BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 明日から2019年となります。BRC2019の通読の予定は明日からはじまります。すでに、何回かこのスケジュールで聖書を通読された方も、始めたけれど終わることができなかったかたも、かなり遅れてしまって、迷っておられるかたも、聖書をもういちど一緒に通読しませんか。一日二章ずつ読み続け、二年間(2020年12月25日まで)で、旧約聖書1回と新約聖書2回通読する計画です。この通読の会についての基本情報と、なかなか続かないかたのためへの、簡単な助言を書いてあります。長いので引用することはしませんので、一度読んで頂ければと思います。 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html 創世記から読み始めヨブまで読み終わったら、新約聖書を読みます。予定では一週間に一度、原則として日曜日朝に、月曜日から次の日曜日に読む部分について簡単に記したメールを送らせて頂きます。(卒業をひかえていたり、他のアドレスがよいかたはご連絡ください。)今回は第一回です。明日からの分ですので、創世記1章から創世記12章の部分です。わたしは、このメールを送るために、ほぼ二週間先の部分を日課として読んでいます。皆さんにお送りするときには、次の一週間の部分を読み終わっているようにしているので、その部分の私の「聖書ノート」もホームページには載せてあります。様々な予定から、少し先を読まれる場合は、下のホームページを見てくださればと思います。 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html ここには、各巻について、たとえば「創世記」について、簡単に記しています。できれば、改訂をしていきたいのですが、あまり欲張らないこととします。 現在の登録者でメールが届いていると思われる方の人数は60です。みなさんが、感想をシェアしていただくこともできるようにしてあります。最近は、ほとんどありませんが、シェアしていただける部分を、メールで送って下されば、一週間分ほどためてからになると思いますが、皆さんに、配信します。どのようにすればよいかもふくめて、最初にお読み下さいという記事を「この会について」という題で、以下に書いてあります。 https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#introduction すでに、以前からこの会に加わっておられる方も、一度、読んで頂ければと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 創世記1章ー創世記12章はみなさんが、明日1月1日(火曜日)から1月6日(日曜日)の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。章ごとにまとまったページもあると良いのですが、それは、いずれとしましょう。その回、たとえば BRC2017 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、おそらく、BRC2017 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方があるとよいのでしょう。 聖書通読ノート Gen 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 最初の神の業が書かれている。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」状態からの変更である。秩序とも言えるし、神が望まれるものを示したとも言えるだろう。闇に留まらず、この光の中を歩むように招かれている。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(ヨハネの手紙一1章5節)「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(ヨハネ8章12節)創世記記者もこの光のことを書きたかったのだろう。神の本質を表すゆえに。 Gen 2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 耕す(abad: work, serve)・守る(shamar: to keep, guard, observe, give heed)。土(アダマ)の塵から作られたひと(アダム)が、仕え・守るとは、何を伝えようとしているのだろうか。1章とは、異なるメッセージを伝えようとしているのだろう。土から形づくられたひとが、土に仕え、守る。それも、自然に思える。この二つの物語が、並行して述べられているのは興味深い。 Gen 3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」 敵意を置かれたのは神ということになる。すると、これも、創造の業の一部なのだろうか。おそらく、人間の世界がどのようにできたかを、記述したかったのだろう。惑わすものとの敵意の関係を。「お前は、苦しんで子を産む。」(16節)「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」(17節)男にも、女にも、この苦しみが与えられている。この苦しみは、敵意とは無関係なのかもしれないが、神に守られている状態とはおそらく異なることが記されているのだろう。 Gen 4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」(ヨハネ一3章12節)カインは闇を好んだのだろうか。光にこようとはしなかったのかもしれない。しかし、簡単には、分からない。 Gen 5:1,2 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。 1章27節・28節の「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(「祝福」については、1章22節、2章3節参照)と呼応している。ここでは「似せて」とあり、両方に祝福されたことが書かれている。祝福と、増えることが同義なのか、それとも、もっと全体的な祝福なのか。いずれにしても、カインの系図(4章)とは、区別しながら、アダムの系図としていることは興味深い。3節には「自分に似た」とあるが、これもあるメッセージを送っているのだろう。なにが似ているのか、不明確であるが。 Gen 6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。 "Noah was a just man, perfect in his generations.” [NKJV] とあり、あくまでも一人を意味するのだろう。他にいないとも書かれておらず、その世代の中でと、相対的とも思われる、表現が用いられている。無垢(tamiym: complete, whole, entire, sound)は、何が表現されているのだろうか。 Gen 7:2,3 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。 清くない動物にも、残す価値があることが表現されているのか。実際「清くない」は何を意味しているのだろうか。最後の「全地の面に子孫が生き続けるように。」がどこまでを受けているか明確ではないが、全体と取るのが自然だろう。聖書記者も、清いものだけにすることは考えていなかったのだろう。食べて良い清い動物で、地が保たれているわけではない。 Gen 8:22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」 おそらくこれが、このあとの聖書の記述(どの部分を意味するかは不明であるが)の基盤なのだろう。ある定常状態の中で、神様の御心が漸次的に示されていく。同時に、その日、そのときという、特別な日のメッセージも語られるということだろう。完全な救済を考えると、終末が鍵だろうが、基本的には、定常状態のなかで、神の御心にそって生きようとすることに、焦点があるように思われる。終末を無視することはないが、そこに、希望を置くことは、ここでは、語られていないようである。 Gen 9:10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 不思議なことが書かれている。滅ぼさないと契約をたてたということだろう。実際には、たくさんの生き物が滅んではいるが。定常状態と言うこと自体に、過去と今とで認識が異なるのだろう。世界の認識も、かなり変わってきたのだろう。 Gen 10:32 ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。 これが結論であろう。科学的かどうかは別として一つの種族から、別れでたことが言われている。他には、何が表現されているのか。この次にある、バベルにつながる一つのステップなのだろうか。当時の、共通の認識だったのかもしれない。 Gen 11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 興味深い。一つの民であることを願っている。それは、ある意味で、神が願っていることなのかもしれない。しかしそれは、互いに愛し合うことによって。しかし、ここでは「天まで届く塔のある町を建て、有名に」なることによって、それを達成しようとしている。そして、主の応答も、人間が神となることと解釈して、それを阻止する物語が書かれている。そしてその結果として「主がそこから彼らを全地に散らされた」としている。その方法は、コミュニケーションの混乱である。どのように、解釈するにしても、やはり、神の平和、互いに愛し合うには、単なることばでは、解決しないのかもしれない。 Gen 12:10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。 「祝福の源」として選び出された、アブラムにも飢饉は同じように臨む。そして、このあとの、アブラムの「知恵」から発生する混乱も。逆に考えると、アブラムを通しての特別のストーリーとして書かれていても、実は、ひとり一人に臨むことなのかもしれない。その中から、真理を得ていくかどうか。そこに、ひとり一人のストーリーがあるのかもしれない。 皆様からの投稿も期待しています。疑問、わからないことをシェアすることもふくめて。 新しい年が、みなさん、ひとり一人にとって、神様の祝福をうけとることとなる年となりますよう祈っています。 PS 1月4日搬出、5日搬入、6日ピアノの移動という予定で、学内住宅から、杉並区上荻3丁目に転居予定です。 2018.12.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 皆様、いかがお過ごしですか。通読は、スタートしていますか。わたしは、予定通りといっても、何人かの方々に助けていただいて、どうやら、4日に搬出、5日に搬入で、杉並区上荻3丁目に引っ越しをしました。本日午後、ピアノの移動など、引っ越しに関係することは、1月いっぱいかかりそうですが、新しい地に移動でき、新しい出発をできることは、幸いなことです。 今週は、創世記を読み続けます。11章後半から、アブラハム物語が始まりました。アブラハムの信仰生活の出発です。そして、イサク物語、ヤコブ物語、ヨセフ物語と呼ばれるものが続きます。今回は、引っ越しもあり、まだ、家にインターネットが来ていないので、充分かけませんが、今週みなさんが読まれる箇所は、物語としても、とても、興味深く、どのように、神を認識していくかということからも、いろいろと考えながら読めるのではないかと思います。少しずつ、書き留めておけると良いですね。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 創世記13章ー創世記26章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Gen 13:8,9 アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」 兄弟姉妹・そして同胞の間の平和をまずもとめる。ここで、アブラムは公平さではなく、一方的に譲っている。ロトの性格・価値観を見抜いて、このようにする以外、平和は得られないとみたのかもしれないが、アブラムの家の者を納得させることも簡単ではなかったろう。日常的な信頼だろうか。しかし、ここで、二つのグループが向かっていった方向は決定的に異なる。おそらく、アブラムもその選択がもたらすものまでは、見通していなかったろう。もし、見ていたら、ロトに対して残酷だから。その中で、人は判断し、神に従っていく。その姿勢が、未来も変えていくのかもしれない。 Gen 14:3 彼らは十二年間ケドルラオメルに支配されていたが、十三年目に背いたのである。 このような記述は、背景があったように思われる。おそらく、歴史記述の研究者は、いくつかの判断材料を持っているだろう。そこに、アブラム、ソドムの王、メルキゼデクをおいている。中心的なメッセージは何なのだろうか。「わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」(24)を伝えたかったのかもしれない。 Gen 15:2,3 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 神の御心は理解できず、神の方法は不思議。ここでは「言葉をついだ(口語は『また言った』)」とある。理解できないことを、受け入れ、神に信頼し、神のなされることに希望をもって生きる。それが、信仰なのかもしれない。神の御心を求め続けること、それが信仰なのだろう。約束を自分なりに理解し、それを盾にとって、その成就をもとめることとは、大幅に異なる。神ご自身が、わたしの盾である。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」(1節a) Gen 16:11,12 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」 これを読んで、ムハンマッドがアラブ人は「イシュマエルの子孫」として、その祝福にあずかっていると認めたのは、大変な勇気と、謙虚さである。「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」(13節a)と告白する。クリスチャンがムスリムと出会ったときに、そのような人たちを、受け入れることはできなかったのか。バルト(K. Barth)は、晩年、温和になったと言われたことに触れ「事実私はずっと平和を好むようになり、人は結局その反対者と同じ舟に乗っているのだということをもっと容易に認めるようになり、また時には不当な攻撃をうけても自己防御のために敢えて乗り出そうとせず、他人を攻撃するにもそれほど熱心ではないということもあるようになった。『然り』ということが『否』ということよりも(それもまた重要なことであるにせよ)もっと重要であるように思われてきた。(『バルト自伝』より)」にあるように「同じ舟に乗っているのだということを」認めることはできなかったのか。わたしはあまりに、安易に考えすぎているのだろうか。 Gen 17:1,2 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」 このあとに契約内容が続き、割礼規定が提示され、サライにイサクが生まれることを告げるという構成になっている。最初の「全き者になりなさい」が、強いメッセージである。「全能の神」とあるが、おそらく「全き者」にすることはしない(またはできない)のだろう。そこに、自由意志にゆだねられていることがあるからだろうか。契約という呼び方をしていること、そして「包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(14節)非常に難しい。創世記を記した人たちが共有していた世界にいないと理解できない部分が多いようにも思われる。 Gen 18:2,3 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 17章の人為的な背景を感じてしまう、契約とは異なり、この章は生き生きとして、非常に興味深い。アブラハムが、しもべとして歓迎する様子、そして、神の僕との、ソドムに関する対話、何度も学んで来た箇所だが、まだまだ学ぶことがあるように思われる。このことを記したひとたちの、神を求めるこころの豊かさを感じる。 Gen 19:16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。 主、二人の客、そしてロトたち。特に、この二人の客については、よく分からないが、神が直接働いて避難させるわけではない。この19章を読んで「しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。」(ペトロ二2章7節)とは、必ずしも印象が一致しない。伝えている物語として、アブラハムとロトを対比していることは事実だろう。契約がロトの家族を直接的に含んでいるわけではないかもしれないが、民に、すでに、様々な神との関係が見えることは、興味深い。 Gen 20:11 アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。 「正しい者」(4節)とあるように、アビメレクは、適切に行動している。夢の中で現れた神にも、できる限りのことを応答として行っている。これは「神を畏れることが」あるといえるだろう。周辺部からはじめる、文学的叙述とも言えるが、契約のあと、ハガルとイシュマエルの物語、ロト物語と、モアブと、アンモン(ベン・アミ)の起源、そして、アビメレクとの関係が書かれている。それらを無視しているわけではない。かえって、友好関係の中で進んでいっているとも言える。このなかに、イサクの誕生が記されていることは興味深い。いつの時代に、書かれたかは不明であるが、この背後にいる記者の信仰には、驚嘆を覚える。 Gen 21:11,12 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。 この難しい紛争の決断が神にゆだねられている。このように、神の採択が得られれば本当に楽である。あとはそれに従うのみ。困難なのは、神の御心、または、そこでのよい解決方法が見えないとき。現代でも、祈りを通して、神の答えを得たとして、それに従う人もいる。しかし、その確信は、自分の中に根拠を求めざるを得ないことが殆どであろう。そう考えると、その困難をひとは、常に、抱えることになる。そのような人間に寄り添って下さる神の存在こそが恵みである。 Gen 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 ひとは、わからないことに立ち向かわなければならない。そして、わからないまま判断をせざるをえないときがおそらく殆どだろう。それを、自分の判断は正しいと、または、それが神の御心と自分を納得させることもひとつの方法だろうが、自分の Capacity(能力)の限界を受け入れて、誤っている、最適ではないとしても、謙虚に歩み続けようとする、その表現が「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」との信仰告白なのかもしれない。希望を持ち続け、感謝を持って歩んでいくことだろうか。 Gen 23:20 その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。 この土地を与えるという神の約束のほんの一部が現実のものとなったと言う意味でとてもたいせつな記録として書かれているのだろう。しかし、やはり、すべての民を滅ぼして、約束の地を取ることについては、もう少し、考えなければいけないと思う。パレスチナの、そして世界の紛争、ひとの心の中にある争いの根源的な原因がそこに潜んでいるように思われるからである。単純な正当化は、ひとり一人の心の傷と痛みを考えると、わたしがイエス・キリストを通して知っている神の御心として受け入れることはできない。これも、聖書をどのようなものとするかの問題とも絡んでくるが。 Gen 24:50,51 ラバンとベトエルは答えた。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」 ラバンが後のヤコブ物語に出てくるラバンと同じとは思えない誠実さである。このあと、リベカの意思も尋ねる(57節)。ラバンがベトエルより前に書かれているのは、すでに家長的な存在だったからか、それとも、ヤコブ物語の展開のためか不明である。しかし、ベトエル(アブラムの兄弟ナホルのおそらく八男である。11:26、22:20, 22)の存在の故か。他にもナホルの子孫はたくさんいたと思われるが、そのことは、記されていない。 Gen 25:11 アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。イサクは、ベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。 この呼び名「ベエル・ラハイ・ロイ」(24章62節参照)が残っていることは「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」(16章13節)のエピソードも残されていたことを意味するのだろう。そこに、イサクは住み、イシュマエルは17節で息を引き取ることが書かれており「イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」(18)つまり、ここには、住んでいない。このハガルの信仰体験も引き継がなかったのだろうか。他者の信仰から学ぶこともふくめ、謙虚に生きたい。それも、共に生きることの一部「兄弟の足もとにいのちを置くこと」(ヨハネによる福音書15章13節、ヨハネの手紙一3章16節参照)と言えるかもしれない。 Gen 26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。 井戸は生活そのものを支える貴重なものであるとともに、それが与えられた恵みを神様に感謝するものだったのだろう。このイサクの行為が信仰継承と直接的にいえるかどうかは別として、アブラハムの人生を肯定していたことは確かだろう。「父が付けたとおりの名前を付けた。」のだから。 2019.1.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 通読は、いかがですか。毎日の忙しさのなかで、時間を取り、聖書を読み、瞑想する。その特別な時を、一日のどこに置くかが、通読が続くかどうかの鍵です。二年間続けるのは、なかなか大変ですが、時々「続けるためには」と言ったことも書いていこうと思います。皆さんの通読が、楽しみな一時として続くと良いですね。投稿も楽しみにしていますよ。 今週も、創世記を読み続けます。ホームページに載せてある、梗概をみると、全体のなかでどのあたりかも分かります。ときどき確認するのも良いでしょうし、通読が止まってしまい、再開する前に確認して読み始めるのも良いかもしれません。むろん、分け方は、いろいろとあるわけですが、一つの目安です。 今週は、ヤコブ物語、ヨセフ物語と続きます。エサウさんのことも気になりますし、ヨセフ以外の兄弟たちについても気になります。すべて書いてあるわけではありませんが、少しずつ書かれています。文学としても、どのように、人は、神との関係が築かれていくのかの例としても、とても興味深い箇所だと思います。創世記記者が、それをどう描いているのかは、当時信仰の何をたいせつにしていたかも垣間見ることにもつながるかもしれません。そして、わたしが驚かされるのは、それがそれほど単純ではなく、複合的、複雑だと言うことです。一通りの説明で、理解できるようには書かれていません。ひとの人生、悩みながら生きていく歩みは、ひとり一人異なる、複雑な、そして豊かなものなのでしょう。 少しずつ、書き留めておけると良いですね。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 創世記27章ー創世記40章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Gen 27:36 エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」 ここに「引っ張り(アーカブ(aqab: to supplant, circumvent, take by the heel, follow at the heel, assail insidiously, overreach)」が使われているが、「その赤いもの(アドム)」(創世記25章30節)をエドムの由来としているように「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。 」からヤコブが取られているとしている。言語の詳細はもう少し調べないと分からないが、このようなことば遊びによって歴史を教える効果は、口伝時代には、とても重要だったろう。それだけ、この物語は古い可能性が強い。しかし、自分の民族を長子権が強い土地で、本来は長子ではない、それも欺いて得たものだとすることは、自己認識において、鍵となることだろう。それが、深さも生み出しているのかもしれない。ヤコブは、自立的にはなにもできず、このことが起こっていることも見逃せない。このあとの神との関係、自立と自律をみていくためにも。 Gen 28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 ノア契約(9章)にもすでに部分的に現れているが、ここではっきりと「約束したことを果たすまで決して見捨てない(azab: to leave, loose, forsake)」ことを明確にしている。旧約で記述されている神の鍵となる性質である。このことが、イエス・キリスト誕生までつながっているように思われる。イエスの誕生から新しい世界に入る。不安と恐れの中にいる、ヤコブの神との出会いは、ヤコブ物語のはじまりである。記されたことをていねいに見ていきたい。 Gen 29:9 ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。 娘が父の羊を飼っているすがたがなかなか想像できなかったが、2018年に二度訪問した、ケニアのマサイ族では、羊や山羊などの小家畜の世話は、成人したばかりの若い女性がしていた。成人男性の仕事は遊牧または、牛など大きな家畜の世話である。大家族で、みながそれぞれ役割をもっている。家長の役割も大きい。マサイでは、国の土地所有制度が整備され、State Land、Community Land、Private Land 決められ、干ばつの影響もあり、遊牧はとても難しくなって、社会が変化しているが、この時代には、村と、家畜を飼う大家族の関係はどのようなものだったのだろうか。おそらく、ある多様性もあると思われるが、背景も知りたいと思う。 Gen 30:24 彼女は、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。 ヨセフ(Yowceph:Joseph = "Jehovah has added”)は、加える(yacaph:to add, increase, do again)となっている。ベニヤミンをさすのか、マナセとエフライムが他の兄弟たちと同じように数えられることをさすのかは、不明である。いずれにしても、十二部族(部族連合とも言われるが)の名前の由来紹介が目的なのだろうか、レアの子たちが6人、ビルハの子たち2人、ジルパの子たち2人、そして、ラケルの子、この時点で一人。そして、もう一人がラケルの子として加えられる予告である。もう一人が、いろいろな意味を含んでいることを、ここに記録しているのだろうか。 Gen 31:43,44 ラバンは、ヤコブに答えた。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。さあ、これから、お前とわたしは契約を結ぼうではないか。そして、お前とわたしの間に何か証拠となるものを立てよう。」 あまりにも「わたしの」が多く驚かされる。これが、ラバンの価値観として表現されているのだろう。ヤコブについては3節から14節に書かれている。神との関係をたいせつにしていることが書かれている。「神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった。」(7節b)「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。」(9節)「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。」(12節b)最後のものは、神の言葉として書かれている。どのように神の言葉と確信したかは、別として、辛いことの中で、ベテルの神(13節)に望みをおいて、問いかけていたことがわかる。この姿勢は、我々と共有できるものである。 Gen 32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 ここまで「祝福」をたいせつにすることに驚かされる。祝福無しには生きられないことを、神様に守っていただかなければ生きていけないことが、ヤコブの学んだことだったのではないだろうか。父の祝福を横取りして自分のものとしたヤコブが、神からの祝福を感じながら生きてきて、ここで、それを確かなものとして自分のものとすることが、エサウに会うために必要だと必死だったのではないだろうか。「祝福(barak:to bless, kneel)」はわたしも使う言葉だが、もう少し考えてみたい。この要求にこの人・神は応答している。ヤコブのところまで神様が降りてこられたということだろうか。「ソロモンはその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざまずき、両手を天に伸ばして、祈った。」(歴代誌下6章13節b・14節a)がこのことばを象徴していると辞書にある。 Gen 33:9 エサウは言った。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」 私たちには、見えない部分がたくさんある。ヤコブについては、ある程度記されているが、エサウがなぜ「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。』 」からどのように変わったのか。エサウにはエサウの物語があり、それをたいせつにできることは、すばらしいと思う。ひとり一人の尊厳をたいせつにするとは、そのようなことではないだろうか。ひとり一人の背景・将来・そのときの状況から、そのひとの行動が影響を受けることは当然のことだから。 Gen 34:1,2 あるとき、レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけたが、その土地の首長であるヒビ人ハモルの息子シケムが彼女を見かけて捕らえ、共に寝て辱めた。 エサウとの平和的再会の直後に書かれている。どのくらいの時が経っているかは分からないが、ヤコブにとっては、最大の難題、ラバンからの離別と、エサウとの再会が、平和裏に解決されたことで、平安があったことだろう。しかし、意識していない問題も潜んでいる。様々な要素を含む事件である。現在でも、簡単な判断はできない複雑な要素を含んでいる。しかし、寄留者として住む、ヤコブの家族にとって、重大な事件であったこと、こどもの教育、神との関係のもとでなされた割礼が、まったくちがう目的のために使われ、冒涜されていることなど、課題が多い。民族対立の起源の一つの物語をみる気もする。 Gen 35:2,3 ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」 ベテルは神の家という意味だとある。(28章29節,参照:12章8節、13章3節、31章13節)ひとは、危機のときに、どう行動するかが鍵である。ヤコブが神と出会って、ベテルと名付けた地、そして、アブラハムゆかりの地でもある。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」(5節)とある。様々な恐れがあるだろうが、ヤコブの毅然として態度は、特別な者と映ったのだろう。 Gen 36:12 エサウの息子エリファズの側女ティムナは、エリファズとの間にアマレクを産んだ。以上が、エサウの妻アダの子孫である。 エサウの系図はなかなか複雑である。まず妻が、3人書かれている。「ヘト人エロンの娘アダ、ヒビ人ツィブオンの孫娘でアナの娘オホリバマ、それに、ネバヨトの姉妹でイシュマエルの娘バセマトである。」(2b, 3)しかし、引用箇所には、側女も登場する。どのような明確な違いがあったか不明であるが、アマレクは、40節以降の首長たちのリストには登場しない。エサウの子孫は、おそらく、ヤコブの子孫よりも先に、王が治めるようになっていたこと、イスラエルの周辺には、多くのエサウの家系の部族がいたことなどが、書かれているが、実際には、周囲の民族が、近親の者たちであること、しかし、神との関係においては、異なる存在であることを、書いているのだろうか。目的がよく分からない。 Gen 37:5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。 夢、幻のなかで、将来のことを示されることは、よくあったのだろう。このあとに、その内容が続く。どのように伝えたかも、おそらく、問題ではあるが、内容に依存して考えるのは、これを神からの啓示ととらえるなら、問題もあろう。ここでは簡単に「憎むようになった」と書いているが、すでに、父の側女ビルハと寝たルベン(創世記35章22節)、シケム事件の中心メンバーだと思われる(34章25節)シメオンとレビ、このあと38章に物語が記述されるユダと、レアの子、上の4人は、それぞれに複雑な背景を持っていただろう。すべては書かれていないが、ヨセフの夢だけではなく、ヤコブとの関係、兄弟たちの中での位置など、興味深い、そしてその記述は、背景を明示しないこともふくめて、秀逸である。「ルベンは続けて言った。『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。』ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。」(21) Gen 38:25,26 ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。 おそらく、ひもの付いた印章と杖は、身近なものたちの中には、誰のものか分かった人もいただろう。ユダは、この事件の背景にあることも、理解して告白している。「主の意に反すること」(10)という記述はあるものの、ユダに、主は現れないが、これも神との出会いの一つなのだろう。文学性も高いように思われる。記述したひとは、どのような人なのだろう。 Gen 39:8,9 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」 このような、信仰、良識、謙虚さと言っても良いかもしれないはどのように、育まれたのだろうか。ヤコブの子として見聞きし、経験したことが、根付いていたのだろうか。神を畏れる心とでも、言うものだろうか。ヤコブの系図の中に置かれている、ヨセフ物語では、そのことは、言及していない。この物語の主旨は異なるところにあるとして、無視することも可能であるが、やはり気になる。わたしが生きることは、周囲の人と影響し合いながら共に生きることなのだから。神がそのような心を与えられたとするのは、簡単である。しかし、すべてに適用可能な答えは、答えになっていないともいえる。人の責任をなにも求めない、問わないことになってしまうから。 Gen 40:14 ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。 ヨセフの計画・はかりごとと、神の計画の違いを、ここで記述しているのだろう。しかし、それでも、寛容な心、忍耐を持ち続けられることには、驚かされる。資質なのだろうか。この物語では、その部分については、語られていない。「ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った。」(8)このことを知り、解き明かしの賜物(カリスマ)を、ヨセフが持っていたことは確かだろう。しかし、それ以外の部分については、どう考えたら良いかわからない。 2019.1.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 創世記のヤコブ物語、ヨセフ物語は、いかがですか。わたしは、文学は得意ではありませんし、あまり、たくさん読んでいませんが、物語としても、素晴らしいもののように思います。同時に、どのように、神と出会い、向き合い、それぞれの人がその応答をしていくかを記録し、伝えていこうとしている面でも、興味深いように思います。聖書は、それを少し語り、全部は語らない。おそらく、自分についてですら、よくは分からない部分が多いのでしょう。どのようにして、神様の業を、そして、神様を見いだし、出会うのかは。それを、あとから、信仰告白として、わたしは、このようにして、とか、わたしにとっての神様は、と語ることがあったとしても、それは、すべでではないでしょう。その深さも感じながら、思い巡らし、読んで頂ければと思います。一つ一つ、このひとがこのように行動したのは何故だろうという、答えが書かれているわけではないように思います。でも、興味をそそる。最後にヤコブの祝福が書かれていますが、祝福とは何なのかも考えさせられるように思います。 いよいよ、創世記を終わり、出エジプト記に入ります。最初の部分は、話として聞いたことはあるかもしれません。あまり、書かないことにしますが、出エジプトは、イスラエル民族の原点です。どう描かれ,何を伝えようとしているのか、考えながら読んで頂ければと思います。 そろそろ、続かなくなっている人がいるかなと思います。遅れても、創世記だけ読み終わるのも良いですし、出エジプトの最初から読むのでも良いですよ。ホームページにもある、通読表の読んだ箇所を消していくのも一つです。(読んでいる聖書の大きさに合わせて、A4両面や、B5両面などに印刷しておくとよいでしょう。二種類あります。お好きな方を。)消してない箇所から読んでいけますから。皆さんの通読が、楽しみな一時として続くと良いですね。投稿も楽しみにしていますよ。 通読表:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/BRC2019.pdf 通読日程表:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/BRC2019-2.pdf 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 創世記41章ー出エジプト記4章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 創世記と出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#gn 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Gen 41:9 そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。 物語とも言えるが、正直な、この給仕役のこの一言には、感銘を受ける。重要な役職についてしまうと、保身もあり、なかなか正直に、自分の過ちを言うことができなくなりやすい。忘れてしまったことも、ここで思い出して、かつ、自分の過ちを語り、王を助けることも、一人の神の愛されるひとの、歩みを見させられる思いである。この給仕役がこのことにより恩賞を与えられたかは不明であるが、王の信頼は得ただろう。 Gen 42:21,22 互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」 後半は、次男のシメオンを人質として残した理由として書かれているのだろう。前半には、当時の人の、思考が現れているのかもしれない。罪の報いによる災難である。自業自得だろうか。しかし、神の働きは、それをはるかに超えたところにある。神の世界は、因果応報からは、自由である。 Gen 43:9 あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。 どのように責任を負おうとしていたのかは不明であるが、覚悟なのだろう。そして、それは、真性でもある。(44章14節〜34節参照)ユダをして、このように発言させたのは、何故だろうか。ヨセフを売り飛ばしたこと(37章26節)、タマルとのこと(38章)の故だろうか。おそらく、隠されていることもある。まさにこのときも、葛藤のなかで、神の手で造り変えられているのだろう、個人の応答による、神との共同作業によって。それが交わり、永遠(神)の命に生きることだろうか。 Gen 44:30,31 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。 魂(nephesh: soul, self, life, creature, person, appetite, mind, living being, desire, emotion, passion)多くの場合「命」と訳されている。もう少し、この言葉について調べてみたい。「父の魂はこの子の魂と堅く結ばれ」ていることが本質であり、それが失われると「悲嘆のうちに陰府(showl: sheol, underworld, grave, hell, pit)に下らせる」絶対に避けるべきことと言っている。ここだけではわからないが、この結びつきの存在は、人間にとっては、本質的なものであることを言っていることは、確かである。子があることではなく、子の魂と結びついていること。愛着だろうか、愛だろうか。 Gen 45:6,7 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 このように明確に未来に起こる頃を確信できるのは何故なのだろうか。それは置いておこう。印象的なのは「残りの者」がここに言及されていることである。特にイザヤ書・ミカ書に特徴的な、見捨てない神を象徴することばである。引用箇所に続く「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」が、ヨセフの信仰告白なのだろう。兄たちは、これを十分理解しているわけではないようだが(50章15節)、ヨセフにとっては、真実。赦す、赦さないをすでに、超えている。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8章32節b)ここに至って、ヨセフの自由さが印象的である。どのように確信が得られたかは、詮索しなくて良いのかもしれない。 Gen 46:6 ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。 引っ越しをしたばかりで特に印象に残った。ファラオに「家財道具などには未練を残さないように。エジプトの国中で最良のものが、あなたたちのものになるのだから。」(45章20節)と言われているにもかかわらず、どうも、かなりのものを持って移動した様である。「この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します」(32節)にも繰り返されている。「神は言われた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。 』」(3節)と関係して、強調されているのかもしれない。連続であり、ここでリセットされているわけではない。大きな変化があっても、人は、人生をリセットすることは、そもそもできないのかもしれない。 Gen 47:3,4 ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。「お前たちの仕事は何か。」兄弟たちが、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、更に続けてファラオに言った。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」 「寄留(guwr: to sojourn, abide, dwell in, dwell with, remain, inhabit, be a stranger, be continuing, surely)」が使われている。すぐ帰ることは意味していないかもしれないが、兄弟たち、そして、ヤコブ(30,31, 48章4節・21節)は、エジプトの地が定住の場所だとは考えていなかったろう。飢饉は、遊牧・放牧にとって、重大な危機である。現代でも、このために、縮小または止めなければいけなくなり、大家族では住めなくなり、都市にでて、コミュニティが崩壊することが実際に起こっている。街に出ると、放蕩息子の状態までは行かなくても、一般的には、没落するのだろう。飢饉のとき、どのように守られるかは、当時も、現代も同様に命に関わる一大事である。 Gen 48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」 子供たちに手をおいて祝福することは、その父親を祝福することを意味している。そして「牧者(raah: to pasture, tend, graze, feed)」が日本語の言葉としては初めて現れる(原語では4:2, 13:7, 8, 26:20, 29:7, 9, 30:31, 36, 36:24, 37:2, 12, 13, 16, 41:2, 18, 46:32, 34, 47:3, 48:15, 49:24)にある。牧者のように、養ってくださったということで、それは、青草のあるところに導いてくださったことを意味しているのだろう。「贖われた(gaal: to redeem, act as kinsman-redeemer, avenge, revenge, ransom, do the part of a kinsman)」も日本語では初めてである。そしてこのことばは、原語でも、ここが初出である。出エジプトには二回(6:6, 15:13)贖いも学んでみたい。 Gen 49:28 これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。 「祝福(Berakah: benediction; by implication prosperity:—blessing, liberal, pool, present.)」とは何なのだろうか。どうみても良いものばかりではない。ヤコブが死に及んで、最後に神に向かって叫ぶ祈りで、良いか悪いかの色はないのか。ここでは、ヨセフの二人の子供は登場しない。あくまでも、イスラエルの十二人の子供たちである。ジルパやビルハの子供たちも、区別されていない。しかし、ユダと、ヨセフの部分が長いのが目を惹く。何を伝えたかったのだろうか。 Gen 50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 神に代わるとすると「すべての悪に仕返しをする」(15節)を指すのだろう。裁きは、神のもとのある。それを、自らなすことは、神から付託されているのでなければ、自分を神とすることなのだろう。「恐れることはありません。」もいろいろな取り方ができる。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネの手紙一4章18節)愛によって結びつくように呼びかけられているのだろう。 Ex 1:1-5 ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、 イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、 ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。 出エジプトの背景設定が書かれている。ひとつ気になったのは、順番である。生まれた順番と母を記すと、まずレアの子、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、次にラケルの召使いビルハの子、ダン、ナフタリ、次がレアの召使いジルバの子、ガド、アシェル、そして再びレアの子、イサカル、ゼブルン、最後に、ラケルの子、ヨセフ、ベニヤミンである(創世記29章など)。やはり、側女の子と、区別しているようである。背景は、もう少し複雑なものがあったのかもしれない。後に、直系ではないひとたちも、含まれることを考えると、通常、部族連合と称される背景も理解できるように思う。しかし、正確には、分からないことばかりである。 Ex 2:5,6 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。 ファラオの王女も、それがヘブライ人の子だと認識できたのは、ヘブライ人特有の印の可能性もあるが、おそらく、このようなことがあることを聞いて知っていたのだろう。とすると、他にも、いたことになる。たまたまである。偶然のことを、重要なモチーフにしている。このあと、ファラオの前に立つことができたのも、知恵がそなわっていたのも、王女のもとで育てられたことは影響しているだろう。モーセ(Mosheh: Moses = "drawn")の名前の由来(引き出す mashah: draw)の物語としても、興味深い。ヘブル語三文字は等しく、付随する母音のみが異なる。 Ex 3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 「聖書協会共同訳」が2018年12月に刊行された。「その特徴と実例」のなか(p.4)に、この箇所に続く14節が取り上げられている。新共同訳では「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』 」となっているが、今回「神はモーセに言われた。『わたしはいる(エヘイェ)、という者である。』そして言われた。『このようにイスラエルの人々に言いなさい。「わたしはいる(エヘイェ)」という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。』」(14節)存在を臨在、それも、われわれと共におられるという、新約聖書に近い感覚が入ってきている。その根拠が、引用した12節である。言語的なことは、わたしには、分からないが、神の存在証明を云々することは、わたしには、正直言って関心がない。共に歩んでくださる神、共にいて、苦しみも喜びも共にして、かつ道を示してくださる神に、わたしは従おうとしたし、これからも、共に歩ませて頂きたいと思う。 Ex 4:14,15 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。 11節・12節では「主は彼に言われた。「『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。』」と、創造と統御について書かれているが、引用箇所では「共にいる」が繰り返されている。アロンがいる、あなたの口とともにあり、彼の口と共にある。自分の認識だけに、頼らず、自分が持っているものだけではなく、神と共に、隣人と共に、神の喜ばれることを求めて生きたい。 2019.1.20 鈴木寛 ホームページ: 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BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 出エジプト記を読み始めました。出エジプトは、イスラエル民族の原点だと言われます。学者は、民族形成の次第だともよび、部族連合という言い方もします。今回の箇所は、前半は、災厄をエジプトに下し、ファラオと対決し、エジプトから出ていく部分、後半は、荒野での生活の始まりです。 出エジプトは何のためだったのでしょうか。奴隷状態から解放されることのようにも思いますが、モーセが、ファラオに求めるのはそうではありません。解放が目的なら、それが成し遂げられれば、それで良いはずですが、どうも、そうでもありません。結局、出エジプトは何が目的で、何を求め、何が成し遂げられたのでしょうか。災厄には、どのような意味があるのでしょうか。何が伝えられているのでしょうか。お話しとして読むことも一つですが、考え始めると、いろいろな疑問もわいてきます。原点といいながら、なかなか複雑な要素を含んでいることは、わたしたちも経験することではないでしょうか。それを、信仰告白ということで、意味を解釈して語ることもありますが、どうも、それだけが書かれているとも思えません。 そろそろ、必ずしも、読みながら、興味を持続できない方、そのことから、続かなくなってくる人もいるかなと思います。出エジプト記の後半から、レビ記、民数記は、そして、申命記もそうかもしれませんが、最初の関門です。何を目的に、聖書を読み始めたのかということが問われる時とも言えます。その意味では、出エジプトの意味とも、通じる部分があるかもしれません。自分で、いくつか、問題を設定して、読み進めるのも良いかもしれません。自由が与えられた次に、または、神様を礼拝する共同体を形成することを望んで一歩を踏み出したとき、困難な状況から、コミュニティや、新しい社会をみなで創ろうとして、出発したとき、人はどのようなことを経験し、何をしなければいけないのだろう。神様を中心とした共同体とは、何なのだろうか。イエスが、ここにおられたら、どうされるだろうか。これを、書いた人たちは、何を、伝えようとしたのだろうか。その渦中にいたひとが、このように告白するとしたら、ここでのことを、どのように考えているのだろうか。なにが、現代にも通じるある普遍性のあることで、何が、このときの特殊性の故のことなのだろうかなどと。神様は、現代の私たちに、この箇所を通して、何を語りかけておられるのだろうでも、もちろん、よいと思います。 みなさんは、どのようなことを考えながら読んでおられるでしょうか。投稿も楽しみにしていますよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 出エジプト記5章ー18章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ex 5:1 その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」 非常に乱暴。ファラオが「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2)と答えるのは当然である。おそらく、これは、2章11節から15節の内容と同レベルのものと言える。そこに戻ってきたのかもしれない。そこからの、再出発である。このことは、当時の人には、どのように映ったのだろうか。やはり、一方的と感じた人もいただろう。すでに、様々な民族との交流は、最初から始まっているのだから。物語の中で、22, 23 節でモーセも訴えているように、神の義を求めていく、過程なのかもしれない。いろいろな良い方があって良い。そしてそれは、イエスのときまでは、少なくとも続く。 Ex 6:2,3 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。 「主」は、二箇所とも「わたしはいる(エヘイェ)」から来ている4文字を、アドナイ(主)と読み替えているものである。ここも「わたしはいる」と理解すると、特別な意味を持つように思う。つまり、超自然的な全能の神、通常「神」と言われる存在が「わたしはいる」または「共にいる」存在として、イスラエルの民に示されている。モーセにとっても、2章での時とは、異なる状況にあることが認識できたろう。すくなくとも、出エジプト記は、そのように、描いている。 Ex 7:22 ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。 「杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変え」(19)るという奇跡である。力があるなら、きれいな水になる奇跡をすればよい。おそらく、ここで伝えようとしていることは、へびの奇跡にしても、この奇跡にしても、程度問題程度で、秘術と見分けが付きにくいものであることを示しているのだろう。むろん、「主は更にモーセに言われた。」という言葉が多いが、それをどのように受け取るかは、モーセの特殊性、この時を特別な時として記述する出エジプトのイスラエルの歴史にとっての特殊性を描こうとしているとしか考えられない。 Ex 8:21 ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と言うと、 要求は、少なくとも7章16節の水を血に変える災いのころから、神に仕えさせることである。この章から幾つかの変化が書かれている。まず「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。」(14)イスラエルの民を区別すること「わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。」(19)さらに引用した礼拝の内容に関するファラオとのやりとり、そして、一部ファラオが認め始める下りである。出エジプトは、イスラエルの救いに関する「特別恩寵」の記述である。自分の身を顧みても、そのような救いの視点は、自分自身を中心としたものとなる。イエスが救い主だと言うとき、自分中心ではないものが、表現されているように、思われる。それを、わたしは、あまりに強く求めすぎているかもしれないが。普遍性をもとめて。すべての人が一人の例外もなく、平和に住む道をさぐることを求めた。すべてのひとが救いを得ることではなくても、すくなくとも、その呼びかけは、公平さを保って全員に及ぶように。深く考えた良い問いである。 Ex 9:14 今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。 災害をくだす理由が語られている。さらに、滅ぼし尽くさないのは「あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため」(15)としている。旧約聖書の文書資料説自身については、未確定で、わたしもよくわからないが、様々な考えが、旧約聖書の成立背景にもあったのだろう。しかし、そうであっても、イエス様を通して示される神様とは、異なる面を多く感じる。神認識(啓示と言うことも可能だが)が、イエスを通して深くなる、その以前だったと捉えることもできる。これを、絶対的な、神の意思ととるひともいるだろう。難しい。 Ex 10:27 我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでは、我々自身どれをもって主に仕えるべきか、分からないのですから。」 ファラオとの出エジプト交渉は、神を礼拝することに限られて進んでいく。約束の地に導かれることなのか、奴隷の身から解放されることなのか、それは、すべて神を礼拝することなのか、一つにまとめることは可能であるが、はっきりしていないように思われる。しかし、出エジプトがこの民の原体験となることは確かである。その意味でも「主はモーセに言われた。『ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。』」の信仰体験としての理由が、イスラエルにとって、決定的であったことは確かである。 Ex 11:3 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。 口語訳では「はなはだ大いなるものと見えた」とありニュアンスがことなる。新共同訳を読むと、若い頃のエジプトでの生活の影響を考えてしまうが、口語訳からは、このときの災いに関わる神的力によるように思われる。おそらく、基本は、後者なのだろう。これだけ災いを起こして、好意(chen: favour, grace, charm)、尊敬(gadowl: great)ということばがでることには、違和感を感じる。過越に続く、出エジプト時の「主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。」(12章36節)を指しているのだろう。まとめを書いて、そのあとに内容が詳述されるのが、一般的な書き方だから。 Ex 12:2 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。 最初の月と定めたことからも(現在のユダヤ暦の正月は異なる。(古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦(または「教暦」「新暦」ともいう)と、秋から1年が始まる政治暦(または「政暦」「旧暦」ともいう)との2種類があったが、ユダ族(南王国)では後者を使っていたため、その流れで現代のユダヤ暦も政治暦のほうに準拠している。(Wikipedia))捕囚後のバビロニア暦の影響もあるようだ。)この民の出発の時である、原点ともいうべき時であることが分かる。しかし、今回は、なぜ、日もあわせなかったのかが気になった。正月一日としてもよいはずである。予定が10日から書かれているので、準備が必要だったとも言えるが、1日ではない。すでに、使われている暦があり、月のなかの日まで変えることには抵抗があったからだろうか。それは、エジプトの暦だろうか。パレスチナを含む、この地域(世界)全体で使われていたものだろうか。暦にも興味をもった。今まで読む機会のなかった青木信仰氏の「時と暦」を読んでみたくなった。暦は人間の生活に直結している。信仰の原点という見方だけでは、処理できないのかもしれない。 Ex 13:3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。 「記念(zakar: to remember, recall, call to mind)」通常はすぐ忘れてしまうことを意味する。2節の「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」も、直接的には、過越のことであるが、さらに本質的なのは、神によって生かされていることを意味する。自分中心、自分が自分の力で生きている、自分の成果のように考えてしまう、そこから自由になることだろうか。わたしは、なにを覚えようか。わたしにとって、たいせつなもの、わたしを生かしてきたものをどのように表現しようか。いま、表現しようとすると、上に書いたこととは裏腹に「イエス様が示してくださった生き方を知り、そのように生きることを求め続けた」という、自分の応答になってしまう。もう少し考えたい。 Ex 14:13,14 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」 ここでは、モーセが答えている。なぜ、こんな凄いことを言えたのだろうか。このような経験を、してきたのかもしれない。「恐れてはならない」恐れると、神を愛することはできなくなる。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネ一4章18節)そして「静かにしていなさい」これこそ、信頼(信仰)なのだろう。自分ではどうにもならないことと共に、つねに守られて、日々生きていることを覚えることが根底にあるのか。日常と危機はつながっているのだろう。自分では、特別だと考えてしまうが。 Ex 15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。 一巻として書かれる前には、口伝での伝承があったことは、容易に想像できる。そしてそのときには、詩文体のものが伝えやすいことから、一般的には、詩文が古いとされる。そう考えると「馬と乗り手を海に投げ込まれた。」がこの基調をなす、主題なのかもしれない。4節・5節も「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。」とあり、10節で表現を変えて登場する。そして、その間に凄い表現がある「憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。」ただ、ここから、実際に起こったことを描写することは、難しいだろう。安易な解釈は、避けるべきで、このようにしか表現できないような特別なことが起こったことに目を留めるべきであるように思う。 Ex 16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 天からのパンはヨハネによる福音書6章を思い出させる。そこでは、イエスの側から、自らパンを差しだし、イエス自身が命のパンだとして群衆に語りかける。ここから、離反が起こるが。ここでは「民の不平」に対する応答として書かれている。神が与えるパンと言う意味では同じであるが、それは、民が神に従うかどうかを試すためとなっている。そして、従わなかった例がこのあとに続く。神に忠実に従うこと、それ以上を求めず、神に養われていることを感謝してうけることが中心なのだろう。それを否定するわけではないし、神への信頼は、常に鍵であるが、イエスの教え、されたことは、やはり、かなり異なるように思われる。(神・神の子)自らが、みずからを差しだすのだから。そこに、福音の本質があるように思われる。 Ex 17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。 「主は我々の間におられるのか」主は「わたしはいる」であると言う意味にとれ、そのように訳せるとすると、この問いは興味深い。このときも、マナを食べていただろう。それが日常になってしまったのか。様々な救いの手によって、存在できる自分をわすれてしまうのだろうか。Remenber はたいせつなのだろう。それは、ずっと覚えていることでは無く、思い出すことなのかもしれない。恵みを数えてみることともつながるのかもしれない。 Ex 18:12 モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。 「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。」(3章1節)が最初にエトロが現れる場所であるが、ここでもしゅうととなっている。この時点でしゅうと(義父)と書かれていることに違和感もあるが、イスラエルの民にとって、モーセのしゅうとエテロは、特別な存在だったのかもしれない。ミディアンの祭司が「焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。」とある。この「神」は、そして、この礼拝は、寛容さの表れともとれる。「主」ではなく、一般名詞が使われ「今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」(11)と告白し、協力関係も結び、民の治め方に有益な助言もしている。祭司として民を裁く経験が豊富だったのだろう。正確には分からないが、エトロ一家は去って行ったようである。(民数記10章29節・30節) 2019.1.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、出エジプト記を読み進めます。まず、20章には、十戒と呼ばれている、旧約聖書の基本的な律法が出てきます。これは、キリスト教においても、特に大切にされているものでもあります。いくつかそれに関わることが書かれてから、会見の幕屋の詳細が続きます。 前回「出エジプトは何のためだったのでしょうか。」と書きました。礼拝を中心とする宗教集団の構築のようにも思われます。それは、他民族との分離も含むことになります。さて、現代において、そして、イエスの教えに照らすと、なにを、いま求めるべきなのか。十戒とは、そして、律法とは、礼拝の場所とは何なのか、そして、当時の人たちがたいせつにしたこと、それをどのように伝えようとしているか。みなさんは、どんなことを考えながら読まれるでしょうか。 難しい箇所でもあります。いろいろな視点をえるためにも、それぞれがどのようなことを考えながら読んでおられるか共有することもよいと思います。投稿も楽しみにしています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 出エジプト記19章ー出エジプト記32章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ex 19:5,6 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 「聞き従い・わたしの契約を守る」という条件のもとである。この最初のステップとして、神からのことばを受け取るために、身を清めることが語られ「角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。」(13b)と、主から言葉を受けるものの制限が語られる。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15章12節)と、自らの模範を示す。教えることから、学ぶことと教育で言われている変化にも通じる、旧約と新約の変化も見て取れる。それは、神観の大きな変化とも言える。旧約聖書をどのようなものとして読むかは、難しい。 Ex 20:5,6 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 神以外の何ものをも神としてはいけない(偶像礼拝の禁止)は、本質的でも、父祖の罪を問うこと、幾千代にも慈しみを与えることは、一つの文学的表現であるように思われる。罪は「三代、四代」慈しみは「幾千代」と違えている表現も興味深い。しかし、これを、具体性を持って取ることは、おそらく旧約時代にも殆どなかったろう。ただ、それが合理的な理解によって整合性を取ることに発展していくと、問題が生じるだろう。いずれにしても、イエス様の教えとは、かなり違う印象をうける。何をうけとり、何を受け取らないのか。おそらく、キリスト教の最も難しい問題だろう。一定した解釈もないように思われる。完全に、当時の人の神理解、信仰告白と取ることはできるのだろうが。それは、神認識をどうするかというさらに大きな問題を生じさせるようにも思われる。 Ex 21:2 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。 詳細な訴訟に関する規定が定められている。どの程度、守られたかは不明だが、興味深い点が多いと共に、普遍性という意味では、やはり十分とは言えない。そのなかで、人は、どのように、法を解釈するかを考えたのだろう。合理的な解釈や、例外条項などを考えるのも、おそらく、それ自体は、自然なこと、そこで、愛の法をそこから読み取るのは、やはり難しいと思われる。律法学者や、ファイサイ派のひとをこのことに関しては、非難する気にはならない。問題があるとすると、イエスの語りかけに、聞く耳をもたず、結局、神に従わなかったことだろうか。じっくり考えたい。 Ex 22:20-22 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。 単なる罰ではなく、神の怒りについて書かれている。単純に、裁くことができないことも多いからだろう。神を畏(恐)れることを教えていると同時に、愛の律法とは、やはり異なる。愛の律法は、ひとには、従えないことを、知っていたのだろう。イエス様の模範だけでも、おそらく、不可能である。神の心を心とする、聖霊の働きがなければ。しかし、それは、また別の危険も誘発する。難しい。それを難しいとして、あきらめず、謙虚に、求めることが、ひとのつとめなのだろうか。できる、できないで、決めてしまってはいけないのだろう。 Ex 23:2,3 あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。 普遍性に疑問を感じる箇所が気になってしまうが、同時に、多くの人が陥る過ちについて指摘している。時代を超えて、考えさせられることが多い。すべては引用できないが「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。」(1)なども、fake news ということばが、よく語られる昨今、たいせつな教えである。「悪人」かどうか、それが「不法を引き起こす」かどうかは、最初はわからないこともある。しかし、「あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。」と続くと、考えさせられる。さらに「また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」ともある。弱い人はかばっても良いのではないのと、考えてしまう人も多いだろう。しかし、そうは書いていない。その判断を自分がしてしまっていることも、問題なのだろう。今日も、困難を抱えて、行き先のない学生と面談をすることになっている。安易に、同情し、なにか、策を講じるのでは無く、その一人のひとの人生と共にある一時としたい。解決は見えなくても。それが、神を畏れることだと、いまは、考えているから。 Ex 24:14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」 フルは17章8節-15節で、アマレクと戦う場面で、アロンを助けるものとして登場する。ヨシュアがモーセの従者であったように、フルはアロンを助ける者だったのかもしれない。エトロの助言はそのあとにあるが、指導体制の整備のひとつかもしれない。この場面は、重要である。その二人、アロンとフルに依託されている。依託された責任を担うものとして、わたしたちひとり一人も限定された職権ではあっても、神から判断をゆだねられているという面を持っているだろう。神からの言葉がすべて答えてくれるわけではないのだから。この言葉も「モーセは、神の山へ上っていくとき、」に続いて書かれている。主がモーセに、そして、モーセが長老たちに依託し、アロンとフルに聞くようにとしている。神に従うことについて、これから起こることを考えていきたい。 Ex 25:2 イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。 規則としてではなく「おのおの進んで心からささげるわたしへの献納物」という書き方が印象に残る。必要が優先して、この本質が失われることのないように、日々の様々な働きをしていきたい。このことと「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」(8)は、無関係ではないのだから。 Ex 26:1 次に、幕屋を覆う十枚の幕を織りなさい。亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様を織り上げなさい。 ケルビムは、25章から出エジプト記に登場する。(18, 19, 20, 22 節)出エジプト記では、この章と次の章をあわせこの三つの章のみに現れる。それより前は「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3章24節)どのようなものと理解されていたかは、聖書だけからは、分からない。主の臨在の象徴なのであろうが、形などが、どのように理解されていたのか。伝承はあったのか。このときが、最初だとは、思えない。説明が全くないのだから。不明である。 Ex 27:8 祭壇は板で造り、中を空洞にする。山であなたに示されたとおりに造りなさい。 人々が、律法に書かれていることを一字一句守らなければいけないと考えたことは、このようなことからも分かる。私たちは、聖書をどのように、理解するのだろうか。祭壇の作り方、常夜灯の守り方。それを象徴的に、理解して、それを守るのだろうか。それとも、同じ神様を礼拝し、イエス様を送られた神様に生涯をかけて従い、神様からの言葉として、そして、信仰告白として記録した、人たちの生き方から、神様について学ぶのか。正直、良くは分からない。時代を経て、時代の中で、これらの箇所がどのように読まれてきたのか、興味を持つ。 Ex 28:1 次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい。 世襲制祭司職の始まりである。当然のこととして、受け入れられたわけではないだろう。あとで、問題も生じる。栄誉であるとともに、理由の示されない、階級差もあり、従えなかったひともいるだろう。多少の規定はあとにあるが、それでも、それを、守ろうとして、それが続いたのは、閉鎖性からだろうか。その人たちともつながりたい。 Ex 29:1 わたしに仕える祭司として、彼らを聖別するためにすべき儀式は、次のとおりである。若い雄牛一頭と傷のない雄の小羊二匹を取る。 アロンの子らの祭司任職式についての詳細が書かれている。このときは、アロンと、その子、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルである。それがいずれは、膨大な数にふくれあがる。その組織構造に驚かされる。どうじに、やはり構造化は問題も生じる。自発的な応答としての信仰ではないのだから。イエスの予型として、考えることはできないことはないが、この構造自体をなくすことが、キリスト教によってなされたように思われる。イエスがどの程度、そのことを意識し、パウロが考えていたかは、分からないが。そして、教会組織が構築される。交わりの域を出た、組織、人数が多くなると、仕方がないともいえるが、やはり、同様の問題が生じることも確かである。本質的な問いである。 Ex 30:38 また、類似したものを作って、香りを楽しもうとする者は、すべてその民から断たれる。 祭司と一般信徒を分けざるをえないことが、背景にあるように思う。ただ、現代は、その状況が改善されたとはいえ、まったく十分ではない。その中で、その区別をなくすことは可能なのだろうか。結局、それをこのまず、組織的に肯定しなくても、牧師と信徒の間の差が生じる。難しい。 Ex 31:13 あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。 安息日については、マナについて、16章に「明日は休息の日、主の聖なる安息日である。」(23)と記され、次に、20章に十戒の中で、なぜ特別なのかが「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(11)と説明されている。そして、ここで、安息日は「代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。」と、それが何であるのかと、目的が書かれている。さらに、続けて、安息日を汚す者は死刑だと繰り返される。(14, 15)安息日こそが、神との関係を示す、特別なものであるとされていたことが分かる。たしかに、安息日は、他の民族、宗教と区別するものだったのだろう。しかし、イエスは、それに挑戦しているように見える。イスラエルの民が、安息日を守ることによって、特別であることに、抗ったのだろうか。もう少し考えたい。 Ex 32:19 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 まず「その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。」(16)が目に付く。しかし、その板を、いとも簡単に、砕いてしまう。神の手になるものに、魔術的な力をみて、それによって、なにかをすることを、選んでいない。神の怒りが、自分のものとなったのだろう。神と心がひとつになれば、砕くことによって、それも表現される。凄い瞬間である。この石の板が残っていてはいけなかったのかもしれない。または、そのように、聖書記者は、考えたのかもしれない。後から語られる石の板は、表現が変わっているように思われる。(34章1節参照) 2019.2.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、出エジプト記を読み終わり、レビ記へと読み進めます。出エジプト記はどうですか。最初の出エジプトの物語のあとの部分は、十戒程度で、あまり読まれたことがないかたも多かったかもしれません。レビ記は、じっくり通して読まれた方が、さらに少ないかもしれません。 レビは、覚えておられるかと思いますが、アブラハムの孫の一人のヤコブ(別名イスラエル)の第三男で、その子孫は、十二部族の一つだったわけですが、出エジプトから特別な役割となり、レビ族は、十二部族の一つには数えなくなります。その代わり、ヨセフの子のマナセとエフライムが十二部族の一つとなり、十二という数を保つことになります。それは、出エジプトの指導者、モーセとその兄アロンがレビの家系だったことに依っています。その中で、アロンとその子孫が祭司となり、祭司世襲制が始まり、レビ族は、祭儀を補助する役割を担うことになります。そして、基本的には、祭司が民を指導する、すなわち、宗教者による指導体制が築かれることになります。その体制のルールブックがレビ記だとも言えます。 では、内容はどうなのでしょうか。出エジプト記後半から、聖別、聖ということばが、頻繁に現れます。神様が特別であることから、その神様が共に住んでくださり、神様と関係(交わり)をもつためには、聖でなければならないとして、そうでないものからの分離の教えが続きます。神様がどのような意味で特別なのか、分離は、隣人との分離も意味するのかなどは、問いとして維持されるように見えます。真理を求めるとき、(自分が信じる)真理に従って生きようとするとき、同じような問いが発生するように思われます。インクルーシブとか、共に生きるということや、互いに愛を持って仕え合うこととは、どのようにつながっているのでしょうか。適当に使い分けるのでしょうか。それとも、異質のものなのでしょうか。いろいろな問いをもって読んでいただければと思います。 通読の最初の難関でもあります。いろいろな視点を得るためにも、それぞれがどのようなことを考えながら読んでおられるか共有することもよいと思います。投稿も楽しみにしています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 出エジプト記33章ーレビ記6章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 出エジプト記とレビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ex レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ex 33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。 民の不信に対して、神は、約束の地に入れることはする「しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。」(3)と伝える。その応答が引用箇所である。その後、民の代表が神と会う場所が定められ、神が民と共に約束の地に上っていること、また、そのことの証拠を示す。意図的なものを感じると共に、当時の人たちが、礼拝についてどのように考えていたかは分かる。悔い改めを身をもって示し、神の約束を思い出しながら祈り、神に会って頂き、神と共に生きる道を求める。神がすぐに、語ったことを翻したり「使いをあなたに先立って遣わ」して先住民を追い出すなどは、結局過程上のことであるので、あまりこだわらない方が良いかもしれない。礼拝というものについて、たいせつな、本質的な部分が表現されていると共に、霊的なものから、形式的なものが整備されていく過程も見て取れる。弱い人間が、長い期間、大勢で、神に従っていくためには必要なこととすることでよいとは思われないが。 Ex 34:12 よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。 自分たちの弱さを知り、神の前に改めて出て、宗教生活が始まる。そこで記されているのは、まずは、他の人々からの分離、そして、神との関係を覚える「祭り」の制定である。イエスの時代、パレスチナを中心とした場所は、東西の交流の場となっている。分離による、現実との乖離のなかで、霊的な礼拝、より普遍的な宗教生活へと向かっていくのは、自然なのかもしれない。ムハンマッドのときも、アラブ世界の砂漠の民の間で、交易が活発になり、伝統が、挑戦を受けた時代である。普遍性へと向かうとき、分離、民の強い結合だけでは、乗り切れないように思われる。考えたいテーマである。 Ex 35:3 安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。」 安息日を守ることは、イスラエルの民のアイデンティティーであることは、すでに書かれていたが(31章13節)、ここでは「火をたいてはならない」と書かれている。幕屋での、常夜灯のようなものは、当然、燃やされていたろう。現代では、どれほど厳格な人たちでも、これを実行することは不可能だろう。すると、この「火をたく」とはなにを意味するのか、何は免除されるのかという議論になることは、自然である。規則で縛ることの限界である。自由意志で、こころから、神様に従うことを、続けることは人にはできない。規則で、あることを守ることもできない。原理で人を律することはできないことは、おそらく、早い時点から理解されていたろう。このような問いに対して、当時は、または、その後、どのように考えていたのだろう。この箇所では、安息日を守ることを、日常の煮炊きのレベルまでおろして、その大切さを、示しているのだろうが。 Ex 36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および知恵と英知を主から授けられ、聖所の建設のすべての仕事を行うに必要な知識を与えられた、心に知恵のある者は、すべて主が命じられたとおり、作業に当たらねばならない。」 「心に知恵のある者」という表現は、35章10節と36章8節にもある。それ以外にも似た表現がいくつか登場する。技術を持った者ではなく、心に知恵のあると表現され、それは、神から来ていることも強調されている。そのような者であっても、主が命じられたとおりに、作業に当たるべきことが命じられている。神から授けられるものと、そのようなものの応答として、神の喜ぶことをすること、人の側のことも書かれている。ただ、ここでも、掟を守ることの一部とされてはいるが。律法の問題は、難しい。 Ex 37:1 ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。 ベツァルエルはどのような人なのだろう。この仕事に関わった人の名前は、あとオホリアブ程度しか書かれていない。単に象徴的とも思えないが、語り継がれていたものを書き綴った面もあるだろう。聖書の成立は、やはり難しい。何でも神様のわざとしてしまえば簡単だが、そうすると、別の問題も生じるように思われる。燭台や、香をたく祭壇の詳細が書かれている。それらには、普遍的なメッセージがあるのだろうか。 Ex 38:24 仕事、すなわち聖所のあらゆる仕事に用いられた金の総額は、奉納物の金が聖所のシェケルで二十九キカル七百三十シェケル、 キカルは34.2kg、シェケルは、見つかっている分銅で平均11.4gと、新共同訳聖書の巻末の表にある。金だけで、約1トン、銀は、4トン近く、青銅は、約3トン。これらだけで、8トン。人が担いで移動できるのは、20kg とすると、400人が必要となる。どのように移動したのだろうかとの疑問が生じる。荒野での建設としては、異常な大きさと重さである。さらに、聖書が読まれた時代を考えると、幕屋が殆ど顧みられない時を経て、神殿があった時代へと移ったことを考えると、幕屋の設計図が詳細に残されたことの意味も考えてしまう。神と出会うこと、会見の幕屋とも言われるものに、込められた思いの凄さだろうか。すくなくとも、イエスのメッセージを考えると、本質的では無いものと思われる。 Ex 39:14 これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して十二個あり、それぞれの宝石には、十二部族に従ってそれぞれの名が印章に彫るように彫りつけられた。 どの十二部族か気になる。レビを入れた12なのか。それとも、レビは入れず、ヨセフを、マナセ、エフライムとした12なのか。このエフォドの機能について考えると、レビを入れなかったように思われる。もしかすると、ヨセフを二部族としたのは、逆に、レビを特別なものとして分けるためだったのかもしれない。ヨセフ物語もそのためとすると、あまりにも、拡大解釈しすぎているかもしれないが。どれにどの部族名が書かれていたかも気になる。母親によって順序づけられていたのだろうか。 Ex 40:33 最後に、幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の入り口に幕を掛けた。モーセはこうして、その仕事を終えた。 幕屋建設が出エジプトの最後を締めくくっている。出エジプトは、ファラオの前で述べたように(5章3節)、礼拝が目的だったのかもしれない。つまり、主に仕える集団として、選び分かつこと。少なくとも、それを、出エジプトは述べているのかもしれない。単なる奴隷の状態からの解放ではないのだろう。 Lv 1:1 主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。 トーラーと呼ばれる律法が、モーセ五書、このレビ記が3番目である。人々は、この言葉を聞くと、祭司が中心に神との関係を保つことが分かるだろう。つまり、祭司以外に、できないことが多く書かれている。それは、祭司の権威を高めることであると共に、民の責任を減らすことでもある。それは、むろん、プラスとマイナスがある。神との関わりが、一部に限られたことは確かでアルトともに、個人に向けられた神のことばという意識も限られていったろう。イエスの教えはそうではない。そのようなステップのためには、神の権威、神から遣わされたことの証明なしには、困難であったことも確かだろう。レビ記を聞いた一信徒として、これから、読んでいきたい。神様に従うことについて受け取ったと思われることを受け取るために。 Lv 2:3 穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである。 人々はどのように受け取り、祭司の仕事をどのように理解していたのだろう。一般の人は触れることができない神聖なものを扱う者。しかし、個人的な思いもあったろう。民族のためだろうか。ともに、育ち、生活している、祭司を、特別な者とみることに、難しさはなかったのだろうか。おそらく、イスラエルの歴史の中で、その見方も変化して行ったろう。興味はあるが、私が学ぶべきことは、少し違うように思われる。現代の教会との関係だろうか。それも、限定的なことがらであるように思われる。 Lv 3:2 奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。 牛を屠るのが、誰なのか気になった。文としては、日本語も、英語も、奉納者が主語である。臨在の幕屋の入口で、屠ることになる。牛を屠るのは大変なこと。牧畜業の人には、それほど難しいことではないのかもしれないが、一般的には困難である。どのように、なされていたかが気になった。それは、この律法が実際に、実行されているかに興味があるからでもある。協力がなされ、ここでも、それをする仕事が生まれたのだろうか。 Lv 4:35 奉納者は和解の献げ物の羊から脂肪を切り取ったように、脂肪を全部切り取る。祭司はそれを祭壇で、燃やして主にささげる物に載せ、燃やして煙にする。祭司がこうして彼の犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。 「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合」(3)、「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、その違反の罪に気づいたとき」(13, 14a)「共同体の代表者が罪を犯し、過って、禁じられている主なる神の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたとき」(22, 23a)「一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたとき」(27,28a)と四つの場合に分けて書かれている。引用した「罪は赦される」という表現は、20, 26, 31節にもあるが、祭司の場合にはない。何故だろうか。罪を赦すことは、祭司が宣言していたのかもしれない。祭司の罪については、学んでみたい。 Lv 5:1 だれかが罪を犯すなら、すなわち、見たり、聞いたりした事実を証言しうるのに、呪いの声を聞きながらも、なおそれを告げずにいる者は、罰を負う。 このあと、罪と、罰と、その贖罪について書かれている。呪いと訳されている語は、アーラー(’alah: 1. oath, curse, execration)で、意味は分かりづらい。「これは善くないという心の声」だろうか。このあとは、汚れや、軽はずみな誓い(shaba`: to swear, adjure)のことが書かれ「それを知るようになったとき、責めを負う」(3, 4)とあり、罪の告白と、贖罪が続く。内容は、言語の意味も、よく分からず、明確ではない。しかし、個人の神との関係における責任が述べられているのだろう。神の選びの民の一員としての責任だろうか。 Lv 6:20 この献げ物の肉に触れる者はすべて聖なるものとなる。また、この献げ物の血が、これを振りまく祭司の衣服にかかったならば、その衣服は聖域において洗い清めねばならない。 「聖なるもの(qadash: to consecrate, sanctify, prepare, dedicate, be hallowed, be holy, be sanctified, be separate)」はレビ記ではここが最初であるが、出エジプト記でも29章、30章に多く出現する。神様のために分かたれたものだろうか。この言葉も、特徴的である。写本、翻訳にもよるようで、新しい訳も調べてみたい。神・真理を求める姿勢として、基本的であると同時に、他の人たちからの分離という問題をもはらむ。 2019.2.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、レビ記を読み進めます。幕屋や神殿での礼拝という形式になじみのない私たちには、理解できないことが多いように思います。いわゆる「形式」ですが、外側が異なると、中側も異なるように、考えてしまう。少なくとも、その背後にあるものを、理解しようとする努力はしたいと思います。現代でも、異なった礼拝形式や、行動様式や、音楽やアートや、異なった趣味に没頭している人とは、近づきがたい気持ちになるかもしれませんが、背後には、似たものを発見するかもしれません。レビ記は、わたしにとっても、正直なかかな理解できない書物ですし、「神のことば」とされていることを、どう理解したらよいのか、悩みますが、その背後にある、人々と、そしてもしかすると自分とも、出会いたいと願いながら、読んでいます。 特別な(聖なる)神様の民とされることにともない「清いものと汚れたものを区別すること」が列挙されています。さらに、自分たちが出てきたエジプトや、導きいれられるカナンの地の風習や掟に従って歩んではいけないと語られています。分離が強調されていると言ってもよいでしょう。聖なる神様をしる一つのたいせつなステップなのでしょう。しかし、正直、それが神様が最終的に求めておられること七日には、個人的に疑問を持ちます。イエス様なら、神様についてどう伝えられるだろうか、何を求められるだろうかも、考えながら、わたしは、読んでいます。 なかなか難しい箇所でもあります。いろいろな視点を得るためにも、それぞれがどのようなことを考えながら読んでおられるか共有しませんか。疑問点を挙げて下さることも歓迎です。投稿も楽しみにしています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 レビ記7章ーレビ記20章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 出エジプト記とレビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Lv 7:37,38 以上は焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、任職の献げ物、和解の献げ物についての指示であって、主がシナイ山においてモーセに命じられたものである。主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられたのである。 ここまでの部分であっても、十分に複雑であるが、基本的には、献げられた場合どのように扱うかである。祭司や、補佐するレビ人は、これらの規定を学ぶこととなっただろう。このルールブックに戻りながら。一般の人はどうなのだろうか。レビ記がなにを伝えているかも考えながら読みたい。 Lv 8:35 あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい。わたしはそのように命じられている。 任職式についての規定があり、最後にこれが記されている。七日の間、昼夜を徹してには、驚かされる。「罪を贖う儀式」(34)の重さ、厳粛さを伝えているのだろう。 Lv 9:22-24 アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。 ここに記述されていることが、神との交わりの理想だとしているのかもしれない。適切な贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、すなわち、日常的な献身、そして祝福。このあとで、主の栄光が現れる。最後に礼拝。少なくとも、この後の人々は、これを読んだ人たちは、これを踏襲することによって、神の栄光が現れ、礼拝できると考えただろう。 Lv 10:10,11 あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。 アロンへ、アロンとその子らへの命として語られている。祭司の務めと考えるのが自然だろう。祭司の仕事は「聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」と「モーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えること」とある。指導的立場の人のなすべきこととしてもよいのかもしれない。現代では、指導的立場の人の位置が変わっている。ひとり一人にゆだねられているのか、それとも、このこと自体の意味が変わっているのか。万人祭司へと移行するときの、大きな課題である。 Lv 11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 長い汚れたものリストが始まる。なぜ汚れたものとしたか、その理由を考えることは興味深いが、おそらく、明確にはならないだろう。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」(45節b, 44節参照)が、レビ記記者が伝えたかったことなのだろう。しかし、まず、らくだから始まることは、意味があるかもしれない。一般的には、ヘブライ人は、らくだを主としては理由していなかったようだが、うらやましくは思っていたかもしれない。ひとの欲望を抑えること関係しているかもしれないとは思う。 Lv 12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。 このあとの記述(4,5,7)からも、出血が重要な要素であったことが分かる。「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記9章4節)にすでに書かれているように「血は命」だと考えられていたようである。「生き物の命は血の中にあるからである。」(レビ記17章11節a)恐れおののくことだったのだろうが、それが、なぜ、汚れとつながっていったのだろう。知識のなさが背景にあったことは否めないが、そこに話を持ち込むのは、自らをも、知識の無いものとされる、可能性もあり注意を要する。 Lv 13:3 祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。 伝染性の病気、ライ病(伝染力は低いと言われているが)などは、共同体にとっては、大きな脅威だったろう。祭司が最終的判断をする民にとっては、宗教的な汚れと、病気とが同じカテゴリーになることは、自然でもある。科学的知見が未発達、治療方法が確立していない状況では、隔離以外の方法はなかったのだろう。隔離は、民から絶つことではないにせよ、民としての尊厳(現代の言葉で表現するなら人権)が甚だしく犯される状態である。現代は、改善していることは確かだろう。同時に、背後にあることは、偏見など、現代でも、同種の問題がいくらでもあることなのだろう。差別・隔離する考え方は、知識だけでは解決せず、倫理的、精神的な面でも、解決しない。共に住むために、なにが鍵なのだろう。 Lv 14:54-57 以上は、あらゆる重い皮膚病、白癬、衣服と家屋のかび、湿疹、斑点、疱疹に関する、汚れと清めの宣告の時についての指示である。 非常に広い範囲に亘っていることと共に、網羅的でもないと感じる。ある程度古い記述が維持されているのではないだろうか。共同体として生活する場合と、街を作って住む場合は、明らかにことなる。どのようなことが背景にあり、人々はなにを恐れていたのかも考えてみたい。その恐れを、宗教的な汚れと考える、同時に、そこからの清めもある公的な方法を提示する。どのような方法によって、ひとは、尊厳が守られて、共に住むことができるのだろう。おそらく、現代でも、ひとは答えを持っていない。 Lv 15:32,33 以上は、尿道の炎症による漏出のある人、精の漏出のため汚れた人、生理期間中の人など、男でも女でも体からの漏出のある人、また汚れた女と寝た男に関する指示である。 すべてのことについて「聖である」ことを求める。特に、命に関わると思われることに関して。それは、神様が特別だと考える自然な帰結だったのだろう。これが、周囲の人からの区別と隔離をもたらす。科学的知見・考察と、inclusive であることについては、共通の土台をもとめる背景もある。特殊・特別にこだわることの問題だろうか。もう少し考えたい。 Lv 16:34 これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。 弱い人間が持続的に、信仰を持ち続けるために、儀式が重要な意味を持つことは理解できるが、儀式が中心になる社会には、普遍性はないだろう。儀式自体で幸せになれる人は、いるとして、つねに、全ての人に当てはまることではないからだろう。では、なにを求めれば良いのだろうか。ひとが、神との、そして隣人との関係の大切さを求めるためには。 Lv 17:4,5 イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物として主にささげなければ、殺害者と見なされる。彼は流血の罪を犯したのであるから、民の中から断たれる。 屠る(shachat: to kill, slaughter, beat)は、単純に殺すことだから、牧畜を生業としている場合は、その機会は日常的なものだったろう。ここでは、犠牲を献げることについて述べていると考えて良いだろう。つまり、神に献げる以外の理由で、それ以外の行為をしてはいけないと言う項目であろう。興味をひいたのは「殺害者」と言う言葉が使われていたからであるが、どうも、原語には、その人が殺したというような表現のようなので、印象が少し異なる。しかし、命を奪うことについての、重大さが強調されているように思われる。 Lv 18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。 様々な性的関係の禁止について述べられている。おそらく中心メッセージは、最後に述べられているように「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである。」(25)正当化にも見える。どの時点で、レビ記が書かれているか不明であるが、少なくとも、周囲がしているからという理由で、これらの行為に及ぶことは、禁止されている。それが、主に従うこととされたのだろう。このことは、注目したい。 Lv 19:34 あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。 通常は、隣人愛として「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(18)の後半が引用される。しかしこれは「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」(17)に続いており、おそらく、これは、ユダヤ人と呼ばれる同胞に対することと理解されていたろう。引用箇所は、もう少し広い。しかし、中心的な教えになることは、旧約聖書の範囲ではないように思われる。それは、この章の最後にも「わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。」(37)とあり、すべてを守ることが中心であるからである。ただ、イエスの時代に「最も重要な掟」が問われていたことは「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22章36節)だけでなく、実際にユダヤ教の範囲でも議論されていたようである。このレビ記19章を読むと、種々雑多と言ってもよい掟が並ぶ。それらをどう理解するかは困難である。それは、私たちにとってだけでなく、おそらく、イエスの時代のユダヤ人にとっても、困難なことになっていたのだろう。むろん、これらをある解釈の元で厳密に守ろうとする人は、ユダヤ教の中にも、キリスト教の中にも、どの時代にもいるのだろうが。 Lv 20:2 イスラエルの人々にこう言いなさい。イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。 この章には「死刑」が多い(9回、レビ記では他に24章に3回のみ)。そして「死罪」(6回、レビ記では他に19章に1回のみ)「民(の中)から断たれる」(全体に散らばっている)。その中で、石撃ちは、この箇所と、24章14, 16節の冒涜罪だけのようである。その意味で、子供を犠牲とすることは特殊な扱いがされていることがわかる。しかし、同時に、死刑、民から断つ、つまり、共に生きることと反対のことがたくさん書かれていることには、戸惑いも感じる。閉鎖的排他的、そして、分離主義である。そのようにすることが「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。」(7,8節)を実現することができないと考えたのだろう。たいせつなかたのたいせつなひとり一人に、目をむけたい。共に生きるために。That we may live together. 2019.2.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、レビ記を読み終わり、民数記へと進みます。現代ヘブル語聖書では「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれているとのことですが、出エジプト後のヨルダンを渡るまでの40年の殆どの部分がここに記録されています。二回の人口調査が記録されているため、民数記と呼ばれているのだと思いますが、数のことだけでなく、内容的に興味深い記述が多いと思います。申命記の評価は難しいですが、個人的には、モーセ五書と呼ばれるもののなかで、創世記の次に、この民数記が好きです。内容については、書かないことにしましょう。読んでいただくのがよいと思います。荒野の40年と呼ばれますが、人生には、そのような時があるように思います。はっきり言って、民は幸せでは無かった、主が共におられるとはいえ、幸せを実感することはできなかった期間ではないかと思います。みなさんは、いま、人生のどのような時を生きておられるのでしょうか。 民数記にも、難しい箇所もあります。いろいろな視点を得るためにも、それぞれがどのようなことを考えながら読んでおられるか共有しませんか。疑問点を挙げて下さることも歓迎です。不特定(顔が見えない)受領者がいることを意識することは、ひとの営みとして必要だとは思いますが、こんなこと、書いてはいけないのかななどと考える必要はありません。わたしが、フォローすることもあるかもしれませんが。投稿も楽しみにしています。安心して投稿してください。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 レビ記21章ー民数記7章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 レビ記と民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#lv 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Lv 21:23 ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。 直前に「しかし、神の食物としてささげられたものは、神聖なる物も聖なる献げ物も食べることができる。」(22)とあることも注目に値する。しかし、祭司の家に生まれた障害者が、生きがいをもって生きることに、まさに障害があったろう。犠牲にしてもそうであるが、障害の意味を問うことで、神の御心の理解が深まる。ヨハネによる福音書9章でのイエスの対応は、その意味でも、画期的である。むろん、このことについて発言しているわけではないが、普遍性をもった、ことばではある。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネによる福音書9章3節)これに続く、イエスの言葉は、しかしながらよく理解してはいないことも確認した。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハネによる福音書9章4・5節) Lv 22:32 あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。わたしはイスラエルの人々のうちにあって聖別されたものである。わたしはあなたたちを聖別する主である。 神様に聖別されたものということを、どのように意識するかを、求めながら、これこそ神様の御心と確信したことを、記録し、伝えていったとも言える。むろん、通常の聖書理解とは異なるが。こう考えるのは、この中に、人の性向を見るからである。神様に主体があると考えること、しかし、その神様は、あくまでも、人のこころの中にある神であり、わからないことを、わからないとすることが困難であること。神は、逐一、私たちに知らせるのでは無く、任せられていることをどのように見分けるのが困難であることなどである。もう少しよく考えたい。 Lv 23:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日は、次のとおりである。 単なる祭りの制定というより「あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日」としている。安息日(3)、過越の祭と除酵祭(5)、初穂祭り(10)、新穀の祭り(15,16)、贖罪の日(27)、仮庵祭(34)となっている。主の祝日は、主の恵みを覚え感謝するときなのか、共に、恵みを喜ぶときなのか。主と、民とともに、喜ぶことができれば幸せである。 Lv 24:10 イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。この男が宿営において、一人の生粋のイスラエル人と争った。 色々な要素が含まれている。冒涜罪での石撃ちの刑が記録されていること(23)、生粋のイスラエル人という言葉が使われていること、ただしこれは原語では「イスラエルの子」である。そして、処刑されたひとは、混血のようである。それも、母系である。どのような経緯かは不明であるが「主の御名を口にして冒涜した。」(11)とある。何があったかは分からないが、冒涜(naqab: to pierce, perforate, bore, appoint, to curse, blaspheme)とあるのは、ここが最初のようである。(原語では創世記30章28節にあるが、冒涜という意味ではない。)もう少し丁寧に見ないと分からない。 Lv 25:20,21 「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」とあなたたちは言うか。わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。 ヨベルに関しては、このレビ記25章に加えて、27章のみに現れ、例外は民数記36章4節のみである。ヨベル(yowbel: ram, ram's horn, trumpet, cornet)は、「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。」(2)からスタートしている。賢さとともに、不思議でもある。安息自体が、不思議なのかもしれない。宗教的な目的があったとしても、様々な実質的な意味も持っている。落ち着いて、このことを見つめてみたいと思う。人は、なぜこれを受け入れたのだろう。それ以前に、どのように、これを受け入れさせたのだろう。不思議である。 Lv 26:26 わたしがあなたたちのパンの備えを砕くときには、十人の女たちがパンを焼くにもわずか一つのかまどで足りるほどになる。焼いたパンは量って配り、あなたたちは食べても満腹することはない。 非常に分かりやすい表現である。幸せとは、苦しい状態とは何かをよく表している。お腹を満たせないこと、これは、おそらく、だれにも理解できるのではないだろうか。 Lv 27:2-4 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。もし、終身誓願に相当する代価を、満願の献げ物として主にささげる場合、その相当額は二十歳から六十歳までの男子であれば、聖所のシェケルで銀五十シェケルである。もし女子であれば、その相当額は銀三十シェケルである。 このあと、五歳から二十歳、1ヶ月から五歳、六十歳以上と分けて代価が書かれている。男性と女性の代価が常に、5対3となっている。男性優位にしているのか、そのような社会となっているのか、ある過程で、女性も終身誓願のときに、相当額を納めることに重点があるのか、これらの言葉がどのように受け入れられたか不明である。しかし、これが固定されていたとすると、議論はあったろう。遊牧が主な世界での役割分担とその責任という面もあるのだろうか。このあとに「もし、彼が貧しくて相当額が支払えない場合は、彼を祭司の前に立たせる。祭司が彼の支払額を定める。すなわち、彼が満願の献げ物をささげる資力に応じて祭司が決定する。」(8)とあることも興味をひく。共同体にとける責任の重さの評価が、祭司によって決められていた社会なのだろう。神に対する責任の重さは、どの人も同じなのだろうか。年齢について語られていることからも、権利だけで考えない方がよいように思われる。 Nm 1:2 イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。氏族ごとに、家系に従って、男子全員を一人一人点呼し、戸籍登録をしなさい。 詳細が「兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての男子」(20等)と書かれている。レビ記27章の記述も、兵役が想定されているのだろうか。すると女性の価値は、独立に考慮しているのだろう。ここには、定年は書かれていないが、終身誓願に相当する代価という考え方(レビ記27章)は、現代でいうと、年金を支えるか、受給するかに関係しているようにも思われる。社会的責任が減じた年齢に達した者の責任について、考えさせられる。わたしは、どうなのだろうか。年齢はどのように関係してくるのだろうか。 Nm 2:32 以上が家系に従って登録されたイスラエルの人々であり、部隊ごとに登録された宿営に属する者の総勢は六十万三千五百五十人である。 1章では軍の構成(登録)人数が語られ、ここでは、全体の配置が語られている。これが、実際にシナイ山を出発する前にできたのか、その後のものか、さらに後に、追加されたものかは、不明であるが。人数が、それなりに、最後の桁に近いところまで書かれていることに意味があるのだろうか。誕生日が正確に分からないと、二十歳以上も不明であることを考えると、どのようにこれを決めたのかも興味をひかれる。同時に、歴史の中で、民族の一致のひとつの基盤とはなったろうが、普遍化のなかで、キリスト者がどのようにこれを受け取って行こうとしたかも、一度まとめてみたい。旧約の受け取り方は難しい。 Nm 3:4 ナダブとアビフはシナイの荒れ野にいたとき、規定に反した炭火を主の御前にささげて死を招いたが、彼らには子がなかった。エルアザルとイタマルは父アロンと共に祭司の務めをした。 このあと、規定に反したことをした、祭司の子孫は、どうしたのだろうか。そこから、祭司職を解かれたのか。この記述から気になった。普遍性には、かける。 Nm 4:18-20 あなたたちは、ケハトの諸氏族をレビ人の中から断やしてはならない。彼らが神聖なものに近づいたとき、死ぬことなく命を保つために、彼らのためにこうしなさい。すなわち、アロンとその子らが行って、彼らの一人一人をそれぞれの仕事と荷物に割りふる。そうすれば、彼らが中に入っても、聖なるものをかいま見ることはなく、死を招くことはない。 このあと、ゲルショム、メラリについて書かれているが「レビ人の中から断やしてはならない」は、ケハトの諸氏族のみについて記されている。「ケハトの子らの仕事は、臨在の幕屋と神聖なものにかかわる。」(4)とあり、アロンとその子ら(歴代誌上5章27-29節)が属していたと思われるが、特別扱いである。また、この章の記述をみると、運搬に関することが多い。幕屋が固定されてからは、どのような仕事があったのだろうか。十分な、割り当て(仕事と給与)はあったのだろうか。貧困に陥っていたレビ人も多かったと言われているが、実体は不明である。ウザの事件(サムエル記下6章、歴代誌上13章)も思い出される。 Nm 5:14 夫が嫉妬にかられて、事実身を汚した妻に疑いを抱くか、あるいは、妻が身を汚していないのに、夫が嫉妬にかられて、妻に疑いを抱くなら、 どの時代にもあり、難しい判断が求められたのだろう。ここでは、苦い水の呪いという、おそらく、判断を神に委ねたことが書かれている。長い間には、それでは、判断が付かない事例がたくさん出ていただろう。くじもそうであるが、普遍性は低い。やはり、はっきりしないことであっても、ひとが責任を持たなければいけない自覚もたいせつであると思う。 Nm 6:24-26 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。 この章には、ナジル人についての規定がある。それは、レビ人以外で、誓願を立て、主に献身した(2)人なのかもしれない。ここでは「アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。」(23)から引用箇所に続いている。主の定めによって、特別な役割を担った者にも、自ら誓願をして、主に献身したものにも、そして、すべての人にも、この祝福(barak: to bless, kneel)のことばが語られる。ともに、神様に願うと言う行為なのかもしれない。これが、宗教指導者が、共に、神を礼拝する意味なのかもしれない。個人主義とはことなるように思われる。 Nm 7:9 ケハトの子らには何も与えなかった。彼らの作業は聖なるものを肩に担いで運ぶことであったからである。 「臨在の幕屋の作業に用い」(5)るために「モーセは牛車と雄牛を受け取って、レビ人にそれを与えた。」(6)とあるのにたいして、引用箇所が記されている。ウザの事件(サムエル記下6章、歴代誌上13章)の背景が、牛車の割り当てのこの箇所から書かれていることをいままで気づかなかった。やはり、ウザの事件には、違和感が残るが。 2019.2.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、民数記を読み進めます。荒野の40年の記録ですが、今週読む箇所に、なぜそのようになったか、その原因となった事件についても記されています。実際に起こった事実と、それをある真実として受け止めその後の歩を続ける。それは、あるトラウマを生むことも、教訓として受け取り、成長することも含んでいるのでしょう。そのような中で不平・不満が出たことが繰り返し書かれています。幸せを実感できていなかったのでしょう。荒野というだけで、生活の大変さも伝わってきます。希望を持ち続けること、神様に信頼し続けるとは、どのようなことなのでしょうか。神様がどのような方かを知ることは、大切なように思いますが。みなさんは、なにが鍵なのだと思われますか。みなさんは、いま、人生のどのような時を生きておられるのでしょうか。そして、それをどのように受け止めておられるでしょうか。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、安心して投稿してください。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 民数記8章ー民数記21章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Nm 8:15,16 その後初めて、レビ人は臨在の幕屋に入って、作業に従事する。あなたは彼らを清め、奉納物としなさい。彼らはイスラエルの人々の中からわたしに属する者とされている。彼らは、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして、わたしが受け取った者である。 レビ人の清めについて書かれ、それが、イスラエルの人々の奉納物(11,13-14)とすることが書かれ、引用箇所で、その理由が述べられている。あがないを基盤とした、神との契約の一部という理由付けなのだろう。一つの民族を、神に献げられた者とすることの、根拠は明確にして行かないといけなかったかもしれない。祭司は別として、レビびとは特権階級とは言えなかったようだが。実際について、もう少し学んでみたい。 Nm 9:10 イスラエルの人々に言いなさい。あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。 例外規定である。実際に行われたのだろうか。コミュニティによっては、一ヶ月遅れの祭は、開催困難だったのではないだろうか。しかし、例外規定を設けておくことで、律法として整備されたものであることは示すことができる。律法の限界だとも言える。難しい問題が背景にあることを感じる。 Nm 10:32 一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします。」 モーセが、その義兄に当たるミディアン人レウエルの子ホバブに言った言葉である。このあと、ホバブが同行したのかどうか、明らかではない。士師記4章11節にホバブがもう一回現れるがそれのみである。レウエル一族の一部は同行したのかもしれない。興味をひくのは、二段階になっていることである。主、わたしたち、あなた。幸せなものが、他のひとの幸せを望むことができるのかもしれない。幸せを受け取っていない者が、他者を幸せにすることはできないのだろう。幸せの本質について、考えさせられる。 Nm 11:10 モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。 10章の最後に幸せのことが書かれているが、その直後の記事を読むと、民は、幸せではなかったことが分かる。10章32節で条件付きのように描かれている背景を見る思いである。モーセはどうだったのだろう。ここで、苦しんだとある。それは、リーダーとしての苦しみとも言える。モーセは、幸せを超越していたのかもしれない。しかし、民が幸せになればと語る。幸せは複雑である。 Nm 12:7,8 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」 新約聖書では「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記18章15節、参照:使徒言行録3章22節、7章37節)を引用し、イエスが紹介される。この引用箇所が「モーセのような」という表現で表している内容なのかもしれない。しかし、逆に、モーセとは、何ものなのだろうかと疑問にも思う。神の子とは、異なるのだろう。神の子の意味は、神とのコミュニケーションだけではないと言うことだろうか。 Nm 13:16 以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。 ホシェア(Howshea`: salvation)からヨシュア(Yehowshuwa`: Jehovah is salvation)ヤーヴェ(共にいる神)が救いとより内容のある名前で呼んだことが書かれている。偵察に行く鍵となる時に、この名前の変更が書かれていることは、注目に値する。ヨシュアの自覚を促したのかもしれない。むろん、あとからの信仰告白という面もあるだろうが。 Nm 14:40-43 彼らは翌朝早く起き、山の頂を目指して上って行こうとして言った。「さあ、主が約束された所へ上って行こう。我々は誤っていた。 」モーセは言った。「あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない。敵に打ち破られてはならない。行く手にはアマレク人とカナン人がいて、あなたたちは剣で倒される。主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。」 とても興味深い。神が示したことを成し遂げることではなく、神に信頼し続ける者と共に主はおられるということだろうか。鍵は、主が共におられることである。善いこと(神が求めておられる)を達成することを追い求めようとすることがある。しかし、わたしは、神と共なる人生を歩みたい。御心を求め、信頼して、従うことを学びつつ。 Nm 15:26 イスラエルの人々の共同体全体の罪およびあなたたちのもとに寄留する者の罪は、こうして赦される。これは、過失が民全体に及ぶ場合である。 大きな転換点である13,14章のあとになぜこの献納物および、罪の問題が書かれているのだろうか。斥候の事件とそれに対する民の不平は、それほど大きな罪だったのだろうか。40年間におよぶ荒野の旅が運命づけられる大事件であり、神への信頼の大切さが教えられていることは、理解できるが、やはり無理もあるように思われる。14章のモーセと神のやりとりも、異様に感じる。神の子イエス・キリストの敬虔とはかなりことなる。よくわからない。 Nm 16:15 モーセは激しく憤って主に言った。「彼らの献げ物を顧みないでください。わたしは彼らから一頭のろばも取ったことはなく、だれをも苦しめたことはありません。」 コラ、ダダン、アビラムが「集会の召集者である共同体の指導者、二百五十名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆した。」(2)とある。大きな危機である。モーセはこのときは、神のみこころを問う(裁きの)場に、ダダンとアビラムが来ないと聞いて、激しく憤って怒っている。アロンとミリアムが逆らったときの「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(12章3節)という表現はかなりことなった印象を受ける。次から次から起こる反乱。公平性をもとめ「あなたたちは分を越えている。」(3)との批判も、実際の「あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか。我々の上に君臨したいのか。」(13)という不満が原因であったことも記録されている。十分理解できる。神の裁きで終わっているが、一方的に、反逆を批判する気には、なれない。このひとたちの痛みも感じるからだ。それは、間違っているのだろうか。 Nm 17:5 命を落とした罪人たちの香炉を打ち延ばして板金にし、祭壇の覆いを作りなさい。それらは、主の御前にささげられ、聖なるものとされているからである。これは、イスラエルの人々に対する警告のしるしとなるであろう。 記憶に留める、記念が、祭儀の中心である祭壇に記録されている。覚えることが重要であると共に、それを乗り越えることも、たいせつだと考えるが、どうなのだろうか。プラスの面とともに、マイナスの面も感じる。 Nm 18:32 あなたたちが最上のものをささげるときには、そのことで罪を犯してはならない。また、イスラエルの人々の聖なる献げ物を汚して、死を招いてはならない。 アロンに対し「あなたとあなたの子ら、ならびにあなたの父祖の家の者らは、共に聖所に関する罪責を負わねばならない。また、あなたとあなたの子らは、共に祭司職に関する罪責を負わねばならない。」(1)と命じることから始まる。アロンの子は、祭司、アロンの父祖の家の者らは、レビ人である。そして、この章の最後は、引用句で終わっている。受け取ったものの、10分の1を献げるが、それが最上のものとしている。分量だけではなく、最上のものを献げる。ここでは、イスラエルが10分の1をレビ人に献げ、レビびとは受け取った10分の1を祭司に献げる。最上のものは、おそらく、献げる心を言っているのだろう。罪を犯してはならないとあるのは、そのためであろう。 Nm 19:20 しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れている。 死んだ者の天幕に入った者、および、野外で死体に触れた者についてのきよめの規定である。よきサマリア人(ルカ10章25-37節)を思い出す。祭司やレビ人は、この汚れにこころが奪われていたこともあるだろう。サマリア人は、すくなくとも、祭司による清めは受けられない状態にあったろう。会衆の中から断たれるとは、とても厳しい。イエスは、このことからも自由である。この特別の律法というより、規定自体から自由であるように見える。その本質はなになのだろうか。律法が人のためであることを受け入れていたからだろうか。 Nm 20:21 エドム人はこのように、自分の領土をイスラエルが通過することを許さず、イスラエルは迂回しなければならなかった。 単純な記録なのだろうか。それとも、現状のエドムとの軋轢を説明する文章なのだろうか。どちらにしても、人々は、このことばに、しばられたことは、確かだろう。「取るに足らぬことです」(19)には価値判断が入っており、エドムにはそのようには思えず、懸念も多かったことは容易に想像できる。書物の権威、歴史の解釈、いろいろと考えてしまう。おそらく、良いことも、悪いことも、どちらとも言えない、様々な交渉がお互いの間にあったのだろうから、別の記録の方法もあったように思われる、もし、平和を求めるならば。インクルーシブな社会を求めるならば。 Nm 21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 民数記は荒野の記録であるが、民の反逆の歴史と言ってもよいぐらい、何回も何回も記録されている。この章ではすでに、カナン人を一部滅ぼすことも書かれているが、不満は止まない。幸せでは無かったのだろう。実感はなかったのだろう。希望だけで、ひとは生きていけないように思われるが、それは不信仰なのだろうか。信仰告白として、なにも不足するものはなかったと言えるのは、なにが支えているのだろうか。事実と真実の関係を知りたい。 2019.3.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、民数記を読み進め、殆ど読み終わります。荒野の40年の最終版の記録です。バラクとバラムの記事、イスラエルの通過をさせなかった民の記録、ヨルダン川東岸の地域を取ることになったこと、ツェロフハドの娘たちの相続のこと、ルベン、ガドと、マナセの半部族のこと、そして、祭りの制定や、逃れの町のことなどが、書かれています。一つ一つ興味深い記事です。民数記記者(多数いるかもしれません)は、なにを伝えているのでしょうか。何を伝えたかったのでしょうか。みなさんは、何を受け取られるでしょうか。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、安心して投稿してください。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 民数記22章ー民数記35章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Nm 22:6 この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている。」 バラク(Balak = "devastator”)、バラム(Bil`am = "not of the people")呪う(’arar)、祝福する(barak: to bless, kneel)。これらを見ると、象徴的な名前を使っているように思われる。呪うことを願う、人間の欲望によって神から結果を引き出そうとする行為だろうか。呪術(超自然的な存在にはたらきかけて,種々の現象を起こそうとする行為およびそれに関連する信仰の体系。)と言われるものである。ひとは、このような仕方で、信仰を表現することが、あるように思う。気づいている、気づいていないにかかわらず。 Nm 23:21 だれもヤコブのうちに災いを認めず/イスラエルのうちに悩みを見る者はない。彼らの神、主が共にいまし/彼らのうちに王をたたえる声が響く。 これまで民数記を読んでいて、民の不平、反逆ばかりが続いている。そうであるにもかかわらず、外部からは、主が共におられることが明らかな様である。民数記著者が伝えたかったことは、何だったのだろうか。神が忠実な方であることは分かる。それが「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」(19)に表現されているのかもしれない。 Nm 24:1,2 バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟り、いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた。バラムは目を凝らして、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見渡した。神の霊がそのとき、彼に臨んだ。 バラムはどのように考えたら良いか分からない。イスラエルの外に、神の霊が臨み、預言をする者がいたということ、しかし、神の霊に従って生きたわけではなさそうであることなどを見て取ることができるが。イスラエルへの教訓は、幾つか含むように思われる。民の不従順と、神の真実だろうか。それに関するイスラエルの外の証言。すくなくとも、良いか悪いかに分けて判断することでは、理解できない世界であるとも思う。 Nm 25:1-3 イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。 「ベオル(Beor = “burning”)の子バラム(Balaam = "not of the people")」(22章5節など)と「ペオルのバアル(Baal-peor = "lord of the gap”: the deity worshipped at Peor with probable licentious rites)」は関係があるかと思っていたが、綴りもかなりことなり、単に日本語が似ているだけのようである。直後に出ていることもあり、関連はもう少し調べてみたい。どちらも、特異な事件なので。 Nm 26:33,34 ヘフェルの子ツェロフハドには息子がなく、娘だけであった。ツェロフハドの娘の名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。以上がマナセの諸氏族であり、登録された者は五万二千七百人。 「ツェロフハドの娘」の相続の件は、今後何度も登場する。娘だけの家族がツェロフハドだけだったとは、考えられないが、例示なのか、または、公式に訴えがあり、議論となった最初のケースだったため記録されたのかが考えられる。後者だったのではないだろうか。マナセの子孫の書き方も、28節から32節まで、特殊な記述をして、このツェロフハドの娘に至っている感じすらある。重要案件として語り継がれるものだったのだろう。小さな一歩だが、この娘たちの訴えが世界を動かしたとも言える。 Nm 27:8,9 あなたはイスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。もし、娘もいない場合には、嗣業の土地をその人の兄弟に与えなさい。 このあとも順に「その人の父の兄弟」「氏族の中で最も近い親族」と続くが、基本的に、男性系である。その最初に、娘が加わったことは、完全ではなくても、大きなインパクトがある。律法の不思議な点である。このあと、嗣業を受け継いだ女性の結婚に関することも議論されるが(36章5-12節)父系でありながら、興味深い。普遍的な公平な状況には一足飛びにはいかないが、議論と前進はどの時代にもこのような人の挑戦によってもたらされるのだろう。 Nm 28:16-18 第一の月の十四日は、主の過越である。十五日は祭りの日である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。 祭りの規定は、出エジプト記12章、レビ記23章にあり、それと同時に、安息日の規定が各所に記されている。レビ記23章とは、一度比較して見たい。「初日」は明確ではないが、第一の月の十五日なのだろうか。ここに「いかなる仕事もしてはならない。」とあるが、祭りの規定では、この章(25,26)と次の29章(1,7,12,36)に繰り返される。当時は、可能だったのかもしれない。現代では、困難である。本質はなになのかの理解が必要である。祭り自体、わたしはあまり特異ではないように思う。共に喜び、共に泣くことの象徴なのだろうか。 Nm 29:1,2 第七の月の一日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。角笛を吹き鳴らす日である。あなたたちは、若い雄牛一頭、雄羊一匹、無傷の一歳の羊七匹を、焼き尽くす献げ物として主にささげ、宥めの香りとする。 通常「贖罪日」と言われる日の規定である。動物の犠牲が事細かにあげられており、特に、若い雄牛の頭数の変化が興味深い。1日1頭、10日1頭、15日13頭とあり、そのあと二日目以降、それぞれ、12, 11, 10, 9, 8, 7頭とあり、8日目には、1頭になる。何らかの思いがあったのだろう。意味が明確でないことも、儀式としては大切だったのかもしれない。祭は、やはりよく分からない。 Nm 30:17 以上が、夫と妻の間、父と父の家にいる若い娘の間に関して、主がモーセに命じられた掟である。 家父長権の強さが表現されている。しかしおそらく「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」(3)が最も大切なことだろう。夫、父に関しては、一族(大家族)の家長のリーダーシップが重要だったのだろう。もともとの職業が、遊牧民であれば、なおさらそのことは理解される。家長の決断が、つねに一族の盛衰、生き残れるかどうかに、影響したであろうから。自己決定権は、幸福の重要な要素であるが、それだけで、幸せが決まるわけではない。 Nm 31:16 ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか。 ここでは、「ベオルの子バラム」と「ペオルのバアル」が関連づけられているように思われる。「その死者のほかに、ミディアンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバという五人のミディアンの王を殺し、またベオルの子バラムをも剣にかけて殺した。」(8)とあり、ベオルの子バラムがここで殺されたことも記されている。「ミディアン人の長老たちに、『今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている』と言った。当時、ツィポルの子バラクがモアブ王であった。」(22章4節)とあり、ミディアンとモアブの関係も現れるが、それ以上は、ここからは分からない。背景まですべて書かれているわけではないのだろう。理解できているわけではないが新約聖書での引用箇所を記しておく。「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。」(黙示録2章14節) Nm 32:14 それなのに、罪人であるあなたたちが父に代わって立ち上がり、またもや主の激しい怒りをイスラエルの上に招こうとする。もし、あなたたちが主に背くならば、主はまたもや、この民を荒れ野に置き去りになさり、あなたたちがこの民全体を滅ぼすことになるであろう。」 「主に背く」とあるが、このあとに解決策が提案されていく。主の命令は時として具体的に見えることもあるが、本質は、心なのだろう。行動や、現象だけからは、それが罪かどうかははっきりしない。この結果の是非は別として、このような記録があることは、興味深い。部族連合のヨルダン東側のルベンとガドとマナセの半部族の由来を説明するためであったとしても。 Nm 33:1,2 モーセとアロンに導かれて、部隊ごとに、エジプトの国を出たイスラエルの人々は、次のような旅程をたどった。モーセは主の命令により、出発した地点を旅程に従って書き留めた。出発した地点によれば、旅程は次のとおりである。 日誌の一部である。一つ一つの地名をみると、その背景にある、事件も思い出されるのであろう。民数記自体も、その記録から書かれたという位置づけだろう。人生において、省察・振り返りを通して学びを得、成長するためには、記録が欠かせない。ひとはすぐ忘れてしまうと共に、記録は、その時々の省察の記録でもある。今後、どのようにして行くかも考えてみたい。成長のために。 Nm 34:2 イスラエルの人々に命じて、こう言いなさい。あなたたちがカナンの土地に入るとき、嗣業としてあなたたちのものになる土地は、それぞれ境で囲まれたカナンの土地であって、それは次のとおりである。 どのようにして、この境界が決められたのだろうか。時代的にはいつなのだろうか。日本のような島国と異なり、境界は他の民族の土地と接している。実際、このあとに、聖書に書かれている歴史においても、境界はかなり変化しているように思われる。神が定められたことを示すためだろうか。イスラエルの人達にとっては、とても、大きな保証だったことだろうが。ダビデの頃に一番拡大したときはどうだったのだろうか。疑問が大きくなる。 Nm 35:13,14 あなたたちが定める町のうちに、六つの逃れの町がなければならない。すなわち、ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。 ヨルダンの東は、ルベンとガドと、マナセの半部族のみである。残りの、9部族半がヨルダンの西に住むにもかかわらず、なぜこのようにしたのだろうか。この段階だからだろうか。「あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき」(10)となっており、不思議である。 2019.3.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、民数記の最後の一章を読んでから、申命記へと読み進めます。「申命記」という名前は、漢訳聖書の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。ヘブル語聖書でどう呼ばれているかなども、下のリンクにある、簡単な解説に書いてあります。全体としては、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されています。申命記を読み始めると、今までの四書とは文体が違うことに気づくと思います。聖書の研究者たちによっても、創世記から民数記とこの申命記の成り立ちは異なるとして、様々な推測がなされています。ここでは、その議論はしませんが、旧約聖書がどのように、成立したのかについて考えてみることはよいことだとわたしは考えています。すべて、一つ一つの言葉を神様が告げ、その通りに、モーセが書き記し、さらに、歴史の中で、間違いなく(写本のずれはたくさんあるわけですが)書き写していったと信じることを否定しませんが、そのように、信じた場合には、そう信じた責任も生じる、または負うことになると思います。聖書全体のある解釈を最初に前提として読み始める責任を負うということです。申命記に限っても、申命記がどのような書物であるかを前提として読むことは、そのような意味もあることを自覚する必要があると言うことでしょうか。どの時代に、誰が、どのように書き、それがどのように、引き継がれ、ある場合は、書き加えられ、編集されてきたかも、考えながら、それぞれ、神様からのことばを真剣に求め、これこそ神様のことばと確信したことが書かれてきた歴史を思いつつ、メッセージを読み取ることにより、開かれた読み方ができるとも思います。そのような読み方を恐いと思うかたもおられるかもしれませんが、ひとつの解釈のもとで読む怖さに目を閉ざすこともできませんから。 今日は、少し、いままでと異なることを書いてみました。聖書の読み方の幅を許容することも、わたしは、すばらしい、たいせつなことだと考えています。他の方の投稿などを「そうかもしれない」と自然に受け取れる、準備ともなると思います。寛容さでしょうか。お互いに、聖書をよくは理解できていない者同志、しかし、お互いをたいせつにし、聖書の時代の背後にいる方々ともつながって、一緒に考えることです。真理を、神様の御心を、人生において、たいせつなことを。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、安心して投稿してください。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 民数記36章ー申命記13章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 民数記と申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#nm 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BrC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Nm 36:3 もしその娘たちが他の部族のイスラエル人のだれかと結婚するとしますと、娘たちの嗣業の土地はわたしたちの先祖の嗣業の土地から削られ、嫁いだ先の部族の嗣業の土地に加えられることになり、それは、くじによって割り当てられたわたしたちの嗣業の土地から削られてしまいます。 なぜこのようなことが重要なのだろうか。実は、最近、ケニアで、Private Land, Community Land, State Land という区分を経験した。遊牧をするときは、Community Land の範囲で、動いていた可能性はある。すると、飛び地のようなことになると、おそらく、お互いに不便である。部族連合ということばがしばしば用いられるが、部族が特別な区分だったということだろう。部族の中では、自由だったのかはこれだけでは不明であるが、上記の通り、遊牧の生活と密接に結びついていた可能性はあるように思われる。 Dt 1:16,17 わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」 裁判人の仕事は「言い分をよく聞く」ことである。そして「裁判は神に属することだから」とある。ヨセフの兄たちへの言葉「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」(創世記50章19節より)を思い出す。恐れおののく。裁きは神に属する。手に負えないときに無理に判断してはいけない。 Dt 2:30 しかし、ヘシュボンの王シホンは我々が通過することを許さなかった。あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。それは今日、彼をあなたの手に渡すためであった。 「あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。」を理解するのは、困難である。「不可思議で、受け入れればよかったものを、そうしなかった状況をうけ」このようにしか表現できないとすることも考えられる。神からのメッセージには応答すべきという教訓を示すため。最後に、神は、意図的にそうすることによって、この民を滅ぼしたとする考え。最初の解釈が、いまは、しっくりくるが、正直わからない。 Dt 3:27 ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。 モーセは、なにを見ただろうか。渡っていっても、苦難があることを理解したかもしれない。同時に、約束を遠く見ることを許されるのは恵みでもある。「もうよい」(26)は、興味深い。わたしにも、そのように言ってくださるときが来るのだろう。それまで、歩続けよう。誠実に。 Dt 4:7 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 「律法(正しい掟と法)を持つ民」(8)と続けて表現されている。しかし、引用箇所に目がとまった。「いつ呼び求めても」応えてくださる。ではない。「近くにおられる」神の臨在に恐れおののくとともに、そのことこそが、この上のない素晴らしさであることを、覚える。応答が受け取れなくても、近くにいることを素晴らしいとできるのは、なぜだろうか。本質的な答のみなもと、善いといえるものが、そこにおられるという信頼だろうか。それは、人を傲慢にもさせる。それが意図ではないにしても。 Dt 5:7 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 なにか排他的な感覚をもっていた。しかし、神を「いつ呼び求めても、近くにおられる」(4章7節)と表現するのであれば、他の神を求めることは、自ら混乱に陥らせることではある。それを、はっきりさせることが、約束、契約という構造なのだろうか。他に神があるかどうかは、ここで言っていないのだろう。あくまでも「あなたには」である。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(6)これは根拠なのだろうか。関係の起源なのだろうか。契約を示唆しているのだろうか。もう少し、丁寧に考え、理解したい。 Dt 6:24 主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。 21節から25節は「将来、あなたの子が、『我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか』と尋ねるときには」(20)の答えとして語られている。自らの過去(21)、主の救い(22)、そして引用箇所が続き、最後に「我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」(25)と閉じている。「主の御前で」と「忠実」が心をひく。忠実、約束を守られる主の御前という、相互性が背景にあるのだろう。24節にまず、ひかれたのは、結局の所「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」ことに中心があるように思ったからである。報いよりも、幸いに生きることだろうか。「今日あるように、常に」と言えるのは、幸いな告白である。 Dt 7:7,8 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 「主の愛のゆえ」この一方的な選びと、ただ受け取ることだけを願う主の御旨。これが本質的である。普遍的なのかどうかは、まだ、結論が出せない。「受け取る」「答えてくれ」という応答性がまだよく理解できていないからだろうか。愛についてよく分かっていないからかもしれない。「主の愛」と書かれているだけではなく、主が愛されるという表現も、この箇所が初めてであるだけでなく、殆どない。(参照:イザヤ48章14節)「神の愛」は言葉としては、旧約聖書にない。そうであっても、申命記のこの箇所は、印象的である。 Dt 8:16-18 あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。 興味深い記述である。荒れ野でマナによって養われたこと、それは、苦しみであることを確認して、その苦しみの意味を問うている。苦しみは神が与え、自分が努力して富を築き、幸せになったと考えることもあるだろう。しかし、ここでは、苦しみは、試すこと、そして、幸福にするためとある。主との関係を思い起こすことが命じられている。そして、背景にあるのは、主の忠実さであると。その主がどのような方かを思い、その方との関係の中に生きる、申命記記者が、どのようにして、こう考えるようになったかに思いを馳せる。確かに、捕囚後、捕囚帰還後までも、完成には時間がかかったのかもしれないとも、思わされる。そういう思考をまったくしないことを否定はしないが。 Dt 9:6 あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。 「あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。」(4)から始まり「あなたが正しく、心がまっすぐであるから」(5)ではないとあり、それに続いて引用した「あなたが正しいので」があり、このあと、いかにかたくなであったかが、事例をあげて続く。主との関係において、自らをどのような者とするか。それが、主をどのようなものとするかとも関係しているのだろう。 Dt 10:12,13 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節)と比較すると、なにか大きな矛盾があるわけではないのかもしれないと思う。主を愛することと、戒めと掟の中心部分が新約で説かれていると考えられるのだろうか。しかし、かなり視点は異なると言わざるを得ない。イエス・キリストと、隣人に視点が移っている点である。幸いはどうなのだろうか。イエスにおける幸いは、幸いを得ると表現される、幸いとは、異なるように思う。幸福についても考えてみたい。正直よく分からないので。 Dt 11:14,15 わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。 これが祝福の中身であることに失望する面もある。物質的な祝福であると。しかし、よく考えてみると、現代は、それを感謝して受け取っていない時代なのかもしれないと思う。タイの山地族の村で、フィリピンや、インドネシアのサービス・ラーニングで訪れた地域で、土地の人々の生活の中で感じる平安、しあわせと感じるもの。それは、しっかりと認めることが困難になっていることの再認識でもある。それは、受けていることが見えづらいとも言えるし、さらなる欲望が覆い隠しているとも言えるのかもしれない。幸せについて考えてみたい。 Dt 12:30 注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。 論理的には、先住民が「彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげた」(31)から滅ぼされたのだから「彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。」としている。しかし、それは、自らも滅ぼされることをも意味し、さらに、分離主義が重要な教理となる。共に、主の御心(幸いを得ながら感謝して生きること)を求める生き方、インクルーシブな生き方とは異なるように思われる。互いに愛し合うこととは、区別される。特に、あるサイズになり、交流が始まると、分離を様々な形で、確立する必要がある。わたしが望む世界ではないように思う。 Dt 13:6 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。 「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」(7)との密かな誘いに断固対峙し、そのような誘惑者を民から除き去るべきことがこのあとに書かれている。正当化されるのは「あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主」という事実だけだろう。この歴史的事実を普遍化することはできない。それをイエスの十字架上での贖罪に取り替えることで、普遍化の道を、キリスト教は歩み始めることになる。絶対化の原理かもしれない。それなしには、普遍化はできないのかもしれない。互いに愛し合うこともできないのだろうか。 2019.3.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、申命記を読み進めます。皆さんも、少し、申命記を読まれて、文体の違いや、内容も今までに書かれていないことが含まれていたり、様々なことに気づかれたのでは無いかと思います。モーセの最後の説教集という形式をとっていることもあり、これまでの、律法や規定・手続きの記載とことなり、メッセージとして伝わってくる部分が多いのではないでしょうか。同時に、このあとに起こる、定着後のことも、いろいとと登場します。旧約聖書は、律法と預言者と詩と、表現したりしますが、律法と預言者とか、律法と言っても、旧約聖書全体を意味する場合もあると考えると、やはり最初の五書は、特別なもの、旧約聖書の代表とも言えるものと考えてよいでしょう。その中で、メッセージとして書かれている、申命記の重要性は、際立っていると思います。イエス様の引用として書かれている旧約聖書にも、申命記が多くなっているのは、そのような理由にもよっていると思います。申命記の成立について、わたしは、学者・研究者としての知見はありませんが、あまり、単純化せず、広がりをもって理解することも、大切なように思います。広がりとは、様々な可能性という意味も含みます。みなさんは、どのように聖書と向き合い、どのようなことに、違和感を感じ、そして、どのようなメッセージをうけとっておられるでしょうか。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、安心して投稿してください。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 申命記14章ー申命記27章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Dt 14:1 あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。 正直驚いた。こんな表現があるとは。口語訳では「あなたたちの神、主の子供」(原語では:こどもたち・あなたがた・ヤーヴェの・神の)となっている。この表現は、ここだけである。そして「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。」(2)が続く。そして、食べてはいけないもの、収穫物の十分の一を献げることが書かれている。申命記著者は、ほんとうに、一歩踏み出していると思う。 Dt 15:1-3 七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。 凄いことである。しかし、ここには「同胞である隣人」と「外国人」の区別がある。おそらく、基本的に別れて住んでいることが前提とされていたのだろう。イエスの時代は、そうではない。この区別が「隣人」が「外国人」をも含む形で取り去られるのが、イエスの教えである。ルカ17章18節に「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」とある外国人は17節を見ると、サマリア人であることがわかる。そして、そのサマリア人が、逆に隣人となったたとえが、ルカによる福音書10章25-37節にあるのだから。ヨハネによる福音書14章22節のイスカリオテでない方のユダの質問にたいする、イエスの応答も思い出される。 Dt 16:4 七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。 過越祭、除酵祭については、出エジプト記12章、13章、レビ記23章、民数記28章に記述がある。詳細に調べていないが、引用した記述は、ここが初めてのように思われる。さらに「過越のいけにえを屠ることができる」(5)場所の規定が加わっており、これも、新しいように見える。この時点で「国中どこでも」という書き方や、神殿を想定する規定まで考えることは、これらの祭りの本質ではないとも思われる。祭儀とは、そのようなものなのかもしれないが、主の恵みを覚えるという本質的なところから、どんどん離れているようにも思われる。申命記は、一定の価値観で書かれているように感じる根拠、背景でもあるかもしれない。 Dt 17:15 必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。 王を立てること自体には、特別、問題も提示されずまず、外国人を王にしてはならないことが述べられる。捕囚帰還後の抵抗運動の一つの原動力になったかもしれない。エジプトに戻ること、馬を多量に持つこと、王が大勢妻をめとること、金銀を蓄えることを禁止し、律法を守ることが強調されている。捕囚の原因をこのようなものとしたのかもしれない。おそらく、世界情勢など、様々な背景があったと思われるが。 Dt 18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。 このあとに「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」(18)とある。「わたしのような預言者」は使徒言行録3章22節、7章37節で引用されている。キリスト教において、重要なキーワードである。しかし「同胞の中から」とあり、直接、主の声を聞いて死ぬことがないためであること(16)が、語られ、預言者自身についての教えが続くことを考えると、特別な預言者と理解するのは、困難かもしれない。あまり「モーセのような」をどのようなことにおいて、類似性があるかに、こだわらないほうがよいのかもしれない。 Dt 19:19,20 彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。 このあとに「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」(21)と続く。偽証人について語られており、これがいかに重大であるかを、知らせるためのものである。偽証人は、おそらく、それほど重大なことではない、ことばを少し変えるだけと考えるだろうが、それが他者にどのような影響を及ぼすかを、知らなければならない。共同体への責任、神に対する罪が扱われている。しかし、見せしめ的な面が語られているのは、人間がいくら弱いから、必要だとは言え、違和感を感じる。 Dt 20:18 それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。 なぜ「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」(17)を一人も残しておかず、滅ぼすのかに、疑問を抱くのは当然である。10節からの一般論も、公平性、整合性を欠いているが「あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」(17)は、本当にそうか、疑問がでてくる可能性はたかい。そこで、理由として挙げられているのが、引用箇所である。これも、むろん、大きな問題がある。なぜ民全員なのかということ、なぜ、この民で、他の民には適用されないのかなどである。それは、神、主が命じられたことに、帰さざるをえない。それが神の命令だと確信したことについては、確信したひとに、責任を帰さざるをえない。それを乗り越えることは、イエス様で解決しているのだろうか。考えてみたい。問いの立て方が、ここに書いたほど、単純ではないのかもしれない。 Dt 21:18 ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、 この行き先は、民による処刑である。おそらく、最終手段で、長子の権利を軽々しく扱ってはいけないことが言われているのだろう。ここまで、言われたら、それを受け入れることは、非常に大きな責任を負うことなので。ここに、父、母と両方が書かれていることも興味深い。こどもの教育は、両親の責任である。 Dt 22:9-11 ぶどう畑にそれと別の種を蒔いてはならない。あなたの蒔く種の実りも、ぶどう畑本来の収穫も共に汚れたものとならないためである。牛とろばとを組にして耕してはならない。毛糸と亜麻糸とを織り合わせた着物を着てはならない。 なにを考えていたかを考えるのはある程度意味があるように思われるが、詳細を実行しようとすることは、空しいと思わされる。このあとの、男女の関係も、一人一人が、特に女性がたいせつにされているとは思えないからもある。正直、人間の律法の空しさだと思う。これこそ神の御心としていたことは、確かだろう。しかし、様々な状況について配慮がない、人間の愚かさでもある。すべてこれが完全な神の御心だとすると、多くの他のことについてなぜ書かれないで、このことのみが書かれるかにも、疑問が生じる。せめて、これらが記録された背景を考えたい。 Dt 23:20,21 同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。 なんとも悲しい差別である。しかし、貸すことを、善意に基づくこととしていたのかもしれないとは理解できる。それを、利得を得ることに変更してはいけない。むろん、そのことも、規定とすることには、問題があるが。 Dt 24:18 あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。 22節にも似た表現がる。エジプトで奴隷であったことが、繰り返し述べられていることが、申命記の特徴であるように思われる。それを思うことで、他者に対する生き方について、様々なことが教え、命じられる。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。」(17)「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」(19,20)などである。他者に目をむけることは、自分に目を向けることかもしれない。それだけではなく、やはり命令なのだろうか。 Dt 25:1 二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。 このあとに「もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合」として裁判人の責任が述べられている。刑が実際に執行される場所にも立ち会わなければいけない。重さを感じる。責任をとることでもあるかもしれない。自分が神の業に関与したことを最後まで見届け、それでよかったかを問うと共に、神を畏れることだろうか。 Dt 26:11 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。 5節から献げるときの口上が書かれている。自らがどのようにしてここに至ったか、神が「力ある御手と御腕を伸ばし」(8)エジプトから導き出され、この土地を与えられたことである。共に祝うのが、レビ人と、寄留者とある。その感謝に、寄留者も含まれることが興味深い。経験していない、ルーツを異にするものとも共有する喜びは、そのひとにも違ったルーツから、神を賛美することに導くこともあるのかもしれない。 Dt 27:9 モーセは、レビ人である祭司と共に全イスラエルに向かって告げた。イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。 このあと15節から、交唱が続く。偶像をつくったり、拝んではいけないこと、父母を軽んじてはいけないこと、盲人を道に迷わせてはいけないこと、寄留者など弱者の権利をゆがめてはいけないこと、性的倫理を犯してはいけないこと、隣人を虐げ、賄賂を取ってはいけないこと。儀式ごとに、思い出されると言うことだろう。 2019.3.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) わたしは、本日をもって、国際基督教大学を定年退職となります。メールアドレスは、これまでと同じものをしばらく使うと思います。使えなくなるとき(継続して使えるかもしれません)、または、変更する時は、転送もかけられるようにしたいと思いますが、何らかの形でみなさんにお知らせいたします。わたしのホームページ(https://icu-hsuzuki.github.io)は、しばらくまえに、学外に移しましたので、BRC ホームページは、変更なく利用できます。明日からのことは、まだ決めていませんが、聖書の通読は続けますので、今後共よろしくお願いいたします。国際基督教大学には25年半となりました。多くのことを経験し、学ばせていただきました。今後は、大学とは少し離れたところでの生活を模索していきたいと思います。今後共よろしくお願致します。 今週前半は、申命記を読み進め、後半はヨシュア記に入ります。旧約聖書全体の中で最大の指導者は、モーセと言って過言ではないでしょう。そのモーセの最後と、それを引き継ぐ指導者は、大変であったことは容易に想像がつきます。民数記34章には、アロンの子祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアが土地の割当に当たると書いてありました。宗教的指導者と、政治的指導者に分けたということなのでしょう。そのヨシュアのもとでのカナンの地の征服と分割などが、ヨシュア記に書かれています。「(彼らは)人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。」(1章14節)これをどのように理解するかは、平和な日本に生活している私達にとって、大きなチャレンジでしょう。疑問を疑問として持ち続けると共に、伝えようとしていることを、丁寧に読み取ろうとしていく姿勢も大切でしょう。みなさんは、モーセから、ヨシュアへの時をどのような思いをもって読まれるでしょうか。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、安心して投稿してください。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 申命記28章ーヨシュア記7章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 申命記とヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#dt ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Dt 28:13 わたしが今日、忠実に守るように命じるあなたの神、主の戒めにあなたが聞き従うならば、主はあなたを頭とし、決して尾とはされない。あなたは常に上に立ち、決して下になることはないであろう。 この章には、祝福と呪いが書かれているが、圧倒的に、呪いが長い。注意を促すことが目的であろう。同時に、因果応報・信賞必罰は気になる。わかりやすい教えが、全員に語るときは重要であるにしても。引用箇所は、「頭」と「尾」、「上」と「下」について書かれていて驚いた。そして、この句が祝福の最後である。このメッセージで「頭」「上」などは、何を意味していたのだろうか。支配階級などということよりも、だれにも制約されず自由を持って神に仕える者と、奴隷の身分で、常に制約のもとで、生活する者の違いだろうか。その精神的な類似だろうか。 Dt 29:28 隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。 殆どの事柄は隠されているとわたしは認識している。それでよいのだろう。申命記記者も同じことを考えていたのかもしれない。啓示されたことそのことは、我々に託され、責任をもつとともに、隠されていることは、託されておらず、責任をとらなくてもよいのだから。謙虚に、達し得たところに従って生きていきたい。 Dt 30:6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。 「心に割礼を施」すとある。「心に割礼のない」という表現でエレミヤ4章25節、「心に割礼を受けず」とエゼキエル44章7,9節にある。正確には何を意味するか分からないが、悔い改めによって立ち返ったものが「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができる」ことが約束されている。一旦神から離れ、立ち返ることが、必須なのだろうか。 Dt 31:14,15 主はモーセに言われた。「あなたの死ぬ日は近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、共に臨在の幕屋の中に立ちなさい。わたしは彼に任務を授ける。」モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、主は雲の柱のうちに幕屋に現れられた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。 「ヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つ」ことが書かれている。共に、神の臨在体験をすることである。民の前での任職については民数記27章12節から22節にあるが、ここは、少し異なる。ヨシュア(ホシェアから改名:民数記13章16節)はエフライム族(民数記13章8節、歴代誌上7章27節)であることを考えると、信じられないことでもある。レビ以外のひとが臨在の幕屋に入るのだから。なぜそのように記録したか、その意図についても考えたい。 Dt 32:19,20 主はこれを見て/御自分の息子、娘への憤りのゆえに/彼らを退けて、言われた。わたしは、わたしの顔を隠して/彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代/真実のない子らだ。 「彼らを退け」としており「わたしの顔を隠して」ではあるがやはり「彼らの行く末を見届けよう。」としている。親の愛を感じる。何にでも手を出すことが愛ではない。距離を取りながら、見守る愛もある。興味深い。 Dt 33:6 ルベンを生かし、滅ぼさないでください。たとえその数が少なくなるとしても。 ルベンだけでなく、ガドとマナセの半部族も、外敵の侵攻で、最初に消滅する部族である。しかしその中でも、ルベンが象徴的に扱われる。ヨルダン川東岸を嗣業とする、ガドとマナセの半部族のその後についても、もう少し理解したい。いずれにしても、ここで、引用箇所は、十二部族の一つとして残ることを願って祈っている。この申命記が書かれた時代とも強く影響するように思われる。何が想定され、何が理解されているのだろうか。 Dt 34:10-12 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。 申命記の最後である。重要な幾つかの点について書かれている。(申命記が書かれた時点までだろうか)「再びモーセのような預言者は現れなかった。」こと。さらに、モーセは「主が顔と顔を合わせて彼を選び出」したこと。その理由として挙げられているのが「エジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるため」と「全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すため」とある。イスラエルの前でなした業・出来事は明確には書かれていない。不思議と神の言葉については書かれていない。不出の預言者の理由は、奇跡であるようなイメージをうける。 Jo 1:10,11 ヨシュアは民の役人たちに命じた。「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。おのおの食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。」 「役人」とは誰のことだろう。民数記11章16節に「民の長老およびその役人として認めうる者を七十人」とあり、申命記には、1章15節、16章18節、20章5節・8節・9節、29章9節にもあることを確認。「食糧」は何だろう。おそらくマナ以外のものもあったのだろう。緊張の一瞬である。希望も大きかったかもしれない。40年の年月の後である。わたしなら何を考えるだおろうか。ヨシュアは何を考えただろうか。 Jo 2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 斥候は攻め込む前の戦略的な諜報活動の目的で偵察に行ったのだろう。