案内を出したのが、12月29日でしたから、まだこれから新規登録があるかも知れません。現在申し込みは 40人、内12月29日以降の申し込みは4人です。BRC2011の開始時の登録数は16人でした。
Bible Reading Club からとって、略称は、BRC です。始める前に第一弾 BRC no.1 を送ります。
mailing list や、group をネット上に設定することも可能ですが、匿名参加も可とするため、BBC (Blind Carbon Copy) にアドレスをいれて、メールで送信する形式とします。 みなでグループとして共同体のようにして読んでいくのは楽しいのですが、いろいろな背景の方がおられますし、残念ながら途中でやめる方も出てくるかも知れませんので、原則は匿名とします。
自分は名乗り出てよいですよというひとは、短い自己紹介を書いて下さい。
それがあつまったところで全員に流します。引用は -- から -- までとし以下のようにして下さい。その部分のみ引用します。
すでに、BRC2011で自己紹介された方も、もう一度書いて下さってもよいですし、書かなくても構いません。新しい会として始めたいと思います。
例
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数学を教えている鈴木寛です。
「聖書を一緒に読みませんか」を主催しています。
このたび BRC2013 を始めました。
聖書を読む楽しみをみなさんとともに味わうことができればと願っています。
また、できるだけのサポートをしたいと考えています。
改善点などありましたら、なんでも書いて下さい。
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自己紹介以外は、投稿のときはイニシャルのようなものが良いかも知れません。全くの匿名でも構いません。
メールは転送、掲載などが簡単ですから。
1月1日は創世記1章と2章を読んで下さい。 一日2章ずつ進みます。
下に pdf の通読表を添付しますが、それ以外の情報は、
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2013.html
を参照して下さい。(上のホームページにも同じ pdf は置いてあります。
またこれを作成した Excel File も必要な方は言って下さい。自分用の通読表を作りたい方もいると思うので。)
印刷するのは、BibleChapters15 の一ページ目だけで十分だと思います。それだけ簡単に説明します。
各巻の章が書いてあります。出エジプトのあとに 2013.2.14 とかいてあるのは、その日に39章と40章を読み読み終わるということ、
レビ記の最後に2013.2.28-1 と書いてあるのは、この日はレビ記の27章を読みレビ記を読み終わり、同じ日に民数記の1章を読むことを意味しています。つまり、レビ記の最後の章を読むのは2013.2.28に読む2章のうちの1章目だということです。
インターネットに接続しにくいかたのために、次のメールで、上記のホームページを text にしておくります。
ある程度長い同じ情報のものですので、携帯などの方は、インターネット接続でご覧になった方がよいと思います。
卒業が近い方もおられるかと思いますが、現在受け取っているのとは違うメールアドレスに送った方が良い場合は、ご連絡下さい。
1月1日からみなさんと一緒に聖書を通読できることを楽しみにしています。
2012.12.31
(http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2013.html
2012.12.31
聖書を読む目的はいろいろとだと思います。
クリスチャンのかたにとって(わたしもそうですが)は、聖書を読むことは、神様からのメッセージを読み取ることを含んでいると思いますが、そのことに集中する事は危険でもあります。
まずは、その箇所は何を伝えようとしているかを受け取ることはどんな読み方にしても基本的です。
基本的なだけでなく共通の目的ともなり得るものです。
クリスチャンでない方の中には、キリスト教の聖典にはなにが書いてあるのか、西洋人の精神的基盤を支えると言われるものはなになのか、それに、論理的、科学的矛盾は無いのか、クリスチャン以外にとっても有効な道徳的指針はなにかあるか。などという動機で読まれる方もいるかも知れません。しかしそのような方にとっても、まずは、著者が伝えようとしていることをしっかり受け取ることは大切でしょう。
教義や解釈、背景などをわたしが書くこともあるかもしれませんが、断定的には書かないつもりです。
ひとつには、私の専門は数学で、断定的に書くほどの学識がないこともありますが、
同時に数学で正しいというほどに確実な解釈や学説があるわけではないと私が考えているからでもあります。
さらに、教義や解釈は、まずは聖書の中身の理解から出てくることで、教義や伝統的な解釈から、聖書を理解していくわけではありません。わたしが、教義や、伝統的解釈について書くときは、ひとつの参考として受け取って下さい。
質問、感想など、どんどん私宛に送って下さい。
どうしても個人的に答えてほしいという場合をのぞいて極力公開の質問、感想として下さい。
質問、感想の部分をわたしが転送しますので、できれば、ハイフンで線をひき(--- から --- で区切り)、
匿名にするか最後にイニシャル(または自分で決めたハンドルネーム)をつけて下さい。
前にも書いたように、お互いに知っているわけではないひとにも転送されますので、多少気をつけたいと思います。
すでに、何人か自己紹介文を送って下さっていますが、もうすこしあつまってから1月の終わりぐらいにまとめて送ります。
一般的なことはここまでとしましょう。
聖書はもともとは巻物です。合本になったのもかなりあとになってからです。
最初に我々が読むのは、旧約聖書、その創世記です。旧約聖書は一部を除いてヘブル語で書かれています。
創世記という名前ももともとの聖書にはついていません。
最初が「ベレシース(初め)」という言葉からはじまるので、ヘブル語ではベレシースと呼ばれ、ギリシャ語訳などの名前から創世記と日本語訳聖書ではなっています。
旧約聖書の最初の五巻は、トーラー(律法)また、モーセ五書とも呼ばれています。
「旧約」とは古い約束(または契約)という意味で、イエスを通しての新しい神の約束が「新約」の大体の意味ですから、
イエスの時代には新約聖書はなく、聖書といえば、旧約聖書ですが、もちろん旧約聖書という言葉もなく、「律法と預言者(マタイ7:12)」とか「モーセの律法と預言者の書と詩編(ルカ24:44)」などと呼ばれています。
このようなことを書くことは目的とはしていませんが、やはり本当に基本的なことだけは書いておこうと思った次第です。
創世記は50章あります。章という分け方も最初はなかったものです。
創世記の分け方はいくつも考えられますが、大ざっぱにわけると、
11:26(11章26節の意味です)までが「世界とひとのはじまり」について。
11:27 からが「イスラエルのはじまり」について。
となっています。前半は神様による世界と人間の創造からアブラハムまで、
後半は基本的にはアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語です。
前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。
1章・2章
神が世界を創造したこと。
混沌としたものがだんだん秩序をもったものとなったこと。
1:27 には「神は自分のかたちに人を創造した」とあること。
神は創造されたものをみて「それは、はなはだ良かった」と言っていること。
7日目を休んだことがかかれていること。安息日の起源(ただし日曜日は1日目です)
2:7 土のちりで人を造り、命の息をその鼻にふきいれ、人は生きた人となったこと。
2:17 に善悪を知る木からはとって食べてはいけないと言われたことが書かれていること。
2:20 に人には助け手が見つからなかった。それで女を造り、結婚のことが記されていること。
などです。いろいろと感想を持った方、ここに挙げなかったところで非常に印象にのこった所があるかたいろいろとおられると思います。
むろんそれでよいと思います。ひとつの読み方として、「何を伝えたかったか」の部分を記してみたまでです。
他にも神のことばは「ひかりあれ」と言われればその通りになる、ということを伝えていると言う部分を受け取った方もいるかも知れません。
神のことばは、人間のことばとはかなり異なるものですね。
このようにほんの少しだけ挙げてみても、たくさんのことがここにつまっていることに気づかれると思います。
科学的にみるとおかしいことがたくさんあると考える人もいるかもしれませんが、聖書は地球や人間の科学的ななりたちを伝えようとしてかかれたものではないと思います。すくなくともそれは第一義ではないと思います。ひっかかることは引っかかることとして書き留め、ここで著者が伝えようとしていることを読み取ってほしいというのがわたしの最初のメッセージです。
2:7 だけとってみても、ひとは「ちり」であること、命の息を(神によって)ふきいれられてはじめて生きた人となったことが書かれています。
ここからみなさんが何を受け取るかは、みなさんに任せますが、聖書は、この創世記の記者は、この記述を通しても読者に何かを伝えようとしていると思います。
皆様の発見に期待しています。
3・4章
もうここに罪と堕落、殺人が出てきます。ここでもいろいろなことを読み取ることができると思います。聖書全体からすると、3:15 に最初のメシヤ預言があると見ることもできます。
まずはみなさんがどう読まれるか、どのような疑問を持たれるかに任せることにしましょう。
疑問に思ったこと、心に残ったことは、書き留めておくことをお薦めします。
あまり長いと聖書ではなく、これを読むのが大変になりますから、今回はこの辺にします。
最初は、品番に送っていますが、基本的には、一週間に一回のペースを目標として、みなさんに書こうと思います。
いろいろと考えながら聖書をみなさんと一緒に読めること私も、楽しみたいと思います。
2013.1.2
2013.1.2
上にも書いたように今日の通読箇所は創世記11章と12章です。ここからアブラハム(最初はアブラム)の物語が始まります。新約聖書の最初はマタイによる福音書ですが「アブラハムの子であるダビデの子イエス・キリストの系図。」としてスタートします。イスラエルの人たちは自分たちをアブラハムの子孫だと言います(ヨハネ8:33, 39)。アブラハムは民族の父でも、信仰の父でもあります。ダビデがある意味で理想の王であるのと同じように、アブラハムは信仰の原点、民族の父です。また出エジプト記 3:6 では神自身が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言っています。また出エジプト記2:24には「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあります。
では、アブラム(後のアブラハム)はどのような人でどのように生きたのでしょうか。そして神はアブラムとどのような契約をしたのでしょうか。そのことが今日の箇所から書かれています。すでにここまでにも神様の約束が出てきますが、旧約・新約が古い契約・新しい契約をあらわすとすると、それらが何かは重要です。ヤコブの手紙2:23では、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。アブラハムにも問題行為があるように思われますが、それでもなぜこの様に呼ばれたのか、その理由を考えながら読んでみてください。
他には、アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。またパレスチナ問題をヤコブ(アブラハムの孫)の子孫とイシマエル(アブラハムの妾の子)の子孫やエソウ(ヤコブの双子の兄)との争いと表現する人もいます。神はイシマエルの母ハガルをどうあつかったのか、神の選びとは何なのだろうと考えながら読むのもよいと思います。
最初カルデヤのウル(現在のイラク)に住んでいたアブラム一家が、いずれはカナンの地に移り住みます。ウルからカナンの北までが三日月形肥沃地帯と呼ばれている土地です。
これからいろいろな人物が登場します。また地名もたくさん出てきますので、上のリンクに地図と人物の表も加えておきました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフとつづく物語はいろいろと考えさせられること、興味深い部分などあると思います。感想や、質問を書いて下さっても良いですよ。-- から -- で囲って下されば、他のかたにも転送します。
2013.1.6
以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
2013.1.6
25章ではアブラハムが175年の生涯を閉じ葬られます。最初の75年については聖書は何も語っていません。アブラハムはカナンの地をうけつぐとの約束を神から与えられますが、実際に得たのは、妻のサラと自分が葬られた墓とその周りのすこしの畑地だけでした。イサクを神に捧げようとするところは緊迫する場面ですが、それはモリヤの地と書かれていますね。モリヤということばはもう一回だけ聖書に出てきます。それは、歴代誌下3章1節。歴代誌記者は、神殿の建てられた場所を、アブラハムがイサクを献げ、神に義と認められた場所と関連づけているということになります。ヤコブの手紙2章23節でアブラハムが「神の友」と呼ばれている背景には、このことと、「神がそのひとり子をたまわった(ヨハネ福音書3章16節)」ことの類比があるのかもしれません。(単に他からの引用という説もあります。)前回のメールには「アブラムの甥のロトが出てきますが、ロトとアブラムの比較をするのもよいでしょう。」と書きましたが、何か気づいたことはありましたか。それぞれの周囲の人がアブラハムやロトをどう見ていたか、神の使いのもてなし方、神または神の使いへの祈りや願い、ひとつひとつ比較するといろいろな違いにも気づかされると思います。アブラハムは苦悩を語りませんが、おそらく苦悩が無かったわけではないでしょう。みなさんは何を感じられましたか。
さて25章には、アブラハムの子イサクの系図とあります。no.3 には「前半は「XXXの系図」ということばでいくつかにわけることもできるでしょう。」と書きました。この区分で考えると、ここからイサクの時代ですが、じつは、イサクのことはあまり書かれていません。次に「系図」ということばが出てくるのは36章ですが、その直前でイサクが亡くなっています。そしてそれが、創世記に出てくる系図とういことばの最後です。さらにそれは、イスラエル(ヤコブの別名)の系図であるかと思うと、そうではないのですね。系図を追いかけるのも、奥が深いですよ。アダムの系図、ノアの子らセム、ハム、ヤペテの系図も。
35章おわりまで、話しの中心はほとんどがヤコブです。イスラエルの12部族の基本の部分(後に変更が加えられるので)を構成するヤコブの12人のこどものうち11人が生まれます。ヤコブはどのような人で、それぞれのときに、どのように行動し、どのように神に応答していくでしょうか。単純ではありません。あなたは、ヤコブの物語からなにを学ぶでしょうか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。これから一週間ヤコブとの格闘を楽しんでください。
2013.1.13
創世記27章から40章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
2013.1.13
これまでは、ヤコブが中心でしたが、ヤコブの人生については、どんなことを感じられましたか。
ヤコブは、いろいろな策略をもちい、自分にとって都合の良いように進むように仕組んでいきます。わたしは昔、自分を「ヤコブ的」だと感じ、自分を嫌っていました。神様はそれと関係ないかのように、ヤコブを祝福し、そしてヤコブもヤコブなりにそれに応答していきました。
37章からはヨセフ物語が始まりました。しかしその前に34章には、次男シメオンと三男レビ、35章22節には長男ルベンに関する記事が挿入され、その直前に12男末息子のベニヤミン誕生と、ヤコブ(イスラエル)最愛の妻ラケルの死が記され、38章には四男ユダの物語が、オナニーの語源ともなったオナンの物語と共に記されています。この行為自体が罪(悪)かどうかの議論もありますが、ここでは何が悪だと書かれているかは確認しておくべきでしょう。新約聖書は、最初がマタイによる福音書になっており、その最初には長い系図が書かれています。それが、アブラハムから始まっていることは、前に書きましたが、そこに通常は系図に書かない女性の名前がマリヤを含め4人含まれています。その最初がここ38章に出てくるタマルです。ここまでで、ヨセフ物語の背景ともいえる部分です。ヨセフ物語に登場するヨセフの兄弟達の行動の背景についても上に書いたことから考えられるのではないかと思います。さて、ヨセフは、どのように自分の人生を、神のなされることを受け入れ、神に応答していったのでしょうか。
あと少しで、創世記も終わり、出エジプト記に入ります。イスラエルがエジプトに移り住んだ背景がこのヨセフ物語になっています。これが歴史的にどの時代にあたるのか議論もあり、史実性をまったく否定する学者もいますが、創世記全体とヨセフ物語の高い精神性を見ると、エジプト王、ファラオ(パロ)にヨセフが特別な扱いを受けることがとても自然に思えます。みなさんは、どう思われますか。大体の想定年代は、アブラハムはBC2000年〜BC1700年、ダビデ王朝がBC1000年ぐらいとしておきましょう。
これから一週間ヨセフ物語、そして1月26日から出エジプト記に入ります。
2013.1.20
創世記41章から出エジプト記4章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.1.20
旧約聖書は古い約束、契約の書、新約聖書は新しい約束の書だと書きました。聖書全体は、一つの救済史を記しているとも言われます。神の救いの歴史です。出エジプトはまさにそのエジプトでの奴隷生活からの救済が書かれています。特にキリスト教にとっても特別の意味を持つ過ぎ越の祭りの起源も記されています。また旧約聖書最初の5巻(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)は律法とも呼ばれますが、出エジプト記20章にはその核となる、「十戒」がモーセを通して民に与えられることが書かれています。キリスト教の教派 (denomination) によって、十戒をどの程度重要視するかは変わりますし、そもそも10とはどのように数えるのかも教派によって異なっています。律法をどうとらえるかの分かれ道でもあります。
さて、創世記から出エジプト記への大きな変化は何でしょうか。創世記では、神が個人に現れメッセージが語られます。アダムにエバに、カインに、ノアに、そしてアブラハムに、ハガルに、イサクにヤコブに。他にはだれに語っていますか。アブラハム以降、族長達の神で、その神を、その家族も僕も信じ、周辺の人も、これら族長達が神の祝福を得ていることを認めます。信仰を守るためには、他の民または町からある程度離れて住みます。ロトはソドムに住みますが信仰的な意味では、アブラハムとは大分違う記述がされています。ヤコブはシケムの町の近くに住みますが、娘デナのことで問題がおきます。そしてまた町から離れて住みます。ここまでは、個人的な神との交わりの段階ですが、ヨセフのいるエジプトに移住してから、民が増え、一つの家族だったものが、民族、国民と言われるグループになったのが、出エジプト記の背景です。
個人が神に向き合い、それに神が応答する、神が語りかけ、個人がそれに応答する、このことは、出エジプト以降も続きます。たとえば、出エジプト記1章には、助産婦が王より神を畏れたことが書かれています。そしてモーセです。しかし、民族での出エジプト以降では、共同体としての規範が必要となります。そこで与えられるのが律法だとすれば、非常に自然なことと言わざるを得ません。創世記は興味深い話しが幾つも出てきますが、ひとつひとつの行動について、これは正しいのかと問うとなかなか判断が難しかったのではないでしょうか。その正しさの基準が神が与えられた律法です。
個人的な神から、民の神、神が個人に語りかけるところから、神が民を選び出す。そのことが書かれているのが出エジプト記ということになります。その最初が、3章の神が名を告げられることと、その神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主ということです。この神のもとでモーセを通して告げられる神のことばで、民は一つになれるのでしょうか。そのように、神のみこころに生きる者となっていくのでしょうか。神とモーセと民、神様が望んでおられる関係はどのようなものでしょうか。そして民にとって神はどのような存在なのでしょうか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2013.1.27
出エジプト記5章から18章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.1.27
