BRC の皆様へ (BCCで送っています) いよいよ、BRC2025 が始まります。1月1日から一緒に、聖書を毎日二章ずつ読みませんか。2年間(2025年・2026年)で、旧約聖書一回、新約聖書二回を通読する予定です。今回が最初の配信です。予定では、毎週、日曜日朝に、月曜日から、次の日曜日までに読む箇所についての、簡単な説明と、わたしの聖書通読ノートをお送りします。私のノートは、今回読んだ時の感想のようなものです。これを配信するため、わたしは、みなさんより少し先を読んでいます。今回(配信第一回目 no.001)は、1月1日が水曜日ですから、1月5日(日)までの、五日間分、創世記1章から、10章の分をお送ります。感想や疑問・質問などありましたら、日曜日の夜11時ごろまでに送ってくださったものには、何らかの返信メッセージをつけて、みなさんに BRC Contributions として、配信します。下にももう少し詳しく書きます。 聖書の最初は、創世記ですね。天地創造から始まります。そこにおられたのは、神様だけですから、だれが書いたのだろう、どのように、そのメッセージを受け取ったのだろうと考えてしまいますよね。聖書の最初の五巻、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、モーセ五書または律法と呼ばれ、紀元前13世紀から14世紀ごろに、イスラエルをエジプトからカナン(現在のパレスチナ)の地に導いたとされる、モーセ由来とされています。むろん、これについても諸説あります。今回みなさんが読む創世記は、イスラエルの先祖たちが、エジプトに至るまでのことが描かれています。古代のひとたちが、自分たちの起源、世界のなりたちをどのように認識していたか、そして、実際に書かれた時代や、後の時代のひとたちに、どのようなメッセージを送っているのかも興味深いことだと思います。 最近の考古学によると、人類は、かなり前から、アフリカ、アジア、ヨーロッパ、オセアニア、南北アメリカを含む地球上に広がっていたことがわかってきています。いままで知らなかったひとたちと出会う中で、神さまの認識が、そして、世界が広がっていくこともあったのではないでしょうか。創世記の最初の部分も、そのような中で、信仰告白として書かれたものなのかもしれません。そして、その信仰を継承するひとたちが、それを神様からの啓示・メッセージとして、受け取ったということでしょうか。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記1章ー創世記10章はみなさんが、明日1月1日(水曜日)から1月5日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 創世記 1:1-3 初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった。 このように天地創造を告白するまでどのような経緯があり、どのように人は考えたのだろう。むろん、人は、信仰者を表す。神様から、モーセが直接啓示を受けたとすれば、ことは単純化できるが、みこころを受け取ることについて、わたしたちへの意味づけはほとんどなくなる。モーセが関係したかどうかは別として、ひとりの信仰者が、あるメッセージをうけとり、それを、神のわざとして書き記すのはどのようなことなのかとも考える。おそらく、最初は神の業として書き記したのではないのかもしれない。しかし、この背後にある、創造信仰には、とても深いひとの営みと、ひとの神様を求めた記録があるのだろう。それを少しずつ学んでいきたい。矛盾をさがすことによってではなく、その背後にある信仰者との対話を通して。 創世記 2:19,20 神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった。 興味深い。神が、人と、それぞれの人の周りにあるものの関係に興味があったという記述である。むろん、その逆を考えると、わたしたちにとっても、神様のさまざまなものについての関係は気になるところである。名前をつけることは、関係性の構築の最初の段階なのだろう。ここで、助け手がいないことに至り、男と女のことが登場する。これがとても難しいことの始まりでもあるが。 創世記 3:22 神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」 興味深いが、同時に、ひとにとって、知恵のことが重要であること、そして命が限られているということをどう理解したら良いかということが背景にあったのだろうとも思う。正直、これだけで説明のできるものではないが、ここからひとがさまざまな思いを巡らせたことは、とても重要な問題提起があるということなのだろう。とはいえ、善悪を知る者はなにを意味するのだろうか。本能とはことなる行動がありうることだろうか。もう少しよく考えたい。 創世記 4:10-12 主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今やあなたは呪われている。あなたの手から弟の血を受け取るため、その口を開けた土よりもなお呪われている。あなたが土を耕しても、その土地にはもはや実を結ぶ力がない。あなたは地上をさまよい、さすらう者となる。」 アベルの血が叫んでいるとは何を言っているのだろうか。血は聖書ではいのちだからいのちが叫び声をあげていることか。呪われているもの、それゆえさすらうもの。われわれはその子孫なのだろう。セトのほうは、どうなのだろうか。聖書の記述は、カインの末裔とは違うというところから始まっているように見えるが、明確ではない。 創世記 5:1,2 アダムの系図は次のとおりである。神は人を創造された日、神の姿にこれを造られ、男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。 どうもこの祝福には、カインの末裔も含まれている。祝福と呪いのもとに置かれているのが人間だということだろうか。そうかもしれない。そのなかで、祝福とのろいのもとである神様とどのようなものとして向き合うかということだろうか。とても挑戦的である。しかし、関係性というのは、すべてそのようなものなのかもしれない。そのなかで、愛すること、互いに愛することへの挑戦もあるのかもしれない。 創世記 6:5-7 主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」 神様もたいしたことがないなとまずは思ってしまう。しかし、同時に、それが神とひととの関係のもといだと伝えているのだろうとも思う。古代の信仰者は、どのように神様との関係、人々との関係、他者と自己を見ていたのだろうか。簡単には言えない。簡単には答えられない。それで良いのかもしれないが、同時に、たいせつな問いがあることも確かである。 創世記 7:1-3 主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである。あなたは、すべての清い動物の中から雄と雌を七匹ずつ、清くない動物の中から雄と雌を一匹ずつ取りなさい。空の鳥の中からも雄と雌を七羽ずつ取りなさい。全地の面にその種類が生き残るためである。 何がきよく、何がきよくないかは、まだ、人間には伝えられていない。それとも、もともと、清いか、清くないかは、定められているのか。「それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、」(マルコ7:19)七はすべての意味だろう。ただ、動物の定義など考えれば、これが、現実的ではないことは明らかである。これも、絶対的なものというより、当時の人が受け取った神様からの啓示としたほうがよいのだろう。それは、たいせつであっても、不完全である。 創世記 8:21,22 主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」 ここで、どこまでのことが言われているのか不明である。最後は、「地の続く限り」とあり、「地が続く限り」生活が続くと考えるのは、あまり特別なことではない。命あるものをすべて打ち滅ぼすことはないと言っているが、これも「この度起こしたような」とついている。ある程度の留保をしているのだろうか。ここの中心は、最初の「人が心に計ることは、幼い時から悪い」という部分なのかもしれない。 創世記 9:25-27 そこで彼はこう言った。/「カナンは呪われ、兄弟の僕の僕となるように。」さらにこう言った。/「セムの神、主はたたえられ/カナンはセムの僕となるように。神はヤフェトの土地を広げ/ヤフェトはセムの天幕に住み/カナンはその僕となるように。」 こんなことが記されている。むろん、知っていたが、今読むと、前の読み方とは変化している。聖書を絶対的なものとしなければ、これは、カナンとの争いがここから正当化されていると取れる。人間の浅ましさ、それを神も同じ考えだとする。ここでは、カナンへの呪いを、ノアの言ったこととしている。それがかろうじて救いだろうか。これがひとの思いである。”25 And he said, Cursed be Canaan; a servant of servants shall he be unto his brethren. 26 And he said, Blessed be the Lord God of Shem; and Canaan shall be his servant. 27 God shall enlarge Japheth, and he shall dwell in the tents of Shem; and Canaan shall be his servant.” (KJV: Gen 9:25-27) 創世記 10:15-17 カナンは長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、 シドンは、ツロとともに海の民かと思っていたが、どうなのだろうか。シドン人と呼ばれた人は、やはりカナン人の中にいたのかもしない。いずれにしても、ここにリストされている人たちが、イスラエルが滅ぼす人々として後に登場するひとたちである。どう理解するかは難しい。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 年末の帰省時などに参加を考えてくださっていた方には申し訳ありませんが、12月19日、26日、1月2日は休会とし、2025年1月9日再開の予定です。 次回、第73回の予定:1月9日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章1節〜2節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2024.12.31 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 皆様の通読は始まりましたか。2年間で、旧約聖書1回、新約聖書2回読んでいく予定です。簡単なメモで記録をとりながら、通読を始めてみませんか。まだ追いつけますよ。 創世記は、面白いですよ。文学としても、すばらしいとわたしは思います。今回、みなさんが読むのは、11章から24章です。まだ、1章から10章も読んでいないというかたは、11章から読み始めるのでも良いですよ。時間を見つけて、1章から10章まであとから読めると良いですが、12章からが新しい区切りですし、11章は独立しても読めますから、11章からはじめても構いません。創世記については、下のリンク先に、少し前に書いたものですが、簡単な説明もあります。 いろいろと疑問点や感じることもあるかもしれません。それを、ぜひ、メモしておいてください。通読をしていると、なかなか集中して読むことができない場合もあります。そのときでも、気になった一節抜き出して、それを、書き出したり、ネット上のサイトからコピーして、一節に集中して考えるというのも良いですよ。何を読んだのかも、わからなかったというような時は避けられますよ。私の聖書通読ノートも、そのようなものから発展したものです。1982年から2010年までは、ルーズリーフノートだけに書いていました。そのあたりも、ホームページも書いてあります。みなさんに、配信するようになった 2011年以降、わたしの聖書通読ノートがホームページ上に公開されているのは、2013年分からですが、同じことを疑問に思ったり、同じことに感動したりもありますが、聖書の読み方が変化してきたり、新しい発見をしたり、以前考えたことが深まって行ったり、そんな記録にもなります。章ごとにまとめた部分もありますから、参考にしてください。 今回みなさんが読まれる箇所は、基本的に、アブラハムとイサクについての記事です。最初は、どのようなことから、信仰を表明し、主を認識していったのでしょうか。アブラハム、イサクに身を置いて、考えながら読んでいただければと思います。12章から最後の50章までは、族長ものがたりとも言われますが、わたしが個人的に好きな箇所でもあります。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記11章ー創世記24章はみなさんが、明日1月6日(月曜日)から1月12日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 創世記 11:5-7 主は、人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来て、言われた。「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」 有名な箇所である。現状を考えると、たしかに、言語やコミュニケーション方法は多様で、通じ合わない場合がほとんどである。それを聖書はこのように表現している。しかし、このことにどのように向き合うかも大切なのかなと思う。個人や、グループの尊厳の問題も含んでいる。全体として、大きなことをなそうということはできないようになっていることが表現されているが、それは、個人や尊厳を制限することとも関係しているのかもしれない。さまざまな考え方を尊重することは難しい。コストも大きい。しかし、真剣に向き合うべき課題なのだろう。 創世記 12:4 アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。 現代の年齢とは異なるのかもしれないが、ある程度の歳となってから旅立ったのかもしれない。すくなくとも、テラが亡くなってからである。(11:32)私は、余生だと思っていまを生きている。いままでできなかった奉仕ができれば嬉しいと願っている。しかし、新しい人生がここにひらけているのかもしれない。アブラハムの苦難と奉仕は、わたしのこれから歩むべきそして、向き合うべきものとは異なるだろう。しかし、神様の前に丁寧に生きて行きたいとは願う。 創世記 13:1-4 アブラムは妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上って行った。ロトも一緒であった。アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。彼はネゲブからさらにベテルまで旅を続け、ベテルとアイの間にある、かつて天幕を張った所までやって来て、初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼んだ。 初めに祭壇を造った場所についてはおそらく、12:7-9 が想定されているのだろう。しかし、おそらく、今回はかなりことなる意識があったろう。少なくとも、家畜や銀と金に恵まれていた。ロトとの話がこの章には書かれているが、新たな課題と向き合う時でもあったのだろう。わたしにとっての今の課題は何なのだろう。 創世記 14:13,14 あるとき、逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムはアモリ人マムレの樫の木のそばに住んでいたが、マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは親類の者が捕虜になったと聞き、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者を動員し、ダンまで追って行った。 いくつかの情報が書かれていて、興味を持った。マムレのことと、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者である。マムレは創世記にしか登場しないが、地名としては、今後も何回か登場する。従者がこんなにいるだけではなく、数が明確なことは何を意味するのだろうかと思った。語り伝えられる中で、加えられていったのだろうか。興味深い。 創世記 15:1,2 これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」 神の祝福への信頼と、現実的な困難さ、不安、ここでは、主は、「私はあなたの盾である」と言っている。守るものということだろうか。ただそれが「報い」とつながり「子孫」の不安へとつながっている。守っていただけるというところで止めておくのが良いのかもしれない。それが信頼だろうか。アブラムに不安や満たされないものもあったのかもしれない。難しい。 創世記 16:5,6 そこでサライはアブラムに言った。「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。あなたに女奴隷を差し出したのはこの私ですのに、彼女は身ごもったのが分かると、私を見下すようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。」アブラムはサライに言った。「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライの前から逃げて行った。 なかなか難しい。「あなたのせいで」と言われて、アブラムも困ってしまったのだろう。しかし、主への信頼が問われているとも取れる。同時に、アブラムに任せられているとも取ることができる。後者だとしたら、どうしたら良かったのだろうか。それは、わからない。サライをたいせつにすること自体は、問題ではないだろう。あまりここで普遍的価値で議論してもいけないのかもしれない。そのわからないことを通して、神は導き、ひとは、学んでいくのだろうか。結局、わからないかもしれないが。 創世記 17:19-21 すると神は言われた。「いや、あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについてのあなたの願いは聞き入れた。私は彼を祝福し、子孫に恵まれる者とし、その子孫を大いに増やす。彼は十二人の族長をもうけ、私は彼を大いなる国民とする。しかし私が契約を立てるのは、来年のこの時期に、サラがあなたに産むイサクとである。」 この次には「こう語り終えると、神はアブラハムを離れて昇って行かれた。」(22)とある。無論、幻かもしれず、他者には理解できないことだが、否定できないことがあったのだろう。そして、この箇所は、アブラムが、割礼で応じたことが重要なこととして書かれている。単に、信じたということではないことが書かれているのだろう。パウロの考え方と同時にヤコブの考え方の両方がこの箇所からは読み取れると思われる。「では、この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。」(ローマ4:9-10)「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義とされたではありませんか。あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。」(ヤコブ2:21,22) 創世記 18:1-3 主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた。昼の暑い頃のことで、彼は天幕の入り口に座っていた。ふと目を上げると、三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、言った。「ご主人様、もしよろしければ、どうか僕のところを通り過ぎて行かないでください。 地にひれ伏したことが書かれており、これは、主の使いではなく、主であると認識して書かれているとして良いだろう。つまり、この時期に連続して、主と出会うことが書かれているわけである。サラにも現れることが重要だったろうし、ソドムとゴモラのことを伝えることもあったのかもしれない。ハイライトとして書かれているのかもしれない。丁寧に読まないとわからない。 創世記 19:16-18 しかしロトはためらっていた。そこで二人の男たちは、主の憐れみによってロトと妻と二人の娘の手をつかんで連れ出し、町の外に置いた。彼らを外に連れ出したとき、主は言われた。「生き延びるために逃げなさい。振り返ってはならない。低地のどこにも立ち止まってはならない。山へ逃げなさい。滅ぼされないためです。」しかしロトは言った。「主よ、私にはできません。 文学としてもよく書かれていると思うが、読むたびに本当に悲しくなる。救いが用意されていても、それを素直には受け取れないのが人間なのだろうか。そのことは、自分でもわかるのかもしれない。本当に難しい。神がおられるかどうか以前の問題なのかもしれない。 創世記 20:11-13 するとアブラハムは言った。「この地には、神を畏れるということが全くありませんので、人々は妻のゆえに私を殺すだろうと思ったのです。それに実際、彼女は私の父の娘で、妹でもあるのです。ただ母の娘ではないので、彼女は私の妻となることができたのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうしてくれると助かる。行く先々で、私のことを兄と言ってくれないか』と頼んだのです。」 よくこの人たちの前で、こんなことを言えるなと思うが、キリスト者もこれに近いことをしているように思う。非キリスト者にたいし、「神を畏れるということが全くありません」などという。おそらく、それは、神様がそのようなひとの背後にもおられることが見えないからなのだろう。神様を過小評価すると同時に、自分が神になっているのかもしれない。「人が神にならないために - 荒井献説教集」を、わたしも考えたい。 創世記 21:12-13 神はアブラハムに言われた。「あの子と女奴隷のことでつらい思いをすることはない。サラがあなたに言うことは何でも聞いてやりなさい。イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるからである。しかし私は、あの女奴隷の子もまた一つの国民とする。彼もあなたの子孫だからである。」 創世記記者がこのように考えたのだろう。わたしは、こんなことを神様が言われるとは考えられない。このあとに「さあ、子どもを抱え上げ、あなたの手でしっかりと抱き締めてやりなさい。私は彼を大いなる国民とする。」(18)泣くイシュマエルのことが記されている。このときイシュマエルはいくつだったのだろうか。少し振り返ると、11:32 には、テラは205歳でハランで死んだことになっている。11:26 では、アブラムを産んだのは、70歳となっている。12:4 には、ハランを出てカナンの地に行ったのは、75歳の時となっている。さらにハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であったことが、16:16 にある。イサクが生まれたのは、21:5 (17:17参照)によると、アブラム100歳、サラ90歳のようである。アブラムが割礼を受けたのは、17:24 からすると99歳。そのとき、イシュマエルは13歳。すると、イサクが生まれた時、イシュマエルは、14歳である。引用句のときには、イサクは乳離れしているので(21:8)1歳とすると、イシュマエルは、15歳となる。当時はもう勇者だったのではないだろうか。さらに、ハランには、テラは、まだ、170−171歳で生きていることになる。その交流が、イサクの嫁探しまで描かれていないのは不思議である。 創世記 22:23,24 ベトエルはリベカをもうけた。ミルカはアブラハムの兄弟ナホルにこれら八人の子を産み、またレウマという名の側女も、テバ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。 アブラムの兄弟がナホルということは、ナホルもかなりの歳となって、子を持ったのだろうか。このあたりも不明である。あまり、拘らない方が良いのかもしれない。ただ、民族の系譜のようなものは、ある程度重要だったのかもしれない。創世記をどのような書として読むかはとても難しい。 創世記 23:15 「ご主人、お聞きください。土地は銀四百シェケルです。それが私とあなたの間で何ほどのものでしょう。どうか亡くなられた方を葬ってください。」 1シェケルが 11.4g だとすると、4,560g である。おそらく、これは、相当の銀なのだろう。「こうして、マムレの向かい、マクペラにあるエフロンの畑地、すなわち、畑地とそこにある洞窟、および畑地の境界の中にあるすべての木々が、町の門にやって来ていたすべてのヘトの人々が見ているところで、アブラハムの所有と決まった。」(23,24)契約を大切にしたということだろう。しかし、後には戦争で奪い取る。この辺りの関係はどうなっており、どのように解釈されたのだろうか。それは、時代を超えて続いたものなのだろうか。 創世記 24:50,51 ラバンとベトエルは答えた。「これは主から出たことですから、私どもにはその良し悪しを言うことはできません。ここにリベカがおりますので、連れて行ってください。主が言われたように、ご主人の息子の妻にしてください。」 どのように、だれが結婚について決めていたのだろうか。このあとの場面(57,58)では、リベカに聞いている。しかし、ここでは、どうも聞いているようには見えない。あまりそこにこだわるのはよくないと思うが、創世記の成立年代を議論するのであれば、このような習慣についても理解も大事なように思う。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 年末年始お休みさせていただきましたが、2025年1月9日再開の予定です。 次回、第73回の予定:1月9日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章1節〜9節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.1.5 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 通読はいかがですか。2年間で、旧約聖書1回、新約聖書2回読んでいく予定で、元旦に始まりました。簡単なメモで記録をとりながら、通読を始めてみませんか。まだ追いつけますよ。今週と、来週で、50章ある、創世記を読み終わります。 今回、皆さんが読む箇所は、アブラハムの子、イサクがまだ生きている時代ですが、物語の中心は、その子、ヤコブに移っています。ヤコブは、難しい時を前にして、ある夜ある男と組み打ちをしつづけ、最後に、その男が、ヤコブを祝福し、そのときに与えられた名前がイスラエル(32:29)です。聖書協会共同訳聖書には「神は闘う」「神と闘う」の意、と書かれています。これをどのように理解するかも、幅があると思いますが、困難を前に、それだけ真剣に格闘したと言うことでしょう。どのような状況だったのでしょうか。族長の一人、ヤコブの物語は、とても興味深いですよ。今回読まれる部分の後半はヨセフ物語に入っていますが、これも、族長ヤコブのもとでの物語の一部として描かれています。イスラエルを構成する十二部族も現れますし、いろいろと考えさせられる箇所でもあります。 いつごろ、創世記の原型が書かれたのか、さらに、いつ頃からどのような伝承があったのかは、不明ですが、個人的にはある程度古いと考えています。この「ある程度」をどう表現するかは、難しいですが。書かれた当時の状況は反映されるでしょうから、そう考えると、どのような状況の中で書かれたかを考えるのも、理解を深めるためにもよいと思いますよ。その上で、創世記記者は、なにを伝えようとしているのか、さらに、神様からうけとったどのような啓示・メッセージを、読者に伝えようとしているのか。みなさんは、どのように考えて、創世記を読まれるでしょうか。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記25章ー創世記38章はみなさんが、明日1月13日(月曜日)から1月19日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#gn 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 創世記 25:1-3 アブラハムは再び妻をめとった。その名はケトラと言った。彼女はアブラハムに、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアを産んだ。ヨクシャンはシェバとデダンをもうけた。デダンの子孫はアシュル人、レトシム人、レウミム人であった。 イシュマエルの子孫もそうだが、周囲の部族名が書かれている。アブラハムの末裔として、イスラムのひとたちもその意識をもつ箇所でもある。しかし、やはり選民は、直系。このあたりにも、編集意図はあるのだろう。そして、南アメリカの人たちなどは、そのスコープに入っていない。当時認識されている人たちだけである。 創世記 26:28 すると彼らは言った。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで、私たちの間で、つまり、私たちとあなたとの間で誓約を交わしてはどうかと考えました。私たちはあなたと契約を結びたいのです。 いろいろと編集意図を考えてしまうようになった。なかなかいくつかの読みかたを並行してすることはできない。このことは、しっかり考えてみたい。 創世記 27:40,41 あなたは剣によって生き/弟に仕えるようになる。/ただいつの日か、あなたは束縛から脱して/自分の首からその軛を解き放つだろう。」こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」 興味深いことが示唆されている。「ただいつの日か、あなたは束縛から脱して/自分の首からその軛を解き放つだろう。」である。そして、このあとのストーリでは、イサクはなかなか死なない。これも一つの主の導きなのだろうか。エサウの物語も、非常に興味深い。 創世記 28:8,9 さらにエサウは、カナンの娘たちが父のイサクの気に入らないということを知った。そこでエサウはイシュマエルのところへ行き、すでにいる妻たちのほかに、さらにアブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨトの姉妹であるマハラトを妻に迎えた。 なにかとてもかわいそうだ。精神が捻じ曲がるのは理解できる。こんなとき、どうしたら良いのだろうか。信頼し続けることだろうか。わからないことは、わからないとして。 創世記 29:13,14 ラバンは妹の子ヤコブの知らせを聞くと、彼を迎えに走って行き、彼を抱き締めて口づけした。そして彼を自分の家へと招き入れた。そこでヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、ラバンは言った。「あなたは本当に私の骨肉だ。」それでヤコブはラバンのところで一か月滞在した。 「あなたは本当に私の骨肉だ。」の意味するところは不明だが、ヤコブがエサウを出し抜いた背景には、リベカがいたことは確かだろうから(27:5-17)、自分達と似たところがあることを気取ったのかもしれない。真実(ことの次第すべて)を聞いて、このおひとよしのヤコブを信頼したのかもしれない。なんとも言いようのない戦いがここから始まる。これは、ある物語だとして、やはりヤコブの訓練としては、とてもたいせつなものだったのだろうとも思う。わたしもそのような経験を通して、学んだことはとても多いのだから。 創世記 30:32,33 今日、私はあなたの群れをすべて見回り、そこから、ぶちとまだらの羊をすべて、若い雄羊の中では黒みがかった小羊をすべて、山羊の中ではまだらとぶちのものを別にしておきます。それを私の報酬としてください。明日、あなたが私の報酬のことでやって来られるとき、私の正しいことはあなたの前で明らかとなるでしょう。もし山羊の中にぶちでもまだらでもないもの、若い雄羊の中に黒みがかっていないものがあれば、それは私に盗まれたものと見なして結構です。」 この下りを読んで、遺伝的にどうなのかと科学的な判断を考えていたが、おそらく、重要なのは、このようなことがありうること、しかし、それほど一般的ではないことを当時のひとが信じうるかどうかにかかっていたのだろうと思った。たいせつなのは、巧妙で、通常はこのようなことはしないこと、そして、このようなことで実際、ここに書かれていることが起きそうだと考えるかどうかなのだろう。そう考えると、巧みに書かれていることは確かである。物語を読んでいて非常に興味深いものにしている。 創世記 31:38,39 この二十年の間、私はあなたと一緒でしたが、あなたの雌羊と雌山羊が子を産み損ねたことはありませんでした。また私は、あなたの群れの雄羊を食べたことはありません。野獣にかみ裂かれたものは、私にその弁償が求められたので、あなたのところへはそれを持って行かずに自分で償いました。昼盗まれたものも、夜盗まれたものもそうです。 文学的にも、とても緻密に書かれている。ここで、ラバンやラバンの息子たちの否定する言葉は書かれていない。すなわち、承認せざるをえないこととして記述されている。そして、ここにあることは、当時の当地のひとたちにとって、よくわかる内容だったのだろう。そして、わたしのように羊飼いについて、まったく知識のないものにも通じる内容が含まれている。やはり文学性としても高いと思う。その背後で働かれる主、ヤコブの信仰面は、まったく書かれていないが、それがかえって人生の重みを表現するものになっている。 創世記 32:28,29 男が、「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねるので、彼が、「ヤコブです」と答えると、男は言った。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」 神と言われると、唯一神、主を考えるが、おそらくそうではないのだろう。「その頃、またその後にも、地上にはネフィリムがいた。神の子らが人の娘たちのところに入り、娘たちが彼らに産んだ者である。昔からの勇士で、名の知れた男たちであった。」(6:4)にあるネフィリムのようなものを想定したのではないだろうか。ネフィリムは『私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。』」(民数記13:33)にも登場する。検索ではこの二件だけだったが。 創世記 33:15-17 エサウは、「では、私が連れている者を何人か、あなたのところに残しておくことにしよう」と言ったが、ヤコブは、「いえ、それには及びません。ご主人様のご好意だけで十分です」と答えた。そこでエサウは、その日セイルへの帰途に着いた。ヤコブはスコトへ移り、自分のために家を建て、家畜のために小屋を作った。それで、その場所の名はスコトと呼ばれた。 場所が良くはわからないが、セイルは死海の南東、シャケルはヨルダン側の西、だいたいガリラヤ湖と死海の中間だろうが、スコトは不明である。かなり離れており、理解が難しい。このヤコブの固辞も気になる。事実というより、ヤコブとエサウの関係を表現しているのかもしれない。ヤコブの述懐(思い出)として記述されているのかもしれない。 創世記 34:1,2 ある日、レアがヤコブに産んだ娘ディナは、土地の娘たちを訪ねて出かけて行った。ところが、その地の首長であるヒビ人ハモルの息子シェケムは、彼女を見かけて捕まえ、共に寝て辱めた。 事件勃発である。ディナについては、生まれたことが 30:21 に「その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名付けた。」とあるが、この事件の背景として書いており、娘が生まれたことは基本的に書かれていないのだろう。「三日目になって、男たちがまだ傷の痛みを覚えていたとき、ヤコブの二人の子、ディナの兄弟シメオンとレビは、それぞれ剣を取って難なく町に入り、男たちをすべて殺した。」(25)とも書かれており、女性の価値をどう考えるかは難しい。 創世記 35:2,3 ヤコブは、家族および一緒にいるすべての人に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身を清めて衣服を替えなさい。さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。」 ヤコブの信仰告白である。「苦難の日に答え、常に共にいてくださった神のみを主とする」ということだろう。その方が特別とういことだろうか。しかし、この時点では、他の神を否定してはいない。自分にとって、または、一族にとっては、この神こそが主であるということだろう。神として認めるということが、最初のステップなのだろう。 創世記 36:6-8 エサウは、妻、息子と娘、家のすべての者、家畜とすべての動物、カナンの地で蓄えたすべての財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へと赴いた。一緒に住むには彼らの財産があまりにも多く、彼らが身を寄せていた地は、その家畜のゆえに、自分たちの生活を支えることができなかったのである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。 史実ではないかもしれない。しかし、エドムはセイルの山地にある時期に住んでいたことは確かだろう。カナン、特に、南部とセイルは土地としてはどうなのだろうか。どちらも山地のように見える。しかし、セイルの方が過酷な場所のように見える。いつか、そのような地理についても、学んでみたい。それを理解すると、ここに書かれていることから伝えようとしているメッセージが受け取れるのかもしれない。事実ではないとしても、真実は受け取れるかもしれない。 創世記 37:9-11 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄弟に話した。「私はまた夢を見ました。すると、日と月と十一の星が私にひれ伏していたのです。」ヨセフはこれを父と兄弟に話したので、父はヨセフをとがめて言った。「お前が見たその夢は一体何なのだ。私やお母さん、兄弟たちがお前にひれ伏すとでもいうのか。」兄弟はヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた。 すでにこの時には、ヨセフの母、ラケルは死んでいるはずである。(35:19)とすると、これは、レアを意味するのだろうか。ヨセフは、どのように、これを理解していたのだろう。おそらく、十分な、理解はできていなかったのではないだろうか。しかし、推測はつく。どう理解したらよいかわからないが。 創世記 38:25,26 彼女は引きずり出されたとき、しゅうとのもとに人を送って言った。「この品々の持ち主によって私は身ごもったのです。」そして続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章と杖が誰のものか、お確かめください。」ユダはそれらを確かめて言った。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ。」ユダは再びタマルを知ることはなかった。 印章と杖をみたとき、引きずりだしてしもべたちも、それが誰のものか分かったのではないだろうか。ということは、ユダは、僕たちにも、恥となったということである。その状態で、このように認められるということは、やはり、神をおそれる気持ちは、あったのだろう。ヨセフの事件とどちらが先かはわからないが、時系列を重視して書かれたとすると、主をおそれず、イシュマエル人にヨセフを売り渡す提案をして、ユダはこれらによって、主を恐れるようになったのかもしれない。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第74回の予定:1月16日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章1節〜11節(二回目、1-2, 10-11 を中心に)を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.1.12 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 創世記はいかがですか。族長物語とも呼ばれる11章以降は、非常に興味深い箇所だと思います。アブラハム、イサク、ヤコブについて描かれていますが、37章から50章は、ヤコブの12人の子らの一人ヨセフにスポットライトをあてて描かれています。この12人がイスラエルの12部族を形成する(レビを特別な存在とし、代わりにヨセフの子の二人、マナセとエフライムを加え、12部族とするように変化していきますが、その背景となることもこの箇所で説明される)のですが、最後は、この12部族についてのヤコブの祝福という文章で終わっています。ヨセフ物語は、好きな方も多いかと思います。わたしは、何十回も読んでいますが、毎回、感動してしまう箇所でもあります。文学としても優れているのではないでしょうか。同時に、イスラエル(ヤコブの別名)という国家・一集団になる前でもあるので、信仰などがどう描かれているかも興味深い箇所でもあると思います。 今週は、創世記を最後まで読み、次の出エジプト記に入ります。イスラエルがひとつの国家・一集団として、カナンの地、いまのパレスチナに住むようになる経緯が書かれているとも言えますが、同時に、どのように、宗教を中心とした集団になっていくかが書かれているとも言える箇所だと思います。下のリンクにある、出エジプト記についての記載の冒頭部分を引用しておきます。 旧約聖書は古い約束、契約の書、新約聖書は新しい約束の書、聖書全体は、一つの救済史を記しているとも言われます。神の救いの歴史です。出エジプトはまさにそのエジプトでの奴隷生活からの救済が書かれています。特にキリスト教にとっても特別の意味を持つ過ぎ越の祭りの起源も記されています。また旧約聖書最初の5巻(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)は律法とも呼ばれますが、出エジプト記20章にはその核となる、「十戒」がモーセを通して民に与えられることが書かれています。キリスト教の教派 (denomination) によって、十戒をどの程度重要視するかは変わりますし、そもそも10とはどのように数えるのかも教派によって異なっています。律法をどうとらえるかの分かれ道でもあります。 何度も書いていますが、通読のときには、少しでよいですから、メモをとりながら読んでいかれると良いですよ。それは大変そうですが、同時に続けることができる、鍵ともなると思います。その例示の意味も込めて、私の聖書通読ノートをつけています。また、下にも書いてあるように、過去の聖書通読ノートへのリンクもつけてあります。2012年までは、ルーズリーフノートでした。2013年以降、このように公開も始めています。