは読めない。
Is 23:10 娘タルシシュよ/ナイルのように、お前の国を越えて行け/もはや、遮るものはない。
この章にはティルスについて書かれ、シドンも現れる。海の民の都市国家としてティルスは歴史上も有名であるが、タルシシュ(Tarshish)(1,6,10,14)は、「タルシシュの船」(1, 14)として聖書に何回か現れる(列王記上10章 22節、22章49節、歴代誌下9章 21節、詩編48編8節、イザヤ書2章 16節、イザヤ書60章9節、エゼキエル書27章 25節)。いつか調べてみたい。海洋民族で、似た名前のいくつかの候補はあるようだが、不明のようである。聖書のなかだけでなく、海の民は、歴史的にほとんどわかっていないが非常に大きな影響を与えた様である。むろん、民族ではなく、ひとくくりにはできないのかもしれないが。イザヤの時代のグローバルな人たちなのだろう。不思議な存在である。
Is 24:4,5 地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。
世界は揺れているように見える。倫理的な基準も揺るがされ、なにが正しいのか見えなくなっている。正しさだけでは、互いに愛し合うことは困難であることも、認識しはじめているように思う。異なる多様なひとたちが、互いに受け入れるためには、正しさを根拠とすることが困難だからだろう。ここでは、混乱の理由は「彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。」とある。そうなのだろうか。しかし、そうかもしれないとも思う。根本的と思われる、いのち、肉体的なものだけでなく、ひとが生き生きといきることを育むことについても、相対化されるのは、おかしいとも思う。性のことや、こども、家族はどうなのだろう。どうしたらよいのかよくわからない。
Is 25:4,5 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。
このあとに「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」(8)ともある。引用箇所は、日々の労苦の中での慰め、和らぎ、そして、「死」。死は、当時はもっと身近にあったのかもしれない。こどもの死亡率が高く、生まれたこどもが成人するのは、率がひくかったろうし、争いで亡くなることも。そして、弱いものは、苦難に遭うものには、救いはないのではないかと思われたのかもしれない。今も、同様の状況とも言えるが、異なる部分もある。わたしたちは、主の恵みをどのように表現するだろうか。
Is 26:12,13 主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。わたしたちの神なる主よ/あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは/あなたの御名だけを唱えます。
わたしは、主に信頼している。そして、平和の源だと考えている。しかし、その根拠は薄弱でもある。いままでそのようにして生きてきて幸せだったからだろうか。そうかもしれない。後半には「あなた以外の支配者が我らを支配しています。」とあるが、もしかすると、わたしの人生を支配しているのは、主ではなく、主以外の支配者なのではないだろうか。不安にもなる。不安さを抱えて生きることも、ひとの歩みの一部であるのかもしれない。結局わたしも「主よ、苦難に襲われると/人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと/彼らはまじないを唱えます。」(16)と同じ存在なのだろうか。主を求めることも、まじないも、あなた以外の支配者に支配されていることなのだろうか。
Is 27:5,6 そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす。
主との和解。それは、信頼することの質を転換することだろうか。具体的には、よくわからない。ただ、後半をみると、やはり、イスラエルの地上での回復が言われているように思われる。これを、イザヤの限界とみるのか、それとも、和解による回復の象徴なのか、あるいは、実際のことなのか。わたしには、わからない。
Is 28:1 災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は。その麗しい輝きは/肥沃な谷にある丘を飾っているが/しぼんでゆく花にすぎない。酒の酔いによろめく者よ
北イスラエル王国は、もうすぐアッシリアに滅ぼされる。それを、南ユダ王国はどう見ていたのだろうか。アッシリアはすでに南ユダ王国にとっても脅威であったはずだ。北を売ったとも言われている。しかし、北には預言者もおり、信仰深いひとたちもいただろう。たしかに、たくさんの問題があった。イザヤはどう考えていたのだろか。北イスラエル王国の滅亡を。そして、南ユダ王国の行く末を。「それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」(16)イザヤはここに立っているのだろうか。よくわからない。
Is 29:19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
イザヤには、裁きと、回復が繰り返し現れる。イザヤの中で、それは、何を意味していたのだろうか。苦しんでいた人々、貧しい人々、正しいものだけと言っているのでもないようである。「心の迷った者も知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。」(24)混乱してしまう。
Is 30:1 災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが/わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが/わたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。
ここに原因が集約されているようである。「彼らは先見者に向かって、『見るな』と言い/預言者に向かって/『真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ/我々の前でイスラエルの聖なる方について/語ることをやめよ』と言う。 」(10,11)のような状態が実際に蔓延していたかは不明であるが、イザヤに聞かない状況はすでに、存在していたろう。そのことと、引用箇所は一致しているのだろうか。わたしもたしかに反逆の民なのかもしれない。主によるかどうかは、不明でも、主に聞くものでありたい。
Is 31:2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。
正直、この感覚はない。主がどのように働いておられるのか確信がない。イザヤの言うように、「災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。」のだろうか。「主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。」ことは真実としても。神の個別的介入についても、求め続けたい。どのようなものなのか、どのようにされるのかと問いながら。
Is 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。
「見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。」(1)と始まる。「正義が造り出すもの」に懐疑的であったが、おそらく、それは、正義を道具として権力を振るい、はっきりしないことなどを絶対化し、正当とすることに拒否感があるからだろうか。正義はもっと良いものなのだろう。平和を造り出すのが正義、とこしえに安らかな信頼を生み出すのが、正義なのだろう。このような正義を求めていきたい。
Is 33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。
もう少しまともにこのことばと向き合ってみたい。この章は「都に住む者はだれも病を訴えることはない。都に住む民は罪を赦される。」(24)で終わっている。病が罪のゆえとはされていないが、罪を赦されることと関係はしているのかもしれない。苦しみやいたみが病を引き起こすこともあるのだから。主の裁きはどのようなものなのだろうか。
Is 34:16 主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。
明確には書かれていないが、ジャッカル(14)や、ふくろう(11,15)などは、主のコントロールのもとにあるが、人間は、決めることができるように、造られたというのだろう。おそらく、注意深く、明言はせず、「主の書に尋ね求め、読んでみよ。」とのみ言っている。本来なら、自然を見よといいそうなものだが。人間とは、どのような存在で、イザヤはどう考えていたのだろうか。
Is 35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
「主は言われた。『行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。』 」(6章9,10節)「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。 」(42章18節)に対応しているのだろうか。イザヤには、目や耳に関する記述が多い。「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。 」(29章18節)イザヤは、どのような世界を見ていたのだろう。
Is 36:19,20 ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」
「カルノはカルケミシュと同じではないか/ハマトは必ずアルパドのようになり/サマリアは必ずダマスコのようになる。 」(10章9節)と対応しているようである。サマリアは、北イスラエルの首都であり、ヒゼキヤの時代には、すでに滅ぼされている。このように、並べ立てられ、「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」(10)と主の名も出されている。状況的には、八方ふさがり、evidence based や、データサイエンスでは、よい結果は考えられない。このときに、主に寄り頼む源泉はなになのだろうか。相手も、ヘブル語を使い、語りかける、恐るべき相手である。
Is 37:26 お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を/瓦礫の山にすることとなった。
イザヤは、何を見ていたのだろうか。シオンの滅びと、救い。両方を語っている。将来的には、滅びること、しかし、いまはそのときではないとして、最大の窮地において、救いを見せることで、人々を訓練しているのだろうか。自分の問題として考えたとき、本当によくわからない。
Is 38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない、と。
わたしは、地上での命と、約束された永遠の命はつながっているように信じている。しかし、このヒゼキヤのことばのように、「命ある者の地にいて主(の働き)をみること」と「人(と共なる営み)を見ること」を喜びとしている。その意味で、ヒゼキヤと同じ価値観に立っているのかもしれない。最近、三人の友人が突然亡くなった。特に二人は、一瞬だった。ほかの人にも、そして自分にもそのようなことはあり得るだろう。上に掲げた、二つのことをこれからも喜びとして、一日一日をていねいに生きていきたい。日々弱っている、もう一人の難病の友とも共に。
Is 39:1 そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。病気であった彼が健康を回復したことを聞いたからである。
なぜ、このようなことが起こったのだろうか。列王記20章12節に同じ記事がある。歴代誌下32章31節には以下のようにある。「しかし、バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた。」この奇跡はヒゼキヤの病のことか、アッシリアに征服されなかったことか不明だが、後者かもしれない。諸外国は、すでに、外交的に、かなり進んでいたことがわかる。信仰者は、ヒゼキヤのようであって良いのだろうか。
Is 40:1,2 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
福音書にも何度か引用される有名な箇所である。イエス様は、これをなんども読み、ご自分の召命を確信していったのかもしれない。エルサレムに中心があり、シオン、ユダ、ヤコブ、イスラエルと出てくるが、これを、イエス様は、どう読まれ、どう受け取られたのだろう。イザヤが見えていなかったことを、最初から見ていたのだろうか。それとも、イザヤを通して、その向こう側をみたのだろうか。イエス様とともに、味わって読みたい。
Is 41:1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。
なぜ、島々なのだろう。国々の民が、島々にたとえられているようだ。島々は、地中海で、このころに、重要な意味をもっていたのか。歴史的に「海の民」の活躍は語られているが、あまりに不明なことが多い。アッシリアや、バビロンなどではないところが不思議である。「島々は畏れをもって仰ぎ/地の果てはおののき、共に近づいて来る。」(5)ともう一度、出てくる。イザヤ書の「島々」をリストする。24章15節、40章15節、42章4節・10節・12節、49章1節、51章5節、59章18節、60章9節、66章19節。「遠い国々よ」(49:1)とあり、イザヤにとっても、未知の存在だったのかもしれない。
Is 42:24 奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。
この章は、ゆっくり学んでみたい。主の僕について「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(3)とその性質をあげ、さらに「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。」(18,19)とイザヤ書の中心的な枠組みの中で、主の僕について語る。そして引用箇所である。このときには、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、捕囚になっている。それも、かなり残酷に。南ユダ王国は、かろうじて、滅亡を逃れている。引用箇所に続く最後の節が悲しい。「主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(25)
Is 43:10 わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。
「わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。 」(3,4)とある。これだけを見ると、イスラエルへの偏愛とも言えるような表現である。12節には、引用したことの「証人」であることが語られている。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(21)にもある。購った理由はここにあると言っているのだろう。それが、キリスト教においては、イスラエルに限らず、購われた者へのメッセージだと理解されていると思われる。どのような解釈が許され、適切なのか、やはり単純ではない。
Is 44:8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
この「あなた」は文脈からは、「わたし(主)の僕ヤコブ」(1)だろう。しかし、そのように、聞く人は多くなかったかもしれない。イザヤはこのメッセージを受け取り伝えている。孤独ではなかったかもしれないが、信じ切るのは、簡単ではなかったろう。わたしが今、最良を望むとか。最悪をおそれるとかとは、異なるのだろう。信仰とは、何なのだろうか。
Is 45:1 主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。
キュロスの名前は、前の章の最後にある。「キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。 」(44章28節)これを、どう解釈するか不明であるが、キュロスに主が働いて、帰還を許したと皆が信じたことは確かだろう。ユダヤ教の信仰をもっていたわけではないキュロスに、違った見方はなかったのだろうか。これを、イザヤが書いているとすると、イザヤは、何を信じていたのだろう。
Is 46:3,4 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
このあとに、偶像のことが語られ「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。」(7)とある。実は、ヤコブの家こそが、主に負われていると言っているのだろう。痛烈である。そして「あなたたちの老いる日まで/白髪になるまで」は今ではとても身近に感じる。主のみ手の内に生きていることを、背負われていることを覚えていたい。倒れそうなときだけでなく、いつのときも。
Is 47:10 お前は平然と悪事をし/「見ている者はない」と言っていた。お前の知恵と知識がお前を誤らせ/お前は心に言っていた/わたしだけ/わたしのほかにはだれもいない、と。
ひとは、厚顔無恥に生きてしまう。人前でのいいわけを持ち、他者への説明の知恵で自らを欺きながら。自己中心から逃れるには、絶対他者との出会いが必要なのだろうか。主の前に生きることを求めたい。謙虚に。
Is 48:6,7 お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。自分でもそれを告げうるではないか。これから起こる新しいことを知らせよう/隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたと/お前に言わせないためだ。
この内容は定かではない。「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ/地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。」(20,21)について語っているのだろうか。すでに、44・45章で、キュロスのことは、語っている。このあとにある、主のしもべのことだろうか。どのように、文脈としてつながるのかよくわからない。
Is 49:25,26 主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしが、あなたの子らを救う。 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ/新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。すべて肉なる者は知るようになる/わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う/ヤコブの力ある者であることを。
ほんとうに、そのような時は来るのだろうか。正直、それとは、逆に進んでいるように思う。おそらく、ヤコブとは、イスラエルとは、シオンとはについて、理解しないといけないのだろう。それらから離れられないことが、イザヤの限界なのだろうか。世界をみているイザヤにしても。正直よくわからない。
Is 50:10,11 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。
1-3節はよくはわからないが、民はまだ主のものであることを表現しているのだろう。そのあと、主の弟子について、4-9節に描かれており、この章の最後が引用句である。たしかに「闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする」かと聞かれて、はいとは言えない。やはり自分の松明に頼っているのだろうか。否定はできないが、肯定もしたくない。
Is 51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。
シオンにしか目は向いていないのか。シオンを責める者の救いはないのか。もし、そうなら、世界の救いはないだけではなく、互いに愛し合うことは困難であるように思う。記者は、しかし、主に信頼する者の希望を、このように表現しているのだろう。それを、責めることはできない。
Is 52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
「見よ、ここにいる」は、インマヌエル「神が我らと共におられる(インマヌエル)」(8章10節、参照:7章14節、8章8節)ことと通じているのか。しかし「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。 」(1)などを見ると、いつのことなのかと思う。この章も、新約への引用が多い。しかし、その実現をかぞえる読み方は、狭いように思う。イザヤがみた幻をまずは受け取りたい。
Is 53:4,5 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イザヤはこのことばをどのように得たのだろうか。主との深い交わりの中で、他に正しさによる救いを見出し得なかったのかもしれない。人の罪を深く知っている故に。しかし、それにしても、わたしたちの病や痛みを担い、神の手にかかり打ちたたかれたのだと見えるような存在。そこに、主の救いを見る。驚かされる。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」はあまりに明確だ。聖書を、キリストをここだけの集約してしまうことに反発は感じるものの、イザヤの伝える真理の深さに圧倒される。
Is 54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。
当時は、女性にとって子を産むかどうかは、祝福されているかどうかと近いものだったのかもしれない。この後に続く「あなたの天幕に場所を広く取り/あなたの住まいの幕を広げ/惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。あなたは右に左に増え広がり/あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ/荒れ果てた町々には再び人が住む。」(2,3)を見ると、ある程度は想像が付く。しかし、おそらく、理由がわからない理不尽さが、背景にあるように思われる。いまも、他の形で、存在しているのだろう。祝福の本質は、どのように表現したらよいのだろうか。
Is 55:8,9 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
イザヤがこのように言い切れるところが美しいと思う。不可知を意味しているというよりも、われわれの思いも及ばないことを主に帰しているのだろう。しかし、その高さを垣間見ることがなければ、人間には意味がないだろう。それは、イエス様を通して見ることができるのだろうか。それとも、日常的な経験を通してだろうか。
Is 56:1,2 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。」(8)とあり、いつのことかと考えてしまう。捕囚帰還後なのだろうか。引用箇所は、救い、恵みとある。そこに正義が語られている。「恵みの業を行え」とは、具体的にどのようなことを伝えているのだろう。字面をみると「安息日を守り、それを汚すことのない人」につながっているように思われる。恵みの業は、主の業なのだから、それに預かることは、主の業に励むことなのだろうか。いのちを与える業だろうか。続けて考えてみたい。
Is 57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
この章は「神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。」(1,2)と始まる。世の評判や評価ではない、主がどのような方であるかにより頼むことが語られているのだろうか。その主の恵み深さは、個人的に、そして、歴史の中で、他者の歩みとあかしを通して、受け取れるものなのだろうか。自分自身を省み、ひとのあゆみから学び、他者とともに歩むことのなかに、主の恵みを見出して生きる者でありたい。
Is 58:6,7 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
3節から断食・苦行について書いてある。マタイによる福音書の6章のイエスのことばを思い出すが、イザヤの言葉も、なんとも、すごい。このあとの祝福も。このところ、STAY HOME [SUNDAY] が Covid-19 関連で叫ばれているが「安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら 」(13)もじっくり意味を考えてみたい。イザヤは、いまならどのように「喉をからして叫(ぶ)」(1)だろうか。単なる正しさではないものを語りそうな気がする。家にいて何をするの?気になっている人に手紙を書いたり、なにかできることはないのかな。
Is 59:15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
悪を行うとは、とても、悪いことをすることのように思ってしまうが、58章の断食のように、ここでも「正義の行われていないこと」が悪だという。正しさを中心におくことに、躊躇はもちつつ、やはり、なにをわたしは、躊躇しているのかもっと深く顧みなければならないとも思う。主の御心、真理を求めるとは、深いこと、そして果てしないこと。
Is 60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。
なにか、すごいことが言われているようだ。想像もつかない。そしてこの章は「最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。」(22)で終わっている。こんなことを、想像できることに驚かされる。わたしには、とても、見ることはできない世界である。こころが清くなく、二心だからだろうか。
Is 61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
わたしは、貧しい人でも、打ち砕かれた心をもっているともいえないように思われる。捕らわれ、つながれていることは、おそらくそうだろうが。イザヤが好まれ、愛読される理由は、このような恵みのことばに関係しているのだろう。イエスにおいて、それが実現しているようにも、思われるから。ユダヤ教のひとたちにとっては、どうなのだろうか。イザヤは。むろん、トーラーのみを読む人たちもいるようだが。
Is 62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
このあとには「諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。」(2)と続く。シオン、エルサレムを特別なものとしている。イエスの嘆きとは異なる。しかし、このような文言から、シオニズムを掲げるひとたちを責めることはできない。「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。」(11,12)とあるのだから。ただ、わたしは、それを、いまは受け入れない。イザヤも、我々の仲間、人間だとみているから。神から受け取ったものを伝えてくれると共に、すべて完全に文字通り正しいとはしない。いろいろな受け取り方があることも、否定できない。
Is 63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。
「主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。」(8,9)も深い言葉である。救いについての深い理解。しかし、同時に、主に背き、逆らう民(10)。この構図にたいして、イザヤは引用句を訴える。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」とあるが、イザヤが、民の苦難を自分の苦難として受け止めていることもあるのだろう。これが、裁きと救いの主を見、高慢な民に悔い改めを求めると共に、希望を捨てない信仰者イザヤの姿を見る。
Is 64:1 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。
目に浮かぶような秀逸な表現である。しかし、現実は、自ら(ユダヤの民)の荒廃した状態が背景にある。「わたしたちの輝き、わたしたちの聖所/先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ/わたしたちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。」(10,11)やはり、バビロン捕囚のあとの荒廃があるのだろう。「わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。」(5)と自らのことを表現している。イザヤにも、迷いがあるのかもしれない。主の御心が見えない。
Is 65:22,23 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。
当時の苦しさ、理不尽を思われていたことが浮かび上がる。おそらく、ここにあることの逆が起こっていたのだろう。報われない世界である。しかし、祝福の世界は、完全な因果応報でもないと思う。「(主を、)喜び楽しみ、喜び踊る。」(19)ことなのだろうが、正直、何が、シャローム(完全な祝福のよる平安)なのか、わたしには、よくわからない。
Is 66:1,2 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
神とは、人とは、結局、よくわからない。説明を付けることはできるかもしれないが、創造主の顧みるのが「苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」であると言う。不思議な関係である。イザヤはどう思っていたのだろう。「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。」(22)と結びの段落にあるが、イザヤの時代には、このことを望のがやっとだったのかもしれない。

BRC2017

Is 1:10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
このように呼びかけているが、文脈から、おそらく、ユダの人たちに語っているのだろう。そして、このような、表現は、ユダの人たちにとっては、聞きたくないものだったろう。これを、聞くことができるには、どうしたらよいのだろうか。自分の罪を十分自覚できていないときに。それが、当たっているかもしれないという、謙虚さしかあげられない。
Is 2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
このあとに「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 」(4,5節)と続く。主の光の中を歩むことは、主の教え、みことばを聞くところから始まると言っているのだろう。その先に、主の平安が待っている。主が高く上げられるのだから。そこに希望を持って歩むことを意味しているのだろうか。
Is 3:15 何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。
神に逆らうこととは「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした。 」(14b)とあるように、貧しい者を虐げること、それが、神を畏れないことなのだろう。罪と言っているのは何なのだろう。
Is 4:2 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。
「その日」についての記述が続く。1節には、子をもてない女のことが書かれているが、4節では「裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い」そしてそのあとは「昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火」でエルサレムが覆われること「昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。」と続く。生き残ったものの栄光とは何なのだろう。出エジプトが意識されていることは確かだろう。主の若枝は、イエスを指すと考えて良いのだろうか。丁寧に読んでいきたい。
Is 5:7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。
神義論の議論には、いかず、人の責任を問うている。当時の人も、応答として、主との関係の中での正しさ、人の側の責任という感覚を持っていたと言うことだろうか。丁寧に考えてみたい。
Is 6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。」とあり「いつまででしょうか」に対して語られている部分である。ここまで、見えていたのだろうか。とくに「ウジヤ王が死んだ年」に。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」(5節)などと言える謙虚さも、あるだろう。あまり予言としての言説に引っ張られない方がよいかもしれない。いつか書かれたかは、不明なのだから。
Is 7:20 その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。
予言の理解は難しい。イザヤにしても、示されていたことが、あとに、はっきりとしてきて、それが神からのものであることを確信した面もあるだろう。もう少し、違う面を、読み取らなければいけない。
Is 8:9,10 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。
この章の全体的な預言はもう少しじっくり読まないと理解できない。しかし、インマヌエルは、民族主義とは、独立に、安心のもと、そして、それは、畏敬、おののくこととつながっていたように思われる。
Is 9:15,16 この民を導くべき者は、迷わす者となり/導かれる者は、惑わされる者となった。 それゆえ、主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るからだ。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。
「主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。」などということがあるのだろうか。そのような状態になることは、あるかもしれないが。それは、指導者の責任なのだろうか。他に原因を求めるべきなのだろうか。
Is 10:27a その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛は砕かれる。」
これが幸せと考えるのは自然だろう。しかし、イエスの答えは少し違っている。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)わたしは、完全に軛が砕かれるより、イエスの軛を共に負いたい。重荷は取り去られず、重荷を負いながら、休みが与えられる場所があればよい。
Is 11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
思い出すのは「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ2:25)を思い出す。このあとに、具体的なことが続く。しかし「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。 」(イザヤ11:4,5)がイエスの活動の中身なのかと問われると、少しずれを感じる。
Is 12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
救いの泉から水を汲むとは、何を意味するのだろうか。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネ4:14)を思い出す。水を汲むとは、神が与えられるいのちに生きることだろうか。ユダヤの地に住む人にとっての、水は、特別なのだろう。そして、それは、日々生かすものである。
Is 13:10 天のもろもろの星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かさない。
主の日、裁きの日の描写である。救いと同時に起こることを表現するのは、難しいのだろう。そして、一般恩寵と、特別恩寵を、ともに、主の日に表現することは。考えさせられるテーマでもある。
Is 14:2 もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。
このあと、イスラエルを虐げたと考えられる民族への裁きが続く。この一節でそれを責めるのは問題だとしても、おそらく、あまり疑問なしに、逆転について、記したのではないだろうか。救いとはなにか、普遍的な神のみこころはなにかを求めることはとても難しい。同じ地平での逆転を考えるのが自然だから。
Is 15:3 巷で、人々は粗布をまとい/屋上でも広場でも皆、泣き叫び、嘆きくずおれる。
いまのシリアのような状態だろう。そして、それは、世界の何カ所でも繰り返される。それが、神からのものだとすると、その背後に神がおられるとすると、ひとは、どのように考えたら良いのだろうか。痛みを感じる。それが、神の痛みでもあると考える以外に、わたしには、方向性すら、分からない。
Is 16:11 それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレスのために/竪琴のように嘆く。
「モアブの栄光が終わる」(14)ことのなかで、「そのとき、ダビデの幕屋に/王座が慈しみをもって立てられ/その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。 」(5)ダビデ王朝の確立と、そして、上の引用箇所が書かれている。心が痛んでいる。これは、主のことば(13)とされているので、主の心なのだろう。イザヤが伝えようとしたこと、神の裁きが何を意味するのか、単純ではないのかもしれないと思わされる。そして、おそらく、一部しか、イザヤは理解できていないこともあるのだろう。
Is 17:10 お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。
「ダマスコについての託宣。『見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫の山となる。』 」(1) 今までも、アラムそして、現在のシリアのダマスコは何回も瓦礫の山となってきただろう。そして、そのシリアには、多くのキリスト教徒もいる。おそらく、ユダヤ教徒もいるのだろう。「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。 」(7節)にもあるが、総じて、混乱した状況が語られている。この一つ一つから、どのようなメッセージを受け取るべきなのだろうか。わたしは、ある理解を得ることができるのだろうか。
Is 18:3 世界の住民、地上に住むすべての人よ/山に合図の旗が立てられたら、見るがよい/角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい。
「災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。」(1)から始まり、クシュ(エチオピア)への裁きのように思われる。しかし、主が何をされるのかは、不明である。そして、最後に「そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。」(7)となっている。無理には、解釈しないほうがよいのだろう。預言の成就の有無に心が捕らわれてしまう可能性もあるから。
Is 19:22 主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。
このあとには「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。 」(3)と続く。エジプトとアッシリアは当時の巨大な二大勢力だったのだろう。すなわち、その間に挟まれたイスラエルがどうなるのか、預言者は主の御心を求めている。神をあがめるようになること。エジプトも、アッシリアも関係なく。そして「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。 」(24)普遍的な救いを求めていることは分かるが、聖書をどう読めばよいのか、正直よく分からない。この預言者の真摯な御心を求める姿を読み取ればそれでよいのだろうか。
Is 20:1 アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い、これを占領した。
「アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚を引いて行く。若者も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行く。 」(4節)とエジプトとクシュがアッシリアに敗北する預言が記されている。史実的には、はっきりしないようである。現在では、イザヤがこれをいつ書いたかを特定することは、不可能であろう。その上で、どのようなメッセージを読み取るべきかは、注意を要する。個人的な理解と、普遍的な理解をわけることは、簡単であるが、難しい。歴史の中で、神を求める人が、どのように、伝えているかを、丁寧に見ていきたい。
Is 21:2 厳しい幻が、わたしに示された。「欺く者は欺き続け/荒らす者は荒らし続けている。上れ、エラムよ/包囲せよ、メディアよ/わたしは呻きをすべて終わらせる。」
「バビロンの陥落」(9節参照)と表題にある。アッシリアの首都は、ニネベだろうか。現在のイラクのモスルとのことである。つい最近まで、Islamic State が占領していた地域で、クルド人が住んでいる場所である。しかし、ここで語られるのは、バビロン。アッシリアが滅ぼすとは書かれていないようである。もう少し、基本的な知識がないと、理解できないのだろう。
Is 22:11 二つの城壁の間に水溜めを造り/古い池の水を入れた。しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず/遠い昔に都を形づくられた方を/見ようとしなかった。
内容を十分理解できるわけではない。具体的なことと関係しているのだろう。おそらく、ある知恵を用いて、ここで言われている工事をしたが、本質的なことが見失われていることが言われているのか。宮廷の家令シェブナの罷免、ヒルキヤの子エルヤキムの任職に関する記述と、かなり具体的なことに言及している。そのような場で働いていた預言者。困難も、十分経験していただろう。記者は何を見ていたのだろうか。
Is 23:15 その日が来ると/ティルスは、一人の王の生涯に等しい七十年の間/忘れられているが/その七十年が終わると/ティルスは遊女の歌にうたわれているようになる。
ここでも「その日」について書かれている。新共同訳では46件出てくる。「その日が来ると」は引用した以外に二回、27:12, 13。ティルスのような海洋民族の都市国家を理解するのは難しかったろう。しかし、そのような町の人たちが、大きな影響を与えたことも確かだろう。イスラム教の興りの一要素でもある。ティルスについて学んでみたい。
Is 24:1 見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。
4節には「地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。」ともある。引用箇所は、それを、為されたのが、主であると、書かれている。神義論を語るときの、一つの問題がある。正直、わたしには、わからない。このことの、背後に神がおられることを、否定すれば、神の存在すら、否定することにつながる可能性もある。肯定すると、主権は理解できても、神の性質については、よく分からなくなる。
Is 25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
これに続く、9節も含め、預言者の中にある、または、預言者が表現している、救いと望ましい状況を見て取れる。まずは、死を滅ぼすこととある。新約の世界の永遠の命とは、少し違うように思われる。悲しみは亡くなるのだろうか。イエスとともに生きることは、悲しみを背負って生きることとつながっているようにも思われる。神があがめられること、神の栄光が表現されているならば、そうかもしれないが。難しい。
Is 26:7 神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
3節には「主への信頼」が平和へと結びつくことが書かれている。引用箇所は「神に従う者」である。従うことは、信頼なしには、あり得ないし、信頼するといっても、従わなければ、実質は得られないのだろう。「主イエスに従う」とわたしは表現したい。そして、様々なことがある日常の中で、その道は平ら、その道はまっすぐ、そして平和だと告白できると思う。
Is 27:2,3 その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
主が守っていて下さることは、良く見えない。しかし、ここでは「見事なぶどう畑について喜び歌え。」ともある。「その日」とあるが、救いの日は、今日なのかもしれない。26:7 で告白したように、毎日が救いの日なのだから。
Is 28:1 災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は。その麗しい輝きは/肥沃な谷にある丘を飾っているが/しぼんでゆく花にすぎない。酒の酔いによろめく者よ
なぜ「酔いどれ」「酒の酔いによろめく者」と表現されているのだろう。3節にも、7節にも現れる。正気になっていない。自分の状態が分かっていないと言うことだろうか。自由を、酔うことに使ってはいけないと言うことなのだろうか。もう少し理解したい。
Is 29:18,19 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
実際に聴覚障害者、視覚障害者について言っているのだろうか。11節・12節のように「封じられているから」聞こえない、読めない野ではないだろうか。ここでも「書物に書かれている言葉すら」とある。聴覚障害者が聞こえるようになり、視覚障害者が見えるようになるのはそのさきがけ、象徴なのかもしれない。
Is 30:16 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。
たしかに、主の御心を求めず、自分で行動してしまうことが多い。"The first duty of love is to listen.” などの言葉も、このことと近いのだろう。見える必要を満たそうとする。全体が見えていないにもかかわらず、そして、それを見ようともせず。
Is 31:8 アッシリアは倒れる/人間のものではない剣によって。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす。彼らは剣を恐れて逃げ/その若者たちは労役に服す。
「人間のものではない」とあることも、超自然的なと言う意味ではなく、想像もしていなかった、想定外のということなのかもしれない。人は本当に、なにも分かっていないのだから。
Is 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。
このことが受け入れられないのは、わたしが、人の世界に「正義」はないとの強い確信を持っているからである。それだけではなく「正義」が平和を造り出すと考えるところから、平和ではなく、争いが生じるからである。では、ここでは、何を言っているのだろうか。おそらく「正義」の内容が異なるのだろう。旧約聖書における「正義」について、ゆっくり学んでみたい。
Is 33:6 主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
ここで「あなた」と書かれているのが、特定のひとなのか、どうか、文脈からも判断しにくい。ここでは「時」「知恵と知識」「救い」「主を畏れること」「宝」と続く。みな、美し言葉である。抽象的に過ぎるともいえるが、魅力も感じる言葉である。
Is 34:4 天の全軍は衰え/天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ/いちじくの葉がしおれるように/その全軍は力を失う。
6節には、エドムと書かれているが、もろもろの国(1)すべての国(2)とあり、全地におよぶように読める。驚かされるのは、ここにその裁きによって「天の全軍は衰え」とあることである。命をすり減らす行為なのだろう。神の軍隊であっても。痛みを伴うからか。
Is 35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
このあとにも「そのとき」について語られる。わたしたちは「そのとき」をどう表現するだろうか。それは、神様をどのように、認識しているかにかかっている。自分たちの苦しさについて、どのように、理解しているかにもかかっているだろう。自分のことばで「そのとき」について書いてみたい。
Is 36:11 エルヤキムとシェブナとヨアは、ラブ・シャケに願った。「僕どもはアラム語が分かります。どうぞアラム語でお話しください。城壁の上にいる民が聞いているところで、わたしどもにユダの言葉で話さないでください。」
4節から始まる、ラブ・シャケの言葉は痛烈である。この箇所から、それは、ユダの言葉(おそらく、ヘブル語)で語られたとある。単に、民衆が理解できる言葉というより、民衆の心に届く言葉で語ったと言う方が正しいだろう。外交官としても、優秀である。アッシリアは、残酷なイメージが強く、占領した国の間で民を移住させるなど、乱暴な支配方法が語られるが、急激に強くなる国には、それなりの優秀さがあったのだろう。「なぜこんな頼りないものに頼っているのか。 」(4節)は、今のキリスト者への挑発でもあるように思う。多くのことを考えさせられる箇所である。それが、異質なものとの出会いがもたらすものなのだろうが。
Is 37:7 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」
イザヤの言葉である。神がアッシリア軍を追い返すことが預言されている。主に頼ることの大切さを述べていると通常はとるが、主はもっと深いことを計画しておられたように思う。イザヤにも気づくことができなかったことを。寛容さをもって、ゆるし、一人でも多くが、悔い改めをするとともに、もっと大きなことを学ぶことも、願っておられたのかもしれない。ひとは、そこに目を向けることが困難ではあるが。これからの、様々な歴史、ひとの営みをみている私たちは、もう少し多くのことを学ばないといけない。
Is 38:4-6 主の言葉がイザヤに臨んだ。 「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、 アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」
主は、全体に対する配慮をしておられるとすると、この最後の部分も重要なのかもしれない。しかし、ヒゼキヤをみていると、その意識は薄い。個人的な救いのみを求めていることが、このあとの歌からも読み取れる。イザヤはどのように見ていたのだろうか。
Is 39:7 あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」
これを「ありがたいものです」と受け入れる。やはり、ヒゼキヤ、この当時の、傑出したリーダーの信仰も、そこに留まるものであることを、ヒゼキヤの信仰を評価しつつも、イザヤは記しているのかもしれない。ひとは、成長しなければならない。
Is 40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。 」(27)との見方に、抗うかのように語る預言者の言葉である。神への信頼は、その偉大さを見通す目と同時に、自分には、見えていないことを告白する、謙虚さだろう。神との関係のなかで、常に、力が与えられていると言うことだろう。信仰は、関係性と表現したほうがよいのだろう。
Is 41:6,7 彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。 職人は金工を励まし/大鎚を振るう者は小鎚を使う者を励ます。ひとりが据え付けて、良しと言うと/ひとりは釘を打って動かないようにする。
助け合いに、引かれた。「この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。 」(4)とあるように、背後に主がおられるのだろう。それを、伝えているとも言える。イザヤの目は、何を見ていたのだろうか。真摯に謙虚にもとめ続けていたことは確かなのだろう。イザヤについて、もっと学びたい。
Is 42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。
なにを言っているのだろうか。ひとつは、耳の聞こえない人、目の見えない人と同じような状況にあることは伝えている。それだけだろうか。「わたしが信任を与えた者ほど」をみると、それだけでは、ないように思われる。このあとの、21節には「主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。」とある。興味深い。
Is 43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。
主が共におられること。そのことを、このように、表現している。驚かされるとともに、単なる言葉遊びではないようにも思われる。わたしは、主が共におられることをどのように表現するだろうか。
Is 44:21 思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。
24節には「あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方」とある。創造者としての神が記されているが、引用箇所は、関係である。内容はこれだけではよく分からないが、関係性の方が普遍性が高いように思われる。否定できない現実があるから。
Is 45:7 光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。
闇について調べてみたい。イザヤは、この闇も神が創造したとしている。それとも、光であるゆえに、闇が生じたのか。神が光であるのひとつの帰結なのか。光についての認識を、イザヤに求めるのは酷であろう。
Is 46:13 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。
最終的には、このことを、イザヤも求めていたのだろう。そこから自由ではいられない。普遍性は、愛から遠いのだろうか。普遍的愛を日常的に感じながら、共有しながら、生活することはできないのだろうか。
Is 47:13 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。天にしるしを見る者、星によって占う者/新月によってお前の運命を告げる者などを/立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。
確かに草なのかもしれない。自分では分からないから、助言を求める。しかし、それに翻弄される。だからといって、自分で考えることには限界がある。神に頼ることなのだろうが、その先は見えない。互いに愛し合うこと、それが、神様との交わりとつながっているなら、希望は持てるのかもしれない。
Is 48:1 ヤコブの家よ、これを聞け。ユダの水に源を発し/イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。まこともなく、恵みの業をすることもないのに/主の名をもって誓い/イスラエルの神の名を唱える者よ。
神の名が、神の意思に反して、用いられる。それは、いつの時代でも、同じかもしれない。この章では、それに対する、神の応答が書かれている。神の応答といっても、イザヤが信じる表現であるが、真剣に神をもとめたひとまたはひとたちの応答と言っても良いかもしれない。自分勝手に、神はないといい、あるときは、神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのかと責任を神に負わせる。とても、難しい問題が背景にあるように、思われる。
Is 49:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
この章の始めに新共同訳には「主の僕の使命」とある。また、引用した節に引き続き「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。」と続く。イザヤはそれは自分のこととまでは考えなかったとしても、そこに、自分を投影していたように思われる。神の主権のもとにある、僕のひとり。その僕がどのような姿なのか、イザヤは尋ね求めたのかもしれない。自分とは、少し距離をおいたところに置いて。
Is 50:10 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。
イザヤはこれに、「わたしがここにおります」(6章8節)と答えるのではないだろうか。「闇の中を歩くときも、光のないときも」これは、イザヤが経験していることなのだろうか。現代もそのように感じられるかもしれない。その中で、ひとは続く11節にあるように「自分の火の光に頼って」進んでいく。
Is 51:17 目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。
イザヤの声が聞こえるようだ。とても熱いものを感じる。高揚感のようなもの。祈りの中で、神との交わりのなかで与えられているのか。わたしは、どうしても、冷めてしまう。信仰者のこのような面をどう理解し、わたしは、どのように歩んでいったら良いのだろうか。
Is 52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
ここでいう「あなた」とは誰だろうか。ここだけで考えると「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。」(1,2)とある、エルサレム、滅ぼされるシオンなのだろうか。略奪され、奴隷としてひいて行かれる。何度も読んでいるイザヤ、何も分かっていないように思われる。
Is 53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか」とある。真理は後に知られていくことを言っているのかもしれない。同時に、10節には「彼は、子孫が末永く続くのを見る。」とある。しかし、わたしは、また、預言の成就を見つけ歩いているように思われる。どのように、読むかは注意しながら、丁寧に読んでいきたい。
Is 54:5 あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。
この章は「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。」(1)から始まる。不妊は、離婚の理由になったのだろうか。少なくとも、イスラエルと神との関係においてはそうではなかったかもしれない。しかし同時に、造り主の妻であれば、子をもうけることは、神の子を得ることだったかもしれない。そのようには、なっていなかった。ということが背景にあるのだろうか。イスラエルの回復を、イザヤはこのように表現する。理解しにくいことではある。
Is 55:7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 」(1ヨハネ1章7節)ここに、基本的な部分があるように思われる。
Is 56:2 いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
ここであげられているのは、安息日である。イエスがそのときに、癒したことは、大きな衝撃だったのだろう。それもまた、安息日を守る精神「正義を守り、恵みの業を行」う(1)ことではあるが。
Is 57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
なにか低いところと高いところがつながっている。「へりくだる(shaphal)」low, humble A. low (in height) B. low (in station), humble (of condition or spirit) C. humiliated D. lowly (as subst) 打ち砕かれては、神に打ち砕かれるのだろうか。よく考えるとますます分からなくなる。
Is 58:6,7 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
(社会正)義と慈善による愛の行為は、つながっていることが表現されている。神の御心と考えれば、当然であろう。同胞の理解も、イエスによって普遍的になっている。表現は、少しずつ変化して行くのだろう。イザヤの表現の重さも同時に感じる。イザヤの見ていたものをわたしも共に見たい。
Is 59:1,2 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
主は、望んでおられる。永遠の命を与えることを。それを、妨げているものがある。ここで罪とは、具体的なことが考えられているだろう。しかし、それが隔てていることは確かである。
Is 60:14 あなたを苦しめた者の子らは/あなたのもとに来て、身をかがめ/あなたを卑しめた者も皆/あなたの足もとにひれ伏し/主の都、イスラエルの聖なる神のシオンと/あなたを呼ぶ。
この考えが、自然なのだろう。しかし、本当に、神様の御心なのだろうか。これが、神の御心なら、わたしは、聖書の信仰を受け入れられない。そうではなく、イザヤも、完全には、悟っていなかった、真摯に、真理を求め続けた、神のひとであったが、と理解したい。間違っているのだろうか。
Is 61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
「報復」は、ここにも出てくる。9.11のときの衝撃がいまも生々しい記憶として残っているが、次の節の「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」にもつながっているのだろう。その時点で、排他的ではない(inclusive)といっても、この考えに立ち向かいたくなってしまう。わたしも、よく理解できていないと言うことなのだろう。
Is 62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
あまり「彼女の正しさ」に捕らわれない方が良いかもしれない。しかし、それが、神からの正しさと解釈するとしても、違和感が残る。同時に、イザヤ記者の時代に、理不尽な屈辱的な圧迫があり、それに対して「彼女の正しさ」と言っているのだとも思われるが。
Is 63:19 あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
この表現を「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のこと」(1章1節)とするのが無理があるとするよりも、アッシリアだけでなく、バビロン、または、捕囚までも、視野に入れて読むのが適切だというのは、当然だろう。そのなかで、イザヤ記者は、神の御心を真摯に求めながら、どのような世界を見ていたのだろうか。「天を裂いて降ってください」文学的表現というより、切望する痛みを負った預言者の心が伝わってくる。
Is 64:8 どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。
混乱した状況が書かれている。イザヤ書記者にも、困惑があるのかもしれない。どうしたらよいのかと。その叫びが伝わってくるように感じる。神のあわれみ以外に、神が目を留めてくださり、いのちを与えてくださらなければ、救いはないとの確信を持ちつつ。
Is 65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
イザヤ書記者は、この告白に至る。これを、神の御心として。それが、簡単、それしかないと思われる。しかし、イエスは、そうではなかったのではないだろうか。このあとに、痛みがなく、苦しみがなく、無駄な労苦をしない世界が描かれているが、今の世界のあとに、そのようなものを造ることが、神の御心なのだろうか。美しい言葉が続くが、イザヤ記者が到達した限界のようにも、感じる。
Is 66:5 わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
新しい天と新しい地の創造を通しての完全な救いの宣言(65章17節)のあともなにかすっきりしない状況の記述が続く。そして22節には「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。 」とあり、最後は引用はしないが、おぞましい状況で閉じられている。イザヤ記者にも、迷いがあるように見える。主に求めることが明確にならない。救いを具体的に表現できない。イエスを待たなければいけない面と、それで、良いのかもしれないと考える面とがある。わたしには、本当にわからない。

BRC2015

Is1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
有名なことばだが、神に希望をおくのは、全能とするのは、ここに根拠を持っているように思われる。悔い改めやり直すことができる。そのようにさせてくださる。それは、9節の「もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。」にもつながっているのかもしれない。わずかでも残された神様の意図。
Is2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
この幻を見たのか、それとも言葉だけだろうか。そこへの道筋が見えたわけではないだろう。それを告げ、主への信頼を促すのが預言者のつとめなのか。わたしはそのような善いことをされる神に信頼したい。
Is3:1 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。
人的資源も、食料も取り去られることが宣言されている。そしてそれをなされるのは、主なる万軍の神である。たんたんと、幻を、預言をしているが、大変な状況であることがわかる。それを、どれほどの人が、受け止めたのだろうか。
Is4:1 その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。
このあとに「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」とある。生き残った者がごくわずかという表現が、この1節の背景にもあるのだろう。15年ほど前の映画「Left Behind」では、残された者の苦悩が焦点であったが。文化的背景の違いと理解して善いのか、それとも、不変な真理があるのか。
Is5:1,2 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
かなりイザヤ書の最初は、飛ぶ。これがいずれ一貫性をもつようになるのか。興味もある。
Is6:8-10 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」
いくつもの本質的なことが書かれ、かつ、問いが投げかけられているように思われる。「我々に代わって」神のいくつもの機能を指す用法か。イザヤの言葉は、私が available であることと表現しているものの元となった言葉であるが、ここには積極性がある。そしてそのあとの理解困難な言葉。因果関係とかあることの根拠とは考えない方が良いのかもしれない。神のことばを、人間が本当には理解できるわけはない。新約聖書では「聖霊」つまり神の心によって理解できることになっているが、その恵みに感謝しつつも、肉体に宿るという限界もある。メッセージをうけとり、救いが得られる。そのような単純な構造では無いことが示されているのかもしれない。
Is7:1,2 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
エフライムとは北イスラエル王国、アラムとは今のシリアで、ダマスコという世界最古ともいえる都市を中心とした、三日月型肥沃地帯の先端の王国である。まだ、アッシリアに滅ぼされる前のことである。8節にはかっこつきで「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)」追記もある。そのころの事である。アラムは、隷属で完全には、滅びなかったのかもしれない。興味を惹くのは、1節の終わりに「エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。」とある記述である。要塞都市であったことは確かだが、そこに依り頼んでいたのでは、平安は得られないのだろう。人間のレベルで安全性を考えているから。神に委ねれば安全というわけではない。しかし、神に委ねることが信仰だろう。
Is8:1 主はわたしに言われた。「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。
口語訳には、意味が書かれていなかったので、昔、調べたかもしれないが、意味を知らなかった。子供の名前としては、不適切だと思うが、このあとの預言の内容は、いろいろな要素が含まれているように思う。今まで気づかなかったこととして16節に「わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。」という言葉もある。すでに、弟子たちがいて共に活動していたと言うことだろう。1章の時代とは、変わっていると考えてよいのか。
Is9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
これが福音なのだろう。このあと続く言葉は、どうみても、麗しい言葉ばかりではないが。しっかり受け止めたい。
Is10:’5-7 災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。 神を無視する国に向かって/わたしはそれを遣わし/わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ/野の土のように彼を踏みにじれ」と。 しかし、彼はそのように策を立てず/その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと/多くの国を断ち尽くすこと。
アッシリアも神に対してへりくだらないといけないというのか。その通りだろう。しかし、神の意思が伝えられなくて、ひとはそれを受け取れるのだろうか。それは、イスラエルの価値観ではないのだろうか。一般恩寵から、ひとは、神の基本的な意思を受け取れるのだろうか。そうかもしれない。ある程度は。
Is11:1,2 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
アッシリアの脅威の中で書かれているのだろうか。そのアッシリアの傲慢を非難し、恐れるなと10章では書かれている。それに続いて、この11章である。10節にあるような「その日」の記述はには、驚かされる。これがメシヤ預言。最初は、エッサイの株からスタートする。これは、肉的なつながりを意味しているのだろうか。もしそうではないとすると、なぜダビデのようなとも言わず、エッサイの株、根といわれているのだろう。このことは、キリスト教会においても、系図の論議として、イエス降誕の次第について、長く議論されたことように思われる。預言を字義通りにはとらないということ、または、詩篇のように、神の御心とのシンクロナイズを表現した信仰者の告白ととるのがよいかもしれないが、それは、神信仰の集団が培ってきたものを破壊してしまうことになるのかもしれない。難しい。株(geza: stem, trunk, stock (of trees))は聖書に三回のみ。Job 14:8, Is 11:1, 40:24. Job14:7-9 は友人との議論の第一ラウンドの最後にあるヨブの弁論にある。「木には希望がある、というように/木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない。 地におろしたその根が老い/幹が朽ちて、塵に返ろうとも 水気にあえば、また芽を吹き/苗木のように枝を張る。」これに対して人は死んでしまうとどうなるのかと語られている。エッサイは分からないが、株は分かる気がする。
Is12:1-3 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(Heb11:1)とあるが、まさに、神様に信頼し、「その日」を先取りして、感謝すること、なのだろう。救いの泉は、水たまりではなく、水がこんこんとわき出る場所だろう。
Is13:9 見よ、主の日が来る/残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ/そこから罪人を絶つために。
バビロンについての託宣(1:1)であり、ここには、義が立てられることとして、「主の日」「残忍な、怒りと憤りの日」が語られている。これは、神の本当の願いなのだろうか。神を思うひとの願いではあるかもしれない。それがこのような預言という形式をとる信仰告白として現れる。これも、神の意思とのシンクロナイゼーションの過程なのでは内だろうか。それとも、やはり、神の言葉の宣言ととるべきなのか。難しい。
Is14:24,25 万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。 わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし/わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛は、わが民から取り去られ/その重荷は、肩からはずされる。」
預言とは何なんだろう。神が、直接、ひとの口に言葉を授けると思っていたが、すこし違うように思う。神信仰をもって真剣に生きるなかで、神の心、神の意思との同期を表現したものではないのだろうか。ということだ。そのように言い切ってしまって良いかどうかは分からないが。神の働きを否定するわけではないが、信仰者のより大きな責任を問うものを考えているように思う、私は。
Is15:1 モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。
神の意思をこのことに見いだしたと表現できるのではないだろうか。その目で見たものが実現する。本質を見抜く謙虚な目だからではないだろうか。そして、それこそが神が望んでおられること。もう少し、表現を考えたい。
Is16:5 そのとき、ダビデの幕屋に/王座が慈しみをもって立てられ/その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。
モアブからエルサレム(娘シオンの山)に貢ぎ物と使いをおくって嘆願せよとはじまる。そして、そのあとが、この節である。王朝が弱体化しているときに、一番の願いはやはりダビデ王朝の復興だったのか、と言ってしまってはいけないのかもしれないが、預言について考えさせられる。預言者も完全に神の意思を捕らえることもできないことがあると言う方が自然だから。信仰とは異なるのかもしれない。
Is17:7 その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。
これに続くのは、偶像礼拝をしないという8節。人は、すべての人を意味しているのだろうか。どうしても、それがなかなか信じられない。簡単には、変わらないように考えてしまうから。そこにこそ信仰が必要なのだろう。
Is18:1,2 災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。 彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。
クシュはエチオピアと訳してあるものもある。ノアの子ハムの息子の一人で、その土地をクシュの土地とも呼ぶ。エジプトの南、北スーダンあたりを拠点にしており、BC700年ごろには、勢力が最大となり、エジプトから、スーダンの地域、すなわち、ナイル川流域を支配した国をさすこともあるようだ。まさに、イザヤのころにも、十分な勢力だったのだろう。ただ、海を渡っての海は、地中海だろうか。幾筋もの川で区切られているは、ある行政区に分かれていたと言うことだろうか。不明な点が多い。
Is19:24,25 その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。 万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。
これがイザヤにとっての神の世界観だったのだろう、壮大である。さらにこの前提に神の性質が表れているように思われる。19節20節には「その日には、エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、その境には主のために柱が立てられる。 それは、エジプトの地において、万軍の主を指し示すしるしとなり、証しとなる。もし彼らが、抑圧する者のゆえに、主に叫ぶならば、主は彼らのために救助者を送り、彼らを救われる。」さらに22節には「主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。」とある。そして、23節に「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。」最初に書いたように、当時の世界が、エジプト、アッシリアの超大国、その間にある弱小ユダ王国であることを、考えると、まさに、世界が共に、神を礼拝するのが「その日」である。
Is20:6 その日には、この海辺の住民は言う。「見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」
「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い、これを占領した。」からこの章ははじまり、2節には「それに先立って、主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け。」彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った。」とあり実際にそのようにしたことも書かれている。海辺の民と書かれているのは、アシュドドという町の名前から判断すると、ペリシテの流れをくむ民か。海岸沿いを進んで、エジプトに向かうための戦いだったのだろう。その意味で、(イスラエルまたは)ユダ王国は、無視されているとも言える。その中で、イザヤはエジプトとクシュに対する預言として、奇怪な行動をとる。神に従うことは、完全に意味が分からなくても、そしておそらく本当に神の御心かどうかも分からなくても、従うことなのだろう。
Is21:4 わが心は乱れ、おののきが、わたしを打ちのめす。楽しみにしていた夕暮れは/かえって、わたしを恐怖に突き落とした。
預言者の日常はどのようだったのだろう。この章の内容も良くは分からない。9節bには「倒れた、倒れた、バビロンが。神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた。」との宣言がある。アッシリアの首都はニネベだったのでは無いかと思われるから、これは象徴的な意味でのバビロンか、それとも、新バビロニア帝国を指すのか、将来を見る、それを告げる役割の者の、苦悩をみる。
Is22:25 だが、その日には、と万軍の主は言われる。確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる、と主が語られた。
この章はよく理解できない。少なくとも、後半は、国の要職の人事にも関わっているように思われる。単なる預言の域を出ている。イザヤはどのような存在だったのだろうか。最後がこの言葉である。この世に生きている限り、この世における基盤、頼るもの、すがりつくものは、誰でも持っているだろう。それが抜け落ちるとき、人はどうなるのだろうか。
Is23:6 渡って行け、タルシシュに。泣き叫べ、海辺の住人たちよ。
タルシシュは創世記10:4によると「(ノアの子、ヤフェトの子)ヤワンの子孫は、エリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニムであった。」として最初に現れる。列王記10:22「(ソロモン)王は海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。」(ヨシャファトについては、22:49参照)とある。Wikipedia によると「本来の語義は「精錬所」を意味するといわれている。現在のトルコ地中海岸のタルススとする説とスペイン南部のタルテッソスとする二つの説がある。」となっている。23章にティルスなどと関連して書かれているように、海洋民族のフェニキア人と関連する地で、特に金属などの精錬技術をもっていた場所だと考えられる。ペリシテは、いち早く鉄の精錬をしていた。
Is24:1 見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。
3節に「地は全く裸にされ、強奪に遭う。主がこの言葉を語られた。」似た言葉がある。何を意味しているのか不明であるが、滅ぼし尽くされること、手がつけられない状況がおこることが預言されているのだろう。大きな戦争を予見させられる。しかし、当時の戦争は、大軍同士の戦いではないだろうから、理解が難しい。さらに5節を見ると「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。」とあり、単なる物理的な荒廃だけが語られているわけではないことも分かる。難しい。
Is25:4,5 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。
実質的にも、詩的にも、その通りだと告白したい。つまり、これが、イザヤの神様のイメージ、それが私たちにもつながっているのだろう。細部の預言は分からない。しかし、神様に希望をおくものが、神のみこころを探り続けた記録としては、理解できる。
Is26:3,4 堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
信頼(batach; I. to trust, A. to trust, trust in, to have confidence, be confident, to be bold, to be secure, B. to cause to trust, make secure, II. to feel safe, be careless)が中心である。この章の始めで、堅固なのはエルサレムであるように描かれているが、これは、象徴的なものだろう。どこまでも主に信頼すること、ここに尽きる。それは、神が善い方だととして信頼することとつながっている。
Is27: 1 その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。
悪魔を滅ぼすことが書かれている。さらに2節には「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。」とあり、さらに3, 4a節では「主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。 わたしは、もはや憤っていない。」そして5節「そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」と続く。和解できない理由があるのかもしれない。私たちに見えないところで。単純に、自由意志による罪だけを考えるのは、偏っているのかもしれない。
Is28:15,16 お前たちは言った。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
後半は、新約聖書でも引用されている(マタイ21:42, ルカ10:17, 使徒4:11, エフェソ2:20, ローマ9:33,10:11, 1ペテロ2:6-8)前半から通してみると、ヨハネ8:21を思い出す。「そこで、イエスはまた言われた。『わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。』」この最後は、18「お前たちが死と結んだ契約は取り消され/陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき/お前たちは、それに踏みにじられる。』」である。
Is29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
主のみこころを求めるのはどうしたらよいのだろうか。正直言って簡単ではない。求められるのは、謙虚さと、主のみこころを知ろうとする日常的な営みではないだろうか。あまりにもアバウトである。唇を制御することか。たしかにそれはあるだろう。これは、人に聞く、神に聞くことが重要な要素として含まれているのかもしれない。これは謙虚さのひとつか。心を調べる事か。内省は重要だ。そこでは、人間の戒めを覚え込んだだけかどうかを問う誠実さも必要である。
Is30:9-11 まことに、彼らは反逆の民であり/偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。 彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い/預言者に向かって/「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。 道から離れ、行くべき道をそれ/我々の前でイスラエルの聖なる方について/語ることをやめよ」と言う。
リーダーシップではなく、民自身が反逆の民だと言っている。そしてその最初に語られているのは、神の言葉をもとめようとしない、聞こうとしない態度である。自分を主としているとも言えるだろう。15節「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」の本質もそこにあるように見える。
Is31:2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。
災いをもたらす部分がわかりにくい。神はそれを為されるが同時に、災いをもたらすものを攻められる。神のご性質をもっと学びたい。
Is32:1,2 見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。 彼らはそれぞれ/風を遮り、雨を避ける所のように/また、水のない地を流れる水路のように/乾ききった地の大きな岩陰のようになる。
このあとに重要なことばが続くが、イザヤ時代の理想的な統治がここに述べられている。王や高官たちの理想的な姿である。3000年の間に人が学んだことは重要である。その違いも踏まえるべきだろう。預言者について、考えたい。
Is33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。
「神以外のなにものをも王(絶対的な主権者)とせず」(ICUで使われている「神以外の何ものをも神(絶対的なもの)とせず」からとったもの)が基本なのかもしれない。これは、絶対王政への警鐘であると同時に、民主主義という形態も絶対化しないことともつながる。同時に、ひとが決めていく責任と真摯に向き合うことも重要である。いまのわたしにとっても、このことは、基本だろう。リーダーシップについても学んでいきたい。
Is34:17 主は彼らの分をくじによって定め/御手の測り縄によって土地を分け/とこしえに彼らの所有とされる。代々にわたって、彼らはそこに住む。
「彼ら」は15節のふくろうだろうか、さらに14節の様々な動物が含まれるかもしれない。ふくろうは日本人が通常想像するものと同じであれば、夜活動し、生態が不明なものの代表なのかもしれない。そして、ここには、くじと測り縄が用いられている。想像力豊かである。細部を正確かどうか問うのは野暮だろう。神への信頼「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。」(16節)が読み取れる。
Is35:5,6 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
「そのとき」は1節から4節まで語られ最後に「神は来て、あなたたちを救われる。」(4b)とある。「そのとき」を預言者はみることができたのだろう。そしてそれを見て取ることが主の到来を知る鍵なのだろう。マタイ11:2-6「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。』」
Is36:7 お前は、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『この祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。
ラブ・シャケとはどのような人物だったのだろうか。ヘブル語をあやつる(11節:通訳を使っていた可能性もあるが)民に語りかけるなどして、内部分裂を起こそうとする。7節も高台を取り除いたことに不満を持っていた人もいるだろうから、それを利用してのものだろう。その宗教的な意味も熟知していたのかもしれない。たしかにそれと比較すると、ヒゼキヤの王としての備えは、立派なものとは言えなかったろう。ここでは、主に頼ることの重要さが示される。しかし、おそらく、それで良いわけではない。
Is37:32 エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。
ヒゼキヤの信仰と通常表現されるが、イザヤを通しての神の言葉にも、それをたたえるものは見当たらない。ただ、最後35節に「わたしはこの都を守り抜いて救う/わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」 とあるのみである。一方的な恵みであることがわかる。因果応報を持ち込まない方がよいように思われる。むろん、ヒゼキヤの信仰からも、一信仰者として学びたいが。
Is38:16 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
主は命を与えてください。その命に生きるのがわたしたちちの使命。一方、死の負の面をヒゼキヤは歌として残している。(9節)「わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか/陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない、と。」(10,11節)主を求め、人と関係して生きることに希望があったのだろう。「陰府があなたに感謝することはなく/死があなたを賛美することはないので/墓に下る者は/あなたのまことを期待することができない。 命ある者、命ある者のみが/今日の、わたしのようにあなたに感謝し/父は子にあなたのまことを知らせるのです。主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で/わたしの音楽を共に奏でるでしょう。」(18-20節)命が延びることは、本質的な解決では無いことは知っているのかもしれない。同時に、すべてが感謝と変わるための15年(5節)だったのかもしれない。わたしはどうだろう。命はいつでも取ってくださいというのが正直な気持ちである。もし、神様が私を用いてくださるなら、精一杯生きたいと願ってはいるが。
Is39:8 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた。
難解な箇所である。この章のイザヤとヒゼキヤのやりとりと行動をみるとわかることは、イザヤはさらに遠くを見ていたと言うことである。それが預言者と信仰者の違いかもしれない。しかし、ヒゼキヤは単に信仰者ではない、一国の王である。その責任としての先見性についても、考えさせられる。
Is40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
このことは28節に「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。」とあるように、神様の性質に関係している。それは、力を得ることだけではなく、真理を知ることとも通じる。それが主に望みをおくこと、主とつながることである。
Is41:6,7 彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。 職人は金工を励まし/大鎚を振るう者は小鎚を使う者を励ます。ひとりが据え付けて、良しと言うと/ひとりは釘を打って動かないようにする。
文脈がよく分からないが。ここに助け合い、励まし合うことが語られている。ひとの為すべき事なのだろうか。ピアサポートについて考える。
Is42:18-21 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。 多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。 主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
これは難しいが。とてもこころひかれる。主が遣わす僕は「目がみえず、耳が聞こえない」。そしてここで、そのような者たちに、語りかけている。その人たちが聴衆なのだろう。目が見え、耳が聞こえる人は受け取れないのかもしれない。Is6:9, 10 につながっているのかもしれない。さらに、この章の3節にも。「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(マタイ12:20「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」参照)
Is43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
この章は「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」から始まる。しかし、救済の歴史を考えると、もっと普遍的なものなのかもしれない。この章の記述は、完全に理解できるものではないが、刺激的でもある。4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」なぜ値高いのか。創造されたからか。主のものとしてあがなったからか。(1節)主の栄誉を語る(21節)証人だからか(10節)。ここで理由を問うことは、神の栄光を天から引き起こすことになるのではないだろうか。主が愛してくださる。それだけで十分なはず。それは変わることのない愛。その主に信頼することが、主を愛することである。信頼と愛との関係を言葉表現してみたい。
Is44:3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。
主の働きは主権的というのか、ひとがどうだからどうするというような因果応報の原則ではない。乾いた土地の水が流れとして与えられることと霊を与えることが対比されている。ヨハネ4章、7章を思う。我々はこの驚くべき事の証人である。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。」(8節)これと対比させて「偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。」(9節)このことばで始まる、偶像の無力さの記述がある。記述もいきいきとした躍動感がある。
Is45:8 天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。
この章はキュロス預言から始まる。「主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。」そして主こそが神であることの記述が続く。この8節は、とてもいきいきしている。天地を見て、自然をみて、このように神の業を表現できるのは、素晴らしい。
Is46:3,4 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
このように預言、すなわち確信をもって述べることができる信仰者は幸せ。赤子のように、いつくしんで、背負い、救ってくださる。それが主だ。単純に預言として受け入れるだけでなく、信仰の仲間として受け取り、それを通して、神を賛美することも素晴らしいと思う。
Is47:12 まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。若い時から労して身につけたものが/あるいは役に立ち/それを追い払うことができるかもしれない。
バビロン、カルデアに対する預言である。(1節など)自分が頼りとしているものが、本当に救いとなるかどうか、突き詰めてみることは良いことかもしれない。13にあるように「助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。」結局役に立たないことが分かるかもしれない。では、神信仰はどうだろうか。学んだことは多くある。学んだことと、真理は同じなのだろうか。
Is48:21 主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
彼らは21節の「僕ヤコブ」を直接的にはさすだろう。印象に残ったのは「わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。」(18節)水は、ユダヤ地方に住む人たちにとって貴重なもの、特別なもの、それが「流れ出る」「大河のように」と表現される。神様の祝福の一番わかりやすい表現が「乾くことがない」なのだろう。大河は、エジプトへのあこがれかもしれない。シリア(アラブ)ではなく、エジプトにこころがひかれる背景も見て取れるかもしれない。
Is49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
「わたし」は「わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。」(3節)からすると「イスラエル」となるが、最初に新共同訳の見出しにもあるように「主の僕」ととるのが自然だろう。ここで言われている「主の僕」こそが真(まこと)の「イスラエル」である。しかし、その働きは単純ではない。「わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。」(4節)とあるように、徒労としか思えないような働きである。そうでありながら「裁いてくだっさる(働きを評価してくださる)方への」全き信頼がある。「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は」(5節)この言葉につながり、次が上に掲げた6節である。「だがそれにもまして」にひかれる。預言者が「主の僕」を思い、神の心と同期(シンクロナイズ)していく中で行き着いた表現である。さらにこれは7節・8節へと続く。いつかじっくり学ぶときが与えられるだろうか。
Is50:10,11 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。
最初からわかりにくい。「主はこう言われる。お前たちの母親を追い出したときの/わたしの離縁状はどれか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰か。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され/お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ。」(1節)神の主権のうちにあることを宣言しているのか。最後の10節・11節もそうかもしれない。ひとそれぞれの松明を掲げ、自分の火に頼って行く。これもひとつ裁きなのかもしれない。そうであっても、神の御手の中にある。
Is51:4 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
イエスの言葉にとどまること、すなわち、イエスの弟子であることを通して真理が得られる。それによって真の自由が与えられる。(ヨハネ8:31,32)これは、本当だとおもう。しかし、それ以外のものに救いを求めることは確かである。自分をまずは、第一にしたいのかもしれない。つまりは、罪である。
Is52:13-15 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
53章に続く52章の最後の3節である。イザヤはどのような幻をみたのだろうか。7節で「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」と語られた、その良い知らせである。53章が先にあるのかもしれない。その僕の姿が。
Is53:11,12 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
本当に主は喜んでおられるのだろうか。いまでも苦しんで折られるのではないだろうかと考えてしまう。主は「何が人間の心の中にあるか知っておられるから」(ヨハネ2:25)しかしだからこそ、満足しておられるのかもしれない。主の苦しみを痛みとしているものもいるであろうから。多くの人の命は、それを担われた主のものとして、生かされているのだろう。
Is54:8-10 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと/あのとき誓い/今またわたしは誓う/再びあなたを怒り、責めることはない、と。 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。
様々な苦難をどう考えるのか。預言者は、それを神の思いに照らして綴っている。この災難・苦難はノアの洪水ではないのか。神は「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。』」(創世記8:21,22)後半の自然災害によって滅ぼすことだけに限定するのは、誤りだろう。理由が「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ということだから。では、神はどうされるのだろうか。大きな問いである。
Is55:2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
イザヤは本質を見ている。それが、イエスが引用する回数の多さなのかもしれない。神からの啓示を預言として語り、その預言が成就する。一般的にはそのように解釈されるが、神を信仰するものの、神の心とのシンクロナイゼーションともとらえることができるのではないだろうか。わたしには、それが神の主権を侵すことには思えない。イザヤのように、主の心を求めたい。
Is56:6,7 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。」(1節)イエスのメッセージ「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)とほとんど同じである。このあと、3節に「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」とあり、まず、宦官についての救いが語られ、次に異邦人について語られている。その最後が、マタイ21:13「そして言われた。『こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。』」(マルコ11:17, ルカ19:46)に引用されている。これらは、宮浄めのなかで出てくる場所である。異邦人の庭でのできごとだとおもわれるので、まさに、このことが意識されているのだろう。
Is57:1,2 神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。
これこそ、名もなき、平和を作り出す人。このように生きたい。15節には「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」とあり、さらに16,17節には「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。」ここからは、完全なひとを想定しているのではないことも分かるのではないだろうか。そして18節「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために」詳細は分からない。しかし、これは、1,2節の「あの人」ともつながっているように思われる。
Is58:8-10 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
断食などについて不適切なことが指摘された後で、6節/7節に「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」とありこれに続くのが上の言葉である。これは、原因と結果というような因果関係ととる必要はないだろう。条件というより、まさに、神が望まれる歩みが書かれているのだろう。ヨハネおよびマタイの「世の光」を思い出す。特に印象的なのは、神との近さと、しんがりとなって守られる主だろうか。
Is59:2 むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
これが通常罪と言われているものか。58章で語られている状態の反対の状態に甘んじている。その原因が「悪」だと言っている。預言者のは常に義憤を感じていたのだろう。そう考えると、ますます預言者イザヤについて知りたくなる。
Is60:1,2 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
ここで「光を放て」と言っているのは、文脈からすると、主の栄光が「あなた」を媒体として輝くということだろう。ヨハネ8:12「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」はどうだろうか。そして、マタイ5:13-16のイエスのことば「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」これは、どうであろうか。おそらく、イエスの中では、そんな区別はなかったのではないだろうか。まさに、神の子として生きること、神の心をこころとすることだけなのではないだろうか。そうであれば、光を区別したりする必要は、もうない。
Is61:11 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
とても麗しい光景である。また、前半は、通常一般恩寵として受け取られていること、後半は、特別恩寵。そのような、区別も必要なくなるのかもしれない。人の論理、不完全な人間が、不完全な言語で説明するときの便法なのかもしれない。
Is62:12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。
この章は「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」(1節)と始まる。また「あなたの労苦による新しい酒を/異邦人に飲ませることも決してない。」(8b)などを見ると、あまりにエルサレム、イスラエルに偏った救済に見える。しかし「エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。 また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。」(6,7節)ともある。「わたし」は「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」(61:1)の「わたし」だろう。「主の沈黙」あお招かないために、語り続けることが、語られているのだろう。
Is63:18,19 あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。 あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。▲いにしえから治められない者+あなたが天を裂いて
不思議なマークがある。ここに、預言者の苦悩がある。その中で、主を信頼し、預言をし続ける。歴史を見る「継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。」も痛々しい。主の御心をもとめること、主の御心とのシンクロナイゼーションのチャレンジの大きさを感じる。しかしイザヤはそれに、真っ向から挑戦している。わたしもそのように生きたい。
Is64:4 喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。
非常にシンプルに、表現されている。神が喜ばれる人、われわれの状態、そして神の主権的救い。さらに「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(7節)とある。何度かイザヤ書で現れる、陶工と粘土の比喩である。「しかし」が重い。それにつづく「主よ、あなたは我らの父。」はイエスの感覚を思い出させる。
Is65:8 主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな/そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために/すべてを損なうことはしない。
ぶどうの房の汁から救いを思う。イザヤはつねに、主の救いに思いを抱いていたのかもしれない。1節にはひかれる「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。」マタイ22:8,9「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』」を思い出させられる。
Is66:1,2 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
イザヤ書のしめくくりは、より普遍的なものへの誘いから始まる。この章が書かれたときに、神殿がどうなっていたかは不明であるが、すくなくとも、地上の神殿からは、意識がはなれている。そして、主が顧みるひとについて書かれている。神のいのちを意識しようがしまいが、いとおしく生きている人の姿であろう。18節には「わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。」とある。イザヤが導かれたところなのだろう。驚かされる。

BRC2013

Is1:9 もし万軍の主が、われわれに少しの生存者を残されなかったなら、われわれはソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう。
6章の記事が、再召命なのか、最初の召命なのかを考えながら読んだ。1章は預言書の王道といえるような構成になっている。イスラエルを苦しめる存在への叱責、イスラエルの不従順の告発。しかし、同時に、この9節のように「残され」た者という、イザヤを貫くテーマもすでに現れている。いつか、丁寧に読んでみたい。
Is2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
神の支配のもとにあるという意味で「神の国」ともいえるだろう。これは、そのときを待てば良いのだろうか。我々の中にあるとして、神の働きの中に入ることか。人間が創り出す意識が強くなりすぎるとことはならないだろう。
Is3:5 民は互に相しえたげ、人はおのおのその隣をしえたげ、若い者は老いたる者にむかって高ぶり、卑しい者は尊い者にむかって高ぶる。
まさに人の尊厳が守られていない状態である。それこそが、さばきの状態だということだろうか。構造としては、2:5 で「ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。」とあり、2:6a に「あなたはあなたの民ヤコブの家を捨てられた。」そして、3:1 からは将来のことをいっているようでもある。「見よ、主、万軍の主は/エルサレムとユダから/ささえとなり、頼みとなるもの――すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水――を取り去られる。」あまり過去か、現在か、将来かは関係ないのかもしれない。心はつながったいるから。
Is4:3,4 そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。
新共同訳では「エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる」となっている。汚れは、聖なる者となることを阻害するものなのだろう。人の感覚だろうか。本質が含まれているのだろうか。
Is5:2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。
1節によると「わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。」と始まっている。これは誰なのだろう。そして、ぶどうのことがよくわからないが、いったいどうすると、良いぶどうを植えて、野ぶどうがなるのであろうか。
Is6:9-11a 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。
イザヤのおそらく再召命のときに最初に与えられた言葉である。こんなことを言われたら、失望しかない。イザヤがどう受け取ったかは、明確ではないが、この「主よ、いつまでですか」の言葉にひかれる。神に対する信頼故か。
Is7:14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
マタイ1:23でメシや預言に引用される言葉である。このイザヤでのこの言葉に至る流れが非常に興味深い。まず2節で「時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。」とあり、神からのことばが示され、その後で11節に「『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ』。」これに対して12節で「しかしアハズは言った、『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』。」との応答に対して示された言葉である。特に「陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に」に惹かれた。そのようなしるしが、この預言である。
Is8:16,17 わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。 主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。
この章も内容が非常に多く、とても通読で理解するのは困難である。同時に、イザヤにとっても、言葉を与えられても、その意味をすべて理解することはできなかったのかもしれない。ここで表現されている、弟子たちへの教えと、信仰は、そのような中で、鍵である。
Is9:6,7 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
6節はメシヤ預言としてよく引用される。しかし、それに続く7節を見ると「ダビデの位に座し」とある。ダビデの子と考えられていたのは当然だろう。新約聖書での引用か、それとも、キリスト教での解釈か、丁寧にしらべていきたい。
Is10:1,2 わざわいなるかな、不義の判決を下す者、暴虐の宣告を書きしるす者。彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、わが民のうちの貧しい者の権利をはぎ、寡婦の資産を奪い、みなしごのものをかすめる。
弱い者を苦しめるものということとすると、大学の成績評価などでもあり得るように思われる。飛躍がないように、ていねいに、考えたい。
Is11:3,4 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、 正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
ローマ12:15「またイザヤは言っている、/『エッサイの根から芽が出て、/異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう』。」は1節の引用とすると、やはり治める者である。そう考えるのは自然だろう。
Is12:1 その日あなたは言う、「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。
11章10節から続いている。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。 その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。」ここにも「あがない」が現れる。Mt20:28「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。を思い出させられる。
Is13:17,18 見よ、わたしは、しろがねをも顧みず、こがねをも喜ばないメデアびとを起して、彼らにむかわせる。 彼らの弓は若い者を射殺し、腹の実をあわれむことなく、幼な子を見て、惜しむことがない。
後半は何とも恐ろしい。若い者はかなり若い少年などを想定しているのか、そして妊婦や幼子。メデアは、アッシリア滅亡後の、エジプト、リディア(トルコ)、新バビロニア、メディア(BC715-BC550) の内の一つの王国で、ペルシャのクロスに滅ぼされる。
Is14:2 もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしえたげた者を治める。
v1「主がヤコブをあわれ」まれるときの記述である。正直、これで良いのかと思ってしまうが、あまり善悪で判断しない方が良いのかもしれない。パーフェクトなものは、ひとは受け入れられないものなのだから。
Is15:7 それゆえ、彼らはその得た富と、そのたくわえた物とを携えて、柳の川をわたる。
モアブについての託宣である。しかし、わからないことだらけである。この節は何を意味しているのだろう。
Is16:10 喜びと楽しみとは土肥えた畑から取り去られ、ぶどう畑には歌うことなく、喜び呼ばわることなく、酒ぶねを踏んで酒を絞る者なく、ぶどうの収穫を喜ぶ声はやんだ。
この状態は悲しい。しかし、それは、それなりに、多くの場所に見られるのではないだろうか。恵みと救いを乞い願う。
Is17:10,11 これはあなたがたが自分の救の神を忘れ、自分の避け所なる岩を心にとめなかったからだ。それゆえ、あなたがたは美しい植物を植え、異なる神の切り枝をさし、 その植えた日にこれを成長させ、そのまいた朝にこれを花咲かせても、その収穫は悲しみと、いやしがたい苦しみの日に/とび去る。
「美しい植物を植え、異なる神の切り枝をさし」の結果は、むろん、さした枝の実がなる。逆であれば、そこに良い実がなる。やはり内村鑑三の接ぎ木思想のほうが正しいように思われる。Rm11:17「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、」は接ぎ木について十分理解されていない。
Is18:4 主はわたしにこう言われた、「晴れわたった日光の熱のように、刈入れの熱むして露の多い雲のように、わたしは静かにわたしのすまいから、ながめよう」。
エチオピアは遠いからだろうか。世界観がまだ未成熟で、ユダ中心であるようにも見える。結論は 7b で「万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る。」となっている。
Is19:17 ユダの地は、エジプトびとに恐れられ、ユダについて語り告げることを聞くエジプトびとはみな、万軍の主がエジプトびとにむかって定められた計りごとのゆえに恐れる。
逆転現象だけだとすると、悲しい。ここからの発展を待つ必要があるのだろうか。注意深く丁寧に読んでいきたい。
Is20:1 アッスリヤの王サルゴンからつかわされた最高司令官がアシドドに来て、これを攻め、これを取った年、――
明確にはわからないが、サマリヤ陥落の少し前だろうか。冷静に見ることができるということだろうか。しかし、ここで預言されていることは、なんとも悲しい。さすがにイザヤは嫌われたろう。
Is21:1 海の荒野についての託宣。つむじ風がネゲブを吹き過ぎるように、荒野から、恐るべき地から、来るものがある。
これはバビロンについての託宣ととっている注解(バビロンの地名を表すアッシリヤ語)もあるが、よくわからない。本当に「海の荒野」はバビロンを意味していたのだろうか。
Is22:23 わたしは彼を堅い所に打ったくぎのようにする。そして彼はその父の家の誉の座となり、
これは、20節にある「わがしもべヒルキヤの子エリアキム」のことである。重大であるが、あまりに負担の大きなこのようなことの意味はよくわからない。
Is23:18 その商品とその価とは主にささげられる。これはたくわえられることなく、積まれることなく、その商品は主の前に住む者のために豊かな食物となり、みごとな衣服となる。
ツロの回復のあとの記述である。どうも、偏りがあるように思われる。これで良いのだろうか。
Is24:23 こうして万軍の主がシオンの山/およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前に/その栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。
1節は「見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる。」と始まる。23節は栄光がどれほど大きなものかを表現したものであろう。しかし、しっかりつながってはこない。
Is25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
祝福について書かれているその最初が祝宴、7節は「顔おおいの除去」、8節は「死、悲しみ、恥ずかしめの除去」9節は「民の応答」
Is26:1 その日ユダの国で、この歌をうたう、「われわれは堅固な町をもつ。主は救をその石がきとし、またとりでとされる。
町によって守られるという感覚は日本で育った私にはないが、この節には、その人たちの主の救いに対する信頼が色濃く表現されている。ここで「救い」という言葉を使った理由を考えてみたい。
Is27:15 その日大いなるラッパが鳴りひびき、アッスリヤの地にある失われた者と、エジプトの地に追いやられた者とがきて、エルサレムの聖山で主を拝む。
四散した人たちが、集められ、共に礼拝する、これが望みだったのだろう。
Is28:13 それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。
この言葉と16節の「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。」が神様の側でなされることである。その間で、神に信頼するのは、ひとしかできないことなのかもしれない。
Is29:24 あらぶる者は絶え、あざける者はうせ、悪を行おうと、おりをうかがう者は、ことごとく断ち滅ぼされるからである。
こんなことになるのだろうか。それは、本当の救い、新たないのちのはじまりのように思われる。このあとの預言も丁寧に見ていきたい。
Is30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
待つこと、それは、神に信頼すること、それが、信仰の歩み。神に目を向けるということ、人にはそれが難しいのか。
Is31:1 助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。
信頼するもの。ここに、希望があり、命があるのだろうか。わたしは、どうだろうか。信頼されるとは。大切にされていること。尊厳を守られていること。信頼するのは、最初は、力あるひとのような気がする。しかし、そうではない。「信頼される地球市民」はどのように育まれるのだろう。
Is32:3,4 こうして、見る者の目は開かれ、聞く者の耳はよく聞き、 気短な者の心は悟る知識を得、どもりの舌はたやすく、あざやかに語ることができる。
これは、6:8-10 から解き放たれるときの預言なのか。しかしこの続きを見ると「愚かな者は、もはや尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや、りっぱな人と言われることはない。」などとなっており、示唆に富む。もう少し時間をかけて丁寧に読んでみたい。
Is33:1 わざわいなるかな、おのれ自ら滅ぼされないのに、人を滅ぼし、だれも欺かないのに人を欺く者よ。あなたが滅ぼすことをやめたとき、あなたは滅ぼされ、あなたが欺くことを終えたとき、あなたは欺かれる。
これは本当にわざわい。こんなことを人は求めてしまっている。悲しい。
Is34:8 主はあだをかえす日をもち、シオンの訴えのために報いられる年を/もたれるからである。
911のとき、アメリカのニュースでretariationがすぐ語られたことに強い違和感を感じた。しかしそれは私の方が例外的な考え方をしているのかもしれない。単に、日本の平和教育のせいだろうか。それとも、普遍的な価値があるのだろうか、神の御心につながる。
Is35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
「とこしえの喜び」「楽しみと喜び」わたしの日常とはことなるように思う。喜びはつねにあるが。
Is36:11 その時、エリアキム、セブナおよびヨアはラブシャケに言った、「どうぞ、アラム語でしもべたちに話してください。わたしたちはそれがわかるからです。城壁の上にいる民の聞いているところで、わたしたちにユダヤの言葉で話さないでください」。
13には「そしてラブシャケは立ちあがり、ユダヤの言葉で大声に呼ばわって言った、「大王、アッスリヤの王の言葉を聞け。」と語り始める。ユダの人たちのこころが揺るいだ、これこそが信頼を得る国際人だったのだろう。
Is37:30-32 あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。
回復されることがこのように表現されている。限定的ではあるように思われるが。
Is38:5,6 「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、 アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」
ヒゼキヤの祈りのは非常に個人的な願望であるように思われる。しかし神の側には別のビジョンがある。ヒゼキヤはそれでも次のように表現する。「見よ、わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ/滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて/あなたの後ろに投げ捨ててくださった。」(v17) これは、人間のがわの信仰と、神の哀れみという構図なのか。
Is39:3 預言者イザヤはヒゼキヤ王のところに来て、「あの人々は何を言ったのですか。どこから訪ねて来たのですか」と問うた。ヒゼキヤは、「彼らは遠い国、バビロンから来ました」と答えた。
イザヤには、ヒゼキヤとは違うものが見えていたのだろう。ヒゼキヤはやはりとても個人的。信仰者としは、すばらしいが、神様からの仕事を預託されたものとしては、不十分なのだろう。そしてたとえそうであっても、神はそのヒゼキヤを愛し用いられる。イザヤをも備えて。
Is40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
「草」で表現しているメッセージは、風が吹けばすぐ枯れてしまう弱いもの。そして、野の花のような美しさをひとつひとつが担うもの。ということだろうか。
Is41:20 彼らはこれを見て、悟り/互いに気づかせ、目覚めさせる/主の御手がこれを成し遂げ/イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
「これ」は16節にある「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。」以下をさしているのか。神の哀れみを認めることができれば幸い。
Is42:16 わたしは目しいを/彼らのまだ知らない大路に行かせ、まだ知らない道に導き、暗きをその前に光とし、高低のある所を平らにする。わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。
この下りは、主こそが一番のめしい、耳しいで、それが導くということか。この 42章、どこかでしっかり学びたい。
Is43:16 海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり、
これは、42:16 に対応しているのだろうか。もう少していねいに理解したい。
Is44:17 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。
わたしの信仰もこれと変わらないかもしれない。「余りをもって」ということばは強烈。では、イスラエルはどうなのか。これに対しては、自分自身の義は示されていない。21,22節「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」
Is45:1 わたしはわが受膏者クロスの/右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主は/その受膏者クロスにこう言われる、
これをアモツの子イザヤのことばとする必要はまったくないだろう。人の弱さ故だろうか。単純なものがよい、と考えてしまうのは、なぜだろうか。世の中は複雑なのに、だからこそ単純なものにあこがれをもつのか。真理は単純であっても、限界だらけの人からは、複雑に見えることはたくさんある。
Is46:3,4 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
これらイスラエルを担ったという神と、6,7節の人が担ぐ偶像とが比較されている。3,4節をみて、アーメンと言える経験がイスラエルにはあったということだろう。しかしたとえそうであっても、神に従わず、偶像を拝む、そのことにも圧倒させられる。
Is47:1 処女なるバビロンの娘よ、下って、ちりの中にすわれ。カルデヤびとの娘よ、王座のない地にすわれ。あなたはもはや、やさしく、たおやかな女と/となえられることはない。
「娘バビロン」と同じなのだろうか。単に国や、町に対する以上のものがここで表現されているのだろうか。感覚について知りたい。
Is48:10,11 見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。 わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光を/ほかの者に与えることをしない。
神の言葉であるが、何とも潔い。わたしも、これは、自分のためと言い切れたらなんと、幸せなことだろう。この章の17節には「あなたの利益のため」と発展する。なかなか普遍性がある考え方を学んでいる気がする。
Is49:8 主はこう言われる、「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
圧倒されてしまうようなことば。このような言葉を、ひとが与えられること、聞くことができることにも、おそれを感じる。
Is50:1 主はこう言われる、「わたしがあなたがたの母を去らせたその離縁状は、どこにあるか。わたしはどの債主にあなたがたを売りわたしたか。見よ、あなたがたは、その不義のために売られ、あなたがたの母は、あなたがたのとがのために出されたのだ。
イスラエルは、そして、われわれは、自分から主の前から出て行ったのだろうか。それとも、主が、出されたのか。両方の見方ができるのかもしれない。大切なことは、不義か。どのように表現したらよいのだろう。
Is51:3 主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。
1節は「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」と始まっている。今日の UperRoom の記事は「三つ感謝することを思い出して感謝の祈りを捧げその日を終わる」ということを教えられたかたの証だったが、主のなされたことに目をとめること、それにつきるような気がする。その恵みにそれまで気づかなかった自分にも気づかされる。
Is52:14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――
単なる容姿ではないのかもしれない。その痛みを担うこと、ひとにはみえないのか。
Is53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
全容がわかる訳ではないかもしれないが、とても、重い。すこしでも理解したい。
Is54:2 「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。
このような言葉をみて、一般化するのは、問題である。そのようなことを、いままでどれだけ見てきたいか。いまがそのときだと、どのように求めるのが良いのだろうか。それとも、神はいつもよいことを望んでおられると、ナイーブにポジッティブなことを考えれば良いのか。
Is55:1,2 「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
ヨハネ7:37,38「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。」を思い出させる。そうなのだろうか。
Is56:6,7 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。
Mt21:13 で「そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。」と引用されている。異邦人の庭でのこと。この預言の先取りなのだろう。
Is57:1,2 正しい者が滅びても、心にとめる人がなく、神を敬う人々が取り去られても、悟る者はない。正しい者は災の前に取り去られて、 平安に入るからである。すべて正直に歩む者は、その床に休むことができる。
驚かされる。神様の計画は不思議。
Is58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。
これはわたしの願い、わたしの夢。しかし傲慢だろうか。6節から10節までを丁寧に学びたい。
Is59:1,2 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
イザヤはどのようにしてこのように表現できたのだろう。本質がここにあるように思われる。罪が隔てているとは、このようなことか。
Is60:1-3 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。 もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
マタイ5:16「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」を思い起こさせる。救いの預言、それが今まさに成就しつつあると信じて、その救いの中を生きること。イエスはまさにその救いをみて生きていたのだろう。
Is61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
イエスはこのことばを意識していたろう。そしてこう結ぶ。10, 11節「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。 地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。」
Is62:11,12 見よ、主は地の果にまで告げて言われた、「シオンの娘に言え、『見よ、あなたの救は来る。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その前にある』と。 彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、あなたは『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられる」。
この反対がイスラエルの通常だったのだろう。報いがなく、種をまき、収穫物は、敵のものとなる。そして最後には、捨てられる。鍵は、主にあがなわれたものとなること。
Is63:1 「このエドムから来る者、深紅の衣を着て、ボズラから来る者はだれか。その装いは、はなやかに、大いなる力をもって進み来る者はだれか」。「義をもって語り、救を施す力あるわたしがそれだ」。
これは特別な歴史上の人物をさしているのか。エドムは、近隣の兄弟、そして友好関係を築くのが難しい、存在だったのだろう。モアブ、アンモンと同レベルだったのだろうか。家計的には多少異なるように記されているが。
Is64:12 主よ、これらの事があっても/なお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。
この章のイザヤは揺れているように思われる。預言でも、祈りでもない。魂のうめきのようにも聞こえる。これが生身の人間、神の言葉に預かったものの葛藤なのだろう。
Is65:25 おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。
信じられないようなことというより、想像を絶するようなことという意味なのかもしれない。世界が変わってしまう。それが救いなのだろう。
Is66:2 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
このようにすっきりと言えるのは、成熟している故か。啓示だからとすべきか。


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エレミヤ書

エレミヤ書(1)

エレミヤとその時代について少し書いておこうと思います。

イザヤの時代はアッシリアが巨大帝国となっていった時代でした。このアッシリアに、北イスラエル王国は、滅ぼされます。BC722年のことです。エレミヤはそのアッシリアの全盛時代から、アッシリアの後の中東世界を統一支配したバビロニア帝国の時代の預言者です。最初の1節から3節には次のようにあります。

1:エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。
2:主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、
3:更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
3節にあるように、南ユダ王国は、北イスラエル王国が滅んでからも、辛うじて残りますが、ゼデキヤの時代に、ネブカデネザルが率いるバビロンに滅ぼされ、エルサレムの住民は、捕囚となって連れ去られていくのです。1回目の降伏は、BC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年7月9日です。イザヤ書にも歴史的な記述が現れ、そのなかのイザヤの活動が書かれていましたが、エレミヤ書にはさらにたくさんのエレミヤの活動記録が書かれています。一つの国が完全に滅びてしまうと言うのは大変なことです。エレミヤが活動したのはまさにその時、神の民、神に特別に愛されて、導かれてきた民、それが異邦人の神を知らない民に滅ぼされる。このことは、あらゆる意味で大変な事だったことは、容易に想像がつきます。民がこころから神に仕えていなかったということは、簡単ですが、曲がりなりにも神様を礼拝し、仕えてきた国が、神様を全く知らない国に滅ぼされてしまうのです。そんなことがあっても良いのだろうか、と問いたくなるのは当然です。

「ヨシアの治世の第十三年」とありますが、これは、BC627年のことです。それから、エルサレム陥落のしばらく後までのおよそ50年間のことが記述されています。無論、列王記下、歴代志下にも並行記事が書かれていますし、このあと読むことになる他の預言者、ゼパニヤ、ナホム、ハバクク、エゼキエル、ダニエルの記録からも、当時のことを伺い知ることができます。また、バビロンなどの記録文書もあり、さらに、イエスの時代の少し後の、ヨセフスもかなり詳細にこの時代の歴史について記述しています。歴史的背景を理解しないとエレミヤ記も理解できないことは、確かです。

ここでは、詳しく書く余裕はありませんが、簡単な状況だけを書いておきましょう。東の巨大な王国、アッシリアは、エジプトをも滅ぼした、アシュール・バーン・アプリ王 (BC669-627) の死後急速に衰え、BC612年には、その首都ニネベが、バビロンのナボボラッサル (BC626-605)とメジアの連合軍にによって陥落します。それによって、エジプトも力を回復してきたのが、エレミヤ活動の前半と言うことになります。このナボラッサルのあとを継いだのがネブカデネザルで、巨大なバビロン王国を築いていきます。

この覇者交代の時期にエルサレムで8歳で王になったのが、ヨシアです。ヨシアは、第18年(BC622) に宗教改革を行い (列王紀下22-23章, 歴代誌下34-35章)、列王記下23章25節にも

彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。
と書かれています。ユダがアッシリアに滅ぼされなかったのは、アッシリアの属国的な存在であることを甘んじたからもありますが、アッシリアを撃つために出てきたエジプトの王ファラオ・ネコに戦いをいどみ、ヨシアも死にます。それから暫くして、エルサレム陥落、エルサレムの民は、バビロン捕囚となるのです。エレミヤはそのような時代の預言者と言うことになります。1章の4節からは、エレミヤが預言者として立てられたこと、すなわち「召命」(Calling, Beruf) をうけたことが次のように記されています。
4:主の言葉がわたしに臨んだ。
5:「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
6:わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
7:しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
8:彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
10:見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
このあとには、神様から直接預言の言葉が与えられ、さらに、その意味の解き明かしも示される、預言者訓練とも呼ぶことができるような経験が一章の終わりまで書かれています。

「新聖書注解」いのちのことば社、安田吉三郎による梗概を引用しておきます。

  1. 表題 1:1-3
  2. エレミヤの召命と派遣 1:4-19
  3. ユダとエルサレムに対する災の預言 2:1-25:38
    1. ヨシヤ王の時代の預言 2:1-6:30
    2. エホヤキム王の時代の預言 7:1-20:18
    3. ゼデキヤ王の時代の預言 21:1-24:10
    4. 結び、ユダと諸国民の裁き 25:1-38
  4. エレミヤ後半生の事件 26:1-45:5
    1. 最初の迫害 26:1-24
    2. バビロンのくびき 27:1--29:32
    3. なぐさめの書 30:1-33:26
    4. エルサレム陥落前の事件 34:1-36:32
    5. エルサレムの包囲と陥落 37:1-39:18
    6. エレミヤの晩年 40:1-44:30
    7. バルクの嘆き 45:1-5
  5. 諸国民への託宣 46:1-51:64
  6. 付録・エルサレム陥落とエホヤキンの恩赦 52:1-34
この難しい時代に預言者として神様に召されたエレミヤからは、どのようなメッセージを学ばれるでしょうか。

エレミヤ書(2)

(1)には、エレミヤ記の歴史的背景について書き、エレミヤの召命の最初の部分を引用しました。区切りは明確ではないかも知れませんが、6章終わりまでが、大体ヨシア王の時代です。北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされてから、アッシリヤや、エジプトとの関係をたもっていどうやら国として維持してきた南ユダ王国。ヨシア王は、神殿を中心とした宗教改革もした王でした。

預言者は神のことばに預かるというのが、日本語の意味ですね。未来について語るだけではありませんが、神のことばは、「光あれ」といったときに光があったように、発せられたときにすでにその通りになると考えると、預言者の仕事は非常に重いと言わざるを得ません。こんなこともあるかも知れないから、準備しなさいよなどということとは異なるのです。1章9節-10節に預言者のつとめが語られています。

9:主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
10:見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
25章の終わりまでは、基本的に、ユダとイスラエルについて語られていますが、その内容として最初に語られているのは、次の事です。
16:わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。
アッシリアに滅ばされる脅威が多少うすれ、それなりに、安住している時期にこのことばを語るのです。反発があることは、容易に想像できます。上の箇所につづいて、17節には次のようにあります。後半は、なかなかのチャレンジですね。
17:あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな/わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。
2章11節-13節には、その罪がさらに明確に語られています。
11:一体、どこの国が/神々を取り替えたことがあろうか/しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた。 12:天よ、驚け、このことを/大いに、震えおののけ、と主は言われる。
13:まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
結局神ではなく、自分にたよると言うことでしょうか。さらに、2章18節には、上でも書いた歴史的なことが記されています。
18:それなのに、今あなたはエジプトへ行って/ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って/ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。
3章から4章にかけては、何回も「帰れ」と呼びかけられています。3章14節-15節。
14:背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。一つの町から一人、一つの氏族から二人ではあるが、わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。
15:わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。
エレミヤ書3章 22節
「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。
問題の深刻さを、エレミヤは少しずつ語ります。まず、5章1節.
エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
次に5章30節-31節
30:恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。
31:預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」
そして、この罪は、民全体をむしばんでいると、言うことでしょうか。6章13節-14節。
13:「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
14:彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。
みなさんは、いまのこのなんとなく平和な時代にこれらのエレミヤのことばをどのように聞きますか。 差し迫った危機はないが、なにか将来は明るくない。まだ大丈夫だろう。そんな時でしょうか。

