4 マルコによる福音書の学び
2023年4月に再開した、聖書の会の記録です。マルコによる福音書を学ぶとしていますが、特徴として、他の福音書に並行箇所があるときには、その箇所も比較して読み、考え、共に、問いについて語りあう、形式で進めています。聖書の引用は、口語訳を主としています。厳密に理解しているわけではありませんが、多少、著作権にも配慮してと言うことです。ただ、口語訳には、表題がついていませんから、現在わたしが使っている聖書協会共同訳の表題を並べて、並行箇所にあるものを参照しています。ヨハネによる福音書は、通常並行箇所としては、出てきませんが、背景を知るためには、重要な証言が得られることもあるので、あわせて読むことにしています。なお、マルコを中心とした並行箇所については、資料のマルコによる福音書表題に表にしてまとめてあります。
下には、基本的に、聖書箇所、問い(ディスカッション・クエスチョン)、参照箇所、日にちと、出席者(対面)・参加者(遠隔)人数の記録、メモ(個人的感想を含む)を書いていきます。
一般的に知られていることや、原語についてコメントすることもありますが、寄り道で、皆で考えながら読んでいくという中心から、あまり外れてほしくないので、それは、共観福音書に書くようにしていきます。自分でも問いを持ちながら、読んでいっていただければ幸いです。
これをお読みのみなさんの学びの一助となることを願っています。
4.1 マルコによる福音書について
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
4.1.1 問い
どのようなことばで始まりますか。
他の福音書とくらべるとどんなことがわかりますか。
パピアスはどのようなことを証言していますか。
パウロの手紙との違いについてどんなことに気付きますか。
「福音のはじめ」でどのようなことを伝えたかったのでしょうか。
4.1.2 参照
Ἀρχὴ τοῦ εὐαγγελίου Ἰησοῦ Χριστοῦ [υἱοῦ θεοῦ].
聖書の中の(ヨハネ)マルコ:使徒12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ4:10, 2テモテ4:11, ピレモン24, 1ペテロ5:13
4.1.3 記録
日時:2023年4月20日午後7時半〜9時半
出席(対面)7名、参加(遠隔)6名
4.1.4 問いについて
どのようなことばで始まりますか。
- 気づいたことを挙げてみましょう。
他の福音書とくらべるとどんなことがわかりますか。
なぜ、マルコはこのように始めているのでしょうか。
パピアスはどのようなことを証言していますか。
パウロの手紙との違いについてどんなことに気付きますか。
ローマ人への手紙以降はたくさんのパウロの手紙が収められていますが、パウロとはどのような人ですか。
パウロの手紙について知っていることを挙げてみましょう。
「福音のはじめ」でどのようなことを伝えたかったのでしょうか。
「福音のはじめ」からはどのようなことをイメージしますか。
あなたなら、誰かについて伝えようとする時どのようなことをたいせつにしますか。
4.1.5 メモ
「はじめ Ἀρχὴ」は、原点という意味もあるが、どこをはじめとするか、福音のはじめでなにを語ろうとしているのか考えた。
創世記やヨハネによる福音書の「はじめに」も、想起させる。
マタイやルカのように誕生からはじめてはいない。マタイ、ルカ、それぞれの特徴があり、マタイは十二弟子であるが、説教は独自資料だが、話はほとんどマルコを踏襲している。地名や人数など、細かいところで、いくつかマルコとは違うことを書いている。
ヨハネと共観福音書では、ゲッセマネで捉えられるところの表現が異なっており、ヨハネでは、イエスが弟子たちを逃したという記述、マルコなどでは弟子たちが逃げたという記述になっている。ペトロとヨハネの受け取り方の違いが、現れているのかもしれない。
パピアスも読みながら、教父の一人がつたえたマルコによる福音書について確認した。
著者について、著者などについての AI の答えも見ながら、いろいろな説があることも確認した。以下、マルコ由来として、マルコが書いたとの書き方をするが、そのように断定しているわけではないことを断っておく。
パウロ書簡との違い、焦点の合わせ方の違いとともに、マルコ(この書)がつたえる、福音のはじめの原点の取り方が、福音書の特徴でもある。
使徒行伝によると、パウロとマルコは、ある時を境に一緒に行動しなくなっている。パウロ由来の手紙とされる著者について議論がある手紙のなかでは、マルコが、パウロと一緒にいることを証言するものもある。
マルコでは贖罪については、10章45節「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」ぐらいしか書かれていない。
パウロ書簡が伝えるキリスト・イエスと、マルコの伝えるイエス・キリストの違いとともに、それがキリスト教会の分裂にはなっていないこと、福音書の違いもたいせつなものとして味わえると良い。
私なら、何をたいせつにして、伝えるだろうか。少しずつ読みながら、考えていきたい。
4.2 1:1-8 洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 2 預言者イザヤの書に、/「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、/あなたの道を整えさせるであろう。3 荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』」/と書いてあるように、4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。 5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。 6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。7 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。 8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
4.2.1 マタイ3:1-12
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、 2 「悔い改めよ、天国は近づいた」。3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』」/と言われたのは、この人のことである。 4 このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。 5 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、6 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。 8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
4.2.2 ルカ3:1-9
3:1 皇帝テベリオ在位1の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督2、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、 2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』。5 すべての谷は埋められ、/すべての山と丘とは、平らにされ、/曲ったところはまっすぐに、/わるい道はならされ、 6 人はみな神の救を見るであろう」。 7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。 8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。9 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。
4.2.3 ヨハネ1:19-28
1:19 さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。 20 すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。21 そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。22 そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。 23 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。 24 つかわされた人たちは、パリサイ人であった。 25 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。26 ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。27 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。28 これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
4.2.4 問い
2,3 節の引用では「使(つかい)」について何と預言していますか。
ヨハネはどのような人ですか。どのような活動をしますか。
他の福音書などの記述と比較して気づいたことを挙げてみましょう。
「福音のはじめ」として、旧約聖書から引用し、バプテスマのヨハネの活動について書いていますが、なぜ、旧約聖書との関係から、始めたのでしょうか。
主の道を整える・備えるとは、どのようなことで、主の道が整っているとは、どのような状態なのでしょうか。現代は、世界は、そしてあなたへの主の道は整っていますか。
4.2.5 参照
聖書の中のバプテスマのヨハネ
1 Ἀρχὴ τοῦ εὐαγγελίου Ἰησοῦ Χριστοῦ [υἱοῦ θεοῦ].
2 Καθὼς γέγραπται ἐν τῷ Ἠσαΐᾳ τῷ προφήτῃ·
ἰδοὺ ἀποστέλλω τὸν ἄγγελόν μου πρὸ προσώπου σου,ὃς κατασκευάσει τὴν ὁδόν σου·
3 φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ·
ἑτοιμάσατε12 τὴν ὁδὸν κυρίου,
εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους αὐτοῦ,4 ἐγένετο Ἰωάννης [ὁ] βαπτίζων ἐν τῇ ἐρήμῳ καὶ κηρύσσων βάπτισμα μετανοίας13 εἰς ἄφεσιν14 ἁμαρτιῶν15.
5 καὶ ἐξεπορεύετο πρὸς αὐτὸν πᾶσα ἡ Ἰουδαία χώρα καὶ οἱ Ἱεροσολυμῖται πάντες, καὶ ἐβαπτίζοντο ὑπ’ αὐτοῦ ἐν τῷ Ἰορδάνῃ ποταμῷ ἐξομολογούμενοι τὰς ἁμαρτίας αὐτῶν.
6 καὶ ἦν ὁ Ἰωάννης ἐνδεδυμένος τρίχας καμήλου καὶ ζώνην δερματίνην περὶ τὴν ὀσφὺν αὐτοῦ καὶ ἐσθίων ἀκρίδας καὶ μέλι ἄγριον.
7 Καὶ ἐκήρυσσεν16 λέγων· ἔρχεται ὁ ἰσχυρότερός μου ὀπίσω μου, οὗ οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς κύψας λῦσαι τὸν ἱμάντα τῶν ὑποδημάτων αὐτοῦ.
8 ἐγὼ ἐβάπτισα ὑμᾶς ὕδατι, αὐτὸς δὲ βαπτίσει ὑμᾶς ἐν πνεύματι ἁγίῳ.
4.2.6 記録
日時:2023年4月27日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)8名
4.2.7 問いについて
2,3 節の引用では「使(つかい)」について何と預言していますか。
[参照] マラキ3:1 見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
[参照] イザヤ40:3 呼ばわる者の声がする、/「荒野に主の道を備え、/さばくに、われわれの神のために、/大路をまっすぐにせよ。
なぜ「荒野」なのでしょうか。
ヨハネはどのような人ですか。どのような活動をしますか。
バプテスマのヨハネは、「使」の旧約聖書の預言をどのように成し遂げていますか。
ヨハネの働きは、メシヤを迎えるために人々の心をどのように整えるのでしょうか。悔い改めることは、救い主を迎えるのにどう整えるのでしょうか。やがて来る方とどのような違いがありますか。
他の福音書などの記述と比較して気づいたことを挙げてみましょう。
- バプテスマのヨハネについてほかに知っていることはありますか。
「福音のはじめ」として、旧約聖書から引用し、バプテスマのヨハネの活動について書いていますが、なぜ、旧約聖書との関係から、始めたのでしょうか。
主の道を整える・備えるとは、どのようなことで、主の道が整っているとは、どのような状態なのでしょうか。現代は、世界は、そしてあなたへの主の道は整っていますか。
4.2.8 メモ
マルコ1:2 の預言はイザヤではなく、マラキ。これは、マタイ、ルカでは修正され、マルコ1:3 の部分だけをイザヤとしている。内部でも修正が議論されたのだろう。ただ、マタイ17:11-13 には、エリヤが先に来るとのことが語られている。マラキの預言が旧約聖書最大の預言者と言われるエリヤがまず来ることと理解されていたのだろう。そして、そのことは、ヨハネ1:21にも反映されており、こちらでは、バプテスマのヨハネは、自分がエリヤであることを否定している。また、荒野で呼ばわる者の声と証言しているのは、バプテスマのヨハネ自身であることもわかる。
バプテスマのヨハネについては、使徒の記録(18章、19章)にもあるように、一般によく知られており、ルカの記述によれば、祭司ザカリヤとエリザベトの子、マリヤとも親戚関係と書かれている。ヨハネが祭司の子であったことは、おそらく、よく知られていた事実だと思われるので、そのような人が幼少から、荒野におり(ルカ1:80)それから、語り始めたところを見ると、民にも大きな影響を与える存在であったことがわかる。出自に関しては、イエスとはかなりことなる。
ユダヤ全土と、エルサレムの全住民が彼のもとに集まってきていることは、ヨハネの知名度もあったろうが、霊的渇望、社会状況・政治状況からも問題を抱えていた人が多かったのだろう。ただ、マタイ(対象はパリサイ人はサドカイ人)やルカ(一般の人たち・限定なし)への厳しい言葉を見ると、我も我もと集まる中に、悔い改めという自らを省みる部分が欠落していたひとたちも多かったのだろう。それが、救いと裁きという厳しさに現れている。
「わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値打ちもない(奴隷の仕事)」(7)と証言することによって、「あなたの道」(2)のやがてきてるべき方との大きな差を表現している。
「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができる」(マタイ3:9, ルカ3:8)は、アブラハムの子であることを誇りと思っていて、異邦人を心の中で差別していた人には、かなり厳しく聞こえただろう。
主の道を整えるが何を意味するかは難しい。一般論ではなく、一人ひとりがその語り掛けを聞くものなのだろうか。現代でも、同じように、主の道が整っているとは言えないが、主の道が整っている人に、主のことばが撒かれると、成長して、何倍にもなるのかもしれない。判定条件があるわけではないだろう。
4.3 1:9-11 イエス、洗礼を受ける
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。 11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
4.3.1 マタイ3:13-17
3:13 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。14 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 15 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
4.3.2 ルカ3:21-22
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、22 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
4.3.3 [ヨハネ1:29-34]
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。 31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。 32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。 33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。 34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
4.3.4 問い
地図で場所(ガリラヤ、ナザレ、ヨルダン川、エルサレム)を確認しましょう。
イエスがバプテスマ(洗礼)を受けたことはどのように描かれていますか。
10節11節はどのような状況を描いているのでしょうか。
天からの声は何を意味しているのでしょうか。
ヨハネ1:29-34 からは、どのようなことがわかりますか。
このできごとによって、なにを伝えようとしているのでしょうか。
4.3.5 参照
4.3.5.1 愛する子
マルコ9:7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
マタイ17:5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
2ペテロ1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
4.3.5.2 神の子
マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
マルコ3:11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
マルコ5:7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
マルコ15:39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
マタイ4:3, 6, 5:9, 8:29, 14:33, 16:16, 26:63, 27:40,43,54
ルカ1:35, 4:3, 9, 41, 8:28, 20:36, 22:70
ヨハネ1:12, 34, 49, 5:25, 28, 10:36, 11:4, 52, 19:7, 20:31
使徒8:37, 9:20, 17:29
その他多数
4.3.5.3 バプテスマ
マルコ10:38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。
マルコ11:30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
マルコ16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
マタイ28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
ヨハネ3:22 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 23 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
ヨハネ3:26 そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。
ヨハネ4:1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)
ヨハネ4:11 さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。
使徒1:5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
使徒2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
使徒2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
使徒8:12 ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。
使徒8:13, 16, 36, 38, 9:18, 10:47, 48, 16:15, 33, 18:8, 25, 19:3, 4,5, 22:16
その他多数
9Καὶ ἐγένετο ἐν ἐκείναις ταῖς ἡμέραις ἦλθεν Ἰησοῦς ἀπὸ Ναζαρὲτ τῆς Γαλιλαίας καὶ ἐβαπτίσθη εἰς τὸν Ἰορδάνην ὑπὸ Ἰωάννου. 10καὶ εὐθὺς17 ἀναβαίνων18 ἐκ τοῦ ὕδατος εἶδεν σχιζομένους19 τοὺς οὐρανοὺς20 καὶ τὸ πνεῦμα ὡς περιστερὰν21 καταβαῖνον22 εἰς αὐτόν· 11καὶ φωνὴ ἐγένετο ἐκ τῶν οὐρανῶν· σὺ εἶ ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός23, ἐν σοὶ εὐδόκησα24.
4.3.6 記録
日時:2023年5月4日午後7時半〜9時半
出席(対面)11名、参加(遠隔)2名
4.3.7 問いについて
地図で場所(ガリラヤ、ナザレ、ヨルダン川、エルサレム)を確認しましょう。
[参照] キリスト時代のパレスチナ (Wikimedia: 聖書地図 (JBS1956))
[参照] John the Baptist (Halman Bible Atlas 106)
イエスがバプテスマ(洗礼)を受けたことはどのように描かれていますか。
マルコ、マタイ、ルカの共観福音書を比較して読んでみましょう。
どんなことが共通に書かれていますか。
それぞれどのような特徴と違いがありますか。
10節11節はどのような状況を描いているのでしょうか。
天からの声は何を意味しているのでしょうか。
- [参照] 11「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
ヨハネ1:29-34 からは、どのようなことがわかりますか。
- 四福音書で、聖霊が降るのを見たのは、そして天からの声を聞いたのは誰だと記されています。
このできごとによって、なにを伝えようとしているのでしょうか。
- あなたは、どのように受け取りますか。
4.3.8 メモ
マルコは「そのころ」とはじまっている。マルコに多い表現。
マタイでは、洗礼の前から、イエスが特別な存在だと、ヨハネは考えている。
共観福音書では、基本的に、「聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。」のは、イエス。このあとの、言葉を聞いたのは、イエスだけかどうかは不明だが、イエスにとって、特別な経験だったことは、確かなのだろう。
「裂けて(σχίζω)」マルコ15:38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
ヨハネは、洗礼についての言及がなく、いつのことを語っているかは不明だが、御霊がイエスに降ったこと、それによって、御霊によってバプテスマを授ける方であることを知り、証したとなっている。特別なものを、ヨハネは、早い段階から、認めていたことの証言なのだろう。
イエスは、このときから、神の子となったのだろうか。「愛する子」とは、何を意味するのだろうか。誰のための証言なのだろうか。
「あなたはわたしの愛する子」と、天からの声を聞けば、神の子なのだろうか。
まだ、なにも活動する前に「愛する子」と宣言されることは、印象的。そこにこそ、神の愛を感じる。イエスは、間違いなく、神の愛を強く感じただろう。その証言として良いと思う。
4.4 1:12-13 試みを受ける
1:12 それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。 13 イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。
4.4.1 マタイ 4:1-11
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。 7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ25』と書いてある」。11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
4.4.2 ルカ 4:1-13
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。 3 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて 6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。 13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。
4.4.3 問い
マルコは、この箇所で何を伝えていますか。
マタイとルカの違いを挙げてみましょう。
マタイとルカで、最初にサタンはどのようにイエスに言っていますか。イエスはそれにどのように答えますか。
(マタイでは二番目、ルカでは三番目の)神を試みるとはどのようなことを意味しているのでしょうか。神の何を試しているのでしょうか。
(マタイでは三番目、ルカでは二番目では)どのようなことが試されていますか。国々の栄華を得ることが問題なのでしょうか。「神にのみ仕える」とはどのような生き方でしょうか。
なぜイエスは試みを受けたのでしょう。それはどのようなことを意味しているのでしょう。
4.4.4 参照
サタン
マタイ12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。マルコ3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 マルコ3:26 もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。 ルカ11:18 そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、
マルコ4:15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。
マタイ16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。マルコ8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
ルカ10:18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。
ルカ13:16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
ルカ22:3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。
ルカ22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
ヨハネ13:27 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
悪魔26
マタイ13:39 それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。
マタイ25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
ルカ8:12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
ヨハネ6:70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
ヨハネ8:44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
ヨハネ13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
試みる者27:福音書ではマタイ4:3 のみ
- 1テサロニケ3:5 そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。
マタイ4章4節:現代訳:人はパンさえあれば生きられるわけではない。神の御心でなければ、決して生きられるものではない」
マタイ4章4節: 申命記8章2節〜5節 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。5 あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。
宮の頂上:ソロモンの廊と王室の廊の出会うところ、下はケデロンの谷で 140 m と言われる。
マタイ4章6節 詩篇91:11,12 これは主があなたのために天使たちに命じて、/あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。12 彼らはその手で、あなたをささえ、/石に足を打ちつけることのないようにする。(この詩篇は “1 彼らはその手で、あなたをささえ、/石に足を打ちつけることのないようにする。2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、/わが信頼しまつるわが神」と。” 始まっている。)
マタイ4章7節 申命記6:16 あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。
マタイ4章9節 申命記6:13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。
詩篇2:7,8 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、/地のはてまでもおまえの所有として与える。
ルカ22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
12Καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει28 εἰς τὴν ἔρημον29. 13καὶ ἦν ἐν τῇ ἐρήμῳ τεσσεράκοντα ἡμέρας πειραζόμενος30 ὑπὸ τοῦ σατανᾶ31, καὶ ἦν μετὰ τῶν θηρίων32, καὶ οἱ ἄγγελοι33 διηκόνουν34 αὐτῷ.
4.4.5 記録
日時:2023年5月11日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)8名
4.4.6 問いについて
マルコは、この箇所で何を伝えていますか。
- [DQ] 御霊(聖霊)とサタンはどのような働きをしていますか。獣や御使いたちは、何を表しているのでしょうか。
マタイとルカの違いを挙げてみましょう。
- 順序も違う。他に、どんな違いがありますか。
マタイとルカで、最初にサタンはどのようにイエスに言っていますか。イエスはそれにどのように答えますか。
- [DQ] イエスは石をパンに変えることができたのでしょうか? 空腹は満たされたのでしょうか? など、疑問点や気づいたことをあげてみましょう。
(マタイでは二番目、ルカでは三番目の)神を試みるとはどのようなことを意味しているのでしょうか。神の何を試しているのでしょうか。
(マタイでは三番目、ルカでは二番目では)どのようなことが試されていますか。国々の栄華を得ることが問題なのでしょうか。「神にのみ仕える」とはどのような生き方でしょうか。
なぜイエスは試みを受けたのでしょう。それはどのようなことを意味しているのでしょう。
- [DQ] イエスの受けた試みと、わたしたちの受ける試み・誘惑・試練は同じでしょうか。異なるでしょうか。
4.4.7 メモ
マルコには、「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。」とあるが、それ(それからすぐ)は、イエスがバプテスマを受け「天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんにな」り「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との天からの声を聞いてすぐにを意味している。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」の神の宣言は、始まりであって終わりではない。
マルコでは、イエスは四十日の間荒野にいたとあるが、共にいたのは、サタン、獣、御使である。試みる者、敵対するもの、悪意を持って近づくもの、助け、神のメッセージを伝えるものが、混在している世界として描かれている。
マタイでもルカでも、イエスが空腹になってから「石にパンになれと命じ」るよう促され(試みられ)ている。イエスには、それができなかったとは想定されていない。「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」(ヨハネ4:32b)だろうか。このときは、サマリアの女との対話がある。しかし、ここでは、空腹は満たされていないのではないだろうか。「パンだけで」とあり、やはりパンも必要なのではないだろうか。ルカでは後半のことばは書かれていない。経済的な、空腹を満たすそれを解決すればよいということではないことに中心が置かれている。同時に、神の国は、これもあれも手当たり次第に課題が解決されることでもないのかもしれない。
「神はあなたのために、御使いたちに命じ」る根拠は、愛されている存在だということだろうが、それを、確認するようなことをしてはならない。神に愛されている存在とは、神のこころを心とすること、神が望まれることをなすことなのだろう。
「ひれ伏して拝むなら(マタイ)・ひざまずくなら(ルカ)」にたいして、「神にのみ仕えよ」と返答している。神との関係が絶対だということで、「国々とその栄華(マタイ)・国々の権威と栄華(ルカ)」を手にすることが悪ではない。神に仕えることが具体的に何を意味するのかは、わからない時が多い。内心の問題なのだろうか。何が問われているのかを確定するのは、難しい。
イエスが試み・誘惑にあわれたことを語っている意味
イエスも試みにあわれている。
[参照] ヘブル人への手紙4章15節 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
メシヤ預言のことばではなく、一般信徒へのことばを引用している。
超自然的な力でこの誘惑に打ち勝っているのではない。イエスに倣うものとなることは、不可能なことではない。
イエスが神の愛されている子として生きていくあゆみの確認。一般性もある。
マルコは「サタン」、マタイは、最初「試みる者」(3)その後「悪魔」、ルカは「悪魔」
4.5 1:14-15 ガリラヤで宣教を始める
1:14 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
4.5.1 マタイ 4:12-17
4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。 13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、/海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、/異邦人のガリラヤ、16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、/死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
4.5.2 ルカ 4:14-15
4:14 それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。15 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。
4.5.3 問い
マルコでは、イエスはいつ、どこで、どのような言葉で宣教を始めたとしていますか。
マタイや、ルカを読み、他に気づいたことを挙げてみましょう。
4.5.4 参照
ルカ3:31 イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、 (以下系図 〜38)
ヨハネ3:22 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。23 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。24 そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。 (〜36)
マタイ4:15,16 - イザヤ書9:1,2 (他の訳では 8:23, 9:1)1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
死の谷:詩篇23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、/わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。ルカ1:79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、/わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。
マタイ4:17 - マタイ3:2 「悔い改めよ、天国は近づいた」。
14Μετὰ δὲ τὸ παραδοθῆναι35 τὸν Ἰωάννην ἦλθεν ὁ Ἰησοῦς εἰς τὴν Γαλιλαίαν κηρύσσων36 τὸ εὐαγγέλιον37 τοῦ θεοῦ 15 καὶ λέγων ὅτι πεπλήρωται38 ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν39 ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ· μετανοεῖτε40 καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.
4.5.5 問いについて
マルコでは、イエスはいつ、どこで、どのような言葉で宣教を始めたとしていますか。
1:14 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
[DQ] ヨハネが捕らえられるまでは、イエスはどうしていたのでしょうか。
- ヨハネによる福音書の記事も参考にしてみましょう。(ヨハネ3:22)
[DQ] 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。は、どのような印象を受けますか。
マタイや、ルカを読み、他に気づいたことを挙げてみましょう。
- [DQ] メッセージに違いがありますか。
4.5.6 メモ
マルコとマタイでは「ヨハネが捕えられた後」「この時から」として、ヨハネが捕えられてから以降に活動を開始したとしている。
「神の福音」とある。なにが良き訪れなのか。「時は満ちた、神の国は近づいた。」とあり、神の国が近づいたということなのだろう。「神の国が近ついた」とはどういうことだろうか。「福音を信じる」とはどういうことだろうか。地の上でも、神の御心がなるということだろうか。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ)「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ)当時の人たちは、どう受け取っただろうか。イスラエルの歴史上では、どのような時代なのだろうか。ローマの占領下だが、ある程度の自治がみとめられていた。
[参照] John the Baptist (Halman Bible Atlas 106)
[参照] イスラエルの歴史:年表(駐日イスラエル大使館)
ヨハネの記述3章22節を見ると、ヨハネが捕えられる前にも活動していることがわかる。ヨハネが捕えられたことを契機に、宣教をはじめたというより、活動のひとつの転機を記しているのかもしれない。
少なくとも、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネと会ったのが、マルコに書かれている時が初めてだとは言えないだろう。
4.6 1:16-20 四人の漁師を弟子にする
1:16 さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。17 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 19 また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。 20 そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。
4.6.1 マタイ 4:18-22
4:18 さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 19 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。20 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。21 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、 22 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
4.6.2 ルカ 5:1-11
5:1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、 2 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。 3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。 4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。 6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。 8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。 9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。 10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。 11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
4.6.3 [ヨハネ 1:35-42]
1:35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。 37 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 38 イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。 40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。42 そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。
4.6.4 問い
マルコに書かれている、弟子たちを招いた記事からどのようなことがわかりますか。
「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」を弟子たちはどのように受け取ったでしょうか。
マタイとルカを読んでみましょう。マルコに加えてどのようなことが書かれていますか。
弟子たちはどのように応答していますか。あなたならどうしますか。
ヨハネの記事から、さらにどのようなことがわかりますか。
イエスはなぜこの人たちを招いたのでしょうか。
イエスに従っていくとは、どのようなことなのでしょうか。
4.6.5 参照
- ルカと似たエピソード:ヨハネ21:1-14
16 Καὶ παράγων41 παρὰ τὴν θάλασσαν τῆς Γαλιλαίας εἶδεν Σίμωνα καὶ Ἀνδρέαν τὸν ἀδελφὸν Σίμωνος ἀμφιβάλλοντας42 ἐν τῇ θαλάσσῃ· ἦσαν γὰρ ἁλιεῖς43. 17 καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς· δεῦτε44 ὀπίσω45 μου, καὶ ποιήσω ὑμᾶς γενέσθαι ἁλιεῖς ἀνθρώπων. 18 καὶ εὐθὺς ἀφέντες46 τὰ δίκτυα ἠκολούθησαν47 αὐτῷ. 19 Καὶ προβὰς48 ὀλίγον εἶδεν Ἰάκωβον τὸν τοῦ Ζεβεδαίου καὶ Ἰωάννην τὸν ἀδελφὸν αὐτοῦ καὶ αὐτοὺς ἐν τῷ πλοίῳ49 καταρτίζοντας50 τὰ δίκτυα, 20 καὶ εὐθὺς ἐκάλεσεν αὐτούς. καὶ ἀφέντες τὸν πατέρα αὐτῶν Ζεβεδαῖον ἐν τῷ πλοίῳ μετὰ τῶν μισθωτῶν ἀπῆλθον ὀπίσω αὐτοῦ.
4.6.6 記録
日時:2023年5月18日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)8名
4.6.7 問いについて
マルコに書かれている、弟子たちを招いた記事からどのようなことがわかりますか。
「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」を弟子たちはどのように受け取ったでしょうか。
マタイとルカを読んでみましょう。マルコに加えてどのようなことが書かれていますか。
- ルカ5:5, 8 のペテロの応答からどのようなことがわかりますか。
- [DQ] ルカでは、さらにどのようなエピソードが書かれていますか。
弟子たちはどのように応答していますか。あなたならどうしますか。
ヨハネの記事から、さらにどのようなことがわかりますか。
[DQ] どちらの記事が最初におこったのでしょうか。
[DQ] なぜ、これほど違うのでしょうか。
イエスはなぜこの人たちを招いたのでしょうか。
イエスに従っていくとは、どのようなことなのでしょうか。
- [DQ] 弟子になるとはどのようなことなのでしょうか。従っていくとは、どのようなことなのでしょうか。
4.6.8 メモ
ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネはどのような人ですか。
漁師。ルカにエピソードが書かれており、さらに、ヨハネには別の出会いが書かれている。メシア(訳せばキリスト)との出会いと、網を捨てて、弟子としてついていくこととは、別のことなのだろう。
ヤコブとヨハネのところには、父と雇人がいる。
ルカでは、舟に乗り座って教えておられる。マルコ3:9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。 マルコ4:1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。(マタイ13:2 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。)
皆、漁師はやめてしまったのだろうか。基本的には、やめたのだろう。ルカでは「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」。
ルカと似たエピソードが、ヨハネ21:1-14にもある。
ルカを見ると、イエスは、舟に乗って、群衆に教えておられたが、その教えに感激したのではなかったようだ。徹夜で、疲れていたかもしれない。目が覚めるようなことが起こったことが書かれている。
マタイ17:27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
ヨハネによる福音書の記述。もうひとり?
ヨハネ18:15,16 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに付いて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
ヨハネ20:2-8 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、彼らに告げた。「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」
イエスのことを先生(ラビ)知ってはいたが、「主よ」といって、跪くことが、ペトロの悔い改めの表現で、そのペトロにかけたイエスの言葉によって、ペトロの人生が変わっていったのだろう。イエスに従って歩むことによって。
4.7 1:21-28 汚れた霊に取りつかれた男を癒やす
1:21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。22 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。 23 ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、24 「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。 25 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。26 すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。 27 人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。 28 こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。
4.7.1 ルカ 4:31-37
4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、 32 その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。 33 すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、 34 「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。35 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。 36 みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。 37 こうしてイエスの評判が、その地方のいたる所にひろまっていった。
4.7.2 問い
イエスは、いつどこで教えていますか。
イエスの教えはどのようなものだったのでしょうか。人々の反応から考えてみましょう。
マルコとルカを比較して気づいたことを挙げてみましょう。
汚れた霊につかれた者は何を叫んでいますか。イエスはどうしますか。そしてどうなりますか。
人々は、何に驚いていますか。
あなたは、ここでどのようなことが起こったを思いますか。
イエスにとってたいせつなことは、何だったのでしょうか。
4.7.3 参照
21Καὶ εἰσπορεύονται51 εἰς Καφαρναούμ· καὶ εὐθὺς τοῖς σάββασιν εἰσελθὼν εἰς τὴν συναγωγὴν ἐδίδασκεν52. 22καὶ ἐξεπλήσσοντο53 ἐπὶ τῇ διδαχῇ αὐτοῦ· ἦν γὰρ διδάσκων αὐτοὺς ὡς ἐξουσίαν54 ἔχων καὶ οὐχ ὡς οἱ γραμματεῖς. 23Καὶ εὐθὺς ἦν ἐν τῇ συναγωγῇ αὐτῶν ἄνθρωπος ἐν πνεύματι ἀκαθάρτῳ55 καὶ ἀνέκραξεν56 24λέγων· τί ἡμῖν καὶ σοί, Ἰησοῦ Ναζαρηνέ; ἦλθες ἀπολέσαι57 ἡμᾶς; οἶδά σε τίς εἶ, ὁ ἅγιος τοῦ θεοῦ. 25καὶ ἐπετίμησεν58 αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς λέγων· φιμώθητι59 καὶ ἔξελθε ἐξ αὐτοῦ. 26καὶ σπαράξαν60 αὐτὸν τὸ πνεῦμα τὸ ἀκάθαρτον καὶ φωνῆσαν φωνῇ μεγάλῃ ἐξῆλθεν ἐξ αὐτοῦ. 27καὶ ἐθαμβήθησαν61 ἅπαντες ὥστε συζητεῖν62 πρὸς ἑαυτοὺς λέγοντας· τί ἐστιν τοῦτο; διδαχὴ καινὴ63 κατ’ ἐξουσίαν· καὶ τοῖς πνεύμασιν τοῖς ἀκαθάρτοις ἐπιτάσσει64, καὶ ὑπακούουσιν65 αὐτῷ. 28καὶ ἐξῆλθεν ἡ ἀκοὴ66 αὐτοῦ εὐθὺς πανταχοῦ εἰς ὅλην τὴν περίχωρον67 τῆς Γαλιλαίας.
4.7.4 記録
日時:2023年5月25日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)5名
4.7.5 問いについて
イエスは、いつどこで教えていますか。
- 21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。
- [A] カペナウム、会堂で。
- [DQ] だれでも会堂で教えることができたのでしょうか。
イエスの教えはどのようなものだったのでしょうか。人々の反応から考えてみましょう。
22 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
[DQ] イエスのどのような教え方が、権威ある者のように教えられたと受け取られたのでしょう。
マルコとルカを比較して気づいたことを挙げてみましょう。
汚れた霊につかれた者は何を叫んでいますか。イエスはどうしますか。そしてどうなりますか。
- 23 ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、24 「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。25 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。26 すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
人々は、何に驚いていますか。
- 27 人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。 28 こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。
あなたは、ここでどのようなことが起こったを思いますか。
イエスにとってたいせつなことは、何だったのでしょうか。
4.7.6 メモ
イエスは、ガリラヤで宣教を開始したが(1:14)安息日に会堂で教えている。
ユダヤ人共同体に、聖書の教師として、一程度、認められたいたことが分かる。参照
ある程度認知されていたことと共に、このような状態がどの程度続くかも、注視が必要。
「律法学者のようにではなく、権威あるもののように」当時の一般的な訓練を受けたわけではない、ある程度自由に語るスタイルが表現されていると共に、権威あるもののようには、詳細は不明だが、27 節の権威ある教えとは、関係しているだろう。
- 山上の説教(マタイ5-7)などからも、ある程度、想像はつく。ただ、マルコでは、そのようなことは語っていない。ルカ5:1-11 を考えると、群衆に人気があったとも考えられる。ただ、内容まで、理解して、このように告白しているかは不明。
汚れた霊の記事をどう読むか。
ある時期には、悪霊に憑かれていると表現し、あるときには、気狂いとあざわらわれ、ある時は、精神分裂病とされ、ある時は、統合失調症として憐れまれたりしつつも、遠ざけられていた存在かもしれない。
「イエスよ、放っておいてくれ。痛めつけ、裁くために来たのか、神から使わされたとでも言うのだろう。」「あなたはたいせつなひとりのひと。」特別のケアをされたのかもしれない。少なくとも、このひとの異常な状態と、この人とを分離・区別している。
現代でも、オープンダイアログによる、愛の、治療もある。(読書記録参照)「治療 すなわち『キュア』と考えるなら難しいことでも、『ケアにかぎりなく近いキュア』と考えるなら、ありそうに思えてきませんか?」「精神分析が言葉をメスとして用いるというなら、オープンダイアローグは言葉を包帯とし用いるのです。」
奇跡などについて:参照
テキストからわかるのは、イエスの教えは、律法学者のようではなく「権威のある」教えで、それは、カリスマ性をも意味するが、そのあとの、悪霊を追い出すことによって、力を伴う教えであることを、会堂に来ていた人たちが受け取ったことである。
また、「神の国が近づいた」ということが、悪霊につかれた人から、悪霊が逃げ出すことによって、皆に示される意味を持っている。そうであれば、悪霊につかれたひとには、神の国は来たとして、そこに焦点を当てることも可能。
排除され、憎まれていたと思われる悪霊につかれたひとの、悪霊と、この人とを区別し、分けることで、ひとりの人が自分を取り戻すことができたとも言える。現代の精神分裂病、統合失調症と同一視する根拠はないが、そのような病に苦しんでいる人にとっても、福音であることは確か。
4.8 1:29-34 多くの病人を癒やす
1:29 それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。 30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。31 イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。 32 夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。 33 こうして、町中の者が戸口に集まった。 34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
4.8.1 マタイ 8:14-17
8:14 それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。15 そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。 16 夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。 17 これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
4.8.2 ルカ 4:38-41
4:38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。40 日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。41 悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。
4.8.3 問い
マルコ、マタイ、ルカを読んでみましょう。シモンとアンデレの家ではどんな問題がありましたか。
姑(しゅうと)の回復の様子はどのように記されていますか。
夕暮れには、どのようなことが起きますか。それはなぜでしょうか。
イエスは何をしますか。
イエスはなぜ、悪霊を黙らせるのでしょうか。
4.8.4 参照
- マタイ8:17 - イザヤ53:3,4 彼は侮られて人に捨てられ、/悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、/彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、/われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、/彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられのだと。
- 病を癒すことと、病を負うことはどう違うのか。
- 病を知っていたとは?
- ルカ8:46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。
- Hospital の語源:ChatGPT
“Hospital”という単語は、ラテン語の”hospitālis”に由来しています。 “hospitālis”は、“hospes”(宿泊客、旅人)という単語に由来しており、中世ラテン語で「旅人や貧しい人のための宿泊所」という意味で使われていました。
中世ヨーロッパでは、キリスト教の信仰に基づき、修道院や宗教団体が病人や貧しい人を収容する施設を運営していました。これらの施設は、病院(hospital)と呼ばれ、病人の治療や看護、貧しい人たちへの食事や寝床が提供されていました。
現代の病院は、中世の病院から発展したものであり、医学や科学技術の進歩によって、より効果的な医療が提供されるようになりました。しかし、病院の最初の目的は、依然として病人の治療と看護にあります。
なお、英語以外にも、フランス語の”hôpital”、スペイン語の”hospital”、イタリア語の”ospedale”など、多くのヨーロッパ言語で「病院」を意味する単語が”hospitālis”に由来しています。
29 Καὶ εὐθὺς ἐκ τῆς συναγωγῆς ἐξελθόντες ἦλθον εἰς τὴν οἰκίαν Σίμωνος καὶ Ἀνδρέου μετὰ Ἰακώβου καὶ Ἰωάννου. 30 ἡ δὲ πενθερὰ68 Σίμωνος κατέκειτο69 πυρέσσουσα70, καὶ εὐθὺς λέγουσιν αὐτῷ περὶ αὐτῆς. 31 καὶ προσελθὼν71 ἤγειρεν αὐτὴν κρατήσας72 τῆς χειρός73· καὶ ἀφῆκεν74 αὐτὴν ὁ πυρετός75, καὶ διηκόνει αὐτοῖς. 32Ὀψίας76 δὲ γενομένης, ὅτε ἔδυ77 ὁ ἥλιος, ἔφερον78 πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς79 ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους80· 33 καὶ ἦν ὅλη ἡ πόλις ἐπισυνηγμένη81 πρὸς τὴν θύραν. 34 καὶ ἐθεράπευσεν82 πολλοὺς κακῶς ἔχοντας ποικίλαις83 νόσοις84 καὶ δαιμόνια85 πολλὰ ἐξέβαλεν καὶ οὐκ ἤφιεν86 λαλεῖν τὰ δαιμόνια, ὅτι ᾔδεισαν αὐτόν.
4.8.5 記録
日時:2023年6月1日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)4名
4.8.6 問いについて
マルコ、マタイ、ルカを読んでみましょう。シモンとアンデレの家ではどんな問題がありましたか。
- 29 それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。 30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。
姑(しゅうと)の回復の様子はどのように記されていますか。
- 31 イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。
夕暮れには、どのようなことが起きますか。それはなぜでしょうか。
- 32 夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。 33 こうして、町中の者が戸口に集まった。
イエスは何をしますか。
- 34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
- [DQ] イエスにとって、癒しとはどのような働きだったのでしょうか。
イエスはなぜ、悪霊を黙らせるのでしょうか。
4.8.7 メモ
マルコと、マタイ、ルカでは話の続き方が異なっていることに注意。マタイと、ルカには、ヤコブとヨハネが一緒であることは、書かれていない。もしかすると、一緒ではなかったのかもしれない。マタイでは、山上の説教のあと、いくつかの癒しが記されそのあと。ルカでは、弟子たちを招くより前に記されている。曜日も変わっており、マルコでも、20節と、21節の間に、切れ目がある。
なぜ人々はイエスに熱病のことを知らせたのだろうか。この時点で、すでに、イエスは癒すことができると信じていたのだろうか。
ペテロは結婚していた。(ペテロの妻について)
1コリント9:5 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。
アレキサンドリアの教父ク レメンス 150–215 は伝説と して、ペテロの妻は、バルナバの兄弟アリストブロスの 娘で、ペルペチュアまたはコ ンコルディアとよんでいる伝説もある。
なぜ、イザヤ53章4節を引用したのか。
ChatGPT: マタイ8:17におけるイザヤ書53章の預言の引用には、イエス・キリストの「苦難のしもべ」であること、彼が人々を救う力を持っていること、そして彼が人々を救うために犠牲を払ったことを示す意味が含まれています。また、この引用は、キリスト教徒にとって、復活や救いの希望を与えるものでもあります。
一般的には、共観福音書では、贖罪のための苦難というモチーフは薄い。癒しと悪霊を追い出すこと自体に、イザヤ書に結びつくものを認めていたのだろう。
イザヤ53章の、マタイ8:17 以外での引用。ルカ22:37 (マルコ15:28)、使徒8:32-35。
ユダヤ教での解釈は、異なること、および、旧約聖書のギリシャ語訳セプチュアギンタの表現も関係していることの確認も、必要。
いやしについて:三つのギリシャ語
- いやしのたいせつな部分は、病人、悪霊に憑かれている人の苦しみを和らげること。現代的な医療(だけ)が、いやしというわけではない。その苦しみを受け取ること、ケアすること、こころをこめて治療すること、それは、免疫力をあげることにも資するかもしれない。それには、罪が赦されること、手などに触れて、安心できること、医療行為が進んでも、それは、残るかもしれない。
「また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。」とあるが、24節では、物を言っているのでは。この時も、これ以上言わせなかったようなので、それを言っているのか。
4.9 1:35-39 巡回して宣教する
1:35 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36 すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。37 そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。 38 イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。 39 そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。
4.9.1 ルカ 4:42-44
4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。 43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。 44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。
4.9.2 問い
21節から34節を読み、前日の出来事を思い起こしてみましょう。どんなことがありましたか。
イエスの祈りについてどんなことがわかりますか。
人々はなぜ、イエスを探しているのでしょうか。
イエスは、どのように答え、またそのあと、どのような活動をしましたか。
イエスは、なぜ、「附近の町々にみんなで行って、教えを宣べ伝える」ことを選んだのでしょう。
イエスは教えを宣べ伝えることと、悪霊を追い出したり、病をいやしたりすることについて、どのように考えていたのでしょうか。
イエスは、福音宣教の初期の活動で、どのような経験をし、何を神様の御心として受け取ったのでしょうか。
4.9.3 参照
この前日(安息日とその夜)のこと
カペナウムの会堂で教えた。 (21-22)
けがれた霊を追い出す。(23-27)
イエスのうわさが、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。 (28)
シモンのしゅうとめの熱病を癒す。(29-31)
日没後、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきて、町中の者が戸口に集まった。(32,33)
さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出した。(34a)
イエスの祈りの記録(参考:祈りについて)
受洗:ルカ3:21-22 さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
活動的な安息日明け:マルコ1:35 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(重い皮膚病の人を癒してから)ルカ5:16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。
十二弟子の選出前:ルカ6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
五千人給食後:マルコ6:46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。マタイ14:23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 ヨハネ6:15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
ペテロの告白・受難告知前:ルカ9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。
山上の変貌:ルカ9:28-29 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
逮捕直前(ゲッセマネの祈り):マルコ14:32-42、マタイ26:39-46 、ルカ22:40-45、ヨハネ17章(とりなしの祈り)
- マルコ14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
他にもイエスが神に語りかける場所として
ヨハネ6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
ヨハネ11:41,42 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
ヨハネ12:27, 28 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 父よ、み名があがめられますように」。28 すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
35 Καὶ πρωῒ87 ἔννυχα88 λίαν89 ἀναστὰς90 ἐξῆλθεν καὶ ἀπῆλθεν91 εἰς ἔρημον92 τόπον κἀκεῖ προσηύχετο93. 36 καὶ κατεδίωξεν94 αὐτὸν Σίμων καὶ οἱ μετ’ αὐτοῦ, 37 καὶ εὗρον95 αὐτὸν καὶ λέγουσιν αὐτῷ ὅτι πάντες ζητοῦσίν96 σε. 38 καὶ λέγει αὐτοῖς· ἄγωμεν97 ἀλλαχοῦ εἰς τὰς ἐχομένας κωμοπόλεις98, ἵνα καὶ ἐκεῖ κηρύξω99· εἰς τοῦτο γὰρ ἐξῆλθον. 39 Καὶ ἦλθεν κηρύσσων εἰς τὰς συναγωγὰς αὐτῶν εἰς ὅλην τὴν Γαλιλαίαν καὶ τὰ δαιμόνια ἐκβάλλων.
4.9.4 記録
日時:2023年6月8日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)5名
4.9.5 問いについて
21節から34節を読み、前日の出来事を思い起こしてみましょう。どんなことがありましたか。
イエスの祈りについてどんなことがわかりますか。
人々はなぜ、イエスを探しているのでしょうか。
イエスは、どのように答え、またそのあと、どのような活動をしましたか。
イエスは、なぜ、「附近の町々にみんなで行って、教えを宣べ伝える」ことを選んだのでしょう。
イエスは教えを宣べ伝えることと、悪霊を追い出したり、病をいやしたりすることについて、どのように考えていたのでしょうか。
イエスは、福音宣教の初期の活動で、どのような経験をし、何を神様の御心として受け取ったのでしょうか。
4.9.6 メモ
イエスに焦点があたっているが、人々と、弟子たちもその場にいるので、それぞれの人たちが、何を求めているかも、考えてみたい。特に、弟子たちは、人々と同じなのか、イエスに近いのか、微妙な立ち位置に感じる。
口語訳では「みんな」が2回出てくる。まず、36 「シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。」「37 みんなが、あなたを捜しています」38 「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。「みんな」は誰だろうか。イエスと共に行動するものだろうか。主とイエス、イエスとみんな。イエスの祈りの内容を知りたい。
イエスが「朝はやく、夜の明けるよほど前」に「寂しい所へ出て行き」祈っていたことが書かれている。ルカにその記述はないが、重い皮膚病のひとの癒しの後5章15,16節に「15 しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。 16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。」の記述がある。
マルコの前段でも「32 夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。 33 こうして、町中の者が戸口に集まった。 34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。」とあり、やはり、前段の並行箇所である、マタイ8章16節でも「夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。」とあり、ルカには、大勢の記録が、上記の箇所にあることから、同様の時期または背景のもとで、祈ったことが推測できる。
イエスのことばと行動だけから判断すると、ルカの表現を借りると「イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。」ときに、祈り、「38 ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。と言って、その場を退いたことがわかる。
続いて「39 そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。」とあり、教えを述べ伝えるだけではなく、悪霊を追い出すこともしている。このあとの、思い皮膚病を患っている人の癒しからも、病気も癒したと思われる。活動に変化はないように見える。
祈り(主との対話)の中で、思いとずれていること、しかし、御心に従う、マルコ14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。と近いことが示されたのかもしれない。
「神の国は近い」の共有の、難しさを認識しつつ、神の子(しもべ)として、歩み続けることを決意したのかもしれない。
4.10 1:40-45 規定の病を患っている人を清める
1:40 ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。42 すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった。 43 イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、 44 「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。 45 しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
4.10.1 マタイ 8:1-4
8:1 イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。2 すると、そのとき、ひとりの重い皮膚病にかかった人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病は直ちにきよめられた。4 イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
4.10.2 ルカ 5:12-16
5:12 イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病にかかった人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。 14 イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、「ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになった。 15 しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。 16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。
4.10.3 問い
マルコとともに、マタイとルカも読み、気づいたことを挙げてみましょう。
40節の重い皮膚病の人の言葉からはどんなことが読み取れますか。
イエスについてはどのように描かれていますか。そしてどうなりますか。
イエスは重い皮膚病の人にどのように言い聞かせますか。
なぜ、重い皮膚病の人はイエスが言われたようにはしなかったのでしょうか。そしてどうなりますか。
マルコは「イエス・キリストの福音のはじめ」とこの福音書を書きだし、私達は第一章の終わりまで学んできました。この一章にはイエスがどんな方だと描かれていたでしょうか。あなたはイエスについてどのような印象を受けましたか。
4.10.4 参照
4.10.4.1 重い皮膚病:参照
規定の病(日本聖書協会 重要な訳語の変更)
旧約におけるヘブライ語ツァラアト:「ツァラアト」(新約においてはギリシア語訳「レプラ」) については、一九九六年の「らい予防法」の廃止も受け、一九九七年に新共同訳の新約において「らい病」と訳され ていたレプラをすべて旧約の訳語に合わせ「重い皮膚病」に改めていましたが、なお同訳語が必ずしも適切なもので ないとの指摘を受け、本新翻訳事業においても当初から検討を続けました。最終的に第七回検討委員会(二〇一七年 三月一三日)において、これを「規定の病」とすることで合意して理事会に答申し、日本聖書協会二〇一八年度第三 回理事会(二〇一八年六月一日)においてこの答申が承認されました。「規定の病」は「律法で規定された病」を意 味し、皮膚だけでなく家や革製品についても同じ訳語を用いることとしました。「規定の病」は「重い」「皮膚」とい う、原語にない意味を含まない点で、従来の「重い皮膚病」の訳語の持つ課題をある程度解決するものと考えていま す。レビ記の関係する箇所の訳文は次のようになります。「祭司がその皮膚の患部を調べて、その患部の毛が白く変 わり、皮膚の下まで及んでいるなら、それは規定の病である。祭司はそれを確認したら、その人を汚けがれていると言い 渡す。」(レビ記一三3)「祭司は行って調べる。家にかびが広がっていたなら、それは家に生じる悪性の規定の病である。その家は汚けがれている。」(レビ記一四 )
Q. (新改訳聖書)第3版では,従来の「らい病人」は「ツァラアトに冒された人」と訳されています。「ツァラアト」とは何ですか? と聞かれた場合、何と答えればよいでしょうか?
- A. 聖書のツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり,それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではありません。しかし,それは「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」を描写しています。(第3版「あとがき」より)新聖書刊行会Q&Aからの引用
レビ記13:44,45 その人は重い皮膚病に冒された者であって、汚れた者である。祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない。患部が頭にあるからである。重い皮膚病の患者は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。
レビ記14章:1-32 1 主はまたモーセに言われた、2「重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、3 祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もし重い皮膚病の患部がいえているならば、
4.10.4.2 ギリシャ語の言葉
深くあわれむ σπλαγχνίζομαι: 12回 マタイ9:36, 14:14, 15:32, 18:27, マルコ1:41, 6:34, 8:2, 9:22, ルカ7:13, 10:33, 15:20。 参照
きびしく戒め ἐμβριμάομαι (em-brim-ah’-om-ahee): 5回 マタイ9:30, マルコ1:43, 14:5, ヨハネ11:33
40 Καὶ ἔρχεται πρὸς αὐτὸν λεπρὸς100 π11:38αρακαλῶν101 αὐτὸν [καὶ γονυπετῶν102] καὶ λέγων αὐτῷ ὅτι ἐὰν θέλῃς103 δύνασαί104 με καθαρίσαι105. 41 καὶ σπλαγχνισθεὶς106 ἐκτείνας τὴν χεῖρα αὐτοῦ ἥψατο107 καὶ λέγει αὐτῷ· θέλω, καθαρίσθητι· 42 καὶ εὐθὺς ἀπῆλθεν ἀπ’ αὐτοῦ ἡ λέπρα, καὶ ἐκαθαρίσθη. 43 καὶ ἐμβριμησάμενος108 αὐτῷ εὐθὺς ἐξέβαλεν αὐτὸν 44 καὶ λέγει αὐτῷ· ὅρα μηδενὶ μηδὲν εἴπῃς, ἀλλ’ ὕπαγε σεαυτὸν δεῖξον109 τῷ ἱερεῖ110 καὶ προσένεγκε111 περὶ τοῦ καθαρισμοῦ σου ἃ προσέταξεν112 Μωϋσῆς, εἰς μαρτύριον113 αὐτοῖς. 45 Ὁ δὲ ἐξελθὼν ἤρξατο114 κηρύσσειν115 πολλὰ καὶ διαφημίζειν116 τὸν λόγον, ὥστε μηκέτι αὐτὸν δύνασθαι φανερῶς εἰς πόλιν εἰσελθεῖν, ἀλλ’ ἔξω ἐπ’ ἐρήμοις τόποις ἦν· καὶ ἤρχοντο πρὸς αὐτὸν πάντοθεν117.
4.10.5 記録
日時:2023年6月15日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)7名
4.10.6 問いについて
マルコとともに、マタイとルカも読み、気づいたことを挙げてみましょう。
40節の重い皮膚病の人の言葉からはどんなことが読み取れますか。
イエスについてはどのように描かれていますか。そしてどうなりますか。
イエスは重い皮膚病の人にどのように言い聞かせますか。
なぜ、重い皮膚病の人はイエスが言われたようにはしなかったのでしょうか。そしてどうなりますか。
マルコは「イエス・キリストの福音のはじめ」とこの福音書を書きだし、私達は第一章の終わりまで学んできました。この一章にはイエスがどんな方だと描かれていたでしょうか。あなたはイエスについてどのような印象を受けましたか。
4.10.7
4.10.8 メモ
重い皮膚病は、ギリシャ語では、λεπρός (lep-ros’: scaly, rough ざらざらのでこぼこの) が使われている。ヘブル語で書かれた旧約聖書の מְצֹרָע や、צָרוּעַ (いずれも語根は צָרַע to be diseased of skin, be leprous)の七十人訳の訳語としても使われている。さまざまな皮膚病を表している。しかし、ハンセン氏病のような古代において恐れられていた感染病の症状でもあるため、共同体ではとくに、注意しなければいけない症状だったと思われ、旧約聖書では、その判断は祭司がすることになっており、汚れている・汚れていないの判断と共同体に対する宣言をすることになっていた。
- 旧約聖書で実際に重い皮膚病にかかったひとについてどのように記述されているか確認することもたいせつ。モーセの手、ミリアム、ナーマン、ウジヤ、アッシリアの包囲のときの重い皮膚病の人たち
どうして、もっと単純に、治して下さいと言わないのか
- おそらく、病気の苦しさよりも、汚れているとされていることが、社会的にも、自らの尊厳からも、耐え難い苦痛だったのではないだろうか。
イエスはなぜモーセの定めの実行を命じたのでしょうか。
- 社会的につながることが不可欠と理解していたのでは。
イエスはなぜ語らないように注意したのだろうか。
- イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。(38)が背景にある。
気づいたこと
マルコ1:40 ひざまずいて、マタイ、ひれふして、ルカ、顔を地に伏せて願って、と表現が少しずつずれている。マタイ、ルカには、「主よ Κύριε118」のことばも伴っている。
きよさは、第一に神との交わりが絶たれ、第二に人との交わりが絶たれ、第三に自分の尊厳が失われた(じぶんが自分でいることが許容される、あなたはあなたでいいよと言えない)状態。永遠の滅びにとどまっている状態。
ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。(たとえ、御子を信じていると言っていたとしても)だれでも、神様の前には、きよくない存在なのかもしれない。それをみとめてひざまずけるかどうか。
マルコ1:41 深く憐れんで、手を伸ばして(きよくない)彼にさわり。いやしのことばは、共観福音書共通「そうしてあげよう、きよくなれ」
マルコ1:42 直ちに治るとはどういうことだろうか。ちょっと想像しにくい。それがわかる兆候はあったのだろう。治ったことがわかる程度になおり始めたのかもしれない。重い皮膚病が何であったかは、問うても仕方がないように思う。
マルコ1:43,44 誰にも言わず、祭司に見せ、献げものをし、人々に証明。これらが全体的な回復には、必要であるとイエスが考えたからだろう。自分に対して、神様に対して、人々に対して関係を回復することは本質的なのだろう。たんに、群衆が押し寄せてくる、不都合を嫌ったわけではないかもしれない。
ルカには、教えを聴きにきたことも含まれている。
一章を通して:人間は、自分のことを思い、主の苦しみ、痛み、望みを知ろうとしない。それでも、イエスは、種を蒔き続ける。神様がそれを育ててくださると信頼しているからか。わたしは、イエスのように、Be available, stay vulnerable でありつつ、主の、苦しみと痛みを、少しでも受け取り、主の望みを受け取っていきたい。とても、難しいことだろうが。
4.11 2:1-12 体の麻痺した人を癒やす
2:1 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、 2 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。 4 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。 8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。 9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。 10 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、11 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。 12 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
4.11.1 マタイ 9:1-8
1 さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。 2 すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。 3 すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。4 イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。 5 あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。 6 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。7 すると彼は起きあがり、家に帰って行った。 8 群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。
4.11.2 ルカ 5:17-26
17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。18 その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。19 ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。21 すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。22 イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。24 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。25 すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。
4.11.3 問い
マルコを読み、ここで起こったことを確認し、気づいたこと、疑問点を挙げてみましょう。
中風の人はどのように運ばれてきましたか。なぜこれほど人が集まっていたのでしょう。イエスは何をしているところでしたか。マタイやルカも合わせて状況を想像してみましょう。
イエスはどうしますか。中風の人にはこのことばはどう響いたと思いますか。
「彼らの信仰」とは誰のどのような信仰なのでしょうか。
律法学者は、どう反応しますか。なぜ、そのような反応をするのでしょうか。
イエスは、どんなことを気付かせるために9節の質問をしていますか。イエスの問いに対して律法学者はどう考えていたでしょう。あなたは、どう考えますか。
イエスは、中風の人にどのように命じ、そして、どうなりますか。
4.11.4 参照
1 Καὶ εἰσελθὼν119 πάλιν εἰς Καφαρναοὺμ δι’ ἡμερῶν ἠκούσθη120 ὅτι ἐν οἴκῳ ἐστίν. 2 καὶ συνήχθησαν121 πολλοὶ ὥστε μηκέτι χωρεῖν122 μηδὲ τὰ πρὸς τὴν θύραν, καὶ ἐλάλει αὐτοῖς τὸν λόγον. 3 Καὶ ἔρχονται123 φέροντες124 πρὸς αὐτὸν παραλυτικὸν125 αἰρόμενον126 ὑπὸ τεσσάρων. 4 καὶ μὴ δυνάμενοι127 προσενέγκαι128 αὐτῷ διὰ τὸν ὄχλον ἀπεστέγασαν129 τὴν στέγην130 ὅπου ἦν, καὶ ἐξορύξαντες131 χαλῶσιν132 τὸν κράβαττον133 ὅπου ὁ παραλυτικὸς134 κατέκειτο135. 5 καὶ ἰδὼν136 ὁ Ἰησοῦς τὴν πίστιν137 αὐτῶν λέγει τῷ παραλυτικῷ· τέκνον, ἀφίενταί138 σου αἱ ἁμαρτίαι. 6 Ἦσαν δέ τινες τῶν γραμματέων ἐκεῖ καθήμενοι139 καὶ διαλογιζόμενοι140 ἐν ταῖς καρδίαις αὐτῶν· 7τί οὗτος οὕτως λαλεῖ; βλασφημεῖ141· τίς δύναται ἀφιέναι ἁμαρτίας εἰ μὴ εἷς ὁ θεός; 8 καὶ εὐθὺς ἐπιγνοὺς142 ὁ Ἰησοῦς τῷ πνεύματι αὐτοῦ ὅτι οὕτως διαλογίζονται ἐν ἑαυτοῖς λέγει αὐτοῖς· τί ταῦτα διαλογίζεσθε ἐν ταῖς καρδίαις ὑμῶν; 9 τί ἐστιν εὐκοπώτερον143, εἰπεῖν τῷ παραλυτικῷ· ἀφίενταί σου αἱ ἁμαρτίαι, ἢ εἰπεῖν· ἔγειρε καὶ ἆρον144 τὸν κράβαττόν σου καὶ περιπάτει;10 ἵνα δὲ εἰδῆτε145 ὅτι ἐξουσίαν ἔχει ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἀφιέναι ἁμαρτίας ἐπὶ τῆς γῆς– λέγει τῷ παραλυτικῷ· 11 σοὶ λέγω, ἔγειρε146 ἆρον τὸν κράβαττόν σου καὶ ὕπαγε εἰς τὸν οἶκόν σου. 12 καὶ ἠγέρθη147 καὶ εὐθὺς ἄρας τὸν κράβαττον ἐξῆλθεν ἔμπροσθεν πάντων, ὥστε ἐξίστασθαι148 πάντας καὶ δοξάζειν149 τὸν θεὸν λέγοντας ὅτι οὕτως οὐδέποτε εἴδομεν.
4.11.5 記録
日時:2023年6月22日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.11.6 問いについて
マルコを読み、ここで起こったことを確認し、気づいたこと、疑問点を挙げてみましょう。
- 少し長いので、まずは、マルコで全体を確認。
中風の人はどのように運ばれてきましたか。なぜこれほど人が集まっていたのでしょう。イエスは何をしているところでしたか。マタイやルカも合わせて状況を想像してみましょう。
中風の人が運ばれてきた時の様子
どのように運ばれてきたか「人々が」「四人の人に」「中風の人を」運ばせて、イエスのもとに連れてきた。
なぜこれほど人が集まったか。マルコ(だけ)にはカペナウムでの出来事であったことが記されている(1)(マタイは「自分の町」(1))。「1:32 夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。 33 こうして、町中の者が戸口に集まった。 34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。」と、ある。また、寂しいところに祈りにいくと人々は捜していた。(1:38)「1:45 彼(重い皮膚病を癒された人)は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。」
イエスは何をしていたか「御言を彼らに語っておられた。」つまり説教中、それでも対応。なぜだろうか。次の問いにつながる。
イエスはどうしますか。中風の人にはこのことばはどう響いたと思いますか。
イエスのことば、中風のひとの受け取り方
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
こう言われたということは、このひとは、やはり罪の中に生きていたということだろうか。
自分では何もできないことに、罪悪感を感じていたかもしれない。役立たず。
彼らの信仰の部分は、次の問いに続く。ここでは、「み言葉を語ること」を中断して。
中風の人も驚いたかもしれない。社会一般的には、中風は罪の故と思っていたかもしれないが、このひとを連れてきた人たちの様子からは、そのような因果応報的な考えかたは見て取れない。それが「(神は憐れんでくださる、これが当然の罪の帰結で許されないものだとは思っていない)信仰」と表現されているのかもしれない。社会的認識が一般的にあったとしてのそれに支配されているとも限らない。
マルコでは「子よ」、マタイでは「子よ、しっかりしなさい」、ルカでは「人よ」と呼びかけ方が異なっている。この呼びかけのことばは、どう理解したら良いのだろうか。ある権威を示している?
「彼らの信仰」とは誰のどのような信仰なのでしょうか。
「彼らの信仰」とは
誰:マルコでは、人々? マタイでも人々、ルカもおそらく人々。四人に限定されるわけではない。どういう人たちで、どのような関係をこの中風のひとと持っており、どう思っており、このような行動をしたのだろうか。このような関係のひとはいるだろうか。
罪の結果だと一般的には思われていたが、神は憐れんでくださるということか。
罪と信仰と愛の関係はどう考えたらよいでしょうか。愛は単なる助け合いではない。神を信頼するものどうしの相互の愛。
律法学者は、どう反応しますか。なぜ、そのような反応をするのでしょうか。
律法学者の反応
ルカでは「エルサレム方きたパリサイ人や律法学者」となっている。マルコとマタイは「幾人かの律法学者」「律法学者たち」
イエスが見抜いてとなっており、前列に座っていたのかもしれない。
自分が律法学者のような反応をした経験はありますか。そこで、起こったことをみるよりも、成した人の善悪を評価することなど。
イエスは、どんなことを気付かせるために9節の質問をしていますか。イエスの問いに対して律法学者はどう考えていたでしょう。あなたは、どう考えますか。
何を気づかせるため
イエスは、どちらでもそう変わらないと思っていたのではないか。実際、結局両方言っている。
「罪をゆるすことができるのは神のみ」はなぜなのだろうか。罪のゆるしと捉えたということは、律法学者は、罪の結果だと考えていたのかもしれない。
原理主義ではいけない。
イエスは、中風の人にどのように命じ、そして、どうなりますか。
中風の人に何と語り、どうなったか。
「床を取り上げて家に帰れ」手伝ってもらってここにきたが、自分で動くことを命じられている。眼に見える、「みんなの前を出て行った」変化がある。
一同は驚き、神をあがめて「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
4.11.7 メモ
カペナウム(マタイでは自分の町):以前の出来事 マルコ1:21-39 汚れた霊に取りつかれた男を癒す、多くの病人を癒す、巡回して宣教する。規定の病を患っている人を清めるは、マルコの流れでは巡回宣教中。
- 家(1)は、ペトロとアンデレの家か?
彼らの信仰:「人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。」とあり、人々(マルコは翻訳によるが、マタイでは入っているようだ)、中風の者、四人の人とある。全員だろうか。これは、神様への挑戦でもあるのだろうか。理不尽さ。
神を汚す:なぜ、罪を赦すことが、神を汚すことになるのか。神の先決事項に介入したということか。神に目を向けていると言いながら、神の業を、働きを見ていない。完璧を求め、そこに関わった人を見下すことは、あるように思う。
人の子:なぜ、自分の子を、人の子と呼んだのだろう。私たちは、人の子ではないのか。人の子、私たちの役割は何なのだろうか。私たちに、同じことは委ねられているのだろうか。罪を赦すこと。受け入れること。同じ人の子として、ともに生きること。罪に定めることの、ひとの世界のことなのかもしれない。
ルカ5:26 「驚くべきこと」の内容は何だろうか。受け取り方は、ひとそれぞれだったのかもしれない。中風の人、中風の人を連れてきた人、その他の人々、律法学者、イエス、そして、それを伝える、弟子たち、その人たちの見たものは、さまざまだったのかもしれない。
中風の人は、自分の病は、罪の結果かもしれないと考えていた可能性はある。むろん、こんな罰を受けているほどの罪だろうかとの意識もあったかもしれない。そうであっても、自分から、癒してもらいたいとイエスのもとにいくことはできなかったのではないだろうか。すごいことがおこっていると、聞きつけた周囲の人々が、この中風のひとをイエスのもとに連れて行く。そこには、この中風の人を罪人と定める人はおらず、逆に、愛を持って、さらに、神様が憐れんでなしてくださることに期待をかけた人たちがいたのだろう。その信仰に、心が動かされ、イエスは、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言される。それは、この中風の人にとって、どれほどの慰めと救いだったかと思う。まさに、神の国がここにきたのだ。しかし、それを認めることができず、正しさから、違反を見つけようとする人たちがいる。イエスは、このひとたちにもひとこといい、さらに、中風のひとに語りかけ、中風の人は癒される。すべてを理解できたかどうかはわからないが、神様を賛美せざるをえない人たちが、そこにいたのだろう。感謝。
4.12 2:13-17 レビを弟子にする
2:13 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。 14 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。15 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。 16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
4.12.1 マタイ 9:9-13
9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
4.12.2 ルカ 5:27-32
27 そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。28 すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。29 それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。30 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
4.12.3 問い
マルコを読み、ここで起こったことを確認し、気づいたこと、疑問点を挙げてみましょう。
レビついてどのようなことがわかりますか。マタイやルカも確認しましょう。
この人の家での食卓には、どんな人たちがついていますか。
パリサイ派の律法学者たちは、誰に、どんなことを聞いていますか。
イエスはこれに対して何と言っていますか。
「罪人を招く」とはどういうことでしょうか。
イエスに従ってきたのは、どのような人たちでしょうか。現代では、それは、どんな人たちで、その人たちを招くことは、どのようなことを意味しているのでしょう。
4.12.4 参照
マタイ150(ヤーヴェからの賜り物、アルパヨの子レビ)についての記述(今回の箇所以外)
マルコ3:16-19 こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、
マタイ10:2-4 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4 熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。
ルカ6:14-16 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。
使徒1:13 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。
収税人:参照
- ルカ3:12,13 取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。
罪人たち:参照
ユダとガリラヤの統治者および徴税について:参照
マタイ9:13: ホセア6:6 「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」כִּי 151חֶסֶד חָפַצְתִּי וְלֹא־זָבַח וְדַעַת אֱלֹהִים מֵעֹלֽוֹת׃
13 Καὶ ἐξῆλθεν152 πάλιν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ πᾶς ὁ ὄχλος ἤρχετο πρὸς αὐτόν, καὶ ἐδίδασκεν153 αὐτούς. 14 Καὶ παράγων154 εἶδεν Λευὶν τὸν τοῦ Ἁλφαίου155 καθήμενον156 ἐπὶ τὸ τελώνιον157, καὶ λέγει αὐτῷ· ἀκολούθει μοι. καὶ ἀναστὰς158 ἠκολούθησεν αὐτῷ. 15 Καὶ γίνεται κατακεῖσθαι159 αὐτὸν ἐν τῇ οἰκίᾳ αὐτοῦ, καὶ πολλοὶ τελῶναι160 καὶ ἁμαρτωλοὶ161 συνανέκειντο162 τῷ Ἰησοῦ καὶ τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ· ἦσαν γὰρ πολλοὶ καὶ ἠκολούθουν αὐτῷ 16 καὶ οἱ γραμματεῖς τῶν Φαρισαίων ἰδόντες163 ὅτι ἐσθίει μετὰ τῶν ἁμαρτωλῶν καὶ τελωνῶν ἔλεγον τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ· ὅτι μετὰ τῶν τελωνῶν καὶ ἁμαρτωλῶν ἐσθίει; 17 καὶ ἀκούσας164 ὁ Ἰησοῦς λέγει αὐτοῖς [ὅτι] οὐ χρείαν ἔχουσιν οἱ ἰσχύοντες ἰατροῦ ἀλλ’ οἱ κακῶς ἔχοντες· οὐκ ἦλθον καλέσαι δικαίους ἀλλ’ ἁμαρτωλούς.
4.12.5 記録
日時:2023年6月29日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)5名
4.12.6 問いについて
概要
多くのひとたちがイエスのもとに集まってきて、海辺で教えた。(この背景はマルコのみ)
収税所にすわっているアルパよの子レビを従うように招く。
レビは立ち上がって従う。
レビの家で、イエスに従ってきた多くの収税人や罪人たちが一緒に食卓についていた。
パリサイ派の律法学者が、弟子たちに、なぜ、罪人や収税人と食事を共にするのかと問う。
イエスは、罪人を招くためにきたと断言。
アルパヨの子レビについて。
マタイでは、マタイとなっている。マタイと同一人物としてよいか。
- マルコ、マタイ、ルカの記述からして、同一人物としてよいと思われる。
収税人だったのだろうか。たまたま収税所に座っていただけなのだろうか。
ルカ5:27には「レビという名の取税人」とあり、マタイと同一してもよいと思われるが、マタイについては、マタイ10:3 には「取税人マタイ」とある。
- おそらく、ヘブル語、アラム語、ギリシャ語を話せ、お金もある。しかし、ユダヤ人からは、嫌われ、ユダヤ人であるにもかかわらず、蔑まれていた。
マタイ:マッタテヤ の省略形 歴代誌15:18, 21, 16:5, 25:3, 21, エズラ10:43 。ネヘミヤ8:4 学者エズラはこの事のために、かねて設けた木の台の上に立ったが、彼のかたわらには右の方にマッタテヤ、シマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤおよびマアセヤが立ち、左の方にはペダヤ、ミサエル、マルキヤ、ハシュム、ハシバダナ、ゼカリヤおよびメシュラムが立った。
状況証拠からは、レビ族の出身だった可能性が高いように思う。その中でよく知られた、マタイが呼称だったのか、イエスがそう呼んだのかは不明。
イエスが通りすがりに声をかけたように思われる。イエスは、マタイの様子から何を見、なぜ、声をかけたのだろうか。
レビは、イエスの招きに対して「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」と書かれている。ペトロたちのときのように、このときが、最初の出会いではないかもしれない。
- おそらく、職を失ったと思われる。ルカ5;28 「彼はいっさいを捨てて立ちあがり」
- 強調することではないかもしれないが、漁師が船と網を置くこととは多少異なる。
食卓に同席していたひとたち。
誰の家か。ルカでは、レビが「イエスのために盛大な宴会を催した」とある。
マルコ、マタイからは、イエスについてきた人たちが、一緒に食事の席についていることがわかる。レビが招いたのだろうか。それとも、イエスに単についてきたのだろうか。
仲間を連れてきたのか。それとも、イエスについてきたひとたちだから、一緒に食事をしたのか。マタイは(驚きはあったかもしれないが)おそらく歓迎しただろうが、パリサイ派の律法学者は違う見方をした。
収税人や罪人とは、どのような人だろうか。(参照からリンク)
パリサイ人の質問:「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」
なぜ、イエスにではなく、弟子たちに聞くのか。レビ(マタイ)や、弟子には、はっきりとは答えられなかったかもしれない。しかし、どう答えたか、聞いてみたかった。それが、我々の一人の応答を明らかにすることでもあるから。
聞く目的は?非難?すでに、危険視されていたと思われる。(体の麻痺した人を癒すの記事参照)
イエスの答え:「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」
イエスにとっては、至極当然のこと。なぜ、疑問に思うのか。とはいえ、たいせつなことを教えている。
義人を招くとは、罪人を招くとは。
マタイ9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。は、どのような意味だろうか。だれでも知っている、当たり前のこと。
その当たり前のことを、受け入れられない頑なさを、現代に移して考えてみよう。
現代では
- おそらく、さまざまなことを抱え込むことも含まれている。Welcoming Spirits, Availabiity は、vulnerability をも必要とする。それこそが、イエスが体現したこと、イエスの生涯。
- 自分にたいする神様の憐れみを、他者にたいする神様の憐れみと同等に考えることができない。自分が神様に愛されていること、その応答として、神様を愛することが、神様が愛される他者に向けられることには、困難がある。
4.12.7 メモ
マルコだけが、「13 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。」と始めている。
マルコも、マタイも、ルカも「すわっていた」ことを書いている。何を表しているのだろう。
- 「立ちあがって(イエスに)従った」と対置されている。悩んでいたかもしれない。そのひとが、一歩を歩み出す。それが、レビにとっては、宴会を催すこと。
マルコと、ルカは、レビ(マルコは、アルパヨの子レビ)、マタイは、マタイとし、マルコと、マタイは、収税所に座っていたことだけ書いているが、ルカは、収税人と明確に書いている。
ガリラヤ地方は、ローマ皇帝から領主に任ぜられたエドム人ヘロデ・アンティパスの配下にあった。この徴税を行なっていた。(参照:ユダとガリラヤの統治者および徴税について)
Anna Karenina Principle (AKP) 「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである All happy families are alike; each unhappy family is unhappy in its own way.」レオ・トルストイ著、アンナ・カレーニナ冒頭(Leo Tolstoy’s 1877 novel Anna Karenina)
- 病人も、罪人も、ひとりひとり異なる。義人と、罪人と二分するのでは、本質は捉えられない。イエスが来たのは、神の国が近いとしらせること、それは、すべてのひとを救うためではなく、罪人(神様の国から遠いと思われている・思っている)一人ひとりを招くこと。一人の例外もなく。
4.13 2:18-22 断食についての問答
2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。19 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。 20 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。 21 だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。
4.13.1 マタイ 9:14-17
14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
4.13.2 ルカ 5:33-39
33 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。34 するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。35 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。36 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。
4.13.3 問い
マルコ、マタイ、ルカでは、それぞれ、どのようなときに、だれが、イエスに断食について質問していますか。
イエスはどのように答えていますか。(マルコ2:19,20など)
婚礼の客や、花婿とはだれのことだと思いますか。花婿が取り去られる時とはいつのことでしょうか。
ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちなどと、イエスでは、どのようなところが違っていたと思いますか。
布きれと服、ぶどう酒と革袋のたとえはどのようなことを説明しているのでしょうか。
イエスのこれらのことばは、現代においては、どのよなことを教えているでしょうか。
4.13.4 参照
断食について:参照
聖書における断食の記述:参照
聖書における花婿の記述
イザヤ61:10 わたしは主を大いに喜び、/わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、/義の上衣をまとわせて、/花婿が冠をいただき、/花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
イザヤ62:5 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、/花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。
ホセア2:19,20 またわたしは永遠にあなたとちぎりを結ぶ。すなわち正義と、公平と、いつくしみと、あわれみとをもってちぎりを結ぶ。20 わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。(聖書協会共同訳2:21,22)
マタイ25:1-10 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
バプテスマのヨハネの証言:ヨハネ3:29,30 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。
18 Καὶ ἦσαν165 οἱ μαθηταὶ Ἰωάννου καὶ οἱ Φαρισαῖοι νηστεύοντες. καὶ ἔρχονται καὶ λέγουσιν αὐτῷ· διὰ τί οἱ μαθηταὶ Ἰωάννου καὶ οἱ μαθηταὶ τῶν Φαρισαίων νηστεύουσιν166, οἱ δὲ σοὶ μαθηταὶ οὐ νηστεύουσιν; 19 καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς· μὴ δύνανται οἱ υἱοὶ τοῦ νυμφῶνος167 ἐν ᾧ ὁ νυμφίος168 μετ’ αὐτῶν ἐστιν νηστεύειν; ὅσον χρόνον ἔχουσιν τὸν νυμφίον μετ’ αὐτῶν οὐ δύνανται νηστεύειν. 20 ἐλεύσονται169 δὲ ἡμέραι ὅταν ἀπαρθῇ170 ἀπ’ αὐτῶν ὁ νυμφίος, καὶ τότε νηστεύσουσιν ἐν ἐκείνῃ τῇ ἡμέρᾳ. 21 Οὐδεὶς ἐπίβλημα ῥάκους ἀγνάφου ἐπιράπτει171 ἐπὶ ἱμάτιον παλαιόν· εἰ δὲ μή, αἴρει τὸ πλήρωμα ἀπ’ αὐτοῦ τὸ καινὸν τοῦ παλαιοῦ καὶ χεῖρον σχίσμα γίνεται. 22 καὶ οὐδεὶς βάλλει οἶνον172 νέον εἰς ἀσκοὺς παλαιούς· εἰ δὲ μή, ῥήξει ὁ οἶνος τοὺς ἀσκοὺς καὶ ὁ οἶνος ἀπόλλυται καὶ οἱ ἀσκοί· ἀλλ’ οἶνον νέον εἰς ἀσκοὺς καινούς.
4.13.5 記録
日時:2023年7月6日午後7時半〜9時半
出席(対面)7名、参加(遠隔)4名
4.13.6 問いについて
どのようなときに、だれが質問しているか。
レビの記事の直後。宴会をしているのを見て、「そのとき(中略)断食をしているのに」(マタイ)
マルコ:人々、ルカ:彼ら(パリサイ人や律法学者?)、マタイ:ヨハネの弟子たち。(ヨハネ3:22-30)
断食をする(と定められている)特別なときだったのかもしれない。
イエスの答え。
マルコ2:19 婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。 20 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
マタイ:悲しんでおられようか。
花婿、婚礼の客
花婿はイエスだろうか。そう取るのがおそらく、一般的。花嫁は、婚礼の客は。ここには、花嫁は登場しない。
レビの家での宴会の主賓は、誰だったのだろうか。何を喜んでいたのだろうか。神様のものとなったのは、レビや、イエスに従うようになった人たち。または、神様のもとに来た人たち。
相互性があるかもしれない。共に喜ぶ場、それが祝宴の場。
しかし、取り去られるのは、イエス自身のことを言っていることは確実だろう。すでに、この時点で、取り去られることについて語っている。
ヨハネ16:20-22 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。21 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。22 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
ヨハネ20:19-21 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
違い
断食など、身を苦しめる、宗教儀式によって、神の国に近づくことができるのか。
確認:イエスの断食、使徒たち初代教会の断食、旧約聖書における断食はどのようなものだったのだろうか。参照
布きれと服、ぶどう酒と革袋
神様を讃えること、悔い改めること、喜ぶこと。
ルカでは:36 だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。
ヨブ32:19 見よ、わたしの心は口を開かないぶどう酒のように、/新しいぶどう酒の皮袋のように、/今にも張りさけようとしている。
イエスの教え
- 神の国はすぐそこにある。レビの家にもすでに来ている。
4.13.7 メモ
マルコも、マタイも、ルカも、レビの記事の直後にある。特に、マタイは、「そのとき」と始まっている。
断食は、旧約では、身を悩ますこと。
ヨハネ3章29,30節を加味すると、ヨハネの証言を知っているものが質問をし、それをうけて、イエスが、花婿のことを言ったと解釈するのが自然であり、マタイの証言のように、ここで、質問したのは、バプテスマのヨハネの弟子または、そのような情報を共有しているものととれる。また、アンデレやヨハネは、バプテスマのヨハネの弟子で、このようなバプテスマのヨハネの証言を知っていたと思われる。すると、花婿はイエス、介添人はバプテスマのヨハネ、婚礼の客は、花婿イエスの弟子である。花婿が取り去られることを伝えているのは、すでに、師が取り去られ、断食をしている、バプテスマのヨハネの弟子たちへの配慮もあるように思われる。
イザヤや、ホセア、さらに、マタイ25章1-12節の花嫁の譬えから、考えると、花嫁は、イエスと契りをむすぶ、イエスが迎える人たちである。
布も、皮袋も、古いもののほうに、重きがある。これも、バプテスマのヨハネの弟子たちのように、イエスに従ってはいないひとたちへのメッセージかもしれない。すなわち、断食をしないことだけを、受け入れると、すべてが壊れてしまう。断食のこともふくめた、イエスの新しい教えを受け入れるなら、そのなかに、入り込まないといけないということを言っているのかもしれない。
ただ、かなり、異なる記述もあるルカなども加味すると、ひとつの解釈にこだわってはいけないこともあるのかもしれない。実際、この場には、さまざまな人たちがいたのだから。
4.14 2:23-28 安息日に麦の穂を摘む
2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。 24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。 28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
4.14.1 マタイ 12:1-8
1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。8 人の子は安息日の主である」。
4.14.2 ルカ 6:1-5
1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
4.14.3 問い
マルコを読み、ここで起こったことを確認し、気づいたこと、疑問点を挙げてみましょう。
弟子たちは「いつ」「どこで」「なに」をしていますか。マタイやルカも合わせて状況を想像してみましょう。
ファリサイ人たちは誰に何を訴えていますか。
ダビデの例を通してイエスはどんなことを説明していますか。(サムエル記上21:1-7)
イエスは安息日の目的をどのように説明していますか。
「人の子は安息日にもまた主なのである。」は何を伝えているのでしょうか。
安息日や主日(日曜日)は、わたしたちにとってどのようなものなのでしょうか。
4.14.4 参照
安息日について:参照
安息日に関する聖書箇所:参照
出エジプト記23:12 あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。
申命記23:24,25 あなたが隣人のぶどう畑にはいる時、そのぶどうを心にまかせて飽きるほど食べてもよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。25 あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。
供えのパン
レビ記24:5-9 あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパ173を用いなければならない。6 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。7 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。9 これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」。
供えのパンを置く台:出エジプト25:23-30 あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト174、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。24 純金でこれをおおい、周囲に金の飾り縁を造り、25 またその周囲に手幅の棧を造り、その棧の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。26 また、そのために金の環四つを造り、その四つの足のすみ四か所にその環を取り付けなければならない。27 環は棧のわきに付けて、机をかつぐさおを入れる所としなければならない。28 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおい、それをもって、机をかつがなければならない。また、その皿、乳香を盛る杯および灌祭を注ぐための瓶と鉢を造り、これらは純金で造らなければならない。30 そして机の上には供えのパンを置いて、常にわたしの前にあるようにしなければならない。
補足1:民数記4:7,8 また供えのパンの机の上には、青色の布をうちかけ、その上に、さら、乳香を盛る杯、鉢、および灌祭の瓶を並べ、また絶やさず供えるパンを置き、8 緋色の布をその上にうちかけ、じゅごんの皮のおおいをもって、これをおおい、さおをさし入れる。
補足2:列王記上7:48-50 またソロモンは主の宮にあるもろもろの器を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる金の机、49 および純金の燭台。この燭台は本殿の前に、五つは南に、五つは北にあった。また金の花と、ともしび皿と、心かきと、50 純金の皿と、心切りばさみと、鉢と、香の杯と、心取り皿と、至聖所である宮の奥のとびらのためおよび、宮の拝殿のとびらのために、金のひじつぼを造った。
補足3: 歴代誌上9:31-32 コラびとシャルムの長子でレビびとのひとりであるマタテヤはせんべいを造る勤めをつかさどった。32 またコハテびとの子孫であるその兄弟たちのうちに供えのパンをつかさどって、安息日ごとにこれを整える者どもがあった。
サムエル記上21:1-7 ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。2 ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。3 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。4 祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。5 ダビデは祭司に答えた、「わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか」。6 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。
サムエル記上22:20 しかしアヒトブの子アヒメレクの子たちのひとりで、名をアビヤタルという人は、のがれてダビデの所に走った。
23 Καὶ ἐγένετο αὐτὸν ἐν τοῖς σάββασιν175 παραπορεύεσθαι176 διὰ τῶν σπορίμων177, καὶ οἱ μαθηταὶ αὐτοῦ ἤρξαντο ὁδὸν ποιεῖν τίλλοντες178 τοὺς στάχυας179. 24 καὶ οἱ Φαρισαῖοι ἔλεγον αὐτῷ· ἴδε τί ποιοῦσιν τοῖς σάββασιν ὃ οὐκ ἔξεστιν180; 25 καὶ λέγει αὐτοῖς· οὐδέποτε ἀνέγνωτε τί ἐποίησεν Δαυὶδ ὅτε χρείαν ἔσχεν καὶ ἐπείνασεν181 αὐτὸς καὶ οἱ μετ’ αὐτοῦ, 26 πῶς εἰσῆλθεν εἰς τὸν οἶκον τοῦ θεοῦ ἐπὶ Ἀβιαθὰρ ἀρχιερέως καὶ τοὺς ἄρτους τῆς προθέσεως182 ἔφαγεν, οὓς οὐκ ἔξεστιν φαγεῖν εἰ μὴ τοὺς ἱερεῖς, καὶ ἔδωκεν καὶ τοῖς σὺν αὐτῷ οὖσιν; 27 Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· τὸ σάββατον διὰ183 τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον· 28 ὥστε κύριός ἐστιν ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου καὶ τοῦ σαββάτου.
4.14.5 記録
日時:2023年7月13日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)6名
4.14.6 問いについて
概要
当時「安息日にしてはならぬ」と考えられていたことを弟子たちはしていた。
パリサイ人がイエスに問う。
イエスは、ダビデの例と、安息日がだれのためかを語り、最後に安息日の主を示す。
「いつ」「どこで」「なに」を
安息日に麦畑の中で弟子たちが歩きながら穂を摘み始めた。
マタイ:空腹だったので
ルカ:穂を摘み手で揉みながら食べていた
「こんな連中」品行方正とは言えない弟子たち。イエスはその面倒を引き受けておられる。
安息日に、十分理解して、これらのことをしたわけではない。
ファリサイ人たちの訴え
いったい彼らはなぜ安息日にしてはならぬことをするのか。
- 他人の畑のものを無断で食べたのが違法だと言ったわけではない。安息日にしてはならぬことをしたことに焦点がある。(申命記23:25)
ルカ:あなたがたは。しかし、弟子たちが行為者であるとは書いている。
ダビデの例
サムエル記上21:1-7、サムエル記上22:20 にアビヤタルも登場
供えのパン:レビ24:5-9
安息日の目的
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。(マルコのみ)
マタイ:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
人の子は安息日にもまた主なのである。
マルコでは唐突
マタイでは、4節と5節の関係が唐突
ルカではまったく説明がない
主日は何のため
神の創造のわざ - 休息
マナを通して安息日を定める
礼拝 - 祭り、主を喜ぶ日
バビロン捕囚における、分離
4.14.7 メモ
注:サムエル記上21:1-7 祭司アヒメレクとあり、アビアタルではない。マタイ、ルカには、名前は省略されている。マタイ、ルカにも供の者とあるが、供の者たちもいたとは考えられない。また、大祭司アビアタルの時(26)とあるが、大祭司制度は、確立していないと思われる。引用句でも、祭司。大祭司については、レビ記21:10、民数記35:25, 28, 32 に記述があるが、歴史の記述で登場するのは、口語訳では、列王記下12:10(聖書教会共同訳では11節) 王の書記官と大祭司 が初出、名前が登場するのは、ヨシヤ王の時代の大祭司ヒルキヤから。列王記下 22:4, 8, 23:4, 歴代誌下34:9
25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
上にかいたように、この部分には、誤りと思われる部分も含まれる。また、上記の部分がないと、唐突に「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」につながり、あまりにも過激(ラディカル)であるので、挿入されたという説もあるようである。根拠は明確でないので、一応、参考として記する。
イエスの弟子たちは、パリサイ人のように、厳格に律法を理解し守る訓練を受けた人たちではなかった。そのような人たちを周りに置いた、イエスは、批判にたいして、弁護している。まずは、お腹が減っているときの行為として、ダビデを例に上げている。名前の間違い(あとから書かれたマタイや、ルカでは省略されている、大祭司という言い方も定着していなかったかもしれない。)供の者がいたかどうかなど、不正確な引用であるようにも思われ、また、ダビデについて引用するときには、注意を払っているようにも思われる。
マルコでは、安息日は人のためという部分が強調されるが、安息日の主との繋がりは希薄である。マタイは、それを丁寧に説明もしている。ただ、その一つの正当な解釈に、収斂されてようかどうかは不明。
安息日は何のためかについて考えたい。多くの問題が背後に潜んでいるように見える。土曜日か、日曜日か、毎日が主の日か、特別な日とするべきかも含めて、考えるべき課題は多い。続けて考えていきたい。
ここでは、「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。(28)と、結ばれている。人の子、イエスは、真の自由人として生きられた、その意味でも、安息日の主でもあるということなのだろうか。
4.15 3:1-6 手の萎えた人を癒やす
3:1 イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。 2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。 3 すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、 4 人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。 6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
4.15.1 マタイ 12:9-14
9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。13 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
4.15.2 ルカ 6:6-11
6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。7 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。8 イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。10 そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。11 そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。
4.15.3 問い
このできごとはいつ、どこで、どのような状況のもとでおきますか。
イエスは片手の萎(な)えた人を、なぜ、真ん中に立たせたのでしょうか。
イエスは、人々に、どのように問うていますか。
なぜイエスは怒り嘆くのでしょうか。そしてどうしますか。
パリサイ人たちは、どうしますか。
あなたは、一日をどのように生きようとしていますか。
4.15.4 参照
ヘロデ党について:参照
ヘロデ党に関する聖書箇所:参照
マタイ12:15-21 も繋がっている
イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、 16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、18 「見よ、わたしが選んだ僕、/わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、/そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。19 彼は争わず、叫ばず、/またその声を大路で聞く者はない。20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、/いためられた葦を折ることがなく、/煙っている燈心を消すこともない。
- 引用:イザヤ42:1-3 わたしの支持するわがしもべ、/わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、/その声をちまたに聞えさせず、3 また傷ついた葦を折ることなく、/ほのぐらい灯心を消すことなく、/真実をもって道をしめす。
「わたしはレンガ職人で、わたしの手で自分のパンを稼いでいました。イエスよ。お願いです。恥さらしにもこじきをすることができないために、わたしの健康を取り戻してください。」(4C ヒエロニムス:ナザレ派・エピオン派が用いていたヘブル語のマタイの福音書からの引用)
1 Καὶ εἰσῆλθεν πάλιν εἰς τὴν συναγωγήν. καὶ ἦν ἐκεῖ ἄνθρωπος ἐξηραμμένην184 ἔχων τὴν χεῖρα. 2 καὶ παρετήρουν185 αὐτὸν εἰ τοῖς σάββασιν θεραπεύσει αὐτόν, ἵνα κατηγορήσωσιν αὐτοῦ. 3 καὶ λέγει τῷ ἀνθρώπῳ τῷ τὴν ξηρὰν χεῖρα ἔχοντι· ἔγειρε186 εἰς τὸ μέσον. 4 καὶ λέγει αὐτοῖς· ἔξεστιν187 τοῖς σάββασιν ἀγαθὸν188 ποιῆσαι ἢ κακοποιῆσαι189, ψυχὴν σῶσαι ἢ ἀποκτεῖναι; οἱ δὲ ἐσιώπων190. 5 καὶ περιβλεψάμενος191 αὐτοὺς μετ’ ὀργῆς192, συλλυπούμενος193 ἐπὶ τῇ πωρώσει194 τῆς καρδίας αὐτῶν λέγει τῷ ἀνθρώπῳ· ἔκτεινον τὴν χεῖρα. καὶ ἐξέτεινεν καὶ ἀπεκατεστάθη195 ἡ χεὶρ αὐτοῦ. 6 Καὶ ἐξελθόντες οἱ Φαρισαῖοι εὐθὺς μετὰ τῶν Ἡρῳδιανῶν συμβούλιον196 ἐδίδουν κατ’ αὐτοῦ ὅπως αὐτὸν ἀπολέσωσιν197.