さて、わたしは、基本的には、皆さんが聖書を読んで、そこから自分でいろいろなことを汲み取っていくようになることが、一番だと考えていますので、なるべく、それぞれの巻についての簡単な概要と、日々の聖書の箇所から、どんなことをわたしが読み取っているかを書くようにしていこうと思います。それに他の方々からのメッセージや、学んだことなどが加わると良いですね。
さて、今日は2月3日ですから、通読箇所は、出エジプト記17章と18章です。
出エジプト記という名前は、創世記の時にも書きましたが、もともとのヘブル語聖書の名前ではありません。大体は、紀元前3世紀頃からエジプトのアレクサンドリアで翻訳されたというギリシャ語訳旧約聖書(Septuaginta, セプチュアギンタ、七十人訳と呼ばれ、略記は LXX)にある名前が、紀元4世紀ごろのヒエロニムスという教会のリーダーを中心とした人たちがラテン語に聖書を翻訳したウルガタ訳へと引き継がれて、我々がいま持っている聖書の各巻の名前になったと言われています。すべての巻の名前がそうかどうかは調べていないのでよくわかりません。
ICUの名誉教授の並木浩一先生(旧約学)の定年前の最後のキリスト教概論に一学期間殆ど出席したのですが、並木先生曰く、この七十人訳はアレクサンドリアに移り住んでいたたくさんのユダヤ人が、2世・3世となっていくにつれ、ヘブル語を話せなくなっていくこども達が大多数になってきた。そのこども達に信仰を継承すべく翻訳をしたもので、読み聞かせのような形式になっており、厳密な訳というより、聖書の信仰を伝えることを目的にしていると言っておられました。新約聖書の記者のルカなどのギリシャ人は、ヘブル語はおそらく読めませんから、基本的に旧約聖書の引用は、この七十人訳によっていると言われています。
脱線しました。さて、各巻の名前に戻り、七十人訳を紀元とした各巻の名前に対して、もともとのヘブル語の聖書は、それぞれの巻の最初の言葉をとって、その巻を呼ぶときに使っていました。このあたりまでは常識または通説です。創世記はヘブル語聖書の名前が「はじめに」であることは前に書きました。出エジプト記は「これらは」来週には読み始めるレビ記は「そして呼び寄せ」です。それぞれの1章1節を見て、これらのことばがどこから取られているか考えてみて下さい。
さて、出エジプト記という名前は、内容からして自然な気がしますが、そうはっきり言えるのは 15章21節あたりまでです。そして、荒野の旅が記され、19章から40章までは、シナイにおける契約について書かれています。そしてそのうちの25章からは神の幕屋に納めるものと、幕屋についてのことこまかな記述がずっと続きます。なぜこれまで細かく、書かれているのだろうと考えてしまいますよね。あまり面白いとは思えないのも自然かも知れません。
最初に遅れ気味の人ができてたのではないかと書きましたが、正直、このような聖書の内容にも関係しているのではないかと思います。
おそらく、なかなか興味を持てない理由がもうひとつあると思います。それは、創世記では、アダムとイブにはじまり、ノアを経て、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフとその兄弟達、それ以外にも、アブラハムの僕や、ロト、ハガルなど、個人に焦点があたり、様々な人々が登場、かつ、その一人一人が神様にどう答え、神様がどう導いていったかが、記されています。それに対して、出エジプト記は、アロンやミリアム、エテロ(エトロ)、ヨシュア、なども出てきますが、基本的に、傑出した人で、神が導き、それに応答していくのはモーセだけです。
20章の普通、十戒と言われる戒めが与えられるあたりまでは、アブラハムの契約に基づいて神様がイスラエルの民を購いだし、そのための指導者としてモーセを選びその器を整え、エジプトに送り出し、10の災厄の後に、エジプトを民と共に脱出し、葦の海をわたります。モーセがリーダーとして整えられるのに、荒野での40年を必要としたことなどは、考えさせられますし、しゅうとのエテロ(またはエトロ)が来て助言をするところなども、興味深いですが、それも、前半です。
この出エジプト記後半からレビ記はどんなことを考え、読んでいったら良いのでしょうか。このあたりが、聖書通読の第一関門です。
幕屋(会見の天幕)は、神様と会う場所、つまり神様が臨在する場所です。神様はイスラエルと共におられ、イスラエルは神様(主)と共に歩むというのです。これは、自分で行動規範を考え決める生活とも、だれかのリーダーシップに従って生きる道とも、合議制で進む方向を決めていく道とも違います。まったく新しい生活です。神様と会う場所はどのようなもので、どのように礼拝し、そして神様と共なる生活において、ひとはどのように生きるのか。聖なる生活とよぶわけですが、もし神の意思が明確に示されるのであれば、それは何から何まで違う生活でしょう。そのことが書かれているのが、出エジプト記後半から、レビ記です。
ガラテヤ人への手紙(新約聖書)3章24-25節では
出エジプト記とレビ記に書かれている様々な規則は、モーセを通して与えられたと書いてありますが、基本的には祭司やレビ人のための規程ではなく、民全体、一人一人のための規程です。それが証拠に、レビ記は次のような言葉で終わっています。(レビ記 27:34)
2011年2月6日のICU教会の礼拝では北中晶子牧師が「敵はどこに?」というタイトルでメッセージをして下さいました。聖書箇所はマタイ5章43-48節でした。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2013.2.3
出エジプト記19章から出エジプト記32章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.2.3
前回、レビ記の予告はしましたので、出エジプト記の復習から。
もう一つ出エジプト記の大切なことは、エジプトを出てすぐからイスラエルの民の不信・不従順が繰り返されていることですね。特に32章の記事には驚かされます。そしてモーセが神に民についてとりなしの祈りをすることも記されています。32章32節には「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と書かれています。神と神を信頼するものとのコミュニケーションによって明かされる神様のみこころの記述とも表現できるかもしれません。
旧約聖書には明確には書かれていませんが、使徒行伝7章23節・30節にはモーセが荒野でエテロのもとにいた期間を40歳から40年間としています。モーセはユダヤ人に律法をもたらしたひととして記憶されますが、最初の40年間に王宮で教育を受け、次の40年間に人間として練られ整えられたのでしょう。(出エジプト記7章7節には「彼らがパロと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」という記述だけがあります。)モーセは何を支えに生きていたのでしょうか。モーセにとって主はどのような方だったのでしょうか。確実なのは、モーセは直接神と語り合い神からのメッセージを民に伝えたと書いてあることですね。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2013.2.10
出エジプト記33章からレビ記6章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen 創世記、Ex 出エジプト記、Lv レビ記、Prb 箴言、1Sam サムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書、
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.2.10
レビ記の概要をまず書いておきます。そのときに読んでいる箇所を全体の流れの中でとらえることも、理解を助ける一つです。わたしにとっても復習のため。
レビ記(言葉は主として口語訳による)
1:4 頭の上に手を置く:身代わりのために受け入れられるため、自分自身をささげることの象徴、完全に焼き尽くされ祭司も食べない。
ここまでとします。どんなことを考えながらわたしは読んでいるかを書いてみました。
2013.2.17
レビ記7章からレビ記20章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.2.17
レビ記 / 17章 14節 (口語)
レビ記では、血のことがたくさん出てきます。そして、ここでは「どんな肉の血も食べてはならない」となっています。以前、我が家の聖書の会では使徒行伝を読んでいましたが、そのちょうど真ん中の15章、通称エルサレム会議と呼ばれている箇所では、「異邦人(ユダヤ人以外)が救われるためには、ユダヤ教徒になって律法をみな、守らなければならないか」という問題と「クリスチャンになったら、律法を全部守るべきか」という問題について、議論されています。その結論は使徒行伝15章28・29節「すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。」これらの事項を書いてあるのは、ユダヤ人クリスチャンは、律法をしっかり守って生活していましたから、異邦人クリスチャンがこれらのクリスチャンと共に教会生活をするためには、このような基本的な事を守ることが必要だったからだとも言われています。
それは、さておき、ここでも「血」が出てきますね。なぜ「血」なのかの答えが、レビ記の上にあげた箇所に書いてあります。「すべて肉の命は、その血と一つだからである。」つまり、血を食べないようにし、血を特別なものと考えたのは、それが命そのもの、命と一つだとされたからとなります。つまりは「いのち」を特別なこととした、命を特別なものとして大切にしたということです。つまり、命をむやみに食べてはいけないということです。神様はモーセを通して (レビ17:1, 8等)いのちと同一のものとして血をたべるなと命じたわけです。神様を前面に出さないなら、これを当時の人がいのちをたいせつに生きることを表現する信仰告白と取ることもできます。血といのちは違うだろうというひとも多いと思います。では、みなさんは、いのちはどこにあると思いますか。現代の人は命とは何だと思っているのでしょうか。
日野原重明先生(1911年10月4日 山口県生まれ、現在聖路加国際病院理事長・同名誉院長・聖路加看護大学名誉学長)の「愛とゆるし」(教文館 ISBN 978-4-7642-6920-0) という本をご存じですか。そこに日野原先生がされた、オーストラリアの小学校での「いのちの授業」について書かれてありました。
レビ記 / 18章 7-8節(口語)
ちょっと異常なことが書かれています。しかし、聖書をここまで読んできた人は、思い当たる事件がありますよね。
そうです。ルベンの事件です。
創世記 / 35章 22節 (口語)
このあと、ルベンは、ヨセフ物語でも特別な役割を演じるのでした。「若いときの過ち」であったかどうかは分かりませんが、この事件については、創世記49章3,4節にも書かれています。一生の問題となったことでしょう。ビルハとのことが、父ヤコブをはずかしめることだということまで思いが到らなかったのでしょうか。
実は似たそしてもっと悲劇的なことがあとから出てきます。列王紀上です。サムエル記下の問題も似た問題です。
このレビ記の箇所は、平たく言うと、「お父さんを大切にすること。それはお父さんにとって大切なお母さんを大切にすること。」ということでしょう。そして同様の関係の記述がこのあと続きます。すなわち、表題に書いたように「大切な人を大切にすることは、大切な人の大切な人を大切にすること」だと言うことです。
皆さんにとって大切な人はだれですか。その人の大切にしている人を大切にしていますか。もし、ほんとうにその人が大切なら、その人の大切な人も大切にしますよね。その人に喜んでもらう為に。神様を大切にすることは、神様が愛しておられるわたしたちの隣人を愛することでもあります。
実は、授業で「あなたにとって一番たいせつな(または、たいせつにしたい)もの、ことはなんですか。」と聞いています。大切なひと、もの、ことを大切にして生きることはあまり簡単ではないことなのかも知れませんね。
レビ記 / 19章 18節 (口語)
レビ記で一番有名な聖書の箇所はここでしょう。聖書で一番大切な戒めとしてイエスが答えられる二つの戒めのひとつです。(マルコ12:28-34) 善きサマリヤ人の譬えで出てくる箇所でもあります。(ルカ10:25-37) このレビ記19章を読めば、隣人についてのことがたくさん書かれていることが分かりますね。ここだけを読めば隣人はやはり「自分の民」の人だろうなと考えてしまうかも知れません。この締めくくりが「わたしは主である」というのは、重いですね。
今日は、17章・18章・19章からひとつずつ聖書の箇所を取り上げてみました。わたしも今回の通読でまた思いを新たにさせられた箇所でもあります。みなさんは、どんなことを感じておられますか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2013.2.24
レビ記21章から民数記7章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.2.24
まずは、民数記について少し概要を書き、13章・14章について考えてみましょう。
民数記は冒頭の言葉が「ワッイェダッベール(そして主は仰せられた)」ですから今まで読んできたものと同じように、ヘブル語聖書ではこの言葉で呼ばれていますが現代ヘブル語聖書では1節の4番目の単語をとって「ベミドゥバル(荒野にて)」と呼ばれているそうです。いのちのことば社の新聖書講解シリーズ 旧約3「レビ記・民数記」は山崎順治という日本基督改革派の牧師(現在は引退牧師)が書いていますが、わたしは甲子園に在住時代この方が牧師をしている甲子園キリスト教会に所属していたので、懐かしくなって手に取ってみました。上に書いた民数記の呼び名についてもこの本から取ったものです。その呼び名についてギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)やラテン語に基づいて「民数記と呼ぶのは人口調査の出来事に基づいたものであるが、『荒野にて』という書名は、起源的には1:1のシナイの荒野を指しているが、それだけでなく、10:11以下のパランの荒野、20:1以下のツィンの荒野、22:1以下のモアブの荒野と、本書に書かれている出来事の舞台が荒野であることを考えると、極めて内容にふさわしい書名であると言える。」と書かれています。
内容は以下の通りです。
民数記1:1はエジプトを出た第1年1月15日から約1年たった第2年2月1日からスタートしますが、次の申命記は 第40年11月1日から始まりますから、出エジプトからカナンに入る荒野の40年の殆どは、この民数記となります。その長い期間に起こった出来事が記されているわけです。そしてなぜそんなに長く荒野をさまよわなければならなくなったかが書かれているのが、今日と明日の箇所です。もちろんその「なぜ」の部分は皆さん自分で読み取って下さいね。
日本聖書協会のページの左上にある検索窓にカレブと入れてみると、カレブが出てくる聖書の箇所が全部リストされます。それなりに人気のカレブですが、新約聖書には出てきません。
13章
新渡戸稲造の『武士道』(原文は英文でProjekt Gutenberg にも入っていますね)
決定的な分かれ道となったこの事件、あなたはどう読みますか。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2013.3.3
民数記8章から民数記21章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Judg or Jgs士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.3.3
特に20章からの部分をみてみると、20章には、1節にモーセやアロンの姉妹であるミリアムの死が期されていますが、その直後に「メリバの水」の事件が記されています。詩編106篇32節には、次のようにあります。
しかし、これから先もまだまだ長い道のりで、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったとしてもまだまだ困難があることを考えると、この事件を理由に「約束の地」に入れないことを宣言されたことにも、神様の配慮があったのかもしれないとも思わされます。
前回引用した、山崎順治著「レビ記・民数記」にも上の12節を引用して、次のように書かれています。
このあともシホンとオグを滅ぼす記事(21章)に始まり「蛇」の像こと(21章, ヨハネ3:14, 15)、バラムとバラクのこと(22-24章, 第二ペテロ2:15, ユダ1:11, 黙示録2:14)、バアル・ペオルの事件(25章)、第二回人口調査を経て(26章)、ゼロペハデの娘達のこと (26章・36章)、ヨシュアの任命(27章)、供え物についての定め(28章・29章)、女性の誓願について(30章)、ミデアンとの戦いとその後の分捕り品の問題(31章)、ルベンとガドとマナセの半部族など(32章)、興味深い話が続きます。バラムの話はとても興味深いですが、バラムは600kmも離れた「ユフラテ川のほとりにあるペトル」(22:5) から呼ばれたとあります。民数記はいろいろと考えさせられる記事が多いですよ。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
2013.3.10
民数記記22章から民数記35章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Judg or Jgs士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.3.10
今日は3月17日、通読は民数記34章・35章です。あと一章で民数記も終わり、次は申命記です。以下では、申命記に簡単に記すとともに、民数記32章についても少し書きたいと思います。
まずは、申命記について。
申命記は、他の旧約聖書と同様、ヘブル語聖書ではその最初のことばから取って「エーレ・ハッデバーリーム(これらはことばである)」あるいは短く「デバーリーム(ことば)」と呼ばれています。17:18にある「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということば、または、短く「ミシュネー(写し)」と呼ばれることもあるようです。日本語聖書の申命記は、漢語の申命(重ねて命令する。またその命令)から引き継がれているとのことです。全体としては、モーセの説教集の形式をとり、神がモーセに語り、モーセを通して伝達されたことばの要約が記されています。
特に、ユダヤ人が朝夕、唱えている「シェマー(聞け)」は、申命記 6:4-9, 11:13-21, 民数記15:37-41 から取られ、熱心なユダヤ教徒は、これらに書いてあるように、これらの聖書のことばをかいたものを箱に入れて、額や体の一部に付けるくらい大切にしています。申命記6章4節から9節、11章13節から21節、民数記15章37節から41節の部分をこの順で新共同訳で引用します。
新しい世代への律法の更新(再提示)
つぎに民数記32章について。
ここでは、ヨルダン川の東の地域をほぼ平定した時点で、12部族のうちのルベン族、ガド族および、マナセの子マキルの部族が、その地域をわれわれに与えてほしいと願い出ます。これに対して、
モーセはガドの子孫とルベンの子孫とに言った、「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。(口語訳 民数記32:6,7, 15節まで読んで下さい)
勝利をおさめた直後の分裂の危機です。このあと読んで下さればわかりますが、その分裂の危機は回避されます。そして最終的には、ヨシュア記22章にあるように、祝福をもって終わります (ヨシュア22:6, 22章全体を読んでみて下さい。もう一つの危機についても記されています)。
前回の通読でこの箇所について書いたときは、東日本大震災の直後のときのことで、共同体についても考えさせられました。以下はそのときに、書かれた言葉として読んでください。
ひとりひとりが他者のことを考えられなければ、そのような想像力をもたなければ、節電もできないでしょうし、食料品も無くなってしまうでしょうし、援助品も有効に用いられず、無駄となってしまうでしょう。ニュースでも、物を買うとき「本当に必要かを考えて」買ってほしいと言っていました。被災地での心的外傷後ストレス障害 (PTSD(Post-traumatic stress disorder)) を最低限に抑えるための大切なことは、「声を掛け合うこと」だとも言っていました。閉鎖的・排他的な共同体が、多くの問題をもたらすことは事実ですが、共同体としての意識がなければ、ひとは困難をのりきっていけないことは確かだと思います。ICU もやはり20世紀前半に2回の世界大戦を起こしてしまった現実を
As neighbors we are one world. As brothers we are not.