エレミヤ書(3)

エレミヤ18章には、エレミヤの苦悩が表れています。
6:「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。
7:あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、
8:もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。
常に、裁きとともに、悔い改めを預言しますが、反応は、
18:彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」
このときに、エレミヤは次のように主に祈っています。
19:主よ、わたしに耳を傾け/わたしと争う者の声を聞いてください。
20:悪をもって善に報いてもよいでしょうか。彼らはわたしの命を奪おうとして/落とし穴を掘りました。御前にわたしが立ち、彼らをかばい/あなたの怒りをなだめようとしたことを/御心に留めてください。
とりなしもしていたというのです。預言者はなにか、厳しいことを言って、正しさを主張しているだけに見えます。人々から忌み嫌われ、迫害されます。しかし、この後は、憎しみとでも表現できる言葉が続きます。これは、何なのでしょうか。個人的な恨みではないのでしょうか。
21:彼らの子らを飢饉に遭わせ/彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり/夫は殺戮され/若者は戦いで剣に打たれますように。
22:突然、彼らに一団の略奪者を/襲いかからせてください/彼らの家から叫ぶ声が聞こえるように。彼らはわたしを捕らえようと落とし穴を掘り/足もとに罠を仕掛けました。
23:主よ、あなたはご存じです/わたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず/罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう/御怒りのときに彼らをあしらってください。
しかし、19章をみても、エレミヤのトーンは変わりません。ただ、神の言葉を語ることに集中しているようです。これだけ厳しいことを自分の民に言わなければならない、エレミヤの苦悩を痛いほど感じてしまいます。

20章には、パシュフルのことが出てきます。パシュフルは裂く (tear) が語源で、解放するというような意味の名前の様ですが、

1:主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。
2:パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
3:翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。
4:主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。
『恐怖が四方から迫る』これは、厳しいですね。祭司長のような仕事なのでしょうか。民の指導者が、このような恐ろしい名前を宣言される。もう、救いはないのでしょうか。つらい気持ちになってしまいます。しかし、さらにつらいこと、エルサレムとユダに対して、最終宣告とでもいえるような言葉を告げます。23章です。
39:見よ、わたしはお前たちを全く退け、お前たちと父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。
40:そしてお前たちに、決して忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。」
主に捨てられるだけでなく、受け取り方によっては、もっと悲しいことも書かれています。
9:わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。
神を神とも思わないひとにとっても、これは大変な苦痛です。26章では、民の司たちは、これらのことを聞き、エレミヤに死刑を宣告します。それにも、エレミヤは毅然とこたえ、なお、悔いあらためを説きます。
11:祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。「この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました。」
12:エレミヤは高官たちと民のすべての者に向かって言った。「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。
13:今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。
14:わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。
15:ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」
すごい気迫です。預言者たるもののつとめとして、28章には次のように書かれています。
9:平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
なぜ、平和を預言する者については、こう書かれているのでしょうか。みなさんはなぜだと思いますか。わたしは、預言者のつとめは、悔い改めを促すことにあるからではないかと思います。ですから、厳しい預言の場合は、民が悔い改め、その厳しい預言がその通りにはならないことをむしろ願っているのです。しかし、平和を預言するものは、それが成就すること以外に、その預言が神からのものかどうか、立証できるものはないと言っているのではないでしょうか。

この厳しい預言のあと、さばきの後についても預言しています。32章ですが、本当にそんな時がくるのかと、かえって心配になってしまいます。

37:「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。
38:彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
39:わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。
40:わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。
なんとスケールの大きいことかと驚いてしまいます。「一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる」預言が厳しすぎると思ってしまいますが、これを読むと、なかなかこれも信じられない、神様の心と一つとなるのは、なんと難しいことかと思わされます。

34章には、歴代志下36章にも書かれている、ゼデキヤへの預言が記され、35章には、そんな中、神の命令に代々従ってきていたヨナダブのことも出てて来ます。38章、39章には、クシュ人の宦官エベド・メレク(口語:エベデメレク)、38章には、ゼデキヤとの、いろいろと考えさせるやりとりが書かれています。

16:ゼデキヤ王はエレミヤにひそかに誓って言った。「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない。」
この言葉には、なにか勇気を得ます。ここでは「我々の命を造られた主にかけて誓う。」と記されています。人が信頼できるのは、大変な混乱の中、殆ど世の中の終わりのようなときにあたっても、「我々の命を造られた主」という人は信頼できるのではないかと思わされます。

今回は、わたしが日々の聖書箇所から感じたことを抜き書きしているノートから書いてみました。エレミヤ書の預言で大切なことの一つは、バビロン捕囚が70年であって、そのあと、帰還してくるという預言です。そのことを最後に記しておきましょう。全体的に暗い、エレミヤの預言のなかで、ここを好きだという人がたくさんいる箇所、29章です。

10:主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
11:わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
12:そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
13:わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
14:わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
希望がわいてきませんか。みなさんは、どんなことを考えながら、エレミヤ書を読んでおられるでしょうか。


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聖書通読ノート

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Jeremiah 1:18,19 私は今日、あなたをこの全地に向けて/城壁に囲まれた町、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官/祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが/あなたに勝つことはできない。/私があなたと共にいて、救い出すからだ」/――主の仰せ。
エレミヤの預言者としての任命と、訓練が描かれている。このようなことばが時代を超えて残ったことは確かである。直近のことの預言であり、人々にとって切実な喫緊の課題について語ったからだろうか。エレミヤの生きた大変な時代について考えたい。エレミヤと共に。
Jeremiah 2:8 祭司たちも尋ねなかった。/「主はどこにおられるのか」と。/律法をつかさどる者たちも私を知らず/牧者たちは私に背き/預言者たちはバアルによって預言し/役に立たないものに従った。
アナトトの祭司のひとり(1:1)と自分のことを紹介してはじめている、エレミヤが、祭司を非難することからはじめている。さらに「あなたが造った神々はどこにいるのか。/災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら/彼らが立ち上がればよい。/ユダよ、あなたの神々は/あなたの町の数ほどあるではないか。」(28)ともある。当時の状況はどのようなものだったのだろうか。同時に、神礼拝、ユダの宗教はどのようなものだったのか、興味を持つ。わたしたちが持っている、旧約聖書の歴史通りではないにしても、どの程度、神礼拝が浸透していたかも知りたい。
Jeremiah 3:6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての生い茂る木の下に行って淫行にふけった。
ヨシヤ王の時代、すでに、このような状態だったことが、証言されている。しかし、その前はどうだったのだろうか。ヨシヤ王の時代は、アッシリアの力が弱くなってきたとも言われる。「背信の女イスラエルが姦淫したという理由で、私が離縁状を渡して彼女を追い出したのに、不実な姉妹ユダは恐れ気もなく、淫行を行ったのを私は見た。」(8)とある。ユダには「不実」とある。アッシリアに完全には、支配されなかったユダでありながらということだろうか。やはり当時の正確な状況を知りたい。
Jeremiah 4:26,27 私は見た。/実り豊かな地は荒れ野に変わり/町はことごとく、主の前に/主の燃える怒りによって打ち倒されていた。主はこう言われる。/全地は荒れ果てる。/しかし、私は滅ぼし尽くしはしない。
このかすかな希望に頼っていたのだろうか。エレミヤの時代、抗うことが不可能に見える、異邦人による破壊、力による蹂躙(じゅうりん)。エレミヤは、そこで神様のみこころとして何を見ていたのだろう。自分たちの罪は見えるだろう。しかし、希望は、憐れみの神様を知っているからか。難しい。
Jeremiah 5:24,25 彼らは心の中で言うこともない。/「我々の神、主を畏れよう。/時に応じて雨を、秋の雨と春の雨を与える方/刈り入れのために定められた数週間を/我らのために守られる方を」と。あなたがたの過ちがこれらの恵みを追い払い/あなたがたの罪が良いものを退けたのだ。
御心に抗うものたちと、恵みの神の対比が現れているように見える。この葛藤のなかで、エレミヤは生きていたのだろうか。そして、恵みが見えなくなるような現実もあったのだろう。なかなか丁寧に読んでいくことはできないが、単純化はしないで読んでいきたい。
Jeremiah 6:29,30 ふいごで吹くと/火の中から純粋な鉛が出て来るものだ。/しかし、彼らをいくら精錬しても無駄であった。/悪が取り除かれることはなかった。/捨てられた銀、と人々は彼らを呼ぶ。/確かに、主が彼らを捨てられたのだ。
無駄。ここに出てくる「彼ら」はだれだろうか。ユダの人々だろうか。では、「人々」は、他の民族だろうか。「主はこう言われる。/一つの民が北の地から来る。/大いなる国民が地の果てから奮い立ってやって来る。」(22)とあり、次の危機、すなわち、アッシリアが衰えて、しばしの実質的独立を得ていたユダに、(新)バビロン(帝国)が迫っている。そんな時代なのだろう。どのようにしても、小国は立ち行かないのかもしれない。人々は哲学的に、神学的には訓練されるだろうが。
Jeremiah 7:12 さあ、初めに私がわが名を置いた、シロにある私の場所に行ってみよ。そして見るがよい、わが民イスラエルの悪のゆえに、私が行ったことを。
シロは南ユダにも近いが、北イスラエルで犠牲が捧げられていた場所なのだろう。他にもあったようだが、象徴的に、そこが、北イスラエルの宗教的中心だと言っているように見える。しかし、それが自分ごととしてみることはできないのだろうか。他者に、世界に起こっていることから学ぶこと、古代も現代も同じように難しいのかもしれない。
Jeremiah 8:5 どうして、この民エルサレムは背く者となり/いつまでも背き続けているのか。/彼らは欺きに固執し/立ち帰ることを拒む。
ここでは、ユダではなく、エルサレムとなっている。ユダということばも、エレミヤでたくさん使われているが(174回)エルサレムは98回。このようなことも調べてみると良いのかもしれない。ヒゼキヤの時代に、アッシリアが攻めてきた時に、エルサレム以外の城壁の街はすべて破壊されたという。このころまでに、また再建されていたのだろうか。それとも、エルサレムが圧倒的中心だったのだろうか。
Jeremiah 9:1 荒れ野に旅人の宿を持っていたなら/私はわが民を見捨て/彼らを離れ去るものを。/彼らは皆、姦淫する者たちだ/裏切る者の集まりだ。
神様を擬人化しすぎているように見えるが、なんとも寂しい言葉である。このひとたちのもとには、いたくないと言われる。「人はその隣人に用心せよ。/どの兄弟も信用してはならない。/どの兄弟も必ず押しのけ/どの隣人も中傷して歩くからだ。/人はその隣人を欺き、真実を語らない。/舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで過ちを犯す。」(3,4)これも寂しい。隣人とは何なのだろうかと問いたくなる。そのように現実をみるのは、厳しすぎるのだろうか。
Jeremiah 10:18,19 主はこう言われる。/私はこの地に住む者たちを今度こそ放り出す。/私は彼らを苦しめる。/彼らが思い知るように。ああ、災いだ。/私は傷を負い/私の傷は痛む。/しかし、私は言った。/「これこそ私の病。/私はそれを負わなければならない。」
後半は、だれの言葉なのだろうか。放り出されたもののことばか、それとも、主のものか。前者なのかもしれないが、わたしは、主のように思った。贖い主と言われるが、贖いはなにもしないわけではないのだろう。傷を負い、痛みを身に受ける。主にとって、それは、どのようなものなのだろう。それは、愛するものが受ける痛み、傷なのかもしれない。主イエスに限定することなく、それは、主が愛し、主を愛するものなのかもしれないと思った。すると、放り出されたものともつながるのかもしれないとも思った。
Jeremiah 11:21-23 それゆえ、主はアナトトの人々について/こう言われる。/彼らはあなたの命を狙い/「主の名によって預言するな/そうすれば我々の手にかかって/死ぬことはない」と言う。/それゆえ、万軍の主はこう言われる。/私は彼らに罰を下す。/若者たちは剣で死に/彼らの息子、娘は飢えで死ぬ。/一人も生き残る者はない。/私がアナトトの人々に災いを/刑罰の年をもたらすからだ。
この前の「正しく裁き/思いと心とを試される万軍の主よ/私に見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから。」(20)に答える形で、引用句が書かれている。アナトトは、エレミヤが祭司だった地である。どのような関係だったかは明らかではないが、おそらく、嫌われていただろう。それに対する主の裁きを具体的に、示されている。それでエレミヤはよかったのだろうか。痛みもあったのではないかと思う。
Jeremiah 12:1 私があなたと争うときも/正しいのは、主よ、あなたです。/それでも私は、裁きについてあなたと語りたい。/なぜ、悪しき者たちの道は栄え/裏切る者たちが皆、安穏としているのですか。
エレミヤもこのように訴えていたのかと思う。この章の最後には「私の民イスラエルに継がせた相続地に手を触れる悪しき隣国の民すべてについて、主はこう言われる。私は彼らをその土地から引き抜く。また、ユダの家を彼らの間から引き抜く。私は彼らを引き抜いた後、再び彼らを憐れみ、それぞれをその相続地に、その地に帰らせる。」(14,15)が答えなのだろうか。応報である。しかし、同時に、憐れみも示されている。さらに、最後の最後には「もし彼らが聞き従わないならば、私はその国民を必ず引き抜き、滅ぼす――主の仰せ。」(17)ともある。これは、エレミヤにとって慰めだったかもしれないが、短絡にも感じる。エレミヤのために、伝えられた言葉なのだろうか。応報と憐れみの関係は、難しい。
Jeremiah 13:27 あなたの姦淫、あなたのいななき、淫行のたくらみ。/野の丘の上で/私はあなたの憎むべき行いを見た。/ああ、エルサレムよ/あなたは清くならない。/いつまでそうなのか。
外敵に対する裁きと、主の憐れみが前章に書いてあったが、ここでは、エルサレムについて書かれている。結局、自分たちの問題なのだろう。エレミヤ個人は、誰の裁きを念頭に書いていたのかは不明だが(12:1)自分以外、さまざまな悪が見えていたのだろう。ともに生きることは難しい。裁きを願っても、悪を受け入れても。人間世界の複雑さでもある。
Jeremiah 14:15,16 それゆえ、主は預言者たちについてこう言われる。「彼らは私の名によって預言しているが、私は彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの地に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。彼らが預言するのを聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの通りに投げ捨てられ、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻、息子、娘もそのようになる。私は彼らの上に彼らの悪を注ぐ。」
エレミヤが、飢饉がおこることを正確に予測したというより、剣も、飢饉も近いと語っていたのだろう。ここでも偽預言者のことが出てくる。一般的には、偽預言者を見分けるのは難しく、本当に主が語っておられるか判定することは困難である。しかし、自分に都合の良いことばに傾き、自分に都合の悪い言葉を排除する自分に向き合うことはできるだろう。主のみこころを求め続ける姿勢だろうか。予測が当たったかどうかなどだけを判断材料にするのは、危険である。
Jeremiah 15:19 それゆえ、主はこう言われる。/もしあなたが立ち帰るならば/私はあなたを立ち帰らせ/あなたは私の前に立つ。/もしあなたが無価値なことでなく/尊いことを口にするなら/あなたは私の口のようになる。/彼らがあなたのところに帰るのであって/あなたが彼らのところに帰るのではない。
この章は、「たとえモーセとサムエルが私の前に立っても、私の心はこの民に向くことはない。彼らを私の前から追い出し、立ち去らせよ。」(1b)から始まる。引用句からすると、とりなしではなく、悔い改めこそが必要だということだろうか。ひとりひとりに語りかけているように見える。まだ、個人の信仰まではいたってはいないかもしれないが。
Jeremiah 16:10,11 あなたがこの民にこれらの言葉をすべて告げるとき、彼らがあなたに、「なぜ主は、我々にこの大いなる災いを語られたのか。何が我々の過ちなのか。何が我々の神、主に対して犯した我々の罪なのか」と言うなら、あなたは彼らに言いなさい。「あなたがたの先祖が私を捨て、他の神々に従い、これに仕え、これにひれ伏し、私を捨て、私の律法を守らなかったためである――主の仰せ。
やはり因果応報なのか。エレミヤは主のみこころをそう理解したのだろう。正直にいうとわたしには、これが理由だとは思えない。ひとの歴史のなかの一場面であるように思う。また「あなたがたの先祖が」と描かれている。これもどうなのだろうか。自分のできることを省みること、将来への希望を謙虚につなぐことは大切だろうが。
Jeremiah 17:27 しかし、もしあなたがたが私に聞き従わず、安息日を聖別せず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、私はその門に火をつける。火はエルサレムの城郭をなめ尽くし、消えることはないであろう。』」
批判的になってしまうが、ひとつひとつこれが問題なのだろうか、このゆえだろうかと悔い改めのために、自らを顧みているのかもしれない。「祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木のようになり/川の流れにその根を張り/暑さが来ても恐れず/その葉は茂っている。/旱魃の年も恐れず/絶えず実を結ぶ。」(7,8)を固く信じているのだろう。しかし、主に信頼している人も、大きな戦争のなかで、あっけなく殺されてしまう。その現実も、無視できない。希望は他に置かなければいけないように思う。
Jeremiah 18:18 彼らは言った。「さあ、我々はエレミヤに対して計略を巡らそう。祭司から律法が、知恵ある者から助言が、預言者から言葉が失われることはない。さあ、我々は舌で彼を打ち、彼のどんな言葉にも耳を傾けないことにしよう。」
耳障りのよくない言葉に対する反発だろうか。しかし、おそらく、エレミヤのことばを聞いて、こころを痛め、不安とともに、悔い改めることを考えていた人たちもいたのではないかと思う。真正なものではなかったっとしても。しかしここにあるのは「主よ、あなたはご存じです/私を殺そうとする彼らの計画をすべて。/彼らの過ちを覆うことなく/彼らの罪を御前から消し去らないでください。/彼らを御前につまずかせ/あなたの怒りの時に彼らに復讐してください。」(23)これがエレミヤの祈りである。最近、イエスが、なぜ、受難に向かっていったかを考えている。イエスは、特定の、誰かの責任として、それが問題だとはしなかったように思う。「今の時代」ということばが何回か現れる。イエスの受難と対ししながら読んでいきたい。
Jeremiah 19:15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はこの都とそこに属するすべての町に、私が告げたすべての災いをもたらす。彼らがかたくなになって私の言葉に聞き従おうとしなかったからである。」
エレミヤのことばは厳しい。そして、実際にそのようにはなる。しかし、それで良いのだろうか。世界的に見ると、アッシリア帝国に対抗できるのは、バビロニアや、メディアという大国しかなかった。そして、そのバビロニアが攻めてくる。そのなかで、たいせつなことを教えることは意味があることとしても、やはり無力であることは確かである。あがきたくなることも理解できる。わたしならどうするだろうか。イエス様ならどうするだろうか。
Jeremiah 20:12,13 正しき人を試み/思いと心を見られる万軍の主よ。/私に見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから。/主に向かって歌い、主を賛美せよ。/主は貧しい人の魂を/悪をなす者の手から救われた。
エレミヤの葛藤が聞こえてくるように思う。主の復讐を見せてください。と訴え、同時に、自分の救いを確信し、賛美する。これを批判することはできない。この時代に生きた人たちを十分に理解することはできないが、裁くことはしてはいけないだろう。まさに、主の御心はなにかを問うているのだろう。世界の悲惨な状況の中で、その中にいる人たちも同じかもしれない。
Jeremiah 21:4,5 『イスラエルの神、主はこう言われる。私は、あなたがたの手にしている武器を、すなわち、城壁の外からあなたがたを包囲しているバビロンの王とカルデア人と戦っているあなたがたの武器を取り上げ、それをこの都の真ん中に集める。私は伸ばした手と力強い腕によって、また怒り、憤り、激怒して、あなたがたと戦う。
ゼデキヤ王からの使者が「バビロンの王ネブカドレツァルが我々を攻めています。どうか、我々のために主に尋ねてください。主はその驚くべき業を我々のためになしてくださるかもしれません。そうすれば、彼は引き上げるでしょう。」(2)と問うたことへのエレミヤの応答である。エレミヤを主が遣わされているかどうか、わたしがそこにいても、そう簡単には判断ができないだろう。同時に、王には「ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。/さもなければ、あなたがたの悪行のゆえに/私の憤りは火となって燃え上がり/消す者はいないであろう。」(12)といい、因果応報で裁かれることが伝えられている。選択肢はほとんどない。危機の中に生きるものにわたしはこのようには言えない。
Jeremiah 22:8,9 多くの国民がこの都を通り過ぎ、互いに、「主はなぜ、この大きな都にこのようなことをされたのか」と言うなら、人々は、「彼らが自分たちの神、主の契約を捨て、他の神々にひれ伏し、これに仕えたからだ」と言うであろう。
このような裁きを伝えることが、預言者の仕事なのだろうか。希望があるときは、そうかもしれないが、希望が失せた時、それでも、このように告げるのだろうか。愛とは何なのだろうか。主はほんとうに、そのようなことを望んでおられるのだろうか。義の神が中心にあれば、そして、自分が義を第一のこととして求めていればそうなのかもしれない。わたしには、できない。
Jeremiah 23:22 もし、彼らが私の会議に立っていたなら/私の民に私の言葉を聞かせ/彼らを悪の道から、その悪行から/立ち帰らせたであろうに。
そうだろうか。主の会議は何のことだかよくわからないが、このように、主のみこころが理解できたとおもうところに問題があるのではないだろうか。当時のひとたちの苦しみの方に、わたしは寄り添いたい。同時に、バビロニアのひとたちや、周辺の隣国・民族についても考えたい。この状況で、なにを求めるかは本当に難しいように思う。
Jeremiah 24:6,7 私は彼らに目を注いで恵みを与え、この地に帰らせ、彼らを建てて倒さず、植えて引き抜くことはない。私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。
引用句は「これらの良いいちじくのように、私はこの場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものと見なす。」(5b)からつながっている。確かに、信仰深く、この地に戻ってくる帰還民がいるわけだが、個人的には、そのひとたちが「心を尽くして主に立ち返った」とは、思えない。それほど、単純ではない。エレミヤ書になかなか入り込めない理由でもあるのだろう。しかし、丁寧に読んでいきたい。この時代に、わたしが生きていたらどうだろうか。ましな道をさがし、民が少しでも残される道を探しただろうか。わからない。
Jeremiah 25:3 「ユダの王、アモンの子ヨシヤの治世第十三年から今日までこの二十三年間、主の言葉が私に臨み、私は繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。
BC641-619だろうか。ヨシヤの時代は、アッシリアの力が衰え、支配力がなくなっていった時代なのだろう。ヨシヤは改革をするが、おそらく、それは、ユダヤ教にとっては、たいせつな時期だったのだろうが、本質的なものではなかったのだろうと思う。それは世界史的に見ても、超巨大帝国のあとの帝国が争う時代、ユダのような小国、小地域ではどうにもならなかった時のようにも思う。それはどう考えたら良いのだろうか。主のみこころを求め続けることだろうか。
Jeremiah 26:16 高官たちとすべての民は、祭司と預言者たちに向かって言った。「この人に死刑の判決はない。彼は我々の神、主の名によって我々に語ったのだから。」
「祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが主の神殿でこれらの言葉を語るのを聞いた。」(7)とあり、これに対して、「祭司と預言者たちは、高官たちとすべての民に向かって言った。『この人には死刑の判決を。彼は、あなたがたが自分の耳で聞いたように、この都に敵対する預言をしたからだ。』」(11)そして引用句が語られる。すなわち、分裂があったようである。正直この時点でどのようなことが有効だったかはわからないが、祭司と預言者たちが、死刑を求めることは興味深い。高官には、すでにあまり力がなかったのかもしれないが。このあと、ミカの預言と、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤ、エレミヤを保護したシャファンの子アヒカムについても書かれている。判断基準は何なのだろう。
Jeremiah 27:14,15 バビロンの王に仕えることはないと言っている預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りの預言をしているからだ。私は彼らを遣わしていないのに、彼らは私の名を使って偽りの預言をしている――主の仰せ。それゆえ、私があなたがたを追い払う。あなたがたも、あなたがたに預言している預言者たちも滅びる。」
このあとには、「祭司たちと、この民のすべてに向かって」語っている。内容も分けられている。(偽)預言者に対しては厳しい。祭司にたいしては、祭具が持ち去られないように嘆願するように、語っている。詳細は不明である。歴史をあとから見ていると、この時代にユダが生き残るのは難しいようにも思われる。エレミヤがどこまで理解していたかはわからないが、捕囚になる道も、一つの選択だったのかもしれない。
Jeremiah 28:10,11 すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛の横木を外して、打ち砕いた。そして、ハナンヤはすべての民の前で言った。「主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、すべての国民の首からバビロンの王ネブカドネツァルの軛を外して打ち砕く。」そして、預言者エレミヤは立ち去った。
最初には、ハナンヤは、捕囚からの帰還や、祭具の返還についても預言している。(2-4)年数が異なるだけで、あまりエレミヤ預言とも変わらないようにも思うが、意図などが異なるのだろう。当時の、一般の人たちの動向や考え方までわからないと何とも言えない。しかし、このようなことを通して、エレミヤは信頼を得ていき、帰還のときもふくめて、大切にされたのかもしれない。わたしには、よくわからないが。
Jeremiah 29:19 彼らが私の言葉に聞き従わなかったからである――主の仰せ。私は、私の僕である預言者たちを繰り返し遣わしたが、彼らは聞こうとしなかった――主の仰せ。
このように言われても、国として裁かれるのであれば、個人的にはなすすべがない。この時代では、難しいのだろう。未発達としか言えない。これを絶対的に正しいと受け入れることからは、どのように逃れたら良いのだろうか。わたしにはわからない。
Jeremiah 30:18,19 主はこう言われる。/私はヤコブの天幕の繁栄を回復し/その住まいを憐れむ。/都は廃虚の上に建てられ/城郭はあるべき姿で建つ。/そこから感謝の歌と/喜ぶ人々の声が湧き上がる。/私が彼らを増やすので/数が減ることはない。/私が彼らに栄光を与えるので/軽んじられることがない。
明確に、回復について書かれている。捕囚の地で、エレミヤ書を読んだ人たちにとっては、大きな慰めになったろう。このことは、実際に起こったとも言えるし、起こらなかったとも言える。この章の最後には「主の燃える怒りは、御心を行って/成し遂げるまで去ることはない。/終わりの日に、あなたがたはこのことを悟る。」(24)とある。エレミヤの中でも、さまざまな思いが交錯しているのかもしれない。急いで、それも、一部分から結論を導くのは誤りであると感じさせる。
Jeremiah 31:27-30 その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く。かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張る――主の仰せ。その日には、人々はもはや/「父が酸っぱいぶどうを食べると/子どもの歯が浮く」とは言わない。人は自分の過ちのゆえに死ぬのだ。酸っぱいぶどうを食べる人は、誰でも自分の歯が浮く。
このあとに、新しい契約を結ぶとある。イスラエルも含まれていることに驚いたが、種を蒔くとあり、最初からやり直す子をと取ることもできるのだと確認した。後半は、有名な箇所だが、こうしないと、無理であることが、エレミヤも確認したということか。神様の譲歩だとも言える。しかし、このようにしても、ひとは、主に従いはしない。イエス、神のみ子が送られても。
Jeremiah 32:14,15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印されたこの購入証書と、封印されていないこの証書を取り、長く保存するために土器に入れておきなさい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。この地では、家、畑、ぶどう園が再び買い取られることになる。」
信仰的な行為なのだろうが、正直あまり感激しない。希望ははかないように思う。わたしたちは、何を望んでいるのだろうか。このような回復を望んでいるのだろうか。実際の歴史を知っているからだろうか。イスラエルの回復にのぞみを置くことに反発があり、平和に関して懐疑的であるからか。しかし、エレミヤを離れることなく、丁寧に読んでいきたい。
Jeremiah 33:25,26 主はこう言われる。もし、昼と夜と結んだ私の契約が存在せず、また、私が天と地の定めを確立しなかったなら、私はヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、彼の子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないであろう。しかし私は、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」
イスラエルとユダ、ヤコブの子孫の繁栄の回復が中心にある。普遍主義に毒されているのかもしれないが、ほんとうに、それでヤコブの子孫も幸せになるのだろうかと考えてしまう。ヤコブの子孫にもさまざまな考え方があることは確かだが、部族の神は、損得感情に結びついているようにも思う。それから自由でありたい。
Jeremiah 34:16,17 ところがあなたがたは、態度を変えて私の名を汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し、彼らを従わせ、あなたがたの男女の奴隷とした。それゆえ、主はこう言われる。あなたがたが私に聞き従わず、それぞれ自分の同胞や隣人に解放を宣言しなかったので、私はあなたがたに剣、疫病、飢饉に渡す解放を宣言する――主の仰せ。私は、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。
興味深いことが書かれている。「ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。」(8)と書かれている。この章の最初には「主からエレミヤに臨んだ言葉。この時、バビロンの王ネブカドレツァルとその全軍、および、彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民が、エルサレムと周囲のすべての町を攻撃していた。」(1)とあるので、最後の最後で、このときのことによって、実質的にはあまり変化は起きないように思うが、ゼデキヤ王がおそらく、エレミヤの助言に従ったということなのだろう。しかし、そう簡単ではない。ゼデキヤ王の悪だけでなく、もっと複雑な状況があったのだろう。
Jeremiah 35:18,19 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、すべて彼が命じたとおりに行ってきた。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブには、私の前に立つ者がいつまでも絶えることがない。」
客観的にみると最後の最後の時だと思ってしまう。祝福は永遠に関係することなのか。同時に、エレミヤも、主に従い続けたひとを見出すことで慰められることもあったのではないだろうか。それで、希望を繋ぐことができたとは言えないかもしれないが。
Jeremiah 36:6,7 あなたは断食の日に行って、私が口述したとおりに書き記したこの巻物の中から主の言葉を読み上げて、神殿にいる民に聞かせなさい。また、それぞれの町から来るすべてのユダの人々にも読み聞かせなさい。人々は主の前に願いを献げ、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。この民に主が語られた怒りと憤りが大きいからだ。」
いろいろな見方があるのかもしれないが、主の憐れみと忍耐を表していると取ることもできるのかもしれないと思った。しかし、そのように理解するのも危険であるように思う。それはユダの側を中心においた理解だからだ。さまざまな痛みを感じる。人々の様子をみておられる神様の痛みも感じる。
Jeremiah 37:20,21 王様、今どうか、聞いてください。どうか、私の願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。送り返されたら私はそこで死んでしまうでしょう。」ゼデキヤ王は、エレミヤを監視の庭に預けるよう命じ、パン焼き職人の通りから毎日パン一個を届けさせた。これは都にパンがすべてなくなるまで続いた。エレミヤは監視の庭にとどまった。
ゼデキヤとエレミヤのやり取りも興味深い。ゼデキヤにできることは限られていたのかもしれないが、責任は重かったのだろう。エレミヤは、最後を見届けたかったのか。ヨナタンのもとでの死は、たんなる屈辱だったのだろうか。いろいろと考えられる。エレミヤに寄り添い、ゼデキヤにも寄り添って学ぶことをしてみたいと思った。
Jeremiah 38:3,4 主はこう言われる。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に渡され、彼はこれを占領する。」高官たちは王に言った。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを人々に語り、この都に残っている戦士とすべての民の士気を挫いているからです。この民のために平和を求めず、むしろ災いを求めているのです。」
ゼデキヤはこれにたいして「あの男はお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」(5b)と語っている。優柔不断であるが、状況がよくわかっていないものとしては、批判はできない。エレミヤがゼデキヤに語り続けたのはなぜだろうか。そして、わたしも、この場にいたら、どのように行動するか不明である。高官たちに反対することができるだろうか。ゼデキヤとして、高官の一人として、宦官など、他の仕えるものとして、民として。いままで起こっていないことが生じているのだから。エホヤキムのときは、エレミヤはどうしていたのだろうか。
Jeremiah 39:18 私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからである――主の仰せ。』」
エレミヤのように、主に信頼することは、素晴らしいことだと思う。しかし、同時に、主の御心を悟ことは本当に難しい。主の御心と確信させるものは何なのだろうか。「あなたの命はあなたの戦利品」は美しい言葉だが、必ずしも、主に信頼していても危機において生き延びるわけではない。わたしは、命をたいせつにはしたいが、それは、誠実に生きる命であり、肉体的な命は、いつ失っても良いと思っている。それがわたしにとって、主に委ねること。
Jeremiah 40:9 シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下にこう誓った。「カルデア人に仕えることを恐れるな。この地にとどまり、バビロンの王に仕えよ。そうすればあなたがたは幸せになるだろう。
難しい時代である。しかし、同時に、「幸せ」ということばでは、現代にも繋がっているのかもしれない。まだ、当時は、個人の幸福ではないのだろう。そして、最低限生きていける生活も、重要だったろう。そのなかで、王や高官には頼れないことがはっきりした時代でもある。土台が崩れた中で、ひとはなにを求めていたのだろうか。もっと、一人一人について知りたい。
Jeremiah 41:8,9 しかし、一行の中にいた十人の者は、「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など、貴重なものを畑に隠していますから」とイシュマエルに言ったので、彼らをその仲間と共に殺すのはやめた。イシュマエルが、ゲダルヤの名を使って打ち殺したすべての人々の死体を投げ込んだ穴は、アサ王がイスラエルの王バシャの攻撃に備えて造ったものであった。それを、ネタニヤの子イシュマエルは殺された者で満たしたのである。
簡単にものごとの評価はしづらい。しかし、「王の血筋で、王の高官でもあった、エリシャマの子ネタニヤの子イシュマエル」(1)とあり、もう、混乱の極みのようにも思える。引用句はしかし、ある歴史に関係しており、他には書かれていないことなので目に止まった。畑に隠すことが実際にあったことと、アサとバシャの戦いの痕跡もここにあることなど興味深い。
Jeremiah 42:1-3 すべての将軍とカレアの子ヨハナン、ホシャヤの子エザンヤ、そして小さな者から大きな者まですべての民が近寄って来て、預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを聞き入れてください。私たちのため、またこの残ったすべての人のために、あなたの神である主に祈ってください。御覧のとおり、大勢の中から僅かに私たちだけが残ったのです。あなたの神である主が私たちに、歩むべき道、なすべきことを示してくださいますように。」
どのような編集があるのか不明だが、エレミヤはこれに対応するが、最初から民は聞き入れないことが述べられている。過去の警告を無視したことを繰り返しているのか、もう一度、似たことがあったのか不明である。同時に、必死さのなかで、人々の心が揺れ動くのも当然だとは思う。実際、さまざまな人たちがいただろう。そして、そのどれが幸せなのか、この時代を評価するのはとても難しい。
Jeremiah 43:10,11 彼らに言いなさい。『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は使者を遣わし、私の僕であるバビロンの王ネブカドレツァルを連れて来て、彼の王座を、私が隠したこれらの石の上に置く。彼は天蓋をその上に張る。彼は来て、エジプトの地を打ち、死に定められた者を死に、捕囚に定められた者を捕囚に、剣に定められた者を剣に渡す。
確かに、首都メンフィスを占領し、ファラオ・ネコ2世を倒し、エジプトはバビロニアの属国となったようである。一般のひとも税金が高くなったりしたようだ。そのことも知りたいものだ。幸せの評価は難しい。この地に残った人、バビロンに捕囚となった人など、評価が難しくなった時代であることは確かなのだろう。
Jeremiah 44:15,16 すると、自分たちの妻が他の神々に香をたいているのを知っている男たち、大集団で立っている女たち、さらにはエジプトの地と上エジプトに住む民がこぞってエレミヤに応えて言った。「あなたが主の名によって私たちに語った言葉のことで、あなたに聞き従うわけにはいきません。
このあとに従わない理由が書かれているが、因果応報が根拠である。この時代は、どのようにしても、難しかったろう。「私たちは口に出した言葉どおりすべて必ず行い、天の女王に香をたき、注ぎの供え物を注ぎます。私たちは、先祖も王も高官も、ユダの各地の町やエルサレムの巷でそうしてきました。私たちはパンに満ち足り、幸せで、災いを見ることはありませんでした。」(17)主の寛容にすがるしかないように思う。人々がこのように応答することを批判することは、できないように思う。
Jeremiah 45:2,3 「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、安らぎを得ない。』
エレミヤに仕えていたバルクへの言葉である。このあとに「バルクにこう言うがよい。『主はこう言われる。私は自分が建てたものを破壊し、自分が植えたものを引き抜く。全地をこのようにする。あなたは大きなことを求めている。求めてはいけない。私はすべての肉なるものに災いを下そうとしているからだ――主の仰せ。しかし、あなたがどこへ行っても、あなたの命を戦利品としてあなたに与える。』」(4,5)と言っているが、困難な状況であることは、容易に想像がつく。どのように、信仰を保つのだろうか。主の僕についていくことも、反対することも、大きな挑戦である。
Jeremiah 46:28 あなたは恐れるな、わが僕ヤコブよ/――主の仰せ。/私があなたと共にいるからだ。/あなたを追いやった先の国々はすべて/私が滅ぼし尽くす。/しかしあなたを滅ぼし尽くすことはない。/私はあなたを正しく懲らしめる。/あなたを罰せずにおくことは決してない。
背景が「エジプトについて。すなわち、ユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍隊について。バビロンの王ネブカドレツァルは、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世第四年にこれを討ち破った。」(2)と説明され、「どうして私は見たのか/彼らがおののき、後ろへ退くのを。/勇士らは打ち砕かれ、逃げに逃げて/振り向きもしない。/周りから恐怖が迫る――主の仰せ。」(5)とも書いてある。見たのは、エレミヤなのかもしれない。エジプトが敗れることは衝撃だったに違いない。最後が引用句である。主への信頼が読み取れる。しかし、なかなか、現実は厳しい。
Jeremiah 47:6,7 ああ、主の剣よ/いつになれば、お前は静かになるのか。/鞘に納まり、鎮まって沈黙せよ。だがどうして、お前は静かになれるだろうか。/主が命じて、アシュケロンと海辺の地に/お前を向けられたからには。
ペリシテの状況について書かれている。実際には、46章にある、エジプトの記述の方があとから起こったことではないかと思うが、ユダと長い間緊張関係にあった、ペリシテが滅ぼされる時を見るのは、おそらく、複雑なことでもあったろう。そのなかで、主の御心を求めるのはあまり簡単ではない。
Jeremiah 48:46,47 モアブよ、あなたに災いあれ。/ケモシュの民は滅びた。/あなたの息子たちは捕囚として/娘たちは捕虜として連れて行かれた。しかし、終わりの日に/私はモアブの繁栄を回復する――主の仰せ。/ここまでがモアブへの裁きである。
モアブについての預言である。近隣のさまざまな複雑な軋轢があった民族であれば、思いは複雑だろう。それも、まさに、世界史的大転換が起こっている途中である。これらの預言をそのまま神のことばとして受け入れたり、正しいかどうかという視点で読むのは間違っているだろう。こう言い切ってしまうと、批判もあるだろうが。このような記述から、イスラエルの他者との関わりを知ること、当時のひとたちの混乱、そのなかでの希望は読み取ることができるかもしれない。十分時間をかけないと、どうしても、乱暴な読み方になることも確かだが。
Jeremiah 49:10,11 この私がエサウを裸にし/その隠れ場をあらわにしたので/彼は隠れることができない。/彼の子孫、親族、隣人たちは荒らされ/誰もいなくなる。あなたのみなしごを置いて行け/私が育てる。/あなたのやもめは私に信頼するがよい。
前章はモアブについてであったが、この章では、アンモンからはじまり、エドム、ダマスコ、ハツォル(カナン地方の都市国家?)、エラム(メソポタミアの東部の古代国家?)について語られている。みな、同じパターンかと思って読むとそうではない。エレミヤが受け取ったことを丁寧に記述しているのだろう。現代では詳細はわからない。多くの交流があったことぐらいだろうか。エドムの記述が気になったので引用した。一つ一つ興味深い記述になっている。
Jeremiah 50:2,3 諸国民に告げ、知らせよ。/旗を揚げて知らせよ。隠さずに言え。/バビロンは占領され、ベルは辱められた。/マルドゥクは粉砕され、バビロンの像は辱められ/その偶像は粉砕された。一つの国民が北からバビロンに向かって攻め上り/その地を荒廃させる。/そこに住む者はいなくなる。/人から獣に至るまで逃げて行く。
ここからは、バビロンについてである。引用句は、その最初の部分だが、これに「その日、その時にはイスラエルの子らが来る/彼らもユダの子らも共に――主の仰せ。/彼らは泣きながらひたすら歩き/彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね/顔をその方向に向けて言う。/『さあ、行こう。/主に連なろう。/永遠の契約が忘れられることはない』と。」(4,5)が続く。バビロンについてどのように描くかはいろいろな思いがあったろう。歴史的なことを丁寧に確認することも大切だろうが、エレミヤのこころの中を理解したいと思う。
Jeremiah 51:63,64 そして言いなさい。『このように、バビロンは沈み、私がもたらす災いのゆえに再び立ち上がることはない。人々は疲れ果てる』と。」ここまでがエレミヤの言葉である。
エレミヤの希望を感じる。しかし、まだまだ、人のこころの闇を見てはいないように感じた。現代の問題を考えると、非常に複雑である。エレミヤと一緒に現代について語り合いたいとも思った。
Jeremiah 52:31,32 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月、その月の二十五日のことである。バビロンの王エビル・メロダクが即位した年だったので、ユダの王ヨヤキンに恩赦を与え、牢獄から解放した。バビロンの王はヨヤキンに親しく語りかけ、バビロンで共にいたどの王たちよりも高い地位を与えた。
列王記下24章8節の記述によると、「ヨヤキンは十八歳で王位につき、三か月間エルサレムで統治した。母の名はネフシュタと言い、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。」三ヶ月しか王位になく、捕囚となったようにも取れる。しかし、列王記下には、「そこでユダの王ヨヤキンは、母や家臣、高官や宦官と共にバビロンの王のもとに出て行った。バビロンの王がヨヤキンを捕らえたのはその治世の第八年であった。」(列王記下24章12節)ともあり、捕囚となったのは、26歳の頃だろうか。「ゼデキヤは二十一歳で王位につき、十一年間エルサレムで統治した。母の名はハムタルと言い、リブナ出身のイルメヤの娘であった。」(列王記下24章18節)このまま理解すると、バビロンの牢獄に入れられ、11年後の、37歳のころ、ユダが完全に滅亡し、三十七年目すなわち、63歳ぐらいで、恩赦になったことになる。列王記の評価は「彼は父が行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。」(列王記下24章9節)とあるが、人生の評価としては、どうかなと思わされる。いずれにしても、これが、エレミヤ書の最後である。


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Jeremiah 1:17 さあ、あなたは腰に帯を締め/立ち上がって、彼らに語れ/この私が命じることすべてを。/彼らの前でおののくな/彼らの前で私があなたを/おののかせることにならないように。
第1章は、エレミヤの召命について書かれている。エレミヤは、引用句の声に答えて、歩みだすことになる。引き返すことはできない、しかし、最初から、非常に困難だとわかっている道である。そのような、道を歩みはじめることは、ある程度理解できる。しかし、歩み続けることは、簡単ではない。それぞれの場で、妥協の可能性もあるだろうから。そして、主が指し示す道は、明確には見えないこともあり、他にも、良い道があるかもしれないと考えるのは自然だからである。どれが、主のみこころか、明確に受け取ったときもあるだろうが、そうでないのが、日常のように思うので。その意味でも、ていねいに、エレミヤ書を読んでいきたい。
Jeremiah 2:2 行って、エルサレムの人々の耳に呼びかけよ。/主はこう言われる。/私は覚えている/あなたの若い頃の誠実を/花嫁の時の愛を/種の蒔かれない地、荒れ野で/あなたが私に従って来たことを。
エレミヤは、ここから始めているが、果たしてそうなのだろうか。最初から、従ってはこなかったのではないだろうか。ひどくなったかもしれないが、分裂は早い段階から、そして、その前も、おそらく、多くの問題があったように思う。現実は、悪く見える。そして、悪化しているように。しかし、そうなのかは、判断が、とてもむずかしい。
Jeremiah 3:18 まさにその日にこそ、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から、私があなたがたの先祖に相続させた地へと共に帰って来る。
こんな事になったのだろうか。おそらく、そうはなっていない。そして、今後も、それが望まれているのではないように思う。エレミヤ書は、どのように読めばよいのだろうか。不正確さは、問わなくてよいのだろうか。歴史的事実と符合しているかではなく、エレミヤがうけとった、神様からのメッセージを、しっかり受け取ってみたい。それが、歴史的事実とは符合していなくても。
Jeremiah 4:18,19 あなたの歩み、あなたの行いが/これらのことをあなたにもたらした。/これはあなた自身が犯した悪であり/実に苦く、あなたの心臓にまで達している。私のはらわた、私のはらわたよ。/私はもだえ苦しむ。/私の心臓の壁よ、私の心臓は高鳴る。/黙ってはいられない。/私の魂は角笛の響きを/戦いの鬨の声を聞くからだ。
「イスラエルよ、もし立ち帰るなら/私のもとに立ち帰れ――主の仰せ。」(1a)から始まり、「私は北から災いを/大いなる破滅をもたらす。」(6b)と、おそらく、バビロンの驚異について警告している。そして、引用句では、その原因とともに「私のはらわた」「私の心臓の壁」について書かれている。「戦いの鬨の声を聞い」て、そのような状態になるのは、戦いが恐ろしいからではなく、間近に迫っているからだろう。ここでの「私」は、主なのか、エレミヤなのか、明確ではないが、主のこころと痛みを、エレミヤが受け取ったものと考えれば、どちらにしても大きな問題はないことになる。「心臓の壁」という表現は、ここだけのようだが、ドキドキ感は、伝わってくる。しかし、主は、本当にはどう見ておられるのだろうか。いろいろと考えてしまう。
Jeremiah 5: 1 エルサレムの通りを行き巡り/見渡して知るがよい。/町の広場で探せ。/一人でも見つかるだろうか/公正を行う者、真実を探求する者が。/もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。
キリスト教の罪理解についても同様のことがあるが、正直にいって、この理解は、論理的でも、科学的でもなく、十分な現実理解に則っていないと感じる。この中には、おそらく、エレミヤも含まれているはずであるし、個人的には、こころから主をもとめ、真実を探求するものがいると思う。そして、もちろん、それは、本当にこころからか、偽りはないのか(2)と問われれば「真実を探求する者」であればあるほど、そうですとは言えないだろう。それを根拠に、滅ぼすというのは、主の計画の破綻、ノアの洪水の繰り返しである。主は、苦しんでおられると考えるほうが、より、正確な表現なのではないだろうか。むろん、わたしも良くは理解できていないが。
Jeremiah 6:10 誰に対して語り、厳しく命じれば/聞くのだろうか。/彼らの耳は無割礼で/彼らは耳を傾けることができない。/主の言葉が彼らに臨んでも/それをそしり、喜ぼうとしない。
このあとには「私の身には主の憤りが満ち/それを耐えることに疲れ果てた。」(11a)と続く。預言者には、すでに大きな危機が迫っていること、そして、それは、主の言葉に聞き従わなかったこと、そして、今も、聞き従おうとしないこと、だからこそ、主は、この民を滅ぼされるのだという確信と嘆きと憤りに満ちているように感じる。そのようにして、主の憤りを自らの憤りとして表現しているかのようだ。正直に書くと、本当にそうなのだろうかと思う。主の思いはもっと深いのではないだろうかと。同時に、主も、どのようにすれば、聞くのだろうか、こころから受け入れるのだろうか、と悩んでいるようにも感じられる。回答は、まだ、私達が持っていないだけでなく、主も、持っておられないのかもしれない。そのなかで、どう生きるかを、預言者エレミヤとも、現代の人とも、そして、主とともに、求めていくことができればと思う。
Jeremiah 7:6,7 この場所で、寄留者、孤児、寡婦を虐げず、罪なき人の血を流さず、他の神々に従って自ら災いを招かないならば、私はあなたがたをこの場所に、あなたがたの先祖に与えた地に、いにしえからとこしえまで住まわせる。
この前には「あなたがたが本当にあなたがたの道と行いを改め、本当に互いの間に公正を行うなら」(5)ともある。しかし、この基準であれば、どの時代のどの人々も、批判の対象から外れないだろう。行き先は、人はみな罪人だという結論である。しかし、それで良いのだろうか。悩みながらも、主の義、公正をもとめて、不完全ではあっても、それを求め続け、同時に、不完全であることを、省みる生き方ではないのだろうか。主が喜ばれるのは。わたしも、わからないことばかりだが。
Jeremiah 8:18,19 私の悲しみは癒やし難く/私の心は弱り果てている。聞け、遠くの地から届く/娘であるわが民の叫び声を。/「主はシオンにおられないのか。/シオンの王はそこにはおられないのか。」/なぜ、彼らは彼らの彫像によって/異国の空しいものによって/私を怒らせたのか。
原因は「彼らの彫像・異国の空しいもの」とあり、神ではないものに主を取り替えたことを言っているのだろう。それは、間違ってはいないかもしれないが、それだけでたとえば現代を表現できるようには思えない。当時もそうだったのではないだろうか。しかし、エレミヤは主の癒しがたい悲しみ、弱り果てている心について描いている。主は、超然として、おられる方ではなく、愛しておられるわたしたちによって、悲しみ、傷つかれるかたであると、認識しているということだろう。自然に描かれているので、それは共有知であったと思われる。とすると、最初にある、偶像礼拝も、悲しませることに、重大な帰結があるということだろうか。単に、偶像礼拝が、誤ったことというだけでなく、正しいかどうかだけでは捉えられないものがあるように思う。
Jeremiah 9:23 誇る者はただこのことを誇れ。/悟りを得て、私を知ることを。/私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。/これらのことを私は喜ぶ――主の仰せ。
この章にも、背信と裁きについて、これでもか、これでもかと書かれている。まだ、光は見えないが、戻るべき場所、進むべき方向は、ここで、示されているように思う。とはいえ、現実世界に照らすと、これで、理解できる人は稀(まれ)だろう。主を「この地に慈しみと公正と正義を行う者」として認識することも簡単ではない。なにから、始めればよいのだろうか。ここには「主を知ること」とある。わたしの表現では「御心を知る」となるが、これも、律法主義のようなもので妥協しなければ、方向性すらよく見えない。しかし、謙虚に求めていきたい。
Jeremiah 10:19 ああ、災いだ。/私は傷を負い/私の傷は痛む。/しかし、私は言った。/「これこそ私の病。/私はそれを負わなければならない。」
この「私」が誰なのか判然としない。この前の節には「主はこう言われる。/私はこの地に住む者たちを今度こそ放り出す。/私は彼らを苦しめる。/彼らが思い知るように。」(18)主と解釈するのが自然であるが、引用句では「しかし、私は言った。」ともあり、このあと、引用符がついている。おそらく、あまり、重要ではないのだろう。預言者が、主とこころを一致させようとして語っているのだから。もう一つ、気になったところがあった「このようにあなたがたは彼らに言え。/『天と地を造らなかった神々は/地からも、これらの天の下からも滅びる』と。」(11)これは、宣言であるが、ほんとうに、そんなときが、来るのだろうか。ひとのこころからは、神ならぬ者の存在は、続くと思う。その弱さ、不完全さを担いつつ、(完全ではないにしても)自律的に生きることを許されているのが人間だから。
Jeremiah 11:21-23 それゆえ、主はアナトトの人々について/こう言われる。/彼らはあなたの命を狙い/「主の名によって預言するな/そうすれば我々の手にかかって/死ぬことはない」と言う。それゆえ、万軍の主はこう言われる。/私は彼らに罰を下す。/若者たちは剣で死に/彼らの息子、娘は飢えで死ぬ。一人も生き残る者はない。/私がアナトトの人々に災いを/刑罰の年をもたらすからだ。
この前には、幻の中で、エレミヤは「私は、屠り場に引かれて行く/おとなしい小羊のようでした。」との状態を見せられたとあり。引き続いて、裁きを願い、引用句が続く。その最後は、裁きである。エレミヤの願いに答える形になっている。現実は、許容できな状態であったとしても、わたしは、裁きを願うことはできない。その状況を、主とともに、苦しみたい。
Jeremiah 12:14,15 私の民イスラエルに継がせた相続地に手を触れる悪しき隣国の民すべてについて、主はこう言われる。私は彼らをその土地から引き抜く。また、ユダの家を彼らの間から引き抜く。私は彼らを引き抜いた後、再び彼らを憐れみ、それぞれをその相続地に、その地に帰らせる。
厳しさとともに、希望をも抱かせるメッセージである。このあとには「もし彼らが、かつてバアルによって誓うことを私の民に教えたように、私の民の道をしっかりと学び、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うようになるならば、彼らは私の民の内に建てられる。」(16)と、条件のようなものが続く。いずれにしても、この言葉に希望を託し、それぞれの地で生き抜き、キュロスの勅令により、帰還した人たちがいたことを知っている。素晴らしいことだが、同時に、そこでおこったことが、この預言の成就なのかについては、正直疑問もある。喜べないことが、たくさんあるのだから。わたしたちの、希望はどのようなことだろうか。条件もたいせつなのだろうが、希望の内容を問うこともたいせつであるように思う。願うことは、まだ、御心とは遠いように思う。
Jeremiah 13:27 あなたの姦淫、あなたのいななき、淫行のたくらみ。/野の丘の上で/私はあなたの憎むべき行いを見た。/ああ、エルサレムよ/あなたは清くならない。/いつまでそうなのか。
この章の最初には、帯をユーフラテス川の岩の裂け目に隠すことからの学びが示されている。引用句を読むと、やはり悲しくなる。なかなか、この状態は変わらない。自らを省みても、そう簡単ではないと思う。水を含んでいないものでも、ぼろぼろになる。主は、わたしたち、一人ひとりの状態について、どのように理解しておられるのだろうか。互いに愛し合うことはできない。その、わたしたちの、弱さをご存知であるはずである。
Jeremiah 14:22 他の国の空しい神々の中に/雨を降らせる者があるでしょうか。/それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。/私たちの神、主よ/それはあなたではありませんか。/私たちはあなたを待ち望みます。/あなたがこれらすべてをなさるからです。
一般恩寵と言われるものが書かれている。「天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章45節)しかし、そのことは、主がイスラエルと同じく、他の人達をも愛している可能性を示しているとも理解できるはずである。しかし、そうは書かれていない。ことばによる啓示がないからということだろうか。聖書に書かれている、受け取られた御言葉以外に、御心を示すものがないのかは、だれにも、わからないように思う。恵みは、より普遍的なものであるように思う。
Jeremiah 15:4 私は彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王、ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。
むろん、このように書かれていたとしても、それだけのためとは言えないのかもしれない。しかし、一人ひとりのこととは異なるようである。罰・裁きは国に与えられるのだから。しかし、10節からは「ああ、災いだ。/私の母よ、あなたが私を産んだので/国中で私は争いの男/いさかいの男とされている。/私は貸したこともなく/借りたこともないのに/国中が私を呪っている。」と、エレミヤのことが書かれている。個人を守られる主についても書かれているが、普遍性は十分ではないように思える。この章の最初に「たとえモーセとサムエルが私の前に立っても」(1b)とあるが、エゼキエル14章14節・20節には「ノア、ダニエル、ヨブ」とある。モーセ、サムエルはとりなし、ノア、ダニエル、ヨブは正しさの象徴なのだろうか、と思った。
Jeremiah 16:5 主はこう言われる。あなたは喪中の家に入ってはならない。嘆くために行ってはならない。彼らのために悼んではならない。私が、この民から私の平安を、慈しみと憐れみを取り去ったからだ――主の仰せ。
これは何なのかと思う。どんな状態でも、悲しむものと共にいることは大切ではないのかと。しかし、それだけ、切迫した状態であることを「あなたはこの場所で妻をめとってはならない。また、息子や娘を得てはならない。」(2)などとともに、示しているのだろう。そして、大転換が書かれている。「それゆえ、その日が来る――主の仰せ。もはや、『イスラエルの子らをエジプトの地から導き上った主は生きておられる』とは言わず、『イスラエルの子らを北の地から、また彼らを追いやったすべての地から導き上った主は生きておられる』と言うようになる。私は彼らを、私がその先祖に与えた土地に帰らせる。」(14,15)しかし、正直にいうと素直には受け入れられない。「それゆえ、私は彼らに知らせよう。/今度こそ、私は彼らに知らせる/わが手とわが力を。/彼らはわが名が主であることを知るようになる。」(21)が不可能に見えてしまうから。どのようにかはわからなくても希望を持つべきなのだろうが。
Jeremiah 17:14 主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます。/私を救ってください。/そうすれば私は救われます。/あなたこそ、私の誉れだからです。
主に逆らい、それを正そうとする自分(エレミヤ)を嘲り呪う人々の前で、傷付くエレミヤの姿が描かれている。葛藤があるのだろう。主に、正しさを擁護してもらっても、傷は残る。しかし、その中でも求め続ける姿勢が、主の前に立つエレミヤなのだろうが。混乱も感じる。おそらく、イザヤのときと比較して、危機の切迫感が異なるのだろう。
Jeremiah 18:20 悪をもって善に報いてよいでしょうか。/しかし彼らは、私の命を狙って穴を掘りました。/御前に私が立ち、彼らについて善いことを語り/あなたの憤りを彼らからそらそうとしたことを/思い起こしてください。
陶工のたとえが書かれ、裁き(7)と共に「その国民が私の語った悪から立ち帰るなら、私は下そうとした災いについて思い直す。」(8)についても語るが、エレミヤを殺そうとする計画が起る。そこでの祈りである。引用句の後には「それゆえ、彼らの子らに飢饉をもたらし/剣に渡してください。/彼らの妻が子を失い、やもめとなり/夫は殺害されて、亡くなり/若者は戦いで剣に打たれますように。」(21)などと続く。正しさを主張し続けるエレミヤ、これが、エレミヤに与えられた使命なのかもしれない。しかし、主はその正しさを持ちつつも、それは、一部に過ぎないのではないのか。裁きを下してくださいと祈っている、人たちをも深く憐れまれる方ではないのだろうか。どちらにしても、神の御心を十分受け取ることは、ひとには、難しい。
Jeremiah 19:3,4 「ユダの王たち、エルサレムの住民よ、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は災いをこの場所にもたらす。これを聞く者は皆、耳鳴りを起こす。それは、彼らが私を捨て、この場所を異国の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、この場所を無実の人の血で満たしたからである。
これを言い続けることが、エレミヤが、主から受け取った使命なのだろう。それを、わたしは、批判はできない。ユダが滅びるときに、ここを原点とすることは、必要だったのかもしれない。しかし、ここでも「ユダの王たち、エルサレムの住民」となっており、ユダのひとたち、イスラエル全員ではない。一人ひとりの悔い改めを促しているのではないように思われる。そして、このことが、ひとを、罪びとと捉えることが、人々の呪いとなってしまっているようにも思う。ゆっくり見ていこう。考えていきたい。
Jeremiah 20:7 主よ、あなたが惑わしたので/私は惑わされました。/あなたは私より強く/私にまさりました。/私は一日中笑い物となり/皆が私を嘲ります。
世界史的にも、ユダ王国、そして、エルサレムは風前の灯火である。そこで、断罪を叫ぶことを委ねられた、またはそれが、主から任せられたことだと、自分の全存在をかけて、信じている、エレミヤの困惑が吐露されている。このあと、主が共におられることとともに「正しき人を試み/思いと心を見られる万軍の主よ。/私に見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから。」(12)復讐されるのを見せてくださいと祈っている。さらに「呪われよ、私の生まれた日は。/母が私を産んだ日は祝福されてはならない。」(14)自分の人生を肯定できないということだろうか。「労苦と悲しみ」(18b)の中での葛藤も見て取れる。正しいかどうかではないのだろう。そして、おそらく、このエレミヤの叫びが、捕囚後の、イスラエル、捕囚帰還後のイスラエルの中心を形成していったのだろう。イエスの時代までは、まだ遠い。
Jeremiah 21:12 ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。/さもなければ、あなたがたの悪行のゆえに/私の憤りは火となって燃え上がり/消す者はいないであろう。
「主からエレミヤに臨んだ言葉。それは、ゼデキヤ王がマルキヤの子パシュフルと、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤをエレミヤに遣わして、こう言わせたときのことである。」(1)と始まっている。悲しい章である。滅ぼされ、捕囚となることが、預言され、民には、降伏するように説く。しかし、そのときにも、引用句のように語っている。ゼデキヤ王たちは、困ったときの神頼みのように、エレミヤに「主に尋ねてください」(2b)と、願う。その答えだとすると、どのようなとき、すぐにでも起こることを変更はできないかもしれないが「朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。」がメッセージなのだろう。主が、現状改善ではなく、善いことをしてくださることに、信頼して。
Jeremiah 22:3 主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。
「公正」はこの後にも登場するが、王が守るべきこととして最初にかかれているのが「公正・正義」そして、その具体的なことが続く。それが神の価値観だということだろう。素晴らしい。しかし、同時に、民、個人については、偶像礼拝をしない以外、明確ではないように思う。滅びも、王の過ちにの責任が多いように感じる。個人の信仰の価値が未発達だということだろうか。国家の、危機にあって、中心となるのは「公正・正義」であることを強調しているのだろうか。
Jeremiah 23:1,2 災いあれ、私の牧場の羊の群れを滅ぼし、散らす牧者に――主の仰せ。それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者についてこう言われる。あなたがたは、私の羊の群れを散らし、追い払い、顧みなかった。そこで、私はあなたがたの悪行を罰する――主の仰せ。
この章では「(民の)牧者」と「(偽 - にせ)預言者」(9節以降)について書かれている。牧者は具体的に、どのような人を指しているのだろうか。祭司だろうか。長老だろうか。もう少し、広く、指導的立場にある人を背指しているのかもしれない。ここでは、罰するとあるが、その内容はなく「群れの残りの者」(3)を集めることが書かれている。これらの人たちについても、注意して学んでいきたい。
Jeremiah 24:7 私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。
このあとの歴史を少し知っているわけだが、このことは、真実であると同時に、そうとも言えない面も持っている。複雑な世界、しかし、神様は、その中で、どうしたらよいか、迷っておられるようにも見える。神様と言わなくても良いのかもしれないが。わたしは、真理を御心と同一視して求めている。しかし、現実が少しずつ分かっていく中で、なにをたいせつにして生きるべきか、それほど簡単ではないことも、感じている。おそらく、それぞれのときに、正しいことは、わからないのだろう。そして、おおきな間違いをしなければよいとも言えない。ひとは、間違えるので。結果責任のようなことは、避けられない部分もあるのだろう。難しい。
Jeremiah 25:7 しかし、あなたがたは私に聞き従わなかった――主の仰せ。あなたがたは自分の手で造ったもので私を怒らせ、災いを招いた。』
わかりやすいメッセージではあるが、今のわたしには、受け入れられない。神様が、(わからないことは不明としてそのうえで)すべてをご存知なら、このようなことは、単純に、ノアの洪水の繰り返しになることを知っておられるだろう。だからといって、条件をゆるくすることがよいようにも思わない。イエス様の言われたことが「神の子として生きる道を、選びましょう。神様はあなたの近くにおられます。」と理解すれば、ある程度は、そのように、生きることができるかもしれない。正解はなく、神の子として生きることにはならないわけだが。そのように、生きようとするもの同志と、互いに学び合いながらということなのだろうか。
Jeremiah 26:19 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺そうとしたであろうか。主を畏れ、主に願い求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」
モレシェトの人ミカのユダの王ヒゼキヤの時代の預言(18)のときのことを語っている。たしかに、ヒゼキヤとの違いは大きいのだろう。ただ、正直に言って、アッシリアの時代とバビロニアの時代の違いもあり、このような単純な因果関係で、悔い改めれば、主は災いを思い直されると考えることに、わたしは同意できない。イスラエルの民だけの神ではないと思っていることも一つの理由である。学問的には、理解は異なって来ているが、聖書理解において、それをコミュニティは受け入れられるだろうかとの危惧も同時に持っている。難しい。
Jeremiah 27:6,7 今や私は、これらすべての地を私の僕であるバビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかしついには、彼の地にも時が来て、多くの国民と偉大な王たちが彼を自分たちに仕えさせる。
バビロンの王ネブカドネツァルを「私の僕」と呼び、その孫の時代までのこと、諸国民のことを語り、この時点ではときは明確ではないが、そのバビロンも「多くの国民と偉大な王たち」に使えるようになることを預言している。エレミヤは、悔い改めを説いても、それが受け入れられることはないことにも、確信があったのかもしれない。時代は、エレミヤの預言では終わらない。御心を求め続けることの困難さも感じる。しかし「主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る」(16)のような預言(後の加筆ではないとすると)を信じて、捕囚の民の中で、ここに希望を見出していたひともいたのだろう。難しい。
Jeremiah 28:13,14 「行って、ハナンヤに言え。『主はこう言われる。あなたは木の横木を打ち砕いたが、その代わりに鉄の横木を作ることになる。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらのすべての国民の首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。そこで彼らは彼に仕える。私は野の獣まで彼に与えた。』」
エレミヤは「七十年が満ちると、私は、バビロンの王とその国民の上に、またカルデア人の地の上に、その過ちのゆえに罰を下し、これをとこしえに荒廃させる――主の仰せ。」(25章12節、参照25章11節、29章10節、イザヤ23章15節には「一人の王の生涯に等しい七十年」との表現もある)と預言している。ここでは、預言者ハナンヤがその期間は2年だということ、さらに、すべての民を帰らせるという預言をする。同様の筋に載っているが内容はかなり違う預言、それに対する対応が書かれているのがこの章である。「平和を預言する預言者は、その言葉が成就したときに、本当に主が遣わされた預言者であったと分かる。」(9)は印象的であるが、預言の難しさも感じる。ひとは、そして、エレミヤも完全ではないのだから。正しさを追い求めることに限界を感じている現代人の困難でもあるのかもしれない。難しい。
Jeremiah 29:10,11 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている――主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。
若い頃暗証していた聖句である。希望を与えられた。しかし、前半に続くもので、一般的な神様の計画と取ることはできないことも明らかだ。「平和を預言する預言者」(28章9節a)のそしりを免れない。しかし、このあとに続く「あなたがたが私を呼び、来て私に祈るならば、私は聞く。私を捜し求めるならば見いだし、心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる――主の仰せ。」(12-14a)は、このあとに続く、具体的な預言を考えると、やはり、一般的な言説ではないにも関わらず、神様の一般的なご性質だと取れないこともない。このような解釈も非常に難しいと感じた。
Jeremiah 30:20-22 ヤコブの子らは昔のように栄え/その集いは私の前に揺るぎなく立てられる。/彼らを抑圧する者を私は罰する。力ある者が彼らから起こり/治める者が彼らの中から出る。/私が彼を近づけるので/彼は私に近づく。/彼のほかに、一体誰が命を懸けて/私に近づくであろうか――主の仰せ。こうして、あなたがたは私の民となり/私はあなたがたの神となる。
この章には「なぜ自分の傷のことで叫ぶのか。/あなたの痛みは癒えない。/あなたの多くの過ち/あなたの数知れない罪のために/私があなたにこうしたのだ。」(15)と語りつつ、最後は、引用句にある、希望のメッセージになっている。エレミヤも、傷の痛みを感じながら、希望を持ち続けていた預言者なのかもしれない。しかし、正直、引用しているような平和は来ない。現状分析は厳しく、正しくとも、それがどのように解決されるかは、とても、困難なのではないかと思う。
Jeremiah 31:15 主はこう言われる。/ラマで声が聞こえる/激しく嘆き、泣く声が。/ラケルがその子らのゆえに泣き/子らのゆえに慰めを拒んでいる/彼らはもういないのだから。
マタイ2章17,18節で引用されている言葉である。このあとには「主はこう言われる。/あなたの泣く声を/目の涙を抑えなさい。/あなたの労苦には報いがあるからだ――主の仰せ。/彼らは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある――主の仰せ。/子らは自分の国に帰って来る。」(16,17)とある。26章からはエレミヤの後半生について書かれている部分であもる。エレミヤは涙の預言者とも言われるが、このような預言は、もしかすると、主が、エレミヤへの慰めとして与えたのかもしれないと思った。そのような感想には、批判もあるだろうが。エレミヤと、神様との深い、交わりをのことばも、受け取りたいと思う。
Jeremiah 32:42,43 主はこう言われる。かつて、この民にこの極めて大きな災いを下したように、私は、約束したあらゆる恵みを彼らにもたらす。あなたがたが、「この地は荒れ果て、人も獣もいなくなり、カルデア人の手に渡される」と言っているこの地で、畑が買い取られるようになる。
エルサレムが包囲され、エレミヤが監視の庭に勾留されている時(2)に、おじの子花ムエルが監視の庭に来て、ベニヤミンの地のアナトとにある畑を買ってください(8)と依頼し、このことは、主から出たこととして、それを買う決断をする、最後に記されていることばである。信仰・希望、そして、愛もあるかもしれない。通常は、絶望で、率直に、神の言葉を伝えようとするエレミヤに対する批判が強く、自らの自由がないときに、(自由さを保って)行動まで起こす。やはりこれは、大変なことだろう。ひとつの正しさに固執するのではなく、神の御心を求め続けることは、自分が受け取った真理は、ほんの一部に過ぎないことをわきまえ、求め続けることにつながっているということだろうか。その態度を見習いたい。たいへんであることは、理解できるが。
Jeremiah 33:21,22 僕ダビデと結んだ私の契約も破られる。彼には、その王位を継ぐ子がいなくなり、私に仕えるレビ人である祭司との契約も破られる。数えきれない天の万象や、量りえない海の砂のように、私はわが僕ダビデの子孫と、私に仕えるレビ人の数を増やす。」
この章の最後は「私はヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、彼の子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないであろう。しかし私は、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」(26)とある。不思議な預言である。彼らの繁栄を回復するとしながら、ダビデの子孫が王位につくこともなく、祭司の系統も途絶えるのだろう。しかし、これらの人たちの数は増す。正しいかどうかの解釈に終始よりも、エレミヤが十分は理解できなくても、自分が受け取ったことを伝えようとしたことに、希望を感じさせる。将来について知りたいということよりも、主に希望を置くことがたいせつなのだろうから。
Jeremiah 34:8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。
興味深い章である。ゼデキヤについての預言(1-5)、その直後に、奴隷解放宣言が記され、契約に加わった高官や民が実行するが、自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し仕えさせた(9-11)ことが書かれ、それに対するエレミヤの言葉が記されている。また「この時、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町の中で、これらの城壁に囲まれた町だけがまだ残っていたからである。」(7)の記述も含まれており、客観的状況もある程度わかる。「『七年の終わりには、あなたがたはそれぞれ、あなたのもとに売られて来た同胞のヘブライ人を去らせなければならない。六年間、彼があなたのために働いたなら、彼を自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない。』ところが、あなたがたの先祖は私に聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。」(14)は出エジプト記21章2節、申命記15章12節にあるが、本当にこのことが実行されていたのか、興味を持っていた。おそらく、常には実行されていなかったであろう。律法とは当時の人達にとって何だったのかも垣間見ることができ、興味深い。
Jeremiah 35:6,7 すると、彼らは言った。「我々はぶどう酒を飲みません。我々の父祖、レカブの子ヨナダブが我々に命じて、『お前たちも、お前たちの子孫も、決してぶどう酒を飲んではならない。また、お前たちは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう園を造ったり、また所有したりしてはならない。お前たちは生涯、天幕に住まなければならない。お前たちが滞在する土地で長く生きるためである』と言ったからです。
このことに聞き従ってきた(8)とある。エレミヤはそのことを知っていて、民の前でこのことを確かめ、語っている。神の命令ではないが、このように聞き従う者を知ることは、エレミヤにとっても、重要なことだったのではないだろうか。忠実な人たちを見出したのだから。内容はともかく、イエスももしかすると「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5章34節、10章52節、ルカ7章50節、8章48節、17章19節、18章42節、参照マタイ9章22節)と言われるかもしれない。
Jeremiah 36:6,7 あなたは断食の日に行って、私が口述したとおりに書き記したこの巻物の中から主の言葉を読み上げて、神殿にいる民に聞かせなさい。また、それぞれの町から来るすべてのユダの人々にも読み聞かせなさい。人々は主の前に願いを献げ、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。この民に主が語られた怒りと憤りが大きいからだ。」
口述筆記した書が読まれるが、違った反応が記されている。まずは、引用句にある「断食の日に神殿にいる民」。この人達は、敬虔な人たちなのだろう。次に「エルサレムのすべての民、およびユダの各地の町からエルサレムに来ているすべての民」(9)この人達も、断食をする。「(書記官)シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤ」(10,11)と「(何人かの)書記官とすべての高官たち」(12)も、巻物に書かれていることを聞こうとする。それを王に告げるが、エレミヤの言葉だと聞いて、口述したエレミヤと筆記したネリヤの子バルクを隠す(19)。そして、王に告げるが「王とそのすべての家臣たち」(24)は、書に書かれたことばを受け入れず、王は、それを燃やしてしまう。その後、多くの言葉を加えて再度巻物に書き記す(32)ことが書かれている。いろいろな人達がいることを丁寧に理解して読んでいきたい。目が向けられるのは、王とその家臣であることが多く、その人達の民に対する責任は大きいことは確かだが。
Jeremiah 37:11,12 ファラオの軍隊が進軍して来たことを耳にして、カルデア軍がエルサレムから撤退したとき、エレミヤはエルサレムから出て、ベニヤミンの地に行った。民の間で郷里の割り当て地を受け取るためであった。
割当地の受け取りは何らかの契約の締結が関係したのだろう。(エレミヤ32章6節〜15節)そのある意味で日常的な、この世的なことを、一つ一つすすめることにも、主への信頼、この世がこれで終わるわけではないとの確信が感じられる。どのような危機においても、日々を誠実に丁寧に生きること。それが、信仰と希望による生き方なのだろう。
Jeremiah 38:4,5 高官たちは王に言った。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを人々に語り、この都に残っている戦士とすべての民の士気を挫いているからです。この民のために平和を求めず、むしろ災いを求めているのです。」ゼデキヤ王は言った。「あの男はお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
エレミヤ書にかかれているゼデキヤは非常に興味深い。人間の弱さを表現しているが、同時に「私が恐れているのは、カルデア人のもとに投降したユダの人々だ。彼らの手に引き渡されると、私はなぶりものにされるかもしれない。」(19b)と複雑な心情も吐露している。列王記下24章18-20節歴代誌下36章11-16節などと比較すると、複雑な心境がより理解できる。正しさによって、概観し、それによって人をさばくことは、単純化であり、神様の見方とは、異なるように思われる。
Jeremiah 39:6,7 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子どもたちをその目の前で惨殺した。ユダの貴族たちもすべてバビロンの王は惨殺した。彼はゼデキヤの両眼を潰し、青銅の足枷につないでバビロンに連行した。
この章には、エレミヤのことについても書かれている。これを、ゼデキヤへの裁きだと考えるのは単純化し過ぎであると思う。わたしが、ゼデキヤの立場であったとして何ができたかは、不明である。ここには、貴族たちが惨殺されたことが書かれている。バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関しては「彼を連れ出し、世話をせよ。いかなる害も加えるな。彼が求めることは、何でもかなえてやれ。」(12)と言っていることなどを勘案すると、ある程度、調べて、ある程度個々に決めた処分なのかもしれないと思った。武力だけでなく、政治規範としても、バビロンの方が上だったのかもしれない。
Jeremiah 40:11,12 モアブ、アンモン人、エドムなど、あらゆる地にいたユダの人々も皆、バビロンの王がユダに人を残したことと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに彼らの監督を委ねたことを聞いた。そこで、ユダの人々は皆、散らされていた先のすべての場所から帰り、ユダの地に来て、ミツパのゲダルヤのもとにやって来た。彼らは大量のぶどう酒と夏の果物を集めた。
戦後処理は難しい。おそらく、土地はそれなりに荒れていただろう。「野にいたすべての将軍とその部下」(7a)この中には、いずれ反逆を起こすイシュマエルなどがいる、そして「バビロンに捕囚として移送されなかった男、女、子ども、その地の貧しい者たち」(7c)「バビロンの王がその地の監督を委ねたアヒカムの子ゲダルヤ」(7b)、さらに、引用句からは、「あらゆる地にいたユダ」だけでなく「モアブ、アンモン人、エドムなど」もそこにいる。新しい世界を築いていくには、しっかりとしたリーダーが必要である。善良でそのことを忠実になそうとする、ゲダルヤ、このひとについてはあまりよくわからないが、このひとも一瞬のすきと判断ミスで大変な状況が起こる、難しいときなのだろう。戦争の後遺症である。それは、バビロンが整復した多くの地であったろうから、ゲダルヤは、それなりの能力を持っていたとも考えられるが。新しい世界を生きるのはだれにとってもむずかしい。
Jeremiah 41:16 ネタニヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアの子ヨハナンと、彼と共にいた将軍は皆、イシュマエルのもとから連れ戻した民の残りの者をすべて、すなわち、ギブオンから連れ戻した男、戦士、女、子ども、宦官らをミツパから連れ出した。
ネタニヤの子イシュマエルは「王の血筋で、王の高官でもあった、エリシャマの子ネタニヤの子イシュマエル」(1a)と書かれているが、まず、「ゲダルヤと共にミツパにいたユダのすべての人々と、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを打ち殺し」(3b)さらに「シェケム、シロ、サマリアから来た八十人の一行が、ひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿で通りかかった。彼らは、主の神殿に献げる穀物の供え物と乳香を手に携えていた。」(5)を(一部は取引をして残すが)惨殺、結局は、(野にいた将軍のひとり)カレアの子ヨハナン(40章8節)に攻められ、アンモン人のもとに逃げる。混乱の続章である。エレミヤはその混乱をも知る状況にある。(ゲダルヤのもとにいた(40章6節))エレミヤはなにを考えていらだろうかとも思う。一喜一憂ではなかったのだろう。おそらく、この時代を生きることは、だれにとっても、とても困難だろうが。
Jeremiah 42:5,6 すると、彼らはエレミヤに言った。「主が私たちに対して真実で誠実な証人となられますように。私たちは必ず、あなたの神である主があなたを遣わして私たちに語られる言葉のとおり、すべて実行します。良くても悪くても、私たちがあなたを御もとに遣わす私たちの神である主の声に聞き従います。私たちの神である主の声に聞き従うのは幸せになるためです。」
バビロンの王が監督を委ねた、アヒカムの子のゲダルヤを暗殺した、イシュマエルを撃った「すべての将軍とカレアの子ヨハナン、ホシャヤの子エザンヤ、そして小さな者から大きな者まですべての民」は「エジプトへ向かおうとしていた。」(41章17,18節)とある。その途中で、エレミヤに主の言葉を求めている。引用句を見ると、心惹かれるが、単純ではないのだろう。この時代はどのように生きるのも困難な時代である。エレミヤはこの人達に、エジプト行きに対する警告をし、とどまることが主の御心と告げる。エレミヤは、主のことばに信頼し、回復のときのためにも心を砕いていたのかもしれないが、それは、やはり困難だとも思わされた。現実世界で、将来を予見し、これが暫く先のことを考えると正しいと思えることでも、そこに皆で向かうことは非常に困難である。ましてやリーダーシップをとることは、不可能に近い。
Jeremiah 43:4,5 それで、カレアの子ヨハナンとすべての将軍、およびすべての民は、「ユダの地にとどまれ」という主の声に聞き従わなかった。カレアの子ヨハナンとすべての将軍は、散らされていた先のすべての国々からユダの地に住むために帰って来たユダの残りの者をすべて連れて行った。
主のことばに従うというカレアの子ヨハナンたち(42章5,6節)は、結局、警告を無視して、エジプトに向かう。将軍たちのもとでは、民(散らされていた先のすべての国々からユダの地に住むために帰って来たユダの残りの者)は無力だったことも考えられる。同時に、自ら選択ができる人は、限られていたのかもしれない。価値判断を、個人でできるようになることは混乱を引き起こすることも確かだが、やはり、尊厳のひとつの基盤でもあるように思う。
Jeremiah 44:28 剣を逃れてエジプトの地からユダの地へ帰還する者の数は僅かである。その時エジプトの地に来て寄留したユダの残りの者はすべて、私の言葉と彼らの言葉のどちらが実現するかを知るようになる。
ここに、エレミヤの信仰が現れているようにも思う。神の言葉のそして預言の正しさを確信している。おそらく、それは、世界情勢を冷静に見、考えることも含まれているのだろう。しかし、あげ足取りではないが、「エジプトの地に行ってそこに寄留しようとするユダの残りの者を私は取り除く。彼らは一人残らずエジプトの地で滅びる。彼らは剣で倒れ、飢饉で滅ぼされる。小さな者から大きな者までが剣と飢饉で死に、呪い、恐怖、罵り、そしりの的となる。」(12)と、引用句の状況には多少の違いがある。エレミヤの中でも、少しずつ修正、神様のみこころをより深く理解することが進行しているのかもしれない。わからないことばかりなのだから。
Jeremiah 45:4,5 バルクにこう言うがよい。『主はこう言われる。私は自分が建てたものを破壊し、自分が植えたものを引き抜く。全地をこのようにする。あなたは大きなことを求めている。求めてはいけない。私はすべての肉なるものに災いを下そうとしているからだ――主の仰せ。しかし、あなたがどこへ行っても、あなたの命を戦利品としてあなたに与える。』」
「ああ、災いだ。主は、私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、安らぎを得ない。」(3b)と言ったエレミヤ書の筆記者バルクへのことばである。いくつもの要素が含まれているように思う。主はご自身が望まれることをすること、そしておそらく、このような裁きは、ユダに留まらず、他の民にも及ぶこと、それを、留めることはできないが、主は、どこにいても、共に居て、生命を守ってくださること。基本的に、これが、エレミヤや、バルクとともに、わたしたちに与えられている道なのだろう。謙虚に、主の道を求め、それに従って歩むことだろうか。
Jeremiah 46:28 あなたは恐れるな、わが僕ヤコブよ/――主の仰せ。/私があなたと共にいるからだ。/あなたを追いやった先の国々はすべて/私が滅ぼし尽くす。/しかしあなたを滅ぼし尽くすことはない。/私はあなたを正しく懲らしめる。/あなたを罰せずにおくことは決してない。
諸国民について(1)と始まり、最初にエジプトが、バビロンのネブカドレツァルの手に落ちることが書かれ、しかし、復興もほのめかす記述(26b)がある。最後に、引用句がある。エジプトは古代から、イスラエルのすぐ隣の、隣国としては唯一の超大国で、アッシリアに敗れるが回復したことなどからして、エジプトに頼るのは、自然だったろう。しかし、エレミヤは世界史的な流れも、理解できていたのかもしれない。単純な期待ではなく、冷静に見る目と、主への信頼だろうか。しかし、どこまで理解できていたかは、やはり判断が難しい。同時に、どうなるかよりも、引用句などを通して、希望をもって、信仰的に生きることを促すことも、重要な役割だったのだろう。
Jeremiah 47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。/生き残っていて、ティルスとシドンを/助けようとするすべての者を絶ち滅ぼす日が。/その日、主はカフトルの島に残っている/ペリシテ人を滅ぼされる。
フェニキア人の系統と言われる、ペリシテは、イスラエルとの関係でも、長い歴史をもつ。しかし、歴史的にも、ネブカデネザルによって、歴史の舞台から消滅するようだ。(英語版 Wikipedia)このようなことの背後にどのように、主が関わられるかを判断することは、とてもむずかしい。しかし、それを、理解したいとする、エレミヤの思いも読み取ることができるように思う。わたしも、丁寧に世界を見ていきたい。主からのメッセージを読み取ることができるかもしれない。明確にはわからなないかもしれないが。
Jeremiah 48:47 しかし、終わりの日に/私はモアブの繁栄を回復する――主の仰せ。/ここまでがモアブへの裁きである。
モアブの裁きについて延々と書かれている。ただ、この終わりの日のことは、不明である。いまでも、モアブは残っているのだろうか。正直に言うと、裁きについての記述を読み続けるのが、辛かった。この時代は、基本的に、バビロンに整復され、その後も、中東は、大国の支配が続く。ひとつの民族が残ることは難しい時代にはいっている思うので。わたしが、モアブなら、エレミヤのメッセージをどう受け取るだろうか。風前の灯火で、結局は、ユダと共に、滅ぼされるときに。
Jeremiah 49:5,6 私は恐怖を四方からあなたのところに来させる/――万軍の主なる神の仰せ。/あなたがたは、ちりぢりになって追われ/逃げる者を集める者はない。この後、私はアンモン人の繁栄を回復する/――主の仰せ。
前章に続き、この章では、まず、アンモン、次に、エドム、さらに、ダマスコ、そのあとには、ケダルおよびハツォル、エラムと続く。回復が明示的に、書かれているのは、引用した、アンモン、そして、エラムのようである。ほかはどうなのだろうか。正直、わたしには、わからない。滅びも、回復も。何か、空虚に感じてしまう。
Jeremiah 50:45,46 それゆえ、あなたがたは聞け/主がバビロンに対して練られた計画/カルデア人の地に対して立てられた企てを。/羊の群れの幼いものらが引きずって行かれ/牧場は彼らのせいで必ず荒廃する。バビロンが捕らえられる音で地は揺れ動く。/叫び声は諸国民の間に聞こえる。
この章には、バビロンについての言葉が書かれている。少し長いことも有り、丁寧には読めなかったが、ゆっくり読む価値があると感じた。おそらく、私たちは、知らない事実が背後にある内容もあるのだろうが。同時に、イスラエルとの関係もいろいろと書かれている。印象に残ったのは「そして、イスラエルを元の牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食み、エフライムとギルアドの山で心から満足する。その日、その時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない――主の仰せ。ユダの罪も見いだされない。私が生き残らせた人々を赦すからである。」(19,20)帰還することは、他にも書かれているが、ここでは、罪が見いだせなくなること、それは、過ちを犯さないことではなく、主が許すからだとある。丁寧に読むことができる日がくればと願う。
Jeremiah 51:60,61 エレミヤはバビロンに下るすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンに到着したとき、注意してこのすべての言葉を朗読し、
バビロンの部分が書かれた背景が書かれている。おそらく、50章・51章は、この巻物の内容と関係しているのだろう。このあとに、書かれている、この巻物をどうするかの記述も、興味深い。大帝国、バビロン(新バビロニア帝国)が最も力があったときに、このようなことをするのは、大きな挑戦だったろう。それも、優遇され、解放されたエレミヤが。この二章は長いので、じっくり読めなかったが、エレミヤの凄さを感じさせるものでもある。なかなか、好きにはなれないが。
Jeremiah 52:28-30 ネブカドレツァルが捕囚とした民は次のとおりである。第七年にはユダの人々三千二十三人、ネブカドレツァルの治世第十八年にはエルサレムから八百三十二人、ネブカドレツァルの治世第二十三年には、親衛隊長ネブザルアダンがユダの人々七百四十五人を捕囚とした。総数は四千六百人である。
きっちりとした数が書かれているが、他の記録にもなく、かつ、捕囚から帰ってくる人たちの数などを考えると、少なすぎるように思う。正確には調べられなかったが。「貧しい民の一部、都に残っていたその他の民、バビロンの王に投降した者、その他の人々は、親衛隊長ネブザルアダンが捕囚として連れ去った。親衛隊長ネブザルアダンは、この地の貧しい民の一部を残し、ぶどう作りと土地を耕す者とした。」(15,16)ともあり、全体像が不明である。出エジプトのときや、ダビデの時代の人口調査などを考えると、全体では、数百万はいたのではないかと考えていた。ユダの地域だけでも、100万人近くいたのではないだろうか。どのようにしたら、情報を集められるのだろうか。そして、ここにかかれている数は何の数なのだろうか。