しかし、得た情報は、力づけられるものだった。知らされたのは、主の御名が、イスラエルの内部ではなく、外であがめられていることである。神が「上は天、下は地に至るまで神」であるならば、そして、そのように信じるなら、信頼することこそ、信仰なのだろう。 Jo 3:9,10 ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。 その内容は13節に書かれている。「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」このことは7節にあるヨシュアに告げた主のことば「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。」の実現でもあるのだろう。これらは、やはり、将来への希望の提示で、信仰を求められることでもある。むろん、そこで、滅ぼされる民に、こころは向いていないが。 Jo 4:24 それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」 12の石をヨルダン渡河の記念としてギルガルに立て、子供(子孫)に伝えることが書かれ、それが、葦の海を渡ったときと同様であることとともに、このことが書かれている。記念碑の重要性だろう。わたしには「すべての道で主を認めよ」(箴言3章6節、新共同訳:常に主を覚えてあなたの道を歩け。)が大切だと思うが、集団に語りかけるときには、記念碑は欠かせないのだろう。信仰の個人性と集団性について考えさせられる。わたしがいま考える信仰は、集団性の中では、宣誓のようなものを通して、合意する以外ないように思われてしまう。どうなのだろうか。 Jo 5:12 その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。 割礼と、過越祭のことが、書かれ、この記事が続いている。割礼は生まれて八日目に受けるべきことが、創世記17章にまず書かれているが(レビ記12章3節)、それは、特別な理由なしに、ここまで実施されなかったことになる。すこし唐突に感じる。収穫に関しては、過越祭(春分の頃)が、この地域では、最初の収穫の時期であったことがわかる。ただ、これも、農耕のことが書かれておらず、この記事が登場するのは、唐突である。背景はよく分からない。 Jo 6:26 ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は/主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い/城門を建てたときに末子を失う。」 これは神の御心なのだろうか。正直「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。」(21)も、この箇所も、わたしには、受け入れられない。特に、引用箇所は、ヨシュアが、神に代わってしまっているように思われる。主の御心と知る部分も曖昧に感じる。 Jo 7:11,12 イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。 一番の罰は、主が共におられないことのようである。それが重大であることを、理解したのだろうか。「わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。」ことのどの部分なのだろうか。契約を破ったことだろうか。具体的な行為だろうか。それらは、一体なのだろうか。なぜと問うてはいけないのかもしれない。しかし、やはり、ヨシュア記記者がなにも不思議に思わなかったらしいことが、不思議である。 2019.3.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヨシュア記を読み進めます。ヨシュア記は、カナンの地(約束の地)の征服と分割が中心に書かれています。乱暴だととることもできるでしょう。わたしも、そう思います。しかし、同時に、それほど単純ではありません。ひとつひとつを絶対化はしていないように見えます。神様の側は変わっていないのかもしれませんが、それを受け取る人々は変化します。成長もしていきますし、堕落もします。周囲も状況も変化します。聖書全体からメッセージを読み取ることも大切なのかもしれませんが、まずは、ひとつひとつの箇所を丁寧に理解し、当時の人たち、著者がなにを伝えようとして書いているのかを、丁寧に受け取ることから始めるのが良いのではないでしょうか。わたしなど、何度聖書を通読したかわかりませんが、まだほとんどわからないことばかりというのが実感なのですから。丁寧に読んでいくと、なかなか複雑なことが書かれています。事実をどのように真実(信仰告白)として表現するか。どのように、神からの言葉としてうけとり、行動するか。そして、神の言葉と判断した責任もひとは負うことになります。これは、わたしたちも、同じです。みなさんは、どのようなことを考えて読んでおられるでしょうか。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、安心して投稿してください。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨシュア記8章ーヨシュア記21章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jo 8:15-17 ヨシュアの率いる全イスラエルが彼らに打ち破られたかのように荒れ野の道を退却すると、町の全軍も追撃のために呼び集められ、ヨシュアの後を追い、彼らはこうして、町からおびき出された。イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった。しかも、イスラエルの後を追ったとき、町の門は開けたままであった。 アイに賢いリーダーがいなかっただけのようにも思われる。モーセや、ヨシュアが、神を、真理を求める中で、得られた智恵が働いた部分も多いように思う。時代がくだり、そのようには、いかなくなる。信仰が成熟していくことにつながっていくのかもしれない。神理解も、進化・深化・成長していく必要がある、一人一人の中でも、集団の中でも。 Jo 9:18,19 イスラエルの人々は、共同体の指導者たちがイスラエルの神、主にかけて誓いを立てていたので、彼らを攻撃はしなかったが、共同体全体は指導者たちに不平を鳴らした。指導者たちは皆、共同体全体に言った。「我々はイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。今、彼らに手をつけることはできない。 十分考えた賢いギブオンの住民に欺かれたことにどう対応したかが書かれている。共同体全体の指導者批判に対して、このように答えている。「主にかけて彼らに誓った」ことを大切にする判断が、ここでメッセージとして書かれている。ヨシュア記がいつ成立したかわからないが、記者(達)の信仰が表現されている。人間の側の責任である。明確になっているために、混乱は、ないとは言えなくとも、共同体の理解は得られたのかもしれない。これを、絶対的な正解とすることも、問題があるのかもしれない。 Jo 10:41,42 ヨシュアは、カデシュ・バルネアからガザまで、ゴシェン地方一帯を経て、ギブオンまでを征服したのである。ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。 重要ないくつかの部分は、これで征服したのだろう。この地域の盟主のひとつとなったことは、確かなのだろう。しかし、このあとを見ると、残っている勢力はかなりある。メッセージとしては「主がイスラエルのために戦われた」ので、このような画期的なことが起こったと伝えているのだろう。ひとつの信仰告白である。聖絶は気になるが「紛争地域に中立はない。」という言葉も思い出す。わたしの思考の背景に、現在の日本の紛争の中にはいないことがあることは、謙虚に受け入れなければならない。 Jo 11:20 彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。主は、モーセに命じたとおりに、彼らを滅ぼし去られた。 これも信仰告白のひとつなのだろう。和を結ぶ事はしなかった理由である。共に住むことは、まだ、まだ、早かったのかもしれない。二度の世界大戦をしたあとでも、現在のように、それは、殆どできていないのだから。主のお考えは計り知れない。 Jo 12:10 エルサレムの王一名、ヘブロンの王一名、 士師記には「エルサレムに住むエブス人については、ベニヤミンの人々が追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの人々と共に今日までエルサレムに住み続けている。」(士師記1章21節)とあり、エルサレムは、ダビデが攻め、ダビデの町と呼ばれることになることを考えると、繰り返し繰り返し、攻防が続けられたのだろうということが分かる。それを含めて、この記事も読むべきなのだろう。ひとの人生も似た部分が多い。 Jo 13:6,7 およびレバノン山からミスレフォト・マイムに至る山地の全住民、すべてのシドン人。わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じたとおり、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。この土地を九つの部族とマナセの半部族に嗣業の土地として配分しなさい。ヨルダン川から西の海まで、海沿いの地域をこれに与えなさい。」 「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」(1)と始まっている。そのあとに、占領すべき土地のリストがあり、その最後が上の引用句である。まだ、そこに人が住んでいるときに、分配をしている。ヨシュアの年齢もあるだろうし、ルベン、ガド、マナセの半部族をいつ帰らせるのかも大きな問題だったろう。ひとは「達し得たところに従って」歩んでいくもので、完全をもとめてはいけないのだろう。単純ではない中で、ひとは生きていくのだから。それが単純ではないひとの営み、ひとに託された生き方なのかもしれない。 Jo 14:9 その日、モーセは誓って、『あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる』と約束しました。 申命記1章36節に「ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。」とある。民数記13章・14章には生き残ることは書かれているが、土地の所有については書かれていない。「彼が足を踏み入れた土地」は解釈が難しい。さらに引用箇所には「永久に」とある。文学的表現が約束の一部となると、混乱を起こしやすいとも思う。たいせつな点はやはり「主に従いとおす」ことなのだろう。わたしも、そう生きていきたい。 Jo 15:14,15 カレブは、アナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイの三氏族をそこから追い出し、更にデビルに上り、住民を攻めた。デビルはかつてキルヤト・セフェルと呼ばれていた。 聖絶ではない。どのような区別があるのだろうか。「これらの町々の分捕り品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。」(1章14節)と、引用した「追い出し」と「攻めた」の違いである。「人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし」は特殊なことなのかもしれない。 Jo 16:1 ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は、エリコに近いヨルダン川、エリコの水の東から荒れ野を経て、山地を越えてベテルに至る。 エリコはヨシュアが攻め取った最初のおそらく最大の都市なのだろう。まったく偶然なのか不明である。地図を見ると、エフライムは最大の部族と言われながら、面積は少ない。ユダとは比較にならない。中央に位置することが重要なのだろうか。土地分配は、部族連合という考え方との兼ね合いもあり、非常に不思議かつ、理解しがたい。イスラエルの中では、土地所有が部族をまたいでは、あまり起こらないようにしていたようだが、そう考えると、最初の状態は非常に重要だと思わざるをえない。歴史的な背景が分かることはもうないのかもしれないが。 Jo 17:1 マナセ部族もくじで領地の割り当てを受けた。マナセはヨセフの長男である。マナセの長男マキルは、ギレアドの父で、戦にたけ、ギレアドとバシャン地方を手に入れた。 ギレアドも、バシャンもヨルダン川東岸地域である。民数記32章を見ると、最初ルベンとガドの人々がヤゼルとギレアドの地方を欲しがったことが書かれ、同33節でマナセの半部族が登場、その経緯が、同39-42節に書かれている。「マナセの子マキルの子らはギレアドに行き、そこにいたアモリ人を攻め、これを追い出した。」(民数記32章39節)ギレアドは、マナセの子孫マキルの子である。(民数記26章29節、27章1節) Jo 18:1,2 イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。この地方は彼らに征服されていたが、イスラエルの人々の中には、まだ嗣業の土地の割り当てを受けていない部族が七つ残っていた。 「この地方は彼らに征服されていたが」との表現はあるが、ルベン、ガド、マナセ、ユダ、エフライム以外は、まだ割当地が決められていない。多少の経緯は書かれているが、どうみても、あまり公平とは言えない。一団となって荒野を旅していたときとは大きな違いに見える。どのような背景があったか気になる。このあと、地図を作り、分割して、くじを引くことになる。様々な憶測をしてしまう。 Jo 19:9 シメオンの人々の嗣業の土地はユダの人々の領土の一部であった。ユダの人々への割り当て地が多すぎたため、ユダの嗣業の土地の中にシメオンの人々は嗣業の土地を受け継いだのである。 この章は「二番目のくじで割り当てを受けたのはシメオンで、シメオンの人々の部族が氏族ごとに割り当てを受けた。その嗣業の土地はユダの人々の嗣業の土地の間にあった。」(1)とあるが、引用箇所で「ユダの人々の領土の一部」とある。山地とはいえ、ユダの嗣業は非常に広い。ベニヤミンは、エフライムと、ユダの間、そして、シメオンは、ユダの一部である。残りは、ゼブルン、イサカル、アシェル、ナフタリ、ダン、ダンはあとで経緯が語られるが、最終的には、エフライムの北に属する地域である。三日月型肥沃地域の西南の端の平地で肥えており、耕作に適した地域のように思われる。やはり、分配には、多くの疑問が残る。この章の最後には、ヨシュアに嗣業の地を贈った事が書かれ、まとめとなっている。土地の分配は、もっとも困難な作業だったろう。どのように、ヨシュア記が書かれたのかはわからないが、このあとの経緯も勘案されているのかもしれない。この重要な時に、「くじ」という手法を除いて、神の働きは見えにくい。 Jo 20:9 以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。 この章の最初には、故意ではなく、過失による殺人の場合の逃れの町について書かれているが、最後には「寄留する者のために設けられた町」と書かれている。当初の規定には、おさまらないケースもいろいろと出てきたのではないかと思われる。規則には、例外を丁寧に定めていくことも重要なのだろう。その意味で、律法学者を単純に批判することはできない。イエスの批判が何に向けられたかを、丁寧にみる必要がある。現代ではどのようなものに当たるのだろうか。シェルターと言われている、家庭内暴力を受けている人の保護施設や、児童養護施設も、残念ながら、そのような役割を果たす場合もあるだろう。そう考えると、他にもたくさんあるように思われてくる。ひとの世界には、なくてならぬものなのかもしれない。 Jo 21:41,42 イスラエルの人々の所有地の中で、レビ人の町は総計四十八で、それに属する放牧地があった。どの町も例外なく周囲に放牧地を持っていた。これらの町はみなそうなっていた。 最後にレビ人の住む場所が決められ、放牧地が利用できるようになる。放牧地は町の住民の共同利用だったのだろう。気になったのは、どのように、町を配分したのかである。レビ人の家系による分類は書かれているが、それ以上はない。他の部族にも同様の課題はあったろうが、レビ人は、ある意味で仕事の割り振りとも言えるので、どのように決まったかにも興味を持つ。「モーセとアロンが主の命令によって、氏族ごとに登録した生後一か月以上のレビ人の男子の総数は二万二千人であった。」(民数記3章39節)からすると、レビ族は人数が少なかったように思われる。全体では5万人程度だろうか。これらの町それぞれに、1000人ずつとなる。かなりの数に思える。これらの町の人口はどのぐらいだったのだろうか。 2019.4.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヨシュア記を読み終わり、士師記に入ります。士師記は読んだことはなくても、ギデオンの話や、サムソンの話は聞いたことがあるかもしれません。士師記は、このあとに士師記と同時代のこととして書かれている、ルツ記がありますが、サムエル記上下、列王記上下と続く、王国時代と、出エジプト後のカナン定着時代の中間の時代について書かれてあります。一つには、モーセのあとのヨシュア以後、王様が立てられるまでのリーダーシップ不在の時代とも言えます。いくつものエピソードや、士師と言われる人たちの活躍が描かれています。おそらく、イスラエル全土のリーダというより、部族であったり、もう少し広い地域のリーダーだったのでしょう。周囲の民族との衝突や、支配・被支配関係についても、書かれたあります。みなさんは、何を読み取られるでしょうか。何が印象に残るでしょうか。 皆さんからの、投稿も楽しみにしています。先週は、三人の方からの投稿を皆さんと分かち合うことができました。投稿に対する投稿でも良いですよ。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、投稿していただけると嬉しいです。疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。向き合って、対立するのではなく、横に座って、語り合える雰囲気があると良いですね。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨシュア記22章ー士師記11章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記と士師記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jo 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jd 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jo 22:13,14 イスラエルの人々はまず、ギレアド地方にいるルベンとガドの人々、およびマナセの半部族のもとに祭司エルアザルの子ピネハスを遣わした。彼に同行したのは、イスラエルの各部族から、それぞれ家系の指導者一名、計十名の指導者であり、いずれもイスラエルの部隊の家系の長であった。 まず問題かどうかを確かめるため、この人たちを派遣している。どのような合議がなされたか不明である。最後の32節から34節においても「このことを良しとし」たことのみが語られている。ヨシュアは登場しない。すでに、老齢に達しており、十分な判断ができなかった、または、そのような役割を担っていなかったのかもしれない。おそらく、問題はその次なのだろう。イスラエルは、ヨシュアのあと、混乱の時代に入るように思われる。指導体制の欠如である。難しい状況である。 Jo 23:11 だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。 ここに「主を愛しなさい」とある。申命記には多いがヨシュア記には、22章5節「ただ主の僕モーセが命じた戒めと教えを忠実に守り、あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。」とここだけのようである。主を愛することについて、聖書を調べてみたい。系譜があるのかもしれない。神を愛するという表現は、旧約聖書には、ほとんどない。(Cf ヨブ記24章1節)士師記5章31節「このように、主よ、あなたの敵がことごとく滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。国は四十年にわたって平穏であった。」 Jo 24:19 ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。 「ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、」(1)となっており、直接的には、民の代表者に語りかけることで、民全体に語りかけている。最初に、アブラハムから語りはじめ、ここに至るまでの経緯と、ヨシュアとその家族の決意を述べる。次に民が、自分たちも、導き守ってくれた神を捨てることはしないと宣言し、そのあとに、この引用が続く。自分がヨシュアであったら何を語るだろうか。このように語るだろうか。難しい。 Jd 1:3 ユダは兄弟シメオンに、「わたしに割り当てられた領土に一緒に上って、カナン人と戦ってください。あなたに割り当てられた領土にあなたが行かれるとき、わたしも一緒に行きます」と言った。シメオンはユダと同行することにした。 それぞれの部族について「追い出さなかった」という記述が続く(21, 29, 30, 32, 33)。特に、ユダ、そしてシメオンとの協力があるのは、シメオンが、ユダの中に嗣業をもった経緯を説明しているようにも思われる。ユダの嗣業地が大きかったことの説明ともとれる。部族連合と言われる所以でもあろう。 Jd 2:16-18 主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。 士師の働きが記されている。興味深いのは、士師にも民は耳を傾けないが、それでも、主は「士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださった」とあることだ。その理由が続く。士師は様々な地でおこり、様々な外敵に立ち向かったことが書かれている。一般化するのは、注意を要するが、小さな働きで、必ずしも、支持されないものであっても、主は、そのものと共にいて、働かれることを言っているようにも読める。主の御心をもとめて誠実に生きていきたい。 Jd 3:1 カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。 これも事実の表現というより、真実または、信仰告白と理解すべきだろう。カナン人には、カナン人に対する導きがあったと思われるからである。自分と他者との関係においても、似たことは起こりうる。信仰の目をもって省察することとともに、普遍化することは、気をつけるべきでもある。独善となってしまう。 Jd 4:17 シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベル一族との間は友好的であったからである。 関係は複雑である。「カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。」(11)とあるので、ヘベルはカイン人であることがわかる。カイン人は、創世記15章19節に始めて登場する。アダムの子、カインと関係があるのかもしれない。次は民数記24章21節、そして、この箇所である。サムエル記上、歴代誌上にも登場する。ここでは、ヘベルは、以前、モーセのしゅうとホバブと一緒に住んでいたようである。それが離れて、ヤビンと、友好関係を持っていた。これだけではわからないが、中心からはぐれたひとが生きていくのは大変だったのだろう。ゆらぎが見られる。このようにしてのみ、信頼を得られると考えたのかもしれない。時を読む力があったのかもしれない。ヘベル自身は、どう考えていたかは不明である。 Jd 5:28 シセラの母は窓から外を見て/格子を通して嘆いた。「どうして彼の車は遅れているのか。どうして馬のひづめの音は遅いのか。」 シセラの母の視点まで入っていることが興味深い。デボラ、ヤエルと、女性が中心的な役割を果たす中で、シセラの母の視点が出てきているのかもしれない。この詩が古いと考えると、もう少し、ゆっくり学んでみたい。この詩の内容をあとから、散文として書いたものが、4章の記述であるように思われるので。 Jd 6:13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」 ここにギデオンの出発点がある。同時に「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(15)という自分には、その力がないことを告白している。それを踏まえて「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(12)と天使が語りかけるところから始まっているのだろう。このあと、ギデオンが神の意思がそこにあることを、二度確かめることが記されている。ミデアンを撃つことが正しいかどうかではなく、神がギデオンと共におられるかどうかを問い、確認しようとしているように思われる。そのほうが、倫理性より、より本質的なのだろう。主は、すべての善いものの源なのだから。しかし、ひとは同時に、それが主から得たことであることの責任は負うことになる。同時に、ひとは、達し得たところに従って歩んでいかざるを得ないことも、確認しておくべきだろう。正しさは難しい。 Jd 7:4 主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」 6章を読んでも、なぜ、各部族から(6章33-35節)人々が集まってきたのか、はっきり理由はわからない。また、このあとの選別の根拠も、可能性をあげることはできるにしても、はっきりはしない。引用箇所では「あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者」が根拠である。これが本当に神の御心であるかの判定は困難であるが、それは「達し得たところ」のマジックワードで理解することとし、この選別が成功への鍵だったように思われる。成功も、単なる勝利だけを意味しないことが重要なのだろう。少なくとも「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」(2)さらに「恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ」(3)にあるように、信仰・主への信頼が試されているのだろう。そこに、ギデオンの信仰告白があり、士師記の神学があるのだろう。 Jd 8:29 ヨアシュの子エルバアルは、自分の家に帰って住んだ。 あまりにも考えることが多かったためこの引用箇所を選んだ。8章は栄光の記録とは言えない。エフライムや、スコトの人たちとの衝突、その扱い、ギデオン後の統治の問題、記念のつもりだったろうが、偶像礼拝のたねとなること、バアル信仰。エルバアルという名前は、「ギデオンがバアルの祭壇を壊したので、『バアルが彼と争うがよい』と言って、父はその日ギデオンをエルバアル(バアルは自ら争う)と呼んだ。」(6章31節)から来ているが、この言葉だけで、意味が明確とは言えないだろう。ひとに頼ることは、ひとの業績を崇めることにもつながるのかもしれない。ギデオンの乱暴さも、目には目をのようなことば「それはわたしの兄弟、わたしの母の息子たちだ。主は生きておられる。もしお前たちが彼らを生かしておいてくれたなら、お前たちを殺さないのに」(19)も気になる。こうしていればよかったなどと、方法論を考えるのは、的はずれなのだろう。 Jd 9:16 さて、あなたたちはアビメレクを王としたが、それは誠意のある正しい行動だろうか。それがエルバアルとその一族を正当に遇し、彼の手柄にふさわしく報いることだろうか。 わたしには「それは誠意のある正しい行動だろうか。」が虚しく響く、士師記著者はどうなのだろうか。嘆かわしいこととしつつ、そのことも、絶対化していないのかもしれない。そのような多重な歴史観はどのようにして、育っていくのだろうか。難しい。 Jd 10:15 イスラエルの人々は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」 人はなぜ真正な悔い改めができないのだろうか。ここでも、どうも、「ただ、今日わたしたちを救い出してください。」に中心があるように見えてしまう。「わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。」は何を言っているのだろうか。わたしは、どうだろうか。主の憐れみに、甘えてしまうのだろうか。そのなかで、なかなか「わたしたちは罪を犯しました。」とは言えない。自分自身、複雑である。 Jd 11:1 ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである。 不思議な始まり方である。そして、エフタは、正妻の子どもたちに、追い出される。そこにならずものが集まる。最後には、悲しい、娘の話が書かれている。これも、士師記の神学なのだろう。正しさがわからない。そのことを伝えているのだろう。 2019.4.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今日はイースター、イエス様が復活したことを記念してお祝いする日ですね。日曜日の礼拝を主日礼拝と呼ぶことがありますが、聖書によると復活したのは日曜日ということで、主(イエス)の(復活した)日だからですね。わたしは、イースターは、イエス様がいまもわたしたちと共におられることを喜ぶ日であると思っています。 今週は、士師記の後半とルツ記を読みます。士師記の後半は、サムソンの話も含まれていますが、エフライムや、ベニヤミンとのイスラエル内部での戦い、そして、ダンの話など、どう考えたら良いのかよくわからない物語が続きます。それに続くのがルツ記ですが、ルツ記は士師が治めていた時代とありますから、同時代のことが想定されています。「主」は何回も出てきますが、直接的な啓示として、神様が言われたこと、命じられたことという書き方をしていません。聖書は、様々なことが物語られていますが、それはひとつの紡ぎ方で語られていることも確かでしょう。よくわからないということは、明確な一つの解釈のもとで読者に受け取ってもらうことを要求せずに、しかし、メッセージを伝えているのかもしれません。たくさんのひとで一緒に読むことは、それぞれの背景(それぞれの方と共におられるイエスさま(?)との交わり)のもとで読みながら、一通りには解釈ができない、幅の分厚い、メッセージを受け取り、物語を紡ぎ直すことになるのかもしれません。 その意味でも、皆さんからの、投稿を楽しみにしています。先週は、二人の方からの投稿を皆さんと分かち合い、わたしもそれに加えて、投稿(contribution)を送らせていただきました。 投稿の背景にも思いを巡らせながら、投稿に対する投稿を送ってくださることも歓迎です。こんなこと書いてはいけないのではないかとか心配せず、投稿していただけると嬉しいです。上に書いたように、受け取るメッセージは一通りではないと思いますし、疑問を持つことは人の真実な姿です。それを分かち合うことができるのは幸せなことでもあります。向き合って、対立するのではなく、横に座って、語り合える雰囲気があると良いですね。匿名や、ニックネームや、イニシャルで良いですよ。(この会のサポートページの「この会について(https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#introduction)」の終わりの方に投稿のことが書かれています。) 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 士師記12章ールツ記4章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 士師記とルツ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jd ルツ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ru 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jd 12:4 エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」と言ったからである。 ギレアドはマナセの子の名前で、ヨルダン川の東に住んでおり、エフライムは西の盟主であったと思われる。このあとに「そのときエフライム人四万二千人が倒された。」(6)とある。「以上がエフライムの子孫の諸氏族であり、登録された者は三万二千五百人。以上が、ヨセフの子孫で、その氏族に従ったものである。」(民数記26章7節)と比較すると、この数の多さに驚く。「この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。」(士師記20章46節)の記述のあと、ベニヤミンの男性は殆ど絶えたことを考えると、それと比較しても非常に多い。参考として「以上がベニヤミンの子孫で、その氏族に従ったものであり、登録された者は四万五千六百人。」(民数記26章41節)をあげておく。エフライムの嗣業が地図上で狭く書かれていることとも関係しているのかもしれない。どの程度、歴史的事実、厳密な数字と考えるかは、難しいが、エフライムが力を削がれたことは事実だろう。北イスラエル王国がまとまらなかった一つの理由もこのあたりにあるかもしれない。「彼をギレアド、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。」(サムエル記下2章9節)以外は、エフライムは地名と結びつけて書かれていることが多いように思われる。 Jd 13:23 だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。 マノアと比較して妻は自由である。なぜそのように考えられたのだろう。当時としては、マノアの反応の方が、普通だったと思われるが。「不思議」が印象に残ったというのは、あまりに、はぐらかしているだろう。実際に、自分の身に起こる現実を見据えて、たんに恐ろしいものではない、リアリティを感じたのかもしれない。現実主義が、冷静さをも、生み出すのかもしれない。実際の現実だけではなくその背景にある、主の意図から、自分の生き方を考えていきたい。それが、ひとつの自由さなのかもしれない。 Jd 14:16 サムソンの妻は、夫に泣きすがって言った。「あなたはただわたしを嫌うだけで、少しも愛してくださらず、わたしの同族の者にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません。」彼は答えた。「父にも母にも明かしていないのに、お前に明かすわけがないだろう。」 サムソンは「ペリシテ人の娘に目をひかれた。」(1)とある。そして「わたしは彼女が好きです 」(3)と両親に告げ、「彼は、女のところに下って行って言葉をかけた。サムソンは彼女が好きであった。」(7)と書かれている。そのあとに、この引用節がある。女はサムソンは自分を「嫌うだけで、少しも愛してくださら(ない)」とし、その根拠として「わたしの同族の者にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません。」と述べている。愛の性質について問われている。愛は、相手のたいせつなことをたいせつにすること。行動が伴うかのように表現されている。それが、好きか、嫌いかも、本質的には表していると、サムソンの妻は言っているようである。サムソンの妻に語らせているのかもしれない。結局、サムソンは、妻のたいせつにするもの(同族のつながりだろうか)を無視はできなかった。興味深い。 Jd 15:2 父は言った。「わたしはあなたがあの娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹の方がきれいではないか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい。」 サムソンは、嫌ってはいなかったのだろう。それは、14章にある行動からもわかる。しかし、父は、それに、気づかなかったのだろうか。結局「ペリシテ人は、『誰がこんな事をしたのか』と言い合った。『あのティムナ人の婿のサムソンがした。彼が婿の妻を取り上げ、その友に与えたからだ』と答える者があった。ペリシテ人はそこで、彼女とその父のところに上って来て、火を放って焼き殺した。」(6)とある。しかし、これを、父の過失と責めることはできないだろう。因果応報と考えるのは、人間。実際には、それほど、単純ではないことを知ることも、神をおそれることの一部ではないかと思う。 Jd 16:4 その後、彼はソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになった。 今回は14章と異なり、サムソンの側にも愛するということばが使われている。デリラの言葉には「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった。」(15)とある。「愛するようになった」とは何を意味しているのだろうか。14章の「目をひかれた」「好きです」「好きであった」と違うことを伝えているのだろうか。「心はわたしにはないのに」は「わたしのことをたいせつにしてくださらないのに」ともとれる。「こころ」とは言っているが、やはり「行為」が関係しているように思われる。このばあいには「秘密を明かす」ということだろうか。「来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた。」(16,17a)サムソンの悩みは、愛のたいせつな部分を表しているように思われる。 Jd 17:2 母に言った。「銀千百シェケルが奪われたとき、あなたは呪い、そのことをわたしにも話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです。」母は言った。「わたしの息子に主の祝福がありますように。」 ここが起点である。因果応報と考えてはいけないと思うが、「主の祝福」をたいせつにするとともに、自分のものとして扱っているようにも思われる。士師記のひとつの神学なのかもしれない。この時代を表現するときの。 Jd 18:1 そのころ、イスラエルには王がいなかった。またそのころ、ダンの部族は住み着くための嗣業の地を捜し求めていた。そのころまで、彼らにはイスラエル諸部族の中で嗣業の地が割り当てられていなかったからである。 「イスラエルには王がいなかった」と始まる。この次の19章1節も「イスラエルに王がいなかったそのころ」と始める。「神殿がシロにあった間」(31)も次の時代を想定して書いているように思われる。この事件自体が、統一したリーダーシップが定まっていないことの証なのかもしれない。「彼らはミカが造った物と彼のものであった祭司を奪って、ライシュに向かい、その静かで穏やかな民を襲い、剣にかけて殺し、町に火を放って焼いた。」(27)の表現も、今までにないものである。違う価値観が背景にあるように思われる。 Jd 19:11,12 彼らがエブスの近くに来たとき、日は大きく傾いていた。若者は主人に、「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしてはいかがですか」と言ったが、主人は、「イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい。ギブアまで進むことにしよう」と答えた。 他民族と自分の民族をこのように区別することは、現代では、民族主義のような捉え方がされるが、遊牧中心の世界では、当然だったのではないだろうか。すくない、いくつかの、部族同士で合意をとるだけでも、遊牧は困難だったろう。そのなかで、多民族と友好関係はもてない。別の背景としては、モラルの問題もある。それは、あまり、民族に依存しないのかもしれない。遊牧民の生活様式を、学ばないと、理解できないように思われる。学生の時に読んだ、本多勝一著「アラビア遊牧民」を思い出すが、ケニアのマサイ族を訪れると、まったく別の感覚を持った。 Jd 20:18 彼らは立ち上がってベテルに上った。イスラエルの人々は神に問うて言った。「我々のうち誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか。」主は、「ユダが最初だ」と言われた。 ここでもユダが戦いの戦闘にいる。すでに、リーダーシップは、ユダにあるかのようだ。このあと、イスラエル側の戦死者数が書かれている。「ベニヤミンの人々はギブアから出撃して、その日、二万二千人のイスラエル兵を地に打ち倒した。」(21)「しかし、ベニヤミンは、二日目にもギブアから出撃してそれを迎え撃ち、またもイスラエルの人々一万八千人を地に打ち倒した。彼らは皆、剣で武装した者であった。」(25)「野でイスラエルの部隊に死傷者が出始め、約三十人が倒れた。」(31b)「イスラエル人は戦線に復帰することになっていた。ベニヤミンは、イスラエル人に死傷者が出始め、約三十人の兵を打ち倒したとき、『初戦と同様に、敵を打ち負かした』と思ったが、」(39)そしてベニヤミン側については「この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。」(46)とある。壮絶である。痛みと、悲しみを伴っても、「連帯して」(11)「非道を制裁し」(10)「悪を取り除く」(13)ことをしようとしたことを描いているのだろうか。苦しみが伝わってくる。現代はどうなのだろうか。制裁は、司法にまかせる部分は、洗練されてきていると言えるかもしれないが、連帯はしているだろうか。 Jd 21:12 彼らはこうして、ギレアドのヤベシュの住民の中に男と寝たことのない処女の娘四百人を見いだし、カナンの地にあるシロの陣営に連れ帰った。 なんとも乱暴である。このあとのシロの祭の件は、さらによくわからないが、ここでは、説明も加えることが書かれている。これらが、末尾の「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(25)の背景として書かれていることはわかる。ベニヤミンとの戦いの時にも、祭司のことが、20章28節にも書かれており、神に問うことはしていたように思われる。しかし、控えめなのは、祭司では十分ではなかったと言っているかのようである。その人達は、考えていなかったろうが、祭司の決断を神の御心と信じることに、責任も生じているはずだが。 Rt 1:1 士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。 聖書は本当に興味深い書物である。あまりにも乱暴なそして、絶望的になる士師記を読んで、次に「士師が世を治めていたころ」として美しい物語が記されている。一つの見方で世の中を見ること、正しさで世をさばくことを拒否しているようでもある。このような豊かな心をもった民の背後には、やはり神様がいると、周囲の人は考えたのは自然かもしれない。引用した部分の詳細、その家族がどのような生活をしていたのかは、語られていない。一方で、ナオミは levirate marriage(ラビラタ婚)のことばかりかたり(11-13)おそらく、親戚との結婚には望みはないと見きっている時に、ルツはそしておそらくもうひとりの嫁もすがりつく。完全ではなくても、なにか、魅力的なものをこの外国人たちは、感じ取っていたのだろう。むろん、愛もあるかもしれないが、なにか豊かなものを。これらのことが引用句から始まるルツ記に単なるダビデの家系の紹介だけではない深さを感じる。 Rt 2:10-12 ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」 とても美しい。ボアズは、主のすばらしさと、それが、自分たちや、イスラエルにとどまるようなものだとは、考えていないのだろう。見えない部分もふくめて、主のすばらしさを、讃えているのだろう。このように、表現する、ルツ記記者にも驚かされる。書かれたのは、士師が世を治めていたころではないかもしれないが、その時の豊かさを語る広さだろうかには、驚かされる。善いものと悪いものにわけ、裁く文化はないかのようだ。 Rt 3:1 しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。 口語訳では「娘よ、わたしはあなたの落ち着き所を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。」となっている。また新しい聖書協会共同訳は「娘よ、私は、あなたが幸せになるような安らぎの場を探さなければなりません。」となっている。口語訳に近いが、文章としては一番、自然である。原文を評価することはできないが、原文に近い形で訳す NKJV をみると "My daughter, shall I not seek security for you, that it may be well with you?” となっている。ヘブル語はわたしの知識は十分ではないが、単に「探そう」となっているような気がする。興味深い。 Rt 4:21,22 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。 なぜ、ルツ記が聖書の一部となったのだろうと考えてします。「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」(申命記23章3節)モアブとの関係は深い。創世記にはモアブとアンモンがロトの子だと書かれている。(創世記19章37節)また、後に、サムエル記上22章3節には、サウルに追われていた時、ダビデは両親をモアブ王に託すことが書かれている。またソロモンは、モアブ人の女を愛したこと(列王紀上11章1節)やモアブの神ケモシのためにエルサレムの東の山に高き所を築いたこと(列王記上11章7節)などが書かれている。近隣の地域とは様々な関係があったのだろう。申命記の神学だけがすべてではないことを、聖書を学ぶ人は知ってもいたのだろう。 2019.4.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週から、サムエル記上を読み始めます。続かなくなっている方もおられるかもしれませんが、このサムエル記上から再度読み始めるのもとてもよいと思いますよ。何度か書いているように、通読表の読んだ箇所を消していけば、あとから、また、読んでいない箇所を読むこともできます。サムエル記について、下にも引用している、わたしのホームページから引用します。 「サムエル記は先の預言者とよばれる区分に属し、七十人訳とよばれる紀元前2世紀ごろまでに訳されたギリシャ語訳では、列王紀とともに『もろもろの王国』と呼ばれた4巻本の一部となっています。おそらく最初から上下という二巻の区分があったわけではないのでしょう。サムエル記という名前になっていますが、サムエルは、上の25章1節で死んでいますから、著者ではないことは明かです。しかし、下にある、目次のようなものからも分かるように、イスラエル最初の王の二人の任職がこのサムエルによってなされ、その一人目、サウル王の時代について書かれているのが、サムエル記上、サウル王の死のあとダビデ王の時代を中心としているのが、サムエル記下となっています。」 エリとサムエル、サウルとダビデなどなど、問題に対する意思決定や主との向き合い方、人物について、比較対照もしたくなる興味深いひとたちがたくさん登場します。良い判断、悪い判断、良い人、悪い人と、単純に判断することではなく、ぜひ、それぞれの分厚い物語を受け取っていただきたいと思います。みなさんも、自分について、一通りの評価をされることは、あまり嬉しいことではないのではないでしょうか。いろいろなことを考えながら読むと、聖書の豊かさの理解にふれることにもつながるのではないでしょうか。そのうえで、聖書記者(サムエル記の場合も何人もいるかもしれません)が、いろいろな伝承など情報からどんなことをどのように記録し、何を伝えようとしているのかを読み取っていただければと思います。 その意味でも、一緒に読むことは、素晴らしいことだと思います。最近は、毎回、投稿があり、とても嬉しいです。こんなことを書いてはいけないのではないかと心配せず、ぜひ、感じたこと、感想、質問を書いてみてください。どのようなものも、歓迎です。自分でも投稿すると、他のかたのものを読む読み方も変わってくるかもしれませんよ。そして、聖書を読む読み方も、より豊かになっていくように思います。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 サムエル記上1章ー14章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Sm 1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」 まず「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」(10)とあり、苦しみを吐露し、御心に留めることを願い、誓いを立てている。神様にささげることは、直接的には、自分のもとのはしないことを意味しているだろう。少なくとも、自分を満足するための願いではないと言っている。エルカナもハンナを愛していただろうが「このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」(8)は、ハンナを理解できていたとは言えず、ハンナの願いとは異なっていたのだろう。エリにも「わたしは深い悩みを持った女です。」(15)と語っている。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」(15)とある。こころが通じる。事実の表現というより、文学的表現としても、サムエル記記者を通して、ハンナと心をあわせて、これを受け取られる主に共に祈りたくなる。自分や周囲の人の痛みを感じながら。1章には「主」ということばも何回か登場するが、断定的に、主の働きを語ってはいない。このハンナの苦しみや、エルカナや、エリの愛と祈りとつながり、実際に、こどもが与えられたハンナが、エルカナの支持もえて、その子をささげることにも心うたれる。現代的な感覚とは異なる面があったとしても。 1Sm 2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。 ハンナにとっての敵とはだれだったのだろう。こどもができないことを「主に呪われている」などと、責めるひとたちがいたのかもしれない。むろん、その人たちにも、一人ひとりことなる背景、苦しみがあっただろう。そうであっても、ハンナの祈りが聞かれたことは、他の人たちにも、驚き、そして、学びでもあったのではないだろうか。自分たちの主の働き(自分には見えていない世界)の認識が、そして、主ご自身(みえていない世界の背後におられる方)の認識が広がったかもしれない。(自分で理解したと思っていたことが砕かれて)迷路にはいるひともいたかもしれないが。ハンナの祈りをここに記録したサムエル記記者も、ことなることで、そのひとにとって救いと言われるものを経験していたのかもしれない。謙虚さの先に、新たな世界が見えてくることを期待しよう。ハンナとともに祈りつつ。 1Sm 3:13 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。 12節にも「エリの家に告げたこと」とある。2章27節から36節のことを言っているのだろう。詳細は異なるので、サムエルを通して新しいことを告げたと考えることを否定しているようにも取れる。内容的には、民の指摘もあり、みなが神の御心に反していることを知っていたろう。しかし、このエピソードは印象的である。サムエル記・列王記の優れた文学性とも言えるかもしれない。どのような人が背後にいるのだろう。その人からの神様についてのメッセージをしっかり受け取りたい。 1Sm 4:20 死の迫っている彼女に、付き添っていた女たちが語りかけた。「恐れることはありません。男の子が生まれました。」しかし彼女は答えず、心を留めなかった。 「イスラエル軍は打ち負かされ(中略)歩兵三万人が倒れ」(10)「神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。」(11)さらに「エリは城門のそばの彼の席からあおむけに落ち、首を折って死んだ。」(18)このような絶望的な、滅びの現実の前で、付き添っていた女性たちはたくましい。希望も与えているように思われる。もう一つ考えさせられたのは、神の箱や、祭司が注目されたのは、久しぶりとういことである。神の箱は、ヨシュア記3章13節以降出てきていなかった。「祭司」についても、士師記には、ミカのエピソード(17・18章)で、かってに祭司を立てる箇所のみに出てきている。アロン以降、実際にどのような、役割を持っていたかも、確定していなかったのかもしれない。サムエルは祭司ではないが(歴代誌の系図の問題はある(歴代誌上6章1-15参照、訳により章節は異なる))ここで、久しぶりに、神の名のもとでのリーダーシップの記述が現れている。 1Sm 5:5 そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。 どのような証言に基づいて書かれているかは不明であるが、メッセージは、ペリシテ人向けに書かれているのではなく、イスラエルに向けて書かれていることは、確かだろう。主の力ある方であること、その方を捨てるイスラエルの愚かさ。歴史的事実として、書くこととは、おそらく異なっているのだろう。実際に何が起こっていたかは、また別のことなのかもしれない。しかし、神の箱が奪われ、それが戻ってきたということは、あった可能性は十分にある。近隣の民族と、頻繁に争いがあったろうから。現代のクリスチャンが興味をもつこととは、異なるのかもしれない。 1Sm 6:5 はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。 ここに書かれていることが、イザヤ書にあるような「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56章6,7節)に発展していくのかもしれない。イエスさまによって、異邦人との区別が取り去られるまでの間は。キリスト者にも、イスラエルと、異邦人の区別を今でもする人はいるが。み心が少しずつ伝えられ・理解されていくとも取れるし、普遍性への一歩一歩ともいえるのだろう。 1Sm 7:2 主の箱がキルヤト・エアリムに安置された日から時が過ぎ、二十年を経た。イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。 二十年のことは書かれていない。最後には「ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。」(13)とある。雷鳴のとどろきによってペリシテ軍を混乱におとしいれたこと(10節)も書かれているが、詳細は不明である。ペリシテの側にも様々な理由があったのかもしれない。しかし、サムエル記記者はこのように、まとめている。因果応報に近い、神観が強いのだろうか。このあとのサムエル後をにらんだ王制への以降の背景を記述しているのだろうか。いずれの場合も、断定的な判断をすることは、注意を要する。 1Sm 8:6,7 裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。 興味深い。主は、サムエルの心とともにいたとも表現できる。また、サムエルは、主の懐の広さ、深さ、不思議さに信頼しているとも言えるだろう。このような声を、主の声として受け取っているのだから。教育とはリスクを取りながら、共にいることだともいえる。王の役割分担を考える考え方もある。どう生きるかに、かかっているのだろう。 1Sm 9:15,16 サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」 「主はサムエルの耳にこう告げておかれた。」という表現が使われている。これはどのような意味で主のみこころなのだろうか。サムエルは、当時、というよりも、旧約聖書の時代を通じても、特別な、預言者だろう。先の預言者といわれる代表格である。しかし、本当に、このように聖書に書いてあることを、そのまま主の御心と理解してよいのだろうか。主に仕えていたサムエルがこのメッセージを受け取った、それを主が良しとしているとしても、それは、主の御心の一つの表現にすぎないかもしれないからである。主の御心には、もっと様々な思いも、苦しみもあったろう。そう思うからである。聖書に書いてあることをどのように受け取るか、ゆっくり考えてみたい。それは、このあとの結果から逆に考えていることばかりではない。 1Sm 10:7,8 これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」 エデンの園での主の命令「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2章16,17節)と構造が似ている。それは、問題を感じるとも表現できることである。サムエル記記者は何を伝えようとしているのだろう。このあと起こることを先回りして書いているのだろうか。おそらく、それよりもっと大きな深い神理解があるのだろう。記者の主との関係に特に興味を持つ。自由意志と全身全霊をもって主に従うかを試すものを同時に置かれる方だと認識しているのだろうか。荷物の間に隠れている(22)という滑稽さを含みつつも「サムエルは民全体に言った。『見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。』民は全員、喜び叫んで言った。『王様万歳。』」(24)のサムエルと民のやりとりの安易さを感じる。 1Sm 11:12,13 民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。」しかし、サウルは言った。「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」 興味深い。民は、サムエルに聞き、サムエルは答えない。12章には、サムエルからのメッセージがある。実際には、そうはならないが、自らイスラエルを指導することからは、身を引くことを考えていたろう。それが、ここで答えなかった理由なのかもしれない。サウルは、全イスラエルの支持が必要であることを知っていたろう。それがこのように言わせたのかもしれない。一コマとして興味深い。 1Sm 12:24 主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。 「あなたたちに正しく善い道を教えよう。」(23b)としてこの言葉が続く。内容はよくはわからないが、主との関係が中心にあり、サムエルはまさにそれを求めてきたのだろう。しかし、王のしごとは、多岐にわたり難しい。政治家が信仰者として誠実に生きることについても考えさせられる。神様に目を向け、そこから目をそらすことなく生きていきたいとは思うが、同時に、周囲に神様が置かれた、一人ひとりに目を向けることのなかで、それができるのか、課題は大きい。 1Sm 13:8 サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた。 「わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」(10章8節)を指しているのだろうか。この章のはじめには「サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき、」(1)となっているので、この間には、十分な時間があると思われる。ということは、聖書には書かれていない、様々な時に、サムエルが伝えていたということだろう。それは、これだけの時間の経過があっても、サウルが信用されていなかったことを意味するのだろうか。とても、寂しく感じる。悔い改めと成長は、サムエルのこころにはなかったのだろうか。主も、最初から、サウルは見捨てていたのだろうか。すくなくとも、後者は、否定したい。ヨナタンの描き方、サウルの行動、少しずつ、違和感がある。 1Sm 14:37 サウルは神に託宣を求めた。「ペリシテ軍を追って下るべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるでしょうか。」しかし、この日、神はサウルに答えられなかった。 不思議なやりとりである。祭司の勧めで、神にサウルが託宣を求め、神が答えられないと知ると、罪が何によって引き起こされたかを調べる。ヨナタンが、サウルの誓いを破ったことが判明し、ヨナタンも死を覚悟するが、兵士がそれを助ける。わかることは、正しさと言うより、一致がないことである。サウルの誓いと主の意思、サウルと、ヨナタン、サウルと、兵士。サウルのもとで、それなりの勝利をおさめたことが「向かうところどこでも勝利を収めた。」(47)とある。不協和音は聞こえてくるが、サウルのあら捜しをすることを、わたしは、したくない。罪とは何なのだろうか。 2019.4.28 鈴木寛@山形県鶴岡市 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、サムエル記上を読み進めます。16章からダビデが登場します。おそらく、サムエル記全体において主人公(中心的に描かれている人物)と言ってもよい人です。そして、このあとに続く、列王記上下においても、そして、その後も、イスラエルの歴史の中で、ダビデはつねに意識されているように思います。列王記上下のあとは、歴代誌上下が続きます。かなり重複の記事もありますが、ダビデについて伝えている内容が少しずつ異なっています。そうなると、サムエル記はどのような背景で、どのような人(たち)が書いたのか気になるかたもおられるかもしれません。書いた目的は何だったのでしょうか。ダビデを、最高の王として、一つ一つダビデの行為として記録されていることを是として書いているのでしょうか。わたしには、ヒーロー・英雄として、または偉人伝として書いているとは思えません。みなさんは、どのような発見をしながら、サムエル記を読み、どのようなことが印象に残り、疑問を持ち、どのようなことを考えながら読まれるでしょうか。わたしも悩みながら読んでいますが、サムエル記が好きです。 前回も書きましたが、続かなくなってしまった人も、サムエル記上から読んでみるのもおすすめですよ。共に読みながら、気になることを投稿として分かち合っていただければ幸いです。最近は、毎回、投稿があり、とても嬉しいです。こんなことを書いてはいけないのではないかと心配せず、ぜひ、感じたこと、感想、質問を書いてみてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。疑問や、反発を感じときも、あるかもしれません。それは、とても自然ではないでしょうか。それでも、読み続けることができるとよいと思います。まだ聖書は長いですよ。聖書との向き合い方が問われるかもしれませんが、それは、生き方を問われることなのかもしれません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 サムエル記上15章ー28章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Sm 15:10 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた。 まず、主の言葉がサムエルに臨んだとして「『わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。』サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。」(11)とあり、引用した言葉がある。主が悔いる事に関する、議論になる箇所である。いろいろな合理的な解釈はありうる。しかし、サムエル記として、サムエルの立場で(サムエルの死後も含めて)書かれていると理解することはできる。これはバラムの言葉であるが「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」(民数記23章19節)とある。このあとの経緯をみても、2, 3 節のアマレクを滅ぼすことも、そのまま主を主語として受け取るのは、問題かもしれないと思う。ひとが受け取れることの限界があるのだから。 1Sm 16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。 サムエル記、列王記は、ユダの王の年代記を記した書物であることは確かである。聖書として書かれたわけではないだろう。あとから、聖書の一部となっている。歴史の中で導かれる主の働きがどのようなもので、人々はそれをどう受け取ったかを知るために。このように、明言してようかどうかわからない。しかし、それも、一つの理解であるように思われる。聖書の理解には、聖書の成り立ちは、無視することはできない。 1Sm 17:37 ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」 16章14節-23節のエピソードとこのエピソードは様々な資料から含めたのかもしれない。整合性は十分ではない。ゴリアテの挑戦と、このサウルの言葉も整合性は十分ではない。その意味でも、詳細の事実関係よりも、伝えたいメッセージがあると考えたほうが良いのだろう。引用した節では、ダビデの信仰と、サウルの信仰が現れている。ダビデは善く、サウルは悪いとして読むのでは、理解はとても薄っぺらになってしまうだろう。ひとのこころはそれほど単純ではないし、主もそれを十分ご存知なのだから。 1Sm 18:28,29 サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。 「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」(1)ヨナタンの件は、まだ先のことだが、サウルのダビデに対する感情はどのように育まれていったかに興味を持った。「サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。『ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。』この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。」(8,9)ここでは「怒り」と「妬み」である。引用箇所では「恐れ」と「敵意」である。これらの反対はなんだろうか。すべて「愛」のような気がするが、あまりにも曖昧にしてしまっているのかもしれない。わたしの周囲のひととの人間関係においては、どうだろうか。サウルのようにあからさまではないにしても、ここに掲げたものがあるのだろう。過去にはいくつも記憶がある。サウルについても、性格を議論したり、過去の出来事に原因を求めたりすることもあるかもしれない。しかし、聖書は、少し違う見方をしている、または、許容しているように思う。上に書いたような、一般的なことを考えると共に、サムエル記のメッセージを読み取っていきたい。 1Sm 19:20 サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。サムエルが彼らの先頭に立っていた。神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。 「ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。」(10章10節)のことの繰り返しなのか、混乱なのか、まったく別の内容なのか不明な記事が19節以降に書かれている。「予言する状態」という表現は少なくとも新共同訳では、サムエル記上10章と19章にしか現れない。この章の最初でヨナタンにサウルが「罪を犯さないように」と諭されたことが書かれており、そのあとのミカルとのやり取りなど、サウルのこころの揺れが様々な形で表現されている。神様が直接働いておられるというより、主に向き合う瞬間が何度もあったことが表現されているのかもしれない。妬みから逃れられないサウルについては、どのように考えたら良いのだろうか。現実の状況を冷静に受け入れられない。自分勝手に考えてしまうということだろうか。 1Sm 20:32 ヨナタンは、父サウルに言い返した。「なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか。」 ダビデがヨナタンに言ったことば「わたしが、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか。」(1)を受けて代弁しているように取れる。ヨナタンは、嫉妬であることを知っていたろう。理由なしに、敵意を持つことが人にはある。そして、それは、人の弱さを表しているとも言えるし、個人の社会的価値が重視される社会では、様々な形で現れる自然なことでもあると思う。そのいみでも、自分が正しいかどうかで、自分の身に起こることを考えることは、的外れでもあることがわかる。自分の身におこることを、因果応報で考えるのではなく、主に信頼して、主の働きに目をとめ、主に委ねて生きていきたい。 1Sm 21:12 アキシュの家臣は言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」 すでに、ここでアキシュの家臣は、ダビデを王と呼んでいる。むろん、リーダーと言うような一般的な意味で呼んだのだろうが、預言的な意味合いを、サムエル記記者は込めているのかもしれない。この箇所は、不自然でもある。このあとの、27章から29章の経緯をみると、アキシュは、ダビデに好意をよせていたのではないだろうか。 1Sm 22:14 アヒメレクは王に答えた。「あなたの家臣の中に、ダビデほど忠実な者がいるでしょうか。ダビデは王様の婿、近衛の長、あなたの家で重んじられている者ではありませんか。 アヒメレクは、身の危険を感じていただろう。それでも、忠実に、信じることを語っている。真実を語ったがゆえに、誠意を持って仕えたがゆえに、殺されたとも言える。それは、ダビデの不注意だったのだろうか。(22)むろん、そんなことはない。このようなことを許される神様に委ねて生きることも、信仰生活の一部なのだろう。 1Sm 23:1,2 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、ダビデは主に託宣を求めた。「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」 聖書に書いてある「主が言われた」という言葉について考える。このあとに「ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。」(9)ともあるように、主に尋ねる方法も、記者も読者も知っていたろう。このことによって、伝えられたことを、主の言葉として書き記している。そのように信じたからだろう。同時に、それが、常に、完全ではないことを知ってもいたろう。達し得たところに従って、歩むことが人のなすことで、主の言葉と信じることの責任をも負うこと、そのことのためにも、祭司は、特別の責任を負って、託宣を求めることを意識していたろう。 1Sm 24:6,7 しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」 正教会のいうように「悪とは不完全な善である。」「ひとの存在が罪なのではなく、そのひとの方向性の問題」罪に関してもプロテスタントの基本的な考え方が絶対ではないと思う。ここでも、ダビデの好意は、完全ではない行為だったと言っているのだろう。そのほうが、日常生活における感覚と非常に近く、この場合のダビデのように、それを修正することも可能になる。むろん、その修正も、完全ではないかもしれないが。それこそが、キリスト者がたいせつにすべきことでもあろう。正教会または教父の考え方をもう少し学びたいと思う。 1Sm 25:3 男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。 ダビデも「ダビデはこう言ったばかりであった。『荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。』」(21,22)と証言している。一般的には、ナバルの頑固さと、アビガイルの聡明さが際立つ物語である。おそらく、サムエル記記者もそのことを伝えている。しかし、そう解釈してよいのだろうか。頑固さは、自由に考え、そのもとで行動できないことを言っている。たしかに、望ましいこととは言えないが、それによって、その人の命が絶たれることを良しとしてよいのか。わたしも頑固さをもっている。行状だって良くない部分はたくさんある。ひとつの物語として、一つの説明として受け入れ、これを、一般化しないほうがよいだろう。他のストーリーもありうるのだから。 1Sm 26:11 主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」 絶対化せず、ダビデの信仰告白と捉えるべきなのだろう。槍と水差しを取ることは、是としている。なにが善で、何が悪かは、分かち難い。しかし、主との関係の中で、一つ一つを判断することを、神は善しとすることを、聖書は、一貫して証言しているように思われる。それを正しいことと置き換えてしまうことは、ずれを生じさせることにもなるのだろう。しかし、難しい。 1Sm 27:12 アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。 アキシュのお人好しさと、ダビデの狡猾さが際立つ章である。当時の価値観から言って、問題はなかったのだろう。しかし、民族の行き来、多くの部族との関わりがあると、価値観を問われることはあったのではないだろうか。この章には、主に託宣を求めるような記述はでてこない。王国時代またはその後の捕囚時代の人たちにとって、このようなことは、どう映ったのだろうか。誠実さは微塵もない。たとえば捕囚時代にこのような生き方をすれば、すぐに、命が危険な状態になったことだろう。そう考えると、この章で描かれている時代は、特殊だったということだろうか。アキシュとの関係は二度目の記述であるが、もしかすると、2つの独立したエピソードを載せて、取捨選択しなかったのかもしれない。 1Sm 28:24,25 女の家には肥えた子牛がいたので急いで屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。女が、サウルと家臣にそれを差し出すと、彼らは食べて、その夜のうちに立ち去った。 おそらく、豊かではなかったろう。しかし、肥えた子牛で、主に油を注がれたものとその従者をもてなす。口寄せについては、不明であるが、サウルが追放したのは、正統ではなかったからだろうか。不思議な記事であるが、この女の愛だろうか、主に仕えるこころに、感動する。 2019.5.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、サムエル記上の最後の部分を読み、サムエル記下に入ります。すでに書いたように、サムエル記下には、サウルが死に、ダビデが王であった期間の事が書かれています。サムエル記下の記述によると、ダビデが王であったのは、ヘブロンで7年間、エルサレムで33年間、合計で40年間です。ダビデが何歳から何歳の期間なのでしょうか。サムエル記上下に続く列王記上下も含め、王国の歴史ではダビデの存在はとの記述の長さからも特別であるように思われます。イエスさまの時代でも、イエス様がダビデの子と呼ばれたように、ダビデは特別な存在と認識されていたことがわかります。イエス様は、ダビデについてどう考えておられたのでしょうか。福音書の中で、ダビデについてイエス様が引用されている箇所は、ご存知ですか。今年の秋頃には、福音書を読みますから、楽しみにしていてください。ダビデは、確かに英雄と呼んで良いと思いますが、サムエル記記者は、どのように描いているでしょうか。現代の倫理観でみて問題であること、そして、当時、問題だと指摘したこと、そして、簡単に善悪の判断はできないことも多いでしょう。周囲にもいろいろな人が登場します。いろいろな視点から、読んでいくことが豊かな読み方につながるように思います。 最近は、毎回、投稿があり、とても嬉しいです。こんなことを書いてはいけないのではないかと心配せず、ぜひ、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。疑問や、反発を感じるときも、あるかもしれません。それは、とても自然ではないでしょうか。疑問を持ち続けることは素晴らしいことだと思いますが、同時に、それを分かち合うことは、お互いにとって、さらに素晴らしいことではないでしょうか。さまざまなことを、互いに分かち合い、共に考え、生かされているのですから。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 サムエル記上29章ーサムエル記下11章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記上とサムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#sm1 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Sm 29:9 アキシュはダビデに答えた。「わたしには分かっている。お前は神の御使いのように良い人間だ。しかし、ペリシテの武将たちは、『彼は、我々と共に戦いに上ってはならない』と言うのだ。 ダビデは、このとき、戦いに出ていたら、どうしていただろうか。このアキシュを裏切ったのではないだろうか。主の憐れみによって、そうはならなかったのではないかと個人的には考える。様々な、残酷さを抱える中で、サムエル記記者も、そのことに気づいていたのではないだろうか。アキシュとともにも神様はおられたのだと個人的には思う。 1Sm 30:16 彼はダビデを案内して行った。見ると彼らはその辺り一面に広がり、ペリシテの地とユダの地から奪った戦利品がおびただしかったので、飲んだり食べたり、お祭り騒ぎをしていた。 このことからも、ダビデは、ペリシテと、ユダのために、戦うことになる。話は単純ではなく、ダビデは、ここでおそらく非常に豊かなものをえたのだろう。むろん、大切なものもうしなったのだろうが。「ダビデと四百人の兵は追跡を続けたが、二百人は疲れすぎていてベソル川を渡れなかったので、そこにとどまった。」(10)処遇も興味深い。 1Sm 31:4 サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。 サムエル記記者は、これを事実として伝えている。おそらく、サウルの従者の行動を承認しているのだろう。サウルについての評価はどうなのだろうか。このあとの、ギレアドのヤベシュの住人の記事から、好意的な人たちがいたことも、記録していたのだろう。サウルを酷評することは、避けているように思われる。興味深い。 2Sm 1:10 そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます。」 この評価は難しい。ダビデの評価は記しているが、それに対しては、何も、サムエル記記者は述べていないように思われる。評価を避けているのかもしれない。サウルが願い、生き延びることは困難だと思ったのも当然であろうから。アマレク人であったことが低く評価されたのだろうか。アマレクは、何回も登場する。1度、調べてみたい。 2Sm 2:26 アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまで剣の餌食とし合うのか。悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい。いつになったら、兄弟を追うのはやめよ、と兵士に命じるのか。」 戦いは悲しい結末であることは、だれにもわかっている。ましてや、同族の争いは。ここで「兄弟」ということばが使われていることが印象的である。サウルの子のイシュ・ボシェトを擁立したアブネル、ダビデのがわのヨアブ、その前は、ペリシテと戦っていたことを考えれば、同族とは言える。同族の概念が広がり、神に愛されているものたちが神の子と考えれば、同様のことが言えるのだろう。しかし、ひとは、そこに、至ることはできない。争いは、そして、戦争による殺し合い、テロなどもふくめて、無くならないのだろうか。 2Sm 3:29 その血はヨアブの頭に、ヨアブの父の家全体にふりかかるように。ヨアブの家には漏出の者、重い皮膚病を病む者、糸紡ぎしかできない男、剣に倒れる者、パンに事欠く者が絶えることのないように。」 なんとも差別的な発言である。アブネルを大切に扱ったことが、その後の王国の確立には重要だっただろうが、わたしには、明確には、判断ができない。ここでは、呪いのことばを言っている。ヨアブが手にあまるとしても、問題だと感じる。この時代のことを考えてもである。 2Sm 4:11 まして、自分の家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺したのだ。その流血の罪をお前たちの手に問わずにいられようか。お前たちを地上から除き去らずにいられようか。」 正しいことの定義は何だったのだろう。神に逆らってはいないということだろうか。サムエル記記者にとってそれは明白だったのだろうか。イシュ・ボシェトは、サムエルに油を注がれたわけではない。正統な王位継承者とみていたのだろうか。そうであれば自ら「ユダの家の王」(2章11節、5章3節-5節)となり、他の部族と対立することになることは、問題ないと考えたのだろうか。おそらく、背景となる、部族についても、十分理解していなければ、わからないのかもしれない。いずれにしても、今の時代にまで続く永続的な価値観ではないように思われる。 2Sm 5:6 王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」 このあとで「ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者」(8)という表現はとっていない。サムエル記記者は、そのへんのずれも理解していてこう書いたのかもしれない。もし、障害者を神の意思として排除することが記者の目的であるなら、対応させることは簡単なのだから。サムエル記記者はどのような人たちなのだろうか。とても、興味をもつ。 2Sm 6:21,22 ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」 この次の節は「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。」となっている。22節のことばをとって、ダビデは「お前の言うはしためたちからは、敬われ」お前(ミカル)は蔑まれると言っているのだろう。しかし、最初の部分「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主」と主を語る部分も含めて、まるでどこにでもある夫婦喧嘩である。サムエル記記者は、それでも、ミカルに子がなかったことを、主の働きと見ているのだろう。一つ一つこのように議論していくこと自体が、わたしのうちにある、聖書とは何かという問いのこたえが、揺れている証拠なのかもしれない。 2Sm 7:15 わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。 ひとつの区切りである。この章は「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。」(1)と始まり、ダビデが、神殿建立について問い、それについて、ナタンが告げ、ダビデが主に祈る。いくつかの重要な要素が含まれているように思われる。サムエル記のひとつのハイライトなのかもしれない。サウル王朝とは異なること、慈しみが永遠に続くことが主のことばとして語られ、それに、ダビデが応答している。預言者を通しての主の語りかけにどのように応答するかが、信仰なのだろうか。これをもって、ダビデは主の心にかなったとしているのだろうか。 2Sm 8:6 ダマスコのアラム人に対して守備隊を置いた。こうしてアラム人もダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。 14節にはエドムについて似た表現がある。「また、モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄ではかり、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた。モアブ人はダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。」(2)などは、信じられないほどの残虐さである。遊牧・放牧のこの時代、略奪は日常的なことだったのだろう。そうであっても、残虐である。そして、そのあとに、引用箇所は「主」を主語にしている。それが、サムエル記記者の理解とも言えるが、背後に主がおられるとしか思えないほどの破竹の勢いを表現しているとも言える。普遍性は、イエスの言われた「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26章52節b)にある。そこに行き着くには、まだ1000年以上の時が必要だったのかもしれない。それを人が学ぶには、さらに何千年もかかるのだろうか。 2Sm 9:13 メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。 5章6-8節の障害者に関することとの整合性は十分とは言えない。最初の書き出し「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」(1)も、ダビデの信仰とも言えるかもしれないが、単なる思いつきのようにも、思われる。一通りに理解しようとすること、ダビデの生き方を、絶対化すること、どちらも、サムエル記記者は、書いていないのかもしれない。読む側の問題なのかもしれない。リバタリアン(libertarian: 倫理的な価値判断は個人の領域として行動する人)のような印象を受ける。福音書の記述されている、イエスのダビデ引用が基本的に2つしかなく、一つは、祭壇にささげたパンについて(マタイ12章3節など)、もう一つは、ダビデの子についての言及(マタイ22章42-45節など)、いずれも、ダビデをヒーローとしては扱っていないことも、注意をひく。 2Sm 10:19 ハダドエゼルに隷属していた王たちは皆、イスラエルに敗北したことを認めて和を請い、イスラエルに隷属した。アラム人は恐れて、二度とアンモン人を支援しなかった。 アラムがこの当時ダマスコを首都としていたかどうかは不明だが(サムエル記下8章6節)、イスラエルの北に隣接する、古い国で、大勢力だったと思われる。エジプトがシナイ半島を越えて攻めてくる機会はこの時点では多くなかったろうが、アラムとは隔てるものもなく、つねに争いがあったことが書かれている。アンモンの王ハヌンの行為が愚かであることは、簡単にわかる。他国との交流がまだ多くない時代だったのだろう。そのような背景のもとで、ダビデ軍、ヨアブ、アビシャイが協力して戦う様子を記述し、当時はアラムをも圧倒していたことを記録しているのだろう。ダビデがナハシュとの関係を保とうとして行ったこと、ヨアブが神の町々のため戦うといったことだけに、目を向けると、非常に薄っぺらい解釈に陥ってしまう。 2Sm 11:11 ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」 12章でダビデがナタンの叱責にどう向き合ったかが核なのだろう。すると、10章も近隣の最大の敵に、ダビデも出陣して勝利したという背景記述の意味が強いのかもしれない。詳細は書かれていないが、ヨアブも状況を把握していると思われるところをみると、ダビデのバト・シェバとの情事は、多くの人達が知っていたのかもしれない。そして、ウリヤも。それが、家に帰ることを「妻と床を共にしたりできるでしょうか」と結びつけているのかもしれない。このカナン人であるヘト人ウリヤ、正しい人、忠実なしもべを丁寧に描くことで、12章の歴代誌には書かれていない、サムエル記下の重要なエピソードを際立たせている。やはり、サムエル記記者に興味を持つ。一般に言われているように、ナタンなど(宮廷と関連の深い)預言者集団と近い人たちなのだろう。「預言者ナタンの言葉」などが底本となっているのだろう。「ダビデ王の事績は、初期のことも後期のことも、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されている。」(歴代誌上29章29節、参照:歴代誌下9章29節)先見者と預言者の違いも気になる。「昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。」(サムエル記上9章9節) 2019.5.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、サムエル記下の後半を読み、列王記上に入ります。王国が確立してから、ダビデの死までです。この期間の、そして、将来にもかかわる様々なことがらが記されています。最初に読む箇所は、11章から続く、有名な箇所ですが、それ以外にも、サムエル記下の後半には、ダビデを中心としたエピソードが丁寧に、しかし、おそらく、サムエル記記者の視点で、注意深く書かれているように思います。あえて、今回は、あまり書かないことにします。みなさんに、ぜひ、味わって、考えながら読んでいただきたいからです。楽しんでいただければ幸いです。 投稿も歓迎です。こんなことを書いてはいけないのではないかと心配せず、ぜひ、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 サムエル記下12章ー列王記上1章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Sm 12:13,14 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」 難しい。特にわからないのは、罪の赦しと、この子が死ななければいけない理由。十分東方教会の考え方を学んだわけではないが、罪を不完全さ、ねじれと考えれば、ある程度、理解できる。後者は、理由を考えることではないのかもしれない。一人ひとりの生と死に理由を考えたいと願い、主に食ってかかるが、自然界のなかのひとつの事象という面が主で、特定の生と死の理由は問えないのかもしれない。かえって、不倫によって生まれた子だと指さされるような悲しみを取り去るためなどと理由を考えることに問題があるのだろう。このあとのダビデの苦しみをみると(16)ダビデに対する一つの罰ではあったとサムエル記記者、またはナタンは言っているのかもしれないが。ひとつの回答をもとめてはいけないのだろう。 2Sm 13:27 アブサロムが重ねて懇願したので、アムノンと王子全員をアブサロムに同行させた。 この事件は、アブサロムがダビデに「僕は羊の毛を刈る者を集めました。どうぞ王御自身、家臣を率いて、僕と共にお出かけください。」(24)と願ったところから始まっている。結局、ダビデは行かない。ダビデもアムノンの事件は知っていたろう。自分で責任をとすることを避けているように思われる。アブサロムはアムノンを行かせるように懇願し、結局、ダビデは、全員の王子を行かせる。配慮があるとともに、責任はとらない。むろん、そのようにだけ理解できるわけではないだろうが。サムエル記記者はなにを伝えたかったのだろうか。 2Sm 14:14,15 わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます。王様のもとに参りまして、このようなことを申し上げますのは、民がわたしに恐怖を与えるからでございます。王様に申し上げれば、必ずはしための願いをかなえてくださると思いました。 ヨアブの案か「知恵のある女」(2)の即興か、はたまたサムエル記記者の脚色か不明であるが、驚かされる考え方がいくつか入っている。「民がわたしに恐怖を与える」とはどういうことだろうか。この女性が語ったストーリーから推察すると、分断が続くと、王国自体が外部から攻められて危機に陥るということだろうか。そこまで政治的でなくても、王家の分断は、忍ぶことができないということだろうか。この物語は、13章39節の「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた。」から始まっている。そして最後はアブサロムの不満で終わっている。様々な人間関係があり、興味深い。この背後には、今後の展開を含む預言の成就があると、記者は言っているのだろうが。 2Sm 15:14 ダビデは、自分と共にエルサレムにいる家臣全員に言った。「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」 ダビデが恐れていたのは、エルサレムを戦いの場として、破壊と殺戮が起こることだろうか。まだ神殿はないが、宗教的な重要さも考えていたろう。さらに、ダビデは、アブサロムたちと戦いたくはなかったのかもしれない。ダビデの顧問でもあったアヒトフェルという知者も気になっただろうし(12, 31, 34)総合的な判断だったろう(16章23節「そのころ、アヒトフェルの提案は、神託のように受け取られていた。ダビデにとっても、アブサロムにとっても、アヒトフェルの提案はそのようなものであった。」参照)。正しいかどうかは、おそらく、誰にもわからない。『王の家臣たちは言った。「主君、王よ、僕たちはすべて御判断のとおりにいたします。』」(15)そして、密偵も準備する。(24-37)あまり、技術的分析をすることはやめておこう。 2Sm 16:11,12 ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 ダビデと主の関わりかたがわかるような箇所である。個人的な交わりが、ダビデにはあったのだろう。叱られたり、憐れまれたり。親しい交わりとも言えるし、主観的とも言える。それは、信仰におけるたいせつな面かもしれないが、それが全てではない。イエス様の関わり方は、少し違うように思われる。そのあたりを、もう少しじっくり考えてみたい。 2Sm 17:23,24 アヒトフェルは自分の提案が実行されなかったことを知ると、ろばに鞍を置き、立って家に帰ろうと自分の町に向かった。彼は家の中を整え、首をつって死に、祖先の墓に葬られた。ダビデがマハナイムに着いたころ、アブサロムと彼に従うイスラエルの兵は皆、共にヨルダンを渡った。 詳細は不明だが、どうも、イスラエル兵は、フシャイの助言にも、アヒトフェルの助言にも従わず、ダビデを追った様に見える。もしかすると、アブサロムも各所に偵察隊を送り、ダビデの動向を調べていたのかもしれない。そのいみで、すんでのところの脱出劇だったのかもしれない。アヒトフェルは自らを正しいと主張することはできたろうに、覚悟の自殺をしている。自分の助言は聞かれるもの、正しいと確信していたのだろう。複雑な状態では何が起こるかわからないとも、主のなされることは不思議だともいえるのかもしれない。ダビデにも信頼されていたアヒトフェルについては、あまり記述はないが、その心情、正直に計り知れない部分が多い。 2Sm 18:5 王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた。 なぜ、ダビデは、アブサロムを助けようとしたのだろうか。ヨアブは抹殺しなければならないと考えたのだろうか。わたしだったら、どうしただろうか。ダビデは、サムエル記によれば、ナタンを通して示された神のことばを受け取っていただろう。(サムエル記下12章)ダビデは、単に子を守りたかったのか、それとも、アブサロムと和解したかったのか、いわゆるハッピー・エンドを求めていたのか。どれも、わたしは、これまでの、ダビデの生き方から、個人的な価値観が背景にあることを考えてしまう。ヨアブはどうだろう。戦略として、政治的に、怒りも手伝ってだろうか。官僚的な判断も感じるが、思考停止では決して無い。イエスさまならどうされるだろうか。イエスさまは、その背後にある、罪(神様のみこころがわからない状態)をみて、愛を示されることを考えただろうか。生き方自体が、まったく異なるので、ここに当てはめることはできないが、わたしにとって、教師、先生は、常に、イエスさま。イエスさまがどうするかを考えたい。そして、わたしもそのように、行動したい。 2Sm 19:8 とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう。」 このあとの民の反応を見ると、ヨアブのこの判断は間違っていたかもしれない。しかし、ここで、ダビデが民の前に現れなければまた違ったことが起こっていたかもしれない。それぞれの非常に分厚い物語が、書かれている。おそらく、サムエル記記者のある人達は、このあとの王国の歴史(列王記に書かれている記録)も知っているのだろう。単純に一つの解釈をくだすことをしない。できない面もあるのだろう。そして、この困難なときに、主のことばを記さない。人々の責任、そして、あなたは、ここで、どう生きますかと問うているようにさえ感じる。 2Sm 20:6 ダビデはアビシャイに言った。「我々にとってビクリの子シェバはアブサロム以上に危険だ。シェバが砦の町々を見つけて我々の目から隠れることがないように、お前は主君の家臣を率いて彼を追跡しなさい。」 ダビデが最初にアマサを派遣し、次に、アビシャイを送る背景は理解できるが、個人的には、すでに、判断の不正確さが出てきているように思われる。後半をみると、シェバが危険だとは思われない。また、民のヨアブへの信頼も大きいこともわかる。個人的な感覚、よく言えば、誠実さであるが、普遍性がない。キリスト者または信仰者の陥りやすい弱点ではないだろうか。ヨアブの軍も、アビシャイに委ねられているようだが、23節では、依然、ヨアブがイスラエル全軍の司令官としている。サムエル記記者の伝えようとしていること、意図に興味がある。 2Sm 21:14 サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの国の祈りにこたえられた。 神の行為として記述されていることを拾うことの意味については、よくわからないが、久しぶりに「神」が登場している。ダビデの生涯の終盤である。本当に、このことが神様のみ心にかなったことだとは個人的には思われないからもある。このように書かれていることは、少なくとも、この部分を書き記した記者にとって、サウルの行為の責任をその子らを7人選んで負わせるが、神のみ心だと考えたのだろう。「ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。『ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。』」(1)理由をもとめる気持ちは理解できるが、このような行為の問題性を強く感じる。イエス様ならどうしただろうか。神の御心をおこなうこと、生きようとすることに関しては同じであっても、神がどのような方かを受け取っているかどうかの違いだろうか。ここの記されていることは、互いに愛し合うこととはあまりに遠い。 2Sm 22:18-20 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。 ここで敵はサウルであることが1節に書かれている。理由なしに(1Sm 20:1,32 ダビデはそう考えている)命を狙われ、危機を乗り越えてきたダビデが語っているとされる言葉である。具体的な敵はわたしは持っていないが、戦いは日常的にある。その中で、主に問い、主に導かれながら歩むことが信仰者の生き方なのだろう。ダビデの場合は、その個人的な主との交わりが非常に強い。特別恩寵に生きているといってもよいかもしれない。危険性も感じるが、引用した最後は、具体的な意味は異なるであろうが、共通の感覚を持つ。「主はわたしの支えとなり わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」感謝を持って、喜びをもって、広い所に導いてくださる助けにより頼みたい。 2Sm 23:2-4 主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は 太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。 主の霊と自分のことばの関係、そして、神に従って人を治めるという表現は、危険性を多くはらむ。しかし、このあと、列王記へと向かう中で、サムエル記記者は、一つの理想のモデルだとしたとしても、それを責めることはできない。この章の後半の勇者のリストをみると、ダビデが人気があり、信頼されていたことは確かである。引用したように、表現するかどうかは別として。民や、周囲の兵は、ダビデの弱さも十分知っていただろう。その上で、信頼しているのだから。 2Sm 24:25 そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。 最後の章の記事としては不思議である。「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた。」(1)と始まっていることも異様である。主が誘われ、主が怒る。いくつかの、可能性は考えられるが、もしかすると、特別に意味はないのかもしれない。列王記とつながっており、サムエル記をしめくくる最後の章という認識が誤っているのかもしれない。ダビデの最後の国家的エピソードとして記し、それが疫病で、その理由を考えたのかもしれない。神殿のことを想起させたり、最後のアラウナとのやり取りが、アブラハムのエフロンとのやり取り(創世記23章)と似ていることなどは、感じるが。事実として、疫病は当時、大きな脅威であったろうし、その理由を何らかの自らの誤りに求めることは非常に自然な人間の行動様式であることはあるが。 1Kg 1:11,12 ナタンはソロモンの母バト・シェバに言った。「お聞きになってはいませんか。我らの主君、ダビデの知らないうちに、ハギトの子アドニヤが王となったということを。あなたの命とあなたの子ソロモンの命が助かるように、わたしの言うことをすぐさま実行しなさい。 様々な想像はできるが、それは、やめておこう。この記事から、招かれなかった重要人物が多かったこと、特に祭司、ナタン、ダビデの勇士たちが呼ばれていない。そして行動を起こすのが、ナタンである。宮廷預言者などということばがこの時点で適切かどうかは不明であるが、重要な助言者であったことは、ダビデの家の人達は知っていたろう。それは、アドニヤが正統な継承者とは言えないことも意味している。そうであっても、このナタンに興味を持つ。ある策略をたてて、政治的に動いている。王位継承は、もっと早くに明確にしておかなければ、いけないことは、皆が知っていただろうに。ひとの営みは難しい。わたしなら、どうしただろうか。以前なら、ナタンのようなことを考えただろう。今は、少し違った道を選んだように思う。 2019.5.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記上を読み進めます。前半はソロモンの治世、そして、後半は、分裂王朝、レハブアムの南ユダ王朝とヤロブアムの北イスラエル王朝です。レハブアムがソロモンの後継者で、王朝が続きます。しかし、焦点は、北イスラエル王朝に合わせられているようです。ソロモンがどのようなことをしたかはある程度書かれていますが、8章にある祈り以外は、ソロモンの内面に関わることは記録されていません。ヤロブアムはどのような人だったのでしょうか。どのように、記述されているでしょうか。サムエル記と、列王記、つながっているようにも見えますし、かなり筆致が変わっているようにも見えます。もちろん、サムエル記上下、列王記上下、すべての期間を通して生きた人がいるわけではありませんから、何らかの記録も用いているのでしょう。みなさんは、列王記の背後にどのような記者がいると思われますか。なにを伝えようとしているのでしょうか。 投稿を歓迎します。こんなことを書いてはいけないのではないかと心配せず、ぜひ、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 列王記上2章ー列王記上15章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 サムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#kg1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Kg 2:28 この知らせがヨアブにまで届いた。ヨアブはアブサロムには加担しなかったが、アドニヤに加担したので、主の天幕に逃げ込み、祭壇の角をつかんだ。 ヨアブが頼るものはもう何もなかったのだろうか。アビシャイは、もういなかったのだろうか。ヨアブは哀れに思う。神は、ヨアブをも十分に用いたように思われる。ダビデも、ソロモンも、残酷である。そしていずれも、ヨヤダの子ベナヤが死刑を執行している。「ヨアブはイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。」(サムエル記下20章23節、参考:サムエル記下8章28節)「ヨアブはイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。また彼は、屈強のエジプト人をも殺した。エジプト人は槍を手にしていたが、ベナヤは棒を持って襲いかかり、エジプト人の手から槍を奪い、その槍でエジプト人を殺した。以上がヨヤダの子ベナヤの武勲であり、三勇士と共に名をあげ、ピルアトン人ベナヤ。」(サムエル記下23章20-30a節)列王記上1章の記事から、ソロモンが王位につくことを強く支持したことがわかる。(1章36,37節)おそらく、軍人でソロモン王朝成立を積極的に支持したのが、ベナヤだったのだろう。しかし、アドニヤの振る舞いはどうみても、賢いとは言えない。バト・シェバもよくわかっていない。なにか、記述が雑な感じをうける。 1Kg 3:15 ソロモンは目を覚まして、それが夢だと知った。ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った。 夢の中で「主はソロモンのこの願いをお喜びになった。」(10)こと、そして、神のことばを聞いたことを自覚している。夢の中だからと、疑ってかかったり、不確かということは、無いのだろう。しかし、たいせつなのは、それを、神のことばとして受け、神によりたのみ、忠実に、誠実に、謙虚に生きることなのだろう。その生き方を見ておられる、主を恐れつつ。 1Kg 4:20 ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かった。彼らは飲み食いして楽しんでいた。 なぜこのように記述したのだろうか。「海辺の砂のように」は慣用表現なのだろうが(5章9節、創世記41章49節など他にも多数)まずは、海辺の砂ではないが「あなた(アブラム)の子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(創世記13章16節)と、同じく創世記の「あなた(アブラハム)を豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」(創世記22章17節)「あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなた(ヤコブ)に幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」(創世記32章13節)との関係が気になる。これらが、この時点で成就したという、神学的理解または、信仰告白だろうか。主は約束を果たしておられる。繁栄や祝福の記述がもう少し続くが、全体としては、頂点のようにも思われる。列王記記者は、このことばで何を表現したかったのだろう。 1Kg 5:4,5 ソロモンはティフサからガザに至るユーフラテス西方の全域とユーフラテス西方の王侯をすべて支配下に置き、国境はどこを見回しても平和であった。ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。 ソロモンは平和(peace, peaceful)から取られた名前だろうが、あまりに絵に書いたような表現で記者の意図をも感じる。前半は実質的に国として戦いがなかったこと、後半は、人々が安らかに暮らしていたことの表現である。この2つは密接に結びついていることは当然であろう。これだけ広い範囲を支配して、国境が平和であるとは、不思議にすら感じる。もし、これが事実の表現であるなら、ソロモンの知恵によるとしか言えないだろう。それとも、神様が特別な時を祝福として与えられたとして、それ以上は議論しないことだろうか。このあとを知っているだけに、不安も感じる。 1Kg 6:1 ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王になってから四年目のジウの月、すなわち第二の月であった。 難しい記述である。突如、480年が登場し、ジウの月は、1節と、37節にしか登場しない。ソロモンの治世の第4年という記述も、ここが最初であろう。以前から気になっていたが、年齢も殆ど現れない。列王記記者は、なにを根拠に、これらの年代を記しているのだろうか。王制が確立し、記録がたいせつになることは、十分理解できる。そこで、ソロモンの治世の記録が明確になっていくのだろう。しかし、ダビデの治世は、40年もあったにも関わらず、どの年かは記されていない。無理に、記録しなかったのかもしれない。その中で、480年である。歴史学的にも、出エジプトに関して議論が起こる、重要な箇所である。おそらく、明確にはならないのだろうが、列王記記者の意図も気になる。 1Kg 7:36 その支柱の表面と鏡板にはケルビムと獅子となつめやしが、そのそれぞれに空間があれば周りに唐草模様が彫り込まれた。 「唐草模様」ということばが気になった。この章にのみ現れる。(29, 30, 36)これは、口語訳と聖書協会共同訳でも「花飾り」となっている。おそらく、原語はローヤー(loyah)辞書によると、wreath, garland とあるが、同時に、意味は不確か(meaning dubious)とある。特殊な言葉なのだろう。特別な技術者が呼び寄せられて作成されており、見たこともないようなものも多かったのではないだろうか。なにか、芸術の広がりも感じさせる。わかった気にはならないことが大切なのだろう。家人には「からくりからくさ」を読むように奨められた。 1Kg 8:57 わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。 神殿は「主の名をとどめる」ところであるとある。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」(29)「名を置く家」(16)とも言えるかもしれない。しかし、本質は、引用した句のように「共にいてくださる」ということ、そしてその信仰表現なのだろう。しかし、この表現も、排他的に用いられ得る。個人・民族主義的、ローカルで普遍性に乏しいものになりうる。これに、普遍性が伴わないと、宗教は正しさのみを主張するものになりうる。 1Kg 9:20,21 イスラエル人ではない者、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民のすべて、彼らの後、この地に生き残った子孫で、イスラエル人が滅ぼし尽くすことのできなかった者を、ソロモンは奴隷として労役に服させ、今日に至っている。 民族主義的とも言えるが、基本的に、区別だろう。キリスト教会においても、一部例外があるが、同様である。神様との結びつきは、霊的なもの、魂に関することで、内心の問題であるはずである。これを取り去り、完全に、インクルーシブにすることは、できないのだろうか。確かに、ある人数になると、人は組織を必要とし、すると、中と外を区別することが生じる。難しい。わたしは、その解決の道が見えていない。特別恩寵と一般恩寵の調和の問題なのかもしれない。 1Kg 10:23-25 ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。彼らは、それぞれ贈り物として銀の器、金の器、衣類、武器、香料、馬とらばを毎年携えて来た。 このあとには軍事増強について書かれている。ソロモンの治世のひとつの総括であろう。このあとの11章に問題点を思われることが書かれ、ソロモンの治世についての記述は終わる。ダビデとその周辺の人たちや、サムエル、サウルと比較しても、あまりにも、ソロモン個人の記述が少ない。公的な記録でありながら、ある距離をとっているような印象を受ける。情報となるものとして王家の公文書のようなものはあったろうが、個人的に、ソロモンを知っているものの筆致ではないと思われる。エリヤ、エリシャまで待たなければならないのだろうか。列王記記者が伝えようとしていることを受け取りたい。 1Kg 11:30,31 アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。 シロの預言者アヒヤの言説が詳しい。それだけではなく最後の「こうしてわたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、いつまでもというわけではない。」(39)などは、預言としか言いようのない、かなり踏み込んだ内容である。ソロモンの行動を危惧した人たちがいたこと、それは、預言者集団であったろうこともわかる。ダビデの時代には、ナタンなどが常に、話せる状態にいたと思われ、また、祭司に神託を求める場面も多い。ソロモンは、知恵者であったことが、このように仇となっているのかもしれない。しかし、預言者のこのような行動・介入の是非も考えてしまう。それは、信仰者がどう生きるべきかとも関係しているのだろう。難しい。 1Kg 12:7 彼らは答えた。「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」 サーヴァント・リーダーシップと呼んで良いものだろう。この章には「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは主の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」(15)とあり、さらに「しかし、神の言葉が神の人シェマヤに臨んだ。」(22)として「こうなるように計らったのはわたしだ。」(16)とある。分裂も、ここでのサーヴァント・リーダーシップの試みを妨げたのも主の主の働きだと言っているようだ。細かい議論は、できないが、この後ろには、多くの民がいる。サーヴァント・リーダーシップが、絶対的なものだとは、思わないが、そうであっても、それを退けることを神の御心とすることは、理解できない。歴史がどう動いたかを見た人の、あとからの、信仰告白だとしても。正直、とても、残酷だと思う。「愛によって互いに仕え」(ガラテヤ5章13節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5章21節)を生きようとする者にとっても。 1Kg 13:26 神の人をその道から連れ戻した老預言者はこれを聞くと、「それはあの神の人のことだ。彼は主の御命令に逆らったので、主はお告げになった御言葉のとおりに彼を獅子に渡し、獅子は彼を引き裂き、殺してしまったのだ」と言い、 不思議な話である。老預言者が欺いて、神の言葉だと語ったことに従った預言者の話である。これも、おそらく、列王記が、預言者由来であることを示す証拠なのだろう。預言者は恐れおののいただろう。欺きを見破る、解決策はない。結局のところ、ひとができるのは、達し得たところに従って、謙虚に従うことだけなのだろう。 1Kg 14:1-3 そのころ、ヤロブアムの息子アビヤが病気になった。ヤロブアムは妻に言った。「立って、ヤロブアムの妻だと知られないように姿を変え、シロに行ってくれ。そこには、わたしがこの民の王になると告げてくれた預言者アヒヤがいる。パン十個と菓子、それに蜜を一瓶持って彼のもとに行け。彼なら幼い子に何が起こるか教えてくれるだろう。」 ヤロブアムは優秀な人だったのだろう。レハブアムが王となったユダとの分裂が明らかとなったころ、イスラエルの人たちが、エルサレムの神殿に上るなら、心では離れていくと考え、金の子牛を二体造っている。(12章26節-29節)しかし、民を導く王がなしたこと故に、責任が重いということだろう。(10)このあとも、列王記では、つねにヤロブアムの罪について語られている。それを明確に告げるのが、このエピソードである。ヤロブアムは、神がだれだか、そして「真の」預言者についても知っていたのだろう。列王記記者の信仰がここに現れているように思う。この時点では、リーダーシップの責任をもつ王の責任が語られているが、究極には、個人一人ひとりにその責任があるのだろう。主は心をみるから。 1Kg 15:6 レハブアムとヤロブアムとの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった。 「戦いが絶えなかった。」という表現が、14章30節に初めて登場し、この章には、引用箇所以外に、7, 16, 32 節にある。あとは、歴代誌下12章15節にあるが、それは、引用箇所と同じ文章である。列王記記者がここで伝えたかったことがあったのだろう。サムエル記記者または、その下地になっているものと、列王記との違いも感じる。サムエル記の神学、列王記の神学という言い方は好まないが、記者の信仰について考えさせられる。 2019.5.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記上の後半を読み、列王記下を読み始めます。サムエル記の上巻と下巻は、ダビデが王となるときでほぼ分けられていますが、列王記はどうでしょうか。今回の部分に、その鍵となる二人が登場します。エリヤとエリシャ、二人の預言者です。二人の描き方がかなり異なるように思います。キャラクターの違いなのかもしれませんが、みなさんは、どのように考えられるでしょうか。列王記ですから、代々の王について、それも、北イスラエル王国と、南ユダ王国の王について、書かれていることは確かですが、どちらかに、重点が置かれているでしょうか。関係をどのように描いているでしょうか。この時代、周辺には、国はどのような国があり、何が脅威だったのでしょうか。興味深い物語も多いですが、焦点は何箇所かに置かれているようにも思います。みなさんは、どのように、読まれるでしょうか。列王記の背後にいる記者にも思いを馳せながら、読んでいただければと思います。なにを伝えようとしているのか、そのメッセージも読み取りながら。 投稿を歓迎します。こんなことを書いてはいけないのではないかと心配せず、ぜひ、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 列王記上16章ー列王記下7章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 列王記上と列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#kg1 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Kg 16:23,24 ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間王位にあった。彼は六年間ティルツァで国を治めた後、シェメルからサマリアの山を銀二キカルで買い取り、その山に町を築いた。彼はその築いた町の名を、山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けた。 オムリは、ヤロブアムの子ナダブを殺したバシャ(15章27節)の子エラを、殺したジムリの軍の司令官だった人である。この一つの文章だけでも、めまぐるしい変化が見て取れる。このオムリの子がアハブであり、17章でエリヤが登場する。引用節からもわかるように、サマリアを首都としたのは、オムリ、また、「オムリの国」と残されている文献もあるようである。キカルは34.2kg とある。オムリの記述が短いことから、列王記記者は、アハブまたはエリヤの記述を急いでいるように思わせる。 1Kg 17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 人は、因果応報に思考が縛られ、自業自得、自己責任として、悲しい出来事を理解しようとする。しかし、神は因果応報からは、自由である。ここでも、善に報いられると理解することもできるが、おそらく、神様が憐れみに富んでおられる方であること、エリヤを通して、恵みを示されたことが中心なのだろうか。女は告白している、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」 1Kg 18:40 エリヤは、「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じた。民が彼らを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した。 民の心を主にむける一つの方法だったかもしれないが、残酷なやり方でもある。そして、このやり方は、ますますバアル信仰者との対決へと向かう。偶像礼拝を長く続けてきた民に、主が大いなることを示すこと、12の石で民が一つであることを示すこと(31)これ以外にないと、エリヤは確信し、列王記記者も確信しているのかもしれない。同時に、このエリヤの物語が、この英雄的な行為で終わらず、19章そして、エリシャの物語へと向かっていくことも興味深い。分厚さだろうか。聖書は単純ではない。 1Kg 19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」 第一声は「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 (4)である。弱い人間にできることは、ここまでということだろう。まず、食事を与え、主とゆっくり向き合うときを持たせ、そして、引用句がそのときの、エリヤの言葉である。しかし、それを、遥かに超え、特に「わたし一人」ではないことを、反論によってではなく、実際に、交わりを経験することによって示す。従者(3)もいたはずで、従者をも残して、わたし一人と言っているエリヤの、エリシャとの出会いは、特別な交わり、主との交わりを共有できる、特別なものだっただろう。信仰生活は、一人ひとりへの恵みであると同時に、共有の素晴らしさと豊かさが鍵であるように思われる。 1Kg 20:1 アラムの王ベン・ハダドは全軍を集めた。三十二人の王侯、軍馬と戦車をそろえてサマリアに軍を進め、これを包囲し、攻撃を加えた。 この章の記事の理解はいろいろとあるだろうが、エリヤとエリシャのことを思った。「主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。(続く)』 」(19章15節)このことを、エリヤは実行したのだろうか。列王記下8章に、エリシャとハザエルのやり取りがある。この章では預言者は何人も出てくるがその名前は書かれていない。あまりにも、複雑であるので、可能性を書くことは避けたいと思う。過渡期のエピソードを書き残しているのかもしれない。 1Kg 21:19 彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」 この構図は、ナタンの指摘した、ダビデの罪と似ている。そして、アハブは悔い改めに至る。「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。」(25)とある。イゼベルに唆された結果だったから、赦されたのだろうか。「わたしはあなたが招いた怒りのため、またイスラエルの人々に罪を犯させたため、あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家と同じように、またアヒヤの子バシャの家と同じようにする。」(22)と子孫にまで影響することが単純には受け入れられないが、これも、悔い改めを促しているのかもしれない。もしかすると、後日、アハブの子孫の行く末を見て、このように書いているのかもしれない。様々な理解ができるとてもむずかしい箇所でもある。 1Kg 22:15 王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。 原語では明確とは言えない。"Then he came to the king; and the king said to him, 'Micaiah, shall we go to war against Ramoth Gilead, or shall we refrain?’ And he answered him, 'Go and prosper, for the Lord will deliver it into the hand of the king!’” (NKJV)この ‘it’ もitalic で原文にはない。いろいろに理解できるところではある。あいまいさが、たいせつなのかもしれない。このあとの、主の御座の前での議論が確実なものとは、言えないが、それこそが、記録されたことなのだろう。このまま理解すると、他の預言者は、主の命に従ったことになる。しかし、全体としてそのようには、記されていない。 2Kg 1:2 アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じた。 欄干から落ちて病気になるという描写が不明である。なぜペリシテを頼ったのだろうか。アハズヤはイゼベルの子だったのだろうか。アハズヤは、エリヤについても知っていたようだが(8)、生存も不明だったのかもしれない。エリヤは、一線を引いていたようにも見える。エリヤ最後のエピソードとして記されているのかもしれない。少し乱暴に感じる。 2Kg 2:2 エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。 このあと、エリコへ行き、次に、ヨルダンを渡る。エリヤの命令には従わず、ついていく。エリヤもそれを許容している。それぞれの場所で何をしたかは、書かれていない。すでに、記述の焦点は、エリシャに移っているようである。エリシャは、つねについていったのだろう。そして、エリヤはそれを許容した。仕えるとも表現できることかもしれない。エリシャが学んだことは書かれていないが、長子としての分(9)を受け取ったということが、この章に記されていることか。他の預言者は、なぜついていかなかったのか気になる。エリヤもそれを許さなかったのかもしれない。 2Kg 3:9 イスラエルの王は、ユダの王およびエドムの王と共に出発したが、迂回するのに七日を費やし、部隊と連れて来た家畜のための水が底をついてしまった。 背景はよくわからないが、イスラエルの王ヨラムが、ユダの王ヨシャファトに提案した、エドムの荒れ野の道を通るということ自体に、欠陥があり、水がなくなってしまったようである。このときの、エドムの勢力、モアブの勢力がどのようなものか不明であるが、エドムとは共闘し、モアブを攻めている。近隣の民について、聖書に記述されていることだけでも、ゆっくり調べてみたい。この章で特記しているのは、モアブ王の次の行為である。「そこで彼は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った。」(27)許容できないことであることが記されている。エドムはそのようなことは、していなかったのだろうか。勢力とともに、モラルについての記述が興味深い。 2Kg 4:27,28 山の上にいる神の人のもとに来て、その足にすがりついた。ゲハジは近寄って引き離そうとしたが、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女はひどく苦しんでいる。主はそれをわたしに隠して知らされなかったのだ。」 すると彼女は言った。「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか。」 奇跡の簡単なエピソードで溢れている。しかし、この記事は、詳細が語られ、内容が伴っている。特に、この苦しみについては、考えさせられる。エリシャも考えさせられたのではないだろうか。ひとのたいせつなものを、決めつけてはいけない。しかし、この奇跡をとおして、エリシャも、この夫人もそれぞれ学んだことがあったろう。杖に魔法のちからがあったわけではない。しかし、死んでいるこどもの上に乗るすがたはやはり感動する。自分にはできないと思うからだろうか。「そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。 」(34)考えさせられることが多い。 2Kg 5:26 エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか。今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。 「今」はどのようなときなのだろうか。神に栄光を帰す時、ナアマンとともに感謝すべきときなのか。わかったようで、わからない。もう少し、落ち着いて考えてみたい。 2Kg 6:23,24 そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、攻め上って来て、サマリアを包囲した。 これほど、連続した章節で、食い違った事実を述べているのは興味深い。おそらく、いくつかの記事が貼り合わされているのだろう。これも、合理的に解釈しようとする人たちはいるのだろうが。いずれにしても、エリシャの記事は、おそらく、エリシャから少し遠い人が書いているように思われる。預言者集団の中の伝承だろうか。推測の域をでないが、かなりの集団であったろうことは、1節などからもわかる。 2Kg 7:9 彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」 いくらか、略奪をしたあとではあるが、気づいている。自由になったときに、何をするか。このあとは、混乱もあり、略奪が続く。しかし、この重い皮膚病のひとたちの、勇気と、倫理観について、考えさせられる。教育か文化なのだろうか、それとも、突発的なことなのだろうか。興味深い。 2019.6.2 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記下の後半を読みます。エリヤのあとのエリシャの時代から始まり、北イスラエル王国の滅亡へと進みます。南ユダ王国も、存亡の危機に直面します。主が選び出された嗣業の民と申命記(4章20節など)で呼ばれているイスラエルが滅びに至ることを、列王記記者はどのように理解し、どのように描いているのでしょうか。大変な状態になると、ひとはまず因果応報で考えるのではないでしょうか。なぜこんなことになったのだろうか。なにか、悪いことをしたからだろうか。なにがまずかったのだろうか。また、この時代は世界史的には、中東でアッシリア、そして、バビロニアという巨大帝国が支配した時代、グローバリゼーションが進んでいった時期と表現するひともいるかも知れません。なぜこの時代に巨大帝国が出現したのでしょうね。そう考えると、ローカルな課題と、グローバルな動きの中でどう生きるかという、現代にも通じる、様々な問題との共通点もあるのかもしれません。そのなかで、わたしたちは、どのように生きていったらよいのでしょうか。現代人は、その答えを持っているのでしょうか。聖書は、なにを伝えようとしているのでしょうか。申命記のことばを引用しましたが、列王記記者はどう考えていたのだろうかと、考えながら読むのが最初のステップなのかもしれません。みなさんは、理不尽、または、自分ではどうにもならないようなことが起こったとき、どのように考えますか。列王記記者の苦悩、そして、もしかすると、神様の苦悩とも出会うことがあるかもしれません。 投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 列王記下8章ー列王記下21章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Kg 8:11,12 神の人は、ハザエルが恥じ入るほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、ハザエルは、「どうしてあなたは泣かれるのですか」と尋ねた。エリシャは答えた。「わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです。あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」 「主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。』」(列王記上19章15節)の続きとも言える。エリヤは、実際には、油を注がなかったように思われる。エリシャも、油を注いだわけではないだろう。しかし、エリシャは、エリヤからメッセージを受け取っている。このようなメッセージを伝えることには大きな苦しみがあったろう。エリシャも実際にハザエルに会ったのはこれが最初だったかもしれない。ハザエルはどのような人だったのだろうか。「ハザエルは、『この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか』と言ったが、エリシャは、『主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された』と答えた。 」(13)ここだけからは、よくわからない。 2Kg 9:12,13 彼らは言った。「それは違う。我々によく説明してくれ。」そこで彼は言った。「あの男はわたしにこのように告げた。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とする。』」彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて、「イエフが王になった」と宣言した。 イエフの場合だけではなく、ハザエルの場合も、エリシャの行為が、引き金になった可能性は高い。神のことばがと言ってもよいかもしれない。すると、それを伝える、または伝えさせるものの責任は、重い。むろん、その背後には、それを神の言葉だとの確信がないといけない。わたしには、よくわからない。 2Kg 10:28 このようにして、イエフはイスラエルからバアルを滅ぼし去った。 イエフによるアハブ家とバアルの祭司抹殺は徹底的である。引用句にもあるように、あくまでも、イスラエルからの排除である。そして、列王記記者は「しかしイエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。」(31、参照:29)と二度にわたり記している。個人的に気になるのは「このころから、主はイスラエルを衰退に向かわせられた。ハザエルがイスラエルをその領土の至るところで侵略したのである。」(32)イスラエルから偶像を排除したからといって、それが祝福にはつながっていないことである。「金の子牛」(29)をその原因とする書き方はしていないが、そのことも、意識していたのだろうか。結局は、イエフも民族主義的行動ともいえるかもしれない。そして、記者もそこから自由ではないのかもしれない。現代的視点からすると、本当に残忍、正しさからは平和は生み出されないと思ってしまう。 2Kg 11:3 こうして、アタルヤが国を支配していた六年の間、ヨアシュは乳母と共に主の神殿に隠れていた。 「アハズヤの母アタルヤは息子が死んだのを見て、直ちに王族をすべて滅ぼそうとした。」(1)とあるように、アタルヤは、アハブの子、二年間サマリヤで王位にあったアハズヤ「アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャファトの治世第十七年にサマリアでイスラエルの王となった。彼は二年間イスラエルの王位にあった。」(列王記上22章52節)の母である。「イスラエルの王アハブの子ヨラムの治世第五年に、――ヨシャファトがユダの王であったが――ユダの王ヨシャファトの子ヨラムが王となった。彼は三十二歳で王となり、八年間エルサレムで王位にあった。彼はアハブの娘を妻としていたので、アハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩み、主の目に悪とされることを行った。」(列王記下8章16-18節)ともある。読んでいて、いつも系図が混乱する箇所である。アタルヤは6年間イスラエルを治める。アタルヤに関しては「アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘であった。」(列王記下8章26節)この時期にヨラムは二人いる。アハズヤはどうなのだろうか。整理されてもいるだろうが。イスラエル王国6代目:オムリーアハブーアハズヤーヨラムーエフー、ユダ王国4代目:ヨラムーアハズヤーアタルヤーヨアシュ(日本語 Wikipedia など)背景も調べてみたい。 2Kg 12:9 祭司たちは民から献金を受け取らず、従って神殿の破損を修理する責任を負わないことに同意した。 「政治とはめまぐるしく移り変わる状況の中で絶えざる判断と実行を繰り返していく営為、また、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整すること。」「経営とは、方針を定め,組織を整えて,目的を達成するよう持続的に事を行うこと。」いろいろと定義はあるだろうが、ヨアシュの40年間の治世で記録されているのは、神殿の補修に関する役割分担と、アラムの王ハザエルに神殿の宝物を与えて、エルサレムを守ったことである。政治と経営だろうか。polytics and management ひとつひとつが適切だったかは、判断できないが、適切にことを進める責任を担っていることは確かである。特に保守的なキリスト者はこれらを軽視することが多いが、それが丁寧に、聖書にかかれていることも、興味深い。「ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った。」(3) 2Kg 13:14 エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。 この章の最後には、エリシャの預言どおり「ヨアハズの子ヨアシュは、父ヨアハズの手から奪い取られた町々を、ハザエルの子ベン・ハダドの手から取り返した。ヨアシュは三度彼を撃ち破り、イスラエルの町々を取り返した。」(25)と書かれている。しかし、列王記の評価はあっさりしている。「彼(ヨアシュ)は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」(11)ヨアシュと、エリシャの間にはどのような交わりがあったのだろうか。引用箇所一回だけだとは思えない。 2Kg 14:24-27 彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れなかった。しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである。つながれている者も解き放たれている者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。 ヤロブアム(2世)によるイスラエルの回復の記事である。ヤロブアムの評価が書かれたあとで、ヨナの預言についての記述があり、そのあと、主についての記述が続く。現実をどう理解するのか、主の目に悪とされることを行うものによって行われる主のあわれみのわざ。神学的にも、列王記記者も、主の御旨がなかなか見えない、または、新たな視点を与えられた、ときだったのではないだろうか。良い王を主が祝福され、悪い王を貶めるという構図ではない。信仰者が成長せざるをえないときでもあろう。 2Kg 15:29 イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。 サマリアの陥落と北イスラエル王国の滅亡は17章に記されている。しかし、この章では「アッシリアの王プルがその地に攻めて来たとき、メナヘムは銀一千キカルをプルに貢いだ。それは彼の助けを得て自分の国を強化するためであった。」(19)とも書かれている。政治的には、常に争いがあったペリシテなど近隣の国々、そして北の古い国、ダマスコを首都とするアラムとは異なる大国が攻めてくる事態になっている。中東の世界自体が変化しているときなのだろう。世界史的な大きな流れに、民族主義が強いイスラエル、特に、暗殺やクーデターが何度も起こり政治的に不安定な北イスラエル王国は、対応できなかったと見るのだろう。南ユダ王国も、いずれは例外ではなくなる。そのような変化が避けられないのではと思われるようになった大きな事件がこの章に書かれているように思われる。主に従うことで、そのような流れに棹さすことができるのか、それは、どのような意味において可能なのか。列王記下の後半は、そのことについて問うことになる。難しい。 2Kg 16:10,11 アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会おうとしてダマスコに行き、ダマスコにある祭壇を見た。アハズ王が祭司ウリヤにその祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書を送ったので、祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送って来たものそっくりに祭壇を築いた。しかも祭司ウリヤは王がダマスコから帰って来るまでにそれを仕上げた。 たいせつなひとのたいせつなものをたいせつにしていく。この章には、さまざまなゆらぎが書かれている。世界史的にも、巨大な帝国が出現し、世界が狭くなり、民族主義的なものが維持できなくなっているのだろう。まさに、Globalization のなかで、なにをたいせつにしたら良いのだろうか。イエスは、その答えを十分に示しているのだろうか。まずは、そこに耳を傾けたい。 2Kg 17:2 彼(エラの子ホシェア)は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。 北イスラエル王国最後の王である。評価の表現から痛ましさも感じる。この章には、なぜこのような事態に至ったかが書かれている。列王記の神学とも言えるかもしれない。しかし、北イスラエル王国についてだけでなく、南ユダ王国についても「ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルの行っていた風習に従って歩んだ。 主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた。」(19,20)とある。主に従わず、周囲のひとに従う、または、うらやましく思う、十戒の基本思想と同じである。一貫していると取るべきか、同時代と取るべきか難しい。 2Kg 18:12 こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。 「こうなった」は、ヒゼキヤの治世第6年にサマリヤが占領されたことを指すであろう。この背景のもとで、ヒゼキヤがいるエルサレムをヘブル語も利用するラブ・シャケによって攻められたことが書かれている。利用した資料はあるだろうが、列王記記者・編者は、すくなくとも、捕囚となることも知っている。捕囚からの帰還までを知っているかどうかは不明である。印象的なのは、ラブ・シャケとのやりとりなどが、丁寧に書かれていることである。正しさを持ちつつも、問も持ちつつ記録しているのではないだろうか。辛い作業であるが、信仰者の営みの真実の姿も感じる。 2Kg 19:25 お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を/瓦礫の山にすることとなった。 ヒゼキヤがイザヤに祈ってほしいと願い、そのときに伝えられた言葉である。壮大な主の主権を表現することばである。このことばは、捕囚とされ、バビロンなどにいる民にも、大きな力となったろう。同時に、悩みも大きかったのではないだろうか。主の歴史 His Story をどう理解するか。短絡な解釈は、うすっぺらな信仰態度にもつながるように思われる。よく考えたい。 2Kg 20:6 わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。』」 主が実際にこのように語られたかよりも、この事実を、主を求め続けたひとたちがどう受け止めていったかを考えることがおそらくたいせつなのだろう。列王記記者は、すでに起こったことを書いているのだから。「そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンは、ヒゼキヤが病気であるということを聞いて、ヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。」(12)は、不思議である。そのようなことがあるのだろうか。預言的には、重要な意味をもつ箇所ではあるが。人の交流の中で、これに近いことはあったのかもしれないが。この章の記述は、雑な感じを受けてしまう。背後には、苦しさ、そして、不透明さがあるのかもしれない。後のことを知っている者にとっては、本当に難しい時期である。その苦しさに寄り添いたい。 2Kg 21:13 わたしはサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去る。 「測り縄」と「下げ振り」はいずれも、正確な基準ということだろう。「主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。主はわたしに言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『下げ振りです。』主は言われた。『見よ、わたしは/わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。』」(アモス書7章7・8節)さらに「わたしは正義を測り縄とし/恵みの業を分銅とする。雹は欺きという避け所を滅ぼし/水は隠れがを押し流す。」(イザヤ書28章17節)とある。恵みの業の分銅なしには、ひとはすぐ滅ぼされてしまうことも示唆しているのかもしれない。もしかすると「測り縄」と「下げ振り」は、まったく異なる概念を伝えているのかもしれない。 2019.6.9 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、列王記下の最後の部分を読み、歴代誌上に入ります。列王記の最後では、南ユダ王国も滅ぼされ、多くの人たちが、バビロンなどに捕囚として連れて行かれたことがわかります。そのあと、70年ほどたってから、帰還が許され、何回かに分かれて多くの人たちが帰還します。そのことは、エズラ記、ネヘミヤ記などに譲るとして、歴代誌は9章を見ると、帰還後にまとめられたと思われます。王国の歴史とも言える、サムエル記、列王記とは、時代も、記者も違うように思われます。しかし、扱っている時代は、ほぼ同じでもあります。少しあとの時代に、すでに記録があることがらについて、新たに記す。何らかの意図もあったはずです。それは、記者がどのようの人であったかにも関係しているでしょう。みなさんは、サムエル記、列王記を読まれ、今週から、歴代誌を読まれます。通常内的証拠などと言われますが、中に書かれていることから読み取ると、書かれた目的や、書いた人について、どのようなことがわかるでしょうか。どのようなメッセージを受け取られますか。 投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 列王記下22章ー歴代誌上10章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 列王記下と歴代誌上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#kg2 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ch1: 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Kg 22:20 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。』」彼らはこれを王に報告した。 引用は、女預言者フルダの言葉である。(14)これを記述した人も、ヨシヤ王の死を知っていたろう。「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。ヨシヤの家臣たちは戦死した王を戦車に乗せ、メギドからエルサレムに運び、彼の墓に葬った。国の民はヨシヤの子ヨアハズを選んで、油を注ぎ、父の代わりに王とした。」(23章29,30節)これは、預言の成就なのだろうか。またヨシヤの神殿整備は、12章のヨアシュの神殿整備と似ている。 Kg 23:15 彼はまたベテルにあった祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台、すなわちその祭壇と聖なる高台を取り壊し、更に聖なる高台を焼いて粉々に砕き、アシェラ像を焼き捨てた。 ヨシヤ王の改革は、かなり徹底している。ネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台は、北イスラエル王国にあったものだろう。それをも破壊している。イスラエルとしての一体感を大切にしたのだろうか。しかし、ヨシヤ王の改革について、イザヤは書かない。いろいろな解釈の幅はあったとしても、やはり、不思議である。 2Kg 24:3,4 ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。 ヒゼキヤの子、マナセが最終的な原因だったとしている。それが列王記記者の結論である。マナセについては20章21節から21章18節に書かれている。しかし、歴代誌下32章33節から33章20節にも記述があり、歴代誌下33章12・13節には「彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、 祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。」とある。記者が異なることが原因であろう。へりくだる前と後を歴代誌下33章20節では区別している。サムエル記上下・列王記上下記者またはその背後にいると思われる預言者たちは、すでに、見限っていたが、役人などとして王国を支え王宮にいたものは、違った見方で仕えていたということだろうか。情報は少ないが、もう少し丁寧に見てみたい。 2Kg 25:21 バビロンの王はハマト地方のリブラで彼らを打ち殺した。こうしてユダは自分の土地を追われて捕囚となった。 「彼ら」は、「祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤ、入り口を守る者三人」(18)「戦士の監督をする宦官一人、都にいた王の側近五人、国の民の徴兵を担当する将軍の書記官、および都にいた国の民六十人」(19)だろうか。「この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。」(12)ともある。これが、エルサレム陥落後の、状態である。おそらく、アッシリアから、バビロン、そのあとにも、様々な大帝国支配のなかで起こっていたことが、ここでも例外ではなかったということだろう。人々はそれをどう受け止めたのだろうか。わたしなら、どう受け止めるだろうか。神の主権に委ねることの、恐ろしさも感じるだろう。そして、単純には、だれかを悪者にすることはできない。現代の様々な問題でも同じことが言えるように思われる。 1Chr 1:1 アダム、セト、エノシュ、 イスラエル(ヤコブ)の子らについて書かれる2章以前のことがまとめられている。しかし、アダムの子ら、カイン、アベルのことは、書いておらず、ノアのことも書かれていない。そこが関心事ではないのだろう。しかし、少ないが、言葉が加えられていることもある。歴代誌の伝えたいことがあるのだろう。ユダ王国、ダビデ王朝のことと、決めつけないほうがよいだろうが、王国の歴史と、その背景を伝えるものとして、系図が書かれているのかもしれない。視点が狭いようにも思われる。 1Chr 2:8 ヘツロンに生まれた子は、エラフメエル、ラム、ケルバイ。 この章を通じて、「ヘツロン」および、18節に登場する「ヘツロンの子カレブ」に関する記述が多いように思われる。「エフネの子カレブ」(民数記13章・14章など)とは、同一人物だろうかそれとも別人だろうか。ヘツロンの子となっているが、引用した最初のリストにはない。このカレブには、まず「フルにはウリが生まれ、ウリにはベツァルエル(出エジプト記31章2節など)が生まれた。」(19)との記述がある。カレブについては、側女も、エファ、マアカと出てくる。そして、最後に「カレブの娘はアクサである。」(49)とあり、士師記1章から「エフネの子カレブ」と同一人物であることが示唆されている。ケルバイ(Chelubai)が、カレブなのかもしれない。基本3文字構成とすると、主要子音は同じである。ただ、エジプトに居た期間や、詳細を考えると、無理があるとも感じる。系図の議論が、歴代誌の重要部分ではあるが、王国の歴史のように先の預言者と言われているものより、かなり後代のものとすると、すこし後に活躍した人の系図が詳細であることには、疑念も生じる。あまり、議論しないのが、良いのかもしれない。証拠は少ないのだから。 1Chr 3:4 ヘブロンで六人の息子がダビデに生まれた。ダビデはそこで七年と六か月、エルサレムで三十三年間王位にあった。 ここでは「長男はアムノン、母はイズレエル人アヒノアム。次男はダニエル、母はカルメル人アビガイル。三男はアブサロム、ゲシュルの王タルマイの娘マアカの子。四男はアドニヤ、ハギトの子。五男はシェファトヤ、母はアビタル。六男はイトレアム、母はダビデの妻エグラ。」(1b-3)サムエル記下3章2節から5節にも同様のリストがあるが、次男は、キルアブとなっている。ヘブロンは、ユダの中心都市だったのだろうか。創世記にあるように、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴は、アブラハムがサラを葬るために購入した場所、最初に所有地をもったところでもある。ヤコブも住んでいて、ヨセフを兄弟たちのところに送り出している。士師記には、カレブに与えられたことも記されており、非常に記述の多い地名でもある。 1Chr 4:27 シムイには息子が十六人、娘が六人いたが、兄弟たちの子は多くなかったので、これらの氏族はどれもユダの子孫ほど大きなものにはならなかった。 部族の大きさはどのようにして決まるのだろうか。ベニヤミンやエフライムのように戦いで減少することは、十分考えられるが、日本やドイツの人口、そのあとでは、カンボジアの人口などをみると、様々な要素が関わっていると思われる。族長時代、離れて住んでいれば、疫病による死は少なかったのかもしれない。シメオンはどうして、小さな部族だったのだろうか。おそらく、簡単な答えはないのだろう。「ここに名を挙げられた人々は、それぞれの氏族の中の首長であり、彼らの家系は非常に大きくなった。」(38)どの範囲の人々に言及しているのか明らかではないが、ある時期に、系図に載っているかどうかは、重要だったことがうかがえる。それが、この歴代誌の背景にあるのだろう。そして、系図は現代人からすると、ユダヤ人は別として、ごくわずかなひとだけの関心になっていることも確かだろう。個人主義のひろまりでもあるが、自分の背景に目をむけない残念な部分と、家系を重んじすぎることへの平民の反発と両方があるのだろう。その意味でも、歴代誌の始まりは、現代の視点から見るとやはり異様である。主の視点からもそのように思われるが、その結論は、出さないことにしよう。 1Chr 5:1,2 イスラエルの長男ルベンの子孫について。ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、長子の権利を同じイスラエルの子ヨセフの子孫に譲らねばならなかった。そのため彼は長男として登録されてはいない。彼の兄弟の中で最も勢力があったのはユダで、指導者もその子孫から出たが、長子の権利を得たのはヨセフである。 ヨセフを長子としたことは、創世記48章の記述からは、明確だとは言えないと思う。創世記49章3, 4節「ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。」からすると、ルベンではないと考えられたのだろうが、これも、全く明白とはいえない。しかし、長子を決めることは重要だったのだろう。エフライムとマナセ、二人分もらったということなど、長子の権利として、考えられなくもない。そのため、エフライムとせず、ヨセフとしているのだろう。もうひとつは、他の兄弟の祝福の前に、エフライムとマナセの祝福が置かれ、埋葬についても、依頼していることから、このように理解されているのだと思われる。やはりひとつの解釈に過ぎないとは思う。 1Chr 6:46 ケハトの他の子孫には、半部族、すなわちマナセの半部族の諸氏族から、十の町がくじによって与えられた。 レビ族が割り当てられた牧草地などを見ると、当然のことながら、すべての部族に散らばっている。ということは、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされたときに、同時に補修されたひとたちも居たのだろう。また、北イスラエル王国で、どのように暮らしていたのだろうか。いろいろと疑問が起こる。レビ人で、預言者になったひとも居たのだろうか。 1Chr 7:23 彼は妻のもとに行き、妻は身ごもって男の子を産んだ。彼は名をベリアと付けた。その家が災いのさなかに(ベラア)あったからである。 20-23節に記されているエピソードは、他には記録がないようである。他の資料があったのか、単なる名前の由来を伝えた伝承なのか不明であるが、興味深い。歴代誌では、ユダの系図が詳細に二回(2章・4章)記され、それに続いて、シメオンの系図があり、5章からルベン、ガド、マナセの半部族とおそらく、ヨルダンの東の部族について記され、次にレビ、祭司の系図が、5章後半から6章、そしてこの7章では、イサカル、ベニヤミン、ナフタリ、マナセ、エフライム、アシェルと続く。8章には、もう一度ベニヤミンに関する記述がある。系図には、統一はできない複雑さもあったと思われ、引用したエピソードにもあるように、他部族との交流、争いもあったろう。基本的には、戦闘員として登録となっている。サムエル記下24章、歴代誌上21章にある人口調査の記録が断片的にも残っていたのかもしれない。しかし、系図ですべて捉えようとするのは、非常に複雑困難である。この調査自体を、批判的に記述しているのは、単に神様の恵みの受け取り方だけではないのかもしれない。ひとは歴史の中で、個人の尊厳と全体としての普遍性のせめぎあいの中に存在しているのだから。 1Chr 8:29 ギブオンにはギブオンの父が住み、妻の名はマアカといった。 ギブオンは、ヨシュア記9章・10章で、寄留民として加えられたカナン人と同一であるかもしれない。そのあとも、さまざまな形で登場する。それが、問題もあった、サウルの直前、ベニヤミンの項に記録されているのは興味深い。系図には、問題も感じるが、ある程度、系図を確認できる時代ではあったのだろう。族長のもとでのかたまりとして捉えることができたこともそれが可能であった理由としても考えられる。当時の人達の暮らしにも興味を持つ。 1Chr 9:1-3 イスラエルの人々はすべて登録され、『イスラエルの列王の書』に記されている。ユダは神に背いたためにバビロンに捕囚として連れ去られた。最初に自分たちの町の所有地に帰って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人であった。また、エルサレムにはユダの一族の一部、ベニヤミンの一族の一部、エフライムとマナセの一族の一部が住んだ。 非常に簡単に「ユダは神に背いた」とまとめられている。それが、歴代誌の神学なのだろう。興味を持つのは、捕囚帰還後、最初に住んだひとたちの記述である。エフライムとマナセの一族は、どのような経緯で戻ってきたのだろう。北イスラエルの一部ではなく、南ユダ王国に寄留していたのだろうか。一般的には、土地所有の変更は難しかったはずである。 1Chr 10:13,14 サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。 歴代誌の歴史部分は、ここから始まっている。サウルへの裁きである。ダビデ王朝を中心としているからだろう。鍵は何なのだろうか。この引用箇所を見る限りにおいて「主に尋ねようとしなかった」ことが原因のようである。それがやはり信仰生活の中心であることは確かだろう。自分を相対化するときである。 2019.6.16 鈴木寛@神戸市垂水区五色山 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌上を読み進めます。歴代誌には、前回も書きましたが、サムエル記、列王記とまったく同じ文章も多く含まれています。しかし、明らかに異なる箇所もあります。通読では、十分比較する時間はとれないかもしれませんが、少し、メモをしておくと良いかもしれませんね。何らかの本を読めば、この違いの背景について、いくつかのことが書かれていると思いますが、やはり、自分で確認することは大切だと思います。それは、明らかにそうであることが読み取れること(通常内的証拠といいます)と、直接、聖書から読み取れないが、他の様々な情報からそう考えるのが適切だと思われること(専門家としてのある程度共通の知見)と、それを書いておられる方が、おそらくそうだろうと考えておられること(著者の学問的言説)を、本の中で、明確に区別していないことも多く、読みながら区別することはとても難しいからもあります。それだけではなく、聖書の記者と直接出会うことをわたしは、大切にしています。なにをたいせつなこととして伝えようとしているかをよみとることで、聖書記者がなにを大切にして生きていたかについても知ることができると考えるからです。その方とつながることを願って。みなさんは、どのようなメッセージを、受け取っておられるでしょうか。 投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 歴代誌上11章ー歴代誌上24章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ch1: 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Chr 11:10 ダビデの勇士の頭は次のとおりである。彼らはダビデの統治に協力し、イスラエルのすべての人々と共に、主がイスラエルに告げられたとおり、ダビデが王となるように尽力した。 おそらく、歴代誌の名士の定義がこれで、その名士のリストが続いているように思われる。順序はよくわからないが、ダビデが王になるように尽力し、ダビデの統治に協力したことのようである。歴代誌がどうしても好きになれないのは、この価値観にわたしが向き合えないということなのかもしれない。 1Chr 12:39 このすべての戦陣に臨める戦士たちが、全き心をもってヘブロンに集まり、ダビデを全イスラエルの王とした。イスラエルの他の人々も皆、ダビデを王位につけることに同意した。 「ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装兵」(24)の記述が興味深い。ユダ:盾と槍を携える武装兵、シメオン:戦いに備えた勇士、ベニヤミン:その大多数はそれまでサウルの家を守り続けてきた、エフライム:勇士で、その家系では名のあるもの、マナセの半部族:ダビデを王とするために来るよう指名された者、イサカル:時に応じてイスラエルが何をなすべきかを見分けることのできる頭たちと、その指揮下にある同族のすべての者、ゼブルン:あらゆる武器で身を固めた戦闘員、彼らは心を一つにして戦う者、ナフタリ:盾と槍を携える者、ダン:武装した者、アシェル:武装した戦闘員、ヨルダン川の向こうのルベン族、ガド族、マナセの半部族:あらゆる武器を持った者。人数には不均衡がある。それを、これらの表現で区別しているのだろうか。 1Chr 13:9-11 一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を押さえようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。 ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。 サムエル記下6章にも記述があり、歴代誌およびサムエル記の両方の記者とまったく異なる解釈をすることになるが、今回初めて、単なる事故だったのかもしれないと思った。通常は、運び方またはウザの行為に主による「ウザ撃ち」の理由をもとめるのだろう。しかし、たとえ、主がこの背後におられたとしても、わたしたちには、理解しがたい理由である可能性もある。そう考えると、明確には理由が特定できなかったのではないかとも解釈できる。理由を考えること自体は自然であるが、つねに、主がその理由を明かされるわけではないのだから。その意味で、歴代誌およびサムエル記の両方の記者の解釈とも全く異なるわけではないのかもしれない。 1Chr 14:14 ダビデが再び神に託宣を求めると、神は次のように答えられた。「彼らを追って攻め上らず、彼らを避けて回り込め。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。 ダビデは、頻繁に神に託宣を求めたことが、記されている。つねに、主との交わりを持とうとすることとして、すばらしいと感じるとともに、課題も感じる。ある手法による託宣であると思われるので、神の沈黙を受け入れることが困難であったろうとも思う。ある種の占いは、道を示してほしいという自分の要求に、神のみこころを合わせようとすることとも言えるので。 1Chr 15:1,2 ダビデは、ダビデの町に宮殿を造り、神の箱のために場所を整え、天幕を張った。ダビデは言った。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」 二箇所気になった。天幕もそしておそらく神殿も、神の箱を置く場所が中心であるように読めること。そして、神の箱を担ぐべきは、レビ人であることを、ダビデが述べていることである。前者は、後者の内容を語るため、このようにしたのかもしれないが。「ウザ撃ち」と関連していることは、ほぼ確かだろうが、サムエル記下6章とは、違った印象を受ける。背後にダビデを理想とする祭司がいるように思われる。民数記1章、4章、申命記31章などから、神の箱を担ぐのはレビ人の勤めとするように思われるが、明確に書かれているのは、申命記10章8節「そのとき、主はレビ族を選び分けて、主の契約の箱を担ぎ、主の御前に立って仕え、主の名によって祝福するようにされた。それは今日まで続いている。」。一定していなかった。または、一定しない時代が長かったのかもしれない。聖書の権威ではなく、ダビデの権威に帰したことも、興味深い。同時に、モーセ五書の祭儀に関する部分がいつごろ今のものとなったのか、気になった。ダビデが聖書を読んでいる記録は全く無いのだから。 1Chr 16:7 ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した。 祭司、レビ人の職務の割当は、ダビデの権威にゆだねている。この時というよりも、順に整備されていったのかもれない。制度については、よくわからないことが多い。歴代誌は、それを明確に記することをひとつの目的としたのだろう。旧約聖書の成立と相まって、とても、難しい問題だが、それが現実なのかもしれない。 1Chr 17:17,18 神よ、御目には、それも小さな事にすぎません。あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。神なる主よ、あなたはわたしをとりわけ優れた人間と見なされたのでしょうか。 あなたは僕を重んじてくださいました。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。あなたは僕を認めてくださいました。 ダビデの祈りは、サムエル記下7章18節から29節とほとんど同じであるが、異なるところもあるようである。引用箇所の「とりわけ優れた人間と見なされた」が気になり調べてみた。サムエル記では表現がことなるまたは存在しない。短絡に結論を下すのは、危険であるが、ダビデを特別視しているようで気になっている。丁寧にみてみたい。帰還後、どのように立て直していくかというときに、モデルが必要だったのかもしれない。聖書を何回も読んでいても、わからないことばかりであることを感じる。謙虚に求めていきたい。 1Chr 18:3,4 ダビデは次に、ハマト地方のツォバの王ハダドエゼルが、ユーフラテスに覇権を確立しようと行動を起こしたとき、彼を討ち、戦車一千、騎兵七千、歩兵二万を捕獲し、戦車の馬は、百頭を残して、そのほかはすべて腱を切ってしまった。 正確にはわからないが、このあと、ダマスコのアラム人がハダドエゼルの援軍として参戦したとある。アラムの豪族のようなものなのかもしれない。三日月型肥沃地帯の西南の端に位置するアラムはつねに、イスラエルにとっては驚異だったろう。ダビデは、そのアラムをも従わせている。しかし、ここの書き方は、気になった。サムエル記下8章3節では「ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルがユーフラテスに勢力を回復しようと行動を起こしたとき」となっている。イスラエルとは反対側のはずであるが、何を意味するのだろうか。ユーフラテスまで派遣を拡大しようとしていたときという、覇権拡大の時を単に意味しているのかもしれない。すくなくとも、正当防衛ではなく、積極的平和主義なのだろう。この時代の外交について現代の尺度で批判するのは、適切ではないだろうが。 1Chr 19:6,7 アンモン人はダビデの憎しみをかったことを悟った。ハヌンとアンモン人は銀千キカルを送って、アラム・ナハライム、アラム・マアカ、ツォバから戦車と騎兵を借り受けようとした。こうして彼らは戦車三万二千両を借り、またマアカの王とその民の加勢を得た。彼らはメデバの前に来て陣を張った。アンモン人も町々から戦うために集まった。 19章は、ほとんど、サムエル記下10章と同じである。しかし、何箇所か異なる点もある。写本や、翻訳の違いの可能性もあり、丁寧に見る必要がある。多少異なる箇所の一つが引用箇所である、「アンモン人は、ダビデの憎しみをかったと悟ると、ベト・レホブおよびツォバのアラム人に人を遣わして歩兵二万を傭兵として要請し、マアカの王には兵一千、トブには兵一万二千を要請した。」(サムエル記下10章6節)サムエル記では、軍についての記述が詳細である。歴代誌ではあまり興味がなかったのだろう。この前に、バト・シェバのことがサムエル記では記されているが、歴代誌にはない。二書で多少の表現は異なるが「アラム人は、二度とアンモン人を支援しようとはしなかった。」(19)が重要だったのであろう。 1Chr 20:1 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ヨアブは軍隊を率いてアンモン人の地を荒らし、ラバに来てこれを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを攻略し、破壊した。 対応箇所は「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。」(サムエル記下11章1節)で、このあとバト・シェバの記事が続く。歴代誌には書かれていない。しかし、わたしもそうだったが、この書き出しを見ると、これが、バト・シェバの事件の時だと読む人はだれでもわかったのかもしれない。強調しないということで、書かなかったのだろう。隠すのであれば、引用した箇所の書き出しを他のものに変えただろうから。 1Chr 21:4-6 しかし、ヨアブに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブは退き、イスラエルをくまなく巡ってエルサレムに帰還した。ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を取りうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であった。ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものであったので、彼はその際レビ人とベニヤミンの調査はしなかった。 サムエル記下の対応記事は24章である。非常に長い部分を省略している。それは、ダビデの危機の時期である。かつ、この箇所の記述も異なる。長いが引用する。「しかし、ヨアブと軍の長たちに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブと軍の長たちはダビデの前を辞し、イスラエルの民を数えるために出発した。彼らはヨルダン川を渡って、アロエルとガドの谷間の町から始め、更にヤゼルを目指し、ギレアドに入って、ヘト人の地カデシュに至り、ダン・ヤアンからシドンに回った。彼らはティルスの要塞に入り、ヒビ人、カナン人の町をことごとく巡ってユダのネゲブの、ベエル・シェバに至った。彼らは九か月と二十日をかけて全国を巡った後、エルサレムに帰還した。ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。」(サムエル記下24章4-9節)歴代誌は、人数に詳しい。それは、この調査の結果を使ったのではないかと考えたが、サムエル記と人数もことなる。また、レビ人と、ベニヤミンの調査をしなかったことは、どこから来ているのだろう。それらを別途数えると、上の数になるというのだろうか。なぜ、人口調査がいけないのだろう。神の祝福を、人数ということで計算することだからだろうか。還元論である。しかし、明らかではない。 1Chr 22:1 そこでダビデは言った。「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルのために焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ。」 神殿の場所が特別な場所であるべきだと考えた人たちと、それを重要視しなかった人たちが居たと思われる。祭司集団は前者で、預言者集団は後者であったかもしれない。歴代誌は、場所が重要であるとの立場のようだが、一貫しているのかどうかは、詳細に調べる必要がある。イエスや、イエスの弟子たちへの非難は、律法の解釈と、神殿についてだとすると、イエスは、預言者集団に近かったのだろうか。それは、おそらく、遠く外れてはいない。しかし、すると、教会組織がやはり、問題になってくるように思われる。乱暴な議論をしてしまったが、じっくり考えたい問題である。 1Chr 23:1,2 老人となり、長寿に恵まれたダビデは、その子ソロモンをイスラエルの王とし、イスラエルの全高官、祭司、レビ人を呼び集めた。 歴代誌上は29章まであるが、22章以降は、サムエル記下には、基本的にない独自項目である。それは、神殿と祭儀に関することのようである。それを、すべて、ダビデの権威のもとで、整えられたものとしている。神殿はまだ建てられていなかったことを考えると、完全に整備されたのは、ソロモンの時期以降だろうが、ダビデの時期に確立したように記することに重要性があったのだろう。必然的にダビデの価値も高くなる。その一部として、長寿に恵まれとしている。列王記上1章1節では「ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった。」として、火種のひとつのアビシャグについて書かれている。違いをあまりに意識するのは良くないのかもしれないが。 1Chr 24:19 このように彼らはその奉仕に任命され、イスラエルの神、主がお命じになったように、先祖アロンによって伝えられた法に従って主の神殿に入った。 歴代誌には、神殿に関する記述が多いが、ダビデのことを主として書いている、歴代誌上にも、多く記述が見られる。主たる部分は、22章以降に集中している。「最初に自分たちの町の所有地に帰って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人であった。」(9章2節)とある。エルサレム帰還に最も熱心だったのが、この人達で、実際にその人達が多く帰還したことが、関係しているのだろう。歴代誌の特徴でもある。 2019.6.23 鈴木寛@羽田空港 (先週も旅行していましたが、6/23-7/7 海外におります。時差もあり、通常送っている適切な時刻に配信できないかもしれません。あしからず。) ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌上を読み終え、歴代誌下を読み始めます。サムエル記、列王記と、それぞれ上と下またはIとIIに分かれていました。