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 創世記39章ー出エジプト記2章はみなさんが、明日1月20日(月曜日)から1月26日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 創世記と出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 創世記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#gn 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 創世記 39:20,21 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人がつながれている牢獄に入れた。彼はこうして、牢獄にいることになった。しかし、主はヨセフと共におられ、慈しみを示し、牢獄長の目に適うようにされた。 創世記には「主が共におられた」との表現が多い。ヨセフについては、39:2, 3, 21, 23 とこの章に集中している。苦難の中で、主が共におられたということなのだろう。ヤコブの「さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。」(33:3)の告白と通じているように見える。それぞれに表現のしかたは異なるが。最後にヤコブ(イスラエル)がヨセフに語る「私は間もなく死ぬ。だが神はお前たちと共にいてくださり、先祖の地に連れ戻してくださる。」(48:21)とも繋がるように見える。主が共におられることについて、もう少し深く考えたい。 創世記 40:16,17 料理長は、ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて言った。「私も夢を見たのですが、なんと三つのパン籠が私の頭の上にあったのです。いちばん上の籠には、料理人がファラオのために作ったあらゆる料理がありました。しかし鳥が私の頭の上で、籠からそれをついばんでいたのです。」 「これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理人が主君であるエジプト王に過ちを犯した。」(1)と始まる。引用句の「ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて」に注目していた。他に、こんな劇的な差異が生じる理由が分からなかったからである。しかし、そのような因果関係をもとめてはいけないのかもしれないと考えた。この二人の違いは、他に理由があったかもしれないし、単なる、王のきまぐれであったかもしれない。理由を知ろうとすること自体は、間違いではないと思うが、因果関係を強調することは、神様のみこころを狭く解釈する、これも、単純化バイアスであるように思えるようになった。真実はわからないが。 創世記 41:25,26 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく太った雌牛は七年のことで、七つのよく実った穂も七年のことです。夢は一つです。 夢解きからは、さまざまなことが考えられる。まずは、このような夢から、豊作や飢饉との関連について想起することは、それほど奇抜なことではないということである。しかし、それが現実のことだと考えるには、文化的な背景も必要だろう。さらに、それを食糧計画や、納税システムにまで発展させることは、この謎解きにたいする信頼も必要である。しかし、さまざまな予兆から、将来に備えることは、ひとの責務だと考えると、夢とは独立に考えられることでもある。それが賢く生きるということか。信仰とは、別のところ、人間理解に関係があるようにも思われる。 創世記 42:35,36 彼らが袋を空にしてみると、それぞれの袋の中には、めいめいの銀の包みが入っていた。銀の包みを見て、兄弟も父も怖くなった。父のヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、私から子どもを奪ってしまった。ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった。そして今度はベニヤミンを私から取り上げようとする。すべて私にばかり降りかかる。」 文学表現としてもよく書かれているが、このように、いくつかのことを関連させ、すべてがそうであるように考えてしまうことは、ひとによくある。だから、文学的表現にも使われ、ひとは納得してしまうのだろう。そして、そこから、主の御心を読み取ろうとすることを、否定してはいけないのだろう。しかし、さまざまな要因があり、科学的に考えるならば、さまざまな可能性がある。そのような考え方も、主は、ひとに与えてくださったようにも思う。すべての人にではないし、漸次的で、当時は難しかったのかもしれないが。御心の解釈は困難である。受け取り手にも依存してしまうのだから。よく考えたい。 創世記 43:23,24 その人は言った。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、布袋に宝を隠してあなたがたにくださったのでしょう。あなたがたの銀は私のところに届いています。」そしてシメオンを彼らのところに連れて来た。その人は一行をヨセフの屋敷に招き入れ、水を与えて足を洗わせ、ろばには飼い葉を与えた。 他者の神を尊重する表現が現れている。特殊な状況ではあるが、寛容さや、愛が感じられる。これは、どのような書き手のもとで、表現されたのだろうか。唯一神、創造主のみということからは、現れてこないように思われる。「主が共におられる」こちらの方が、創世記の族長物語においては、中心なのだろうか。 創世記 44:32,33 僕は父にこの子の安全を請け合って言いました。『もし、この子をあなたのもとに連れ戻さないようなことがあれば、私は生涯、父に対してその罪を負います。』それでどうか僕をこの子の代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。 特に、感動的な場面である。この前には、前回、穀物を買いに来た時の、家族に関する会話が含まれている。実際にこのことがあったときには、書かれておらず、ここで、それが明かされることも、感動の瞬間を盛り上げているように見える。さらに、ユダは「もし、この子をあなたのもとに連れ戻さないようなことがあれば、私は生涯、父に対してその罪を負います。」と、父、イスラエルに言うが、罪をどのように負うかは、明かされていなかったものが、ここで初めて明かされる。そのことも、特に、この場面が感動的であることの、理由でもあるように思う。ルベン、ユダ、この二人の行動が、興味深く、背景も多少描かれているが、やはり、ユダが、この時点で、リーダーとして描かれているのだろう。このあとの歴史においても、重要な位置をしめる。それが長男ではなく、四番目だということも、興味深い。 創世記 45:5-7 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。この二年の間、この地で飢饉が起こっていますが、さらに五年、耕すことも刈り入れることもないでしょう。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 どのように解釈するかは難しいが、ひとつの解釈は、自分の苦しい時、大域的な観点から、状況を捉えることでもあろう。大飢饉の中で、父の家、神様が導いておられる民が滅びないために必要な苦しみだったとも言えないことはないと言うことだろう。神様の計画の一ピースというものではないが、他にも苦しんでいる人がいることに目を向けることもあるかもしれない。同様な苦しみの中にいる人を知ること。同じではなくても、おなじときに苦しんでいる人たちもいる。自分だけに、それが向いてしまっていては、ただ苦しむだけになってしまう。 創世記 46:29,30 ヨセフは車に馬をつないで、父のイスラエルに会いにゴシェンへ上って来た。ヨセフは父に会うなり、その首に抱きつき、その首にすがってしばらく泣いた。イスラエルはヨセフに言った。「これでもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」 「これでもう死んでもよい。」と、ひとはどんなときに思うのだろうか。わたしは、家族が、どうやらやっていけそうになった時、死んでも大丈夫かなと思ったが、それとは、違うのかもしれない。わたしが、すべきことは、これからも、Be available, stay vulnerable! の精神で続けて行きたいと思うが、できなくもなってくるだろう。力が衰えて。だからといって、できなければ、死んだ方がよいというのも、違うだろう。ヤコブの場合は、痛み、神様との関係における棘のようなものが存在したのだろうか。それがこの表現なのだろうか。わたしはどうだろうか。 創世記 47:8,9 ファラオがヤコブに、「何歳になったのか」と尋ねると、ヤコブはファラオに答えた。「異国の地に身を寄せた年月は百三十年になります。私の生きた年月は短く、労苦に満ち、先祖たちが異国の地に身を寄せて生きた年月には及びません。」 ファラオの質問から、ヤコブがかなりの老人であったことが見て取れる。ヤコブの答えからは、幸せではなかった、つまり、祝福の内に生きた年月は長くないことを言っているのだろう。それが、ヤコブが本当に思っていたことかどうかは不明である。ファラオの前だからこう言ったのか。そうすると、自分の先祖は、もっとすごいと言っているようにも見える。真意だからとすると、苦しかった日々を思い出しているのかもしれない。たしかに、ヤコブの物語は、苦難に満ちている。それでも、おそらく、主はともにおられたのだろうが。 創世記 48:21,22 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬ。だが神はお前たちと共にいてくださり、先祖の地に連れ戻してくださる。私はお前に、兄弟よりも一つ多く分け前を与える。それは私が剣と弓によってアモリ人の手から奪ったものである。」 最後のことば「それは私が剣と弓によってアモリ人の手から奪ったもの」がわからない。預言として語られているのか。エフライムとマナセの祝福も、不思議である。イスラエルは、このような、ひとびとのねじれと、時代のねじれのなかで生きているということなのだろうか。なにを、創世記記者は伝えたかったのだろうか。 創世記 49:28 これらすべてがイスラエルの十二部族である。これが、彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らをそれぞれにふさわしい祝福をもって祝福した。 ここでの十二部族には、レビが入っていて、ヨセフの子ら、マナセとエフライムはひとつにまとめられている。「後の日にお前たちにおこること」(1)と始まっているが、すでに起こっていた(創世記に記述されていること)と、書かれていない、おそらく、他の伝承に由来するものが含まれているように思われる。すなわち、これが書かれた時には、十二人のこどもたちは、みな死んでいることを考えると、すでに起こったことが記されているように見える。同時に、引用句にあるように、十二部族についての記述であるようにも見える。ユダや、もしかすると、ベニヤミン、また、ゼブルンは海辺に住むなどもそうかもしれない。混在しているように見える。同時に、これを読んだ、それぞれの部族のひとたちは、どのようにこのイスラエルの祝福を受け取ったのだろうかとも思った。複雑である。 創世記 50:15-17 ヨセフの兄弟は父が亡くなったので、ヨセフが自分たちを恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに伝えた。「父は亡くなる前に、こう命じていました。『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」この言葉を聞いてヨセフは泣いた。 物語ではあるが、ひとの人生は、そして、こころは、複雑であることがよく書かれている。ヨセフは、「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(19b,20)と告白しているが、他の兄弟の信仰告白は書かれていない。信仰の父祖たちがこのように描かれていることも興味深い。 出エジプト記 1:15-17 エジプトの王はヘブライ人の助産婦たちに言った。一人の名はシフラ、もう一人はプアであった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるとき、お産の台を見て、男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ。」助産婦たちは神を畏れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、生まれた男の子を生かしておいた。 ある伝承があったのか。書く段階で、創作されたのか、不明である。この出エジプトをどのようなものと捉えるかは難しいのだろう。なにかの伝承があったのか、まったくの創作か。ただ、イスラエルの民と、エジプトとのなんらかのつながりは、かなり古くからあったように思われる。いつか少なくとも確実になってきていることだけでも、学んでみたい。 出エジプト記 2:13,14 翌日モーセが出て行くと、今度は二人のヘブライ人が争っていた。それで、悪いほうを、「なぜ仲間を打つのか」とたしなめた。するとその男は、「誰がお前を我々の監督や裁き人としたのか。あのエジプト人を殺したように、私を殺そうというのか」と言ったので、モーセは恐れ、きっとあのことが知られているのだと思った。 前日に助けたヘブライ人から話が伝わっており、その解釈が、ヘブライ人の中でも一定していなかった、少なくとも、信頼は得ていなかったということだろう。短い記述だが、非常に巧みに書かれている。創世記、出エジプト記の物語はどのように成立したのだろうか。おそらく、古代の人の知恵は、素晴らしいものだったのだろう。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第75回の予定:1月23日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章12節〜21節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.1.19 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 創世記を読み終わり、出エジプト記に入りました。通読は続いていますか。すでに、遅れてしまった方もおられるかもしれませんね。創世記だけでも、全部読み終わることができると良いですね。遅れても構いません。少しずつ読んでいっていただければと思います。 今週は、出エジプト記を読み進めます。創世記の終わりは、ヤコブ(別名イスラエル)の十二人のこどもたちとその家族が、飢饉のため、先に売られていっていた十二人の一人であるヨセフのいるエジプトに移住するところで終わっていました。出エジプト記では、エジプトで人数が非常に増えたイスラエル十二部族が、エジプトの新しい王(新しい王朝かもしれません)のもとで奴隷とされ、神様からことばを受けたモーセをリーダーとして、カナンの地に向かう、出エジプトの記事が書かれています。 創世記後半では、族長物語として、それぞれと共におられる神様として描かれていましたが、出エジプト記では、十二部族全体の神様として描かれます。イスラエル十二部族がひとつになる経験としても、さらに、神様との契約の民となることも、出エジプトを通して描かれているとも言えます。実際、イエスの時代でも、そして、さらに、現代のユダヤ教においても、過越祭や、除酵祭などを通して、この出エジプトを覚えることが、イスラエル民族のアイデンティティーの基盤となっていると思います。その意味でも、非常に重要な事件ということになります。 最近は、歴史性が疑われることもあり、カナンの地(現在のパレスチナ)における十二部族連合を堅固なものとする物語とする場合もありますが、創世記から、申命記のモーセ五書または、律法(トーラー)の基盤となる出来事が、この出エジプトであることは、確かだと思います。どのようなことを伝えているのでしょうか。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記3章ー出エジプト記16章はみなさんが、明日1月27日(月曜日)から2月2日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 出エジプト記 3:13,14 モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」 創世記でも、「主が共にいてくださった」ことが信仰の基盤にあったと強く感じた。信仰の最初の形なのかもしれない。むろん、それは、そこにとどまるものではなく、主についての認識は広がっていくことでもあるのだろう。ここでも、「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」(12)と関係して、こう訳されたのだろうが、名前とすることは、慎重にすべきなのかもしれない。むろん、同じ言語ではないので、適切に表現する訳語がなかったとも言えるが。理解するものが適切にうけとらないといけないことなのかもしれない。 出エジプト記 4:12,13 だから行きなさい。私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう。」しかしモーセは言った。「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」 雄弁なアロンが助け手となるが「あなたは彼に語って、言葉を彼の口に授けなさい。私はあなたの口と共に、また、彼の口と共にあって、あなたがなすべきことを教える。」(15)とあり、ここでも、引用句とともに、共にあることが強調されている。その主の存在が、信仰の基本であることが表現されているのだろう。いくつかの奇跡を起こせる能力については、物語的意味しか感じないが、このあたりに、本質があるようにも思える。 出エジプト記 5:4,5 エジプトの王は二人に言った。「モーセとアロン、お前たちはなぜ民をその仕事から引き離そうとするのか。自分たちの労働に戻れ。」また、ファラオは言った。「今や、この地の民は増えているのに、お前たちは彼らの労働を休ませようとするのか。」 エジプト人、または、使役するものの関心事は、労働である。この労働の搾取、その対象としてしか、民をみていない。他者、主がともにいる他者になるかどうかが、鍵なのかもしれない。そう考えると、現代でも、たくさん、関係することがらがあることを思う。これは、使役する側だけでなく、使役される側にもある認識なのかもしれない。労働をどう考えるかもあるが、違うものとして、自分を認識できることも重要なのだろう。もう少し整理して考えたい。 出エジプト記 6:6-9 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。『私は主である。あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出し、過酷な労働から救い出す。またあなたがたを、伸ばした腕と大いなる裁きによって贖う。私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。あなたがたは、私が主、あなたがたの神であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出す者であることを知るようになる。私は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地にあなたがたを導き入れ、それをあなたがたに所有させる。私は主である。』」モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは落胆と過酷な労働のために、モーセの言うことを聞こうとしなかった。 そう簡単に、関係が成立するわけではないのだろう。主もそれをご存知なのかもしれない。時間がかかることをひとはなかなか理解できない。時間をかけることをいとわず、ていねいに生きていきたい。 出エジプト記 7:17,18 それで、主はこう言われる。『次のことによって私が主であることを知るようになる。』私が手にする杖でナイルの水を打つと、水は血に変わる。ナイルの魚は死に、ナイルは悪臭を放ち、エジプト人はナイルの水を飲むのが嫌になる。」 今回は、杖が気になった。アロンの杖なのか、モーセの杖なのか。両方に、そのような力があったのか。確かな根拠はないが、羊飼いだとすると、男性は、杖を常に持っているのではないかと思う。すると、引用句で言われているのは、モーセの杖のように思われるが、実際に行動を起こすのは、アロンのようである。たいしたことではないのかもしれないが、気になった。 出エジプト記 8:1-3 主はモーセに言われた。「アロンに言いなさい。『あなたは杖を持って、流れの上、水路の上、沼地の上に手を伸ばし、蛙をエジプトの地に這い上がらせなさい。』」アロンはその手をエジプトの水の上に伸ばした。すると、蛙が這い上がって来て、エジプトの地を覆った。魔術師たちも秘術を使って、同じように蛙をエジプトの地に這い上がらせた。 杖はアロンの杖のようである。もう一つは魔術と奇跡の違いである。魔術は人間の目的によって自然ではないことを行うこと、奇跡は神の意志を示すため自然には起こらないことを起こすことかと思うが、やはり区別は難しいし、ここでも判断はできないように思われる。 出エジプト記 9:14-17 今度こそ私が、あなた自身とあなたの家臣と民に、あらゆる災いを送る。それによって、私のような者は地上のどこにもいないことをあなたは知るようになる。事実、私が今、手を伸ばしてあなたとその民を疫病で打ち、地から滅ぼすこともできる。しかし、私があなたを生かしておいたのは、私の力をあなたに示し、私の名を全地に告げ知らせるためである。あなたは、私の民に向かってなおも高ぶり、彼らを去らせようとしない。 このあと、「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕や家畜を家に避難させた。」(20)ともあり、周囲に変化もあることが書かれている。正直、描き方が乱暴に感じるが、それでも、伝承の中で整っていったことは確かなのだろう。人々は、主からどのようなメッセージを受け取ったのだろうか。苦難の中にあって、絶対的な支配下においても、主こそが主であることだろうか。こう言えるのは、捕囚よりは前のように思われる。 出エジプト記 10:7,8 家臣はファラオに言った。「いつまでこの男は私たちの罠となるのでしょうか。あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びかかっていることが、まだお分かりにならないのですか。」モーセとアロンがファラオのもとに呼び戻されると、ファラオは二人に言った。「行って、あなたがたの神、主に仕えなさい。誰と誰が行くのか。」 周囲の変化が描かれている。しかし、ファラオはまだ従順にはならないようにされている。物語としては、創世記の族長物語ほどではないが、緻密に構成はされているのだろう。脚色はあったとしても、背後に、それなりの事実があったのかは、これでは不明である。 出エジプト記 11:2,3 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」主はエジプト人が民に好意を持つようにした。モーセその人もまた、エジプトの地でファラオの家臣や民から厚い尊敬を受けた。 正直、これが理解できない。エジプトでさまざまな災厄を与えているモーセがなぜ、尊敬されるのだろうか。災厄は一部、ファラオの周辺にしか及ばなかったのだろうか。どのように、異民族と認識できる、イスラエルの民やその指導者が好意を持たれたり、尊敬されたりすることになるのだろうか。尋常ではない。 出エジプト記 12:48 もし、寄留者があなたのもとにとどまり、主の過越祭を祝おうとするならば、男は皆、割礼を受けなければならない。そうすれば、過越祭に加わって祝うことができ、イスラエル人のようになる。しかし、無割礼の者は誰も、これを食べてはならない。 当時も今も、割礼を受ける民はイスラエル人だけではなく、特に中東からアフリカにはいる。割礼にこだわっている理由はわからないが、捕囚などの折には、明確に、イスラエル人を分ける根拠だったのかもしれない。いずれにしても、これは、男性の割礼を言っているのだから、男女差がある。イスラエルの子孫は、ヤコブの子供達には、おそらく、ひとつとは言えない分断があり、それは、パレスチナの部族集団説の場合も同様だろうが、それが一つになる重要な儀式として、過越祭があり、出エジプトの物語があるのだろうとは思う。しかし、これは、他の民族と分けるという意味で、分断を意味することも確かである。ここに根拠を置く以上、イスラエルの民に普遍的な神の意思は現れないように思う。 出エジプト記 13:13-15 ろばの初子はすべて、小羊で贖わなければならない。もし贖わないならば、その首を折らなければならない。あなたの初子のうち、男の子はすべて、贖わなければならない。将来、あなたの子が、『これはどういうことですか』とあなたに尋ねるときはこう答えなさい。『主は力強い手によって私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださった。ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』 あがないという概念が登場する。牧師によると「『あがなわれる』とは、かつて、神がエジプトから⼈々を救い出してくださったように、買い戻されること、救い出されること、あわれみの⼼を忘れないことでした。」と説明していました。やはり、難しい概念である。イスラエルのような土地には、そのような商取引概念もあったのかもしれない。共観福音書にはあまりない概念であることも、理解を難しくしているようにも思う。イエス様が示される神様においては、あながいはどのように説明されるのだろうか。 出エジプト記 14:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。引き返して、ミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前、すなわち、その向かいにあるバアル・ツェフォンの手前の海辺で宿営しなさい。 意図的にこのようにしたと書かれている。物語としてよめばよいが、どうなのだろうか。我々の人生においても、あとから考えると、そのように神様が意図されたと考えることもあるのかもしれない。そのようにして、信仰が形成されていくのだろうか。しかし、それだけであると、心配でもある。そのような、神の特別介入に依存することになる。この箇所でも、たみの訴え(11,12)と対比されている。掘り下げて理解しないといけないと言うことだろうか。よく考えたい。 出エジプト記 15:25,26 そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」 エジプトを脱出し、ミリアムが歌い、最初の水に関する訴えを主が聞かれる場面である。当時の人たちにとって、主はどのような存在だと描かれているのだろうか。ここには「癒す者」とある。「癒」の字は、創世記には一箇所「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクと妻、および侍女たちを癒やされたので、彼女たちは子を産むようになった。」(創世記20:3)、出エジプト記では、この箇所だけである。主が共におられること、そして、敵を打ち砕く方なのだろうか。少しずつ、進化していくと考えて良いのだろうか。書かれた時代も複雑だろうが。 出エジプト記 16:2,3 イスラエル人の全会衆は荒れ野でモーセとアロンに向かって不平を言った。イスラエルの人々は二人に言った。「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」 このことばは否定されておらず、このあと、「私はイスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えなさい。『夕方には肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたは私が主、あなたがたの神であることを知るようになる。』」(12)と、主はモーセを通して答えている。ということは、食べるものが豊かではなかったからエジプトを出たわけではないことがわかる。主を主として礼拝するためだろうか。ある宗教的自由、良心の自由を得るためだったのだろうか。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第76回の予定:1月30日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章22節〜25節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.1.26 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 出エジプト記はいかがですか。今週も、出エジプト記を読み進めます。通読は続いていますか。すでに、遅れてしまった方もおられるかもしれませんね。創世記だけでも、全部読み終わることができると良いですね。遅れても構いません。ちらちらと、毎週送られてくる、このメールや、感想をシェアしている夜配信のものとチラチラとみながら、少しずつ読んでいっていただければと思います。 創世記から、申命記のモーセ五書または、律法(トーラー)と呼ばれていますが、創世記には、律法と言われるようなものは、登場しませんでした。また、皆さんが読んでおられる、出エジプト記にも描かれていませんでした。それが登場するのが、今回、皆さんが読まれる部分からです。構成としては、出エジプト記19章から、神様から、律法が与えられることが書かれ、それに従って、可動式神殿である幕屋が建設され、礼拝の仕方や、訴訟などについての詳細が、レビ記の終わりまで続きます。18章を読むと、なぜ、書かれた律法・掟が必要となったかの経緯もある程度かかれており、20章には、みなさんもご存知かと思う、十戒が登場します。少し、余裕があれば、どれとどれで十なのかリストしてみるのもおすすめです。それがなかなか難しいのです。ユダヤ教でも、キリスト教でも、十戒はたいせつにしていますが、実は、教派によって、十はどれとどれなのかという区別も違っている場合もあるようですよ。 正直に書くと、十戒以降の、出エジプト記とレビ記は、わたしにとっては、通読の最初の関門です。「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」なども、毎年送っており、過去のものも読むことができるようにしていますが、それなりに苦労していることも、みなさん読み取れるかもしれません。通読は、あまり、厳密に考えず、こんなことが書いてあるのかぐらいに、軽く考えて、読み進めるのも継続できる鍵のようにも、個人的には考えています。一生懸命読もうとされている、まじめな方、または、一字一句、神の言葉でおろそかにしてはいけないとされている方には、冒涜かもしれませんが。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記17章ー出エジプト記30章はみなさんが、明日2月3日(月曜日)から2月9日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 出エジプト記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#ex 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 出エジプト記 17:10,11 ヨシュアはモーセが言ったとおりに行い、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルが丘の頂に登った。モーセが手を上げているとイスラエルが強くなり、手を下げているとアマレクが強くなった。 魔術的にも感じるが、おそらく、民のためなのだろう。フルが登場する。フルはおそらく、この箇所が初出。12節にも登場するが、他に、「モーセは長老たちに言った。『私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。ここに、アロンとフルがあなたがたと共にいる。訴えのある者は誰でも、彼らのところに行きなさい。』」(24:14)に登場する。31,35,38章に「ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエル」と登場するが同一人物かどうかは不明。フルはヨシュアとは違った形で、助けたのだろう。24:14 からは、アロンと同じくレビ人である可能性を感じるが。 出エジプト記 18:10-12 言った。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。 モーセのしゅうとエトロの助言によって統治体制も変化していく。礼拝について、少し考えた。エトロの神への捧げ物は、どのように理解したら良いのか。エトロはミデアンの祭司である。(2:16,3:1 など)これは、ミデアンの神にささげたのだろうか。それとも、彼の宗教心の表現だろうか。 出エジプト記 19:21,22 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」 この箇所は、理解しにくい。しかし、民と祭司、さらに、祭司の中で、モーセとアロンを分けた重要な箇所でもある。エトロの助言(18:17-23)も関係しているように思われるが、なぜ、このような体制をとるかの説明でもあり、重要な箇所である。あるリーダーシップを仮定することは当然として、主が聖であることとの関係で書かれていることが、理解しづらい点なのだろうか。 出エジプト記 20:19 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」 統治体制を、民が望んだように書かれている。固定するかは、またべつのように思うが。たしかに、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(7)は難しい。十戒は、どれが十個かも判断が難しい。この7節より前の部分は、序文または、前文であるように見える。すると、殺してはならない以降、5戒、父母を敬え、安息日とあわせると、8戒にしかならない。どのように当時は理解したのだろうか。現代は、教会によってある程度異なっているようだが。 出エジプト記 21:4-6 もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。 奴隷制度をどのように理解するかは、現代と社会的構造が異なる中で判断が難しい。しかし、そう考えてみると、神の義、公平さとは、なになにかを、当時の人たちなりに、考えた結果であるように思う。この世での正しさの判断には、多くの要素が関わっており、絶対的なものではないから。その中で、ここで「愛(אָהַב)」という言葉が登場するのは興味深い。 出エジプト記 22:20,21 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 背景としては、エトロが現れ、モーセがすべて裁かなければならない状態はやめなければならないと言う助言から律法ができたことを考えなければならないと思った。自分たちが寄留者であったことや、苦しんでいるものの保護などが、含まれている。これによって、当時のひとたちが考えた、神の御心が表現されているのだろう。同時に、ここに表現されていることが完全だとは思えないし、十分であるとも思えない。システムを作ることは、ある程度以上の人数になれば、必要で、それがなければ、公平性は担保できないことは確かである。そして、その公平性も、完全ではなく、少しずつ整えていくものなのだろう。 出エジプト記 23:1-3 あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。 当たり前かもしれないが、たいせつなことが書かれている。公平性、神の義(ただしさ)のお裾分けのような感じがする。今回読んでいて驚いたのは、これらのこと(段落)の最後 「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」(9)で締めくくられていることである。寄留者の弱い立場をあなた自身も知っているよねと語りかけているようである。このことを忘れてしまう、または知らないと、やはり、神の正しさを求めることが出来ないのかもしれないとも思った。むろん、それだけで、完璧になるわけではないが。 出エジプト記 24:12-14 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」 アロンとフルに山の下(地上)のことを任せて、モーセはヨシュアとつれて山に登る。しかし、このあとの悲劇を我々は知っている。本当に、難しいのだなと考えさせられる。そして、聖書はそのことを知っているということだろう。それは、神を畏れているからだろうか。ひとは神になってはならない。 出エジプト記 25:8,9 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。 どうも、ここから、わたしが苦手なところに入るようだ。幕屋の建設のために、献納物を集めるくだりである。その最初の段落、実際に作る具体的なものの記述の前に、この引用句がある。ここで、彼らのうちに住むとあるが、すでに、問題を引き起こす元凶とも言えるものが現れているように感じてしまう。他者(イスラエル以外)との区別が明確になると思われるからである。宗教の難しいさでもある。 出エジプト記 26:31 また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。 垂幕は、聖所と至聖所を分けるもの(33)である。至聖所には、さしあたり、証しの箱が置かれる。そこには、掟が書かれた石の板が納められるようだが、神の掟を固定するということは、間違いなく、神の御心を受け取ったことを意味すると共に、変更されないことが前提となる。そのような正しさをひとは受け取ることができるのだろうか。そのようなものとして受け取ったということは、確かであり、そう考えることを否定しない。しかし、社会は変化し、世界についての認識も広がっていく。正しさをある時点で固定することは、学ぶことを否定することにもつながるように思う。ていねいにこれからもみて、考えていきたい。 出エジプト記 27:1 アカシヤ材で祭壇を造りなさい。祭壇は長さ五アンマ、幅五アンマの正方形で、高さは三アンマである。 このあと、詳細な記述が続く。ソロモン以降神殿が作られ、その記録はさまざまに残っていただろうが、幕屋についても、記録が残っていたのだろうか。伝承だろうか、想像だろうか。非常に正確に書かれていると、どう考えたら良いのかも考えてしまう。文書として残されていたのだろうか。 出エジプト記 28:21 宝石はイスラエルの子らの名に合わせて十二あり、十二部族に従ってそれぞれの名を印章を彫るように彫りつける。 この十二部族は、(ヨセフの子のマナセ・エフライムを加えた)レビ以外の十二なのだろう。すると、レビについて祈ることはなかったのだろうか。祭司長などは良いとして、アロンの家系ではない、レビ人は、やはりかなり大変だったように言われており、このシステム自体も心配してしまう。どう考えられていたのだろうか。不満はなかったのだろうか。 出エジプト記 29:9 飾り帯を締めて、ターバンを巻きなさい。こうして、祭司職はとこしえの掟によって彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを任職しなさい。 「とこしえの掟」と書かれているが、おそらく、現在は、幕屋も、神殿もなく、このようには、守られていないだろう。それも、調べてみたいが、バビロン捕囚以降、困難になったことは、明らかである。それでも、律法を、とこしえの掟として守ることは、どのようなことを意味しているのだろう。キリスト者も同様だろう。何が変わって、何が変わっていないのか、神様の御心を求め続けることはしていきたいが、これが、とこしえの掟と断定することの嘘も感じる。 出エジプト記 30:23-25 「あなたは最上の香料を取りなさい。すなわち、液体の没薬を五百シェケル、香り高いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香り高い菖蒲を二百五十シェケル、桂皮を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒンである。あなたはこれで、聖なる注ぎの油を作らなければならない。香料作りの技に倣って調合した油は聖なる注ぎの油となる。 油や香料がたくさん登場する。最近、アラブの遊牧民の地域でのイスラム教の風習についての本を読んでいるが、香水、香りが、日常の一部として非常に重要なものであるらしい。水が十分になく、乾燥した地域で、つねに移動しているひとたちにとっては、匂いや香りをどうするかは、重要なのかもしれない。その延長線上にあるようにも見える。そして、特別の油、香油、没薬を作る。これが、都市文化の中でどうなっていくのか、そのあたりの変化も知る必要があるのだろう。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第77回の予定:2月6日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章26節〜31節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.2.2 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 出エジプト記はいかがですか。今週は、出エジプト記の最後の部分を読んで次のレビ記に入ります。前回も書きましたが、今回の部分から、レビ記の終わりまでは、通読の最初の関門かと思います。こんなことも、丁寧に書いてあるのだなぐらいに考えながら読んでいくのでよいと思います。「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」なども、下に書いてありますし、また、過去のものも「章ごとにまとめたページ」から、読むことができるようにしていますから、どんなことを考えて読んでいるのか、参考にしてくださり、多少なりとも通読の助けとなればと願っています。感想をシェアしてくださる方もおられますので、それは、とても励みになると思います。 創世記から、申命記のモーセ五書または、律法(トーラー)と呼ばれていますが、特に、出エジプト記の19章から、レビ記の終わりまでは、律法の内容が書かれています。出エジプト記には、幕屋についての規定と、その建設などが書かれています。民は荒野にいて、神殿はありませんから、移動式礼拝所のようなものとして、幕屋が作られます。神の像はありませんから、中央には、契約の箱が置かれ、それを守るかたちに、ケルビムが置かれていたようです。下の出エジプト記のリンクから、少し説明を読むことができます。 人工知能の、ChatGPT(https://chatgpt.com/)を使って、神の幕屋と、その内部の画像を生成してみました。一つ目は、「出エジプト記に書かれている、神の幕屋は、どのようなイメージか画像を生成していただけませんか。」二つ目は「幕屋の中には、契約の箱とそれを守るケルビムがあったようですが、そのイメージを出力してくださいませんか。」が生成プロンプトと呼ばれている、私の入力です。「イメージについて修正や追加のご要望があればお知らせください!」