4.15.5 記録
日時:2023年7月20日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)4名
4.15.6 問いについて
いつ、どこで、どのような状況
マルコ、マタイ、ルカとも、安息日に起きた、麦畑の記事に続いている。ルカによると「他の安息日」。
会堂でのできごと:マタイには「彼らの会堂」とある。人々の只中にいる。そして、ラビとして教えていると思われる。ルカによると、教えてもいる。
片手の萎えたひとがいた。
イエスを訴えようとしている(ルカによると)律法学者やパリサイ人が、安息日に癒すかどうかをうかがっている。マタイによると、人々が「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねている。
なぜ、真ん中に立たせたか
「立って、中へ出てきなさい」(マルコ)「起きて、まん中に立ちなさい」(ルカ)
人々に、考えること、教えることを目的としたのではないか。
人々への問い
マルコとルカはほぼ同じ。マタイは異なる。問いは人々に向けられている。
マルコ:「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」ルカ:「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」
マタイ:「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
マタイは、「命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」に重点をおき、当時も認められていることを例として上げているように見える。
マルコ、ルカの方が一般性が高い。
イエスの怒り嘆き、そして行動
マルコ:彼らは黙っていた。イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
- 怒りと嘆きは、マルコのみ。黙っていたことへの応答と思われる。
ルカ:そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。
マタイ:そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。
パリサイ人たちの行動
マルコ:パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
マタイ:パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
ルカ:そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。
- 主体が、マルコは明確だが、マタイ、ルカと、不明確になっていく。律法学者や、パリサイ人がいたことは、ルカにあるので、パリサイ人はよいとして、ヘロデ党の者たちとの共謀は、確証が取れなかったのかもしれない。
一日をどう生きるか
- 善を行い、命を救うことだろうか。しかし、それは、日常的にはどのようなことだろうか。
4.15.7 メモ
マタイは、少し違う内容を伝えようとしているように思われる。イザヤの引用句は、次の箇所で学んでも良いかもしれない。
安息日にしてもよいこと、悪いことに重点をおくのは、主要なことではないように思われる。
頑なな心を、まずは顧みること。単純な質問に答えられない。答えることを拒否するのは、なぜなのだろう。「単純な問いを難しくしているからか。」イエスが、神の子かどうか、安息日の主かどうか、罪を赦す権威があるか、そちらが解決しなければ、簡単な問いにも答えない。そのような論理に陥ってしまっていることが、頑なさなのだろうか。むろん、生理的に受け入れられない。嫌い。ということもあるかもしれない。しかし、イエスの単純な問いかけに、答えることは、最初の一歩なのかもしれない。拒否が、分断を起こし、抹殺へと発展する。それを、どうすれば、断ち切ることができるのだろうか。
善いこととは? 命を救うこととは? 神様が何を望んでおられるか、互いに愛し合うために、何を為すべきかを考えたい。
4.16 3:7-12 湖の岸辺の群衆
3:7 それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。 10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。 11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。 12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。
4.16.1 (参考1)マタイ4:23-25
23 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。24 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
4.16.2 (参考2)ルカ6:17-19
17 そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、18 教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。19 また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
4.16.3 (参考3)マタイ12:15-21
15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、 16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、18 「見よ、わたしが選んだ僕、/わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、/そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。19 彼は争わず、叫ばず、/またその声を大路で聞く者はない。20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、/いためられた葦を折ることがなく、/煙っている燈心を消すこともない。
4.16.4 問い
地図で、参考箇所も合わせて、地名を確認しましょう。
「おびただしい群衆」とありますが、人々は何を求めて、イエスのもとにるのでしょうか。
イエスは、どのように、弟子たちに命じますか。
汚れた霊は、イエスを見るとどうしますか。
なぜイエスは、汚れた霊にご自身のことをあらわさないように戒めるのでしょうか。
イエスが宣教を始めてから、どのようなことがあったか、まとめてみましょう。どのようなことがわかりますか。
マタイ12:15-21 のイザヤ書からの引用は、なにを伝えていますか。(イザヤ42:1-3)
4.16.5 参照
引用:イザヤ42:1-3 わたしの支持するわがしもべ、/わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、/その声をちまたに聞えさせず、3 また傷ついた葦を折ることなく、/ほのぐらい灯心を消すことなく、/真実をもって道をしめす。
7 Καὶ ὁ Ἰησοῦς μετὰ τῶν μαθητῶν αὐτοῦ ἀνεχώρησεν198 πρὸς τὴν θάλασσαν, καὶ πολὺ πλῆθος ἀπὸ τῆς Γαλιλαίας [ἠκολούθησεν199], καὶ ἀπὸ τῆς Ἰουδαίας 8 καὶ ἀπὸ Ἱεροσολύμων καὶ ἀπὸ τῆς Ἰδουμαίας καὶ πέραν τοῦ Ἰορδάνου καὶ περὶ Τύρον καὶ Σιδῶνα πλῆθος πολὺ ἀκούοντες ὅσα ἐποίει ἦλθον πρὸς αὐτόν. 9 Καὶ εἶπεν τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ ἵνα πλοιάριον200 προσκαρτερῇ201 αὐτῷ διὰ τὸν ὄχλον ἵνα μὴ θλίβωσιν202 αὐτόν· 10 πολλοὺς γὰρ ἐθεράπευσεν203, ὥστε ἐπιπίπτειν204 αὐτῷ ἵνα αὐτοῦ ἅψωνται205 ὅσοι εἶχον μάστιγας206. 11 καὶ τὰ πνεύματα τὰ ἀκάθαρτα207, ὅταν αὐτὸν ἐθεώρουν, προσέπιπτον αὐτῷ καὶ ἔκραζον λέγοντες ὅτι σὺ εἶ ὁ υἱὸς τοῦ θεοῦ. 12 καὶ πολλὰ ἐπετίμα αὐτοῖς ἵνα μὴ αὐτὸν φανερὸν ποιήσωσιν.
4.16.6 問いについて
地名
ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダンの向こう、ツロ、シドン(ユダヤ、ガリラヤだけでなく、異邦人の町も含む)
- 1:28 では、ガリラヤ。「こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。」(このときは、ガリラヤ)
群衆の要求
なさっていることを聞いて
病苦に悩む者がイエスに触ろうとして(押し寄せた)
- パリサイ人や、律法学者は、イエスに敵対しているが、群衆は、必ずしも、そのようには行動していない。
イエスの弟子たちへの依頼
9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
- 物理的接触以外のことをも求める。
汚れた霊
11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
1:24 「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。
1:34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
イエスの汚れた霊への対応
- 12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。
復習
バプテスマのヨハネの宣教:わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。(1:7,8)
- 力を示した。聖霊によってバプテスマをお授けになったのだろうか。
洗礼を受ける:そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(1:10,11)
試みを受ける
ガリラヤでの宣教開始:「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(1:15)
弟子を招く:「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。(1:17)
権威のある教え:汚れた霊に取り憑かれた者を癒す(1:21-28)
ペトロのしゅうとめ、いろいろな病気の人をいやし、悪霊を追い出す。(1:29-34)
祈り、宣教し、悪霊をおいだす(1:35-39)
規定の病を患っている人をいやす。(1:40-45)
中風の人を癒す。罪を赦す権威(2:1-12)
レビを弟子にし、収税人や罪人と宴会(2:13-17):「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 (2:17)
断食について(2:18-22):だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。
安息日に麦の穂を摘む(2:23-28):それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである
手の萎えた人を癒す(3:1-6):「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」
イザヤ書の引用
- 17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、18 「見よ、わたしが選んだ僕、/わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、/そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。19 彼は争わず、叫ばず、/またその声を大路で聞く者はない。20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、/いためられた葦を折ることがなく、/煙っている燈心を消すこともない。(イザヤ42:1-3)NIV A bruised reed he will not break, and a smoldering wick he will not snuff out, till he has brought justice through to victory.
4.16.7 記録
日時:2023年7月27日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)3名
4.16.8 メモ
この後に、会堂で教えるのは、マルコでは1箇所のみ。
- マルコ6:2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
パリサイ人たちは、反発し、イエスを殺そうとすらする。しかし、群衆は、さまざまな場所から集まってきている。イエスが伝えたかったことを受け取っていたのだろうか。悪霊に語らせなかったのだろうか。イエスが伝えたかったこととは、異なる、そして、悪霊は、追い出すべき存在だったのだろう。イエスは、神の国が近づいたと語っても、それが伝わってはいなかったのかもしれない。
マタイがイザヤ書を引用して伝えたかったすがたが、神の僕イエスの姿だったのではないだろうか。大路で語ることなく、傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心を消すことなく。
このあとで、弟子を選ぶが、その弟子を通して、イエスが伝えたことを、少しずつ学んでいきたい。
4.17 3:13-19 十二人を選ぶ
3:13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 16 こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、 17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、
4.17.1 マタイ 10:1-4
1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。2 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4 熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。
4.17.2 ルカ 6:12-16
12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。14 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。
4.17.3 問い
イエスは、どこで、どのようにして十二人を選びましたか。
マルコには、十二人を立てた理由が書かれていますが、それはどのようなものですか。マタイ、ルカではどのように書かれていますか。
マルコ、マタイ、ルカの弟子たちのリストについて気付いたことをあげてましょう。
イスカリオテのユダが含まれていることはなにを意味しているのでしょうか。
これまでのことなども復習して、なぜ、この時点で、十二人を選んだのか考えてみましょう。(マタイ9:35-38)
4.17.4 参照
十二弟子を選ぶ直前:マタイ9:35-38 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
十二弟子を選ぶ直後:ルカ6:17-19 そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、18 教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。19 また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
熱心党:参照(聖書に登場するのは十二弟子の箇所のみ)
12弟子について:参照
使徒1:13:彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。
13 Καὶ ἀναβαίνει208 εἰς τὸ ὄρος καὶ προσκαλεῖται209 οὓς ἤθελεν αὐτός, καὶ ἀπῆλθον210 πρὸς αὐτόν. 14 Καὶ ἐποίησεν211 δώδεκα [οὓς καὶ ἀποστόλους ὠνόμασεν] ἵνα ὦσιν μετ’ αὐτοῦ καὶ ἵνα ἀποστέλλῃ212 αὐτοὺς κηρύσσειν213 15 καὶ ἔχειν ἐξουσίαν214 ἐκβάλλειν τὰ δαιμόνια·16 [Καὶ ἐποίησεν τοὺς δώδεκα,] καὶ ἐπέθηκεν ὄνομα τῷ Σίμωνι Πέτρον, 17 καὶ Ἰάκωβον τὸν τοῦ Ζεβεδαίου καὶ Ἰωάννην τὸν ἀδελφὸν τοῦ Ἰακώβου καὶ ἐπέθηκεν αὐτοῖς ὀνόμα [τα] Βοανηργές, ὅ ἐστιν υἱοὶ βροντῆς· 18 καὶ Ἀνδρέαν καὶ Φίλιππον καὶ Βαρθολομαῖον καὶ Μαθθαῖον καὶ Θωμᾶν καὶ Ἰάκωβον τὸν τοῦ Ἁλφαίου καὶ Θαδδαῖον καὶ Σίμωνα τὸν Καναναῖον 19 καὶ Ἰούδαν Ἰσκαριώθ, ὃς καὶ παρέδωκεν αὐτόν.
4.17.5 記録
日時:2023年8月3日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)6名
4.17.6 問いについて
どこでどのようにして十二人を立てたか
マルコ:山に登り、みこころにかなった者たち(ここにイスカリオテのユダも含まれている)を呼び寄せられた
マタイ:イエスは十二弟子を呼び寄せ
ルカ:このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
いずれもイエスが呼び寄せておられる。
ルカの記述からは、選別があった印象を受ける。
十二人を立てた理由
マルコ:自分のそばに置く、宣教につかわす、悪霊を追い出す権威を持たせるため
マタイ:汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
ルカ:目的は書かれていない。9章1-6節に、十二人の派遣の記事がある。それ以外に、七十二人の任命と派遣についても記事がある。10章1-12節。派遣は、マルコ 6:7-13、マタイ 10:1,5-15(直後)
使徒(マタイ・ルカ)ἀπόστολος (ap-os’-tol-os): a delegate, messenger, one sent forth with orders a) specifically applied to the twelve apostles of Christ, b) in a broader sense applied to other eminent Christian teachers i) of Barnabas, ii) of Timothy and Silvanus
弟子のリスト
何人かに、名前以外の情報が含まれている。
- ペテロ、ボアネルゲ(雷の子)、アルパヨの子、熱心党、イスカリオテ
マタイでは、二組の兄弟、収税人マタイ
バルトロマイ(ピリポとくみになって登場するので、ヨハネ1:45 のナタナエルか)
タダイ(リストを比較すると、ヤコブの子ユダか ヨハネ 14:22)
アルパヨの子ヤコブ、熱心党(熱烈な民族主義者)のシモンについては、他の箇所に、記述なし。
イスカリオテのユダが含まれている理由
マルコでは、みこころにかなった者としている。
マタイ、ルカでも、イエスが呼び寄せた者たちの中にいる。
背景と目的
マルコにおけるこれまでの経緯
直前:マタイ9:35-38
36 群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
直後:ルカ6:17-19
次の世代へのバトンタッチを考えていたのか? マルコ2:19 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。
4.17.7 メモ
仲間との交わり
パリサイ Φαρισαῖος:分離されたもの Hebrew origin(פָּרַשׁ:paw-rash’ to make distinct, declare, distinguish, separate)a separatist, i.e. exclusively religious; a Pharisean, i.e. Jewish sectary:—Pharisee.
最初から、こんな人たち(2:15 収税人、罪人)との、相互の交わりを大切にしていたと思われる。
普通の人
- 使徒4:13,14 人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。
イエスに従っていく人
すでに、ユダヤ教の権威、律法学者などには、危険視されていた。
ヨハネ6:66-71 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
権威を授けられた
権威:ἐξουσία: i) power of choice, liberty of doing as one pleases, ii) physical and mental power, iii) the power of authority (influence) and of right (privilege), iv) the power of rule or government (the power of him whose will and commands must be submitted to by others and obeyed)
実際の活動は、派遣によって:マルコ 6:7-13、マタイ 10:1,5-15、ルカ9章1-6節、ルカには、72人の派遣も書いてある。10章1-12節
マルコ9:17,18 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
いやし:θεραπεύω i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health. to wait upon menially, i.e. (figuratively) to adore (God), or (specially) to relieve (of disease):—cure, heal, worship.
直接的動機
マタイ9:36 群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて(ἐκλύω: i) to loose, unloose, to set free, ii) to dissolve, metaph., to weaken, relax, exhaust, a) to have one’s strength relaxed, to be enfeebled through exhaustion, to grow weak, grow weary, be tired out, b) to despond, become faint hearted)、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
神に願う、そこから始まる。マタイ9:37b「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」
選択について
- 具体的には、この箇所を読んでも、どのように選んだのかよくわからないが、神様が定められたようになったのだろう。それを表現しているのが、ヨハネ6:66-71
4.18 3:20-30 ベルゼブル論争
3:20 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。 22 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。 23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 24 もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。 25 また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。 26 もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。 27 だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 30 そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。
4.18.1 マタイ 12:22-32
22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。 28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
4.18.2 ルカ 11:14-23; 12:10
11:14 さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。15 その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、16 またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。17 しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。18 そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、19 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。21 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。22 しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。23 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。
4.18.3 問い
イエスの身内のひとたちは、なぜ、取り押さえにきたのでしょうか。
どのような背景で、悪霊を追い出す権威についての論争が起きますか。マタイ、ルカも参考にしましょう。
エルサレムから下ってきた律法学者たちはどのようにイエスを批判していますか。
イエスは、律法学者のことばに、どのように反論していますか。
なぜ、イエスは、聖霊を汚す罪について、語っているのでしょうか。
マルコだけでなく、マタイや、ルカも参照すると、イエスについていろいろな受け止め方があったことがわかりますが、それぞれの人に、イエスは、どのように語りかけているのでしょうか。あなたは、どのように、受け取りますか。(マタイ12:33-37 も参照)
4.18.4 参照
- ベルゼブル(Beelzebub)
Q. 新約聖書に出てくる、ベルゼブル(Beelzebub)は、どのようなものと考えられていたのでしょうか。聖書以外にも、記録はありますか。
ChatGPT. 『新約聖書』において、ベルゼブル(Beelzebub)は悪魔や悪霊の一つとして言及されています。名前はヘブライ語で「バアル・ゼブブ(Ba’al Zebub)」と書かれ、直訳すると「蠅の君主」という意味です。
ベルゼブルは主にマタイによる福音書(マタイ12:24-27)やルカによる福音書(ルカ11:15-19)で言及されており、イエス・キリストが悪霊を追い出す力を持っていることを示すために登場します。ユダヤ教の伝統においては、ベルゼブルは悪魔の首領であり、悪霊の王とされています。
また、聖書以外にもベルゼブルに関する記録はあります。例えば、中世のキリスト教の文献や伝説、悪魔学においてベルゼブルについての言及が見られます。これらの文献では、ベルゼブルは堕天使の一人であり、人々を誘惑し、悪霊を使役する存在として描かれます。
ただし、ベルゼブルに関する情報は聖書や後の宗教的文献以外では限られており、一般的な知識として広く認知されている内容は限定的です。
- マタイでは、このときいより以前にも、以下の記述がある。
- マタイ9:32-34 彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれて口のきけない人をイエスのところに連れてきた。33 すると、悪霊は追い出されて、口のきけない人が物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。34 しかし、パリサイ人たちは言った、「彼は、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」。
- ベルゼプル議論(マタイ12:22-32)では、悪霊にとりつかれ、目もみえず、口も聞けない人が登場する。9章では、口が聞けない人、悪霊に取りつかれ、口が聞けない人のことが、ルカでは、ベルゼブル議論(ルカ11:14-23)に書かれている。マタイが正しいのかもしれない。そして、ここで、悪霊の頭が登場し、ベルゼブル議論の、予兆を感じさせるようになっている。
- ユダヤ教における聖霊の理解:参照
- マタイ12:33-37 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
20 Καὶ ἔρχεται εἰς οἶκον· καὶ συνέρχεται πάλιν [ὁ] ὄχλος, ὥστε μὴ δύνασθαι αὐτοὺς μηδὲ ἄρτον φαγεῖν. 21 καὶ ἀκούσαντες οἱ παρ’ αὐτοῦ ἐξῆλθον κρατῆσαι215 αὐτόν· ἔλεγον γὰρ ὅτι ἐξέστη216. 22 Καὶ οἱ γραμματεῖς οἱ ἀπὸ Ἱεροσολύμων καταβάντες217 ἔλεγον ὅτι Βεελζεβοὺλ218 ἔχει καὶ ὅτι ἐν τῷ ἄρχοντι τῶν δαιμονίων219 ἐκβάλλει τὰ δαιμόνια. 23 Καὶ προσκαλεσάμενος220 αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς221 ἔλεγεν αὐτοῖς· πῶς δύναται σατανᾶς σατανᾶν ἐκβάλλειν; 24 καὶ ἐὰν βασιλεία ἐφ’ ἑαυτὴν μερισθῇ222, οὐ δύναται σταθῆναι ἡ βασιλεία ἐκείνη· 25 καὶ ἐὰν οἰκία ἐφ’ ἑαυτὴν μερισθῇ, οὐ δυνήσεται ἡ οἰκία ἐκείνη σταθῆναι. 26 καὶ εἰ ὁ σατανᾶς ἀνέστη ἐφ’ ἑαυτὸν καὶ ἐμερίσθη, οὐ δύναται στῆναι ἀλλὰ τέλος ἔχει. 27 ἀλλ’ οὐ δύναται οὐδεὶς εἰς τὴν οἰκίαν τοῦ ἰσχυροῦ εἰσελθὼν τὰ σκεύη αὐτοῦ διαρπάσαι, ἐὰν μὴ πρῶτον τὸν ἰσχυρὸν δήσῃ, καὶ τότε τὴν οἰκίαν αὐτοῦ διαρπάσει. 28 Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα καὶ αἱ βλασφημίαι223 ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν· 29 ὃς δ’ ἂν βλασφημήσῃ εἰς τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον, οὐκ ἔχει ἄφεσιν εἰς τὸν αἰῶνα, ἀλλ’ ἔνοχός ἐστιν αἰωνίου ἁμαρτήματος. 30 ὅτι ἔλεγον· πνεῦμα ἀκάθαρτον ἔχει.
4.18.5 記録
日時:2023年8月10日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)5名
4.18.6 問いについて
身内の人たちが取り押さえにきた理由
マルコ3:20 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。
群衆が押し寄せ、宗教指導者からは、拒否される。少しの弟子は、ついていっていたが、異常だと感じていたのだろう。
マルコではこのあと「イエスの母、きょうだい」の記事が、「3:31 さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」と続く。
マルコ6:3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
背景
マタイ12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
ルカ11:14 さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。
悪霊を追い出された人の記述がマタイとルカで異なる。また、反応も異なる。
ルカ11:16 またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。
エルサレムから下ってきた律法学者の批判
- マルコ3:22 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。(マタイ、ルカもほぼ同じ)
イエスの反論
内部分裂は滅びに:もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。
マタイ12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ11:20)
ルカ11:19 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。(マタイ12:27)
まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。
マタイ12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
イエスは何を強い人だと考えていたのか。
- 困難な状況、真意が伝わらない、頑なな心をみて、イエスは独白をしているのか。
[DQ] 「23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、」とあるが、この「彼ら」は誰なのだろうか。
- 「エルサレムから下ってきた律法学者たち」はその場にいたのだろうか。そうであればその可能性が高い。しかし、「21 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。」とあり、身内の者たちなのかもしれない。それぞれによってことばの意味が少し変わってくるように見える。家族なのかもしれない。
聖霊をけがす罪
28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。
- マタイ12:32聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
それぞれの人へのメッセージ
それぞれの人に対する、聖霊のはたらきについて、考えたい。
- 木のたとえをみると、救いがない。悔い改め(方向転換)か。
マタイ、ルカは、このあと、さまざまな記事が続き、この箇所と関係しているように見える。
マタイ:12:33-37 実によって木を知る、38-42 しるしを求める、43-45 汚れた霊が戻ってくる、46-50 イエスの母、きょうだい
ルカ:24-26 汚れた霊が戻ってくる、27-28 真の幸い、29-32 人々はしるしを欲しがる、33-36 目は体の灯
4.18.7 メモ
- 家族:マタイ10:32-39 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
- 悪霊:使徒10:38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている224人々をことごとくいやしながら、巡回されました。
- 共観福音書を読んでいると「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」との批判に対して、イエスは、さまざまな方法で、反論しているように見える。神の国は近い、神の国はすでにきている(マタイ・ルカ)ということの、証・しるしとして悪霊が追い出されているのに、それがまったく違ったものに理解されることを警戒したものだろう。マタイの実についての言及も、実を見るべきこととしてこのことに言及しているのかもしれない。しかし、本質は、このことを通して、イエス様と父なる神様の関係のような、神様との交わりを持つ、永遠の命に生きる生活に導かれることだとすると、鍵は、神様の働き、神様が聖霊を通して与えてくださる理解を受け入れることなのだろう。それを阻害するもの、それが何かは明確にはわからないし、さまざまにあるのかもしれないが、それこそが、「強い人」なのかもしれない。
4.19 3:31-35 イエスの母、きょうだい
3:31 さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。 33 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。 34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
4.19.1 マタイ 12:46-50
46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
4.19.2 ルカ 8:19-21
19 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。20 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
4.19.3 問い
20節、21節を復習しましょう。イエスの(肉親である)母と兄弟たちは何のためにイエスのもとに来ていますか。
イエスの(肉親である)母や兄弟たちはイエスのことをどう思っていたのでしょうか。
イエスはイエスの(ほんとうの)母や兄弟はどのような人たちだと言っていますか。
「わたしの母、わたしの兄弟」と呼んだ、イエスと共にいる人たちはどのような人たちでしょうか。
イエスはイエスの(肉親である)母や兄弟たちに何を伝えていますか。
4.19.4 参照
マリアについて:参照
母マリアに関する聖書箇所抜粋
ルカ1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。
ルカ1:45 (エリザベツ)主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
ルカ11:27,28 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
ヨハネ2:1-5 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
イエスの兄弟たち姉妹たち(郷里のひとたちについても参照)
マルコ6:1-6 ナザレで受け入れられない、マタイ13:53-58、ルカ4:16-30
マルコ6:3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
マタイ13:55,56 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
ヨハネ7:1-8 そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。2 時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。5 こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。6 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。7 世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。8 あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。9 彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。
コリント前9:5 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。
ガラテヤ1:19 しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。
マタイ10:36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
父の御心を行う
- ヨハネ6:38-40 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
31 Καὶ ἔρχεται ἡ μήτηρ αὐτοῦ καὶ οἱ ἀδελφοὶ αὐτοῦ καὶ ἔξω στήκοντες ἀπέστειλαν225 πρὸς αὐτὸν καλοῦντες αὐτόν. 32 καὶ ἐκάθητο226 περὶ αὐτὸν ὄχλος, καὶ λέγουσιν αὐτῷ· ἰδοὺ ἡ μήτηρ σου καὶ οἱ ἀδελφοί σου [καὶ αἱ ἀδελφαί σου] ἔξω ζητοῦσίν227 σε. 33 καὶ ἀποκριθεὶς αὐτοῖς λέγει· τίς ἐστιν ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί [μου]; 34 καὶ περιβλεψάμενος228 τοὺς περὶ αὐτὸν κύκλῳ229 καθημένους λέγει· ἴδε ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου. 35 ὃς [γὰρ] ἂν ποιήσῃ τὸ θέλημα230 τοῦ θεοῦ, οὗτος ἀδελφός μου καὶ ἀδελφὴ καὶ μήτηρ ἐστίν.
4.19.5 記録
日時:2023年8月17日午後7時半〜9時半
出席(対面)7名、参加(遠隔)3名
4.19.6 問いについて
- 20,21 の復習
- 20 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。
- 「取押えに出てきた」身内の者であることを確認
- マタイ、ルカでは、この表現はなく、柔らかくなっている。マリアや、主の兄弟への配慮か。
- 肉親はどう思っていたか
- マタイ12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
- 群衆が押し寄せ、宗教指導者からは、拒否される。少しの弟子は、ついていっていたが、異常だと感じていたのだろう。
- 33節は、かなり厳しく響く。33 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。「取押さえに」出てくるような人ではないよ。と言っている。
- 参照のヨハネ7:1-8は、一つの背景を明らかにしている。
- 参照のルカ11:27,28も、イエスと母マリアの関係を明らかにしている。
- 本当の母、兄弟とは
- 34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
- マタイ:49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
- ルカ:21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
- イエスの周りにいる人:母、兄弟と呼ばれている
- 父は含まれていない。母と呼ばれるような人だけではなく、姉妹は、おそらく含まれていただろう。
- 35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
- 神のみこころを行っているものたちなのだろうか。
- 父なる神の子となることが鍵
- マルコでは、20:食事を一緒にしようとしていたひと。群衆。前段の続きとすると、22 エルサレムから下ってきた律法学者たち。マタイでは、パリサイ人。まだいただろうか。
- 肉親へのメッセージ
- 一般論ではなく「取り押さえに来た」家族に対して語っている。33「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
- イエスは、バプテスマの時に、神の声を聞き、聖霊が下ったイエスとし、父なる神の子として「神のみこころを行う者」として、生きようとし、そのような者と共に、生きようとしている。
- 聖霊の働きを見、聖霊の声に聞き従うように。
- 肉の目ではなく、霊の目で
4.19.7 メモ
「神のみこころを行う者」、マタイ「天にいますわたしの父のみこころを行うもの」、ルカ「神の御言を聞いて行う者」
共通の経験:ともに神のみこころに従おうとしたものたち、ともに喜び、ともに悲しみ、泣く人、それが、それぞれの尊厳を形作る。何でも良いわけではないが。
共通の興味、同じ方向を向いている。共通の方に従っている。
これらが、互いに愛し合うように招かれる。
- ヨハネ13:34,35 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
イエスの言葉:34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
これをみても、全員が、「わたしの兄弟、また姉妹、また母」だとは言っていないように、見える。「いる」と言っているのだから。
父については、語らないことで(マタイは明確に、「12:50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と言っている。)自分は、神の子として生きていること。そして「神のみこころを行う者はだれでも」イエスの家族、すなわち、神の子だよと言っている。(母も、父の責任下にあると考えられていたのだろう、その意味では、兄弟も姉妹も、母も同じである。)
このことばを聞いた人たちは、おそらく、聖霊の促しを聞いただろう。「神のみこころをおこなう」ここにかかっていることを。エルサレムから下ってきた律法学者たちも、これを聞いたとすると、考える糸口はあったかもしれない。悔い改められるかどうかは、不明だが。
4.20 4:1-9 「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。2 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、 3 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。 8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。
4.20.1 マタイ 13:1-9
1 その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。2 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞くがよい」。
4.20.2 ルカ 8:4-8
4 さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、5 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。6 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。7 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。
4.20.3 問い
イエスはどこでどのような人たちにどのようなな方法で教えていますか。
なぜ、舟に乗って教えたのでしょうか。会堂で教えることとは、どのような違いがありますか。
一般的にたとえ話にはどのような特徴・効果がありますか。
種がまかれた4種類の土地について書かれていますが、これらの土地の特徴、そしてその種がどうなったかについてまとめてみましょう。どうして異なる結果になったのでしょうか。
最後に、イエスはなんと言っていますか。
4.20.4 参照
- たとえと比喩:参照
- これまでに教えた場所
- マルコ1:16 海辺:弟子を招く
- マルコ1:21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。
- マルコ1:29 シモンとアンデレとの家
- マルコ1:39 そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。重い皮膚病
- マルコ2:1,2 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
- マルコ2:13 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。
- マルコ2:15 レビの家
- マルコ2:23 麦畑
- マルコ3:1 イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。
- マルコ3:7-10 それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
- マルコ3:13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
- マルコ3:19b, 20 イエスが家にはいられると、20 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。
- 説教における舟の利用
- マルコ3:9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
- ルカ5:3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
1 Καὶ πάλιν ἤρξατο διδάσκειν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ συνάγεται231 πρὸς αὐτὸν ὄχλος πλεῖστος, ὥστε αὐτὸν εἰς πλοῖον ἐμβάντα καθῆσθαι ἐν τῇ θαλάσσῃ, καὶ πᾶς ὁ ὄχλος πρὸς τὴν θάλασσαν ἐπὶ τῆς γῆς ἦσαν. 2 καὶ ἐδίδασκεν αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς232 πολλὰ καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ἐν τῇ διδαχῇ αὐτοῦ· 3 Ἀκούετε. ἰδοὺ ἐξῆλθεν ὁ σπείρων σπεῖραι233. 4 καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν ὃ μὲν ἔπεσεν παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθεν τὰ πετεινὰ234 καὶ κατέφαγεν235 αὐτό. 5 καὶ ἄλλο ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες236 ὅπου οὐκ εἶχεν γῆν πολλήν, καὶ εὐθὺς ἐξανέτειλεν237 διὰ τὸ μὴ ἔχειν βάθος γῆς· 6 καὶ ὅτε ἀνέτειλεν ὁ ἥλιος ἐκαυματίσθη238 καὶ διὰ τὸ μὴ ἔχειν ῥίζαν239 ἐξηράνθη240. 7 καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας241, καὶ ἀνέβησαν242 αἱ ἄκανθαι καὶ συνέπνιξαν243 αὐτό, καὶ καρπὸν οὐκ ἔδωκεν. 8 καὶ ἄλλα ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλὴν καὶ ἐδίδου καρπὸν ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενα καὶ ἔφερεν ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν. 9 καὶ ἔλεγεν· ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.
4.20.5 記録
日時:2023年8月24日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)5名
4.20.6 問いについて
どこで、どのようなひとたちに、どのような方法で
1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。2 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、
陸地にいる、おびただしい群衆(1000人以上か)にむかい、舟に乗って座ったまま、譬でおしえた。
なぜ、舟に乗って、会堂で教えることとの違い
いやしや、悪霊を追い出すのではなく、話をするため
何が大切かをしっていた
会堂は許可がいる、人数が限られる、パリサイ派のひとたちや、律法学者たちとの議論をさけるため
会堂では、律法学者や、長老、会堂司の許可・合意が得られず、イエスはもう教えられなかったかもしれない。一方、屋外では、会堂に入りづらいひとも、聞くことができたかもしれない。
たとえ話
- 考えてもらうため、何を伝えるためだろうか。
- たとえ(παραβολή: a placing of one thing by the side of another, juxtaposition):あるものの、横に置く
- 神の国の奥義(11節)は、知らないこと、わからないこと。イエスは、それを教えるのに、たとえを用いられた。
四種類の土地とその結果、なぜ異なる結果となったか
道ばた:鳥が来て食べた。ルカでは「踏みつけられ」
土の薄い石地:すぐに芽を出したが、根がないので枯れてしまった
いばらの中:いばらが伸びて、ふさぎ、実がならなかった(実のことはマルコのみ)
良い地:はえて、そだち、実を結び、三十倍、六十倍、百倍。マタイでは、百倍、六十倍、三十倍、ルカでは、百倍。
種はおなじ、撒かれた場所も偶然に見える。
結果はどこに責任があるのか。実際とたとえ
聞く耳のある者はきくがよい
- マタイは「耳のある者は聞くが良い」(ὁ ἔχων ὦτα ἀκουέτω.)
- 聞き方に注意せよということか
4.20.7 メモ
譬(たとえ)天的な意味を持つ地上の物語。天のこと、神の国のことは、神の国は近いと言われても、想像がつかない。地上の身近なもので説明してもらわないと、わからない。
聞きなさい。聞く耳のある者は聞きなさい、と聞くことの大切さ、おそらく、しっかり聞いて、理解することが求められている。そこには、ベルゼブルの話でも出てきた、聖霊の促しがあるのかもしれない。
一つ一つのたねの撒かれた地について、イエスが知っていたり、制御していたりするわけではない。聞く側に、すべての責任があるわけでもないだろう。神様に委ねられているとも言えるし、わからないとも言える。それこそ、奥義は、完璧に理解できるわけではないのかもしれな。しかし、注意して聞き、理解しようとすること、心に語りかける聖霊の促しに心をとめることも必要。
「新聖書注解」いのちのことば社、新約1 352頁には、次のようにある。「参考までに日本の農業では一粒から五、六百粒、最高で五万七千百粒も実るし、古代バビロニアでも二、三百倍の身を結んだ(ヘロドトス『歴史』一193)」。ユダヤの農業がいかに杜撰だったかがわかる。本職の「種まき」が「わざわざ種を蒔きにでかけた」最中でさえ、道ばた、岩の上、いばらの中に落ちるのはそのためである。
4.21 4:10-12 たとえを用いて話す理由
4:10 イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。11 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。 12 それは/『彼らは見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、悟らず、/悔い改めてゆるされることがない』/ためである」。
4.21.1 マタイ 13:10-17
10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、/決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。15 この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、/悔い改めていやされることがないためである』。16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
4.21.2 ルカ 8:9-10
9 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
4.21.3 問い
たとえについて尋ね、説明を聞いているのはだれですか。
以下、マタイを中心に考えましょう。なぜイエスはたとえを用いるのでしょうか。
弟子たちが「神の国の奥義を授けられている」とは、どのような意味なのでしょうか。群衆とはなにが違うのでしょうか。
イザヤ書からの引用はなにを伝えているのでしょうか。
マタイ13章17節の「多くの預言者や義人」が見たかったこと、聞きたかったこととは何なのでしょうか。
4.21.4 参照
- ルカ直前の記事:ルカ8:1-3 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
- マルコ15:40,41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
- (対照句)マタイ27:56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。(マタイ13:55)
- イザヤ6:9-10 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、/『あなたがたはくりかえし聞くがよい、/しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、/しかしわかってはならない』と。10 あなたはこの民の心を鈍くし、/その耳を聞えにくくし、/その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、/その耳で聞き、/その心で悟り、/悔い改めていやされることのないためである」。
- ヨハネ12:36-43 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。38 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。39 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。41 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。42 しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
- 使徒28:23-28(-29) そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。26 『この民に行って言え、/あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。27 この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、/耳で聞かず、/心で悟らず、悔い改めて/いやされることがないためである』。28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。29 〔パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。〕
- 参照:ローマ11:7-8 では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。8 「神は、彼らに鈍い心と、/見えない目と、聞えない耳とを与えて、/きょう、この日に及んでいる」/と書いてあるとおりである。
- 申命記29:4 (or 3) しかし、今日まで主はあなたがたの心に悟らせず、目に見させず、耳に聞かせられなかった。
- イザヤ29:10 主が深い眠りの霊をあなたがたの上にそそぎ、/あなたがたの目である預言者を閉じこめ、/あなたがたの頭である先見者を/おおわれたからである。
10 Καὶ ὅτε ἐγένετο κατὰ μόνας, ἠρώτων244 αὐτὸν οἱ περὶ αὐτὸν σὺν τοῖς δώδεκα τὰς παραβολάς. 11 καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· ὑμῖν τὸ μυστήριον δέδοται τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ· ἐκείνοις δὲ τοῖς ἔξω245 ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται246, 12 ἵνα βλέποντες βλέπωσιν καὶ μὴ ἴδωσιν, καὶ ἀκούοντες ἀκούωσιν καὶ μὴ συνιῶσιν, μήποτε ἐπιστρέψωσιν καὶ ἀφεθῇ αὐτοῖς.
マタイ13:10-17
10 Καὶ προσελθόντες οἱ μαθηταὶ εἶπαν αὐτῷ· διὰ τί ἐν παραβολαῖς λαλεῖς αὐτοῖς; 11 ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν αὐτοῖς· ὅτι ὑμῖν δέδοται γνῶναι τὰ μυστήρια τῆς βασιλείας τῶν οὐρανῶν, ἐκείνοις δὲ οὐ δέδοται. 12 ὅστις γὰρ ἔχει, δοθήσεται αὐτῷ καὶ περισσευθήσεται· ὅστις δὲ οὐκ ἔχει, καὶ ὃ ἔχει ἀρθήσεται ἀπ’ αὐτοῦ. 13διὰ τοῦτο ἐν παραβολαῖς αὐτοῖς λαλῶ, ὅτι βλέποντες οὐ βλέπουσιν καὶ ἀκούοντες οὐκ ἀκούουσιν οὐδὲ συνίουσιν, 14καὶ ἀναπληροῦται αὐτοῖς ἡ προφητεία Ἠσαΐου ἡ λέγουσα· ἀκοῇ ἀκούσετε καὶ οὐ μὴ συνῆτε, καὶ βλέποντες βλέψετε καὶ οὐ μὴ ἴδητε. 15 ἐπαχύνθη γὰρ ἡ καρδία τοῦ λαοῦ τούτου, καὶ τοῖς ὠσὶν βαρέως ἤκουσαν καὶ τοὺς ὀφθαλμοὺς αὐτῶν ἐκάμμυσαν, μήποτε ἴδωσιν τοῖς ὀφθαλμοῖς καὶ τοῖς ὠσὶν ἀκούσωσιν καὶ τῇ καρδίᾳ συνῶσιν καὶ ἐπιστρέψωσιν καὶ ἰάσομαι αὐτούς. 16 ὑμῶν δὲ μακάριοι οἱ ὀφθαλμοὶ ὅτι βλέπουσιν καὶ τὰ ὦτα ὑμῶν ὅτι ἀκούουσιν. 17 ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν ὅτι πολλοὶ προφῆται καὶ δίκαιοι ἐπεθύμησαν ἰδεῖν ἃ βλέπετε καὶ οὐκ εἶδαν, καὶ ἀκοῦσαι ἃ ἀκούετε καὶ οὐκ ἤκουσαν.
4.21.5 記録
日時:2023年8月31日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)1名
4.21.6 問いについて
説明を聞いているのは
マルコ:そばにいた者たち、十二弟子。マタイ、ルカでは、弟子たち。
ルカ8:1-3 参照。多くの女性たちが一緒にいたことがわかる。2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
- ルカではこの前に、パリサイ人シモンの家での食事の記事(7:36-50)で、罪の女であったものが、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。記事がある。最後には、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。と伝えている。
なぜ、たとえを用いるのか
マルコ:「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。 12 それは/『彼らは見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、悟らず、/悔い改めてゆるされることがない』/ためである」。明確ではないが、旧約聖書からの引用を匂わせる言葉を付け加えている。
ルカ:「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。」一番簡単。旧約聖書からの引用も、あまり感じられない。
マタイ:「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
共通なのは「神の国(天国)の奥義を知ることが許されている」という部分、つまり、神の国についての、たとえなので、直接には語っても理解できない。だから、我々あの住む世界にあるものに置き換えて、たとえで語る。
弟子たちは何が違うのか
そばにいる、つねに、イエスと共にいて、学ぼうとしているかどうか。
- そばにいると、なにが違うのか。
神の御心を、天の父の御心として生きること、神の国がすでにきている。近いと感じられる、神の国自体を日常的にみることができるかどうかにかかっている。
みなさんは、神の国(が近いこと)を見ていますか、
イザヤ書
- 14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、/決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。15 この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、/悔い改めていやされることがないためである』。
- イザヤ6:9-10、ヨハネ12:36-43、使徒28:23-28(-29) 参照
- (適切に素晴らしいメッセージを)語れば、聞き入れられ、悔い改めに至るわけではない。悔い改めない自由も(自立性)も与えられている。同時に、聖霊が語りかけ、悔い改めが促されていることも事実。そこに、至らない理由は、ひと様々だということもあるのだろう。種まきの譬からも。悔い改めて、イエスに従うことは、神の国の奥義を得ることでもある。
「多くの預言者や義人」が見たかったこと、聞きたかったこと?
16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
おそらく、「天国の奥義」(マタイ13:11)、「神の国の奥義」(マルコ4:11、ルカ8:10)を指していると思われる。
「多くの預言者や義人」が見たかったこと、聞きたかったこととすると、メシヤを意味しているともとれる。そのメシヤを通して、示される神様の御心?
イエスのそばにいることで、神の国がすぐそばにあることを見ることができる。
マタイ12:28-29 28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。ルカ11:20-21 20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
4.21.7 メモ
- 「イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。」(10)とはじまる。それを待っていたのだろうか。そばにいたのに、イエスがひとりになられた時と言っている。イエスに従ってきていたひとは、別としてということだろう。十二弟子と共には、知りたかったのは、そばにいたものたちだが、弟子たちが意味がわからないとは言えなかったのかもしれない。しかし、結局、皆でイエスの下に、聞きにに行く。
- イエスのそばにいて、何がよかったかは、神の国の奥義を知る鍵でもあるだろう。すこし考えてみる。
- 直接的には、解きあかしを聞くことができる。説明してもらえる。
- そばにいることで、イエスが伝える、神の国の到来を、それが神の国が近いことだとして経験することができる。
- イエスは、つねに守ってくれる。レビの家での会食の時。麦の穂を摘んで食べていた時。他にもあるように思える。
- 共に、働くことができる。舟を用意する。派遣される。他にもあるように思える。
- もっと一般的に、神様の御心を知ることなのかもしれない。イエスと共に歩むこと、イエスに従っていくことに勝るものはないように思う。一つのことでは、ないように思う。「神の御心を行う人」(マタイ12:50)になることなのかもしれない。一点ではなく、ずっと継続的に、イエスに従って歩むことだろうか。
- Matt 13:11b: あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。ὅτι ὑμῖν δέδοται γνῶναι247 τὰ μυστήρια τῆς βασιλείας τῶν οὐρανῶν, ἐκείνοις δὲ οὐ δέδοται.
- かたくなにするメッセージ:聖霊による導き、語りかけがあり、それに応答する悔い改めが、同時に促されている。まさに、聞く耳のあるものは、聞きなさい。
- イザヤの部分は、マルコだけではなく、ルカでもほとんど触れていないので、イエスは、イザヤの言葉として、引用したのではないかもしれない。
4.22 4:13-20 「種を蒔く人」のたとえの説明
4:13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。14 種まきは御言をまくのである。15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、 17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。
4.22.1 マタイ 13:18-23
18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
4.22.2 ルカ 8:11-15
11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。 14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
4.22.3 問い
マルコ、マタイ、ルカを比較しながら読みましょう。たとえのなかで、種まきのまく種は何だと言っていますか。
「道ばたに蒔かれたもの」とはどのような人たち、聞き方で、どうなりますか。
「石地に蒔かれたもの」とはどのような人たち、聞き方で、どうなりますか。
「茨の中に蒔かれたもの」とはどのような人たち、聞き方で、どうなりますか。
「良い土地に蒔かれたもの」とはどのような人たち、聞き方で、どうなりますか。
イエスは、このたとえとそのときあかしを通して、何を伝えようとしているのでしょうか。弟子たちや、イエスのことばを聞いた人たちは、何に注意し、何を理解しないといけないのでしょうか。
4.22.4 参照
サタン(敵対するもの)と悪魔(分裂させるもの・中傷するもの):参照
サタンと悪魔の福音書における引用:参照(荒野での試み以外の箇所)
マタイ4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ25』と書いてある」。
マルコ8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
13 Καὶ λέγει αὐτοῖς· οὐκ οἴδατε248 τὴν παραβολὴν ταύτην, καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε249; 14 ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει. 15 οὗτοι δέ εἰσιν οἱ παρὰ τὴν ὁδόν· ὅπου σπείρεται ὁ λόγος καὶ ὅταν ἀκούσωσιν, εὐθὺς250 ἔρχεται ὁ σατανᾶς καὶ αἴρει τὸν λόγον τὸν ἐσπαρμένον εἰς αὐτούς. 16 καὶ οὗτοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὰ πετρώδη251 σπειρόμενοι, οἳ ὅταν ἀκούσωσιν τὸν λόγον εὐθὺς μετὰ χαρᾶς λαμβάνουσιν αὐτόν, 17 καὶ οὐκ ἔχουσιν ῥίζαν252 ἐν ἑαυτοῖς ἀλλὰ πρόσκαιροί εἰσιν, εἶτα γενομένης θλίψεως253 ἢ διωγμοῦ254 διὰ τὸν λόγον εὐθὺς σκανδαλίζονται. 18 καὶ ἄλλοι εἰσὶν οἱ εἰς τὰς ἀκάνθας255 σπειρόμενοι· οὗτοί εἰσιν οἱ τὸν λόγον ἀκούσαντες, 19 καὶ αἱ μέριμναι256 τοῦ αἰῶνος257 καὶ ἡ ἀπάτη258 τοῦ πλούτου259 καὶ αἱ περὶ τὰ λοιπὰ ἐπιθυμίαι260 εἰσπορευόμεναι261 συμπνίγουσιν262 τὸν λόγον καὶ ἄκαρπος263 γίνεται. 20 καὶ ἐκεῖνοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὴν γῆν τὴν καλὴν σπαρέντες, οἵτινες ἀκούουσιν τὸν λόγον καὶ παραδέχονται264 καὶ καρποφοροῦσιν265 ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.
4.22.5 記録
日時:2023年9月7日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)2名
4.22.6 問いについて
種まきのまく種
(聞いた)御言(マルコ)14 種まきは御言をまくのである。 (ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει.)御国の言(マタイ13:19)神の言(ルカ8:11)これ以外は、御言
心にまかれたもの(マタイ13:18)
成長し、実を結ばせるもの。それは、実際、何なのだろうか。
道ばたに蒔かれたもの
マルコ4:15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。
マタイ13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
ルカ8:12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
なぜ、「道ばたにまかれた」と表現しているのか? 畑ではないところ?
聞いても、理解しない。うわの空だろうか。そのようなときもあるように思う。
病を治してもらいたい人、悪霊を追い出してもらいたい人、イエスに触れていただきたい人は、はやくメッセージが終わらないかと待っていたかもしれない。他のことに気を取られている、聞いて受け取る状態にはないということかもしれない。
石地に蒔かれたもの
マルコ4:16,17 16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、 17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
マタイ13:20,21 20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
ルカ8:13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
「根がない」とはどういうことだろうか。素晴らしい、ハレルヤと、賛美するが、その人の(生活の)中に入っていかない、そのひとの人生の一部にならない、主体的に受け取れていないと表現できるかもしれない。御心を深く理解し、神様との関係が深まるわけではない。
困難や迫害が起こってもつまづかない、信仰を捨てないために、必要なことは何なのだろうか、という問いにもつながる。
茨の中に蒔かれたもの
マルコ4:18,19 18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。
マタイ13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
ルカ8:14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
「実」とは何だろうか。
さまざまなものに気を配ることは大切であるようにも思う。しかし、それによって、心が分裂し、たいせつなもの、核が、薄まってしまうということか。
良い土地に蒔かれたもの
マルコ4:20 20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。
マタイ13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
ルカ8:15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
受け入れ、実を結ぶ。しかし、比較的あっさり書かれている。これも、アンナカレーニナの法則(AKP)か。実を結ぶに至らない人への、メッセージが中心なのか。
何を理解しなければいけないのか
- マルコ4:13b あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。
- 結局、種は、神の言葉は、どのようなものなのだろうか。
- 聞け(イエスは、「シェマー」と言っただろうか。שימו לב(HHH)pay attention)、聞く耳のあるものは聞きなさい、に中心があるのだろう。
4.22.7 メモ
- マルコにだけ「4:13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。」が含まれている。マタイ、ルカでは、このようなイエスの叱責とも聞こえる言葉は、入れなかったのだろう。しかし、ペテロが語った説教を書いたマルコは、ペトロ自身の言葉として含めたのかもしれない。素朴と言われるマルコの生き生きとしている部分でもある。
- 種は、神の言で、その神の言葉は、悟り、受け入れ、正しい心でしっかりと守り、耐え忍ぶと、神の御心が成就するように、豊かな実を結ぶもの。
- サタン、悪い者、悪魔と福音書によって表現が異なるが、イエスが、「サタンよ引き下がれ」(マタイ4:10, マルコ8:33)のように、サタンと対峙されるイエスから学ぶこともできる。単に、サタンに取られてしまうなら仕方がないとする必要もないのかもしれない。戦いがあるともとれる。
- たとえ全体が、「神の国の奥義」(4:11)に関係するとすると、このたとえも、神の国、すぐそこに来ているとイエスが宣べ伝える福音に関係していると理解することもできる。実が豊かになることは、神の御心がなることが広がっていく様を表しているのかもしれない。
- 聞く人の問題なのか、聞き方の問題なのか、どうすれば良いのか、種の撒き方に問題があるのでは、なぜ神様はこのようなことを許容しておられるのか、結局、御言や、神の言葉、そして実は、何を意味するのか。このたとえでイエスが群衆に語っていることは、そして、弟子たちに伝えていることは、とさまざまな観点から考えられる。おそらく、神の国の奥義としてイエスが伝えるものは、人間のことばでは、一つの表現には、おさまらないのだろう。すなわち、一つに、確定しなくて良いのかもしれない。みなで、読む、利点でもある。それぞれの問いについて、深く考えることは素晴らしいが、それだけが、正しい解釈とすることは問題があるように思う。
- 「いろいろあってな。」も神の国の奥義の一部なのかもしれない。多様性のもたらす素晴らしさということばでは、表現できないが。
4.23 4:21-25 「灯」と「秤」のたとえ
4:21 また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。22 なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。23 聞く耳のある者は聞くがよい」。 24 また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。25 だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。
4.23.1 ルカ 8:16-18
16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
4.23.2 問い
この箇所は、誰に語っているのでしょうか。前からの続きで、たとえについて語っているのでしょうか。それとも、独立のたとえなのでしょうか。
あかりのたとえが、弟子たちに語られているとすると、なにを伝えているのでしょうか。
「隠されているもの」とはなにを指しているのでしょうか。
イエスは「聞くことがら」について、または「聞き方」についてどう教えていますか。
最後のことばは、なにを弟子たちに、そして、わたしたちに教えていますか。
これらのことばは、聖書の他の箇所にもありますが、あなたは、どのようなことを学びますか。
4.23.3 参照
マタイ5:14-16 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ10:26-28 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
マタイ7:1,2 人をさばくな。自分がさばかれないためである。2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
マタイ13:11,12 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
マタイ25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
ルカ11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
ルカ12:2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
ルカ6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
ルカ19:26 『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。
21 Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· μήτι266 ἔρχεται ὁ λύχνος267 ἵνα ὑπὸ τὸν μόδιον268 τεθῇ ἢ ὑπὸ τὴν κλίνην269; οὐχ ἵνα ἐπὶ τὴν λυχνίαν τεθῇ; 22 οὐ γάρ ἐστιν κρυπτὸν270 ἐὰν μὴ ἵνα φανερωθῇ271, οὐδὲ ἐγένετο ἀπόκρυφον ἀλλ’ ἵνα ἔλθῃ εἰς φανερόν. 23 εἴ τις ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω. 24 Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· βλέπετε τί ἀκούετε. ἐν ᾧ μέτρῳ272 μετρεῖτε μετρηθήσεται ὑμῖν καὶ προστεθήσεται ὑμῖν. 25ὃς γὰρ ἔχει, δοθήσεται αὐτῷ· καὶ ὃς οὐκ ἔχει, καὶ ὃ ἔχει ἀρθήσεται273 ἀπ’ αὐτοῦ.
4.23.4 記録
日時:2023年9月14日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)4名
4.23.5 問いについて
だれに語られているのか。
マタイ、ルカともに、似た句が、他の文脈で語られている。
21: マタイ5:15 - (地の塩、)世の光、ルカ11:33 - 目は体の灯火
22: マタイ10:26 - 恐るべきもの、ルカ12:2 - 偽善に気をつけさせる
24: マタイ7:2 - 人を裁くな、ルカ6:38 - 人を裁くな
25: マタイ13:12 - たとえで話す理由、25:29 - タラントのたとえ、ルカ19:26 - ミナのたとえ
4:2 「イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、」ともあり、まったく、異なる、次のたとえを、挿入していると見ることも可能。
しかし、ルカでは、他の文脈でも語られていても、ここでは、たとえに関連した箇所で、マルコと似た記述がされている。すなわち、弟子たち向けととることも可能。
また、22節については、弟子たちに、譬で語る理由を語っている中(マタイ10:26)で語られている。これは、マタイでも唐突に感じられるが、このことばが、締めに使われている、今回の箇所は、やはり、弟子たちに向けて語られているとして理解することが自然であるように思われる。
まずは、この文脈、特に、弟子たちに語られたとして理解し、他の文脈における意味は別途考えるのが良いように思われる。
あかりのたとえ
- 21b「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。22 なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。23 聞く耳のある者は聞くがよい」
- イエスに直接説明してもらったことを、他の人にも知らせるようにということだろうか。
隠されているもの
11 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。マタイ13:10 天国の奥義、ルカ8:10 神の国の奥義
実際に、サタンに取られてしまったり、枯れてしまったり、実を結ばなかったり、実を豊かに結ぶと言ったことか。
「聞くことがら」「聞き方」
23 「聞く耳のある者は聞くがよい。」とあり、そのあとに、「また彼らに言われた、」があり、24節b に繋がっている。聞くことが鍵であることは、確かだろう。
24b 「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。25 だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
ルカでは、どう聞くかに注意しなさい。
聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
最後のことば
25 だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう
聞いて悟るかどうかが大きな違いをもたらすということか。
「持っている」「持っている者」は、なにを意味するのだろうか。
イエスに従うことが、大きな違いをもたらすとういことか。
実を結ぶことを指しているのか。
これらのことば
- ていねいに、聖書をよむことで、大きな祝福が得られるということだろうか。
4.23.6 メモ
- 4:13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。
- この句から考えると、種まきのたとえよりも、他のたとえは難しいのかもしれない。
- 「聞く耳のある者は聞くがよい」(23)と「聞くことがらに注意しなさい。」(24)とあり、聞いているだけでは、だめなようである。聞くことがらは、聞く内容という印象がおうけるが、それに続く「あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。」からすると、聞いたことをどう生きるかに深く関係しているようである。
- 謙虚でありたいとは願っているが、正直、聖書、特に、イエスについて学び、イエスにしたがって生きようとして得られる恵の大きさは、はかりしれないと感じている。他者から、学ぶことも通して。
- 隠されていることが、神の国の奥義であるなら、すべてを理解することはハナから無理なのかもしれない。しかし、すこしずつ受け取ったものをみなに語るということと同時に、汲み尽くせないものであっても、すこしでも、深いものを受け取ろうと求め続けることには、大きな意味があるように思われる。
- 最後のことばは、一般論として聞くと、不公平に聞こえるが、イエスと弟子たちの信頼関係の中で話されたのであれば、チャレンジとしては受け取れたとしても、不公平とは受け取らなかったかもしれないとも、考えられるのは、素晴らしいと思った。弟子たちに語られたとするのが自然のように思われる。
- 次もまた真実。マルコ10:39-31 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
- 21: マタイ5:15 - (地の塩、)世の光、ルカ11:33 - 目は体の灯火
- 神の子として生きるということだろうか。見、聞く、そうして得たものを生きることだろうか。
- 22: マタイ10:26 - 恐るべきもの、ルカ12:2 - 偽善に気をつけさせる
- 奥にあるもの、真理を受け取らないといけないということか。
- 24: マタイ7:2 - 人を裁くな、ルカ6:38 - 人を裁くな
- 神様は、ひとりひとりを愛しておられる。自分視点ではなく、他者視点、神の視点だろうか。
- 25: マタイ13:12 - たとえで話す理由、25:29 - タラントのたとえ、ルカ19:26 - ミナのたとえ
- 違いが明らかになっていく原因があるようである。神様、主との関係だろうか。
4.24 4:26-29 「成長する種」のたとえ
4:26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
4.25 4:30-32 「からし種」のたとえ
4:30 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、 32 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。
4.25.1 マタイ 13:31-32, 33
31 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、32 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。33 またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。
4.25.2 ルカ 13:18-19, 20-21
18 そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。19 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。20 また言われた、「神の国を何にたとえようか。21 パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。
4.26 4:33-34 たとえを用いて語る
4:33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。34 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。
4.26.1 マタイ 13:34-35
34 イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。35 これは預言者によって言われたことが、成就するためである、/「わたしは口を開いて譬を語り、/世の初めから隠されていることを語り出そう」。
4.26.2 問い
- 26–29節のたとえからは、神の国についてどのようなことがわかりますか。
- このたとえを通して、イエスはなにを教えているのでしょうか。
- 30–32節のたとえからは、神の国についてどのようなことがわかりますか。
- このたとえを通して、イエスはなにを教えているのでしょうか。
- 33節では、たとえを用いて語ることについて、イエスはどのように語っていますか。
4.26.3 参照
かま(鎌):ヨエル3:13,14(訳によっては4:13)かまを入れよ、作物は熟した。来て踏め、/酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪が大きいからだ。14 群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである。(ツロとシドンへの裁きの預言の箇所)
- かま(鎌)がさばきのときの道具として明示的に用いられるのは、引用句のみ。
マルコ4:26-29 はマタイ、ルカにはないが、マタイの対応する箇所 マタイ13:24-30 には「毒麦のたとえ」が挿入され、さらに、たとえを用いて語るのあと マタイ13:36-43に、「毒麦のたとえの説明」があり、さらに、マタイ13:44-50 には「天の国のたとえ」が挿入され、最後にマタイ13:51-52 には「天の国のことを学んだ学者」について書かれている。
からし種
マタイ17:20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
ルカ17:6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。
「大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほど」(マルコ)「野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」(マタイ)「育って木となり」(ルカ)
エゼキエル17:22-24 主なる神はこう言われる、「わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔らかい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。23 わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、実を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。 24 そして野のすべての木は、主なるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木を緑にすることを知るようになる。主であるわたしはこれを語り、これをするのである」。
エゼキエル31:6 (エジプトに関して)その枝葉に空のすべての鳥が、巣をつくり、/その枝の下に野のすべての獣は子を生み、/その陰にもろもろの国民は住む。
ダニエル4:11 その木は成長して強くなり、天に達するほどの高さになって、地の果までも見えわたり、12 その葉は美しく、その実は豊かで、すべての者がその中から食物を獲、また野の獣はその陰にやどり、空の鳥はその枝にすみ、すべての肉なる者はこれによって養われた。(ネブカデネザルに対して)
マタイ13:51-53 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。 52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。53 イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。 (このあとに、「ナザレで受け入れられない」マタイ13:53-58, マルコ6:1-6、ルカ4:16-30)
マタイ13:35b 「わたしは口を開いて譬を語り、/世の初めから隠されていることを語り出そう」。
- 詩篇78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、/いにしえからの、なぞを語ろう。
コリント一3:5-9 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
- 神様が背後におられるかもしれないが、「成長する種」のたとえの中心は、「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」という部分なのだろう。
26 Καὶ ἔλεγεν· οὕτως ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ὡς ἄνθρωπος βάλῃ τὸν σπόρον ἐπὶ τῆς γῆς 27 καὶ καθεύδῃ274 καὶ ἐγείρηται275 νύκτα καὶ ἡμέραν, καὶ ὁ σπόρος βλαστᾷ276 καὶ μηκύνηται277 ὡς οὐκ οἶδεν αὐτός. 28 αὐτομάτη ἡ γῆ καρποφορεῖ278, πρῶτον χόρτον279 εἶτα στάχυν280 εἶτα πλήρη281 [ς] σῖτον282 ἐν τῷ στάχυϊ. 29 ὅταν δὲ παραδοῖ ὁ καρπός, εὐθὺς ἀποστέλλει283 τὸ δρέπανον284, ὅτι παρέστηκεν 285ὁ θερισμός286.
30 Καὶ ἔλεγεν· πῶς ὁμοιώσωμεν τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ἢ ἐν τίνι αὐτὴν παραβολῇ θῶμεν; 31 ὡς κόκκῳ287 σινάπεως288, ὃς ὅταν σπαρῇ ἐπὶ τῆς γῆς, μικρότερον ὂν πάντων τῶν σπερμάτων τῶν ἐπὶ τῆς γῆς, 32 καὶ ὅταν σπαρῇ, ἀναβαίνει289 καὶ γίνεται μεῖζον πάντων τῶν λαχάνων καὶ ποιεῖ κλάδους μεγάλους, ὥστε δύνασθαι ὑπὸ τὴν σκιὰν αὐτοῦ τὰ πετεινὰ τοῦ οὐρανοῦ κατασκηνοῦν.
33 Καὶ τοιαύταις παραβολαῖς πολλαῖς ἐλάλει αὐτοῖς τὸν λόγον καθὼς ἠδύναντο ἀκούειν· 34 χωρὶς δὲ παραβολῆς οὐκ ἐλάλει αὐτοῖς, κατ’ ἰδίαν δὲ τοῖς ἰδίοις μαθηταῖς ἐπέλυεν πάντα.
4.26.4 記録
日時:2023年9月21日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.26.5 問いについて
26-29 神の国について
神の国は育っていく。
どうして育つのかは知らない、分からない。
順々に育ち、最後は実をならせ、収穫される。
「神の国」は「ある人が種を撒くようなもの」とはどのような意味だろうか。
「ある人」とは誰だろうか。一義的には、イエス、そして弟子たち?
なにを教えているのか
実際の成長のもとは、努力などで得られるものではない。
神の国の成長に関わることが否定されているわけではない。
中心は、「どうして育つのか知らない。」ということだろう。おそらく、イエスも、知らない。
最終目標がある。実を結び、収穫される。
御国を来たらせたまえ。
30-32 神の国について
非常に小さい一粒のからし種のようなもの
非常に大きくなる
なにを教えているのか
最初はよくわからないほどのもの
大きな国になる
結局、神の国とは、何を意味しているのだろうか。
たとえを用いて語ること
聞く力にしたがって語られた。これは何を意味するのだろうか。
- 最初から聞く人の多様性が認識されている。聞くときの状態も、様々かもしれない。イエスはそのことを実感していたかもしれない。
弟子たちにはすべてのことを解き明かした
- 弟子たちは理解できたのだろうか。(マタイ13:51)
4.26.6 メモ
「26b 神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」種をまくのが一義的には、イエスだとすると、イエスも、知らないのだろう。実感なのかもしれない。全部わかる必要はないし、実際わからない。そのことを受け入れることも大切なのだろう。
「神の国」は何を意味するのだろうか。神の支配を意味すると言われる。では、それはどのようなことなのだろうか。そして、イエスはどのように理解していたのだろうか。神の支配をもうすこし噛み砕いてみると、神様の望むこと(御心)がなる世界だろうか。すると、神様の御心を理解し、その御心を生きるひとたちで満たされた国だろうか、または、それを求めて、生きようとする世界だろうか。
マタイ6:10 御国が来ますように。/御心が行われますように/天におけるように地の上にも。
ルカ11: 2 こで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。/『父よ/御名が聖とされますように。/御国が来ますように。
マタイ13:51 には「あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。」とあるが、本当にわかったのだろうか。マルコの書き方「34 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。」は、ほんとうにわかったかどうかは、曖昧である。
マルコ8:14-21 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
8:17,18 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。
マタイ16:5-12 に対照箇所があるが、そこでは、「イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。」と厳しさが和らいでいる。
四福音書にたとえは約70、マルコには18のみ。
知識や知恵も、経験や努力も、大切ですが、本当に小さな部分、ほとんど、知りうることも知らない、なすことが可能なこともなさないのが、実際だと思っています。そして、知りえないこと、成しえないことが、ほとんど。神様の愛と恵みに信頼して、わたしたちは、「御国を来たらせ給え。/御心の天に成るごとく/地にもなさせ給え。」と祈ります。おそらく、神様も、どうしたら良いかわからないことばかりだと思います。Good Grief! (やれやれだぜ)と、叫びたいような、そして、はらわたが、傷つくような苦しさを持って、わたしたちを深く憐れまれることが多いのだと思いますが。
弟子たちの中での、御国、御心の理解の広がりも、この種のようなものなのかもしれない。知らずに、少しずつ。とても、小さいものから、大きなものに成長していく。そのようにも取れるのかもしれない。神の国を質的なものと取れば。
4.27 4:35-41 突風を静める
4:35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。 36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。 37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。 40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
4.27.1 マタイ 8:23-27
23 それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。24 すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。25 そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。26 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。27 彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
4.27.2 ルカ 8:22-25
22 ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。23 渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。24 そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。25 イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。
4.27.3 問い
舟に乗って弟子たちと出発したときの様子で、わかることを上げてみましょう。
突風と、そのときのイエスの様子についてどのように書かれていますか。
弟子たちは、どのように言って、イエスを起こしますか。弟子たちのこのときの気持ちを考えてみましょう。
イエスはどうされますか。
弟子たちは、何に恐れおののき、何を学んだでしょうか。
イエスは、弟子たちに、何を期待していたのでしょうか。
4.27.4 参照
舟での移動に関する福音書の箇所:参照
ガリラヤ湖周辺の地形:8 Cross Sectional Views of Longitudinal Zones, 9 Northern Coastal Plains, Jezreel Valley, Galilee, and Bashan (Bible Maps)
ヘルモン山:Mount Hermon (Arabic: جبل الشيخ or جبل حرمون / ALA-LC: Jabal al-Shaykh (“Mountain of the Sheikh”) or Jabal Haramun; Hebrew: הַר חֶרְמוֹן, Har Hermon), 2,236m (7,336ft)
ガリラヤ湖:The Sea of Galilee (Hebrew: יָם כִּנֶּרֶת, Judeo-Aramaic: יַמּא דטבריא, גִּנֵּיסַר, Arabic: بحيرة طبريا), also called Lake Tiberias or Kinneret, is a freshwater lake in Israel. It is the lowest freshwater lake on Earth and the second-lowest lake in the world (after the Dead Sea, a salt lake), at levels between 215 metres (705 ft) and 209 metres (686 ft) below sea level. It is approximately 53 km (33 mi) in circumference, about 21 km (13 mi) long, and 13 km (8.1 mi) wide. Its area is 166.7 km2 (64.4 sq mi) at its fullest, and its maximum depth is approximately 43 metres (141 ft). The lake is fed partly by underground springs, but its main source is the Jordan River, which flows through it from north to south and exits the lake at the Degania Dam.
マルコ1:25 イエスはこれをしかって、「黙れ(Φιμώθητι: φιμόω APM-2S)、この人から出て行け」と言われた。
ヘブル2:14,15 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
35 Καὶ λέγει αὐτοῖς ἐν ἐκείνῃ τῇ ἡμέρᾳ ὀψίας γενομένης· διέλθωμεν εἰς τὸ πέραν. 36 καὶ ἀφέντες τὸν ὄχλον παραλαμβάνουσιν αὐτὸν ὡς ἦν ἐν τῷ πλοίῳ, καὶ ἄλλα πλοῖα ἦν μετ’ αὐτοῦ. 37 καὶ γίνεται λαῖλαψ μεγάλη ἀνέμου καὶ τὰ κύματα ἐπέβαλλεν εἰς τὸ πλοῖον, ὥστε ἤδη γεμίζεσθαι τὸ πλοῖον. 38 καὶ αὐτὸς ἦν ἐν τῇ πρύμνῃ ἐπὶ τὸ προσκεφάλαιον καθεύδων. καὶ ἐγείρουσιν αὐτὸν καὶ λέγουσιν αὐτῷ· διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα; 39 καὶ διεγερθεὶς ἐπετίμησεν τῷ ἀνέμῳ καὶ εἶπεν τῇ θαλάσσῃ· σιώπα290, πεφίμωσο291. καὶ ἐκόπασεν ὁ ἄνεμος καὶ ἐγένετο γαλήνη μεγάλη. 40καὶ εἶπεν αὐτοῖς· τί δειλοί ἐστε; οὔπω ἔχετε πίστιν; 41 καὶ ἐφοβήθησαν φόβον μέγαν καὶ ἔλεγον πρὸς ἀλλήλους· τίς ἄρα οὗτός ἐστιν ὅτι καὶ ὁ ἄνεμος καὶ ἡ θάλασσα ὑπακούει αὐτῷ;
4.27.5 記録
日時:2023年9月28日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)4名
4.27.6 問いについて
出発したときの様子
「その日」とあり、たとえを語ったときから、続いているように書かれている。マタイも「それから」と書き出しているが、ルカは「ある日のこと」
マルコには、「夕方になると」とあり、日暮れが近い。もしかすると、嵐は夜起こったかもしれない。(5章1節ー20節の記事参照)
イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。ルカも、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。と記している。イエスから言い出していることも記憶に留めるべき。
群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。
- 4:1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。
5:1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
- この記事が、すべて、夕方以降に起こったとは考えられない。夜、移動している記事もある。(マルコ6:45-52, マタイ14:22-27、ヨハネ6:16-21(五千人給食の前後))
他の舟も一緒に行った。一緒に行動した人たちはどんな人達だったろうか。
突風と、その時のイエスの様子
37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 38a ところが、イエス自身は、舳(とも、艫と同じ:舟の後端部)の方でまくらをして、眠っておられた。
イエスは、舟の一番うしろのお客さん席で眠っていた。(夕方の船出でもあり、夕刻で、疲れていたのだろう。「その日の夕方になると」(1))
激しい突風で、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
弟子たちは
38b そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
マタイ:25 そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
ルカ:24 そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。
マルコの厳しい責めるようなことばが、緩和されている。しかし、マルコからは、イエスはおそらく、溺れ死ぬことがない、または、大変だとは思っていないという、ある信頼も表現されている。
この弟子たちを、漁師のペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと取る解釈が多いが、他にも乗っていたことを考えると、漁師は、必死で、突風や嵐と、向き合っていたと思われるので、パニックに陥るのは、漁師ではなく、他の弟子たち、または、イエスの「そばにいる」としてついてきた人たちだったと考えたほうが自然。
イエスの対応
39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。 40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
奇跡とも言えるし、滑稽とも言える。神様への信仰の表明なのだろうか。少なくとも、これからは、すぐに、ピタッと、激しい突風が止んだかどうかは不明である。しかし、いつしか、風はやみ、大なぎになり、まったく心配しなくて良い状態になったのだろう。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」までは、少し、時間があったかもしれない。
このようにされれば、超自然的な力が示されたと思わされる方が自然かもしれない。イエスは、それを伝えよとはしていないとも思えるが。
何に恐れおののき、何を学んだか。
41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
マタイ:27 彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
ルカ:彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。
イエスは、風も、海も従わせる、すごいお方だ。神のようなお方だ。神の子だ。
マタイも、ルカも、似た言葉で表現しているところを見ると、それが弟子たちが受け取ったことなのだろう。それのほうが、簡単である。
イエスの期待。
「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」に、結論が至っているが、それは、おそらく、誤りで、信仰のなさを嘆いたのではないだろうか。そうでなければ、イエスのことばを受け取ったとは言えない。少なくとも、イエスの狙いは、イエスに、風も波も従わせる力があることを信じさせることではなかったと思われる。
「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」ここから、受け取れるのは、しっかりと神様に信頼することである。
弟子たちの解釈は、イエスを、天に、神のところにまで、引き上げている。しかし、イエスが伝えたかったのは、地上で、イエスのように、神を信頼することではなかったのか。
4.27.7 メモ
マタイによる福音書では、マタイを招くのは、9:9-13。この記事は、8:23-27 なので、マタイは現場にいなかったのかもしれない。ただ、種まきのたとえの解き明かしには、十二人とあり、十二使徒を意味するとすると、マルコの流れのほうが正しいかもしれない。するとマタイは同乗組か。
マルコだけ「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。(38b)と、批判的。マタイ「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」ルカ「先生、先生、わたしたちは死にそうです」
一緒に行動した人たちはどんな人達だったろうか。通常は、漁師4人が少なくとも二艘の舟に分乗していたとされる。しかし、もし、種まきのたとえから続いているとすると、十二弟子以外にも、そばにいたひとたちがいたことに成る。女性もいたかもしれない。ルカによる福音書5章6節では、おびただしい魚がかかり、網がやぶれそうになったとある。St. Peter’s Fish は、大きなものでは、40cm 以上、重さ 1.5kg 以上とされることを考えると、釣り竿で釣る小さな船ではなく、ある程度大きかった可能性もある。すなわち、一艘に、10人以上乗っていた可能性もある292。簡単には沈まないはずで、漁師はそのことも知っていたはず。しかし、慣れていないものには、とても恐ろしい。特に、舟の中に、水が入ってくると、パニックになる人が出てくるのは十分理解できる。すなわち、漁師でさえこわがって、訴えたのではなく、漁師が乗り切ろうとして、いつも通り必死に漕艇していても、恐怖からイエスに訴えた人たちがいて、それにイエスが対応したということだろう。それなら、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」もまた、べつの雰囲気から伝わってくる。
最終的なメッセージは何なのかであるが、教師は、生徒にはなかなかメッセージが伝わらないことを、常に経験している。これも、イエスが伝えたかったことと、弟子たちがうけとったことに食い違いがあると考えても、問題ではないように思う。そして、特に、ペトロは、語るときに、その両面、イエスのことばと、弟子たちの驚きを伝えたのではないだろうか。その場にいたゆえに、現実の複雑さ、微妙さを伝えていると言える。
Jesus in action! のマルコによる福音書の特徴がよく現れている。ペテロの素朴な表現も。
5:1-20 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす
1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。14 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。16 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。19 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。
4.27.8 マタイ 8:28-34
28 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。29 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。30 さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。31 悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。32 そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。33 飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。34 すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
4.27.9 ルカ 8:26-39
26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。32 ところが、そこの山ベにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。34 飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。35 人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。36 それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。37 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。38 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。39 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。
4.28 5:1-10 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす(1)
1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
4.28.1 マタイ 8:28-29
28 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。29 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
4.28.2 ルカ 8:26-31
26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。
4.28.3 問い
イエスたちは、どのような時に、どのような経験を経て、ゲラサ人の地につきますか。
どのような人と出会いますか。この人について、わかることを、あげてみましょう。(2-5)
イエスを見ると、この人は、どのように行動しますか。その時の様子は、どのように描かれていますか。(6-8)
イエスは、なぜ、名前を聞かれたのでしょうか。(9)
このひと、または、悪霊の、どのような願いが描かれていまか。(10)
この人は、この時点で、どのような状態にあるのでしょうか。また、イエスは、どのように、この人を見ているのでしょうか。
4.28.4 参照
- 地図:イエスの時代のガリラヤ(107 Galilee in the time of Jesus)
- 地図:ガリラヤでのイエスの宣教とエルサレムへの旅(107a Jesus’ Ministry in Galilee and Journey to Jerusalem)
- 地図:ガリラヤ湖周辺(108 The Ministry of Jesus Around the Sea of Galilee)
- Google Map:ティベリアス湖
- ゲラサ(Gergesa):Wikipedia
Gergesa, also Gergasa (Γέργεσα in Byzantine greek) or the Country of the Gergesenes, is a place on the eastern (Golan Heights) side of the Sea of Galilee located at some distance to the ancient Decapolis cities of Gadara and Gerasa. Today, it is identified with El-Koursi or Kursi. It is mentioned in some ancient manuscripts of the Gospel of Matthew as the place where the Miracle of the Swine took place, a miracle performed by Jesus who drove demons out of a possessed man and into a herd of pigs. All three Synoptic Gospels mention this miracle, Matthew writes about two possessed men instead of just one, and only some manuscripts of his Gospel name the location as Gergesa, while the other copies, as well as all versions of Luke and Mark, mention either Gadara or Gerasa (see Mark 5:1-20, Luke 8:26-39, Matthew 8:28-34). The “Gerasa” reading is problematic, because Gerasa is neither near a sea nor does it border Galilee.
Some are of the opinion that Gergesa was the country of the ancient Girgashites; but it is more probable that ‘Gergesenes’ was introduced by Origen upon mere conjecture; as before him most copies seem to have read ‘Gadarenes’, agreeable to the parallel passages and the ancient Syriac version. In any event, the “country of the Gergesenes/Gadarenes/Gerasenes” in the New Testament Gospels refers to some location on the eastern shore of the Sea of Galilee. The name is derived from either a lakeside village, Gergesa, the next larger city, Gadara, or the best-known city in the region, Gerasa. It is likely that the “Gerasa” reading is erroneous and a copyist error for “Gergesa,” since only the latter place is bordering a lake while Gerasa is very far away from a lake.
ゲルゲサ(ビザンチン・ギリシア語でΓέργεσα)またはゲルゲセン人の国とも呼ばれるゲルゲサは、ガリラヤ海の東側(ゴラン高原)にある地名で、古代デカポリスの都市ガダラとゲラサから少し離れたところに位置している。今日では、エル・クルシまたはクルシと同定されている。マタイによる福音書のいくつかの古写本には、「豚の奇跡」が起こった場所として言及されている。3つの共観福音書すべてがこの奇跡に言及しているが、マタイは一人ではなく二人の取り憑かれた男について書いており、彼の福音書の一部の写本だけがその場所をゲルゲサと呼んでいる。なぜなら、ゲラサは海の近くでもなければ、ガリラヤとの境界でもないからである。
ゲルゲサは古代のギルガシ人の国であったという説もあるが、オリゲンが単なる推測に基づいて「ゲルゲセネス」を導入した可能性が高い。オリゲン以前は、ほとんどの書物が「ガダレネス」と読んでいたようであり、並行箇所や古代のシリア語版と一致している。いずれにせよ、新約聖書の福音書に登場する「ゲルゲセネス/ガダレネス/ゲラセネスの国」とは、ガリラヤ海東岸のある場所を指している。この名前は、湖畔の村ゲルゲサ、次に大きな都市ガダラ、またはこの地域で最もよく知られた都市ゲラサのいずれかに由来する。ゲラサ」は「ゲルゲサ」の誤りであり、「ゲルゲサ」のコピーミスである可能性が高い。
Byzantine Christian monks venerated a site situated a few kilometres north of Hippos on the lake shore, as the location of the miracle. It is the only place fitting Matthew’s description, since it contains the only “steep bank” in the area descending all the way to the shore of the lake. The site became apparently known since at least the Early Muslim period as Kursya, the Aramaic word for “chair”, and later as Kursi, a word with the same meaning in Arabic. The monks built a walled monastic complex there and made it a destination for Christian pilgrims. That monastery was destroyed by Sassanid Persian armies in 614 CE, partially rebuilt, and finally levelled by the 749 Galilee earthquake. The remains of the monastery can be visited in the Kursi National Park. Christian artifacts from Kursi can be viewed at the Golan Archaeological Museum.
ビザンチン・キリスト教の修道士たちは、ヒッポスから数キロ北の湖畔にある場所を奇跡の場所としてたいせつにした。マタイの記述に合致する、この地域唯一の「険しい土手」が湖岸まで続いているからである。この場所は、少なくとも初期イスラム時代から、アラム語で「椅子」を意味するクルシャとして知られるようになり、後にはアラビア語で同じ意味のクルシとして知られるようになったようだ。修道士たちはそこに城壁に囲まれた修道院を建て、キリスト教の巡礼地とした。その修道院は、614年にサーサーン朝ペルシャ軍によって破壊され、部分的に再建された後、749年のガリラヤ地震で壊滅した。修道院跡はクルシ国立公園の一部になっており、見学できる。また、クルシから出土したキリスト教の遺物は、ゴラン考古学博物館で見ることができる。
- レギオン legion (Wikipedia), Roman Legion (Wikipedia)
- Legion means a large group or in another parlance it may mean “many”. In the Christian Bible, it is used to refer to the group of demons, particularly those in two of three versions of the exorcism of the Gerasene demoniac, an account in the New Testament of an incident in which Jesus performs an exorcism.
- レギオン(Legion)とは、大集団を意味し、別の言い方をすれば「多数」を意味することもある。キリスト教聖書では、特に新約聖書の中でイエスが悪魔祓いを行った出来事である「ゲラセナの悪魔祓い」の3つのうち2つのバージョンに登場する悪魔の集団を指すのに使われる。
- The Roman legion (Latin: legiō, [ˈɫɛɡioː]), the largest military unit of the Roman army, comprised 4,200 infantry and 300 equites (cavalry) in the period of the Roman Republic (509 BC–27 BC) and 5,600 infantry and 200 auxilia in the period of the Roman Empire (27 BC – AD 476).
- ローマ軍最大の部隊であるレギオン(ラテン語: legiō, [ˈ&ɛɡː)は、ローマ共和国時代(紀元前509年~紀元前27年)には歩兵4,200人と騎兵300人、ローマ帝国時代(紀元前27年~紀元後476年)には歩兵5,600人と補助兵200人で構成されていた。
- 悪霊について:参照
- 悪霊・汚れた霊を追い出すエピソード:参照
4.28.5 記録
日時:2023年10月5日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)4名
4.28.6 問いについて
背景
1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
この旅の最初は、イエスが向こう岸に行こうと言われて始まった。:4:35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
夜移動して、到着したと思われる。どこかで、休んだ可能性はある。
ゲラサ人の地とあるが、マタイではガダラ人の地とある。(地図参照)
デカポリス地方で、さまざまな人たちが住んでいた。ユダヤ人が汚れた動物とする豚を飼っていたことから、非ユダヤ人が住んでいる地域と思われる。そこに、イエスはわざわざ行ったことになる。
悪霊に憑かれた人について(2-5)
2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
最終目的には、この汚れた霊につかれたひとの住む、墓場だったのだろう。石灰岩質の崖もあり、侵食されて穴が空いているため、墓に使われていたとされる。雨露や風を凌ぐには、良い場所だったかもしれない。
墓場をすみかとし、鎖で繋ぎ止めることもできない。人々は、押さえつけようとしていたがそれもできない。
マタイはふたりとあり「28 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。」手に追えない乱暴者とも書かれている。
ルカには、「27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。」通常の社会には住めないひと。
この人の行動(6-8)
6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
イエスがまず「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われている。
「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。と叫んでいる。
このようなひとの存在の情報をイエスは、知って、きた可能性がある。このひともイエスが来ることを知っていたかもしれない。家族が願った可能性もある。
名前
この人を理解しようとしているとも取れるし、この人が、自分をどのように理解しているかを問うているようにも見える。ある関係を結ぼうとしているようにも見える。
「あなたのことを教えてください」「あなたの苦しみは何ですか」
単に、悪霊に憑かれた、迷惑な、乱暴者ではない。
レギオン:6000人の部隊。ユダヤに数部隊。
このひと、悪霊の願い(9)
10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
自分たちと言っているので、悪霊たち(レギオン)がはなしていることが想定しているようにとれる。
過去が、すべて否定されるような、自分の存在自身が失われるのではないかという不安があるように見える。
このひとの状態、イエスの視点
悪霊は追い出されているのだろうか。おそらく、まだ追い出されてはいない。または、完全に正気にはなっていない。
少しずつ、自分の状態、なにを望んでいるかが、分裂気味ではあっても、認識し始めている。
8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。から見ると、汚れた霊を追い出そうとされているが、一瞬にして、問題が解決したわけではないように見える。相手のことを理解しようとしている。愛そうとしている。
歴史的には、奇跡シリーズ、波も風も従わせる、悪霊の大部隊も従わせる、死人を蘇らせるのひとつと捉えられている。しかし、かなり詳しく書かれている、マルコの記事から、実際に起こったことを、丁寧にみていくことは意味があると思われる。
4.28.7 メモ
- 奇跡の一つとすることは、自分の世界とは切り離すことでもあり、自分に引き寄せて考えることをやめ、思考停止にさせる。丁寧に、紡いでいくこと、当時の人が、あることばで表現する背後には、どのようなことがあったのかを、丁寧に見、考えていくことで、そこで起こったこと、イエスがたいせつにしたことが少しずつ見えてくるように思う。それによって、はじめて、イエスに従っていくことができるようになる。
- 「8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。」は後置になっており、不自然ということで、これは、汚れた霊が、このように受け取ったという意味に取ることもできるとの発言もあった。イエスが、どのような気持ちで、予定してきたと思われるこの地で、このひとと対し、交流を持とうとしたか、もうすこし、深く考えられると良い。マタイでは「31 悪霊どもはイエスに願って言った、『もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい』。」と書いていることも、多少、それを支持しているように見える。
- 悪霊は、神様の働きを邪魔するものと考えられていたことからしても、このひとの状態は、「神の国が近い」とは言い難い状態であることは確かである。そのいみでも、イエスにとって、このことと向き合うことは重要だったのだろう。少なくとも、イエスは、ずっとこのひとのことを考えていただろう。その苦しみ、痛みをも含めて。嵐の中で、イエスはなにを考えていただろうか。悪魔の働きを打ち破ることだろうか。このひとの痛みを受け取ることだろうか。
- 精神病院における身体拘束を考える、精神科病院の身体拘束、諸外国の数百倍 「異様に多い」、Restraint more prevalent at psychiatric centers in Japan、精神科医療の隔離・身体拘束
4.29 5:11-20 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす(2)
11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。14 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。16 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。19 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。
4.29.1 マタイ 8:30-34
30 さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。31 悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。32 そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。33 飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。34 すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
4.29.2 ルカ 8:32-39
32 ところが、そこの山ベにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。34 飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。35 人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。36 それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。37 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。38 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。39 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。
4.29.3 問い
1節から10節を復習しましょう。どのようなことが起きていますか。
汚れた霊どもは、何を願い、どうなりますか。(11-13)
悪霊につかれた人にどんな変化が起こっていますか。(15)
人々はどんな反応をしますか。それはなぜでしょうか。(14-17)
悪霊にとりつかれていた人は何を望みますか。イエスはどのように答えますか。それは、なぜでしょうか。(18,19)
この人はどうしますか。人々はどのような反応をしますか。(20)
イエスがたいせつにしたこと、このことをとおして、示していることは何なのでしょうか。
4.29.4 参照
- 地図:イエスの時代のガリラヤ(107 Galilee in the time of Jesus)
- 地図:ガリラヤでのイエスの宣教とエルサレムへの旅(107a Jesus’ Ministry in Galilee and Journey to Jerusalem)
- 豚について:レビ記11:7 豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。
- デカポリス(20):23 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。24 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
- 家:「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。(マルコ2:11)(マタイ9:6,7, ルカ5:24,25 参照)「そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。」(マルコ8:26)
4.29.5 記録
日時:2023年10月12日午後7時半〜9時半
出席(対面)7名、参加(遠隔)5名
4.29.6 問いについて
復習(1-10)
イエスは、悪霊につかれたひとと、対話をしている。
レギオン(悪霊たち)は、自分たちを追い出さないように願い続けた。
悪霊につかれたひとの変化は少し見えるが、正気になっているわけではない。
汚れた霊どもの願い(11-13)
11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」
13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
なにが起こったのだと思いますか。
イエスは、何をお許しになったのでしょうか。
悪霊につかれた人の変化(15)
15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
どのような状態から、どのような状態に変化したかを確認。
ルカ8:27「長い間着物も着ず」とある。そこからの変化。
「正気になって」が「5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」に対応している。
「すわっている」が「マルコ5:3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。」に対応している。
「家に居つかないで」(27)「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。(19)
人々の反応(14-17)
14 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。16 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
なぜ、豚を飼うものたちは逃げ出したのでしょうか。
何を人々は恐れたのでしょうか。
なぜ、出ていっていただきたいと頼みはじめたのでしょうか。
悪霊に取りつかれていた人の希望。イエスの応答。(18,19)
18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。19 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。
なぜ、お供をしたいと願ったのでしょうか。
なぜ、イエスはそれを許されなかったのでしょうか。
なぜ、「家族のもとに帰り、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」と言ったのでしょうか。
このひとの応答。人々の反応。(20)
20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。
イエスの言いつけを守ったのだろうか。
人々の驚き怪しむとはどのような状態を表現しているのだろうか。
デカポリスの人たちは、信仰をもったのだろうか。おそらく難しいのだろう。
イエスがたいせつにしたこと。
- いろいろな見方があるだろう。さまざまな受け取り方をたいせつに。
4.29.7 メモ
- このひとをたいせつにしたことは確かだろう。同時に、このひとの存在のために、苦しんでいたと思われる、家族や、街の人にも、そして、その地方のひとにも、おおきなインパクトを与えたと思われる。なにを、どう受け取るかは、個人によって、おそらく、異なるのだろう。それは、オープンにされている。
- 「11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。」の部分の解釈は、難しい。しかし、語られた事実と、事実は区別して考えるべきではある。このようなことは、どのような場合に起こるかを考えてみると、実際に、多数の豚が、何らかの拍子で、崖から海へ雪崩をうって駆け下り、海の中で溺れ死んでしまった。ことがあるのだろう。これは、弟子たちも、確認できたはずである。霊がイエスに願った部分は、傍で見ているとそうだとわかったと理解することも可能だが、イエスが、弟子たちに説明したと取る方が自然なように思われる。「これはなにが起こったのですか」「汚れた霊が豚にはいることを願ったので許したのだよ」と解釈すると、イエスがされたことは、そのようなことを許容された「このことをイエスがお許しになった」に凝縮されているのかと思う。それを聞いた弟子たちは、おそらく、このように伝えるだろう。
- この結果について、経済的損失を現代人は考える。しかし、少なくとも、聖書が伝えるのはそれではない。このような大きな変化に怖気づいたのである。それは、豚のことを通しても、確認できるほどの大きな変化であった。そして、それを、人びとは歓迎しなかったということだろう。
- この人が、本当に変化していて、正気になって、一緒に生活することになっていたら、家族や周囲の人達は、神を褒め称えたのではないだろうか。一時的な変化がすごいのではなく、使命をうけとって、恵みに生きることが、大切なのではないだろうか。豚のことに囚われてはいけない。豚は、特別なことがおこったことを伝えてはいるが、もっと素晴らしいことが、このひとを通して明かしされているはずである。それを、人は喜ばないかもしれないが。
- 精神病だとしても、それが癒やされ、治ったことが大切なのではなく、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15:24)ことが大切なのでは。それは、放蕩息子の兄のように、なかなか受け入れられない。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」(ルカ15:4)「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」(マタイ18:12)
- この地方の人たち:その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。(ヨブ21:13,14)このことを喜べない。
- イエスの言葉に従ったのだろうか。「19 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、『あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい』。20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。 」Ὕπαγε εἰς τὸν οἶκόν σου πρὸς τοὺς σούς あなたの家にいけ、あなたの人びとに、となっており、家族に限ってはいないのだろう。ただ、「主が」と言っている部分が「イエスが」に置き換わっていることに注意する必要はある。
- ルカの記述は、マルコに近い。ただ「31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。」が、マルコの「10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。」に対応しており、悪霊のいるべき「底知れぬ所」との記述になっている。また、マルコでは、「恐れた」は 15節のみであるが、ルカでは、35節に「恐れた」とあり37節に「非常な恐怖に襲われいたからである。」となっている。この恐れは、突風を静めるにおける「彼らは恐れおののいて」(4章41節)また、5章42節の「彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。」に繋がっている。
- マタイでは、最初、「悪霊につかれた二人の者」とあり、焦点が異なっているようである。また「29 すると突然、彼らは叫んで言った、『神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか』。」ともあり、終末的な結末の先取りのような印象を受ける。この悪霊につかれた人には焦点が当たっていない。マタイでは、マタイが弟子になった記事は9章で、この(マタイ8:28-34)よりあとに置かれており、マタイはまだ、この時点で、弟子に加わっていなかったのかもしれない。マルコでは、十二使徒を選んだのは、3章13節から19節に置かれ、この記事と連続しているようにかかれている、譬えの説明の箇所で、十二人ということばもある。正確にはわからない。しかし、十二人は、ヨハネ6章終わりの記事からすると、五千人の給食のあとに、人びとがイエスに期待したメシヤ像が崩れたときに、残った人たちとの記述もあるので、そちらに真実性があるようにも思われる。この記事のときには、マタイは同行しておらず、場所として、ゲラサと書いてあったり、一人と書いてある部分を、他の情報から修正しているのかもしれない。
- 人一人のほうが、豚2000匹の命よりも大切とするのも、軽率で、少なくとも、ここでそのことは、言われていない。しかし、ここでは、このひとのなかから悪霊が追い出されることのために、このことが起こったことを許容されたということなのだろう。このことに結びつけて、人は魂の救いよりも、豚2000匹の方を、選んだとするのも、直接的には導けないように見える。
5:21-43 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女
21 イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。22 そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。35 イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
4.29.8 マタイ 9:18-26
18 これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。19 そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。21 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。22 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。25 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。26 そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。
4.29.9 ルカ 8:40-56
40 イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。41 するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。42 彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。49 イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。50 しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51 それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。53 人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54 イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。55 するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。56 両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。
4.30 5:25-34 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(1)
25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
4.30.1 マタイ 9:20-21
20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。21 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。22 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。
4.30.2 ルカ 8:43-48
43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
4.30.3 問い
このことはどのような状況のもとで起きますか。(21-24)
この女の人はどのような困難をかかえていますか。またイエスをどのように考えていたのでしょうか。(25-28)
どんなことがおこりますか。またイエスはどうしますか。弟子たちの反応と合わせて考えてみましょう。(29-32)
この女の人はなぜ恐れおののくのでしょう。(33)
イエスはこの女の人に何と言っていますか。イエスは何をこの女の人から受け取ったのでしょうか。(34)
この女の人の信仰とはどのようなもので、何を受け取ったでしょうか。
4.30.4 参照
長血の女:新約聖書に長血の女(having an issue of blood)が登場しますが、当時は、この病気は、どのように、考えられており、現代的には、どのような病気だと考えられるのでしょうか。
ChatGPT(2023.10.19).
新約聖書に登場する「長血の女」という表現は、マタイによる福音書(9:20-22)、マルコによる福音書(5:25-34)、ルカによる福音書(8:43-48)で言及されています。この女性は12年間もの間、血の問題に悩まされており、イエスに触れることで癒されたとされています。
当時の人々は、この女性の病気を「長血」と表現しましたが、具体的な病名や病態については明確には記されていません。しかしながら、その症状の記述から、いくつかの現代的な病気の可能性が考えられます。
子宮出血: 「長血の女」の症状は、子宮出血に関連している可能性があります。子宮内膜の異常な成長やホルモンの変化によって引き起こされる病態です。
月経異常: この女性の症状は、月経異常に関連している可能性もあります。月経周期の乱れや過度の出血が起こる状態です。
子宮筋腫: 子宮筋腫は、子宮内にできる良性の腫瘍であり、月経異常や過剰出血を引き起こすことがあります。
これらは現代的な医学的な視点からの推測であり、正確な診断は新約聖書の文脈からは得られません。また、当時の医学的な知識や言語の違いから、記述が現代的な病名とは一致しないこともあります。
重要な点は、この物語がイエスの癒しの力と信仰に焦点を当てていることであり、具体的な病名よりも信仰と癒しのメッセージが強調されているということです。
レビ記15:25-27 女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。26 その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。27 すべてこれらの物に触れる人は汚れる。その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。(血について:参照)
医者について:シラ書〔集会の書〕38:1-15 医者を、その務めのゆえに敬え。/彼も主がお造りになったのだから。2 癒やしの業はいと高き方から/褒美は王から賜る。3 医者の学識は彼の身分を高め/偉い人々の前で驚嘆される。4 主は大地から薬をお造りになった。/思慮ある人ならこれを毛嫌いしない。5 一本の木のお陰で水が甘くなり293/その威力が知られることになったではないか。6 主は自ら人々に学識を授け/その驚くべき業によって称賛される。7 医者はこの業によって人を治療し/その痛みを取り除く。8 薬屋はこの同じ業によって混ぜ薬を作る。/こうして、主の御業は決して終わることなく/主からの平安が地の面にある。9 子よ、病気になったら放置せず/主に祈れ。そうすれば/主がお前を癒やしてくださる。10 過ちを避け、手の業を正せ。/一切の罪から心を清めよ。11 芳しい香りと記念のための上質の小麦粉を供え/供え物には油を余すことなく注げ。12 それから、医者に機会を与えよ。/彼も主がお造りになったのだから。/彼を去らせるな。お前には必要なのだから。13 回復が彼らの手にかかっている時がある。14 彼らもまた/主が自分たちを用いて病人の苦痛を和らげ/命を救う癒やしに成功しますように、と/祈り求めているのだ。15 自分をお造りになった方の前で罪を犯す者は/医者の手に陥るがよい。
タルムード・シャバッド:夏なら亜麻布、冬なら木綿の布で運んできたダチョウの卵の灰が効く、白い雌ロバの糞の中に見つかる大麦の粒が効くとなど。
衣のふさ(マタイ9:20・ルカ8:44):民数記15:38-40 「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。39 あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。40 こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。
4.30.5 記録
日時:2023年10月19日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)5名
4.30.6 問いについて
状況(21-24)
21 イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。22 そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。
多くの群衆がイエスに押し迫りながら、ヤイロたちについていった。
- ついていったのはどのような人たちだったのだろうか。イエスの人気、何か奇跡が見られるかと、興味本位、群集心理。
この向こう岸は、カペナウム方面だろう。とすると、前から繋がっているように見える。
- ガリラヤ湖東岸では、歓迎されなかったのに、ここでは、なぜ人がついていくのか。
女の人の抱えていた困難。イエスをどう思っていたか。(25-28)
25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
この女の人には、神の国は来ていない。
マタイ、ルカは、衣の房としている。レビ記15:25-27 から、衣服に触れれば、それは、洗わなければならない不浄がついたと考えたからだろうか。マルコにはない。
この女の人はなぜヤイロのように公然と願わなかったのでしょう。
何が起こり、イエスはどうするか、弟子たちの反応。(29-32)
29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気が294ことを、その身に感じた。30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
おそらく、着物に触った人は、他にもいたはずである。それを弟子たちも証言している。
- 弟子証言は、マタイでは欠落、ルカでは修正「人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。」(8:45)
この女は、必死で、触ろうとしただろう。その必死さは、イエスが、感じ取った可能性もある。
イエスは、この特別な接触(関係の発生)が、非常に大きなことと感じ取っていた。
イエスは神だから触ったのが誰かわかるはずというのは、飛躍しすぎ。「32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。」とある。これも、ジェスチャーだとしたら、悲しい。
何に、なぜ、恐れおののくのか。(33)
33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
単に、ちょっと着物にさわるだけと思ったにも関わらず、大変なことをしたことを感じ取ったのかも知れない。
イエスから力が出ていくとは思ってもいなかった。
すべてをありのままに話した。どんなことを話したのだろうか。
イエスの言葉、イエスの受け取ったもの。(34)
34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
信仰のことを言っている。恐れおののきを取り除こうとしている。まだ、養生が必要であることを暗示させる。
このようなことばをかけられたらどう感じるだろうか。
この人の信仰とは、この女の人が受け取ったもの。
「娘よ295、あなたの信仰があなたを救ったのです。」とイエスが呼ぶ、この女性の信仰とは?