歴代誌もそうなっています。それぞれに分かれ目がありますが、歴代誌は何を分かれ目としていますか。何らかの意図があったのでしょうか。歴代誌はむろん、様々な記録をもとに書かれているでしょうが、以前も書いたように、歴代誌上9章などの記述から、捕囚帰還後に完成したようです。そこまでの歴史を知っている者が、伝える世界は、どのようなものでしょうか。苦しい歴史の原因を問うことと、これから何を大切にしていくべきかを問いながら、書いているのでしょうか。みなさんは、どのようなことを受け取られますか。歴代誌記者と、苦しみと、希望をともにできるでしょうか。共に悩むことができればと考えながらわたしは、読み進めています。 投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 歴代誌上25章ー歴代誌下9章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌上と歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ch1 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Chr 25:1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。この奉仕を職務とする者の数は次のとおりである。 歴代誌は、9章冒頭にもあるように、捕囚帰還後に書かれている。神殿の状態がどのような時期かはわからないが、祭司集団は、祭儀を整えることを目標としたのだろう。南ユダ王国の混乱も長かったことを考えると、どの程度、25章にかかれていることが、なされていたかは不明であるが、それを目標としたことは、確かだろう。しかし、民族全体で祭儀を整えることは、それだけの、共通の意思がないと続かない。かつ、それが、本質的かどうかはわたしには、わからない。特に、福音書のイエスを見ていると。 1Chr 26:1 門衛の組分けについて。コラの一族ではアサフの子らの一人、コレの子メシェレムヤ。 門衛と神殿の宝物庫の管理(20節から)司法に関することが、この章に記されている。門衛は、基本的な職務であるから、他の書にもある程度出てくるが、レビ人の職務としては、歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記と、捕囚帰還後に多く使われている。現実的に、周囲の異教徒および(明確ではないが)サマリヤ人の驚異が強かったのかもしれない。また、帰還時に持ち帰った、宝物の管理も重要なことだったのだろう。 1Chr 27:23,24 ダビデは二十歳以下の者を人口に加えなかったが、それは主がイスラエルを空の星のように数多くすると約束されたからである。ツェルヤの子ヨアブはその数を数え始めたが、数えきることはできず、数え始めたために御怒りがイスラエルに臨み、その数は、『ダビデ王の年代記』の記録に載せられなかった。 「イスラエルの子らの数は次のとおりである。家系の長、千人隊と百 人隊の長、役人たちは、王に仕えて、一年中どの月も、月ごとに交替する各組のあらゆる事柄に当たった。一組に二万四千人いた。」(1)と始まっている。引用箇所のあとには「王の貯蔵庫の責任」をもった人について書かれている。二十歳以上のものを加えなかった理由が書かれている。そして、ヨアブについての言及。ダビデの責任のようには、書かれていない。レビ人の構成の次には、軍隊、それから財務ということだろうか。これら人間的に見ると基本とおもわれることを整えるのも、帰還後は大変だったのだろう。「夢はそれを目指したときから目標に変わる」と羽生善治さんは、言ったそうだが、本当に、このような夢の数字を目標としたのだろうか。考えてしまう。 1Chr 28:21 見よ、組分けされた祭司とレビ人が神殿のあらゆる奉仕に就こうとしている。何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」 ダビデの、ソロモンおよび、民へのことばとして記されているが、これを、ソロモン以降の王や指導者にも、民にもメッセージとして届け、自分達の責任を顧みるようにしているのかもしれない。歴代誌のメッセージとしては、ダビデのときに、すべてが整えられたのだよ、ということなのだろうか。 1Chr 29:15 わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。 「寄留民」ということばにひっかかった。「寄留」は多くても「寄留民」は少ないだろうということと共に、イスラエルの民が「寄留」者であることは、いつごろから、認識するようになったのだろうかということである。まず「寄留民」は歴代誌のみで、かつ、自分達が、寄留民であると書いているのは、上の引用箇所だけである。「寄留者」などについては、詳細に調べないといけないが、申命記を中心に、モーセ五書など、各書に登場する。しかし、自分達が、寄留者であるということは、創世記におけるアブラハムの記述、出エジプト記などのモーセの記述にも見られ、エジプトで寄留者であったことが、申命記などに登場する。しかし、ヨシュア記以降、列王記までは登場しない。預言者文書は異なるのだろうか。むろん、捕囚の民は、寄留者である。それ以降、その意識は高くなっていくだろう。そのなかで、モーセ五書にあらわれる、寄留者は、重要な位置づけになっていったと思われる。一番興味があるのは、イスラエルの民は、王国の滅亡と、捕囚を通して何を学んだかである。それ以前と、それ以後で、宗教は、大きく変わったと思われるからである。わたしには、まだほとんどわからない。 2Chr 1:17 また彼らはエジプトに上り、戦車を一両銀六百シェケル、馬を一頭百五十シェケルで輸入した。同じように、それらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。 ソロモンは与えられた「知恵と識見」で何をしたのだろうか。「民をよく導くことができるように」(10)と、イスラエルの民を裁くために求めたものであった。そして「富と財宝、名誉」はあわせて主が与えられたこととある。実際には、ここでは、商取引のことが書かれている。それも、戦車と馬という軍事用のものである。何をしたかでは、判断できないのかもしれない。しかし、ソロモンについて、列王記記者や、歴代誌記者は、どのように判断しているのだろうか。ひとつひとつについても評価していたのだろうか。判断が難しい。 2Chr 2:12,13 今わたしは、聡明で熟練した者、職人の頭フラムを送ります。 ダンの娘を母とし、ティルスの男を父として生まれた彼は、金、銀、青銅、鉄、石材、木材、深紅の織物、青の織物、麻の織物、緋の織物を扱い、どんな彫刻も作り、ゆだねられればどんな計画でも立てる能力があり、そちらの熟練した者、かつてのわたしの盟主、あなたの父ダビデの熟練した者に力添えをすることができます。 ソロモンの依頼に答える、ティルスの王フラムの「主は御自分の民を愛して、あなたをその王とされた。」(10)と始まる返書の一部である。そして「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように。」(11)と主を讃美している。信仰していた神は異なるだろうが、最大限の配慮をしているように思われる。ティルス人の中からではあるが、イスラエル人の母を持つものを選んでいる。ある理解も必要だろうから。気になるのは、ソロモンの要求したものだが、神殿だけではなく、宮殿のものも多かったのではないだろうか。ダビデが、どの程度、神殿のために準備していたかは不明であるが、ダビデは、十分と考えていた量とも思えるからである。(歴代誌上22章・29章)また、寄留民を労役に賦している。これは、以前からあったことかもしれないが。ソロモンの行動には、すでに問題を少し感じる。このあとを知っているものの、あら探しなのかもしれないが。 2Chr 3:6 宝石で神殿を美しく飾った。金はパルワイムの金であった。 豪華絢爛たるものだったのだろう。もしかすると、ダビデが考えていたものとは、違っていたのかもしれない。このあと、この神殿の金などが、どうなるかを考えると、むなしさを感じる。しかし、ソロモンの威光は輝き、賞賛するものも多かったろう。どう考えれば良いかは本当に難しい。個人的には、物質的なものに対する警戒感が強く、主とどうむきあい、もとめ、生きていくかに集中すべきだと思うが。豪華な神殿が必要だと考える人も多いのだろう。 2Chr 4:3,4 「海」の下には周囲に牛の像があって、それを取り巻いていた。すなわち、その「海」の周囲には、「海」と共に鋳造された牛が一アンマにつき十頭の割合で二列に並べられていた。「海」は十二頭の牛の像の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いて「海」を背負い、牛の後部はすべて内側に向いていた。 「牛の像」というと、出エジプト記32章の「若い雄牛の像」ヤロブアムが作った「金の子牛二体」(列王記2章)を思い出す。牛はエジプトの守護に関わるのだろう。もちろん、牧畜が主たる生業の当時のイスラエルの人たちにとっては、牛は他にもいろいろな意味をもっており、捧げ物でもっとも大切だったのは、牛だったろう。しかし、牛の像とあり、やはり、少し気になる。 2Chr 5:12,13 レビ人の詠唱者全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子らと兄弟らは、麻布の衣をまとい、シンバル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立っていた。ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。 契約の箱の神殿への移動。最大限のことを、こころから行ったのだろう。おそらく、そのことを、主は喜ばれる。心からの捧げ物だから。しかし、部族の長たちの捧げ物は、多少書かれているが、一般の人がどのように関わったかは、あまりよくわからない。エルサレム以外に在住の人たちはどうしたのだろうか。そして列王記6章から8章の記述とはだいぶん違うように思われる。いつかしっかり比較してみたい。 2Chr 6:41 神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなた御自身も御力を示す神の箱も。神なる主よ、あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。 「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(18)と祈っているが、最後には、特定の場所に、入るよう祈っている。この章には「この神殿」ということばが頻繁にあり、38節には捕囚後、神殿の方をむいて祈ることも書かれており、特別な場所となっている。使徒言行録7章のステファノのメッセージのひとつの重要な要素でもあり、キリスト者が、エルサレム詣をしないことにもつながっている。しかし、これは、捕囚にあった人たちにとっての慰めだったのかもしれない。あまり普遍主義を全面にだしても、慰めは得られないのだから。 2Chr 7:15,16 今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。 「この所」「この神殿」をキリスト教徒が重要視しなかったのは、イエスの説いたことにも依っているだろう。普遍性が高いメッセージである。しかし、ときも重要なのかもしれない。この当時のひとに、普遍的なことを説いても、理解できなかったろう。AD70年に神殿が破壊され、民も、散り散りになったことも、関係しているだろう。そして、異邦人に、特定の場所を示すことはせず、霊的な宮を大切にしたということだろうか。イスラム教は、場所と大切にしている。シオニズムの擁護者は、キリスト者にも多く、エルサレムを特別なものとしている。このあとの歴史にも大きな影響があったことは確かである。 2Chr 8:11 ソロモンはファラオの娘をダビデの町から、彼女のために建てた宮殿に移した。「わたしの妻はイスラエルの王ダビデの宮殿に住んではならない。そこは主の箱を迎え入れた聖なる所だ」と考えたからである。 列王記では、まず「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った。」(列王記3章1節)とあり、「彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。」(列王記7章8節)「ファラオの娘が、ダビデの町から彼女のために建てられた宮殿に移って間もないころ、ソロモンはミロを建てた。」(列王記9章24節)と記録がある。歴代誌のような記録はないが、ファラオの娘の家については、丁寧に書かれている。その背景の説明または理解が書かれているのだろう。信仰的な決断だとしているのだろう。好意的である。 2Chr 9:8 あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです。」 シェバの女王の記事は列王記10章1節から5節と同じで、この引用箇所もまったく同じであるように思われる。基本的に同じで、宗教に関する部分のみ、コメントを足しているのだろう。違いを拾い上げる読み方がどの程度たいせつなのかは、わからないが、記者について、そのメッセージについては理解したい。帰還後どのように考えたかは重要だろうから。 2019.6.30 鈴木寛@Bled, Slovenia (7/7 まで海外におります。7時間の時差もあり、通常送っている適切な時刻に配信できないかもしれません。あしからず。) ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌下を読み進めます。歴代誌は、ユダ、ダビデ王朝の記録のように見えます。北イスラエル王国とは、完全に分かれてしまい、人の交流は無かったのでしょうか。そうは思えません。北の預言者たちとの交流は無かったのでしょうか。なにか、不思議に感じます。王の記録が中心ですが、権力を持つことは、責任をも担うことと考えるのは、当然かもしれませんが、そのもとで、不適切なことが興るのは、どの時代にもあるように思います。主権が国民でも、権力がかなり集中していても。そう考えると、そのような時期に、神様の意思を問うのは、そう簡単ではないように思います。みなさんは、どのように、読んでおられますか。歴代誌と、列王記の記事がかなり食い違っていることも、気になります。「えっ」と思ったときは、列王記の記事をちょっと見てみるのもよいと思いますよ。引用付き聖書だと見つけやすいでしょうか。ネット上にも、特に英語では、たくさん、対応表がありますよ。 投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 歴代誌下10章ー歴代誌下23章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ch2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Chr 10:17 レハブアムは、ただユダの町々に住むイスラエル人に対してのみ王であり続けた。 10章は、列王記12章1節から19節と一字一句異ならないのではないかと思う。しかし、列王記上12章はそのあとに、ヤロブアムの金の子牛のことなどが続く。引用した節も同じである。今回気づいたのは「ユダの町々に住むイスラエル人」という表現である。レビ族をのぞいても、部族で完全に分かれていたわけではないのだろう。分裂後の移動については書かれていないが、十分あり得ることである。ユダを中心としていることは、確かだろうが。 2Chr 11:13,14 イスラエル中の祭司とレビ人は、そのすべての領土からレハブアムのもとに集まって来た。レビ人が自分の牧草地と所有物を捨ててユダとエルサレムに来たのは、ヤロブアムとその子らが彼らを遠ざけ、主の祭司であることをやめさせたからである。 上に書いた移動について書かれている。列王記にはないようである。自分の牧草地と所有物を捨ててという記述がある。大きな決断だったろう。また、それが、歴代誌に書かれていることも、印象的である。レビ以外は、移動が難しかったかもしれない。例外的なものはあったかもしれないが。(16節参照)金の子牛はここでは「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた。」(15)と記述されている。列王記上12章25節〜33節参照。 2Chr 12:5 預言者シェマヤが、シシャクのことでエルサレムに集まっているレハブアムとユダの将軍たちのところに来て言った。「主はこう言われる。『あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す。』」 このあとには、レハブアム王と共に将軍たちもへりくだって、主に立ち返ったことが書かれているが「彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王国に仕えることとの違いを知るようになる。」(8)と結んでいる。『預言者シェマヤと先見者イドの言葉』の記録もあると書かれている。「律法を捨てた」(1)などの記述は列王記には無いようである。イスラエルおよびユダが捕囚となった理由では無く、ソロモンの次のレハブアムの時代ですでに、このように因果関係を明確にしている。困難な状況に陥ったとき、それをどう考えるかは、本当に難しい。旧約のこれらを、記述通り、主がこのように示したと理解するのだろうか。ひとつの教育の一段階なのだろうか。個人と国の盛衰は同じなのだろうか。イエスのメッセージはすこし違うように思われる。 2Chr 13:9 また主の祭司であるアロンの子らとレビ人を追い払い、諸国の民と同じように自分たちの祭司を立てているではないか。若い雄牛一頭と雄羊七匹をもって任職を願い出た者が皆、神でないものの祭司になっている。 この記述は興味深い。まず、祭司とレビ人を追い払ったこと。それとは別に、捧げ物をもって、任職を願い出たものは、ヤロブアムとそれに従うもの達の祭司としているという。この者達も「主の祭司であるアロンの子らとレビ人」であったのか、まったく一般公募であったのか、不明であるが、ヤロブアムの賢さも感じてしまう。歴代誌としては、最悪なことなのだろうが。なにか、ヤロブアムの賢さからは、伝わっているものがある。考えさせられる。 2Chr 14:13,14 彼らはまたゲラルの周辺にあるすべての町をも撃った。主への恐れが彼らを襲ったからである。彼らはそのすべての町で略奪をほしいままにした。そこには奪い取れるものが多かったからである。彼らは家畜の群れの天幕も打ち払い、多くの羊とらくだを捕獲して、エルサレムに帰った。 これらの行為が「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。」(1)のまとめのもとで書かれている。クシュ(現在のエチオピアのあたり、ナイル川上流だが、このときエジプトはどうなっていたのだろう)を打ち負かした後に、その周辺の土地を略奪したという記事である。そのことを、正しいとした人たちとも、共に生きたい。互いに愛し合う者となりたい。むろん、ゲラルの人々や、クシュのひとたちにも寄り添って。寛容(互いに異なる歴史・文化・アイデンティティーをもつ人びとの集団の平和共存)とともに、頑固さやある人々の間の伝統を維持することが大切と、村上陽一郎氏は言うが、確固たる価値観を持ちつつそれを他者と共に生きる中で絶対化しない、それは、個人の努力でできるものではないように思われる。観念的に理想化しすぎているのかもしれない。毎日を誠実に生きながら考え続けたい。 2Chr 15:13 子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられるという契約を結んだ。 この章に書かれている事柄を神様の御心としたということだろうか。大変な不寛容である。内部に対して厳しいという考えもあるが、内部と外部を区別することの問題もある。それと、変化を許容してもいない。捧げ物も略奪したもの、このようなことに服従することを喜ぶ。キリスト教会でもあるのかもしれない。たとえそうであっても、そのようなひとたちともともに生きることを求めたい。すくなくとも、それが、今、神様から受け取っていることだから。主観的なのかもしれないが。いたしかたない。 2Chr 16:14 彼はダビデの町に掘っておいた墓に葬られた。人々は特別な技術で混ぜ合わせた種々の香料の満ちた棺に彼を納め、また彼のために非常に大きな火をたいた。 正確な意味は不明であるが、人々からは慕われていたということの表現ではないだろうか。41年もの長い間治めたアサに対しては、様々な思いがあったろう。バシャとの戦争において、アラムに援助を求めたこと、それを先見者ハナニに指摘され、投獄したり、他の人を虐待したり、また、病の時に薬をもとめたことなど、単純には判断できない面がある。気づいたことは、政務と個人のことは分けて記述しているのかもしれないことである。他も調べないとわからないが「アサの事績は、初期のことも後期のことも、『ユダとイスラエルの列王の書』に記されている。」(11)の位置が気になった。個人的には、歳をとると気をつけるべきことがあることである。アサの行為は、年寄りが陥りそうなことだと思う。ハナニの厳しさに対し、わたしのように「それほど単純では無いよ」と言ったのかもしれない。 2Chr 17:1,2 アサに代わってその子ヨシャファトが王となり、イスラエルに対抗して勢力を増強した。彼はユダの砦の町のすべてに軍隊を配置し、ユダの地と父アサが占領したエフライムの町々に守備隊を置いた。 兵力増強や、守りを固めることは、批判の対象ではないらしい。しかし、この記述をみると、すでに、アッシリアなどが興っているときに、非常に地域的な争いに終始している気もしてしまう。アサもヨシャファトも真摯に主に従おうとしたことは、おそらく、正しいのであろうが。具体的なことは、判断が難しい。軍備についても、1度調べてみたい。このときが最大だった可能性もある。人口も増えたのだろうか。それとも、兵の割合が増えたのだろうか。 2Chr 18:34 その日、戦いがますます激しくなったため、イスラエルの王はアラム軍を前にして夕方まで戦車の中に立っていたが、日の沈むころ息絶えた。 わたしは、列王記上にも記事のある、問題のあるアハブ王にも、同情もする。身近に感ずるという方が正確だろうか。完全に自己中心なら、傷を負って、戦車の中に立ち続けることはしないのではないだろうか。ヨシャファトとの対応も、誠実に行っているように思われる。むろん、問題もいくつもある。しかし、問題を見つけることで、あり因果関係をみつけ、理解したようになること、それを、主は願っておられるのだろうかと考えてします。もっと複雑、神様の名は不思議だから。 2Chr 19:2 先見者ハナニの子イエフは、ヨシャファト王の前に進み出て言った。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。 引用した言葉についての評価は書かれていない。列王記には「ヨシャファトの他の事績、彼のあげた功績、また戦いについては、『ユダの王の歴代誌』に記されている。」(列王記上22章46節)とあるので、記録としての歴代誌は、列王記と同時代に存在していたことになるのだろう。この章の記述は、列王記にはないようだ。「ベエル・シェバからエフライムの山地まで」巡回して、民を先祖の神に立ち返らせたこと、ユダの砦の町に裁判官を立て、「人のためでは無く、主のため」を強調していること、さらにエルサレムでの司法の整備、「主に関する事柄」と「王に関する事柄」さらに補佐の任命など、現代にも通じる、組織作りもしている。素晴らしいと考えてしまうのは、間違いなのだろうか。ひとのできることは、すべきことは何なのだろうか。 2Chr 20:9 もしわたしたちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください。 ヨシャファトの祈りである。「この神殿にこそ」と強調されている。この戦いについて書かれていることは、不思議でもある。「彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。するとアンモン人とモアブ人は、セイルの山の住民に立ち向かい、一人残らず討って、全滅させた。セイルの住民を絶やすと、彼らは互いに戦って自滅した。」(22, 23)賛美の歌と伏兵とで混乱して、ユダに攻め込んできたはずの、アンモン人、モアブ人が、脅威であった、セイルの山の住人を打ち破っただけでなく、同士討ちをして倒れたということだろう。世界史的に見ると、ユダ周辺の部族間の争いに過ぎないように思われる。(21章8節参照)同時に、このようなひとつひとつを振り返りながら、なぜ、預言者の働きが活発でありながら、神に反抗し続けたイスラエルだけでなく、神殿を中心とした礼拝をしているユダも滅ぼされたのかを問うているのかもしれない。 2Chr 21:19 来る日も来る日も苦しみ、二年ばかり後には、その病のために内臓が出るようになり、彼はひどい苦しみにあえぎながら死んだ。民は、その先祖のために火をたいたようには、彼のために火をたくことをしなかった。 歴代誌下16章14節には、「彼(アサ王)のために非常に大きな火をたいた」とある。火をたくことがともらいにおいて大切で、ここではそれをしなかったということだろう。病のことも、その他のことも、因果応報だと言っているのだろうか。説得力はある程度あるが、わたしには、イエスの教えとだいぶん距離があるように感じる。また、ヨラムの周囲にも、多くの人たちがいたであろうから、ヨラムだけに責任を負わせることにも、問題を感じる。絶対王政といわれるほど、確立していたとは思えない。だれかの責任にすることで良いのだろうか。 2Chr 22:1,2 エルサレムの住民は、ヨラムの最年少の子アハズヤを彼の代わりに王とした。アラブ人と共に陣営に攻め込んできた部隊によって年上のすべての王子が殺されてしまったからである。こうして、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアタルヤといい、オムリの孫娘であった。 わたしがいつも混乱する場所である。「ヨラムは三十二歳で王となり、八年間エルサレムで王位にあった。」(21章5節)とあり、引用箇所では、ヨラムの最年少の王子がこのとき、42歳とある。さらに「アハズヤは彼らの勧めによって、イスラエルの王、アハブの子ヨラムと共にアラムの王ハザエルと戦うため、ラモト・ギレアドに行った。しかし、アラム兵がヨラムに傷を負わせた。」(5)とある。イスラエルの王がこのときヨラムである。まずは、自分でじっくり考えてから、解説を見てみたい。 2Chr 23:11 そこで彼らは王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡して、彼を王とした。ヨヤダとその息子たちは彼に油を注いで、「王万歳」と叫んだ。 ほとんど同じ文章が列王記にある。「そこでヨヤダが王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡した。人々はこの王子を王とし、油を注ぎ、拍手して、『王万歳』と叫んだ。」(列王記下11章12節)「掟の書」に関する記述は、この二カ所だけである。ダビデの名が何回か書かれている。「ダビデ王の槍と大盾と小盾」(9)まで書かれており、驚かされる。列王記の記述と少しずつ異なる。「祭司は主の神殿に納められているダビデ王の槍と小盾を百人隊の長たちに渡した。」(列王記下11章10節) 2019.7.7 鈴木寛@Frankfurt, Germany (本日 まで海外におります。7時間の時差もあり、深夜に送ることになり申し訳ありません。あしからず。) ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、歴代誌下を読み終わり、エズラ記に入ります。みなさんは、当時の中東世界の状況について学校で勉強したことを覚えていらっしゃいますか。わたしは、ほとんど、覚えていなかったので、聖書を読みながら、ときどき勉強しています。信仰について考える時、どうしても、一人称単数、つまり「わたしは」ということで考えたり、一人称複数「わたしたちは」を主語として語ることが多いように思います。しかし「互いに愛し合う」ことを大切にするのであれば、他者、二人称や三人称についても、適切に理解することが必要なのではないでしょうか。当時、世界、特に、イスラエル、または、南ユダ王国の周辺はどのような状況だったのでしょうか。本を読んでみるのもよいかもしれませんし、基本的なことは、ネットからも得ることができるでしょう。アッシリア、エジプト、バビロニア、メディア、ペルシャ、そして、ダマスコを中心としたアラム人、クシュも聖書に現れますね。フェニキアや、リディアは、明示的には記録されていませんが、様々な影響を与えていたでしょう。聖書の世界の人たちは、このような国々との様々な交流のなかにいたのではないでしょうか。むろん、世界規模のことをどの程度理解できていたかは不明ですし、ましてや、歴史がその後、どのように動いていくかは知らなかったと思いますが。世界が、ダイナミックに変化していく時代、世界との関わりなしには様々なことが成立しない、大きく揺さぶられているときでもあるように思います。そして、その中で、どのように生きるべきかを考え、選択して生きていたひとたちと、そして、そのことを、記録して伝えたひとたち、いろいろな観点を持ちながら、読むことができればと、わたしは、考えながら読んでいます。その当時のひとたちと、つながるため、そして、つながっていることを理解するために。そして、喜びや悲しみを共にし、ともに生きるために。 投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 歴代誌下24章ーエズラ記1章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 歴代誌下とエズラ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 歴代誌下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ch2 エズラ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ez 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Chr 24:22 ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」 ヨアシュも、ヨヤダの教育を受けたと思われるが、追従していただけだったのかもしれない。すると、ヨヤダにも責任がないとはいえない。その子、ゼカルヤが、おそらく、ヨヤダ存命中には、なにも言えなかった、役人たちと共謀して殺される。このなかで、ゼカルヤは、責任の追及を願い、歴代誌記者も、それを支持しているように思われる。正直、混沌としている。記者にとっても、明確では無かったのかもしれない。 2Chr 25:7,8 ところが、ある神の人が来て言った。「王よ、イスラエルの軍隊を同行させてはなりません。主はイスラエルの者、すなわちどのエフライム人とも共においでにならないからです。もし行くなら、単独で行って勇敢に戦いなさい。そうでなければ、神は敵の前であなたを挫かれます。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。」 非常に立派な助言に聞こえるが、預言者の対応として一貫性があるわけではない。気になるのは、たしかに、セイルの軍に勝利はおさめるが、同時に「他方、アマツヤが戦いに同行させずに送り返した部隊の兵士らは、サマリアからベト・ホロンまでのユダの町々を荒らしまわり、三千人の住民を打ち殺し、略奪をほしいままにした。」(13)とも書かれており、このあとのセイルの神々をまつることなどを考えると、かなりの混乱が見られる。アマツヤの最後を見ても、おそらく、民の評価も幅があったのだろう。むずかしい。 2Chr 26:15 彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。 ウジヤについては列王記下15章にアマツヤの子アザルヤとして登場する。重い皮膚病については「主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。」(列王記下15章5節)とあるだけで、何の経緯も書かれていない。比較すると、歴代誌での記述が詳細であること、重い皮膚病の原因が重視されていると思われることである。「神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、彼も主を求めるように努めた。」(5)との記述もあるが、24章21, 22節のゼカルヤとは別人なのだろうか。混乱ともとれる。しかし、他にも、上に引用したような記述がある。ウジヤは、農業を愛したり、軍を整備したり、さらに、高度の技術も使ったようである。「神の驚くべき助けを得て」とある一方「彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。」(16)と歴代誌の評価は厳しい。 2Chr 27:2 彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。 ウジヤもそれなりに評価はされていることがわかる。しかし、気になったのは、この彼(ヨタム)のときに、北イスラエルは、一回目の捕囚を経験していることである。 「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。 」(列王記下15章29節)なにかとても悲しさを感じる。歴代誌記者は、世界情勢については、まったく関心が無かったのか。信仰とは、どのようなものだったのだろう。考えてしまう。 2Chr 28:23 彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげ、「アラムの王の神々は、王を助けている。その神々に、わたしもいけにえをささげよう。そうすればわたしも助けてくれるだろう」と言った。しかし、その神々はアハズにとっても、すべてのイスラエルにとっても、破滅をもたらすものでしかなかった。 このあとにも、悲しい施策が続く。「神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じ」(24)「聖なる高台」を至る所に築き、他の神々を拝む。混乱の時期である。これを「彼(アハズ)は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。 」(1)と最初にまとめている。様々な民族の間で争いがあるようだが、アッシリアの巨大化によって、この地域は、大きな混乱の中にいるように思われる。 2Chr 29:7 また彼らは前廊の扉を閉じ、ともし火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたくことも、焼き尽くす献げ物をささげることもしなかった。 アハズのしたことからの回復である。かなり徹底して行ったことがこのあとの記述からもわかる。現代と比較すると、このように、心を込めて、主に従おうとしているものたちを結局は滅ぼしてしまう、主の意図を理解することは、困難だったろう。わたしたちは、イエスを通して、何を学んだのだろうか。 2Chr 30:25 こうして、ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った。 ヒゼキヤが行った過越祭についての記事である。その布告は「イスラエルの人々よ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち帰れ。そうすれば主は、アッシリアの王の手を免れて生き残った人々、あなたたちに帰ってくださる。」(6b)と始まる(6-9)。ヒゼキヤが「そうすれば」と語ったこと、さらに「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。」(9a)なにか、むなしく映る部分もある。しかし、このように、主に従おうとし、引用したように、共に喜び祝うことは、素晴らしいことだと思う。過越祭は、主の恵みと憐れみ深さを顧みることだろうから。 2Chr 31:21 彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。 これ以上はない賞賛がここにあるように思われる。しかし、同時に「更に彼はエルサレムに住む民に、祭司とレビ人の受けるべき分を提供するように命じた。これは、祭司とレビ人が主の律法のことに専念するためであった。 」(4)を読むと、これがなされていなかった時期がおそらくかなり長かったことも推測される。嗣業地は町の周辺に限られていた、祭司・レビ人は、どのように生活していたのだろうか。特に、北イスラエルにいた祭司や、レビ人は、どうだったのだろうかと気になる。一部、ユダに逃れてきたことが書かれているが、記述があまりにも少ない。それを予想はできても、知ることはできないのかもしれない。 2Chr 32:15 そのようにしてヒゼキヤに欺かれ、唆されてはならない。彼を信じてはならない。どの民、どの国のどの神も、わたしの手から、またわたしの先祖の手からその民を救うことができなかった。お前たちの神も、このわたしの手からお前たちを救い出すことはできない。」 これらの言葉は非常に「科学的・実証的」である。ここでそれに対抗するものとして書かれているのは「神風」的な「特殊性」である。米国には、この米国だけはとくべつという考えが強いという。建国のもととなったプロテスタントの移民も分離主義者が主であった。主を信じているわたしたちだけは違う、例外である、という論理である。しかし、そう考えると、どうしても、誰が例外かを決めることになる。大切にしているのは、こっちかあっちかではない、という考え方もあるだろう。共に、喜び、共に、悲しむことは、できないのだろうか。敵を愛することはできないのだろうか。 2Chr 33:19 彼が祈って聞き入れられたこと、彼のすべての罪や背信の行為、また、へりくだる前に聖なる高台を築き、アシェラ像と彫像を立てた場所については、『ホザイの言葉』に記されている。 マナセがへりくだった記事は、列王記にはない。そしてこのマナセこそがユダを滅ぼしたとしている。「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。」(列王記下23章26節、参照:列王記下24章3・4節)ここでは、『ホザイの言葉』という聖書の他の箇所には出てこないものを証拠としてあげている。実際には、不明である。おそらく、評価も人によって異なったのかもしれない。神様の意図はどこにあるのだろうか。難しい。自らを省みながら、イスラエル・ユダのひとたちと共に、悲しみ、苦しむことは、できるかもしれない。 2Chr 34:25 彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって注がれ、消えることはない。 繰り返し、他の神々に香をたく、人々のことを考えた。苦しみが多く、頼れる者なら何にでも頼りたいという気持ちだったのかもしれない。そして、この預言者フルダの言葉も、厳しいように見えるが、状況を生活に捉えていたのかもしれない。ヨシヤの改革で、完全に回復するわけでは無いことを。苦しみの時である。簡単な処方箋はない。衰えるばかりだ。最近は、ずっと、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の友人のブログを読んでいる。この病との戦いを、その病を背負った生が綴られている。日に日に衰えていく、状況を克明描写しながら。真摯な営みにわたしも加わりたいと願う。 2Chr 35:21 しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」 「ヨシヤはエルサレムにおいて主の過越祭を祝い、第一の月の十四日に過越のいけにえを屠った。」(1)ヨシヤは、レビ人にも指導力を発揮している。祭司が表に出ること、預言者に導かれること、王が主導すること、いろいろである。そして、ここでは、ネコからの言葉もある。敵はバビロニアだろうが、巨大帝国がエジプトにとっても、脅威となってきたのだろう。世界の動きを、ヨシヤはわかっていないように見える。どうしようもなかったのか。神の御心を見極めることはとても難しい。神も、逐一知らせるようにはしておられないのかもしれない。どうじに、この苦しみをも、見ておられると信じたい。 2Chr 36:3 しかし、エジプトの王はエルサレムで彼を退位させ、その国には科料として銀百キカル、金一キカルを課した。 正確にはわからないが出エジプト25章39節によると金一キカルは燭台に使った量である。他にも王冠の重さであったりする。(サムエル記下12章30節)科料としては、とても少ないように思われる。エジプトにとって、エルサレムは重要では無かったのかもしれない。このあとの、展開が非常に早く、詳細があまり書かれていない。「先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(15, 16)に記者の評価が集約されている様である。ヨシヤ以降は記述するに値しないとしているのかもしれない。この痛みは、痛みとして、詳細を記述して欲しかったと思うが。Ezra 1:5 そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。 Ezra 1:5 そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。 ユダ王国の主要人物をさして「皆」と言っているようだ。捕囚になったのも、エルサレム住民など、指導的立場にあった人たちだろうから、たしかにこれらが中心なのかもしれないが、ほかにもいろいろな人たちがいたはずである。このくくり方で、よいとされたのだろう。非常に細かいことだが、「以上金銀の祭具の合計五千四百。」(11)の書き方が気になった。「以上」は「など」として欲しかった。全体として、配慮が行き届いていないように感じてしまうのは、わたしだけだろうか。 2019.7.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エズラ記を読み、そして、ネヘミヤ記を読み始めます。アケメネス朝ペルシャは、それまでの、アッシリアやバビロニアとことなり、征服した民族や宗教にも寛容な制作をとったようです。イスラエルの民も、何度かにわたり、エルサレムとその周辺(南ユダ王国の地)に戻ります。捕囚後の帰還といわれるものです。エズラや、ネヘミヤはそのリーダーです。担ったことは異なりますが、それはみなさんに読んでいただくのがよいと思います。この聖書の記録されていることの前にも、この二人をふくめ、登場する人たちの歴史があるのでしょう。それは、十分は書かれていません。しかし、その背景を考えるのも興味深いかもしれません。さらに、この帰還は、エレミヤなどの預言があったとはいえ、捕囚の民がなにかをしたから実現したからではなく、ペルシャの政策の一部として実現しているわけです。信仰、宗教、民族として、どのようなことをめざし、再編・再構築されていったのでしょうか。自分も、その場にいたとすると、非常に困難だったろうなということは、理解できます。主に導かれて出エジプトをし築かれた自分たちの国がなぜ滅ぼされたのか。これからどうしていったら良いのか。肯定や批判をあまり急がないで、読んでいっていただければと思います。背景となる歴史の概要は下のリンクにも書いてありますし、この時代の世界史をちょっと勉強・復習してみるのも良いかもしれません。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エズラ記2章ーネヘミヤ記5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エズラ記とネヘミヤ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エズラ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ez ネヘミヤ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ne 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ezra 2:2 彼らはゼルバベル、イエシュア、ネヘムヤ、セラヤ、レエラヤ、モルドカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと共に帰って来た。イスラエルの民の男子の数。 最初に名前が連なるのは、指導者なのだろう。このあとに、リストが続く。「男子」とはあるが、「一族」という書き方と、「ベツレヘムの男子」(21)のように、男子と明確にしている箇所とがあり、祭司、レビ人については、「イエシュアの家族」(36)という表現もあり、さらに「男女の詠唱者」(65)とあり、その理由は書かれていない。おそらく、もともとは、ユダやレビではなく、単に、ユダに住んでいた人たちも、様々な人たちが含まれていただろう。部族も、所属部族のような者だったかもしれない。戦士となりうるとする、男子の数え方が基本なのだろうが、それぞれからの報告を、記録したのかもしれない。かえって、様々な記載があることが、現実の複雑さを表現しているとも考えられる。 Ezra 3:12,13 昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。 人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。 このひとたちと共に喜び、このひとたちと共に泣くとは、どのようなことなのだろうか。むろん、喜びの声と、泣き声が交差する状況はある程度理解できる。しかし、その複雑さは、ひとり一人の歴史にまで寄り添わないと、受け取れないように思われる。筋萎縮性側索硬化症(ALS: amyotrophic lateral sclerosis)に罹っている数学者の友人のブログを読んでいて、強く感じた。勇気をもち、また、その文才をももって、時にはユーモアも交えて、闘病記をも書いてくれるから「受け取れない」ということを、受け取れるのだろうが。捕囚帰還後のユダヤ教には、批判的になってしまう面が強い。しかし、その前に、共に喜び、共に泣く者でありたい。 Ezra 4:1.2 ユダとベニヤミンの敵は、捕囚の子らがイスラエルの神、主のために聖所を建てていることを聞いて、 ゼルバベルと家長たちのもとに来て言った。「建築を手伝わせてください。わたしたちも同じようにあなたがたの神を尋ね求める者です。アッシリアの王エサル・ハドンによってここに連れて来られたときから、わたしたちはこの神にいけにえをささげています。」 この申し出を拒否、その後「ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。 」(5)とあり、どうも、何度も送っており、アルタクセルクセス王に書き送ったものが功を奏したようである。Wikipedia からの情報だと、アケメネス朝のキュロス2世(紀元前550年 - 紀元前529年)がここでペルシャの王キュロスと呼ばれているものと思われ、このあと、カンビュセス2世(紀元前529年 - 紀元前521年)、スメルディス(紀元前521年)、ダレイオス1世(紀元前521年 - 紀元前486年)、クセルクセス1世(紀元前486年 - 紀元前465年)、アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)となっていることを考えると、長期間にわたり、工作をし、手紙を送り続けたように思われる。その人達の側からも考えると、やはり、敵として遇するしかなかったのか、考えてしまう。パレスチナ問題は、綿々と続く。 Ezra 5:6 ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイおよびその仲間であるユーフラテス西方の巡察官たちがダレイオス王に送った手紙の写し、 様々な人達が関わっていることがわかる。アルタクセルクセス1世のあとは、クセルクセス2世(紀元前424年 - 紀元前423年)、ソグディアノス(紀元前423年)、ダレイオス2世(紀元前422年 - 紀元前404年)と続く。引用箇所のダレイオス王は、2世のことだろうか。4章の手紙と5章の手紙を比較すると、行政官や、王の側近のしごとの丁寧さが、大きな影響を及ぼしていることもわかる。かなりのレベルで、行政が行われていたことも、見て取れる。アケメネス朝ペルシャについても、勉強してみたくなった。 Ezra 6:8,9 この神殿を建てるために、あなたたちがそのユダの長老たちを援助することを、わたしは命ずる。その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。天にいます神に、焼き尽くす献げ物としてささげるために必要な雄牛、雄羊、小羊、それに小麦、塩、ぶどう酒、油をエルサレムの祭司たちの要求に従って、毎日欠かさず与えなければならない。 これは、神殿建設に反対していた人たちにとっては大きな痛手だったろう。イスラエル人たちの勝ち誇った顔がうかぶが、本当にそれでよいのかは不明である。ともに生きることを目指せないのだろうか。これも、正しさは確保されているかもしれないが、結局の所「ユダの長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言に促されて順調に建築を進めていたが、イスラエルの神の命令と、ペルシアの王キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの命令によって建築を完了した。」(14)とあるように、様々な人達の支援が関係しているのだから。ここに、アルタクセルクセスも登場することは、よくわからない。また、22節に「主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである。 」と、アッシリアと記されていることも、不明である。地名ではないように思うが。 Ezra 7:23 王とその子孫の国に怒りが下らないように、天にいます神の命令であれば、天にいます神の神殿のために、すべてを滞りなく実行しなければならない。 ペルシャの政策は、それまでのアッシリア、バビロニアからの大きな変更である。「これらの事があって後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、エズラがバビロンから上って来た。」(1, 6a)節も入り組んでいるが、6章14節にあるアルタクセルクセスは、こちらの、アルタクセルクセス2世(紀元前404年 - 紀元前343年)(参照:アルタクセルクセス3世(紀元前343年 - 紀元前338年))のことで、4章にある、アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)ではないのだろう。明らかに、イスラエルが自律的に、これらのことができているわけではない。ということは、主が、イスラエルだけの神という考え方では理解できないことが出現しているとも見ることができる。当時の人達も、そのことを強く意識した可能性も高い。すでに、グローバルである。民族主義、神殿を中心とした唯一神信仰とともに、普遍性も重視される時代だったのかもしれない。 Ezra 8:21-23 わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。 エズラのリーダーシップのもとでの誠実さとともに、これが方法論となっていく危険性をともに感じる。最後の「祈りは聞き入れられた」も事実として受け取るのか、信仰告白として受け取るのかの違いもある。幼子のためだけでなく「持ち物」のためにも祈っているが、このあとの文章からもわかるように、神そして、神殿にささげられた、そして主にお返しするものとして大切に扱っていることも見て取れる。アルタクセルクセスのもとでも、丁寧な仕事がなされていたのだろう。その信頼も背後にあるように思われる。 Ezra 9:11 御命令は、あなたの僕、預言者たちによってこう伝えられました。『これから入って所有する地は、その地の住民の汚れによって汚された地である。そこは、その端から端まで彼らの忌まわしい行いによって汚れに満たされている。 このあと申命記7章3節「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。」などが引用されている。基本的には、申命記のようである。このあとも、分離主義を貫いていく。イエスは、違った態度を取られる。主権的な力をもった言葉なしには、過去の言葉に従うことも理解できるし、それにとらわれることによって、その背後にあるみ心を理解できないこともある。へりくだり、み心を求めることの難しさでもある。わたしが「達し得たところに従って」というときのむろん、自由も、真実も、危険も、そこにあるように思われる。 Ezra 10:15 ただアサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤがこれに反対し、レビ人メシュラムとシャベタイがその二人に加担した。 現在のわたしであれば、おそらく、この人達のように、自分の状況がどうであれ、反対しただろう。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。」(9章1節)と始まっている。今後のユダヤ教の指導を考えると、祭司、レビ人については、明確にしないといけないと考えたのだろう。しかし「以上の者は皆、異民族の女をめとった。その女の中には子を産んだ者もあった。」(44)ともある。正しさの悲しさを感じる。普遍的な真理に行き着くのは、難しいということなのだろう。反対しつつも、この指導者たちとも、ともに生きる道を見つけていきたい。 Neh 1:5-7 わたしはこう祈った。「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。 主語は「わたしも、わたしの父の家も」となっている。列王記、歴代誌にも、民の不従順についての記録があるが、これらは、王の記録、国としての記録のために、個人のことについて、あまり書かれていないのかもしれない。熱心な信仰者の個人のレベルでの告白は、表面には現れにくいことも確かである。当時の人達がどのように考え、告白していたかを表す、貴重な表現でもある。 Neh 2:6 王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、 王妃のことも書かれている。おそらく、単なる業務をしていただけではなく、信頼されていたことを表現しているのだろう。「わたしは王の前で暗い表情をすることはなかった」(1)ともある。さらに、このあとには、かなり、詳細な計画をあらかじめ考えていたと思われることが記録されている。そのような、ネヘミヤをもちいたことに意味があるのだろう。ネヘミヤに与えられた賜物とも言えるだろうし、日々の業務への忠実さによって錬られた性質とも言えるかもしれない。まさに、このときに、available だったのだろう。そのように、もちいられることを、考えてはいなかったと思うが。 Neh 3:38 わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。 一つ一つ丁寧に記されているように思われる。オールスターである。むろん、それは、社会的、政治的なリーダーと言う意味ではない。様々な人達が積極的に関わっている様子が見て取れる。その中に、そうではないことも加わっているが。(5)「大祭司エルヤシブ(と)仲間の祭司」(1)「鋳物師ハルハヤの子ウジエル」(8)「香料調合師のハナンヤ」(8)「自分の家の前」(10)「エルサレムの他の半地区の区長ハロヘシュの子シャルムが、その娘たちと共に」(12)「ベト・ケレム地区の区長レカブの子マルキヤ」(14)「ミツパ地区の区長コル・ホゼの子シャルン」(15)「ベト・ツル半地区の区長アズブクの子ネヘムヤ」(16)「ケイラ半地区の区長ハシャブヤ」(17)「彼らの兄弟」(18)「ケイラの他の半地区の区長ヘナダドの子バワイ」(18)「ミツパの長イエシュアの子エゼル」(19)「ザバイの子バルク(熱心に)」(20)「ハコツの孫でウリヤの子であるメレモト」(21)「盆地の男子である祭司たち」(22)「ビンヤミンとハシュブ」(23)「アナネヤの孫でマアセヤの子であるアザルヤ」(23)「ヘナダドの子ビヌイ」(24)「ウザイの子パラル」(25)「神殿の使用人」(26)「テコアの人々」(27)「祭司たちがそれぞれ自分の家の前」(28)「イメルの子ツァドク」(29)「東の門の守衛シェカンヤの子シェマヤ」(29)「シェレムヤの子ハナンヤとツァラフの六男ハヌン」(30)「ベレクヤの子メシュラム」(30)「鋳物師マルキヤ」(31)修復した部分も含めるとさらに興味深い。 Neh 4:17 わたしも、兄弟も、部下の者も、わたしに従う警備の者も、わたしたちはだれも、服を脱がずにいて、各自投げ槍を右の手にしていた。 最初は「わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。しかし、ユダもこう言うのだった。『もっこを担ぐ力は弱り/土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など/わたしたちにはできません。』」(3,4)からスタートしている。指導力だろうか。エズラは、警備を依頼せず(エズラ8章22節)、ネヘミヤは警備の兵とともに、来ている。役割が異なるからもあるが、単純に表面だけで判断してはいけないのだろう。むろん、軍事力以外の平和を希求したいが。 Neh 5:15 わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シェケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった。 長官(14,18,12:26)であるネヘミヤには状況は十分理解できただろう。しかし、この税の負担を、同国民に向けている、貴族と役人を非難している。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。」(9)どちらが悪いかの判断ではなく、苦しい状況の中でも、どのように生きるかを考える先に、平和があるように思われる。 2019.7.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ネヘミヤ記を読み、そして、エステル記を読み始めます。いろいろな読み方が可能だと思います。みなさんにおまかせするのが良いのでしょう。みなさんからのコメントを待つことにします。 個人的には、実務的な仕事をいくつかしていたので、ネヘミヤの行政官としての働きに興味を持ちながら読みました。総督という職の権限は詳細にはわかりませんが、扱っている問題が多岐にわたっています。問題も次から次に起こります。誠実に生き、かつ、独裁的にはしない。そのほうが簡単に思われるときにも。批判すべきこともあると思いますが、かなり有能な行政官だったのではないかと思います。献酌官であったところから、記されていますが、おそらく、王の近くでのこの仕事の前にも、多くの役割を担ったのでしょう。ネヘミヤはなにをたいせつにして、活動したのでしょうか。ネヘミヤ個人には焦点を当てていないようですから、記述の中心ではないでしょうが。 みなさんは、エステル記をどのような印象をもって読まれるでしょうか。ユダヤ人たちにとっては、一般的には、痛快な物語だったのかもしれません。みなさんは、どのように読まれますか。歴史的な背景も気になります。危機的な状況で、どう生きていくのかは、本当に難しいですね。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ネヘミヤ記6章ーエステル記6章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ネヘミヤ記とエステル記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ネヘミヤ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ne エステル記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#es 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Neh 6:1 サンバラト、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他わたしたちの敵は、わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを耳にした。 直接的な脅しと殺害の陰謀、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤを買収して神殿に入るという罪を犯させようとする(12)、女預言者ノアドヤによる脅迫(14)さらに「そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。ユダの多くの人は彼と互いに誓約を交わす関係にあったからで、トビヤはアラの子シェカンヤの娘婿であり、トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた。彼らはわたしの前ではトビヤへの賛辞を述べ、トビヤにはわたしの言葉を密告した。トビヤはわたしに脅迫の手紙をよこした。」(17-19)と、捕囚から帰還した民の状況が浮き彫りになっている。この中での作業は、困難を極めただろう。これでよいのかと、確信を失うような状況もあったろう。信頼を得て、民とともに喜ぶのは、ほんとうに困難である。 Neh 7:4,5 町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてはいなかった。わたしは心に神の指示を受けて、貴族と役人と民を集め、家系に従って登録させようとしたところ、最初に帰還した人々の名簿を発見した。そこには次のように記録されているのを発見した。 二方向の意味はよくわからないが、伝えていることは、その中には、あまり人が住んでいなかったということだろう。町としての機能は、まだ、持っておらず、生活のためには、町ではなく、他のところのほうが機能的ということだろうか。おそらく、基本的な理論もあるのだろう。名簿を発見したと書かれている。まだ、それらの整理もされていなかったということだろう。まず、その住民を把握するところから始めるように考えるが。様々な意味で興味深い。 Neh 8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」 「彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」(3)とあり、そのあと、「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」(8)とある。ヘブル語を理解しない民も多かったのだろう。そして、聞いただけでは理解できなかった人たちも。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。 」(9)という中で、引用句が言われている。悲しむことがあるなかで、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」は、明記すべき、素晴らしい言葉である。 Neh 9:36 御覧ください、今日/わたしたちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地/その実りと恵みを楽しむように/与えられたこの土地にあって/御覧ください/わたしたちは奴隷にされています。 なかなか強烈である。「奴隷」という言葉が二回出てくる。実際は、どのような状況だったのだろう。かなり自由に見えるが。「王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も/あなたの律法に従わず/度重なる命令にも戒めにも/耳を貸しませんでした。」(34)ともある。総懺悔である。みな、不従順と奴隷状態にあることを理解していたのだろうか。この祈りについて、理解したい。 Neh 10:1 これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。 いずれ誓約や契約について調べてみたい。「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。」(列王記下23章3節)「それから、王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った。」(歴代誌下34章31節)このあとにも、ネヘミヤ記13章25節にも誓が記されている。特殊な状況で、重要な決断をしたということだろう。誓約と契約の明確な違い、oath, vow, pledge 英語も違いを十分考えたことがなかった。わたしが使うときの区別はあるが。内容とともに、罰則、そしておそらくその運用も関係するのだろう。 Neh 11:1,2 民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。 いくつか疑問なことがある。1つ目は、自発的な選択と、くじとはどのようになされたのかということ。もう一つは、このあとのリストに、「勇敢な人物」(6, 14)とあることである。7章4節にあるように、エルサレムに住んでいる人は少なかったことを考えると、このような行政措置も意味があったのだろう。細かく見ていくと、様々な混乱があるなかで、ネヘミヤは一つ一つ施策を展開している。献酌官だったことが書かれていたが(1章11節)他の役もかなり経験したから、総督に任命されたのだろう。召命と、それに、応答することの背景、availability の背後には、計り知れない、導きがあるのかもしれない。このネヘミヤにとっても、わたしたち一人ひとりにとっても。 Neh 12:44 その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。 ここでは「礼物と初物と十分の一」という言い方をしている。王国時代や捕囚時代とは、異なるこの時代に、どのように、献げものを集め、管理していたのかが少しだけ分かる。実際どのように変遷していったのだろうか。政治的な指導者が(ここではユダの人々といわれている)民のなかにいるわけではない。興味深いのは、最後に「実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。」とあることである。エズラ記やネヘミヤ記の記述などを徴収も、管理も、その背後にある、人々のこころも単純ではなかったろう。土地を失ったり、非常なる貧困に陥ったり、混血や、その土地に残っていた人たちもいたであろうから。宗教集団としての命を取り戻していった過程とも考えられ、興味深い。おそらく、困難も多々あったろう。 Neh 13:26 イスラエルの王ソロモンすらも、このようにして罪を犯したのではなかったか。数ある諸国の中でも彼のような王はおらず、神に愛され、神によってすべてのイスラエルの王に立てられた、その彼でさえ、異民族の妻たちによって罪に引き込まれてしまった。 この章は「その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。」(1)と始まる。十分調べないといけないが、基本的に申命記23章4節からの引用であろう。「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」ダビデはモアブの血を引くことを証言するルツ記はいつ書かれたのだろうか。系図をたいせつにする文化は、純血性を誇ることにもつながりかねず、排他的になる。ソロモンが神から離れたという、列王記の記述から学ぶことと、他者をさばくことは異なるはずである。申命記については、議論もあり、様々な問題も感じるが、イエスが多く引用している書でもあることも、覚えたい。 Es 1:8,9 しかし、定めによって酒を飲むことは強いられてはいなかった。王の命令によって給仕長たちは、人々に思いどおりにさせていたからである。王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女のための酒宴を催していた。 「人々に思いどおりにさせていた」とあり、アルハラのようなことはなかったと取るのが普通だろうが、酒宴に来ることは強制されなかったという意味も含んでいるかもしれない。すると、ワシティのことの解釈にも多少影響を及ぼすかもしれない。しかし、それぞれが、思い通りに楽しんでいた祝いではあっても、目的が「こうして王は、百八十日の長期にわたって自分の国がどれほど富み栄え、その威力がどれほど貴く輝かしいものであるかを示した。」(4)であることから「支配者と共に食卓に着いたなら/何に直面しているのかをよく理解せよ。 あなたが食欲おうせいな人間なら/自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。」(箴言23章1,2節)を思い出してしまった。自由を、自分の自由と理解してはいけないのだろう。あくまでも、王の自由なのである。パウロはローマの信徒への手紙1章24節で「なすがままにまかせる」ことをさばきの一つとして捉えているぐらいだから。 Es 2:17,18 王はどの女にもましてエステルを愛し、エステルは娘たちの中で王の厚意と愛に最も恵まれることとなった。王は彼女の頭に王妃の冠を置き、ワシュティに代わる王妃とした。次いで、王は盛大な酒宴を催して、大臣、家臣をことごとく招いた。これが、「エステルの酒宴」である。更に、王は諸州に対し免税を布告し、王の寛大さを示すにふさわしい祝いの品を与えた。 1章にも関係するが、寛大さが王の威光をしめすことだと考えられていたのかもしれない。クセルクセス王は、一般的には、1世 Ahasuerus (Xerxes I, reigned 486–465 BCE) と考えられているようである。もしそうであれば、ギリシャとの戦いを何回も行った、ペルシャ戦争の王であり、これらは、サラミスの海戦以前の、ペルシャが優位であった時期のことなのかもしれない。ヘロドトスの「歴史」も読んでみたい。ペルシャ側の記録はないのだろうか。 Es 3:4 来る日も来る日もこう言われたが、モルデカイは耳を貸さなかった。モルデカイが自分はユダヤ人だと言っていたので、彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。 「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(2)この背景のもとで、引用箇所がある。「彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。」の部分は、ユダヤ人一般がひざまずかないということかどうかか、ユダヤ人が他の民族と異なることは認知されていて、ハマンにひざまずかなかったことを、個人のことにとどめたくなかった人がいたことを示すのか詳細は不明である。事実は、後者であると思う。ネヘミヤなど、ひざまずく機会は多かったであろうし、礼拝することと同じことばが使われているからといって本質的には、ことなると考えた人もいるだろうから。捕囚の地でのユダヤ人の生活について、もう少し知りたい。 Es 4:1,2 モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。 更に彼は王宮の門の前まで来たが、粗布をまとって門に入ることは禁じられていた。 「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(3章2節)と比較すると、役人ではなかったかもしれないが、モルデカイは、王宮の門でなんらかの役をなしていたとも考えられる。苦悩の背景には、自分はそれで良かったかどうか、他の選択はなかったかも考えたかもしれない。正しさについては、疑わなかったのかもしれないが。このあとの、モルデカイのことばと、それに対する、エステルの応答、物語としては、最も興味深い箇所である。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」(14)むろん、信仰は、もっと広いものだと思うが。このモルデカイの苦悩を、主は、正しさだけによって、無視せず、自らの苦悩として受け取られたかもしれない。 Es 5:7,8 「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。 「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」 なぜ、すぐに、エステルは望みをいわなかったのだろうと考えた。新共同訳では、7節と8節をまったく独立に訳している。ここに間を感じる。実際には不明であるが、勇気を持って、言い出せなかったのかもしれないと考えた。実際に、一日延ばしたことが、非常に有効であったことがわかるわけだが、もしかすると、主は、そして、エステル記記者も、エステルの弱さをも、もちいられたことを伝えているのかもしれない。4章16節には三日三晩の断食を願い、おそらくそれを受けて「それから三日目のことである。」(1)とこの章は始まっている。最初は、この日に、王に願いを伝えようと計画していた可能性も高い。文学的にも優れている。 Es 6:12,13 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。彼は一部始終を妻ゼレシュと親しい友達とに話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」 「妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「五十アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。 」(5章14節)柱にモルデカイを吊るすように進言したのは「妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと」であることが書かれている。ここでも「妻ゼレシュと親しい友達」となっている。その中に「知恵ある者」もいたようである。その知恵をもって、前の段階で助言ができなかったのか。おそらく、価値観の問題だろう。要職についている、ハマンのとりまきは、周辺にいる恩恵を手放すことができなかったのだろう。知恵が生かされるかは、それを与えられた人がどのように生きるかにかかっているのだろう。 2019.7.28 鈴木寛 ホームページ: 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BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、エステル記を読み終わり、いよいよヨブ記を読み始めます。「いよいよ」と書いたのは、今年読む旧約聖書は、ヨブ記まで、その後は、新約聖書を読み始めるからです。いよいよ新約聖書が近くなってきました、とも言えますし、みなさんは、あと少しで、旧約聖書の半分を読み終わることになります、とも言えるでしょう。 続かなくなっておられるかたもおられるかもしれませんが、新約聖書から始めたり、このヨブ記から始めるのもよいと思いますよ。読んだ箇所を記録しておけば、また戻ってくることができます。そのように、通読とも息の長いお付き合いをしていただければ嬉しいです。学ぶこと、考えることは多いと思いますよ。 エステル記はいかがですか。痛快逆転劇として読むこともできるでしょうが、エステル記を読んでいると、捕囚の地で、ユダヤ人たちは、特別な民族と見られていた、または、嫌われていたことも、見て取れるかもしれません。ユダヤ人にとって、大きなまつりの起源ともなっているエピソードですが、ユダヤ民族を離れた時、どのような意味をもっているのでしょうか。みなさんは、どのような思いを持って、読んでおられますか。 ヨブ記は少し知っておられる方もおられると思います。しかし、わたしにとっては、通読のたびに、悩ましい、または、考えさせられる、または、理解不能な書です。同時に、聖書にヨブ記が入っていることが素晴らしいとも思っています。枠組みを与える1章と2章、と最後の38章以下。その間の部分を味わい、枠組みを理解する、いつかそのようなときが来るのかなと思いながら、毎回、中途半端にしか理解できず読んでいます。みなさんは、どのようなことを読み取られるでしょうか。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エステル記7章ーヨブ記10章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エステル記とヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エステル記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#es ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Es 7:4 私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」 いくつか、気になることがある。1つ目は、奴隷として売られるなら王を煩わすほどのことではないということ。もう一つは、このあとの経緯をみると、ユダヤ人抹殺に関することは、ハマンだけの考えではなかったようであることである。後者はとてもむずかしい問題なのだろう。どのようにしたら、ともに生きることができるのだろう。神様、教えてください。 Es 8:4,5 王が金の笏を差し伸べたので、エステルは身を起こし、王の前に立って、言った。「もしお心に適い、特別の御配慮をいただき、また王にも適切なことと思われ、私にも御目をかけていただけますなら、アガグ人ハメダタの子ハマンの考え出した文書の取り消しを書かせていただきとうございます。ハマンは国中のユダヤ人を皆殺しにしようとしてあの文書を作りました。 この時点でも、エステルは命がけだったのだろうか。絶対王政の危険性を感じる。また同時に、「こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。」(11)がなされることは「奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございません」(7章4節)とはかなりかけ離れているだけではなく、大変な残虐行為である。これが問題の解決と考えていたとすると、持続的だとは思えない。 Es 9:10 ユダヤ人の敵ハメダタの子ハマンの十人の息子を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。 このあとにも、15節と16節に「持ち物には手をつけなかった。」が繰り返されている。8章11節では「その持ち物を奪い取ることが許された。」とあるが、その部分は実行しなかったということだろう。しかし、14節にあるように、「『そのとおりにしなさい』と王が答えたので、その定めがスサに出され、ハマンの息子十人は木につるされた。殺したあとで、さらに、名誉を傷つける行為はしている。 やはり、正直、このエステル記は好きにはなれないが、このユダヤ人も受け入れるかを問われているように思われる。本当に難しい。 Es 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。 かなり偏っているように思われる。クセルクセス王の寵愛、そして、支持を受けて入るが、結局は、同じことをしているようにすら感じる。クセルクセス王にも良いときや、大変なときがあったはずである。それについては、何も書かれていない。難しい。 Job 1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 おそらく、これが問題設定なのだろう。知恵文学で、実際に起こったことの描写ではない。しかし、内容は、多くの人々にとって、神にそして人生に向き合う、深刻な課題を含んでいる。軽々しく、思考実験などとして扱うことも誤っているだろう。おそらく、ヨブ記にそのこたえがあるとして読まなくてもよいのだろう。同時に、人間にとって、そして信仰者にとって、本質的な問い(明確に言語化するのは簡単ではないが)を含んでいる。ヒントを得ることを期待したい。 Job 2:4,5 サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。 手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 二種類のことを考えた。1つ目は、反論はいくらでもできるなということ。サタンが二度目の挑戦をすることについてである。もうひとつは、やはり、体の健康は、霊的なものにも、関係することである。忍耐力をとっても、体が弱くなっていると、なかなか続かない。希望をもつことも、困難である。その意味でも、病に苦しむひと、そして死と向き合っている人、そのひとを介護している人など、その困難は、軽視できないと思う。今日、こうして、聖書を読んでいられることにも、感謝したい。 Job 3:1-3 やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、 言った。わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。 いままで、簡単に生まれてこないほうが良かったと、よく聞くことばと同じだと考え、あまりよく考えてこなかった。しかし、真剣に向き合うべき、問いなのかもしれないと思った。「なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」(20)「行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる。」(21)そのような状況のなかで、「彼らは死を待っているが、死は来ない。」(21a)とある。神に生かされているという信仰をもちつつ、闇の中に捨て置かれ、かつ、生かされ続ける。ていねいに、このメッセージを受け取る努力をしたい。「苦難と神の沈黙という」論理の遊びではないのだから。驚いた。2節は「言った。」だけである。新共同訳では最短の聖句ではないか。口語訳ではイザヤ書3章21節、英語では一般的に、11章35節だと言われているが。むろん、本質的ではない。 Job 4:3 あなたは多くの人を諭し/力を失った手を強めてきた。 たしかにそうなのだろう。批判はあたっている。しかし、それで解決しない問題もある。問いは続く。傍観者ではなく、真理を求めつづけることその過酷さをともにするものでありたい。自分も真理を求め続けるものとして。真理は、知識ではないのだから。 Job 5:6,7 塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。 エリファズが語り続けている。この節をみると、原因がなければ、苦しむことは起こらないはずなのに、実際には、そうではないことを、ある程度、認識しているようである。それを、火花が必ず上に向かって飛ぶようにとしている。上に向かった火花の火の粉は下におちてくるのだから。それをうけて「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。」(8,9)としているように読める。むろん、苦しむものの苦悩とともにいるわけではないのだろうが。エリファズのことばも、二回目以降変わっていくのかもしれない。 Job 6:9-11 神よ、どうかわたしを打ち砕き/御手を下し、滅ぼしてください。仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。 神によって滅ぼされる、そしてその滅びが神から来ていることがわかることが慰めだといっているようだ。そして、かつ、自分には、もう力が残っていないと。共に待つことだろうか。死後の救いなどに話を移すのは適切ではないように思われる。 Job 7:17 人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。 この章には、多くの要素が入っている。おそらく背景には、神に訴えている、神の応答を引き出したいことがあるのだろう。生きる目的というより、なぜ生かされているのかがわからず、神からの裁きのように苦しまなければならないことを訴えている。背景に、引用した箇所のように、自分の経験している、一つ一つに意味があり、それは、神から来ているという信仰、そしてそれを神に問う信仰者の生き方がある。この考えを弱め、一つ一つに神様は関与されるわけではないとすることは可能である。しかし、背後に神を追いやり、結局、日常生活には関わらないこととすることで、神の存在すら、なくても変わらないものにしてしまう危険性もある。むろん、そこに人間の責任もあるとも言えるが。わたしの信仰の態度もはっきりしない。しかし、この章のヨブのように、神に問い続ける姿勢は、わたしの信仰の目指す生き方でもある。 Job 8:3,4 神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。 具体的な子らの背きを指摘しているわけではないだろう。考え始めれば、思い当たることがあるかもしれないが。7節には「過去のあなたは小さなものであったが/未来のあなたは非常に大きくなるであろう。」と支援もしている。しかし、ヨブはおそらく、なにか具体的な問題が指摘されたとしても、納得はできないだろう。自分が生かされている意味を知りたいのだから。問われていることは、とてもむずかしい。やはり、じっくり考えたい。 Job 9:22,23 だからわたしは言う、同じことなのだ、と/神は無垢な者も逆らう者も/同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ/殺される人の絶望を神は嘲笑う。 結局、神がおられるということは、人間にとって何なのか。信仰をもって神の導きを求め、神の御心を行おうとすることが、何を意味するのかを問うているとも言える。信仰の意味だろうか。とても、難しい。神の側だけに集中すると、スピノザの神のようになり、神と人との関係に集中すると、このヨブの問いが出てくる。人の側だけに集中すると、おそらく、わたしは、自分がこの立場に近くなっており、それで良いのかと問うているのだろうが、真理の認知論のようになり、どのような神であるかということに関しては、ぼやけてくる。 Job 10:13,14 しかし、あなたの心に隠しておられたことが/今、わたしに分かりました。もし過ちを犯そうものなら/あなたはそのわたしに目をつけ/悪から清めてはくださらないのです。 ビルダドに答えているのだろうか。それとも単に、自分の考えを述べているのだろうか。神に駄々をこねているのだろうか。それぞれによって、解釈は少しずつ変化するように思われる。しかし、それぞれの要素があるのかもしれない。人は語る時、それを明確にしないことが多いのだから。 2019.8.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヨブ記を読み進めます。ヨブ記はいかがですか。以前も書きましたが、わたしは、BRC 2019 配信と、それに間に合うように、聖書ノートをホームページに載せるために、みなさんより少し先を読んでいますが、今朝、ちょうど、ヨブ記を読み終わりました。通読は限られた時間でしていますから、読み返したり、調べたりはできませんが、なぜか、今回は、爽やかに、ヨブ記を読み終わることができました。ヨブ記記者とほんの少し対話できたような気がしたということでしょうか。 前回も書きましたが、ヨブ記を読み終えると、一旦、旧約聖書から離れて、新約聖書を読み始めます。続かなくなっておられるかたもおられるかもしれませんが、新約聖書から始めたり、このヨブ記から始めるのもお勧めです。読んだ箇所を(わたしのホームページにもある)通読表に記録しておけば、また戻ってくることができます。そのように、通読とも息の長いお付き合いをしていただければ嬉しいです。学ぶこと、考えることは多いと思いますよ。 私は、ヨブ記をじっくり学んだことはありませんが、おそらく、通読などで、50回ほどは読んでいると思います。それでも、今回は、いくつも、新鮮な出会いがありました。みなさんは、どのようなことを読み取っていかれるでしょうか。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨブ記11章ーヨブ記24章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Job 11:2 これだけまくし立てられては/答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと/認められるだろうか。 このあとを読むと、ナアマ人ツォファルの主張は、「神は究めることができないかた」(7)であるといい「神が隠しておられるその知恵を/その二重の効果をあなたに示されたなら/あなたの罪の一部を見逃していてくださったと/あなたにも分かるだろう。」(6)である。さらに「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ/神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ/あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ/あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく/恐怖を抱くこともないだろう。」(13-15)としている。神の偉大さと、因果応報とはいわないが、やはり、罪の故の苦しみであることを言っているのだろう。しかし、自分が理解できず、十分な反論がある場合も、静かに受け止め、ことばの背後にあるものを探る応答もあるように、いまは思う。「あなたのことを教えて下さい」と。神について十分知らないのと同じように、ひとについても理解することはとてもむずかしいのだから。 Job 12:22 神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される。 「神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。」(4)とあり、ヨブは神にこたえて頂いたことがあることを言っているようだ。同時に、神の主権ともいうべき、神のなされることが単純ではないことが、縷縷のべられている。引用箇所のように。「この地の民の頭たちを混乱に陥れ/道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。」(24)とある。おそらく、ヨブは自分のようなことが孤立したことではないことを、認めているのだろう。そのようにさまよっているものの代表という意識はないにしても。 Job 13:19 わたしのために争ってくれる者があれば/もはや、わたしは黙って死んでもよい。 ヨブと親しい人たち(または友)(2章11節)に黙れ、わたしに語らせろ(5,13)と、かなり乱暴である。確かに、友ができるのは、黙ることだけなのかもしれない。ヨブのために争ってくれる者、それはおられるとするとイエス様だけ。イエス様ならこの場面でどうされるのだろうか。ヨブの願いは二つ「わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。」(21,22)2つ目は「わたしの罪咎を示してください。」とも表現されている。神から来ているとヨブは確信している苦しみの理由とも言える。このように、求め続けることでよいのかもしれない。そのようにして死んでいったひとがなんと多いことか。もしかするとすべてのひとがその苦しみを味わいながら生きているのかもしれない。その苦しみ自体に意味があると切り捨てるつもりはないが。本当に難しい。 Job 14:13 どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまで/わたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてください/わたしを思い起こす時を。 これを知識の欠如とするのは、まったく誤りだろう。すべきことではない。興味深いのは、後半である。いつかは、思い起こして「その時には、わたしの歩みを数えてください。わたしの過ちにもはや固執することなく わたしの罪を袋の中に封じ込め/わたしの悪を塗り隠してください。」(16,17)と言っている。あくまでも、神との交わりの中で、平安をもとめる。たとえ死んだあとであっても。圧倒される。その信仰に。はっきりはこたえが得られなくても、求め続ける、これを信仰と呼ばないで、なにが信仰だろうか。 Job 15:13 神に向かって憤りを返し/そんな言葉を口に出すとは何事か。 通読では、詳細に分析はできないが、エリファズの一回目と二回目には、違いがあるように思われる。心理学的な要素も含んでいるのだろうか。神との交わりを基本的なものとするヨブとはことなり、絶対他者としてしか見ていないエリファズの神学の問題もあるだろうが、同時に、ヨブを受け入れられない、理解できない苛立ちも感じる。現象面だけを捉えれば、批判はいくらでもできる。しかし、ヨブ記記者が伝えようとしていることについては、よくわからない。詩文体でもあり、きっちりとした理解は難しいのかもしれない。 Job 16:4,5 わたしがあなたたちの立場にあったなら/そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね/あなたたちに向かって頭を振り口先で励まし/唇を動かすことをやめなかっただろうか。 ヨブが言いたかったことは、おそらく以下のことではないだろうか。「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(19,20)真の友は、このような弁護してくださる方、執り成してくださる方とともに、いるものだと言いたいのだろう。ヨブは真の友を天にもっていたのだろうか。どの程度実感を持っていたかわからないが、神が孤立したものではなく、その交わりは、個人的なものではない交わりであることを理解していたのだろうか。それは、驚くべきことである。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネの手紙一1章3節) Job 17:11 わたしの人生は過ぎ去り/わたしの計画も心の願いも失われた。 希望が無いことが様々なことばで表現されている。かろうじて「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が/わたしの味方をしてくれましょう。」(3)は神への信頼を失っていないことの表現だろう。真の友にはなれず、できる限りのことを考えても、ヨブには届かないのだろう。しかし、そうであっても、共に生きる誠実さを持っていたい。信仰が、もしまったく個人的なものであるなら、隣人を愛することも、高慢ではないだろうか。神との主との交わりの中で共に生きる。そしてその交わりのなかに生きる。それは、可能なのだろうか。近くには見つけられないかもしれないが、そのような友とつながっていたい。おそらく、このように、共に聖書をそしてヨブ記を読みながら求めることなのかもしれない。 Job 18:2,3 いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。 「言葉の罠の掛け合い」はよくはわからないが、理解できない状態がおこっていることはたしかである。ビルダドはそれでも、語り続ける。それは、多少の希望でもる。わからない、理解不能をどう克服するか、おそらく、そこに鍵があるのだろう。あなたのことをおしえてください、は、たんなる希望をつなぐことなのか。おそらく、その姿勢がたいせつなのではないだろうか。見えない希望のなかで、共に生きることにのぞみを託しているのだから。 Job 19:15-17 わたしの家に身を寄せている男や女すら/わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず/わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ/子供にも憎まれる。 単なる病による苦しみではない。人間として Respect されないのだろう。息は “ruwach” であり、霊など、他に訳すこともできる。しかし、かえって、息のほうが、実感がこもっている。「よそ者」とはなにだろうか。あわれみを請い、寄留するものすら、敵視するとある。しもべは、すでに、下僕ではない。関係が逆転しているようだ。卑しめられているという表現がより適切かもしれない。単なる信仰・神学論争ではない。 Job 20:27-29 天は彼の罪を暴き/地は彼に対して立ち上がる。神の怒りの日に、洪水が起こり/大水は彼の家をぬぐい去る。神に逆らう者が神から受ける分/神の命令による嗣業はこれだ。 これが普通の見方なのかもしれない。しかし、そうではないと言いたい。この神からのさばきをうけているとしか思えない、ヨブの姿を見ても、このヨブと共にいたい。そのようなものでありたい。たとえ、自分も、その裁きが嗣業となったとしても。神の憐れみをともに、求めたい。 Job 21:4 わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか。 人を避難しているわけではない。友に反論しているわけではないとヨブはいう。たしかに、ヨブは神の方を常に向いているのだろう。そして「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。」(7)から世の中の理不尽について語る。神に逆らうものの人生と、神に従うものの人生と、この世での祝福を考えると同じではないかと。答えとして、実際の生活における祝福による評価の価値を下げることはあるだろう。しかし、それも重要であるはずである。神のみこころの、深さを考えなければいけないのだろう。わたしも、むろん、答えはない。 Job 22:21 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。 この言葉に限らず、この章のエリファズの三回目の弁論は、ここだけを読めば、多くのキリスト者も同意するかもしれない。「あなたはやもめに何も与えず追い払い/みなしごの腕を折った。 」(9)など、罪人とみとめない人に対して、使われることがあるかもしれない。しかし、そのようなことが、ヨブの訴えをかえって際立たせているように思われる。ヨブ記に完全な答えがあるとして読まなくてもよいのだろうと、わたしは今考えている。むろん、間違っているかもしれないが。 Job 23:6,7 その方は強い力を振るって/わたしと争われるだろうか。いや、わたしを顧みてくださるだろう。そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ/わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。 最後の部分を丁寧に学んでみたいが、省みるということではないのではないだろうか。争われるという部分は、明確ではないが、争われると表現しても良いように思う。にも関わらず、おそらく、ヨブは、神の前に正しいとされ、訴えは解決されるように思われる。最初の部分は、やはり、友人にも訴えているように思われる。ヨブは直接的には上に向けているのに関わらず。このことも、興味深い。 Job 24:25 だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか。 この章でヨブは「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。」(1)と始め、そのあとに、社会正義が行われていないことが、書かれている。一つ一つ重い課題である。いつか丁寧に見てみたい。悪がさばかれず、栄えていることを「権力者が力を振るい、成功したとしても/その人生は確かではない。 安穏に生かされているようでも/その歩む道に目を注いでおられる方がある。だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ。」(22-24)と最後にあり、引用箇所が続く。 2019.8.11 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週も、ヨブ記を読み進めます。ヨブ記はいかがですか。ヨブは本当に正しいのか、友人たちの言っていることは間違っているのか。混乱してきたかたもおられるかもしれません。難しいですね。わたしは、これらの問を考え続けるとともに、ヨブの苦しみを受け取ること、わたしが友人だったらどう語ればよいのか、どうこうどうすればよいのか。そして、ヨブ記記者はなにを伝えようとしているのかも、同時に考えるようにしています。ヨブのように苦しんでいる人たちに思いをはせることも、していきたいと願っています。いよいよ最終盤です。28章からは、ヨブの独白、エリフ登場、そして、神が語られます。ヨブ記のメッセージはどのようなものでしょうか。みなさんは、どのようなメッセージを受け取られるでしょうか。 ヨブ記を読み終えると、一旦、旧約聖書から離れて、いよいよ、新約聖書を読み始めます。続かなくなっておられるかたもおられるかもしれませんが、新約聖書から始めるのもお勧めです。何回も挫折した方も、また、初めて見てはいかがですか。読んだ箇所を(わたしのホームページにもある)通読表に記録しておけば、また戻ってくることができます。そのように、通読とも息の長いお付き合いをしていただければ嬉しいです。学ぶこと、考えることは多いと思いますよ。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨブ記11章ーヨブ記24章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨブ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Job 25:2 恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。 ビルダドの三回目である。非常に短い。神が絶対者であって、超然として善であること、人は神の前に正しくはありえないこと(4)が述べられている。おそらく、不可知であることも、含んでいるのだろう。キリスト教の理解とは異なっていても、おそらく、非常に一般的な神観ではないだろうか。そして、むろん、キリスト教の神観にも含まれる。特に、引用箇所は美しい。人間の世界と隔絶していると捉える必要はないのかもしれない。プラトン主義とも関連しているのだろうか。 Job 26:2-4 あなた自身はどんな助けを力のない者に与え/どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え/どんな策を多くの人に授けたというのか。誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。 この「あなた」はビルダドだろう。自分は、そうではないと言っているのか。それとも、神について教える資格はないと言っているのか。あるいは、ヨブとともにいることを暗に願っているのか。神観の違いをどう乗り越えるかは難しい。なにか、解決の糸口はあるのだろうか。それは、愛だけのように思われるが。 Job 27:5,6 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。 もう手に負えない。しかし、原罪について考えた。アダムの犯した罪によって罪人になったというより、神の前には、正しくはいられないということかもしれない。人間の正しさ自身が不完全なのだから。そう考えると、やはりそれが許されるということではないのだろう。神とイエスとの交わりに入れていただき、互いに愛し合うようになることがやはり救いであるように思う。むろん、言い切ることはできないが。 Job 28:27,28 神は知恵を見、それを計り/それを確かめ、吟味し そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」 ヨブの独白の章である。27章のヨブの叫びによって、ツォファルの三回目を消し去ってしまったのだろう。しかし、この章では、冷静を取り戻しているように見える。「知恵」がどこにあるのか、ひとは知らない。しかし、上の引用箇所で言っているように、神は知恵を持っている。そして、人へのメッセージが語られる。これは「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」(詩篇111篇10節)および、箴言の各所に見られる言葉である。神を通して以外に、知恵を求めることを、神は望んでおられたいということだろうか。それとも、知恵の本質をここで語っているのか。これも、難しい。じっくり考えたい。 Job 29:4,5 神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた。 ヨブの独白とも言えるものが「どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。」と始まっている。内容を見ると、人々との関係である。その平和な充実した日々が記述されている。引用箇所では「神との親しい交わりがわたしの家にあり」とあるが、それは、主観的なものだったのだろうか。しかし、そうすると、信仰生活を否定することにもなってしまう。神が共におられることは、認知できるとすることが危険なのかもしれない。大きなテーマであるように思う。弱い人間は、自分だけでは生き生きと生きられないだろうから。この章に表現されていることを、祝福ととることを非難はできない。 Job 30:1,2 だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず/何の気力も残っていないような者らだった。 「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ/不幸な者を救おうとしないだろうか。わたしは苦境にある人と共に/泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。」(23,24)とあるが、なにか、引用箇所との整合性が欠けているように思う。見下していながら、同情し、助けるのか。おそらく、論点が二箇所で異なっているのだろうが、不自然さを感じる。自分の歩んできた道と現状との乖離を述べているのだろう。しかし、29章とは少しトーンが違うようにも思われる。丁寧にいつか読んでみたい。 Job 31:15 わたしを胎内に造ってくださった方が/彼らをもお造りになり/我々は同じ方によって/母の胎に置かれたのだから。 ここでの「彼ら」は、13節にあるように、「奴隷たち」や「はしため」である。神の前の平等、尊厳が語られている。この章は、ヨブの最後の弁論で、そんなことはしていない。という罪を犯しておらず、自分は、潔白であることが、述べられている。当時、考えられていた、倫理の最高のものが連ねられているのだろう。知恵文学で、実際のことを述べているのではない。このヨブに、神はどう答えられるのだろうかと、読者に期待をもたせる。「ヨブは語り尽くした。」(40b)このあとは、エリフのことばが始まるのだが。 Job 32:13,14 「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。ヨブはわたしに対して議論したのではないが/わたしはあなたたちのような論法で/答えようとは思わない。 興味深いのは、神に任せるという態度ではいけないと言っている。また、エリフは、三人の年長の者たちとは違う論法で答えるという。エリフの評価は難しいにしても「しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」(8)は、自分が、ある年齢になった今、いろいろな意味で、たいせつにしたいことばである。自分は、真の悟りを得ておらず、神は、様々な人を通して語られるのだから。 Job 33:13,14 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを/いちいち説明されない。神は一つのことによって語られ/また、二つのことによって語られるが/人はそれに気がつかない。 「そのとおり」と言いたいところだが、論理的矛盾は明らかである。神が、人が気づかないようにかたるのであれば、語ったことにはならない。神は、むろん、そのことをご存知のはずである。前半の13節は、そのとおりなのだろう。それでは、神がおられないことと、どう区別するのかという疑義は起こる。そして、ヨブは、まさに、この部分を問うているのだから、ヨブにとっては受け入れられないだろう。 Job 34:35-37 「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮に欠けている。 悪人のような答え方をヨブはする。彼を徹底的に試すべきだ。まことに彼は過ちに加えて罪を犯し/わたしたちに疑惑の念を起こさせ/神に向かってまくしたてている。」 「理解ある人」「知恵ある人」のことばとして語られている。エリフの言説は、すでに、他のひともいっていることなのではないかと今回思った。すくなくとも、大同小異である。神の主権の前に、苦しみながら、沈黙を守るしかないことを、ヨブは神に訴えているのだから。ヨブは、一般論を語っているのではなく、神との関係について語っているのだから。 Job 35:14 あなたは神を見ることができないと言うが/あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。 これは、私の現在の信仰の態度に近い。待つことは、積極的な意味がある。「今はまだ、怒りの時ではなく/神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので ヨブは空しく口数を増し/愚かにも言葉を重ねている。」(15,16)と続くが、怒り、語り続けると、神からの応答を受け取りにくいように思われる。ヨブ記においても、エリフにヨブは答えない。そして、神が答えられる。それぞれの内容は、わたしには、理解できない部分が多いが、様々な答えがあるのに、わたしは、それをていねいに受け取っていないと感じるからである。 Job 36:16 神はあなたにも/苦難の中から出ようとする気持を与え/苦難に代えて広い所でくつろがせ/あなたのために食卓を整え/豊かな食べ物を備えてくださるのだ。 少しは、ヨブへの答えになっているのだろうか。ヨブのような状態でも、感謝を持ち、神への賛美を語ることができるのだろうか。ヨブは、このメッセージを受け取れるだろうか。神は、おそらく、それを受け取ることを要求される方ではない。しかし、そのように、苦難の中に生きるものを、痛みをもって、喜ばれるのかもしれない。神の子と苦難をともにするものだから。わたしは、そのような、ものでありたい。私の望は、イエスに従い、イエスに学ぶことだから。 Job 37:5 神は驚くべき御声をとどろかせ/わたしたちの知りえない/大きな業を成し遂げられる。 このあとに、わたしたちが知り得ない多くのことを神がなさっておられることが続く。人間の側から見れば、まったくそのとおりだと思う。しかし「全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。」(23)で、不可知論が徹底されること、ヨブの問題をこのひとことによって解決することはできないように思う。しかし、全体の流れとしては、引用箇所が、主が語られる背景を提供しているように思われる。 Job 38:2,3 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 エリフの部分をどう考えるかは難しいが、主の応答の最初の部分(38章)は、エリフの言っていることとつながっている。主は「お前は知っているか」と尋ねる。しかし、このあとに、書かれていることは、科学の知識のあるものは、ある程度答えようとしてしまうのが、最初の反応ではないだろうか。例を取り替えることはできても、その問に満足できないひとも多いだろう。問自体を考えることが、重要な課題なのだから。無知を、自然界のことに向けることは、自然と離れて生活する多くの現代人にとって、もっともたいせつなこととして結び付かない面もあるのだろう。現代におけるヨブ記の限界なのか、現代人があまりに、特殊な生き方をしてしまっているからか。難しい。 2019.8.18 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ヨブ記はいかがですか。神様が、ヨブに語りかけ、そして、祝福します。ヨブ記では、神様は、ヨブに何を語っているのでしょうか。そして、ヨブ記は、全体として、どのように理解すれば良いのでしょうか。ヨブ記記者が伝えたかったことは、何なのでしょうか。みなさんは、どう思われますか。 ヨブ記を読み終えると、一旦、旧約聖書から離れて、いよいよ、新約聖書を読み始めます。続かなくなっておられるかたもおられるかもしれませんが、新約聖書から始めるのもお勧めです。何回も挫折した方も、また、初めて見てはいかがですか。読んだ箇所を(わたしのホームページにもある)通読表に記録しておけば、また戻ってくることができます。そのように、通読とも息の長いお付き合いをしていただければ嬉しいです。学ぶこと、考えることは多いと思いますよ。 新約聖書の最初は、イエスの活動と教えについて記した四つの福音書から始まります。わたしは、聖書全体の核となる部分だと考えています。最初に読む、マタイによる福音書1章23節によれば、 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 神様が実際に共におられるということが実現した、または、イエスを通して神様を見、神様との関係を体験することができるからです。聖書においても、新しい時代の訪れです。同時に、問いも生じます。どのように、旧約聖書とつながっているのか、それとも変化しているのか。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨブ記39章ーマタイによる福音書10章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨブ記とマタイによる福音書および共観福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨブ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jb マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Job 39:5 誰が野生のろばに自由を与え/野ろばを解き放ってやったのか。 39章でも自然界の神秘について書かれている。はっきり言って、古い。現代人が、自然について知らないことは多いが、自然と離れた生活をする人が多く、この章を書き換えたとしても、人が書き換えるなら、限界があるだろう。専門家にしか通じない問かもしれない。また、16節の駝鳥の記述は誤りだとされる。この5節も適切ではないだろう。神の領域が狭まっている、神を無視しても生活ができると、考える人が多いのは、自然なのかもしれない。わたしは、どのように答えるだろうか。 Job 40:27, 28 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。 彼はレビヤタン(25)である。ヨブ記には「日に呪いをかける者/レビヤタンを呼び起こす力ある者が/その日を呪うがよい。 」(3章8節)にある。それ以外に、詩篇74篇14節、104篇26節、イザヤ書27章1節に登場する。悪をなすものであるが、1章のサタンとは区別されている。その悪の働きを、制御し、僕にすらすることのできるものとの主張なのだろう。イエスの働きとともに、考えたいが、同時に、このヨブ記のテーマを考えると、苦難の意味について、さらに、混乱をもたらすようにも思う。 Job 41:25,26 この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。 こんなに、レビヤタンのことばかり書いてあると認識したことがなかった。引用箇所が最後である。これを見ると、主の支配下にはあるが、良きライバル、友のような感覚さえ持つ。すくなくとも、主は楽しみながら語っているように感じる。それは、おそらく、ひとにとっては、苦痛なこと、苦難をもたらすものなのかもしれない。そう考えると、とても興味を持つ。ヨブ記者が行き着いた、神理解だとすると。次回、ヨブを読むときは、もう少し、しっかりと読めるだろうか。 Job 42:8 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」 最後の部分が美しい。祝福の回復に目が行くのはおそらく、方向が違っているのだろう。それは、この引用箇所が主のみこころであり、そのことに伴って起こることが、祝福なのだと今回は、思えた。ヨブをどう読むかが、長い間わからなかった。今回、ほんの少し、光が見えたように思える。ヨブ記者の信仰告白に目を留めたからだろうか。むろん、理解していることは本当に表面的ではあるが。 Mt 1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 この記述よりも前に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(18)とある。また、イザヤ書からの引用の最初にある「おとめ」(23)によって、「処女降誕」が基本的教義になっている。そして、この解釈は、これらの箇所から考えると自然にも思える。しかし、福音書記者は本当にそれを意図したのだろうか。「聖霊によって」と言っているだけである。このこと、すべては、神の霊によってなったことだと言っているに過ぎない。同時に、この記述を読んで、イエスのことを思うと、特別な生まれ方をしたと考えるのも当然かもしれない。そして、そのような人たちが出てきたときに、それを否定することも信仰者の世界では難しい。不信仰と決めつけられる可能性が大きいから。宗教の難しさがある。聖書記者は、ヨセフとの肉体関係によって生まれたわけではないこと、このようにしか表現できない誕生であったことを、伝えたかっただけであるように思われる。個人的に「科学信仰」との整合性をはかるための、脱構築とでも呼ばれるような行為をしているとは思わないが、批判は歓迎したい。さて、ここで書いたことは、50年ほど前の父との会話のあとに考えたことから少しは深まっているのだろうか。 Mt 2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 1章23節のイザヤ書7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」の預言の成就と唱えて以降、この章では6節のミカ書5章1節「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」引用したホセア11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」さらに18節でのエレミヤ書31章15節「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」最後に、引用箇所を示せない(候補はあるが)「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」(23)と記している。おそらく「自分の民を罪から救う」(1章21節)の「自分の民」に語りかけているのだろう。その意図は達成されているように思われるが、根拠や文脈に関しては、問題があるように思われる。インターネットなどでのテキスト検索が簡単にできる時代であるなら、もっと注意を払い、こうは書かなかっただろう。同時に、現代でも、どうにかそのまま理解しようとする人がいるわけだが。ここにも困難がある。 Mt 3:7,8 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。 洗礼者ヨハネが宣べ伝えたメッセージ「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2)の意味を考えた。引用箇所から、「天の国」は、神の支配が完全に行われることを意味しているのだろうが、すると、そのような時が来ることから、最初に考えられるのが、裁きということなのだろう。(12節など)それが「悔改めよ」で語られ「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と引用箇所でファリサイ派やサドカイ派の人々に伝えている。大勢の人たちが罪を告白し、洗礼を受けるためにやって来ているにも関わらず、最初のコメントが、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対するものであることは注目に値する。(祭司は入っていない。)表面と中身の乖離が悔い改めにはふさわしいくないのだろう。祭司の家系とも言われる(ルカ1章)ヨハネの荒野での生活は、その一致を表現しているのかもしれない。注目に値するのは、このあとのイエスの洗礼の部分では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とだけ述べられ、さばきについては述べられていないことである。すべてにおいて、心に適うことを伝えている。声はだれが聞いたのか明らかではないが、おそらく、明確に聞いたのは、イエスで、イエスから弟子たちは、聞いたのだろう。 Mt 4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 洗礼を受けた時、イエスが聞いた天からの声は、3章17節に記録されているのみである。召命を確信したのかもしれない。その最初にしたことが4章冒頭に書かれている。それは、悪魔の誘惑を受けることである。霊に導かれたとはあるが、自発性・能動性も感じられる。「心に適う」とはどういうことなのかを求めて悪魔または誘惑に立ち向かっているように思われる。召命を受ける、または、神様に従っていこうとする時、天の国に生きる「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(23)とある活動を始める前に向き合って明確にしておくことである。内容は、一言で述べるなら「地の国」の価値観との対峙「天の国(神の心に適う生き方)」への集中と表現できるかもしれない。「物や肉に心が占領されないこと」「神を主とすること」「この世での自らの栄誉に心を奪われないこと」だろうか。この三点を自分のことばで、もう少し考えてみたい。 Mt 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 わたしは、このイエスのことばがなかなか理解できなかった。むろん、今でも、理解できているとは思わないが、以前とは、違った受け止め方をし始めていることは確かである。イエスは、これまでが、間違っていて、正しいのは、これだと真理を示していない。イスラエルの人たちが求めてきた神様の御心を否定せず、より本質的なことを、示しているのだろう。それを「完成するため」と読んでいる。一人ひとりがたいせつにしていることをたいせつにする、肯定から、出発しようとしている。書かれていることも、一つ一つ間違いとして正しているのではないようだ。ていねいに見ていくことをしてみたい。 Mt 6:33,34 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 神様との関係だろうか。神様が望んでおられることを、神様が喜ばれることを求め続け、生きること。一日一日を。そして、達し得たところに従って歩む。神様がどのような方であるかを、イエスは語っているのだろうか。基本的な姿勢であって、具体的なものではないように思われる。ていねいに、もとめて、歩んでいきたい。 Mt 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 何についてと限定できないが、キリスト者が非キリスト者をさばくことにも当てはまるだろう。どのように、真理、本当に善いこと、善なる方、主のみこころをもとめ、主が喜ばれることをしているか、わからないのだから。おそらく、正しさを持っていると思ってしまった途端に、裁きにつながってしまうのだろう。宗教の難しさでもある。しかし、この文脈で「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(7)はどう関係しているのだろうか。 Mt 8:16,17 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」 ペトロのしゅうとの熱病をめをいやした記事に続けて書かれている。重要なこととして記され、イザヤ書53章4節が引用されている。3節から引用すると「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 」悪霊についても、学びたいが、悪霊にとりつかれたひとの痛みを知っていたのだろう。「軽蔑されるような痛み」を。たんなる病ではないのだろう。引用箇所での「いやす」は therapeuo(1. to serve, do service 2. to heal, cure, restore to health)、病は kakos(1. miserable, to be ill 2. improperly, wrongly 3. to speak ill of, revile, one)である。 Mt 9:4,5 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 イエスが何を伝えたかったか、様々な解釈が可能だろう。しかし、おそらく、イエスは嘆いておられるのだろう。病を負われる、イエスは、この中風の人の問題すべてと向き合っておられる。それを表面的な議論で、このひととの交わりを中断される。しかし、同時に、イエスは、「彼ら」に問うている。いちばん、たいせつなことを考えてもらうために。これは、賢さではない。やはり、天の父なる神様を表す方としか、表現できないように思う。 Mt 10:19,20 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 驚かされるのは、イエスが、弟子たちを信頼しているように見えること。しかし、おそらく、それは、父なる神様、派遣される方を信頼しておられるのだろう。それとも、特別の力を、イエスが与えたのか。さらには、弟子たちのこのときの状況を適切に把握しているのか。どの場合も、一般化は難しい。同時に、この状況にしか適用できないわけではないだろう。このことばを受け取ったひとにも、イエス様と神様の関係につながることにより、同様のことが起こるのかもしれない。 2019.8.25 鈴木寛@名古屋 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 新約聖書に入りました。福音書はいかがですか。いろいろと、気になることもあるかと思います。疑問や、感じたことを書き留めながら読みすすめることをお勧めします。次の通読の時、と言わなくても、他の福音書を読むときに、また、同じ問を考えることができるかもしれません。 今週は、マタイによる福音書を読み進めます。続かなくなった方もおられるかもしれませんが、新約聖書から始めるのもお勧めです。何回も挫折した方も、また、始めてみてはいかがですか。まだ、新約聖書は、始まったばかりです。読んだ箇所を(わたしのホームページにもある)通読表に記録しておけば、また戻ってくることができます。そのように、通読とも息の長いお付き合いをしていただければ嬉しいです。学ぶこと、考えることは多いと思いますよ。 福音とは、Good News です。どのような、よい知らせなのでしょうか。 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 (マタイによる13章16節・17節) 少なくとも、福音書記者は、そして、弟子たちは、このことを、そのとおり。すくなくとも、そうかもしれない。と思って、この福音書に記しているのでしょう。それほどすごいことが記されているのです。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。たいしたことない、と思われるでしょうか。これはすごいというメッセージを受け取られるでしょうか。福音書記者が伝えようとしたことを、そして、行動や、メッセージ、生き方で、イエスが伝えようとしたことを、探っていただければと思います。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マタイによる福音書11章ーマタイによる福音書24章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書および共観福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Mt 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 これだけを取り出すと、ひととしては、かなり傲慢にみえる。これは、洗礼者ヨハネのことについて言及し「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」(12,13)を起点としているようである。旧約聖書は、ヨハネの時までとして、新しい時代が始まっていることを、明確に示しているのだから。ただ、エリヤについて語ることで、預言者と律法(旧約聖書のひとつの呼び方は通常律法と預言者)からの継続性も否定していない。どのように、変化しているのか。それを、記述するのが、引用箇所なのだろう。 Mt 12:18-21 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」 イザヤ書42章1-4節からの引用である。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」マタイに引用は、特に、1,2章の引用を見ると、適切なのかどうかとも思う。ここでは、11章13節の「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」を考えると、矛盾も感じる。マタイ記者がなにゆえ、この箇所をここで引用したのか明確にはわからないが「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。」(16)に続いていると考えると、19節が関係しているのかもしれない。しかし「イエスは皆の病気をいやして、」(15b)とすると「彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」(20b)と関連しているかもしれない。いずれにしても、イザヤ書の主のしもべの預言につなげたことで、預言者と律法とのつながりが明確になっている面がある。新しい時代が始まっていることも、確かなのだろう。旧約聖書との関連も詳細に考えたい。 Mt 13:16,17 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」 実際には、弟子たちも、見えていなかったのかもしれない。「フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」と言うのか。』」(ヨハネ14章8節・9節)イエスを通して、父を見ているはずだといっている。神を直接ではないが、見る、それを弟子たちは許されている。そう考えると引用箇所は、イエスが信仰の目をもち、または、神様を信頼して、悟るときがくることを見抜いているのかもしれない。 Mt 14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 ヨハネによる福音書6章15節から21節との記述の違いに目をむけるのも一つだろう。比喩的にとることは、基本的に避けるのが正当であるが、比喩としてまた信仰告白として捉えることのたいせつさも、感じる。実際、恐れによって愛することができなくなることは、いくらでもあり、怖くなることによって、神様をみることができなくなることも頻繁にあるのだから。あえて、そのように書いておこう。 Mt 15:15-17 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 ペトロは本当にこのたとえについて聞いたのだろうか。直前にイエスが「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(13,14)と言ったことへの質問であった可能性も十分高い。イエスは、言い過ぎたと思ったのだろうか。そうかも知れない。同時に、より本質的な先行する問について伝えたかったのだろう。後に、コルネリオの項で現れる重要なこと(使徒言行録10章15節など)である。敵対するグループに目を向けるよりも、より、たいせつなことを、示されたのかもしれない。 Mt 16:9-11 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 次の節から見ると、弟子たちは、理解したようである。しかし、この説明も、直接的ではない。おそらく、より本質的なことを教えているのだろう。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意」しないと、パンの給食のことの本当の意味がわからなくなってしまうと言っているのだろうか。パンのことは、とても重要視されている。サタンの試みでも。よく考えたい。 Mt 17:26, 27 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」 多くのことが詰まっているが、完全な形かどうかは、不安でもある。子供たちはだれを意味しているのだろうか。複数であるから、神の子たちということだろう。おそらく、イエスとペトロは含む。最後の指示は、二人分のみについて言及している。あまり、厳密に考えず、神殿税という、世のシステムをとりあげて、本質的なことを教えようとしていると考えてよいのだろう。同時に、この問題解決においても「彼らをつまずかせないようにしよう。」という「神殿税を集める者たち」への配慮といえるものも含まれる。祭司などとの議論であれば、変わったかどうかは不明である。正しさよりも、愛を優先していること、具体的な解決方法に関しては、一般的ではないことに訴えて、煙に巻いていることなど、興味深い。いつでも、可能な方法に訴えると、その方法が良いこととして固定してしまうことを回避しているのかもしれない。 Mt 18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 この章では、天の国での価値観のようなものからスタートし、「わたしを信じるこれらの小さな者」が迷い出ることを、父が望まれないこと、迷いでたら、探されることがかかれ、赦しのことが語られている。そして、最後が、引用句である。イエスにとって、天の国での父との交わり、とくに父がどのような方であり、父が自分たちにしておられるように、することがみ心にいきることとして、自然にこれらのことを語られているように思われる。み父のように生きること。そのみ父を、わたしたちに、示すことが、イエスがここでも、されていることのように思う。イエスによって顕された天の父なる神のように、生きること、それが永遠の命に生きることなのだろう。わたしも、そのように生きたい。 Mt 19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 十戒(出エジプト20章)の分け方も一定ではないが、ここで引用されているのは、6, 7, 8, 9, 5戒(数え方によれば、6,7,8,9,10戒)と、レビ記19章18節b「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 」である。いずれも、人と人との関係に関する主のみこころを表した部分である。長谷川眞理子氏によると、チンパンジーとヒトの遺伝子の違いは、5パーセント程度、600万年前までは同じ生き物だった。ホモ・サピエンスは20万年前に出現、しかし、チンパンジーとの明らかな違いは、前頭前野の発達(チンパンジーの脳380cc、人間1400cc)。「自分を客観的に見る」感覚を司っているという。「他者の気持ちを読み、力を合わせて共同作業をすること」を覚えたこと、としている。未解明の部分も多いが、示唆にとんだ知見である。人間となった、人間であることは、ひととの間の関係が基本なのだろう。考えることは、たくさんある。 Mt 20:20, 21 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ27章56節)ルカ8章2,3節にある、一行に奉仕していた婦人たちにも入っていたのかもしれない。その願いである。御心をしるのは、簡単ではない。 Mt 21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)御心に生きることに焦点があるのだろう。神の業は、いのちをあたえること。わたしたちの業は、いのちを生きること。悔い改め(metamelomai: it is a care to one afterwards, あとからたいせつにすること)は、向きを変えて、実際に、それをたいせつにして、あるきだすことだろう。 Mt 22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 イエスは、ダビデをポジティブには引用していない。ダビデの子と呼ばれることを正すことが重要だったからか。人の意識から、ダビデが救い主であることを消さないといけなかったのかもしれない。ダビデについて言及しているのか、引用している箇所と、もう一箇所、祭司のほかにはだれも食べてはならないパンを食べたことだけである。 Mt 23:3,4 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 「律法学者たちやファリサイ派の人々」を批判しているその理由は、「言うだけで、実行しないから」同時に「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」ことである。前者は、みこころを行い、生きることかどうかが、鍵であること。後者は、どのように表現したらよいだろうか。重荷を担い合う、互いに助け合う、互いに愛し合うことが含まれている。 Mt 24:29,30 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 天変地異の前兆とともに、「人の子の徴」があるといっている。単に、まだそのときでは無いことを強調したのだろうか。おそらく、そうではないだろう。ここで伝えたかったことがあるはずである。イエスが、全能であることを、強調してもいけないのかもしれない。わたしたちと同じ、ひとであることもたしかなのだから。事実としてというより、真実な、メッセージとして受け取ることをまずは、優先させたい。 2019.9.1 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) マタイによる福音書はいかがですか。今週は、マタイによる福音書の最後の部分を読み、マルコによる福音書に入ります。マタイによる福音書を先に読むと、マルコによる福音書はその抜粋ではないかと思われるかもしれませんが、マルコによる福音書は、福音書の中でも、最初に書かれたものだと言われています。通読では、ていねいに比較しながら読んでいくことは困難ですが、マタイが伝えようとしたこと、たいせつにしたことと、マルコがたいせつにしていることを受け取ることができるとよいですね。 旧約聖書とは、かなり内容的にも、教えとしても異なると感じるかもしれません。よきおとずれとして証言されているものと、旧約聖書のメッセージの違いとともに、どのようにつながっているのだろうかということも、ときどき考えてくださればと思います。新しい真理に出会ったとき、過去のものは、否定してしまってよいのでしょうか。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マタイによる福音書25章ーマルコによる福音書10章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書およびマルコによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mt マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Mt 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 このたとえは、十分理解できたことがない。また、設定や流れも、ちょっと違和感を感じるところもあり、どのように、理解したら良いか、はっきりとはわからないでいる。ここで賢さと愚かさを分けているのは、目を覚ましているかどうかなのだろうか。油のことを考えると、もう少し広い意味があるように思われる。すると、このあとの二つのたとえの内容を含んでいる、または、導入なのかもしれない。 Mt 26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 生まれなかった方がよいいのちなどはあるのかと考えてしまうが、そのことを言っているのではないのだろう。ユダは、自殺することになるが、自分のなしたこと、おそらく、自分の人生を悔やんだだろう。なんてたいへんなことをしてしまったのかと。そのユダのこころを、イエスは予知し、ともに苦しんでいるのかもしれない。 Mt 27:3-5 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 とても悲しい人生である。「後悔し」に惹かれる。人は、後悔なしの生活はできないだろう。最後に、自分の人生に納得ができたら、それで良いのだろうか。非常に主観的である。どう考えたらよいのだろう。ユダの人生は、やはり悲しい。惨めである。「生まれなかった方が良かった」(26章24節)かもしれない。 Mt 28:11-14 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 詳細は不明である。実際、本当に、墓を守っていたのか。そのときをどのように証言しているのか。兵士を殺すオプションはなかったのか。ローマ兵士では無さそうであるが。判断は困難である。 Mk 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 「時が満ち」は、なにかわくわくさせる言葉であるが、同時に、さばきなのか、救いなのか、何を意味するのかを考えることになるだろう。このあとに、活動開始の様子が書かれているが、そのひとつひとつが、神の国が近づいたことを表現しているのかもしれない。「権威ある新しい教え」(27)様々ないやし。このことが福音のようにも思われる。神学的に「十字架上のあがない」と、マルコは考えていたのだろうか。福音書記者においては、福音書で記されていること自体が、福音だったのではないだろうか。だからこそ「神の子イエス・キリストの福音の初め。」であるように思う。「初め」をどう解釈するかに関わるのかもしれないが。 Mk 2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 「福音」が語られている。神の国が近づいている。このあとの「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)も、それを表現しているように、思われる。これが、神の国の様子であるかもしれない。それをイエスによって見せていただく。神の国のほんの一部だろうが。 Mk 3:34,35 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 2章の終わりに「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とあり、この章では、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4)のメッセージと共に、安息日に癒やす記事からはじまる。さらに「悪霊を追い出す権能を持たせ」使徒を派遣し、聖霊のことが語られる。律法、神のみこころのことが、強く関係しているのだろう。旧約と関連しつつ、新しい時代、神の国の到来が宣言されているのだろう。本質に立ち返るゆえ「神の御心を行う」かどうかに、基準が移っている。 Mk 4:33,34 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。 弟子たちを通して学ぶことは、このことからも大きいはずである。弟子たちだけではないにしても。イエスの解き明かしのある部分は、福音書に書かれているのだろう。福音書のイエスのことばに聞きたい。 Mk 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 このときの恐れは何だったのだろうか。「この方の服にでも触れればいやしていただける」(28)と思ってイエスの服に触れ「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(29)とある。最初は、魔術的な力を予想していたのだろうか。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。 」(30)は正確にはわからないが、イエスの力を要しただけではなく、おそらく消耗したのだろう。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53章5節b)どのようにかはわからないが。女は何を感じどこまで理解したのだろうか。おそらく、この次のことばは、このできごと以上のことを女に与えたのだろう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(34)恐れについて理解したい。 Mk 6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。 驚くべきことである。「服のすそに触れる」は、5章の女が癒やされた記事を思い出させる。最後の「癒やされた」は sozo: to save, keep safe and sound, to rescue from danger or destruction が使われている。救われたである。なにが起こっていたのだろうか。病が次々に治ったのだろうか。この書き方からは、明確にはわからない。しかし、これが、マルコがイエス・キリストの福音のはじめとして書いたことであることは確かである。 Mk 7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 表面的には、イエスは失敗している。それでも、口止めをしている。一人ひとりに神の国を届けることがイエスの使命なのだろう。しかし、効率などは考えない。神の国は効率でどうにかなるものではないのだろう。そして、賛美を止めることはできない。イエスは、この状態をどう考えていたのだろうか。 Mk 8:29,30 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 弟子たちは、使徒でもある。イエスのことを話さないで、福音を伝えることができるのだろうか。おそらく、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)は、言えるのだろう。このときには、福音は、イエスご自身ではなかったのか。難しい。 Mk 9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 この直後に山上での変貌の記事が記されている。「現れるのを見る」とあるので、一義的には、変貌の記事が「神の国が力にあふれて現れるのを見る」ことだと言っているのかもしれない。しかし、あまり大きな話ばかり語らず、このあとも「霊に取り憑かれているこども」のこと「一番偉いもの」「従わなかった者」「これらの小さな者の一人をつまずかせるもの」について記されている。足がしっかり、地についている。 Mk 10:43-45 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 直接的には、ヤコブとヨハネの申し出に続いて出た、弟子たちの怒りに対して語られている。弟子たちとあまりに、心が離れていたことがわかる。もう少し、ていねいに考えたい。 2019.9.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) マルコによる福音書はいかがですか。今週は、マルコによる福音書の最後の部分を読み、ルカによる福音書に入ります。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は共観福音書と呼ばれます。流れは、最初に書かれたマルコによる福音書が下地になっていると言われています。しかし、ルカによる福音書は、独自の記事も多いと感じられるのではないでしょうか。ルカは、おそらく、ギリシャ語が母語の知識人(医者と言われています)です。ルカは、福音書の記述と、その後の、使徒たちのはたらきを記した使徒言行録(使徒行伝、使徒の働き)の著者でもあります。新約聖書の主要部分と言っても過言ではない、福音書と、パウロの手紙をつなぐ証言としても、重要なひとだと思います。たとえが多いのも特徴であるように思います。他には、マタイによる福音書、マルコによる福音書とは、どのような違いをみなさんは、発見されるでしょうか。ルカによる福音書は、次のように始まります。 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」(1章1節) すでに、いくつかのイエスに関する文書が存在したようですが、その上で、ルカはなにを伝えたかったのでしょうか。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マルコによる福音書11章ールカによる福音書8章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マルコによる福音書およびルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mk ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Mk 11:12-14 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 イエス様の身勝手と、解釈して、終わることもできる。いちじくの実であれば、たしかにそうだろう。しかし、身につまされるものを感じるのは、このことを自らと神様の関係の中で捉えるからだろう。イエスがどのようなメッセージとして語ったかはわからないが、神様が用いてくださるときに、available でありたい。わたしは、そのように、今は受け取った。 Mk 12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 この次には「やもめの献金」の記事が続く。「やもめ」は社会的弱者の象徴だったのだろう。いまであれば、「シングル・マザー」だろうか。しかし「シングル・マザー」には、社会は温かい眼差しを向けない。自己責任(もある)と判断して。おそらく、この時代であっても「やもめ」となって貧しい生活を送っている人に対して、その人の罪であるとか、親が罪を犯したからだとか、言ったり、そのような目で見た人もいただろう。頼るものがない「やもめ」は、律法学者を信頼し、相談する。そのようなひとから、十分な配慮なしに、残された、ほんの少しの希望をも、食い尽くす行為が行われていたのだろう。現代の「シングル・マザー」やそのほかの社会的弱者にも、同様な構造があるのかもしれない。 Mk 13:14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 「読者」は、対応するマタイ24章15節以外には、現れない。だれがこのことを言っているのだろう。文脈からも、イエスではなく、福音書記者だろう。では、イエスは何を伝えたかったのか。この終末に関するイエスの説教は、弟子たちの「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4)の問から始まっている。この問の答えとしては、14節は重要である。しかし、イエスは、徴を伝えたかったのではないと思う。イエスの関心は、終末の徴と人びとが考えるようなことが起こったときに「人に惑わされないように気をつけなさい。」(3)だろう。終末を否定してはいない。しかし、それよりもっと大切なことがあると、問を否定せず、語っているように見える。そして、この章は次のことばで締めくくられている。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(37)終わりの時に生きるものとして謙虚に、目を覚まし、神さまのもとにある真理以外のものに、惑わされないようにしたい。 Mk 14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 この悲しさをともにすることをしなかった弟子たちのこころに、この光景は強く残っていたろう。イエスは、何が悲しかったのだろうか。死は、地上でのいのちのいとなみから切り離されるときである。それが、ひと、とくに、弟子たちの間で、生き続けるかどうか、父なる神に信頼しても、不安だったのではないだろうか。長くても、3年程度、弟子たちと一緒に活動、しかし、イエスのこころを受け取れない、理解できない弟子たち、その弟子たちに、そして、聖霊に委ねること、さらに、そしておそらく、最もたいせつなこと、愛について、死を通しても、伝えることが伝わるかどうか、それが弟子たち、そのまた弟子たちの中で生き続けるかどうかを考えたのではないだろうか。おそらく、これらのことばは、十分にこなれてはいない。わたしは、そう考えるということと、イエス様の思いをどのていど、同期させてもよいのか、距離感がわかならい、というのが正直な気持ちだろうか。 Mk 15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 「そこで、ピラトは、『あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか』と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(9, 10)とあるが、引用箇所では「群衆を満足させようと思って」とある。最近、よく使われる用語のポピュリスト的な、ほかの言い方では、人気取りなのかもしれない。しっかりした信念によっているわけではない。同時に、制度として、民主主義ではないが、大衆の意思であるなら、ある意味で民主的に決めたとも言える。歴史的には、ピラトに責任の重要な部分が与えられるが、多数決とすると、一人ひとり、または、その一人として、我々に、責任が問われることにもなる。このような状況が、身近にもいくつもあるのだろうか。謙虚にさせられる。 Mk 16:15,16 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 新共同訳では「結び一」に含まれる。大宣教命令といわれるもので、マタイ28章のもとのともに、このことばによって宣教に送り出されていったひとたちが数限りなくいる。しかし、イエスのメッセージとしては、唐突に感じる。少なくとも、信じる、信じないで、救いと、滅びをわけることは、違和感を感じるし、洗礼をうけることも、その条件として書かれるものなら、イエスがこのことについて述べているはずである。このように、疑い、または、別の解釈の可能性を考えること自体が、クリスチャンのコミュニティでは、議論されにくいが、イエス様からのメッセージをしっかりと受け取りたい。 Lk 1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 四福音書とも、描き方は異なるが、洗礼者ヨハネの記述から始める。(使徒言行録1章5節・21節、10章32節、11章37節、13章24節・25節参照)記述の仕方が異なることからも、重視していることが理解できる。なぜなのだろうか。ルカの時代であっても、ヨハネの知名度が高かったことはあるだろう。(使徒言行録18章24節-19章7節)ヨハネ1章35-42節にあるように、イエスの弟子たちのある部分はヨハネの弟子たちだったからだろうか。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(76,77)このことを重視しているということだろう。イエスに始まったわけではないということか。旧約とつながり、その最後の預言者でもある。 Lk 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 直接か、間接かは、不明だが、マリアを通しての伝聞であろう。自分のこどもの成長期には、理解できなかったが、いま、こどもたちをみていると、こどもたちは、伝え方、表現は、未熟であっても、よく状況を理解している。両親が、イエスのことを理解していなかったとみることもできると、いまは、言える。こどもから学ぶことを続けたい。 Lk 3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 ヘロデとヘロディアのことがこの直後に書かれている。正しさ、そして裁きが神のみこころについて伝えるときに、鍵だったのだろう。これを「福音」(18)と呼んでいる。はっきりいって、イエスのメッセージとは、かなり異なるように見える。イエスも、差異を強調することはできただろう。しかし、そうはしない。イエスは、ヨハネが真剣にみこころをもとめて、それを民衆に伝えていたことを知っていたということなのだろう。 Lk 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 このあとに、「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(21)とあるが、読まれた箇所はどこなのだろうか。新共同訳の脚注にはイザヤ書が三箇所引用されている。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 」(イザヤ61章1節)「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」(イザヤ42章7節)「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」(イザヤ29章18,19節)単に、七十人訳との差異ではないように思われる。編集があるということだろうか。時間をとって、調べてみたい。 Lk 5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 どのような意図でイエスはこのように言ったのだろう。病が罪の結果であることをみとめてこういったのだろうか。おそらくそうではないだろう。(ヨハネ9章)しかし、この人は、罪の故にこのような状態にあると考えていたとは十分考えられる。また、罪は、神との関係の断絶であるなら、その状態にあったことを否定はできないかもしれいない。いずれにしても、この宣言こそ福音であるように思われる。「その人たちの信仰」とあるが、誰のかを問うのではなく、ここの信仰が、みられたことこそがたいせつなのではないだろうか。誰の信仰かと問うと、それは、分離を生じる。 Lk 6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 ふたつのことが目につく。ひとつは、自分のものを主張しないこと、二つ目は、「あなた」がすべきこととしていることである。イエスの世界観はどのようなものなのだろうか。前者は、ものに注目せず、それを必要しているひとにこころがいっているのかもしれない。自分のただしさを主張するのではなく、そのひとをもふくめたひととの関係、そしてそのひとをも含む、ひとの交わりに注目するかだろうか。これだけでは、決められない。ていねいに見ていきたい。 Lk 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 イエスはファリサイ派のシモンになにを伝えたかったのだろう。この物語を読むと、イエスのシモンへの愛情も伝わってくる。そして、引用箇所は、文字通り読むと、女が多くの罪を持っていて、それが赦されたこと、さらに、シモンは、罪をあまりもっていないこと。しかし、そうなのだろうか。多くの罪が赦されたことと、愛の大きさは、因果関係なのだろうか、相関なのだろうか、他に隠された因子があるのだろうか。シモンは、なにを受け取っただろうか。シモンが、イエスの愛を受け取っていたとしたら、自分も罪赦されたものであることを確認するだろう。では、イエスはどうなのだろうか。やはり、罪赦されたものは、なにか過去の不法が暴かれ、それを一つ一つ責められるなかで、それが裁かれず、赦されていくというモデルではないように思う。anomia 法がない状態、なにがたいせつなことかわからない状態から、愛する者へと変えられていくことを意味しているのかもしれない。 Lk 8:38, 39 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 このひとの希望が受け入れられなかったこと、そして、イエスが命じたことと、このひとがなしたことにずれがあることがわかる。どのように理解したら良いのだろうか。イエスが伝えたかったことは、家族のことだったろう。家族の痛み、そして、このことできごとから生じる喜びを知っておられたのだろう。すごいことがおこったことではなく、このひとも、家族も、その傷が、病が、癒やされたことに、イエスの喜びがあり、イエスのうけた傷もあり、イエスのことひとの生き方への願いもあったのではないだろうか。イエスの、そして、神の業のすごさを語ることではなく、互いに愛し合い、ともに悲しみ、ともに喜ぶことがイエスの願いではなかったのだろうか。 2019.9.15 鈴木寛 ホームページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ルカによる福音書はいかがですか。今週は、ルカによる福音書を読み進めます。ルカによる福音書が好きな方も多いのではないでしょうか。ルカというひとの人柄によるところも多いように思いますが、言葉も選び、ていねいに記述しているように見えます。美しいギリシャ語で書かれているとも言われています。ルカは、様々なひとから証言を聞いて、これを書いているわけですが、ていねいにしらべ、ていねいに聞き取ったことを、たいせつなものとして受け取り、それをことばとして書いているのではないかと思います。ルカがうけとったものを、ていねいに受け取っていけるとよいですね。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ルカによる福音書9章ールカによる福音書22章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Lk 9:52-55 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。 サマリアを通ったこともいろいろな背景が考えられる。しかし、サマリア人の拒否の理由が「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」とある。イエスはサマリヤ人が差別しなかったことが書かれているが、イエスの進む先はエルサレムだったのだろう。ヤコブとヨハネを戒められるイエス。イエスの死後のサマリア宣教にもつながるたいせつな記録だったのだろう。 Lk 10:41,42 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 このことが記録されているのは、おそらく、マルタがそのことを良としたという事だろう。マルタが、このことを他の人にも自ら伝えたかもしれない。ベタニヤでマルタは特にキリスト者の間で有名人だったろうから。すると、ますます、マルタの凄さを感じる。イエスのマルタとマリアに対する愛を感じる。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11章5節) Lk 11:27,28 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 まず「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8章21節)にあるように、血によるつながりではなく、神の子となることこそが、たいせつであることを言っているのだろう。ここでは、おそらく母親の栄誉はこのようなすばらしい子によって与えられるということを否定して、この女にとっても「神の言葉を聞き、それを守る」ことこそ求めるべきだと言っているのだろう。こどもによって栄誉をうけることは、こどもと、自分との血のつながりを、自分のために、利用しているともいえるのだから。 Lk 12:41,42 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 イエスは、完全に、ペトロを無視している。ペトロが、分離から始めたからだろう。この段落は、最後に「しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 (48)とある。ペトロが聞くべきことは、しっかりと含められているようだ。 Lk 13:8,9 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 この章の最初には、侮蔑的な殺され方をしたり、災害で死んだ人たちの例をあげ、その人たちがより罪深かったからでは決してないことをのべたあとで「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(3,5)と結んでおり、その次に、6節から実のならないいちじくの例えがありその結びが引用箇所である。基本的なメッセージを単に悔い改めを促すメッセージとして理解されないように、このメッセージが続いているように思われる。そしておそらくこの園丁がイエスであり、父なる神とのコミュニケーションを我々に伝えている。ここにも、父なる神と、イエスの密な信頼関係が現れているように思われる。 Lk 14:26,27 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 何度読んでも、厳しい言葉である。神に信頼して、その希望に自分の命をかける。それが、永遠のいのちに生きる道であるように思われる。このようなことばのゆえに、牧師や宣教師などフルタイムのひとと一般信徒を分けることが多いように思うが、おそらく、そうではないだろう。自分の十字架を背負ってイエスについて来るものすべてに関わっていることだろう。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16章13節、参照:マタイ6章24節)「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12章25節) Lk 15:5-7 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。 このあとに、10枚のドラクメ銀貨1枚を無くした女の話があり、いわゆる「放蕩息子」の話へと続く。喜びが理解できない人たちへのメッセージである。このたとえをみると、理解できるのかもしれない。ふたつのたとえが続くのは、だれにでも、通じるものがあることを言っているのだろうか。たとえは、貴重である。具体的すぎると、通じるひとが非常に限られるが、このように、二種類のたとえを示されると、理解できる人は多いだろうから。同時に、受け入れられない人へのさばきともなっている。 Lk 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 やはり、聖書は続いているのだろう。旧約時代から、新約時代に。救いを待ちわびるこころを持ちながら、真摯にみこころをもとめることは、共通なのかもしれない。共通なものを確認したい。そこに、救いがあるおんかもしれない。復活は、その、旧約時代と、新約時代、福音をしらないで、生きていた人たちを公平にあつかう、要素なのかもしれない。 Lk 17:1,2 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 このあとには、兄弟が罪を犯したらとあり、赦すべきことが書かれている。どのような、状態になれば、赦さなくて良いとの条件も書かれていない。さばくことは、神様に属することなのだろう。パウロは「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(1コリント5章12節、参照:ローマ2章1節、14章4節、10節)と書いてある。裁きについての記述が整合性があるのかどうか、不明である。実際のコミュニティの問題をたくさん抱えていた中で、ブレがあった可能性もある。イエスは、つまずきをもたらすものについて言及した直後に、裁きのことを述べている。個人的に、コミュニティを破壊するものにどのように対処すべきか、いくつもの事例から考えている。まずは、不幸だということと、裁かくべきことを区別すべきなのだろう。神様に信頼して。 Lk 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 イエスが祈りについて教えられた「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」のたとえの締めくくりである。17章の最後に、神の国はいつ来るのかの議論があるが、18章の前半は、神の国について書かれている。神の支配、神様がどのように、なされるかについて書かれているとも言える。介入と考えなくてもよいのかもしれないが、人格神として理解する神様についての記述が、神の国の背後にある。呪術的に神の介入を呼び起こす行為が祈りなのではなく、神の望まれることとの同期だとわたしは、言っているが、結局、神への信頼のように思われる。 Lk 19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイの記事は、ルカによる福音書にしかない。しかし、とても、印象的で、特に、このことばは、多くのひとの人生を変えてきたのではないだろうか。それは、単に、イエスの名を信じることだけではなく、生活が一変することである。このようなことが、様々なことで起こっていたのではないだろうか。それこそが、神の国が近づいたと表現される『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」(5) Lk 20:3,4 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」 この記事はマタイ21章23節から27節と、マルコ11章27節から33節に含まれる。ヨハネの扱いは異なるが、イエスは常に、洗礼者ヨハネのことを、つねに、大切にしているように思う。メッセージの内容はことなるように思われるし、質も大きくことなる。しかし、ヨハネを、旧約からの連続、預言者の最後としてしっかり受け入れているからだろう。ひとは、新しいものが現れると、その背景となることを忘れてしまう。価値が高いものとは見ない。しかし、イエスは、自分がどこから来たか、旧約聖書によって養われた民を、その過去も、不十分さも含めて、愛しておられるように見える。この箇所を、単なる議論のための論理と考えてはいけない。 Lk 21:31,32 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。 混乱があるのだろうか。「神の国は近づいた。」は福音書でのイエスのメッセージである。そして、神の国が近づいていることを、福音書は、様々な根拠をもって示しているように思われる。同時に、終わりのときとして、神の国が語られるが、それは「すべてのことが起こるまでは」来ない。この二つは一つだとも言えるが、やはり、異なるように思われる。後者を期待することで、前者が薄れてしまっているように思われる。それだけ、後者を期待するこころが弟子たちにも、人びとにも強かったということだろうか。 Lk 22:28,29 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 イエスは、これでよいと考えていたのだろうか。この段落は「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」(24)と始まっている。無責任ではないだろうか。聖霊に委ねたのだろうか。おそらく、父なる神様との信頼関係なのだろう。いまの世の中の混乱も、委ねることでよいのだろうか。ここでも、からし種ひとつぶほどの信仰のたいせつさを、イエスは受け入れているのだろう。そう考えておこう。 2019.9.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。何人かにしばらく届いていなかったようでアドレスを修正しました。BRC2019 については最初から送ることができます。必要な方は連絡してください。) 今週は、ルカによる福音書の最後の部分を読み、ヨハネによる福音書を読み始めます。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は、共観福音書とよばれ、似た記述が多くあります。伝承や内的証拠といわれる書かれている内容などから、マルコが最初に書かれ、マタイと、ルカは、流れはマルコを土台として、マルコが書かれてしばらくしてからまとめられ、おそらく、どちらかがどちらかを参照したことはないのではないかと言われています。ヨハネは、それからだいぶたって、一世紀の終わり頃書かれたようですが、他の三つの福音書とは、大分異なった内容になっています。 ここからは、個人的な考えです。著者とされている中で、十二弟子として名前が出ているのは、マタイと、ヨハネです。しかし、マタイは、説教集を書き留めていたという伝承はあり、(実際にそこにいないと書けないような)証言者的記述がいくつかありますが、基本的には、上に書いたように、マルコをなぞっています。実際に経験したことを、記述するのであれば、少し違う書き方になるのではないかと思います。(マルコは、ペトロの通訳をしていたという伝承はありますが。)ヨハネは、すべてヨハネが書いたかどうかは明確ではありませんが、ヨハネの影響下で書かれたことは、多くの人達がみとめています。おそらく、イエスの、殆ど最初の弟子で、ヨハネの福音書の記述によると、最後の最後まで目撃者としてとして証言しているように思われます。パウロなどの手紙も、新約聖書の主要な部分は、すでに、流布していたと思われる中で、直接の目撃者である、ヨハネは、なにを伝えたかったのでしょうか。ずっと、いっしょに、イエスと行動をともにしたものとして、なにを証言しているのでしょうか。個人的には、聖書の中で、イエスのことを伝えるということに関しては、もっとも大切な書ではないかと考えています。ヨハネにとっても、晩年、個人としてだけでなく、キリスト教会(弟子たちの群れ)も様々なことを経験していたでしょう。ヨハネが伝えようとしたことを、しっかりと受け取りたいですね。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ルカによる福音書23章ーヨハネによる福音書12章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書とヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#lk ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Lk 23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。 ヘロデの望んだしるしと、イエスのしるしは、目的が異なるのだろう。3年近く、活動していても、ヘロデヤ、ピラトにメッセージが伝わっていないことは、イエスもよく知っていたのだろう。おそらく、他の殆どの人にも。イエスは、効率の良い方法を取らなかった。ひとのこころをよく知っていたからだろうか。(ヨハネ2章24節)からしだねのたとえは、とても重い。 Lk 24:30,31 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32)とも二人は語り合っているが、目が開かれたのは、イエスがパンを裂いてお渡しになったときである。日常的な、イエスを彷彿とさせるものが、伝わったのだろう。しかし、姿は見えなくなっている。目に見えるものがしるしではないことを言っているのだろうか。あまり、うがって考えてはいけないが、パンを裂くという行為、イエスが、弟子たちに仕えていたことが、イエスとの結びつきを示す、重要な要素であったことは、確かだろう。 