BRC2019

Jer 1:18,19 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は言われた
これが、エレミヤの召命だろうか。脅威の前にある南ユダ王国(北イスラエル王国はすでに滅ぼされている)にあって、民の悪を糾弾する使命を与えられた、祭司ヒルキヤの子。仲間は居なかったのかと考えてしまう。民主的にことを動かすことではないのだろうが。現代ではどうなのだろうか。
Jer 2:19 あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ/あなたの背信が、あなたを責めている。あなたが、わたしを畏れず/あなたの神である主を捨てたことが/いかに悪く、苦いことであるかを/味わい知るがよいと/万軍の主なる神は言われる。
徹底的に、罪の糾弾である。アッシリアに苦しめられ、いま、バビロンの手に落ちようとする原因は、と、まだはっきりは言わないが、それは、罪だと言う。背景にあるのは、因果応報。確かに、主との関係において、主への愛がなかったのだろう。国の滅びはそれ故なのだろうか。
Jer 3:25 我々は恥の中に横たわり/辱めに覆われています。我々は主なる神に罪を犯しました。我々も、先祖も/若いときから今日に至るまで/主なる神の御声に聞き従いませんでした。」
わたしには、アーメンと言えない。神のまったき平安が得られないのは、もっと複雑な背景があるように思われてしまう。罪の故なのか。たしかに、それも否定できない。主よ、教えてください。わたしの、生きるべき道を。あなたに向かう歩みを。
Jer 4:1,2 「立ち帰れ、イスラエルよ」と/主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」 もし、あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする。
エレミヤの叫びは聞こえるが、やはり、疑問が残る。イスラエルへの呼びかけなのか。ある、集団への呼びかけで、これが実現することは、あるのか。では、個人でよいだろうか。おそらく、それも、正しい者と、そうでないものとの間の、隔ての垣根をつくるだけで、解決にはならないだろう。おそらく、エレミヤの時代にも、悔い改めて、主のもとに来る者は何人もいただろう。それが完全な改心ではないと、責めるのか。本当に、そのために、主は、十字架に架かられたのか。わたしには、そうではないように思う。求め続けて行きたい。
Jer 5:1 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
このあと、結局、ひとりも、見いだせなかったことが書かれている。それでは、エレミヤもそうなのか。そうなのかもしれない。それでは、主が望まれるのは何なのだろうか。このエレミヤがみたものの中にはないように思う。この章の最後には「預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」 (31)とある。エレミヤには、そう見えたのだろう。一方で、エルサレムが消えてなくなることが見える中で、エレミヤの苦しみを読み取ることが大切なのだろう。エレミヤの語っていることが正確かどうかではないのだろう。読み方を考えたい。
Jer 6:16 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。
これを拒否したことが、災いの元だと述べているようだ。そうなのだろうか。たとえば、今、Covid-19 で世界中が苦しんでいるとき、それは、主に従わなかったからだと言うのだろうか。そうかもしれない。しかし、わたしは、違うようにも思う。因果応報から、主は自由である。エレミヤの時代、そして、今、主は何をなそうとしておられるのだろうか。
Jer 7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
バビロン帝国の襲来は、イスラエルの悪のゆえ、それをただすためだろうか。悔い改めれば、バビロンは、おそってこないのだろうか。バビロン帝国にとって、ユダは、それほどの脅威ではなかったろう。なにか、井の中の蛙のような感じさえ受ける。しかし、同時に、エレミヤの苦しみは、伝わってくる。エレミヤには、このようにしか表現できなかったのだろう。
Jer 8:15 平和を望んでも、幸いはなく/いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
この章の記述の背景は不明である。しかし、主に従わないものの状態と、警告が繰り返されているようだ。しかし、引用句に続いて「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの/都とそこに住むものを食い尽くす。」(16)とあるように、北から、敵がまさに攻めてくる状況が語られている。バビロン王国自体か、バビロンに滅ぼされた国が、その先鋒を担っているのか不明であるが、世界的にみても、歴史的に見ても、風前の灯火であることは確かである。そのとき、ひとは、どう生きればよいのだろうか。主との関係を、現在の生の危機的状況とは独立に、喜ぶことだろうか。Covid-19 crisis のもとで、現在、世界の人たちは、この引用句のような気持ちを抱いているのではないだろうか。そして、おそらく、世界的な感染症の蔓延は、これからも起こるだろう。どう生きることが求められているのだろうか。なにがたいせつなのだろうか。
Jer 9:3 人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても/「押しのける者(ヤコブ)」であり/隣人はことごとく中傷して歩く。
おそらく、そうなのだろう。特に、危機においては。このあとにも「人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。」(4)と続く。ひとは、これを「知恵や力や富」(22)で、どうにか切り抜けようとする。「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(23)これが、エレミヤの伝えたいことだろう。本質的かもしれないが、不満も感じる。主は、なにを求めておられるのだろう。やはり、互いに愛し合うことではないのだろうか。裏切られることがあっても。裏切られる背景には、いろいろなことが考えられるのだから。
Jer 10:23 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。
わたしは、本当に、このことを知っているだろうか。自分で、どうにかなると、考えていないだろうか。たいへんなことが起こっても、解釈を変え、いみを転換すれば良いと。「ああ、災いだ。わたしは傷を負い/わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病/わたしはこれに耐えよう。』」(19)これと、同じなのかもしれない。
Jer 11:20 万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
この章は「ひとりも生き残る者はない。わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ。」(23)で終わる。エレミヤは、アナトトの祭司ヒルキヤの子である。(1章1節)それを、主に委ねる。それでも、エレミヤには、主に信頼と、希望を持っていたのだろうか。よくわからない。引用句には、主は「人のはらわたと心を究め」る方だとある。はらわたは、悲しみ、苦しみ、痛さを味わうところなのだろう。それをも、究めておられる主に委ねるところに、さらに、驚かされ、重さを感じる。
Jer 12:1 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
神義論(theodicy)にも関係しているが、ここでエレミヤは、おそらく神の義を問題にはしていないだろう。コンテクストから、裁きが近いことを目の当たりにしながら、このように言う者、または一般的な問いをまず持ち出しているのだろう。しかし、これには、個人的な思いの交錯もあったろう。「人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主」(11:20)と語る直後だから。ここでは「主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。」(3)と語っている。ひとつの答えとして「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら/どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら/ヨルダンの森林ではどうするのか。」(5)があり、そのあとに、全世界の裁き(14)と、回復が語られる。回復におけるユダの家の扱いは、ここからだけでは十分わからないが。
Jer 13:9 主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。
「このように」は、ユーフラテスに隠した帯が腐り全く役に立たなくなっていたことをさす。まず、このとき、エレミヤはどこにいたのかと考えた。エレミヤ書は、時系列で書かれていないのかもしれない。このとき、エレミヤはバビロンにいたのかもしれない。ここでは「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。」(11)に結びつけている。主の腰にしっかりと付けられたものが、まったく、その(存在意義である)用を離れて、ぼろぼろになる。それだけではなく、主との強い関係性をも、伝えているのだろう。
Jer 14:8,9 イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。
最初に「干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」(1)とあり、ユダの危機的な状況が記述されており、次に、エレミヤの主への訴えが書かれている。これに続けて、主のことばが11節から書かれている。「主の言葉」とあるが、主との対話、または、主への訴えに対して受け取った主の言葉の形式になっている。主との交わりがエレミヤの中心にあるのだろう。引用句は興味深い。主を「この地に身を寄せている人/宿を求める旅人」「人を救いえない勇士」のようになっておられると訴えている。天災も含め、危機的な状況で主に真剣に問う姿が印象的である。
Jer 15:10,11 ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも/だれの債務者になったこともないのに/だれもがわたしを呪う。主よ、わたしは敵対する者のためにも/幸いを願い/彼らに災いや苦しみの襲うとき/あなたに執り成しをしたではありませんか。
周囲には、危機的な状況がある。その中で、主の厳しい声が聞こえてくる。それを消し去ることはできない。そして、それを宣言する役目をエレミヤは担っている。様々な時代に生じることのように思う。主のことばに預かるものの苦しさとも言えるが、主との交わりに生きるひとの歩みなのかもしれない。ということは、主はそのような生き方を、ひとり一人に望んでおられるのだろうか。苦しい。しかし、どうも、わたしは、そのように苦しんではいない。真剣に主との交わりに生きていないのか。それとも、エレミヤとは異なる生き方で主に従おうとしているのか。イエス様はどうだろうか。おそらく、喜びも、悲しみも、苦しみもあり、その中で、平安ももっておられたのだろう。
Jer 16:9 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる。」
章の始めから、主の裁きがどのような形で起こるかが書かれている。「まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。」(18)ともある。最後には「それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。」(21)とある。国が滅び、民が離散する、そのようなエレミヤの時代に生きていないのだから、これは、違うとは言えないが、主は本当にそのような形で、交わりを回復されるのだろうか。疑問に思う。だからといって、わたしが答えを持っているわけではない。人々が「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」(19b, 20)という時は来るのだろうか。
Jer 17:24,25 主は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう。
安息日の遵守について書かれている。イエスの活動から、安息日を軽く考えてしまう傾向がある。エレミヤの時代、それが非常に乱れていたのか。それとも、わかりやすい、違反が見えやすいからだろうか。安息日にすべきこと、たいせつなことをたいせつにしたい。
Jer 18:9,10 またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」
主はほんとうにそのような方なのだろうか。エレミヤはそのように受け取ったとしか言えない。ひとは、主の目には悪とされることを行い、主の声に、全く聞き従うことは、できないのだから。様々な国の盛衰をみながら、エレミヤが受け取ったこととして受け入れれば良いのだろうか。エレミヤも、わたしも不完全なのだから。
Jer 19:15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」
結局、これが、この時点での結論だったのだろう。わたしならどうするだろうか。最後の最後まで、この民と一緒に居て、滅びることを選択するのではないだろうか。正しさは、やはりむなしく感じる。主とともに、そして、隣人とともに、生きることを望みつつ、それが自分には、完全な形ではできないことも覚えつつ。エレミヤの嘆きはともにしたい。
Jer 20:12 万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
この章は「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。」(1,2)から始まり、偽りの預言者およびユダの人々への裁きについて語られ、引用句に至る。正義がどれほど大切であったかがわかる。しかし、わたしは、理解できないでいる。引用句は、しかし、万軍の主との交わりについて、主に委ねることについて書かれており、それは、普遍性をもつように思う。エレミヤやユダの人々の危機的な状況を置いておいて、無駄な議論は不遜なのだろう。引用句に続く「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。」(13)に声を合わせよう。
Jer 21:7 その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。
ていねいに読むと、このあとの「命の道と死の道」(8)の前に、疫病、戦争、飢饉とある。ここで、すでに、多くの人たちが死んでいったのだろう。そこには、意味はないのだろうか。そのひとり一人をも、主は愛しておられるのではないだろうか。そのひとり一人への主の愛は記録されなくても、そのことを覚えていたい。
Jer 22:8-10 多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに尋ね、「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」と聞くならば、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」と答えるであろう。死んだ王のために泣くな。彼のために嘆くな。引いて行かれる王のために泣き叫べ。彼が再び帰って/生まれ故郷を見ることはない。
南ユダ王国の滅亡の理由を、単に、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」という表現に帰することに違和感を感じるが、ここでは、ある文脈のもとで語られていることは、受け取るべきだろう。「死んだ王」「引いて行かれる王」について書かれている。18節に「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキム」とあり、その前の記述「あなたの父は、質素な生活をし/正義と恵みの業を行ったではないか。」(15)「彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。」(16)とあり、この二人が背景にあるのだろう。どのような王かは、たしかに、国の盛衰に関係する。リーダーシップも影響があるだろうが。文脈は重要である。しかし、そこだけに、原因を押しつけることには、やはり違和感を感じるが。
Jer 23:35,36 お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。 「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神で/ある我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。
7節・8節で、捕囚後の帰還の預言が語られるが、そのあとは、預言者の糾弾が続く。特に「サマリアの預言者たち」(13)について語る直後に「わたしは、エルサレムの預言者たちの間に/おぞましいことを見た。」(14)は強烈である。預言をしながら、偽りに歩み、悔い改めないということか。預言者(祭司も含めて(33))への裁きは厳しいのだろう。エレミヤも、祭司の子の、預言者であるが。
Jer 24:8 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。
5節には「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。 」とあり対をなしている。この二つを分けたものはなにか。自ら選ぶことは、できなかったろう。そして、おそらく、優秀な人材は、捕囚となったろう。そう考えると、理不尽に感じる。
Jer 25:8,9 それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。
ある状況の意味を考える。それが、将来への希望へとつながる。そうなのかもしれないが、そうでないかもしれない。この直後の、11節に「この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」これが実現することとなる。それは、様々な記述からおそらく正しいだろう。しかし、そうだからと行って、意味づけがみな正しいとは限らない。わたしには、わからない。
Jer 26:19,20 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それは、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。
たしかに「彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。」(3)とも語られている。ここでの、「この地(どの地か不明)の長老数人」(16)は勇気のある行動だったろう。しかし、このように、割れたときに、主はどうされるのか。すでに、遅いのではと考えてしまう。
Jer 27:8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼす。
このことを主のことばとして語らなければならないとは、残酷である。しかし、このような時に、先の先を見ながら、主の声に聞き従うことが求められるのか。エレミヤにとっても、わからないことが、多かったのではないだろうか。エレミヤに聞いてみたい。
Jer 28:2-4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤの言葉である。これに対して、エレミヤは「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(9)と応える。この章の最後は「預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。」(17)と結ばれている。エレミヤも捕囚の期間は、70年と預言しているので、これも、それが成就してはじめて、主が遣わされた預言者であることがわかるのだろう。しかし「平和を預言する者は」ともある。裁きを告げる場合は、成就しないこともあることが暗に含まれているのかもしれない。悔い改めがあるのだから。いずれにしても、預言者、主のことばを取り次ぐことは、たいへんな使命である。通常は、その役目を担い得ない。
Jer 29:21,22 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、わたしの名を使って、あなたたちに偽りの預言をしているコラヤの子アハブとマアセヤの子ゼデキヤに対してである。今、わたしは彼らをバビロンの王ネブカドレツァルの手に渡す。王は彼らをあなたたちの目の前で殺す。この二人のことは、呪いの言葉として使われ、バビロンにいるユダの捕囚民は皆、『主が、お前をバビロンの王に火あぶりにされたゼデキヤとアハブのようにしてくださるように』と言うようになるだろう。
バビロンに手紙を送ってまで、このように断言する。わたしには、エレミヤのことがよくわからない。エレミヤの思い、願いは何だったのだろうか。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(11)この希望だろうか。主との交わりの中で、これを確信していたのだろうか。
Jer 30:3 見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」
回復は、この記述からは、エレミヤは、捕囚帰還とともに、起こると考えていたのではないだろうか。「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。」(8)ともあり、さらに「こうして、あなたたちはわたしの民となり/わたしはあなたたちの神となる。」(22)とも言っている。最後の「主の激しい怒りは/思い定められたことを成し遂げるまではやまない。終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る。」(24)とあり、これが終わりの日に起こることとして語っているようだ。だからといって、エレミヤを責める気にはならないが、おそらく、エルサレムが完全に打ち破られ、廃墟となることは、それほど、決定的であり、それゆえに、回復は、終わりの日の回復ほど、本質的なものとして確信したのだろう。
Jer 31:16,17 主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。
エレミヤは、イスラエルの滅亡のときにも、希望をしっかり持っていたのだろう。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 」(33)ひとを知り、主を知り、のぞみを託し、主からのメッセージとして受け取ったのだろう。驚かされる。
Jer 32:8 主の言葉どおり、いとこのハナムエルが獄舎にいるわたしのところに来て言った。「ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください。」わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。
ベニヤミン族の所領に属するとある。エレミヤは祭司の家系であり、族をまたいで嗣業があったのだろう。しかし、70年との関係は気になる。ヨベルの年には、返還することになるのだろうか。17も少し気になる。いずれにしても、カルデヤ人にエルサレムが包囲されている中で、エレミヤがこの行為に及んでいることが重要なのであろう。しかし、土地所有は、統治体制が変化すると、変化するとはエレミヤには思われなかったのだろう。主からの嗣業だから。
Jer 33:17,18 主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。」
エレミヤは、獄舎に拘留されている。(1)まだ、イスラエル(ユダ王国)が滅亡する以前に、その回復を預言している。他のエレミヤの預言のように70年後のことではないのかもしれない。引用句のような回復は起こっていないとみるのが、正しいだろう。そこで、これがいつか起こるとみる見方もあり、それが信仰ある者の希望だとするひとも多くいるだろう。わたしは、それよりも、この信仰者エレミヤから学ぶことのほうが多いのではないかと思う。すべてを正しいとするのではなく、エレミヤが与えられているすべてをもって、どんなときにも、希望を主に委ねて、主を信頼し続けることだろうか。
Jer 34:17 それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。
エルサレムの貴族と民が契約に従わない民であることを再確認されたことが記されている。「このとき、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町々、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町々の中で、これらの城壁を持った町だけがまだ残っていたのである。」(7)これが背景である。そのような状況で「ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。」(8)とある。危機的な状況で、まだ、契約を破ってでも、奴隷を自分のために留め置くのか。悲しくもなる。絶望的な中で、人はなにを望んでいたのだろうか。エレミヤの行動にも驚かされる。
Jer 35:18,19 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。」
一方で主のことばを守らない民がおり、他方で、先祖のことばをしっかり守る人たちがいる。それを象徴的に描くことで、無理なことを求めているわけではないことが示されているのだろう。同時に、先祖の言い伝えを頑なに守ることについて疑問も感じる。人間の戒めではないのか。文脈としては、誓ったことが背景にあるのだろう。主との契約である以上、守り続けるということか。終わりはないのだろうか。おそらく、主の言葉として、しっかりと受け止めることが、求められているのだろう。
Jer 36:1-3 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
34章には、ユダ王国最後の王であるゼデキヤへのことばと、預言者、貴族達が主との契約を守らなかったことがかかれ、35章には、ヨシヤとゼデキヤの間のヨヤキムの時代のことが書かれ、この章につながっている。間に短い統治期間の他の王が居るが、一般的には、ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤと認識されていたのだろう。1章2,3節でも、この三人の名前がエレミヤの活動時期として記録されている。628年(ヨシヤ王の13年)から活動を開始、587年(ゼデキヤ王の11年)のイスラエルの民の捕囚までの約40年とある。ヨヤキムの第4年は606年、すでに22年ほど活動したあと、ほぼ中間地点である。イスラエルにとっても、とても貴重な時期であることもわかる。悔い改めを説くだけではいけないと考えたのかもしれない。歴史を通して働かれる主を意識したのだろうか。
Jer 37:3-5 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと祭司であるマアセヤの子ツェファンヤとを預言者エレミヤのもとに遣わして、「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」と頼んだ。エレミヤはまだ投獄されておらず、人々の間で出入りしていた。折しも、ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来た。エルサレムを包囲していたカルデア軍はこの知らせを聞いて、エルサレムから撤退した。
「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである。 」(1)とあり、カルデア軍はネブカドレツァルの軍隊である。エジプトが進撃してくると聞いて、撤退したとある。ゼデキヤが出兵を依頼したかどうかは、ここでは不明だが、判断が分かれる難しい事態でもあろう。そのなかでのゼデキヤの優柔不断さもあるが、エレミヤとの親密さも見て取れる。内部分裂もあったのだろう。おそらく故郷のベニヤミンの地に帰ろうとして捕縛、ゼデキヤに保護と依頼する。エレミヤは、何を考えていたのだろうか。
Jer 38:5 ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
ゼデキヤの描写が興味深い。エルサレムの有力者には、逆らわない。また、ゼデキヤ王はエレミヤに次のようにも言っている。「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々である。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない。」(19)人を恐れている。しかし、エレミヤを通しての神のことばにも、一定の信頼を置いている。それが、クシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」(10)と命じたことからもうかがい知れる。ゼデキヤ王がエレミヤにひそかに誓って言ったことば、「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない。」(16)は多少滑稽に感じるが、絶望的な状態での、ゼデキヤにも同情してしまう。このような記録は興味深い。
Jer 39:6,7 リブラでバビロンの王は、ゼデキヤの目の前でその王子たちを殺した。バビロンの王はユダの貴族たちもすべて殺した。その上で、バビロンの王はゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
「イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない。」(38章17,18節)のエレミヤのゼデキヤへの言葉と、引用箇所を比較すると、降伏せずに、逃亡したことが誤りであったとなるのであろう。しかし、それをもって、神の言葉に従わなかったゼデキヤを責めることは、わたしにはできない。主に従うことは、難しい。
Jer 40:5,6 ――エレミヤはまだ民のもとに戻っていなかった――シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤのもとに戻り、彼と共に民の間に住むがよい。彼は、バビロンの王がユダの町々の監督をゆだねた者である。さもなければ、あなたが正しいとするところへ行くがよい。」親衛隊の長はエレミヤに食料の割り当てを与えて釈放した。こうしてエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、国に残った人々と共にとどまることになった。
エレミヤはこのとき何を思い、考えていたのだろう。なすべき事はなし、伝えるべき事は伝え、警告すべきことはして、預言のとおりになる。ここでは、解放され、保護もされる。共に、バビロンに行くことも可能だったはずである。しかし、残ることを選択する。恐れもあったのだろうか。わからない。
Jer 41:5 シケム、シロ、サマリアから来た八十人の一行が、ひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿で通りかかった。彼らは、主の神殿にささげる供え物と香を携えていた。
アンモンの王の命で、ゲダルヤ暗殺に遣わされたネタンヤの子イシュマエル(40章14)ユダの残留者など、様々な勢力が残っていたことがわかるが、この記事は興味深い。北イスラエル王国滅亡後も、信仰を持って、ユダの滅亡を悲しんでいる人たちがたくさんいたといことである。この人たちもほとんど、イシュマエルに殺される。かなり、混乱した状況であったこともわかる。エレミヤはこれらの目撃者的存在でもあったのだろう。それも、一つの使命だったかもしれない。
Jer 42:5,6 すると、人々はエレミヤに言った。「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」
結局は、エレミヤの声に聞き従わないのだが、このときの心情はどのようなものなのだろうか。聞き従うつもりでいたのだろうか。不安であったことは、確かだろう。エレミヤは特別だとも考えていたろう。正直よくわからない。このあとを読んでわかるのだろうか。
Jer 43:2,3 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」
みずからの安全をもとめていたのだろうか。エジプトが滅ぼされることはないと考えていたのだろう。いくら、エレミヤを通して語られた言葉であっても、それを信じるのは、難しいだろう。時代の先を、エレミヤは見ていたのだろうか。それとも、神様から、超自然的な方法で、示されたことなのだろうか。
Jer 44:27 見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。
正直、これが主のみこころなのかわたしには、わからない。エジプトに落ちのびるひとの中にも、様々な葛藤のなかで、主に従おうとするひともいるだろう。そして、ひとりもいなかったとしても、正しさによって、ひとが、神との関係を適正に持つことができるのだろうか。疑問に思う。預言したとおりに、エジプトに向かったひとたちが滅びることをエレミヤは願ってはいなかったとは思うが、エレミヤのこころの中もわからない。ひとりもいない、ひとりのこらず、これらの言葉から、エレミヤの孤独も感じる。このエレミヤとも共に祈るものでありたい。
Jer 45:1-3 ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤの口述に従ってこれらの言葉を巻物に書き記した。そのとき、エレミヤは次のように語った。「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。 あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない。』
畑買い取りの証書を受け取り(32:12,13,16)エレミヤの預言を書きとめ(36:4,5,27,32)公表し(36:8, 10,13-19)その後もエレミヤと共に行動し(43:3,6)た人物である。外典にバルク書もある。身分などは不明であるが、エレミヤのことばを真摯に受け止めていたことは確かだろう。引用箇所のバルクのことばには、こころが痛くなる。このあと、命が守られることが告げられるが、バルクはどのようにうけとったのだろうか。エレミヤだけでなく、行動をともにしたバルクにとっても、たいへんなときだったろう。「ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」(43:3)こんなことまで、言われているのだから。
Jer 46:25,26 万軍の主、イスラエルの神は言われた。「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。わたしは、命を求める者の手に彼らを渡す。すなわち、バビロンの王ネブカドレツァルとその家来たちの手に。その後、エジプトは昔のように人の住む所となる」と主は言われる。
歴史をよく調べないといけないが、記憶によると、アッシリアを助けるために遠征したファラオ・ネコ二世は、一旦は新バビロニア軍を破るが、結局はネブカデネザルに敗れる。しかし、滅びるのは、ずっとあとの、ペルシャの時代、そして、アレクサンダー大王の遠征によって完全に途絶えるようだ。このあとには「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。」(27)と、イスラエル帰還について記されている。予言の評価は難しい。エレミヤの預言としてのことば、生き方と向き合いたい。
Jer 47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。主がペリシテ人を滅ぼされる/カフトルの島の残りの者まで。
ここに現れる、ペリシテも、ティルスと、シドンも、海の民と呼ばれている、歴史的にもよくわかっていない民の都市国家から発展したもののようだ。どうなるのだろうか。滅亡の預言が続いているが、その後の歴史をみていると、やはり実際は複雑である。エレミヤが伝えたかったことは、何なのだろう。
Jer 48:26,27 主に向かって高ぶったモアブを、酔いしれたままにしておけ。モアブはへどの中に倒れて、笑いものになる。お前はイスラエルを笑いものにしたではないか。イスラエルが盗人の仲間であったとでも言うのか、お前がイスラエルのことを口にするたびに嘲ったのは。
モアブが略奪にあい、「モアブの町々は荒廃し、住む者がいなくなる」(9)ことが書かれているが、滅びについては、あまり明確ではない。実際には、ペルシャ時代に、姿を消すようだが、詳しくはわからない。裁きかどうかも明確ではないが、引用箇所とともに「自分の業と富に頼った」(7)は挙げられている。しかし、最後には「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47)とある。審判とあるが、繁栄を回復すると記されており、明確にはわからない。近隣の国々がどうなるのかは、気になることではあったろう。
Jer 49:12 主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない。
この章では、まず、アンモン(1-6)、ついで、エドム(7-22)、さらに、ダマスコ(23-27)、ケダルとハツォルの諸国(28-33)、そして、エラム(34-39)についての主の言葉である。アンモン(6)とエラム(39)については、モアブと同様に、回復が付加されている。印象に残ったのは、引用した箇所。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされる」とある。審判、裁きとは、何なのだろうか。エレミヤは、どう考えていたのだろうか。審判は、神のみこころであろうが、それが、理不尽さをさらに、生み出すのだろうか。完全ではない人間にとって、それは、仕方がないことなのだろうか。
Jer 50:3 一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り/バビロンの国を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。人も動物も皆、逃れ去る。
バビロンに対する預言をどう読めばよいのかよくわからない。盛者必衰は仏教用語で無常を表すようだが、そのような預言ではないのだろう。ただ、バビロンはメディアに滅ぼされ、国としては方向は東である。そのあとの、イスラエルとユダの記述も、よくはわからない。エレミヤの見ていた世界は、どのようなものなのだろうか。現代においても、盛者必衰的なことをいうことはできるだろうが、主が望まれることは何なのだろうかと考える。「何かのためにではなく、誰かのために働きなさい。Do not work for something but for somebody」(マザー・テレサ)のほうに、心が引かれる。「互いに仕え合い、互いに愛し合う」ことを、わたしは、求めたい。
Jer 51:60-62 エレミヤはバビロンに襲いかかるすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。 エレミヤはセラヤに言った。あなたがバビロンに到着したとき、注意してこの言葉を朗読し、そして言いなさい。「主よ、あなた御自身がこの場所について、これを断ち滅ぼし、人も獣も住まない永久の廃虚にすると語られました」と。
メディアが、11節と28節に登場する。バビロンを滅ぼすことになる国である。引用箇所からは、エレミヤの徹底ぶりに驚かされる。これが預言者なのだろうが、平安は感じられない。わたしは、どうしても、冷ややかに見てしまう。エレミヤの苦しみ、悲しみは、感じられるが。
Jer 52:31 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の十二月二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。
ヨヤキンは、エレミヤ書では、この章にしか現れない。列王記下24章・25章、および、歴代誌下36章に書かれている。「ヨヤキンは八歳で王となり、三か月と十日間エルサレムで王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行った。 」(歴代誌下36章9節)とあるが、列王記には「ヨヤキンは十八歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった。その母は名をネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。 」(列王記下24章8節)とある。8歳で王となり、主の目に悪とされることをおこなったはあまりに不自然である。これだけでは、不明だが、若くして、短い期間王となり、すぐ捕囚になる。それから、37年である。自分の人生はなんだったのだろうと思って、ずっと獄で生活していたのだろうか。記述が少ないのでわからないが、国が滅びるときには、他にも多くの理不尽な状態があっただろう。エレミヤ記は、このヨヤキンが平穏に暮らすことが書かれて、終わっている。捕囚の人数の記録もあるので、総決算のようであるが、終わり方も、不思議である。

BRC2017

Jer 1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
召命のしばらくあとに書かれたと考えてもよいだろう。もしかすると、筆記者は別かもしれない。そうであっても、このことを、エレミヤは告白できた。それは、素晴らしいことである。
Jer 2:13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4章14節)を思い出す。このような泉について聞いていながら、無用の水溜を掘る、壊れた水溜を。ひとは、なんと愚かなのだろうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)光と認められないことに問題があるのか。光を指し示すことが、わたしの使命なのだろうか。
Jer 3:22 「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。
これがエレミヤの聞いた神の声、エレミヤのこころに響いた言葉なのだろう。「背信の子らよ、立ち帰れ」と14節にもある。背信の意味は、上に引用した 2章13節などを指すのだろうか。現代の人々はどうなのだろうか。
Jer 4:4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」
イスラエルに対しては「立ち帰れ、イスラエルよ」(1)としている。北イスラエルとユダを分けているのか。しかし、7節ではすでに「諸国の民を滅ぼす者は出陣した。」と述べられている。構造もよく分からない。しかし、引用した箇所の直前の「茨の中に種を蒔くな。」(3)など興味深い。おそらく、このあたりは、捕囚前に書かれたのだろう。エレミヤは、何を見ているのだろうか。危機的な、ユダの姿だろうか。
Jer 5:1,2 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 「主は生きておられる」と言って誓うからこそ/彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。
不思議な箇所である。このあと、記者も、一人ぐらいいると思って探す。口先では、主への忠誠を尽くし、実際の心では離れていると言うことか。
Jer 6:13 「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
このメッセージと列王記19章10節の「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」とをどう考えたら良いのか。単純に「皆」とは言えないだろうに。
Jer 7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
前半の意味と、後半の意味は異なるのだろう。イエスが「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。」/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。』 」(マルコ11:17)と宮清めで言うのと重なっているのか。ヨハネでは「鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』 」(ヨハネ2章16節)
Jer 8:23 わたしの頭が大水の源となり/わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう/娘なるわが民の倒れた者のために。
5節に「どうして、この民エルサレムは背く者となり/いつまでも背いているのか。偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。」とあるように、立ち返ることを拒む民に対する嘆き、預言者の悲しみとして書かれているように思われるが、それこそが、主の悲しみ、苦しみ、痛みなのかもしれない。深く憐れまれる主を思い出す。
Jer 9:24,25 見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者を/ことごとく罰する。 エジプト、ユダ、エドム/アンモンの人々、モアブ/すべて荒れ野に住み/もみ上げの毛を切っている人々/すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し/また、心に割礼のないイスラエルの家を/すべて罰する。
本質的なところ、すなわち、その心を見るのだろう。そして、それは、主の裁きでもある。同時にその前では誰も耐え得ない。23節には「目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事」を主は喜ぶとあるが、やはり心配になる。「闇が去って、既にまことの光が輝いている 」(1ヨハネ2章8節)今であっても。
Jer 10:23,24 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。主よ、わたしを懲らしめてください/しかし、正しい裁きによって。怒りによらず/わたしが無に帰することのないように。
この章は、主の偉大さの賛美から始まっているが、11節から、実際の混乱について語られ、この節に至る。預言者も、わからないまま歩むこと、そして、信頼すべきことが求められているのだろう。それを、自覚しているかどうかが、大切なのだろうか。それを感じさせられる箇所である。謙虚さと信頼。
Jer 11:3 彼らに向かって言え。イスラエルの神、主はこう言われる。この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる。
祝福(4節)と呪いである。ここでは、呪いが先になっている。「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ。」(2節)となっているから、すでに、北イスラエル王国は滅んでいるのだろう。人々はこれをどう受け取ったのだろうか。そして、わたしたちは、神の呪いをどう理解したら良いのだろう。
Jer 12:3 主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。
わたしは、このように、絶対に言えない。正しさから来る悲しみをたくさん見ているから。しかし、同時に、わたしは、正しさにも、背を向けているのだろうか。「多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし/わたしの所有地を踏みにじった。」(10節)では、主と、自分または、隣人とを重ね合わせているのかもしれない。1節と2節ゆっくり考えてみたい。
Jer 13:16 あなたたちの神、主に栄光を帰せよ/闇が襲わぬうちに/足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし/暗黒に変えられる。
主イエスが光の中に輝いている今は違う時代なのだろうか。裁きを望んでいた時代と、救いを、永遠の命に生きる時代と。救いを望む時代は、やはり幸せである。それ以外に、共生はあり得ない。
Jer 14:20 主よ、我々は自分たちの背きと/先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました。
預言者の根幹にあることは、信仰によって、このことを深く悔いていることではないだろうか。「自分たちの背きと先祖の罪」「我々は過ちを犯した」と言い切る潔さだろうか。そして、とりなしもしている。やはり、エレミヤは、イエスを待たなければいけないのだろうか。
Jer 15:17,18 わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。
苦しみが伝わってくる。引用した14:20と対になっているのかもしれない。それが、ひと。それが、誠実に神のみこころをもとめる、預言者の姿なのだろう。丁寧に読んでいきたい。
Jer 16:11 あなたは、彼らに答えるがよい。「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と主は言われる。「彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった。
確かにこれが原因なのかもしれない。そして、分かりやすい理由でもある。さらに、だれも反論することは困難である。しかし、このことを伝えて、本当に、神とその御子の関係のように、互いに愛する世界が、我々に来るのだろうか。私には、その問いに答えられない。
Jer 17:10 心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
因果応報とは、多少ずれていても、とても自然な論理である。しかし、これでは、人は救われない。互いに愛しあうことはできないだろう。互いに愛し合うのはひとの世界のことであり「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(9節)なのだから。確かに「希望」は「主」にのみあり(13節)「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。」(14節)主が癒し、主が救ってくださらなければ、生きることはできないが。わたしが立っている場所は、この答えからはとても遠いように思われる。
Jer 18:23 主よ、あなたはご存じです/わたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず/罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう/御怒りのときに彼らをあしらってください。
わたしは、このようには、言えない。なぜなのだろう。正直言って、このように考えることもないように思われる。こころの奥底では思っているのだろうか。ここまでの状況になっていないのだろうか。わたしのこころが普遍主義で麻痺してしまっているのだろうか。ひとり一人に対してかえって、無関心になっているのだろうか。わからない。John H. Walton 先生のいうように、異なる Cultural River にいるから理解できないとすべきなのだろうか。イエスによる啓示以前だからだろうか。
Jer 19:11 彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。
最初の部分が印象的。一度砕いたら元に戻すことができない。それほどに、徹底的に、砕く。これを記すときの恐ろしさをエレミヤは持っていなかったのだろうか。万軍の主への信頼だろうか。
Jer 20:7 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。
なんとも恨みがましい。しかし「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。」(11節)ともある。このエレミヤの祈りとも言える詩文体の文章は「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(18節)で終わっている。葛藤があり、悩みは深い。その中で、神に従いながら、それでも、真剣に神に問い続ける。わたしには、この態度が弱いように思われる。神の御心を探求することを、普遍的な真理に少しでも近づくことの道具としてしまっているのかもしれない。
Jer 21:3,4 エレミヤは彼らに答えた。「ゼデキヤにこう言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、お前たちを包囲しているバビロンの王やカルデア人と、お前たちは武器を手にして戦ってきたが、わたしはその矛先を城壁の外から転じさせ、この都の真ん中に集める。
ゼデキヤ王とその周りの人たちは、エレミヤをひどい目に遭わせても、神から来ていることをおそらく知っているのだろう。知っていて、主の言葉に耳を貸さない。それに対して、エレミヤは毅然としている。主の愛は潰えたかのように。
Jer 22:24 「わたしは生きている」と主は言われる。「ユダの王、ヨヤキムの子コンヤは、もはやわたしの右手の指輪ではない。わたしはあなたを指から抜き取る。
「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである。」(37章1節)「ヨヤキムの子はエコンヤ。その子はゼデキヤである。」(歴代誌上3章16節)(エステル記2章6節参照)「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。」(マタイ1章11節)となっており、他ではエコンヤと呼ばれている。ヨヤキムは上記以外、エレミヤにしか現れていない。29節の「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。」はとても印象的である。この地に残るもの、または、国の盛衰に関係なく、そこにあるものに言葉を届ける必死さだろうか。ひとには届かない空しさもあるのかもしれない。
Jer 23:23,24 わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。
”From a Distance” という歌を思い出した。この箇所は、far, far away, far off が英語では使われているが。主を、自分勝手に理解してはいけないことが、この箇所からも伝わってくる。
Jer 24:7 そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
「非常に良いいちじく」と「非常に悪くて食べられないいちじく」にたとえて「カルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民」(5節)と「この国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者」(8節)とに対する預言を書いている。わたしたちは、聖書に書かれている記述から、これが限定的にではあるが、そのようになったことを知っている。同時に、永遠に関することではないことも。両方の面を丁寧に受け取らないといけない。真理を求めるためには。捕囚は、王や高官たち以外にも「工匠や鍛冶」のことが書かれているのは興味深い。技術者は、有用だったのだろう。
Jer 25:33 その日には、主に刺し貫かれた者が地の果てから地の果てまで、嘆くこともなく横たわる。集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53章5節)「――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2章35節)を思い出す。そして詩篇には「あなたに打たれた人を、彼らはなおも迫害し/あなたに刺し貫かれた人の痛みを話の種にします。」(詩篇69編27節)ともある。「主に刺し貫かれる」ことの背後にも、深い、神の痛みがあるように思われる。
Jer 26:3 彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。
神のあわれみと忍耐を感じさせることばである。この後に及んで、まだこのようなことを語られるのかと。エレミヤの神理解の表れかもしれない。同時に、単純すぎるのではとも感じてしまう。神様のなさることは、もう少し複雑なように見える。現代では、神理解が深まっていると言って良いのだろうかという疑問も生じる。エレミヤが語っている、危機的な状況で、神を求めることについて、考えさせられる。
Jer 27:11 しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる。」
「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国」(8節)に対してのことばであるが、このような確信はどこから来るのだろうか。ユダヤの人々、ユダ王国の人々に、残ったり、エジプトに逃げたりする選択肢以外を示すことは、ある程度意味を感じるが、預言者の役割とその権威については、正直疑いも持つ。なにもわからない人間は、限界の中で生きていることは確かだから。
Jer 28:10 すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。
ちょっとしたパフォーマンスである。このときも、エレミヤは立ち上がり、預言をする。ここまでの確信は、どこから来るのだろうか。わたしには、言えない。
Jer 29:31 「すべての捕囚民に書き送れ。ネヘラミ人シェマヤに対して主はこう言われる。シェマヤは、あなたたちに預言したが、わたしは彼を遣わしてはいない。彼は偽ってあなたたちを安心させようとしている。
これについても、はっきりしている。この毅然とした態度が、エレミヤの言葉を信じさせたのかもしれない。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(10節)は信じられ、かつ、ほとんどその時期に解放が始まったのだから。
Jer 30:8,9 その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。 彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる。
このような救いを考えることは自然だろう。そして、それが、絶対に起こらないと言い切ることはできない。しかし、本当に、それが、万軍の主の望まれることなのだろうか。わたしは、はなはだ疑問である。エレミヤは間違っていると排除するわけではない。エレミヤの時代に、命を危険な状態においても、真剣に神の御心を求め続けたのだから。わたしもそのように生きたい。
Jer 31:20 エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。
いとおしいエフライム。このときは、エフライムはすでに他の地に移されている。まだ、消息はあったかもしれない。しかし、残念ながら今は分からないといった方が正しいだろう。一つの部族の救いを語るなら、それは失敗している。しかし、このことによって、エレミヤが知っている方の愛を伝えるなら、それは、十分な価値のあるものなのだろう。
Jer 32:24,25 今や、この都を攻め落とそうとして、城攻めの土塁が築かれています。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデア人の手に落ちようとしています。あなたの御言葉どおりになっていることは、御覧のとおりです。それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたしに、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。この都がカルデア人の手に落ちようとしているこのときにです。」
エルサレムが陥落する直前の言葉として記録されている。神の御言葉、自分がこれこそ神からの言葉だと信じたことを伝え、その通りにいま実現しようとしている。そしてさらに70年後に捕囚の地から帰還する預言に対して、証人となるべく、土地の正式な取引をする。生き方を通して、神に信頼していることが分かる。それが、今に至るまでエレミヤ書が読み継がれている理由なのだろう。すべて正しいからとすることは、かえって方向性を誤られる可能性がある。わたしも謙虚に主に信頼し、真理と信じることを受け入れてリスクをとりながら生きていきたい。
Jer 33:9 わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。
主の憐れみなのかもしれないと、今日読んでいて思った。エレミヤだけではなく、主に信頼する者たちへの。人がどのくらいのことに耐えられるかも、その弱さとともにご存じなのだろう。乱暴な解釈かもしれないが。私たちには、完全には知ることはできない。
Jer 34:11 しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分とした。
ゼデキヤによる奴隷解放令(9節)も、ゼデキヤの自己保身があったのかもしれない。何と人は弱いものか。なぜ、守れないのだろうか。神を愛すること、隣人を愛することが理解できないからだろうか。身近な利得を手放すことができないのかもしれない。「わたしの契約を破り、わたしの前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。」(18節)契約方法の中に表された重要さも形式と化すのかもしれない。
Jer 35:18 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。
契約を守れない民との対比であろうが、おそらく、様々な人たちが居たのだろう。しかし、このレカブ一族が解放されるのは、いつなのだろうか。前の章の奴隷解放令を遵守したひとは居なかったのだろうか。変化のときの、エレミヤの生き方には、学ばされる点が多い。普遍性を求めすぎてはいけない。
Jer 36:7 この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」
「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。」(9節)とある。「ヨヤキムの子はエコンヤ。その子はゼデキヤである。」(歴代誌3章16節)「それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。」(エレミヤ24章1節b)とあり、ヨヤキムの子の時代に一回目の捕囚が行われる。危機的な状況であったろう。受け止め方が、神殿で読んだときの状況、役人たち、王に仕える役人たち、王でそれぞれ少しずつ違うのも興味深い。民も含めて、このあとのことに対する教育的な面もあったのかもしれない。
Jer 37:14 そこで、エレミヤは言った。「それは違う。わたしはカルデア軍に投降したりはしない。」しかし、イルイヤは聞き入れず、エレミヤを捕らえ、役人たちのところへ連れて行った。
このような人も居たのだろう。エレミヤについてそれ以上深いことを見ることができなかったのは、意識的にか、それとも、すでに、盲目になっていたのか。わたしたちの目もそれに近いことがある。神様の働きを見ることができますように。
Jer 38:9 「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」
役人たちが「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」 (4節)と言っているころの「宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレク」(7節)の言葉である。どのような理由で宮廷に使えているのかは分からないが、宦官、クシュ人ということを考えると、複雑な背景も考えてしまう。しかし、それだから、エレミヤの言葉を真摯に聞き「士気をくじいている」とだけの判断では終わらなかったのだろう。勇気ある行動にも撃たれる。ゼデキヤについても、その心の内を良く知っていたのかもしれないが。
Jer 39:11,12 バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関して、親衛隊の長ネブザルアダンに命令を下した。 「彼を連れ出し、よく世話をするように。いかなる害も加えてはならない。彼が求めることは、何でもかなえてやるように。」
このとき、エレミヤが求めたものは何だったのだろう。一つ分かることは「監視の庭からエレミヤを連れ出し、シャファンの孫で、アヒカムの子であるゲダルヤに預け、家に送り届けさせた。こうして、エレミヤは民の間にとどまった。」(14節)ことである。王族や、貴族は、殺されたり、捕囚になったりする中で、残った人たちと共にいたことである。エレミヤのこのあとの歩みに興味を持つ。わたしならどう生きるだろうか。
Jer 40:4 さあ、今日わたしはあなたの手の鎖を解く。もし、あなたがわたしと共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。あなたの面倒を見よう。一緒に来るのが良くなければ、やめるがよい。目の前に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい。
一般的にこんなことを言われたらどうするだろうか。しかし、その答えは決まっている。いま、していることを続けること。そういう生き方をしたい。現在、できることは限られていても、それこそが、わたしの生きる道。
Jer 41:18 バビロンの王がその地の監督をゆだねたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが殺したために、彼らはカルデア人の報復を恐れたのである。
混乱の中にある。エレミヤは何をすべきだったのだろうとも考えるが、一人のできること、そして、神から与えられたこと、忠実であることだけ考えていたのだろう。そこでよいと考えることをできるわけではない。謙虚に、今を生きたい。
Jer 42:3 あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを示していただきたいのです。」
混乱のあと、残留民は、エレミヤに問う。混乱のときには、エレミヤは登場しない。このときにこそ、エレミヤは、残ったのかもしれないさえ思われる。しかし、結果は、無残である。エレミヤは、民の心を知ってはいたろう。しかし、違うことを求めることはできなかったのだろうか。それは、神の御心に従うこととは、違う道なのだろうか。
Jer 43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。
「すると、人々はエレミヤに言った。『主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。 良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。』 」(42章5,6節)の言葉から考えると、エレミヤは、この言葉の裏にあることを知っていたのだろう。この人たちは、自分たちの考えを少しでも有利に進めるために、エレミヤを利用しようとしただけなのかもしれない。しかし、そうであっても、この場にイエスがおられたら、どうされるだろうか。と考えてしまう。
Jer 44:18 我々は誓ったとおり必ず行い、天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いで献げ物とする。我々は、昔から父祖たちも歴代の王も高官たちも、ユダの町々とエルサレムの巷でそうしてきたのだ。我々は食物に満ち足り、豊かで、災いを見ることはなかった。
エジプトに逃れた、異教の神を礼拝してきた民に対する、エレミヤの言葉に対する反論である。ユダヤ人としてのアイデンティティーは神礼拝にはないことが見て取れる。すると、捕囚帰還後の形が、民族主義を強めたのだろうか。この環境の中で、共通のものを持つのはとても難しい。
Jer 45:5 あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」
エレミヤの口述を筆記したバルクへの言葉である。自分だけ救われるというようなことは無いことがまず言われ、さらに「命を守り与える」とある。"But I will give your life to you as a prize in all places, wherever you go.”  (KJV) "but wherever you go I will let you escape with your life.” (NIV) である。ニュアンスがよく分からない。NIV は「いのちだけは守ってあげるよ」という感じをうけるが、NKJV では「あなたに永遠の命を与える」というメッセージを感じる。本当のところは、どうなのだろう。
Jer 46:25 万軍の主、イスラエルの神は言われた。「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。
このとき、エレミヤはエジプトにいるのだろうか。一般的に、地理的関係もあるだろうが、イスラエル、ユダ王国は、エジプトとの関係が緊密である。交流も多かったろう。しかし、エレミヤは、その安易な関係を糾弾しているようにも思われる。しかし、神の御心はどこにあるのだろうか。当時のエジプト、今のエジプトの人たちを、神様はどのように、愛しておられるのだろうか。問い自体が、おかしいようにも思われる。落ち着いて考えたい。
Jer 47:1 預言者エレミヤに臨んだ主の言葉。ファラオがガザを撃つ前にペリシテ人に向かって。
時が下り、ペリシテ人は、大きな問題ではなくなっていたのだろう。アッシリアや、バビロニアなど、中東の巨大王国の影響が大きな時代である。しかし、この章を読んでいると、ある程度活発な行動が見える。フェニキア人の末裔なのだろうか、それとも、フェニキア人の一部として、地中海沿岸に、このときも、ネットワークを持っていたのだろうか。違った視点から見ることにも興味がある。
Jer 48:42 モアブは滅び、民であることをやめる。主に向かって高ぶったからだ。
公平性について考えさせられる。モアブとイスラエルの。この章の最後をみると「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47節)となっており、これが、モアブにむけた預言の最後である。エレミヤに見えたのは、ここまでと言うことだろうか。差別は、わたしの中にも色濃くある。それを、少しずつ、学び、自分の罪を認識しながら、解放されていきたい。
Jer 49:25 栄えある都、わが喜びの町は/どうして捨てられたのか。
この章は、アンモンから始まり(1-6)エドム(7-22)ダマスコ(23-27)ケダル・ハツォル(28-33)エラム(34-39)と続く。その、ダマスコへの預言の途中にあるのが引用箇所である。この町は、ダマスコなのか、それとも、エルサレムなのか。直接的には、ダマスコだろう。しかし、預言者の中でも、エルサレムが重なっているのではないだろうか。煩悶が記されているとも感じられる。詳細な中身を問うことについては、不明である。
Jer 50:6,7 わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ/山の中を行き巡らせた。彼らは山から丘へと歩き回り/自分の憩う場所を忘れた。彼らを見つける者は、彼らを食らった。敵は言った。「我々に罪はない。彼らが、まことの牧場である主に/先祖の希望であった主に罪を犯したからだ」と。
バビロンが、なぜ、支配地域を拡大して行ったのか、その理由もわたしは、知らない。考えたこともなかった。植民地主義に至る、西洋の海外侵略の背景は少し考えてきたのに。ひとの心の中にあること、もっと知りたい。歴史を通しても。教えて下さい。学ばせて下さい。主よ。
Jer 51:5 イスラエルとユダは/その神、万軍の主に見捨てられてはいない。カルデア人の国には罪が満ちている/イスラエルの聖なる方に背いた罪が。
他者理解は、特に、民族的な立場からは困難である。交流も少なかったのかもしれない。しかし、このまま受け入れることはできない。神の御心とは、ほど遠いのではないだろうか。そして、わたしの理解も。
Jer 52:31,32 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の十二月二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。
理由は記されておらず、史実性も確認できないのではないだろうか。なぜ、これが含まれているのだろうか。「その上で、バビロンの王はゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行き、死ぬまで牢獄に閉じ込めておいた。」(11節)と対応しているようにも思われる。前の章は「ここまでがエレミヤの言葉である。」(51章64節)で終わっているので、52章を書いたのはエレミヤではないとするのが適切だろう。「しかし、ユダの王ゼデキヤよ、主の言葉を聞くがよい。主はあなたについてこう言われる。あなたは剣にかかって死ぬことはない。あなたは平和のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖である歴代の王の葬儀に際して香をたいたように、あなたのために香をたき、『ああ、王様』と言って嘆くであろう。このことをわたしは約束する、と主は言われる。 」(34章4,5節)の実現について証言する文章なのかもしれない。すべてが実現したと証言するものではないかもしれない。

BRC2015

Jer1:1-3 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、 更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
ヨシヤの治世の第十三年は、BC627年、完全降伏はBC586年7月9日、この間約50年の間の預言である。かなりの期間であるが、同時に、イスラエルにとっても、もっとも苦しい、神の救いが見えない時だったのかもしれない。アナトトはヨシュア記21:13-19に祭司アロンの子孫に与えられた祭司たちのまち(詳細は不明)13の中の一つとして名が記されている。またサムエル記下23:27にはアナトト人アビエゼルの記述が、列王記2:26には「(ソロモン)王はまた(ダビデ継承争いでアドニアについた)祭司アビアタルにこう言った。『アナトトの自分の耕地に帰るがよい。お前は死に値する者だが、今日、わたしはお前に手を下すのを控える。お前はわたしの父ダビデの前で主なる神の箱を担いだこともあり、いつも父と辛苦を共にしてくれたからだ。』」
Jer2:13,14 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。 イスラエルは奴隷なのか/家に生まれた僕であろうか。それなのに、どうして捕らわれの身になったのか。
二つの悪はなんだろうか。もしこの二節なら、生ける水の源である、主を捨てたこと、そして、自由の身から、奴隷となったことだろうか。水はキーワードである。18節にはさらに「それなのに、今あなたはエジプトへ行って/ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って/ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。」とある。いまの私たちにも同様なことがあるように思われる。二つの悪が。
Jer3:1 もし人がその妻を出し/彼女が彼のもとを去って/他の男のものとなれば/前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに/わたしに戻ろうと言うのかと/主は言われる。
つまり「戻ることはありえない」そのなかで「帰れ」と繰り返される。「立ち帰れ」(7, 12, 14, 22, 4:1, 31:21)4:1 には二度繰り返されている。尋常ではないことが起こっている。しかしそれでも、帰らないのか。「背信の女イスラエルは、そして裏切りの女ユダは」「背信」もエレミヤに10回現れるうちの6回(6, 8, 11, 12, 14, 22)が3章である。「裏切り」はエレミヤに5回現れるがそのうちの4回(7, 8, 10, 11)が3章である。
Jer4:2 もし、あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする。
前半と後半の結びつきに驚かされる。「主は生きておられる」は士師記18:19「ギデオンは、『それはわたしの兄弟、わたしの母の息子たちだ。主は生きておられる。もしお前たちが彼らを生かしておいてくれたなら、お前たちを殺さないのに』と言い、」ルツ記3:13「今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」など各所に見られる。私たちが持つ感覚と異なることがあるのだろう。22節には「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず/愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく/善を行うことを知らない。」とある。無知は「関係しようとしない」ことだろうか。少なくとも、この人たちは「主は生きておられる」とは言わないだろう。知るはヤーダー(yada)だが Strong の Definition では「a primitive root; to know (properly, to ascertain by seeing); used in a great variety of senses, figuratively, literally, euphemistically and inferentially (including observation, care, recognition; and causatively, instruction, designation, punishment, etc.):—acknowledge, acquaintance(-ted with), advise, answer, appoint, assuredly, be aware, (un-) awares, can(-not), certainly, comprehend, consider」となっている。
Jer5: 1,2 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 「主は生きておられる」と言って誓うからこそ/彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。
ここにも「主は生きておられる」があらわれる。表面的には、4:1と矛盾するような記述である。慣用表現になってしまって畏れおののきはなくなっているのだろう。このあとの「わたしは思った。『これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない。 身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。彼らなら/主の道、神の掟を知っているはずだ』と。だが、彼らも同様に軛を折り/綱を断ち切っていた。」(4,5節)も興味深い。実際、そのような議論は、現代でもよくおきるのだから。
Jer6:16,17 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。 わたしは、「あなたたちのために見張りを立て/耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。しかし、彼らは言った。「耳を澄まして待つことはしない」と。
主のことばに聞かない。主に従わない。これがひとの定常状態なのかもしれない。しかし、前半をみると、それが幸いに至る道でないことは分かるはずだと言っている。おそらくそうなのだろう。27節「わたしはあなたをわが民の中に/金を試す者として立てた。彼らの道を試し、知るがよい。」の「あなた」は誰なのだろう。「わが民」は、口語訳では単に「民」となっているが、民は基本的には、イスラエルのはず。
Jer7:4-6 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
マルコ13:1,2「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』 」(マタイ24、ルカ21:5,6)が思い出される。このエレミヤでも7章は「わたしはユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃虚となる。」(37節)で終わっている。正しい行いも、明確である。
Jer8:1-3 そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。 それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。わたしが他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる。
死者の骨がひどい状態にされることが書かれている。背景には、偶像を礼拝し、平安に死んでいった多くのひとへの呪いを感じる。神義であろうか。なにか、受け入れがたいものを感じる。因果応報が強すぎるからであろうか。人間感覚が強いからだろうか。エレミヤをもう少し理解しないと、このような箇所も理解できないのかもしれない。
Jer9:11,12 知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり/通り過ぎる人もいない。 主は言われる。「それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。」
まだエルサレムは完全に陥落はしていなかった時期と思われる。しかし、かなり決定的な状況だったのだろう。神のヤコブへの約束を思い「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても/『押しのける者(ヤコブ)』であり/隣人はことごとく中傷して歩く。」(3節)のような表現も用いている。エレミヤには、明らかだったのだろう。しかし、本当に、偶像なのだろうか。イエスならなんと言われただろうか。
Jer10:19 ああ、災いだ。わたしは傷を負い/わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。「これはわたしの病/わたしはこれに耐えよう。」
2, 3 節には「主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。もろもろの民が恐れるものは空しいもの/森から切り出された木片/木工がのみを振るって造ったもの。」異国の民の恐れるものは、恐れるに足るものではないことが語られている。しかし、同時に、預言者は、苦しんでいる。イザヤとの違いは、現実の逼迫感だろうか。人々も、預言者も、世の中を落ち着いてはみることができな。苦悩の時代である。しかし、そうだからこそ、民も現実の益に走るのかもしれない。現代のように。
Jer11:20 万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
アナトトの人々への裁きのことばが続く。13節にも「ユダよ、お前の町の数ほど神々があり、お前たちはエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇を設けた。」とあるように、象徴的な罪は、主を捨てて、偶像を拝むことである。しかし、おそらく、主を礼拝していた人もある程度いたろう。その人たちには、周囲の偶像を除くことを望んでいたのだろうか。解決は得られないように思われる。まさに、危機。そのなかにいない者は何も言えないのかもしれない。エレミヤの悩み、苦しみ、そしておそらくいらだちは、伝わってくる。
Jer12:1-3 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。 あなたが彼らを植えられたので/彼らは根を張り/育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く/腹ではあなたから遠いのです。 主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。
ヨブのような(たとえば23章・24章)葛藤がみてとれる。そして詩篇139篇のような信頼がある。最後の裁きをもとめる部分をどう理解したらよいのか。そのあとに、主のことばか、それとも、預言者が自分を奮い立たせている言葉か5節がある。「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら/どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら/ヨルダンの森林ではどうするのか。」神への信頼から発せられることばだろうか。
Jer13:12-14 あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ」と。すると、彼らはあなたに言うだろう。「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」と。 あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。 わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と主は言われる。
1節は「主はわたしにこう言われる。『麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。』」そしてこれが使い物にならなくなることから始まる。主のことばがのぞみ「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。」(9節)とあり、そのあとに、このことばが続く。しかし、このことばを聞いてもおそらくもう遅いのだろう。歴史もそれを示している。しかし同時に、遅くはないのかもしれない。わたしたちの希望を考えると、主のご計画の一部なのかもしれない。すくなくとも、12章のエレミヤの答えにはなっているように思われる。
Jer14:7-9 我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく/あなたに対して罪を犯しました。 イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。 なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。
この章は「干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」と始まる。この苦しさの背景には「我々の罪」があることを告白している。そうであっても「イスラエルの希望」の主に訴える。この答えも、10節以降に示されている。エレミヤの苦悩、干ばつに対する、神の沈黙から内省し、神を、主の御心を少しでも、理解しようとしている。
Jer15:18 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。
エレミヤの苦悩がまず次のように記されている。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも/だれの債務者になったこともないのに/だれもがわたしを呪う。」(10節)実際、トラブルメーカーだったろう。それが預言者のつとめとも言えるし、神の御心と真摯に向き合うことに伴うことなのかもしれない。しかし同時にエレミヤをささえる日常的な経験がある。「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」(16節)ここでの御言葉は啓示というより、聖書、律法だろうか。わたしにとっては、明らかに聖書である。
Jer16:14,15 見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、 「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。
新たな出エジプトについて書かれている。しかし16節以降に書かれている様子は、大分異なる。まずは漁師が釣り上げ、猟師が狩り出し罪と悪を二倍にして報いる。このことを通して、偶像礼拝の空しさ、そして主こそ神であることが知らされる。北は方向としては少し異なるが、バビロンを意味しているのか、それとも、歴史的に他のことを考えることもかのである。しかし、それを詮索することはあまり、意味がないように思われる。エレミヤにとっては、むなしいものを神とせず、神を神とすること、ここにすべてがかかっていたろう。
Jer17:9,10 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。 心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
エレミヤにとっての神の表現であろう。人の心には自分の心も含まれているのかもしれない。ヨハネ4章や8章を思い出させる「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」(13節)そして信頼であろうか。「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」(14節)エレミヤと訴えは異なるが、やはり同じ神を真摯に求めている姿に共感する。
Jer18:6-8 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。 あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。
イスラエルに呼びかけているが、後半は、一般的に、一つの民や王国としている。イスラエルの民が受け入れられなかったのは、何だろうか。自分たちはつねに特別と考えていたのか、主の主権的裁きを軽んじていたのか。それとも、また別の理由だろうか。結局、自分自身を神としていることなのか。もう少し掘り下げたい。神の存在すら信じないひとにとって、これらのことばはどのようなメッセージとして映るのだろうか。その人たちにも、メッセージが伝わってほしい。
Jer19:4,5 それは彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである。 彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった。
「息子たちを火で焼き」レビ18:21の「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」列王記上11:7「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。」にあるように、ソロモンのころからすでに始まっていたのか。ヨシヤはこれを壊したようだが。「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。」(列王記下23:10)「ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」(エレミヤ32:35)「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり」(エレミヤ1:2)とあるから、まさに子供を犠牲としてささげること(イエスのことともつながる最も大きな罪とされていた)が為されていたことを黙認していたのだろうか。大部分の人たちがしていたとは思えないので。
Jer20:7-9 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。 主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
預言者の苦悩と、それでも語らずをえない、まさに信仰と良心から発せられるうずきが感じられる。まさにアモス3:8「ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう。」そしてその背景にある、苦悩なのだろう。この前の部分をみると、恐怖の預言もある。人々を恐怖に陥れる。こんなことの召命を受け入れられるのかとの苦悩が見える。仲間の不正をあばく、裁きを告げる、簡単に預言者の言葉を読むことはできない。良心との葛藤が、自分自身の尊厳をもおびやかす。そして18節「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」
Jer21:1,2 ゼデキヤ王に派遣されて、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ツェファンヤが来たとき、主からエレミヤに臨んだ言葉。彼らは言った。 「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう。」
このあとの、厳しいエレミヤの言葉は有名である。しかし、この心の内を語っている20章を今回すこし考えることができたのは、収穫だった。そして、この厳しいことばの中にも12節のようなことばが含まれている。「ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人を/虐げる者の手から救い出せ。わたしが火のような怒りを/発することのないように。お前たちの悪事のゆえにその火は燃え/消す者はいないであろう。」ひとはこれを条件としてなにかを願う。そうではないのだろう。希望が潰えたときにも、主と向き合うこと、たとえ、滅ぼされることが当然であっても、それを今日始めることに召されているのだろう。考えさせられる。
Jer22:28-30 この人、コンヤは砕け、卑しめられた壺か。だれも惜しまない器か。なぜ彼と彼の子孫は追放され/知らない国へ追いやられるのか。 大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。 主はこう言われる。「この人を、子供が生まれず/生涯、栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは/だれひとり栄えてダビデの王座にすわり/ユダを治める者が出ないからである。」
コンヤはユダの王、ヨシヤの子、ヨヤキムの子である。(18, 24節)1節から5節ではまだ悔い改めを迫っているが、むなしい。そして、ヨヤキムについて預言し、この箇所にいたる。「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。」ここに、エレミヤの苦悩が現れているように感じる。ユダの滅びの直前でありながら、だれも聞かない、嘆きだろうか。このことばを、だれも覚えていなくても、地は覚えておけと言っているのか。すでに、冷静ではないのかもしれない。世界情勢も、そして、霊的な神との交わりにおいても、エレミヤにはまったく確実なことだったのかもしれない。
Jer23:33 もし、この民が――預言者であれ祭司であれ――あなたに、「主の託宣(マッサ)とは何か」と問うならば、彼らに、「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、と主は言われる」と答えるがよい。
難しい箇所である。21節には「わたしが遣わさないのに/預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに/彼らは預言する。」とある。次の言葉もとても興味のある表現である。「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。」(23, 24節)「お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、『主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか』とだけ言うがよい。」(35節、参照37節)預言の問題はむずかしい。しかし、神の御心を問うこと、求めることこそに本質があるのだろう。答えをすぐみ求めず。エレミヤはまたじっくりと読んでみたい。いままでは、好きな箇所のつまみ食いだったので。
Jer24:8-10 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。 わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。 わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」
これを人間として理不尽だと考えるのは当然だろう。しかしキリスト教会は、5-7節を中心にかたり、こちらはあまり語らない。それも、信仰の問題だと言わんばかりに。バビロンに捕囚されるか、残るかは、自己責任の選択だったのだろうか。捕囚を希望することは果たして、任意だったのか。さらに、任意だったとしても、この結果は理不尽である。そしてそれは、人間の考えで、主権的な神の働きのうちにあると考えるのも信仰なのだろう。さらには、エレミヤが見えていたこと、神の御心としていたことがある本質を捕らえていても、絶対的なものではないのかもしれない。
Jer25:11,12 この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。 七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。
少しずつ現実とずれているところが真実に近いのだろうか。でも、七十年は不思議ではある。このあとに、様々な国への裁きが書かれている。これを事実とまず受け入れる読み方は狭いように思われる。エレミヤが受け取ったものをまずはしっかり学びたい。
Jer26:20-24 主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それは、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。 ヨヤキム王は、すべての武将と高官たちと共に彼の言葉を聞き、彼を殺そうとした。ウリヤはこれを聞いて、恐れ、逃れて、エジプトに行った。 ヨヤキム王はアクボルの子エルナタンを、数人の者と共にエジプトに遣わした。 ウリヤはエジプトから連れ戻され、ヨヤキム王の前に引き出された。王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた。 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤを保護し、民の手に落ちて殺されることのないようにした。
因果応報で考えるのは、誤っているだろう。21:8,9 にある「命の道と死の道」をここに持ち込むことも、預言的なことばの解釈としては意味があるかもしれないが、本質を見誤るように思われる。神の主権と、すべてに神が介入されるわけではない、ひとの責任の部分の大きさと、神の憐れみについて思い巡らす。結局、納得できる解答があるわけではないが。
Jer27:14,15 バビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ。 主は言われる。わたしは彼らを派遣していないのに、彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしている。彼らに従うならば、わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす。」
主が遣わしたかどうかはどのように分かるのだろうか。むろん、簡単ではない。証は本質的には神から来る。わたしたちは、それを完全に知ることはできないだろう。ヨハネによると(5章31-41節)その業を見て見極めることになる。日常的に、神の業を求め、学んでいると、それが神からのものかどうかが分かるというのだろう。しかし、結局は、神のものであるかで、それが分かるかどうかは決定される。論理的な明確さでは判断は、難しい。まったく不可能なわけではないが。
Jer28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
似た言葉が聖書に何回も登場すると思っていたが、見つからなかった。「エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちよ。平和がないのに、都のために平和の幻を見る者たちよ、と主なる神は言われる。」(エゼキエル12:16, Cf. 13:10)なども心に残っていたからだろうか。偽りを語る預言者ともとれるが「滅びを預言する者」を考えたくなる。これは、警告であり、神の憐れみによって、そうならないことがあることが背景にあるのだろう。神からのメッセージの取り次ぎは、基本的に、神のみこころに従って生きるように勧めるものであるから。さらに、平和は耳障りがよい、ひとびとに安心を与える。ここまでは、問題はないと思われるが、多くの場合、それにより賞賛をうけることも、警告しているのかもしれない。
Jer29:10,11 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
エレミヤは「平和」を預言している。このあとには「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」(12-14)と続けている。エレミヤは、イスラエルの民の信仰にも望みを置き、それに神様が答えてくださるところまで含めて、神様に信頼しているのか。エズラ1;1 や、歴代誌36:21,22、ダニエル9:2 を見ると、エレミヤのことばは、十分知られていたようにも見える。12節は印象的である。
Jer30:21 ひとりの指導者が彼らの間から/治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので/彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて/わたしに近づくであろうか、と主は言われる。
脈略はよく分からないが、特別な、新しい指導者が予見されていることが分かる。イエスのような指導者なのだろうか。もし、政治的な指導者であれば、指導できる期間は短い。民主的な体制も永続的ではない。神から来る救いを見極める以外にはないのだろう。それで良いのかもしれない。
Jer31:5,6 再び、あなたは/サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。 見張りの者がエフライムの山に立ち/呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう/我らの神、主のもとへ上ろう。」
エレミヤは、サマリヤ、そして北イスラエルの復興をみている。実際には、このあとの歴史は、それと逆方向に動くことになるが。それでも、希望はかわらないだろう。それがエレミヤの祈りでもある。
Jer32:37-40 「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。 わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。
これは、成就したのだろうか。それとも、計画の一部しか、エレミヤは見ていないのか。このように考えること自体に、問題があるのかもしれない。エレミヤが神の御心を求める中で、現実の世界をみつつも主を信頼して、希望のなかで見た世界がこれなのだろう。そして、それを見せてくださったのは、主だと、告白できるように思われる。そして、それは、われわれにも通じている。エレミヤが見た希望を、わたしも希望としよう。
Jer33:6 しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。
本当にそうなのかと問うことこそ不信仰なのだろう。「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(28:9)と自ら宣言するエレミヤにとって、回復の宣言は、とくにチャレンジだったかもしれない。しかし、それこそがエレミヤが見せていただいた幻なのだろう。すこし異なる形でそれが実現したとしても、それを非難するのではなく、獄舎に拘束されたなかで、預言し続けた、エレミヤにならいたい。
Jer34:17 それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。
8節から奴隷の解放について書かれている。イスラエルの民が奴隷の身から解放されたことも根拠として書かれている。それをしていない裁きがこの節である。エレミヤを通して、様々なことが語られている。実務的なことともとれるが、そのときどきに、様々な現実から、神の御心を学び取っていたといえるかもしれない。おそらく、ずっと続いていたことが、このとき、エレミヤに明らかにされたのだろう。
Jer35:18,19 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。」
前半には、イスラエルの民に、従うことが可能であることの、例として、ヨナダブの子孫のことが語られている。ぶどうの実からつくったものを食さない飲まないということである。しかし、そのようなルールとは別に、主のみこころを行うことは簡単ではない。主はなにを求めておられるのだろうか。それを問うのも、われわれの責任なのだろう。ヨナダブ一族への祝福も、限定的である。それは、ひとり一人へのちゃんレンジであると同時に、希望をも抱かせる。
Jer36:24-26 このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。 また、エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王はこれに耳を貸さなかった。 かえって、王は、王子エラフメエル、アズリエルの子セラヤ、アブデエルの子シェレムヤに命じて、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえようとした。しかし、主は二人を隠された。
19節には「そこで、役人たちはバルクに言った。『あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい。だれにも居どころを知られてはなりません。』」とある。エレミヤやバルクの保護には、この役人たちもかかわったと思われる。しかし、ここには「主は二人を隠された。」とある。主が隠してくだされば、安全である。王とその側近たちにも、同情してしまう気持ちもある。この時点での判断としては、それに耳を貸すことは困難である。むろん、そのなかで、主に聞くこと、従うことが求められているのだろうが。
Jer37:18-20 更に、エレミヤはゼデキヤ王に言った。「わたしを牢獄に監禁しておられますが、一体わたしは、どのような罪をあなたとあなたの臣下、あるいはこの民に対して犯したのですか。『バビロンの王は、あなたたちも、この国をも攻撃することはない』と預言していたあの預言者たちは、一体どこへ行ってしまったのですか。 王よ、今どうか、聞いてください。どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように。」
前章で「主は二人を隠された。」とあるが、ここでは、エレミヤは捕らえられている。なぜ、エルサレムを出たのかの理由も書かれている。「カルデア軍は、ファラオの軍隊が進撃して来たので、エルサレムから撤退した。 そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、親族の間で郷里の所有地を相続するために、ベニヤミン族の地へ行こうとした。」(10,11節)回復を信じ、土地の相続計画をこともなげにしている、おそらく、カルデヤ軍が撤退しても、またすぐ来て滅ぼすことは、エレミヤには明らかだったのだろう。19節のことばには、ゼデキヤも頷かざるをえない。しかし大きな混乱のなか、神に依り頼む生活は、気が遠くなるほど、難しい。
Jer38:19 ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々である。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない。」
ゼデキヤの恐れは、仲間への恐れ、そして、自分になされる行為に対する恐怖である。エレミヤが預言し、役人たちが「あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。」(4節)というと「ゼデキヤ王は答えた。『あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。』」(5節)そして、エベド・メレクに諭されるとすぐ、異なった行動をする。そして、エレミヤの言葉を聞いたときの言葉が上のことばである。ヤコブ2章6節のように「風に吹かれて揺れ動く海の波」ともとれる。しかし、自分はどうだろうか。このエルサレムの状況を考えれば、ゼデキヤのようになるかもしれない。おそらく、今、どのように信仰をもって生きるかが、そのようなときにどう生きるかにつながっているのだろう。12章5節のことばがまさに真実となる。
Jer39:16-18 「クシュ人エベド・メレクのもとに赴いて告げよ。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都について告げたわたしの言葉を実現させる。それは災いであって、幸いではない。その日には、あなたの見ている前でこれらのことが起こる。 しかし、その日に、わたしはあなたを救い出す、と主は言われる。あなたが恐れている人々の手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる。」
15節には「監視の庭に監禁されているとき」とあるから「クシュ人エベド・メレクのもとに赴いて告げよ。」とはなにか奇異な感じを受ける。エレミヤも思い巡らせ、そのときとは、別の記述のあとに書いているのかもしれない。クシュ人、勇気ある行動でエレミヤを助けたのは、この異邦人だったことになる。(38章7節-13節)そこには、宦官ともある。外国人として仕える、ひとつの方法だったのかもしれない。マタイ19章12節「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」を思った。
Jer40:7 野にいたすべての軍の長たちはその部下と共に、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地に立てて総督とし、バビロンに移送されなかったその土地の貧しい人々に属する男、女、子供たちを彼のもとにゆだねたことを聞き、
列王記下25章には平行記事が殆ど同じことばで語られている。ゲダルヤについては不明であるが、歴代誌上25章3節やエズラ記10章18節やゼファニア書1章1節に、祭司の家系として同じ名前が現れるので、このゲダルヤもユダヤ人で、祭司の家系ではないかと思われる。早くから、バビロンに投降していた人たちがいたようなので(38章19節)このひともそのような一人だったかもしれない。エレミヤもアナトトの祭司の子であったから、あるいは、地方の祭司で、早くにカルデヤ人に征服され、仕えていたのかもしれない。ゲダルヤについては、いろいろと想像の域ではあるが考えさせられることが多い。
Jer41:8 しかし、一行の中にいた十人の者は、「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など貴重なものを畑に隠していますから」とイシュマエルに哀願したので、この十人だけは殺さずにおいた。
この十人については問わないが、結局イシュマエルの求めていたものが露呈する。イシュマエルについては、記述が少なく(列王記下25章25節「王族の一人、エリシャマの孫でネタンヤの子であるイシュマエル」歴代誌下23章1節「七年目に、ヨヤダは決意を固め、百人隊の長たちエロハムの子アザルヤ、ヨハナンの子イシュマエル、オベドの子アザルヤ、アダヤの子マアセヤ、ジクリの子エリシャファトを連れて来て、彼らと契約を結んだ。」)この人の求めたものは、定かではないが。しかし、混乱のとき、難しいときであったことはたしかだろう。王族や、祭司など、指導者が残されていたことも、見て取ることができる。イシュマエルを打ち破りアンモンに追い出す「カレアの子ヨハナン」についても情報は多くないのだろう。
Jer42:10 もし、あなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあなたたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない。わたしはあなたたちにくだした災いを悔いている。
このことばにどのように民が応答するか、興味をもつが、最後のことばも気になる。悔いるよりも、残された者たちの、使命をともにもとめることはできなかったのだろうか。これは、現代的な解釈なのか。人は弱いのだから、希望を持ちたい。それをかすかにでも、見たい。
Jer43:6 そこには、親衛隊長ネブザルアダンが、シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤに託した男、女、子供、王の娘たちをはじめすべての人々、および預言者エレミヤ、ネリヤの子バルクがいた。
4節には「こうして、カレアの子ヨハナンと軍の長たちすべて、および民の全員は、ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった。」とある。なぜとどまることができなかったのだろう。それは、別として、ここにゲダルヤの名が登場する。そして、エレミヤ、バルク、全員が、エジプトについていくことに、特別な歴史的意味があったということだろうか。考えさせられる。
Jer44:17 見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。
エレミヤの言葉の背景は理解できるが、福音書で語られている神理解とはかなりかけ離れているのではないだろうか。過去にも、いろいろな理解がされてきた。しかし、神のみこころの啓示、または、信仰者の神理解が、少しずつ進む、または、一部しかなされないことが背景にあると考えても良いのではないだろうか。宗教として統一見解を確立しぬくくなることはたしかであるが。それとはべつに人間に与えられている責任については、受け取りたい。
Jer45:4,5 バルクにこう言いなさい。主はこう言われる。わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする。 あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」
エレミヤの後述筆記をしていて、バルクへの言葉である。3節に「あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない。』」とあるように、バルクの苦しみ悲しみが痛いほど伝わってくる。ここでは、主の主権的働きが述べられ、そして恵みが語られている。主権的働きには、このような厳しい裁きは、イスラエルにのみ下されるわけではないことが言われている。エレミヤの師としての愛情を感じるが、同時に、周囲にはケアがひつようなひとがいることのエレミヤの認識と共に、さらに、エレミヤ自身も共通の悩みがあったのではないかと推測される。
Jer46:27,28 わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。 わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと/主は言われる。わたしがお前と共にいる。お前を追いやった国々をわたしは滅ぼし尽くす。お前を滅ぼし尽くすことはない。わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。
今回の通読のテーマでもある「預言者とは何者か」について考えさせられる。信仰を鼓舞し、主への信頼を呼びかける預言者の言葉としては理解できる。そして、預言者は、自ら神に忠実に従おうとして、主の意思を求め続け、そして、確信に至った内容を記述しているということも非常に自然である。そしてその多くがその先見性から事実となったこと、そしてそのような先見性がある預言者がさらに深い真理を得ていったことも事実だろう。その次である。逆に、そこの誤りがないとは、だれが言い切ることができるのだろう。かえって、主への信頼、信仰をそぐのではないかとさえ思わされる。むろん、上の箇所のように、いろいろな解釈を施すことで、正しさを証明することは可能であろうが。
Jer47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。主がペリシテ人を滅ぼされる/カフトルの島の残りの者まで。
ペリシテはこの時代まで、残っていたことにも驚かされる。ネブカドネザルの猛威だろうか。この預言者のなかでは、それを受け止めるすべは、これしかないのかもしれない。
Jer48:1 モアブに向かって。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。災いだ、ネボは略奪され/キルヤタイムは恥を受け、占領された。砦の塔は恥を受け、打ち砕かれた。
このような預言を聞いて、悔い改めることは可能なのだろうか。モアブとは交流が頻繁にあり、かつ、差別もしていたように思われる。旧約の福音の不完全性を感じる。神が人類を導いてこられた歴史ととれないことはないが、不完全な人間が神の意思を明らかにしようとしてきた歴史とも言えるのではないだろうか。この章の最後が「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47節)とあるのが、せめてもの救いである。
Jer49:30 ハツォルの住民よ/逃げよ、落ち延びよ/深い谷に隠れよ、と主は言われる。バビロンの王ネブカドレツァルが、お前たちを攻める計画を練り、お前たちを滅ぼす企てを立てているからだ。
ハツォルは、ヨシュア記から現れる(11章)士師記4章に現れるヤビンは「ハツォルで王位についていたカナンの王」とされている。その後も記録があり、ソロモンが建てた町としても記録されている。(列王記上9章15節(上記のものと異なるかもしれない))ここでも、バビロンの王ネブカドレツァルによって滅ぼされることが記されている。現実の猛威が感じられる。
Jer50:4,5 その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る/ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て/彼らの神、主を尋ね求める。 彼らはシオンへの道を尋ね/顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき/永遠の契約が忘れられることはない。
本当にそのような時は来るのだろうか。預言者は、その幻をみたのだろう。どう実現されるかはわからない。すでに、それは、種族としての、イスラエルや、ユダではないかもしれない。この預言者の信仰を共有したい。真実な悔い改めを伴った、主への帰還は、主が導いてくださることなのだろう。
Jer51:63,64 この巻物の朗読を終えたとき、巻物に石を結び付け、ユーフラテス川に投げ込み、 そして言いなさい。「このように、バビロンは沈む。わたしがくだす災いのゆえに、再び立ち上がることはない。人々は力尽きる」と。ここまでがエレミヤの言葉である。
ネブカドレツァルに蹂躙される世界、そして、その支配は、どう見ても受け入れられるものではない。そのときに、預言者に去来したものが、この記述なのだろう。バビロンが滅びることが記されている。その書物は、ユーフラテス川に投げ込まれたかどうかは不明だが、このように残そうとした人たちも、この預言者を通して信仰そして希望に自らを結びつけていったのだろう。我々は、いま、どのように生きていったら良いのだろうか。
Jer52:28-30 ネブカドレツァルが捕囚として連れ去った民の数をここに記すと、第七年に連れ去ったユダの人々が三千二十三人、 ネブカドレツァルの第十八年にエルサレムから連れ去った者が八百三十二人であった。 ネブカドレツァルの第二十三年には、親衛隊の長ネブザルアダンがユダの人々七百四十五人を捕囚として連れ去った。総数は四千六百人である。
どのように選択されたのだろうか。いずれにしても、四千六百人は主だった人だったのだろう。単に年号で出てくるとはいえ、ネブカドレツァルはユダヤの歴史に非常に大きく名を刻まれることになる。エレミヤはどのような気持ちで、この巻を締めくくったのだろうか。

BRC2013

Jer1:18,19 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。
エレミヤが戦う相手が、これによると、全国、ユダの王、つかさ、祭司、その地民。これ以外に考えられるのかと思われるほど広範囲。すなわち、周囲の皆ということだろう。これからの、エレミヤの預言者として神の言葉を取り次ぐ戦いの大変さを暗示している。エレミヤに与えられている言葉は 17節「しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。」
Jer2:21 わたしはあなたを、まったく良い種の/すぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか。
その本来の姿でありたい。優れたぶどうの木でありたい。主よ、そのように用いてください。イエス様が空腹でイチジクのきに近づかれたときに、おいしいイチジクの実を差し出すことができるように、available であることができますように。
Jer3:15 わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う。
どうか、知識と悟りを持って、わたしを養ってください。
Jer4:19 ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は、はげしく鼓動する。わたしは沈黙を守ることができない、ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである。
9節の「主は言われる、「その日、王と君たちとはその心を失い、祭司は驚き、預言者は怪しむ」。」から最後31節まで続く。このはらわたこそ、イエスが「深くあわれ」まれたときに、傷ついたものだろう。わたしは、知的活動だけでなく、そのようにはらわたに関わることをしているだろうか。日々。
Jer5:31 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたは/その終りにはどうするつもりか。
預言者、祭司、民、それぞれの生き方。それは、究極の状態を考えると、どうしようもないものであることがわかる。そして、それは今の混沌とした時代の状況につながっている。それを変えるには、まさに深い悔い改めが必要である。
Jer6:13 「それは彼らが、小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。
この章それも13-15 あたりがエレミヤのみた現実の世界のリアルな表現だったのではないだろうか。それが見えたのは、神と向き合い、ひとの醜さが見えていたからか。
Jer7:10,11 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。
マタイ21:13 に強盗の巣がでてくる。だれが何を奪っているのか。ここには二つの目がそのように見ている。神の恵みをどうとらえるかだろうか。もう少し考えたい。
Jer8:13 主は言われる、わたしが集めようと思うとき、ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木に、いちじくはなく、葉さえ、しぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、彼らを離れて、うせ去った」。
いちじくの実の話はここを意識していたのだろう。知らなかった。背景はこの前半にある。そして、10節「彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らを罰するとき、彼らは倒れると、主は言われる。」この悩みであろうか。
Jer9:23,24 主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。 誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
このようにすばらしいところを読むときにわたしは十分時間が取れなかった。とても残念。
Jer10:19 わたしはいたでをうけた、ああ、わざわいなるかな、わたしの傷は重い。しかしわたしは言った、「まことに、これは悩みである。わたしはこれを忍ばなければならない」と。
偶像に関する立派な認識がつづく。しかし現実は生易しい者ではない。エレミヤはそれをどう受け止めていくのだろう。それにとても興味を持つ。
Jer11:20 正しいさばきをし、人の心と思いを探られる万軍の主よ、わたしは自分の訴えをあなたにお任せしました。あなたが彼らにあだをかえされるのを/見させてください。
自分の訴えを神に任せる。そして神の働きをまつ。わたしもそうでありたい。
Jer12:5 「もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことができようか。もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林では、どうするつもりか。
わたしはいまかなり仕事を増やし、もしかすると競走しているように見えるかもしれない。もしそうだとしたら、自分と戦っているのか。しかし、それは、究極の目的ではないはず。神様のもとで生きたい。神様の働きに参与したい。もう少し、ゆっくりでも良いのかもしれない。
Jer13:17 もしあなたがたが聞かないならば、わたしの魂はひそかな所で、あなたがたの高ぶりのために悲しむ。また主の群れが、かすめられたために、わたしの目はいたく泣いて、涙を流すのである。
この主体はだれだろう。神様だろうか。神様が、密かなところで、泣かれる。もう少しじっくり読みたい。
Jer14:22 異邦の偽りの神々のうちに、雨を降らせうる者があるであろうか。天が自分で夕立を降らすことができようか。われわれの神、主よ、あなたこそ、これをなさる方ではありませんか。われわれの待ち望むのはあなたです。あなたがこれらすべてのことをなさるからです。
この毅然とした態度には、わたしの表現の仕方とはことなるが、力づけられる。「われわれの待ち望むのはあなたです。」
Jer15:19 それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。
「もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。」口に手をあててしまう。語らない方が良いかもしれないと思い。考えて、神を思って、神と心を一つにすることを願って、語りたい。
Jer16:20 人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません」。
明らかでありながら、それをしてしまうのは、本当の神と出会っていないからだろうか。
Jer17:14 主よ、わたしをいやしてください、そうすれば、わたしはいえます。わたしをお救いください、そうすれば、わたしは救われます。あなたはわたしのほめたたえる者だからです。
このように単純に告白したい。救いをもとめて。
Jer18:15 彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。
エレミヤが書いた言葉としても、なかなか恐ろしい言葉だこんなことを人は考えるのか。これこそ神への反逆。
Jer19:15 「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、見よ、わたしは、この町とそのすべての村々に、わたしの言ったもろもろの災を下す。彼らが強情で、わたしの言葉に聞き従おうとしないからである」。
ちょっと怖い。エレミヤは、どのように自分のこととして受け入れていたのだろうか。
Jer20:12 正しき者を試み、人の心と思いを見られる万軍の主よ、あなたが彼らに、あだを返されるのを見せてください。わたしはあなたに、わたしの訴えを/お任せしたからです。
エレミヤの祈り、その誠実さと、神の主権のもとにあることの告白から学ばせられる。しかしやはり「あだを返す」には抵抗がある。他の表現ならば抵抗がないのかもしれないが。それともこれも神の行為に信頼することであろうか。人の好意とは異なるのだから。
Jer21:1,2 ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュルと祭司マアセヤの子ゼパニヤを、エレミヤのもとにつかわし、「バビロンの王ネブカデレザルがわれわれを攻めようとしているゆえ、われわれのために主に尋ねてほしい。主はそのもろもろの不思議なわざをもって、われわれを助け、バビロンの王をわれわれから退かせられるかも知れない」と言わせた。その時、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
まず悔い改め、主の御心を求めるものではない。苦しいときの神頼みそのものであろう。神の御心をまずは求めたい。
Jer22:3 主はこう言われる、公平と正義を行い、物を奪われた人を、しえたげる者の手から救い、異邦の人、孤児、寡婦を悩まし、しえたげてはならない。またこの所に、罪なき者の血を流してはならない。
この危機的なときにも、求めることは同じ。わたしたちがすべきことも同じなのだろう。
Jer23:19 見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。
このようなメッセージに目を留めなければいけないのだろう。しかしそれを語るのは、とても辛い。
Jer24:8 主はこう仰せられる、わたしはユダの王ゼデキヤとそのつかさたち、およびエルサレムの人の残ってこの地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、この悪くて食べられない悪いいちじくのようにしよう。
神様に実を提供するものになりたい。しかし悪いいちじくではなく「はじめて熟したような非常に良いいちじく」でありたい。
Jer25:37 主の激しい怒りによって、平和な牧場は荒れていく。
平和の主を誤解してはならない。平和が目的ではないということだろう。じっくり言語化したい。
Jer26:13 それで、あなたがたは今、あなたがたの道と行いを改め、あなたがたの神、主の声に聞き従いなさい。そうするならば主はあなたがたに災を下そうとしたことを思いなおされる。
神様にはできないことがあることを思い知らされる。われわれが心から悔い改めて、道と行いを改めること。そして神様はそれを望んでおられる。
Jer27:22 これらはバビロンに携え行かれ、わたしが顧みる日までそこにおかれている。その後、わたしはこれらのものを、この所に携え帰らせると主は言われる」。
これは、最後ののぞみまでも奪い曝れれるような気がしたであろう。しかしこの時に及んでも、人は悔い改めることができない。悲しい。
Jer28:9 平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
このあとにハナニヤとエレミヤのやり取りがつづく。預言者の仕事は、予言するということより、神が望まれる生き方を伝えることなのかもしれない。それを背景に理解した方がよい。
Jer29:5 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
これはかなりつらかったろう。しかし同時に、現代も同じだと感じる。
Jer30:23,24 見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。主の激しい怒りは、み心に思い定められたことを行って、これを遂げるまで、退くことはない。末の日にあなたがたはこれを悟るのである。
これは、重く受け止めるべきことだろう。しかし不満が残る。この神に信頼するのは難しい。ひとも、神のかたちを少しでも頂いている以上。信頼はどのようにして、生まれるのだろう。
Jer31:26 ここでわたしは目をさましたが、わたしの眠りは、ここちよかった。
おそらくそのような目覚めだけではなかったろう。しかしこのように、告白する。エレミヤのすごさも感じる。
Jer32:2,3 その時、バビロンの王の軍勢がエルサレムを攻め囲んでいて、預言者エレミヤはユダの王の宮殿にある監視の庭のうちに監禁されていた。 ユダの王ゼデキヤが彼を閉じ込めたのであるが、王は言った、「なぜあなたは預言して言うのか、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはこの町をバビロンの王の手に渡し、彼はこれを取る。
この章には、エレミヤが、この後に及んで、叔父と土地売買の契約をする、エレミヤの信仰に目を向けていたが、神様の忍耐、ゼデキヤや、ユダの改心を神様が待っておられることに強い印象をうけた。The Savior is Wating to Enter Your Heart. Why don’t you let him com in?
Jer33:3 わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。
やはり主は待っておられる。
Jer34:8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を立てて、彼らに釈放のことを告げ示した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。
このあとも単純とは言えないが、5節の「あなたは安らかに死ぬ。」の根拠としているのかもしれない。同時に、2Chr36:12「彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。」の言葉も思う。
Jer35:11 しかしバビロンの王ネブカデレザルがこの地に上ってきた時、われわれは言いました、『さあ、われわれはエルサレムへ行こう。カルデヤびとの軍勢とスリヤびとの軍勢が恐ろしい』と。こうしてわれわれはエルサレムに住んでいるのです」。
ずっと天幕に住んでいたレカブ人もその場を捨てて、エルサレムに逃げてきている。このことについて、なにも言われていない。主の憐れみを感じる。そして、このような忠実な人たちとエレミヤは会うことができた。これも慰めだったろう。
Jer36:3 ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を聞いて、おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。そうすれば、わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない」。
すこし歯切れは悪いが、いずれにしても、このことが常に含みとしてあり、目的は、悔い改めであったということだろう。
Jer37:21 そこでゼデキヤ王は命を下し、エレミヤを監視の庭に入れさせ、かつ、パンを造る者の町から毎日パン一個を彼に与えさせた。これは町にパンがなくなるまで続いた。こうしてエレミヤは監視の庭にいた。
エレミヤは何度捕らえられ投獄されたのだろう。精神的に崩れなかったのはなぜだろうか。
Jer38:4 すると、つかさたちは王に言った、「この人を殺してください。このような言葉をのべて、この町に残っている兵士の手と、すべての民の手を弱くしているからです。この人は民の安泰を求めないで、その災を求めているのです」。
ネブカデネザルに攻め囲まれ、食料も尽きているような状況で、このような考えは当然だろう。そのなかで、神の望みとその応答を見つけるにはどうしたら良いのだろうか。日常的に、真摯に神に聞くことか。
Jer39:16 「行って、エチオピヤびとエベデメレクに告げなさい、『万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、わたしの言った災をわたしはこの町に下す、幸をこれに下すのではない。その日、この事があなたの目の前で成就する。
エレミヤの危機を救ったのは、このエチオピヤ人だった。Cf:Jer38:7-13
Jer40:6 そこでエレミヤはミヅパへ行き、アヒカムの子ゲダリヤの所へ行って、彼と共にその地に残っている民のうちに住んだ。
エレミヤが自由になって最初の決断。ほとんど虚脱状態にあったのではないだろうか。ここでさらにビジョンを持つのはとても難しい。
Jer41:5 八十人の人々がそのひげをそり、衣服をさき、身に傷をつけ、手には素祭のささげ物と香を携え、シケム、シロ、サマリヤからきて、主の宮にささげようとした。
イスラエルにもこのような人たちが残されていたことをみるのは、希望でもある。しかし、悲劇的な結末が記される。エレミヤはここで何を考えたのだろう。
Jer42:6 われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう」。
大変な混乱、何の秩序もなくなったときの依頼と「決意」である。しかし、ひとは、それだけでは、変わることはできないのだろう。
Jer43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。
自分が好むことが神に従う道、つまりは「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」(Phil3:19)「彼らの神はその腹」
Jer44:2 「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたはわたしがエルサレムとユダの町々に下した災を見た。見よ、これらは今日、すでに荒れ地となって住む人もない。
これはとても悲しい現実。エレミヤにとっても、見たくない現実だったろう。
Jer45:5 あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならない。見よ、わたしはすべての人に災を下そうとしている。しかしあなたの命はあなたの行くすべての所で、ぶんどり物としてあなたに与えると主は言われる」。
ぶんどり物か。どのようなイメージなのだろうか。
Jer46:28 主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々を/ことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決して罰しないではおかない」。
最後の「罰しないではおかない」は誰をだろうか。神様がともにおられることはすばらしい。しかし、ここで民族を言っているのは、個人の象徴なのだろうか。
Jer47:5 ガザには髪をそることが始まっている。アシケロンは滅びた。アナクびとの残りの民よ、いつまで自分の身に傷つけるのか。
ペリシテはどのようにして滅びたのだろう。歴史をもう少し理解したい。それにしても、このことばが誰のものなのかもわからない。
Jer48:47 しかし末の日にわたしは再びモアブを栄えさせると/主は言われる」。ここまではモアブのさばきの事をいったのである。
モアブは滅ぼし尽くさない。ペリシテとは異なるのか。それが親族ということだろうか。やはりよくわからない。
Jer49:35 しかし末の日に、わたしはエラムを再び栄えさせると、主は言われる」。
末の日はなにを想像していたのだろう。「末の日」はあるのだろうか。「裁きの日」だろうか。
Jer50:4 主は言われる、その日その時、イスラエルの民とユダの民は共に帰ってくる。彼らは嘆きながら帰ってくる。そしてその神、主を求める。
20節には「主は言われる、その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである。」とあり、かつこの章の後半をみても、何がおこってから、このようなことがおこるのか不明だが、民族の救いという観点から逃れられないでいるのではと考えてしまう。どうなのだろうか。セミニズムにもつながるので、安易には受け入れられない。
Jer51:49 イスラエルの殺された者たちのために、バビロンは倒れなければならない、バビロンのために全地の殺された者は倒れたのだ。
この前の節をみても、神の言葉に預かったのだろう。しかし、この時期にこの論理には、人間的なものを感じる。
Jer52:30 ネブカデレザルの二十三年に侍衛の長ネブザラダンは、ユダヤ人七百四十五人を捕え移した。この総数は四千六百人であった。
27節にあるように、多くが殺され「バビロンの王は、ハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。こうして、ユダは自分の地から捕え移された。」多くが捕囚となる。エレミヤは70年という期限とともに、希望をもってこのときを見ていたのだろうか。記録することもふくめて。


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哀歌

哀歌(1)

「哀歌」はいくつかの訳では「エレミヤの哀歌」となっており、ギリシャ語七十人訳でも、序文にエレミヤが著者であるように書かれており、文語もそのようになっています。確かな証拠はないようですが、次の箇所が背景にあると思われます。
歴代誌下 / 35章 25節
エレミヤはヨシヤを悼んで哀歌を作った。男女のすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝えるようになり、今日に至っている。それがイスラエルの定めとなり、歌は『哀歌』に記されている。
形式は、詩編119篇のときに説明したような、ヘブル語のアルファベットによる数え歌のようになっています。日本語聖書でも分かるのは、3章以外は、すべて22節で、3章も66節と22の倍数になっています。その22がヘブル語のアルファベットの数と同じで、各節の最初はアルファベットの対応する文字を使おうとしているようです。ヘブル語の聖書は詩編119篇のときも書きましたが、たとえば、
https://mechon-mamre.org/p/pt/pt3201.htm
を参照してみてください。このページには上に "Listen to this Chapter in Hebrew" と書いてありそれをクリックするとヘブル語での朗唱を聞くこともできます。

哀歌は全体で5章。

第1章 荒廃し見捨てられたエルサレムについての哀歌。
第2章 ユダとエルサレムに注がれた主の怒り。
第3章 主の恵みと憐れみを歌う、個人の告白と賛美。
第4章 エルサレムの昔の美しさと、今の悲惨さ。
第5章 主への祈り。
少し抜き書きしてみましょう・

第1章

1:なにゆえ、独りで座っているのか/人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか/多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか/国々の姫君であったこの都が。
2:夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。
3:貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き/異国の民の中に座り、憩いは得られず/苦難のはざまに追い詰められてしまった。
4:シオンに上る道は嘆く/祭りに集う人がもはやいないのを。シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。
5:シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し/苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり/苦しめる者らの前を、引かれて行った。
6:栄光はことごとくおとめシオンを去り/その君侯らは野の鹿となった。青草を求めたが得られず/疲れ果ててなお、追い立てられてゆく。

第2章

3:イスラエルの角をことごとく/激しい怒りをもって折り砕き/敵の前から右の御手をひるがえされた。御怒りはヤコブに対して烈火となり/炎となって焼き尽くした。
4:敵となって弓を引き絞り、右の御手を構え/瞳のように愛しておられたものを/苦しめる者となって皆殺しにし/おとめシオンの天幕に/火のような怒りを注がれた。
5:主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し/その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし/おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。

第3章

17:わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。
18:わたしは言う/「わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう」と。

22:主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
23:それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
24:主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
25:主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
26:主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
27:若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
28:軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
29:塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
30:打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。
31:主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
32:主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。
33:人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

40:わたしたちは自らの道を探し求めて/主に立ち帰ろう。
41:天にいます神に向かって/両手を上げ心も挙げて言おう。

第5章

18:シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。
19:主よ、あなたはとこしえにいまし/代々に続く御座にいます方。
20:なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ/果てしなく見捨てておかれるのですか。
21:主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。
22:あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
苦しみの中、みなさんはどのように希望を見いだしますか。


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聖書通読ノート

BRC2023

Lamentations 1:20 御覧ください、主よ。/私は本当に苦しいのです。/私のはらわたは痛み/心は私の内で動転しています。/私が逆らい続けたからです。/外では剣が子を奪い/家の中を死が支配しています。
苦しさが伝わってくる。しかし、痛みは、なかなか理解できないものなのだろう。しかし、バビロンによる征服と捕囚については、もう少し、具体的な状況を知りたい。エレミヤのように、ユダに残った人のことも含めて。
Lamentations 2:5,6 主は、敵であるかのようにイスラエルを滅ぼされた。/城郭をすべて滅ぼし、砦を破壊し/娘ユダの呻きと嘆きをさらに深くされた。主はご自分の仮庵をぶどうの木のように潰し/定めの祭りの場所を破壊された。/シオンに定めの祭りも安息日も忘れさせ/激しい憤りで王や祭司を退けられた。
このような表現はよくわかる。著者がエレミヤかどうかは不明だが、それでも、祭司や支えようとしていた王への感慨も伝わってくる。「主は、敵であるかのように」にいろいろな思いを感じる。世界の主については、わたしもどう受け入れたら良いかわからないことが多い。委ねられているのかもしれない。そうであっても、個人として、すべきことはあるように思うが、一人は非力である。
Lamentations 3:65,66 彼らにかたくなな心と/あなたの呪いを与えてください。怒りをもって彼らの後を追い/あなたのおられる天の下から/根絶やしにしてください。
この章には、エレミヤを想起させることばが多い。それを背景として書かれているようだ。(55,61-62 等)最後は、この呪いの言葉になっている。実際にエレミヤの筆によるものかどうかは不明だが、これでは、問題は解決しない。だからといって、わたしが解決策を持っているわけではない。困難な時代であることは、伝わってくる。
Lamentations 4:11-13 主は憤りを極め、燃える怒りを注がれた。/シオンに火を放ち、火はその礎を焼き尽くした。/地上の王も世に住む者も、誰も思いもしなかった。/エルサレムの城門から/苦しめる者や敵が入って来るとは。/これはエルサレムの預言者たちの罪のゆえ/祭司たちの過ちのゆえだ。/彼らはエルサレムの中で正しき人々の血を流した。
読んでいて、エレミヤではないかなと思うようになった。断罪の厳しさと、悲しみの表現は通じるものがあるが、エレミヤの見ていたものは、もっと現実のものだったのではないか。引用はしなかったが、この章の表現は、厳しい。悲しい現実が描かれている。この時代に生きることの辛さを感じるが、同時に、あとから、落ち着いて、表現したようにも見える。そこに生きたものは、冷静には書けないのではないか。
Lamentations 5:20,21 なぜ、いつまでも私たちを思い出さず/これほど長く捨てておかれるのですか。/主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。/私たちは立ち帰りたいのです。/私たちの日々を新たにし/昔のようにしてください。
昔のようになること、帰ることが、主に覚えられることなのだろう。それを批判することはできないが、やはり、わたしの願う道とは異なる。エレミヤは、違った希望を持っていたのではないだろうか。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Lamentations 1:20 御覧ください、主よ。/私は本当に苦しいのです。/私のはらわたは痛み/心は私の内で動転しています。/私が逆らい続けたからです。/外では剣が子を奪い/家の中を死が支配しています。
「哀歌」の名にふさわしい苦悶が書かれている。背景は「主は、私のうちにいるつわものたちを皆/退けられた。/私に向かって定めの祭りを召集し/若者たちを打ち砕いた。/搾り場でぶどうを踏むように/主はおとめである娘ユダを踏み潰された。そのために、私は泣き/私の目から、この目から涙が溢れ出る。/私を慰め、魂を生き返らせてくださる方が/私から遠ざかったからだ。/敵はあまりに強く、私の子らは見捨てられている。」(15,16)と書かれている。「敵はあまりに強(い)」は偽らざる印象なのだろう。どうすることもできない。主は正しく(18)様々な悪事を思っても、苦しさ、哀しさが和らぐわけではない。信仰者の心の内を、受け取っていきたい。
Lamentations 2:11,12 わが目は涙が尽き、わがはらわたは痛み/娘であるわが民の破滅のゆえに/わが肝臓は地に注がれる。/幼子や乳飲み子は町の広場で弱り果てている。彼らは母親に言う/「どこにあるの、穀物やぶどう酒は」と。/傷ついた者のように町の広場で弱り果て/母の懐で息絶えてゆく。
引用句だけでなく、驚く表現がこの第二の歌にはたくさん含まれている。「主はご自分の祭壇を拒み、聖所をも見捨て/城郭の壁を敵の手に渡された。/主の家で、彼らは祝いの日のように歓声を上げた。」(7)熱心な人たちには、神殿で敵が、祝の日のように歓声をあげるなど想像すらしていなかったことだろう。それを、主が許容、または命じられるとは。この章(第二の歌)の最後にも祝の日が登場する。「あなたは祝いの日のように/私が恐れる者たちを周りから呼び集められました。/主の怒りの日に/逃げ延びた者、生き残った者はいませんでした。/私が生み育てた者たちを/敵は滅ぼし尽くしてしまったのです。」(22)「あなた」は主だろうが「私」は誰だろうか。イスラエルか、エルサレムか、哀歌記者か。
Lamentations 3:37-39 主が命じられたのでなければ/誰がこれを語り、このようなことが起きたのか。災いも幸いも/いと高き方の口から出るものではないか。生きている人間がどうして不平を言えるのか。/自分が罪を犯したのだから。
この章は転換点なのかもしれない。21節に「私は待ち望む」とあり、主の賛美(22,23)が続き、(自分が経験し理解してきた)主の性質が書かれている。そのあとに、引用句がある。基本的には、主の主権のもとで、シオンが滅んでしまったこと、ひとは罪を犯しており、滅びるのは当然で、不平は言えないという考え方である。これは、新約にもつながっているが、神の愛が、その罪人の状態からの救いが、特に、パウロによって語られる。まだ、わたしたちは、十分に、主について、基本的なことですら、理解できていないように思うが。
Lamentations 4:21,22 ウツの地に住む娘エドムよ、楽しみ喜ぶがよい。/あなたにもいずれ杯が巡って来る。/あなたは酔いしれて裸をさらす。娘シオンよ、あなたへの罰はもう終わった。/主はあなたを再び捕囚とすることはない。/娘エドムよ、主があなたの過ちを罰せられ/あなたの罪を暴かれる。
シオン(エルサレム)が破壊され、そこに住む人々の悲惨の極みが描かれている。これで、もう、終わり。これ以上何があるのかということなのだろうか。ただ、その章の最後に、エドムのことが書かれている。周辺の国、民族と比較すると、栄光の中にいたであろう、エルサレム、しかし、関係が良くないときが多かったとしても、その裁き、破壊について書かれていることには、違和感がある。それは「これはエルサレムの預言者たちの罪のゆえ/祭司たちの過ちのゆえだ。/彼らはエルサレムの中で正しき人々の血を流した。」(13)に根拠を求めているからにも見える。正しさ追求の呪いだろうか。悪いから滅ぼされるのであれば、神の前に立ちうるものは、いない。
Lamentations 5:2 私たちの相続地は他国の民のもの/私たちの家は外国人のものとなった。
「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。/私たちは立ち帰りたいのです。/私たちの日々を新たにし/昔のようにしてください。それとも、あなたは私たちをどこまでも退け/激しい怒りのうちにおられるのでしょうか。」(21,22)哀歌はこの悲痛な裁きで終わっている。ただ、引用句にある相続地は、やはり、他民族から奪ったものである。それは、永遠の神からの相続地と信じてきた。その約束を、不変のものとしてきた。しかし、この現実は、それが誤りであったことを意味する。聖書に書いてあるメッセージを文字通りに受け取ることの問題点も指摘しているように見える。「あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓い、『私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにこれを受け継がせる』と告げられました。」(出エジプト32章13節)