「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろう」(28)という非常に素朴な、からしだねひと粒ほどの信仰である。
この人は、どのように生きていっただろうか。イエスのことばは、どのようにこの人に働いただろうか。
この女の人は、これからは、問題がない、幸せな生活を送ったでしょうか。
この女の人は、神の国を近いと感じることができたでしょうか。そのように信じて生きることができたでしょうか。もし、そうなら、それは、なぜでしょうか。
4.30.7 メモ
神の国の到来は、歓迎されないこともある。歓迎されないことばかりかも知れない。人びとは、自分たちの求める、神の国を見たい。
この女性に神の国が来たのだろう。完治することを体に感じることはおそらくできない。イエスも、「すっかりなおって、達者でいなさい」と付け加えている。しかし、変化を感じ取ったことは証言されている。それは、完全ないやしへと向かっていくものなのだろう。
イエスからどのように、力が出ていったかはわからかない。しかし、それを感じ取ったことは証言されている。そして、この女の人から、詳細を聞き、心をいため、はらわたが傷つくような経験もしただろう。しかし、それは、イエスだけではなく、神様も、同じように、その苦しみを感じ取っておられるのではないだろうか。
イエスをとおして、神様が、この人の痛み、苦しみを知っていてくださることを実感できたのではないだろうか。自分は、見捨てられた存在ではなく、神の国が近い、その中に生きていることを実感することができれば、それは、希望が与えられるのではないだろうか。
「信仰が救った」
マルコ10:52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(ルカ18:42)
ルカ7:50 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
ルカ17:19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
4.31 5:21-24, 35-43 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(2)
21 イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。22 そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。
(中略)
35 イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
4.31.1 マタイ 9:18-19, 23-26
18 これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。19 そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。
(中略)
23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。25 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。26 そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。
4.31.2 ルカ 8:40-42, 49-56
40 イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。41 するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。42 彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。
(中略)
49 イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。50 しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51 それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。53 人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54 イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。55 するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。56 両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。
4.31.3 問い
ヤイロはどんな人ですか。また、どんな問題を抱え、イエスに何を願っていますか。(22,23)
ヤイロの家から人々が知らせに来た時の状況はどのように描かれていますか。ヤイロの心も想像してみましょう。(35)
イエスはヤイロにどのような言葉をかけていますか。(36)
ヤイロの家はどんな状況でしたか。イエスはどうしますか。なぜ少数の人しか立ちあわせなかったのでしょう。(37-40)
イエスは少女にたいしてどうしますか。その様子はどのように描かれていますか。(41-43)
この二つの事件を通して、イエスは信仰について何を教えていると思いますか。
4.31.4 参照
会堂で教えた記録:
マルコ3:1-6 1 イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。(中略)6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。(マタイ12:9-14、ルカ6:6-11)
ルカ13:10-17 10 安息日に、ある会堂で教えておられると、(中略)14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。(腰の曲がった女を癒やす)
会堂司について:参照
眠りと死
眠りは死の婉曲話法:詩篇13:3 わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、/わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
死は復活までの一時的な眠り:1テサロニケ4:13,14 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4.31.5 記録
日時:2023年10月26日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)7名
4.31.6 問いについて
ヤイロについて(22,23)
21 イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。22 そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。
会堂司のひとりであるヤイロ296
会堂司297:会堂の行政的な頭、会堂を管理する責任を持つ長老会の議長、儀式の運営に責任をもち、儀式そのものには加わらないが、役の役割、また、それが適切に、かつ秩序正しく行われているかどうか見る責任があった。社会の最も大切な、また最も尊敬されている一人。(バークレイ)
ひれ伏している。イエスとの面識はあっただろうか。(マルコ3:1-6、ルカ13:10-17)
必死さはどのような言葉から読み取れますか。
イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。
マルコでは「わたしの幼い娘298」と
マタイは「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。(8:18b)とし、復活信仰に結びつけている。そのためもあり、中間の、会堂司の家からの知らせを省いている。(比較:マルコ、ルカは、「死にかかっています。」「死にかけていた。」)
(長血の女の人と話している間、)ヤイロの家から使いが来たとき、ヤイロの心(32-35)
32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
35 イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。
- マタイは省略、ルカは「49 イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。」
イエスにとって、長血を患っている女と、ヤイロの娘または、ヤイロとどちらが大切だったのでしょうか。
- 時間の枠内では二者択一になりそうであるが、イエスはどうしてそうならなかったのでしょうか。
イエスのヤイロに対することば(36)
- 36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
- ルカ8:50 50 しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。
- イエスはどのような思いから、このことばをかけたのでしょうか。そしてヤイロはそれをどう受け取ったでしょうか。ここでの恐れとは?
- ヨハネ14:1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
- 36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
ヤイロの家の状況。なぜ少人数?(37-40)
- 37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
- マタイ8:23「笛吹きどもや騒いでいる群衆」
- 三人だけ:全体では何人が目撃したのでしょうか(父母、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、イエスの六人)
- マルコ9:2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
- マルコ14:33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
- 実際は、少女は死んでいたのでしょうか。
- マタイでは最初から死んでいる。18 これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。しかし、イエスは、あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。(24)と主張している。
- ルカでは、最初は「死にかけていた」とし、あとでは「53 人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」「55a するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。」という表現をしているので、死んで、生き返ったことに焦点があっている。
- マルコでは、「死にかかっている」(23)とし、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。(38b)「そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。」(41)と、眠っているひとを起こす表現に終始している。
- 37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
少女に対して。その描写。(41-43)
41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
ユダヤ人の娘は12歳と1日で成人した女とされた。男の子は、13歳と1日で成人。
- 12年間、可愛がられて生きてきたのだろう。
「子供の手を取って」マタイ「少女の手をお取りになると」、ルカ「娘の手を取って」
「少女よ、さあ、起きなさい(λέγει αὐτῇ Ταλιθα κοῦμι)」(arise)טַלְיְתָא קוּמִי(טַלְיָא, ‘a youth’ の女性形)
ルカ8:55 「その霊が戻ってきて」
驚いたのは誰でしょうか。
マルコ5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
ルカ8:56 両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。
なぜ、「この事を知らすな」と命じたのでしょうか。「この事」とは何を意味するのか。
- この事を伝えたのは、誰でしょうか。彼らとは?
- 単に眠っているだけとしたのは、その伏線か。死者を蘇らせたところに、中心がないということか。「神の国は近い。」
- マルコ1:24,25 「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。 25 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。
- マルコ1:44 「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。
- マルコ3:12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。
二つの事件を通して信仰とは
5:34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
5:36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
4.31.7 メモ
ヤイロの背景は、明らかではない。しかし「足もとにひれ伏し」(22)「しきりに願って行った」(23)「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください。」(23)必死さが感じられる。「会堂司の家から人々が来て」(35)とあり、ヤイロがイエスに頼みに行ったことは、了解されており、人を使わすことも可能であったこともわかる。しかし、そうはしなかった。単純な必死さや、群衆が多くいるなかで、イエスにきていただくことから、そうしたかもしれないが、この必死さを身をもって伝えたい気持ちもあったかもしれない。ガリラヤ湖畔の街の会堂では、すでに、イエスは教えなくなっているようにも見える。3章6節などの動きからすると、会堂司も、良い関係が維持されていたとは言えなかったかもしれない。そこでの願いである。
- 群衆は、イエスのもとに集まってきているが、その群衆も、自分たちが、なにを求めているのかよくわからないかもしれない。(マルコ6章34節)イエスに反対する人、殺そうとすらする人、拒絶する人、疑いをもっつ人も増えている時期だと思われる。
この娘は、マタイが描くように、死んでいたのだろうか。ルカが、「人々は死んだことを知っていたので」(53)と書き「すると霊が戻ってきて」(55)と書くように、少なくとも、人々が報せにきた時点では、完全に死んでいたのだろうか。マタイとルカはその立場だろう。マタイは、最初から死んでいるように書かれており、ヤイロに「9章18節 これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、『わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう』。」と復活信仰を告白させている。しかし、マルコには、一貫して、そのような記述はない。マルコの記述からは、この少女が死んでいたかどうかは、明確ではない。マタイでは復活信仰についてかたり、ルカではイエスが少女を生き返らせたことに焦点が置かれているようだが、マルコではそうではないように見える。事実は不明である。しかし、イエスは、娘は死んでいない。少なくとも、希望がなく、恐れる状態ではないと信じていたのではないだろうか。
- マルコ12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
信仰(神様との信頼関係)の中では、生きていたのではないだろうか。完全にはわからないが。
イエスの行為の中心は、娘を生き返らせたことには、なかったのかもしれない。神の国は遠い、近くない、自分は、神様に見放されているという人に、神の国は近いということを知らせ、神さまに信頼する生活へと導くために、その時その時を生きていたように見える。しかし、残念ながら、人々は、そして、聖書解釈者もそのようには受け取らず、奇跡を、神の子の兆とみる。イエスの悲劇は、すでに始まっているように見える。
「恐れることはない。ただ信じなさい」「今、恐れているのをやめて」「信じ続けなさい」
- ヨハネ14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
- ローマ8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
- 1ヨハネ5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
誰が驚いたかの表現からも、ルカでは、両親のようで、マルコでは、弟子たちも含んでいるように見える。驚きの表現も異なっている。
4.32 6:1-6 ナザレで受け入れられない
1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
4.32.1 マタイ 13:53-58
53 イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
4.32.2 ルカ 4:16-30
16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、/わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、/囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、/打ちひしがれている者に自由を得させ、19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。24 それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。25 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、26 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くの重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。30 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。
4.32.3 問い
イエスたちはどこへ行き、どこで何をしますか。(1,2a)
ルカによる福音書では、さらにどのように伝えていますか。(ルカ4:16-21)
町の人々の反応をまとめてみましょう。郷里の人は何を知り、何を知らなかったでしょうか。(2b,3a)
「イエスにつまずいた」とはどのようなことを表現しているのでしょうか。(3b)
イエスは、何と言っていますか。ルカはどのようなことを付け加えていますか。(4)
なぜイエスは力あるわざをすることができなかったのでしょう。(5,6)
4.32.4 参照
イザヤ61:1-2 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、/貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、/わたしをつかわして心のいためる者をいやし、/捕われ人に放免を告げ、/縛られている者に解放を告げ、2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、/また、すべての悲しむ者を慰め、
イザヤ42:7 盲人の目を開き、/囚人を地下の獄屋から出し、/暗きに座する者を獄屋から出させる。
詩篇146:8 主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。主は正しい者を愛される。
イザヤ29:18 その日、耳しいは書物の言葉を聞き、/目しいの目はその暗やみから、見ることができる。
イザヤ42:7 盲人の目を開き、/囚人を地下の獄屋から出し、/暗きに座する者を獄屋から出させる。
列王記上17:1 ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。
列王記上17:9 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。
列王記下5:1-14 スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、重い皮膚病をわずらっていた。(中略)14 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。
4.32.5 記録
日時:2023年11月2日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)2名
4.32.6 問いについて
どこへ行き、どこで、何をしたか。(1,2a)
1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。
「そこ」カペナウムを去って「郷里」ナザレ(ルカ4:16)へ。
弟子たちも従った。弟子たち一行も一緒をマルコのみ特記。
「安息日になったので、街道で教え始められた」(2a)ルカでは「いつものように」置かれている場所が異なる。
マタイ:53 イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、
- 種まきのたとえ、たとえを用いて話す理由、「種まく人」のたとえの説明、「毒麦」のたとえ、「からし種」と「パン種」のたとえ、たとえを用いて語る、「毒麦」のたとえの説明、「天の国」のたとえ、天国のことを学んだ学者のあとに続く。
ルカ:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
- 宣教の最初。ガリラヤで宣教をはじめる最初に、ナザレへ。
イエスは、何のために、郷里に行ったのでしょうか。人々は、どのように感じたでしょうか。
ルカから(ルカ4:16-21)
16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、/わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、/囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、/打ちひしがれている者に自由を得させ、19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
イザヤ6:1,2 と思われるが、少し表現が異なる。
あなたが想像する「主の恵みの年(直訳:主に受け入れられる年 ἐνιαυτὸν κυρίου δεκτόν)」(19)とはどのような年のことですか。
- 神の国は近い。
「会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。」「『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた。」促されて、話しはじめている。
町の人々の反応(2b,3a)
それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。3 この人は大工301ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。
マタイ:彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
ルカ:22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。
郷里の人は何に驚いているか。
郷里の人は何を知り、何を知らなかったか。
職業(専門的にできること)、母、父、兄妹たち、姉妹たちについて知っていた。
この知恵とこれらのちからあるわざを、どこで習ってきたのか知らない。
イエスをどのような人だと言っていますか。
大工。マリヤのむすこ、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟、姉妹もいる。マタイでの順番が異なる。
マタイは「大工の子」ルカでは「ヨセフの子」と修正している。
ルカ3:23 イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、
イエスにつまずいた?(3b)
こうして彼らはイエスにつまずいた。ἐσκανδαλίζοντο302 ἐν αὐτῷ
マタイ:57a こうして人々はイエスにつまずいた。ルカにはこの記述なし。
郷里の人は、なぜ、簡単には、受け入れられないのでしょう。
郷里の人々は、どのようなイエスを日常的に、どれぐらいの期間見て、知っていたのでしょうか。
イエスのことば。ルカは?(4)
4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
マタイ:57b しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
ルカ:23 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。24 それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。25 よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、26 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。27 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くの重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。30 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。
なぜ、イエスの説教を聞いた人たちは感嘆から憤りへと変わったのでしょう。303
「カペナウムで行われてと聞いていたことを」とあり、宣教の最初に持ってくるのは自然ではない。
力あるわざをすることができなかった?(5,6)
5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
マタイ:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
4.32.7 メモ
位置づけは、マルコやマタイのものが自然で、宣教の最初に置く、ルカは不自然。メッセージの内容から、そこにおいたのだろう。
「この人は大工ではないか」からは、多少蔑みが感じられる。マタイでは、大工の子
「マリヤのむすこ(ὁ υἱὸς Μαρίας)」をマタイでは、「母はマリヤといい」とし、ルカでは「ヨセフの子(ὁ υἱός Ἰωσὴφ)」としている。「マリヤの子」という表現が、私生児を想起させるから変更しているのだろう。
「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。と、親族、家が入っている。特に、親族を入れると、兄弟などが入ることを避けているように見える。
「そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。」を矛盾を含む表現と取ることもできるが、それは、癒やされたという言葉の理解によるであろう。使えた、手当をしたという言葉である。マタイでは「あまりなさらなかった」と表現を弱めている。
ガリラヤ湖で、弟子たちが突風にあったとき、ガダラ人の地で、悪霊を追い出した時、ヤイロの娘を生き返らせた時、長血を患っている女を癒した時、いずれも、非常に不十分であるが、信仰、信頼関係の交互作用が背景にあるように見える。それは、相互作用で、一方的にはなしえないこと。単純に、全能だからできるということではない。互いに愛することと同じ難しさがある。
4.33 6:7-13 十二人を派遣する
7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
4.33.1 マタイ 10:1, 5-15
10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。(中略)5 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。8 病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。9 財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。10 旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。11 どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。12 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。13 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。14 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。15 あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。
4.33.2 ルカ 9:1-6
1 それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして 3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。6 弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。
4.33.3 問い
十二弟子は、どのような人たちですか。知っていることをあげてみましょう。
イエスは十二弟子にどのような権威を与えていますか。(7, マタイ10:1, ルカ9:1)
マタイとルカには、さらにどのようなことが書かれていますか。(マタイ10:5-8, ルカ9:2)
持ち物について、どのように命じていますか。(8,9)
行った土地でのこと、受け入れない場合について、どのような指示をしていますか。(10,11)
弟子たちは、どのような働きをしますか。(12,13)
4.33.4 参照
マルコによる福音書におけるこれまでの弟子についての記述
1:16-20 四人の漁師を弟子にする(マタイ 4:18-22、ルカ 5:1-11)
2:13-17 レビを弟子にする(マタイ 9:9-13、ルカ 5:27-32)
2:18-22 断食についての問答(マタイ 9:14-17、ルカ 5:33-39)2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
2:23-28 安息日に麦の穂を摘む(マタイ 12:1-8、ルカ 6:1-5)2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。 24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。
3:7-12 湖の岸辺の群衆(ルカ6:17-19)3:7a それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
3:13-19 十二人を選ぶ(マタイ 10:1-4, ルカ 6:12-16)さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 16 こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、 17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、 (マタイ 10:1-4, ルカ 6:12-16)
4:10-12 たとえを用いて話す理由(マタイ 13:10-17、ルカ 8:9-10)4:10 イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。11 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。 12 それは/『彼らは見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、悟らず、/悔い改めてゆるされることがない』/ためである」。
4:33-34 たとえを用いて語る(マタイ 13:34-35)4:33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。34 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。
4:35-41 突風を静める(マタイ 8:23-27、ルカ 8:22-25)4:35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。 37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。 40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
5:21-43 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(マタイ 9:18-26、ルカ 8:40-56)31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。(中略)36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。
6:1-6 ナザレで受け入れられない(マタイ 13:53-58、ルカ 4:16-30)1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
油(ἔλαιον: olive oil, a) for fuel for lamps, b) for healing the sick, c) for anointing the head and body at feasts, d) mentioned among articles of commerce)
癒やしのための油
マルコ6:13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
ルカ10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
ヤコブ5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
香油
マルコ14:3-8 イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。(マタイ26:6-13 参照:ルカ7:36-50)
ヨハネ11:2 このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。
ヨハネ12:3-8 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
灯り
- マタイ25:1-13 3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。(中略)7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
メシア
- 使徒4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
聖霊
2コリント1:21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
1ヨハネ2:20 しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。
1ヨハネ2:27 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
その他
- マタイ6:17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
イエスの時代のパレスチナのユダヤ人の服装:基本的に、図などは残っておらず、他の地域のものを参照して、復元したもので、正確ではないかも知れない。(Wikipedia: Biblical clothing, The 1901 Jewish Encyclopedia: Costume)(The Gospel of Mark by William Barclay [Link Mk6:7-11])
一番内側の衣はキトーン(χιτών: khee-tone’: Mt 5:40, 10:10, Mk 6:9, 14:63, Lk 3:11, 6:29, 9:3, Jn 19:23, Acts 9:39, כֻּתֹּנֶת(keth-o’-neth: tunic, under-garment))、シンドーン、あるいはチューニック(下着):簡単なもので、長い一枚の布が折り重ねられ、一方が縫い合わせてあった。ほとんど、足にとどくほどの長さで、上の方の隅に両腕を通す穴が切り込まれていた。そのような衣が、頭のはいる穴なしに売られていた。それが新品の証拠で、買手が好きなように、襟を整えることができるためでもあった。襟は男と女で違っていた。女の場合は、赤ん坊に乳をのませるために、襟を低くしなければならなかった。簡単なもので、内側の衣は隅に穴をあけた袋と何ら変わらなかった。もう少し進んだ型のものには、長いピッタリとした袖がついていた。ときには、法衣のように、前を金具で止められるように開いていた。
外側の衣はヒマティオン(ἱμάτιον: him-at’-ee-on: Mat 5:40, 9:16,20, 21, 11:8, 14:36, 17:2, 21:7, 8, 23:5, 24:18, 26:65, 27:31, 35, Mk 2:21, 5:27, 28, 29, 6:56, 9:3, 10:50, 11:7, 8, 13:16, 15:20, 24, Lk 5:36, 6:29, 7:25, 8:27, 44, 19:35, 36, 22:36, 23:34, John 13:4, 12, 19:2, 5, 23, 24, Acts 7:58, 9:39, 12:8, 14:14, 16:22, 18:6, 22:20, 23)と呼ばれた。昼間は上衣として、夜には毛布として用いられた。一枚の布で、左右が二メートルあまり、縦が一メートル半。五十センチずつ両側が折り込まれ、その折り込まれた部分の上部の隅に両腕を入れる穴があけられていた。ゆえに、それは、ほとんど四角形をしていた。通常それぞれ幅七十センチと長さ二メートルあまりの二枚の細長い布が縫い合わされたものでできていて、その縫い目は背中に来るようになっていた。しかし、特別なヒマティオンは、ちょうど、イエスの上衣がそうであるように(ヨハネ19:23)一枚の布でおられたのだろう。それが主な着物だった。
帯。上述の二枚の衣の上につけた。下着の裾は、働いたり走るために、帯の下に絡めこむことができた。ときには、下着が帯の上まで引き上げられた。そして、帯の上に作られた中空の場所の中に、財布や小さな荷物を入れて、持ち歩くことができた。帯はしばしば二つ折りにしたが、幅は五十センチであった。そして、二重にされた部分が胴巻きのような小袋になった。そして小袋のなかに金を入れて持ち歩いた。
被り物。それは、約一メートル四十センチ四方の木綿か、または麻の一枚の布であった。色は白、青、あるいは黒でも良かった。ときには、色物の絹で作られることも会った。はすに折り、そのして頭に当て、首の後ろ、頬骨、両眼を太陽の熱と強烈な光から守った。それを弾力のある羊毛のたやすくのべる小さな輪で、頭のまわりにとめた。
サンダル。サンダルは単なるそこの平らな皮、羊毛、編んだ草であった。その底には、両側に皮ひもがついており、それを通して、紐が通され、サンダルを足に結びつけた。
ズタ袋。多分普通のずだ袋であったろう。この袋は、仔山羊の皮でできていた。しばしばその動物はまるのまま皮を剥がれた。そして、その皮は、動物の元の型、四肢、尾、頭などのすべてを保っていた。それの両側に紐が付けられ肩にかけられた。羊飼い、巡礼者、旅行者は少なくとも、一日や二日分のパン、干しぶどう、オリーブ、チーズなどを入れて持ち歩いた。
- ギリシャ語ペーラは、募金袋を意味した。祭司や信者たちが、これらの募金袋をもって神殿や神のための献金を集めにでかけたことは珍しくなかった。彼らは「村から村へだんだん増えるぶんどり物を持ち歩く敬虔な盗人たち」と記述されていた。ある碑文によると、その中で、シリヤの女神のしもべと自分を呼ぶ人が、その女神のために一回の旅で七十袋を持ち帰ったと言っている。
足の塵を落とす
- ラビの律法は、異邦の、または異端の国のちりは汚れており、人が他の国からパレスチナに入ったときには、汚れた国のちリは、どんなに僅かでもすべて払い落とさなければならなという。それは、ユダヤ人は、異端の国のちりとさえ交わりを持つことができないという、明快で、形式的な拒否である。
宣教の結果、その後
- マルコ6:30,31 さて、使徒たち(シャリアハ:権威を認められた代理人)はイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
4.33.5 記録
日時:2023年11月9日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)5名
4.33.6 問いについて
十二弟子について
[DQ] 十二弟子、または弟子たちは、どのような存在だったのでしょうか。
- 弟子たち、おそらく、十二弟子は、つねに、イエスと一緒にいる。イエスに守られ、イエスに教えられ、叱られ、驚き、現場に立ち会っている。イエスと行動を共にし、イエスの「神の国は近い」というメッセージを近くで聞き、目撃した人たちである。
クリスチャン:使徒行伝11:26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
与えた権威(7, マタイ10:1, ルカ9:1)
7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
マタイやルカと比較してみましょう。
マタイ10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
ルカ9:1 それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。
[DQ] なぜ、二人ずつ遣わしたのでしょうか。
なぜ、マタイやルカにはこの記述がないのでしょうか。
[参照] ルカ10:1 その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。
[参照] 二人を派遣する記事は他にもある。
マルコ11:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
マルコ14:13 そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。
ルカ7:18,19 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
ヨハネ1:35, 36 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
[DQ] (マルコでは、汚れた霊を制する権威だけ述べられていますが)汚れた霊を制する権威を与えるとは、どのような意味があったと思いますか。
マタイでは、「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やす権威」、ルカでは、「悪霊を制し、病気を癒す力と権威」
マルコとの違いには、どのような理由があると思いますか。
悪霊(日本聖書協会共同訳巻末付録から):「汚れた霊」と同じで、新約聖書では精神的、肉体的病気の原因であって、人に過ちや罪を犯させる霊。ベルゼブルは悪霊の支配者。神の霊と対比。
マタイとルカ(マタイ10:5-8, ルカ9:2)
マタイ10:5-8 5 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。8 病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。
「イスラエルの家の失われた羊」のところ限定
「イスラエルの家の失われた羊」とは?
- マタイでは、十二が繰り返されている。イスラエルを意識していることは、確かだろう。
[DQ] なぜ、異邦人の道や、サマリヤ人の町にはいるなと言っているのでしょうか。
宣べ伝えるメッセージは、『天国が近づいた』
活動は、「病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。」
[DQ] これらは、何を意味しているのでしょうか。
イエスがしたことと同じことをすることが想定されている。しかし、結果報告はない。弟子たちが、驚くべき技をした記録は、福音書にはない。
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
- なにを教えているのでしょうか。宣教活動や、慈善活動、医療活動は、報酬をもらっては行けないのでしょうか。
ルカ9:2 2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして
- ルカでは、病気をなおすことが目的に入っている。
持ち物について(8,9)
8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、9 ただわらじ304(ここと使徒12:8のみ)をはくだけで、下着305も二枚は着ないように命じられた。
マタイ10:9,10 9 財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。10 旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。
ルカ9:3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。
[DQ] ひとつひとつ、どのような意味があるのでしょうか。
[DQ] 細かいところがいろいろと異なるようですが、何を伝えているのでしょうか。
行った土地で、受け入れない場合について(10,11)
10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
マタイ10:11-15 11 どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。12 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。13 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。14 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。15 あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。
ルカ9:4,5 4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。5 だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。
最初に迎え入れてくれた家の好意を無にしてはならない。基本。
親切なもてなしは、東方においては聖なる義務であった。旅行者が、村に入ったとき、もてなしをもとめることは彼の義務ではなく、それを提供するのが村の義務だった。(中略)ラビの律法は、異邦の、また異端の国のちりは汚れており、人が他の国からパレスチナに入ったときには、汚れた国のちりは、どんなにわずかでもすべて払い落とさなければならないと言う。それは、ユダヤ人は、異端の国のちりとさえ交わりを持つことができないという、明快で、形式的な拒否である。それは、あたかもイエスが「もし彼らが聞くことを拒んだら、あなたたちのできる唯一のことは、厳格なユダヤ人が異邦人の家に対してするように彼らを取り扱うことである」と言われたようなものである。(Wikipedia: Biblical clothing, The 1901 Jewish Encyclopedia: Costume)
弟子たちの働き(12,13)
12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
- καὶ δαιμόνια πολλὰ ἐξέβαλλον καὶ ἤλειφον ἐλαίῳ πολλοὺς ἀρρώστουςκαὶ ἐθεράπευον. And they cast out many devils, and anointed with oil many that were sick, and healed them.
ルカ9:6 弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。
- ἐξερχόμενοι δὲ διήρχοντο κατὰ τὰς κώμας εὐαγγελιζόμενοι καὶ θεραπεύοντες πανταχοῦ. And they departed, and went through the towns, preaching the gospel, and healing every where.
マタイは結果報告はない。
「悔改め」のみが書かれている。イエスについて語ったろうから、それは、すべて、神の国は近いということだったろう。それを語り、そのあとで、悔い改めを促したのだろう。
- 悔い改めとは、どのような悔い改めだろうか。
[DQ] 弟子たちにとって、派遣はどのような意味を持ち、どにょうに受け止められたのだろうか。
[DQ] 派遣は、成功したのだろうか。継続して、なんども行われたのだろうか。
4.33.7 メモ
二人ずつの記述が、マタイ、ルカ(72人派遣時には記述がある)にないのは、固定した組であることを想定し、様々な詮索をすることを拒否したのではないか。たとえば、イスカリオテのユダとのペア、兄弟ペアなど。
持ち物も、使徒としての働きと、このときのものが統合していった可能性がある。基本的には、神様に頼る、神様に委ねることが背景にあるのだろう。
二枚の下着:一般的に、イエスと行動していたときには、野宿も多かったろう。漁師の働きなどを考えると、遠くに旅するときは別として、外套は、携えてはいなかっただろう。すると、どうしても、寒さを防ぐため、下着を二枚着ることは起こる。実際、二枚着ていた人もいたのではないかと思う。ここでは、家に泊まることが想定され、その場合には、不要となることが、前提とされているようである。
マタイでは、結果報告がない。将来的な、使徒としての働きまでを意識しているのでは。
オリーブ油を塗ることは一般的な治療である。それが、奇跡を起こすような力にだんだん拡大していったのだろう。オリーブ油を塗るなど、まさに、癒やす(θεραπεύω: i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health)というより、治療をする、ケアをするに近い感じがする。仕えるは、精神的には、より、適切でもある。油は持っていったのだろうか。そこは、疑問が残る。
派遣は、弟子たちにどのような意味があったかは、よくわからない。イエスを慕ってついてきていたことは確かだと思うが、自分から宣教に出ていくとは、考えていなかった人たちも多かったのではないだろうか。このあと、6:30,31 に簡単な報告があるが、疲れていたことだろう。先行きに関しても、すでに、カペナウムでは会堂で教える機会を失い、ナザレでも、追い出されているように見える。弟子たちが、この時点で、歓迎されたとは、考えにくい。
4.34 6:14-29 洗礼者ヨハネ、殺される
14 さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。17 このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。19 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。21 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、22 そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、23 さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。24 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25 するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。26 王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27 そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28 盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。
4.34.1 マタイ 14:1-12
14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。3 というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4 すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。5 そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。6 さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7 彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8 すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9 王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11 その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。12 それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
4.34.2 ルカ 9:7-9
7 さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、8 またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。9 そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。
4.34.3 問い
登場人物について確認しましょう。
イエスのことを人々は、そしてヘロデはどのように考えていましたか。(14,15,16)
ヘロデはどのような理由でヨハネを捕らえますか。(17,18)
ヘロデと、ヘロデヤにとって、ヨハネはどのような存在だったのでしょう。(19,20)
ヘロデは、なぜ、ヨハネを殺す決断をしたのでしょう。(21-29)
イエスや弟子たちにとって、ヨハネの処刑は、どのような意味を持っていたでしょうか。
4.34.4 参照
ヘロデの系図:Herod’s Family Tree
ヘロデ・アンティパス:ガリラヤとペレアの国王
アレタ王の娘と結婚するが、返したため、責められ、ローマ軍に助けられる。
ピリポの領地をアグリッパに与え王とした。それに怒り、ヘロデヤがローマに嘆願に行くが、アグリッパも連絡をし、アンティパスはガリアに配流。
ヨセフス「ユダヤ古代史」の記述:参照:ヨセフス(Flavius Josephus)
- XVIII-5-1: 1. About this time Aretas [the king of Arabia Petres] and Herod had a quarrel on the account following: Herod the tetrarch had, married the daughter of Aretas, and had lived with her a great while; but when he was once at Rome, he lodged with Herod, who was his brother indeed, but not by the same mother; for this Herod was the son of the high priest Sireoh’s daughter. However, he fell in love with Herodias, this last Herod’s wife, who was the daughter of Aristobulus their brother, and the sister of Agrippa the Great. This man ventured to talk to her about a marriage between them; which address, when she admitted, an agreement was made for her to change her habitation, and come to him as soon as he should return from Rome: one article of this marriage also was this, that he should divorce Aretas’s daughter. So Antipas, when he had made this agreement, sailed to Rome; but when he had done there the business he went about, and was returned again, his wife having discovered the agreement he had made with Herodias, and having learned it before he had notice of her knowledge of the whole design, she desired him to send her to Macherus, which is a place in the borders of the dominions of Aretas and Herod, without informing him of any of her intentions. Accordingly Herod sent her thither, as thinking his wife had not perceived any thing; now she had sent a good while before to Macherus, which was subject to her father and so all things necessary for her journey were made ready for her by the general of Aretas’s army; and by that means she soon came into Arabia, under the conduct of the several generals, who carried her from one to another successively; and she soon came to her father, and told him of Herod’s intentions. So Aretas made this the first occasion of his enmity between him and Herod, who had also some quarrel with him about their limits at the country of Gamalitis. So they raised armies on both sides, and prepared for war, and sent their generals to fight instead of themselves; and when they had joined battle, all Herod’s army was destroyed by the treachery of some fugitives, who, though they were of the tetrarchy of Philip, joined with Aretas’s army.. So Herod wrote about these affairs to Tiberius, who being very angry at the attempt made by Aretas, wrote to Vitellius to make war upon him, and either to take him alive, and bring him to him in bonds, or to kill him, and send him his head. This was the charge that Tiberius gave to the president of Syria. 1. この頃、アレタス[アラビア・ペトレスの王]とヘロデは、次のような理由でいさかいを起こした: 領主(四君主:テトラーク)ヘロデはアレタスの娘と結婚し、長らく彼女と暮らしていたが、ローマに行ったとき、ヘロデのもとに身を寄せた。このヘロデは大祭司シレオの娘の子である。しかし、彼はこのヘロデの妻ヘロディアスと恋に落ちた。ヘロディアスは彼らの兄弟アリストブルスの娘で、アグリッパ王の妹であった。領主ヘロデは彼女に結婚の話を持ちかけ、彼女がそれを受け入れ、契約を結んだ。それには、彼がローマから戻り次第、彼女が、彼のもとに来ることと、アグリッパが妻と離婚することが書かれていた。ところが、アンティパスは、この契約を結び、ローマでの用事を済ませて再び戻ってきたときには、彼の妻は、彼が、ヘロディアスと交わした契約を発見していたため、アレタスとヘロデの領地の境界にある場所であるマケロスへ送り届けるように頼んだ。そこでヘロデは、自分の妻が何も察していないと思い、彼女をそこへ送りとどけた。さて、旅に必要なものはすべて、アレタスの軍の将軍が彼女のために用意した。アレタスはこれをきっかけとして、ヘロデと敵対した。実は、アレタスはヘロデとガマリテス国での境界線についても争いがあった。そこで、両軍は挙兵し、戦争の準備を整え、自分たちの代わりに将兵を戦わせた。両軍が戦いに参加したとき、ヘロデの軍は、フィリポの四王国の者でありながらアレタスの軍に加わった逃亡者たちの裏切りによって、すべて壊滅状態となった。そこでヘロデはこれらのことをティベリウスに書き送った。ティベリウスはアレタスの企てに非常に腹を立て、シリアの大統領のヴィテリウスに、アレタスを生け捕りにして拘束し、あるいは殺してその首を送るようにと、書き送った。
- XVIII-5-2: 2. Now some of the Jews thought that the destruction of Herod’s army came from God, and that very justly, as a punishment of what he did against John, that was called the Baptist: for Herod slew him, who was a good man, and commanded the Jews to exercise virtue, both as to righteousness towards one another, and piety towards God, and so to come to baptism; for that the washing [with water] would be acceptable to him, if they made use of it, not in order to the putting away [or the remission] of some sins [only], but for the purification of the body; supposing still that the soul was thoroughly purified beforehand by righteousness. Now when [many] others came in crowds about him, for they were very greatly moved [or pleased] by hearing his words, Herod, who feared lest the great influence John had over the people might put it into his power and inclination to raise a rebellion, [for they seemed ready to do any thing he should advise,] thought it best, by putting him to death, to prevent any mischief he might cause, and not bring himself into difficulties, by sparing a man who might make him repent of it when it would be too late. Accordingly he was sent a prisoner, out of Herod’s suspicious temper, to Macherus, the castle I before mentioned, and was there put to death. Now the Jews had an opinion that the destruction of this army was sent as a punishment upon Herod, and a mark of God’s displeasure to him. 2. さて、ユダヤ人の中には、ヘロデの軍隊が滅ぼされたのは、彼が洗礼者と呼ばれたヨハネに対して行ったことの罰として、神からもたらされたものであり、それは非常に正当なものであると考える者もいた: というのは,ヘロデは善人であったヨハネを殺害し宝である。ヨハネは、ユダヤ人に対し,互いに対する義と神に対する敬虔の両面で徳を積むように命じ,洗礼を受けるように命じていた。さて,人々は、彼の言葉を聞いて非常に感動した(あるいは喜んだ)ので,多くの人々が群れをなして彼の周りに集まってきたので,ヘロデは,ヨハネが民衆に及ぼす影響力の大きさが,反乱を起こす力になると感じ、恐れた。そこでヨハネは、ヘロデの疑心暗鬼から、先に述べたマケロス城に送られ、しばらく、牢に入れられていたが、そこで死刑に処せられた。このような次第で、ユダヤ人たちは、この軍隊の敗北はヘロデに対する罰であり、ヘロデに対する神の不興の印であるという意見を持っていた。
- ヘロデヤとの結婚のことなど
- XVIII-5-4: 4. Herod the Great had two daughters by Mariamne, the [grand] daughter of Hyrcanus; the one was Salampsio, who was married to Phasaelus, her first cousin, who was himself the son of Phasaelus, Herod’s brother, her father making the match; the other was Cypros, who was herself married also to her first cousin Antipater, the son of Salome, Herod’s sister. Phasaelus had five children by Salampsio; Antipater, Herod, and Alexander, and two daughters, Alexandra and Cypros; which last Agrippa, the son of Aristobulus, married; and Timius of Cyprus married Alexandra; he was a man of note, but had by her no children. Agrippa had by Cypros two sons and three daughters, which daughters were named Bernice, Mariamne, and Drusius; but the names of the sons were Agrippa and Drusus, of which Drusus died before he came to the years of puberty; but their father, Agrippa, was brought up with his other brethren, Herod and Aristobulus, for these were also the sons of the son of Herod the Great by Bernice; but Bernice was the daughter of Costobarus and of Salome, who was Herod’s sister. Aristobulus left these infants when he was slain by his father, together with his brother Alexander, as we have already related. But when they were arrived at years of puberty, this Herod, the brother of Agrippa, married Mariamne, the daughter of Olympias, who was the daughter of Herod the king, and of Joseph, the son of Joseph, who was brother to Herod the king, and had by her a son, Aristobulus; but Aristobulus, the third brother of Agrippa, married Jotape, the daughter of Sampsigeramus, king of Emesa; they had a daughter who was deaf, whose name also was Jotape; and these hitherto were the children of the male line. But Herodias, their sister, was married to Herod [Philip], the son of Herod the Great, who was born of Mariamne, the daughter of Simon the high priest, who had a daughter, Salome; after whose birth Herodias took upon her to confound the laws of our country, and divorced herself from her husband while he was alive, and was married to Herod [Antipas], her husband’s brother by the father’s side, he was tetrarch of Galilee; but her daughter Salome was married to Philip, the son of Herod, and tetrarch of Trachonitis; and as he died childless, Aristobulus, the son of Herod, the brother of Agrippa, married her; they had three sons, Herod, Agrippa, and Aristobulus; and this was the posterity of Phasaelus and Salampsio. But the daughter of Antipater by Cypros was Cypros, whom Alexas Selcias, the son of Alexas, married; they had a daughter, Cypros; but Herod and Alexander, who, as we told you, were the brothers of Antipater, died childless. As to Alexander, the son of Herod the king, who was slain by his father, he had two sons, Alexander and Tigranes, by the daughter of Archelaus, king of Cappadocia. Tigranes, who was king of Armenia, was accused at Rome, and died childless; Alexander had a son of the same name with his brother Tigranes, and was sent to take possession of the kingdom of Armenia by Nero; he had a son, Alexander, who married Jotape, 17 the daughter of Antiochus, the king of Commagena; Vespasian made him king of an island in Cilicia. But these descendants of Alexander, soon after their birth, deserted the Jewish religion, and went over to that of the Greeks. But for the rest of the daughters of Herod the king, it happened that they died childless. And as these descendants of Herod, whom we have enumerated, were in being at the same time that Agrippa the Great took the kingdom, and I have now given an account of them, it now remains that I relate the several hard fortunes which befell Agrippa, and how he got clear of them, and was advanced to the greatest height of dignity and power. 4. ヘロデ大王には、二人、マリアムネという名前の娘がいた。一人はサランプシオで、彼女のいとこであるファサエルスと結婚、ファサエルスはヘロデの兄ファサエルスの子であった。ファサエルスはサランプシオとの間に、アンティパテル、ヘロデ、アレクサンダー、アレクサンドラ、シプロスの5人の子をもうけたが、アリストブルスの子アグリッパが結婚し、キプロスのティミウスがアレクサンドラと結婚した。アグリッパはキプロスとの間に二人の息子と三人の娘をもうけたが、娘たちはベルニス、マリアムネ、ドルシウスと名づけられ、息子たちの名はアグリッパとドルススであった; しかし、その父アグリッパは、ヘロデとアリストブルスという他の兄弟たちと共に育てられ、これらもまた、ヘロデ大王の子ベルニケの子であった。アリストブルスは、すでに述べたように、弟のアレクサンダーとともに父に殺されたとき、これらの幼子を残した。しかし、アグリッパの弟ヘロデは、彼らが思春期を迎えたとき、ヘロデ王の娘であるオリンピアスの娘マリアムネと、ヘロデ王の兄弟であるヨセフの子ヨセフの娘マリアムネと結婚し、彼女との間に子アリストブルスをもうけた; しかし、アグリッパの三番目の兄アリストブルスは、エメサの王サンプシゲラムスの娘ヨタペと結婚し、ふたりの間には耳の聞こえない娘がいたが、その名もヨタペであった。しかし、彼らの妹ヘロディアスは、ヘロデ大王の子ヘロデ[フィリポ]と結婚した。ヘロデ[フィリポ]は、大祭司シモンの娘マリアムネとの間に生まれ、娘サロメをもうけた。ヘロデ[フィリポ]が生まれた後、ヘロディアスはわが国の掟を混乱させるために、夫が生きている間に離縁し、夫の父方の兄弟ヘロデ[アンティパス]と結婚した; しかしその娘サロメは、ヘロデの子でトラコニテスの四君子であったフィリポと結婚し、彼は子を産まずに死んだので、ヘロデの子でアグリッパの兄弟であったアリストブルスが彼女と結婚し、ヘロデ、アグリッパ、アリストブルスの三人の子をもうけた。アルメニアの王であったティグラネスはローマで告発され、子なくして死んだ。アレクサンダーには兄ティグラネスと同名の息子がおり、ネロによってアルメニア王国を占領するために派遣された。アレクサンダーには息子アレクサンダーがおり、彼はコンマゲナの王アンティオコスの娘ヨタペと結婚した。ベスパシアヌスは彼をキリキアの島の王とした。しかし、アレクサンダーの子孫たちは、生まれて間もなく、ユダヤ人の宗教を捨て、ギリシア人の宗教に帰依した。しかし、ヘロデ王の残りの娘たちには子供がなく、死んだ。我々が列挙したヘロデの子孫たちは、アグリッパ大王が王権を握ったのと同時期に存在し、私は今、彼らについて説明したので、あとは、アグリッパに降りかかった幾つかの苦難の運命と、彼がいかにしてそれを乗り越え、威厳と権力の最大の高みにまで昇りつめたかについて述べるだけである。
ヨセフスとの差異
マルコではピリポ、ヨセフスではヘロデ大王とマリアンヌ2世との間のヘロデ
マルコでは、ヨハネが殺されたのは、ガリラヤ湖のほとりのテベリアであるように思えるが、ヨセフォスでは、死海の東にあるマルケスの要塞
マルコでは、ヘロディアの憎しみによって殺されたことになっているが、ヨセフォスでは、ヨハネが結婚の問題で、ヘロデを非難したことは、少しも述べていない。むしろ、ヨハネの名声が高まり、彼が民衆の支持を得て、反乱を起こすことをヘロデが恐れたためとしている。
律法違反
レビ18:16 あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである。
レビ20:21 人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。
4.34.5 記録
日時:2023年11月16日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.34.6 問いについて
登場人物について確認しましょう。
[DQ] 特に、イエスや、イエスの弟子たちとの関係も分かれば列挙しましょう。
バプテスマのヨハネ:マルコ 1:1-11(ヨハネとイエス), 2:18-22(断食、参照:マタイ9:14), このあと 8:27-30(ペトロの告白), 11:27-33(権威)
ルカ3:1,2 皇帝テベリオ在位(AD14-AD37)の第十五年(AD27-29)、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主(BC4-AD39)、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主(BC4-AD34)、ルサニヤがアビレネの領主、2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
ヘロデ(Herod Antipas II)ヘロデ大王とマルタケの子:ルカ13:31-35 31 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。32 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。33 しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。ルカ23:5-12 7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。
ヘロデヤ(Herodias):ヘロデ大王とマリアンヌI の子のアリストブルスの子。ヘロデ大王とマリアンヌIIの子ヘロデ・ピリポI と結婚、その子はサロメ(ヘロデ大王とクレオパトラの子、ヘロデ・ピリポII(ルカ3:1)と結婚)
エリヤ、昔の預言者
イエスのことを人々は、そしてヘロデはどのように考えていましたか。(14,15,16)
14 さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。
マタイ14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。
ルカ9:7b-9 それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、8 またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。9 そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。
人々の説
「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」:それだけ、ヨハネへの期待が大きかった。
- [DQ] パプてスマのヨハネとはどのような人ですか。
- [DQ] なぜ、バプテスマのヨハネがよみがえったと思ったのでしょうか。
- 人々がそう考えた理由と、ヘロデがそう考えた理由は異なるかもしれない。そこで、まずは、人々の考え。
- マタイでの第一声は、同じ。
「彼はエリヤだ」メシアの先ぶれ:過越の祭りではエリヤの席がそなえられている。
「昔の預言者のような預言者だ」300年も現れていない:このように主は言われる。
[DQ] 弟子たちは、どう思っていたのでしょうか。
- 4:41 では弟子たちもイエスはだれかを疑問としていた。
[DQ] イエスは自分をどう認識していたのでしょうか。
- 1;9-11 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
[DQ] なぜ王は、イエスがヨハネの生まれ変わりだと思ったのでしょうか。
[DQ] ルカを見ると、ヘロデはイエスに会ってみたいと思ってたとありますが、それはなぜでしょうか。
- ルカ23:6-12 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。9 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。10 祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。11 またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。
オリゲネスは、イエスとヨハネが互いに似ていたとの伝説を述べている。A. Aplummer: An Exegetical Commentary on the Gospel accoring to St. Matthew, Eerdansm p.211
イエスの母マリアと、ヨハネの母エリザベトとの関係
ルカ1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。
ルカ1:39,40 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
ヨハネ10:41 多くの人々がイエスのところにきて、互に言った、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」。
ヘロデはどのような理由でヨハネを捕らえますか。(17,18)
17 このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
マタイ14:3 というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4 すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
ルカ3:19,20 ところで領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、20 彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。
ヘロデと、ヘロデヤにとって、ヨハネはどのような存在だったのでしょう。(19,20)
19 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。
マタイ14:5 そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。
[DQ] ヘロデとヘロデヤでは何が違いますか。それは、なぜでしょう。
[DQ] ヘロデは何に戸惑っていた(口語:あわて惑っていた、新改訳:ひどく当惑していた)のでしょうか。
ヘロデヤ:列王記上23:9 のイザベル
ヘロデは、なぜ、ヨハネを殺す決断をしたのでしょう。(21-29)
21 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、22 そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、23 さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。24 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25 するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。26 王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27 そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28 盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。
マタイ14:6 さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7 彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8 すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9 王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11 その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。12 それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
マルケスの城の土牢:死海の東岸を見下ろした尾根の上
[DQ] ヘロデは殺すことを望んでいたでしょうか。
レビ5:45 ? 誤った請願(誓は複数、なんども誓った)
なぜ、王は心を痛めたのでしょうか。
ヘロデ党
マルコ3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
マルコ12:13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
マタイ22:16 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。
ヘロデのパンだね
- マルコ8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。(マルコ8:14-21, マタイ16:5-12 では、パリサイ人のパンだねと、サドカイ人のパンだね)
- [DQ] ヘロデのパンだねとは何なのでしょうか。(宿題)
ルカ8:3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
ルカ18:31 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。
ルカ23:15 ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。
イエスや弟子たちにとって、このことは、どのような意味を持っていたでしょうか。
- 参照:マタイ14:13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。
- 参照:マタイ4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
4.34.7 メモ
- ヘロデが、バプテスマのヨハネを殺した理由が、ヘロデヤのことだと、マルコ、マタイには、書かれているが、ここに描かれているように、殺すのは、一般民衆にわかりやすいかもしれないが、違和感もある。それもあり、教養人ルカは、それを、書いていないように思う。そして捕まえた箇所で「ルカ3:19,20 ところで領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、20 彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。」と、それまでマルコなどに書かれていることも踏まえつつ、「あらゆる悪事」という表現をしているのかと思った。もしかすると、ルカは、ヨセフスも読んでいたかもしれない。それと引き換え、ペテロは、民衆の中に流布されていた、わかりやすい理由や、エピソードを語ったのかもしれない。ルカにある、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナからの情報かもしれない。
- イエスや、弟子たちへの影響は、よくは分からないが、ヨハネの弟子から、イエスの弟子になった人たちもいたことを考えると、深刻であったろう。ヘロデがヨハネの関係もある程度知っていたとすると、希望ももっていたかもしれない。それは、打ち砕かれることになる。このとき、すでに、イエスの環境はあまり良くなかったことも、あわせて考えるべきである。
- 準備をしていて、「マルコ8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ』と言われた。」が気になった。パリサイ人のパンだねは、律法主義のようなものとして、ある程度想像がつくが、ヘロデのパンだねとは、何だろう、どう表現したら良いだろうかと考えた。その箇所を学ぶ時までの宿題だと自らに言い聞かせたが、現時点での考えとしては、この箇所で表現されていることから考えると「自分の罪、悪、変えるべきことを認識しながら、方向転換(メタノイア:悔い改め)をしない、一歩を踏み出さない」ということかなと思う。ひとは、一歩を踏み出しても、むろん、神の前に正しく生きることはできない。しかし、一歩を踏み出すことが大切であることは、確かで、それなしには、始まらない。まさに、弟子たちのメッセージ「悔い改めよ」、これは、イエスのメッセージの一部でもある。ヘロデは、それをしなかった。たしかに、一歩を踏み出すことは、特に、社会的地位を持っているものにとっては難しいのだろう。しかし、それをするかどうかに、天地の差がある。と、現時点では、考える。
6:30-44 五千人に食べ物を与える
30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。38 するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。42 みんなの者は食べて満腹した。43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。44 パンを食べた者は男五千人であった。
4.34.8 マタイ 14:13-21
13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。
4.34.9 ルカ 9:10-17
10 使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。11 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。12 それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。13 しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。14 というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。15 彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。16 イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。17 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。
4.34.10 ヨハネ 6:1-14
1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
4.35 6:30-34 五千人に食べ物を与える(1)
30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
4.35.1 マタイ 14:13-14
13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。
4.35.2 ルカ 9:10-11
10 使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。11 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。
4.35.3 ヨハネ 6:1-3
1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
4.35.4 問い
弟子たちは、どのように、送り出されましたか。(6:7-13)
弟子たちが戻ってきたときの状態はどのように描かれていますか。(30-32)
このときの、弟子たちや、イエスはどのような状態だったのでしょうか。
群衆はどうしますか。(33)
イエスは大勢の群衆をみてなぜ深く憐れまれたのでしょうか。(34)
イエスはどうしますか。イエスが、たいせつにしていたことは何なのでしょうか。(34 および並行箇所)
4.35.5 参照
地図:イエスの時代のガリラヤ(107 Galilee in the time of Jesus)
地図:ガリラヤ湖周辺(108 The Ministry of Jesus Around the Sea of Galilee)
Google Map:ティベリアス湖
σπλαγχνίζομαι:to be moved as to one’s bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity)
マタイ9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
マタイ14:14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。
マタイ15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。
マタイ18:27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
マタイ20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
マルコ1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。
マルコ6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
マルコ8:2 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。
マルコ9:22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
ルカ7:13 主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
ルカ10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
ルカ15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
飼う者のない羊
民数記27:15-17 モーセは主に言った、16 「すべての肉なるものの命の神、主よ、どうぞ、この会衆の上にひとりの人を立て、17 彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」。
列王記上22:17 彼は言った、「わたしはイスラエルが皆、牧者のない羊のように、山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は飼主がいない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。
歴代誌下18:16 彼は言った、「わたしはイスラエルが皆牧者のない羊のように山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は主人をもっていない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。
エゼキエル34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。
4.35.6 記録
日時:2023年11月23日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)4名
4.35.7 問いについて
弟子たちは、どのように、送り出されましたか。(6:7-13)
7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
[DQ] なにをしてきたのでしょうか。
6:12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
ルカ9:6 弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。
[DQ] どのように報告していますか。
30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
したことや、教えたことは、報告しているが、どうなったかは、書かれていない。
「使徒たち306」はマルコではここだけ。ヘブル語のシャリアハに対応か。
[対比] ルカ10:1-24 17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。20 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
- このような華々しさは、感じられない。
弟子たちが戻ってきたときの状態はどのように描かれていますか。(30-32)
30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
[DQ] イエスはどんなことを勧めていますか。
- 人を避けて寂しいところへ行って、しばらく休むがよい。
- [Q] イエス自身はどうだったのでしょうか。一緒に行きますか。
ルカ、ヨハネでは、いつ、イエスは、どこからどこへ移動したと書かれていますか。
ルカ9:10 使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。
ベツサイダは、ピリポの所領で、ヘロデアンティパスではない。
ヨハネ6:1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
ただし、マルコでは、五千人の給食のあとに、ベッサイダに移動の記事が続く。
- マルコ6:45-46 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。
場所は、重要な要素でもあり、検討が必要。
このときの、弟子たちや、イエスはどのような状態だったのでしょうか。
- イエスはなぜ人里離れたところに退かれたのでしょうか。
- 疲れていたのではないだろうか。
- イエスについて:マタイ14:13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。
- マタイでは、イエスのことが書かれている。イエスにとっても、重大な時だったかもしれない。
- マタイ4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
- マルコでは、そこまで明確ではない。
群衆はどうしますか。(33)
33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
[DQ] 群衆は何を求めてイエスの後を追いかけたのでしょうか。
かなり必死になっているようにも見える。
なにを求めているのかも、わかっていないのかもしれない。
[DQ] なぜ、派遣の前とあとの間に、バプテスマのヨハネの記事が挟まれているのだろうか。
- バプテスマのヨハネは捕えられていたが、殺されたことも知り、望みは、イエス以外にないと思っていたかもしれない。
イエスは大勢の群衆をみてなぜ深く憐れまれたのでしょうか。(34)
34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで(σπλαγχνίζομαι:to be moved as to one’s bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity))、いろいろと教えはじめられた。
[DQ] 飼う者のない羊のような有様とは、どのような状態を表現しているのでしょうか。
(参照)民数記27:15-17、列王記上22:17、歴代誌下18:16、エゼキエル34:5
行き先がわからない。
危険にたいして無防備
[DQ] イエスは、群衆の何を、深く憐れまれたのでしょうか。
このことばは、聖書では、共観福音書にのみ、12回使われている、特別な言葉。イエス、または、神の痛みを表していることばでもある。
- マルコ1:41、8:2、9:22 私どもを、ルカ 10:33、15:20
イエスはどうしますか。イエスが、たいせつにしていたことは何なのでしょうか。(34 および並行箇所)
34b いろいろと教えはじめられた。
マタイ14:14b そのうちの病人たちをおいやしになった。
ルカ9:11 11 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。
ヨハネ6:2,3 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
Be available, stay vulnerable.
[DQ] 弟子たち、群衆の状況も、踏まえて考えてみましょう。
- イエスも、焦燥し、苦しいこともあったのではないだろうか。しかし、弟子たちに配慮し、群衆の状態に心を痛めを深く憐れむ。それを、ペテロはみてとったのではないだろうか。ペテロの中でも、イエスについての認識が、変化しつつあるのかもしれない。
4.35.8 メモ
- なぜ、このような時点で、弟子たちを派遣したかは、不明であるが、実際の、人々の反応を、身をもって、経験することは、「使徒」にとって、大切だったのだろう。
- バプテスマのヨハネが、殺されたのが、どの時点であるかは、判然としないが、この直前に挿入されていることからも、知ったのは、このあたりだとするのが、順当だろう。マタイが、書いているように、イエス自身にとっても、情勢判断も含めて、重要なことだったろうが、ここでは、イエスの、弟子たちへの配慮について、書かれている。これこそが、ペテロが経験したことなのだろう。イエスの配慮。そして、そんな中での、イエスの行動。そして、その状況を、深く憐れんでと伝えている。イエスのこころが、はっきりとわかるわけではないが、伝わってくるものがあったのではないだろうか。
- 弟子たちは、自分のことで、いっぱいいっぱいだったのだろうが、ペテロは、イエスの配慮を語っている。必ずしも、うまくはいかなかったかもしれないが。バプテスマのヨハネの記事も、イエスとは何者かとの問いとして始めている。8章で、ペトロの告白に至る間の記事と考えると、ペトロの中では、すでに、イエスは、バプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのだとは、考えていなかったろう。その意味で、ペテロの目は、すでに、イエスが、「生ける神の子キリストか」という一点に絞られているように思う。バプテスマのヨハネの死は、バプテスマのヨハネだった弟子もいることを考えると、小さくはない。しかし、そうであっても、ここでのイエスや、弟子たちの行動に、大きく影響しているとは、ペテロも思っていなかったろう。他方、人々には、十分、影響しているのかもしれない。そのあたりも、興味深い。
- 舟をどのようにまわしたのか。イエスはずっと、弟子たちと一緒にいたのか、一人で祈ったのかなど、判然としない部分が多い。おそらく、ペトロにとって、それは、重要ではなかったのだろう。
- 皆にとって特別なときだったのかも知れない。そのときに、積極的な活動をする活力はどこから湧いてくるのだろう。
4.36 6:35-44 五千人に食べ物を与える(2)
35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。38 するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。42 みんなの者は食べて満腹した。43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。44 パンを食べた者は男五千人であった。
4.36.1 マタイ 14:15-21
15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。
4.36.2 ルカ 9:12-17
12 それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。13 しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。14 というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。15 彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。16 イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。17 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。
4.36.3 ヨハネ 6:4-14
4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
4.36.4 問い
背景を確認しましょう。弟子たちは、イエスにどんな提案をしますか。(30-36)
イエスは、どのように応答し、行動し、そして、何が起こったか、順にまとめてみましょう。(37-44)
なぜ、イエスは、弟子たちに彼らが食べ物を与えるように、そして、持っているたべものを調べるように命じたのでしょうか。(37,38)
ヨハネによる福音書からさらにどのようなことがわかりますか。
いったい何が起こったのだと思いますか。(39-43)
あなたは、何を学びましたか。
4.36.5 参照
解散:おそらくイエスの仕事
マルコ6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。(マタイ14:15、ルカ9:12)
マルコ6:45 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。(マタイ14:22,23)
マルコ8人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、(マタイ15:39)
ピリポとアンデレ
マルコ1:16 さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。(マタイ4:18)
マルコ1:29 それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。
マルコ3:18 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、(マタイ10:3、ルカ6:14)
マルコ13:1-13 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
ヨハネ1:35-51 40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。42 そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。46 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。
ヨハネ12:20-27 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
ヨハネ14:1-14 6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
デナリ:ローマの銀貨(重さ3.9g)で、1ドラクメ(ギリシャの銀貨で、重さ4.3g)と等価、一日の賃金にあたる。
種類 重さ 直径 材質 1円玉 1.0g 20.0mm アルミニウム100% 5円玉 3.75g 22.0mm 銅60~70%・亜鉛40~30% 10円玉 4.5g 23.5mm 銅95%・亜鉛4~3%・スズ1~2% 50円玉 4.0g 21.0mm 銅75%・ニッケル25% 100円玉 4.8g 22.6mm 銅75%・ニッケル25% 500円玉 7.0g 26.5mm 銅72%・亜鉛20%・ニッケル8% かご:
κόφινος: a basket, wicker basket(籐のかご)
- マルコ6:43、8:19、マタイ14:20、16:9、ルカ9:17、ヨハネ6:13
σπυρίς: a reed basket, (a plaited basket, a lunch basket, hamper)(よしなどであんだかご)
- マルコ8:8、8:20、マタイ15:37、16:10
4.36.6 記録
日時:2023年11月30日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)4名
4.36.7 問いについて
背景を確認しましょう。弟子たちは、イエスにどんな提案をしますか。(30-34, 35,36)
復習:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
復習
バプテスマのヨハネの処刑の記事に引き続き、弟子たちが、宣教から帰ってきた時の様子が書かれている。
人々の出入りが多く、食事をする暇もないほどだったので、舟で寂しいところに行った。
人々は、「方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。」
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
今回の箇所
時もおそくなっていた。
弟子たちは、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」と提案。
[Q] なぜ、イエスは弟子たちの提案を受け入れなかったのでしょうか。
- 「34 飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。」にかかっている。
イエスは、どのように応答し、行動し、また、何が起こったか、順にまとめてみましょう。(37-44)
イエス:あなたがたの手で食物をやりなさい(37a)
弟子たち:わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか(37b)
イエス:パンは幾つあるか。見てきなさい(38a)
弟子たち:五つあります。それに魚が二ひき(38b)
- ルカでは「わたしたちはここに、パン五つと魚にひきしか持っていません。」「しか」と言っている。
イエス:みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。(39)
- 「青草」証言者目線。ヨハネ:過越の祭りが近づいていた
人々:あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。(40)
- 「列をつくって(πρασιά:i) a plot of ground, a garden bed, ii) Hebrew idiom i.e. they reclined in ranks or divisions, so that several ranks formed, as it were separate plots)」(畑のウネのように)証言者目線。
イエス:五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。(41)
みんなの者:みんなの者は食べて満腹した。(42)
不明(弟子たち):パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
- かご:籐のかご、旅行などで食物を入れて持って行ったと言われる。
パンを食べた者は男五千人であった。
[DQ] 不思議に思うこと。気になること。ちょっと考えたいことはありますか。
イエスが祈り分けて配らせ、その後、満腹した、その間がわからない。
すくなくとも、イエスの手のうちで、倍、四倍、八倍と増えていったようには書かれていない。
単に、精神的満足を得られたわけでもなさそうである。十二のかごがいっぱいになっている。
この、十二のかごは、何で、このあとどうしたのだろうか。
なぜ、イエスは、弟子たちに彼らが食べ物を与えるように、そして、持っているたべものを調べるように命じたのでしょうか。(37,38)
37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。38 するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
[DQ] なぜ、あなた方の手で、食物をやりなさいと言ったのだろうか。
奉仕することが仕事だから。自助(めいめいで何か食べる物を買いに)ではなく。
人々が飼うもののない羊のように弱り果てていたから。
人々の責任にして、放置することが良いこととは思えないから。
[DQ] なぜ、持っているものを調べさせたのでしょうか。
自分たちは、食事ができるが、食事ができない人がいることを知らせ、自分のものを差し出すことを学ぶため。
今、手元にあるもので、神様が何をしてくださるかを知るため。
[Q] 弟子たちは、自分たちの食事をどうしようと思っていたのでしょうか。自分たちも、それぞれが買いに行かないといけなかったのでしょうか。
[Q] どこを調べにいけと言ったのだろうか。自分たちは持っているだろうといったのだろうか。
- What are available now? 神は、なにを与えてくださっているか。何がないかではなく。
[DQ] だれが、パンや、魚を持っていたのだろうか。
- これは、弟子たちのパンと魚だったのだろうか。
ヨハネによる福音書からさらにどのようなことがわかりますか。(ヨハネ6:1-3, 4-14)
この時の状況を、ヨハネは 4-5節にどのように描いていますか。(参照:ヨハネ6:1-14)
復習
1 テベリヤ湖(1C後半の呼び方)の向こう岸へ渡られた。
2 大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
今回の箇所
4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、
イエスはフィリポにどのように声をかけますか。
- 5b ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
- ヨハネ1:44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。
フィリポは何と答えますか。
- 7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
- 1デナリを10000円とすると、8000人いれば、ひとり250円。
- 1デナリで、パンを何個買えたかは不明だが、8個から20個。これは、大麦のパンという安物なので、20個とすると、4000個買える。一人、半分程度。
- 7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
このとき、誰がどのような情報をもたらしますか。
- 8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
- パンは大麦のパン、おそらく平たい皿のような形、魚(ὀψάριον: a relish to other food (as if cooked sauce), i.e. (specially), fish (presumably salted and dried as a condiment):—fish.)は、料理した魚。
この少年は、とてもたくさんパンと魚をもっていたのでしょうか。
- 弟子たちが、食べ物を探していたので、差し出したのでは。
イエスはどうしますか。
- 10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
どうなったと書かれていますか。
- 12 人々がじゅうぶんに食べたのち、
その他
五つのパンと二匹の魚の出来事がどのように扱われているか6章の中からリストしてみましょう。
人々は、最初イエスのもとに来たとき(6章のはじめ)何を求めていたのでしょうか。
五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹した後、人々は、何を求めていますか。
イエスは、何を人々に求めていますか。
いったい何が起こったのだと思いますか。(39-43)
- 39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。42 みんなの者は食べて満腹した。43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
- この記事を通して福音書記者はそれぞれ何を伝えようとしているのでしょうか。
あなたは、何を学びましたか。
物理的にパンや魚が増えたということは、主張していない。
12のカゴなどを記述から、精神的に満ち足りたという解釈は、合理性がない。
ヨハネの記述を見ると、少年が関与している。おとなには、損失回避(プロスペクト理論)のバイアスが強い。
スケールも重要かもしれない。50人程度なら、分け合うことができるかも。
4.36.8 メモ
なにが正解かはわからない。基本的には、不明だとすべきなのだろう。しかし、いくつかのことはわかる。物理的に、二倍、四倍となったなどという表現はない。非科学的な作り話だとか、神だからなんでもできるというのは、どちらも、単純化バイアスのもとにあるように見える。また、精神的に、みなが、満たされて、肉体的に満たされたと考えるのも、十二カゴのパンクズの説明にはつながらない。実際には、なにが、あったかは定かではないが、やはり、イエスはこれを、神の国が近いとのしるしとしてなし、それを、ペテロも語ったことは確かだろう。それは、ヨハネも引き継いでいる。
ヨハネには、ベッサイダ(漁の家)出身の、ピリポとアンデレが登場する。土地に詳しかったのだろう。
弟子たちのグループは、ここから見ると、12弟子と、女性たちだったのではないかと思われる。そして、その人たちが食べる分は、食事をする暇もない(31)との記述から、あったろうとおもわれる。イエスが、「パンがいくつあるかみてきなさい」と言われた時、なにを意図したかは、はっきりとはわからないが、神様があたえてくださっているものすべてを確認する意味があったように感じる。あなた方の食べる分を出しなさいとは、言っていないように見える。
しかし、それに応じたのは、少年だったのだろう。だれも、みんなに分け与えたいとは考えていなかったろう。少年も、それがどうなるかは、正直理解はできていなかったろう。弟子たちもむろん同様。
五十人、百人のグループわけは、意味があったように見える。全世界のひとと分け合うことはできなくても、ある程度の眼に見えるグループの中では分かち合うことができる。これが、こたえだとは、言えない。しかし、可能性はある要因思う。
出エジプト18:21 また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。
組み:συμπόσιον: a drinking party, entertainment, of the party itself, the guests, rows of guests
ダンバーの法則307なども背景にあるのだろうか。
では、なぜ、福音書記者は、他の書き方をしなかったのだろう。福音書記者も十分理解できていなかったのかもしれない。
- マルコ8:13-21 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。19 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかご(κόφινος)になったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。20 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかご(σπυρίς)に拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。21 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。
マナとの対比も考えるべきかもしれない。
出エジプト16章
ヨハネ6:14,15 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
ヨハネ6:32 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
エリシャ 列王記下4:41-44 42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。
イザヤ25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
4.37 6:45-52 湖の上を歩く
45 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。47 夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。52 先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。
4.37.1 マタイ 14:22-33
22 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24 ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。25 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。26 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。27 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。32 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。33 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
4.37.2 ヨハネ 6:15-21
15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。16 夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。
4.37.3 問い
直前の出来事を復習しましょう。どんなことがありましたか。(6:30-44)
イエスはどうしますか。(45,46)
その晩、どんなことがおこりますか。(48-51)
ヨハネからはさらにどのようなことがわかりますか。
マタイには、さらにどのようなことが書かれていますか。
パンのことを悟っていないとはどういうことでしょうか。(52)
4.37.4 参照
- どこから、どこへ移動するときか、マルコとルカとヨハネを比較すると異なっている。マルコでは、五千人の給食のあと、ベッサイダに移動、そのときのこととしている。ルカでは、五千人の給食の前に、ベッサイダに移動したことが書かれている。ヨハネでは、まず、向こう岸(おそらく、ベッサイダ)に行き、五千人の給食、その後、向こう岸のカペナウムに向かう途中の出来事としている。
- 四、五十丁:25ないし30スタディオン(ヨハネ6:19)1スタディオンは、約185メートル、1/8ミリオン。4625m から 5550m。海を横切ると、6キロ程度とされているので、ほとんど到着している。
- ヨハネ21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで(ἐπὶ τῆς θαλάσσης)、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
- 詩篇107:28-30 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、/主は彼らをその悩みから救い出された。29 主があらしを静められると、/海の波は穏やかになった。30 こうして彼らは波の静まったのを喜び、/主は彼らをその望む港へ導かれた。
4.37.5 記録
日時:2023年12月7日午後7時半〜9時半
出席(対面)7名、参加(遠隔)3名
4.37.6 問いについて
直前の出来事を復習しましょう。どんなことがありましたか。(6:30-44)
12弟子の派遣。バプテスマのヨハネの処刑。弟子の帰還。
「しばらく休むがよい」(32)
五千人の給食。
イエスはどうしますか。(45,46)
45 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。
群衆をどうしますか
弟子たちには、なにを命じますか。
[DQ] なぜ、「すぐに」、自分で、解散させ、「しいて」舟に乗り込ませたのでしょうか。
イエス自身はどうしますか。
[DQ] イエスは、疲れないのでしょうか。
[DQ] 何を、祈っておられたのでしょうか。
ヨハネ6:15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしている
こころみるものの、再来。
[DQ] 結局、どこから、どこへ、移動したのでしょうか。
その晩、どんなことがおこりますか。(48-51)
- 48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上(ἐπὶ τῆς θαλάσσης)を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。49 彼らはイエスが海の上(ἐπὶ τῆς θαλάσσης)を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
- 海の上を歩いて、弟子たちに近づき、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」
- [DQ] 状況を思い描いてみましょう。なぜ、弟子たちは、長く沖合にいたのでしょうか。
- [DQ] 「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」は、どのような意味を持っているのでしょうか。
ヨハネからはさらにどのようなことがわかりますか。
ヨハネ6:14, 15 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
[DQ] 人々は、これをどのように受け止め、どのような行動に出たと書かれていますか。
14節と、15節の関係も微妙である。人々が来ては、噂を聞いたひとが、違ったことを考えたのかも知れない。評価は難しかっただろうから。イエスは手品師ではない。
ヨハネ16-17 夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
弟子たちはどのような状況で舟にのりますか。
ヨハネ6:18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。19 四、五十丁(ὡς σταδίους εἰκοσιπέντε (twenty) ἢ τριάκοντα (thirty), 3700m-5550m)こぎ出したとき、イエスが海の上(ἐπὶ τῆς θαλάσσης ヨハネ21:1)を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。σταδίους: a space or distance of about 600 feet (185 m)
ヨハネ6:21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。
[DQ] ヨハネはこの話しをどのように締めくくっていますか。
[DQ] イエスは、舟に乗り込んだのでしょうか。
マタイには、さらにどのようなことが書かれていますか。
ペテロはどうしますか。イエスはどう応じられますか。
どうなりましたか。
舟にいた人たちはどうしますか。
パンのことを悟っていないとはどういうことでしょうか。(52)
52 先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。
それぞれの福音書は、この物語を通じて、何を伝えているのでしょうか。
4.37.7 メモ
- 場所の問題:ベッサイダは、ヨルダン川の東岸のベッサイダ・ユリアスか、それとも、西岸のどこかに、漁の家(ベッサイダ)という町があったかは、不明である。ここでは、ペテロの証言もあり、ヨハネの証言(湖の向こう岸カペナウムに行こうとしていた)もあるとすると、判断は、難しい。
- ‘ἐπὶ τῆς θαλάσσης’ をどう解釈するかで、大きく、状況は変化する。ヨハネ21:1 では、海辺となっている。どちらにも解釈ができることは、共通理解なのだろう。ヨハネによる福音書を読んでいると、実際には、海辺を歩いておられたように、感じる。舟に乗り込まれたことも書かれておらず、つぐついたことだけが書かれている。距離も、ほぼ、到着するまでの距離が書かれている。それがヨハネの回顧だったようにおもわれる。マルコ、または、ペトロが伝えたものは、どうだろうか。ここでも、ἐπὶ τῆς θαλάσσης が二度使われている。しかし、「51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。52 先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。」を見ると、やはり、まだ海の上の出来事であると解釈するほうが良さそうである。マルコは、ペテロが語ったことを、海の上のことと解釈したのだろう。それを修正したのが、ヨハネによる福音書なのかもしれない。しかし、マタイは、尾ひれがついている。ペテロの証言ではないので、信用性は、落ちるが、おそらく、当時のひとたちは、この話を、海の上を歩かれたイエスと解釈していたのだろう。それも、動かせないように思われる。
- 「パンのことを理解していなかった」は、パンのことをどう考えるかによっても、解釈が分かれる。もし、超自然的に、無から有が生まれたのだとすると、イエスが、そのような奇跡を行われる、神の子であることを理解していなかったとなる。他方、それぞれのグループで、出し合ったという解釈をとると、互いに愛しあう交わりをとおして、神の国の到来を知ることができるとなる。いずれにしても、恐れることはない。
- この出来事で、マタイが書いているように、弟子たちのイエスの理解には、大きな変化があったのだろうか。
- ヨハネによる福音書の6章20節は、ὁ δὲ λέγει αὐτοῖς Ἐγώ εἰμι μὴ φοβεῖσθε で、Ἐγώ εἰμι が含まれている。これは、わたしである。との表現であるが、出エジプトで、モーセに自らをあらわす、I am who I am とも通じるものである。わたしが、いるとも訳すことが可能で、ヨハネでは、イエスがともにいるかどうか、イエスがともにいるときが光、昼、イエスがともにいないときは、闇、夜と捉えることも可能である。そのような解釈で、ここをまとめるのは、多少危険でもあるが。
4.38 6:53-56 ゲネサレトで病人を癒やす
53 彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。54 そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、55 その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。56 そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。
4.38.1 マタイ 14:34-36
34 それから、彼らは海を渡ってゲネサレの地に着いた。35 するとその土地の人々はイエスと知って、その附近全体に人をつかわし、イエスのところに病人をみな連れてこさせた。36 そして彼らにイエスの上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいとお願いした。そしてさわった者は皆いやされた。
4.38.2 問い
これまでにどのようなことがあったか、復習してみましょう。
ゲネサレの地で人々はどのように、イエスを迎えますか。
イエスはどうしますか。
人々は、何を求めているのでしょうか。
イエスは、いやしについてどう考えていたのでしょうか。
4.38.3 参照
ゲネサレ(Γεννησαρέτ: Gennesaret = “a harp”, a) a lake also called the sea of Galilee or the sea of Tiberias The lake 12 by 7 miles (20 by 11 km) and 700 feet (210 m) below the Mediterranean Sea. b) a very lovely and fertile region on the Sea of Galilee.)ガリラヤ湖(テベリヤ湖)の別名。地名としては、ガリラヤ湖北岸。カペナウムの西。(マルコ6:53, マタイ14:34, ルカ5:1)[地図リンク]
- ルカ5:1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
群衆・人々の求めるもの、不特定の人々のいやし
マルコ1:32-35 夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。33 こうして、町中の者が戸口に集まった。34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。35 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコ1:45 しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
マルコ2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
マルコ3:7-11 それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
マルコ6:12,13 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
θεραπεύω: i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health [BLB Link]
マルコ1:34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
マルコ3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。
マルコ3:10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
マルコ3:15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(写本によっては、いやしが入っている。)
マルコ6:5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
マルコ6:13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。[マルコ6回]
マタイ4:23, 24, 8:7, 16, 9:35, 10:1, 8, 12:10, 15, 22, 14:14, 15:30, 17:16, 18, 19:1, 21:14 [マタイ16回]
ルカ4:23, 40, 5:15, 6:7, 18, 7:21, 8:2, 43, 9:1, 6, 10:9, 13:14, 14:13 [ルカ13回]
ヨハネ5:10 [ヨハネ1回]
ἰάομαι: i) to cure, heal, ii) to make whole [BLB Link]
マルコ5:29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。[マルコ1回]
マタイ8:8 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
マタイ8:13 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
マタイ13:15 この民の心は鈍くなり、/その耳は聞えにくく、/その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、/悔い改めていやされることがないためである』。
マタイ15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。[マタイ4回]
ルカ4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、/わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、/囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、/打ちひしがれている者に自由を得させ、
ルカ5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。
ルカ6:17 そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、
ルカ6:19 また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
ルカ7:7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。
ルカ8:47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。
ルカ9:2 また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして
ルカ9:11 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。
ルカ9:42 ところが、その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒して、引きつけさせた。イエスはこの汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった。
ルカ14:4 彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。
ルカ22:51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。[ルカ11回]
ヨハネ4:47 この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。
ヨハネ5:13 しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。
ヨハネ12:40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。[ヨハネ3回]
σῴζω: to save, keep safe and sound, to rescue from danger or destruction((危機的な、危険などから、安全が確保され)救われること・いやされる)[BLB Link]
マルコ3:4 人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。
マルコ5:23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。
マルコ5:28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
マルコ5:34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
マルコ6:56 そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。
マルコ8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
マルコ10:26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
マルコ10:52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
マルコ13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マルコ13:20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。
マルコ15:30, 31 十字架からおりてきて自分を救え」。31 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。
マルコ16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
マタイ1:21, 8:25, 9:21, 9:22, 10:22, 14:30, 16:25, 18:11, 19:25, 24:13, 24:22, 27:40, 27:49
ルカ6:9, 7:50, 8:12, 36, 48, 50, 9:24, 56, 13:23, 17:19, 33, 18:26, 42, 19:10, 23:35, 37, 39
ヨハネ11:12 すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。
ヨハネ12:27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
ヨハネ12:47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
マルコ | マタイ | ルカ | ヨハネ | 岩隈直著「新約ギリシャ語辞典」山本書店 | |
---|---|---|---|---|---|
θεραπεύω | 4 | 7 | 10 | 1 | 仕える、奉仕する、看病する、手当する、癒やす |
ἰάομαι | 1 | 4 | 13 | 3 | 治療する、癒やす、治す、回復する |
σῴζω | 14 | 15 | 19 | 7 | 守る、活かしておく、救う、救い出す、癒やす、治す |
19 | 26 | 42 | 11 |
4.38.4 記録
日時:2023年12月14日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)3名
4.38.5 問いについて
これまでにどのようなことがあったか、復習してみましょう。
53 彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。
マルコ6:30-34 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
- マルコ3:7-12 10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
この状態と似ている。
出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった
彼ら(使徒たち)は人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。(五千人の給食につながる)
- 山浦訳:34 それで一行が舟から陸に上がると、[既に] 大勢の人々がそこにいたのでござった。それは、まるで守る者のない羊の群れのようでござった。その姿を見れば腸(はらわた)も千切れるような気の毒な気持ちになり、イェシューさまはこの人たちに神さまのことをあれやこれやとさまざまに教え始めなさった。
ゲネサレの地で人々はどのように、イエスを迎えますか。
54 そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、55 その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。56 そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。
[DQ] どのような状態だと思いますか。
[Q] ひとたちを、駆け巡らせたのは、何だったのでしょうか。
[Q] ひとたちが、床にのせて運ぶようにさせたのは、何だったのでしょうか。(マルコ2:1-12、マタイ9:1-8、ルカ5:17-26)
[Q] せめて上着のふさにでも、さわらせたやっていただきたいとお願いしたのでしょうか。(マルコ5:27(衣) に関連したマタイ9:20(衣の裾)、ルカ8:44)
[DQ] イエスを利用しようとだけしているのでしょうか。
[DQ] みなさんは、神様や、神様の力を持った人がいたら、どうしますか。
イエスはどうしますか。
そしてさわった者は皆いやされた(σῴζω: to save, keep safe and sound, to rescue from danger or destruction)。
イエスがどうしたかは、明確には、書かれていない。上着のすそをさわることを許したように想像できるが、なにかしっくり子ない。受け身ではなく、イエス自身が、いやしの行為をしたのではないだろうか。しかし、いずれにしても、なにをしたか不明。
人々は、何を求めているのでしょうか。
いやされるというより、救われることだろうか。
自分たちの乏しい状態は感じていても、どうなればよいかは、わかっていなかったのでは。単に、すがりたい気持ちだろうか。
イエスは、いやしについてどう考えていたのでしょうか。
4.38.6 メモ
山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)訳「ガリラヤのイェシュー」イー・ピックス出版では、次のように訳されている
53 さて話変わって、ある時のこと、一行は湖を渡ってきて、ゲネサレの野に上がり、そこに舟を舫(もや)ってござる。54 舟から上がると、イェシューさまがきなさったということがたちまち知れ渡った。55 人々はその辺り一帯を走り回って、イェシューさまがいなさるという所ならどこへでも、敷布に病人を乗せて担いで来たものでござる。56 そうして、村であれ、町であれ、郷であれ、イェシューさまの行きなさる所ならどこへでも、その先々で広場に病人をズラリと並べて願ったものでござった。
「せめてそのお着物の裾(すそ)にでも縋(すが)らせてくだりませ!」
そうして縋(すが)った人たちはことごとくその病の苦しみから助けていただいたのでござった。
「そしてさわった者は皆いやされた。」のいやされたの部分に、σῴζω が使われているので、このように訳したのだろう。
「マルコ5:28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」この部分も、山浦訳では「あのお方のお着物にでもお縋(すが)り申さば、必ずこの病の苦しみがら助け出して(σῴζω)いただけるはずでござりますよわ(ございますよ)。」
「マルコ5:29 するとたちまち血の元が干上がり、苦しみがスッと治った(ἰάομαι の受け身完了形)のが体の感じでわかり申した。」
わたしは、3つのギリシャ語を区別して理解しようと努めてきたが、文才もなく、上手にことばが選べなかったが、山浦訳は、秀逸である。
イエスは能動的には、なにもしていない。不思議でもあるが、そのように、人々の要求、それは、イエスが望んでいたものと同じではなかったかもしれないが、それに委ねたことからも、学ぶことが多かったように思う。その意味でも、不思議な箇所である。イザヤ書のことを思った。
- イザヤ53:6,7 われわれはみな羊のように迷って、/おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、/彼の上におかれた。7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、/口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、/また毛を切る者の前に黙っている羊のように、/口を開かなかった。
4.39 7:1-23 昔の人の言い伝え
1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、/『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7 人間のいましめを教として教え、/無意味にわたしを拝んでいる』。8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
4.39.1 マタイ 15:1-20
1 ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。4 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。5 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、6 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。9 人間のいましめを教として教え、/無意味にわたしを拝んでいる』」。10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。12 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。14 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。15 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。
4.40 7:1-13 昔の人の言い伝え(1)
1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、/『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7 人間のいましめを教として教え、/無意味にわたしを拝んでいる』。8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
4.40.1 マタイ 15:1-9
1 ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。4 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。5 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、6 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。9 人間のいましめを教として教え、/無意味にわたしを拝んでいる』」。
4.40.2 (参考)ルカ11:37-44
37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。42 しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。43 あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。44 あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。(43-44 は、マルコ12:38-40 参照)
4.40.3 問い
どのようなことが原因で、議論が始まりますか。(1,2)
パリサイ人をはじめユダヤ人はみなどのようにしていたと書かれていますか。(3,4)
パリサイ人と律法学者たちは何をたいせつにしていますか。それはなぜでしょうか。(5)
イエスは、どのように批判していますか。イエスの批判の中心点は何ですか。(6-8)
9節-12節の例では、6節-8節で指摘した要点のどのような面を説明しているのでしょうか。どのような対比がありますか。(9-12)
「神の言を無にしている」とは何を指しているのでしょうか。(13)
4.40.4 参照
汚れについて
使徒10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
使徒10:28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
使徒11:8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。
黙示録21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
汚れた手(κοιναῖς χερσίν)
- レビ8:6 そしてモーセはアロンとその子たちを連れてきて、水で彼らを洗い清め、
念入りに手を洗ってからでないと(πυγμῇ νίψωνται τὰς χεῖρας)πυγμῇ: i) the fist, clenched hand, ii) up to the elbow (聖書でここだけ)
歩む(περιπατοῦσιν: to walk)
ローマ6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
ローマ8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
偽善者(ὑποκριτής: i) one who answers, an interpreter, ii) an actor, stage player, iii) a dissembler, pretender, hypocrite)
ミシュナー、シャッパト1:4-8, ベラコート8:2-4, ヤーダイム1-2
昔の人々(ヘブル11:2)長老のこと(ラビ・ヒレルとラビ・シャンマイ)
出エジプト20:12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
出エジプト21:17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。
出エジプト32:16 その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。
イザヤ29:13-20 主は言われた、/「この民は口をもってわたしに近づき、/くちびるをもってわたしを敬うけれども、/その心はわたしから遠く離れ、/彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、/そらで覚えた人の戒めによるのである。14 それゆえ、/見よ、/わたしはこの民に、/再び驚くべきわざを行う、/それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、/さとい人の知識は隠される」。15 わざわいなるかな、/おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、/「だれがわれわれを見るか、/だれがわれわれのことを知るか」と言う。16 あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、/「彼はわたしを造らなかった」と言い、/形造られた物は形造った者について、/「彼は知恵がない」と言うことができようか。17 しばらくしてレバノンは変って肥えた畑となり、/肥えた畑は林のように/思われる時が来るではないか。18 その日、耳しいは書物の言葉を聞き、/目しいの目はその暗やみから、見ることができる。19 柔和な者は主によって新たなる喜びを得、/人のなかの貧しい者は/イスラエルの聖者によって楽しみを得る。20 あらぶる者は絶え、/あざける者はうせ、/悪を行おうと、おりをうかがう者は、/ことごとく断ち滅ぼされるからである。(アリエル:神の炉)
偽善(ヒュポクリーテス):答える人、型にはまった対話・会話に答える人、俳優、その人の全生涯がその背後に全く何の真実もなく、芝居をするような人を意味するようになった。(バークレイ)
コルバン(κορβᾶν: i) a gift offered (or to be offered) to God, ii) the sacred treasury)קָרְבָּן: offering, oblation - レビ1:2, 3, 10, 14, 2:1, 4, 5, 7, 12, 13, 3:1, 2, 6, 7, 8, 12, 14, 4:23, 28, 5:11, 6:20, 7:13, 14, 15, 16, 29, 38, 9:7, 9:15, 17:4, 22:18, 27, 23:14, 27:9, 11, 民数記 5:15, 6:14, 21, 7:3, 10, 11, 12, 13, 17, 19, 23, 25, 29, 31,35, 37, 41, 43, 47, 49, 53, 55, 59, 61, 65, 67, 71, 73, 77, 79, 83, 9:7, 13, 15:4, 25, 18:9, 28:2, 31:50, ネヘミヤ 10:34, 13:31, エゼキエル 20:28, 40:43 - offering
4.40.5 記録
日時:2023年12月21日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)5名
4.40.6 問いについて
どのようなことが原因で、議論が始まりますか。(1,2)
1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
[DQ] なぜ、エルサレムから、パリサイ人と、(ある)律法学者たちとが、イエスのもとに集まったのでしょう。
- いつのことなのか書いてない。ガリラヤから離れる直前に置かれている。
パリサイ人をはじめユダヤ人はみなどのようにしていたと書かれていますか。(3,4)
- 3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった
- [DQ] なぜ、ユダヤ人である弟子たちのある者が、洗わない手で、パンを食べていたのでしょうか。
パリサイ人と律法学者たちは何をたいせつにしていますか。それはなぜでしょうか。(5)
5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
[DQ] なぜ、行為者の弟子に問わないで、イエスに問うているのでしょうか。
[DQ] イエスはどうだったのでしょうか。
このときのイエスについては不明。しかし、非難された、弟子たちをまずは、庇(かば)っているようにも見える。
「安息日に麦の穂を摘む」(2:23-28)弟子たち
ルカ11:37-44 37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。
[DQ] パリサイ人と律法学者たちにとって「昔のひとの言い伝え」は、どんな意味を持っているのでしょうか。
- 律法を厳格に守ろうとしたひとたちの教えを忠実に守ることによって、律法を守っていることを証明すること。
イエスは、どのように批判していますか。イエスの批判の中心点は何ですか。(6-8)
6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、/『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7 人間のいましめを教として教え、/無意味にわたしを拝んでいる』。8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
何を大切にしているかがずれてきてしまっている。
[DQ] 本当に「神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」という状態になってしまっているのでしょうか。
[DQ] イエスが批判しているのは、何なのでしょうか。
9節-12節の例では、6節-8節で指摘した要点のどのような面を説明しているのでしょうか。どのような対比がありますか。(9-12)
9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