Jn 1:1,2 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 ヨハネがまず伝えたかったことなのだろう。ヨハネの信仰告白である。この二節を読むと、二節は繰り返しのように思われる。といことは、強調であろうか。3節以降の前にもう一度確認したかったのか。ヨハネにとって、イエスが、神とともにあったことは、明らかで、そのことこそ、伝えたかったことなのだろう。それが、創造にまで至っている。イエスが言われたように、イエスこそ、その救いこそが中心であることを、受け取ったからだろうか。もう一度、ヨハネを楽しんで読んでいきたい。 Jn 2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 この前に書かれてあることからは、ここで言われている「しるし」が何なのか不明である。両替商を追い出し、鳩を売る者たちを追い出したことだろうか。それと同時に発したメッセージもあるのだろう。しかし、ヨハネは書かない。このあとは、ニコデモの話が続くが、その後でもない。読む人に、24,25節の注意を喚起していると考えるのも一つだろう。個人的には、わくわくする。 Jn 3:5,6 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 通常は、水は洗礼を意味するととるのだろう。しかし、そうではないかもしれない。イエスは、血とはことなるものを示していること、水は洗礼を想起させるとしても、明確ではないこと。このあとでは、霊から生まれるとしていることを考えると、厳密に考えることはしないほうがよいかもしれない。イエスは、人の言葉で語るが、演繹をしてよいかどうかは、簡単には、わからないからである。では、ここは何を「水」で表しているのだろうか。生ける水を飲むことだろうか。ヨハネでは、洗礼以外に、ぶどう酒に変えたしるし、サマリアの女、ベトザタの池、弟子たちの足を洗った水、イエスの体内から出た水、そして「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7章38節) Jn 4:1,2 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― 証言者は、ヨハネだろう。早い時期からイエスに従ったと考えられるヨハネの証言は重い。ここからわかることは、イエスが率いる弟子集団は、洗礼を授けていた。実際には、イエスではなく、弟子たちであるということである。洗礼者ヨハネと同じように、悔い改めを重視していたと思われる。もしかすると、少しずつ、悔い改めのあとどのように生きるかにシフトしていったかもしれない。しかし、洗礼を授けていたのが弟子だとすると、ヨハネのもとから来た弟子が重要だったのだろうか。それとも、洗礼を受けていないで、授ける場合もあったのだろうか。ここからは、明確ではない。すくなくとも、教会員のようなものが出来上がっていたわけではないので。ただし「弟子をつくり」がどの程度、洗礼と関係しているかも考慮する必要がある。そして、年を経て、形式が確立していったのだろう。 Jn 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 なんとも慎ましい。まずは、解説でもしたくなるところなのに。しかし、このあとに、その理由をとくヒントが与えられているように思う。まずは「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』 」(17)あるデモンストレーションをすることが目的ではなく、父のわざを続けることこそが、イエスのしていることなのだろう。そして「わたしは、人からの誉れは受けない。」(41)なんと、わたしは、表面的には、善人ぶって、心の中では、賞賛を求めていることだろう。イエスに従う者でありたい。 Jn 6:38-40 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 イエスが来られた目的をあからさまに話しておられる箇所である。これが神からの直接啓示であるのか、イエスが悟ったのかはわからない。おそらく確かめようもない。しかし「神の御心を行うこと」が原点にあり、その御心は「子(イエス、もしくはもう少し広い意味で神の子だろうか、しかしおそらく単数)を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」そして「子(イエス)を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」とある。つまり、いくつかのレベルがあることもわかる。イエスを見て信じる者が皆、永遠の命を得るのではない。 Jn 7:47,48 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。 分けることの問題がここでも例示されている。下役は「議員やファリサイ派の人々の中」に含めず、範囲を狭めているが、このあと、ニコデモの発言で、ニコデモもその範囲から外すことにならざるを得なくなる。ある人間的正しさの保持でグループを作成すると、普遍性はない。おそらく、契約もそうだろう。国としての契約も、団体としてのそれも。誓い(pledge)はどうなのだろうか。中身がどのようなものかにもよるだろう。危うさを感じる。 Jn 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 「再び」がなにを意味しているか不明である。しかし、ここでの問題を、ファリサイ派の人たちは「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 (13)と言っている。このあとに、イエスの応答が続くが、イエスは、聖書を持ち出したり、人々(教会)の証言を根拠にはしない。父なる神だけである。すると、それは、一般的には、啓示であろうか。もし、三位一体ならますますひとつだけの根拠となる。結局はそれを受け入れるかどうかなのだろうか。それで良いのかもしれない。すくなくとも、わたしにとっては。 Jn 9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 同じ質問を10節でも26節でもユダヤ人達はしている。また、19節には同様の質問を両親にしていることが書かれている。これは、科学的な問いである。また「ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。」とあるが、ここでは、律法的問いが提出され、宗教的解釈と衝突している。イエスは「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」 (3)といっているが、ユダヤ人たちは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34)と言っている。非常に興味深い。イエスは、議論ではなく、まさに、しるしをなさったのだろう。「わたしは、世にいる間、世の光である。」(5)「光」でありきった、イエス。ここに希望がある。 Jn 10:14,15 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 イエスの父なる神様への信頼は、自信過剰のあぶなそうな言葉でもあるが「わたしと父とは一つである。」(30)によく現れている。それと、イエス様とわたしたちの関係が同じだと言い切っている。それはないだろうと思う。ここに、イエスの信頼と希望があるのかもしれない。現実はそうではない。「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(8)と過去のことにまで言及している。理想主義者なのだろうか。おそらく、そうではないのだろう。ここに希望を置きたい。 Jn 11:3,4 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 生まれつき目の見えないひとについて「神の業がこの人に現れるためである。」(9章3節)と言っているが、ここでは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」となっている。ラザロは生き返るが、同時に「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(53)との結果になったとも言える。ここでイエスが述べている、栄光とは何だろう。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(25,26)が実際に示されたことだろうか。このあとで、マルタが「もうにおいます。」というのに答えて「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40)と言っている。命を与えるのは、神の業、それがここに現れているということだろうか。 Jn 12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 この章には記録したいことがたくさんある。備忘録として簡単に記す。まずは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27,28a)は、ゲッセマネで寝てしまっていたヨハネが、記した真実ではないだろうか。最後に「父の命令は永遠の命である」(50)としている。これもとても興味深い。さて、引用した箇所、11章の直後に、それも「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」(1)と始まるところをみると、その関連性を考えるのは、自然だろう。マリアは、感謝の気持からナルドの香油を使ったように思う。もし、それを売って、薬をえるなどして、ラザロの病が癒やされるなら、それをしただろう。恵みにより、生き返ったそのときには、ひとは感謝を十分しないこともあるように思う。なんと打算的なのだろうか。しかし、マリアはそうではなかった。愛に答え、イエスを愛したのだろう。イエスの計り知れない苦しみを感じつつ、永遠のいのちを生きていたのかもしれない。学ぶことは多い。 2019.9.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。何人かにしばらく届いていなかったようでアドレスを修正しました。BRC2019 については最初から送ることができます。必要な方は連絡してください。 また、聖書の会万座温泉リトリート(11/28-12/1)の案内を送りました。受け取っておられない方には、情報を送ります。お知らせください。) 今週は、ヨハネによる福音書の後半を読み、使徒言行録(訳によっては、使徒行伝、使徒の働き、などとなっています)を読み始めます。ヨハネによる福音書はいかがですか。共観福音書とよばれる他の福音書とは大分雰囲気が違うと感じられるのではないでしょうか。しかし、数は少ないですが、共通のエピソードも書かれています。前回は、わたしの個人的な考えとして、ヨハネは目撃証言(というより一緒に生活をした者としての証言)を伝えることが背景にあるのではないかと書きました。それは、内容に関して、どのような違いを生じるでしょうか。わたしは、ことばでは、表現できないものを、どうにかして、言葉にする、あることを伝えるのに、こんなこと、こうも、表現できると、ひとつのことをいろいろなことばで表現する、しかし、同時に、そのことばで表現されたものが、すべてではなく、その背後にある実体(いのちを生きること)を理解したほしいと願い、伝えているのではないかと思います。さらに、一緒に、イエス様と生きることを経験しようよと。ちょっと、個人的な見方を踏み込んで書いてしまいました。みなさんには、どのような発見があるでしょうか。 使徒言行録には、イエスの弟子たち、イエスが伝えた福音を伝えるために遣わされたものたちの活動についてかかれています。ルカによる福音書を書いたルカが著者だとされています。福音書と、その後をつなぐ、たいせつな文書だと思います。弟子たちが、イエスを通してうけとったことを、どのように伝えていったかが記録されているからです。このあとのローマの信徒への手紙いこうは、書簡が続きますが、その背景をある程度うかがい知ることもできるではないかと思います。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨハネによる福音書13章ー使徒言行録5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書と使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jn 13:31,32 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 すでに、栄光を受けたと言っている。これも、直接的には、十字架を意味しているものではないと解釈すべきだろう。すると、それは、何を意味するのだろう。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1章14節)わたしたちの間に宿られたこと、それによって示されたこと、直接語られたこと、教えられたこと、なされたこと、その全てなのだろう。それをしっかり受け止めたい。 Jn 14:12-14 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 「わたしが行う業」とはなんだろう。「わたしの名によって願うこと」とは何なんだろう。イエスの名を信じるもの、イエスに望みを置くもの、それは、イエスが伝えた新しいメッセージからは、互いに愛し合うことではないのだろうか。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネ第一3章23節)もっと深く理解したい。 Jn 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 この時点で清くなっていることが書かれている。十字架による贖罪によってではない。同時に、実のことも語られている。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(2)そして「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(17)である。つながっていることと、この命令をまもることに強い関係があるようである。イエスの愛は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(13)であらわされている。それこそが象徴なのだろう。しかし、それだけに終わるわけではない。それまでも、そして、それ以後も、イエスは、わたしたちを愛しておられる。だからこそ「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(12)と言っているのだろう。キリスト教神学、プロテスタント神学とは、かなりずれてしまっている。 Jn 16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 ふたつの鍵が書かれている。「イエスを愛すること」「イエスが神のもとから出てきたことを信じること」である。ヨハネは、この二つをいろいろなことばで言い換えている。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネ第一3章23節)ここでは、おそらく「イエスを愛すること」は「この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」と言い換えられ「イエスが神のもとから出てきたことを信じること」は「神の子イエス・キリストの名を信じ」ることだと言っているように思う。あまり教義的に、厳密にすることが良いかどうかは不明であるが、一つの概念をいろいろな言葉で言い換えることが、ヨハネ文書の特徴であることは確かだろう。 Jn 17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネ第一1章3節)に含まれる曖昧さがあるように思う。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わり」と「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つに」の部分である。後者では「ように」となっている。一つであることが内容なのか、父なる神様とイエスの業も意思も一致することなのか。いずれにしても、実現はされていないように見えてしまう。約束として、希望とすることなのだろうか。それとも、根本的な原因があるのだろうか。成就していない。プロテスタント教会はバラバラである。 Jn 18:37,38 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ピラトは言った。「真理とは何か。」 イエスがここで言われている「真理」とは何なのだろうか。一般的には、神の御心と考えて良いかもしれない。ここまで教えておられたことから考えると、イエスが父なる神に遣わされたこと、そして、神のみこころは、互いに愛し合いなさいということであるということだろうか。おそらく、キリスト者の間でも、かなり揺れがあるように思われる。まずは、一緒に聖書を読むことから始めたいが、そのことは、可能なのだろうか。だれかのことばをそのまま受け入れてしまうように思われる。みことばに仕える人たちであっても。 Jn 19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 ピラトのイエス尋問の一部である。イエスは、答えられた部分と、答えておられない部分がある。正確なやりとりをどのように得て記録したのかは不明である。側近でイエスを救い主と信じるようになったひともいただろうが、はっきりとはしない。ピラトの問に答えられた場合と答えようとされなかった場合が書かれており、引用箇所の「お前はどこから来たのか」と「真理とは何か」(18章28節)には答えておられない。この二つこそ、鍵となる質問であるはずである。なぜ、答えようとされなかったのだろうか。ピラトに聞く準備ができていなかったなどもあるが、これらこそ、弟子たちに委ねたことだったのかもしれない。イエスは、弟子たちを通して、これらについて、人びとに伝えられることへの、希望を持っていたのかもしれない。答えられた質問も含めて、ゆっくり学んでみたい。 Jn 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 本文の最後はこのことばだと考えて良いだろう。復活に関する弟子たちの証言は、マグダラのマリアのものは別として、限定的である。しかし、それを列挙することは避けているように思われる。まさに、このことばにかかっているのだから。イエスが、復活され、死んだままではおられないことを証言しているのだろう。天に昇ることは、マグダラのマリヤへの次のことばで記録されている。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 (17) Jn 21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 21章はどのような経緯で、文書に含まれるようになったのだろうか。すべての写本に含まれているとされることから、ヨハネもそれを認めていた可能性もある。21章は復活証言、ペトロに関する記事、そして「この弟子」に関する証言となっている。ペトロとヨハネは使徒言行録の最初には、つねに一緒に行動していた弟子集団の核であり、おそらく、イエスのほとんど最初の弟子の数人の中にいたであろうから、お互いについても、よく知っていたであろう。福音書の中心ではなくても、この記事を記録する必要があったのだろう。直接の弟子が全員亡くなるそのある意味で危機的な状態のなかでの、引用句の重さを感じる。直接の証言者としての役割を全うした最後のひとことなのであろう。 Acts 1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 土地を購入したことが書かれている。何のためなのだろう。家族がいたのではないだろうかと考えてしまう。どのような将来を思い描き、希望をいだいたのだろうか。お金として、手元に置いておきたくなかったのかもしれない。「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタイ27章5節)マルコには、ユダのその後の記述がないことを考えると、ルカはマタイによる福音書の存在を知らなかった可能性がある。マタイとルカ(使徒言行録をふくめた)の成立年代はどちらが先か不明のようだが、ほぼ同時期、または、ルカのほうが早いことの傍証なのかもしれない。ルカのほうが早いとすると、すくなくともマタイによる福音書を編集してまとめたひとたちは、ルカ文書を読んでいたとしても、マタイ証言をたいせつにしたのかもしれない。収税所に関わったものとして、お金の管理について、ユダとの交流も多かったかもしれないので。いずれにしても、この不一致について、もうすこし考えてみたい。 Acts 2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 中心的な証言は「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」だということである。このあと「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」(23)「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(24)と証言している。使徒たちのイエスについての証言のひとつの形式だったのかもしれない。イエスのメッセージはどのように伝えられたのだろう。「奇跡と、不思議な業と、しるし」とあり、福音の内容は、語られていない。福音書を記したルカはどのように考えていたのだろう。43節以降にあるような、実際の生活による証が核だと考えていたのだろうか。異邦人にとっては、重要な、新しいことだったかもしれない。 Acts 3:15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。 「美しい門」に置かれていた生まれながら足が不自由な男のいやしに関する記事である。これは「イエスの名」「その(イエスの)名を信じる信仰」「イエスによる信仰」(16)と続けて証言している。このあと、イエスがメシアであること(18, 20)モーセが予言した「わたしのような預言者」(22)また「ご自分(神)の僕」(26)と証言している。イエスがどのような方であるかを証言することがまず第一なのだろう。イエスの名だろうか。 Acts 4:33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 使徒たちはどのような証言をしていたかに関心を持った。直前の祈りの中で「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(29,30)と言っている。しかし、御言葉については、あまり記されていないように思われる。それと比較して、イエスの名が述べ伝えられること、それも「病気がいやされ(iasis)、しるしと不思議な業」によって。証言は「復活の証」なのか。福音書の内容と異なっているように思われるが、どうなのだろうか。ルカは、使徒の行為を中心に描いたからだろうか。イエスがどのように、この地上で行動され、語られたかは、使徒たちによって、ていねいに伝えられていなかったのだろうか。 Acts 5:17,18 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 「ねたみ」と表現されている。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(マタイ27章18節、参照:マルコ15章10節)使徒言行録には「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」(13章45節)「しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。」(17章5節)ねたみを引き起こすものはなんだったのか。「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」(13,14)しかし、この背景には、やはり力ある業、しるしがあったように思われる。これらこそが不可欠なのだろうか。現代ではどうなのだろう。 2019.10.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 使徒言行録(訳によっては、使徒行伝、使徒の働き、などとなっています)はいかがですか。ユダヤ人たちの反対にあい、最初の殉教者がでます。使徒言行録の後半は、その場にいあわせたサウロ(第一回伝道旅行の際にパウロと改名)が中心となって話が進んでいきます。途中から「わたしたち」という主語が用いられ、記者のルカもある部分パウロに同行していたのではないかといわれています。目撃証言、その場にいるような記述が各所にみられ、そのことも、ルカが同行していたことを裏付けていると言われています。パウロは、どのようにして、使徒となり、なにを伝えていったのでしょうか。書簡と比較することも、たいせつかもしれませんが、まずは、ルカが記している、パウロたちの宣教について、読み取っていただければと思います。他のイエスの弟子達は、あまり登場しなくなりますが、その人達は、どのような活動をしていたのでしょうか。キリスト者といわれるひとたちは、どのように、形成されていったのでしょうか。そして、どのようなことが、大きな課題だったのでしょうか。問いを持ちながら読んでいただければと思います。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 使徒言行録6章ー使徒言行録19章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Acts 6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。 ここでも、不思議な業とある。「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。」(9)とあるが、これも、ねたみだった可能性が強い。最初の殉教者となるステファノ、衝突は避けられなかったのかもしれない。いつのことだかは、記されていないが、それほど時がたってからではないように思う。難しい。 Acts 7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(52)とは、言っているが、イエスの証言には至っていないと言ってもよいかもしれない。おそらく、このあとに、続くのだろうが、なぜ、イエスのことを中心に語らなかったのか。イエスが示したしるしについて、語らなかったのか。不明である。礼拝の場所については、何回か述べている。正直よくわからない。 Acts 8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。 福音がどのように伝えられたかに興味がある。ここでは「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」とある。イエスについての福音である。この章から、少し拾ってみると「福音」(4)「キリスト」(5)「しるし」(6)「人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(17)「主の言葉を力強く証しして語った」(25)すでに多様なことが書かれている。これだけでは、主要なことを決めるのは、困難である。 Acts 9:18,19a すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 このあとにも「しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。 」(22)とある。画期的であると同時に、不自然でもある。わたしには、サウロの中での正しさと、価値観が大きく変わったことは認められるが、ひとが創り変えられるには、やはり時間がかかるのではないかと思わされた。「食事をして元気を取り戻した」は、非常に現実味がある。「うろたえさせた」(22)も理解できるように思う。 Acts 10:28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 明確な啓示をうけたことを証している。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(15b)をより明確に表現している。さらに、応答としてコルネリウスは「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。」(31)と祈りの中で聞いたことを伝えている。コルネリウスについては「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」(2)とあるが、これが何を意味しているかは、明確ではないように思う。しかし、おそらく、ユダヤ教シンパだったのだろう。神学的にどう理解するかはわたしには、わからないが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」(34)に本質が有るように思われる。天の父のみ心を行うひたとちが、イエスの兄弟姉妹なのだから。そして、その根拠として、知識に基づいた判断基準を持ち込むときは、気をつけなければならない。イエスの名も、信仰告白であるように、思われる。 Acts 11:15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 あまり厳密に考えて、神学を作り上げるよりも、ここでの喜びをうけとることがたいせつなのではないだろうか。異邦人のルカはおそらくそのことを描写しているだろう。そして、現代は、包摂性など、ひとの考え方も、すこしずつ深まっている。それを通して、神様のみこころを理解することがたいせつであると思う。キリスト教とはことなると言われるかもしれないが、それはそれでよいのではないだろうか。真理を求め続けていきたい。 Acts 12:1,2 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 このあとの、ペトロが捕まり、主の天使に導かれて牢から奇跡的に出てくることができたこと(7-10)を記述することが主なのではあろうが、唐突である。「ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。」(19)とあり、ヤコブ以外にも、「番兵たち」も殺されたことが記録されている。理不尽である。最後には、「ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。」(20)ことと、「ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。」(23b)ことが記されている。ヘロデの行動の背景にあるものは何なのだろうか。「主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。」(23a)と記録されている。さらに、ルカは「神の言葉はますます栄え、広がって行った。 」(24)と締めくくっている。冷静に、神の働きを認めているのだろう。この世のことを相対化しているからだろうか。難しいテーマだが、また考えてみたい。 Acts 13:9-12 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。 個人的には、やはりアナニアとサフィラの記事(5章1節から11節)も、この記事も、嫌いである。わたしは、イエス様は、そうはされなかったと思う。律法学者などを批判はされても、メッセージを語り続ける。サウロも目が見えなくなった時期があったので、「時が来るまで」に期待を寄せるが、結末は書かれていない。攻撃をしない唯一の武道と言われる合気道の達人の塩田剛三は「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたと、ネット上の各所に書かれている。イエスはそうは答えなかったろうが、互いに愛することは、正しさでは実現しない。共に喜び、共に泣くことは、裁きによっては得られない、どうすればよいか、むろん、わたしは、その答えも鍵も持っておらず、塩田のような技の習得もできそうにないが。 Acts 14:4-7 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、そして、そこでも福音を告げ知らせていた。 どこでも、反対にあい、暴力である。イエスも、反対に会い、最終的には殺されている。しかし、やはり、イエスの行動とは、異なるものを感じる。教えることと、癒やすことだろうか。人々に仕えることと言っても良いかもしれない。それは、福音の本質的な部分ではなかったのか。「徴税人や罪人」と共にいること。罪人を招くことである。これは、異教の偶像礼拝を直接的には意味していないように思う。イエスは、このような状態を望んでいたのだろうか。ひとつのステップとして許容していたのだろうか。もっと広い視野に立って。本当にそうだろうか。 Acts 15:29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」 20節にある、ヤコブの提案とほぼ同じである。ヤコブの指導力が強かったことが推測されるとともに、ヤコブが同意していることを示すことも、重要だったのだろう。このように明確に記されていることからすると、使徒言行録が書かれた頃には、この条件が生き続けていたのだろう。完璧ではないにしても、ユダヤ人キリスト者との交流を考えると、重要な要件であったことも、ある程度残った理由であるように思う。律法主義が残っているとも言えるが、律法主義からの解放だけに縛られてもいないともいえる。 Acts 16:26,27 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。 看守の価値観からすれば、囚人が逃げないように見ている責任を担っており、そこに、人生をかけ、それによって、家族も、人生の目的もあると考えていただろう。非常にまっとうな人間である。その責任が果たせないとすると、自分の存在の価値もないと考えたのかもしれない。責任を自分が負うことで、家族には及ばないことを願ったのかもしれない。しかし、ここから人生が変わる。人生の目的が、神様のもとに引上げられたということだろう。神様のみこころをしっかりと求め続け、一日一日を生きる人生でありたい。神のこころを心として生きたい。 Acts 17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 「これ」はおそらく「創造」にかかわる「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」(26)であろう。ローマ人への手紙1章20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」が視野にあるだろう。しかし、本当に神を見出すことができるのだろうか。イエスによって、示されたとわたしは信じているが。ここでも、偶像礼拝排斥に至っている。相手に敬意を表す語り口であるが、下心も透けて見える気がしてしまう。謙虚にていねいに読んでいきたい。 Acts 18:11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。 使徒言行録に記録されているパウロの滞在期間としては、長い方である。(「一年」11章26節「二年」19章10節「三年」20章31節「二年」28章30節)宣教の初期において、少しずつ、居を移して、伝道することが重要だったのだろう。イエスも、公生涯は、一年半から三年と言われる。しかし、ひとが成長する期間としては、まったく不十分である。考えたいことがたくさんある。学ぶということの重要さだろうか。そしてそれは、一生続くものである。 Acts 19:26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。 おそらく、偶像についてパウロが厳しく語ったことは事実だろう。「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」(17章16節)「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(17章24節)偶像の問題は、ていねいに考えるべきである。そのひとがたいせつにしている、生活の一部、文化でもあるから。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 」(14章15節)もパウロの言葉であるが、「生ける神に立ち帰る」ことが宣教の内容だったかもしれないが、神の御心に生きるものとなることのほうが普遍的であるように思う。 2019.10.13 鈴木寛@垂水 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 使徒言行録(訳によっては、使徒行伝、使徒の働き、などとなっています)も最後の部分となりました。使徒言行録は、パウロがローマに送られ、そこでの生活が始まったところで終わっています。すこし、不思議な気もします。あまり、想像がたくましくなりすぎるのは、確かさがどんどん失われますから、適切ではないでしょうが、背景を考えてみるのも良いのかもしれません。 このあとは、通常、パウロ書簡といわれている、手紙に移ります。ローマの信徒への手紙から、フィレモンへの手紙まで、すべてパウロが書いたと主張する方々もおられる一方、実際に、パウロが書いたものは、いくつかに限られるとも言われています。読んでみると、その内容、文体、論の進め方など、わたしも、正直、同一人物が書いたとは思えませんが、ひとつひとつについて誰が主として書いたものかを論じることは、この通読ではできませんし、みなさんが聖書を読む目的でもないでしょう。ここでは、パウロ由来とすることとします。しかし、その中で、ローマの信徒への手紙は、パウロの代表的な手紙とされ、キリスト教の教理の中心的な部分を形成しているといっても過言ではないでしょう。個人的には、パウロの論理の進め方の特徴もあるので、いくつかの問いに関する記述を厳密な意味で、唯一のこたえと取る必要はないと思って読んでいますが、解釈はみなさんにお任せしましょう。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 使徒言行録20章ーローマの信徒への手紙5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録とローマの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ac ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Acts 20:20,21 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。 標準的であるとも言えるが、気になることもある。それは、わたしたちがしていることへの振り返りでもある。まずは、役に立つことから始めていること。イエスはそのように説いだだろうか。二番目に、神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰。このような表現が他にもあるのかは不明だが、これが、福音なのだろうかということ。しかし、パウロの宣教によって、多くのユダヤ人、ギリシャ人が、イエスをキリストとして信じるようになったことは確かだろう。イエスの福音との差異を考えてみたい。 Acts 21:4 わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。 「“霊”に動かされ」が印象に残った。ルカは重いことばとして記しているのだろう。使徒言行録は、ローマでの生活で終わっており、その後、パウロがどうなったかについては書かれていない。もし、このあと次のチャプターがあり、たとえば、イスパニアに行って宣教するようなことがあり、それを、ルカが知っていたとしたら、このように書いただろうか。パウロのその後について、ルカは知らないか、または、やはり、ローマで一定期間の後、「丸二年間」(28章30節)だろうか、これは、家に住んだ期間だから、それよりは少し長いだろうか、不明ではあるが、そのあと、殉教の死を遂げたのではないだろうか、と考えた。 Acts 22:14 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』」(9章17節)と多少変わっている。むろん、食い違っているわけではない。前は、聖霊によって生きていくことに、焦点があっているが、ここでは「御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるため」としている。使命が明確になったことを伝えているのだろう。おそらく、ここまでの長い時間の間で、その時のことが、明らかにされていったのだろう。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。 」(4)と証言している。その償いはないのかと、考えてしまうが、それを償ってあまりあることをしているということだろうか。このように、パウロたちに、殺された人の家族は、ゆるせたのだろうか。問を持ち続けたのだろうか。後者のような気がする。 Acts 23:11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 正直に言って「ファリサイ派とサドカイ派との間に論争」(7)を生じさせるパウロのやり方は支持できない。しかし、それは、パウロも一人の人間であったということである。パウロには、ローマで、できれば、皇帝の前で、証することこそが、神の御心だと固く信じていたということだろう。個人的には、たとえ、皇帝の前で証言したとしても、そして、皇帝が、改心したとしても、それが、神の前に、善しとされるこのなのかどうかわたしには、わからない。それは、わたしが、そのあとの歴史を見ているからだろうか。そうかもしれない。しかし、そうであったとしたら、神の御心を、どのようなものとして、受け入れるかも、少しずつ、変わっていくことも当然だろう。個人がそうであるように、ひとびとも、達し得たところにしたがって、歩み、成長ばかりではないだろうが、理解が深まることもあるだろうから。 Acts 24:14,15 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 これが、異邦人キリスト者すべてにも共通かどうかはわからないが、すくなくとも、タルソ出身のユダヤ人であるパウロは、このように証言したと、異邦人キリスト者のルカは書いている。『分派』と呼んでいるこの道のある説明であることは確かである。「(ユダヤ人の)先祖の神を礼拝」「律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ」「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いている」三番目は、パウロの原体験に基づく、核となる部分であると同時に、この弁明に関することでもあるが「彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだ」(21)、一番目と二番目については、おそらく、現代のキリスト者は、表現を変えるか、修正するであろう。「則した」と少し弱めた訳を使っているあたりに関係しているだろうか。他の訳はいろいろなようである。 Acts 25:25 しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。 かなり詳細にかかれており、ルカの目撃証言なのかもしれない。むろん、護教的な面を排除することは困難であろうが。最後に「囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」(27)とあるが、護送という経費もかかることを実行するために、常識的に考えて、これは、当然のことだろう。被告の希望だけで、皇帝に上訴できるというのも、不思議である。ある判決に対する(現在のことばでいうと、上級審への)上訴であろうから。パウロの上訴も、わたしには、理解できない。それが神にみこころだと、どのように理解したのだろうか。直接啓示に根拠を置くのも、不自然である。 Acts 26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 サウル回心記事の三つ目である。(9章・22章)ここでは、主からの啓示としての、パウロの使命が語られている。一つ目が引用箇所である。ここには「見たこと」とともに「わたし(復活の主イエス)が示そうとすること」の二つが書かれている。後者をどう理解するかは幅もあるだろうが、パウロ書簡の内容も含まれるのかもしれない。疑問が起こるのは、聖書が神のことばだと証言するときに、このことばを根拠(の一つ)とすることである。証人としての正当性にも、問題がある。内容が、この節に続けて書かれているが、それも、直接啓示なのだろうか。正直よくわからない。 Acts 27:24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 神からの天使が告げたとしている。26章24節の「これからわたしが示そうとすること」が確かであることを立証する意味も持っているのかもしれない。むろん、危険性も感じるが。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださった」これを受け取ることは、大きな責任を担うことではある。これが、あるカリスマ性をうんでいくのかもれしれない。宗教には、危機におけるとくべつのリーダーシップは、このようにして育まれるのかもしれない。そう考えると、それ自体を云々することはできないようにも思う。 Acts 28:18,19 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。 パウロ側の理由を、ルカが記しているが、これが、上訴の理由だったのだろうか。当時の裁判がどのように行われたかはわからないが、総督として着任したばかりのフェストゥスの判断が揺れていたのかもしれない。(25章)少なくとも、パウロを支援する弁護団は組織されなかったことは確かである。エルサレムのキリスト者たちにとって、パウロはどのような存在だったのだろうか。(21章17-26節)まだ、キリスト教会は、力不足だったとはいえ、そのあたりも、影響していることになる。現代では、どうだろうか。戦争中の困難なときに思う。 Rm 1:10,11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。 これこそが動機だというのは、励まされる。正しさによって、説得することではない。むろん、パウロのこれまでのあゆみから、それこそが、パウロができる貢献だったろうが。ローマの信徒への手紙がいつ頃書かれたかは、明確ではないが、あるていど、遅い時期であったろう。通読では、困難ではあるが、丁寧に、いくつかのことを学ぶことができればと願う。 Rm 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 ここで「律法を実行する者」は何を意味しているのだろうか。この章は「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(1)とあるが、内容は明確とは言えない。パウロの論旨は「律法を持っているというだけではだめだよ」ということだろうが。ヨハネは「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(1ヨハネ3章23節)とこれだけでよいのと思うぐらい凝縮しているが、パウロはそうではない。異邦人の中で宣教していると、眉をひそめたくなるような行為がたくさんあったのかもしれない。しかし、それは、裁くことでもある。やはり、律法がなにかを明確にする必要があるように思う。それは、現代の教会においても、おそらくそうだろう。ヨハネのことばも、それが文字としての律法になってしまうと、問題を生じるのだろう。ゆっくり考えたい。 Rm 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 これが神の義であると、パウロは示している。福音書で、語られているイエスは、このことについて、特に、共観福音書では、非常に限定的にしか語っていないこと、ヨハネでは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 」(ヨハネ15章13節)と、愛こそが中心にあることを示しており、表現はかなり異なる。説得的ではあるが、この解釈のかなりの部分を、パウロへの直接啓示に根拠をおかずを得ず、問題も残るように思う。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(31)とあるが、律法の確立が、何を意味するか、明確とは言えない。 Rm 4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 この章には、多くのことが語られている。しかし、それでも、「彼(アブラハム)の信仰に従うもの」として、異邦人も加えることで、あいまいさも取り込むことになっている。アブラハムの信仰を別に、規定しなければいけないからである。それは、それほど、重要ではないとするのも一つの見方である。ここでは、「律法に頼る者(律法に立つもの(口語))」以外について書かれているのだから。信仰については「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(21)とあるが、信頼、神にこそ希望をおくという表現のほうが近いかもしれない。 Rm 5:5,6 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 希望の根拠が、まず「神の愛」であるといい、その根拠だろうか、もとにあるのは、キリストが死んでくださったこととしている。イエスではなくキリストと表現している。パウロにはひととしてのイエスの地上での生活は頭にないのだろう。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(18)は、啓示以外の根拠は見いだせない。パウロはこのように納得したのだろうが、それを動かすことのできない(これに反することは異端とする)教義としてしまうことには、問題をも感じる。イエスが、死に至るまで、わたしたちを愛してくださったという証言は、確かなものとして伝わってくるが。 2019.10.20 鈴木寛@大村(長崎県) ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ローマの信徒への手紙を読み始めました。いかがですか。一章の中にたくさんの要素が含まれていることもあり、通読で十分理解することは難しいかもしれません。大枠としては、問いに対して、答えている形になっていますから、どのような問いについて考えているのかを、確認しながら読むことがたいせつかと思います。すると、知っている言葉も、それが語られた背景を知ることで、より深い理解が得られるかもしれません。また、難しくて、よく理解できないこともあるかもしれません。そのときは、気になる言葉や、節をわたしは、記録しています。その言葉を突破口に、次に読むときには、すこし、理解ができるようになるかもしれません。この通読では来年にもローマの信徒への手紙を読みます。次に読むときの課題や糸口も得られると良いですね。 コリントの信徒への手紙は、かなり雰囲気が異なります。ローマの信徒への手紙は、パウロが一回も訪問したことがない人達に書いていますが、コリントの信徒への手紙は、すでに訪問し、よく知っている人たち宛に書いています。それも、それほど、訪問からときがたっていないようです。具体的な問題について語られていることが多く、その意味ではわかりやすいとも言えますが、パウロとコリントの信徒の共通知を十分は知り得ない面もあり、その時、その場に依存したこともあるでしょうから、その意味で、理解が難しいこともあるかもしれません。手紙は通常、ある目的をもって書きますから、何がその課題かを考えながら読むと良いかもしれませんね。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ローマの信徒への手紙6章ーコリントの信徒への手紙一3章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ローマの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rm コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Rom 6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。 厳密にではないのかもしれない。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 」(1)という問に、わたしは、別の説明の仕方をするかもしれない。厳密性は、問うてはいけないのかもしれない。神様との関係が新しくされたものとして、御心にいきること、神のこころを心とすることこそが、本質なのだから。1節の疑問は、ひとつの議論のねたに過ぎないのだから。 Rm 7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 パウロは「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(15b)とのべ、その理解として、心と肉を分離する、二元論に向かっている。ギリシャ哲学的背景があるのだろうか。危険である。ひとは、トータルな、全人的なものであるはずだからである。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、 」(22)とあるが、人間とは元来複雑なものである。人のことを理解できないだけでなく、自分のことも、理解は困難である。 Rm 8:22,23 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 この章は霊肉二元論の背景があるように、思われるが、完全に分離しているわけでも無いようである。この節では、被造物と霊の初穂という表現が使われている。パウロの宣べていることを正確に理解する努力はたいせつなことであっても、それを絶対化することの危険性を感じる。ひとつの説明なのだから。 Rm 9:19-21 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 古典的な問題である。神が全知全能なら、ひとの責任は何なのか。神の責任を問い、全能の神が、人に責任をもとめる理不尽さを訴えることができないことは、ある程度は、理解できる。ここでは、焼き物師の例を挙げている。「貴いことに用いる器」「貴くないことに用いる器」は、表現としても問題があるように思う。さらに、焼き物師は、ひとつひとつを端正をこめて作るという方が、適切なのでは無いだろうか。 Rm 10:17,18 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 それほど、二分してしまうものであるなら、信仰による義は、キリスト以前から、知らされていなければいけないのではないかとの問いへの応答である。しかし、キリストの言葉を聞くことにより、と福音の確信を語ると、やはり、最初の問いの答えにはならない。イエス以前は、どうなるのだろうか。直前の「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(16)からすると、神に信頼する道はつねに開かれていたともとれる。すると、「キリストの言葉を聞くことによって始まる」はどう解釈すれば良いのか。福音書にある、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3章35節)のほうが、ずっとすっきりしているように思われる。 Rm 11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 ユダヤ人がすべてでは無いが、残されて者がいること、異邦人の救いも、ユダヤ人のねたみをおこさせることとなったこと、最終的には、イスラエルが救われるにいたることが書かれ、最後に、この節で結ばれている。ひとつの説明・理屈ではあっても、人々に、受け入れられたのだろうか。最後の節に対しては、おそらく、多くのひとがアーメンと答えたと思われるが。ダライ・ラマは次のように言っているらしい。「キリスト教の創造や神の概念は、仏教とは違う。その違う面を理屈の上でなんとか一緒にしようという努力がすべて無駄であるとは言えないが、それよりも、違いにこだわらずに棚上げして、合致するところを尊重して世界の苦しんでいる人々のために前進していくべきだ。」わたしは、いま、このダライ・ラマに同意する立ち位置にいるように思う。すでに、キリスト教ではないと言われれば、そうかもしれない。 Rm 12:15,16 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 「自分を過大に評価してはなりません。」(3b)とはじまっている。おそらく、そうではない状況を想定しているのだろう。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(5)としているが、それを、実現させる鍵が問題である。それを、この引用箇所が示しているように、思う。簡単ではないが、原則と、どのようにすべきかと二段階で示している。表現が現代的に適切かどうかは別として、考えさせられることが多い。 Rm 13:8-10 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 学ぶことが多い。これらのことばで、ヨハネの福音書とつながっているように思われる。他の、パウロの、ここまでの議論に圧倒されない方がよいのだろう。論理的に考えられることばで書かれているために、それを論理的に理解することにはまってしまうのかもしれない。いつか、丁寧に、学んでみたい。 Rm 14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 このようにして、ひとり一人が、主のしもべであるのだから、誰も裁いてはいけないと続く。ひとり一人、達し得たところに従って、生きている。しかし、勝手に、自分のために生きているのではなく、主のために生きているのであれば、そのような個人を裁くことは、主の僕を裁くことと、続いている。すこし、理解してきたように思う。ただ、危険性も感じる。自分勝手か、自分のためかは、客観的にはわからない。独立性をつよくしすぎている心配も感じる。 Rm 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 ヨハネ13章34節を思い出させる。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ここでは、「愛した」が、「受け入れてくださった」と言い換えられている。「愛した」を Welcome 歓迎してくださったととれば、ほとんど同じ意味である。おそらく異なるとすると、ヨハネは「新しい掟」として、注目を促し、パウロは、一連の関係するテーマの中で述べていることだけだろう。もう少し、丁寧に理解していきたい。いつか、ローマの信徒への手紙も聖書の学びとして取り組んでみたい。 Rm 16:17,18 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。 具体的に、どのようなことが背景にあるかわからないが「不和やつまずきをもたらす人々」は、少し理解できる気がする。そのようなひとたちを「自分の腹に仕えている」と表現している。わたしも、不和や、つまずきをもたらすこともあるように、思われる。自分を省み、自分の腹に仕えているのかどうか、うまい言葉や、へつらいの言葉を使って、ひとを欺いていないかを、自らに問いたい。 1Cor 1:8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 この前の節で「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(7)となっている。この希望が完全なものにしてくださるといっているのだろう。フィリピ1章6節の「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」ともつながっている。成長がここに書かれているのだろう。「完全なもの」「非のうち所のないもの」は「神の子」と言えるものなのかもしれない。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(1ヨハネ3章2節) 1Cor 2:16 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。 聖霊は、神の霊であるから、聖霊を受けていれば、神の霊によって、神の心を知ることができる。すなわち、神のこころを心とすることができるのである。しかし、現実には、正直、そうは言えない。ということは、聖霊を受けていないと言うことだろうか。当時の人々はそれをどう考えたのだろうか。これも、からしだね一粒ほどの信仰なのだろうか。一部、与えられているのだろうか。 1Cor 3:21-23 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。 わかりやすいとは言えない。「あなたのもの」とは何を言っているのだろうか。すべては、あなた方のために、キリストに捧げられたものだということだろうか。ここでは、パウロ、アポロなどの名前をあげて、優劣争いをしているように、思われる。分派だろうか。すべて、神のものであるならば、本当にばからしいことである。しかし、おそらく、現実の問題があったのだろう。分派をおこすほどのことが。なにかは、わからないが。 2019.10.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙一・二を読み始めました。ローマの信徒への手紙とはかなり雰囲気が異なっています。コリントの信徒への手紙では、一般的な言葉が使われても、その背景として、具体的な課題や、伝えたい内容があり、同時に、受け取り側も、それが何を意味しているか、明確に理解できる場合と、推測できる場合があったのではないでしょうか。お互いに、知りあいで、共に、生活をした人たちだからです。さらに、パウロの宣教によって、イエスとキリストと告白するようになった人たちがかなりおり、またそうでない人たちも、かなりの人数いたようです。残念ながら、わたしたちには、すべての背景がわかるわけではありませんし、パウロの語っていることが、すべて当てはまるわけでもないでしょうが、もっと普遍的な問題に対する考え方に関係しているかもしれません。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コリントの信徒への手紙一4章ーコリントの信徒への手紙二1章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr1 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Cor 4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 パウロとアポロ(6)がまず想定され使徒について書かれているようだが、引用したことばは、かなり強いように思う。「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」としている。神の計画をひとのことばで伝える者だろうか。ゆがめられてはいけない。それが「管理者に要求されるのは忠実」(2)に現れているのだろう。そして「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」(9)と述べている。ある程度は理解できるが、委ねられている範囲をどのように受け取るかまで自己決定できると言っているようで、委託とはなにかについて考えさせられる。責任を大きく取り過ぎているのではないか。使徒がそれだけ特殊なのか。みことばに仕える者はすべてそうなのか。ここでは、パウロとアポロと言っているところからすると、後者を否定することは難しいだろう。 1Cor 5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 絶対的基準はあるのだろうか。当時の理解について、わたしは何もわからないので、コメントできないが、「父の妻をわがものとしている」ことが「みだらな行い」かどうか、絶対的なものなのだろうか。一夫多妻制など、クリスチャンに迫害されたモルモン教徒の場合などを思い出す。旧約聖書の基準からは、明らかな律法違反である。しかし、その律法には、族長たちにも見られた行為も含まれている。引用句にあるように「異邦人の間にもないほど」と言っているが、当時として、異常だったのだろう。ある相対的な価値判断の中での強い言葉なのか、普遍的なものなのか、おそらく、パウロは、そのような比較はしなかったのだろう。全体として、この問題がどのように扱われたが、問われるべきだろう。すべてが、ここからわかるわけではない。 1Cor 6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。 口語でも「正しくない」ということばが使われている。「教会では疎んじられている人たち」(4)とも言い換えられている。世のことと、霊的な問題を分離している、福音は、信仰は、特定の部分のみに、関係するとする人たちを戒めているのだろう。しかし、拡大解釈すると問題も起こる。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。」(5b)とも言われているが、複雑な問題が多く出現するなかで、そして、専門化が進む中で、どんどんこの状態が広がっているようにも思う。どうすれば良いのだろうか。おそらく、切り分けることではなく、両面をていねいに対応していくことなのだろう。もしかすると教会の外と中と分けるのではなく、トータルな考え方も必要なのかもしれない。 1Cor 7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。 興味深い。これは、夫婦間のみにあることなのだろうか。キリストとつながっている交わりに入ることで、聖になるということは、ないのだろうか。この節の論理も明確とは言えないと考えると、注意して議論したほうがよい。しかし、その前に、「聖なる者とされている」とはどのような意味なのかを確認することだろう。主との交わりが許されているということであれば、最初から制限がないのではないだろうか。主によって。 1Cor 8:11,12 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 徹底している。偶像に捧げられた肉の問題は、他の見地もあるだろう。しかし、パウロは、人の義と神の義を自由人としての行動を通してここで説明しているように思う。明確な言葉では書けないが、限定的な人の義は、ひとを生かすものではなく、神の義は、ひとを救い、解放し、自由を得させ、他の人への愛をとおしての、他者の救いへと向かわせるものなのだろうか。 1Cor 9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 使徒言行録だけを根拠に考えると、パウロがコリントを訪問したのは、エルサレム会議のあとの、第二回伝道旅行であったはずである。そのときには、すでに、バルナバとは別れて行動したことが、15章に書かれている。しかし、ここでは、「わたしとバルナバだけ」と、バルナバを特別に例示している。背景は、いくつか可能性があるだろうが、この手紙の時点でも、ある信頼関係があったと思われる。使徒言行録に記録としての不正確さがある可能性もあるが。 1Cor 10:16,17 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。 出エジプトの民の例をあげ、その人達も皆、「同じ霊的な食物を食べ」(3)「同じ霊的な飲み物を飲みました。」(4)とし、その上で「偶像を礼拝してはいけない」(7)と戒めている。わたしたちは、キリストの体にあずかっているのだから、偶像に献げられた肉に関しても、キリストと一つでとされているものとして、考えなさいと言っているのだろう。この中で13節「逃れる道をも備えていてくださいます。」については、わたしは、よく理解できていないようだ。いつか、じっくりと学んでみたくなった。ここは、何を伝えたいのだろうか。 1Cor 11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。 当時の背景を理解しないといけないだろう。それだけではなく、おそらく、このように書くのは、背景にコリントの人たちの間に混乱と問題が生じていたことがあるのだろう。手紙の難しさは、そのことを、当事者(差出人と受取人)はある程度共有しているが、わたしたちは、正確には理解し得ないことである。パウロのことばとしても、論理的整合性が高いとは言えない。「というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、」(8)と言っている一方「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」(11,12)ルールとして語っているのではないからだろう。あるメッセージを伝えようとしている。結局の所、問題は、これをどのように、我々がうけとり、どのように、解釈するかの問題であろう。 1Cor 12:19,20 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 教会の全体主義に進んでいってはいけない。ここで言われていることは、wholeness だろうか。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(26)と表現されるものである。原理主義的に考えず、共に苦しみ・泣き、共に喜ぶことに、キリストの体をつくっているというパウロの原点があるのだろう。そこを失ってしまうと、単なる全体主義に陥ってしまう。「全体」という架空のものに「部分」が従属するということに。この次にある、愛が働いていなければ、すべては虚しい。 1Cor 13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 「どのようなことであったとしても-愛がなければ無に等しいのか」を考えた。おそらく、この前の12章につながっているのだろう。「教会がひとつになっていたとしても」「それぞれが賜物をもって、立てられていてもだろうか。」パウロの思考の中でも、伝えたいメッセージを明確にするために、誤解をさけるために、いろいろなことを述べていく中で、この13章が生まれているように思われる。「愛がなければ、わたしに何の益もない。」(3) 1Cor 14:13-15 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。 これだけ、異言について書かれているということは、おそらくかなりの問題が生じていたのだろう。そのことを、多少割り引いて読むべきなのかもしれない。霊と理性が対比されている。解釈までも求められれば、異言が語れなくなる場合もあり、困惑する人も出てきたろう。ただ、パウロの論理も、明確とは言えない部分があるように思う。「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。」(22)と書きつつ、同時に「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。」(23)とし、ここでも、預言を推奨している。現代にも通じる教えではあるが、あまり強調しないほうがよいかもしれない。大きな問題を生じるまでは。預言も理性の部分も同様に、問題を生じるだろうから。 1Cor 15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 かなり丁寧に、「キリストが復活しなかったのなら」の帰結を、書いている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」(3)とキリストの死からはじめる、パウロにとっては、たしかにそのとおりだろう。これは、アテネで受け入れられず、コリントに来て、そこで語ったときから、「最も大切なこととして」伝えたことなのだろう。イエスの地上での生活に目を向けない。「地の塩、世の光」のメッセージはない。しかし、フィリピの信徒への手紙では、イエスの謙虚さを丁寧に述べており(フィリピ2章5節-8節)十字架の死に至るまでのイエスにも、多少光を当てている。パウロの中でも、変化がある程度はあったと、見るべきなのだろう。 1Cor 16:1 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。 正確にこの手紙がいつ書かれたかは不明であるが、宣教後、ある程度早い時期にエルサレム教会のための、募金を指示しているようだ。宣教の途中でも、エルサレム教会の支援が大切であることを、折に触れて語っていたのだろう。パウロの負い目、戦略とも言えるが、コリントの人たちにとっては、それが可能なだけではなく、とても、重要と考えていたのだろう。実際に、どの程度の献金が送られたかは、不明であるが。 2Cor 1:5,6 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。 「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」これが、パウロの苦しみの解釈なのだろうか。表現のしかたは、すこし気になるが、神の技、キリストの命に与ることは、苦しみにも与ることと理解していたのだろう。すべて、直接的な神からの慰めなのだろうか。この書では、コリントの人たちを通しても、慰めをうけたのではないだろうか。ていねいに読んでいきたい。 追伸:先にご案内した「聖書の会@万座温泉2019(11/28-12/1 の一泊から三泊)」には、現在、28名の参加者が与えられており、昨日、申し込みをされた方には、参加者リストをお送りしました。まだ、申し込まれていない方で参加をご希望の方、または申し込んだはずなのに、わたしからは連絡を受け取っていない方は、ご連絡ください。 2019.11.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コリントの信徒への手紙二を読み始めました。この前に、コリントの教会の人たちに、手紙が書かれていることがわかります。すでに読み終わった、コリントの信徒への手紙一かもしれませんし、他にもあるのかもしれません。コリントの信徒への手紙一のほうは、パウロとソステネからとなっており、コリントの信徒への手紙二は、パウロとテモテからとなっており、具体的な問題や心配事について、書かれています。他の仲間から情報をえていることもあるようですね。スタートしたばかりの信徒グループについて、わかりますが、現代でも似た状況があるのかもしれません。同時に「成長」とひとことで言えるかどうかは不明ですが、理解が深まっていったり、変化していったりを感じ取ることができるのではないかと思います。 コリントの信徒への手紙二の次には、ガラテヤの信徒への手紙を読み始めます。ガラテヤは、現在のトルコの地域名です。パウロたち一行が宣教した地の人たちに、いちばんたおせつにしてほしいことを、確認しているようです。それは、どのようなことでしょうか。実際に、ガラテヤの信徒への手紙全体を読みながら、パウロがいちばんたいせつにしてほしいとねがったことは何なのか、自分のことばで表現してみるのも良いかもしれません。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コリントの信徒への手紙二2章ーガラテヤの信徒への手紙2章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙二とガラテヤの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr1 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#gl 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Cor 2:4 あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。 1コリント5章1節から8節にある「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。」(3)のことであるかは不明である。第一と第二の手紙の間に悲しみの手紙があるとする説もある。第二はいくつかの手紙を編集したものだという説もある。引用した段落の背景にあることは、1コリントの内容からは、しっくりこないからであろう。問題の解決、裁きと赦しは本当に難しい。手紙が書かれたのが、パウロの宣教の最後の方ではないだろうこと、手紙という媒体だけでは、理解できないことが多いことを十分加味しないと単なる憶測となってしまう。聖典の一部となっていることの危うさを感じる。 2Cor 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです 正直、通読で理解するのは困難であるが、12節の「希望」がここにあるように思う。「主と同じ姿に造りかえられてい(く)」は、創造のわざと区別する場合と、その一部と考えることもあるだろう。しかし、主が働いておられることはたしかなのだろう。「神の子とされる」(ローマ8章23節)「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(1ヨハネ3章2節)「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(1コリント1章8節)これは、希望であることに、間違いがない。 2Cor 4:10,11 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 イエス・キリスト、キリスト・イエス、主イエス以外で、パウロ文書には「イエス」単独では、殆ど現れない。しかし、この4章には引用箇所以外に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(14)にも登場する。すべての用例を、原語にもどって確認してみたいが、ひととして現れ、肉体をもったイエスを表現しているようであるが、死と復活に偏っており、公生涯全般はやはり登場しない。パウロにとって、イエスの地上での生涯はどのようなものだったのだろうか。「神の似姿」(4)を肉体をとって地上を歩まれた、イエスを通して表わされたこと、そのイエスに似たものにと、なぜ、パウロは言わないのだろうか。彼独自の「使徒」召命の特異さからだろうか。 2Cor 5:15,16 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 なぜ、キリストを肉によって知らないかの根拠として書かれているようである。しかし、ひとつの解釈、説明としてしか、わたしには、受け取れない。具体的な生き様に、その実体があると思い、そのことを突き詰めたいからである。そして、福音書を通して垣間見ることのできる、イエスから、学ぶことは、とても大きいからである。キリストのこころを心とするために、イエスが地上を歩まれたその歩み(こそ)が鍵であるように思う。 2Cor 6:1,2 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 「恵みに無駄にしない」とはどのようなことだろうか。この結果として「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」(4)を意味しているようである。神のみ心を行う、み心に生きることに集中することなのかもしれない。「恵みのとき」とは、イエスによって真理が明らかになり、神の働きが顕されたことによるのだろうか。パウロは、もっと具体的なイメージを持っていたかもしれないが。いまの、わたしの告白である。 2Cor 7:7 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。 パウロは「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」(5)と告白している。その中で、一番、こころを捉えていたことではないが、コリントの状況をテトスが知らせてくれたことなのだろう。これは、6章2節にある「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」の背景でもあるかもしれない。パウロ自身ではなく、テトスであったことも良かったのかもしれない。同労者の目は、あたらしい視点を与えてくれる。実際の悲しみの手紙については、不明であるが、コリントの信徒への手紙一にあるようなこころを痛める事態が様々に存在したのだろう。神が様々な方法で、様々な人を通して働かれることを認めることは、めぐみに与ることでもある。 2Cor 8:3,4 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。 マケドニア州の諸教会(1)とあるが、フィリピ、テサロニケ、べレアだろうか。他にもあったかもしれない。使徒言行録16章11節から17章15節に開拓時のことが書かれている。また、「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」(フィリピ4章15節)ともあり、中心は、フィリピだったかもしれない。ユダヤ人の会堂はなかったと思われるので(使徒言行録16章13節)異邦人キリスト者がほとんどだったろう。なぜ、これだけの熱心さがあったのだろうか。自分のいのち自体が、ここにあるとまさに、献身していたのだろう。多く愛されたものは多く愛するのだろう。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7章47節) 2Cor 9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 献げ物のすすめは、単純ではないだろう。「喜んで与える」(7)ようになるには、どうしたら良いのだろうか。論理でできることではない。喜びは、恵みをうけとるところから来るのだろうか。神様の信頼である。そして、神様の御心の忠実であることを、確認することだろうか。自らを欺かないように。最終的には、自発性を保てるかどうかだろうか。 2Cor 10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。 この章には気になる表現が多い。引用句の前半も、2節以降も心配になってしまうが、「そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。」(11)も、14節以降の論理も、適切だとは個人的に思えない。このようなパウロを神はお用いになったことは、重要としても、すべて正しいとして、議論の中で聖書の権威をもちだし、教義の一部とすることに、疑問を感じる。そうすると、教義とするばあい、峻別することが必要であるが、その基準が明らかであるとは言えない。教父を含め、宗教改革者も、議論のために、聖書の箇所を取捨選択することもあり、同様の問題に陥る可能性があるからである。聖書をどのようなものだとするかは、難しいし、問題の大本にあるようにも思われる。最後に、パウロは、このように、聖書の一部として、彼の手紙が扱われることを望んだり予想したりしたのだろうか。 2Cor 11:32,33 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。 「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。」(使徒言行録9章23-25節)のことを述べていると思われる。この記事と、様々な困難を経験し、抱えていることを述べた箇所の間に「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(30)が挟まっている。どんどん、書いてしまったのだろうか。パウロの精神状態に同情はするが、学ぶことは多くはないと思ってしまう。なにか、悲しい。 2Cor 12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 これも、パウロのことではないのか。すると、一人の人を、この世の体と、霊的なものとを区別していることになる。これが、夢のようなものだったとすると、ここで語られることが適切なのか、よくわからない。ただ「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。」(7)とあり、パウロが受けた啓示との関係も暗示されている。どう理解したらよいのだろうか。パウロは、何を伝えようとしているのだろうか。 2Cor 13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。 パウロたちも、イエスとともに、十字架につけられた、その意味で「弱い」しかし、あなた方と共に対しては、神の力によって生きておられるキリストと共に生きているので強い、と言っているのだろう。ただ、一つ心配なのは、ここで「あなた方に対しては」と言われていることである。コリントの人たちは、十分プレッシャーを受けていただろう。強いと表現されるものは、キリスト共に生きるとは、何なのだろうか。 Gal 1:8,9 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。 ことばが非常に強い。これがカリスマ性であり、キリスト教は、パウロのこのような性質に依っていることが多いことは確かだろうが、イエス様とは、だいぶ異なるとも思ってしまう。「わたしたち」の正しさが前提である。イエスは、ことばと業とを信じるように促し、そのように生きられたように思う。「呪われるがよい。」が二回繰り返され、ここに愛は、感じられない。 Gal 2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 この前の段落で、ペトロやバルナバへの批判が書かれている。「なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」(12)ここには、理解の違いがあったろう。そして、愛することが何なのか、正しい福音として伝えることは何なのか。ケファがそのことについて、明確に意識できていなかったことはあるだろう。しかし、行動原理は、律法を守ることをたいせつにする、イエスを主とするユダヤ人をたいせつにするものとして、相互理解を育むべきではなかったのか。おそらく、パウロも、少しずつ、そのことを理解していくのだと思われるが。 追伸:先にご案内した「聖書の会@万座温泉2019(11/28-12/1 の一泊から三泊)」には、現在、29名の参加者が与えられております。まだ、申し込まれていない方で参加をご希望の方は、ご連絡ください。 2019.11.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ガラテヤの信徒への手紙の残りの部分を読み、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙と、パウロ由来の書簡を読み進めます。エフェソの信徒への手紙など、パウロの頃よりも少しあとの時代のものではないかと議論されているようですが、わたしは、専門家ではありませんし、聖書以外に一世紀の関連資料が多くはなく、確定することは困難でしょうから、ここでは、議論しません。しかし、それぞれの手紙を読むと、初代教会といわれる、キリスト教の信徒集団の初期にも、多くの問題や課題があったことは、わかると思います。それらの課題の多くは、現代にも通じるものが多いように思います。そして、必ずしも、当時の方法が適切とは思えない場合もあります。しかし、それでも、学ぶことは多いように思います。みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。 みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ガラテヤの信徒への手紙3章ーフィリピの信徒への手紙4章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙とフィリピの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#gl エフェソの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ep フィリピの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ph 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Gal 3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。 これは、かなり際どい問いである。パウロは、福音書でのイエスのメッセージをどう考えているのだろうか。「律法の実行に頼る」のではなく、信仰によって「神のみこころを行う」ことをどう考えているのだろうか。前の章にある、ケファのことの実態は不明であるが、信仰によって「神のみこころを行っている」可能性も否定できない。しかし、パウロはそれがゆるせなかったのだろう。一番の核を、再確認したかったことは確かだろう。律法を行うことから、離れないことを勧めれば、パウロは、そこまで迫害されなかったろうから。難しい。山上の説教もそのような問題意識も持って、学んでみたい。 Gal 4:24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。 この比喩も理解が困難である。おそらく、これも啓示なのだろう。しかし、このことが、人種差別をも産むとは言わずとも助長することも確かである。受け取り手には、ユダヤ人でイエスを主とした人たちと、異邦人でこの道に加わった人がいたようである。(8-11節)そう考えると、律法の扱いは、より複雑である。パウロは、それを単純化すべきだと考えたのかもしれない。しかし、それは、イエスの教えと変わってしまっているのではないだろうか。心配でもある。 Gal 5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 これがパウロの伝えたいことであるはずだが、そこには、とどまらず、強い言葉を言う。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 」(2)そして、12節。「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」(使徒言行録16章3節)この節との関係が取り沙汰され、使徒言行録の記述が誤っているのではないかとも言われる。それは、議論しないこととするが、2節以降の議論は、パウロの一つの論法であると取るほうが自然であるように思う。「愛の実践を伴う信仰こそ大切」なのだから。 Gal 6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 パウロが自分で書いている形式をとっている。これまでに書いたことの背景が書かれているのだろう。だからこそ、言葉が厳しくなっているのだろう。パウロのいないところで、混乱させるものが、動機も、ここに書いてあるようなことで、割礼を勧める。パウロはやりきれなかったろう。しかし、同時に、これを、教義として理解したり、他の聖書解釈にまで影響することは、冷静に対応すべきだと思う。パウロの苦しみを共有しよう。 Eph 1:17,18 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 このあとも続くが、牧会祈祷のようなものなのだろうか。「あなたがた」「聖なる者たち」そして「わたしたち信仰者」(19)について語り、最後には、「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(22)と教会にまとめ上げている。イエスのメッセージにおいて、これがどの程度明確なのか、確かめてみたい。もう少し、素朴に「わたしの天の父の御心を行う人」(マタイ12章50節)でよいように思うのだが。いまは、それに「達し得たところに従って」と付け加えておきたい。 Eph 2:14,15 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 「二つのもの」とは何だろうか。「双方」とも言われている。このあとには「両者」(16)「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも」(17)「わたしたち両方の者」(18)このあとも含めて、「外国人、寄留者」(19)と、「イスラエルの民」(12)を意味しているようである。「敵意」が理解できなかったために、確認したわけだが、そのような枠組みに置かれていると理解していたのかもしれない。結びつけるのは、イエス・キリストである。なかなか、すっとは受け入れられないのは「敵意」という言葉のゆえか、キリストをイスラエルの民と異邦人を結びつけるとすることへの抵抗感か、もうすこし、ゆっくり考えてみたい。 Eph 3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 この節に限らず、特に、14-19節の段落は、詳細はわからないが、とてもいまの教会に適合した、美しいことばであると感じる。同時に、イエスのことばではないだろうなとも思う。イエスは、このようなメッセージを伝えたかったのかどうか、正直よくわからない。福音の内容がだいぶん変わってきていることも感じる。どうしたらよいのだろうか。ていねいに、ひとつずつ読んでいきたい。 Eph 4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 やはり著作者について気になってしまう。1章1節には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。 」と、この手紙がパウロからであることが書かれ、共同執筆者のような、他の名前は現れない。3章8節aには「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」とも書かれている。また、囚われの身であることも引用箇所以外にも、3章1節にも「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」と現れ、ここでもパウロと明言している。しかし、同時に、批評家の分析を待たずとも、あまりに、文体が、ほかのものと異なる。特に、ローマ、コリント、ガラテヤといったものとは、かなり異なっている。メッセージ自体が、大きく異なるかどうかは、感想としてしか言えないが、それも、かなり異なっているように思うだけでなく、キリスト教会が、何十年かたったあとのような感じを受ける。いまは、このようにしておこう。パウロの名前を冠したことは、よいとして、なぜ、著者がパウロであるように、脚色されたのだろうか。それとも、どこかで直接ではないにしても、パウロとつながっているのだろうか。イエスの教えとだいぶん、異なる感じを受けることとともに、さらに、雰囲気として、現在の教会で利用している言葉と近いことも含めて、どう受け取ったら良いのか混乱してしまう。 Eph 5:1,2 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 ガラテヤ書までは、パウロは「わたしに倣う者になりなさい。」と繰り返し述べているように思う。(1Cor4:16, 11:1, Phil 3:17, Cf Rm 12:2, 15:5, Col 3:10, 2Thess 3:7, 9)しかし次のようなものもある。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」(1Thess 1:6)ここでは、神に倣う者と言っている。パウロが述べてこなかった言い方である。エペソは、少しあとでは、ヨハネの影響もある程度あると思われ、愛が教義の重要部分になってきたのだろうか。表現の詳細も含め、正直よくわからない。 Eph 6:20,21 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。 著者については、本当にわからない。おそらく、重要ではないのだろう。初代教会文書であることは、確かなのだから。なぜ、パウロ文書かどうか、知りたいのだろうか。ひとつは、ここで引用したことなどが確かなのかが他の部分にも影響するのではないかと考えるからだろうか。それとも、パウロが特別と考えるからだろうか。どちらからも自由でよいのかもしれない。Phil 1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(コリント信徒への手紙一1章8節)と近いと感じたが、ここでは「始められた」「成し遂げる」と、この世での進行中の神の業が記されており、やはり少し異なるのかもしれない。ゆっくり考えたほうがよいかもしれない。成長をどのように、聖書では語っているかで、教派によっても、理解が異なることなのかもしれない。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(3章16節)にあるように、変化し続けていることは、誰にとっても、真であると考えるが。 Phil 2:29,30 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 フィレモンへの手紙は似ているが、他の確実にパウロ書簡だと言われているものとは、異なる印象を受ける。書いた時期の違いだろうか、囚人としてのパウロの状況からだろうか。テモテにしても(19-24節)、引用したエパフロディトについても、ポジティブなことをたくさん書き、推薦している。また、この章の最初にも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 」(2)と勧めている。パウロは、正しさで説得していくスタイルだと考えるのが間違いなのだろうか。ひとつの見方に囚われず、理解していきたい。 Phil 3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 このあとに、リストが続き「律法の義については非のうちどころのない者でした。」(6)としている。フィリピの信徒たちは、おそらく知っていることだろう。これほど、強く、パウロが書くのは、背景に割礼の問題があるのだろう。(2)このことこそ、パウロが注力してきたことだから。ただ、みなは、他のことで苦しんでいるのではないだろうか。福音は、肉に頼れるものがないようなひとへのものではないのだろうか。完璧主義が見え隠れしてしまう。パウロの伝えたいことはそこではないのだろうが。 Phil 4:4,5 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 7節までの部分は、パウロの心情なのかもしれない。囚人として、ローマにいると思われる、パウロ。ここで「広い心(口語は寛容)」と言っている。自分の活動がままならないなかで、神のみ心をひろくとらえることにつながるのかもしれない。そして、主が近くにおられると告白している。このあとに続く「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(6,7)パウロが生き抜いたひとつのいのちを思う。 2019.11.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、コロサイの信徒への手紙から読み始め、テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一と、パウロ由来の書簡を読み進めます。書かれた順序などもよくわかっていないようですが、テサロニケの信徒への手紙一が、パウロ由来の書簡の中で一番早く書かれたと考えられています。使徒言行録の17章にパウロたちが、フィリピのあとに、テサロニケを訪れたときのことが書かれています。ギリシャ北部の町です。コロサイは、現在のトルコ共和国の西にある町で、コロサイの信徒への手紙や、ヨハネの黙示録にも出てくる、ラオディキアの北15km の場所にある町とのことです。テモテは、使徒言行録16章から登場する弟子の一人で、若かったようです。聖書に頻繁に名前が出てきます。通読では、どんどん進みますから、十分理解することは難しいかもしれませんが、一世紀の教会がたいせつなこととして共有しようとしていたことを読み取っていただければと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コロサイの信徒への手紙1章ーテモテへの手紙一2章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コロサイの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#co テサロニケの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#th1 テサロニケの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#th2 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ti1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Col 1:14,15 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 定型文化されているのだろう。おそらく、御子による贖いが、すべてに優先し、そのことから、見えない神の姿だと考え、そうであれば、すべてのものが造られる前に生まれたと、つながっていくのだろう。この論理では。しかし、イエスと共に生活した人たちにとっては、論理は逆だったのではないだろうか。というのが、わたしの、長年の問いである。イエスの生き様、教えから、この方こそ、神のもとからこられたこと、神の本質を表していると考え、その生き様から、十字架の死は、わたしたちが神と共に生きるようにしてくださるためだったと確信する。最後の部分の繋がりは、上と同じだろうが。パウロの神学と、ヨハネのを対立させようとは思わないが、大きな違いを感じることは確かである。 Col 2:6,7 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 キリストが象徴化、概念化(ことばは正しくないかもしれない)されて、イエスという実体、肉体をもって地上を歩まれたことは、失われているように思う。しかし、その実体を継承することはできないのかもしれない。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章35節)は、継承不可能なのだろうか。おそらく、ヨハネは(イエスがと書くことは躊躇があったが)そのことを伝えたかったのだと思われるが。律法主義は、必要悪か、教義によっては、形骸化しないことが可能なのだろうか。本当に難しい。「キリストに結ばれて歩」むことは「互いに愛し合うこと」だと理解して「造り上げられ」成長させていただくことを願いつつ。 Col 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 ここで地上のものとして「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(5)と述べている。しかし、地上的なものは、もっと様々だろう。当時は、一般の人は、関わらなかったのだろうか。なにが違うのだろうか。社会的なさまざまな問題に、ひとは、関わることになる。その中で、上にあるものにこころを留め、地上のものにこころをひかれないことは、やはり鍵となるだろう。上にあるものと、地上のものについては、もうすこし、深く考えてみたい。 Col 4:2,3 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。 実際には、これは何を伝えているのだろうか。このような証言をもし、疑わしいものとするのだとすると、他の部分についても、判断は、非常に難しい。同時に、考えさせられることばも多い。「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(4,5)むろん、どのように理解するかも、簡単ではないが。 1Thess 1:9,10 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。 おそらく、ここに記述されていることが、パウロが語り、彼らが受け取り、それによって、変わったことなのだろう。それを「どのように迎えられたか」と表現している。内容は「偶像から離れて神に立ち帰(った)」「生けるまことの神につかえるようになった」「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」かであり、特に、最後の部分が「どのように」と内容まで示唆するように書かれており、御子がどのような方であるかが最後に述べられ「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」と、再臨のキリストによる最終的な救いについて述べられている。これが、パウロの語った「福音」だったのだろう。 1Thess 2:4 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 ここまでの確信をもって、現代に至るまで宣教が行われて来たのだろうか。パウロの、ここまでの確信は真実なのか。この二つの問いが出る。パウロの特殊性なのだろうか、わたしには、理解できないことなのか。そう簡単ではない。この背景のもとで「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 」(13)の表現が生じる。愛によってこれらが証しされていないと、虚しい。たんなる危険な、独りよがりの宗教になってしまうように思う。 1Thess 3:12 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。 つねに、苦難の中にいることがわかる。(3, 4, 7)同時に、ここで、お互いの愛と、すべての人への愛とが書かれている。福音を伝えること自体が、すべての人への愛につながっているのだろうが、違和感も感じる。まずは、愛を示すことはできなかったのだろうか。これは、現代でも、いろいろな形で現れていることである。わたしは、正しさよりも愛と考えるが、それは、歴史を見ているからか、正しさの正しい意味が理解できていないからか。難しい。 1Thess 4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。 兄弟愛が強調されている。おそらく、ここに鍵があるのだろう。最初から、すべての人を愛そうとする人は、兄弟を愛することはできない。兄弟とは誰かとという人も、同じかもしれない。隣人を、兄弟だと、受け入れることだろうか。学ばなければならない、基本がたくさんある。 1Thess 5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 「非のうちどころのないものとしてくださいますように」との祈りである。このことばが使われている箇所がある程度多い。コリントの信徒への手紙一1章8節、フィリピの信徒への手紙2章15節・3章6節、テサロニケの信徒への手紙一3章13節、ユダの手紙24節、これらは、この祈りが背景としてある箇所である。(これ以外に、人物の紹介として、「非のうちどころのないもの」と紹介されている箇所がある。サムエル記下14章25節、ルカによる福音書1章6節、テモテの手紙一3章2節)テサロニケの信徒への手紙は特に、再臨が中心的テーマであり、このことばもそれに付随しているのだろう。パウロの初期の宣教で響いたのも、再臨のことだったかもしれない。2Thess 1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 2Thess 1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 成長とは、神の招きにふさわしいものとなることなのだろう。しかし、それも、父なる神と主イエス・キリストと、隣人・兄弟姉妹との交わりのなかで、主に育んでもらうものなのだろう。同時に、それが目的化してはいけない。招かれた日から、おそらく、地の塩、世の光なのだろう。わたしは、まだよくわかっていない。 2Thess 2:2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。 表現自体が混乱しているように思われるが、再臨は非常に大きな関心事であったこと、そして、かなりの混乱があったことがわかる。続いて「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」(3)と再臨の前に起こることが書かれているが、かえって混乱を来す内容でもある。解釈の幅を許しているから。内部でも、明確な応答がはっきりしていなかったのではないだろうか。それ背景としては、再臨(恐れ)を説く、布教が行われていたことも考えられる。恐れや不安から信仰を持つ、人の弱さは、どの時代にも、あるのだから。現代でも、それが根強く底流としてあるように思われる。「自己中心的な執着、欲望、 恐怖の絆から、できるかぎり人類を解放することが、宗教の目標の一つ(アインシュタイン)」 2Thess 3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。 再臨信仰も背景にあるように思われる。しかし、一番のことは、ユダヤ教的背景の倫理は、異邦人の間では基盤としてなかったことだろう。すると、ちょっとしたことから、放銃へと向かう。当時の異邦人宣教の難しさも、このあたりにあったように思われる。むろん、地域ごとの倫理について、学ばないといけないが。もうすでにキリスト教信仰とは、独立のように思われるが。 1Tim 1:4,5 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。 このあとには、律法の問題も取り上げられている。混乱を引き起こす種はいろいろと存在したのだろう。作り話については、わからないが、系図は、イエスの系図に関係することかもしれない。マタイとルカの二つの系図も不明確であるので。ここでは、それらについては、語らず「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛」に目を向けるように伝えているようである。しばらくのときがたつと、無意味な詮索がおこるのは、理解できる気もする。疲れから保身をもとめるのかもしれない。 1Tim 2:13,14 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。 多くのつまずきを引き起こしてきただろう。このようなことを根拠にしてしまう、人間の弱さ、そのゆえに、真理を求めなくなってしまう性向。同時に、このようなことについて、どう対応すれば良いかも、大きな課題である。一人ひとりが、神に愛される個人として、その尊厳が尊ばれると同時に、さばきあうのではなく、互いに、人々の中で、それがたいせつにされることを求めていくために。 2019.11.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 聖書の会@万座温泉 2019 を合計31名の方々と持ち、マタイによる福音書5章〜7章を学んでおりました。そちらに集中して、正直、BRC 2019 を、今朝に配信するのを失念してしまいました。ごめんなさい。 今週は、テモテへの手紙一から読み始め、テモテへの手紙二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、そして、ヘブライ人への手紙へと読み進めます。フィレモンへの手紙までは、パウロ由来の手紙ですが、ヘブライ人への手紙は、誰が書いたか知られていません。下にリンクをつけてある、簡単な解説に、少し書いておきました。興味のあるかたは、読んでみてください。わたしたちの通読は一日二章ずつ読み進みますから、一つ一つの書簡を丁寧に読むことはできないと思います。しかし、何らかのメモを記録として書いておくことはよいと思います。疑問点、印象に残ったことなど、何でも構いません。この BRC 2019 では、新約聖書を読み始めると、詩篇から旧約聖書を読み継ぎ、来年の夏から、また新約聖書を読む計画になっています。次回読む時に、その記録を読み返してみると、理解を深めることができると思います。わたしは、そのような記録を 1982年から続けています。最近の数年間のものを、ホームページにあげていますが、そのような記録は、自分の理解の不十分さが出るものとも言えますが、同時に、そのとき、その時のタイム・プリントでもあり、聖書と向き合って、行きていく生活の証にもなっていると思っています。成長ばかりではありませんが、変化を読み取ることができることも、幸せなことだと思っています。生きている証です。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 テモテへの手紙一3章ーヘブライ人への手紙2章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 テモテへの手紙一・二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ti1 テモテへの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ti2 テトスへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#tt フィレモンへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pl ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#he 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Tim 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。 信仰告白の核だろうか。いくつか、気づくことがある。受肉は理解できるとして、霊において義とされるとはどのようなことだろうか。霊と肉を区別するまたは二元論が背景にあるようである。特に気になるのが「天使たち」12弟子のような親しい弟子のことを証言に加えていない。弟子たちを天使と呼んでいるわけではないだろう。関連は否定できないが。「栄光のうちにあげられた」が最後に来ていることも気になる。原型なのだろうが、おそらく、パウロ起源のものとして興味深い。 1Tim 4:7,8 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。 具体的な教会運営のことに関わると、どうしても、How-to が増えてくる。方法論である。すると、山上の説教などで、イエスが述べた、天の父なる神の御心をもとめる、神の子としての直接的な神への信頼と服従から離れ、律法主義に陥る危険性を持つことになる。律法主義にならない、つまり方法論が絶対化しない方法はあるのだろうか。ここで方法と書いてしまった。方法論をわたしも求めているようである。イエス様のように、神の子として生きることは不可能なのだろうか。 1Tim 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。 制度の難しさを感じる。共同で支援するため、公平性から基準が必要となり、それも、客観性が要求される。しかし、困窮を計測するのは困難ではない。多くの指標が必要となる。おそらく、どの場合にも適切と言えるものはできないだろう。このあたりにも、人工知能利用の課題が生じうる。限定的に、ある責任集団の判断に任せるような仕組みも必要なのだろう。このあとにある、11節以降の「年若いやもめ」に対する批判は辛辣である。困ったケースが実際にいくつかあったのだろう。しかしだからといって、本当に困っている「年若いやもめ(困窮者)」を放置はできない。 1Tim 6:6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 多くの混乱が生じていることがわかる。霊長類の脳の大きさと群れの大きさの相関から導いたとされる「ダンバー数:人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限」がどの程度、ここで適用されるか不明であるが、あるていど共通の基準をもっていても、相互に配慮できるグループのサイズには、上限があるのだろう。そのことは、否定できない。神の子として、神の恵みをともにうけとることができればと思うが、この「共に」はどのようにして可能になるのだろうか。神秘的な聖霊の働きなどに依存し、結局、問題がおこることもある。正直、わたしには、わからない。 2Tim 1:1 キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、 「神の約束」は多くあらわれるが、「命の約束」は聖書中ここだけである。近い表現としては「これ(初めから聞いていたこと)こそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」(ヨハネの手紙一2章25節)だろうか。内容は、どのようなものだったのだろうか。少し時間をかけて、約束の内容を学んでみたい。 2Tim 2:11 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマの信徒への手紙6章8節)「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙一5章10節)にも現れている。パウロが中心的なメッセージとして伝えたことでもある。イエスと同じ様になる、神の子となる、というメッセージから、死と復活に焦点をあてて、パウロが表現した救いのそしてキリスト者の生活の表現なのだろう。実体は、もう少し考えないと不明である。 2Tim 3:1,2 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 このあとにもリストが続く。世を愛し、神を畏れなくなることが表現されているようである。しかし、どの時代にも、一般には、同様なことは、起こるように思う。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタイによる福音書24章12節)を思い出す。「ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。」(8)とあるように、信仰者の中での問題と理解したほうが良いように思う。「困難な時期」もそれを表現しているのだろう。現在は、どうなのだろうか。終わりの時を生きているという認識は、常に必要なのかもしれない。ただ、ここでは、どうも、特定の人々が想定されているようで、本当に「終わりの時」の一般的現象を記述しているのかは、不明である。 2Tim 4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 「パウロから」と1章1節にある。このあと、多くの名前が並ぶ。当時の人達は、ここにあげられて人をよく知っていただろう。おそらく、それだけではなく、この当時のなかで、有名な人たちなのではないだろうか。そう考えると、テモテへの個人的な手紙だとすると、これだけ書く必要はないようにも思う。なにか別の目的があったのかもしれない。一人ひとりについては、丁寧に調べないといけないが、どの程度わかるかは不明である。 Tit 1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。 割礼を受けている人たちは、直接的には、ユダヤ人をさすのだろう。近いひとたちが、問題だと言っている状態になっている。この問題については、考えてみたい。異教徒と、異端において、異教徒には、寛容になれても、異端には、不寛容となることが多い。ひとからの評価を恐れているようにも思われる。異端ではなくても、少し教理的に離れた教派にたいしては、寛容になれない場合が多い。なぜなのだろうか。やはり、自分の正しさを求めているからだろうか。 Tit 2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 神の子として生きる生き方を自ら示されたことは、たしかだろう。それが、このように表現されることも理解できるが、単に、人間社会のモラルを解いたと理解されてはいけないように思う。福音は、どのように理解されていたのだろうか。考えさせられる。 Tit 3:9 愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。 これらの議論が、初代教会にもたくさんあったのだろう。詳細の内容については、わからないが、これらのキーワードで現代で議論になることがあることも事実である。直前には「そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 」(8b)とある。山上の垂訓の基準とは異なるように思うが、良いことであり、人々に有益であることは、確かなのだろう。 Phlm 16,17 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。 「愛する兄弟として」「一人の人間として」「愛する兄弟」「オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」感動を覚える箇所である。ここに、奴隷と、自由人の違いがないるだけでなく、互いに愛し合う者たちの間に違いがないのだろう。そして、その関係はキリスト者の外にも開かれている。 Heb 1:3,4 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。 地上での生涯については、明確な言明をさけているように、見える。もう一つ気づいたのは、「御子は、天使たちより優れた者となられました。」とあり、最初はそうではなかった印象を受けることである。直前の2節には「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 」とある。終わりの時代なのか、世界すべてを「はじめに」創造されたのか、曖昧である。教義を引き出したり、確認したりするのではなく、ある内容を伝える信仰告白として読むのが適切なのかもしれない。この解釈があたえる影響に関しては、不安もあるが。 Heb 2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。 地上での生活を終え、十字架上での「死の苦しみ」ゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」としている。この論理は、ただ、信じるしかないことになる。人生をかけるときには、正しいかどうかも、問われることになる。これがキリスト教なのだろうが。いくつかの要素がいりまじっているとしても、やはり、心配でもある。 2019.12.1 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヘブライ人への手紙を読み始め、ヤコブの手紙に入ります。これまで読んできた、パウロ由来の書簡とは、異なる印象を受けるかもしれません。前回も書いたように、ヘブライ人への手紙記者は知られていません。ヤコブの手紙は、イエスの兄弟ヤコブが想定されているようです。分かることは、記者が、いずれも、ユダヤ教と旧約聖書に精通していることです。律法や旧約聖書をどのようなものかも、ヘブライ人への手紙とヤコブの手紙ではすこし異なっているようにも見えます。下にわたしがノートとして書いてあることですが、ヘブライ人への手紙には「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。」(ヘブライ10章1節)とあり、メルキゼデクを引用して、この影についても説明しているようです。ヤコブの手紙には、「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」(ヤコブ2章21節)とあり、パウロ書簡や、山上の垂訓を理解しているようにも感じます。 11月28日から12月1日には、聖書の会@万座温泉2019 を行いましたが、聖書の箇所は、山上の垂訓(マタイによる福音書5章ー7章)でした。ほぼ一年ぶりの聖書の会、旧交を温めると共に、山上の垂訓は、旧約聖書や、ヤコブの手紙とも深く関連して、特にわたしにとっては、よい学びの時となりました。資料をホームページに載せてありますので、ご興味のあるかたは、ご覧ください。少し雰囲気が分かるかもしれません。(https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/biblestudy2003.html) みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヘブライ人への手紙3章ーヤコブの手紙3章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヘブライ人への手紙と、ヤコブの手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#he ヤコブの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jc 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Heb 3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。 「神の家全体(の中)」と「ご自身を立てた方」に忠実なことの違いは、よくはわからない。委ねられたものと、父なる神ご自身に関わることすべてということだろうか。岩波訳では「彼は、ちょうどモーセも神の家 [全体]の中で〔そうであった〕ように、自分を任命した方に対して忠実であった。」NKJV は "who was faithful to Him who appointed Him, as Moses also was faithful in all His house." となっており、これが原語の直訳に近いので、こだわらないほうが良いのかもしれない。最後の「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」(18)では不信仰となっているが、忠実と同じ語根のことばの否定形である。「主の言葉に忠実・主に信頼」が鍵だと言っているのだろう。 Heb 4:1,2 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。 最後のことばが心に残った。「言葉が」「聞いた人々と、信仰によって結びつかなかった。」信仰がなければ、神に信頼しなければ、私達自身とは、永遠に結びつかないのだろう。 Heb 5:7-10 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 ここでも、イエス(キリストとされているが)は、地上の生涯を通して、学ばれたこと、そして、それ故に、完全なものとなられたことが書かれている。ひとのモデルとなりうる大切な言明である。神の子にいつなったか。それは、最初からなのだろう。 Heb 6:16,17 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。 「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、」(14)とある。それが約束なのだろう。誓うことは、神のみができることなのかもしれない。「一切誓いを立ててはならない。」(マタイによる福音書5章34節b)「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書5章37節) Heb 7:17,18 なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。 その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― ヘブライ人への手紙記者は、メルキゼデク(創世記14章18節)を非常に強く意識しているようだ。新約では、ヘブライ人の手紙に9回(新共同)現れるのみである。旧約では創世記の記事以外一回「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」(詩篇110編4節)この詩篇は「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』 」とはじまるものである。記者にとっては、旧約聖書の律法の規定、特に祭司規定の変更をどう理解すべきか悩んだのだろう。それで行き着いたのが、メルキゼデクだったのか。引用箇所は「律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。」(19)と希望へと続けている。もう少し、ゆっくり理解したい。このヘブライ人への手紙記者の理解を。 Heb 8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 ヘブライ人への手紙記者にとって、このように明確に書くことは、勇気のいることだったろう。単に内容だけではなく「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。」(10b)「彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。」(11a)と述べて、最後に「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」(13)ここに至るには、多くの葛藤があったことだろう。むろん、そうであっても、現代にも残る課題として、律法の位置づけは難しいが。 Heb 9:9,10 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 第一の幕屋、第二の幕屋の説明があり、第一の幕屋について「今という時の比喩」だとしている。不完全なものなのだろう。だから、改革の時までの規定がたくさんある。ここでは「食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもの」とし、無制限には、拡大していない。いままで、理解しようとして読んでいなかったように思う。いつか、少しでも理解するときが来ることを願って。 Heb 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 この言葉を確信するに至るには、どれぐらい時間が必要だったのだろう。人生の大きな転換だったろう。実体はありません。と言い切っている。多少、表現においては、イデアのようなものの影響があるのかもしれないが、ユダヤ人の前では、大変な批判を受ける言葉だったろう。すでに、ユダヤ教からは、離れ始めているのかもしれない。 Heb 11:39,40 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 「よそ者であり、仮住まいの者」(13)が「天の故郷を熱望していた」(16)とあり、この章の最後に引用箇所がある。「約束されたもの」とは何だろうか。一人ひとりにとって異なるのかもしれない。しかし驚くべきことに「わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」とある。何を意味するのだろうか。神が共におられる、インマヌエルを経験させてくださり、いのちを持って生きるようにしてくださったことだろうか。イエスの名による救いを得させてくださったということだろうか。それが、言葉上のことだけでなく、神様のすばらしさを表す、いのちのいとなみであることを祈り願う。 Heb 12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 22節から24節には「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」とある。雑多な感じをうける。しかし、引用句のように、「よそ者であり、仮住まいの者」(11章13節)としていき「約束されたものを手に入れ」ていなかった信仰者とは、ことなり「御国を受けている」とある。そして「神に喜ばれるように仕えていこう。」と呼びかけている。神の子として、生きていくことが言われているのだろう。 Heb 13:1,2 兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 章は変わっているが「神に喜ばれるように仕えていこう」のあとに一文「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(12章29節)が挟まり、引用句へと続いている。挿入のインパクトが強いが、神に喜ばれる生き方の中心が書かれていると考えてよいだろう。旅人をもてなすことが書かれている。Welcome 歓迎が強く結びついているが、もしヘブライ人への手紙記者が、アポロのような巡回伝道者であったとしたら、日毎に感謝を持って、感じていたことかもしれない。現代では、すこし違った形になっているかもしれないが、移住者、生活困難者、精神的支配や虐待を受けている人、一人の人として尊厳をもって扱われていないと感じている人、さまざまな人達は、わたしたちの身近にいる。互いに愛し合うことと、旅人をもてなすことを覚えたい。 Jas 1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。 ヤコブの手紙からは、神の子として生きることがなかなか伝わってこない。しかし「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(22)から、引用句まで「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」(25)と表現されているなかに、ヤコブの理解があるのだろうと思う。イエスから受け取ったものは、少しずつみな異なるのだろう。それで良いのかもしれない。「父である神の御前に清く汚れのない信心」をたいせつにしたい。 Jas 2:21-23 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 ヤコブの手紙記者は、ローマの信徒への手紙4章のアブラハムは信仰によって義と認められたという議論を十分理解していただろう。ここでは、「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」と表現されている。完成は plhrow (to make full, to fill up) という言葉が使われている。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 」(マタイによる福音書5章17節)で使われていることばと同じである。 Jas 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 この章には、舌について始め、実についての記述もある。(1-12)山上の垂訓の内容を熟知していたことが伺い知れる。イエスの語った内容のすべての面に光を照らしていないかもしれないが、丁寧に読む必要を感じる。単なる受け売りではないのだから。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(18) 2019.12.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今週は、ヤコブの手紙4章から読み始め、ペトロの手紙一、ペトロの手紙二と読み継ぎ、ヨハネの手紙一に入ります。ヨハネの手紙は「聖書の会」の最後に2018年に読んだ箇所なので、個人的に、とても思い出の深い、そして、ヨハネによる福音書とともに、わたしの現在の信仰、聖書理解の基盤になっているものです。通読では、十分味わって読むことはできませんが、気になることや、印象に残った箇所を、メモにして残しておくことはおすすめです。今までも、そのことを何回か書きましたが、通読のときには、どうしても、なにも考えずに読んでしまうときもあるので、何かは書くことを意識することは、自分にとって意味のある通読を続ける鍵となってきました。みなさんは、なにか、聖書通読のときに、気をつけていること、特別にしていることはありますか。感想などとともに、シェアしていただければ幸いです。共に、一緒に、読んでいる、仲間とつながることができるのは、まさに、ヨハネの手紙にある「交わり」だと思います。そして、それは、お互いの「交わり」というよりも、天の父と、御子イエス・キリストの交わりに与ることだと、わたしは理解しています。(ヨハネの手紙一1章3節)様々な聖書との向き合い方も歓迎です。同時に、何かしら、一緒に読んでいることを実感できるとよいですね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヤコブの手紙4章ーヨハネの手紙一4章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヤコブの手紙と、ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヤコブの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jc ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pt1 ペトロの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pt2 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jas 4:11,12 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。 この論理は興味深い。マタイによる福音書5章17-26節の一つの解釈である。また「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」(8)も心の清さが、心の定まらない者のことであることを証言している。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(17)は、不法を的確に表現している。興味深い。 Jas 5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。 これほど、山上の垂訓との類似があるとは、知らなかった。確かに、イエスのメッセージとは、少し異なる印象をうける。しかし、ひとつの解釈、実践例であることも、確かであるように思う。ことを定めることや、裁きをすることは、天の父なる神様にあることを、告白しているのだろう。そして「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(16)互いに祈り合うことも、述べられている。この前には赦しもある。批判はいくらでも言えるし、違いも述べられるだろう。しかし、もっとじっくりと学んでみたい。 1Pet 1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」(17)とも書かれている。父の子ら、つまり、神の子らが兄弟として愛し合う。そう考えると、やはり重い。丁寧に、このことを考えたい。 1Pet 2:16,17 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。 なぜ、自由人としてということばが、ここに登場するのだろう。 「旅人であり、仮住まいの身」(11)であるわたしたちは「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」とあるが、自由人として、制度に従うのだろう。そして「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」に惹かれる。よくは分からなくても。 1Pet 3:8,9 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。 当時の信仰者の生活目標が簡潔にまとめられていると理解して良いだろう。キリスト者が迫害の中で、内向きになっている可能性はあるが、兄弟愛が中心に置かれていることは分かる。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(22)のような教義も固まっていったのだろうか。前半は、福音書に記されているイエスの言葉としても存在するが、後半は、より具体的になっているように思われる。 1Pet 4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 キリストと共なる生活、父なる神と御子イエスキリストの交わりに生きると考えると、苦しみに預かることも、その中で理解できる。それによって、さらに、神様のすばらしさが、表されることになるのだろう。正しさから、表面的な喜びを表すのではなく、心から、喜ぶ生活を送りたい。 1Pet 5:1,2 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。 ペトロ由来の証言である。長老としていることも、このあとの(5)謙虚さの見本かもしれない。受難の証人とあるが、十字架を決定的なものとしつつ、それに至る苦難も見てきたろう。そして、「わたしの小羊を飼いなさい・世話をしなさい」(ヨハネによる福音書21章15節〜17節)を思い出させる。卑しい利得に走らないことは、このあとにある「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(7)にあるように、マタイによる福音書6章25節〜34節を思い出させる。 2Pet 1:5-8 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。 ここに実を結ぶ道が語られている。信心と信仰の違い、徳とは何かなど、一つ一つは具体性をもって理解できるわけではないが、それぞれのたいせつさと、最後に、兄弟愛・愛に到達していることには、アーメンと唱えたい。 2Pet 2:4 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。 偽預言者の出現について語り、引用箇所から、滅びについて語り、つぎに、義人ロトの場合を論じている。「しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。 」(7)このような手紙から、教義を引き出すのは危険である。実際に、神の子として生きていた者たちのなかで、それを放棄するものがいることも事実だろう。悔い改める機会があるかどうかは不明であるが、そして、憐れみ深い主の御前に、それを願いたいが、だれでも永遠のいのちに生きるわけではない。 2Pet 3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 何度もこのことばを引用していることだろう。ここには主の憐れみに対する希望と、主の忍耐を思い、わたしたちが忍耐すべきことが書かれているように思う。「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」が、主の御心である告白は、わたしも共有したい。 1John 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 この段落は「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(5)と始まる。その前の「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3)で、交わりについて述べている。あとに続くように、不完全なわたしたちが、罪の中にいることは、確かである。しかし、それを言い表すことにより(9)イエスによって、その罪を清めていただくことが、交わりに入ることを可能にしているといっているのだろう。光のなかにいないのであれば、神との交わり「御父と御子イエス・キリストとの交わり」(3)にいることはできない。 1John 2:4-6 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。 神を知る、それは、御心を知っていることで、当然、神の掟を守ることになる。神の愛が実現することにより、神のうちにおり、イエスが歩まれたように歩むようになる。これが「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7章21節)につながっている。「わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。」(21)この確信を持ちたい。しかし、つねに謙虚さを失わず。 1John 3:10,11 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(4)とあり、「法に背く」は「不法」とも訳されている、anomia(lawlessness)である。法がないこと、なにが神の御心か分からない状態とも言える。引用箇所では「神の子たちと悪魔の子たちの区別」とし、それは「正しい生活をしない者、兄弟を愛さない者」そして「互いに愛し合うこと」につないでいる。ヨハネの手紙記者は、このことが中心であることを、頻繁に述べている。単純すぎるかもしれないが、おそらく、ヨハネがイエスから受け取ったことは様々でもこれこそが「すべて」と言えるものなのだろう。 1John 4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 ヨハネの手紙一には、とくに「とどまる」が多い。meno が使われていると思われる。この手紙での最後の使用が引用箇所である。新共同訳でこれが最初に使われているのは「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。」(2章19節)とどまっていないひとがいたことがわかる。何にとどまるかその中心として、ここでは、愛であるとし、神は愛であると断言している。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(8)単純過ぎるように見えるが、とても深く、重い。 2019.12.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今日は、世界中でクリスマスをお祝いする礼拝をもつ日ですね。実は、1月に入ってからお祝いをするところや、クリスマスは祝わないキリスト教の派もあるようですが。12月25日にイエスが生まれたとする根拠はありあませんが、神の子イエス・キリストが、地上のわたしたちのもとにこられたことを記念してお祝いする日ですね。(ヨハネの黙示録(https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rv)の冒頭に少しクリスマスについて書いてあります。) 今週は、まず、ヨハネの手紙一の最後の章を読んでから、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ユダの手紙と一章ずつの書簡を読み、ついに、聖書の末尾にあるヨハネの黙示録に入ります。ヨハネの手紙二・三は、短いこともあり著者を内的証拠から特定することは難しいようですが、伝統的には、十二弟子の一人のヨハネだとされています。ユダの手紙は、イエスの弟のユダ(ヤコブの弟)が想定されていますが、内容も含め、議論がある書簡のようです。そしてヨハネの黙示録。3章までは、アジア(小アジアといわれる現在のトルコの西部)にある7つの教会にあてた手紙の形式をとっていますが、4章以降は「この後必ず起こることをあなたに示そう」(ヨハネの黙示録4章1節)として書かれています。どのように理解するかは、難しいですが、終末を希望を持って待ち望んでいた人たちへの黙示(ユダヤ教・キリスト教で,神が人に隠されていた真理や神の意志を啓示すること。アポカリプス。)になっています。どのようなことがかかれ、どのようなメッセージが語られているのでしょうか。 通読の予定では、1月4日に、ヨハネの黙示録を読み終わり、1月5日からは、詩編を読み始めます。続かなくなってしまった方は、新年から詩編以降の旧約聖書を読み始めるのはいかがでしょうか。夏(8月17日)に、また新約聖書(二回目)を読み始めることになります。飛び飛びになってしまっても、他の人たちと一緒の箇所を読むことは、励みにもなると思いますよ。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨハネの手紙一5章ーヨハネの黙示録10章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの手紙一・二・三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn1 ヨハネの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn2 ヨハネの手紙三:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn3 ユダの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ju ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1John 5:11,12 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 御子に結ばれているかどうかによって、永遠の命があるかどうかが決まると書かれている。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネによる福音書14章6節)このことを、証するのは「“霊”と水と血です。この三者は一致しています。」(8)といっている。正直、実体は見えてこないが、永遠の命をもって生きることと、御子に結ばれていることと、神を愛すること(3)と神の掟を守ること(2)と神のこどもたちを愛すること(2)がみな、つながっていることに関しては、理解できる。それが、本書の目的であろう。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13) 2John 6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 短い手紙で判断をすることは困難であるが、ヨハネの手紙一との類似性は高い。「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」(9)の内容については、正確に知るよしもないが、次のような背景の中に実体があるのかもしれない。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」(7) 3John 9,10 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。 互いに愛し合う、お互いに歓迎(Welcome)することと反対の状況がここにある。「指導者になりたがっている」とあるが、ある上下関係を作りだして、支配しようとすることであり「悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしる」は、敬意をはらうことと反対になってしまっている。ヨハネ、または長老を敬うことは、その人生を導いたかたに、従い通してきた人たちに敬意を払うことだろう。おそらく、歳をとり、衰えはあるだろうが。「兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出してい(る)」これこそ、歓迎することの反対の状況を表現したことばだろう。この手紙の記者は「互いに愛し合うこと」の概念が「歓迎」に近い概念として結びついているのだと思う。 Jude 3 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。 日常的な交わりは仮定されていないようである。背景が次に書かれている。「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。」(4)ここからは、通常「エピクロス主義=快楽主義」といわれるものが見えるが、エピクロス自体は、自然で必要な欲求で、結果として「幸福」がえられるものを、共同生活の中で追求したのであって、通常言われる、快楽を求めたのではないようである。しかし単純に「みだらな楽しみ」を是とする世界は、神の恵みに生きる世界ではない。ただ、このあとの内容で、説得的にこのことについて書かれているかは不明である。偽文書といわれるものもいくつか引用され、聖書に含まれていることさえ不思議な文章である。キリスト者の仲間の文書として、排除するものではないのだろうが。 Rev 1:17-19 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。 正直、どう理解したら良いかわからない。このような文書はいくつもあったのではないかと思われるし、そのなかで、そして、たとえ一つであったとしても、この文書の中身をどのような姿勢で理解すれば良いか分からない。真理をもとめ、主に従っていた者が、伝えている一つの真実だろうか。いつか、丁寧に学ぶときが来るだろうか。 Rev 2:4,5 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。 ここでいう「愛」は何だろうか。熱情・パッションのような印象をうける。このあとには「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。 」(6)と続く。エフェソは当時有力な教会だったろう。詳細が分からなければ、非常に観念的、抽象的なことしか受け取れない。この手紙を受け取ったエフェソのひとたちは「どこから落ちたか」がわかったのだろうか。徳を高めることに資するものだったのだろうか。「こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。」(ローマの信徒への手紙14章19節)現在のわたしにたいしても、同様のメッセージは来るかもしれない。しかし、どう受け取るかはとても難しい。 Rev 3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 ラオディキアにある教会にあてた手紙には「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15,16)とある。そのような教会に引用箇所を勧めている。このあとには「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(20)とある。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイによる福音書4章17節)が引用箇所でも言われているのかもしれない。「富は天に積みなさい」(マタイによる福音書6章20a節) Rev 4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」 ここから「この後必ず起こること」の記述が始まる。これが「この後必ず起こること」だと信じるのはできるかもしれないが、根拠は不明である。イエスが語る様々なことば「この後必ず起こること」も含めて、を信じるのは、イエスの生き様、教えを通して、この方こそ「生ける神の子キリスト」だと信じるからだろう。この書についてはどうなのだろう。聖書に含まれているからと多くの人が答えるだろう。聖書がどのように成立していったかを考えると、そう単純ではないことを感じる。おそらく、中身が、イエスの教え、聖書全体とも同期している、つながっていることによるのだろう。しかし「この後必ず起こること」に関して、そのことを確認することができるのだろうか。将来についての記述は、どの時代の人にとっても重要な意味をもつ。それゆえに、この問いは重大である。 Rev 5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」 巻物の封印について「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。」(3)とあり、続いて「すると、長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」(5)と、イエス・キリストが封印をあけることができるとし、その賛美が引用箇所にあらわれる。ある形式なのだろうが、わたしは、空虚な感じを受ける。天上でも地上でも(地の下があるかどうかわからないが)のイエスの関心事とはかけ離れているように思われるからである。終わりの時について語るとしても、どのようになっていくかではなく、「不法がはびこるなかで、愛が冷えないよう、ひとり一人が最後まで耐え忍ぶように」(マタイ23章12,13節参照)祈っておられるのではないだろうか。 Rev 6:15,16 地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。 おそらく、ここに挙げられている人たちは、入れ替わることになるが、エルサレム陥落など、これに対応する状況を経験し、ますます、終わりの時について、さばきについて知りたいという願望が強くなっていたのではないだろうか。それに答える形で、信頼のできる霊的指導者がこれをしたためたのなかもしれない。しかし、ここ以降にあることを、逐一啓示として解釈するひとが増えることは、考えられたであろうにと思う。啓示の問題は難しい。 Rev 7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 白い服は、マタイによる福音書22章1-14節の「礼服」と関係しているのだろうか。ただ「血であらって白くした」は、異様な感じをうける。イスラエルの子らの中からの十四万四千人、そしてあらゆる国民、種族、民族、言語の違う民の大群衆、正直、あるリアリティをもってイメージすることは適切ではないのではないかとすら思う。しかし、黙示録記者の描いた世界として、受け入れることとしよう。信仰の仲間として。 Rev 8:7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。 このあとも、第二の天使、第三の天使が、ラッパを吹き、様々なものの、三分の一づつが滅んでいく。定量的にしにくいものが並んでいる。どのように、理解することが期待されているのだろうか。そして、地上での生活で、何を期待し、どのような生活を送ることが期待されているのか、不明である。少なくとも、イエスの福音とは異なる気がする。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節) Rev 9:4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。 「底なしの淵の穴を開」(2)いて出てきたものである。さばきの一つの形なのだろう。「額に神の刻印を押されていない人」が具体的になにを意味するか分からない。イエスの教えも、神の子として生きることで、さばきについても語られている。しかし、このような形のものは、ある恐怖をかき立てるだけで、形式的なものに堕する可能性が高いのではないだろうか。記されていることを否定はしないが、アーメンとは言えない。世で生きることには、かえって害を及ぼすことを恐れるからである。 Rev 10:1 わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、 創世記9章にある契約の印としての虹を思い出す。「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 」(創世記9章15節)とある契約であるが、それが、ここに登場するのは、なぜなのだろうか。それ以外に虹が現れるのは「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。」(エゼキエル1章28節)と黙示録の「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。 」(4章3節)だけである。栄光の様の表現なのだろうか。創世記の契約はどのように受け取られていたのだろうか。あまり重視するのは、問題があるのかもしれない。環境について発言しているグレタ・トゥンベリさんに、“Don't Worry, God Promised Not to Flood Earth Again” (https://www.newsweek.com/robert-jeffress-greta-thunberg-rainbow-flood-climate-1461326) と返す福音派牧師もいるようだから。 2019.12.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今年も残りわずかとなりましたね。聖書の通読は、あと、少し、ヨハネの黙示録を読み、次の日曜日(1月5日)から、旧約聖書の詩編を読み始めます。続かなくなってしまった方は、新年から詩編以降の旧約聖書を読み始めるのはいかがでしょうか。夏(8月17日)に、また新約聖書(二回目)を読み始めることになります。飛び飛びになってしまっても、他の人たちと一緒の箇所を読むことは、励みにもなると思いますよ。 ヨハネの黙示録はいかがですか。わたしは、あまり得意ではありませんが、黙示録記者は、なにを伝えようとして書いているのかを、いつも考えながら読んでいます。これからどのようなことが起こるかを知らせたいのでしょうか。内容はたしかにそのようなものになっていますが、受取手へのメッセージがあると思うのです。終末に関する様々な考えがあり、また、迫害も、様々な形で断続的にあったようです。人々は、このヨハネの黙示録を読んで、何を受け取ったのでしょうか。そして、みなさんは、何を受け取っていますか。 詩編は、全体で150篇あります。長いものもありますが、比較的短いものが多いですから、通読のときには、味わいながら読むことのでききる巻だと思います。ダビデの詩とされたものがたくさんありますが、捕囚後のものもあるようです。いろいろな背景のもとで創られた、信仰者のことば、祈り、背景にある、喜び、悲しみ、痛みなども、考えながら読んでいけるとよいですね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨハネの黙示録10章ー詩編2篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録と詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rv 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Rev 10:1 わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、 創世記9章にある契約の印としての虹を思い出す。「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 」(創世記9章15節)とある契約であるが、それが、ここに登場するのは、なぜなのだろうか。それ以外に虹が現れるのは「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。」(エゼキエル1章28節)と黙示録の「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。 」(4章3節)だけである。栄光の様の表現なのだろうか。創世記の契約はどのように受け取られていたのだろうか。あまり重視するのは、問題があるのかもしれない。環境について発言しているグレタ・トゥンベリさんに、“Don't Worry, God Promised Not to Flood Earth Again”と返す福音派牧師もいるようだから。 Rev 11:2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。 三年六ヶ月に何の意味があるのだろうか。本当のおわりはなかなか来ないことは分かる。しかし、やはり、神殿の内と外を分けている。異邦人と同邦人もわけている。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイによる福音書7章6節)をどのように理解すべきかはわからないが、わたしは、今到達している「歓迎する」ことを貫いていこうと思う。 Rev 12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。 天上でまだ争いがあったのだろうか。「天で御心が行われるように」であるはずである。また、それが地上に投げ落とされてはいけない。人々の苦しみが大きくなるばかりであり、神はそのことをよしとされないだろう。それでも、丁寧に読んでいくことができるのだろうか。 Rev 13:17 そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。 第二の記述であるが、獣の像に息を吹き込むこともできたりして、どの獣がどのような者かもよく整理しないとよくわからない。しかし、引用箇所のあとに666という数字があり、それは、キリスト者を迫害したローマの皇帝のネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)のことだとも言われる。(Nero Caesar のヘブル語表記を数字として読み、和をとると、666とのこと)ただ、調べると他の解釈もいろいろとあるようだ。正直興味を持てないが、その当時すでに起こっていることとして読んだ人たちがたくさんいることを意味しているのだろう。ただ、引用箇所は別の意味で興味深い。商売の制御について書かれている。かなり現代的なイメージをうける。 Rev 14:12,13 ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」 変化が大きく、正確に把握することが困難である。具体的なものに重要さをわたしが感じていないからだろうか。批判するより、いちど、まとめて見てもよいかもしれない。ここでは、安らぎを得ることが書かれているが、わたしにとって、それは何を意味するのかと考えた。わたしは、何を望んでいるのだろうか。 Rev 15:1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。 知りたいのは、怒りの内容である。何に対して神は怒っておられるのか。それは、単純に神に従わないということなのだろうか。それなら、他の宗教となにも変わらない。主イエスが、父なるかみを示してくださったように、父なる神について、生き方とつながるかたちで知りたい。 Rev 16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。 なにが成就したのだろうか。完成したのだろうか。災いが表現されていても、メッセージは受け取っていないように思われる。空虚である。いつか丁寧に読むことができるのだろうか。永遠の命に関わることを。 Rev 17:17 神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。 「ここに、知恵のある考えが必要である。」(9)とあり、「七つの頭と十本の角がある獣」(1)について語られている。黙示の性質から、ある程度、そのときに起こっていることに、対応する出来事があるのだろう。そのことに関するある解釈を述べることで、励ます意味もあったのだろうか。ただ、啓示ということを考えると、やはりとても難しい。どれだけの確信をもって、将来に関係することを明らかにできるのだろうか。わたしには、その価値とともに、やはり、黙示文学自体に懐疑心を抱いてしまう。当時のひとたちとは、つながった者でいたいが。 Rev 18:6,7 彼女がしたとおりに、/彼女に仕返しせよ、/彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、/その倍も注いでやれ。彼女がおごり高ぶって、/ぜいたくに暮らしていたのと、/同じだけの苦しみと悲しみを、/彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、/やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』 「地上は栄光で輝き」(1)天使は「倒れた。大バビロンが倒れた。」(2)と叫ぶ(宣言する)ところから始まる。そして大バビロンたる「彼女」への仕返しがでてくる。これでは、たんなる抗争ではないのか。戦いがあるにしても、天の父のみこころは本当に仕返しをすることなのだろうか。疑問を抱く。 Rev 19:2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」 倫理的な問題は「みだらな行い」だけでまとめられているようである。物足りない。黙示録記者が伝えたかったことは何なのだろう。希望と忍耐だろうか。しかし、これを希望ととるのは簡単ではない。血の復讐ということばも、ひっかかる。 Rev 20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 いのちの書に名前が書き記される、そこに希望と救いを期待したのだろう。ヨハネの名前が何度か出ていることは、その影響下であることも、考えられる。その多様性か、それとも、最後の弟子の名をかたっただけなのだろうか。いつか、もう少し、深く読み込むことができるようになるのだろうか。 Rev 21:25-27 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。 興味深い記述である。入れる入れないとあるが、入ろうとしないことで、目が閉ざされるのかもしれない。常に、門は開いている。しかし、見出す人は少ないのかもしれない。「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7章14節) Rev 22:20,21 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 本質的には、これだけなのだろう。励ます意味で書いているのだと思う。「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(5)「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)が現実の者となるときなのだろうか。 Ps 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 山上の垂訓の最初は、おそらく、この詩編第一編が意識されているだろう。イエスの応答から発展したものなのかもしれない。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(2)と続くが、イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7章21節)としている。ルター以後、信仰のみが強調されるが、大きな部分が失われてしまっているように思われる。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」(6)イエスは、これにどう返したのだろうか。山上の垂訓は「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7章27節)で終わる。 Ps 2:10-12 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。 不思議な詩編である。しかし、治める者について、言われていることは確かだろう。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」(6)の宣言があり「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」(7)と続く。引用句の「子に口づけせよ」は印象的である。神の子として、神に即位させられたものが、子に口づけするようにへりくだるべきことが、言われているのだろう。イエスは、そのように生きられたのかもしれない。そのような王として。 2019.12.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) BRC 2019 も一年が過ぎました。昨日、ヨハネの黙示録を読み終わり、今日、1月5日から、旧約聖書の詩編を読み始めます。続かなくなってしまった方は、新年から詩編以降の旧約聖書を読み始めるのはいかがでしょうか。夏(8月17日)に、また新約聖書(二回目)を読み始めることになります。新しい気持ちで、始めることができるのは、素晴らしいことです。とびとびになってしまっても、他の人たちと一緒の箇所を読むことは、聖書を読む他の仲間とつながることでもあり、励みにもなると思いますよ。 詩編は、いろいろなトピックについて書かれています。キリスト教会では、礼拝の中で、交読文として、司会者(または司式者)と会衆が、交互に読む形式も使っています。こころを一つにして交読します。また、詩編歌と言って、詩編の言葉をそのまま讃美歌にしたものもあります。皆で唱える詩編は、礼拝での賛美などの一つの部分となっていますが、同時に、前回も書いたように、詩編は、いろいろな背景のもとで創られた、信仰者のことば、祈り、背景にある、喜び、悲しみ、痛みなどの表現でもあります。わたしは、読みながら、2500年から3000年前の信仰者とつながることができるのも、不思議な、特別な経験だと考えています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編3篇ー詩編16篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 3:2,3 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ 「ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。」(1)となっているが、そのときのダビデの信条はもっと複雑だったのではないだろうか。しかし、この状況の苦しさは理解できる。自分も完璧ではないことは、自認せざるを得ないだろう。自分を非難するものと比較しても、仕方がないことも、理解できるだろう。しかし、その中で「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。」(6)には、主への信頼が感じ取れる。最後の「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ」(9)は印象的である。自分を主の救いのもとにある一人だと認識すること。わたしも、そのような心を持っていたい。 Ps 4:8,9 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。 「麦とぶどう酒」もたいせつな、祝福だろう。しかし、主が与えてくださる、平安こそが、ここに住まわせてくださるものなのだろう。そこまでの確信をわたしは、告白できるだろうか。 Ps 5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。 このように、賛美することがあるのだろう。