と表現し、これではいけないということで平和を作り出す人たちを育てるために作られた大学です。
この機会に、ICU を含め、地域の人たちが、日本中の人々がそして、世界の人たちが、兄弟姉妹だと感じられるようなひとつひとつのことによって、分裂ではなく、それぞれが出しうる物を用いて、互いに仕え合うことを学ぶことができればと願っています。
わたしも、そのことを考えたいと思っています。
2013.3.17
民数記記36章から申命記13章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Duet or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.3.17
申命記には、たくさんいろいろな命令が書かれていますが、10章12・13節には次のように記されています。今回は新共同訳から引用しましょう。
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。(「ただ」の部分は口語訳では「ただこれだけである。」)
これを見ると、最終的には神様が望んでおられることは私たちが「幸いを得ること」であることが分かります。少し前にICU教会の北中晶子牧師が説教の中で「神様はわたしたちに人生を楽しんでほしいと思っているのでしょうか。それともいろいろと楽しむことを我慢して、いわゆる正しい生き方をしてほ しいと望んでいるのでしょうか。みなさんはどう思いますか。」と問いかけておられましたが、神様の望んでおられることは、究極的には私たちが「幸いを得ること」であることが、ここからも分かります。そして、この律法といわれるモーセ五書における「幸いを得ること」の鍵がここに記されているわけです。テーマの一つです。
前回「申命記」の名前のもととなった17:18の「ミシュネー・ハットーラ(律法の写し)」ということばを引用しましたが、これは14節から始まる王に関する規程の一部でした。馬を増やしてはいけないこと、妻を多くもってはいけないこと、金や銀をたくさん蓄えてはいけないと書かれ、その次に18節・19節には次のように書かれています。
彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。
そしてそれは、高ぶらないため(20節)となっています。馬は当時軍隊の力を象徴するものでした。多くの妻は「こころを迷わ」さないため、金や銀はそれをいのちの支えとしてしまわないためでしょう。神にのみ頼り、心を集中してこの律法(当時の聖書)を「生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」となっています。聖書を「生きている限り読み返」す目的がここに書かれています。「神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守」るためで、それは、上に書いたこととあわせると、「幸いを得る」ためです。
最後32章では次世代を担うヨシュアと共に律法のことばを民に読み聞かせ 46節・47節でつぎのように言っています。
「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」
聖書のことばは「命」だと信じますか。
今回は、申命記ひいてはモーセ五書のテーマの一つについて書いてみました。申命記には、ほかにもいろいろと興味深い話題が記されていますが、それは皆さんの発見に委ねましょう。
ちょっと今日は堅すぎたかな。「こんなことについて書いてほしい」など、リクエストがあれば歓迎です。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.3.24
申命記14章から27章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Duet or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.3.24
モーセは申命記 34:10 口語訳で「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。」と書かれているほど特別な存在でした。しかし、このモーセは申命記3:25で「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と願いますが、神様はそれを許されませんでした。3:26 には「あなたたちのゆえ」と書いてありますが、他の箇所にもう少し明確に、その理由が書かれていますね。民数記20章と27章、そして申命記32章。
そこでモーセの後継者として任命されたのがヨシュアです。(民数記27章、申命記1章、3章、31章)さて、このヨシュアはどんな人だったでしょうか。出エジプト記17章、24:13, 32:17, 33:11, 民数記 11:28, 13:16 と 14章に出てきます。
ヨシュア記を読んだことがない人でも、黒人霊歌の "Joshua Fit the Battle of Jericho" は聞いたことがあるのではないでしょうか。ICU の Glee Club も演奏会ではかならず黒人霊歌を歌いますが、この曲もかなり頻繁に歌っています。YouTube には Mahalia Jackson や、Golden Gate Quartet のもあります。大学院生時代、アメリカの教会の聖歌隊の余興として barbarshop という形式(?) で男性4人の掛け合いのアカペラで spiritual を練習したことがあるので、ちょっと懐かしいです。楽譜もないのでほとんど忘れましたが。この曲は、Spritual とも Gospel とも Jazz とも言えると思います。
ヨシュア記
ヨシュア記からネヘミヤ記までは、カナン進入以降のイスラエルの歴史が書かれていますが、ユダヤ教の伝統では「預言者」に分類されています。上で触れたエリコの戦い以外にも、1章の激励や最後の24章は好きな人がいるのではないでしょうか。しかし、このヨシュア記を読むとどうしても避けて通れないのは、新改訳聖書で「聖絶」と表現されている「神様のものとする」としてカナンの地の人たちをすべて殺してしまうことです。聖書はそのことをどう記述し、これはどう理解したらよいのか。なかなかチャレンジングです。ヨシュア記に入る前にも、なぜカナンの地の民を滅ぼすのかその理由が何カ所かに書かれていました。覚えていますか。そして滅ぼす側のイスラエルの民はなぜ選ばれたのかも書いてありました。その記述を同時に考えながら、問題を問題としてしっかりもって、新約聖書まで読み進んでもらいたい、とだけここには書いておきます。キリスト教界でも、もちろん、議論のあるところです。
約束の地の所有
ヨシュア記からみなさんは、なにを学ばれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.3.31
申命記28章からヨシュア記7章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Josh or Jo ヨシュア記、Judg or Jgs 士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.3.31
今日は4月7日ですから、ヨシュア記12章・13章です。予定では、来週早々にはヨシュア記を読み終わり、士師記に入ります。ヨシュア記から、列王紀下までは、変化も多く、物語としても面白いので、興味をもって読めるのではないかと思います。かなり遅れてしまった人は、どこまで読んだか記録を確認して、ヨシュア記や、士師記、ルツ記またはその次のサムエル記上から読むのもよいと思いますよ。あとで、読み飛ばしたところに戻ってくることもできます。
ヨシュア記6-12章はカナン征服、13-21章はカナン分割ですから、実感を持つには、やはり地図の助けが必要でしょう。いつも、一番下につけている、BRC ホームページのリンク爛の 12. Bible Atlas という site の地図はとても良くできています。まず一つだけみるなら
先住民のカナン人はフェニキアのセム語系の言語を話す人たちで、フェニキアは基本的には海洋民族で交易で発展してきた民族といってよいと思いますが、それは民族の起源ぐらいに考えるのがよいでしょう。少し前に、チュニジアで政変が起きましたが、チュニジアは、カルタゴ移籍の観光収入が大きく、それが落ち込んでいるというニュースも出ていました。そのカルタゴは、フェニキアの植民地、カナンの地を一つの根拠地として栄えました。ペリシテ(パレスチナの語源ともなっており、パレスチナ南部の5都市を中心としている)も出てきます。海の民とも呼ばれますが、他のカナン人とは区別されているようです。カナン人もペリシテ人も交易を生業としていることからもわかるように、文明としてはかなり高く、ヨシュア記にも「鉄の戦車をもっている」と恐れられています。鉄を扱う技術はまだ未発達で、それを手にした民族が強いとされた時代です。ヨシュアに率いられたイスラエルは、その意味では、劣っていた、自他共に劣っていると認めたことは確かでしょう。(いのちのことば社「新聖書辞典」などいくつかを参照しています)
その背景のもとで、民数記13章にでてきた、斥候の報告とカレブの発言を理解しないといけませんね。ヨシュア記にも何カ所か、関連する箇所が出来ています。エリコ(2章・6章)についても、その後のアイ(7章・8章)についても、ギベオン(9章)についても 31王の土地の征服も(10章ー12章)。さらに、分割のときにおいても。17章14-18節も面白いと思います。モーセのリーダーシップと、ヨシュアのそれとは、大分違いますね。聖書はここからどんなことを語ろうとしているのでしょうか。(名称は口語訳のものを使いました)
みなさんは、どんなことを感じ、学んでいますか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.4.7
ヨシュア記8章から21章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.4.7
士師記
ヘブル語聖書でも「ショーフェティーム(士師(さばきづかざ)たち)」となっています。
背景は、1章・2章に書かれており、ヨシュア記とのつながりもよく分かるようになっています。特に、2章6節から23節でしょうか。これは背景というより、士師記の神学といっても良いものでしょう。
2:20-23 の新共同訳を書いておきましょう。
ヨシュア以後は、部族毎にわかれて住むことになりましたが (2:6)、実際には、イスラエルの民が、その地を支配していたわけでもなく、つねに、他の部族の脅威のなかで生きていたことが分かります。その救助者として士師が登場します。しかし、イスラエル全体を治めたわけではなく、ある部族が、ある民族に圧迫されると、士師が起こされて、救われるこのくり返しが書かれていると言っても良いでしょう。
しかし士師記には面白い物語もいくつか記されています。特に、ギデオンや、サムソンの話は、物語として面白いだけでなく、詳しく読み込んでいっても、いろいろと考えさせられるのではないでしょうか。そして、最後に二つの挿話があり、このあと、ルツ記をはさんで、サムエル記へとつながります。サムエルは、最後の士師とも、最初の預言者とも言える特別な存在です。楽しんで読んで下さい。途中で挫折してしまったかたも、ここから再度読み始めるのも良いですよ。
イスラエルの背教と救い
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師記21:25 新共同訳)
士師記の一番最後に出てくることばです。実はもう一回士師記の途中にも出てきます。見つけて下さいね。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.4.14
ヨシュア記22章から士師記11章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.4.14
皆様いかがお過ごしですか。今日は4月22日ですから、士師記10章・11章です。今週士師記がおわり、4章だけのルツ記、そして、サムエル記上・下と進みます。通読が、遅れてしまった人には、ルツ記から再開することがお勧めです。ルツ記、サムエル記上・下、そして、列王紀上・下、旧約聖書のなかで、わたしが最も好きな部分です。
しかし何回読んでも、士師記の最後には悲しいを通り過ぎる記事が二つ書かれています。以前書いたように士師記の最後21章25節には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師17:6参照)と書かれています。神がひとりひとりに語りかけられその応答を記録した創世記、モーセを通して神のことばが語られた、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュアのリーダーシップのもとでカナンにはいり入植していったことの記されたヨシュア記と続きます。しかし定着して部族毎にわかれると、絶対的なリーダは不在、政治的なリーダーもそのときどきに起こされどうやら滅びないで済んだ士師記の時代、モーセはどの時代にもいるわけではないとすると、神の使いを第一として求めるのではなく、まず王を求めるのも自然な気がしてしまいます。その方向へ向かっていく方向付けがこの士師記です。しかしそのなんともたいへんな時代に、なにかほんわかと心地の良いルツ記、ナオミ、ルツ、ボアズの物語へと向かいます。この悲惨な時代にも、こんな人たちがいたのだと、慰められます。女性が活躍する、ひとの日常。戦争や紛争が絶えない時代が良いわけではありませんが、そのときにもひとのいとなみ全体、女性・男性の日常に目を向けると、神様の働きが、また違った形で見えるのかも知れません。
ルツ記
全体が4章からなる小品で、ヘブル語原典では「諸書」の第5番目で雅歌と哀歌の間ですが、時代的には、1章1節が「士師が世を治めていたころ」とスタートするように、士師の時代の出来事を記述しています。そしてこの書の最後の4章22節は「オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。」で終わることからも、ダビデの系図の一コマを記録するものとなっています。新約聖書の一番最初にあるマタイによる福音書は系図からはじまりますが、前にも書いたようにそこに普通は記録しない女性の名前が4人記されていますが、その3番目が (マタイ1:5) ルツです。ルツはモアブ人ですが、モアブについて今まで出てきたことを覚えていますか。申命記23章4節には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」とあります。そのモアブ人ルツの美しい物語が聖書に含まれている事自体、美しいことだと思います。中味は読んでのお楽しみ。ゲーテはルツ記を「倫理的かつ牧歌的響きをもってわれわれに伝えられた最も美しい小品」(いのちのことば社 新聖書注解) と言っているそうです。さてみなさんは、ルツ記からどのようなことを受け取るでしょうか。現代とは大分異なる世界であることも確かです。
2013.4.22
士師記12章からルツ記4章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth or Ru ルツ記、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Sm サムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.4.22
以前にも「新聖書注解」いのちのことば社を引用したことがありますが、今回も確認のために使いました。サムエル記の前はルツ記でしたが、ルツ記の部分は鍋谷堯爾が執筆、サムエル記は榊原康夫です。まったく個人的なことですが、私は神戸ルーテル神学校に聴講に通っていた時期があります。そのときの校長が鍋谷先生でした。また、高校のころ始めて聖書注解というものに触れ感激したのが、榊原先生の「マタイによる福音書 I-VI」でした。大阪大学工学部中退で神戸改革派神学校に進みましたが、榊原先生の勉強のすごさは神話のようになっていると何人もの人から聞きました。このマタイによる福音書の講解は榊原先生が30歳にもならない頃書いたもので、とても強烈で、私が聖書を勉強するようになるきっかけとなったものでもありました。信仰に関係することは、信じることが大切で、あまり深く勉強しない方が良いのではないだろうかと思っていたことが、まったく覆されたものでした。学べば学ぶほどこころが開かれていく、そんな経験を若いときにする事ができたのはとても幸せだと思っています。高校から大学のころ、榊原先生の本がたくさん出版されたこともあり、むさぼるように読みました。そのあと断筆宣言。同時期に、内村鑑三の全集も出版され、人から貸して頂いてたくさん読みましたが、榊原先生は、お会いして話すこともできたので、特別な存在でした。わたしは後に日本基督改革派甲子園教会の教会員になった時期もありますが、じつは、榊原先生は若い時期にこの教会の牧師だったことを知っていたので訪ねたのがきっかけでした。まあ熱烈なファンだったと言うことですね。聖書の通読とは関係の無いことですが、旧約聖書を興味をもって読むようになったのも、鍋谷先生、榊原先生、このお二人の影響が大きいので、つい書いてしまいました。
サムエル記 上・下(サムエル記1,2)
さて、サムエル記は先の預言者とよばれる区分に属し、七十人訳とよばれる紀元前2世紀ごろまでに訳されたギリシャ語訳では、列王紀とともに「もろもろの王国」と呼ばれた4巻本の一部となっています。おそらく最初から上下という二巻の区分があったわけではないのでしょう。サムエル記という名前になっていますが、サムエルは、上の25章1節で死んでいますから、著者で無いことは明かです。しかし、下にある、目次のようなものからも分かるように、イスラエル最初の王の二人の任職がこのサムエルによってなされ、その一人目、サウル王の時代について書かれているのが、サムエル記上、サウル王の死のあとダビデ王の時代を中心としているのが、サムエル記下となっています。ダビデは、聖書を読んだことの無い人にもそれなりに有名なのではないでしょうか。最近では歴史性を疑うひとまでいるようですが、ダビデが王位についたのは、大体紀元前1000年、イスラエルの人たちの星です。サムエルは、最後の士師であり、最初の預言者とも言われ、新約聖書の使徒言行録3章24節に「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。」(新共同訳)と語られています。これはペテロの説教に出てくる箇所です。中味については、皆さんに呼んで頂くのが一番でしょう。大きな流れとしては、民が王を求めるところから始まります。
この時代の最大の敵は、ペリシテです。士師記のサムソンの箇所にも出てきました。エジプトの記録では「海の民」と呼ばれ、いまのパレスチナの語源にもなった地中海交易を中心に強くなっていった海洋民族ですが、聖書には5つの都市国家として記されています。ペリシテは鉄器を使っていましたが、イスラエルはペリシテの許可が必要だったと書いてあります。サムエル記上13:19 の口語訳は「そのころ、イスラエルの地にはどこにも鉄工がいなかった。ペリシテびとが「ヘブルびとはつるぎも、やりも造ってはならない」と言ったからである。」となっています。新共同訳では「鍛冶屋」となっています。そのような中での、ダビデ王国確立への道です。使徒言行録13:22 では神様がダビデを「わたしの心にかなった人」と記しています。ダビデはどのような人で、なぜ神様のこころにかなったのでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.4.28
サムエル記上1章から14章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth or Ru ルツ記、1Sam, 2Sam サムエル記上・下、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Col コロサイ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.4.28
士師記からサムエル記への移行として、いままでも少し書きましたが、王を立てることを願うことをどう考えるかという問題について考えてみたいと思います。
士師記の最後を覚えていると思いますが、なんともおぞましい物語が二つ記されています。そして士師記の最後は次のように締めくくられています。
さて、サムエル記上8章です。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.5.5
サムエル記上15章から28章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth or Ru ルツ記、1Sam, 2Sam サムエル記上・下、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Col コロサイ書、Heb ヘブル書
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.5.5
実は、今回も何を書こうかなかなか決められませんでした。実は、わたしはこのサムエル記上・下と、列王紀上・下が旧約聖書でもっとも好きです。わたしの今までの歩みの中で、ここに記されている一つ一つを通して教えられたことがいっぱいあって、なかなかこれということが書けないのです。さらに、教えが書かれているわけではないので、いろいろな解釈も可能ですし、登場人物のだれに焦点を当てるかによっても、読み方が変わってきます。さらに、これは、通読の会ですから、そのストーリーのダイジェストをわたしが書くのも適切ではないでしょう。みなさんの人生の中で何回も読んで頂きたい箇所です。
すでにサムエル記上・下の概要は前回書きました。サムエル記下に入りますので、その最初を少し見てみましょう。
1章はダビデの元にイスラエルがペリシテ軍に打ち破られ、サウル王もその子ヨナタンも死んだという知らせが伝えられるところから始まります。上の29章から31章にその背景が記されています。ヨナタンはサウル王の息子で、民からも人気があり、かつダビデを愛し、ダビデと堅い友情で結びつけられたいたことが記されています。たとえば上20章などを読み返して下さい。このヨナタンとのこころのつながりは、下巻にはいっても重要なこととして引き継がれます。サウルは、くり返しくり返し人気のあるダビデを殺そうとします。ダビデはそれでもサウルを「油注がれたもの」つまり神様にたてられた王として逃げ回り何度もチャンスがあるにもかかわらず、サウルを撃つことはしません。サウル王も主がダビデといることをみとめ、なんどもダビデを殺さないと誓いますが、また殺そうと謀ります。それが(少なくとも結果的には)一段落するのが、上巻26章の最後なのですが、ダビデの方が「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地にのがれるほかはない。」といって、イスラエルにとっては敵方のペリシテのガテの王マオクの子アキシのもとに身を寄せるのです。(上21章参照)そのような背景のもとで、最初に書いた報せが届けられました。これにダビデはどう応答したでしょうか。
ダビデの従兄弟とされるヨアブとその兄弟も重要な役割を演じます。このヨアブに焦点をあてて読むのも面白いと思います。歴代誌の方ではすこしことなる評価をしているのも興味深い点です。これらの書に出てくる、女性に焦点をあてて読むのもいろいろと考えさせられると思います。いろいろな女性が非常にいきいきと描かれています。イスラエルとユダとの区別に目を向けてよむのもよいでしょう。なぜ、サウルは退けられて、ダビデは祝福を得たのか。ダビデは聖人のような人だったのか。サウルには、チャンスは無かったのか。サウルの最大の弱点は何だったのか。他にも興味深い登場人物がたくさん出てきます。一人一人が丁寧に書かれています。神様の働きをどのように記しているかに注意して読むのも良いでしょう。