[DQ] どのようなことが行われていたのだと思いますか。
[DQ] 異なる例を挙げていますが、手を洗わないことに関して解釈すると、どのようなことを言っているのでしょうか。
- 衛生面を強調して、肯定することも、できたのではないだろうか。おそらく、後半から次につながる部分が大切だとしたのだろう。
「神の言を無にしている」とは何を指しているのでしょうか。(13)
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
コルバンに関しては、そのように解釈することで、実際には、父母を大切にしないことになってしまっていないいか。
手を洗わないことに関しては、単に、あるひとたちを排除したり、分断を作り出すようなことをしていないか。
4.40.7 メモ
山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)訳「ガリラヤのイェシュー」イー・ピックス出版では、次のように訳されている
2 ところで、イェシューさまの弟子たちの中には、お浄めもしない手で、つまり洗いもしないてで、飯を食う者がござった。お歴々はこれに目くじらを立ててござる。
8 お前さまがたは神さまの掟のほうは打ち棄てて、人のつくった仕来りばかりシッカリ固くお守りなさる。」
12の後にかっこ付きで追記(辻褄の合わぬこんな屁理屈をこねまわして、親への孝養をないがしろにする、かかる悪しき習わしが当世の流行りにて、子から捨てられて難儀する貧しい年老いた親たちの何と多かったことか。イェシューさまはこれをおしかりになっておられるのでござる。)
13 こうしてお前さまがたは自分たちが受け継いできた仕来りのために神様の言葉を破り捨てていなさる。そうして更に、この類のことをさまざまなさっている。
何を本当に大切にするのか。
- 書かれたものの解釈に終始するのではなく、御心はなにかを求め続けること。
4.41 7:14-23 昔の人の言い伝え(2)
14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
4.41.1 マタイ 15:10-20
10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。12 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。14 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。15 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。
4.41.2 問い
前回の部分を復習しましょう。どのようなできごとがあり、またパリサイ人の批判に、イエスはどのように答えていますか。
イエスは、誰に対して、何を語っていますか。(14-16)
マタイでは、さらに、どのようなことを伝えていますか。(マタイ15:12-15)
イエスは人を汚すものについてどのように説明していますか。(17-23)
「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴」が人を汚すのは、なぜでしょうか。(22)
イエスの言う人を汚すとはどのようなことで、パリサイ人たちが考える汚れと何が違いますか。
4.41.3 参照
- 食べてはならない
- 創世記2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
- 創世記9:4 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。
- レビ3:17 あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである』」。
- レビ11 4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。[その他多数]
- 申命記14 7 ただし、反芻するものと、ひずめの分れたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、野うさぎ、および岩だぬき、これらは反芻するけれども、ひずめが分れていないから汚れたものである。8 また豚、これは、ひずめが分れているけれども、反芻しないから、汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。[その他多数]
- 使徒行伝10:1-11:18, 15:6-11(汚れについて)
使徒10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
使徒10:28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
使徒11:8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。
使徒15:6-11 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。 7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。
- マルコ3:28-30 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。マタイ12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
- マカバイ記一1章 62節-64節 だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄のものを口にしなかった。63 彼らは、食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んで命を落としていった。64 大いなる怒りがイスラエルの上に激しく臨んだ。
- マカバイ記二7章1節-42節 また、七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や革ひもで責め苦を受け、律法に反して豚肉を食するように王から強いられることとなった。2 彼らの一人が弁明して言った。「あなたは何を尋ね、我々から聞き出そうとしているのか。我々は、父祖の律法に違反するぐらいなら死ぬ覚悟がある。」3 激怒した王は、鍋や大釜に火をつけるように命じた。
4.41.4 記録
日時:2024年1月11日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)1名
4.41.5 問いについて
前回の部分を復習しましょう。どのようなできごとがあり、またパリサイ人の批判に、イエスはどのように答えていますか。
(きっかけ)1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
(問)5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
(イエスの答え)6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、/『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7 人間のいましめを教として教え、/無意味にわたしを拝んでいる』。その後に例示
自分たちの言い伝えを、神の戒めよりも優先している。
イエスは、論点を変えているように見える。
本当にそれが重要なのと聞いているのようにも見える。
イエスは、誰に対して、何を語っていますか。(14-16)
14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。
「『再び(πάλιν: 写本に依存)』群衆を呼び寄せて言われた」からは、群衆たちは、エルサレムからのパリサイ人とある律法学者が問うているときに、身を引いている印象をうける。群衆は、権威とは、違うことを、あるていど、理解していたのかもしれない。
「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。」(14b, マタイ15:10 にもある)および「〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。」(16)(マルコ4:9, 23, ルカ8:8 種まきのたとえ)からは、とても大切なこと、本質的なことを語っているように見える。
「すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。」(15)は、これだけで、群衆がどれだけ、理解できたかは、不明だが、非常に過激なことをいっているように見える。
マタイでは、さらに、どのようなことを伝えていますか。(マタイ15:12-15)
12 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。14 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。15 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。
弟子たちが問うのではなく、挿入がある。そして、ペテロがお願いをしている。しかし、このあとの、つながりから、パリサイ人たちが、躓いたのは、汚れについてであることと思われる。イエスのメッセージ、「聞いて悟るがよい。11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」と、律法との関係を深く理解して、躓いたのかは、不明。
躓く(σκανδαλίζω: to put a stumbling block or impediment in the way, upon which another may trip and fall, metaph. to offend; a) to entice to sin b) to cause a person to begin to distrust and desert one whom he ought to trust and obey, c) since one who stumbles or whose foot gets entangled feels annoyed)立ち上がれなくなるとの意味だろうが、価値観も入っているかもしれない。一般的には、イエスのことばは、まったく受け入れられないと反発したということか。
イエスは人を汚すものについてどのように説明していますか。(17-23)
17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
「イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。」から始まっており、この部分、詳しい解説は、弟子たちに話したことになっている。おそらく、群衆には理解が難しく、パリサイ人や律法学者とは、激しい議論になってしまうことを避けたのかもしれない。争い以外生み出さないかもしれないので。
「あなたがたも、そんなに鈍いのか。」と始めているところからも、弟子たちは、悟るべきだったことがわかる。イエスは、神の子だからわかるのではなく、我々も、御心を求めていれば、理解できるはずというのが、イエスの論理なのだろう。
- マタイでは、弟子たちが叱責されたようには、記述せず、パリサイ人が躓いたとして、ペテロに「その譬を説明してください」。(マタイ15:15)と語らせている。
「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。」ここに本質がある。
- しかし、実によって木がわかるように、さらに、人の中に問題があるとも考えられる。
[DQ] ここにある悪は、だれを汚すのでしょうか。悪い思いが出た人でしょうか、それとも、その周囲の人でしょうか。
周囲の人が汚されるように見える。
おそらく、神との交わりが、危うくなることを言っているのだろう。明確ではない。
「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴」が人を汚すのは、なぜでしょうか。
イエスの頭にあるのは、神さまとの関係が壊れてしまう。神さまの御心がなる世界とは、まったく違うということなのかもしれない。神の国が近くない状態になる。
神との関係より、肉との関係を優先、または、神が愛される他者を犯す、傷付ける。
μοιχεῖαι (adultery), πορνεῖαι ((i) illicit sexual intercourse, (ii) metaph. the worship of idols) φόνοι (murder, slaughter) κλοπαί (theft) πλεονεξίαιπονηρίαι (greedy desire to have more, covetousness, avarice) δόλος (craft, deceit, guile) ἀσέλγεια (unbridled lust, excess, licentiousness, lasciviousness, wantonness, outrageousness, shamelessness, insolence) ὀφθαλμὸς πονηρός ((i) full of labours, annoyances, hardships, (ii) bad, of a bad nature or condition) βλασφημία ((i) slander, detraction, speech injurious, to another’s good name. (ii) impious and reproachful speech injurious to divine majesty) ὑπερηφανία ((i) pride, haughtiness, arrogance, (ii) the character of one who, with a swollen estimate of his own powers or merits, looks down on others and even treats them with insolence and contempt) ἀφροσύνη ((i) foolishness, folly, senselessness, (ii) thoughtlessness, recklessness)
女郎買い、盗み、追剥ぎ、人殺し、人の女房さ手を出したり、よその男を引っ張り込むような外道の振る舞い、強欲、意地の悪い腐れ根性、噓語りの悪巧み、際限のねぁ色好み、嫉妬、悪口に、我ばり立派ぶる威張った心、無分別、こんな碌でもねァごどづァみんな人の心の中がら、ゴダビダ出はって、人を汚く汚すのだ。
イエスの言う人を汚すとはどのようなことで、パリサイ人たちが考える汚れと何が違いますか。
イエスの言えう汚すとは、神のみ心をおこなうことから、離れさす。パリサイ人たちが考える汚れは、神のもとにいる清い自分たちが、神のもとにいないものと接触することによって、自分たちが汚れ、神のもとにいられなくなる。
[DQ] イエスは、人々や弟子たちに何を教えているのでしょうか。
- 何が、本質的なことかを問うているように見える。
神との関係を断つこと、神との交わりを大切にしないこと、パリサイ人も本来は、それを、求めている。
マカバイ一 1:62-64、マカバイ二 7:1-42
4.41.6 メモ
当時としては、非常に革命的な発言だったと思われる。そしてそれが、キリスト教会が世界宗教へとなっていった、鍵となる出来事でもある。異邦人の捉え方に、大きな影響を持つことになったのだから。
レビ記11章の長いリストの否定。おそらく、それを明確には、イエスは告げていない。イエスは、それよりも、上の次元、神さま目線での交わりを大切にされたのではないだろうか。神さまが大切な一人ひとりをたいせつにすること、それを犯すことが、汚すということなのではないだろうか。そのレベルで理解できないと、パリサイ人や、律法学者の理解と、同じ地平となり、単なる分裂をうみだすだけとなってしまう。
ユダヤ人が死をもいとわず、拒否したもの。食べ物のこと、その議論は、キリスト教会のなかでも続くが、それが最終的ではないことを、リーダーたちが確認できたことは、やはり、重要だったのだろう。コルネリオとのこと、エルサレム使徒会議に続く部分が、この次のシリア・フェニキアの女の信仰へとつながる。それ故に、独立であっても、ここに置かれたのだろう。マルコ的にはとても、得意な記事の挿入になっている。ペトロ由来として、たいせつな記事だったのだろう。
4.42 7:24-30 シリア・フェニキアの女の信仰
24 さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。25 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。27 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。29 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。30 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
4.42.1 マタイ 15:21-28
21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
4.42.2 問い
イエスは、どこから、どこへ移動しますか。それは、なぜでしょうか。(24)
この女の人はどのようなひとで、どんな問題を持っていますか。(25,26)
この女の人と、イエスの対話は、どのように進みますか。(26b-29)
そしてどうなりますか。(30)
マタイからはさらにどのようなことがわかりますか。
イエスの対応から、あなたは、どのようなことを感じますか。
4.42.3 参照
地図 The ministry of Jesus beyond Galilee: https://www.seektheoldpaths.com/Maps/109.jpg
新約聖書にでてくるスロ・フェニキヤ(Syrophenician)は、どこのことだと考えられていますか。
Google Bard:新約聖書に登場するスロ・フェニキヤ(Syrophenician)は、シリアとフェニキアの両方に属する地域を指すと考えられています。具体的には、現在のレバノン、シリア、イスラエル北部にあたります。
スロ・フェニキアの語源は、ギリシャ語で「シリア人」を意味する「Σύρος(スュロス)」と、「フェニキア人」を意味する「Φοίνικες(フォイニケス)」を組み合わせたものです。このことから、スロ・フェニキヤは、フェニキア人の住む地域であるシリアを含む地域を指すと考えられています。
新約聖書のマルコによる福音書7章24節とマタイによる福音書15章22節には、イエス・キリストがスロ・フェニキアの地方で、汚れた霊にとりつかれた娘を持つ女性を癒したという記述があります。この女性は、ユダヤ人ではない異邦人であったため、イエスは最初は彼女の願いを拒みました。しかし、女性の信仰に心を動かされたイエスは、彼女の娘を癒しました。
このエピソードは、イエス・キリストが異邦人にも救いの手を差し伸べたことを示すものとして、重要な意味を持っています。
Poe Assistant: 新約聖書における「スロ・フェニキヤ」(Syrophenician)という表現は、マルコによる福音書(マルコ7:26)および308。しかし、この表現については諸説あります。
一般的には、「スロ・フェニキヤ」とは、シリア地方のフェニキヤ人(フェニキア人)出身の女性を指すと解釈されています。フェニキヤは古代の地域であり、現在のレバノンやシリアの一部に相当します。この女性はギリシャ語で「カナン人の女」とも呼ばれています。
ただし、この表現については異論も存在します。一部の学者は、スロ・フェニキヤがフェニキヤ人ではなく、シリア人やスリア人(アラム人)を指す可能性もあると主張しています。これは、ギリシャ語の表現や文脈に基づく解釈です。
したがって、「スロ・フェニキヤ」が具体的にどの地域や民族を指しているのか正確に特定することは難しいです。ただし、この女性はイエス・キリストに対して求めていた癒しや恵みを受けるために頼み込んでいたことが記されており、彼女の信仰心とイエスへの信頼が強調されています。
4.42.4 記録
日時:2024年1月18日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)7名
4.42.5 問いについて
イエスは、どこから、どこへ移動しますか。それは、なぜでしょうか。(24)
24 さて、イエスは、そこを立ち去って(Ἐκεῖθεν (from thence) δὲ ἀναστὰς” (arose) ἀπῆλθεν (went))、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。
「そこ」はどこかは、不明だが、おそらく、ガリラヤ。ツロは、カペナウムからは、北西へ 64km。シドンは、ツロの41km 東北。
[DQ] イエスはなぜ、「だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れてい」たのでしょうか。
- すでに危険な状態になっていたのかもしれない。
[DQ] イエスはなぜ、「だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。」のでしょうか。
群衆の支持はあったようなので、噂は、十分広がっていたと思われる。
参照:マルコ3:8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。(マルコでは、ツロは、引用箇所と、7:24,31 のみ)
この女の人はどのようなひとで、どんな問題を持っていますか。(25,26)
25 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。
隠れていくることができなかったことにも関係している。
足元にひれ伏しは、一般的には、礼拝をしたことを意味する。
ギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生れ(スロ・フェニキヤは、ここだけ)
「娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。」この状態は、不明だが、「30 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」との対比により、多少の情報を与えている。わめいて、泣きじゃくったり、怒ったり、癇癪をおことしたり死て、床に大人しく寝ているような娘ではなかったのだろう。すくなくとも、平安をもって、神さまのみこころを求められるような状態ではなかったのだろう。
この女の人と、イエスの対話は、どのように進みますか。(26b-29)
26b そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。27 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。29 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。
子犬:κυνάριον(a little dog)27 も 28 も同じことば。マタイも同じ言葉を使っている。犬:κύων(i) a dog, ii) metaph. a man of impure mind, an impudent man - Mt 7:6, Luke 16:21, Phil 3:2, 2Pet 2:22, Rev 22:15)
[DQ] イエスは、ユダヤ人を、子供たちと、異邦人を、犬または子犬と思っていたのでしょうか。
[DQ] イエスは、なぜ「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。(行きなさい。ὕπαγε)悪霊は娘から出てしまった」。と言えるほどの確信を持っていたのでしょうか。
「まず」が印象的、「子犬」も、差別的に取っていない。「食卓」の話をしているのは、女性のみ。神の食卓を思わされる。
そしてどうなりますか。(30)
30 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
この記述にも、女の信仰が現れているように見える。マタイほど具体的には書かれていないが。
「女が帰ってみると」とある。その前には、イエスが「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」と宣言している。実際に、悪霊が娘からでた証拠はなにも与えられていない。しかし、帰ってみるとの表現からは、疑いもあったかもしれないが、やはり信じて帰ったように見える。マタイでは、それを、「28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。」と表現して、信仰のゆえに、いやされた表現になっている。
マタイからはさらにどのようなことがわかりますか。
「その地方出のカナンの女」と紹介している。
「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」この表現もマルコとは、かなり異なる。ダビデの子は、救い主の通称だろうが、マルコでは、イエスを「ダビデの子」と呼んだのは、10:47,48 のみで、イエスはその呼称を不適切としている。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
「わたしをあわれんでください」そして、さらに、25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。でも「わたしを」とあり、この女の苦しみ、訴えを中心に描いている。
この娘の存在が、この女性にたいする批判・非難にもつながっていたかもしれない。
23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。このことばは、かなり厳しいように見える。それゆえに、イエスも、それにつられて、24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。と言ったように見える。このあたりは、マルコと微妙にことなる。
イエスの対応から、あなたは、どのようなことを感じますか。
- 隠れていたかった理由があるのだろう。そして、イスラエルの民のことを、第一に考えていたのではないだろうか。なかなか受け入れられず、指導者からは、疑いの目で見られ、悪意をもたれ、おそらく、バプテスマのヨハネの処刑以降は、身の危険も感じはじめている。群衆には、必要はあり、求めてはくるものの、イエスをそして、神の国に関する、メッセージを理解せず、弟子たちも、神の国の奥義を理解するという意味では、十分な訓練を受けているとは、見えない。
4.42.6 メモ
マタイでは、主導権を取っているのは、女のようにみえる。しかし、マルコでは、その度合は弱く、イエスの、正直であっても、こだわりがない、丁寧な対応が、浮き彫りにされているようにみえる。
引きこもりのイエスについては、しっかり考えたいと思った。非常に、珍しい表現であるように思う。「24 さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。」
翻訳の関係もあるが、最後の「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」と「悪霊は出てしまっていた。」の呼応は単純ではあるが、印象的である。イエスは、なぜ、ここまで確信を持てたのだろうか。
イエスのこの期間の行動は興味深い。しかし、あたらしい出発でもあるように見えるのは、その後の歴史を見ているからか。
イエスは、自分が遣わされたユダヤ人たちの状態を見て、苦慮していたと思われる。それが、まさにイエスがこころをいためていた問題だった。そこでの女性との出会いである。あまり、イエスは神の子だから、最初から普遍性、すべてのひとの救いを考えていたなどと取ったり、逆に、差別的なユダヤ人てき考えを持っていたが、ここで変わったとか、そのように理解するのは、どちらも、問題があるように思われる。イエスの関心は、こどもたちに向けられていて、苦慮していただけである。しかしそんなときにも、この女に向き合われたことが記録され、そが、キリスト教として、普遍化へと進むときに、おおきな、支えとなったと考えたほうがよいように、思われる。
4.43 7:31-37 耳が聞こえず舌の回らない人を癒やす
31 それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。33 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。35 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。36 イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
4.43.1 マタイ 15:29-31(参照)
29 イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。30 すると大ぜいの群衆が、足、手、目や口などが不自由な人々、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。31 群衆は、口のきけなかった人が物を言い、手や足が不自由だった人がいやされ、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。
4.43.2 問い
イエスの移動経路を確認しましょう。どのような背景が考えられますか。(31)
人々は、どんなひとを連れてきますか。何を願っていますか。(32)
イエスはどうしますか。そしてどうなりますか。(33-35)
イエスは、誰に対して、口止めをしていますか。それはなぜでしょうか。(36)
人々の反応から、どのようなことがわかりますか。(37)
あなたは、この箇所から、どんなことを感じ、学びましたか。
4.43.3 参照
地図 The ministry of Jesus beyond Galilee: https://www.seektheoldpaths.com/Maps/109.jpg
デカポリス:直接ローマ帝国スリヤ総督配下に属し、独自の貨幣を作っている十の異邦人都市地帯。(バークレイ)
手を置く:マルコ7:32 「すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。」以外
ルカ4:40 日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしに(θεραπεύω: i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health)なった。
ルカ14:4 (安息日に水腫を患っている人を癒やす)彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやし(ἰάομαι: i) to cure, heal, ii) to make whole)てやり、そしてお帰しになった。マルコでは、ἰάομαι は、5:29 一箇所のみ。
つばきでのいやし:7章33節以外
マルコ8:23 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
ヨハネ9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
スキナゾー στενάζω: a sigh, to groan
7:34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
ローマ8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
2コリント5:2-4 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
ヘブル13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。
ヤコブ5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
エパタ:アラム語の使用:[参照]
預言
イザヤ29:18 その日、耳しいは書物の言葉を聞き、/目しいの目はその暗やみから、見ることができる。
イザヤ35:6 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、/口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、/さばくに川が流れるからである。
4.43.4 記録
日時:2024年1月25日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)5名
4.43.5 問いについて
イエスの移動経路を確認しましょう。どのような背景が考えられますか。(31)
31 それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。
おそらく、ある程度の期間も要する旅だったろう。しばらく、ガリラヤにはいない。なにをした期間なのだろうか。
人々は、どんなひとを連れてきますか。何を願っていますか。(32)
32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
別訳「耳が聞こえないので、話すのに口ごもった」(ティンデル)
- 原理的には、これが正しいだろう。
イエスはどうしますか。そしてどうなりますか。(33-35)
33 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。35 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。
[DQ] なぜ、イエスは「彼ひとりを群衆の中から連れ出し」たのでしょうか。
- 見世物ではない。聾者は、差別されていただろうか。舌がもつれているということは、長期間、聾者であったと思われる。
[DQ] なぜ、イエスは「その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し」などという行為をしたのでしょうか。
- つばきは、通常の医療行為と思われる。天をあおぎ、神の国が近いことを求めたのだろうか。
[DQ] なぜ、イエスは「天を仰いでため息をつき」言われたのでしょうか。
神の国、神の支配が見られないことへの嘆きであろうか。
ため息をつき:στενάζω: a sigh, to groan
[DQ] なぜ、イエスは「エパタ」と言われたのでしょうか。
- 弟子たちの耳には、鮮明に残っているということだろう。
イエスは、誰に対して、口止めをしていますか。それはなぜでしょうか。(36)
36 イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。
このひとだけではなく、人々に語っている。ニュースが広がることを願っていない。
人々の反応から、どのようなことがわかりますか。(37)
37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
創世記1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
イエスの反応は書かれていない。反発が強くなり、排除されることを、恐れただけとは考えにくい。
[DQ] マタイによる福音書の記述からは、どんなことがわかりますか。
31 群衆は、口のきけなかった人が物を言い、手や足が不自由だった人がいやされ、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。
いろいろな病人などがいて、それぞれいやされ、それが、「イスラエルの神」への賛美につながっている。
あなたは、この箇所から、どんなことを感じ、学びましたか。
4.43.6 メモ
イエスの医療行為は、見せるためでも、魔術的な力の発揮でもない。通常のことをしているようにも見える。
「耳が聞えず口のきけない人」を連れてきたのは、人々であって、本人が願ったのではない。一般に、人は、障害などを取り除くことを優先して考え、それによって、問題が解決すると考える。目に見えるものによる判断が大きく優先されるということだろう。しかし、障害をもった本人、大きな課題をかかけたひとにとっては、その障害や課題を取り除くことで、幸せになるわけではないことは、理解できているだろう。それは、その人の一部になっているからだ。ここでも、この障害を負ったひとのことばは、ひとことも伝えられていない。障害が取り除けられることは、様々な課題と向き合うひとつのステップではあるかもしれないが、それをもって、問題の解決と考えるひとを前にすると、気後れがすることでもある。イエスのため息のなかには、それも含まれているのかもしれない。ひとりひとりの心の重荷を、イエスは受け取ろうとし、イエス様によって示される神さまも、同様だろう。その神さまにとって、イエス様にとって、この事件は、どのようなものだったのだろう。
「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。は、おそらく、キリスト教会にたいせつなメッセージとして伝えられただろう。そして、受け取った人の中には、これこそ、イザヤ書29章18節や、35章6節の成就だと考えた人もいるだろう。さらには、ペトロなど、一緒に旅をして回ったと思われる、弟子たちにとっては、このような積み重ねが、イエスは、神の子、キリストだと確信することにつながっているのだろう。我々は、そこからスタートして、マルコを呼んではいけない。弟子たちとともに、そのように、確信する、歩みをしなければならない。同時に、ここでの表現が、イエスが望んでいた証であったかどうかも明らかではないことも、心すべきである。イエスと、パリサイ人や、律法学者、そして、ヘロデなどの政治的支配者に理解されていなかったことは、一般的に受け入れられている。しかし、群衆とのやり取りをみていると、イエスは、群衆に理解されていないこと、大きなズレがあることは、確信していたと思われる。ヨハネ2:23-25「過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」によらずとも、マルコを読んでいるとたびたび示されること、そして、それが、このことを語らないようにいった大きな原因ではないかとも思わされる。そして、弟子たちの理解も遅い。他の人に比べると、イエスについて、まんでいったことを多いと思うが、人によっても異なるだろうし、その理解の形も様々だったろう。わたしたちは、マルコを通して、ペトロの理解の歩みを辿っている。ピリポカイザリアでの告白も、そこでのエピソードが伝えているように、十分な理解から、発せられているわけではない。ともに、イエスを、そして、神さまをすこしでも理解する歩みを続けたいものである。
4.44 8:1-10 四千人に食べ物を与える
1 そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、2 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。3 もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。4 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。5 イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。6 そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。8 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。9 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。
4.44.1 マタイ 15:32-39
32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。33 弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。34 イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。35 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、36 七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。37 一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。38 食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。39 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。
4.44.2 問い
イエスたちと、群衆について、どのようなことがわかりますか。(1a)
イエスの弟子たちへのことばからどのようなことがわかりますか。(1b-3)
弟子たちと、イエスは、どのような会話をしますか。(4,5)
イエスは、どうしますか。(6,7)
どうなりますか。(8-10)
以前の五千人の給食の記事と比較し、気づいたことをあげてみましょう。(6:30-44)
実際には、なにがおこったのだと思いますか。
4.44.3 参照
地図 The ministry of Jesus beyond Galilee: https://www.seektheoldpaths.com/Maps/109.jpg
新約聖書の「ダルマヌタ(Dalmanutha, mark 8:10)」はどこだと考えられているのでしょうか。
Google Bard: 新約聖書の「ダルマヌタ」は、マルコの福音書8章10節に登場する地名です。この節によると、イエスはガリラヤ湖畔の「ダルマヌタ」で弟子たちに、パリサイ人やヘロデ党員のパン種に注意するようにと教えました。
ダルマヌタの地名は、他の聖書の書物には登場せず、マルコの福音書のこの一節にしか記されていません。そのため、ダルマヌタの具体的な位置は、古くから聖書学者や考古学者によってさまざまな説が唱えられてきました。
主な説としては、以下のようなものが挙げられます。
ガリラヤ湖北岸の「タブハ」であるとする説
ガリラヤ湖南岸の「デカポリスの一都市」であるとする説
ガリラヤ湖南岸の「ガザリヤ」であるとする説
ガリラヤ湖北岸の「カイファリア」であるとする説
これらの説の中で、最も有力と考えられているのが、ガリラヤ湖北岸の「タブハ」であるとする説です。タブハは、ガリラヤ湖畔の町で、イエスの奇跡である「パンと魚の増加」の伝承が残る場所です。また、タブハの近くには、「ペテロの召命」の伝承が残る「ペテロの召命教会」があります。これらのことから、ダルマヌタはタブハであると考えられています。
なお、近年の考古学的調査では、タブハの近くに「ダルマヌタの丘」と呼ばれる丘があることが明らかになっています。この丘には、古代ローマ時代の集落の跡があり、ダルマヌタの町がここにあった可能性も指摘されています。
マルコ8:7 の小さな魚(ἰχθύδιον)と、マルコ6:41 などの 魚(ἰχθύς)とはどのように違うのですか。
Google Bard: マルコの福音書8章7節と6章41節に登場する「魚」は、ギリシャ語でそれぞれ「ἰχθύδιον(イクトュディオン)」と「ἰχθύς(イクトュス)」と書かれています。これらの言葉は、どちらも「魚」を意味しますが、具体的な大きさや種類には若干の違いがあります。
「ἰχθύδιον(イクトュディオン)」は、一般的に「小さな魚」を意味する言葉です。特に、食用として捕獲される魚よりも小さな魚を指すことが多いです。
一方、「ἰχθύς(イクトュス)」は、一般的に「魚」を意味する言葉です。大きさや種類にかかわらず、魚全般を指すことができます。
マルコの福音書8章7節では、イエスが弟子たちに、パンの残りを集めて、小さな魚と共に食べるように命じています。この小さな魚は、食用として捕獲される魚よりも小さな魚であると考えられます。これは、パンの残りが比較的多く、さまざまな種類の食べ物が含まれていたためと考えられます。
一方、マルコの福音書6章41節では、イエスが弟子たちに、5000人の人々に食事をふるまうために、魚を用意するように命じています。この魚は、一般的に「魚」を指す「ἰχθύς(イクトュス)」であると考えられます。これは、魚が大量に必要だったためと考えられます。
なお、両者の違いについては、文献学的、考古学的な研究に基づいて、さまざまな説が唱えられていますが、一般的には、上記のような解釈がされています。
かご(σπυρίς)5000人のときのかごは(κόφινος)
マルコ8:8 のかご(σπυρίς)と、マルコ6:44 のかごは(κόφινος)はどのような違いがあるのですか。
Google Bard: マルコの福音書8章8節と6章44節に登場する「かご」は、ギリシャ語でそれぞれ「σπυρίς(スプュリス)」と「κόφινος(コフィノス)」と書かれています。これらの言葉は、どちらも「バスケット」や「かご」を意味しますが、具体的な形状や用途には若干の違いがあります。
「σπυρίς(スプュリス)」は、一般的に「バスケット」や「かご」を意味する言葉です。特に、果物や野菜、魚介類などを運ぶために使われていました。また、葬儀の際に遺体を運ぶために使われることもありました。
一方、「κόφινος(コフィノス)」は、より具体的に「魚かご」を意味する言葉です。底が網で編まれているため、魚を捕獲したり、運んだりするのに適していました。また、乾燥させた果実や穀物を保管するために使われることもありました。
マルコの福音書8章8節では、イエスが弟子たちに、パンの残りを集めて、かごに入れるように命じています。このかごは、一般的に「バスケット」や「かご」を意味する「σπυρίς(スプュリス)」であると考えられています。これは、パンの残りが比較的多く、さまざまな種類の食べ物が含まれていたためと考えられます。
一方、マルコの福音書6章44節では、イエスが弟子たちに、5000人の人々に食事をふるまうために、パンと魚を準備するように命じています。このかごは、より具体的に「魚かご」を意味する「κόφινος(コフィノス)」であると考えられています。これは、魚が大量に必要だったためと考えられます。
なお、両者の違いについては、文献学的、考古学的な研究に基づいて、さまざまな説が唱えられています。
Poe Assistant: マルコによる福音書8章8節と6章44節に登場する「かご」には、ギリシャ語で異なる単語が使用されています。これらの単語にはいくつかの違いがあります。
マルコ8:8の「かご」(σπυρίς, spyris): これは小さなかごやかご状の容器を指します。この場面では、イエス・キリストが多くの人々にパンを配るために使われたかごを指しています。このかごは、イエスが5つのパンと2つの魚を祝福し、それを使って多くの人々を満足させた奇跡的な出来事を記述しています。
マルコ6:44の「かご」(κόφινος, kophinos): これはより大きなかごやかご状の容器を指します。この場面では、イエスが5つのパンと2つの魚を祝福して多くの人々を満足させた後、残ったパンと魚を集めるために使われたかごを指しています。このかごは、集められた残りの食べ物を入れるために使用されたものです。
したがって、マルコ8:8の「かご」(σπυρίς)は配布に使用される小さなかごであり、マルコ6:44の「かご」(κόφινος)は残りの食べ物を集めるために使用される大きなかごです。
マタイ4:1-4 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
マルコ8:14-21 で再登場。
4.44.4 記録
日時:2024年2月1日午後7時半〜9時半
出席(対面)6名、参加(遠隔)4名
4.44.5 問いについて
イエスたちと、群衆について、どのようなことがわかりますか。(1a)
1 そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、
どこにいるのか不明。デカポリスのガリラヤ湖畔? このあと船で移動しているので、ガリラヤ湖畔。かつ、カペナウムなどではない。ダルマヌタの場所が不明であることからも、特定は難しいが、おそらく、前段の話の続きと思われる。
イエスの弟子たちへのことばからどのようなことがわかりますか。(1b-3)
1 そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、2 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。3 もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。
ここでも、深く憐れんで(かわいそうである:σπλαγχνίζομαι)マルコ6:34
[DQ] イエスはどのように弟子たちに語っていますか。これから、群衆の状況について、そして、イエスの関心事について何がわかりますか。
[DQ] イエスは、何を考えて、このように語っているのでしょうか。
イエスの、群衆に対する、思いやりが際立っている。
弟子たちと、イエスは、どのような会話をしますか。(4,5)
4 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。5 イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。
[DQ] 弟子たちは、どのように状況を判断していますか。
[DQ] イエスのことばから何がわかりますか。
イエスは、どうしますか。(6,7)
6 そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。
[DQ] イエスの行動からは、どのようなことがわかりますか。
イエスは、何がおこるかを理解していたかはわからないが、神さまに信頼しているように見える。
どうなりますか。(8-10)
8 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。9 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。
満腹。パンくず、七カゴ。
以前の五千人の給食の記事と比較し、気づいたことをあげてみましょう。(6:30-44)
おきた場所:おそらくベツサイダの近くと、デカポリスのあたり、ユダヤ人が多い地域と、異邦人が多い地域
背景:弟子たちも疲れており、群衆は、「飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで」(6:34)、ここでも、「この群衆がかわいそうである。」どちらも、σπλαγχνίζομαι: to be moved as to one’s bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity)。
弟子たちとの対話:「あなたがたの手で食物をやりなさい」
イエスの指示:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。ここでは、「35 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、」
配布:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。ここでは、「そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。7 また小さい魚(ἰχθύδιον: a little fish)が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。」
結果:42 みんなの者は食べて満腹した。43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。44 パンを食べた者は男五千人であった。ここでは、「8 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。9 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、」
実際には、なにがおこったのだと思いますか。
石がパンになったというようなことは書かれていない。(マタイ4:1-4)
実際に、何が起こったか、イエスの手の中で、パンが増えたのか、配っている間に変化が起こったのか、人々の間で、何かが起きたのかは書かれていない。
4.44.6 メモ
五千人養いのときとの対比が興味深い。共通なのは、深く憐れんだこと。自助に頼らなかったこと。石をパンに変えることもおそらくなかった。
表現が少しずつことなり、明らかな違いがあり、それがこのあとの、マルコ8:14-21 にもつながっている。
イエスは、そして、神さまも、深く憐れまれた。そして、それを、弟子たちと協働して、取り組まれた。そして、皆、満腹して、このまま帰らすことはできないと考えられた状態から、人々を安心して、解散させられる状態になったことは、確かめられる。また、残りのパンくずからも、これが、精神的な満足で満たされたのとは、異なるだろうことが推測される。まさに、神の国は来たことが、共有されたのだろう。ここには、現場にいた人が、4000人、また、前には、5000人は、いたことになる。その証言は、残されていない。また、この人たちが、これらの奇跡によって、イエスについてきたとは書かれていない。それも、不思議なことではある。
4.45 8:11-13 人々はしるしを欲しがる
11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。13 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
4.45.1 マタイ 16:1-4
1 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。2 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、3 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。4 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
4.45.2 (参照)マタイ 12:38-42
38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。42 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。
4.45.3 (参照)ルカ 11:29-32
29 さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。30 というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。31 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。32 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。
4.45.4 問い
パリサイ人たちがイエスに議論をしかけた目的は何ですか。(11)
パリサイ人が求める「天からのしるし」とはどのようなものなのでしょうか。(11b)
イエスの応答からは、どのようなことが読み取れますか。(12)
イエスは「しるし」についてどう考えていたのでしょうか。
イエスはどうしますか。(13)
マタイ16:1-4 や、その他の関連箇所(マタイ12:38-42, ルカ11:29-32)からは「しるし」について、どのようなことがわかりますか。
4.45.5 参照
地図 The ministry of Jesus beyond Galilee: https://www.seektheoldpaths.com/Maps/109.jpg
マルコでの「しるし」についての二回目:マルコ13章、マタイ24章、ルカ21章
- 13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
しるし(σημεῖον: a sign, mark, token; a) that by which a person or a thing is distinguished from others and is known, b) a sign, prodigy, portent, i.e. an unusual occurrence, transcending the common course of nature, i) of signs portending remarkable events soon to happen, ii) of miracles and wonders by which God authenticates the men sent by him, or by which men prove that the cause they are pleading is God’s)
マルコ8:11, 12 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。
マルコ13:4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
マルコ13:22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
マルコ16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
マルコ16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕
ルカ 23:8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。
マタイ 12:38, 39, 16:1, 3, 4, 24:3, 24, 30
マタイ26:48
ヨハネ 2:11. 18, 23, 3:2, 4:48, 54, 6:2, 14, 26, 30, 7:31, 9:16, 10:41, 47, 12:18, 37, 20:30
サドカイ派:名前の由来は不明。ギリシャ語(スンディコイ(財務管理人))のユダヤ化したものか。議会議員の意味。ユダヤの貴族の間に多く、特に宗教上の最高権威者である大祭司はサイドカイ派で、最高議会サンヘドリンの議員の多くもこの派に属していた。パリサイ派のように多くの伝承や規則を認めず、聖書だけを信じ、それも、合理的に解釈して、時のギリシャ・ローマ文化の流れに妥協していた。霊の実在も死人の復活も信じず、髪の聖定や摂理より、人間の自由意志と自由行動を重視。(榊原「マタイによる福音書 中巻」)
- 使徒23:6-8 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。7 彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、会衆は相分れた。8 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している。
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4.45.6 記録
日時:2024年2月8日午後7時半〜9時半
出席(対面)8名、参加(遠隔)2名
4.45.7 問いについて
パリサイ人たちがイエスに議論をしかけた目的は何ですか。(11)
11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。
「出てきて」は、ここにも現れてということであろうか。イエスは、反対者から、距離をおくことはできなかったということか。
「試み」「議論」「しるし」いずれも、イエスの活動には、反するものだったのだろう。
「試み」からは、イエスの弱点を探ろうとする印象を受け、「議論」からは、自分たちの正当性を主張する雰囲気を感じる。「しるし」は、最初の「試み」とは異なるのか。なにの、しるしだろうか。
パリサイ人が求める「天からのしるし」とはどのようなものなのでしょうか。(11b)
11b 天からのしるしを求めた。
「何の」しるしなのか。権威? 神の子であること、メシヤであることの天からのしるしだろうか。
出エジプトにまつわるような、紅海が分かれたり、ヨルダン川が分かれたり、パン(マナ)のようなものが降ってきたりだろうか。それとも、エリヤや、エリシャのような預言者と同じようなことをするイエスだろうか。
しるし。神の国到来、メシヤ到来(外国(ローマ)の支配からの解放)、非常に驚くべき破壊的なことが起こる
- ヨルダン川を二つにわけ、一言で城壁を崩壊(自然の法則を無視した、人々を驚かす破壊的な出来事)神の国の到来の無分別
イエスの応答からは、どのようなことが読み取れますか。(12)
12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。
しるしはいらない。信じるからだろうか。
[DQ]「今の時代」と二回いっているが、これは何を意味しているのだろうか。
ファリサイ人の態度を批判しているのではなく、「今の時代」といっている。
イエスは「しるし」についてどう考えていたのでしょうか。
与えられない。
与えられないのでしょうか、与えられてもそれを天からのものと見分けられないのでしょうか。
イエスが伝えている、神の国の到来はどのようなものか、神の息吹でみちている。神を見出すために教会に行くのではなく、あらゆるところに神を見出す
イエスはどうしますか。(13)
13 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
(参照)マルコ8:10 10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。マタイ15:39 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。
不明の地にいるが、ユダヤ人が多い地域でのことだったのだろう。マタイのマガダンは、KJV では、マグダラ(Magdala)となっており、マグダラとすると、西岸である。カペナウムなどでは、ないが、ユダヤ人が多い地では、パリサイ人もおり、議論をふっかけられる。イエスはそれを好まなかったのだろう。
向こう岸:ダルマヌタ、マガダンは不明だが、そこには、パリサイ人がいる。おそらく、向こう岸は、東岸だろう。そのあと、ベトサイダ、ピリポ・カイザリア。ユダヤ人、パリサイ人を避けている。
イエスを試みるもの、議論をしかけるもの、しるしを求めるもの、それらを退けるのではなく、自分から退散している。とはいっても、ずっと、退散し続けるわけではない。
マタイ16:1-4 や、その他の関連箇所(マタイ12:38-42, ルカ11:29-32)からは「しるし」について、どのようなことがわかりますか。
何らかの「しるし」では、納得できないということか。
同様の質問が、マタイ12:38-42 にも含まれている。
4.45.8 メモ
それなりに、弟子たちに含めても、大変になりつつある時期なのだおる。イエスは基本的にしるしを拒否している。
キリスト教でも、しるしは、探し出そうとしていたように思い出される。それが、ヨナのしるしにあらわれ、この世の終わりのしるしに反映されている。しかし、イエスは、この世の終わりについても、気をつけていなさいが、メッセージであるように思われる。70年のエルサレム陥落をうけて、さまざまな議論があったことは、容易に想像がつくが。
イエスのしるしをみて、イエスの神の国の到来を知りたい。
このあと、イエスは、どうして、また、エルサレムへの歩みを始めるのだろう。
科学的観察で天候を見分けることなどを否定はされていない。しかし、当時、わかることは、経験則に多少加わった程度だったのではないだろうか。現代の科学的知見については、イエスはむろん、判断してはいない。しかし、互いに愛し合うことのために、科学的知見をつかうことは、イエスは奨励されるのではないだろうか。
4.46 8:14-21 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。19 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。20 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。21 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。
4.46.1 マタイ 16:5-12
5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。7 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。8 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。10 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
4.46.2 問い
どのような状況で、イエスは弟子たち「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われますか。(14,15)
弟子たちは、イエスのことばをどのように受け取りますか。(16)
イエスは、どのように、弟子たちに問いますか。何に気づかせようとしているのでしょうか。(17-20)
マタイ 16:5-12 は、なにを伝えていますか。
弟子たちは、何を悟らなければいけなかったのでしょうか。(21)
最初のイエスの言葉は、どんなことに警戒せよと言っているのでしょうか。(15)
4.46.3 参照
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パン種(yeast):[リンク]
パリサイ派とヘロデ党
- マルコ3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
サドカイ派とパリサイ派
協力:マタイ16:1 1 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
対立:使徒23:6-8 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。7 彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、会衆は相分れた。8 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している。
サドカイ:名前の由来は不明。ギリシャ語、スンディコイ(財務管理人)のユダヤ化したものと言われる。つまり、議会議員の意味。Σαδώκ(正しいの可能性も)
- Σαδδουκαῖος: Sadducees = “the righteous” a. a religious party at the time of Christ among the Jews, who denied that the oral law was a revelation of God to the Israelites, and who deemed the written law alone to be obligatory on the nation, as the divine authority. They denied the following doctrines: i) resurrection of the body, ii) immortality of the soul, iii) existence of spirits and angels, iv) divine predestination, affirmed free will
ヘロデとピラト
ルカ23:12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。
ルカ9:9 そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。
異邦人とユダヤ人
- 使徒14:5 その時、異邦人やユダヤ人が役人たちと一緒になって反対運動を起し、使徒たちをはずかしめ、石で打とうとしたので、
イザヤ6:10 あなたはこの民の心を鈍くし、/その耳を聞えにくくし、/その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、/その耳で聞き、/その心で悟り、/悔い改めていやされることのないためである」。(マタイ13:15 参照)
1コリント2:11-13 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
ルカ12:1 その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。
1コリント5:6-7 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。6 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
4.46.4 記録
日時:2024年2月15日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)6名
4.46.5 問いについて
どのような状況で、イエスは弟子たち「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われますか。(14,15)
14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
[DQ] なぜ、弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れたのでしょうか。(背景を復習しましょう)
11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。13 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
ユダヤ人が住んでいる地域に久しぶりに行ったが、落ち着く暇もなく、パリサイ人たちが、イエスを試そうとして、天からのしるしをもとめ、議論をしかけてきたので、あまり重要なことはせずに、立ち去ったように思われる。
[DQ] イエスは、どのような気持ちで、訪問した地を離れたのでしょうか。
- 群衆との時間も持てなかった。イエスの、深く嘆息したなかに、イエスの心情が表れているように見える。
弟子たちは、イエスのことばをどのように受け取りますか。(16)
16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。
[DQ] 「互いに論じあった」はどんなことを意味しているでしょうか。
- イエスは、議論をしかけてきた、パリサイ人たちをさけて、その地を去ってきた。ここで、もしかすると、弟子たちは、責任論などを議論していたのかもしれない。
[DQ] なぜ、弟子たちは、自分たちがパンを持っていなかったためだと考えたのでしょうか。
イエスの関心事、イエスの心の痛みを理解しようとしていない。
自分の責任・役割にだけ、関心を持っている。
イエスは、どのように、弟子たちに問いますか。何に気づかせようとしているのでしょうか。(17-20)
17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。19 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。20 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。
[DQ] イエスは、かなり怒っているように見えますが、なにに怒っているのでしょうか。
[DQ] 「五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」は、何に気づかせようとしているのでしょうか。
最初は、理由も示さず、イライラしているように見えるが、あとでは、一緒に経験したところに戻って、気づかせようとしている。
物質的な不足が問題なのではない。それにとらわれてはいけない。
いまも、パンが一つしかない、物質的な欠乏に、こころがとらわれていたら、神様のみこころは理解できない。
[DQ] 何を思い出させたいのでしょうか。
- ① イエスはスーパースターで何でもできること、② 神様のめぐみに生きれば不足しないこと、③ もっとたいせつなことに目を向けるべきこと。
[DQ] イエスは、いくらでも、パンを生み出してくれることを、悟りなさいと言っているのでしょうか。
- そうであれば、わたしたちとは、ほとんど、関係のないことのように見える。
マタイ 16:5-12 は、なにを伝えていますか。
マタイでは、6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。となっている。
「そこで」には順接的な感じを受ける。ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτοῖς Ὁρᾶτε καὶ προσέχετε ἀπὸ τῆς ζύμης τῶνΦαρισαίων καὶ Σαδδουκαίων マルコでは、καὶ διεστέλλετο309 ὐτοῖς λέγων, Ὁρᾶτε βλέπετε ἀπὸ τῆς ζύμης τῶνΦαρισαίων καὶ τῆς ζύμης Ἡρῴδου
パリサイ人とサドカイ人となっており、マルコの「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」とは異なる。
[DQ] なぜ、マタイは、「パリサイ人とサドカイ人」としたのでしょうか。
- おそらく、最後に鍵がある。「12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。」「教え」と理解すると、ヘロデは、そぐわない。
[DQ] マタイが書いているように、本当に「教え」なのでしょうか。
12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。ここに鍵があるように思う。パリサイ人のような、「イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求め」(11)を非難せず「今の時代」と言っている。
対応箇所のマタイでは「1 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。」と、パリサイ人とサドカイ人となっている。
マタイでは「信仰の薄いものよ」と、信仰の問題にしている。ということは、マタイでは、物質的な欠乏は問題ないと言っているようにも取れる。
「11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。」が、教えを誘導しているようにも見える。マルコには、そのような表現はない。マルコの文章では理解できなかったのだろう。
弟子たちは、何を悟らなければいけなかったのでしょうか。(21)
21 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。
① パンの個数や人の人数ではないこと。② イエスはいくらでも、奇跡を起こされる方であること。③ もっとたいせつなものがあること。
[DQ] 弟子たちは、悟ることができたのでしょうか。
おそらく、その一つの解釈がマタイにある。
しかし、イエスは、マルコでは「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」。ここには「今の時代」も現れている。
最初のイエスの言葉は、どんなことに警戒せよと言っているのでしょうか。(15)
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」- 今の時代。
[DQ] パリサイ人の問題点は、何だと、イエスは考えていたのでしょうか。ここまでに書かれていたことを振り返って考えてみましょう。
しるしを求める。(マルコ8:11-13)
神の戒めを棄てて、人間の言い伝えを固く守っている。(マルコ7:8)神のみこころを求めようとしない。(マルコ3:35)
聖霊を冒涜するもの。(マルコ3:29)マルコではエルサレムから下ってきた律法学者たちとあるが、マタイではファリサイ派の人々。
安息日に善いことをするのは許されているのにたいして、イエスを殺そうとする。(マルコ3:4,6)
[DQ] ヘロデの問題点は何だと、イエスは考えていたのでしょうか。ここまでに書かれていたことを振り返って考えてみましょう。
マルコでは、イエスが宣教をはじめたのは「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。」(1:14,15)イエスたちが、カペナウムを離れたのは、ヨハネが殺された頃から。直後に、五千人の給食。ヘロデのことが関わっていることが描写されている。
マルコ6:19,20 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。
イエスの弟子たちと、ヨハネの弟子たちは、緊密な関係にあった。(ヨハネ1:35-42, マタイ9:14)
ヨハネを殺したヘロデについても、十分な情報を持っていただろう。
「教えを喜びながら、王としての力を捨ててまで、悔い改めて信じはしない。」
このときの、イエスや、弟子たちについて、あなたはどのような印象を受けますか。
4.46.6 メモ
イエスは、どのような状況だったのだろう。どのように状況を考えていたのだろう。おそらく、久しぶりに戻った、ガリラヤ(ガリラヤ湖西岸)で、深く嘆息するようなできごとがあり、そそくさと、ほとんど何もしないで、舟で立ち去ったその舟の中での出来事である。「今の時代」について嘆き、パリサイ人の失礼な態度をいかっているわけではない。更に、高いレベルでの嘆きがここにある。
いろいろと考えた挙げ句、イエスが言った言葉が、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」である。やはり、パリサイ的なもの、ヘロデ的なものに注意せよ。それが、どんどん膨れて、腐らせてしまうと言いたかったのだろう。
パンを買ってくること(を忘れた)できなかった、弟子たちが、その悔恨に互いに言い合っている有り様は、パリサイ派の議論とは違うにしても、やはり、イエスを、とてもがっかりさせることだったろう。最初は、明らかに、怒ってしまったイエス。こう怒られても、弟子たちがなにかを理解できるわけではない。そこで、次に、覚えていないのかといい、五千人養いと、四千人養いのときの、最後にパンくずをあつめたかご(五千人のときは大きなかご、四千人のときは小さなかご)の数を問うている。一緒に経験した、神の国の到来を思い出させたのだろう。
マルコでは、どうも、弟子たちは、理解できなかったようである。それをすなおに表現している。(マタイではひとつの理解を書いている。そのために、パン種についても、パリサイ派とサドカイ派のパンだねと変化させ、向こう岸で、しるしをもとめるときも、パリサイ派とサドカイ派としている)考えさせる効果がある。
神の国についての理解、神の国の到来のひとつの例として、五千人養いと、四千人養いについてしるし、それは、パリサイがもとめるしるしや、ヘロデ的なものともことなることをも同時に伝えているのだろう。十分理解できているわけではないが、単純に理解してわかったきになってはいけないとも思う。
この時期の、イエス、次に移っていくイエス。丁寧に見ていきたい。
4.47 8:22-26 ベトサイダで盲人を癒やす
22 そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。23 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。24 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。25 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。26 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。
4.47.1 問い
イエスと弟子たちは、どこにつきますか。それはどのような場所ですか。どのような経路で移動したのでしょう。(22a)
どのようなひとがイエスのもとに連れてこられますか。(22b)
イエスはどうしますか。(23-25)
なぜイエスは、このひとに、村にはいることを許されなかったのでしょうか。(26)
このときのイエスから、どのようなことがわかりますか。
4.47.2 参照
地図 The ministry of Jesus beyond Galilee: https://www.seektheoldpaths.com/Maps/109.jpg
ベツサイダ(Βηθσαϊδά: Bethsaida = “house of fish (hunting: צַיָּד hunter)”, i) a small fishing village on the west shore of Lake Gennesaret, home of Andrew, Peter, Philip and John, ii) a village in lower Gaulanitis on the eastern shore of Lake Gennesaret, not far from where the Jordan empties into it)
マルコ6:45 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。
ルカ9:10 使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。
ヨハネ6:1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
マルコ8:22 そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
マタイ11:21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
- ルカ10:13 わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。
ヨハネ1:44,45 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。
ヨハネ12:21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
参照: ヨハネ5:2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダ(Βηθεσδά: Bethesda = “house of mercy” or “flowing water”, the name of a pool near the sheep-gate at Jerusalem, whose waters had curative powers)と呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
4.47.3 記録
日時:2024年2月22日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)6名
4.47.4 問いについて
イエスと弟子たちは、どこにつきますか。それはどのような場所ですか。どのような経路で移動したのでしょう。(22a)
22a そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。
[DQ] ベッサイダとはどのような地ですか。過去にはどのようなことがありましたか。
5000人の給食はここであったのかもしれない。(マルコ6:45からすると、ヨルダン川西岸のガリラヤとも考えられる。しかし、ルカ9:10は明らかに、ベッサイダ、また、ヨハネ6:1 の記述からは、ベッサイダの可能性が強い。西岸でも寂しいところはあるだろうが、記述からは、東岸のベッサイダ周辺の可能性が高い。)
ヨハネ1:44,45 アンデレ、ペテロ、ピリポは、ベッサイダの出身。(ヨハネ12:21 ピリポがベッサイダの出身であること再術)
マタイ11:21、ルカ10:13 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。」ベッサイダで力あるわざがなされたことが強調され、ここには、カペナウムはない。
[DQ] なぜ、ここにいるのでしょうか。
ユダヤ人がたくさんいる(ファリサイ派の人が多い)地域をさけているように見える。また、このあとは、ピリポ・カイザリアに飛んでいる。舟を係留する地として、人が多いカペナウムではなく、ベッサイダを選んだ可能性もある。
このあと、ピリポ・カイザリア、6日後に、高い山、ガリラヤを通り、カペナウム(議論)、10章では、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう、10:32 エルサレムへ上る途上となる。
どのようなひとがイエスのもとに連れてこられますか。(22b)
22b すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
[DQ] なぜ人々が、この盲人を連れてきたのでしょうか。
目が見えないから、手を引いてきた可能性もある。
人々が、強いてそれをしたのかもしれない。このひとが、無理だと思っている時に。もう、これでいいと思っているときに。
ベッサイダは、イエスが、何度も来ている場所で、かつ小さな村でもある。
イエスはどうしますか。(23-25)
23 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。24 すると彼は顔を上げて310言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。25 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうち311に、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。
[DQ] なぜ、イエスは、この盲人の手をとって、村の外に連れ出したのでしょうか。
[DQ] なぜ、一回で、治さなかった、治らなかったのでしょうか。
[DQ] なぜ、このように、記録されたのでしょうか。イエスが、さわられると、癒やされたではいけないのでしょうか。
「何か見えるか」と尋ねている。イエスがわからないことがあると考えるのが自然。
「なおってきて」には、イエスが、何回もさわるとそのたびに、良くなったと言うより、回復力、神様の力なあど、あるはたらきがそこにあるような印象をうける。
なぜイエスは、このひとに、村にはいることを許されなかったのでしょうか。(26)
26 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」312と言って、彼を家に帰された。
旅の途中で、寄っただけで、村の人に知られたくなかった。大げさにしたくなかった。いやしが中心的なしごとだと思われたくなかった。
[DQ] 家はどこにあったのでしょうか。
- おそらく、村から程遠くない、村の外。
[DQ] どうやって帰ってたのでしょうか。
- 目が見えるようになったから? おそらく、ちょっと違うことが、そこに働いているのだろう。
このときのイエスから、どのようなことがわかりますか。
Available であることは、変わっていないが、どんどん、癒やす、村人の要求に答える感じではない。
イエスが、何を考えていたかは、あまりよくはわからない。
4.47.5 メモ
マルコ7章31-37節 耳が聞こえず舌の回らない人を癒やす との類似を指摘する人もいる。
長い、逃避行の中で、ユダヤ人のいる地域から、舟で移動している。どこかに係留して、ベッサイダに向かった可能性もあるが、おそらく、ペテロや、アンデレ、ピリポの故郷でもある、ベッサイダまで舟で戻ったのだろう。ここから、次は、ピリポ・カイザリアに向かう。ヨルダン川西側は、避けたように見える。
この目の見えない人は、人々に連れてこられる。目が見えないからそうされた可能性もあるが、促されて来たのかもしれない。また、今度、読んでいて考えたのは、もしかすると、このとき一回の治療ではないかもしれないとも思った。縮約して書かれているのかもしれないということである。段階的に治ったこと、群衆や人々からは離れてなされたことも書かれているからである。このあとは、山上の変貌もあり、エルサレムに向かい始める。ベッサイダへはこれが最後だったかもしれないことを考えると、ここで、完全に癒やされたことは印象深い。
マタイ、ルカに入っていないことの意味を考えるのも、興味深い。単純ではない、いやしの記事は不要だったのかもしれない。流れとして、なぜここにベッサイダの記事が入るのかも、不自然に思えたかもしれない。しかし、イエスらしさが、ペトロの目撃証言として、記されているのが、興味深い。
4.48 8:27-30 ペトロ、イエスがメシアであると告白する
27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
4.48.1 マタイ 16:13-20
13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。20 そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
4.48.2 ルカ 9:18-21
18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。19 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。20 彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、
4.48.3 (参考)ヨハネ 6:59-71
59 これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
4.48.4 問い
どのようなときに、イエスは、弟子たちに、自分について人々がだれだと言っているかと聞いていますか。(27)
弟子たちは、どのように答えますか。(28)
それに対して、イエスはどのように尋ねますか。(29a)
だれがどのように答えますか。(29b)
イエスは、なぜ、自分のことをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒めるのでしょうか。(30)
マタイや、ルカからはさらにどのようなことがわかりますか。
弟子たちにとって、イエスは、どのような存在だったのでしょうか。
4.48.5 参照
- ヨハネ6:59-71
- 地図 The ministry of Jesus beyond Galilee: https://www.seektheoldpaths.com/Maps/109.jpg
- ピリポ・カイザリア
- ベツサイダから北へ 41km、ガリラヤ湖面から 520m 上。海抜350m
- パニアスと呼ばれ、パネアスという山に洞窟があり、パン(森・牧童の神)とニンフ(川、泉、洞穴、林の神)の誕生の地
- ヘロデ・ピリポによって建てられた街で、地中海沿岸にある、カイザリアと区別するためにピリポ・カイザリアと呼ばれる。
- エリヤ
- マラキ4:5,6(3:23)見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
- キリスト(ギリシャ語)、メシヤ(ヘブル語):油注がれたもの
- 旧約聖書では、祭司(出エジプト記29:7, 21)、王(サムエル記上10:1)、預言者(列王記上19:16)などが油を注がれた。特に、ダビデの子孫から王としてのメシヤが現れるという期待があった。(サムエル記下7:12,13、詩篇18:50、89:19-37、132:11,12、イザヤ9:6,7、11:1-5、アモス9:11,12)。この期待は中間時代にも受け継がれ、マカベヤ時代のユダヤ人たちの間で、レビの部族から祭司であり王であるメシヤが出るとの期待が高まった。しかし、ダビデの子孫としてのメシヤに対する期待も依然として存続していた。(ソロモンの詩篇17:5-8, 23-28, 18:6-8)。クムラン教団では、祭司としてのメシヤと、王としてのメシヤという、二人のメシヤに対する期待があった。イエスの時代にも、人々はダビデの王国を回復してくれるメシヤに対する期待を抱いた。しかし、このメシヤは、地上における、ダビデ王国を政治的に確立する人物であり、武力を持って、独立を獲得するものと考えられていた。イエスは、メシヤであったが、それは、地上の王国ではなく、霊の王国を確立し、武力による独立ではなく、十字架上のあがないの死によって、罪の力から霊を解放するかたであった。したがって、当時ユダヤ人の間に一般的に使われていた「メシヤ」という称号は誤った印象を与えるので、イエスはこれを用いることを避け「人の子」という表現を好んで用いた。しかし、旧約の預言において約束されていたメシヤの約束を真に成就するものとして、イエスは来られた。この意味において。ペテロの答えは正しかった。(マタイ16:17)。イエスの使命は、真に神のことばを語る預言者であり、霊のイスラエルの罪を贖う祭司であり、新しい霊のイスラエル王国(キリスト者の群れ)を建設し支配する王である。しかし、ペテロのすぐあとの態度(32)を見ると、彼はイエスをキリストとして告白しながらも、依然として当時のユダヤ人と同様に、地上的、政治的メシヤとして考えていたことがわかる。(いのちのことば社「新聖書注解」マルコによる福音書 山口昇)
- イザヤ9:6,7 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、/ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、/その名は、「霊妙なる議士、大能の神、/とこしえの父、平和の君」ととなえられる。7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、/ダビデの位に座して、その国を治め、/今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
- イザヤ11:1-10 エッサイの株から一つの芽が出、/その根から一つの若枝が生えて実を結び、2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、/主を知る知識と主を恐れる霊である。3 彼は主を恐れることを楽しみとし、/その目の見るところによって、さばきをなさず、/その耳の聞くところによって、定めをなさず、4 正義をもって貧しい者をさばき、/公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、/その口のむちをもって国を撃ち、/そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。5 正義はその腰の帯となり、/忠信はその身の帯となる。6 おおかみは小羊と共にやどり、/ひょうは子やぎと共に伏し、/子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、/小さいわらべに導かれ、7 雌牛と熊とは食い物を共にし、/牛の子と熊の子と共に伏し、/ししは牛のようにわらを食い、8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、/乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、/やぶることがない。水が海をおおっているように、/主を知る知識が地に満ちるからである。10 その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。
- エレミヤ22:4 もしあなたがたがこの言葉を真実に行うならば、ダビデの位にすわる王とその家臣、およびその民は、車と馬に乗って、この家の門にはいることができる。
- エレミヤ23:5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
- エレミヤ30:9 彼らはその神、主と、わたしが彼らのために立てるその王ダビデに仕える。
4.48.6 記録
日時:2024年2月29日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)7名
4.48.7 問いについて
どのようなときに、イエスは、弟子たちに、自分について人々がだれだと言っているかと聞いていますか。(27)
27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて(繰り返し)言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
[DQ] なぜ、ピリポ・カイザリヤの村々への途中で、尋ねたのでしょうか。
ガリラヤから離れ、弟子たちだけがいるところで、聞いたのかもしれない。
パリサイ派の人などがいるところでの、議論とは違う場で、おちついて弟子たちに問いたかったのでは。
[DQ] なぜ、人々がだれだと言っているかを、まず聞いたのでしょうか。
ある程度は、理解していたと思うが、全体像を把握しておきたいと思ったのかもしれない。
パリサイ人などは、別として、人々の考えは様々だったろう。それを聞いておきたかったように思う。
汚れた霊に憑かれたひと「神の聖者」(1:24)汚れた霊ども「神の子」(3:11)
エリヤ:マラキ3:23 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
弟子たちは、どのように答えますか。(28)
28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
- 過去の偉人の生まれ変わりまたは復活。旧約の預言の成就としてのメシヤの前ぶれ。
[DQ] これまでには、イエスについての人々の考えは、どのように書かれていましたか。
6:14,15 14 さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。
ルカ9:7,8 7 さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、8 またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。(対応するマタイでは、バプテスマのヨハネのみ)
[DQ] これまで、弟子たちは、どのように表現していましたか。
それに対して、イエスはどのように尋ねますか。(29a)
29a そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
[DQ] イエスは、どのような応答を期待・想定していたのでしょうか。
[DQ] 弟子たちは、この問いを、これまで考えてきていたでしょうか。
- つねに問うていた(自問していた)のではないだろうか。
[DQ] イエスは、なぜ、ここで、この時点で、このような問を弟子たちにしたのでしょうか。
- イエス自身、弟子たちが、どこにいるのか、まだよくわかっていなかったかもしれない。
[DQ] これまで、弟子たちは、どのように表現していましたか。
- 4:41 一体この方はどなたなのだろう。風も、湖さえも従わせるとは。
[DQ] イエスの苦しみは、どのようなものだったのでしょうか。
- 自分は神様の使命を果たしうるのだろうか。現状が神様の御心なのだろうか。
だれがどのように答えますか。(29b)
29b ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
- 「キリスト」という言葉は、どのような意味を持っているでしょうか。
[DQ] これは「正解」、期待していた答えなのでしょうか。
そうかもしれないが、正確ではないのだろう。キリストということばは曖昧だから。
なぜ、ペテロは、キリストと答えたのでしょうか。ほかにも、答えはあるかもしれない。「神の子」
メシヤ、キリストについての真実を語る前に、弟子たちが、キリストとして受け入れていることが大切だったのかもしれない。
イエスは、なぜ、自分のことをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒めるのでしょうか。(30)
30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
[DQ] イエスが、メシヤだということを言ってはいけないということでしょうか。
[DQ] イエスが、恐れていたのはどのようなことでしょうか。
[DQ] 「自分のことをだれにも言ってはいけない」ことは期限があるのでしょうか。
- マルコ9:9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
過去に、伝えるなと言った例。家に帰れも、それに近い。
- 黙れ(1:25)、ものを言うことを許さない(1:34)、規定の病が癒やされた人(1:44)、汚れた霊(3:11)、ヤイロ(5:43)、耳の聞こえない人口の聞けない人(7:36)
マタイや、ルカからはさらにどのようなことがわかりますか。
マタイ16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
マルコでは、単に、その場に行った以上の内容が含まれているように見える。
- 8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて(繰り返し)言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
ルカ 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。
- 祈っているときに、尋ねたは、少し不自然に感じるが、おそらく、重要な決断を暗示しているのだろう。
マタイ16:14b また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります
[DQ] 預言者のひとりのような人だと言っているのか、または、エレミヤや旧約の預言者が復活したと言っているのか、
- ルカ9:19 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。
マタイ16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
このあとに、教会のことなど続く。
マタイ16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
鍵(κλείς a key: a) since the keeper of the keys has the power to open and to shut, b) metaph. in the NT to denote power and authority of various kinds)の複数形:
黙示録 1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
黙示録 3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
イザヤ22:22 わたしはまたダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない。
[DQ] なぜマタイには、このような記述が入っており、マルコや、ルカには入っていないのでしょうか。
マタイ14:33 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
マタイではこれが正解のような表現になっている。
弟子たちにとって、イエスは、どのような存在だったのでしょうか。
[DQ] 人々の評価「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「預言者のひとり」だと思っていたでしょうか。
[DQ] なぜ人々の評価とは異なるのでしょうか。
[DQ] どのようなことによって、イエスをみていたのでしょうか。
4.48.8 メモ
地図を見ると、以前に、ツロ(7:24-30)、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け(7:31)ガリラヤの海べにこられたときに、経路からして、ピリポ・カイザリアを通り過ぎたかもしれない。そのような、ガリラヤの北での活動が、マタイ11:21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。(ルカ10:13)に反映しているのかもしれない。
ここから大きな変化がある。イエスは、ヨハネ2:22-25 「それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」からもわかるように、ペテロがどの程度理解できていたかも知っていたろう。しかし、マタイにかかれているほどではないが、是としたのだろう。これから、その告白したことばのように、生きることについて、学んでいくことになる。告白は、ローマ10:9,10 のように、大切ではあっても、それで完結ではない。
ヨハネ1:41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。ヨハネでは、すでに、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、このように、メシヤであるとの証言をしている。バプテスマのヨハネの弟子だったアンデレにとって、このような証言は自然だったのだろうか。
4.49 8:31-38; 9:1 イエス、死と復活を予告する
31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。9:1 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
4.49.1 マタイ 16:21-28
21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
4.49.2 ルカ 9:22-27
22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
4.49.3 問い
背景を復習しましょう。どのようなことがありましたか。
イエスが伝えたことはどのようなことでしたか。(31,32a)
ペテロはどうしますか。また、イエスはそれに対してどのように応じますか。(32b,33)
イエスについてきたいと思うものに、どのようなことを伝えていますか。(34-37)
自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスに従っていくとはどのようなことでしょうか。(34)
最後にイエスはどのようなことを語っていますか。(38,9:1)
4.49.4 参照
この出来事から逆順にエピソードを段落ごとにたどる。福音書対照表
マルコ:8:27-30 ペトロ、イエスがメシアであること告白する。8:22-26 ベトサイダで盲人を癒やす。8:14-21 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種。8:11-13 人々はしるしを欲しがる。8:1-10 四千人に食べ物を与える。7:31-37 耳が聞こえず舌の回らないひとを癒やす。7:24-30 シリア・フェニキアの女の信仰。7:1-22 昔の人の言い伝え。6:53-56 ゲネサレトで病人を癒やす。6:45-52 湖の上を歩く。6:30-44 五千人に食べ物を与える。6:14-29 洗礼者ヨハネ、殺される。6:7-13 十二人を派遣する。6:1-6 ナザレで受け入れられない。
マタイ:16:9-25 ペトロ、イエスがメシアであると告白する。16:5-12 ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種。16:1-4 人々はしるしを欲しがる。15:32-39 四千人に食べ物を与える。15:29-31 大勢の病人を癒やす。15:21-28 カナンの女の信仰。15:1-20 昔の人の言い伝え。14:34-36 ゲネサレトで病人を癒やす。14:22-33 湖の上を歩く。14:13-21 五千人に食べ物を与える。14:1-12 洗礼者ヨハネ、殺される。14:53-58 ナザレで受け入れられない。
ルカ:9:18-20 ペトロ、イエスがメシアであると告白する。9:10-17 五千人に食べ物を与える。9:7-9 ヘロデ、困惑する。9:1-6 十二人を派遣する。
まとめ:マルコとマタイは、記述内容な多少ことなるが、ほぼ同じ時系列になっている。十二人の派遣の位置はマタイでは、10:1, 5-15 に置かれ、洗礼者ヨハネが殺される記事や、五千人に食べ物を食べさせる記事とは、分けている。ルカでは、ガリラヤから離れて、異邦人の地などを彷徨する記事は省略され、五千人に食べ物を与える記事の直後に、ペトロ、イエスがメシアであると告白する記事を置いている。この記事のあと、9章の終わりまでは、マルコ、マタイ、ルカはほぼ並行して進む。
マタイ16:21 「この時から」
- マタイ4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
死と復活の予告
8:31-32a 31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32a しかもあからさまに、この事を話された。
9:30-32 30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
10:32-34 32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。
イザヤ52:13-53:12
- 52:13 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。14 多くの人が彼に驚いたように――/彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、/その姿は人の子と異なっていたからである――15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、/まだ聞かなかったことを悟るからだ。53:1 だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。2 彼は主の前に若木のように、/かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、/われわれの慕うべき美しさもない。3 彼は侮られて人に捨てられ、/悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、/彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。4 まことに彼はわれわれの病を負い、/われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、/彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、/われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、/われわれに平安を与え、/その打たれた傷によって、/われわれはいやされたのだ。6 われわれはみな羊のように迷って、/おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、/彼の上におかれた。7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、/口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、/また毛を切る者の前に黙っている羊のように、/口を開かなかった。8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、/彼はわが民のとがのために打たれて、/生けるものの地から断たれたのだと。9 彼は暴虐を行わず、/その口には偽りがなかったけれども、/その墓は悪しき者と共に設けられ、/その塚は悪をなす者と共にあった。10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、/主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、/その子孫を見ることができ、/その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、/多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、/とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、/とがある者のためにとりなしをした。
イエスの受難についての記述
マルコ2:19, 20 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。20 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
- マタイ9:15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
マルコ3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
マタイ10:38, 39 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
マタイ12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
パウロのエルサレム行きについて(使徒21:10-14)
4.49.5 記録
日時:2024年4月11日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)4名
4.49.6 問いについて
背景を復習しましょう。どのようなことがありましたか。
6章から9章への構成を復習。ルカとの違いを確認。(参照)
8:27-30 ペトロ、イエスがメシアであると告白する の直後。
- 27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
「するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。」に続いている。
イエスが伝えたことはどのようなことでしたか。(31,32a)
31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32 しかもあからさまに、この事を話された。
[DQ] 人の子とは誰のことでしょうか。弟子たちは、誰のことかわかったのでしょうか。
このあとのペテロの反応から、それがイエスであることを、弟子たちは理解していたろう。
人の子(マルコ 15件):2:10, 28, 3:28, 8:38, 9:9, 12, 31, 10:33, 45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62。マタイ30件、ルカ26件、ヨハネ12件、使徒7:56、(黙示録 1:13, 14:14 人の子のような者)
[DQ] 具体的には、どのようなことを、どのような順番で述べていますか。
- ① 多くの苦しみを受け、② 長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、③ 殺され、④ 三日の後によみがえる(べきこと)
[DQ] 「あらかさまにこの事を話された」とはどのようなことでしょうか。
- だれにでも分かる言葉でということだろうか。
ペテロはどうしますか。また、イエスはそれに対してどのように応じますか。(32b,33)
32b すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
この記事は、ルカには欠けている。
[DQ] ペテロは、なぜいさめたのでしょうか。それは、何を意味しているのでしょうか。
「いさめる」ἐπιτιμάω i) to show honour to, to honour, ii) to raise the price of, iii) to adjudge, award, in the sense of merited penalty, iv) to tax with fault, rate, chide, rebuke, reprove, censure severely; to admonish or charge sharply: Mark 1:25, 3:12, 4:39, 8:30, 32, 33, 9:25, 10:13, 48
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
8:30, 32b の対比からも、相互理解ができていないことがわかる。
イエスも言っているように、人間的な思いなのだろう。イエスがキリストであることは、神の思いであり、それが人の思いとなるかどうかが鍵なのだろう。
マタイ16:22 22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
少し深く読むと、それが、神様のみこころではないことを言っているのだろう。
[DQ] イエスのことばの、なにが、ペテロにとって「とんでもないこと」なのでしょうか。
[DQ] ペトロや弟子たちは「イエスがキリストである」ことをどのように考えていたのでしょうか。
開放者。征服者。ダビデのような王。
[DQ] あなたは、救い主にどのようなことを期待しますか。
[DQ] なぜ、イエスは、振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのでしょうか。
- 生き生きと描かれている。直接的には、ペテロに対してであっても、本質的には、弟子たち全員、すなわち、わたしたちへのメッセージなのだろう。
[DQ] なぜ、これほど、厳しい言葉で、ペテロを叱ったのでしょうか。
イエス自身も含めて、もっとも警戒していたことなのかもしれない。
マタイ4:8-10 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
この世を去ること(死)を望んでいなかったのかもしれない。
[DQ] ペテロが正しいということはあり得なかったのだろうか。
イエスについてきたいと思うものに、どのようなことを伝えていますか。(34-37)
34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
[DQ] だれに向かって言っていますか。
- 「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて」弟子たちだけではなく、群衆もそこにいたことになる。(ルカでも「みんなの者に」(9:23)。マタイでは「弟子たちに」(16:24))
「イエスについてきたい」と願う人にむけて語っている。まとめると
① 自分を捨て、② 自分の十字架を負うて、③ わたしに従ってきなさい。
いのちがたいせつ。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら」
- 弟子なら師についていくのは当然だとも言えるが、これは裏返すとイエスがどのようにこれから生きていこうかということを語っているのだろう。
[DQ] 前半 34節と、後半 35-37 の関係はどうなっているのだろうか。
[DQ] ここで言われている「命」とは「命を失う」「命を救う」とは、なんだろうか。
- 命は、代価を払って買い戻すことができないもの。
[DQ] 「福音のため」とは何を意味するのだろうか。
伝道して、反対にあい、迫害されて殺されることでしょうか。
「福音」とは何なのでしょうか。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15)
自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスに従っていくとはどのようなことでしょうか。(34)
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
[DQ] 「自分の十字架」とは何なのでしょうか。
- イエスの十字架のように、それぞれに、十字架があるということなのだろう。
最後にイエスはどのようなことを語っていますか。(38,9:1)
38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。9:1 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
後に追加されたものなのではないかと思わされる。あくまでも、核は、前半の部分であるように思われる。(2回目、3回目の告知と比較。唐突で、このことについては、何も語られていない。弟子たちの期待の現れ。しかし、おそらくなにか関連したことは言われたのかもしれない。)
マタイ16:27,28 27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
ルカ9:26,27 26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
参照:ダニエル7:13,14 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、/見よ、人の子のような者が、/天の雲に乗ってきて、/日の老いたる者のもとに来ると、/その前に導かれた。14 彼に主権と光栄と国とを賜い、/諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、/なくなることがなく、/その国は滅びることがない。
[DQ] これは、いつのことを言っているのでしょうか。
この次の記事の山上変貌
終末の再臨
キリスト教会の設立をとおして、神の国の顕現を見る。
- マタイ16:18,19 18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
4.49.7 メモ
3つの部分に分かれている。
弟子への受難と死と復活の予告と、それをいさめるペテロの叱責(31-33)
弟子と群衆にむけたイエスに従うことについてのチャンレンジ(34-37)
イエスとその言葉を恥じるものについて(38-39)
3は、要約も難しく、二文が関係しているのかどうかも不明である。
死と復活の予告はあとからじっくりする選択肢もある。(二回目:9:30-32、三回目:10:32-34 は独立した学びをする予定)
最後の部分もあとからじっくり考え、基本的な枠組みと、中心部分に集中するのがよいように思われる。(13章で、神殿の崩壊の予告のあと、弟子の質問にこたえて、終末の予兆について語る)
このエピソードのあと、山上の変貌の記事があり、ふもとでの、悪霊に憑かれた子を癒やす記事があり、ガリラヤに入り、カファルナウムにも行き、エルサレムに向かう。(10章から)これまでとは雰囲気が変わっている。
「35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」ここに非対称がある。自分の命を失おうとするわけではない。どのように、失うことになるのかは不明。
イエスに従っていくものの大変さが書かれているようにも思うが、神の国は近い、このことを経験しながら生きることができるのは、まさに、福音に生きることであり、幸せなことなのだろう。
4.50 9:2-13 イエスの姿が変わる
2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。13 しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
4.50.1 マタイ 17:1-13
1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。11 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。12 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
4.50.2 ルカ 9:28-36
28 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。30 すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、31 栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。32 ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。33 このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。34 彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。36 そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。
4.50.3 問い
いつ、どこで、起きたことが記されていますか。そこにいたのは誰ですか。(2-4)
ペテロはどのような提案をしますか。その状況はどのように描かれていますか。(5-6)
雲の中からの声については、どのように描かれていますか。(7-8)
イエスはどのように、命じますか。なぜでしょうか。(9-10)
弟子たちはどのような質問をし、イエスはそれにどう答えますか。(11-13)
この記事は、何を伝えているのでしょう。マタイやルカの記述も参考にしましょう。
4.50.4 参照
ヘルモン山:ヘルモン山(Mount Hermon, ヘブライ語: הר חרמון)シャイフ山(Jabal al‐Shaykh[1], アラビア語: جبل الشيخ)は、レバノンとシリアの国境にあるアンチレバノン山脈の最高峰で、最高点の標高は2,814mである。
タボル山:タボル山(ヘブライ語: הר תבור、英語: Mount Tabor)は、イスラエルの北部地区にある標高575mの山。ヘブライ語で「Har Tavor」、アラビヤ語では「ジェベル・エト・トゥール」と呼ばれる。聖書の記述に関連して日本では変貌山とも書かれるが、これは他の山のことであるとする説もある。
- ヨセフスはタボル山の頂上に要塞があったと証言している。
マラキ3:1 見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
マラキ4:4-6 あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。5 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
イザヤ40:3 呼ばわる者の声がする、/「荒野に主の道を備え、/さばくに、われわれの神のために、/大路をまっすぐにせよ。
- イザヤ40:3-5 は、マタイ3:3, マルコ1:3、ルカ3:4、ヨハネ1:23 と四福音書にバプテスマのヨハネとの関連で引用されている
復活
- マルコ12:26-27 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
エリヤ
列王記下2:11 彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
マルコ6:15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。
マルコ8:28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
マルコ9:4,5 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
マルコ9:11-13 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。13 しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
マルコ15:35,36 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。
モーセ
申命記34:1-8 モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、2 ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、3 ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。4 そして主は彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。5 こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。6 主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない。7 モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。8 イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間モーセのために泣いた。そしてモーセのために泣き悲しむ日はついに終った。
マルコ1:44 「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。
マルコ7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
マルコ9:4,5 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
マルコ10:3-5 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。
マルコ12:19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
マルコ12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
ペテロ後書1:16-18 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
デバーリーム・ラッバー(Devarim(申命記)Rabbah)3:メシヤの日には、モーセとエリヤが「一人のように」共に来るといった。(榊原康夫)未確認。
4.50.5 記録
日時:2024年4月18日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)4名
4.50.6 問いについて
いつ、どこで、起きたことが記されていますか。そこにいたのは誰ですか。(2-4)
2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
「六日の後」「高い山」「イエスの衣が白くなった」「エリヤとモーセがイエスと語り合っていた」「ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて」
[DQ] いつから「六日の後」なのでしょうか。(ルカも参照)
- ルカでは「八日ほどたって」。かつ「祈るために山に登られ」「祈っておられる間に」と祈りが強調されている。
[DQ] どのあたりの山でしょうか。
[DQ] なぜ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行ったのでしょうか。
マルコ5:37,40 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
マルコ14:33 (ゲッセマネ)そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
証人:申命記19:15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。
[DQ] ここで描かれている状況は何を伝えているのでしょうか。
「彼らの目の前でイエスの姿が変わり」弟子たちは皆が認められるような変化だったことが、まさに、目撃証言として語られている。
「エリヤがモーセとともに彼らに現れて」とあり、イエスだけに現れたわけではない。
エリヤとモーセは生きているのでしょうか。(12:26参照)
ルカでは「栄光の中に現れて」「イエスの栄光の姿と共に立っている二人の人とを見た」とあり、栄光が強調されている。これがキリスト教会で共有されていたことなのだろう。
[DQ] なぜ、エリヤとモーセなのでしょうか。
- 聖書は、「律法と預言者」と呼ばれていた。その代表? なぜエリヤが先か。(マタイ、ルカはモーセが先)おそらく、このあとのエリヤ談義と関係があってそのように記憶されていたのだろう。
ペテロはどのような提案をしますか。その状況はどのように描かれていますか。(5-6)
5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
[DQ] なぜ小屋を建てると提案したのでしょうか。
自分たちの「すばらしい」経験を形にして残したかった?
非常におそれていて、自分でも何を言っているのかわからなかった。混濁状態。
仮庵の祭りが近かったとの説もある。(9月末から10月半ば)たとえそうだったとしても、それだけを理由にするのは、本質を外しているように見える。
モーセと、エリヤを認識していたことが証言されている。
- イエスのことばから推測したのだろうか。「エリヤがモーセと共に彼らに現れて」
非常に恐れていて、何を言ってよいかわからなかったとあり、混乱状態も考えられる。
雲の中からの声については、どのように描かれていますか。(7-8)
7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
参照:マルコ1:9-11 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
[DQ] 彼らをおおったの「彼ら」とは誰でしょうか。
- 不明だが、「ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた」という表現から、モーセとエリヤは、見えなくなったのだろう。
[DQ] 「これはわたしの愛する子である。これに聞け」は、何を意味しているのでしょうか。ペテロの提案の答えだろうか。
モーセとエリヤの実像がどのようなものだったかは不明だが、イエスが、モーセとエリヤと語り合っていたことはわかったのだろう。
[DQ] だれにむけて、どのようなメッセージを語っているのでしょうか。
[DQ] 「これに聞け」は、何を聞けと言っているのでしょうか。
- おそらく、ペテロの提案に対する答えもあるだろうが、もっと大きな意味で、イエスに聞くことが、神の御心を知ることだと言っているようにも見える。
申命記18:15 あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。
イエスはどのように、命じますか。なぜでしょうか。(9-10)
9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。
[DQ] なぜ「人の子が死人の中からよみがえるまで」なのでしょうか。
イエスも、受難と死と復活を告げていたので、そこまでが使命と考えていたのかもしれない。
復活とは何なのかの問は難しい。イエスも、完全には理解できていなかったのかもしれない。
[DQ] イエスが伝えたこと、弟子たちが理解したことは何だったのでしょうか。
よみがえりで完結だと、イエスが理解していたのではないだろうか。
律法や、預言者から、神様のみこころを確認していたのだろうか。
モーセやエリヤは、イエスとしては、生きている存在だったのだろう。
弟子たちはどのような質問をし、イエスはそれにどう答えますか。(11-13)
11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。13 しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
エリヤが先にくるはずだという説について。
マルコ1:2-4 預言者イザヤの書に、/「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、/あなたの道を整えさせるであろう。3 荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』」/と書いてあるように、4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
マラキ3:1, 4:4-6 5 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
「人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてある」と言っている。内容は、受難の告知と似ているが、書いてあるとは、旧約聖書を意味しているのだろう。
おそらく、イザヤ書を念頭においている。
「なぜか。」と問うている、これは、イエス自身への問だったのかもしれない。弟子たちには、考えが及ぶことではないだろう。まさに、そのような問いについて、聖書のひとたちと、聖書箇所を思い出しながら、語り合い、神様とコミュニケーションしていたのかもしれない。
[DQ]「そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」は、何を意味しているのだろうか。
マタイ11:7-19 13 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。14 そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。15 耳のある者は聞くがよい。16 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、17 『わたしたちが笛を吹いたのに、/あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、/胸を打ってくれなかった』/と言うのに似ている。18 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
ルカ1:13-17 16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
[DQ] エリヤの役割は何なのでしょうか。本当に、元どおりに改めたのでしょうか。
そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった。
それは書いてあるのだろうか。書いてあるとすると、イザヤ書。
この記事は、何を伝えているのでしょう。マタイやルカの記述も参考にしましょう。
受難告知の裏側を示していることは確かだろう。
イエスにとって
モーセ(律法授与者)とエリヤ(偉大な預言者)に出会い、語り合った。
神からのメッセージ:すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
弟子たちにとって
理解できなくても、信頼すること。
栄光の証人。
マタイ17:6-8 6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
4.50.7 メモ
仮庵の祭り:9月末から10月中旬(ザドク暦第七ホデシュの15日から7日間)
- レビ記23章34-43節、ヨハネによる福音書7章37-38節
だれがイエスと語り合っていますか。エリヤについて 9:11-13 と マタイ 17:10-13 を比べてみましょう。
ルカでは「栄光の中に現れて」「イエスの栄光の姿と共に立っている二人の人とを見た」とあり、栄光が強調されている。これがキリスト教会で共有されていたことなのだろう。また、このことが、ペテロ後書からも見て取れる。イエスの再臨のときの、栄光の姿を垣間見る経験だったとしているのだろう。それが、8:38-9:1 とも関連している。
38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。9:1 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
2ペテロ1:16-18 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
イエスにとって、バプテスマのヨハネの存在はとても大きかったのだろう。バプテスマのヨハネの役割は十分認識していた。それがエリヤの出現預言とつながっているように見える。マルコ冒頭でも、イザヤ預言と、マラキ預言を一緒にして、それを、預言者イザヤの書にこう書いてあるとしている。
2つに分けて学んだほうが良いかもしれない。内容が濃く、十分消化するのが難しい。
4.51 9:14-29 汚れた霊に取りつかれた子を癒やす
14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
4.51.1 マタイ 17:14-21
14 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、15 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。16 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。17 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。18 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。19 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。21 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。
4.51.2 ルカ 9:37-43a
37 翌日、一同が山を降りて来ると、大ぜいの群衆がイエスを出迎えた。38 すると突然、ある人が群衆の中から大声をあげて言った、「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、39 霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです。40 それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。41 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。42 ところが、その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒して、引きつけさせた。イエスはこの汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった。43a 人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。
4.51.3 問い
背景を復習しましょう。(14)
どのような問題が起こっていますか。(15-18)
イエスはどうしますか。(19-22)
父親とイエスの対話からどのようなことがわかりますか。(22-24)
イエスはどうしますか、そしてどうなりますか。(25-27)
弟子たちは、イエスにどのような質問をし、イエスはどう答えますか。(28,29)
イエスは人々の「不信仰」に対して何を求めているのでしょうか。
4.51.4 参照
不信仰:9:24 εὐθὺς κράξας ὁ πατὴρ τοῦ παιδίου ἔλεγεν πιστεύω βοήθει μου τῇ ἀπιστίᾳ
ἀπιστίᾳ: i) unfaithfulness, faithless, ii) want of faith, unbelief, iii) weakness of faith
6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。マタイ13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
9:24 24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
16:14 その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
マタイ17:20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
4.51.5 記録
日時:2024年4月25日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)4名
4.51.6 問いについて
背景を復習しましょう。(14)
14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
山上のイエスの栄光の姿への変貌と、現実の世界の喧騒の対比がある。
- 9:5 5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
[DQ] だれがいますか。
- 山から降りてきたイエスとペテロ、ヤコブ、ヨハネ。他の弟子たち。群衆。律法学者。
[DQ] どのような光景が想像できますか。
- 律法学者も群衆もいるので、ガリラヤ地方ではないかと思われる。すると、他の弟子たちを、ガリラヤの村に残して、イエスが三人だけつれて、山に行ったのかもしれない。(ルカでは「翌日、一同が山を降りてくると」となっている。)
[DQ] 律法学者と弟子たちは何を論じていたのでしょうか。
イエスはどこへ行ってしまったのか。ユダヤ人のもとには戻ってこないのかと考えていたかもしれない。ほどんど、ユダヤ人の前に現れていない時期が続いていた。しかし、弟子たちを見つけて、議論をふっかけたのだろうか。
汚れた霊を追い出す権威を授けられていた弟子たちも、何もできなかったので、単に、誹謗されていたのか。
[DQ] イエスと一緒に行った、ペテロ、ヤコブ、ヨセフは、どのようなことを感じたでしょうか。
- イエスの栄光の姿、自分たちの見た幻とは非常に異なる、現実の喧騒だろうか。現実に引き戻されたことは確かだろう。
どのような問題が起こっていますか。(15-18)
15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
[DQ] 群衆は、なぜ非常に驚いたのでしょうか。律法学者たちが、弟子たちと論じ合っていたこともあわせて考えてみましょう。
イエスは逃げていて戻ってこないのではないかと思っていたかもしれない。
自分たちの問題を解決するために、奉仕されるイエスは、もういなくなったとおもっていたかもしれない。
[DQ] この息子の状態はどのように描かれていますか。
口をきけなくする霊につかれている息子を父親が連れてきた。
- 症状:霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。
マタイではてんかん。ルカでは引き付け。
癲癇(てんかん épilèpsy):大脳の神経細胞が過剰に興奮することで発作症状を引き起こす慢性的な脳の疾患。 突然意識を失い、四肢をピクピクさせたり硬直させたりする発作、体の一部が勝手に動いたり、会話の途中に意識を失う発作などもあります。 年齢・性別・環境に関わらず発作は発症します。
[DQ] 「それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」からは、どのようなことが伝えられていますか。
やっぱり、無理なのだろうかということだろうか。
弟子たちが、汚れた霊を追い出すことが書かれている。
- 6:12-13 12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。(θεραπεύω)
イエスはどうしますか。(19-22)
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
[DQ] 「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。」は誰に対して言っていますか。イエスの関心事は何ですか。
「あなたがた」とあるが、それに人々が対応しているところをみると、「人々」だろうか。それとも、弟子たちのことだろうか。時代と言っているので、課題の対応に関する人々の対応だろうか。
何を不信仰と言っているのだろうか。
- 魔術的な力に頼ることだろうか。
まずは、だれかを批判するようなことはしていない。「不信仰な時代」ということで、残念に思っていることは確か。それぞれの人達が、それぞれに受け取っただろう。
[DQ] イエスはなぜ「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねたのでしょうか。
- 丁寧に対応している。課題の正確な把握。
[DQ] 父親のことばからは、どのようなことが感じられますか。
20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
起こっていることであたふたしている。そこに目を囚われている。
父親とイエスの対話からどのようなことがわかりますか。(22-24)
22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
イエスは、父親の言葉にツッコミを入れかつ、上の不信仰な時代ともつながっており、印象的なことばとして、そこにいるものが伝えたのだろう。ペテロなどによる証言だろうか。史実性が高い。
[DQ] 父親はなんといえばよかったのでしょうか。
1:40 ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
おそらく、そのような技術的なことを言っているのではない。
[DQ] 憐れみを受けるのは、なにが鍵だと言っていますか。
神様に信頼すること? 神様に責任をなすりつけているのだろうか。
なにかの因果なのだろうか。
[DQ] イエスの、「信じるものにはどんなことでもできる」は何を伝えようとしているのでしょうか。本当になんでもできるのでしょうか。
問題は何だったのでしょうか。弟子たちの不信仰、弟子たちが、イエスのような力を持っていなかったこと? 父親の不信仰? 神の国が近いことを見ようとすることだろうか。
バークレイ:あなたの子供をいやすことは、わたしではなく、あなたにかかっている。
[DQ] 「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。は、信じることと、信仰を持っていない自分とを表現しているのでしょうか。
- これがよけい、史実性を高めている。
イエスはどうしますか、そしてどうなりますか。(25-27)
25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
ここでも汚れた霊に対して叱っている。汚れた霊に対する権威を示し、かつ、二度と入ってくるなと命じている。
[DQ] 弟子たちも、確信をもって、このように言えばよかったのでしょうか。
弟子たちは、イエスにどのような質問をし、イエスはどう答えますか。(28,29)
28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
[DQ] 祈ればよいのでしょうか。
[DQ] イエスはなにを伝えているのでしょうか。
バークレイ:あなたがたの生活は神にあまり近くない。
マルコ6:7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
マルコ6:13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした(θεραπεύω)。
注:断食が入っている写本もあるが、2:18-20 から重要視されていない。
イエスは人々の「不信仰」に対して何を求めているのでしょうか。
[DQ] 御心を求め続けることでしょうか。
- わからない。
[DQ] この父親や、家族は、これから問題もなく、幸せに暮らしたのでしょうか。
- 問題は、いくらでもあるだろう。
4.51.7 メモ
汚れた霊につかれていると捉えるか、てんかんのような現代的に考えると、大脳の神経の病気と捉えるかの差もあるように見える。ただ、マルコでは一貫して、汚れた霊であるとし、イエスもそのように扱っているので、そのまま扱ったほうがよいように思われる。神様のはたらきを妨げるものだろうか。なぜ、その働きがあるのかの判断は難しいが、イエスの「不信仰」発言をどの程度拡大して考えてよいかは不明だが、イエスは、不信仰が問題だと言っているように見える。ただ、神様に任せればよいのだろうか。おそらく、そうではない。
このときに、癒やされればよいのかは、ひとつ重要な点のような気がする。問題は、いくらでも人生に起きるのだから。しかし、ここで、言っている信仰とは何かは、よくはわからない。
不信仰のやりとりから、弟子たちが癒せなかったことにたいして、イエスが怒っているのではないように見える。同時に、残された日々が短いことも、イエスは思っていることも確かだろう。
イエスのスーパーパワーで汚れた霊が追い出されたとは言っていない。この父親の信仰でもなさそうである。弟子たちも、祈っていれば、このひとの息子が癒やされたわけではないのだろう。非常に興味深い。
4.52 9:30-32 再び自分の死と復活を予告する
30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
4.52.1 マタイ 17:22-23
22 彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、23 彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちは非常に心をいためた。
4.52.2 ルカ 9:43b-45
43b みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、44 「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。45 しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。
4.52.3 問い
背景を復習しましょう。
彼らはどこへ向かっているのでしょうか。イエスについてどのように書かれていますか。(30)
イエスは弟子たちに何を伝えていますか。(31)
弟子たちについては、どう描かれていますか。(32)
一回目(8:31)、三回目(10:33,34)と比較するとどんな事がわかりますか。
イエスは、何を目指し、弟子たちには何を期待しているのでしょうか。
4.52.4 参照
マルコにおけるエルサレム
1:5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
3:8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。
3:22 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
10:32,33 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。
11:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
11:11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
11:15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
11:27 彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、
15:41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
イザヤ
マルコ1:2,3 預言者イザヤの書に、/「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、/あなたの道を整えさせるであろう。3 荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』」/と書いてあるように、
- イザヤ40:3 呼ばわる者の声がする、/「荒野に主の道を備え、/さばくに、われわれの神のために、/大路をまっすぐにせよ。
マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、/『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
- イザヤ29:13 主は言われた、/「この民は口をもってわたしに近づき、/くちびるをもってわたしを敬うけれども、/その心はわたしから遠く離れ、/彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、/そらで覚えた人の戒めによるのである。
マタイ3:3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』」/と言われたのは、この人のことである。(ルカ3:4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、/『主の道を備えよ、/その道筋をまっすぐにせよ』。ヨハネ1:23 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。)
ルカ4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
マタイ4:14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
マタイ8:17 これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
マタイ12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
マタイ13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、/決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
マタイ15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
ヨハネ12:39 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、
ヨハネ12:41 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
死と復活の予告
8:31-32a 31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32a しかもあからさまに、この事を話された。
9:30-32 30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
10:32-34 32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。
4.52.5 記録
日時:2024年5月2日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)4名
4.52.6 問いについて
背景を復習しましょう。
8:27-30 ペトロ、イエスがメシアであると告白する
8:31-38; 9:1 イエス、死と復活を予告する
9:2-13 イエスの姿が変わる
9:14-29 汚れた霊に取りつかれた子を癒やす
ガリラヤ以外の土地を周り、ガリラヤに帰ることを躊躇された時期に、イエスの決断、イエスの問に対する、ペテロの信仰告白、イエスの受難告知、山上の変貌を経て、山の下で待っている弟子たちが癒されなかった、不信仰を嘆き、汚れた霊につかれた息子を癒やす。その後での二回目の受難告知の記事である。
受難告知に対して、メシヤだと信仰告白したペテロもイエスをいさめ、山上でイエスの栄光の姿への変貌を目撃したでしたちも、わからないことばかり。「9 一同が山を下って来るとき、イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼らに命じられた。10 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。」
彼らはどこへ向かっているのでしょうか。イエスについてどのように書かれていますか。(30)
30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
ここに至るまで:8:37 ピリポ・カイザリア、9:2 山上、
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
ガリラヤを通って、おそらく、エルサレムに向かっている。
- 10:32,33 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。
[DQ] なぜイエスは、旅行の行程を秘密にしたいのでしょうか。
[Q] 誰に「気づかれるのを好まれなかった」のでしょうか。
- 「人」とあるが、弟子たち以外だろうか。パリサイ派、律法学者、群衆も含めて。
[DQ] 人との交渉を避けられたのでしょうか。
ガリラヤを通っていかれたとあり、イエスとしては、おそらく、最後のガリラヤだと考えていただろう。これまで、どこに行っていたのか、これから、どこに行くのか、どうするのかといった議論をしたくなかったのか。では、人々の必要には答えたくなかったのだろうか。(奉仕については)
- このあとは、イエスは弟子たちを教え、人々も教えるが(10:1-16 離婚について教える、10:13-16 子どもを祝福する、17-22 金持ちの男)癒やしについては、10:46-52 盲人バルティマイを癒やす の記事のみ。
理由は、次の節に秘められている。31 それは、… と言っておられたからである。
受難ことは、弟子たちには、話しているが、人々には、秘密にしている。
[DQ] 受難については、弟子たちに、話してはいけないと命じているでしょうか。
イエスは弟子たちに何を伝えていますか。(31)
31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
① 人々の手にわたされ、② 殺され、③ 三日の後によみがえる
[DQ] イエスが死と復活について語ったのは二度目ですが、一度目と比較して見ましょう。
8:31-32a 31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32a しかもあからさまに、この事を話された。
「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ」が欠けている。
「人々の手にわたされ」が加わっている。
- わたされ(παραδίδωμι: to give into the hands (of another))「誰かに」と「誰かによって」または「誰から」が背後にある。
[DQ] 「誰に」の部分はどんな人が想定されているのでしょうか。
8:31b 必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ
直接的には、これらの民の指導者が想定されているだろうが、群衆・人々をも含んでいるのではないだろうか。
[DQ] 「誰によって」の部分は、どのような人が想定されているのでしょうか。
ユダ?