とイメージに添えられていましたので、最初のものは、移動式とは思われないので、「荒野を移動していた時の、神の幕屋は、移動式だったのではありませんか。もう一度イメージの出力をお願いします。」「内部の様子も、移動式のものをイメージにしてください。」さらにもう一回「移動は祭司が肩に担いだのではないですか。それとも、動物に引かしたのでしょうか。出エジプトには記述はありませんでしたか。できればもう一度イメージをお願いします。」としましたら、「出エジプト記や民数記には、幕屋の運搬について詳しく記されています。基本的に、契約の箱(聖櫃)は祭司(レビ族のコハテ族)が肩に担いで運ぶことになっていました(出エジプト記 25:14、民数記 7:9)。他の幕屋の構成要素(幕、柱、祭壇など)は、他のレビ人たちが運搬し、一部は荷車を使って運ばれたとされています(民数記 4:5-15, 7:6-9)。」とあり、最後のイメージが出力されましたが、どうも、わたしのイメージとは異なりますが、どうでしょうか。携帯で読まれる方も多いかと思うので、イメージサイズを小にしてあります。みなさんのイメージとはあっていますか。通読を続ける助けになるかと思い、ちょっとイメージ出力をしてみました。なお、ChatGPT のサイトでもできますが、今回は、PC アプリの、ChatGPT を使用しています。他の、AI でも、イメージ生成は可能です。今回はこれだけとします。 [五つの画像は省略] レビ記についても、下のレビ記のリンクに少し説明が書いてありますから、参考にしてください。中心は、神様が聖なるかたであるという信仰から、聖なる神様が宿られる、その聖なる神様の民として、いかにして、聖であるかが書かれています。むろん、人間は、ずっと完全な清さを保つことはできませんが、汚れているとはどういうことか、汚れた時はどうするかの規定が書かれています。すべて、神様から与えられた律法として絶対的なものとして、受け取られるのもよいと思いますし、神様が聖であれば、その聖なる神様の民として、どうしなければならないかを考え、少しずつ完全なものにしていこうとした人間の営みとして読むこともできると思います。すくなくとも、改訂が何回も行われたことを否定する必要は、わたしは、ないと思います。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 出エジプト記31章ーレビ記4章はみなさんが、明日2月10日(月曜日)から2月16日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 出エジプト記と、レビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 出エジプト記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#ex レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 出エジプト記 31:4,5 それは、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工し、宝石を彫ってはめ込み、また、木を彫るなど、あらゆる仕事をさせるためである。 この前に「彼(ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエル)を神の霊で満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けた。」(3)とあるが、道具だけでなく、炉のようなものもなければできなかったろうと思う。基本的なものは、もってでたのかもしれないが、もしかすると、実際には、もっとあとのことをここに入れているのかもしれないとも思った。このあと、安息日のことが書かれ、唐突に「主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。」(18)と書かれている。 出エジプト記 32:4 アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。 「のみで型を彫り」とかいてあるが、モーセへの説明ではアロンは「私が彼らに、『金を身に着けている者は外しなさい』と言うと、彼らは私に渡しました。それを火に投げ入れたら、この子牛が出て来たのです。」(24)と言っている。自己弁護なのだろう。今回は、特に「宿営に近づくと、子牛の像と踊りが目に入った。そこで、モーセの怒りは燃え、手にしていた板を投げつけ、山の麓で打ち砕いた。」(19)が目に止まった。神の前でどうすればよいか、細部に至るまで、掟について祈り求めてきたであろうモーセ、そのある基本が書かれている、神から与えられたとしてもってきた板、民の状態とのあまりの乖離に怒りとしてしか表現できなかったのだろう。しかし、これが現実でもある。急いではなにもできない。ひとの愚かさを軽くみてはいけない。そして、その愚かさは、アロンだけではなく、おそらく、モーセにも本質的にあるのだろう。 出エジプト記 33:2,3 私はあなたに先立って使いを差し向け、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。乳と蜜の流れる地に上りなさい。しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない。私が途中であなたを滅ぼすことのないためである。あなたはかたくなな民であるから。」 自分たちの弱さから、このように人々は神が考えられると想像したのだろう。神の性質として、自然な考えなのかもしれない。しかし、イエスが伝えた神は、少し異なっている。その弱さを担ったわたしたちを愛し、互いに愛し合うことを促している。神が喜ばれることはなになのかの理解が変化したということだろうか。神様の御心を行うとは、神様が喜ばれることをすること。神がお嫌いになることを排除することとは、ずれがあるのかもしれない。 出エジプト記 34:11,12 私が今日あなたに命じることを守りなさい。見よ、私はあなたの前からアモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたはよく注意して、入って行く地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがあなたの中にあって罠とならないためである。 二つのことが気になった。まずは、追い出すと言っておきながら、契約を結ぶな、つまりは、そこに人が残っていることを前提としていること。もう一つは、このように、断絶することで本当によいのか、まさに、このあとの、厳格な保守的ユダヤ教徒の基礎が築かれてしまうのではないかということである。ここだけで、結論を出すつもりはないが、まず、短絡に結論にいたらないことの大切さ、そして、おそらく、さまざまな考え方が当時からあったろうと思われること、そして、イエスはどう言っておられるかを丁寧にみていこうとすることだろうか。ゆっくり進んでいきたい。 出エジプト記 35:1-3 さて、モーセはイスラエル人の全会衆を集めて言った。「これは主が行うように命じられたことである。六日間は仕事をすることができる。しかし、七日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。その日に仕事をする者はすべて死ななければならない。あなたがたの住まいのどこであっても、安息日には火をたいてはならない。」 「火をたいてはならない」は、現代ならエネルギーを消費するなだろうか。いずれにしても、これが、世界にひろがり、休日のもととなったことなのだろう。その意味でも、影響は大きい。同時に、これは、聖なる日、安息日、その過ごし方も大切なのだろう。神の前にたつ日なのだろうか。こちらは、もう少し整理して行きたい。 出エジプト記 36:8 仕事をする者のうち、心に知恵のある者たちは皆、幕屋を十枚の幕で造った。上質の亜麻のより糸、青や紫、また深紅の糸を使って、意匠を凝らしてケルビムが織り出されていた。 引用箇所はどこでも良かったが、当時、その場でできることを結集して、幕屋を作ったことが描かれているのだろう。そのいみで、美しい。同時に、さまざまなひとが関わることで、この作業や、その後の礼拝も重要な意味を持ってきたのではないかと思う。ただ、いろいろなバランスもあり、現代では、教会建設が原因で、分裂が起こる場合も多いが。 出エジプト記 37:29 また、香料作りの技に倣って、聖なる注ぎの油と純粋なかぐわしい香を作った。 この章は「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。」(1)と始まり、ここでも、主語は、ベツァルエルのようである。香料作りが香料を作るのではなく、ベツァルエルが作ったように書かれている。実際には、職人が加わっていたかも知れないし、そのように変化していくのかもしれないが。香料が、乾燥地の遊牧民にとっては、大切で、みな、鼻も良かったのだろう。現代とは少し違う感覚が、匂いにはあったのかもしれない。 出エジプト記 38:25,26 会衆の中で登録された者が献げた銀は、聖所のシェケルで、百キカル千七百七十五シェケルであった。これは、二十歳以上の男で登録された者、六十万三千五百五十人が一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルを献げた量であった。 聖書協会共同訳聖書の巻末の表によると、ベカは、1シェケルの二分の一で、約5.7g 、シェケルは 約11.4g。キカルは約34.2kg とある。すると、1キカルは、3000シェケル、または、6000ベカとなる。銀の方が重要だったのかもしれない。この前には、「聖所のすべての仕事のために用いられた金の総量、つまり、奉納物の金は聖所のシェケルで、二十九キカル七百三十シェケルとなった。」(24)とある。87730シェケル。100122g 約1t となる。銀は、3440235g ぐらいだろうか。3.4t となる。 出エジプト記 39:14 宝石はイスラエルの子らの名に合わせて十二あり、十二部族に従ってそれぞれの名を印章を彫るように彫りつけた。 十二部族が公平に扱われること(レビ族は別だが)が基本としてあるように思う。十二部族のための祭儀である。同時に、ある程度、大きくなっており、どの時代であっても、かなりの違いや差があったと思われる十二の部族をまったく同じように扱うことにはなんらかの合意があったのだろう。それが「部族同盟」と言われるものかもしれないが、やはり、そこにいたった背景を知りたいと思った。ひとはどうしても、違いや優劣に注目してしまうものだから。さらにこれが人間一人一人に広がるのは、理念は単純でも、意識としてはとても難しいのだろうとも思った。 出エジプト記 40:17 第二年の第一の月の一日に、幕屋が建てられた。 第2年については厳密にはよくわからないが、おそらく、出エジプトから考えられているのだろう。それがニサンの月(通常は、過越祭はその14日)であるとすると、この時も、ニサンの月だったのだろうか。いまは、年の初めもカレンダーとして変わっているようだが。いずれにしても、ここまで一年で到達したとするとそれも驚かされる。そのようなまとめ方なのかもしれないが。何らかの形にはしたのかもしれない。荒野の40年と言われるが、その記述は日誌のようには書かれていないことは、覚えておくべきだろう。 レビ記 1:1,2 主はモーセに呼びかけ、会見の幕屋から告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたのうち誰かが主への献げ物を献げるときは、家畜、すなわち牛や羊を献げ物として献げなければならない。 出エジプト記の最後には、会見の幕屋が建設される。レビ記では、会見の幕屋で語られたとされる律法がはじまる。基本的には、モーセまたは祭司が神から受け取ったとされたことが神からのことばとして記録され、守るようにされていくのだろう。そして、それが神と人々の契約として人々は守り、主は祝福するという関係となる。律法主義の始まりでもある。 レビ記 2:1,2 人が穀物の供え物を主への献げ物にする場合、その献げ物は上質の小麦粉でなければならない。その小麦粉に油をかけ、乳香を載せ、祭司であるアロンの子らのもとに携えて行きなさい。祭司は油のかかった上質の小麦粉一握りとすべての乳香をつかみ、記念の分として祭壇で焼いて煙にする。これは主への火による献げ物、宥めの香りである。 1章冒頭では「あなたがたのうち誰かが主への献げ物を献げるときは、家畜、すなわち牛や羊を献げ物として献げなければならない。」としていたが、2章では、穀物の献げものについて書かれている。関係は不明確である。これは、べつの献げものであって、基本は、1章で述べたものということだろうか。荒野では、穀物の献げものはできないだろうから、追加されていったのだろう。修正し、さまざまなことが加味されていったのかもしれない。すべて神からの律法としたのだろうが、ひとの責任でなすことのようにも思う。 レビ記 3:17 これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」 「もし献げ物が会食のいけにえで、その人が牛を献げるなら、雄であれ雌であれ、欠陥のないものを主の前に引いて行かなければならない。」(1)とはじまり、6節からは羊の場合、12節からは雄山羊の場合について書かれ、最後が引用句になっている。規定が細かく決まっているということは、専門職でないと不可能ということになるのだろう。ある敬意も生じる。しかし、それが目的ではなかっただろう。どのように、礼拝するのが適切かが追求され、このような形になっていったと思われる。そのような営みは貴重であるが、結果は形式であり、そちらが一人歩きして逆にひとを縛るようになっていく、難しいとも感じてしまう。 レビ記 4:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて、人が過って違反した場合、次のようにしなければならない。 最初に祭司(3)、次に全会衆(13)、さらに民を導く者(22)、この地の民の一人(27)と続く。だれでも、違反があることが想定されている。祭司の項には「民にもその罪責を及ぼすことになるなら」、全会衆の項には、最初会衆の目に隠されていて「その過失が知らされた場合」などなどと書かれている。注意深く書かれていることも確かなのだろう。これをどう解釈するか、解釈学も発展していかざるを得なかったろう。法律も似た部分があるだろうが、正しさをもとめることで、救いはないようにやはり感じてしまう。間違いだろうか。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第78回の予定:2月13日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章32節〜42節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.2.9 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) レビ記はいかがですか。今週はレビ記を読み進みます。神を礼拝する幕屋が建てられ、その幕屋を中心とした礼拝・生活の規定について書かれています。神は、聖なる方であるから、神に共にいていただくためには、イスラエルも聖なるものではなければならない、と言うことなのでしょう。このことから、汚れる(聖ではない)状態になったときに、どうすればよいか、人間の罪(聖ではない行為)のゆるしをどのように得るかということも生じ、そのひとつひとつについて語られていると言うことになります。 おそらく、神が聖であるということは、人間の不完全さ、欠け、望むようには生きられない存在であることが背後にあるのでしょう。それを、いい加減にしないことが、一つ一つの規定に表現されているのでしょう。ひとと人との間の問題について裁く法律とは、律法は趣がちがうようにみえますね。みなさんは、どう考えられますか。 逆に考えると、人間がどのようなものなのか、その理解から始めると、神様がどのような方だと考えるかということに関係しているように思います。神様が正確にどのような方かが聖書の中に示されているという考え方からすれば、逆に考えることは、おおいに問題だと思いますが、皆さんは、どう考えられますか。人間についても、人間と人間の関係、社会や、人間を取り巻く環境、自然や、人間と自然との関係などの理解が進むまたは変化するに従って、神様の認識も、理解も、広がり、変化するようにも思いますが。神様理解も、レビ記に書かれているような、固定されたもので、それから離れない方が良いのでしょうか。 イエス様は、どのように考えられたのでしょうか。イエス様にとって神様は、どのような方だったのだろうか。このレビ記の背後にある神様像と一致していたのだろうか。そんなことを考えながら、わたしは、旧約聖書を読んでいます。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 レビ記5章ーレビ記18章はみなさんが、明日2月17日(月曜日)から2月23日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 レビ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#lv 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート レビ記 5:26 祭司がその人のために主の前で贖いをすると、その人が行って罪責ある者となった、どのようなことも赦される。」 いくつかの罪について書かれている。証言をしない場合が最初にあり、それ以外に、汚れた場合からはじまり、背信の罪を犯した場合も、主の聖なるものに対して犯した場合と、主に対して犯した場合に分けているようである。正確には、一つ一つ理解できない。しかし、罪を負うことがとても大きなことで、それが償われなければ主の前に出ることができないと考えられていたのかと思う。主は、全く清い方ということだろうか。日本には、すくなくとも現代ではそのような感覚はないと思う。そのような神との交わり、またはそのような方が共にいてくださることは、無理だと考えてしまう。どうなのだろうか。可能だと考えられていたのだろうか。 レビ記 6:1,2 主はモーセに告げられた。「アロンとその子らに命じよ。これは焼き尽くすいけにえについての指示である。焼き尽くすいけにえは、夜通し朝まで祭壇の炉の上に置き、祭壇の火を燃やし続ける。 全焼のいけにえについての指示である。規定により、あがないや供物がひつようであれば、それを行う、作業は膨大になったことだろう。レビ族がみなそれにあたらなければ実行できなかったことは、ある程度想像はつく。ただ、やはり、人間の捉え方、神の認識の仕方に無理があるように思われる。ある意味で、自然なのかもしれないが。神聖なものに最初に思い至ったひとから、発展していった考え方なのだろうか。正直、異常に感じる。わたしの思考は、あまりに、信仰から離れてしまったのだろうか。 レビ記 7:37,38 以上が焼き尽くすいけにえ、穀物の供え物、清めのいけにえ、償いのいけにえ、任職の献げ物、会食のいけにえについての指示である。これはモーセがシナイの荒れ野で主に献げ物を献げることをイスラエルの人々に命じた日に、主がシナイ山でモーセに命じたことである。」 引用句はこのまとまりの最後のようである。ところが、このあとに、任職の献げ物の規定が8章に続く。引用句には、シナイ山でうけたことのように書かれているが、それは、これが一番基本的な戒めであることを主張しているのだろう。任職はアロンの子らから始まるのだろうか。難しいエピソードもあるので、ここで分けているのかもしれない。記録は、大変である。 レビ記 8:33 あなたがたの任職式の期間が明けるまでの七日間、会見の幕屋の入り口から外に出てはならない。七日間かけて任職式が行われるからである。 任職式の規定は、7章までには書かれていないが、ここにあるのは、具体的な任職について書かれているのだろう。それを範とせよということだろうか。モーセとアロンの関係も微妙で、やはり、アロンもモーセを通して任職されているように見える。最初は難しかったのだろう。引用句では、任職式の期間は、七日間だったようで、何曜日かは書かれていないが、安息日もなく行われたということなのだろう。正確にはわからない。 レビ記 9:6 そこで、モーセは言った。「これは、あなたがたが行うように主が命じられたことである。行えば、あなたがたに主の栄光が現れる。」 主の栄光をみるためのきよめのための犠牲について書かれている。主が共におられる、主の素晴らしさを味わえる、それは、素晴らしいことだろうが、このような儀式には抵抗がある。日常的な、苦しみや困難のなかに、主を見出すことにこそ意味があるのではないだろうか。おそらく、これも、教育の一段階なのだろう。イスラエルの厳格な保守派も、おそらく現在は遊牧や、牧畜が主ではないだろうから、たとえ、神殿ができても、この礼拝形式には戻れないのではないかと思う。 レビ記 10:1 アロンの息子ナダブとアビフは自分の香炉を取って、火を入れて香をたき、命じられていない規定外の火を主の前に献げた。 詳細は書かれていないので、この二人にどのような意図があったのか不明だが、このような清さについての限界も感じる。たとえ、形式的に整っていても、こころのなかは、そうではないこともあるだろう。なにか、ずれを感じてしまう。これも、ひとつの教育段階なのだろうか。こういうのも、安易すぎるかもしれない。わたしのような、そして、あとで、パウロもある程度する議論は、どう考えられていたのだろうか。 レビ記 11:3,4 反芻するもので、ひづめが割れ、完全に分かれている動物はすべて食べることができる。ただし、反芻するだけか、あるいはひづめが割れているだけのものは食べてはならない。らくだ、これは反芻するが、ひづめが割れていないので、あなたがたには汚れたものである。 このあとも、水の中に住むもの、鳥について述べられ、さらに、死骸に触れるなどで、汚れることについて、続けてかられていてる。何らかの理由もあると思われるが、それは書かれていない。汚れは清めを必要とする。清くあれということと同時に、汚れることがあることも想定されているということでもある。最後に書かれているように(45)、主が聖なるもんだから、民も聖でなければならないということに依拠しているのだろう。そのような清い、聖なる方との出会いがあったということだろう。 レビ記 12:6,7 男児あるいは女児のための清めの期間が満ちたなら、彼女は焼き尽くすいけにえとして一歳の雄の小羊、そして清めのいけにえとして若い家鳩か山鳩一羽を、会見の幕屋の入り口にいる祭司のもとに携えて行かなければならない。祭司がそれを主の前に献げて贖いをすると、血の汚れから清められる。これが男児か女児を出産した女のための指示である。 血が流れることとともに、やはり、生命が誕生する出産に関して、神秘的なものを感じていたのだろう。血の汚れをたんに、悪いことと考える必要な内容にも思う。むろん、ひとは、いろいろな受け止めをしたのだろうが。そして、これらも、男性目線であることも、確かなのだろうが。 レビ記 13:45,46 規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。 規定の病と訳しているが、基本的に、法定伝染病のようなものなのだろう。共同体としての対処方法を定めている。科学が未発達な状態では、できることは限られていたのだろうし、それを汚れとすることも、他に適切な方法はなかったのかもしれない。しかし、その人たちにたいする対処をみると、悲惨である。そのような事例がいくつもあったのだろう。そして、現代から考えると、誤って、そのように宣言される場合も。共同体として生き抜く術としても、苦しみと痛みを覚える。 レビ記 14:8,9 清められた人は衣服を洗い、すべての体毛をそり、水で洗うと清くなる。その後、宿営に戻ることができる。ただし、七日間は天幕の外で暮らさなければならない。七日目になって、すべての体毛、すなわち、髪やひげや眉毛などをそる。すべての体毛をそらなければならない。衣服を洗い、体を水で洗うと、彼は清くなる。 「規定の病を患っていた人が清められるときの指示」(1b)が書かれている。後編には、家のかびの扱い方についても述べられている。このようなものが、祭司のもとで扱われていたということで、それが社会制度だったのだろう。しかし、神に仕えるものとして絶対化された面もあるだろう。だからこそ、従わざるを得なかったのだろうが、現代に移して考えると、これは、ひとの責任とも言える。しかし、それは、改善ともいえるが、難しいくなったとも言える。責任の大きさをも感じる。 レビ記 15:2 「イスラエルの人々に告げなさい。人が陰部から漏出しているなら、その漏出物は汚れている。 よく知らなかったが、いくつか病気はあるようだ。ただ、ここに書くほど一般的なのだろうか。尿失禁・遺精・膀胱炎や過活動膀胱などのようだが、最初の二つが想定されているのだろうか。女性の場合は月経以外にも、いろいろな種類があるようである。排卵期出血・無排卵性出血・更年期の不正出血・妊娠時の着床時出血・切迫流産や早産・膣炎や子宮頸管炎・萎縮性膣炎・腫瘍性疾患・性交時の裂傷・薬剤性の影響のようだが、どの程度の知識があり、想定されていたのだろう。体内から通常ではないものが出てくることに恐れがあったのか。 レビ記 16:29-31 これはあなたがたのとこしえの掟である。第七の月の十日には身を慎みなさい。どのような仕事もしてはならない。イスラエル人も、あなたがたのもとでとどまっている寄留者も同じである。この日には、あなたがたを清めるための贖いがなされる。主の前であなたがたの罪はすべて清められる。この日は、あなたがたにとって完全な安息の日でなければならない。身を慎みなさい。これはとこしえの掟である。 清めは、わたしだけではなく、一般の現代人には、なかなか理解できないことなのではないだろうか。しかし、神が共におられるということが、このような清めの徹底に結びついていったことはおそらく確かだろう。これがなければ、神がともにいてくださらない。このあたりは、神は、わたしたちが不完全であることを、当然、理解して下さっているだろうという甘えなのだろうか。清さについては、もう少し考えてみたい。 レビ記 17:11,12 肉なるものの命、それは血にある。私はあなたがたの命の贖いをするために、祭壇でそれをあなたがたに与えた。血が命に代わって贖うのである。それゆえ、私はイスラエルの人々に言った。『あなたがたの誰も血を食べてはならない。あなたがたのうちにとどまっている寄留者も、決して血を食べてはならない。』 「肉なるものの命、それは血にある。」は、14節にもある。どうしてそうなのかではなく、いのちが血にあるのであれば、食べてはいけない。いのちは、神のもの、神から与えられたものだからということなのだろう。それゆえ、祭壇で、血が命にかわって贖うとされているのだろう。いのち、われわれが生きているのは、神から与えられたいのちによるということは、理解できるように思う。自分のうちにあるものであっても、自分のものではないということなのだろう。よく考えたい。 レビ記 18:3-5 あなたがたは、住んでいたエジプトの地の風習に倣ってはならない。また私が連れて行くカナンの地の風習に倣ってはならない。その掟に従って歩んではならない。私の法を行い、私の掟を守り、それに従って歩みなさい。私は主、あなたがたの神である。私の掟と法を守りなさい。人がそれを行えば、それによって生きる。私は主である。 「あなたがたより先にいた者がこれらの忌むべきことをすべて行ったので、その地は汚れた。」(27)ともある。これは、先住民も、神様のもとにあるという信仰からでているとも言える。引用句は、分離を聖なるものとして主に従うことの、基本としている。このことと、愛し合うこととには、根本的に、相容れない部分があることは、確かである。どう考えたら良いか、完全なこたえは、わたしは持っていない。ただ、分離して、ほんとうに、主が聖であるように、聖であることができるかというと、できないということは、確かである。そして、その地の風習に倣っていて、主の望まれるように生きることも、おそらく不可能だろう。謙虚に、求め続けたい。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第79回の予定:2月20日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章43節〜50節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.2.16 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) レビ記はいかがですか。今週はレビ記を読み終わり、次の民数記に入ります。これまで、レビ記の最後までは、通読の最初の難関だと書いてきました。むろん、個人的な感想です。 レビ記は、神様が聖なる方であるから、その神様がともにいてくださるためには、わたしたちも聖でなければならない、ということが、根底にあるように見えます。そして、人間は、常に聖であることは、できませんから、清めるために、しなければならないことや、一般の人との間を取り持つ、祭司がすべきことなどが、詳細に書かれているのかなと思います。皆さんはどのようなことを考えて読んでおられますか。 さて、次は、民数記です。民数記からは、読みやすいかなと思うと、その名前からも推測されるように、実は最初は、人口調査のことが、12部族の軍の編成と合わせて書かれ、次には、レビ族が幕屋に使えるための編成などが書かれているので、これも、読むのが辛いと考えられる方が多いかもしれません。民数記については、下のホームページリンクを見ていただければと思いますが、これらは、最初の10章で、編成を整えて出発する準備として書かれています。11章からは、荒野での様々な出来事について書かれています。そのためでしょうか、現代ヘブル語聖書では1節の4番目の単語をとって「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれているそうです。 個人的には、この編成で、荒野を移動するのは、非現実的だと思ってしまいますし、40年のうち、民数記から読み取れるのは、どうも、最初と最後の数年の期間のようにも見えます。しかし、荒野でのさまざまな出来事を記録する形式をとっているので、その後の、イスラエルの民にとって、そのことが重要だったからなのでしょう。アイデンティティ確立にもつながっているように思います。みなさんは、どんなことを読み取られるでしょうか。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 レビ記19章ー民数記5章はみなさんが、明日2月24日(月曜日)から3月2日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 レビ記と民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 レビ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#lv 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート レビ記 19:20 男が、他の男のものになるはずの女奴隷と寝て交わり、まだ身請け金が支払われていないか、彼女に自由が与えられていなかった場合には、男に償いの義務はあるが、二人は死刑にはならない。彼女は自由の身ではなかったからである。 こんなことがあってはいけないと思う。自由の身ではないものの存在を許容すること自体に問題がある。イスラエルの民は、その奴隷または自由ではないところから逃れてきたのではないのか。むろん、実際には、人間社会の歪みで、自由ではない存在は、こどもや、雇用上の問題で、実際には、さまざまなかたちで現在も存在しているのだろう。どのように向き合えば良いのだろうか。正直、ここからはわからない。 レビ記 20:13,14 人が女と寝るように男と寝るなら、両者ともその忌むべき行いのゆえに、必ず死ななければならない。血の責任は彼らにある。人が女とその女の母親を一緒にめとることは恥ずべきことである。その男も女たちも火で焼かなければならない。あなたがたの間に淫らなことがあってはならない。 女性どうしの場合は書かれていない。おそらく、血の責任とあり、いのちに関わる生殖行為が意識されているのだろう。このあとには、獣姦のことも書かれているが、これに関しては、男性女性両方について書かれている。そこでも、血の責任である。正直、よくはわからない。 レビ記 21:6,7 彼らは神にとって聖なる者でなければならない。また、神の名を汚してはならない。彼らは神の食べ物である、主への火による献げ物を献げるのである。彼らは聖なる者でなければならない。遊女や汚れた女をめとってはならない。離縁された女をめとってはならない。祭司は神にとって聖なる者でなければならない。 聖なる神の前に出、その神に仕える祭司が聖でなければならないということから、細々と決まって行ったのだろう。それが、敬虔の表現だったのだろうが、逐一神の言葉だとするところには、やはり無理があると思う。礼拝の仕方が変わっていくこともあるだろうが、神の認識も自分たちの置かれた状況に即して変化することもあるだろう。硬直化した律法に、大きな疑問を感じる。ひとの弱さだろうか。よかれと思ってすることでも、実際には、問題を生じてしまう。現代でも同様の問題がたくさんあるように思う。 レビ記 22:26,27 また主はモーセに告げられた。「牛か羊か山羊が生まれた場合、七日間、母親のもとにとどめなければならない。八日目からは、主への火による献げ物として受け入れられる。 憐れみのこころが語られているのだろうか。しかし、それが何になるのだろうかと考えてしまう。そのいく先には、動物の肉を食べないということもあるのかも知れない。いのち、人間のいのちと近いものを慈しむということなのかも知れないが、それをルールとして、守っていくことが、本当にみこころなのか、真理なのか、やはりわたしには、わからない。 レビ記 23:5,6 第一の月の十四日の夕暮れに主の過越祭、その月の十五日から主の除酵祭である。七日間、種なしパンを食べなければならない。 まず、安息日のことが描かれ、過越祭・除酵祭のあと、初穂祭(ペンテコステ)、贖罪日、仮庵祭と続く。少し不明の点もある。まず、ユダヤのカレンダーで祭りの曜日が決まっているのかという問題。イエスの時代には、過越祭の曜日は変化していたようだが、そうなると、祭りの週の途中、安息日があるときはどうしていたのだろうか。 レビ記 24:10,11 イスラエル人を母とする、その男が御名をそしって呪ったので、人々は彼をモーセのもとに連れて行った。母の名はシェロミトと言い、ダンの部族に属するディブリの娘であった。 イスラエルのコミュニティの中にいる混血のひとの信仰についての問題である。このあと、一般的に主を呪うことについて描かれ、処罰が下されている。信じるものが異なる、信仰の形式が異なる場合の対応でもあり、共同体の中では難しい問題である。個人的には、寛容でなければいけないと思うが「でなければいけない」ということを、適用するのは難しい。少しずつ合意して、その合意も修正していかなければいけないように思う。それが法律であり、人に委ねられている公平さなのだろう。 レビ記 25:32-34 レビ人の町の場合、彼らの所有の地である町に建っている家屋は、レビ人にはいつでも買い戻す権利がある。レビ人が買い戻さない場合でも、ヨベルの年になると所有物であるその町の家屋は戻さなければならない。なぜなら、レビ人の町に建っている家屋は、イスラエルの人々の中にある彼らの所有物だからである。彼らの町に属する放牧地は売買できない。それは彼らのとこしえの所有地である。 ヨベルの年の規定についてはいつも驚かされる。ここでは、それとは別に、レビ人の所有の土地についての買い戻しの権利などについて定めている。レビ人はどの程度かは不明だが、貧しかったとも言われている。大きな土地を所有しておらず、かつ、共同体のためや、イスラエル全体にたいしてすべき奉仕がいろいろとあったからでもあろう。ただ、実態はあまりよくわからない。いつか調べてみたい。 レビ記 26:36 あなたがたのうちの残りの者に対し、私は敵の地で、その心を臆病にする。揺れる木の葉の音さえ、彼らを追い立てる。彼らは剣で追われるかのように逃げ惑い、追う者もいないのに倒れる。 このあとには「以上が、シナイ山において、主がモーセを通してご自分とイスラエルの人々との間に授けられた掟と法と指示である。」(46)とあり、27章は続くが、レビ記の最後の部分である。この章には、祝福と呪いが描かれている。最初は、偶像のことが書かれ、つぎに、「掟に従って歩み、戒めを守り行うなら」(3)とあり、次に、「しかし私に聞き従わず」(14)「でも私に聞き従わないなら」(18)「それでも私に逆らって、私に聞き従おうとしないなら」(21)「それでもなお、それを戒めとせず、逆らって歩むなら」(23)「それでもまだ私に聞き従わず、逆らって歩むなら」(27)とあり、その次の段落が引用句である。そして「彼らは背信の罪を犯した先祖の過ちと、また私に逆らって歩んだ自らの過ちを告白するようになる。」(40)とあるが、イスラエルの歴史について語っているようにも見える。どの時点でこれが書かれたのかは不明だが。 レビ記 27:2-4 「イスラエルの人々に告げなさい。人を査定額に従って主に奉献する、特別な誓願を行う場合、二十歳から六十歳までの男の査定額は聖所のシェケルで銀五十シェケル、女は銀三十シェケルである。 このあと、五歳から二十歳まででは、男銀二十シェケル、女銀十シェケル、一か月から五歳までなら、男銀五シェケル、女銀三シェケル、六十歳以上なら、男銀十五シェケル、女銀十シェケルと続く。誓願のためとなっているが、神様に対しては、男と女、おとなとこどもと老人は、区別されるが、それ以外の区別はないと伝えているのだろう。男と女などの区別については、いかがなものかとも思うが、この時代としてはすごいことなのかもしれない。一人一人を見ないとも言えるが。わたしのような年寄りについても、考えた。家族や、共同体や、社会的な価値なのか、神様のお仕事の貢献度なのか、わたしは、あまり貢献できていないなとは感じる。難しい問題でもある。 民数記 1:18 第二の月の一日に全会衆を召集し、それぞれの氏族と、その父祖の家に基づいて、二十歳以上の男子一人一人の名を数え、系図に記した。 系図に記したことばが目にとまった。それが後代まで続いた場合もあったのだろう。ここには、レビは含まれない。軍への登録(3)であり、神殿関係の仕事をするものは、除外されたのだろう。一族すべてをそうすることにも驚かされるが、軍の編成、兵役につくものを数えることも、公平さともいえるが、とても重要だったのだろう。レビ記の最後には、誓願を行う場合の査定額が書かれていたが、この章には、年齢の上限はない。六十歳以上など、としよりは、ごく僅かだったのかもしれない。 民数記 2:34 イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った。それぞれの旗の下に宿営し、それぞれの氏族と、父祖の家ごとに進んだ。 これだけの人数が、宿営も伴って移動したとすると、広大な面積が必要なはずである。それも、荒野であれば、水の問題もあったろう。これだけでも、不可能としか言えないだろう。しかし、当時の人たちは、納得させられたのだろうか。戦いの時の体勢で、通常は異なるのかもしれない。どちらにしても、非現実的ではある。 民数記 3:11,12 主はモーセに告げられた。「私はイスラエルの人々の中で初めに胎を開くすべての初子の代わりに、イスラエルの人々の中からレビ人を取る。レビ人は私のものである。 このために、レビ人の生後一ヶ月以上のレビ人の男子を数え総数が、二万二千人であったと、39節にあり、一方、イスラエルの「登録され、名を数えられた生後一か月以上の初子の総数は二万二千二百七十三人であった。」(43)とある。この差を、一人当たり、銀五シェケルを捧げるということが書かれている。まずは、レビは他の十二部族と比較して、非常に少ないと思う。他は、軍に登録する、20歳以上としているのと比較して、こちらは、一ヶ月以上、マナセとベニヤミンが少ないがそれでも、32,200人と、35,400人。当時の人口中央値は不明だがおそらく、20歳ぐらいだったろうと思われるので、そう考えると、レビが軍に加われば、この半分ということになる。11,000 あまりにも少ない。しかし、そのあたりも、レビが選ばれたことと関係しているのかもしれない。 民数記 4:46-48 モーセとアロン、およびイスラエルの指導者たちが、それぞれの氏族と、その父祖の家によって登録したレビ人は皆、会見の幕屋での仕事に就き、運搬の仕事をすることのできる三十歳から五十歳までの者たちである。登録された者の数は八千五百八十人。 一ヶ月以上では、男子が、二万二千人とあった(3:39)それから考えると、0.39 約 40% である。五十歳以上もむろん、いただろうが、やはり、三十歳よりも、すこし若いあたりに中央値があったのではないだろうか。成人男性の死亡率はあまり高くなかったかもしれない。戦いが多い場合は別だが、レビはおそらく戦わなかったと思われるので。人工分布がどのくらいわかるか考えてみたい。 民数記 5:19 祭司は彼女に誓わせ、こう言う。「もし、別の男があなたと寝たことがなく、またあなたが夫のもとにありながら道を外し、身を汚したことがなかったなら、この呪いの苦い水の害を免れる。 実際に姦淫を犯した場合も、犯さなかった場合も、疑いが生じると、それを消し去るのはとても難しかったろう。しかし、そのための、方策が決められていたことは興味深い。これは、他の地域でもあったのだろうか。歴史的には、どうだったのだろうか。調べてみたいとも思う。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第80回の予定:2月27日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章53節〜65節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.2.23 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 民数記に入りました。最初は、人口調査、そのあとも捧げ物などが書かれていますから、驚かれたかもしれません。今週は、この民数記を読み進めます。 11章からは、荒野での様々な出来事について書かれており、現代ヘブル語聖書では1節の4番目の単語をとって「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれていると前回書きました。荒野での40年と言われるように、イスラエルが荒野をさまよう期間のできごとについて書かれています。 四十年で検索すると、実は聖書にはかなりの数でてきます。いくつか拾ってみましょう。 - こうしてイスラエルの人々は、四十年の間、人の住む地に入るまでマナを食べた。すなわち、彼らはマナを、カナンの地の境に至るまで食べた。(出エジプト記15:35) - あなたがたの子どもは、あなたがたの死体が荒れ野で朽ち果てるまで、四十年の間、荒れ野で羊飼いとなってあなたがたの背信の罪を負う。あなたがたがあの地を偵察した四十日という日数に従い、一日を一年として四十年の間、あなたがたは自分の罪を負い、あなたがたは私に反逆することの意味を知るであろう。(民数記14:33,34) - 主はこうしてイスラエルに対して怒りを燃やし、四十年にわたって荒れ野をさまよわせた。こうして主の目に悪とされることを行った世代の者は皆、滅び去った。