BRC2019

Lam 1:20 御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い/内には死が待っています。
苦しみが伝わってくる。この苦しみに価値があるのかもしれない。むろん、面と向かっては言えないが。苦しみは、なにをもたらすのだろうか。その、苦しんでいる人と、ともに居ることに、価値があるのかもしれない。
Lam 2:5 主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し/その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし/おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。
延々と続く。「幼子は母に言う/パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて/母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。 」(13)さらに「おとめエルサレムよ/あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。おとめシオンよ/あなたを何になぞらえて慰めよう。海のように深い痛手を負ったあなたを/誰が癒せよう。」(14)と続く。嘆きが伝わってくる。これが現実なのだから。強烈である。これを、アルファベット詩に載せて歌い上げる、その深さにも驚かされる。
Lam 3:1,2 わたしは/主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。
さらに、「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。」(17)ともある。正直にいうと、2章は、エルサレム陥落の現実が目に浮かぶが、それに続けて、より一般的に苦しむ人を描写しているように見える。どのようにしてこの哀歌は書かれたのだろう。そのなかで、有名な「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。」(22,23)これを切りはなして鑑賞していたが、それは、不遜な感じすらした。まずは、嘆きをしっかり受け止めたい。
Lam 4:11 主の憤りは極まり/主は燃える怒りを注がれた。シオンに火は燃え上がり/都の礎までもなめ尽くした。
エルサレム陥落は、どのように表現しても、し尽くせない悲惨と屈辱なのだろう。ただ、最後には、「おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない。娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。お前の罪はことごとくあばかれる。」(22)ともある。悲しみは、そこでは、終わらないのだろうか。憎しみではないにしても、裁きは、公平になされることが、神の義だというのだろうか。
Lam 5:21,22 主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。 あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
これが哀歌の最後である。解決してないところで、終わるところが余計余韻を引く。解決ではなく、待つところに、求めるところに、信仰があり、いのちがあるのではないだろうか。救いを求めるものにとっては、辛いが、それが現実なのかもしれない。

BRC2017

Lam 1:21 聞いてください、わたしの呻きを。慰めてくれる者はありません。敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして/あなたの仕打ちを喜んでいます。彼らにも定めの日を来らせ/わたしのような目に遭わせてください。
わたしは、この節のような復讐の祈りが理解できないでいた。心の様々な面を描いているのかもしれないと思った。そう考えると、ひとつひとつについて、善悪を判断し、批判するのは、あたってはいない。全体で判断すべきなのだから。これが実質的な問題を引き起こしたことに関する、裁判であれば、別である。これは、陳述書ではないのだから。
Lam 2:14 預言者はあなたに託宣を与えたが/むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには/一度、罪をあばくべきなのに/むなしく、迷わすことを/あなたに向かって告げるばかりであった。
罪を暴くのが、まず預言者のすべきことだとある。わたしは、にわかには、うなずけないが、それが、エレミヤなどの仕事であったことは確かだろう。気づくことができないから、指摘してもらう。少しでも、気づいているものは、そのことを学んだものは、語り伝える責任がある、ということなのだろうか。
Lam 3:30 打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5章39節)と似ているのだろうか。ここでは「主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。」(25節)の文脈の中で語られ、マタイでは「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5章48節)の文脈の中で、語られている。とても、興味深い。あまり、哀歌に対して、批判的にもなれない。引用した25節から30節の間の句もすごみがある。「主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。」(26節-29節)その背景が、神のことを思うことであれば、あきらかにつながっている。
Lam 4:6 ソドムは、その罪のゆえに/人の手によらず、一瞬にして滅んだが/わたしの民の娘は/それよりも重い罪を犯したのだ。
ソドムについては、おそらくその罪について十分知られていないだろう。ロトの物語の伝聞だけだろうか。しかし、一瞬にして滅んだ「ソドムよりも」となっている。比較は簡単にはできないだろうが、このように言い切るところに、記者の強いメッセージが読み取れる。
Lam 5:21,22 主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
哀歌の最後の言葉である。祈りと、現実が、はっきりと書かれて終わっている。まさに、見えない希望のもとで信仰を持って生き続けていることが見て取れる。同時に、その順序が、現実が後に来ることで、強いインパクトを持っている。

BRC2015

Lam1:19,20 わたしは愛した人々に呼びかけたが/皆、わたしを裏切った。わたしの祭司ら長老らは、都で息絶える/命をつなごうと、食べ物を乞いながら。 御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い/内には死が待っています。
なんとも、悲しい状態である。愛した人には裏切られ、自らも背きに背いたと告白する。外でも、うちでも、死。哀歌を、じっくり読みたい。
Lam2:20-22 主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。女がその胎の実を/育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が/主の聖所で殺されているのです。 街では老人も子供も地に倒れ伏し/おとめも若者も剣にかかって死にました。あなたは、ついに怒り/殺し、屠って容赦されませんでした。祭りの日のように声をあげて脅かす者らを呼び/わたしを包囲させられました。主が怒りを発したこの日に/逃げのびた者も生き残った者もなく/わたしが養い育てた子らは/ことごとく敵に滅ぼされてしまいました。
記者の痛み、苦しみが伝わってくる。聖所に逃げ込み、主にすがる、祭司が預言者が殺され、老人や子供も無残にころされ、若い男女も斬り殺される。最後の「わたしが養い育てた子ら」には、預言者が育てた、霊的な子が多くいたのではないだろうか。主に従い、主に信頼することを預言者を通して学んだ者たちも。こころが痛くなる。
Lam3:22-24 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
この言葉に至るまでの告白を読むと、苦しくなる。「砂利をかませてわたしの歯を砕き/塵の中にわたしを打ち倒す。 わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。」(16,17節)などである。単に象徴的な表現ではないのだろう。そして、上の言葉に至る。最後は、主こそわたしの受ける分となる。まさに、それを告白するのが、信仰者なのだと思う。主こそわたしの受ける分。主こそわたしの受ける分。
Lam4:20 主の油注がれた者、わたしたちの命の息吹/その人が彼らの罠に捕えられた。異国民の中にあるときも、その人の陰で/生き抜こうと頼みにした、その人が。
このような状況で,神を信頼し続けるのは、苦しいだろう。しかし、神の御心をより深く知ることができるようになる。と信じたい。
Lam5:22 あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
哀歌の最後のことばである。エレミヤは、すべてをしらされはしなかったのだろう。それで良いのかもしれない。それが、神様の答えなら。

BRC2013

Lam1:20 主よ、顧みてください、わたしは悩み、わがはらわたはわきかえり、わが心臓はわたしの内に転倒しています。わたしは、はなはだしくそむいたからです。外にはつるぎがあって、わが子を奪い、家の内には死のようなものがある。
この悲しみの向かう先が v22「彼らの悪をことごとくあなたの前にあらわし、さきにわがもろもろのとがのために、わたしに行われたように、彼らにも行ってください。わが嘆きは多く、わが心は弱りはてているからです」。」となっていることには、正直違和感を感じるが、苦しみ、悲しみその深さは十分伝わってくる。
Lam2:19 夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて/息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。
「夜、初更」は何を意味するのか。寝ている場合ではないということか。まず、この危機的状況に目を向けよということか。
Lam3:27,28 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
苦しみ、悲しみの中で、このように告白することについてその重さを思う。わたしはこの言葉にアーメンと言いたい。
Lam4:13 これはその預言者たちの罪のため、その祭司たちの不義のためであった。彼らは義人の血をその町の中に流した者である。
指導者が悪かったのだろうか。それとも、指導者は責任を負わなければならないのか。羊の牧舎たちがすべきことは多いのだろう。
Lam5:16,17 われわれの冠はこうべから落ちた。わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。 このために、われわれの心は衰え、これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
エレミヤは自覚している。これは罪の故だと。そしてそれが、心が衰え、目は暗くなったと表現しているのは興味深い。だから見えないのかもしれない。大切なことが。


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エゼキエル書

エゼキエル書(1)

エゼキエル書第1章はつぎのように始まっています。
1:第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。
2:それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。
3:カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
列王紀下24章8-17節にヨヤキン(口語訳ではエホヤキン)について記されています。このヨヤキンはヨヤキム(口語訳ではエホヤキム)の子で18歳で王となり3ヶ月間王位にありますが、ネブカデネザルに率いられたバビロン軍に捕らえられます。
12:ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。
13:主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。
14:彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。
15:彼はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。
16:バビロンの王はすべての軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った。
17:バビロンの王はヨヤキンに代えて、そのおじマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。
ここで記されているエルサレム陥落(1回目)は BC597年ですから、第5年はBC593年。上の1章1-3節からエゼキエルはバビロンにいたことが分かります。(ケバル川はユーフラテス川の支流の間をつなぐバビロンのなかの運河だと言われています)エゼキエルは、おそらく捕囚として連れて行かれた一人だったのでしょう。第30年については正確にはわかりませんが、エゼキエルが30歳の時とも言われています。祭司は30歳から50歳まで務めをしたようですから(民数記4:3)祭司ブジの子エゼキエルとあるのは、エゼキエルが30歳となって通常であればエルサレムの神殿で祭司のつとめを始めるとき、祭司ではなく、預言者として立てられたと言うことかも知れません。なお「エゼキエル」とは「神が強めてくださる」という意味だそうです。

北イスラエル王国はすでにBC722にアッシリアによって滅ぼされていますが、奇跡的にアッシリアには、滅ぼされなかった南ユダ王国。イザヤなどの警告にも拘わらず、神国として滅ぼされないといった安易な信仰にすがっていたのが、ついに、バビロンの前に決定的な敗北を喫したのがこのときです。有力者はバビロン捕囚となり、上の記述によると「貧しい者だけ」がのこります。エレミヤは残り、エゼキエルはバビロンへ、それぞれがそれぞれの場で、神に背くユダの都エルサレムの崩壊を神の審判として預言したのです。そして実際、バビロンの傀儡政権として立てられたゼデキヤ王は列王記下25章によると、バビロニアに反旗を翻し、結局BC587-6年にはエルサレムは破壊され、南ユダ王国も消滅します。第30年をエゼキエルの年齢ととると37歳の頃ということになります。

エゼキエル書18章には、次のようにあります。

2:「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。
3:わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。
4:すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。
ヒゼキヤの子マナセなどに責任を負わすなどし、自分の罪について顧みないひとたちも多くいたのでしょう。このことばは(同じようなことばがエレミヤ31:29にもあります)、このような悲劇は、父や祖父母の代の罪が招いたのだと言っている人に対して、述べているのかも知れません。

正直に書いておこうと思いますが、実はわたしは、聖書全体のなかで、一番苦手なのが、このエゼキエルです。明確に理由を述べることはできませんが、このエゼキエル書の特徴でもある、祭司的な、聖なるものとけがれたものの区別がなかなかピンとこないのと、救いの希望が、神殿の回復ということで書かれているからでしょうか。背景をすこし詳しく書いてみました。通読では、少しでもこのエゼキエルの伝えたかったことを理解したいと考えています。

「新聖書注解」いのちのことば社(服部嘉明)から概要を引用しておきます。

概要

第一部 審判の預言 1-32章
  1. 預言者エゼキエルの召命(序)1:1-3:27
    1. 序言 1:1-3
    2. 召命の幻(主の御座の車) 1:4-28
    3. 召命のことば 2:1-3:11
    4. 預言者の姿勢(見張り人)3:12-27
  2. エルサレム審判の啓示 4:1-24:27
    1. 象徴的動作による啓示(その1)4:1-5:17
    2. 主の宣言による啓示(その1)6:1-7:27
    3. 幻によるユダの罪に関する啓示 8:1-11:25
    4. 象徴的動作による啓示(その2)12:1-25
    5. 主の宣言による啓示(その2)13:1-24:27
  3. 諸外国審判の啓示 25:1-32:32
    1. 近隣諸国に対して 25:1-17
    2. ツロとシドンに対して 26:1-28:26
    3. エジプトに対して 29:1-32:32
第二部 終末と希望の預言 33-48章
  1. エルサレムの終末 33:1-39:29
    1. エルサレムの見張り人 33:1-33
    2. エルサレムの牧舎 34:1-31
    3. エルサレムの悪友エドム 35:1-15
    4. エルサレムの回復の預言 36:1-37:28
    5. エルサレムの敵ゴグ 38:1-39:29
  2. エルサレムの希望 40:1-48
    1. 神殿の幻 40:1-42:20
    2. 主の栄光の帰還と祭壇の規定 43:1-27
    3. 神殿と礼拝の規定 44:1-46:24
    4. 生命の水 47:1-12
    5. 国の分割 47:13-48:35

エゼキエル書(2)

エゼキエル書の背景などを見、ひとつの区切りとして、第一部 審判の預言 1-32章、 第二部 終末と希望の預言 33-48章 の分け方を紹介しました。24章の最初には、バビロンの王がエルサレムを包囲したことが書かれ、33章21節には、エルサレムの町が破られたとの報せを聞いたことが書かれています。その意味でも、33章に記されている知らせは捕囚の地にいたと思われる祭司エゼキエルにとって大きな転換の時だったことでしょう。自ら預言していたことが現実になったのですから。

今回は一つの気になったことばについて書いてみようと思います。それは「破れ口」ということばです。エゼキエル書には13章5節と22章30節の2回出てきます。新共同訳で検索すると、これだけですが、口語訳では、エゼキエル書以外に三箇所出てきます。列王記上11章27節、ヨブ記30章14節、詩編16篇23節。エルサレムが包囲され、最後、城壁が破れ、敗北するのですが、破れ口は城壁に囲まれた町を攻めるとき、または、守るときに鍵となるわけです。エゼキエルの時代にはとても重要な意味をもつことばだったでしょう。さて、エゼキエル書での二箇所を見てみましょう。今日は口語訳から引用します。

エゼキエル書13章5節
あなたがたは主の日に戦いに立つため、破れ口にのぼらず、またイスラエルの家のために石がきを築こうともしない。
13章は「イスラエルの預言者たちに向かって預言せよ。」ということばで始まります。イスラエルの預言者たちは「自分の心のままに預言する人々」「なにも見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者」「荒れ跡にいるきつねのようだ」とし、この5節のことばが続きます。17節には「心のままに預言するあなたの民の娘たち」に対しても語るように言われています。危機におよんで、ひどいひとたちがいた。と読むこともできますが、預言者は当時の教養人です。世の中を見る目を与えられたものと考えると、知識人とも取れます。教育をうけたものが、世の中を見て、自分勝手に考え、問題点をみつつも、その破れ口に立たないと非難しているようにとれます。預言者を神のことばに預かる者ととれば、聖書を神のことばとして読むものは、預言者だとも言えます。もう一箇所は22章です。
エゼキエル書 22章30節
わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。
この前の28節29節も引用してみましょう。
28:その預言者たちは、水しっくいでこれを塗り、偽りの幻を見、彼らに偽りを占い、主が語らないのに『主なる神はこう言われる』と言う。 29:国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。
この「水しっくい」は先ほどの13章10節-15節にも出てきますが、補強にはならないがちょっと見栄えはよくなるような修復です。破れ口に対して、本質的な改善はせず、自分たちがそこに立って敵を防ごうともせず、していることは29節だといっているわけです。もしかすると、単に、それを野放しにしているという意味かも知れません。

破れ口に立つ者。口語訳に出てくる、詩編のことばを見てみましょう。

詩篇106篇23節
それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは/破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。
民の不信、背徳に対し、モーセが取りなしのいのりを何回もしていますが、そのことを記しているのでしょう。 今の時代に戦争用語の「破れ口」はあまり実感がわかないかもしれません。しかし、そのような破れ口を見る目を与えられながら、水しっくいでそれを覆い隠そうとする、そのようなことは、わたしたちの周りにもたくさんあるような気がしてきます。

エゼキエル書(3)

エゼキエル書は、33章からは新しい展開に入ります。中心は、イスラエルの回復。その根拠は、親の罪によって裁かれることはなく、また悔い改めによって罪人も生きることができるというメッセージです。この前半は、前にも引用した18章2節から4節にあります。
2:「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。
3:わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。
4:すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。
後半については、33章12節を引用しておきます。
人の子よ、あなたの民の人々に言え、義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない。
前半の32章までは、様々な預言、とくに裁きの預言のあとに「わたしが主であることを知る」と続いていますが(6:6, 10, 13, 14, 7:4, 27, 11:10, 12, 12:15, 16, 20, 13:14, 21, 23, 14:8, 15:7, 16:62, 20:38, 42, 44, 22:16, 24:27, 25:5, 7, 11, 17, 28:6, 22, 23, 24, 29;6, 9, 21, 30:8, 19, 25, 26, で 32:15 が最後。)後半の始まる33章からは「わたしが主であることを悟る」と変化しています。33:29, 34:27, 35:4, 9, 15, 36:11, 23, 38, 37:6, 13, 38:23。何かエゼキエルが伝えたかったメッセージがあるのでしょう。
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
これは、36章26,27節ですが、悟るには、この新しい心が必要なのでしょう。しかし、エゼキエルはここで終わりません。37章6節では
わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る
として、肉体の復活が、回復の最初にしるしのようなものとして書かれています。

エゼキエル(1)に、わたしは、エゼキエルが聖書のなかで一番苦手だと書きました。通読では、自分がなぜ、エゼキエルが苦手なのかも考えながら読んでいます。

この33章からの回復も周辺の民族・部族についての厳しい預言からはじまり、回復は、神殿、礼拝規則、そして土地の分割といった、悪く言うと出エジプト回帰、復古調で、あたらしいものが見られないからではないかと思います。そして、それが、イエスが説いた福音とは、とても遠い距離にあると感じるからでしょうか。さらに、このパレスチナ帰還と神殿、土地の分割の預言が、その後、世界の宗教界、特に、ユダヤ教とキリスト教に与えた影響が大きく、世界の混乱を招いたまたは招いていることも、わたしの頭に問題要因としてあるからでしょう。

エゼキエル書の最後48章35節は、

町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる。
で終わっています。主による回復の設計図は、十分には書けなかったのではないかとも思われます。祭司の家に生まれたエゼキエルが神のことばを聞き、それを思い巡らし、精一杯、民に伝えようとしたその記録として読むべきなのかなと今回思いました。メッセージを読み取り、それ以外は、祈って次を待つ態度が必要なのかもしれないと。エゼキエルの預言をそのまま神の言葉と受け取って、その通りになると理解することも、イエスの言われたこととの不整合を無理に埋めることも、エゼキエルの限界として切り捨てることも、不適切なのかもしれません。わからないことは、わからないこととして、これからも、丁寧に理解していきたいと思います。

わたしは「聖書を一緒に読みませんか」という勉強会を我が家で持っていますが、最近よく学生さんたちが「今日のところはよくわからなかった」と言います。もっと上手に説明をすべきだったかと、自分の力不足を嘆いてもいましたが、最近はそのように率直に言えることがすばらしいと思えるようになってきました。そのような会の一員として、わたしもまた次回もエゼキエルに挑戦してみたいと思います。


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聖書通読ノート

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Ezekiel 1:26 生き物の頭上の大空高くに、ラピスラズリの玉座のようなものが見えた。その玉座のようなものの上にひときわ高く、人の姿のようなものがあった。
エゼキエルの最初は「第三十年の第四の月の五日に、私がケバル川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。」(1)と始まる。神の幻を理解することは難しい。引用句は、口語訳では「彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。」となっている。ラピスラズリがわからなかったので調べたのだが、訳として、採用したのは何らかの背景があったのだろう。
Ezekiel 2:6-8 人の子よ、あなたは彼らを恐れてはならない。その言葉を恐れてはならない。たとえあなたが、いらくさと棘の中にいても、また、さそりの上に座すとしても。彼らが反逆の家だからといって、その言葉を恐れてはならない。彼らの前におののいてはならない。彼らが聞こうと、反逆の家ゆえに拒もうと、私の言葉を語らなければならない。人の子よ、あなたは私が語ることを聞きなさい。反逆の家のように逆らってはならない。口を開け、私が与えるものを食べなさい。」
これが召命なのだろう。ここには、聞くこと、語ることとどうじに、食べることも描かれている、次の章は巻物を食べるところから始まる。捕囚となった地で、なにをよすがに生きるかは困難だったと思う。エゼキエルとともに、ことばと向き合っていきたい。
Ezekiel 3:5-7 あなたは、分からない言葉を話す舌の重い民にではなく、イスラエルの家に遣わされる。聞き取れず、分からない言葉を話す、舌の重い多くの民にではない。もし、あなたをその民のところに遣わしたなら、彼らはあなたに聞き従う。しかし、イスラエルの家はあなたに聞こうとはしない。彼らは私に聞こうとはしない。イスラエルの家はすべて額が硬く、心がかたくなだからだ。
個人的には、ここに語られていることには賛成できない。イスラエル以外の民も、同様に、神の言葉を受け入れることは難しい。その難しさを十分に理解しないと、だれとも対話できなくなり、自分の正しさだけを主張するようになる。わたしは、それを乗り越えるすべをもっていない。しかし、それがとても、難しいことであることの認識は年々深くなっている。自らも、神の言葉を理解すること、それを受け入れることが、どれほど難しいかも思い知らされている。
Ezekiel 4:13-15 それから主は言われた。「このように、イスラエルの子らは私が追いやる先の諸国民の中で、汚れたパンを食べなければならない。」そこで私は言った。「ああ、主なる神よ、御覧ください。私は自分を汚したことはありません。若い時から今に至るまで、死んでいた動物やかみ裂かれた動物を食べたことはなく、また汚れた肉を口にしたこともありません。」すると主は私に言われた。「私はあなたに人糞の代わりに牛糞を与える。あなたはその上で自分のパンを焼きなさい。」
エゼキエルは、正しさを神の正しさと理解し、主は、それに固執しないことも、エゼキエルはある程度理解しているように見える。ひとは、自分が理解できた正しさが、正しさだとする。それは、仕方がないのかもしれない。神様のみこころを求め続けたい。
Ezekiel 5:6,7 エルサレムは諸国民よりも邪悪で、私の法に逆らい、周囲の国々よりも私の掟に逆らった。彼らは私の定めを拒み、私の掟に従って歩まなかった。」それゆえ、主なる神はこう言われる。「あなたがたは周囲の諸国民よりもかたくなで、私の掟に従って歩まず、私の法を行わず、周囲の諸国民の定めさえも行わなかった。」
ある繰り返しがある。印象的な伝えかたなのかもしれないが、少し気になる。エホヤキンとともに、捕囚となったエゼキエルが、エルサレムがさらに破壊され、神の裁きを受けることについて語る。正直、わたしは、それが、神の裁きだと考えるのは、ひとつの見方に過ぎないとも思う。考えさせられる。
Ezekiel 6:13 彼ら刺し貫かれた者たちが、祭壇の周りの偶像の間や、すべての高い丘の上、山々の頂、またすべての生い茂る木の下や、葉の茂ったテレビンの木の下、すなわち彼らが偶像に宥めの香りを献げた所に置かれたとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。
主とは、そのような方なのだろうか。エゼキエルの時代は、それが正しさ、正義を貫くことが素晴らしいことだと考えられていたのだろう。現代でも、そのように考える人はいる。しかし、それは、ひとつの見方でしかないように思う。「あなたがたのうちの逃れた者は、連れ去られる先の諸国民の間で、私を思い起こすであろう。私を離れ去る淫行の心と、偶像を慕う淫行の目を、私は打ち砕く。そして彼らは、自ら行った悪のゆえに、また自分のすべての忌むべき行いのゆえに、自分を嫌悪するようになる。」(9)ともあり、興味深い。おそらく、そのようなことも実際、起こったのだろう。しかし、それで幸せが訪れるわけではない。
Ezekiel 7:24,25 私は諸国民の中から悪人たちを呼び寄せ/彼らの家々を奪い取らせる。/私は強い者たちの誇りを奪い/彼らの聖所は汚される。苦悩が臨む。/平和を求めても、どこにもない。
この大変な状況は、想像がつく。しかし、それをどう受け取るかは、難しいように思う。わたしならどうするだろうか。エレミヤが批判するように、家族を連れ、エジプトに逃れるかもしれない。そこに、居場所ができたら、そこに人を招く。この時代の行き詰まった状況について考えさせられる。当時、行き着ける最善のことを求めて生きているのだろう。
Ezekiel 8:17,18 その方は私に言われた。「人の子よ、あなたは見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしている忌むべきことは取るに足りないことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらに私を怒らせたからである。彼らは自分の鼻に枝を刺している。私は憤りに駆られて、憐れみの目を向けず、彼らを惜しまない。彼らが大声で叫んでも、私は耳を貸さない。」
やはり、神様の性質、または、神様はどのような方かを理解することが大切であるように思う。
Ezekiel 9:4 主は彼に言われた。「町のただ中、エルサレムの中を行き巡り、そこで行われているすべての忌むべきことについて嘆き呻く人々の額にしるしを付けよ。」
黙示録を思い出してしまうが、ここでは、さらに、「彼らが打ち殺していたとき、私は一人残された。私はひれ伏し、叫んだ。『ああ、主なる神よ、あなたはエルサレムの上に憤りを注ぎ、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼされるのですか。』」(8)どうも、この範囲では、エゼキエルだけが残ったような書き方になっている。中島みゆきの Nobody is Right の一節を思い出してしまう。正しさとは何なのだろうか。それを求めることが、正しくないものを抹殺することに向かっていってはいけない。むろん、解決案をもっているわけではないが。
Ezekiel 10:20-22 それは、ケバル川のほとりで私がイスラエルの神のもとに見た生き物であった。私は、それらがケルビムであることを知った。それぞれには四つの顔があり、それぞれには四つの翼があった。その翼の下には、人の手のようなものがあった。その顔のようなものは、私がケバル川のほとりで見た顔と同じであった。彼らはそれぞれ前の方にまっすぐ進んで行った。
ケルビムは、神の臨在の印なのだろう。神自身が姿をもっていない、または、それをみることができなければ、神の臨在を確かめられない。それは、神のことばかどうかも、わからないということになるのだろう。その問題を回避するひとつが、ケルビムなのだろうか。難しい問題である。みこころかどうかは、啓示だと宣言することによってのみ、担保されるのか。そうなのかもしれない。それなら、わたしは、みこころをもつことを求めない。つねに、探究者であり続けたい。
Ezekiel 11:16,17 それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった』と。それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。私はあなたがたをもろもろの民から集め、散らされていた先の国々から呼び集め、イスラエルの地を与える』と。
エゼキエルが受け取ったメッセージ。エゼキエルが受け入れられたのも、回復を語っているからかもしれない。精査して読むべきことは、回復の中に込められた、エゼキエルがうかとった、神のイメージだろう。祭司であるエゼキエルにとっては、聖所での神様との結びつきがどのように回復されるかが重要だったのだろう。そこから語り始めている。理解しにくい、エゼキエルとも、少しずつ対話していきたい。
Ezekiel 12:12,13 彼らの指導者は、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、運び出すための穴を壁に開けて出て行く。彼は目でこの土地を見ないように顔を覆う。私は彼の上に網を広げ、彼は私の罠にかかる。私は彼をカルデア人の地バビロンに連れて行く。しかし彼はその地を見ないで、そこで死ぬ。
捕囚について述べている。エゼキエルのとき、すなわち、エホヤキンの時代に捕囚となったひとたちの生活はどのようなものだったのだろうか。実際の生活を知りたい。ここにあるようなことは、捕囚とともに、ある程度起こったのだろう。ただ、アッシリア、バビロンと、さらにはアケメネス朝ペルシャと支配の仕方は違っていたようである。その状況がわからないと、本書を理解することも難しいかもしれない。
Ezekiel 13:15,16 私は、壁とそれを漆喰で上塗りした者を、憤りで焼き尽くす。私はあなたがたに、『壁はなくなり、それを上塗りした者もいなくなる』と言う。エルサレムに対して預言し、平和がないのに、エルサレムのために平和の幻を見るイスラエルの預言者たちよ――主なる神の仰せ。
この箇所も、憤りは、神の憤りではなく、エゼキエルの憤りだと強く感じた。それが、むろん、主なる神の憤りと同期していれば、それで良いのだろう。しかし、憤りは、冷静に考え、瞑想し、他者や、周囲から学ぼうとすることを妨げる。おそらく、憤り自体は、自然なもので、非難すべきものではないのだろうが、そのときにも、主のみこころを求め続けられるようになる訓練をしないといけないのだろう。
Ezekiel 14:13,14 「人の子よ、ある国が私に背信を行って罪を犯すなら、私はその国に手を伸ばし、パンの蓄えを絶ち、飢饉をもたらし、そこから人と家畜を絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、あの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らがその義によって救えるのは自分の命だけである――主なる神の仰せ。
ノア、ダニエル、ヨブの三人の名前が、以前から気になっていたが、今回も、気になってしまった。ノアがなぜここに入っているのか不明だが、よくわからないのは、ダニエルとヨブである。ダニエルも、ヨブも、エゼキエルより、あとの時代の人たちにように思うからである。エゼキエル書が、エゼキエルの時代よりあとに編集されたのだろうか。ダニエルは、ダニエル書のダニエルではなく、また、ヨブについてとともに、エピソードとしてすでに、知られていたということだろうか。
Ezekiel 15:2,3 「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。その木から何かを作るために木材を取り出せるだろうか。あるいは、何かものをかける木釘を作れるだろうか。
わたしは、詳しくはないが、わたしの知っているぶどうの木については、その通りだと思う。しかし、すばらしい、実をならせることもたしかである。むろん、丁寧に世話をし、剪定をすれば。たとえから、いろいろと引き出すのは問題もあるが、ぶどうの木は、イスラエルでは、非常に一般的だったので、みながよく知っていたのだろう。ぶどうの木は、イスラエルの象徴でもあり、響いたに違いない。
Ezekiel 16:30,31 あなたの心はなんと病んでいることか――主なる神の仰せ。恥知らずな遊女のように、こうした行いをすべてしているとは。あなたはすべての通りの角に台座を築き、すべての広場に高台を造った。しかもあなたは、遊女とは異なり、報酬を蔑んだ。
この章に書かれている内容は、現代であれば、女性蔑視と非難されても仕方がないだろう。ただ、それとは別に、このようにイスラエルを表現するのは、やはり悪い状況を見て、その原因となる、悪者探しをする、人間の傾向を色濃く表しているともいえる。たしかに、ここに書かれてあることは、ある程度非難に値するのだろう。しかし、それは、ひとつの原因にすぎない。世界史的な広がりの、動向もあるのだから。だからといって、問題の解決にはならないが、あなたの心は病んでいるとするところに、なにか、憤りを感じてしまった。これでは、分断以外にない。
Ezekiel 17:13-15 彼は王家の子孫の中から一人を選び、これと契約を結び、誓いを立てさせ、さらに、この地の有力者たちを捕らえた。それは、この王国がへりくだって、高ぶらず、その契約を守って存続するためであった。しかし彼はバビロンの王に反逆し、エジプトに使者を送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。彼は成功するだろうか。そのようなことをする者は、逃れることができるだろうか。契約を破って、なお逃れることができるだろうか。
このようなことがあったかどうかは不明だが、おそらく、そのような知らせを聞いて、エゼキエルは激怒したのだろう。ゼデキヤの時代は難しい。高官たちも問題があるのだから。そこで将来を見据えて、御心を求め続けることは、やはりとても難しいと考えてしまう。
Ezekiel 18:30-32 それゆえ、イスラエルの家よ。私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁く――主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきとはならない。あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」
とても多くのことが詰まっている。エゼキエルもこのあたりは、すこし理解できるように思う。自分の考え方、信仰とは異なり、神様の御心だとは思えないが。エゼキエルの熱き思いがあるのだろう。もうすこし時間を使って、読んでみたい箇所でもある。
Ezekiel 19:14 若枝の茂る枝から火が出て、その実を食い尽くした。/その木にはもはや支配者の杖となる強い枝はない。これは哀歌であり、哀歌となった。
エゼキエルの嘆きは伝わってくる。支配者に問題があったことは確かなのだろう。民にも、いろいろと問題があったかもしれない。しかし、ここでは、希望がない姿が詠まれている。同様な感触をもつひとは、いるだろう。そのなかで希望を持ち、生きることは簡単ではない。わたしが、他者を裁くことはできない。
Ezekiel 20:39 あなたがたイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、これに仕えよ。その後、あなたがたは必ず私に聞き従い、二度と自分の供え物と偶像によって、私の聖なる名を汚すことはなくなる。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そしてそれ以外も、旧約聖書の預言者の時代は、ほんとうに、何をしたら良いかわからない当惑する時代だったろう。課題はあり、自分たちや政権の問題は見える。そのなかで、危機が訪れている。それも、巨大な力で圧倒されるものである。ここに預言されていることは、確かに、エズラ・ネヘミヤの時代に起こるが、それらの時代をみても、問題だらけである。ひとは、どう考えたら良いのだろうか。何を、希望にして、生きていけば良いのか。当時のひとたちの身になると、答えは簡単には、言えない。
Ezekiel 21:3,4 ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。私はあなたに火をつける。火は、緑の木と枯れ木をことごとく食い尽くし、燃える炎は消されることなく、地の面は南から北まで一面焦土と化す。すべての肉なる者は、主なる私がこれを燃やしたことを知る。その火は消されることがない。」
この苦しさ、その背後には、主がおられる。おそらく、すべてのことの背後に、主がおられると考えているのだろう。そうすると、これだけ凄惨な、悲惨なことが起こる原因を考えざるをえない。そして、思い当たるふしはある。まっとうな人間としては、自然かもしれないが、わたしには、違和感がある。わたしがイエスを通して知る主とは、かなり異なるからだろう。
Ezekiel 22:22 銀が炉の中で溶けるように、あなたがたもその中で溶ける。こうして、あなたがたは主なる私が憤りをあなたがたの上に注いだことを知るようになる。」
預言者は、知識人なのだろう。エゼキエルは、祭司でもある。民は、それに言い返すことはできない。もっともちいさいもの。それを慈しむこととは、かなり離れているようにも思う。心が痛むだけで、わたしもどうしたら良いのかわからない。エゼキエルの時代のひとと、どのように関われば良いのだろうか。苦しい。
Ezekiel 23:4,5 姉はオホラ、妹はオホリバという名であった。彼女たちは私のものとなり、息子、娘を産んだ。オホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことである。オホラは私のものであったのに、淫らな行いをし、その愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱いた。
エゼキエルの目には、批判すべきことがたくさん見えたのだろう。そして、おそらく、そのことは、忌むべきことなのだろう。しかし、批判で終わって良いのだろうか。どのようにしたら、よう状態になるかは、その背景も知らないとできない。このときの状況を考えると、どうなのだろうか。信仰を貫き、神風をまち、それが来なければ、主の御心と受け入れて、滅びるべきだったのだろうか。わたしには、そうは思えない。
Ezekiel 24:15-17 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、私はあなたの目に慕わしい者を、一撃のうちにあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声を立てずに呻け。死者のために喪に服するな。頭飾りを巻き、足にサンダルを履け。口ひげを覆ってはならない。嘆きのパンを食べてはならない。」
この章は「第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ。『人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日に、エルサレムを包囲した。』」(1,2)このなかで使命が与えられ、そして、この章の後半では、引用句のように、エゼキエルが自らしるしとなることが語られている。エゼキエルの危機的な状況、それを、イスラエルに投影したことなどは、すこし理解できる。たいへんな時なのだろう。
Ezekiel 25:15-17 「主なる神はこう言われる。ペリシテ人は復讐を行った。彼らは心の内で嘲りながら、昔からの敵意によって、滅ぼそうと復讐した。それゆえ、主なる神はこう言われる。私は手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を絶ち、海辺の残りの者を滅ぼす。私は憤りに満ちた懲罰をもって、彼らに大いなる復讐を行う。私が彼らに復讐するとき、彼らは私が主であることを知るようになる。」
この章には、アンモン、モアブ、エドムに対する預言があり、最後に引用句で、ペリシテに対する預言が書かれている。イスラエルの近隣に国、部族で、関係性において、長い歴史のあるところである。神様は、ほんとうに、復讐を願っているのだろうか。神様とは、どのような方なのだろうかと考える。思うところは色々とある。しかし、むろん、答えは出ない。
Ezekiel 26:19-21 主なる神はこう言われる。私があなたを、住む人のない町のように、廃虚となった町にするとき、深淵をあなたの上に湧き上がらせ、大水があなたを覆うとき、私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの民のところに下らせる。また、私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの廃虚のような地の底に住まわせる。あなたが生ける者の地に住むことも場所を占めることもないようにするためである。私はあなたを恐怖に陥れ、あなたはもう存在しなくなる。あなたは捜し求められても、もはやとこしえに見いだされることはない――主なる神の仰せ。」
この章は、ティルスについての預言である。ティルスについては、バビロニアが最後まで攻め続けなければいけなかった都市要塞だとされる。海の民については、現代でもよくわかっていない。それが、パレスチナ、ペリシテなどの語源となっていったと言われる。抗しきれないこのような流れの中で、わたしたちは、なにを求め、どのように行動すればよいのだろう。難しい。
Ezekiel 27:3,4 海の入り口に住み、もろもろの民の商人として多くの島々に向かうティルスに言え。主なる神はこう言われる。/ティルスよ、あなたは言った/『私は美しさの極みである』と。あなたの領土は海のただ中にあり/あなたを建てた人々は/その美しさを完全にした。
ティルスへの哀歌となっている。ティルスの存在は、非常に大きく、そのティルスが、バビロニアに滅ぼされるということは、当時の世界において、非常に大きなことだったのだろう。しかし、そのようなときに、神様の御心としてなにを受け取るかは簡単ではない。同時に、そこにいる、一人ひとりの人生についても、様々なことを考える。それは、現代でも同じなのだろう。
Ezekiel 28:17,18 あなたの心は自分の美しさのために驕り高ぶり/その輝きのゆえに知恵を堕落させた。/私はあなたを地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした。あなたは過ちを増し/不正な商売によって聖所を汚した。/私はあなたの中に火をおこし/あなたを焼き尽くさせた。/私は見ているすべての者の前で/あなたを地上の灰にした。
ティルスについてのものが続き、そのあとに、シドンに対する預言が短くあり、イスラエルの回復について語られる。引用句は、ティルスについてであるが、この前の、15,16節と対になっているように見える。そこにも「あなたが創造された日から/歩む道には非の打ちどころがなかったが/ついに、あなたの中に不正が見いだされた。」(15)とあるが、賛辞ともとれる。皮肉と取る必要はないだろう。やはりティルスについて、もう少し知りたい。
Ezekiel 29:16 この王国は二度とイスラエルの家にとって頼みとはならず、彼らの後を追ったときの過ちを思い起こさせる。こうして、彼らは私が主なる神であることを知るようになる。」
この章には、エジプトに対する預言が書かれている。そして、最後には、ティルス攻撃で苦労したネブカドレツァルへの報酬としてエジプトが渡されることも書かれ、最後は「その日、私はイスラエルの家に一つの角を生やす。また私は、彼らの中であなたに口を開かせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」(21)で終わっている。ここまで希望を持ち続けられることには驚かされるが、やはり、この確信なのだろうか、主から委ねられたと信じることに忠実であることにも驚かされる。それに、苦しめられる面もあるのだろうが。
Ezekiel 30:3,4 確かに、その日は近い。主の日は近い。/それは暗雲の日、諸国民の裁きの時である。剣がエジプトに臨み/戦慄がクシュを見舞う。/エジプトで刺し貫かれた者が倒れるとき/富は奪い去られ、その基は覆される。
ネブカドレツァルのエジプト攻略をここでは、より具体的に述べている。エジプトは、イスラエルにとって、とくべつな存在であったことがわかる。それが最後の「私がエジプト人を諸国民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは私が主であることを知るようになる。」(26)にも関係しているのだろう。そこまで、主に信頼していることに驚かされるが、知っている世界が狭いとも思っしまう。特別な視点を持っていたことは確かなのだろう。
Ezekiel 31:2,3 「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に言いなさい。/あなたの偉大さは、誰に比べられようか。まさに、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。/枝は美しく、森に木陰を作り/背は高く、その梢は雲の中にあった。
エジプトが、レバノンの杉に例えられている。エジプトは、イスラエルがそこから出てきたという意識がどれほどあったか不明だが、長い間、大国といえば、エジプト。かつ、エジプトは、イスラエルを占領しようともしなかったように見える。それも、少し不思議である。脅威ではなかったからだろうか。バビロンの前では、しかしながら、風前の灯火である。大きな感慨があったことだろう。
Ezekiel 32:31,32 ファラオは彼らを見て/自分の全軍勢について慰められる。/ファラオとその全軍は剣で刺し貫かれた/――主なる神の仰せ。確かに、彼は生ける者の地に恐れを引き起こした。/ファラオとその全軍勢は、無割礼の者たちの間に/剣で刺し貫かれた者たちと共に横たわる/――主なる神の仰せ。」
無割礼が何回も登場する。エジプトでは、割礼が普通だったのだろうか。それが、近い関係性を持ったのだろうか。むろん、無割礼の者たちは、単なる肉体的なものではないだろうが、引っかかる。無割礼はエゼキエルに11回登場し、この章に、9回含まれる。この章以外では、28:10と、31:18 のみ。
Ezekiel 33:3,4 彼はその地に剣が臨むのを見たら、角笛を吹き鳴らし、民に警告する。角笛の音を聞いた者がそれを聞きながら警告を受け入れず、剣が臨んでその者を討ち取るなら、その血の責任はその者の頭上にある。
「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは私の口から言葉を聞き、私の警告を彼らに伝えなければならない。」(7)とある、預言者が見張り役であるとの部分である。しかし、当時は、角笛を吹き鳴らし、十分警告しても、それに個人的には応じても、どうにもならない時代だったのではないだろうか。それを、王の不従順と施策の責任、とすることは可能かもしれないが、それを個人に問うことはたとえ王であってもどうだろうか。それだけの信任をうけて責任をもって王になったのだろうか。これだけ困難なときに、個人の責任を問うことはどうなのだろうか。主はそのような方なのだろうか。
Ezekiel 34:23 私は彼らの上に一人の牧者を立て、彼らを養わせる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。
古典的枠組みでの復興が語られている。エゼキエルの限界でもあり、それを批判することはできないが、そこにいまでも希望をもつのはどうなのだろうか。社会的には、ずっと現代は成熟している。むろん、貪欲は、おさまることをしらない。そしてそれが、Driving Force となっていることも確かだが。どう考えたらよいのか、主のみこころを真剣に求めたい。主のみこころを真理を。平和を。
Ezekiel 35:14,15 主なる神はこう言われる。「全地が喜ぶように、私はあなたを荒廃させる。あなたが、イスラエルの家の相続地が荒廃するのを喜んだように、私はあなたに同じようにする。セイルの山よ、全エドムよ、そのすべてが荒廃する。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」
これを喜んで受け取るひともいるだろう。しかし、なんとも浅ましい。神様が愛されるひとりひとりに目をむけることは、どのようにしたら可能なのだろうか。おそらく、そう簡単ではないのだろう。また同時に、エゼキエルの時代の危機的な状況、エゼキエルの置かれた場にも目を向けないといけないのだろう。実は、この後者がなかなか見えてこないのだが。捕囚民はどのような制約のもとで、どのように生活していたのだろうか。捕囚民同士はどのように繋がり、エルサレムとの情報交換をしていたのだろうか。もう少し知りたい。
Ezekiel 36:24,25 私は諸国民の中からあなたがたを連れ出し、全地から集め、あなたがたの土地に導き入れる。私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
聖書の一部を取り出して、解釈する。それが、シオニズムにもつながっているのだろう。そして、現在のイスラエル・パレスチナ紛争にも。たしかに、一部を切り取れば、さまざまなことを導き出せるだろう。そして、それが啓示だとすれば。それで良いのだろうか。正直、心配になる。
Ezekiel 37:9,10 主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言え。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹いて来い。これら殺された者の中に吹きつけよ。すると彼らは生き返る。」私が主が命じられたように預言すると、霊が彼らの中に入った。すると彼らは生き返り、自分の足で立ち、おびただしい大軍となった。
有名な箇所だが、もう、絶体絶命のなかでの希望を表現しているのだろう。それが復活でもある。エゼキエルが信じる主の恵みと哀れみ、そしてその神への信頼。わたしには、正直、理解できない。もう少し、いまの、自分がなすべきことを受け取りたいと思ってしまう。
Ezekiel 38:23 多くの国民の前で、私は自らが偉大であり聖なる者であることを示し、私を知らせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」
「私が主であることを知るようになる」は出エジプト記に4回(7章5,17節、14章4,18節)、列王記に2回(20章13,28節)にあるが、それ以外はすべてエゼキエルで、48回である。このことばに、エゼキエルの思いが詰まっているのだろう。それが同時に、わたしには、多少の違和感となっているのかもしれない。多くの国民の前でとあるが、他の国や、聖書を知らない民に対してはどうなのだろうか。
Ezekiel 39:22,23 その日から後、イスラエルの家は私が主、彼らの神であることを知るようになる。諸国民は、イスラエルの家がその過ちのゆえに捕囚となり、私に対して背信の罪を犯したために、私が彼らから顔を隠したことを知るようになる。私が彼らを苦しめる者の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたのだ。
ここに、エゼキエルの理解があるのだろう。神の裁きと、主が神であることを知らしめること。そしてそれは、イスラエルと諸国民に示すということである。いま考えてしまうのは、それで平和になるのだろうかということである。ほんとうに、神様のみこころを求めるようになるのだろうかということである。貪欲は変わらないのではないだろうか。根深いものだから。
Ezekiel 40:1,2 我々が捕囚となって二十五年目、その年の初めの月の十日、都が破壊されてから十四年目、まさにその日に、主の手が私に臨み、私をそこに連れて行った。神の幻のうちに、主は私をイスラエルの地に連れて行き、非常に高い山に降ろした。その上の南側に、都の建造物のようなものがあった。
ここから、主として、神殿についての詳細が示される。祭司だった、エゼキエルがもっとも大切にしたものなのだろう。都が破壊されて十四年目とある。そのときには、エゼキエルはエルサレムにいなかったわけだが、その破壊の様子は伝わってきただろう。その幻を見ている。周囲のひとにも、何らかの励ましとなったかもしれない。
Ezekiel 41:1 彼は私を外陣に連れて行った。その脇柱を測ると、その幅は一方が六アンマ、他方も六アンマであった。これが脇柱の幅であった。
神殿の構成の続きである。第一神殿がネブカデレザルの軍に破壊され、第二神殿がバビロンからの帰還者によって建てられる間の期間である。エゼキエルは、祭司で、神殿については、十分な知識を持っていただろうから、詳細も丁寧に読む必要があるのだろうが、なかなかそのようにはできない。当時の人が大切にしたことは大切にすることをしたいのだが。
Ezekiel 42:20 彼は四方を測ったが、壁がその周りを取り囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは聖なるものと俗なるものとを区別するためであった。
15節から神殿の測量結果が書かれ、最後のまとめが、引用句である。詳細は難しいようだが、だいたい、200m〜250m 程度か。かなり大きいように感じる。第一神殿などとの比較も、されているのだろう。このなかから読み取ることを考えると、やはりある程度正確な比較検討も必要なのだろう。難しい。
Ezekiel 43:6,7 私は神殿の中から私に語りかける声を聞いた。すると、あの人が私の傍らに立っていた。彼は私に言った。「人の子よ、ここは私の玉座の場所、私の足の裏を置く場所である。ここで私は、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。イスラエルの家は、彼らもその王たちも、淫行により、王たちの死体により、また、高き所により、わが聖なる名を二度と汚すことはない。
幻は、どのようにして見るのだろう。その幻が、神様からのものだとどのようにして確認できるのだろう。おそらく後者の答えはない。そのなかで、どのように、神のみこころを求めていくかは、簡単ではない。独善とならないように、そして少しずつ理解することができるように導かれることを望む。謙虚にありたい。
Ezekiel 44:20,21 彼らは頭をそってはならない。また髪を伸ばしてはならない。頭をきちんと整髪しなければならない。祭司は皆、内庭に入るとき、ぶどう酒を飲んではならない。
この章には「主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、あなたがたのあらゆる忌むべきことはもうたくさんだ。」(6b)とあり、さらに「心にも肉にも割礼を受けていない外国人、すなわちイスラエルの人々の中にいる外国人は誰一人として、私の聖所に入ってはならない。」(9b)ともある。エゼキエルが祭司として受け止めた言葉なのだろう。引用句のような細かいことまで書かれている。さらに、「彼らは、寡婦や離縁された女を妻に迎えてはならない。イスラエルの家の血統を引く処女をめとらなければならない。しかし祭司の妻で寡婦となった者は、めとってもよい。祭司は私の民に、聖と俗の区別を教え、汚れたものと清いものとの区別を知らせなければならない。」(42,43)とある。離縁も当時から普通だったのだろう。イエスの語られることとは、かなり違うように思う。
Ezekiel 45:9,10 主なる神はこう言われる。イスラエルの指導者たちよ、もう十分だ。暴虐と抑圧をやめよ。公正と正義を行え。私の民から強奪をするな――主なる神の仰せ。あなたがたは、正しい天秤、正しいエファ升、正しいバト升を用いなさい。
このあとに、ささげ物に言及するので、その関連でも、「正しい天秤、正しいエファ升、正しいバト升を用いなさい。」と書いているのだと思われるが、その前には、「もう十分だ。暴虐と抑圧をやめよ。公正と正義を行え。私の民から強奪をするな」とエゼキエルは書いている。怒りが現れているが、いずれも、指導者に限らず、ひとの貪欲に由来することについて言っているのだろう。しかし、自分に合わせて考えてみても、自分の貪欲は、ときどきはっと気付かされるが、なかなか気づかないことも多い。貪欲に抗うのも人間であろうが、貪欲を根拠に、因果応報を解くのでは、共に神様の御心をもとめて生きることはできないように思えてくる。難しい。
Ezekiel 46:1 「主なる神はこう言われる。内庭の東向きの門は、仕事をする六日間は、閉じておかなければならない。しかし安息日にはそれは開かれ、新月の日にも開かれなければならない。
延々と、神殿に関係する礼拝のしきたりについて詳細に書いている。祭司としての実践とまったく同じことが書かれているのかどうかは、わたしには、わからないが、このように、後世に伝えようとしたこともあるのではないかと感じた。捕囚がある程度長くなってくると、このような祭司として行ったことが失われてしまうことにも危機を持ったのかもしれない。自分の努めとして、それを伝えていくこと、わたしのようなものには理解が困難であるが。
Ezekiel 47:13,14 「主なる神はこう言われる。あなたがたがイスラエルの十二部族にこの地を相続地として割り当てる時の境界は次のとおりである。ヨセフには二倍の割り当て。あなたがたは、これを等しく割り当てなければならない。これは私があなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地はあなたがたの相続地となる。
この章には、相続地の割当について書かれている。境界についても書かれているが、ざっとみた感じでは、出エジプト時の割当地、または、ソロモンのころ一番イスラエルの支配地域が広くなった頃の地域のように見える。それを夢に描く。そしてそれを引用して正当化することもあるのだろう。ただ、ひとつ注意を引いたのは、ヨセフには二倍の割当とされていることである。創世記の記述から、エフライムとマナセ2人分としたこと、いくつかの記述から、長子としていることが背景にあるのだろうが、この二部族は、すでに、アッシリアによって滅ぼされたときに、散逸していたはずだとも思う。土地には、ある程度残っていたのだろうか。もう少し実態も知りたい。
Ezekiel 48:1 各部族の名は次のとおりである。北の端はヘトロンの道を経て、レボ・ハマトに至り、ハマトを経て、北の方にダマスコの境界のハツァル・エナンに至る。その東端から海まではダン族のものである。これが一つの割り当て。
北の端から、ずっと東西の帯状の分配になっている。また、祭司、レビ人のための献納地についても丁寧に書かれている。よく調べないとわからないが、ヨルダンの東は含まれていないようである。また、順序なども、変化しているようである。意図もあるのだろう。ただ、これを、神のことばとして、受け入れられるものだったかは、疑問である。


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過去の聖書ノート

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Ezekiel 1:1-3 第三十年の第四の月の五日に、私がケバル川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、カルデア人の地、ケバル川のほとりで、祭司ブジの子エゼキエルに主の言葉が臨み、主の手が彼の上に臨んだ。
「ヨヤキン王が捕囚」は BC597年(捕囚1回目)とすると、第5年はBC593年。まだ、エルサレム(完全降伏は、BC586年)は残っている時ということになる。祭司の子は基本的に祭司なので、捕囚の地で、祭司として、語り始めたということだろうか。エゼキエルは、幻が書かれ、よく理解できない。できるだけ、集中を途切れさせず、読んでいきたい。
Ezekiel 2:1,2 主は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立ちなさい。私はあなたに語ろう。」主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は、語りかける者に耳を傾けた。
「主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。」とある。主の霊(聖霊)によって「耳を傾け(る)」と聴くことができたと証言しているのだろう。精神医学的には、自我と外界または他者を隔たっている壁が薄くなり、透過しやすくなる状態なのかもしれない。これにより、どれが自分かは、わからなくなり、幻影の中にいることになるとも言える。一つの精神疾患の状況とも言えないことはないが、それだけ、精神が敏感になって、他のひとにとっては大したことではないことが、大きな意味を持ってくるということだろうか。ある精神医学者のエゼキエルについてのコメントから連想したものだが、言葉にしてみると、まだ、わたしには、ほとんど理解できていないことがわかった。
Ezekiel 3:17,18 「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。私の口から言葉を聞いて、私からの警告を彼らに伝えよ。私が悪しき者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたが彼に警告せず、悪の道から離れて命を救うように彼に語って警告しなければ、彼は自分の過ちのために死ぬが、私は、彼の血の責任をあなたに問う。
このあとにも、いくつかの場合について書かれている。主からのことばを警告として伝える責任ある者として「見張り」ということばが使われている。異端ともいわれるひとつの宗派が使っていることばである。(神様からの)真理(御心)を得たと確信したときに、それを、他者にも語る責任があるということは、おそらく、普遍性もあるが、困難も伴う。わたしは、受け取ったとする、自分の確信をまずは、疑うが、他者への役割、主のしもべとして生きるものの責任もあるのだろう。「しかし、私があなたと語るとき、私はあなたの口を開く。そこであなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者には聞かせ、拒む者には拒ませよ。彼らが反逆の家だからだ。」(27)ここで語らているのは、特別任務なのだろう。
Ezekiel 4:3 また自ら鉄板を取り、あなたと町との間の鉄の壁とし、顔を町に向けよ。こうして町は包囲される。あなたが包囲するのだ。これはイスラエルの家のしるしである。
エゼキエルはおそらく第一次捕囚のときに、民とともに、ケバル川(Wikipedia によると、バビロニアのニップル市付近の灌漑用運河)のほとりに連れてこられている。(1章1節)ここでは、最終的に、エルサレムが陥落、イスラエル、ユダ王国が滅ぼされることが預言されている。鉄板は意味が不明だが、大英博物館で見た粘土板によると、城壁のある街をせめるときは、大きな櫓を組み、そこから攻撃したようなので、そのようなことをイメージしているのかもしれない。このあと、イスラエルの家の過ちのために、390日、ユダの家の過ちのために、40日、一日は一年と言っているので、捕囚帰還までの年月なのだろうか。サマリア陥落は、BC721年、エルサレム陥落は、BC598/7年とBC586年、キュロスの治世第一年は、BC538年。ぴったりと合うわけではないが、エルサレム陥落から、帰還許可命令までは、だいたい48年、エレミヤが預言した、70年より近いと思った。まあ、そのようなことにとらわれるのは、あまり価値がないと思うが。
Ezekiel 5:5,6 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムである。私はこれを諸国民の中に置き、その周りに国々を置いた。エルサレムは諸国民よりも邪悪で、私の法に逆らい、周囲の国々よりも私の掟に逆らった。彼らは私の定めを拒み、私の掟に従って歩まなかった。」
おそらく、ユダヤでは、諸国民より邪悪だと言われるのは、非常にきつかったろう。いろいろと課題はあっても、近隣の部族、国、異邦人よりはマシだと。それを、はっきりと述べ、さらに「私は、周囲の諸国民の間で、また傍らを通るすべての者の目の前で、あなたを廃虚とし、恥辱とする。」(14)は、耐え得ないことだったのではないだろうか。エゼキエルはそれを告げる任務を負ったということなのだろう。
Ezekiel 6:14 私は彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒れ野からリブラに至るまで、彼らの住むすべての地をことごとく荒廃させる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」
結論は、救われることではなく「主が、主であることを知ること」だとある。それが、栄光を帰すということなのだろうか。神様は、そのような方なのだろうか。違うように、わたしは、思ってしまう。神様も、苦しんでおられるのではないかと。それは、正しくはないのだろうか。結論を急がず、求めていきたい。
Ezekiel 7:27 王は嘆き悲しみ/指導者は望みを失い/その地の民の手は震える。/私は彼らの行いに応じて彼らを扱い/彼らの法に従って彼らを裁く。/こうして/彼らは私が主であることを知るようになる。」
「私が主であることを知る」で検索をすると(訳にも依存するが、現在わたしが読んでいる聖書協会共同訳では)、まずは、出エジプト記7章・14章に合計4回あるが、いずれも、エジプト人が主語である。列王記上20章13節・28節では、主語はアハブ王である。エレミヤ24章7節には「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。」と一箇所記されている。それがエゼキエルには、49回現れる(最初は6章7節、最後は39章6節)、そしてこの章ではもう一箇所4節にある。エゼキエルに特徴的なメッセージである。主語は「あなたがた」「彼ら」で、他の箇所では、異教徒や、神を信じないひとが対象であったが、エゼキエルでは異なっている。今後も、この言葉を丁寧に読んでいきたい。
Ezekiel 8:17,18 その方は私に言われた。「人の子よ、あなたは見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしている忌むべきことは取るに足りないことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらに私を怒らせたからである。彼らは自分の鼻に枝を刺している。私は憤りに駆られて、憐れみの目を向けず、彼らを惜しまない。彼らが大声で叫んでも、私は耳を貸さない。」
この章で、エゼキエルが見たのは、基本的には、偶像礼拝であるが、引用句では「暴虐」という言葉でまとめている。おそらく、偶像礼拝は、偶像を拝むことに留まらず、主の御心、それを表した律法を、まったく関係ない、人間が作り出した掟に取り替え、暴虐を行うことを含んでいるのだろう。偶像礼拝をあまり、単純化して考えないほうがよい。考えること、学ぶことは多い。
Ezekiel 9:3,4 すると、ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光がそこから立ち昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「町のただ中、エルサレムの中を行き巡り、そこで行われているすべての忌むべきことについて嘆き呻く人々の額にしるしを付けよ。」
額に印のないものが殺されていくのだが、なにか虚しさを感じる。まずは、このように、厳密に分けることはできないだろうこと。街も、神殿も消滅するときに、することなのかどうかという疑問である。「腰に書記の筆入れを着けた者」など、なかなかリアルである。自分たちの惨めな状態、そして、その背後にある背き、正しさについてまず考えることとしては自然なのかもしれない。
Ezekiel 10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上、大空の上に、ラピスラズリに似た玉座のようなものの姿が見えた。
この章には、ケルビムについての記述が詳細に書かれている。祭司の子(1章3節)であるエゼキエルは、親や親戚からも、神殿の一対のケルビムについて聞いていたろう。ケルビム自体についての表現は、聖書には少ない。創世記3章24節「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。」出エジプト記11回、民数記7章89節、いずれも、神殿の契約の箱の上のケルビムと幕に織り込んだものの作成などについて、サムエル記4章4節、サムエル記下2回「ケルビムの上に座す万軍の主」(サムエル記下6章2節b)、列王記上13回、神殿を建てるときの記述、列王記下1回、歴代誌上2回、歴代誌下8回は、いずれも神殿を建てるときの記述、詩篇3回、イザヤ書1回「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。」(イザヤ37章16節)エゼキエル24回(9章・10章・11章・28章・41章)
Ezekiel 11:16,17 それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった』と。それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。私はあなたがたをもろもろの民から集め、散らされていた先の国々から呼び集め、イスラエルの地を与える』と。
神殿・聖所を中心に書かれている。祭司になるはずだった、エゼキエルにとっては最大の関心事だったのかもしれない。引用句で、「主が、聖所となる」という表現が出てくるが、霊的な、より普遍的な礼拝を考えるべきときだったのかもしれない。そのあと、回復の預言とともに「私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(19)とあるが、正直、懐疑的である。少なくとも、エルサレム帰還のときに起こったことは、部分的。それでも、良いのかもしれないが。「あなたの信仰が救った」と言ってくださる方だから。
Ezekiel 12:18,19 「人の子よ、震えながらパンを食べ、不安におののきながら水を飲み、この地の民に言いなさい。『主なる神はエルサレムの住民、イスラエルの地にこう言われる。彼らは不安を抱きながらパンを食べ、恐れながら水を飲む。その地が、住民すべての暴虐のゆえに、地に満ちていたものを失い、荒れ果てるからである。
単に、パフォーマンスとして、自ら「震えながらパンを食べ、不安におののきながら水を飲(む)」のではなく、おそらく、心も、体も、エルサレムの住民、イスラエルの地と結びついていたのだろう。情報は、それなりに頻繁に入ってきていたのではないだろうか。(ネヘミヤ1章2節など)このあと「彼の見た幻は多くの日々の後のことであり、彼は遠い将来のことを預言したのだ。」(27b)という人々の声も書かれている。ケバル川のほとりにいても、捕囚の民のこころは、遠い地にあったのだろう。エゼキエルも、他の捕囚の民も、そのこころは、エルサレムにあったのかもしれない。
Ezekiel 13:2 「人の子よ、預言しているイスラエルの預言者たちに向かって預言しなさい。心のままに預言する者たちに『主の言葉を聞け』と言いなさい。
「主の言葉を聞け」はなかなか重いことばだ。「エルサレムに対して預言し、平和がないのに、エルサレムのために平和の幻を見るイスラエルの預言者たちよ――主なる神の仰せ。」(16)ともある。わたしたちは、平和だろうか。世界は平和だろうか。心のままに神の言葉として語ることの愚かさを感じる。聴く・見る内容にも、平和とはなにかにもよるのだろうか。
Ezekiel 14:9,10 もし預言者が惑わされて、言葉を語るなら、主である私がその預言者を惑わしたのである。私は彼に手を伸ばし、わが民イスラエルの中から滅ぼす。彼らは自分の過ちを負う。尋ね求める者の過ちは預言者の過ちと同じである。
すべてを主がご存知であるなら、預言者が誤ったことを語るときの、背後にも、主がおられると考えるのは、自然であるが、状況を理解するのはやはり難しい。ひとに、主は、任せ、手を出さず、自由を与えておられるのではないかと思う。自由がなければ、責任もないように思う。難しい判断だが。
Ezekiel 15:2 「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。
自分自身を異なる視点で見ると、取るに足らないものであることが理解できるとうことだろう。この章にも「私は彼らに顔を向ける。彼らが火から逃れ出ても、火は彼らを焼き尽くす。こうして、私が彼らに顔を向けるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」(7)とある。エゼキエルは、ここに最も大切なこと、神様の御心を見ているのだろう。
Ezekiel 16:14,15 あなたの美しさのために、名声は諸国民の間に広まった。あなたに施した輝きによって、その美しさが完全だったからである――主なる神の仰せ。ところが、あなたは自分の美しさに頼り、自分の名声のゆえに淫らな行いをした。通りかかる誰とでも淫行をし、その人のものとなった。
この章は長く、歴史も詰まっていて、それが象徴的な言葉で語られているので、十分は理解できないが、「私(主)」がすべてを与えたにも関わらず、その美しさに頼って、主から離れたということだろうか。自分自身について知ることは、自分がどこから来たかを見つめることでもあろう。恵みとして受け、それをどのようにお返しするか、考えてみたい。
Ezekiel 17:7 また、もう一羽の大鷲がいた。/大きな翼と豊かな羽毛を持っていた。/このぶどうの木は/根をこの鷲の方に向かって伸ばし/水を得ようとして/植えられた苗床から/枝をこの鷲の方に伸ばした。
この謎解き(11-18)を見ると、もう一羽の大鷲はエジプトのようである。最初に読んだ時、よくわからなかった。ぶどうの木などの栽培に精通していれば理解できるのだろうか。エゼキエルは、バビロンにおり、その勢いや、中東の状況は、エルサレムにいるよりも、情報が得られたのかもしれない。エジプトは、敗れることになる。ここで記述されていることとは、少し違う経緯をとるように思うが、エルサレムの人々にとっては、十分な警告だったのかもしれない。
Ezekiel 18:31,32 あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」
「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。」(21)「正しき者がその正義から離れて不正を行い、悪しき者が行うようなあらゆる忌むべきことを行うなら、彼は生きるであろうか。」(24a)このことは、公正であると書かれている。21節から29節は、同じ文章ではなく、順序も異なるが、ほとんど同じことが繰り返されている。その結びが、引用句である。中心的なメッセージは、エルサレムに向けられているのだろう。しかし「自ら新しい心と新しい霊を造り出せ」と言われても、国家の危機、おそらく、他国の侵略がもたらした経済的にも危機的状況の中で、新しい心、霊は造れるのだろうか。人間の弱さを主はご存知のはずである。苦しく、難しい。
Ezekiel 19:1,2 あなたは、イスラエルの指導者たちのために哀歌を歌い、言いなさい。/あなたの母は、獅子たちの中で/どのような雌獅子だっただろうか。/彼女は若獅子の間に伏し、子獅子たちを育てた。
正直、どのような具体的な歴史的背景があるのか、よくわからなかった。少しは、調べてもみたが、どれも、しっくり来るものではなかった。イスラエルの母(主だろうか)を、雌獅子(に譬えるならそれ)は、たくさんの、若獅子を育てたが、すべて、滅んでしまった。ぶどうの木(に譬えるならそれ)は、豊かに実を結び、多くの枝を茂らせたが「憤りによって」(12)引き抜かれ、地に投げ捨てられた。ということは、読み取れるように思う。「これは哀歌であり、哀歌となった。」(14)の部分だけ受け取ろう。無理な解釈をせずに。
Ezekiel 20:25,26 私もまた、良くない掟と、それによって生きることができない法を彼らに与えた。彼らがすべての初子に火の中をくぐらせたとき、私は彼らの供え物によって彼らを汚した。それは、彼らをおののかせるため、また彼らが私が主であることを知るためである。
驚くことが書かれている。すべてのことの背後に主がおられることをこのように表現しているのかもしれない。この章を読んでいると「第七年の第五の月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老のある人たちが、主に尋ねるためにやって来て、私の前に座った。」(1)ともあり、ある程度、自由が与えられていたことがわかる。ただし、この「イスラエルの長老のある人たち」が(第七年はBC591年と思われ、まだ完全には滅びていない(最後はBC586年)ので)エルサレムから来たのか、それとも、一回目の捕囚で、エゼキエルと同じ地域にいた人かは不明である。この章に「私が主」は五回現れ、エゼキエル全体で62回あるが、それなりに多い。
Ezekiel 21:29,30 それゆえ、主なる神はこう言われる。あなたがたの過ちを思い起こさせ、背きをあらわにし、そのすべての行いにおいて罪を明らかにするために、すなわちあなたがたが思い起こすために、あなたがたは敵の手に捕らえられる。悪に汚れたイスラエルの指導者よ、あなたの日が、終わりの刑罰の時にやって来た。
正直このような預言しかできないことが悲しい。一つは、イスラエルの指導者に批判の先を向けているが、一般のひとはどうなのだろうか。みなが、バビロンの侵攻を受ける。城壁の中に入らないものは、関係ないのか。世界史的には、大きな流れの中にもある。悪をしてあげつらっても、問題の解決には至らない。バビロンの人も含めて、互いに愛し合うようになることはできないにしても、その方向を模索することはできないのだろうか。現在の世界の状況を見ても同じことを思う。隣人との間でまずは、互いに愛し合うことを学びたい。「破城槌(battering ram)」という聞き慣れないことばで立ち止まった。聖書にはエゼキエル書のみ。他に4章2節・26章9節にある。外典のマカバイ二12章5節には「ユダたちは、ヨシュアの時代に破城槌や攻城機(siege engine)なしにエリコを陥落させた方、すなわち世界の偉大なる支配者に呼ばわってから、猛獣のように城壁を攻撃した。」とある。いずれ調べてみたい。大英博物館で見たレリーフを思い出すが、もう少し良く見ておけばよかった。Wikipedia には画像もあった。
Ezekiel 22:29,30 この地の民は虐待を行い、強奪をした。彼私の前で石壁を築き、その破れ目に立ち、この国を滅ぼさないようにする者を、私は彼らの中から探し求めたが、見つけることができなかった。らは苦しむ者や貧しい者を抑圧し、寄留者を不当に虐待した。
一般の人について書かれているようだ。しかし、最後は引用した悲しい文章で終わる。引用句のあとには「そこで私は、憤りを彼らの上に注ぎ、激怒の火によって滅ぼし尽くし、彼らの行いをその頭上に報いる――主なる神の仰せ。」(31)としてこの章を閉じている。正直悲しくなる。主イエスから学びたい。私達のあゆむ道を、エゼキエルとともに考えるために。
Ezekiel 23:46-48 主なる神はこう言われる。彼らに向かって集団を攻め上らせ、彼女たちをおののきと略奪に委ねよ。集団は彼女たちを石で打ち、剣で切り、息子と娘たちを殺害し、家々を火で焼く。こうして私は、この地から恥ずべき行いを絶やす。すべての女たちは、自らを戒めて、あなたがたがしたような恥ずべき行いをすることはない。
オホラとオホリバに、サマリア(北イスラエル王国)と、エルサレム(南ユダ王国)にたとえた箇所である。淫行にふけることを女性をつかって表現しているのだろうが、現代的なジェンダー公平性から考えると、問題が背後にある。エゼキエルは、引用句からも、滅ぼされること、裁きを中心におきつつ「恥ずべき行いの報いはあなたがたの上に降り、あなたがたは自分の偶像による罪を負わなければならない。こうして、あなたがたは私が主なる神であることを知るようになる。」(49)最後は、このように結ぶ。悪の裁き、それをとおして、主の名が崇められることが中心である。読んでいてもつらい。
Ezekiel 24:1,2 第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日に、エルサレムを包囲した。
20章1節には、第七年とあり、それから二年後である。1章冒頭には五年目とあり、この第九年もヨヤキン王が捕囚(1回目)BC597年から数えているのかもしれない。すると、預言を始めた五年目(1:2)はBC593年。エルサレム完全降伏(BC586年)は、十二年目となる。第九年は二度目の陥落のときなのだろうか。この年に、エゼキエルの妻(?)が、おそらく捕囚の地でなくなっている。(16)歴史的な背景ももう少し詳しく確認しておきたい。
Ezekiel 25:5 私はラバをらくだの牧場とし、アンモン人の町を羊の憩い場とする。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。
この章では、アンモン人、モアブ、エドムそして、ペリシテと、近隣の民族への裁きについて書かれ、最後は、つねに、エゼキエルの決り文句「こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」(引用句後半および、11,17 参照)ただ、エドムに関しては「私はわが民イスラエルの手によって、エドムに復讐する。彼らが私に従って私の怒りと憤りをエドムに示すとき、エドムは私の復讐を知る――主なる神の仰せ。」(14)となっており、異なる。しかし、正直、近隣の人々の隣人になることを考えるべきで、自分たちについても、過去のことばかり考えるようでは、いけないと思う。エゼキエルの時代には、そのような視点はなかった、または未発達なのだろうが。そして、おそらく、現代でも、未知、無理解、未発達なものがたくさんあるのだろう。
Ezekiel 26:20,21 私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの民のところに下らせる。また、私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの廃虚のような地の底に住まわせる。あなたが生ける者の地に住むことも場所を占めることもないようにするためである。私はあなたを恐怖に陥れ、あなたはもう存在しなくなる。あなたは捜し求められても、もはやとこしえに見いだされることはない――主なる神の仰せ。」
ティルス、フェニキア人の都市国家についての厳しい言葉である。たしかに、かなりの抵抗のあと、バビロンによって滅ぼされ、歴史から姿を消したようだが、その理解だけで良いのだろうか。海洋民族だから、その人々は、その後も、生き残ったであろう。そして、ここに書かれているようなことは、たんなる仕返しでしかない。どのように、ともに生きることができるかを、考えるべきであると思う。なにか、エゼキエルを読んでいて、悲しくなってしまう。イエスの登場を待つしかないのだろうか。
Ezekiel 27:35,36 島々の住民は皆、あなたのことでおののき/王たちは身震いし、顔をゆがめた。もろもろの民の商人はあなたに対して/嘲笑の口笛を吹く。/あなたは恐怖の的となり/とこしえに消えうせる。」
この章は「人の子よ、あなたはティルスに対して哀歌を歌いなさい。」(2)と始まる。最後は、「嘲笑の口笛」ということばもあるが、全体的には、どれほど凄い都市国家であったかが、書かれているように思う。それは、おののき・身震い・顔をゆがめで、表現されているものにつながる。中東におけるバビロン侵攻は、当時の人達にとっても、驚くべきこと、その象徴が「あのティルス」が滅びるということだったのかもしれない。当時の世界をもう少しよく知りたい。
Ezekiel 28:2 「人の子よ、ティルスの君主に言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたの心は驕り高ぶり、『私は神だ。海のただ中にある神々の住まいに住んでいる』と言った。しかし、あなたは人であって、神ではない。自分の心を神々の心のように思っているだけだ。
このように断言できるのだろうか。ひとは、それぞれに、驕り高ぶり、みずからを神としている。ここでは、バビロンに攻められていることが背景にある。かなり持ちこたえ、歴史から姿を消すことになるようだが、それを、このようなところに、原因を求める神様ではないように思う。その弱さをも、よくご存知なのが主なのではないだろうか。憐れみ深い方なのだから。
Ezekiel 29:19,20 それゆえ、主なる神はこう言われる。私は必ず、バビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの地を与える。彼はその富を運び去り、略奪をほしいままにし、強奪する。それが彼の軍隊の報酬となる。彼の働いた報酬として、私は彼にエジプトの地を与える。なぜなら、彼らは私のために行ったからである――主なる神の仰せ。
この前には「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはその軍隊をティルスの攻撃のために大いに働かせた。皆の頭は禿げ、肩はすりむけた。しかし、彼にもその軍隊にも、その働きに対する報酬は、ティルスからは何もなかった。」(18)とあり、ティルス攻略はネブカドレツァルにとっても、大きな消耗であったことがわかる。エジプトはその報酬だ。背後に主なる神がおられるのだから、という。なにか、素直には受け入れられない。この章は次のことばで結ばれているが。「その日、私はイスラエルの家に一つの角を生やす。また私は、彼らの中であなたに口を開かせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」(21)
Ezekiel 30:26 私がエジプト人を諸国民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは私が主であることを知るようになる。」
すこし疲れてきてしまっているが、当時は、エジプトに行けば、どうにかなるとイスラエルやエルサレムの人たちは思っていたようなので、これは、強烈なのだろう。おそらく、エジプトに住み着いていたユダヤ人もたくさんいたろう。それを頼ることは自然なこと。そのことに対する警告でもあるのかもしれない。しかし、一本調子に見えてしまう。これがエゼキエルが見えていたことだとすると、精神的には、本当に辛かったろうとも思う。
Ezekiel 31:1,2 第十一年の第三の月の一日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に言いなさい。/あなたの偉大さは、誰に比べられようか。
この章も第何々年の記述から始まる。正確にはわからないが、1章の記述から推定すると、捕囚となってからの年月のように思う。すると、第十一年は、おそらく、エルサレムが最終的に陥落、破壊され、ユダ王国が滅亡する年となる。ゼデキヤの治世は十一年「ゼデキヤは二十一歳で王位につき、十一年間エルサレムで統治した。母の名はハムタルと言い、リブナ出身のイルメヤの娘であった。」(列王記下24章18節)とあるので、計算は合う。この第七の月がエルサレムの城壁が破れたときである。この章はエジプトについて書かれているが、その偉大さから書き、最後は「そのようにあなたは、エデンの木のうちで、栄光と偉大さにおいて誰に比べられようか。あなたはエデンの木々と共に地の底に落とされ、無割礼の者たちのただ中で、剣で刺し貫かれた者と共に横たわることになる。これがファラオとそのすべての軍勢である――主なる神の仰せ。」(18)と結ばれている。「エデンの木々と共に」とあるが、エルサレム陥落を意味しているのだろうか。
Ezekiel 32:32 確かに、彼は生ける者の地に恐れを引き起こした。/ファラオとその全軍勢は、無割礼の者たちの間に/剣で刺し貫かれた者たちと共に横たわる/――主なる神の仰せ。」
エジプトに関する記述はとても丁寧である。イスラエルの人にとっての「大国」は常に、エジプトだったろうから、エジプトが破れて、滅ぼされることをどのように受け入れるかは、とても大きな問題だったろう。もうひとつ、「無割礼の者たち」が頻繁に登場する。イスラエル以外にも、周囲に割礼の慣習があったようだが、エジプトも割礼の慣習があったのだろうか。さらに、それが、宗教的な特別な意味をもっていたかなど、不明である。調べておきたい。"Circumcision likely has ancient roots among several ethnic groups in sub-equatorial Africa, Egypt, and Arabia, though the specific form and extent of circumcision has varied." (Wikipedia 訳 by DeepL:割礼は、赤道直下のアフリカ、エジプト、アラビアのいくつかの民族の間で古くから行われてきたようだが、その具体的な形や範囲はさまざまである。)「古代エジプトで紀元前2000年前に作られた王家の墓に手術の様子を書いた浮彫りがあり、術後のミイラもあります。」とネット上の記述がある。
Ezekiel 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に告げなさい。ある地に私が剣をもたらすとき、その地の民は自分たちの中から一人を選び、見張りとする。
この「見張り」については考えさせられる。教育を受けたもの、真理を受け取ったもの、周囲の人々に危険が迫っていると知ったものは、それを伝える責任を負うということである。世の中の人々が情報などについて均等に分配されていないことを考えると、当然なのかもしれない。まさに、相互性が必要である。コミュニケーション以上のものである。しかし、同時に、その責任が、有限であること、そして、それに人々は多くの場合耳を傾けないことも知っておくべきだろう。「人の子よ、あなたの同胞は、城壁のそばや家々の戸口であなたについて語り合い、一人一人、『さあ、行って、主から出る言葉が何かを聞こうではないか』と語っている。彼らは集団であなたのところにやって来る。私の民はあなたの前に座り、その言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。口ではお世辞を言うが、心は自分の利益を追い求めるからだ。」(30,31)これは示唆に富む。この状況を知っていれば、「心で自分の利益を追い求め」、「見張り」の役目をおろそかにするものも多いだろうから。
Ezekiel 34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者に預言せよ。預言して、彼ら、牧者に言いなさい。主なる神はこう言われる。災いあれ、わが身を養うイスラエルの牧者に。牧者は羊の群れを養うべきではないのか。
「牧者」に語りかけている。大きな群れの責任者、管理者、導き手ではなくても、家族であったり、グループのリーダー的存在であったり、ひとは、いろいろな場で、牧者の任務を負うことがあるだろう。一部であっても、その責任を負う。しかし、おそらくそれは、責任を問うことが主眼なのではなく、主と同労することを言っているのだろう。主は「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。」(16)と言われる。「あなたがたは私の群れ、私の牧草地の群れである。あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である――主なる神の仰せ。」(31)この主と、共に働くものでありたい。
Ezekiel 35:8,9 私はその山々を刺し貫かれた者で満たす。あなたの丘、谷、あらゆる涸れ谷で、剣によって刺し貫かれた者が倒れる。私はあなたをとこしえに荒れ果てた地とし/あなたの町には住む者がいなくなる。/その時、あなたがたは/私が主であることを知るようになる。
エゼキエルには「刺し貫かれた者」という表現が多いと思った。全体で、29件、この箇所が最後である。思い出すのは「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」(ルカ2章35節)シメオンがイエスが生まれ感謝を捧げる宮詣のときにヨセフとマリア(ここは「あなた」と単数なので、ルカ書であることを考えるとマリアだけかもしれない)に語った言葉にある。死に至る決定的ダメージを与えるという意味だろうか。エゼキエルのこの章はエドムに向けて語った言葉である。ここでも、エゼキエルの決め台詞「その時、あなたがたは/私が主であることを知るようになる。」で終わっている。「あなた方」が誰なのかも少し気になったが、やはり、エゼキエルはここまでしか言えず、希望は見えないように感じた。
Ezekiel 36:26,27 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。私の霊をあなたがたの内に授け、私の掟に従って歩ませ、私の法を守り行わせる。
イスラエルの回復が書かれている。主が顧み、捕囚から帰還し(8,9)民の数を増やし廃墟の町が建て直され(10)家畜が増え(11)昔よりも栄えるようになる。(11)しかし、内的に変えられることが語られている。希望をもたせる内容ではあるが、正直、これは主の望みであっても、これが主の御心ではないように思う。人に(完全とは言えないまでもある程度の)自由意志が与えられていることが、互いに愛することの鍵なのだから。難しい。
Ezekiel 37:11,12 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの家のすべてである。彼らは、『我々の骨は枯れ、我々の望みはうせ、我々は滅びる』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私の民よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げ、イスラエルの地に導き入れる。
枯れた骨に霊を吹き込み、生き返ることが書かれている箇所である。これまで、滅びることと、「わたし(主)が主であることを知るようになる」を決め台詞のようにして、預言されてきた。それに対する反論と同時に「死んだらおしまい」ではない。神は、枯れた骨にも霊を吹き込んで生きるようのさせてくださる方だと語っているのだろう。このあとに、ユダとイスラエルの統一などが書かれ、回復のメッセージとなっているが、個人的には、素直には、受け入れられない。そこに真の解決はないと思うからだ。
Ezekiel 38:2,3 「人の子よ、メシェクとトバルの頭である指導者、マゴグの地のゴグにあなたの顔を向け、彼に向かって預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。
メシェクとトバルをよく知らないので、まずは聖書の中で調べてみた。まず、ノアの子孫の中に「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。」(創世記10章2節、参照:歴代誌上1章5節)歴代誌の記述にはセムの子としても書かれている。「セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラム、ウツ、フル、ゲテル、メシェク。」(歴代誌上1章17節)また、メシェクについては「ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。」(詩篇120篇5節)ともある。残りは、エゼキエル「ヤワン、トバル、メシェクは取り引きし、人と青銅の器をあなたの商品と交換した。」(27章3節)「そこには、メシェクとトバルとその全軍勢がおり/周りにはその墓がある。/彼らは皆、無割礼の者、剣で殺された者であり/生ける者の地で恐れを引き起こした。」(32章26節)あとは引用しているこの章の二箇所と「人の子よ、あなたはゴグに向かって預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。」(39章1節)以上である。よくはわからない。
Ezekiel 39:11 その日になると、私はイスラエルの中で由緒ある場所を墓地としてゴグに与える。そこは海の東の旅人の谷である。その墓は旅人を遮る。人々はそこにゴグとそのすべての軍勢を葬り、そこをハモン・ゴグの谷と呼ぶようになる。
「メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。」(1b)として、ゴグについて書かれているが、詳細はよくわからない。最後には、イスラエルの回復と「私が彼らをもろもろの民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は多くの国民の前で、彼らを通して自らが聖なる者であることを示す。こうして私は、彼らを諸国民の間に捕囚として送ったが、彼らを自分の土地に集めるとき、彼らは私が主、彼らの神であることを知るようになる。私はもはや彼らの一人をもそこに残さない。私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐ――主なる神の仰せ。」(27-29)とあるが、これは、ノアの洪水のときの繰り返しにならないのか。もう少し進んだ理解をする必要があるように思う。エゼキエルの状況と立場からにある程度縛られることは非難できないが。
Ezekiel 40:46 北を向いている部屋は祭壇の務めを行う祭司のためのものである。彼らはツァドクの子孫であり、レビ人の中で彼らだけが主に近づいて仕えることができる。」
この章は「我々が捕囚となって二十五年目、その年の初めの月の十日、都が破壊されてから十四年目、まさにその日に、主の手が私に臨み、私をそこに連れて行った。」(1)と始まる。神殿が破壊されたのは、ゼデキヤの治世が11年だから、十一年目か十二年目となるのだろう。正確な表現は難しい。いずれにしても、ある程度の年を経、おそらく、エゼキエルが、25歳ぐらいで捕囚になったとすると、50歳ぐらいである。祭司の勤めは三十歳から五十歳(民数記4章3節)とすると、祭司としての働きがかなわないと自覚したときだとも言える。神殿の構造は、個人的には、なかなか興味を持てないが、エゼキエルにとってはとても大切なものであったことは容易に想像がつく。どう向き合えばよいかは難しいが。
Ezekiel 41:6 脇間は、脇間の上に脇間があって三階建てになっており、各階には三十の脇間があった。神殿の壁には脇間のために周囲に突き出た所があり、支えになっていた。神殿の壁自体には、支えがなかった。
脇間について詳細に書かれている。ソロモン神殿にも書かれているのか気になって調べてみた。エゼキエル以外には「脇間」は三回記載されそれらは、「神殿の壁の周りには脇廊を造った。すなわち、外陣と内陣のある神殿の壁の周囲を囲むように脇間を作った。」(列記上6章5節)、「中の階の脇間へ通じる入り口は、神殿の右側にあり、螺旋階段で中の階に、さらに中の階から三階へ上るようになっていた。」(列記上6章8節)、「脇間は、各列に十五本ずつ、計四十五本の柱に支えられ、レバノン杉で天井が覆われていた。」列記上7章3節)おそらく、エゼキエルは父親などから聞いて、情報を持っていたのだろう。そうであっても、ここの記述が何を意味するのか、ソロモン神殿のものとは、何が同じで何が異なるのかは不明である。
Ezekiel 42:13 彼は私に言った。「神域に面した北の部屋と南の部屋はいずれも聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちがここで最も聖なるものを食べる。そこに彼らは最も聖なるものを置く。それは、穀物の供え物、清めのいけにえ、償いのいけにえである。この場所が聖なる所だからである。
エゼキエルが最後の仕事として書き残したのは、捕囚先での祭司の家系のものとして、祭儀が適切に行われるための神殿の設計図と祭儀の執り行い方だったのかもしれない。だれかが書き残さなければ失われる。改善ではないかもしれないが、そして、自分は、祭司の職についてはいないので、正確ではないかもしれないが、そうであっても、できる限りのことをしたように思う。わたしにもそのような事があるかもしれない。
Ezekiel 43:12 これが神殿の律法である。山の頂の周囲の領域は、すべて最も聖なるものである。これが神殿の律法である。」
この前には「もし彼らが行ったすべてのことを恥じるならば、神殿の設計と配置、その出口と入り口、そのすべての設計とすべての掟、そのすべての設計とすべての律法を彼らに知らせ、彼らの目の前で書き記しなさい。彼らがそのすべての設計とすべての掟を守り、それらを行うためである。」(11)とある。神殿建設には、無論、霊的な面がたいせつなのだろうが、ここでは、祭壇の詳細を書く前に、このことが述べられ、さらに引用句では「神殿の律法」ことばが二回用いられている。聖書でここだけである。祭司の家系のエゼキエルがたいせつにしたことなのだろう。
Ezekiel 44:4,5 それから彼は私を北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、主の栄光が主の神殿に満ちていた。私はひれ伏した。主は私に言われた。「人の子よ、主の神殿のすべての掟について、またそのすべての律法について、私があなたに語ることをすべて心に留め、目で見、耳で聞きなさい。あなたは神殿の入り口と聖所の出口すべてに心を留めなさい。
ここで主が登場する。主が住んでくださらなければ、神殿は神殿とならない。とはいえ、やはり人間の考える神、ほんとうにこれでよいのかは不安になる。おそらく、わからないとしても、できる限りのことをすることが、ひとのつとめとしているのだろう。ここにも「主の神殿のすべての掟」「その(主の神殿の)すべての律法」ということばが登場する。畏(おそ)れ畏(かしこ)むことと関係しているのだろう。人間の思いが、かえって、主との関係を絶ってしまっているようで心配にもなるが。
Ezekiel 45:1 「あなたがたがその地を相続地として分配するとき、その地の聖なる部分を献納地として主に献げなければならない。その長さは二万五千アンマで、幅は二万アンマである。この周囲の領域もすべて聖なる地である。
「献納地」はエゼキエル書だけで用いられていることばのようである。しかし、嗣業地を得ないレビびとのための放牧地は街の周囲に与えられていたので(民数記35章2節など)基本的にはその回復が書かれていると言えるが、正確にはわからない。そのあとには、6節から、町の共有地のような概念が書かれ、秤を適正なものを用いること、献納物と祭りについて特に、過ぎ越しの祭りについて書かれている。回復後もとに戻すこととともに、改善が示されているのだろう。
Ezekiel 46:18 指導者は、民の相続地を取り上げて、彼らの所有地で彼らを抑圧してはならない。民の所有地はその息子たちに相続させなければならない。それは、私の民の誰も、その所有地から散らされないためである。」
供え物について書かれてから、指導者の相続地について書かれている。土地所有は困難な課題で、民が捕囚から戻ったとしても、すでにそこに住んでいる人もおり、問題解決は簡単ではない。また、以前の分配が公平だったかも多くの争議が生じるだろう。ここでも、この件については、非常に短く書かれている。おそらく、主たるものは、引用句にある倫理面なのだろう。実際は、現在のパレスチナ問題と同様に、非常に困難だと思われる。
Ezekiel 47:8 彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。
このあとには「しかし、沢と沼は癒やされず、塩を取ることができる。」(11)ともある。流れるものと、そこに留まっているものの違いを示唆しているとも取れる。しかし、塩を取ることができるという表現から、他の役割があると理解することも可能である。おそらく、この章の中心は後半の、土地の分配の部分なのだろうが、エゼキエルもこの幻からいろいろと考えたろう。神殿から流れ出る水、川となり、深くなっていき、海に注ぐ。おそらく、完全な答えは得られなかったろうが、エゼキエル書の最後にある記述として、印象深い。
Ezekiel 48:8 ユダ族との境界に沿って、東端から西端までは、あなたがたが献げる献納地にしなければならない。その幅は二万五千アンマ、その長さは東端から西端まで割り当て地の一つと同じで、その中央に聖所がある。
正確には地名など知らないものが多くよく調べないとわからない。すこし単純化されているようだが、基本的に分配地は、ヨシュアのときと大きくは変わらないのかもしれない。ただ、実際には、ユダ、ベニヤミンと、レビ以外は、ユダ王国に住んでいた、少数を除き、アッシリアによる捕囚により、混血も含め、殆ど失われてしまっているだろうから、このような復古が適切なのかは、不明である。捕囚の民の困難は、そのようなところにも、あるのだろう。宗教としても、大きな転換点であったように思う。