おそらく、わたしも、そうだったと思う。しかし、いまは、なかなか、単純にこのように、言えない。なぜだろう。おそらく、避けどころとするという内容を聞きたくなり、それによっては、アーメンと言えないからだろう。もっと、素直になっても良いのだろうか。欺瞞を裁きはしなくても、自分のものとしては、受け入れがたいからだろうか。 Ps 6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。 続く苦痛は、分かるように思う。しかし、あまりにも、個人的な祈りに、アーメンと言えない。ダビデの個人的に見える信仰に拒否反応を持ってしまうのだろう。この詩編もそれと同種類に感じてしまう。これでも、おそらく、問題は、ないだろうが。わたしが求めている信仰、真理とは、異なる気がする。耳を澄まして、聞きたい。主に、こころを向けて。 Ps 7:8,9 諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと。 個人的な敵に対する裁きの祈りがあり、後半は、裁きを期待する祈りに戻る。その間に、より一般的な祈りがこの二節に含まれている。祈りの幅が、神理解の幅となるように思う。敵を愛することは、主イエスに出会うまでは、待たなければいけないのだろうか。 Ps 8:6,7 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 このあとに、動物が続く。「人間中心主義の」教理として取る必要はないのだろう。「神に僅かに劣るもの」の定義も簡単ではないだろう。「その足もとに置かれた」目的は何だろうか。「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」(10)と、神を誉めて讃えるためだろうか。ここからだけ、読み取る必要もないのだろう。 Ps 9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。 「敵」に対する裁きが気になり、批判的になってしまうが、「虐げられている人」が常にたくさんいる状態。他の言い方では、理不尽な状態がはびこっていて、そのなかで「神などいるものか」という人たちが多い中で、このような詩をつくり、賛美しているのかもしれないと思った。「乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。」(19)が王として、神に最初から委ねることになってしまっては、問題だが。「ムトラベン」(1)とは何なのだろう。聖書でもここだけに出てくる単語の様だ。英語訳(Muthlabben)不明のようだが、「ムトラ」は死、「ベン」は子を意味することから、子の死が関係しているという節や、演奏法だろうとの推測があるようだ。 Ps 10:16-18 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。 「異邦の民」はユダヤ人以外を意味するのだろうが、神を神としないと理解することもできるだろう。「主の地」はどうだろうか。ユダヤを意味するのだろうが、より広く、パレスチナが念頭にあるだろうか、きなくささを感じるが、地はすべて主のものであることを考えると、全地の意味なのかもしれない。祈りとして、心を合わせたい。主の御心がなるようにと。 Ps 11:1-3 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。 ひとは、二心で(清い心ではなく)生きるように促すのか。主を避けどころとしながら、現実面では、異なる行動を取るべきだと揺さぶりをかける。「世の秩序が覆っている」とある程度客観的と言えることに訴える。このあとには「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4)と続くが、希望をどこに置くかが問われているのだろう。 Ps 12:3 人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。 人は二心、主は清い。この対比が語られている。「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。 」(2)とあるが、主が清いように、こころを清く保ち(二心ではなく)歩むことが、「信仰・信頼・忠実」「主の慈しみに生きる(こと)」の一つの表現なのかもしれない。 Ps 13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。 通常は「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(2)からの苦しみの祈りから始まり、この節でハッピー・エンドを迎えると理解するかもしれないが、もしかするとそうではないかもしれない。主の「慈しみに依り頼(む)」詩編記者が、過去の経験を思い出してか、信頼する喜びを確信してか不明であるが、希望を告白しているのかもしれない。わたしは「わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います」と言えるだろうか。主の慈しみに依り頼む日々でありたい。 Ps 14:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。 「喜び躍(る)」が詩編には19回現れる。あとはイザヤに8回現れる。他は1回または2回である。ここでは「主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき」となっている。すると、最初の「【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 」(1)は、捕囚時代をあらわしているのかもしれない。むろん、「ダビデの詩」とあり、他の可能性も否定できないが。いずれにしても、絶望しかないときが、背景にあるのだろう。そして「ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。」からすると、まだ起こっていないことでもあるようだ。そのときに、「喜び躍(る)」ことをわたしは、このように賛美の祈りとして告白できるだろうか。 Ps 15:1,2 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 「心には真実の言葉があり」から具体的な記述に入る。最初の問いの答えは「完全な道を歩き、正しいことを行う人」である。「完全」という言葉からは「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(マタイ19章21節)そして「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(コリント一13章2節)を思い出す。「完全である天の父のように完全になることを目指すことは」わたしたちは、完全ではないことを認めることと、完全な道を歩くことはできないわたしたちが、どう生きるかが、問われている。 Ps 16:10,11 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 原語はよくわからない。口語訳は「あなたの慈しみに生きる者」を「あなたの聖者」としている。chaciyd (faithful, kind, godly, holy one, saint, pious)をどう訳すかに関わっているようだ。陰府や、死、命をどう考えていたのだろうか。ここだけを見ても、単なる肉体的命ではないようである。 2020.1.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 旧約聖書に戻り、詩編から読み進めています。詩編はどうですか。詩編は、いろいろなトピックについて書かれています。下のリンクに詩編について、過去に書いたものが載っていますが、トピックについて「祈り、賛美、悔い改め、国家、エルサレム、諸国のためのとりなし、神様への信仰告白、神の知恵、力などの表現、国家や神に対する敵への呪い、義人の苦しみ、悪人の繁栄の嘆きなど」と書いてあります。2500年から3000年前の信仰者とつながることができる経験をもったり、どうにも受け入れられないものを感じたり、国家と宗教の関係について考えたり、信仰する内容の差異を思ったり、いろいろではないかと思います。そのなかで、さらに、イエスのことばが詩編のことばと関係し合っていることを見つけ出したり、イエスのことば、それを聞いた当時の人たちが受け取った、福音の新しさも感じられるかもしれません。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編17篇ー詩編30篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 17:14,15 主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。 「御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」(2)とあり、主の裁きを願い求めている。「御心が地で行われますように」との祈りと近い。しかし、引用箇所などから受ける印象は、自分を正しい側に置き、相手が滅びることを願う祈りでもある。イエスの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)を聞いて、この詩編作者はどう思うだろうか。律法の完成・成就として受け入れるだろうか。むろん、わたしも、このようにして正しさを求めているのなら、同じだろうが。 Ps 18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】 51節あり詩編としては比較的長い。ある程度安心した状況の中で作られたと想定されているのだろう。「主は勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。」(51)が最終節である。これを見ると、決定的ではないにしても、ダビデ王朝が想定されているようでもある。そう考えると、作られたのは、だいぶあとになってからだろうか。「あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。」(26-28)など、主のこころを心とする基本がよく現れているように思う。因果関係ではなく、相関関係として観察されることなのだろう。主との交わりが背景にあって起こることだろうが、適切な表現形式がないのかもしれない。 Ps 19:8,9 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。 このようには、わたしは、律法や主の戒めを受け取っていなかったように思う。これは、一つ一つの律法や戒めにこころが向かうと言うより、それを通して、主の心を思うことを表現しているのだろう。律法主義とはかなり離れている。だからこそこれを受け取って「主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(10,11)と続くのだろう。 Ps 20:8,9 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 いままで、自分達を利するためにこのように言うのだと思ってきた。純粋に、このように語れることは幸せだと今回は思った。主との関係、主のことばを喜ぶ、そのような日常的な交わりが、このような告白につながり「苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。」(2,3)につながっているのだろう。批判的に読むより、この詩編作者の信仰生活から学ぼう。 Ps 21:9 あなたの御手は敵のすべてに及び/右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。 常に、逼迫した状況の中に、暮らしていたのだろう。その人達の信仰を、批判することはできない。現在の、紛争地にいる人も、戦争の中にいる人たちもたくさんいるのだから。それを、安穏としているものが裁くことはできない。平和を祈ろう。 Ps 22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(2)から始まる、イエスが十字架上で唱えたとされる有名な詩編である。引用句のように、主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれないことを告白しているのだろう。これは、義のために迫害されているひとと同じ祝福として(マタイ5章3節・10節)と通じるものでもある。 Ps 23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 どのような状況が背景にあるのだろうか。眼前の状況は絶望的なものであっても、主は羊飼いとして、その牧の羊をいつくしみをもって、養ってくださるという告白だろう。食卓、油、杯とある。それぞれに象徴しているものがあるのかもしれない。 Ps 24:3,4 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。 清い心は、二心ではないという意味とすると、そのあとの「魂をむなしいものに向けず」「偽りの誓いをしない」は、その具体的例だと解釈することができる。他にも、いろいろと表現することはできるかもしれない。 Ps 25:15-17 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。 御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。 「わたしは貧しく、孤独です。」「どうかわたしの罪を取り除いてください。」に惹かれた。正しさが前面に出ているように感じることがあるが、背後には、苦しさ、悩みがあり、それを、主に注ぎだしている。そして、罪、聖い神様と隔てているものを、すべて取り除いていただきたいと祈るこころ。おそらく、わたしは、いまのままでもよいと考えているのだろう。救いを求める心、わたしには、あるのだろうか。(実は昨日(2019年12月30日)日本聖書協会の「聖書本文検索」を使ったとき、フォーマットが変化していることに気づいたが(フォーマットは数日前に変更になったように思うが、正確なところは不明)「聖書協会共同訳」が加わっていることに気づかなかった。今日の箇所であまりにも、異なった訳で確認して気づいた。通読は、BRC2019は「新共同訳」で始めたので、これからも、それを続けようと思う。2018年末、「聖書協会共同訳」を購入したがそのときは、検索がまだなく「新共同訳」を使う決断をしたのだった。「聖書協会共同訳」も検索できるようになり、とても嬉しい。) Ps 26:1,2 【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。 この詩編の最後の11節/ 12節「わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。 わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」と呼応している。「完全な道」の定義が、通常考えるものと異なるのだろうか。ちいさなミスも犯さないということではないのだろう。清い心を持ち、一心に、主をもとめている。そこから揺らいでいないことなのだろうか。そう考えると、ウリヤの妻、バテシバと通じたときも、そうだったのかもしれない。しかし、「天の父が完全」(マタイ5章48節)でいうときの、完全とは異なるように思う。主イエスによって、天の父が表されているのだから。 Ps 27:1 【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。 「光 'owr」は何を意味しているのだろうか。希望だろうか。「私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(1ヨハネ1章5節)にあるように、「神は光」であるという、神のひとつの性質を表現しているのだろう。ヨハネでは、なにも隠れることができない「確信 parreesia」とも通じるものだろうか。ここでは「主はわが光」となっている。主が共にいてくださることがどのようなことなのか、考えてみたい。 Ps 28:1 【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。 わたしは、ここまでの自信はない。主に信頼はするが、自分が主の救いに足るものであるかは、まったく自信がないからである。憐れみに、すがるしかないが、それは、他者とも同じだろう。他者も、同じように、主に頼る以外に救いがないものであるのだから。 Ps 29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ 詩編には「神の子」は個々だけである。旧約には非常に少ない。ネフィリムに関する創世記6章2節・4節、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。」(申命記32章5節)「いと高き神が国々に嗣業の土地を分け/人の子らを割りふられたとき/神の子らの数に従い/国々の境を設けられた。」(申命記32章8節)「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。 」(ヨブ記38章7節)、「王は言った。『だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。』」(ダニエル書32章25節)「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。」(ホセア書2章1節)だけである。訳にもよるようで、一度丁寧に調べてみたい。 Ps 30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 人生を生きていく中で学んで行くことが多い。主の業をどのように受け取るかは、つねに変化するのだろう。神の側が、心変わりするわけではないとしても。命を得させることは、悲しみを、喜びに変えてくださることと関係しているように思う。 2020.1.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。詩編は、いろいろなトピックについて書かれていますね。自分の思いと近い詩編を見つけて嬉しくなるときもあると思いますし、敵に対する呪いや、神様に裁きを求める厳しいことばを読み、なぜこのような箇所が聖書に含まれているのかといぶかる場合もあるでしょう。正直に言うと、わたしも、そのような詩編で悩むことがよくあります。そこで少しだけ、最近考えていることを書いておきます。あくまでも、わたしの、現時点での考えですので、これが正しいのだとは受け取る必要はありません。 第一に、ひとは、聖書を読むときに、ついつい、正しいかどうか、理性で、読んでしまう傾向があるのではないでしょうか。しかし、ひとは、苦しさや喜びといった感情や、生活の中から出てくるうめきのようなもの、理性とは違った面も持って生きています。それが表現されている。全人格的な神様への訴え、祈りが表現されていることを覚えて読むことでしょうか。第二に、対人や社会における問題であっても、それをまずは、神に訴えることを通して、難しい問題と向き合う姿勢でしょうか。すぐに、人にぶつけないですむこともあるのではないでしょうか。様々な理不尽さ、そのような社会の問題も、なぜなのですかと神様に訴えることも、真理と向き合うたいせつな姿勢だと思います。第三に、詩編記者とつながろうとすることでしょうか。愛の反対は、無関心だと言われます。ヘイト・スピーチなどの背後にあるのは、異なる他者を知ろうとしないで自分を守ろうとする態度だとも言われます。なかなか理解できなくても、神様が愛しておられる異なる他者に思いを寄せることは、すぐには受け入れられなくても、愛に開かれるたいせつなステップではないでしょうか。逆の立場のこともあります。互いに、異なる他者との間に壁をつくるのではなく、正しさだけではない、つながりを発見できないでしょうか。 今回の箇所では、わたしは何回か「貧しい」ということについて書いています。聖書の会@万座温泉2019 以来、マタイ5章の最初のいくつかの祝福の部分を通して考えている一つのテーマだからですが、貧しさとは、神様に従おうとしつつも、周囲の状況は絶望でしかないなかで、神にしか救いを求められない状況でしょうか。その「心の貧しい人々」「義のために迫害される人々」などとも出会うことができればと願っています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編31篇ー詩編44篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 31:8 慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。 喜び踊る背景として、苦しみ、悩みを知っていてくださることだけが、ここに書かれている。このあとに、「主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。」(10)と続くことを考えると、一つの信仰告白なのかもしれない。これが、引用箇所の直前にある「主に、信頼します。」なのかもしれない。 Ps 32:5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1章9節)の背景となっている言葉なのだろう。引用した節は「【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 」(1,2)と呼応している。この背景に「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。」があり、日常的な主との交わりがあるのだろう。 Ps 33:15 人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。 この詩編には創造の業が語られている。「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。」(6)「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。」(9)そして引用箇所では「人の心」にいたる。人はどちらをさきに思うのだろう。世界の創造だろうか、人の心の創造だろうか。わたしにとっては、人の心を知っておられる主は、それを創られた方と告白することから始まって、創造主なる神様を思っている。それが必然なのか、教えられたことなのかは、わからないが。 Ps 34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 「どのようなときも」は印象的である。「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」(19)の背景にある「苦難」(18)だけではなく、様々な状況があるのだろう。表面には出なくても。「【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】」(1)ともある。サムエル記上21章に関わることであろうが、アヒメレクは祭司(歴代誌上18章16節では、アビメレク)、ペリシテの王はアキシュ。アビメレクという名は、他にも登場する。一つの解釈は、マルコ12章26節で「モーセの書の『柴』の個所で」と言っているように、ここが、ダビデがアヒメレクを訪ねたときのことを書いた箇所でと理解することである。 Ps 35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」 「【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。」(1)と始まる詩編において「貧しい人」は唐突にも感じる。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」(マタイ5章3節)と「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」(マタイ5章10節)の呼応と似たものがここにあるのかもしれない。すなわち「貧しい」とは、正しさをたもちつつも、理不尽に扱われ、消え入るばかりになっているもの。いつか「貧しい」について調べてみたい。詩編だけで「貧しい」は32件もあるようである。おそらくたいせつなキーワードなのだろう。 Ps 36:2,3 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。 不思議な印象を受ける。「背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。彼は自分の過ちを認め、憎むはずが/自分の目で自らにへつらった。」(聖書協会共同訳)だいぶん印象が異なる。なぜ、神に逆らうものに語りかける声が聞こえるのか。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6章22節・23節)を思い出す。自分を偽っているものは、目が澄んでいないもの、体のともし火が消えているものなのかもしれない。 Ps 37:1 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。 冒頭のこのことばと近いことばとして「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」(7,8)とある。さらに「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」(11)ヨブが問うているように(ヨブ24章25節など)悪事を謀るものが、滅びるとは限らない。しかし、貧しい人への祝福はあるように思う。「主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」(16)と言われている通りである。神の国については、語られていない。「貧しい人」受け継ぐのは「地」である。「主に従う人」が受け継ぐのも「地」なのだろう。「主に従う人は地を継ぎ/いつまでも、そこに住み続ける。」(29)今の私にとってもっとも大切なのは「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。」(23)この言葉に信頼することのように思われる。この詩編もっと味わってみたい。 Ps 38:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。 「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます/わたしが愚かな行いをしたからです。」(5,6)とある。その中で、主にこのように叫ぶことができる信仰、信頼、真実はどこから来るのだろうか。「仕方がない」とはならないのだろうか。すべてが、おそらく、罪を犯してしまうことも、愚かな行いをすることも、主の御手の内にあるということだろうか。神の義について、困難な問題をひきおこすと共に、とても重い問いでもある。罪を犯してしまう存在であることを、神はご存じであろう。キリスト贖罪論は、やはり、救いの真理の全体を表しているようには思えない。むずかしい。 Ps 39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」 口を閉ざし続けることから苦しみがつのり(2)主に語り始める。ひとの人生のはかなさと、罪を責められる神が背景にある。しかし「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。 」(13b)と告白し、主に救いを求める以外にないと、信頼を表明している。これこそが「心の貧しいもの」なのかもしれない。そして、おそらく、そこにとどまるものではない。喜びと平安に生きることがゆるされているのだろう。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)ここに行き着きたい。 Ps 40:18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。 「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き/わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」(15,16)を読み、このひとは、本当に「貧しく」はないのではないかと思ってしまう。ひとを裁いている自分を発見する。それは、正しさの追求であり、敵を愛すること、隣人を愛することでも何でもないのだろう。主にすがりつくだけでよいのかという心もあるように思う。難しい。 Ps 41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」 この詩編は「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」(2)と始まっている。互いに支え合い、愛し合うことを重視していることはわかる。引用箇所から考えたのは、現実社会で「罪を犯したなら罰せられるのは当然だ」自業自得という考えが強いことへの違和感を持っているからだ。罪を犯した人にすべての責任を負わすことは楽だが、それでは、もっと大きな問題は解決しない。さらに、だれでも罪を犯すからというよりも「弱いものに思いやりのある」ことの価値が高いからである。ひとり一人の罪をみな同じと薄めてしまうことは問題がある。それは、やはりまだ、正しさの地平にいるのだろう。簡単に愛とよびたくはないが、違った次元に目を向けること、そこに生きる場をもとめることを考えたい。罪を犯した人を見るときに、切り捨てることでは、なにも生じず、神の栄光をみることはない。 Ps 42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。 6節も全く同じである。自分を鼓舞することばである。これが、神への信頼であろう。そして、ダビデの姿勢を思い起こす。しかし、そこで行き詰まってしまう。どう生きるかは、このさきにあるのだろう。イエスはそれを神の子、神の国としてつたえたように思う。 Ps 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。 この詩編は「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」(1)から始まる。個人的には、好まないものだが、様々なことが混在しており、それを素直に注ぎ出すのが祈りなのだろう。そして引用箇所にいたり、最後5節は、42篇6節・12節と同じことばが並ぶ。この「光とまこと」は聖書中ここだけでの実体は不明である。しかし、それがイエスを表しているのではないかと思うのは自然であろう。それを求めている。その呼応に驚く。 Ps 44:25,26 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。我らの魂は塵に伏し/腹は地に着いたままです。 「貧しい」が気になり、この箇所を選んだ。詩編には32回登場ずる。「虐げられ」は詩編で8件だった。関係しているのかもしれない。そう考えると、貧しいは、経済的な乏しさだけを意味していないことは確かである。考えさせられる。 2020.1.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。様々なものが含まれています。うめき、嘆き、信頼、告白、賛美などなど、ひとりの信仰者としてのものなのか、宮廷や集会で朗唱されることが想定されて書かれたものか、判断がつきかねるものもありますね。以前にも書いたように、教会で交読文として使われる詩編も多く、その意味で、会衆が心を合わせて、唱える、交読する価値が高いものなのでしょう。しかし、最初の作られたときは、もっと個人的な思いが強かったのかなと思います。そう考えると、さまざまな魅力的な人たちがいるという、多様性として、一つ一つの詩編を観賞し、楽しむのもよいのかなとも思います。様々なひとが神様の方向を向いて、生活の中で唱っているとして、その人達と交流することでしょうか。正しさに寄ってしまう、自分に言い聞かせている面が大きいですが。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編5篇ー詩編58篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 45:11-13 「娘よ、聞け。耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。 王はあなたの美しさを慕う。王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え/あなたが顔を向けるのを待っている。」 王について「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」(8)と書かれ、王妃について書かれている。ここにあるのが、王妃の務めなのだろう。ひととして、または、神の子としての尊厳より、その役割を全うすることによって、神に愛されるものでいることが求められたと言うことだろうか。その時代にいないと理解しがたいのかもしれない。 Ps 46:9,10 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。 「地の果てまで」とある。詩編記者はどこまでを思い描いているのか。中東で、イランと米国の緊張が高まっている。その中で、一般の人たちが多くの被害に遭う。命を落とす人も絶えない。引用箇所などは、単なる願いなのだろうか。むなしいことばではあって欲しくない。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(11) Ps 47:10 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。 「自由な人々」が目にとまったが、大枠では、諸国は異邦人をさし、その中で、偶像に心を奪われていない、自由な民が、アブラハムの神の元に来て、その民となり、地の盾となるといわれているのだろう。「地の盾」も正確にはわからないが。普遍性は、イエスから出たことなのだろうか、それとも、パウロから出たことなのだろうか。イエスの自由さが本質的だと思うが、「キリスト教」として、明確化したのは、やはりパウロなのだろうか。 Ps 48:11,12 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。 神の力は、全世界に及ぶことを宣言しているのだろう。しかし、中心はあくまでも、エルサレムである。「この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」(15)とあり、死をも超えて、わたしたちを導きていかれると言われているが、当時、何が信じられていたのだろう。死後について、一般的には否定的だったろうが、死を越えることは、なにを意味していたのだろう。 Ps 49:13 人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。 人が「屠られる獣」にたとえられていることに、驚いた。似たものが「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」(21)にある。「自分の力に頼る者の道/自分の口の言葉に満足する者の行く末。〔セラ」(14)とある。しかし、「屠られる獣」ではない人生があるのだろうか。神に捧げられるなら、それで良いようにも思う。結局なにを伝えようとしているのだろうか。空しさだろうか。おそらく、そうではない。 Ps 50:23 告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」 似た節がある。「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。」(14)「告白」は、捧げ物なのだろうか。それだけの、決意と、神へのいけにえとして、信仰を告白しているだろうか。いのちを賭けたものなのだろう。そして、それは、言葉だけではなく、行い、生き様もそうだろう。そのような生き方をしたい。 Ps 51:5,6 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(2)とあるにも関わらず「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。」と言っていることに違和感を感じる。常に主にのみ信頼するダビデをよく表しているともとれるし、社会的責任という言い方は適切かどうか不明であるが、ヘト人ウリヤを殺害したこと(サムエル記下11章)も、主に対する罪とすることでよいのかという疑問である。特に、王という特別の社会的地位にいたダビデ、主の憐れみ(サムエル記下12章22節など)に望みをおいていたダビデ、おそらく、そのようなダビデを受け入れられない・赦せない心がわたしの中にあるからなのだろう。自分がウリヤの子どもであるときにダビデのしたことを知ったらどうだろうか。すべてを神との関係とすることを個人の責任に帰して良いのだろうか。詩編記者と神様に問いたい。どうしたらよいのか、わたしには、わからない。 Ps 52:10,11 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。 「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(2)とある。危機の時である。「生い茂るオリーブの木」はいのちに満ちていることが表現されているのだろうか。わたしには、このような信仰はない。心の貧しいものではないからだろうか。こころの中で「甘い」と叫びたくなる自分がいるからではないだろうか。しかし、完全に主に信頼して委ねることを拒否する自分に、ある希望ももっている。難しい。わたしが、ヨアブを好む傾向が背景にあるのかもしれない。 Ps 53:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。 「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」(2)と始まる。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(4)という状態を認めている。その人間の状態を変えることが、救いなのだろうか。そうなのかもしれない。 Ps 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。 「ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。」(2)とし、サムエル記上23章19節が背景にあるとしている。詩編記者は、ダビデのこころをどのようにとらえていたのだろうか。「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ 」(5)この節などは、どうも、状況にぴったりはあっていない。「わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。」(7)これも、サウルが想定されているのだろうか。最初の部分が新改訳では、節に組み込まれているので、丁寧に読もうとしているが、背景として、厳密には考えない方がよいのかもしれない。 Ps 55:23,24 あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。神よ、あなた御自身で/滅びの穴に追い落としてください/欺く者、流血の罪を犯す者を。彼らが人生の半ばにも達しませんように。わたしはあなたに依り頼みます。 背景はよく分からないが、引用句で注目したのは「とこしえに」と「人生の半ば」。簡単に言うと、主に従うものには、生きている間にいつか、救いが来、そうでないものは、長く生きることはない、ことを願っている。死後の世界での救いを考える必要はないが、死を絶対的なものとする必要もないように思う。もし、神と人との関係に目を向けているなら、一方にとって、人の死は、決定的ではなく、そのことは、他方も、十分にご存じなのだから。 Ps 56:2,3 神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ 陥れようとする者が/絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ/多くの者がわたしに戦いを挑みます。 常に争いの中にいる理由は、おそらく分からないのだろう。世の中には、争いを引き寄せているように思われる場合もある。しかし、困難が次から次へと生じ、やはり、その理由が分からない場合がある。この中で、神はどこにいるのかと叫びたくなることも理解できる。わたしは、どうだろうか。人の困難を見ると、関わらざるを得ないように考える。といって、その人に益になることだけを考えているわけではない。それは、その周囲の人も目にとまるからだろう。絶対的な善は、見えない。わたしのような生き方もまた偽善なのだろうか。すくなくとも、「貧しい」状態ではないようには思う。貧しくならないといけないのだろうか。正直よくわからない。 Ps 57:8 わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして/あなたに賛美の歌をうたいます。 「心を確かにする」とはどういうことだろう。「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。」(口語訳7節)「神よ、私の心は確かです。/私の心は確かです。/私は歌い、ほめたたえよう。」(聖書協会共同訳)ヘブル語は「心」は leb: inner man, mind, will, heart, understanding、「確か」は、 kuwn: to be firm, be stable, be established である。揺るがないことを言っているのだろう。不信仰の反対だろうか。不安はないことはないだろうが、それでも、心は確かにすることは、できるかもしれない。理性的なものの制御下にいる間は。 Ps 58:4 神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。 さらに「なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。」(9)とまで呪っている。救いようがない。というようにとれる。「悪い木だ」というのと同じだろうか。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」(マタイ7章17・18節、偽預言者を警戒せよの項で)イエスの教えには、希望もあるが、なにか、ここからは、希望が見えない。世の中(の人)がそのように見えるのは、理解できるように思うが。わたしの希望の根拠はどこにあるのだろうか。「偽預言者」と「偽預言者となっている者」をわたしが区別しているからか。 2020.1.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。下にリンクがあるホームページに書いてありますが、詩編には、さまざまなものが含まれていることは確かですが、構造としては、五つの巻にまとめられています。翻訳によってそれが分かるようにかかれているものとそうでないものがありますね。 第一巻 第1篇-第41篇・第二巻 第42篇-第72篇・第三巻 第73篇-第89篇・第四巻 第90篇-第106篇・第五巻 第107篇-第150篇 そして各巻の最後は、主を賛美する通常頌栄とよばれているもので終わっています。おそらく、様々な、ひとたちの、多種多様な状況の中での、うめきも、すべて主を賛美することなのだとしているのはないかと思わされます。そうであるとよいですね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編59篇ー詩編72篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 59:15,16 夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。彼らは餌食を求めてさまよい/食べ飽きるまでは眠ろうとしません。 前半の15節と同じことばが7節にある。「犬のようにほえ」は、この詩編だけである。しかし、これほどの悪がはびこっている状態を表現している。現在とは異なるのだろうか。それとも、現在でも似た状態なのだろうか。天の父なる神様は、このように表現される人たちをも愛しておられるのではないのだろうか。神が愛し、ひとり一人に呼びかけておられることを理解するように、導かれているのだろうか。そうであるはずだと、思い込んでいるのだろうか。背景にある、根本的な部分が難しい。 Ps 60:12-14 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。 直前には「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」(11)とある。状況は不明であるが、エドムなどに責められ窮地に陥っている中での叫びなのだろう。引用箇所3節も、訴えから始まり、信仰告白へと導かれ、最後に決意をもって、おそらく行動に移すことが記述されている。それだけ、切迫した、そして、現実の課題のなかで、神と、神の救いに向き合い、それなしには、生きられないと、告白する信仰が表現されている。わたしは、だいぶん、距離を置いているように思う。冷静ではあるかもしれないが、冷徹な、醒めた面も持っている。詩編記者とつながるのは難しい。 Ps 61:7,8 王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。 どうしても、王制、政治と宗教の問題から、忌避されるが、落ち着いて考えてみたい。政治制度は、相対的なもので、どれがベストと言うことはないだろう。ひとは、ある政治体制のもとで生活する。それをすべて宗教のもとで行うことは、おそらく、イエスは目指していなかったと思われる。しかし、政治は、日々の生活に、大きな影響を及ぼす。地域の安寧か、地球規模のものかは、十分考慮すべきシステムの問題も含むが、どのレベルであっても、政治が安定し、信頼できるものであることは、だれにとっても、たいせつであろう。ひつようなものを神にもとめることは、自然なことなのだろう。わたしには、すべてを理解することはできないが、祈りを持っていたい。 Ps 62:10,11 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。 「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」(7)全く同じことばが、3節にもあるが、このことばと、対応するものとして、引用句があるのだろう。軽さ、空しさ、この「人の子ら」には、自分も入っているのだろう。信頼しうるものではないことを告白しているのだろう。しかしわたしは単純に「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」(13)とは言えない。自業自得ではない恵みに希望をおいているから。たとえ恵みを思っても、基本線は自業自得だというのか。わたしは、違うように思う。 Ps 63:12 神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。 突然「王」が現れ戸惑いを覚える。主に信頼するものが、報いを受け、主は結局、答えられないとして、主を侮る者は、罰せられるということが書かれているのだろうか。「誓いを立てる者」と「偽って語る口」の対比が興味深い。「誓い」は自分が成し遂げることの宣言ではなく、神に委ねて、神の働きを祈り求めることなのだろうか。主を侮ることなく、謙虚でありたい。 Ps 64:4-7 彼らは舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ 隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。 恐ろしいことが書かれているが、現実には確かにこのようなことがあるだろう。主を侮ることであることは、間違いがないが、無神論のひとにとっての倫理基盤はないのだろうか。自分にも返ってくることから判断する普遍性だけなのだろうか。「見抜かれることはない」という価値観は、プラトン時代から議論されていたことのようだ。そして、心理学的には、人の判断基準として逃れられない一面を含んでいる。「人は胸に深慮を隠す」は、たしかにそうだろうと思ってしまう。そのなかで、すべての人が平和を愛し、互いに仕え合う世界は、求められないのだろうか。 Ps 65:9 お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。 このあと自然の恵みを覚えることばが続く。現代では、神秘的なものが、科学的な見方とそれを誇大評価した科学信仰がとってかわり、自然と距離を持って暮らす生活が、自然を通しての神への畏敬を衰退させている。いのちをも、操作できると思わせるような部分が増えてきたことも、関係しているかもしれない。本来は、人間が捉えることができたものは、そこまで多くはないのだろうが、上にのべた感覚を、完全に否定することはできない。肉体的いのちを含む自然への畏敬を冷静に見ると共に、世界を全体的に捉えることで、神の働きを見ることが必要なのかもしれない。難しい問題である。 Ps 66:5,6 来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。 このあと歴史の中で働かれる主を覚えることばが続く。自分の人生に引き寄せて、神の働きを見ることができれば賛美ができるかもしれないが、それを見取ることができないとき、世界の歴史の中から神の働きを見るのは、難しいのかもしれない。進歩・発展はあるように思われるが、同時に新たな問題が増え続ける世の中、理不尽さは、どうしても残る。人の歴史から神の業を認めることは、難しくなっているのかもしれない。ある種のポストモダンの考え方で、歴史を神の歴史と紡ぐ考えからは、なにかひとの浅はかさを感じてしまうことも否めない。なにが良いことなのかと、価値について考え、真理を探究するこころは、永遠であるように思われるが。 Ps 67:4 神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。 全く同じことばが6節にあり、その間には「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 」(5)とある。イスラエルでは、すべての民、諸国の民をどう捉えていたのだろうと考えた。まず「すべての民」と「諸国の民」は同じだろうか。5節を見ると、同じように使われているように思われる。祝福の中心は「わたしたち」であり(2,7,8)「この地」もおそらく、イスラエルが想定されているように思われるが、それが全世界に及ぶことが祈られている。喜びや、公平さは、すべての民でともに喜ぶものとの理解が十分あったのだろうか。「あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。」(3)興味深い。この考えは、キリスト教にも引き継がれているように思われる。 Ps 68:2-4 神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る。煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。 「敵」が登場すると反応してしまい、「誇らかに喜び祝(う)」も気になってしまう。ただ、このあとに続くことを見ると、神をどうみているかは、共感を覚える。「神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。」(6,7)神は聖なる宮にいますとあるが、ここで表現されていることが、清い心の発現なのかもしれない。この詩編は長く、このあとにも数々の記述があるが、通読では十分には読み込めない。次回また少しずつ理解していきたい。 Ps 69:6,7 神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。万軍の主、わたしの神よ/あなたに望みをおく人々が/わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ/あなたを求める人々が/わたしを屈辱としませんように。 37節ある長い詩編で、十分理解することはできない。様々な要素が入っているようだ。「理由もなくわたしを憎む者は/この頭の髪よりも数多く/いわれなくわたしに敵意を抱く者/滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら/償わねばなりません。」(5)および、引用箇所は、複雑な状況が表現されており、それは、このあとも続く。この混乱の中で「叫び続けて疲れ」(4a)「目は衰え」(4b)と表現している。7節も正確には、わからないが、自分が躓きとならないように祈っているようである。わたしの現状は、少し異なるが、この複雑な中で、主に栄光を帰して生きることの難しさ、もだえは、共感できるものがある。詩編は、特に背景を理解することが難しいが、いつかていねいに読んでみたい。 Ps 70:6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。 ここにも「わたしは貧しく」とある。理解できない部分が多いが「わたしの命をねらう者」(3)「はやし立てる者」(4)に囲まれているのだろう。「身を屈めてい(る)」それが、「貧し(い)」と表現される状態なのだろう。 Ps 71:13 わたしの魂に敵対する者が/恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が/嘲りと辱めに包まれますように。 詩編のこのようなことばを避けてきたが、そろそろ向き合うときなのだろう。この時代の神認識は、自分の神で、かつ、周囲の人も敵も、自分の神をもっていたのだろう。普遍化を前提に、すべてのひとにとっての真理から、ひとり一人にとっての、真理に落とし込むことは、まだ現れていないか、原始的なかたちでしかないのだろう。信じる神様の偉大さの故に、それは、他者・敵にとっても神、従わない場合は、罰を下されるとなり、さらに、神はそのような他者にも恵み深いと導かれるのかもしれない。急がず、少しずつ考えていきたい。そのもとで、全人格的な交わりを、詩編記者としていきたい。 Ps 72:12-14 王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い 不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。 義を思うこころが、王に対して、義を望み、それが神の義・憐れみとつながる。それは、自然なことなのかもしれない。宗教集団は、倫理的な集団でもあり、その政治的な部分の長が王という位置づけだろうか。王が指導力をもつ範囲はどうかんがえられていたのだろうか。宗教的なこととの間を、完全に切り離すことはできないし、判断困難な問題もたくさんあるだろうから。やはり一人の王に委ねるには、複雑すぎる、といって、民主主義がよいのかも、不明ということだろうか。引用した価値観には、普遍性があると考えてよいだろうか。おそらく、具体的な問題に落とし込むと、単純ではないのだろう。 2020.2.2 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。前回、「詩編は、構造としては、五つの巻にまとめられています。」と書きました。今週、皆さんが読まれるのは、73篇から86篇で、第三巻は、 第73篇-第89篇ですから、ほぼ、第三巻を読むことになります。内容的に、巻によってどう違うのかは、わたしには、よく分かりませんが、今日、皆さんが読まれる、72篇の最後には、各巻の最後にある頌栄が次のように書かれてあります。 主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。 栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。 エッサイの子ダビデの祈りの終り。(72篇18節から20節) しかし、このあとも「ダビデの詩」と書かれているものがたくさんありますから、ダビデの詩かどうかが区切りとなっているわけではないのでしょう。しかし、この72篇までは「ダビデの詩」等とある以外は、ダビデは一カ所の例外を除いて、本文に登場しませんが、このあとには、ダビデの名前が登場します。いずれにしても、詩編において、ダビデの存在はとても大きなものだったのでしょう。詩編が、信仰者の心の詩、公式・非公式の祭儀における賛美などと考えると、ダビデの重要さが伝わってくるように思います。イエスは、殆どダビデのことを語りませんが、イエスの時代の人たちは、イエスをダビデの子と呼び、当時の人たちにとっても、ダビデは特別な存在だったことが伝わってきます。人々にとって、ダビデはどのような存在だったのかも考えさせられます。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編73篇ー詩編86篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 73:3-5 神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。 この状態を「【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」(1,2)と表現している。神は、なぜ裁かれないのかという、神義論のひとつの形式である。この詩編においては、「聖所を訪れ彼らの行く末を見分けた 」(17)とあり「あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え/彼らを迷いに落とされるのを彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし/災難によって滅ぼし尽くされるのを 」(18,19)と告白している。結局、裁かれているということだろう。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマの信徒への手紙1章24節)と通じるのかもしれない。「見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。」(27)と結んでいる。もっと知りたい。考えたい。 Ps 74:21 どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように。 じっくりと読むことはできないが、底に、このような価値観があることは、本当に素晴らしい。繰り返し繰り返し、詩編に登場する。現代人は、そのことをこころに秘めているだろうか。行動や思考の重要な部分を占めているだろうか。「虐げられた人」「貧しい人、乏しい人」に目をとめて生きていきたい。それが共に生きることにつながるように思う。 Ps 75:11 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り/従う者の角を高く上げる。」 一つの信仰なのだろう。しかし、これは、つねに、敵を想定しているようにも思われる。神は、何を望み、なにをなしておられるのだろうか。イエスの説く主も、すべてを赦す主であっても、全員が救われるわけではない。この詩編にはもう二回角が登場する。「わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな。」(5,6)一度、角についても、調べてみたい。角笛などを除くと、詩編には「救いの角」(18:3)「御旨によって、我らの角を高く上げてください。」(89:18)「わたしの真実と慈しみは彼と共にあり/わたしの名によって彼の角は高く上がる。」(89:25)「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ/豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(92:11)「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(112:9)「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。」(118:27)「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。」(132:17)「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。」(148:14)難しい。 Ps 76:10 神は裁きを行うために立ち上がり/地の貧しい人をすべて救われる。〔セラ どうも、ここでも、裁きは、貧しい人を救われることである。他のひとは、どうなるのだろうか。何が期待されているのだろうか。貧しさについて、もっと理解したい。天の国、神の国が近いことと、貧しい者が幸いであることは、つながっていることは、旧約から続いていることなのかもしれない。 Ps 77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ 神の変わらぬ愛に捉えられていた(と個人的に考えていた頃)ときがあって、この祈りに至っている。最近、世の中の急激な変化の中で、世界中の人々が、神の変わらぬ愛に寄り頼むことは困難になっているのではないかと考えている。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」 (11)これも、自分の状態ではなく、世界の人々の声として叫びたくなる。大きな変化の時代にも、変わらぬ神の愛に信頼していけばよいのだろうか。今までの恵みを糧に、新たな行動を起こさなければならないのか。この二つを一つに統合したところに救いがあるのか。地球環境、コミュニケーション環境、それにともなって人とひととの関係が大きく変化している中で、平安を求め祈る。 Ps 78:72 彼は無垢な心をもって彼らを養い/英知に満ちた手をもって導いた。 「僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り 」(70)とありこの主語はおそらく「主」(67等)である。ここで「無垢な心」「英知に満ちた手」とある。わたしには、この前者が気になり、ヨアブに同情し、なかなか、ダビデを好きになれないが、後者をもっと、ていねいに受け止めるべきかなとも思った。すくなくとも、詩編記者のとらえ方に、示唆をうけた。興味深い。 Ps 79:1 【賛歌。アサフの詩。】神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い/あなたの聖なる神殿を汚し/エルサレムを瓦礫の山としました。 この悲惨な中で、信仰者は何を神に訴えうるのだろうか。4節まで残酷な異国の民と、周囲のあざけりを描き「主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。」(5)と訴えている。続けて、「(主を)知ろうとしない異国の民」への怒りをもとめ(6,7)、次に、罪の赦しと、救い出してくだっさることを願い、周囲の民のあざけりは主へのものであることをかき栄光のために裁きと救いをと願っている。「倍返し」どころか「七倍返し」(12)も祈り、最後に「わたしたちはあなたの民/あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ/代々に、あなたの栄誉を語り伝えます。」(13)としている。これが、エルサレム陥落・捕囚時の定型の祈りだったのかもしれない。アサフが民の思いを代表ししているのだろう。「アサフの詩」と書かれた詩編が12篇ある。いつか調べてみたい。 Ps 80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり/御自分のために強められた/人の子の上にありますように。 これがキリストを指し示すとすることも可能であるが、まずは、この詩編の文脈でていねいに読むべきだろう。この詩編記者の神への嘆きと、神への問いを。無神論への挑戦でもある。わたしのこころにも、ひょっとしたら、神はいないのかもしれないとのこころもある。絶望の中で、この詩編記者のように訴える信仰についても、御心についても、真剣に考えたい、そして祈りたい。 Ps 81:12,13 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。 これも「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマの信徒への手紙1章24節)と通じる部分がある。掟が与えられているにもかかわらず、神に従わないイスラエルの民をどのように、見るか、神はどのようにしておられるのかについての一つの告白である。ローマの信徒への手紙は、それを拡大して、すべての人に対して述べていると思われるが。この拡大は普遍的価値とともに、問題をも生じさせる。「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。」(10)を、異邦の民にも適用しようとする。これは、同じではないと思う。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13章35節)が中心ではないだろうか。 Ps 82:2-4 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」 不思議な詩編である。「【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 」(1)と始まる。「神々」はもともと議論があるところであろうが、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。」(5)と引用箇所に続き、さらに、「あなたたちは神々なのか」(6)と問う。最初の「神々」は、「人間として」(7)ではなく「神々」のように生きる者を指しているのかもしれない。この詩編の最後は「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(8)と終わる。人間の世界、神の世界と分離して考えないこともできるのかもしれない。「父なる神と御子イエス・キリストとの交わり」は「わたしたちの交わり」であるように。 Ps 83:6-9 彼らは心をひとつにして謀り/あなたに逆らって、同盟を結んでいます。天幕に住むエドム人/イシュマエル人、モアブ、ハガル人。 ゲバル、アンモン、アマレク/ペリシテとティルスの住民。アッシリアもそれに加わり/ロトの子らに腕を貸しています。〔セラ どの時代のもので、どの程度正確なのか不明であるが、イスラエルの東と南の諸部族がすべて含まれているようだ。近隣部族との関係はつねに重要だったろう。ただ、歴史的にみると、アッシリアが台頭、北イスラエル王国が滅ぼされる。(BCE722) それ以降のことか。おそらく、単独の国で盛衰を語れなくなっていた時期でもあろう。この連合国も、アッシリアの脅威を強く感じていたはずである。すると、信仰者にも、世界をどう捉えるかが問われていたときなのかもしれない。そして、現代も、そのような大きな変化の時なのかもしれない。 Ps 84:3,4 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 後半(4節)をみると、これは、現実の神殿ではおそらくないだろうと思う。主のおられる場所、神の国、天の御国と言ってもよいかもしれない。それは、神様の支配が完全に行われているところと考えられている。まさに「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 」(マタイによる福音書6章10節)しかし、続けて主の祈りから引用すると、それは、あこがれではなく「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイによる福音書6章12節)の祈りが実現する世界、わたしたちにも関わってくることなのかもしれない。 Ps 85:2,3 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ 帰還後の描写とすると、5節から8節に「あなたはとこしえにわたしたちを怒り/その怒りを代々に及ぼされるのですか。」(6)などをどのように理解の方向性は二種類あるように思う。ひとつは、帰還に至る前の苦悩を覚え、主が与えられた「平和」(9)を感謝すること、もうひとつは、帰還しただけで、救いの実感はまだまだで、混乱も続いている中で、主の怒りはまだ続いていると解釈するもの。おそらく、両面があるのだろう。9節から最後は、主への信頼を述べている。信仰は、そのような、複雑な状況のなかで、こころも揺れながら、悩むこととつながっているように思う。 Ps 86:16 わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。 詩編記者が自らを僕とよび、はしための子と言って、憐れみを乞うているのだろう。ここだけを取り上げて、主イエスを読み込むこともできないことはない。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)をどのように受け取るかにも関わってくるが、ていねいに少しずつ読んでいきたい。分からないことばかりでも。 2020.2.9 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。退職してから、わたしは、所属教会での奉仕も限定的にさせていただき、他教会を訪問して礼拝に出席しています。そのようにしているいろいろな理由がありますが、いずれにしても、多くのことを学ばせていただくと共に、考える機会を得ています。可能なときは、その教会の牧師先生とも、しばらく話す時を持たせていただいております。別にお話しする時間を作っていただくことも時々あります。教派による違いもありますが、教会ごと、牧会される先生ごとにいろいろな特色があることに気づかされます。聖書のことばとどう向き合うか、社会との関わり特に人々の福祉の問題とどう関わるかについても、個人的な考えはありますが、それぞれの教会の伝統のなかでどうとらえているか見させていただいています。いま、わたしたちは詩編を読んでいますが、本当に様々な詩編があり、最近、教会巡りをしているようなものだなと感じさせられています。反発を感じるときもありますが、神の義と愛、わたしたちがただしと信じることと、わたしたちが互いに愛し合うことに招かれていること、違いが表面化したとき、そのこととどのように向き合うかを考えながら、わたしは、詩編を読んでいます。あなたのことを、あなたの神様との関係について、隣人との関係について、ご自身について、教えてくださりと祈りつつ。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩87篇ー詩編100篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 87:4-6 「わたしはラハブとバビロンの名を/わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも/この都で生まれた、と書こう。シオンについて、人々は言うであろう/この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。 主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。〔セラ 「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される/シオンの城門よ。」(2)とあり、エルサレムが主にとっても特別であると始まる。しかし、引用した箇所には、驚かされる。ここで「わたし」はその前をみると「人々」のようである。最後には「歌う者も踊る者も共に言う/『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」(7)と結ぶ。普遍性へと向かっている。自然なことなのかもしれない。そして、エルサレムも相対化されるのだろう。 Ps 88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。 詩編は、苦難からの救いを訴えても、最後には、主への信頼、賛美へと変わるものが多いが、この詩編は最後まで暗闇である。「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。」(4)と叫んでいる。その叫びは「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」(14)となり、平安へと向かうかと思うとそうではない。「主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」(15)そして、引用箇所で終わる。このような詩編が含まれていることに、かえって真実と希望を見る。その苦悩の深さが偽りなく表しているからだろうか。 Ps 89:50 主よ、真実をもってダビデに誓われた/あなたの始めからの慈しみは/どこに行ってしまったのでしょうか。 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(4,5)この神の約束が変更になるはずがない。この背景からもとめる、ダビデの子への救い主願望は、外からはなかなか理解できないものなのかもしれない。むろん、これも、原理主義ともいえないことはないが。それを取り出して、バサッと切ることは、わたしにはできない。ここに希望の根拠もあるのだから。本当に難しい。 Ps 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 「生涯の日を正しく数える」とは何をいみしているのだろうか。「あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。 」(16,17)と言われているように、神の業に目をそそぎ、子らもあなたを見失わず、主に喜ばれる存在として、営みが神のまえに確かなものとされることだろうか。 Ps 91:14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 詩編記者が、神の介入(God’s intervention)について記している。どう考えたら良いのだろうか。現代の科学の理解は、量子論の不確定性や還元論では解決できない問題と向き合うこと、宇宙論などの不思議のなかで(完全な)決定論から離れているが、それでも、神が現実の世界につねに介入する余地はほとんどないように思われる。古代のひとのようなナイーブな信仰は持てないことは、自然であるとも思う。実際に起こった・起こっていることの意味を考えることは可能である。それだけでよいのだろうか。ある場合は、それを神の介入として信仰告白することで。 Ps 92:15,16 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。 このように生きる可能性はある。そうでないかもしれない。このように、告白することが幸せなのか。このように、告白できないことは、幸せではないのか。わたしには、わからない。周囲の、このように告白できない人を、主を自分の岩と頼まない人とは、いえない。ひとのこころは、わからない、そして、神様のはたらきをすべて見ることはできないから。 Ps 93:3,4 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。 すべてのことにおいて、主を誉め讃える。これが、わたしには、苦手なのかもしれない。おそらく「神以外のものを神(絶対的なもの)としない」習慣が、神をも、または、神の様々な働きをも、一つ一つ相対化して考えているように思う。主を誉め讃えることは、完全なるもの、絶対のものに目を向け、それを求める上で、不可欠なのだろう。同時に、あまりに、それとは異なる現実を見て、課題と向き合うことに時間と勢力をかけるからか。主を誉め讃える詩編記者から、学んでみよう。 Ps 94:9-11 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。 人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。 創造の業、自分の存在は自己完結的に規定することはできないということに目をむけることはが「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。」(8)と語り初め、引用句につながっている。なぜ、ひとはこのことをなかなか自覚できないのだろう。それを自覚させてくださるのが、創造主(の概念)である。それが「人間の計らい」の空しさにつなげられている。では、どうすればよいのだろうか。創造主なる父なる神に寄り頼むだけだろうか。おそらくそうではない。その次の段階も、ていねいに考えたい。 Ps 95:4-6 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 このあとには、主と自分たちとの関係が述べられる。「すべては主のもの、主が造られた」との告白は、裏返すと、自分のものと言えるものは、何もないこと。自分で生み出したものは、何もないことを告白することなのかもしれない。そして、この主との関係こそが自分を存在させ、生かすものということか。この告白に生きることが、信仰によって生きることだと言っているようだ。この関係を認識して生きることは、無視して生きることと、大きな違いを生じるのだろう。 Ps 96:13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。 引用句の最初「主を迎えて。」は前につながるものとして訳してある。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え 」(11,12)とあり、期待が強いことがわかる。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」(コリントの信徒への手紙一16章 22節)「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書6章10節)こう並べてみると、やはりパウロは厳しい。イエスの言葉との違いを感じる。 Ps 97:1,2 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ/正しい裁きが王座の基をなす。 地上の王、為政者はどうなのだろうか。限定的に、裁きの正しさが求められるのか。正直、地上の世界はとても判断が難しいと思う。人が多くなり、複雑さも増しているからだろうか。主にも、人にも、正しさのある基準はあっても、それで、問題が解決するようには思えない。どちらに進むべきかもとても難しい世の中に、わたしたちは、生きているように思う。その状況を、主の前にていねいに広げよう。委ねるのも難しいかもしれないが。 Ps 98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 「新しい歌」は、主の救い、主の働きを発見したことを意味するのだろうか。日ごとにあたらしい神の働きを認めることはあまり簡単ではない。しかし、主の働き、この世におけるとも言えるし、他者を通しての場合もあるだろうし、他者に働いておられる主の業を認めることができれば、常に、新しい歌を歌えるかもしれない。深い霧の中で、それが神の業かどうか、疑心暗鬼になり、そこで終わってしまう場合もあるだろうが。そこにも真実があるのかもしれない。 Ps 99:4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。 裁き・公平・恵みとある。まず、ここでいう公平とは何なのかと考えた。「御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」(詩編17:2)などとあるが、どのような公平なのかは、よく分からない。新約には少ない。「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ4:1)「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」(1ペトロ1:17)の二カ所だけである。「神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。」(7,8)とある。律法を与えたことは公平さの基盤かもしれないが、与えられたのは、イスラエルのみである。公平はどの範囲なのか。「赦す」と「咎に報いる」もよくわからない。 Ps 100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。 ここで言われている「真実」とは何なのだろう。「虚偽」ではないことか。「真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。」(詩編119:43)「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 」(詩編19:8)「主よ、あなたは近くいてくださいます。あなたの戒めはすべて真実です。」(詩編119:151)すばらしいものという意味だろうか。「わたしの真実」「あなたの(主の)真実」にも興味を持った。考えてみたい。 2020.2.16 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。最近は、詩編記者の住んでいた世界と、現代の私たちの住む世界との共通点と相違点に思いをはせながら読んでいます。様々な苦しみ、理不尽としか言えないもの、天災もあるでしょうし、自分を標的にしているのではないかと思われる人災もあるでしょう。自分にはどうしようもないこと、それに対する自分のこころを神の前に持って行く。これは、共通であるように思います。他方、現代では、情報も多く、解決手段や、予防的な知見や方法も多く、対応する個人や人間の責任も多くなっている。神の前に持って行く以外にないことが、やはり、減っているようにも思います。それが、信仰から離れたり、宗教に実感が持てないことにつながっているのかもしれません。みなさんはどう思いますか。そして、現代において、わたしたちは、どのように生きたらよいのでしょうか。共通点を探す以外にも、違いを認識しつつ、考えることもあるように思っています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編101篇ー詩編114篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。 「卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず」(3)このあとにも自らが行っていることが続く。期待をもって待つこと、そして、自ら、主を迎えるために、日々の生活を整えること。それが信仰生活なのかもしれない。「わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」(7,8)と判断が難しいものもあるが。 Ps 102:19 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」 この詩編は「【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】 」(1)となっている。特に、「わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。」(4,5)と始まる部分は、心が痛い。しかし、引用句を挟む、13節から23節は力強い。それに続く後半の24節から29節は「あなたの僕らの末は住むところを得/子孫は御前に固く立てられるでしょう。」(29)で終わっており、非常に整っている。どのような詩編なのか、いろいろな人生の時期のものを集めたものなのか、考えてしまう。じっくり読むときをいつか持ってみたい。 Ps 103:14-16 主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ/生えていた所を知る者もなくなる。 全体の中での位置づけはよく分からない。(自分を含む)ひとり一人に慈しみ深い主について語られ、引用句があり、そして「主の慈しみが主を畏れる人の上にある」(17)と告白し、賛美で終わっている。引用句のメッセージが理解できない事を感じると共に「主は(何を目的として)わたしたちを/どのように造」ろうとされたのかを考えてみたい。 Ps 104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ/主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。 十分はこの詩編を理解できなかった。引用した、最後のことばは、アーメンと言いたいが、そうすると、すべての人が消え去ってしまうように思う。自分も含めて。わたしたちの祈りは「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)を含む、主の祈りにつきるように思う。 Ps 105:15 「わたしが油を注いだ人々に触れるな/わたしの預言者たちに災いをもたらすな」と。 アブラハムと結ばれた契約、イサクに対する誓い(9)ヤコブに対する掟(10)とし「宣言された/『わたしはあなたにカナンの地を/嗣業として継がせよう』と。 」(11)とある。しかし、引用箇所は、聖書には見られない。このあと、ヤコブの子らから、出エジプトと歴史の中での救いを記述し「それゆえ彼らは主の掟を守り/主の教えに従わなければならない。ハレルヤ。」(45)と結んでいる。個人の歴史、民族の歴史から、世界を見る目は、養われるのだろうか。どのように、普遍化が行われるのだろうか。考えさせられる。 Ps 106:32,33 彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。彼らがモーセの心を苦しめたので/彼がそれを唇にのせたからであった。 これは、メリバの出来事(民数記20章7-13節)のひとつの解釈なのだろう。聖書に書いてあるからと絶対的な解釈とする必要はおそらくないと、個人的に考えるが、違った考えのひともいるだろう。「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。 」(23)このモーセに関するこの事件は、ゆっくり考えてみたい。 Ps 107:1,2 「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い このあとに、主に購われたひと、事例が続く。その最初には、「国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。」(3)とあり、そのような人々は、全世界におり、主のみもとに集まってきていることが説かれているようだ。その主は、どのような人を購うかについては、最後の方に書かれている。「主は貴族らの上に辱めを浴びせ/道もない混沌に迷い込ませられたが 乏しい人はその貧苦から高く上げ/羊の群れのような大家族とされた。」(40,41)必ずしも、お金持ち、貧乏人ではないにしても、この思想が底流にあることは、しっかりと受け止められるべきだろう。「正しい人はこれを見て喜び祝い/不正を行う者は口を閉ざす。知恵ある人は皆、これらのことを心に納め/主の慈しみに目を注ぐがよい。」(42,43) Ps 108:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。 賛美から始まり、「シケム、スコト、ギレアド、マナセ、エフライム、ユダ、モアブ、エドム、ペリシテ」もすべて主のもとにあることが語られ「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」(11)が、引用句の前にある。苦しい状態が、語られているのだろう。人々は、その中をずっと生きてきた。それが、信仰の歴史なのでもあろう。いまは、ひとの責任で解決すべき事が多く、その外に目を向けることが、極端に減ってはいるだろうが。 Ps 109:3-5 憎しみの言葉はわたしを取り囲み/理由もなく戦いを挑んで来ます。愛しても敵意を返し/わたしが祈りをささげてもその善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます。 このような状況は十分想定できる。しかし、そのときに、自分の正しさは、必ずしも、担保はできない。すくなくとも、わたしの場合は。背景が複雑なことが多いことも原因する。同時に、そのような困難や悩みを、神の前に開示しつつも、逃げることなく、それと向き合っていくものでもありたいと願っている。最終的な判断・裁きは神様に委ねて。 Ps 110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 このわが主が、イエスなのかどうかは不明である。「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。 」(マタイ22:41-45、Cf. マルコ12:36、ルカ20:42,43、使徒2:34,35)神の子として生きることだけが、イエスのこころにあったのかもしれない。そして、わたしたちにも、誰かをダビデの子とするのではなく、神の子として生きることを願って。 Ps 111:2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 当時と現代の違いは何なのだろうか。主の御業を尋ね求める人が、減っている。おそらく、日常生活において、人間にはどうにもならないこと、天候や、天災や、まったく未知の民族による略奪・侵略などが満ちている世界に人々は住んでいたのだろう。現代にも、人間にはどうにもならないこと、自分では解決できないことが山ほどある。しかし、同時に、情報が多く、ある程度の制御もでき、対応が可能になっている、その中で、これらの問題と対峙しているのだろう。日常的なことでは、倫理的な問題、個人のこころの制御の問題は、対応が難しい課題で、そこから、この問題を考えるようになっているのだろうか。自らの外に目を向けること自体が、難しいのかもしれない。出自を制御できないこと、過去の様々な営み、文化・歴史を背負って、生まれてきていることは確かであるにもかかわらず。 Ps 112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。 昨日何気なく見ていたテレビで、ミャンマーのマンダレーで自分の商売は、9時からなのに、朝2時から準備して、たくさんのお坊さんたちに朝食を20年間、無償で提供している人(毎日1万5千円かかると言っていた)、すこしでも、たくさん喜捨できるようにと祈っている人など、功徳をたいせつにするひとたちが映し出されていた。来世でよい生活ができるようにとも言っていた。なにか、批判的な気持ちは、まったく起きなかった。自分にも返ってくることを願っているとしても、憐れみ深く、貸し与える人は良い人だと、わたしは思う。主も祝福されるのではないだろうか。あまりにも、この逆の人、知ってか知らずか、人の富を奪って生活することに何も疑問を感じない人が多いのだから。そして来世のことを考えることは、自分がこの世で完結する存在ではないことの自覚がある。次の世代に大きな負債を残すことになにも具体的な行動をおこさない多くの人たちを考えると、前世や来世の考えも、重要度が増すように思う。 Ps 113:7,8 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。 弱いもの、乏しいものには、自由がない。その自由を主が与えてくださることが述べられている。これに続けて「子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」(9)この希望をもつことが、信仰なのか。しかし、現実は、単純ではない。せめて、互いに愛し合うため、弱いもの、乏しいものには、自由がないことを心にとめ、どのようにしたら、共に生きることができるか考え、なにかの一歩を踏み出すものでありたい。 Ps 114:1,2 イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。 最近、Multilingualism の本を読み、言葉と文化の問題を考えるようになった。ここで言われていることは、分離だろう。聖となることには、分離が重要な要素とされている。ここには、ユダとイスラエルが分けて書かれているが、最近学んでいる、Histroy of the World によると、ユダはアッシリアに協力して、イスラエルの滅びに至らせたとされている。たしかに、聖書の記述をみても、あまりにもあっさりと書かれている。兄弟をも愛せない、この分離の思想は、さまざまな分野にはびこっている。注意して考えなければいけない。 2020.2.23 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 詩編はいかがですか。前回、現代では、天災を含め、自分ではどうすることもできない、理不尽と思われることが減っていることが、詩編の記者たちと現代の人たちの違いではないかと書きました。2011年の東日本大震災のことも思い出していました。Covid-19 のニュースを見ていると、感染症の世界的な流行の懸念も、おそらくこれからの時代、不確定要素が多く、対応が非常に難しい課題なのでしょう。金融危機、世界大戦、地球温暖化、極度の貧困と共に、5つの真剣に取り組むべき危機の中で最大のものと書いておられる方もいます。感染症で死と隣り合わせの時代は、歴史の中に何度もあったようですが、ひとの移動が世界規模になり、かつ、地球上の人間の数が増えていくと、一方で科学が進歩しても、やはり非常に困難な問題であるように思います。犯人捜しをして(悪い人や攻撃相手を確定させ)、問題と向き合うことをやめてしまうような生き方はせず、謙虚に、地道に、真理を求め、解決方法を探りながら、そして、神様に目を向け続けたいと願っています。詩編記者とも語り合いながら、考えられるとよいですね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編115篇ー詩編128篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。 「同じ」は、その前の5節から7節「口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。」とあるが、厳密に神だとしているわけではないだろう。偶像をとおして、神とのコミュニケーションができるとしていた場合も多いと思われる。むろん、そのことが良いかどうかは別として、偶像礼拝批判には、問題も感じる。ここでは、「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(9)以下展開するが、自らが信頼するものを求めることがたいせつで、他の神々よりすぐれているからではないのではないか。 Ps 116:10,11 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。 苦しむ現実があるのだろう。「死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして」(3)とある。「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」(9)とあるように、どんなときにも、わたしもこのように、告白して生きていたい。しかし、これらのことばも、上っ面をすべってしまうような感覚に、時々陥る。いのちの営みともつながり、論理やデータにおいても、整合性があり、他者と自由に語ることができ(パレーシア)、互いに愛し合いながら生きることが基盤にないといけないのではないだろうか。 Ps 117:1,2 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。 117篇はこの2節ですべてである。賛美はその多様さからも日常的なものだったのだろう。その核が、主の慈しみだろうか。ヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)よく分かるわけではない。日本語の「慈しみ(慈愛、恵み)」とはだいぶん異なった感じをうける。 Ps 118:1-4 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。 「慈しみはとこしえに。」が続く。この詩編は最後にも「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(29)とある。慈しみとは、何なのだろうか。正直よくわからない。Strong の定義は kindness; by implication (towards God) piety; rarely (by opposition) reproof, or (subjectively) beauty:—favour, good deed(-liness, -ness), kindly, (loving-) kindness, merciful (kindness), mercy, pity, reproach, wicked thing. となっている。248回旧約聖書に現れるが、詩編に一番多く現れる。いつか、ていねいに考えてみたい。 Ps 119:25 わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。 この詩編には「命を得させてください。」という祈りが多いことが分かった。25節以外に、40節、77節、88節、107節、116節、114節、149節、154節、159節、他にも「命を得ることができますように。」(37)などもある。御言葉をもとめ、それを守ことの目的が、ここにあるのかもしれない。命を得ること。これは、神の命に生きることだろうか。この長い詩編をしっかりと読むことができる日は来るのだろうか。 Ps 120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 偽りや欺きから窮地に陥っているのだろうか。わたしの周囲の世界ではあまり、そのようなことは、見聞きしない。ユダヤではたくさんあったのだろうか。メシェクや、ケダルでの事なのだろうか。そうかもしれない。「平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。」(7)このことは、現代でもあるように、思われる。大きな不満が背景にあるのかもしれない。不公平に思えるような亀裂が。 Ps 121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 美しい祈りである。しかし、このあと「イスラエルを見守る方」とあり「あなた」はイスラエルを意味しているようである。さらに「昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 」(6)は、主の特別介入を求めているのだとすると、現代では受け入れがたいかもしれない。しかし、最後の節の「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(8)から思うのは、客観的になにが起こるかではなく、たいせつなひとをたいせつにしてくださいという願いの祈りなのかと思う。いろいろな読み方もあるのだろう。 Ps 122:8,9 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」 いくつかの発見がある。この長くはない詩編に「平和」が5回も現れる。そして最後は「幸い」で終わっている。完全な平和が幸いであり、平和はたんに戦争がない状態ではなく、神が良しとされる状態なのだろうか。平和(シャローム:1. completeness, soundness, welfare, peace, A. completeness (in number), B. safety, soundness (in body), C. welfare, health, prosperity, D. peace, quiet, tranquillity, contentment, E. peace, friendship a. of human relationships b. with God especially in covenant relationship, F. peace (from war), G. peace (as adjective))については、ゆっくり考えたい。「幸い」は、towb:good, pleasant, agreeable で、単に良いといういみのようだ。 Ps 123:4 平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。 主の憐れみを乞うている。憐れみはカナン(chanan: I. to be gracious, show favour, pity A. (Qal) to show favour, be gracious B. (Niphal) to be pitied C. (Piel) to make gracious, make favourable, be gracious D. (Poel) to direct favour to, have mercy on E. (Hophal) to be shown favour, be shown consideration F. (Hithpael) to seek favour, implore favour II. to be loathsome)最初に出てくるのはヤコブがエサウと再会する場面。「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」(創世記33章5節b)「どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」(創世記33章11節a)どちらも恵みと訳されている。そしてもう一カ所は、ヨセフ物語である。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(創世記42章21節:助けを求めた)、「ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、『わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように』と言うと、」(創世記43章29節)感動の場面である。それは、背景があるからだろう、この引用箇所のように。 Ps 124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。 このようなことは、殆どおきない。奇跡的に救われたと言うことか。それを告白することは、素晴らしいが、そうではない人たちも多くいただろう。歴史は、勝者が記録すると言われるが、勝者ならずとも、他者の多様な視点から、歴史を見るのは、とても難しい。 Ps 125:4,5 主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。よこしまな自分の道にそれて行く者を/主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。 自然な願いではあるが、これが、イスラエルに平和をもたらすのだろうか。人々に平和をもたらすのだろうか。心のまっすぐなひとが常にまっすぐに生きられるわけではなく、曲がった道にそれる者、悪事を働く者が、常にその状態であることを願うわけではないはずである。同時に、その問題を引き受けることにこそ、人間への神様からの問い・使命があるのではないだろうか。主に寄り頼みつつ、平和を祈る。この詩編記者とも、似た考えの人とも共に語りたい。 Ps 126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 表題が何を意味するのか分からないが、この詩編記者は、都に上れる状態にあるのだろうか。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)と喜びが重ねられ、主を賛美しているのだろう。歴史と文化は重い。そのひとと神様のつまりは、宗教そのものだろうから。 Ps 127:2 朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。 わたしも「朝早く起き、夜おそく休み」疲れ果てていることは、否めない。だから、むなしいとは思わないが、自分がなにか達成したいという思いは、いくら消し去ろうとしても、残ることも確かである。主に感謝をささげて、静かな眠りにつく生活を整えたい。形式だけではなく。 Ps 128:1,2 都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。あなたの手が苦労して得た実は/必ずあなたが食べる。/あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。 裏返しの現象があったのだろう。苦労して得た実を自分では食べられない。幸せを、恵みを感謝するに至らない。しかし、単純な因果関係では現すことができないことも、おそらく当時もたくさんあったろう。しかし、これは、そのような論理や事実を語ったものではなく、讃美歌なのだろうか。 2020.3.1 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今年に入ってから、ずっと詩編を読んできましたが、詩編はいかがですか。来週には、詩編を読み終わり、次の箴言に入ります。すでに、続かなくなってしまっている人は、箴言から読み始めるのもよいですよ。通読表に、読んだ箇所を記録しておくことを、お勧めします。 詩編を読んでいると、苦しみや悲しみにも出会います。同時に、エルサレム、シオンへの思いの強さに、圧倒されることもあります。いくつか、背景が明確に記述されているものだけでなく、詩編のあるあるものは、バビロンなどへの捕囚の期間、またはそれを背景として書かれていることがわかりますから、苦しみや悲しみとともに、主を礼拝する場所としてのシオンへの思いは、王宮のあったエルサレムという名称以上に重要だったのでしょう。その背景を持たない者には、理解できないのかもしれません。同時に、シオニズムや、ユダヤ人の特別視がもたらす、弊害、それに、対抗するように、起こった、アンティ・シオニズムや、ユダヤ人の迫害、この対立自体に、人間の本質が含まれているのかもしれません。そのようなこととも、向き合いながら、慰めを得、主への信頼と讃美を綴った、詩編を味わっていただければと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編129篇ー詩編142篇はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 129:1,2 【都に上る歌。】イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。 「彼らはわたしを苦しめ続けたが」が繰り返されている。外部・他者からの圧迫の中で生きてきた、それが平安を破壊していた。しかし、ということだろう。他者の行為に自分の苦しさの根拠を求めることは、一般的には問題があるだろうが、そうしか言えない、状況と、こころの痛みがあるのだろう。正しさから批判はできない。「イスラエル」となっている。この存在自体が、様々な軋轢を生んでいたのだろう、それは、主をこころから礼拝していたからだろうか。難しい問題である。 Ps 130:3,4 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 主にのぞみを持つことができる根拠は、ここにあるのだろう。罪をすべて裁かれることには耐え得ない。しかし、そこで終わるわけではない。この詩編は非常に美しい後半が続く。「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」(6)待ち望む、ここには、心が分裂していない、清さと、身を委ねる服従と、信頼があるのだろうか。他は、何だろうか。 Ps 131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。 マザーテレサのカレンダーにあったことば「大きな事をする必要はありません。小さな事に大きな愛を込めればよいのです。」"You do not have to do anything great. Do a little thing with great love.” を思い出す。ひとは、大きなこととは言わなくても、自分がすべき特別なことがあるはずだと、それを探し求めることが多いのではないだろうか。この詩編は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。」(2)と続く。幼子は、母の愛をうけることだけを考えているのだろうか。少なくとも、多くのひとから評価されることは求めていないだろう。「主を待ち望め」(3)とあるが、難しい。 Ps 132:13 主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。 シオニズムの原点となったような言葉で、問題だともとらえるかもしれないが、イエスを通しての福音、律法の完成を求めて、生きることによって、それを克服することができるのかもしれない。聖書のみが、Biblical Literalism となることは、自然である。しかし、論理的帰結ではなく、必然ではないのだろう。 Ps 133:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 おそらく、このような状態がいつもあるわけではないのだろう。兄弟が共に座っている。なんと難しいことか。それこそが、恵み、喜びである。その現実を思いつつ、この詩編も味わいたい。 Ps 134:1 【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ この詩編は、133程、批判的な視点から読まなくても良いだろう。しかし、単純ではないことも、確かである。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 」(ヨハネ2章23節〜25節) Ps 135:15 国々の偶像は金や銀にすぎず/人間の手が造ったもの。 最近、The History of the World Podcast を聞いていて、学問的にも、ユダヤ人の起源や、一神教、像を持たないことなどがどのように成立したかがよくわからないのだということに興味を持った。それは、聖書においても、あまり明確ではないように思う。ただ、聖書によれば、出エジプト以来は明文化されたことになっている。明文化は、継続性を生んだのだろう。むろん、様々なことが起こるわけだが。父と呼ぶ、アブラハムはどうだったのだろうか。神を、そして自らの存在を知るようになっていく、歩みでもあるのかもしれない。 Ps 136:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 非常に短いが、慈しみはとこしえにが繰り返されているので、ヘブル語をみてみた。最初の恵み深いは、おそらく、Tob で良い、あとの、慈しみは、Hesedo で憐れみのようだが、原文を特定するのも難しく、聖書の学びの先は長いと感じた。ギリシャ語も、ヘブル語も、理解できるようにはならないのかもしれないと思う。でも少しずつ学んで行きたい。 Ps 137:1,2 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 悲しい詩である。それが伝わってくる。しかし、今回は、このようなことは、世界中のひとたちに、あるのだろうと思った。パレスチナの人たちにも、キリスト教徒から、迫害されたひとたちにも。もう一つは、シオンへの思いが強いこと。わたしは、いろいろな場所を移動してきたこともあり、ふるさとはない。それでも、多くの問題はあっても、日本に心地よさを感じるが。それこそが、自分の帰属場所なのかもしれない。そして、それは、いろいろな形で多くの人たちにあるのだろう。 Ps 138:6,7 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。 すばらしい、信仰告白だと思う。しかし、背景としてあるのは、主は、ひとり一人を愛し、心にかけておられると言うことなのかもしれない。この敵さえも、こころにかけておられるのだろう。主に信頼して生きることは、しかしながら、自分を愛して、慈しんでおられることを抜きにしては語れないのだろうが。むずかしい。 Ps 139:21,22 主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。 主は、自分のすべてを知っておられる。そのことが、美しく書かれている詩編の最後の部分は、引用句になっている。主との親密さが、逆に、主が自分の味方であると考えるようになってしまうのだろうか。「主を憎む者、主に立ち向かう者」明確に判断できるのだろうか。わたしは、揺れているように思う。それは、正しさだから。それも、おそらく、人の正しさだから。愛の神は、違うところにいるように思う。 Ps 140:13 わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。 この詩編にも正しさからの厳しい言葉がならぶ。「わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。」(10-12)たしかに、このように、主に逆らうものに取り囲まれていたのかもしれない。しかし、そうであっても、その裁きでは、問題は、解決しないように思われる。引用句には、真実があるように思われるが。 Ps 141:5 主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません/彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。 明確に意味がとれるわけではなかったので、他の訳を見てみた。「正しき人が慈しみをもって私を打ち/私を戒めますように。/悪しき者の油が私の頭に塗られることが/ありませんように。/彼らの悪行の中にあっても/なお私の祈りを献げます。」(聖書協会共同訳)意味としては、こちらのほうがよくわかる。だいぶん、印象が異なる。通読では詳細には、調べられないが、謙虚さは感じられる。最後は「主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」(10)となっているが。 Ps 142:4 わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。 「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。」(2)としか、言えない状況なのだろう。肉体的にも、精神的に、弱り果てているとき、不安もあり、誤った道に陥る危険も高い。主に声を上げて、叫び、求める。それが、信仰なのだろう。自分の中に、解決がないことを認めているのだから。 2020.3.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 今年に入ってから、ずっと詩編を読んできましたが、今週で、詩編を読み終わり、箴言に入ります。詩編はいかがですか。最後は、讃美で終わりますが、ハレルヤは、ハラル+ヤで、神を誉め讃えよ。ハラルが賛美、誉め讃えること、ヤが、ヤーヴェ、神です。神を讃美して生きる日々を支えるもの、そして、それを通して生み出されたものが、詩編なのかもしれません。 箴言は、ヨブ記、伝道の書(コヘレトの言葉)とともに、知恵文学と呼ばれています。一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。箴言の最初(新共同訳)には「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。」(1章1節)とあります(列王記上3:1-15、列王記上11章41節参照)。ただ、少なくとも箴言31章、32章など、明らかにソロモン以外に由来するものも含まれていますから、すべてソロモンのものというより、偉大な知者であるソロモンの名前のもとに集められたものというような意味なのでしょう。こころに残った箴言を、書き留めて、日々の生活の中で、それを実行しようとこころがけてみませんか。ことばを生きてみる、その先に、生きたことばが得られるかもしれません。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 詩編143篇ー箴言6章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 詩編と箴言については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 詩編:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ps 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#pb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ps 143:10-12 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。 10節の「御旨を行うすべを教えてください。」は、わたしの祈りでもある。11節の「災」12節の「敵」が出てくると、ついつい注意してしまう。御旨を行い生きようとするひとを妨げるものを現代的に考えても良いのかもしれない。ある公衆衛生(Public Health)の専門家によると、感染症の世界的な流行、金融危機、世界大戦、地球温暖化、極度の貧困が五大リスク。現在は、この最初のものの危機に、世界中、日本は特にあたふたしている。わからないもの(不確定性)への恐怖は、昔も今も変わらないのかもしれない。 Ps 144:3,4 主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。 「息に似たもの」危ういものとの認識が出発点であるように思われる。それは、つねに、不確定性の高いリスクにさらされていることだろうか。それが、今は、かなり緩和されていることは確かだろう。子どもの死亡率は減少し、寿命は延び、交通事故や自然災害死も減少している。しかし、それは、人間の謙虚さを欠く結果を招いたことは事実だろう。どう考えれば良いのだろうか。信仰は、限定的なものになってきたと言うことだろうか。そして未来的には。 Ps 145:14-16 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 このように告白し賛美できるひとは、幸いである。そうではないように、見えてしまうときは、どうしたらよいのだろうか。ひとつの考え方は、主の働き、いのちを与える営みに、加わることだろうか。倒れようとするひとの支えとなり、うずくまっている人を起こそうとする。主が命を与えてくださっている者すべてとともに生きようとすること、そのような社会の一人となることだろうか。そのことを通して、主を賛美することができれば、幸いである。 Ps 146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 このような祈りに普遍性を感じられなかったが、わたしの祈りとそれほど変わらないのだとも思った。霊的幼年期は、自分からみた世界から神を誉め讃えるのだから。それを、批判するのは、おそらく当たっていないのだろう。ただ「ヤコブの神」が一人歩きし出すと問題が起きる。 Ps 147:19,20 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。 「自分だけ」という受け止め方は「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」(ローマの信徒への手紙3章2節)にもあるが、危険でもある。ユダヤ人を迷わせただけではなく、誰でも迷わせうるものだろう。幼子の信仰においては、自然かもしれないが。その注意をどのように受け取るか。あまり簡単ではない。ただ、引用箇所に「掟と裁き」と書かれていることは、注意に値する。それは、新しい掟(「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節))においては、どうなのだろうか。裁きは、少し違う形で述べられている。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3章18節) Ps 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。 ハレルヤは、ハラル+ヤで、神を誉め讃えよ。ハラルが賛美、誉め讃えることである。halal: a primitive root; to be clear (orig. of sound, but usually of color); to shine; hence, to make a show, to boast とある。賛美は、正直に言うと、わたしは、よく理解できていない。つねに、考えてしまうからだろうか。自然には、出てこない。音楽に、没頭できないのも、似た背景があるのかもしれない。それは、性質なのだろうか。問題なのだろうか。ときどき、それを問いながら生きている。形式的には、賛美するのだが。 Ps 149:1 ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。 「新しい歌」は、詩編では、33:3、40:4、96:1、98:1、144:9に登場するが、「新しい歌」の「新しい(chadash: new, new thing, fresh)」は何を意味するのだろうか。新しい気持ちで、心を一新させてということだろうか。マンネリではない(mannerism ではなく)ということは、少し理解できるように思う。習慣になってしまう傾向が強いのだろう。日々、主の働きを見ることを願いたい。 Ps 150:2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。 最後の詩編で、讃美の場所、方法以外、理由について述べている、唯一の節である。主の「力強い御業」「大きな御力」に目を留めることが、讃美の一番たいせつなことなのかもしれない。そしてその背景は、常に、神との関係を密にしていることだろうか。なかなか、困難である。 Prv 1:23 私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたがたに注ぎ/私の言葉を知らせる。 「懲らしめ」とあるが、たいへんな経験をすることなどを考えると、知恵を得ることは、生きながら、生活を通して得られるものが多く含まれると思われる。「恐怖が嵐のように襲うとき/災いがつむじ風のように起こり/苦難と困難があなたがたを襲うとき」(23)こそが当時の人たちが一番恐れていたことなのかもしれない。続けて「その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。/探し求めても、私を見いだすことはできない。」(24)とある。「知ること・主を畏れること」(28)「勧めに従い、懲らしめをないがしろにしない」(29)教えなのだろう。 Prv 2:1-3 子よ、もし私の言葉を受け入れ/私の戒めをあなたの内に納め 知恵に耳を傾け/英知に心を向けるなら さらに分別に呼びかけ/英知に向かって声を上げ 極端に変化が大きい時代に、教えをこころに納めるだけでは、いけないことを今考えている。これらも、方法論であり、本質ではないのではないかと。しかし、学ぶことも、方法論であり、求めるものではない。「その時、あなたは主を畏れることを見極め/神の知識を見いだすだろう。」(5)ここに目的があると断言することに躊躇を覚えている。これも、ことばあそびに見えてしまうからである。真理とか神の御心とは何なのだろうか。求め続ける先にあるものとしか言えないのかもしれない。 Prv 3:1,2 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。 ここには、「(父の)教えを忘れず、戒めを心に納める」目的らしきものが書かれている。「命の年月、生涯の日々は増すこと」と「平和が与えられる」ことである。前者は単に寿命が延びることのみを意味するものではないだろう。命は神が与えられるものと考えると「主との交わりが豊かに続くこと」を意味すると表現しても良いかもしれない。「平和(シャローム)」は単に戦争・争いがない状態ではなく、完全で、安心していられる、最高の状態を現すと考えると、それは「主の御心が成る、神の国・天の御国」を現しているのかもしれない。 Pv 4:3,4 わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけない独り子であった。父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。 「わたし(父)も父の息子」連続性が語られている。「独り子(yachiyd: only, only one, solitary, one)」は何を意味するのだろうか。本当に一人だったのだろうか。当時としてはめずらしいだろう。特別な感情が含まれたものか。連続性は、変化が少ない世のものである。だからこそ、変化の時代である現代では、学んで応用する力が求められる。知恵・分別(6-8)は、単純に本質的なこと以上のものが含まれているのだろう。 Prv 5:15 あなた自身の井戸から水を汲み/あなた自身の泉から湧く水を飲め。 「その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。」(17)とあり、独占的所有が書かれている。むろん、文脈からは「よその女」(3)を「遠ざけよ」(8)という教えの一部であり「あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。」(18)に続く。しかし、この関係性は、やはり問題がある。ただ、表現は難しい。「よその女」「若いときからの妻」との関係である。「わが子よ/どうしてよその女に酔うことがあろう/異邦の女の胸を抱くことがあろう。」(20)を見ると、これは、女性問題、異性についてだけではなく、主が与えてくださっているもの以外、他者のものをむさぼることを戒めているととる方が良いのかもしれない。 Prv 6:3 わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから/行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。 「わが子よ、もし友人の保証人となって/他国の者に手を打って誓い あなたの口の言葉によって罠に陥り/あなたの口の言葉によって罠にかかったなら」(1,2)この状況に関する対処方法である。なんとも乱暴である。おそらく、それだけ、危機的な状況であり、それは、時々起こったのだろう。どうしたらよいだろうか。謝る以外になにも思いつかないわたしには、正直どうしたらよいかまったく見当もつかない。 2020.3.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 箴言はいかがですか。前回「一見すると格言集のようですから、読みやすいのではないでしょうか。」と書きました。どうですか。気に入ったことばを心に納めるのも良いかもしれません。実はわたしは、そのように箴言を読んできました。気に入ったことばに目を向ける。それ以外は無視する。背景の文化が違うのだからと。みなさんは、どのように読んでおられますか。今回は、個人的には、男性視点のことばが目につきました。遊女に気をつけることや「愚かさ」や「浅はかさ」も女性にたとえられています。現代ならすぐバッシングを受けそうです。女性視点では、あなたの視点からはどうなるでしょうか。女性視点であっても、単に、男性を女性に読み替えることとは違うのではないかなと思いました。ということは、あなた視点のものは、どう表現されるのでしょうか。ひとを生かす知恵とはどのようなものなのでしょうか。みなさんは、どのような発見がありますか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 箴言7章ー箴言20章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 箴言については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#pb 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Prv 7:10 見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。 「よその女・滑らかに話す異邦の女」から守る教えが書かれている。描写が物語り仕立てになっていて、非常に興味深い。「浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。」(7)から男性の描写が少しあり、引用した10節からは、女性の描写がなんともいかがわしく表現されている。「和解の献げ物をする義務があったのですが/今日は満願の供え物も済ませました。 」(14)などという脚色もある。しかし、読んでいて気になったのは、女性の視点は、殆ど無視されていることである。男性が書いた限界だろうか。神様に性別はないと言われるが。この箴言に対応する、女性版も個人的には興味がある。 Prv 8:18,19 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。 知恵の与える実りとは何なのだろうか。ここでは、富と名誉、財産と慈善が語られ、それにまさるものとして、実り、収穫が語られている。なにが平和で、主との交わりとはなになのか。それを求めたい。 Prv 9:13 愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。 「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(1テモテ2章14節)など、聖書に女性はあさはかであるという記述はいくつかある。ここでは、愚かさを女でたとえている。騒々しい、浅はかな女が軽蔑されていたからだろう。しかし、これらは、すべて男性視点だとも言える。ひとは、他者の目から見た世界は殆ど理解できない。さらに、著者がおそらく全部男性ということで、女性視点の記述がない。バランスをとることは、まず、必要だろう。女性が書いたら、どうなるのだろうか。単なる、男性・女性の置き換えではなく、新たな視点が広がるのではないだろうか。そのような記述も知りたい。 Prv 10:11 神に従う人の口は命の源/神に逆らう者の口は不法を隠す。 「神に従う人」は箴言11章など他の箇所にも現れるが、この章には、12回現れ、24節・25節以外は、すべて冒頭、かつ、「神に従う人」とそうではない人の対比が続く。「神に逆らう者」以外にも「無知な者」(21)「暴言をはく舌」(31)が登場する。引用句では「神に従う人の口は命の源」とある。命を与えるのは、神の業、神に従うものは、神の働きをするようになるということなのだろう。他は、ほとんど、自らの利益と神の祝福が語られているが、この箇所は特に、印象に残る。 Prv 11:24,25 散らしてなお、加えられる人もあり/締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。 与えることは、ものは失うかもしれないが、目に見えない多くのことで豊かになっているのだろう。最大のものは、神様からの祝福だろうが、他者との関係性のたいせつさに目をとめることは、神様との関係性を強めることにもつながる。「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」(30)となりたいものである。 Prv 12:10 神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情すら残酷だ。 家畜を飼ったことのないわたしには、「家畜の求めるもの」など、よくわからないので、考えてみることにした。ここで家畜はなにを意味するのだろうか。「家畜の求めるものすら」となっているから、まずは、他のこと、おそらく、家族や使用人、そして友人や隣人などの他者が想定されているのではないだろうか。「神に逆らう者」について「同情すら残酷」とあるので、「神に従う人」は、同情のしかた、同情において留意すべき事はもちろん、知っているのだろう。いずれにしても、隣人との関係である。「同情すら残酷」はわかるようで、はっきりはしない。不作為なのか、作為的なのか。ただ、「神に逆らう者」とあるので、神が望まれることを求めず、それとかけ離れたまたはずれた思いを抱く者はということかもしれない。「同情」は究極の目的ではなく、ひとつの方策なのだろうから。 Prv 13:12 待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。 聖書協会共同訳では「望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。」となっている。この箴言には「怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる。」(4)とあるように、勤勉さなど、生活における経済的な記述が多い。そう考えると、聖書協会共同訳のほうが一貫性が高いように思う。しかし、この箴言でも様々なトピックがちりばめられており、一つのことばでまとめるのは、問題もあるだろう。「命の木」は創世記2章・3章および黙示録に登場するが、それ以外は、上の引用箇所を除くと、箴言3章18節、11章30節と、15章4節である。箴言に多く現れていることを知らなかった。知恵を勤勉に求めるものことは、命の木を得ることと関係しているのかもしれない。 Prv 14:21,22 友を侮る者は罪人。/苦しむ者を憐れむ人は幸い。悪を耕す者は必ず迷う。/善を耕す人には慈しみとまことがある。 神を畏れることの、一般生活との関わりが書かれているように思う。このような倫理観は、神を畏れるという以外にも表現できるかもしれない。自分の存在は、生まれてきたことにおいても、受け継いできたことにおいても、いままで生きてこられたことに、人びとと関係し合いながら生きていることについても、自然の恵みについても、自立的存在ではなく、自己完結ではないことは、明らかであるのに、ひとは、それを忘れ、傲慢に振る舞う。やはり、神を畏れるという表現が一番適しているように、わたしには映る。 Prv 15:15-17 貧しい人の一生は災いが多いが/心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは/乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは/青菜の食事で愛し合う方がよい。 真実であると同時に、注意する点も含まれる。このことを、貧しい(苦しむ(聖書協会共同訳))人に(貧しくても、苦しくてもいいのだと)押しつけてはいけないことである。あくまでも、真実(主への信頼を通して学んだこと)の信仰告白である。それを普遍的事実(科学的正しさ)と置き換えると問題がおこる。ひとのいのちの営み(信仰生活)が消されてしまうからである。 Prv 16:19 貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。 本当にそう思う。「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」(18)は教訓としては、その通りだと思う。何度か似たフレーズが登場するが、まさに「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(25)なのだから。 Prv 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。 その通りだと思うが、どうすれば、裁判沙汰にならぬうちにやめられるのだろう。続けて「悪い者を正しいとすることも/正しい人を悪いとすることも/ともに、主のいとわれることである。」(5)とある。正しさをうやむやにして、切り抜けることではないのだろう。しかし、正しさの主張となれば、争いは収まらない。「愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く。」(9)やはりここに至るように思われる。「貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。」(5)をたいせつにしたい。造り主をみくびることの反対が、主を畏れることのように思う。「貧しい人を嘲る」「(他者の)災いのときに喜ぶ」背景に潜む闇は、自分にもあるように思う。 Prv 18:8,9 陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。仕事に手抜きする者は/それを破壊する者の兄弟だ。 こころに残る知恵が多く語られている。「離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。」(1)こころにあることを、見透かされているようにもうつる。言語化されていることも、重要なのだろう。味わい、こころに蓄え、そのことばを生きることができればと思う。むろん、それが終着点ではなく、ことばは、表現も変えながら、成長していくようにも思うが。 Prv 19:22,23 欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い。主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。 仏教の「煩悩(ぼんのう)」が欲望と近いのかと思うが原語のサンスクリットのクレーシャは、単に苦しめる・汚すといった意味のようだ。ここでは、貧しい人と、欺く者が対比されている。欲望は、欺くこととつながっているのか。貧しいは、単に経済的に苦しいひとではない。神以外に、救いがない状態にあるものなのだろう。主を畏れるひとがそれに近いということか。災難は、天災などを考える必要はなく、ここでは、恥を受けることがないといういみなのかもしれない。 Prv 20:5,6 思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。親友と呼ぶ相手は多いが/信用できる相手を誰が見いだせよう。 直前の4節は「怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない。」とあり「英知のある人」はこれに対応する語でもあるようだが「思い計らい(聖書協会共同訳は単に「企て」)」を「くみ出す」とはどのような事だろうか。ひとの思い、考えることより、自分の外に目をむけることをたいせつにしようとしてきた。謙虚に。しかし、じっくりと考えることともうすこし、ていねいに向き合ってみたい。確かに「思い計らい」を「くみ出し」ているひとでなければ「信用できる相手」とは言えないかもしれない。信用しようとしても、怠け者だったり、心の中の深い水に目をむけないひとは、実際的に、信頼には値しないのだから。わたしにとって、イエス様は、信用できる相手である。 2020.3.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 箴言はいかがですか。「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。」(箴言22章7節)のように、現実を直視したことばも多いことに気づかれるのではないでしょうか。生活の様々な部分を見て知恵を語っている。主の知恵を求めて生きることを、精神的な部分に限定せず、人間の営みをトータルに見ているとも言えるかもしれません。日々の生活ともつながっているのでしょう。箴言は最後に(30, 31章)アグルの言葉があり、終わります。気づいたこと、わからないことを、メモしておかれることをお勧めします。人生のまた別のときに、考えることがあるかもしれません。 箴言を読み終わると次はコヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書)です。翻訳によって、書名が異なります。「コヘレト」「伝道者」の原語は集会を招集する者とか、説教者、伝道者を意味するとのことです。高校生のころ「空の空、空の空、いっさいは空である。」(伝道の書1章2節、口語訳)についてよく考えました。コヘレトは何を「空・むなしい」と言っているのでしょうか。なにが、むなしいのでしょうか。そしてどのようなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。あなたは、このことについて、どう思われますか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 箴言21章ーコヘレトの言葉3章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 箴言とコヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書)については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 箴言:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#pb コヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書):https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ec 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Prv 21:29,30 神に逆らう者は厚かましく事を行う。正しい人は自分の道を整える。どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。 このあとの21章最後の節は「戦いの日のために馬が備えられるが/救いは主による。」とある。「自分の道を整える」は、おごらず、謙虚にを表現しているのだろう。しかし、それは、正しい人を目指す道で、互いに愛することを向いているようには思えない。イエス様が来られるまで待つ必要があったのか。「救いは主による」謙虚に、「主の御前」での価値を思いつつ、主のみこころを求め続けることだろうか。 Prv 22:2 金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。 このように宣言するのは、勇気のあること、または、現実を、しっかりと直視していることだろう。「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。」(7)これも、現実の直視である。しかし、そこで終わるわけではない。「寛大な人は祝福を受ける/自分のパンをさいて弱い人に与えるから。」(9)祝福を求めるからではなく、主を思い、主の御心を求めることだろうか。現実を直視することから、主に目をそらすことではない。 Prv 23:29,30 不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か/いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か/理由なく傷だらけになっているのは誰か/濁った目をしているのは誰か。それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。 富、食、遊女などとあるが、この表現だけ、特別である。酒におぼれるものが、多かったのだろう。現実から逃避していることは、確かである。もっとたいせつなものを見つめず、それを忘れようとしているのか。気分転換は、すでに、過ぎてしまっているのだろう。もう少し、ゆっくり考えてみたい。 Prv 24:1,2 悪者のことに心を燃やすな/彼らと共にいることを望むな。悪者が心に思いめぐらすのは暴力。唇が語るのは労苦を引き起こすこと。 わたしには「悪者」という考え方は受け入れられない。結局、そのようにしか表現できないことはあるだろう。その意味で、悪者の存在は、真実である。しかし、自分の目の前にいる人間を悪者と判断することは、できない。つまり、事実として、それを正しいとすることはできない。自らも、悪と善の間で揺れ動き、その間をさまよい歩く存在である。真理、主のもとにある知恵を尋ね求め、自らを省みながら、他者とともに生きる道をめざすことだろうか。次のことばは心地よい。「わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。滴る蜜は口に甘い。そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」(13,14)「魂にとって知恵は美味だと知(り)」未来に向かって希望を持って歩んでいきたい。 Prv 25:20 寒い日に衣を脱がせる者/ソーダの上に酢を注ぐ者/苦しむ心に向かって歌をうたう者。 「ソーダの上に酢を注ぐ」とどのような化学反応が起こるのだろう。よくわからず、聖書協会共同訳をみると「寒い日に衣を脱がせ、傷の上に酢を注ぐ。/それは苦しむ心に向かって歌を歌うこと。」とある。新改訳2017では「ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」とあり、原語は見ていないが、聖書協会共同訳が一番、意味が通る。英語もいくつか調べてみたい。しかし、ここは、文脈からすると、相手にまったく配慮がない行動を表現しているのだろう。このあとには「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」(21)とある。アーメンと言いたい。しかし「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(22)には驚かされる。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ローマの信徒による手紙12章20節)が引用箇所にあるが、個人的には、全く理解できない。 Prv 26:23-25 唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は/混じりもののある銀で覆った土器のよう。唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は/腹に欺きを蔵している。上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。 ことばだけでは、こころはわからないことが、表現されている。こころは、自分でもわからないこともあり、ましてや、他者のこころは、理解できないことが多い。それを、みられるのが、神様なのだろう。わからないということを、謙虚にうけとめ、ていねいに生きていくこと、自分にできる、誠実さを貫くことだろうか。「七つの忌むべきこと」は慣用句かもしれない。具体的に、何をいみするのだろうか。 Prv 27:1,2 明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。 明日のことは、わかならい。この自覚が、信仰へと向かったのかもしれない。現代では、明日のことを自ら制御できると考えられる時代でもある。科学が発達し、事故や病気もある程度対応できるようになってきた。しかし、最近は、未曾有の出来事が多い。地震、台風、感染症。未曾有ということは、予測がしにくいということでもある。謙虚にさせられる。自分の口、他人、異邦人とだんだん、遠くなってく。おそらく、普遍性が増し、主観的なものから、自由になっていく様も現しているのだろう。大きなわくでみると、自分は、ちっぽけな者、価値も小さく見える。謙虚さを生み出すかもしれない。それも、知恵、神を畏れることなのだろう。 Prv 28:3 貧しい者が弱者を搾取するのは/雨が洗い流してパンがなくなるようなものだ。 聖書協会共同訳には「弱い人を虐げる貧しい男は/収穫を押し流し、台なしにする雨。 」とある。こちらの方が意味がとりやすい。「貧しくても完全な道を歩む人は/曲がった道を歩む富める者にまさる。」(6、聖書協会共同訳)こちらも、わかりやすいが、原語まで調べないといけないとも思う。「弱い人を虐げる貧しい男」貧しい者は、聖書で特別な意味に使われることが多いから、他の言葉を使ったのだろうか。いずれにしても、悲しいことが書かれている。しかし、実際、そのようなことは、世にもある。社会が悪い、環境が悪いということを、考えることも大切だが、やはり、悲しいことに向かわないが良い。 Prv 29:1 懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。 深いことばだ。教育でも、上手にほめることがたいせつだという。しかし、本質は、こちらにあるように思う。人生で辛いことが多いと、素直でいることはできない。論理的帰結でもある。しかしまるでカタストロフィーのように、あるところまで頑張っても、現象は、突然坂を転げ落ちる。悲しいのは、最後に、もう癒やすことができないとあることだ。希望はもちたいが、このようにならないようにするひとと人との関係が作られていかなければいけない。懲らしめられることが多い(と感じている人)を放置しておいてはいけない。わたしにできることを探していきたい。 Prv 30:18-20 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。そうだ、姦通の女の道も。食べて口をぬぐい/何も悪いことはしていないと言う。 「男がおとめに向かう道。」「姦通の女の道も。」これらは、個人の倫理感の問題だと考えていた。おそらく、それでは語り尽くせないだろう。一般的には、社会的にそのことがどのように評価されるかが影響されるからである。一つ一つの行為だけで倫理的価値判断がされることが減った。そのこと自体は、多様性・寛容性・全体的な視点からも、おそらく、たいせつなことだろう。しかし、その社会が維持する倫理基準が緩くなると、倫理自体の実体が消滅する方向に向く。非常に難しい問題である。わたしも、答えを持っていないだけでなく、端緒・ヒントすらない。 Prv 31:3 あなたの力を女たちに費やすな。王さえも抹殺する女たちに/あなたの歩みを向けるな。 箴言には「女」に関わることを注意せよとの言葉が多い。性的誘惑だけではなく、それと関係するような女性との関係が「女」ということばで表現されているのだろう。箴言記者は男性と思われ(父が多く現れる)教える相手も男性が多いように思われる。男性と女性との人としての関係、それは、おそらく、共に労する、全く同じ仕事ではなくても、一つの目的のために、共働することによって、始まるのではないだろうか。箴言が書かれた時代にも、そのような関係は、牧畜を営んでいる者、農業によって生計を立てていた者には多くいたはずである。協力なしには、生活できなかったろうから。そう考えると、ソロモンの箴言は、少し偏ったものであることも、留意すべきかもしれない。王や、王宮にいるものまたは、役人など、給与生活者が想定されていたのかもしれない。 Eccl 1:9-11 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい。 「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(2, 12章8節参照)とあるが、この空しさはどのようなものを表現しているのだろうか。引用箇所では、歴史は、世の中は繰り返しであるが、その一つ一つは、後の人たちは、心に留めない、とある。心に留められるようなことを求めているのだろうか。今は、変化の時代でもある、しかし、そこで何か新しいことをすることがたいせつなのだろうか。歴史になにかを刻むために生きているのだろうか。そうかもしれないが、最近は、そうではないことがたいせつに思える。共に生きること、みこころを味わいながら。 Eccl 2:18,19 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。 コヘレトのむなしさは、ここに依拠しているようだ。労苦の結果を受け継ぐ者が信頼的ないということ。たしかに、ソロモンの場合も、他の様々な聖書に登場する人の場合にも、言えること、現代でも同様なことは、数多くある。時代を超えて価値のあるもの、同時代のひとたちに価値のあるもの、自らが生き生きと生きるために価値のあるものを整理すべきだとまず思う。ここでは、時代を超えて価値のあるものが論じられているようだが、それは個人に委ねるのではなく、たいせつなこととして受け継がれるように考えることとともに、自分は価値があるものと考えても、後の世の人たちに委ねること、主に任せる謙虚さもたいせつだと思う。価値判断自体、正確にはできないのだから。 Eccl 3:21 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。 すこしこの言葉が理解できるようになったと思う。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。」(18)のように、「人間を特別なものと扱うこと」も「地球が人間の住む典型的な惑星だ」という考えも、謙虚につつしむべきことなのだろう。もし、人間が特別なことがあるとすれば(そしてそれは、人間だけに特別ではないかもしれないが)神との関係が与えられていることだけなのかもしれない。自分が思考するときには、自分は特別な存在であらざるを得ない。しかし、思考とはそのようなものであることを、忘れてはならない。 2020.3.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) コヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書)はいかがですか。前回「コヘレトは何を「空・むなしい」と言っているのでしょうか。なにが、むなしいのでしょうか。そしてどのようなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。あなたは、このことについて、どう思われますか。」と書きました。みなさんは、どう思われますか。むなしいと思うことはだれにでもあるのではないでしょうか。しかし、そうとも言えない面もある。そのことと向き合っているコヘレトと一緒に考えることができるとよいですね。 コヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書)を読み終わると次は雅歌です。聖書の巻で「主」が登場しない二つのうちの一つだと言われます。もう一つは?下に引用してある、雅歌の項に書いてあります。そのことだけではなく、雅歌は、聖書の他の巻とは、だいぶん異なった趣を持っています。今回は、なにも書かず、まずは、みなさんに味わってもらいましょう。雅歌が聖書の一部だということに、驚きを感じると共に、聖書の豊かさも感じます。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コヘレトの言葉4章ー雅歌5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書)と雅歌については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コヘレトの言葉(伝道の書・伝道者の書):https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ec 雅歌:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#so 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Eccl 4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。 このあとに「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」(2,3)と続く。生まれてこなかった者がより幸福だと思うぐらい、虐げられる人の涙は悲しく、慰めるひともいないと言っているのだろう。虐げる者の手にある力とある。たしかに、見てはいけないもののような虐げを記者は見ているのだろう。どうにもならないのだろうか。確かに紛争地でのできごとなどは、どうしようもないとわたしも思ってしまう。 Eccl 5:11 働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。 心地よく眠れることは幸せなのだろう。ここにあるように、勤労の実なのかもしれない。富、財産を殖やすと、眠れないのだろう。それは、理解できる。もう少し、もう少しと欲張る心の虜になり、失うことも怖れ、そこに、人生がかかってしまうからだろうか。 Eccl 6:12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。 コヘレトの空しさは「ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」(2)にもあるように、受け継いでいける永遠に続くものを残すことはできない、つまり、自分の存在、営みが残ることはないことにあるようだ。コヘレトの言葉2章18,19節では、後継者が信頼できるものではないことを嘆いているが、ここでは、より一般的に語られているのだろう。自分の存在を誇示できるものとして残せなくても、人や自然と影響し合いながら、そして、神と向き合いながら生きていれば、その存在を消すことはできないとも言える。それでよいとわたしは思う。 Eccl 7:28,29 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。 「見よ、これがわたしの見いだしたところ/――コヘレトの言葉――/ひとつひとつ調べて見いだした結論。」(27)とあり、この二節が続く。最初の「わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。」も考えたいが、それ以外に、二点興味深いことがある。一つは男女の違い。もう一つは最後のことばである。コヘレトは男性で男性として自分が持ちたい資質を思い描いて「千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。」と言っているのだろう。女性はこれを逆にしたことを考えるのだろうか、興味を持つ。同時に、助け手、協力者、足りない部分を補う存在と見れば、異なることを見出すのではないかとも思う。二つ目は「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる」こと。この表現が最善であるかどうかは別として、雰囲気は伝わってくるように思う。神の失敗作なのか。おそらく、互いに愛し合う存在の難しさもあるのだろう。「複雑な考え方」についても、こころにおさめ、思いめぐらしたい。 Eccl 8:12,13 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり 悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。 微妙なことばである。このあとにまた「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。」(15)がある。「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり」とある。「快楽」がなにかは、不明である。「飲み食いし、楽しむ」ことだろうか。神を畏れること自体が、幸せだととることもできる。それが、広い意味での「快楽」なのかもしれない。わたしは、そのように、生きているように思う。 Eccl 9:3 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。 このようにも表現できるかもしれないが、因果応報は、主の道とは異なるように思う。ひとり一人が因果で裁かれたら、それで良いのだろうか。単にまじめだからと言って、心の中はわからない。それを主は見られるのだから。恵みに信頼したい。それ以外に、救いはないのだから。 Eccl 10:18-20 両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる。親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え/翼あるものがその言葉を告げる。 聖書になぜこのように書かれているのか、以前は不思議だった。おそらく、すべてを霊的な信仰、神の義に結びつけるべきだとの考えがあったのだろう。ひとの営みの現実を肯定するというよりも、そうだな、そうなのかな、と自然に読めば良いのだろう。そうかもしれない。なるほどね。 Eccl 11:3,4 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても/木はその倒れたところに横たわる。風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。 完全にはよくわからないが、「木はその倒れたところに横たわる」は、興味深い。それが、次の「風向きを気にすれば種は蒔けない。」につながっているのかもしれない。「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」(5)たしかに、世の中わからないことばかり。神のみこころをわかったなどとは言えない。謙虚に求め続けよう。 Eccl 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。 なぜ「青春の日々にこそ」なのかを考えた。このあとには「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」(2)と続く。若い日々に主との交わりを持っていること、主が恵み深い方であること、神の義は人の義と異なること、主に信頼し、主の掟を守ろうとする人々との交わりの深さ、互いに仕え、愛することの素晴らしさを少しでも知っていることだろうか。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」(13)コヘレトの言葉を真摯に受け取りたい。 Sg 1:6 どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。 おとめと、「恋人よ」とおとめに語りかける若者と思われるものの歌のようである。どちらが支配することもなく、対等に感じられること、さらに、おとめに、さまざまなひとが登場すること、引用句のように、畑で、見張りをしていたようなおとめも登場することに興味をもつ。豊かな世界が展開しており、それが書き留められているように思う。正直、雅歌はよくはわからないが、少しずつていねいに読んでいきたい。 Sg 2:15,16 狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。恋しいあの人はわたしのもの/わたしはあの人のもの/ゆりの中で群れを飼っている人のもの。 恋をしている間、邪魔が入らないように、不要なことに、こころを配らなくて良いようにといっているのだろうか。「わたしのもの・あの人のもの」は、そのような心を表現しているのであって、持ち物であることを主張しているのではないだろう。雅歌は、どのようにして読まれたのだろうか。現代では、過越の祭の日曜日に読まれるという。過越の祭は、最初の収穫を祝う祭りでもある。神とイスラエル、キリストと教会の関係にたとえられることもあるが、直接的には、恋人関係であろう。劇のようなスタイルをとっていることからも、単純な男性目線ではなく、女性のこころも、表現されているように思われるが、どうなのだろうか。 Sg 3:4 彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。 恋い慕う気持ちは良く表れているが、通奏低音のように、何回か(2:7, 3:5, 8:4)現れる「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(5)が、深みを与えているように思う。恋心は不可解。 Sg 4:7 恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。 このことばに象徴されているように、すべてが美しいというように「恋人よ、あなたは美しい。」(1a)からはじめて、様々な表現をしている。表現自体は、理解できなかったり、現代ではこのようには表現しないのではと思うこともあるが、いずれにしても、これが恋なのだろう。このあとは「わたしの妹、花嫁よ」(9,10,12)とあるが、意味は必ずしもはっきりしない。恋人を、妹と表現しているのか、花嫁の妹を、恋人のようにほめているのか。あまり、堅く考えなくて良いのかもしれない。 Sg 5:6,7 戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。恋しい人の言葉を追って/わたしの魂は出て行きます。求めても、あの人は見つかりません。呼び求めても、答えてくれません。街をめぐる夜警にわたしは見つかり/打たれて傷を負いました。城壁の見張りは、わたしの衣をはぎ取りました。 詳細は不明であるが、香油を塗り、街をさまよい歩き、遊女としてとがめられたのかもしれない。暴力も書かれている。ただ、これに続けて「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/もしわたしの恋しい人を見かけたら/わたしが恋の病にかかっていることを/その人に伝えると。」(8)と「恋の病」と表現しており、暴力を受けた部分は強調されていないのかもしれない。「恋の病」のひとつの表現は、なにか心苦しくなる。 2020.4.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 雅歌はいかがですか。昔から、比喩的に雅歌を解釈する見方があるようです。いのちのことば社の「新聖書注解」では、6通りほどの解釈が紹介されています。a. 「神とその民との間の愛」(ユダヤ人の比喩的解釈)b. 「キリストと教会との間の愛」(キリスト教の比喩的解釈)c. 「ソロモンと羊飼いの娘」「ソロモンと羊飼いの娘とその恋人の羊飼い」(劇詩としての解釈)d. 恋愛詩の断片をあつめたものとする解釈 e. 宗教祭儀文、他の宗教のものをユダヤ教に調和させた形に取り入れたとする解釈 f.祝婚歌、自然の恋愛詩歌とする解釈. 私が、おそらく、8年ほどどう考えていたかは、下のホームページにあります。いまも、あまり考えは変わっていないかもしれません。どのうように書かれたか、そして利用されてきたかもありますが、聖書の一部として、含まれている意味も考えます。みなさんは、どう思われますか。 雅歌を読み終わると次はイザヤ書です。イザヤ書には、冒頭に「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」(1章1節)とありますから、イザヤ書の時代は、北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂していた時代であることがわかります。そして、途中で、北イスラエル王国は、アッシリアによって、滅ぼされ捕囚となります。南ユダ王国は残ります。ホームページに少し歴史的背景も書いてあります。列王記や歴代誌にも対応している箇所がありますね。通読では、なかなか、調べながら読むことはできませんが、どんな時代かをある程度理解していることはたいせつかもしれません。イザヤの生きた時代、神様と向き合い、言葉を受け取った時代ですから。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 雅歌6章ーイザヤ書11章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 雅歌とイザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 雅歌:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#so イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Sg 6:8,9 王妃が六十人、側女が八十人/若い娘の数は知れないが わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘/産みの親のかけがえのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し/王妃も側女も彼女をたたえる。 「かけがいのない娘」この視点が失われてはいけない。ただ、かけがいのなさをどのように、たいせつにするかは、よく考える必要があるが。この雅歌と似たものが、演じられたことが、あるのだろうか。そのようなものを観てみたい。いろいろな、演出方法があり、それによって、かなり多様に変化するだろうが。 Sg 7:14 恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も/恋しい人よ、あなたのために取っておきました。 恋人を表現するのに、当時もっとも適切な表現が「恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。」だったのだろう。それを、あなたのために。いまは、それをどのように表現するのだろうか。 Sg 8:6 わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。(合唱)愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。 最後の章(区切りは原文にはないだろうが)は「あなたが、わたしの母の乳房を吸った/本当の兄だと思う人なら/わたしをとがめたりはしないでしょう/外であなたにお会いして/くちづけするわたしを見ても。」と始まる。それぞれの登場人物をどう理解すればよいか正確にはわからない。「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(4)と「荒れ野から上って来るおとめは誰か/恋人の腕に寄りかかって。(おとめの歌)りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。 」(5)の「わたしはあなたを呼びさましましょう。」が対応しているのだろうか。そして引用句に続く。愛と熱情を対比している。愛はどのようにとらえられているのだろうか。 Is 1:2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。 イザヤ書は、イエスも引用され、新約聖書でも多く引用され、救いの預言書との印象があるが、最初は、主に背いたことから始まる。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」(1)とあるが、いつの時代なのだろうか。荒廃した状況の描写から始まる。しかし、荒れ果てた状況にあっても、回復が常に語られているようだ。それは、国の状況の回復ではない。「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。」(27)悔い改めから始まる恵みの御業による贖いである。裁きをとおしての部分は、この時の状況を表現しているのだろうか。それとも、一般的な人類の「(信じない者は)既に裁かれている」(ヨハネによる福音書3章18節)状態を言っているのだろうか。 Is 2:9 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。 ヤコブの家が「異国の子らと手を結んだからだ。」(6b)としてそのことを糾弾しているようだ。嘆いているのかもしれない。「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。」(7)この状態を、引用箇所では「人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。」としている。ひとは、どのようなときに、卑しめられ、尊厳を失うのか。イザヤの目には驚かされる。この章の最初は「終わりの日」の記述から始まり、この状況の中で、そしてそのような中だからこそ「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(4)と終わりの日を表現し「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(5)と激励している。訴えているのかもしれない。ヤコブの家は北イスラエル王国ではなく、南ユダ王国も含むのだろうか。異国との同盟なしには、滅ぼされてしまうときだったことも確かである。特に、アッシリアは強大になっている。イザヤは、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされるBCE722(ユダ王国アハズ王の時代)に生きていたようである。時代的なことも考えさせられる。 Is 3:4,5 わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。 「見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。」(1)から始まる。この裁きによって起こることの記述に驚かされる。「気ままな者が国を治め」「民は隣人どうしで虐げ合う。」そして「無礼」。政治的、社会的、倫理的混乱だろうか。ただ、このすべてのことをイザヤは「主なる万軍の神は」として語っている。また、イザヤ書と向き合うことができることを幸せに思う。 Is 4:1 その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。 「シオンの男らは剣に倒れ/勇士は戦いに倒れる。」(イザヤ3章25節)と直前にあり、男がいなくなっている状況がわかる。同時に「主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。 主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い/彼女らの額をあらわにされるであろう。」(イザヤ3章16,17節)の裁きとしても表現されているのだろう。詳細はわからない。しかし、表現は豊かである。 Is 5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 このたとえは、二つの面から、よくはわからない。一つは、主のなされることで、主は原因をご存じなのではないかと言うこと、二つ目は、責任を、ぶどうに問うことの理不尽さである。このあとの推移からは、主はなすべきことをすべてした、となっている。神との関係は、いくら譬えだとは言え、少し異なるのではないだろうか。 Is 6:11,12 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。 「ウジヤ王が死んだ年のことである。」(1a)と始まっている。BCE742年のこととされる。アハズ(735年 - 715年)の時代にアッシリアに隷属、次のヒゼキヤ(715年 - 687年)時代に、アッシリアのセナケリブに攻められる。そしてユダ王国がバビロンに滅ぼされ、最後の王となるのはゼデキヤ(597年 - 587年)のときである。北イスラエル王国が滅亡したのは BCE722年。この背景のもとで書かれている。しばらく、安泰だった時期もあり、イザヤのことばが現実になったとはっきり言えるまでには、まだ、150年もある。「かたくなに」するメッセージ(9,10)に対して、「主よ、いつまででしょうか。」と問う、重さを感じさせられる。その間の歴史も思い描きながら。 Is 7:1,2 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。 