(民数記32:13) - 祭司アロンは、主の言葉に従ってホル山に登り、そこで死んだ。それは、イスラエルの人々がエジプトの地を出て四十年目、第五の月の一日であった。(民数記33:38) あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられ、あなたは何一つ不自由しなかった。(申命記2:7) - あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。(申命記8:2) - この四十年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。(申命記8:4) - 「私は四十年の間、荒れ野であなたがたを導いたが、あなたがたの着ている服は擦り切れず、足の履物もすり減らなかった。(申命記29:4) - 四十年の間、イスラエルの人々は荒れ野を歩き、ついにはエジプトを出たすべての民、戦士であった男たちは皆、死に絶えた。彼らは主の声に聞き従わなかったので、主は、私たちに与えると先祖に誓われた地、乳と蜜の流れる地を彼らには見せない、と誓われたのである。(ヨシュア記 5:6) 実は、このあとも、四十年ということばは、たくさん登場します。人が生きる人生のような期間なのでしょう。実は、わたしもホームページに、「わたしの 40 年(1980年〜2020年)」というタイトルで語った話を年譜と共に音声付きで掲載しています。私は1980年に大学に就職し、2019年に退職したので、ほぼその期間ということですね。人生のたいせつな部分を「ベミドゥバル(荒野にて)」と総括して、書いているのが、この民数記ということでしょうか。みなさんの、人生の主要な四十年は、どのようなものになるのでしょうか。わたしは、この次の期間も生かされているわけですが。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記6章ー民数記19章はみなさんが、明日3月3日(月曜日)から3月9日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 民数記 6:2 「イスラエルの人々に告げなさい。男であれ女であれ、特別な誓願を立て、主に献身するナジル人の誓いをするときは、 神を中心とする生活においては、誓願も重要だったのだろう。「神かけて誓う」ことだろうか。ただ、ナジル人の規定は、特別なものだったのだろう。ここでは、男であれ女であれとある。サムソンのような例を思い出すが、女性はどのようにして、どのようなことについて、誓願をしたのだろう。具体的な事例もおそらく記録にあるだろう。調べてみたい。 民数記 7:1 幕屋を建て終わった日、モーセはこれに油を注いで聖別した。また、幕屋の祭具、祭壇、祭壇の祭具のすべてに油を注いで聖別した。 幕屋の奉献式のようなものなのだろう。十二部族が部族ごとにまったく同じ献げものを献げていることが書かれている。部族の大きさはさまざまだったことがわかっているが、ここでは、まったく同じである。代表ともいえるが、部族集団であることが、明確になっている。どのようなものだったのか、やはり気になる。新しい情報を今後得ることは難しいのかもしれないが。 民数記 8:13-15 あなたはアロンとその子らの前にレビ人たちを立たせ、彼らを奉納物として主に差し出す。あなたはこうして、レビ人をイスラエルの人々の中から区別し、レビ人は私のものとなる。その後で、レビ人は会見の幕屋に入って仕事に携わることができる。あなたは彼らを清め、奉納物として差し出した。 レビ人が他の種族とはことなり、主に仕えるものとなることを、理論づけるとともに、儀式としても確立したと言うことだろう。これが引き継がれていく。現代では、どうなっているのだろうか。おそらく、系図も残り、アロンの子孫と言われる人たちもいるのだろう。調べてみたい。 民数記 9:2,3 「イスラエルの人々は、定められた時に過越祭を祝いなさい。あなたがたは、この月の十四日の夕暮れ、定められた時にそれを行わなければならない。そのすべての掟とすべての法に従ってそれを行わなければならない。」 のちにしばらく、過越祭が持たれていなかったことも書かれている。しかし、この最初の時がここに記録されている。イスラエルにとって、特別な祭りだったのだろう。どこに、自分たちの起源をもつのか。それが崩れていた時はなにを意味するのだろうか。「王はすべての民に命じた。『この契約の書に記されているとおりに、あなたがたの神、主の過越祭を祝いなさい。』実に、イスラエルを治めていた士師の時代から、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われたことはなかった。ただヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われただけであった。」(列王記下23:21-23)ダビデや、ソロモンの頃もしていなかったようである。経緯が気になる。滅亡の直前に、整備したと言うことだろうか。 民数記 10:11-13 第二年の第二の月の二十日、雲が証しの幕屋から離れて昇ったので、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパランの荒れ野にとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命によって、初めて旅路に着いたのである。 一年と一ヶ月で、このような体勢が整えられ、出発することとなったことが書かれている。これだけのものができるなら、このあとの計画も十分に練られたと思われるが、どうなのだろうか。このあとには、彼のアドバイスによって、制度などが整えられた、モーセのしゅうとが帰っていくと言う記事があるが、実際に、離れていったのかどうかの結論は書かれていない。(29-32)このあと三日の道のりを進んだとある。ここまで丁寧に書かれていると、何かしらの、実体があったと思わされるが、やはり、水や食料のことなど、さまざまな現実的な面が、気になる。どのようなことを表現しているのだろうか。すでに、敵の存在が描かれているが(35)、敵とはどのようなものだったのだろうか。 民数記 11:31,32 さて、主のもとから風が起こり、海の方からうずらを運んで来て、宿営の周囲に落とした。それは一方の側に約一日の道のり、他方の側に約一日の道のりがあり、地面より二アンマほどの高さに積み重なっていた。民は立ち上がり、終日終夜、さらに翌日も一日中、うずらを集めた。最も少ない者でも十ホメルを集めた。彼らは自分たちのために、宿営の周りにそれらを広げておいた。 宿営には、うずらは来なかったのかなど、非現実的と思われる面もあるが、このように伝承が、語られていたのだろう。アンマは、おそらく、45cm 程度、ホメルは230リットル程度とのこと。ここに、もっとも少ないものでも、十ホメルとある。2300リットル。風呂桶になみなみ二杯分ぐらいだろうか。やはり非現実的に見える。それも、うずらだけで、どうするのだろうか。 民数記 12:9,10 主の怒りが彼らに対して燃え上がり、主は去られた。雲は幕屋の上を離れた。その時、ミリアムは規定の病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンが振り向くと、ミリアムは規定の病にかかっていた。 「ミリアムはアロンと共に、モーセが妻にしたクシュ人の女のことで彼を非難し、『モーセはクシュの女を妻にした』と言った。」(1)から始まるが、ミリアムが首謀者であったとしても、アロンはなにも害を受けないことに疑問を感じる。また、「彼女の父親が彼女の顔に唾を吐きかけたとしても、彼女は七日間、恥を負うではないか。彼女を七日間、宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は癒やされる。」(14)も記されているが、主が語ったことになっており、このようなことを主がよしとされたと言うことか。このことばは、聖書には記されていない。ただ、引用句にあるように、主がおられるかどうか、目で見てわかると言うのは、すごいこと、恐ろしいことでもある。 民数記 13:27-29 モーセに説明した。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行って来ました。そこはまことに乳と蜜の流れる地でした。これがそこの果実です。しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。私たちはそこでアナク人の子孫さえも見ました。ネゲブの地にはアマレク人が住み、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人が住み、海辺とヨルダンの岸辺にはカナン人が住んでいます。」 荒野とは異なるだろうが、パレスチナ北部の三日月地帯は別として、一般的には山地で、乾燥気候ではないだろうか。しかし、ここには、「乳と蜜の流れる地」とある。気候がいまとは、多少違っていたのだろうか。いずれにしても、良い点と悪い点を見てきている。一般的にはこのあとの、カレブの発言が素晴らしいとされるが、侵略、征服である。善悪を判断することは、本当に難しい。 民数記 14:8,9 もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう。ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから。彼らを守るものは彼らから離れ去り、私たちには主が共におられます。彼らを恐れてはなりません。」 とても乱暴に感じてしまう。それも、このあとに、「あなたがたは、私があなたがたを住まわせると誓った地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。」(30, 参照24)と、主が語られ、これを契機に、40年間、荒野を彷徨うことが書かれている。御心をこのように理解して、伝えようとしたのだろうが、どの時代まで、このことが続いたのかとも思わされる。いまも、カレブや、ヨシュアは好まれるので、今もこの認識が続いているのかもしれない。 民数記 15:40,41 あなたがたは私の戒めをすべて思い起こしてこれを行い、あなたがたの神にとって聖なる者となりなさい。私は、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したあなたがたの神、主である。私は主、あなたがたの神である。」 戒めを思い起こすために、「衣服の四隅に房を作り、その四隅の房に青いより糸を付けさせなさい。」とあるあとに書かれている。戒めが、契約のもとであることを証言している箇所でもあるのだろう。これは、ひとつの方向性なのだろうが、神のことばとしなければならない問題が起こってしまう。神理解は変化するにも関わらず。 民数記 16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。会衆全体、その全員が聖なる者であり、その中に主がおられるのだ。それなのに、なぜあなたがたは主の会衆の上で思い上がっているのか。」 これは、自然なのかもしれない。モーセはひれ伏し、そして、神に判断を委ねている。結果は、「彼がこれらのすべての言葉を語り終えるやいなや、彼らの足元の大地が裂けた。地はその口を開き、彼らとその家族、コラに属するすべての者たちとすべての持ち物を吞み込んだ。」(31,32)これをどのように理解するかは、分かれるところだろうが、現実問題とすると、基本的には、主は、われわれ人間に対応を任せておられると思う。どうしたら良いのだろうか。 民数記 17:6 翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに対して「あなたがたは主の民を殺した」と不平を言った。 このあと、主は「この会衆から離れなさい。私は即座に彼らを滅ぼす。」(10)と言われ、疫病がはじまる。しかし、モーセはアロンに「火皿を取り、それに祭壇から取った火を入れ、香を載せ、急いで会衆のもとに行って、彼らのために贖いをしなさい。主の前から怒りが出て、疫病が広まり始めたのだ。」(11)といい、疫病がとまる。なかなか興味深い表現である。ゆっくり考えてみたい。主と、人との関係が表現されているようでもある。 民数記 18:14,15 イスラエルにおいて永久に奉納されたものはすべて、あなたのものとなる。主に献げられた肉なるもの、すなわち人であれ、家畜であれ、その初子はすべてあなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。 主のアロンへのことば「あなたには私への献納物の管理を、すなわちイスラエルの人々が献げる聖なる献げ物の一切を任せ、そこからの取り分を、あなたとあなたの子らに与える。これは、とこしえの掟である。」(8)から始まる箇所である。ここにも、初子のあがないが登場する。初子は、すべて主のものだから、それを贖わなければならないと言うことなのだろう。牧畜文化とも密接に関係していると思われるが、本当にここに固執することが大切なのか疑問を感じてもいる。イエスも、多くの人ための死であることは言っており、あがないということばも、福音書で一回使われるが、多くの人のためということを大きく出るものではないように見える。普遍性を求めすぎているのだろうか。 民数記 19:7 祭司は自分の衣服を洗い、体を水で洗う。その後、宿営に入ることができるが、祭司は夕方まで汚れる。 祭司が最も汚れを受ける仕事であることをあまり考えたことがなかった。動物を屠るしごとは、日本でも、汚れる仕事だとされていたときもある。それが、祭司である。牧畜文化では、違ったのだろうか。命と関わること、動物の命と、人間の命がおなじであり、それを媒介するものが、血であることを、当時のひとたちは思ったのかもしれない。この文化から自由になって、聖書を理解するのは難しいのだろうが。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第81回の予定:3月6日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書14章1節〜5節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.3.2 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 今週も、民数記を読み継ぎます。「ベミドゥバル(荒野にて)」について書かれていますが、今週読むのは、最後の何年かの部分になります。基本的には、ヨルダン川の東を通って、エドムとモアブの地は通り過ぎ、その北の地域(ギリアデと呼ばれる地)を征服することについて書かれています。そして、アロンの死についても書かれています。 Holman Bible Atlas の Chapter 6 が、Exodus(出エジプト)となっていますので、そのリンクをつけます。この時期のいくつかの地図を見ることができます。 Halman Bible Atlas Chapter 6: https://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/HBA_06.htm 地図番号 30. カデシュ・バルネア:民数記 14, 16, 20 章 地図番号 31. 斥候(スパイ)の派遣:民数記 13, 34 章 地図番号 32. カデシュ・バルネアからモアブの平原:民数記 20章、21章、33章 この次の、Chapter 7 には、バレスチナの分割や、ヨシュアや士師の時代の地図があります。 先住民がいました。聖書の記述をそのまま受け取ると、軍隊だけで、約60万人の兵力で、移動していますから、土地のひとたちにとっては、大変な脅威であったことでしょう。最近の聖書学者は、すべてが、エジプトから脱出してきたとは考えず、部族連合によって出来上がった集団という見方もしているようですが、ヨシュア記、士師記やそのあとの歴史をみても、先住民がたくさん登場しますから、長い期間、複雑な関係であったことは、確かでしょう。ただ、ヨルダン川の東側の土地にも、定住することになったことの経緯が、今回みなさんが読まれる箇所に書いてあるということです。 みなさんは、どのように読まれ、どのように理解されるでしょうか。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記20章ー民数記33章はみなさんが、明日3月10日(月曜日)から3月16日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 民数記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#nm 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 民数記 20:10-12 モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。だが、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。」 厳密にいえば「私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」とモーセとアロンが水を出すようなことを言って、主がそれをなされることを示さなかったと言うことなのだろう。ただ、この章の最後にはアロンの死が書かれておりそこでも、「アロンは先祖の列に加えられる。私がイスラエルの人々に与えた地に、彼が入ることはない。あなたがたがメリバの水のことで私の言葉に逆らったからである。」(24)と確認されている。酷だと正直に思うが、アロンの死を控えて、ひとは誰でも、自分の罪のために死ぬことを明確にしていると言うことなのかもしれないと思う。ひとはいずれは死ぬ。様々なことを背負って。理由づけは、そのひとの一生をとても狭いものとみてしまうことのように思う。それを静かに見守ることで十分であると思うが。わたしも、いいことも悪いこともたくさんしてきただろう。いのちを粗末にしてはいけないが、主がいのちをとられるときまで、ていねいに、そのいのちをたいせつに生きていければと願う。 民数記 21:29,30 モアブよ、あなたに災いが下った。/ケモシュの民よ、あなたは滅びた。/彼は自分の息子たちを難民とし/自分の娘たちをアモリ人の王シホンの捕虜とした。私たちは彼らを討ち滅ぼした/ヘシュボンからディボンまで。/私たちは荒廃させた/ノファまで、メデバに至るまで。」 前の章からエドムの地の通過についてと、アモリびとシホンとの戦いについて書かれている。ただ、書かれていることは微妙である。「イスラエルはこうして、ヘシュボンにあるアモリ人のすべての町と、その周辺のすべての村落に住み着いた。ヘシュボンは、アモリ人の王シホンの町であった。シホンは先代のモアブ王と戦い、その手から、アルノン川に至るまでの土地をことごとく奪い取っていたのである。」(25b,26)は、何らかの記録があるのだろう。この地域にイスラエルが住んでいることの経緯を示しているように見える。ヨルダン川の東の地域である。理由づけや、記述の詳細は、少し後の時代に属するものかもしれない。 民数記 22:28-30 すると、主が雌ろばの口を開かれたので、雌ろばはバラムに、「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは」と言った。バラムが雌ろばに、「お前が私にひどいことをするからだ。私の手に剣があったら、今お前を殺していただろう」と言うと、雌ろばはバラムに、「私は、あなたが今日までずっと乗ってこられた、あなたの雌ろばではありませんか。私が今までこのようなことをしたことがありますか」と言い、彼は「いや、なかった」と言った。 霊的な(お告げを受けようと日常的にそのような感覚を研ぎ澄ましていたと思われるので)なにか日常と異なることの中から、霊的なことを読み取ったのだろう。興味深い話に紡がれている。周囲のモアブとミデアンにとっては、大変な恐怖であったことは、確かだろう。史実がどの程度のものであっても。そして、その中で、なにを伝えるかも興味深い課題であるが。 民数記 23:23 まことにヤコブのうちにまじないはなく/イスラエルのうちに占いはない。/神はそのなすところを直ちにヤコブに告げ/イスラエルに示される。 このようなことを伝えるメッセージが、ベオルの子バラムの言葉として伝えられている。イスラエルの神が、おそらく当時有名だった、バラムにも及ぶと言うことを伝えながら、ここにあるように、イエラエルに神が語られるのは、託宣などとはことなることを伝えようとしているのだろう。何らかの伝承もあったのだろうが、それがこのようにまとめられ、文学的にもすぐれたものに作り上げられていることには驚かされる。教育的な価値は十分あったのだろう。 民数記 24:1,2 バラムは、イスラエルを祝福することが主の目に適うのを見て、いつものようにまじないを行うことをせず、顔を荒れ野に向けた。バラムが目を上げ、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見たとき、神の霊が彼に臨んだ。 バラムの物語は興味深い。批判しようとすれば「主の目に適うのを見て」とあり「まじない」は不明だが、問うことをせずと言うことなのだろう。自分が信じる神に問わずにと言うことなのだろう。これは、一人の人間として、やはり問題であると感じる。「たとえバラクが彼の家を満たすほどの銀と金を私にくれようとも、わが神、主の言葉に逆らうことはできません。善であれ悪であれ、自分の心のままに告げることなど、私にはできません。私は主が告げられることを語るだけです」(13)と言っていたとあるが、基本的にこのような姿勢を持っていたと言うことなのだろう。これは、立派だが、自分の信念だけでは、御心・真理を問い続けることは難しいのかもしれない。 民数記 25:1-3 イスラエルがシティムにとどまっていたとき、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。娘たちは民を招いて、自分の神々にいけにえを献げ、民はそれを食べて彼女たちの神々にひれ伏した。イスラエルはこうして、ペオルのバアルに付き従ったので、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。 14,15節には、このことに関わったイスラエル人と、ミデアン人の女の名も書かれている。モアブと、ミデアンの関係も、明確にはわからないが、同盟関係にあったと言うことだろうか。いずれにしても、このような色仕掛けには、弱いこと、そして、疫病は神の罰だと考えられていたと言うことだろうか。 民数記 26:5-7 イスラエルの長子ルベン。ルベンの一族は、ハノクとハノク家の氏族、パルとパル家の氏族、ヘツロンとヘツロン家の氏族、カルミとカルミ家の氏族。以上がルベン家の諸氏族であり、登録された者は四万三千七百三十人であった。 エリコの対岸、モアブの平野での人口調査である。主として、一回目の人口調査のときの人が、ヨシュアとカレブ以外「生き残った者は一人もいなかった」(65)ことを伝えるもののように見える。ただ、あまり今まで考えなかったこととして、氏族についてある程度の情報が書かれていることである。1回目の人口調査(民数記1章)では、それは書かれていないようである。引用したルベンのところのに例として書くと「イスラエルの長子ルベンの一族について、それぞれの氏族と、その父祖の家の系図により、兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての男子一人一人の名を数えると、ルベン族の登録者数、四万六千五百人。」(1:20,21)となっている。人口は微増だが、ほとんど変わっていない。氏族についても、いずれ調べてみたい。 民数記 27:8-11 イスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、息子がない時は、相続地を娘に渡しなさい。もし、娘もない場合には、相続地を兄弟に与えなさい。もし、兄弟もない場合には、相続地を父の兄弟に与えなさい。父の兄弟もない場合には、相続地を氏族の中で最も近い親族に与え、その人に相続させなさい。主がモーセに命じられたとおり、これはイスラエルの人々にとって判例による掟となる。」 このように書かれているが、永続性は難しいように思う。前の章で氏族について記されているのも、この相続地が関係しているのかもしれない。氏族、そして、近しい家族ごとに分けなければ、相続地を近親者で守ることは難しい。そして、それは、長い期間においては、やはり無理なのだろう。とはいえ、何らかのルールは大切である。それが、男系であるにしても、娘しかいない場合にも、考えられたことは、興味深い。 民数記 28:22 また、あなたがたの贖いをするために、清めのいけにえとして雄山羊一匹を献げる。 「第一の月の十四日は、主の過越祭である。また、その月の十五日は祭りの日であり、七日間、種なしパンを食べなければならない。最初の日に聖なる集会を開き、どのような仕事もしてはならない。」(16-18)の続きで、過越祭での購いについて述べられている。ここでは、雄山羊となっている。雄羊ではないのだろうか。最初の日は、第一の月の十四日のことだろうか。最後の晩餐は、この日の夜だと考えて良いのだろうか。いくつか、明らかにしたいことがある。 民数記 29:12 第七の月の十五日に、あなたがたは聖なる集会を開く。あなたがたはどのような仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主のための祭りをしなければならない。 贖罪の日について言われているようである。「同じ第七の月の十日に、あなたがたは聖なる集会を開く。あなたがたは身を慎み、どのような仕事もしてはならない。」(7)ともあり、断食のことも書かれている。この期間の捧げ物についても書かれているが、焼き尽くすいけにえとして献げる若い雄牛が13頭から毎日減り、七日目には、七頭となり、八日目には何と急に一頭になる。何らかの意図があるのだろうが、ほかのいけにえの数は変化していない。不思議である。 民数記 30:17 以上が、夫と妻の間、および父と父の家にいる若い娘の間に関して、主がモーセに命じられた掟である。 女性は請願も自立的にはできないことが書かれている。教育の問題があるのだろうか。社会的(宗教的を含む)な責任を男性が持っている世界では、学校のような教育制度が整備されていなくても、判断力に大きな差が生じることはありうる。その意味でも、教育の機会均等はたいせつだとおもうのだが、この社会構造とも密接に関係しており、変革には時間がかかるとうことだろうか。現代の先進国と言われるところ、または、教育制度が整っているところでは、かえって女性の教育レベルの方が高くなっている。社会的地位はそうではなくても。これは、またべつの課題がいろいろと関係しているのだろう。 民数記 31:53,54 兵役に就いた人々は、それぞれ略奪したものを自分のものとした。モーセと祭司エルアザルは、千人隊の長と百人隊の長から金を受け取り、それを会見の幕屋に携えて行って、主の前で、イスラエルの人々のための記念とした。 これは、ダビデのころに変更があったようだが、戦いが続く前に、兵役を奨励する必要があったのか。いずれにしても、「だから今、子どもたちのうち、男の子は皆、殺しなさい。男と寝たことのある女も皆、殺しなさい。ただし、まだ男と寝たことのない少女たちは皆、あなたがたのために生かしておきなさい。」(17,18)ひどいとしか言えない。イスラエルの民の命もふくめ神のもので、イスラエルの民のものは、贖われているという考え方が背後にあるのかもしれないが。このような考え方をとくに宗教のなのもとで正当化してはいけない。 民数記 32:31-33 ガドの一族とルベンの一族は答えた。「主があなたの僕どもに語られたとおりに、私たちは行います。私たちは主の前で武装し、カナンの地に渡って行きます。私たちの相続地は、ヨルダン川のこちら側です。」モーセは、ガドの一族とルベンの一族、また、ヨセフの子マナセの部族の半数に、アモリ人の王シホンの王国とバシャンの王オグの王国、すなわちその領内にある町、およびその周辺の地にある町を与えた。 この決定は合議のために民に問うこともなく、くじもひかず、神に問うことも書かれておらず、主が言われるということも、モーセの言葉からは出ていないことに驚いた。大変な決定であるにもかかわらずである。ほかの理由がありそうである。 民数記 33:38,39 祭司アロンは、主の言葉に従ってホル山に登り、そこで死んだ。それは、イスラエルの人々がエジプトの地を出て四十年目、第五の月の一日であった。ホル山で死んだとき、アロンは百二十三歳であった。 旅程を見ていて、引照箇所が非常に少ないことが気になる。つまり、聖書にここにしか書かれてない地名とうことである。すなわち旅程のかなりの部分は、民数記、または、モーセ五書の中では、省略されているということである。現実味がない。引用句では、アロンは、ほとんど最後まで生きていたことが書かれている。出エジプトの旅程については、正直、疑惑をもってしまう。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第82回の予定:3月13日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章1節〜5節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 3月20日から、4月10日は、春休みとさせていただき、次々回は、4月17日の予定です。 2025.3.9 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 民数記は、いかがですか。今週は、その最後の部分を読み、次の申命記に入ります。モーセ五書と呼ばれるものの最後の巻になります。読んでみると、かなり雰囲気が変わっていることがわかります。 民数記は、出エジプトの旅を記した「ベミドゥバル(荒野にて)」で、最後に、ヨルダンの東側の地を征服したことが書かれていますが、申命記については、下で引用している、私のホームページの最初の部分には、次のようにあります。 申命記は、他の旧約聖書と同様、ヘブル語聖書ではその最初のことばから取って「エーレ・ハッデバーリーム(これらはことばである)」あるいは短く「デバーリーム(ことば)」と呼ばれています。17:18にある「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということば、または、短く「ミシュネー(写し)」と呼ばれることもあるようです。日本語聖書の申命記は、漢語の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。全体としては、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されています。 基本的に、ヨルダンの東側、モアブの地での、モーセの最終説教の形になっています。文体も、モーセ五書の他の四書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記)とはかなり異なりますし、内容からも、王朝時代の後期(ヨシヤ王のころ(列王記下22:8-13))のものではないかと考える学者も多いようです。説教形式ということもあり、メッセージとしてわかりやすいとも言えます。ホームページにも書いてありますが、特に、申命記 6章4-9節は、シェマー(聞け)から始まる有名な箇所で、イエスも、最も大切な(第一の)戒め(マタイ22:34-40、マルコ12:28-34、参照:ルカ10:25-28)について語る時に、この最初の部分から語られています。おそらく、イスラエルの人たちにとって、もっとも、有名な箇所だったのでしょう。今回、わたしが読んでいる、聖書協会共同訳で引用しておきます。 聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。その言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付け、また家の入り口の柱と町の門に書き記しなさい。(申命記 6章4-9節 聖書協会共同訳) イエスが引用するのも、申命記は多いですよ。みつけてみてください。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 民数記34章ー申命記11章はみなさんが、明日3月17日(月曜日)から3月23日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 民数記と申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 民数記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#nm 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 民数記 34:13 モーセはイスラエルの人々に命じた。「これは、あなたがたがくじによって受け継いだ地である。主はこれを九つの部族と、マナセの部族の半数に与えよと命じられた。 これを、それぞれの時代のイスラエルのひとたちはどう読んだのだろうか。そして、その地に住むひとたちは、どのように受け取っただろうか。さらに、われわれは、どのように読んだら良いのだろうか。大きな問いである。公平性に関することは、ひとにかかわることで、絶対的なことではなく、人が神とともに考えながらそのときそのときに、検討していくべきこと、だとわたしは考えている。絶対的なものはないと同時に、これが神の義でもあるのだから。 民数記 35:24,25 会衆はこれらの法に基づいて、人を殺した者と、血の復讐をする者との間を裁かなければならない。会衆は、人を殺した者を、血の復讐をする者の手から救い出さなければならない。会衆は、彼が逃げ込んだ逃れの町に彼を戻し、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまれるようにする。 逃れの町の規定は、不思議なものである。過失致死のような罪を犯した場合に、復讐するものから、守るものである。復讐で、ひとを殺すことは赦されていたのだろうか。それがまずは問題である。そして、大祭司が死んだときには、恩赦で、すべて赦されるということか。いろいろと理不尽にも感じることがあるが、いろいろと神が望まれることを人間が考えた結果なのだろう。 民数記 36:7 イスラエルの人々に属する相続地が、ある部族から他の部族に移ることはない。イスラエルの人々はそれぞれ、父祖の部族の相続地を固く守っていかなければならないからである。 ある程度は守られていったのだろう。しかしむろん、絶対的なものではない。ということは、解釈が重要になり、律法学者などの考えに従うことになっていくのだろう。前提として、制度や、法律が神によって与えられたものとして変更できないということがあるからである。ここに大きな問題がある。宗教の問題だとも言えるし、宗教をどのように理解するかという問題でもあるのかもしれない。ひとの責任は大きいし、ひとが神にはならず、他者理解を広げ、合意を築いていくことだろうか。これも、非常に難しい道である。 申命記 1:30,31 あなたがたの神、主があなたがたの前を歩まれる。その方が、エジプトであなたがたの目の前で行ったように、あなたがたのために戦われる。それに荒れ野では、この場所に来るまで、あなたがたが歩んだすべての道のりを、人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。 わたしたちの前を歩み導いてくださる方、わたしたちのために戦われる方、子を背負うように背負ってくださる方、これ以上のことはないように思う。しかし、この次に書かれているのは、「しかし、あなたがたは、あなたがたの神、主を信じなかった。」(32)である。ひとの性(さが)とは何なのだろう。主を求めながら、主が望まれることをこころに抱きながら歩んでいくとはどのようなことなのだろうか。ひとは、そのように生きられるのだろうか。考えさせられる。 申命記 2:24-26 「立ち上がって出発し、アルノン川を渡りなさい。見よ、私はヘシュボンの王、アモリ人シホンとその地をあなたの手に渡す。占領を開始せよ。彼との戦いに挑め。今日私は天の下のすべての民があなたにおびえ、恐れを抱くようにする。彼らはあなたの噂を聞いて震え、あなたのためにおののこう。」そこで私は、ケデモトの荒れ野からヘシュボンの王シホンに使者を遣わし、友好の言葉を伝えた。 本章には、エサウの土地セイル、ロトの子孫モアブの荒野、ロトの子孫アンモン人の地は、主が与えたものとして占領しなかったことが書かれている。実際には、さまざまな衝突があったことが他の聖書に書かれていたと思う。いずれ丁寧に調べてみたい。そして、引用句にある、ヘシュボンの王、アモリ人シホンについて、上に書かれている。ただ、26節には「友好の使者」を送ることも書かれており、結果論のように思われる。後付け理論のようでもある。これだけの人が移動したことがどの程度史実なのかは不明だが、衝突がさまざまな箇所であったことは確かだろう。 申命記 3:12,13 私たちはその時、この地を占領した。私は、アルノン川沿いのアロエルからギルアドの山地の半分、およびそこにある町を、ルベン人とガド人に与えた。ギルアドの残りの地域とオグ王国のあったバシャン全土、すなわちアルゴブの全域は、マナセ族の半数に与えた。バシャン全土は、レファイム人の地と呼ばれていた。 ヨルダンの東側の支配に関する歴史は不明だが、どうも、完全掌握したように読める。ルベンは、長子、マナセは、ヨセフの長子であることを考えると、イスラエルはもともと、この地域にいて、ヨルダン川の西の地域に、進出していったのかもしれないと思った。東から南の地域が、エサウや、ロトの子孫の地とすると、部族の親戚関係とも辻褄があうようにも思われる。むろん、このようなことを確定することはほぼ不可能だろう。アッシリアが攻めてきた時に、消滅した可能性も高い。 申命記 4:40 だから今日私が命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすればあなたもあなたの後に続く子孫も幸せになり、あなたの神、主が生涯にわたってあなたに与える土地で長く生きることができる。 主および律法について、いくつかの基本的なことが書かれている。「あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。」(2)とまずあるが、「私が命じる言葉」をどの範囲にするのかがまずは、問題である。申命記は、成り立ちが、モーセの説教であり、さらに、後の時代に成立したともいわれている。キリスト教の新約聖書も、原理的に考えるなら、問題が生じる。「また、今日、あなたがたに与えるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民が、ほかにあるだろうか。」(8)このことをはじめ、イスラエルの民が特別であることが繰り返されている。その中で、国として滅んでいく。考えさせられる。 申命記 5:32,33 あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生き、幸せになり、あなたがたが所有する地で長く生きることができる。」 この章には十戒が書かれている。十戒ということばは、現在読んでいる日本聖書協会共同訳では、二箇所、「主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。」(申命記4:13)と「あの集会の日に山で火の中から主があなたがたに語られた十戒と同じものを、主は板に記して、私に与えられた。」(申命記10:4)口語では、「十誡」となっており、これは、出エジプト記にも登場する。対応する箇所を記する。「モーセはそこに、四十日四十夜主と共にいて、パンも食べず、水も飲まなかった。彼は、板の上に契約の言葉、十の言葉を書き記した。」(出エジプト記34:28) 申命記 6:24,25 そして主は、私たちにこれらの掟をすべて行うように命じ、私たちの神、主を畏れ、今日あるように、いつも幸せに生きるようにしてくださった。命じられたとおり、私たちの神、主の前で、この戒めをすべて守り行うならば、それは私たちにとって義となるであろう。」 「もしも将来、あなたの子が、『私たちの神、主が命じられた定めと掟と法とは何のためですか』と問うならば、」(20)から続いている、最後の部分である。いくつか興味深いことが書かれている。「今日あるように、いつも幸せに生きるようにしてくださった。」これは、実際には、そうでもない時も想定されているのだろう。そのような時にこそ意味がある内容であると思う。さらに、戒めを守ることが書かれ、最後に「それは私たちにとって義となる」としている。これこそが、神の御心という意味なのだろう。しかし、それには、やはり戒めの部分を求め続けなければいけないように思う。そうでなければ、イエスは必要とされなかっただろう。 申命記 7:22,23 あなたの神、主は、これらの国民を、あなたの前から少しずつ追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼすことはできない。あなたのところで野の獣が増え過ぎないためである。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、大混乱に陥れ、ついには破滅に至らせる。 興味深い。このあとも、多くの人たちが残ることも書かれている。おそらく、ソロモンの時代には、ほとんど平定されたのだろうが、そのあとの分裂なども考えると、平定とは言えなかったかもしれない。実際、先住民を滅ぼすことは基本的にできない。一方的な価値観が背後にあるように見える。危険でもある、 申命記 8:15,16 この方は、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。 「あなたの神、主を忘れないようにあなたは注意し、今日あなたに命じる戒めと法と掟とを守りなさい。」(11)とあり、14節にも「忘れないように」とあり、他にも「思い起こしなさい」などと書かれている。記憶、または、歴史なのだろう。自分の歴史のなかのことから、民族の歴史の中のことへとなっていくのだろう。しかし、これは、学ぶことの一部であるように思う。特に、社会全体が大きな変化をしている時には。難しい。 申命記 9:20 アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされたが、その時、私はアロンのために執り成しをした。 出エジプト記32章の記事である。アロンは、罪を告白し、「今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。しかし、もしそれがかわなないなら、どうぞあなたが書き記された書から私を消し去ってください」(出エジプト記32:32)とあり、執りなしたのは、アロンが民のためにであり、モーセがアロンのためではない。引用箇所のように書かれているのは、大祭司でも罪を犯すことがあること、そのとりなしは、モーセがすでにしているということだろうか。人は基本的に罪の中に生き、主に従い通すことはできない。 申命記 10:17-19 あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。だから寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。 自分の信じる主、神がどのような方かを知り、それを証言することは、信仰の中心であるように思う。