BRC2019

Ez 1:1-3 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
正確には調べないとわからないが、おそらく、ゼデキヤの第5年である。ヨヤキン王とともに捕囚(第一次捕囚)された人々の中に、エゼキエルもいたのだろう。これは、エルサレムはまだ、破壊はされていないときである。どのような生活をしていたのだろうか。エゼキエルは何を望み、なにを考えていたのだろうか。読みとれることはあるだろうか。
Ez 2:9,10 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
エゼキエルが遣わされたのは「イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民」(3)である。このときは、エレミヤがエルサレムで活動していた時期でもある。交流はあったのだろうか。「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」になにか通じるものを感じた。エレミヤ書とは、かなり異なる文章であるが、共通のものも含むのかもしれない。ともに、祭司の家系なのだから。エゼキエルのほうが年長なのだろうか。
Ez 3:20 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに問う。
語る責任の部分である。正しい人にも語ることが求められている。正しい人には、語らなくてもよいように思ってしまう。エゼキエルの場合だけではなく、やはり語るべき事は、正しい人にも語らなければいけないのだろう。それが、共に永遠の命に生きることにつながればと願う。ここには、そこまでは書かれていないが。
Ez 4:4 左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。
イスラエルの家の罪ために390日、ユダの家の罪のために40日とある。かなりの違いがある。イスラエル陥落はBC724年、ユダは一回目がBC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年。合計で、430年。もし、BC724 から考えると、BC294年。BC586年から考えると、BC156年。いずれも、あまり意味がない年のように思われる。なにを言っているのだろうか。あまりそれに固執しない方が良いのかもしれない。それよりも、エゼキエルが受け取ったことをしっかり受け取りたい。
Ez 5:2 その三分の一は包囲の期間が終わったときに都の中で火で燃やし、ほかの三分の一は都の周りで剣で打ち、残り三分の一は風に乗せて散らしなさい。わたしは剣を抜いてその後を追う。
「お前の中で三分の一は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、三分の一は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る三分の一は、わたしがあらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う。」(12)が対応している。多くの貧しい人たちは、残ったようだが。詳細に成就したかどうかではなく、自らの髪と髭で絵空事ではなく、民に知らせることがここの核心なのだろう。エルサレムから遠く離れた地で、これを預言することは、なにを意味しているのだろうか。エゼキエルと、エレミヤはコミュニケーションできたのだろうか。
Ez 6:12,13 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣で倒れる。それを免れ、生き残る者も飢饉で死ぬ。こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす。殺された者たちが、祭壇の周りの偶像の間や、高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。
これで良いのだろうか。ここに、主のみこころがあるのだろうか。実際には、すこしずれているし、主のみこころは、違うところにあるようにも思う。ただ、偶像に仕えた事に関して、とても重く考え、是こそが滅びの原因であると主張していることはよくわかる。
Ez 7:6,7 終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。
最初に「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。」(2)と始まるので、引用箇所の「この地」は、エゼキエルのいるカルデヤの地ではなく、イスラエルの地だろう。「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。」(15a)とエゼキエルで繰り返されるフレーズがここにもあるので、エルサレム陥落を表現しているのだろう。たしかにそれはイスラエルの人々にとって「終わり」である。しかし、エルサレムにいる、エレミヤの方がかえって(回復の)希望を表現していることが印象に残る。エゼキエルにおいては、この章の最後にもある「王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」(27)回復とは異なる。地域の差だろうか。わたしが冷淡で受け取れないことが多いのか。
Ez 8:9,10 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。
忌まわしいことは偶像礼拝である。「主を神ならぬものに取り替えたこと」である。捕囚から帰ったひとたちの中では、この偶像礼拝はほとんどなかったと言われ、その後の歴史でも、そのことが守られる。抽象化すると、偶像礼拝は形式的なものではないのだろうが、少なくとも当時の人たちが自分達の歩んできた道を顧みて最大の問題だとしたのがこのことなのだろう。たしかに、預言者は繰り返しこのことを戒めて預言している。現代でも、キリスト教以外の宗教を偶像礼拝することも多い。主は何を望んでおられるのだろうか。形式的なものではないように思う。そして、正しさでもないように思う。わたしが間違っているのだろうか。
Ez 9:8 彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」
「ひとり残され」という表現が気になった。ほかにも、仲間は居たであろう。エレミヤにしても、バルクにしても。そして他にもいたと思われる。ダニエル書に記されているように。それが見えなくなってしまっていないだろうか。しかし、これは、独善というより、孤独なのだろう。バビロンにおいても、孤独だったのかもしれない。いずれにしても、厳密に調べられたら、主の前に立つことのできるものは居ないことは確かだが。そのときにも、エゼキエルは残されると考えていたのだろうか。
Ez 10:18,19 主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。 ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。
この栄光をみたことがたいせつなのかもしれない。そしてなぞの多い四つの生き物を。この解釈を云々するのではなく、エルサレムが滅びるときに、神の栄光をみたことに意味があるのかもしれない。それは、エゼキエルにとって慰めであり、興奮をもたらし、希望をもたらすものだったかもしれない。主が働いておられることを見て。
Ez 11:16,15 「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』
皮肉な宣告でもあるが、興味深い記述でもある。このあとの記述も興味深い。しかし最後は「しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。 」(21)結局正しさ、自業自得からは離れていない。神の義と恵みを一つのものとして理解するのは、本当に難しい。
Ez 12:16 しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」
「わたしが主であることを知るようになる。」このフレーズがエゼキエルでは多い。この章には16節と20節だけであるが、エゼキエル全体では45回出てくる。他には、出エジプトに4件(7:5, 17, 14:4, 18)エレミヤ書に似た表現が一カ所14章7節に「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」とあるだけである。エゼキエルが一番たいせつにしていた、言葉なのではないだろうか。いつかこのことばを追ってみたい。エゼキエルには、偶像礼拝も出てくるが「わたしが主」であることがわからないことの表現なのかもしれない。
Ez 13:10-12 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。
「自分の心のままに預言する者たち」(1)「何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たち」(2)に対して語られている。どちらが正しいかということに至るが、引用箇所は「反証可能性」的なことを述べているとも言える。将来が見通せない未曾有の事態。あることばが漆喰の上塗りかどうかは、本人にもある程度わかるのかもしれない。主の声に聞き従うことの難しさを軽減するものではないが。
Ez 14:9,10 もし、預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす。 彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。
不思議である。「主なるわたし自身がその預言者を惑わした」とある。「ある時点から」という条件があるのかもしれない。しかし、やはり不可解でもある。それは、このようにして、浄化されることは、ないと思うからである。清い心で主のことばを求めることは、どのように実現するのだろうか。わたしは、イエスの生き方にならって歩む以外には、ヒントを持っていない。
Ez 15:2 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。
イスラエルがぶどうの木にたとえられている。しかし、ここでは「それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。 」(4)と、焦げてしまった木にするということまで述べている。役に立たないもの。それが自分達でよくわかっていなかったということだろうか。エゼキエルのテーマは「わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(7)と表現されている。自分達が主の栄光を表すという傲慢を打ち砕き、主が主であることを知ることに集中させるというのだろうか。
Ez 16:45,46 お前は、自分の夫と息子たちを捨てた母の娘であり、自分の夫と息子たちを捨てた姉妹たちの一人である。お前の母はヘト人、父はアモリ人である。お前の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。
3節にも「あなたは言わねばならない。主なる神は、エルサレムに対してこう言われる。お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト人である。」とあるがこれは、かなりの侮辱だったろう。イスラエルは、そしてエルサレムはこれらの隣人を見下していたから。さらにここでは「お前の姉はサマリア」「お前の妹はソドムとその娘たち」と言っている。耐えがたいことであったろう。それほどに、ひとは、自分の存在自身が高貴なもの、すくなくとも、それほどひどくないものだと信じているのだろう。それは、ここで述べられている姦淫の罪もあるが、現代での、宗教や人種による差別、または社会的に線を引くことによって、分け隔てする背後にあるおぞましさと通じることであろう。クリスチャンと、ノンクリスチャンの間に線をひくことも含めて。恵みとしての救いを受け入れることは、大きな挑戦である。
Ez 17:14,15 それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。しかし、彼は王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとした。果たして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか。
エゼキエルはバビロンにいて、エルサレムの政策について意見を述べている。エホヤキンがとらえられてバビロンに捕囚となり、ゼデキヤが王に任命され、そのゼデキヤがエジプトに助けを求めたことが背景にある。イスラエルとエジプトは長い交流の歴史もあり、ある程度エジプトについて親近感を感じていても、アッシリア、バビロンについては、あまり情報を持っていなかったのかもしれない。世界は変わりつつある。バビロンからのほうが世界を見やすかったのかもしれない。捕囚の民が多くバビロンにいるにもかかわらずそのバビロンを裏切るのには驚かされるが、混乱は十分理解できる。ましてやそれが主から出たこととどのようにしてわかるのだろうか。
Ez 18:30-32 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
エゼキエルはエルサレムの陥落と破壊を前に国について語っている。しかし「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。」(4)と父の罪によって、子が死ぬことはないという、個人の罪、さばきに焦点を移しているようだ。それは、バビロンに移され、国もなく生活する中で行き着いたのだろうか。このあとどのように変化するかわからないが、転換点であるのかもしれない。神殿のある国から移されることで、自由にされているのかもしれない。それは、あまりに新約的解釈だろうか。
Ez 19:12-14 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。今や、その木は/荒れ野に、乾いた水なき地に/移し植えられた。また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。
いろいろな要素が表現されている。一番印象に残ったのは、「この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。」という表現である。ダビデ王朝の終焉。これからは、違った形になることが、はっきりと述べられているように思う。実際、イスラエル王国は、すでに、このような威容は最初からなかったが、単なる王国という形式以上のものが終わったことをエゼキエルは見ているようだ。それを悲しみながら。
Ez 20:39 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。
16節には「それは、彼らがわたしの裁きを退け、わたしの掟に従って歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。」(8章12節、23章37節参照)と「自分たちの偶像」ということばが出てくる。「このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。 」(列王記下14章41節)ともある。エゼキエルはつねに、偶像礼拝を糾弾している。しかし、究極は、この「自分(たち)の偶像」なのかもしれない。これは、イスラエルの長老たちに語っている(1,2)。真摯に受け止めるものは、異教の神々に跪かなかったものも、理解できたかもしれない。ただ、「わたし(主)が主であることを知るようになる」(44)以降のことは、エゼキエルは十分には語っていないように思われる。つまり、いのちに生きること、主を主としていきることについては。
Ez 21:5 そのとき、わたしは言った。「ああ、主なる神よ、彼らはわたしについて、『彼はことわざを語る者にすぎないではないか』と言っています」と。
正確にはわからないが、神からのことばではなく、一般的なことを言っているに過ぎないと非難されていたのかもしれない。もう一箇所気になったのは「イスラエルの地に向かって言いなさい。主はこう言われる。わたしはお前に立ち向かい、わたしの剣の鞘をはらい、お前たちの中の正しい者も悪い者も切り捨てる。」(8)である。こちらは、一般論としては、乱暴である。しかし、このあとを読んでみると「人の子よ、あなたはバビロンの王の剣が来るために、二つの道を用意せよ。」(24)とあり、最終的なエルサレム攻撃のことを語っているように思われる。エゼキエルにしても、主がなされる未曾有のことにとまどいながら語っているのだろう。正確さはむろんたいせつであるが、この背後に驚きや、とまどい、そしてこれは主のみこころではないのかもしれないという不安もあるのかもしれない。それが引用句を記した背景かとも思ったが、すこし穿ち過ぎか。
Ez 22:7,8 父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている。お前はわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。
イスラエルを滅ぼす前に悪をあげる箇所である。このあともずっと続くが、この箇所が目に止まった。最初に父母、そして他国人、さらに、孤児や寡婦がつづく。これらの人々をたいせつにすることが神を恐れることの象徴なのだろう。まさに、それらが、聖なるものに結びついているのかもしれない。30節の「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」の直前にも「国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。 」(29)とある。弱いもの、貧しいもの(霊的な部分を含むのだろう)乏しいもの、寄留の外国人、その生活に目をむけることから始めたい。
Ez 23:11,12 妹オホリバはこれを見たが、彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫行は姉よりもひどかった。 彼女はアッシリアの人々に欲情を抱いた。彼らは知事、長官、戦士、盛装した者、馬に乗る騎兵たちで、皆、好ましい男たちであった。
有名な、オホラ(サマリア)とオホリバ(エルサレム)の記述である。いままでは、あまり疑問に思わなかったが、今回の通読では、ここまでひどかったのだろうかと思う。妹オホリバについても、アッシリアとなっていることは、象徴的にしたのだろうが、この記述には納得がいかないひともいたのではないだろうか。世界の状況からしても、ほんとうに難しいときだったと思う。むろん、誠実に信仰を守り通さなかったことはあるだろうが。ここに原因をもっていく信仰に疑問も感じる。主のみこころが知らされるひとつのステップだったのかもしれないが。
Ez 24:18 朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。
「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」(16,17)と直前にあり、このように行ったのだろう。預言者はこのことをもって主のみこころを示している。それだけ、厳しい仕事だとわきまえていたのだろう。そして、イスラエル、エルサレムの状況の厳しさも。それを、非難することは、できないだろう。主のみこころは見えないが。
Ez 25:14 わたしは、わが民イスラエルによってエドムに復讐する。彼らは、わたしの怒りと憤りのままにエドムに対して行う。そのとき、彼らはわたしの復讐を知るようになる」と主なる神は言われる。
この章はアンモン、モアブ、エドムそしてペリシテについて書かれている。それぞれに起こることは異なる。「アンモン:それゆえ、わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を国々の略奪にゆだね、諸国民の中から断ち、諸国から一掃して滅ぼし尽くす。」(7)「モアブ:わたしは、アンモン人と共にモアブを東の人々に渡して所有させる。アンモン人が諸国民の間で思い起こされることはない。」(10)「エドム:わたしはエドムに向かって手を伸ばし、その中から人と獣を断って荒れ地とする。彼らはテマンからデダンにいたるまで剣で倒れる。 」(13b)「ペリシテ:わたしは手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を断ち、海辺に残っている者を一掃する。」(17)最後は引用したエドム以外は、すべて「わたしが主であることを知るようになる。」(7b,11b,17b)エドムは特別だったのかもしれない。兄弟部族、隣人との関係は難しい。
Ez 26:16 海の支配者たちは、皆その座から降り、礼服を取り去り、美しく織った衣服を脱ぐ。彼らは恐怖を身にまとい、地に座り、絶え間なく震えながらお前を見て驚きあきれる。
ティルスに対する言葉である。ティルスについては、この章では「わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。」(21)と締めくくるが、このあとも、28章まで続く。分量からしても、特別な存在だったのだろう。引用にあるように「海の支配者たち」である。歴史的には、不明なことも多いようだが。ティルスについてていねいに学んでみたい。
Ez 27:35,36 海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き/王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。諸国の民の商人は/口笛を吹いて、お前を嘲る。お前は人々に恐怖を引き起こし/とこしえに消えうせる。」
ティルスについての預言の続きである。この章を読むと、ティルスが貿易の拠点としていかに繁栄していたかがわかる。25節には「タルシシュの船」タルシシュは「ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニム。」(創世記10章4節)と最初に現れ、「海には、(ソロモン)王のタルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった。三年に一度、タルシシュの船団は、金や銀、象牙、ひひや猿を運んで来た。」(列王記上10章22節)「ヨシャファトは金を求めてオフィルに行こうとして、タルシシュの船を数隻造った。しかしながら、船団はエツヨン・ゲベルで難破したため、行くことができなかった。 」(列王記上22章49節)イザヤ書23章にはやはりティルスについてとともに、タルシシュについて書かれ「島々は私を待ち望み/タルシシュの船を先頭に/あなたの子らを彼らの銀と金と共に/遠くから運んで来る。/あなたの神、主の名のために/イスラエルの聖なる方/あなたに栄光を現したその方のために。 」(イザヤ60章9節、参照:同20節)と現れる。イザヤの記述との比較も興味深い。通常の国とは異なり、とくべつな存在だったのだろう。
Ez 28:5,6 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。
ティルスや、海の民については不明なことが多いようなので、乱暴なことは、言えない。しかし、現代の Money Game のことを思い起こさせる。どんなに、ひとが苦しんでいる状況でも、互いに協力して株価をつり上げたり、「取引に知恵を大いに働かせて富を増し加え」ている。アダム・スミスもまだ学んでいないが、わたしには、自由市場経済に、神の見えざる御手がはたらいているとして、とらえることはできない。このような知恵をどう考えたらよいのだろうか。エゼキエルは「わたしは、町の中に疫病を送り/また、通りに血を流れさせる。剣が周囲から迫るとき/殺された者がその中に倒れる。そのとき彼らは/わたしが主であることを知るようになる。イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(23,24)という。これは直接的には、シドンについての預言であるが、すくなくとも、わたしには、わからないとしか言えない。
Ez 29:18 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。
歴史的な事実を具体的には知らないが、海の民が帝国の中で、特別な存在だったことは、確かなようだ。ティルスに費やした労苦を、エジプトをとることで報いるとあるが、歴史は複雑である。予測に目を向けるのは、おそらく適切ではないのだろう。このような預言のなかに「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(21)が伝えたいことなのかもしれない。しかしそれも、なにかあまりにイスラエルに固執するように感じてしまう。
Ez 30:7,8 荒れ果てた国々の中でも、エジプトの荒廃は甚だしく、荒れ廃れた町々の中でも、その町々は甚だしい廃虚となる。わたしがエジプトに火を放って、これを助ける者がすべて滅ぼされるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
エジプトは、バビロンに敗れるが、完全には滅びなかった様である。バビロンも、海の民との戦い、エジプトとの戦いで、疲弊していくようである。ただ、エゼキエルにとっては、そのあとのペルシャ帝国の隆盛や、アレキサンダー大王の帝国までは、わからなかったのかもしれない。そのことは、個人的には、かえって安心する。
Ez 31:2,3 「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。お前の偉大さは誰と比べられよう。見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり/丈は高く、梢は雲間にとどいた。
美しい言葉が続き「わたしが、多くの枝で美しく飾ったので/神の園エデンのすべての木もうらやんだ。」(9)とも書かれている。主語は「わたし」である。最後には「お前は、エデンの木のなかで、栄光と偉大さを誰と比べられたか。しかし、お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である』と主なる神は言われる。」(18)エデンの木々はなにを意味しているのだろうか。エジプトの中の預言も聞いてみたい。レバノンの杉はエジプトでも特別だったのだろうか。いずれにしても、エジプトはイスラエルにとって、つねに特別な存在だったのだろう。そのエジプトへの預言である。
Ez 32:29,30 そこには、エドムがその王たちと/すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが/剣で殺された者と共に置かれ/割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。そこには、北のすべての君主たち/シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが/辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と/共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。
エジプトへの預言の、この箇所には「割礼のない者」が二回出てくる。エジプト人は、割礼を受けていたのだろうか。割礼の習慣のある人たちは、それなりにいたのだろう。その部族についても、調べてみたい。ケニアでも、今は違法とされているが、女性のFGMだけでなく、割礼も存在した。どのくらいの範囲に習慣としてあったのだろうか。それを受けていない民を軽蔑することは、一般的だったのだろうか。
Ez 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。
ここから見張りが吹き鳴らす角笛による警告についての記述が始まる。最初は、引用句のように、国であるが、個人に向かっていく。結局は、個人の問題になることを、エゼキエルは明確にしているのだろう。しかし、同時に、イスラエルに語ることも続く。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(11)エゼキエル特有の「帰れ」メッセージにのせて。しかし、疑問も残る。ほんとうにこれで神との平和は来るのだろうか。
Ez 34:23,24 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。 また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。
このあとにも続く、エゼキエルが見た、回復だろう。そのような回復はいつ来るのだろうか。個人的には、主の計画はすこし違うように思う。それは具体的には語れないが。
Ez 35:10,11 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。
悪を見張っていて、復讐をされる神なのだろうか。ここはセイル、おそらくエドムに対する事であろうが、世界的には、弱小民族はすべて滅ぼされる可能性のある時代である。アッシリアや、バビロンを恐れ、海の民のように他に生きる場所を持たない、遊牧が中心の民の苦しみは、ある程度想像もつく。義は神のたいせつな属性だったのだろう。それが人の義とどう関わるかは別として。正直わたしには、わからない。
Ez 36:25-27 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
これが、エゼキエルが行き着いた答えだろう。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 」(18章30b-32節)と呼応している。ひとは、主体的にはこれに応えることができないのだろう。主が清め、罪による交わりの喪失から回復し、新しい心と新しい霊を主が与え、頑ななこころを取り除く。しかし、それならなぜ最初からそうしなかったのかと問いたくなる。そして、これは、イエスのメッセージと同じなのだろうか。同じと説くひともいるが、わたしには、少なくともイエスのメッセージだとは思えない。難しい。
Ez 37:11,12 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
骨が生き返る預言は、よみがえりを意味しているのかと思っていたが、もしかすると、このときに絶望しているイスラエルの民に希望を持つべきことを教えているのかもしれないと思った。死ですべてが終わるものではない、主にとって不可能なことはない。これを、エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」(3)と告白している。この章の最後には回復の預言が続くが、それも、主に希望をおくことを伝えているのかもしれない。エゼキエルの信仰であり、主からのメッセージの本質なのではないだろうか。それがどのように実現されるかに目を向けてしまうが。
Ez 38:2,3 「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。
マゴグ、ゴグはときどき見るが、よく知らなかったのでまずは聖書の中で調べてみる。まず「マゴグ」は、ノアの洪水以後の民族表にある「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスであった。」(創世記10章2節、参照:歴代誌上1章5節)そして次の章の「わたしは、火をマゴグと海岸地方に安らかに住む者たちに送る。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル39章6節)「ゴグ」は「ヨエルの子孫は、息子がシェマヤ、孫がゴグ、更にシムイ、」(歴代誌上5章2節)そしてこの38章と次の39章に多数。「お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。」(16)参照として「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 」(黙示録20章8節)「メシェクとトバル」も調べてみたが、明確にはわからない。多少の伝説もあるようだが、イスラエルを滅ぼし、主が立ち向かう存在で、象徴的なものなのかもしれない。しかし、創世記などにもあるところを見ると、旧約時代には、ある程度認識されていた特定の土地や民族が関係していたのかもしれない。
Ez 39:1,2 人の子よ、あなたはゴグに向かい預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ。わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前を立ち帰らせ、お前を導いて北の果てから連れ上り、イスラエルの山々に来させる。
このあと「イスラエルの山で倒れる」と書かれている。ゴグなどは、不明であるが、諸国の裁きのために使われたということだろうか。「わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。」(7)とあり、この章の最後には、イスラエルの回復が語られている。「二度と」とあることは、イスラエルの敗北と捕囚に至る経過で主の名が汚されたということが背景にあると思われる。エゼキエルを批判するつもりはないが、記述は近視眼的であるように思われる。文字通り解釈すると、さらに混乱を来す。ひとごとにしか書けないが、それほど大きな事件、まさに未曾有のことが起こっているのだろう。
Ez 40:46 北の方へ向いている部屋は、祭壇の務めを行う祭司のためである。」彼らはツァドクの子らであり、彼らだけが、レビ人の中で、主に近づいて仕えることが許される。
「我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。」(1)ここから最後の部分に入る。神殿についてである。終末を預言しているのだろうが、祭司の家系である、エゼキエルは、ここにツァドクの子らという名称も使っている。回復とさらなる栄光なのだろう。捕囚になって25年、エゼキエルの頭にあること、そして希望は、つねにこのことだったのかもしれない。
Ez 41:6,7 脇間の上には脇間があって、三階建になっていた。各階に三十の脇間があった。神殿の壁には、周囲に突き出た所があって、脇間の支えになっていた。神殿の壁には、支えが差し込まれていないからである。回廊となっている神殿の脇間は上にいくほど広くなっており、神殿は各階ごとに回廊がついている。しかも、階が上がるごとに広くなっている。地階から最上階へは中間の階を経て上っていく。
詳細な神殿の記述がある。おそらく、これは、ソロモンの神殿とも、捕囚期間後建設された第2神殿とも異なる構造なのだろう。引用箇所の記述は構造上は困難であるように思われる。なにかを象徴しているのだろう。しかし、全体的な大きさはとてつもなく大きいといえない。終末のことなのか、近い将来の実現を考えていたかも不明である。おそらく、この神殿の詳細な研究もあるのだろうが、なかなか興味がわかない。祭司の家系のエゼキエルは、非常にたいせつなこととして伝えているのだろうが。
Ez 42:13 彼はわたしに言った。「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である。この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである。
「残りの分はアロンとその子らが食べる。それを酵母を入れないパンにし、しかも聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べねばならない。」(レビ記6章9節)「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる。これは聖域で食べねばならない。これは神聖なものである。」(レビ記7章6節)「それを聖域で食べよ。これは主に燃やしてささげたものの残りで、あなたとあなたの子らに与えられた分である。わたしはそう命じられている。」(レビ記10章13節)「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。燃やして主にささげる物のうちで、これは彼のものである。これは不変の定めである。」(レビ記24章9節)最初の部分の引用箇所のみ上げてみたが、祭司の務めについては「不変の定め」を踏襲していると思われる。「献げ物」を「最も神聖なもの」と記述している。「最も」がつくのはエゼキエルのみである。エゼキエルの思いがこもっているのだろう。すでに神のものだという意識が強かったのかもしれない。現代なら、捧げたひと一人ひとりのいのちとこころが詰まっているからと表現するかもしれない。「最も神聖なもの」はなにだとわたしは考えるだろうか。
Ez 43:7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。
語っているのは誰だか不明である。しかし、わたしの王座としているので、主ご自身と考えるのが自然かもしれない。新共同訳では「人の子」は94回使われすべて「人の子よ」という呼びかけの言葉として現れる。神が語られ、エゼキエルは自分が「人の子」であることを明確にしているのだろう。しかし、イエスがご自分に使われるのとは大分意味合いも、使われ方も異なると実感した。
Ez 44:23,24 彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。争いのあるときは、彼らが裁く者として臨み、わたしの裁きによって裁かねばならない。彼らは、わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない。
エゼキエルは祭司の子である。自らがどう生きるか、終末をそして捕囚の地で、それをこの幻のなかでも語っているのかもしれない。主に与えられたことを忠実になすということだろうか。祭儀に関することは、実行不可能だったろうから、そのあるべき姿を終末の姿として描き、日常的な祭司の務めは、捕囚の地において覚え、可能な限りしていたのだろうか。自らの責務として主との関係を証する辛さも感じるが、もしそうであるとすると、共感できることも多い。
Ez 45:1 「あなたたちが、国を嗣業として割り当てるときは、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない。その土地は、長さ二万五千アンマ、幅二万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものとなる。
12km x 10km ぐらいだろうか。まあまあの大きさである。周囲には、祭司用の放牧地、君主のこと、計量を正確にすべきことや、捧げもの、祭りの規定などが続く。これが再生・復興を意味していたのだろう。もとに戻すことではないようだ。「これは、君主がイスラエルにおいて所有する土地である。わたしが立てた君主たちは、もはやわが民を虐げない。彼らはその他の土地をイスラエルの家とその部族にゆだねる。」(8)とあるが、それは、現実にはかなわない。エゼキエルはどう考えていたのだろうか。神殿の記述と比較して、概要だけが書かれているように感じる。
Ez 46:17 君主が家臣のだれかに嗣業の一部を贈与すれば、それは解放の年まで彼のものとなる。しかしその後、君主に返さねばならない。君主の嗣業を所有できるのは、その子らだけである。
「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25章10節)は、問題のあるケースはあったろうが、慣習として根付いていたのかもしれない。自然に書かれている。祭司がなすべきことがこのあと書かれているが、おそらく、律法に記され、適切であればなされているべきことと考えられたことが書かれているのだろう。わたしは、どのような世界を思い描くだろうか。主が望んでおられること、計画しておられることはどうなのだろうか。今のときを丁寧に生きることがわたしには、中心に思える。回復のときのことは、主に委ねたい。
Ez 47:21-23 あなたたちは、この土地を自分たちイスラエルの各部族に分けねばならない。この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われる。
エゼキエルの見た幻の限界とともに、それが開かれている両方がみえるところのように思う。出エジプトのころとは違う状況を、理解している。外国人、寄留者とどのようにしたらともに生きていくことができるかが語られている。クリスチャンになったひととか、ユダヤ教に改宗したひとという条件もない。ただ、土地という物理的なものについては、イスラエル王国の場所が強く意識されている。そのため、そこに住まない人については、言及できない。批判的にではなく、すこしずつ主とともに歩むことの意味が深化していることから学びたい。
Ez 48:35 都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。
ここでエゼキエル書は終わっている。不自然である。もっと書きたかったことがあったのではないだろうか。エゼキエルが置かれている状況が変わったのだろうか。そのことに、なにも言及されていない。そうでなかったとするならば、主のことばが途切れたのかもしれない。確信をもって書いていたなかで、他のことを示されたのかもしれない。それが書かれていないことが余韻を与える。エゼキエル書、今回は、適切かどうかは不明であるが、しっかり向き合って読めたとは思う。もしかするとはじめてかもしれないが、それも、高慢かもしれない。また、少しずつ読んでいければ嬉しい。

BRC2017

Ezek 1:4,5 わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
「カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。」(3節)とある。この表現も興味をひくが、考えたいのは、エゼキエルはどのように、主のまぼろしに応答していったかである。それは、主からのものかどうかを、どのように判断したかについても興味がある。おそらく、彼の状況も考える必要があるだろう。「第三十年(ヨヤキン王が捕囚となって第五年)の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。」(1節(2節))とある。一回目のエルサレム陥落は、BCE598/7年(二回目はBCE586年)その時にバビロンに連れてこられた祭司の一人だろうか。もう少し学んで読み進めたい。
Ezek 2:5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」(7節)とあり、「聞き入れようと、拒もうと」は3章11節、27節にも現れる。これが、エゼキエルの使命でもあり、神の為されることと言っているのだろう。聞いたものの責任と、神に結果を委ねることの両面が背景にあるということか。
Ezek 3:15 こうしてわたしは、ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに来たが、彼らの住んでいるそのところに座り、ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた。
「ぼう然として」の理由は書かれていない。「ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民」という言い方は、戦後の引き揚げ者住宅や、震災後の被災者住宅を思い出させる。語れと言われて臨んだ預言者は、実際の民の状況を見て、語ることができなかったのではないだろうか。このあと、語ることについて、再献身が求められる記述がある。預言者の務めは、正しさをただ宣言することではないのだろう。むろん、わたしは、この箇所がよく理解できていないかもしれないが。
Ezek 4:6 その期間が終わったら、次に右脇を下にして横たわり、ユダの家の罪を四十日間負わねばならない。各一年を一日として、それをあなたに課す。
この前には「わたしは彼らの罪の年数を、日の数にして、三百九十日と定める。こうして、あなたはイスラエルの家の罪を負わねばならない。」(5節)とある。ユダの方が短いのではなく、あわせて、430日という解釈もあるようだ。いずれにせよ、これが何を意味しているかは、はっきりとはしない。しかし、語るには、まずは、その罪を負うことから始まっていることは語られているのだろう。預言者、そして、祭司としての責任だろうか。
Ezek 5:10 それゆえ、お前の中で親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。
これが神の裁きの結果である。神は、このことを容認されるのかと問いたくもなるが、神の御手の内にあると言うことなのだろう。しかし、翻って考えると、エゼキエルの解釈とも言える。単純に、裁きだと、その一面だけで、解釈してはいけないのかもしれない。むろん、そうすると、複雑になりすぎて理解を超えるだろうが。
Ezek 6:9,10 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。
最終的な目的は「主」と「主が為されたこと」を知ることである。その前段階として「自分を嫌悪する」ことがある。罪の自覚だろうか。神はそのためにだろうか「逃れた者」を残される。神の栄光のためか。しかし、不満も残る。「一人として滅びることなく」と少なくとも願っておらる神はここにいない。
Ezek 7:27 王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」
「そのような状態」「いまはない状態」について言及しているが「王」「君公」「国の民」は象徴的なものなのだろう。「終わりが来る。」(2,3節)のときのことだから。現実に痛みを持っている人には、慰めとなるのだろうか。危うさを感じる。
Ezek 8:6 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る。」
ここから神殿で行われていた悪が暴かれている。「イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざける」は、神殿または神のおられる場所がコントロールセンターだとすると、神の制御を排除したと言っているのだろう。預言者の最初の仕事は、その悪を人々に示すことなのだろう。
Ezek 9:10 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」
さばきは、やはり簡単に見える。和解や、平和構築は、果てしなく難しい。神の痛みは、おそらく、それほど簡単に表現できるものではないのだろう。そして、それをひとの言葉で表現することは、なおさら。
Ezek 10:18 主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。
「主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。」(4節)にも「主の栄光」が現れる。エゼキエルには、全体で9回現れる。1:28, 3:12, 23, 11:23, 43:4, 5, 44:4 である。ケルビムの上は、この10章の二回だけである。しかし、ケルビムの上が、神のコントロールセンターのように思われる。
Ezek 11:21 しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(19,20節)とあるが、結局引用箇所が続く。神の主権のもとで、新しい霊が授けられるが「信賞必罰」ではないが、理解しにくい。新約の福音との区別は、キリストの十字架なのだろうか、構造は変わっていないのか。難しい。「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3章36節)
Ezek 12:11 あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。
エゼキエルの奇怪な行動はすべてしるしとなる。しかし「人の子よ、反逆の家、イスラエルの家は、あなたに向かって、『何をしているのか』と尋ねなかったか。 」(10節)あるところを見ると、無視されているのだろう。それでも語り続けるのが、預言者の仕事なのか。わたしは、すぐ、人間の側に視点を向けるが、何人かが救われるために、ではおそらくなく、神の栄光のためなのだろう。
Ezek 13:20 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。
「自分の心のままに預言する者たちに向かって」(2節)語られていることばである。「お前たちは、ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに、わが民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入るわが民を欺くことによって、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきではない者を生かしている。」(19節)は痛烈である。わたしも、あまり変わらないのかもしれない。謙虚でありたい。
Ezek 14:13,14 「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。
前半部分も、後半の、ノア、ダニエル、呼ぶも、細部はよくわからない。しかし、ある程度、普遍的な価値のもとで、書かれている。ここにノアがあるのは、よいとして、なぜ、ダニエルと、ヨブなのか。明確な答えがあるのだろうか。考えてしまう。時代的にも、不明である。
Ezek 15:8 わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。
本当に、こんなに、単純で良いのだろうか。それなら、機械仕掛けでもよいかもしれない。神は、主権をもって、因果関係、勧善懲悪からも自由なのではないだろうか。慈悲の故に。恵みを施すために。イスラームではそうではないのだろうか。むずかしい。ある部分、この秩序がなくなったら、生きていけないようにも思えるし。
Ezek 16:62,63 わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」と主なる神は言われる。
なにか、単純に見えて仕方がない。これで良いのだろうか。すでに、多くの人が裁かれている。形式的にだけ、神があがめられているように、思われる。それで良いのだろうか。神は、それで本当に良いのだろうか。学び続けよう。エゼキエルが考えていたことを。
Ezek 17:14 それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。
一回目の捕囚のことを言っていると思われる。しかし、その時点で、本当にこう言えるのだろうか。形式に過ぎないように思われる。主の憐れみいつくしみはとこしえになのだろうか。
Ezek 18:2,3 「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。
自分の行いに目を向けよ。そらすなと言っているのだろう。原理は、前からそうなのか。祝福はどうだろうか。
Ezek 19:12 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。
「エジプトの地へ連れて行かれたと。」(4節)「彼は鉤にかけられ、籠に入れられ/バビロンの王のもとに連れて行かれた。彼らは獄に彼を閉じ込め/二度とその声が、イスラエルの山々に/聞こえないようにした。 」(9節)となっている。ここでエジプトがでてくるのは、なぜだろうか。何を言っているのだろうか。バビロンも、よくは分からない。若獅子は具体的に何なのか。単に王ではないように思われる。
Ezek 20:25 わたしもまた、良くない掟と、それによって生きることができない裁きを彼らに与えた。
神とイスラエルの歴史が語られ、その途中で、このように書かれている。口語訳も殆ど同じであるから、大きな解釈の幅があるわけではあるまい。神はそのようなことをされるのだろうか。驚かされる。似た箇所を探してみたい。
Ezek 21:10 そのとき、生ける者は皆、主なるわたしが剣を鞘から抜いたことを知るようになる。剣は二度と鞘には戻らない。
「剣をもとの鞘に納めよ。」(35節)とアンモン人に対する部分では語られている。引用箇所の「剣は二度と鞘には戻らない」も、裁きがどのようなものかを表現する文学的表現なのだろう。いずれにしても、悪に対する裁き、悔い改めに対する赦し、それだけで、主のメッセージは良いのだろうかと思う。
Ezek 22:16 お前は諸国民の前で自分の罪によって汚される。こうして、お前はわたしが主であることを知るようになる。」
主を知ること「そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」(22節)主がなぜこのようにされたかを知る。つまり主の働きを知る。それも、主との関係を豊かにすること、それは、裁きと、救いとは、別に語られることなのかもしれない。
Ezek 23:5 オホラはわたしのもとにいながら、姦淫を行い、その愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱いた。
「それゆえ、わたしは彼女をその愛人の手に、彼女が欲情を抱いたアッシリアの人々の手に渡した。」(9節)ユダについても同様のことが書かれている。一つの解釈だろうが、単純過ぎるように思われる。これが預言者の使命なのか。人間の理解のレベルをあまり超えていない因果関係のように思われてしまう。
Ezek 24:16 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。
この意味は分かりづらいが「朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。」(18節)をみると、これは、預言者の妻のことを言っているようである。この章は「人の子よ、この日付(第九年の十月十日(1節))、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日にエルサレムの攻城を始めた。」(2節)から始まっている。この日、この期間、エゼキエルには、どんなことが起こっていたのだろう。それを語らないで、神の意思が通じるのだろうか。民へのメッセージは、それと独立なのかもしれないが。
Ezek 25:16,17 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を断ち、海辺に残っている者を一掃する。わたしは、彼らを憤りをもって懲らしめ、大いに復讐する。わたしが彼らに仇を報いるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」
この章では、イスラエル、ユダに何らかの悪を行った者に対する預言が書かれている。アンモン(1-7節)、モアブとセイル(8-11節)、エドム(12-14節)そしてペリシテ(15-17節)その記述の最後の分が引用箇所である。クレタのことも書かれており、海洋民族であることは分かる。イスラエル、ユダ中心主義でよいのだろうか。普遍性ととともに公平性は、神の公平性で、人間の考える平等ではないとしても、疑問を持つ。
Ezek 26:21 わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。
前章に引き続き、この章では、ティルスについての預言である。ペリシテのような、定住したグループと、海洋都市国家は、区別されているのか、もともと全く違う民族なのか、良くは分からない。周囲の脅威で、相互に様々な関係があったろうに、世界の理解がこの域を出るのは難しいのか。
Ezek 27:10 ペルシア、リディア、プトの人々は/お前の部隊に入って戦士となり/盾と兜をお前の中に掛け/お前を美しく飾り立てた。
リディアは小アジア(現在のトルコの西半分)プトはリビアと言われているようである。26章からティルスに関する預言が28章の終わりまで続いている。ティルスについては、ゆっくり調べてみたい。海洋都市国家は巨大帝国にも、ある程度対応が可能だったのだろう。
Ezek 28:2-4 「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。
ティルスについて驚かされることが書かれている。本当に、わたしは、何も知らない。おそらく、預言者も、知らないのだろう。人には隠されている中で、神を真摯に求め、神から啓示されたことと信じることを伝えていく。ティルスについては、学んでみたい。
Ezek 29:17,18 第二十七年の一月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。
エジプトへの預言の項で、ティルスの記載がある。この記述から考えると、明確な歴史的事実が背景にあったと思われる。ネブカドレツァルに抵抗する都市国家、興味を持たされる。歴史遺産にもなっているレバノンの遺跡について、詳しく知りたい。Wikipedia によると13年間抵抗したようである。
Ezek 30:3 その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。
エジプトへの預言である。「それは他の王国よりも低く、もはや彼らが他の国々の上に立つことはない。彼らが他の国々を踏みつけることがないように、わたしは彼らを小さくする。」(29章15節)など、前章での預言は、細かいところにまで至り、歴史を踏まえているように思われるが、30章は記述が少し異なり、主の日としての記述となっている。
Ezek 31:16 穴に下る者と共に彼を陰府に下すとき、わたしは彼の倒れる音で諸国民を揺り動かす。そのとき地の深き所で、エデンのすべての木も、レバノンのえり抜きの美しい木も、水に潤うすべての木も、再び慰められる。
「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。」(2節a)とあり、エジプトに関する預言である。しかし、記述の仕方は、ファラオに通じる用語なのだろうかと気になった。すると、これは、エジプトに関する預言であっても、エジプトに対する預言ではないのかもしれない。すなわち、あくまでも、想定読者は、ユダヤ人。エジプトに逃れた人も含まれるかもしれないが。どう理解したのだろうか。これを受け取ったイスラエル、ユダの子孫で、バビロンへの捕囚民、残った人たち、エジプトに逃れた人たちは。おそらく、それ以外のひとたちも多くいたろう。読者には。
Ezek 32:16 これは嘆きの歌。彼らは悲しんでこれを歌う。国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う。彼らはエジプトとそのすべての軍勢のために/悲しんでこの歌をうたう」と/主なる神は言われる。
このときの、エジプトの嘆きの歌を聴きたくなった。エジプトではどのように、備え、どのような嘆きの歌を歌ったのだろう。そして、ネブカドレツァルについても。
Ezek 33:6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。
このあとに「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。」(7節)と続き、預言者の責任を述べていたことが分かる。限定責任であることが分かると同時に、個人の責任を問うことも明確である。そうなのだろうか。神からの召命、使命と考えるとそうなのかもしれない。そして、人が責任感を持って生きることは、望ましいことでもある。しかしこの章の最後に「しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」(33節)とあるが、個人の責任を問うことは難しいように思われる。
Ezek 34:23,24 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。
「羊飼いを裁く」ことは、指導者たちに問題があったことを示すことであろう。しかし、その問題の解決を、このようにして良いのだろうか。これでは、結局、続かなかったことに目を向けるべきではないのか。まさに、ダビデ自身が王だったのだから。
Ezek 35:13 お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた。
イスラエル、ユダに対する批判は、神に対する批判。当時としては、とても、自然な考えなのかもしれない。しかし、普遍性は乏しい。いろいろと考えさせられる。
Ezek 36:25,26 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
儀式を感じさせられる25節と、本質を語る26節、これが、祭司エゼキエルにとっては、密接につながっているのだろう。26節の表現はもう一度すでに書かれている。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(11章19節)つながりを丁寧に学びたい。
Ezek 37:11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
骨に向かって預言する箇所である。後半では、一人の牧者によって(24節)一つの国となり二つに分かれることはない(22節)とあるが、転換点が、この11節であるように思われる。「死んでしまったらおしまいでしょう。」「希望なんてないんだよ」というところに語りかける、エゼキエルで最も愛されている枯れた骨への預言は、まさにそこに希望を与えるメッセージとして語られている。
Ezek 38:23 わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
本当にこれが、最大の目的なのだろうか。たしかに、神の栄光が現れるひとつの表現ではあろう。しかし、このような現れ方が、神の望まれることなのだろうか。正直疑問である。イエス様と共に、旧約聖書を学びたい。弟子たちの様に。
Ezek 39:29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
回復、そして、永久の平和が語られている。それを求めることは自然に思われるが、それが、御心なのだろうか。わたしは、疑い深すぎるだろうか。
Ezek 40:5 見ると、神殿の周囲を囲んでいる外壁があった。その人は六アンマの測り竿を手に持っていた。ここでいう一アンマは、普通のアンマに一トファを加えた長さである。彼がその壁を測ると、その厚さも、高さも一竿であった。
アンマは、わたしの慣れ親しんだ口語では「キュビト」新共同訳聖書巻末の表によると「ひじから中指の先までの長さで、約45cm。(注:「アンマ」と「ゼレト」はエゼキエル書に限り(50:5, 43:13,17参照)それぞれ約52.5cm と 26.25cm。」トファは「指4本の幅で、アンマの1/6、約7.5cm」ちなみにゼレトは「手を広げたときの親指の先から、小指の先までの長さで約22.5cm。1アンマの1/2。(上記注参照)」なお新約においては「ペキス」が用いられ、これが、アンマと等しいとある。旧約の長さの単位として明確に書かれてあるのは「指(ゆび)」指の幅、約1.9cm で、「ゴメド」不明とある。
Ezek 41:19 人間の顔はこちらのなつめやしに向き、獅子の顔はあちらのなつめやしに向いていた。それは神殿の周りにも刻まれていた。
ケルビムに関する記述であるが、おそらく、聖書の他の箇所にはない。「人間の顔」と「獅子の顔」は、1章10節、10章14節にも現れる。エゼキエルの幻にも関係していると思われる。
Ezek 42:20 彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。
聖なるものと、俗なるものを区別する必要を感じるのは、当然なのだろう。しかし、それは、人の感覚なのかもしれない。
Ezek 43:2 見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。
「大水のとろどき」のように、神の栄光の到来を感じる。そして、その表現は、祭司としての存在をかけたように、神の聖なることを、儀式を通して示すことともとれる。どうしても、違和感を感じてしまうが、エゼキエルにとっては、それが日常であり、それが、神との交わりなのだろう。それにしても「大水のとどろき」として感じられる感覚には、驚かされた。
Ezek 44:23 彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。
祭司の務めの記述は、復古調である。まずは、祭司が適切に、神の前に立つことができるようにすることをしなければと、考えていたのだろう。それは、自然かもしれないが、普遍性があるわけではない。この構図はとても、難しい。
Ezek 45:17 そして君主は、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物を、巡礼の祭り、新月の祭り、安息日、およびイスラエルの家に定められたすべての祝日にささげねばならない。君主は、イスラエルの家の贖いのために、贖罪の献げ物、穀物の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげねばならない。」
君主の宗教上の役割について書かれている。君主制をとると言う意味よりも、民のリーダーとして、祭司だけではなく、政治的なリーダーの役割を明記しているのだろう。王に対する、否定的な見解は、無かったのだろうか。「主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(サムエル記上8章7節)
Ezek 46:20 彼はわたしに言った。「ここは、祭司たちが賠償の献げ物と贖罪の献げ物を煮、穀物の献げ物を焼くところである。これらのものを外庭に持ち出して、神聖さを民に移すことがないためである。」
一つ一つの機能を持った部屋を案内する。エゼキエルは、エルサレムでそれらの部屋を知っていたのだろうか。おそらく、知識としては知っていたろう。完璧な形で伝えておきたいという気持ちは強かったかもしれない。祭司の務めについたものは、いなくなっていたであろうから。
Ezek 47:22,23 この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。 外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われる。
この前には、川のことと、十二部族に公平に嗣業をあたえるべきことが書かれている。引用箇所は、外国人への配慮として興味深いが、疑問もある。エゼキエルの時代、北イスラエルは、すでに捕囚(BC722)から、130年程度はたっていたと思われ、どこに捕囚となったかも、不明になっていたのではないだろうか。そう考えると、比喩的な意味を持っているかもしれない。「彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。」の記述は興味深い。おそらく、差別的なことがあったことを、反省しているのだろう。
Ezek 48:23 また残りの部族については、東の端から西の端まで、先ずベニヤミン族のものである。これが一部族。
最初に北の端ということで、ダンからはじまり、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベン、それから、ユダとレビについての記述が長く続く。引用したベニヤミンのあと、シメオン、イサカル、ゼブルン、ガドと続く。すなわち、これら5部族の記述は、非常に簡単である。公平とは何を意味しているのだろうか。

BRC2015

Ez1:28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
5節に四つの生き物が登場しその記述が続いている。そしてこの節で初めて、断定的に「これが主の栄光の姿の有様であった。」としている。これを起点として「語りかける者」を主としているのだろう。預言者の告白。啓示として受け止める前提である。神についての思いが、これこそ「主の栄光」と告白させたのか。それとも、圧倒され、これが「主の栄光」以外であるはずがないとしたのか。エゼキエルの確信の元を知りたい。
Ez2:7,8 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」
この二つが主がエゼキエルに命じたことである。「(おそれず(v6))語ること」「主の言葉を聞くこと」エゼキエルにとって主に従うことは、聞くことと語ることである。目的らしきものが5節にある。「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」
Ez3:7 しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。
イザヤ6:10「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」を思い出す。預言者は常に、このような人たちに語る使命を持つのかもしれない。神の御心に従って生きようとする者も。イエスの宣教を見ても、そうである。しかしこのあとの8節「今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。」は、それに対抗できるようにと言う意味なのか。他の意味なのか、不明である。
Ez4:8 わたしがあなたに縄をかけるので、あなたはその包囲の日が終わるまで、一方の脇から他の脇へと寝返りを打つことができなくなる。
これはしるしなのだろうか。エゼキエルに確信させるための。よくわからない。
Ez5:5,6 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムのことである。わたしはこの都を国々の中に置き、その周りを諸国が取り巻くようにした。 しかし、この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい、周りの諸国より激しくわたしの掟に逆らった。まことに彼らはわたしの裁きを拒み、わたしの掟に従って歩もうとしなかった。」
この預言者のテーマが詰まっているように思う。諸国に包囲させて攻めさせたのは、主の裁きに従うためなのか。さらに特徴的なのは「この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい」と比較もしていることである。比較自体は、むなしいものであろうが、エルサレムそしてイスラエルをへりくだらせるには十分であろう。そんなことはないと、言うだろうが。クリスチャンはどうだろうか。
Ez6:9,10 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。 そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。
二つのことを教えられる。一つ目は「姦淫」が神から離れ去ることに、明確に使われていること、そして、災いの理由をこの「姦淫」としていることである。理由がある災いである。ひとがまずこのように考えるのは自然だろう。そして、そこから学ぶことも。しかし、神の意思の理解、信仰の深化はそこにとどまらない。ヨハネ9章(生まれつきの盲人)やルカ13章1-5節(シロアムの塔の倒壊)である。まさに、神のみこころを見てきたかのごとく伝えたのがイエスだと思わされる。
Ez7:3 今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り/お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。
「終わり」について語られている。そしてそれは「怒り」と「裁き」である。目的とおぼしきものは9節にある。「わたしは慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いに応じてわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは知るようになる/わたしが、お前たちを打つ主であることを。」これは、いつのことなのだろう。これが、神の支配が完全に為される、神の国の到来なのだろうか。イエスの説いた福音との差を感じる。気になるのは、「お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。」である。回復は得られない。当時は、絶望しかなかったのかもしれない。
Ez8:9,10 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」
このあとに続くのは、偶像、異教の神「タンムズ神」礼拝、太陽礼拝である。預言者が神が忌み嫌われることと考えた中心がこれらだったのだろう。イエスはどうだったのだろうか。たしかに、イエスの時代には、このようなものが多くはなかった。信頼がすでに途絶えているということか。
Ez9:9 主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。
8節にある預言者の問い「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」に答えるものである。裁きは、絶望に関連づけられている。マタイ24:12「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」を思い出す。最後まで耐え忍ぶものでありたい、そして、それによって「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)ように。神のいのちのいき続けるものでありたい。
Ez10:22 これらの顔の形は、まさしく、わたしがケバル川の河畔で見た顔であった。それらは同じような有様をしており、おのおのまっすぐに進んで行った。
15節、20節、22節と、これらの生き物が、以前にケバル川でみたものと同じであることが繰り返し語られている。ここでは、ケルビムとし、神の乗り物として記述されている。大きな確信を得たのであろう。主観的とも言えるが、同時に、他者から評価はできないものとも言える。わたしは、明らかにそのような確信に満ちたものを、見ることは避けているが。
 
Ez11:16,17 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。
直前のエルサレムの住民の「この土地は我々の所有地として与えられている。」というエゼキエルたちに対する排斥の言葉をうけて、上の言葉が語られ、さらに大きな幻が与えられる。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(19節)表面的に見るとべつの歴史観があるのかもしれない。神の業を見て取るのは、難しいが、すくなくとも、それを求めて生きたい。
Ez12:2 「人の子よ、あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない。まことに彼らは反逆の家である。
ヨハネ9章41節「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。』」との対比を考える。生まれつき盲人であったひとが見えるようになった記事の締めくくりの言葉である。ヨハネでも、ファリサイ派の人たちは、見る目を持っていながら、神の栄光を見ないのかもしれない。もし、そうであるなら、まさに、反逆の家である。ヨハネ9章39節のイエスの言葉「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」について考えさせられる。
Ez13:2 「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。
偽預言者はここでは「自分の心のままに預言する者」としている。真の預言者かどうかは、むろん、判定は簡単ではない。しかし、自分に問うことはできるだろう。真剣に神の心をもとめて、神のことばに聞こうとしているか。
Ez14:23 お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」と主なる神は言われる。
理由を問いたい気持ちは、だれにでもある。しかし、神に栄光を帰するとは、理由を求めないことなのではないだろうか。
Ez15:2,3 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。 ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。
「それが火に投げ込まれると、」と続く。印象的な文章である。ぶどうの木は、イスラエルの象徴であることはすぐ読み取れるである。実際の木についてわたしは、知らないが、これが16章へと続くエルサレムの背信の記述につながっていく。イスラエルが選ばれたのも、どの木よりも優れているわけではないことがここの背景に明確に表現されているのだろう。それは、すでに、イスラエルも申命記7章7節「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」などから知っていることではあったろうが。
Ez16:6 しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。
繰り返しは、一般的には強調であろう。ヨハネ5章21節「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」とあるように、神の愛故に、命が与えられたのである。愛は結果として、選択的である。しかし、神の愛が万民に注がれていることも事実である。応答したのが、イスラエルであったとは書かれていない。ヨハネ5章24節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」などでは応答が問われている。しかしヨハネ15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」は神の側の選択。教理問答などを調べたくなる衝動にも駆られるが、まずは、じっくりこの問題を考えてみたい。
Ez17:18 彼は誓いを軽んじ、契約を破った。彼は約束をしながら、これらすべての事を行った。彼は逃れることができない。
この誓いは、バビロンの王との約束である。そのような約束であっても、約束を守ることは、神との契約を守ることと、同種のことであることが想定されている。それが神を畏れることなのだろう。
Ez18:20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
親の問題ではない。本人にかかっていることを、明確にしてから、20節以下が続き、最後「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」(32節)力強い言葉である。
Ez19:14 また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。
「悲しみの歌」として「子獅子を育てた母獅子」と「水のほとりに植えられた園のぶどうの木のような母」と二様の比喩が語られて、そのぶどうの木の結末が上のものである。明確に理解できるわけではないが、悲しさが伝わってくることは確か。預言者は、少しずつ、神の痛みとして受け取っていったのだろう。
Ez20:43 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
正直終わりの時になるまでこのようなことが起こることは信じられない。しかしからしだね一粒ほどの信仰は、神の栄光の表れとして、ひとりひとりに芽生えているのかもしれない。私が見えないものを「ない」としてはいけないのかもしえれない。また、エゼキエルの希望を受け取ることもエゼキエルと主を通してつながるためにたいせつなのかもしれない。
Ez21:31,32 主なる神はこう言われる。頭巾をはずし、冠を取れ。これはこのままであるはずがない。高い者は低くされ、低い者は高くされる。 荒廃、荒廃、荒廃をわたしは都にもたらす。かつてこのようなことが起こったことはない。それは権威を身に帯びた者が到来するまでである。わたしは権威を彼に与える。」
口語では「すべてのものはそのまま残らない」となっているが、新共同訳では「これはこのままであるはずがない。」となり、なにか信念が感じられ、それが預言者の義憤のあらわれともとれる。最後は「彼」が登場する。預言者の心のうち、義憤と希望の中に、神の思いが見えるのかもしれない。
Ez22:1,2 主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、あなたはこの流血の都を裁くのか。それならば、この都にそのすべての忌まわしいことを知らせよ。
何か不思議な言葉である。神が人の子に対して問うている。預言者の葛藤があるようにも見える。さらに「人の子」というイエスが好んだ自分の呼称の意味についても考えさせられる。一般的にはダニエル7章13節などがあげられるが、使用頻度は、エゼキエルが圧倒的に多い。(ダニエル3件、エゼキエル94件)自分を人の子以上の者とはしないという決然とした告白なのかもしれない。
Ez23:28 主なる神はこう言われる。わたしはお前が憎む者の手に、既にお前の心が離れてしまった者の手にお前を渡す。
姉オホラ(サマリア・北イスラエル王国)、妹オホリバ(エルサレム・南ユダ王国)になぞらえ、エジプトでの姦淫のはじめ、その後、神のものとなってからの、姦淫が書かれている。異教の神々を持ち込んだことを述べていると思われる。しかし、それをもって、裁きや、国の運命を見る見方を、今も、イエスの福音の時代にも、続けるのか。これも、ひとつの面とすることもできるが、違和感を感じる。キリスト教会における、問題の一つの根でもあると感じるからだろうか。ヨハネ2章23節から25節「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」創世記8章21節「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」を認めた上で、この世において信仰に生きる不完全な営みの中で、互いに愛し合うことによって神の栄光が表される、そこに希望をもつ信仰だろうか。もう少し言語化を考えたい。
Ez24:16-18 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」 朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。
妻の死を、神の痛みの共有として受け入れようとしているのかもしれない。預言者とはそのような者だったのかもしれない。主イエスは、どう語られるだろうか。語らずに、この痛みをも担われるのだろうか。わたしの理解をはるかに超えている。
 
Ez25:14 わたしは、わが民イスラエルによってエドムに復讐する。彼らは、わたしの怒りと憤りのままにエドムに対して行う。そのとき、彼らはわたしの復讐を知るようになる」と主なる神は言われる。
この章には、アンモン、モアブ、エドム、ペリシテへの復讐と裁きについて書かれている。それぞれに表現が異なるところも興味があるが、通読では十分理解することはできない。周囲の国にのみ向けられていることからも、エルサレムを中心とした宗教国家が特別であることをうかがい知ることができる。旧約の時代の神のイスラエルに限定的な特別恩寵とも取ることができる。しかし、最近のわたしの視点からすると、預言者の視野、神様の御心理解の限界とも表現できる。有限な人間が把握しうる有界な世界の認知にもとづく帰納的結論なのだから、それを責めることは不適切でもある。今の時代は地理的視野は明らかに広がっているが、認知の範囲は、ごくわずかに過ぎないこと自体は変わっていないのだから。「復讐」911の時にアメリカで報道機関からすぐ出てきた retaliation という言葉への違和感が強いからかもしれない。神の御心を求め続けたい。
Ez26:7 主なる神はこう言われる。わたしは、王の王であるバビロンの王、ネブカドレツァルを北からティルスに来させる。彼は馬と戦車と騎兵と多くの軍勢を引き連れてくる。
具体的に、ネブカドレツァルの名があげられる。この時代にどれほどの脅威だったかがわかる。ネブカドレツァルに滅ぼされることは当然である世の中である。すると裁きは別の形で記述される。それが、21節にあるような「わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。」永久消滅の預言なのかもしれない。それが現実的に、なにを意味しているにしても。
Ez27:1,2 主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、あなたはティルスのために、嘆きの歌をうたいなさい。
深く読めていないことは、確かだが、ティルスへの預言に関しては、違和感を感じる。Wikipedia には次のようにある「ティルスは、現在小さな漁村であるスールの位置にかつてあった都市である。都市の起こりは紀元前2500年ごろといわれている。ティルスは紀元前1000年頃、ティルス王ヒラムが陸地から1キロメートルほど離れた小島に移した。紀元前332年に半島となった。以後、フェニキア人の造った都市国家でも最大級にまで発展し、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都となった。また、アレクサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でもあった。」ネブカドレツァル以降も存在したこともわかる。紀元前1000年頃は、ダビデ王朝の頃である。首都だったとは知らなかった。海洋民族というイスラエルとは異質の国家の持ち方と、商取引で豊かになるという体制が受け入れられなかったのだろうか。アレクサンダー以後についても、もう少し知りたい。マルコ7章24-30節、マタイ15章21-28節でのティルス、マタイ11章21-22節「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。」(マルコ10章13-14節参照)を記す。
Ez28:24 イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。
この章もティルスについてである。高慢さの中身も書かれていて興味深い。現代にもあてはまるとも思う。しかし、今回は、あまり集中せずに読み流してしまった。エゼキエルに親しみを感じるときが来るのだろうか。むろん、異質として排斥をするものではないが。引用は、エゼキエルがティルス批判のあとに絞り出すように書いている箇所である。これが、エゼキエルの希望だったのだろう。
Ez29:18,19 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはバビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの土地を与える。彼はその富を運び去り、戦利品を分捕り、略奪をほしいままにする。こうして、エジプトは彼の軍隊の報酬となる。
ティルスはすごいと思ってしまう。預言者にとってネブカドレツァルは、エレミヤ51章20節に「お前はわたしの鎚、わたしの武器であった。お前によって、わたしは国々を砕き/お前によって、諸王国を滅ぼした。」とある鎚とみていたのか。傲慢を打ち砕く鎚。単純過ぎるように思えてしまう。
Ez30:25 わたしはバビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる。わたしがバビロンの王の手に剣を与え、彼がそれをエジプトの地に伸ばすとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
単純な繰り返しではないが、前の24節と非常に似ている。私の違和感は、おそらく、キリスト教会でも根強いまたは正統的な教義でもある「神の歴史への介入」について、完全に否定はしないものの、基本的には排除しているわたしの信仰が背景にあるように思われる。信仰者が肉体の弱さをもってこの世での限定的ではあるが責任を担う、それが神を愛することの一部でもあり、かつ神はひとの弱さをもご存じで、神の御心を求め続け、責任を負おうとする信仰者を喜ばれると、私が最近強く思い、そのように行動しようとしているからかもしれない。キリスト教の長い歴史の中ではその考え方は一般的ではないだろう。
Ez31:18 お前は、エデンの木のなかで、栄光と偉大さを誰と比べられたか。しかし、お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である」と主なる神は言われる。
エジプトの王ファラオに対することばである。歴史上でアッシリアなどの脅威にさらされるまでは、北のアラム(首都ダマスコ、今のシリア)と南のエジプトが大きな国で、エジプトも王朝が変わっているがその存在は常に大きかったと思われる。そのエジプトも、新バビロニアに敗れる。そのなかでの預言である。歴史的に時期を特定することは、わたしにはまだできない。ここで目をひくのは「エデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。」という表現である。何を意味しているのだろうか。割礼がエジプトで一般的であったかどうかすらわからない。一生理解するには至らないのだろう。それも、受け止めよう。
Ez32:32 まことに、わたしは生ける者の地に/恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は/割礼のない者の間に/剣で殺された者と共に横たわる」と/主なる神は言われる。
31章の終わりと似た表現がある。しかし、異なってもいる。どのように理解したら良いのだろう。神様の意図はさらにわからない。知らないのも良いのかもしれない。
Ez33:7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
ここに預言者の使命がある。語らずにはいられない。神の意思を生活すべてをかけて求めつづける信仰者が、特別の使命を受けていると確信する。そこで語らないことはできない。それが絶対的に正しいこととして成就するのではないことも知っている。それは、主がどのような方かを知っているからだろう。「正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。」(13節から15節)正しさではないことも覚えなければならない。最後のことば「しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」(33節)にこの預言者の主への信頼と主の慰めに基づいた信仰告白をみる。預言者について、いちどよく考えてみたい。
Ez34:4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。
「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。」(2節)と始まっている。それから考えても、この逆が牧者の重要な、いやむしろ主要なつとめだと、認識されているのだろう。弱いものを強め、病める者をいやし、傷ついたものを包み、追われたものを連れ戻し、失われた者を探し求める。力ずくではなく、やさしく群れを導く、これこそが、よい羊飼いの姿であろう。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(マタイ12章20節、イザヤ42章3節)導き手、主イエスに感謝。今回再確認して、マタイには「正義を勝利に導くまで」とついていることに気づいた。この世でのひとの弱さを十分知っておられる、主イエスのことばに改めて感謝する。
Ez35:10 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。
セイル(エドム)に対する預言である。正直、平安を持って読むことはできない。「お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。」(5節)などを見ても、近隣の似た民族である故に、多くの紛争があったことは、理解できる。エドムに限らず、王をもつようになったのは、イスラエルより早いであろう。国の成り立ちや意思決定が異なっていたことはおそらくその通りなのだろう。その意味でも、イスラエルは特別だったのかもしれない。しかし。セイルに限らず考えると、この10節は興味深い。それは、最後の「しかし、そこに。主がおられた。」の部分である。預言者は、様々な経験のなかで、このように告白せざるを得ないことを経験してきたのかもしれない。わたしもそのような発見をしていきたい。
Ez36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。
おそらくこの36章はエゼキエル書の中で最も好まれる章ではないだろうか。25節から32節の記述に希望を見いだすからであろう。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(26節)22節はその目的と取ることができる。ここでも、神の主権的働きとして書かれている。イスラエルの中のこの信仰については、驚嘆させられる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」も、人間的な思いから、旧約の厳しさを思いながら「神様やっぱりいいかた」などと思ってしまうが、主権的な働きとして捉えないといけないのかもしれない。
Ez37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
命を与えるのは、神の業との認識が、預言者にあること。そしてこのあと、神の業をおこなうことを幻のうちかもしれないが、許されていること。肉体と霊とを「独立」ということばは適切ではないかもしれないが独立に扱っていること。「わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。」(8節)そしてこの幻を、イスラエルの帰還と復興に結びつけていることである。「そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。」(21節)そうであるなら、36節の記述ともあいまって、生まれ変わりが必要なのかもしれない。さらに、これは、神の御心を求め続けた、預言者が見た幻であるゆえに、ある真実を読み取りたいとすることとともに、神の霊感のもとでの、ひとの営みであるということか。
Ez38:2,3 「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、 言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。
マゴグは創世記10章2節に「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスであった。」とある。歴代誌上1章5節にも同様の記述があるが、あとは、エゼキエル(上のほか39章6節)と黙示録20章8節「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。」のみである。毎回なんとなく読んでいて、聖書の地名と思っていたが、何も知らないことに気づいた。どのような認識があったのだろうか。黙示録に含められているということは、ある共通の理解があったのだろう。
Ez39:22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
「主であることを知る」がエゼキエルのテーマであるように思われる。この章にも6節、22節、28節と3回現れるが、全体で49回。検索してみると出エジプトに6回、列王紀上に2回、イザヤ書に1回、エレミヤ書に2回である。数だけで考えるのは不適切であろうが、出エジプトが強く意識されているのかもしれない。「神を主とする」(Lordship-Stewardship)こととは表現されず、「主であることを知る」と表現されていることも、考えさせられる。わたしは、前者を意識するが、絶対的な主の主権をはらわたの奥で知ること、その深さをわたしはまだ理解していないのかもしれない。
Ez40:1,2 我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。 神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。
二十五は考えさせられる。この神殿の幻はわたしの理解を超え、ヨハネ4章21節「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」や使途言行録7章49節「『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。」など、ステパノの言明にある礼拝する場所についての新約的理解からすると、なかなか受け入れがたいが、そういう知識をもて、この期間の捕囚下にある人たちの信仰と希望を馬鹿にすることはできない。「知識は人を高ぶらせる」(第一コリント8章1節)
Ez41:3 内部に入って、次の入り口の脇柱の厚さを測ると二アンマ、その入り口自体の幅は六アンマ、入り口の両側の壁の幅はそれぞれ七アンマであった。
アンマは口語でキュビトすると、44cm 程度、人の肘から先程度の長さとなる。柱も1m近い厚さというのは、かなり大きい。専門家によらないとわからないが、ソロモン神殿より大きいのだろうか。エゼキエルが見た幻はなんだったのだろうか。再建されるべき神殿なのだろうか。
Ez42:13 彼はわたしに言った。「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である。この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである。
祭司の子として生まれ、おそらく祭司のつとめをする前に捕囚となったエゼキエルにとって、祭司の最も神聖な仕事の記述は、特別な意味を持っていたのだろう。こころに刻むべきもの。そこからは心が離れることはなかったのかもしれない。
Ez43:27 これらの日が終わると、八日目以後、祭司たちはあなたたちの焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を祭壇にささげる。そして、わたしはあなたたちを受け入れる」と主なる神は言われる。
献げ物をする。そして礼拝者が受け入れられる。その象徴として献げ物が焼き尽くされて天に昇る。それを神聖な仕事として行うのが、祭司たちなのだろう。エゼキエルが望んだことだったろう。そして、ここでその幻が示されている。特に大切な幻として「わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。」(3節)と記している。まず1章1節から、そして「ケバル川の河畔で見た栄光と同じ主の栄光」(3章23節)「ケバル川のほとりでわたしが見たあの生き物」(10章15節, 20節、22節)
Ez44:15 イスラエルの子らが迷って、わたしから離れたとき、わたしの聖所の務めを守ったレビ人の祭司であるツァドクの子孫は、わたしに近づき仕えることができる。彼らはわたしの前に立って、脂肪と血をささげねばならない、と主なる神は言われる。
「ツァドクの子孫」として記述されているのは、エゼキエルのみである。(上記以外は、43章19節、48章11節のみ)限定されているが、正直危険な気がする。そのように、正しさの血統で保持することはできないと思われるからである。ツァドクは何回か祭司などに現れている。どのツァドクであろうか。
Ez45:16,17 国のすべての民はこれらの献げ物をイスラエルの君主にもたらさねばならない。 そして君主は、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物を、巡礼の祭り、新月の祭り、安息日、およびイスラエルの家に定められたすべての祝日にささげねばならない。君主は、イスラエルの家の贖いのために、贖罪の献げ物、穀物の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげねばならない。」
復古である。エレミヤ預言により70年程度の短い期間での帰還と復興を信じていたからかもしれないが、統治体制についても、王制をそのまま仮定している。そのあとの、歴史を考えると、おそらく、この預言とはことなるだろう。むろん、まったくこれから起こることとすることも可能ではあろうが。ひとが神の御心を真摯に全身全霊をもって求めて神が知らせてくださる部分を限定すべきなのか、それとも、これも一つのひとの努力と考え、神の主権のもとでの働きとはまったく独立と考えるべきなのか。わたしにはわからない。
Ez46:18 君主は民の嗣業を取り上げてはならない。彼らの所有地を奪ってはならない。自分の所有地は自分の子らに相続させねばならない。それは、わが民の一人でも、その所有地から追い立てられることがないためである。」
列王記上21章のナボト(口語はナボテ)とアハブ王のこと(列王記下9章参照)を思い出させる。しかし、土地所有制度自体が、以前と同じで良いのだろうか。これも、45章とともに、気になる。もうそのような詮索は止めた方が良いかもしれない。
Ez47:9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
神殿から流れる多量の水についての記述である。命の水と新共同訳では小見出しがある。1節から12節の間に、いくつか興味深い記述がある。汚れた海としているアラバがきれいになること(8節)、すべての生きものが生き返る(9節)とあるが、ひとは現れないこと。沢と沼はきれいにならないが(11節)塩がとれることを評価しているような記述をしていること、最後は実の記述である(12節)。エデンの園の記述(創世記2章6節、10節)に関連しているのだろうか。
Ez48:1 部族の名は次のとおりである。「北の限界は、ヘトロンの道からレボ・ハマトを経てハツァル・エナンに至る。これがダマスコとの国境である。その北側にハマトがある。その東の端から海までがダン族のものである。これが一部族。
割り当て地についての記述がエゼキエル書の最後の部分である。北の端のダン族からはじめている。詳細を調べることはできないが、記述は部族によりかなり異なる。北からはじめ7部族とレビ族についての記述はある程度あるが、残りの5部族については非常に短い。預言者が回復の幻の中で詳細を書こうとした中で、明確ではなくなったと考えるのは、うがちすぎか。ひとが知りうることはほんの一部分に過ぎない。その中で、神の御心を告げる使命を帯びた預言者の苦しみと痛みは、すこし受け取ることができたかもしれない。

BRC2013

Ez1:4 わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。
ここから幻について記されている。ひとうひとつ解釈すべきなのだろうか。むずかしい。このあとの歴史を見て、逆に、推量することはある程度できるが、それが正しい態度なのだろうか。
Ez2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
自分のことを人の子と呼んでいるのは、エゼキエルがはじめだろうか。しかしこれも、自分を呼んでいるのではないかもしれない。エゼキエルには「人の子」が口語訳で93件現れる。その最初である。祭司の子として生まれ、預言者としてたてられたエゼキエルが自らが何者かを表す信仰告白の言葉だったのだろうか。これをイエスは使われたのか。
Ez3:8,9 見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。 わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」。
イスラエルの人々は「厚顔でまた強情」ゆえの措置である。しかし、額を堅くするとはどのようなことだろうか。顔色を崩さないということだろうか。単に強靭な意思の現れだろうか。
Ez4:16 またわたしに言われた、「人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。彼らはパンを量って、恐れながら食べ、また水を量って驚きながら飲む。
十分この意味を理解することはできないが、自らが頼りとするものが汚れた物となり、恐れをもってそれと向き合うことになるということだろうか。糞で焼いたパン。エゼキエルにとってそれはどのような意味をもち、人々はそれからどのようなメッセージを受け取ったのだろうか。
Ez5:13 こうしてわたしは怒りを漏らし尽し、憤りを彼らの上に漏らして、満足する。こうして、わたしの憤りを彼らの上に漏らし尽した時、彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう。
字義通りとると乱暴である。おそらく、最後の言葉を伝えたかったのだろう。それまではわからない。しかし「熱心に語」られている。
Ez6:12,13 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者はつるぎに倒れる。生き残って身を全うする者はききんによって死ぬ。このようにわたしはわが憤りを彼らの上に漏らし尽す。彼らの殺される者がその偶像の中にあり、その祭壇のまわりにあり、すべての高き丘の上にあり、すべての山の頂にあり、すべての青木の下にあり、すべての茂ったかしの木の下にあり、彼らがこうばしいかおりを、すべての偶像にささげた所にある時、あなたがたはわたしが主であることを知るのである。
5章の髪の毛と髭をそりまき散らす命令から続いている箇所である。本当にこれで神様が「主であることを知る」のだろうか。おそらく、知らしめること、そして、地上での悔い改めだけに結果を求めていないのだろう。さらには「あなたがた」も「人の子」のような広い意味があるのかもしれない。いずれにせよ、エゼキエルは難しい。
Ez7:27 王は悲しみ、つかさは望みを失い、その地の民の手はおののきによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らをあつかい、そのさばきに従って彼らをさばく。そして彼らはわたしが主であることを知るようになる」。
4節、9節と似た言葉が続き、最後にこの27節。最後はつねにこの言葉である。主をしらしめること。イエスの働きとは違うように思うが、これも神の働きなのか。もう少し読み進めたい。
Ez8:5 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。
このあと、ずっと悪が暴かれる。祭司の子であるエゼキエルは、そのことを知っていたのだろうか。それとも、このとき初めて知ったのだろうか。深刻な事態である。しかし、これは幻なのかそれとも、現実なのか。16節の「彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。」をみると現実のこととは思われない。これが真実だったとすると、それをエゼキエルが知らなかったことも不思議である。
Ez9:11 時に、かの亜麻布を着、物を書く墨つぼを腰につけていた人が報告して言った、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」。
町にほとんど望みがないとき、背後で神は働いておられる。おそらくこの11節には4節が背景にあるだろう。「彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。」
Ez10:14 そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。
第1章の四つの生き物が再登場する。再述であることが、4節にも21節にも書かれている。この4つの生き物を具体的に何を意味するかは考えなければいけないことであろうが、確定することには危険があるように思われる。もう少し丁寧に読み進めたい。
Ez11:16 それゆえ、言え、『主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる』と。
この章はエゼキエルに25人の人たちが来て預言を促すところから始まっている。19節に「そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」にありそれに注目していたが、16節がより普遍的であるように思う。聖所は特定の場所ではない。
Ez12:2 「人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である。
イザヤ6:9,10「主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」」とはどのように違うのだろうか。神の計画なのか、それとも、人の反逆なのか。もう少し丁寧に考えたい。
Ez13:4 イスラエルよ、あなたの預言者たちは、荒れ跡にいるきつねのようだ。
この章では「自分の心のままに預言する人々」(v2), 「自分の霊に従う愚かな預言者たち」(v3), 「心のままに預言するあなたの民の娘たち」(v17) への預言が語られている。4節ではそれを「荒れ跡にいるきつね」と表現している。具体的な意味はわからないが、人を生かすものとは正反対の存在を言っているのか。そしてエゼキエルではこの人たちも「わたしが主であることを知るようになる。」(vs 14, 21, 23)
Ez14:14 たといそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみであると、主なる神は言われる。
この章にはこのことばがたくさん出てくる。15, 18, 20, この3人が当時の義人の代表格だったのか。アブラハムの子ということが信仰に生きることを表さないように、3人のとりなしも、その人を義としないということか。
Ez15:2 「人の子よ、ぶどうの木、森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。
このあと5節には「見よ、これは完全な時でも、なんの用をもなさない。まして火がこれを焼き、これをこがした時には、なんの役に立つだろうか。」とある。役に立つかという観点はちょっと気になるが、エルサレムそしてその中のひとがこのように例えられている。7節「わたしはわたしの顔を彼らに向けて攻める。彼らがその火からのがれても、火は彼らを焼き尽す。わたしが顔を彼らに向けて攻める時、あなたがたはわたしが主であることを知る。」本当に厳しいとしか言えない。
Ez16:63 こうしてすべてあなたの行ったことにつき、わたしがあなたをゆるす時、あなたはそれを思い出して恥じ、その恥のゆえに重ねて口を開くことがないと、主なる神は言われる」。
ここに息つく間では本当に長い。そしてその希望を持ちつづけることができるのだろうか。
Ez17:7,8 ここにまた大きな翼と、羽毛の多いほかの一羽の大わしがあった。見よ、このぶどうの木は、潤いを得るために、その根をわしに向かってまげ、その枝をわしに向かって伸ばした。 これが枝を出し、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、わしはこれを植えた苗床から水の多い良い地に移し植えた。
3-6節の対比として書かれている。わかりやすいとは言えないが、若枝や、種の時ではなく、その苗木自体を移植するのでは、育たないと言っているようである。そしてそれは、バビロンやエジプトに捕らえ移されたイスラエルの人々を象徴しているようである。しかし、わかりやすいとは言えない。エレミヤの預言等を考えてしまい、エジプトとバビロンの違いを際立たせるからか。ここでは、その違いは明確には捕らえられない。
Ez18:31,32 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。
この背景にある論理の核心は26-28節「義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。 彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。」この論理は18章の最初から展開される。5-9節、10-13節の記述は、部分否定などが明確でない為に十分論理的とは言えないが、全体としては、最後につながっていると思われる。「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」おそらく、エゼキエルの二つ目の核であろう。
Ez19:1,2 あなたはイスラエルの君たちのために悲しみの歌をのべて言え、あなたの母はししのうちにあって、どんな雌じしであったろう。彼女は若いししのうちに伏して子じしを養った。
この章には、獅子とぶどうの木のたとえがあるが、正直よくわからない。物理的なこととして考えず、霊的なものとして捕らえるべきなのだろうか。
Ez20:47 すなわちネゲブの森に言え、主の言葉を聞け、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたのうちに火を燃やす。その火はあなたのうちのすべての青木と、すべての枯れ木を焼き滅ぼし、その燃える炎は消されることがなく、南から北まで、すべての地のおもては、これがために焼ける。
何らかの特別の事実の預言なのか、不明である。エゼキエルの時代について、もう少し勉強しないといけないのだろう。
Ez21:3 イスラエルの地に言え。主はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、わたしのつるぎをさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪しき者をも断ってしまう。
この章をみても、なにかメッセージが伝わってこない。主の思いが伝わってこない。これが現実、これほどまでに、どうしようもない状態だと言うことだろうか。
Ez22:29 国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。
いまはこのようなことにかくもなれきってしまうほどに、堕落した状態なのかもしれない。神は、ローマ1:28 にあるように「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。」のだろうか。この種類のさばきの恐ろしさを感じる。
Ez23:49 あなたがたの淫乱の報いは、あなたがたの上にくだり、あなたがたはその偶像礼拝の罪を負い、そしてわたしが主なる神であることを知るようになる」。
アホラとアホリバ姉妹の淫行にたとえた、イスラエル、ユダの偶像礼拝に対する批判の章である。民の指導者やひとびとはこの批判をどの程度受け入れられたのだろう。43節に「人々」が出てくるが、実態はよくわからない。この節にも現れる「わたしが主なる神であることを知るようになる」は悔い改めではなく、裁きが世に行われるだけで終わりなのだろうか。
Ez24:1,2 第九年の十月十日に、主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、あなたはこの日すなわち今日の名を書きしるせ。バビロンの王は、この日エルサレムを包囲した。
1章は第30年から始まっている。これはもとに戻っているのだろうか。エルサレムの包囲、陥落そして捕囚。この時代に希望よりも、神のさばきの理由を考えることが自然だったのか。エゼキエルの言葉のぬくもりのなさがとても辛い。
Ez25:3 アンモンの人々に言え。主なる神の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、あなたはわが聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味であると言った。
モアブとアンモン、そして、エドム、近隣のかつ聖書の記述によれば、兄弟関係にある民族との関係が難しい。預言者の限界とも感じさせられる。イエスの出現を待たないといけないのか。
Ez26:2 「人の子よ、ツロはエルサレムについて言った、『ああ、それはよい気味である。もろもろの民の門は破れて、わたしに開かれた。わたしは豊かになり、彼は破れはてた』と。
次はツロである。ツロ、シドン、少し前であれば、ペリシテという、フェニキア人、さらには、アラム。これらが兄弟関係にはない、近隣の異邦人、異教徒である。この人たちとの平和は、神のビジョンの中には含まれないのだろうか。まだ時を待たないと行けないのかもしれない。
Ez27:3 海の入口に住んで、多くの海沿いの国々の民の商人であるツロに対して言え、主なる神はこう言われる、ツロよ、あなたは言った、『わたしの美は完全である』と。
ツロも高慢の故にさばかれるのだろうが、やはり世界観が狭い気がする。同時に、ツロの繁栄について調べてみたくなった。『わたしの美は完全である』と言えるような人たちは、どのような人たちだったのだろう。フェニキア人全体を意味しているのか、それともツロという海洋民族の都市文明だろうか。
Ez28:1 「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
バビロン(新バビロニア帝国)が世界を征服しているときに、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と言えるツロはどのような町だったのだろう。逃げる場所がいくらでもあったということだろうか。全体が、24節「イスラエルの家には、もはや刺すいばらはなく、これを卑しめたその周囲の人々のうちには、苦しめるとげもなくなる。こうして彼らはわたしが主であることを知るようになる。」に向かっている構成は神様の理解が狭いように感じてしまう。エゼキエルをわたしはまだ全く理解していないということか。
Ez29:15 これはもろもろの国よりも卑しくなり、再びもろもろの国民の上に出ることができない。わたしは彼らを小さくするゆえ、再びもろもろの国民を治めることはない。
エジプトへの預言である。いまの状況はまさにこの預言通りになっている。しかし、そのメッセージをどのように受け取ったらよいのかは、わからない。いずれにせよ、国家単位のさばきや盛衰に中心があることには違和感がある。
Ez30:3 その日は近い、主の日は近い。これは雲の日、異邦人の滅びの時である。
このあと、エジプト、「エチオピヤ、プテ、ルデ、アラビヤ、リビヤおよび同盟国の人々は、彼らと共につるぎに倒れる。」とつづき、それが、バビロンによるものであることがわかる。そして、26節「わたしがエジプトびとを、もろもろの国民の中に散らし、国々に散らす時、彼らはわたしが主であることを知る」でこの章は締めくくられる。神理解について違和感を感じる。わたしがまだ読み込めていないという理由も大きいだろうが。
Ez31:16 わたしがこれを穴に下る者と共に陰府に落す時、もろもろの国民をその落ちる響きのために、打ち震えさせる。そしてエデンのすべての木、レバノンのすぐれて美しいもの、すべて水に潤うものは、下の国で慰められる。
エジプトにさばきについて語られている箇所である。レバノンについてどうして書かれているかは不明である。3節「見よ、わたしはあなたを/レバノンの香柏のようにする。麗しき枝と森の陰があり、たけが高く、その頂は雲の中にある。」との関係だろうか。ここにエデンが出てくる。創世記と、ヨエル2:3 以外は、Ez28:13, 31:9, 16, 18, 36:35 にあるのみでる。他は、地名または人名。
Ez32:2 「人の子よ、エジプトの王パロのために、悲しみの歌をのべて、これに言え、あなたは自分をもろもろの国民のうちの/ししであると考えているが、あなたは海の中の龍のような者である。あなたは川の中に、はね起き、足で水をかきまぜ、川を濁す。
なぜ「しし」ではなく「龍のような者」なのかわからないが、このあとの表現からあまりかっこのよい者ではないのかもしれない。いずれにしても、エジプトは特別、割礼のない者の王者なのかもしれない。「割礼を受けない」で検索すると、Gen17:14, 34:14,17, Is52:1 以外はすべてエゼキエル、28:10, 31:18, 44:7, 9 以外は、すべてこの章、19, 21, 24, 25, 26, 28, 29, 32。エゼキエルが祭司の血筋故だろうか。
Ez33:12 人の子よ、あなたの民の人々に言え、義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない。
主は心をみるということの表現か。行為の順序を言っているととるのが最悪だろう。つまり最後に良いことをすれば救われると。しかし、エゼキエルではまだ未成熟であるように思われる。イエスから学びたい。
Ez34:23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
ここでは「主のしもべ」としてイスラエルを導くのは「ダビデ」である。Mt22:42「「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。」イエスによって明確にされることとしてよいのか。
Ez35:10 あなたは言う、『これら二つの国民、二つの国はわたしのもの、われわれはこれを獲よう』と。しかし主はそこにおられる。
セイルすなわちエドムについての預言である。なにか浅い気がする。主はたしかにそこにおられる。それゆえ神を畏れなければならない。しかし33章からの変化もある。それは「わたしが主であることを悟る」という書き方が現れた点である。33:29, 34:27, 35:4, 9, 15, 36:11, 23, 38, 37:6, 13, 38:23。ここまでは、ずっと「知る」だったが。「わたしが主であることを知る」は、6:6, 10, 13, 14, 7:4, 27, 11:10, 12, 12:15, 16, 20, 13:14, 21, 23, 14:8, 15:7, 16:62, 20:38, 42, 44, 22:16, 24:27, 25:5, 7, 11, 17, 28:6, 22, 23, 24, 29;6, 9, 21, 30:8, 19, 25, 26, で 32:15 が最後である。
Ez36:26,27 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
「知る」から「悟る」に変化したその鍵を担うのが、この「新しい心」「新しい霊」なのだろうか。たしかにこれなしには、新しいことは始まらないだろう。
Ez37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
復活は肉体をもったものであることの証言箇所である。しかし、本論は、まったく希望のない中で、想像できないような回復がなされることを表現しているのだろう。そしてここでも「悟る」となっている。旧約聖書における復活の記事については、もう少し丁寧に調べてみたい。
Ez38:19 わたしは、わがねたみと、燃えたつ怒りとをもって言う。その日には必ずイスラエルの地に、大いなる震動があり、
ゴグ、マゴグについては、不明。ここでは、神のねたみが強調されている。「ねたみ」はキンアー。ardour 熱意、熱烈さ、ねたみ。論理さを越えているものか。
Ez39:28 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを悟る。これはわたしが彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めたからである。わたしはそのひとりをも、国々のうちに残すことをしない。
シオニズムを支える一つの思想である。キリスト教会はこれを指示してきたが、それで良いのだろうか。イエスは、このような形を教えておられるだろうか。かえって、逆である。エゼキエルや、イスラエルの預言者たちの限界とみたい。同時に、エゼキエルのメッセージの中心は、この帰還・回復ではなく繰り返し繰り返し語られる、メッセージであることも覚えたい。21, 22「わたしはわが栄光を諸国民に示す。すべての国民はわたしが行ったさばきと、わたしが彼らの上に加えた手とを見る。 この日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを悟るようになる。」
Ez40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
回復の象徴が宮だろうか。確かにこのあと、宮は回復される。しかし、そこに希望を託したこと自体に、批判的になってしまうが、同時に、このようなビジョンと希望こそが、当時、もっとも求められていたことなのかもしれない。たとえ、それが本質的でなくても、絶望の中で希望を持つために。
Ez41:1 彼がわたしを拝殿に連れて行って、脇柱を測ると、こなたの幅も六キュビト、かなたの幅も六キュビトあった。
3メートル近い。5節を見ると壁の厚さが6キュビットとあるから、柱の太さ出る可能性もある。それとも間隔なのだろうか。英語 (NIV) は the width of the jambs。これも Native に聞いてみないと明らかではないが、間隔ととるのが、普通か。
Ez42:1 彼はわたしを北の方の内庭に連れ出し、庭に向かった北の方の建物に対する室に導いた。
この建物は、100キュビト×50キュビトかなり大きい。45m×22.5m。おそらく、ソロモン神殿よりも全体が大きいのではないだろうか。それぐらいは、いつか調べたい。
Ez43:10 人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。彼らはその悪を恥じるであろう。
なにか単純すぎるように思う。エゼキエルも現実を知っていたはず。これだけでは、変わらないのではないか。どう考えたら良いのだろう。これもひとつの預言なのか。
Ez44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
宮の設計図の次は、聖と俗の区別である。祭司としてイスラエルをただすことを考えると、当然なのかもしれないが、限界も感じる。
Ez45:1,2 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
1キュビトは40:5には「そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。」とあり定かではないが、長い基準をとると、約50cm。地所は 12.5km × 10km となる。聖所は 25m × 25m。少し驚くのは、どうもエルサレムとは想定されていないこと。
Ez46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
礼拝を中心とした宗教国家。イスラムではいまもこれを求めているのだろうか。キリスト者はこれとどう向き合えば良いのだろうか。やはりエゼキエルはよくわからない。
Ez47:21 あなたがたはこのように、イスラエルの部族に従って、この地をあなたがたの間に分割せよ。
正確にはよく調べないとわからないが、ダビデの時代に拡大した最大の領土が示されているように見える。イエスはそれを解いただろうか。キリスト教会は、このことにも真摯に向き合わなければいけないだろう。すなわち、旧約聖書の解釈に対して。
Ez48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
エゼキエルはこの言葉で終わっている。主による回復の設計図は、十分には書けなかったのではないかと思われる。そう考えると、民に伝えようとしたメッセージを読み取り、それ以外は、祈って次を待つ態度が必要なのかもしれない。これをそのまま神の言葉と受け取って、その通りになると理解することも、イエスの言われたこととの不整合を無理に埋めることも、エゼキエルの限界として切り捨てることも、不適切なのかもしれない。わからないことは、わからないこととして、丁寧に理解していきたい。


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ダニエル書

ダニエル書(1)

ダニエルについては、いくつかの物語を知っている人も多いのではないでしょうか。少しダニエル書について書いてみます。

日本語訳旧約聖書では、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書と大預言書が続き、ダニエル書をはさんで、十二小預言書と呼ばれるホセア書からマラキ書が並んでいます。ヘブル語訳聖書では、詩編、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記、ダニエル書、エズラ・ネヘミヤ記、歴代誌からなる「諸書(ケスビーム)」に属しています。また、七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳では、前の預言者(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)と後の預言者(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書)の間に置かれています。

読めばすぐ分かることですが、前半の6章はダニエルとその友人たちの物語、後の6章は預言となっています。

「聖書は何語で書かれていますか。」と聞かれると、ちょっと知っている人はすぐ「旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。」と答えられると思います。しかし、ちょっと勉強すると、実は、旧約聖書の中でダニエル書 2章4節後半~7章の終わりまではアラム語で書かれていると教えられます。しかし、どうして、この部分だけアラム語で書かれているかについての適切な説明は無いようです。

まずは、ダニエル書の最初1章1節から6節を見てみましょう。新共同訳です。

1:ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。
2:主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。
3:さて、ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、
4:体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。
5:王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。
6:この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。
1節のヨヤキムは(口語訳・新改訳では、エホヤキム)列王記下 23章26節、歴代志下36章5節に出てくる、南ユダ王国の王で、この王の治世に、エルサレムはネブカドネツァル(口語訳・新改訳では、ネブカデネザル)王に包囲され敗れ、一回目の捕囚となったのでした(BC597)。この時の少年たちのなかにいたのが「ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人」です。

ダニエルを聖書で調べると、ダニエル書以外にも登場します。歴代誌上3章1節にまずダビデの息子にダニエルが出てきますが、年代的にもまったく異なるので別人。エズラ記 8章2節、ネヘミヤ記 10章7節にも捕囚から帰還した祭司の中にダニエルがいます。わたしは、これを読んで、ダニエルは最後は、エルサレムに戻ることができたのだと思っていましたが、祭司は、レビ族ですし、ダニエル書を読んでも、どこにもダニエルが祭司であったことは書いてありませんし、上の6節にユダ族とはっきり書いてありますから、これも違います。次は、エゼキエルに三回出てきます。14章14節、20節と、28章3節 です。エゼキエル1章1, 2節を見ると、この一回目の捕囚の時25歳ぐらいとなりますから、ダニエルより年長ということになります。そう考えると、エゼキエル書にノア、ヨブと一緒に書かれていたり、特別の知者として登場するのはダニエル書のダニエルではないのでしょうか。気になります。

最後は、マタイによる福音書24章15節で、内容から言っても、ダニエル書のダニエルのようです。

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
ダニエル書1章21節には「ダニエルはキュロス王の元年まで仕えた。」とあり、ダニエル書10章1節には
ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。
とあります。これは、BC536年ですから、この期間、バビロンにいたということになります。 確定しないことばかり書いてしまいました。実は、ダニエル書については、よく分からないことが多いようです。ただ、読んでみるとなかなか興味をそそられる書です。物語も預言も圧倒的な存在観があります。疑問なども含めて、感想を分かち合えればと思います。

梗概 いのちのことば社「新聖書注解」山口昇

第一部 歴史的部分 1-6章

  1. ダニエルと三人の友人の教育 1:1-23
  2. 巨大な像の夢 2:1-40
  3. 金の像を拝むことを拒否する 3:1-30
  4. ネブカデネザルの病気 4:1-37
  5. ペルシャの祝宴 5:1-31
  6. ダリヨスの勅令 6:1-31
第二部 預言的部分 7-12章
  1. 四つの獣の幻 7:1-28
  2. 雄羊と雄やぎの幻 8:1-27
  3. 七十週の預言 9:1-27
  4. 神の幻 10:1-11:1
  5. 地上での戦い 11:2-45
  6. 終末に関する預言 12:1-13