北イスラエル王国滅亡には、南ユダ王国も荷担したと言われており、単純ではないが、北イスラエル王国との兄弟げんかのようなものが、アラムという大国を巻き込んで始まっている。背景には、アッシリアの脅威があるのだろう。「その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。」(20)を見ても、アッシリアの前に、危険を察知していたことがわかる。預言者として、まだ民が理解する前に、先を見て、警告しているのかもしれないが。不安なときの行動が問われている。 Is 8:3,4 わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」 「主はわたしに言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と。 」(1)から始まっている。この時期に、アラム(首都はダマスコ)とイスラエル王国(首都はサマリア)が同盟を結んで、ユダ王国を攻めてきている。背後のアッシリアも強大になっているときであると思うが、ここでは、そのことは書かれていない。イザヤも部分的に理解していったのかもしれない。しかし「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という言葉を受けて、そのことが何を意味するか、考えたのだろう。このことばの実現は、まだ先のことだったかもしれないが、歴史の事実ではなく、より本質的なその奥にあることを、女預言者と、その子と生活しながら、毎日考えたのかもしれない。それが預言者なのだろう。 Is 9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 アラムとイスラエルの攻撃が大きなダメージとはならなかった時かどうかは、わからないが、この時点で、単に、その戦いに限らず、壮大な、主の救いの御業と、さばきについて、預言している。まさに、このなかで、主がより普遍的なこととして、なにを伝えようとしているかを、考えていたのだろう。そのうけとったものを、言語化している。学ぶべきは、預言が成就したかどうか、この預言者の背後に主がおられるかどうかではなく、このように、主のみこころを求める姿勢、より本質的なことを見ようとする生き方なのかもしれない。しかし、一つ一つの言葉に驚かされる。 Is 10:20,21 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。 「残りの者」の救いがイザヤの預言の特徴の一つである。「残らなかったものは」と聞くことは自然だろう。さばきは、動かしがたいことだったのだろう。二つのことを考えた。ひとつは、永遠のいのちのメッセージがまだないこと。すなわち、死は、絶対的に生と分かつものであること。もうひとつは、神のめぐみをつたえる神の救済の全体的提示なのではないだろうか。欠点を考える良い、ここから受け取れるメッセージを考えるべきだろう。イザヤが受け取ったこと、信じて頼ったことから、希望を受け継ぎたい。 Is 11:6-8 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」(1)から始まる。一般的に、救い主預言だとされる。どのような救い主かが書かれ、引用箇所に至る。こころから驚かされる光景である。同時に、救いの範囲は、イザヤにとっては「残されたもの」である。「地の四方から」(12)とは言われているが、中心には「エジプトの地から上った日に/イスラエルのために備えられたように/アッシリアに残されていた/この民の残りの者にも、広い道が備えられる。」(16)アッシリアである。限界を、はっきりと見ながら、この預言者が受け取った者から学びたい。 2020.4.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) イザヤ書を読み始めました。イザヤ書はいかがですか。イザヤ書は、預言書の中で、新約聖書で一番たくさん引用されており、数え方にもよるのですが、50回ほどと言われているようです。イザヤの名前が明示されて引用されている箇所は、検索してみると、20箇所以上あることがわかります。その意味で、読んだことがある箇所も見つけられるかもしれません。 今回の通読で、わたしは、特に、イザヤという信仰者に視点を置いて読んでいます。イザヤの頭の中、こころの中、神様との関係を知りたいと思いながら。イザヤの時代は、イザヤの住む南ユダ王国周辺も激動の時代です。昔の価値観が通用しなくなっていることもあると思います。最近は、未曾有ということばは、あまり使われないかもしれませんが、「いまだかつてあったことがない」状態がそこかしこに生じているとき、イザヤは、どのように生きたのでしょうか。たくさんの国や民族も登場しますし、歴史的によくわかっていない、海の民も、いろいろな形で登場します。おそらく、信仰も生き方も問われていたのでしょう。そんな背景も考えながら読んでいけるとよいと思っています。むろん、それは、今のわたしたちも、そのような中にいるのではないかと思うからでもあります。価値観が揺さぶられるとき、しかし、どうしたらよいか、明確にはわからないとき、どう生きていったらよいのでしょうか。イザヤとともに、求めてみたいと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 イザヤ書12章ーイザヤ書25章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Is 12:1,2 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」 救いのときに、このように考えるのだろうが、主は変わらないのかもしれない。このあとに「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」(3)と続く。美しい表現である。イザヤの特徴のひとつのように思われる。最後は「シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」(6)とあるが、シオンに集中していることが気になる。シオンに住まない一般の人はどうなのだろうか。「シオンに住む」は、広い意味なのだろうか。 Is 13:19 バビロンは国々の中で最も麗しく/カルデア人の誇りであり栄光であったが/神がソドムとゴモラを/覆されたときのようになる。 「アモツの子イザヤが幻に見た、バビロンについての託宣。」(1)とあるが、このときのバビロンはどのような状況だったのだろうか。当時は、アッシリアの時代で、そのことが繰り返されている。アッシリアをバビロニア王朝に含める見方もあるようだが、聖書の記述からは、ユダが滅ぼされる時代までそのような記述はないように思われる。ここでは、バビロンという町について言っているのだろうか。いつか、しっかり学ぶ時を持ちたい。 Is 14:1,2 まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり/ヤコブの家に結び付く。もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。 イザヤは、主との交わりの生活の中で、主はどのような方で、どのようなことをされるかを確信したのだろう。それが、預言となっても現れる。引用箇所などは、わたしは、読み飛ばすようにしていた。イスラエル中心であること、諸国民を奴隷として自分のものとすることを、救いの一部としていることからである。イザヤの視点からは、それは、とても自然だったのだろう。それを、あげつらっていると、イザヤから学ぶことはできない。 Is 15:1 モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。 この章の最後には「ディモンの水は血に染まる。わたしが、ディモンに災いを加え/モアブの難民とアダマの生き残りの者に/獅子を送るからだ。」(9)近隣の国・民族とは様々な交流、紛争、思いがあったろう。さばきを思うと同時に、隣人も主が憐れまれることを確信するのは、困難なのかもしれない。自らを思い見る前に、主との契約と長い歴史があり、それが選択肢を広げることもあるが、狭めることもあるのかもしれない。 Is 16:10,11 わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくなり/わたしは喜びの声を終わらせる。それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレスのために/竪琴のように嘆く。 「わがはらわたは・・・嘆く」とある。単に、悲しい状況になることを言っているのだろうか、それとも、本当に嘆いているのだろうか。はらわたに感じるほどに。「それゆえ、わたしはヤゼルのために/また、シブマのぶどうのために泣く。ヘシュボンよ、エルアレよ/わたしは涙でお前を浸す。お前の果物の取り入れと麦の刈り入れに/鬨の声が襲いかかったからだ。」(9)ともある。さばきとしての滅びを、この預言者は、どのように受け取っていたのだろうか。 Is 17:13,14 国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。 「災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。」(12)このどよめきは、なにをあらわしているのだろうか。ダマスコ(アラム)とエフライム(北イスラエル)の滅びをこの章では語っているようだ。正直詳細はよくわからない。預言者は、どよめきのときの主の働きもみているのかもしれない。現代は、そして、いまは、どのような時なのだろうか。イザヤはどのように、見るのだろうか。 Is 18:1,2 災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。 クシュは Wikipedia によると「クシュ(Kush)は現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。」とあるが、他の資料(ネット上にも多数)を見ると、起源や繁栄の時期など諸説あるようだ。現在のエチオピアの地域と同一視して、クシュはエチオピアとする場合もあり、わたしも基本的にはそう思ってきたが、詳細は、よく調べる必要がある。奥地にあることで、アッシリアなどの影響は限定的だったのかもしれない。しかし、国際的交流の広さに驚かされる。日本のような極東の島国にいるのとは、世界観もかなり異なるのだろう。イザヤを含めて、預言者の視野の広さも、このあたりに背景があるのかもしれない。 Is 19:24,25 その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。 イザヤの視野の広さに驚かされる。「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。」(23)とある。中東を見ると、ものごとをどのように理解したとしても、いまも、この状況にはほど遠い。これは、単に、イザヤの願いだったのか。おそらく主との交わりをもっていた、イザヤからすると、主がなされることとして、明らかだったのだろう。わたしたちは、これをどう受け取ったらよいのだろうか。 Is 20:6 その日には、この海辺の住民は言う。「見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」 「海辺の住民」が、エジプトやクシュ、そしてアッシリアという巨大王国とは別に、重要な時代だったようだ。正確にはわからないようだが、ペリシテやツロなどを含むもともとは海洋民族で王国の盛衰にも大きく影響したと言われる。どのように評価するか難しいのだろう。この時代からフェニキア人の地中海での活動がまた活発化しているという説もあるようだ。背後にある地中海沿岸の歴史も学んでみたい。それにしても、イザヤの身を挺しての預言、驚かされる。 Is 21:11,12 ドマについての託宣。セイルから、わたしを呼ぶ者がある。「見張りの者よ、今は夜の何どきか/見張りの者よ、夜の何どきなのか。」見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ/もう一度来るがよい。」 「今は夜の何どきか」は、朝が待ち遠しくて寝ていられない。夜が早く去って欲しい。という表現なのではないだろうか。その夜を見張っているものもいることも興味深い。人生でそして、世の中が、真っ暗と感じるときなのだろう。夜警は「もう一度来るがよい。」としか答えられないとしても、辛い期間なのだろう。夜明けが近い明け方が一番暗いという。 Is 22:5 混乱と蹂躙と崩壊の日が/万軍の主なる神から来る。幻の谷に、騒音が響き渡り/山に向かって叫ぶ声がある。 「その日」(8, 12, 20)はいつのことなのだろう。「その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」(20,21)に現れる、ヒルキヤの子エルヤキムは、ヒゼキヤのときに、アッシリアのセナケリブに攻められたときの人のようである。(列王記下18章18節)すると、引用箇所の「混乱と蹂躙と崩壊」は目の前にあることなのかもしれない。「ユダの防備をはぎ取った」(8)もそのときに符合する。時が記されていないと、どのように理解するか混乱する。通読ではなかなか深くは読めない。 Is 23:10 娘タルシシュよ/ナイルのように、お前の国を越えて行け/もはや、遮るものはない。 この章にはティルスについて書かれ、シドンも現れる。海の民の都市国家としてティルスは歴史上も有名であるが、タルシシュ(Tarshish)(1,6,10,14)は、「タルシシュの船」(1, 14)として聖書に何回か現れる(列王記上10章 22節、22章49節、歴代誌下9章 21節、詩編48編8節、イザヤ書2章 16節、イザヤ書60章9節、エゼキエル書27章 25節)。いつか調べてみたい。海洋民族で、似た名前のいくつかの候補はあるようだが、不明のようである。聖書のなかだけでなく、海の民は、歴史的にほとんどわかっていないが非常に大きな影響を与えた様である。むろん、民族ではなく、ひとくくりにはできないのかもしれないが。イザヤの時代のグローバルな人たちなのだろう。不思議な存在である。 Is 24:4,5 地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。 世界は揺れているように見える。倫理的な基準も揺るがされ、なにが正しいのか見えなくなっている。正しさだけでは、互いに愛し合うことは困難であることも、認識しはじめているように思う。異なる多様なひとたちが、互いに受け入れるためには、正しさを根拠とすることが困難だからだろう。ここでは、混乱の理由は「彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。」とある。そうなのだろうか。しかし、そうかもしれないとも思う。根本的と思われる、いのち、肉体的なものだけでなく、ひとが生き生きといきることを育むことについても、相対化されるのは、おかしいとも思う。性のことや、こども、家族はどうなのだろう。どうしたらよいのかよくわからない。 Is 25:4,5 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。 このあとに「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」(8)ともある。引用箇所は、日々の労苦の中での慰め、和らぎ、そして、「死」。死は、当時はもっと身近にあったのかもしれない。こどもの死亡率が高く、生まれたこどもが成人するのは、率がひくかったろうし、争いで亡くなることも。そして、弱いものは、苦難に遭うものには、救いはないのではないかと思われたのかもしれない。今も、同様の状況とも言えるが、異なる部分もある。わたしたちは、主の恵みをどのように表現するだろうか。 2020.4.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) イザヤ書はいかがですか。前回「今回の通読で、わたしは、特に、イザヤという信仰者に視点を置いて読んでいます。」と書きました。預言者とは、イザヤとはどのような人だったのでしょうか。先週の夜送った BRC に、預言者について少し書きました。今回、皆さんが読まれる箇所の前半は、当時の世界のことが書かれています。イザヤの住んでいた紀元前8世紀後半のユダヤ、そしてイスラエルは、北にダマスコなどを本拠地とするアラム、東にはアッシリア帝国、近隣には、多くの民族が住み、南西には、エジプト、そしてヌミビアなど、ナイル川の上流の国もあり、さらに、地中海には、フェニキヤ人など、海の民と言われているひとたちがおり、ティルス(ツロ)などの、海辺の都市国家を各所に築いていたようです。世界史に詳しい方は、他にもいろいろとご存じかもしれません。交通の要衝、文化の交流地、大国の覇権がぶつかり合う地、多民族がしのぎを削る地です。おそらく、いろいろな力のバランスの関係の上に、存在していたのでしょう。 そこに生きるイザヤは(当時の)世界中のことを見ているようです。大きな流れも。今回みなさんが読む箇所の最後の方には、王様の顧問預言者のような活動も書かれています。すでに、列王記下(19,20章)や、歴代誌下(26,32章)にも、イザヤの名前は登場しています。わからないことばかり、ある意味では理不尽なことが多い世の中で、主との深い交わりを日常的に持ち、世界の動向をしっかり見据え、そこに働かれる神様の業を見、ひとびとに警告し、自らの生き方を探る。わたしたち、ひとり一人も、現代において、このイザヤのような、預言者のような生き方が、求められているのかもしれません。いま、このとき、イザヤはどのように叫ぶでしょうか。そのことも考えたいものです。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 イザヤ書26章ーイザヤ書39章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Is 26:12,13 主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。わたしたちの神なる主よ/あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは/あなたの御名だけを唱えます。 わたしは、主に信頼している。そして、平和の源だと考えている。しかし、その根拠は薄弱でもある。いままでそのようにして生きてきて幸せだったからだろうか。そうかもしれない。後半には「あなた以外の支配者が我らを支配しています。」とあるが、もしかすると、わたしの人生を支配しているのは、主ではなく、主以外の支配者なのではないだろうか。不安にもなる。不安さを抱えて生きることも、ひとの歩みの一部であるのかもしれない。結局わたしも「主よ、苦難に襲われると/人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと/彼らはまじないを唱えます。」(16)と同じ存在なのだろうか。主を求めることも、まじないも、あなた以外の支配者に支配されていることなのだろうか。 Is 27:5,6 そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす。 主との和解。それは、信頼することの質を転換することだろうか。具体的には、よくわからない。ただ、後半をみると、やはり、イスラエルの地上での回復が言われているように思われる。これを、イザヤの限界とみるのか、それとも、和解による回復の象徴なのか、あるいは、実際のことなのか。わたしには、わからない。 Is 28:1 災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は。その麗しい輝きは/肥沃な谷にある丘を飾っているが/しぼんでゆく花にすぎない。酒の酔いによろめく者よ 北イスラエル王国は、もうすぐアッシリアに滅ぼされる。それを、南ユダ王国はどう見ていたのだろうか。アッシリアはすでに南ユダ王国にとっても脅威であったはずだ。北を売ったとも言われている。しかし、北には預言者もおり、信仰深いひとたちもいただろう。たしかに、たくさんの問題があった。イザヤはどう考えていたのだろか。北イスラエル王国の滅亡を。そして、南ユダ王国の行く末を。「それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」(16)イザヤはここに立っているのだろうか。よくわからない。 Is 29:19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。 イザヤには、裁きと、回復が繰り返し現れる。イザヤの中で、それは、何を意味していたのだろうか。苦しんでいた人々、貧しい人々、正しいものだけと言っているのでもないようである。「心の迷った者も知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。」(24)混乱してしまう。 Is 30:1 災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが/わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが/わたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。 ここに原因が集約されているようである。「彼らは先見者に向かって、『見るな』と言い/預言者に向かって/『真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ/我々の前でイスラエルの聖なる方について/語ることをやめよ』と言う。 」(10,11)のような状態が実際に蔓延していたかは不明であるが、イザヤに聞かない状況はすでに、存在していたろう。そのことと、引用箇所は一致しているのだろうか。わたしもたしかに反逆の民なのかもしれない。主によるかどうかは、不明でも、主に聞くものでありたい。 Is 31:2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。 正直、この感覚はない。主がどのように働いておられるのか確信がない。イザヤの言うように、「災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。」のだろうか。「主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。」ことは真実としても。神の個別的介入についても、求め続けたい。どのようなものなのか、どのようにされるのかと問いながら。 Is 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 「見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。」(1)と始まる。「正義が造り出すもの」に懐疑的であったが、おそらく、それは、正義を道具として権力を振るい、はっきりしないことなどを絶対化し、正当とすることに拒否感があるからだろうか。正義はもっと良いものなのだろう。平和を造り出すのが正義、とこしえに安らかな信頼を生み出すのが、正義なのだろう。このような正義を求めていきたい。 Is 33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。 もう少しまともにこのことばと向き合ってみたい。この章は「都に住む者はだれも病を訴えることはない。都に住む民は罪を赦される。」(24)で終わっている。病が罪のゆえとはされていないが、罪を赦されることと関係はしているのかもしれない。苦しみやいたみが病を引き起こすこともあるのだから。主の裁きはどのようなものなのだろうか。 Is 34:16 主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。 明確には書かれていないが、ジャッカル(14)や、ふくろう(11,15)などは、主のコントロールのもとにあるが、人間は、決めることができるように、造られたというのだろう。おそらく、注意深く、明言はせず、「主の書に尋ね求め、読んでみよ。」とのみ言っている。本来なら、自然を見よといいそうなものだが。人間とは、どのような存在で、イザヤはどう考えていたのだろうか。 Is 35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 「主は言われた。『行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。』 」(6章9,10節)「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。 」(42章18節)に対応しているのだろうか。イザヤには、目や耳に関する記述が多い。「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。 」(29章18節)イザヤは、どのような世界を見ていたのだろう。 Is 36:19,20 ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」 「カルノはカルケミシュと同じではないか/ハマトは必ずアルパドのようになり/サマリアは必ずダマスコのようになる。 」(10章9節)と対応しているようである。サマリアは、北イスラエルの首都であり、ヒゼキヤの時代には、すでに滅ぼされている。このように、並べ立てられ、「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」(10)と主の名も出されている。状況的には、八方ふさがり、evidence based や、データサイエンスでは、よい結果は考えられない。このときに、主に寄り頼む源泉はなになのだろうか。相手も、ヘブル語を使い、語りかける、恐るべき相手である。 Is 37:26 お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を/瓦礫の山にすることとなった。 イザヤは、何を見ていたのだろうか。シオンの滅びと、救い。両方を語っている。将来的には、滅びること、しかし、いまはそのときではないとして、最大の窮地において、救いを見せることで、人々を訓練しているのだろうか。自分の問題として考えたとき、本当によくわからない。 Is 38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない、と。 わたしは、地上での命と、約束された永遠の命はつながっているように信じている。しかし、このヒゼキヤのことばのように、「命ある者の地にいて主(の働き)をみること」と「人(と共なる営み)を見ること」を喜びとしている。その意味で、ヒゼキヤと同じ価値観に立っているのかもしれない。最近、三人の友人が突然亡くなった。特に二人は、一瞬だった。ほかの人にも、そして自分にもそのようなことはあり得るだろう。上に掲げた、二つのことをこれからも喜びとして、一日一日をていねいに生きていきたい。日々弱っている、もう一人の難病の友とも共に。 Is 39:1 そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。病気であった彼が健康を回復したことを聞いたからである。 なぜ、このようなことが起こったのだろうか。列王記20章12節に同じ記事がある。歴代誌下32章31節には以下のようにある。「しかし、バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた。」この奇跡はヒゼキヤの病のことか、アッシリアに征服されなかったことか不明だが、後者かもしれない。諸外国は、すでに、外交的に、かなり進んでいたことがわかる。信仰者は、ヒゼキヤのようであって良いのだろうか。 2020.4.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) イザヤ書はいかがですか。イザヤ書を読んでいると、歴史的な付加とも言える39章を境に、40章からは、少し雰囲気が変わります。イザヤは「主は救い」という意味の名前ですが、贖い・救いの記述も増えます。他方、44章・45章には、キュロスの名前も登場します。キュロスは、南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされますが、そのバビロンを滅ぼしたペルシャ帝国の王様の名前で、キュロスの命令によって、捕囚の民がイスラエルの地に戻ることが許されることになります。イザヤはその時代まで生きていたわけではありませんから、これについても、いくつか説があります。今週の最後には、53章を読むことになっています。新約聖書でも何回か引用されている箇所ですから、知っている方も多いかもしれません。 旧約聖書や預言書はどのような存在なのだろうかという問いに対して「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)が引用され、旧約聖書は、イエス・キリストについて、その救いについて書いてあるのだと説明される場合もあります。真理だと思います。しかし、あまり単純にイエス・キリストを読み込むことは、問題もあるように思います。神様に導かれて来た、国が異邦人の国に非常に無残な形で滅ぼされるという、そのときに、主を求め、主との交わりに命をかけて、守ろうとしてきた人たちが、実際に起こっている悲惨な状況をどのように受け止め、どのように希望を見出し、伝えていったのでしょうか。イエス様が、そこにおられたら、やはり、ご自身、苦しまれたのではないでしょうか。わたしたちは、イザヤやその時代の人たちと歴史を共に生きることはできませんが、現代を生き、真理について、生きる道について、いのちについて問いながら日々あゆむものとして、歴史を越えて、痛みを共有し、語り合うことも少しはできるかもしれないと思っています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 イザヤ書40章ーイザヤ書53章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#is 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Is 40:1,2 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。 福音書にも何度か引用される有名な箇所である。イエス様は、これをなんども読み、ご自分の召命を確信していったのかもしれない。エルサレムに中心があり、シオン、ユダ、ヤコブ、イスラエルと出てくるが、これを、イエス様は、どう読まれ、どう受け取られたのだろう。イザヤが見えていなかったことを、最初から見ていたのだろうか。それとも、イザヤを通して、その向こう側をみたのだろうか。イエス様とともに、味わって読みたい。 Is 41:1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。 なぜ、島々なのだろう。国々の民が、島々にたとえられているようだ。島々は、地中海で、このころに、重要な意味をもっていたのか。歴史的に「海の民」の活躍は語られているが、あまりに不明なことが多い。アッシリアや、バビロンなどではないところが不思議である。「島々は畏れをもって仰ぎ/地の果てはおののき、共に近づいて来る。」(5)ともう一度、出てくる。イザヤ書の「島々」をリストする。24章15節、40章15節、42章4節・10節・12節、49章1節、51章5節、59章18節、60章9節、66章19節。「遠い国々よ」(49:1)とあり、イザヤにとっても、未知の存在だったのかもしれない。 Is 42:24 奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。 この章は、ゆっくり学んでみたい。主の僕について「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(3)とその性質をあげ、さらに「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。」(18,19)とイザヤ書の中心的な枠組みの中で、主の僕について語る。そして引用箇所である。このときには、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、捕囚になっている。それも、かなり残酷に。南ユダ王国は、かろうじて、滅亡を逃れている。引用箇所に続く最後の節が悲しい。「主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(25) Is 43:10 わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。 「わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。 」(3,4)とある。これだけを見ると、イスラエルへの偏愛とも言えるような表現である。12節には、引用したことの「証人」であることが語られている。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(21)にもある。購った理由はここにあると言っているのだろう。それが、キリスト教においては、イスラエルに限らず、購われた者へのメッセージだと理解されていると思われる。どのような解釈が許され、適切なのか、やはり単純ではない。 Is 44:8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。 この「あなた」は文脈からは、「わたし(主)の僕ヤコブ」(1)だろう。しかし、そのように、聞く人は多くなかったかもしれない。イザヤはこのメッセージを受け取り伝えている。孤独ではなかったかもしれないが、信じ切るのは、簡単ではなかったろう。わたしが今、最良を望むとか。最悪をおそれるとかとは、異なるのだろう。信仰とは、何なのだろうか。 Is 45:1 主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。 キュロスの名前は、前の章の最後にある。「キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。 」(44章28節)これを、どう解釈するか不明であるが、キュロスに主が働いて、帰還を許したと皆が信じたことは確かだろう。ユダヤ教の信仰をもっていたわけではないキュロスに、違った見方はなかったのだろうか。これを、イザヤが書いているとすると、イザヤは、何を信じていたのだろう。 Is 46:3,4 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 このあとに、偶像のことが語られ「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。」(7)とある。実は、ヤコブの家こそが、主に負われていると言っているのだろう。痛烈である。そして「あなたたちの老いる日まで/白髪になるまで」は今ではとても身近に感じる。主のみ手の内に生きていることを、背負われていることを覚えていたい。倒れそうなときだけでなく、いつのときも。 Is 47:10 お前は平然と悪事をし/「見ている者はない」と言っていた。お前の知恵と知識がお前を誤らせ/お前は心に言っていた/わたしだけ/わたしのほかにはだれもいない、と。 ひとは、厚顔無恥に生きてしまう。人前でのいいわけを持ち、他者への説明の知恵で自らを欺きながら。自己中心から逃れるには、絶対他者との出会いが必要なのだろうか。主の前に生きることを求めたい。謙虚に。 Is 48:6,7 お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。自分でもそれを告げうるではないか。これから起こる新しいことを知らせよう/隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたと/お前に言わせないためだ。 この内容は定かではない。「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ/地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。」(20,21)について語っているのだろうか。すでに、44・45章で、キュロスのことは、語っている。このあとにある、主のしもべのことだろうか。どのように、文脈としてつながるのかよくわからない。 Is 49:25,26 主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしが、あなたの子らを救う。 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ/新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。すべて肉なる者は知るようになる/わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う/ヤコブの力ある者であることを。 ほんとうに、そのような時は来るのだろうか。正直、それとは、逆に進んでいるように思う。おそらく、ヤコブとは、イスラエルとは、シオンとはについて、理解しないといけないのだろう。それらから離れられないことが、イザヤの限界なのだろうか。世界をみているイザヤにしても。正直よくわからない。 Is 50:10,11 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。 1-3節はよくはわからないが、民はまだ主のものであることを表現しているのだろう。そのあと、主の弟子について、4-9節に描かれており、この章の最後が引用句である。たしかに「闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする」かと聞かれて、はいとは言えない。やはり自分の松明に頼っているのだろうか。否定はできないが、肯定もしたくない。 Is 51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。 シオンにしか目は向いていないのか。シオンを責める者の救いはないのか。もし、そうなら、世界の救いはないだけではなく、互いに愛し合うことは困難であるように思う。記者は、しかし、主に信頼する者の希望を、このように表現しているのだろう。それを、責めることはできない。 Is 52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。 「見よ、ここにいる」は、インマヌエル「神が我らと共におられる(インマヌエル)」(8章10節、参照:7章14節、8章8節)ことと通じているのか。しかし「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。 」(1)などを見ると、いつのことなのかと思う。この章も、新約への引用が多い。しかし、その実現をかぞえる読み方は、狭いように思う。イザヤがみた幻をまずは受け取りたい。 Is 53:4,5 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 イザヤはこのことばをどのように得たのだろうか。主との深い交わりの中で、他に正しさによる救いを見出し得なかったのかもしれない。人の罪を深く知っている故に。しかし、それにしても、わたしたちの病や痛みを担い、神の手にかかり打ちたたかれたのだと見えるような存在。そこに、主の救いを見る。驚かされる。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」はあまりに明確だ。聖書を、キリストをここだけの集約してしまうことに反発は感じるものの、イザヤの伝える真理の深さに圧倒される。 2020.5.3 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) イザヤ書はいかがですか。今週は、その最後の部分を読みます。わたしの周囲には、一時期イザヤ書が大好きな方が複数おられ、つねに、イザヤ書から引用されていました。そのように、紹介されるひとつひとつになんとなく魅力を感じてはいました。わたしには、イザヤ書全体について語ることはできませんが、人とは何なのか、主はどのような方なのか、主はどのように世界の人々を導いておられるのか、それを真剣に求め続けながら生き、そのなかから、珠玉のようなことばを残していく姿には、とても魅力を感じます。むろん、わからないところ、直接的には、アーメン(そのとおり、そのようになりますように)とは応答できない部分もありますが。みなさんは、どのように読んでおられるでしょうか。 イザヤ書を読み終わると、エレミヤ書に入ります。「エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。 」(1章1-3節)と始まります。イザヤの少しあとの時代です。イザヤの時代には、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされますが、エレミヤの時代には、バビロニアによって、エルサレムが陥落、南ユダ王国が滅ぼされ、かなりの人たちが捕囚となり、バビロンなどに移送されます。エレミヤは祭司の子と書かれています。エレミヤはどのようなメッセージを受け取り、伝えるのでしょうか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 イザヤ書54章ーエレミヤ書1章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 イザヤ書とエレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 イザヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#is エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Is 54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。 当時は、女性にとって子を産むかどうかは、祝福されているかどうかと近いものだったのかもしれない。この後に続く「あなたの天幕に場所を広く取り/あなたの住まいの幕を広げ/惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。あなたは右に左に増え広がり/あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ/荒れ果てた町々には再び人が住む。」(2,3)を見ると、ある程度は想像が付く。しかし、おそらく、理由がわからない理不尽さが、背景にあるように思われる。いまも、他の形で、存在しているのだろう。祝福の本質は、どのように表現したらよいのだろうか。 Is 55:8,9 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 イザヤがこのように言い切れるところが美しいと思う。不可知を意味しているというよりも、われわれの思いも及ばないことを主に帰しているのだろう。しかし、その高さを垣間見ることがなければ、人間には意味がないだろう。それは、イエス様を通して見ることができるのだろうか。それとも、日常的な経験を通してだろうか。 Is 56:1,2 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。 「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。」(8)とあり、いつのことかと考えてしまう。捕囚帰還後なのだろうか。引用箇所は、救い、恵みとある。そこに正義が語られている。「恵みの業を行え」とは、具体的にどのようなことを伝えているのだろう。字面をみると「安息日を守り、それを汚すことのない人」につながっているように思われる。恵みの業は、主の業なのだから、それに預かることは、主の業に励むことなのだろうか。いのちを与える業だろうか。続けて考えてみたい。 Is 57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。 この章は「神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。」(1,2)と始まる。世の評判や評価ではない、主がどのような方であるかにより頼むことが語られているのだろうか。その主の恵み深さは、個人的に、そして、歴史の中で、他者の歩みとあかしを通して、受け取れるものなのだろうか。自分自身を省み、ひとのあゆみから学び、他者とともに歩むことのなかに、主の恵みを見出して生きる者でありたい。 Is 58:6,7 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 3節から断食・苦行について書いてある。マタイによる福音書の6章のイエスのことばを思い出すが、イザヤの言葉も、なんとも、すごい。このあとの祝福も。このところ、STAY HOME [SUNDAY] が Covid-19 関連で叫ばれているが「安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら 」(13)もじっくり意味を考えてみたい。イザヤは、いまならどのように「喉をからして叫(ぶ)」(1)だろうか。単なる正しさではないものを語りそうな気がする。家にいて何をするの?気になっている人に手紙を書いたり、なにかできることはないのかな。 Is 59:15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。 悪を行うとは、とても、悪いことをすることのように思ってしまうが、58章の断食のように、ここでも「正義の行われていないこと」が悪だという。正しさを中心におくことに、躊躇はもちつつ、やはり、なにをわたしは、躊躇しているのかもっと深く顧みなければならないとも思う。主の御心、真理を求めるとは、深いこと、そして果てしないこと。 Is 60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。 なにか、すごいことが言われているようだ。想像もつかない。そしてこの章は「最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。」(22)で終わっている。こんなことを、想像できることに驚かされる。わたしには、とても、見ることはできない世界である。こころが清くなく、二心だからだろうか。 Is 61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 わたしは、貧しい人でも、打ち砕かれた心をもっているともいえないように思われる。捕らわれ、つながれていることは、おそらくそうだろうが。イザヤが好まれ、愛読される理由は、このような恵みのことばに関係しているのだろう。イエスにおいて、それが実現しているようにも、思われるから。ユダヤ教のひとたちにとっては、どうなのだろうか。イザヤは。むろん、トーラーのみを読む人たちもいるようだが。 Is 62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。 このあとには「諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。」(2)と続く。シオン、エルサレムを特別なものとしている。イエスの嘆きとは異なる。しかし、このような文言から、シオニズムを掲げるひとたちを責めることはできない。「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。」(11,12)とあるのだから。ただ、わたしは、それを、いまは受け入れない。イザヤも、我々の仲間、人間だとみているから。神から受け取ったものを伝えてくれると共に、すべて完全に文字通り正しいとはしない。いろいろな受け取り方があることも、否定できない。 Is 63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。 「主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。」(8,9)も深い言葉である。救いについての深い理解。しかし、同時に、主に背き、逆らう民(10)。この構図にたいして、イザヤは引用句を訴える。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」とあるが、イザヤが、民の苦難を自分の苦難として受け止めていることもあるのだろう。これが、裁きと救いの主を見、高慢な民に悔い改めを求めると共に、希望を捨てない信仰者イザヤの姿を見る。 Is 64:1 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。 目に浮かぶような秀逸な表現である。しかし、現実は、自ら(ユダヤの民)の荒廃した状態が背景にある。「わたしたちの輝き、わたしたちの聖所/先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ/わたしたちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。」(10,11)やはり、バビロン捕囚のあとの荒廃があるのだろう。「わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。」(5)と自らのことを表現している。イザヤにも、迷いがあるのかもしれない。主の御心が見えない。 Is 65:22,23 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。 当時の苦しさ、理不尽を思われていたことが浮かび上がる。おそらく、ここにあることの逆が起こっていたのだろう。報われない世界である。しかし、祝福の世界は、完全な因果応報でもないと思う。「(主を、)喜び楽しみ、喜び踊る。」(19)ことなのだろうが、正直、何が、シャローム(完全な祝福のよる平安)なのか、わたしには、よくわからない。 Is 66:1,2 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。 神とは、人とは、結局、よくわからない。説明を付けることはできるかもしれないが、創造主の顧みるのが「苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」であると言う。不思議な関係である。イザヤはどう思っていたのだろう。「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。」(22)と結びの段落にあるが、イザヤの時代には、このことを望のがやっとだったのかもしれない。 Jer 1:18,19 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は言われた これが、エレミヤの召命だろうか。脅威の前にある南ユダ王国(北イスラエル王国はすでに滅ぼされている)にあって、民の悪を糾弾する使命を与えられた、祭司ヒルキヤの子。仲間は居なかったのかと考えてしまう。民主的にことを動かすことではないのだろうが。現代ではどうなのだろうか。 2020.5.10 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エレミヤ書を読み始めました。エレミヤ書には、エレミヤの40年ぐらいの間の活動について書かれています。中東世界では、北イスラエルを滅亡に追い込んだアッシリアが衰退し、バビロニアが勢力を増し、アッシリアはエジプトとも協力して対抗しようとしたようですが、結局は滅ぼされてしまいます。これが、エレミヤの前半の20年で起こったことです。エレミヤのいる南ユダ王国には、その期間、5人の王が立ちますが、二番目と四番目の王様の統治はとても短いので、ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤの時代とも言われます(エレミヤ書1章1-3節)。そして、ゼデキヤの時に、南ユダ王国は、バビロニアに滅ぼされます。ホームページのエレミヤ書の部分から引用します。「一つの国が完全に滅びてしまうと言うのは大変なことです。エレミヤが活動したのはまさにその時、神の民、神に特別に愛されて、導かれてきた民、それが異邦人の神を知らない民に滅ぼされる。このことは、あらゆる意味で大変な事だったことは、容易に想像がつきます。民がこころから神に仕えていなかったということは、簡単ですが、曲がりなりにも神様を礼拝し、仕えてきた国が、神様を全く知らない国に滅ぼされてしまうのです。そんなことがあっても良いのだろうか、と問いたくなるのは当然です。」 エレミヤは、世界の状況を、そして、イスラエルの民の行く末を、さらに、神の計画をどのように見ていたのでしょうか。エレミヤは、この時期に、神のことばをどのように伝え、どのように生きたのでしょうか。エレミヤの言っていることはすべて正しいとして読むのもひとつでしょうが、疑問や違和感をことばにして記録することもたいせつだと思います。それが成長にもつながるのではないでしょうか。正しいかどうかだけでなく、この時期の預言者の痛み、苦しさに、共感まではできなくても思い描き、エレミヤと語り合いながら、読むことができればと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エレミヤ書2章ーエレミヤ書15章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jer 2:19 あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ/あなたの背信が、あなたを責めている。あなたが、わたしを畏れず/あなたの神である主を捨てたことが/いかに悪く、苦いことであるかを/味わい知るがよいと/万軍の主なる神は言われる。 徹底的に、罪の糾弾である。アッシリアに苦しめられ、いま、バビロンの手に落ちようとする原因は、と、まだはっきりは言わないが、それは、罪だと言う。背景にあるのは、因果応報。確かに、主との関係において、主への愛がなかったのだろう。国の滅びはそれ故なのだろうか。 Jer 3:25 我々は恥の中に横たわり/辱めに覆われています。我々は主なる神に罪を犯しました。我々も、先祖も/若いときから今日に至るまで/主なる神の御声に聞き従いませんでした。」 わたしには、アーメンと言えない。神のまったき平安が得られないのは、もっと複雑な背景があるように思われてしまう。罪の故なのか。たしかに、それも否定できない。主よ、教えてください。わたしの、生きるべき道を。あなたに向かう歩みを。 Jer 4:1,2 「立ち帰れ、イスラエルよ」と/主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」 もし、あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする。 エレミヤの叫びは聞こえるが、やはり、疑問が残る。イスラエルへの呼びかけなのか。ある、集団への呼びかけで、これが実現することは、あるのか。では、個人でよいだろうか。おそらく、それも、正しい者と、そうでないものとの間の、隔ての垣根をつくるだけで、解決にはならないだろう。おそらく、エレミヤの時代にも、悔い改めて、主のもとに来る者は何人もいただろう。それが完全な改心ではないと、責めるのか。本当に、そのために、主は、十字架に架かられたのか。わたしには、そうではないように思う。求め続けて行きたい。 Jer 5:1 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 このあと、結局、ひとりも、見いだせなかったことが書かれている。それでは、エレミヤもそうなのか。そうなのかもしれない。それでは、主が望まれるのは何なのだろうか。このエレミヤがみたものの中にはないように思う。この章の最後には「預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」 (31)とある。エレミヤには、そう見えたのだろう。一方で、エルサレムが消えてなくなることが見える中で、エレミヤの苦しみを読み取ることが大切なのだろう。エレミヤの語っていることが正確かどうかではないのだろう。読み方を考えたい。 Jer 6:16 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。 これを拒否したことが、災いの元だと述べているようだ。そうなのだろうか。たとえば、今、Covid-19 で世界中が苦しんでいるとき、それは、主に従わなかったからだと言うのだろうか。そうかもしれない。しかし、わたしは、違うようにも思う。因果応報から、主は自由である。エレミヤの時代、そして、今、主は何をなそうとしておられるのだろうか。 Jer 7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 バビロン帝国の襲来は、イスラエルの悪のゆえ、それをただすためだろうか。悔い改めれば、バビロンは、おそってこないのだろうか。バビロン帝国にとって、ユダは、それほどの脅威ではなかったろう。なにか、井の中の蛙のような感じさえ受ける。しかし、同時に、エレミヤの苦しみは、伝わってくる。エレミヤには、このようにしか表現できなかったのだろう。 Jer 8:15 平和を望んでも、幸いはなく/いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。 この章の記述の背景は不明である。しかし、主に従わないものの状態と、警告が繰り返されているようだ。しかし、引用句に続いて「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの/都とそこに住むものを食い尽くす。」(16)とあるように、北から、敵がまさに攻めてくる状況が語られている。バビロン王国自体か、バビロンに滅ぼされた国が、その先鋒を担っているのか不明であるが、世界的にみても、歴史的に見ても、風前の灯火であることは確かである。そのとき、ひとは、どう生きればよいのだろうか。主との関係を、現在の生の危機的状況とは独立に、喜ぶことだろうか。Covid-19 crisis のもとで、現在、世界の人たちは、この引用句のような気持ちを抱いているのではないだろうか。そして、おそらく、世界的な感染症の蔓延は、これからも起こるだろう。どう生きることが求められているのだろうか。なにがたいせつなのだろうか。 Jer 9:3 人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても/「押しのける者(ヤコブ)」であり/隣人はことごとく中傷して歩く。 おそらく、そうなのだろう。特に、危機においては。このあとにも「人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。」(4)と続く。ひとは、これを「知恵や力や富」(22)で、どうにか切り抜けようとする。「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(23)これが、エレミヤの伝えたいことだろう。本質的かもしれないが、不満も感じる。主は、なにを求めておられるのだろう。やはり、互いに愛し合うことではないのだろうか。裏切られることがあっても。裏切られる背景には、いろいろなことが考えられるのだから。 Jer 10:23 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。 わたしは、本当に、このことを知っているだろうか。自分で、どうにかなると、考えていないだろうか。たいへんなことが起こっても、解釈を変え、いみを転換すれば良いと。「ああ、災いだ。わたしは傷を負い/わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病/わたしはこれに耐えよう。』」(19)これと、同じなのかもしれない。 Jer 11:20 万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。 この章は「ひとりも生き残る者はない。わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ。」(23)で終わる。エレミヤは、アナトトの祭司ヒルキヤの子である。(1章1節)それを、主に委ねる。それでも、エレミヤには、主に信頼と、希望を持っていたのだろうか。よくわからない。引用句には、主は「人のはらわたと心を究め」る方だとある。はらわたは、悲しみ、苦しみ、痛さを味わうところなのだろう。それをも、究めておられる主に委ねるところに、さらに、驚かされ、重さを感じる。 Jer 12:1 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。 神義論(theodicy)にも関係しているが、ここでエレミヤは、おそらく神の義を問題にはしていないだろう。コンテクストから、裁きが近いことを目の当たりにしながら、このように言う者、または一般的な問いをまず持ち出しているのだろう。しかし、これには、個人的な思いの交錯もあったろう。「人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主」(11:20)と語る直後だから。ここでは「主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。」(3)と語っている。ひとつの答えとして「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら/どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら/ヨルダンの森林ではどうするのか。」(5)があり、そのあとに、全世界の裁き(14)と、回復が語られる。回復におけるユダの家の扱いは、ここからだけでは十分わからないが。 Jer 13:9 主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。 「このように」は、ユーフラテスに隠した帯が腐り全く役に立たなくなっていたことをさす。まず、このとき、エレミヤはどこにいたのかと考えた。エレミヤ書は、時系列で書かれていないのかもしれない。このとき、エレミヤはバビロンにいたのかもしれない。ここでは「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。」(11)に結びつけている。主の腰にしっかりと付けられたものが、まったく、その(存在意義である)用を離れて、ぼろぼろになる。それだけではなく、主との強い関係性をも、伝えているのだろう。 Jer 14:8,9 イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。 最初に「干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」(1)とあり、ユダの危機的な状況が記述されており、次に、エレミヤの主への訴えが書かれている。これに続けて、主のことばが11節から書かれている。「主の言葉」とあるが、主との対話、または、主への訴えに対して受け取った主の言葉の形式になっている。主との交わりがエレミヤの中心にあるのだろう。引用句は興味深い。主を「この地に身を寄せている人/宿を求める旅人」「人を救いえない勇士」のようになっておられると訴えている。天災も含め、危機的な状況で主に真剣に問う姿が印象的である。 Jer 15:10,11 ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも/だれの債務者になったこともないのに/だれもがわたしを呪う。主よ、わたしは敵対する者のためにも/幸いを願い/彼らに災いや苦しみの襲うとき/あなたに執り成しをしたではありませんか。 周囲には、危機的な状況がある。その中で、主の厳しい声が聞こえてくる。それを消し去ることはできない。そして、それを宣言する役目をエレミヤは担っている。様々な時代に生じることのように思う。主のことばに預かるものの苦しさとも言えるが、主との交わりに生きるひとの歩みなのかもしれない。ということは、主はそのような生き方を、ひとり一人に望んでおられるのだろうか。苦しい。しかし、どうも、わたしは、そのように苦しんではいない。真剣に主との交わりに生きていないのか。それとも、エレミヤとは異なる生き方で主に従おうとしているのか。イエス様はどうだろうか。おそらく、喜びも、悲しみも、苦しみもあり、その中で、平安ももっておられたのだろう。 2020.5.17 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エレミヤ書はいかがですか。エレミヤはイスラエルの王国時代(すでに北イスラエル王国はアッシリアによって滅亡し、南ユダ王国だけになっていましたが)の最後を見取ったとも言える預言者です。同時に、捕囚とともに、捕囚からの帰還をも予言した預言者として有名です。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 」(29章10節、参照:25章11, 12節)このことは、熱心な人たちに知られていたようで、捕囚期間中もこのことに希望をもっていた人たちがいることが、旧約聖書のこれから読む他の書物(小預言書と呼ばれます)に書かれています。主に愛され、特別な関係を持つイスラエルが大国に翻弄され、風前の灯火になっています。いままでになかったような(未曾有の)困難な中にいるとき、人はなにを考えるでしょうか。なにが、悪かったのだろうかと顧みるのは、健全なことでしょう。それが、犯人探しに至り、誰が悪い、特定のものが悪いとして、それを批判することになる場合もあるのかもしれません。単純に因果が明らかになる場合は、ほとんどなく、因果応報で働かれることが、神様の本質ではないと思いますが。犯人探しは、その候補が見つかると、思考停止に陥り、自らの行動はかえって問題を大きくする場合もあるようですが。神様との関係をまず考えたこの時代、曲がりなりにも、神様を礼拝してきた、エルサレムを中心とした宗教集団が、神様を知らない国に、滅ぼされようとしている。神様のこころをどのように受け取ったら良いのでしょうか。エレミヤは、どのようなメッセージをそのなかでうけとり、どのように考え、どのように行動したのでしょうか。エレミヤや、その時代のひとたちの状態を考え、寄り添いながら、そして、現在のさまざまな困難や、困難の中にいるひとたちのことも考えながら読み進められるとよいですね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エレミヤ書16章ーエレミヤ書29章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jer 16:9 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる。」 章の始めから、主の裁きがどのような形で起こるかが書かれている。「まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。」(18)ともある。最後には「それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。」(21)とある。国が滅び、民が離散する、そのようなエレミヤの時代に生きていないのだから、これは、違うとは言えないが、主は本当にそのような形で、交わりを回復されるのだろうか。疑問に思う。だからといって、わたしが答えを持っているわけではない。人々が「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」(19b, 20)という時は来るのだろうか。 Jer 17:24,25 主は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう。 安息日の遵守について書かれている。イエスの活動から、安息日を軽く考えてしまう傾向がある。エレミヤの時代、それが非常に乱れていたのか。それとも、わかりやすい、違反が見えやすいからだろうか。安息日にすべきこと、たいせつなことをたいせつにしたい。 Jer 18:9,10 またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」 主はほんとうにそのような方なのだろうか。エレミヤはそのように受け取ったとしか言えない。ひとは、主の目には悪とされることを行い、主の声に、全く聞き従うことは、できないのだから。様々な国の盛衰をみながら、エレミヤが受け取ったこととして受け入れれば良いのだろうか。エレミヤも、わたしも不完全なのだから。 Jer 19:15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」 結局、これが、この時点での結論だったのだろう。わたしならどうするだろうか。最後の最後まで、この民と一緒に居て、滅びることを選択するのではないだろうか。正しさは、やはりむなしく感じる。主とともに、そして、隣人とともに、生きることを望みつつ、それが自分には、完全な形ではできないことも覚えつつ。エレミヤの嘆きはともにしたい。 Jer 20:12 万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。 この章は「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。」(1,2)から始まり、偽りの預言者およびユダの人々への裁きについて語られ、引用句に至る。正義がどれほど大切であったかがわかる。しかし、わたしは、理解できないでいる。引用句は、しかし、万軍の主との交わりについて、主に委ねることについて書かれており、それは、普遍性をもつように思う。エレミヤやユダの人々の危機的な状況を置いておいて、無駄な議論は不遜なのだろう。引用句に続く「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。」(13)に声を合わせよう。 Jer 21:7 その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。 ていねいに読むと、このあとの「命の道と死の道」(8)の前に、疫病、戦争、飢饉とある。ここで、すでに、多くの人たちが死んでいったのだろう。そこには、意味はないのだろうか。そのひとり一人をも、主は愛しておられるのではないだろうか。そのひとり一人への主の愛は記録されなくても、そのことを覚えていたい。 Jer 22:8-10 多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに尋ね、「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」と聞くならば、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」と答えるであろう。死んだ王のために泣くな。彼のために嘆くな。引いて行かれる王のために泣き叫べ。彼が再び帰って/生まれ故郷を見ることはない。 南ユダ王国の滅亡の理由を、単に、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」という表現に帰することに違和感を感じるが、ここでは、ある文脈のもとで語られていることは、受け取るべきだろう。「死んだ王」「引いて行かれる王」について書かれている。18節に「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキム」とあり、その前の記述「あなたの父は、質素な生活をし/正義と恵みの業を行ったではないか。」(15)「彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。」(16)とあり、この二人が背景にあるのだろう。どのような王かは、たしかに、国の盛衰に関係する。リーダーシップも影響があるだろうが。文脈は重要である。しかし、そこだけに、原因を押しつけることには、やはり違和感を感じるが。 Jer 23:35,36 お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。 「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神で/ある我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。 7節・8節で、捕囚後の帰還の預言が語られるが、そのあとは、預言者の糾弾が続く。特に「サマリアの預言者たち」(13)について語る直後に「わたしは、エルサレムの預言者たちの間に/おぞましいことを見た。」(14)は強烈である。預言をしながら、偽りに歩み、悔い改めないということか。預言者(祭司も含めて(33))への裁きは厳しいのだろう。エレミヤも、祭司の子の、預言者であるが。 Jer 24:8 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。 5節には「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。 」とあり対をなしている。この二つを分けたものはなにか。自ら選ぶことは、できなかったろう。そして、おそらく、優秀な人材は、捕囚となったろう。そう考えると、理不尽に感じる。 Jer 25:8,9 それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。 ある状況の意味を考える。それが、将来への希望へとつながる。そうなのかもしれないが、そうでないかもしれない。この直後の、11節に「この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」これが実現することとなる。それは、様々な記述からおそらく正しいだろう。しかし、そうだからと行って、意味づけがみな正しいとは限らない。わたしには、わからない。 Jer 26:19,20 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それは、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。 たしかに「彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。」(3)とも語られている。ここでの、「この地(どの地か不明)の長老数人」(16)は勇気のある行動だったろう。しかし、このように、割れたときに、主はどうされるのか。すでに、遅いのではと考えてしまう。 Jer 27:8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼす。 このことを主のことばとして語らなければならないとは、残酷である。しかし、このような時に、先の先を見ながら、主の声に聞き従うことが求められるのか。エレミヤにとっても、わからないことが、多かったのではないだろうか。エレミヤに聞いてみたい。 Jer 28:2-4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」 ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤの言葉である。これに対して、エレミヤは「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(9)と応える。この章の最後は「預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。」(17)と結ばれている。エレミヤも捕囚の期間は、70年と預言しているので、これも、それが成就してはじめて、主が遣わされた預言者であることがわかるのだろう。しかし「平和を預言する者は」ともある。裁きを告げる場合は、成就しないこともあることが暗に含まれているのかもしれない。悔い改めがあるのだから。いずれにしても、預言者、主のことばを取り次ぐことは、たいへんな使命である。通常は、その役目を担い得ない。 Jer 29:21,22 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、わたしの名を使って、あなたたちに偽りの預言をしているコラヤの子アハブとマアセヤの子ゼデキヤに対してである。今、わたしは彼らをバビロンの王ネブカドレツァルの手に渡す。王は彼らをあなたたちの目の前で殺す。この二人のことは、呪いの言葉として使われ、バビロンにいるユダの捕囚民は皆、『主が、お前をバビロンの王に火あぶりにされたゼデキヤとアハブのようにしてくださるように』と言うようになるだろう。 バビロンに手紙を送ってまで、このように断言する。わたしには、エレミヤのことがよくわからない。エレミヤの思い、願いは何だったのだろうか。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(11)この希望だろうか。主との交わりの中で、これを確信していたのだろうか。 2020.5.24 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エレミヤ書はいかがですか。今週は、その後半と言ってもよいと思いますが、エルサレム陥落に至る中で、エレミヤが巻物として主の言葉を記録した起源、最後の王様ゼデキヤとのやりとり、エルサレム陥落後の混乱などについて書かれています。エレミヤは活動期間が約半分過ぎたころから記録したようです。むろん、その前になにも記録しなかったと言うわけではないでしょうが。わたしは、聖書ノートを現在の形で書き留めはじめたのが、1982年、聖書通読の会を始めたのが、2011年ですが、非常に未熟なものであっても(いまもほんとうに未熟ですが)書き留めることのたいせつさ、恵みを強く感じています。書くときにある程度ことばを選びますし、ことばにしてみて、これではないと思うことも、自分が記録したことばをみて、たしかにこうだと思うこともあります。以前に自分が考えていたこと、問いに再度であう事もあります。自分に合った形で、なんらかの記録をつくることも、続けるためにもたいせつなことのように思います。今回は、風前の灯火の状態の地で、土地の購入をしてその記録を残すエレミヤも印象的でしたし、最後の王様、ゼデキヤについても考えながら読みました。甥が王になり、第一次捕囚でバビロンに連れて行かれ、そのバビロニア帝国の指示で王についたゼデキヤ、優柔不断であることも確かですが、正しさで切り捨てるのではなく、その弱さの表現に愛着を覚えました。将来が予想できない未曾有の事態の中で、わたしたちは、どのように生きていったら良いのでしょうか。互いに仕え合い、互いに愛し合う、神さまのいのちに生かされるものでありたいと願っています。そんなことも考えながら。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エレミヤ書30章ーエレミヤ書43章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jr 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jer 30:3 見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」 回復は、この記述からは、エレミヤは、捕囚帰還とともに、起こると考えていたのではないだろうか。「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。」(8)ともあり、さらに「こうして、あなたたちはわたしの民となり/わたしはあなたたちの神となる。」(22)とも言っている。最後の「主の激しい怒りは/思い定められたことを成し遂げるまではやまない。終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る。」(24)とあり、これが終わりの日に起こることとして語っているようだ。だからといって、エレミヤを責める気にはならないが、おそらく、エルサレムが完全に打ち破られ、廃墟となることは、それほど、決定的であり、それゆえに、回復は、終わりの日の回復ほど、本質的なものとして確信したのだろう。 Jer 31:16,17 主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。 エレミヤは、イスラエルの滅亡のときにも、希望をしっかり持っていたのだろう。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 」(33)ひとを知り、主を知り、のぞみを託し、主からのメッセージとして受け取ったのだろう。驚かされる。 Jer 32:8 主の言葉どおり、いとこのハナムエルが獄舎にいるわたしのところに来て言った。「ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください。」わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。 ベニヤミン族の所領に属するとある。エレミヤは祭司の家系であり、族をまたいで嗣業があったのだろう。しかし、70年との関係は気になる。ヨベルの年には、返還することになるのだろうか。17も少し気になる。いずれにしても、カルデヤ人にエルサレムが包囲されている中で、エレミヤがこの行為に及んでいることが重要なのであろう。しかし、土地所有は、統治体制が変化すると、変化するとはエレミヤには思われなかったのだろう。主からの嗣業だから。 Jer 33:17,18 主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。」 エレミヤは、獄舎に拘留されている。(1)まだ、イスラエル(ユダ王国)が滅亡する以前に、その回復を預言している。他のエレミヤの預言のように70年後のことではないのかもしれない。引用句のような回復は起こっていないとみるのが、正しいだろう。そこで、これがいつか起こるとみる見方もあり、それが信仰ある者の希望だとするひとも多くいるだろう。わたしは、それよりも、この信仰者エレミヤから学ぶことのほうが多いのではないかと思う。すべてを正しいとするのではなく、エレミヤが与えられているすべてをもって、どんなときにも、希望を主に委ねて、主を信頼し続けることだろうか。 Jer 34:17 それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。 エルサレムの貴族と民が契約に従わない民であることを再確認されたことが記されている。「このとき、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町々、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町々の中で、これらの城壁を持った町だけがまだ残っていたのである。」(7)これが背景である。そのような状況で「ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。」(8)とある。危機的な状況で、まだ、契約を破ってでも、奴隷を自分のために留め置くのか。悲しくもなる。絶望的な中で、人はなにを望んでいたのだろうか。エレミヤの行動にも驚かされる。 Jer 35:18,19 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。」 一方で主のことばを守らない民がおり、他方で、先祖のことばをしっかり守る人たちがいる。それを象徴的に描くことで、無理なことを求めているわけではないことが示されているのだろう。同時に、先祖の言い伝えを頑なに守ることについて疑問も感じる。人間の戒めではないのか。文脈としては、誓ったことが背景にあるのだろう。主との契約である以上、守り続けるということか。終わりはないのだろうか。おそらく、主の言葉として、しっかりと受け止めることが、求められているのだろう。 Jer 36:1-3 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」 34章には、ユダ王国最後の王であるゼデキヤへのことばと、預言者、貴族達が主との契約を守らなかったことがかかれ、35章には、ヨシヤとゼデキヤの間のヨヤキムの時代のことが書かれ、この章につながっている。間に短い統治期間の他の王が居るが、一般的には、ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤと認識されていたのだろう。1章2,3節でも、この三人の名前がエレミヤの活動時期として記録されている。628年(ヨシヤ王の13年)から活動を開始、587年(ゼデキヤ王の11年)のイスラエルの民の捕囚までの約40年とある。ヨヤキムの第4年は606年、すでに22年ほど活動したあと、ほぼ中間地点である。イスラエルにとっても、とても貴重な時期であることもわかる。悔い改めを説くだけではいけないと考えたのかもしれない。歴史を通して働かれる主を意識したのだろうか。 Jer 37:3-5 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと祭司であるマアセヤの子ツェファンヤとを預言者エレミヤのもとに遣わして、「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」と頼んだ。エレミヤはまだ投獄されておらず、人々の間で出入りしていた。折しも、ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来た。エルサレムを包囲していたカルデア軍はこの知らせを聞いて、エルサレムから撤退した。 「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである。 」(1)とあり、カルデア軍はネブカドレツァルの軍隊である。エジプトが進撃してくると聞いて、撤退したとある。ゼデキヤが出兵を依頼したかどうかは、ここでは不明だが、判断が分かれる難しい事態でもあろう。そのなかでのゼデキヤの優柔不断さもあるが、エレミヤとの親密さも見て取れる。内部分裂もあったのだろう。おそらく故郷のベニヤミンの地に帰ろうとして捕縛、ゼデキヤに保護と依頼する。エレミヤは、何を考えていたのだろうか。 Jer 38:5 ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」 ゼデキヤの描写が興味深い。エルサレムの有力者には、逆らわない。また、ゼデキヤ王はエレミヤに次のようにも言っている。「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々である。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない。」(19)人を恐れている。しかし、エレミヤを通しての神のことばにも、一定の信頼を置いている。それが、クシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」(10)と命じたことからもうかがい知れる。ゼデキヤ王がエレミヤにひそかに誓って言ったことば、「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない。」(16)は多少滑稽に感じるが、絶望的な状態での、ゼデキヤにも同情してしまう。このような記録は興味深い。 Jer 39:6,7 リブラでバビロンの王は、ゼデキヤの目の前でその王子たちを殺した。バビロンの王はユダの貴族たちもすべて殺した。その上で、バビロンの王はゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。 「イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない。」(38章17,18節)のエレミヤのゼデキヤへの言葉と、引用箇所を比較すると、降伏せずに、逃亡したことが誤りであったとなるのであろう。しかし、それをもって、神の言葉に従わなかったゼデキヤを責めることは、わたしにはできない。主に従うことは、難しい。 Jer 40:5,6 ――エレミヤはまだ民のもとに戻っていなかった――シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤのもとに戻り、彼と共に民の間に住むがよい。彼は、バビロンの王がユダの町々の監督をゆだねた者である。さもなければ、あなたが正しいとするところへ行くがよい。」親衛隊の長はエレミヤに食料の割り当てを与えて釈放した。こうしてエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、国に残った人々と共にとどまることになった。 エレミヤはこのとき何を思い、考えていたのだろう。なすべき事はなし、伝えるべき事は伝え、警告すべきことはして、預言のとおりになる。ここでは、解放され、保護もされる。共に、バビロンに行くことも可能だったはずである。しかし、残ることを選択する。恐れもあったのだろうか。わからない。 Jer 41:5 シケム、シロ、サマリアから来た八十人の一行が、ひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿で通りかかった。彼らは、主の神殿にささげる供え物と香を携えていた。 アンモンの王の命で、ゲダルヤ暗殺に遣わされたネタンヤの子イシュマエル(40章14)ユダの残留者など、様々な勢力が残っていたことがわかるが、この記事は興味深い。北イスラエル王国滅亡後も、信仰を持って、ユダの滅亡を悲しんでいる人たちがたくさんいたといことである。この人たちもほとんど、イシュマエルに殺される。かなり、混乱した状況であったこともわかる。エレミヤはこれらの目撃者的存在でもあったのだろう。それも、一つの使命だったかもしれない。 Jer 42:5,6 すると、人々はエレミヤに言った。「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」 結局は、エレミヤの声に聞き従わないのだが、このときの心情はどのようなものなのだろうか。聞き従うつもりでいたのだろうか。不安であったことは、確かだろう。エレミヤは特別だとも考えていたろう。正直よくわからない。このあとを読んでわかるのだろうか。 Jer 43:2,3 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」 みずからの安全をもとめていたのだろうか。エジプトが滅ぼされることはないと考えていたのだろう。いくら、エレミヤを通して語られた言葉であっても、それを信じるのは、難しいだろう。時代の先を、エレミヤは見ていたのだろうか。それとも、神様から、超自然的な方法で、示されたことなのだろうか。 2020.5.31 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エレミヤ書はいかがですか。今週は、いよいよ、エレミヤ書を読み終わり、次の、哀歌へと読み、予定では来週の日曜日には哀歌を読み終わる計画になっています。エレミヤ書、みなさんはどんな印象をお持ちですか。最近、何回か書いていますが、わたしは、エレミヤさんとともに歩みたいと願いながら、読んでいます。むろん、それは、いろいろな意味で不可能ですし、エレミヤさんに対しても不遜でしょう。いくら、歴史を調べても、エレミヤさんが生きた時代に自らをおけるほどに理解することはできませんし、エレミヤさんが神さまからことばをいただいたのと同じように、神さまに、そして神さまからのことばに真摯に向き合うことは、わたしにはできないでしょう。しかし、主を仰ぎ見、主に問いかけ、共に歩むことを通して、たとえほんのわずかであっても、共通のものを見ることができるかもしれないと思うからです。 さて、哀歌は「エレミヤの哀歌」と訳されているものもあります。歴代誌には次のように書かれています。 エレミヤはヨシヤを悼んで哀歌を作った。男女のすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝えるようになり、今日に至っている。それがイスラエルの定めとなり、歌は『哀歌』に記されている。(新共同訳:歴代誌下35章 25節) 読んでみると、たしかに、エレミヤの悲しみが表れているようにも見えますが、単に、エルサレム陥落だけではなく、様々な悲しみが書かれており、ひとの悲しみが語られているようにも思われます。そして、最後までこの悲しみ・哀しみが続きます。また、アルファベット詩という美しい形式で書かれています。ホームページにも少し書いておきましたので参照してください。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エレミヤ書や哀歌を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エレミヤ書44章ー哀歌5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エレミヤ書と哀歌については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エレミヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jr 哀歌:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#lm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jer 44:27 見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。 正直、これが主のみこころなのかわたしには、わからない。エジプトに落ちのびるひとの中にも、様々な葛藤のなかで、主に従おうとするひともいるだろう。そして、ひとりもいなかったとしても、正しさによって、ひとが、神との関係を適正に持つことができるのだろうか。疑問に思う。預言したとおりに、エジプトに向かったひとたちが滅びることをエレミヤは願ってはいなかったとは思うが、エレミヤのこころの中もわからない。ひとりもいない、ひとりのこらず、これらの言葉から、エレミヤの孤独も感じる。このエレミヤとも共に祈るものでありたい。 Jer 45:1-3 ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤの口述に従ってこれらの言葉を巻物に書き記した。そのとき、エレミヤは次のように語った。「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。 あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない。』 畑買い取りの証書を受け取り(32:12,13,16)エレミヤの預言を書きとめ(36:4,5,27,32)公表し(36:8, 10,13-19)その後もエレミヤと共に行動し(43:3,6)た人物である。外典にバルク書もある。身分などは不明であるが、エレミヤのことばを真摯に受け止めていたことは確かだろう。引用箇所のバルクのことばには、こころが痛くなる。このあと、命が守られることが告げられるが、バルクはどのようにうけとったのだろうか。エレミヤだけでなく、行動をともにしたバルクにとっても、たいへんなときだったろう。「ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」(43:3)こんなことまで、言われているのだから。 Jer 46:25,26 万軍の主、イスラエルの神は言われた。「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。わたしは、命を求める者の手に彼らを渡す。すなわち、バビロンの王ネブカドレツァルとその家来たちの手に。その後、エジプトは昔のように人の住む所となる」と主は言われる。 歴史をよく調べないといけないが、記憶によると、アッシリアを助けるために遠征したファラオ・ネコ二世は、一旦は新バビロニア軍を破るが、結局はネブカデネザルに敗れる。しかし、滅びるのは、ずっとあとの、ペルシャの時代、そして、アレクサンダー大王の遠征によって完全に途絶えるようだ。このあとには「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。」(27)と、イスラエル帰還について記されている。予言の評価は難しい。エレミヤの預言としてのことば、生き方と向き合いたい。 Jer 47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。主がペリシテ人を滅ぼされる/カフトルの島の残りの者まで。 ここに現れる、ペリシテも、ティルスと、シドンも、海の民と呼ばれている、歴史的にもよくわかっていない民の都市国家から発展したもののようだ。どうなるのだろうか。滅亡の預言が続いているが、その後の歴史をみていると、やはり実際は複雑である。エレミヤが伝えたかったことは、何なのだろう。 Jer 48:26,27 主に向かって高ぶったモアブを、酔いしれたままにしておけ。モアブはへどの中に倒れて、笑いものになる。お前はイスラエルを笑いものにしたではないか。イスラエルが盗人の仲間であったとでも言うのか、お前がイスラエルのことを口にするたびに嘲ったのは。 モアブが略奪にあい、「モアブの町々は荒廃し、住む者がいなくなる」(9)ことが書かれているが、滅びについては、あまり明確ではない。実際には、ペルシャ時代に、姿を消すようだが、詳しくはわからない。裁きかどうかも明確ではないが、引用箇所とともに「自分の業と富に頼った」(7)は挙げられている。しかし、最後には「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47)とある。審判とあるが、繁栄を回復すると記されており、明確にはわからない。近隣の国々がどうなるのかは、気になることではあったろう。 Jer 49:12 主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない。 この章では、まず、アンモン(1-6)、ついで、エドム(7-22)、さらに、ダマスコ(23-27)、ケダルとハツォルの諸国(28-33)、そして、エラム(34-39)についての主の言葉である。アンモン(6)とエラム(39)については、モアブと同様に、回復が付加されている。印象に残ったのは、引用した箇所。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされる」とある。審判、裁きとは、何なのだろうか。エレミヤは、どう考えていたのだろうか。審判は、神のみこころであろうが、それが、理不尽さをさらに、生み出すのだろうか。完全ではない人間にとって、それは、仕方がないことなのだろうか。 Jer 50:3 一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り/バビロンの国を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。人も動物も皆、逃れ去る。 バビロンに対する預言をどう読めばよいのかよくわからない。盛者必衰は仏教用語で無常を表すようだが、そのような預言ではないのだろう。ただ、バビロンはメディアに滅ぼされ、国としては方向は東である。そのあとの、イスラエルとユダの記述も、よくはわからない。エレミヤの見ていた世界は、どのようなものなのだろうか。現代においても、盛者必衰的なことをいうことはできるだろうが、主が望まれることは何なのだろうかと考える。「何かのためにではなく、誰かのために働きなさい。Do not work for something but for somebody」(マザー・テレサ)のほうに、心が引かれる。「互いに仕え合い、互いに愛し合う」ことを、わたしは、求めたい。 Jer 51:60-62 エレミヤはバビロンに襲いかかるすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。 エレミヤはセラヤに言った。あなたがバビロンに到着したとき、注意してこの言葉を朗読し、そして言いなさい。「主よ、あなた御自身がこの場所について、これを断ち滅ぼし、人も獣も住まない永久の廃虚にすると語られました」と。 メディアが、11節と28節に登場する。バビロンを滅ぼすことになる国である。引用箇所からは、エレミヤの徹底ぶりに驚かされる。これが預言者なのだろうが、平安は感じられない。わたしは、どうしても、冷ややかに見てしまう。エレミヤの苦しみ、悲しみは、感じられるが。 Jer 52:31 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の十二月二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。 ヨヤキンは、エレミヤ書では、この章にしか現れない。列王記下24章・25章、および、歴代誌下36章に書かれている。「ヨヤキンは八歳で王となり、三か月と十日間エルサレムで王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行った。 」(歴代誌下36章9節)とあるが、列王記には「ヨヤキンは十八歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった。その母は名をネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。 」(列王記下24章8節)とある。8歳で王となり、主の目に悪とされることをおこなったはあまりに不自然である。これだけでは、不明だが、若くして、短い期間王となり、すぐ捕囚になる。それから、37年である。自分の人生はなんだったのだろうと思って、ずっと獄で生活していたのだろうか。記述が少ないのでわからないが、国が滅びるときには、他にも多くの理不尽な状態があっただろう。エレミヤ記は、このヨヤキンが平穏に暮らすことが書かれて、終わっている。捕囚の人数の記録もあるので、総決算のようであるが、終わり方も、不思議である。 Lam 1:20 御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い/内には死が待っています。 苦しみが伝わってくる。この苦しみに価値があるのかもしれない。むろん、面と向かっては言えないが。苦しみは、なにをもたらすのだろうか。その、苦しんでいる人と、ともに居ることに、価値があるのかもしれない。 Lam 2:5 主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し/その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし/おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。 延々と続く。「幼子は母に言う/パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて/母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。 」(13)さらに「おとめエルサレムよ/あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。おとめシオンよ/あなたを何になぞらえて慰めよう。海のように深い痛手を負ったあなたを/誰が癒せよう。」(14)と続く。嘆きが伝わってくる。これが現実なのだから。強烈である。これを、アルファベット詩に載せて歌い上げる、その深さにも驚かされる。 Lam 3:1,2 わたしは/主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。 さらに、「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。」(17)ともある。正直にいうと、2章は、エルサレム陥落の現実が目に浮かぶが、それに続けて、より一般的に苦しむ人を描写しているように見える。どのようにしてこの哀歌は書かれたのだろう。そのなかで、有名な「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。」(22,23)これを切りはなして鑑賞していたが、それは、不遜な感じすらした。まずは、嘆きをしっかり受け止めたい。 Lam 4:11 主の憤りは極まり/主は燃える怒りを注がれた。シオンに火は燃え上がり/都の礎までもなめ尽くした。 エルサレム陥落は、どのように表現しても、し尽くせない悲惨と屈辱なのだろう。ただ、最後には、「おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない。娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。お前の罪はことごとくあばかれる。」(22)ともある。悲しみは、そこでは、終わらないのだろうか。憎しみではないにしても、裁きは、公平になされることが、神の義だというのだろうか。 Lam 5:21,22 主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。 あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。 これが哀歌の最後である。解決してないところで、終わるところが余計余韻を引く。解決ではなく、待つところに、求めるところに、信仰があり、いのちがあるのではないだろうか。救いを求めるものにとっては、辛いが、それが現実なのかもしれない。 2020.6.7 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エレミヤ書、哀歌はいかがでしたか。今週は、三大予言書、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書の三つ目を読み始めます。エゼキエル書の最初を見ると、エゼキエルはケバル川の河畔にいるとあります。ケバル川はユーフラテス川から引き込んだ、バビロンの中を流れる運河だと考えられています。バビロンによってエルサレムが陥落し、ヨヤキン王とともに、多くのひとたちがバビロン捕囚になったとき(第一次捕囚 BC597)に、バビロンに引いていかれたひとたちの中に、エゼキエルもいたのでしょう。エルサレムでは、ヨヤキン王のおじのゼデキヤがバビロン王によって王に据えられています。エルサレムが完全に破壊されて、貧しい人たちを除いて、捕囚となるBC587年頃(第二次捕囚)より前から始まっています。 また、エゼキエルは祭司の子だと書かれています。ベニヤミンの地またはエルサレムに残っているエレミヤも祭司の子で同時代の人ということになります。交流は書かれていませんが、お互いに知っていたのでしょうか。個人的には、通読のときに、いつも苦労する預言書ですが、今回は、エゼキエルに寄り添いながら、エゼキエルのそばで、読みたいと思っています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エゼキエル書1章ーエゼキエル書14章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#el 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ez 1:1-3 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。 正確には調べないとわからないが、おそらく、ゼデキヤの第5年である。ヨヤキン王とともに捕囚(第一次捕囚)の中に、エゼキエルもいたのだろう。このときは、エルサレムはまだ、破壊はされていないときである。どのような生活をしていたのだろうか。エゼキエルは何を望み、なにを考えていたのだろうか。良いとれることはあるだろうか。 Ez 2:9,10 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。 エゼキエルが遣わされたのは「イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民」(3)である。このときは、エレミヤがエルサレムで活動していた時期でもある。交流はあったのだろうか。「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」になにか通じるものを感じた。エレミヤ書とは、かなり異なる文章であるが、共通のものも含むのかもしれない。ともに、祭司の家系なのだから。エゼキエルのほうが年長なのだろうか。 Ez 3:20 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに問う。 語る責任の部分である。正しい人にも語ることが求められている。正しい人には、語らなくてもよいように思ってしまう。エゼキエルの場合だけではなく、やはり語るべき事は、正しい人にも語らなければいけないのだろう。それが、共に永遠の命に生きることにつながればと願う。ここには、そこまでは書かれていないが。 Ez 4:4 左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。 イスラエルの家の罪ために390日、ユダの家の罪のために40日とある。かなりの違いがある。イスラエル陥落はBC724年、ユダは一回目がBC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年。合計で、430年。もし、BC724 から考えると、BC294年。BC586年から考えると、BC156年。いずれも、あまり意味がない年のように思われる。なにを言っているのだろうか。あまりそれに固執しない方が良いのかもしれない。それよりも、エゼキエルが受け取ったことをしっかり受け取りたい。 Ez 5:2 その三分の一は包囲の期間が終わったときに都の中で火で燃やし、ほかの三分の一は都の周りで剣で打ち、残り三分の一は風に乗せて散らしなさい。わたしは剣を抜いてその後を追う。 「お前の中で三分の一は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、三分の一は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る三分の一は、わたしがあらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う。」(12)が対応している。多くの貧しい人たちは、残ったようだが。詳細に成就したかどうかではなく、自らの髪と髭で絵空事ではなく、民に知らせることがここの核心なのだろう。エルサレムから遠く離れた地で、これを預言することは、なにを意味しているのだろうか。エゼキエルと、エレミヤはコミュニケーションできたのだろうか。 Ez 6:12,13 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣で倒れる。それを免れ、生き残る者も飢饉で死ぬ。こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす。殺された者たちが、祭壇の周りの偶像の間や、高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。 これで良いのだろうか。ここに、主のみこころがあるのだろうか。実際には、すこしずれているし、主のみこころは、違うところにあるようにも思う。ただ、偶像に仕えた事に関して、とても重く考え、是こそが滅びの原因であると主張していることはよくわかる。 Ez 7:6,7 終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。 最初に「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。」(2)と始まるので、引用箇所の「この地」は、エゼキエルのいるカルデヤの地ではなく、イスラエルの地だろう。「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。」(15a)とエゼキエルで繰り返されるフレーズがここにもあるので、エルサレム陥落を表現しているのだろう。たしかにそれはイスラエルの人々にとって「終わり」である。しかし、エルサレムにいる、エレミヤの方がかえって(回復の)希望を表現していることが印象に残る。エゼキエルにおいては、この章の最後にもある「王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」(27)回復とは異なる。地域の差だろうか。わたしが冷淡で受け取れないことが多いのか。 Ez 8:9,10 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。 忌まわしいことは偶像礼拝である。「主を神ならぬものに取り替えたこと」である。捕囚から帰ったひとたちの中では、この偶像礼拝はほとんどなかったと言われ、その後の歴史でも、そのことが守られる。抽象化すると、偶像礼拝は形式的なものではないのだろうが、少なくとも当時の人たちが自分達の歩んできた道を顧みて最大の問題だとしたのがこのことなのだろう。たしかに、預言者は繰り返しこのことを戒めて預言している。現代でも、キリスト教以外の宗教を偶像礼拝することも多い。主は何を望んでおられるのだろうか。形式的なものではないように思う。そして、正しさでもないように思う。わたしが間違っているのだろうか。 Ez 9:8 彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」 「ひとり残され」という表現が気になった。ほかにも、仲間は居たであろう。エレミヤにしても、バルクにしても。そして他にもいたと思われる。ダニエル書に記されているように。それが見えなくなってしまっていないだろうか。しかし、これは、独善というより、孤独なのだろう。バビロンにおいても、孤独だったのかもしれない。いずれにしても、厳密に調べられたら、主の前に立つことのできるものは居ないことは確かだが。そのときにも、エゼキエルは残されると考えていたのだろうか。 Ez 10:18,19 主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。 ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。 この栄光をみたことがたいせつなのかもしれない。そしてなぞの多い四つの生き物を。この解釈を云々するのではなく、エルサレムが滅びるときに、神の栄光をみたことに意味があるのかもしれない。それは、エゼキエルにとって慰めであり、興奮をもたらし、希望をもたらすものだったかもしれない。主が働いておられることを見て。 Ez 11:16,15 「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』 皮肉な宣告でもあるが、興味深い記述でもある。このあとの記述も興味深い。しかし最後は「しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。 」(21)結局正しさ、自業自得からは離れていない。神の義と恵みを一つのものとして理解するのは、本当に難しい。 Ez 12:16 しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」 「わたしが主であることを知るようになる。」このフレーズがエゼキエルでは多い。この章には16節と20節だけであるが、エゼキエル全体では45回出てくる。他には、出エジプトに4件(7:5, 17, 14:4, 18)エレミヤ書に似た表現が一カ所14章7節に「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」とあるだけである。エゼキエルが一番たいせつにしていた、言葉なのではないだろうか。いつかこのことばを追ってみたい。エゼキエルには、偶像礼拝も出てくるが「わたしが主」であることがわからないことの表現なのかもしれない。 Ez 13:10-12 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。 「自分の心のままに預言する者たち」(1)「何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たち」(2)に対して語られている。どちらが正しいかということに至るが、引用箇所は「反証可能性」的なことを述べているとも言える。将来が見通せない未曾有の事態。あることばが漆喰の上塗りかどうかは、本人にもある程度わかるのかもしれない。主の声に聞き従うことの難しさを軽減するものではないが。 Ez 14:9,10 もし、預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす。 彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。 不思議である。「主なるわたし自身がその預言者を惑わした」とある。「ある時点から」という条件があるのかもしれない。しかし、やはり不可解でもある。それは、このようにして、浄化されることは、ないと思うからである。清い心で主のことばを求めることは、どのように実現するのだろうか。わたしは、イエスの生き方にならって歩む以外には、ヒントを持っていない。 2020.6.14 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エゼキエル書はいかがですか。イスラエルは、出エジプト後、さまざまな時を経て、ダビデ以降、約束の地パレスチナにおいては、盟主のような地位を占めていましたが、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされ、バビロンの前に南ユダ王国も風前の灯火になっています。そのような状況で、エゼキエルは何を預言するのでしょうか。エゼキエルの批判のなかで多いなと感じるのは「偶像」です。新共同訳ではエゼキエル書全体で43回登場します。こころに残ったのは、下にも書いてありますが、20章39節にある「自分の偶像」という言葉です。 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。 「自分の偶像」に仕えないとわからないということでしょうか。もうひとつは「わたしが主なる神であることを知るようになる。」ということばです。それほど多くはありませんが、何回も登場します。エゼキエルが伝えたかったこと、エゼキエルを通して、神様が伝えたかったことは、何なのでしょうか。みなさんには、どのような言葉が印象に残りますか。書き留めておくことをお薦めします。読み進めるときの鍵となるかもしれませんし、また次回読むときには、新しい発見につながるかもしれません。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エゼキエル書15章ーエゼキエル書28章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#el 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ez 15:2 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。 イスラエルがぶどうの木にたとえられている。しかし、ここでは「それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。 」(4)と、焦げてしまった木にするということまで述べている。役に立たないもの。それが自分達でよくわかっていなかったということだろうか。エゼキエルのテーマは「わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(7)と表現されている。自分達が主の栄光を表すという傲慢を打ち砕き、主が主であることを知ることに集中させるというのだろうか。 Ez 16:45,46 お前は、自分の夫と息子たちを捨てた母の娘であり、自分の夫と息子たちを捨てた姉妹たちの一人である。お前の母はヘト人、父はアモリ人である。お前の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。 3節にも「あなたは言わねばならない。主なる神は、エルサレムに対してこう言われる。お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト人である。」とあるがこれは、かなりの侮辱だったろう。イスラエルは、そしてエルサレムはこれらの隣人を見下していたから。さらにここでは「お前の姉はサマリア」「お前の妹はソドムとその娘たち」と言っている。耐えがたいことであったろう。それほどに、ひとは、自分の存在自身が高貴なもの、すくなくとも、それほどひどくないものだと信じているのだろう。それは、ここで述べられている姦淫の罪もあるが、現代での、宗教や人種による差別、または社会的に線を引くことによって、分け隔てする背後にあるおぞましさと通じることであろう。クリスチャンと、ノンクリスチャンの間に線をひくことも含めて。恵みとしての救いを受け入れることは、大きな挑戦である。 Ez 17:14,15 それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。しかし、彼は王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとした。果たして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか。 エゼキエルはバビロンにいて、エルサレムの政策について意見を述べている。エホヤキンがとらえられてバビロンに捕囚となり、ゼデキヤが王に任命され、そのゼデキヤがエジプトに助けを求めたことが背景にある。イスラエルとエジプトは長い交流の歴史もあり、ある程度エジプトについて親近感を感じていても、アッシリア、バビロンについては、あまり情報を持っていなかったのかもしれない。世界は変わりつつある。バビロンからのほうが世界を見やすかったのかもしれない。捕囚の民が多くバビロンにいるにもかかわらずそのバビロンを裏切るのには驚かされるが、混乱は十分理解できる。ましてやそれが主から出たこととどのようにしてわかるのだろうか。 Ez 18:30-32 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 エゼキエルはエルサレムの陥落と破壊を前に国について語っている。しかし「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。」(4)と父の罪によって、子が死ぬことはないという、個人の罪、さばきに焦点を移しているようだ。それは、バビロンに移され、国もなく生活する中で行き着いたのだろうか。このあとどのように変化するかわからないが、転換点であるのかもしれない。神殿のある国から移されることで、自由にされているのかもしれない。それは、あまりに新約的解釈だろうか。 Ez 19:12-14 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。今や、その木は/荒れ野に、乾いた水なき地に/移し植えられた。また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。 いろいろな要素が表現されている。一番印象に残ったのは、「この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。」という表現である。ダビデ王朝の終焉。これからは、違った形になることが、はっきりと述べられているように思う。実際、イスラエル王国は、すでに、このような威容は最初からなかったが、単なる王国という形式以上のものが終わったことをエゼキエルは見ているようだ。それを悲しみながら。 Ez 20:39 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。 16節には「それは、彼らがわたしの裁きを退け、わたしの掟に従って歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。」(8章12節、23章37節参照)と「自分たちの偶像」ということばが出てくる。「このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。 」(列王記下14章41節)ともある。エゼキエルはつねに、偶像礼拝を糾弾している。しかし、究極は、この「自分(たち)の偶像」なのかもしれない。これは、イスラエルの長老たちに語っている(1,2)。真摯に受け止めるものは、異教の神々に跪かなかったものも、理解できたかもしれない。ただ、「わたし(主)が主であることを知るようになる」(44)以降のことは、エゼキエルは十分には語っていないように思われる。つまり、いのちに生きること、主を主としていきることについては。 Ez 21:5 そのとき、わたしは言った。「ああ、主なる神よ、彼らはわたしについて、『彼はことわざを語る者にすぎないではないか』と言っています」と。 正確にはわからないが、神からのことばではなく、一般的なことを言っているに過ぎないと非難されていたのかもしれない。もう一箇所気になったのは「イスラエルの地に向かって言いなさい。主はこう言われる。わたしはお前に立ち向かい、わたしの剣の鞘をはらい、お前たちの中の正しい者も悪い者も切り捨てる。」(8)である。こちらは、一般論としては、乱暴である。しかし、このあとを読んでみると「人の子よ、あなたはバビロンの王の剣が来るために、二つの道を用意せよ。」(24)とあり、最終的なエルサレム攻撃のことを語っているように思われる。エゼキエルにしても、主がなされる未曾有のことにとまどいながら語っているのだろう。正確さはむろんたいせつであるが、この背後に驚きや、とまどい、そしてこれは主のみこころではないのかもしれないという不安もあるのかもしれない。それが引用句を記した背景かとも思ったが、すこし穿ち過ぎか。 Ez 22:7,8 父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている。お前はわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。 イスラエルを滅ぼす前に悪をあげる箇所である。このあともずっと続くが、この箇所が目に止まった。最初に父母、そして他国人、さらに、孤児や寡婦がつづく。これらの人々をたいせつにすることが神を恐れることの象徴なのだろう。まさに、それらが、聖なるものに結びついているのかもしれない。30節の「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」の直前にも「国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。 」(29)とある。弱いもの、貧しいもの(霊的な部分を含むのだろう)乏しいもの、寄留の外国人、その生活に目をむけることから始めたい。 Ez 23:11,12 妹オホリバはこれを見たが、彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫行は姉よりもひどかった。 彼女はアッシリアの人々に欲情を抱いた。彼らは知事、長官、戦士、盛装した者、馬に乗る騎兵たちで、皆、好ましい男たちであった。 有名な、オホラ(サマリア)とオホリバ(エルサレム)の記述である。いままでは、あまり疑問に思わなかったが、今回の通読では、ここまでひどかったのだろうかと思う。妹オホリバについても、アッシリアとなっていることは、象徴的にしたのだろうが、この記述には納得がいかないひともいたのではないだろうか。世界の状況からしても、ほんとうに難しいときだったと思う。むろん、誠実に信仰を守り通さなかったことはあるだろうが。ここに原因をもっていく信仰に疑問も感じる。主のみこころが知らされるひとつのステップだったのかもしれないが。 Ez 24:18 朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」(16,17)と直前にあり、このように行ったのだろう。預言者はこのことをもって主のみこころを示している。それだけ、厳しい仕事だとわきまえていたのだろう。そして、イスラエル、エルサレムの状況の厳しさも。それを、非難することは、できないだろう。主のみこころは見えないが。 Ez 25:14 わたしは、わが民イスラエルによってエドムに復讐する。彼らは、わたしの怒りと憤りのままにエドムに対して行う。そのとき、彼らはわたしの復讐を知るようになる」と主なる神は言われる。 この章はアンモン、モアブ、エドムそしてペリシテについて書かれている。それぞれに起こることは異なる。「アンモン:それゆえ、わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を国々の略奪にゆだね、諸国民の中から断ち、諸国から一掃して滅ぼし尽くす。」(7)「モアブ:わたしは、アンモン人と共にモアブを東の人々に渡して所有させる。アンモン人が諸国民の間で思い起こされることはない。」(10)「エドム:わたしはエドムに向かって手を伸ばし、その中から人と獣を断って荒れ地とする。彼らはテマンからデダンにいたるまで剣で倒れる。 」(13b)「ペリシテ:わたしは手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を断ち、海辺に残っている者を一掃する。」(17)最後は引用したエドム以外は、すべて「わたしが主であることを知るようになる。」(7b,11b,17b)エドムは特別だったのかもしれない。兄弟部族、隣人との関係は難しい。 Ez 26:16 海の支配者たちは、皆その座から降り、礼服を取り去り、美しく織った衣服を脱ぐ。彼らは恐怖を身にまとい、地に座り、絶え間なく震えながらお前を見て驚きあきれる。 ティルスに対する言葉である。ティルスについては、この章では「わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。」(21)と締めくくるが、このあとも、28章まで続く。分量からしても、特別な存在だったのだろう。引用にあるように「海の支配者たち」である。歴史的には、不明なことも多いようだが。ティルスについてていねいに学んでみたい。 Ez 27:35,36 海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き/王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。諸国の民の商人は/口笛を吹いて、お前を嘲る。お前は人々に恐怖を引き起こし/とこしえに消えうせる。」 ティルスについての預言の続きである。この章を読むと、ティルスが貿易の拠点としていかに繁栄していたかがわかる。25節には「タルシシュの船」タルシシュは「ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニム。」(創世記10章4節)と最初に現れ、「海には、(ソロモン)王のタルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった。三年に一度、タルシシュの船団は、金や銀、象牙、ひひや猿を運んで来た。」(列王記上10章22節)「ヨシャファトは金を求めてオフィルに行こうとして、タルシシュの船を数隻造った。しかしながら、船団はエツヨン・ゲベルで難破したため、行くことができなかった。 」(列王記上22章49節)イザヤ書23章にはやはりティルスについてとともに、タルシシュについて書かれ「島々は私を待ち望み/タルシシュの船を先頭に/あなたの子らを彼らの銀と金と共に/遠くから運んで来る。/あなたの神、主の名のために/イスラエルの聖なる方/あなたに栄光を現したその方のために。 」(イザヤ60章9節、参照:同20節)と現れる。イザヤの記述との比較も興味深い。通常の国とは異なり、とくべつな存在だったのだろう。 Ez 28:5,6 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。 ティルスや、海の民については不明なことが多いようなので、乱暴なことは、言えない。しかし、現代の Money Game のことを思い起こさせる。どんなに、ひとが苦しんでいる状況でも、互いに協力して株価をつり上げたり、「取引に知恵を大いに働かせて富を増し加え」ている。アダム・スミスもまだ学んでいないが、わたしには、自由市場経済に、神の見えざる御手がはたらいているとして、とらえることはできない。このような知恵をどう考えたらよいのだろうか。エゼキエルは「わたしは、町の中に疫病を送り/また、通りに血を流れさせる。剣が周囲から迫るとき/殺された者がその中に倒れる。そのとき彼らは/わたしが主であることを知るようになる。イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(23,24)という。これは直接的には、シドンについての預言であるが、すくなくとも、わたしには、わからないとしか言えない。 2020.6.21 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エゼキエル書はいかがですか。エゼキエル書は、48章までですから、今週は殆ど最後の部分を読みます。エゼキエル書の 初回 BRC 2019 no.77 でわたしは「個人的には、通読のときに、いつも苦労する預言書ですが、今回は、エゼキエルに寄り添いながら、エゼキエルのそばで、読みたいと思っています。」と書きました。通読のときに、苦手な箇所です。みなさんは、どうですか。 エゼキエル書からは、先祖や親の罪を背負って生きるわけではないと語られるエゼキエル書18章や、今週読む箇所ですが、復活に関連して「骨に向かって預言する」37章などが、よく引用されるように思いますが、馴染みの多い箇所が少ないことも苦手であることに原因しているかもしれません。また、視点がイスラエルという国の衰退と回復に注がれていること、エゼキエルが祭司の家の出であることも手伝って、新しい神殿の詳細な記述が最後の部分に続くことも、距離を感じる理由かもしれません。2600年も前の時代を生きた人とつながるのは難しいのかもしれません。しかし、国が滅び、民が離散し、神様との関係が崩れるようにさえ見える未曾有の時代に、苦しみの中で、神様の御心を求め、回復の希望を失わない、エゼキエルから学ぶことができれるとよいですね。自分とは遠い存在で理解できないとして切り捨てることはしたくないものです、神様の前に共に生かされているものとして。Contribution として送らせていただいている他のかたからのメッセージや、下に掲載している「聖書通読ノート」やホームページにある「過去の聖書通読ノート」も参考になるかもしれません。一緒に読んでいるひとを通してつながることができますから。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エゼキエル書29章ーエゼキエル書42章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#el 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ez 29:18 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。 歴史的な事実を具体的には知らないが、海の民が帝国の中で、特別な存在だったことは、確かなようだ。ティルスに費やした労苦を、エジプトをとることで報いるとあるが、歴史は複雑である。予測に目を向けるのは、おそらく適切ではないのだろう。このような預言のなかに「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(21)が伝えたいことなのかもしれない。しかしそれも、なにかあまりにイスラエルに固執するように感じてしまう。 Ez 30:7,8 荒れ果てた国々の中でも、エジプトの荒廃は甚だしく、荒れ廃れた町々の中でも、その町々は甚だしい廃虚となる。わたしがエジプトに火を放って、これを助ける者がすべて滅ぼされるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。 エジプトは、バビロンに敗れるが、完全には滅びなかった様である。バビロンも、海の民との戦い、エジプトとの戦いで、疲弊していくようである。ただ、エゼキエルにとっては、そのあとのペルシャ帝国の隆盛や、アレキサンダー大王の帝国までは、わからなかったのかもしれない。そのことは、個人的には、かえって安心する。 Ez 31:2,3 「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。お前の偉大さは誰と比べられよう。見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり/丈は高く、梢は雲間にとどいた。 美しい言葉が続き「わたしが、多くの枝で美しく飾ったので/神の園エデンのすべての木もうらやんだ。」(9)とも書かれている。主語は「わたし」である。最後には「お前は、エデンの木のなかで、栄光と偉大さを誰と比べられたか。しかし、お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である』と主なる神は言われる。」(18)エデンの木々はなにを意味しているのだろうか。エジプトの中の預言も聞いてみたい。レバノンの杉はエジプトでも特別だったのだろうか。いずれにしても、エジプトはイスラエルにとって、つねに特別な存在だったのだろう。そのエジプトへの預言である。 Ez 32:29,30 そこには、エドムがその王たちと/すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが/剣で殺された者と共に置かれ/割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。そこには、北のすべての君主たち/シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが/辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と/共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。 エジプトへの預言の、この箇所には「割礼のない者」が二回出てくる。エジプト人は、割礼を受けていたのだろうか。割礼の習慣のある人たちは、それなりにいたのだろう。その部族についても、調べてみたい。ケニアでも、今は違法とされているが、女性のFGMだけでなく、割礼も存在した。どのくらいの範囲に習慣としてあったのだろうか。それを受けていない民を軽蔑することは、一般的だったのだろうか。 Ez 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。 ここから見張りが吹き鳴らす角笛による警告についての記述が始まる。最初は、引用句のように、国であるが、個人に向かっていく。結局は、個人の問題になることを、エゼキエルは明確にしているのだろう。しかし、同時に、イスラエルに語ることも続く。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(11)エゼキエル特有の「帰れ」メッセージにのせて。しかし、疑問も残る。ほんとうにこれで神との平和は来るのだろうか。 Ez 34:23,24 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。 また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。 このあとにも続く、エゼキエルが見た、回復だろう。そのような回復はいつ来るのだろうか。個人的には、主の計画はすこし違うように思う。それは具体的には語れないが。 Ez 35:10,11 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。 悪を見張っていて、復讐をされる神なのだろうか。ここはセイル、おそらくエドムに対する事であろうが、世界的には、弱小民族はすべて滅ぼされる可能性のある時代である。アッシリアや、バビロンを恐れ、海の民のように他に生きる場所を持たない、遊牧が中心の民の苦しみは、ある程度想像もつく。義は神のたいせつな属性だったのだろう。それが人の義とどう関わるかは別として。正直わたしには、わからない。 Ez 36:25-27 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 これが、エゼキエルが行き着いた答えだろう。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 」(18章30b-32節)と呼応している。ひとは、主体的にはこれに応えることができないのだろう。主が清め、罪による交わりの喪失から回復し、新しい心と新しい霊を主が与え、頑ななこころを取り除く。しかし、それならなぜ最初からそうしなかったのかと問いたくなる。そして、これは、イエスのメッセージと同じなのだろうか。同じと説くひともいるが、わたしには、少なくともイエスのメッセージだとは思えない。難しい。 Ez 37:11,12 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 骨が生き返る預言は、よみがえりを意味しているのかと思っていたが、もしかすると、このときに絶望しているイスラエルの民に希望を持つべきことを教えているのかもしれないと思った。死ですべてが終わるものではない、主にとって不可能なことはない。これを、エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」(3)と告白している。この章の最後には回復の預言が続くが、それも、主に希望をおくことを伝えているのかもしれない。エゼキエルの信仰であり、主からのメッセージの本質なのではないだろうか。それがどのように実現されるかに目を向けてしまうが。 Ez 38:2,3 「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。 マゴグ、ゴグはときどき見るが、よく知らなかったのでまずは聖書の中で調べてみる。まず「マゴグ」は、ノアの洪水以後の民族表にある「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスであった。」(創世記10章2節、参照:歴代誌上1章5節)そして次の章の「わたしは、火をマゴグと海岸地方に安らかに住む者たちに送る。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル39章6節)「ゴグ」は「ヨエルの子孫は、息子がシェマヤ、孫がゴグ、更にシムイ、」(歴代誌上5章2節)そしてこの38章と次の39章に多数。「お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。」(16)参照として「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 」(黙示録20章8節)「メシェクとトバル」も調べてみたが、明確にはわからない。多少の伝説もあるようだが、イスラエルを滅ぼし、主が立ち向かう存在で、象徴的なものなのかもしれない。しかし、創世記などにもあるところを見ると、旧約時代には、ある程度認識されていた特定の土地や民族が関係していたのかもしれない。 Ez 39:1,2 人の子よ、あなたはゴグに向かい預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ。わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前を立ち帰らせ、お前を導いて北の果てから連れ上り、イスラエルの山々に来させる。 このあと「イスラエルの山で倒れる」と書かれている。ゴグなどは、不明であるが、諸国の裁きのために使われたということだろうか。「わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。」(7)とあり、この章の最後には、イスラエルの回復が語られている。「二度と」とあることは、イスラエルの敗北と捕囚に至る経過で主の名が汚されたということが背景にあると思われる。エゼキエルを批判するつもりはないが、記述は近視眼的であるように思われる。文字通り解釈すると、さらに混乱を来す。ひとごとにしか書けないが、それほど大きな事件、まさに未曾有のことが起こっているのだろう。 Ez 40:46 北の方へ向いている部屋は、祭壇の務めを行う祭司のためである。」彼らはツァドクの子らであり、彼らだけが、レビ人の中で、主に近づいて仕えることが許される。 「我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。」(1)ここから最後の部分に入る。神殿についてである。終末を預言しているのだろうが、祭司の家系である、エゼキエルは、ここにツァドクの子らという名称も使っている。回復とさらなる栄光なのだろう。捕囚になって25年、エゼキエルの頭にあること、そして希望は、つねにこのことだったのかもしれない。 Ez 41:6,7 脇間の上には脇間があって、三階建になっていた。各階に三十の脇間があった。神殿の壁には、周囲に突き出た所があって、脇間の支えになっていた。神殿の壁には、支えが差し込まれていないからである。回廊となっている神殿の脇間は上にいくほど広くなっており、神殿は各階ごとに回廊がついている。しかも、階が上がるごとに広くなっている。地階から最上階へは中間の階を経て上っていく。 詳細な神殿の記述がある。おそらく、これは、ソロモンの神殿とも、捕囚期間後建設された第2神殿とも異なる構造なのだろう。引用箇所の記述は構造上は困難であるように思われる。なにかを象徴しているのだろう。しかし、全体的な大きさはとてつもなく大きいといえない。終末のことなのか、近い将来の実現を考えていたかも不明である。おそらく、この神殿の詳細な研究もあるのだろうが、なかなか興味がわかない。祭司の家系のエゼキエルは、非常にたいせつなこととして伝えているのだろうが。 Ez 42:13 彼はわたしに言った。「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である。この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである。 「残りの分はアロンとその子らが食べる。それを酵母を入れないパンにし、しかも聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べねばならない。」(レビ記6章9節)「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる。これは聖域で食べねばならない。これは神聖なものである。」(レビ記7章6節)「それを聖域で食べよ。これは主に燃やしてささげたものの残りで、あなたとあなたの子らに与えられた分である。わたしはそう命じられている。」(レビ記10章13節)「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。燃やして主にささげる物のうちで、これは彼のものである。これは不変の定めである。」(レビ記24章9節)最初の部分の引用箇所のみ上げてみたが、祭司の務めについては「不変の定め」を踏襲していると思われる。「献げ物」を「最も神聖なもの」と記述している。「最も」がつくのはエゼキエルのみである。エゼキエルの思いがこもっているのだろう。すでに神のものだという意識が強かったのかもしれない。現代なら、捧げたひと一人ひとりのいのちとこころが詰まっているからと表現するかもしれない。「最も神聖なもの」はなにだとわたしは考えるだろうか。 2020.6.28 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html 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BRC の皆様へ (BCCで送っています。) エゼキエル書はいかがでか。今週は、その最後の部分を読み、次のダニエル書へと読み進めます。捕囚の地にあり、エルサレムは破壊され、国は滅ぼされていく中で、エゼキエルはイスラエルの回復をどのように伝えているのでしょうか。みなさんは、理想の社会をどのようなものだと思われますか。神様が直接治められる社会ですか。神様との関係、人々の生活の中心にあるものは、何なのでしょうか。祭司の子のエゼキエルは、なにを伝えているでしょうか。主の言葉として。 エゼキエル書のあと旧約聖書は、比較的短い13の書で終わります。あと少しです。今週はダニエル書に入りますが、この書はちょっと異彩を放っています。中身は読んでのお楽しみとして、ヘブル語聖書では、詩編、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記、ダニエル書、エズラ・ネヘミヤ記、歴代誌からなる「諸書」に分類されています。預言書には分類されていません。ちなみに、ダニエル書以外の残り12書は、十二小預言書と呼ばれています。分類はそれほど重要ではないかもしれませんが、どのようなものとして読まれているかを知っておくことも、良いかもしれません。ヘブル語聖書では、順序も異なっているのです。むろん、昔は巻物だったわけですが。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 エゼキエル書43章ーダニエル書8章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 エゼキエル書とダニエル書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 エゼキエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#el ダニエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#dn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Ez 43:7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。 語っているのは誰だか不明である。しかし、わたしの王座としているので、主ご自身と考えるのが自然かもしれない。新共同訳では「人の子」は94回使われすべて「人の子よ」という呼びかけの言葉として現れる。神が語られ、エゼキエルは自分が「人の子」であることを明確にしているのだろう。しかし、イエスがご自分に使われるのとは大分意味合いも、使われ方も異なると実感した。 Ez 44:23,24 彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。争いのあるときは、彼らが裁く者として臨み、わたしの裁きによって裁かねばならない。彼らは、わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない。 エゼキエルは祭司の子である。自らがどう生きるか、終末をそして捕囚の地で、それをこの幻のなかでも語っているのかもしれない。主に与えられたことを忠実になすということだろうか。祭儀に関することは、実行不可能だったろうから、そのあるべき姿を終末の姿として描き、日常的な祭司の務めは、捕囚の地において覚え、可能な限りしていたのだろうか。自らの責務として主との関係を証する辛さも感じるが、もしそうであるとすると、共感できることも多い。 Ez 45:1 「あなたたちが、国を嗣業として割り当てるときは、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない。その土地は、長さ二万五千アンマ、幅二万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものとなる。 12km x 10km ぐらいだろうか。まあまあの大きさである。周囲には、祭司用の放牧地、君主のこと、計量を正確にすべきことや、捧げもの、祭りの規定などが続く。これが再生・復興を意味していたのだろう。もとに戻すことではないようだ。「これは、君主がイスラエルにおいて所有する土地である。わたしが立てた君主たちは、もはやわが民を虐げない。彼らはその他の土地をイスラエルの家とその部族にゆだねる。」(8)とあるが、それは、現実にはかなわない。エゼキエルはどう考えていたのだろうか。神殿の記述と比較して、概要だけが書かれているように感じる。 Ez 46:17 君主が家臣のだれかに嗣業の一部を贈与すれば、それは解放の年まで彼のものとなる。しかしその後、君主に返さねばならない。君主の嗣業を所有できるのは、その子らだけである。 「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25章10節)は、問題のあるケースはあったろうが、慣習として根付いていたのかもしれない。自然に書かれている。祭司がなすべきことがこのあと書かれているが、おそらく、律法に記され、適切であればなされているべきことと考えられたことが書かれているのだろう。わたしは、どのような世界を思い描くだろうか。主が望んでおられること、計画しておられることはどうなのだろうか。今のときを丁寧に生きることがわたしには、中心に思える。回復のときのことは、主に委ねたい。 Ez 47:21-23 あなたたちは、この土地を自分たちイスラエルの各部族に分けねばならない。この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われる。 エゼキエルの見た幻の限界とともに、それが開かれている両方がみえるところのように思う。出エジプトのころとは違う状況を、理解している。外国人、寄留者とどのようにしたらともに生きていくことができるかが語られている。クリスチャンになったひととか、ユダヤ教に改宗したひとという条件もない。ただ、土地という物理的なものについては、イスラエル王国の場所が強く意識されている。そのため、そこに住まない人については、言及できない。批判的にではなく、すこしずつ主とともに歩むことの意味が深化していることから学びたい。 Ez 48:35 都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。 ここでエゼキエル書は終わっている。不自然である。もっと書きたかったことがあったのではないだろうか。エゼキエルが置かれている状況が変わったのだろうか。そのことに、なにも言及されていない。そうでなかったとするならば、主のことばが途切れたのかもしれない。確信をもって書いていたなかで、他のことを示されたのかもしれない。それが書かれていないことが余韻を与える。エゼキエル書、今回は、適切かどうかは不明であるが、しっかり向き合って読めたとは思う。もしかするとはじめてかもしれないが、それも、高慢かもしれない。また、少しずつ読んでいければ嬉しい。 Dan 1:1,2 ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。 正確にはわからないが、列王記下24章の記述をみると、ヨヤキムは最初にネブカドネツァルに貢ぐが、反逆し攻められる。捕囚となるのは、次のヨヤキンのとき(在位は3ヶ月程度)とあるが、ヨヤキムのときにも、一部捕囚になったのかもしれない。いずれにしても、ダニエルたちは、王宮に仕えていたまたはそのような官吏のこどもだったのかもしれない。エゼキエルと同時期または、それより先にバビロンに行ったのだろう。エゼキエル書にも「かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブ」と二回(14章14節、20節)さらに「お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。 」(28章3節)とあり、当時の直近の偉人・信仰の巨人だったのだろう。興味深いのは、ここにヨブが現れていることである。それも、ダニエルよりあとに。時代的にあとではないにしても、気になる。 Dan 2:1 ネブカドネツァル王が即位して二年目のことであった。王は何度か夢を見て不安になり、眠れなくなった。 即位して二年目とある。このときにすでに、ダニエルたちは、王の近くにいる。1章の記述にもあるように、属国の扱いであったユダから留学させたのが、この人達だったということだろう。エルサレムでも十分名声を得ていたのかもしれない。たいせつにもされていたのかもしれない。ついつい、歴史的預言の行末を考えてしまうが、もうすこし、ちがった読み方を丁寧にできるようになりたい。 Dan 3:28 ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。 記述が正確かどうかは不明だが、この節に表現されていることは、証されたのかもしれない。バビロンでどのように扱われていたかは不明だが、「バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」(12)とあり、ある責任ある仕事をまかせられたいたことが証言されている。どのような社会組織かは不明だが、興味を覚える。そのなかで、十分な力を発揮し、信仰を守り抜いた人たちがいたのだろう。 Dan 4:22-24 あなたは人間の社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、こうして七つの時を過ごすでしょう。そうして、あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るでしょう。その木の切り株と根を残すように命じられているので、天こそまことの支配者であると悟れば、王国はあなたに返されます。王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう。」 「天こそまことの支配者であると悟る」ことと「罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みを与える」ことが言われている。貧しい人に恵みを与えること、為政者にまさにいま求められていることでもある。かなり普遍性が高い表現になっていることに興味を持つ。 Dan 5:22-25 さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。 背景には偶像礼拝があるが、聖書は基本的に、神との契約のもとにあるイスラエルの民の偶像礼拝を忌避し糾弾するが、他国・多民族については、殆ど批判しない。捕囚で周囲がすべて他の神々を礼拝する民の中に置かれると、イスラエルを強く意識することになることは確かだろう。ここでもダニエルの批判は、偶像礼拝に言及しつつも、メッセージの中心はより普遍的な、傲慢に向けられているようである。引用箇所の前にある、ベルシャツァルの父のネブカドネツァルが王位を追われそこでへりくだったことが記述されている。冷静に読んでいきたい。 Dan 6:27,28 わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。」 この章は他宗教の国における信教の自由の問題から始まっている。しかし、ダニエル書の記述は、主なる神の賛美を記している。普遍性もある信教の自由と、主なる神の認識、様々な民が混在する中で、少しずつ人々の認識が変化していくのかもしれない。それを喜ばない宗教人は、過去にも、現在も多いのだろうが。 Dan 7:1,2 バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。 ダニエルは多くの夢を見たのだろう。しかし、大切なものとして、これを記している。もしかすると、より明確だったかもしれない。歴史的にも、このあとの「四頭の大きな獣」(3)は、実際対応するものがあるように思う。しかしそれはあくまでも、中東が中心の歴史でもある。また重要と思われる「人の子」(13,14)の預言(10章16節参照)はイエスというより終末におけるイエスを思わせる。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ24章30節)、「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。』」(マタイ26章64節)参照:マルコ13章26節・ルカ21章27節・黙示録1章7節。これは、時を超えたことの預言なのかもしれない。 Dan 8:23,24 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして/高慢で狡猾な一人の王が起こる。自力によらずに強大になり/驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい/力ある者、聖なる民を滅ぼす。 やはりローマによる支配までを描いているようだ。エゼキエル書にあるダニエルの記述からも、ダニエルが語ったとして記録したものがあったろうとも思う。真実はわからないが、限定的な歴史であることと、ある時点でこれが聖書の一部とされたことは、たいせつなのだろう。「この夜と朝の幻について/わたしの言うことは真実だ。しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い。」(26)は意味深である。7章からは、異なる記述であることは、確かだろう。ダニエル書は誰が書いたのだろうか。 2020.7.5 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) ダニエル書はいかがでか。今週は、その最後の部分を読み、次のホセア書へと読み進めます。すでに読み始めておられるかもしれませんが、ダニエル書は、7章からがらっと内容も書き方も変わっています。ダニエルの時代よりは後の時代に起こること、特に中東地域の国の盛衰の預言が書かれていることに加え「わたしダニエル」ということばが急に増えることも特徴です。それをどう受け取るかについてはいろいろとあるように思います。世の終わりに至る、そして救い主の出現に関する預言と取ることもできるでしょう。しかし、それとは異なる読み方もあるかもしれません。前回書きましたように、ダニエル書は、ヘブル語聖書では、諸書に含まれています。ダニエル書記者や書かれた背景はどのようなものなのでしょうか。興味深い書です。 ホセア書からは、十二小預言書といわれる旧約聖書最後の部分が始まります。それぞれあまり長くはありません。正確にはわかりませんが、おそらくゼファニヤ書までの九書が、捕囚前、ハガイ書からの三書は捕囚または捕囚帰還後です。その最初がホセア書です。活動の地も北イスラエル王国の場合と南ユダ王国の場合とがありますが、どの時代かは多くの場合最初に当時の王の名前が書かれてありますので、少なくとも、北イスラエル王国が滅ぼされる前か後かなどは、少し意識して読めるとよいかと思います。ネットを見ると学術的なものキリスト教関係と様々な情報がありますが、通読のとき王様がどの時代かを簡単に見るのは、wikipedia でもよいですが、以前にも紹介しました東京基督教大学の卒業生のサイトの「聖書通読のたすけ」(http://biblestyle.com/help.html)にある聖書人物略図がよいと思います。新改訳と新共同訳それぞれの名前で簡単な図があります。BRC のホームページ TOP のリンクからもたどることができます。北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡したのは、BC722年(最近は BCE=Before Common Era という表記が増えていますね)で、南ユダ王国ではヒゼキヤ王のお父さんのアハズ王の時代です。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ダニエル書9章ーホセア書10章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ダニエル書とホセア書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ダニエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#dn ホセア書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ho 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Dan 9:2 さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。 いままであまり気にしていなかったが、今回は少し違和感を感じた。ダニエルとエレミヤの年齢差異は不明であるが、おそらく、ダニエルの方が年上だろう。そして、エゼキエルは、エレミヤと同年代か少し上。そのダニエルがこのような記述をするだろうか。エゼキエルにもあるように、当時すでにスーパースター、伝説のひとであったダニエル、これまでの預言からすれば、エレミヤ書を引用することはないように思う。しかしこれがそのとおりだとすると、預言者の謙虚さも見え、興味深い。どちらかはよくわからない。謙虚に学び続けたい。 Dan 10:13 ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。 「ギリシアの天使長」(20)も登場する。「天使長」と検索すると、「大天使長ミカエル」(ダニエル12章1節)があるがほかはすべてこの章、つまり、ダニエル書以外には登場しない。説明なしに登場し、かつ民間信仰の雰囲気もたたえていて、正直、ダニエル書の後半は、気になることが多い。年表も作ってみたい。キュロスの勅令はBC538-537、ヨヤキムBC609-598とすると、ダニエルは、BC610年ごろの生まれだろうか。もう少し前かもしれない。若くして、バビロンに留学することになり、ユダ王国からはBC598年と、BC587年に捕囚がバビロンにも来る。ユダは滅ぼされる。その後、バビロンも滅亡、ペルシャ王国のもとで、捕囚の帰還が許される。これをすべて経験していたかどうかは不明であるが、激動の時代を生きたことは確かである。 Dan11:27 これら二人の王は、互いに悪意を抱きながら一つの食卓を囲み、虚言を語り合う。しかし、何事も成功しない。まだ終わりの時ではないからである。 ここまで詳細に書かれると、かえって、ダニエルが書いたことの真実性が薄れるだけでなく、興味も失うように思った。しかし、他の読み方もあるだろう。ダニエルという知者、夢を解き、バビロン・ペルシャの二大王国で有力な地位にいたスーパーヒーローについて記すとともに時代を語らせるそのような文学形式を否定することもないようにおもう。背景として終わりのときについてが重要なトピックであったことがわかる。いずれ落ち着いて、ダニエル書後半(7章以下)に書いてあることを丁寧に学んでみたい。ダニエルが言ったことなのかどうかに焦点があたっていると深くは読むことができない。その当時起こっていること、そして歴史をどう読むかもたいせつな人間のいとなみであるのだから。 Dan 12:5 わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。 ダニエル書をどう読むかについて11章までで考えたが、最後の章にもう一度書くことで、次回はここをスタート地点として読むことにしたい。引用箇所の「わたしダニエル」という記述について調べてみると、これが7章から始まる。7章15節、28節、8章1節、15節、27節、9章2節、10章2節、10章7節、12章5節。ト書き以外での一人称「わたし」の使い方も7章以外は際立っている。ダニエルが記していることを強調する必要があったのだろう。6章まで、ダニエルがどのようなときに夢を解いたと記しているかを考えることも重要だろう。神からとくべつに与えられ秘密を明かすこと、それは、特別な力であることは確かかもしれないが、ダニエルの言葉としても書かれているように「お休みになって先々のことを思いめぐらしておられた王様に、神は秘密を明かし、将来起こるべきことを知らせようとなさったのです。その秘密がわたしに明かされたのは、命あるものすべてにまさる知恵がわたしにあるからではなく、ただ王様にその解釈を申し上げ、王様が心にある思いをよく理解なさるようお助けするためだったのです。」(2章29・30節)奉仕があるのだろう。 Hos 1:1,2 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 イザヤっよりも前の時代の預言者であることがわかる。ホセアを読んでいると「淫行の女をめとり」とかこのあとのこどもの名前など主の命令はかなり乱暴だなと感じていたが、今回は、少し違う設定の思いが浮かんだ。乱暴だと感じてしまうと、その先に思考する大きな障害になってしまい、思考停止に陥るからもある。引用箇所も妻を娶るときに、どこかでその女性の「淫行歴」またはその噂を聞き、結婚をどうするか迷う状況も考えられる。主に求めるなかで、与えられた言葉なのかもしれない。こどもの名前にしても、個人的にはそのことを思い出させるような音の名前だったのかもしれない。それよりも、こどもの存在からも、ホセアは学ぶことが、考えることが、主から受け取ることが多かったのではないだろうか。イズレエル(流血を思い出させるような)、ロ・ルハマ(憐れまぬもの)、ロ・アンミ(わが民ではない者)もしかするとこどもにかかわるエピソードもあり、考えさせられたのかもしれない。ホセアも悩んだことだろう。妻についてこどもについて。その悩みは民に対することともつながっていたのかもしれない。 Hos 2:24,25 地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ/それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。 妻との間、こどもたちとの間になにがあったかわからないが、やはりなんらかの経験が主のみこころを知っていることと関係しているように思う。そうやって読むと、一つ一つ身近なものになっていく。妻との関係、こどもたちとの関係、それは自分と主との関係でもあり、自分を、そして人々について振り返りながら、主の働きを理解していくステップひとつの道筋なのかもしれない。このホセアと共に歩むことができたらと思う。 Hos 3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 実際の生活として生きることには驚かされる。「そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。わたしは彼女に言った。『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。』」(2,3)現代的な基準からみるとかなり乱暴である。しかし、同時に、主の苦しみをともに味わいながら主の御心を問う姿勢からは学ぶことがあるように思う。特にイエス様は問題だらけのこの世を歩まれたのだから。 Hos 4:14 娘が淫行にふけっても/嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。親自身が遊女と共に背き去り/神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。悟りのない民は滅びる。 最後の「悟りのない民は滅びる」が印象的である。まず、自らを省みて主が憎まれることをさ避けることだろうか。おそらく、みこころを求め続けるといまのわたしなら表現するだろう。ただ、内向きだけでよいのかということは、考える。わたしにできることは、なすべきことは何なのだろう。 Hos 5:15 わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。 エレミヤ、エゼキエルなどを読んでここに至ると、なにか平和を感じてしまう。主は変わらないのだろうが、周囲の状況によって、主からのメッセージの受け取り方も変わっていくのかもしれない。また、平和の中で育むもの。国がなくなってしまうような危機ではないときに、どのように生きるかも問われているように思う。主は、わたしたちが捜し求めることを待っておられるのだろう。 Hos 6:3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」 このあとに有名な「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(6)に行き着くが、日常的にこのことばを生きることは難しい。やはり、基本は「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。」に尽きるのかもしれない。それは、どのようなときにあっても。そして、愛に生きることだろうか。 Hos 7:1 イスラエルをいやそうとしても/かえって、エフライムの不義/サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。盗人は家に忍び込み/外では追いはぎの群れが人を襲う。 癒そうとしても癒やされる側の問題のために癒やすことができないというのか。癒やしを救いとしても、平安を与えるとしても同じかもしれない。それはなぜだろうか。主たる原因はなんだろうか。「他国の人々が彼の力を食い尽くしても/彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても/彼はそれに気づかない。イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず/これらすべてのことがあっても/主を尋ね求めようとしない。」(9,10)とある。自らを省みず、高慢で、主を尋ね求めないということのようである。自らの罪、状態、危機的な状況を認めて、へりくだり、主を尋ね求めてはじめて主が癒やしてくださるのだろう。 Hos 8:14 イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが/わたしはその町々に火を送り/火は城郭を焼き尽くす。 ホセアの総括のように思われる。現代から見ると、他にも原因はあったように思う。大帝国時代になり、かつ、人の世界的交流もましている。その中で、宗教国家の閉鎖的な価値観では、立ち行かないことがあるように思えてしまう。このような味方は高慢で、もっと謙虚に考えるべきなのだろうが。このあとの歴史を見ていると、しかしながら、問題はもっと複雑であるように思えてしまう。 Hos 9:1 イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し/どこの麦打ち場においても/姦淫の報酬を慕い求めた。 ホセア書の始まりを見ても、姦淫・淫行などが、キーワードなのかもしれない。「偶像礼拝は、契約を結んだ神ではなく神と言えないものに望みを置くことだろうか。姦淫はどうだろうか。「正式な婚姻関係にある妻(人生を共に歩むパートナー、または神)との祝福から離れて、快楽・他の喜びを楽しみとすること。」だろうか。ここには「姦淫の報酬」ということばもある。スポーツや音楽やゲーム、学問なども同等なのだろうか。幸せとは、平安とは何なのだろうか。それ自体ではなく、それに近づく方法論や、手にすることができる見える報酬を求めること。それ自体がわかっていなければ、結局同じであるようにも思う。また考えよう。 Hos 10:1,2 イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。 嵐の前夜のような印象を受ける。すでにアッシリア(6)の驚異は大きかったはずである。「伸び放題のぶどうの木」という表現は興味深い。自由さを感じると共に、剪定をしなければ、実はならない。調べないとわからないが、実の数は増すのかもしれない。特定の目的のための効用(efficacy)や特定の尺度での効率(efficiency)で評価しているために起こることなのだろう。全人的なということを、もうすこし、丁寧に表現することばや方法を考えたい。 2020.7.12 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 十二預言書と呼ばれる旧約聖書の最後の部分に入りました。通読をみんなでしている場合には、どうしても書かなければいけないことがあります。下にリンクがあるヨエル書の冒頭から引用します。 翻訳によって章の数が異なるため、毎日二章ずつ読んでいるとどの翻訳を読んでいるかによって一時的に読む箇所が変わります。