ここでは、偉大で勇ましい畏るべき神として、そのあとは、弱者に寄り添う姿が描かれている。おそらくイエスもこのようなイメージを持っておられたのではないかと思う。そして、それを信仰の中心にして生きられた。むろん、特に旧約聖書には、さまざまな神観が描かれているのだが。 申命記 11:10-12 あなたが入って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地とは違う。エジプトでは、あなたが種を蒔くと、野菜畑のようにあなたの足で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山や谷のある地で、天の雨で潤っている。あなたの神、主が心にかけ、あなたの神、主が、年の初めから年の終わりまで、常に目を注がれている地である。 わたしは、エジプトもイスラエルが所有したと言われるカナンの地も知らない。エジプトはナイルの恵みはあっても基本的に乾燥地、カナンの地、パレスチナは、北部は、チグリス・ユーフラテス流域から続く三日月型肥沃地帯の西南の端、南部は、ユダの山地と理解しているがどうなのだろうか。時代とともに気候は多少変わってきているかもしれない。しかし、ここに描かれているようには、わたしは想像していない。どうなのだろうか。どうしても、行きたいとは願っていないが。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 3月20日から、4月10日は、春休みとさせていただき、次回は、4月17日の予定です。 次回、第83回の予定:4月17日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章6節〜15節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.3.16 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 申命記は、いかがですか。今週は、申命記を読み進めます。前回も書いたように、申命記は、ヨルダンの東側、モアブの地での、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されるという形式になっています。 今回、みなさんが読まれる箇所には、宗教的生活についての詳細が書かれています。トーラー(律法)と呼ばれるモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の中でも、具体的で、わかりやすい部分ではないかと思います。しかし、同時に、それを守るということが、イスラエル民族のアイデンティティとなり、周囲の民族や、同じ土地に住む他の民族の人々とを分離することになっていった、鍵となる箇所でもあります。ある意味では、排他的になることで、自分たちが聖なる民であるというアイデンティティを守ると言う面もあったと思います。そのような面からも、この申命記が成立した背景を議論する学者も多く、列王記22章、23章に書かれている、ヨシヤ王の宗教改革に結びつけられてもいます。列王記は、これから読む箇所ですから、詳細は書きませんが、イスラエルは、ソロモン王のあと、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ、南ユダも、貢を納めどうやら、存続している時代です。そのような時に、宗教的に自らを律することを徹底しようとしたと言うことでしょうか。申命記が、いつ成立したかは、不明としかいえませんが、そのような時に、信仰に救いを求める人々がどのようなことをたいせつにしたかは、興味深いことでもあると思います。 今回、ホームページの構成を少し変更しました。そのため、まだ不十分な点があると思いますが、少しずつ修正していきますのでご容赦ください。問題点や、改善点などあればご連絡くだされば嬉しいです。BRC Contributions として共有してもよいかと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記12章ー申命記25章はみなさんが、明日3月24日(月曜日)から3月30日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 申命記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#dt 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 申命記 12:8 あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。 文脈からすると主として、礼拝の場所、その仕方などについてであろうが、自分が正しいと見なすことを行えないのは、新たな困難を生じさせることもある。判断がつかない、つきにくいことも多いからである。さらに、主のみこころを求めることも、衰退してしまう。むろん、自分勝手に行動することは、問題を生じるだろう。現代にも通じる、非常に難しい問題である。教育だけで、これが、解決するとも思えない。それが人間なのかもしれない。 申命記 13:2-4 あなたの中に預言者や夢占いをする者が現れ、しるしや奇跡を示し、その者が告げたしるしや奇跡が実現して、「さあ、あなたの知らない他の神々に従い、仕えようではないか」と言っても、あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 この章には、他の神々に従うことについて書かれている。どうしても、分離主義的になり、孤立するように思われる。正しさが絶対化するということだろう。ただ、この申命記が成立した時代の事情もあったのかもしれないとも思った。ある背景のもので書かれるのだから。政治的には、かならずしも強くなく、外からの脅威もあるなかで、まずは中を整えなければならないという時には、このようなことを考えるかもしれない。出エジプトの途中だとすると、あまりに、予防的すぎるようにも思われる。 申命記 14:21 自然に死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。子山羊をその母の乳で煮てはならない。 ここには、普遍主義はない。分離主義の自然な帰結でもある。ユダヤ教の弱点だとも言えるが、普遍主義は、実行不可能なことを、綺麗事として唱えているのだろうか。非常にむずかしいことに、挑戦していることは、確かだ。どうしたら良いのだろうか。わたしにもわからない。 申命記 15:13,14 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たせずに去らせてはならない。あなたの羊の群れから、あなたの麦打ち場から、あなたの搾り場から惜しみなく与えなければならない。あなたの神、主があなたに祝福したものを、彼に与えなければならない。 「もしあなたのもとに、ヘブライ人の男か女が売られて来たら、六年間あなたに仕える。しかし、七年目には自由の身としてあなたのもとから去らせなければならない。」(12)と始まっているので、ヘブライ人だけに適用される規定である。しかし、このような互助規定がある程度は行われていたのだろう。国のようなあるグループ化が行われば可能なのかもしれない。完全な普遍主義を強制しなくても、スタート地点を与えることには繋がるのかもしれない。やはり、難しいが。 申命記 16:6,7 あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所で、夕方、日の沈む頃、あなたがエジプトを出た時刻に、過越のいけにえを屠らなければならない。あなたの神、主が選ぶ場所でそれを煮て食べ、朝になったら自分の天幕に帰りなさい。 エルサレムが意識されているようだ。いずれにしても、屠られる時まで指定されている。イエスの弟子たちとの最後の晩餐は、過越の食事かどうかの議論があるが、どうなのだろうか。記録からは、木曜日の夜のようであり、また、翌日にイエスは十字架にかかる。これは金曜日、その日が、過越の祭りの日であることが、伝統的な理解である。すると、過越の食事ではないが、いくつか不自然な点もある。イエスの処刑の日は、本当に過越の日だったのだろうか。祝祭日には見えない。同時に、非常に多くの人たちが、地方から出てきているようなときに、一晩だけで、この食事ができるだろうかということである。前者は、曜日が違うのではないかということにつながり、後者は、伝統的な解釈を支持する。よくわからない。 申命記 17:18-20 王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。それは、王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。 この記述は、ダビデや、ソロモンには、似つかわしくないように思われる。適切なのはヨシヤ王だけだろうか。このあたりも、申命記が、ヨシヤの時代に書かれたとする理由だろうか。むろん、追記されていった可能性も否定できないので、簡単ではない。 申命記 18:2-4 同胞の中には、彼の相続地はない。主の語られたとおり、主が彼の相続地である。祭司が民から、牛でも羊でも、いけにえを屠る民から受け取ることのできるものは次のとおりである。肩と両頰と胃は祭司に与えられる。穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の初物、および羊毛の初物も、彼に与えられる。 このあとには「あなたの神、主が全部族の中から彼を選び、彼とその子らを主の名によっていつまでも仕えるようにと立てられたからである。」(5)と続く。かなりの量だったのではないかとか、肩と両頰と胃とは、ちょっと偏った部位なのではないかなど。ただ、レビ人は下級祭司のようなもので、一般的には、貧しかったと言われている。そのあたりも、また、調べてみたい。 申命記 19:8,9 あなたの神、主が、あなたの先祖に誓われたとおり、あなたの領土を広げて、先祖に与えると告げた地をすべてあなたに与えられるなら、そして、私が今日命じるこの戒めをあなたが守り行い、あなたの神、主を愛し、いつもその道を歩むならば、その時、これら三つの町のほかに、さらに三つの町を加えなさい。 のがれの町についての規定の改定について書かれている。動かすことができないものではないことを証言しているとも言える。実際にどうだったかは、また調べてみたい。それらの町では、逃れてきたひとたちを歓迎したのだろうか。複雑な場合もあるように思われる。 申命記 20:16-18 あなたの神、主があなたに相続地として与えるこれらの民の町からは、息のあるものを決して生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように、必ず滅ぼし尽くさなければならない。これは、彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行いをあなたがたに教えて行わせ、あなたがたの神、主に対して、あなたがたが罪を犯すことのないためである。 根本にあるのは、神が命じられたからという正しさだろうか。人間が神になることでもある。宗教の恐ろしさがここにあるように思う。むろん、自ら探し求め、受けたと信じることについてどうするかは、非常に難しい。人々の社会での倫理と言いたいが、これも絶対的なものを求めら得ないとすると、合意だろうか。それも、人間に委ねられているように思う。 申命記 21:7,8 次のように証言しなければならない。「私たちの手はこの血を流しておらず、目はそれを見ていません。主よ、あなたが贖い出されたあなたの民、イスラエルの罪を赦してください。あなたの民、イスラエルの中で無実の血が流された責任を負わせないでください。」こうして、流された血の罪は赦される。 これは、神に対するものであるとともに、周囲の町に対する、宣言でもあるのだろう。コミュニティとしての責任を果たすと言うことだろうか。死体に一番近い村がこのようなことをするようで、それを超える、組織がないということは、コミュニティ単位までであったことも意味するのだろう。殺された人について特定されたときはどうするのだろうか。不完全に見える。 申命記 22:5 女は男の服を身にまとってはならない。男も女の服を着てはならない。こうしたことをする者をすべて、あなたの神、主は忌み嫌われる。 現代なら責められるところばかりであろう。厳格に守っている人たち以外は。これが、人々が考えた神の御心だということだとわたしは理解してしまうが、謙虚に求め続けたいとは思う。おそらく、イエスもすべてに答えを持っていなかったのではないかと思う。彼の出会う範囲で、伝統的なものとは、異なる解釈を示している。その根拠はというとそう簡単ではない。しかし、それが、イエスの神観、神様との交わりの中で得たことであることは確かなのだろう。謙虚に、御心を求めていきたい。 申命記 23:8,9 エドム人を忌み嫌ってはならない。彼は、あなたの兄弟だからである。エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである。彼らに生まれた子どもは、三代目には主の会衆に加わることができる。 創世記によれば、他の周囲の民族も、親戚だとはいえる人たちが多い。エドムと他のひとたちをどう区別するのか。不明確である。それとは、別に、エドムと、別の理由で、エジプト人との関係を特記していることは興味深い。イスラエルは、エジプトにルーツを持つ民の集団だったということなのだろう。このあとも、エジプトとの交流は、王朝が変わっても続くように見える。最後のことばは、理解が難しいが、厳格にこのようなことを守ろうとしていた人たちもいたのだろう。 申命記 24:21,22 あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。それゆえ私は、あなたにこのことを行うように命じるのである。 経験は共通ではないが、エジプトの地で奴隷であったことは、共通の経験とすることで、このような説明の一部にもなっているのだろう。過越の祭り・除酵祭などは、それを共に体験することだったのかもしれない。一般的にはむずかしいが、これが、民族を独立・分離したものにしていった面もあるように思う。 申命記 25:17-19 あなたがたがエジプトを出て来たとき、その途上で、アマレクが行ったことを、あなたは思い起こしなさい。彼らは道であなたと出会い、あなたが疲れ切っていたとき、あなたの後方にいる、疲れ切ったすべての者たちに背後から襲いかかり、神を畏れることがなかった。あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。 アマレクは遊牧民だったのだろう。それも、おそらく少数民族になっていたと思われる。脅威であったことは確かだろうが、このような民とどう向き合うかは難しい。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 3月20日から、4月10日は、春休みとさせていただき、次回は、4月17日の予定です。 次回、第83回の予定:4月17日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章6節〜15節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.3.23 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 申命記は、いかがですか。今週は、申命記の後半部分を読み、ヨシュア記に入ります。申命記は、ヨルダンの東側、モアブの地での、モーセの最終説教集の形式になっています。そして、最後の34章は、モーセの死で終わっています。最後の部分、申命記34章7−12節を引用します。 7 モーセは死んだとき、百二十歳であったが、目はかすまず、気力もうせていなかった。8 イスラエルの人々はモアブの平野で三十日間、モーセのために泣いた。こうして、モーセのために泣く喪の期間は終わった。9 ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に両手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。10 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、11 彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、12 また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった。 「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。」さらに「顔と顔を合わせて」とありますが、他にも創世記32章31節、出エジプト記33章11節、民数記14章14節、申命記5章4節、(士師記6章22節、エゼキエル書20章35節参照)にも、同じ表現が出てきます。他にも、コリント人への第一の手紙13章12節には、 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。 とあります。これからは、まだ実現していないこととして書かれていますね。主のことばを直接受け取ることの一つの表現でもあるのでしょう。申命記の最後には、次のヨシュアへの引き継ぎについても書かれていますね。しかし、ヨシュアについては、「顔と顔を合わせて」という表現は登場しません。モーセとは違うリーダーでありことが意識されていたのでしょう。 ヨシュアは、ここまでにも、すでに何回か登場しています。出エジプト記17章、24:13, 32:17, 33:11, 民数記 11:28, 13:16 と 14章。時間のあるときに、確認してみると良いかもしれませんね。ヨシュア記14章7節、10節、23章1節、24章29節には、それぞれのときの、ヨシュアの年齢についても書かれています。参考になるかもしれませんね。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 申命記26章ーヨシュア記5章はみなさんが、明日3月31日(月曜日)から4月6日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 申命記とヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 申命記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#dt ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 申命記 26:12,13 十分の一を納める三年目に、すべての収穫の十分の一を納め終わって、レビ人、寄留者、孤児、寡婦にこれを施し、彼らが町の中で食べて満足したとき、あなたは、あなたの神、主の前でこう言いなさい。「私は聖なるものを家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人と寄留者、孤児と寡婦に与えました。私はあなたの戒めに背いたり、それを忘れたりはしませんでした。 この前には、「あなたの神、主があなたとその家に与えられたすべての恵みを、あなたと、レビ人と、あなたの中にいる寄留者と共に楽しみなさい。」(11)ともある。本当に、寄留者と共に楽しむことができるのだろうか。ここには、十分の一について、「レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し」とある。現在の税金を考えると、もっと高額のように思うが、本当に、必要が満たされ、共に喜べるのかに疑問もある。社会は変化していく。そのなかで神の義、公平さを求めていくのは、ほんとうに難しい。これをめざさなければいけないが。 申命記 27:2,3 あなたの神、主が与える地に向かって、あなたがたがヨルダン川を渡る日に、あなたは複数の大きな石を立て、それらに漆喰を塗りなさい。そしてあなたが渡ったとき、それらの上にこのすべての律法の言葉を書き記しなさい。そうすれば、あなたの先祖の神、主が告げられたように、あなたの神、主が与える地、乳と蜜の流れる地にあなたは入ることができる。 石に書くのだろうか。たとえば、申命記も書くのだろうか。たしかに、バビロンなどには、石に非常に多くの記録が彫られたいたようである。しかし、あまり、現実的だとも思えない。いつも見ることもできないから。おそらく、このように書いてあることは、当時は、文字を読める人たちも、非常に限られていただろう。なにを伝えているのだろうか。この前に書いてある、「モーセはイスラエルの長老たちと共に民に命じた。「私が今日あなたがたに命じるすべての戒めを守りなさい。」(1)を強調されているということなのだろうか。 申命記 28:43 あなたの中にいる寄留者は徐々に力を蓄え、あなたは次第に衰えてゆく。 これが呪いのひとつの表現である。ここから脱却して、寄留者と共に生きることは、現代でもできない。そちらに心は向かない。対立軸でしか考えられないのだろうか。この前に、「あなたに息子や娘が生まれても、あなたのもとにいることなく、捕らわれて行く。」(41)とあるが、現代もこれに近いのかもしれない。捕虜のようなものかもしれない。しかし、それを喜ぶ社会体制もあるのかもしれないとも思う。寄留者と共に住むように。難しい。本当に難しい。呪いも祝福も。 申命記 29:17,18 あなたがたの中に、今日、心変わりして私たちの神、主を離れ、諸国民の神々のもとに行って仕えるような男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。この呪いの言葉を聞いても、心の中で自分を祝福し、「心をかたくなにして歩んでも、私は大丈夫だ」と言うなら、潤っている地も乾いている地と共に滅びる。 因果関係で、祝福と呪いを理解することは、現代でもある。それにひとのこころが支配されているとも言える。実際には、非常に多くの要因が関係しているにも関わらず。そして、主のみこころもほんとうに引用したようなものかもわからないにも関わらずである。そこまで、聖書から、離れていってはいけないのだろうか。正直、わからない。 申命記 30:6,7 あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。あなたの神、主は、これらの呪いをすべて、あなたの敵とあなたを憎んで迫害する者にもたらす。 「あなたは、あなたの神、主があなたを追いやった先のあらゆる国民の中で、その言葉を思い起こし、」(1)とあり、「たとえ天の果てに追いやられても」(4)ともある。このようなことが想定されているというのは、捕囚後にも加筆されたのか。北イスラエルはすでに捕囚・離散していた時期なのだろうか。しかし、ここの思想は「憎んで迫害する者」に対する呪いでもある。「心に割礼を施し」は、エレミヤ4:4 や、エゼキエル11:19 などを思い出させる。しかし、このような文脈でおそらく最初に語られていたことも考えさせられた。 申命記 31:29 私の死んだ後、あなたがたは必ず堕落し、私があなたがたに命じた道からそれるので、後の日に災いがあなたがたに降りかかることを私は知っている。あなたがたは主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」 最初に、モーセは「私は今日、百二十歳で、もはや思うように出入りすることができない。」(2)と言っている。「ホル山で死んだとき、アロンは百二十三歳であった。」(民数記33:39)と比較すると、モーセはまだ若い。しかし、アロンのことからも、老いを考えることはあったのかもしれない。最後の思いが、引用句として書かれているように思う。それでも、主に望みを置くということだろうか。 申命記 32:49,50 「エリコの向かいのモアブの地にある、アバリム山地のネボ山に登り、私がイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの地を見渡しなさい。あなたの兄アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように、あなたも登って行く山で死に、先祖の列に加えられなさい。 命令形ではあるのだろう。”“Go up this mountain of the Abarim, Mount Nebo, which is in the land of Moab, across from Jericho; view the land of Canaan, which I give to the children of Israel as a possession; “and die on the mountain which you ascend, and be gathered to your people, just as Aaron your brother died on Mount Hor and was gathered to his people;’ (NKJV) モーセの最終説教の形式を取っているが、なにか、違和感を感じる。人生とはそのように終わるものなのだろうか。わたしはどうなるのかな。どのようであってもよいと思ってはいるが。 申命記 33:17 ヨセフの雄牛の初子には威光があり/その角は野牛の角。/それによってもろもろの民を突き/共に地の果てまで進む。/それはエフライムの幾万の戦士。/それはマナセの幾千の戦士。」 ヨセフの長子マナセと次男エフライムには、これだけの差がついてしまっていたのだろう。万と千である。ほかにも、祝福の順序がよくわからない。ルベン、ユダ、レビ、ベニヤミン、ヨセフ、ゼブルン、イッサカル、ガド、ダン、ナフタリ、アシェルと十一部属しか出てこない。シメオンはどうなっているのだろうか。ユダに取り込まれてしまっているのだろうか。 申命記 34:10,11 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、 モーセという人物はおそらくいたのだろう。そして、すばらしい指導者だったのだろう。しかし、そのようなリーダーの後、どうするかは、常に問題である。人間には、その知恵は、ないのかもしれない。今後の世界についても、同じなのだろう。不完全な人間が責任を担っていかざるを得ない。超人的なすばらしい指導者がいたとしても、いなかったとしても。 ヨシュア記 1:10,11 ヨシュアは民の役人たちにこう命じた。「宿営の中を巡って民に言いなさい。おのおの食料を準備するように。あと三日で、あなたがたはこのヨルダン川を渡り、あなたがたの神、主が与える地に入り、それを所有するのだから。」 これは、マナによる給食とは異なる状況をあらわしている。明確な背景は書かれていない。ヨルダンの東側に残った民(ルベン人、ガド人、マナセ族の半数の家族)もいたはずである。詳細は書かれていない。引き継ぎは、簡単ではなかったはずである。実際を再現することも、おそらくできないのだろう。そして、ヨシュアの時代も、完全な征服を記しているわけではない。 ヨシュア記 2:9-11 二人に言った。「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたの前で葦の海の水を干上がらせたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたアモリ人の二人の王、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、私たちは聞いています。それを聞いて、私たちの心は挫けてしまい、もはやあなたがたに立ち向かう勇気は誰にもありません。あなたがたの神、主こそ、上は天、下は地において神であられるからです。 大変な勢力でせまっている敵にたいして、心が挫け、立ち向かう勇気がないことは、当然だろう。どうすれば良かったのだろうか。これは、それほど簡単ではない問いである。他者視点は、双方にとって、難しいが、それ以上に、ある程度それを理解した時に、どのように御心をもとめるかはさらに難しい。自分たちも罪人だが、相手はさらにひどく、主はその人たちを滅ぼそうとしていると、そんなことは、わたしには考えられない。お互いに正しさにおいて不完全であっても、共に生きるものを模索するものでありたい。 ヨシュア記 3:7,8 主はヨシュアに言われた。「今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする。私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。今、契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水辺に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれ』と命じなさい。」 モーセに引き連れられて紅海をわたったときの再現なのだろう。ヨルダン川はいろいろな意味で、障害となっていたのだろう。防御のためにも、攻撃のためにも。実際になにが起こったのか、不明だが、エリコを攻略したことが、大きな転換点となったことを伝えていることは確かだろう。歴史的事実としては、おそらく、不明としか言えないのだろう。 ヨシュア記 4:23,24 あなたがたの神、主は、あなたがたがヨルダン川を渡り終わるまで、その水を涸らしてくださった。それはちょうど、あなたがたの神、主が、私たちが葦の海を渡り終わるまで、その水を涸らしてくださったのと同じである。それは、地のすべての民が主の手の力強さを知るためであり、またあなたがたが常に、あなたがたの神、主を畏れるためである。」 芦の海での奇跡の再現、モーセの時から、ヨシュアの指導体制への、神が共におられることの証言の更新なのだろう。最後に地のすべての民とあり、すくなくとも、周囲の先住民に対する証言でもあったとある。多少、聖書には記録されている(ヨシュア記5:1など)が、実際は、どうなのだろう。士師記などの時代を考えると、あまり効果はなかったのだろうと、そして、記録としても、不十分だったのだろうとおもわされる。 ヨシュア記 5:9-11 主はヨシュアに言われた。「今日、私はあなたがたからエジプトでの恥辱を取り除いた。」そのため、その場所はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕方、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日に当たるちょうどその日に、彼らは土地の産物を種なしパンや炒り麦にして食べた。 「恥辱を取り除いた」ということはあまり理解できないが、新しい生活に入ったことが記されていることは確かだろう。上の引用句のあとには、「彼らが土地の産物を食べた翌日からマナは絶えた。もはやイスラエルの人々にマナはなく、彼らはその年、カナンの地で収穫されたものを食べた。」(12)ともある。略奪以外に方法はないだろうが、60万人以上の民が食べるのは、おそらく不可能だろう。ただ、このカナンに入る日を、新たな出発としていることは確かである。そのようなものとして覚える、過越祭だったのだろう。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 3月20日から、4月10日は、春休みとさせていただき、次回は、4月17日の予定です。 次回、第83回の予定:4月17日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章6節〜15節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.3.30 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) ヨシュア記を読み始めました。わたしたちが持っている聖書では、旧約聖書は、まず、モーセ五書や律法と呼ばれる創世記から申命記がまずあり、次に歴史とよばれるヨシュア記からエステル記が続き、そのあとは諸書または詩歌集と呼ばれるヨブ記から雅歌が続き、そのあとはイザヤ書から最後まで預言書が続く形式になっています。ただしヘブル語聖書では、順序や構成も少し違っています。そこで、第二の区分に入ったとも言えます。ただ、みなさんは、ここまで読んでこられて、モーセ五書も、歴史ではないのかと思われるかもしれませんね。 ヨシュアについては、前回モーセ五書の中に登場する部分を挙げておきました。モーセは、ヨルダン川を渡ることなく、ヨルダン川の東で死にます。ヨシュアのもとで、ヨルダン川をわたり、いよいよ約束の地カナンに入り、それを征服し、ヨルダン川の東で、割り当て地を受けた、ルベン族、ガド族、マナセの半部族以外に、土地を割り当て、定着するまでことが書かれています。下のリンクにも書かれているように、5章までが、カナン進入、6章から12章までが、カナンでの勝利、13章から21章が、カナン分割、そして最後の部分は、来週ですが、カナン定着となっています。 しかし、このあとの、士師記を読むとわかるように、先住民は、たくさん残されています。かえって、イスラエルの民より優勢であることも書かれています。先住民とその持ち物を滅ぼし尽くすことも、ひとつのテーマですが、実際には、分捕り品として、分けたことも書かれていますし、すでに書いたように、ずっと居続けている先住民もあります。どのような状況だったのかは正確にはわからないように見えます。しかし、その中で、イスラエルの民がどのように、神様の御心を受け取っていったか、それを受け取り損ねて失敗していったかなども書かれています。ヨシュアの華々しい戦いとは別に、聖書は何を伝えようとしているのかを、考えながら、読んでいただければと思います。皆殺しにすることも何度も書かれており、読み進めることに拒否反応をおかされるかたもおられるかもしれませんが、神様からのメッセージとして伝えられていること、または、ヨシュア記記者が受け取った神様のみこころについて、思い巡らしながら、読んでいただければと思います。 現在も世界では、各地で、紛争や戦争が起こっています。そして、分断や争いは、どこにでもあり、絶えることはありません。残念ながら、それが現実、人間の歴史なのかもしれません。それから、目をそらしてはいけないのかもしれません。みなさんは、ヨシュア記からなにを学ばれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨシュア記6章ーヨシュア記19章はみなさんが、明日4月7日(月曜日)から4月13日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#jo 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート ヨシュア記 6:23 斥候の若者たちは町に入り、ラハブとその父、母、兄弟、および彼女に連なるすべての者を連れ出し、また彼女のすべての氏族の者を連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。 エリコ攻略はヨシュアの戦いにおいて、非常に重要だったのだろう。ここでは、斥候をかくまったラハブとその家族のことが書かれている。最後に、イスラエルの宿営の外にとどめておいたとある。ただし、このあと、「また、遊女ラハブと彼女の家族、彼女に連なるすべての者たちはヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住み着き、今日に至っている。彼女は、ヨシュアがエリコを偵察しに遣わした使者をかくまってくれたからである。」(25)ともある。最初の部分は、儀式的な異民族との分離を考慮したものであろう。実際にどう行われたかは不明でもある。ただ、すべての氏族は当時、どの程度を意味していたのかにも興味をもった。ある程度の数だとすると、たいへんな分裂がエリコ内部でも起こったことだろう。それが内部から壁が崩れ落ちたことに関係していないともいえないように思う。 ヨシュア記 7:11,12 イスラエルは罪を犯した。私が命じた契約を破り、滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出し、盗み、欺いて自分たちの持ち物の中に置いたのだ。だから、イスラエルの人々は敵に立ち向かうことができず、敵に背中を向けることになった。自分が滅ぼし尽くすべき献げ物となったからだ。もし、あなたがたの中から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないならば、もう二度と、私があなたがたと共にいることはない。 10節の語り初めは、「主はヨシュアに言われた。」となっているので、主の言葉として伝えられている。主と共にいることと、主が滅ぼし尽くすべき献げものとが対比されていて、そのどちらに、身を置くのかが問われている。ひとは、そこまでは考えないのだろう。その教育が十分ではなかったとも言えるかもしれない。しかし、いずれにしても、これが主のことばでなければ、大問題である。わたしは、疑いを持ってしまうだろう。 ヨシュア記 8:2 あなたは、エリコとその王にしたように、アイとその王にしなさい。ただし、戦利品と家畜はあなたがたのものとしてよい。町の裏手に伏兵を置きなさい。」 ここにある戦利品とは何なのか。この前に、「ゼラの子アカンとその銀、外套、金の延べ棒、そして彼の息子、娘、牛、羊、彼の天幕と全財産」(7:24b)は、火で焼き払い、石を投げつけられたようである。区別がよくわからない。息子、娘はいるのに、妻は入っていない。戦利品には、別途定めがあったのか。「主が滅ぼし尽くすべき献げもの」が明確に共有されていたようには見えないがどうなのだろうか。申命記2:35, 3:7 が引照箇所にあるが、不明確である。不明確だが、「主が滅ぼし尽くすべき献げもの」に手をつけると裁かれるよというメッセージなのかもしれない。 ヨシュア記 9:16,17 契約を結んで三日が過ぎた。イスラエルの人々は、彼らが近くの者であり、自分たちのうちに住んでいることを聞き、出発して、三日目に彼らの町に着いた。その町とは、ギブオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリムであった。 三日とあるが、おそらく、距離は近かったのだろう。アイから20km ぐらいだろうか。地図には書かれているが、どの程度正確かは不明である。 ヨシュア記 10:41,42 ヨシュアは、カデシュ・バルネアからガザまで、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討ち取った。これらすべての王と土地を、ヨシュアは一度に捕らえ、占領した。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。 五王、エルサレムの王アドニ・ツェデク、ヘブロンの王ホハム、ヤルムトの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビル(3) を一気に打ち破ったことが書かれている。五王は、捕えられて処刑されたが、城壁に囲まれた町に逃げ込んで(20)とあり町は残ったようである。これらは、ユダの山地と言われる南部に属する地で、このあたりで反抗する勢力が、制限されたのは大きな戦果だったのだろう。この戦いは、まだ続くことがヨシュア記・士師記、そしてサムエル記上に書かれているが。気になったのは、ゴシェン全土と書かれていることである。ゴシェンは、イスラエルが定住したエジプトの地名である。(創世記45:10, 46:28、出エジプト記8:18, 9:26など)ヨシュア記には、ここ以外に、11:16, 15:51 に登場するが、エジプトの地に対応する地としてこう呼んだのだろうか。 ヨシュア記 11:22,23 そのため、アナク人はイスラエルの人々の地から一人もいなくなった。ただ、ガザ、ガト、アシュドドに残るのみとなった。ヨシュアはこうして、すべて主がモーセに告げられたとおり、この地のすべてを獲得した。ヨシュアはそれを、各部族の割り当てに従って、イスラエルの相続地として与えた。こうして、この地の戦いは終わった。 「ヨシュアは長い間、これらすべての王たちとの戦いに明け暮れた。」(18)とあるが、一段落ついたことが描かれ、かつ、完全ではなかったことも書かれているのだろう。このあとの、士師記、サムエル記の戦いを考えると、そう簡単ではなかったこともわかる。力で圧倒したということだろうか。書き方は単純で、他者視点はないし、イスラエルでも、ヨシュア以外は、登場しない。サムエル記への橋渡しなのだろうか。 ヨシュア記 12:24 ティルツァの王一名。全部で三十一名の王である。 「ヨシュアとイスラエルの人々は、ヨルダン川の西側をも討った。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルの途上にあるハラク山に至る地を、イスラエルの各部族の割り当てに従って所有地として与えた。その地の王たちは次のとおりである。」(7)とあり、三十一王の名前が記されている。引用句はその最後。とはいえ、この地域に、三十一の近代の意味での王国があったわけではないだろう。どのようなものだったのだろうか。部族の長だろうか。ヨルダン川の東側は、ヘルモン山にまで至ることが書かれているが、そこまでイスラエルの支配が及ぶことはなかったろう。支配権を宣言しているのだろうか。イスラエル以外の人には、かなり乱暴に見える。 ヨシュア記 13:1 ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。主は彼に言われた。「あなたは多くの日を重ねて年を取ったが、占領すべき土地はたくさん残っている。 人生は、このようなものなのだろう。使命として受け取っていても、それを、成し遂げるには、程遠い、それは、とても難しいという状態で、年を取る。わたしは、どうなのだろうか。ある時点から、あまり、そのようなものを望まなくなったようにも思う。いつ命が取られても良いし、なにかをやり残したとも考えていない。それは、使命を受け取っていなかったということなのだろうか。正直よくわからない。やろうとすることはないことはないが、なにが良いのかもわからない。ヨシュアは、どのように考えていたのだろう。いろいろな人についても、その晩年を学んでみたい。 ヨシュア記 14:11,12 今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。ですから今、主があの日約束してくださったこの山地をください。あの日、あなたも聞いたはずです。そこにはアナク人がおり、城壁に囲まれた大きな町が幾つもありますが、主が私と共にいてくださるなら、主が約束してくださったとおり、私が彼らを追い払います。」 偵察に行った時40歳、そして、この時、85歳という。自分自身歳をとると、このように言えることが羨ましい。ヘブロンが与えられることになるが、それを成し遂げるだけの気力や実力が残されていたということだろう。むろん、伝承として、正確だとすることにも問題があるのだろうが、どう生きるかについて考えさせられることも確かである。歳と共に、弱気になることを押し留めるのは何なのだろうか。社会的な役割は減っても、求め続けること、考えさせられる。 ヨシュア記 15:52-54 アラブ、ルマ、エシュアン、ヤヌム、ベト・タプア、アフェカ、フムタ、キルヤト・アルバすなわちヘブロン、ツィオル。以上、九つの町とそれに属する村。 これらの町が正確にわかるわけではない。おそらく、ヘブロンだけだろう。ヨルダン川西側の分割の最初が、ユダ、そして、まず、カレブの話が書かれている。地図を見ると、ユダが圧倒的に広い。いくら山地とはいえ、公平とはどうしても思えない。何らかの理由は必要だったろう。そして、最後は、ダビデによる攻略を暗示させる次の節で終わっている。