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聖書通読ノート

BRC2023

Daniel 1:1-3 ユダの王ヨヤキムの治世第三年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに進軍し、これを包囲した。主がユダの王ヨヤキムと神殿の祭具の一部を彼の手に渡したので、彼はそれらをシンアルの地にある自分の神殿に運び、祭具は自分の神の宝物庫に納めた。王は侍従長アシュペナズに命じ、イスラエル人で、王の血筋か貴族である者数人を連れて来させた。
ダニエル書の冒頭部分である。この章の最後には、「ダニエルはキュロス王の治世第一年まで仕えた。」(21)とある。正確かどうか、ダニエル書については、いろいろと説があるようだが、いずれにしても、最初の捕囚のときのひとのなかの優秀な人だったのだろう。優秀なひとは、このときに、捕囚となったということなのかもしれない。
Daniel 2:5,6 王はそのカルデア人たちに答えた。「私の言葉は絶対だ。もしお前たちが夢とその解釈を私に示さなければ、お前たちを八つ裂きにし、お前たちの家を瓦礫の山とする。だが、もしお前たちが夢とその解釈を示すなら、贈り物と報酬と大きな栄誉を私から受けるだろう。それゆえ、私に夢とその解釈を示しなさい。」
なんとも、理不尽な命令である。そのような絶対者であることを示し、ダニエル登場の舞台装置としたのだろう。おそらく、ネブカドネツァルは、十分に知的で、知者の助言を入れただろう。そうでなければ、おおきな権力をえることは不可能だからだ。このような書き方は、ネブカドネツァルをも神話化し、イスラエルのイメージに合わせたのだろう。物語であることの根拠にもされるかもしれない。しかしおそらく、何らかのエピソードもダニエルに関してすこしあったのかもしれない。それもダニエルではなかったかもしれないが。少しずつ理解していきたい。
Daniel 3:12 ここに、あなたがバビロン州の行政官に任命したユダヤ人たちがおります。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴです。王様、この者たちはあなたの命令を無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みません。」
1章では、おそらくイスラエル人にとって適切に処理されていない肉を食べることに抗ったダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの話が登場するが、ここでは、偶像を拝まない、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ(ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ(1:7))が登場する。異教の地でも、信仰を守り抜いたことを教えるためもあったのだろう。神話化だろうか。
Daniel 4:33,34 この時、理性は私に戻り、また、私の王国の栄光のために、私の権威と輝きが戻った。顧問や貴族も私を求めた。私は王国に復帰し、計り知れない偉大さが私に加えられた。今、私ネブカドネツァルは天の王を賛美し、崇め、たたえる。その御業はすべて真実であり、その道は正しく、高ぶって歩む者は低くされる。
ネブカドネツァルのことばとして記されている。異邦人も、そして、エルサレムを陥落させた、バビロンの王も、このように主を賛美することを伝えることが目的だったのだろう。実際に、このようなことがあったかは、不明とされている。
Daniel 5:22,23 その子であるベルシャツァルよ、あなたはこれらすべてを知っていながら、心を低くなさいませんでした。それどころか、天の主に対して高ぶり、その神殿の祭具をあなたの前に持って来させ、あなたもあなたの貴族たちも、あなたの妻も側女たちも、それでぶどう酒を飲みました。また、あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美されました。あなたの命をその手中に置き、あなたのすべての道をつかさどっておられる神をあなたは崇めようとはなさいませんでした。
神殿の祭具のことが書かれている。ダニエル書の冒頭にも、この祭具のことが書かれている。神殿のものを重視したひとたちが関わっているのだろう。帰還したひとたちも、その祭具の一部を委ねられているので、その関係もあるのか。この章二登場する『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』のパルシンは、「分裂」だけでなく、ペルシャを連想させるとも中にあった。ひょっとすると、メネのひとつは、メディアなのかもしれない。
Daniel 6:7,8 大臣と総督たちは王のもとに押しかけて来て、こう言った。「ダレイオス王様、とこしえに生き長らえますように。王国の大臣、長官、総督、顧問、地方長官の全員は、王様に法令を定め、禁令を実施していただくことに同意しました。王様、今から三十日間、あなたのほかに、いかなる神にであれ人にであれ祈る者はすべてライオンの穴に投げ込まれる、というものです。
裏を返すと、主のほか、なにものをも神としてはならないということなのだろう。それを守り通したということである。このように、裏返してみると明らかだが、他者のたいせつなものを大切にできないという意味では、同じなのかもしれない。分断はどのように防げるのか。ここを考えていきたい。
Daniel 7:4 第一の獣は獅子のようで、鷲の翼があった。見ていると、その翼はもぎ取られ、地から起こされ、人間のように両足で立たされて、人間の心が与えられた。
四頭の大きな獣の幻である。巨大な4つの国の盛衰について書かれていると言われている。ただ、今回読んで、引用句の表現に惹かれた。それは、むろん、イエス様のことを思ったからだ。翼はもぎ取られとある。鷲が翼をもぎ取られたら、普通は何もできないだろう。しかし、ここでは、人間の心が与えられたともある。とても興味深いイメージである。べつにそれから何かを理解しようとするのではないが。
Daniel 8:20,21 あなたの見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシアの王である。また、毛深い雄山羊はギリシアの王で、額にある大きな角はその最初の王である。
具体的な国名が書かれている。すると、ギリシャの王は、アレクサンダーだということになる。ダニエル書は、アレクサンダーとその後の分裂を見届けて書かれたのだろう。ダニエルはそのようなときに用いられる名前として、特別な存在だったということか。ダニエルの実像についても、伝承等とともに知りたい。ヨブもどうような伝承があるのだろうから。聖書だけ読んでいたのではわからないのかもしれない。
Daniel 9:2,3 王の治世第一年、私ダニエルが文書を読んで理解したのは、預言者エレミヤに臨んだ主の言葉によれば、エルサレムの荒廃が終わる年数は七十年だということである。私は神である主に顔を向け、断食し、粗布をまとい、灰をかぶって、祈りを献げ、嘆願した。
エレミヤ25章11,12節、29章10節を指しているのだろう。そして、祈っている。おそらく、多くの信仰深いユダヤ人が、このダニエルのように祈っただろう。もしかすると、ダニエルという当時の有名なひとをつけて、このように多くの祈りを表現しているのかもしれない。この章でも「私たちが神に逆らったにもかかわらず、憐れみと赦しは私たちの神、主にあります。」(9)などと告白している。正直にいうと、やはり、イスラエル中心史観ではあると思う。おそらく、違った視点も、捕囚を通して広がっていっているとも思うが。いつか、イスラエル思想史を学んでみたい。
Daniel 10:19 彼は言った。「恐れるな、愛される者よ。あなたは安らいで、強くあれ。強くあれ。」彼に語りかけられ、私は力を取り戻して、言った。「主よ、お話しください。あなたは私を力づけてくださいました。」
まず「人の子のような姿の者」(16)をイエスと解釈する根拠はないと思った。なんでも、イエス・キリストに結びつけて解釈することにしなければ、そうはならないであろう。引用句をここに入れたことは理解できると思った。重大なことを、聞くまでには、どうしても、準備が必要である。これも、コミュニケーションということなのかもしれない。
Daniel 11:1,2 私は、メディア人ダレイオスの治世第一年に、彼を励まし、力づけるために立ち上がった。今、私はあなたに真理を告げよう。見よ、なお三人の王がペルシアに立つ。四人目の王は誰よりも莫大な富を得る。彼がその富によって力を得たとき、すべての者を奮い立たせ、ギリシアの王国に向かわせる。
捕囚となったユダヤ人の価値観は、どのようなものだったのだろうと考えた。ここでは、ダニエルとされるひとが、王を力づけ、将来的にも、さらに、三人の王が立つことを伝えている。歴史的に何を意味するかよりも、その土地で、御心を求めながら、自分の仕事に忠実に生きる。その姿の投影とも見え、興味深かった。
Daniel 12:13 あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう。」
ダニエル書の結語である。4節には「ダニエルよ、あなたは終わりの時までこの言葉を秘密にし、その書物を封印せよ。多くの人々は探求して知識を増やす。」とあり、8節には「私は聞いたが、理解できなかった。そこで私はこう尋ねた。『主よ、これらの終わりはどうなるのですか。』」そして引用句である。ダニエル書については、不明な点が多いようだが、結語を見て、なにか安心した。わたしも含めて、多くの人々のなす(べき)ことは、探求して知識を増やすこと。そして、やはり理解できず、わからないが、そのなかで、終わりの日まで、自分の道を行くことなのだろう。生涯をかけて。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Daniel 1:7,8 宦官の長は彼らに名前を与え、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。しかし、ダニエルは王の食事と王が飲むぶどう酒によって自らを汚すまいと心に決め、自分を汚さないでほしいと、宦官の長に頼んだ。
「ユダの王ヨヤキムの治世第三年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに進軍し、これを包囲した。」(1)と始まる。このときには、エゼキエルも含め、様々な形でバビロンに連行された人たちがいたということだろう。いままで何気なく読んでいたが、宦官(去勢を施された官吏)の長に委ねられたということは、去勢手術を受けたのかもしれないと思った。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。」(申命記23章2節)「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。」(口語訳:申命記23章1節)ともあり、少なくとも、宦官の長のもとに居ることだけでも、ダニエルたちにとって、屈辱だったかもしれない。ネット上で名前を調べると、ベルテシャツァル:"Bel hath hid and treasured, the keeper of his treasures"、シャドラク:"tender pap or breast, king's messenger"、メシャク:"of Shach, a name of a god or goddess of the Chaldeans"、アベド・ネゴ:"a servant, or worshipper of Nego, shining brightness"。もう少し丁寧に調べる必要があるが、異教の神に関係した名前のようにも思われる。それなりに王に仕えるにふさわしい名前にされたのだろう。
Daniel 2:24 そこでダニエルは、バビロンの賢者たちを殺すために王が立てたアルヨクのもとに行き、こう言った。「バビロンの賢者たちを殺さないでください。私を王様の前に連れて行ってくだされば、私が王様に解釈を示しましょう。」
ダニエルの思慮深く賢明な対応(14)が書かれている。まずは、王の権威を担ったアルヨクに事情を聞いている(15)時間の猶予を願い(16)仲間と情報を共有して心を合わせて祈り(17,18)啓示に対して主をほめたたえ(19-23)そして、引用句のように、賢明に行動している。そのことが、アルヨクによって王に適切に取り次いでもらうことにつながったのだろう。ダニエル書の成立は謎が多いようだが、捕囚先で様々な関係を用いながら行動する人たちの知恵に満ちていることはたしかである。明るさも感じる。史実かどうかよりも、たいせつなことが含まれているように思われる。
Daniel 3:12 ここに、あなたがバビロン州の行政官に任命したユダヤ人たちがおります。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴです。王様、この者たちはあなたの命令を無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みません。」
ここに書かれていることと似たケースはたくさん生じていたろう。その一例をあげたに過ぎないように思う。すこし、尾ひれがついたかもしれないが。行政官として仕える人も含め、様々な生き方が始まっている捕囚の地でのユダヤ人の生活は、とても、チャレンジングだったろう。ここにある英雄的な行為だけではなく、苦悩のなかで、生きることと、主を愛することについて生き抜いていった人たちとともに生きることができればと願う。現代に生きる、私たちのチャレンジについてもていねいに考えてみたい。
Daniel 4:23,24 また、木の根株は残しておけと命じられていたように、天が支配するということを知るならば、あなたの王国は維持されるでしょう。ですから、王様、私の勧告をお受けになり、正義を行うことによってご自分の罪から離れ、貧しい者を憐れむことによってご自分の過ちから離れてください。そうすれば、あなたの安泰は続くでしょう。」
ネブカドネツァル Nebuchadnezzar II(BC634-BC562, 在位:BC605 - BC562)については、ある程度わかっているようだが、この失権については、一般的な記録はないようである。七つの時は七年ととるのが間違いなのかもしれない。ここでは、悔い改めとともに、貧しい者を憐れむという、おそらくユダヤ教の価値観が強く現れているように思う。ダニエル書の成立にも関わることだが、史実性は薄いのかもしれない。絶対君主が、長期間王位から離れれば、国が混乱するのは明らかだから。もう少し、歴史も学んでみたい。見えてくることがあるかもしれない。
Daniel 5:12,13 王様がベルテシャツァルという名を与えたこのダニエルには、優れた霊、知識、さらに夢を解釈し、謎を解き、難問を解決する洞察力が備わっていました。ですから、今、ダニエルをお召しください。彼ならその解釈を示すでしょう。」そこで、ダニエルが王の前に召し出された。王はダニエルに言った。「お前が、わが父王がユダから連れて来たユダの捕囚の一人、ダニエルか。
ダニエルのことを告げた王妃の言葉と、ダニエルに語り始めるベルシャツァル王の言葉である。王の様子が「王の顔色は変わり、さまざまな思いにかき乱された。腰の関節は緩み、膝は震えて互いに打ち合った。」(6)とあり、大声で賞与の大きさを叫ぶなど、すでに、常軌を逸しているので、ことさら書くことではないかもしれないが、引用句では、ダニエルを「ユダの捕囚の一人」と呼んでいる。そして、報奨について繰り返す。ダニエル書によると、この日に殺されるようだが、悲しい姿が描かれている。ダニエルは、正しいことを告げる以外に何もできなかったのだろうか。
Daniel 6:27,28 私は命じる。わが王国の全領土においては、ダニエルの神を畏れかしこまなければならない。/この方こそ、生ける神であり、とこしえにおられ/その王国は滅びず、その支配は果てしなく続く。この方は救い主、助け主。/天にも地にも、しるしと奇跡を行い/獅子の手からダニエルを救い出された。」
「王は、ダニエルを中傷した者たちを連れて来させ、彼らをその妻子と共にライオンの穴に投げ込むように命じた。」(25a)などが気になるが、おそらく、引用句が、ダニエル書の一つの目的がこれらの言葉だったように思う。あとは、伝聞の中で誇大になっていった表現なのだろう。最後は引用句に続いて「このダニエルは、ダレイオスの治世とペルシア人キュロスの治世において功を遂げた人物であった。」(29)と閉じられている。これが、ダニエル書の前半の終わりの句である。
Daniel 7:17,18 「これら四頭の大きな獣は、地に興る四人の王である。しかし、いと高き方の聖者たちが王国を受け継ぎ、永遠に、代々限りなくその王国を保持する。」
「バビロンの王ベルシャツァル(Belshazzar was the son and crown prince of Nabonidus (r. 556–539 BC), the last king of the Neo-Babylonian Empire.)の治世第一年に、ダニエルは夢を見た。それは寝床で頭に浮かんだ幻であった。彼はその夢を書き記し、概要を次のように語った。」(1)と始まる。この章から、幻がはじまる。最初にかかれているように「概要」なのだろう。どのように受け取るか「私ダニエルの、内にある霊は憂え、頭に浮かぶ幻が私をかき乱した。」(15)とも書かれている。ついつい幻によって預言された内容の真偽を問いたくなるが、ダニエルの姿から、学ぶほうが自然なのかもしれない。ネブカドネザルのあと、何人か王がたったようだが、暗殺、クーデターなど混乱もあったようだ。そのようは不安定な時期を背景としているのかもしれない。
Daniel 8:27 私ダニエルは疲れ果て、何日か病に伏したが、その後起きて、王宮の務めを行った。あの幻について私は驚くばかりで、理解できずにいた。
「メディアとペルシアの王」(20)「ギリシアの王」(21)と書かれている。預言については理解が難しいが、ダニエル自体について少し調べてみることにした。旧約聖書には、何回かダニエルという名前が登場する。おそらく、特殊な名前ではなかったのだろう。エゼキエルには、三回現れ(エゼキエル14章14節、20節)最後はティルス預言に関係して「確かに、あなたはダニエルよりも知恵があり、いかなる秘密もあなたには隠されていない。」(エゼキエル28章3節)と書かれている。エゼキエルに登場するダニエルは、ダニエル書に書かれているダニエルのようである。このダニエル書がそのダニエルによって書かれたかどうかは別として、引用句にある「理解できずにいた」という Researvation(保留)の表現が入っていることには、共感を持つ。ていねいに冷静に読んでいきたい。
Daniel 9:18,19 わが神よ、耳を傾けてお聞きください。目をお開きください。私たちの荒廃とあなたの名が呼ばれる都とを御覧ください。そうです、私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。主よ、お聞きください。主よ、お赦しください。主よ、心を向けて御業を行いください。わが神よ、ご自身のゆえに救いを遅らせないでください。そうです、あなたの都でも、あなたの民の間でも、あなたの名は呼ばれているのですから。」
ダニエルたちが捕囚としてバビロンに来たのは、BC605年、二度目のエルサレム陥落は、BC597年、最終的な陥落は、BC587年である。しかし「ダレイオスの治世第一年のことである。メディア出身で、クセルクセスの子であるダレイオスは、王となってカルデア人の王国を支配していた。」(1)は、正確にかかれていない。Darius the Great アケメネス朝ペルシャのダリウス大王とすると、BC522 であるが、それは、キュロス(Cyrus the Great: BC559-BC530)の三代後である。もう少し歴史を理解しておかないと、理解したいことに行く前にたくさんの時間を使ってしまう。ここで言われているのは、キュロスのときのことではないと理解しておこう。七十年(2)よりも、引用句の方に価値があるように思う。
Daniel 10:20,21 そこで、彼は言った。「なぜ私があなたのところに来たか、分かるか。今、私はペルシアの天使長と戦うために帰る。私が出て行くと、ギリシアの天使長がやって来る。しかし、私は真理の書に記されていることをあなたに知らせよう。あなたがたの天使長ミカエルのほかに、彼らに対抗して私と共に奮い立つ者は一人としていない。
年表を作成しないとわからないが、世界史的には、何度も、ペルシャがギリシャを攻め、大きな戦いがあった時代である。それがこの背景にもあるのだろう。世界はどうなるのかという不安とともに、ギリシャとペルシャの交流もあったようで、大帝国があれば、国際交流も盛んになる。国際状況が変化しているときなのだろう。
Daniel 11:2 今、私はあなたに真理を告げよう。見よ、なお三人の王がペルシアに立つ。四人目の王は誰よりも莫大な富を得る。彼がその富によって力を得たとき、すべての者を奮い立たせ、ギリシアの王国に向かわせる。
このあと、詳細な預言(?)が書かれている。正直、これが事実であっても、そうでなくても、あまり興味がわかない。一つには、すでに、現在から見れば、終わってしまっていることで、また、神様のこころ、真理をしることにあまり関係していないと思うからである。ダニエルというひとの凄さを後の人に表現することにはなるかもしれないが。
Daniel 12:9,10 彼は答えた。「ダニエルよ、行け。これらのことは終わりの時まで秘密にされ、封印される。多くの人々が清められ、純白にされ、精錬される。悪人は悪をなすが、悪人は誰も理解しない。しかし、悟りある者たちは理解する。
今回、ダニエル書を読んで、なにか満たされない気持ちを感じた。ダニエルの7章以降の後半部分を、いつか丁寧にまなぶことはあるのだろうか。ただ、ダニエル書記者を批判するつもりはない。「あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう。」(13)には、共感するからである。聖書はむずかしい。

BRC2019

Dan 1:1,2 ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。
正確にはわからないが、列王記下24章の記述をみると、ヨヤキムは最初にネブカドネツァルに貢ぐが、反逆し攻められる。捕囚となるのは、次のヨヤキンのとき(在位は3ヶ月程度)とあるが、ヨヤキムのときにも、一部捕囚になったのかもしれない。いずれにしても、ダニエルたちは、王宮に仕えていたまたはそのような官吏のこどもだったのかもしれない。エゼキエルと同時期または、それより先にバビロンに行ったのだろう。エゼキエル書にも「かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブ」と二回(14章14節、20節)さらに「お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。 」(28章3節)とあり、当時の直近の偉人・信仰の巨人だったのだろう。興味深いのは、ここにヨブが現れていることである。それも、ダニエルよりあとに。時代的にあとではないにしても、気になる。
Dan 2:1 ネブカドネツァル王が即位して二年目のことであった。王は何度か夢を見て不安になり、眠れなくなった。
即位して二年目とある。このときにすでに、ダニエルたちは、王の近くにいる。1章の記述にもあるように、属国の扱いであったユダから留学させたのが、この人達だったということだろう。エルサレムでも十分名声を得ていたのかもしれない。たいせつにもされていたのかもしれない。ついつい、歴史的預言の行末を考えてしまうが、もうすこし、ちがった読み方を丁寧にできるようになりたい。
Dan 3:28 ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。
記述が正確かどうかは不明だが、この節に表現されていることは、証されたのかもしれない。バビロンでどのように扱われていたかは不明だが、「バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」(12)とあり、ある責任ある仕事をまかせられたいたことが証言されている。どのような社会組織かは不明だが、興味を覚える。そのなかで、十分な力を発揮し、信仰を守り抜いた人たちがいたのだろう。
Dan 4:22-24 あなたは人間の社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、こうして七つの時を過ごすでしょう。そうして、あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るでしょう。その木の切り株と根を残すように命じられているので、天こそまことの支配者であると悟れば、王国はあなたに返されます。王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう。」
「天こそまことの支配者であると悟る」ことと「罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みを与える」ことが言われている。貧しい人に恵みを与えること、為政者にまさにいま求められていることでもある。かなり普遍性が高い表現になっていることに興味を持つ。
Dan 5:22-25 さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。
背景には偶像礼拝があるが、聖書は基本的に、神との契約のもとにあるイスラエルの民の偶像礼拝を忌避し糾弾するが、他国・多民族については、殆ど批判しない。捕囚で周囲がすべて他の神々を礼拝する民の中に置かれると、イスラエルを強く意識することになることは確かだろう。ここでもダニエルの批判は、偶像礼拝に言及しつつも、メッセージの中心はより普遍的な、傲慢に向けられているようである。引用箇所の前にある、ベルシャツァルの父のネブカドネツァルが王位を追われそこでへりくだったことが記述されている。冷静に読んでいきたい。
Dan 6:27,28 わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。」
この章は他宗教の国における信教の自由の問題から始まっている。しかし、ダニエル書の記述は、主なる神の賛美を記している。普遍性もある信教の自由と、主なる神の認識、様々な民が混在する中で、少しずつ人々の認識が変化していくのかもしれない。それを喜ばない宗教人は、過去にも、現在も多いのだろうが。
Dan 7:1,2 バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。
ダニエルは多くの夢を見たのだろう。しかし、大切なものとして、これを記している。もしかすると、より明確だったかもしれない。歴史的にも、このあとの「四頭の大きな獣」(3)は、実際対応するものがあるように思う。しかしそれはあくまでも、中東が中心の歴史でもある。また重要と思われる「人の子」(13,14)の預言(10章16節参照)はイエスというより終末におけるイエスを思わせる。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ24章30節)、「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。』」(マタイ26章64節)参照:マルコ13章26節・ルカ21章27節・黙示録1章7節。これは、時を超えたことの預言なのかもしれない。
Dan 8:23,24 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして/高慢で狡猾な一人の王が起こる。自力によらずに強大になり/驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい/力ある者、聖なる民を滅ぼす。
やはりローマによる支配までを描いているようだ。エゼキエル書にあるダニエルの記述からも、ダニエルが語ったとして記録したものがあったろうとも思う。真実はわからないが、限定的な歴史であることと、ある時点でこれが聖書の一部とされたことは、たいせつなのだろう。「この夜と朝の幻について/わたしの言うことは真実だ。しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い。」(26)は意味深である。7章からは、異なる記述であることは、確かだろう。ダニエル書は誰が書いたのだろうか。
Dan 9:2 さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。
いままであまり気にしていなかったが、今回は少し違和感を感じた。ダニエルとエレミヤの年齢差異は不明であるが、おそらく、ダニエルの方が年上だろう。そして、エゼキエルは、エレミヤと同年代か少し上。そのダニエルがこのような記述をするだろうか。エゼキエルにもあるように、当時すでにスーパースター、伝説のひとであったダニエル、これまでの預言からすれば、エレミヤ書を引用することはないように思う。しかしこれがそのとおりだとすると、預言者の謙虚さも見え、興味深い。どちらかはよくわからない。謙虚に学び続けたい。
Dan 10:13 ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。
「ギリシアの天使長」(20)も登場する。「天使長」と検索すると、「大天使長ミカエル」(ダニエル12章1節)があるがほかはすべてこの章、つまり、ダニエル書以外には登場しない。説明なしに登場し、かつ民間信仰の雰囲気もたたえていて、正直、ダニエル書の後半は、気になることが多い。年表も作ってみたい。キュロスの勅令はBC538-537、ヨヤキムBC609-598とすると、ダニエルは、BC610年ごろの生まれだろうか。もう少し前かもしれない。若くして、バビロンに留学することになり、ユダ王国からはBC598年と、BC587年に捕囚がバビロンにも来る。ユダは滅ぼされる。その後、バビロンも滅亡、ペルシャ王国のもとで、捕囚の帰還が許される。これをすべて経験していたかどうかは不明であるが、激動の時代を生きたことは確かである。
Dan11:27 これら二人の王は、互いに悪意を抱きながら一つの食卓を囲み、虚言を語り合う。しかし、何事も成功しない。まだ終わりの時ではないからである。
ここまで詳細に書かれると、かえって、ダニエルが書いたことの真実性が薄れるだけでなく、興味も失うように思った。しかし、他の読み方もあるだろう。ダニエルという知者、夢を解き、バビロン・ペルシャの二大王国で有力な地位にいたスーパーヒーローについて記すとともに時代を語らせるそのような文学形式を否定することもないようにおもう。背景として終わりのときについてが重要なトピックであったことがわかる。いずれ落ち着いて、ダニエル書後半(7章以下)に書いてあることを丁寧に学んでみたい。ダニエルが言ったことなのかどうかに焦点があたっていると深くは読むことができない。その当時起こっていること、そして歴史をどう読むかもたいせつな人間のいとなみであるのだから。
Dan 12:5 わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。
ダニエル書をどう読むかについて11章までで考えたが、最後の章にもう一度書くことで、次回はここをスタート地点として読むことにしたい。引用箇所の「わたしダニエル」という記述について調べてみると、これが7章から始まる。7章15節、28節、8章1節、15節、27節、9章2節、10章2節、10章7節、12章5節。ト書き以外での一人称「わたし」の使い方も7章以外は際立っている。ダニエルが記していることを強調する必要があったのだろう。6章まで、ダニエルがどのようなときに夢を解いたと記しているかを考えることも重要だろう。神からとくべつに与えられ秘密を明かすこと、それは、特別な力であることは確かかもしれないが、ダニエルの言葉としても書かれているように「お休みになって先々のことを思いめぐらしておられた王様に、神は秘密を明かし、将来起こるべきことを知らせようとなさったのです。その秘密がわたしに明かされたのは、命あるものすべてにまさる知恵がわたしにあるからではなく、ただ王様にその解釈を申し上げ、王様が心にある思いをよく理解なさるようお助けするためだったのです。」(2章29・30節)奉仕があるのだろう。

BRC2017

Dan 1:5 王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。
このことが問題を生じるのであるが、政策としては、興味深い。教育、同化もあるだろうが、異なる背景のものから学ぶ姿勢、さらに、どこにも、すばらしい人材が居るという知識に基づいている。普遍性が高い。一次的には、普遍性は、宗教と相いれないものなのかもしれない。
Dan 2:1 ネブカドネツァル王が即位して二年目のことであった。王は何度か夢を見て不安になり、眠れなくなった。
おそらく、ダニエルたちが連れてこられて、間もない頃、教育期間中だったろう。詳しく調べてみたい。
Dan 3:29 わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」
わたしは冷めたこころでダニエル書を読んでいる。この話には、誇張や、作られた部分が多く存在するのだろうと。しかしそれよりも気になるのは、イスラエルに対する、または、ユダヤ教(この当時どの程度、この名称で共有されていたかは分からないが)に対する、攻撃への復讐のような言説である。どの時代に、どのような人たちに向けて書かれたのだろうか。神信仰とは関係なく、民族主義をいたずらに鼓舞することは確かである。さらに、ダニエルなどの偶像化もある程度は避けられない。
Dan 4:19 その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます。
「ネブカドネツァル王」は、あまりにも強大で、まさに神のような存在だったろう。この章の記述が事実かどうかはわからないが、神が支配しておられることを、このような形で明確に解くことは、一般民衆にとって大きな教育効果があったろう。まさに「神以外のなにものをも神とせず」
Dan 5:22 さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。
次の節には「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」ともあるが、それを、理解することは困難だろう。どうしても、作り話に聞こえてしまい、それ以上の、考察ができなくなってしまう。
Dan 6:9 王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」
これは、王の権威ではなく、法治国家であったと言うことだろうか。不思議な記述である。家臣の手前、変更できなかったのか。
Dan 7:17,18 「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」
これを神の言葉として、歴史を調べることはとても自然だろう。しかし、それにどのような意味があるのだろうか。神の計画は、計り知ることのできないほど、壮大だということを知らせるためだろうか。キリスト預言を記すためだろうか。よくわからない。
Dan 8:22 その角が折れて代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から、それほどの力を持たない四つの国が立つということである。
まず、メディアとペルシアの王、そして、ギリシアの王とすれば、ギリシアの王は、アレクサンダーだろうと、具体的に考えてしまう。このことから、完成は、4世紀か3世紀と考えるのも自然に思われる。エゼキエルに、ダニエルが出てくることを考えると、賢いダニエルがすでに存在していたことになる。あまり詮索しても、実りはないようにも思われる。
Dan 9:2 さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。
どのように、この言葉に行き着いたかは書かれていないが、ある程度認知されていたのだろう。しかし、これの預言の成就は、当時のひとたちにとって、大きな希望となったとすると、やはり、物質的な回復を中心としてしまうのは、仕方が無いように思われる。それも、エルサレム中心の回復である。イエスのメッセージとは異なるように思われる。
Dan 10:13 ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。
このあと「ギリシアの天使長」(20節)も現れる。「日本の天使長」もいるのだろうか。これは、国だけにあるのだろうか。おそらく、それを考えることは無駄なのだろう。旧約聖書で比較的好まれるダニエル書の理解の難しさを、強く感じるようになってきている。
Dan 11:6 何年か後、二国は和睦し、南の王の娘は北の王に嫁ぎ、両国の友好を図る。だが、彼女は十分な支持を得ず、その子孫も力を持たない。やがて、彼女も、供の者も、彼女の子らも、その支持者らも裏切られる。
2節以降の記述は、まるで、そのときを目撃しているような筆致で書かれている。後代の加筆またはダニエル書成立時にはすでに起こっていたこととするか、神からの直接啓示によるとするか、簡単には、結論はできないが、後者であったとしても、何のためにこのことが記されたか不明である。神様についての認識について、本当に利するのだろうか。疑問である。
Dan 12:4 ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」
最後の部分の口語訳は「多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」となっている。結局、終わりの時にならずに公開されたと言うことだろうか。この書についても理解しにくい。

BRC2015

Dan1:2 主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。
主語が二つある。最初の文章の主語は「主」、二つ目の文章の主語は「ネブカドネツァル」である。主のゆるしがなければ何も起こりえなかったということが背景にあるのだろうが、やはりネブカドネツァルをどのようにとらえるかは難しい。ダニエルにはこのネブカドネツァルの個人的な記事も含まれている。(4章)しかし、あくまでも、イスラエル中心の世界観である。いまは、どうなのだろうか。主の啓示は、神様のひとりひとりの存在との関わりをどう明確にして受け取っていったら良いのだろうか。わたしが、不明確だと感じる点である。神の意思を限られた啓示の中に求め、神からの命を生きることがそれぞれに求められているのか。
Dan2:18 そして、他のバビロンの賢者と共に殺されることのないよう、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った。
自然ではあるが、自己保身的に感じる。しかし、24節を見ると「それから、ダニエルはバビロンの知者皆殺しの命を受けていたアルヨクのもとに行って、こう言った。『バビロンの知者を殺さないでください。わたしを王様のもとに連れて行ってくだされば、王様に解釈を申し上げます。』」とある。さらに、夢の解き明かしを見ると、ネブカドネツァル以後のことを語っているのだから、通常なら、そのようなことを王に語ることは恐れるだろう。こう考えていくと、書かれていることはわずかであるが、この背景には、神がダニエルを導き、ダニエルも神の御心を求め続ける中で、おそらく苦しみながら、主に仕える喜びをも感じながら、一つ一つのステップを進んでいったことがあるのではと思われる。まだまだじっくり読んでみたい。ときは残されていないかもしれないが。
Dan3:7 それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネツァル王の建てた金の像を拝んだ。
金の像はネブカドネツァル王が神としてあがめていたものの像であろう。様々な問題を含むが、真にひれ伏すべきもの(方)を知っているかどうかだろうか。この表現も問題がある。知る主体の能力に依存してしまうだろうから。そう考えると、完全には理解していない一人の人間として、わからないながらも、わからない状態で求め続けるために、このような命令を受け入れることもありうるだろう。何を大切にしたら良いのか。単純に、良心といえるだろうか。神の導きに従うと言えるだろうか。このような場に遭遇したときに、どうしたらよいのか、わたしにはわからない。「神以外の何ものをも神とせず」をどういきるかが。
Dan4:15 これが、わたしネブカドネツァル王の見た夢だ。さて、ベルテシャツァル、その解釈を聞かせてほしい。この王国中の知者はだれひとり解き明かせなかったのだが、聖なる神の霊が宿っているというお前ならできるであろう。」
2章の記事をそのまま理解すると、十分な信頼関係がダニエルと王の間にあったことが考えられる。夢の順番もおそらく重要であろう。この夢の内容を聞いて、ダニエルの解釈と同様の考えをもった知者はおそらくいたであろう。しかし、それを理解しうる力を持っていた者も、王に語ることはできなかったのであろう。聖なる神の霊が宿っているとは、まさにそれを語るものなのだろう。聖なる神の霊が宿っているかどうか、確信が持てない場合もあるだろう。そうであっても、それを語ることができるのだろうか。語るべきだろうか。神からの命を生きる者として。重い問いでもある。
Dan5:20 しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。
これだけの認識がある程度為されていたのだろうか。このあとの22節「さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。」とも関連している。状況を公平に分析することはできないだろう。しかし、ダニエル書からのメッセージは受け取ることができる。驚かされるのは、王を恐れずに、与えられているいのちを生きることである。「メネ、メネ、テケル、そして、パルシン」(25節)は調べないと分からないが、ある程度、理解できた人はいたのではないだろうか。恐るべき方を恐れる。11節では「聖なる神の霊を宿している人」とあり、王は「お前は神々の霊を宿していて、すばらしい才能と特別な知恵を持っているそうだ。」(14節)と語りかけている。すでにずれがある。
Dan6:21 洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」
ダニエルが助かったのは、このダレイオスの信仰(自らがへりくだり、弱く、愚かで、無知であることをみとめ、真理を真摯にもとめるこころ)に、主が応答されたからかもしれない。ローマ時代にも、獅子の餌食となった殉教者たちがいるという話を聞く。神の介入をどう理解するかは、困難であるが、上記の認識も、メッセージに含まれているのかもしれない。
Dan7:28 ここでその言葉は終わった。わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった。しかし、わたしはその言葉を心に留めた。
四頭の大きな獣と「人の子」についての預言の箇所である。新約聖書の解釈においても、世界の歴史の理解においても、引用される箇所である。しかし、これまでの考察から預言書を理解すると、この最後の句が重要であるように思える。エゼキエルには「ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても」(14章14節、20節、Cf 28章3節)とあり、新約にも「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、」(マタイ24章15節)と、ダニエルの名前があるが、預言はあくまでも預言、それに引っ張られるよりも、ダニエルが神を求める姿勢から学ぶ方が良いように思われる。まさに、この言葉がそうであるように、預言者も知らされることは一部に過ぎず、悩みに沈む存在なのだから。
Dan8:27 わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。
ここに真実があるように思われる。16節には「すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。『ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。』」とあり、確かにかなり具体的に説明はされている。しかしダニエルは27節のような状態にある。我々はダニエルの王に対する謎解きや、具体的な預言にこころひかれるが、ダニエルの日常と苦悩をともに理解することが、神からのメッセージなのかもしれない。ともに、神の御心を真剣にもとめるために。
Dan9:18 神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。
2節に「さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。」とあり、その後の祈りの中での言葉である。ダニエルはこの期間をどのように受け取ったのだろうか。さらに難しいのは、24節、25節には、70週、7週、62週とあり「油注がれた君の到来」が語られている。おそらく、ダニエルも理解し得なかったであろう。それで良いのかもしれない。実際のことを追求するよりも大切なこと、それは、上に言われているように、悔い改めて、憐れみ深い主に目を向けることだろう。そして、分からないことは心に留める。そのような者でありたい。
Dan10:11,12 彼はこう言った。「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった。彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。
1節には「キュロスの治世第三年」とある。第一年には帰還が許されている。(歴代誌下36章22節、エズラ記1章1節)ダニエルは、心にも留めていないのか。7節には「この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、共にいた人々は何も見なかったのだが、強い恐怖に襲われて逃げ出し、隠れてしまった。」とある。6節にある「話す声は大群衆の声のよう」は皆に聞こえたのか。12節の「苦行」は断食を意味するのだろうか。おそらく、御心を求めるのに、苦しんだのだろう。それは、最初から覚えられていた。何が起こっているのか、全体像は、つかめない。
Dan11:37 先祖の神々を無視し、女たちの慕う神をも、そして他のどのような神をも尊ばず、自分を何者にもまさって偉大であると思う。
非常に詳細で、おそらく、実際の歴史にも近いのだろう。いまは、それは問わない。それが何になろう。ダニエルは、これを受け取って何を知っただろうか。終わりは遠いと言うことではないだろうか。まだまだ果てしなく、かつ人々が自らの罪を認めないときが続くこと。過去にあったのと同じような、神からの離反が続くことだろう。それで十分なのかもしれない。ダニエルは、エルサレムへの帰還ですべてが解決するとは考えていないことは、おそらく確かだろう。
Dan12:8,9 こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」 彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。
これで十分なのだろう。ダニエルも理解できなかったことを、求める必要はない。ダニエルは、知りたかったかもしれないが。理解したかったかもしれないが。「もう行きなさい。」なんとやさしい言葉だろう。わたしもそのようなことばを受けるときまで。最後の不思議なことばを胸に秘めて。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(13節)

BRC2013

Dan1:3,4 時に王は宦官の長アシペナズに、イスラエルの人々の中から、王の血統の者と、貴族たる者数人とを、連れて来るように命じた。 すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に仕えるに足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語とを学ばせようとした。
第一回目のエルサレム陥落、捕囚を記していると思われるが、どのぐらいの規模だったのだろう。数人とあるが、6節の書き方からして、もう少し規模は大きかったのではないか。ダニエルたちには、どのような思いがあったろうか。「寄留者」としての意識は強かったろう。
Dan2:18 共にこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚とが、他のバビロンの知者と共に滅ぼされることのないように求めた。
「バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。」(12節)同僚の「ハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤ」との(17節)祈りである。ネブカデネザルの要求はまったく高慢・理不尽、またダニエルたちの祈りは、自己保身的な祈りに見える。しかし、夢の解き明かしは、歴史の中の、ネブカデネザルの存在を示し、神を畏れさせ、ダニエルたちに活躍の場を与える結果を生む。これが、歴史の背後で働かれる主ということか。
Dan3:17.18 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
この箇所にくると、高校生の頃に読んだ安利淑(アンイスク)の「たといそうでなくても」を思い出す。日本統治時代の韓国で神社参拝を強制されて従わなかった韓国人のクリスチャン(女性教師)の証である。権威を相対的なものとし、いのちをも絶対的なものとはみなさず、神との関係に希望を置く生き方は、常に、強く迫るものである。
Dan4:27 それゆえ王よ、あなたはわたしの勧告をいれ、義を行って罪を離れ、しえたげられる者をあわれんで、不義を離れなさい。そうすれば、あるいはあなたの繁栄が、長く続くかもしれません」。
これを神の全知性から、そうならないことはわかっていたとするのは、いかがなものだろうか。預言は予言ではない。神からのメッセージは、やはり悔い改めることを促すことにあるのではないだろうか。ベルテシャザル(ダニエル)は、ネブカデネザルの高慢さをよく知っており、その政策の問題に心を痛めていただろう。しかし、おそらくそれを知りつつも、できる限りの仕事をしてきた。9節に「「博士の長ベルテシャザルよ、わたしは知っている。聖なる神の霊があなたのうちにやどっているから、どんな秘密もあなたにはむずかしいことはない。ここにわたしが見た夢がある。その解き明かしをわたしに告げなさい。」とあるような、信頼を得るほどに。
Dan5:22 ベルシャザルよ、あなたは彼の子であって、この事をことごとく知っていながら、なお心を低くせず、
ひとはそれぞれ常に神様からのチャレンジをうけているということか。3節にあるように「そこで人々はそのエルサレムの神の宮すなわち神殿から取ってきた金銀の器を持ってきたので、王とその大臣たち、および王の妻とそばめらは、これをもって飲んだ。」器には魔術的力はない。しかし、それでも神はひとを導いておられる。
Dan6:4 そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。
実はこのようにしても、ダニエルの信じるところに従って、災いは降りかかる。しかしそれでよいのだ。あとは、神の業に委ねるしかない。わたしもそのように生きたい。
Dan7:13 しかしついには、いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く』。
この国はどのようなものなのかは、あまり記されていない。しかし、かなり難産であることは、確か。
Dan8:12 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。
「衆群」という普段使われないことばが出てくる。王による支配とは異なることが表現されているのか。4人の王と言えるほど、いまの世の中、その罪は単純ではない。
Dan9:4 すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、
「大いなる恐るべき神」という言葉に最初とまどい、これが、ダニエルの神観かとも思ったが、おそらくそうではあるまい。民にかわって懺悔しているダニエルの心を表しているのだろう。民のこころと一つになって。
Dan10:12 すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。
これが祈りの答えだとすると、ダニエルはずっと先に起こるべき事を求めていたのか。帰還後のイスラエルについて知りたかったのかも知れない。しかしこのダニエル書の内容をその後の歴史と結びつけてどのように解釈すべきかは難しい。
Dan11:32 彼は契約を破る者どもを、巧言をもってそそのかし、そむかせるが、自分の神を知る民は、堅く立って事を行います。
この章は「わたしはまたメデアびとダリヨスの元年に立って彼を強め、彼を力づけたことがあります。」と始まっているが、どうも、ダニエルの関心は、神の民にあるように見える。どのように、読むのがよいのだろうか。
Dan12:8,9 わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。 彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。
ダニエルはよくわからない。しかし、この「あなたの道を行きなさい」は理解できる。安心して行きなさいと似ている。知ることを必要以上に求めるのは人を衰弱させる。


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ホセア書

ホセア書(1)

旧約聖書の最後にある十二小預言書に入ります。最初は、ホセア書です。

ホセア書は次のように始まります。(基本的に新共同訳から引用します。)

ホセア書 1章 1節      ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。
「ホセア」は「救う」といういみですが、ここにあるようにベエリの子ということ以外はわかりません。イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムは、ソロモン王のあとの分裂王国時代の北イスラエル王国の通常ヤロブアム二世(在位はBC793-753)と呼ばれる王の事です。ここに出てくる南ユダ王国の王ウジヤ(在位BC783-BC742)、ヨタム(在位BC742-BC735)、アハズ(在位BC735-BC715)、ヒゼキヤ(在位BC715-BC687)のアハズの時代のBC722に首都のサマリアが陥落、北イスラエル王国は、アッスリアに滅ぼされます。ヤロブアムのあともまだ北イスラエル王国はまだ6代つづきますから、この1節の記述をどのように理解するかも難しいですが、書かれている内容からすると、北イスラエル王国の滅亡の直前までが主要な活動時期でしょうか。南ユダ王国では、イザヤやミカという預言者が活動していた時代となります。

今回は、二つのことを書こうと思います。一つ目は、ホセアの結婚関係とこどもについてです。まず驚くのは、1章2節です。9節まで引用します。

2:主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」
3:彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。
4:主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名付けよ。間もなく、わたしはイエフの王家に/イズレエルにおける流血の罰を下し/イスラエルの家におけるその支配を絶つ。
5:その日が来ると/イズレエルの平野で/わたしはイスラエルの弓を折る。」
6:彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず/彼らを決して赦さないからだ。
7:だが、ユダの家には憐れみをかけ/彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い、馬、騎兵によって/救うのではない。」
8:彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
9:主は言われた。「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」
奥さんと三人のこどもが出てきます。今回新共同訳を選んだのは、名前の意味も括弧内に書いてあるからもあります。三人のこどもは、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミです。このあと2章をよめば勘のよいひとは分かると思いますが、「ロ」は否定です。名前としては酷すぎると思います。イズレエルは神は種を蒔くと言う意味ですからよいとして、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民でない者)。イズレエルは5節にも出てくるように、地名でもあります。5節にあるような戦いについては、歴史的な記録は無いようですが、イズレエルは、肥沃な土地で、メソポタミアから続く三日月型肥沃地帯と呼ばれる超えた土地のひとつの端で、北イスラエル王国に属する平地です。同時にカナン人の神(豊穣神)バアル信仰との戦いとして象徴的にでてくる場所でもあります。興味のある人は、列王紀上21章、列王紀下9章10章を読んでみて下さい。

おそらく鍵は、2節なのでしょう。「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』」背景は、これだけからはよく分かりませんが、おそらく、少なくともロ・ルハマ、ロ・アンミは、ホセアの子ではなく、ゴメルと他の男性との間の子だったのではないでしょうか。その大変な経験のなかで、ホセアは神の声を聞いたことが記されています。個人的チャレンジ「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。」と、背信の国へのメッセージです。「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」結婚関係についてはさらに衝撃的なことが3章に書かれていますが、今回はここまでとしておきます。

ホセアを読んでいると、よく分からないことがたくさんあります。かなりの混乱があるようにも思える。それは、わたしがよく読み込めていないこともあると思いますが、同時に、神のみこころが透明感をもって伝わってこない時代だったのではないかなとも思います。

コリントの信徒への手紙一 13章 9節
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
しかし、ホセアは、それでも力強くイスラエル王国に対して預言していきます。7節を見ると南ユダ王国にはまだ一部期待をしているようですが。

二つ目は、わたしの昔からの問いです。高校生の時に、教会の青年会の大学生が、ホセア書を題材に聖書研究会をしてくれ、そのときのタイトルが「神の沈黙」だったのです。6歳も上のおにいさん(信仰の先輩)の話しでしたから、じっと聞いていましたが、まったく分かりませんでした。ホセア書を読む度に、もう40年以上たちますが、その時のことを思い出し「神の沈黙」について考えます。「神を真剣に求めていると思っているのに、神様からなにも応答がないと思えるときについて」ということでしょうか。何も残っていないので分かりませんが、おそらく、5章、6章を学んでいたのだと思います。

ホセア書 5章 6節
彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが/見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。
彼らは、イスラエルとユダ、つまり全イスラエルです。羊と牛を携えてとは、礼拝のために、いけにえを献げることを意味しているのでしょう。「主は彼らを離れ去られた」と書かれています。裁きがこのあと書かれていますが、神自身がその罰を与えることが 12節から書かれ15節へと続きます。
ホセア書 5章 15節
わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。
これにつづく、6章の始めを引用してみましょう。
1:「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
2:二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。
3:我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」
4:エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。
5:それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。
6:わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。
エフライムはイスラエル12部族の一つですが、北イスラエル王国の代名詞のようにしても使われます。これを読むと、民は、真剣に神をもとめているようにも思われます。美しい信仰の表現もあります。しかしその締めくくりは、6節です。マタイによる福音書9章13節、12章7節で引用されていることばです。ホセアのメッセージ、みなさんは、どのように受け取られますか。ホセア書の最後のことばを最後に引用します。
ホセア書 14章 10節
     知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。
梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌
  1. 表題 1:1
  2. ホセアの体験 1:2-3:5
    1. 結婚生活 1:2-9
    2. 回復と更新 1:10-2:1
    3. 背信の民への罰 2:2-13
    4. あわれみによる回復 2:14-23
    5. 背いた者への愛 3:1-5
  3. 主の告発 4:1-7:16
    1. イスラエルの罪と罰 4:1-5:14
    2. 罪に満ちた国家 5:15-7:16
  4. 判決 8:1-10:15
    1. 律法違反に対して 8:1-3
    2. 偶像礼拝に対して 8:4-6
    3. 外国依存に対して 8:7-10
    4. 表面的な礼拝に対して 8:11-14
    5. 霊的堕落に対して 9:1-9
    6. 背信に対して 9:10-17
    7. ベテ・アベンの罪に対して 10:1-8
    8. ギブアの罪に対して 10:9-15
  5. 主の愛 11:1-11
    1. 主の愛と人の忘恩 11:1-4
    2. 背信の報い 11:5-7
    3. 主のあわれみによる回復 11:8-11
  6. 告発 11:12-12:14
    1. ヤコブからイスラエルへ 11:12-12:6
    2. イスラエルからカナンへ 12:7-14
  7. 判決 13:1-16
    1. 偶像崇拝に対して 13:1-8
    2. 神の救いの拒否に対して 13:9-16
  8. 主の愛 14:1-8
    1. 真の悔い改め 14:1-3
    2. 祝福 14:4-8
  9. 結語 14:9


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聖書通読ノート

BRC2023

Hosea 1:2 主がホセアに語られた初め。/主はホセアに言われた。/「行って、淫行の女をめとり/淫行の子らを引き取れ。/この地は甚だしく淫行にまみれ/主に背いているからである。」
これまでは、このあと生まれる子の名前(ロ・ルハマ(憐れまれぬもの)、ロ・アンミ(わが民ではない))ばかり気になっていたが、ここには、「淫行の子らを引き取れ」ともある。つまり、すでに、ゴメルには、正式な夫ではないものの子がいたということだろう。それを、主の命によって引き受けたということである。主(と同様の)の働きなのかもしれない。
Hosea 2:25 私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマを憐れみ/ロ・アンミに向かって/「あなたはわが民」と言う。/彼もまた言う。「わが神よ。」
「あなたがたは兄弟に向かって/「アンミ」と/また姉妹に対しては/「ルハマ」と言え。」(3)とも書かれている。ひどい名前をこどもにつけさせるものだと思っていたが、実際には、このようによばれ、名前が決められた経緯も、こどもたちに伝えられたのかもしれない。そうすると、すごい宗教教育である。理解できないことが多いが、すこしずつ丁寧に読んでいきたい。
Hosea 3:3 私は彼女に言った。「あなたは長く私のもとで過ごし、淫行をせず、ほかの男のものになってはならない。私もまた、あなたに同じようにしよう。」
一夫多妻がそれなりに一般的であった社会においては、二人の女を娶ることは問題ではないのだろう。このようにしていくことは、そう簡単ではない。「そこで、私は銀十五シェケル、大麦一ホメルと一レテクで彼女を買い戻した。」(2)ともあり、これは、結納金ではなく、女が借金のかたになっていたということなのだろう。社会福祉的なことでもある。むろん、一般的には、これで問題がなくなるわけではない。
Hosea 4:15 イスラエルよ、あなたが淫行にふけっても/ユダに罪を犯させてはならない。/あなたがたはギルガルに赴くな/ベト・アベンに上るな。/「主は生きておられる」と誓うな。
1章1節には「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世と、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。」とある。まさに、ヤロブアムが悪を行ったとされる時代なのだろう。ユダでは、それなりに、主に従う王が出たときでもある。背景も、確認したほうが良いかもしれない。「ユダの王、ヨアシュの子アマツヤの治世第十五年に、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムがサマリアで王となり、四十一年間統治した。彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムのあらゆる罪から離れなかった。ただ、レボ・ハマトからアラバの海まで、イスラエルの領土を回復したのはヤロブアムである。イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身の僕、預言者アミタイの子ヨナによって語られた言葉のとおりである。」(列王記下14章23−25節)
Hosea 5:13 エフライムが自分の病に/ユダも己の傷に気付くと/エフライムはアッシリアに赴き/ユダは敵対する王に使者を送った。/だが、彼はあなたがたを癒やせず/あなたがたの傷を治すことはできない。
冒頭にあるように、ホセア書は、北イスラエルと南ユダ双方に言及している預言書のようだ。この章には、複雑な状況が書かれているが、背後には、引用句にあるように、アッシリアの力が巨大化していることがあるのだろう。この章の最後には「私は行って、自分の場所に戻っていよう。/彼らが罪を認めてわが顔を尋ね求め/苦境にあって私を探し求めるときまで。」(15)とある。世界が変化していることを捉えるのは、当時は難しかったろう。現代でも、それを理解するのは、情報化の世界であっても、難しいのだから。真理をもとめ、御心に生きることは難しい。
Hosea 6:3 我々は知ろう。/主を知ることを切に求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/雨のように我々を訪れる。/地を潤す春の雨のように。
主を知ることと、主の訪れを結びつけている。そして、有名な句「私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。/神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない。」(6)が書かれている。主のご性質なのだろう。同様ののもは「人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」(ミカ6:8)短くしたものが、箴言21:3「正義と公正を行うことを/主はいけにえよりも喜ぶ。」にもある。内容的につながるものは、「サムエルは言った。/「主が喜ばれるのは/焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。/それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。/見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記上15:22)「神殿に行くときには、足に気をつけなさい。/聞き従おうと神殿に近づくほうが/愚かな者がいけにえを献げるよりもよい。/彼らは知らずに悪事に染まるからだ。」(コヘレト4:17)また「あなたがたのうちで/わが祭壇にいたずらに火がともされぬように/戸を閉じる者は誰か。/私はあなたがたを喜びとはしない/――万軍の主は言われる。/私はあなたがたの手から供え物を受け取らない。」(マラキ1:10)も関連しているのかもしれない。新約聖書のはマタイ9:13, 12:7 に引用がある。
Hosea 7:1 私がイスラエルを癒やそうとすると/エフライムの罪と/サマリアの悪事が現れる。/彼らは人を欺き/家には盗人が押し入り/外では盗賊が襲う。
北イスラエルの問題が語られている。同時に、南ユダと一体としてイスラエルが語られていることも注目に値する。ホセアの時代の最後には、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされる。この章には、イスラエルが、アッシリアと、エジプトの間で揺れていることがいろいろなことばで表現されている。主に立ち返れと叫んでいるのだろうが、正直、時代的には難しく、北に位置し、ダマスコなどから多くの情報を得ている、北イスラエル、経済的反映をとげたヤロブアム(二世)のもとで、あがいているようにもみえる。わたしには、単純には、北イスラエルを批判できない。
Hosea 8:11-13 エフライムは/罪の贖いをするための祭壇を増やしたが/それは罪の祭壇となった。私は彼のために多くの教えを書き示したが/無縁なものと見なされた。彼らは私の贈り物をいけにえとして献げるが/肉を食べるのは彼らであって/主はそれを喜ばれない。/今や、主は彼らの過ちを心に留め/その罪に罰を下される。/彼らはエジプトに帰るほかはない。
盟主エフライムで代表される、北イスラエル、なにが一番の問題だとホセアが批判しているのかを知りたいと思い、読んでいるが、正直、わたしにはよくわからない。ホセアは、妻たちのこともあり、汚れた世の中も知っているだろう。国際的な関係の持ち方についての批判はできても、日常生活についての批判についてはできなかったのだろうか。なにを大切にしているかは、判断が難しい。
Hosea 9:13,14 エフライムは私が見たかぎり/見事に植えられたティルスのよう。/だが、エフライムは自分の息子たちを/人殺しに引き渡すことになる。主よ、彼らに与えてください/あなたが与えようとされるものを。/彼らに与えてください/子を宿さない胎と涸れた乳房を。
アッシリアによってエフライムを盟主とする北イスラエルが滅ぼされることが近いときの預言なのだろう。引用した13節など、理解しにくい表現が多い、しかし同時に、14節のように、その裁きを望んでいるような預言者のものと思われることばにも、衝撃をうけた。丁寧に読んでいきたい。
Hosea 10:12,13 あなたがたは正義のために進んで種を蒔き/慈しみの実を刈り入れよ。/新しい土地を耕せ。/主を求める時が来た。/主はやがて来られ/あなたがたを義で潤す。ところがあなたがたは不正を耕し/不法を刈り取り、欺きの実を食べた。/しかも、あなたは自分の振る舞いと/軍勢の多さを頼みとした。
悪を責めていることは、理解できるが、一般的なもののように思われる。因果応報を求めるのか。この時代の難しさも感じる。むろん、個人のレベルでは、周囲の悪に苦しみ、心を痛め、主のみこころを求め続けたひともいるのだろう。正しさは、主張することはできても、正しさに導くことは、難しい。預言者にとっても、おそらく、主にとっても。
Hosea 11:1-4 まだ幼かったイスラエルを私は愛した。/私はエジプトから私の子を呼び出した。しかし、私が彼らを呼んだのに/彼らは私から去って行き/バアルにいけにえを献げ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支え/歩くことを教えたのは私だ。/しかし、私に癒やされたことに/彼らは気付かなかった。私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き/彼らの顎から軛を外す者のようになり/身をかがめて食べ物を与えた。
ほんとうに、これが、父なる神様の思いなのだろうかと思う。たしかに、自分がいま生きる世界からの先入観があり、当時は、このような先入観があったのではないかという予断もある。しかし、そうであっても、神様がこのような方だとは思えない。たんなる自己投影なのだろうか。
Hosea 12:8,9 商人は偽りの秤を手にして、だまし取ろうとする。エフライムは言う。/「私は確かに豊かになり、富を得た。/この私の労苦の実りすべてが/罪から出た悪だとは誰も気付くまい。」
このように表現されてはいるが、列王記下14章23−25節の記述が背景にあるのだろう。悪を行い、経済は繁栄する。それを、どう捉えるのか。批判した一人が、ホセアだったのだろう。現代とも通じる面もあるように思う。なにを大切にするのかにも関係しているのだろう。もっと丁寧に読んでみたいと思う。
Hosea 13:15 エフライムは兄弟の中で最も栄えている息子。/しかし東風が吹きつける。/荒れ野から主の風が舞い上がって来る。/泉は涸れ、井戸は干上がる。/富、貴重な財宝はすべて奪い去られる。
この章も、エフライムについて語られている。エフライムは、北イスラエルの盟主としても、このように、単独で語られると、北イスラエルは基本的に、エフライムなのかとも思われる。南ユダには、ベニヤミンや、シメオンもいたと思われるが、ユダと呼ばれるように。やはり部族連合としてのつながりが強く、その中でのリーダーということか。もう一つ、(南)ユダのひとたちが、エフライム(北イスラエル)をどう見ていたかということである。それが、このホセア書の重要な点なのかもしれないと思った。ホセアはどのような背景の人なのだろうか。
Hosea 14:4 アッシリアは我々の救いとはなりません。/我々はもはや、馬には乗りません。/自らの手の業にすぎないものを/私たちの神だとは二度と言いません。/ただあなたによってこそ/みなしごは憐れみを受けるのです。」
この部分も含めて、ホセアの叫びのように聞こえる。同胞として痛みをもって叫んでいるように感じる。ホセア書は、もう少し丁寧に学んでみたいと思った。エレミヤのころは絶望的だが、このホセアのころは、まだ希望ももちながら、民に訴えている。ただ、世界史的には、困難な、大帝国時代に突入し、どのように生きるかは、とても難しい時期だとも思うが。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Hosea 1:1,2 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世と、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。主がホセアに語られた初め。/主はホセアに言われた。/「行って、淫行の女をめとり/淫行の子らを引き取れ。/この地は甚だしく淫行にまみれ/主に背いているからである。」
不思議な、かつ違和感がある始まりである。まず王の名、ユダとイスラエルの王の名が併記されている。在位期間も資料によって異なるが、ユダの王、ウジヤ(BC774-BC748)、ヨタム(BC748-BC732)、アハズ(BC732-BC716)、ヒゼキヤ(BC716-BC698)、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアム(BC789-BC748)、そしてアハズの時代のBC722 に北イスラエルの首都サマリア陥落。年代的にバランスがとれていない。また「淫行の子ら」と書いてあるが、このあと「そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。」(3)とあり、父親の名前も記されている女性と結婚し、こどもが生まれている。名前は、実際にこの名前だったのかは不明だが。イズレエル(神が蒔く、肥沃な地域の名前)、ロ・ルハマ(憐れまぬ者)、ロ・アンミ(わが民ではない)。
Hosea 2:24,25 地は、穀物と新しいぶどう酒/新しいオリーブ油に答え/それらはイズレエルに答える。私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマを憐れみ/ロ・アンミに向かって/「あなたはわが民」と言う。/彼もまた言う。「わが神よ。」
一見、眉を潜めたくなる名前をつけているが、ここでは、それが祝福と変えられることが書かれている。「イズレエルの日は、大いなるものとなる。」(2)ロ・アンミ(わが民でない者)は、「生ける神の子ら」と呼ばれるように(1)「アンミ(わが民)」と言え(3)「ロ・ルハマ(憐れまぬ者)」ではなく「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。実際の名前かどうかはわからないが、こどもの成長を見る中で、神の祝福の信仰に至ったのかもしれない。希望をもったということだろうか。むろん、よくはわからない。なかなか、通読ではじっくり読むことはできない。
Hosea 3:3 私は彼女に言った。「あなたは長く私のもとで過ごし、淫行をせず、ほかの男のものになってはならない。私もまた、あなたに同じようにしよう。」
主の言葉「行って、ほかの男に愛され、姦淫を繰り返す女を愛せよ。」(1)から始まる。主と同じ経験ということだろうが、これだけでは、あまりに、不明なことが多い。特に、女性のことばが書かれていない。あまりに、現代的な考えなのだろうか。難しい。
Hosea 4:14 だが、娘たちが淫行にふけっても/嫁たちが姦淫をしても、私は罰しない。/男たちも遊女らと一緒になって離反し/神殿娼婦らと共にいけにえを献げるからだ。/悟りのない民は滅びる。
最後のことばは強烈である。しかし、この次の節は「イスラエルよ、あなたが淫行にふけっても/ユダに罪を犯させてはならない。/あなたがたはギルガルに赴くな/ベト・アベンに上るな。/「主は生きておられる」と誓うな。」(15)となっている。この時点では、ユダにはまだ望みがあると思われていたのだろう。しかし、このように考えることができるのは、この時代が最後なのかもしれない。大国が押し寄せる日は迫っている。
Hosea 5:14,15 私はエフライムには獅子となり/ユダの家には若獅子となる。/ほかならぬこの私が引き裂き、奪い去り/誰も救い出す者はいない。私は行って、自分の場所に戻っていよう。/彼らが罪を認めてわが顔を尋ね求め/苦境にあって私を探し求めるときまで。
ここに書かれていることよりもたいへんなことが起ころうとしている。まだ、ホセアのころには、希望があったのだろうか。しかし、北イスラエルは、分裂時からすでに、危機的な状況であるように思うが。北イスラエルで活躍していた、預言者集団についていつかまとめて学んでみたい。
Hosea 6:3 我々は知ろう。/主を知ることを切に求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/雨のように我々を訪れる。/地を潤す春の雨のように。
このあとの、北イスラエル、南ユダのことを知っていると、なかなか素直に受け入れられないが、それでも、この言葉は、印象深い。当時のひととわたしたちをつなぐ、信仰のきづなのようなものだろうか。主への信頼だろうか。そう単純ではないけれども。
Hosea 7:6,7 彼らはかまどのように/自分たちの心を陰謀に近づける。/彼らのパンを焼く者は夜には眠り/朝には炎のように燃え盛る。彼らは皆、かまどのように熱くなって/その支配者たちを食い尽くした。/彼らの王たちは皆倒れた。/それでも、彼らの中に私を呼ぶ者は一人もいない。
「かまど」の比喩がよくわからない。この前に「彼らは皆、姦淫を行う者/燃えるかまどのようだ。/パンを焼く者は生地をこね/それが膨らむまでは、かまどの火をかき立てない。」(4)とあるので、通常は、かまどには、いつも火が入っているわけではなく、たとえばパンを焼くときには、発酵のために待つ時間があるはずだと言っているのだろうか。それを、ひっきりなしに、火を炊く。しかし「彼らはかまどのように/自分たちの心を陰謀に近づける。/彼らのパンを焼く者は夜には眠り/朝には炎のように燃え盛る。」(6)をみるとそうではないようだ。メッセージはその次にある。「彼らは皆、かまどのように熱くなって/その支配者たちを食い尽くした。/彼らの王たちは皆倒れた。/それでも、彼らの中に私を呼ぶ者は一人もいない。」(7)結局よくわからない。神様の Give me a break! かな?
Hosea 8:13,14 彼らは私の贈り物をいけにえとして献げるが/肉を食べるのは彼らであって/主はそれを喜ばれない。/今や、主は彼らの過ちを心に留め/その罪に罰を下される。/彼らはエジプトに帰るほかはない。イスラエルはその造り主を忘れ/宮殿を建て連ねた。/ユダは城壁に囲まれた町を多く築いた。/私はそれらの町に火を放ち/火は城郭をなめ尽くす。
イスラエルとユダについて批判が書かれている。イスラエルにおいては、霊的ではない礼拝。ユダにおいては、主に信頼せず、城壁のような物理的なものに信頼をおいているということか。正直、わたしには、よくわからない。時代的に、超大国が中東に興り、覇権を争う時代になっている。それをどう受け止めるかは、簡単ではないように思う。主の平安はどのようにしたら得られるのだろうか。
Hosea 9:8 エフライムを見張る者はわが神と共にある。/だが、預言者は彼の行く道すべてに/鳥を捕る網を仕掛け/彼の神の家には敵意が満ちている。
「彼らは主の地に住むことなく/エフライムはエジプトに帰り/アッシリアで汚れたものを口にする。」(3)はサマリアの陥落、アッシリアへの捕囚を想起させる。エジプトに行った民は多かったのだろう。しかし、捕囚を明確には語っていないということは、それが起こる以前に書かれたということだろうか。引用句の「エフライムを見張るもの」とは誰だろうか。どのようなものだと想定しているのだろうか。天使のような存在を考えていたのか、守護神のようなものが考えられていたのか。預言者は、その声を聞き、仕えることが必要なのだろう。そして、ホセアもそのような預言者に苦しめられていたのかもしれない。
Hosea 10:6 子牛はアッシリアへ運ばれ/敵対する王への貢ぎ物となる。/エフライムは辱められ/イスラエルは謀を恥じる。
5節には「サマリアの住民は/ベト・アベンの子牛のゆえにおののく。/民はそれについて嘆き悲しみ/神官たちは身を震わせる。/栄光が取り去られたからだ。」ともある。子牛については、聖書に様々な記述がある。モーセの時代にアロンが関係して作成したもの(レビ記23章33,34節)そして、ここで言われているのは、ヤロブアムが作ったものだろう。「王は周囲に助言を求めたうえで、二体の金の子牛を造り、そして言った。『あなたがたがエルサレムに上るのは大変である。イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った神々である。』」(列王記上12章28節)「ヤロブアムはユダでの祭りと同じく、第八の月の十五日に祭りを執り行った。そして自分が造った子牛にいけにえを献げるため、ベテルに造った祭壇に上った。また、自分が造った高き所のための祭司をベテルで任命した。」(列王記上12章32節)北イスラエルの象徴だったのだろう。
Hosea 11:8,9 エフライムよ/どうしてあなたを引き渡すことができようか。/イスラエルよ/どうしてあなたを明け渡すことができようか。/どうしてアドマのようにあなたを引き渡し/ツェボイムのように扱うことができようか。/私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。私はもはや怒りを燃やさず/再びエフライムを滅ぼすことはない。/私は神であって、人ではない。/あなたのただ中にあって聖なる者。/怒りをもって臨むことはない。
実際には、エフライム、北イスラエルは、完全に崩壊する。しかし、このような憐れみのこころが記されていることは、興味深い。主の御心を知ることは、主の苦しみと憐れみを知ることなのだろう。
Hosea 12:1,2 エフライムの欺きと/イスラエルの家の偽りが私を囲んだ。/だがユダはなお神と共に歩み/聖なる者たちと共に忠実である。エフライムは風を養い/一日中東風を追い/虚偽と暴虐を増す。/アッシリアと契約を結びながら/エジプトに油を贈る。
北イスラエルから見ると、ユダは神と共に歩んでいるように見えるのだろう。比較的ということなのだろうか。引用句の後半には「アッシリアと契約を結びながら/エジプトに油を贈る」ことが批判され「あなたはあなたの神に立ち帰れ。/慈しみと公正を重んじ/絶えずあなたの神を待ち望め。」(7)と倫理的なことが語られている。外交は、やはり大切なことだと思う。むろん、それで解決するわけではないが。内向きに自分を正していれば、偽善的な自己満足は得られても、異質な他者と互いに愛し合うことはできない。
Hosea 13:5,6 荒れ野で、乾いた地で/私はあなたを知った。養われて、満ち足りると/その心は高ぶり/彼らは私を忘れた。
様々な原因を、霊的なこと、倫理的なことに求めているように感じる。そのことがたいせつなことは事実としても、世界の課題は、それだけを考えればよいことではない。特に、当時の世界状況の変化、そして現代のように、国際状況の複雑さ、地球規模、ひょっとすると宇宙規模での、変化。そのある部分は、ひとは、知ることができるようになっている。それも、神様が知らせてくださっているものとして丁寧に受け取る必要があると思う。このことを一つのテーマとして学んでいきたい。
Hosea 14:3,4 あなたがたは言葉を用意し/主に立ち帰って、言え。/「どうぞ罪をすべて赦し/良いものを受け取ってください。/私たちは唇の実を献げます。アッシリアは我々の救いとはなりません。/我々はもはや、馬には乗りません。/自らの手の業にすぎないものを/私たちの神だとは二度と言いません。/ただあなたによってこそ/みなしごは憐れみを受けるのです。」
ここに、ホセアのメッセージがあるのだろう。このあとには、回復・恵み・救いのことばが続く。しかし、ほんとうに、これで問題が解決するのだろうかと思う。すべてのひとが、完全に悔いあらためることを確認することは、不可能とすれうば、このことばが真実ではないとはいえない。同時に、真実だとも言えない。たとえ、ある程度の回復がなったとしても。難しい。やはり、求め続けることだけなのだろうか。もう少し深めたい。

BRC2019

Hos 1:1,2 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」
イザヤっよりも前の時代の預言者であることがわかる。ホセアを読んでいると「淫行の女をめとり」とかこのあとのこどもの名前など主の命令はかなり乱暴だなと感じていたが、今回は、少し違う設定の思いが浮かんだ。乱暴だと感じてしまうと、その先に思考する大きな障害になってしまい、思考停止に陥るからもある。引用箇所も妻を娶るときに、どこかでその女性の「淫行歴」またはその噂を聞き、結婚をどうするか迷う状況も考えられる。主に求めるなかで、与えられた言葉なのかもしれない。こどもの名前にしても、個人的にはそのことを思い出させるような音の名前だったのかもしれない。それよりも、こどもの存在からも、ホセアは学ぶことが、考えることが、主から受け取ることが多かったのではないだろうか。イズレエル(流血を思い出させるような)、ロ・ルハマ(憐れまぬもの)、ロ・アンミ(わが民ではない者)もしかするとこどもにかかわるエピソードもあり、考えさせられたのかもしれない。ホセアも悩んだことだろう。妻についてこどもについて。その悩みは民に対することともつながっていたのかもしれない。
Hos 2:24,25 地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ/それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。
妻との間、こどもたちとの間になにがあったかわからないが、やはりなんらかの経験が主のみこころを知っていることと関係しているように思う。そうやって読むと、一つ一つ身近なものになっていく。妻との関係、こどもたちとの関係、それは自分と主との関係でもあり、自分を、そして人々について振り返りながら、主の働きを理解していくステップひとつの道筋なのかもしれない。このホセアと共に歩むことができたらと思う。
Hos 3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」
実際の生活として生きることには驚かされる。「そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。わたしは彼女に言った。『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。』」(2,3)現代的な基準からみるとかなり乱暴である。しかし、同時に、主の苦しみをともに味わいながら主の御心を問う姿勢からは学ぶことがあるように思う。特にイエス様は問題だらけのこの世を歩まれたのだから。
Hos 4:14 娘が淫行にふけっても/嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。親自身が遊女と共に背き去り/神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。悟りのない民は滅びる。
最後の「悟りのない民は滅びる」が印象的である。まず、自らを省みて主が憎まれることをさ避けることだろうか。おそらく、みこころを求め続けるといまのわたしなら表現するだろう。ただ、内向きだけでよいのかということは、考える。わたしにできることは、なすべきことは何なのだろう。
Hos 5:15 わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。
エレミヤ、エゼキエルなどを読んでここに至ると、なにか平和を感じてしまう。主は変わらないのだろうが、周囲の状況によって、主からのメッセージの受け取り方も変わっていくのかもしれない。また、平和の中で育むもの。国がなくなってしまうような危機ではないときに、どのように生きるかも問われているように思う。主は、わたしたちが捜し求めることを待っておられるのだろう。
Hos 6:3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」
このあとに有名な「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(6)に行き着くが、日常的にこのことばを生きることは難しい。やはり、基本は「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。」に尽きるのかもしれない。それは、どのようなときにあっても。そして、愛に生きることだろうか。
Hos 7:1 イスラエルをいやそうとしても/かえって、エフライムの不義/サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。盗人は家に忍び込み/外では追いはぎの群れが人を襲う。
癒そうとしても癒やされる側の問題のために癒やすことができないというのか。癒やしを救いとしても、平安を与えるとしても同じかもしれない。それはなぜだろうか。主たる原因はなんだろうか。「他国の人々が彼の力を食い尽くしても/彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても/彼はそれに気づかない。イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず/これらすべてのことがあっても/主を尋ね求めようとしない。」(9,10)とある。自らを省みず、高慢で、主を尋ね求めないということのようである。自らの罪、状態、危機的な状況を認めて、へりくだり、主を尋ね求めてはじめて主が癒やしてくださるのだろう。
Hos 8:14 イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが/わたしはその町々に火を送り/火は城郭を焼き尽くす。
ホセアの総括のように思われる。現代から見ると、他にも原因はあったように思う。大帝国時代になり、かつ、人の世界的交流もましている。その中で、宗教国家の閉鎖的な価値観では、立ち行かないことがあるように思えてしまう。このような見方は高慢で、もっと謙虚に考えるべきなのだろうが。このあとの歴史を見ていると、しかしながら、問題はもっと複雑であるように思えてしまう。
Hos 9:1 イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し/どこの麦打ち場においても/姦淫の報酬を慕い求めた。
ホセア書の始まりを見ても、姦淫・淫行などが、キーワードなのかもしれない。「偶像礼拝は、契約を結んだ神ではなく神と言えないものに望みを置くことだろうか。姦淫はどうだろうか。「正式な婚姻関係にある妻(人生を共に歩むパートナー、または神)との祝福から離れて、快楽・他の喜びを楽しみとすること。」だろうか。ここには「姦淫の報酬」ということばもある。スポーツや音楽やゲーム、学問なども同等なのだろうか。幸せとは、平安とは何なのだろうか。それ自体ではなく、それに近づく方法論や、手にすることができる見える報酬を求めること。それ自体がわかっていなければ、結局同じであるようにも思う。また考えよう。
Hos 10:1,2 イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。
嵐の前夜のような印象を受ける。すでにアッシリア(6)の驚異は大きかったはずである。「伸び放題のぶどうの木」という表現は興味深い。自由さを感じると共に、剪定をしなければ、実はならない。調べないとわからないが、実の数は増すのかもしれない。特定の目的のための効用(efficacy)や特定の尺度での効率(efficiency)で評価しているために起こることなのだろう。全人的なということを、もうすこし、丁寧に表現することばや方法を考えたい。
Hos 11:11 彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。
ホセア書は、どの時代の預言なのかは不明である。北イスラエルが活発な活動をしていたヤロブアム(二世)の時代から、未南ユダ王国のヒゼキヤの時代までが活動期と1章1節にあるので、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるところは経験しているのだろう。ホセア(救い)が描いたのは「恐れつつ飛んで来る」信仰に立ち戻った回復だろう。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」(8)とあるように主の憐れみ以外には、ないこともホセアは告白している。人間の側には解決の方法はなにもないのだろうか。すべきこともあるように思う。
Hos 12:7 神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち/常にあなたの神を待ち望め。
イザヤ・エレミヤ・エゼキエルと読んで来ると、このような一般的なことで良いのかと不安になってしまう。危機感は、そのときの状況によるのかもしれない。ホセアの時代は、このようなメッセージを伝えることが求められたのだろう。今は、どうなのだろうか。正直、わたしには、わからない。人間社会に問題があることは、十分に理解できるが、なにを一人ひとりに求めればよいのだろうか。むろん、自分自身も含めて。そのことを、日々求めていきたい。わたしには、それしか言えない。
Hos 13:1 エフライムが語れば恐れられ/イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので/彼は死ぬ。
エフライムの消滅はアッシリアによってほどなく起こる。「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。」(14)からみても、希望はないように思われる。ホセアの中では、これをどう理解したのだろうか。それまでも、憐れみ深い主、赦される主であったはずだ。北イスラエルの10部族は、散らばって住んでいたと思われるレビ族以外どうなってしまったのだろう。変化なのだろうか。
Hos 14:5 わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
エフライム、イスラエルの回復の希望について語られているようだ。新共同訳ではタイトルが「エフライムの回復と祝福」となっているが、そこまで明確なメッセージは読み取れない。どの時点で書かれたかはわからないが、アッシリアに滅ぼされ、捕囚となった時期であることは確かだろう。主への基本的な姿勢は「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。」(10)とし、回復を非常にうつくしいものとして描いているが「露のようにわたしはイスラエルに臨み/彼はゆりのように花咲き/レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり/オリーブのように美しく/レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び/麦のように育ち/ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。」(6-8)難しい。

BRC2017

Hos 1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず/彼らを決して赦さないからだ。
こどもにこんな名前をつけることがあるのだろうか。もしかすると、家では、否定をとって「ルハマ」(2:3参照)と呼び、しかし、ホセアはその背後にある名付けの意味を思っていたかもしれないとすら想像してしまう。この時代はアッシリアの驚異のもとにはあったが、滅ぼされるまでは時間がある。その意味で警告としての預言の意味があることは、確かだろう。もう少し実際の背景を知りたい。
Hos 2:10 彼女は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え/バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは/わたしだということを。
ひとは、目に見える、手段に手がかりをもとめ、本質的な目的を見ようとはしない。弱さの故だろうか。
Hos 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。
身売りをした売春婦だったのだろうか。当時に状況はよくわからないので批判的にはなれないが、妻はどうしたのかなども、気になる。値段についても、興味を持つ。これは相場だったのだろうか。男奴隷と差があったのだろうか。やはり、丁寧に学ばないと、簡単には、何も結論づけられない。
Hos 4:14 娘が淫行にふけっても/嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。親自身が遊女と共に背き去り/神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。悟りのない民は滅びる。
「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。」(11節)が印象的である。その故に、悟ることができなくなっているといっているのだろう。中毒は病気だが、その前の段階で、悟りを求めないといけない。何が鍵なのだろうか。神をもとめ、その真意を追究することだろうか。すくなくとも、自分の周囲のものから、目を離すことは必要である。
Hos 5:13 エフライムが自分の病を見/ユダが自分のただれを見たとき/エフライムはアッシリアに行き/ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず/ただれを取り去ることもできない。
まずわかることは、イスラエルを中心に書かれていること。ユダについても、大きな差はないとしていることである。ユダの人は、不満もあったのではないだろうか。また具体的な「ただれ」「アッシリアに行き」と「大王の使者を送った」に違いはあるのか。おそらく、どの時代かによっても、異なるだろう。ある期間かけて成立したであろうから、解釈は難しい。
Hos 6:3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」
美しい。主を知ること、それを、求めることに集中している。そして、信頼である。最後の雨の潤いは、豊かに実りを与えることを、暗示しているのだろうか。この信仰は、人々の間に、捕囚の間も続いたのだろうか。
Hos 7:1 イスラエルをいやそうとしても/かえって、エフライムの不義/サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。盗人は家に忍び込み/外では追いはぎの群れが人を襲う。
何を問題としているのだろうか。「彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び/穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが/わたしには背を向けている。」(14節)からすると、自らが、惨めな状態であることは、理解している。しかし、自らを変えなければいけないとは、考えていないということだろうか。神に、自らを、ゆだねることができないと言うことだろうか。変えなければいけないとは思っているのかもしれない。複雑である。人の心は。
Hos 8:10 彼らは諸国に貢いでいる。今や、わたしは諸国を集める。諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって/彼らはもだえ苦しむようになる。
貢ぐことでは行き詰まるのはわかっていても、それ以外に、解決方法は見つからない。本当に、神に従うことが求められていたのだろうか。正直、わたしには、疑わしく感じる。苦しみの始まりなのかもしれない。神に従うことは、何かを問うことの。
Hos 9:4 主にぶどう酒をささげることもできず/いけにえをささげても、受け入れられない。彼らの食べ物は偶像にささげられたパンだ。それを食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。
主に拒絶され、神との関係から断絶されて生きることの象徴がこのように表現されているのだろう。捧げ物が受け入れられないこと、偶像礼拝で汚れた食物を食すること、このことと、現在の霊的とは言えない礼拝とが重なり合っている。
Hos 10:12 恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。
愛の実りとは何だろうか。ここだけにしかない言葉のようだ。愛は、神の愛だろうか。最初も恵みの業をもたらすとある。これも、神からの祝福を意味するのだろう。
Heb 11:4 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。
「身をかがめて」という明確なことばは原語にないが、3節から続く表現は、主が、人に奉仕してくださった様子がうかがえる。前半の「人間の綱、愛のきずな」という表現も、様々に訳せるかもしれないが、人間世界において、ひとを結びつける最も大切なもので、導いたのだという雰囲気が美しく表現されている。驚かされる。
Heb 12:7 神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち/常にあなたの神を待ち望め。
これが、ホセアが一番、伝えたかったことだろう。「エフライムは風の牧者となり/一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね/アッシリアと契約を結び/油をエジプトへ貢ぐ。」(2節)にあるような北イスラエル王国に関する背景のもとで、「主はユダを告発される。」(3節a)と、ユダも同罪と簡単に述べてヤコブ(イスラエル)の子ら全体への告発と同時に、戻るべき場所を示している。愛と正義、そして神にのみ希望を持ち待つことか。
Hos 13:11 怒りをもって、わたしは王を与えた。憤りをもって、これを奪う。
王を求めることは、主に信頼すること、ずれを生じてしまうのだろう。怒りと、憤りはどう違うのかよくわからないが、結局は、本質を直視していなかったと言っているのだろうか。判断は、難しいが、ポジティブではない。政治と結びついて民を一つの信仰に結びつけることは、困難なのだろう。
Hos 14:3,4 誓いの言葉を携え/主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り/恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを/再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は/あなたにこそ憐れみを見いだします。」
ホセアが最も言いたかったことのように思われる。しかし、それは、すでに遅いこともおそらく知っている。10節までこのあと、美しい言葉が続く。ホセアの信仰告白と言えるものだろう。しかし、それを、人々と共有することは困難である。

BRC2015

Hos1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」
どう理解すれば良いか困難である。今回、考えたのは後半である。1章には3人の子供について書かれているが、これらも、ホセアの子ではないのだろうか。他の取り方もあるだろう。ホセアはどのようにしてこのメッセージを受け取ったのだろう。苦しみのなかで、信仰告白として、御心として受け取ったのだろうか。子供たちの名前は、本当の名前だろうか。ホセアにとっては、信仰告白でも、子供にとってはそうではあるまい。不明な事だらけである。
Hos2:24,25 地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ/それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。 わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。
1章の三人のこどもの名、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミの真の意味が示されているのだろう。正直、理解を超える。一つ、新しい発見がしたので記す。「その日には、わたしは彼らのために/野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち/彼らを安らかに憩わせる。」(20節)「野の獣、空の鳥、土を這うものと」の「契約」である。聖書では、珍しい記述ではないかと思う。
Hos3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」
記述の仕方から、1章のゴメルとは別人だろう。ゴメルはどうなったのだろう。神からのメッセージを受け取る忠実さは理解できるが、乱暴にも見える。詳細はわからない。この女性のもとに「とどまる」としたホセアは、何を学び、どのような苦しみを経験したのだろうか。
Hos4:19 欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み/彼らはいけにえのゆえに恥を受ける。
文脈からは、直接的には、北イスラエル王国の人たちについて言っているようである。前半は、ひとが欲望の虜となっている姿が巧みに表現されている。後半は、偽善だろうか。自分の罪を直視せず、それを覆い被す行為、神に対して覆い隠すことはできないことを知りつつも、ひとからは、神を畏れる者との認識を得ていたい。おそらく、そう考えるのも、欲望の達成と関係しているのだろう。神を神としないこととも言えるかもしれない。「恥を受ける」は、終末的な裁きなのだろうか。それとも、本来は自分でそのときに認識することのできる裁きなのだろうか。ホセアは新鮮でもある。時間をとってじっくり読まないと、理解することができない。
Hos5:15 わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。
ホセアが受け取ったメッセージである。ホセアにとっては、北イスラエルはすぐに、そして南ユダ王国もいずれ近いうちに、裁かれることは明らかにみえたのだろう。1章1節の時期設定から考えると、北イスラエルが政治的には最後の安定期とも考えられる。正確にどの時期に書かれたかは分からないが、すでに、アッシリアに北イスラエルが攻められていた頃なのかもしれない。ホセアは、主の臨在を意識していたから、このように書けたのだろう。主が立ち去った状態を預言者はどのように予想していたのだろうか。
Hos6:1-3 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。 二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」
よい告白に思えるが、4節には「エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。」とある。もう一度、1-3を読み返すと、結局は自分の考えであって、へりくだって、悔い改め、主の御心を求めていないと言うことだろうか。自分の都合の良いように、主の働きを考える。そこでは、主の業を見ることはできないのかもしれない。
Hos7:13,14 なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても/彼らはわたしに偽って語る。 彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び/穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが/わたしには背を向けている。
直接的には、イスラエルに向けられた言葉である。とても悲しくなるが、これこそが現実なのだろう。特に、最後の言葉は印象的である。「寝床の上で泣き叫び/穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが/わたしには背を向けている。」これこそが罪、ヨハネ的には闇のなかで生活するものの姿なのだろう。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3章19-20節)裁きのもとに置かれているものの姿だろう。闇にいることも、光に向かうことも、主体的自由のもとで可能と考えると、おかしくなると思われるが。
Hos8:11 エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった。
このあとの13節a「わたしへの贈り物としていけにえをささげるが/その肉を食べるのは彼らだ。主は彼らを喜ばれない。」も関連していて辛辣である。14節aには「イスラエルはその造り主を忘れた。」とある。創造信仰が鍵なのだろうか。本質は分からない。
Hos9:1 イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し/どこの麦打ち場においても/姦淫の報酬を慕い求めた。
ホセアの時代は、北イスラエル王国の最後の繁栄時期、しかし、信仰的には、姦淫の時期なのであろう。凋落を感じ取っていた人はいたかもしれない。しかし、ホセア預言者とても厳しい。この章でも、イスラエルはその盟主エフライムの名で代表されていることが多い。北イスラエル王国における部族の関係はどのようなものだったのだろう。
Hos10:3 今、彼らは言う。「我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか」と。
アッシリアに滅ぼされたあとの状態の表現と思われる。王の存在は、何だったのだろうか。主に対する告白は正しくとも、殆ど意味がない。知識と信仰、そして決断と行動は異なるからか。とても寂しい。ホセア書がそれぞれどの時代に書かれたかも、もう少し知りたいが、それとは別に、メッセージを受け取る必要もあるのだろう。今回、十分メッセージを受け取れてはいないのだから。
Hos11:7 わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも/助け起こされることは決してない。
イスラエルはエフライムはもう戻らないのだろうか。実際にこの民はどうしているのだろうか。あまりにも、私が知っている知識は少ない。ユダ、ベニヤミン、レビ以外の種族は、どうなっているのだろうか。一部はサマリヤとなっていたとしても。このホセアの預言の先がわからない。
Hos12:15 エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し/その恥辱を彼に返される。
正直、心配になる。エフライムや、イスラエルを一括して、このように裁いて良いのだろうか。本当に、主は怒っておられるのだろうか。私には、どのような視点が欠けているのだろうか。ホセアが見たものは、ここに書かれている一部分だということだろうか。
Hos13:6,7 養われて、彼らは腹を満たし/満ち足りると、高慢になり/ついには、わたしを忘れた。 そこでわたしは獅子のように/豹のように道で彼らをねらう。
基本は因果応報である。しかし、これも、悔い改めを促すため、わかりやすく示しているとも言えないこともない。神の御心を求め、これが神の御心と確信して受け取った信仰者が、預言者としての召命をうけ記す。この行為について、ゆっくり考えたい。聖書解釈の大切な核だと思うので。この場合は獅子であるが、神の擬人化もわかりやすい反面、現実に起こったことを、直接的に神の業とみてしまう危険性もある。私自身の言葉の使い方にも、注意しなければと思わされる。
Hos14:10 知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。
この章に至ってやっとすこし息をつぎ安らぎも感じるが、ここでも、預言者の目は、厳しさを保っている。そして、信仰告白のような、この言葉が、ホセア書の最後の節である。この葛藤の中で生きること、それは信仰生活の重要な部分であることは、理解できるが、それが信仰生活なのだろうかと考えると、わたしには、わからない。限定された期間、この世での、有限の責任ではあっても、忍耐をもって堪えることが、信仰の本質なのだろうか。そのことを通して、真理の扉がほんの少しずつ開かれていくことは経験として否めないが。ボンヘッファーのように「神の前に、神と共に、神なしに生きる」と言い切って良いのだろうかという問いである。これは、ボンヘッファーに与えられた信仰告白なのかもしれない。

BRC2013

Hos1:1 ユダヤの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。
イザヤとほぼ同時代のようである。イザヤより早く活動を終え、ヤラベアムIIの繁栄のみで北イスラエル王国の滅亡を見なかったのか。NB. Lo-Ruhamah (not loved), Lo-Ammi (not my people)
Hos2:6,7 それゆえ、わたしはいばらで彼女の道をふさぎ、かきをたてて、彼女には/その道がわからないようにする。 彼女はその恋人たちのあとを慕って行く、しかし彼らに追いつくことはない。彼らを尋ねる、しかし見いだすことはない。そこで彼女は言う、『わたしは行って、さきの夫に帰ろう。あの時は今よりもわたしによかったから』と。
これも主の導き。しかしこれほど単純に主に帰るだろうか。このあとには、新しい契約が続く。契約については、一度ゆっくり勉強したい。
Hos3:5 そしてその後イスラエルの子らは帰って来て、その神、主と、その王ダビデとをたずね求め、終りの日におののいて、主とその恵みに向かって来る。
ダビデ王なのか。これはイエスの福音とは、かなり異なるものではないのか。そのように理解してもよいのだろうか。このようにして、主に帰ってくることは本当にあるのだろうか。
Hos4:14 わたしはあなたがたの娘が淫行をしても罰しない。またあなたがたの嫁が姦淫を行っても罰しない。男たちみずから遊女と共に離れ去り、宮の遊女と共に犠牲をささげているからである。悟りのない民は滅びる。
4節にあるように「しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。」責任のあるのは、祭司であると言い切っている。そしてこの節に至り「悟りのない民は滅びる。」としている。実際に起こっていることを内面化しないものはと言うことだろうか。
Hos5:1 祭司たちよ、これを聞け、イスラエルの家よ、心をとめよ、王の家よ、耳を傾けよ、さばきはあなたがたに臨む。あなたがたはミヅパにわなを設け、タボルの上に網を張ったからだ。
北にも祭司たちがいたのだろう。ミヅパ、タボルは、サマリヤとは異なる、民をさばく場だったのか。不明。
Hos6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ここでは、あわれみではなく、神を知ることになっている。3節にも出てきている。神を知るはどのように受け入れられていたのだろう。
Hos7:14 彼らは真心をもってわたしを呼ばず、ただ床の上で悲しみ叫ぶ。彼らは穀物と酒のためには集まるが、わたしに逆らう。
的確な表現で、現代でも同じことがなされていると言えるだろう。なぜそうなるのだろうか。頭が悪いからか。おそらく、そうではあるまい。表面的なことに敏感に反応し、内省をしない性向か。
Hos8:14 イスラエルは自分の造り主を忘れて、もろもろの宮殿を建てた。ユダは堅固な町々を多く増し加えた。しかしわたしは火をその町々に送って、もろもろの城を焼き滅ぼす。
宮殿、町の守りは、造り主を忘れさせる力があるように思われる。それ自体が悪い訳ではないだろうが。
Hos9:17 彼らは聞き従わないので、わが神はこれを捨てられる。彼らはもろもろの国民のうちに、さすらい人となる。
まだ北イスラエルは崩壊していない。しかし、ここまで絶望的だったのだろうか。基本的には偶像礼拝。その罪に、すべての原因を求めることは、適切なのだろうか。
Hos10:12 あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。
まだ北イスラエルにも忍耐して、または希望を持って、このように語ったのだろうか。救いを雨のようにという表現は、いま台風ノグリが九州に上陸したような状況で日本では表現しにくい。
Hos11:1 わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。
主の愛を感じる。しかし、エフライムは、そしてイスラエルは、やはり消滅してしまったのではないだろうか。
Hos12:6 それゆえ、あなたはあなたの神に帰り、いつくしみと正しきとを守り、つねにあなたの神を待ち望め。
この「あなた」はだれなのだろう。ユダなのか、イスラエルなのか、個人に呼びかけているのか。絶望しかないと思えるとき、神を待ち望むこと、これが、信仰。
Hos13:4 わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない。
どのように、神を捨て、主からはなれて、バアルを礼拝してもということだろう。特に、興味をひくのは、このような状況においても「あなたはわたしのほかに神を知らない。」と言い切っていること。
Hos14:9 知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。
意味深長なことばである。真理は、罪人をつまずかせるのか。神が主であること。これを認められず、自らを主人公とする人生が、罪人の人生か。


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ヨエル書

ヨエル書(1)

最初に少し書きましたが、実は翻訳によって章の数が異なるため、毎日二章ずつ読んでいるとどの翻訳を読んでいるかによって一時的に読む箇所が変わります。あまり気にしないで二章ずつ読み進めて下さい。新共同訳ではヨエル書が4章、口語訳や新改訳では3章です。ただ、旧約聖書の最後のマラキ書が今度は新共同訳が3章で、口語訳や新改訳は4章です。梗概を引用しているのは、新改訳に依拠していますから、ここからは旧約聖書の終わりまで口語訳を中心に引用することにします。章の区切りは、詩編を別にして、後代になってできたものですから、あまり意識しない方がよいのかもしれません。

ヨエル書は次のように始まります。

ヨエル書 1章 1節
ペトエルの子ヨエルに臨んだ/主の言葉。
ヨエルは「ヤハウェは神」という意味ですが、ヨエルについてはヨエル書の内容からある程度推測できること以外は殆ど分かっていません。いつの時代のひとかも、職業も。

ヨエル書を読んでいると印象的なことばがあります。「主の日」という言葉です。検索してみましたら、口語訳では、1章15節、2章1節、2章11節、3章14節と4回出てきました。「主の日」にはいろいろな解釈があると思いますが、一般的には「主がその主権的力をもって人間の歴史に介入される日」(鈴木昌「新聖書注解」より)でしょうか。神がイエスを復活させた日(週のはじめの日)を記念して主の日として日曜日に礼拝していることを考えると、毎週日曜日が主の日ですし、また、主のさばきの日、主の再臨の日を特別な主の日とよぶこともあるでしょう。安息日にいやしておられたイエスは非難に答えて「そこで、イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』」(ヨハネ5章17節)と言っていますから、基本的には、全てが主の日ですし「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」(詩篇118篇24節)と告白することを考えると、主の日はわたしたちが主を認める日なのかもしれません。「主の日」は他にイザヤ書2回、エレミヤ書1回、エゼキエル書2回、アモス書2回、オバデヤ書1回、ゼパニア書2回、ゼカリア書1回、新約聖書には、テサロニケ第1、テサロニケ第2、ペテロ第二、黙示録に1回ずつ出てきます。

その主の日について2章から引用します。

ヨエル書2章
11:主はその軍勢の前で声をあげられる。その軍隊は非常に多いからである。そのみ言葉をなし遂げる者は強い。主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。
12:主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
13:あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。

21:地よ恐るな、喜び楽しめ、主は大いなる事を行われたからである。

27:あなたがたはイスラエルのうちに/わたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。
28:その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
29:その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。
30:わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。
31:主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。
32:すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。

最後の部分は、使徒行伝 2章16節-21節に引用されている場所ですね。あなたにとっての主の日はどんな日でしょうか。

ヨエル書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. 災害と警告 1:2-2:17
    1. 未曾有の事件 1:2-4
    2. いなごによる荒廃 1:5-20
    3. いなごの来襲 2:1-11
    4. 悔い改めへの招き 2:12-17
  3. 回復の約束 2:18-27
    1. いなごの除去 2:18-20
    2. 農作物の回復 2:21-24
    3. 真の神の臨在 2:25-27
  4. (終末の)主の日 2:28-3:21
    1. 主の日のしるし 2:28-32
    2. 諸国民への審判 3:1-16a
    3. ユダへの祝福 3:16b-21


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聖書通読ノート

BRC2023

Joel 1:6,7 一つの国民がわが地に攻め上って来た。/それは強大で数えきれない。/その歯は雄獅子の歯/牙は雌獅子の牙。それは私のぶどうの木を荒らし/いちじくの木をなぎ倒し/その皮を剝ぎ取り、投げ捨て/その枝を白くした。
ヨエル書については、ほとんどわかっていないようだ。すこし学ぶ必要を感じた。ただ、引用句から、アッシリア侵攻の頃なのかと思う。「かみ食らうばったの残したものを/群がるばったが食らい/群がるばったの残したものを/若いばったが食らい/若いばったの残したものを/食い荒らすばったが食らった。」(4)が印象的なので、自然災害的なものを考えていた。おそらく、違うのだろう。祭司などにも語りかけているので。
Joel 2:20 北から来る者をあなたがたから遠ざけ/彼らを乾いて荒廃した地に追い払う/先陣を東の海に、後陣を西の海に。/その臭気が立ちこめ/悪臭が立ちこめる。」/主は偉大な業を成し遂げられた。
ヨエル書には「主の日」の表現が登場する。引用句でも、北から来るものとなっている。政治と関わってはいない、ひとつの農村などの住んでいるものの、信仰の声なのかもしれない。無力感も感じる。同時に、神に向かう心も。
Joel 3:4,5 主の大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。/主が言われたように/シオンの山、エルサレムに/また、主が呼ばれる生き残りの者のうちに/逃れる者がある。
主の日の記述なのだろう。太陽が闇に、月は血に、もう希望はないように見える。その中で、救いについて語っているのだろう。霊的な救いだろうか。ただ、危うさも感じる。
Joel 4:2 私は諸国民をすべて集め/ヨシャファトの谷に下らせ/そこで彼らを裁く。/彼らはわが民、わが所有の民であるイスラエルを/諸国民の間に散らし/わが地を分け合ったからだ。
2節と12節にヨシャファトが出てくるが、基本的に、歴史的記述以外では、ここだけである。個人ではなく、ヨシャファトの谷とついているので、それよりある程度あとで、かつヨシャファトについて記憶が十分にあるときなのだろう。引用句でも、イスラエルと言っている。ただ、「ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り渡し/故国から遠く引き離した。」(6)のような記述もある。すると、アレクサンダーだということになる。やはり丁寧にしらべないとわからない。これは、わからないとしかいえないのだろう。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Joel 1:4 かみ食らうばったの残したものを/群がるばったが食らい/群がるばったの残したものを/若いばったが食らい/若いばったの残したものを/食い荒らすばったが食らった。
ヨエル書はこの印象的な言葉で始まる。近年でも、ケニアなどで、大量のバッタが発生し、作物に大きな被害を与え、人の生活を破壊したニュースがあった。一方、ばっとは異なるが、コオロギの養殖ができるようになり、食料や家畜飼料に非常に有効なタンパク源などともなるとも報道されている。繁殖力が非常に高いとのことである。自然の力は単に圧倒されるものから,利用することへと、変わっていくものがあり、おそらく、今後とも、人間には、どうすることもできないもの、人間の行為・貪欲が、自然の反撃を食うように見えることなども、起こっているのだろう。簡単な原理原則はないように思う。しかし、やはり、傲慢にならず、主をおそれることは、たいせつなこととして、みずからを省みるものでいたい。
Joel 2:20 北から来る者をあなたがたから遠ざけ/彼らを乾いて荒廃した地に追い払う/先陣を東の海に、後陣を西の海に。/その臭気が立ちこめ/悪臭が立ちこめる。」/主は偉大な業を成し遂げられた。
大きく変化する中東世界の中で、どのような信仰をもつか、それまでの信仰を維持するかは、大きな課題だったろう。それは、戦争中に、日本で起こっていたこととも、共通性があるかもしれない。キリスト者としてどう生きるのか。主のあわれみは現実的になにを意味するのか。現実に、アフガニスタンでも、ウクライナでも、そして、ロシアでも、エチオピアでも、その他、多くの地域でも、大きな課題のように思う。正直、わたしにとっても、よくわからない。わからないということは、少しずつ明らかになってきていることは確かだが。ヨエル書に現れる主の日(1章15節、2章1節、11節、4章14節)をどのように待てばよいのだろうか。困難なところにいて困惑している人たちとともに。
Joel 3:1,2 その後/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。
この短い章には二つの鍵となる節がある。1つ目は引用句。霊を注ぐ。霊は、神の霊を意味するから、主のこころを受け取る。使徒言行録2章、五旬節の記述を思い出す。(ヨハネ20章22節参照)または主のこころを心とするようになるとも取れる。もうひとつは、恵みの言葉「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(5)である。使徒2章21節、ローマ10章13節に引用されている。霊を注いでも、神のこころを心とすることはできないのかもしれない。必要条件ではあっても、十分条件ではない。また、後半のほうも、5節の表現も「主の日」に言及し構造が複雑なように、それほど単純ではないかもしれない。
Joel 4:21 しかし、ユダはとこしえに/エルサレムは代々にわたって民の住む所となる。
ヨエル書の最後のことばである。エルサレムは、特別な場所であり、あり続けることが宣言されている。しかし、他の場所がそうでないとは言っていない。主は、どこにいても、見守っていてくださる神である。そのような表現は、ユダのひとたちには、とうてい受け入れられなかったのかもしれない。これも、とても、難しい事実である。