- ヨハネ6:66-71 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
[DQ] 前回と今回はそれぞれどのような時だったのでしょうか。
- 前回はイエスの問に対する、ペテロの告白のあと。
[DQ] イエスが教えたかったことは何なのでしょうか。
- 前回:8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。
弟子たちについては、どう描かれていますか。(32)
32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
[DQ] 弟子たちはイエスの教えにどのように反応していますか。
[DQ] なにを悟っていなかったのでしょうか。
受難の意味だろうか。引き渡されるの具体的な内容までは、頭が回らなかったように思われる。ユダは、気づいていたのだろうか。
受難の意味だとすると、イエスは明確に理解していたのだろうか。
[DQ] なにを尋ねるのを恐れていたのでしょうか。
死とよみがえりは何を意味しているかということだろうか。想像すらできないことは、当然であるように見える。
イエスは明確に理解していたのだろうか。
[DQ] イエスはなにのために、弟子たちに伝えて(教えて)いたのでしょうか。(6で考察)
- 神様に信頼していたことは確かだろう。これも、神の国は近いことの一つだったのか。
一回目(8:31)、三回目(10:33,34)と比較するとどんな事がわかりますか。(参考)
一回目は、受難、二回目は、人の手に引き渡されること、三回目は、エルサレムで起こることと、祭司長、律法学者たちの手に渡され、彼らが死刑を宣告し、異邦人に引き渡され、あざけり、つばきをかけ、ついに殺してしまうとかなり細かく書かれている。
毎回「三日の後によみがえる」ことが伝えられている。
イエスは、何を目指し、弟子たちには何を期待しているのでしょうか。
[DQ] イエスは、受難・受苦、人々の手に引き渡され、さらに、死とよみがえりの意味について、十分理解していたのだろうか。
[DQ] 死とよみがえりについては、毎回語られているが、それは、イエスはどのように理解していたのだろうか。
[DQ] わたしたちが、イエスにこのように伝えられたとき、どのように理解するか、悟ることができるか、考えてみましょう。
それほど、簡単ではない。イエスが、この道を選んだ、または、ここに主のみこころがあると確信したことは確かだろうが、どのように理解していたかは不明。
しかし、教えたということは、弟子たちになにかを託していることは確か。
4.52.7 メモ
イエスから、もっと、この受苦・死・よみがえりについて聞いてほしかった。これだけ、教えられたということは、この事を通して、イエスが託した事があるのだろう。単に、未来を予知できる能力があると伝えたかったわけではないと思う。
あらかじめ伝えられていることによって、短い期間で、立ち直ることができたことは確かだろう。五旬節は、50日後、または7週間後だから、その間に、イエスの死と復活を消化できたと聖書は証言している。
イエスについていくもの(8:34)に委ねたということだろう。それは、イエスのように歩む者である。正直に行って、イエスの十字架上での死による贖罪を宣べつたえるよりは、もっと広い意味をもつと思われる。
4.53 9:33-37 いちばん偉い者
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
4.53.1 マタイ 18:1-5
1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
4.53.2 ルカ 9:46-48
46 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、48 「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。
4.53.3 問い
どこにいますか。どのような状況でこの会話が始まりますか。(33a)
弟子たちは、なにについて話していますか。(33b, 34)
イエスは、どのように答えていますか。(35)
イエスは、幼子を呼び寄せてどのように教えていますか。(36,37)
弟子たちの議論と、幼子を受け入れることとはどのように関係しているのでしょうか。
イエスは弟子たちになにを教えているのでしょうか。
4.53.4 参照
10:13-16 13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。(マタイ19:13-15, ルカ18:15-17)
仕えるもの(διάκονος)one who executes the commands of another, esp. of a master, a servant, attendant, minister;a) the servant of a king, b) a deacon, one who, by virtue of the office assigned to him by the church, cares for the poor and has charge of and distributes the money collected for their use, c) a waiter, one who serves food and drink
- διώκω: 1) to make to run or flee, put to flight, drive away, 2) to run swiftly in order to catch a person or thing, to run after, 3) in any way whatever to harass, trouble, molest one, 4) without the idea of hostility, to run after, follow after: someone, 5) metaph., to pursue
マタイではこの記事の直前に「神殿税を納める」記事が挿入されている。17:24-27
- 24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
- 宮の納入金を集める人たちを躓かせないため?
九十九匹の羊
マタイ19:12,13 (直後)あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
ルカ15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
10:35-45 ヤコブとヨハネの願い
- 35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
ローマ14:15 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。
マタイ25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
4.53.5 記録
日時:2024年5月9日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.53.6 問いについて
どこにいますか。どのような状況でこの会話が始まりますか。(33a)
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
カペナウムの家
マルコ1:29 それから(カペナウムの(21))会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。
マルコ2:1 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
マルコ3:19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、
マルコ7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
マルコ9:28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
マルコ10:10 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
論じる(33)διαλογίζομαι: to bring together different reasons, to reckon up the reasons, to reason, revolve in one’s mind, deliberate (34) διαλέγομαι: i) to think different things with one’s self, mingle thought with thought, ii) to converse, discourse with one, argue, discuss
2:6-9 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
8:15,17 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。
9:33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
弟子たちは、なにについて話していますか。(33b, 34)
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
[DQ] 「論じ合っていた」とはどのような状態を表現しているのでしょうか。
- おそらく、評価が異なっていたのだろう。イエスは、その評価の仕方について述べることになる。
[DQ] 弟子たちは、なぜ、黙っていたのでしょうか。
イエスの様子と、「人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえる」という覚悟は感じ、そのことと、だれがいちばん偉いかはそぐわないことは理解できた。
イエスが望むことではないことは理解していた。
[DQ] イエスの心を占めていたことと、弟子たちの心を占めていたことをそれぞれまとめてみましょう。
[DQ] あなたがイエスなら、どうしますか。
親の心子知らずだなと怒り出しそう。
イエスは、まず、すわって、二段階で話をしている。
ヤコブとヨハネ(その母)10:35-45 ヤコブとヨハネの願い(マタイ 20:20-28)
イエスは、どのように答えていますか。(35)
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
[DQ] イエスがすわって十二弟子を呼んだとありますが、なぜ、そのようにしたのでしょうか。
- 瞬発的に、怒ったりはしていない。弟子たちの興味に、本質論で答えている。
[DQ] 偉さについてどんなことが教えられていますか。
「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」
弟子たちは、すぐに理解できたでしょうか。
弟子たちは、どのように考えていたのでしょうか。
[DQ] 「みんな」とは、誰のことでしょうか。(聖書協会共同訳では「すべてのひと」)
[DQ] いちばん先になろうと思うこと自体は、悪いことではないとうことでしょうか。
- いちばん先になることが目的になってしまうことに問題があるのでは。
[DQ] 「いちばんあとになる」とか「仕えるものになる」とはどのようなことを意味しているのでしょうか。
仕えるもの(διάκονος)one who executes the commands of another, esp. of a master, a servant, attendant, minister
先頭をあるくことではないのだろう。
10:32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
イエスは、通常は、先頭を歩いてはいなかったようである。
あとから付いていくと、様子がわかり、仕えることができる。先頭を歩く人も必要だが、そのひとは様子はわからない。
イエスが目指したこと、神の子として目指したことだろうか。
イエスは、幼子を呼び寄せてどのように教えていますか。(36,37)
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
[DQ] どのような様子が描かれていますか。
①ひとりの幼な子をとりあげて、②彼らのまん中に立たせ、③それを抱いて(ἐναγκαλίζομαι: to take into one’s arms, embrace)言われた。
「抱いて」とも書かれている。目撃証言として、やさしいイエスの姿が活写されている。
[DQ] こどもとは、どのようなものだとされていたのでしょうか。
おとなより劣っている。不完全なもの。役に立たないもの。[参考]
同時に、何があっても、親にとっては、大切な存在であると認識しているのでは。
[DQ] なぜ「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる」ことにそれほどの価値があるのでしょうか。
[DQ] イエスはどのような子どもだったのでしょうか。
すくなくとも、父親に愛されたこどもではなかったのではないか。しかし、天の神様からは、あなたはわたしの愛する子ということばを二回聞き、そのことを意識していただろう。
1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
9:7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
イエスにとっては、神様のみこころを行うものが、神の子。きょうだい。家族。とはいえ、神様のみこころを知り、完璧におこなっているとの確信はなかったのではないだろうか。そのいみで、イエスは、神の子、幼子だったのだろう。そのイエスが、神様からの「あなたはわたしの愛する子」との声をうけとっている。それをもって、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れるものは、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。と伝えている。
- 3:35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
[DQ] マタイでは、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」とありますが、このことは何を伝えているのでしょうか。
弟子たちの議論と、幼子を受け入れることとはどのように関係しているのでしょうか。
[DQ]「イエスの名のゆえに」受け入れるとはどういうことでしょうか。
- たいせつなイエス様のたいせつなものをたいせつにすること。
[DQ] 最も小さいものが最も偉い(大きい)ものとはどういうことでしょうか。
[DQ] イエスは、なぜ、幼子を受け入れることを大切にしたのでしょうか。
- 弟子たちが、考える機会にはなったろう。
イエスは弟子たちになにを教えているのでしょうか。
[DQ] だれがいちばん偉いか、「一ばん先になろうと思う」こととは、どのように関係しているのでしょうか。
[DQ] 弟子たちは、理解できたのだろうか。
[DQ] だれが、偉いかではなく、偉いとはどういうことか。
4.53.7 メモ
弟子たちをおしえることを大切にしていたことは読み取ることができる。
人に、神様に自分が評価されることを考えるなら、なにがその方にとってたいせつなのかを考えるべき。すくなくとも、自分を偉いと認めることをたいせつにしてはいないはず。
イエスは、まず、直接的な応答をされ、さらに本質的なことを教えられる。この場合はどうだろうか。自分が偉いかどうかではなく、どうしたら、神様の御心を生きることができるかに注力することだろうか。つまり、神様は何を大切にされ、神様が大切にしておられるのはどのようなひとかを考えると、幼子を受け入れることだろうか。それは、イエスの象徴でもあるのかもしれないが、そこで止まってしまっては行けないのだろう。
未熟さからの不適切なことを議論することについて、嘆いたり、怒ったりではなく、その機会を捉えて、教えている。しかし、弟子たちは、理解できたのだろうか。
イエスの神様像は、仕えてくださる方なのだろうか。
弟子たちも、イエスが、たいせつにされていることをだんだんと理解していったのではないだろうか。
こどもをたいせつにすることは、当時は、それほど一般的ではなかったのだろう。名家の子女教育などは別として。しかし、イエスは、こどもをたいせつにしている。これは、おそらく、著しい特徴だろう。だれがいちばん偉いかの問に対しても、こどもと立てている。たとえばではない。パウロとはかなり異なるように見える。福音宣教者が偉い、聖書を教えるものが偉い、慈善事業をするものが偉いとは言わない。もっと本質的なものをこどもを受け入れることに見出し、それを教えておられるのだろう。自らが、こどもであることも、おそらく、認識していた。それは、みこころを十分知っているわけではないということではないだろうか。それでも、神様が、これはわたしの愛する子と言ってくださる。そのような関係をたいせつにすることが、ここで伝えられているのではないだろうか。福音の本質が、ここにあるように思う。
4.54 9:38-41 逆らわない者は味方
38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
4.54.1 ルカ 9:49-50
49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。
4.54.2 問い
どのような背景があるのでしょうか。ルカ9:49 も参考にしましょう。
ヨハネは、どのようなことをイエスに伝えていますか。(38)
イエスはどのように答えますか。(39,40)
イエスはさらにどのようなことを伝えていますか。(41)
ルカ9:51-56 からはどのようなことがわかりますか。
イエスはどのようなことを教えているのでしょうか。
4.54.3 参照
ルカでは別のエピソードが続く
- 9:51-56 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、52 自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。54 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。55 イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。56 そして一同はほかの村へ行った。
寛容(口語訳)
エレミヤ15:15 主よ、あなたは知っておられます。わたしを覚え、わたしを顧みてください。わたしを迫害する者に、あだを返し、/あなたの寛容によって、/わたしを取り去らないでください。わたしがあなたのために、/はずかしめを受けるのを知ってください。
ローマ2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
ローマ9:22 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
コリント前書13:4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
コリント後書6:6 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
エペソ4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
ピリピ4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
コロサイ3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
テサロニケ前書5:14 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
テモテ前書1:16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。
テモテ前書3:3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、
テモテ後書3:10 しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、
テモテ後書4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
テトス3:2 だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。
ヤコブ3:17 しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。
ペテロ前書2:18 僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
ペテロ前書3:20 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
ペテロ後書3:15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
寛容について:ウイリアム・バークレイ「マルコ福音書」
ウイリアム・ペン(1644-1718 クエーカー):汝が理解できないものを軽蔑し、また反対するなかれ
キングズリ・ウイリアムズ訳ユダ10:これらの人々は彼らの理解しないことをののしる(聖書協会共同訳:しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。)
テニソン:神やご自身を多くの方法で成就される。
セルバンテス:神は彼の民を天国に運ぶ多くの路を持ちたもう
ジョン・モーリー(1838-1923):寛容は真理のあらゆる可能性に対する尊敬を意味する。真理は様々の家に住み、多彩な衣服を身にまとい、種々の聞き慣れない言葉で語るのを認めることを意味する。それは機械的な形式、公認の慣例、社会的勢力に対して、内在する良心の自由を率直に尊敬することである。それは、慈愛が信仰や希望よりも大きいことを意味する。
ヴォルテール(1694-1778):わたしはあなたのいったことは大嫌いだ。しかし、わたしはそういうあなたの権利のためなら、死んでもよい。
チャルマーズ博士(17C スコットランド):クリスチャンの良さを生み出す手段としての教会でなければ、いったい誰が教会に関心を示すだろうか。
誰でもその指輪をはめると、その性質がやさしく誠実になり、すべての人々に愛された。ほかにふたつ作られこどもたちに贈った。どれが本物か判定を任された裁判官は「わたしにはどれが魔法の指輪かわからない。しかし、あなたが、それを証明できる。もし、本当の指輪が、それをはめる者の正確にやさしさを与えることが真実ならば、その人の善良なる生活によって、わたしもこの町にいる他の人々も本当の指輪をはめている人を見分けることができるだろう。だから、それぞれ自分の方法でやりなさい。親切、誠実、勇敢、正確でありなさい。これらのことを行った人が本当の指輪の持ち主なのだ。」
彼はわたしを締め出す円を描いた。反逆者、異端者、あざける事柄。しかし愛とわたしは機知を持って勝ちを得た。われわれは彼を包み込む円を描いた。
マタイ12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
ベルゼブル論争(マルコ3:20-30、マタイ12:22-32、ルカ12:10)[参照]
ルカ11:40 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
マルコ3:28-29 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。
4.54.4 記録
日時:2024年5月16日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)2名
4.54.5 問いについて
どのような背景があるのでしょうか。ルカ9:49 も参考にしましょう。
49a するとヨハネが答えて言った、(聖書協会共同訳:ヨハネが答えて言った。)
[DQ] (特にルカでは、)前の話とつながっているように、描かれていますが、もし、つながっているとすると、ヨハネは、イエスのどのような言葉に反応したのでしょうか。
イエスの名に関係しているのかもしれない。
38b あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ました
[Q] この行為によって、受け入れる人がいるかもしれないということだろうか。
もしかすると、自分はこんなことをしたという偉さに関係しているのかもしれない。
イエスを受け入れるという言葉に反応したのだろうか。十分には理解しづらい。
- 37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
ヨハネは、どのようなことをイエスに伝えていますか。(38)
38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
[参考] ルカ9:49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。Ἀποκριθεὶς δὲ ὁ Ἰωάννης εἶπεν Ἐπιστάτα εἴδομέν τινα ἐπὶ τῷ ὀνόματίσου ἐκβάλλοντα τά δαιμόνια καὶ ἐκωλύσαμεν αὐτὸν ὅτι οὐκ ἀκολουθεῖ μεθ᾽ἡμῶν
- 仲間ではない ὅτι οὐκ ἀκολουθεῖ (ἀκολουθέω: i) to follow one who precedes, join him as his attendant, accompany him, ii) to join one as a disciple, become or be his disciple, 1:18, 2:14,15, 3:7, 5:24, 6:1, 8:34, 9:38, 10:21, 28, 32, 52, 11:9, 14:13, 51, 54, 15:41) μεθ᾽ἡμῶν
[DQ] なぜ、イエスの名を使って悪霊を追い出すものが登場したのでしょうか。
より有力な名前に抵抗できないと考えられていた。
悪霊(汚れた霊)を追い出すことがいちばん人々が印象的だったことなのだろう。
イエスには従えないが、その力には興味があったのかもしれない。
参考:使徒19:13-17 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。
[DQ] ヨハネはなぜやめさせたのでしょうか。
自分たちについてこない。イエスに従わない。
イエス(の教え)を受け入れる、神様を受け入れることとの区別がついていないのだろうか。
何をもって仲間とするかの判断基準がここでも重要に思える。
[DQ] 悪霊を追い出していた人たちはどのような人たちだと思いますか。
律法学者やパリサイ派の人たちではありませんか。おそらく NO。
なぜそう考えるのでしょうか。では、どのような人たちですか。
イエスはどのように答えますか。(39,40)
39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
[DQ] 「だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。」はどのようなことを伝えていますか。
ある意味で、(神様が与えられた)イエスの力(権威)に信頼していることを表現している。おそらく、律法学者やパリサイ派の人は、そのようにはしないだろう。
(ベルゼブル論争)「3:23b どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 24 もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。 25 また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。 26 もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。
- [Q] 内部分裂しないためでしょうか。
[DQ] イエスの視点は、ヨハネの視点とどのようなところが異なっていますか。
- 「わたしたちについてくるか」「かみさまの御心を行っているか」前者は、分かり易いが、後者はそのとおりだとしても、判断は難しい。
[DQ] 一般的に「寛容」であれと言っているのでしょうか。
そうかも知れない。寛容が心の広さをもって受け入れることであるなら、
愛は寛容であり(1コリント13:4)μακροθυμέω: to be of a long spirit, not to lose heart (a) to persevere patiently and bravely in enduring misfortunes and troubles, (b) to be patient in bearing the offenses and injuries of others (Mat 18:26, 29, Luke 18:7, 1Thess 5:14, Heb 6:15, Jas 5:7, 8, 2Pet 3:9)
なぜ、寛容さが大切なのでしょうか。
[DQ] 反対しないものは、ほんとうに、味方なのでしょうか。
① 反対しない、② 悪霊を追い出す奉仕の業、③ イエスの名を唱えている
イエスはさらにどのようなことを伝えていますか。(41)
41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
[DQ] 「キリストについている者」かどうかが、重要なのでしょうか。
- キリストについていない者に恵みの業を行っても報われないのでしょうか。(おそらくそう入っていない。)
参照:マタイ25:31-46 40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
[DQ] 「報い」とはなんでしょうか。
ルカ9:51-56 からはどのようなことがわかりますか。
[DQ] なぜサマリア人はイエスを歓迎しなかったのでしょう。
[DQ] 弟子達の派遣のときと、何が違うのでしょうか。
- 6:11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
参考:マルコ3:17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
イエスはどのようなことを教えているのでしょうか。
[DQ] マタイ12:30 「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」と比較してどのように理解すればよいのでしょうか。
ベルゼブル論争では、23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 24 もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。 25 また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。 26 もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。 27 だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 (マルコ)
マタイでは引用句が含まれている。本筋はまず、「もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。 」と始めている。マタイでは、引用句が含まれるが、マルコでは含まれない。「ルカ11:23 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」も参照。
4.54.6 メモ
背景は不明:ルカの「すると」のように、直接的につながっているのかは不明だが、ここに置かれたことは確かなので、ある程度の連続性は仮定して良いように思われる。すると、単純なのは、「イエスの名」だろうか。
全体として、ヨハネ6章66-71節にあるように、イエスから去っていくものが多かったのかもしれない。このあとの、ルカにあるサマリアのエピソードのように、イエスのメシヤとしての行動を理解するものはほとんどいなかったということもあるように思われる。
寛容は神様の性質、わたしたちを受け入れてくださっている。これが基本。歓迎は、受け入れがたいものを受け入れることなのだから。
マタイ12:30、ルカ11:23 は、時代的背景もあるかもしれない。イエスの直接の教えは、マルコであるが、分断が初代教会時代にある程度広がったのかもしれない。
ひとは、単純化バイアスから自由にはなれない。しかし、単純化バイアスにつねに繋ぎ止められるのではなく、それから、解き放たれることも可能で、それもひとのたいせつな部分。自由になれないとしても、それを、さばいてはならない。だれにとっても難しいこと。同時に、自由になることをもとめることも大切。
4.55 9:42-50 罪への誘惑
42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。49 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
4.55.1 マタイ 18:6-9
6 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。8 もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。9 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
4.55.2 ルカ 17:1-2
1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。
4.55.3 問い
これまでの部分とどのように関係していますか。
「小さいもの」とは、誰のことでしょうか。(42)
描かれている、四つのことがらについて上げてみましょう。(42-47)
片手、片足、片目が罪を犯させるとはどのようなことでしょうか。(43-47)
いのちに入る、神の国に入る、地獄に投げ入れられるとはどのようなことでしょうか。(43-48)
「塩を持ちなさい、互いに和らぎなさい」はなにを教えているのでしょうか。(49,50)
4.55.4 参照
マタイではこのあと、「迷い出た羊」のたとえ(18:10-14)、きょうだいの忠告(18:15-20)、「仲間を赦さない家来」のたとえ(18:21-35)が挿入
ルカでは、9章の終わりから、16章まで全く別構成になっている。
天国
- 天国は地上における社会で、そこでは神の意志が天において行われているように、完全に地上で行われるところである。
塩
レビ記2:13 あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。
民数記18:19 イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。
歴代誌下13:5 あなたがたはイスラエルの神、主が塩の契約をもってイスラエルの国をながくダビデとその子孫に賜わったことを知らないのか。
ヨブ6:6 味のない物は塩がなくて食べられようか。すべりひゆのしるは味があろうか。
エゼキエル43:24 これを主の前に持ってきて、祭司らはその上に塩をまき、これらを燔祭として主にささげよ。
マタイ5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
マルコ9:49, 50 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
ルカ14:34 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。35 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。
コロサイ4:6 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
ヤコブ3:12 わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。
地獄(ゲヘナ) γέεννα: Hell is the place of the future punishment called “Gehenna” or “Gehenna of fire”. This was originally the valley of Hinnom, south of Jerusalem, where the filth and dead animals of the city were cast out and burned; a fit symbol of the wicked and their future destruction.
マルコ9:43-48
マタイ5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
マタイ5:29,30 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
マタイ10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
マタイ18:9 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
マタイ23:15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
マタイ23:33 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
ルカ12:5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。
ヤコブ3:6 舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
ベンヒンノム(ゲヒンノムの谷)
ヨシュア15:8 またその境はベンヒンノムの谷に沿って、エブスびとの地、すなわちエルサレムの南のわきに上り、ヒンノムの谷の西にある山の頂に上る。これはレパイムの谷の北の果にあるものである。
ヨシュア18:16 ついでその境は、レパイムの谷の北の端にあるベンヒンノムの谷を見おろす山の端に下り、進んでエブスびとのわきの南、ヒンノムの谷に下り、また下ってエンロゲルに至り、
列王記下23:10 王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。
歴代誌下28:3 ベンヒンノムの谷で香をたき、その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい、
- エレミヤ7:31,32 またベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。32 主は言われる、それゆえに見よ、その所をトペテ、またはベンヒンノムの谷と呼ばないで、ほふりの谷と呼ぶ日が来る。それはほかに場所がないので、トペテに葬るからである。
歴代誌下33:6 彼はまたベンヒンノムの谷でその子供を火に焼いて供え物とし、占いをし、魔法をつかい、まじないを行い、口寄せと、占い師を任用するなど、主の前に多くの悪を行って、その怒りをひき起した。
- エレミヤ32:35 またベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて、むすこ娘をモレクにささげた。わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを行って、ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった。
エレミヤ19:2 瀬戸かけの門の入口にあるベンヒンノムの谷へ行き、その所で、わたしがあなたに語る言葉をのべて、
エレミヤ19:6 主は言われる、それゆえ、見よ、この所をトペテまたはベンヒンノムの谷と呼ばないで、虐殺の谷と呼ぶ日がくる。
イザヤ書66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
4.55.5 記録
日時:2024年5月23日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)1名
4.55.6 問いについて
これまでの部分とどのように関係していますか。
聖書協会共同訳では、38節から新しい段落になっているが、口語訳では、38節のヨハネの問からつながっている。
山上の変貌とおしの霊につかれたこどもを癒やす記事以降
9:30-32 再び自分の死と復活を予告する:30 イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
9:33-37 いちばん偉い者:37 だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
9:38-41 逆らわない者は味方:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
このエピソードの背景は明確ではないが、弟子たちとイエスの間に十分な共通理解があったわけではないことも踏まえつつ、このように話が進んだと仮定して読んでみよう。イエスにとって、弟子たちにとって、なにがたいせつなのか、そのすり合わせをしているようなときのようにも見える。イエスにとっては、残された地上での日々が短いことを意識しつつ、弟子たちに託していくことについて考え、弟子たちにとっては、基本的に自分たちだけがイエスに従っているような状況の中で、どんな生き方が偉いのか、イエスに従っていくことが絶対ではないのか、おさなごを受け入れるとはどのようなことなのか、イエスからのメッセージを必死で受け取ろうとしてたように思われる。
[DQ] 前段の寛容とはかなりトーンが異なるように思われますが、誰に対して語られているのでしょうか。
前後関係からすると、弟子たちに語られているように見える。マタイには、ヨハネの記事はないが、ほぼ同じ構成になっており、「いちばん偉い者」で、幼子を受け入れるに続いて描かれている。ルカでは、前後関係など、構成は異なるが、弟子たちに語られている。
マタイでは、「18:7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」と書かれており。イエス様は、弟子たちや、その後の、リーダーたちに迫る、様々な困難を予想していたのだろう。もしかすると、イエス様も、悪魔の誘惑も含めて、様々な罪の誘惑と対峙していたのかもしれない。マタイによる福音書記者は、このようなことをすでにたくさん見てきたのかもしれない。
「小さいもの」とは、誰のことでしょうか。(42)
42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
「41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。」に続くと考えると、あなたがた、つまり弟子たちが意識されているように見える。しかし、ことばとしては、もっと一般的に響く。イエス(または神)が、または、イエス(または神)を、完全ではないが、愛そうとしているものだろうか。
「36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。37 k『だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである』。」に関係しているとすると、もっとずっと広いことが関係しているように見える。「幼子(またはイエス、または不完全な自分のような存在)を受け入れようとするもの」
[DQ] 人をつまづかせるとはどのような事でしょうか。
- おそらく、水いっぱいがとても嬉しいというひとに、水をあげることと対比されているのだろう。
[DQ] 他の人との関係についてどんな警告が与えられていますか。
- 「つまづかせる」は、だれか他者をつまづかせるように感じるが、このあとは、自分の手や足や目について言及されている。小さいものとして想定されていることと、罪を犯させるとの関係は、単純ではない。
描かれている、四つのことがらについて上げてみましょう。(42-47)
42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
42節から47節には四つの対比があります。それぞれの場合に何が何よりも良いのですか。
「わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる」より「大きなひきうす(聖書協会共同訳:ロバの挽く石臼)を首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」。
「あなたの片手が罪を犯させる」なら「切り捨てなさい」。「両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。」
「あなたの片足が罪を犯させる」なら「切り捨てなさい」。「両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。」
「あなたの片目が罪を犯させる」なら「抜き出しなさい」。「両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。」
[DQ]「つまづかせる」と「罪を犯させる」は、同じなのでしょうか。
興味深い問である。「罪を犯す」は理解できても、ここでは、「罪を犯させる」「つまづかせる」ことが問われている。マタイ18:7 の「罪の誘惑は必ず来る」と連動させると両方に視点がある。
誰を想定しているか、混在しているように見える。前段では、「キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるもの」と言っているので、つまづかせられるのは、弟子たちであるように見えるが、このあとには、あなたの片手、片足、片目が罪を犯させるならとなっているので、つまづかせる主体は、弟子たちであるようにも見える。
[DQ] なにを教えているのでしょうか。
- 「41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。」とはいえ、あなたがたが、逆に、つまづかせる、罪を犯させるようなことは、絶対にいけないよ。と言っているかのようである。
[DQ] 絶対にしてはならないことと、犠牲をともなっても、守るべきたいせつなことについて述べているようですが、それらはどのようなことなのでしょう。
- 神の意志を行うためにするいかなる犠牲も、訓練も、自己否定も値打ちのあるものである。
片手、片足、片目が罪を犯させるとはどのようなことでしょうか。(43-47)
43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
[DQ] 手や足はどのようにその人に罪をおかさせうるでしょうか。罪の結果は何ですか。
- おそらく、なにがあっても、イエスをしんじつ、小さいもの(完璧ではない弱いもの)を、指導者でもある、あなた方は、絶対に、躓かせてはいけない。もし、そのような要因があるなら、それを断固切り捨てなさい。と言っているかのようである。
[DQ] 今日の社会で、どんなことが、他の人に罪をおかさせるつまずきになりますか。
ちいさなものを無視。イエスの名のゆえに受け入れることの逆。
ちいさなものを愛しておられるかみさまを見逃す、みようとしない。
神様の、よろこばれることを考えず、自分の名があげられることを求める。
いのちに入る、神の国に入る、地獄に投げ入れられるとはどのようなことでしょうか。(43-48)
43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
[DQ] いのちに入る、神の国に入るとは。
神様の国(みこころがなる世界)に生きることを求めること。
神のみこころとシンクロして生きること。
神の意志を行うためにするいかなる犠牲も、訓練も、自己否定も値打ちのあるものである。
[DQ] 地獄に投げ入れられるとは。
- 神様のみこころを受け入れることを拒否した生活を送ること。
[DQ] 火とはどのような意味に使われているのでしょうか。
- 48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。49 人はすべて火で塩づけられねばならない。(イザヤ書66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。)
「塩を持ちなさい、互いに和らぎなさい」はなにを教えているのでしょうか。(49,50)
49 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
[DQ] 塩はどのような意味に使われているのでしょうか。
味をつける、防腐剤、
レビ記2:13 あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。
民数記18:19 イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。
歴代誌下13:5 あなたがたはイスラエルの神、主が塩の契約をもってイスラエルの国をながくダビデとその子孫に賜わったことを知らないのか。
バークレイ:クリスチャンの生活が神に受け入れられるものとなるためには、ちょうど、すべての犠牲が塩で処理されたように、火で処理されなければならない。
バークレイ:あなたがたのうちに、キリストの霊のきよめる力を持ちなさい。利己心、自我意識から、苦さ、怒り、妬みからきよめられなさい。焦燥、気まぐれ、自己中心から清められなさい。それによってのみ、あなたがたは自分の仲間と平和に過ごすことができるのである。
参考:
マタイ5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
ルカ14:34 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。35 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。
[DQ] ここで、塩はなにを意味しているのでしょうか。
たいせつなものという漠然とした解釈でも良いかもしれない。あなたにとって、たいせつなもの失ってはいけないものは何でしょうか。
十分理解できていない、幼子のような態度で、みこころを求め、生きることだろうか。
[DQ] ここでなぜ「和らぎなさい」と言っているのでしょうか。
あとになり、仕えるものとなり、仕え合うことだろうか。
水いっぱいを求めるものに与え、つまづきとなっていないか顧み、みこころを求め続けることか。
4.55.7 メモ
なかなか難しい。どのように扱ったらよいのだろうか。バークレイは、「塩」や「火」で結び付けられた他の箇所の言葉が入り込んでいるとすらかいている。
塩・火:自分も、ひとりの、幼子のように、神様のみこころを十分は理解できていないことを自覚しつつ、生きることが求められている。しかし、みこころに生きることを求めるところが忘れられてしまったら、慈善活動も、福音宣教も、まったく、意味のないものになってしまうと言っているように感じる。
全体として、つながっているように見える。イエスが、弟子たちに伝えたかったこと。それが凝縮しているのだろう。ちいさいものとして、そして、たいせつなものをたいせつに、躓かせないようにと厳しく話すところには、ヨハネのような行為に、注意するようにとのメッセージが含まれているようにみえるし、また、最後に「たいせつなことをたいせつにすることによって、和らぎなさい」も、批判的にならず、自分を攻めるのでもなく、互いに、和らぐことを勧めている。塩がなにかは、明確ではないが、大切なものであることはわかる。
4.56 10:1-12 離婚について教える
1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。7 それゆえに、人はその父母を離れ、8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。
4.56.1 マタイ 19:1-12
1 イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。2 すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。3 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。10 弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。11 するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。12 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。
4.56.2 問い
状況と背景を確認しましょう。どこからどこへ向かっていますか。(1)
誰が、どのような目的で、どのような質問をしますか。(2)
イエスはまずどのようなやり取りをしますか。(3,4)
イエスは、どのようなことを教えますか。(5-9)
さらに、弟子たちには、どのように教えますか。(10-12)
イエスは、なにをたいせつなこととして教えているのでしょうか。
4.56.3 参照
地図:ガリラヤからエルサレムへ
マタイでは、「罪への誘惑」(18:6-9、マルコ9:42-48)のあと、「迷い出た羊」のたとえ、きょうだいの忠告、「仲間を赦さない家来」のたとえがあり、その後で、離縁について教える今回の記事が続く。このあとは、こどもを祝福する、金持ちの青年とマルコと同じ配列になっている。
6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。7 それゆえに、人はその父母を離れ、8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。
創世記1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
創世記2:18-25 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。創世記2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
エペソ5:31-33 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。33 いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
コリント前書6:16-20 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
離縁状(マルコ10:4, マタイ19:7 以外)
申命記24:1-4 人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。2 女がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ、3 後の夫も彼女をきらって、離縁状を書き、その手に渡して家を去らせるか、または妻にめとった後の夫が死んだときは、4 彼女はすでに身を汚したのちであるから、彼女を去らせた先の夫は、ふたたび彼女を妻にめとることはできない。これは主の前に憎むべき事だからである。あなたの神、主が嗣業としてあなたに与えられる地に罪を負わせてはならない。
イザヤ50:1-3 主はこう言われる、/「わたしがあなたがたの母を去らせたその離縁状は、/どこにあるか。わたしはどの債主にあなたがたを売りわたしたか。見よ、あなたがたは、その不義のために売られ、/あなたがたの母は、/あなたがたのとがのために出されたのだ。2 わたしが来たとき、/なぜひとりもいなかったか。わたしが呼んだとき、/なぜひとりも答える者がなかったか。わたしの手が短くて、/あがなうことができないのか。わたしは救う力を持たないのか。見よ、わたしが、しかると海はかれ、/川は荒野となり、/その中の魚は水がないために、/かわき死んで悪臭を放つ。3 わたしは黒い衣を天に着せ、/荒布をもってそのおおいとする」。
エレミヤ3:8-10 わたしが背信のイスラエルを、そのすべての姦淫のゆえに、離縁状を与えて出したのをユダは見た。しかもその不信の姉妹ユダは恐れず、自分も行って姦淫を行った。9 彼女にとって姦淫は軽いことであったので、石と木とに姦淫を行って、この地を汚した。10 このすべての事があっても、なおその不信の姉妹ユダは真心をもってわたしに帰らない、ただ偽っているだけだ」と主は言われる。
- エレミヤ3:1 もし人がその妻を離婚し、/女が彼のもとを去って、他人の妻となるなら、/その人はふたたび彼女に帰るであろうか。その地は大いに汚れないであろうか。あなたは多くの恋人と姦淫を行った。しかもわたしに帰ろうというのか」と主は言われる。
マタイ5:31-32 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
- マタイ5:33-37 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。36 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
姦淫(マルコ10:11,12、マタイ19:9 以外の福音書)
マルコ7:20-23 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。(マタイ15:1-20)
マルコ10:17-22 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マタイ19:16-30、ルカ18:18-30)
マタイ5:27-30 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
ルカ16:18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。
ルカ18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
ヨハネ8:3-5 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
姦淫(日本国語大辞典)
かん‐いん【姦淫・奸淫】
〘名〙 男女が道義に反する肉体関係を結ぶこと。不倫な情事。
*読本・翁丸物語(1807)上
「今年四十一歳なり。されど奸淫を好みて」
かんいん‐ざい【姦淫罪】
〘名〙 姦淫をする罪。
㋑法律で、婦女の真意に反して性交を強制する罪をいう。強姦罪、準強姦罪および淫行勧誘罪の総称。旧法では姦通罪を含めていた。
*民法(明治二九年)(1896)八一三条
「夫婦の一方は左の場合に限り離婚の訴を提起することを得。〈略〉三、夫が姦淫罪に因りて刑に処せられたるとき」
㋺キリスト教などの宗教で、姦淫禁止の戒律を破る罪。
*大津順吉(1912)〈志賀直哉〉一
「私にとって教へでの最も不調和なものは姦淫罪の律おきてであった」
日本の離婚に関する法律
協議離婚・調停離婚・審判離婚・裁判離婚
法律上における5つの離婚の条件
(1)配偶者に不貞行為があった
(2)配偶者から悪意の遺棄を受けた
(3)生死が3年以上不明
(4)配偶者が強度の精神病で回復の見込みがない
(5)その他婚姻関係を継続できない重大な事由
第770条【裁判上の離婚】
① 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
一 配偶者に不貞な行為があったとき。
二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
三 配偶者の生死が3年以上明らかでないとき。
四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
② 裁判所は、前項第一号から第四号までに掲げる事由がある場合であっても、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。
4.56.4 記録
日時:2024年5月30日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)1名
4.56.5 問いについて
状況と背景を確認しましょう。どこからどこへ向かっていますか。(1)
1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。
一行はカペナウムに来て家にいたときに(33)、弟子たちを呼び寄せ、すわって教えられた。(35a)① みなに仕えるものとなるべきこと。(35b)② 幼な子をイエスの名のゆえに受け入れるべきこと。(36,37)③ ヨハネの応答に対して教え。(38-40)④ イエスを信じるちいさなものをたいせつにするべきこと。(41-48)⑤ 自分のうちに塩を持ち、互いに和らげ。(49,50)
「イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれた」とあるが、マタイでは「1 イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。2 すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。」となっている。マルコには、いやしの記事はない。マルコでは、山を降りてきたときのいやしの記事以降は、エリコでの盲人バルティマイのいやしのみ。
[DQ] どこでの出来事なのでしょうか。
マルコは、「そこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれた」とあるが、マタイでは「ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。」とある。特定するのが、困難である。ただ、基本的には、地名や土地勘に関しては、マタイ記者のほうが正確な場合が多いようである。ペテロは、無論、土地勘があるが、マルコは、それが十分ではなかったのかもしれない。ヨルダンの向こうは、デカポリスや、ペレアと思われるが、川沿いは南の方は、ユダヤだったのかもしれない。また、ルカでは、サマリヤの地を通ったことになっているが、経路も不明である。すくなくとも、急いで、エルサレムに直行したのではなく、いくつかの町を通って、南下していかれたのだろう。
10:32「さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」とあるが、この時点では、どこにいるかは不明で、1節は、大雑把な、導入なのかもしれない。10節の「家」は、カペナウムのペトロに家を想起させる。すると、1節はあるものの、カペナウムの可能性が高い。
[DQ] どのような状況で、このことが起こりますか。ここには、だれがいますか。
- 「群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。」とあり、群衆に教えておられたなかで起こったこととして描かれている。具体的な問としてあるかうより、群衆に教えている中で、多少、裏のある、問が、パリサイ人から投げかけられたと見るのがよいように思われる。
マタイでは 19:1「イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。」と一つの区切りとしている。7:28「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。」, 11:1「イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。」, 13:53「イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。」, 26:1「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。」
誰が、どのような目的で、どのような質問をしますか。(2)
2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。
[DQ] どのような質問ですか。
パリサイ人が、イエスを試みようとして、離婚の是非について問うている。
表面的には、離婚の是非について一般的に問うているが、このあとのやり取りをみると、真意は、もう少し違うところにあるようにも見える。その背景をしっかり理解しなくてはいけないのだろう。
[DQ] 「試そうとして」とありますが、どのようなことを試そうとしたのでしょうか。
- 試みようとしてとあるが、このあとは、なにも、反論をしていないので、その意図がどの程度強かったのかは不明。すくなくとも、このあと弟子も「このことについて」おそらく、イエスが言われたことについて質問しているので、パリサイ人を批判したり、忌避したりという様子は見受けられない。パリサイ人の意図がどうであれ、イエスは、本質的な教えを説いている。
[DQ] なぜ、離婚についての質問をしたのでしょうか。
- おそらく、その理由は、このあとの、イエスとのやり取りにヒントがある。
イエスはまずどのようなやり取りをしますか。(3,4)
3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。
[DQ] なぜ、イエスは、「モーセはあなたがたになんと命じたか」と問い返したのでしょうか。
意図を明確にし、それから答える。共通の立脚点を確認する。
いつもの方法。問に問で返すことで、問の意味を深め、意図を明確にする。自ら考え始めるように促す。
2:7-9 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
3:2-5 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。3 すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、4 人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
3:32,33 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。33 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
[DQ] どのように答えますか。
- 「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。
[DQ] 申命記24:1 からの引用のようですが、申命記24:1 は何を教えているのでしょうか。
申命記24:1-4 1 人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。
離縁状があれば、女性は他の男性と結婚することが可能となった。
[DQ] 「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。と答えていますが、では、なぜ、このひとたちは、イエスに問うたのでしょう。(最初の問の目的)
ユダヤ教の中で、ホットなトピックだったようだ、申命記の「恥ずべきこと(עֶרְוָה :nakedness)」をどう取るかで、何でも理由にしうると考える派(ヒレル派)と、姦淫に限定する派(シャンマイ派)とがあったようだ。そのどちら側にたつかという質問の可能性もある。
バプテスマのヨハネがヘロデが妻を離縁して、ヘロデヤを娶ったことを避難したかどで、投獄されたとする節から、なにか、そのような立場をとるかとの質問かもしれない。
- マルコ6:17,18 このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。イエスはまずどのようなやり取りをしますか。(3,4)
イエスの教えを聞いていたのかもしれない。
- マタイ5:31-32 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
イエスは、どのようなことを教えますか。(5-9)
5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。7 それゆえに、人はその父母を離れ、8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
[DQ] 「あなたがたの心がかたくななので」は、何を意味しているのでしょうか。
- 結婚を神のわざと考えず、離婚をしようとする。離婚によってもたらされる悲劇を最低限にするため。
[DQ] 引用箇所を確認しましょう。どこに書かれていますか。
創世記1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
創世記2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
創世記2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
創世記2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。
創世記2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
[DQ] イエスは結婚についてどのように教えていますか。
[Q] これは、新しい教えなのでしょうか。
[Q] 質問者は、これで満足したのでしょうか。
さらに、弟子たちには、どのように教えますか。(10-12)
10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。
[DQ] 弟子たちは、なぜ、家にはいってから、また尋ねたのでしょうか。何を知りたかったのでしょうか。
- 身近な現実の問題なので、パリサイ人と、群衆と、弟子たち、関心はあまり差がなかったのかもしれない。
[DQ] 「姦淫」とはどのようなことですか。これは、どのような罪なのでしょうか。
日本国語大辞典:男女が道義に反する肉体関係を結ぶこと。不倫な情事。
マタイ5:27-30 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
イエスは、なにをたいせつなこととして教えているのでしょうか。
- [DQ] どのようなことを正しているのでしょうか。
- なには、赦されるのかを問うている。つまり、実際には、姦淫に興味がある。それを正当化する方法を探している。そのような、価値観に挑戦している。
- ちいさきものに目を向けると同時に、ちいさなことには、目を向けないで、神様のみこころを求める。
- [DQ] パリサイ人は、何を最終根拠とし、イエスは、何を最終根拠としているのでしょうか。
- パリサイ人は、律法に書いてあること、それをどう解釈するか、または解釈された律法を最終基準としているが、イエスは、神様のみこころを最終基準としているように見える。
- [DQ] どのようなことを正しているのでしょうか。
4.56.6 メモ
場所は不明だが、なにか、緊張感が薄いようにも見える。ガリラヤなのか、離れた場所なのか。
結婚の神聖さについての、教えなのだろうか。最初に試そうとしてを正確に理解しないといけない。
イエスは、正しいことをここで述べているとすると、ひとをさばくことにもつながる。しかし、より、一般的なことを述べているようにも、みえる。すなわち、かみさまのみこころとの向き合い方だろうか。自分の都合の良い解釈を選択するのはもってのほかだが、わからないことをも許容しないと、裁きとなる。
同時に、離婚があまりに、軽く考えられている現代に対して、問も投げかけている。なんでも理由をみつけて離婚にいたる(性格の不一致)ことでよいのだろうか。み心を求め続けるものでありたい。
山上の説教でも、姦淫のこと(マタイ5:27-30)、離婚のこと(マタイ5:31-32)について語っているので、パリサイ人も聞いて知っていたかもしれない。すなわち、イエスの答えも、知っていたかもしれない。しかし、ここでは、そのあと、あえて問うていないように見える。
パリサイ人は、律法に書いてあること、それをどう解釈するか、または解釈された律法を最終基準としている(記録された神の御心と思われるもの)が、イエスは、神様のみこころを最終基準としているように見える。後者のように生きられればよいだろうが、それは、可能なのだろうか。おそらく、神のみこころを求めることを、大切にするということなのだろう。
4.57 10:13-16 子どもを祝福する
13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
4.57.1 マタイ 19:13-15
13 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。15 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。
4.57.2 ルカ 18:15-17
15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
4.57.3 問い
このことは、どのような背景のもとで起きましたか。
誰が、何の目的のために、幼な子らを連れてきますか。(13a)
弟子たちはどうしますか。それは、なぜでしょうか。(13b)
イエスはどうしますか。(14,16)
イエスはさらにどのようなことを教えていますか。(14,15)
人々にとって、弟子たちにとって、イエスにとって、あなたにとって、幼な子は、どのような存在ですか。
4.57.4 参照
幼な子(παιδίον:a young child, a little boy, a little girl, a) infants, b) children, little ones, c) an infant of a (male) child just recently born, of a more advanced child; of a mature child; metaph. children (like children) in intellect)
マルコ5:39,40,41 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
マルコ7:28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
マルコ9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
マルコ9:36,37 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
マルコ10:13,14,15 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
ルカでは、幼な子は、βρέφος: i) an unborn child, embryo, a foetus, ii) a new-born child, an infant, a babe、しかし、マルコの記述からは、走り回っているように見える。
こどもに関する聖書箇所
- マタイ21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子(νήπιος: i) an infant, little child, ii)a minor, not of age, iii) metaph. childish, untaught, unskilled)、乳のみ子たち(θηλάζω:i) to give the breast, give suck, to suckle,ii)to suck)の口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
4.57.5 記録
日時:2024年6月6日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)4名
4.57.6 問いについて
このことは、どのような背景のもとで起きましたか。
1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。ここから新しい設定。
1-13 「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。の問に答えて。- おとなの事情のとりあつかい。
17-22 金持ちの男との対話
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
マタイ19:22 では、「青年(νεανίσκος: a young man, youth, used of a young attendant or servant)」マルコで使われているのは、14:51 と、16:5 のみ。
23-31 弟子たちへの教え。「子を捨てたもの」
- 29-31 「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
こどものことは、この前後では、意識に入っていないように見える。その中で唐突な、短いエピソードに見える。
マタイでは「そのとき」(19:13)
[DQ] イエスはどのようなときにありますか。
10:1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。
受難と死と復活の告知の二回目(9:30-32)と三回目(10:32-34)の間。(1回目は8:31)
誰が、何の目的のために、幼な子らを連れてきますか。(13a)
13a イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。
[DQ] 「さわっていただく」は、どのようなことを意味していますか。
16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
ユダヤ人は生後一年の赤ん坊を高名なラビに祝福してもらう習慣があった。(ルカ2:22-33)(出エジプト13章)
弟子たちはどうしますか。それは、なぜでしょうか。(13b)
13b ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
[DQ] なぜ弟子たちは、幼な子らをイエスのもとに連れて来た人々をたしなめ(叱)るのでしょうか。
イエスの受難告知以降、緊張状態にあったと思われる。「空気を読めないのか。」
おとなの事情(離縁について)弟子たちが、より詳しく説明してもらいたい途中だった。「ちょっとあとにしてくれ。」
カペナウムでのイエスのメッセージを忘れていた。「こどもなんかにかかわってはいられない」
9:33-37 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
このメッセージを真剣にうけとることには、困難もある。
[DQ] イエスが、教えておられる途中であればどうでしょうか。
10:1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。
10:10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。
[Q] 教会での説教中に、こどもが、入ってきて、だれかのもとに走り寄ってきたらどうしますか。
イエスはどうしますか。(14,16)
14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
[DQ] 幼な子らの様子についてなにかわかりますか。
わたしの所に来るままにしておきなさい。
- なすがままにさせる。ここに大切な目があるように感じる。
イエスのもとに走ってくるものもいたのではないだろうか。まだ、カペナウム周辺にいたとすると、イエスを知っていたかもしれない。
[DQ] イエスは、なぜ、受難告知以降も、このように振る舞われるのでしょうか。
[DQ] 憤るとはどのようなことでしょうか。
ἀγανακτέω: to be indignant, moved with indignation, be very displeased
マタイ20:24、21:15、26:8、マルコ10:14、41、14:4、ルカ13:14
[DQ] 「神の国はこのような者の国である。」とは、どのような意味でしょうか。
- [Q] なぜ、幼な子のような者の国なのでしょうか。
[DQ] ここで言われている、幼な子のなにかの特色について言われているのでしょうか。
まだ、おとなになっていない、成長途中、成長している存在である。いきいきと生きることは成長し続けること、学び続けること。
バークレイ:謙遜、従順、信頼、長く覚えていない
榊原:子どもの示す美徳の第一は、嬉々として贈り物を受け取る能力・受容力です。「ただほど高いものはない」というのがおとなの哲学ですから「こどものように神の国を受け入れる」ことができるのは、大変な能力です。その能力を強調すうるため、ルカは「幼子(嬰児)」とした。なんのためらいもなく「来る」平然とした態度。
[DQ] イエスは最後に抱いて、祝福をしていますが、どのようなことを表していますか。
- ἐναγκαλίζομαι:to take into one’s arms, embrace(マルコ9:36、10:16)
[DQ] イエスの祝福はどのようなものなのでしょうか。
「あなたは愛されています。」by TV evangelist, Rex Humbard
「神の国はこの(あなたの)ような者の国である。」(14)
「あなたの人生が神様に祝福されたすばらしいものでありますように」
イエスはさらにどのようなことを教えていますか。(14,15)
14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
[DQ] 幼な子のように神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。
[DQ] 「幼な子」の対極「幼な子ではない」とは、どのような人のことでしょうか。
成長しないもの、成長しきったと思っているもの、変われないもの、不完全さを体さないもの。
おとなの事情をならべたてて、離縁をかんがえるひとたち。
次のエピソードの「金持ち」?
離婚の話のあとに、こどもは、大切なものであることを、示している。
- 教育ママ、育児ノイローゼとは異なる。
人々にとって、弟子たちにとって、イエスにとって、あなたにとって、幼な子は、どのような存在ですか。
不完全な存在。不完全さを知っていてときに応じて誰かに頼る。
未来・将来の担うものたち
[DQ] あなたは、こどもたち、おさなごたちのために祈るとしたら、どのように祈りますか。
4.57.7 メモ
「離縁についての教え」と、「金持ちの男」の話に挟まれた、「子どもを祝福する」話。
- 「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」という男に対するイエスのいつくしみ
マルコの思い出としてのイエス
- マルコもイエスに会ったことがあるのかもしれない。覚えていなくても、祝福してもらったよとか、もう少し大きくなっていたら、こどもをいつくしまれたイエスを覚えているのではないだろうか。
イエスはどのような祝福の祈りをしたのだろうか。
- このあとには、イエスの死があり、ステパノなどからのキリスト教会の迫害があり、AD70 には、エルサレム陥落、散り散りになってしまうときも来る。そのようなことを考えること自体が、この箇所からは離れてしまっているのかもしれない。イエスの祝福のいのりを、受け取りたい。
こども、おさなごとは
14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
よくわからないが、離縁の正当化を考えたり、富のゆえに、イエスに従うことができなくなる、それは、幼子ではすでにないのだろう。考えさせられる。
よいこどもとは
- おとなにとって都合の良いこどもがよい子どもではないだろう。しかし、往々にして、良い子だねと言われる子は、おとなにとって都合の良い子どもの場合が多い。おとなの願いをかなえるこどもがよいこどもだろうか。おそらく、そうでもないだろう。ましてや、おとなの悔しさを晴らす存在がよいこどもでもないはずだ。しかし、同時に、おとなにとって都合が良くないこどもは、手間がかかり、周囲のおとなを疲弊させる存在でもある。社会的養護のための、児童養護施設でも、こどもをどのような存在とみるかは、とても難しい。現実は厳しいからである。どうじに、どんなこどもが、良い子どもなのか。イエス様が、おさなごのように、神の国を受け入れるものでなければと言われる、こどもとは、どのような存在なのかと考えてしまう。
4.58 10:17-31 金持ちの男
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
4.58.1 マタイ 19:16-30
16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。26 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。
27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。29 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。30 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
4.58.2 ルカ 18:18-30
18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
4.59 10:17-22 金持ちの男(1)
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
4.59.1 マタイ 19:16-22
16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
4.59.2 ルカ 18:18-23
18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
4.59.3 問い
このことは、どのような背景のもとで起きましたか。
どのように、イエスに問うことから、はじまりますか。(17)
イエスは、どのように応答しますか。(18,19)
このひとの答えなどから、わかることをあげてみましょう。(20)
イエスは、どのようにこのひとに命じますか。(21)
このひとの求めていたものと、イエスが告げたこととには、どのような開きがあったのでしょうか。(22)
4.59.4 参照
- 弟子たちに語る後半が続き、マタイではこのあとに「ぶどう園の労働者」のたとえ(20:1-16)が挿入されている
- 十戒
- 出エジプト記34章28節 モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡(聖書協会共同訳:十の言葉)を板の上に書いた。
- 出エジプト記20章1-17節 1 神はこのすべての言葉を語って言われた。2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。13 あなたは殺してはならない。14 あなたは姦淫してはならない。15 あなたは盗んではならない。16 あなたは隣人について、偽証してはならない。17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
- 申命記5:1-21 17 あなたは殺してはならない。18 あなたは姦淫してはならない。19 あなたは盗んではならない。20 あなたは隣人について偽証してはならない。21 あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない
- エペソ6:1-3 子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。2 「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。(約束を伴う戒め)
- ヒエロニムス『オリゲネスのマタイによる福音書注解ラテン語訳(偽オリゲネス)』ヘブル人による、と称されるある福音書に、(もし少なくともこれを権威の書としてではなく、今の問題に光を投げかけるものとして受け取る注意を払うなら)、次のように記されている。そこで主は彼に言われた。あなたはどうして、律法と預言者を守ったと言うのか。律法には『隣人を自分のように愛せよ』と書かれている。しかも見よ、おおぜいのあなたの同胞、アブラハムの子たちが、汚れをまとい、飢え死にしそうなのに、あなたの屋敷は多くの良き物で満ちていて、そのうちから何一つ彼らの手に渡らないのだ。それから、かたわらに座していたシモンに振り向いて言われた。バル・ヨナ・シモン。富めるものが天国にはいるよりも、らくだが針の穴を通るほうがたやすい。(榊原康夫著『聖書講解 ルカの福音書』より)
4.59.5 記録
日時:2024年6月13日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.59.6 問いについて
このことは、どのような背景のもとで起きましたか。
離縁についてのパリサイ人の質問とイエスの答え、そして、弟子たちとの対話
- 4b 「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。7 それゆえに、人はその父母を離れ、8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
おさなごの祝福
- 14b 神の国はこ(幼な子ら)のような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない
17 イエスが道に出て行かれると、
- 家から出ていったように見える。
どのように、イエスに問うことから、はじまりますか。(17)
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
[DQ] このひとの様子はどのように描かれていますか。どのようなことを感じますか。
- 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、」からは、特別な状態を感じる。ある程度若かったのではないか。(マタイでは青年)しかし、富を持ち、ルカでは「役人」としている。ある興奮状態も感じるが、ここを逃してはいけないという緊迫感、必死さも感じる。
[DQ] イエスに何と呼びかけていますか。
「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」 Διδάσκαλε ἀγαθέ τί ποιήσω ἵνα ζωὴν αἰώνιον κληρονομήσω
διδάσκαλος: 1) a teacher, 2) in the NT one who teaches concerning the things of God, and the duties of man, i) one who is fitted to teach, or thinks himself so, ii) the teachers of the Jewish religion, iii) of those who by their great power as teachers draw crowds around them i.e. John the Baptist, Jesus, iv) by preeminence used of Jesus by himself, as one who showed men the way of salvation, v) of the apostles, and of Paul, vi) of those who in the religious assemblies of the Christians, undertook the work of teaching, with the special assistance of the Holy Spirit, vii) of false teachers among Christians
κληρονομέω: 1) to receive a lot, receive by lot i) esp. to receive a part of an inheritance, receive as an inheritance, obtain by right of inheritance, ii) to be an heir, to inherit
[DQ] 「永遠の生命を受ける(遺産として受ける)」とは、どのようなことを求めているのでしょうか。
[Q] 永遠の命とはどのようなものと理解していたのでしょうか。
神の国にあずかるものに与えられるいのち。神様との交わり。
ヨハネ前書1:1-4 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―― 3すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
[DQ] このひとは、何によって、永遠の命を受けることができと考えていたでしょうか。
- なにかをすることによって。
[DQ] この節からは、この人についてどのようなことがわかりますか。
- 「ひざまずく」は礼拝に近い。一般的な「教師(ラビ)」に対するよりも、特別なものと認識している可能性もある。「走り寄り」からも、とくべつな思いが見て取れる。
イエスは、どのように応答しますか。(18,19)
18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
マタイ19:18,19 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。(レビ19:18 を加えている。)
ルカ18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
[DQ] 「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。」は、なにを気づかせようとしているのでしょうか。
出鼻をくじいているようにも見える。
師を見る(興奮する)のではなく、神をみなければならない。
バークレイ:とどまって感がえなさい。あたなは全く興奮しており、また感情が高ぶっている。わたしは、あなたが興奮して、わたしのところに来るのを好まない。あなたのしていることを冷静に考えなさい。わたしに対する感傷的な情熱ではクリスチャンになれない。神を見なければならない。
[DQ] 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』この戒めを混燃えれば、永遠のいのちがえられるのでしょうか。
- 通常は、父と母を敬えのほうが最初に来る。ここでは、最後になっている。マルコ7:9-13 との関連で、特別なものとしたのか、それとも、すでに、財産を相続していたことを知っていたのかもしれない。
[DQ] イエスは、なにを気づかせようとしているのでしょうか。
このひとの答えなどから、わかることをあげてみましょう。(20)
20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
- ピリピ3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
マタイ19:20:「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」をずっと守ってきた。
[DQ] これらは、どのような教えですか。
- 十戒からとったと思われるが、父と母を敬え以外は、何かをするなという禁止命令。守ってきたは、悪いことはしていないということか。
このひとの応答を見る限りにおいて、永遠の命をえることができそうであることに鍵があるのだろう。
イエスは、どのようにこのひとに命じますか。(21)
21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
マタイ19:21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
ルカ18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
[DQ] イエスは、なにが足りないと言っているのでしょうか。
「あなたにたりないことが一つある。」といっているが、そこで、示しているのは、「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」である。しかし、それが、難しいことは、イエスもおそらく知っていただろう。
続けて「そうすれば、天に宝を持つようになろう。」と言っている。まず、よき師よから、神様に目を向けるように指し示されたように、ここでも、指し示されているのは、天に(神様のもとに)宝を持つことなのだろう。どうしたら、神様のみこころのように生きられるか。み心を生きることができるか。
さらに、「そして、わたしに従ってきなさい」と言っている。このときに、イエスに従っているものは多くないだろう。そして、エルサレムに向かっている。イエスに従うということは、このような道であることを示して入るだろう。このときには、応答できなくても、後には、そのように、ある程度できたかもしれない。イエスは、その先をもみて、慈しんで(ὁ δὲ Ἰησοῦς ἐμβλέψας αὐτῷ ἠγάπησεν αὐτὸν καὶ εἶπεν αὐτῷ)言われたのではないだろうか。
足りないというより、たいせつなことを教えておられるのだろう。最後のレッスンとして。
[DQ] マタイやルカとも比較してみましょう。
マタイ19:19b また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』が挟まっている。
ルカ18:22b あなたのする事がまだ一つ残っている。
[DQ] イエスが伝えていることは何なのでしょうか。
- バークレイ:因襲道徳のこだわりから抜け出しなさい。善とは、なにかをなすことによっては成り立っていないと考えるのはやめなさい。あなた自身の持ち物のすべてを他の人々のために、用いなさい。するとこの世においても、また永遠にいたるまで、真の幸せを見出すであろう。
このひとの求めていたものと、イエスが告げたこととには、どのような開きがあったのでしょうか。(22)
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
明らかに、このひとにそれはできなかった。なにをすればの答えを聞くと、それは、できないことだった。
[DQ] このひとが、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのでしょうか。
4.59.7 メモ
- 三回に分けるか、二回に分けるか:17-22と23-26, 27-31
- 「慈しんで」はなにを意味するのだろうか。
- 最初から「イエスに従いたい」とは言っていない。
- 場所は不明だが、家をカペナウムのペテロの家(カペナウムを本拠地とし、しばしば十二弟子とそこに泊まったとすると、ペテロの家ではないかもしれない。定宿があったのかもしれない。ゼベダイの子ヤコブとヨハネもこのあたりの出身で、網元でも会ったようにみえるから)だとすると、イエスは、このひとを以前から知っていたかもしれない。この熱心さにも、危うさもふくめて、このひとについて、知っていたのかもしれない。ときは、イエスが、エルサレムに向かっている特別なときである。そして、おそらく、十二弟子以外は(多少の女性はいたかもしれないが)離れ去ったときであることも、加味すべきだろう。このひとの願いも、最後の願い、イエスにとっても、最後の授業として教えたのではないだろうか。慈しみの眼差しは、もっと長い目で見た、イエスの愛なのかもしれない。一般論として、このときだけに限って、無理に解釈することには、注意すべきである。
- 以前のマタイによる福音書からの学びに「この人が持ち物を売り払い、貧しい人々に施すとどうなったと思いますか。」という問いがあったが、これも、興味深い問である。単純に、貧しくなった、貧しい人々の気持ちがわかるようになったかなど、どうなったかもあるだろう。しかし、ここで終わらず、イエスは、わたしに従ってきなさいと言っている、その部分がより際立つのかもしれないとも思う。
4.60 10:23-31 金持ちの男(2)
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
4.60.1 マタイ 19:23-30
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。26 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。
27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。29 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。30 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
4.60.2 ルカ 18:24-30
24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
4.60.3 問い
背景と、前半部分(13節から22節)を復習しましょう。どのようなことがありましたか。
イエスは、誰にむかってどのように語っていますか。その反応はどのようなものでしたか。(23,24a)
神の国にはいることについて、イエスはどのように語っていますか。(24b-27)
ペテロはどのようにイエスに言い、それにイエスはどう答えますか。(28-31)
「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる」は、なにを教えているのでしょうか。(31)
あなたは、神の国について、永遠の命について何を学び、どのように考えますか。(10:14,15,17参照)
4.60.4 参照
- マタイではこのあとに「ぶどう園の労働者」のたとえ(20:1-16)が挿入されている
4.60.5 記録
日時:2024年6月27日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.60.6 問いについて
背景と、前半部分(13節から22節)を復習しましょう。どのようなことがありましたか。
10章は、離縁についてからはじまり、幼な子の祝福の記事が続き、金持ちの男の話につながっている。
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
[DQ] イエスと弟子たちはどのような眼差しでこのひとを見送っただろうか。
おそらく、しばらく、ずっと見ていたのではないだろうか。とても、印象的な姿だが、もしかすると、このひとほどはっきりはしていなくても、そのような姿を、イエスも、弟子たちも何回も見ていたかもしれない。
イエスはこの人に何を伝えようとしたのだろうか。それは、伝わったのだろうか。
ルカには、立ち去ったという記述はない。「23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。」
イエスは、誰にむかってどのように語っていますか。その反応はどのようなものでしたか。(23,24a)
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。
[DQ] 弟子たちは、なぜ驚き怪しんだのでしょうか。
- 参照:26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
[DQ] 財産・富は、神様の祝福の証ではないのでしょうか。(因果応報)
- 詩篇37:25 わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、/正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない。
[DQ] 財産のある者が神の国にはいるのがむずかしいのはなぜでしょうか。
財産(χρῆμα: a thing, a matter, affair, event, business, spec. money, riches)Mark 10:23,24, Luke 18:24
アリストテレス(BC384-322)貨幣制度によってその価値が評価されるすべてのもの。
[A] バークレイ:①物質的な所有物は、人の心をこの世に固定させる。②金銭で買えるものの価値がすべてになる。③富はひとを傲慢にする。大きな責任を負う。
神の国にはいることについて、イエスはどのように語っていますか。(24b-27)
24b イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
「それでは、だれが救われることができるのだろう」。は、インパクトを与えている。
[DQ] なぜ彼らは「それでは、だれが救われることができるのだろう」。と言ったのでしょうか。
- 幼な子・金持ちの対比もある。当時の感覚か。
[DQ] 人にできないことに重点があるのだろうか、それとも、神にできることに重点があるのだろうか。
- ひとにできないところが、重要なのかもしれない。ひとは、それを悟り、神により頼み、かつ、神に求めて生きることが教えられているのだろうか。
ペテロはどのようにイエスに言い、それにイエスはどう答えますか。(28-30)
28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
- 父だけ抜けている。単純に、「家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑」は、不要というわけではなく、捨てればよいものではなく、同種類のものを受けると言っている。
[参考] マタイでは、19:27b,28「ついては、何がいただけるでしょうか」。28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。」が、挿入されている。
- 「ついては、何がいただけるでしょうか」は、浅ましいとも言えるが、自然でもある。
[DQ] イエスは、どのような「約束?」「預言」をしていますか。必ずそうなるのでしょうか。
[DQ] 「福音のために捨てる」とはどのようなことを意味しているのでしょうか。
マタイでは「29b わたしの名のため」
ルカでは「29b 神の国のために」
[DQ] 「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は」どうなると言っていますか。「百倍」の内容は?
[Q] 「今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け」とはどのような意味だろうか。
[Q] 「きたるべき世では永遠の生命を受ける」とはどのような意味だろうか。
[DQ] 「受ける」のは、いつのことでしょうか。
30b すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
マタイ:世が改まって、人の子がその栄光の座につく時
ルカ:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる」は、なにを教えているのでしょうか。(31)
31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
[DQ] 弟子たちに伝えたかったことは何なのでしょうか。
マタイでは、ぶどう園の労働者のたとえがつづき、最後に、また、この言葉が続いている。すなわち、この言葉の説明として、たとえを挿入しているようにみえる。
[DQ] だれが、先のもので、誰があとのものなのでしょうか。弟子たちは、先のものでしょうか、あとのものでしょうか。
①富めるものと貧しいもの、②イスラエルと異邦人、③敬虔さを誇ったパリサイ人と罪人や取税人、④弟子たちとほかの人達、富めるものも加わるかもしれない。
イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
この二つのことばにすべてがあるのかもしれない。
あなたは、神の国について、永遠の命について何を学び、どのように考えますか。(10:14,15,17参照)
10:14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
[DQ] 幼な子と金持ちの人とはなにが違うのでしょうか。
[DQ] 金持ちの人は、全財産を施せば、永遠のいのちを得ることができたのでしょうか。
- おそらくそうではないだろう。「そして、わたしに従ってきなさい」ともついている。このことは、一つに過ぎないのだろう。イエスに、したがって学ぶことがある。しかし、本当にそうだろうか。イエスは、もうすぐ、死なれる。
4.60.7 メモ
- 「21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」のあとどうなったかが、やはり気になる。それは、私だけではなく、イエス様もそうなのだろう。神様に委ねることは、勇気のいることである。そして、かならず、このひとが、神様の御心を知るに至るかどうかはわからない。それが、イエス様の「24b 子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」にあらわれているように見える。「21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」のイエス様のいつくしみの深さとともに、み心に生きることの難しさを感じる。このゆらぎ(Noise)だろうかをどう考えたらよいのだろうか。幸せにいきることは、永遠の命をもって生きることは難しい。
- 28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい(Ἰδού)、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。
- ペテロにとっては、これが彼の全てだったのだろう。その意味で、正直で、幼な子のような存在だとも言える。しかし、リーダー、弟子としては、それだけでは不十分なのだろう。
- マルコ1:16-18 さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。17 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
- もっとほかに言うことはないのとも感じるが、これがペテロの富・財産の全てだったのだろう。それは、やはり素晴らしい。わたしには、いえないことのように思う。
- 教義としてとらえるのではなく、イエスが、伝えようとしたこと、弟子たちが、受け取ったことをまずは、理解したい。それは何なのだろう。
- イエスは、弟子たちになにを伝えたかったのだろうか。弟子たちは、なにを受け取ったのだろうか。
- わたしたちは、救われるかどうか、神の国に入るかどうか、永遠の命を持つかどうかの二者択一のようなことを考えるが、イエス様にとっては、神様の御意を行う、そのように生きることがすべてなのかもしれない。
- このあとに、マタイでは、ぶどう園の労働者の話が続き、その最後にも、「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(20章16節)がある。最初に弟子になったペテロは、朝6時に雇われた労働者なのかもしれない。そして、アリマタヤのヨセフのように、ニコデモのように、最後にあらわれた人もいる。じっくり考えたい課題である。
- 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
- マルコ15:43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。マタイ27:57 夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。ルカ23:51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。
- ヨハネ19:38 そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。39 また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
4.61 10:32-34 イエス、三度自分の死と復活を予告する
32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。
4.61.1 マタイ 20:17-19
17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、18 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、19 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
4.61.2 ルカ 18:31-34
31 イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。32 人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、33 また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。34 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。
4.61.3 問い
背景を復習しましょう。どこから、どこに向かっていますか。(8:31, 9:30-33, 10:1)
イエスの様子についてどのように描かれていますか。(32)
弟子たちは、なぜ、驚き、恐れ、イエスは、なぜ、自分の身に起ろうとすることについて語ったのでしょうか。(32)
一回目(8:31)、二回目(9:31)と比較して、共通のことと、新しいことを挙げてみましょう。(33,34)
少しずつ詳しくなっているように見えますが、それは、何を意味しているのでしょうか。
弟子たちは、どのように、イエスの言葉を、受け取ったと思いますか。
4.61.4 参照
イエス一行の同行者
マルコ15:40,41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
マタイ27:55,56 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
ルカ23:55,56 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
- ルカ24:10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
参考:最初の頃の同行者 ルカ8:1-3 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
死と復活の予告:
8:27-30 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
8:31-37 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
9:30-32 30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
10:32-34 32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。
ルカでは七回目:5:35、9:22、44、12:50、13:32、17:25、18:31-34
5:35 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。(マルコ2:20、マタイ9:15)
9:22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。(一回目、マルコ8:31、マタイ16:21)
9:44 「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。(二回目、マルコ9:31,32、マタイ16:21)
12:50 しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
13:32 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。(三回目、マルコ10:33,34、マタイ20:18,19)
17:25 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。
18:32-33 32 人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、33 また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。
4.61.5 記録
日時:2024年6月27日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)0名
4.61.6 問いについて
背景を復習しましょう。どこから、どこに向かっていますか。(8:31, 9:30-33, 10:1)
[DQ] マルコが受難告知について記している一回目、二回目のときは、どのようなときですか。
31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
イエスの様子についてどのように描かれていますか。(32)
32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
[DQ] 「一同」「彼ら」「従う者たち」とは誰でしょうか。
- 彼らは、単に、一同を受けたものであろうが、イエスが先頭に立っていかれたので、つぎに、いくつかの意味をこめて、従うものたちと言っているように思える。
[DQ] イエスと、弟子たち以外にもいたとすると、それは、どんなグループで、何を目的にして、エルサレムに向かっていたのでしょうか。
- 過越のまつり:GPT-4o イエスの時代の過越の祭りは、宗教的な意味合いが非常に強く、エルサレムで盛大に祝われました。家庭でのセーデルの食事、神殿での儀式、そしてエルサレムへの巡礼が中心となり人々はこれらの行事を通じてエジプト脱出の出来事を記憶し、神への感謝と信仰を新たにしました。[リンク]
[DQ] イエスは、なぜ、先頭に立って行かれたのでしょうか。
先頭と、後ろからまたは、真ん中にいてついていくのとどう違うのだろうか。
先頭は、おそらく、ひとり、孤独。
弟子たちは、なぜ、驚き、恐れ、イエスは、なぜ、自分の身に起ろうとすることについて語ったのでしょうか。(32)
32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
[DQ] なぜ、驚き怪しみ、おそれたのでしょうか。
驚き怪しみ(θαμβέω:i) to be astonished, ii) to astonish, terrify)Mark 1:27, 10:24, 10:32, Acts 9:6
恐れる(φοβέω:i) to put to flight by terrifying (to scare away))
イエスと一緒に受難にあうことを恐れたのでしょうか。
ルカ19:11 人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。
[DQ] だれに、自分の身に起ろうとすることについて語っていますか。
ここでも、「するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、」とあり、十二弟子にのみ、話していたように見える。
マタイでは「17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、」とある。
一回目(8:31)、二回目(9:31)と比較して、共通のことと、新しいことを挙げてみましょう。(33,34)
8:31-3a それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32 しかもあからさまに、この事を話された。
9:31-32 30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。
二回目には、「人々の手にわたされ」が加わっている。
三回目には、「彼ら(祭司長、律法学者たち)が死刑を宣告」「異邦人に引きわたす」「あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう」が加わっている。
サンヘドリンの決定、ローマ人に引き渡す。主体は、祭司長、律法学者
あざけり、つばきをかけ、鞭打ち、殺してしまう。主体は、祭司長、律法学者
イエスがされることではなく、彼らがすることとして書かれている。
イザヤ50:6 わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、/わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、/恥とつばきとを避けるために、/顔をかくさなかった。
詩篇22:7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、/くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
弟子たちは登場しない。
少しずつ詳しくなっているように見えますが、それは、何を意味しているのでしょうか。
[DQ] なぜ、少しずつ変化しているのでしょうか。
順々に詳しくなっていくが、これは、イエスが意図的に、小出しにしたのだろうか。イエス自身がすこしずつ確信したことを伝えているのだろうか。それとも、弟子たちが受け取ったことが、少しずつ詳しくなっていくのでしょうか。
上に書いた、どれかは、定かではないし、全てかもしれないが、マルコは、このことを明らかに意識して記述している。
弟子たちは、どのように、イエスの言葉を、受け取ったと思いますか。
一回目は、ペテロがいさめる。
- 8:32b すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
二回目は、尋ねるのを恐れていた。
- 9:32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
三回目は、イエスの行動に、「驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」
10:32a さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。
以前とは、明らかにことなるものを感じたのだろう。決然としていたのか、鬼家が宿っていたのか。
ルカでは、ペテロのことばへの応答に続けて言われているようにも取れる。イエスは、福音のため、神の国のために、捨てることの例示なのだろうか。
ルカには、ゼベダイの子らの願いは記されず、以下の言葉で終わっている。ルカ18:34 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。
4.61.7 メモ
イエスと弟子たちについて考えた。イエスは、なぜ弟子たちを呼び寄せ(マタイでは密かに呼び寄せ)語ったのだろうか。自ら、確信を得ていたことは確かだろうが、弟子と共有し、共に、そこに向かっていくことを意識し、そのときには、驚かないように、そして、イエスが十字架を負うように、それぞれが自分の十字架を負う、その模範となるためだろうか。
- 8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
4.62 10:35-45 ヤコブとヨハネの願い
35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
4.62.1 マタイ 20:20-28
20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
4.62.2 問い
このことは、どのような背景のもとで起きましたか。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネはなにをイエスに願いますか。(35-37)
イエスはどのように応答しますか。(38-40)
他の弟子たちは、どのように反応しますか。それは、なぜでしょう。(41)
イエスは、何を、どのように教えますか。(42-44)
人の子が来た目的についてどのように語りますか。(45)
4.62.3 参照
同行者についての記述
マルコ15:40,41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
- マタイ27:55,56 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
マルコ16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。
ルカ23:55,56 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
ルカ24:10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
マタイ28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
ヨハネ20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
ヨハネ19:25-27 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。
さかずき
詩篇23:4,5 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、/わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、/わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
詩篇75:8 主の手には杯があって、/よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、/地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。
イザヤ51:17-23 17 エルサレムよ、起きよ、起きよ、立て。あなたはさきに主の手から憤りの杯をうけて飲み、/よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。
エレミヤ25:15-28 15 イスラエルの神、主はわたしにこう仰せられた、「わたしの手から、この怒りの杯を受けて、わたしがあなたをつかわす国々の民に飲ませなさい。
神の怒りのさかずき(その他)
- エレミヤ25:15-28、49:12、51:7、哀歌4:21,22、エゼキエル23:31-34、ハバクク2:16、ゼカリア12:2
バプテスマ:溺れさせられた τὸ βάπτισμα (βάπτισμα (N-ASN: immersion, submersion 1) of calamities and afflictions with which one is quite overwhelmed, 2) of John’s, 3) of Christian) ὃ ἐγὼ βαπτίζομαι (βαπτίζω (V-PPI-1S): 1) to dip repeatedly, to immerse, to submerge (of vessels sunk), 2) to cleanse by dipping or submerging, to wash, to make clean with water, to wash one’s self, bathe, 3) to overwhelm) βαπτισθῆναι (V-APN)
詩篇42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、/あなたの波、あなたの大波は/ことごとくわたしの上を越えていった。
詩篇124:4,5 また大水はわれらを押し流し、/激流はわれらの上を越え、5 さか巻く水はわれらの上を越えたであろう。
バークレイ:あなたがたは、わたしが通り抜けなければならないような、恐ろしい経験を堪え抜くことができるのか。あなたがたは、わたしが出会わなければならないような憎しみ、苦痛、死に沈むことに直面できるのか。
ヤコブの殉教とヨハネの配流
ヨハネ、ペテロとともにむち打ち:使徒4:3、彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。(4章の記述から、「彼ら」は、ペテロとヨハネ)
パトモス島 黙示録 1:9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
ヤコブの死:使徒12:1-3、そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、2 ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。3 そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。
あがない(ransom - λύτρον: 1) the price for redeeming, ransom, a. paid for slaves, captives, b. for the ransom of life, 2) to liberate many from misery and the penalty of their sins. λύτρον は、マタイ20:28、マルコ10:45 のみ。七十人訳では、以下のヘブル語の訳として使われる。כֹּפֶר: price of a life, ransom, bribe, asphalt, pitch (as a covering), the henna plant, name of a plant (henna?), village. גְּאֻלָּה 1 kindred, redemption, right of redemption, price of redemption, (kin, kindred, redemption, right of redemption, price of redemption, redemption price))ἀπολύτρωσις: a releasing effected by payment of ransom a. redemption, deliverance, b. liberation procured by the payment of a ransom
共観福音書では、ここのみ
マルコ10:45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
マタイ20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
ルカ1:67-79 ザカリヤの預言
- 67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、69 わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。
使徒20:28 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。
パウロ書簡
ローマ3:24,25 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
コリント前書1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
ガラテヤ3:13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
ガラテヤ4:5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
パウロ由来文書
エペソ1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
エペソ1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
エペソ4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
コロサイ1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
テモテ前書2:6 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
テトス2:14 このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
その他の新約文書
ヘブル9:12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
ヘブル11:35 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。
ペテロ前書1:18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、
ヨハネ前書2:2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
ヨハネ前書4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
黙示録5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
旧約聖書多数
レビ16:34 これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった。
申命記7:8 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。(9:26, 15:15)
歴代誌上17:21 また地上のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、エジプトからあなたがあがない出されたあなたの民の前から国々の民を追い払い、大いなる恐るべき事を行って、名を得られたものではありませんか。
詩篇19:14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、/どうか、わたしの口の言葉と、/心の思いが/あなたの前に喜ばれますように。
詩篇25:22 神よ、イスラエルをあがない、/すべての悩みから救いだしてください。
詩篇111:9 主はその民にあがないを施し、/その契約をとこしえに立てられた。そのみ名は聖にして、おそれおおい。
詩篇130:7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、/また豊かなあがないがあるからです。
イザヤ44:23,24 天よ、歌え、主がこの事をなされたから。地の深き所よ、呼ばわれ。もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、/声を放って歌え。主はヤコブをあがない、/イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。24 あなたをあがない、/あなたを胎内に造られた主はこう言われる、/「わたしは主である。わたしはよろずの物を造り、/ただわたしだけが天をのべ、地をひらき、/――だれがわたしと共にいたか――
イザヤ48:7 イスラエルのあがない主、/イスラエルの聖者なる主は、/人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、/つかさたちのしもべにむかってこう言われる、/「もろもろの王は見て、立ちあがり、/もろもろの君は立って、拝する。これは真実なる主、イスラエルの聖者が、/あなたを選ばれたゆえである」。
エレミヤ31:11 すなわち主はヤコブをあがない、/彼らよりも強い者の手から彼を救いだされた。
ミカ6:4 わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、/奴隷の家からあなたをあがない出し、/モーセ、アロンおよびミリアムをつかわして、/あなたに先だたせた。
イザヤ63:9 彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、/そのみ前の使をもって彼らを救い、/その愛とあわれみとによって彼らをあがない、/いにしえの日、つねに彼らをもたげ、/彼らを携えられた。
4.62.4 記録
日時:2024年7月11日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)0名
4.62.5 問いについて
このことは、どのような背景のもとで起きましたか。
三度目の受難告知の直後。
[DQ] 一度目、二度目の受難告知のあとには、どのようなことが書かれていましたか。
一度目の受難告知(8:31)の直後:ペテロが、いさめる。(8:32) 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(8:34)
二度目の受難告知(9:31)の直後:だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていた(9:34)「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。(9:35)
三度目の受難告知(10:33)の直後にこのエピソードがある。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネはなにをイエスに願いますか。(35-37)
35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。
[DQ] ゼベダイの子ヤコブとヨハネについて知っていることを上げてみましょう。どのような人たちですか。
1:19,20 19 また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。 20 そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。
1:29,31 それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。 30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。31 イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。
3:17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
5:35-37 イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。
9:2,3 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
13:3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。
14:33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
[DQ] どのように描かれていますか。
「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。
[Q] なぜ、このように頼んだのでしょうか。
[DQ] マタイにはどのように書かれていますか。
- 20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
- ゼベダイの子らとせず、ゼベダイの子らの母としたのは、一般的には、ここに書かれている願いは、使徒には、ふさわしくないと考えたからだろうと思われる。
[DQ] マタイでは、ゼベダイの子らの母が、ゼベダイの子らとともに来て願ったことが書かれていますが、ゼベダイの子らの母も一緒に居たのでしょうか。
マルコ15:40,41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
マタイ27:55,56 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
ヨハネ19:25-27 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。
この2つの記事を同じ場所の表現とすると、マグダラのマリアは同じ表現、小ヤコブとヨセの母マリアは、ヤコブとヨセフの母マリアと同一で、それは、イエスの母、サロメは、ゼベダイの子たちの母で、母の姉妹となる。クロパの妻マリアは、クレオパ(ルカ24:18)の妻ではないかとの説がある。
[DQ] なぜこのようなことを願ったのでしょうか。「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」
イエスはどのように応答しますか。(38-40)
38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。
[DQ] なぜ、イエスは、怒らなかったのでしょうか。
- 肯定しているようにも、見える。ヤコブや、ヨハネが、自分の十字架を負うことのたいへんさを思い「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。」と言ったのかもしれない。
[DQ] 「イエスが飲む杯を飲む」とは「イエスが受けるバプテスマを受ける」とは、どのようなことを意味しているでしょうか。
- 苦しむことだろうか。
[DQ] 「わたしの右、左にすわらせること」の判断を逃げているのでしょうか。
- 意識をそらして入るのだろう。神様に委ねつこととして。
他の弟子たちは、どのように反応しますか。それは、なぜでしょう。(41)
- 41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。
- [DQ] 十人は、どのようなことを考えていたのでしょうか。
- 自分たちをさしおいてということだろう。ペテロもそのうちのひとりであったことを、「十人の者」が指し示している。しかし、それではいけないことを、ペテロは、このときかどうかは別として、悟ったのだろう。
- マタイ19:28 「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。」は、イエスが、このようなことをに近いことをいわれたことを否定するものではないが、マタイ集団、マタイに近い、ユダヤ人グループは、やはり、この部分を確保しておきたいと願っていたのかもしれない。
イエスは、何を、どのように教えますか。(42-44)
- 42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
- [DQ] イエスは、どのような生き方を教えていますか。
- ここで、それぞれに、天国での地位を、約束することはどのような結果をもたらすだろうか。
- マタイ19:28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
- 地位については、40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。として判断をさけている。神様に委ねて、ここでは、逃げているようにも見える。そうではないことに、目を向けてほしいのだろう。
- 8:34-37 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
- 9:33-37 33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
- ここで、それぞれに、天国での地位を、約束することはどのような結果をもたらすだろうか。
人の子が来た目的についてどのように語りますか。(45)
45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
[DQ] 多くの人のあがないとして、自分の命を与えるとは、どのような意味でしょうか。
贖罪死を連想させるが、そうではないのかもしれない。(パウロ文書)
ローマ3:24,25 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
コリント前書1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
ガラテヤ3:13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
ガラテヤ4:5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
「仕えるもの」の生き方として、多くのひとを救うための生き方としている。
イエスが勧めているのは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(8:34)「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。(10:35)
神様が、あがない主であられるという信仰を強く持っておられたのだろう。その神様のみこころに生きることが、イエスが生きられた道。申命記7:8 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。(9:26, 15:15) 詩篇130:7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、/また豊かなあがないがあるからです。
4.62.6 メモ
マタイによる福音書で、ゼベダイの子らの母、ゼベダイの妻だろうを、登場させたことは、この願いが、使徒にふさわしくないと考えたからもあるだろう。しかし、同時に、ここに、ゼベダイの子らの母、おそらく、サロメがいたこと、イエスの母などもいたと思われることは、重要である。
マルコ15:40,41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
ここから見えることは、男たちはともかく、女たちが、多くいたということである。人数は不明だが、おそらく、男たち、12弟子だけかどうかは不明だが、おそらく、それに近いとして、人数としても、匹敵する数がいたのかもしれない。すくなくとも、マグダラのマリア、イエスの母マリア、ゼベダイの子らの母がいたであろうことは、覚えるべきである。
同行者、おんなたちは、イエスの受難を知っていただろうか。おそらく、知っていたのだろう。それが、マグダラのマリアの香油注ぎにもつながり、十字架の近くにいて、悲鳴をあげていないことからも、見て取れる。
しかし、実際にそこに、ゼベダイの子らの母がいたとしても、やはり、ヤコブとヨハネの願いでもあったのだろう。それが会話から読み取れる。正直に書いた、マルコに共感する。それは、ペテロが伝えたことなのかもしれない。男性の視点として。ヨハネの記述も勘案すると、ゼベダイの子らの母は、イエスの母マリアの姉妹の可能性がある。それが、ヨハネと思われる、愛弟子に、世話を頼むことにもつながっているのかもしれない。同時に、叔母である、ゼベダイの子らの母である、サロメに頼まれることは、人間的に考えると、十分な圧力であるようにも思えてくる。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。の「多くのひとのあがない」をどう理解するかはおそらく、議論になる箇所だろうが、イエスに従うものとして、仕えられるためではなく、仕えるために生きることが中心であり、自分の十字架を負って従っていくことが主であろう。マタイでは、同じ箇所を、「28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」と、一例であるように、書いている。犠牲としてささげる愛が、自分の十字架であると、すれば、そのような生き方もあるのだろうが、ここで言われていることは、もっとずっと広いように思われる。また、イエスの死だけに限っても、やはり、仕えられるためではなく、仕えるためなのだろう。
4.63 10:46-52 盲人バルティマイを癒やす
46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
4.63.1 マタイ 20:29-34
29 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。30 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。33 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
4.63.2 ルカ 18:35-43
35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。36 群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。37 ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、38 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。40 そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、41 「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。42 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。43 すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。
4.63.3 問い
このことは、どのような背景のもとで、どこで起きましたか。(46a)
どのような人が、なにを訴えますか。(46b-48)
イエスは、どう対応しますか。(49-50)
イエスは、どのように、この人に聞き、この人はどのように答えますか。(51)
どうなりますか。(52)
あなたは、このことから、どのようなことを受け取りましたか。
4.63.4 参照
エリコ
エルサレムから、約24km(バークレイ)、約27km(GPT-4o)
ユダヤ人男性でエルサレムから24km 以内に住むものは、誰でも、過越の祭りに参加(バークレイ)
- 祭司やレビ人(全体で、2万人+2万人程度)で、神殿の仕事に従事していないときは、エリコに居住(バークレイ)
エルサレムから一日で移動できる距離で、通常のルートを取ると、ヨルダン川の東側から、西側に移った場所にある、非常に古い街であり、主要ルートが通ることもあり、栄えていた。
バルテマイ:υἱὸς Τιμαίου Βαρτιμαῖος ὁ τυφλὸς
Τιμαῖος: Timaeus = “highly prized”, Chaldee Origin טָמֵא (unclean, impure)
Βαρτιμαῖος: Bartimaeus = “son of Timaeus” 汚れたものの子とも読める。
マタイでは、二人、20:30 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
- もともとは、テマイとバルテマイとペテロは言っていたのかもしれない。
榊原康夫:ひとりかふたりかの違いの調和解釈例
三回の奇蹟があった。
エリコ入りのとき、バルテマイは叫び、もうひとりと合してエリコでのときに癒やされた。
エリコ入りのときバルテマイが癒やされ、エリコ出のとき、もうひとりが癒やされた。
旧エリコと、新エリコの区別があった。
エリコに近い頃(まだ遠ざからぬうちに)と訳す
ルカでは、ザアカイの物語との関係もあり、編集したのでは(榊原)
ヨハネには、ベタニヤ村での、ラザロの蘇りの記事が入っている。
- 11:53-55 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。54 そのためイエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた。55 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、多くの人々は身をきよめるために、祭の前に、地方からエルサレムへ上った。
ダビデの子
マルコ10:47,48 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。(マルコ初出)
マタイ20:30,31 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
ルカ18:38,39 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。
マルコ12:35-37 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、/『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』。37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
マタイ22:42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。
マタイ22:45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。
ルカ22:41 イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。
ルカ22:44 このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。
マタイ1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイ1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
マタイ9:27 そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。
マタイ12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
マタイ15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
マタイ21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、/「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
マタイ21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
ヨハネ7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
(使徒13:23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られたが、)
(ローマ1:3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、)
(2テモテ2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。)
なにをしてほしいのか
列王記上3:3-9 ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。4 ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。5 ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。6 ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。7 わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。8 かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。9 それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。
マルコ10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
マタイ19:27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
- マルコ10:28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。
マルコ10:35-37 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。
4.63.5 記録
日時:2024年7月18日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.63.6 問いについて
このことは、どのような背景のもとで、どこで起きましたか。(46a)
46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、
[DQ] エリコについたときですか。出ていくときですか。
マルコ「46 それから、彼らはエリコにきた。」とルカ「35 イエスがエリコに近づかれたとき、」マタイは、「29 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、」と、している。マルコでは、エリコから出かけられたとき、としているので、異なっているのは、ルカである。ルカでは、このあと、ザアカイの話を入れている。
このひとは、エリコに来たときから、イエスについて聞いていたのかもしれない。そして、出ていかれるとき。
[Q] エリコではどのようなことがあったのでしょうか。
[DQ] 大勢の群衆はどのような人たちでしょうか。
- 巡礼のひともいたろう。エリコから、エルサレムは幹線道路、過越の祭りも近い。ただ、ヨハネでのベタニアでの記事などを考えると、ガリラヤからエルサレムへの途上で立ち寄ったということではないかもしれない。しかし、このときには、他の群衆も一緒になったのだろう。
どのような人が、なにを訴えますか。(46b-48)
46b テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
[DQ] どのような人ですか。「テマイの子、バルテマイという盲人のこじき」
こじきは、たくさんいたのではないだろうか。
[Q] なぜ、テマイの子、バルテマイと書いているのでしょうか。
- 「テマイ」は、カルデア語源の汚れたという意味だとおもわれるが、それから、盲人ととる学者もいる。盲人の子、盲人、すくなくとも、蔑まれた存在のその子で、その二人がそこにいたのかもしれない。「テマイとその子バルテマイ」だったのではないだろうか。
[DQ] バルテマイは、なにを叫んでいますか。
「ダビデの子イエスよ」この前に「ナザレのイエスだと聞いて」とあり、その対比がある。
「わたしをあわれんでください。」「叫び出した。」「彼はますます激しく叫びつづけた、」とあり、非常なる必死さが伝わってくる。この機会にかけているのだろう。
[DQ] なぜ、ダビデの子イエスよと叫んだのでしょうか。
おそらく、それを咎めるひともいただろうが、そんなことは、お構いなし。救い主、または、その可能性がある方と信じていた、期待していたのだろう。
- 「ダビデの子」は、マルコ初出。多いのはマタイのみ。
ヨハネ11:53 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。
[DQ] マタイによる福音書には、どのように書かれていますか。
20:29 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。30 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
「ふたりの盲人」「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」二人であり、主よが加わっている。
[DQ] バルテマイは、なにを期待し、なにを、あわれみと思っていたのでしょうか。
- 主が憐れみ深いかたで、このイエスをとおして、憐れんでくださると信じていたのだろう。または、信じるしかなかったのかもしれない。
[DQ] なぜ、群衆は、この人をしかって黙らせようとするのでしょうか。
「ダビデの子イエス」という政治的指導者を匂わせることばに反応したか。
イエスの特別なときであることを思うひとたちが、黙らせようとしたのか。
ルカでは 18:39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。「先頭に立つ人々」とある。この人たちはどのような人たちだったのだろう。
イエスは、どう対応しますか。(49-50)
49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
[DQ] なぜ、「彼を呼べ」と命じられた。と言ったのでしょうか。
- 自分で彼のもとに行っても良かったのではないでしょうか。
[DQ] この盲人の様子はどのように描かれていますか。
- 上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとにきた。
イエスは、どのように、この人に聞き、この人はどのように答えますか。(51)
51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
[DQ] なぜ、「わたしに何をしてほしいのか」と聞いたのでしょうか。
[DQ] なぜ、このように素直に答えられたのでしょうか。
[DQ] あわれみと、見えるようになることは、つながっていたのでしょうか。
どうなりますか。(52)
52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
[DQ] 「行け、あなたの信仰があなたを救った」とは、どのような意味でしょうか。
- マタイでは、「34 イエスは深くあわれんで(σπλαγχνίζομαι: to be moved as to one’s bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity))、彼らの目にさわられた。」とある。
[DQ] このひとの信仰とは何でしょうか。
[DQ] 「行け」といわれて、従っていったとは、どういうことでしょうか。
- イエス一行には、障害者(だったひと)もいたことがわかる。
あなたは、このことから、どのようなことを受け取りましたか。
- [DQ] あなたは、イエスに出会ったら、なにを求めますか。
4.63.7 メモ
これが、エルサレムに入る前の最後のエピソードである。
ラザロの復活、ザアカイの物語など、どのような、時間的経過なのかも、興味深い。
盲人が、目が見えるようになることを求めるのは自然だと考えてしまうが、そうではないかもしれない。障害者の気持ちを理解できていないのかもしれない。そして、自分に当てはめてみると、なにを求めるかはわからないとしか言えない。主に従うことは、自分の十字架を負うて従っていくこと。
4.64 11:1-11 エルサレムに迎えられる
1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。4 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。5 すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。6 弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、/「ホサナ、/主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
4.64.1 マタイ 21:1-11
1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、/「シオンの娘に告げよ、/見よ、あなたの王がおいでになる、/柔和なおかたで、ろばに乗って、/くびきを負うろばの子に乗って」。6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、/「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
4.64.2 ルカ 19:28-40
28 イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。29 そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、30 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。31 もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。32 そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。33 彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、34 「主がお入り用なのです」と答えた。35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。36 そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、38 「主の御名によってきたる王に、/祝福あれ。天には平和、/いと高きところには栄光あれ」。39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。
4.64.3 ヨハネ 12:12-19
12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、/「ホサナ、/主の御名によってきたる者に祝福あれ、/イスラエルの王に」。14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは 15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が/ろばの子に乗っておいでになる」/と書いてあるとおりであった。16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。17 また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。18 群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。19 そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。
4.64.4 問い
イエスたちは、どこにいますか。背景も復習しましょう。(1)
イエスは弟子の二人にどんな指示をしていますか。(2,3)
そして、どうなりますか。(3-6)
イエスは、どうしますか。そのようすは、どのように描かれていますか。(7-10)
これは、どのようなことを伝えているのでしょうか。他の福音書から人々の反応もみてみましょう。
この日の、イエスの様子は、どのように描かれていますか。(11)
4.64.5 参照
受難週のエルサレムの地図 [The Passion Week in Jerusalem]
ベテパゲ(Βηθφαγή: “house of unripe figs” 熟していないいちじくの家 または、単に、fig house いちじくの家)
エリコからエルサレムに向かう途中にあるベタニヤに近い小村。(the name of a hamlet between Jericho and Jerusalem, close to Bethany)
聖書では、マルコ11:11、マタイ21:1、ルカ19:29 すなわち今回の箇所のみ。
安息日に旅することが可能。1.6km 以内。巡礼者の宿泊所
ベタニヤ(Βηθανία:“house of dates” or, “house of misery”)ナツメヤシの家 עֲנִיָּה בֵּית
- a village at the Mount of Olives, about two miles (3 km) from Jerusalem, on or near the normal road to Jericho
ろば:山を旅するには馬よりも強く、女子供でも乗りやすい背丈であることから、ろばが愛用された。
民数記22章 21節 明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
士師記5章 9-10節 わたしの心は民のうちの喜び勇んで/進み出たイスラエルのつかさたちと共にある。主をさんびせよ。茶色のろばに乗るもの、/毛氈の上にすわるもの、/および道を歩むものよ、共に歌え。
サムエル記上 9章 3節 サウルの父キシの数頭のろばがいなくなった。そこでキシは、その子サウルに言った、「しもべをひとり連れて、立って行き、ろばを捜してきなさい」。
サムエル記下 16章 1-2節 ダビデが山の頂を過ぎて、すこし行った時、メピボセテのしもべヂバは、くらを置いた二頭のろばを引き、その上にパン二百個、干ぶどう百ふさ、夏のくだもの一百、ぶどう酒一袋を載せてきてダビデを迎えた。王はヂバに言った、「あなたはどうしてこれらのものを持ってきたのですか」。ヂバは答えた、「ろばは王の家族が乗るため、パンと夏のくだものは若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で弱った者が飲むためです」。
参照:列王紀上 10章 28-29節 ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商はクエから代価を払って受け取ってきた。エジプトから輸入される戦車一両は銀六百シケル、馬は百五十シケルであった。このようにして、これらのものが王の貿易商によって、ヘテびとのすべての王たちおよびスリヤの王たちに輸出された。
ゼカリヤ9:8-14
その時わたしは、わが家のために営を張って、見張りをし、行き来する者のないようにする。しえたげる者は、かさねて通ることがない。わたしが今、自分の目で見ているからである。9 シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。10 わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。11 あなたについてはまた、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはかの水のない穴から、あなたの捕われ人を解き放す。12 望みをいだく捕われ人よ、あなたの城に帰れ。わたしはきょうもなお告げて言う、必ず倍して、あなたをもとに返すことを。13 わたしはユダを張って、わが弓となし、エフライムをその矢とした。シオンよ、わたしはあなたの子らを呼び起して、ギリシヤの人々を攻めさせ、あなたを勇士のつるぎのようにさせる。14 その時、主は彼らの上に現れて、その矢をいなずまのように射られる。主なる神はラッパを吹きならし、南のつむじ風に乗って出てこられる。
背景を考えると難しい。捕囚のあと一部が帰還したエルサレムでの預言である。ここでは、周囲の海の民(ペリシテなど)からの圧迫に苦しむ必要はないとして、9節、10節が語られているように見える。エルサレムに、諸国民に平和を告げる王がくることを預言している。
おそらく「彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」が、イエスのイメージと、エルサレム入城に適合していることを主張した人たちがおり、さらに、「わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。」に期待を抱いたのかもしれない。
マカバイ記一 13章 51節 第百七十一年の第二の月の二十三日、ユダヤの人々は賛美のうちにしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛歌と歌を歌いながら要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。
列王記下9章13節 すると彼らは急いで、おのおの衣服をとり、それを階段の上のエヒウの下に敷き、ラッパを吹いて「エヒウは王である」と言った。
ルカにはこのあと挿入(19:41-44)
- 41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。
イエスのエルサレム訪問
ルカ2:22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。
ルカ2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。
ヨハネ2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。
ヨハネ5:1,2 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
ヨハネ7:10 しかし、兄弟たちが(仮庵の)祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。
[参照] マタイ23:37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
[参考] エルサレムの周辺30km 以内に住む成人男性は、この祭りに参加する定めになっていたと言われている。
ヨハネには、エルサレムでの活動がたびたび書かれている。
2:13-25 (過越祭の折)神殿から商人を追い出す。(共観福音書では、これを今回の記事のあとに置いている)
3:1-21 (または15節まで)のニコデモとの会話も、エルサレムである可能性が高い。(イエスの葬りのときに現れ(19:39)、サンヘドリンの議員であるかは不明だが、議員はファリサイ派の人の中に登場する。(7:50))
3:22 以降も、4:42 まで、ユダヤ、サマリアに弟子たちと、滞在している。(4:43-54 は、ガリラヤに滞在)
5:1-47 ユダヤ人の祭りにエルサレムに登り、ベテスダの池で病人を癒やす。(6:1-71 五千人の給食はガリラヤ。)
7:1-10:42-12:11 (エルサレム入城の直前まで) 明確にはわからないが、エルサレムまたは周辺のユダヤに滞在していると思われる。
ガリラヤでの活動の記事は、非常に限定的で、エルサレムでの活動ばかり書かれている。ガリラヤでは、カナでの活動が、二回と、五千人の給食のみ。共観福音書にかかれているから書かないとも考えられないこともないが、記述が詳細であることから、目撃者証言と言えるものも多い。カナ、五千人給食の地、エルサレムをつなぐ線上に、証言者がいるように見える。また、マリアとの関係も、最初のカナでの婚礼、そして、最後にイエスの愛しておられる弟子に、マリアを委ねるところからも、特別なものであったように見える。五千人給食に関しては、ピリポ、アンデレが登場し、バプテスマのヨハネのところでの、仲間だった可能性もあり、そこから、得た情報なのかもしれない。
4.64.6 記録
日時:2024年9月12日午後7時半〜9時半
出席(対面)5名、参加(遠隔)2名
4.64.7 問いについて
イエスたちは、どこにいますか。背景も復習しましょう。(1)
1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
[DQ] どこを出発して、どこへ向かい、今いる場所はどこでしょうか。
[A] 彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時
マタイでは、ベテパゲとしているが、ルカは、マルコを引き継いでいる。おそらく、マタイは、それがベテパゲであることを知っていたのだろう。
では、なぜ、ベタニヤも入っているかが気になる。ヨハネによると、この前には、ラザロの復活の記事、マルタ、マリア、ラザロの家での宴会の記事、マリアが油を注いだ記事、そして、そのことが人々に衝撃を与えたことが書かれている。
マルコはなぜ、そのような記事をとばしているのだろうか。
[DQ] イエスは、弟子たちと共にエルサレムに何度も来ていたのだろうか。それとも、これが初めてだろうか。
ルカには幼い頃に、両親と、エルサレムに来た記事がある。(2:22, 41)しかし、共観福音書には、書かれていないので、このときが最初であるような印象を受ける。一般的には、エルサレムから 30km 程度の範囲内の住人(成人男性)は、過越祭にエルサレムに上ることが義務と考えられており、熱心なひとは、遠くにいても、祭りのとき、特に、過越祭には、エルサレムに上っていた。このことが、ルカ2:41 でも表現されている。「イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。」
ヨハネは、「(イエスの)愛する」弟子が著者とされているが、エルサレムでの活動が中心に書かれている。自分が、その場にいた、目撃者であれば、目撃したこと以外については、確実なことしか、書かないだろう。むろん、実際に起こったときから、かなりの年月がたってからだと、混乱もあるかもしれないが。
イエスは弟子の二人にどんな指示をしていますか。(2,3)
2 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。
[DQ] 「むこうの村」とは、どこでしょうか。
[A] おそらく、ベテパゲ。マタイでは、ベテパゲだけがあげられている。
[Q] ではなぜ、ベタニヤが入っているのか。
[DQ] イエスはどんな指示をしていますか。
- 配慮もあるように見える。「またすぐ、ここへ返してくださいます」(確認は次の問でもよい)
[DQ] ろばは、どんなろばですか。なぜ、そのようなろばを選ばれたのでしょう。
[A] まだだれも乗ったことのないろばの子(2)
聖なる目的のためには、未使用のものを。
民数記 19章 02節 「主の命じられた律法の定めは次のとおりである。すなわち『イスラエルの人々に告げて、完全で、傷がなく、まだくびきを負ったことのない赤い雌牛を、あなたのもとに引いてこさせ、
申命記 21章 03節 そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは、まだ使わない、まだくびきを負わせて引いたことのない若い雌牛をとり、
マタイでは、ろばところばとなっている。(マタイ21:2,5,7)
マタイ21:4,5 4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、/「シオンの娘に告げよ、/見よ、あなたの王がおいでになる、/柔和なおかたで、ろばに乗って、/くびきを負うろばの子に乗って」。
ヨハネ12:15,16 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が/ろばの子に乗っておいでになる」/と書いてあるとおりであった。16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
ゼカリヤ9:8-14 参照
そして、どうなりますか。(3-6)
3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。4 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。5 すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。6 弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。
[DQ] イエスとこの村の人との関係はどのようなものだったのでしょうか。
- [A] ベテパゲは、ここにしか登場しないので、不明だが、ベタニヤに近いことからも、このあたりには、イエスは何回も来ていたと思われる。ヨハネによるとこの直前にも、ベタニヤに滞在していた。
[DQ] イエスと村の人の間には事前に打ち合わせがあったのでしょうか。
- [A] その証拠はないが、ベタニヤに近いということは、ラザロの事件も知っていたろうから、事前の打ち合わせがなくても、これらのことばで通じたかもしれない。同時に、ある信頼関係のあるひとがいたことも十分考えられる。そして、これらのことばで、その意味も通じた可能性が高い。
[DQ] 「イエスが言われた通り」とは、どんなことを指していますか。
- [A] 「主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいます」
ルカでは『主がお入り用なのです』の部分が強調されている。(ルカ 19:31,34)
イエスは、どうしますか。そのようすは、どのように描かれていますか。(7-10)
7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、/「ホサナ、/主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
[DQ] どのような人々がイエスの入城に立ち会いますか。
弟子たち、多くの人々、他の人々、前に行く者、あとに従う者
この人たちは、どのような人たちでしょうか。
- 弟子とそのお付き? ガリラヤから来た人々? エルサレムの人々?