「ユダの一族は、エルサレムの住民であったエブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている。」(63) ヨシュア記 16:9,10 また、エフライムの一族に配分された町は、マナセの一族の相続地の中にもあった。そのすべての町とそれに属する村もエフライムのものである。彼らはゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムの中に住み着き、今日に至っている。ただし、カナン人には苦役が課された。 ユダ(15章)の次は、エフライムである。最後には、マナセ一族の相続地の中にもあったとある。第何子ということが、どのように伝承されてきたのかは不明だが、ユダ(創世記によると第4子)、そして、北イスラエルでは、エフライムが盟主であることは、ここからもわかるように思う。そして、ヨセフ(第11子)の子としては、マナセが長男で、エフライムが次男であるが、それが逆転していることも、反映されている。ある時点では、過去の部族関係とは別に、この二つの部族が優勢になっていたと言うことなのかもしれない。同時に、地図で見ると、ユダの広さと比較すると、エフライムの地は、狭い。 ヨシュア記 17:14 ヨセフの一族がヨシュアに言った。「あなたはなぜ、一つのくじ、一つの割り当てによる相続地しかくださらないのですか。主が私をこんなにも祝福してくださったので、私は数の多い民となりました。」 「ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。」(17)とあり、エフライム、マナセ両方に関係していることがわかる。歴史的には、ヨセフの一族としてひとくくりにして語られるのは、基本的に、ヨシュア記だけのようである。行動として、一緒にしているのは、この17章の、17,16節。そして、ヨセフを葬る「イスラエルの人々は、エジプトから携え上って来たヨセフの骨を、シェケムの野の一画に埋葬した。そこは、ヤコブが百ケシタで、シェケムの父ハモルの息子たちから買い取った地であり、ヨセフの一族の相続地となっていた。」(ヨシュア24:32)だけのようである。エフライムは、おそらく特に、王国時代においては、ユダのリーダーシップについて異議を唱える部族として、登場しているようだ。 ヨシュア記 18:1-3 イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の幕屋を設置した。この地はイスラエルの人々によって征服されていたが、彼らの中には、まだ相続地を割り当てられていない七つの部族が残っていた。ヨシュアはイスラエルの人々に言った。「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのをいつまでためらっているのか。 どうみても公平とは言い難い。ガド、ルベン、マナセの半部族(7)は、ヨルダン川の東に割り当て地を得、ユダは南の山地、エフライムとマナセの半部族はユダの北に割り当て地を得ていたところで終わっていた。ここでは、残りの7つの部族について「あなたがたは部族ごとに三人ずつ選び出しなさい。私が彼らを遣わすから、すぐにこの地を巡回させ、相続地ごとに土地のことを調べ、戻って来てもらおう。」(4)と言っている。これも、おそらく、イスラエルの成り立ちが、部族連合だったろうとの予測の背景にあるのだろう。状況を確認することは、困難である。さらに、多くの先住部族がいたことも、確認できる。難しい状況でのスタートである。 ヨシュア記 19:51 以上が、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、親族の頭たちが、イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた。 前の章の最後に、ベニヤミン族の割り当て地について書かれ、この章に残りの六つの族の割り当てが描かれている。ヨルダンの東の部族以外では、ユダ、エフライム、それに、ベニヤミンが特別な地位があったのかもしれない。ベニヤミンについては、微妙だが。ヨシュアの役割は、本当に難しい。戦いでは平和は来ない。実際の状況についてもやはり知りたいと思う。すべてを覆い隠することはできない。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 3月20日から、4月10日は、春休みとさせていただき、次回は、4月17日の予定です。 次回、第83回の予定:4月17日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章6節〜15節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.4.6 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) ヨシュア記はいかがですか。今週は、ヨシュア記の最後の5章を読んでから、士師記に入ります。 前回は、少し全体的な流れについて書きました。ヨシュア記では、ヨシュアのリーダーシップによって、約束の地カナン(現在のパレスチナ)のある部分は、征服されたようですが、全体的には、イスラエル以外の、多くの部族が住んでいたように思われます。そして、まだ、多くの部族が住んでいる土地を、くじを引いて、十二部族(ルベン・ガド・マナセの半部族は、ヨルダン川の東にすでに割り当て地を得ています)に分けることが書かれています。ちょっと乱暴にも感じてしまいます。 士師記は、ヨシュア以後、サウルを経て、ダビデへと至り、王国となっていくときのリーダーシップを取る、サムエルまでの間の期間について書かれています。ある程度、下のリンクに書かれていますから、それを参照してください。今回は、その前半を読みます。前半では、それぞれの時代に士師といわれるひとが、リーダーシップをとって、外敵(ほとんどが先住民)を抑えることが書かれています。ギデオン(6-8章)や、次週の範囲ですが、サムソン(13-16章)など、みなさんがご存知な士師の話も登場すると思います。ただ、地域的には、限られていて、全体的なまとまりがあったようには見えません。みなさんは、どのように、読まれ、どのようなことに気づかれるでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ヨシュア記 20-士師記 9はみなさんが、明日4月14日(月曜日)から4月20日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ヨシュア記と士師記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ヨシュア記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#jo 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#jd 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート ヨシュア記 20:7,8 そこで彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライムの山地ではシェケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。また、ヨルダン川の向こう側、すなわちエリコの東では、ルベンの部族からは台地の荒れ野にあるベツェル、ガドの部族からはギルアドのラモト、マナセの部族からはバシャンのゴランを聖別した。 これらの逃れの町のひとたちは、何らかの影響を考えなかったのだろうか。日本なら必ず、嫌がる人が出てきたり、差別する人たちが出てくるのではないかと思った。むろん、同情したり、支援するひともでるだろうが。生活を確保することも、おそらく、困難があったと思われる。聖書には、具体例は書かれていないと思うが、いつか、調べてみたい。 ヨシュア記 21:1,2 レビ人の親族の頭たちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエルの部族の家長たちのもとに進み出て、「主はモーセを通して、私たちの住む町と、私たちの家畜のための放牧地を与えるようお命じになりました」と、カナンの地にあるシロで申し出た。 へブロン(11)やシェケム(21)やガリラヤのケデシュ(32)のように逃れの町が含まれている。すべてはチェックできていないが、これも意図的だったのだろう。広い範囲の町に、レビ人が住むようにしたことも、理解できる。エルサレムでの祭儀のためには、不便だったろうが。難しい問題も生じるように思われるが。いずれにしても興味深い。 ヨシュア記 22:5,6 あなたがたはただ、主の僕モーセが命じた戒めと律法をひたむきに守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道を歩み、その戒めを守って主に付き従い、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。」ヨシュアは彼らを祝福して送り出し、その天幕に帰らせた。 まだまだ、戦いは続く。この判断をしたのは、ヨシュアの治世が終わったことを意味しているのだろうか。このあと、ルベン人、ガド人、マナセ族の半数が、祭壇を築いたときは、祭司ピネハス、および会衆の指導者、イスラエルの大隊の頭たち(30)が判断をしている。難しい時期であったことも確かなのだろう。 ヨシュア記 23:1 主が周囲のすべての敵からイスラエルを守り、安住の地を与えてから、長い歳月が過ぎ去った。ヨシュアは多くの日を重ねて年を取った。 おそらく、中心となって率いるのは、このときより、だいぶ前に終了していたのだろう。しかし、ヨシュア以降のリーダーシップをどうするかは、難しい。どのような背景があり、次を決めなかったかも不明である。士師の働きは、散発的で、地域的にも限定されているように見える。統一王朝には、遠いことが示唆されていると言うことなのだろうか。難しい時期である。 ヨシュア記 24:2-4 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう言われた。『あなたがたの先祖は、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでいた。アブラハムとナホル、その父テラは他の神々に仕えていた。しかし、私はあなたがたの先祖アブラハムをユーフラテス川の向こうから連れ出して、カナンの全土を歩ませ、彼の子孫を増し加えた。私は彼にイサクを与え、イサクにはヤコブとエサウを与えた。私はエサウにセイルの山地を与え、彼はそれを得たが、ヤコブとその子たちはエジプトに下って行った。 ヨシュア記記者が述べる起源である。ここには、「私はあなたがたの先祖アブラハムをユーフラテス川の向こうから連れ出し」とある。そして元々は、他の神々に仕えていたとある。主は、神々の一人なのだろうか。すくなくとも、これを読むとそう感じる。おそらく、アブラハムにとっては、自分の主となる神と出会ったのだろう。そう考えても、聖書は、信仰者の書である。信仰者が受け取った、神について書いてあると言うことだろう。それは、聖書記者もそう思っていたのではないだろうか。 士師記 1:3 ユダは兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた土地へ一緒に攻め上り、カナン人と戦おう。私もあなたに割り当てられた土地へ一緒に行こう。」そこで、シメオンはユダと一緒に行った。 シメオンは、ユダの割り当て地の中に割り当て地を持っているが、ここからも、共闘関係がみえる。もう一箇所、「ユダは兄弟シメオンと共に行き、ツェファトに住むカナン人を討ち破り、滅ぼし尽くした。それゆえ、この町はホルマと呼ばれた。」(17)ともある。シメオンは、次男、ユダは四男であるが、三男がレビであることを考えると、最初から、近い関係が示唆されているのかもしれない。シメオンは、エジプトに食料を買いに行き、一人だけ残ることになったのは、シメオンで(創世記42:24)で、ユダも、ベニヤミンを連れていく時に、特別の役割を持っている。創世記29章31-35節にある、最初のレアの四人の子らは、重要な絆があったと表現されているのかもしれない。 士師記 2:1-3 主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「私はあなたがたをエジプトから導き上り、あなたがたの先祖に誓った地に入らせ、こう告げた。『私はあなたがたとの契約を決して破らない。だから、あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇は壊されなければならない。』しかし、あなたがたは私の声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえ、私は告げる。『私もまた、あなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたにとって落とし穴となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となるだろう。』」 士師記のテーマのような言葉である。しかし、「あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない」については、やはり気になる。分離主義を強いているからである。未熟ということだろうか。イエスの時代は、交流も活発で、このような生き方は不可能だったろう。そして、それは、捕囚の少し前ぐらいからは、近い状況だったかもしれない。大きな、変化が必要だったのかもしれない。それが、イエスだったのだろうか。 士師記 3:5,6 だが、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住み続ける間に、彼らの娘を自分たちの妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えるようになっていた。 女性の信仰への影響は大きいだろう。しかし、そうであっても、交流を禁止することで良いのだろうかとの疑問も生じる。これは、難しいチャレンジとして、受け止めなければならないのではないだろうか。多くの場合、失敗に至ることは多いと思うが。どうなのだろうか。主イエスは、喜ばれないのだろうか。よくわからない。 士師記 4:11 カイン人ヘベルは、カインにいるモーセのしゅうと、ホバブの一族から離れ、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張った。 カイン人ということばは、創世記、民数記、歴代誌上にも一回ずつ登場するが、基本的には、この士師記(1:16, 4:11, 4:17, 5:24)と、サムエル記上(15:6, 27:10, 30:29) に登場する。士師記1:16 には「モーセのしゅうとであるカイン人の一族は、ユダの一族と共に、なつめやしの町からアラドのネゲブにあるユダの荒れ野に上って行き、その民と共に住んだ。」とある。「シセラはカイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に徒歩で逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベルの家とは親しかったからである。」(4:17)ともあるが、複雑な友好関係があったのだろう。しかし、最後は、悲しい。イスラエルの一部とならなかったことの、良し悪しは、簡単には、判断できないだろう。 士師記 5:15,16 イッサカルの長たちは、デボラと共にいる。/イッサカルはバラクと同じく/歩兵と共に平野に送られた。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。なぜ、あなたは二重の柵の中で座り/家畜の群れを導く笛の音を聞いているのか。/ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。 「ルベンは枝分かれし、心の迷いは大きかった。」が二回繰り返されている。一つにまとまって戦わなかったということだろう。しかし、同時に、ガドは、この章に現れないと思ったが、なんと、士師記に登場しない。マナセや、ギレアドは登場するが、ルベンも実は、ここで引用した二箇所以外には、登場しない。つまり士師記の時代には、ヨルダン川の東は、ギレアドのマナセしか認識されていなかったということだろうか。もう少し、調べてみたい。 士師記 6:22-24 ギデオンは、彼が主の使いであることを悟った。ギデオンが「ああ、主なる神よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました」と言うと、主は言われた。「安心しなさい。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、それを「主は平和」と名付けた。それは今日に至るまでアビエゼル人のオフラにある。 正確にはわからないのかもしれないが、戦いの地域は、イズレエルの平野(33)とあるので、ヨルダン川の西、ガリラヤの南あたりだろう。ギデオンの属するヨルダン川西のマナセ以外には、アシェル、ゼブルン、ナフタリ(35)が応じたとあり、地域としても、だいたい、近隣の部族ということになる。主の使いと、主の区別がなされているかは不明だが、ギデオンは、「顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました」といい、それに主が「平安」と告げる。「力ある勇士よ、主はあなたと共におられます」(12)とあり、そのことを具体的にしめすことを求めていることもあり、それだけ、主が共におられることを意識することが難しかったのだろうとも思わされる。燔祭を献げるが、レビ人は出てこない。宗教集団とは言えない時代なのだろう。 士師記 7:24 ギデオンはエフライムの山地の至るところに使者を送り、こう言った。「攻め下ってミデヤン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領せよ。」エフライムの兵士全員が召集され、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領した。 マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリの南がエフライムである。(Swartzentrover.com | Holman - Holman Bible Atlas - Part II - Chapter 7) 地図41,41a,44 参照。エフライムが、北イスラエルの盟主なのだろう。どの程度全域的な戦いなのかは不明である。しかし、ギデオンの物語は面白い。300人の選抜は興味深いと同時に、日本のギデオン協会はどうなっているのか心配でもある。 士師記 8:20,21 彼は長子イエテルに「今すぐ彼らを殺せ」と言った。しかし、その若者は剣を抜かなかった。まだ若く、恐ろしかったからである。すると、ゼバとツァルムナは、「あなた自身が私たちを打ちなさい。力は人それぞれなのだから」と言った。ギデオンは立ち上がり、ゼバとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを奪い取った。 このあとを見ても、ここが一つの鍵であるようにみえる。それぞれに違う「力」がある、ギデオンが殺し、さらに、宝の一部を受け取る。そのこと自体を責めるのは酷かもしれないが、「イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった自分たちの神、主を思い起こすことはなかった。」(34)につながっていったようには見える。残念ながら。 士師記 9:21 こう言ってヨタムは逃げ去った。彼は逃れてベエルに行き、兄アビメレクを避けてそこに住んだ。 ヨタムがこのあとどうなったかは書かれていない。「また、シェケムの人々が行ったすべての悪事に対しても、神はそれぞれ報復を果たされた。こうしてエルバアルの子ヨタムの呪いが彼らの上に降りかかったのである。」(57)とあるだけである。治めることは、考えていなかったのかもしれない。世襲での統治は、よほどの組織がないと難しいのだろう。ギデオンも戦いには勝ったが、統治に関しては、何も書かれておらず、特になにもできなかったのかもしれない。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 3月20日から、4月10日は、春休みとさせていただき、次回は、4月17日の予定です。 次回、第83回の予定:今週、4月17日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章6節〜15節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.4.13 鈴木寛@新潟 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 士師記はいかがですか。今週は、士師記の後半を読んでから、ルツ記に入ります。 何回か書いていますが、士師記からルツ記は、モーセの死後、軍を率いて戦ったヨシュアも死んでから、リーダー不在の期間、イスラエルがどのような状態であり、それぞれの時に、どのようなリーダーの元、救いがもたらされたかが書かれているとも言えるかもしれません。ルツ記の後は、サムエル記上・下、列王記上・下と、王国の歴史がはじまり、最初のサウルと、ダビデに油を注いだサムエルに至るまでの期間とも言えます。 今回みなさんが読まれる箇所にも、何人か士師が登場しますが、このあと、サウル、ダビデの時代も、戦うペリシテと戦う、サムソンも登場します。そのあとは、十二部族の一つダンが北方の地域を攻略して、そこに落ち着く記事と、ベニヤミンが衰退する記事が書かれています。最後の19章以降は、おぞましい事件について書かれていますが、サウルの部族でもある、ベニヤミンについて記録する必要があったのかもしれません。 ルツ記は、美しい小品と言われています。ルツがボアズとの間で生む、オベドは、ダビデの父エッサイの父ですから、ダビデの系図にも、モアブの女性がいたことを証言しているとも言えます。異邦人を排他的に扱うとも見えるイスラエルが、他の民族をどのように見ていたのかも興味のあるところですね。多くの民族の中で、イスラエルという民族がひとつになっていった時期なのかもしれません。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 士師記10章ールツ記2章はみなさんが、明日4月21日(月曜日)から4月27日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 士師記とルツ記については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 士師記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#jd ルツ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#ru 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 士師記 10:7-9 主は怒りに燃え、イスラエルをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。そこで彼らはその年、イスラエルの人々を打ち砕き、また十八年にわたり、ヨルダン川の向こう側にいるすべてのイスラエル人を打ちのめした。そこはアモリ人の地であり、ギルアドにあった。さらに、アンモン人がヨルダン川を渡り、ユダ、ベニヤミン、そしてエフライムの家にも戦いを仕掛けて来たので、イスラエルは苦境に立たされた。 ヨルダン川の東、ギルアドについて時々登場するので興味がある。この直前に「その後、ギルアド人ヤイルが立ち上がり、二十二年間イスラエルを治めた。」(3)ともあるが、アンモン人などの影響で、ヨルダン川の東側は常に脅威に晒されていたのだろう。海岸沿いには、ペリシテがいる。マナセの半部族は時々登場するが、ルベンやガドはどの程度、存続できたのだろうか。ヨルダン川の西からの援助も受けにくいことも影響したのかもしれない。 士師記 11:1 ギルアド人エフタは力ある勇士であったが、ギルアドが遊女に産ませた子であった。 10章9,10節などは、このエフタの物語の背景説明だったのか。ここでは、ギルアド人とし、同時に、ギルアドの名前が登場する。創世記にもギルアドという地名は登場する。(創世記31:21,23,25,37:25)「マナセの一族は、マキルとマキル家の氏族。マキルはギルアドをもうけた。ギルアドとギルアド家の氏族。」(民数記26:29)とあり、マナセ一族では重要な名前だったのだろう。「モーセは、マナセの子マキルにギルアドを与え、そこに住まわせた。」(民数記32:40)とも書かれている。ヨルダン川の東を、ギルアドと呼んだのかもしれない。 士師記 12:4 エフタはギルアドの兵士全員を集結し、エフライムと戦った。ギルアドの人々はエフライムを討った。それは、エフライムが、「ギルアドよ、お前たちはエフライムの逃亡者なのだから、エフライムの中、マナセの間でじっとしているがいい」と言ったからである。 最終的には「この時、四万二千のエフライム人が倒れた。」(6b)とある。民数記の二回目の人口調査で、エフライムの兵力は、32,500(民数記26:37)とある。推移は明らかではないが、かなりの数の兵力が失われたということを伝えているのかもしれない。エフライムが北イスラエルの盟主としても、その力は、落ちていった一つの原因として伝えているのかもしれない。 士師記 13:7,8 その方は言いました。『あなたは身ごもって男の子を産むであろう。今後は、ぶどう酒や麦の酒を飲まず、汚れたものを一切食べないよう気をつけなさい。その子は胎内にいるときから死ぬときまで、ナジル人として神に献げられているからである。』」マノアは主に祈って、「わが主よ。どうぞ、あなたが遣わされた神の人をもう一度私たちのもとに来させ、生まれてくる子に何をすべきか教えてください」と言った。 再度主の使いが現れたとき「私がこの女に言ったすべてのことを、彼女は守らなければならない。彼女はぶどう酒を作るぶどうの木からできるものは一切食べてはならず、ぶどう酒や麦の酒を飲んではならない。汚れたものも一切食べてはならない。私が彼女に命じたすべてのことを、彼女は守らなければならない。」(13b,14)と答えている。前半が付加され、少し異なるが、ナジル人の部分が省略されているから、基本的には、同じであると考えて良いだろう。夫が責任を持つという文化の表れとしてのやりとりが表現されているとも言えるが、とても、重要なことであれば、自分も直接聞きたいというのは、自然なことでもあろう。「マノアはその人が主の使いであることを知らなかった。」(16b)とある。信頼の問題なのかもしれない。 士師記 14:4 両親は、これが主から出たものであり、ペリシテ人から脱する機会をうかがうものであることを知らなかった。この頃、ペリシテ人がイスラエルを支配していたからである。 前の章の主の使いのことば「なぜ私の名を尋ねるのか。私の名は不思議だ。」(13:18b)と関連しているのだろう。この章の最後に「その時、主の霊が激しく降り、サムソンはアシュケロンに下って行った。そこで三十人を打ち、彼らから剝ぎ取った衣を、謎を解き明かした者たちに晴れ着として与えた。彼は怒りに燃え、自分の父の家に帰った。サムソンの妻は、彼に付き添っていた友人のものとなった。」(19,20)が投影しており、後半は、次の章につながるのだろう。伏線回収など、関連性もよく、物語としては、よくできている。ただ、ペリシテ相手では、どうにもならなかった時代なのかもしれない。一矢を報いたということだろうか。 士師記 15:6 ペリシテ人は言い合った。「こんなことをしたのは誰だ。」「ティムナ人の婿サムソンだ。サムソンの妻が友人のものになってしまったからだ。」ペリシテ人は攻め上り、女とその父を火で焼き滅ぼした。 前の章に「七日目に、彼らはサムソンの妻に言った。『夫をうまく言いくるめて、あの謎の意味を解き明かすようにしてほしい。さもないと、あなたと家族を火で焼き払うぞ。あなたがたは、まさか我々から奪い取るために招いたのではなかろう。』」(14:15)とある。このサムソンの妻の家は、とんだとばっちりだと感じてしまう。このようなことがあって良いのかと。ただ、このペリシテの人たちの行動原理をみていると、そもそも、ひどい時代だったとも思う。どう考えたら良いのだろう。仕方がなかったのだろうか。悲しい。神の御心がなる、希望はない。 士師記 16:20 女は言った。「サムソン、ペリシテ人が襲って来ました。」サムソンは眠りから目を覚まし、「いつものように出て行き、暴れて来よう」と言った。彼は、主が自分から離れたことを知らなかったのである。 この前に「ついにその心のすべてを女に伝えた。」(17a)として書かれている「私の頭には、かみそりを当てたことがない。私は母の胎にいたときから神に献げられたナジル人だからだ。もし髪をそられたら、私の力は抜け、全く並の人間のように弱くなってしまう。」(17b)と矛盾するようにも見える。しかし、サムソンは、ある程度知っていても、その効果を確認することはなく、ある意味では、信仰にはなっていなかったのかもしれない。「主なる神よ。どうか、私を思い起こしてください。神よ、どうか、もう一度私を強めてください。私の両目のうち、片方のためだけにでも、ペリシテ人に復讐させてください。」(28b)にあるようなサムソンの叫びとともに、乱暴だともいえるが、物語としては、興味深いものとなっている。士師記の形式にあわせて、最後は、「彼は二十年間イスラエルを治めた。」(31)で終わっているが、ペリシテという文明・文化的にも先を行っている、ペリシテに対抗しうる存在として、伝承されてきたのだろう。 士師記 17:2-4 男は母に言った。「かつて銀千百シェケルが奪われたとき、あなたは呪い、そのことを私にも伝えてくれました。その銀は私が持っています。実は私が奪ったのです。」母は答えた。「主が私の息子を祝福されますように。」男が銀千百シェケルを母に返すと、母は言った。「この銀は、私がこの手で聖別し、主に献げたもので、息子のために彫像と鋳像を造ろうとしたものです。さあ、あなたに返しましょう。」男は母に銀を返し、母は銀二百シェケルを取って鋳物師に渡し、彫像と鋳像を造らせた。それはミカの家に置かれた。 不思議だともいえる話である。核心は、このあと、ベツレヘムから旅をしてきた、レビ人がここに住み着いたということなのだろう。一般的には、レビ人は、十分な割り当て地がなく、貧しかったと思われる。ただ、そのようなレビ人の役割として、祭司の仕事をすることがあったのだろう。非常に原始的だが、想像力を逞しくしていろいろと考えてしまう。まだ、神殿もなく、イスラエルが統一されているとも言い難く、外敵から、守られているとも言えない時期、実際は、レビ人は、どのように暮らしていたのだろうか。興味を持つ。 士師記 18:29-31 その町を、イスラエルに生まれた彼らの父祖ダンの名にちなんで、ダンと名付けた。それ以前には、その町はライシュと呼ばれていた。ダンの人々は自分たちのために彫像を立てた。また、モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、この地の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を務めた。こうして、神の宮がシロにあった間、彼らはミカの造った彫像を据えていた。 なんとも乱暴な物語である。しかし、そのように描いているともいえる。そして、おそらく、ダンがこの地域に住み着いた由来と、シロの彫像の由来を伝えているのだろう。さらに、「エフォドとテラフィム、彫像と、鋳造があった」(14)とも書かれているが、ミカの証言「あなたがたは私の造った神々と祭司を奪い去りました。」(24b)からも、イスラエル的には、そのもの自体を貶めているようにも見える。そのような時代を伝えているのだろう。 士師記 19:9,10 男と側女、従者が出発しようとすると、娘の父であるしゅうとが男に言った。「御覧なさい。日も暮れかかっています。さあ、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まってくつろいでください。明日の朝早く起きて出発し、あなたの家に向かえばよいでしょう。」だが、男に泊まる意思はなく、出発し、エブスすなわちエルサレムの向かいまでやって来た。鞍を付けた二頭のろばと側女が男と共にいた。 おぞましい事件のはじまりである。一般的に、危険があったこと、しかし、情報は共有されていなかったのだろう。ベニヤミンについて書かれているが、統治自体が乱れていたのだろう。まさに、自分の目に正しいことを行なっていたのだろう。それでは、いけないことを伝えているのか。「その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。」(21:25) 士師記 20:27,28 イスラエルの人々は主に問うた――その頃、神の契約の箱はそこにあり、アロンの子エルアザルの子ピネハスが御前に仕えていた――。「同胞であるベニヤミンの人々との戦いに、もう一度出陣すべきでしょうか。それともやめるべきでしょうか」と彼らが問うと、主は言われた。「攻め上りなさい。明日、彼らをあなたの手に渡す。」 神の契約の箱がベテルにあったこと、さらに「イスラエルのすべての部族から百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人を選び取り、兵の食料を調達させる。兵はベニヤミンのギブアに行き、その住民がイスラエルで行ったあらゆる恥ずべきことに対して報復するのだ。」(10)とあるにもかかわらず、「一方、ベニヤミンを除くイスラエルの人々は、剣を携えた兵士四十万人を動員した。その全員が戦士であった。」(17)ともあるということは、おそらく、戦士の人口は、400万人ということになる。女も子供も老人も加えた数かもしれないが、一世代の間に、六十万人からこれだけ増えるのは不思議である。さらに、出エジプトから、何百年かたっているかとわれるのに、アロンの孫が祭司をしていることも、不思議である。いろいろな加筆・修正もあるのかもしれない。たいせつなのは、ベニヤミンが少なくなった経緯だろうから。 士師記 21:20-22 彼らはベニヤミンの人々に命じた。「ぶどう畑に行って待ち伏せし、よく見ていなさい。シロの娘たちが踊りを踊りながら出て来たら、ぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から妻とする者をそれぞれ捕まえ、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。もし彼女たちの父や兄が我々に文句を言いに来たら、我々は彼らに言おう。『私たちに免じて、彼らに憐れみをかけてください。私たちは戦いの間、それぞれ妻をめとることができなかったし、あなたがたも彼らに娘を嫁がせることができなかったからです。嫁がせていたら、あなたがたは罪に問われたでしょう。』」 倫理的な枠組みというより、法治でも、宗教国家でもない。非常に乱れてはいるが、全体としての一致はあったこと、十二部族は維持する強い意志があったことを伝えているのだろうか。乱暴だとだけ、認識したのでは不十分なのだろう。なにを伝えているのだろうか。 ルツ記 1:16,17 しかしルツは言った。/「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰るなど/そんなひどいことをさせないでください。/あなたが行かれる所に私は行き/あなたがとどまる所に私はとどまります。/あなたの民は私の民/あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に/そこに葬られたいのです。/死に別れでなく、私があなたと別れるならば/主が幾重にも私を罰してくださいますように。」 飢饉に瀕した民は、異邦人・異教徒の地に移っていくことは、必然だったのだろう。その中で、その民が、イスラエルの土地に帰ってくることもある。そのような状況で、この告白は、美しい、お手本をされたと思われる。もしかすると、男性目線かもしれないが。ダビデの家系について、記録することは、たいせつなことであったのだろう。どれほどの伝承が残っていたかは不明だが。 ルツ記 2:8,9 ボアズはルツに言った。「よく聞きなさい、娘さん。よその畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから移ったりしてはいけません。召し使いの女たちのそばを離れず一緒にいなさい。刈り入れをしている畑に目を留めて、彼女たちの後に付いて行きなさい。私は僕たちに、あなたの邪魔をしないように命じておきます。喉が渇いたら水がめのところに行って、僕たちが汲む水を飲みなさい。」 ただしさよりも、たいせつなものがここにあるように感じる。これらのことばや態度には、惹きつけられる人は多いだろう。そして、それは、イエスの教えにもつながるように思う。愛は、Welcome まさにそれもここで表現されているように思われる。同時に、そうしない人が周囲にいることも意識されていることは興味深い。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第84回の予定:今週、4月24日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章16節〜20節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.4.20 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) ルツ記に入りましたね。ルツ記は全体で4章です。今週は、ルツ記の後半の2章を読んでから、サムエル記上に入ります。 ルツ記については、前回書きました。士師記の最後は、おぞましいと言ってもよいような物語で終わっていますから、ルツ記という、士師記の時代の美しい物語は、清涼剤のようでうれしいものです。ダビデの家系について記した文書ですが、文学として楽しんでもよいかと思います。みなさんは、どのような感想を持たれるでしょうか。 そして、いよいよ、サムエル記上・下、列王記上・下と、王国の歴史がはじまります。その最初がサムエル記です。基本的には、サムエル記上が、サウル王について、サムエル記下が、ダビデ王についての記述になっていますが、サムエル記上も、かなりの部分が、王になる前の、ダビデについて書かれていると言って良いでしょう。この二人、サウルとダビデに油を注いで、王として主からのことばを受けて指名したのが、サムエルです。これまで、イスラエルには、王はいなかったわけですが、他民族との戦いが続く中、とくに、ペリシテという新しい鉄器の技術をもった定住した海洋民族と思われる強敵があらわれ、王をもとめた民に、サムエルは否定的な態度を最初とりますが、結局受け入れてサウルに油を注ぐことも書かれています。 同族という血筋による結びつきなのか、同じ神を礼拝する宗教、または信仰による結びつきなのか、(現代ユダヤ人にいたるまで)イスラエルを規定するのは、難しいですが、まさに、そのあたりの難しさも、王を持つかどうかに現れているのかもしれません。サムエル記上・下となっていますが、サムエルは、サムエル記上の前半で(16章でダビデに油を注ぐと)表舞台から姿を消し、サムエル記上25章1節には、サムエルの死について記されています。その意味でも、サムエル記上・下は、サムエルについてというより、サムエルによって油を注がれたダビデの物語といっても良いのでしょう。 イスラエルにとっては、他国からの救済者でもある、ダビデ、その信仰による、行動決定が特徴的ですが、イエス様との相違も考えながら読まれると良いように思います。サムエル記は考えさせられることが多いと思いますよ。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 ルツ記3章ーサムエル記上 12章はみなさんが、明日4月28日(月曜日)から5月4日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 ルツ記とサムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 ルツ記:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#ru サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート ルツ記 3:15 ボアズは言った。「あなたの羽織っている肩掛けをよこし、しっかりつかんでいなさい。」ルツがそれをしっかりつかむと、ボアズは大麦を六杯量って彼女に背負わせ、町に帰って行った。 ルツ記は、書かれた背景もあるのだろうが、いずれにしても、美しく書かれている。引用箇所は、責任うんぬんとはことなり、別れる前の、最後の追加の配慮のようなもので、細やかな心遣いが表れている。そこにいるかのような感じが得られるが、記者の思いでもあったのだろう。他民族との交流も含め、興味深い。 ルツ記 4:5,6 ボアズは言った。「あなたがナオミの手から畑を買い取るときには、故人の妻であったモアブの女ルツも買い取ってください。先祖から受け継いだ地に故人の名を興すためです。」するとその親戚の人は言った。「私には買い戻すことはできません。私が先祖から受け継いだ地を損なうことになります。親戚として私が果たすべき責任はあなたが果たしてください。私は買い戻すことはできません。」 不明の点もある。「先祖から受け継いだ地に故人の名を興す」ことは、伝統だったのか、それとも、不文律だったのか、それとも、賞賛されるが、不文律のようなものではないというぐらいか。最後のものではないだろうか。次に、「私が先祖から受け継いだ地を損なう」とあるが、どのような意味だろうか。買い戻すために、自分の土地を失うのだろうか。どのように「損なう」のか不明である。オベドもボアズの子となっている(21)エリメレクの名は、消えるのではないのだろうか。不明。 サムエル記上 1:4-6 エルカナは、いけにえを献げる日には妻のペニナ、および息子、娘に、その取り分を与えた。そしてハンナには二人分に匹敵するものを与えた。それはエルカナがハンナを愛していたからである。だが、主は彼女の胎を閉ざしたままであった。ハンナと対立するペニナは、主がハンナの胎を閉ざしたままだということで、ハンナを悩ませ、苦しめた。 ペニナは悪者の役になってしまうが、エルカナのハンナ贔屓も背後にあったこともわかる。エルカナの配慮とも言えるが、ペニナはそのことも、納得できなかったのではないのだろうか。子のことは、現代に至るまで、難しい問題である。現在は、一夫一婦が圧倒的だが。夫婦関係は、難しい。 サムエル記上 2:25,26 仮に人が人に罪を犯したとしても、神が間に立ってくださる。しかし、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれようか。」しかし、息子たちは父の声に従おうとはしなかった。それで主は彼らの命を絶とうとされた。一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。 この対照が記者の書きたかったことなのだろう。12-17にある、エリの息子たちの非道は、当時、どのように、祭儀が行われていたかにもより、士師記とのギャップを考えると、不思議にも思う。