BRC2019

Joel 1:4 かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。
最近のケニアなどアフリカ東部でバッタの大規模な被害が起こっている。最近は Covid-19 のニュースばかりで殆ど報道されなくなってきているが、深刻なようである。引用したこの表現は、ある人達にとっては非常によく理解できた恐ろしさなのだろう。このあとに、「一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。」(6)ともあり多種類の災難をも表現しているのかもしれない。そしてそれが「主の日」(15)へとつながっている。今のときも、そのように、捉えている人もいるだろう。わたしたちは、このような中でなにを考え、どのように行動すべきなのだろうか。おそらく「主の日」に特化して考えることとは異なる、または、想像できない場合は「主の日」と結びつけて、たいせつなものをしっかりと持つことなのだろう。そのたいせつなことは、何だろうか。
Joel 2:12,13 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。
ヨエル書で一番こころに残る箇所だろう。前半が印象的だが、今回は、主がどのような方だとヨエルが伝えているかがこころに残った。「恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられる」そのように生きることが求められているのかもしれない。それを身近に感じさせてくれるのがイエスの生涯だろう。イエスに従って、イエスの軛を負って生きていくことによって、神様について理解していきたい。それこそが「(主に)立ち帰り」「(みずからの)心を引き裂く」ことなのかなと今は思う。
Joel 3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ10章13節) の引用箇所である。主の日の預言が続いているが、救われるものとして、ここでは「主の名を呼び求める者」と言われているが「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(1,2、使徒2章17-21節参照)が先立つのだろう。「わが霊」は聖霊と思われるが、旧約時代には、どのように理解されていたのだろうか。神様のみこころは、本質的には、神様の霊によらなければ理解できないのだから。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(1コリント2章11節)
Joel 4:4 ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ/お前たちはわたしにとって何であろうか/わたしに復讐しようというのか。もし、お前たちがわたしに復讐するなら/わたしは直ちにお前たちの頭上に復讐を返す。
ヨエル書の最後は「わたしは彼らが流した血の復讐をする。必ず復讐せずにはおかない。主はシオンに住まわれる。 」(21)となっている。復讐、そして復讐である。最近、BBC の Podcast で Miriam & Youssef (https://www.bbc.co.uk/programmes/w13xtv38)を聞いた。全部で10回のシリーズである。時代は 1917/01/10-1948/9/10。復讐の連鎖を断ち切るのは本当に難しいのだろう。現在の Covid-19 のもとでは、自らの正当性を主張し他者を非難する傾向にも似たものがある。誰もよくは理解できていないにも関わらず。その背景にあるのは、なんだろうか。自分以外の他者、主に養われていることへの感謝に眼をむけることが人間には困難だからだろうか。難しい。

BRC2017

Joel 1:20 野の獣もあなたを求めます。流れの水は涸れ/火が荒れ野の草地を焼き尽くしたからです。
この前には預言者のことばがある「主よ、わたしはあなたを呼びます。火が荒れ野の草地を焼き尽くし/炎が野の木をなめ尽くしたからです。」(19節)これを、「野の獣も」と言い換えているところにインパクトがある。主を呼び求める。それは、やはり窮地にいるからか。
Joel 2:22 野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり/木は実を結び/いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。
野の獣がよく出てくる。興味深い。自然の中で生活していたのかもしれない。人に信頼が置けなくなったときに。
Joel 3:4 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
エルサレムの逃れの場、人々は、エルサレム陥落のとき、どのように理解したのだろうか。「主の御名を呼ぶ者」に基準を設け、だれもいないとしたのか。それとも「救われる」の意味を解釈したのだろうか。ヨエルがそのときを知ったらどうするだろうか。
Joel 4:21 わたしは彼らが流した血の復讐をする。必ず復讐せずにはおかない。主はシオンに住まわれる。
「復讐」わたしは、このことばが嫌いだ。911 の後遺症かもしれないが。いくら神だといってもやはり、嫌いだ。復讐は、傷を受けたものがすることであろうが、主は、このことのよって傷を受けたのだろうか。「復讐」を考える人に対して、傷を受けるのではないだろうか。明らかにしたい。

BRC2015

Joel1:15 ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。  
ヨエル書は4節の「かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。」が非常に印象的である。6節以降の強大な国による破壊と殺戮の記述、そしてその結果の記述「ぶどうの木は枯れ尽くし、いちじくの木は衰え/ざくろも、なつめやしも、りんごも/野の木はすべて実をつけることなく/人々の楽しみは枯れ尽くした。」(12節)これらも、すべてこの15節に結びついているのかもしれない。神の働きと見るのが、預言者なのだろう。しかし、それだけなのだろうか。今回はヨエル書をどのように読んでいけるだろうか。
Joel2:25 わたしがお前たちに送った大軍/すなわち、かみ食らういなご/移住するいなご、若いいなご/食い荒らすいなごの/食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
ここで、「いなご」は「大軍」と解き明かされる。11節には「主はその軍勢の前で声をとどろかされる。その陣営は甚だ大きく/御言葉を実現される方は力強い。主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。」とある。この軍勢の先頭に主がおられるかのごとく。そして、12節から悔い改めを求める勧告と、それに対する応答が書かれている。13節a「衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」は印象的である。しかし、エレミヤやエゼキエルのように絶望的ななかでの叫びとは異なるものを感じる。ヨエルについては、ベトエルの子とあるだけで、内的証拠は少ないが、やはり時代背景も気になる。
Joel3:3,4 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
(新共同訳の3章は口語および新改訳の2章28節-32節に含まれる)出エジプト13章21節「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」など「雲の柱」「火の柱」の記述は多いが「火の柱」は単独では聖書に現れない。おそらく、4節に関連しているのだろう。火はむろん光を表すこともあるが、聖書では裁きまたは精錬としての意味合いに使われることが多いと思われる。これに続く5節のメッセージ「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」に神からの呼びかけがあるのだろう。そして、1,2節の霊を注がれる神の働きがまず、書かれているところに目を留めるべきか。少し安易かもしれない。
Joel4:20 しかし、ユダはとこしえに/エルサレムは代々にわたって/民の住むところとなる。
このような預言をどう受け取るか。人によって異なるだろう。最近、預言者のことばの受け取り方が、自分の中でも変化していることを認めざるをえない。しかし、私とは違う解釈をするひとのほうが多いだろう。この節の受け取り方である。その違いが、神の栄光の表れとなれば良いのだが。難しい。

BRC2013

Joel1:7 彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。
「主の日」(v15) に、あらゆる悲惨さが訪れることが書かれている。その中で、この「ぶどうの木」「いちじくの木」はイスラエルの人たちによく通じる表現なのだろう。v13 では祭司達が退けられたことが書かれ、神に呼ばわることが求められている。主の日には、形式的礼拝は排除されるということか。
Joel2:13 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。
「その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。」(v28) と Acts 2:17 で引用されていることばへと続く。単純すぎるようにもおもわれるが、これこそが神への信頼、信仰なのかもしれない。憐れみ深い神への信仰。心を裂くことを伴う悔い改めとともに。
Joel3:1 見よ、わたしがユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日、その時、
旧約預言者の限界だろうか。なぜそれをイエスは越えられたのだろうか。ヨエルはまだユダ王国が存在した時代だからと、それを理由にするのも不十分であると思う。普遍性を求めたからか。やはり神の子だからという理由だろうか。すべてに対する答えとなりうるものは、答えではないはず。


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アモス書

アモス(1)

アモスは荷物・重荷という意味ですが、アモスについては、アモス書以外からの情報はありません。

アモス書は次のように始まります。

1:テコアの牧者のひとりであるアモスの言葉。これはユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の二年前に、彼がイスラエルについて示されたものである。
2:彼は言った、「主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる」。
3:主はこう言われる、「ダマスコの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが鉄のすり板で、ギレアデを踏みにじったからである。
1節には、テコアの牧者だと書かれています。7章にも
14:アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
15:主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
とあります。神殿などでも、集団の中でも専門的な訓練を受けた者ではないという意味なのでしょうね。時代は、ユダの王ウジヤ(治世は BC783 - BC742)の世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアム(BC786 - BC746)の世とありますから預言者イザヤが活躍した時代より少し前となります。最後に「地震の二年前」と書いてありますが、これはどのようなものかは不明なようです。ただ、BC760年に皆既日食があったことは分かるので、8章の次の箇所はそれを言っているのではないかと言われているそうです。
9:主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
1章の3節には、ダマスコのことが書かれています。これはいま正に混乱の中にある、シリアの首都ですが、世界で最も古い町の一つとされているところで、スリヤとも呼ばれていますが、イスラエルの北に接する隣国で、長い歴史の中では、殆どの期間、イスラエルより強い国だった所です。そこへの預言がまず語られています。

アモス書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 緒言 1:1-2
    1. 表題 1:1
    2. 主題 1:2
  2. 諸国に対する審判 1:3-2:16
    1. 外国に対して 1:3-2:3
    2. 神の民の国に対して 2:4-16
  3. イスラエルに対する審判 3:1-6:14
    1. 特権と責任 3:1-15
    2. イスラエルの退廃 4:1-13
    3. 勧告と宣告 5:1-6:14
  4. 幻による啓示 7:1-9:10
    1. さばきの幻 7:1-9
    2. アモスと祭司アマジヤ 7:10-17
    3. 決定的なさばき 8:1-14
    4. 切迫したさばき 9:1-10
  5. 回復の希望 9:11-15
    1. 王国の回復 9:11-12
    2. 繁栄と平和の回復 9:13-15


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聖書通読ノート

BRC2023

Amos 1:6,7 主はこう言われる。/ガザの三つの背きの罪、四つの背きの罪のゆえに/私は決して容赦しない。/彼らが捕囚の民のすべてを連れて行き/エドムに引き渡したからだ。私はガザの城壁に火を放つ。/火はその城郭をなめ尽くす。
ダマスコから始まり、ペリシテ、ティルス、エドム、アンモンと周囲の民族への裁きについて書かれている。時代的には、ホセアの時代またはその少し前だろうか。南ユダと北イスラエルをひとつと見ているようにもみえる。何回も争ったようだが、どのような状態だったのだろう。近隣の国、民族と互いに平和に暮らすることは今に至るまで困難なのだろう。どうしたらよいのだろうか。考えてしまう。
Amos 2:6,7 主はこう言われる。/イスラエルの三つの背きの罪/四つの背きの罪のゆえに/私は決して容赦しない。/彼らが正しき者を金で/貧しい者を履物一足分の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/苦しむ者の道をねじ曲げている。/父と子が同じ女のもとに通い/私の聖なる名を汚している。
この章は、モアブからはじまり、ユダ、そして、イスラエルと続く。周辺から始まり、主たるものが最後に来るのが通常であるから、イスラエルが中心なのだろう。アモスは、テコアの羊飼い(1)とあるが、これは、おそらく、南ユダの地名だろう(サムエル記下14:2、歴代誌20:20(時代的には一番近い)、エレミヤ6:1(ベニアミンの地か))、それでも、イスラエルを中心においているところが興味深い。ヤロブアムの時代に、領地を拡大していたからだろうか。
Amos 3:8 獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。/主なる神が語られる/誰が預言せずにいられよう。
「人間はどのようにすれば、聖書のテクストを通じて語りかけてくるものが神であると確信できるのか。この問いに対して、カントは確実な答えはないと信じていた。それどころかある条件の元では、語りかけてくるものが神ではないことはわかるとも考えていた。」(「ヤバい神」からの引用)のように、最近啓示についても、正直に、向き合うようにしている。引用句はアモス書の中でも有名なものだろう。自分が、聞いた言葉が神が語られたものかどのようにしてわかるのだろうか。もちろん、わからないだろう。しかし、それまで、神の言葉として自分が受け取っていたことと矛盾せず、自然に受け取れるといえるように、日常的に聖書に親しんでいることが根拠なのかと思うが、その聖書の言葉についても、同様の問を発すると、やはり判断は簡単ではない。自分の判断は、頼りにならないことを自覚しつつも、冷静に、かつ自分を顧みながら、求め続ける姿勢がたいせつだということだろうか。
Amos 4:1 この言葉を聞け/サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。/弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げ/夫に向かって「酒を持って来なさい。/飲みましょう」と言う女たちよ。
ジェンダー(文化的・社会的役割としての性)の立場から見ることもできる。弱いものを圧迫し、貧しいものを虐げる批判を女性に向けることに、疑問もある、しかし、男性・女性に関係なく、やはり、そのような状況が起こっていたのだろう。いまの時代のように、虐げている事自体が隠されてしまうような分断の世界とは違うようにも思う。今が、より難しいとはならないのだろうが、知らず知らずにこの引用句のようになっている現実は、程度こそ差があるとしても、同じなのかもしれない。ひとの痛みがわからないということにおいては。
Amos 5:18-20 災いあれ、主の日を待ち望む者に。/主の日があなたがたにとって一体何になるのか。/それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に遭い/家にたどりついて、手で壁に寄りかかると/蛇にかみつかれるようなものだ。確かに、主の日は闇であって、光ではなく/暗闇であって、そこに輝きはない。
主の日についての記述が興味深い。おそらく、このように考えるほうが現実的なのだろう。主の日は救いの日と見る味方は、神をとてつもなく憐れみ深い方と見ているからだろう。イスラエルの人々は、しかし、困難の中に居て、救いを求めていたのだろう。現代はどうだろうか。
Amos 6:9,10 もし、一軒の家に十人残ったとしても、彼らは死ぬ。そして、その親族、すなわちこれを焼く者が、遺体を家の中から運び出そうとし、家の奥にいる者に尋ねる。「あなたと一緒にまだ誰かいるのか。」彼は「いない」と答え、「声を出すな、主の名を唱えるな」と言うであろう。
アモスはいつ書かれたのだろうか。アッシリアままだ大きな勢力を持っていなかったのか。テコアの羊飼いの一人には、そこまでの国際状況はわからなかったのだろうか。しかしこの章の最後は、「イスラエルの家よ/私は実にあなたがたに対して一つの国を興す/――万軍の神である主の仰せ。/彼らはレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで/あなたがたを虐げる。」(14)とある。やはり、危機を感じていたのかもしれない。主の日も、それらの背景のもとで、考えられていたのかもしれない。年代は、確定できなくても、もう少し理解しておきたい。
Amos 7:12-14 アマツヤはアモスに言った。「予見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこでパンを食べ、そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、ここは王国の神殿だから。」それに対してアモスはアマツヤに言った。「私は預言者ではなく、預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
この章の前半では、二回の幻に対して、アモスが、主に、裁きをしないように懇願している。「主なる神よ、どうぞお赦しください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう。/彼はとても小さいのです。」(2b)「主なる神よ、どうかおやめください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう。/彼はとても小さいのです。」(5b)しかし語らざるを得ない三回目のあとに、祭司にユダに逃れよと言われる。アモスのようなひとが何人かいたのだろう。その記録が残っていることもすごいと思う。
Amos 8:11,12 その日が来る――主なる神の仰せ。/私は地に飢えを送る。/それはパンへの飢えでも/水への渇きでもなく/主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ。人々は海から海へと行き巡り/北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが/見いだすことはできない。
アモスは、ヤロブアムの時代、イスラエルが経済的繁栄の中にあったときである。「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいものだ。エファ升を小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかし、弱い者を金で、貧しい者を履物一足分の値で買い取ろう。また、屑麦を売ろう。」(5b,6)などは、現代と変わらない。我が国だけではないが、衰退が近いことを直視せず、経済的繁栄というものに、酔っていた時代なのかもしれない。そのあとにくる状態を、引用句は描いているのかもしれない。しかし、わたしも、どうしたらよいか、正直わからない。経済成長のときに、三分の一を、将来のために、とっておく、ヨセフのような宰相は受け入れられないのかもしれない。
Amos 9:14,15 わが民イスラエルの捕らわれ人を私は帰らせる。/彼らは荒らされた町を築き直して住み/ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み/園を造って、その実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。/私が与えた地から/再び彼らが引き抜かれることは決してない/――あなたの神である主は言われる。
アッシリア捕囚には、まだ時間がある程度ある。とはいえ、ヤロブアムのあとは、30年ほどでイスラエルは滅亡する。すでに、兆候はあったのかもしれない。アモス書の最後は回復である。このあとの預言者たちにも引き継がれていったテーマなのかもしれない。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Amos 1:1 テコアの羊飼いの一人であるアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤの治世、ならびに、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、イスラエルについて幻に見たものであり、あの地震の二年前のことであった。
小預言書の中でも、早い時期に属していると聞いたことがある。ここにあるのは、ヤロブアム二世(BC789-BC748)だろう。ユダではウジヤ(BC792-740、別名:アザルヤ)のころである。自分を羊飼いの一人と言い切っているところが新鮮である。おそらく、民の指導者としての比喩ではないだろう。この章には、ダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモンと周囲の国、民族への裁きをまずは語っている。周囲との様々な関係のなか、地震(どの程度のものか不明だが)もあり、ヤロブアムの時代も、困難な時代だったのかもしれない。
Amos 2:6,7 主はこう言われる。/イスラエルの三つの背きの罪/四つの背きの罪のゆえに/私は決して容赦しない。/彼らが正しき者を金で/貧しい者を履物一足分の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/苦しむ者の道をねじ曲げている。/父と子が同じ女のもとに通い/私の聖なる名を汚している。
周囲の国・民族から始めた預言は、この章では、モアブに触れてから、ユダ、そして、アモスの住むと思われる、イスラエルに焦点をあてる。その最初が引用箇所である。際立っているのは、貧しい者、弱い者への視線である。それこそが、神を恐れることだったのだと思う。その地に足がついた宗教心、神を畏れるこころ。それは、染み付いていたのだろう。一日にしてならずかな。
Amos 3:7,8 まことに、主なる神は/ご自分の僕である預言者にその秘密を示さずには/何事もなされない。獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。/主なる神が語られる/誰が預言せずにいられよう。
預言者や真理探求者が世界の課題の秘密についてある真実を知ることはある。しかしおそらくそれは、真理の一部でしかない。そして、他の真理探求者も、また、他の面を理解しているかもしれない。互いに協力して、その課題に対すること、それは、人間にはできないのだろうか。苦手なのかもしれない。最初は、正しさに依ってしまうからか。引用句を批判はしたくないが、複雑な問題がたくさんあるなかで、その一つ一つに対する簡単な解決策はないのだから。
Amos 4:12,13 それゆえ、イスラエルよ/私はあなたに対してこのようにする。/私がこのことを行うゆえに/イスラエルよ/自分の神に会う備えをせよ。神は山々を造り/風を創造され/その計画を人に告げ/暗闇を変えて曙とし/地の高き所を踏みつけられる方。/その名は万軍の神である主。
美しい言葉であるが、内容は、よく理解できない。一つ印象的だったのは「その計画を人に告げ」だ。たしかに、神の業、自然について、世界について、それらに関する情報について、わたしたちは、様々なことを知るようになった。しかし、それは一部分に過ぎないことも事実である。その意味ではつねに、真理と出会う備えが必要なのかもしれない。その真理をどのようなものとして受け止めるかを謙虚に考えながら。
Amos 5:14,15 善を求めよ、悪を求めるな/あなたがたが生きるために。/そうすれば、あなたがたが言うように/万軍の神である主は/あなたがたと共にいてくださるであろう。悪を憎み、善を愛し/町の門で公正を打ち立てよ。/あるいは、万軍の神である主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。
この直前には「あなたがたの背きの罪がどれほど多く/その罪がどれほど重いか、私は知っている。/あなたがたは正しき者を苦しめ、賄賂を取り/町の門で貧しい者を退けた。」(12)ともある。その中で「悟りのあるものも沈黙する」(13)として、この言葉が語られている。あまりに、基本的なことで驚かされるが、それしか語れないのかもしれない。しかしここで「町の門で公正を打ち立てよ」ともある。単に「悪を憎み、善を愛し」だけではないのだろう。一人ひとりに責任もある。この章は「それゆえ、私はあなたがたを捕囚として/ダマスコのかなたに引いて行く/――その名を万軍の神と言う主は言われる。」(27)で閉じられている。まだ、アモスの時代は、アッシリアによって滅ぼされるまで時間があると思うが。
Amos 6:14 イスラエルの家よ/私は実にあなたがたに対して一つの国を興す/――万軍の神である主の仰せ。/彼らはレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで/あなたがたを虐げる。
すでに、アッシリア侵攻の足音は聞こえていたのかもしれない。世界を見ている信仰者が、預言者だったのだろう。「あなたがたは公正を毒草に/正義の実を苦よもぎに変えた。」(12b)は「公正を苦よもぎに変え/正義を地に投げ捨てる者よ。」(5章7節)と似ている。5章では主語がはっきりしないが、ここでは「あなたがた」になっている。
Amos 7:8 主は私に言われた。/「アモスよ、何が見えるか。」/私は答えた。/「下げ振りです。」/主は言われた。/「見よ、私は/わが民イスラエルのただ中に下げ振りを下ろす。/もはや、見過ごしにすることはできない。
この前には二つの幻が書かれ「主はこれを思い直され/『このことも起こらない』と主なる神は言われた。」(6, 参照3)と結んでいる。ここでは「もはや、見過ごしにすることはできない」とし「『ヤロブアムは剣によって死ぬ。/イスラエルは必ず捕らえられて/その土地から捕囚として連れ去られる。』」(11)の預言へとつながっている。すでに、ときがないことがいしきされていたようだ。世界情勢やどのような情報が伝えられていたかは不明だが。
Amos 8:12,13 人々は海から海へと行き巡り/北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが/見いだすことはできない。その日、美しいおとめも若者も/渇きのために気を失う。
最後のことばが印象的である。そこまで真剣に求める姿が描かれているように思われるが、救いが見えない、絶望を表しているのかもしれない。わたしは、正解はだれも持っていないと考えているが、何らかの緒(いとぐち)が得られていることは、それなりに幸せなのかもしれない。絶望しかない世界。それが、渇きのために気を失うようなときなのだろうか。
Amos 9:13 その日が来る――主の仰せ。/耕す者は刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は種を蒔く者に続く。/山々は甘いぶどう酒を滴らせ/すべての丘は溶けて流れる。
回復がアモス書では、農業に関係したものとして書かれている。最初に「テコアの羊飼いの一人であるアモス」と書かれていることがここまでつながっていることは印象的である。このあとには「わが民イスラエルの捕らわれ人を私は帰らせる。」(14a)と続く。アモスの時代にここまで、それも少し唐突に書かれていることには、少し違和感がある。しかし、そのあとの「彼らは荒らされた町を築き直して住み/ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み/園を造って、その実りを食べる。」(14b)には自然に接続しているので、アモスの原文のままの可能性は高いように思う。いろいろなひとが主の言葉を語っている、そのことは、印象深い。

BRC2019

Amos 1:2,3 彼は言った。主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き/カルメルの頂は枯れる。主はこう言われる。ダマスコの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが鉄の打穀板を用い/ギレアドを踏みにじったからだ。
このあとも、裁きについての言及が続く。ガザ、ティルス、エドム、アンモン、そして次の章へ。「牧者」(1)を文字通り取ればよいかはわからないが、これは、赦されざるべきことだという思いが強かったのだろう。2章では、イスラエル、ユダもあり、別に周囲の民族だけに向けられているわけではない。主のみこころを思うところに出発点があるのだろう。アモスは、預言者と言われる中でも比較的古い時代に生きている。少しでもアモスとともに身をおいて読んでいきたい。
Amos 2:6,7 主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で/貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。
イスラエルにおいては、視点が個人に向けられているようだ。「主の教えを拒み/その掟を守らず」(4)とあるが、それが具体的に記されている。引用の後半を見ると、一般的な状況ではないように思われるが、それを許容する社会は、正しいもの、貧しいもの、弱いもの、悩むのものをないがしろにする社会なのかもしれない。すると、現代でも十分にあてはまる。わたしは、そんな社会に慣れてしまっているのだろうか。社会的弱者、そして、これは主は望んでおられないということ、ていねいに考えていきたい。
Amos 3:7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。
印象的な言葉である。この背景には「地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。」(2)選びがあるということだろう。そしてサマリアに対して敵が攻めてくる(11)ことを語っている。ヤロブアム(通常二世と言われる)の時代は経済的には繁栄をしている。アモスはしばらくは受け入れられなかっただろう。預言者の仕事は「万軍の神、主なる神は言われる。聞け、ヤコブの家に警告せよ。」(13)もあるように警告である。ほとんどの人は、自分は預言者ではないと言うだろうが、主から真実を委ねられている者は、恐れおののきつつ、警告をする責任も併せ持っているのだろう。現代の言葉では、社会的責任だろうか。この感覚は現代では失せてしまっている。無論、神のことばとして絶対化することには、最大限の注意を払って。
Amos 4:6 だから、わたしもお前たちのすべての町で/歯を清く保たせ/どの居住地でもパンを欠乏させた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主は言われる。
この前に形式的に宗教人として生きるようすが書かれ、そのあとに引用箇所から11節まで「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主は言われる。」のフレーズで終わる句が続く。基本的には艱難・災難によって警告を続けたことが記されている。つまり、それらは、主のもとに帰れとのメッセージだと言っている。そして「それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ。」(12)へと続く。「神と出会う備え」は、バプテスマのヨハネを思い出させる。「主の道を整えよ」近い部分と異なる部分両方が見えるように思う。わたしにとって、私たちにとって「神と出会う備え」とは何だろうか。悔い改めること、主の働きに目を向けること、だろうか。
Amos 5:13 それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。
「それゆえ」は直接的には直前の「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌う。お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている。」(10-12)を意味するだろう。主が愛するものを憎んでいる状態である。しかしそうであれば、知者が語ることはあるように思われる。「知恵ある者」が「ずる賢い」ことを意味することはないように思われるから。すると、その前の「主が突如として砦に破滅をもたらされると/その堅固な守りは破滅する。」(9)だろうか。すでに、主の裁きが始まっているから。その前には「主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。」(6)ともあるので、警告と教えもなされている。「知恵ある者」はどう生きるべきなのだろうか。アモスはその一人であると思うが。
Amos 6:14 しかし、イスラエルの家よ/わたしはお前たちに対して一つの国を興す。彼らはレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで/お前たちを圧迫すると/万軍の神なる主は言われる。
前の章の最後は「わたしは、お前たちを捕囚として/ダマスコのかなたの地に連れ去らせると/主は言われる。その御名は万軍の神。」(5章27節)で終わっている。5章1-3節の悲しみの歌も、引用箇所の預言につながっているのだろう。まだ、イスラエルが経済的には繁栄していたと思われるヤロブアムの時代にイスラエル内部の問題とともに、アッシリア・バビロンなどの「ダマスコのかなたの地」における大帝国時代という世界史レベルの大きな変化を情報によってか、黙想と祈りによってか、学術研究によってか「知恵ある者」は予想することができたのかもしれない。預言者はこの時代の教養人だから。
Amos 7:14,15 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
アモスは自らを「預言者ではない」そして「(主に)『予言せよ』と言われた」と証言している。これこそが主の言葉を預かるものなのかもしれない。人から預言者だと認められる存在ではなく、単純に主に「預言せよ」と言われたからだということだろう。その背景がこの章の最初の書かれている。家畜を飼い、いちぢく桑を栽培する日常のなかでまさにその日常について主に祈っていて聞いたことばなのだろう。ひとりの信仰者といえる。この姿勢には、学ぶべきことが多い。主に求めるものに主はみ言葉を与えてくださるのだろう。「小さいもの」(2,3)の一人として主を求め謙虚に生きていきたい。
Amos 8:11 見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
アモスは「牧者の一人」(1章1節)「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」(7章14節)として「いなご」(7章2節)や「畑を焼き尽くす火(審判の火とも呼ばれている)」(7章3節)に対して主に祈り、主がこたえられていた。ここではそれが「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」となっている。段階的に、アモスが導かれていったことを表しているように思う。アモスの危機感も変化していっているのだろう。その中から預言のことばが出ている。「サマリアの罪にかけて誓う者ども/『ダンよ、お前の神は生きている。ベエル・シェバよ/お前の愛する者は生きている』と言う者どもは/倒れて再び立ち上がることはない。」(14)
Amos 9:5 万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き/そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり/エジプトの大河のように沈む。
この章には基本的に裁きと回復が語られているようだが、ここでは「地は揺れ動き」とあり、アモス書の冒頭を思い出させる。「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。」(1章1節)地震の預言は「わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。」(エゼキエル38章19節)にもあるが、ヤロブアムの時代の地震はどの程度の規模だったのだろうか。一般的には、日本と異なり、地震は多くはないようだが。地震が実際に起こると、アモスの預言がたいせつにされたかもしれない。

BRC2017

Amos 1:1 テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。
「イスラエルについて」とあるが、このあと、ダマスコ(アラム)、ガザ(ペリシテ)、ティルス、エドム、アンモンと1章は続く。二章に入っても、モアブについてがあり、4節から、ユダ、6節から、イスラエルについて語られる。周辺から、核心へと迫っているのだろうか。
Amos 2:7 彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。
「弱い者の頭」はここにしかないが、「地の塵に踏みつけ」に近い表現はある。「わたしは彼らを地の塵のように砕き/野の土くれのように踏みにじる。」(サムエル下22章43節)「主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。」(イザヤ書25章12節)ただ、これらも「敵」などに、用いられており「弱い者の頭」に使い「悩む者の道を曲げている」ということが、主の名を汚すことだとしているのだろう。
Amos 3:12 主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から二本の後足/あるいは片耳を取り戻すように/イスラエルの人々も取り戻される。今はサマリアにいて豪奢な寝台や/ダマスコ風の長いすに身を横たえていても。
凄い表現である。「豪奢な寝台や/ダマスコ風の長いす」と「獅子の口から二本の後足/あるいは片耳を取り戻す」ことの落差である。すんでのところで、助け出されるとは言っていない。それは「地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。」(2節)の故だろうか。「noblesse oblige」ではなく「選ばれたものの責任」だろうか。考えてみたい。
Amos 4:12 それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ。
この章では「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主は言われる。」(6,8,9,10,11節)がなんと言っても印象的である。そのあとにあるのが、引用した箇所である。寛容だろうか。慈愛だろうか。神の主権的・完全に自律的な救いだろうか。主がお会いくださる。主と出会うことができる。恐ろしくも、嬉しくもある。
Amos 5:25 イスラエルの家よ/かつて四十年の間、荒れ野にいたとき/お前たちはわたしに/いけにえや献げ物をささげただろうか。
荒野の四十年の間の礼拝は、どのように理解されていたのだろうか。モーセが民の代表として主と会う、それがモーセ、アロンによって伝えられる。民は、雲の柱、火の柱で主の臨在を確認する。問い直すことは難しいかもしれないが、もう少し考えてみたい。いままで、なぜ、考えてこなかったのだろう。
Amos 6:13 お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び/「我々は自分の力で/カルナイムを手に入れたではないか」と言う。
ダバル DaBaR は言葉(speech, word, speaking, thing)であるから、その否定を、空虚としているのだろう。NIV, NKJV では Lo Debar として注で、nothing としている。カルナイムと言う地名は創世記14章5節に現れるが良くはわからない。マカバイ記一5章、二12章の記述をとれば、堅固な町だったようだ。しかし、それを手に入れたことを、ロ・ダバルと言っている。我々の世界でも、このようなことは、頻繁にあるように思われる。
Amos 7:10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。
「背きました」と言う言葉など、丁寧に見る必要はあるが、このあとのアマツヤの行動はとても興味深い。アモスに「ユダの国へ逃れ、そこで預言せよ」「ベテルは王の聖所、王国の神殿だから。」 「ここ」は、王が中心で、主が中心ではない。ローカルな価値観で、その場を切り抜けようとしている。ある誠実さは持っているのだろう。我々の日常を見る思いにもなる。わたしは、どう生きようとしているのだろうか。
Amos 8:10 わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする。
「独り子を亡くしたような悲しみ」にひかれた。神の痛みを感じるからだ。裁きとして書かれていることも、神の共感があるのかもしれない。痛みという言い方がより適切かもしれない。
Amos 9:13 見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ/すべての丘は溶けて流れる。
11節には「その日」について「ダビデの倒れた仮庵を復興し(中略)昔の日のように建て直す。」とある。民族復興は、やはり気になる。しかし、引用した節のような、豊かさには、普遍性がある。順序は微妙である。循環を意味しているのか、「刈り入れる者」と「耕す者」、「ぶどうを踏む者」と「種蒔く者」と同じなのか気になる。何を表現しているのだろうか。

BRC2015

Amos1:2 彼は言った。主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き/カルメルの頂は枯れる。
1節には「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。」とある。「牧草地」が乾くことは、大変なことだろう。その元とも言うべきカルメルが枯れればなおさらである。カルメルは地名としても、カルメル山としても、旧約聖書に頻繁に登場する。おそらく豊かな土地だったのだろう。影響は、イスラエル全土に及ぶのだろうか。このあと、ダマスコ(アラム)、ガザ、アシュドド、アシュケロン(ペリシテ)、ティルス、エドム(テマン、ボツラ)、アンモン(ラバ)についての裁きが語られる。すべて近隣の諸国である。良い関係ではなかったことは簡単に読み取ることができる。アモスは何を告げたいのだろう。
Amos2:11 わたしはお前たちの中から預言者を/若者の中からナジル人を起こした。イスラエルの人々よ、そうではないかと/主は言われる。
預言者とナジル人、後者は誓約をして一生または一定期間ナジル人なるのではなかったろうか。(民数記6章)「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられている」(士師記13章5節)とサムソンについての記述にある。これ以外には、哀歌4章7節とこのアモスにしか記述がない。もっとあると考えていた。預言者とナジル人は、献身したという意味だろうか。神の選びと、人間の誓約の違いに捕らわれるのは、本質から離れているのだろうか。
Amos3:7,8 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。 獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる/誰が預言せずにいられようか。
この章の冒頭では、イスラエルの罪に対する罰が語られ、3節の「打ち合わせもしないのに/二人の者が共に行くだろうか。」から、あることが起こるにはその前にあることが準備されレいることが語られ、この7,8節につながっている。預言者または神の言葉を預かったアモスの確信と責任を強く感じる。そして、それは、良心や信仰の自由について法的にも言われているように、まさにそうせずにはいられない、尊厳にも関わっていることが告白されている。預言者とは、まさに、そのような存在なのだろう。神の御心を真剣に求めて生きる生活にも、同様な部分があることも感じる。
Amos4:13 見よ、神は山々を造り/風を創造し/その計画を人に告げ/暗闇を変えて曙とし/地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。
なぜ「山々」と「風」なのだろう。風はむろんルーアハ(ruwach: wind, breath, mind, spirit)であるが、やはりよく分からない。後半の「地の聖なる高台を踏み越えられる。」はさらに理解できない。「その計画を人に告げ」の部分は、預言者を通してであろう。「暗闇を変えて曙とし」には、いのちが感じされる。これらが、12節の「それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ。」につながっていることか。神を、主を、信頼し、自らを顧みることが促されているのか。
Amos5:15 悪を憎み、善を愛せよ/また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。
だれでも「悪を憎み、善を愛」することは当然だと考えているだろう。「町の門で正義を貫け」この言葉は、町の長老たちを中心として裁き・仲裁が行われた司法の場が想定されていると思われる。当時の実体は、分からないが、はっきりとは分からないこと、対立する考え方など、難しい問題も多かったろう。現代の問題に簡単に置き換えて考えることは難しいかもしれないが、ひとり一人の責任を思わされる課題も多い。エネルギー消費や、原発関連の問題などをあげて考えてみるのも良いかもしれない。複雑な問題が多い。神の前に謙虚であることが、まずは必要と思われる。
Amos6:1 災いだ、シオンに安住し/サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。諸国民の頭である国に君臨し/イスラエルの家は彼らに従っている。
アモスの時代はまだ、北イスラエル王国も、南ユダ王国も、政治的には安定していた時期である。内省が必要な時期なのかもしれない。しかし、それは、困難でもある。多くの人の価値観では、ある程度安定していること自体が、問題は大きくはないとする判断材料だから。しかし、だからこそ、信仰者の預言者的な内省と思考と発言と行動と祈りが必要なのではないだろうか。アモス書はいろいろと考えさせられる。素朴さもあるかもしれない。
Amos7:5,6 わたしは言った。「主なる神よ、どうぞやめてください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう/彼は小さいものです。」 主はこれを思い直され/「このことも起こらない」と主なる神は言われた。
新共同訳では第一の幻から第三の幻までこの章に含まれ、上にあげた節は第二の幻に書かれている。第一の幻においても、第二の幻においても、アモスはとりなしの祈りをしている。第三の下げ振り幻でとりなしの祈りをしているかは不明であるが、10節では「ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。」とあり、アマツヤはアモスにベテルで預言することを禁止し、ユダに逃れることを助言する。(12節)とりなしについては、アモスが言ったとしても、言わなかったとしても、おそらく気に留められなかったろう。そしてアモスを動かしていたものは、「アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」(14, 15節)これこそが、信仰者の態度なのだろう。アモスに惹かれる。
Amos8:9 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。
この内容が、11節・12節の有名な言葉なのだろう。「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。 人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない。」いろいろな言葉を思い出す。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」(イザヤ55章6節)「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(ヨハネ8章12節)「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」(ヨハネ12章35節)「主の言葉を聞くことのききん」(12節(口語))
Amos9:7 主は言われる、「イスラエルの子らよ、あなたがたはわたしにとって/エチオピヤびとのようではないか。わたしはイスラエルをエジプトの国から、ペリシテびとをカフトルから、スリヤびとをキルから導き上ったではないか。
とても興味深い。カフトルとペリシテとの関係や、キルとスリヤびととの関係は、歴史的な事実としては明確には特定されていないようだが、ペリシテはカフトルから来た、スリヤびとはキルから来たと考えられていたのだろう。そのことと、イスラエルはエジプトから来たと並置している。イスラエルの人にとっては、耐えがたいことだったろう。自分たちを、特別な民と考えていただろうから。このように、言えたアモスに驚かされるとともに、アモスの最後は「わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる。 わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から/再び抜きとられることはない」と/あなたの神、主は言われる。」(14, 15節)と回復と新しい契約が与えられる預言で終わっている。こちらに関しては、7節の視点はない。

BRC2013

Amos1:6 主はこう言われる、「ガザの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが人々をことごとく捕えて行って、エドムに渡したからである。
3節はダマスコすなわちシリアから始まる。そしてガザ、いまもイスラエルの空爆が続いている。長い歴史を感じるとともに、早く新約の時代に移らないといけないとも思う。この裁きが、生み出すものは何なのだろう。神様の性質のほんのわずかな部分であるように思われる。
Amos2:12 「ところがあなたがたはナジルびとに酒を飲ませ、預言者に命じて『預言するな』と言う。
神との契約によって神のものとなった、神によってたてられ人を、自分の都合によって、自由にするということか。それは、神を自分の言いなりにすることとも通じるか。
Amos3:7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
これほどの信頼があるのは、何故だろう。神が望んでおられることは、裁きではない、関係を築くことと知っているからか。
Amos4:6 「わたしはまた、あなたがたのすべての町で/あなたがたの歯を清くし、あなたがたのすべての所でパンを乏しくした。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と/主は言われる。
8節には「それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と続く。乏しさ、豊かさそれぞれの中から、学ぶべきことをひとは学ばないということか。神の意図を知りたいと望むことが、信仰的な問いだということか。
Amos5:18 わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。
いたずらに、求める人への警告であろうが、イエスのメッセージはすこし違うように思われる。つねに、いまに結びついている。
Amos6:1 「わざわいなるかな、安らかにシオンにいる者、また安心してサマリヤの山にいる者、諸国民のかしらのうちの著名な人々で、イスラエルの家がきて従う者よ。
これが3節に続いている。「あなたがたは災の日を遠ざけ、強暴の座を近づけている。」これは、常のことか、特異なことか。
Amos7:15 ところが主は群れに従っている所からわたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と、主はわたしに言われた。
預言者ではなく、預言のことばを与えられた、牧者だと主張しているのか。それとも、職業とか世襲ではないことを告げているのか。いずれにせよ、牧者は、暗転した仕事ではなかったろう。
Amos8:11,12 主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。 彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。
現代は、主の言葉を聞こうともしていないとすると、この預言は現在に対してはあたっていない。しかし、主の言葉を得られないうちに、麻痺してしまったのだろうか。もう少し、主の言葉を聞くききんについて考えてみたい。
Amos9:15 わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から/再び抜きとられることはない」と/あなたの神、主は言われる。
14節は「わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。」とある。どう読むのが良いのだろうか。成就する預言と読むべきか、それとも、信仰告白として、アモスと神との関係を見るべきか。


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オバデヤ書

オバデヤ(1)

オバデヤは、「ヤハウェのしもべ」という意味で、一章だけからなっています。次のように始まっています。
1:オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。
エドムは、創世記36章の記事からエソウの子孫のことを指すと言われています。高校生のころ、旧約聖書の聖書研究をすることになって、わたしは、一番短いオバデヤをじっくり読んでみようと思ったのですが、なんとも分からず、特にこのエドムに対する厳しさが受け入れられず、本当に困ったことを思い出します。

オバデヤ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1
  2. エドム滅亡の預言 2-9
    1. 高慢に対する罰 2-4
    2. 完全な荒廃 5-9
  3. エドム滅亡の理由 10-14
    1. ヤコブへの暴虐 10-11
    2. ユダへの敵対行為 12-14
  4. 主の日 15-21
    1. 全世界のさばきの日 15-16
    2. ヤコブの回復 17-21


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聖書通読ノート

BRC2023

Obadiah 11,12 あなたが離れて立っていたあの日/他国の者がエルサレムの財宝を奪い/異国の者がその門を突き破り/エルサレムをくじで分けたあの日/あなたは彼らの仲間も同然であった。兄弟が不幸に見舞われる日/あなたはただ眺めていてはならない。/ユダの人々の滅びの日/あなたは喜んではならない。/苦難の日/大口を叩いてはならない。
オバデヤについては、よくはわからないが、エドムと、イスラエル、または、ユダの関係もよくわからない。しかし、兄弟であったとの認識もあるのだろう。同時に、「主の日はすべての国に近づいている。/あなたが行ったように/あなたにも行われる。/自分の報いは自分の頭上に返る。」(15)のような視点もある。聖書は、難しい。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Obadiah:7,8 あなたと同盟を結んでいたすべての者が/あなたを国境まで追いやる。/親しかった友が欺き、あなたを征服する。/あなたのパンを食べていた者が/あなたの足元に罠を仕掛ける。/それでも、あなたは悟らない。その日には、私はエドムから知者を/エサウの山から英知を滅ぼし尽くす/――主の仰せ。
一般的には、オバデヤ書は、エドムに対する厳しい預言だとされ、引用した後半もそのことを表している。しかし、正直、わたしは、そのエドムがどの程度の勢力を持っていたのかよく知らない。ただ、引用句の前半からすると「同盟を結んでいた者」とあり、数は不明であるが、それなりに周辺の民族などと結びついていたのだろう。おそらく、イスラエルや、ユダと対抗するために。しかし、歴史的な地勢図は、アッシリアなどの大国の出現で変化を遂げる。そのときに、何に目を向けるべきか、本質的なことや将来に目を向けるとともに、いまをどう生きるか。過去の反省だけでは、変化には対応できない。難しい時代である。おそらく現代も。

BRC2019

Obadiah 20,21 捕囚となったイスラエル人の軍団は、カナン人の地をサレプタまで所有する。捕囚となった、セファラドにいるエルサレムの人々は、ネゲブの町々を所有する。救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。
エソウの家、エドムに対することが書かれているが、最後に引用箇所がある。一章しかない、オバデヤ書でわかることは多くないが、この引用句には「捕囚となった」ということばが二回登場する。エサウが実際にイスラエル人を捕囚にしたことがあったのだろう。近隣の国、民族との関係は難しい。残念ながら一時的にこのオバデヤ書の内容が実現しても、平和は来ないように思う。問題、救いが必要なことは、理解できても、救いの方法は、わからないということなのだろう。だからこそ、救い主、イエスから学びたい。

BRC2017

Obadiah 20 捕囚となったイスラエル人の軍団は、カナン人の地をサレプタまで所有する。捕囚となった、セファラドにいるエルサレムの人々は、ネゲブの町々を所有する。
同族の恨みに聞こえてしまう。これも、聖書の現実なのだろうか。エドムとの関係をこのようなものとして表現することには、どうしても抵抗がある。

BRC2015

Obadiah15 主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。
オバデヤは「神の僕」「ヤーヴェの礼拝者」を意味する。15節では、二つの重要な点が語られている。「主の日は万国の民に臨む」「あなたがしたようにあなたもされる(因果応報)」である。オバデヤはエドムに対する裁きについて語られているが、上の視点が核にあると考えて良いのだろうか。人は、なかなか心を自由にすることはできない。

BRC2013

Ob21 こうして救う者はシオンの山に上って、エサウの山を治める。そして王国は主のものとなる。
よいように解釈することはできるかもしれないが、やはり旧約の限界も感じる。おそらく、それほどに、イスラエルの民は、憐れみ深い主との密な関係を持ち、主の救いを確信していたのだろう。そしてそれは、正義が確立されることをともなっていたということか。


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ヨナ書

ヨナ書(1)

ヨナ書を実際に読んではいなくても、ヨナの話しを知っている人は何人もいるのではないでしょうか。 ヨナ(鳩という意味)書1章は、次のように始まります。今回も引用は口語訳からとします。
1:主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、
2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
3:しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。
4:時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。
ヨナは旧約聖書にはもう一度、列王紀下14章25節に現れます。
彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。
新約聖書のマタイによる福音書16章17節にイエスは弟子のペテロ(ニックネーム)に「バルヨナ・シモン」と呼びかけていますが、おそらく「ヨナの子、シモン」という言い方ですから、ペテロのお父さんもヨナさんだったと思われます。上の聖書の箇所では、「アミッタイの子」預言者ヨナとありますから、おそらく、列王紀にあらわれるヨナとヨナ書のヨナは同一人物、または同一人物を想定して書かれたと考えられます。すると列王紀下14章25節の最初に現れる「彼」は北イスラエル王国のヤラベアム二世で、信仰的な王様ではなかったようですが、領土を回復し北イスラエル王国に繁栄をもたらせた王で、上の箇所は、その領土回復をヨナは預言したということになります。

上に引用した記述のあとヨナは嵐は自分のせいだと申し出て海に投げ込まれます。ヨナ書1章17節には

主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。
このことは、あとで新約聖書(マタイによる福音書12:39-41, マタイによる福音書16:4、ルカによる福音書11:29-32)でイエスの死と復活と関連させて引用されています。まずは、ヨナ書を読んでみて下さい。ヨナ書は次のように終わっています。4章11節です。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
ここからヨナ書の主題は「狭量な民族主義に反対した普遍主義」とする見方もあります。さて、みなさんは、どのようなメッセージをヨナ書から読み取られるでしょうか。

ヨナ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 序言 1:1
  2. 逃避の預言者 1:2-17
    1. 召命 1:2
    2. 逃避 1:3
    3. 海難 1:4-6
    4. 糾明 1:7-10
    5. 対策 1:11-13
    6. 投入 1:14-16
    7. 助命 1:17
  3. 祈りの預言者 2:1-9
    1. 危難 2:1-6
    2. 賛美 2:7-9
  4. 服従の預言者 2:10-3:10
    1. 救助 2:10
    2. 命令 3:1-2
    3. 告知 3:3-4
    4. 改悛 3:5-9
    5. 憐憫 3:10
  5. 不満の預言者 4:1-11
    1. 苦情 4:1-4
    2. 慰安 4:5-6
    3. 絶望 4:7-9
    4. 訓戒 4:10-11


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聖書通読ノート

BRC2023

Jonah 1:1,2 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」
「ただ、レボ・ハマトからアラバの海まで、イスラエルの領土を回復したのはヤロブアムである。イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身の僕、預言者アミタイの子ヨナによって語られた言葉のとおりである。主は、あまりに厳しいイスラエルの苦境を御覧になったからである。そこには奴隷もおらず、自由な者もおらず、イスラエルを助ける者もいなかった。」(列王記上14:25,26)このヨナをここで用いたことには、意味もあるのだろう。個人的には、主の憐れみの部分を見落としていた。列王記記者は、そのように理解したのだろう。引用句では、ニネベに遣わされることを拒んでいるが(10節参照)ヨナに重ねたということは、ヤロブアムの時代にすでに、アッシリアは巨大化し、イスラエルが滅ぼされることは、多くのひとたちにとって、明らかだったのかもしれない。
Jonah 2:9,10 空しい偶像に頼る者たちは/慈しみの心を捨てている。だが、私は感謝の声を上げ/あなたにいけにえを献げ、誓いを果たそう。/救いは主にこそある。
主の素晴らしさに立ち返ったということなのだろうか。そこまでは書かれていないように思う。偶像などではない、本当の神様という意識だろうか。
Jonah 3:4,5 ヨナはまず都に入り、一日かけて歩き、「あと四十日で、ニネベは滅びる」と告げた。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。
作られた物語であるとは思うが、このように、受け入れる民がいるのかとまずは、訝しく思う。現代を見ていると、人間の強欲をどうしたらよいのかは、わからない。悔い改めることはあるのだろうか。滅びが近いとしても。
Jonah 4:6-8 神である主がとうごまを備えた。それはヨナを覆うまでに伸び、頭の上に陰を作ったので、ヨナの不満は消えた。ヨナは喜び、とうごまがすっかり気に入った。ところが翌日の明け方、神は一匹の虫に命じてとうごまをかませたので、とうごまは枯れてしまった。日が昇ると、神は東風に命じて熱風を吹きつけさせた。また、太陽がヨナの頭上に照りつけたので、彼はすっかり弱ってしまい、死を願って言った。「生きているより死んだほうがましです。」
単純に描かれているが、人間のこころの複雑さも感じる。物語とはいえ、その部分は、真実であるように思う。御心ははかりしれないということの裏返しなのかもしれない。ニネベのひとたちとともに、御心を求めることへと一歩を踏み出すことは人間にできるのだろうか。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Jonah 1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください。あなたは主、思いのままになさるお方です。」
ヨナ書の目的のようなものを考えて今回読んでいる。一つは、憐れみ深い神が、異教の国または、敵国に対しても、同様に憐れみ深いことを理解することは、困難なであり、それを示すことかなと思っている。もしかすると、もっと一般的な対象に対する、神の憐れみと公正について語っているのかもしれないと今回の箇所から思った。現代では、公平性、科学的視点が大切なものと認識されてきたが、当時は、必ずしもそうではなかったろう。ここでは、同じ船に乗り込んだ他の船員、船客が対象である。新たな学びができることを祈りつつ。
Jonah 2:4,5 あなたは私を海の中深くに投げ込まれた。/潮の流れが私を巻き込み/砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く。私は思った。/私はあなたの前から追い出された。/生きて再びあなたの聖なる宮を/目にすることがあるだろうか。
Ubiquitous 神遍在(へんざい)も一つのテーマなのかもしれない。物理的にも、精神的にも、個人的にも、こんなところに神は居られないという場所で、神との交わりを感じる。それが実際に力を与える。まずは、ヨナは、それをここで経験しているのかもしれない。普遍性への一歩だろうか。
Jonah 3:7-9 王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むこともしてはならない。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」
このあとには、神が災いをくださなかったと続く。テーマと強く結びつく転換点がここにあるのだろう。ここで二度繰り返されている「人も家畜も」について考えた。おそらく、ここに家畜も含めるのは、実際的でもなく、無意味であろう。しかし、それが含められているのは、誇張表現であるとともに、イスラエルに対しても考えてもいなかったことを突きつけ、驚きを、生じさせる効果はあったろう。滑稽でもあるが、全身全霊はこのような行動を生むのかもしれないとおも思わされた。
Jonah 4:8 日が昇ると、神は東風に命じて熱風を吹きつけさせた。また、太陽がヨナの頭上に照りつけたので、彼はすっかり弱ってしまい、死を願って言った。「生きているより死んだほうがましです。」
3節にある「主よ、どうか今、私の命を取り去ってください。生きているより死んだほうがましです。」の後半の繰り返しが書かれているが、ひとは、生きること、死ぬことをこれほど単純なことで望んでしまう、本当に弱い存在であることを思い知らされる。一般的には、利己的と表現されるが、小さな変化によって、生きていくことがとてもつらい状況に陥ってしまう、またはそのように考えてしまうということだろう。自分の中にない、絶対他者に目を向ける大切さを思うとともに、このように考えてしまう、傾向を否定することはできないと思う。それも、神様が造られたとも言えるのだから。同時にここでは神様はその弱いヨナにも向き合ってくださっている。難しい。

BRC2019

Jonah 1:5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
船乗りの行動は自然である。「恐怖に陥る」「自分の神に助けを求める」「人間に可能な努力をする」このあとも「ヨナに祈ることを求める」(6)「くじで原因を探る」(7)「くじの結果を調べる」(8)「ていねいに事情を聞く」(10)「解決法も(助言を求め)聞く」(11)「さらに努力をする」(13)そして「ついに、彼らは主に向かって叫んだ。『ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。』 」(14)「行動を起こし」(15)「主を畏れいけにえをささげ誓いを立てる」(16)最後は、神を「主」としている。焦点はヨナにあたるが、船乗りたちのことも、重要だと思った。主は、または、ヨナ記記者は、船乗りたちをも大切に描いている。ヨナ記の主題(明確には書けないが4章10節から受ける印象)とも調和していると思われる。主がどのような方であるかを描写することにもつながっている。
Jonah 2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
3節はまとめだろう。4節からある程度時系列で書かれている。引用箇所は絶望の状態を記している。主との関係が中心である。神殿も主とお会いする場所なのだろう。死ねば終わりだという認識も表現されている。7節の「しかし」から変化が記されている。8節に「聖なる神殿」が再度登場する。おそらくエルサレムの神殿を表す言葉ではないのだろう。まさに主がおられる場所である。結論は、その次にあるようだ。「偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうとも わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。」(9,10)おそらく主のみこころには近づいていない。しかし主は、ヨナに語りかけ、ヨナに立ち上がる力を与えているようである。主からのメッセージはまだ先なのだろう。恵みは奥深い。
Jonah 3:5,6 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、
このあと王の言葉が記されている。正直、そんなことは起こらないだろうと考えてしまう。そしてヨナ書はある教訓を教える虚構だと。後者は一つの伝達形式として正しいかもしれないが、他者の悔い改めを疑うことは深刻な問題だと気付かされた。悔い改めにも神様が関わっておられるのだから。そして実際信じられないことが他者に起こることもある。自分に信じられないことが起こっていまここに生かされていることを思うと、否定してかかることはできない。望みを他者に置くのではなく、神様に、主に置きたい。
Jonah 4:10,11 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
何度も読んできた箇所だが、ひとは「恵み」について理解できないのだということを今回は思った。「彼は、主に訴えた。『ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。』」(2,3)ヨナの言葉である。このことばの背景が多少理解できるが、おそらくそれも十分ではないのだろう。しかし「(主が)恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富む」背景は全く理解できていないのだろう。主のこころを理解できたように思い込まず、求め続けるものでありたい。

BRC2017

Jonah 1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
3節にはヨナが「主から逃れよう」としたことが二回書かれている。これは罪ではないのだろうか。ここでは「無実の者を殺したといって責めないでください。」と表現している。おそらく、ヨナも主から逃れることはできないことを知っていたろう。主を求める、または主の栄光が表されるひとつの道だったのかもしれない。主に叫ぶこのひとたちには撃たれるが、保身しか考えていないのかもしれない。この前13節に、良心的な努力と思われることが書かれてはいるが。
Jonah 2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
BRC2015で引用した箇所と同じである。特に、今回は、イエス様の心を思った。聖書のこの箇所を思い出して、自分の歩む道と重ねたのではないだろうか。神とともなる生活から地上で罪を負う、すなわち神から見放される状態になることを意識したのか。ずれも感じる。
Jonah 3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
こんなことは、イスラエルの人は見たくなかったろう。創作して、それをあえて書いているとも言えるが、普遍的な信仰が背後にあることは、確実だろう。すなわち、イスラエルに属するかどうかではない、神が求めるこころだろうか。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり」(10a)と表現している。そのこころが実を結んでもいる。
Jonah 4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
小屋も建てているが、それでも、苦痛があったことが分かる。喜びによって、苦痛はもう無くなったのかもしれない。喜びは、不満を消し、怒りを和らげる。しかしである。その喜びを自分のものにしてしまったとたんに、弱さが表れる。

BRC2015

Jona1:4,5 主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
この平安の中の熟睡。ヨナは、ニネベ行きも、タルシシュ行きも、自分の問題として捉えていたのだろうか。預言者として召された者として、それはおそらく違うだろう。では、この熟睡、平安は何に起因するのか。一つは無知であろう。神の御心がわからない。それだけだろうか。ヨナは、神に対して死ぬ(神からの命を受け取らない)ことを選択していたのだろうか。その意味も十分には、理解せずに。
Jona2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
直接的には直前の「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。」を受けているのだろう。しかし、もっと内的な意味、熟睡していたときから、ある意識はあったのかもしれない。自分の選択によるのか。それとも、神の選択によるのか。それはわからない。しかし、これこそ「御前からの追放」だと。しかし、神の御心とご計画は、そこにもないことも伝えている。
Jona3:7-9 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。 そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
この尋常でない徹底的な悔い改めも、物語であって実話ではないことを想起させる。しかし、文学的表現によって、ヨナ書を読む者が、メッセージに集中することができるようになるのであろう。むろん、どの部分を、文学的表現とするかは、判断が難しくなるが。そうであっても、大切な、ヨナが伝えようとした神様のメッセージは、失われない。翻訳に関する神学との並行性もあるように思われる。
Jona4:10 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
4節「お前は怒るが、それは正しいことか。」 9節「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」に対して、ヨナは最初は答えず、二回目は「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 と答える。そのあとの神の言葉として記されているのが上の言葉である。正しいと真っ向からは答えられず「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」とヨナにもわかるように語る。問いに向き合い続けたい。ひとつ新しい発見は、ここで「家畜」のことがまた言われていること。それも「十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜」と並置されていることである。3章で引用した箇所の家畜の記述は多少滑稽であるが、そこにもメッセージが含まれているのかもしれない。

BRC2013

Jon1:12 ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。
ヨナはよくわかっていたのだろうか。自分へのさばきだと考え、自分がさばかれれば、問題はなくなると思っていたのではないだろうか。さらに、同船の人々は、ヨナの言葉を信ぜず、ヒューマニステックに人間として最大の努力をしている。13節「しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。」これも興味深い。並木浩一先生の「人が孤独になるとき」のヨナの記述は興味深い。特に若い人にお勧め。
Jon2:1,2 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。
「魚の腹の中」と「陰府の腹の中」が対比されている。この2節が、この詩文体の内容のまとめだろう。悔い改めに主が答えられたととるかどうかは、明確ではないだろうが。悔い改めが伴ったことは確か。
Jon3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
ここには、悔い改めは説かれていない。故に悔い改めはよけい衝撃的な印象を受ける。通常は、捕らえられるか、そうでなくても、馬鹿にされ、相手にされないだけであろう。物語としての完成度も感じる。これを通してのメッセージをしっかり受け取りたい。
Jon4:3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
8節,9節には「やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。」と似た言葉がある。ヨナは、自分の夢、自分の存在意義、自分の幸せを自ら定め、それが崩れると「死ぬ方がましだ」となる。それがヨナにとっての生きることなのだろう。生かされることを知って、はじめて生を知ることができるのかもしれない。


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ミカ書

ミカ書(1)

ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。 ユダの王、ヨタム (BC742-BC735)、アハズ (BC735-BC715)、ヒゼキヤ (BC715-687) の時代とありますから、アモス、イザヤとほぼ同時代ということになります。梗概を引用している「新聖書注解」には「アモス、ホセアと同様に北イスラエル王国イスラエルの首都サマリアの滅亡を預言し、またアモスのように底辺に住む民衆への圧迫や社会不正を糾弾、イザヤが上流階級、指導者層の外政面について預言したのに対し、ミカは、指導者層の内政の腐敗、民衆の宗教面について預言した」(鈴木昌)と書かれています。エレミヤは少し後の時代ですが、ミカについては、エレミヤ書26章18節には次のような記述があります。
「ユダの王ヒゼキヤの世に、モレシテびとミカはユダのすべての民に預言して言った、『万軍の主はこう仰せられる、シオンは畑のように耕され、エルサレムは石塚となり、宮の山は木のおい茂る高い所となる』。
ミカ書1章 9節には、
サマリヤの傷はいやすことのできないもので、ユダまでひろがり、わが民の門、エルサレムまで及んでいる。
とありますが、これがミカの見た世界、そして4章10節などで、捕囚を預言します。
シオンの娘よ、産婦のように苦しんでうめけ。あなたは今、町を出て野にやどり、バビロンに行かなければならない。その所であなたは救われる。主はその所であなたを敵の手からあがなわれる。
その上で、ミカは人々に悔い改めを迫ります。単純ですが、わたしの好きな箇所でもあります。6章8節です。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ書は5章2節にベツレヘムがイスラエルを治める者の出る所と書かれていることがマタイによる福音書に引用されていることでも知られていますね。

ミカ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. ユダとイスラエルに対する神も審判 1:2-2:11
    1. 審判者の来臨 1:2-4
    2. イスラエルに対するさばき 1:5-7
    3. ユダに対するさばき 1:8-16
    4. 富者の罪と罰 2:1-11
  3. 残りの者への約束 2:12-13
  4. 指導者の罪 3:1-12
    1. 為政者 3:1-4
    2. 預言者 3:5-8
    3. 為政者、預言者、祭司 3:9-11
    4. エルサレム滅亡の預言 3:12
  5. 神の栄光の王国 4:1-5:15
    1. 王国の状況 4:1-5
    2. 神の民の結集 4:4-8
    3. 神の計画 4:9-13
    4. メシヤの来臨 5:1-15
  6. イスラエルへの主の論争 6:1-9:6
    1. 神の民の告発 6:1-5
    2. 応答 6:6-8
    3. 不正の告発 6:9-12
    4. 刑罰 6:13-16
    5. 失望の叫び 7:1-6
  7. 主による勝利 7:7-20
    1. 信頼と回復 7:7-10
    2. 繁栄の約束 7:11-13
    3. 回復への祈り 7:14-17
    4. 賛美の歌 7:18-20


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聖書通読ノート

BRC2023

Micah 1:1 ユダの王、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に、モレシェト人ミカに臨んだ主の言葉。それは、サマリアとエルサレムについて見た幻である。
アッシリアが巨大になり、北イスラエルが滅ぼされる時代である。ただ、この章の後半に書かれている、具体的な事象については、わからない。ガト、ベト・レアフラ、シャフィル、ベト・エツェル、マロト、ラキシュ、モレシェト・ガト、アクジブ、マレシャ、アドラム。地名として認識できるものはあるが、ここに書かれていることの実態は、わからない。それらをみて、預言者が見た世界があったのだろう。すこしでも、すくい取ることをしてみたい。
Micah 2:8 昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がる。/あなたがたは/戦いを避けて無事に過ごそうとする者から/平和の者から外套を奪う。
かなりの混乱状態が描かれている。どのような時期なのか、不明である。ミカのどの時代に書かれたものなのか、ミカの晩年に、振り返って書かれたものかのかもわからない。ただ、最後に、「ヤコブよ、私はあなたがたをことごとく集め/イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。/私は彼を囲いの中の羊のように/牧場の群れのように一つにする。/それは人の騒ぎとなる。打ち破る者が彼らに先立って上り/彼らも打ち破って門を通り、外に出る。/彼らの王は彼らの前を進み/主はその先頭に立たれる。」(12,13)とあり、イスラエルはすでに滅ぼされているようにも感じる。アッシリアの大軍に蹂躙された状況なら理解できるように思う。
Micah 3:11 その頭たちは賄賂を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者らは金を取って占う。/しかも、主を頼みにして言う。/「主が私たちのただ中におられるではないか。/災いが私たちに及ぶことはない」と。
現代ならどのように批判するだろうか。同時に、それによって、国が滅びると批判する人はいないだろう。最初には「私は言う。/聞け、ヤコブの頭たち/イスラエルの家の支配者たちよ。/あなたがたは公正を知っているはずではないのか。」(1)ともある。公正を理解しながら、それとは反することをする。それは、現代でも横行しているだろうが、同時に、許容してもいるように見える。ミカが現代を見たら、どう反応するだろうか。
Micah 4:10 娘シオンよ/子を産む女のように、もだえて苦しめ。/今、あなたは町を出て、野に宿る。/しかし、バビロンにたどりつけば/そこであなたは救われる。/その地で、主は敵の手からあなたを贖われる。
どの時代なのか気になる。前半には、「主は多くの民の間を裁き/遠く離れた強い国々のためにも判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。」(3)ともある。このような言葉も、どの時代に、どのような状況で書かれたかによって意味合いが変わってくるように見える。引用句からすると、エルサレムも危機に陥っているときなのだろうか。ミカの時代であれば、ヒゼキヤの時代、アッシリアに攻められたときなのだろうか。やはり、背景をもう少し知りたい。
Micah 5:4,5 この方こそ平和である。/アッシリアが私たちの地に進撃し/私たちの城郭を踏み潰すとも/私たちはこれに向かって/七人の牧者、八人の王侯を立てる。彼らは剣によってアッシリアの地を/抜き身の剣でニムロドの地を治める。/アッシリアが私たちの地に上って来て/領土を踏み潰すとも/彼らが救ってくれる。
この章は「エフラタのベツレヘムよ/あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。/あなたから、私のために/イスラエルを治める者が出る。/その出自は古く、とこしえの昔に遡る。」(1)と始まる。ダビデを思い、このような預言がなされたのだろう。これを、イエスに当てはめるのは、困難だと思う。また、アッシリアの脅威のもとでの、引用句、そして、そのあと、バビロンに滅ぼされるユダ、解決については、主の平和については、ゆっくり考えることが必要だと思う。わからないということである。そして、それがないとは言えないとも思うので。希望を持って。
Micah 6:16 あなたはオムリの掟と/アハブの家の業をすべて守り/そのもくろみに従って歩んだ。/そのため、私はあなたを荒れるに任せ/その住民を嘲りの的とした。/あなたがたはわが民の恥辱を/負わなければならない。
オムリと、その子、アハブの家の悪が根源にあることを言っているのだろう。北イスラエルの王だが、南ユダにも多大な影響を与えた王でもある。そして、主から、様々な面で、民を離れさせた王でもあるのだろう。ある意味で、倫理を破壊した王だとも言える。しかし、もうすこし、違った味方もあるのかもしれない。ゆっくり、考えてみたい。
Micah 7:19,20 主は私たちを再び憐れみ/私たちの過ちを不問にされる。/あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブに真実を/アブラハムに慈しみを示してくださるように/あなたが遠い昔、私たちの先祖に誓われたように。
引用句は、ミカ書の最後の言葉である。主の憐れみに信頼する。そして祈る。これが基本なのだろう。希望がなさそうなときにも。「忠実な人はこの地から絶え/正しい者は人々の中にはいなくなってしまった。/誰もが皆、血を流そうと待ち伏せして/互いに網で捕らえようとする。その手は悪事にたけ/高官と裁判官でさえ報酬を要求する。/有力者も欲のままに発言し、真実をねじ曲げる。」(2,3)しかし、これは良くないともぐらたたきのように批判するのは、自らの民全体に希望をいだいているからか。わたしには、それを求める気持ちはあまりないことにも気付かされた。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Micah 1:1 ユダの王、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に、モレシェト人ミカに臨んだ主の言葉。それは、サマリアとエルサレムについて見た幻である。
ホセアは、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世、アモスはユダの王ウジヤの治世、ヨエルとオバデヤとヨナは、明らかではないが、ホセアとは時代的にかさなっているが、これまで読んだ、他の小預言書の時代背景よりは多少あとなのかもしれない。イザヤ預言は長期間に関わっているので、重なるが。殆ど相互交流については書かれていないので、残念であるが、ミカも、北イスラエル、サマリアがアッシリアに滅ぼされ、ユダも貢を送るようになる時代の少し前から、そして、このようになることをも目撃した時代を生きたということだろう。激動の時代である。
Micah 2:1,2 災いあれ、床の中で悪をたくらみ、悪を行う者に。/彼らは朝の光の中でそれを行う。/権力が手中にあるからだ。欲望に駆られて畑を収奪し/家々を取り上げ/住人から家を、人々からその相続地を強奪する。
最後には「打ち破る者が彼らに先立って上り/彼らも打ち破って門を通り、外に出る。/彼らの王は彼らの前を進み/主はその先頭に立たれる。」(13)ともあるので、アッシリアの侵攻はすでに始まっていたのかもしれない。中東世界においては、これまでになかったような大きな変化の中で、身近にも、様々な問題が見て取れたのだろう。このなかでひとがどう生きるかは難しい。世界の様々な地域の紛争や戦争を考えてみても、わたしは、なにも言えない。しかし、これらを単純に神に委ねるのではなく、自分も含む、人間の責任を考えるのは、ミカの時代も今も大切なのだろう。
Micah 3:5 わが民を惑わす預言者について/主はこう言われる。/彼らは歯で何かをかんでいる間は「平和」と叫ぶが/その口に何も与えないと、戦いを準備する。
この章ではイスラエルの指導者たちに対して「あなたがたは公正を知っているはずではないのか。」(1b)と語り出し「善を憎み、悪を愛し/人々の皮を剝ぎ/その肉を骨からそぐ者たち。」(2)と糾弾し、不正の中で「主は御顔を隠される。」(4)と語り、引用句で預言者に対して語る。満たされていることを感じられる間は「平和」と叫び、そうでなくなると「戦いを準備する」これは、他者の責任にするということだろう。表現が興味深い。これに対して、記者は「しかし、私は主の霊による力/公正と勇気に満たされ/ヤコブにその背きを/イスラエルにその罪を告げる。」(8)と語る。原点、出発点なのだろう。しかし、それだけで、平和や救いは来ないと考えてしまう。結局、自分と周囲の人の責任にしているだけで、これで解決に至ることはないと思う。問題は、おそらく恐ろしくもっと複雑なのだろう。
Micah 4:5 どの民もおのおの、自らの神の名によって歩む。/私たちは私たちの神、主の名によって/とこしえに歩む。
この前後の主の救いに関する記述は美しい。しかし、「今、多くの国民があなたに敵対して集められ/こう言う。/『シオンが汚されるのをこの目で見届けよう』と。」(11)とあり、アッシリアの足音は、聞こえて居るのだろう。このような危機的なときに、どう信仰をもって生きるべきか、本当に難しい。ミカの時代には、ヒゼキヤの時代に、結局、アッシリアの侵攻は止まる。しかし、それも、様々な要素が関係しているのだろう。大きな世界の流れの中で、個人のまたは、それぞれの民がどう生きればよいかは、簡単ではない。引用句の内容の認識は、その次のステップへ、普遍性への入り口なのかもしれない。
Micah 5:4,5 この方こそ平和である。/アッシリアが私たちの地に進撃し/私たちの城郭を踏み潰すとも/私たちはこれに向かって/七人の牧者、八人の王侯を立てる。彼らは剣によってアッシリアの地を/抜き身の剣でニムロドの地を治める。/アッシリアが私たちの地に上って来て/領土を踏み潰すとも/彼らが救ってくれる。
ベツレヘムで「この方」が生まれるという預言で、マタイ2章6節に引用されている。しかし、直接的には、アッシリアの驚異の前で困惑しつつも、希望をもつ預言の一部であるようだ。後半には「その日になると/私はあなたの中から軍馬を絶ち/戦車を打ち壊す――主の仰せ。」(9)ともある。残念ながら、現代においても、そうはなっていないように思う。主のみこころを求め続けていきたい。
Micah 6:8 人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。
主がどのように、イスラエルを導かれたがまず語られている。わたしたちは、それを直接は共有できない。同時に、現代におけるひとの苦しみは、本質において、共有できる部分があるとしても、やはりこれらのことばは通じないように感じる。引用句は、一定の倫理として、普遍性があるが、自業自得、罪が現代の困難を引き起こしていると考えるのは、短絡であると思う。そこからは、解決の道は探れない。主とともに、考えていきたい。
Micah 7:19,20 主は私たちを再び憐れみ/私たちの過ちを不問にされる。/あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブに真実を/アブラハムに慈しみを示してくださるように/あなたが遠い昔、私たちの先祖に誓われたように。
ミカ書の最後の二節である。自分たちの罪のゆえの結果、そして、憐れみ深い主への信頼、そしてその主の憐れみを願う祈り。ミカの本心が語られているように思う。真実も感じるが、真理は、その遠く向こうにあるように思う。アッシリアの攻撃のもとでの惨めな状況。信仰も深められる必要があったのだろう。その困難を思い、ミカと共にいたい。

BRC2019

Micah 1:3,4 見よ、主はその住まいを出て、降り/地の聖なる高台を踏まれる。山々はその足もとに溶け、平地は裂ける/火の前の蝋のように/斜面を流れ下る水のように。
今まであまり意識せずに読んでいたが、このあとにはサマリアが野原の「がれきの山」(6)とすることが書かれている。時代的にも、アッシリアによって来たイスラエル王国が滅ぼされたのが BC722頃。ユダ王国ではアハズの頃である。たいへんな時代だったのだろう。国が消滅するのだから。そのときにユダ王国で預言しているミカ。共に居ることはできないが、少しでも理解できるようにしたい。日本も、おそらく、第二次世界大戦後、分割されて植民地化されるだけでなく、全く消滅する可能性ですらあったろうから。何でもありうる社会に世界の国と比較して日本はおそらくほとんど免疫がないのだろう。それは精神生活にも影響することは想像できる。
Micah 2:12 ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。
アッシリアはかなり残酷な統治をしたらしい。そのなかですでに貢ぎ物を納めてはいても独立を保たれているユダから見た世界が語られているのだろう。信仰者は、希望を持っている。それは、回復である。もう一度集められて、主なる牧者に養われる。このあとのイスラエルの歴史を考えると、わたしたちの希望とは何なのか、考えさせられる。イエス様のようなイスラエルの国としての復興とは独立な回復以外には、救いはないのだろう。そこに至るには、まだ長い時と苦しみが必要である。そして、人々は、イエス様が語られた福音(これすら明確に述べられないが)も理解できなかったのだろう。難しい。
Micah 3:5 わが民を迷わす預言者たちに対して/主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は/平和を告げるが/その口に何も与えない人には/戦争を宣言する。
「歯で何かをかんでいる間」自分が人生に満足している状態だろうか。「その口に何も与えない人」自分にとって益とならないひとのことだろうか。この態度に対して「しかし、わたしは力と主の霊/正義と勇気に満ち/ヤコブに咎を/イスラエルに罪を告げる。」(8)とある。主の正しさと、人々の罪・不義を告発するのが預言者の役目なのだろう。基本的な態度であっても、疑問は残る。正しいことができない弱さが人間の本質でもあるから。それに甘えること無く、主を求めるものを支えてくださる方の存在が不可欠であるように思う。イエスの存在の大きさを感じる。
Micah 4:6,7 その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに/主が彼らの上に王となられる。
この章の内容は、理解がしにくい。8節までと、9節からの記述の違いが理解しにくい。最初には主の日にもろもろの国々がシオンに来ることが語られている。(1,2)そして平和が来ることが「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。」(3,4)と語られている。そのあとに引用箇所がある。「足の萎えた者」は障害者または周辺化されている人たち(追いやられた者)の代表として語られているのだろう。回復にこのことが含まれていることは素晴らしい。後半がどの程度の警告なのかよくわからない。時代的にまだエルサレムにとっては、最後に至っていないからとも言えるのだろうが。難しい。
Micah 5:4,5 彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。
2節はベツレヘムについて書かれている。ダビデを意識しており、このときには、アッシリアがイスラエルを攻撃・滅亡へと導く国である。これをもって、ベツレヘムの地を救い主の誕生の地とするのは、問題を感じる。もし、たいせつであるなら、イエスの引用があってもよい。ダビデの子ということばに抵抗したイエスにより真実味を感じる。聖書の誤謬性の理解と相まって、困難さのひとつである。このような引用をすることは今でも多く許容してもよいのかもしれないが。同時に解釈が進むことも大切に思う。
Micah 6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
善の内容まで書かれている。神と共に歩むは、歩みをともにすることだろう。へりくだっては、正義、何が善であることを学びながらという意味も含まれているのかもしれない。すべて知らされているわけではなくても、避けるべき生き方がしめされていることは確かなのだろう。「お前はオムリの定めたこと/アハブの家のすべてのならわしを保ち/そのたくらみに従って歩んだ。そのため、わたしはお前を荒れるにまかせ/都の住民を嘲りの的とした。お前たちはわが民の恥を負わねばならぬ。」(16)にはそれが現れているように思う。
Micah 7:18,19 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
エルサレムやイスラエルが特別であることの記述が12節などにあるが本質的なメッセージは、主がどのような方であるかの告白なのだろう。それが引用箇所であり、主への信頼と希望があるように思われる。その根拠が罪の赦しである。慈しみ。哀れみ。ヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)恵みと表現されるものだろうか。このことばは重要だが難しい。「どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように。」(20)

BRC2017

Micah 1:5 これらすべてのことは/ヤコブの罪のゆえに/イスラエルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何か/サマリアではないか。ユダの聖なる高台とは何か/エルサレムではないか。
「聖なる神殿」(1節)「地の聖なる高台」(2節)を受けていると思われる。主が裁きのために、地に来られる場所である。後者はイザヤ書58章14節、アモス書4章13節にも登場する。イスラエルについては、偶像礼拝についてというより、サマリア、おそらく、政治全体に対して「罪」と言っているのだろう。
Micah 2:1 災いだ、寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。
「見よ、わたしもこの輩に災いをたくらむ。」(3節)とある。なにを表現しているのだろうか。これは、些細なことにも目をとめて、裁かれる主についての表現だろうか。おそらく、そうではない。つねに、主はこのように、働いておられるのだろうか。おそらく、そうではない。何だろうか。
Micah 3:11 頭たちは賄賂を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。「主が我らの中におられるではないか/災いが我々に及ぶことはない」と。
「彼ら(イスラエルの家の指導者たち)はわが民の肉を食らい/皮をはぎ取り、骨を解体して/鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。」(3節)強烈な表現があり、その中身がこの11節に書かれているようである。 ここまで言わなくてもと思ってしまうが、これが、民の神との関係に責任を負うべきものとしては、最悪の行為だと煎っているのだろうか。指導者の責任については、考えてみたい。
Micah 4:4,5 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。
興味深い表現である。この前には「国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」となっている。それぞれの宗教を認める、そのなかで、主の御名によって歩むとの決意を示しているようである。「それぞれ自分の」「どの民もおのおの」注意深く、考えてみたい。
Micah 5:5 彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。
イラクのあたりは、ニムロド最初に権力を持った国としてやはり恐れられたいたのだろう。同時に、ベツレヘムで生まれる救い主は、武力で制圧するような方ではなかったはずである。宗教はやはり難しい。正当化は真理を見えなくする。
Micah 6:16 お前はオムリの定めたこと/アハブの家のすべてのならわしを保ち/そのたくらみに従って歩んだ。そのため、わたしはお前を荒れるにまかせ/都の住民を嘲りの的とした。お前たちはわが民の恥を負わねばならぬ。
「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(8節)とあり、ここでオムリとアハブの家が出てくる。イスラエルの罪のきわまったことと考えられているのだろう。しかし、少し、抽象的に過ぎるように思われる。人々はこれで理解できたのだろうか。
Micah 7:9 わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。
この希望はどこから来るのかと驚かされる。それは「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。」(18節)によって明かされる。しかし、この信仰はどこから来るのだろうか。経験だろうか。聖書だろうか。神はどのような方かを知ること、信仰の核心は、そこにあるように思われる。

BRC2015

Mic1:9 まことに、痛手はいやし難く/ユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。
サマリアとエルサレムについて預言しているが、イスラエルについての記述が続く。「これらすべてのことは/ヤコブの罪のゆえに/イスラエルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何か/サマリアではないか。ユダの聖なる高台とは何か/エルサレムではないか。」(5節)からも区別している。まだその時代だったのかもしれない。しかし、上の句では「ユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。」としている。ここに預言者としての識見があるのだろう。ミカが見た世界はどのようなものだったのだろう。
Mic2:13 打ち破る者が、彼らに先立って上ると/他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み/主がその先頭に立たれる。
預言者の信仰として、打ち破る者の先頭には、主がおられるという確信がある。おそらく、それは、共通している事なのだろう。主の許しなしには、何事もおこらないことが。
Mic3:1 わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち/イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。
非常に明確である。「正義を知ること」正しさ、「御心」「真理」といってもよいだろうし「神様」と言ってもよいかもしれない。それが私たちの努め。特に、頭や、指導者にとっては「正義」なのかもしれない。私にとって、その努めは明確だろうか。
Mic4:12 だが、彼らは主の思いを知らず/その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように/打ち場に集められたことを。
預言者はその目的を知らされているのか。それは、現代でもあるのだろう。私たちは、その声に聴くことができるのだろうか。
Mic5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
最初の驚きはこれが新共同訳では第1節だということ。口語に慣れ親しんできたので、第2節だと思い込んできた。4章14節が口語では5章1節となっている。章の分け方がいつどのように決めたのかも興味を持つようになった。少なくとも、口語と新教同訳の章の分け方の違いを理解したい。もう一つ重要なことは、この節がどのような文脈で語られているかと、新約聖書でどのように引用されているかである。ここでその考察をすることはできないが、イエスの引用と、聖書記者の引用と、当時の学者などの認識とをひとつひとつを確認したい。
Mic6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
明快である。前半も、後半も。問題は、人はこれに満足しないと言う事なのだろう。これだけを、受け入れる人生も良いのかもしれない。ミカは「正義」をどう説明するだろうか。わたしはどう考えているのだろう。「へりくだって神と共に歩むこと」なしに、切り離して議論することはできない。
Mic7:18 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。
とりなしの祈りが中心ではあるまい。ミカはそのように信じている。神との交わりの中での個人的体験もあるのかもしれない。わたし個人も、そして、聖書の特に福音書でイエスに出会った人たちからも、同じ証言が得られるのではないだろうか。神の御心は不明な部分も多いが。

BRC2013

Mic1:1 ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。
イザヤと同時代に、北イスラエルと南ユダ全域について預言していることになる。他の預言者も含め、預言者同士の交流はどうなっていたのだろうか。エリヤ、エリシャ時代のことは、多少書かれているが、この時代については、もう少し調べてみたい。
Mic2:2 彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。
これが悪の内容である。むさぼりとしえたげ。いずれも隣人に対する罪である。隣人を大切にしないことは、神を愛していないこと。それにしても、1節の「その床の上で不義を計り、悪を行う者はわざわいである。彼らはその手に力あるゆえ、夜が明けるとこれを行う。」は恐ろしい。
Mic3:5 わが民を惑わす預言者について主はこう言われる、彼らは食べ物のある時には、「平安」を叫ぶけれども、その口に何も与えない者にむかっては、宣戦を布告する。
神の言葉ではなく、自らの欲望というのは、言い過ぎかもしれないが、神を利用する結果となっていることは確かであろう。求める根拠は「食べ物」である。「平安」も「戦争」もそれが根拠である。それを支えるのが、預言者であれば絶望しかない。それを断罪する預言者を送られていることに感謝。今はどうなのだろう。
Mic4:3 彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。
「彼」とは誰か。新共同訳では、2節の「彼」も含めて「主」となっている。原語でも主語は明示されていないが、自然にとるとそうなのかもしれない。「仲裁」「戦いのことを学ばない」この希望をいま持ち続けたい。
Mic5:5 これは平和である。アッスリヤびとがわれわれの国に来て、われわれの土地を踏むとき、七人の牧者を起し、八人の君を起してこれに当らせる。
これだけだと、どのようにも解釈できるかもしれないがk、6節をみるとやはりこの言葉は成就しなかったとみるのが正しいだろう。そしてそれでおそらく良いのだ。ヨナ書のことも、そして我々が滅ぼされないで、生き続けているのも、神の憐れみによるのだから。
Mic6:10 わたしは悪人の家にある不義の財宝、のろうべき不正な枡を忘れ得ようか。
これが8節にある「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」の内容である。「公義」「神と共に歩むこと」日常を神と共に歩みたい。
Mic7:9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。
倒錯が感じられる。しかし、ここに信仰生活があり、神にゆだねることの本質があるのか。このもとで主の御心がなりますように。と告白することが信仰、しかし、みながそこまで強い信仰を持てるわけではない。鍵は、神に対する態度の、正しさより、神に応答し、求め続ける生だろうか。


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ナホム書

ナホム書(1)

ナホム、ハバクク、ゼパニアは、南ユダ王国の王ヒゼキヤ (BC715-BC687)のあとの時代、マナセ (BC687-BC642) から、アモン (BC642-BC640)、ヨシヤ (BC640-BC609)、エホアハズ (BC609) の時代の預言者です。ヒゼキヤの時代は、アッシリアに攻め込まれ、奇跡的に救われた訳ですが、貢ぎ物をアッシリアにおさめていた関係もあるのでしょう、アッシリアの神々の礼拝も多くなり、マナセ時代は、信仰的にはかなり難しい状況となります。同時にその後、アッシリアは衰退していきます。ヨシアはこのような時期に宗教改革を行いますが、儀式的な礼拝の整備で終わってしまったのかも知れません。エホアハズはエジプト王ネコによって退位させられますが、新しく興った新バビロニアに攻め込まれ、このあと エホヤキム(BC609-BC598) のあと、エホヤキン (BC598) の時に一回目のバビロン捕囚 、そしてその次のゼデキヤ (BC597-BC587) の時代についに南ユダ王国も滅亡します。

ナホム(語源ナーハムは、同情する、慰める、悲しむ、悔い改めるの意)は次のように始まります。1章1節から3節です。

1:ニネベについての託宣。エルコシびとナホムの幻の書。
2:主はねたみ、かつあだを報いる神、主はあだを報いる者、また憤る者、主はおのがあだに報復し、おのが敵に対して憤りをいだく。
3:主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。
ニネベはアッシリアの首都ですから、ニネベへの裁きを語っています。復讐する神ですね。

ナホム書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. 復讐し、さばく神 1:2-11
  3. ユダへの慰めのことば 1:12-2:2
  4. ニネベへの包囲と攻撃 2:3-6
  5. 逃亡、略奪 2:7-10
  6. アッシリアの罪と滅亡 2:11-13
  7. 遊女ニネベの罪と罰 3:1-7
  8. ニネベへの挽歌 3:8-19


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聖書通読ノート

BRC2023

Nuhum 1:1,2 ニネベに向けた託宣。エルコシュの人ナホムの幻の書。主は妬む神、報復する神。/主は報復し、その憤りは激しい。/主は対立する者に報復し/敵に向かって怒りを燃やす。
「主は恵み深く、苦しみの日に砦となり/主のもとに逃れる者を知っておられる。」(7)のようにもあるが、ナホム書の基本は、報復される神なのだろう。ニネベに向けたとあるように、アッシリアに対する報復だろうか。神様の御心を知ることは難しい。神様のご性質を知ることも。わたしのように、ただ、求め続けるだけでよいのだろうか。それも、次世代への影響を考えると、悩んでしまう。
Nuhum 2:13,14 獅子は子獅子のために十分な獲物を引き裂き/雌獅子のために絞め殺し/獲物で洞穴を/引き裂いた肉で住みかを満たした。私はあなたに立ち向かう――万軍の主の仰せ。/私はあなたの戦車を燃やして煙とし/剣はあなたの若獅子を餌食とする。/私はあなたの獲物を地から絶つ。/あなたの使者の声は二度と聞かれなくなる。
ニネベの裁きについて述べられている。しかし、ニネベのひとたちは出てこない。イスラエルのひとたちは、ニネベの人たちのことは、知らないのだろう。そのような全く知らない国に攻められ滅ぼされる。しかし、今は、そうではない。分断をさけることは可能なのではないだろうかと思わされる。それもできないのが人間だが。
Nuhum 3:19 あなたの傷を和らげるものはなく/その打ち傷は癒やし難い。/あなたの噂を聞き/誰もが拍手喝采する。/あなたの絶え間ない悪行から逃れた者は/誰一人としていないからだ。
「あなた」はニネベである。わたしには、このようには、思えないが、当時はそれ以外は考えられなかったのかもしれない。アッシリアの滅亡を唱えるだけで、すごいことだったのだろう。それを批判することはできない。本当に、わからないことがおおい。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Nahum 1:12 主はこう言われる。/「いかに彼らが力に満ち、数が多くとも/必ず切り倒され、消えうせる。/私はあなたを苦しめたが/二度と苦しめることはない。
ナホム書は「ニネベに向けた託宣。エルコシュの人ナホムの幻の書。」(1)と始まる。背景は明確ではないが、アッシリアの侵攻により、北イスラエル王国は、滅亡、南ユダ王国は奇跡的にかろうじて残るが、貢をおさめるような関係が続き、しかし、アッシリアも衰退し、他の勢力が力をもってくる時代なのだろう。アッシリアの首都がニネベだとされる。この時代の記録は、そして、どのように、人々が考え、信仰を維持したかは、興味深い。引用句は、非常に自然だが、このような告白ではどうにもならない現実、どう受け入れ、生きていたのだろう。ゆっくり考えたい。
Nahum 2:9-11  ニネベの町は水の流れ出す池のようだ。/「止まれ、止まれ」と叫んでも/誰も振り返らない。「銀を奪え、金を奪え。」/財宝は無尽蔵、またとない宝の山。破壊と崩壊、そして壊滅。/心は挫け、膝は震え/誰の腰もみなわななき/どの顔もみな青ざめる。
ニネベについて表現しているようだ。この章の最後には、裁きについても語られ、ユダには希望も語っているが、ニネベの圧倒的な力を認めざるを得ない状況だったのだろう。しかし、それで終わらず、アッシリアは衰退し、さらに、バビロン、ペルシャと巨大帝国が出現していく。この時代的変化をどう理解すればよいのかは、そう簡単ではないだろう。エジプトや、もう少しあとにはなるが、ギリシャなど、地中海沿岸の国々にも驚異が及ぶ、他の地域で、この変化をどのように見られていたかも、学んでみたい。どうしても、帝国の側から見ることになってしまう歴史、旧約聖書は逆の立場から書かれている点は、興味深い。
Nahum 3:18,19 アッシリアの王よ/あなたの牧者はまどろみ/貴人たちは眠り込む。/軍勢は山々に散らされ/集める者はいない。あなたの傷を和らげるものはなく/その打ち傷は癒やし難い。/あなたの噂を聞き/誰もが拍手喝采する。/あなたの絶え間ない悪行から逃れた者は/誰一人としていないからだ。
「あなたはテーベよりも優れているのか。」(8a)「クシュは力/エジプトは限りない力/プトとリビアもその援軍であった。」(9)ユダにとっては、古くからの友好国、または、近隣の大国が並べられている。引用句は、ナホム書の最後の節であるが、北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも、大きな脅威となった、アッシリアとどう向き合うかは、そして、御心を問うことは、ひとびとにとって、大きな課題であったろう。しかし、まだまだ、この続きが、現代に至るまで続いている。絶対的なものが告げられているわけではないことは、心するべきだろう。教義的解釈の危うさを感じる。

BRC2019

Nahum 1:1,2 ニネベについての託宣。エルコシュの人ナホムの幻を記した書。主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し/仇に向かって怒りを抱かれる。
ナホムについては十分はわからないが、一般に言われているように、北イスラエルが滅ぼされ南ユダが残っている時代(BC722-586)。ニネベはアッシリアの首都であるから、アッシリアの勢力が大きかった前述期間の前半なのだろう。最初に語られるのは、熱情と報復である。主はそのように理解されていたということだろう。人間の感情に近い感じがする。神理解も少しずつ進んでいくことを認めることは、聖書の絶対的権威を弱める面があるが、人間社会、人間理解が進む希望を与えることでもある。人種差別など、人間理解は、実際はどうであれ、良い方向に進んでいるように思うので。
Nahum 2:1 見よ、良い知らせを伝え/平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者が/お前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。
ローマ書10章15節で引用されている箇所である。(イザヤ書40章9節・52章7節にも関連箇所がある。)以前、友人が M.Div. (Master of Divinity) の修士論文で、パウロの聖書引用の評価をテーマにしていて、あまり適切な引用だとは思えない箇所が多いと言っていたのを思い出してしまった。詳細は覚えていないが、Context 文脈とは異なる引用がその一つの理由だったかもしれない。「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(ローマ書10章13-15節)最初の引用はヨエル書3章5節である。「当時の」と普遍化できるかどうかは不明だが、旧約聖書引用についてもいずれ考えてみたい。
Nahum 3:1 災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち/人を餌食にすることをやめない。
ナホム書のテーマや文脈「お前を見る者は皆、お前から逃げて言う。『ニネベは破壊された/誰が彼女のために嘆くだろうか。』お前を慰める者はどこを探してもいない。」(7)からも、「町」はニネベだろう。アッシリアはかなり被制服民に対して残酷だったと言われている。北イスラエル王国制服においてどのようなことがなされたか詳細は不明であるが、神を畏れることが全く感じられない残虐非道なことが起こっていたのだろう。ナホム書は、単に敵国にたいする裁きの預言ではなく、このような預言者の義憤や、ナホムが知っている主はそんなことは赦されないという思いが強く背景にあるように思う。世の中に起こることについて、同様の感情をもつことが一般的にも多いだろう。それを表現するとともに、主の御心を求め続けるものでありたい。

BRC2017

Nahum 1:14 主はお前について定められた。「お前の名を継ぐ子孫は、もはや与えられない。わたしは、お前の神の宮から/彫像と鋳像を断ち/辱められたお前のために墓を掘る。」
「ニネベについての託宣。」(1節)から始まる。アッシリアの首都である。ミカの記述を比較すると、やはり、差別を感じる。神は、すべての民に対して、慈愛に富む方なのではないだろうか。それが、信仰者の間で共有されるには、時間がかかると言うことだろうか。啓示にしても、段階的なのかもしれない。人間が学習して行っているのかもしれない。
Nahum 2:9 ニネベは、建てられたときから/水を集める池のようであった。しかし、水は流れ出して/「止まれ、止まれ」と言っても/だれも振り返らない。
美しい表現が多い。水を集める池と表現して、ひとが多く集まり、賑わいのある町であることを表現しているのか。それが、どんどん、ひとがいなくなっていく。非常に寂しい光景が上手に表現されている。盛衰を感じさせる。その光景を幻にみたのだろうか。
Nuhum 3:9,10 クシュはその力/エジプトには限りない力があり/プト人とリビア人もテーベを助けていた。 彼女もまた捕らえられ/捕囚として連れ去られた。乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられ/貴族たちはくじで分けられ/大いなる者も皆、鎖につながれた。
クシュとテーベとの比較をしている。盛者必衰の表現だろうか。クシュとテーベについても調べてみたい。アッシリアの時代だとすると、どの事件を言っているのだろうか。

BRC2015

Nah1:2 主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し/仇に向かって怒りを抱かれる。
ニネベについての託宣(1節)とある。アッシリアの首都である。ナホムの活動時期も気になる。報復を宣言しているが、機微資産については、よくわからない。「主に対して悪事をたくらみ/よこしまな事を謀る者が/あなたの中から出た。」(11節)は何を言っているのだろうか。具体的な内容があるのか。読み取れないことが多い。
Nah2:1 見よ、良い知らせを伝え/平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者が/お前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。
ニネベの滅亡を預言している。そして、それは、他方で、ユダの平和である。これが、主に寄り頼む、信仰の一つの証なのだろう。主イエスは、どう思われるのだろう。やはりよくわからない。
Nah3:19 お前の傷を和らげるものはなく/打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆/お前に向かって手をたたく。お前の悪にだれもが/常に悩まされてきたからだ。
決定的なものは、悪なのだろうか。本当に、アッシリアの傷を和らげるものはないのだろうか。これも、歴史の一ページ、救い主が与えられるその前のこととして受け入れることなのか。わたしには、正直それはできない。主に出会ったものとして。