単純な偉人伝でも、良い人と悪い人の記録でも、神様がすべて解決するのでもありません。読めば読むほど奥が深いと感じられると思いますよ。聖書はわたしたちになにを語りかけているのでしょうか。これらの話しを背景として、詩編が書かれたり、イスラエル復興ののぞみが語られ、預言書が書かれたりします。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.5.12
サムエル記上29章からサムエル記下11章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.5.12
BRC no.37 サムエル記(1)で、サムエル記上下の流れを書きましたが、区切りをサムエル記下8章の終わりと、20章の終わりにおいています。8章の終わり、15節には
そう考えると、今回皆さんが読む部分は、サムエル記下の後半の二つの区切りとなります。上に引用したように、ダビデがイスラエルの全地を掌握した後のこととなります。とはいえ、外敵との戦いはまだ続き、10章には、アンモン人と、その援護に来た、スリヤ人との戦いが記されています。まさにそのころ、あることがおきます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.5.19
サムエル記下12章から列王紀上1章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.5.19
前回も書きましたが、サムエル記上・下と列王紀上・下あわせて4巻(もともとは巻物ですから)が「王国の歴史」です。サムエル記上・下は、サウル王とダビデ王という、サムエルが神様から示されて油を注いで任職した二人の王についての記述でした。サムエル記上はサウル王がペリシテとの戦いで死ぬまで、サムエル記下はダビデ王の治世について書かれていました。しかしサムエル記ではサムエルはかなり早い時点で亡くなりますし、サウルがどの程度の支配力を持っていたかも不明です。記事としてはサムエル記上でもダビデが中心に描かれています。そう考えると「王国の歴史」の少なくとも半分はダビデの記録ということになります。ユダヤにおいて「王国の回復」は「ダビデ王国」の復興と結びついて考えられるのは当然とも言えるでしょう。そしてそれは単なる支配地域や戦力を意味するのではなく、王国のリーダーとしてのダビデがどのように神に従っていったかを中心として、語られています。そのなかに、何回か、明かなダビデの過ちが記されており、かつこれはどうだろうかと思わされる行為もいくつも記されていることを確認することは、聖書全体を理解する上でも大切でしょう。
今年のキリスト教週間の特別キリスト教概論に並木浩一先生をお招きしてお話しいただきましたが先生の言い回しをまねさせていただくと「歴史の神話化に抗い、イスラエルの民の体験を内面化して経験として認識し継承する」ことがなされているのが聖書ということになるでしょうか。
列王紀上・下はダビデ後の王朝の歴史となります。最初はアドニヤが自ら王位継承を宣言するところからはじまって、ソロモンが正式に王位を継承する記事が書かれています。前回もわたしはヨアブ(ダビデのいとこで軍の長)に興味があると書きました。ダビデは御しがたいとしてヨアブの扱いに苦慮していたことがサムエル記下に記され、遺言にもそのことが記されていますが、けっきょくヨアブはこのアドニヤ事件がきっかけでソロモンに殺されます。さてそのソロモンはどのような王だったのでしょうか。ソロモンを最後に王国は二つに分裂します。北イスラエル王国と南ユダ王国と呼ばれています。
何がまずかったのかという読み方もできると思いますが、神との契約、神のいつくしみ(いつくしみとは何でしょうね)、神の祝福、つまり、神様との約束、神様の救いをこの「王国の歴史」から見るとするとわたしは列王紀上8章がよいのではないかと思います。残念ながらここが転換点ともなっていますが、じっくりそれまでの歴史をふまえて8章を読んでみて下さい。長いこと聖書神学舎という浜田山にある神学校(キリスト教の牧師・宣教師になるための勉強をする学校)の校長をしていた船喜信牧師はいのちのことば社の新聖書講解シリーズ「列王紀」でこの「王国の歴史」4巻は旧約の使徒行伝(使徒言行録・使徒の働き)のような位置を占めていると書いています。王国とともに神がどのように働かれたか、そしてそれを「王国の歴史」を記したひとたちがどのように受け取って伝えようとしたかを見ていくのもよいでしょう。
列王紀
通読とは無関係ですが、わたしは家内と朝「アパ・ルーム」(Upper Room) という黙想のための小冊子を日本語と英語で読んでいます。これは殆どが信徒、それも世界中の地域の信徒の書いた記事で構成されているところがほかの同種類のものと違うところだと思います。非常に多くのことばに訳されています。その2011年5月23日の記事につぎのようなものがありました。
アメリカのニューヨーク州のシンシア・クラークさんというかたの「おばあさんの神様」という寄稿です。「私の祖母は、子供たちにとって理想の祖母でした」からはじまり、「祖母が応接室に落ち着くとすぐに、私は母が裁縫箱に貯めているボタンの入った瓶をもって祖母のところにいきました。私はボタンをきちんと分けて種類ごとに集めておいて、祖母が私のベッドの横に座ったとき、二人でそれを見ながらおしゃべりするのが大好きだったのです。私は、私よりずっとボタンの好きな祖母がいるなんて何と幸せだろうと思ったことを思い出します。勿論今は、祖母がボタンが好きなのではなく、私が好きだったのだということがわかっています。」として最後に「この祖母についてのわたしの記憶のうちに、神の美しいイメージがあります。度々私は、神が近くにおられるのを感じます。それは、神が、私がしていることに特に興味を持っておられるのではなく、私と私が愛しているものに興味があるからなのです。宇宙万物の創造主は、私の単純な喜びを共有することを選ばれます。それは私のうちにあるこの驚くべき神の喜びの故です。」最後には次のフレーズが書かれていました。「神は私と、私たち一人一人を喜ばれます。」
聖書に書かれている神は、正しい方ですが、われわれを見張っていて間違いを見つけ出しそれによってさばくことを欲しておられるのではなく、私たち一人一人の喜びに興味を持ち、共有することを欲しておられるのではないかと思います。祈りは神様のこころとのシンクロナイズとよくいわれますが、わたしたしが完璧に神様の思いと同じになることを意味してはいません。それは不可能でしょう。神様の愛故に、ダビデのことを使徒行伝 13:22 で 'I have found David son of Jesse, a man after my own heart; he will do everything I want him to do.' と言っています。そのいみで、神様のこころを心とすることができると良いですね。
最後に列王記を読む助けとなる資料のリンクを二つあげます。英文は膨大ですので、日本語のもののみ。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.5.27
列王紀上2章からー列王紀上15章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.5.27
私は2009年にヨーロッパを旅行しましたが、その時に、短い時間でしたが、大英博物館 (British Museum) にも行きました。印象にのこったのは "Siege of Lachish" という沢山のレリーフでした。Wikipedia からもある程度の情報が得られます。
前回年表へのリンクをお知らせしましたが、実はダビデ王朝の年代などはいくつかの説があります。しかし、BC722年にサマリヤが陥落し北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされることと、BC586年に南ユダ王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされることは世界史の教科書にも書かれていると思います。この間、すなわち、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国はまだ続いていた時期に起こったのが、上記の記事です。
サムエル記上下と列王紀上下は何度も書いているように、非常に興味深い記事が満載されていますが、ユダヤ民族の盛衰についてはどう記されているのでしょうか。出エジプトからカナン侵入、現代の通常の言葉で表現すれば、侵略となります。それに対して、聖書はどのように言及し、その後の王朝の盛衰についてはどう記しているのでしょうか。それを考えながら読むのも良いと思います。ただ、旧約聖書のそれぞれの巻によって、少しずつ強調点が違うことも注意して下さい。
申命記から一箇所だけ引用しておきます。9:4-6 (新共同訳)
あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
申命記12章や18章にカナンの民の忌むべき事が書かれ、おそらくその最たるものとして「彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。」と書かれています。
では北イスラエル王国、南ユダ王国はどうだったのでしょうか。そのことが記されているのが列王紀下17章です。そのような背景も考えながら17章を読んでみてはいかがでしょうか。ここで北イスラエル王国が滅びます。北イスラエル王国の最後の王はホセアですが、このホセアについて、列王紀は次のように書いています。
彼は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。(列王紀下17:2)
イスラエル王の評価を注意深く読みながら列王紀を読むのもよいと思いますよ。歴代誌の評価とは少し異なります。列王紀下14章のヤラベアム(北イスラエル王国の最初の王ヤラベアムと区別してヤラベアムII とよく記されています)の記事のように、主の目の前に悪を行ったと書かれていても、王国は繁栄したという記事もあります。ここには、おそらく預言者ヨナのことも出てきます。預言者の役割も含めて列王紀のいろいろな面を考えながら読んで頂ければ幸いです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.6.2
列王紀上16章から列王紀下7章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.6.2
このコラムにも何度か書きましたが、個人的に、サムエル記上下、列王紀上下には、好きな箇所が多く、人生の様々な時に、考えさせられてきたのですが、最近は、すこし違うことを考えながら読んでいます。これらの王国史の記者は、なにを我々に伝えたかったのだろうかということです。列王紀上下の概略については、列王紀(1)にも書きましたが、いのちのことば社「新聖書注解」の列王紀I, II(新改訳を用いているため I, II となっています)服部嘉明注解部分の「列王紀概略図示」から流れをまず確認したいと思います。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.6.9
列王紀下8章から列王紀下21章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.6.9
今回は、歴代志上・下について書きます。
歴代志の最初は長い系図から始まります。新約聖書の最初のマタイによる福音書も系図から始まります。創世記もある意味では「系図」が一つのキーワードでした。歴代志は創世記の初めのアダムからスタートします。しかし、カインやアベルはでてきません。細かく見ていくと、すこし違う部分もあるようです。それにしても長々と系図が続きます。一段落つくのが8章の終わり。9章1節は
このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。(口語訳)
サムエル記上・下、列王紀上・下はひとつづきで、最後はネブカデネザル王に滅ぼされ、バビロンに捕囚される (BC597, BC586) まで書かれていますから、それ以降にまとめられたことは、確かでしょう。この歴代志は、そのバビロン捕囚が起点になっています。かなりの並行記事がはいっていますが、違ったグループの人によって、異なった目的のために書かれたことは確かでしょう。
実は、ヘブル語(旧約)聖書では、歴代誌上・下が最後に置かれています。BC537ごろから何回かに分けてユダヤに帰還していきます。聖書ではその捕囚の期間は70年と書かれています。このあとに読む、エズラ記、ネヘミヤ記にそのあたりのことが書かれているので、楽しみにしていて下さい。帰還後に書かれたとして、イスラエルの民にとって、そのリーダにとって何が大切なことで、なにが気がかりなことだったのでしょうか。考えながら読んでみて下さい。
サムエル記上・下、列王紀上・下を思い出しながら読むのも、それらとの違いを書き留めながら読むのも、捕囚帰還後のイスラエルの民に思いをはせながら読むのも、ここで語られているイスラエルの民の希望とは何なのか想像しながら読むのもよいと思います。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.6.16
列王紀下22章から歴代志上10章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.6.16
歴代志上・下は、上ではダビデ王朝についてかかれ、下ではソロモン王朝から始まり、それ以後バビロン捕囚まで南ユダ王国を中心に書かれています。特に最初は、系図から始まりますから、迷子にならないように、概要を記しておきます。いのちのことば社「新聖書注解」歴代誌(新改訳の名称、新改訳にあわせ 上下ではなく I, II を使います)梗概(岩井清執筆)からの抜き書きです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.6.23
歴代志上11章から24章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.6.23
歴代志は最初の部分を除くと、列王紀との並行箇所が多いため、比較しながら読むとそれぞれで何を伝えることに中心が置かれているかが分かると思います。歴代志は、その内容・記述からもバビロン捕囚から帰還後に書かれたことが分かりますが、その当時の重大問題も背景にあったこと、そして「神の選びの民であるイスラエルが異教徒の国に滅ぼされたのはなぜか」、「今は異教徒の王の庇護の元にどうやら宗教集団として存続が認められている、このような状況をどう受け止めたらよいのか」、問いを持ちながら、歴史を振り返り書かれたことは確かです。それも、列王紀の記述とは違った解釈のもとで、または強調点をおいて書かれています。少しだけ、わたしが考える、そのような観点を列挙しておきます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.6.30
歴代志上25章から歴代志下9章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.6.30
通読はどうですか。続いていますか。実は、わたしは前にも書いたように、何回も通読していますが、この歴代志が苦手です。人によって違うと思いますが、私が苦手なのは、レビ記、歴代志、そしてエゼキエル書。歴代志は、系図から始まりますが、主要部分は、ダビデ王朝以降ですから、サムエル記下、列王紀上・下と対応しています。一部、イザヤ書に対応する箇所があります。
前にも書いたように、あまり、聖書学の知識を使わないようにしています。それは、学者が完全に一致しているわけではなく、よくわからないことが多いので、それぞれの論点を整理したり、根拠資料に直接あたったりすることができないわたしのようなしろうとが扱うことはしたくないからです。でも、何度か読んでいけば、サムエル記上下、列王紀上下は、預言者たちの影響が大きそう、歴代志上下は、祭司たちの影響が大きそうということは、わかるのではないかと思います。歴代志上下は、ユダ王国のバビロン捕囚のあと、何回かにわかれて、パレスチナに帰還して来た民が、悔い改め、祭司のリーダーシップのもと、エルサレムにある神殿での礼拝を中心にして、神様に従っていこうという意図が各所に見受けられます。それに基づいた歴史観と単純すぎる論理で、書かれているところが、わたしには、抵抗があるのだと思います。新約聖書を土台として考えるといろいろと問題を感じてしまいます。すこしそのへんを見てみましょう。歴代志にのみ書かれている記事です。たくさんあるのですが、歴代志下のわたしのメモから抜粋します。
挙げればきりがないのですが、歴代志のみに書かれていることは、偶像をはなれ、へりくだって神にしたがうと、祝福されるというパターンで統一されているように思われます。わたしには、その単純化がなかなか受け入れられないのだと思います。よい子はこの世においても祝福される。というメッセージです。
しかし、考えてみると、祭司エズラなどがリーダーシップをとった時代は、それ以外に道がなかったのかなとも思います。いずれ、エズラ、ネヘミヤ、そして預言書のハガイ、ゼカリヤを読むと分かるのではないかと思います。もう一つは、預言者は、当時の教養人で、世の中の先をかつ、深い洞察力をもって見たかもしれないが、やはり一握りの当時のエリート集団です。祭司たちのリーダーシップでまとめるときには、民がみなわかるようなメッセージを語らなければいけなかったということもあるのかもしれません。
リベラル・アーツがエリートの為のものから、市民のためのものになるかどうか、そのときに、質を下げたり、単純化したりして、コピーとしてメッセージを伝えようとするのかという現代的な問いも、ここに含まれているような気がします。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.7.7
歴代志下10章ー23章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.7.7
エズラ記、ネヘミヤ記はいずれも、捕囚からの帰還と神殿再建を中心に帰還後のエルサレムでユダヤ教を中心にエルサレムでユダヤ民族のアイデンティティーを再建していったことが書かれています。まずは、南ユダ王国滅亡後の歴史的な背景を簡単にまとめておきましょう。
BC586 ユダ王国の滅亡。バビロン捕囚
エズラ帰還は BC398との説もあります。
エズラ記、ネヘミヤ記、それぞれ問いをもって読むためにも、昔、聖書の勉強会のおりに作った質問のリストを書いておきます。
エズラ8章1節, 15-36節
エズラ9章
エズラは祈りをみてみましょう。
エズラ10章
ネヘミヤ1章
ネヘミヤ2章
ネヘミヤ4章
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2013.7.14
歴代志下24章からエズラ記1章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.7.14
大まかな歴史を振り返ると、BC722 に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされますが、南ユダ王国はかろうじて滅亡を免れます。アッシリア帝国はニネベが首都で今のイラク北部を中心とした国です。アッシリアは支配のために、被征服民族を移住させる政策をとり、北イスラエル王国の多くの人たちが移住させられ、逆に他の被征服民族が北イスラエルの地に移住してきます。その後、新バビロニア帝国とも呼ばれているバビロニアがアッシリアを滅ぼします。このバビロニアは現在のイラクの中央にあるバビロンに首都を置き、BC586にエルサレムを陥落させ、南ユダ王国を滅亡に至らせます。バビロニアもユダ王国の王族など、主要人物をバビロンに捕囚として連れて行きます。アッシリア滅亡後に興った国の一つがメディア人の国ペルシャ(メディア王国)です。首都はエクバタナで今のイランが中心です。このメディア王国がバビロニアを滅ぼし、バビロンによって捕囚となった民族の帰国を許可します。BC536頃のことですから、北イスラエル滅亡からは、186年、南ユダ王国滅亡からは、50年たっています。
まず、イスラエル12部族の人たちの中には、定住地のパレスチナに残っていた人もいたと思われますが、指導者たちは捕囚となり、残った人たち、特に北イスラエル王国の人たちは、混血が進んでいったと思われます。一方、南ユダ王国の人たちは、まだ捕囚から50年でしたし、エレミヤが捕囚の期間は70年と預言していたこと(歴代志下36:21, エレミヤ11:11, 12, 29:10, ダニエル9:2)を知っていた人もいましたから、記憶のあるユダ、エルサレムに帰ることを夢見て祈っていた人たちもいたでしょう。一方、ユダに残った人たちは、カナン人や、他から移住させられてきた人、派遣されてきた地方行政官などでしょうか。
このような状況で、ユダの地にもどりエルサレム再建を志したひとたちの物語が、このエズラ記、ネヘミヤ記、そして、だいぶん先になりますが、ハガイ書とゼカリヤ書になります。すでに、半世紀以上が経過し、その地で地位を得、生活も安定していた人も多かったと思われます。ネヘミヤは、王のそばに仕えていましたし、エズラも律法だけでなく、メディアの法律や学問も学んでいたと思われます。支配体制が変わったとはいっても、豊かなひとたちはそうはいなかったでしょう。国に帰ってもいいよ。と言われたひとたち。しかしそこは荒れ果て、町も神殿もない。まったく知らない人たちが住んでいる地、どのような思いで、どのような決意で帰還していったのでしょうか。
このように決意して帰って行った人たちが、一つのまとまりをもって神殿を中心に、そしてエルサレムを中心に生活の場を築いていく。過去のあやまち、神への不従順に陥った原因など考えたことでしょう。エズラ、ネヘミヤを読みながら、その人たちがどのように考え、生きたかをぜひ読み取ってください。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.7.21
エズラ記2章からネヘミヤ記5章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.7.21
エステル記の内容が実際に書かれていたように起こったことなのかは、確認できませんが、1章1-3節と2章16節にこのことがアハシュエロス王の時代に首都のスサで起こったこととして、正確な年や月も書かれていますから、すこし歴史的背景を書いておきます。今のところ、王妃ワシュティや、エステル、モルデカイの名は、ペルシャの記録からは見つかっていないようです。
BC722に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、BC586に南ユダ王国も新バビロニアに滅ぼされ、指導者たちを中心に多くのユダヤ人が捕囚となります。アッシリアは、新バビロニアに滅ぼされ、その新バビロニアもクロス王(キュロス2世)に率いられたペルシャ(ハカーマニッシュ朝、ギリシャ語名は、アケメネス朝、BC550-BC330) にBC539に滅ぼされます。ペルシャの主たる宗教はゾロアスター教で、首都はスサ(ヘブル語ではシュシャン)、ペルセポリスなどでいまのイラン中央部にありました。エステル記8章9節には「インドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。」とあります。この文章からも、統治に力をいれたことがわかりますが、被征服民に寛容だったと言われ、ユダヤ人は、BC536ごろからユダヤに戻りエルサレムの神殿再建や、城壁の復元などをすることになります。そのことを記したのが、エズラ記、ネヘミヤ記でした。しかしもちろん、ペルシャ帝国内のそれぞれの地域に残っていたユダヤ人もいたわけです。エステル記は、その人たちの物語です。