[DQ] イエスはどのようにしてエルサレムに入城しますか。
- [Q] エルサレム凱旋のようなイメージがあるが、本当に、そのように、マルコは描いたいるのだろうか。ろばの子というのは、興味深い。
これは、どのようなことを伝えているのでしょうか。他の福音書から人々の反応もみてみましょう。
マルコでは「ホサナ、/主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。だが、他の福音書では、意味が付け加えられている。
[DQ] エルサレムの人たちに対して、群衆はどのようにイエスを紹介しますか。
「ホサナ、/主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
「今きたる、われらの父ダビデの国に」は、旧約聖書に対応箇所がない。ダビデの子とすることを、避けていることは確かなように思われる。
[参照] 詩篇118:25,26 主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。26 主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。
他の福音書からの考察
[DQ] マタイは、「王」についてイエスについて、どのような事を伝えていますか。
21:4,5 4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5 すなわち、/「シオンの娘に告げよ、/見よ、あなたの王がおいでになる、/柔和なおかたで、ろばに乗って、/くびきを負うろばの子に乗って」。
- ゼカリヤ9:9 シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、/「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
[DQ] 人々は、どのようにして、イエスを迎えますか。それぞれの福音書を比較してみましょう。
- 弟子たち、群衆、エルサレムの人々、パリサイ派の人々
[DQ] イエスは、なぜ、ろばの子に乗って、エルサレムに入城したのでしょうか。
- ゼカリヤ9:9-10 との関係はどのように理解したらよいのだろうか。
[参照] 旧約聖書のゼカリヤ書9章9節を読んでみましょう。イエスはご自身をどういう人物として、人々に紹介しようとしていますか。
- [Q] なぜ、マルコには書かれていないのか。ヨハネをみると、弟子たちはわからなかったということだろう。すなわち、イエスは、ゼカリヤ9:9 を知っていても、それを強調はしない。預言に制約される方ではない。
戦いのときには、馬で、平和のときには、ろばで。
[ルカ] イエスはなぜ、都を見て泣くのでしょう。(41節〜42節)
[ヨハネ] 弟子たちが、あとから気づいたのはどのようなことでしょうか。
この日はいつだったのでしょうか。棕櫚の聖日。
この日の、イエスの様子は、どのように描かれていますか。(11)
11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
[DQ] それぞれの福音書は何を伝えているのでしょうか。
- ヨハネはこの背景を丁寧に伝えているように見える。マルコの時代には、それは危険が伴い、マタイや、ルカは、マルコをそのまま引き継いだか。ヨハネの時代には、このことが明かされても安全だったのかもしれない。
4.64.8 メモ
ベテパゲ、ベタニヤは、正確にはわからないが、イエスは何度も、この地域を訪ねていることは確かである。
マルコは非常にあっさり描いている。そのようにしか、描けなかったのかもしれないが、同時に、大きな騒ぎはなかったのかもしれない。ただ、ヨハネの記述とのギャップは感じる。
マタイでは、流れは、マルコと同じく、エリコでの(マタイでは二人の)盲人の癒やしのあとに置かれ、場所は、ベテパゲと断言している。これは、ベタニヤではないことを証言し、ベタニヤとあるのは、別の理由で入っていることを知っているものが執筆に関わっていたのだろう。またろばについては、二回にわたり、ろばと子ろばとの表現になっている。そして、イエスがどちらに乗られたか明確ではない。ゼカリヤ預言が挿入され、そこでもろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗ってとなっている。群衆の声には「ダビデの子」が挿入されている。マルコにはそれはない。最後は、「イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。」と締めくくっている。群衆の、認識としては、預言者である。
ルカには、エリコでのザアカイの話が挿入されており、そのあとで、ムナの譬えがあり、一ムナを布に包んでしまっておいたものへのかなり厳しい裁きを宣告し、つづけて、「イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。」と続けている。先頭に立ちは、マルコ10:32 「さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」を思い起こさせる。場所に関しては、「オリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき」とし、多少不自然な、マルコを踏襲しているように見える。「主がお入り用なのです」が二回繰り返され(マルコ、マタイでは一回)、それに応じたことが印象的に、伝えられている。「いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると」の記述はあるが、エルサレム入城については、書かれていない。呼びかけには「王」と入っている。逆に、パリサイ人とのやり取り(拒否といってもよいだろう)が挿入されている。そして、この記事のあとには、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた」に続けて、エルサレムの破壊について語り、「それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。と結んでいる。エルサレム入城の記事とは、違う表現になっている。
33λυόντων δὲ αὐτῶν τὸν πῶλον εἶπαν οἱ κύριοι αὐτοῦ πρὸς αὐτούς· τί λύετε τὸν πῶλον; 34οἱ δὲ εἶπαν· ὅτι ὁ κύριος αὐτοῦ χρείαν ἔχει. [NA28:LK19]
- [私訳] 彼らが、その子ろばを解いていると、その子ろばの主人たちは(οἱ κύριοι αὐτοῦ)彼らに、なぜ、子ろばを解くのかと言うと、彼らは、その主人が(ὁ κύριος αὐτοῦ)、必要としているのですと言った。
ヨハネでは、11章、12章前半にラザロのことが書かれており、エルサレム入城(過越の祭りの5日前)のときにも、人々がそのことを知っていて、イエスを、迎えたことが書かれている。しかし、マルコでは、ベタニヤという言葉を出すだけで、そのことには言及しない。ロバを引いてきたのはおそらくマタイにもあるように、ベテパゲなのだろう。すると、マルコにある、ベタニヤは意味深である。ボウカムの「イエスとその目撃者たち」から学んだことだが、マルコが書かれた時代、または、ペテロが説教した時代には、そのことを語る危険性がまだ会ったのかもしれない。実際、ラザロをも殺そうとする動きがあったことも書かれているのだから。
- ヨハネ12:9-11 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
マルコを読んでいると、イエスは、ゼカリヤ預言を自分のことに当てはめてはいなかったように思う。たしかに、ある部分、イエスに適合する部分はあるが、ラザロの復活以降は特に、エルサレムでは、すでに、お尋ね者になっている、イエスは、正々堂々とエルサレムに向かうことだけを考えて、人混みに紛れてではなく、ろばに乗って、エルサレムに向かったのではないだろうか。ヨハネで、ゼカリヤ預言については、弟子たちは、気づいていなかったことが書かれている。イエスは、そのことを言わなかった証拠でもある。すくなくとも、凱旋のようなイメージで捉えるのは、間違っていると思う。すぐ返すことや、最後のエルサレムを見て回ったことなども、マルコにしか書かれておらず、興味深い。そのあとに、ひとが、様々に、意味づけしたことが、他の福音書に含まれているのだろう。生のイエスではなくなっているようにみえる。
4.65 11:12-14 いちじくの木を呪う
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
4.65.1 マタイ 21:18-19
18 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。19 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
4.65.2 メモ
- マルコ11:20-26 と一緒に学ぶ
4.66 11:15-19 神殿から商人を追い出す
15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。19 夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。
4.66.1 マタイ 21:12-17
12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。17 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
4.66.2 ルカ 19:45-48
45 それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。
4.66.3 ヨハネ 2:13-22
13 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、15 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。18 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
4.66.4 問い
背景を復習しましょう。前日について、この日についてどんなことがわかりますか。(11:1-14)
イエスは、どこで、どんなことをしますか。(15,16)
イエスは、どのように言っていますか。(17)
イエスの行動は弟子たちに、人々にどううつったでしょうか。祭司長や律法学者たちはどう考えましたか。(18)
イエスは、このあとどうしますか。(19)
他の福音書、特に、ヨハネによる福音書の記事と比較してみましょう。どんなことがわかりますか。
4.66.5 参照
ベタニヤ(ナツメヤシの家)について(ヨハネ1:28 にある、ヨルダン川付近のベタニヤは省略)エリコから、エルサレムへ向かう途上の、エルサレムから3km ほどの村。
マルコ14:3-9 3 イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。(マタイ26:6-13)
- ヨハネ 12章1-11節 1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
ルカ10:38-42 (マルタとマリアについて)一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。(ベタニヤとは明確には書かれていない)
ルカ24:50-53 昇天 50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。
ヨハネ11章全体 1 さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。
エルサレムについては、エルサレム入城 [参考]
- 宣教活動を始めたからは、ヨハネのみに記載:2:13-25、3:1-21、5:1-47 ユダヤが中心で、サマリヤについても、記述がある。
受難週のエルサレムの地図 [The Passion Week in Jerusalem]
ヘロデ神殿 [Herod’s Temple]
- BC20/19 ごろ、BC520-515 ごろの、ゼルバベルの神殿の改築を開始、AD63に完成、AD70にテトスにより破壊。
The Temple at Jerusalem in Jesus’ Day, Clyde W. Votaw [pdf]
イザヤ56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、/わが祈の家のうちで楽しませる、/彼らの燔祭と犠牲とは、/わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。
エレミヤ7:11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。
ヨハネにはこのあと、イエスは人の心を知っておられる、の記事が入っている。(ヨハネ2:23-25)
- 23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
宮・神殿
コリント前書3:16-17 あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
申命記14:24-26 しかし、あなたの神、主があなたを祝福しても、あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所が遠く離れ、その道のりが長すぎて、それを携えて行くことができないなら、25 あなたはそれを銀に換え、その銀を携え、あなたの神、主が選ぶ場所に向かい、26 その銀であなたの望むもの、すなわち、牛でも羊でもぶどう酒でも麦の酒でも、何でもあなたの好きなものを求め、あなたの神、主の前で食べ、あなたも家族も楽しみなさい。
4.66.6 記録
日時:2024年9月19日午後7時半〜9時半
出席(対面)2名、参加(遠隔)3名
4.66.7 問いについて
背景を復習しましょう。前日について、この日についてどんなことがわかりますか。(11:1-14)
子ろばに乗りエルサレム入城。その後、「11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。」
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
[DQ] ベタニヤについてどのようなことが聖書には書かれていますか。
マルコ14:3-9(香油)(マタイ26:6-13、ヨハネ 12:1-11)、ルカ10:38-42(マルタとマリア)、ルカ24:50-53(昇天)、ヨハネ11章(ラザロの復活)、
[考察] ベタニアの滞在先などについては、語らない。イエスと弟子の一団は、おそらく、弟子と女性たちもふくめると、20人は降らず、もっと多かったかもしれないので、十分、打ち合わせもあったはずである。すくなくとも、マルタ、マリア、ラザロの家などがあったと思われるが、おそらく、ペテロが語った時点では、このようなエピソードを語ることは、ベタニヤのひとたちに危険があった可能性もあったのだろう。それもあって、ベタニヤについては、語らないのかもしれない。
[DQ] 「すべてのものを見回った」とありますが、どんなことを観察したと思いますか。
- [A] おそらく、宮のことも観察したはずである。
[DQ] すべてのものを見まわったとき、イエスは、神殿(宮)について、どう見ておられたのでしょうか。そのときは、憤りをもっても、なにもしないことにして、十分考えてから以下の行動をしたのだろうか。
イエスは、どこで、どんなことをしますか。(15,16)
15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
[A] ①宮の庭で売り買いしていた人々を追い出し ②両替人の台や、はとを売る者の腰掛けをくつがえし ③器ものをもって宮の庭を通り抜けるのを許さない。
律法通り、シケル税を納めるには、外国貨幣の使われていた当時には必須だった。(出エジプト30:12-16 30:13 すべて数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。一シケルは二十ゲラであって、おのおの半シケルを主にささげ物としなければならない。参照:レビ記5:15, 27:3, 25、民数記 3:47,50,7:13,19,25,31,37,43,49,55,61,67,73,79,85,86,18:16)
物の売買 申命記14:25,26 あなたはその物を金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行き、26 その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。
鳩を売る者たち:レビ記5:7 もし小羊に手のとどかない時は、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを、彼が犯した罪のために償いとして主に携えてきて、一羽を罪祭に、一羽を燔祭にしなければならない。
- レビ記12:8 もしその女が小羊に手の届かないときは、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、一つを燔祭、一つを罪祭とし、祭司はその女のために、あがないをしなければならない。こうして女は清まるであろう』」。
[DQ] それぞれ、どのようなことをしている人なのでしょうか。
[A] 宮の庭で商売をしていたひとの邪魔をした。
- おそらく、ささげ物を売っている人々や、神殿に納めるお金のための換金であろう。
[Q] 売り買いをしているのと、はとを売るのは、違うのでしょうか。
[DQ] このイエスの行為は、(公的に認められている商売を邪魔をする)犯罪ではないのでしょうか。
- メシアの権威?
[DQ] かなり、乱暴に見えますが、もっと、他の方法はなかったのでしょうか。The Lesser Evil?
イエスは、どのように言っていますか。(17)
17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
イザヤ56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、/わが祈の家のうちで楽しませる、/彼らの燔祭と犠牲とは、/わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。
主が喜ぶひとのことが書かれ、そのあとに、その人達を導き、その結果として、主の家が、祈りの家と唱えられるとしている。
[注] すべての民、すべての国民は、一般的には異邦人を含む。マタイでは省略。また、商売は、異邦人の庭で開かれていたとされる。
エレミヤ7:11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。
- 主が喜ばれることをしていないことを指摘しており、商売などについて、言っているわけではない。
[DQ] イエスが伝えたかったことは、何なのでしょうか。イエスにとって神の宮(神殿)とは、どのようなものなのでしょうか。
[A] 神が臨在される場所、聖霊が住む場所(?)
[A] 神殿にふさわしい状況ではなかったかもしれないが、そこまで、怒ることもなかったのではないだろうか。ただ、不適切な状況があることを、指摘した面はあるように見える。乱暴だが。他の改善があってよいのではないかと思われるし、イエスの伝えたいメッセージの中心では、ないように見える。
神の宮(神殿)について:宗教行事を行う場所ではなく、より普遍的な神殿を意識していたのかもしれない。
1コリ3:16,17 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
1コリ6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
2コリ6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
(より抽象的)エペソ2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
イエスの行動は弟子たちに、人々にどううつったでしょうか。祭司長や律法学者たちはどう考えましたか。(18)
18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。
[DQ] イエスのどんな教えに群衆は感動し、イエスを恐れていたのでしょうか。
[A] ここには、神殿のことしか、書かれていない。ガリラヤから来た人々は、すでに、いろいろと聞いてかもしれないが、エルサレムの人々、ここではじめてイエスにであったひとたちは、どんな教えを聞いたのだろうか。
[Q] イエスを恐れる(φοβέω: 恐怖を感じる、心配をする、畏れかしこむ)とは、どんな状態を言っているのでしょうか。
[DQ] 弟子たちは、いつものイエス様として、当然と思ったでしょうか。ガリラヤでは、似たことはありましたか。かたくなさを嘆いたことはあった。
[DQ] 祭司長や、律法学者が、イエスを殺そうとまで思ったのは、何が理由なのでしょうか。
- [A] 宗教活動の本質を、変えようとしたことかもしれない。宮きよめは、関係はしているが、それがコアだとは、思えない。
[考察] イエスを殺そうと計る理由は、いくつかあっただろうが、ほんとうに、この宮清めが、祭司長や、律法学者の怒りをかったとは思えない。むろん、イエスの行為は、問題だと感じただろうが。
イエスは、このあとどうしますか。(19)
19 夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。
[DQ] なにか、あっさり書かれていますが、この日は、宮清めだけだったのでしょうか。
[DQ] いつものようにとは、なにを意味しているのでしょうか。都では、このようなことがしばしばあったのでしょうか。エルサレムには、何回も来ていますか。
- [A] マルコでは、このときが、初めてであるが、ヨハネでは、何回も、エルサレムに来ていることが書かれている。なにかを飛ばしているように思われる。
[考察] エルサレムに来ていたことを、書かない理由が何かしらあったのだろう。そして、「いつものように都の外に出て行った」としか書けなかった理由があったのだろう。
[DQ] マタイと、ルカでは、どのようなことが最後に書かれていますか。
マタイ 21:14-16 14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
ルカ 19:47,48 47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。
[A] マタイと、ルカでは、祭司長、律法学者たちが、イエスを殺そうとする、または、反対する、それなりに、理解できる理由が、書かれている。(マルコを読んだひとには、理解できなかったから、書いたのだろう。)
マタイ:不思議なわざ、こどもたちが、ダビデの子に、ホサナと叫んでいる。
ルカ:毎日宮で教えておられた。民衆は、それに、熱心に耳を傾けていた。
他の福音書、特に、ヨハネによる福音書の記事と比較してみましょう。どんなことがわかりますか。
[DQ] ヨハネ2:17:「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」とはどのような意味ですか。
[DQ] ヨハネ2:18-22:ユダヤ人、イエスでどのようなやり取りをしますか。弟子たちは、どう理解しますか。
[DQ] ヨハネでは、いつ頃のこととして書かれていますか。
かなり初期のことだとされている。過越の祭りが近いことは同じ。(2:13)
この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。(2:20b)
- BC19から、ヘロデが再建を始めたと言われている。AD28 頃と思われる。
[注] マタイとルカには、日付(翌日)の記述はない。「それから」としており、エルサレム入場時のこととしている。そのほうが、自然にも見える。しかし、マルコの記述が不自然とした、編集とも考えられる。
[DQ] ヨハネでは、イエスが、どのようなことをし、その行為の理由は何だと言っていますか。
2:14-16 14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、15 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。
[A] 自分の父の家だと考えている。
2:17-22 17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。18 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
[A] 「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。とまで言っている。ちょっと早すぎるように思う。
[参照] マルコ14:58 「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。マルコ15:29 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、(マタイ26:61, 27:64)(これが実際いつの時点でどのように言われたかはマルコには書かれていない。訴えられた理由でもあるので、明言は避けたのか。)
[参照] 詩篇69:9 (または 10) あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、/あなたをそしる者のそしりが/わたしに及んだからです。
[参照] 46年(BC20/19年開始)このとき、AD28年頃となる。イエスの十字架は AD30の過越祭頃と思われる。
[DQ] 同じ時のことなのでしょうか。それとも、こんなことが、何度もあったのでしょうか。
4.66.8 メモ
個人的には、宮清めは、ヨハネの記述のように、受難週とよばれる最後の週ではなく、早い時期に、あったほうが自然であるように、感じる。マルコの記述をみると、エルサレム入城を堂々とおこない、宮を見て回られてから、そのままベタニヤに帰り、次の朝、早くに、エルサレムに戻ったように書いてあるが、この日にしたこととしては、宮清めだけである。不自然にも感じる。それと、メッセージをこめて、これだけの行為をするなら、前の日に見て回ったときに、しても良さそうである。そのときには、なにもせず、次の日の朝、このような行為をするのは、不自然である。ここでは、祭司長、律法学者との緊張関係(イエスを殺そうとする)と、群衆の様子を描くために、この記事を、入れたように見える。ヨハネは「さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。」(2:13)と始まり、このときに、何人かの弟子たちも同行したかもしれない。「アンデレと、もう一人の弟子」(1:10)は、一緒にいたのではないだろうか。目撃証言として書かれている。マルコでは、エルサレムや、ベタニヤの人たちを、守る必要があったからだろうか、エルサレム入城を書いたヨハネに登場するラザロのことは、なにも書かれていない。しかし、何らかの背景をかかないと、緊張状態を描けなかったのではないだろうか。それが、この記事であると思われる。ただし、ヨハネでは、エルサレム入城を日曜日に設定しているようだが、そのあとは、ギリシャ人、イエスに会いに来る。人の子はあげられる。イエスを信じない者たち。イエスの言葉による裁きと、12章にあるが、すぐ木曜日の夜と思われる、13章に突入し、ほとんど、時系列的な、出来事は記していない。拙速には、判断しにくいのかもしれない。
イエスの行為として、最初の頃なら、激昂してということも、理解できる。ヨハネが、記す「17 弟子たちは、『あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう』と書いてあることを思い出した。」も、ある程度の興奮状態を表現しているとも見える。一方、最後のエルサレム入城のときは、イエスは、隠れて入るつもりは、まったくないことを示すためもあり、ふさわしいと考えた、子ろばに乗って入ったのであろうが、イエスの行為は「いつものように」と、ふつうなのだろう。神殿を壊したらも、このころに言うのは、預言としては、早いように思うが、イエスの中では、神殿についての思い、自分という神殿、さまざまなものが、ここで結びついたのかもしれない。マルコでは、イザヤからの引用を中心として描いている。それは、正統にみえるので。マルコの不自然な記述を考え、それに、マタイや、ルカが、注をつけていることを考えると、当時も、不自然と考えたのだろう。それは、致し方ないことだったのだろう。ベタニヤや、エルサレム周辺のひとたちを危険にさらさないために。
4.67 11:12-14, 20-26 いちじくの木を呪う/枯れたいちじくの木の教訓
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。
4.67.1 マタイ 21:18-19, 20-22
18 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。19 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
20 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。21 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。22 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
4.67.2 問い
背景を確認しましょう。どのようなときのことですか。(12)
イエスは、どのようなことをしますか。(13-14)
このいちじくは、どうなりますか。(20,21)
いちじくのことから、イエスは弟子たちにどのようなことを教えていますか。(22-24)
祈りとゆるしにはどのような関係があるのでしょか。(25,(26))
あなたは、このいちじくの話から何を学びますか。
4.67.3 参照
[バークレイ] 過越の季節は4月の半ばごろ、日陰の場所にあるいちじくの木は、3月早々には葉をつけるだろうが、しかし、5月の終わりか、6月にならないと実をつけないものである。マルコは、いちじくの季節ではなかったと言っている。
旧約/新約聖書におけるいちじく
創世記3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
民数記13:23 ついに彼らはエシコルの谷に行って、そこで一ふさのぶどうの枝を切り取り、これを棒をもって、ふたりでかつぎ、また、ざくろといちじくをも取った。
民数記20:3 どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。
士師記9:10,11 もろもろの木はまたいちじくの木に言った、『きてわたしたちの王になってください』。しかしいちじくの木は彼らに言った、『わたしはどうしてわたしの甘味と、わたしの良い果実とを捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう』。
サムエル記上25:18 その時、アビガイルは急いでパン二百、ぶどう酒の皮袋二つ、調理した羊五頭、いり麦五セア、ほしぶどう百ふさ、ほしいちじくのかたまり二百を取って、ろばにのせ、
サムエル記上30:12 また彼らはほしいちじくのかたまり一つと、ほしぶどう二ふさを彼に与えた。彼は食べて元気を回復した。彼は三日三夜、パンを食べず、水を飲んでいなかったからである。
列王紀上4:25 ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで、安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。
列王紀下18:31 あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなたがたはわたしと和解して、わたしに降服せよ。そうすればあなたがたはおのおの自分のぶどうの実を食べ、おのおの自分のいちじくの実を食べ、おのおの自分の井戸の水を飲むことができるであろう。
列王紀下20:7 そしてイザヤは言った、「干しいちじくのひとかたまりを持ってきて、それを腫物につけさせなさい。そうすれば直るでしょう」。(ヒゼキヤへのことば)
歴代志上12:40 また彼らに近い人々はイッサカル、ゼブルン、ナフタリなどの遠い所の者まで、ろば、らくだ、騾馬、牛などに食物を負わせて来た。すなわち麦粉の食物、干いちじく、干ぶどう、ぶどう酒、油、牛、羊などを多く携えて来た。これはイスラエルに喜びがあったからである。
ネヘミヤ記13:15 そのころわたしはユダのうちで安息日に酒ぶねを踏む者、麦束を持ってきて、ろばに負わす者、またぶどう酒、ぶどう、いちじくおよびさまざまの荷を安息日にエルサレムに運び入れる者を見たので、わたしは彼らが食物を売っていたその日に彼らを戒めた。
詩篇 78:47 神はひょうをもって彼らのぶどうの木を枯らし、/霜をもって彼らのいちじく桑の木を枯らされた。(出エジプト時のしるし)
詩篇105:33 主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木とを撃ち、/彼らの国のもろもろの木を折り砕かれた。(出エジプト時のしるし)
箴言27:18 いちじくの木を守る者はその実を食べる、/主人を尊ぶ者は誉を得る。
雅歌2:13 いちじくの木はその実を結び、/ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、/立って、出てきなさい。
イザヤ書28:4 肥えた谷のかしらにある/しぼみゆく花の美しい飾りは、/夏前に熟した初なりのいちじくのようだ。人がこれを見ると、取るやいなや、食べてしまう。
イザヤ書34:4 天の万象は衰え、/もろもろの天は巻物のように巻かれ、/その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、/いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。(国々への裁き)
イザヤ書36:16 あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなたがたは、わたしと和ぼくして、わたしに降服せよ。そうすれば、あなたがたはめいめい自分のぶどうの実を食べ、めいめい自分のいちじくの実を食べ、めいめい自分の井戸の水を飲むことができる。
イザヤ書38:21 イザヤは言った、「干いちじくのひとかたまりを持ってこさせ、それを腫物につけなさい。そうすれば直るでしょう」。
エレミヤ書5:17 彼らはあなたが刈り入れた物と、/あなたの糧食とを食い尽し、/あなたのむすこ娘を食い尽し、/あなたの羊と牛を食い尽し、/あなたのぶどうの木といちじくの木を食い尽し、/またつるぎをもって、あなたが頼みとする/堅固な町々を滅ぼす」。
エレミヤ書8:13 主は言われる、わたしが集めようと思うとき、/ぶどうの木にぶどうはなく、/いちじくの木に、いちじくはなく、/葉さえ、しぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、/彼らを離れて、うせ去った」。
エレミヤ書24:1-8 バビロンの王ネブカデレザルがユダの王エホヤキムの子エコニヤおよびユダの君たちと工匠と鍛冶をエルサレムからバビロンに移して後、主はわたしにこの幻をお示しになった。見よ、主の宮の前に置かれているいちじくを盛った二つのかごがあった。2 その一つのかごには、はじめて熟したような非常に良いいちじくがあり、ほかのかごには非常に悪くて食べられないほどの悪いいちじくが入れてあった。3 主はわたしに、「エレミヤよ、何を見るか」と言われた。わたしは、「いちじくです。その良いいちじくは非常によく、悪いほうのいちじくは非常に悪くて、食べられません」と答えた。4 主の言葉がまたわたしに臨んだ、5 「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。6 わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。7 わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。8 主はこう仰せられる、わたしはユダの王ゼデキヤとそのつかさたち、およびエルサレムの人の残ってこの地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、この悪くて食べられない悪いいちじくのようにしよう。
エレミヤ書29:17 『万軍の主はこう言われる、見よ、わたしは、つるぎと、ききんと、疫病を彼らに送り、彼らを悪くて食べられない腐ったいちじくのようにしてしまう。
ホセア書2:12 わたしはまた彼女が先に『これはわたしの恋人らが、/わたしに与えた報酬だ』と言った彼女の/ぶどうの木と、いちじくの木とを荒し、/これを林とし、/野の獣にこれを食わせる。
ホセア書9:10 わたしはイスラエルを荒野のぶどうのように見、/あなたがたの先祖たちを、/いちじくの木の初めに結んだ初なりのように見た。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、/身をバアルにゆだね、/彼らが愛した物と同じように憎むべき者となった。
ヨエル書1:12 ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、/ざくろ、やし、りんご、野のすべての木はしぼんだ。それゆえ楽しみは人の子らからかれうせた。
ヨエル書2:22 野のもろもろの獣よ、恐るな。荒野の牧草はもえいで、木はその実を結び、/いちじくの木とぶどうの木とは豊かに実る。
アモス書4:9 「わたしは立ち枯れと腐り穂とをもって/あなたがたを撃ち、/あなたがたの園と、ぶどう畑とを荒した。いちじくの木とオリブの木とは、いなごが食った。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と/主は言われる。
アモス書7:14 アモスはアマジヤに答えた、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。
ミカ書4:4 彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、/そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない。これは万軍の主がその口で語られたことである。
ミカ書7:1 わざわいなるかな、わたしは夏のくだものを集める時のように、/ぶどうの収穫の残りを集める時のようになった。食らうべきぶどうはなく、/わが心の好む初なりのいちじくもない。
ナホム3:12 あなたのとりでは皆/初なりの実をもつ、いちじくの木のようだ。これをゆすぶればその実は落ちて、/食べようとする者の口にはいる。
ハバクク書3:17 いちじくの木は花咲かず、/ぶどうの木は実らず、/オリブの木の産はむなしくなり、/田畑は食物を生ぜず、/おりには羊が絶え、/牛舎には牛がいなくなる。
ハガイ書2:19 種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。
ゼカリヤ書3:10 万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」。
マタイによる福音書7:16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。(ルカ6:44木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。)
ルカによる福音書19:4 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
ヨハネによる福音書1:48-50 ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。49 ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。50 イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。
ヤコブの手紙3:12 わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。
ヨハネの黙示録6:13 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
いちじくに関する他の記述(マルコ13:28-32、マタイ24:32-35、ルカ21:29-33)28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。29 そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
ルカ13:6-9 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
- ルカのみのもの、またルカには、枯れたいちじくの話は含まれていない。
イエスのが十字架に架かった日
[Gemini-1.5-Pro] AD30年説:この年は、福音書に記されている出来事と、当時の歴史的な出来事 (例:ピラトのユダヤ総督在任期間、カヤパの大祭司在任期間) との整合性が比較的高い。特に、ルカによる福音書3章1節では、ヨハネがバプテスマを始めたのが「ティベリウス皇帝の治世の15年」と記されており、これはAD28年または29年に当たると考えられています。イエスはヨハネからバプテスマを受けた後、宣教を開始したとされているため、十字架刑がAD30年頃であった可能性が出てきます。AD30年の過越の祭りは、ユダヤ暦ニサンの月15日にあたり、グレゴリオ暦では4月7日(金曜日)にあたります。
[GPT-4o] ルカの福音書によれば、ヨハネの洗礼活動はティベリウス帝の治世15年目に始まったとされています(ルカ3:1-3)。ティベリウス帝はAD 14に即位したため、15年目はAD 28-29に該当します。イエスの公生涯がこの頃に始まったと考えられます。イエスの公生涯が約3年だったとすると、AD 28-29に始まり、AD 30に十字架に架けられたと計算されます。AD 30の過越の祭りが金曜日に当たるため、イエスが金曜日に十字架に架けられたという伝統的な考えと一致します。
春分のあとの満月の日:紀元28年: 4月17日、紀元29年: 4月6日、紀元30年: 4月6日、紀元31年: 4月25日、紀元32年: 4月17日紀元33年: 4月6日(個人的には、紀元30年: 4月6日が一番可能性が高いと考えてている。)
とうごまや、いちじくが、虫などに食われて、急に枯れることはあるのでしょうか。
[Gemini-1.5-Pro] はい、トウゴマもイチジクも、虫害によって急に枯れることがあります。
トウゴマの場合:
主な害虫: ワタノメイガ、ハスモンヨトウ、フタテンチビヨコバイなど
被害状況: これらの害虫は、葉や茎を食害したり、吸汁したりすることで、植物を弱らせます。大量発生すると、短期間で枯死することもあります。
イチジクの場合:
主な害虫: カミキリムシ類(ゴマダラカミキリ、キボシカミキリなど)、クワカミキリ、イチジクヒトリモドキなど
被害状況: カミキリムシ類の幼虫は、幹や枝に侵入して内部を食害するため、樹勢が著しく衰え、枯死に至ることもあります。イチジクヒトリモドキは、葉を大量に食害し、樹勢を弱らせます。
「神を信じなさい」「心に疑わないで信じる」
22καὶ ἀποκριθεὶς ὁ Ἰησοῦς λέγει αὐτοῖς· ἔχετε πίστιν θεοῦ. 23ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι ὃς ἂν εἴπῃ τῷ ὄρει τούτῳ· ἄρθητι καὶ βλήθητι εἰς τὴν θάλασσαν, καὶ μὴ διακριθῇ ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ ἀλλὰ πιστεύῃ ὅτι ὃ λαλεῖ γίνεται, ἔσται αὐτῷ.
神を信じるとは、信じるとは、一体どういうことだろう。
「ゆるし」ἀφίημι: i. to send away, ii. to permit, allow, not to hinder, to give up a thing to a person, iii. to leave, go way from one = 「いいよ」「いいことにしてあげなさい」ぐらいな感じ。
24διὰ τοῦτο λέγω ὑμῖν, πάντα ὅσα προσεύχεσθε καὶ αἰτεῖσθε, πιστεύετε ὅτι ἐλάβετε, καὶ ἔσται ὑμῖν. 25Καὶ ὅταν στήκετε προσευχόμενοι, ἀφίετε εἴ τι ἔχετε κατά τινος, ἵνα καὶ ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς ἀφῇ ὑμῖν τὰ παραπτώματα ὑμῶν.
ἀφίημι: The KJV translates Strong’s G863 in the following manner: leave (52x), forgive (47x), suffer (14x), let (8x), forsake (6x), let alone (6x), miscellaneous (13x)
- Mark 1:18, 20, 31, 34, 2:5, 7, 9, 10, 11, 3:28, 4:12, 36, 6:19, 37, 7:8, 12, 27, 8:13, 10:14, 29, 11:6, 16, 25, 12:12, 19, 20, 22, 13:2, 34, 14:6, 50, 15:36, 37
παραπτώματα: i. to fall beside or near something, ii. a lapse or deviation from truth and uprightness = 「ちょっとそれてしまう」あやまちまで強くない。
4.67.4 記録
日時:2024年9月26日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.67.5 問いについて
背景を確認しましょう。どのようなときのことですか。(12)
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
[DQ] 朝食は摂らなかったのでしょうか。弟子たちは空腹を覚えなかったのでしょうか。
[A] 翌日とは、エルサレム入城の次の日である。入城のあと、「11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。」とあり、この節につながっている。ベタニヤは、エルサレムから3km 程度とされているので、当時としては、それほど、遠い距離ではなかったろう。1節に登場する、ベテファゲは、いちじくの家または、未熟ないちじくの家を意味するので、このあたりには、いちじくの木が何本も生えていたのだろう。
[A] マタイでは、宮きよめを先に記し、そのあとで、「21:18 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。」と始めている。朝早くなのだろう。朝食はとらなかったと思われる。ただ、イエスだけが、空腹を覚えたとの記述は、少し奇異に感じられる。弟子たちは、空腹を覚えなかったのだろうか。
[Q] 朝だと思われるが、この日は、昼食はどうするつもりだったのでしょうか。ほしいちじくや、ほしぶどうなど、何ももっていなかったのでしょうか。弟子たちはどうするつもりだったのでしょうか。
[A] いろいろと不自然。おそらく、空腹は、それほど重要ではない。よくは、わからないが。
このあとに、挟まる形で、宮きよめの記事がある。時系列が、このままであるとすると、この日は、イエスは、かなり癇癪持ち、ご機嫌ななめであったように見える。十分な理解をしたかどうかは別として、このエピソードが語られた時、イエスがご機嫌ななめとして、この記事を挿入し、宮きよめの記事を入れ、あとから、弟子たちを教えられた記事を入れたのかもしれない。不自然に感じされる記事ではあるが、意図的にそうしたのかもしれない。
[参考] 空腹について(πεινάω:i. to hunger, be hungry a. to suffer want, b. to be needy, ii. metaph. to crave ardently, to seek with eager desire)
マルコ8:3 もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。(マタイ15:32)
マタイ4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。(ルカ4:2)
マタイ5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、/彼らは飽き足りるようになるであろう。
マタイ12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。(マルコ2:23-28 においても空腹が想定されている)
マタイ25:35,37,42,44 わたしが空腹のとき
ルカ1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、/富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。(聖書協会共同訳では何も持たせずに追い払い)
イエスは、どのようなことをしますか。(13-14)
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
[DQ] いちじくとはどのような木ですか。
[A] 日本国語大辞典(精選版)いちじく【無花果・映日果】〘名〙
①クワ科の落葉小高木。小アジア原産で江戸初期に渡来し、各地で栽植される。高さ二~五メートル。樹皮は褐色。多く分枝し、幹、枝は湾曲する。葉は掌状に三~五裂し、裏面に細毛をもつ。春から夏に倒卵形で肉厚の花嚢をつける。花嚢は中に無数の白い小さな花をもち、暗紫色か白緑色に熟し、食用となる。乾した茎、葉、実は駆虫、緩下剤、下痢止めになり、液汁は疣いぼ、うおのめなどに効くという。とうがき。ほろろいし。《季・秋》
②植物「いぬびわ(犬枇杷)」の異名。〔大和本草(1709)〕
過越の季節は4月の半ばごろ、日陰の場所にあるいちじくの木は、3月早々には葉をつけるが、5月の終わりか、6月にならないと実をつけない。イエスが十字架に架けられる年として、有力とされるAD30年説を用いると、過越の日は、4月7日(金)、もし、この記事が月曜日であるなら、4月3日(月)となり、おそらく、いちじくで実をならしているものは非常に少ないと思われる。
6月ごろ初生りのいちじく、8,9月に秋いちじく、年に二三回収穫された。
[DQ] 実がないのは、いちじくの季節ではなかったからと書いてありますが、イエスは、それを知らなかったのでしょうか。
[Q] マタイには、この記述がありません(省略してあります)が、それは、なぜだと思いますか。
[参照] マルコ13:28-32、28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。(マタイ24:32-35、ルカ21:29-33)
ここには、実がなる時期については書かれていないし、このいちじくを呪ったときに弟子たちに教えてもらったという可能性を否定はできないが、ここでは「あなたがたがそう言っている」という言い方はせず、一般的に、このような記述があるということは、イエスは、十分知識を持っていたのだろう。いちじくは、パレスチナでは一般的な植物だから。
[DQ] イエスは実のないいちじくの木に対してどのように言われますか。
[A] 「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」
- マタイは「そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。」
かなり厳しい言葉である。イエスは、どのような気持ちで、このようなことを言ったのだろうか。宮きよめの前に、このようなことを記載した可能性もあるが、ほかにもあるのだろう。あとで、祈りのことを語っていることからして、もう少し、他の意味もあると思われる。何らかの実がならないことへの失望であろうか。自分が十分、使命を果たせなかったとの意識が入っているか。
悪魔の試みのときも含め、自分のためには、奇跡的な方法を使われないイエスの呪い、魔術的なとも言える力によって、いちじくが枯れてしまったように見える。(マルコでは翌日、マタイではたちまち枯れている。)
[DQ] 役に立たないものは滅ぼされるということでしょうか。
そのようにも取れる。これに関しては、ルカ13:6-9 参照。
空腹のときに食べさせるというのは、素晴らしいこと。(マタイ25)
このいちじくは、どうなりますか。(20,21)
20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
[DQ] ペテロはなぜこのように言ったのでしょうか。
- [A] 驚いたから?イエスの行動の意味をいつも知りたいから?
朝早くとあるが、翌日とは書かれていない。ペテロは、まず、思い出してと言い、イエスはいちじくを呪ったと認識している。根本から枯れているというのは、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」の、完全な実現。
[DQ] 具体的には、何が起こったのでしょうか。
[A] 一般的には、「葉の茂ったいちじくの木」が、急に枯れるというのは、現実的ではない。しかし、この会話から、それが奇跡だとは、言っていないようである。
虫害は可能性あり:
主な害虫:カミキリムシ類(ゴマダラカミキリ、キボシカミキリなど)、クワカミキリ、イチジクヒトリモドキなど
カミキリムシ類の幼虫は、幹や枝に侵入して内部を食害するため、樹勢が著しく衰え、枯死に至ることもあります。イチジクヒトリモドキは、葉を大量に食害し、樹勢を弱らせます。
詩篇 78:47 神はひょうをもって彼らのぶどうの木を枯らし、/霜をもって彼らのいちじく桑の木を枯らされた。
詩篇105:33 主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木とを撃ち、/彼らの国のもろもろの木を折り砕かれた。
アモス書4:9 「わたしは立ち枯れと腐り穂とをもって/あなたがたを撃ち、/あなたがたの園と、ぶどう畑とを荒した。いちじくの木とオリブの木とは、いなごが食った。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と/主は言われる。
いちじくのことから、イエスは弟子たちにどのようなことを教えていますか。(22-24)
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
[A]「心に疑わないで神を信じる」ことを、まずは、説いている。そして、「祈り求めることは、すでにかなえられたと信じる」ことでもある。しかし、このことは、神をどのような方と捉えるかによっては、課題も生じる。
弟子たちを教える、通常モードに戻っている。特殊なことから、重要なこと、そして、一番伝えたいことへと深くなっていくのは、イエスの教えかたの特徴のようにも見える。
[DQ] 山に『立ち上がって、海に飛び込め』といえば本当に、そのとおりになるのでしょうか。
[A] 祈りの力というより、神の力を示しているのだろう。だから、「神を信じなさい」と言っている。
「山」は困難の象徴か、また、オリーブ山からは、死海を望むことができたと言われている。’
[DQ] すでに得られたと信じればよいのでしょうか。
- [A] 信じることなしには、かなえられないのだろう。しかし、何を信じるかがたいせつ。神様がそのことをお望みなら、実現するのだろう。
- おそらく、そう単純ではない。神を信じるとは、神様に信頼することであり、それは、神様がどのような方かをよく知っていることとも関係していると思われる。イエスにとっては、日々の交わりから、明らかなのだろうが、一般的にはそうではない。
祈りとゆるしにはどのような関係があるのでしょか。(25,(26))
25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。
[DQ] なぜ、ゆるしのことが出てくるのでしょうか。
[A] わたし(イエス)のようなことをしてはいけないよと言っているのだろうか。
[A] 最初の、いちじくのことにもどり、勝手な解釈をしてはいけないことを戒めているのだろう。また、神を信じることとは、神様との関係を確認すること、神様に赦していただいている存在であることの認識だろうか。
「ゆるし」とひらがなで書かれているが、非常に一般的な、アフィエーミ「いいことにしてあげなさい」ぐらいの意味と捉えたほうがよいのかもしれない。「あやまち」パラプトーマも「ちょっとそれてしまう」という軽い意味にもとれる。ずれが本質と理解することもできないことはないが。日常的な課題を問うているようにも見える。
[参照] 立って祈る
ネヘミヤ記9:4 その時エシュア、バニ、カデミエル、シバニヤ、ブンニ、セレビヤ、バニ、ケナニらはレビびとの台の上に立ち、大声をあげて、その神、主に呼ばわった。
エレミヤ書18:20 悪をもって善に報いるべきでしょうか。しかもなお彼らはわたしの命を取ろうとして/穴を掘りました。わたしがあなたの前に立って、/彼らのことを良く言い、/あなたの憤りを止めようとしたのを/覚えてください。
マタイ6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
ルカ18:11-14 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
[参照] マタイ6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、/わたしたちの負債をもおゆるしください。
あなたは、このいちじくの話から何を学びますか。
「宮きよめ」の挿入に問題があったのかもしれない。それが、ペテロなのかどうかは、不明だが。すくなくとも、間違った理解をしないように、最後に、神様との関係に戻っている。
実りのない、イスラエルに対する神のさばきとする解釈もある。そのようなイメージがイエスにもあったかもしれない。
このいちじくを枯らす記事は、不自然に感じる。宮きよめと連動し、ユダヤや、エルサレム付近の人々を守るために、そこでの出来事を書かないために、起こっている不自然さをぬぐうためであるかもしれない。いずれにしても、最後には、祈りと、神への信頼と、ゆるしというイエスの本来的な教えにつなげている。
4.67.6 メモ
- ルカ13:6-9 は、いちじくの話に関し、実がならないと、すぐイエスに呪われて、根こそぎ、枯れてしまう、すなわち、滅びてしまうのかという問いにこたえるための、物語であるように思われる。ルカが見つけてきたのか。イエスの性質から、このようなことも言われたとしているのか、祈りの教えから、こちらに導かれたのか。悔い改めなければ滅びるというメッセージのあとに置かれており、それは、自然だとも言える。
- 個人的には、この地域の信仰者を守るため、ユダヤやエルサレムでの活動を書かなかったしわ寄せが背景にあったので、宮きよめの直前に連動させてここに置かれているのではないかと思うが、実際に、このようなこともあったのかもしれない。すなわち、イエスが空腹のゆえに、不機嫌になり、それがゆえに、乱暴なこともしてしまう。イエスは、「食をむさぼる者、大酒を飲む者(マタイ11:18,19、ルカ7:33,34)」だとも言われており、あまり、聖人君主にしないほうが良いのかもしれない。それを、弟子たちは眺めている。同時に、そうであっても、不機嫌ではおわらずに、かならず、大切なことを教えてくださるのが、イエスだったのだろう。最後の部分は、罪の赦しのように大げさに考えず、身近なことと結びつけたほうが良いかもしれない。神様との信頼関係こそが大切なのだろう。
- 祈りについて、または、願いの実現について、簡単には、語れない。ここでは、最初に、「神を信じなさい」とはじめ、「よく聞いておくがよい。」という重要なことを語るときの、慣用句ではじめ、まずは、神に信頼することから、「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」と続ける。おそらく、眼の前に、オリーブ山があり、死海が見えているかどうかは別として、その光景も想像できる場所だったのだろう。つづけて「24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」というが、危険も伴う。神様への信頼、そして、神様が何を望まれるかが理解できていなければ、利己的に、祈りを使ってしまう可能性もあるからである。ここで、「25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。」と日常に引き戻すように、ゆるしについて語っている。ここでは、恨み事とあるので、それはなにかと考えてしまうが、「だれかに対して何らかのわだかまり (anything you have against someone)」ぐらいの意味で、それを、許容(προσεύχομαι)しなさいとしているように見える。つづけて「あなたがたのあやまち(παράπτωμα)」とあるものも、英語では、trespasses とも訳されている。それが、神様のご性質なのだろう。常に、小さな過誤も、ゆるしてくださっているということなのだろう。
4.68 11:27-33 権威についての問答
27 彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、28 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。29 そこで、イエスは彼らに言われた、「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。31 すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。32 しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。33 それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
4.68.1 マタイ 21:23-27
23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。24 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。25 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。26 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。27 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。
4.68.2 ルカ 20:1-8
1 ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、2 イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。3 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。4 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。5 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。6 しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。7 それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。8 イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
4.68.3 問い
背景を復習しましょう。これまで、エルサレムの宮ではどのようなことがありましたか。(15-19)
祭司長、律法学者、長老たちは、なぜこのような質問をするのでしょうか。(27,28)
イエスはどのように答えますか。(29,30)
祭司長、律法学者、長老たちは、どのようなことを考えますか。(31-33)
祭司長、律法学者、長老たちは、なぜバプテスマのヨハネを受け入れなかったのでしょうか。
イエスがこの人たちに問うていることは何なのでしょうか。
4.68.4 参照
受難週のエルサレムの地図 [The Passion Week in Jerusalem]
ヘロデ神殿 [Herod’s Temple]
The Temple at Jerusalem in Jesus’ Day, Clyde W. Votaw [pdf]
2つの回廊、ソロモンの回廊(東)と王の回廊(南)コリント式の約12メートルの高さの円柱で、王の回廊のものは、直径二メートル、162本の柱(バークレイ)
[参考] ストア学派(ゼノン BC343-262)は、ストア・ポイキレ(Ποικίλη στοά (Stoa Poikile) Painted Portico 柱廊)を歩きながら教えた。
[正統なラビ] 最低三人のラビの前で、恩師のラビによって按手される必要がある。(新聖書注解:マタイ:増田誉雄)
議員・役人たちは、イエスをどう見ていたか。
[参考] 15:43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。
[参考] ヨハネ7:25,26 さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。26 見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。
[参考] ヨハネ7:45-51 さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。46 下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。47 パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。48 役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。49 律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。50 彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、51 「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。52 彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。
[参考] ヨハネ12:42,43 しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
- [参考] ヨハネ18:15-18 シモン・ペテロともうひとりの弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。16 しかし、ペテロは外で戸口に立っていた。すると大祭司の知り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の女に話し、ペテロを内に入れてやった。17 すると、この門番の女がペテロに言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」。ペテロは「いや、そうではない」と答えた。18 僕や下役どもは、寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。ペテロもまた彼らに交じり、立ってあたっていた。
4.68.5 記録
日時:2024年10月3日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)1名
4.68.6 問いについて
背景を復習しましょう。これまで、エルサレムの宮ではどのようなことがありましたか。(15-19)
マルコ:エルサレム入城後は、中を見て回り、宮きよめのみ。
(入城)「ホサナ、/主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
(宮きよめ)11:15-17 15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。17そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」
追い出し始めの、「はじめ」が気になる。完璧に、なくしたのではないのかもしれない。
いちじくの挿入記事でも「いのり」について教えている。さらに赦しについての述べられている。主の御心を聞くことこそが、たいせつだと言っているのかもしれない。
27 彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、
- 教えていたことに対して問われているのかもしれない。正式な教師ではない。ガリラヤでは巡回教師。預言者であれば、おそらく、問題はないだろうが、それは、サンヘドリンとはぶつかるであろう。
マタイ21(直前には、エルサレム入城、いちじくの木を呪う):「ダビデの子にホサナ」との言葉をもってエルサレム入城、直後に、宮きよめ。以下が追加されている。
- 14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
ルカ19(直前には、エルサレム入城、都の陥落・崩壊、宮きよめ、その直後が権威についての問答):
38 「主の御名によってきたる王に、/祝福あれ。天には平和、/いと高きところには栄光あれ」。39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。との声とともに、エルサレム入城
47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。
ヨハネ12(参考:エルサレム入城、ギリシャ人、イエスに会いに来る、人の子は上げられる、イエスを信じない者たち、イエスの言葉による裁き、弟子の足を洗うにつながる。月曜日から木曜日までほとんど記されていない。)
祭司長、律法学者、長老たちは、なぜこのような質問をするのでしょうか。(27,28)
27 彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、28 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
[DQ] 「祭司長、律法学者、長老たち」とはどのような人たちですか。
οἱ ἀρχιερεῖς (ἀρχιερεύς: chief priest, high priest) καὶ οἱ γραμματεῖς (γραμματεύς: a clerk, scribe, esp.a public servant, secretary, recorder, whose office and influence differed in different states, in the Bible, a man learned in the Mosaic law and in the sacred writings, an interpreter, teacher.) καὶ οἱ πρεσβύτεροι (πρεσβύτερος: i. elder, of age, ii. a term of rank or office, among the Jews, members of the great council or Sanhedrin (because in early times the rulers of the people, judges, etc., were selected from elderly men))
いずれも複数で書かれている。祭司長は退任しても、祭司長と言われていたようだが、それでも、異常に感じる。集合的に、最高議会をあらわし、そこから、派遣された人たちだろうか。
書記、ラビ、長老たち、サンヘドリン(最高議会)からの代理人?
[DQ] イエスが何をしているときに、この人たちは質問をしますか。
[A] 「イエスが宮の内を歩いておられると」とあるが、これは、おそらく、教えておられた時なのだろう。(マタイ21:23a, ルカ20:1)スコラ(柱廊)
マタイ21:23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、
ルカ20:1 1 ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、
歩きながら教えるのが通常。
[DQ] 「これらの事」とは何を指しているのでしょうか。
[A] 宮きよめをさすと考えるのが自然。しかし、この時、どのような状況であったかは書かれておらず不明。
- 15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
マルコでは、宮きよめ以外何もしてない。弟子たちを引き連れて歩き回っているのは目立ったかもしれないが。
[DQ] どのような答えが想定されているのでしょうか。
- [A] 神殿は祈りをする場所で売り買いはよくない。① 自分の判断(人から)⇒だれがその権威を授けたか ②神は現状を望んでおられない(神(天)から)⇒神の神殿での騒ぎを神は喜ばれるのか。
イエスはどのように答えますか。(29,30)
29 そこで、イエスは彼らに言われた、「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
[A] ヨハネのバプテスマは天からか、人からか?
[DQ] バプテスマのヨハネについて知っていることを上げてみましょう。活動、教え、その後。マルコから。
マルコ1:1-8 洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を述べ伝える。(マタイ3:1-12, ルカ3:1-9, 15-17, ヨハネ1:19-28)
1:4 罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
1:7 わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。
1:6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。(これは何を意味しているのでしょう)もともとは、祭司の家系?(ルカ1)
マルコ1:9-11 イエス、洗礼を受ける(マタイ3:13-17, ルカ3:21-22)
マルコ1:14,15 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マタイ4:12-17, ルカ4:14-15)
マルコ2:18-22 断食についての問答(マタイ9:14-17, ルカ5:33-39)
- 2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
マルコ6:14-29 洗礼者ヨハネ、殺される。(マタイ14:1-12, ルカ9:7-9)
- 6:14-16 さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。
マルコ8:28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。(マタイ16:14, ルカ9:19)
マルコ11:30-32 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。31 すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。32 しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。(マタイ21:25,26, ルカ20:4-6)
[DQ] なぜ、イエスは、問いに答えないのでしょう。
[A] マタイ7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(これが理由だろうか)
[A] 良心に問いかけている?
[DQ] 答えても良かったのではないでしょうか。
- [参考] 使徒4:7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
[DQ] 「ヨハネのバプテスマ」について、聞いていますが、「バプテスマのヨハネ」とは、どう違うのでしょうか。
- [A] 人についてではなく、もう少し本質的なことに目を向けるためか。
祭司長、律法学者、長老たちは、どのようなことを考えますか。(31-33)
31 すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。32 しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。33 それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
[A] 天から:なぜ彼(が自分を指し示していること)を信じなかったのか。人から:群衆は、天から、神から遣わされた預言者だと信じていた。
[DQ] このひとたちは、結局どうしますか。
[A] 「わたしたちにはわかりません」
[Rep] イエス:「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」
[DQ] 問いの本質は何だったのでしょうか。
- [A] 真理(神の御心をもとめて)に向き合うかどうか。表面的なことではなく、本質を問うている。
[DQ] この人たちは、何を知りたかったのでしょうか。
[A] 言葉尻を捉えるだけで、なにかを知りたいわけではなかったのだろうか。
[A] 求める気持ちよりも、排除の根拠が欲しかったのだろう。真理を探求することはしない。
[DQ] 議員たちは、イエスについてどう見ていたのだろうか。一致した見解を持っていたのだろうか。
[参考] 15:43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。
[参考] ヨハネ7:1 そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。
[参考] ヨハネ7:25-27, 32, 40-52
[参考] ヨハネ12:42,43 しかし、役人(ἄρχων: a ruler, commander, chief, leader)たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
祭司長、律法学者、長老たちは、なぜバプテスマのヨハネを受け入れなかったのでしょうか。
[A] 大きな問題がないと考えていたときに、悔い改めを説いていたからか。
[A] 本質的な問い、神からのメッセージとして悔い改めるかどうか。その問いに向き合えない。
自分たちは、神の御心、真理を知っている。少なくとも、群衆とは比較にならない知識をもっている。
真理を探求するのではなく、自分たちがもっている知識で判断しようとする。
自分たちの優越によって、築いてきたものを手放せない。したがって、悔い改めには至れない。
イエスがこの人たちに問うていることは何なのでしょうか。
[A] 神の御心(真理)を求めて、それに従う生き方。祈り。
[A] 自分の弱さを知り、悔い改めて生きる生き方。
[A] 悔い改めて、神の国(神の支配)の中に身を委ねる生き方。
わたしたちにも問うている。単なるレトリックとして、この問いを受け取ってはいけない。
[DQ] ヨハネのパプてスマは、人からであったか、天からであったか。
- [A] ヨハネの問いとまずは、向き合うこと。それは、我々にとって何を意味しているのだろうか。
[DQ] イエスはこの問いについてはどう考えていたのでしょうか。
- [A] 結局のところ、一人ひとりの信仰告白、真理との向き合い方が問われている。
4.68.7 メモ
エルサレム入城から、マルコによる福音著の筆致が変化しているように見える。今回の箇所などは、3つの福音書が非常に似通っている。議論にしっかり向き合っている。いままでの、行動中心、Jesus in Action の記述とは異なるように見える。軽々に判断はできないが、マルコのもとにすでに、共通の伝承があったのかもしれない。
何の権威によってこれらのことをするのか。とは、何を聞いているのだろう。答えることが難しい問いに、問いで返すという技術として捉えてはいけないのだろう。文脈からすると、宮きよめ、神殿での礼拝の改革のように見える。本当にそうなのだろうか。もう少し、本質的な問いをしているのかもしれない。なぜ、教えるのか。なぜ、いやしなどの行為をおこなうのか。
この前の、宮きよめも、いちじくも、祈りについて教えている。この権威についての箇所も、結局、謙虚に、神様のみこころを求めることを教えているのか。祭司長、律法学者、長老たちには、まさに、御心に聴く部分が欠けていたと言っているのだろうか。おそらく、わたしたちも同じだろう。すくなくとも、イエスにとっては、神様との交わりのなかで、神様の御心をもとめる日常がたいせつだったのではと思う。
「互いに論じて言った」とあるが、そう簡単に、答えが出なかったのだろうか。正直な思いと、立場上のことなど、さまざまに入り混じっていたのだろうか。
4.69 12:1-12 「ぶどう園の農夫」のたとえ
1 そこでイエスは譬で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。2 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。10 あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。11 これは主がなされたことで、/わたしたちの目には不思議に見える』」。12 彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
4.69.1 マタイ 21:33-46
33 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。38 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。39 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。41 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、/『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、/わたしたちの目には不思議に見える』。43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。45 祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、46 イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
4.69.2 ルカ 20:9-19
9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。10 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。11 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。12 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。13 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。14 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、15 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、/『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった』/と書いてあるのは、どういうことか。18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。19 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。
4.69.3 問い
エルサレムではこれまでにどのようなことがありましたか。
1節から8節のたとえの要点をまとめてみましょう。(1-8)
ある人(ぶどう園の主人)、ぶどう園、農夫たち、僕たち、ぶどう園の主人(彼)の息子はそれぞれだれを表していますか。(1-8)
イエスはこのたとえのなかで、どんな預言をしていますか。(9)
旧約聖書からの引用は何をあらわしていますか。(10,11)
イエスは、このたとえで、何を伝えているのでしょうか。(12)
4.69.4 参照
- マタイは、この前に、「二人息子」のたとえ(21:28-32)
- あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
- ぶどう園:
- イザヤ5:1-7 わたしはわが愛する者のために、/そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、/一つのぶどう畑をもっていた。2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、/それに良いぶどうを植え、/その中に物見やぐらを建て、/またその中に酒ぶねを掘り、/良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。3 それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、/どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。4 わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、/何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、/どうして野ぶどうを結んだのか。5 それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、/あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、/食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、/踏み荒されるにまかせる。6 わたしはこれを荒して、/刈り込むことも、耕すこともせず、/おどろと、いばらとを生えさせ、/また雲に命じて、その上に雨を降らさない。7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、/主が喜んでそこに植えられた物は、/ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、/見よ、流血。正義を望まれたのに、/見よ、叫び。
- レビ19:23-25 あなたがたが、かの地にはいって、もろもろのくだものの木を植えるときは、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは三年の間あなたがたには、割礼のないものであって、食べてはならない。24 四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それをさんびの供え物として主にささげなければならない。25 しかし五年目には、あなたがたはその実を食べることができるであろう。こうするならば、それはあなたがたのために、多くの実を結ぶであろう。わたしはあなたがたの神、主である。
- たとえの要点(バークレイ)
- 譬えの背景
- 神の寛大さ、準備が整えられている
- 神の信頼:農夫たちを信頼している
- 神の忍耐:幾度も送る
- 究極的な正義の勝利
- 譬えにおけるイエス
- イエスは子
- イエスは死ぬ、殺される
- 究極的な神への信頼
- 譬えにおける人間
- 神への背き、甘え
- 他のものに与えられる
- 譬えの背景
- 詩篇118:22-23 家造りらの捨てた石は/隅のかしら石となった。23 これは主のなされた事で/われらの目には驚くべき事である。
- 使徒4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
- ペテロ前書2:3-9 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
- ローマ9:32-33 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。
- エペソ2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
- イザヤ8:14,15 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。 15 多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。
- ローマ11:22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
4.69.5 記録
日時:2024年10月10日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)3名
4.69.6 問いについて
エルサレムではこれまでにどのようなことがありましたか。
[A] エルサレム入城、宮きよめ - 神殿から商人を追い出す(11:18 18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。)、権威についての問答、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。(11:28)「ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか」(30)
[DQ] このたとえは誰に向けて語られましたか。(1a)
- [Q] 「そこでイエスは譬で彼らに語り出された」の「彼ら」とは。
[DQ] どのような人たちとのやりとりの後にこのたとえが語られますか。これは、前の権威についての問答からつながっているのでしょうか。
[A] 祭司長、律法学者、長老たち。おそらくつながっている。
- 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。(11:28)「ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか」(11:30)
マタイでは「二人の息子」のたとえ(21:28-32)が挟まり、「32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」と結んでいる。そうであっても、マタイでは、このたとえの中の「どうするだろうか」に「彼ら」が答えている。マルコとルカは、この挿入はない。ただ、ルカでは「そんなことがあってはなりません。」(20:16)の句が挿入されている。
いずれの場合も、前段の「権威についての問答」からつながっており、そこでは、イエスは、答えておられないが、ここでは、ヨハネのバプテスマは、天からか、人からかにも、ここで暗にではあるが、答えている。
1節から8節のたとえの要点をまとめてみましょう。(1-8)
[DQ] 登場人物を上げてみましょう。
[A] ある人(ぶどう園の主人)、ぶどう園、農夫たち、僕たち、ぶどう園の主人(彼)の息子
[DQ] それぞれどのようなことをしたとされていますか。主人、農夫たち。しもべたちの役割は何ですか。
[Q] ぶどう園の主人は、ぶどう園にたいして、どのようにしていますか。
ある人(ぶどう園の主人):ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して(ἐκδίδωμι: give out, let out something)、旅に出かけた(ἀποδημέω: to go away into foreign parts, go abroad)。2 季節になった(καιρός: i due measure, ii. a measure of time, a larger or smaller portion of time)ので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。(中略)6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。
[参考] イザヤ5:1-7 わたしはわが愛する者のために、/そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、/一つのぶどう畑をもっていた。2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、/それに良いぶどうを植え、/その中に物見やぐらを建て、/またその中に酒ぶねを掘り、/良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。
農夫たち:3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。(中略)7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
[Q] 農夫たちは、なぜこれほどひどいことをするのでしょうか。
3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。
4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。
5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。
そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
[A] 主人について理解できていない。主人が農夫たちのことをよくわかっていない。お人好し。
僕たち:ぶどう園の収穫の分け前を取り立て
[Q] 僕の役割は何ですか。
[A] 収穫を得る。
ぶどう園の主人(彼)の息子
[DQ] なぜ、息子は敬ってくれると考えたのでしょうか。
[A] 主には熱心だったのかもしれない。だから、欲はかいても、主には適切に対応してくれると思ったのだろうか。
ある人(ぶどう園の主人)、ぶどう園、農夫たち、僕たち、ぶどう園の主人(彼)の息子はそれぞれだれを表していますか。(1-8)
ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。2 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。3 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。4 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。5 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。7 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、8 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
ある人(ぶどう園の主人):神
ぶどう園:イスラエルの人々、神が愛するものたち
農夫たち:イスラエルの支配者たち、指導することを神に委ねられているものたち
僕たち:預言者たち、神の御心、直接の指示、指導に関する修正点を伝える人
しもべ:モーセ(ヨシュア1:1,2,7,13,15 主のしもべモーセ)、ヨシュア(ヨシュア24:29 これらの事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ、)、ダビデ(サムエル記下3:18 わたしのしもべダビデ)、
アモス3:7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
エレミヤ7:25あなたがたの先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはわたしのしもべである預言者たちを日々彼らにつかわした。
ゼカリヤ1:6 しかしわたしのしもべである預言者たちに命じたわが言葉と、わが定めとは、あなたがたの先祖たちに及んだではないか。それで彼らは立ち返って言った、『万軍の主がわれわれの道にしたがい、おこないに従って、われわれに、なそうと思い定められたように、そのとおりされたのだ』と」。
[DQ] 民の指導者や、人々は、多くの預言者を殺したのでしょうか。
[A] 聞き従わなかったことは、書かれている。
バプテスマのヨハネは、どうでしょうか。やはり、民の指導者に殺されたのでしょうか。
ぶどう園の主人(彼)の息子:イエス
[DQ] 主人が、ぶどう園にしたことは、何に対応しているのでしょうか。
イザヤ5:1-7 わたしはわが愛する者のために、/そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、/一つのぶどう畑をもっていた。2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、/それに良いぶどうを植え、/その中に物見やぐらを建て、/またその中に酒ぶねを掘り、/良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。3 それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、/どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。4 わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、/何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、/どうして野ぶどうを結んだのか。5 それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、/あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、/食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、/踏み荒されるにまかせる。6 わたしはこれを荒して、/刈り込むことも、耕すこともせず、/おどろと、いばらとを生えさせ、/また雲に命じて、その上に雨を降らさない。7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、/主が喜んでそこに植えられた物は、/ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、/見よ、流血。正義を望まれたのに、/見よ、叫び。
[比較] ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
彼はそれを掘りおこし、石を除き、[ぶどう園を造り、垣をめぐらし]/それに良いぶどうを植え、/その中に物見やぐらを建て、[やぐらを立て]/またその中に酒ぶねを掘り、[酒ぶねの穴を掘り]/良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。
イザヤでは、よいぶどうを植えたのに、野ぶどうを結んだとなっている。ここでは、収穫を主人に与えないことが言われている。
[DQ] 主人は、なぜ、農夫に、管理を委ねるのでしょうか。直接、人々に伝えないのでしょうか。
[A] 時代的、特質があるかもしれないが、一般的には、難しいのかもしれない。どの時代にも、指導者は必要。
[DQ] もし、祭司長、律法学者、長老たちが、農夫に、人々がぶどう園に、譬えられているとすると、どんな事をしたと言っているのでしょうか。
[A] 預言者(主の御心を伝えるもの)のことばに向き合わなかった。御心、主が喜ばれることをうけとって、人々にそのことを伝える役割を果たすのではなく、自分たちの優位性を主張したということだろうか。
[DQ] なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。
[A] ヨハネ12:43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
イエスはこのたとえのなかで、どんな預言をしていますか。(9)
9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
[DQ] マタイとルカも見てみましょう。どのように描かれていますか。
マタイ21:40,41 40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。41 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。
- 彼らが答えている。
ルカ20:15b,16 そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
- イエスが答えているが、人々の言葉が追加されている。
この答えの部分は、なかったのではないだろうか。
[DQ] 「農夫を殺し」とあるが、それは、何を意味しているのだろうか。
[A] 基本的には不明だが、すくなくとも、ぶどう園の管理(貸すこと)はしなくなることは確かだろう。
[DQ] 他の人々はどのような人を指すのでしょうか。
[A] マルコには「他の人々」とあるだけで、書かれていない。
マタイ: 41b 季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たち。43b 御国にふさわしい実を結ぶような異邦人
ルカでも、「他の人々」とあるだけだが、同時に、「そんなことがあってはなりません」との人々のコメントが追加されている。
旧約聖書からの引用は何をあらわしていますか。(10,11)
10 あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。11 これは主がなされたことで、/わたしたちの目には不思議に見える』」。
[DQ] 家造りはなにに譬えられていますか。隅の頭石はなにに譬えられていますか。
[A] 家造り:祭司長、律法学者、長老たちなど、民の指導者。しかし、同時に、背後に神様がおられる。隅の頭石:イエス。しかし、具体的にどうされるかは書かれていない。背後におられる家造りの神様が最後に置かれる大切な Corner Stone、Cap Stone となる。
[Q] マタイや、ルカの引用は何を言っているのでしょうか。
[A] 石につまづき、打たれて、滅ぼされるということか。
マタイ21:44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。ルカ20:18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
イザヤ8:14 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。
ローマ9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。
ペテロ前2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
ダニエル2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。45 一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。大いなる神がこの後に起るべきことを、王に知らされたのです。その夢はまことであって、この解き明かしは確かです」。
イエスは、このたとえで、何を伝えているのでしょうか。(12)
12 彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
[A] 直接的には、祭司長、律法学者、長老たちにむけて語られている。
[DQ] 祭司長、律法学者、長老たちには、何を伝えているのでしょうか。
神から委ねられたもの(神様の御心を行うこと)にたいして、忠実ではなく、背いている。
神の、様々な配慮のもとで、委ねられているにもかかわらず、そのことを忘れてしまっている。
[DQ] 「権威についての問答」(11:27-33)と関連しているとすると、イエスは、祭司長、律法学者、長老たちの問い、そしてイエスが発した問いに、どのように語っているのでしょうか。
28 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
[A] イエスは、神の子で、祭司長、律法学者、長老たちによって殺されることになる。しかし、神は、イエスを、隅のかしら石とされる。さらに、民の指導者たちを滅ぼし、すなわち、神の仕事を担う責任から解き、人々を他の指導者のもとに置くことなる。
[DQ] では、祭司長、律法学者、長老たちは、どうすればよかったのでしょうか。
[A] 神の配慮に感謝し、委ねられているものに忠実に、御心を行うこと。このもとで、民を愛し、導き、民がみ心を行うことによって、神様に喜んでいただくこと。
4.69.7 メモ
マタイは、権威についての問答と、「ぶどう園と農夫」のたとえの間に「二人の息子」のたとえを挟んでいる。民の指導者たちは、ヨハネの(悔い改めの)バプテスマ(バプテスマのヨハネではない)を信じなかったが、群衆はヨハネが預言者だとほうとうに思っていた(マルコ11:32、マタイ21: 26、ルカ20:6(ルカでは信じていた))。その心のうちをのぞきみた応答として、二人の息子のたとえを入れており、その最後には、イエスの言葉として「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:31b,32)と、あからさまに、語ってから、ぶどう園のたとえを「もう一つの譬を聞きなさい。」と始めている。たしかに、そのほうが、わかりやすい。実際には、どの時点でこれらのたとえが語られたかは不明だが。なお、ルカは、マルコと同様、権威についての問答の直後に、「ぶどう園と農夫」のたとえが置かれている。
イエスは、なにを気づかせようとしたのだろうか。委ねられたものに忠実ではなかった? 十分な配慮のもで委ねられたことに気付けなかった。神様との関係の中で、生かされていることを気づかない。自分たちへの愛を受け止められない。
4.70 12:13-17 皇帝への税金
13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。
4.70.1 マタイ 22:15-22
15 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。16 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
4.70.2 ルカ 20:20-26
20 そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。21 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。22 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。23 イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、24 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。25 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。26 そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答に驚嘆して、黙ってしまった。
4.70.3 問い
神殿でのイエスが語り合ったことについて復習しましょう。(11:27-12:12)
ここでは、どのような人たちが、どのような動機から、どのような質問をしますか。(13-14)
「税を納めるべきだ」または「税を納めないべきだ」と答えた場合どのようなことが予想されますか。
イエスはどのように対応し、どのように答えますか。(15-17a)
この人たちは、なぜ驚嘆したのでしょうか。(17b)
イエスは、どのようなことを教えているのだと思いますか。
4.70.4 参照
- マタイはこの前に「婚礼の祝宴」のたとえ(マタイ22:1-14、参照ルカ14:15-24)
- パリサイ派
- 荒井献「イエスとその時代」(p.33-34):「パリサイ派」は「分離者」を意味するヘブライ語「ベルーシーム」に由来すると言われる。彼らは実際、律法を守らない者、いわゆる「地の民(アム・ハ・アレツ)」の不浄から自己を「分離する」ことによって、宗教的清浄の理念を世俗内に貫徹し、その場を彼らの同志的結合「ハーベール」の中に形成していった。その際、彼らがとった手段は「律法」の敷衍解釈であった。その目的は元来、古き律法からその「理念」(ラティオ)を取り出し、それを解釈することに依って新しい時代に生かそうとする、律法のいわゆる「合理化」(ラティオナリジールング)にあったのである(M.ヴェーバー)。彼らが、 サドカイ派と違って、天使論や復活信仰を積極的に受け入れたのも、モーセ五書に固有な「神の使い」(天使)の概念や一元的人間観を、ペルシアから導入された新思想や、マカベア戦争(対シリア解放戦争(BC168-164))による殉教者の排出という新事態に即応せしめて解釈した結果なのである。このような法理念の現実的解釈に依拠する彼らの合理主義は、他国支配勢力に寄りかかった法の精神を曖昧にするサドカイ派、また、法を遵守しない「地の民」から自らを分離しただけではなく、マカベア戦争時代にともに「敬虔派」(ハシーディーム)としてシリアに対する抵抗運動を担ったかつての彼らの同志、いわゆる黙示文学的ラディカリストたちからも袂を分かっていた。このラディカリストたちはー後述するように彼らの中にも種々の分派が存在するがー終末の時に救世主(マスーアハ(メシア)=キリスト(ギリシャ語)、本来は油注がれた者、つまり「王」の意)によって導入される神の国の故に、現実における一切の政治的・宗教的妥協を拒否し、その結果として霊的熱狂に基づく予言活動を行っていた。これに対してパリサイ派は、預言者の時代は既に終わったという認識に立ち、法理念のこの世における貫徹の中に神の国の建設を期待したのである。その結果、律法とその解釈に基づく細則を守らない者は救われないという、いわゆる律法主義に陥る傾向は十分にあったが、この傾向が前景に出てくるのは紀元後70年以後に、この派がユダヤ教正統派の位置についた以後のことであって、イエスの時代にこの傾向を読み取ることについては、慎重でなければならない。なお、主としてパリサイ派出身の律法学者たちは、「教師(ラビ)」と呼ばれて、ガリラヤを含む地方の各地に設立された「会堂(シュナゴーゲー)」で礼拝を司どり、民衆に律法の教育を与えた。最高法院においては、長老たちが保守勢力を代表したのに対して、彼らは都市(主としてエルサレム)の小市民階級を背景に革新勢力を代表した。彼ら自身多くの場合その日常生活においては、皮鞣(なめし)工・天幕作り、大工などの手工に携わっていたのである。
- [パリサイ人] マルコでは 2:18, 24, 3:6, 7:3, 5, 8:11, 15, 10:2, 12:13
- 2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
- 2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。
- 3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
- 7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
- 7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
- 7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
- 8:11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。
- 8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
- 10:2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。
- 12:13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
- 歴史的背景(バークレー)
- BC4 ローマの属国としてパレスチナ全域を治めていたヘロデ大王の死
- ガリラヤとペレア:ヘロデ・アンティパス
- 荒野の地方、東北のテラコニテスとイツリアとアビレネ:ヘロデ・ピリポ
- ユダヤとサマリア:アケラオ
- 失政のためローマが介入、行政長官を置いて直轄
- 課税のため人口調査
- ガウロナイトのユダス「課税は奴隷制度導入より悪い」として反乱
- 賦課された税
- 地租:すべての穀物の十分の一、産出されたぶどう酒や果実の五分の一(一部は現物、また一部は金銭)
- 所得税:人の収入の1%
- 人頭税:十四才から六十五歳までのすべての男子と、十二歳から六十五歳までのすべての女子に一人一デナリ
- 皇帝ティベリウス(第二代 14-37)アウグスト・ティベリウス・カエサル
- 貨幣の表には、名前、裏には、ポンティフェクス・マクシムス(最高の神祇官)
- 貨幣
- 権力の象徴
- 貨幣が通用するところでは主権がよく維持されていた
- 皇帝名が刻まれており、皇帝のもの
- 国家のもとでの個人
- 国家は神によって制定され、法によって統治される
- 国家が人に与えるすべての恩恵を受け入れておきながら、すべての責任を拒否することはできない。
- もし、国家が正当な領域の中にとどまり、正当な要求をするなら、個人はそれに対して誠実と奉仕を尽くさなければならない。しかし、要するに国家と人は共に神に属する。ゆえに、国家と神の要求が重なるなら、神への忠誠が優先する。しかし、通常の環境の下においては、ある人のキリスト教信仰は、彼を他の人々よりもよき市民にすべきである、ということも真理である。
- BC4 ローマの属国としてパレスチナ全域を治めていたヘロデ大王の死
- デナリオン銀貨(Denarius 何種類かある)[CoinArchives], [Roman Coins]
- 表:ティベリウス帝 TI CAESAR DIVI AVG F AVGVSTVS (ティベリウス・カエサル 神君アウグストゥスの息子にして皇帝) Tiberius Caesar Divi Augusti Filius Augustus, Tiberius Caesar, son of divine Augustus, emperor (Augustus)
- 裏:リウィア坐像 PONTIF MAXIM (The pontifex maximus (Latin for “supreme pontiff”) was the chief high priest of the College of Pontiffs (Collegium Pontificum) in ancient Rome. )
- カイザル:イエスを訴える口実
- そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。(ルカ23:2)
- これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。(ヨハネ19:12)
- すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。(ヨハネ19:15)
- その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。(使徒17:7)
- パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明した。(使徒25:8)
- パウロは言った、「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」。そこでフェストは、陪席の者たちと協議したうえ答えた、「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くがよい」。(使徒25:10-12)
- しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。(マタイ17:27)
- 取税人
- マルコ2:15,16 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。(マタイ9:10,11、ルカ5:29,30)
- マタイ11:19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。(ルカ7:34)
- ルカ19:2 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。
- マタイ、ルカでは、取税人を罪人としているが、マルコはそのような表現はない。
- マタイ5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
- マタイ18:17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
- マタイ21:31,32 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
- 異邦人に従うこと
- エレミヤ29:7 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
- テモテ一2:1-2 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
- ローマ13:1 すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
- ローマ13:6-7 あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。
- 神のもの
- 創世記1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
- ヨハネ8:31-34 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
- 驚いた(θαυμάζω: to wonder, wonder at, marvel, to be wondered at, to be had in admiration, Mk 5:20, 6:6, 12:17, 15:5, 44. ἐκπλήσσω: i. to strike out, expel by a blow, drive out or away, ii. to cast off by a blow, to drive out, iii. to be struck with amazement, astonished, amazed, Mk 1:22, 6:2, 7:37, 10:26, 11:18, θαμβέω: i. to be astonished, ii. to astonish, terrify, Mk 1:27,10:24, 10:32, ἐξίστημι: to throw out of position, displace, to amaze, to astonish, throw into wonderment, to be amazed, astounded, to be out of one’s mind, besides one’s self, insane, Mk 2:12, 3:21, 5:42, 6:51, ἐκθαμβέω: to throw into terror or amazement, to be struck with amazement. Mk 9:15, 14:33, 16:5, 16:6)
- マルコ 5:20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。(レギオン)
- マルコ 6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。(ナザレで)
- マルコ 12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。
- マルコ 15:5 しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった。
- マルコ 15:44 ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。
- マルコ 1:22 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
- マルコ6:2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
- マルコ 7:37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
- マルコ 10:26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
- マルコ 1:27 人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。
- マルコ 2:12 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
- マルコ5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
- マルコ6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
- マルコ9:15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
- マルコ10:24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
- マルコ 10:32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
- マルコ16:5,6 墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。
4.70.5 記録
日時:2024年10月17日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)1名
4.70.6 問いについて
神殿でのイエスが語り合ったことについて復習しましょう。(11:27-12:12)
権威についての問答
11:28 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
11:30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
「ぶどう園の農夫」のたとえ
12:9a このぶどう園の主人は、どうするだろうか。
12:12 彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
ここでは、どのような人たちが、どのような動機から、どのような質問をしますか。(13-14)
13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
ἔξεστιν (it is lawful) δοῦναι κῆνσον Καίσαρι ἢ οὔ; δῶμεν ἢ μὴ δῶμεν;
[DQ] 「人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわし」とありますが、この「人々」とは誰のことでしょうか。
- 祭司長、律法学者、長老たち(11:27)ではないだろうか。前段の最後には、「そしてイエスをそこに残して立ち去った。」とあることを考えると、直後にこのことがあったとは考えにくい。まとめられているのだろう。
[DQ] 実際に遣わされた人たちはどのような人たちですか。(マタイ、ルカも確認しましょう)
- [A] 数人とあるだけで、不明、しかし、祭司長、律法学者、長老たちが直接問うたわけではない。また、マタイでは「パリサイ人たちが、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に」イエスのもとに遣わしたとある。また、ルカでは、「彼らは、義人を装うまわし者ども」を送ったとある。
[DQ] パリサイ人とヘロデ党のひとたちは、それぞれどのような人たちですか。
[パリサイ人] マルコでは 2:18, 24, 3:6, 7:3, 5, 8:11, 15, 10:2, 12:13
[ヘロデ党] パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。(3:6) - ヘロデ党については、今回の箇所と対応するマタイの箇所以外は、3:6 のみ。
イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。(8:15b)
[DQ] その言葉じりを捕えようとした。とありますが、これは、どのようなことでしょうか。
マタイ:どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。
ルカ:彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。
[DQ] どのような質問ですか。質問の仕方からどのようなことが伺われますか。
[A] 「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
かなり露骨に慇懃無礼(表面の態度は丁寧だが,心の中では相手を軽くみている・こと(さま))
税を納めてよいかいけないか、納めるべきか、納めてはならないかと聞いている。
マタイ:「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
ルカ:「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。22 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
「税を納めるべきだ」または「税を納めないべきだ」と答えた場合どのようなことが予想されますか。
基本的には、支配者には、従うべきかどうか、自由を保持すべきかどうかが問われている。
[DQ] 納めてよい、納めるべき、納めなくてよい、納めるべきでない、それぞれについて考えましょう。
- [Q] 税金を納めないかどうか議論できるのでしょうか。なぜ、このような質問が出てきたのでしょうか。
[DQ] この人たちはどのような答えを期待していたのでしょうか。
[A] 神以外のもの、異邦人、異教徒に従うことは、拒否するはず、それが、主に対する熱心さだと考えていたのだろうか。
[参照] ヨハネ8:33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
[参照] そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。(ルカ23:2)
[DQ] この人たち(パリサイ人やヘロデ党の者)が一緒に質問したことには、どのような意味があるのでしょうか。
- [A] パリサイ人は、熱心党のようではないが、それでも、税を納めたくない。ヘロデ党は、ローマの支配に阿(おもね)って、ある地位を維持している人たちで、税を納めない反逆者は、取り締まるだろう。
イエスはどのように対応し、どのように答えますか。(15-17a)
15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
[DQ] 偽善(15節)とはこの場合どのようなことでしょうか。
- ある目的のために、自分の信条とは異なることをすること。意のままにならないひとを、貶めるために、本心にないことを言い、手段を選ばず、言葉尻を捉えようとすること。
[DQ] まず、イエスはどうしますか。これは、どのような意味がありますか。
「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
- 実物から確認する?
コインには、おそらく、表には、ティベリウス帝の横顔があり、周囲に TI CAESAR DIVI AVG F AVGVSTVS と書かれていた。これは、ティベリウス・カエサル、神君アウグストゥスの息子にして皇帝。とあり、裏には、母リヴィアの坐像があり、周囲に、PONTIF MAXIM と書かれていた。これは、最高司祭という意味である。デナリ銀貨 [CoinArchives], [Roman Coins]
- 像(イメージ)を忌避し、かつ、他の神を認めないユダヤ人にとって、デナリ自体が挑戦だと受け取られていたかもしれない。
[DQ] 神のものを神に返すとはどのような意味でしょうか。
対比とすると、一義的には、神殿税を意味するかもしれないが、もっと本質的な意味が含まれているだろう。ここには、カイザルのものと、神のものをどう考えるかという問いも含まれている。
[参考] しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。(マタイ17:27)
[参考] 創世記1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
[DQ] 税金は国に、心は教会にでしょうか。
この人たちは、なぜ驚嘆したのでしょうか。(17b)
17a 彼らはイエスに驚嘆した。
マルコでは、驚いたがいくつかの言葉を使って多く表現されている。参考を参照
[『驚』で口語検索] マタイ10件(7:28, 8:27, 9:33, 12:23, 13:54, 15:31, 19:25, 21:20, 22:22, 33)、ルカ13件(2:47, 48, 4:32, 36, 5:9, 26, 8:25, 56, 9:43, 20:26, 24:5, 22, 37)、ヨハネ3件(実質的には7:15のみ)マルコ16件
マルコ 1:22, 27, 2:12, 5:20, 42, 6:2, 6, 51, 7:37, 9:15, 10:24, 26,32, 12:12, 16:5, (6)
[DQ] 問と、答えはどのように対応しているのでしょうか。
問い:「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」(14b)
- 言葉じりを捕らえることは、まったくできなかったと思われる。
回答:「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(17a)
直接的な答えは、税金はカイザルに納めなさい。納めるべき。
同時に、貨幣がカイザルのものであるように、すべて、神様のものは、神様にお返ししなさい。
神様にお返しするとは?