あまり気にしないで二章ずつ読み進めて下さい。新共同訳ではヨエル書が4章、口語訳や新改訳では3章です。ただ、旧約聖書の最後のマラキ書が今度は新共同訳が3章で、口語訳や新改訳は4章です。 翻訳によって章の数が異なるので、読む箇所が人によってずれますが、旧約聖書を読み終わるときには、また同じ箇所を読むことになっているので気にしないで、2章ずつ読んでくださいということです。ホームページには、わたしの聖書ノートも少なくとももう一週間先の部分まで掲載してあります。必要になったら参照してください。 前回少し書きましたが、最後の三書以外は、捕囚前、つまりユダ王国があったころの預言です。とはいえ、北イスラエル王国は風前のともしびか、または、すでにアッシリアに滅ぼされている頃です。それぞれが短いので、簡単な説明はホームページに譲りますが、大国に圧迫されていた時代にどのようなことを預言者は語りかけていたのかを捉えていただければと思います。個人的には、預言者は、神様、そしてその御心を忠実に謙虚に求め続け、その時代に生きた信仰者という面と、(当時の)世界の動向を見て、警告を発する教養人としての面があると思います。そこからは、世界観も垣間見ることができるように思います。同時に中東世界が、大帝国時代に入るとき、世の中が大きな変化を遂げているときに、神の前に真摯に向き合った信仰者の歩みとも捉えることができると思っています。そのなかから、学ぶこと、受け取ることができるメッセージがあると思いますよ。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ホセア書11章ーアモス書6章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ホセア書、ヨエル書とアモス書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ホセア書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ho ヨエル書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jl アモス書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#am 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Hos 11:11 彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。 ホセア書は、どの時代の預言なのかは不明である。北イスラエルが活発な活動をしていたヤロブアム(二世)の時代から、未南ユダ王国のヒゼキヤの時代までが活動期と1章1節にあるので、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるところは経験しているのだろう。ホセア(救い)が描いたのは「恐れつつ飛んで来る」信仰に立ち戻った回復だろう。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」(8)とあるように主の憐れみ以外には、ないこともホセアは告白している。人間の側には解決の方法はなにもないのだろうか。すべきこともあるように思う。 Hos 12:7 神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち/常にあなたの神を待ち望め。 イザヤ・エレミヤ・エゼキエルと読んで来ると、このような一般的なことで良いのかと不安になってしまう。危機感は、そのときの状況によるのかもしれない。ホセアの時代は、このようなメッセージを伝えることが求められたのだろう。今は、どうなのだろうか。正直、わたしには、わからない。人間社会に問題があることは、十分に理解できるが、なにを一人ひとりに求めればよいのだろうか。むろん、自分自身も含めて。そのことを、日々求めていきたい。わたしには、それしか言えない。 Hos 13:1 エフライムが語れば恐れられ/イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので/彼は死ぬ。 エフライムの消滅はアッシリアによってほどなく起こる。「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。」(14)からみても、希望はないように思われる。ホセアの中では、これをどう理解したのだろうか。それまでも、憐れみ深い主、赦される主であったはずだ。北イスラエルの10部族は、散らばって住んでいたと思われるレビ族以外どうなってしまったのだろう。変化なのだろうか。 Hos 14:5 わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。 エフライム、イスラエルの回復の希望について語られているようだ。新共同訳ではタイトルが「エフライムの回復と祝福」となっているが、そこまで明確なメッセージは読み取れない。どの時点で書かれたかはわからないが、アッシリアに滅ぼされ、捕囚となった時期であることは確かだろう。主への基本的な姿勢は「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。」(10)とし、回復を非常にうつくしいものとして描いているが「露のようにわたしはイスラエルに臨み/彼はゆりのように花咲き/レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり/オリーブのように美しく/レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び/麦のように育ち/ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。」(6-8)難しい。 Joel 1:4 かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。 最近のケニアなどアフリカ東部でバッタの大規模な被害が起こっている。最近は Covid-19 のニュースばかりで殆ど報道されなくなってきているが、深刻なようである。引用したこの表現は、ある人達にとっては非常によく理解できた恐ろしさなのだろう。このあとに、「一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。」(6)ともあり多種類の災難をも表現しているのかもしれない。そしてそれが「主の日」(15)へとつながっている。今のときも、そのように、捉えている人もいるだろう。わたしたちは、このような中でなにを考え、どのように行動すべきなのだろうか。おそらく「主の日」に特化して考えることとは異なる、または、想像できない場合は「主の日」と結びつけて、たいせつなものをしっかりと持つことなのだろう。そのたいせつなことは、何だろうか。 Joel 2:12,13 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。 ヨエル書で一番こころに残る箇所だろう。前半が印象的だが、今回は、主がどのような方だとヨエルが伝えているかがこころに残った。「恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられる」そのように生きることが求められているのかもしれない。それを身近に感じさせてくれるのがイエスの生涯だろう。イエスに従って、イエスの軛を負って生きていくことによって、神様について理解していきたい。それこそが「(主に)立ち帰り」「(みずからの)心を引き裂く」ことなのかなと今は思う。 Joel 3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ10章13節) の引用箇所である。主の日の預言が続いているが、救われるものとして、ここでは「主の名を呼び求める者」と言われているが「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(1,2、使徒2章17-21節参照)が先立つのだろう。「わが霊」は聖霊と思われるが、旧約時代には、どのように理解されていたのだろうか。神様のみこころは、本質的には、神様の霊によらなければ理解できないのだから。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(1コリント2章11節) Joel 4:4 ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ/お前たちはわたしにとって何であろうか/わたしに復讐しようというのか。もし、お前たちがわたしに復讐するなら/わたしは直ちにお前たちの頭上に復讐を返す。 ヨエル書の最後は「わたしは彼らが流した血の復讐をする。必ず復讐せずにはおかない。主はシオンに住まわれる。 」(21)となっている。復讐、そして復讐である。最近、BBC の Podcast で Miriam & Youssef (https://www.bbc.co.uk/programmes/w13xtv38)を聞いた。全部で10回のシリーズである。時代は 1917/01/10-1948/9/10。復讐の連鎖を断ち切るのは本当に難しいのだろう。現在の Covid-19 のもとでは、自らの正当性を主張し他者を非難する傾向にも似たものがある。誰もよくは理解できていないにも関わらず。その背景にあるのは、なんだろうか。自分以外の他者、主に養われていることへの感謝に眼をむけることが人間には困難だからだろうか。難しい。 Amos 1:2,3 彼は言った。主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き/カルメルの頂は枯れる。主はこう言われる。ダマスコの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが鉄の打穀板を用い/ギレアドを踏みにじったからだ。 このあとも、裁きについての言及が続く。ガザ、ティルス、エドム、アンモン、そして次の章へ。「牧者」(1)を文字通り取ればよいかはわからないが、これは、赦されざるべきことだという思いが強かったのだろう。2章では、イスラエル、ユダもあり、別に周囲の民族だけに向けられているわけではない。主のみこころを思うところに出発点があるのだろう。アモスは、預言者と言われる中でも比較的古い時代に生きている。少しでもアモスとともに身をおいて読んでいきたい。 Amos 2:6,7 主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で/貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。 イスラエルにおいては、視点が個人に向けられているようだ。「主の教えを拒み/その掟を守らず」(4)とあるが、それが具体的に記されている。引用の後半を見ると、一般的な状況ではないように思われるが、それを許容する社会は、正しいもの、貧しいもの、弱いもの、悩むのものをないがしろにする社会なのかもしれない。すると、現代でも十分にあてはまる。わたしは、そんな社会に慣れてしまっているのだろうか。社会的弱者、そして、これは主は望んでおられないということ、ていねいに考えていきたい。 Amos 3:7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。 印象的な言葉である。この背景には「地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。」(2)選びがあるということだろう。そしてサマリアに対して敵が攻めてくる(11)ことを語っている。ヤロブアム(通常二世と言われる)の時代は経済的には繁栄をしている。アモスはしばらくは受け入れられなかっただろう。預言者の仕事は「万軍の神、主なる神は言われる。聞け、ヤコブの家に警告せよ。」(13)もあるように警告である。ほとんどの人は、自分は預言者ではないと言うだろうが、主から真実を委ねられている者は、恐れおののきつつ、警告をする責任も併せ持っているのだろう。現代の言葉では、社会的責任だろうか。この感覚は現代では失せてしまっている。無論、神のことばとして絶対化することには、最大限の注意を払って。 Amos 4:6 だから、わたしもお前たちのすべての町で/歯を清く保たせ/どの居住地でもパンを欠乏させた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主は言われる。 この前に形式的に宗教人として生きるようすが書かれ、そのあとに引用箇所から11節まで「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主は言われる。」のフレーズで終わる句が続く。基本的には艱難・災難によって警告を続けたことが記されている。つまり、それらは、主のもとに帰れとのメッセージだと言っている。そして「それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ。」(12)へと続く。「神と出会う備え」は、バプテスマのヨハネを思い出させる。「主の道を整えよ」近い部分と異なる部分両方が見えるように思う。わたしにとって、私たちにとって「神と出会う備え」とは何だろうか。悔い改めること、主の働きに目を向けること、だろうか。 Amos 5:13 それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。 「それゆえ」は直接的には直前の「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌う。お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている。」(10-12)を意味するだろう。主が愛するものを憎んでいる状態である。しかしそうであれば、知者が語ることはあるように思われる。「知恵ある者」が「ずる賢い」ことを意味することはないように思われるから。すると、その前の「主が突如として砦に破滅をもたらされると/その堅固な守りは破滅する。」(9)だろうか。すでに、主の裁きが始まっているから。その前には「主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。」(6)ともあるので、警告と教えもなされている。「知恵ある者」はどう生きるべきなのだろうか。アモスはその一人であると思うが。 Amos 6:14 しかし、イスラエルの家よ/わたしはお前たちに対して一つの国を興す。彼らはレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで/お前たちを圧迫すると/万軍の神なる主は言われる。 前の章の最後は「わたしは、お前たちを捕囚として/ダマスコのかなたの地に連れ去らせると/主は言われる。その御名は万軍の神。」(5章27節)で終わっている。5章1-3節の悲しみの歌も、引用箇所の預言につながっているのだろう。まだ、イスラエルが経済的には繁栄していたと思われるヤロブアムの時代にイスラエル内部の問題とともに、アッシリア・バビロンなどの「ダマスコのかなたの地」における大帝国時代という世界史レベルの大きな変化を情報によってか、黙想と祈りによってか、学術研究によってか「知恵ある者」は予想することができたのかもしれない。預言者はこの時代の教養人だから。 2020.7.19 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。) 十二預言書はいかがですか。前回も書きましたが、翻訳によっては、読む章が一章ずれる場合がありますが、ご了承ください。8月17日から新約聖書を読み始めますが、そのときには、また同じ通読箇所となります。続かなくなってしまった方もおられるかと思いますが、もう一度、新約聖書から読み始めるのも良いですよ。下にリンクがある、BRC2019 のホームページにある通読表にどこまで読んだか記録しておくと、またそこに戻ってくることもできます。今日から、新約聖書を読み始めるのもよいと思いますよ。自分で読んでから、違ったコメントを読むと、また新たな発見があるかもしれません。聖書を読む理由は様々だと思いますが、わたしは朝、たいせつなことは何なんだろうと問いながら、聖書を読み、夜、いろいろなひとや、その日を振り返りながら、日記を書いています。一日一日を、そして一人ひとりと、ていねいに生きることができればと願いながら。 今週は、アモス書の後半から読み始め、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書と読み進めます。アモスは順序としては少なくとも十二小預言書の中では一番古い時代でしょうか。牧者として聞いたことばとして記していますね。身近なことにとどまりませんが。オバデヤ書は一章しかありません。エドムについての預言が書かれていますが、エドムは近隣の民で、イスラエル民族の父ヤコブ(イスラエルは別名)の兄エサウの子孫たちだとされています。ヨナの物語は聞かれたかたもおられると思います。このヨナの物語からは何を伝えようとしているのでしょうか。毎回、わたしは新たな発見をさせられています。ミカは、イザヤと同時代の預言者で、内容的にも近い部分が多いとされています。それぞれ特徴がありことなります。背景となる時代とともに、読んだ印象を通して、その特徴も考えられると良いかもしれませんね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 アモス書7章ーミカ書6章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 アモス書、オバデヤ書、ヨナ書とミカ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 アモス書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#am オバデヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ob ヨナ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#jh ミカ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#mc 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Amos 7:14,15 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。 アモスは自らを「預言者ではない」そして「(主に)『予言せよ』と言われた」と証言している。これこそが主の言葉を預かるものなのかもしれない。人から預言者だと認められる存在ではなく、単純に主に「預言せよ」と言われたからだということだろう。その背景がこの章の最初の書かれている。家畜を飼い、いちぢく桑を栽培する日常のなかでまさにその日常について主に祈っていて聞いたことばなのだろう。ひとりの信仰者といえる。この姿勢には、学ぶべきことが多い。主に求めるものに主はみ言葉を与えてくださるのだろう。「小さいもの」(2,3)の一人として主を求め謙虚に生きていきたい。 Amos 8:11 見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。 アモスは「牧者の一人」(1章1節)「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」(7章14節)として「いなご」(7章2節)や「畑を焼き尽くす火(審判の火とも呼ばれている)」(7章3節)に対して主に祈り、主がこたえられていた。ここではそれが「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」となっている。段階的に、アモスが導かれていったことを表しているように思う。アモスの危機感も変化していっているのだろう。その中から預言のことばが出ている。「サマリアの罪にかけて誓う者ども/『ダンよ、お前の神は生きている。ベエル・シェバよ/お前の愛する者は生きている』と言う者どもは/倒れて再び立ち上がることはない。」(14) Amos 9:5 万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き/そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり/エジプトの大河のように沈む。 この章には基本的に裁きと回復が語られているようだが、ここでは「地は揺れ動き」とあり、アモス書の冒頭を思い出させる。「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。」(1章1節)地震の預言は「わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。」(エゼキエル38章19節)にもあるが、ヤロブアムの時代の地震はどの程度の規模だったのだろうか。一般的には、日本と異なり、地震は多くはないようだが。地震が実際に起こると、アモスの預言がたいせつにされたかもしれない。 Obadiah 20,21 捕囚となったイスラエル人の軍団は、カナン人の地をサレプタまで所有する。捕囚となった、セファラドにいるエルサレムの人々は、ネゲブの町々を所有する。救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。 エソウの家、エドムに対することが書かれているが、最後に引用箇所がある。一章しかない、オバデヤ書でわかることは多くないが、この引用句には「捕囚となった」ということばが二回登場する。エサウが実際にイスラエル人を捕囚にしたことがあったのだろう。近隣の国、民族との関係は難しい。残念ながら一時的にこのオバデヤ書の内容が実現しても、平和は来ないように思う。問題、救いが必要なことは、理解できても、救いの方法は、わからないということなのだろう。だからこそ、救い主、イエスから学びたい。 Jonah 1:5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて 横になり、ぐっすりと寝込んでいた。 船乗りの行動は自然である。「恐怖に陥る」「自分の神に助けを求める」「人間に可能な努力をする」このあとも「ヨナに祈ることを求める」(6)「くじで原因を探る」(7)「くじの結果を調べる」(8)「ていねいに事情を聞く」(10)「解決法も(助言を求め)聞く」(11)「さらに努力をする」(13)そして「ついに、彼らは主に向かって叫んだ。『ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。』 」(14)「行動を起こし」(15)「主を畏れいけにえをささげ誓いを立てる」(16)最後は、神を「主」としている。焦点はヨナにあたるが、船乗りたちのことも、重要だと思った。主は、または、ヨナ記記者は、船乗りたちをも大切に描いている。ヨナ記の主題(明確には書けないが4章10節から受ける印象)とも調和していると思われる。主がどのような方であるかを描写することにもつながっている。 Jonah 2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。 3節はまとめだろう。4節からある程度時系列で書かれている。引用箇所は絶望の状態を記している。主との関係が中心である。神殿も主とお会いする場所なのだろう。死ねば終わりだという認識も表現されている。7節の「しかし」から変化が記されている。8節に「聖なる神殿」が再度登場する。おそらくエルサレムの神殿を表す言葉ではないのだろう。まさに主がおられる場所である。結論は、その次にあるようだ。「偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうとも わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。」(9,10)おそらく主のみこころには近づいていない。しかし主は、ヨナに語りかけ、ヨナに立ち上がる力を与えているようである。主からのメッセージはまだ先なのだろう。恵みは奥深い。 Jonah 3:5,6 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、 このあと王の言葉が記されている。正直、そんなことは起こらないだろうと考えてしまう。そしてヨナ書はある教訓を教える虚構だと。後者は一つの伝達形式として正しいかもしれないが、他者の悔い改めを疑うことは深刻な問題だと気付かされた。悔い改めにも神様が関わっておられるのだから。そして実際信じられないことが他者に起こることもある。自分に信じられないことが起こっていまここに生かされていることを思うと、否定してかかることはできない。望みを他者に置くのではなく、神様に、主に置きたい。 Jonah 4:10,11 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 何度も読んできた箇所だが、ひとは「恵み」について理解できないのだということを今回は思った。「彼は、主に訴えた。『ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。』」(2,3)ヨナの言葉である。このことばの背景が多少理解できるが、おそらくそれも十分ではないのだろう。しかし「(主が)恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富む」背景は全く理解できていないのだろう。主のこころを理解できたように思い込まず、求め続けるものでありたい。 Micah 1:3,4 見よ、主はその住まいを出て、降り/地の聖なる高台を踏まれる。山々はその足もとに溶け、平地は裂ける/火の前の蝋のように/斜面を流れ下る水のように。 今まであまり意識せずに読んでいたが、このあとにはサマリアが野原の「がれきの山」(6)とすることが書かれている。時代的にも、アッシリアによって来たイスラエル王国が滅ぼされたのが BC722頃。ユダ王国ではアハズの頃である。たいへんな時代だったのだろう。国が消滅するのだから。そのときにユダ王国で預言しているミカ。共に居ることはできないが、少しでも理解できるようにしたい。日本も、おそらく、第二次世界大戦後、分割されて植民地化されるだけでなく、全く消滅する可能性ですらあったろうから。何でもありうる社会に世界の国と比較して日本はおそらくほとんど免疫がないのだろう。それは精神生活にも影響することは想像できる。 Micah 2:12 ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。 アッシリアはかなり残酷な統治をしたらしい。そのなかですでに貢ぎ物を納めてはいても独立を保たれているユダから見た世界が語られているのだろう。信仰者は、希望を持っている。それは、回復である。もう一度集められて、主なる牧者に養われる。このあとのイスラエルの歴史を考えると、わたしたちの希望とは何なのか、考えさせられる。イエス様のようなイスラエルの国としての復興とは独立な回復以外には、救いはないのだろう。そこに至るには、まだ長い時と苦しみが必要である。そして、人々は、イエス様が語られた福音(これすら明確に述べられないが)も理解できなかったのだろう。難しい。 Micah 3:5 わが民を迷わす預言者たちに対して/主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は/平和を告げるが/その口に何も与えない人には/戦争を宣言する。 「歯で何かをかんでいる間」自分が人生に満足している状態だろうか。「その口に何も与えない人」自分にとって益とならないひとのことだろうか。この態度に対して「しかし、わたしは力と主の霊/正義と勇気に満ち/ヤコブに咎を/イスラエルに罪を告げる。」(8)とある。主の正しさと、人々の罪・不義を告発するのが預言者の役目なのだろう。基本的な態度であっても、疑問は残る。正しいことができない弱さが人間の本質でもあるから。それに甘えること無く、主を求めるものを支えてくださる方の存在が不可欠であるように思う。イエスの存在の大きさを感じる。 Micah 4:6,7 その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに/主が彼らの上に王となられる。 この章の内容は、理解がしにくい。8節までと、9節からの記述の違いが理解しにくい。最初には主の日にもろもろの国々がシオンに来ることが語られている。(1,2)そして平和が来ることが「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。」(3,4)と語られている。そのあとに引用箇所がある。「足の萎えた者」は障害者または周辺化されている人たち(追いやられた者)の代表として語られているのだろう。回復にこのことが含まれていることは素晴らしい。後半がどの程度の警告なのかよくわからない。時代的にまだエルサレムにとっては、最後に至っていないからとも言えるのだろうが。難しい。 Micah 5:4,5 彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。 2節はベツレヘムについて書かれている。ダビデを意識しており、このときには、アッシリアがイスラエルを攻撃・滅亡へと導く国である。これをもって、ベツレヘムの地を救い主の誕生の地とするのは、問題を感じる。もし、たいせつであるなら、イエスの引用があってもよい。ダビデの子ということばに抵抗したイエスにより真実味を感じる。聖書の誤謬性の理解と相まって、困難さのひとつである。このような引用をすることは今でも多く許容してもよいのかもしれないが。同時に解釈が進むことも大切に思う。 Micah 6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。 善の内容まで書かれている。神と共に歩むは、歩みをともにすることだろう。へりくだっては、正義、何が善であることを学びながらという意味も含まれているのかもしれない。すべて知らされているわけではなくても、避けるべき生き方がしめされていることは確かなのだろう。「お前はオムリの定めたこと/アハブの家のすべてのならわしを保ち/そのたくらみに従って歩んだ。そのため、わたしはお前を荒れるにまかせ/都の住民を嘲りの的とした。お前たちはわが民の恥を負わねばならぬ。」(16)にはそれが現れているように思う。 2020.7.26 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています。no.081 がとんでしまったようなので、前回 no.084 でしたが、もう一度、no.084 とします。 十二預言書はいかがですか。ミカ書はその六書目、あと半分です。繰り返しになりますが、翻訳によっては、読む章が一章ずれる場合がありますが、ご了承ください。8月17日から新約聖書を読み始めますが、そのときには、また同じ通読箇所となります。続かなくなってしまった方もおられるかと思いますが、もう一度、新約聖書から読み始めるのも良いですよ。 今週は、ミカ書の最後の章から読み始め、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、そしてゼカリヤ書と読み進めます。ゼカリヤ書は14章ありますが、そのあとは、マラキ書で、来週でほぼ、旧約聖書は読み終わります。今回読む箇所の中で、ハガイ書とゼカリヤ書は、バビロン捕囚から帰還後のエルサレムで神殿を建設するときのことです。エズラ書、ネヘミヤ書を覚えていますか。その時期とつながっていますね。その前のミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書は、王国時代です。イザヤ書からの預言書、考えてみると、時代的には、アッシリアが強くなり、北イスラエル王国が滅ぼされ、アッシリアの後に覇権をとったバビロンによって南ユダ王国も滅亡へと向かう、王国時代でも後半に集中していることがわかります。未曾有の事態、宗教国家・民族国家としてのアイデンティティーが問われる、そして個人的にも、信仰について、選びの民(特別な恵みによって、律法を与えられた民)の神の恵みについて問われる時代だったのではないでしょうか。様々な変化の時代はこのあとにもあったのでしょうが、律法を与えられた民としては、それこそ大変な時期だったでしょう。現代も未曾有の事態が起こり、なにをたいせつにすべきか、その本質が問われている時代であるように思います。それは、個人のレベルにおいても、共同体や、国やそして、人類のレベルにおいても。わたしたちは、そんな時代になにを学んでいくでしょうか。イスラエルの預言者たちがどのように生き、どのように語っているかからも学びたいと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ミカ書7章ーゼカリヤ書2章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書とゼカリヤ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ミカ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#mc ナホム書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#nh ハバクク書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#hb ゼパニヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ze ハガイ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#hg ゼカリヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#zc 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Micah 7:18,19 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 エルサレムやイスラエルが特別であることの記述が12節などにあるが本質的なメッセージは、主がどのような方であるかの告白なのだろう。それが引用箇所であり、主への信頼と希望があるように思われる。その根拠が罪の赦しである。慈しみ。哀れみ。ヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)恵みと表現されるものだろうか。このことばは重要だが難しい。「どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように。」(20) Nahum 1:1,2 ニネベについての託宣。エルコシュの人ナホムの幻を記した書。主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し/仇に向かって怒りを抱かれる。 ナホムについては十分はわからないが、一般に言われているように、北イスラエルが滅ぼされ南ユダが残っている時代(BC722-586)。ニネベはアッシリアの首都であるから、アッシリアの勢力が大きかった前述期間の前半なのだろう。最初に語られるのは、熱情と報復である。主はそのように理解されていたということだろう。人間の感情に近い感じがする。神理解も少しずつ進んでいくことを認めることは、聖書の絶対的権威を弱める面があるが、人間社会、人間理解が進む希望を与えることでもある。人種差別など、人間理解は、実際はどうであれ、良い方向に進んでいるように思うので。 Nahum 2:1 見よ、良い知らせを伝え/平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者が/お前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。 ローマ書10章15節で引用されている箇所である。(イザヤ書40章9節・52章7節にも関連箇所がある。)以前、友人が M.Div. (Master of Divinity) の修士論文で、パウロの聖書引用の評価をテーマにしていて、あまり適切な引用だとは思えない箇所が多いと言っていたのを思い出してしまった。詳細は覚えていないが、Context 文脈とは異なる引用がその一つの理由だったかもしれない。「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(ローマ書10章13-15節)最初の引用はヨエル書3章5節である。「当時の」と普遍化できるかどうかは不明だが、旧約聖書引用についてもいずれ考えてみたい。 Nahum 3:1 災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち/人を餌食にすることをやめない。 ナホム書のテーマや文脈「お前を見る者は皆、お前から逃げて言う。『ニネベは破壊された/誰が彼女のために嘆くだろうか。』お前を慰める者はどこを探してもいない。」(7)からも、「町」はニネベだろう。アッシリアはかなり被制服民に対して残酷だったと言われている。北イスラエル王国制服においてどのようなことがなされたか詳細は不明であるが、神を畏れることが全く感じられない残虐非道なことが起こっていたのだろう。ナホム書は、単に敵国にたいする裁きの預言ではなく、このような預言者の義憤や、ナホムが知っている主はそんなことは赦されないという思いが強く背景にあるように思う。世の中に起こることについて、同様の感情をもつことが一般的にも多いだろう。それを表現するとともに、主の御心を求め続けるものでありたい。 Habakkuk 1:2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない。 神の沈黙だろうか。主については「主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた。 」(12b)と述べているが同時に「だからといって、彼らは絶えず容赦なく/諸国民を殺すために/剣を抜いてもよいのでしょうか。 」(17)と述べている。背景は、国内でのことなのだろうか、それとも、国外からの侵略なのだろうか。時代的なものも判然としない。ただ、ハバククの嘆き、訴えは理解できるように思う。実際に大きな傷みが、民に及んでいるのだろう。「律法は無力となり/正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。」(4)わたしならどう訴えるだろうか。嘆きに道が状況が世界には多く広がっていると思う。 Habakkuk 2:3,4 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 1章の主への訴えの応答としてハバククが受け取ったものが、これなのだろう。待つこと、信仰である。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1章17節)「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。 」(ガラテヤ3章11節)「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」(ヘブル10章38節)それぞれの引用箇所についても、じっくりみてみたい。ハバククについても丁寧に理解してみたい。 Habakkuk 3:15,16 あなたは、あなたの馬に、海を/大水の逆巻くところを通って行かせられた。それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。わたしは静かに待つ/我々に攻めかかる民に/苦しみの日が臨むのを。 「主は立って、大地を測り/見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ/永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。」(6)には「主の道が永遠に変わらない」とありそれが信頼につながっているのだろう。いまは、激動のとき、未曾有のことばかりが起こっている世の中である。そのようなことは以前にも種類は異なってもあったのかもしれない。主はどのように見ておられるのだろうか。ここで、ハバククは積極的に動かれる主を描いている。引用箇所の続きは「いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。」(17,18)と続いている。これが信仰者の態度なのだろう。ただ、神の働きの認識の幅が広がってきていることは確かで、それは素晴らしいことのようにも思う。Florence Nightingale は「神の御心を知るには統計学を学ばなければならない」と言っているとのこと。「静かに待つ」ことの「静かに」の広がりもあるのかもしれない。 Zephania 1:12 そのときが来れば/わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し/酒のおりの上に凝り固まり、心の中で/「主は幸いをも、災いをもくだされない」と/言っている者を罰する。 「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。」(1)を見ると、ゼファニヤはヨシア王の時代のようである。引用箇所は表現が面白いので、立ち止まった。何を言っているのかよく分かるわけではないが。すこし感じるのは、すでに全体が腐っている状態ではなさそうなことである。「主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。」(14)とあるが、主の日は引用箇所に表現されている人たちの裁きのために来るようである。ただ「わたしは地の面から/すべてのものを一掃する、と主は言われる。」(2)ともあり、全体的な理解が必要であると思う。丁寧に読んでいきたい。 Zephania 2:13,14 主はまたその手を北に向かって伸ばし/アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ地とし/荒れ野のように干上がらせられる。そこには、あらゆる獣が/それぞれ群れをなして伏す。ふくろうと山あらしは柱頭に宿り/その声は窓にこだまする。杉の板ははがされ、荒廃は敷居に及ぶ。 ニネベのその後について殆ど知らなかったので、少し調べてみた。イスラミック・ステーツ(IS)が中心的都市としていたモスルの付近まはた中にあるようである。文化的遺産として調査が続けられていたが、IS によって破壊されたとのこと。バビロニアに征服されてからも、街としてはある程度残ったようである。長い歴史を思うと、国や都市の滅びに関する預言の理解は難しい。エジプトは大国だったろうが、大帝国、帝国主義は、この当時にメソポタミアでは起こっている。そのような変化を理解することも困難だったろう。そのなかで、どのように生き、なにをたいせつにしていたかを学んでいきたい。 Zephania 3:12,13 わたしはお前の中に/苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は/不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い/彼らを脅かす者はない。 ここにゼファニアのみた主の御心の核心があったのではないだろうか。この章も最初は、エルサレムを反逆の街として書かれ、役人、裁判官、預言者、祭司にたいする批判が書かれている。そのあと裁きが書かれ、引用箇所に至る。核だと考えるのはその次の言葉である。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(14,15)この力が、ゼファニアが受け取ったことなのかもしれない。 Haggai 1:9 お前たちは多くの収穫を期待したが/それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき/わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに/お前たちが、それぞれ自分の家のために/走り回っているからだ。 「ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」(1)ダレイオス王の第二年は、BC520年、キュロスの捕囚民帰還令は BC538年。すでに、18年経過しているということだろう。放置されていた第二神殿とよばれる神殿再建が開始される。一次帰還民の中にも、神殿再建を考えた人たちはいただろう。しかし現実的には不可能だったか。ハガイ書を使って、礼拝堂建設を鼓舞することがよくあるので、慎重になってしまうが、この章では「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると/主は言われる。 」(8)と万軍の主のことば(7)として書かれているだけではなく「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。 」(14)とある。このことが、1節の記述にもつながっているのかもしれない。 Haggai 2:5 ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。 印象的なことばである。おそらく、国は滅び、民は離散し、契約は廃棄されたのではないかと考えていたろう。イスラエルの民にとっの回復は、この契約の回復なしには、考えられないことなのだろう。「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。」共におられる神である。しかし、回復に関するその次「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。わたしは国々の王座を倒し/異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も/互いに味方の剣にかかって倒れる。」(21,22)とある。裁きである。背景には、「わたしはあなたをわたしの印章とする。わたしがあなたを選んだからだ」(23)があるようである。選民思想から自由になることは、困難、不可能なのかもしれない。他者にとっても、共におられる主という、相対化・普遍化へは、進むことはできないのだろうか。時間がかかることは確かである。 Zechariah 1:12 それに答えて、主の御使いは言った。『万軍の主よ、いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています。』 「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。」(1)ハガイ書の冒頭と似ている。ハガイでは「ダレイオス」王の第二年六月一日」となっている。殆ど同じ時期である。BC520年とすると、その70年前は、BC590年。南ユダの滅亡はBC586年であるからほぼ70年である。キュロスの勅令はBC538年。エレミヤには「この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」(エレミヤ25章11節)「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 」(エレミヤ29章10節、参照:歴代誌下36章21節、ダニエル書9章2節)とかかれているが、「七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。」(エレミヤ25章11節)のような記述もある。少し調べてみると、七十年という記述は他にもあることがわかった。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩篇79篇10節)は有名だが、「七十年が終わると、主はティルスを顧みられる。そのとき、彼女は再び遊女の報酬を取り、地上にある世界のすべての国々と姦淫する。」(イザヤ23章17節、参照:15節)「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。」(ゼカリヤ7章5節)おそらく、預言書のこれらの箇所を知っていたであろう。つながっていることは興味深い。 Zechariah 2:9 わたし自身が町を囲む火の城壁となると/主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。 神殿建設の機運が高まり、信仰覚醒が起こる中で、民を鼓舞する力にはなっていったろう。「その日、多くの国々は主に帰依して/わたしの民となり/わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたに遣わされたことを知るようになる。」(15)ともある。しかし、正直、それほどは単純でないことを歴史から知っていると、醒めた目で見てしまうが、生きているのはそのとき、そのときのひとたちには、大きな恵みのことばだったのだろう。自分がさばき主にならないようにしたい。 2020.8.2 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 旧約聖書はあと少しになりました。今週は、ゼカリヤ書とマラキ書を読み、マラキ書の最後1章を残して、旧約聖書を読み終わる予定になっています。そのあとは、新約聖書を読み始めます。BRC2019 では昨年後半に、新約聖書を読んでいますが、この通読では、二年間で、旧約聖書一回と新約聖書を二回読むことになっていますから、新約聖書の二回目。年末には、新約聖書を読み終わる計画になっています。続かなくなってしまった方もおられるかと思いますが、もう一度、新約聖書から読み始めるのも良いですよ。 ゼカリヤ書は、バビロンからの捕囚帰還後しばらくしてから、神殿を再建し、大祭司中心とし、レビ人による祭儀の再構築をした時代ついて書かれ、後半には、主の日についての預言があります。指導的立場にいながら神のことばを取りついでいたようですね。このときの神殿は通常第二神殿と呼ばれますが、復興の象徴であるとともに、回復は夢の世界。人々は自分たちの過去と未来そして「主の日」についてどのように考えていたのでしょうか。マラキ書は、ゼカリヤよりもあと、すくなくとも神殿の再建後の時代ですが、あまり詳しいことはわかっていないようです。わたしたちが手にしている旧約聖書はどのようにして終わっているのでしょうか。あと一章来週読みますが、ホームページのマラキ書のあとに、以前書いた「旧約聖書を読み終えるにあたって」の一文があります。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、エゼキエル書を読まれるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ゼカリヤ書3章ーマラキ書2章(翻訳により章は異なる場合があります)はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ゼカリヤ書とマラキ書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ゼカリヤ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#zc マラキ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ml (マラキ書のあとに「旧約聖書を読み終えるにあたって」があります。) 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Zechariah 3:1-3 主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。 ヨシュアについては6章11節にも現れるが、ほかにも、ハガイ1章1節、エズラ5章2節にも現れている、ヨツァダクの子ヨシュアであると思われる。ここでは、「汚れた衣を着」「火の中から取り出された燃えさし」と表現されている。神殿の再建とともに、大祭司がその職務をはじめる準備が書かれている。十分理解はできないが、エルサレム帰還後(最長18年)の苦難も背景にある転換点の中での幻なのだろう。 Zechariah 4:9,10 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたたちに遣わされたことを知るようになる。誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」 神殿再建のはじまりである。「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える』と万軍の主は言われる。」(ハガイ2章9節)にあるが、廃墟の中で、資材の乏しい中での再建の過酷さは想像できる。基礎が据えられたとしても、全体的な見通しは十分なかったかもしれない。またこれは第二神殿と言われるもので、これもいずれは破壊される。それぞれのときに、それぞれが鼓舞され、与えられるエネルギーについて考えさせられる。いまは(いまの、わたしのたいせつにしていることとは異なるが)ゼカリヤたちとともにいたいと思う。 Zechariah 5:3 彼はわたしに言った。「これは全地に向かって出て行く呪いである。すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される。」 幻はひとつの表現形態で、それがどんなものかを問うことは意味がないのだろう。ここでは、呪いのことばが発せられていることを伝えようとしている。盗人、偽って誓う(shaba`: to swear(誓う・断言する), adjure(厳命))ものが一掃されるとあるが、これはすこし比喩が入っているかもしれない。神のことばがそのまま行われるということを支えているのだろうか。呪い(’alah: 1. Oath, 2. oath of covenant, 3. Curse, i. from God, ii. from men, 4. execration(罵倒))の背後に主がおられることを伝えているとして、呪いだけではなく、誓いとも訳されている言葉でもある。これらのことばからも考えさせられることが多い。訳語も難しい。 Zechariah 6:11.12 銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて、宣言しなさい。万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。 神殿建設の途中であること、大祭司がその役をつとめはじめたばかりであることを思い出させる。ゼカリヤは、指導的立場で、神のことばをとりつぐ役割も果たしていたのだろう。それは、極度に困難なことである。神のことばだと確信がなくても、すべきこともあるだろうから。引用したことばでは、民に希望も与えているのだろう。『若枝』にはもうすこし象徴的な意味もあるかもしれないが。 Zechariah 7:2,3 ベテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼の従者たちを遣わして、主の恵みを求めさせ、また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか。」 最初の帰還から20年ほどたったころと思われるが、エルサレム以外の状況は記録がなくあまりよくわからない。ここでは、ベテルからの質問への応答が記されている。神を礼拝することの基本と、国が滅びにいたった経緯が書かれている。国が滅びて約70年、イスラエル以外で定住していたひとたちもいたと思われる中で、宗教集団として、民族として、国として、帰還後どのような形態を模索するのか、おそらくこれはこのあとも現代までずっと問われていることなのだろう。それでも、あるアイデンティティを守る道が、宗教集団として生き残ることなのだろうか。これも多様性が増え、今も、今後もどうなることが望ましいのか不明だが。 Zechariah 8:14,15 まことに、万軍の主はこう言われる。あなたたちの先祖がわたしを怒らせたので、わたしはかつて、あなたたちに災いをくだす決意をして悔いなかった、と万軍の主は言われる。そのように、今やわたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をした。恐れてはならない。 このあとに「あなたたちのすべきこと」が語られる。正義をもって裁きをし、悪をたくらまないことが書かれ(17)「万軍の主はこう言われる。四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる。あなたたちは真実と平和を愛さねばならない。 」(19)と続く。これが、ベテルからの使い(7章2節)への答えでもあったのだろう。そして民が増えていくことと思われることが書かれている。これが復興、回復なのだろう。リーダーシップを預言者として発揮し託宣を伝えるゼカリヤ。前に進むなければいけないときに、わたしはどうするだろうか。かなり困難な状況だろう。 Zechariah 9:8 そのとき、わたしはわが家のために見張りを置いて出入りを取り締まる。もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ。 ティルスとシドン、ペリシテが打ち砕かれることが書かれ、引用句に至る。見えている世界が狭いと思ってしまうが、同時に、近隣との関係がどれほど、重いのかも考えさせられる。そして、鍵となるのは「主に見守られているかどうか」だというメッセージを伝えているのだろう。主に守られるということがなにを意味するのか、主のみこころを理解することは難しい。現代はどうなのだろうか。当時より不信仰とも言えるが、そうでないのかもしれない。 Zechariah 10:9 わたしは彼らを諸国の間にまき散らしたが/遠い国にあっても彼らはわたしに心を留め/その子らと共に生き続け、帰って来る。 神殿再建の中で、ゼカリヤの使命は、民を励ますこと、鼓舞すること、希望を示し続けることなのだろう。そのような役割のなかで、真実を、謙虚に求め続けるのは、困難なのだろうか。現代でも、様々な状況でも考えさせられることである。目的至上主義とまではいわなくても、たいせつなこととして、すべてをそこに結びつけてしまう。1世紀以後は、神殿は再建されていない。不信仰というより、周囲のひとたちとのよりたいせつだと考える現実があるからだろう。政治的にうごくこともできるだろうが、そこに突き進まないことも御心を求めることなのかもしれない。 Zechariah 11:12,13 わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。 「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。」(マタイ26章15節)そしてこのあと27章におけるユダの記事が続き「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」(マタイ27章9,10節)で引用されている。ここでは預言者エレミヤと書かれており、エレミヤ32章9節、20節、25節の畑の売買を引用箇所とすることもあるが、内容は、ゼカリヤの方が近い。しかし、この箇所の理解は難しい。ただ、ここでも、おそらく、主が値踏みされたことは言われているようである。ゼカリヤの二本の杖、「好意」と「一致」との関連も不明である。 Zechariah 12:7,8 主はまずユダの天幕を救われる。それはダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れが、ユダに対して大きくなりすぎないようにするためである。その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。 「彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり」は、なにか良い印象を与える箇所だが、意味が十分理解できるわけではない。ただ、ダビデの家やエルサレムを中心とした回復とは異なることが言われていることは確かだろう。一人ひとりに焦点が置かれている。それが、主がゼカリヤに示されたことなのか、ゼカリヤが伝えたかったことなのか、主の御心を求める者たちに、共感をもって受け入れられたことなのか、ここだけから判断するのは、困難であるが。 Zechariah 13:1,2 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。 ここでは泉が開かれると表現されている。一人ひとりがこころを入れ替えても主に従うことはできない。神の恵み以外に救いはない。しかし、この記述は抽象的であるように思う。救いは本当に難しい。 Zechariah 14:8,9 その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。 主の日はこのようなものなのだろうか。イエスが悪魔の試みにたいして、イエスがこの世を治めることを拒否しているように見える(悪魔にひれ伏すことを拒否しているとも考えられるが)。ダビデの子と呼ばれ、国の回復へと向かうことには、動かなかった。「その日」がどのように実現するのかは、わからない。わからないということが正解なのかもしれない。わからないことを受け入れて、真摯に生きていくことだろうか。 Malachi 1:4 たとえエドムが、我々は打ちのめされたが/廃虚を建て直す、と言っても/万軍の主はこう言われる/たとえ、彼らが建て直しても/わたしはそれを破壊する、と。人々はそれを悪の領域と呼び/とこしえに、主の怒りを受けた民と呼ぶ。 「エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ。」(2b,3a)から続いている。恵みを理解することは困難で、それの一つの例なのかもしれないが、主はほんとうにエサウを憐れまないのだろうか。引用箇所の次には「あなたたちは、自分の目で見/はっきりと言うべきである/主はイスラエルの境を越えて/大いなる方である、と。 」(5)とあるが、悲しくなってしまった。ただ、わたしのようなものの考えも、しばらくあとの人から見ると多くの問題があるのだろう。時代的な変遷とともに、人々の神様の理解が深くなっていくことを願う。 Malachi 2:5-7 レビと結んだわが契約は命と平和のためであり/わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり/彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり/その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み/多くの人々を罪から立ち帰らせた。祭司の唇は知識を守り/人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。 「レビと結んだわが契約」とこの直前の4節にもある。しかし、聖書の中ではこれら二箇所だけのようである。マラキについてはあまりよくわからないが、律法を守ることが強く意識され、そのための祭司などレビの役割のたいせつさとこれまでの貢献が意識されているようだ。儀式的なこと、そして律法が遵守されることが、祝福の源だと伝えているのだろう。しかし、どのようにして、主のみこころをたいせつにして生きられるのか、それは、簡単ではない。 2020.8.9 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週、予定では明日、旧約聖書を読み終え、新約聖書にはいります。前回も紹介しましたが、わたしのホームページのマラキ書のあとに以前書いた「旧約聖書を読み終えるにあたって」の一文があります。通読はそれなりに忙しく、じっくり考えながら読むことはできませんが、ちょっと立ち止まって、旧約聖書そしてその読み方についてすこし考えてみることをお薦めします。次回は、それを出発点として、問いやテーマをもちながら読むことができるかもしれません。BRC2019では、すでに一度新約聖書を読んでいますから、新約聖書は二度目となります。年末には、新約聖書を読み終わる計画になっています。続かなくなってしまった方もおられるかと思いますが、もう一度、新約聖書から読み始めるのも良いですよ。日課としては明日からですが、今日から読んでみてはいかがですか。 新約聖書の最初は、みなさんご存知のようにマタイによる福音書です。執筆場所や時期・経緯は明らかではありませんが、古くから「マタイによる」とされています。12弟子の一人のマタイ(別名レビ)の影響が強く、マタイが書き残したイエスの説教集のようなものが背後にありそれをまとめたのではないかと考えられています。実は、マタイのつぎのマルコが先に書かれたと考えられており、読むと気づくと思いますがマタイも大筋はマルコを踏襲しています。イエスと寝食をともにしたマタイが、12弟子ではないマルコが書いたものを下地にするのは、不自然でもあります。同時に、マルコによる福音書の下地に加筆(修正?)しているのではないかと思われる部分も、何箇所かあります。このへんにも、マタイの影響があったのかもしれません。マタイの特徴はほかにもありますが、まずは、みなさんに読んでいただきたいと思います。個人的には、福音書から、イエスを浮かび上がらせて、イエスの行動やことばと向き合っていただければと願っています。わたしにとっては、若い頃から今に至るまで、つねに、大きなチャレンジを与え続けてくれているのが福音書だからです。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マラキ書3章ーマタイによる福音書13章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マラキ書とマタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マラキ書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html#ml (マラキ書のあとに「旧約聖書を読み終えるにあたって」があります。) マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Malachi 3:1,2 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 使者の到来。それは道を備える者とある。主の日、回復についての預言である。2節にも「誰が身を支えうるか」とあるように裁きが主目的のようだ。そのあとに悔い改めを勧告する。主に立ち帰ることは、十分の一を捧げること(5,10)のようである。モーセの律法も登場する。(22)そして、締めくくりのように「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(23)がある。ここに、民は期待したのだろう。旧約聖書の最後である。 Matthew 1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 神秘である。実際何が起こっているのかは不明である。婚約後でもあり、ヨセフが関係して子が宿ったことをあとから、このように表現したのか、他者によって身ごもっているマリアをそれと知りながら、引き取ったのか。超自然的な懐胎なのか。ヨセフがある程度早くになくなっていたと思われることも関係しているだろう。このように、伝えたかった背景もあるだろう。「神は我々と共におられる」(23)というもっとも大切なメッセージを届けるためには、このような記述にならざるを得なかったのかもしれない。ひとは、どうしても、この世の現実に照らして、このことばを理解しようとするだろうから。イエスはどのように伝えていたのだろうか。 Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。 おそらく、ベツレヘムで生まれたとするイエスが「ナザレの人」と呼ばれるようになったことを説明する必要があったのだろう。逆に、ナザレ出身であることは、明らかだったため、そこに結びつける必要があったのだろう。ルカ(1章26節)では、出発点をナザレに定めている。書簡には現れないが、使徒言行録には「ナザレの人」(2章22節、3章6節、4章10節、6章14節、10章38節、22章8節、26章9節)とありさらに24章5節には「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。」ともある。ルカ文書の特徴とも言えるが、一般的には、このような呼び方が主流だったのだろう。だからこそ、あるひとたちは、いろいろな議論のもとで、マタイにあるような記述を期待し支持していたのだろう。 Matthew 3:7-9 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 マルコとヨハネでは、バプテスマのヨハネによるイエスに関する証言と悔い改めのメッセージのみであるが、ルカとマタイには、ヨハネのメッセージが伴っている。ルカ3章7節では「そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 」とあるが、対象は「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」で、マタイだけが「ファリサイ派やサドカイ派の人々」となっている。マタイに特徴的な(特に23章)ファリサイ派やサドカイ派批判がここにもある。マタイによる福音書を書いたひとたちは、どのような人たちだったのだろうか。ファリサイ派やサドカイ派の人々からある距離があったのだろうか。これらのひとたちでキリスト者となったひとたちもある程度近くに居たはずであるが。 Matthew 4:9,10 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これ(世のすべての国々とその繁栄)をみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 悪魔からの誘惑(1)は理解が難しいが、これも神の御心を求めるひとつのステップだったことは確かだろう。イエスは自由をもってひとの救いを考え行動することは可能だったはずである。すくなくともわたしたちと同じように。しかし「世のすべての国々とその繁栄」(8)を選んでいない。はっきりしていることは、主を拝み、主に仕えることを選んだことである。世の国々とその繁栄ではないこと、とともに、主の御心を求め続けることを決断したと表現できるかもしれない。それがなにかを正確に理解していたわけではなく。 Matthew 5:13,14 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 イエス(または主)の目から見た「幸い」のあとに続いている。「地の塩・世の光」は有名なことばである。これがどのような生き方なのかが、このあとに書かれている。主を畏れ、隣人を愛する生き方と言えるかもしれない。素朴に感じる。そこに、イエスが伝えていることがあるのだろう。神学はどうしてもひつようなのだろうか。ひとのことばでの神理解の表現なのだろうが。神(永遠)のいのちを生きることを学びながら一日一日を生きたい。 Matthew 6:9,10 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 このあとに描かれている世界観は、イエスにおける御国の世界観なのかもしれない。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(11)は25-34節にも通じるが、御国では主に養われなにの心配もないのだろうか。「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(12)神は赦しの神なのだろう。神様のようにということだろうか。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(13)悪や誘惑の存在を否定はしていない。御国にも悪や誘惑はあるのだろうか。そのなかで主によって保たれている、それを信頼して生きる世界だろうか。やはり御国については、なかなか想像すらできない。 Matthew 7:11,12 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 天の父のように生きることが、イエスが信仰によって生きること、そしてそれをわたしたちにも薦めているのが、山上の説教なのだろう。そう考えると、この二節は密接につながっている。天の父は、人々にしてもらいたいことをされるかたなのだろう。わたしが人々にしてもらいたいことは、なんだろうか。互いに愛し合い、互いに仕え合うこと?はっきりとはわからない。 Matthew 8:31,32 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。 マルコ5章1節から20節、ルカ8章26節から39節に並行箇所があるが、マタイは際立って短い。最初に「向こう岸のガダラ人の地方」(28)とあり、この地名が、この地域をよく知っている、マタイだけが正しいと思われる。ルカは、マルコからとったのだろう。引用箇所のやりとりも、簡潔である。こちらについては、はっきりとは言えないが、マルコの装飾をはぶいたのかもしれない。マルコは、論理的にもちぐはぐさを感じる。「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。 」(13)も印象的である。(ルカ7章1節から10節と比較)ルカは称賛でおわるが、マタイは、願いで終わっている。二人としているのも、マタイだけである。 Matthew 9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。 中風の人にたいし「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(2)と言って癒やされた記事の結びである。このあとも、驚きの表現が続く。収税所にすわっていたマタイを招き(9)徴税人や罪人が大勢やって来て、食事の席にイエスや弟子たちと同席している理由を聞かれると驚くべき答えをし(10)断食に関する驚くべき回答をし(15)12年間も出血が続いている女の信仰に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(22)と即座に答え、死んでしまったと思われた少女を生き返らせ、そのうわさがその地方一帯に広まり(26)癒やされた二人の盲人に口外無用と説くが、二人は黙っていることができず、その地方一帯にいい広め(31)悪霊に取り憑かれて口の利けない人をいやすと「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」としかファリサイ派のひとは言えない状況が起き(34)働き人が足りないことを弟子たちにも認識させる(37,38)。このように編集されているにしても、凄まじい勢いである。わたしも、ほんとうに、驚かされる。 Matthew 10:40-42 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」 前の章は「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9章38節b)で終わっているが、この章で12弟子が選ばれその派遣について書かれていることはかなり厳しい。その最後が引用箇所である。イエスの弟子として派遣されることは、イエスを遣わされた方に派遣されること。それは、同じ拒絶を担うことと言っているのだろう。マタイが書かれた背景も影響しているだろうから、そのままイエスが言われたかどうかはわからないが、本質はかわらないように思う。それだけの一体感はイエスにおいてだけではなく、ひとり一人において求められているのだろうか。まさにルカ14章のような覚悟を求められているようだ。 Matthew 11:28-30 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 バプテスマのヨハネについてそして、ヨハネやイエスが語ることを受け入れない民・この時代からはじめ、最後が引用箇所になっている。ここに安らぎがあると言っているのだろう。そして、わたしも、そのイエスのもとに行くことに惹かれる。しかし、それは大きく異なる価値観のもとに身を委ねることだと言っているのだろう。父の御心に生きることだと、イエスは言っておられるようだ。どのようなことか、はっきりはわからないが、イエスについていきたい。独善的にならないよう気をつけながら。 Matthew 12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」 このことばは「赦されない罪」について考えさせられる。話は「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。 」(23,24)から始まっている。内輪もめの説明や、ファリサイ派のひとが悪霊おいだしていることをどう考えるかを示して、(人間のちからで)論理的に考えることもできることを示し、さらに、神の国についてメッセージを語って、この節に至っている。非常に深い議論が織りなされており、簡単には書けないが、イエスと言い争うことを許容しつつ、神の声に聞き従わないことを責めている。「神の声」は明確にはわからなくても、それに聞きしたがわないことについてはわかるチャンスがあると言っているのだろう。さらに考えたい。 Matthew 13:51,52 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」 「天の国」についてたとえを用いて語られたものがまとめられている。神の支配、天の国については、ひとの言葉では語れないのかもしれない。しかし、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す主人のようだと言われている。ヒントは、さまざまにある。これらの原則をとおして見れば、天の国のことかそうでないかは理解できるといっているのだろうか。まだ、殆ど、理解できていないことを感じる。ヒントを与えられていることを否定しないが「分かりました」とは言えない。 2020.8.16 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) BRC2019としては、いよいよ、新約聖書二回目の通読に入りました。親しみ深く考えること、感じることも多く、もっとゆっくり読んでいきたいと思われる方もおられるかもしれませんね。たしかに、通読は一つの読み方で、通読をしたら聖書が理解できるようになるとは言えないでしょう。ぜひ、気づいたこと、印象に残ったこと、疑問に思ったことなど、短くで良いですから、書き留めていってください。わたしの聖書ノートがいまの形式でスタートしたのは1982年ですが、そのような蓄積が、次の通読の機会に、または、メッセージを聞いたとき、さらには、もっと深く掘り下げて考え読む聖書の会などで、良い起点を与えてきました。それだけではなく、言語化で、より明確に、そのときの自分の思いが記録されますから、その日から、そのことばを生活の中で確認することもできるのではないかと思います。すでに読まれているマタイによる福音書7章24節には「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とあります。行いに焦点が当てられているのではなく、それが岩の土台を築くことが述べられているのではないでしょうか。実際に行ってみると、より深く理解できたり、ことばでは十分表現できていないことまで、考えさせられたりするなかで、岩の土台が気づかれていくのではないでしょうか。そしてそのことこそが、イエスとともに歩むことであるように思います。今週は、マタイによる福音書の後半、一章を残して読み終わります。描かれている状況を思い浮かべながら、イエスとともに歩むことができれば素晴らしいと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マタイによる福音書14章ーマタイによる福音書27章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Matthew 14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 」(ヨハネ20章31節)とあるが、マタイでは「神の子」証言は10回ある。最初の2回は悪魔の試み(4章3,6節)で悪魔が「神の子なら」と言い、3回目は山上の説教で「平和を実現する人々」(5章9節)を神の子と呼び、4回目は8章29節で悪霊に取り憑かれた二人が「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」と叫び、引用箇所のあとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)と告白。26章63節では大祭司が「お前は神の子、メシアなのか。」と問い、イエスは「それは、あなたが言ったことです。」(64)と返答している。さらに民衆が「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(中略)神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(27章40、43節)そして、最後に27章54節で「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。 」との告白が10回目となっている。引用箇所が特別なのは、「拝んだ」ことだろう。当時拝むのは、神のみ。神と同一視、または、神と本質において変わらないことを証言しているのだろう。マタイでは、神の子証言を注意深く書いているように思われる。読者に多くのユダヤ人がいたからだろうか。 Matthew 15:18-20 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」 「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(10b,11)について、ファリサイ派の人々がつまづいたとの報告があり、イエスのそれに対する応答に引き続いてのペトロの質問に対する言葉である。ファリサイ派がなににつまづいたか、また、ペトロの質問は、なにを聞いているのか不明確であるが、イエスは教えの本質的な部分のみ解説しているように思われる。また、それだけが理解され、印象深かったために記録されたのかもしれない。引用箇所において、「汚す」とはなにを意味するのかが問題になる。おそらく、神さまとの関係を妨げるということなのだろう。そのひとの本質(心)から「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」が出ている間は、神との関係が回復されないのだろう。儀式的な清め(手を洗うなど)によって、神との関係が回復されるのではないことを教えている。もう少し、考えたい。「人を汚す」にはもう少し深い意味があるかもしれない。 Matthew 16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 これは、イエスがご自身をメシアだとお認めになったと言える。メシアであることではなく、どのようなメシアかが鍵なのだろう。メシアということばが独り歩きすることを望まなかったのだろうか。すると、直前のペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」(16)の内容も問いたくなる。後半が重要なのかもしれない。メシアであることではなく、神の御心をそのまま体現する神の子ということか。しかし、十分理解できているわけではない。考え続けたい。 Matthew 17:22,23 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。 二回目の告知である。一回目は、16章21節。この直後の、24節から26節の「イエスについて来たいもの」についての表現からも、よくはわからなくても、本気度は伝わってきたろう。17章の最後には神殿税のことが語られているが、このような差し迫った状態で「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」(27節)のきっぱりとした言い方に感銘をうける。 Matthew 18:19,20 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 「教会」(17)や、突如「あなたがたが地上でつなぐこと」(18)が現れ不自然である。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(15)と引用箇所が元来のイエスのことばだったのではないだろうか。この二人が、「二人または三人の証人」という、申命記17章6節、19章15節に結び付けられ、教会での戒規と、その背景にある、16章17-19節にあるペトロの告白に応答する形でイエスが語ったことばに結び付けられているように思われる。そこをとばして、15節からすぐに19節に続いても、良いように思う。「はっきり言っておく」が、18節と19節に繰り返されているのも、それを裏付けるように思われる。むろん、推測の域を出ないが。 Matthew 19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 「金持ちが天の国に入るのがむずかしい」(23)に中心を置くことが多いが、流れとしては、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 (16)の答えとして、引用箇所があると考えるのが自然である。間に、十戒の引用があるが、たいせつな部分は、イエスに従うことなのだろう。その中で、永遠の命を得る営みがなされる。または、イエスに従うことこそが、永遠の命を生きることだと言ってもよいのかもしれない。 Matthew 20:20,21 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 マルコ10章35-45節と比較し、ここでは本人たちではなく、母に願うことをさせることで、ゼベダイの子らを擁護しているととる節があるが、正直受け入れられない。マタイは、事実はこうだったと細かい修正をしたのだろう。もし、本当に、二人の兄弟を擁護するなら「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」(24)とはしなかっただろう。ゼベダイの子らの母は十字架のときにも居る三人の女性の一人である。(27章56節)これはマルコ15章40節と比較すると、サロメという中もしれない。確実ではないが。そのようなよく知られたひとがここでも登場しているというに過ぎないだろう。 Matthew 21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 隅の親石の引用のあとに続いている。マタイは、ユダヤ人、それも、ファリサイびとや、サドカイ派のひとたちから、神の国が取り上げられることを強く警告しているように思われる。だからこそ批判も強いのだろう。それは、隅の親石においても、価値観の大きな違いについて、言っているように思われる。 Mathew 22:2,3 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 この章では、このたとえのあと、皇帝に税金を納めるべきか、復活とはなになのか、そして、最も重要な掟、メシアはダビデの子かとの問いが続く。23章は、律法学者やファリサイ派の人々への非難となっており、その前のひとつのまとまりである。引用箇所に設定が記されている。王子はイエス、婚宴に招いておいた人々は、律法学者やファリサイ派の人々に代表されるユダヤ人ととるのが一般的だろうが、中心は最後の部分にあるのかもしれない。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(14)その核となるのは、招きを受け取るということに思われる。応答と表現してもよいかもしれない。むろん、生き方、いのちに生きることによってだろうか。 Matthew 23:11,12 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 律法学者やファリサイ派の人々への非難が続く章である。これでもかこれでもかと続くので正直辛くなるが、マタイ記者にとって、それこそが重要だったのだろう。それは、単なる批判ではなく、自分自身が一番たいせつなこととして学んだからだろう。律法学者たちの教えを違和感を感じつつも、真理と信じていたのかもしれない。行き着いた先が、イエスを通して学んだ、仕えること。へりくだる者となること。神の前にへりくだることは、ひとにたいして謙虚になることにむすびついているのだろう。他者・自己を含めて。 Matthew 24:12,13 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 以前からすきな言葉である。耐え忍ぶことは、我慢することを考えてしまうが「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 」(45)にあるように、賢さと忠実さであるように思った。いつも言っている「たいせつなことをたいせつにしていきる」その忠実さであるが、同時に、なにがたいせつなことかを見極める賢さがひつようである。イエスの目を通して、そのことを学び続けていきたい。イエスの行動を学びそのように生きていきたい。 Matthew 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(40)と対になっている。本人が気づいていないことなど、他の焦点のあてかたもあるが、イエスに対することと、イエスの兄弟であるこの最も小さい者のひとりに対することの対比は、印象的である。イエスの兄弟は、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12章50節)を思い出させるが、マタイには、「兄弟」が30回登場する。「人間はみな兄弟である」を思い出すが、ここでも、ひとの区別をしてはいない。そのテーマもしっかり受け取ってみたい。 Mattew 26:31,32 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」(ゼカリヤ13章7節)からの引用のようだ。この光景をイエスは重ねたのだろう。背後の主がおられることを確信して。興味深いのは、ガリラヤについての言及である。みなが、ガリラヤに帰ること、そこには、イエスがいることを示しているようだ。それが、あらたな生活の始まりである。イエスの愛を感じる。 Matthew 27:11-14 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。 何箇所か登場する「それは、あなたが言っていることです」が昔から気になっていた。「そのとおりです」との訳もあったので、宣教師に聞いたこともある。肯定だという答えに満足は得られなかった。この箇所を見ると、文脈としては「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかった」とあり、やはり明確には答えていないのだろう。整理して調べてみたい。 2020.8.23 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 新約聖書、そして、マタイによる福音書はいかがですか。今週はマルコによる福音書に入り読み進めます。マルコによる福音書が、4つの福音書の中で最初に書かれたこと、聖書に何度も現れる、ヨハネ・マルコが著者であることも、ほとんどの学者が合意しているところで、マルコは、ペトロの通訳者だったと伝えられています。ペトロが逮捕後解放されたことが書かれている使徒12章12節に次のようにあります。 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 大勢の人が集まって祈ることができるような家がエルサレムにあったことが分かります。このあと、新約聖書を読み進めると、何回か出てきますので、注意してみていくと良いですね。マルコによる福音書は、語り口調で書かれているように思われます。特に「すぐに」ということばで次の場面に展開する箇所が30回以上あります。イエスの誕生については書かれておらず、 神の子イエス・キリストの福音の初め。(マルコによる福音書1章1節) と始まります。「福音」はどのように語られているのでしょうか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マタイによる福音書28章ーマルコによる福音書13章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マタイによる福音書と、マルコによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マタイによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mt マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Matthew 28:16,17 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 今回印象的だったのは、マタイでは、イエスがガリラヤに行くことを何度も言っていることである。それが共にいるということなのだろう。弟子たちにとって、イエスが共にいるのは、ガリラヤだったろう。特に、マタイにとっては、それが重要だったのかもしれない。例外として「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 」(8,9)しかしここでも「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』 」(10)とあり、ガリラヤが繰り返されている。 Mark 1:23-26 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 「権威ある教え」(22,27)の例示としてこの記事が挿入されているようだ。痙攣を起こさせるという目に見える証拠を示している。おそらく、表現のしかたは、重要ではなく、何らかの具体性をともなったものとして記述されているのだろう。ここでは、イエスが、どのように行動されたかは、書かれているものの、正確ではないかもしれない。痙攣については、目撃証言的イメージを与えているが。 Mark 2:27,28 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」 きっぱりとしている。周囲の人は驚いたろう。人の子は安息日の主とまで言い切らせたのは、なにゆえだろうか。イエスを通して、安息日も理解するためだろうか。イエスが、安息日にどうされたか。これは、それまでの実践とはかなり異なっていたと思われるが。神は創造のとき、ひとのために休まれたのだろうか。一週間の創造がひとのためなのだろうか。権威をもってして初めて定められることであることは確かだ。 Mark 3:33-35 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」(32a)とある。このひとたちは、神の御心を行うひとなのだろうか。おそらく、そうは断定できないだろう。ただ、それを求めて集まってきていた人たちではあったかもしれない。イエスの兄弟、姉妹、母とは、ここに書いていあるのが定義だと伝えているのであって、差別をするために、囲い込みをするために、伝えているのではないのだろう。これも、恵みとして受け入れられるひとは、幸せである。 Mark 4:26-29 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17章21節)をひいて、ナイチンゲールが「神秘主義とは何か。祭典や儀式によってではなく、心の姿勢によって神に近づこうとする試みではないのか。『神の国はあなたがたの中にある』という聖句を、ただ難しく表現した言葉ではないのか。天国は場所でも、時間でもない。それは・・・ここにあるばかりか、今あるのかもしれない・・・」と言っている。引用箇所を実際の生活の中に発見すること、それはたしかに神秘主義かもしれない。ナイチンゲールは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4章34節)は、神秘主義宗教の礎を、熱烈に印象的な言葉で表したものと表現している。ナイチンゲールは、統計も使いながら、いろいろなところに書かれている神の言葉を読み取ろうとしていたのだろう。 Mark 5:27-29 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 このことは、イエスが魔法の杖で病を直していたのではないことを立証しているように思う。イエスのことば「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 (34)は非常に印象的である。これが本質的な回復を生んでいるのだろう。病からの回復にとどまらない。全人的な回復である。そしてそれは、イエスとの関係によって、一時的なものではなく、保たれるものでもあるのだろう。 Mark 6:12,13 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。 「いやした」は、ここでは、テラペウオ (therapeuo: 1. to serve, do service 2. to heal, cure, restore to health) が使われている。マタイ16回、マルコ6回、ルカ14回(13節)、ヨハネ5章10節のみ、使徒5回、あとは、黙示録に 13:3, 12 にあるのみである。十二人は、油を塗って「仕えて」いる。当時はそれをいやしといったのだろう。しかし、現代的に考えると、病気が治ったと考える、そのギャップが仕えたという意味さえも葬り去ってしまったのだろう。全人格的ないやしを、イエスは願っていたろう。それを弟子たちも、受け取っているはずだ。症状が消えたこともあるかもしれない。そして、それは、継続したけれども、made whole という「いやし」が実現したことを、このように表現しているように思う。ヨハネで証言していることとの、違いを理解する必要もある。 Mark 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 この箇所も、マルコは乱暴である。マタイ15章21節から28節に並行箇所があるがそちらがより丁寧である。おそらく、批判もあったのだろう。当時は、シリア・フェニキアにも福音は伝わっていたろうから。イエスのなされたことの理解が、少しずつ深くなっていると考えることもできる。断片的に、伝えられたものをつないで、真実を学ぶことは、いまでもできるように思われる。 Mark 8:6-8 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 何度も考えてきた箇所である。ここでは、4000人(9)のひとたちが、満腹したようである。これが、魔術でないと思われるのは、もし、魔術なら、かえって人を簡単に魅了し、「解散」(10)できなかった、またはこのあとも、パンの魔術を求めたと思うからだ。魔術とはことなることがここに出現したと考えるほうが、より自然だろう。4000人養いの記事はマルコ以外は、マタイ(15章32-39節)にしかないが、どちらも、その直後に、ファリサイ派の人々とヘロデのパンだね(14-21, マタイ16章5-12節)が書かれている。イエスは「まだ悟らないのか」(21)と言っているが、悟らなければいけないことがこのことに結びついているのだろう。ひとつ考えられるのは、主が養ってくださること。ここでは「賛美の祈りを唱えて」(7、マタイでは「感謝の祈り」はあるが弟子たちへの指示はない)とある。主に目を向けることが関係していることはたしかだろう。 Mark 9:49,50 人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 48節では、地獄の火について述べられており、その関連性は不明である。しかし、火で塩味がつけられること。そして塩気、さらに、互いに平和に過ごしなさい。は印象的である。私にとって、火はこの聖書を読む時間が基盤となっているように思う。聖書を読みながら、何度、火がつけられたか。そして、消えそうな火が何度ふたたび燃え立ったか。神からの火なのだろう。そしてそこには、何かを変えるエネルギーがある。文脈は、小さなものをつまずかせないことにあることも、興味深い。 Mark 10:23-25 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 このあとの続きからすると、神の国(支配)のもとに入るのに、すべてを捨て去ることができないということだろうか。いのちを、ささえるものがほかにもあると未練がのこってしまうからか。鍵は、めぐみとして、受けることができるかなのだろう。「神はなんでもできるからだ」(27)神への信頼とつながっていることなのだろうか。 Mark 11:24,25 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 イエスが呪ったいちじくの木が枯れていたことに発するイエスの教えである。祈りについて教えているが、この最後の言葉をみると、イエスは、ちょっと後悔しているようにも思う。一番、たいせつないのりは、恨み故に赦せない自分が、変えられることなのだから。すこしずつ本質的なほうこうに、教えも導かれているように思う。 Mark 12:26,27 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」 この章は、イエスが本音を続けて語っているように感じる。学習を待つのではなく、真理をぶつけているということか。この引用箇所は、しかし、難しい。すくなくとも「アブラハム、イサク、ヤコブの神であった」と言っているわけではないということか。それとも、アブラハム、イサク、ヤコブも、いま生きていることを伝えているのか。「死者が復活することについては」とあるが、肉体において死んでも、生きている、そして、神は、そのひとたちともともにいるということだろうか。アブラハム、イサク、ヤコブと神との関係は、もしそこに永遠の命があるなら、いまも、存在しているというより、生き生きと生きているのかもしれない。その実体は、ひとりひとりの中にあるのだろうか。 Mark 13:32,33 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。 弟子のひとりが「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(1)といい、イエスが神殿の崩壊について語り、ペトロたちが「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4)と聞いたことに端を発している。イエスは、それに答えているが、一番、気にしていた、心に懸かっていたことは、弟子たちや、神をもとめ、イエスについてこようとしていた人たちのことだったように思う。「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(7)の中でも、目を覚ましていること、いつかが重要なのではないと伝えているのだろう。学ぶことが多い。 2020.8.30 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) マルコによる福音書はいかがでしょうか。マタイによる福音書にかかれているのと同じ箇所を見つけられたかもしれませんね。今週は、マルコによる福音書の最後の部分を読み、ルカによる福音書に入ります。マルコによる福音書の最後の部分には、おやっと思われるかもしれません。写本によって結びが異なっているからです。訳にもよりますが、いくつかの結びがついているものもあります。復活の部分と大宣教命令と言われる16章15節もその部分に含まれています。マルコによる福音書が書かれたのは、イエスが十字架にかけられてから、20年から25年ぐらいたったころかと思います。もしかすると、イエス様の復活に関する証言が様々であったり、少なくとも統一したまとめられたものにはなっていなかったのかもしれません。マルコによる福音書はある意味でイエス様の地上での公生涯といわれる宣教活動を、イエス様の直接の弟子ではないが、当時のキリスト者のグループの主要人物であるヨハネ・マルコが最初にまとめて記述したものだとも言えるでしょうから、多少の混乱は、あったのかなと思います。みなさんは、どう考えられますかね。 今週は、次のルカによる福音書に入りますが。ルカは、使徒言行録(使徒行伝・使徒の働き)の著者でもあり、かなりの期間、パウロと行動をともにした医者で、エルサレムにも一緒に行ったようです。パウロの語るキリストを理解した上で、イエスの公生涯についてできるだけ情報をあつめて、それを記録しようとしたのでしょう。新約聖書の中心をなす、福音書とパウロ書簡の橋渡しをするのがルカ文書またはルカなのかもしれないと考えています。ルカによる福音書の特徴も含め、みなさんは、どのようなことを読み取られるでしょうか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 マルコによる福音書14章ールカによる福音書11章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 マルコによる福音書と、ルカによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 マルコによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#mk ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#lk 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Mark 14:61,62 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」 「それはあなたの言っていることです。」という間接的な表現ではなく、このイエスの応答は直接的である。Ego eimi. I am. そのあとに詩篇110篇1節「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」を背景とした引用が続く。「あなたたちは」と書かれている人たちは、それを見るのだろうか。見るように定められているのだろうか。難しい。 Mark 15:40,41 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。 多くの女性が従っていたことが書かれている。過ぎ越しの祭りのときではあるが、特別なことが起こることを知っていてついてきたのだろうか。その婦人たちは、名前のある3人とともにそこに居たのだろうか。どのような状況だったのだろうか。ただ、正直、これが世界を変えるすごいことだとは残念ながら思えない。イエスが、歩み、生きた生涯こそが価値があると思う。 Mark 16:19,20 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。 (結び1)の終わりである。結びがいくつかあるのは、復活に関する記述にマルコの周囲でも合意がなかったのかもしれない。主要な復活証言(14-18)には場所も書かれていない。ガリラヤなのか、エルサレムなのかも不明である。興味深いのは、天に上げられたことが書かれ、そのあとに、「主は彼らとともに働き」とあることである。天に上げられたということは、物理的には不在になったと考えることが自然だろう。しかし、彼らとともに実際に働かれたことは、否定しようがないこととして合意できていたのかもしれない。ただ、このことが、地上でのイエスを知らない人たちにまで広がりを持つ信仰として共有されるには、より具体的な復活証言が必要だったのだろう。難しい。 Luke 1:13,14 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 ザカリヤにとってヨハネの誕生は喜びとなるという預言が印象的だった。ザカリヤは年を取っており、いつまで生きていたか不明であるが、ヨハネのような生き方を喜ぶことができると見初められたと証言している。ヨハネについては「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(80)とあるが、実質的には、何も書いていないように思われる。ヨハネはどのような人だったのだろう。 Luke 2:36-38 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 不思議に感じる。まず、非常に具体的な情報が満載である。しかし、「そのとき」とあるが、実際にしたことは「幼子のことを話した。」だけである。おそらく、この女性は、実在のエルサレムでは有名な人だったのだろう。シメオンもそうなのかもしれない。情報を集めていた、ルカが、聞いたことは、丁寧に含めたのだろう。事実を確かめることは、不可能であったろうが。ルカの誠実さに感謝することにしよう。 Luke 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 かなりの部分が、マタイと酷似している。詳細を確かめないといけないが、焦点はすこし違うように思われる。ルカにおいては、ファリサイ派やサドカイ派(マタイ3章7節)は登場しない。より広い人たちへのメッセージなのだろう。ルカでは「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。」(10)に対する、群衆・徴税人・兵士への具体的なメッセージが記され、悔い改めがなにを意味するかが例示とともに説明されている。おそらく、読者を想定して、罪の悔い改めは、行動をともなった、非常に自然な行為・生活の転換として描かれているのだろう。 Luke 4:21,22 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 イエスは何を語ったのだろうか。イエスが、メシアであるとは語らなかったのではないだろうか。ここでは、単に、読まれた聖書の箇所の恵み深い解き明かしをされたのではないだろうか。しかし、このあとの、「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 (23)からは、この言葉が、ナザレで実現することを、民は期待したのだろうか。イエスのメッセージを聞いてみたかった。山上の説教には、対応することは含まれていないように思われる。 Luke 5:36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。 このあとにはぶどう酒と、革袋のたとえが続く。新しい教え、生き方を、古い教え、生き方に取り入れることを言っているとしてよいだろうか。一部だけを取って、ツギハギをすることは、われわれの得意とするところであるように思う。西洋からよいことの一部をとってきて、日本流の改善をしたりする。ただ、それが、西洋のよい部分を損なうことではないように思われる。とすると、このたとえで伝えていることは何なのだろうか。主体は、古い副にあるようだ。断食について語っているのだが。もう少し良く考えたい。 Luke 6:46,47 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 このあとに「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(48,49)と続く。つまり、聞いても行わないということは、土台がないと言っている。それは、おそらく、行うこと自体が土台なのではなくて、行うことによって学ぶこと。イエスの言葉を実体を伴って理解すること、人間のことばだけでは不十分なところをしっかりと埋めることにつながっているのだろう。まさに、サービス・ラーニングを通して学ぶことである。 Luke 7:22,23 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」 バプテスマのヨハネからの使いのヨハネの問「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(20)への回答である。使いが去ってから、おそらく使いが聞いたら嬉しかったと思えるようなヨハネのことを語りだすなど、意地悪にも感じる。しかし、おそらく、問に、イエス、ノーで答えても意味がないことをご存知だったのだろう。そのように答えると、ヨハネが信頼するのは、イエスという人になってしまう。疑うとすればそれは、やはりイエスという人である。イエスは、ヨハネだけではなく、使いにも、その場にいる人にも、神様との直接の関係において、この問を考えてほしかったのだろう。それこそが信仰の営みであり、自分を含めた、ひとではなく、神に信頼することだから。イエスの最後のことばは印象的である。「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(35) Luke 8:21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。 マタイとマルコでは、種まきのたとえの前に置かれているが、ここでは、種まきのたとえと、灯火のたとえに続いて、この記述がある。無関係だとも取れるが、「神の言葉を聞いて行う人」が最近考えていることなので、直前の「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(13)との関連性が気になった。どう聞くかが、聞いて行う人につながっているように思われる。行いながら、学ぶことができるからである。種まきのたとえからわかるように本人の責任とも言っていないところが興味深いことである。しかし、改善の指針は示されている。 Luke 9:53-55 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 イエスは振り向いて二人を戒められた。 イエスは裁かれる方ではない。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」もあとから弟子たちにイエスが説明したのかもしれない。サマリヤ人がイエスを歓迎しない理由があることを。そんなことはお前たちにはできないと言わずに、戒めている。拙速に、怒ってしまう、私たちに、大きな教訓を与えている。 Luke 10:5,6 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。 「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」(1)とあり、イエスが訪れる前触れに限定しているようである。興味があるのは、引用した「平和 (eirene: 1. a state of national tranquillity, exemption from the rage and havoc of war 2. peace between individuals, i.e. harmony, concord 3. security, safety, prosperity, felicity, (because peace and harmony make and keep things safe and prosperous))」そして「あなたがたの願う平和」である。神の支配のもとにある完全な状態かなと思うが、これがどのようなものであるのか、落ち着いて学びたい。弟子たち、そしてイエスにとって、これは、どのような意味をもった言葉だったのだろうか。平和の反対が起こらないように祈るのだろうか。 Luke 11:34,35 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 わかるようで、わからない言葉である。目と、ともし火が結び付けられている。これは外からなにかを取り込む窓なのか、それとも中にあるエネルギーなのか。おそらく、分離せず、外(神が周囲のものや人を通して示してくださる世界)の中(すでに蓄えられている考え方や価値観・経験をもとに決断していく意志)の関係について理解すべきなのかもしれない。よく考えたい。 2020.9.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ルカによる福音書の後半を読み、ヨハネによる福音書に入ります。ルカによる福音書はいかがですか。ルカによる福音書のには印象的なたとえがいくつかあります。他の福音書には書かれていないたとえを拾ってみると 1. 借金を帳消しにしてもらった二人のひとのたとえ 7章41-42節 2. 善きサマリヤ人のたとえ 10章30-37節 3. 愚かな金持ちのたとえ 12章16-21節 4. なくした銀貨のたとえ 15章8-10節 5. 放蕩息子のたとえ 15章11-32節 6. 不正な管理人のたとえ 16章1-8節 7. 金持ちとラザロのたとえ 16章19-31節 マタイにもたとえが多いですが、このようにルカだけに書かれているたとえがあるということは、イエス様がたとえで語られることを好んだようですね。次のことばは印象的です。 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」 (8章10節、マタイ13章10-17節、マルコ4章10-12節にも同様の記述があります。) なぜ、イエス様は、たとえを使われたのだと思いますか。ルカは、どのようなことを考えて、これらのたとえを書いたのでしょうか。わたしは、神の国のことを地の国(ひとの)ことばで理解できるように語ることはできない、または非常に困難なのではないかと個人的には思っています。自分が理解していることを語っても、聞き手が受け取ることができなければ、伝え、共有することにはなりませんから。具体例を示すことも考えられますが、例示よりも、本質を極力表現できるように、創作的に語ることができる、たとえで「すぐにはわからなくても、神の国を求め続け、いつか理解してね」と言っているのかなと思っています。ルカさんも、聞き取ったことを、極力正確に記述し、かつ、なんども、何度も繰り返しあたまに描きながら、考え、思いを巡らせながら、いろいろなことを理解していったのではないでしょうか。しかし、自分が理解したことを伝えるのではなく、みなさんにも考えてほしいと、書いているのではないかと思います。みなさんと共に、それぞれのたとえから、イエス様からのメッセージを求め続け、受け取ろうとし、そして、神の国のことを少しずつ理解することができていければと願っています。そのいとなみ自体に価値があるのではないでしょうか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ルカによる福音書12章ーヨハネによる福音書1章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ルカによる福音書と、ヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルカによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#lk ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Luke 12:29-31 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」(26)は印象的である。そこで「ただ、神の国を求めなさい。」とあるが、それは大きな事で、それこそできないのではないかと思ってしまう。中心は、「思い悩むな」ということ。神様の支配のもとで生きることを求めなさいといっているのだろう。いちばんたいせつなことを求めることで、現実世界の問題はかえって簡単になるのだろうか。それとも、それは、解決しないのだろうか。また、考えてみたい。 Luke 13:28,29 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23)への応答として書かれている。このあと「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(30)と続く。多いか少ないかではないことを伝えているのだろう。そして、後になっても神の国に入れるのだろうかとも考えてしまう。イエスにとっては、神の国の宴会はリアルなものだったのだろうか。わたしには、正直、想像できないが、神とそこに集まった人たちと喜びをともにするときのことなのだろうか。 Luke 14:10,11 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 おそらく日本では、末席の取り合いになることが多いだろう。そして、実際には、上席を薦められることはまれである。そうであっても、自分を他の客と比較し、自分はそれなりに重要人物であることを心のなかで思うことはある。国民性もあるのだろうが、核は最後の謙虚さのたいせつさなのだろう。評価を神に任せることだろうか。このあとに「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(13)とある。最後に「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(14b)とあり、次の節に「神の国で食事をする人」(15)の幸いについて書かれており、聞き手もそれを意識していたことがわかる。単に、この世での称賛を受けず、天国での神からの称賛に取っておくことを言っているのだろうか。イエスは、神の国のことと、この世の生き方がつながっていることも伝えているのだろう。難しい。 Luke 15:1,2 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 このあとに迷い出た一匹の羊のたとえ、なくしたドラクメ銀貨のたとえ、そして、放蕩息子のたとえが続く。神の国で食事をする人の幸いに続く、イエスの教えの後である。神様がどう見られるか、何をたいせつにしておられるかを伝えていると同時に、父なる神がたいせつにすることを、この地上でも自然にたいせつにして生きるイエスの姿が印象的である。話を聞こうと近寄って来ている徴税人や罪人をたいせつにすることは当たり前の自然なことなのだろう。わたしは、天の父なる神様がたいせつにすることもよくわからず、自然にはそのように生きられないが、このイエスさまの生き方に見習っていきたい。少しずつ学びながら。まさに、WWJD=What Would Jesus Do?や、WWNJD=What Would Not Jesus Do? と常に問いながら。 Luke 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 興味深いたとえである。「不正な管理人のたとえ」もこの「金持ちとラザロ」もルカの独自記事である。途中に挟まれている14-18も、言葉自体は、同様のものがマタイなどにあるが、背景などは異なるようである。10章の放蕩息子のたとえなど、ルカの特徴をあらわす部分だろう。しかし、わかりにくいことも事実である。ラザロの復活まで書かれており、ヨハネ11章を思い出させるが、結論は、結局、聞き入れはしないと結ばれている。では、どうすれば、変わりうるのだろうか。神による、聖霊によるというのは、容易いが、イエスは何を伝えているのだろうか。結局、このたとえを聞いた時点で、悔い改めることを求めているのか、単に、金に執着してイエスをあざ笑った(14)ファリサイ派の人々へ厳しいことばを投げかけるだけなのか。たとえの中の金持ちは、特別な悪をなしているわけではないし、死後の世界のリアリティも含めて気になる。こころからの、悔い改めを求めているのか。 Luke 17:17-19 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 このあとに「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。 「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」(20,21)がある。前の章の内容、もしかすると、放蕩息子の兄も含め、とくべつな世界を求めるのではなく、ここに、神の国はありうる。からし種ひとつぶほどの信仰があれば、このもどってきた重い皮膚病を癒やされたサマリヤ人のように。自分が、変えられてはじめて、なにかができるようになるのではなく、いま、このときに、この自分のありのままの状態で、神に従い、神に喜ばれ「あなたの信仰があなたを救った」と称賛され、あなたがたの間に神の国があるといわれる奇跡が起こり得ると言っているのかもしれない。引き続き問い理解を深めていきたい。 Luke 18:6-8 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」が気になった。選民という、ルカによる福音書にはそぐわないことばに感じられたからだ。「神の国はあなたがたの間にある。」のパラグラフの次であるが、同時にこのあとには、ファリサイ派のひとと徴税人の祈り、こどもの祝福と続く。神を真剣にもとめている、また、み言葉を行う人のことだろう。真意をじっくり理解しよとしないといけない。聞いている人に、不正な裁判官ということばから注意を引いて、考えさせているのだろう。文字通りに読むことが問題であるひとつの根拠でもある。 Luke 19:9,10 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。 「選ばれた人たち」が「アブラハムの子」と解釈する人もいるだろう。しかし、ここでも、イエスは、ザアカイの救いを第一に考えて行動したと思われる。「おまえのような人間がアブラハムの末裔にいることはなんという恥辱だ」というような声を聞き、それに甘んじていたのではないだろうか。そのときに、アブラハムの子、まさに、選ばれた人として「今日は、是非あなたの家に泊まりたい。」(5)と言われる。まさに、失われた、羊をみつけるために、イエスは、このエリコにも来たのだろう。心理学などの技術的なことではなく、愛の神を生きる、イエスの姿がここにある。イエスは、イエスが来た、そして生きている目的「失われたものを捜して救う」ことを生きておられる。 Luke 20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 この章の記事、イエスや、バプテスマのヨハネの権威はどこから来たのか、皇帝へ税金を収めるべきか、復活とはどのようなものか。いずれも、イエスは非常に賢く答えている。ただ、賢さは、本音、本当に伝えたいことではないことも感じる。その極みが、このメシアはダビデの子かという問いによく現れている。ダビデの評価を適切にすることは、できなかったのだろう。弟子たちには、比較的本音で話したのであろうが、理解力は十分ではなかったろう。賢さについても、考えさせられる。エルサレムでのイエスの状況はすでに行き詰まっていたのかもしれない。 Luke 21:3,4 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 ここでは、周囲に気にせず、伝えたいことを言っているように思う。イエスはほんとうに伝えたいことを言えなかったのではと思ったが、そうかもしれないが、伝えてはいるのだと思う。わたしのような読み方でも、何らかのメッセージを受け取っているのだから。むろん、表面的な読み方で、そのメッセージを受け取ることはできないが。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8章18節)さて、引用箇所でも、実際の行為に目を向けていてはいけないのだろう。向こう見ずにも見えるが、神への信頼だろうか。金持ちにはできないことなのかもしれない。難しさも感じる。 Luke 22:21-24 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」(3)とある。ルカは、このようにしか表現できなかったのだろう。同時に、引用した箇所で、イエスは「人の子は、定められたとおり去って行く」であること「人の子を裏切るその者は不幸」であることを伝えている。そこで「裏切るものは誰か」という議論と「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」との議論が起こったことが書かれ、(イエスがしてきたように)仕えるものになりなさいということと、ペテロの離反予告が続く。ルカの書き方は、裏切りは、だれにでも起こりうることを強調しているように思う。イエスと共に「種々の試練に遭ったとき」踏みとどまり、互いに仕えるものとなること。そこに鍵があると言っているようである。困難の中でともにおり、互いに仕えることが、裏切らず、サタンに空きを見せないことになるのだろうか。 Luke 23:3,4 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。 イエスの「それは、あなたが言っていることです」は印象的である。同様の言葉が、22章70節にもある。慣用句でもあったかもしれないが、答えることを委ねており、意味深さを感じる。ピラトだけではなく、ルカによる福音書の読者みなに問いかけ、そして応答を求めているのだろう。わたしは、どう応答するだろうか。 Luke 24:33,34 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 ルカでは、復活証言はすべてエルサレム付近に集中している。マタイとの大きな違いである。マタイとルカは同様の資料を使ったと言われているが、同時に、同時期に成立し、お互いの福音書の存在を知らなかったろうとも言われている。その根拠にも違いが上げられるので、成立状況を考えて、根拠とすることには問題があるが、内容や重点の置き方が、実際に起こったときからかなりのときがたっていても食い違っていることは、確認すべきことだろう。ルカでは、エルサレムでの昇天と「エルサレムからはじめて、あらゆる国の人々に」(47, 使徒1章8節参照)とまとめており、フォーカスが違うとも言えるが、実際の移動に2日ほどかかることを考えると、それだけを理由にすることは困難でもある。いくつもの証言が存在していたこと、しかしそれぞれの証言がばらばらで、食い違っていたのかもしれない。 John 1:16-18 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネによる福音書の冒頭の1節から5節があまりにも印象的であるが、それはイエスをことばとして表現するとという内容で、ヨハネが証言者としてあかししていることは、引用箇所にある「恵みと真理」なのかなと今回強く思った。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14)個人的にも、イエスに付加する(不遜な感じがするが)もっとも適切なことばは「恵みと真理」かもしれないと思う。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16)にもある「恵み」が最も特徴的なことで、それを通して示される「真理」なのかなと思う。また、ヨハネによる福音書に戻ってくることができて幸いである。 2020.9.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 通読の予定では、今日、ルカによる福音書の最後の章とヨハネによる福音書の最初の章を読み、今週ずっと、ヨハネによる福音書を読み進めることになります。 ヨハネによる福音書の背景も、いろいろな節があるようですが、多くのひとたちに支持されていることをもとに、わたしの理解を書いてみます。ヨハネはガリラヤ漁師で雇い人もいる網元のようなゼベダイの子でヤコブの兄弟、イエスの十字架から60年ぐらいは生き、イエスと行動を共に直接知っている十二使徒のひとりで、キリスト教会の長老です。実は、4つの福音書で、直接の目撃証言者として書いているのは、ヨハネだけだと思われます。マタイも十二弟子の一人で、いくつか証言が含まれているようですが、流れはマルコによる福音書に従っています。マタイによる福音書は、イエスの説教集を記録したとも言われ、それが土台となっているようです。 ヨハネによる福音書を読むと、他の福音書にかかれていないことがたくさん書かれています。他の福音書よりも前の出来事とおもわれることもいくつもあります。ヨハネの福音書の中には、ヨハネは出てきませんが、イエスの愛しておられた弟子(13章23節・21章参照)がヨハネなのではないかと推測されています。また、19章26節にあるように、イエスからイエスの母の世話を委ねられた「愛する弟子」もヨハネだと考えられています。もしかすると、1章にバプテスマのヨハネの弟子の二人として書かれている、アンデレ以外のもうひとりはヨハネかもしれないと考えているひともいます。いずれにしても、イエスと最初からともに行動をし、十字架のあとも、ながく生き残り証言をしていたヨハネによる福音書の価値はとても高いと思います。しかし、イエスの十字架あの意味は、キリストとは、神の子とは、と語るのではなく、実際に行動をともにしてきたヨハネは、いろいろな面から語ります。よく知っている人をひとことで語ることはなかなかできなくても、こんなひと、あんなひとと、いろいろな面からそのひとについて浮かび上がらせることはできるでしょう。そのような伝え方のヨハネによる福音書、今週と、来週の前半、いっしょに読んでいきましょう。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨハネによる福音書2章ーヨハネによる福音書15章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート John 2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 神殿で羊や牛をを境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒したあとのイエスの言葉である。「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」(17)ともあり、弟子たちもやりすぎだと評価したのではないだろうか。引用箇所も預言的要素を含むとしても、かなり乱暴である。建て直してみせると、あるが、それを自らする印象を受ける。この2章は序章なのかもしれない。カナでのしるしも、おそらく、最後までマリアの世話をしたヨハネの記述であることも、考慮に入れる必要があると今回思った。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5)にも現れているのかもしれない。敬虔にみことばを受け取る方からは反発があるだろうが。 John 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(1)と始まる。この前の記事は、エルサレム。このあとは「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。」(22)とあるが、ニコデモは、サンヘドリンの議員でもあり、エルサレムにいたのではないかと思われる。すると「あなたのなさるようなしるし」はなにかと考えてしまう。最初のしるしと書かれているのは、ガリラヤのカナ(1)でのできごとであるからである。おそらく、救いの本質を、ニコデモとの対話に始まる部分と、サマリヤの女との対話などの部分(4章)などと、ならべた最初なのだろう。すなわち、ヨハネは、共観福音書より前の時間帯から書き、早い段階からイエスと行動をともにしたと思われ、共観福音書にない記事は、この早い段階のものと考えることが多いが、そうではないのかもしれない。ヨハネがたいせつだと考えたこと、それもひとつのまとめ方で書いているのかもしれない。ヨハネが受け取り、そのことばに留まり続け、伝えなければと考えたことを伝えるために。 John 4:35,36 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 現実と、預言的な要素とがともに含まれているのだろう。サマリヤの女がイエスが明かされた「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(26)を信じて、水がめをそこに置いたまま(28)すなわち、戻ってくる意思を示して、街にイエスのことを告げに行く。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(29)と遠慮がちではあるが。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(42)の証言を待たずとも、ここですでに、刈り入れが始まっていることを確認したのだろう。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」(25)など、この女性がメシアについて理解していたことも大きく働いていることもご存知だったのだろう。そして、このメッセージこそが、サマリヤ人に対する偏見などを跳び越えて、サマリヤへの宣教が弟子たちによっても、なんのためらいものなく、進んだ大きな要因であるように思う。 John 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 この解釈は丁寧にしていきたい。この章は、ベトザタの池で38年間病気に苦しんでいる人にイエスがかけた「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8)を安息日故に、ユダヤ人たちが批判したところから、始まり「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(17)と、父なる神との一致が焦点に語られている。永遠の命が律法の守り方から得られるわけではなく、永遠のいのちのもとである天の父なる神と、その神様との密接な関係をしめす、イエスとともに生きることにあると言っているように思われる。聖書の中から、イエスについての預言を見つけ出して、これこそ、その部分の中心メッセージと理解することではないように思われる。この読み方は、最初の律法主義的読み方と本質的に変わらないように見えてしまう。続けて考えていきたい。 John 6:12,13 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 このあとは「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(14,15)と続く。5千人に食べ物をあたえた記事は、共観福音書にもすべて書かれている。それでも、ヨハネが書いた理由があるのだろう。一つは、このあとイエスがどのように行動し(15)、弟子たちも含めて人々が離れていったこと(66)が書かれている。その直前にあるのが引用箇所である。神様がイエスのからだまたはいのちを分かちあたえてくださったこと、すなわち、神様の痛みもそのパンくずからご覧になったのかもしれない。悪魔の試みで石をパンに変えるかどうかを問われたことを思い出す。マタイ14章13-21節、マルコ6章30-44節にあるような、群衆を深く憐れまれた(Mt14:14,Mk6:34。ルカ9章10-17節は異なる)という動機づけは書かれていない。いのちのパンをあたえたことがヨハネでは書かれているのだろう。しかし、人々は、そのようには受け取っていない。 John 7:14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。 イエスはエルサレムで教える予定はなかったのかもしれない。エルサレムでイエスを信じるものが大勢おり(31)ガリラヤでは離れていったひとも多くいたが、まだ殺す計画は(5章18節)にあるものの「なぜ、わたしを殺そうとするのか」というほどの状況だったかは、不明である。25節以降の記述から、議論があったことは確かだが。しかし、イエスは、先を見通しておられたのだろう。そのなかで教えておられるイエスにもなにか突き動かされるものを感じる。弟子たちの教育も含め、このことにそのときそのときにいのちを与えることに集中していたのだろうか。このあたりは、もう一度じっくり読んでみたい。 John 8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕 有力な写本には含まれていないエピソードの最後である。通常は、罪のないイエスも裁かなかったことが言われる。イエスは、罪なきものとして生きてきたと考えていたのだろうか。天の父のみこころを生きているとは思っているだろう。次の段落は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12)と始まり、「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」(15)とあり、この「裁かない」と関連して、ここにこのエピソードが挿入されたのだろう。では、イエスは女にそして人々になにを伝えているのだろうか。 15節からは、裁く基準がことなることのようだが、裁かないとも言っている。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 」(ヨハネ3章19節)からは、それを自ら選んでいるともとれる。自由意志というより、そのような状態にあり、光(神とともにある世界)に来るように促しているのだろう。それは「世の光」ともつながる。「罪を犯してはならない」も、神とともにある生活を、イエスに従い歩むことを促しているのだろうか。これだけで伝えるのは難しいだろう。 John 9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」 期間限定というよりも、イエスがこの世で歩まれたことをしっかりと見ることを伝えているのだろう。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39)も、ヨハネ3章19節や、引用箇所ともつながっているように思う。神の子イエスが、肉体をもって、わたしたちの弱さも担い、神のみこころに従って歩むことを示してくださったことは、いかに大きいことだろうか。少なくとも、ヨハネはそれを伝えたいのだろう。主のみこころに従って歩むことを教えて下さい。そのような思いで聖書を、読んでいきたい。 John 10:14,15 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 このあと「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」(16)と続くが、この囲いはユダヤ人を指すのだろう。父とイエス、イエスとイエスの羊の関係が、お互いに知っている(ginosko: to learn to know, to become acquainted with)ということで結ばれている。お互いに知り合っているという関係なのだろう。それは、羊たちの間にも成立するのだろうか。互いに仕え合い、互いに愛し合う関係になるには、鍵かとも思うが。イエスを知り、イエスに知られていることを基盤に築くだけで十分なのだろうか。たしかに、羊と羊の間に、お互いに知っているという関係は簡単には見られないが。世界の問題がここに凝縮しているように思う。 John 11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 Google Map で調べてみると、ガリラヤのカペナウム(イエスの活動の本拠地)からエルサレム(ラザロたちの住んでいたベタニアからは2.8キロほど)への距離と、歩いてどのぐらいかかるか調べてみた。「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(18)(1スタディオンは185m)165km、35時間とのこと。急いで3日である。知らせが届いてから(3)なお二日間同じ場所に滞在された(6)とある。知らせるのにも、おそらく3日かかるから、どの時点でラザロが亡くなったかは、はっきりはしない。また「同じ場所」(6)を、「ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所」(10章40節)とすると、はっきりはわからないが、「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。」(ヨハネ1章28節)のベタニアはラザロの住んでいたベタニアとは異なるが、エルサレムからも洗礼をうけにくる人が多かったことを考えると、日帰りができるような、もっと近い場所だったのかもしれない。なお、ヨルダン側の向こう側ベタニアは、検索では現れなかった。聖書地図には、だいたい、クエスチョンマークがついている。また、Google Map では、Bethany beyond Jordan という Lutheren Church も検索であらわれ、これは、エリコの近くのヨルダン川沿いで、エルサレムからはとても、近い。同時に、現時点では、国境や紛争もあり、この場所であっても、非常に遠回りしないといけないといけないこともわかった。この教会の場所に救急隊がいても、ビザ申請から始まり、大変な時間がかかるのだろう。いろいろなことを考えさせられた。 John 12:7,8 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 マリアが香油をイエスの足に注いだことを非難したイスカリオテのユダに対する言葉である。基本的に、受容である。そして、ユダに対しても、真っ向から非難しているわけでもない。神のみ心を完全にはわからない私たちのこころからの行為やことばをじっと見ておられるように思う。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」(50)ともある。父なる神のみ心は、永遠の命なのだろうか。ていねいに生きていきたい。永遠の命に思いを馳せながら。それが永遠の命を生きることなのかもしれない。 John 13:14,15 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 「従う」ことも、「留まる」ことも、イエスの教えともとれるが、このように、イエスの模範を生きることのように思う。「イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』 」(10)このイエスのことばにも、最後の「皆が清いわけではない」からも、イエスの生き方が伝わってくるように思われる。いろいろな人にメッセージを送り、ていねいに生きておられる。これが「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1)にある「愛し抜かれた」ことの中身でそれが、34,35節の新しい戒めの背後にある模範のように思われる。 John 14:20,21 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 「かの日」は不明であるが、いずれはとでもいえる、行き着く先を意味していると取ってよいだろう。いつかはわからないが。かの日には、イエスと父なる神の関係(記述はすべて双方向に書かれているわけではないが)がイエスとわたしたちの関係になると言っている。そしてそのことと、「掟を守ること」と「イエスを愛する者である」ことが結び付けられ、それは、父に愛され、イエスに愛されるという双方向性をもうみだすことが述べられている。最後の表現は、このあとのイスカリオテでないほうのユダの問にも関わるが、上のような関係が、イエスがどのような方であり、なにを望んでいるか、つまりみこころも、その人が理解できるようになると言っているようだ。これらのことばをたいせつにしたい。 John 15:14,15 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 CMCC(http://www.mmjp.or.jp/cmcc/)の事務局の仕事を担うことになった。「心病む人々の友となる」ことを掲げている。ここではイエス様が弟子たちを友と呼ぶことが書かれている。おそらく、ここでは、今までは弟子という、教え教えられる関係であったものが、たいせつなかた(父なる神)のたいせつなもの(掟)を共有し、それを、たいせつにして生きていくものとして、友と呼んでいるのだろう。イエスが友と呼んでくださることは、驚くべきことである。しかし、CMCC の掲げる「友」は「心病む人々とともに」という願いが「友になることができれば」との願いにつながっているように思う。(友になるとは、多少尊大に響く。これは願いなのだろう。)背景に一人ひとりそれぞれが誠実にこの世的には愚かと思えるような生き方をしながら、共に生きることがあるのかもしれない。友について、もう少し考えてみたい。 2020.9.20 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ヨハネによる福音書の後半を読み、使徒言行録に入ります。使徒言行録は、他の訳では、使徒行伝、使徒の働きとなっています。使徒言行録は、ルカによる福音書を書いたルカが書いたもので、ルカによる福音書と最初の部分が似た形式になっており、ルカによる福音書の最後の部分が、使徒言行録の最初の部分とつながっています。 わたしは、今年は、復活について、興味をもって、4つの福音書と、使徒言行録を読んでいます。復活してイエスが弟子たちの前に現れたとされるのは、イエスが十字架にかけられたエルサレムと、イエスと弟子たちが活動した大部分をしめる、ガリラヤですが、福音書によって、この場所の記述に違いがあります。気づかれましたか。十字架の約50日後に、ペンテコステ(五旬節)で、聖霊が下り、弟子たちが(まるで別人のように)大胆にイエスが復活したこと、そしてイエスがキリストであることを語りだします。使徒言行録によると(1章3節)復活後のイエスが弟子たちに現れたのは、40日間でその後、昇天したと書かれています。(1章9節)すると、その後10日がペンテコステとなります。十字架から50日、とても短いと感じました。弟子たちがこの期間に劇的に変わることには、驚かされます。それを埋めるのが、復活だとも言えます。単に、心のなかで師であるイエスが生き続けるというのとは、ことなる何かが弟子たちの中で引き起こされたのでしょう。そして、その証言者となる。わたしは、その40日間、50日間に居合わせなかったので直接の目撃証言者にはなれませんが、特別なことがやはり起こったのだと思わされます。同時に、それが特別なことだったかどうかは、このあとの、弟子たちの活動、歩みによって証言されるものなのかなと思います。そして、この部分は、私たちの活動、歩みによっても、証言され得るものなのかもしれません。イエスが神の子キリストであり、イエスを通して神の本質の姿が示されたこと、神の御心を受け取るように促されていることの。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨハネによる福音書16章ー使徒言行録8章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書と使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネによる福音書:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート John 16:9-11 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(8)に続く説明である。その方は「弁護者」(7)と訳されている「真理の霊」(13)原語ではパラクレートス(parakletos: summoned, called to one's side, esp. called to one's aid)である。引用箇所はわかりやすいとは言えない。理解した範囲で書いてみると「罪について明らかにするとは、(イエスを)信じないことにより、神様との交わりのうちにいるかどうかが明らかになること、義について明らかにするとは、(イエスが)父のもとに帰り、父なる神と共にいることが明らかとなるということ、裁きについて明らかにするとは、天の父のみこころを求めようとしない人たちが、神様との交わりが絶たれた状態にとどまっていることが明らかとなることである。」現在のわたしのヨハネによる福音書理解である。また修正していきたい。 John 17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 互いに仕え合い、互いに愛し合うこと、によって、天の父なる神とイエス様が一つであるように、一つでありたいと願うが、その鍵は、イエスがわたしたち一人ひとりの中にいるかどうかが鍵だと言っているようだ。難しいことも確かである。恵みなのだろうか。われわれが拒否する自由(とはいえない)意志のゆえなのだろうか。最大の問題のように思うので、今後も考えていきたい。完全に一つになることはどのように表現されるのか。 John 18:8,9 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 マルコ14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とあり、マタイ26章でもほぼ同じ表現になっているが、ルカ22章には見捨てて逃げた記事は書かれていない。引用したヨハネでは、イエスが弟子たちが捕まらないようにしたことが書かれている。さらに切りつけたのがペトロであることも書かれている。剣は二振りあったことも書かれており(ルカ22章38節)もうすこし争いが大きくなる可能性はあったろう。イエスの働きがそれをとどめたことが重要で、さらに、剣をふるったような弟子が単にイエスを見捨てて逃げ去ったというのも、不自然である。心情的に、キリスト者は、自らもイエスを見捨てるようなひとだと考えるのだろうが、ここは、主の恵みと配慮と神の計画として受け入れたほうがよいと思う。ヨハネは唯一の直接目撃証言者として書いている面もあり、常に正確ではないとしても、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 」(ヨハネ14章1節)と書いた背景が重みをまして伝わってくる。 John 19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 (可能性を全否定するつもりはないが)ピラトとの会話がこれだけ正確に伝えられたのはなぜかとの問は残るが、ここで言われている、2つの事に注目したい。1つ目は、ピラトに対するきっぱりとした信仰者(天の父なる神とひとつとされているもの)の態度である。もう一つは、「あなたに引き渡したもの」という表現である。ユダのことを言っているのではないだろう。文脈からは、(地上で)お前を釈放する権限も、十字架につける権限ももっていても自由には決断できないピラトに引き渡したということで、ユダヤ人たち(18章38節など)を指すと取るのが自然だろう。同時に、イエスを救い主として神のもとから遣わされたものとして受け入れず、イエスの示した神の国を受け入れなかった人たちだろう。世に留まり続けた人たちである。特定の人間を責めているのではないかもしれない。 John 20:8,9 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 ヨハネによる福音書は、復活証言を、空の墓とマグダラのマリアの証言と、トマスの2つに限っている。ここでは、おそらく、ヨハネをさすと思われる「もう一人の弟子」の証言が書かれ、トマス関連の記事では、弟子たちのなかに、ヨハネもいたことが暗に示されているが、詳細は書かれていない。ヨハネが受け取ったたいせつなことが記されているのだろう。その意味で、21章は証言者であっても、たいせつなこととして、どうしても伝えたいこととして含めることは考えなかったのではないだろうか。しかし、それが「この道」のひとには不可欠なことだったと思われる。引用箇所の、復活のことを理解していなかったということばが印象的である。後に、理解したのだろう。見た見ないではなく、理解したことの証言でもある。 John 21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 20章には復活証言が大きく分けて2つ書かれているが、どちらも、エルサレムでのこととして書かれている。しかし、この21章の記事は、ガリラヤである。ここでは、イエスとのやりとりの詳細も書かれており、単なる復活証言とは異なる。復活されたイエスとともに生き、行動していることが詳細に書かれているだけではなく、そのまま共に居続けることはまったく想定されていないことがわかる。多少、これを付け加えた意図も見え隠れし(23,24)、そのために、実際の証言についての理解が難しい。 Acts 1:3-5 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 ルカは、エルサレムで、この時代を知る何人もの人達に会って、情報を集め、それを集約して記していると思われる。「四十日」が明記されているのは、ここだけである。また「エルサレムを離れず」とある。これは、四十日間全てではないかもしれないが、すくなくとも、最後の期間は、エルサレムにいたとしている。8節の「エルサレムばかりでなく」と関連しているとは思うが、ガリラヤでの顕現を中心とする、マタイとは異なるイメージを与える。ヨハネ21章がどの時点かも不明であるが、この期間のかなりの期間、ガリラヤにいたのではないかとの推測もできる。もう少し情報を整理したい。 Acts 2:1,2 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 五旬祭(ペンテコステ)は、過ぎ越しの祭りから五十日後である。1章3節の四十日間から考えると「昇天」の十日後である。あまり長い期間待たなかったことがわかる。かつ、このときのペトロのメッセージを見ると、聖霊降臨の意味(14-21)「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」(22)であること、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」との証言をとともに、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)と断言している。聖霊によってこのように語ることができた「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21章14,15節)が、実現したときだと言えるかもしれない。驚かされるとともに、この50日間について、もう少し学びたい。 Acts 3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。 このひとを強くしたのは「イエスの名」だとしそれは「その名を信じる信仰(直訳は『その名の信仰(pistis)』または『その名の信頼』)」「イエスによる信仰(直訳は『彼の名と信仰(pistis)』)」「完全にいやした(直訳は『完全さ(holokleria: completeness, soundness おそらく wholeness)を与えた』または『完全にした』)」となっている。いやすことと、信仰の解釈が難しいために、原語を確認してみた。実際にいやされたのだろうが、歩けるようになったことをどう表現しているかにも興味があった。そして、このひとのしたことは何なのだろうと。「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』 」(6)にある、イエスの名を信頼したということなのだろう。無論、教理を受け入れたと信仰告白をしたり、洗礼を受けたりということとは、異なる。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節) Acts 4:29,30 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 「今こそ」と言っていることに興味をもった。「今」は、まさに、「思い切って大胆に御言葉を語」り、「イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われ」たときである。願う前から叶えられているとも言えるが、主が働かれたことを、讃美し、そのことを(すでに起こっているにも関わらず)願うなかで、主のみこころとシンクロナイズされ、主と共に働くことになるのかなと思う。「共に」の意味についても考えさせられる。御心の一部を見せて頂く、そしてその御心自体を信じる、その名に信頼することだろうか。からしだねひとつぶほどの信仰であっても。 Acts 5:41,42 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。 「メシア・イエス」という書き方に驚いて、調べてみた。新共同訳聖書では、ここだけに使われている。メシア単独を翻訳語として使ってある場所は多く、使徒の中にも、この箇所を含めて10箇所ある。むろん、キリスト・イエスという訳はたくさん現れる。なぜここだけ、メシア・イエスと翻訳したのだろう。すこしだけ、ギリシャ語を調べてみたが、キリスト・イエスとなっている箇所もすべて調べないとはっきりしたことは言えないので、確定的なことは書けない。NA28(ネストレーアーラント新約聖書28版)では τὸν χριστὸν Ἰησοῦν(ton christon Ieesuun)とあることのみを記しておく。いずれ調べてみたい。 Acts 6:1,2 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 いま、考えている公平性の問題である。十二弟子は、ヘブライ語を話すユダヤ人であったろうから、ギリシャ語が堪能なひともいただろうが(参照「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。 」(ヨハネ12章20,21節))議論や案内などでも言語の問題も生じたのかもしれない。「やもめ」を顧みることは、重要なこととされていたから、それをあげて訴えたのだろうが、おそらく、多くのコミュニケーション・ギャップ、ソーシャル・ディバイドがあったと思われる。適切に対応することは困難である。選ばれた7人は立派なひとだったようだが「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」(3)だが、十二弟子が「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(4)とした判断が良かったのかどうかは、今にまで影響があるように思われ、注意して考える必要があるように思われる。公平性は、御言葉の奉仕に直接関わることだと思うので。 Acts 7:7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』 「この場所」が気になったので、引用箇所を調べてみた。対応しそうなのは「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』 」(出エジプト記3章12節)であるがこれは「この山」であり、ホレブ(シナイ山)を指す。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」(歴代誌下3章1節)では、アブラハムがイサクを献げたモリヤ山に神殿を作ったとしている。(この関連性をのべているのはこの箇所のみ)ステファノの説教の何がユダヤ人たちを怒らせたのかは、明確とは言えない。可能性のあるのが、「いつも聖霊に逆ら」(51)い、「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(52)と、「正しい方(イエス)」を殺したと述べたことだろう。それに加えるとすると、礼拝する場所をエルサレム神殿に特定しないことと、思われるので、気になったのである。「この場所」「この山」を特定の場所に限定するのは、困難だろう。エルサレムの神殿の場所を特別視するのは根拠薄弱である。 Acts 8:4,5 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1章8節)の第三段階、サマリアの全土への広がりが書かれている。またこの章の最後にはエチオピア人の宦官が洗礼をうけたことが記されている。(26-40)第四段階の地の果てに至るまでの証の片鱗が見えているのかもしれない。とくに、サマリヤはイスラエルでは偏見・差別と不和・没交渉が一般的であったようなので、そこに自然に入っていったことに興味がある。イエスの活動でサマリアに自然に入りやすい背景ができ上がっていたのかもしれない。イエスのサマリアにおける活動や発言については、いつかまとめて考えてみたい。偏見・差別と不和・没交渉をどう克服するかの鍵もあるのかもしれない。 2020.9.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、使徒言行録を9章から読み進めます。9章にはサウロ(後のパウロ:使徒13章4-12節参照)の回心について書かれており、その後、12章までは、異邦人が信じたことなどペトロの活動が記録されていますが、そのあとは、ほとんどが、パウロの活動の記録となります。11章26節にはシリアのアンティオキアで「弟子」たちがキリスト者と呼ばれるようになったとの記述もあります。ギリシャ語を話すユダヤ人は最初からいましたが、ステファノの殉教に関係してエルサレムから多くの「弟子」たちが散らばっていく中で、サマリヤ人や、離散しているユダヤ人に福音が届いただけでなく、異邦人も特にパウロの宣教を通して増えていったことが分かります。何度も、書いていますが、わたしは、この時点での課題を次のような四つの問にして考えながら読んでいます。(下の使徒言行録のホームページからの引用です。) A. ユダヤ人に与えられた律法を守らなければ、ひとは救われないのか。 B. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。 C. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。 D. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないか。 これらの問いは、使徒言行録の中でも問われていると思いますが、今の私たちにとっても単純な答えが用意されているわけではない問題だとも言えるのではないでしょうか。そして、人々の平和、それぞれの共同体に関わる、日常的な営みに対する問いともなっています。 A. は 15章のエルサレム使徒会議の主題でもありますが、ともに生きる(生活する)ことを考えると、B, C, D も同様におおきな課題となっていたと思います。わたしの友人は、アメリカのアラブ人のコミュニティのなかで、イサ(イエス)に従うものの活動を続けていますが、ムスリムのひとたちがそのコミュニティから出ないで、イサに従うことをたいせつにしています。とくに、イエメンからなどの貧しい労働者も多く、家族と共に、そしてコミュニティの中にとどまることも尊重する取り組みです。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 使徒言行録9章ー使徒言行録22章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネによる福音書と使徒言行録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ac 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Acts 9:13,14 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 「ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」(2)とあり、アナニアも見つけ出されたら、エルサレムに連行され、殺される可能性もあったはずである。そのようなひとにどのように対するのか、大きなチャレンジだったろう。記されているのは「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(15,16)このことを受け取ることができたことについて考えてみたい。基本的に、(理解しづらい)相手にも、まったく知らない面、特に、神様がどのように、その人に働いているかは、見えないことを自覚することだろう。見えるとしてしまう、傲慢を悔い改めるとも言えるかもしれない。 Acts 10:28,29 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」 「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 (15)この主のことばを三度聞いたとある。この言葉自体は、マタイ15章11節など直接的にではないが、口に入るものが汚すのではないことをペトロは知っていただろう。また、イエスはその意味としてこの15節のことばを語り、それも聞いていたかもしれない。それがここで蘇るだけではなく、そのことが、外国人との交流にも当てはめることには、ギャップもあったろう。その理解をたすけたのは、聖霊の働きと言っても良いかもしれない。イエスはおられなくても、イエスをとおして受け取ったことが生き生きと神の言葉として宿るようになったのだから。このような部分はおそらくメカニズムを完全に解明することは、できないだろう、さらに「なぜ」については答えられない。怪我をしたとき自然に治るようになっているのは、メカニズムはある程度わかっても、なぜかはわからないだろう。科学はなぜかという問には答えない。ナイチンゲールが「主は恵み深い」と言っていたゆえんだろう。 Acts 11:19,20 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。 このあとには「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」(21)と続く。「ギリシャ語を話す人々」がどのようなひとたちかが不明である。異邦人なのか、ユダヤ教徒に改宗した異邦人または、コルネリオのような人たちなのか。このあと、(キプロス出身の)バルナバが調査に出かけるが「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」(23)とあるだけで、状況は不明である。ギリシャ語でも語っただけだとも言える。アンティオキアには、様々な人達が集まっていたと思われ、ユダヤ人であっても、ヘレニストが多いのだろう。カテゴリーわけはあまり意味がないが、異邦人宣教の経緯を理解するためにも、理解しておきたい。 Acts 12:15,16 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。 「天使」について考えてみたい。基本的には、神の使いだと思うが、ここでは、ペトロを守る天使ということばが登場する。カトリックで使われる「守護聖人」と近いのだろうか。すくなくとも、ルカが理解している、当時の(ユダヤの一般の)人達の一般的思考について披瀝していると考えられる。書かれていないことをなんでもこじつけて合理的な解釈をすることは、望ましくないが、仮説の検証は、可能性としてありうるかを確かめることなので、誤っているとは言えない。この場面では、番兵である。一般的には、番兵は、囚人を逃がすと、その囚人の受けるはずであった刑を受けることになると言われる。ここでは「夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。」(18,19)とある。このあと、20節以降の、ヘロデの傲慢と残忍さを表すエピソードとも取れるが、取り調べた上でとあり、過失ではなく、ペトロを番兵が逃した可能性もある。キリスト教会では、そのことを知らなかったか、または、家族などにまで影響が及ばないように、天使としていた可能性もある。不思議な物語であるが、この時代、すでに、いろいろな信徒がいただろう。断定的に、超自然的な神の直接介入と証明することも、困難であると思われる。 Acts 13:35,36 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。 復活の議論であるが、これだけでは、詳細にはわからない。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイ22章32節、参照:マルコ12:17、ルカ20:38)「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14章19節)などとの関係を明確にすることは、ここだけでは簡単ではない。復活における、イエスと、信仰者の違いである。天のお父様とよぶときの、わたしたちの命についてである。いずれゆっくり考えたい。 Acts 14:27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。 異邦人にどのように「信仰の門」が開かれたかは、使徒言行録の重要な要素だが、必ずしも明らかではない。エチオピア人の宦官、コルネリオなど以外にも、おそらく、何人も、異邦人で「弟子」となったひとはいただろう。しかし、それがあるスケールで起こったのは、このパウロの伝道それも、キプロス島をを出て、パンフィリアのペルゲ、ピシディア州のアンティオキア(13章14節)以降なのではないだろうか。それがここに「異邦人に信仰の門を開いてくださった」と記述されている。無論、それは、ルカの記述で、15章のエルサレム会議への段取りだとも解釈することもできる。実際には、どうだったのだろう。少なくとも、エルサレムやユダヤでは、異邦人信徒との関係が大きな問題にはなっていなかったらしいことも、15章で伺い知れる。サマリア人についてもどの程度の信徒がいたのかも、興味があるが。サマリア人は、混血などだけでなく、すくなくとも、ユダヤ人とは認められていないひとたちばかりだったようなので。 Acts 15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 エルサレム会議の背景がまとめられている。(5節参照)十字架からこのときまでにどのくらいの時間がたっているか不明であるが、明らかにことなる集団がすでにキリスト者として形成されていたことがわかる。ユダヤ人にとって、信仰生活とユダヤ人であること、そして割礼はきっても切れないもので、それが、異邦人とを区別する重要な要素だったろう。それを「救われるためにモーセの慣習に従って割礼を受ける必要はない。」という一団が形成されていたのだから。おそらく、問題は、その一団と、やはり割礼は必要だとする一団が分裂するかどうかだったのだろう。それで「この件について使徒や長老たちと協議する」(2)ことになる。「さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。」(3)とある。フェニキアやサマリアの人たちについては詳細はわからないが、すでに、多様な背景の多様なキリスト者がおりその交流が重要だったことを意味している。パウロやバルナバにとっては、使徒会議の結論はたいせつではあっても、この大きな流れを変更するものではないとの確信があったのではないだろうか。その意味でも、フェニキアや、サマリアの人たちの改宗の土台は大きいと思われる。 Acts 16:14,15 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。 これは一日に起こったことではないかもしれない。「注意深く(prosechoo: 1. to bring to, bring near, 2. to turn the mind to, attend to be attentive, 3. to attend to one's self, i.e. to give heed to one's self, 4. to apply one's self to, attach one's self to, hold or cleave to a person or a thing)」ということばが印象に残った。ベレアでのこと(17章11節)も思い出させる。神をあがめる生活を送っている人が、聞いたこともない新しいことを信じるようになるには、いろいろな経緯があるだろうが、注意深さが、しっかりとした信仰を育むことは、普遍化するつもりはないが、多くの人にとって鍵となることだろう。 