クロス王が BC530に戦死、カンビュセスが継ぎますが、内紛などがあり、BC522にダリヨス(ダレイオス1世)が実権を握ります。ダリヨスはギリシャに出兵し、マラトンの戦い (BC490) で敗れ、BC486に亡くなります。その後を継いだのが後にクセルクセス1世と呼ばれるクセルクセス (BC486-BC465) でそのヘブル語の呼び名がアハシュエロスです。クセルクセス1世もギリシャに遠征 (BC483-BC480)し、サラミスの戦いでギリシャ軍に敗れます。
エステル記の1章3節にある、第3年はBC483、2章16節 の第7年はBC479となります。ギリシャ遠征のことを考えるといろいろと想像も膨らみますね。
エステル記には、最後にプリムの祭りのことが記されていますが(エステル記9章23節-32節)、これは、今に至るまで祝われている祭りで、エステル記はその起源を記した物語です。ユダヤ暦は太陰暦なので、太陽暦だと日がずれますが、2月または3月に守られています。ユダヤ民族にとっては、忘れることのできない物語、そしてそれを記念する祭りということでしょう。
エステルと、その叔父のモルデカイが中心ですが、その二人のことばを記しておきます。
最後に、いのちのことば社「新聖書注解」エステル記梗概(大山武俊執筆)を記します。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.7.28
ネヘミヤ記6章からエステル記6章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.7.28
聖書の一つの区分では、旧約聖書は、律法と預言者と、その他の諸書と呼ばれる部分に分かれると書きました。サムエル記、列王紀は、預言者に、歴代志は諸書に含まれるのでした。良く知られているのは、AD1世紀のヨセフスの書いたアピオン反駁論 (Against Apion) I- 1-8 に書かれているものですが、Project Gutenberg (http://www.gutenberg.org/ebooks/2849) に見つけましたので、ちょとだけ引用します。
さて、ヨブ記に戻りましょう。非常に敬虔な生活をし、神様に祝福された生活を送っていたヨブが、祝福をすべて取り上げられ、財産を失い、子ども達を失い、自分自身も潰瘍を生じる病に冒されます。そこに訪ねてくる「友」と苦難の意味について議論する、そして最後の神様が語られるという構成になっています。苦難の意味、神の沈黙、人間の正しさ、神の主権と愛などについて考えさせられるもので、好きな人も多いようです。全てを失ったとき、
この真ん中の詩文体の部分は、おそらく何通りも解釈が可能で難しく感じるかも知れません。上の聖書の箇所のような正しいヨブとは、別人とも言えるような言葉がたくさん出てくるのです。学者の中には、最初と最後は、別の記者による付け足しとするひともいるくらいです。ヨブ記は特に日本では、浅野順一のヨブ記講解が有名で、岩波新書から「ヨブ記―その今日への意義」も出ています。わたしもこちらは読みました。青山学院大学の教授で、牧師としても有名な浅野先生によるとこの中心部分は「ヨブの内的葛藤」だと言われていますが、わたしもこの歳になってやっと少しその意味が分かってきたように思います。若い頃は、この真ん中は無くても良いのではないかと思い、通読の時は読むのが苦痛でした。よく分からない議論が延々と続くからです。早く、エリフ(3人の友人についてきたと思われる若者という設定)が出てこないかな正直に思っていました。正しさの議論に終始する友と、友に問い、神に問い、神からの応答をひたすら求めるヨブ。わたしはそれだけ真剣に神を求めているだろうかと感じながら最近は、一つ一つのことばの背後にあるヨブの痛みを感じながら読んでいます。みなさんは、どうでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.8.4
エステル記7章からヨブ記10章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.8.4
今日は、8月11日、ヨブ記9章と10章です。ヨブ記は、前に書いたように、大きく四つの部分に分けられます。序章(1章から2章)、ヨブの独白(祈り・神への訴え)とヨブと三人の友との対話(3章から31章)、エリフの弁論(32章から37章)そして神のメッセージ(38章から41章)、終章(42章)です。分量からしても、ヨブの独白とヨブと三人の友との対話の部分からなる中間部分が中心となっています。なかなか難しい部分でもありますが、ヨブ記の中心の部分、浅野先生の言葉を借りると「ヨブの内的葛藤」3章から31章について少し書きたいと思います。ヨブ記の概略は、ヨブ記(1) を参照して下さい。
ヨブ記の核は、やはり前回も引用した次の箇所でしょう。
中間部分は、3人とヨブとの対話が2回繰り返され、そのあと、ヨブと二人の対話が短く繰り返され、ヨブが暫く語り続けます。しかし、3人とヨブとの対話の部分も、ヨブの語る部分がかなり長く、友人は少ししか語りません。ヨブの苦難の一般的、またはこの世的な解釈を、3人の友人に代弁させ、ヨブもおそらくそのような事も思考しつつ、それに反論していく姿が書かれています。おそらく、かっこのよい、最初のヨブの信仰告白の背景に、これだけの、葛藤がある。逆に、これだけの葛藤をともなって、なお、最初のヨブの信仰告白が存在するところに、神が良しとされる信仰者の姿があるのでしょう。神は、その複雑さと人間の弱さを十分ご存じで、その人間の祈りに答えられるのです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.8.11
ヨブ記11章から24章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.8.11
今日は、8月18日、ヨブ記23章と24章です。今週、三人の友人たちとの対話・ヨブの独白が終わり、いよいよエリフが登場し、神が語られる 32章以降の最後の部分に入りますから、この箇所について少し書いてみようと思います。
この箇所は次のようにはじまります。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.8.18
ヨブ記25章から38章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.8.18
ヨブ記はいろいろな感慨をもって読まれたのではないかと思います。以前、国際基督教大学教会の礼拝で、箴言の4章から、Paul Johnson 牧師がメッセージされましたが、その中で、ヨブ記についても語られていました。箴言 (Proverbs)、伝道の書 (Ecclesiastes)、ヨブ記 (Job) は、神の知恵について書かれている。しかし、These are not God's Last Words. だと言っておられました。God's Last Words が何であるかもほんの少しだけ話されましたが、新約聖書を読みながら、その God's Last Wrods が書かれているのか、もしを書かれているならそれは何なのか、見つけて下さればと思います。
さて、新約聖書の最初は、4つの福音書から始まり、その最初は、マタイによる福音書です。ギリシャ語聖書では、「マタイによる」とだけ書かれています。最初の三つの福音書、マタイ (Matthew, Mt または Mtt と略)、マルコ (Mark, Mk と略)、ルカ (Luke, Lk と略) は、平行記事が多く、共観福音書 (Synoptic Gospels) と呼ばれています。
聖書を一般信徒向きに解説した本は、たくさん出版されていますが、世界で広く読まれているもののひとつに、スコットランドの神学者 William Barclay (1907-1978) によるものがあります。
共観福音書(William Barclay による上記の本による)
マタイによる福音書の特徴(William Barclay による上記の本による)
著者について(William Barclay による上記の本による)
マタイは、Mtt 9:9 によると、収税人で、多くの記録を残したと考えられている。
教会史家のパピアス(1世紀から2世紀)は「マタイはイエスの生誕をヘブル語で収録した」と証言している。マタイ自身が書くのであれば、マルコを参照する必要はなかったと思われるが、マタイが収録したヘブル語の資料、とくに教説を多く取り入れて書かれ、マタイの名がつけられたと考えられる。
大体の学者は、マルコが最初に書かれ、マタイと、ルカはあとから書かれたこと、マルコの福音書以外にも、イエスの説教を書き留めたものがあったと思われること。そしてそれは、マタイによってヘブル語(またはアラム語)で書き留められたと考えているということだと思います。その説教集を大幅に取り入れて、ギリシャ語で書かれたのが、マタイによる福音書ということでしょうか。パピアスの「断片集」については、ネット上に日本語訳が出ています。
通読は、じっくりと時間をかけて読むことは難しいですが、イエスのメッセージと、そして、旧約聖書とのつながり、すなわち旧約聖書の預言の成就としての救い主に注目して読むのもよいかもしれません。また、聖書を続けて読むのははじめてというひとは、四つの福音書を通して、イエスはどんなひとだったのか、イエスに注目しながら、イエスに出会って頂ければと思います。
わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとても楽しみです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.8.25
ヨブ記39章からマタイによる福音書10章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.8.25
プログレッシブ英和中辞典
前回は、バークレイからの引用で、マタイによる福音書の特徴の一つは
「ユダヤ人に王として生まれたことを示す」
と書きました。確かに、旧約聖書の成就を証言する箇所は多いですね。また、ユダヤ教の背景を知っている人に理解しやすい記述も多いように思います。しかし、それでは、ユダヤ人のため、またはユダヤ人の救いについて書いてあるのでしょうか。
注意して読んでいくとそうでも無いことに気づきます。
わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとても楽しみです。
2013.9.1
マタイによる福音書11章からマタイによる福音書24章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.9.1
マルコによる福音書の著者がマルコであることを疑う学者は殆どいないようです。マルコはギリシャ語の発音ではマルコス(語尾変化もします)となり、聖書には、マルコスという名前の人も出てきますが(ヨハネ18:10)新共同訳、口語訳、新改訳とも福音書名では、マルコとしています。新共同訳はカトリックとの共同訳で、最初はなるべく言語の音に近い方をとるという取り決めでマルコスで進んでいたようですが、日本語で最も受け入れられているマルコに最終的にはなったようです。最初に出たのは「ルカスによる福音書」でそこに出てくる人の名前になじめないと批判が出て、今の訳になったとのことです。カトリック、プロテスタントで、使われてきた訳語をある程度統一しようとしたわけですが、なかなか難しかったと言うことでしょうか。
さて、このマルコは、上に引用したヨハネ18:10のマルコスではなく、マルコという名前で8回、ヨハネという名前で1回出てくる、ヨハネ・マルコと呼ばれている人です。使徒言行録に記述されている、最初の異邦人伝道旅行に、バルナバ、パウロ二人のリーダーについていった人で、バルナバのいとこだと書かれています。
マルコ:使徒 12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ 4:10, 第1テモテ4:11, ピレモン24, 第1ペテロ5:13
最初にでてくるのは、使徒言行録 12章 12節
エルサレムでの集会所として有名な家の子どもだったようで、学者によっては、最後の晩餐もこの家でされたのではないかと考えています。
聖書の最後に出てくるのは、ペトロの手紙一 5章 13節
ペテロとの近い関係が表現されていますが、ペテロの通訳として伝道旅行に同行し、それをもとにこの福音書を書いたとされています。根拠の一つは、前回も引用した、パピアスの証言です。これは、それより少し後の教父といわれているキリスト教指導者が書き残した物です。
パピアス「断片集」2.15.
マルコによる福音書は、大体次の区分に分けられます。
神の子、神の聖者との証言は、天から、そして、汚れた霊の証言によってもなされます。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
マルコによる福音書で、イエス自身は自分をどう呼んでいたのでしょうか。それは、人の子という言葉です。なにか変な言葉ですよね。
この人の子という言葉をつかってイエスは自分自身をどのようなものと言っているでしょうか。一箇所だけ引用してみましょう。
最後に少しだけ、ペテロ由来としての、マルコによる福音書の特徴を書いておきます。
わたしもみなさまと福音書を一緒によめるのはとてもうれしいです。
わたしの大好きな方と、みなさんと一緒に歩く感じです。正直この方の魅力に触れていただきたいと願っています。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.9.8
マタイによる福音書25章からマルコによる福音書10章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.9.8
ルカによる福音書は、批判的な学者もルカによって書かれたと考えているようですが、ルカとはどのような人でしょうか。聖書には、3回出てきます。今、読んでいるマルコによる福音書のマルコも出てきますから、三つとも引用してみましょう。引用はすべて新共同訳です。
もう一つ、重要なことは、ルカによる福音書の書き出しです。それと、使徒言行録の書き出しを比べてみて下さい。
使徒言行録を読んでいくと、途中から「わたしたち」という表現があらわれ、いったん途切れ、またそれが復活し、最後まで続きます。疑問を呈する人もいるようですが、ルカが、ある時点から使徒パウロに同行し、途中で一端わかれ、また行動をともにしていたと考えられています。その意味で、使徒パウロ(パウロについては、今後、どこかで書くことがあるでしょう)の語っていた福音、イエス・キリスト伝が元になっているのではないかと言われています。上の考えのもとでは、パウロに同行してエルサレムにも1回は行ったことになりますし、イエスの母マリアに会ったかどうかは不明ですが、イエスの直接の弟子達の多くと会った可能性は大きくなります。医者として、当時の教養人として、奇蹟物語の実態も含めて、いろいろと調べ、記録したことが書かれているのでしょう。ルカの表現に注意してよむのも良いとお思いますよ。
ルカによる福音書成立の経緯については、2C の後半大体AD170頃ののムラトリ断片(The Muratorian Fragment)に記されています。(http://www.bible-researcher.com/muratorian.html) 和訳も田川健三訳を参考にしたと書かれたものが以前はネット上にありましたが。今は見つかりませんでした。わたしが勉強した頃は、ベッテンソンの「キリスト教文書資料集」が日本語でかつコンパクトにまとまった唯一の資料集だったので、それで最初に読んだ記憶があります。今調べましたら、この本は、版切れでした。聖書を勉強するときは、残念ながら、日本語だけでは、十分な情報が得られないことが多いですね。
ルカによる福音書は、たとえが豊富な福音書でもあります。ルカのきめ細かな表現とともに、味わって頂けたらと思います。ルカによって描かれているイエスにみなさんと一緒に出会いたいですね。
わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.9.15
マルコによる福音書11章からルカによる福音書8章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.9.15
今回は、ルカによる福音書を読んでいて印象にのこった「信仰」について少し書いておきます。この言葉は新共同訳で検索すると、福音書の中では、マタイに 14, マルコに 9, ルカに 16 現れます。ヨハネには現れません。その中で「あなたの信仰」と書かれているものを見てみると、口語訳聖書では、マタイに 2, マルコに 2, ルカに 5, 現れます。新共同訳でも大体同じですが、ルカには 4 で、22:32 は少し違う訳になっています。マタイ、マルコ、ルカ共通に現れるのは、12年間長血をわずらっていた女(新共同訳では「十二年間も患って出血が続いている女」)が癒された記事です。病が癒された時にイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。口語訳で列挙してみます。
そして最後は、ペテロに対してです。
ひとつひとつ見てみると、これがイエス様が称賛される「信仰」なのだろうかと疑ってしまうような印象もうけます。「いわしの頭も信心」とどこが違うのだろうかと。しかしイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。信仰の不完全さとか十分でないことをとがめるのではなく、信仰による応答をたたえる、または、信仰によった部分を気づかせ、それこそがあなたを生かすものだと告げるのです。そして、嵐にあったときおろおろする弟子達に「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25)」信仰を増して下さいと願うと「からし種一粒ほどの信仰(ルカ17:6)」があれば十分と言われます。そして「安心して行きなさい(ルカ7:50, 8:48)」わたしは、この言葉になんども力を与えられました。そして、このような言葉を語ることができたら良いなといつも思っています。みなさんは、どのように受け取りますか。
わたしもみなさんと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.9.22
ルカによる福音書9章から22章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.9.22
他の3つの福音書は、共観福音書とよばれ基本的に似た記述が多く含まれ、イエスの活動時期の記述も、中心部分は、バプテスマのヨハネが捕らえられてから以降になっていますが、ヨハネによる福音書はことごとくといっても良いほど違っています。それは、読めばすぐわかることだと思います。なお、この書のヨハネは、通常バプテスマのヨハネと呼ばれている、イエスにバプテスマ(洗礼)を授けたとされる、ヨハネとは別の人です。ルカによる福音書(2)で、信仰の事を書きましたが「信仰」ということばが含まれていないのも四福音書でヨハネだけです。逆にヨハネによる福音書に多い言葉もあります。たとえば「真理」。新共同訳聖書では、マタイ、マルコ、ルカには1箇所ずつですが、ヨハネには20箇所出てきます。また、ヨハネ福音書には、この書の著者について書かれています。以下、新共同訳からの引用とします。
ヨハネによる福音書 21章 24-25節
ひとつ、追加して書いておくと、まさにこの言葉のように、証しすべき「イエスのなさったこと」は、たくさんあるが、その一部を記しているという事実は、他の福音書を読むときと同様、そして、この書ではなおさら大切だと思います。イエスの活動の殆ど最初から四六時中一緒にいたと考えられるヨハネがこの書の証言者だとされているのですから。ということは、たくさんの事の中から、どうしても伝えたいことを記していることになります。さらに、ヨハネによる福音書には、この書が書かれた目的も書かれています。
ヨハネによる福音書 20章 31節
これほど、明確に執筆意図が書かれていることには驚かされます。しかし、著者については、自分のことを主の愛しておられた弟子(ヨハネ21:20) と書くことは不自然なことから、主の愛しておられた弟子の影響のもとで書かれたとするのが安全なのかも知れません。実際に書き記したのがだれかは、議論があるようですが、イエスの弟子の一人のゼベダイの子ヨハネを意識して(またはその証言をもとに)書かれたこと、他の福音書にはなく、かなり詳細なそこに居合わせたものだけが語れるような証言、ユダヤや、ユダヤ教に関する豊富な知識は、各所で認められると思います。12弟子と呼ばれるイエスに近い弟子たちについても、他の福音書には、一回も登場しなかった弟子の記述が現れたりもしていますし、名前が記されていなかったひとの名前が明かされたりもしています。
四福音書のなかでは、一番遅く書かれたとされています。おそらく、大切なのは、そのころのキリスト教の中心は、すでにユダヤにはなく、エルサレムは破壊され (AD70)、異邦人キリスト者が中心だったと言うことでしょう。異邦人キリスト者の社会、つまり背景にギリシャ、小アジアの文化などが入り込んで来ていることから来る問題もあったでしょうし、脱ユダヤ的なキリスト教、つまり、ユダヤ教徒にならずに、ユダヤ教の習慣とは独立に、直接的に救いが得られるかは重要な問いだったでしょう。みなさんが、どのように読まれるか、楽しみです。共観福音書とは違った、このヨハネによる福音書は、イエスの実際の行為や言葉という「事実」よりその意味すること「真理」が語られているのかも知れません。
わたしもみなさまと福音書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.9.29
ルカによる福音書23章ーヨハネによる福音書12章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.9.29
ヨハネによる福音書については、前回書きましたから、今回は、使徒言行録について書きます。BRC no.77 でルカによる福音書についてのときに書きましたが、ルカによる福音書と使徒言行録は双子のようなもので、二巻本といっても良い形式になっています。ルカによる福音書 1章 1‐4節と、使徒言行録 1章 1‐2節を見比べてみて下さい。後者は「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」となっていますから、天にあげられた日以降についてが、使徒言行録となっています。1章を読むとそのいきさつが繰り返されています。著者は聖書に三回名前の出てくる医者ルカ(コロサイの信徒への手紙 4章 14節、テモテへの手紙二 4章 11節、フィレモンへの手紙 24節)だとされています。医者であることは、コロサイの箇所にも書かれていますが、ルカ4:35で「けいれんする」という医学用語をもちい、ルカ9:38では「医者が診察する」時に使う言葉を用い、さらに、ルカ18:25 では「針の穴」という言葉も、マタイ、マルコでは、通常の縫い針を意味する言葉を使っているのに対して、ルカは外科医がもちいる針ということばを使っていることからもわかるそうです。(William Barkeley, "The Daily Bible Study")
使徒言行録でまず目をひくのが1章6-8節です。引用してみましょう。
単に、遠くまで伝わるということだけではありません。
もう一つは、多様な人たちに福音がとどいていくことによりその中味が明らかにされていくようすの記述、とも言えるかも知れません。これは、イエスがすでに地上にはおられないときに、イエスの弟子達に投げかけられたむずかしい問いに答えていく営みとも言うことができると思います。使徒言行録を読みながらわたしも考えさせられた問いを書いておきます。
わたしもみなさまと聖書を一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.10.6
ヨハネによる福音書13章ー使徒言行録5章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.10.6
まず、はじめて、サウロが登場する場面、7章58節です。引用は新共同訳聖書からとします。