イエスは、どのようなことを教えているのだと思いますか。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(17a)
難しい問いは、神に引き寄せて、神の支配のもとにあるとして考えなさい。
神のもの「すべて」をどのようにお返しするか考えなさい。
熱心党のシモンもおり、取税人レビ、マタイもいたはずであろう。そして、このイエスのことばを聞いていただろう。
- 徴税のしごとを尊重したことも含められているように思われる。
4.70.7 メモ
税金が課せられているということは、その支配下にある。かつ逃れられないことが前提だと思うが、質問者は、そう単純には、考えていないところをまずは、理解しなければならないのだろう。
- 貨幣に書かれていた銘や、ヨハネ8:33の「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。にヒントが有るのかもしれない。
イエスを捕らえ殺そうと機会を狙っている人たちにたいする痛快な対応ではあるが、それを喜んでいるだけで良いのだろうか、イエスは、質問者に、そして我々になにを語りかけているのだろうか。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」で、イエスは何を教えているのだろうか。
「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。(14b)
「神様のものは神様にお返しすべきでしょうか。お返ししなければならないでしょうか。」
「すべてのものが神様のものであるなら、神様のものを神様にお返しするにはどのようにしたら良いのでしょうか。」
現代的問いに何らかのヒントを与えているのだろうか。
国または統治者と信仰の問題、政治・経済と宗教だろうか、神様のもとでの自由も関係するだろうか。
困難な問題が目の前にあるときに、神様の視点で見てみることが促されているのだろうか。自分の置かれた状況や、その他の障壁に困難や苦しみや理不尽さの原因を求めるのではなく、神様がなにを求めておられるか、わたしたちが、どのような応答をすべきかは、問われているように思う。神のものが、神様のしるしが付いているものに囲まれているならば。
このひとたちが考えていたことと、イエスのこたえには、どのような相違があったのだろうか。
イエスに質問をしにきた人たちは、どのような答えを期待していたのだろうか。
イエスを殺そうとするなら、反逆罪が手っ取り早い。実際、法定でも、そのような訴えが出されている。ということは、税金は納めなくて良い。納めることは適切ではないということの言質をとることが期待されていたのだろう。それは、パリサイ人が考えていたことと大きくは異ならない。つまり何が正しいかの議論がここでされているわけではない。
4.71 12:18-27 復活についての問答
18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
4.71.1 マタイ 22:23-33
23 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、24 「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。25 さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。26 次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。27 最後に、その女も死にました。28 すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。29 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。30 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。31 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。33 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。
4.71.2 ルカ 20:27-40
27 復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、28 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。29 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、30 そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、31 七人とも同様に、子をもうけずに死にました。32 のちに、その女も死にました。33 さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。34 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。37 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。39 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。
4.71.3 問い
これまで、神殿でどのような人たちとどのようなことについて話したか復習しましょう。(11:27-12:17)
サドカイ人は、どのような人たちですか。復活についてはどう考えていますか。(18)
サドカイ人たちは、どんな質問をしますか。(19-23)
イエスはサドカイ人たちがどんな思い違いをしていると言っていますか。(24, 25)
イエスは、復活について、どのような聖書を引用していますか。(26,27)
イエスは、この箇所で復活についてどのようなことを教えているのでしょうか。
4.71.4 参照
サドカイ派
聖書箇所
マルコ12:8 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、(マタイ22:23、ルカ20:27)
マタイ3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
マタイ16:1 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
マタイ16:6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
マタイ16:11,12 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。12そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
マタイ22:34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。(最も重要な戒め冒頭)
使徒4:1-3 彼ら(ペテロとヨハネ)が人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、2 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。
使徒5:17 そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、
使徒23:6-8 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。7 彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、会衆は相分れた。8 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している。
荒井献「イエスとその時代」(p.33) サドカイ派の呼称は、イスラエルにおける最古・最大の大祭司「サドク」に由来するといわれる。また、一説によるとこの呼称は、「義を行使する」意味のヘブライ語「サドゥク」に遡るとも言われる。いずれにしても彼らは、伝統主義・保守主義の立場をとり、「モーセ律法」ないしは「モーセ五書」のみを聖文書として、ここに認められない、あるいはこれ以後の時代に成立したと言われる新思想ー例えば律法の敷衍解釈による法の細則・天使論・復活思想などーを一切認めなかった。もっとも、政治的には、彼らがユダヤ社会の経済的上層と密着していただけに、外国支配勢力に対しては一般的に協調策をとっている。そのために、たとえば復活思想の否認は、当時における世界体制の思想であるヘレニズム・ローマ思想を受容した結果であるとも説明できる。その意味で、サドカイ派の保守的国民主義は自由主義として機能することもできたのである。実際この派は、紀元前66年にはローマ軍から神殿祭儀を守り、信教の自由を確保してはいる。しかし、イエスの時代には、ローマの傀儡的存在であったアンナス家の大祭司、祭司長たち、長老たちと密着することにより、体制を思想的に擁護する役割を果たしていたのである。
榊原康夫「マタイによる福音書 下巻」(p.77)「サドカイ人」というのは、前の「パリサイ人」と、あらゆる点で正反対の人々でした。パリサイ派が純宗教団体であるのに対して、サドカイ派は、むしろ政治団体に近く、当時の最高議会議員の大半を占めていました。彼らはそのように、時の権力者と結びつく世俗主義者であるために、時代の流行に敏感な進歩主義者・合理主義者でもありました。それで、一応ユダヤ教を信じはしても、モーセの律法にしるされた明白な定め以外は何者も、ーラビの学説も伝承もー権威を認めません。従って、パリサイ人や一般民衆が長い間信じ込んできたことも、この一派の手にかかると、「律法に明記されていない」という理由で否定されてしまいました。使徒行伝23章8節に「元来、サドカイ人は、復活とか霊とかは、一切存在しないと言い、パリサイ人は、それらはみな存在すると主張している」とあるとおりです。要するに、彼らは、まったく現代的な合理的唯物主義の立場に立っていました。
山口昇「新聖書注解(いのちのことば社)」貴族階級に属し、大祭司や、エルサレムの有力者からなっていた。彼らは経済的に恵まれ、富裕であったが、この世的でもあった。彼らはモーセ五書だけを律法として認めていたので、復活の教理は受け入れなかった。(Cf 使徒23:6-8)なぜなら、死人の復活に関する教えはイザヤ26:19、ダニエル12:2 に至るまで現れなかったからである。
イザヤ26:19 あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、/それを亡霊の国の上に降らされるからである。
ダニエル12:2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。
ヨセフス「ユダヤ人古代史」
13-10-6 ヨナタンという人がヒルカノスの非常に親しい友人だったが、サドカイ派に属していて、その考えはパリサイ人とは全く正反対であった。ヨナタンはヒルカノスに、エレアザルがパリサイ人全員の共通の考えに従ってヒルカノスにそのような非難をしたこと、そして、パリサイ人全員に「彼らはこの男にどんな罰がふさわしいと思うか」と尋ねさえすれば、それが明らかになるだろう、と言った。彼らが彼の罪にふさわしい罰を与えたとしても、非難は彼らの承認によって彼に下されたのではないことは、彼が確信できるからである。そこでパリサイ人は、彼は鞭打ちと縄目に値したが、非難を死で罰するのは正しくないだろうと答えた。実際、パリサイ人は他の場合でさえ、罰を厳しくする傾向はない。この穏やかな判決にヒルカノスは非常に怒り、この男が彼らの承認によって彼を非難したのだと思った。このヨナタンこそが、ヨナタンを最も怒らせ、ヨナタンに影響を与えたため、ヨナタンはヨナタンをパリサイ派から離脱させ、彼らが民衆に課した法令を廃止させ、それを守る者を罰した。このことから、ヨナタンとその息子たちが民衆から受けた憎悪が生じたのである。しかし、これらの事柄については、これから述べることにする。私が今説明したいのは、パリサイ人は、モーセの律法には書かれていない、先祖から受け継いだ多くの慣習を民衆に伝えてきたということである。そのため、サドカイ人はそれを拒絶し、書かれた言葉にある慣習は義務であるとみなすべきだが、先祖の伝統に由来するものは守るべきではないと言うのである。そして、これらのことに関して、彼らの間には大きな論争と不和が生じており、サドカイ派は富裕層以外を説得できず、民衆の支持も得られないが、パリサイ派は大衆の支持を得ている。しかし、この二つの宗派とエッセン派については、ユダヤ事情第二巻で正確に扱っている。(Google Chrome 翻訳)
18-1-4 しかし、サドカイ派の教えはこうです。魂は肉体と共に死ぬということです。彼らは、律法が命じていること以外は何事も守ろうとしません。なぜなら、彼らは、よく会う哲学の教師たちと議論することが美徳であると考えているからです。しかし、この教えを受け入れるのは少数の人たち、それでも最も高貴な人たちだけです。しかし、彼らは自分ではほとんど何もすることができません。なぜなら、時には不本意に、そして強制的にそうならざるを得ないのですが、行政官になると、彼らはパリサイ人の観念に溺れるからです。そうでなければ、大衆はそれを受け入れないでしょうから。(Google Chrome 翻訳)
復活に関する当時のユダヤ教会の意見(榊原康夫)
パリサイ派・エッセネ派・一般大衆:人の霊魂は死後も存在し続け、従って、その霊魂はいつかからだをとりもどす、すなわち復活する。
サドカイ派:人間はしにおいて体が朽ちる時、一切が終わり、従って復活もない。
復活・よみがえりに関する記事
イエス自身についての証言(マルコを中心に)よみがえる(ἀνίστημι: i. to cause to rise up, raise up, ii. to rise, stand upto rise, stand up, iii. at arise, appear, stand forth)他の意味にも使われる マルコ1:35, 2:14, 3:26, 5:42, 7:24, 9:27, 10:1, 10:50.
8:31,32a それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。(マタイ16:21)
9:9,10 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。(マタイ17:9)
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。(マタイ17:23)
10:34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。(マタイ20:19)
参照:「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。(マタイ27:63)
「復活(ἀνάστασις: i. a raising up, rising (e.g. from a seat), a rising from the dead)」口語訳(福音書)
マルコ12:18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、(マタイ22:23, ルカ20:27)
マルコ12:23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。(マタイ22:28, ルカ20:33)
マタイ22:30,31 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。31 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。(ルカ20:35,36)
マタイ27:53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
ルカ9:8 またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。
ルカ9:19 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。
ルカ14:14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
ヨハネ5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。
ヨハネ11:24,25 マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
使徒1:22, 2:31, 4:2, 33, 17:18, 32, 23:6, 8, 24:15, 21, 26:23
パウロ書簡
ローマ1:4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。
ローマ6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
1コリント15:12,13 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。13 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
1コリント15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
1コリント15:35-44 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。37 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。38 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。39 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。40 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
ピリピ3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、(11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。)
2テモテ2:18 彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。
その他の書簡
ヘブル6:2 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。
1ペテロ3:21 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
黙示録20:5,6 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である 6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
よみがえ(って)(ἐγείρω: to arouse, cause to rise, i. to arouse from sleep, to awake, ii. to arouse from the sleep of death, to recall the dead to life, iii. to cause to rise from a seat or bed etc., iv to raise up, produce, cause to appear)Mt 9:25, 10:8, 11:5, 14:2, 16:21, 17:9, 23, 20:19, 26:32, 27:52, 27:63, 64, 28:6, Mk 5:41, 6:16, 12:26, 14:28, 16:6, 14. Lk 7:14, 7:22, 8:54, 9:7, 22, Jn 2:19, 20, 5:21, 12:1, 9, 17, 21:14, Acts 5:30, 10:40, 13:30, 37, 26:8, Rm 4:24, 25, 6:4, 9, 7:4, 8:11, 8:34, 10:9, 1Cor 6:14, 15:4, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 20, 29, 32, 35, 42, 43, 44, 52, 2Cor 1:9, 2Cor 1:9, 4:14, 5:15, Gal 1:1, Eph 1:20, 5:14, Phil 1:17, Co 2:12, 1Th 1:10, 2Ti 2:8, Heb 11:19, Jas 5:15?, 1Pet 1:21
マルコ5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
マルコ6:14-16 さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。
マルコ12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
マルコ14:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
マルコ16:6 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。
マルコ16:14 その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
ヨハネ12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
ヨハネ12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
ヨハネ21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
ローマ4:24, 25, 6:4, 9, 7:4, 8:11, 8:34, 10:9
ローマ6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
ローマ6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
ローマ7:4 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
ローマ8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
ローマ8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
ローマ10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
1コリント6:14 そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。
1コリント15:4, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 20, 29, 32, 35, 42, 43, 44, 52
旧約聖書からの引用
申命記25:5-10 兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。6 そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。7 しかしその人が兄弟の妻をめとるのを好まないならば、その兄弟の妻は町の門へ行って、長老たちに言わなければならない、『わたしの夫の兄弟はその兄弟の名をイスラエルのうちに残すのを拒んで、夫の兄弟としての道をつくすことを好みません』。8 そのとき町の長老たちは彼を呼び寄せて、さとさなければならない。もし彼が固執して、『わたしは彼女をめとることを好みません』と言うならば、9 その兄弟の妻は長老たちの目の前で、彼のそばに行き、その足のくつを脱がせ、その顔につばきして、答えて言わなければならない。『兄弟の家をたてない者には、このようにすべきです』。10 そして彼の家の名は、くつを脱がされた者の家と、イスラエルのうちで呼ばれるであろう。
- 以下の規定に関する例外事項としてしるされている。レビ18:16 あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである。レビ20:21 人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。
出エジプト3:1-10 モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。2 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。3 モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。4 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。6 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。6 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。9 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。
ヨハネ11:25-36 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。28 マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。29 これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、イエスのもとに行った。30 イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。31 マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。32 マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。35 イエスは涙を流された。36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
バークレイ
サドカイ人たちは、この世の像のなかに天を作り出す過ちを犯した。彼らは、この世の事物の言葉の中で天を考えた。人々は常にそうするものである。
1コリント2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」/のである。
イザヤ64:4 いにしえからこのかた、/あなたのほか神を待ち望む者に、/このような事を行われた神を聞いたことはなく、/耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
イエスは復活についての確信を、神と善人との関係はなにものも破ることができないという事実に基礎づけた。一度、ひとが永遠なる神との人格的関係にはいると、その関係は永遠である。神は、アブラハム、イサク、ヤコブが生きていた時、彼らの友であられた。
神は、神に仕え、神を愛するひとにたいして、神であることをやめることができない。(ロアジ 1857-1940)
詩篇73:23-24 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、/あなたはわたしの右の手を保たれる。24 あなたはさとしをもってわたしを導き、/その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
エノク書10:17-19
- その時、すべての義人はまぬがれて、何千人の子を生むに至るまで生きながらえ、その若き日と老年のすべての日を、彼らは平安のうちにまっとうする。その時、全地は義によって耕され、くまなく木々がうえられて祝福に満ちる。すべて望ましい木はそこに植えられ、ぶどうが飢えられる。そこに飢えたぶどうはおびただしい酒を生じ、まかれたすべての種は、一マスが千マスを生じ、一マスのオリーブは十マスの油をもたらす。
クムラン宗規要覧
- すべてこれ(真実の霊)によって歩むものへの報いは、いやし、長命にともなう豊かな平安、永遠の祝福をもつ多くの子供、永遠の命による永久の喜び、栄光の冠と永久の光に輝く衣である。
ヨセフス
ユダヤ人古代史18:1:3 パリサイ人は、霊魂はそのうちに不滅の力をもち、ひとが現世で有徳に生きたかよこしまに生きたかに応じて、地下で報酬と刑罰があり、後者は永遠の獄屋に閉じ込められるのに対して、前者は生まれ変わって再び生きる力を持つと信じる。
ユダヤ戦記2:8:11 エッセネ派の教えは次の通り。肉体は朽つべきもので、それが作られている物質もまた永遠でないが、霊魂は永続する。それは最も微妙な大気から出て、獄に入るように体に結合される。一種自然ないざないによって引き込まれるのである。しかし、肉のかせから解き放たれるときには、年久しい奴隷のくびきからすくわれたかのように、喜んで上に昇る。
タルムード
- あの世では女は毎日子をうむとか(シャッバス30b)、復活者は死人に触れたのだから清めの儀式が必要いなかまで論じられる。(ニッダー70b、サンヘドリン70b)
レビラト婚(Levirate marriage)
- Wikipedia (日)(E)寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。Levirate marriage is a type of marriage in which the brother of a deceased man is obliged to marry his brother’s widow. Levirate marriage has been practiced by societies with a strong clan structure in which exogamous marriage (i.e. marriage outside the clan) is forbidden.
天使
旧約聖書
ヨブ記4:18 見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、/その天使をも誤れる者とみなされる。
ヨブ記33:23 もしそこに彼のためにひとりの天使があり、/千のうちのひとりであって、仲保となり、/人にその正しい道を示すならば、
詩篇78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
詩篇78:49 神は彼らの上に激しい怒りと、憤りと、/恨みと、悩みと、滅ぼす天使の群れとを放たれた。
詩篇91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、/あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
詩篇148:2 その天使よ、みな主をほめたたえよ。その万軍よ、/みな主をほめたたえよ。
ダニエル10:13 ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けたので、わたしは、彼をペルシャの国の君と共に、そこに残しておき、
福音書
- ルカ20:36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。
その他の新約聖書
使徒6:15 議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。
使徒23:8,9 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している。9 そこで、大騒ぎとなった。パリサイ派のある律法学者たちが立って、強く主張して言った、「われわれは、この人には何も悪いことがないと思う。あるいは、霊か天使かが、彼に告げたのかも知れない」。
ローマ8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
1コリント4:9 わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。
1コリ11:10 それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。
2コリ11:14 しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。
ガラテヤ3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
コロサイ2:18 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、
1テサロニケ4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
2テサロニケ1:7 それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
ヘブル2:16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。
ヘブル12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
1ペテロ3:22 キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。
4.71.5 記録
日時:2024年10月24日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)1名
4.71.6 問いについて
これまで、神殿でどのような人たちとどのようなことについて話したか復習しましょう。(11:27-12:17)
[DQ] どのようなグループの人たちとの話かも同時に復習しましょう。
権威についての問答(11:27-33)vs 祭司長、律法学者、長老たち(27)
問:11:28「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
イエス:11:30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
「ぶどう園の農夫」のたとえ(12:1-12)vs (おそらく)祭司長、律法学者、長老たち(27)
イエス:12:9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
人々:12:12 彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
皇帝への税金(12:13-17)vs パリサイ人やヘロデ党の者数人
12:14b カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか
12:17b カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい
サドカイ人は、どのような人たちですか。復活についてはどう考えていますか。(18)
18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、
荒井献:伝統主義・保守主義の立場をとり、「モーセ律法」ないしは「モーセ五書」のみを聖文書として、ここに認められない、あるいはこれ以後の時代に成立したと言われる新思想ー例えば律法の敷衍解釈による法の細則・天使論・復活思想などーを一切認めなかった。もっとも、政治的には、彼らがユダヤ社会の経済的上層と密着していただけに、外国支配勢力に対しては一般的に協調策をとっている。そのために、たとえば復活思想の否認は、当時における世界体制の思想であるヘレニズム・ローマ思想を受容した結果であるとも説明できる。
榊原康夫:政治団体に近く、当時の最高議会議員の大半を占めていました。彼らはそのように、時の権力者と結びつく世俗主義者であるために、時代の流行に敏感な進歩主義者・合理主義者でもありました。それで、一応ユダヤ教を信じはしても、モーセの律法にしるされた明白な定め以外は認めません。
使徒行伝23章8節 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している。
ヨセフス「ユダヤ人古代史」
13-10-6 後半:パリサイ人は、モーセの律法には書かれていない、先祖から受け継いだ多くの慣習を民衆に伝えてきたということである。そのため、サドカイ人はそれを拒絶し、書かれた言葉にある慣習は義務であるとみなすべきだが、先祖の伝統に由来するものは守るべきではないと言うのである。そして、これらのことに関して、彼らの間には大きな論争と不和が生じており、サドカイ派は富裕層以外を説得できず、民衆の支持も得られないが、パリサイ派は大衆の支持を得ている。(Google Chrome 翻訳)
18-1-4 しかし、サドカイ派の教えはこうです。魂は肉体と共に死ぬということです。彼らは、律法が命じていること以外は何事も守ろうとしません。なぜなら、彼らは、よく会う哲学の教師たちと議論することが美徳であると考えているからです。しかし、この教えを受け入れるのは少数の人たち、それでも最も高貴な人たちだけです。しかし、彼らは自分ではほとんど何もすることができません。なぜなら、時には不本意に、そして強制的にそうならざるを得ないのですが、行政官になると、彼らはパリサイ人の観念に溺れるからです。そうでなければ、大衆はそれを受け入れないでしょうから。(Google Chrome 翻訳)
死人の復活に関する教えはイザヤ26:19、ダニエル12:2 に至るまで現れなかったからである。
イザヤ26:19 あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、/それを亡霊の国の上に降らされるからである。
ダニエル12:2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。
サドカイ人たちは、どんな質問をしますか。(19-23)
19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。
[DQ] どのようなモーセのことばに言及していますか。
[A] 申命記25:5(-10) 兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。
目的
家族の名称が継続された。
家族の財産が家族の内部にとどまった。
レビラト婚(Levirate marriage)
[DQ] この人たちはなぜこのような質問をするのですか。
[A] モーセ五書には書いておらず、今の世には何も関係がない合理性がない。
[A] 未亡人の救済の法律が、かえってあの世で彼女を困らせるのは妙だ。(榊原康夫)
[DQ] 霊魂不滅という、哲学思想からの問いなのでしょうか。
イエスはサドカイ人たちがどんな思い違いをしていると言っていますか。(24, 25)
24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
復活が起こり、ひとがよみがえるとき、肉体的生活の古い法則はもはや通用しない、よみがえったものは、天使のようであり、結婚するとか、結婚したとかいうような肉体的な事柄は、その事柄の中に入っていない。(バークレイ)
エノク書、バルクの黙示の中にも似たような記述あり。(エノク書10:17-19)
来たるべき命は、この世の言葉では考えることができない。
来世では、出産がなく、したがって結婚はない。その生命は神から受けるので、だれがしかの子といわれず、「神の子」と呼ばれる。この相違を知らないのは、聖書も神の力も知らぬ宗教的無知から生じている。(榊原康夫)
[参照] ルカ20:36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。
イエスは、復活について、どのような聖書を引用していますか。(26,27)
26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
[DQ] イエスは旧約聖書からの引用でなにを伝えているのでしょうか。
[Ref] 出エジプト3:6 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。
もし、神がこれらの族長たちの神であれば、生きています神は生きている人々の神であり、存在せず、死んだ者の神ではないので、それは、彼らがなお生きておらねばならないことを意味する。(バークレイ)
[DQ] 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」は何を伝えているのでしょうか。
生きるのはすべて神に対して生きる。(榊原康夫)
ヨハネ11:25-26 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
(真に生きるということ)2テサロニケ3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。
(生ける屍とは異なる生きから)1テモテ5:6 これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない。
(永遠の神との関係)ハバクク1:12 わが神、主、わが聖者よ。あなたは永遠からいますかたではありませんか。わたしたちは死んではならない。主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。岩よ、あなたは彼らを懲らしめのために立てられた。
今、生命の源泉たる神との関わり方をかえるべき。
彼らはもう死ぬことができない。
- ルカ20:36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。
イエスは、この箇所で復活についてどのようなことを教えているのでしょうか。
[DQ] マタイとルカには、どのような反応が描かれていますか。
マタイ22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。
ルカ20:39,40 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。
[DQ] イエスの復活、神理解について、この箇所から分かることを上げてみましょう。
[DQ] 死んだひとが生き返ること、イエスの復活、一般の(イエス以外の)ひとの死後の復活、神との関係において、生き続けること、それぞれの関係と、それぞれの意味についてはどう考えたらよいのでしょうか。
4.71.7 メモ
問い:サドカイ人は、復活を信ぜず、パリサイ人は、それを信じていたようだが(使徒23:6)なぜ、そのように信じ、何を根拠にそう信じていたのだろうか。そのように信じるような経緯もしりたい。復活を信じる、パリサイ人は、サドカイ人の12:19-23節の問いに、どう答えていたのだろうか。
問い:アブラハム、イサク、ヤコブは生きていると証言しているようだが、イエスは復活についてどのような理解をもっていたのだろうか。イエス自身が「よみがえる」ことについて何回か述べられているが(マルコ8:31, 9:9-10, 9:31, 10:34)、イエスは自身の復活についてどのように認識していたのだろうか。
共観福音書(マルコとの)差異:マタイは、最後に反応を記述した「33 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。」のみが加わっているが、本文は基本的に同じとしてよい。ルカは、イエスの答えの中に、復活に関する理解の差異がある。最後の反応が異なるが、これは、ルカでは、次の「最も重要な戒め」が欠けており、並行箇所が「善いサマリア人」の前半に対応しており、議論としては、最後にしているので、マルコでは、「最も重要な戒め」の最後にある「それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」で閉じられている。復活に関する記述の違いは、重要である。まず、35節では、死人からの復活はすべての人ではなく「復活にあずかるにふさわしい者たち」となっている点、さらに、36節には「天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ない」と、マルコにはないことがが付け加えられている。
ルカ20:35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。
ルカ20:38b 人はみな神に生きるものだからである」。39 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。
イエスは二種類の応答をしている。1つ目は、「死人の中からよみがえるときは、天にいる御使いのようなもので、めとったり、とついだりしない。」ということ、2つ目は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、アブラハム、イサク、ヤコブも(神に対して)生きているのだということ、である。1つ目は、宣言であり、説明としては理解できるが、2つ目は、混乱を来すように思える。
イエスと共に生きる、神の子として生きるいのちは、この世の社会的な制度や規則に縛られるものではなく、復活を考える時には、拘束されない。また、主(神、神の子イエス)との交わり、主との結びつきは、現在から続く、永遠のものである。
イエスの聖書解釈には、驚かされる。本当に、これが、死人がよみがえることについて語られている箇所なのだろうか。
- 37 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。
4.72 12:28-34 最も重要な戒め
28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
4.72.1 マタイ 22:34-40
34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
4.72.2 ルカ 10:25-28
25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
4.72.3 問い
これまで、神殿でどのような人たちとどのようなことについて話したか復習しましょう。(11:27-12:27)
この律法学者はどのような動機からどのような質問をしていますか。(28)
イエスはなんと答えていますか。(29-31)
「あなたの神である主を愛せよ」「隣人を自分と同じように愛せよ」とはどのようないましめですか。(29-31)
この律法学者は、イエスの答えを聞いて、どのように語り、イエスはこの律法学者にどう伝えますか。(32-34)
あなたは、イエスが神殿で語ったことから、どのようなことを学びましたか。
4.72.4 参照
出エジプト記20:3-17 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。13 あなたは殺してはならない。14 あなたは姦淫してはならない。15 あなたは盗んではならない。16 あなたは隣人について、偽証してはならない。17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
バークレイ
ヒルレル(片足で立っている間に律法の全体を教えてくれるようにとの依頼にこたえ):あなたが自分自身にされるのを憎むことを、あなたの隣人にするな。これが律法の全体である。残りはその注解である。行って学べ。
アキバ:『隣人をあなた自身のように愛せよ』ーこれが一番大きい、一般的な律法である。
義人シモン:三つのことの上に世界は成り立っているー律法と、礼拝と、愛の働きの上に。
サムラー:モーセがシナイ山によいて613の法則を授けられた、それは太陽年の日数に従って365(榊原:禁止命令),人間の世代数に従って248(榊原:積極命令)を受けた。
ダビデ(詩篇15篇)主よ、あなたの幕屋に宿るものはだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
直く歩む者。
義を行う者。
心から真実を語る者。
その舌をもってそしらぬ者。
その友に悪をなさざる者。
その隣り人に対するそしりを取りあざける者。
その目が神に捨てられた者を卑しめる者。
主を恐れる者を尊ぶ者。
誓ったことは自分の損害になっても変えない者。
利益をとって金銭を貸さない者。
罪のない者の不利をはからない者。
イザヤ(イザヤ33:15)
正しく歩む者。
正直に語る者。
しえたげて得た利を卑しめる者。
手を振って、まいないを取らない者。
耳をふさいで地を流す謀略を聞かない者。
目を閉じて悪を見ない者。
ミカ(ミカ6:8)主のあなたに求められることは、
公義をおこない。
いつくしみを愛し。
へりくだってあなたの神と共に歩むことである。
イザヤ(イザヤ56:1)
あなたがたは公平を守れ。
そして正義を行え。
ハバクク(ハバクク2:4)
- 義人はその信仰によって生きる。
アウグスティヌス(354-430)
- 神を愛しーそして、あなたの好きなようにしなさい。
十二族長の遺訓(Early Christian Writings: The Testaments of the Twelve Patriarchs)
イッサカルの遺訓 (THE TESTAMENT OF ISSACHAR, THE FIFTH SON OF JACOB AND LEAH)5:2:主を愛し、あなたの隣人を愛せよ。貧しき者と弱き者に同情せよ。But love the Lord and your neighbour, Have compassion on the poor and weak.
イッサカルの遺訓(THE TESTAMENT OF ISSACHAR, THE FIFTH SON OF JACOB AND LEAH)7:6:わたしは主を愛した、同様に、すべての人々を心を尽くして愛した。I loved the Lord; Likewise also every man with all my heart.
ダンの遺訓(THE TESTAMENT OF DAN, THE SEVENTH SON OF JACOB AND BILHAH.)5:3:あなたの全生涯をかけて主を愛せよ。また、真実の心をもってお互いに愛し合え。Love the Lord through all your life, And one another with a true heart.
シェマ(聞け)聖句箱(小さな革の小箱)の中に入れ、祈る時に、身につけた。
申命記6:4-9 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。
申命記11:13-21 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、14 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、15 また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。16 あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。17 おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。18 それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、19 これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、20 また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。21 そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。
民数記15:37-41 主はまたモーセに言われた、38 「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。39 あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。40 こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。41 わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしはあなたがたの神、主である」。
シェマについて
- 夕方の何時からシェマをとなえればよいか。祭司たちが挙祭を食べにはいってから第一の刻の初めまで。そうラビ・エリエゼルは言った」(ミシュナー:ベーラーコート1:1)朝の何時からシェマをとなえればよいか。青と白とを見分けられるようになったら即刻。ラビ・エリエゼルは、青と緑をと言う。そして日の出前に終わらねばならぬ。(2)
ヤコブ2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。
レビ記19:18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
本来の背景としては、自分の仲間のユダヤ人について。
ローマ13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
ガラテヤ5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
ヤコブ2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
4.72.5 記録
日時:2024年10月31日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)2名
4.72.6 問いについて
これまで、神殿でどのような人たちとどのようなことについて話したか復習しましょう。(11:27-12:27)
権威についての問答(11:27-33)vs 祭司長、律法学者、長老たち(27)
問:11:28「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
イエス:11:30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
「ぶどう園の農夫」のたとえ(12:1-12)vs (おそらく)祭司長、律法学者、長老たち(27)
イエス:12:9 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
人々:12:12 彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
皇帝への税金(12:13-17)vs パリサイ人やヘロデ党の者数人
12:14b カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか
12:17b カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい
復活についての問答(12:18-27)vs サドカイ人たち
問:12:23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。
イエス:12:24,25 24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
イエス:12:26,27 26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
この律法学者はどのような動機からどのような質問をしていますか。(28)
28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
[DQ] 何を聞きたいのでしょう。質問の意図は何でしょうか。マタイと、ルカではどのように表現していますか。
マルコ:イエスが巧みに答えられたのを認めて、- 敬意が現れている。
マタイ:イエスをためそうとして質問した
ルカ:イエスを試みようとして
[A] マルコの文章からは悪意は感じられない。マタイやルカでは「ためそうとして、試みようとして」とあるが、質問からすると、受け取り方の問題であり、悪意がなかった可能性もある。マルコが最初に書かれたとすると、ルカは背景が異なるかもしれないが、マタイにおいては、喜捨の、律法学者に対する敵愾心があるのかもしれない。
[DQ] 質問については、マタイと、ルカからは、どのようなことがわかりますか。
マルコ:先生、すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか
マタイ:先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか
ルカ:先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか
イエスはなんと答えていますか。(29-31)
29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
申命記6:4,5 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
レビ記19:18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
- 「あなたの民」とあり、基本的には、隣人は「同胞」を意味すると理解されており、それが当然であったと思われる。
マルコは、シェマーの「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」から初めているが、マタイでは、それが省略されている。また、「力を尽くし」も省略されている。また、マルコ、マタイ、ルカとも、申命記にない「思いをつくし」が挿入されている。しかし、律法学者のことばは、旧約聖書に従っているのか、「思いをつくし」がない。
[DQ] この違いは、大したことはないのだろうか。どのような意図があるのだろうか。
[DQ]「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とはどのような意味でしょうか。
「あなたの神である主を愛せよ」「隣人を自分と同じように愛せよ」とはどのようないましめですか。(29-31)
29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
[DQ] なぜ第一の(最も重要な)戒めは一つではなく二つなのでしょうか。なぜ二つとも必要なのでしょうか。
[DQ] 2つ独立のいましめでしょうか。関連しているのでしょうか。
[HS] たいせつなひと(かた)をたいせつにすることは、たいせつなひと(かた)のたいせつなひとをたいせつにすること。
[参照] 1ヨハネ4:19-21 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。
この律法学者は、イエスの答えを聞いて、どのように語り、イエスはこの律法学者にどう伝えますか。(32-34)
32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
[参照] サムエル記上15:22 サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
[参照] ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
[DQ] 律法学者はどのように理解したのでしょうか。(32-33)
[DQ] 「あなたは神の国から遠くない」とは、どのような意味なのでしょうか。(34b)
- [A] 文脈からは、十分な称賛だと考えてよいだろう。しかし、同時に、完璧ではないこと、つまり、イエスの理解からは、まだ、離れていることを示した言葉なのだろう。
[DQ] なぜ人々は、イエスにこれ以上質問をしないのですか。(34c)
あなたは、イエスが神殿で語ったことから、どのようなことを学びましたか。
イエスが、それぞれの反対勢力からの問いに対して、適切に伝え(反論し)ていることを伝えている。
ヨハネのバプテスマとも関連しており、主のみこころ、主の働きが背後にあることを伝えている。
復活も、人間の興味よりも、神が生きているものの神であることを伝えることにより、神について伝えている。
最後に、中心的な、生き方について伝えている。
4.72.7 メモ
共観福音書の差異:マルコでは、「イエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した」と始め、最後に、イエスが「あなたは神の国から遠くない」と言い、「それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」と書かれて対話が終わっている。しかし、マタイでは、「イエスをためそうとして質問した」と始めている。ルカでは、別の箇所、善いサマリア人のたとえの前におかれ、かつ、「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」(10:25b)との問いから始まり、イエスは、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(10:26b)と問い、律法学者が同じような答えをしている。まずこのことから、律法学者と、イエスが考える、最も重要ないましめは、共通していたことがわかる。
細かいことだが、イエスの答えも微妙に異なる。「思いをつくして with thy mind」が、申命記にないのに、共観福音書ではすべて入っていることに特別な意味があるとすると、驚きである。もし、そうであれば、感情や霊的なものだけでなく、知的、または理性的な面も含めているということだろうか。
イエスが「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と問われて答えている箇所である。「わたしたちの神は、唯一の神である。その主をあなたのすべてをもって愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」(要約)が、聖書の中心的な教えということだろうか。
「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」で、聖書は、そして、イエスは何を伝えているのだろうか。他の神を認めない、排他的であることを奨励しているのだろうか。
なぜ最も重要な戒めは一つではなく二つなのだろうか。二つとも絶対的に必要なのだろうか。二つのいましめは関連しているのだろうか、それとも独立なのだろうか。
[HS] 隣人とは、唯一の神、主の前で、わたしと、同じ関係のおかれているひとのこと。つまり、神様が愛しておられる一人ひとりのことである。たいせつなひと(かた)をたいせつにすることは、たいせつなひと(かた)のたいせつなひとをたいせつにすること。
ヨハネ7:44-49 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。45 さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。46 下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。47 パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。48 役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。49 律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
一般大衆「アム・ハーアレツ(土民・無学の衆)」イエスにとっては、深く憐れむ対象。
イエスが、それぞれの反対勢力からの問いに対して、適切に伝え(反論し)ていること、を伝えていて、ローマ帝国に処刑されたひとを救い主とする批判・非難に対して、当時のキリスト者に対する護教的な面も含まれているように思われる。
4.73 12:35-37 ダビデの子についての問答
35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、/『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』。37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
4.73.1 マタイ 22:41-45(-46)
41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。44 すなわち/『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』。45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。46 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。
4.73.2 ルカ 20:41-44
41 イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。42 ダビデ自身が詩篇の中で言っている、/『主はわが主に仰せになった、43 あなたの敵をあなたの足台とする時までは、/わたしの右に座していなさい』。44 このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。
4.73.3 問い
イエスは、どこで、どのようなことについて話し始めますか。(35)
ダビデは、どのようなひとですか。
イエスは、これまでに、ダビデの子と呼ばれたことはありますか。
イエスは、どのように説明しますか。(36,37a)
イエスは、何を伝えているのでしょうか。(36,37a)
群衆は、どのように、イエスのことばを聞いていますか。(37b)
4.73.4 参照
メシア מָשִׁיחַ(ギリシャ語はキリスト、油注がれたもの。ここでは定冠詞がつき、ὁ Χριστὸς)マルコにおける「キリスト」
マルコ 1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
マルコ 8:29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
マルコ 9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
マルコ 12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
(マルコ 12:37 このように、ダビデ自身がキリスト(彼)を主と呼んでいる。それなら、どうしてキリスト(彼)はダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。)
マルコ 13:21 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
マルコ 14:61 しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。
マルコ 15:32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
他の福音書:マタイ1:1, 16, 17, 18, 2:4, 11:2, 16:20, 22:42, 23:8, 23:10, 24:5, 23, 26:63, 68, 27:17, 22、ルカ2:11, 26, 3:15, 4:41, 9:20, 20:41, 23:2, 35, 39, 24:26, 46、ヨハネ多数
マタイ11:2 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
マタイ16:20 そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
ルカ23:2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。
ルカ24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
メシア מָשִׁיחַ について信じられていたこと
イザヤ9:1-7 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、/彼らは刈入れ時に喜ぶように、/獲物を分かつ時に楽しむように、/あなたの前に喜んだ。4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、/その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、/ミデアンの日になされたように折られたからだ。5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、/血にまみれた衣とは、/火の燃えくさとなって焼かれる。6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、/ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、/その名は、「霊妙なる議士、大能の神、/とこしえの父、平和の君」ととなえられる。7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、/ダビデの位に座して、その国を治め、/今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
イザヤ11:1-9 エッサイの株から一つの芽が出、/その根から一つの若枝が生えて実を結び、2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、/主を知る知識と主を恐れる霊である。3 彼は主を恐れることを楽しみとし、/その目の見るところによって、さばきをなさず、/その耳の聞くところによって、定めをなさず、4 正義をもって貧しい者をさばき、/公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、/その口のむちをもって国を撃ち、/そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。5 正義はその腰の帯となり、/忠信はその身の帯となる。6 おおかみは小羊と共にやどり、/ひょうは子やぎと共に伏し、/子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、/小さいわらべに導かれ、7 雌牛と熊とは食い物を共にし、/牛の子と熊の子と共に伏し、/ししは牛のようにわらを食い、8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、/乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、/やぶることがない。水が海をおおっているように、/主を知る知識が地に満ちるからである。
エレミヤ23:5-8 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。7 主は言われる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地から導き出された主は生きておられる』とまた言わないで、8 『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きておられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる」。
エレミヤ33:14-18 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。15 その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。16 その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。17 主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。
エゼキエル34:23-27 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。25 わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。26 わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。27 野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。
詩篇89:20-24 わたしはわがしもべダビデを得て、/これにわが聖なる油をそそいだ。21 わが手は常に彼と共にあり、/わが腕はまた彼を強くする。22 敵は彼をだますことなく、/悪しき者は彼を卑しめることはない。23 わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、/彼を憎む者どもを打ち倒す。24 わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、/わが名によって彼の角は高くあげられる。
(福音書における)ダビデ
マルコ 2:25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。
マルコ 11:10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
マタイ 1:6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、
マタイ 1:17 だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
マタイ 1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
マタイ 12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。(Cf. マルコ2:25)
ルカ 1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。
ルカ 1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、
ルカ 1:69 わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。
ルカ 2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
ルカ 2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
ルカ 3:31 メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、
ルカ 6:3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。(Cf. マルコ2:25)
ダビデの子(イエスに関して)
マルコ 10:47,48 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
マルコ 12:35-37 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、/『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』。37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
マタイ 1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイ 9:27 そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。(Cf. マルコ10:47,48)
マタイ 12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
マタイ 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
マタイ 20:30,31 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。31 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
マタイ 21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、/「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。(Cf. マルコ 11:9)
マタイ 21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、(Cf. マルコ 11:9)
マタイ 22:42,43 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。(Cf. マルコ 12:35-37)
ルカ 18:38,39 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。(Cf. マルコ10:47,48)
ルカ 20:41-44 イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。42 ダビデ自身が詩篇の中で言っている、/『主はわが主に仰せになった、43 あなたの敵をあなたの足台とする時までは、/わたしの右に座していなさい』。44 このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。(Cf. マルコ 12:35-37)
ヨハネ 7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
ローマ1:3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、
テモテへの第二の手紙 2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
サムエル記下7:8-17(ナタンの預言)
- 8 それゆえ、今あなたは、わたしのしもべダビデにこう言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、9 あなたがどこへ行くにも、あなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地上の大いなる者の名のような大いなる名をあなたに得させよう。10 そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。11 また前のように、わたしがわたしの民イスラエルの上にさばきづかさを立てた日からこのかたのように、悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。12 あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。13 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。15 しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。16 あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。17 ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。
ソロモンの詩篇(BC1世紀または2世紀)外典 17章の一部(sacred-text.com における英文の和訳)
主よ、見よ、ダビデの子を彼らのために王として立ててください。神よ、あなたが見る時に、彼はあなたのしもべイスラエルを治めます。彼に力を授け、不義の支配者たちを打ち砕き、 エルサレムを踏みにじって滅ぼす国々からエルサレムを清めさせてください。彼は知恵と正義をもって罪人を相続地から追い出し、 陶器師の器のように罪人の高慢さを滅ぼします。彼は鉄の杖で彼らの財産をすべて打ち砕き、 口の言葉で神を恐れない国々を滅ぼします。彼の叱責によって国々は彼の前から逃げ去り、 彼は心の思いについて罪人を責めます。
(中略)そして彼は異邦の民を自分のくびきの下に従わせ、全世界に見られる場所で主の栄光をたたえ、エルサレムを清めて、昔のように聖なる所とする。
4.73.5 記録
日時:2024年11月7日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)1名
4.73.6 問いについて
イエスは、どこで、どのようなことについて話し始めますか。(35)
35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。35 Καὶ ἀποκριθεὶς ὁ Ἰησοῦς ἔλεγεν διδάσκων ἐν τῷ ἱερῷ· πῶς λέγουσιν οἱ γραμματεῖς ὅτι ὁ χριστὸς υἱὸς Δαυίδ ἐστιν;
[DQ] 「キリスト」は何ですか。イエスのことですか。
[A] ὁ χριστὸς となっていて、イエスのことではない。そのことを含めて訳すと「どうして学者は、来たるべき神の油注がれた王が、ダビデの子であると言えるか。」
ダビデは、どのようなひとですか。
ダビデについては、サムエル記上16-サムエル記下全体-列王記上2:11 参照
サムエル記下7:8-17(ナタンの預言)一部抜粋
- 12 あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。13 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。15 しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。16 あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。
イザヤ9:6,7 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、/ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、/その名は、「霊妙なる議士、大能の神、/とこしえの父、平和の君」ととなえられる。7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、/ダビデの位に座して、その国を治め、/今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
イザヤ11:1,2 エッサイの株から一つの芽が出、/その根から一つの若枝が生えて実を結び、2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、/主を知る知識と主を恐れる霊である。
エゼキエル23:23,24 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
詩篇89:20 わたしはわがしもべダビデを得て、/これにわが聖なる油をそそいだ。
イエスは、これまでに、ダビデの子と呼ばれたことはありますか。
マルコ 10:47,48 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。(マタイ20:30,31、ルカ 18:38,39)
[A] マルコでは、エリコでの、盲人叫びの中でしか使われていない。しかし、マタイ、ルカでは他にもある。
マタイ 1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイ 12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。(ベルゼブル論争の箇所で、並行箇所のマルコ3章ではダビデの子という言葉は出てこない。)
マタイ 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。(フェニキアの女の箇所で、並行箇所のマルコ7章ではダビデの子という言葉は出てこない。)
マタイ 21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、/「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。(エルサレム入城の箇所で、並行箇所のマルコ 11:10では、「今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」となっており、ダビデの子という言葉は出てこない。)
(参照)ヨハネ 7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
(参照)ローマ1:3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、(テモテへの第二の手紙 2:8)
イエスは、どのように説明しますか。(36,37a)
36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、/『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』。37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。
[DQ] 詩篇110篇の引用は、どのようなことを言っているのでしょうか。
詩篇110:0-1 ダビデの歌 1 主はわが主に言われる、/「わたしがあなたのもろもろの敵を/あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
イエスはダビデとメシヤ(キリスト)の関係についてどのように言っていますか。
[A] 「主」と「わが主」とダビデが想定されていると思われる「わたし」がいる。主は、神ととるのが自然であろう。我が主は、明らかではないが、特別な存在で、主が、わたしの右に座していなさいという存在である。それも、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでと、ある期間限定である。その後、どうなるのかは明確ではないが、主の右の座よりも高い場所が用意されているように見える。
[参考] ヘブル 1:3,4 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。
イエスは、何を伝えているのでしょうか。
[DQ] イエスは、キリストはダビデの子ということを否定しているのでしょうか。
- [A] 表面的には否定しているように見える。
[DQ] イエスは、自分がダビデの子であることを否定しているのでしょうか。
- [A] 明確には、イエスがメシアであるかには、触れていない。
[DQ] キリストは、ダビデの子を超えるものである。ということでしょうか。
- [A] マタイ、ルカでは、イエスがダビデの子であるという記述を肯定しているように見えるので、聖書全体としては、キリスト・イエスはダビデの子を超えるものということを伝えていると考えるのが穏当であろう。しかし、マルコだけで考えると、イエスがダビデの子であることは、否定しているように見えるので、ここだけから、ダビデの子を超えるものとすることはできない。
群衆は、どのように、イエスのことばを聞いていますか。(37b)
37b 大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
マタイ22:46 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。
ルカ20:40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。(復活についての問いの後、ルカは、最も大切な戒めはここには入れていない)
マルコ12:34b それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。(最も重要な戒めの最後)
[A] 大ぜいの群衆が喜んでと書いてあり、最も重要な戒めにある「ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認め」(12:28a)と似た表現のように見える。ただ、無論、これは、マルコの記述で、マルコが伝えられたことなのだろう。しかし、それが、マタイやルカでは、このような群衆の取り方が書かれていない。
4.73.7 メモ
共観福音書の差異:三つの共観福音書とも、イエスがこの問いを語りだしている。しかし、マタイでは、「パリサイ人たちが集まっていたとき」(マタイ22:41)となっており、さらに、イエスが「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」と問うたときに、パリサイ人が「ダビデの子です」と答えたように書かれている。マルコでは、そのように言っているのが「律法学者」であるとしており、マタイと通じる面があるが、ルカでは「人々」と一般化している。そのルカには、最後に人々の反応は書かれておらず、マルコでは「大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。」とこのトピックを閉じ、マタイでは、「イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。」として、イエスの答えが素晴らしかったところに力点がおかれ、人々の反応とは、少し異なる表現になっている。ただ、マルコも、マタイも、ルカもこのあと、律法学者に注意せよとのくだりに移る。マタイは、そこでも「律法学者とパリサイ人」として、パリサイ人を明示している。
問い:キリストはダビデの子かという問いに対して三つの共観福音書ともイエスは否定している。イエスがダビデの子かという問いに関しては、福音書によってどのように記述されているのだろうか。
問い:マルコにおいても、一箇所、エリコで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(10章47節、48節では「イエス」が省略)と叫んでいる箇所があるが、他の福音書と比較して非常に注意して「ダビデの子」とは書かれていないように見える。この箇所でも、ひとびとは、必ずしもメシアをダビデの子だとは考えてないように見える。実際には、どうだったのだろうか。
マルコは、イエスがダビデの子かということに、一貫して否定しているように見える。次の項にあるように、ダビデの子と登場するのは、この箇所以外は、エリコで盲人が読んだ箇所だけである。ダビデのような、または、ダビデの家系から、救い主が現れることは、預言書には、書いてあるように見える。しかし、イエスは、そのような表現をここで、否定し、神に油注がれたメシアは、ダビデの子ではないと言っているように見える。
マタイや、ルカの誕生物語などから見ると、生まれにおいては、イエスはダビデの系列、末裔であることが書かれており、かつ、ダビデの子と、キリストを明確に区別しているようには見えず、マルコとの差が見え、あまり注意していないように見える。単純に、ダビデの子キリストという定式のもとでキリストについて語られているように見える。パウロ文書においても、肉において、つまり生まれが、ダビデの末裔であることは、書かれており、そのことを強調はしないものの、この箇所を深く認識しているようには見えない。その意味でも、この箇所は、たいせつなのであろう。
榊原(マタイによる福音書下 p.95)で、「『わが主』という呼び方は、場合によっては、自分より目下の者にでもあてはめられました。ヨセフも、彼の王パロの『父、その全家の主』と呼ばれ(創世記45:8)、アロンも弟モーセに『わが主よ』と呼びかけました(出エジプト32:22、民数記12:11)。ですから、ダビデがメシヤを『わが主』と呼んだこと自体は、メシアがダビデの『子』ではないかどうかを立証しません。つまり、イエスの論証は、ダビデがメシヤを『子』と呼んで見下したか、『主』と呼んで見上げたか、というような断片的な言葉じりにこだわった論証ではないのです。むしろ、『キリストをどう思うか。だれの子なのか』と問い、『どうしてダビデの子であろうか』と打ち消して、ダビデならざるかたの『子』つまり神の子である、と答えを出す議論なのである。」としていますが、これは、共観福音書の中で、イエスをダビデの子と呼び、パウロ書簡でも、肉によればダビデの子孫とよんでいることを肯定し、そのうえで、ここを説明しているためと思われます。「このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」(マルコ12:37、この部分はマタイ、ルカもほぼ同文)から考えると、ダビデの子という呼称自体も否定している、マルコの注意深さが背景にあるように思う。実際に、血筋として、ダビデの子孫かどうかは、「作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。」(テモテ前書1:4、参照:テトス3:9、ヘブル7:3)から、重視しないのがよいように思われる。むろん、そうするとイエスの降誕に関する、マタイと、ルカの記述について、議論をしないといけないのだが。
なぜ、マルコでは、注意深く書かれているか。ルカ23:2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。マルコがペテロや他のイエスと行動をともにした弟子たちの証言を元にしているとすると、イエスが訴えられたことに対する反証を記すことも重要だったと思われる。すこしあとに書かれたルカでは、引用句のように書かれている。軽々しく、キリストだと証言することは、憚られたのではないかと思われる。
4.74 12:38-40 律法学者を非難する
38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
4.74.1 マタイ 23:1-36
1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、6 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、7 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。13 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。14 〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。16 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。17 愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。18 また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。19 盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。20 祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。21 神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。22 また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。23 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。24 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。25 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。26 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。31 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。32 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。33 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。34 それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。35 こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。36 よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。
4.74.2 ルカ 20:45-47, (11:37-54)
45 民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、47 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
(参考)ルカ11:37-54 37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。42 しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。43 あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。44 あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。45 ひとりの律法学者がイエスに答えて言った、「先生、そんなことを言われるのは、わたしたちまでも侮辱することです」。46 そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。52 あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、54 イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。
4.74.3 問い
イエスは、どのような場で誰に対して誰に気をつけなさいといいますか。(38ab)
イエスは、この人たちはどのようなことを好んでいると言っていますか。(38c,39)
イエスは、この人たちはどのようなことをしていると言っていますか。(40a)
イエスは、この人たちはどうなると言っていますか。(40b)
マタイでは、他にどのようなことがこの人たちについて語られていますか。
イエスは、何をこのひとたちについて語りながら、何を、伝えているのでしょうか。
4.74.4 参照
大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。(37b)は、ここにつなげて読んだほうが良いかもしれない。
- バークレイ:新約聖書の節の区分は、16世紀にステファヌスによって最初に書き入れられた。彼は馬で印刷所に行く途中、それを書き入れたといわれている。
偽善(ὑπόκρισις: i. an answering, ii. an answer, iii. the acting of a stage player, iv. dissimulation, hypocrisy )・偽善者(ὑποκριτής: i. one who answers, an interpreter, ii. an actor, stage player, iii. a dissembler, pretender, hypocrite)
マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、/『この民は、口さきではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。(マルコはこの一回のみ)
マルコ 12:15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。
マタイ6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
マタイ6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
マタイ6:16 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
マタイ7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
マタイ15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
マタイ22:18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。
マタイ23:13, 14,15, 23, 25, 27, 28, 29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。
- 23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
マタイ24:51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
ルカ6:42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
ルカ12:1 その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。
ルカ12:56 偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。
ルカ13:51 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
ガラテヤ2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。
テモテ第一4:2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。
ペテロ第一2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
詩篇26:4 わたしは偽る人々と共にすわらず、/偽善者と交わらず、
律法学者・パリサイ(マルコ)
マルコ1:22 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
マルコ2:6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、(体の麻痺した人を癒やす)
マルコ2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。(レビを弟子にする)
マルコ2:18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。(断食についての問答)
マルコ2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。(安息日に麦の穂を摘む)
マルコ3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。(手の萎えた人を癒やす)
マルコ3:22 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。(ベルゼブル論争)
マルコ 7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。(昔の人の言い伝え)
マルコ 7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。(昔の人の言い伝え)
マルコ7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。(昔の人の言い伝え)
マルコ8:11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。(人々はしるしを欲しがる)
マルコ 8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。(パリサイ人のパン種とヘロデのパン種)
マルコ8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、(イエス死と復活を予告する)
マルコ9:11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。(イエスの姿が変わる)
マルコ9:14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。(汚れた霊にとりつかれた子を癒やす)
マルコ10:2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。(離婚について教える)
マルコ10:33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。(イエス三度自分の使徒復活を予告する)
マルコ11:18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。(神殿から商人を追い出す)
マルコ11:27 彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、(権威についての問答)
マルコ 12:13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。(皇帝への税金)
マルコ12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。(最も重要な戒め)
マルコ 12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。(最も重要な戒め)
マルコ 12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。(ダビデの子についての問答)
マルコ 12:38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、(律法学者を非難する)
マルコ 14:1 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。(イエスを殺す計画)
マルコ 14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。(裏切られ逮捕される)
マルコ 14:53 それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。(最高法院で裁判を受ける)
マルコ 15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議をこらした末、イエスを縛って引き出し、ピラトに渡した。(ピラトから尋問される)
ローマ10:2,3 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
マタイ11:28-30 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
使徒15:5-11 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。6 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。
1コリント7:35,36 わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。 36 もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。
2コリント 10:17,18 誇る者は主を誇るべきである。18 自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。
ユダヤ古代誌(フライビウス・ヨセフス)XVII-2-4
- ヘロデの情勢が私が述べたような状況にあったとき、すべての公務はアンティパトロスにかかっていた。そして彼の権力は、彼が望むだけ誰に対しても善行を施すことができたほどで、これは彼の父の許可を得て、彼の善意と忠誠を期待してのことだった。そして彼は、彼の邪悪な計画が父に隠され、彼が言うことをすべて信じさせたので、さらに権力を行使することを敢えてした。彼はまた、権力と権威のためというよりも、その前の卑劣な企ての抜け目なさのため、すべての人にとって恐ろしい存在だった。しかし、彼と友情を育んだのは主にフェロラスであり、フェロラスは彼の友情の同様のしるしを受けた。一方、アンティパトロスは女性たちを巧みに取り囲み、護衛として配置した。フェロラスは妻とその母、そして妹にひどく隷属していたからである。そして、処女の娘たちに対する侮辱に対して、彼は彼女たちを憎んでいたにもかかわらず、それでも、彼は彼女たちを我慢し、この男を仲間に加えた女性たちなしでは何もできなかった。彼女たちは、あらゆることで互いに助け合い続けた。アンティパトロスは、自分自身も母親も、彼女たちに完全に依存していた。この4人の女性は、二人はみな同じことを言ったが、フェロラスとアンティパトロスの意見は、重要でないいくつかの点で異なっていた。しかし、王の妹 [サロメ] は彼らの敵対者で、かなり前から彼らのすべての事柄に目を光らせており、この友情がヘロデに危害を加えるためになされたことを知り、王にそれを告げるつもりだった。そして、この人々は、彼らの友情がヘロデにとって非常に不快で、危害を加えやすいことを知っていたので、会っていることがバレないようにした。そこで、彼らは互いに憎み合い、時が来たら悪口を言い合った。特にヘロデが同席しているか、彼に告げ口する人がそこにいるときはそうだった。しかし、二人の親密さは、二人きりのときは、これまで以上に強固だった。これが彼らが取ったやり方だった。しかし、彼らは、最初の計画も、計画に着手したときも、計画が進んだときも、サロメには隠し切れなかった。しかし、彼女はすべてを探り出した。そして、兄との関係を悪化させ、秘密の会合や交渉、秘密裏に行われた協議についても兄に告げた。もしそれが兄を破滅させるためでなければ、公然と公にしていたかもしれない。しかし、一見すると彼らは意見が食い違っており、お互いに悪意を持っているかのように話しているが、群衆の目から離れたところでは、とても仲が良い。というのは、二人きりになると、彼らは協調して行動し、友情を絶やさず、計画を隠している相手には戦うと公言しているからである。こうして彼女はこれらのことを調べ上げ、完全に理解し、兄に伝えた。兄も彼女の言ったことをかなり理解していたが、妹の誹謗中傷を疑っていたため、それを信じる勇気はなかった。というのは、ユダヤ人の中には、父祖の律法を熟知していることを高く評価し、神に大いに恵まれていると人々に信じ込ませる一派がいたからである。この一派は、この一団の女性たちを騙したのである。この一派はパリサイ派と呼ばれ、王たちに激しく反対する立場にあった。彼らは狡猾な一派で、すぐに公然と戦い、悪事を働くレベルにまで高められた。したがって、ユダヤ人の民が皆、カエサルと王の政府に善意を誓ったとき、この男たちは6000人以上だったので、誓いを立てなかった。王が彼らに罰金を課したとき、フェロラスの妻が彼らに代わって罰金を支払った。彼女の親切に報いるために、彼らは神の啓示によって将来を予知していると信じられていたので、神がヘロデの統治は終わり、その子孫はそれを奪われるが、王国は彼女とフェロラス、そして彼らの子供たちに渡ると定めたことを予言した。これらの予言はサロメに隠されておらず、王に伝えられた。また、彼らが宮殿の周りの何人かの人々を堕落させたことも伝えられた。そこで王は、主に告発されたパリサイ人、宦官バゴアス、当時のすべての男性よりも容姿が優れていたカルス、そして彼の従妹の一人を殺した。王はまた、パリサイ人の予言に同意した自分の家族全員を殺した。バゴアスに関しては、予言によって彼らの任命された王になると予言された人物の父親であり恩人であると称されるかのように、パリサイ人によって誇張されていた。というのは、この王はすべてのものを自分の力で掌握し、バゴアスが結婚し、自分の子供を産むことを可能にするだろうからである。
4.74.5 記録
日時:2024年11月14日午後7時半〜9時半
出席(対面)2名、参加(遠隔)1名
4.74.6 問いについて
イエスは、どのような場で誰に対して誰に気をつけなさいといいますか。(38ab)
37b 大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。38ab イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。(37b もこの段落の一部と考えたほうがよいかもしれない。)
[DQ] 聴衆はどのような人たちですか。
[A] 前の段落から続いており、「大ぜいの群衆」でしょう。
批判が中心ではなく、「教の中で」が重要で、大ぜいの群衆に理解してもらいたかったのでしょう。
[DQ] 誰に対して気をつけなさいと言っていますか。
- [A] 律法学者。ただし、マタイでは「律法学者とパリサイ人」について語っているように見える。
[DQ] 律法学者とはどのような人たちですか。いままでに、登場している箇所を覚えていますか。パリサイ派の人とは同じですか。
律法の専門家だが、民から尊敬され、律法を守る基準を与えてくれる人と考えられていたと思われる。悩みや問いがある時に、このひとたちに聞けば、丁寧な解釈が聞けるような先生。
[A: 律法学者。聖書協会共同訳巻末用語解説] 律法を専門に研究し、解釈して民に教えた教師。優れた学者は多くの弟子を持ち、最高法院の議員など、社会的に尊敬される立場にあった。律法学者の多くはファイサイ派に属していたと思われる(マルコ2:16、使徒 5:34、23:9) 。
[A: ファリサイ派。聖書協会共同訳巻末用語解説] 起源はマカバイ時代の敬虔派(ハジディム)にあるとされ、イエスの時代にはサドカイ派と共に民衆に大きな影響力を持ち、イエスに敵対した。律法学者の多くはファリサイ派に属していたと思われる。(マタイ23:2など)。律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行うことや宗教的な清めを強調し、口伝の律法を重視するとともに、復活、天使、霊を認めていた(使徒 23:8)。語源のヘブライ語「ペルシム」は「分離される者」の意である。また、ルカによる福音書ではイエスを食事に招いたファリサイ派の人もいた(ルカ 7:36)。また、パウロは、自らをファリサイ派と名乗っている。(使徒23:6、フィリピ3:5)。
[DQ] 気をつけなさいとはどのようなことを伝えているのでしょうか。
警戒・批判・注意・顧み - マルコでは戦闘モードではない。
このあとを読むと、危害を加えるというような意味ではない。
イエスは、この人たちはどのようなことを好んでいると言っていますか。(38c,39)
38c 彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
[DQ] 「長い衣を着て歩くこと」の何が悪いのでしょうか。
マタイ23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
民数記15:37,38 主はまたモーセに言われた、38 「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。(神の民であることを思い起こさせるため)
[A] 敬虔の自己主張・誇示だろうか。
[DQ] 「広場であいさつされること」の何が悪いのでしょうか。
[A] 人からの称賛と尊敬を受けることが目的化されている。
ラビ「わたしの偉大なる方」
[DQ] 「また会堂の上席、宴会の上座を好(むこと)」の何が悪いのでしょうか。
- [A] 人からの称賛と尊敬を受けることが目的化されている。
[DQ] 具体的な表現になっていますが、これらが問題なのでしょうか。もし、このようなことの背後にあることであるなら、どのように表現しますか。
- [A] 神様との関係を、人の中の評価に変えてしまっている。
イエスは、この人たちはどのようなことをしていると言っていますか。(40a)
40a また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。
[DQ] 「やもめたちの家を食い倒し」とは具体的にどのようなことでしょうか。
[参考] 1テモテ6:5 また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。
[Q] 利得を求めることを言っているのかもしれないが、これがひどいことはすぐわかるのではないか。なにを言っているのか。
[DQ] 「見えのために長い祈をする」とは具体的にはどのようなことで、どうしたら良いのでしょうか。
イエスは、この人たちはどうなると言っていますか。(40b)
40b 彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
[DQ] さばきとは、死んだあとのことでしょうか。
[A] おそらく、今の世でも、来たるべき世でも。
[DQ] なぜ、ことさら「律法学者」が重い裁きを受けるのでしょうか。
[A] 律法、神のみこころを教えるひとたちで、民は信頼しているから。
- [参照] ヤコブ 3:1 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
[DQ] なぜだろうか。第一の(最も大切な)戒めから考えるとどうでしょうか。
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
神を愛し、神が愛される隣人を愛する。神を愛することから始めたことが、そこには向かっていない。隣人を愛することからはじめたことが、隣人を愛することからそれてしまっている。
マタイでは、他にどのようなことがこの人たちについて語られていますか。
「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。」(23:2)とはどのような意味でしょうか。
「彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」(23:3)とはどんなことを伝えていますか。
[Q] 彼らのいうことを実行するなとは言っていない。「ならうな」と言っている、その意味は何であろうか。
[参考] ローマ10:2,3 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
「重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」(23:4)はどのようなことを批判しているのでしょうか。
[参考] マタイ11:(28-)30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
[参考] 使徒15:10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。
「8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」は、何を伝えようとしていますか。
なぜ仕えることがたいせつなのでしょうか。
「自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」とは実際にどのようなことをしていたのでしょうか。
偽善とは何で、偽善者とはどのような人のことでしょうか。
イエスは、何をこのひとたちについて語りながら、何を、伝えているのでしょうか。
この箇所で、イエスはどのような生き方に対して警告し、どのような生き方を指し示しているのでしょうか。
[DQ] 偽善とはどのようなものだとあなたは定義しますか。「偽善」の反対は。
[参考] 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。(マタイ23:13, 14, 15, 23, 25, 27, 29)
[DQ] 律法学者の対極を示そうとすると、どうなりますか。
- [A] イエスに従うこと
4.74.7 メモ
共観福音書の差異:マルコの律法学者非難は簡素で短く、マタイは非常に長く、ルカは異なる形にまとめてあるようだがそれは何を意味するのだろうか。
- マタイが書かれた状況の中ではそれがとても大切だったということか。ユダヤ人が多い地域、シリアあたりが可能性として高いといわれているようだが、ユダヤ教との関係をどうするかは、重要だったろう。認識は「ナザレ人の異端」から「キリスト者」という呼称に変わっていく頃だろうか。その中でも、律法学者批判は、重要だと考えたひとが編集したのかもしれない。
関連箇所にはあがっていないが、マルコ7:1-23(昔のひとの言い伝え)も、関連箇所 ルカ11:37-54、マタイ 23:1-36 と関連している。まずは、マルコ 7:1-23 を復習して、具体的な批判を学んでから、この箇所を学んだほうが良いかもしれない。この箇所だけでは、内容があまりなく理解しにくい。ただ、マルコ7:1-23(昔のひとの言い伝え)では、確かにある程度批判しているが、マタイ、ルカの対照箇所ほどの批判は感じられない。意図が異なるのかもしれない。マルコでは、このあとの、スロ・フェニキアの女のところにつながる異邦人との関係について述べられ、コルネリオのこととの関連が意識されているように思われる。
調べてみると、マルコでは、イエスがパリサイということばを出す箇所は、マルコ 8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。だけのように思われる。イエスの受難告知でも、律法学者としている。たしかに、律法学者の多くがパリサイ人ともされているが、それは、一つの派なので、律法の専門家と理解し、注意しなさいと考えるのが良いのだろう。そして、これは、おおぜいの群衆に向けた話である。マタイでは、このような論争が拡大しているのだろうが、マルコでは、敵をつくるようなことはしていないようにみえる。人々に、目的が、神様を愛すること、隣人を愛することからズレてしまっていることを指摘しているのではないだろうか。それを示すには、この短い箇所で十分なのかもしれない。同時に、それは、キリスト者にも同じ危険があることを示しても入るだろう。
なぜ(ことさら)律法学者を非難する記事が入っているのだろう。
- おそらく、私たちにもとても関係があるということなのだろう。律法学者のようになる可能性が強いと。
4.75 12:41-44 やもめの献金
41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
4.75.1 ルカ 21:1-4
1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て 3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
41Καὶ καθίσας κατέναντι τοῦ γαζοφυλακίου ἐθεώρει πῶς ὁ ὄχλος βάλλει χαλκὸν εἰς τὸ γαζοφυλάκιον. καὶ πολλοὶ πλούσιοι ἔβαλλον πολλά· 42καὶ ἐλθοῦσα μία χήρα πτωχὴ ἔβαλεν λεπτὰ δύο, ὅ ἐστιν κοδράντης. 43καὶ προσκαλεσάμενος τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ εἶπεν αὐτοῖς· ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι ἡ χήρα αὕτη ἡ πτωχὴ πλεῖον πάντων ἔβαλεν τῶν βαλλόντων εἰς τὸ γαζοφυλάκιον· 44πάντες γὰρ ἐκ τοῦ περισσεύοντος αὐτοῖς ἔβαλον, αὕτη δὲ ἐκ τῆς ὑστερήσεως αὐτῆς πάντα ὅσα εἶχεν ἔβαλεν ὅλον τὸν βίον αὐτῆς.
4.75.2 問い
イエスは、どこで何をしていますか。(41a)
どのようなことが起こりますか。(41b,42)
イエスは、だれにどのようなことを教えていますか。(43,44)
捧げるのは何のためにすることでなにをたいせつにしたらよいのでしょうか。
イエスは、この箇所で何を教えているのでしょうか。
4.75.3 参照
The Temple at Jerusalem in Jesus’ Day, Clyde W. Votaw, University of Chicago [pdf]
- p.172,3 A10 The thirteen circular objects ranged on either side of the Women’s Court in front of the columns are the trumpet-mouthed money-boxes for receipt of alms. [賽銭箱]
貨幣:レプタ (λεπτόν: i. thin, small, ii. a small brass coin, equivalent to the eighth part of an “as”, worth about a 1/5 of a cent) 、コドラント (κοδράντης: a quadrans (about the fourth part of an “as”); in the NT a coin equal to one half the Attic chalcus worth about 3/8 of a cent)(聖書協会共同訳巻末「度量衡および通貨」より)
アサリオン:ローマの青銅貨で、一デナリオンの十六分の一(1/16 デナリオン)[マタイ10:29 二羽の雀は一アサリオン、ルカ12:6 五羽の雀は二アサリオン]
クァドランス:ローマの青銅貨で、一デナリオンの六十四分の一(1/64 デナリオン)[マルコ12:42 レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス、マタイ5:26 最後の一クァドランスを支払うまで]
タラントン:ギリシャで用いた計算用の単位で、6,000ドラクメに相当 [マタイ18:24 一万タラントン借金している家来、マタイ25:14-30 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて、旅に出た。黙示録16:21 一タラントンほどの重さもある大粒の雹]
デナリオン:ローマの銀貨で、1デナリオンは、1ドラクメと等価(1日の賃金に当たる)[マルコ6:37 二百デナリオンものパンを買いに行って、マルコ12:15 デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。マルコ14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、マタイ18:28 百デナリオン貸している仲間の一人、マタイ20:1-16 一日につき一デナリオンの約束で、マタイ22:19 彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、ルカ7:41 一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオン、ルカ10:35 翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、ルカ20:24 デナリオン銀貨を見せなさい。ヨハネ6:7 二百デナリオンのパンでは足りないでしょう。ヨハネ12:5 この香油を三百デナリオンで売って。黙示録6:6 小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。]
ドラクメ:ギリシャの銀貨で、重さ約4.3g、デナリオンと等価 [ルカ15:8 ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、他に、エズラ記 2:69、ネヘミヤ記 7:69-71]
ムナ:ギリシャの銀貨で、1ムナが100ドラクメに相当 [ルカ19:11-27 十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し]
レプトン:最小の銅貨で、1デナリオンの1/128 [マルコ12:42 レプトン銅貨二枚、ルカ12:59 最後の一レプトンを支払うまで、ルカ21:2 レプトン銅貨二枚]
参考(旧約):
シェケル銀貨:もともとは、ペルシャの銀貨で、重さ約5.6g。ダリク金貨の 1/20に相当
- シェケル自体は重さの単位で、発見されている分銅の平均値では、11.4g
ダリク金貨:前6世紀以来、ペルシャ帝国の金貨で重さ約8.4g
榊原康夫(ルカによる福音書):ネロ時代、過越祭の神殿巡礼者は270万200人に達したと、ヨセフォスは計算した。(ユダヤ戦役6:9:3)その献金は、たいへんな額に上ったはずです。ポンペイウス将軍が神殿金庫から奪った金は2000タラント(約7億2000万円)もあったと言います。(ユダヤ古代史14:4:4)。ですから、貧乏やもめの「レプタ(薄っぺらなの意)銅貨二つ」など、献金しなくてもなんということはなかったはずです。二レプタは、ささげることを許された最低額でした。(タルムード、ババ・バスラ 10b)
聞きなさい( Ἀμὴν [Of Hebrew origin אָמֵן] λέγω ὑμῖν)
マルコ3:28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる
マルコ8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。
マルコ9:1 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
マルコ9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
マルコ10:15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
マルコ10:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、
マルコ11:23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
マルコ12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
マルコ13:30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
マルコ14:9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
マルコ14:18 そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。
マルコ14:25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
マルコ14:30 イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
キリスト教Q&A(日本基督教団用賀教会)
Q.7「献金」って何ですか?
- 礼拝の献金時,司式者が「『感謝と献身のしるし』として献金をささげましょう」と言います.その言葉の通りです.つまり,献金は神の恵みへの感謝であり,更には自分自身を献げるという信仰の証しです.神様は天地万物をお造りになりました.その中には私たち人間も含まれています.すべての被造物は造り主である神様のものであります.私たちも例外ではありません.「私」という存在そのものは神様のものなのです.特にキリスト者は,造られた存在だけに留まらず,神の独り子イエス・キリストが十字架上でご自分の命をささげるという尊い代価を払って神様に買い取られた存在です(コリント一6章19-20節).神様のものである「この私」を献げるという信仰の表れが献金であります.また,私のためのイエス様が尊い命を十字架の上で献げてくださったことを感謝し,更には,教会生活ができる恵みが与えられていることを感謝する.これらを目に見える形で表すのは「献金」です.
Q.8 献金はどのように使われますか?
- 献金の祈りの時,「御用のためにお使いください」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います.この言葉が意味するのは,申し上げるまでもなく,神様の御用のためにお使いください,ということです.では,神様の御用のためにとは,具体的にどういうことでしょうか.「神様の御用」とは,何と言っても「福音を宣べ伝えること」です.この一点のために,教会は存在し,牧師は存在します.献金は,目に見える形としては,牧師の謝儀,建物の維持運営,諸々の会の活動,対外支援などに「お金」として使われます.しかし,教会におけるこれらのすべては専ら神様の福音を伝えるためのものです.その限りにおいては「神様の御用のために」ということになります.
Q.9 月定献金と席上献金の違いは何ですか?
- 月定献金は,他に「維持献金」と呼ばれることもあります.この言葉の通り,教会の維持・運営のために献げるものです.席上献金の意味は,「感謝と献身のしるし」です.神の恵みに感謝し,神の栄光と宣教の奉仕のために,時間を献げ,賜物を献げ,人生を献げる.その「しるし」が主日礼拝の席上献金です.席上献金や月定献金は決して礼金
榊原康夫(ルカによる福音書)真の献金
犠牲を払う献金(有り余る中から投げ入れた vs 乏しい中から、生活費の全部を投げ入れ)
心から喜んでするもの
生きがいそのものを神に見出すもの(隠れた所で見ておられる父:マタイ6:4)
4.75.4 記録
日時:2024年11月21日午後7時半〜9時半
出席(対面)4名、参加(遠隔)0名
4.75.5 問いについて
イエスは、どこで何をしていますか。(41a)
41a イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。
[DQ] どのように描写されていますか。イエスの様子からどんなことがわかりますか。
[Q] 休憩だろうか。どこにいたのだろうか。異邦人の庭の回廊近くから、婦人の庭の入口にある、賽銭箱をみていたのだろうか。
賽銭箱に金を投げ入れる様子とあり、何らかの特徴的なしぐさが見て取れたのだろう。献金袋などでは、そのようなことは起きないが、13個のおそらく金属製のラッパ型をした投入口にがらんがらんと入れていたのを音とともに見ていたのかもしれない。
- The Temple at Jerusalem in Jesus’ Day [pdf] p.172,3 A10
[参照] マタイ6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
どのようなことが起こりますか。(41b,42)
41b 多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
「多くの金持」が「たくさんの金を投げ入れていた」。ところが「ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。」(タルムードによると)捧げることのできる最低限度を捧げた。
[DQ] この様子を、あなたは、どのように想像しますか。
- 金持ちは、金属のラッパの形をした賽銭箱に投げ入れ、ラッパを吹き鳴らすようなことをしていた。大金なら、ゴロンゴロンと大きな音がしたでしょう。このとき、こっそりかどうかはわかりませんが、チャランとレプタ二枚投げ入れた、おそらく見るからに、みすぼらしい格好をしていて想像できたのか、その女性やその痛み・苦しみについてご存知だったのかは不明ですが、そのような女性がいたのでしょう。もしかすると、そのとき、祈っていたかもしれない。周囲からは、冷たい目で見られていたかもしれない。その様子をイエスは見ていたということだろう。
[DQ] このとき、そこにいる人々はどのように見ていたでしょうか。あなたなら、どう見ますか。
- 見えるもの、聞こえる音から、想像したり、捧げ物がどう使われるかを思い、その価値を値踏みしていたかもしれない。ヘロデの神殿と呼ばれているが、まだ、改築中であったから、神殿(教会)のために使ったり、または、祭司職、レビ人などに支給したり、日常の祭儀に使ったりすることを考えていたかもしれないし、そのお金を貧しい人に施すことに使っていたのかもしれない。
イエスは、だれにどのようなことを教えていますか。(43,44)
43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
「よく聞きなさい。」で始まっている。重要な教え。
- イエスの口癖とも言える。Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ほんとうに、わたしは、あなたがたに言います。(直訳)「よく言い聞かせておくが」「よく聞いておくがよい」「よく言っておくが」「よく聞きなさい」「よく聞いておきなさい」「特にあなたがたに言っておくが」「あなたがたによく言っておく」「あなたによく言っておく」と、マルコでは、少しずつ違うことばで訳されている。
[DQ] イエスはなぜ「乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部」と判断できたのでしょうか。
- 身なりや様子から、周囲のひとにもある程度想像できるものだったのだろうか。
[DQ] イエスは金持ちたちの献金とまずしいやもめの献金をどのように比較していますか。(44)貧しいやもめと金持ちはなにが違うのでしょう。
みんなの者はありあまる中から vs あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部
神様から与えられているものに対する神様の御用のために捧げるまたは感謝のために捧げる献身の度合いだろうか。与えらているすべてを捧げていることが評価されている。
[DQ] 多数者(Majority)はどのような人たちで、少数者(Minority)はどのような人たちでしょうか。
「多くの金持」 vs 「ひとりの貧しいやもめ」
「ありあまる中から投げ入れた」「みんなの者」vs 「その乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れた」「あの婦人」
[Q] わたしは、どちら側にいるだろうか。
捧げるのは何のためにすることでなにをたいせつにしたらよいのでしょうか。
[DQ] 神様に捧げるとは、献金とは、寄付とは。どのようなことなのでしょうか。
[A] 全体としては、神様の御用のため
律法に書いてある義務・責任(什一献金だけでなく様々な規定がある)
神様の恵みと憐れみに対する感謝
神様を礼拝することを共同で支える
神様の働き・愛の行為のため、貧しい人を助けるなど
[DQ] 神様は、すべてのものを持っておられるのではないでしょうか。なにか、欠乏があるのでしょうか。
[DQ] なにのために、捧げますか。
[DQ] イエスの目から見て(神様の秤で)やはりたくさんいれることがよいのでしょうか。
イエスは、この箇所で何を教えているのでしょうか。
前段では、律法学者に気をつけなさいとイエスは教えました。では、どのようなことを倣うべきなのでしょうか。
38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
家を食い倒されたやもめであれば、本当に悲惨。このやもめに、救いはあるのだろうか。
[DQ] イエスは、この女のひとに、あなたは「だれよりもたくさん入れたのだ」と言ってあげたら、この女の人も、幸せになるのではないでしょうか。
- 隠れたところをみておられる主に委ねるのは、とても難しい。
[DQ] 「あらゆる持ち物、その生活費全部」を捧げなさいと言っているのだろうか。
そのように取れないことはないが、おそらく、違うのだろう。
ルカ19:1-10 8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。9 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。(ザアカイは半分捧げている。)
[DQ] 神様は、どのような視点で、人々の行為、たとえば献金を見ているのでしょうか。
イエス様は、神の子、神様のこころを知るものとして、神様の視点を教えているのではないだろうか。
逆に、人々はどう見ているのだろうか。
[DQ] ここで教えているのは、ここまでで、このやもめは、明日から生きていけないのだろうか。
[Q] なにか、緊急支援の手をさしのべないといけないのではないだろうか。
神さまに委ねるとすることで良いのだろうか。おそらく、それは、正しい答えを見つけるのではなく、わたしたち一人ひとりが、神様の御心を行うことによって、神様とともに働くことに加えさせていただくことに、委ねられているのだろう。
4.75.6 メモ
共観福音書の差異:マルコと、ルカは、ほぼ同じ構成で、やもめの献金を、ダビデの子についての問答、律法学者を非難するのあと、神殿の崩壊を予告するの前においてる。教える相手について、マルコでは、途中で「弟子たちを呼び寄せて」語られるが、ルカでは、その記述はなく、その前の律法学者を非難する箇所の冒頭の、「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちにいわれた。」(20:15)から続いているように思われる。内容を見ると他にもマルコとルカの違いがある。マルコには「さいせん箱にむかってすわり Καὶ καθίσας κατέναντι (over against) τοῦ γαζοφυλακίου」とあるがその部分はルカにはない。そのあとも「多くの金持ち πολλοὶ πλούσιοι」「ひとりの貧しいやもめ μία χήρα πτωχὴ」とマルコではなっているが、ルカでは「金持ちたち」「ある貧しいやもめ」となっている。短い箇所ではあるが全体として、ルカには、マルコの現場を切り取ったような表現が欠け、話し、または教えとしてまとめられているように見える。マタイでは、ダビデの子についての問答のあとは、律法学者とファリサイ派の人々を非難するが殆ど一章続き、最後にルカでは別の箇所に含まれ、マルコにはない、エルサレムのために嘆く記事(マタイ23:37-38, ルカ13:34-35)があり、このやもめの献金についての記事はない。すなわち、律法学者やファリサイ派の人々は批判しても、やもめの献金に対して最大の評価をする記事は入れられなかった背景があるとも考えられる。ユダヤ人キリスト者の指導的な立場の人達が著書だったということか。
やもめはなにかの象徴だろうか。やもめのようになれと言っているのだろうか。それとも、そうではないひとを非難しているのだろうか。
- おそらくそう単純ではないだろうが、少数者(minority)として描かれ、多数者(majority)には、「多くの金持ち」だけでなく、「ありあまる中から投げ入れた」「みんなの者」が含まれ、さらに、弟子たち、クリスチャンにも呼びかけられているのだろう。それ故に、マタイはこの箇所を加えず、律法学者やパリサイ人への批判・呪でとめておいたのか。そう考えると、キリスト者自身として、心配になり、恐ろしくもなる。
律法学者を非難する前段では、律法学者が律法の真意をそれを守ることによって神様の御心を行い、人々に教えることから離れて、またはそれて違った方向にいってしまったことが問題であったように思われるが、このやもめの献金の箇所でも、献金や寄付の本来の意味からそれてしまっていることが指摘されているのかもしれない。では、献金とは寄付の目的は何なのだろうか。それをまず考えなければならない。「神様の恵みと憐れみに対する感謝の応答として神様の業に捧げ物と奉仕によって加えさせていただくこと」だろうか。同時に、対比が強烈である。イエスの「だれよりもたくさん入れた」という根拠が、「みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」となっている点である。それは、イエスの目から見て(神様の秤で)やはりたくさんいれることがよいのかという問いにも結びつくが、おそらく、それも少し違うように思う。おそらく、神様がどう見ておられるかをイエス様の視点から教えているのではないだろうか。しかし、それだけでよいのだろうか。このやもめに「安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ5:34,10:52)と言えるだろうか。神さまに委ねるとすることで良いのだろうか。おそらく、それは、正しい答えを見つけるのではなく、わたしたち一人ひとりが、神様の御心を行うことによって、神様とともに働くことに加えさせていただくことに、委ねられているのだろう。Savior Complex (わたしが助けなければいけないという強い感情)はどうしたら良いのだろうか。
4.76 13:1-2 神殿の崩壊を予告する
1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
4.76.1 マタイ 24:1-2
1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。2 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
4.76.2 ルカ 21:5-6
5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、6 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。
4.77 13:3-13 終末の徴
3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
4.77.1 マタイ 24:3-14
3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
4.77.2 ルカ 21:7-19
7 そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。14 だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。15 あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。16 しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。17 また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。18 しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることは ない。19 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
4.77.3 問い
この会話はいつどこでどのように始まりますか。(1)
イエスは、宮について何と言っていますか。(2)
誰が何をイエスに聞いていますか。(3,4)
イエスはどんなことが起こると言っていますか。(5-13)
イエスはそれぞれについて、どのようなことを注意し、教えていますか。(5-13)
わたしたちは、これらのことについて、どのように考え、何に注意し、生きていったら良いのでしょうか。
4.77.4 参照
- ユダヤ戦記(The Wars of the Jews - Or, the history of the destruction of Jerusalem, by Flavius Josephus, Translated by William Whiston in Project Gutenberg)V-5-5 寺院の説明。Google Chrome の日本語への翻訳機能を利用。(2024.11.28)
1. さて、この神殿は、すでに述べたように、堅固な丘の上に建てられました。最初、頂上の平地は、聖なる家と祭壇を置くにはほとんど十分ではありませんでした。周囲の土地は非常に不均一で、断崖のようでした。しかし、神殿を建てたソロモン王が東側に壁を築いたとき、神殿のために築かれた土手の上に一つの回廊が加えられ、他の部分には聖なる家は何もなかったのです。しかし、後の時代に、人々は新しい土手を加え、12 丘はより広い平地になりました。その後、北側の壁を壊し、神殿全体の周囲に十分なだけの土地を確保しました。そして彼らは丘の麓から神殿の周囲 3 面に壁を築き、期待以上の大工事を終えると (この工事に長い年月が費やされ、神聖な財宝はすべて使い果たされたが、それでもなお、居住可能な全地から神に送られた貢物によって補充されていた)、上庭を回廊で囲んだ。これは神殿の最下庭を後から行ったのと同じである。この回廊の最下部分は 300 キュビトの高さに建てられ、場所によってはそれ以上になった。しかし、基礎の深さ全体は見えなかった。彼らは土を運び、谷を埋め立て、町の狭い通りと同じ高さにしようとしたからである。そこでは 40 キュビトの大きさの石が使われた。当時彼らが持っていた莫大な資金と人々の寛大さにより、この試みは信じられないほど成功した。そして、達成されることは期待もできなかったが、忍耐と長い時間によって、完成に至った。
2. さて、これらの基礎の上にある作品は、そのような基礎に値しないものではありませんでした。すべての回廊は二重で、それらに属する柱は高さが25キュビトで、回廊を支えていました。これらの柱はそれぞれ1つの完全な石でできており、その石は白い大理石でした。屋根は奇妙な彫刻が施された杉で飾られていました。これらの回廊の自然の壮麗さと優れた磨き、そして継ぎ目の調和は、非常に注目すべき眺めを提供しました。また、外側には画家や彫刻家の作品で飾られていませんでした。回廊(最外庭)の幅は30キュビトで、アントニアの塔を含めてその全体の周囲は6ファーロングでした。空気にさらされた中庭全体にはあらゆる種類の石が敷かれていました。これらの[最初の]回廊を通り抜けて神殿の第二の中庭に行くと、周囲は石で造られた仕切りがあり、その高さは3キュビトでした。その造りは非常に優美で、その上には等間隔で柱が立っていました。柱には、ギリシャ文字とローマ文字で「外国人は聖域に入ってはならない」という清浄の掟が記されていました。神殿の第二の中庭は「聖域」と呼ばれ、第一の中庭から14段の階段で上がれる場所でした。この中庭は四角形で、周囲には独特の壁がありました。建物の高さは、外側は40キュビトでしたが、13 階段で隠されており、内部の高さはわずか 25 キュビトでした。丘のより高い部分に面して階段で建てられているため、丘自体に覆われて内部を完全には見分けることができませんでした。この 13 段の向こうには 10 キュビトの距離があり、これはすべて平らでした。そこからさらに 5 キュビトの階段があり、門に通じていました。門は北側と南側に 8 つ、その両側にそれぞれ 4 つ、東側には必然的に 2 つありました。その側には女性のための仕切りが建てられていたため、女性のための 2 番目の門が必要でした。この門は最初の門の向かい側の壁から切り取られました。他の側にも南側の門と北側の門が 1 つずつあり、そこから女性の庭への通路がありました。他の門に関しては、女性はそこを通ることは許されていませんでした。また、女性が自分の門を通るときも、自分の壁の外に出ることはできませんでした。この場所は、我が国の女性にも、他の国の女性にも、同じ国の女性であれば平等に割り当てられた。この中庭の西側には門は全くなく、壁はそっち側に完全に建てられていた。しかし、門の間にある回廊は壁から部屋の前まで内側に伸びていた。回廊は非常に美しく大きな柱で支えられていた。これらの回廊は単一で、その大きさを除けば、下庭の回廊に劣るものではなかった。
3. これらの門のうちの九つは、そのすべての側面が金銀で覆われており、その戸口の側柱や鴨居も同様であった。しかし、聖なる宮の外にある一つの門は、コリントの青銅でできていて、銀と金で覆われているだけの門よりはるかに優れていた。それぞれの門には二つの扉があり、その高さはそれぞれ三十キュビト、幅は十五キュビトであった。しかし、それらの門の内側には三十キュビトの広い空間があり、それぞれの側に部屋があり、その幅と長さはともに塔のように建てられており、その高さは四十キュビト以上あった。また、これらの部屋を支えている二本の柱があり、その周囲は十二キュビトあった。他の門の大きさはどれも同じであったが、聖なる宮の門の東側に開いているコリントの門の上の門は、それよりずっと大きく、その高さは五十キュビトであった。その扉は40キュビトあり、他の扉よりもずっと豪華で厚い銀と金の板で覆われ、非常に高価な方法で装飾されていました。これらの9つの門には、ティベリウスの父であるアレクサンダーによって銀と金が注がれました。さて、女性の庭の壁からこの大きな門まで15段の階段がありましたが、他の門からそこに続く階段は5段短かったです。
4. 神殿の最も神聖な部分である、中庭の中央に置かれた聖なる家は、12段の階段で上がれ、正面の高さと幅は等しく、それぞれ100キュビトであったが、後ろは40キュビト狭かった。正面には、両側に肩と呼ばれるものがあり、さらに20キュビト続いていた。最初の門は高さ70キュビト、幅25キュビトであったが、この門には扉がなかった。なぜなら、それは天国の普遍的な可視性を表し、どこからも排除できないことを表していたからである。正面は全面が金で覆われており、そこから家のより内側の最初の部分が全て見えた。その部分は非常に大きかったので、より内側の門の周りの部分はすべて、それを見る人々には輝いて見えた。しかし、家全体が内部で二つに分かれていたため、私たちの目に見えていたのは最初の部分だけでした。その高さは、全体にわたって 90 キュビト、長さは 50 キュビト、幅は 20 キュビトでした。しかし、家の最初の部分のこの端にあった門は、すでに述べたように、その周囲の壁全体と同様に、全体が金で覆われていました。門の上には金のブドウの木があり、そこから人の背丈ほどもあるブドウの房が垂れ下がっていました。しかし、この家は二つに分かれていたため、内側の部分は外側よりも低く、高さ 55 キュビト、幅 16 キュビトの金の扉がありました。しかし、これらの扉の前には、扉と同じ大きさのベールがありました。それはバビロニアのカーテンで、青、上質の亜麻布、緋色、紫で刺繍されており、その織り目は本当に素晴らしいものでした。また、この色の混合には神秘的な解釈が伴うのではなく、宇宙のある種のイメージである。緋色は謎めいた火を、上質の亜麻は大地を、青は空気を、紫は海を意味しているようであった。この類似性の基礎となる色は、この二つの色であるが、上質の亜麻と紫はそれぞれ独自の基礎の起源を持ち、一方は大地から、他方は海から生まれた。このカーテンには、生き物を表す十二の星座を除いて、天の神秘的なものすべてが刺繍されていた。
5. 誰かが神殿に入ると、その床が彼らを迎えた。神殿のこの部分の高さは六十キュビト、長さも同じであったが、幅はわずか二十キュビトであった。しかし、その六十キュビトの長さはまた分割され、その最初の部分は四十キュビトで切り取られ、その中には、すべての人々の間で非常に素晴らしく有名な三つのもの、すなわち、燭台、供えのパンのテーブル、および香の祭壇があった。七つのともしびは七つの惑星を意味していた。燭台からはたくさんのともしびが出ていたのである。テーブルの上の十二のパンは、黄道十二宮と一年を意味していた。しかし、香の祭壇は、海から補給された13種類の甘い香りのする香料によって、神が地球上の居住不可能な部分と居住可能な部分の両方にあるすべてのものの所有者であり、それらはすべて神の使用のために捧げられるべきであることを意味しました。しかし、すべての神殿の中で最も奥まった部分は20キュビトでした。これもまた、幕によって外側の部分から分離されていました。そこには何もありませんでした。そこは近づくことも侵すこともできず、誰にも見られず、至聖所と呼ばれていました。さて、神殿の下の部分の両側には小さな家があり、そこから他の家へと通じる通路がありました。それらの数は非常に多く、3階建てでした。また、神殿の門からそれらの両側に入口がありました。しかし、神殿の上部には、そのような小さな家はありませんでした。神殿はそこでは狭く、40キュビト高く、下部よりも小さい本体であったからです。したがって、床から60キュビトを含む全体の高さは、100キュビトであったことがわかります。
6. さて、神殿の正面の外面には、人々の心や目を驚かせるようなものは何もありませんでした。なぜなら、神殿は重厚な金の板で全面が覆われていて、太陽が昇る最初の瞬間に、非常に燃えるような輝きを反射し、無理やり見ようとする人たちは、太陽の光線を見るときと同じように、目をそらしたからです。しかし、この神殿は、遠くから近づいてくると、見知らぬ人には、雪に覆われた山のように見えました。金メッキされていない部分は、非常に白かったからです。その頂上には、鳥が止まって汚れないように、先の尖った釘が付いていました。その石の中には、長さが45キュビト、高さが5キュビト、幅が6キュビトのものもありました。この神殿の前には、高さ15キュビトの祭壇があり、長さと幅は同じで、それぞれの寸法は50キュビトでした。神殿は四角形で、角は角のようであった。そこに至る通路は、知覚できないほどの傾斜をなしていた。それは鉄の道具を使わずに造られ、いかなる鉄の道具もそれに触れることはなかった。また、高さ約1キュビトの仕切り壁があり、それは良質の石で造られ、見栄えがよいようになっており、聖なる家と祭壇を囲み、外にいる人々を祭司たちから遠ざけていた。さらに、淋病やらい病にかかっている者は完全に町から締め出され、女性も月経が続くと神殿から締め出され、その不浄から解放されたときも、前述の限度を超えることは許されなかった。男性も、完全に清浄でない者は神殿の内庭に入ることを禁じられ、清浄でない祭司たち自身も神殿に入ることを禁じられた。
7. さて、身体に何らかの欠陥があるために奉仕できない祭司の家系の者たちは皆、そのような欠陥のない者たちとともに仕切りの内側に入り、家系のゆえに彼らと分け前をもらいましたが、それでも自分の私服以外は何も着ませんでした。なぜなら、奉仕する者以外は誰も聖なる衣を着ていなかったからです。しかし、身に何の傷もない祭司たちは、上等な亜麻布を着て祭壇に上りました。彼らは、奉仕の規則に違反する恐れがあるため、主に酒を控えました。大祭司も彼らとともに上りました。もちろんいつもというわけではなく、七日目と新月、そして毎年祝う私たちの国に属する祭りがあるときだけでした。彼が儀式を行うとき、彼は股下から股下まで届くズボンを履き、亜麻布の内衣と、青い衣を着ていた。その衣は丸く、縫い目がなく、房飾りが付いていて、足まで届いていた。房飾りには金の鈴も付いており、その中にはざくろが混じっていた。鈴は雷を、ざくろは稲妻を意味していた。しかし、その衣を胸に結びつける帯には、金、紫、緋色、また上等の亜麻布と青色の様々な色の五列の刺繍が施されていた。その色は、神殿の垂れ幕にも刺繍が施されていたことを、私たちが以前あなた方に話したとおりである。エポデにも同様の刺繍が施されていたが、金の量はもっと多かった。その形は、胸にかけるストマッカーの形をしていた。その上には、小さな盾のような二つの金のボタンが付いていて、エポデを衣に留めていた。これらのボタンには、その国の部族の名前が刻まれた、非常に大きくて非常に優れた2つの赤縞瑪瑙がはめ込まれていました。反対側には、一方に3つ、もう一方に4つの、合計12の石がぶら下がっていました。赤縞瑪瑙、トパーズ、エメラルド、カーバンクル、ジャスパー、サファイア、瑪瑙、紫水晶、リグレ、縞瑪瑙、緑柱石、貴石で、そのそれぞれに前述の部族の名前が刻まれていました。また、上等な亜麻布のミトラが彼の頭を囲み、青いリボンで結ばれていました。その周囲には別の金の冠があり、その中に神聖な名前(神の)が刻まれていました。それは4つの母音で構成されています。しかし、大祭司は他の時にはこれらの衣服を着用せず、より簡素な服装をしていました。彼がそれをしたのは、神殿の最も神聖な場所に入ったときだけで、それは年に一度、私たち全員が神への断食を行う習慣がある日にだけだった。これが町と神殿に関することのすべてである。ただし、これに関連する習慣と法律については、より正確な話はまた別の機会にしましょう。ここでは触れられていない、これに関連する多くの事柄が残っているからです。
8. さて、アントニアの塔は、神殿の庭の二つの回廊の角、すなわち西側と北側の回廊の角に位置していた。それは高さ五十キュビトの岩の上に建てられ、大きな断崖の上にあった。それはヘロデ王の作品であり、彼はそこに彼の生まれながらの寛大さを示した。第一に、岩自体は、装飾のため、また登ろうとする者も降りようとする者も足を踏み入れることができないように、基礎から滑らかな石片で覆われていた。その隣、そして塔自体の建物に来る前に、高さ三キュビトの壁があったが、アントニアの塔自体の空間全体は、その壁の内側、高さ四十キュビトまで建てられていた。内部は宮殿のような広さと形をしており、中庭や水浴場、野営地用の広い空間など、あらゆる種類の部屋や設備に分かれていた。そのため、都市に必要な設備がすべて整っていることから、複数の都市で構成されているように見えるが、壮麗さから宮殿のようであった。また、全体の構造は塔に似ており、四隅にはさらに 4 つの塔があった。他の塔の高さはわずか 50 キュビトであったが、南東の角にある塔は 70 キュビトあり、そこから神殿全体を眺めることができた。しかし、神殿の 2 つの回廊とつながる角には、両方の回廊に下りる通路があり、そこを通って警備員 [この塔には常にローマ軍団が駐留していた] が、ユダヤ人の祭りのときには武器を持って回廊の間を何度も行き来し、人々が何か新しいことをしようとしないよう監視した。神殿は町を守る要塞であり、アントニアの塔は神殿を守るものであった。そして、その塔には、これら三つの守備隊がいた。 14また、上部の町に属する特別な要塞があり、それはヘロデの宮殿であった。しかし、すでに述べたように、ベゼタの丘のために、アントニアの塔とは分けられていた。そして、アントニアの塔が立っていたその丘は、これら三つの中で最も高かったので、新しい町に隣接しており、北側の神殿の視界を遮る唯一の場所であった。そして、今のところは、町とその周囲の城壁について述べたので十分であろう。なぜなら、私は、それについて、他の場所でより正確な説明をしようと考えたからである。
- 神殿の破壊:ヨハネ2:18-22 13 さて、ユダヤ人の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、15 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。18 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
- 主の日について:2テサロニケ2:1-12 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。5 わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
- 産みの苦しみ
- 創世記3:16 つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。
- 詩篇48:6 おののきは彼らに臨み、/その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
- 雅歌8:5 自分の愛する者によりかかって、/荒野から上って来る者はだれですか。りんごの木の下で、わたしはあなたを呼びさました。あなたの母上は、かしこで、/あなたのために産みの苦しみをなし、/あなたを産んだ者が、かしこで産みの苦しみをした。
- イザヤ45:10 父にむかって/『あなたは、なぜ子をもうけるのか』と言い、/あるいは女にむかって/『あなたは、なぜ産みの苦しみをするのか』と/言う者はわざわいだ」。
- イザヤ54:1 「子を産まなかったうまずめよ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、/声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、/とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。
- イザヤ67:7,8 シオンは産みの苦しみをなす前に産み、/その苦しみの来ない前に男子を産んだ。だれがこのような事を聞いたか、/だれがこのような事どもを見たか。一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。一つの国民はひと時に生れるだろうか。しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなや/その子らを産んだ。
- マルコ13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
- マタイ24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
- ローマ8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
- ガラテヤ4:19 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。
- ガラテヤ4:27 すなわち、こう書いてある、/「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、/その数は、夫ある女の子らよりも多い」。
- 1テサロニケ5:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
- 黙示録12:2 この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。
- にせキリスト、にせ預言者
- マルコ13:22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
- マタイ24:24 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
- マタイ7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
- マタイ24:11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
- ルカ6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
- 使徒13:6 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、そこでユダヤ人の魔術師、バルイエスというにせ預言者に出会った。
- 2ペテロ2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
- 1ヨハネ4:1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
- 黙示録16:13 また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
- 黙示録19:20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
- 黙示録20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
- 耐え忍ぶ(ὑπομένω:i. to remain, ii. to remain i.e. abide, not recede or flee)
- マルコ13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
- マタイ10:22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
- マタイ24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
- ルカ21:19 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
- 2テモテ2:10 それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。
- 2テモテ2:12 もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。
- ヤコブ1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
- ヤコブ5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
- 1ペテロ2:19 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。
- ユダヤ社会の背景(バークレイ:マルコによる福音書 p.367)
- ユダヤ人たちは、自分らが選民であることを決して疑わなかった。また彼らはいつか、選民にふさわしく、選民に約束されている世界における場所を占めるだろうと、決して疑わなかった。その場所を人間的な手段によって獲得するという考えを捨ててから、ずいぶん月日を経過していた。神の介入される日が主の日であった。主の日の前に恐怖と苦難の時があるだろう。それは世界がその基まで動かされる破壊のときであるだろう。そして審判のときであろう。しかし、それに新しい世界、新しい時代、新しい栄光が続くだろう。と。ある意味では、この思想はおさえることのできない楽天主義の産物であり。ユダヤ人は神が突入してこられるのを確信していた。ある意味ではそれは冷たい厭世主義の産物である。なぜなら、この世は完全に悪であり、ただその完全な破壊と新しい世界の現出があれば満足であるという思想に基づいていたからである。彼らは改革を待ち望まなかった。事柄の全機構において完全に再形成され、再生産されるのを待ち望んだ。
- アモス5:16-20 それゆえ、主なる万軍の神、/主はこう言われる、/「すべての広場で泣くことがあろう。すべてのちまたで人々は/『悲しいかな、悲しいかな』と言う。また彼らは農夫を呼んできて嘆かせ、/巧みな泣き女を招いて泣かせ、17 またすべてのぶどう畑にも泣くことがあろう。それはわたしがあなたがたの中を/通るからである」と主は言われる。18 わざわいなるかな、主の日を望む者よ、/あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。19 人がししの前を逃れてもくまに出会い、/また家にはいって、手を壁につけると、/へびにかまれるようなものである。20 主の日は暗くて、光がなく、/薄暗くて輝きがないではないか。
- イザヤ13:6-16 あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、/滅びが全能者から来るからだ。7 それゆえ、すべての手は弱り、/すべての人の心は溶け去る。8 彼らは恐れおののき、苦しみと悩みに捕えられ、/子を産まんとする女のようにもだえ苦しみ、/互に驚き、顔を見あわせ、/その顔は炎のようになる。9 見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、/その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。10 天の星とその星座とはその光を放たず、/太陽は出ても暗く、/月はその光を輝かさない。11 わたしはその悪のために世を罰し、/その不義のために悪い者を罰し、/高ぶる者の誇をとどめ、/あらぶる者の高慢を低くする。12 わたしは人を精金よりも、/オフルのこがねよりも少なくする。13 それゆえ、万軍の主の憤りにより、/その激しい怒りの日に、/天は震い、地は揺り動いて、その所をはなれる。14 彼らは追われた、かもしかのように、/あるいは集める者のない羊のようになって、/おのおの自分の民に帰り、/自分の国に逃げて行く。15 すべて見いだされる者は刺され、/すべて捕えられる者はつるぎによって倒され、16 彼らのみどりごはその目の前で投げ砕かれ、/その家はかすめ奪われ、その妻は汚される。
- ヨエル2:1-3 あなたがたはシオンで/ラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。国の民はみな、/ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。2 これは暗く、薄暗い日、/雲の群がるまっくらな日である。多くの強い民が/暗やみのようにもろもろの山をおおう。このようなことは昔からあったことがなく、/後の代々の年にも再び起ることがないであろう。3 火は彼らの前を焼き、/炎は彼らの後に燃える。彼らのこない前には、/地はエデンの園のようであるが、/その去った後は荒れ果てた野のようになる。これをのがれうるものは一つもない。
- ヨエル2:28-32 その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、/あなたがたの老人たちは夢を見、/あなたがたの若者たちは幻を見る。29 その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。30 わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。32 すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。
- ヨエル3:14 群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである。15 日も月も暗くなり、星もその光を失う。16 主はシオンから大声で叫び、/エルサレムから声を出される。天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、/イスラエルの人々のとりでである。17 「そこであなたがたは知るであろう、/わたしはあなたがたの神、主であって、/わが聖なる山シオンに住むことを。エルサレムは聖所となり、/他国人は重ねてその中を通ることがない。18 その日もろもろの山にうまい酒がしたたり、/もろもろの丘は乳を流し、/ユダのすべての川は水を流す。泉は主の家から出て、/シッテムの谷を潤す。19 エジプトは荒れ地となり、エドムは荒野となる。彼らはその国でユダの人々をしえたげ、/罪なき者の血を流したからである。20 しかしユダは永遠に人の住む所となり、/エルサレムは世々に保つ。
4.77.5 記録
日時:2024年11月28日午後7時半〜9時半
出席(対面)3名、参加(遠隔)1名
4.77.6 問いについて
この会話はいつどこでどのように始まりますか。(1)
1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
[DQ] どのようなことに注目していますか。
- ヘロデ神殿(第三神殿と呼ばれる。ソロモン神殿、バビロン帰還後に再建した神殿、そして、ヘロデ大王が建て始めこのときも建設が続いていた神殿。AD70にユダヤの反乱を収めたローマ軍によって徹底的に「その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなる」ように破壊される)の壮麗さ。
- ユダヤ戦記V-5-6a さて、神殿の正面の外面には、人々の心や目を驚かせるようなものは何もありませんでした。なぜなら、神殿は重厚な金の板で全面が覆われていて、太陽が昇る最初の瞬間に、非常に燃えるような輝きを反射し、無理やり見ようとする人たちは、太陽の光線を見るときと同じように、目をそらしたからです。しかし、この神殿は、遠くから近づいてくると、見知らぬ人には、雪に覆われた山のように見えました。金メッキされていない部分は、非常に白かったからです。その頂上には、鳥が止まって汚れないように、先の尖った釘が付いていました。その石の中には、長さが45キュビト、高さが5キュビト、幅が6キュビトのものもありました。この神殿の前には、高さ15キュビトの祭壇があり、長さと幅は同じで、それぞれの寸法は50キュビトでした。神殿は四角形で、角は角のようであった。そこに至る通路は、知覚できないほどの傾斜をなしていた。それは鉄の道具を使わずに造られ、いかなる鉄の道具もそれに触れることはなかった。また、高さ約1キュビトの仕切り壁があり、それは良質の石で造られ、見栄えがよいようになっており、聖なる家と祭壇を囲み、外にいる人々を祭司たちから遠ざけていた。
[DQ] 壮麗なものをほめてはいけないのでしょうか。
- やもめの献金(12:41-44)と関連があるかもしれない。神の視点を教えておられる。
- 43b イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
- イエスには、やはり教えるべき、神様の視点があったのだろう。このあとのイエスの言葉でも、禁止しているわけではない。単に、儚いものだよということだけを伝えている。
[DQ] マルコでは、誰が言ったと書いてありますか。マタイ、ルカと比較してみましょう。
「弟子のひとり」マタイでは「24:1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。」ルカでは「21:5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、」。
マルコでは、弟子の一人で、このあと3節以降のことにも名前が出てくるが、マタイでは、弟子たちとぼやかし、ルカでは、人々としている。マタイでは、これらは、弟子集団に語られたように書かれ、ルカでは、人々に対してより一般的に語られたこととして記述されている。時代的要請がことなるのだろう。おそらく、実際に起こったことは、マルコが近いのではないかと思われる。一般から具体に移行することは難しい。
イエスは、宮について何と言っていますか。(2)
2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
[DQ] イエスは、どのような思いで、このようなことを言ったのでしょうか。
壮麗な物質を称賛することに対する虚しさは弟子たちには伝えたかったのではないだろうか。
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
神殿に関して、いくつかの言葉が混入されている可能性も排除できない。共観福音書では、宮きよめは、受難週伝承に入っているが、2:19 はイエスの言葉としては入っておらず、逆に「『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。(使徒6:14 ステパノの逮捕)「言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。」(マタイ27:40)と、イエスを非難することに用いられている。
神殿破壊についてが一般的で、マルコ13:2 は、(実際に神殿が破壊された)後からの加筆だったかもしれない。
[DQ] 具体的な神殿崩壊の預言をしているのでしょうか。それともより一般的な物質の壮麗さに目を奪われることについてでしょうか。
- おそらく、後者のほうに、中心があるように思われる。ヨハネ2:19 のように言ったか、それとも、13:2 のように、言われたかは不明だが。
誰が何をイエスに聞いていますか。(3,4)
3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
[DQ] 質問した様子はどのように描かれていますか。どのようなことがわかりますか。
3b ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4a 「わたしたちにお話しください。
1節の「弟子の一人」は誰かは不明だが、この四人が「ひそかに」「わたしたちに」と聞いた場面は、多少秘密を独占しようという感じが受け取れる。「弟子の一人」とは差別化しているのかもしれない。
[DQ] マタイと、ルカも確認してみましょう。どんな違いがありますか。それは、なぜでしょう。
マタイ24:3b 弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、ルカ21:7 そこで彼ら(ある人々)はたずねた
[Q] この人たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)は、どのような人たちですか。
共観福音書によると最初にイエスの弟子になった二組の兄弟。十二弟子の一員。ヨハネによる福音書によると、アンデレは最初バプテスマのヨハネの弟子で、最初にイエスをメシアと呼んだひとである。
- ヨハネ1:40,41 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。
ヤイロの娘
- マルコ5:37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。
高い山に三人だけ連れて登る。
- マルコ9:2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
ゲッセマネ
- マルコ14:33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
[DQ] 何を聞いていますか。
「いつ、そんなことが起る(か)」「(そんなことがことごとく成就するような場合には、)どんな前兆がありますか」
直接的には、「神殿崩壊は、いつ起こり、どんな前兆があるか。」
[DQ] このあとのイエスの答えからすると、神殿崩壊がいつかと、その前兆を意識して話しているのでしょうか。それとも、終わりの時?