Acts 17:26,27 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 アテネでの説教であるが「神は、一人の人からすべての民族を造り出し」「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」いずれもアテネのひとたちに届いたのだろうか。「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り/我々の先祖の契約を汚すのか。」(マラキ2章10節)が最初の引用箇所として上げられているが、この信仰が明確になったのは、いつ頃なのだろうか。ひっかかったのは「民族(ethnos: a multitude (whether of men or of beasts) associated or living together, a tribe, nation, people group)」これは、日本語においては特に問題のあることばで、人種による区別ではなく他のことばを使って日本人を特徴づけようとしたなかで生まれたとも言われているためでもある。第二番目も難しい。特に、アテネのひとたちは、「神」を見出しているとは言っていないからである。「知られざる神に」(23)について語っているのだから。さらに、三番目、ギリシャでは、おそらく、もっと神々が近い存在だったろう。語ることはほんとうに難しいと感じた。 Acts 18:9,10 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 「わたしの民」はなにを指すのだろうか。神が造られた人間とは、独立の定義があるのだろう。イエスの「兄弟・姉妹」として「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)は開かれているように思われる。わたしの民は開かれているのだろうか。それとも、予定説のように、最初から定められているのだろうか。引用したことばは、後者を支持しているように思われる。しかし、「わたしの民」とそれ以外を分ける意図はないだろう。パウロにとっては、語るべき相手がという程度の意味に取るべきなのだろう。大きな問題なので、また考えたい。 Acts 19:1,2 アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 「聖霊」は「弁護者」などと訳されているパラクレートスのように、ヨハネによる福音書でイエスが約束している(ヨハネ14章26節、16章4節)。マタイでは、マリアが身ごもったこと(マタイ1章18節・20節、ルカ1章15,35,67節、2章25,26節、ヨハネ1章33節)、バプテスマのヨハネがバプテスマについて語る場面(3章11節、マルコ1章8節、ルカ3章16節、22節)、また「聖霊に言い逆らう」ことについて12章32節(マルコ12章36節、マルコ12章10節)に、そして、大宣教命令の中で(28章19節)語られている。マルコではこれ以外に証言について(マルコ13章11節、ルカ12章12節)。ルカではこれ以外に、悪魔の試みの場面(4章1節)、イエスが神をほめたたえる場面(10章21節)祈りの答えとして(ルカ11章13節)聖霊が与えられることが語られている。ヨハネによる福音書の20章22節の「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」も印象的である。引用箇所では、「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」とあり、聖霊が当時の人たちにとってどのように理解されていたかが気になった。もう少し、パウロ文書などを調べないとわからない。使徒言行録の記述も詳細にみる必要がある。いずれにしても、キリスト教において、ユダヤ教と大きくわける重要なようそであったことは確かなのだろう。 Acts 20:31,32 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 模範として生きること、そして、神とその恵みの言葉に委ねることが、記されている。キリスト者の生き方のたいせつな部分なのだろう。ひらたいことばでは、ひとりひとりが永遠のいのちを生きることの価値の大きさと、それを誇大評価しないこと。ここでは「その恵みの言葉」と語られていることも注意を引く。これは、旧約聖書なのだろうか。聖霊を通してかたられることばなのだろうか。イエスを通して語られた言葉なのだろうか。どれに重きが置かれているのだろう。 Acts 21:20,21 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。 ホームページの使徒言行録に書いている4つの問の三番目「ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。」の問題である。ここには、この問に対する、パウロの見解も、教会の見解も書かれていない。おそらく、簡単ではなかったのだろう。ここでもこの人々のことばの最後は「また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」(25)で結ばれ、これは、エルサレム会議(15章)で解決済みとして、別の問題であることを明確にしている。わたしが掲げている二番目の問「ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。」とも深く関わっていると思う。それは、共に生きる存在だからである。律法の問題は聖書をどのような神のことばと受け取るかとの問題とも関係しており、難しい。パウロが皆に止められながらも、それを振り切って、エルサレムに行ったことの評価とともに、信仰生活と神のみこころに関わるとてもおおきな問題であるように思う。 Acts 22:12 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 使徒言行録9章のサウルの回心の場面では「アナニアという弟子」(10)と紹介され、記述からも、イエスの弟子であることが明確である。しかし、ここでは「律法に従って生活する信仰深い人」とパウロに語らせている。エルサレムの兄弟たちの助言の背後にある懸念をうけとっていることがわかる。それは「そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。」(21章26節)からも見て取れるが、この四人との関係はあまり明確ではない。22章に記されているパウロのメッセージは途中で遮られていることもあるが、パウロがなにを伝えようとしていたのかはよくわからない。パウロがエルサレムにどうしても来ようとしたことの理由とともに謎である。 2020.10.4 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、使徒言行録の最後の部分を読んでから、ローマの信徒への手紙に入ります。今回は、使徒言行録の後半を「なぜ、パウロはエルサレムに戻ったのだろうか。そして、皇帝に上訴してローマに行くことを選択したのだろうか。」を考えながら読みました。当時の、キリスト教会の状況を考える上でも、召命や人生の目的を考える上でもたいせつだと思っています。使徒言行録の最後は、パウロがローマについて、生活をはじめたところで終わっています。なんとなく、物足りなく感じます。みなさんは、どう思われますか。ルカはは何を伝えようとしているのでしょうか。書こうとして、伝えられなかった部分があるのでしょうか。 ローマ信徒への手紙からしばらく、フィレモンへの手紙まで、パウロ書簡と呼ばれているものが続きます。実際には、文体を見ても、内容を見ても、パウロが書いたのか疑問に思うものもありますが、ここでは、著者を厳密に問うことなく、パウロ由来の書簡と理解して、読んでいくことにしたいと思います。しかし、このローマの信徒への手紙など、いくつかは、批判的な学者も、パウロが書いたとしています。ローマの信徒への手紙と、ガラテヤの信徒への手紙は、手紙というより、論説文のような感じさえ受けます。パウロが大切にしていたこと、福音について書いています。パウロは、まだローマに行っていないようですが、1章や最後の16章をみると、すでに、イエスをキリストと信じるひとたちが、ローマにもたくさんいたようですし、ユダヤ教徒との議論内容も、ある程度理解している人たちに書いているように思われます。ある基盤の上で議論しているようですね。少しむずかしいかもしれませんが、この手紙を受け取った一人として、読んでみてください。どのように、受け取られるでしょうか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 使徒言行録23章ーローマの信徒への手紙8章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 使徒言行録とローマの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 使徒言行録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ac ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Acts 23:12,13 夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。 混乱が激昂も生んでいる。多少の民族性・時代性もあるのかもしれない。冷静に考えて、この四十人以上の人たちは餓死してしまったのだろうか。おそらく、そのようなことはないだろう。目標達成が絶対化しいのちをかける程になる一つの例だとも思うが、「パウロを殺す」という目標自体に、いのちをかける絶対的価値はない。たんに、自分の目標を正しいと主張するための道具であるにすぎない。冷静さはない。ここまで考えると、このような状況を生じさせた、パウロにも問題があるように思えてくる。パウロがエルサレムに戻った目的は何なのだろうか。達成しようとしていたことは何だったのか。こちらも、正直、異常に思えてしまう。ある使命を絶対化してしまっているとすると、他者が評価はできないかもしれないが、模範にはならない。謙虚に、主のみこころを求め続け、達し得たところに従って一日一日、いっときいっときを歩んでいきたい。目標は、あくまでも、道具であることを、覚えつつ。 Acts 24:17 さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。 ここにパウロがエルサレムに帰ってきた目的が書かれている。しかし、それだけなら、他のひとに届けさせることも可能なはずである。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9章3節)「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」(ローマ11章14節)とあるが、ほんとうに、パウロはそう考え、そのように行動しようとしていたのか疑問をもってしまう。エルサレムで争いを起こすことが、他の地域でも、紛争を生じさせることがほんとうに、同胞の救いを求めることなのか。正直よくわからない。パウロさん、教えて下さい。あなたにとってたいせつなことはなにだったのか。 Acts 25:10,11 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」 パウロの目標が皇帝の前に立つことだったのではとも言われる。明確にはわからないが、そうかもしれない。もし、少なくとも、この時点で、それが目標になっていたとしたら、パウロはなにを目指したのだろうか。(当時の)世界が、ローマ帝国下にあり、ユダヤ地方もそのもとに置かれている状況を、武力ではなく、霊的に変えようと思っていたのかもしれない。その達成の道として、皇帝への上訴を選択したのかもしれない。いずれにせよ、パウロがどうしてもエルサレムに行くと主張し、捕らえられ、死ぬことすらも恐れなかった理由は不明である。状況証拠やルカの証言からもはっきりしておらず、本人の書いたものからも判断できないからである。 Acts 26:8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。 「復活」について最初に述べている。パウロの中心にあったことなのだろう。その前に、「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」(6,7)とあり、復活を「神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現」「望み」と関連させているように思われる。このあたりの論理も、ここだけからは、はっきりしない。 Acts 27:23,24 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 使命がここでは目的重視を引き起こしている。「何かに対して使命を感じるとはいったいどいう言うことなのでしょうか?それは、あなた自身の掲げる、何が正しく何が最善であるかという高い理想の実現を目指して、自分の仕事をするということではないでしょうか。」これは Florence Nightingale のことばだが、「何が最善であるか」という理想は、パウロにとって何だったのだろう。個人的には「皇帝の前に出頭」することがそこまで重要だとは思わない。使徒言行録もそこまで書かれていない。たとえ皇帝に大きな影響を与えたとしても、地で御心がなることとは、ほとんど関係がないと考えてしまう。パウロはなにをたいせつにしていたのだろうか。神の声を聞いたと確信していれば、なにをしても良いのだろうか。それは、自分の中にある(自分が受け取ったと信じる)ものに、希望を置いていることではないのか。パウロは何度も「わたしに倣う者になりなさい。 」(1Cor4:16, 11:1, Phil 3:17, 1Thess1:6,2:14)と書く。しかし、イエスに倣うものにはなることは目指したいが(WWJD, WWNJD)、正直、パウロの書くことばは示唆にとんだ恵みのことばが多く学ばされるものの、パウロに倣うものにはなりたいとは思わない。 Acts 28:28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」 異文もあるようだが、使徒言行録の流れにはあっている。しかし、これがテーマ、パウロが伝えたかったこととするのは、あまりに悲しい。この前のイザヤ書6章9・10節の引用も、ここで他者にむけて言うことなのかわたしには承服できない。また「ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。」(18,19)とあるが、結局、皇帝に上訴した理由もはっきりとはしない。ルカの苦労が浮き彫りになっているといまは考えることにしよう。ルカも正直、明確には書けなかったのかもしれない。もしかすると、パウロ自身の中でも揺れていたことがあったのかもしれない。受け取ることは困難であるが。端切れのわるい(使徒言行録の)終わり方であることは確かである。 Romans 1:26,27 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。 LGBTQ に対して批判的なひとたちが、引用すると思われる箇所である。パウロの限界ととることもできるが、文脈をまずは理解する。「それで」とあり、前とつながっていることがわかる。直前は「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(24,25)とあり、神を、神以外のものと取り替えたこと、すなわち、偶像礼拝、そして、その背景は欲望に身を、任せたことだとある。パウロが指摘しているのはそのことであり、現代では、様々な表現ができるだろう。しかし、その上で、偶像礼拝の問題点と、神を礼拝することがわからなければ、理解できないことでもある。個人的には、背景に、ひと、および自分の存在と活動の理解の全体性に欠けた軽薄さがあると思うが、それが全てであるかどうか、わたしにもわからない。神について考えるのが先なのか、神理解は、これらを考えることを通して得られるのかも、不明である。神について知りうることは明らか(19,20)とパウロは主張しているが、すでにここが人々には響かないだろう。また、当時、適切にそれが知りうる状態だったかもわからない。同時に、現代において、自然の神秘などから、神の存在と働きを演繹する Intelligence Theory も問題を抱えているようにも思う。実際の問題に触れずに、背景に戻っていってしまったが、LGBTQ の問題だけではなく、課題を適切に理解することは、ほんとうに難しい。 Romans 2:7,8 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 律法を守ることを、異邦人にも適応することの中で、パウロが定義する律法の本質が表現されているようである。「栄光と誉れと不滅のもの」と表現されているものの内容はあきらかではないが、自己完結型の人間や社会や自然を含めた環境理解とは異なるものが表現されているとは言える。しかし、善はどうなのだろうか、共通理解を持てるのだろうか。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節)のほうが多少わかりやすいが「名を信じる」部分を丁寧に理解する必要がある。イエス・キリストのことを知らないひとを排除し、普遍化を妨げる要素にもなりうる。神にとっての、公平性は何なのだろうか。おそらく、簡単に普遍化せず、一人ひとりに応答を求めているのだとは思うが。やはり難しい。 Romans 3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。 裁きと関連して「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」(5)について述べている。3章は「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」(1)からスタートするが、納得できるものではなく、明確とは言えない。しかし、信仰義認へと進み「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。」(29)を背景としている以上、どうしても考える必要がある問いである。ユダヤ人はキリスト者と変えても同じ問が成立するだろう。裁きによって、神の真実が明らかにされるとするのは、人間的な見方に思われる。時代性(一部のひとに真実が語られる、時の流れ)と、すべての人の救いを説く、この両面に、整合性のある説明を加えたからといって、背景にある、問題が解決されるとは思われない。おそらく、問の答えが納得のできるかたちで示されなければ、神を信じられない、受け入れられないというひとの態度に問題があるのだろう。未知のものに囲まれているからこそ、みえないものがあるからこそ、信仰の価値があるのだから。 Romans 4:20,21 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 アブラハムの信仰に関して記した箇所である。信仰とは何なのだろうとやはり考える。ここでは、神の約束を信じ続けたことのようである。神の約束を受け取ったのが、アブラハムだとすると、アブラハムは、それが神からのものだと確信した部分をも含むことになる。聖書を通した約束であれ、教義として絶対化しないかぎりにおいては、同様である。わたしには、もっと素朴な、イエス様が、その生き方として示してくださり、最後に新しい戒めとして伝えた、仕えるものとなり「互いに愛し合いなさい」に希望を置きたい。いまは、それが、わたしの信仰告白の基盤で、信仰告白自体は、そのことばを日々生きることだろう。それを、目指して、生きていきたい。完全にできなくても、求め続けて。 Romans 5:12,13 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 パウロ(を通して語られる)の論理に抵抗があるが、ここでは、ここで語られている、原罪と、罪の問題を考えてみたい。律法の問題を適切に理解し説明する必要は高かったろうが、律法が与えられていることがユダヤ人の優れている点(3章1節)としながら本質は律法を守るかどうかで、律法を知らなくてもそれがこころに記され、それを行えば同じたと語る。(3章14,15節)ここで、律法がなければ罪は罪と認められないとも言っている。死の問題は復活を語るときにはどうしても語らなければならないと考えたのだろうが、死の原因を、アダムの罪に求め(旧約聖書からは、全く否定することはできないだろうが)それがすべての人の死の理由だとする。原罪の問題である。それを納得するのは、かなり難しいだろう。科学的にも立証は困難であるだけでなく、個人として、そう言われたから、原罪を抱えていると理解することはできるのだろうか。それを恵みと結びつけると、恵みはもともと理解しにくい概念であるが、ますます、抽象化されてしまう。論理の限界を感じる。わからないと言うことのたいせつさをパウロの言説を理解しようとすると強く感じる。真理の探究者ではなく(パウロはそのような面を示しているにも関わらず)真理をもっているものの宣言になってしまっている。そしてそれは、パウロだけではなく、教会も教義を根拠として結びついている以上、逃れられない。わたしがここに書いたような議論が聖書を文字通り絶対化する反動を生み出すのかもしれない。やはり難しい。 Romans 6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。 パウロにとっては、イエスの復活と、それに結びついて我々も復活することが中心にあり、永遠の命もそのときに与えられるものであるようだ。イエスとともに歩んだヨハネにとっては、そうではない。この世でも、永遠の命を生きることを求めることができるものなのだろう。それを示したのがイエス。ここにも、Objective Driven か、Value Driven か、目標の達成、実をむすぶことがたいせつなのか、目標をめざして、どう生きるかこそが、いのちを生きることなのかの重点の置き方の違いが現れている。おそらく、前者は論理による理論化、正しさに親和性があり、後者は、日々の生活の中で神の御心を生きようとすることと親和性が高いように思う。苦しむ人が、正しさの宣言によって、平安を与えられることはあるだろう。しかし、生き生きと生きることは、できないように思われる。これも、わたしの中にある、正しを示すための論理なのだろうか。 Romans 7:19,20 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 正しさだけでは、解決しないことがあると告白しているようにも見える。自分の中に矛盾があることから、その部分を分離してしまい、罪と呼ぶ、ある二元論に立つ一つの限界であもる。論理において、正しさの議論において、二元論から、離れることは、困難を生じる。しかし、現実が、不透明・不確定・不分離な世界であることは、単に、見分けようとするわたしたちに限界があるからではなく、それこそが実体で、二元論的論理の、限界でもあることを指摘しているように思われる。しかし、思考を整理するためには、有効な面もある。罪の起源をこのように定めることに、まずは、限界も提示しておきながら、意思と反することをなぜするのかについて考えてみたい。個人的には、邪悪な考えも、やはり自分の意思の一部であり、聖なると思えることも、自分の意思であると同時に、単純に神の御心とはいえないことも認めざるをえないと思うが。 Romans 8:1,2 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 恵みによる平安を感じるとともに、危険性も感じる。危険性は、むろん、これが、実際に「キリスト・イエスに結ばれている」ことではなく、信仰告白をし、聖餐にあずかるというようなことと取り替えられたときの問題性である。イエス様のことばと生き方を通して示された、神様のみこころを生きようとする営みに、付け加えるのは、問題を感じる。「キリスト・イエスに結ばれている」確信はいつまでも、得られないかもしれないが、それこそがたいせつな基盤であるように、思われる。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」(24)とあるように、確信してしまえば、それは、もう信仰ではないのだから。イエスに従ってともに生きていきたい。 2020.10.11 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ローマの信徒への手紙の後半を読んでから、コリントの信徒への手紙一に入ります。パウロはいまのトルコの東南の町タルソ出身のユダヤ人ですが、自分がイエスの弟子たちを迫害していたこともあり、(仲間・同胞のユダヤ人たちが)律法を調べることによって神さまの御心を求めることによっては、義と認められない(神さまの義に到達できない、救われない)ことをどう考えるかが大きな問題だったのでしょう。信仰によってとパウロは語りますが、「信仰によって」も難しい言葉であるように思います。律法によってではなくというほうは、理解できるように思いますが。みなさんは、自分のことばで語るとすると、どのようなことを言っているのだと思いますか。 次に読むのは、コリントの信徒への手紙です。ローマとは異なり、パウロが何度か行った場所で、まさに、パウロの宣教によって、教会ができたところでもあります。よく知っている教会、知っている人たちがたくさんいる教会といえます。使徒言行録によると、フィリピ、テサロニケ、ベレアといった、(ギリシャ北部の)マケドニアから、ほとんど、単身で(同行者のシラスとテモテを置いて)アテネへと向かい、アレオパゴスなどで、ギリシャ人たちと議論をしますが、あまり成果は得られず、移動していった先が、コリントであると書かれています。そこで、シラスとテモテを待つことになります。余裕があれば、使徒言行録17章・18章をもう一度読んでから、コリントの信徒への手紙を読んでみると良いかもしれませんよ。毎日の通読は忙しいスケジュールですから、日曜日などに、すこし、振り返ったり、先を読んだりできると良いかもしれませんね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ローマの信徒への手紙9章ーコリントの信徒への手紙一6章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ローマの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ローマの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rm コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Romans 9:31,32 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」それが、異邦人に与えられ、イスラエル人が「神から見捨てられたもの」(3)でもあるかのように(3節はパウロ自身がそうなってもよいと語っている箇所だが)なっていることにたいし、パウロが「深い悲しみと絶え間ない痛み」(2)をもって語っている。その理由は、根本にあるのは「約束」(8)であること、約束は神の「自由な選び」(12)によること、そして神の本質は「憐れみ」(24)であることが語られ、引用箇所につながっているようだ。「(パウロは)真実を語り、良心も聖霊によって証ししている」(1)としているが、自分に与えられている知力を使って、考え、思考実験を行っている。わたしには、やはり人間の思考の枠を出ることはできないと思うが、学ぶことは多いだろう。引用箇所では、人間の性質からか、義を求めながら、それは、明確にはわからないので、律法の中で示されていると確信する、方法論を絶対化したということだろうか。求めて、(目標に)達し得ないときに、どうするか、ということのように思われる。一生をかけて求め続けることの難しさについて思う。 Romans 10:9-11 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 今まで、何回も読み、引用もしてきた箇所である。「信じ」「口で公に言い表す」ことが書かれているが、ことばの使い方から「行うこと」は登場しない。混乱を避けるためであり、基本は、「信じたことを他のひとと共有して生きる」ことを意味しているととっても良いのかもしれない。言うだけで、実行しなければ、明らかに「偽り者」であり、そのひと自身が崩壊している。行うこと、生きることは含めず、このように表現しているのかもしれない。あまりに表現が異なるので、二者択一を迫られるように感じるが「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」(ヨハネ一3章23節)と食い違うものではないのかもしれない。この章の最初には、問題点を「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」(3)としている。自分の義(正しいと信じていること)を、(求めている)神の義と取り替えないことだろうか。 Romans 11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 「ねたみ」によって、ユダヤ人が悔い改めに至ることが期待されているようだが、それは、おそらくとてもむずかしいだろう。特に、この時代のユダヤ人にとっては、神の恵みの根本が覆されたと考えただろうから。反感のほうが強かったのは、頷ける。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(32)このあとでパウロは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(33)と続けているにも関わらず、神の道を解説している。「すべての人を憐れむ」ことは、普遍性からも、そうであるように思うが、実際に、そのように進むことは、非常に困難であるとも思う。 Romans 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 何度も考えてきたことばだが、心を新たにして自分を変えていただく営み自体に目を向ければ、変わることが底流にあることもわかる。一回の変化で、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」わきまえることなどできないのだから。このあとに、その生活が書かれている。奉仕や善行に励むことだけでなく「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(10)「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(14)とあり次には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(15)と、互いに愛することがどういうことなのかにも言及されている。むろん、ここだけで答えが得られるわけではないだろうが。 Romans 13:1,2 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 議論のある箇所でわたしも何回も考えてきたが、現時点どのように思うかを書いておく。イエスはほとんどこのことに関して語っていないように思う。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイ22章21節b)「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 (ヨハネ18章36節、「わたしの国」についてはルカ22章30節参照)のように、地上の権威と神の権威を分けているように思われる。そして、神の支配・国を語る。このことからも、地上の権威を否定してはいない。語らないだけである。その意味で語ることは困難である。しかし、パウロがこのパラグラフで述べているように、地上に生きる以上、権威が適切に行使されるように、協力することがたいせつであろう。同じ舟に乗っていることも、これに引き続いて語られている「互いに愛し合う」(8-10)こととも密接に関係しているのだから。積極的に関わることについても考えていきたい。 Romans 14:1-3 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 パウロの時代にはこの問題はとても大きかったろう。律法をどのように考えるかではなく、日々の生活の中で、生きていくかと関係しているからである。正しさではなく、隣人を愛すること「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(7,8)さらに「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(15)にも特徴的に現れている。優先順位のものだろうか、おそらく、もう少し適切に表現されるべきだろう。 Romans 15:30-32 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。 なぜ、パウロはエルサレムに向かい、さらに皇帝に上訴してローマに向かったことが不明だった。ここにも、ローマに向かうことが書かれているが、今回気になったのは「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」という言葉である。エルサレムに帰らず、ローマを目指すことも可能だったろう。前へ、前へと。しかし、パウロは、エルサレムのキリスト者、聖なる者たち(おそらくその中心にはイエスの弟子として行動した人たちがいただろう)のために、献金を集め、それを届けることを重要なことと考えていた。エルサレム使徒会議(使徒15章)で原理的なことは合意があっても、イエスの地上での生き方、教えに魅了されそれを根拠に、イエスをメシアと固く信じている人と、パウロが異邦人中心に語っている、キリストとの乖離が、キリスト者の間で不協和音を奏でる可能性は十分にあり、多少のことはすでに生じていたと思われる。正しさではなく、互いに受け入れるため、分裂ではなく、ひとつであるために、エルサレムに(愛の)奉仕としてエルサレムに向かったのではないだろうか。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 」(7) Romans 16:7 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。 16章のリストは、「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェべ」(1)から始まるが、はっきりと女性とわかる名前も多い。プリスカ(3)、マリア(6)、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」(13)このルフォスは、マルコ15章21節にある十字架をイエスのかわりに背負ったシモンの子と考えられている。ネレウスの姉妹(15)、家族ということばも何度か現れる。引用箇所は、パウロより前にキリストを信じるようになり、かつ、パウロの同胞、一緒に捕らわれの身となったとの修飾がされているアンドロニコとユニアスがローマにいる。ローマに多くのキリスト者がいるということは、パウロもすぐローマに向かおうと思えば、できたこともわかる。最後には「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。」(22)も登場する。この手紙は、パウロの単独の手紙とされているが、筆記したのは、別人であり、そのことばも書かれていることも興味深い。 1Corinthians 1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 直前の19節は「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」(イザヤ29章13,14節)からの引用のようだ。「すでに、人間が書いた戒めを覚えて、御心に近づくことはできない」ということだろうか。広い意味では「律法」も「聖書」も「人間が書いた戒め」なのかもしれない。同時に、神が「驚くべき業を重ねて」いるにも関わらず、そこから学ばないこともあるように思う。「反知性」的な動きである。しかし「宣教の愚かさ」は難しい。(人間が語った)神のことば・みこころの宣言を覚え込むだけで、心は遠く離れていることも十分起こりうるからである。パウロが自分の知恵を十分に発揮していることも事実である。十字架の死と復活という内容限定で述べている可能性が大きいが。 1Corinthians 2:2,3 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 使徒言行録17,18章によると、アテネで「復活」を語ると嘲笑され、あまり信じるひとがいなかった直後にコリントに行ったことが記されている。「十字架につけられたキリスト以外」には二通りの意味があるように思われる。ひとつは、十字架の死による贖罪(神様との交わりができるようになること)の強調。もうひとつは、パウロがおそらく貫いてきた人間イエスの活動ではなく、イエスがキリスト(救い主)であることの宣言の二つである。イエスをキリストと信じるようになった人々には「隣人を愛すること」など、イエスの教えから引き継いだことが含まれていたのだろうが。パウロはアテネでのことを挫折と考えていたのかもしれない。本人の博学をもって証明できると考えていた復活のキリストが受け入れられなかったのだから。経験から学び「衰弱死、恐れに取りつかれ、ひどく不安」ななかで、ひとは変えられていくのだろうが。難しい。 1Corinthians 3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 ひとと人との交流はたいせつである。しかし、往々にして、その背後におられる、神様を見逃してしまっている。Florence Nightingale のいうように、医師が外科手術でたいせつな役割を果たしたとしても、その傷口をふさぎ、その人を回復させることはできない。回復はそのように造られ守っておられる神様の恵みである、と語っている。聖書の会は、いろいろな意味で、おおくのひとにとってたいせつなものになったと思うが、それも、背後におられる神に目を向けるためであったと言える。ある時期、ひとりひとりの背後におられる神様の働きを見せていただくこと、それを喜ぶことが会を続けていくたいせつな要素だと言っていたが、まさに、そのとおりだと思う。このあとには「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」(10)ともあり、わたしも、ついつい、最後の頃に来てくれた人数などに目が行ってしまう。しかし、自分もそこで働いておられる神様に向けることとともに、他のひとにも、それを指し示すことができるようになればと願う。 1Corinthians 4:15,16 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。 パウロはコリントの人たちにとって特別な存在であることを強調している。それが、分裂の根となった可能性は十分にある。「父」としての思い、愛情の大きさとともに、情熱が強すぎるのだろう。おそらく、パウロを「父」としないひともすでにいただろう。正直「わたしに倣う者になりなさい。」の問題を感じる。しかし、同時に、本当に、パウロは、、最初にコリントに福音を携えて行った人であり、孤軍奮闘していたのだろう。そう考えると同情もする。しかし、また、神様は、パウロが来られる前から、一人ひとりに働いておられたとも信じる。パウロが宣教したときであっても、そのひとが受け入れ、信じるかどうかは、それほど単純なことではないことも、われわれは経験的に知っている。現代の宣教においても、たくさん見て問題点として思ってきたことでもある。模範となろうとしていたことは理解できるが、やはり、イエスの地上での生き方を模範として指し示していない部分に、問題を感じる。 1Corinthians 5:11-13 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」 「ある人が父の妻をわがものとしている」(1)と問題を表現している。列王記上2章のアドニヤがアビシャグをもとめたことを思い出させる。おそらく、ある文化のもとでは「みだらな行い」とは考えられていなかったかもしれない。たしかに、内部の人々について判断せざるとえないことはあるだろうが、教会の戒規も含め、これがひとつの線引、差別、分裂を生じさせることもある。裁きについても調べてみないといけないが、組織にとっては、困難な問題である。一般論は述べられない。最近考えている言葉では、ひとりひとりの尊厳(神様が造り・導き・愛し・この兄弟のためにもイエスが十字架にかけられた存在であること)をたいせつにし、担保することとともに、公平性(互いに愛し合うことに根ざし、特に社会的別け隔てをしないこと)をたいせつにし、担保することである。この原則が絶対的なものであるかどうかは、まだわからないが、この基準をしばらく意識して、考えていきたい。 1Corinthians 6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。 この問題も慎重に議論すべきである。「それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。」(4)とあるような目にあまる状態が背景にあったのだろう。しかし、それを、一般化して、引用箇所のようにし「わたしにならうものに」といえば、混乱が起きることは必然である。そして、それは、現代の教会にも問題として、引き継がれているように思う。科学と信仰の問題とも、世の権威と神の国の関係とも、裁くことはなにを意味するのかとも関係し、困難な問題である。早とちりして、語ることは慎むべきだろう。聖書の文字を絶対化することとも関係しており、難しい。 2020.10.18 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、コリントの信徒への手紙一の後半を読んでから、コリントの信徒への手紙二に入ります。前回も少し書きましたが、コリント教会は、パウロたちの宣教によってスタートし、その後も何回か訪問し、しばらく滞在した教会です。知っている人がたくさん居るだけではなく、とくに、コリントの信徒への手紙二を読むと、手紙のやりとりも、おそらく、これら二通の手紙だけではなく、あったようだということがわかります。 当時としての文明の利器、ローマ帝国の郵便制度が使われたのか、個人的に届けられたのかはわかりませんが、いわゆるリモートで関わる手段として、手紙は重要な役割を果たしていたのでしょう。コリント教会の人たちと、パウロたち(どちらの手紙も冒頭をみると複数の名前が書かれています)が共有していること、過去の手紙のやりとりを背景として、手紙が書かれていることは、確認しておく必要があると思います。わたしたちには、知り得ないけれど、お互いにはわかっていたことがあると言うことです。さらに、手紙はリモートでのコミュにケーションですから、完全にはわからず、入ってきた情報をもとにして、十分は理解せずに、語っていることもあるようです。かなり具体的な問題について触れていますから、我々の生活への適用を考える時は、注意も必要だと思います。 でも、たいへんな勢いも感じます。パウロさんの特徴なのかもしれません。パウロさんが今の時代に生きていて、現代の文明の利器が使えたら、パウロさんは、遠隔ビデオ会議システムにはまっていたのかもしれないなと思いながら、わたしは読んでいます。リモートになじめない方も多いと思いますし、やはり会って話すことに勝ることはないと考える方も多いと思いますが、パウロさんたちが書いた手紙を通して、リモート・コミュニケーションについても考えてみると面白いかもしれませんね。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コリントの信徒への手紙一7章ーコリントの信徒への手紙二4章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr1 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Corinthians 7:25,26 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。 結婚について「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。」(1,2)とあり、このことに応答するかたちでこの章が書かれている。また、応答者と応答の権威について、引用箇所に書かれている。「こどもが聖なるものとされている」(14)ことや「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(16)なども含め、わからないことについても、述べてはいるが、少なくとも、わたしの答え方とは異なる。これらのパウロのことばを神のことばである聖書に記されているとして権威をもって受け取る人たちが多いことも考えると、問題をも感じる。むろん、パウロは自分の書いたものがそのように使われることは考えていなかったろうが。 1Corinthians 8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。 引用句は「わたしたちにとっては」と始まり「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。」(7)と続けている。この章の最初には「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」(1)とある。なにを目指しているか、たいせつにして生きているかを考えること、そのように求め続けて生きる人たちと共に歩むことをたいせつにしたいとわたしは理解したい。共に、食卓につくことの、たいせつさも、忘れてはならない。同じ舟に乗っていることも。引用句は、信仰告白ではあっても、そこから演繹する根拠にすることは、たいせつなことをたいせつして生きることから外れてしまうということだろう。 1Corinthians 9:22,23 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 この章は最初から攻撃的とも言える議論で始まる。パウロたちを批判するひとがたくさんいたことがわかる。(3)以前は、引用句などはとてもすばらしいと思っていた。今は、異なる感覚を持っている。「福音のため」という目的達成による価値判断、また、神の御心の理解は自分の解釈が正しいとしてしまう点、互いに愛し合う状態を阻害する事態が広がっていると思われる…である。特に、最後の部分、わたしもそれこそが神の御心だと絶対化はしたくないが、すくなくとも「福音のため」の理解に幅があるとは思う。キリスト教会において、世の中において、これらの問題から、神様は喜んでおられないのではないかと思われる事態がたくさん起こっていると思うからである。弱い人に対しては、弱い人のように。これは、弱い人をも神様が愛しておられることを、学び、自分も変えられていくためではないのだろうか。 1Corinthians 10:28,29 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。 すばらしいと思ってきたが、いまは多少違う。「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。」(33)に違和感を感じるからである。引用句はとても親切、優しく見える。しかし、その裏には、自分が与えられていると信じている使命を全うするためという「下心」が見えている。これは、パウロを批判するというより、キリスト教会でも頻繁に見られることである。イエス様が、私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことをたいせつにしたいからで、そのこととは、明らかな違いがあると思えるからである。「互いに」むろん、簡単なことではない。しかし、次善の策を絶対化してはいけない。 1Corinthians 11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 2節から16節まで問題となる箇所である。ヘブル語を丁寧に調べないといけがいが「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2章18節)とあり、また、1章27節にあるように「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」が前提であるから、人に合う(ふさわしい)助け手が必要であるとも理解されている。パウロもこのあと「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」(12)と書いている。本質的な部分を考えれば、女が男のために造られたとか、「男は神の姿と栄光を映す者」(7)などという結論は出てこないはずである。また髪の長さも、女性ホルモンの影響があるとしても、統計的差異が生じるだけで、文化的な影響も強いものだろう。それを「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。」(16)のように断言してしまう。やはり人間の限界でもある。おそらく、ほかの聖書の箇所と同様に、それを絶対的な神のことばとして受け入れるべきと演繹してしまう、人間の弱さと限界もあるのだろう。もっと学ぶこともありそうだ。 1Corinthians 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 還元論の問題点を述べていると理解すればよいが、27節以降の教会組織論の全体を是認するところに適用していると考えると、おそらく問題も生じるだろう。これも、聖書をどのような書だと理解するかにも関係するだろうが。おそらく、ここにあるキリスト教会の組織の記述を絶対的なものとして、パウロが書いてはいないだろうから。一つの霊の働きとしても、天で行われているように、地でも行われていないことを考えると、「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(3)は、原則であって、これから演繹することは、困難である。人間の論理を絶対化することの問題だろうか。 1Corinthians 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 「それゆえ」とある。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」(1,2)から続いている段落が先行している。突き詰めて考えると、信仰は、何に信頼を置くかに懸かっているが、それが不完全な理解であれば、価値のある部分があり、いつまでも残るにしても、完全とは言えないのだろう。特に、信仰の核心はというような議論になると、正確には述べられないのだから。希望もにているかもしれない。将来が不明だからこそ持つもので、希望をもって生きることは尊重されるべきであろう。愛はどうなのだろうか。これは、評価が難しい。愛の動機は不純なものが混じっているだろうし、継続的に愛することが求められるところでも、続かなかったりする。しかし、されど、愛、なのだろうか。自分の中に対象がない、完結しないことは確かである。おそらく化学反応的な部分もあり、愛が愛として存在するためには、何らかの相互性も関係しているのだろうか。応答性である。いつまでも残る理由は、愛とはなんだろうか。 1Corinthians 14:2,3 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(1)から始まっているが、愛の正体にも関係するが、パウロの願いは、キリスト者のあつまり、教会のなかで、人々が造り上げられ、励まされ、慰められることだったのではないだろうか。愛は、それを可能にするが、異言は、神に向かって語るだけで、人々を造り上げることには寄与しないかもしれないと。もう一歩進んで、神のみこころ、神の国、神の支配によって、人々のなかになされることに、関心があったということだろうか。「天におけるように地の上にも、御心が行われること」が、愛と密接に関係しているとも言えるかもしれない。父なる神と、イエス様の関係が想定されているのだろうか。難しいが、すこしまた考えが進んだように思う。 1Corinthians 15:3,4 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 パウロはこれがもっとも大切なこととして「福音」(1,2)としている。イエスの言われたこと、ヨハネが伝えていることとは少なくとも、表現上は非常に異なる。それを、認識せず、すぐ、その整合性を説こうとするのは、正面から「最も大切なこと」に向き合わないことだと思う。復活(あたらしい命に生かされること)について「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(44)とある。蒔かれたものにいのちの元(素)がなければ、そこから芽はでない、背後におられる神様についての認識も不可欠だろう。簡単に折り合いをつけるのではなく、これからも、最も大切なこととしてなにを受け取るのか考えていきたい。それを「福音」として「永遠の命」として生きていくのであれば。 1Corinthians 16:3,4 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。 この「聖なる者たちのための募金」(1)を届けることが、実際に、パウロがエルサレムに向かった時と一致しているのかは不明である。そのようなことが何回かあった可能性も大きいからである。しかし、このような機会を通して、自分が行くべきかどうか、つねに考えていたことは確かだろう。「聖なる者たち」という表現をあえて使っていることも意味があるように思う。15章の復活証言でも、ケファや、十二人、(同時に)五百人以上もの兄弟に現れ、ヤコブやすべての使徒に現れた(15:4-8)としている。イエスの活動や教えではなくても、パウロが最も大切なこととしている、贖いの死と復活(15:3,4)には「聖なる者たち」欠かせない存在だったのだろう。復活には、死の前のいのちと、復活した命の両面からの証言が必要だからだろうか。 2Corinthians 1:7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。 苦しみと慰め。難しい課題である。それぞれ、一人ひとりが振り返りの中で、苦しみの中に、慰めを受け取るもので、普遍性は求められない。押し付けることはできない。自ら、それを受け取ることができれば、幸いであるが。パウロにしても、慰めは、自分が受け取ったと信じている、使命と関連して、受け取ることもあるだろう。それを他者に適用することはできないのだから。難しい問題である。他者に耳を傾けるものでありたい。 2Corinthians 2:5-7 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。 このことが何をするのか、明らかではない。しかし、1コリント5章1節の「ある人が父の妻をわがものとしている」事かもしれない。もし、そうだとすると、パウロの手紙の指摘の影響がとても大きかったことを意味するだろう。「あなたがたすべてを悲しませた」「多くの者から受けたあの罰」など、詳細は不明である。しかし「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。」は、たいせつなことである。どのようなことが起こっていたにせよ。なにを、目的に戒めるのか、内部の人を裁くのか、神様はなにを喜ばれるか、イエス様はどう行動されるだろうか。ていねいに、考えて行動し、あとから、その行動を正当化するのではなく、それぞれの時点で、問いながら、神様の御心を求めていきたい。人間の義は虚しいものだから。 2Corinthians 3:2,3 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 推薦状かどうかは不明であるが、本質的には、一人ひとりが、キリストがお書きになった手紙として公にされているということだろう。ヨハネの表現を使えば、イエスさまによって愛されたその愛によって「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章35節)とも通じている。パウロが書きつけられていることがどのようにしてわかると考えていたのかは不明であるが(「自由」(17)は一つの特徴かもしれない)、「地の塩・世の光」(マタイによる福音書5章13節)を考えても、単に、そのひとが何かを信じているかどうかではないことは明らかである。 2Corinthians 4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 内容は不明であるが、結果として「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(8,9)を証言しているようだ。まだ当時は殉教は多くなかったかもしれないが、殉教者が増える中で、どのように理解するか、深化が求められたろう。困難ではあっても「互いに愛し合う」ことを求める、共に生きることの価値を考えながら生きることがたいせつであるように思うが。 2020.10.25 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、コリントの信徒への手紙二の後半を読んでから、ガラテヤの信徒への手紙を読みます。前回も少し書きましたが、コリント教会との手紙のやりとりは、おそらく、聖書に含まれているこれら二通の手紙だけではなく、いくつもあったようだと思われます。このコリントの信徒への手紙二も、いくつかの手紙をまとめたものではないかと考える学者もいます。それはさておき、様々な具体的な問題に、リモートで対応するときの課題のようなものも読み取れるように思います。誤解や、誤解をも許容してたいせつなことをくみ取ろう、伝えようとすることなどです。いまの、コロナ下でのコミュニケーションについても考えさせられます。ますます、あなたのたいせつにすることは何ですか、と問われているように、わたしは感じます。 ガラテヤの信徒への手紙には「福音の真理とキリスト者の自由」が書かれていると言われます。宗教改革者マルチン・ルターが特に好んだからもあると思います。原理的なことに目が行きがちですが、後半には、その自由をどう生きるかという具体的な勧めが語られています。Free From ではなく、Free To だと言われることでもあります。当時のひとたちはどのように受け取ったのでしょうか。みなさんは、みなさんの自由を、または、自由を与えられていたら、どのように生きることを望んでおられますか。世界を見ていても、自由がたいせつというより、自由をもってどのように生きるかがたいせつであるように思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コリントの信徒への手紙二5章ーガラテヤの信徒への手紙5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コリントの信徒への手紙二とガラテヤの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コリントの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#cr2 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#gl 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 2Corinthians 5:9,10 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。 前半は理解できるが、後半には、人間の通常の思いに引きずられているように思われる。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(19)とも書いている。キリスト論に個人的に距離を置いてしまう理由でもある。和解と裁きをわける根拠を議論することは、虚しく感じる。ひとの論理であり、日常生活を本質的に変える力にはならないように思えてしまうからである。論理ではなく、ひたすら主に喜ばれるものであるために、みこころを求め続けながら謙虚に歩んでいきたい。 2Corinthians 6:16,17 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、 最後の部分は、イザヤ52章11節、エレミヤ51章45節 が引用箇所としてあげられるが、前者は祭具を運ぶときに関するもの、後者はバビロンへの預言の中である。文章もかなり異なっている。神殿と偶像に結びつけているとはいえ、これらを「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」(14)の根拠とすることには、問題がある。分離主義(separatists)への道を是とする方向性につながるからでもある。本音と建前のように、複数の基準をそのばその場で使い分けることにもなりかねない。グレーな場合もふくめ、また、自分自身も揺れることを真摯に受け入れ、御心を求めて生きるものでありたい。 2Corinthians 7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。 この段落は「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」(5)と始まっている。それがテトスが到着して、報告を聞くことで、慰められた(6)とある。さらに「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。」(8)とある。「あの手紙」については不明であるが、1Cor 5:1 にある不道徳の指摘や、1Cor 1 にある分裂のことであるかもしれない。または類似の問題があり、それを指摘した別の手紙があるのかもしれない。新約聖書の成立にも問を投げかけるものであるが、それはさておき、引用句は、それらが問題ではなく、パウロの誤解であったかもしれないことを臭わせている。このあとに悔い改めについて書かれているが、それも、たとえ誤解であったとしても、正すべきところがあるとして、悲しみ・生活を変えたのかもしれない。確実とは言えないが「ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。」(12)を見ると「誤解」の部分が大きかった可能性が大きいことを感じさせる。強いリーダーシップの問題点・課題でもある。わたしは、パウロに厳しいかもしれないが、キリスト教会のリーダーシップの模範とされていると思われるので、考察を書いておく。 2Corinthians 8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 めずらしく、イエスについて言及している。おそらくフィリピ2章6-8節のようなことかもしれない。キリスト論の部分である。ここでは、募金・(おそらくエルサレム・ユダヤの)貧しい人たち(聖徒)への献金について述べている。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(7)マケドニアの諸教会に見習うように勧めているようである(フィリピ4章15,16節)。現在もこのようなことが起こるが、やはり目的達成が価値を決めているように思えてしまう。他方、この募金が、とてもパウロにとって重要であったことも分かる。 2Corinthians 9:9,10 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。 「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(詩編112編9節)からの引用のようである。この詩編は「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は」(詩編112編1節)と始まり、主語は「主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人」だろう。最初の引用箇所では、「神」(8)のように思われ、異なっている。七十人訳など、丁寧に確認する必要がある。しかし、主を畏れることは、主に倣うことでもあり、引用として問題とは言えないだろう。また、この後半(10)が重要である。主の働きを確認することが、信仰であろうから。自分や特定のひとの功績として見ることは慎まなければならない。 2Corinthians 10:13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 パウロは誇り高い人である。誇っている箇所が多いように思う。慎みを美徳とし、こころの中では誇るひとではないようである。しかし、個人的には、これもパウロであるが「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(1コリント4章7節)のほうがこころに響くそして、「誇る者は主を誇れ。」(18)自らを誇ることなく、忠実なしもべとして、恵みの管理者として生きていきたい。物欲・肉欲は制御できても、名誉欲は人間にとっておそらく最も難しいものだから。「仲間どうしで評価し合い、比較し合(う)」(12)のではなく、神とともに、隣人とともに、喜ぶものでありたい。 2Corinthians 11:9 あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。 「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」(フィリピ4章13-16節)と対応していることが書かれている。「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」とあるように、支えることは、共に生きることの重要な部分なのだろう。いのちを分かちあることと同じだから。それは、神の恵みを分かち合うことでもある。それが、強制や、圧力によってではなく、自発的であることも、おそらく、重要である。しかし、現実は、自発性だけでは、成り立たないように見える。目的達成によって決めるのではなく、どのように生きるかに価値があるとすることとも、関係しているように思われる。それで本当によいのかどうか、まだ自信はないが。囲碁の名人に返り咲いた井山裕太が「今後の目標は」と聞かれ「最近は具体的な数字や目標は設定せず、自分の中でどれだけできたかということに重きを置いている。30代になったからこういう戦いを、という風には考えていない。今まで通り、少しでも成長していけるようにということに尽きる。」と答えている。(朝日朝刊2020年10月16日)プロも驚くような手を打ったときも「無理気味な仕掛けかなと思ったが、ほかの手で自信があったわけでもないので、やってみたという感じ」(同)と、わかってそうしているわけではないことを認め、答えている。わたしの感覚にとても近い。 2Corinthians 12:7-9 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 何度も考えてきた有名な箇所である。今回は、弱さの中で気付かされたのだと思った。つまり、恵みは常に十分である。神様は常に働いておられる、もしかすると、どのような場合にも、主が共におられることを認めて歩んでほしいのかもしれない。しかし、ひとは、自分でやって行けているように思ってしまっている。悲しい。共に歩むことは、どのようなときにも、いつもだろう。イエスと共に。 2Corinthians 13:11-13 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。 この手紙の最後の三節である。三位一体の神の祝福を祈っている。パウロの願いが、ここにまとめられているのだろう。しかし、これだけでは、終われない。細かいことについて、どうしても書かざるをえなかったことが、この手紙を成り立たせているのだろうか。ほとんどが、互いの関係のことである。完全なものになることも、喜ぶことも、一人だけでは意味のないことかもしれない。パウロのメッセージをていねいに受け取りたい。 Galatians 1:11,12 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 たいへんなことが書かれている。神からの啓示であることの根拠はない。「なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」(2コリント13章3節)を思い出した。おそらく、その根拠はひとことで表現できるものでは、ないのだろう。ひとつには、その啓示に基づいて生きているパウロの人生による証、もうひとつは、他の証言との整合性だろうか。この問いは、難しい。 Galatians 2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 いくつか問題を感じた。最初にある「福音の真理」。パウロは、旧約聖書と照らして十字架と復活について考え、思考実験も多く行って、ことばを紡ぎ、この「福音の真理」をことばにしていったのだろう。しかし、共に生きることがなければ、互いに愛し合うことはできない。わたしにも、経験がある。神様が、少しずつ、群れを導いてくださるのを待たないといけないのである。「啓示」(2)復活のイエスから特別の使命を与えられたことも含め、パウロは「啓示」について語ることがある。それは、信仰告白として、否定するものではないが、やはり、共に生きることには障害になることが多い。さらに、この章でも語られている、エルサレム使徒会議について、使徒言行録のときにも述べているように、実際には、困難な問題が、絡み合っている。ここでは、パウロの主張が認められたように記述されているが(6)、神様の認識はどうだったろうか。前途多難と思っておられるのではないだろうか。「貧しい人たちのことを忘れないように」(10)このことの意味も、パウロは生涯かけて学ぶことになるように思われる。ここに現れる「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。」(9)が真の一致を生み出すのは、簡単ではない。ひとの世界に働かれる神様を認めないといけない。 Galatians 3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。 パウロはアブラハム以外のひとたちをどう考えていたのだろうか。旧約の時代のひとたち、そして、パウロが説く福音を聞いていない人たち。神様のその人達への慈愛は、恵みは、さらに、その人達の信仰は。パウロにとっては、わたしが最近、時々語る「信仰とは『真理を事実と認識すること』ではなく『達し得たところに従って真理だと認識することに、自分の人生を委ね、それに忠実に生きること』」で、わたしが否定している「真理を事実と認識すること」に重きを置いているように思う。付け加えておくと、信仰には、そのような面もあり、完全に否定できない。自分の人生を委ねるために、真理だと認識することには、その真理がそのとおり、疑いようのない事実と信じる面が多く含まれているからである。信頼・信仰・忠実、いずれも同じギリシャ語のことばであるように、これらは、響き合っていることも確かである。上のことばは、わたしの今の生き方の指針とでもいうべき、信仰告白なのだろう。 Galatians 4:13,14 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。 具体的には背景はわからない。しかし、「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」(12a)など、理不尽とも言えることが書かれている。おそらく、それだけ、パウロは必死だったのだろう。ガラテヤの信徒に起こっていることに対する危機感が強いのだろう。引用句のように、パウロの弱さの中での宣教が重要な意味を持っていたとも言えるかもしれない。現代のキリスト教会の問題に照らして、パウロに批判の矛先を向けてしまうが、実際のパウロは、このような苦しみの中で、生かされ、導かれて行っていたのかもしれない。 Galatians 5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 だんだん論理的に破綻を来していく。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(3,4)表面的な行為で、決まるわけではない。私は、幼児洗礼で悩み、信仰告白式をどうするか悩んだが、恵みとして受け入れたことを思い出す。正しさよりも、豊かな恵みの世界がある。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(16)と正論に戻ってきている。パウロの時代は、文章校正を入念にすることは難しかったろうから。いろいろと考えることがある。 2020.11.1 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ガラテヤの信徒への手紙の最後の章を読んでから、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、そして、コロサイの信徒への手紙を読みます。みな、それほど長い手紙ではありませんが、一週間で読むのは、ちょっともったいない気もすると思います。これも、通読の一つの面ですね。 これまで読んできている、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で重要な位置を占めており、四大書簡と呼ぶひともいます。それに続く、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、フィレモン(ピレモン)への手紙は、獄中から書かれたことが記されており(エフェソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, フィレモン1)、獄中書簡 (Captivity Epistles) と呼ばれています。フィリピ 4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」などという言葉もあり、ローマの獄にいたのではないかと考えられています。パウロの著者性を疑う学者が多いものもありますが、時代的にも、パウロの生涯の最後のころなのかもしれません。そのような時に、伝道者パウロのこころにかかっていたこと、伝えたかったこと、共有したかったことはどのような事だったのでしょうか。初代教会のあゆみの一部としても、継続性が重要視される時代の歩みとしても、なにが語られているか、考えながら読み進めていただければと思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ガラテヤの信徒への手紙6章ーコロサイの信徒への手紙3章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙とコロサイの信徒への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ガラテヤの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#gl エフェソの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ep フィリピの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ph コロサイの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#co 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Galatians 6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 このあとには「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(5)ともある。わたしが考えること、望むことととても近いと思った。さらに「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」(12,13)ともある。割礼の問題も、正しさの問題として、考えない方がよいかもしれない。そのあとでパウロは「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(15)と語っている。割礼の有無、割礼を受けるか受けないかの背景まで見ていかないと、混乱を招くように思われる。 Ephesians 1:13,14 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。 救いの確かさ、「約束されたものの相続者とされた」(11)ことの保証が、聖霊による証印だとある。しかし、それを客観的に、確かめる方法はない。その保証を求める、ひとり一人に答えることが「ひとつにまとめられる」(10)教会の一致に不可欠になってきているのだろう。み言葉を生きることだけでは、組織としての一致は得られないと言うことかもしれない。まだ、よくはわからないが、とても大きな問題を秘めているように思う。ゆっくり言語化して考えたい。 Ephesians 2:1,2 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 死から命はメッセージとしては素晴らしいが、実際は、それほど、単純ではない。このあとには「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 」(3)ともある。これも、そう言い切れるのか、また、続いて「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 」(4,5)とある。なぜ、愛しているなら、全員を救わないのかと、一般的に言われる批判に、どう答えたとしても、しっくりこない。二分、二元論からはじまっているところに問題があるように思う。個人的に、以前とは、違った状態になったと信じることは、理解できるが。 Ephesians 3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 それを、わたしも願っている。自分の心の内に、そして、隣人の心の内に。愛に根ざし、愛にしっかりと立つは、実際どのようなことを表現しているのか、わからないが、魅力的なことばでもある。今は、集中して考えられないが。 Ephesians 4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 この章は「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、」(1)と始まる。引用箇所では「一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じ」としている。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(32)も、その根幹となるものがあるということだろう。ただ、詳細はわからないことが多い人間社会で、赦しあうことをさきにすることがよいのではないかと考える。もし、このことが救い、栄光をうける、復活するなど、パウロがいう招きへの途中にあるものであるなら、それと取り替えてしまうことは間違いであるが、一体であるように思う。むろん、赦すことによって、赦されるわけではなく、そこに本質があるということだろう。 Ephesians 5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(8)「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 」(11)パウロの筆致とはかなり異なる。パウロ由来と考えていたが、すでに、時間だけでなく、空間的にも、関連性からも、離れているのかもしれない。あと一歩で、イエスに従うところに行き着く。ただ、そのようには表現しない。福音書記者たちとは、ある程度の距離があるのだろうか。実際、どうなっていたのだろう。不思議である。 Ephesians 6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。 子どもが両親を敬うべき事、奴隷が主人に従うべき事、主に仕えるように仕えるべき事が書かれている箇所である。奴隷に対して主人には「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(9)とあり、尊厳のもととなることが書かれているが、なにか公平ではないように思っていた。しかし、その一つの答えが、引用箇所にあるように思う。主のように、WWJD、WWNJD である。イエス様ならどうするだろう。イエス様ならこうはしないかな。 Philippians 1:9-11 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。 パウロの晩年の祈りである。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(6)のように、ある特定の一時点での救いではなく、神の継続している創造の業と、「あなたがた」の成長をたいせつなこととしている。不完全なものが、どのように神の栄光と誉れをたたえることができるのだろうか、そのためには、(神と人とに対する)愛が豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようになることだと言っているのだろう。わたしも、似たような考え方をするようになっているのは、やはりある年月のなせる技かもしれない。 Philippians 2:14,15 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 最後の文章は「命の言葉をしっかり保つでしょう。」(16)と次の節で閉じられている。不平はあまり言わないが、わたしは理屈は多いように思う。最近感じているのは、自分も他者も社会も完全ではない以上、批判は簡単であるということである。神さまの御心が天で行われるように、この地上でも行われるように願い、自分もその神さまの業に加わらせていただくためには、なにができるだろうか。そのことに、集中したいと思うようになった。考えることは山ほどあり、わたしが担うこともいろいろとありそうだ。 Philippians 3:10,11 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 この直前には「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 」(9a)とある。フィリピの信徒への手紙は、これらを説くことを中心にはおいていないが、やはり、「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」によって「何とかして死者の中からの復活に達」することが、パウロの中心にあるのだろう。そして、それを、伝えることを宣教としている。少し違和感を感じる。自分が達し得たところでも、希望するところでもなく、わたしを生かすものでもないように思えるからである。 Philippians 4:8,9 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 ふたつのことが並べて書かれている。後者は、イエスに倣うものではなく、パウロに倣うものという表現が、ここでは「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。」となっているのだろう。個人的には、問題だと思うが、当時の教師のスタイルだったのかもしれない。学ぶことが、まねぶ、まねをするところからくるのは、自然な事だから。ただ、ここには、引用した箇所の前半も付属している。獄中書簡と言われるこの手紙の中で、パウロの死後、パウロのことを直接知らない人についても、ある配慮をしているのかもしれない。(善い)神さまからのメッセージは、様々なところから来るのだから。 Colossians 1:25,26 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 啓示をどのように理解すればよいかわかっていない。御言葉を余すところなく伝えるということは、それを持っているということだろうか。さらに「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」が明らかにされたという。福音は、たしかに、この範疇にはいることだろうが、そのすべてを受け取ったとしてよいのだろうか。危険を感じる。ただ、この手紙では、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(15)ともあり、ヨハネによる福音書に近い面も持っている。中身(地上で神の姿をどのように現したか)はやはり語っていないが。 Colossians 2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 わたしはこのようには表現しないが、ひとの知恵から学ぶとしても、完全な真理では、ないのだろうなとは考えている。「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」(17)と近い感覚だろうか。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(コリントの信徒への手紙一13章12節)「人間の言い伝えにすぎない哲学」を絶対化しないということだろうか。 Colossians 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 「復活させられた」と書かれている。新しいいのちに生きているということだろう。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(2)と続く。その通りだと思う。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(ペトロの手紙一4章10節)恵みの管理人として生きていきたい。イエス様を通して神さまから与えられたいのちに生きる者として。 2020.11.8 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、コロサイの信徒への手紙の最後の章を読んでから、テサロニケの信徒への手紙一・二、そして、テモテへの手紙一を読みます。前に、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙は、獄中書簡と呼ばれていることを書きましたが、テモテへの手紙一・二、それに続く、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれています。 テサロニケへの手紙一は、パウロ書簡のなかでも、一番最初に書かれたと考えられています。テサロニケへの伝道は使徒言行録の17章に書かれていますが、そこから、シラス(テサロニケの信徒への手紙1章1節の、シルワノと同一人物と考えられています)とテモテを残して、アテネ、コリントと向かったパウロのもとに、この二人が追いついてきて報告を聞いて書いたようです。パウロがどのように福音を宣べ伝え、なにをたいせつなこととして伝えていたかも、垣間見ることができる書です。テサロニケの信徒への手紙1章3節には、 「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」 とあり、愛・信仰・希望と、コリントの信徒の手紙一13章に「いつまでも残るもの」と書かれているこの三つがここですでに書かれていますね。 テサロニケへの手紙二からは、当時、再臨がとてもおおきな話題だったこともわかります。当時のひとたちの、悩みや、喜び、艱難と希望についても考えながら読むことができればと思います。そのことは、現代のわたしたちにも、当てはまることがあるように思います。みなさんの、悩み、喜び、苦しみ、希望は何ですか。なにをたいせつに生きていますか。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 コロサイの信徒への手紙4章ーテモテへの手紙一5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 コロサイの信徒への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#co テサロニケの信徒への手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#th1 テサロニケの信徒への手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#th2 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ti1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Colossians 4:18 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。 エフェソス書・コロサイ書・テサロニケ書二は、疑似パウロ書簡(Derutero-Pauline Epistles)の可能性があるとして議論されている。文体・内容、教会の整備状況、様々な理由のもとで議論されており、わたしには、わからないとしか言えないが、気になっているのが、結びとも言える部分についてである。様々な人々との関係が書かれている。おそらく、当時、パウロの手紙にどう表現されているかは、重要だったと考えるからである。コロサイ書で一番気になるのは、マルコの事である。もし「この三人(アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス)だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。」(11)とある。使徒言行録の記事と比較すると、何らかの説明が必要であり、唐突であるとも思われる。むろん、今後もわからないのだろうが。 1Thessalonians 1:5-7 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによった」とする根拠は何なのだろう。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」以下は一つの答えかもしれない。ただ、さらに興味をもったのは「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者」という表現である。「わたしたちに倣う」は 2Thess 3:9 にもあるが、「主に倣う」という表現はここにしかない。「キリストに倣う」は、1Cor11:1、「神に倣う」は、Eph 5:1、「造り主の姿に倣う」Col 3:10、「神の諸教会に倣う者」1Thess 2:14 とあるが、他は、すべて、「わたし(パウロ)に倣う」である。パウロは主に倣うで、なにを表現しているのだろう。苦しみの中で従う姿だろうか。 1Thessalonians 2:8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 パウロたちのテサロニケの信徒たちへの思いが漲っている。この前には「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、」(7)とあり、「幼子のように」「母親のように」とあり、少しあとには「父親のように」(11)とある。愛着という表現がぴったりするような状態である。そしてこの章の最後は「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」(19,20)とある。ありがたいと思う人もいるかもしれないが、多くの人にとって重すぎるだろう。パウロたちの人生の目的、神を讃美する道具になってしまっているようで。パウロたちの喜びと、思いの深さが痛い。そのような気持ちを持つことはある程度理解できるが。 1Thessalonians 3:2,3 わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。 おそらくあまり長い時間がたっているわけではないだろう。苦難が具体的にどのようなものかはわからないが、使徒言行録17章1節〜9節の記述によると、ユダヤ人たちの反発があったようだが、町の当局者に群衆と共に訴えたともあり、使徒言行録19章にあるような騒動と似たこともあったのかもしれない。パウロが書いているように「苦難を受けるように定められている」と理解することもできるが、問題もあると思う。パウロには激怒されてしまうだろうが。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」(12)と祈ることはできなかったのだろうか。お互いの愛の範囲は限定的で、「隣人になる」(ルカによる福音書10章36節)は中心ではあり得なかったのだろうか。おそらく、イエスの弟子たちの中には、違和感を持っていた人もいたのではないかと思う。ステファノの殉教を端緒とする迫害に対する対応は詳細は書かれていないが、パウロのようなものとは異なるとも思われるので。 1Thessalonians 4:3-5 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。 このあとには「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。」(6)と続く。異邦人社会において、情欲におぼれることが一般的で、目に余ることだったのだろう。ただ、神の御心をここに集中して説くことで、兄弟(キリスト者)の中での道徳になってしまっているようだ。救いと裁き、復活と滅びの二元的な考え方から、兄弟とそれ以外と分ける考えが強く、イエスの自由さ(without bias)が欠けてしまってきているように思う。時代的なまた当時の状況を考えると、方策としては受け入れられるが、歴史的には困難な方向に進んでいると思う。 1Thessalonians 5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 ここで「すべての人」は、兄弟をさすのだろう。しかし、そうであっても、共に生きることにおいて、おそらく最もたいせつなことだろう。そして、それは、兄弟と共に生きることであると共に、主と共に生きることでもある。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(10)とある通りである。 2Thessalonians 1:6,7 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。 本当にそうだろうか。そしてパウロがこのように書くだろうかとも考えてしまう。まあ、この手紙では、このようなことを伝えて励まそうとしているのかもしれないが。苦しめているものも、苦しんでいるものも、神のみ手のうちにあり、かつ、それぞれのひとの人生は、その苦しみに関することで終わるものでもない。ただ、同時に、自分もその苦しみを共にすることをいとわず、苦しんでいる人に寄り添い、苦しめているひとへの神さまの愛をも、理解しようとして、そのひととどのように生きて行くかを試行する、そのような者でありたい。神は正しいことを行われても、わたしたちはそれがどのようなことかはわからないのだから。 2Thessalonians 2:5 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。 「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(2)とあり、かなりの混乱が起こっていたようだ。パウロ(たち、送り手はパウロ、シルワノ、テモテとある(1:1))の名を語って「主の日は既に来てしまった」かのように語る輩にたいして、それを否定している手紙とすると、それもまた、パウロたちの名前をかたって出されているとするのは、たいへんな混乱になる。しかし、そのような権威をもっての、手紙合戦があったのかもしれない。主の日という日常生活にも大いに関係することに、ひとは特別の興味を持つだろうから。主の日は今日の生き方を考えるためであると思うが。 2Thessalonians 3:10,11 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。 このような問題をどう考えたら良いのだろうか。最もたいせつにすることではないように思う。自ら気づいて、行動を変える事を望むか、その人の背景を理解しようとすることなどの方法を個人的にはとってきた。しかし、おそらくそれでは本人が気づくことも遅らせることになったり、分断がおこったりもするのだろう。公平さを担保しながら、個人の尊厳を守る。ほんとうに難しい課題で在る。そのことのために、ひとり一人は召されていると言っても良いかもしれない。 1Timothy 1:4,5 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。 正しさより愛とわたしが表現することとも関係しているが、おそらく、ひとは保身・自分は正しく安全であることを保証することを求める傾向があるのだろう。それを罪とは呼びたくないが、性(さが)だろうか。むろん、だからどうしようもないことでもない。どのように、互いに仕え合い、互いに愛し合うことに進んでいったらよいのだろうか。よくわからない。世の中で起きていることをみながら考える。わたしも、自分だけ正しければ、良ければという性からこのように毎朝考え祈っているのかもしれないと思う。本当に難しい。 1Timothy 2:11-14 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。 問題になる箇所である。当時は、今とは背景が異なるとして説明されることもあるが、このように書くということは、女性の働きが大きく、かつ、おそらく目にあまると思われることも多かったのではないだろうかと思う。明確な統計は示されていないが、キリスト者に女性が多かったことは、ほぼ間違いないだろう。普遍性は公平性に価値がおかれ、それと異なる状況に対して、変化をも求めることになるのは自然なことである。女性が十分たいせつにされていなかったことは確かだろう。その中で、キリスト教社会では、女性の活動が顕著になってくる。現代と同じである。その状況に対するおそらく男性だけが著者となっている聖書の言葉としてこのようなことが残されているのも自然である。謙虚にさせられる。背景には、識字率など教育格差もあるだろうし、知的価値偏重ということもあるのだろう。 1Timothy 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。 信仰告白の定型(またはひな形)のひとつなのであろう。基本的にキリスト論であるが、キリストに、焦点が当てられ、十字架についても復活についても、また贖罪についても述べられていない。「信心(eusebeia: 1. reverence, respect 2. piety towards God, godliness)」の秘められた真理ということばは、不明である。栄光のうちに上げられたは、昇天を意味しているのではなく、高い・偉大なものとされたということだろう。「真理」と言われている以上、おそらく、ある程度支持するひとが多かったと思われるが、どの程度、普及していたのだろうか。 1Timothy 4:14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。 なにか、特別なことが、按手によって起こったような印象をうける。「預言によって」は、按手が主のみこころによって起こっていることを示すものなのだろうか。おそらく魔術のようなものではなく、按手をうけた者(この場合想定されているのはテモテ)がそれを、主からのもの受け取り、それに応答する関係の中で、賜物となっていくのだろう。受け取ったものの信仰の働きと、主の導き(客観性のあるものではないかもしれないが)を、テモテの働きから認めることの、ひとつの表現として受け取れば良いのだろうか。 1Timothy 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。 課題がありそうだ。支援は、たいへんなひとたちを支えるもので、困難は多様だからである。"Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way. - Leo Tolstoy” 最近読んでいる、Data Science の本に "Tidy datasets are all alike, but every messy dataset is messy in its own way. - Hadley Wickham" とともに書いてあった。本当にその通りである。「アンナ・カレーニナ」の冒頭の表現のようだが。支援、混乱に対応するものが、常に心しておかなければいけないことである。「教会に負担をかけてはなりません。」(16)とあるが、教会は、このような背景もしっかりと受け取らなければ、教会の働きにはならない。"To understand God's thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose. - Florence. Nightingale" 2020.11.15 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、テモテへの手紙一の最後の章を読んでから、テモテへの手紙二、フィレモンへの手紙、そして、ヘブライ人への手紙へと読み進めます。前回も書いたように、フィレモンへの手紙は、獄中書簡、テモテへの手紙一・二、それに続く、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれています。ヘブライ人への手紙は、パウロの著作と考えていたひともかつてはいたようですが、現在は、著者不詳とされています。ただ、ユダヤ教や、旧約聖書に関する記述が多いことからも、ユダヤ人であったことは、ほぼ間違いなく、書名が示しているように、第一義的には、ヘブライ人読者が想定されているように思われます。 なかなか、一つ一つていねいに理解していくことは難しいと思います。好きなことばや、聞いたことのあることばを拾いながら、それが書かれた文脈をみていくことも良いと思います。また、これらの書を書いた人、そして、受け取った人たちにとって、たいせつなこと、課題は何だったのだろうと考え、その理解のもとで、いまのわたしたちへのメッセージを受け取ることができるとよいですね。一足飛びに、なにか「自分にとって役に立つこと」を受け取ろうとすると、かえって混乱が起きるかもしれません。 このBRC2019 の配信も 100回目となりました。あと少しですよ。続かなくなっておられる方もいるように聞いていますが、今回の通読箇所のように、いくつもの書にわかれていると言うことは、どこから読んでもよいとも言えます。習慣とするために、今日からでも、また再開してみませんか。確定ではありませんが、できれば、BRC2021 もトライしてみたいと思います。次の通読につながると思いますよ。何度中断しても、少しずつ読むことができれば、素晴らしいとわたしは思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 テモテへの手紙一6章ーヘブライ人への手紙5章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 テモテへの手紙一・二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 テモテへの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ti1 テモテへの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ti2 テトスへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#tt フィレモンへの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pl ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#he 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Timothy 6:1,2 軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒瀆されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。 このような記述が社会変革を遅らせるとも言われ、関連して「宗教はアヘンである」というマルクスのことばが引かれる。最近、日本共産党の機関誌「赤旗」ホーページでその原文を引用して説明している箇所を読んだ。原文は「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」とのことで、アヘンは鎮痛剤など有効にも使えるが、そうではなくなる場合もあるとの主張だとある。25歳の時ともあり、驚かされる。テモテの手紙を見ると、すでに、そのときの状態が理不尽、不公平、unfair であり、神さまの御心ではないという認識が背景としてあったことを示しているとも読める。その状態を、マルクスの時代までひとは、そしてキリスト者は変えることができなかった。人間の弱さ故だろうか。そして、現代でも続いている問題はあまたある。 Titus 1:15,16 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。 長老任命における注意点に引き続き「実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。」(10)とあり、そこから続いている。分断を生じ、人の世界での裁きが止められなくなるように思われる。判断基準が明確でないだけでなく、互いに愛することにおいても懐疑的になり支障が生じると思われるからである。引用句がたとえ真実であるにしても、行動の基準に採用しないことはたいせつであると思われる。 Titus 2:9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。 奴隷が自分で主をあがめようとすることと、教えることには、差があるように思う。神さまの権威のもとにあるものが、謙虚さをもって、神さまを讃美することと、神さまが愛しておられるひとりひとりをたいせつにすること両方を考えることだろうか。簡単ではないのかもしれない。キリスト者院生会で話すことになり、いろいろなことばをまとめる必要性を感じている。ていねいに対応していきたい。 Titus 3:8 この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 「この言葉」は直前の「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(7)だろうか。その少し前には「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(5)とあり、次の節では「この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」とある。しかし、このことと、「神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようにな(る)」には隔たりがある。5節がたいせつな真理を証したことばであるにしても、それですべてが魔法のように、解決するわけではないと言うことだ。謙虚に、真理を求めていきたい。 Philemon 1:6,7 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。 最近 Dignity and Fairness に多少の問題を感じている。アメリカ大統領選挙での僅差の争いを見ていても、同様のことを感じる。公平さを強調することから来る、ひとの寂しさだろうか。囚われの身(1)と思われるパウロが(この書はパウロが書いたとするものがほとんどのようである)求めている・祈っていることが書かれている。それは「あなたの信仰の交わりが活発になる」こととあり、自らが「慰めを得」「元気づけられた」ことに言及している。また自らを「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロ」(9)とも表現している。「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、」(12,13)これらからも、他のパウロの手紙とはすこし違うものを感じる。さびしさを表現することに躊躇しなくなっているのかもしれない。ほかの箇所もまたていねいに読んでいきたい。違う面を学ぶことができるかもしれない。ルカ、マルコなどの名前の出ている24節についてもまた考えてみたい。 Hebrew 1:2,3 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 事実かどうかはわからないが、これを真実なこととして、わたしは、イエスが神様(真理)の本質の完全な現れだと信じている。この表現も変化するのかもしれないが。ていねいに読んでみると「御子によって語られた」が印象的である。それは、イエス様限定ではないのかもしれない。しかし、それは神の子限定ではあるのだろう。神の子として生きるもの、そのようなものでありたい。一瞬一瞬の積み重ねであったとしても、そのように生きることを願う。その最大のお手本は、イエス様。 Hebrew 2:16-18 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」(8b)とある。確かに、イエスの死によっても、万物がキリストの足の下に置かれておらず、また、御国もまだ来ていない。引用箇所に「アブラハムの子孫」とあるが、信仰の子ということだろうか、ユダヤ人とは言えない。おそらく、地上で生きるひとの子たち、罪の中で、試練を受けながら生き続けている人たちが想定されているように思われる。「天使たちを助けず」も、試練の中におらず、平安のうちに生きる、神の子たちを象徴しているのかもしれない。むろん、実際には、そのようなひとはいないかもしれないが、救いを必要としないと考えている人はいるかもしれない。そう考えると、まさに、イエスは、現時点で、試練を受けている者と共におられるのだろう。 Hebrew 3:12,13 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―― わたしはこのように表現はしないが、「今日」という日の内に、日々励まし合うと表現されている内容にひかれる。互いに仕え合い、互いに愛し合うことは素晴らしいことである。しかし、それが実感できる日々でないと、これもやはり正しさに偏ることになってしまう。といって、それを日々感じることを目指してもいけないように思うが。 Hebrew 4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 「安息にあずかるように」歩みましょうと述べている。日々の歩みこそがたいせつであると思う。ここで、安息についてあらためて述べているのは、救われたのだからもう良いという人や、安息は既に与えられていると考えた人たちがいたということだろう。福音の伝え方に問題を感じるが、批判することは、適切ではない。ともに、「安息にあずかるように努力し」て行きたいものである。努力がひとを裁くことにつながらないように。 Hebrew 5:8-10 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 努力ということばはキリスト教会では使わないが、ここにあるキリストについての表現は、そのように表現しても良いものである。しかし、おそらく最もたいせつなことは、われわらと同じように肉体をもって歩まれた方が、多くの苦しみによって従順を学ばれた、そして、そのことを示してくださったことだろう。それは、単なる肉体的な苦しみではなく、神のみこころを行う御子としての苦しみだったのではないだろうか。ここでも、大祭司ということばが使われているが、苦しみを共にして、とりなしてくださるかたなのだろう。もう少しことばを洗練されたものにしたい。 2020.11.22 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ヘブライ人への手紙を読み、そのあと、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一へと読み進めます。ヘブライ人への手紙はいかがですか。パウロ由来の書簡とは、少し違った印象を持たれるかもしれません。旧約聖書全体とイエス・キリストについて理解しそのことを発信する(無名の)ひとが何人もいたということだけでも、すごいなと思います。11章には、信仰者列伝のようなものがあります。ひとり一人についての記述についての根拠を問うと、かえってわからなくなるかもしれませんが、様々な(無名な)信仰者とつながっており、信仰をもって共に歩む者という認識をもてるのは、すばらしいと思います。みなさんは、どう思われますか。 ヤコブの手紙のヤコブは主イエスの兄弟ヤコブが想定されていると考えられています。ペトロは十二弟子の一人のシモン・ペトロですね。著者について、正確にはわかりません。聖書をキリスト教の聖典、神のことばとして読むと、旧約聖書や新約聖書がどのように、現在の形になったかも、気になりますよね。ひとつ言えることは、イエス様の時代には、合本ではなく、巻物だったということです。一巻・一巻ばらばらの。パピルスが一般的で、大切な文書には羊皮紙が使われていたようです。ばらばらだったものを、どのように、これとこれが聖書の一部とするか決めたのでしょうね。ある程度は記録があります。また、それぞれが、聖書の一巻として書かれたわけではないでしょうね。そのようなことも考えながら、読むことは混乱をひきおこすでしょうか。それとも、理解が深まるでしょうか。わたしは、すくなくとも、書かれたころの背景は理解しようとしながら、読んでいきたいと願っています。 このBRC2019 の配信も 101回目となりました。あと少しですね。前回も書きましたが、続かなくなっておられる方も習慣とするために、今日からでも、また再開してみませんか。確定ではありませんが、できれば、BRC2021 もトライしてみたいと思います。次の通読につながると思いますよ。何度中断しても、考えながら、少しずつ読むことができれば、素晴らしいとわたしは思います。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヘブライ人への手紙6章ーペトロの手紙一1章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヘブライ人への手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#he ヤコブの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jc ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pt1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Hebrew 6:18 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。 「二つの不変の事柄」とあるが、これは何なのだろう。正直、全くわからない。約束と希望だろうか。「恵みと憐れみ?」ネットを調べてもいろいろな解説があるようだが、やはりわからない。ヘブライ人への手紙記者のこころに深く根付いている確信があるのだろう。これは、二つと書いてあるから余計気になるが、ほかにも実際には、書かれていなかったり、明確にはされていないことがたくさんあるのだろう。人間のことばで人間が書いているのだから。それを求める続けることもたいせつにしていきたい。 Hebrew 7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。 イエスを新しい祭司としてメルキゼデクをその予型としている。ひとが理解し、ひとのことばで語るとすると、そうなるのだろう。イエスは、祭司のようなことは、何も言っていないとおもう。つまり、そのような意識はなかったのではないだろうか。共に、互いに、とりなすことはあるだろう。それは、それ自体が、愛だから。それを形式に載せないと理解できないのは、人間である。そして、形式がないと続きにくいことも、事実なのだろう。教会制度についても、考えさせられる。難しい。 Hebrew 8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 新しい契約などというものがあり得るのかの説明が書かれている。一つは「祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕え」(5)ているということ。そして、引用句で第一の契約は欠けたものであったことが述べられ、つぎに、エレミヤ31:22-34を引用して「心にそれを書きつけ」(10)られた、本質的に「新しい」契約が与えられたのだと述べられている。契約は約束だから、一方が守らなければ履行されない。背後には、そのようなことへの配慮は、神さまにあることが前提とされているのかもしれない。しかし、正直、まだ、「神の律法」が、われわれの「思いに置」かれ、「小さな者から大きな者に至るまで」「(神を)知るようにな」るとは思えない。(10-11)本当に「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」(12) Hebrew 9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 キリストの贖罪とわたしたちの救いは、究極的かつ完全なものであることが、主張され、この章の最後には「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(27,28)とある。ヘブライ人への手紙記者の深い洞察と信仰はすばらしいと思うが、パウロ書簡で感じたように、やはり人間の理解のように思われる。または、理解しやすいように解き明かしているに過ぎないと思う。完全な解き明かしと求めつつも、謙虚に、一日一日を御心を求めながら歩むことがすべてなのではないかと思ってしまう。 Hebrew 10:5-7 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」 詩編40編6-9節「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」と似ている。しかし、興味深いのは、ここでイエスの言葉として引用されていることである。福音書に書かれていることばとはかなり異なるので、記録がさまざまに残されていたのであることが推測される。内容は、明確とは言えないが、肉体をもってキリストが来られたこと、そして、目的は、御心を行うことであって、祭司のように、動物の犠牲を献げるためではないことである。もう少し、この続きが聞きたい。無理だろうが。 Hebrew 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。 この章だけで19回「信仰によって」と書かれている。そして最初と最後に「信仰のゆえに」(2,39)とある。これらはどのような意味だろうか。文脈からは直前の10章にあるように「神の御心を行って約束されたものを受けるという確信をもって喜びをもって耐え忍ぶ」(10:34-36)ことだろうか。「あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともある」(10:33)状態を喜んで耐え忍び、希望をを持ち続けること。その背後には、神への信頼があるということだろう。具体的な救いを求めたということとは多少ずれているようにも思う。引用箇所は、モーセの両親の信仰である。名もなく、個人の背景が明確に記されていないこれらの人においても、そのような信仰の行為が、続いてきたことを書き留めているのだろう。すくなくとも、その人たちを切り捨てることはできない。信仰生活とは、その仲間として、歩むことである。 Hebrew 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐ り捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 11章に書かれているおびただしい証人とともに、わたしも神さまと共に歩むことを真摯にもとめていきたい。わたしが聖書を通読するのも、このことを確認しながら読んでいるように思う。ヘブライ人への手紙の著者にとっても、いろいろな苦労があったのだろう。重荷も、絡みつく罪も、そして、忍耐が求められることも。その一歩一歩をていねいに歩んでいきたい。この地上のいのちあるかぎり。 Hebrew 13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。 このあとにも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」(2,3)とつづく。これが、この書における、「互いに愛し合いなさい」の表現なのだろう。背景の記述がほとんどないことが著者不明とされる理由でもあろうが「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。 」(23)とあり、牢に捕らわれている人たちが、実際に身近にいたのだろう。同時に、隣人も、互いに愛し合う対象も、キリスト者に限られているようにも思われる。迫害下だからだろうか。 James 1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 この前には「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」(23,24)の鏡のたとえがある。完全に理解しているわけではないが、みことばは、それを生きてみて、少しずつ理解できているもののように思う。行うことで止まっていては問題かもしれないが。行うとその先が生じる。鏡に映すようにながめているだけでは、なにも生じない。 James 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 この前には「あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」(16)とある。これは、直接的な効用がなければ、無意味だと言っており、功利・効用を生活の究極基準とする、ひとつの功利主義である。イエス様が、みことばを行うことを強調されたのは、おそらくこれが根拠ではないのだろう。それをとおして、学ぶことができるからであると、わたしは思う。まさに、Service Learning である。神さまとの関係は、それを通して深くされていくので、行うことがなければ、学ぶこともない。信仰はそれだけでは、死んだものなのだと言えると思う。 James 3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。 舌を制御することは困難であることが書かれ、引用句に至る。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ7章17節)などを思い出させる。舌によって、つまり自らの発言によって多くの罪を犯す、失敗してしまうことを、ヤコブは十分理解しているのだろう。しかし、行き着く先は、それはおかしいというところである。イエスのメッセージは、その根っこ、ことばを発する主体に目を向けなければいけない。全人格的な悔い改めのもとで謙虚に生きることがたいせつで、舌の制御方法を考えていてはいけないと言っているようである。ひとは、やはり表面的な解決を求めてしまうのだろう。または、表面的矛盾を解決する説明を求めるのだろう。しかし、へりくだって、神さまに信頼し、イエスを神の子キリストと信じて、主の招きに答えていく歩みに本質があるように思う。 James 4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。 困難な問題である。結局、欲望のところに行き着くのだから。遺伝子にすり込まれている、人間の本質にかかわることであるとも言えるかもしれない。そのようなものが「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(15)として生きる者とされることは、基本的には不可能である。これは、わたしが使っている、available に近いが。この章の最後にある「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(17)も、stay vulnerable と言いうるかと関係している。厳密にみると、地上でそれを達成することは不可能だろう。しかし、イエス様を知ることを通して、神さまとの交わりを持つ、永遠のいのちを生きること(ヨハネ17:3)、自らを振り返りながら、みことばを生きようとすること集中したい。同時に、ここに欠けたものがあることも、最近感じている。自分が「ただしい側にいる」ことを求めている姿である。共に喜ぶこと、隣人・他者がその人生の中に、有機的に組み込まれることを考えたい。さらに大きな課題である。 James 5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 これは単に我慢しなさいと言っているに過ぎない。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」(7)我慢よりは「忍耐」ということばのほうが響きはよいが。わたしは、苦しんでいる人にこのようには言えない。1節から6節をみると、具体的な問題がたくさんあったようである。社会的不正である。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」(8)再臨を待つ、キリスト者の心構えとして、これでよいのだろうか。神さまから様々な方法を通して、御心を知らせようとしておられるなら、そのことをしっかり受け取るべきである。たしかに、忍耐は必要だろう。しかし、それだけではないのではないだろうか。 1Peter 1:22,23 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 キリスト者を表現する言葉として、ここでは、「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」としている。「真理」はイエスの名(1John 3:23)としても良いかもしれない。「魂を清め」は何だろうか。「兄弟愛」は「わたしの兄弟とは誰のことですか」(Luke 10:29)と聞くのでは、イエスの名を信じることにはならないかもしれない。兄弟は「神の子として生きるものたち」を表しているのだろうが、差別的に働く可能性も十分にある。「魂を清め」は不明であるが、常に、真理に、主イエスに、こころを向けることだろうか。父なる神とイエスさまのように、兄弟と互いに愛し合うことだろうか。「深く愛し合う」は、真心から?もしかすると日常的な生活を通してだろうか。それは、朽ちる種ではなく、朽ちない種から生まれたことの証になるのかもしれない。 2020.11.29 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ペトロの手紙一・二と、ヨハネの手紙一・二・三を読みます。イエス様の十二弟子の中でも、様々な機会にそばにいたペトロとゼベダイの子らのヤコブとヨハネ、そのうちのヤコブは早い時期に殉教の死を遂げたようです(使徒12章2節)。残った二人が書いたとされる書です。ヨハネは他の弟子より若かったようで、1世紀末近くまで生きたと伝えられています。厳密に著者や書かれた背景を特定することは困難ですが、ペトロやヨハネ由来またはそれぞれの影響の強い文書として読むことはできるでしょう。個人的には、2003年から2018年暮れまで続いた聖書を読む会の最後にヨハネの福音書とヨハネの手紙一・二・三を読んだので、とても印象が強く、特に、ヨハネの福音書と、ヨハネの手紙一は、一番好きな聖書の巻です。特に、ヨハネの手紙一は、論理的に順序立てて説くというより、著者(たち)が交わりをとおして経験し学んでいることをいろいろないい方で伝えているように思います。背景にある交わり、神さまとイエス・キリストとの交わり、「わたしたち」と言われる人たちの交わりにわたしたちも、預かることができるとよいですね。 実は、今回の分を読んでいた頃、コンピュータのキーボードが汚かったので掃除していたら、あやまって3章分消してしましました。しばらくしてから気づいたので、復帰もできず、思い出そうとしても、書いた内容までは思い出せませんでした。たいしたことをかいていないとも言えますが、そのときどきに、向き合って、心を注ぎ出して、書いていることも思い、消してしまったことがショックでした。メモ書きのようなものでは埋めてあります。以前にも書いたように、皆さんに送るために、わたしは少し先を読んでいますが、昨日、ヨハネの黙示録の最後の章まで読み終わりました。ノートの記録を取りながら読み始めたのは、1982年ですが、今回の二年間での通読も完了できて感謝しています。いつまで続くかわかりませんが。わたしは、BRC2021 をはじめるまでの5日ほどの間、BRC2021 に向けた作業をしたいと思います。少しずつ気になる聖書の箇所も見直しながら。 このBRC2019 の配信も 102回目となりました。あと少しですね。前回も書きましたが、続かなくなっておられる方も習慣とするために、今日からでも、また再開してみませんか。BRC2021 もトライしてみたいと思います。次の通読につながると思いますよ。何度中断しても、考えながら、少しずつ読むことができれば、素晴らしいとわたしは思います。真理の探求と、神さま、イエス様そして、真理をもとめた方々たち、さらには、一緒に聖書を読み進めている仲間たちとの交わりを通して、日々を生きて行く糧をえることを一緒に続けて行くことができればと願っています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ペトロの手紙一2章ーヨハネの手紙三はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ペトロの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pt1 ペトロの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#pt2 ヨハネの手紙一:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn1 ヨハネの手紙二:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn2 ヨハネの手紙三:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#jn3 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート 1Peter 2:1-3 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 このあとには「この主のもとに来なさい。」(4)と続いている。11節には「旅人であり、仮住まいの身」であることが書かれ「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(12)さらに「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」(13)と続け「皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 」(14)とある。この手紙が書かれた当時のキリスト者をとりまく社会の様子がわかるように思う。その背景のもとでの、引用句なのだろう。基本的に「神を知る」ことである。そのためには、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」は障害になるということだろう。わたしも主が恵み深い方であることを味わいながら生きて行きたい。 1Peter 3:16,17 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 最近考えていることと関係しているように思うので、ことばにしてみる。キリスト者は偽善者と呼ばれることがある。それは、自分が正しい側にいるというこころが強いからではないだろうか。引用句も、そのようなニュアンスが表現されている。それは、他者理解にはつながらないように思う。人間の社会で、これぞという真理を受け取ってしまったものの弱さと言えるかもしれない。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8)真の同情と憐れみと謙虚さをみにつけたい、それが真の愛かどうかを計る指標のように思う。常に探求者でありたい。 1Peter 4:18,19 「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。 引用は聖書には見つからない。イエスの言葉なのだろうか。歎異抄の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」を思う。このことばの主や、親鸞はどのようにここに行き着いているのだろうか。また、これらのことばの背景は異なるのだろう。その違いも理解したい。親鸞は他力本願を徹底しようとしたことは確かだろう。たしかに、この親鸞のことばの背景には、そのことがあるように思う。善い行いをしているまたは、不信心な人や、罪深い人を嫌うこころには、自力本願の闇が広がっているからである。引用箇所は、正しい人は余裕をもって救われることを目指しなさいと言っているようである。正直イエスがそのように言ったとは思えないが、不信心な人や罪深い人の救いが考えられていることは確実だろう。当時、どの程度のひとたちがこれを受け入れていたのだろうか。 1Peter 5:8,9 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。 自制は不可欠である。しかし、それは、ひとを傲慢にすることも確かだろう。恵みのみといいつつそれを否定し、悪魔の側にたつものとして、ひとの尊厳を否定したり、といったことである。だからこそ、愛に目をむけるべきなのだろう。しかし、ひとは、知らず知らずのうちに、愛から離れてしまう。わたしの日常でもある。だからといって、そういうものだとすることも、受け入れられないように思う。ひとは、とくべつな存在というより、すくなくとも、ひとは、そこで悩む存在であることは、確かだと言えるから。 2Peter 1:20,21 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではななぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。 ここで言われている聖書は基本的に旧約聖書であろうが、預言のあつかいは、難しい。自分勝手に解釈してよいものではないにしても、どのように書かれたものかの道筋までをすべて同じとすることのほうが、不自然である。聖霊のみちびきのもと、神とともに歩んだものが、神から受け取ったとして記したものが預言だとおもう。基本的には、人間が記したもの。しかし、そこから神のメッセージを受け取るのは、共に歩むものである意識をもっているからだろうか。難しい。(誤って、消去してしまい復元できなかったため後日記したもの。) 2Peter 2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます 直前のロトについての記述は、聖書からではない。信用できる特別な伝承があったとも思えない。引用句にあうように、二分して、自分を安全な側に置こうとすることは、非常に自然な人間の行為だろうが、わたしには、み心ではないようにおもわれる。さらに、ペトロもこのようには書かなかったのではないかとおもう。偽教師についての記述があるが、当時の教会の様々な問題が背景にあるのだろう。わたしには、見えていないことがたくさん。(誤って、消去してしまい復元できなかったため後日記したもの。) 2Peter 3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。 この章では、再臨について議論され、パウロ書簡について語られている。特に、再臨については、おおきな問題だったのだろう。この書の記述については、頷けない部分がいくつもあるが、引用した、この書を締めくくる最後のことばは、ともに歩むものであることを思わされる。イエスを通しての恵みとしての救いを日々の生活で知っていくことと、自分にではなく、神に栄光を帰すこと。それは、日々の生活に鍵があるようにおもう。違いから、排他的になるのではなく、ともに歩んでいくものでありたい。(誤って、消去してしまいあとから近い内容を復元したもの。) 1John 1:8,9 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 罪なしに生きることを求めていない。罪の自覚と、それを公に言い表すことが求められている。公はむずかしい。ある機能になってしまう可能性もある。本質は何だろうか。生き方ではないだろうか。自分は、罪人であることを自覚して、(神のもとにある)光の中をあるくことだろうか。その一見矛盾とも言えることが可能になるのが救いなのだろうか。まだ、よく理解できていないことがわかる。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3)ここに、希望をおいて歩んでいきたい。わたしたちの交わり、御父と御子イエス・キリストとの交わり。 1John 2:7,8 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。 「古い掟・新しい掟」よくわからなかった。もしかすると、日々あたらにこの掟を受けることを言っているのかもしれないと今日思った。最初に「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1章3節)があり、この章の最初には「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(1)とある。罪(神さまと引き離された状態)では、交わりをできず、光の中を歩むこと(1章7節)はできない。そして「神を知るものは、神の掟を守るもの」(3)とある。罪を犯してしまう、神さまから離れてしまうわたしたちが、イエスによる罪の贖いによって、罪を告白し、イエスの名を信じることによって、罪赦されたものとして歩むことができる。少なくとも、地上では、この繰り返しの中で生きて行くのだろう。今日も、主の掟を、新しい掟として受け取りながら。 1John 3:10,11 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(23,24a)と「掟」の定義がここにある。引用箇所では、互いに愛し合うことを「初めから聞いている教え」としている。ヨハネの周囲のひとたちは、いやというほどこのことを聞いていたのだろう。神に属する者の属性、それは、掟を守ること、その掟とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ」「互いに愛し合うこと」である。正しい生活とあるが、文脈からは、倫理的な生活をこまごまと言っているのではなく、「罪を犯さない」(5)生活なのだろう。そんなことは、できるのかと思ってしまうわたしたちに、掟を簡単にまとめている。イエスによらなければ、罪の中に留まるからだろう。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(2章2節)論理的にそうなのではなく、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(16)ということに含まれている、これを通して「イエス・キリストの名を信じる」ことなのだろう。 1John 4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 確信を生み出す「霊」(13, 3章24節など)のことも考えたかったが、それは又としよう。よくわかっていないから。恐れのことが書かれている。わたしが Be available, stay vulnerable というとき、この恐れを締めだそうという気持ちが強いことは確かだと思った。いままで、何度か、そのようなことがあった。非難されるのではないか、仕事も取り上げられ、いままでしてきたこと、生きがいを感じていたことも、できなくなるのではないか、生活が奪われ、友も失うのではないかとの不安があったことは確かである。そのときに、それを恐れないことにした。傷つくことを怖がらず。無謀とも言えるかもしれないが、それでも、その生き方を選んだのは、愛をたいせつにしたかったからのように思う。動機を、みつめることが、やはり大切である。ここには、「恐れは罰を伴う」ともある。まだ十分は理解できないが、たいせつなことをしない、自己保身は、的外れの罪なのだろう。 1John 5:11,12 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 このあとには「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13)と続く。これも、目に見えるものではないだろう。しかし、互いに愛し合うことにより、確認できるものなのかもしれない。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」(1,2)ひとの尊厳の根拠があり、互いに愛し合うように招かれていることが、神の子どもとして愛することと関係し合っていることもわかる。目に見えるものに依らないで、この命に生きていきたい。ヨハネからは、もっともっと学びたい。初期のキリスト教をずっと見てきて、最初から受けたもの、たいせつなことに、純化されていったのだろう。イエスを直接知って、教えをうけ、それを生き抜いたひとりのひとの証言をしっかり受け取りたい。 2John10,11 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。 この書は、12弟子の一人のゼベダイの子ヨハネのものかどうかを考えながら読んでしまった。それを確定することはできず、ヨハネ由来かどうか程度でよいと思っているにも拘わらずである。やはり気になるのかもしれない。最初の「長老」はヨハネ著作説に反する項目にあげられるが、そうでもないように思う。12弟子の一人や使徒というほうがかえって不自然に感じる。掟や互いに愛し合うべき事についての記述4−7は、ゼベダイの子ヨハネが著者であることが、明らかに想定されている。そのあとの、8-11節がむずかしい。8,9 はヨハネによる福音書やヨハネの手紙一に関係があることばがつかわれているが、引用箇所は、かなり印象が異なる。書かれた背景がことなるのだろう。興味を持つのは、ヨハネにとって、互いに愛し合う他者はどのようなひとが想定されていたかということである。おそらく、隣人となったのは誰かというイエスのことばの方に、本質的解を求めるべきだと思うが。いずれにしても、上の議論は、あまり重要な意味をもたないと思われるにもかかわらず、そのことを考えてしまう、自分の発見のひとときでもあった。 3John 7,8 この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。 「愛するガイオ」(1)にあてて書かれ「彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。」(5)と書かれている。しかし、その評価の理由とも思える、引用箇所は、気になる。「異邦人からは何ももらっていない」人をもてなしたことが重要なのか。そして、そのことが「真理のために共に働く者となる」ことなのか。背景がわからないので、即断はさけるべきだろうが、なにか、商売をしているように感じさせられる。「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(2)は有名な言葉で、わたしも一時期使っていたが、なにか、色あせて見えてしまった。 2020.12.6 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、ユダの手紙を読んでから、ヨハネの黙示録の前半を読みます。ユダの手紙のユダは、イエスの兄弟のひとりのユダ(マルコによる福音書6章3節参照)だとされていますが、新約聖書の中でも聖書に含めるかどうか、議論のある書のようです。一番、大きな理由は、旧約聖書に含まれてない、偽典とも言われる書をいくつか引用しているからだと思います。正典としての聖書の成立は、わたしは詳しくありませんが、現在のものと同じものが正式に確認されたのは、4世紀末とのことです。ユダの手紙だけでなく、ヤコブの手紙や、ヨハネの黙示録もいろいろな議論がそれ以前もそれ以後もあったようです。そして、結局、みな含めることにしたということが大雑把なわたしの理解です。今回のわたしのユダの手紙を読んで思ったことにも書いてありますが、わたしが、そこにいたら、正典として認めることには、強い躊躇をもちつつ、それらを正典に含めることを押す人たちがいたら、最後は折れたのではないかと思います。それは、そのような書を聖書として持つ我々が、どのように読み、どのように受け入れるかという我々の問題になっているとも言えるのだと思います。何をたいせつにして生きるのか。少しでも、正しいと考えられることを優先させるのか、どうにか、共に歩むことができないかと模索するのか。そして聖書のことばとどのように向き合うか。 さて、ヨハネの黙示録は、文中に5回ヨハネの名前が登場しますが、上に少し書いたように、議論のある書でもあります。この書をとてもたいせつにし、ここから多くを読み取ろうとするひとたちもかなりおられます。最初の3章は、アジア(現代のトルコ共和国西部)の7つの教会にあてて書かれています。4章からは、黙示(ユダヤ教・キリスト教で,神が人に隠されていた真理や神の意志を啓示すること。アポカリプス。)が語られています。これらが書かれた背景、そして、黙示がたいせつにされる背景などを考えながら、この書をたいせつにする人たちを少しでも理解し受け入れたいと願い、また個人的に批判的になりがちな自分のこころも顧みながら、今回は読みました。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 もうすぐ、クリスマスですね。下にリンクのある「ヨハネの黙示録」には、クリスマスのことも書いてあります。 さて、このBRC2019 の配信も 103回目となりました。通常の配信はあと一回です。前回も書きましたが、続かなくなっておられる方も習慣とするために、今日からでも、また再開してみませんか。次の通読につながると思いますよ。何度中断しても、考えながら、少しずつ読むことができれば、素晴らしいとわたしは思います。真理の探求と、神さま、イエス様そして、真理をもとめた方々たち、さらには、一緒に聖書を読み進めている仲間たちとの交わりを通して、日々を生きて行く糧をえることを一緒に続けて行くことができればと願っています。BRC2021 の準備をはじめています。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ユダの手紙ーヨハネの黙示録13章はみなさんが、明日月曜日から1週間の間に読むことになっている箇所です。 ユダの手紙とヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ユダの手紙:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#ju ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Jude 1,2 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。 なぜユダの手紙が聖書に含まれたかを考えながら読んだ。5節から16節までは、通常聖書には含まれないものの引用が並び、内容的にも聖書のほかの箇所と整合性があるとは言えないものであると、前から思っていた。聖書に含めるかどうか議論のあるものは、基本的にすべて入れることにした結果だと言われる。ある選別はなされたのだろう。当時の文書で、聖書に含まれてないものも少数あるようだ。しかし、基本的には、切り捨てない。Inclusive 包摂だろうか、をたいせつにしたと思うようになった。このユダの手紙を書いた人や、支持する人がいたとき、排除しない。排除することから起こるであろう問題を避けたとも表現できるかもしれない。それを、いまは、受容できる。わたしが、何回かあった、選別の過程に関わっていたら、最終的には受容したろうから。課題は、今の時代の責任に引き継がれていると考えるべきだろう。聖書をどのようなものとして神のみこころを求めていくかである。 Revelation 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。 わたしが、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一から、想像するヨハネとは別人であると強く感じる。むろん、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一も、ヨハネの強い影響下で書かれたという意味で、現代的な意味で、ヨハネの著作かどうか、厳密にはわからないが。いずれにしても、これら二書も晩年または死後書かれたと思われることを考え合わせると、ヨハネの黙示録の著者は別に考えるべきだろう。このように、明確に名前をあげることで、状況設定をしている。黙示文学という形式で、どうしても、伝えるべき、共有すべき内容があったのだろう。それを、しっかり受け取っていきたい。当時の状況もこの書をとおして、知ることができればと思う。 Revelation 2:6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。 ニコライ派についてはよくわからないが、聖書には「同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。」(15)ともう一回出てくるだけである。ただ引用句のエフェソにある教会へのメッセージは「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。 」(2)と始まっている。このあとにも「忍耐・我慢・疲れ果てない」(3)と出てくる。同時に「初めのころの愛から離れてしまった。 」(4)ともある。少しでも理解するには、この辺に鍵があるかもしれない。安易・平易・単純化し、従うことが簡単な教えだったのかもしれない。同時に、主の教えの本質を見失わせることに関しては、強力な教えだったのかもしれない。そう考えると、現代にも通じることは多い。しかし、「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(4)で理解し得たのだろうか。おそらくそこに戻ればよいものでも無かったはずである。難しい。 Revelation 3:10 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。 2章にも「忍耐」が出てきたが、その背景を考えた。一つは迫害だろうか。しかし、それは、断続的なもので、継続的にローマの厳しい迫害があったわけではないと言われている。ローマの公認宗教の一つであったユダヤ教との軋轢は十分考えられるが、ローマという国のなかでは、ある程度以上の迫害は考えにくい。黙示録の基調としてある、終末が一番大きな要素ではないだろうか。そのための忍耐である。そうすると「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15,16)は何を意味しているのだろうか。再臨、主の来臨を待ち望むことに熱心になることだろうか。そこまで言えるかどうかは、この時点では不明である。なにか、二次的なものを求めてしまっているとも思う。ていねいに読んでいきたい。 Revelation 4:1,2 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。 ここから黙示・預言へと向かう。わたしが「聖書のみ」「聖書霊感説」「聖書無謬論」そして、黙示録の預言解釈にも慎重で、そこにわたしの信仰基盤をおかないのはなぜかを考えてみた。基本的には、これらに対する「なぜ」との学生・友人、そして自分の問いかけにしっかりと向き合って答えられないからだと思う。旧約聖書成立、新約聖書成立の歴史を考えると、それらも、明らかになっているわけではないが、そこにひとの営みがあり、真理をもとめて信仰的な営みをしていたと思われる一方、当時の状況も反映され、そこで決められたことを絶対的な基準に採用することは、すくなくとも友人・学生への説明にはできないからである。おそらく、それとともに、現代にいたるまでの教会や教会指導者たちのひととしての営みをみてきて(これも十分わかっているわけではないが)基本的に、謙虚にさせられる以外に無いからである。そうであっても、わたしは、これらを唱える人たちに真っ向から反論しない。これらをたいせつにする人たちもいとおしいからである。友人や学生と同じように。わたしは、福音書で語られているイエスのことばと生き方から学び、それに従ったひとたち、同じように、神をもとめてあゆんだ、そして歩んでいる人たちとともに歩む者でありたい。聖書を読み続け、そこから学んでいる理由も、この願いに依っていると思う。5つのソラ(five solae)を唱えることに反対はしないが、正しさの議論に使うことはわたしにはできない。 Revelation 5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」 わたしは讃美をする。ときに、とてもそれを好む。しかし、そこに没頭もできない。その理由を考えてみたい。おそらく、自分が神さまなら、それを望まないと思うからだろう。神さまは、讃美よりも、主の、そして神さまの苦しみ、そして喜びを受け取ろうとする日々の営みを喜ばれるのではないかと思うからである。ともに歩むこと、交わりを持つことである。「おとうさん」をたいせつにすることは、おとうさんがたいせつだとおもうことをたいせつにし、ともに生きること。そのなかで、讃美が生まれるが、讃美自体に留まることには、違和感を感じるからである。ていねいに、考えてみたい。すこしずつ、わたしが謎のキーワード「共に」をどう考えているかの言語化が始まったのかもしれない。 Revelation 6:17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。 この章は「また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。」(1)と始まり、隠されたものが明らかになっていく。最初に書かれているのが「神と小羊の怒りの大いなる日」である。わたしは、なかなか関心が向かない。この世が滅びることはあるだろう。そしてその背後には神さまがおられると信じるが、単純に怒りの発現とは見ることができない。様々なできごと、特に災厄を通して、神さまの働きをみることは、自然かもしれないが、わたしが従おうとしている主の性質とは異なるからである。おそらく、わたしが一部しか見ていないために、このように考えるのだろう。ていねいに見ていきたい。まずは、黙示録を。 Revelation 7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 迫害だけではないかもしれないが主とともに苦難を受けたひとを特別扱いすることは、理解できる。しかし、それを裁きの中で語ると、主はどこにおられるのかと考えてしまう。各部族から一万二千人のような記述を好む人もいるだろうが、主の教えとは、かけ離れているように思われるし、パウロの語った福音とも、かなり異なるように思う。その中から、記者とつながるものを持ちたいと思う。 Revelation 8:7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。 このあとにも災厄の記述が続く。わたしが、黙示録を素直に受け入れられないのは、この背後にいるひとと共に生きることを拒否されているような記述のためだろうと思った。これだけのことがあれば、そこで苦しむ人、悩む人、生活が奪われ、家族や友人を失うひとも多くいることだろう。それを無視しての「神さまの計画」「正しさの記述」それを、イエス様は喜ばれるのだろうかということである。WWNJD。イエス様なら、同じことの記述であっても、そのときどう生きるかに焦点があたるように思う。むろん、わたしは、イエス様のわたしがこのむ一部だけを受け取っているのかもしれないが。 Revelation 9:4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。 いなごの害がことしは東アフリカを中心に熾烈であった。そこで苦しむひとたち、知り合いもいる。信徒かどうかを見分けるなどということはあり得ないと思うが、たとえそれが可能であったとしても、現実は受け入れられない。その苦しみのもとにある人との間に、線を引くことはできないからである。それは、自分を正しい安全ながわにおいて、高見の見物をする高慢さとも、重なる。こう書くことで、わたしが、見えなくなっていることがあるのだろうか。このような読み方で盲目にならず、たいせつなことを受け取っていきたい。 Revelation 10:11 すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」 預言する目的は何なのだろうか。すでに、滅んでいる人たちのいる。悔い改めて変わるのだろうか。「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」(7)とあるが、預言者がひとつのことを宣べていたというのだろうか。終末論は何のためなのか考えてみたい。そして、そのメッセージが発せられ、受け入れられる社会は、どのようなものなのだろうか。その心も理解したい。 Revelation 11:2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。 異邦人はどのような位置づけなのだろうか。神殿にはいるようである。そして、都を踏みにじる。どうも、そうであっても、神殿は破壊されないようである。異邦人の居る場所が分けられていることから始まっているようだ。異邦人を、神に従う意思表示をして、群れに加わることをしないものとするなら、基本的に、異邦人をどうとらえるか、神さまの御心はどこにあるのかが、鍵であるように思う。イエス様は、どう考えておられたのだろうか。それが知りたい。 Revelation 12:7 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 わたしには、このようなことを知ることの意義がわからないので少し考えてみた。あるストーリーの中にいることを覚え、希望を持ち続け、それが忍耐ともなり、苦難を耐え忍ぶことができるということだろうか。神の御心が天だけでなく、地でも行われることを望むが、善が悪に打ち勝つという種類のものではないように、わたしは考えている。しかし、そのような考え方の方がわかりやすいのかもしれない。真理とは何なのだろう。ひとを活かすもので、正しさとは、ことなるのかもしれない。 Revelation 13:1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒瀆するさまざまの名が記されていた。 この記述が歴史とあっていてもあっていなくても、わたしには、正直興味がない。しかし、おそらく、これが力になる人たちがいるのだろう。あまりに普遍性を強調しすぎず、このような表現によって力づけられる人の存在も認めて、ていねいに理解しようとすることだろうか。あらたな読み方が広がることを期待しよう。 2020.12.13 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週は、いよいよヨハネの黙示録の後半、つまり、聖書の最後の部分を読みます。予定通りだと、12月25日に一章だけ読んで終わりとなります。達成感を持っておられる方、なにか、終わってしまうことへの寂しさを感じておられる方、そして、しっかりと続けることができなかったり、落ち着いて読めなかったりして、なにか消化不良を感じておられる方、いろいろでしょうか。すでに、予告していますが、BRC2021 をまた始めたいと思います。そのことも含め、いろいろと感じておられること、思い、決意など、送っていただけると幸いです。ここで一区切りとしたいので、次の BRC2021 は参加しませんというかたは、ひとこと書いてくだされば、送信名簿からはずさせていただきます。それ以外の方には、続けて、BRC2021 を配信させていただきます。来年は、1月1日が金曜日ですので、12月31日に、1月1日から3日までの通読分を送信する予定です。 今回、この BRC2019 として送ったメールを、ホームページに掲載することにいたしました。お約束どおり、投稿されたものは、むろん、掲載いたしません。通常は、日曜日の朝に送っている、わたしが書いている部分のみ掲載します。近々(12月31日までには)、他のページからのリンクも整備する予定ですが、直接のリンクを書いておきます。 メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019m.html ヨハネの黙示録はいかがですか。7つの教会への部分をすぎると、将来に起こること(もしかすると私達の時代までにはすでに歴史となっていること)が書かれているようですね。最終的にはどのような世界が描かれているのか、それまでの期間に起こるべきことはどのようなことなのか。裁きとは、救いとは、戦争とは、平和とは。いろいろと想像を掻き立てられます。ただ、わたしは、近年は、黙示録を読むときに、他のひとの立場も考えて読むようになっています。歴史は、語るものによって大きく変わることを、経験してきたからでしょう。ひとの歴史観について考えさせられます。これが絶対的な神の歴史なのだ(His Story)と言われる方に、反論はできませんが、イエス様は、どのように考え、この世の中を生きておられたのだろうか。何に感動し、何を悲しみ、憐れに思い、何に心を注ぎ語ったのか、そしてイエス様が説いた神の国とはと、わたしは考えながら読んでいます。それが神様のこころ(御心)でもあるように思うので。 みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、ヨハネの黙示録をそして聖書を読んでおられるでしょうか。みなさんの、投稿を歓迎します。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の新共同訳聖書からのものです。 ヨハネの黙示録14章ーヨハネの黙示録22章はみなさんが、明日月曜日から金曜日(25日)の間に読むことになっている箇所です。 ヨハネの黙示録については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨハネの黙示録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019sn.html#rv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や、BRC2013 で配信したものを編集してあります。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。 聖書通読ノート Revelation 14:1 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。 「神の子イエス・キリストの名を信じる」(1ヨハネ3章23節)が鍵であることは、理解できるが、名が記されるとはどのような意味だろうか。名が記されているものと、記されていない者の区別がなされるということだろう。それは、すでに、わたしの信仰告白とはずれてしまっている。神さまがたいせつにされることだとしても、それが完全なかたちで、おこることはあり得ないことを、主はご存じだろうから。神の子として生きることを願い、そのように生きようとするものを、主は嘉(よみ)せられるのであって、それを、区別に使われることとはことなると思う。むろん、実際には、わからないが。わたしの理解も不十分だろうから。わたしが、上のように考えるのは、引用句のようなところからはじめて、世界観を築き上げることの危険性をわたしは考えているからだろうか。 Revelation 15:1,2 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。 「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者」となぜ勝ち負けにこだわるのだろうと思ってしまう。当時のローマ、ローマ人側、周辺の国のひとたちからみたらそれはどうなのだろうかとも思う。しかし、見方を変えると、そこに信仰に基づいた生き方のすべてをかけ、苦しめられ、あるときは、死んでいく、そのひとたちと共にいることは、このように、勝利に訴えることなのだろうか。世の中は、それほど単純に二分化できないものである。獣と言われるひとたちに、イエス様はどう対するだろうか。善きサマリア人(ルカ10章)として、深く憐れまれるイエス様は、強盗(おいはぎ)に襲われたひとを見て、そのような状態になっていることに深くその身に傷をうけられると思う。強盗(おいはぎ)への憐れみもこめて。わたしのような感覚は間違っているのだろうか。 Revelation 16:7 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。「然り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で正しい。」 イエス様が来られたのは、裁きのためなのだろうか。そのようなものが存在することを、否定しないし「既に裁かれている」(ヨハネ3章18節)だとは思うが「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3章17節)のはずである。ひとのこころに、正しい裁きを望む欲求はある。しかし、それは、自らを正しい側に置くものの考えである。このあとにも、ハルマゲドンの記述があるが、そのような状態に心を痛め、ひとを深く憐れまれるのが、主ではないのだろうか。 Revelation 17:7-9 すると、天使がわたしにこう言った。「なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、七つの頭と十本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。ここに、知恵のある考えが必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる。 「黙示」は解き明かしが可能なことでもあるのだろう。それが、非常に危険でもあると思う。「知恵のある考えが必要」とあることは、「知恵のある考え」があれば、理解できるということだろう。当時の人を悩ませ、ある解釈を得、そして時代と共に、その解釈も変わる。14節にあるように、最終的な勝利は「小羊」にあるとしており、「忠実」であることを促しているのだろうが、本当にそれが本筋なのか、疑いたくなる。しかし、他の読み方もあるのかもしれない。保留としておこう。 Revelation 18:2 天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、/あらゆる汚れた霊の巣窟、/あらゆる汚れた鳥の巣窟、/あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。 なぜバビロンなのだろうか。たとえばあるアジアの国で象徴的にせよ「日本」と読み替えたらどうだろうか。太平洋戦争敗戦のときは、受け入れた人がいたかもしれないが、今の時代にもそのことばが残っていたら、強い違和感を感じる人が多いだろう。そして、そのようなことを主張するひとたちと、友人となることは、難しいと感じるだろう。イスラエルにとって、悪の象徴として使う言葉はバビロンだったのかもしれないが、キリスト教でもそうなのだろうか。バビロンの、イラクの、イスラム圏のひとたちは、どのように、この箇所を読むだろうか。少なくとも、他の人がよむよりも、より多くのストレスがかかることだろう。 Revelation 19:19 わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。 具体的な地上の戦いと連動しているようだ。このあとには、「しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。」(20)と続く。もし、これが主のみこころならば、わたしは、信仰を放棄したいと思う。それが、すくなくとも、現時点での信仰告白である。神に従うことをしない、反逆の民を見て、そのさばきの状態をそのままにしておかざるを得ないかもしれないが、同時に、主は、そのひとたちを、深く憐れまれるのではないだろうか。そして、互いに愛し合い、ひとつになって生きることができない状態によって、こころが引き裂かれる苦しみを味わわれるのではないだろうか。 Revelation 20:2,3 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。 このあと第一の復活(5)と、第二の死(14)について書かれている。どうしても、批判的になってしまう。もし、このようにできるのであれば、なぜ、最初からそうしないのか。苦しみの意味は何なのか。神さま、イエス様と共に、そして隣人と共に、苦しむ者となることに、人生の意味があるのではないだろうか。苦しみの原因を、悪や悪魔としてしまうことにも、問題を感じる。イエス様は、そのように説かれていたのだろうか。聖書通読も、あと少しである。また、考えながら、読んでみたい。わからないことが多い。謙虚に、求め続けるものでありたい。 Revelation 21:3,4 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 このような状態をわたしは、のぞみ、そして、すべての人が、そのような状態にはいることを、歓迎してくださることが福音だと思っている。「神の幕屋」が人の間にあるというのも、すごい。御心が天で行われるように地でも行われること、それを希望として持つのだろう。その希望のもとで、どう生きて行くかが、ひとに問われていることのように思う。 Revelation 22:9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」 興味深い言葉である。この書に書かれたことばをある意味絶対化しているが、同時に、それを「示してくれた」(8)天使は、われわれの仲間である。われわれは多くを隣人から学ぶ。天使からも学んでいるのだろう。しかし、あくまでも、天使は、われわれと同じように神に仕える者である。今回も読み終えることができて、感謝。 2020.12.20 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) みなさま、BRC 2019 はいかがでしたか。BRC 2019 の予定通りに読んでおられる方が、どの程度おられるのか不明ですが、12月25日に一章だけ読んで、予定していた、旧約聖書一回と新約聖書二回の通読が終了いたしました。前回のメールの繰り返しになりますが、達成感を持っておられる方、なにか、終わってしまうことへの寂しさを感じておられる方、そして、しっかりと続けることができなかったり、落ち着いて読めなかったりして、なにか消化不良を感じておられる方、いろいろでしょうか。他のスケジュール、または個人的に立てた予定で読んでいるが、ときどき、BRC 2019 の記事を読んでいますという方もおられると思います。 予告しているように、BRC2021 を始めたいと思います。BRC 2019 について、いろいろと感じておられること、思い、決意などは、今日の、夜11時ごろまでにシェアしていただければ、夜の配信でみなさんに、送らせていただきます。一応、今晩の配信(投稿者がいない場合は省略となりますが)をもって、BRC2019 は終了とさせていただきます。ここで一区切りとしたいので、次の BRC2021 は参加しませんというかたは、ひとこと書いてくだされば、送信名簿からはずさせていただきます。それ以外の方には、続けて、BRC2021 を配信させていただきます。 来年は、1月1日が金曜日ですので、12月31日に、1月1日から3日までの通読分を BRC 2021 no.001 として送信する予定です。そして、1月3日に、BRC no.002 の配信を予定しています。ホームページはもう少し早めに更新する予定です。 前回書きましたとおり、この BRC2019 として配信したメールを、ホームページに掲載することにいたしました。お約束どおり、投稿されたものは、むろん、掲載いたしません。通常は、日曜日の朝に送っている、わたしが書いている部分のみ掲載します。BRC 2019 や、そのサポートページからのリンクもありますが、直接のリンクを書いておきます。 メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019m.html みなさんは、どのような思いを持ち、どんなことを考えながら、ヨハネの黙示録をそして聖書を読んでおられたでしょうか。みなさんの、BRC 2019 への投稿受付は、一応、今晩までですが、その後は、BRC 2021 でシェアさせていただきます。自由に、感じたこと、感想、質問を書いてください。イニシャルでもニックネームでもハンドルネームでも匿名でも。どのようなことでも、歓迎です。みなさんと一緒に聖書を読めることをとてもうれしく思っています。 ある程度長く、この聖書通読のメールを受け取っておられる方は、わたしの聖書の読み方も少しずつ変わってきていることを感じておられるかもしれません。わたしにとっては、聖書を読むことは、その日どのように生きていくか指針を得るときですが、同時に、これまでの歩みを振り返るときであったり、周囲の方など、さまざまな方に目を向けさせるとき、また、なかなか理解できない社会現象や、人間の行動、発言をどのように受け取ったらよいか、考える一時でもあります。聖書で描かれているひとや、聖書記者との出会いでを通してでしょうか。 あまり、聖書の統一性を考えず、読むことにしています。正しいか、誤りかの議論で、狭い読み方に陥らないためです。問は立てても、わからないことを許容することでしょうか。ほんとうに、理解できることは、ほとんどないとの思いをもち、すこしでも、深く理解したいとの願いを大切にしていきたいからだろうと思います。 また、新しい、聖書通読の機会、BRC 2021 に皆様と一緒に挑戦できること、楽しみにしています。 2020.12.27 鈴木寛 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019.html サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2019s.html BRC 2021 ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021.html BRC 2021 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2021s.html