中心部分とはずれてしまいましたが、バルナバと「サウロ、またの名はサウロ」について少し書いてみました。みなさんが、すこし親近感を持って、使徒言行録や、この後の書簡を読むことができればと願って書いてみました。
わたしもみなさまと聖書を少しずつ一緒に読んでいけることを感謝しながら例年とはまたちがった新しい気持ちで楽しんで読んでいます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.10.13
使徒言行録6章から19章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.10.13
パウロがローマに手紙を書いた頃のローマ教会についてはあまりよく分かっていないようですが、1章7節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」とありますから、すでにイエスを救い主と信じるクリスチャン達がいたことが分かります。
また12章14節には
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.10.20
使徒言行録20章ーローマの信徒への手紙5章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.10.20
コリントは、使徒言行録に記されているところ(18章)によると、パウロが第二回伝道旅行で、アテネの次に訪ねた場所です。地図をみると一目瞭然なのですが、ギリシャの最南端のペロポネソス半島の根元のくびれたところに位置し、使徒言行録18章18節にも出てくるケンクレアイが東の港で、現在のトルコにあたる小アジアに通じ、西にはレカイオンの港でアドリア海を通してローマにつながっている交通の要所です。一番近いところは6kmといわれ、小さな船は、陸路をローラーに載せて運んだと言われています。BC44ユリウス・カエサルによってローマの植民都市として開かれてから非常に栄えますが、当時はかなり退廃した、不道徳の町だったと言われています。使徒言行録の記述によれば、パウロは、少なくとも三回コリントに滞在、少なくとも1年半の滞在も含まれています。伝道者のアポロもコリントに滞在し、ペテロも滞在したと言われています。そんななかで、このコリントの信徒への第一の手紙は、パウロが長く滞在したもう一つの町小アジアのエペソから書いたとされています。(コリント信徒への第一の手紙16章7,8節)読んで頂ければわかりますが、いろいろな問題を抱えていた教会であることが分かります。ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ一度も行ったことのない、ローマの信徒の群れにあてて教義を中心に書いていますが、コリントの信徒への手紙は、よく知っている信徒達に対して具体的な問題について書いています。
1章1節は、次のように始まります。
少し、8章について書きます。8章は次のように始まります。
最後に、梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から書いておきます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.10.27
ローマの信徒への手紙6章からコリントの信徒への手紙一3章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.10.27
今週の最後には、コリント信徒への手紙二に入ります。コリントの信徒への手紙二 8・9章には、エルサレム教会への献金のことが書かれています。ユダヤ教の中心であるエルサレム、ユダヤ教徒でイエスを救い主と信じるようになった群れは、エルサレム周辺ではこの当時もモーセの律法をしっかり守って生活していたと思われます(使徒言行録21章17-26)。そのようにして、信仰を守りつつも、ときどき起こる熱心なユダヤ教徒からの反対の中で、使徒や、長老といわれる人たちも生活的には、かなり困窮を極めていたようです(ローマ信徒への手紙15章26節等)。AD70 にはローマ軍によってエルサレムが完全に破壊され、エルサレム教会は事実上指導的な役割を終えますが、この手紙の書かれたときには、発展しつつある異邦人教会が、エルサレム教会とひとつであることを示す、その大切な役割を担った献金が、パウロの祈りでもあったでしょう。ミッション(使命)が違うと、別々に行動することもできたかも知れませんが、パウロの信仰の中にある、キリストにある一致、キリストの体なる教会がひとつであるという真理からすれば、一致をたもちながら共に生きることは、キリストのいのちに生きるものたちにとって最も重要な課題だとパウロが考えたのはとても自然だと思います。現代にも通じる問題提起ではないかと思わされます。
コリント信徒への手紙二の梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から前回引用しておきましょう。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.11.3
聖書通読ノート・コリントの信徒への手紙一4章からコリントの信徒への手紙二1章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.11.3
いのちのことば社「新聖書注解」から、ガラテヤ信徒への手紙の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきましょう。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.11.10
コリントの信徒への手紙一2章からガラテヤの信徒への手紙2章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.11.10
すでに読み終わった、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で特別な位置をしめており、四大書簡などとも呼ばれています。エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、フィレモン(ピレモン)への手紙は、獄中から書かれたと記されている(エフェソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, フィレモン1)ので、獄中書簡と呼ばれています。フィリピ4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」なとという言葉もありますね。おそらくローマの獄にいたのでしょう。テモテへの手紙一、二、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれることもあります。テモテについては、使徒言行録16章などにも書かれていますね。使徒言行録を思い出しながら読むと良いかも知れません。
どの書簡も短いので、通読ではどんどん進んでいきます。ここでも細かな解説などはできません。しかし上にも書いたように基本的に、これらは、先輩のクリスチャンから、若い教会や信徒や、リーダー達への手紙です。実際の生活に関係することがたくさん書かれています。また、当時の問題についても知ることができると思います。すこし考えると、それらは、ちょっと違った形であっても、現代にもある問題を扱っている場合が多いと思いますよ。みなさんは、どのような事を読み取るでしょうか。
いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピ信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイ信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、テサロニケ人への第一の手紙、第二の手紙、テモテへの第一の手紙、第二の手紙、テトスへの手紙、フィレモン(ピレモン)への手紙の梗概を引用しておきます。
エペソ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」小畑進
ピリピ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁
コロサイ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宇田進
テサロニケ人への第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
テサロニケ人への第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
テモテへの第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
テモテへの第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
テトスへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
ピレモンへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.11.17
ガラテヤの信徒への手紙3章からフィリピの信徒への手紙4章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.11.17
わたしにとっては、ピリピ人への手紙(その当時、そして今もそうですが、わたしが読む聖書は日本聖書協会口語訳が中心でしたので、この項は口語訳の言葉で書かせてください。ほかは、中心的には同じ日本聖書協会の新共同訳の名称、引用を使っています。)は特別です。高校生のころから好きでしたが、1982年(これは、結婚する前の年、今の形式で聖書ノートをつけて聖書を読み始めた年でもありますが)約6ヶ月かけて、ピリピ人への手紙を全文暗唱しました。暗唱は若い頃は難しくはありませんが、なんといっても、忘れないようにする復習が大変で、一週間に三回ぐらい、復唱していました。一番よかったのは、やはり瞑想/黙想をたくさんすることができたことでしょうか。いまは、残念ながら復唱できません。いつかまたやってみたいですが。
書き出すときりがないのですが、いくつかだけ、書かせて下さい。引用は上にも書いたように、すべて日本聖書協会口語訳です。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.11.24
コロサイの信徒への手紙1章からテモテへの手紙一2章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.11.24
今週途中から、ヘブライ人への手紙に入ります。コリント信徒への手紙以降、短い書簡が続きましたが、ヘブライ人への手紙は、13章あります。特徴的なのは、最後は書簡的な書き方になっていますが、最初には、宛先も自己紹介も書いてないことです。古い伝承もこの書について一定していないことから、誰が書いたかなどは、諸説があり、一定しません。基本的なことをまとめておきましょう。
みなさんは、このヘブライ人への手紙からなにを読み取られるでしょうか。
いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.12.1
テモテへの手紙一3章からヘブライ人への手紙2章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.12.1
ヘブル人への手紙(今年、わたしが読んでいる日本聖書協会、口語訳による)では祭司としての神の御子イエス・キリストについて書かれ、このイエスによる救いに対する私たちの信仰による応答をうながしています。ローマ人への手紙15:16 には
今週途中で、ヘブライ人への手紙も終わり、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、ユダの手紙と進みます。これら七書は「公同書簡」「公同の手紙」(Catholic Epistles(Catholic はギリシャ語のカトリコスからきており、普遍という意味です、使徒信条とよばれ多くの教会で唱えられる信仰告白の中に「聖なる公同の教会」ということばが出てきますが、これも英語では、Holy Catholic Church で、プロテスタント教会でもこの言葉で唱えられます), General Epistles)とも呼ばれています。特定の地域の人たちや、グループにあてられたのではなく、信徒全般に対して書かれ、回覧が想定されているものだからです。
著者がそれぞれ誰なのかなども、ひとつひとつ難しい問題を含んでいるようですが、ここでは、簡単に、著者として想定されている有力なひとについて記しておきましょう。
ヤコブは、通常、主の兄弟ヤコブといわれる、エルサレム教会の長老(マタイ13:55, マルコ6:3, 使徒12:17, 15:13, 21:18, ガラ1:19, 2:9, 12, 1コリ15:7)。つまりイエスキリストの兄弟のヤコブです。この書は英語では、James と呼ばれています。旧約のヤコブはそのまま Jacob と呼ばれていますから、これは、King James のもとでの英語聖書欽定訳以来の習慣ではないかといわれています。アメリカでわたしは、新約聖書の一巻として、Jacob といっても、通じないので困った経験があります。
ヨハネの手紙第一は、12弟子の一人のヨハネ、ヨハネの福音書の著者、しかし第二と第三は、それとは違うヨハネだといわれています。長老と呼ばれているからで、マルコ、ヨハネといわれている、マルコの福音書の著者が想定されているのではともいわれています。ペトロはむろん、12弟子の一人のペトロが想定されています。ユダも難しいですが、ヤコブの兄弟(1節)といわれているので、主の兄弟ユダ(マタイ13:55, マルコ6:3)が想定されているといわれています。
いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概を引用しておきます。
ヤコブの手紙(中島守)
ペトロの手紙一(松木祐三)
ペトロの手紙二(上沼昌雄)
ヨハネの手紙一(伊藤顕栄)
ヨハネの手紙二(伊藤顕栄)
ヨハネの手紙三(伊藤顕栄)
ユダの手紙(上沼昌雄)
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.12.8
ヘブライ人への手紙3章からヤコブの手紙3章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.12.8
聖書で語られている「いのち」は「肉体的な死をも相対化するいのち」とも言えるのではないかと思います。コリント信徒への手紙一15章26節には「最後の敵として、死が滅ぼされます。 」とあります。わたしはそのような神学的意味づけよりも、いま生きているいのちがずっとつながっていることを意識して生きることは、わたしたちのちっぽけであっても多くの苦しみや喜びのなかで生み出される日常的営みたいせつにしてくださるイエスの教えにつながるのではないかと思っています。わたしの好きな聖書の箇所を引用します。ここで「不正の富」と言われているのは、通常は、この世で神様から管理を任せられているもののことだと思います。ルカによる福音書16章10節・11節を口語訳で引用します。
最後に、ペトロの手紙一 3:15, 16a を口語訳で引用しておきます。わたしの研究室の机の左にいつも見えるところに貼ってある聖句です。
2013.12.15
ヤコブの手紙一4章からヨハネの手紙一4章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.12.15
今日は12月22日多くの教会でクリスマス(Christ's Mass) 礼拝がもたれます。ギリシャ語ではキリストはクリストスで X (カイ)から始まるので X'mas などと略することもありますね。Mass はいわゆるミサですが、特にカトリックで聖体拝領(プロテスタントの聖餐式に対応するもので、最後の晩餐に由来しパンと葡萄酒を共に食する儀式(例えばマタイによる福音書 26章26-29節参照))の典礼をうけ、最後に「行け、派遣する」と司祭がのべる最後の言葉のラテン語 missa(派遣)に由来します。なかなか意味深い言葉です。
教会暦では、降誕節は、東方の博士たちがイエスをたずねる(マタイによる福音書2章の記事)または、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をうける(例えばマタイによる福音書 3章13-17節参照)公現節(公現日)(英語:Epiphany)1月6日までとなっています。この1月6日はユリウス暦の12月25日にあたるので、ロシアではこの日にクリスマスを祝うそうです。
そもそも教会暦は、待降節、降誕節、受難節、復活節と一年のいくつかの特別な日・期間を記念してイエスの生涯を覚えるものです。その決め方はキリスト教の宗派によっても異なります。そして、聖書に正確な日付が残されているわけでもありません。アメリカに渡った厳格な清教徒たちは、クリスマスを異教のものと見なし、クリスマスを祝わなかったと言われています。実際、州によってはクリスマスを祝うことを禁止されていた時期もあるようです。アメリカで、今でも収穫祭 Thanksgiving の方が一般的で重要視されているように見えるのは、そのへんも影響しているかも知れません。
ヨハネ黙示録は伝統的には、イエスの12弟子の一人でヤコブの兄弟として記されているゼベダイの子ヨハネといわれています。これについても、議論はあるようです。いままでこのような著者に関する議論をさけてきました。ここでも深入りしませんが、個人的には、特別な古文書が多量に発見されない限り、科学的な方法で著者を確定するのは難しいと考えています。わたしはこのことに関しては全くのしろうとですが、新約聖書の最後にきているので、感じていることを書いておきます。「科学的な方法で著者を確定するのはとても難しい」と私が書く理由は以下の通りです。それは、1世紀から2世紀初めにかけての聖書の背景を示す文書が聖書以外に少ないこと、かつ迫害期もあり、ひとつの文書の完成に時間がかかった場合もあるだろうこと、そして、さらに大きな理由として、当時の習慣として筆記者が介在したことが多いと推察され、また筆記者の関わり方も様々なようで、どこまで実際に語った人の言葉や文体が残っているか判断が難しいこと、最初から最後まで一回で語ったものかどうかも不明であること、さらに複雑なのは、語った言語がギリシャ語なのか、ヘブル語やアラム語なのか不明であること、語った人のギリシャ語レベルがどの程度であったかも不明であること、筆記した人にどの程度の権威があったか不明で、最終的な筆記が、語った人の生前であったか死後であったかも関わってくると思われるからです。ある程度英語が読み書きできるみなさんが、日本語で語り、それをより英語が上手な人が筆記したとします。どのようなことが起きるでしょうか。なかなか難しい状況です。議論をさけたのは、そのような理由です。わたしが数学を専門とする者であることも関係しているかも知れません。数学でいう論拠と、聖書学者の論拠とは性格が違うということでしょうか。べつに批判的な意味合いで書いているわけではありませんが。
このヨハネの黙示録には新共同訳で5回著者としてヨハネの名前が出てきます。
いのちのことば社「新聖書注解」から、ヨハネの黙示録の梗概を引用しておきます。
ヨハネの黙示録(山口昇)
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.12.22
ヨハネの手紙一5からヨハネの黙示録10章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.12.22
新約聖書の通読ももう少しで終わりますね。今日は12月29日ヨハネの黙示録9章と10章です。1月5日からは旧約聖書、詩編から読み継ぎます。
前回書いたように、ヨハネの黙示録の最初の3章はローマ帝国のアジア州(現在のトルコの西部)の七つの教会へのメッセージになっています。それらの町について次の箇所に書かれています。
このヨハネの黙示録が書かれた年代は明確ではありませんが、1世紀であったもかなり遅い時期でしょうから、すでに70年にエルサレムはローマ軍により破壊され、キリスト教会も、エルサレムから中心を移したと思われます。その中心の(少なくとも一つ)がエフェソ(アジア州の州都)を中心とした、アジアの諸教会です。使徒言行録によると、パウロの二回目の伝道旅行のときに、はじめてこの地域の伝道をしています。この時期には、キリスト教会の中心となる人たちの多くがこの地域にいたと思われます。
4章からは幻が記されています。みなさんはどのように読まれるでしょうか。なかなか難しい箇所で、正直わたしにもよく分かりません。難しいのは、実際の歴史とどの程度関連づけて理解するか、他の言い方をすると、神の国に関してこれから起こることを、われわれのタイムラインにそって理解して良いのかが分からないと言うことです。無理して具体的な事象と対応づけをして解釈しないほうがよいのでしょう。最後に「新天新地」について21章に書かれていますから、その冒頭を引用します。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2013.12.29
ヨハネの黙示録11章から詩編2章は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2013.12.29
今日は1月5日、詩編1章・2章です。皆さんは、2013年一年間と1月4日までで、旧約聖書の創世記からヨブ記と、新約聖書を読んできましたが、皆さんは通読が続いていますか。実は、途中で挫折したというかたや、新約からまた始めたけれどそれも、途中まででついて行けていないという声も聞いています。なかなか難しいですよね。最初に続けるためのヒントを書きました。いつも、メールの最後につけてある、URL からも読むことができます。サポートメールも UP してあります。新しい年を迎え、気分を一新し、また、トライしてみませんか。実はわたしも、忙しさのなかで、単に消化するだけという感じで読んでいる時もあります。それでも、続けていると、たくさんの新しい発見があります。そしてそれが、自分にとって大切な「問い」となることもありますし「力」「励まし」となることもありますし、長年の「問い」の答が得られるときもあります。今回の通読が何回目か記録はありますが、数えてはいません。聖書の会のようにじっくり一つの箇所を読むのとはまた違った発見が毎回あることは確かだと思います。
1月5日から旧約聖書にもどり「詩編」から旧約聖書後半を読み始めます。また新鮮な気持ちで読むことができると思いますよ。通読のコツの一つは、よしやってみようと思ったときから、何回でも始めることです。仲間が、同じ箇所を読んでいるというのは、励みになると思います。みなさんが聖書の通読を楽しんで頂ければと思います。投稿もいただけるとうれしいです。
詩編は聖書の中でもちょっと変わっていますね。まず、他はすべて章で区切られていますが、詩編は第1篇、第2篇と続き、第150篇まであります。3月20日までずっと詩編です。なかなか長いですね。非常に長い第119篇などというのもありますが、それ以外は比較的短く、とても短いものもたくさんあります。一篇一篇を味わう余裕もあると思いますよ。
引用するときに、ちょっと混乱する可能性があるのは、節の振り方が翻訳によって違うことです。これは、表題を節として数えるかどうかに依っています。表題はついていないものもありますが、殆どについていて、日本聖書協会の新共同訳ではこれを本文の一部として節がふられ、口語訳や、日本聖書刊行会の新改訳ではふられていません。そこで多くの場合1節ずれます。現在は、新共同訳が一番普及していると思うので、ここでは、特に断らない限り、新共同訳の節番号を使いたいと想います。ちょっと違うときはその周辺を探してみてください。理由はここでは書きませんが、新共同訳が元にしたヘブル語聖書にはこの表題にも節番号がついているとだけ書いておきます。