BRC2013

Nah1:7,8 主は恵み深く、なやみの日の要害である。彼はご自分を避け所とする者を知っておられる。 しかし、彼はみなぎる洪水であだを全く滅ぼし、おのが敵を暗やみに追いやられる。
全体としては、ニネベ(アッシリアの首都)のについての託宣として、全く滅ぼされることと、ユダにの平安が書かれ(v17)、中身は、この7,8節のように、惠みと裁きが繰り返し語られている。「なやみの日の要害」と告白できる信仰者は、幸いである。
Nah2:13 万軍の主は言われる、見よ、わたしはあなたに臨む。わたしはあなたの戦車を焼いて煙にする。つるぎはあなたの若いししを滅ぼす。わたしはまた、あなたの獲物を地から断つ。あなたの使者の声は重ねて聞かれない。
1章17節の内容が2章に引き継がれ、この2章13節の内容が次に続くのだろう。「あなた」は文脈としては「ニネベ」。まず戦車、そして、若いししが滅ぼされる。希望がなくなったことを示すのだろう。救いはあるのだろうか。単におごれるものは久しからずなのだろうか。
Nah3:19 あなたの破れは、いえることがなく、あなたの傷は重い。あなたのうわさを聞く者は皆、あなたの事について手を打つ。あなたの悪を常に身に受けなかったような者が、だれひとりあるか。
「あなた」は18節から「アッシリア」である。ナホムはその首都「ニネベ」への託宣として始まっている。(1:1) 最後の「あなたの悪を常に身に受けなかったような者」によって「あなたの傷」の出所を示しているのか。ニネベの人にはどんなメッセージが伝えられようとしているのか。


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ハバクク書

ハバクク書(1)

ハバククの最初は「預言者ハバククが見た神の託宣。」だけ書かれていて殆ど内容を含んでいません。2章1節から4節を引用します。
1:わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて/わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
2:主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
3:この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
4:見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
みなさんは、いま、見張り所(ものみやぐら)から何を見ますか。そしてどのような神様の声を聞きますか。「義人はその信仰によって生きる。」とはどのような意味でしょうか。

ハバクク書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」鈴木昌

  1. 表題 1:1
  2. 神への問いかけ(その1)
  3. 神の答え(その1)
  4. 神への問いかけ(その2)
  5. 神の答え(その2)
  6. 高慢、暴虐な者に対するわざわい(滅亡)の宣告 2:5-20
  7. ハバククの祈り 3:1-2
  8. さばきの神の顕現 3:3-15
  9. ハバククの反応、信仰の賛美 3:16-19


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聖書通読ノート

BRC2023

Habakkuk 1:15-17 彼らはすべての者を釣り鉤で釣り上げ/引き網で引き上げ、投網で集めています。/こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らは引き網にいけにえを献げ/投網に香をたいています。/これらによってその分け前が豊かになり/その食物も豊かになるからです。だからといって、彼らはその引き網を使い続け/諸国民を容赦なく殺してもよいのでしょうか。
ハバククは最初から「主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。/あなたは耳を傾けてくださらない。/「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに/あなたは救ってくださらない。」(2)と訴え、そして、1章の最後は、引用句となっている。まさに、主への訴えである。カルデア人(6)とあり、これは、新バビロニアを意味するのだろう。正直、どうにもならない状態。ここに表現されているような状態なのだろう。このような経験をした民の哲学、宗教が聖書の宗教なのだろう。
Habakkuk 2:3,4 この幻は、なお、定めの時のため/終わりの時について告げるもので/人を欺くことはない。/たとえ、遅くなっても待ち望め。/それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」
このあと「高慢な者」について語られている。おそらく、ネブカデネザルの大軍の前で、風前の灯火となっている、ユダで神に問いながら、神が求められるものに目を向けようとしているのだろう。悪は目に付く。しかし、それだけで解決はおそらくされない。
Habakkuk 3:17-19 いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの木は実をつけず/オリーブも不作に終わり/畑は実りをもたらさない。/羊はすべて囲いから絶え/牛舎には牛がいなくなる。それでも、私は主にあって喜び/わが救いの神に喜び躍る。神である主はわが力/私の足を雌鹿のようにし/高き所を歩ませてくださる。/指揮者によって。弦楽器で。
信仰を持って静かに待つもののの姿が描かれている。どうしたらよいかわからないとき、わたしは、どのように生きるだろうか。逃れようとするか、静かに主に信頼して待つか、できることを考えて戦うか。どれも、残念ながら希望を与えてくれないように思う。歴史を見ているからだろうか。しかし、絶望をしては行けないように思う。そして、どれが正解とも言えないのかもしれない。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Habakkuk 1:1,2 預言者ハバククが見た託宣。主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。/あなたは耳を傾けてくださらない。/「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに/あなたは救ってくださらない。
ハバクク書の最初の部分である。主に助けを求めても答えてくださらない現状にたいして、主の声を聞きそのことばを記している。「私はカルデア人を興す。/彼らは残忍で残虐な国民。/遠くの地まで軍を進め/他人の住む土地を手に入れようとする。」(6)とあり、すでに、アッシリアは各所で猛威を振るっていたのかもしれないと思う。しかし、ハバククの二度目の訴えでは「主よ、私たちを裁くために/あなたは彼らを定められました。」(12b)と裁きとして使われることは理解しつつ「だからといって、彼らはその引き網を使い続け/諸国民を容赦なく殺してもよいのでしょうか。」(17)とさらに訴えているようだ。このように主に真剣に訴え、みこころを知ろうとする。今回の通読では、その真摯さを感じて読んでいる。
Habakkuk 2:3,4 この幻は、なお、定めの時のため/終わりの時について告げるもので/人を欺くことはない。/たとえ、遅くなっても待ち望め。/それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」
最後の部分は、ロマ書1章17節b、ガラテヤ3章11節b、ヘブル書10章38節で引用されている。神の義は信仰によって啓示され、律法によるのではないと語られ、また、終わりの日を待つには、忍耐が必要だということから引用されている。ハバククは、現在起こっていることというより、将来のことを預言していると記しているようだ。このあとには、かなり具体的な現実にたいすることばが並んでいるように思われる。信仰を通して幻を示されたものが生きる道は、まさにその信仰をもって、希望をもち、主に信頼して、日々を真摯さを失わずに歩むことなのかもしれない。
Habakkuk 3:16 これを聞くと、私のはらわたは震え/その響きに私の唇はわなないた。/腐敗は私の骨まで入り/足元は揺らいでいる。/私は静かに待とう/我々を攻撃した民に苦しみの日が来るのを。
「あなたは憤りをもって地を行き巡り/怒りをもって国々を踏みつける。あなたはご自分の民を救うため/油注がれた者を救うために現れた。/悪人の家の頭を打ち砕き/足元から首までむき出しにされた。〔セラ」(12,13)からみても、主が裁かれることが前提としてある。最後は賛美で閉じられている。このような裁きを望むことは、自然ではあるのだろう。受け入れられないが。おそらく、その痛みをわたしが、共有できないことも背景にあるのだろう。

BRC2019

Habakkuk 1:2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない。
神の沈黙だろうか。主については「主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた。 」(12b)と述べているが同時に「だからといって、彼らは絶えず容赦なく/諸国民を殺すために/剣を抜いてもよいのでしょうか。 」(17)と述べている。背景は、国内でのことなのだろうか、それとも、国外からの侵略なのだろうか。時代的なものも判然としない。ただ、ハバククの嘆き、訴えは理解できるように思う。実際に大きな傷みが、民に及んでいるのだろう。「律法は無力となり/正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。」(4)わたしならどう訴えるだろうか。嘆きに道が状況が世界には多く広がっていると思う。
Habakkuk 2:3,4 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
1章の主への訴えの応答としてハバククが受け取ったものが、これなのだろう。待つこと、信仰である。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1章17節)「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。 」(ガラテヤ3章11節)「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」(ヘブル10章38節)それぞれの引用箇所についても、じっくりみてみたい。ハバククについても丁寧に理解してみたい。
Habakkuk 3:15,16 あなたは、あなたの馬に、海を/大水の逆巻くところを通って行かせられた。それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ/我々に攻めかかる民に/苦しみの日が臨むのを。
「主は立って、大地を測り/見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ/永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。」(6)には「主の道が永遠に変わらない」とありそれが信頼につながっているのだろう。いまは、激動のとき、未曾有のことばかりが起こっている世の中である。そのようなことは以前にも種類は異なってもあったのかもしれない。主はどのように見ておられるのだろうか。ここで、ハバククは積極的に動かれる主を描いている。引用箇所の続きは「いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。」(17,18)と続いている。これが信仰者の態度なのだろう。ただ、神の働きの認識の幅が広がってきていることは確かで、それは素晴らしいことのようにも思う。Florence Nightingale は「神の御心を知るには統計学を学ばなければならない」と言っているとのこと。「静かに待つ」ことの「静かに」の広がりもあるのかもしれない。

BRC2017

Habakuk 1:3 どうして、あなたはわたしに災いを見させ/労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり/争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
神の義、神の沈黙を問うている。カルデヤ人が襲いかかる、その残虐さをみて、神に問いかける祈りである。わたしは、アッシリアや、バビロニアの側からも、見たくなる。どのような人たちだったのだろうか。世界を征服する国には、それなりの優れた面があるのではないかと。同時に、このハバククの痛み、誠実に神に従おうとして苦しんでいる姿にも、痛みを感じる。どのように読んだら良いのだろうか。
Habakuk 2:3,4  定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
有名な箇所であるが「信仰」の意味について、考えたい。神様が定められたときをひたすら待つ「信仰」ととるのが通常であろうが、神の「忠実さ」ととることも可能である。その重さの置き方が、変化することがあっても、関係は変わらないのかもしれない。神と人との信頼関係である。それは、互いに愛し合うと表現できるものなのかもしれない。
Habakuk 3:16,17 それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ/我々に攻めかかる民に/苦しみの日が臨むのを。 いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。
16節の「それ」は、12節の「あなたは、憤りをもって大地を歩み/怒りをもって国々を踏みつけられる。」から続く、裁きについて言っているのだろう。引用した節では、内面の動きと、周囲の状況の変化を、当時の人たちが考えられる最高の形で表現されているのだろう。このなかで、ハバククは「わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。」と信仰告白と讃美で終わる。共感を覚えるが、これは、どの宗教にも通じるものなのだろうか。

BRC2015

Hab1:12,13 主よ、あなたは永遠の昔から/わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた。あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら/捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら/黙っておられるのですか/神に逆らう者が、自分より正しい者を/呑み込んでいるのに。
預言者の苦悩が痛いほど伝わってくる。直前の11節には「彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。」とあり、裁きのために攻めてくることを認めつつ、その神を神としない高慢にも目を向けている。12, 13 はとりなしの祈りともとれるが、自らの苦悩を訴えているともとれる。まさに、神の御心とのシンクロナイゼーションをしているのだろう。なぜ黙っておられるのですか。この訴えは、現代まで続いているだろう。簡単には答えられない。しかし同時に、我々人間の応答を待っておられる神でもあるのだろう。
Hab2:20 しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバククの苦悩は、ここに至っている。理不尽さを強く感じながら、主のおられる場所に望みをおいている。これも、主の臨在に望みをおいているととるべきなのだろう。わたしは、何に望みをおいているのだろうか。言葉にしてみたい。
Hab3:17,18 いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。 しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。
この前の節では「わたしは静かに待つ/我々に攻めかかる民に/苦しみの日が臨むのを。」(16節b)とある。しかし、これに続く節は、そのような確信は与えられないでいる。その中で、叫ぶ「主によって喜び」「神のゆえに踊る」と。神の沈黙に対して、これは、どのような信仰なのだろう。神はこの「預言者ハバククの祈り」(1節a)をどう受け止められるのだろう。信仰者にとって大きな問いである。

BRC2013

Hab1:2 主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。
「神の沈黙」に対して訴えているのか。4節ではそのことの結果を「律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。」と述べている。13節では「あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者であるのに、何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。」この問いはどこに向かっていくのだろうか。
Hab2:1 わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて/わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
ここはおそらく「ものみの塔」の語源であろう。社会の人々の生活を見、主の導きを求める。大切なことである。独善との違いは何なのだろう。多様な人々の声耳を傾けることだろうか。するとあとは良心と知的判断力に表面的には頼ることになる。一部しか知り得ないことを謙虚さの根拠とすることか。
Hab3:19 主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる。
この信仰告白は何からくるのだろうか。経験もある程度はあるだろう。理性もなければ継続できない。神の像としての良心だろうか。これら、その人の中にあるものには、希望が持てない。内なるもの以外に希望がないと言い切るのは、逃げのようにも聞こえてしまうが。その現実を受け入れることか。


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ゼパニア書

ゼパニア書(1)

下のことばはゼパニア1章1節です。
ユダの王アモンの子ヨシヤの世に、ゼパニヤに臨んだ主の言葉。ゼパニヤはクシの子、クシはゲダリヤの子、ゲダリヤはアマリヤの子、アマリヤはヒゼキヤの子である。
このヒゼキヤがヒゼキヤ王かどうかは不明ですが、時代的にはあってはいますね。ヨシアの時代、宗教改革も行われいますが、ゼパニアが預言したのは、エルサレムとユダの滅亡でした。

ゼパニア書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

  1. 表題と系図 1:1
  2. エルサレムへの預言 1:2-2:3
    1. 不従順な者の刑罰 1:2-6
    2. 支配階級の処罰 1:7-9
    3. エルサレムの災厄 1:10-13
    4. 主の日の悲惨 1:14-18
    5. 悔い改めの勧告 2:1-3
  3. 周辺諸国の滅亡とユダへの警告 2:4-3:8
    1. ペリシテ滅亡の預言 2:4-7
    2. モアブ、アモン滅亡の預言 2:8-11
    3. アッシリヤ滅亡の預言 2:12-15
    4. エルサレムの堕落 3:1-5
    5. さばきの日の避けがたき 3:6-8
  4. 主の日における救い 3:9-20
    1. 諸国民の回心 3:9-10
    2. イスラエルの残りの者 3:11-13
    3. 救いの日の歓喜と主の愛 3:14-17
    4. 神の民の回復の日 3;18-20
少し長くなってしまいました。旧約聖書もあと少しですね。続かなくなってしまったひともいるかと思いますが、ヨナ書などをじっくりと読んでみてはいかがでしょうか。自分に問いを持ちながら。


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聖書通読ノート

BRC2023

Zephaniah 1:17,18 私は人々を苦しめ/目の見えない者のように歩かせる。/彼らが主に対して罪を犯したからだ。/その血は塵のように/肉は糞のようにまき散らされる。銀も金も救いにはならない。/主の怒りの日に/全地は主の妬みの火で焼き尽くされる。/実に、主は恐るべき破滅を/地上に住むすべての者にもたらす。
「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に」(1)すでに、引用句に表現されている、危機があったのだろう。そう考えると、ヨシヤの改革はすでに遅かったのかもしれない。しかし、そのときの、聖書の整備が、このあとの、捕囚になった人々の拠り所となり、さらに信仰が深められていったとも言える。本当に難しい。しかし、求め続けよう。
Zephaniah 2:12,13 クシュの人々よ/あなたがたもまた私の剣によって刺し殺される。主はまたその手を北に向かって伸ばし/アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし/荒れ野のように乾いた地とされる。
クシュや、アッシリアの滅びまで書かれている。しかし、全体的には、近隣の民族に対する裁きであり、その人たちに対しては「主は彼らに対して恐るべき方となり、地上のすべての神々を消し去る。島々に住む諸国民もすべて、それぞれの地で主を礼拝する。」(11)としている。世界的な変化の中で、世界観は変わっていくのかもしれない。
Zephaniah 3:20 その時、私はあなたがたを連れ戻す。/その時、私はあなたがたを呼び集める。/あなたがたの目の前で/その繁栄を回復するとき/地上のすべての民の中で/あなたがたの名を高め/誉れを与える――主は言われる。
このように願うのは当然なのだろう。これらを乗り越えて、いまのユダヤ教があるのかもしれない。キリスト教のほうが、単純化しすぎているのは、存在の基盤がユダヤ人ほど破壊されてはいないからだろうか。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Zephaniah 1:1 ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。
列王記下22章、23章には、かなり詳細にヨシアの宗教改革と呼ばれる記事が書かれている。アモンは、ヒゼキヤの孫で、最後の王、ゼデキヤの祖父だと思う。しかし、このヨシアについては、(列王記も預言者文書と呼ばれるが)預言書ではあまりその評価が書かれておらず、不明な点もある。そのいみでも貴重な預言書なのかもしれない。この章では、主の日の裁きが書かれているようだ。「主の大いなる日が近づいている。/近くまで迫り、速やかにやって来る。/主の日に上がる声は悲痛に満ち/その時、勇士も叫びを上げる。」(14)危機が迫っていることは、多くの人が認識していたのだろう。
Zephaniah 2:3 主を求めよ。/地の苦しむすべての者たち/主の法を行った者たちよ。/義を求め、謙遜を求めよ。/主の怒りの日に/あるいは、かくまってもらえるであろう。
「恥を知らぬ国民よ」(1a)と始まるが、このあとには、ペリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリアと、裁きについて述べられているので、語りかけているのは、異教徒または、全世界なのかもしれない。当時のひとは、他の人々の救いについてどう考えていたのだろう。どのような信仰を持っていたのだろう。特に、イスラエルが滅び、ユダも風前の灯火のときに、どう考えていたのか、知りたい。
Zephaniah 3:19,20 その時/私はあなたを苦しめていた者をすべて滅ぼす。/私は足の萎えた者を救い/追いやられていた者を呼び集め/すべての地で彼らの恥を誉れに変え/名を高めよう。その時、私はあなたがたを連れ戻す。/その時、私はあなたがたを呼び集める。/あなたがたの目の前で/その繁栄を回復するとき/地上のすべての民の中で/あなたがたの名を高め/誉れを与える――主は言われる。
他民族についても多少書かれている。「それゆえ、私を待て/私が証人として立つ日を――主の仰せ。/私は諸国民を集め/もろもろの王国を呼び寄せ/彼らの上に私の憤りと燃える怒りを注ぐと/決めたからだ。/全地は私の妬みの火で焼き尽くされる。その時、私はもろもろの民に清い唇を授ける。/彼らは皆、主の名を呼び/一つになって主に仕えるようになる。」(8,9)そして、残るものも。「私はあなたの中に/貧しい者、弱い者を残す。/彼らは主の名を逃れ場とする。」(12)これらの中に、主に御心を求めていたのだろう。

BRC2019

Zephania 1:12 そのときが来れば/わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し/酒のおりの上に凝り固まり、心の中で/「主は幸いをも、災いをもくだされない」と/言っている者を罰する。
「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。」(1)を見ると、ゼファニヤはヨシア王の時代のようである。引用箇所は表現が面白いので、立ち止まった。何を言っているのかよく分かるわけではないが。すこし感じるのは、すでに全体が腐っている状態ではなさそうなことである。「主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。」(14)とあるが、主の日は引用箇所に表現されている人たちの裁きのために来るようである。ただ「わたしは地の面から/すべてのものを一掃する、と主は言われる。」(2)ともあり、全体的な理解が必要であると思う。丁寧に読んでいきたい。
Zephania 2:13,14 主はまたその手を北に向かって伸ばし/アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ地とし/荒れ野のように干上がらせられる。そこには、あらゆる獣が/それぞれ群れをなして伏す。ふくろうと山あらしは柱頭に宿り/その声は窓にこだまする。杉の板ははがされ、荒廃は敷居に及ぶ。
ニネベのその後について殆ど知らなかったので、少し調べてみた。イスラミック・ステーツ(IS)が中心的都市としていたモスルの付近まはた中にあるようである。文化的遺産として調査が続けられていたが、IS によって破壊されたとのこと。バビロニアに征服されてからも、街としてはある程度残ったようである。長い歴史を思うと、国や都市の滅びに関する預言の理解は難しい。エジプトは大国だったろうが、大帝国、帝国主義は、この当時にメソポタミアでは起こっている。そのような変化を理解することも困難だったろう。そのなかで、どのように生き、なにをたいせつにしていたかを学んでいきたい。
Zephania 3:12,13 わたしはお前の中に/苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は/不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い/彼らを脅かす者はない。
ここにゼファニアのみた主の御心の核心があったのではないだろうか。この章も最初は、エルサレムを反逆の街として書かれ、役人、裁判官、預言者、祭司にたいする批判が書かれている。そのあと裁きが書かれ、引用箇所に至る。核だと考えるのはその次の言葉である。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(14,15)この力が、ゼファニアが受け取ったことなのかもしれない。

BRC2017

Zephaniah 1:14 主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。
「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代」(1a)にある。すでに、北イスラエル王国は滅んでいる。この時代、バビロニアによる南ユダ王国の滅亡と、主の大いなる日とは、どのように、関係して考えられていたのだろうか。滅ぼされてからは、どのように受け入れられていたのだろうか。ゼファニアがその状態を見たときに、どう考えたのだろうか。疑問を持つ。興味本位なのかもしれないが。政治や、民の信仰の揺らぎと、罪を認識する、預言者が、裁きを預言するのは非常に自然である。しかし、具体的にそれを理解するのは難しい。
Zephaniah 2:3 主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ/恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう。
「共に集まれ、集まれ/恥を知らぬ国よ 」(1節)から始まる。ここで呼びかけている対象は明確とは言えない。「わたしは地の面から/すべてのものを一掃する、と主は言われる。」(1章2節)からすると、すべての人が、すべての国が対象なのだろうか。イスラエルととることもできるが、メッセージは開かれているのかもしれない。
Zephaniah 3:12 わたしはお前の中に/苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。
これは、イザヤなどにも通じる、普遍的なメッセージなのだろう。主の憐れみを希望とする信仰だろうか。しかし、ゼファニアが言おうとしていることは、よくわからない。

BRC2015

Zeph1:7 主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し/呼び集められた者を屠るために聖別された。
「沈黙せよ」は強烈である。そのあとは、何を意味しているのだろう。自らを捧げるということだろうか。主の日は、旧約聖書に何回か現れる。人々はそれをどのようなものと考えていたのだろうか。そしてどのように、預言者は準備を促していたのだろうか。
Zeph2:5,6 災いだ、海沿いの地に住む者、クレタの民は。主の言葉がお前たちに向けられている。カナンよ、ペリシテ人の地よ/わたしはお前を滅ぼし/住む者がないようにする。 海沿いの地は牧場となり/羊飼いの井戸が掘られ、羊の囲いが造られる。
「カナンよ、ペリシテ人の地よ」とあるが、ペリシテにまず向けられているようである。ペリシテはフェニキア人であろうから、通常のカナン人とは異なるはずだが、力は圧倒的だったのかもしれない。その地が、海洋貿易の町とは全く異なる状態になると言っているのだろう。預言の背景はよくわからない。2章の最初は誰に向けられているのだろう。それによっても理解は変わるように思われる。大きな枠では「恥を知らぬ国」(1節)個人的な枠では「主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々」(3節)それ以上詮索しない方が良いのかもしれない。
Zeph3:20 そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/お前たちに誉れを与え、名をあげさせると/主は言われる。
「そのとき」について語られている。イエスの教えとは焦点の置き方が異なるように感じる。そのときを夢見て、神に信頼するのが信仰なのか。イエスの教えはそこにとどまっていない。神の国が近づいた。そのときは近い。この理解だろうか。イエスは、預言書をどのように受け取っていたのだろうか。
 

BRC2013

Zeph1:6 主にそむいて従わない者、主を求めず、主を尋ねない者を断つ」。
この判断はできるのだろうか。ここでは、4節のように、偶像礼拝が想定されているようだが。イエスはどう言われるだろうか。
Zeph2:3 すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
現代、正義を求めているだろうか。この言葉の難しさの故に、腰が引けることは理解できるが、もう少し、じっくり理解したい。何がメッセージなのかを理解する為に。
Zeph3:11 その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。
不思議なことばだ。しかしいま数学に集中していて、まさにこの状況にあることを実感する。へりくだるには、ひとつひとつ誇りとしている部分を除いていかなければならない。それは細心の注意を必要とし、辛い一歩一歩であっても、主によってなされるなら、それはすべて希望の一歩一歩である。神様の前に立たせていただくことを夢見て。


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ハガイ書

ハガイ書(1)

少し背景となる歴史の復習をしましょう。ダビデ王、ソロモン王のあと、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂したイスラエルは、まず、BC722年にアッシリアによって、北イスラエル王国が滅ぼされます。どうやら持ちこたえた南ユダ王国も、アッシリアを滅ぼしたバビロニア(日本では通常新バビロニア王国と呼ばれる)のネブカデネザルの攻撃によって、BC587年にエルサレム落城、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚となります。

ネブカデネザルのもとで王国を拡大していったバビロニアもBC662にネブカデネザルが死ぬと急速に衰退し、BC539年クロスが率いる新興国ペルシャに敗北し、滅亡していきます。クロス(在位BC538-BC530)はその治世の第一年、被征服諸国に対する寛大な政策の一部として、ユダヤ人に帰国を許し、神殿の再建を許可します。エズラ記の1章2節から4節には次のように書かれています。引用は今回も口語訳とします。

1:ペルシャ王クロスの元年に、主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動されたので、王は全国に布告を発し、また詔書をもって告げて言った、
2:「ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。
3:あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である。
4:すべて生き残って、どこに宿っている者でも、その所の人々は金、銀、貨財、家畜をもって助け、そのほかにまたエルサレムにある神の宮のために真心よりの供え物をささげよ」。
セシバザルをリーダーとして、エズラ記2章64,65節によれば約50000人がエルサレムに戻ります。

クロスのあと、カンビュセス王は、BC525年エジプトを征服 、BC522年、バビロンを離れている間に、ガウマダが王位を奪い、カンビュセスは自殺、その後、臣下のダリヨスがガウマダを破り即位、最初の二年ほどは、周囲の鎮圧に精力を使ったようです。(いのちのことば社「新聖書注解」など)

ハガイ、ゼカリヤは共に、このダリヨス王の二年に預言を開始しています。エズラ記、ネヘミヤ記を読むと当時の問題についてもある程度理解できると思います。

少し長いですが、ハガイ書1章を引用してみます。

1:ダリヨス王の二年六月、その月の一日に、主の言葉が預言者ハガイによって、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベル、およびヨザダクの子、大祭司ヨシュアに臨んだ、
2:「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」。
3:そこで、主の言葉はまた預言者ハガイに臨んだ、
4:「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。
5:それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。
6:あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
7:万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。
8:山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
9:あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
10:それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。
11:また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。
12:そこで、シャルテルの子ゼルバベルとヨザダクの子、大祭司ヨシュアおよび残りのすべての民は、その神、主の声と、その神、主のつかわされた預言者ハガイの言葉とに聞きしたがい、そして民は、主の前に恐れかしこんだ。
13:時に、主の使者ハガイは主の命令により、民に告げて言った、「わたしはあなたがたと共にいると主は言われる」。
14:そして主は、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、ヨザダクの子、大祭司ヨシュアの心、および残りのすべての民の心を、振り動かされたので、彼らは来て、その神、万軍の主の家の作業にとりかかった。
15:これは六月二十四日のことであった。
最初に書いた歴史的背景とこの1章を読むと大体背景が分かると思います。ダリヨス王の第2年はBC520年。この6月とあります。第2章は7月とあります。神殿が破壊され、神殿さえあればと願った民でしたが、いろいろな妨害や貧困などあらゆる困難のなかで、神殿どころではないと考えるようになっていたのかも知れません。このような時期に、「主の使者」(13節)ハガイが神殿の再建を鼓舞したことが書かれています。

ハガイ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

  1. 第一のメッセージとその結果 1:1-15
    1. 民の怠慢とその結果の指摘 1:1-6
    2. 建築再開の命令 1:7-11
    3. 預言に対する応答と神の励まし 1:12-15
  2. 第二のメッセージ、新しい神殿と未来の栄光 2:1-9
    1. 工事への激励 2:1-5
    2. 神殿の未来の栄光 2:6-9
  3. 第三のメッセージ 2:10-19
    1. 聖と汚れについて 3:10-14
    2. 今日から後 2:15-19
  4. 第四のメッセージ、ゼルバベルの選びと主の日 2:20-23


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聖書通読ノート

BRC2023

Haggai 1:8,9 山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。/私はそれを喜び、栄光を現す――主は言われる。あなたがたは多くの収穫を期待したが/それは僅かであった。/あなたがたが家へ持ち帰ると/私はそれを吹き飛ばした。/それはなぜなのか――万軍の主の仰せ。/それは、私の神殿が廃虚のままであるのに/あなたがたが、それぞれ自分の家のために/走り回っているからだ。
このチャレンジをどのように受けるかは難しい。これを、主の声と聞くかどうかも、難しい。判定は、どうしたらよいのだろう。啓示の難しさである。多くの民が、これを神の声として聞き、一つにまとまれるかだろうか。
Haggai 2:19 穀物倉にはまだ種があるか。/ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブの木は/まだ実を結んでいない。/しかし、今日から、私は祝福を与える。」
今日からということばは、力強い。実がなるには、時間がかかるであろうに。難しい。祝福として受け入れられるものは幸いであると、思うが、そうなのだろうか。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Haggai 1:14,15 主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い起こされたので、彼らは行って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。それは第六の月の二十四日のことであった。
ハガイ書は「ダレイオス王の治世第二年、第六の月の一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」(1)と始まる。ダレイオスはアケメネス朝ペルシャの(9代目)クロス大王からは三代目となる。(559–530 BC Cyrus the Great, 530–522 BC Cambyses II, 522–486BC Darius I, 486–465 BC Xerxes I, 465–424 BC Artaxerxes I, 424–424 BC Xerxes II)この年表から考えると、BC520 あたりとなる。クロスの勅令によって帰還が許されのが、BC538(その後の、エズラ帰還は BC458、ネヘミヤ帰還は、BC445(アルタクセルクセスの時代)である)。ここでは、このエズラ・ネヘミヤのときの前、BC515 ごろの再建に関する記事と思われる。第一期の帰還からあまりたっていない頃となる。クロスの勅令からこのときまでの歴史も調べる必要がある。
Haggai 2:9 この新しい神殿の栄光は以前のものにまさる/――万軍の主は言われる。/この場所に私は平和を与える――万軍の主の仰せ。」
クロスの勅令は、歴代誌下36章23節「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」とエズラ記1章1-4節に書かれている。正確かどうかは不明だが、神殿建設が中心に置かれていることは確かである。ハガイ書自身は、非常に部分的なことしか書かれていないように思われるが、その働きを助け、奮い立たせたことは確かなのだろう。むろん、ことはそれほど簡単ではないが。

BRC2019

Haggai 1:9 お前たちは多くの収穫を期待したが/それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき/わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに/お前たちが、それぞれ自分の家のために/走り回っているからだ。
「ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」(1)ダレイオス王の第二年は、BC520年、キュロスの捕囚民帰還令は BC538年。すでに、18年経過しているということだろう。放置されていた第二神殿とよばれる神殿再建が開始される。一次帰還民の中にも、神殿再建を考えた人たちはいただろう。しかし現実的には不可能だったか。ハガイ書を使って、礼拝堂建設を鼓舞することがよくあるので、慎重になってしまうが、この章では「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると/主は言われる。 」(8)と万軍の主のことば(7)として書かれているだけではなく「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。 」(14)とある。このことが、1節の記述にもつながっているのかもしれない。
Haggai 2:5 ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。
印象的なことばである。おそらく、国は滅び、民は離散し、契約は廃棄されたのではないかと考えていたろう。イスラエルの民にとっの回復は、この契約の回復なしには、考えられないことなのだろう。「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。」共におられる神である。しかし、回復に関するその次「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。わたしは国々の王座を倒し/異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も/互いに味方の剣にかかって倒れる。」(21,22)とある。裁きである。背景には、「わたしはあなたをわたしの印章とする。わたしがあなたを選んだからだ」(23)があるようである。選民思想から自由になることは、困難、不可能なのかもしれない。他者にとっても、共におられる主という、相対化・普遍化へは、進むことはできないのだろうか。時間がかかることは確かである。

BRC2017

Hagai 1:4 「今、お前たちは、この神殿を/廃虚のままにしておきながら/自    分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。
このあと、「それ(祝福が得られないの)は、わたしの神殿が廃虚のままであるのに/お前たちが、それぞれ自分の家のために/走り回っているからだ。」(9節)と主張している。これは、啓示以外、根拠はないだろう。むろん、宗教的儀式をすべて絶対的なものとしているなら、当然なことで、特別啓示は必要ないのかもしれない。やはり、論理的に、または普遍的なことのみを根拠に考えることはできない。しかし、ここで、神殿建設という公共事業を開始する。宗教共同体がどうあるべきかを考えさせられる。このときのひとつのよい提案だったのだろう。
Hagai 2:9 この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると/万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と/万軍の主は言われる。
第二神殿といわれる、帰還後の神殿が第一神殿に勝るのは、物質的なもの以外の評価によるのだろう。この前には、エジプトを出た時の契約として「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。」(5節)と表現している。この表現は少し調べてみたい。さらに、世界を揺り動かし「諸国のすべての民の財宝をもた    らし/この神殿を栄光で満たす」(7節)として、上の引用句につながる。希望の信仰があるのだろう。

BRC2015

Hag1:5-7 今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。 種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ。 万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。
神殿再建を鼓舞している箇所である。殆ど同じ5節と7節に挟まれて6節がある。重要なことを伝えているのだろう。満足が得られる生活を送っていないことの理由を問うている。単純な因果応報ともとれるが、何を大切に毎日を生きているのかが問われているのかもしれない。さらに満足、満ち足りた生活とは何かが問われているのかもしれない。わたしの日常はどうだろうか。今の生活を心から感謝しているが、それで良いのだろうか。
Hag2:6,7 まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度/天と地を、海と陸地を揺り動かす。 諸国の民をことごとく揺り動かし/諸国のすべての民の財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。
神殿再建に関する経済的な資源に関する支援についてであろうと思われる。神殿が放置されていることは確かでも、日々の生活のため、また過去の壮大な神殿を知っている身としては、いい加減なものはできないという気持ちもあったろう。そこで語られているのが、「揺り動かす」という表現である。揺り動かされるものは「海と陸地」そして「諸国の民」である。まさに、ザックザックとお金が財宝が入ってきそうな表現である。

BRC2013

Hag1:9 あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
われわれが求めたものを「吹き払」うのも神様なのか。それが、神殿を建てる為ではないにしても、自分のなかに救いを求めている我々の姿勢を問うていることは確かだろう。「家のことだけに、忙しくしている」ことが問われている。
Hag2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。
これは実現しなかったと批判するのは、間違っているのかもしれない。イエスによって成就したという見方もあるし、これによって、民に力が与えられることが重要だったのかもしれない。


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ゼカリヤ書

ゼカリヤ書(1)

ゼカリヤ書1章はつぎのように始まります。
1:ダリヨスの第二年の八月に、主の言葉がイドの子ベレキヤの子である預言者ゼカリヤに臨んだ、
2:「主はあなたがたの先祖たちに対して、いたくお怒りになった。
3:それゆえ、万軍の主はこう仰せられると、彼らに告げよ。万軍の主は仰せられる、わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰ろうと、万軍の主は仰せられる。
ゼカリヤは、神殿再建のみを語ったハガイと比較するともう少し広く、かつ長い期間活動し、最後14章では、主の日が来ると、その日のことを預言しています。ハガイ、ゼカリヤの時代の人たちはどのような問題をかかえ、どのような信仰的チャレンジを経験していたのでしょうか。

歴史的背景については、ハガイ書(1)を参照してください。

ゼカリヤ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

第一部 同時代へのメッセージ 1-8章

  1. 悔い改めの勧告 1:1-6
  2. 八つのビジョン 1:7-6:8
    1. 神の巡察使たち 1:7-17
    2. 四つの角と四人の職人 1:18-21
    3. エルサレムの未来の栄光 2:1-13 燭台と尽きない油 4:1-14
    4. 空飛ぶのろい 5:1-4
    5. エパ枡の中の罪悪 5:5-11
    6. 主の遠征隊 6:1-8
  3. 象徴としての戴冠 6:9-15
  4. 新時代の曙光 7:1-8:23
    1. 質問のための使節 7:1-3
    2. 断食の目的 7:4-7
    3. 真の断食 7:8-14
    4. 神の真実 8:1-17
    5. 質問への答え 8:18-23
第二部 未来に関するメッセージ 9-14章
  1. 王なるメシヤ 9:1-11:17
    1. 王の勝利 9:1-17
    2. 牧者なき時代の終わり 10:1-12
    3. 二種の牧者の対決 11:1-17
  2. 主の日 12:1-14:21
    1. エルサレムの回復 12:1-13:6
    2. 打たれる牧者 13:7-9
    3. 大艱難と主の介入 14:1-15
    4. 救いの完成 14:16-21


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聖書通読ノート

BRC2023

Zechariah 1:11,12 彼らはミルトスの木立の中に立っている主の使いに答えた。『私たちは地を巡りましたが、地上の人々は平穏に暮らしています。』主の使いは言った。『万軍の主よ、いつになったらエルサレムとユダの各地の町を憐れんでくださるのですか。あなたは七十年も憤っておられます。』
ゼカリヤが見た幻である。70年は、エレミヤの預言(「この地はすべて廃虚となって荒れ果て、これらの国民はバビロンの王に七十年間仕える。七十年が満ちると、私は、バビロンの王とその国民の上に、またカルデア人の地の上に、その過ちのゆえに罰を下し、これをとこしえに荒廃させる――主の仰せ。」エレミヤ25:11,12)に依拠しているのだろう。ただ、いつから、七十年なのか(一回目の捕囚、二回目の捕囚か)、エルサレムへの帰還が許されるときなのか、もう少し他の内容を含むかなど不明である。イスラエル政府のホームページから3つ年号を記する。722-720 アッシリアにきたイスラエル(10部族)滅ぼされ捕囚となる。586 バビロニアに、滅ぼされ、神殿崩壊、捕囚。538-515 多くのユダヤ人が帰還。
Zechariah 2:14,15 娘シオンよ、喜び歌え/今、私は来て/あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。その日には、多くの国民が主に連なり/私の民となる。/私はあなたのただ中に住む。/こうして、あなたは万軍の主が私を/あなたに遣わされたことを知るようになる。
エルサレムの復興、神殿の再構築のたいせつさについては、やはり正直わからない。神殿での礼拝の実態もよくはわからないことも影響しているかもしれない。そして、それがどのように、信仰生活を支えていたのかも。
Zechariah 3:8-10 大祭司ヨシュアよ/あなたも、あなたの前に座っている同僚たちも/聞きなさい。/あなたがたはしるしとなる人々である。/今、私はわが僕なる若枝を来させる。見よ、私がヨシュアの前に置いた石を。/この一つの石の上には七つの目がある。/私はそこに文字を刻む――万軍の主の仰せ。/そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。その日には/あなたがたは互いに呼びかけて/ぶどうやいちじくの木の下へ招き合う/――万軍の主の仰せ。」
どのようなメッセージなのだろうか。現実世界の特定の人への奨励なのだろうか。帰還後の苦難は感じられる。今後どのようになっていくのかの不安を払拭することも必要だったのだろう。そのような時を通して、人は錬られるのかもしれないが。
Zechariah 4:9,10 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。/その手がそれを完成させる。/こうして、あなたは万軍の主が私を/あなたがたに遣わされたことを知るようになる。誰がその日をささいなこととして蔑んだのか。/彼らは喜び/ゼルバベルの手にある下げ振りの石を見る。/これら七つのものは/すべての地を巡る主の目である。」
神殿の再建をはじめたゼルバベル(エズラ5:2)も、すでに重要視されていなかったということなのだろう。現実は、おそらく、ゼルバベルの貢献が重要視されない状況だったのだろう。回復を目指していたのだろうが、新しい、そのときの自分たちの歩みを、自分の十字架を負った歩みをしなければいけないのかもしれない。難しいが。最後の文章はよくわからない。「これらは全地の主のそばに立つ二人の油注がれた人たちである。」(14)
Zechariah 5:6 私が「それは何ですか」と尋ねると、彼は答えた。「そこに出て来るのはエファ升だ。」そして続けた。「これは全地にある彼らの罪である。」
「エファ升」が登場する。エファは23リットルとされるから、一斗缶一つ半の大きなものである。その中に、罪が詰まっているというのだろう。主をどのような方だとみるか、パウロの原罪や、贖罪も、同じルールなのかもしれない。憐れみ深い方、そして、一人ひとりに、御心をもとめて生きることを促しておられるように思うがどうなのだろうか。それは、ひとつの見方に過ぎないのだろうか。
Zechariah 6:12,13 彼に言いなさい。/『万軍の主はこう言われる。/若枝という名の人がいる。/その人のもとから芽が出/その人は主の宮を建てる。彼こそが主の宮を建て/彼こそが威厳をまとい、王座に着いて治める。/王座の傍らに一人の祭司がいて/この二人の間には平和への思いがある。』
4章には、ゼルバベルのことが書かれていたが、基本的には、神殿の再建が中心にあるのかもしれない。ここでも、次の担い手を立てることがテーマである。しかし、意思だけでは、ことはならないのだろう。いくら良いこと、基本的なことに見えても。み心をもとめ、生きることは本当に難しい。
Zechariah 7:2,3 ベテルは、主に願い求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレク、およびその従者たちを遣わし、万軍の主の家に仕える祭司たちと預言者たちに尋ねさせた。「私は、長年行ってきたように、第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。」
ベテルについえは、不明だが、このように、ペルシャ王、ダレイオス王の時代とある。帰還せず、ペルシャにいたとも考えられるが、おそらく、エルサレムに戻っているのだろう。しかし、そこのコミュニティでの宗教的リーダーとして、祭司たちと預言者たちが登場するが、民は耳を傾けない様子が描かれている。ただ、主が「私が呼びかけても彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、私は聞かない――万軍の主は言われる。私は彼らを、彼らの知らないあらゆる国々に追い散らした。その後、この地は荒れ果て、行き来する者もいなくなった。こうして彼らは、この慕わしい地を荒廃させた。」(13,14)と言われるようなかただとは思えないが。
Zechariah 8:7,8 万軍の主はこう言われる。/日の昇る地から、日の沈む地から/私はわが民を救い出す。私は彼らを連れて来て/エルサレムの中に住まわせる。/こうして彼らは私の民となり/私は真実と正義をもって彼らの神となる。
救いが必要な状態であることは確かなのだろう。しかし、救われても、もとのままであったら、同じことの繰り返しになる。本当に、最後の言葉のようなことが期待できるのだろうか。「多くの民、強い諸国民が/エルサレムで万軍の主を尋ね求め/主に願い求めるためにやって来る。万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言語の諸国民の中から、十人の男たちが一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。」(22,23)
Zechariah 9:13 私はユダを弓として引き絞り/エフライムを矢としてつがえる。/シオンよ、私はあなたの子らを奮い立たせ/ヤワンの子らに立ち向かわせる。/私はあなたを勇士の剣のようにする。
捕囚帰還後の、ユダ、ベニヤミン、レビ以外の人たちがどの程度いて、どのように活動していたのかが知りたい。ただ、ここでは、ユダとエフライムと双方の盟主をあげてまとめている。ある程度の人たちがいたことは想像できるが、どのぐらいの割合だったのだろうか。シメオンの嗣業地は、ユダの領地に含まれていたと思われるが、そうであれば、残っていたのだろうか。
Zechariah 10:8,9 私が彼らを贖ったので/口笛を吹いて集める。/彼らはかつてのように多くなる。私は彼らをもろもろの民の間に散らしたが/彼らは遠い国々で私を思い起こし/その子らと共に生き長らえて、帰って来る。
「贖う(פָּדָה: to ransom, redeem, rescue, deliver)」の文脈を知りたかったので、取り上げてみた。基本的には、代価を払って買い戻すことなのだろう。主のものとは、言えないような状況の中で、こうして、贖い主のものとする。しかし、マルコ10:45「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがない(λύτρον)として、自分の命を与えるためである」を読んでいると、命を与えることが印象的で、自分のものにするというものとは、異なるように見える。主イエスが意味していることは何なのだろうか。
Zechariah 11:17 災いあれ、羊を見捨てる役に立たない牧者に。/剣がその腕と右の目を打つように。/その腕が全く力を失い/右の目は全く見えなくなるように。」
牧者は指導者だろうか。昔も今も役にたたない牧者がいるのだろう。そして、危機においては、そのような牧者の存在は、悲惨である。しかし、そうであっても、わたしには、このようには語れない。ある一定数、そのようなものの存在は許容されなければならないと考えているからだ。完璧をもとめた、粛清は、神様の御心でもないように思う。
Zechariah 12:7,8 主は初めにユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れをユダ以上に大きくしないためである。その日、主はエルサレムの住民を守られる。その日、彼らの中の弱い者もダビデのようになる。そしてダビデの家は、彼らの前で神のように、主の使いのようになる。
よくは理解できないし、このあとには「その日になると、私はエルサレムに攻めて来る諸国民をすべて滅ぼす。」(9)とも続く。ダビデの存在がいかに大きかったかが伝わってくる。しかし、あくまでも、戦いにおけるものだったのではないだろうか。ダビデの生涯は、戦いにつぐ戦いである。そこに、望みを託すことは、イエスはしなかったのだろう。そして、わたしは、そこに惹かれる。
Zechariah 13:1,2 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。その日になると、私は偶像の名をこの地から絶ち滅ぼす――万軍の主の仰せ。その名は再び思い起こされることはない。私はまた、預言者たちと汚れた霊をこの地から追い払う。
このような清めがたいせつだと言っているのだろう。イエスは、少し違うように思う。それは、清いことが大切ではないからではなく、神様が働かれることをともに経験することがたいせつだと言っているように見える。汚れた世界において、神様の働きを見、その働きに、あずかること。だろうか。
Zechariah 14:8 その日になると、エルサレムから命の水が流れ出て/その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ/夏も冬も流れ続ける。
最後の方には、「地上の諸氏族のうちで、万軍の主なる王を礼拝するためにエルサレムに上って来ない者の上には、雨が降らない。」(17)ともある。水が、とても、重要な世界なのだろう。日本にいると、ほとんど、感じられないが。この章には、「主の日」について書かれている。それを描くことは、なかなか難しいが、それがあえて描かれている。わたしなら、どのように、描くだろうか。正直、わたしには、わからない。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Zechariah 1:1 ダレイオスの治世第二年、第八の月に、主の言葉がイドの子ベレクヤの子である預言者ゼカリヤに臨んだ。
ハガイ書の最初は「ダレイオス王の治世第二年、第六の月の一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」であるから、二ヶ月違うだけであるが、同時に書き方が非常に似ていることも感じた。一つの定形なのだろうが、もしかすると、書き手は、これらの預言者ではない人のかもしれないと思った。内容はかなり異なるが。「もう一度、呼びかけて言え。/万軍の主はこう言われる。/私の町は再び良いもので満ち溢れ/主は再びシオンを慰め/エルサレムを再び選ばれる。』」(17)この最初の帰還の時代についても、考えてみたい。
Zechariah 2:14,15 娘シオンよ、喜び歌え/今、私は来て/あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。その日には、多くの国民が主に連なり/私の民となる。/私はあなたのただ中に住む。/こうして、あなたは万軍の主が私を/あなたに遣わされたことを知るようになる。
神殿を建てようというときに、自然なことばであるが、なにか、伝わってくるものが少ない。なぜなのだろう。主が、わたしたちの中に住まわれるということも、具体的にはどのような状態を意味しているのか、よくわからないとも思う。復興という現実の課題が、目前にあり、そのなかでの神殿再建を鼓舞することが必要だったことは、ある程度理解できるが。
Zechariah 3:1-3 主は、主の使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右に立っているサタンとを私に示された。主の使いはサタンに言った。「サタンよ、主はあなたを叱責される。エルサレムを選ばれた主はあなたを叱責される。ここにいるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。
幻だろうから、仕方がないのかもしれないが、状況がよく理解できない。ただ、大祭司もふくめ、惨めな状況であることは、理解できるが。鼓舞しているのだろうか。帰還した民を。
Zechariah 4:9,10 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。/その手がそれを完成させる。/こうして、あなたは万軍の主が私を/あなたがたに遣わされたことを知るようになる。誰がその日をささいなこととして蔑んだのか。/彼らは喜び/ゼルバベルの手にある下げ振りの石を見る。/これら七つのものは/すべての地を巡る主の目である。」
鼓舞していることは理解できる。ここには、土台だけではなく「その手がそれを完成させる」としているが、それは、実際にはならなかったようだ。ネヘミヤというユダヤ人総督が送られてくるまで、そして、エズラなどが、民をまとめるまでは、ときがひつようなのかもしれない。苦しい時期であることはりかいできる。祭具などは、倉庫から持ち帰れたのかもしれないが、金銭も不足していただろうし、知恵も、他の必要も、多くのものがまだ整っていないのだろう。
Zechariah 5:7,8 さて、鉛の蓋が持ち上げられると、エファ升の中に一人の女が座っていた。「これは邪悪である」と彼は言い、その女をエファ升の中に投げ戻し、升の口に鉛の重しを投げかぶせた。
このあとにも「二人の女」に関する記述がある。邪悪、神殿を建てるとあるが、おそらく、惑わされる男性視点から、このような役割として「女」が使われているのだろう。一方、女性の立派な行為は、聖書中にいくつか記されているが、人間として立派な女性という記述は、すこし思い浮かぶものもあるが、あまりないように思う。宗教の社会が、ユダヤでは男性社会、または、男性が判断し決定する社会だったということだろう。それだけで批判するのは、間違いだと思うが、人間の視点が社会の中で限定されてしまうことは、確実に見える。
Zechariah 6:12,13 彼に言いなさい。/『万軍の主はこう言われる。/若枝という名の人がいる。/その人のもとから芽が出/その人は主の宮を建てる。彼こそが主の宮を建て/彼こそが威厳をまとい、王座に着いて治める。/王座の傍らに一人の祭司がいて/この二人の間には平和への思いがある。』
彼は、多少預言的な意味合いがあるかもしれないが「大祭司ヨツァダクの子ヨシュア」(11)である。しかし、引用句からは、この大祭司ヨツァダクの子ヨシュアが王座に着き、それ以外に、祭司がいて二人で平和を保ちながら治めると言っているようだ。つまり、祭司による統治である。ダビデの家系ではない、宗教による統治を預言しているのだろう。
Zechariah 7:5-7 「この地のすべての民と祭司たちに言いなさい。/『あなたがたは第五の月にも第七の月にも断食して/嘆いてきた。/こうして七十年になるが/あなたがたは本当に私のために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするときは、ただ自分のために食べたり飲んだりしているだけではないのか。これは、エルサレムとその周辺の町に人が住み、平穏であったとき、また、ネゲブやシェフェラにも人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して呼びかけた言葉ではなかったか。』」
「サル・エツェルとレゲム・メレク、およびその従者たち」(2)が「私は、長年行ってきたように、第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。」(3)と問うた答えである。このあとには、「『万軍の主はこう言われる。/真実の裁きを行い/互いに慈しみ、憐れみ合え。寡婦、孤児、寄留者/貧しい者を虐げてはならない。/互いに悪を心にたくらんではならない。』」(9,10)を拒む民の姿も描かれているので、実際、問題があったのかもしれないが、このような断罪的な伝え方で、聞くことができるひとはそう多くないとも感じた。ゼカリヤは自分が正しい側にいることを確信はしていただろうが。
Zechariah 8:18 「万軍の主はこう言われる。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって歓喜と喜びとなり、恵み溢れる定めの祭りとなる。真実と平和を愛せよ。
7章のサル・エツェルとレゲム・メレク、およびその従者たちの質問は、「第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。」(7:3)だった。その応答の仕方が不適切だと考えていた。しかし、ここでは、真実と平和を愛していれば、霊的な断食が「歓喜と喜びとなり、恵み溢れる定めの祭りとなる」と応答をしているように見える。これらのことばが人々に受けいられれた面もあるのだろう。帰還したひとたちは、指導者、すばらしい信仰者だと考えていたが、この時期にはすでに、いろいろな人がいたのかもしれない。背景がよくわからないと理解も難しい。
Zechariah 9:9,10 娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。/その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る。
「シオンの娘に告げよ。/『見よ、あなたの王があなたのところに来る。/へりくだって、ろばに乗り/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイによる福音書21章5節、マルコ11章1-11節、ルカ19章28-38節、ヨハネ12章12-19節参照)四福音書で小ろばのことが引用されている。この箇所が意識されているのだろう。たしかに、隣国の滅亡が記述されてからこの箇所を起点に、変化が記述されているが、内容的には、乏しいように見える。イエスが、これまでの救世者とは異なることを印象づける箇所であることは確かだろうが、これで表現できるものは、限定的であると感じる。イエス様はどう考えていたのだろうか。
Zechariah 10:10 私は彼らをエジプトの地から帰らせ/アッシリアから呼び集め/ギルアドの地とレバノンに連れて行く。/だが、そこも彼らには十分ではなくなる。
アッシリアとエジプトについての記述があるが、バビロン、ペルシャの記述はない。アッシリアはこの時点で崩壊しているはずであるが、その地に捕囚となったイスラエルの民がどうなったのかは、よくわからない。この時点では、たくさんの情報があったのだろうか。いつか、学んでみたい。わかることは限られているかもしれないが。
Zechariah 11:17 災いあれ、羊を見捨てる役に立たない牧者に。/剣がその腕と右の目を打つように。/その腕が全く力を失い/右の目は全く見えなくなるように。」
正直、この章の内容はよくわからない。特に、4節以降である。その中に、イスカリオテのユダに関係して引用されることばも含まれている。(12,13: マタイ26:15, 27:5,9)まず、引用は、「銀三十シェケル(貨幣単位にも使われる)」は一致しているものの、こじつけのようにも感じる。内容は、最後の節を引用したように、羊を見捨てる牧者の裁きなのだろうが、理解できない。「わが神、主はこう言われた。屠るための羊の群れを育てるがよい。」(4)この言葉自体が、すでに、実際の犠牲とはずれてしまっているように思うし、損得が、中心となっているように思われる。かなり乱れている状態を表現しているのか。
Zechariah 12:8,9 その日、主はエルサレムの住民を守られる。その日、彼らの中の弱い者もダビデのようになる。そしてダビデの家は、彼らの前で神のように、主の使いのようになる。その日になると、私はエルサレムに攻めて来る諸国民をすべて滅ぼす。
内容が十分理解できるわけではないが、中心は、引用している箇所のように、エルサレムの住民を守られることを伝えているのだろう。帰還しても、力は弱く、神殿に納める多少の、金銀の祭具はあったろうが、様々な困難で満ちていたのだろう。復興がなされるには、少なくとも、ネヘミヤの時代までは、待たなければいけなかったのかもしれない。もう少し、客観的な事実が知りたい。
Zechariah 13:1,2 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。その日になると、私は偶像の名をこの地から絶ち滅ぼす――万軍の主の仰せ。その名は再び思い起こされることはない。私はまた、預言者たちと汚れた霊をこの地から追い払う。
「その日」そして「主の日」など、聖書では救いの日について語られることが多いが、ここでも、一方で、希望を持たされる素晴らしいことが語られるが、他方、裁きがつきまとう。このあとには、ずっと、粛清のような裁きの記述が続く。「悪」を抹殺しなければ、「平和」は到来しないということなのだろう。それをもとめることは、正しいこと、主の御心なのだろうかと真剣に考えるようになっている。難しい。
Zechariah 14:17 地上の諸氏族のうちで、万軍の主なる王を礼拝するためにエルサレムに上って来ない者の上には、雨が降らない。
「しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章44,45節)イエスの教えとは明らかに異なる。ゼカリヤも真剣に、主の御心を求め、そして、平和を願ったのだろう。しかし、たどり着いたところは、排除である。イエスのように言うことができるためには、自分の望みとは区別して、主のみこころを御心を真剣に求めること、そして、みずからも主の痛みを担う覚悟が必要なのかもしれない。

BRC2019

Zechariah 1:12 それに答えて、主の御使いは言った。『万軍の主よ、いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています。』
「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。」(1)ハガイ書の冒頭と似ている。ハガイでは「ダレイオス」王の第二年六月一日」となっている。殆ど同じ時期である。BC520年とすると、その70年前は、BC590年。南ユダの滅亡はBC586年であるからほぼ70年である。キュロスの勅令はBC538年。エレミヤには「この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」(エレミヤ25章11節)「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 」(エレミヤ29章10節、参照:歴代誌下36章21節、ダニエル書9章2節)とかかれているが、「七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。」(エレミヤ25章11節)のような記述もある。少し調べてみると、七十年という記述は他にもあることがわかった。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩篇79篇10節)は有名だが、「七十年が終わると、主はティルスを顧みられる。そのとき、彼女は再び遊女の報酬を取り、地上にある世界のすべての国々と姦淫する。」(イザヤ23章17節、参照:15節)「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。」(ゼカリヤ7章5節)おそらく、預言書のこれらの箇所を知っていたであろう。つながっていることは興味深い。
Zechariah 2:9 わたし自身が町を囲む火の城壁となると/主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。
神殿建設の機運が高まり、信仰覚醒が起こる中で、民を鼓舞する力にはなっていったろう。「その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたに遣わされたことを知るようになる。」(15)ともある。しかし、正直、それほどは単純でないことを歴史から知っていると、醒めた目で見てしまうが、生きているのはそのとき、そのときのひとたちには、大きな恵みのことばだったのだろう。自分がさばき主にならないようにしたい。
Zechariah 3:1-3 主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。
ヨシュアについては6章11節にも現れるが、ほかにも、ハガイ1章1節、エズラ5章2節にも現れている、ヨツァダクの子ヨシュアであると思われる。ここでは、「汚れた衣を着」「火の中から取り出された燃えさし」と表現されている。神殿の再建とともに、大祭司がその職務をはじめる準備が書かれている。十分理解はできないが、エルサレム帰還後(最長18年)の苦難も背景にある転換点の中での幻なのだろう。
Zechariah 4:9,10 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたたちに遣わされたことを知るようになる。誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」
神殿再建のはじまりである。「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える』と万軍の主は言われる。」(ハガイ2章9節)にあるが、廃墟の中で、資材の乏しい中での再建の過酷さは想像できる。基礎が据えられたとしても、全体的な見通しは十分なかったかもしれない。またこれは第二神殿と言われるもので、これもいずれは破壊される。それぞれのときに、それぞれが鼓舞され、与えられるエネルギーについて考えさせられる。いまは(いまの、わたしのたいせつにしていることとは異なるが)ゼカリヤたちとともにいたいと思う。
Zechariah 5:3 彼はわたしに言った。「これは全地に向かって出て行く呪いである。すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される。」
幻はひとつの表現形態で、それがどんなものかを問うことは意味がないのだろう。ここでは、呪いのことばが発せられていることを伝えようとしている。盗人、偽って誓う(shaba`: to swear(誓う・断言する), adjure(厳命))ものが一掃されるとあるが、これはすこし比喩が入っているかもしれない。神のことばがそのまま行われるということを支えているのだろうか。呪い(’alah: 1. Oath, 2. oath of covenant, 3. Curse, i. from God, ii. from men, 4. execration(罵倒))の背後に主がおられることを伝えているとして、呪いだけではなく、誓いとも訳されている言葉でもある。これらのことばからも考えさせられることが多い。訳語も難しい。
Zechariah 6:11.12 銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。
神殿建設の途中であること、大祭司がその役をつとめはじめたばかりであることを思い出させる。ゼカリヤは、指導的立場で、神のことばをとりつぐ役割も果たしていたのだろう。それは、極度に困難なことである。神のことばだと確信がなくても、すべきこともあるだろうから。引用したことばでは、民に希望も与えているのだろう。『若枝』にはもうすこし象徴的な意味もあるかもしれないが。
Zechariah 7:2,3 ベテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼の従者たちを遣わして、主の恵みを求めさせ、また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか。」
最初の帰還から20年ほどたったころと思われるが、エルサレム以外の状況は記録がなくあまりよくわからない。ここでは、ベテルからの質問への応答が記されている。神を礼拝することの基本と、国が滅びにいたった経緯が書かれている。国が滅びて約70年、イスラエル以外で定住していたひとたちもいたと思われる中で、宗教集団として、民族として、国として、帰還後どのような形態を模索するのか、おそらくこれはこのあとも現代までずっと問われていることなのだろう。それでも、あるアイデンティティを守る道が、宗教集団として生き残ることなのだろうか。これも多様性が増え、今も、今後もどうなることが望ましいのか不明だが。
Zechariah 8:14,15 まことに、万軍の主はこう言われる。あなたたちの先祖がわたしを怒らせたので、わたしはかつて、あなたたちに災いをくだす決意をして悔いなかった、と万軍の主は言われる。そのように、今やわたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をした。恐れてはならない。
このあとに「あなたたちのすべきこと」が語られる。正義をもって裁きをし、悪をたくらまないことが書かれ(17)「万軍の主はこう言われる。四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる。あなたたちは真実と平和を愛さねばならない。 」(19)と続く。これが、ベテルからの使い(7章2節)への答えでもあったのだろう。そして民が増えていくことと思われることが書かれている。これが復興、回復なのだろう。リーダーシップを預言者として発揮し託宣を伝えるゼカリヤ。前に進むなければいけないときに、わたしはどうするだろうか。かなり困難な状況だろう。
Zechariah 9:8 そのとき、わたしはわが家のために見張りを置いて出入りを取り締まる。もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ。
ティルスとシドン、ペリシテが打ち砕かれることが書かれ、引用句に至る。見えている世界が狭いと思ってしまうが、同時に、近隣との関係がどれほど、重いのかも考えさせられる。そして、鍵となるのは「主に見守られているかどうか」だというメッセージを伝えているのだろう。主に守られるということがなにを意味するのか、主のみこころを理解することは難しい。現代はどうなのだろうか。当時より不信仰とも言えるが、そうでないのかもしれない。
Zechariah 10:9 わたしは彼らを諸国の間にまき散らしたが/遠い国にあっても彼らはわたしに心を留め/その子らと共に生き続け、帰って来る。
神殿再建の中で、ゼカリヤの使命は、民を励ますこと、鼓舞すること、希望を示し続けることなのだろう。そのような役割のなかで、真実を、謙虚に求め続けるのは、困難なのだろうか。現代でも、様々な状況でも考えさせられることである。目的至上主義とまではいわなくても、たいせつなこととして、すべてをそこに結びつけてしまう。1世紀以後は、神殿は再建されていない。不信仰というより、周囲のひとたちとのよりたいせつだと考える現実があるからだろう。政治的にうごくこともできるだろうが、そこに突き進まないことも御心を求めることなのかもしれない。
Zechariah 11:12,13 わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。
「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。」(マタイ26章15節)そしてこのあと27章におけるユダの記事が続き「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」(マタイ27章9,10節)で引用されている。ここでは預言者エレミヤと書かれており、エレミヤ32章9節、20節、25節の畑の売買を引用箇所とすることもあるが、内容は、ゼカリヤの方が近い。しかし、この箇所の理解は難しい。ただ、ここでも、おそらく、主が値踏みされたことは言われているようである。ゼカリヤの二本の杖、「好意」と「一致」との関連も不明である。
Zechariah 12:7,8 主はまずユダの天幕を救われる。それはダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れが、ユダに対して大きくなりすぎないようにするためである。その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。
「彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり」は、なにか良い印象を与える箇所だが、意味が十分理解できるわけではない。ただ、ダビデの家やエルサレムを中心とした回復とは異なることが言われていることは確かだろう。一人ひとりに焦点が置かれている。それが、主がゼカリヤに示されたことなのか、ゼカリヤが伝えたかったことなのか、主の御心を求める者たちに、共感をもって受け入れられたことなのか、ここだけから判断するのは、困難であるが。
Zechariah 13:1,2 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。
ここでは泉が開かれると表現されている。一人ひとりがこころを入れ替えても主に従うことはできない。神の恵み以外に救いはない。しかし、この記述は抽象的であるように思う。救いは本当に難しい。
Zechariah 14:8,9 その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。
主の日はこのようなものなのだろうか。イエスが悪魔の試みにたいして、イエスがこの世を治めることを拒否しているように見える(悪魔にひれ伏すことを拒否しているとも考えられるが)。ダビデの子と呼ばれ、国の回復へと向かうことには、動かなかった。「その日」がどのように実現するのかは、わからない。わからないということが正解なのかもしれない。わからないことを受け入れて、真摯に生きていくことだろうか。

BRC2017

Zechariah 1:4 あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに、『万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ』と呼びかけた。しかし、彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる。
先祖ができなかったものを、私たちは、できるのだろうか。これを断ち切るものがどうしても必要である。むろん、個人的には、ある程度可能であろう。しかし、同時に、裁きを逃れるためであるなら、やはり、むなしいように思われる。
Zechariah 2:13 わたしは彼らに向かって手を振り上げ/彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを/遣わされたことを知るようになる。
この「わたし」は誰なのだろう。最初から読んでもよくわからない。預言者なのだろうか。メシアなのだろうか。よくわからない。
Zechariah 3:2 主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」
なぜサタンが責められるのだろうか。エルサレムと神殿の回復は、当然のことと考えられたのだろう。根拠は、明白とは言えないが。「御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。』」(4節)も根拠はないのだろう。宗教にはつきものなのかもしれない。まったく不明では、道が示せないから。
Zechariah 4:11 わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」
この答えは、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」(14節)にある。しかし、それが誰だかはわからない。やはり、預言書をどのように理解したら良いかは、わからない。
Zechariah 5:3 彼はわたしに言った。「これは全地に向かって出て行く呪いである。すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される。」
新共同訳には「第六の幻」と表題がついている。ここに現れるのは、盗人と偽証者である。他者と関係している。他者が持っているもの、正当性を犯すということだろうか。
Zechariah 6:13 彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。
「彼」は「ヨツァダクの子、大祭司ヨシュア」(11節)だろうか。それとも「若枝」(12節)だろうか。王座とあり、そのあとに、祭司が出てくることを考えると、祭司が、ヨシュアのようにも思われる。するとこの「若枝」は何だろうか。急に、イエスまで飛躍するとはちょっと考えにくい。おそらくそう解釈する人もいるだろうが。
Zechariah 7:9,10 「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」
「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」(6節)の中身が、引用した箇所に反する行為ということなのだろうか。「自分だけ」「自分のためだけ」に対する教えである。想定されている範囲は限定されているかもしれないが、中身は、互いに仕え合うこと、互いに愛し合うことと通じる。
Zechariah 8:23 万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13章35節)を思い出す。祝福を見るのだろうか、それとも、祝福にいたる道を見るのだろうか。ヨハネでは、後者が意識されているのだろう。そこに道があるから、真理があるから、そして命があるから。
Zechariah 9:6 混血の民がアシュドドに住み着く。わたしはペリシテ人の高ぶりを絶つ。
理解できていないが、ペリシテは、パレスチナ。混血の民が住み着くことが書かれているが、ユダヤ人にとっては、それは、大きなことであっても、海の民にとっては、特別なことではなかったのではないだろうか。パレスチナの方が、普遍性は高いように思われる。純粋な信仰とは、神が求める者とは何なのだろうか。
Zechariah 10:1 春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ/すべての人に野の草を与えられる。
一般恩寵の部類に属することが言われているように思われる。謙虚に、主の恵みを求めて生きていきたい。
Zechariah 11:7 わたしは屠るための羊を、羊の商人のために飼った。わたしは二本の杖を手にして、ひとつを「好意」と名付け、もうひとつを「一致」と名付けて羊を飼った。
口語訳では「恵み」(no’am: kindness, pleasantness, delightfulness, beauty, favour)と「結び」(chabal: to bind, to take a pledge, lay to pledge, to destroy, spoil, deal corruptly, offend, to bring forth, travail)である。この二つの杖を折ることになる。それぞれに意味があるようだが、明確には表現できない。口語と新共同訳は大分印象が異なる。
Zechariah 12:10 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
十分理解できていないが、なにか、イエスの死を思い出させる。悲しむ主体が、誰なのかは、不明であるが。
Zechariah 13:2 その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。
「その日が来る」ことを待ち望んでいた人がいたのだろう。この預言者のように。その日はどのような時なのだろうか。神の御心がなる日。ひとは、その日がどのような日なのか、よくわからないかもしれない。しかし、それを、求める者はやはり幸せなのだろう。
Zechariah 14:17 地上の諸族の中で、エルサレムに上って万軍の主なる王を礼拝しようとしない者には、雨が与えられない。
恐ろしいことが書かれている。一般恩寵が、すべてのひとを含まなくなるときがあるというのだろうか。それが「その日」なのだろうか。これは、恐ろしい。大転換である。

BRC2015

Zech1:15 安穏にしている諸国の民に対して激しく怒る。わたしはわずかに怒っただけだが/彼らはそれに乗じて災いをもたらした。
本当にそうなのであろうか。平和を告げる預言者の一人なのではないのだろうか。ヨハネ2章24節にあるように、人々が信じても、イエスは心の中を見ておられる。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」とあるように。
Zech2:15 その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたに遣わされたことを知るようになる。
本当に共に住んで下さるのだろうか。ましてや、我々の中に。神が清めて下さるからだろうか。しかし、この肉体を持った身でそれはできるのだろうか。おそらく、そのように考えてはいけないのだろう。新しい命に生きることは、この世に生きつつも、この世の者ではないのだから。想像を絶する。
Zech3:10 その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて/ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」
困難を覚えていたことは確かだろう。帰還後の状況は予断を許さない。その人たちがどのような宗教集団を形成していくか、リーダーシップに負うところが多い。そのリーダーも、エズラ(学者)、ネヘミヤ(役人)、ハガイ、ゼカリヤなどの預言者、そしてエズラ記などに出てくる、実際の指導者がいるが、人間の弱さも感じる、イエスの教えはその普遍性故に、時代を越えて多くの人を啓発するが、リーダーの知りうること、なし得ること、考え得ることが限られているとき、人は「互いに呼びかけて/ぶどうといちじくの木陰に招き合う」ことができるのだろうか。私の周囲の状況を考えても、自分が関わる社会や組織を考えても、本当に難しい。
Zech4:14 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。
リーダーが明示されているのだろうか。ゼカリヤのような預言者が必要だったのかもしれない。しかし、どうしても、懐疑的にもなってしまう。この時代の状況と、このように形成されていった宗教集団についての、ある程度の知識から推測してしまうからだろうか。もっと、ここで働いておられる主に目を向けたい。人間の不完全さ、無力さではなく。
Zech5:11 彼はわたしに答えた。「かの女のため、シンアルの地に神殿を築こうとしているのだ。神殿が整えられると、その地に備えられた場所に置かれるはずだ。」
「かの女」は、8節に「邪悪そのもの」と表現されている女のことだろう。シンアルは創世記10章10節にハムの子孫、最初の勇士「彼(ニムロド)の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。」として現れる。バビロニア王国の地でもある。「主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。」(ダニエル1章2節)ここでは、バビロンの象徴として取り上げているのか。
Zech6:12,13 宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。 彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。
「ヨツァダクの子、大祭司ヨシュア」と具体的に名前があがっている。預言的な部分と非常に具体的なリーダーについての宣言と入り交じっている。これも、ゼカリヤが示されたことではあろうが、あまりに現実に近い部分で、その確信に不安すら感じる。
Zech7:2,3 ベテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼の従者たちを遣わして、主の恵みを求めさせ、 また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか。」
ゼカリヤ書については、まだ殆ど理解できていないが、興味も持つ。まず、ベテルとはどのような人物だろうか。地名から、ある土地出身の人たちという集団を意味するのか。いずれにしても、ある力ある人が、祭司たちおよび預言者たちに質問をしている。そのことを起点に「そのとき、万軍の主の言葉がわたしに臨んだ。」(4節)としてメッセージを語っている。問われた課題を神の意思を問うことと常に結びつけているのだろう。自分の中には問いすらないことも多い。「神の前に、神と共に」生きたい。
Zech8:2,3 「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。 主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て/エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ/万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。
神殿はまさに再建中である。その中での宣言である。これには、7節、8節などの、民を呼び集めること、9節から15節の、無駄に労するのでは亡く祝福が与えられるというゼカリヤ書1章のメッセージの実現、これに続く、内的覚醒と正義を行うこと(16,17節)さらに、宗教行事についてが続く。宗教改革が為されていたと言うことだろう。正直な気持ちとしては空しさも感じるが、見下したり、冷ややかな目で見てはいけないのだろう。現代の同様な活動に対しても。
Zech9:9  娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶ ることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
エルサレム入城のときの引用箇所である。「わたしはペリシテ人の高ぶりを 絶つ。 わたしはその口から血を、歯の間から忌まわしいものを取り去る。その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エ クロンはエブス人のようにる。」(6a, 7節)の「ユダの中の一族のようになり」はどのように解釈したらよいかわからないが、当時の人にとっては、衝撃だったかもしれない。「高ぶ ることなく、ろばに乗って来る」には、その意味が十分含まれているのかもしれない。
Zech10:6,7 わたしはユダの家に力を与え/ヨセフの家を救う。わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり/彼らの祈りに答えるからだ。 エフライムは勇士のようになり/ぶどう酒を飲んだように、心は喜びに溢れる。その子らも見て喜び、心は主にあって躍る。
ユダとヨセフ両方について語られている。ヨセフはエフライムはこのときどのような状況だったのだろう。それもよくわからない。そう考えなくてよいのかもしれない。この聖書の箇所の意味するところを考え、ゼカリアの信仰から学ぶことで。
Zech11:13 主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼 らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。
これを、新約聖書で引用するのは、理解できない。「好意」と「一致」の杖を折ることについて考えたい。これを神が自ら折ることは、何を意味するのだろうか。思考実験を示して、これらのたいせつさを悟らせているのか。
Zech12:2 見よ、わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とす     る。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる。
この章もよくわからないが、現実の問題をも見据えているのだろう。様々な祝福も語られている。当時の枠組みからは大きく離れていないように見えるが。主は何を伝えようとしているのだろうか。
Zech13:5 「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ。わたしは若いときから土地を所有している」と言う。
1節は「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」と始まり「その日」に起こることとして、この記述がある。預言をする者が恥を受ける(4節)とはどのようなことであろうか。汚れた霊とも同じ扱いになっている(2節)ことからも、完全なものが現れるとき、すべてが清められるときには、預言はすたれるということだろうか。1コリント13章8,9節を思い出す。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」
Zech14:16 エルサレムを攻めたあらゆる国から/残りの者が皆、年ごとに上って来て/万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。
このあとこの仮庵祭に関する記述が続く。仮庵祭は唐突に感じる。仮庵祭は、出エジプトの苦難を覚える祭りまたは、収穫祭、この年の最後の祭りである。諸国の民とそれを祝うことが祝福の頂点として記述され、このゼカリヤ書が終わるのは素晴らしいが、エルサレム中心主義からは、自由ではない。しかし8節の「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。」のように、イエスのメッセージを彷彿とさせる内容も含んでいる。「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」

BRC2013

Zech1:17 あなたはまた呼ばわって言いなさい。万軍の主はこう仰せられます、わが町々は再び良い物で満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ』と」。
16節・17節を見ていると「平和を告げる預言者」という言葉を思い出す。しかし、そのように批判することはあたっていないのだろう。このエルサレム帰還を長い歴史の一コマとして捕らえれば。しかし、難しい。
Zech2:11 その日には、多くの国民が主に連なって、わたしの民となる。わたしはあなたの中に住む。
世界中ではないかもしれないが、多くの異邦人が主に連なることが預言されている。その状態のなかで、イスラエルの民をやはり分離して考える。あまりに、主の近くにいたからか。
Zech3:8 大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。
7節の「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」が「彼ら」だろう。「よいしるしとなるべき人々」は何を意味しているのだろうか。7節の前半「わたしの道に歩み、わたしの務を守る」ことを示唆しているのだろうか。
Zech4:9,10a 「ゼルバベルの手はこの宮の礎をすえた。彼の手はこれを完成する。その時あなたがたは万軍の主が、わたしをあなたがたにつかわされたことを知る。 だれでも小さい事の日をいやしめた者は、ゼルバベルの手に、下げ振りのあるのを見て、喜ぶ。
「小さい事の日」このことばに惹かれる。この日を卑しめず、希望を持って、主に従っていきたい。
Zech5:6 わたしが「これはなんですか」と言うと、彼は「この出てきた物は、エパ枡です」と言い、また「これは全地の罪です」と言った。
エパ(かごの意味)約23リットル。巻物も、このかごも正確なサイズが記されているが、どんな意味があるのだろうか。正直、よくわからない。
Zech6:15 また遠い所の者どもが来て、主の宮を建てることを助ける。そしてあなたがたは万軍の主が、わたしをつかわされたことを知るようになる。あなたがたがもし励んで、あなたがたの神、主の声に聞き従うならば、このようになる」。
この章、この書全体が、神殿を建てる事に集中しているのだろうが、いまの時代の間隔から考えると、こころをそこに置けない。どう考えたら良いのだろうか。しかしここにある、13節や、15節、これらを希望としていた事は確かだろう。
Zech7:12 その心を金剛石のようにして、万軍の主がそのみたまにより、さきの預言者によって伝えられた、律法と言葉とに聞き従わなかった。それゆえ、大いなる怒りが、万軍の主から出て、彼らに臨んだのである。
こころを硬くするとはどういう事だろうか。並木先生の表現を借りて「自由の霊」に生かされる「反省的に、自律的に生きること」により、克服できるのだろうか。これも、むろん、自分ではできないのだろう。神様とのつながり「自由の霊」に生かされる事は、どのように求めれば良いのだろうか。
Zech8:16,17 あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない。 あなたがたは、互に人を害することを、心に図ってはならない。偽りの誓いを好んではならない。わたしはこれらの事を憎むからであると、主は言われる」。
わたしの日常はどうだろうか。意図的に、人を害する事はしていない。しかし、結果的に、人を害する事は、頻繁に生ずる。ここにあるように、心に図らないことだけを、主は求めるのだろうか。行為の背後の意図と罪の問題をどう考えたら良いのだろうか。
Zech9:1 託宣/主の言葉はハデラクの地に臨み、ダマスコの上にとどまる。アラムの町々はイスラエルのすべての部族のように/主に属するからである。
このあと、他の町々についても言及されている。吸収合併が考えられていたのかもしれないが、近隣の歴史もある、最大勢力のアラム、その中心都市ダマスコも主に属すると宣言するところに希望を見いだしたい。
Zech10:3 「わが怒りは牧者にむかって燃え、わたしは雄やぎを罰する。万軍の主が、その群れの羊であるユダの家を顧み、これをみごとな軍馬のようにされるからである。
憐れみ深い神に信頼している表現なのだろうか。それとも、9節に「わたしは彼らを国々の民の中に散らした。しかし彼らは遠い国々でわたしを覚え、その子供らと共に生きながらえて帰ってくる。」とあるような具体的な祝福を神の御心とするものか。
Zech11:4 わが神、主はこう仰せられた、「ほふらるべき羊の群れの牧者となれ。
これは7節「わたしは羊の商人のために、ほふらるべき羊の群れの牧者となった。わたしは二本のつえを取り、その一本を恵みと名づけ、一本を結びと名づけて、その羊を牧した。」へと続くが、これらの杖を折ることを実証する為だけか。奇異に感じる。
Zech12:1 託宣/イスラエルについての主の言葉。すなわち天をのべ、地の基をすえ、人の霊をその中に造られた主は、こう仰せられる、
「人の霊」は口語ではここのみ。「人の霊」としているのは、ヨブ記12:10「すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。」創世記2:7「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 」はどのように理解されていたのだろう。「人の霊」はどのような役割があるのだろう。命とどう違うのか。
Zech13:7 万軍の主は言われる、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。
指導者が信頼を得られない。そして、さばき。ゼカリヤの記述は耐えられない。人々へのメッセージが感じられないからだろうか。捕囚帰還後のユダヤ教成立過程について勉強してみたい。
Zech14:8 その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。
12節には「エルサレムを攻撃したもろもろの民を、主は災をもって撃たれる。」と続き違和感も感じる。ヨハネ7:38「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」 を思い出す。その違いとともに、イエスのここで「聖書に書いてあるとおり」と言われることにチャレンジを感じさせられる。


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マラキ書

マラキ書(1)

神殿は、BC515年に完成します。マラキはその後の時代であることは確かですが、明確には分かりません。 マラキで扱っている問題からエズラ記、ネヘミヤ記よりも後だと判断すると、BC460-440年頃となります。

マラキ書は文体がとても印象的です。神と民との対話形式になっているのです。少し引用してみます。

マラキ書1章2,3節
2:主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、
3:エサウを憎んだ。かつ、わたしは彼の山地を荒し、その嗣業を荒野の山犬に与えた」。
マラキ書2章17節
あなたがたは言葉をもって主を煩わした。しかしあなたがたは言う、「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」。それはあなたがたが「すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる」と言い、また「さばきを行う神はどこにあるか」と言うからである。
マラキ書3章 8節
人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
マラキ書3章13,14節
13:主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。
14:あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
このような問いはいろいろなことを考えさせられますね。

さて、3章の1節には「わが使者」(ヘブル語では、マルアーキー)ということばが出てきます。道を整える使者です。それは、エズラ、ネヘミヤの改革の道ぞなえの意味もあったかも知れませんが、もう少し他のことも含まれているかも知れませんね。

マラキ書3章1節
「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
最後にマラキの最後、日本語訳では、旧約聖書の最後のことばとなる、次のことばを引用します。
マラキ書4章4節-6節(新共同訳では3章22節ー24節)
4:あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。
5:見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
6:彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。

日本語訳聖書において、マラキ書は3章のものと4章のものとがあり、章の区切りが異なっています。ヨエル書(1)を参照して下さい。

マラキ書 梗概 いのちのことば社「新聖書注解」千代崎秀雄

  1. 表題 1:1
  2. 神の愛の問題を巡って 1:2-2:16
    1. 問題提示 1:2
    2. 回答=神の愛の証明 1:2-5
    3. 契約関係崩壊に対する警告 1:6-2:16
  3. 神の公義の問題を巡って 2:17-3:12
    1. 問題提示 2:17
    2. 回答=公義実現の確実さ 3:1-5
    3. 祝福阻止の原因 3:6-12
  4. 敬虔の有益さの問題を巡って 3:13-4:3
    1. 問題提示 3:13-15
    2. 回答=敬虔者への約束 3:16-18
    3. 主の日 4:1-3
  5. 結語 4:4-6

旧約聖書を読み終えるにあたって

マラキ書で旧約聖書を読み終わり、新約聖書のマタイによる福音書を読み始めます。皆さんは、どのようなことを考えられながら旧約聖書を読んでおられるでしょうか。 これらは、わたしの偽らざる感想でもあります。この背景には、聖書とは何かという問いもあるのだと思います。 新約聖書には「聖書」について書かれた箇所がいくつかありますから、少し見てみましょう。新約聖書での「聖書」とはむろん、旧約聖書の事です。引用は新共同訳聖書です。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 (ヨハネによる福音書 5章39節)
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 (ガラテヤの信徒への手紙 3章8節)
これらの言葉から、わかることは、ひとつには、イエス以前とイエス以後では異なると新約聖書は主張していること。救いに関して、いのちを得ることに関して、または、義とされることに関して、旧約聖書に書かれていることを超えるものが、イエスによって明らかにされたということを主張しているのだと思います。 しかし同時に、次の言葉は、旧約聖書が記されるその背後に神さまがおられることを証言しています。
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 (テモテへの手紙二 3章16節)
「神の言葉」についてはより多くの記述がありますから、調べてみてはいかがでしょうか。上の疑問の真ん中の二つに答える鍵が新約聖書にあるというのは、ちょっと短絡かもしれませんが、新約聖書を読むに当たり、旧約の神さまについて語っているイエス、つまり旧約聖書との連続性と、新しい福音について、考えながら読んでいただきたいと思います。

並木浩一先生(ICU名誉教授、聖書学)の「人が共に生きる条件  説教・奨励集」並木浩一著、新教出版社(2011.3.1. ISBN 978-4-400-52442-7) から引用します。

聖書は誰か一人の人物が発した権威ある言葉ではなく、人々が共有する生きた言葉です。そうであるから、いつの時代にも伝承された信仰の言葉は、読み手たちの『今』に関わるものに作り直され続けたのです。(中略)聖書は物語の舞台装置とせりふの内実とが違っているのです。(中略)むしろそうであるから、聖書が書かれた時代から読者の時代状況が変化しても、伝えられた言葉が自分たちの生活舞台の中に移し替えられ、必要な変更がなされ、生きたみ言葉として読み継がれてきたのです。そのように読まれることが了解されていますから、最初の舞台装置も話題も話者も自由に設定できるのです。(p.43)
このような表現を受け入れることは、抵抗のある方もおられると思います。上の私の感想の中の最初の二つ(これらは積極的な価値を表している二つですが)の背景として納得させられるものであると共に、聖書のことばと今とを繋ぐというより、重なりを意識させられるものでもあります。
神さま、私たちの人生には、戦いがあります。許し難い人々もあります。そのことで私たちは心をかたくなにして、憎しみの感情から完全に解放されることはありません。しかし主よ、あなたは私たちが自分で陥る苦しみ、狭い場所から、広い場所へと出るように誘ってくださいます。そのみ声に率直に従うことができますよう私たちをお導きください。すべてを主に委ね、自分の曲がった心から解放される喜びを味わい、その喜びを人びとに伝えることのできるような人に成長させてください。(p.51)
これは、並木先生が祈りとして記されているものですが、分からないことは、分からないとして、聖書に向き合う事を通して「狭い場所から、広い場所へと出るように誘って」いただく経験を喜んでおられる謙虚さは、わたしもぜひ見習いたいことです。
『自由の霊(詩編51:12)』とは、人が反省的に、自律的に生きることのできる精神です。『自主の人として生きる霊』と読み替えることは、まったく差し支えありません。(p.22)
上に書いた疑問、特に最後の二つは、聖書に書かれていることは文字通り正しい事実だということを出発点として読むときにおこるものであるように思います。誇張表現などの文学的表現もふくめ、その聖書の箇所から、聖書記者がなにを伝えようとしているのかを読み取り、聖書記者と、神との関係から、自分と神との関係を問い、反省的に、自律的に生きることができればと願います。誤解をおそれず書くなら、聖書記者達の命を賭けた信仰告白を通して、そのひとたちのいのちと、いのちを生かされた方とに出会う場が、私が毎日読む聖書であるように思います。これからも、疑問をたいせつにしながら正直に正面から聖書の言葉と向き合っていきたいと願っています。


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聖書通読ノート

BRC2023

Malachi 1:8 あなたがたが目の潰れた動物をいけにえとして/献げても、悪いことではないのか。/足が傷ついていたり、病気である動物を献げても/悪いことではないのか。/それを総督に献上してみよ。/彼はあなたを喜びとし、受け入れるだろうか/――万軍の主は言われる。
興味深い対比もある。神と、総督、人間にとって価値のあるまたは金銭的評価の高いものと、焼き尽くされ、基本的に、評価が無になるもの。たしかに、主にささげる心、信仰を考えたら、マラキの指摘は適切である。しかし、この時代には、人間が悪賢くなり、姑息になってきたということだろう。この傾向は、どんどん、巧妙にもなっていくのだろう。自分をも騙して。どう考えるかは難しい。神様がなにを喜ばれるかは、それほど簡単には、わからないのだから。
Malachi 2:15,16 主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。/若い時の妻を裏切ってはならない。私は離婚を憎む/――イスラエルの神、主は言われる。/離婚する人は衣服で暴虐を隠している/――万軍の主は言われる。/あなたがたは自分の霊に気をつけるがよい。/あなたがたは裏切ってはならない。
興味深いことが書かれている。人間は、「肉と霊を持つただ一つのもの」とある。おそらく、創世記の記述も、これを反映しているのだろう。では、神は霊だろうか。動物は肉なのだろうか。ここには、離婚のことも書かれている。この結婚の奥義は、肉と霊をもつただ一つの存在だからこそ、重要だというのだろうか。もう少し深く考えてみたい。
Malachi 3:7,8 あなたがたは先祖の時代から/私の掟から離れ、それを守らなかった。/私に立ち帰れ。/そうすれば、私もあなたがたに立ち帰る/――万軍の主は言われる。/しかし、あなたがたは言う/「我々はどのように立ち帰ればよいのですか」と。人が神を欺けるだろうか。/あなたがたは私を欺きながら/「どのようにあなたを欺きましたか」と言う。/それは、十分の一の献げ物と/献納物によってである。
マラキ3章は、「私は使者を遣わす。/彼は私の前に道を整える。/あなたがたが求めている主は/突然、その神殿に来られる。/あなたがたが喜びとしている契約の使者が/まさに来ようとしている――万軍の主は言われる。」(1)と始まり、最後には、「大いなる恐るべき主の日が来る前に/私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子らに/子らの心を父に向けさせる。/私が来て、この地を打ち/滅ぼし尽くすことがないように。」(23,24)で終わる。バプテスマのヨハネの預言だと解釈されているが、イザヤ書のほうをそれにとるほうが、よいのかもしれない。これは、明確に書いてはあるが、全体として、イエスには、当てはまらない。


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過去の聖書ノート

BRC2021

Malachi 1:13,14 あなたがたはまた、「なんと煩わしいことか」と言って、私をないがしろにしている――万軍の主は言われる。あなたがたが、奪って来た動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを供え物として引いて来ているのに、私があなたがたの手からそれを受け取るだろうか――主は言われる。自分の群れの中に欠陥のない雄の動物がいて、それを献げると誓いながら傷のあるものを主に献げ、偽る者は呪われよ。私は大いなる王で、わが名が諸国民の間で畏れられているからである――万軍の主は言われる。
主がわたしたちの心を見ておられることを言っているのだろうが、それは正しいとしても、ここに書かれているようなことを望んでおられるのかと問うと、わたしは、「否」だと思う。「万軍の主」ということばもよくは理解できないが、全世界の統率者ということであるなら、人々との平和、互いに愛し合うことを望んでいると思う。主イエスに、わたしは賭けたい。
Malachi 2:15 主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。/若い時の妻を裏切ってはならない。
興味深い表現である。「肉と霊を持つただ一つのもの」わたしは、このようには、言い切れない。人間以外にも、そのような存在があることを否定できないから。しかし、そうではっても、「肉と霊を持つただ一つのもの」を生きることと真剣に向き合うことのたいせつさは、理解できる。「自分の霊に気をつけるがよい。/若い時の妻を裏切ってはならない」これも、肉と霊、双方につながっているということなのだろう。
Malachi 3:14,15 あなたがたは言っている。/「神に仕えることは空しい。/その務めを守っても/また、万軍の主の前を嘆きつつ歩いても/何の益があろうか。今こそ、我々は傲慢な者を幸せな者と呼ぼう。/彼らは悪を行っても栄え/神を試みても罰を免れている。」
このように考えるひとは、どの時代にもいるのだろう。たしかにそれを反証することも難しい。主は、憐れみ深い方だから。主がどのようなかたかを理解することは、ひとそれぞれの生き方も関係するので、難しいのかもしれない。謙虚に、求め続けたい。なにが正しいと、簡単には、断定せずに。

BRC2019

Malachi 1:4 たとえエドムが、我々は打ちのめされたが/廃虚を建て直す、と言っても/万軍の主はこう言われる/たとえ、彼らが建て直しても/わたしはそれを破壊する、と。人々はそれを悪の領域と呼び/とこしえに、主の怒りを受けた民と呼ぶ。
「エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ。」(2b,3a)から続いている。恵みを理解することは困難で、それの一つの例なのかもしれないが、主はほんとうにエサウを憐れまないのだろうか。引用箇所の次には「あなたたちは、自分の目で見/はっきりと言うべきである/主はイスラエルの境を越えて/大いなる方である、と。 」(5)とあるが、悲しくなってしまった。ただ、わたしのようなものの考えも、しばらくあとの人から見ると多くの問題があるのだろう。時代的な変遷とともに、人々の神様の理解が深くなっていくことを願う。
Malachi 2:5-7 レビと結んだわが契約は命と平和のためであり/わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり/彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり/その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み/多くの人々を罪から立ち帰らせた。祭司の唇は知識を守り/人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。
「レビと結んだわが契約」とこの直前の4節にもある。しかし、聖書の中ではこれら二箇所だけのようである。マラキについてはあまりよくわからないが、律法を守ることが強く意識され、そのための祭司などレビの役割のたいせつさとこれまでの貢献が意識されているようだ。儀式的なこと、そして律法が遵守されることが、祝福の源だと伝えているのだろう。しかし、どのようにして、主のみこころをたいせつにして生きられるのか、それは、簡単ではない。
Malachi 3:1,2 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
使者の到来。それは道を備える者とある。主の日、回復についての預言である。2節にも「誰が身を支えうるか」とあるように裁きが主目的のようだ。そのあとに悔い改めを勧告する。主に立ち帰ることは、十分の一を捧げること(5,10)のようである。モーセの律法も登場する。(22)そして、締めくくりのように「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(23)がある。ここに、民は期待したのだろう。旧約聖書の最後である。

BRC2017

Malachi 1:11 日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
このようにはっきりと言い切ることができる背景が、マラキにはあったのだろうか。たしかに、当時の世界にユダヤ人は広がり、その教えが特別であることは、認識されてはいたろう。実際の状況をもっと知りたい。
Malachi 2:17 あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである。
主は疲れることはないだろう。しかし、我々の理解の遅さへの忍耐は、とても大きいと言っているのだろう。主の忍耐に甘えてはいけないということか。
Malachi 3:17 わたしが備えているその日に/彼らはわたしにとって宝となると/万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように/わたしは彼らを憐れむ。
「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」(出エジプト19章5節 参照:申命記7章6節、14章2節、26章18節、33章19節)が「宝」の背景にあるのだろう。神の民は、それにふさわしい民という意味があるのだろう。その性質はどのようなものだろうか。

BRC2015

Mal1:8 あなたたちが目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても/悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる。
いろいろといいわけはできる。2節から3節にかけての「わたしはヤコブを愛し エサウを憎んだ。」もなかなか難しい言葉だ。障害があるものと、そうでないものの違いを論じることも可能である。しかし「それを総督に献上してみよ。」は痛烈。「目のつぶれた動物」や「足が傷ついたり、病気である動物」を献げる者の心が問われているのだろう。神をどのようなものとして行動し生きているか、それが問われているのだろう。
Mal2:14,15 あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
このあとには「わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる。」と続く。「霊と肉」と言われていることには、霊肉二元論との関わりから不明な点も多いが、文脈からすると、離婚は、単に肉的なものだけではない、と言っているのだろう。契約の重さを考えさせられる。契約を破棄することは、神と証人とをともに裏切ることでもあるのだろう。
Mal3:1,2 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
「待望している主は、裁き主として来られる」がマラキの預言で、だからこそ今神を欺くなという。何によってか、それは真実の献げ物によって。ただ、読み方によっては、「見よ、彼が来る」と言っている「彼」は使者のようである。それは、バプテスマのヨハネに投影されているのか。あまり厳密に考えるのは、適切ではあるまい。まずは、主の到来を無邪気に待望しているものへの戒めが中心的メッセージなのだから。口語訳・新改訳では18節までが3章で19節からは4章である。

BRC2013

Mal1:2 主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、
現代を考えると、この問いは切実である。よく考えたい。
Mal2:17 あなたがたは言葉をもって主を煩わした。しかしあなたがたは言う、「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」。それはあなたがたが「すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる」と言い、また「さばきを行う神はどこにあるか」と言うからである。
主を煩わすという意識もないのではないか。現代は。神を無視して生きる世界は変わるのだろうか。
Mal3:1,2 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。 その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。
主がこられた直後にさばきが来ると考えるのは、この節からは自然。これがバプテスマのヨハネの疑問だったかもしれない。
Mal4:3 また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。
こんな気持ちにはどうしてもなれない。それを望む事は良い事なのだろうか。しかし、こう書くときには、正しい者の側に自分を置いている。しかし、悪人の側であっても、不満は持たない。ということは、この表現が現代には(私には)あっていないだけなのかもしれない。


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