そこまで、丁寧には、なされていなかったのではないだろうか。ここは、後の時代から、すこし遡って、書かれたということなのかもしれない。基本的には不明なことだが。 サムエル記上 3:13,14 私はエリに告げ知らせた。彼の息子たちが自ら災いを招いているのを知りながら、戒めようとはしなかった罪のため、私はエリの家をとこしえに裁くと。私はエリの家について誓った。エリの家の罪はいけにえによっても、供え物によっても、とこしえに償われることはない。」 この事実自体は、人々によく知られており、サムエルも耳にすることが多かったろう。そのなかで、本当なのか、サムエルも悩んだに相違ない。エリを慕って仕えていたのだから。それを、エリに言った経緯が、このように、美しい物語で描かれているのだろう。サムエルに「戻って休みなさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」(9b)と教えたのも、エリであることが書かれている。このような美しい物語に仕上げたのは誰なのだろうか。サムエルがそう伝えたのかもしれない。 サムエル記上 4:3 民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ、主は今日、我々がペリシテ人に打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから運んで来よう。そうすれば、主は我々のただ中に来られ、敵の手から救ってくださるであろう。」 神様がどう導かれたかを、十分深く理解できていない、魔術的なものとして、すなわち、自分たちの都合の良いようにだけ、主の働きを理解しているということだろう。この章を読むと、内憂外患、エリも、息子たちのことは、もう、諦めていたようにも見える。しかし、それで良いわけではない。エリは、士師としてイスラエルを治めた、責任ある立場だったようだからである。(18)複雑なことを、このように描くことはひとつの歴史観ではあっても、まったく不十分であるとも思う。人の側の責任は、大きい。 サムエル記上 5:9,10 さて、箱が移されて来ると、主の手が町に大きな混乱を引き起こした。町の住民は子どもから大人まで打たれ、腫れ物が彼らの間に蔓延した。そこで彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んだ。「イスラエルの神の箱をここに移し、私と私の民を殺すつもりか。」 ある伝承なのだろうが、明らかに、神の箱(契約の箱)は、魔術的な存在として描かれている。この時代では、そのように描いた方が、わかりやすかったのかもしれない。しかし、現代人がそのように理解したのではいけないのだろう。そのための情報は十分ではない。このようなことから、我々は、何を学べば良いのだろうか。 サムエル記上 6:4,5 ペリシテ人は言った。「それでは、返すにあたって、償いのいけにえには何がよいのか。」彼らは答えた。「同じ災いがあなたがた全員とあなたがたの領主に下ったのですから、ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金の腫れ物と五つの金のねずみにするとよいでしょう。腫れ物の像と地を荒らすねずみの像を造って、イスラエルの神に栄光を帰すなら、恐らくイスラエルの神は、あなたがたとあなたがたの神々、そしてあなたがたの地に重くのしかかっているその手を引いてくださるでしょう。 なぜ、ネズミなのか、ChatGPT に聞いてみると、根拠資料もつけて、答えが帰ってきた。腫れ物が、ペスト的な疫病の象徴で、それとネズミが関係していると考えられているから。金属の像に呪術的効用があると考えられていたから、ネズミが農業的被害の象徴であるからなどが応答としてあった。どれも、ある程度は、合理的な説であると思われる。 サムエル記上 7:13 こうしてペリシテ人は屈服し、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの生涯にわたって、主の手がペリシテ人を抑えていた。 事実というより、真実なのだろう。サムエルの「あなたがたがもし心を尽くして主に立ち帰るなら、自分たちの中から異国の神々やアシュトレトを除き、主に心を定め、専ら主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はペリシテ人の手からあなたがたを救い出してくださる。」(3b)は、少なくとも、内憂の部分に向き合うためには、十分だったろう。外患にどの程度効用があったかは、不明である。このあとも、サムエルの生きていた間に、サウルや、ダビデなどの戦いからもわかるように、戦いはずっと続いたからである。しかし、このようなリーダーシップを著者はよしとしているのだろう。やはり著者に興味を持つ。 サムエル記上 8:17-19 また、あなたがたの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたがたは王の奴隷となる。その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない。」しかし民はサムエルの声に聞き従おうとはせず、言い張った。「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。 主の声(7-9)には従わず、サムエルは、民を説得しているようにも見える。おそらく、受け入れる前に、伝えているのだろう。サムエルは知識人である。教育は、そう簡単には、いかないということなのだろう。ただ、リーダだけが正しくても、困難な状況は改善しない。サムエルの立場で、どうしたら良いのかは、難しい。 サムエル記上 9:12,13 娘たちは答えた。「はい、おられます。この先です。お急ぎなさい。今日、町に来られました。そして今日、高き所で民のためにいけにえを献げられるのです。町に入るとすぐ、その方に会えるでしょう。その方は食事のために高き所に上られるところです。人々は、その方が来られるまで食べません。その方がいけにえを祝福してくださるからです。祝福の後で、招かれた人々は食べるのです。今、上って行けば、すぐにでもその方に会えるでしょう。」 当時のことかどうかは不明だが、なんとなく、ある時期の儀式を彷彿とさせられて興味深い。順番がわからないが、おそらく、いけにえをささげ、それを、サムエルが祝福し、招かれたひとたちが食べるということだろうか。それが、その町を拠点とした、宗教活動だったのだろうか。 サムエル記上 10:26,27 サウルもギブアの自分の家に帰った。神に心を動かされた勇士たちはサウルに従った。しかしならず者たちは、「こんな男に我々が救えるか」と言って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった。 正確にはわからないが、「神に心を動かされた勇士」ということばが使われているので、サムエルによる祝福が、直接間接に、それぞれの心に働いたということだろう。それに応答したということか。しかし、それを受け取らなかったものたちを、責めるのは、これだけでは、根拠不十分であるように思う。ただ、「こんな男に」とサウルを人間としてみていることは確かなように思われる。その差はあるのだろうか。 サムエル記上 11:6-8 それを聞くや、神の霊がサウルに降り、彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえて切り分け、それを使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルに従って出陣しない者があれば、この牛のようになる。」主への恐れが民に広がり、彼らは一斉に出て来た。サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルの人々が三十万、ユダの人々が三万であった。 ギルアドのヤベシュ(1)は、士師記21章に登場する、この後も、ひとつ鍵となる地域である。ヤベシュからベニヤミンを攻める戦いに参加しなかった、すなわち、同盟関係を守らなかったことが書かれている箇所である。ここでは、逆に、それを助けている。ヤベシュの関係者がベニヤミンにいたのかもしれないが、十二部族の同盟関係について、ある示唆は与えているように見える。ユダだけ別記されているのは、後のことを考えれば、自然なのかもしれないが、この時は、同盟関係を確かめる大切な時だったのかもしれない。 サムエル記上 12:12 ところが、アンモン人の王ナハシュが攻め上って来るのを見ると、神である主があなたがたの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々を治めるべきだ』と私に言った。 サウルをサムエルが選んだのは、以前のことであるが、あたかも、この時がその転機であったように書かれている。おそらく、十二部族がひとつになる、重要な機会だったのだろう。サムエルが、サウルを立てた理由には、歳をとり、他のひとに任せたいという、または、そのような人が是が非でもいなければという気持ちが強かったのかもしれない。サムエルと、神様の関係はどうだったのだろうか。このあたりには、あまり書かれていない。しかし、指導体制の移行期間であることは、確かなのだろう。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第85回の予定:今週、5月1日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章21節〜32節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.4.27 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) サムエル記に入りました。今週は、サムエル記上を読み進めます。 サムエル記上・下は、前回も書いたように、サムエルによって油が注がれた、ダビデが中心に描かれています。サムエルとダビデの戦いもありますが、ペリシテが大きな脅威であったことがわかります。青銅器から鉄器に移って行った時期で、高い文明を持っていた、ペリシテの優位は大きかったのでしょう。ペリシテ人(Philistines)が、パレスチナの語源にもなったと言われています。 サムエル記にも出てくるように、ダゴンという神を礼拝し、ペリシテの五つの都市国家でしょうか、ガザ(Gaza)、アシュドド(Ashdod)、アシュケロン(Ashkelon)、ガテ(Gath)、エクロン(Ekron)も登場します。起源は、確定はしていませんが、ギリシャ近くのエーゲ海あたりの海洋民族だとされています。イスラエルと同様に、アッシリアの侵攻で大きな打撃を受け、バビロニアによって滅亡したとされています。 聖書考古学でも聖書の内容を立証しようとする立場のかたのビデオのようですが、映像でみることは、有益だと思いますから、一つ、リンクを共有しておきます。 https://www.youtube.com/watch?v=0YdbbI5ytiE みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記上 13章ーサムエル記上 26章はみなさんが、明日5月5日(月曜日)から5月11日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#sm1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート サムエル記上 13:22,23 戦いの日になっても、サウルとヨナタンと一緒にいた兵の誰の手にも剣や槍はなく、持っていたのはサウルとその息子ヨナタンだけであった。ペリシテ人の本隊はミクマスの渡しまで進んで来た。 客観的に、ペリシテが優位であることは、ここからもよくわかる。サウルとともに2000人、ヨナタンと共に、1000人という常備の兵力の武器も鋤や鍬または棍棒だったのだろうか。ペリシテは「戦車は三万、騎兵は六千、兵は海辺の砂のように多かった。」(5)とある。ただ、この章の最初は、「ヨナタンはゲバに配備されていたペリシテ人の守備隊を討ち破った。」(3)から、始まっているが、このことについての評価は書かれていない。サムエルの動きもよくわからないところがある。伝えたいことははっきりしていても、背後のことまでは、明確ではないのかもしれない。推測で、解釈するのは危険かもしれない。 サムエル記上 14:45 兵はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないというのですか。とんでもないことです。主は生きておられます。彼の髪の毛一本なりとも地に落ちてはなりません。神が共におられたからこそ、ヨナタンは今日これを成し遂げたのです。」こうして、兵がヨナタンをかばったので、彼は死を免れた。 興味深い。この章は、サウルの権威が失われて行くことを描いているとも言えるが、それほど単純ではないようにも見える。このような勇気のある、兵がいたことも素晴らしいし、このあとにも、「サウルはイスラエルに対する王権を握ると、周囲のすべての敵、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、そしてペリシテ人と戦った。向かうところ敵なしであった。」(47)とあり、客観的には、サウルはかなりイスラエルに貢献していることもわかる。サムエル記記者の伝えようとしていることとはずれているのだろうが。 サムエル記上 15:17-19 サムエルは言った。「あなたは自分では小さな者と思っているかもしれないが、イスラエルの諸部族の頭ではないか。主はあなたに油を注いで、イスラエルの王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、『行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし、彼らを滅ぼし尽くすまで戦え』と言われたのではないか。なぜ、あなたは主の声に聞き従わず、戦利品に群がり、主の目に悪とされることを行ったのか。」 ここに書かれているだけでは、十分わからないが、おそらく、主の声に従うことに関して、大きな問題があったのだろう。それがこのように表現されていると理解するのが正しいだろう。しかし、結局はわからない。サムエルの主のみこころの理解なのか、もう少し広がりのあるひとたちのある人たちがそこにいるのか。逆に、皆がそう思うのであれば、問題も感じる。御心の理解は難しい。基本的なことは、イエスによって告げられたように思うが。 サムエル記上 16:12,13 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。彼がその人である。」サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。 この章の内容も分かりにくい。基本的に、このサムエルによる油注ぎと、琴を弾く名手としてのダビデが登場する。いくつかのエピソードを、ダビデの紹介として載せているのだろう。伝承がいくつかあったのかもしれない。そして、かなりあとから、編集したのかもしれない。理解は難しい。 サムエル記上 17:34,35 しかしダビデはサウルに言った。「あなたの僕は父の羊を飼う者です。ライオンや熊が出て来て、群れの中から羊を奪うこともあります。その時は追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。 もう少しあとの時代まで、ライオンや熊がこの地域にも、いたようである。一説には、王などの、娯楽として、ライオン狩り、熊狩などをしていて、絶滅したとも言われているようだ。講演集にあった話で、根拠はないが、調べればわかるかもしれない。ダビデの時代には、娯楽ではなかったのだろうが、寂しいことである。おそらく、ここに書いてあることは、事実なのだろう。羊を飼うものも、命懸け、同時に、力を出す場面があったのだろう。 サムエル記上 18:12-14 主はダビデと共におられ、サウルから離れてしまったので、サウルはダビデの存在を恐れ、自分のそばからダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵の先頭に立って出陣し、帰還した。ダビデはその行く所どこでも勝利を収めた。主が彼と共におられたからである。 サムエル記上9:2 には「彼には息子がいて、名をサウルと言った。優れた若者で、その美しさに並ぶ者はイスラエルにおらず、民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かった。」ということばもある。このサウルも、ゴリアトと戦うことはできなかったのか。神により頼むことができなかったということも可能だが、それだけを理由として良いのかもよくわからない。自分の足りない部分を認めることだろうか。神様は、さまざまな形で、助けてくださるのではないだろうか。 サムエル記上 19:18 逃げて難を避けたダビデはラマのサムエルのもとに行き、サウルが自分にしたことをすべて話した。ダビデとサムエルはナヨトに行き、そこにとどまった。 このあとに、「彼もまた衣服を脱ぎ捨て、サムエルの前で預言者のようになった。そうして、丸一昼夜、裸のまま倒れていた。このため、『サウルもこの預言者たちの仲間なのか』と言われるようになった。サウルもこの預言者たちの仲間なのか」(24)に関するエピソードが続く。ダビデがサムエルのもとに行ったこと、その会話などは、記されていないが、サムエルの影響がまだあったことを示しているのだろう。同時に、そのサムエルの影響によって、サウルやその使者たちも、神のことばに預かったということが語られているのかもしれない。魔術的ではあるが、この時期、このようなことに、光明を感じたことはあったのかもしれない。 サムエル記上 20:3 それでもダビデはこう誓った。「お父上は、私があなたの好意を得ていることをよくご存じです。それでヨナタンが悲しむといけないから、知らせないでおこうと考えておられるのです。主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」 美しい友情物語である。しかし、その中でも、一人一人に見えている世界と、見えにくい世界がある。ダビデは冷静に、殺される可能性が高いことを見ていたのだろう。それでも、ヨナタンを傷つけないようにはしている。文学としても、すぐれているように見える。 サムエル記上 21:7 そこで祭司は、聖別されたパンをダビデに与えた。その日は、パンを取り替えて焼き立てのパンを備える日で、普通のパンがなく、主の前から取り下げた供えのパンしかなかったからである。 祭司アヒメレクがダビデに、パンとゴリアトの剣を与える場面である。これを見ると、普通のパンはなく、主に献げたパンを取り替える時だったとしている。ということは、これは、祭司が食べるもので、これがなければ、祭司や家族、そして、もしかするとエドム人ドエグはなにも食べるものがなかったということだろう。このことによって、サウルに殺されることになる。このあとの、ガトのアキシュのもとに逃げる。ダビデとしては、サウルに敵対するペリシテのもとに行くのが安全と思ったのかもしれないが、真実だけでは生きられない、難しい時である。ヨナタンとの友情は美しいが、美しいだけでは済まない、現実もある。 サムエル記上 22:17-19 傍らに立っている護衛たちに命じた。「ここに来て、主の祭司たちを殺せ。彼らもダビデに味方し、彼が逃亡中であるのを知りながら、私の耳に入れなかったのだ。」だが王の家臣は、主の祭司たちを打つために、誰も手を下そうとはしなかった。そこで王はドエグに、「お前がここに来て祭司たちを打て」と言った。エドム人ドエグは近寄り、祭司たちを打ち、その日、亜麻布のエフォドを身に着けた者八十五人を殺した。サウルはさらに祭司の町ノブをも襲い、男も女も、子どもも乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけて殺した。 正直、これだけの大虐殺があったことをあまり注意してみておらず、祭司だけが殺されたと思っていた。祭司85人に加えて、「男も女も、子どもも乳飲み子も、牛もろばも羊も」とある。恐ろしい。ドエグなどの背景も知りたいと思った。「サウルの牧者の中のつわもの」(21:8)とあり、サウルに仕えることになった背景もあるのだろう。難しいが、本当に悲しい事件である。 サムエル記上 23:2,3 それでダビデは主に伺いを立てた。「行って、あのペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行って、ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」しかし、ダビデの部下は言った。「我々はここユダにいてさえ彼らを恐れているのに、ケイラに行ってペリシテ軍と相対するなら、一体どうなることでしょう。」 主に伺いを立てて、行動を決定するダビデ、そして、様ざな窮地の中でも、ユダの町が襲われるそうになるとそれを助けに行くことが書かれている。事実の詳細はどうであれ、このようなダビデが多くのひとに好まれていったことは、確かだろう。そして、そのように、サムエル記も書かれている。ただ、普遍性はあまりない。おそらくこの時期には、個人的に、主に従うことについて学ぶ時だったのだろう。実際には、わからないことばかりである。そう考えれば、客観性・普遍性・他者視点をもとめて・たいせつにして、結局、判断できず、何もしないことが良いかどうかもわからない。価値判断は簡単ではないということでもあるだろう。 サムエル記上 24:21,22 今、私は知った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される。どうか今、主によって誓ってくれ。私の後に続く私の子孫を絶つことなく、私の名を父の家から消し去ることはないと。」 サウルのことばはとても印象的である。この直後に、サムエルの死(25:1)が記録されているのは、興味深い。このあとも、サウルとダビデの対峙は、26章などにあるが、ここにあるように悟ったことは、なにか理解できるように思われる。ただ、父の家について書かれていることには、やはり、文化的背景の違いを感じる。おそらく、書かれてはいないが、守るべきものたちが、たくさんいたのだろう。 サムエル記上 25:41,42 彼女は立ち上がり、地に伏して礼をし、「仕え女は、ご主人様の僕たちの足を洗う者になります」と答え、すぐに身を起こしてろばに乗り、彼女の五人の侍女を連れて、ダビデの使者の後に従った。こうして彼女はダビデの妻となった。 このあとには、ダビデの妻について書かれてあることからも、エピソードの一つとして書かれたのだろう。ナバルの応答の同期や、その最後など、不自然に感じる部分があるが、逃亡時代のダビデが、食べ物などにも苦労したことは、容易に想像がつく。ダビデとその従者・一軍にたいして、好意的となり、サウルからは睨まれるか、または、敵対的または無視するか、難しい判断がそれぞれにあったのだろう。放牧民は、その生業から、一般的には、友好的ではないように思われるので、その背景も考慮する必要もあるだろう。 サムエル記上 26:21,22 サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデよ、帰って来なさい。今日、私の命を大切にしてくれたお前に、もう二度と危害を加えることはない。私は愚かにも大きな過ちを犯していた。」ダビデは答えた。「王様の槍はここにあります。配下の者を一人よこし、これを持ち帰らせてください。 このようなことが繰り返され、矛盾を指摘するものもいるが、かえって真実味を感じる。だんだんと、サウルも追い詰められ、心深くで理解していくのだろう。ここで、槍を返すなどは、屈辱だったろう。また、アブネルにとっても、義が消え失せる経験だったかもしれない。むろん、不確定で、他の理解もあるだろうが。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第86回の予定:今週、5月8日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章33節〜41節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.5.4 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) サムエル記を読んでいますが、今週は、サムエル記上を読み終え、サムエル記下に進みます。 サムエル記上・下と次の列王記上・下は、ギリシャ語聖書では「もろもろの王国」と4巻本にまとめてあるようです。前回も書いたように、サムエル記上は、サムエルによって油が注がれた、サウルが王の時代、サムエル記下は、サムエルが油を注いだもう一人、ダビデ王の時代となっています。ダビデは列王記上の最初に亡くなることが書かれています。しかし、サムエル記上16章からは、ダビデを中心に描かれています。ダビデが、いかに重要な人物であったかが、ここからもわかると思います。サムエル記上・下の詳細は、下のリンクを見てください。私の個人的な思い出も少し書かれています。 ダビデは、新約時代においても、イスラエルの人たちにとって、とても、重要な人物で、イエスも、ダビデの子と呼ばれたりするのですが、ちょっと注意を要するのは、イエス自体は、ダビデのことを称賛したりは、していないと言うことです。共観福音書でも最初に書かれたとされるマルコによる福音書を見ると、イエスがダビデについて語っているのは、二回のみで、一回目は、2章23節から28節の「安息日に麦の穂を摘む」箇所で、もう一回は、12章35-37節の「ダビデの子についての問答」です。「ダビデの子よ」とイエスに呼びかけた箇所は10章46節から52節の「盲人バルティマイを癒す」箇所で2回あるだけで、あと一回「我らの父ダビデの来るべき国に/祝福があるように。/いと高き所にホサナ。」と11章10節にあるのみです。マタイとルカは、イエスがダビデの家系であることを追加していますが、イエスが語る部分は、マルコと同様です。さらにヨハネには「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」(ヨハネ7章42節)とあるのみです。すくなくとも、イエスはダビデの子と呼ばれることに非常に注意していたことがうかがわれるとともに、ダビデの行動を称賛するようなことも言われていないことは、心に留めておく必要があるように思います。 このようなことを書いたのは、みなさんが、サムエル記上・下を読まれる中で、ダビデの信仰・行動について、疑問を持たれることもあるかもしれないと思ったからもあります。単純に、ダビデのしたことは正しいこと、良いことと判断する必要はないように、思います。新約聖書でも、使徒言行録と書簡では、もう少し複雑なので、今回はそこに触れることはやめておきましょう。単純ではない面もあります。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記上 27章ーサムエル記下 9章はみなさんが、明日5月12日(月曜日)から5月18日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記上とサムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#sm1 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート サムエル記上 27:10,11 アキシュが、「今日はどこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデは、「ユダのネゲブを」とか、「エラフメエル人のネゲブを」とか、あるいは「カイン人のネゲブを」と答えていた。ダビデは男も女も誰一人、生かしてガトに連れて来ることはなかった。「彼らが我々について『ダビデはこうした』などと言い触らすことのないように」とダビデは考えたからである。ペリシテ人の地にいる間は常に、このようなやり方をした。 「ダビデとその部下は上って行っては、ゲシュル人(ヨシュア13:2,13)、ゲゼル人(ヨシュア16:10, 士師1:29)、アマレク人(出エジプト17:8, 16, サムエル上15:3,7,8)を襲った。これらの人々は昔から、シュルからエジプトの地にかけて住んでいた。」(8)とある。ここに出てくる民族は、イスラエルが征服すべきとして登場する民族の名前のようである。それによって正当化したのだろう。ただ、詳細は不明。推測としては、遊牧民だったのではないだろうか。引用句に出てくるのは、ユダはダビデの出身部族、カイン人は不明だが、何回か登場し(士師記1:16, 4:11)、一般的にはユダや、イスラエルと近い関係を持っていたことがわかる。エラフメエルについてはもう一度、サムエル上30:29に登場するが、やはりわからない。歴代誌上2:9, 25 にユダ族として登場する、ペレツの子の、ヘツロンの子の中に、エラフメエルが登場するが、それだけのようである。ユダ系の部族として知られていたということか。 サムエル記上 28:1,2 その頃、ペリシテ人はイスラエルと戦うために軍勢を集結させていた。アキシュはダビデに言った。「承知していると思うが、あなたもあなたの部下も私と一緒に軍勢に加わってもらいたい。」ダビデはアキシュに言った。「それなら間違いなく、僕の働きがお分かりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「では、これからあなたは私の警護に当たってくれ。」 危機である。ダビデはどう行動しようと考えていたのだろうか。このあとには、サムエルの霊媒をサウルが呼び寄せる記事が挟まっているが、基本的には、ダビデは、ペリシテと行動を共にしない。客観的にみれば当然な帰結になるわけだが、背後に、ダビデが、アキシュを欺いて信頼を得ていたことがある。サムエル記上21:11-16 に似た記事があり、真正性が疑われているが、いずれにしても、困難な状況であったことは、確かだろう。このダビデを主は守られたということなのだろう。危険な賭けである。 サムエル記上 29:4,5 だがペリシテ人の長たちはアキシュに腹を立てて言った。「この男を帰らせ、あなたが与えた居住地に引き止めておくべきだ。我々と一緒に、戦いに参加させてはならない。戦いの最中に裏切らないとも限らない。ここにいる者たちの首だけで、この男の主人を喜ばすのに十分だ。この男は、/『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」 冷静で、客観的、表現としては、科学的判断だとも言える。サムエル記記者は、このあたりをどう考えていただのだろうか。個人的には、御心の受け取り方が、ある発達段階にあると思うのだが。もしかすると、サムエル記記者も、ある道理を弁えて、このように記しているのかもしれない。それも、また恐ろしいことにも感じる。イエスが、ダビデをほめないことは、個人的には救いに感じる。 サムエル記上 30:1,2 さて、三日目にダビデと部下たちがツィクラグに戻ってみると、アマレク人がネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して火を放ち、女たちを、若い者から年老いた者まで一人も殺さず、捕虜にして連れ去っていた。 このあとには「ダビデは非常な苦境に立たされた。というのも人々は皆、自分の息子、娘のことで苦しみ、ダビデを石で打ち殺そうとまで言いだしたからである。だがダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった。」(6)とも書かれているからである。この対処のしかたが、立派で、信仰的だとダビデを称賛するものは、考えるのだろう。たしかに、信仰者として立派である。そして、このあとに、分配についても、(おそらく悲しみも加わって)疲れ果てて、戦いにいかなかったものとも分け合うようなある意味、福祉的な行為も行なっていてそれを「イスラエルの掟と法」(25)にまでしている。さらにユダの地にも戦利品を送っている。いずれにしても、自分の周辺に対する愛は細やかである。このあたりにも、現代の分裂のひとつの根があるようにも思われる。おそらく、どちらが正しいとは簡単に言えないことを、サムエル記記者は考えているのかもしれない。 サムエル記上 31:7 谷の向こう側と、ヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの兵士たちは、イスラエル軍が敗走し、サウルとその息子たちが死んだのを見ると、自分たちの町を捨てて逃げ去った。ペリシテ人は町に入り、そこにとどまった。 地図で調べると、「ギルボア山は、イズレエルの南東に位置する518 mの山。また、その周辺の山岳地帯の名前でもある。「丘陵地帯」を意味すると言われる。最高峰はベテ・シャンの西9 kmにあるジェベル・フクアと呼ばれる山である。」とある。ヨルダン川の西、ガリラヤ湖のだいぶん南、エルサレムの北方にあり、サマリアと呼ばれるあたりである。これを見ると、イスラエルのほとんどの部族が関係しているように書かれているが、まとめのような記事なのかもしれない。しかし、ある地域の町からは、退かないといけない大敗だったのだろう。その中心として、サウルと三人の息子の死は、象徴的なものだったとしているのだろうか。記録は少なかったかもしれない。 サムエル記下 1:13,14 ダビデは、知らせをもたらした若者に尋ねた。「お前はどこの出身か。」彼は答えた。「私は寄留者のアマレク人です。」ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」 アマレク人であったことが、原因だろうか。あまりに、ひどいと考えてしまう。ダビデが好きになれない理由だろうか。寄留の異国人は、つねに、難しい状況にあっただろう。これは、イスラエルだけではなく、他国に寄留している、イスラエル人も同様だったかもしれない。サムエル記上31章の記述との矛盾があるかも、考慮する必要がある。この若者の言っていることが真実ではないかもしれないからである。しかし、この時点で、明らかに矛盾、この青年は、虚偽を申し立てているとも言えないだろう。 サムエル記下 2:26,27 アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまで剣で決着をつけようとするのか。悲惨な結果になることが分からないのか。自分の兄弟たちを追うのはやめよと、いつになったら兵に命じるのか。」ヨアブは言った。「神は生きておられる。もしあなたがそう言いださなかったら、兵は朝までそれぞれ兄弟を追い続けたことであろう。」 30,31節には、ダビデの家臣20人が欠け、ベニヤミンとアブネルの部下のうち360人が打ち殺されたと書かれている。かなりの数ではあるが、近代的な戦争とは違うようでもある。引用句は、興味深い。おそらく、このようなやり取りができなくなったのが、現代の戦争なのだろう。どのあたりで分けるかはわからないが、おそらく、このように気付かされる場面が登場しても、もう、自分たちではどうにもならなくなってしまっている現実があるのだろう。困難である。 サムエル記下 3:38,39 王は家臣たちに言った。「今日、イスラエルにおいて一人の偉大な武将が倒れたことを、あなたがたは知っておかなければならない。私は油を注がれた王であるとはいえ、今は無力である。あの者ども、ツェルヤの息子たちは私の手に余る。悪をなす者には主がその悪に報いてくださるように。」 ダビデは、油を注がれたサウルに忠実・誠実だったのだろうか。それとも、政治的に行動したのだろうか。背後には、イスラエル十二部族を一つにまとめなければという考えがあったからか。これは、不明である。編集者にはある程度、意図があったかもしれないが、これまでの行動から、ダビデに、十二部族という意識はなかっただろう。ただ、このようなことが、ダビデ王朝をある程度堅固なものとしたことは確かなのだろう。 サムエル記下 4:2 このサウルの息子のもとに略奪隊の長である二人の男がいた。一人の名はバアナ、もう一人はレカブと言い、共にベニヤミンの者で、ベエロト人リモンの息子であった。というのも、ベエロトはベニヤミンに属すると見なされていたからである。 このバアナとレカブの話も、かれらが殺したサウルの子イシュ・ボシェトの話が書かれている。ただ、ヨナタンには両足の萎えた子メフィボシェトがいたことが挟まれており、混乱しそうになる。これらに対する、ダビデの対応を書いているのだが、対応が難しかったことは理解できる。ただ、正直、わたしは、支持できない。そのようなことも、ダビデがなかなか好きになれない理由だろうか。 サムエル記下 5:3 イスラエルの長老たちは皆、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。 すでに、「サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」(サムエル記上16:13)でサムエルによって油が注がれている。ここでは、イスラエルの長老たちが、ダビデに油を注いでいる。民の王となったということなのだろう。この区別が興味深い。バアナとレカブのことなども、このときに向けて書かれているのかもしれない。 サムエル記下 6:7,8 すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。ダビデも怒りに燃えた。主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。その場所はペレツ・ウザと呼ばれて今日に至っている。 以前は、たとえば、「主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。」とあれば、そのまま受け入れていただろうが、いまは、聖書の読み方が変わってきている。基本的に「神の言葉として受け取った人々の信仰告白」として、聖書を読んでいるからである。このことに対する、ダビデの対応・応答が書かれているが、これも、ひとつの信仰告白だろう。すると啓示についてどう考えるかが問題となるが、啓示は否定しないが、なにが啓示で、なにがそうでないかは、基本的に、ひとには、正確には判断できないと思う。数学に携わってきた、論理的厳密性だろうか。まだ、聖書に対する考え方は変化するかもしれないが、現時点のものを記録するという意味で書いておく。 サムエル記下 7:15,16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに語った。 代々王がその家系に続くことが、大切だと考えられていたのだろう。しかし、直前に「私は彼の父となり、彼は私の子となる。彼が過ちを犯すときは、私は人の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」(14)とあるように、過ちはつきものである。そうであっても、子にするのは、安定性からだろうか。そして、引用句にある「とこしえ」は、有限の期間であることを、わたしたちは、知っている。特別の解釈をすれば、別だろうが。自然に読んでいきたい。そのなかから、それぞれの時代の人々の苦しみ、悲しみを受け取れるように思う。 サムエル記下 8:5,6 アラム・ダマスコがツォバの王ハダドエゼルを助けに来たが、ダビデはこのアラム軍二万二千人をも討ち、アラム・ダマスコのもとに守備隊を置いた。こうして、アラム人もダビデに隷属し、貢を納める者となった。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。 「アラムが貢を納めるものになった」これは大変なことなのだろう。ただ、この章のダビデについての記述をみると、武力による勝利が続けて書かれていて、このことが事実であったとしても、かえって心配になる。反発を買うのだから。そして、イスラエルがある程度の国であったことは、おそらく歴史的事実であろうが、その最大の時として描く描き方がすこし単純であるようにも思われる。後から書かれたものかもしれないとも考えてしまった。ダビデの実像はどのようなものだったのだろうか。作り上げられたヒーローは危険でもある。 サムエル記下 9:9,10 王はサウルの従者であったツィバを呼んで言った。「サウルとその家の所有であったものはすべて、あなたの主人の息子に与える。あなたとあなたの息子たち、それに僕たちは、彼のために土地を耕して収穫し、あなたの主人の息子を養う糧としなさい。あなたの主人の子メフィボシェトは、いつまでも私の食卓で食事をするだろう。」ツィバには十五人の息子と二十人の僕がいた。 ヨナタンとの友情をたいせつにするということは理解できるが、これは、かなり乱暴である。これまでの期間、サウルの土地がどうなっていたかは語られていないが、あとからも、出てくるように、ツィバにとっても、難題だったかもしれない。「メフィボシェトはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が不自由であった。」(13)とあるが、このダビデの意思決定に異議を唱えるものはいなかったのだろう。それが歴史を作ってしまうことにもなる。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第87回の予定:今週、5月15日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書15章42節〜47節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.5.11 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) サムエル記はいかがですか。今週は、サムエル記下を読み進め、ほとんど最後まで読みます。 内容区分からすると、サムエル記下8章までが、一つの区切りで、その最後に、ダビデの重臣たちについてのリストが書かれています。このあとは、サムエル記下9章あたりから、ダビデの後継者に関する話を中心に、展開します。また、同時に、ウリヤの妻バト・シェバのことや、息子アブシャロムのことなどもあり、ダビデにとっての、苦しい危機について書かれています。そのたびに、ダビデは、悔い改め、主に問い、主に信頼する姿勢を見せています。みなさんは、どのように読まれるでしょうか。 18章あたりからは、ダビデ自らは戦いに出なくなります。年齢については書かれていないのでわかりませんが、少しずつ老いていっていることもあるのかもしれませんが、同時に、ダビデの特質として、戦いの最前線では、非常に優秀なリーダであっても、王宮での政治的なことは、あまり得意ではなかったのかもしれないとも思われます。神様と自分との特別な関係には誠実であっても、神様の一般恩寵といわれること、神様と他の人々との関係をどのように考えるかについては、問題があったり、どうしたらよいか困惑しているようにも見えます。サムエル記から列王記の王国の歴史のなかでの、重要な問いなのかもしれないと思います。神様と自分、神様と他者、神様理解が広がっていくのは難しいのでしょう。みなさんは、どう考え、どのように読まれますか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記下 10章ーサムエル記下 23章はみなさんが、明日5月19日(月曜日)から5月25日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#sm2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート サムエル記下 10:3,4 アンモン人の高官たちは主君ハヌンに言った。「ダビデがお父上に敬意を表して弔問の使いを送って来たとお考えですか。ダビデがあなたのもとに家臣をよこしたのは、この町を調べ、探り、覆すためではないでしょうか。」