もう一つの特徴は、第一巻から第五巻までに区切られていることです。そして、それぞれの最後は、頌栄とよばれる言葉で終わっています。区切りとその締めくくりの言葉を新共同訳から引用しておきます。
第一巻 第1篇-第41篇
第二巻 第42篇-第72篇
第三巻 第73篇-第89篇
第四巻 第90篇-第106篇
第五巻 第107篇-第150篇
ハレルヤは「主をほめたたえよ」の意味ですが、詩編全体が、賛美・賛美の書となっているのですね。
では、どのような内容なのでしょうか。それは読んで味わって頂くのが一番ですが、一般的には、
祈り、賛美、悔い改め、国家、エルサレム、諸国のためのとりなし、神様への信仰告白、神の知恵、力などの表現、国家や神に対する敵への呪い、義人の苦しみ、悪人の繁栄の嘆きなどです。
大きくとらえると、祈りとも言えますし、信仰告白とも言えると思います。つまり人から神へのことばです。こう言い切ってしまうと、聖書は神のことばではないのかと言われる人もいるかも知れませんが、人生や聖書を通して示される神からの語りかけに対して、応答によって神を指し示すと考えられるのではないかと思います。読むときには、わたしたちのような生身の人間の言葉として、苦しみや喜びを読み取ってくださればと思います。その先になにが見えるかはそのあとの問題ですね。
おそらく「呪い」については、ちょっとショックを受ける面もあると思います。しかしこれも人間の一つの告白でしょう。キリストによる神様の愛が明確な形では示されていない、そのときのひとの苦しみ悩みの表現は、すなおにうけとってよいと思います。そして、キリストの愛が示された今は、そのような悩みは存在しないと言えない事も明らかでしょう。
最後に神様の名前の用法、ちょっと難しいですが、をちょっとだけ書いておきます。いまは、いろいろな方法で検索もできますが、
神をヤハウェと特別な言葉で表現する場合と、一般名詞としてのエロヒームと記す場合があります。実は、上の5巻ではこの用法はかなり違っていることが良く知られています。1, 4, 5 巻はヤーウェが圧倒時に多く、エロヒームは殆どでてこない。それに対して、2, 3 巻はエロヒームの方が圧倒的に多く出てきます。日本語聖書でこの違いを見分けることができるかな。
皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
本年もよろしくお願い致します。
2014.1.5
引用するときに、時々聖書の巻の略記法をつかいますので、年の初めに一回まとめて書いておきます。
OT 旧約聖書:Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ruth ルツ記、Sam or Smサムエル記、Kings or Kgs 列王紀、Chron or Chr 歴代誌、Ezra エズラ記、Neh ネヘミヤ記、Esther or Est エステル記、Job ヨブ記、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、Eccl 伝道の書、Song of Sol or Sg 雅歌、Is イザヤ書、Jer エレミヤ書、Lam 哀歌、Ezek or Ez エゼキエル書、Dan ダニエル書、Hos ホセア書、Joel ヨエル書、Amos アモス書、Ob オバデヤ書、Jon ヨナ書、Mic ミカ書、Nah ナホム書、Hb or Hab ハバクク書、Zeph ゼパニアショ、Hag ハガイ書、Zech ゼカリヤ書、Mal マラキ書
詩編3篇から詩編16篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.1.5
今日は1月12日、詩編15篇・16篇です。前回書いたように、41篇までが詩編は第一巻となっています。
詩編はむろん詩文体で散文体ではありません。ヘブル語は三文字で構成される単語が多く、それが詩文体で並んでいると翻訳も難しく、違う翻訳をみるとかなり違った印象を受ける箇所、または、明らかに意味が違うところもいくつもあります。ただ、BRC は通読を基本としていますから、丁寧な比較まではできません。前にも書いたように、今回わたしは口語訳で読んでいるので、以下、口語訳で引用させて下さい。
1篇は次のようになっています。
詩編1篇は第一巻をまとめるような内容なのかもしれません。第一巻最後の41篇もとても印象的な詩編です。
1篇の3, 4 節以降をみると、正しい者は栄え、悪しき者は滅びる。本当にそうでしょうか。現実を見たときに。
不正や悪ではなくても、先天性の病気や障害をもって生まれてくる人、何も悪くないのに、交通事故にあったり、戦争などに巻き込まれて命を落としていく人もたくさんいます。それほど単純ではないと言いたいこともたくさんありますよね。
ひとの生き方も、それなりに、かみさまが望まれるように生きようとしていても、そうでないこともしてしまう。
実際第一巻の最後の41篇には、そのようななやみも出てきます。
いろいろな詩編に出会われることと思います。
皆さんは、どの詩編に興味を持ち、どの詩編が好きになり、どの詩編に疑問を持たれるでしょうか。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2014.1.12
詩編17篇から詩編30篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.1.12
今日は1月19日、詩編15篇・16篇です。すぐみなさんが読まれる、22篇、23篇はよく知られていると思います。
少しみてみましょう。今日は、新共同訳を中心に使います。前回も書きましたが、翻訳によっては、節がずれる事がありますので、注意してください。22篇は「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」とはじまります。
マタイ27:44 には、イエスが十字架上で次のように叫んだ事が記されています。
この詩編がいつ作られたか確定はできませんが、この詩編22篇に記されている苦悩は、その作者のものでもあったでしょう。まずは、詩編自体をみてみましょう。
「指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。(1節)」と表題がついています。「暁の雌鹿」もよくはわかりませんが、神殿で犠牲を捧げるときに唱えられた詩編なのかも知れません。
2節・3節には、見捨て、沈黙される神への訴えがあります。
最初に書いたように、この姿は、十字架上のイエスといろいろな面で重なります。上で引用した 4-6節も次の箇所と類似しています。
ルカ23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
では、イエスはどのような意味で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだのでしょうか。むろん本当のところはわかりませんが、みなさんはどう思われますか。十字架上でこの詩編を唱えておられたのかもしれません。そして、本当にイエスは神に見捨てられた状態になったのかも知れません。もしそうだとしたら何がおこったのでしょうか。
イザヤ53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
主の牧場、主の支配、神の国に住むものの平安が語られます。しかしなにも問題がないという意味での平安ではありません。
わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
2014.1.19
詩編31篇から詩編44篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.1.19
今日は1月26日、詩編43篇・44篇です。ちょうど第二巻に入ったところですが、もう少し第一巻を見てみましょう。
詩編32篇をみてみましょう。今日は口語訳聖書から引用します。
この詩編は「ダビデのマスキールの歌」と書かれていますが、マスキールは「さとし」「おしえ」といった意味ですね。つぎのように始まります。
詩編34篇18節には、こうあります。
2014.1.26
詩編45篇から詩編58篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.1.26
今日は2月2日、詩編57篇・58篇です。いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。
1: 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
ルターもずっと苦しいときを生き続けたのだと思います。そしてその苦しいときにも、たくさんの手紙を書いたり、隠れ住んでいるときに聖書の翻訳をしたり、この詩編はまさに、そのようなルターを支え続けたのでしょう。
8: 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
ルターは、おそらくその思いとは反して、農民戦争で農民をたすけたり、領主側に立ったり、これらのことによって批判を受けることになります。それぞれの階層の人たちの教会の権威や、農民の領主の圧政からの解放という社会的なうねりのなかで、知名度が高くなり、影響力が大きい人物となった責任がルターにのしかかり、そのひとたちを啓発したり、利用されたりしていったのです。ひとつひとつこの詩編のことばをかみしめていたのだと、そのときのルターのこころに思いをよせます。
世の中には理不尽なこと、悪人が栄えること、どんなに正しいことを貫いても報われないことがあります。おそらくそれは、どの時代にもあることでしょう。ここでは、いのちを究極のものとして、そこに目を向けています。
7: まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
すると、結局、賢いひとも、愚かなひとも、獣のようなひとも同じとなります。詩編の次の次伝道の書(新共同訳ではコヘレトの言葉)の底を流れる問いの一つとつながります。さて、ここで希望はどこにあると記者は言っているのでしょうか。究極まで考えると結局、賢いひとも愚かなひとも、獣のようなひともおなじではないか。おそらくそれに答えるのが次のところなのでしょう。復活に関する記述だともとれます。
14: 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。
死に対する勝利、詩編記者はそれをどのように信じていたのでしょうか。
詩編53篇は、次のように始まります。「愚かな者」「『神はない』という」これは、詩編にはもう一回出てきます。この愚かは、ギリシャ語ではモロスですが、賢いは、ソフォス、それが一緒になって、ソフォモアということばになっているそうです。それが混在している、またはそれが分かれていく学年ということでしょうか。聖書では、詩編のつぎの箴言で、この賢いと愚かが中心的トピックとして扱われます。しかし、なぜ、「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。」のでしょうか、論理的には、「神はない」と言わないものは、愚かな者ではないとなります。ここには、なかなかの真理がふくまれていると思いますが、みなさんは、どう思われますか。「『神はない』という」者が愚かだとは言っていません。
53:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
14:1 [口語] 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。
2014.2.2
詩編59篇から詩編72篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.2.2
この BRC のサポートページもおいてある私のホームページには、わたしの証やメッセージも載せていますが、2003年の大学礼拝でのメッセージ「平和の中で育むもの」に「先日、C-Week で、もとテロリストで現在は牧師をしている方が、メッセージをされました。その方も冒頭で『紛争地には中立はない』と言っておられました」このことをイメージしながら考えないと理解できないことも多いのかもしれません。また同時に、物理的に紛争地ではなくても「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15 口語訳)を現実のことと考えると、緊迫した状況の中にいる私たち自身をも見いだすことができるかもしれません。
今日は2月9日、詩編71篇・72篇です。いくつかの詩編について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。
みなさんは「もだして」ということばはわかりますか。漢字で書くと「黙して」となります。思考・行動などとの関連で「口を開かない」ことのようです。上にあげたように、この詩編には二カ所この言葉が使われていますが、他の聖書の箇所にもほとんど使われていません。聖書に使われていることばとして、普段はあまり使われないので、わたしには特に印象が強い言葉です。確かに救いを神にもとめ、願いをもって神に訴えます。しかし、最終的にこの態度が、自分の望みのように、自分が考える救いのようにことが運ぶことを願うのではなく、神の主権のもとで、神の国がくることを願う、御心がなることを願う、ひとりの人間の態度・姿勢なのだなと思います。上の1, 5節にはそれぞれ次の節が続きます。
2: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
そして、私たちの日常にも関係するような次の言葉が続きます。
9: 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
以前、詩編は詩文体なので、訳によりかなり意味も変わってくると書きました。その問いを投げかけるため、9節に対応する新共同訳を引用しておきます。
9: 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
敵からの救いを求める詩編です。この次の節からその敵のことが書かれています。
3: 彼らはその舌をつるぎのようにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、
これに対して神はどう応答されるのでしょうか。それがその次に書かれています。
7: しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
神が矢を射られる。その理由は「彼らの舌のゆえ」となっています。つまり、自分を陥れようとしたことを理由としているのではなく、隠れたところから、罪のないものを射、そのことは暴かれないと言ってはばからない。その故です。
最後は次の言葉で締めくくられています。
9: その時すべての人は恐れ、神のみわざを宣べ伝え、そのなされた事を考えるであろう。
紛争の中にいる、詩編記者のことを考えると、いまから 2500年から3000年も前に、このような祈りがなされていたことに驚きを禁じ得ません。正直、詩編によっては、身勝手な祈りと思われるものもありますが、詩編全体でみたときに、戦いの中にいて、神をほめ讃えるものの信仰に圧倒されてしまいます。
6節は出エジプトのできごとを踏まえています。出エジプト14章と、ヨシュア記4章です。
ここで終わりません。
9: 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。
と書いた直後に、
10: 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
簡単にかかれていますが、14節を読むと、実際に悩みの時に神に求めていたこともわかります。
14: これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。
そして
18: もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。
皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。
2014.2.9
詩編73篇から詩編86篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.2.9
1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
21: わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
どう思われますか。なかなか苦しみの中にいるとき、このように告白できるかどうか分かりませんが、2, 3 節は、自分が「こころの清い者」ではなかったことを具体的に表現しているのでしょう。
マタイによる福音書5章 8節には「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」とあります。論理的に考えると「神の救いをみることができないのは、心が清くないということだ」ともなります。2,3 節から考えると、悪しき者が栄えるところに目がいってしまい、こころが分裂してしまって、神の救いに預かれない、神の業としての救いを見ることができないとなります。21-23節では、自分が「愚かで悟りがなく」神に対して「獣のようであった」と告白しています。この状態なのでしょう。
しかし、その次の23節には「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。」とあります。前半は、自立的に常に、神とともにあったというより、このことを発見したということかもしれません。気づいてみたら、このようだった、といって神を褒め称えているのです。
この1-3節の後も是非読んでください。悪しき者の忌まわしき様が書かれています。そして、
10: 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
どのように読むべきか確定的ではない部分もありますが、悪しき者の非道を行い、それを謳歌するなか、民も心を変え、それを褒め称える。神を誹謗し、かつ、世の富、祝福も悪しきものとともにある。14 には義憤のようなものも現れているでしょう。しかし「いたずらに」は、新共同訳では「むなしかった」と書かれていますが、悟りなく正しさのみを追い求める苦しさが表現されています。16節は、その現実を後代に語ることを表現しているのでしょうか。さらに、17節はおもしろいですね。悟りを得ようと考えたのでしょうが、それは、面倒にも思えたというのです。(新共同訳は訳がかなり違います)そして、18節を迎えます。この人は「聖所」で悟りを得たのです。19, 20 には、悪者が滅ぼされる光景が書かれていますが、悟りが、聖所で得られたのだとすると、現実というより、神のみわざを悟ることだったのでしょう。悪者の栄華に「虫が食い、さびがつく」マタイによる福音書6章19節だったのかもしれません。そしてそれが全体として 1節に表現されているのではないでしょうか。
1: 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
11: しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
逆らう民に対する、神のこころが記されているとともに「わたしは彼らを、そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。」
とあるのです。ローマ人への手紙1章24節
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。
を思い出させられます。これもひとつの裁きの形、しかし同時に、13節のように神様は望んでおられるのでしょう。
13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
皆さんは、いかがでしょうか。詩編記者のこころに寄り添ってみませんか。詩編を味わいながら。
2014.2.16
詩編87篇から詩編100篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.2.16
公的な賛美と上に書きましたが、公の場での使われたと思われるものが多いことは確かだと思います。礼拝において、司式(司会)者と会衆が交互に読む「交読文」という形式がありますが、その形式にぴったりの詩編もいくつもあると思います。今回も口語訳を中心とします。
あまり詩編を読まないというかたでも知っておられる方がいるのではないでしょうか。「全地よ」ではじまります。そして「われらを造られたのは主」だから「われらは主のもの」「その民」「その牧の羊」だと続きます。「全地」とはどの範囲なのか、「われら」とはどの範囲の人を想定していたのかなどと、現代的な世界観から、当時の世界観を批判的にみることもできますが、このように言い切ることによって、このようにしか表現できないとして告白し、唱えるなかで、逆にこの言葉の内実が迫ってくると言うこともあるのではないでしょうか。人間の側では、これにいろいろな解釈を施して、限定的に解釈しようとする、しかし、われわれを創造し、われわれを所有し、そしてわれわれを牧している、この主こそ神と言い切るときには、排他的な人間のこころは場所を失います。
その上で、この主のみ前に集い、その門に入り、大庭に入る、この光景は、天国(かみさまのみこころがかんぺきになるせかい)は近づいたと告白できるのかもしれません。
最初にテーマを決められないと書きましたが、この次の詩編101篇以降は「われら」が「わたし」に変わります。
101:1a わたしはいつくしみと公義について歌います。(a はこの節の前半を表す慣用記号です)
102篇の表題は「苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈」となっています。
102:1 主よ、わたしの祈をお聞きください。わたしの叫びをみ前に至らせてください。
そして 103:1, 104:1 では「わがたましいよ、主をほめよ。」となり、この巻の最後の二つの詩編は
105:1 主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。
詩編においては、全世界のことと、個人のなやみ、そしてわれわれの隣人のことが分けられないものとして織りなされているということでしょうか。
以前、International Baccalaureate という国際学士資格と関連して、International Education の基礎を築いた Marie-Thérèse Maurette の言葉から、考えさせられることがありました。"Is There a Way of Teaching for Peace?," をキーワードに探すととくに UNESCO 関連のサイトが出てきますが、Maurett 女史の唱える、平和教育の基礎には、とても共感させられました。
Five UNESCO mandates to its Education-based NGO’s (including IB):
あまり、詩編と強くリンクさせるのは問題があるかもしれませんが、ある普遍性を覚えさせられます。最後は、個人的な思惟から、中心を外れてしまったかもしれませんが、人生全体と関わりながら聖書を読む、みなさんもいろいろなことを考えながら読んでいただければと思います。
今週は、聖書の中でもっとも長い章でもある詩編119篇があります。いろは数え歌にもなっています。律法やおしえなどをいろいろな言葉をつかって言い換えてもいます。楽しんでいただければ幸いです。
2014.2.23
詩編101篇から詩編114篇は明日から一週間でみなさんが読むことになっている箇所です。以下の聖書からの引用は日本聖書協会の口語訳です。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
2014.2.23
BRC no.2:聖書通読について