おそらくそうではない。「そんなこと」からもっと深い意味を受け取っているように見える。
共感福音書成立年とも関係する記事で、たしかに、マルコの2節の記述が、実際にそのことが起こったあとに書かれたとされている、マタイ、ルカでもほとんど正確に受け継がれている。マルコのこの部分は、AD70以降に書かれたものなのだろうか。エルサレムにのぼるまでの活動はペテロ由来と思われ、古いのではないかと思われるが、受難週の伝承は別かもしれない。その意味で、最終的に今の形になったのは、AD70 頃なのかもしれない。
イエスはどんなことが起こると言っていますか。(5-13)
5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
[DQ] イエスの名を名乗って現れるとはどのようなことですか。
- おそらく意味は広い。再臨のイエスだというものもあるかもしれないし、イエスの生まれ変わり、群れの指導者であることを示そうとしたりする。
- [Q] 「にせ預言者」(マタイ24:11)とはどのような人でしょうか。
- マルコ13:22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
- マタイ24:24 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
- 2テサロニケ2:2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。
7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。9a あなたがたは自分で気をつけていなさい。
[DQ] 戦争や自然災害や飢饉については、どのように言われていますか。
- 戦争(民と民、国と国、人間同士の争い)、地震(自然災害)、飢饉(社会的な問題)、
- [Q] 「産みの苦しみの始まり」は、どのようなことを伝えているのでしょうか。
- 突然起こり、いつまで続くかわからず、命を生み出す、命にに関わる痛み。
9b あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
[DQ] 弟子たち(あなたがた)に対してはどのようなことが起こると言われていますか。
イエス(キリスト)のために、①衆議所に引きわたされ、②会堂で打たれ、③長官たちや王たちの前に立たされ、④彼らに対してあかしをさせられる
[Q] どんな証でしょうか。
- 福音?
[DQ] 「福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。」は、何を伝えているのでしょうか。(ルカにはない)
- それまでは、おわりは来ない。
[DQ] 福音が全世界に宣べ伝えられまで、終わりは来ないのでしょうか。
12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
[DQ] 家族などすべての人に憎まれるとは、どんなことが言われているのでしょうか。
- ①兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡、②子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させる、③わたしの名のゆえに、すべての人に憎まれる
イエスはそれぞれについて、どのようなことを注意し、教えていますか。(5-13)
[DQ] イエスの名を名乗って現れるとき
- 人に惑わされないように気をつけなさい。
[DQ] 戦争や自然災害が起こる時
- 産みの苦しみの初めにおいて、自分で気をつけていなさい。
[DQ] 福音のために証言を求められるとき
自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
[Q] 迫害のときはどのような機会になると言ってますか。またどのような約束を与えていますか。
[DQ] 家族などすべての人に憎まれるとき
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
[Q] なぜ愛が冷えるのでしょうか。(マタイ24:12)
- 12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
[DQ] 愛の宗教であるキリスト教なはずなのに、なぜ「すべての人に憎まれる」のでしょうか。
- 福音が宣べつらえられても、平和になるとは言っていない。
わたしたちは、これらのことについて、どのように考え、何に注意し、生きていったら良いのでしょうか。
- ①「いつ」かはわからない。②たいへんなことが起こっても惑わされるな。③神・聖霊が助けてくださる。④耐え忍びなさい。
- 神殿崩壊を相対化している。
- マルコ13:32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
- マタイ24:36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
- ルカ19:44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。
- [DQ] 耐え忍ぶとは、どのようなことでしょうか。
- マルコ13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ24:13)
- マタイ10:22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
- ルカ21:19 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。
- 耐え忍ぶ(ὑπομένω:i. to remain, ii. to remain i.e. abide, not recede or flee)
- 希望を持ち続けること!? 我慢することとは違うように思われる。
- ①「いつ」かはわからない。②たいへんなことが起こっても惑わされるな。③神・聖霊が助けてくださる。④耐え忍びなさい。
4.77.7 メモ
共観福音書の差異:マタイ、ルカにも並行記事があるが、全体的には似ている。しかし、マルコが具体的で、元々の形だと思われる。まず、「弟子のひとりが言った」とマルコではなっているが、マタイでは、「弟子たち(略)イエスの注意を促した」、ルカでは「ある人々(略)話していた。」となっており、特に、ルカでは、その後も、「あなたがた」となっていて、当時のキリスト者に語りかけているように書かれている。最後も、マルコとマタイは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」であるが、ルカは「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」(21:19)である。また、マタイには「世の終わり」(24:3)という言葉があるが、ルカでは「時(καιρός: due measure, a fixed and definite time, the time when things are brought to crisis, the decisive epoch waited for)」(21:8, 参照マルコ13:33「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」)は使われている箇所があるが、マルコとルカでは「終わり」と抽象的なことばが使われている。マルコと、ルカでは、「自分がそれだと言って、多くのひとを惑わす」とあるところを、マタイには「自分がキリストだと言って、多くの人を惑わす」としている。マルコ13:10「こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。」は、マタイには「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(24:14)と対応する箇所があるが、ルカにはない。
イエスは「いつ」と「前兆」との問いのうち、「いつ」という問いには、答えていないように見える。イエスが気にかかっていたことは、どんなことだったのだろうか。
神殿崩壊ととられる内容を語ったことで、問いが発せられている。しかし、3節以降では、起こることを、それに対する備えに中心が置かれている。
①自分がそれだというような人に惑わされるな:5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
- 人に惑わされないように気をつけなさい。
②戦争や自然災害や飢饉:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。
- 産みの苦しみの初めにおいて、自分で気をつけていなさい。
③福音のために証言を求められる:あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
- 自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
④家族などすべての人に憎まれる:12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
- 最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
G.K. チェスタートン:天国を頭の中に入れようとするのは愚か者のすることであり、彼の頭が破壊するのも当然である。賢い者は、その頭を天国の中に入れることで満足する。
榊原康夫:7つの前兆
- ① にせキリスト、② 戦争と戦争のうわさ、③ ききん、④ 地震、⑤ 教会迫害、⑥ 教会内での背教と腐敗、⑦ 全世界への福音のあかし、
4.78 13:14-23 大きな苦難を予告する
14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。15 屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。16 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。17 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。18 この事が冬おこらぬように祈れ。19 その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。21 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。23 だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。
4.78.1 マタイ 24:15-28
15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。23 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。24 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。25 見よ、あなたがたに前もって言っておく。26 だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。27 ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。28 死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
4.78.2 ルカ 21:20-24
20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。22 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ 23 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
4.79 13:24-27 人の子が来る
24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。27 そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
4.79.1 マタイ 24:29-31
29 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
4.79.2 ルカ 21:25-28
25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、26 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。
4.79.3 問い
14–16節をルカ 21:20–22と比較してみましょう。
どんなことが起こると言っていますか。それは、かなり先のことですか。
肉体的な危険のほかに、どんな危険について警告していますか。
偽預言者や、偽メシアは、見分けることができるのでしょうか。
人の子は、どのような時に来ますか。
人の子は何をしますか。
4.79.4 参照
荒らす憎むべきもの (abomination of desolation, spoken of by Daniel the prophet; τὸ βδέλυγμα τῆς ἐρημώσεως):βδέλυγμα (a foul thing, a detestable thing, i.e., of idols and things pertaining to idolatry), ἐρήμωσις (a making desolate, desolation) 「ヘブル語:ぞっとさせる涜神」
ダニエル9:27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
ダニエル11:31 彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。
ダニエル12:11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。
バークレイ「荒らす憎むべきもの」について:
- ヘブル語の表現の文字通りの意味は「ぞっとさせる涜神」である。その句の起源はアンティオコスに関連していた。すでに彼が、ユダヤの宗教を根絶させ、ギリシャ思想とギリシャ風とを導入しようとして、豚の肉を大祭壇に供え、聖域に公娼を置いて神殿を汚した。聖所そのものの前にオリンピアのゼウスの大きな像を末、ユダヤ人たちにそれを礼拝するように命じた。「荒らす憎むべきもの」「ぞっとさせる涜神」と言う句は、本来、異教の像と、アンティオコスが神殿を汚すためにそれに付属させたものとを書き表したものである。それとおなじようなことが再び起きようとしているというのが、この箇所である。
アンティオコス・エピファネス
スリアのセレウコス王朝(BC312-)の王、アンティオコス四世(BC175-163)自ら、ゼウスの権化と称した。
マカバイ記一1:54 第百四十五年、キスレウの月の十五日には、王は祭壇の上に「荒廃をもたらす憎むべきもの」を建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、
マカバイ記二6:1,2 程なくして王は、アテネ人の一人の長老を派遣した。ユダヤ人を強いて、父祖の律法から離れさせ、神の律法によって生きることをやめさせ、2 エルサレムの神殿を汚してオリンポスのゼウスの神殿と名付けさせ、ゲリジム山の神殿を、そこに住む者たちがたまたまそう呼んでいたように、ゼウス・クセニオスの神殿と名付けさせるためである。
ユダヤ古代誌12:5 大祭司職をめぐる争いが続く中、アンティオコスはエルサレムに遠征し、町を占領して神殿を略奪した。ユダヤ人を苦しめたこと、また多くのユダヤ人が自国の法律を捨てたこと、サマリア人がギリシャ人の習慣に従ってゲリジム山の神殿をユピテル ヘレニウス神殿と名付けたことなど。
1. この頃、大祭司オニアスが死ぬと、人々は彼の兄弟であるイエスに大祭司の職を与えた。オニアスが残した息子[またはオニアス4世]はまだ幼かったからである。この子に起こったすべての出来事については、しかるべきところで読者に知らせよう。しかし、オニアスの兄弟であったこのイエスは、彼に腹を立てた王によって大祭司の職を剥奪され、その弟であるオニアスにその職を与えた。シモンには3人の息子がいて、すでに読者に知らせたように、それぞれに祭司職が与えられた。このイエスは名前をジェイソンに変えたが、オニアスはメネラオスと呼ばれた。さて、前の大祭司であるイエスが、彼の後に叙階されたメネラオスに対して反乱を起こしたので、群衆は両者に分かれた。そしてトビアスの息子たちはメネラオスの側についたが、民衆の大部分はジェイソンを支持した。メネラオスとトビアスの息子たちは、そのことで困惑し、アンティオコスのもとに退き、自分たちの国の法律とそれに従ったユダヤ人の生活様式を捨て、王の法律とギリシャ人の生活様式に従いたいと申し出た。そこで彼らは、エルサレムに体育館を建てる許可を求めた。15許可が下りると、彼らは性器の割礼も隠した。裸のときでもギリシャ人に見えるようにするためである。こうして、彼らは自分たちの国の習慣をすべて捨て、他の国の習慣を真似した。
2. さて、アンティオコスは、王国の情勢が好転したので、エジプトへの遠征を決意した。エジプトを手に入れたいという願望があったからと、プトレマイオスの息子が弱体化し、まだそのような重大な問題を扱う能力がないと見なしたからである。そこで彼は大軍を率いてペルシウムに向かい、裏切りによってプトレマイオス・フィロメトルを迂回し、エジプトを占領した。次に彼はメンフィス周辺の場所に到達し、そこを占領すると、包囲してそこを占領し、そこで統治していたプトレマイオスを征服しようとして、急いでアレクサンドリアに向かった。しかし、彼は、その国に手を出すなと命じたローマ人の布告によって、アレクサンドリアだけでなくエジプト全土から追い出された。これは私が以前に別のところで述べたとおりである。これから、この王がユダヤと神殿をどのように征服したかについて、具体的に述べよう。というのは、私は以前の著作の中でそれらの事柄について非常に簡単に触れたので、今その歴史をもう一度、しかも非常に正確に検討する必要があると考えたからです。
3. アンティオコス王はエジプトから帰国し、ローマ人を恐れてエルサレム市に遠征した。セレウコス王国の百四十三年、彼はエルサレムに滞在していたが、自分の党派が門を開いたため、戦うことなくその市を占領した。エルサレムを占領すると、敵対する党派の多くを殺害し、多額の金銭を奪ってアンティオキアに戻った。
4. それから二年後、第百四十五年、われわれがカスレウと呼び、マケドニア人がアペレウスと呼ぶ月の二十五日、第百五十三オリンピアードの年、王はエルサレムに上陸し、平和を装いながら裏切りによってその町を占領した。その時、王は神殿に眠る財宝のせいで、町に入るのを許した者たちを容赦しなかった。しかし、貪欲な性癖に駆られて(神殿には大量の金と、非常に高価な多くの装飾品が奉納されていたのを見て)、その富を略奪するために、結んだ同盟を破ろうとした。そこで彼は神殿を荒らし、金の燭台、金の祭壇(香の祭壇)、供えのパンの食卓、全焼の供え物の祭壇を取り除いた。また、亜麻布と緋色の布で作った垂れ幕さえも手放さなかった。また、神殿の秘宝を空にして、何も残さなかった。こうしてユダヤ人を大いに嘆かせた。律法に従って神に毎日捧げていた犠牲を捧げることを禁じたからである。そして、彼は町全体を略奪した後、住民の何人かを殺し、何人かを妻子とともに捕虜にした。生きたまま捕らえられた捕虜の数はおよそ一万人に上った。また、最も立派な建物を焼き払い、町の城壁を倒した後、町の下部に城塞を建てた。17その場所は高台にあり、神殿を見下ろしていたため、王は高い壁と塔で要塞化し、マケドニア人の守備隊を置いた。しかし、その城塞にはユダヤ人の民衆のうち不信心で邪悪な者が住んでおり、市民が多くのひどい災難に見舞われたのは、彼らによるものであった。王は神の祭壇の上に偶像の祭壇を築き、その上で豚を殺し、律法にもその国のユダヤ教の礼拝にも従わない犠牲を捧げた。また、王は人々に、自分たちの神に捧げていた礼拝を捨て、自分が神とみなした者たちを崇拝するよう強要した。そして、神殿を建てさせ、あらゆる町や村に偶像の祭壇を建てさせ、毎日豚を捧げさせた。また、息子に割礼を施してはならないと命じ、命令に違反した者には罰を与えると脅した。彼はまた、監督者を任命し、彼らに彼の命令に従うよう強制した。そして実際、自発的に、あるいは宣告された罰を恐れて、王の命令に従ったユダヤ人はたくさんいた。しかし、最も優れた人々、そして最も高貴な魂の人々は彼を尊敬せず、不従順な者たちに彼が脅した罰よりも、自分たちの国の慣習にもっと敬意を払った。そのため彼らは毎日、大きな悲惨と苦難を味わった。彼らは棒で打たれ、体は引き裂かれ、まだ生きていて息をしているうちに十字架につけられた。彼らはまた、王の命令に従って割礼を施した女性とその息子たちを絞め殺し、十字架にかけられたまま息子たちを首にかけた。そして、律法の聖なる書物が見つかった場合は、それは破壊され、一緒に見つかった人々も惨めに死んだ。
5. サマリア人は、ユダヤ人がこのような苦難を受けているのを見て、もはや自分たちが同族であると告白せず、ゲリジム山の神殿が全能の神のものであるとも告白しませんでした。これは、すでに述べたように、彼らの性質によるものでした。そして、彼らは今や自分たちがメディア人とペルシャ人の植民地であると言いました。実際、彼らは彼らの植民地でした。そこで彼らは使節をアンティオコスに送り、次のような内容の手紙を送った。「シケムに住むシドン人から、神アンティオコス王エピファネスへの記念品。私たちの先祖は、ある疫病が頻繁に起こることと、ある古い迷信に従って、ユダヤ人が安息日と呼ぶ日を守る習慣がありました。18そして、ゲリジムと呼ばれる山に、名前のない神殿を建て、そこで適切な犠牲を捧げました。今、これらの邪悪なユダヤ人に対する正当な扱いについて、彼らの管理人は、私たちが彼らの親族であり、彼らと同じように行動していると仮定し、公文書から明らかなように、私たちはもともとシドン人であるにもかかわらず、私たちも同じ告発を受けるに値します。したがって、私たちの恩人であり救世主であるあなたに、この地域の知事アポロニウスと、その地域の知事ニカノルに命令を下すようお願いします。汝の事務の長官に、我々を煩わせたり、ユダヤ人が告発されていることを我々に押し付けたりしないで下さい。我々は彼らの民族や習慣から疎外されているのですから。しかし、現在名前のない我々の神殿をユピテル・ヘレニウス神殿と名付けて下さい。そうすれば、我々はもう煩わされることはなく、むしろ静かにして自分たちの仕事に専念し、より多くの収入を汝にもたらすでしょう。」サマリア人がこのことを嘆願すると、王は手紙で次のような返答を彼らに送り返した。「アンティオコス王よりニカノルへ。シケムに住むシドン人から、同封の告発状が送られてきました。それで、我々が友人たちとこの件について相談していたところ、彼らから送られた使者は、ユダヤ人に属する告発には全く関心がなく、ギリシア人の習慣に従って生きることを選ぶと我々に告げました。したがって、我々は彼らがそのような告発から解放されたと宣言し、彼らの請願に応じて、彼らの神殿をユピテル・ヘレニウス神殿と名付けるよう命じます。」彼はまた、46年、ヘカトラベオンの月18日に、その地域の知事アポロニウスに同様の手紙を送りました。
ユダヤ戦記I:1:1-2 1. エピファネスと呼ばれたアンティオコスが、シリア全土に対する権利をめぐって第 6 代プトレマイオスと口論していたのと時を同じくして、ユダヤの権力者たちの間で大きな反乱が起こり、彼らは政権獲得をめぐって争いました。一方、高位の者たちは、それぞれが同等の者に従うことに耐えられませんでした。しかし、大祭司のひとりであるオニアスが優勢に立ち、トビアスの息子たちを町から追い出しました。彼らはアンティオコスのもとに逃げ、彼らを指導者として利用し、ユダヤに遠征するよう懇願しました。王は事前にそのように準備していたので、彼らの要求に従い、大軍を率いてユダヤ人を襲撃し、力ずくで町を占領し、プトレマイオスを支持する大勢の人々を殺害し、兵士たちを派遣して容赦なく略奪しました。彼はまた神殿を略奪し、3年6か月間、毎日罪の償いの犠牲を捧げるという習慣を止めさせました。しかし、大祭司オニアスはプトレマイオスのもとに逃げ、ヘリオポリスのノムスで彼から地位を与えられ、そこにエルサレムに似た都市と、その神殿に似た神殿を建てました。これ については、後で適切な場所でさらに詳しく説明します。
2. アンティオコスは、この都市を思いがけず占領したり、略奪したり、そこで大虐殺を行ったりしても満足せず、激しい怒りに駆られ、包囲中に受けた苦しみを思い出し、ユダヤ人にその国の法律を破棄させ、幼児に割礼を受けさせず、祭壇に豚の肉を捧げるように強要した。ユダヤ人は皆これに反対し、最も有能な者たちは死刑に処された。要塞の守備に派遣されたバッキデスもまた、これらの邪悪な命令を受け、生来の蛮行に加わり、あらゆる種類の極悪非道な行為にふけり、住民の中でも最も立派な者たちを一人ずつ苦しめ、毎日公然と都市を破壊すると脅し、ついには極悪非道な行為によって貧しい人々を刺激して復讐させた。
バークレイ「にせキリストたちや、にせ預言者たち」異端について
自分自身に都合の良い教義を作る
真理の一部を強調する
人々に魅力的に映るようにする
交わりから離れさせる、分断を生じさせる
完全に理解できるものにする
4.79.5 記録
日時:2024年12月4日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.79.6 問いについて
前の箇所で、イエスは、どのような質問に、どのようなことを答えていましたか。(1-13)
2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
にせのイエスに惑わされるな。戦争や自然災害や飢饉は起こっても、それで終わりではないこと。福音のために証言を求められる。そして、家族などすべての人に憎まれる。
[DQ] わたしたちには、どのように勧められていましたか。
人に惑わされないように気をつけなさい。(5)あわてるな。(6) あなたがたは自分で気をつけていなさい。(9)自分に示されることを語るがよい。(11)最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(13)
福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。(10)
どんなことが起こると言っていますか。(14-22)
14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
- 15 屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。16 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。17 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。18 この事が冬おこらぬように祈れ。19 その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。
21 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
[DQ] それは、かなり先のことですか。それとも、AD66-70 のユダヤ戦役のことでしょうか。
[DQ] 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」は具体的な事件を指しているのでしょうか。
[Q] これが70年のエルサレムの破壊を意味しているとすると、何を教えようとしているのでしょうか。
[Q] エルサレムの破壊以降の人には、どのような意味があるのでしょうか。
[DQ] それはいつまでだと言っていますか。
[DQ] どのようなことがおき、それは人々にどのような影響を及ぼすと言っていますか。
どのようなことに注意するように言われていますか。(14-23)
偽預言者や、偽メシアは、見分けることができるのでしょうか。
[DQ] どのような備えが必要なのでしょうか。
[DQ] イエスはどのようなことをすすめていますか。
人の子が来るときのことはどのように描かれてますか。(24-27)
24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。27 そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
[DQ] 人の子が現れる徴としてどのようなことが起こると言われていますか。
あなたは、どのようなことを学びましたか。
- [DQ] 弟子たちの問いに関するイエスの答えは、どのようなものだったのでしょうか。
4.79.7 メモ
共観福音書の差異:
「大きな苦難を予告する」は、マルコとマタイは共通点が多いが、ルカはかなり異なる。マルコとマタイの相違点は「荒らす憎むべき者」について「預言者ダニエルによって言われた」が追加されていること、「この事が冬おこらぬように祈れ。」(18)の部分が、「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。」と安息日が加わっていること、「もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。」(20)が、「もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。」と表現が変えられていること、あとは、結びが異なり、マルコでは「だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。」(23)とだけある部分を、「25 見よ、あなたがたに前もって言っておく。26 だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。27 ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。28 死体のあるところには、はげたかが集まるものである。」と、人の子が現れることへと繋げられている。ルカでは、まず、「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。」と歴史的におそらく、だれでも認識できることが具体的に書かれ、「それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ」として、「そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。」と結ばれている。並行箇所とは言えないのかもしれない。
「人の子が来る」においても、マルコとマタイは共通点が多いが、ルカの記述は異なる。マルコとマタイの相違点は、マルコでは「この患難の後」となっている箇所に「たちまち」が追加され、さらにマルコで「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(26)となっている部分は「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」と表現され、最後の節も「ラッパ」が加わり、マルコより詳細になっている。ルカでは、これらのことが、世界規模で起こることともに、「これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」と結んでいる。まだこのあとに、続きが予測されている。
「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」(14)と始まるこの箇所は、まず、二重の意味があることを理解しなければいけないのだろう。すなわち、直接的には、神殿破壊がされる、ユダヤ戦役(AD66-70)のときのことであり、そして、そこで終わらない、将来のことについて語られている二重の構造である。実際、「荒らす憎むべきもの」は一義的には、ユダヤ教を冒涜し棄教させるために、神殿におぞましいものをもちこんだシリアのアンティオコスによるギリシャ化が想定されている。しかし、それは、イエスの時代にすでに終わっていることでもある。マルコが書かれた時代がユダヤ戦役の前か後かは不明だが、いずれにしても、それこそがこの箇所の預言ではないのだろう。もし、その預言のために書かれたのであれば、その時をもって、意味を失う。実際、「山へ逃げよ」と語られ、ユダヤにいた、その教えゆえに、キリスト者の多くは、山に逃げ、ローマによって滅ぼされなかったことも伝えられている。さらに、ここには「ユダヤにいる人」と限定的にも語られており、キリスト者は、すでに、広い範囲に広がっていたことも想定されている。つまり、ローマによるエルサレムの破壊、神殿崩壊は、ここで語られていることと重なると言えども、それが終わりではないことも確かである。それを理解して、読まなければならない。
また、イエスの再臨、世の終わりといわれるものが、来ないとは言っていない。まさに、「24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」である。このことに注意を向けなければいけない。
苦難のときをどのように生きれば良いのだろうか。
人の子が来ることを通して、なにを教えているのだろうか。
4.80 13:28-32 いちじくの木の教え
28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。29 そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
4.80.1 マタイ 24:32-35
32 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。34 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。35 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
4.80.2 ルカ 21:29-33
29 それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。30 はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。31 このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。
4.81 13:33-37 目を覚ましていなさい
33 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。
4.81.1 マタイ 24:36-44
36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
4.81.2 問い
これらのことの起きるタイミングについて、イエスは何と言っていますか。
31節は何を言っているのでしょうか。
イエスはどのような命令を与えていますか。
イエスがあげている例は何を強調していますか。
4.81.3 参照
- ルカには、このあと「目を覚ましていなさい」(21:34-37)
- 荒らす憎むべきもの
- シリアのアンティオコス王による弾圧
- マカバイ記一1:54-64 第百四十五年、キスレウの月の十五日には、王は祭壇の上に「荒廃をもたらす憎むべきもの」を建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、55 家々の戸口や大路で香をたき、56 律法の巻物を見つけてはこれを引き裂いて火にくべた。57 契約の書を隠していることが発覚した者、律法に適った生活をしている者は、王の裁きにより処刑された。58 悪人たちは毎月、町々でイスラエル人を見つけては彼らに暴行を加えた。59 そして月の二十五日には主の祭壇上にしつらえた異教の祭壇でいけにえを献げた。60 また、子どもに割礼を受けさせた母親を王の命令で殺し、61 その乳飲み子を母親の首につるし、母親の家の者たちや割礼を施した者たちをも殺した。62 だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄のものを口にしなかった。63 彼らは、食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んで命を落としていった。64 大いなる怒りがイスラエルの上に激しく臨んだ。
- カリグラ
- AD40 エルサレムに自分の像を立てることを計画。AD41 没で、実行されなかった。
- シリアのアンティオコス王による弾圧
- このあとマタイは、充実な僕と悪い僕(マタイ24:45-51、参照:ルカ12:41-48)
4.81.4 記録
日時:2024年12月11日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.81.5 問いについて
これらのことの起きるタイミングについて、イエスは何と言っていますか。
31節は何を言っているのでしょうか。
イエスはどのような命令を与えていますか。
イエスがあげている例は何を強調していますか。
マタイ
いちじくの木から学ぶべきことは何ですか。What lesson do we learn from the fig tree?
33,34 節の「これらのこと」とは何を指しているのでしょうか。What are 'all these things' in verses 33 and 34?
「天地が滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とはどのような意味でしょうか。What does 'my words will never pass away' mean when heaven and earth passes away?
「その日、その時」とはどんな時のことですか。What is 'that day or hour'?
32節,33節では「その時」が分かると言っているのではないでしょうか。Why cannot we tell that day, when we know that he is at the door? See verses 32, 33.
「ノアの時と同じ」とありますが、どのように同じなのでしょうか。In what point, it is in the days of Noah?
ノアの時代の人たちは何を知らされており、何を理解していなかったのでしょうか。What do the people know in the days of Noah, and what do they not understand?
目を覚ましているとか、用意しているとはどのようなことを言っているのでしょうか。What does it mean to 'keep watch' or 'be ready'?
ルカ
- どのようなことが必要だと言っていますか。(What does Jesus emphasize the need for watchfulness?)
4.81.6 メモ
4.82 14:1-2 イエスを殺す計略
1 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。2 彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。
4.82.1 マタイ 26:1-5
1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。2 「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。3 そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、4 策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。5 しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」。
4.82.2 ルカ 22:1-2
1 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。2 祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである。
4.82.3 ヨハネ 11:45-53
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。46 しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。47 そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。48 もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。49 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、50 ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。51 このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、52 ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。53 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。
4.82.4 問い
1–11節のできごとをまとめてみましょう。それぞれ、イエスに対してどのような態度の人が登場しますか。
イエスに香油を注いだ女に対する人々の態度、それに対するイエスの言葉からあなたは、どんなことを思いますか。マタイ26:6–13、ヨハネ12:1–8と比べてみましょう。
ユダについて、マルコはあまり書いていませんが、ユダはなぜ裏切ったのだと思いますか。
4.82.5 参照
4.82.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.82.7 問いについて
4.82.8 メモ
4.83 14:3-9 ベタニアで香油を注がれる
3 イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
4.83.1 マタイ 26:6-13
6 さて、イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
4.83.2 ヨハネ 12:1-8
1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
4.83.3 問い
1–11節のできごとをまとめてみましょう。それぞれ、イエスに対してどのような態度の人が登場しますか。
イエスに香油を注いだ女に対する人々の態度、それに対するイエスの言葉からあなたは、どんなことを思いますか。マタイ26:6–13、ヨハネ12:1–8と比べてみましょう。
4.83.4 参照
4.83.5 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.83.6 問いについて
4.83.7 メモ
4.84 14:10-11 ユダ、裏切りを企てる
10 ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。11 彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
4.84.1 マタイ 26:14-16
14 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って 15 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。16 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
4.84.2 ルカ 22:3-6
3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。4 すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。5 彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。6 ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。
4.84.3 問い
- ユダについて、マルコはあまり書いていませんが、ユダはなぜ裏切ったのだと思いますか。
4.84.4 参照
4.84.5 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.84.6 問いについて
4.84.7 メモ
4.85 14:12-21 過越の食事をする
12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。13 そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。14 そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。15 するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。16 弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。17 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。18 そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。19 弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。20 イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。21 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
4.85.1 マタイ 26:17-25
17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。18 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。23 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
4.85.2 ルカ 22:7-14; 21-23
7 さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、8 イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。9 彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。10 イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、11 その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。12 すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。13 弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
21 しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22 人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。23 弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。
4.85.3 ヨハネ 13:21-30
21 イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。22 弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。23 弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。24 そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。25 その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、26 イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。27 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。28 席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。29 ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。30 ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
4.85.4 問い
イエスは弟子たちと過ぎ越しの食事をするために、どのような準備をしておきましたか。それは何故でしょう。
イエスは食事中に何を弟子たちに知らせますか。弟子たちはどんな反応をしますか。それは何故でしょう。
4.85.5 参照
ルカではこのあと「いちばん偉いもの」の記事挿入(ルカ22:24-30)
ヨハネではこのあと「新しい戒め」(ヨハネ13:31-35)
[荒井献(直)訳] 人の子を裏切るその人は = 彼を介して人の子が引き渡されるその人は
4.85.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.85.7 問いについて
4.85.8 メモ
4.86 14:22-25 主の晩餐
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
4.86.1 マタイ 26:26-30
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
4.86.2 ルカ 22:15-20
15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
4.86.3 問い
22–25節で、イエスは、何をしていますか。どのような意味があるのでしょうか。
イエスはどんな預言をしていますか。
4.86.4 参照
4.86.5 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.86.6 問いについて
4.86.7 メモ
4.87 14:26-31 ペトロの離反を予告する
26 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。30 イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
4.87.1 マタイ 26:31-35
31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。34 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
4.87.2 ルカ 22:31-34
31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
4.87.3 ヨハネ 13:36-38
36 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。37 ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。38 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。
4.87.4 問い
ペテロは、なぜこれほど強く言い切るのでしょうか。
イエスは、そのペテロに何と言っていますか。
4.87.5 参照
- ルカではこのあと「財布と袋と剣」の記事の挿入(ルカ22:35-38)
4.87.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.87.7 問いについて
4.87.8 メモ
4.88 14:32-42 ゲッセマネで祈る
32 さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。37 それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。38 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。39 また離れて行って同じ言葉で祈られた。40 またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。41 三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。42 立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。
4.88.1 マタイ 26:36-46
36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
4.88.2 ルカ 22:39-46
39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。
4.88.3 問い
イエスはどのように祈っていますか。
弟子たちは、どうしていますか。
4.88.4 参照
4.88.5 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.88.6 問いについて
4.88.7 メモ
4.89 14:43-50 裏切られ、逮捕される
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。44 イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け」。45 彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。46 人々はイエスに手をかけてつかまえた。47 すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。48 イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。49 わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。50 弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
4.89.1 マタイ 26:47-56
47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
4.89.2 ルカ 22:47-53
47 イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。48 そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。49 イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、50 そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。52 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。53 毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。
4.89.3 ヨハネ 18:3-12
3 さてユダは、一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役どもを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやってきた。4 しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。5 彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。6 イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。7 そこでまた彼らに、「だれを捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。8 イエスは答えられた、「わたしがそれであると、言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」。9 それは、「あなたが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった」とイエスの言われた言葉が、成就するためである。10 シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。11 すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。12 それから一隊の兵卒やその千卒長やユダヤ人の下役どもが、イエスを捕え、縛りあげて、
4.89.4 問い
この場面を描いてみましょう。
イエスはどのように対応しますか。
ペテロや他の弟子たちはなぜ逃げてしまったのでしょう。
4.89.5 参照
4.89.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.89.7 問いについて
4.89.8 メモ
4.90 14:51-52 一人の若者、逃げる
51 ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、52 その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
4.90.1 問い
4.90.2 参照
4.90.3 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.90.4 問いについて
4.90.5 メモ
4.91 14:53-65 最高法院で裁判を受ける
53 それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。54 ペテロは遠くからイエスについて行って、大祭司の中庭まではいり込み、その下役どもにまじってすわり、火にあたっていた。55 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするために、イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。56 多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証言が合わなかったからである。57 ついに、ある人々が立ちあがり、イエスに対して偽証を立てて言った、58 「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。59 しかし、このような証言も互に合わなかった。60 そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。61 しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。62 イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。63 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。64 あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。65 そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。
4.91.1 マタイ 26:57-68
57 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。58 ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。65 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。66 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。67 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、68 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。
4.91.2 ルカ 22:54-55; 61-71
54 それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。55 人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。
61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。62 そして外へ出て、激しく泣いた。63 イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、64 目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。65 そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。66 夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、67 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。68 また、わたしがたずねても、答えないだろう。69 しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。70 彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。71 すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。
4.91.3 ヨハネ 18:13-14; 19-24
13 まずアンナスのところに引き連れて行った。彼はその年の大祭司カヤパのしゅうとであった。14 カヤパは前に、ひとりの人が民のために死ぬのはよいことだと、ユダヤ人に助言した者であった。
19 大祭司はイエスに、弟子たちのことやイエスの教のことを尋ねた。20 イエスは答えられた、「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。21 なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが彼らに語ったことは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。わたしの言ったことは、彼らが知っているのだから」。22 イエスがこう言われると、そこに立っていた下役のひとりが、「大祭司にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。23 イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。24 それからアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところへ送った。
4.91.4 問い
ユダヤの最高裁判所である、議会の目的は何ですか。どのような告発が書いてありますか。
大祭司は、どのような尋問をしますか。
4.91.5 参照
4.91.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.91.7 問いについて
4.91.8 メモ
4.92 14:66-72 ペトロ、イエスを知らないと言う
66 ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、67 ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。68 するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。69 ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。70 ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。71 しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。72 するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。
4.92.1 マタイ 26:69-75
69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
4.92.2 ルカ 22:56-62
56 すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。57 ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。58 しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。59 約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。62 そして外へ出て、激しく泣いた。
4.92.3 ヨハネ 18:15-18; 25-27
15 シモン・ペテロともうひとりの弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。16 しかし、ペテロは外で戸口に立っていた。すると大祭司の知り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の女に話し、ペテロを内に入れてやった。17 すると、この門番の女がペテロに言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」。ペテロは「いや、そうではない」と答えた。18 僕や下役どもは、寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。ペテロもまた彼らに交じり、立ってあたっていた。
25 シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」。彼はそれをうち消して、「いや、そうではない」と言った。26 大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。27 ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。
4.92.4 問い
ペテロの裏切りの記事を一回一回追ってみましょう。どのように言われ、ペテロはどのように答えますか。
あなたならどうするでしょうか。
4.92.5 参照
4.92.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.92.7 問いについて
4.92.8 メモ
4.93 15:1-5 ピラトから尋問される
1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議をこらした末、イエスを縛って引き出し、ピラトに渡した。2 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。3 そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。4 ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。5 しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった。
4.93.1 マタイ 27:1-2; 11-14
1 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。
11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。12 しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。13 するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。14 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。
4.93.2 ルカ 23:1-5
1 群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。3 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。4 そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。5 ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。
4.93.3 ヨハネ 18:28-38
28 それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。29 そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った、「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」。30 彼らはピラトに答えて言った、「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」。31 そこでピラトは彼らに言った、「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」。ユダヤ人らは彼に言った、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。32 これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである。33 さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。34 イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。35 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。37 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」38 ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない。
4.93.4 問い
議会はなぜ、ピラトに引き渡すのでしょうか。
ピラとはどんな尋問をし、イエスはどのように答えますか。
4.93.5 参照
マタイでは、ユダ、自殺するが挿入されている(マタイ27:3-10)
ルカでは、ヘロデから尋問される(23:6-12)
4.93.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.93.7 問いについて
4.93.8 メモ
4.94 15:6-15 死刑の判決を受ける
6 さて、祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやることにしていた。7 ここに、暴動を起し人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。8 群衆が押しかけてきて、いつものとおりにしてほしいと要求しはじめたので、9 ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。10 それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。11 しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を煽動した。12 そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。13 彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。14 ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
4.94.1 マタイ 27:15-26
15 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
4.94.2 ルカ 23:13-25
13 ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、14 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。15 ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。16 だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。17 〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕18 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。19 このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。20 ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。21 しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。23 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。24 ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。25 そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。
4.94.3 ヨハネ 18:39-19:16
39 過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。40 すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。
1 そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。2 兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、3 それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。4 するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」。5 イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。6 祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」。7 ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」。8 ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、9 もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。10 そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。11 イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。12 これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。13 ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた。14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。16 そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
4.94.4 問い
ピラトが問題にしているのはどんなことでしょうか。
ピラトが群衆を静めようとして利用したのはどんな習慣ですか。バラバについて何がわかりますか。
ピラトはどのような価値観から行動していると思いますか。
4.94.5 参照
4.94.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.94.7 問いについて
4.94.8 メモ
4.95 15:16-20 兵士から侮辱される
16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18 「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。19 また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。20 こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。
4.95.1 マタイ 27:27-31
27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。
4.95.2 ヨハネ 19:2-3
2 兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、3 それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。
4.95.3 問い
10:33, 34 と比較してみましょう。
だれが、どのようにイエスをあざけっていますか。
4.95.4 参照
4.95.5 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.95.6 問いについて
4.95.7 メモ
4.96 15:21-32 十字架につけられる
21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。22 そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。23 そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった。24 それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。26 イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。27 また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。28 〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕29 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、30 十字架からおりてきて自分を救え」。31 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
4.96.1 マタイ 27:32-44
32 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。33 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、34 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、36 そこにすわってイエスの番をしていた。37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって 40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
4.96.2 ルカ 23:26-43
26 彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。27 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。28 イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。29 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。30 そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。31 もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
4.96.3 ヨハネ 19:17-27
17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。23 さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。
4.96.4 問い
シモンというキレネ人はどのようなことをすることになりますか。(使徒13:1, ローマ16:13)
十時架刑についてどのようなことが書かれていますか。
詩篇22篇と比べてみましょう。
人が信じるために必要なものは何でしょうか。
4.96.5 参照
4.96.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.96.7 問いについて
4.96.8 メモ
4.97 15:33-41 イエスの死
33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。40 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
4.97.1 マタイ 27:45-56
45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
4.97.2 ルカ 23:44-49
44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。
4.97.3 ヨハネ 19:28-30
28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
4.97.4 問い
イエスの死をどのように描いていますか。
イエスの叫びからあなたは、どのようなことを感じますか。
神殿の幕のことはなにを意味していると思いますか。
その場にどのような人がいますか。百卒長は、なぜこのように告白したのでしょうか。
4.97.5 参照
4.97.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.97.7 問いについて
4.97.8 メモ
4.98 15:42-47 墓に葬られる
42 さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。44 ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。45 そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。
4.98.1 マタイ 27:57-61
57 夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。58 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。59 ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、60 岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。61 マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。
4.98.2 ルカ 23:50-56
50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
4.98.3 ヨハネ 19:38-42
38 そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。39 また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。40 彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。41 イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42 その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。
4.98.4 問い
ヨセフについてどんなことがわかりますか。
どのようなことをしますか。急いでしたのは何故でしょうか。
4.98.5 参照
- マタイにはこのあと、番兵、墓を見張る記事(27:62-66)
4.98.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.98.7 問いについて
4.98.8 メモ
4.99 16:1-8 復活する
1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。2 そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。5 墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。6 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。7 今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。
4.99.1 マタイ 28:1-8
1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
4.99.2 ルカ 24:1-12
1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。2 ところが、石が墓からころがしてあるので、3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。8 そこで女たちはその言葉を思い出し、9 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。11 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。12 〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕
4.99.3 ヨハネ 20:1-10
1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
4.99.4 問い
婦人たちが、墓に近付いたときのことを考えてみましょう。どんなことを心配していますか。
墓の中には何があり、婦人たちはなにを告げられますか。
婦人たちは、どうしますか。
4.99.5 参照
4.99.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.99.7 問いについて
4.99.8 メモ
4.100 16:9-11 (結び一)マグダラのマリアに現れる
9 〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。10 マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。11 彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。
4.100.1 マタイ 28:9-10
9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
4.100.2 ヨハネ 20:11-18
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
4.100.3 問い
4.100.4 参照
- マタイにはこのあと、番兵、報告する記事(28:11-15)
4.100.5 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.100.6 問いについて
4.100.7 メモ
4.101 16:12-13 二人の弟子に現れる
12 この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。13 このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。
4.101.1 ルカ 24:13-35
13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
4.101.2 問い
4.101.3 参照
4.101.4 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.101.5 問いについて
4.101.6 メモ
4.102 16:14-18 弟子たちを派遣する
14 その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
4.102.1 マタイ 28:16-20
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
4.102.2 ルカ 24:36-49
36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
4.102.3 ヨハネ 20:19-23
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
4.102.4 問い
4.102.5 参照
4.102.6 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.102.7 問いについて
4.102.8 メモ
4.103 16:19-20 天に上げられる
19 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕
4.103.1 ルカ 24:50-53
50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。
4.103.2 問い
4.103.3 参照
4.103.4 記録
日時:2024年M月DD日午後7時半〜9時半
出席(対面)X名、参加(遠隔)Y名
4.103.5 問いについて
4.103.6 メモ
Tiberius Julius Caesar Augustus: 17 September 14 – 16 March 37 (Wikipedia)↩︎
Pontius Pilate: In office 26AD-36AD↩︎
洗礼者ヨハネの誕生、予告される↩︎
洗礼者ヨハネの誕生, 1:80 幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた。↩︎
洗礼者ヨハネ殺される↩︎
ペトロ、イエスがメシアであると告白する↩︎
権威についての問答↩︎
洗礼者ヨハネとイエス↩︎
13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。 ↩︎
25この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。 ↩︎
4b 「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。 ↩︎
ἑτοιμάζω: to make ready, prepare↩︎
μετάνοια: a change of mind, as it appears to one who repents, of a purpose he has formed or of something he has done↩︎
ἄφεσις: i) release from bondage or imprisonment, ii) forgiveness or pardon, of sins (letting them go as if they had never been committed), remission of the penalty↩︎
ἁμαρτία: i) to be without a share in, ii) to miss the mark, iii) to err, be mistaken, iv) to miss or wander from the path of uprightness and honour, to do or go wrong, v) to wander from the law of God, violate God’s law, sin. [Strong] In Greek writings, 1st, an error of the understanding, 2nd, a bad action, evil deed.↩︎
κηρύσσω: i) to be a herald, to officiate as a herald, ii) to publish, proclaim openly: something which has been done↩︎
εὐθέως: straightway, immediately, forthwith (x40 in Mark)↩︎
ἀναβαίνω: ascend; a) to go up, b) to rise, mount, be borne up, spring up↩︎
σχίζω: i) to cleave, cleave asunder, rend, ii) to divide by rending, iii) to split into factions, be divided (Mark 15:38)↩︎
οὐρανός: the vaulted expanse of the sky with all things visible in it. (The KJV translates heaven (268x), air (10x), sky (5x), heavenly (with G1537) (1x).)↩︎
περιστερά: a dove (Mark 11:15)↩︎
καταβαίνω: to go down, come down, descend↩︎
ἀγαπητός: beloved, esteemed, dear, favourite, worthy of love (Mark 9:7, 12:6)↩︎
εὐδοκέω: i) it seems good to one, is one’s good pleasure a) think it good, choose, determine, decide, b) to do willingly, c) to be ready to, to prefer, choose rather ii) to be well pleased with, take pleasure in, to be favourably inclined towards one↩︎
λατρεύω: i) to serve for hire, ii) to serve, minister to, either to the gods or men and used alike of slaves and freemen↩︎
διάβολος: i) prone to slander, slanderous, accusing falsely, ii) metaph. applied to a man who, by opposing the cause of God, may be said to act the part of the devil or to side with him↩︎
πειράζω: i) to try whether a thing can be done ii) to try, make trial of, test: for the purpose of ascertaining his quality, or what he thinks, or how he will behave himself↩︎
ἐκβάλλω: to cast out, drive out, to send out, [historical present].↩︎
ἔρημος: solitary, lonely, desolate, uninhabited↩︎
πειράζω: 1. to try whether a thing can be done, 2. to try, make trial of, test: for the purpose of ascertaining his quality, or what he thinks, or how he will behave himself↩︎
Σατανᾶς: adversary (one who opposes another in purpose or act), the name given to a) the prince of evil spirits, the inveterate adversary of God and Christ, b) a Satan-like man↩︎
θηρίον: i) an animal, ii) a wild animal, wild beast, beast, iii) metaph. a brutal, bestial man, savage, ferocious↩︎
ἄγγελος: a messenger, envoy, one who is sent, an angel, a messenger from God↩︎
διακονέω: to be a servant, attendant, domestic, to serve, wait upon↩︎
παραδίδωμι: to give into the hands (of another)↩︎
κηρύσσω: to be a herald, to officiate as a herald↩︎
εὐαγγέλιον: a reward for good tidings↩︎
πληρόω: o make full, to fill up, i.e. to fill to the full↩︎
ἐγγίζω: to bring near, to join one thing to another↩︎
μετανοέω: to change one’s mind, i.e. to repent↩︎
περιπατέω: to walk↩︎
βάλλω: to throw or let go of a thing without caring where it falls↩︎
ἁλιεύς: a fisherman, fisher↩︎
δεῦτε: come hither, come here, come↩︎
ποιέω: to make↩︎
ἀφίημι:i) to send away, ii) to permit, allow, not to hinder, to give up a thing to a person, iii) to leave, go way from one,↩︎
ἀκολουθέω: i) to follow one who precedes, join him as his attendant, accompany him, ii) to join one as a disciple, become or be his disciple↩︎
προβαίνω: to go forwards, go on↩︎
πλοῖον: a ship↩︎
καταρτίζω: to render, i.e. to fit, sound, complete↩︎
εἰσπορεύομαι: to go into, enter↩︎
διδάσκω: to teach↩︎
ἐκπλήσσω: i) to strike out, expel by a blow, drive out or away, ii) to cast off by a blow, to drive out, iii) to be struck with amazement, astonished, amazed↩︎
ἐξουσία: i) power of choice, liberty of doing as one pleases, ii) physical and mental power, iii) the power of authority (influence) and of right (privilege), iv) the power of rule or government (the power of him whose will and commands must be submitted to by others and obeyed)↩︎
ἀκάθαρτος: not cleansed, unclean↩︎
ἀνακράζω: to raise a cry from the depth of the throat, to cry out↩︎
ἀπόλλυμι: to destroy↩︎
ἐπιτιμάω: i) to show honour to, to honour, ii) to raise the price of, iii) to adjudge, award, in the sense of merited penalty, iv) to tax with fault, rate, chide, rebuke, reprove, censure severely↩︎
φιμόω: i) to close the mouth with a muzzle, to muzzle, ii) metaph; to stop the mouth, make speechless, reduce to silence, to become speechless, iii) to be kept in check↩︎
σπαράσσω: to convulse, tear↩︎
θαμβέω: to be astonished, to astonish, terrify↩︎
συζητέω: i) to seek or examine together, ii) in the NT to discuss, dispute, question↩︎
καινός: new↩︎
ἐπιτάσσω: to enjoin upon, order, command, charge↩︎
ὑπακούω: i) to listen, to harken, ii) to harken to a command↩︎
ἀκοή: i) the sense of hearing, ii) the organ of hearing, the ear, iii) the thing heard↩︎
περίχωρος: lying round about, neighbouring↩︎
πενθερά: mother-in-law, a wife’s mother↩︎
κατάκειμαι: to have lain down, i.e. to lie prostrate↩︎
πυρέσσω: to be sick with a fever↩︎
προσέρχομαι: i) to come to, approach, ii) draw near to iii) to assent to↩︎
κρατέω: i) to have power, be powerful, ii) to get possession of, iii) to hold↩︎
χείρ: i) by the help or agency of any one, by means of any one, ii) fig. applied to God symbolising his might, activity, power↩︎
ἀφίημι: i) to send away, ii) to permit, allow, not to hinder, to give up a thing to a person, iii) to leave, go way from one↩︎
πυρετός: i) fiery heat, ii) fever↩︎
ὄψιος: i) late, ii) evening↩︎
δύνω: i) to go into, enter, ii) go under, be plunged into, sink in↩︎
φέρω: i) to carry, ii) to bear, i.e. endure, to endure the rigour of a thing, to bear patiently one’s conduct, or spare one (abstain from punishing or destroying), iii) to bring, bring to, bring forward↩︎
κακῶς: i) miserable, to be ill, ii) improperly, wrongly, iii) to speak ill of, revile, one↩︎
δαιμονίζομαι: to be under the power of a demon.↩︎
ἐπισυνάγω: i) to gather together besides, to bring together to others already assembled, ii) to gather together against, iii) to gather together in one place↩︎
θεραπεύω: i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health↩︎
ποικίλος: i) a various colours, variegated, ii) of various sorts↩︎
νόσος: disease, sickness↩︎
διακονέω: to be a servant, attendant, domestic, to serve, wait upon↩︎
ἀφίημι: i) to send away, ii) to permit, allow, not to hinder, to give up a thing to a person, iii) to leave, go way from one↩︎
πρωΐ: i) in the morning, early, ii) he fourth watch of the night, from 3 o’clock in the morning until 6 o’clock approximately↩︎
ἔννυχος: nightly, nocturnal↩︎
λίαν: greatly, exceedingly, exceedingly beyond measure↩︎
ἀνίστημι: i) to cause to rise up, raise up, ii) to rise, stand up, iii) at arise, appear, stand forth↩︎
ἀπέρχομαι: i) to go away, depart, ii) to go away↩︎
ἔρημος: solitary, lonely, desolate, uninhabited↩︎
προσεύχομαι: to offer prayers, to pray↩︎
καταδιώκω: to follow after, follow up↩︎
εὑρίσκω: i) to come upon, hit upon, to meet with, ii) to find by enquiry, thought, examination, scrutiny, observation, to find out by practice and experience, iii) to find out for one’s self, to acquire, get, obtain, procure↩︎
ζητέω: i) to seek in order to find, ii) to seek i.e. require, demand↩︎
ἄγω: i) to lead, take with one, ii) to lead, iii) to pass a day, keep or celebrate a feast, etc., iv) to go, depart↩︎
κωμόπολις: a village approximating in size and number of inhabitants to a city, a village city, a town↩︎
κηρύσσω: i) to be a herald, to officiate as a herald, ii) to publish, proclaim openly: something which has been done, iii) used of the public proclamation of the gospel and matters pertaining to it, made by John the Baptist, by Jesus, by the apostles and other Christian teachers↩︎
λεπρός: i) scaly, rough, ii) leprous, affected with leprosy↩︎
παρακαλέω: i) to call to one’s side, call for, summon, ii) to address, speak to, (call to, call upon), which may be done in the way of exhortation, entreaty, comfort, instruction, etc.↩︎
γονυπετέω: to fall on the knees, the act of imploring aid, and of expressing reverence and honour↩︎
θέλω: to will, have in mind, intend↩︎
δύναμαι: i) to be able, have power whether by virtue of one’s own ability and resources, or of a state of mind, or through favourable circumstances, or by permission of law or custom, ii) to be able to do something, iii) to be capable, strong and powerful↩︎
καθαρίζω: i) to make clean, cleanse, ii) to pronounce clean in a levitical sense↩︎
σπλαγχνίζομαι: to be moved as to one’s bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity)↩︎
ἅπτομαι: to fasten one’s self to, adhere to, cling to↩︎
ἐμβριμάομαι: to charge with earnest admonition, sternly to charge, threatened to enjoin↩︎
δεικνύω: i) to show, expose to the eyes, ii) metaph. to give evidence or proof of a thing↩︎
ἱερεύς: i) a priest, one who offers sacrifices and in general in busied with sacred rites, ii) metaph. of Christians, because, purified by the blood of Christ and brought into close intercourse with God, they devote their life to him alone and to Christ↩︎
προσφέρω: i) to bring to, lead to, ii) to be borne towards one, to attack, assail↩︎
προστάσσω: i) to assign or ascribe to, join to, ii) to enjoin, order, prescribe, command↩︎
μαρτύριον: testimony↩︎
ἄρχομαι: i) to be the first to do (anything), to begin, ii) to be chief, leader, ruler, iii) to begin, make a beginning↩︎
κηρύσσω: i) to be a herald, to officiate as a herald, ii) to publish, proclaim openly: something which has been done, iii) used of the public proclamation of the gospel and matters pertaining to it, made by John the Baptist, by Jesus, by the apostles and other Christian teachers↩︎
διαφημίζω: i) to spread abroad, blaze abroad, ii) to spread abroad his fame or renown↩︎
πανταχόθεν: from all sides, from every quarter↩︎
κύριος:he to whom a person or thing belongs, about which he has power of deciding; master, lord, the Sept.for אָדון, בַּעַל↩︎
εἰσέρχομαι (2AAI-3S): to go out or come in: to enter↩︎
ἀκούω (API-3S): i) to be endowed with the faculty of hearing, not deaf, ii) to hear, iii) to hear something↩︎
συνάγω (API-3P): i) to gather together, to gather, ii) to bring together, assemble, collect, iii) to lead with one’s self↩︎
χωρέω (PAN): i) to leave space (which may be filled or occupied by another), to make room, give place, yield, ii) to go forward, advance, proceed, succeed, iii) to have space or room for receiving or holding something↩︎
ἔρχομαι (PNI-3P) N: middle or passive doponent↩︎
φέρω (PAP-NPM): i) to carry, ii) to bear, i.e. endure, to endure the rigour of a thing, to bear patiently one’s conduct, or spare one (abstain from punishing or destroying), iii) to bring, bring to, bring forward↩︎
παραλυτικός: paralytic↩︎
αἴρω (PPP-ASM): i) to raise up, elevate, lift up, ii) to take upon one’s self and carry what has been raised up, to bear, iii) to bear away what has been raised, carry off↩︎
PNP-NPM↩︎
προσεγγίζω (AAN): to approach unto↩︎
ἀποστεγάζω (AAI-3P): to uncover, take off the roof↩︎
στέγη (ASF): a roof: of a house↩︎
ἐξορύσσω (AAP-NPM): i) to dig out, to pluck out (the eyes), ii) to dig through↩︎
χαλάω (PAI-3P): i) to loosen, slacken, relax, ii) to let down from a higher place to a lower↩︎
κράβαττος (ASM): a pallet, camp bed (a rather simple bed holding only one person)↩︎
παραλυτικός (NSM): paralytic; a) suffering from the relaxing of the nerves of one’s side, b) disabled, weak of limb↩︎
κατάκειμαι (INI-3S): to have lain down, i.e. to lie prostrate; a) of the sick, b) of those at meals, to recline↩︎
ὁράω (2AAP-NSM): i) to see with the eyes, ii) to see with the mind, to perceive, know, iii) to see, i.e. become acquainted with by experience, to experience, iv) to see, to look to, v) I was seen, showed myself, appeared↩︎
πίστις (ASF): i) conviction of the truth of anything, belief; in the NT of a conviction or belief respecting man’s relationship to God and divine things, generally with the included idea of trust and holy fervour born of faith and joined with it, ii) fidelity, faithfulness↩︎
ἀφίημι (RPI-3P): i) to send away, ii) to permit, allow, not to hinder, to give up a thing to a person, iii) to leave, go way from one↩︎
κάθημαι (PNP-NPM): i) to sit down, seat one’s self, ii) to sit, be seated, of a place occupied↩︎
διαλογίζομαι (PNP-NPM): to bring together different reasons, to reckon up the reasons, to reason, revolve in one’s mind, deliberate↩︎
βλασφημία (APF): i) slander, detraction, speech injurious, to another’s good name, ii) impious and reproachful speech injurious to divine majesty↩︎
ἐπιγινώσκω (2AAP-NSM): i) to become thoroughly acquainted with, to know thoroughly, ii) to know↩︎
εὔκοπος (NSN-C): i) with easy labour, ii) easy↩︎
αἴρω (AAM-2S): i) to raise up, elevate, lift up, ii) to take upon one’s self and carry what has been raised up, to bear, iii) to bear away what has been raised, carry off↩︎
εἴδω (RAS-2P): i) to see, ii) to know↩︎
ἐγείρω (AMM-2S): to arouse, cause to rise↩︎
ἐγείρω (API-3S): to arouse, cause to rise↩︎
ἐξίστημι (PMN): to throw out of position, displace↩︎
δοξάζω (PAN): i) to think, suppose, be of opinion, ii) to praise, extol, magnify, celebrate, iii) to honour, do honour to, hold in honour, iv) to make glorious, adorn with lustre, clothe with splendour↩︎
Μαθθαῖος: A shorter form of Ματταθίας (מַתַּתְיָה:A)a Levite who presided over the offerings, B) a Levite appointed by David to minister in the musical service before the ark, C) one of the family of Nebo who had a foreign wife in the time of Ezra, D) one of the men who stood at the right hand of Ezra when he read the law to the people), Matthew = “gift of Jehovah”, 1Chronicles 9:31; 15:18; 15:21; 16:5; 25:3; 25:21, Ezra 10:43, Nehemiah 8:4↩︎
חֶסֶד (kheh’-sed): i) goodness, kindness, faithfulness, ii) a reproach, shame↩︎
ἐξέρχομαι (2AAI-3S): to go or come forth of↩︎
διδάσκω (IAI-3S): to teach↩︎
παράγω (PAP-NSM): i) pass by, ii) to pass by, go past↩︎
ἀκολουθέω (PAM-2S): i) to follow one who precedes, join him as his attendant, accompany him, ii) to join one as a disciple, become or be his disciple↩︎
κάθημαι (PNP-ASM): i) to sit down, seat one’s self, ii) to sit, be seated, of a place occupied↩︎
τελώνιον: i) customs, toll, ii) toll house, place of toll, tax office, iii) the place in which the tax collector sat to collect the taxes↩︎
ἀνίστημι (2AAP-NSM): i) to cause to rise up, raise up, ii) to rise, stand up, iii) at arise, appear, stand forth↩︎
κατάκειμαι (PNN): to have lain down, i.e. to lie prostrate↩︎
τελώνης: i) a renter or farmer of taxes, ii) a tax gatherer, collector of taxes or tolls, one employed by a publican or farmer general in the collection of taxes. The tax collectors were as a class, detested not only by the Jews, but by other nations also, both on account of their employment and of the harshness, greed, and deception, with which they did their job.↩︎
ἁμαρτωλός: devoted to sin, a sinner↩︎
συνανάκειμαι: to recline together, feast together↩︎
ἐσθίω (PAP-ASM): to eat↩︎
ἀκούω (APA-NSM): i) to be endowed with the faculty of hearing, not deaf, ii) to hear, iii) to hear something↩︎
ἦν (IXI-3P): I was, etc.↩︎
νηστεύω (PAP-NPM): to abstain as a religious exercise from food and drink: either entirely, if the fast lasted but a single day, or from customary and choice nourishment, if it continued several days↩︎
νυμφών (GSM): the chamber containing the bridal bed, the bridal chamber↩︎
νυμφίος: a bridegroom↩︎
ἔρχομαι (FDI-3P): to come↩︎
ἀπαίρω (APS-3S): i) to lift off, take or carry away, ii) to be taken away from anyone↩︎
ἐπιράπτω (PAI-3S): to sew upon, sew to↩︎
οἶνος: wine↩︎
エパ 23リットル。十分の二エパは、4.6リットル。↩︎
キュビト(アンマ)約45cm なので、机は、90cm x 45cm x 67cm↩︎
σάββατον: i) the seventh day of each week which was a sacred festival on which the Israelites were required to abstain from all work, ii) seven days, a week↩︎
παραπορεύομαι (PNN): to proceed at the side, go past, pass by↩︎
σπόριμος: i) fit for sowing, sown, ii) sown fields, growing crops↩︎
τίλλω: to pluck, pluck off↩︎
στάχυς: an ear of corn or of growing grain↩︎
ἔξεστι: it is lawful↩︎
πεινάω: i) to hunger, be hungry, ii) metaph. to crave ardently, to seek with eager desire↩︎
πρόθεσις: i) a setting forth of a thing, placing of it in view, the shewbread: twelve loaves of wheaten bread, corresponding to the number of the tribes of Israel, which loaves were offered to God every Sabbath, and separated into two rows, lay for seven days upon a table placed in the sanctuary or front portion of the tabernacle, and afterwards of the temple, ii) a purpose↩︎
διά: i) through of place, of time, of means, ii) through the ground or reason by which something is or is not done↩︎
ξηραίνω (RPP-ASF): i) to make dry, dry up, wither, ii) to become dry, to be dry, be withered, iii) to waste away, pine away, i.e. a withered hand↩︎
παρατηρέω (IAI-3P): to stand beside and watch, to watch assiduously, observe carefully↩︎
ἐγείρω (AMM-2S): to arouse, cause to rise↩︎
ἔξεστι (PQI-3S): it is lawful↩︎
ἀγαθοποιέω: i) to do good, do something which profits others, ii) to do well, do right↩︎
κακοποιέω (AAN): i) to do harm, ii) to do evil, do wrong↩︎
σιωπάω (IAI-3P): i) to be silent, hold one’s peace, ii) metaph. of a calm, quiet sea↩︎
περιβλέπω (AMP-NSM): i) to look around, ii) to look around about one’s self, iii) to look round on one (i.e. to look for one’s self at one near by)↩︎
ὀργή: i) anger, the natural disposition, temper, character, ii) movement or agitation of the soul, impulse, desire, any violent emotion, but esp. anger, iii) anger, wrath, indignation, iii) anger exhibited in punishment, hence used for punishment itself↩︎
συλλυπέω (PNP-NSM): i) to affect with grief together, ii) give with one’s self↩︎
πώρωσις (DSF): i) the covering with a callus, ii) obtrusiveness of mental discernment, dulled perception, iii) the mind of one has been blunted↩︎
ἀποκαθίστημι (API-3S): i) to restore to its former state, ii) to be in its former state↩︎
συμβούλιον (ASN): i) counsel, which is given, taken, entered upon, ii) a council↩︎
ἀπόλλυμι (AAS-3P): to destroy↩︎
ἀναχωρέω (AAI-3S): i) to go back, return, ii) to withdraw↩︎
ἀκολουθέω (AAI-3P): i) to follow one who precedes, join him as his attendant, accompany him, ii) to join one as a disciple, become or be his disciple↩︎
πλοιάριον (NSN): a small vessel, a boat↩︎
προσκαρτερέω (PAS-3S): i) to adhere to one, be his adherent, to be devoted or constant to one, ii) to be steadfastly attentive unto, to give unremitting care to a thing, iii) to continue all the time in a place, iv) to persevere and not to faint, v) to show one’s self courageous for, vi) to be in constant readiness for one, wait on constantly↩︎
θλίβω (PAS-3P): i) to press (as grapes), press hard upon, ii) a compressed way, iii) metaph. to trouble, afflict, distress↩︎
θεραπεύω (AAI-3S): i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health↩︎
ἐπιπίπτω (PAN): i) to fall upon, to rush or press upon, ii) to fall upon one i.e. to seize, take possession of him↩︎
ἅπτομαι (AMS-3P): to fasten one’s self to, adhere to, cling to↩︎
μάστιξ (APF): i) a whip, scourge, ii) metaph. a scourge, plague↩︎
ἀκάθαρτος (NPN): not cleansed, unclean a) in a ceremonial sense: that which must be abstained from according to the levitical law, b) in a moral sense: unclean in thought and life↩︎
ἀναβαίνω (PAI-3S): ascend, go up↩︎
προσκαλέω (PNI-3S): i) to call to, ii) to call to one’s self, iii) to bid to come to one’s self, iv) metaph. a) God is said to call to himself the Gentiles, aliens as they are from him, by inviting them, through the preaching of the gospel unto fellowship with himself in the Messiah’s kingdom, b) Christ and the Holy Sprit are said to call to themselves those preachers of the gospel to whom they have decided to intrust a service having reference to the extension of the gospel↩︎
ἀπέρχομαι (2AAi-3P): i) to go away, depart, ii) to go away↩︎
ποιέω (AAI-3S): i) to make, ii) to do↩︎
ἀποστέλλω (PAS-3S): i) to order (one) to go to a place appointed, ii) to send away, dismiss↩︎
κηρύσσω (PAN): i) to be a herald, to officiate as a herald, ii) to publish, proclaim openly: something which has been done, iii) used of the public proclamation of the gospel and matters pertaining to it, made by John the Baptist, by Jesus, by the apostles and other Christian teachers↩︎
ἐξουσία: i) power of choice, liberty of doing as one pleases, ii) physical and mental power, iii) the power of authority (influence) and of right (privilege), iv) the power of rule or government (the power of him whose will and commands must be submitted to by others and obeyed)↩︎
κρατέω (AAN): i) to have power, be powerful, ii) to get possession of, iii) to hold↩︎
ἐξίστημι (2AAI3S): to throw out of position, displace↩︎
καταβαίνω (2AAP-NPM): to go down, come down, descend↩︎
Βεελζεβούλ: Beelzebub = “lord of the house” (a name of Satan, the prince of evil spirits)↩︎
δαιμόνιον: i) the divine power, deity, divinity, ii) a spirit, a being inferior to God, superior to men, iii) evil spirits or the messengers and ministers of the devil↩︎
προσκαλέω (ADP-NSM): to call to↩︎
παραβολή: i) a placing of one thing by the side of another, juxtaposition, as of ships in battle, ii) metaph., iii) a pithy and instructive saying, involving some likeness or comparison and having preceptive or admonitory force, iv) a proverb, v) an act by which one exposes himself or his possessions to danger, a venture, a risk↩︎
μερίζω (APS-3S): to divide↩︎
βλασφημία: i) slander, detraction, speech injurious, to another’s good name, ii) impious and reproachful speech injurious to divine majesty↩︎
καταδυναστεύω (PPP-APM): i) to exercise harsh control over one, to use one’s power against one, ii) to oppress one↩︎
ἀποστέλλω (AAI-3P): i) to order (one) to go to a place appointed, ii) to send away, dismiss↩︎
κάθημαι (INI-3S): i) to sit down, seat one’s self, ii) to sit, be seated, of a place occupied↩︎
ζητέω (PAI-3P): i) to seek in order to find, ii) to seek i.e. require, demand↩︎
περιβλέπω (AMP-NSM): i) to look around, ii) to look around about one’s self, iii) to look round on one (i.e. to look for one’s self at one near by)↩︎
κύκλῳ (DSM): in a circle, around, round about, on all sides↩︎
θέλημα (ASN): i) what one wishes or has determined shall be done, ii) will, choice, inclination, desire, pleasure↩︎
συνάγω (API-3S): i) to gather together, to gather, ii) to bring together, assemble, collect, iii) to lead with one’s self↩︎
παραβολή (DOF): i) a placing of one thing by the side of another, juxtaposition, as of ships in battle, ii) metaph. a) a comparing, comparison of one thing with another, likeness, similitude b) an example by which a doctrine or precept is illustrated c) a narrative, fictitious but agreeable to the laws and usages of human life, by which either the duties of men or the things of God, particularly the nature and history of God’s kingdom are figuratively portrayed, d) a parable: an earthly story with a heavenly meaning, iii) a pithy and instructive saying, involving some likeness or comparison and having preceptive or admonitory force, a) an aphorism, a maxim, iv) a proverb, v) an act by which one exposes himself or his possessions to danger, a venture, a risk↩︎
σπείρω (AAN): i) to sow, scatter, seed, ii) metaph. of proverbial sayings↩︎
πετεινόν: i) flying, winged, ii) flying or winged animals, birds↩︎
κατεσθίω (2AAI-3S): i) to consume by eating, to eat up, devour, ii) metaph.↩︎
πετρώδης (ASN): rocky, stony↩︎
ἐξανατέλλω: i) to make spring up, cause to shoot forth, ii) to spring up↩︎
καυματίζω: i) to burn with heat, to scorch, ii) to be tortured with intense heat↩︎
ῥίζα: i) a root, ii) that which like a root springs from a root, a sprout, shoot, iii) metaph. offspring, progeny↩︎
ξηραίνω (API-3S): i) to make dry, dry up, wither, ii) to become dry, to be dry, be withered, iii) to waste away, pine away, i.e. a withered hand↩︎
ἄκανθα (APS): i) thorn, bramble, ii) bush, brier, a thorny plant↩︎
ἀναβαίνω: ascend, a) to go up, b) to rise, mount, be borne up, spring up↩︎
συμπνίγω: to choke utterly, a) metaph. the seed of the divine word sown in the mind, b) to press round or throng one so as almost to suffocate him↩︎
ἐρωτάω (AAI-3P): i) to question, ii) to ask↩︎
ἔξω: without, out of doors↩︎
γίνομαι: i) to become, i.e. to come into existence, begin to be, receive being, ii) to become, i.e. to come to pass, happen, iii) to arise, appear in history, come upon the stage, iv) to be made, finished, v) to become, be made↩︎
γινώσκω: i) to learn to know, come to know, get a knowledge of perceive, feel, ii) to know, understand, perceive, have knowledge of, iii) sexual intercourse between a man and a woman, iv) to become acquainted with, to know↩︎
εἴδω: i) to see, a) to perceive with the eyes, b) to perceive by any of the senses, c) to perceive, notice, discern, discover, d) to see, e) to experience any state or condition, f) to see i.e. have an interview with, to visit, ii) to know, a) to know of anything, b) to know, i.e. get knowledge of, understand, perceive, c) to have regard for one, cherish, pay attention to↩︎
γινώσκω: i) to learn to know, come to know, get a knowledge of perceive, feel, ii) to know, understand, perceive, have knowledge of, iii) sexual intercourse between a man and a woman, iv) to become acquainted with, to know↩︎
εὐθέως: straightway, immediately, forthwith↩︎
πετρώδης: rocky, stony, of a ground full of rocks↩︎
ῥίζα: i) a root, ii) that which like a root springs from a root, a sprout, shoot, iii) metaph. offspring, progeny↩︎
θλῖψις: i) a pressing, pressing together, pressure, ii) metaph. oppression, affliction, tribulation, distress, straits↩︎
διωγμός: persecution↩︎
ἄκανθα: i) thorn, bramble, ii) bush, brier, a thorny plant↩︎
μέριμνα: care, anxiety↩︎
αἰών: i) for ever, an unbroken age, perpetuity of time, eternity, ii) the worlds, universe, iii) period of time, age↩︎
ἀπάτη: deceit, deceitfulness↩︎
πλοῦτος: riches, wealth, a) abundance of external possessions, b) fulness, abundance, plenitude, c) a good i.e. that with which one is enriched↩︎
ἐπιθυμία: desire, craving, longing, desire for what is forbidden, lust↩︎
εἰσπορεύομαι: i) to go into, enter, ii) metaph. of affections entering the soul↩︎
συμπνίγω: to choke utterly, a) metaph. the seed of the divine word sown in the mind, b) to press round or throng one so as almost to suffocate him↩︎
ἄκαρπος: metaph. without fruit, barren, not yielding what it ought to yield↩︎
παραδέχομαι: i) to receive, take up, take upon one’s self, ii) to admit i.e. not to reject, to accept, receive↩︎
καρποφορέω: i) to bear fruit, ii) to bear, bring forth, deeds, iii) to bear fruit of one’s self↩︎
μήτι: whether, at all, perchance↩︎
λύχνος: a lamp, candle, that is placed on a stand or candlestick↩︎
μόδιος: a dry measure holding 16 sextarii (or 1/6 of the Attic medimnus), about a peck (9 litres)↩︎
κλίνη: i) a small bed, a couch, ii) a couch to recline on at meals, iii) a couch on which a sick man is carried↩︎
κρυπτός: hidden, concealed, secret↩︎
φανερόω: to make manifest or visible or known what has been hidden or unknown, to manifest, whether by words, or deeds, or in any other way↩︎
μέτρον: i) measure, an instrument for measuring, ii) determined extent, portion measured off, measure or limit↩︎
αἴρω: i) to raise up, elevate, lift up, ii) to take upon one’s self and carry what has been raised up, to bear, iii) to bear away what has been raised, carry off↩︎
καθεύδω(PAS-3S): i) to fall asleep, drop off to sleep, ii) to sleep↩︎
ἐγείρω (PPS-3S): to arouse, cause to rise↩︎
βλαστάνω: i) to sprout, bud, put forth new leaves, ii) to produce↩︎
μηκύνω: i) to make long, to lengthen, ii) in the Bible twice of plants, to cause to grow, increase↩︎
καρποφορέω: i) to bear fruit, ii) to bear, bring forth, deeds, iii) to bear fruit of one’s self↩︎
χόρτος: i) the place where grass grows and animals graze, ii) grass, herbage, hay, provender↩︎
στάχυς: an ear of corn or of growing grain↩︎
πλήρης: i) full, i.e. filled up (as opposed to empty), ii) full, i.e. complete↩︎
σῖτος: wheat, grain↩︎
ἀποστέλλω: i) to order (one) to go to a place appointed, ii) to send away, dismiss↩︎
δρέπανον: a sickle, a pruning-hook, a hooked vine knife, such as reapers and vinedressers use↩︎
παρίστημι: i) to place beside or near, ii) to stand beside, stand by or near, to be at hand, be present↩︎
θερισμός: harvest, the act of reaping↩︎
κόκκος: a grain↩︎
σίναπι: mustard, the name of a plant which in oriental countries grows from a very small seed and attains to the height of a tree, 10 feet (3 m) and more; hence a very small quantity of a thing is likened to a mustard seed, and also a thing which grows to a remarkable size↩︎
ἀναβαίνω: ascend↩︎
σιωπάω: i) to be silent, hold one’s peace, ii) metaph. of a calm, quiet sea↩︎
φιμόω: i) to close the mouth with a muzzle, to muzzle, ii) metaph., iii) to be kept in check↩︎
9mカッター:現在、上記の訓練等で使用されているほとんどのカッターは9mカッターであり、全長9m、全幅2.45m、深さ0.83m、排水量1.5トン、定員45名(実質は漕ぎ手12名と艇指揮1名、艇長1名の14名で運用する)の手漕ぎの船である。
通常、艇長が舵をとり、艇指揮がかける号令の下、12名の漕ぎ手がそれぞれオールを使い、息を合わせて12本のオールで漕ぐ。 全国大会で使われるのもこの9mカッターである。
漕ぎ手にはそれぞれ番号が付与されており、右舷は艇首から順に1番3番5番7番9番11番、左舷は同じく2番4番6番8番10番12番である。
オールには、4.3mの長さのものと、4.2mの長さのものがあり、後者は1番2番11番12番のみが使用する。木製オールと、FRP製オールがあるが、FRP製が主流になってきている。↩︎出エジプト15:23-26 彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。24 ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。25 モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、26 言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。 ↩︎
ἰάομαι: i) to cure, heal, ii) to make whole↩︎
θυγάτηρ: a daughter, a) a daughter of God: acceptable to God, rejoicing in God’s peculiar care and protection, b) with the name of a place, city, or region; denotes collectively all its inhabitants and citizens, c) a female descendant↩︎
Ἰάϊρος:whom God enlightens, יָאִיר: whom Jehovah enlightens < אוֹר: to be or become light, shine↩︎
ἀρχισυνάγωγος: ruler of the synagogue. It was his duty to select the readers or teachers in the synagogue, to examine the discourses of the public speakers, and to see that all things were done with decency and in accordance with ancestral usage.↩︎
θυγάτριον: a little daughter↩︎
ἐξίστημι: to throw out of position, displace a) to amaze, to astonish, throw into wonderment, b) to be amazed, astounded, c) to be out of one’s mind, besides one’s self, insane↩︎
ἔκστασις: i) any casting down of a thing from its proper place or state, displacement, ii) a throwing of the mind out of its normal state, alienation of mind, whether such as makes a lunatic or that of a man who by some sudden emotion is transported as it were out of himself, so that in this rapt condition, although he is awake, his mind is drawn off from all surrounding objects and wholly fixed on things divine that he sees nothing but the forms and images lying within, and thinks that he perceives with his bodily eyes and ears realities shown him by God. iii) amazement, the state of one who, either owing to the importance or the novelty of an event, is thrown into a state of blended fear and wonderment↩︎
τέκτων: i) a worker in wood, a carpenter, joiner, builder, - a ship’s carpenter or builder, ii) any craftsman, or workman - the art of poetry, maker of songs, iii) a planner, contriver, plotter - an author↩︎
σκανδαλίζω (V-IPI-3P): to put a stumbling block or impediment in the way, upon which another may trip and fall, metaph. to offend↩︎
θεραπεύω: i) to serve, do service, ii) to heal, cure, restore to health↩︎
σανδάλιον: a sandal, a sole made of wood or leather, covering the bottom of the foot and bound on with thongs↩︎
χιτών: a tunic, an undergarment, usually worn next to the skin, a garment, a vestment↩︎
ἀπόστολος: a delegate, messenger, one sent forth with orders a) specifically applied to the twelve apostles of Christ, b) in a broader sense applied to other eminent Christian teachers (of Barnabas, of Timothy and Silvanus) שָׁלַח (sent)↩︎
ChatGPT: 「ダンバーの法則(Dunbar’s number)」という社会心理学的な理論。
ダンバーの法則は、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバー(Robin Dunbar)によって提唱されました。この法則は、人間の社会的な関係の維持や管理において、個人が保持できる関係の限界を示唆しています。
一般的に、ダンバーの法則は「150」とされています。すなわち、人間が同時に維持できる社会的な関係の数は、約150人までとされるということです。これは、人々がお互いを認識し、関係を構築するために必要な認知的なリソースや情報処理能力の限界を反映しています。
ダンバーの法則は、さまざまな社会集団や組織において観察されてきました。例えば、先史時代の部族や中世の村落、現代の軍隊や企業組織など、さまざまな社会的な集団で150人前後がグループの規模として見られる傾向があります。
ただし、ダンバーの法則は必ずしも厳密な法則ではなく、個人や文化によって異なる場合もあります。また、現代のテクノロジーやソーシャルメディアの普及によって、人々がより多くの関係を維持できる可能性も生じています。
したがって、ダンバーの法則は社会的な関係の限界を示唆する興味深い理論ですが、全ての場合に当てはまる普遍的な法則としてではなく、一つの指標として考えるべきです。↩︎
実際には、マタイには、ない。↩︎
διαστέλλω: i) to draw asunder, divide, distinguish, dispose, order, ii) to open one’s self i.e. one’s mind, to set forth distinctly, iii) to admonish, order, charge↩︎
「みえるようになって」との翻訳もある。↩︎
未完了形:動作の継続。↩︎
「村でだれにも語らないように」との写本もある。↩︎