そこでハヌンはダビデの家臣たちを捕らえ、ひげを半分そり落とし、衣服も半分、尻までに切り落としてから追い返した。 このあと、さらに、軍備増強をする。「アンモン人はダビデの憎しみを買ったことを察し、人を遣わして、ベト・レホブおよびツォバのアラム人から歩兵二万人、マアカの王から歩兵一千人、トブ人からは一万二千人を雇い入れた。」(6)そして、この戦いにダビデ軍が勝つことが書かれて、アラムを破ったとしている。さまざまな背景、そして伝えたいことがあったように見える。また、それを、このように単純化して伝える手法もあるのだろう。ダビデの時代、アラムは巨大な王国、そして、強力なペリシテ、この二つが大きな脅威だったのだろう。しかし、それ以外にも、ヨルダンの東中心にアンモンがいたのだろうが、それは、ヨルダンの西にもいたということか。正確にはわからない。 サムエル記下 11:1,2 年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を皆殺しにし、ラバを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。ある夕暮れ時、ダビデは寝床から起き上がり、王宮の屋上を散歩していたところ、屋上から一人の女が水を浴びているのを見た。女は大層美しかった。 この背後にあるものは、すべては書かれていないのだろうが、今回は、「ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。」に目がとまった。ダビデは、アブネルのことなどで、ヨアブを危険視している証拠なのだろう。ウリヤことばとして書かれている「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営しておりますのに、私だけが家に帰って食べて飲み、妻と寝ることなどできましょうか。あなたは確かに生きておられます。私には、決してそのようなことはできません。」(11b)を見ると、ダビデは、エルサレムにとどまることに慣れていなかったというか、戦いの中にいることしかできない人だったのかもしれないと思わされる。どのような環境でも、主と共に生きられるかどうかが問われているように思う。退職してから、そのことをも、考えさせられることが多い。 サムエル記下 12:20 すると、ダビデは地から起き上がり、体を洗って香油を塗り、衣服を着替えて、主の家に入り、礼拝した。それから自分の家に帰り、料理の用意をさせ、食事をした。 ダビデは、個人的に、いろいろと問題があり、ダビデを救い主のようにすることに、違和感を感じる。イエスもそう考えたのではないかと思われる。しかし、ここでの態度は興味深い。地から起き上がり、主の家に入り、礼拝している。どのように、主に向き合ったのかは書かれていないが、さまざまな整理を行い、主に従う決意、どのように生きるかを整理したのだろう。むろん、それほど、簡単に整理できないことも、あるだろうが。興味深い。 サムエル記下 13:4 ヨナダブはアムノンに言った。「王子よ、なぜか、あなたは日に日にやつれていかれる。差し支えなかったら、その訳をお話しくださいませんか。」アムノンは彼に言った。「弟アブシャロムの妹タマルに恋をしてしまった。」 「恋」ということばに驚いた。ヘブル語では、אָהַב (1. to love, 2. to like) である。210 回も使われている、おそらく一般的なことばだろう。「その後のことである。ダビデの子アブシャロムにタマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をした。」(1)でも恋とされており、創世記にはハモルのことばとして「息子のシェケムは、あなたがたの娘さんを恋い慕っています。どうか娘さんを息子の妻にください。」(創世記34:8)とあり、ほかにも何回か恋とされているようだ。 サムエル記下 14:1 ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた。 ヨアブとダビデはいとこだと思うが、特に、この話は興味深い。ヨアブは「一人の知恵ある女」(2)を使って、ダビデに助言する。そして、ダビデも「あなたのしていることは、すべてヨアブの指示であろう。」(19)と理解している。これに対して、ヨアブは「今日、あなたの僕は、王様のご厚意にあずかっていると悟りました。王様は僕の願いを聞き入れてくださったからです。」(22)と答え、このあと、アブシャロムが無理をしてきても、簡単には応じない。ヨアブはダビデの命令で最終的にはソロモンに殺されることになるが、ヨアブは興味深い。おそらく、これを読むものは、理解や善悪の決定はそう簡単ではない、と考えただろう。はっきりさせないのがよいように思う。 サムエル記下 15:19-21 王はガト人イタイに言った。「なぜ、あなたまでが我々と一緒に行くのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人で、祖国を離れた亡命者なのだ。昨日来たばかりのあなたが、今日我々と共に放浪者になるというのか。私は行けるところまで行くだけだ。自分の同胞を連れて帰りなさい。慈しみとまことがあなたと共にあるように。」イタイは王に答えた。「主は生きておられ、王様も生きておられます。生きるも死ぬも、王様のお出でになるところが僕のいるべきところです。」 イタイにはじまり、ツァドクと神の契約の箱をかつぐレビ人、友、アルキ人フシャイがダビデに従いたいとついてくる。アブシャロムについて知っていた、ダビデについても知っていた人たちなのだろう。不完全なものであっても、このような仲間、信頼してくれるひとたちがいることは、本当に幸せである。わたしは、どうだろうか。 サムエル記下 16:10-12 王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、あなたがたと何の関わりがあるのか。主がダビデを呪えとお命じになったから、あの男は呪っているのだ。『どうして、あなたはこんなことをするのか』とは、誰も言えまい。」そしてダビデは、アビシャイとすべての家臣たちに言った。「私の身から出たわが子でさえ、私の命を狙っている。ましてこのベニヤミン人なら、なおさらのことではないか。呪わせておきなさい。主が彼に命じているのだから。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 これも、ダビデの信仰形態がよく現れていることのようにも思う。まず、シムイのことについては、神から出ているかもしれないから、それを罰しないこと。つまり罰するのは神のされることということだろう。そして、憐れむことも。しかしこの前のツィバのことは、公平さを丁寧にもとめることではないようにも見える。やはり判断は難しい。 サムエル記下 17:25 アブシャロムはヨアブの代わりにアマサを軍の司令官に任命した。アマサはイトラという名のイスラエル人の子で、イトラの妻はナハシュの娘アビガイルであり、ヨアブの母ツェルヤの姉妹であった。 この章でいままで登場していなかった人たちの名前もたくさん登場する。ダビデの周囲にさまざまなひとたちがいたということだろう。そして、深い関係をもっている。それを一つ一つ評価することは困難である。自分で把握していると考えるのは傲慢なのだろう。一人一人個人の判断も、正確とは言えず、また、欲得も現れる。わからないことを知ることは大切である。 サムエル記下 18:12,13 その男はヨアブに言った。「たとえ、この手のひらに銀千シェケルを積まれたとしても、私は王のご子息に自分の手を伸ばすようなことはいたしません。私たちは、王があなたとアビシャイとイタイに命じて、誰であれ、若者アブシャロムを守れ、とおっしゃったのを聞いているからです。仮に、私が彼の命を奪ったうえで、それを偽ろうとしても、王には何一つ隠し通すことができませんし、あなたも冷淡な態度を取るでしょう。」 民・兵のダビデについての認識がよく現れているようにみえる。ダビデの考え方は、一般的ではないが、この兵はそれを知っていたのだろう。ヨアブももちろん知っていただろう。しかし、ヨアブには、ヨアブの考え方があった。それが、一緒にそだったいとこと他者との違いか。ヨアブの判断は正しいと思うが、おそらく、違う考え方もあるのだろう。 サムエル記下 19:44 イスラエルの人々はユダの人々に言い返した。「王に関して言えば、我々には十の持ち分がある。ダビデ王に対してもあなたがたより多くの分がある。なぜ、我々をないがしろにするのだ。私たちの王を呼び戻そうと言ったのは、我々が先ではなかったか。」しかし、ユダの人々の言葉はイスラエルの人々の言葉よりも激しかった。 イスラエルとユダの確執は、ずっと背後にあったのだろう。ここも、その一つの表れである。それを、修正していくのは難しい。しかし、それも、ダビデまたはソロモンなどの務めだったように思う。やはり部族連合は、なかなか一つの国にはならないということなのだろう。 サムエル記下 20:6,7 そこで、ダビデはアビシャイに言った。「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ。彼が城壁に囲まれた町を手に入れ、我々の目を逃れることのないよう、あなたは自分の主人の家来を率いて、彼を追跡しなさい。」ヨアブの兵、クレタ人とペレティ人、および勇士全員が彼に従ってエルサレムを出発し、ビクリの子シェバを追跡した。 早いうちに、叩いてしまおうということだろう。しかし、まずは、アマサからヨアブは叩く。行動が早い。むろん、ヨアブがつねに正しいわけではないが、どうしても、わたしは、ダビデよりも、ヨアブを支持したいと思う。むろん、すべての行為というわけではないが。いろいろと考える素材を提供しているというだけでも、聖書は、多くのひとにヒントを与えているのだろう。興味深い。 サムエル記下 21:13,14 ダビデはそこからサウルの遺骨とその子ヨナタンの遺骨を移し、また、さらされた者たちの骨を集めた。彼らはサウルの遺骨とその子ヨナタンの遺骨を、ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの地の祈りに応えられた。 サムエル記を読んでいると、なにが良いのかはわからない箇所が多い。おそらく、我々の人生においてもそうなのだろう。ただ、ダビデは、ある一貫性は失っていないように思う。それが正しいのか、主に喜ばれることなのかは不明だが。それをもって、主に問うているのかもしれない。わたしは、どうだろうか。生き方が異なるように思う。わたしも、主に問う気持ちはつねに持っているが。 サムエル記下 22:50,51 それゆえ、主よ/私は国々の中であなたに感謝し/御名をほめ歌う。王に大きな勝利をもたらす方/油注がれた者、ダビデとその子孫に/とこしえまで慈しみを示す方。」 美しく歌われている。これを批判はできない。しかし、このようなダビデの子孫の国は続かない。それをこれを読んでどう考えれば良いのかは、よくわからない。その時々のことしか、信仰者には、わからない。その中で、主に問い、主を賛美し、主について学んでいけばよいのだろうか。そうなのかもしれない。あとからわかったような顔をして、裁いてはいけないのだろう。もう少し、素直に、詩を味わいたい。 サムエル記下 23:9,10 アホア人ドドの子エルアザル。三勇士の一人。集結して戦いに挑んで来たペリシテ人に対し、ダビデに同行して屈辱を与え、イスラエルの兵士が退却した際にも、ペリシテ人に向かって立ち、手が疲れ、手が剣に張り付いて離れなくなるまでペリシテ人を討った。主はその日、大勝利をもたらされ、彼の後に戻って来た兵には略奪することのみが残った。 この章だけで、ペリシテが、6回登場する(引用句以外 12, 13, 14, 16)みな、勇士についての記述である。ダビデの戦いは、基本的にすべてペリシテに対する戦いであったことが窺い知れる。そして、勇士には、ペリシテ人はいない。敵だったのだろう。パレスチナの名前の由来でもある。海洋民族だったのだろうか。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第88回の予定:今週、5月22日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書16章1節〜8節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.5.18 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) サムエル記はいかがでしたか。今週は、サムエル記下の最後の章を読み、列王記上に入ります。 ダビデからソロモンへの王位継承から始まり、ソロモンの治世、そして、その後の王国の分裂が、今回の内容です。通常、北イスラエル王国と、ダビデ王朝を継承する、南ユダ王国と呼びます。王位継承はどのようなものだったのか、そして、ソロモン王について、さらに、そのあとの分裂に至った理由なども含めて、まずは読んでいただければと思います。 下のリンクにある列王記上・下の大雑把なまとめをここにも書いておきます。 (この頁を書いたとき口語訳を用いたため列王紀と記の字が変わっていますがそのまま掲載します) I. ソロモン 列王紀上1-11 II. 王位継承(その1)列王紀上12-16 III. エリヤとエリシャ 列王紀上17-列王紀下10 IV. 王位継承(その2)列王紀下11-25 その後の列王記上と列王記下の内容については、また次回としたいと思います。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 サムエル記下 24章ー列王記上 13章はみなさんが、明日5月26日(月曜日)から6月1日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 サムエル記下と列王記上については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 サムエル記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#sm2 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#kg1 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート サムエル記下 24:9 そしてヨアブは民の総数を王に告げた。すなわちイスラエルには、つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。 複雑でよく理解できないエピソードである。しかし、結果から見るとこの時期には、兵士のレベルではあるが、ユダが38.5% (これを全体が80万ととると62.5%)になっていることが書かれている。ユダの勢力が強くなり、かなりそれ以外と拮抗した状況になっていることがわかる。イスラエルで、協力する兵なのかもしれないが。最後の銀50シェケルは、570g である。多いのか少ないのかもあまり明らかではない。疫病での7万人の死(15)は、たいへんな数だが、当時は、このようなことは、それなりにあったのかもしれず、判断が難しい。ヨアブの諫言も記録されており、興味深い。ここで、サムエル記が終わっている。 列王記上 1:29,30 すると王は誓って言った、「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。わたしがイスラエルの神、主をさしてあなたに誓い、『あなたの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしに代って、わたしの位に座するであろう』と言ったように、わたしはきょう、そのようにしよう」。 ダビデは父としては問題があったのだろう。(5,6)個人的な 信仰に頼ったことも関係しているように思う。歳をとって、判断が鈍ってくると、適切には行動できなくなる。ここでも、主からのことばの扱いもなにか明確ではない。(13節参照)このあたりも、考えなければいけないことなのだろう。後継争いが起こることは確実だったし、ダビデの子孫に継がせることは、それなりの共通認識だったのではないだろうか。批判するだけでは、いけないだろうが。人間が、主の導きを求めつつ、適切に行動するたいせつさも感じる。 列王記上 2:46 王がエホヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出ていってシメイを撃ち殺した。こうして国はソロモンの手に堅く立った。 ダビデの遺言からはじまり、この句で終わっている。最初のアドニヤ以外は、ダビデの遺言を実行した形式になっている。最後に、国が堅く立ったとある。ダビデの治世との変化とも見ることができるが、それがダビデの遺言の実行という形式をもとっている。どう理解するかは難しい。ソロモンは、個人的な判断ではなく、政治的な判断をしたのかもしれない。それを、ダビデの遺言としてまとめて。難しいことが多い。 列王記上 3:27 すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。 「彼女はその母なのだ」は良い言葉だと思う。母とは、産んだものというより、その子を愛するものだということなのだろう。むろん、この話は創作かもしれないが、このようなものを記す列王記記者はどのような人なのだろうかと思う。本当に、すごい人だと思う。この最初のいくつかの章のまとめ方も含めて。思想とはまた異なる力のように感じる。 列王記上 4:7 ソロモンには、イスラエル全土に十二人の知事がいて、彼らが王と王室に食料を調達した。一人当たり、年に一月、食料を調達するのであった。 年に一月は、不明だが、12分の1の租税だったのだろうか。代官をおくということは、それだけ、支配が安定したことを言っているのだろう。ダビデの時代には、考えられないようなことである。このように整備していった過程は書かれていないので、詳細は不明だが。ダビデとはよく言うと相補的、かなりことなる王だったのだろう。 列王記上 5:1 ソロモンは、ユーフラテス川からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至るまで、すべての王国を支配した。国々はソロモンの在世中、貢ぎ物を納めて彼に服従した。 このあとに「実に、ティフサからガザに至るユーフラテス川西方の全域と、ユーフラテス川西方の王侯をすべて支配下に置いたのは彼であり、周囲のどの地域も平和であった。ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでも皆それぞれ、自分のぶどうの木や、いちじくの木の下で安心して暮らした。」(4,5)とあり、このあと軍馬のことも書かれている。軍事的にも、かなりの力を持っていたと言うことだろうが、範囲は、かなり広いように見える。誇張があるかもしれないが、驚かされる。経緯も不明だが。この章の最後には、神殿建設にかかる。ティルスのヒラムが友好関係から材木を送ることが書かれており、ある程度の、範囲と良い関係を持っていたことも窺い知れる。 列王記上 6:1,2 イスラエルの人々がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となって四年目のジウの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の神殿を建て始めた。ソロモン王が主のために建てた神殿は、長さ六十アンマ、幅二十アンマ、高さ三十アンマであった。 アンマは従来キュビトと書かれていたもので、大体、肘から手先までの長さ45cm とされるので、9m x 13.5m となる。この周りに、廊があったとある。この設計図については、ヒラム(7:13,14)なのかもしれないが、だれが考えたかは書かれていない。また、神からの指示とも書かれていない。どこかの神殿を模倣したのだろうか。ここで大切なのは、12, 13節の主のことばなのだろうが、簡単に書かれ、内容にも特別なことはなく、どのような場で、どのように伝えられたかも書かれていない。このあたりにも、列王記記者の意図があるのだろうか。 列王記上 7:8 ソロモンが住まいとした建物は、この広間の後ろの庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは、妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。 「ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚関係を結び、ファラオの娘をめとった。ソロモンは彼女をダビデの町に迎え入れ、宮殿、主の神殿、エルサレムを囲む城壁の建築が終わるまで、そこに住まわせた。」(3:1)の、ファラオの娘なのだろう。ソロモン王朝の繁栄に、この婚姻関係が影響していることは確実だろう。ファラオも認めるものを作ったと言うことが背景にあるように思う。安泰になったと同時に、難しい配慮も生じたのだろう。難しい。 列王記上 8:6-8 祭司たちは、主の契約の箱を定められた場所、すなわち神殿の内陣である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。ケルビムは箱のある場所の方に翼を広げ、その下にある箱と担ぎ棒を覆っていた。担ぎ棒は長く、棒の先端は内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日に至るまでそこにある。 後半には「罪を犯さない者は一人もいませんから、人々はあなたに罪を犯し、あなたは怒ってその人たちを敵の手に渡されるでしょう。人々は敵の捕虜として遠く、あるいは近くの敵地へ連れて行かれるでしょう。」(46)ともあり、引用句と、この箇所は、単に予見しているのか、ある時代を見据えて記録しているのか不明である。列王記を最後まで書いた記者は、むろん、捕囚を知っていたろう。そして、契約の箱が失われたことも知っているはずである。どのような気持ちで記録したのか、興味深い。 列王記上 9:16 かつて、エジプトの王ファラオが攻め上って来て、ゲゼルを占領し、火を放って焼き払い、その町に住んでいたカナン人を殺すということがあった。その時ファラオは、この町をソロモンの妻である自分の娘に贈り物として与えていた。 この記述をみると、ファラオとの関係は、かなり良かったように見える。しかし、列王記記者は、どのようにしてそうなったかを書かない。たいしたことではないと考えたと言うより、そのようなソロモンの働きは重要ではないと考えたのだろうか。しかし、列王記は一章が長く、十分読み込めていないことも感じる。 列王記上 10:23 ソロモン王は、富と知恵において、地上のいかなる王にもまさっていた。 シェバの女王や、アラビアの王たちの来訪などについて書かれているが、知恵やそして富も、もう少し、知恵を用いて使えなかったのかと考えてしまうが、それは、後知恵だろう。それにしても、人間は愚かだと思わされてしまう。なにをたいせつにするかも、わからない。ソロモンも、このあとの、王国分裂などを見れば、もう少し、違ったことをしたのではないかと考えてしまう。エジプトのファラオの娘を娶ることだけでは、十分ではないことは、知っていたのではないかと思うが。市民意識へとつながっていくのは難しい。限界なのだろうか。 列王記上 11:1,2 ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。これらの国民について、主はかつてイスラエルの人々に、「あなたがたは彼らと結婚してはならない。また彼らもあなたがたと結婚してはならない。さもなければ、必ずやこれらの国民が、あなたがたの心をその神々へと向けさせるだろう」と言われた。だがそれにもかかわらず、ソロモンはこうした者たちを愛して離れることがなかった。 人間の弱さと、主の命令を犯すことが書かれている。このあとの、問題を、このことに集約している。女性問題、または、性的嗜好を含めた様々な欲に関する事柄は、正しい判断を邪魔することは確かだろう。しかし、正直、それを、「あなたがたは彼ら(モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人などなど)と結婚してはならない。」ここに集約してしまうことには、単純化バイアスが働いてしまっていると思う。見えていない、または、神様からうけとっていない、様々な御心があることを無視してしまっていると言うことのように思う。やはり、探求だろうか。あなたのことを教えてくださいには、このことも含まれていると思わされる。 列王記上 12:26,27 ヤロブアムは思った。「今のままでは、私の王国はダビデの家に戻ってしまう。この民がいけにえを献げるため、エルサレムの主の神殿に上るようなことがあるとすれば、民は再び彼らの主君であったユダの王レハブアムのもとに戻ってしまうだろう。彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに戻ってしまうだろう。」 そして、二体の金の子牛を造り、民に拝ませる。ここには、さすがに、「主から出た」(15,24)こととは、書かれていないが、やはり、なぜこのようになってしまったのか考えてしまう。長老とレハブアムと一緒に育った若者たちの助言のうちの後者にしたがったとしているが、この傾向を安易に普遍化してはいけないだろう。それと、ヤロブアムは街を建て直している(25)。引用句の思考も含めて、とてもまともである。信仰とは何なのかを同時に考えさせられる。 列王記上 13:2,3 その人は主の言葉に従って、祭壇に向かって叫んだ。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤと言う。彼は、お前の上で香をたく高き所の祭司たちを、お前の上で屠り、人の骨をお前の上で焼く。』」同時に神の人は、一つのしるしを示して言った。「これが主の告げられた不思議な出来事である。『見よ、祭壇は裂け、その上の油にまみれた灰は流れ出る。』」 サムエル記と列王記、『もろもろの王国』とも呼ばれる記録が、どのように書かれたのか興味を持つ。イスラエル、ユダの滅亡後に一気に、いくつもの資料を、伝承をもとにまとめられたのだろう。引用句には、ヨシヤの名前が登場する。その役割を予見してはいるが、そのときは、すでに、北イスラエル王国は滅亡したあとの王である。実際のヨシヤを知っていて書いたとも、そうではないとも言えるところが不思議でもある。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第89回の予定:今週、5月29日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書16章9節〜11節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 2025.5.25 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html
BRC の皆様へ (BCCで送っています) 列王記上はいかがですか。今週は、列王記上の後半を読み、列王記下に入ります。 前回も引用した、列王記の大きな区分は次のようになっています。 (この区分は、口語訳を用いたため列王紀と記の字が変わっていますがそのまま掲載します) I. ソロモン 列王紀上1-11 II. 王位継承(その1)列王紀上12-16 III. エリヤとエリシャ 列王紀上17-列王紀下10 IV. 王位継承(その2)列王紀下11-25 この区分では、今週は、王位継承(その1)の最後の部分とエリヤとエリシャについて読むということになります。実は、列王記の後には、歴代誌があるのですが、歴代誌では、基本的に、(南)ユダ(王朝)を中心に書かれているように見えますが、列王記については、少なくとも、王位継承(その1)では、おおよそ、(北)イスラエル(王朝)を中心に書かれているように見えます。エリヤとエリシャは、どちらも主として、(北)イスラエル王国を活動の地とした預言者ですから、預言者視点となっているようにも見えます。(北)イスラエル王国には、偶像もあり、基本的に、主に従わない王様が続きますが、その中で、預言者が活躍したということでしょう。それは、そのような国であっても、宗教活動が預言者を中心に続いたことが書かれているのかもしれません。 エリヤは主として列王記上、エリシャは主として列王記下に登場します。エピソードは、エリシャのほうがたくさん記録されているようですが、一般的には、エリヤが旧約最大の預言者とされ、新約聖書にも何回も登場します。(聖書協会共同訳では、マタイ9件、マルコ9件、ルカ7件、ヨハネ2件、ローマ1件、ヤコブ1件、合計29件)しかし、エリシャはルカ4章27節に一回登場するのみです。なぜなのでしょうか。そんなことも考えながら、読んでみるのも良いかもしれません。 列王記記者は、どのような基準でそれぞれの王について判断し、なにをたいせつなものとして伝えているのでしょうか。 みなさんと、聖書を一緒に読めることをとても、嬉しく思います。ちょっとした感想でも、疑問でも、あまり聖書から離れなければ、最近考えていることでもかまいませんし、わたしが書いていることや、投稿を読んで考えたことでも良いですよ。一緒に読んでいくことをみなさんも楽しんでいただけると嬉しいです。ただ、何回か書きましたように、相互にはよく知らないかたにも送られますので(わたしは知っていますので、ある部分、わたしを信頼していただくことが必要ですが)ニックネームや、イニシャルを使われることをおすすめします。匿名希望でもかまいません。 私の通読ノートを送らせていただきます。各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、日本聖書協会の聖書協会共同訳からのものです。 列王記上 14章ー列王記下 5章はみなさんが、明日6月2日(月曜日)から6月8日(日曜日)に読むことになっている箇所です。 列王記上と列王記下については、サポートページを参照して下さい。下にリンクをつけておきます。 インターネットに接続しにくい方もおられると思いますが、長文となりますので、このようにさせて頂きます。 列王記上:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#kg1 列王記下:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_books.html#kg2 聖書の各巻についての記述は、BRC2011 や BRC2013 で配信したものを編集しています。お時間のあるときに読んでみてください。 上記、ホームページには、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019, BRC2021, BRC2023 のときのものを、過去の聖書ノートとして掲載してあります。また、章ごとにまとめたページも作成し、朝送っている分の配信記録もまとめて掲載しています。 章ごとにまとめたページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc_co.html メール配信記録:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025m.html 過去のものも含めて、その回、たとえば BRC2025 のものは、わたしの中では、章は変わっても、つながっている部分も多いので、BRC2025 としてまとまっているものと、章ごとにまとめっているものと両方あるとよいのかなと考えています。また、少し前のものは、メールを探さなくても、ホームページで読むこともできます。その意味でも、自分が続けやすいペースと方法を見つけていかれるとよいかと思います。 聖書通読ノート 列王記上 14:8,9 私はダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。だが、あなたは僕ダビデのようではなかった。ダビデは私の戒めを守り、心を尽くして私に従い、ただ私の目に適う正しいことだけを行った。あなたはこれまでの誰よりも悪を行い、自分のために他の神々や鋳像を造り、私を怒らせ、私を背後に捨て去った。 これは、預言者アヒヤの言葉である。おそらく、多くのユダヤ教徒、キリスト教徒は、このことから、ダビデを評価するだろう。本当にそれでよいのだろうか。同時に、ダビデについて語る時、これ以外の評価を語ることは困難でもある。御心を受け取るのは、本当に難しい。 列王記上 15:4,5 それにもかかわらず、神である主は、ダビデに免じて、エルサレムに灯を与えられた。それは跡継ぎを立てて、エルサレムを存続させるためであった。ダビデは主の目に適う正しいことを行い、ヘト人ウリヤのことを除けば、生涯を通じて主が命じられたすべてのことに背くことがなかったからである。 列王記記者のダビデ評価はほとんど絶対的である。サムエル記にかかれている、ヘト人ウリヤのことは上げているが、それ以外は、人口調査などもふくめて、断じていない。列王記記者の重視することには忠実だったということなのだろう。御心を全体として受け取るのは困難だと言うことなのだろう。 列王記上 16:29,30 オムリの子アハブがイスラエルの王となったのは、ユダの王アサの治世第三十八年のことであった。オムリの子アハブは、サマリアで二十二年間イスラエルを統治した。オムリの子アハブは、彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行った。 アサは41年間エルサレムで治めている(15:10)。しかし、北イスラエルは、王が頻繁にかわっている。ジムリにいたっては7日間(15)となっているし、そのあとのオムリは12年間(23)、そして登場するアハブは22年間(29)と長い。ジムリのあとは、分裂していたこともかかれており、オムリがどの程度の期間、統一していたかは不明である。ただ、他の記録には、北イスラエルをオムリの国と書いている文献もあるとか。おそらく、評価は難しいのだろう。列王記だけの評価を鵜呑みにしてはいけないのだろう。歴史理解は、難しい。 列王記上 17:24 彼女はエリヤに言った。「あなたが神の人であることが、たった今分かりました。あなたの口にある主の言葉は真実です。」 感動する箇所である。しかし、性差(Gender Bias)もありそうだし、エリヤのことばは、乱暴にも感じ、すんなりとは受け入れられない。「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」(21)も、あまり愛を感じられない。しかしエリヤは、イエスの時代もヒーローだったのだろう。やはり、神の人と簡単に言うことに、複雑さを感じる。あまり、イエスが言ったことばだけに、根拠をおいてもいけないのかもしれない。 列王記上 18:45,46 こうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。アハブは戦車に乗って、イズレエルへと向かった。エリヤには主の手が差し伸べられたので、彼は裾をからげ、イズレエルに着くまでアハブの先を走って行った。 イズレエル(יִזְרְעֶאל:神が種を蒔いてくださる)とあるが、三日月型肥沃地帯の西南端にある地域だと思う。雨がふらなかったことは、作物が取れなかったことと関係しているので、この地域は、特別に重要だったと思われる。また、シリアからエジプトへの主要幹線道路にあったようである。遺跡についても、いずれ学んでみたい。エリヤは、おそらく、最も重要な預言者なのだろうが、どうも、好きになれない。その再来とされる、バプテスマのヨハネにも、人々は聞かなかったようである。 列王記上 19:20,21 するとエリシャは、牛を打ち捨て、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と答えた。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を引いて来て屠り、牛の軛を燃やしてその肉を調理し、人々に振る舞って食べさせた。それから、直ちにエリヤに従い、彼に仕えた。 とても興味深い。エリヤとエリシャの違いを述べているようにも見える。「ほかに、弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。』」(マタイ8:21,22)「また別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ9:61,62)を思い出させるが、この多様性も興味深い。 列王記上 20:42,43 彼は王に言った、「主はこう仰せられる、『わたしが滅ぼそうと定めた人を、あなたは自分の手から放して行かせたので、あなたの命は彼の命に代り、あなたの民は彼の民に代るであろう』と」。イスラエルの王は悲しみ、かつ怒って自分の家におもむき、サマリヤに帰った。 乱暴というか、非常に原始的なお話が書かれている。預言者の働きも、イスラエル側も、アラム側も、適切だとは思えない。その結びが、引用句である。主のことばについても、それを受け取った、預言者についても、ほんとうにこれでよいのかとも考える。昔なら、疑問を抱きながらも、肯定していたと思うが、私のような読み方も、ある時点のもので、また、変化していくのだろうが。難しい。 列王記上 21:28,29 この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。 ナボトのぶどう園を取る話である。むろん、アハブの妻、イゼベルは問題だと感じるが、それだけの問題ではないようにも思う。これを、この引用句のようにして、結論とすることで良いのだろうか。エリヤの役割は何なのだろうか。悪を指摘はしても、それに対して、どうひとのこころを変えていくか、または、みこころがなるようにということとは、だいぶん異なるように思う。 列王記上 22:49,50 ヨシャファトは金を求めてオフィルに行こうとして、タルシシュの船を数隻造った。しかしながら、船団はエツヨン・ゲベルで難破したため、行くことができなかった。そこでアハブの子アハズヤはヨシャファトに、「私の家臣をあなたの家臣と一緒に船に乗り込ませましょう」と提案した。だがヨシャファトはそれに同意しなかった。 判断が難しいことが書かれている。おそらく、世の中は、判断が難しいことばかりなのだろう。無理に判断しないほうが良いのだろう。ただ、列王記記者の考えはある程度あり、これは、書くべきだと判断したということだ。どのようなメッセージなのだろうか。 列王記下 1:3,4 この時、主の使いがティシュベ人エリヤにこう告げた。「すぐにサマリアの王の使いの者たちに会いに行き、言いなさい。『エクロンの神バアル・ゼブブのもとに伺いを立てに行くというのは、イスラエルには神がいないためなのか。それゆえ主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から下りることはない。あなたは必ずや死ぬであろう。』」そこで、エリヤは出て行った。 旧約最大の預言者といわれるエリヤ、このイスラエルで神のことばを伝え続けることは、大変なことだろう。そして、日常的には、何をしていたのだろうか。ただ、わたしには、やはり、わからない。なぜ、最大の預言者なのか。列王記は、ここで上と下が別れている。エリヤからエリシャとも言えるが、アハブの死のほうが明確だろうか。 列王記下 2:9,10 彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った。「私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何ができるだろうか。何なりと願いなさい。」エリシャが、「どうかあなたの霊の二倍の分け前をくださいますように」と言うと、エリヤは答えた。「あなたは難しい願いをするものだ。私があなたのもとから取り去られるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見なければ、そのようにはならないであろう。」 エリヤに「主は私をベテルまで遣わされるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言われ「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私はあなたを離れません」と答えるエリシャ(2)、印象的だが、引用句を見ると、そのように、常に師と仰ぐひとにとことんまで従っていくことが、長子として二倍の分け前をもらうことにつながったように見える。師の指示に従わずに従っていくこと、すこし、奇異に感じるが、いずれにしても、イエスに従っていくことはしたい。 列王記下 3:26,27 モアブの王は、戦争が自分に不利な状況になったのを見て、剣を抜いた七百人を引き連れ、エドムの王のもとへ突進しようとした。だがそれは果たせなかった。そこで彼は、自分に代わって王になるはずだった長男を取り、城壁の上で焼き尽くすいけにえとして献げた。するとイスラエルに対して激しい怒りが起こったので、彼らはそこを引き揚げて国に帰った。 なにか、古代の戦いの描写のようにみえる。このあとのアッシリア、さらに、バビロニアのような帝国とは異なるのだろう。このような巨大帝国は、どのようにして強大な力を持っていったのだろうか。それも、学んでみたい。 列王記下 4:33-35 彼は中に入って戸を閉め、二人だけになって主に祈った。そして寝台に上がって子どもの上に身を伏せ、自分の口をその口に、目をその目に、手をその手に重ねてかがみ込むと、子どもの体は暖かくなった。それから彼はまた起き上がって、家の中をあちこち歩き回り、再び寝台に上ってかがみ込んだ。すると、子どもは七回くしゃみをして、目を開いた。 この章には、エリシャに関する奇跡がいくつも書かれている。引用箇所は、シュネムの女のこどもが生き返る箇所である。これでは、エリシャはすごいということにはなっても、神様、主を信頼して生きることにはならないのではないかと思ってしまったが、おそらく、これが一つのステップなのだろう。難しいが。 列王記下 5:15 ナアマンは、陣営の皆と一緒に神の人のところに戻り、その前に現れて言った。「イスラエルのほか、全地のどこにも神はおられないということがよく分かりました。さあどうか、僕からの贈り物をお受け取りください。」 印象的な箇所である。このことを、列王記記者は伝えたかったのだろうか。しかし、やはり魔術のように感じてしまう。ひとの世界の話のように見える。結局、よくわからないとしか言えない。 お知らせ:聖書の会を、毎週木曜日夜7時半に荻窪の我が家で対面とオンラインで開催し、マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいます。すぐには、出席できなくても、ご関心のあるかた、情報が欲しい方は、登録をお願いいたします。登録者には、毎回の報告と案内などを送らせていただきます。 登録用フォーム(未登録者用):https://forms.gle/MsM5RgBG88kEWwP79 デジタルブック: https://icu-hsuzuki.github.io/biblestudy/markdq.html 次回、第90回の予定:今週、6月5日(木)午後7時半から9時半、マルコによる福音書16章12節〜13節を、他の福音書の関連箇所も参考にして学ぶ予定です。 (マルコによる福音書が終わったらしばらくお休みにする予定です、その後については未定です。) 2025.6.1 鈴木寛 BRC ホームページ: https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc.html BRC 2025 サポートページ:https://icu-hsuzuki.github.io/science/bible/brc2025s.html