BRC no.3:聖書の読み方・創世記(1)
聖書は読みはじめましたか。
わたしは、みなさんそれぞれ異なる目的で読むということでよいと思っています。
しかし、これからメールを送るにあたって基本的なことをまず書いておきます。
ここでは
「聖書またはその巻を書いた方(著者)が何を私たちに伝えようとしているのか。」
を読み取ることを第一の目的としてわたしは書いていこうと思います。
創世記について
ここには、神様による世界と人間の創造が書いてあります。
2:3 までとそれ以降で二つの物語が書かれているように思われます。
上に書いた目的にそって読んでみるとつぎのことを伝えていることがわかると思います。
BRC no.4:聖書通読ノート・創世記1−18
すでに書きましたが、わたしは1982年の秋から「聖書通読ノート」をルーズリーフを使ってつけています。聖書を読んだ回数は、ある時点で数えなくなりましたが、おそらく今回は30回目程度でしょう。毎回何かを書くようにしています。その理由は no.2 に書きましたので、ここには書きませんが、実際に今年どのようなことを書いているか、概要(実際はノートに書いているのでその抜粋)ですが書いてみようと思います。そんなに何回も読んでいて、また通読する意味はあるのですかとか、新しい発見はあるのですか。などと聞かれることもあるからです。1章ごとに別々のルーズリーフを使っています。聖書日課の日付と実際に読んだ日付とともに記録しています。通常は朝読んでいるので、祈りを込めて、その日の簡単な予定も書いています。前回の通読では、基本的に2日から3日先を読んでいましたが、サポートメールを書くにはやはり1週間先を読んでおいた方がよいと感じたので、今年は1週間先を読もうと思っています。そこで、下に、今日までで読み終わった箇所について、1行ずつ今年書き込んだことの概要を書いておきます。なお、今年も日本聖書協会「口語訳」を基本として読んでいます。そこで引用は口語訳とします。Gen は 創世記 Genesis の略称です。
説明が必要なことが多いですが、わたしは、このように疑問や発見などを毎年書きくわえっていっています。
皆さんはどのようなことを感じながら読んでおられるでしょうか。
BRC no.5:創世記(2)
聖書の通読は続いていますか。今日は1月6日ですから創世記11章と12章です。
no.2 として、下のホームページの内容を送りました。
http://subsite.icu.ac.jp/people/hsuzuki/science/bible/brc2013.html
このページに書いてありますが、通読の最初の困難は、それが習慣となるかどうかです。一日の中で一番自分が続けられる時を選んで、なるべく同じ時間に読むのがよいと思います。通読表の読んだ部分を斜線で消していくのもよいでしょう。まだ追いつけますので、是非習慣としてください。
BRC no.6:聖書通読ノート・創世記19−26
ルーズリーフの「聖書通読ノート」をちょっと調べてみましたら、コメントが書いてあるのは20回ぐらいでした。1982年は新約だけですから、たとえば創世記は、
1983、1984、1986英、1987、1988、1989、1990、1991英、1992、1993、1995英、1997、1999英、2003、2005、2007、2009、2011、2013
海外で過ごした年は、持って行かなかったり、ICUに移ってきた1993年からは基本的に2年で通読しているためのようです。今年は、20回目となります。実は、最初のほうは、時間もあったのか、二種類の聖書を並べて読んでいたり、分厚い注解を一緒に読んだりもしていました。いずれにしても、続くことが大切だと思います。no.2 に書きましたが、何かノートを書くことは続けられる一つの方法だとわたしは考えています。
今回も少し、わたしがノートに書いたことの一部を書いておこうと思いますが、基本的に自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても良いですよ。通常のサポートメールは、前回のものの改定版を送っているので、多少時間の余裕のあるときは「聖書通読ノート」も送ろうと考えています。10年もすると、内容のあるものになるかも知れないので。本質的な部分は、継続です。
ヘブル語などは、学生の頃に、お金をためて買った Strong;s の Lexicon をずっと使っていましたが、いまは、英語ならネットに何でもあります。もちろん、スマートフォンアプリも。勉強したいという意思があればなんでも勉強できる時代になってきています。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
BRC no.7:創世記(3)
聖書の通読は続いていますか。今日は1月13日ですから創世記25章と26章です。
BRC no.8:聖書通読ノート・創世記27−40
わたしがノートに書いたことの一部を書きます。基本的に自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても良いですよ。しかし、BRC2011の最初からのかたは、ほとんどが読んだことのある文章になりますから、わたしがどのようなことを考え、発見しながら読んでいるかも、何らかの参考になるかも知れません。聖書の会の準備のようにかなり突っ込んで考えるということはできません。しかし、新たな発見(実は何年前かに同じ事を発見しそのときも感激したと書いてある場合もありますが)や、自分の信仰と向かい合いながら、習慣のようにして聖書を読む一つの例として見て下さればと思います。
皆さんはどのようなことを学んでおられますか。そしてどのようなことを感じ、考えながら読んでおられるでしょうか。
BRC no.9
聖書の通読は楽しんでいますか。今日は1月20日ですから創世記39章と40章です。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
BRC no.10:聖書通読ノート・創世記41−出エジプト記4
わたしがノートに書いたことの一部を書きます。基本的に自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、新たな発見や、自分の信仰と向かい合いながら、習慣のようにして聖書を読む一つの例として書いておきます。
Gen 創世記、Ex 出エジプト記、Prb 箴言、1Sam サムエル記上、Heb ヘブル人への手紙
BRC no.11:出エジプト記(1)
聖書の通読は楽しんでいますか。ヨセフ物語はどうでしたか。ユダ登場の44章後半は、何度読んでも感動してしまいます。このようにユダに言わせたものは何だろうと。皆さんは、創世記どのようなところに興味を持ち、疑問を持ちましたか。今日は1月27日ですから出エジプト記4章と5章です。順調ですか。
BRC no.12:聖書通読ノート・出エジプト記5−18
わたしがノートに書いたことの一部を書きます。基本的に自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、新たな発見や、自分の信仰と向かい合いながら、習慣のようにして聖書を読む一つの例として書いておきます。
Gen 創世記、Ex 出エジプト記、Prb 箴言、1Sam サムエル記上、Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書、v は verse 節の略。
BRC no.13:出エジプト記(2)
聖書の通読は楽しんでいますか。そろそろ遅れ気味のひとが出てきたのではないかと思います。ひとりひとり状況は違うと思いますが、遅れが出てくることにそれなりの理由もあるのではないかと思います。遅れても、1章でも2章でも読んで、読んだところを通読表で確認して斜線で消していくのも良いかもしれません。たとえば、出エジプト記1章からまた読み始めるのも良いかもしれません。
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
と言っていますから、律法に示された道は、神によって生かされる生活の完全な形ではないのでしょうが、神と共に生きる生活、いのちをもって生きる生活は、なにもかもみんな違う生活なんだということを教える役目はあったのでしょう。つまり清い(聖い)とはどういうことかを知らせる役目です。もちろん、一民族、聖書の記述によれば、成人男性だけで 60万人(民数記で出てきます)での出エジプトですから、エテロ(エトロ)の助言も含め、社会的な問題をどう扱えばよいかは大きな問題だったでしょう。個人で、個別に神に対してどう応答していったらよいか、ある意味ではかってに応答していた時代とは違うのです。
以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。(新共同訳)
これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。(口語訳)
以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。(新改訳)
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。」
「敵を愛することはできません。キリストがおられなければ。しかし、わたしたちもキリストによって愛することができます。神様の前に立つとき敵も味方もありません。もしそうでないなら、わたしたちは古い生き方をしているのです。イエス様は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと言っておられます。あなたがたの天の父の子となるためにと。イエス様がではなく、私たちが神様の子となるためです。小さな日常の中でつぎのように答えたいと思います。『神様わたしたちの敵は確かにそこにいましたが、あなたに助けを求めたとき、わからなくなってしまいました。あなたにあって、わたしもあの人も同じように哀れみをうけ、恵みをうけ、ほんとうのところ敵も味方もないことをあなたにあって知らされたからです。』」
それほどの大きな変化の一部を、イスラエルのひとたちも、出エジプト記・レビ記を通して教えられようとしているのでしょう。よくは分からない部分があっても、疑問をもちつつも、少しずつ読み続けましょう。神様の救いの歴史としての旧約聖書はまだはじまったばかりです。
BRC no.14:聖書通読ノート・出エジプト記19−32
わたしがノートに書いたことの一部を書きます。基本的に自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、新たな発見や、自分の信仰と向かい合いながら、習慣のようにして聖書を読む一つの例として書いておきます。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。
Gen 創世記、Ex 出エジプト記、Prb 箴言、1Sam サムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
BRC no.15:出エジプト記(3)
聖書の通読は楽しんでいますか。そろそろ遅れ気味のひとが出てきたと聞き、心配しています。最初に書いたように、もう一度、途中から始めるというのも良いですよ。15日からレビ記に入ります。前回書いたように、レビ記はすこし難しいので、ここから始めて乗り切ることができれば、あとは続けられると思います。モーセ5書の次のヨシュア記からはじめるのも、そのあと、士師記から始めるのも、サムエル記上から始めるのも良いですよ。大切なのは読んだ記録をつけて、あとで読まなかったところに戻ってくることです。
出エジプト後半では律法が与えられるわけですが、前回書いたように、主が民の内に住まわれるということが出てきましたね。
また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新共同訳)
そして出エジプト記の最後40章には神の臨在の証である昼は雲夜は雲の中に火があり民を導いたことが書かれています。
わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 口語訳)
わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29章45, 46 新改訳)
BRC no.16:聖書通読ノート・出エジプト記33−レビ記6
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.17:レビ記(1)
聖書の通読は続いていますか。通読する人の最初の関門は、習慣とできるかつまり毎日の予定に組み込めるかですが、第二の関門は、レビ記だというひとがたくさんいます。今日は2月17日ですからレビ記5章・6章です。
副題:天幕での礼拝手引き
前回も少し書いたように、今回はわたしがどのようなことを考え記録してレビ記を読んでいるか、例として書かせて下さい。あくまでも個人的感想です。
a. 過ぎ越の祭 b. 初穂の祭 c. らっぱの祭り d. 仮庵の祭
1:14 羊や山羊を買えない貧しい人のための規程も決められている。同時に購いは貧しい人も必要。
2:13 契約の塩は契約が真実・不変であることの象徴。
3:16-17 脂肪はすべて主の物、脂肪も血も食べてはならない。
4:2-3 罪を犯した場合の購いの最初は祭司について、厳粛な思いを持つ。
順序は、祭司・共同体全体・共同体の代表者・一般の人
4章は過失罪で、故意罪については民数記15:30-31に民からたたれなければならないことが書かれている。
5:1 もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。とても厳粛。
5:4 また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。これがみだりに誓ってはならないということの内容であろう。そしてこれは神に対して罪を犯したこと。
5:5 まずは罪の告白。
5:7 様々な経済状態に応じたささげものが定められている。
6:18 この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。家に持ち帰ったり、祭司以外のものが食べることは許されなかったのだろう。特別な物。
7:20 もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。汚れることを極度にさけた理由もここにあるのかも知れない。
8:33 あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。この次の34節につながるように、おそらくこの7日間は罪の清めという事だろう。大変な儀式だったろう。
9:24 そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。これこそが神の臨在の象徴。脂肪をなめ尽くす、脂肪は神のものとの意味がここにもあるのだろう。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。詳細はよくわからないが大変な事件が起きてしまう。厳粛なとき、しかしこの次にある、
10:19-20 を合わせて理解すべきだろう。ここが無かったらたんに厳しい宗教でおわってしまう。「モーセはこれを聞いて納得した。」
11:43 あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。清さについての最後がここにあるのかもしれない。ひとつひとつあまり理由は考えたくないが、ある程度なぜ清くないのか想像できるような内容になっている。人々に神は考えるように促しているのかも知れない。
12:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。理解しがたいことが続く。血がいのちとしてそれが地にながされることに対して恐れがあったのだろうか。
13: 8 祭司はこれを見て、その吹出物が皮に広がっているならば、祭司はその人を汚れた者としなければならない。これは重い皮膚病である。最近の口語訳の版は「重い皮膚病」となっている。私が使っているものは「らい病」差別的に働く言葉の排除、またひとからげにライ病としているところに問題があるからだろう。しかし、当時はやはりライ病として恐れられ、共同体に伝染しないよう特別な注意が払われた。配慮は理解できるが、やはりこれは差別的なライ病認定として残すことも一つだと思われる。
14:2 「重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、清められる希望を持ち、ある意味では誤診の可能性もこのようにして清め規程として持っていたのだろう。いまも、そう変わらない危うさがある。
疑問や感想お送り下されば幸いです。
BRC no.18:聖書通読ノート・レビ記5−20
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
Gen 創世記、Ex 出エジプト記、Lv レビ記、Prb 箴言、1Sam サムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
BRC no.19:レビ記(2)
レビ記楽しんでいますか。今日は2月24日ですからレビ記19章・20章です。
あと少しでレビ記も終わり、民数記に入ります。
今日は、今回の通読でわたしが学んだことを書かせて下さい。
すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。
「命は目には見えないけれど、君たち命を持っているね。では、命はどこにあるのかしら」
心臓とかをさす子もいますが、それは命ではないよねと語り、
「君たちは昨日、朝起きてから何をしたか順を追って話してごらん」
「君が持っている時間を君のためだけに使ってきた?」
と問いかけます。そして、最後に
「おとなになったら自分の時間をどのように使いたいかを考えて、私に送って下さい。」
その応答として、
「日野原先生は『人のことを考える』『仕返しはいけない。我慢しなければ』と言われました。『平和のことを深く考えて行動する』ということは、はっきり言うと、普段はできないと思います。だからそんな大きなことじゃなくて、まずは日常生活の中で友達や家族、周りの人たちのことを考えてみたり、普段の生活のちょっとしたことで気をつかったり、そういうところから行動していけるようになりたいです。」
「自分という空っぽの器にどう詰め込んでいくかが大切だと思いました。」
と素晴らしい手紙をもらったと書いてありました。みなさんは、自分のいのちはどこにあると考え、普段の生活を生きる中で、どのように自分という器に詰め込んでいるのでしょうか。いのちを大切に生きていますか。
あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。
イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
BRC no.20:聖書通読ノート・レビ記21−民数記7
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Judg or Jgs士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
BRC no.21:民数記(1)
民数記に入りましたね。今日は3月3日ですからレビ記6章・7章。12章から15章などみなさんの中にもそれぞれ好きなかたもおられるのではないでしょうか。12章も考えさせられるところですが、13章・14章はカレブが登場するところでもあります。
http://www.bible.or.jp/main.html
新改訳聖書を読んでいる人は次のリンクの下の検索条件に入れれば出てきますよ。
http://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch.html
質問を書いておきます。自分にこのように問いながら読むのも聖書の読み方の一つです。
14章
民の不信と神のさばき、カレブとヨシュアの信仰についてあなたはどのように感じ、考えますか。
http://www.gutenberg.org/ebooks/12096
矢内原忠雄訳の日本語版では第4章に勇・敢為堅忍の精神として論ぜられています。
単に勇気であれば、称賛されるべきものではないはずです。単に勇気があったということではないと思います。カレブを考えるには、カレブ以外の人がなにに根拠を置いて判断していたかを考えるのも良いかも知れません。そした私たちはどうでしょうか。現代の日常のなかでこれと似たことはないでしょうか。
BRC no.22:聖書通読ノート・民数記8−21
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.23:民数記(2)
民数記には出エジプト後の40年の旅路の殆どが含まれています。それは残念ながらイスラエルの民が神に従順には従わなかった記録ともいえるものですが、神に従って生きる生活とはどのようなものなのか考えさせられる興味のある話がたくさん詰まっています。新約聖書で引用されている記事もあります。
彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので、モーセは彼らのために災にあった。
民数記20:2には「水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。」とあります。このあと7節から13節まで引用してみましょう。
7:主はモーセに言われた、
ここでモーセとアロンが主の聖なる事を示さなかったために、二人は約束の地に入ることはできないと書かれているのです。そして実際、24節には
8:「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
9:モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
10:モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
11:モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
12:そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
13:これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。
「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。
とあり、さらに、モーセについても、27章14節に
これは会衆がチンの荒野で逆らい争った時、あなたがたはわたしの命にそむき、あの水のかたわらで彼らの目の前にわたしの聖なることを現さなかったからである」。これはチンの荒野にあるカデシのメリバの水である。
とあります。いくつも疑問が生じます。アロンは何をしたのだろうか。アロンは、すでに、何回も問題行為と思われる事がありましたが、そのとがめは殆ど無く、アロンの関与は明確ではないこの事件が約束の地に入れない理由として挙げられている。モーセも、確かに、「主の聖なる事を示さなかった」と言われればその通りかもしれないが、不平をつねにモーセに持ってくる民のことを考えれば、この程度のことで、夢見ていたであろう約束の地に入れないとはあまりにも酷ではないだろうかということです。
しかし、この地がメリバと呼ばれるようになったことを説明して、「イスラエル人が主と争ったことによる」とは言われているが、モーセとアロンが主と争ったとは記されていない。確かにモーセとアロンは主のことばに従わなかった。しかし、そのように彼らを刺激し、仕向けたのはイスラエルの民であった。彼らはエジプトを出た時から荒野の旅の間中つぶやき、逆らい通しの民であった。40年を経て、ほとんど世代が交替した今も少しも変わっていないのである。アロンにしてもモーセにしても確かに主に逆らいはしたが、決して主に打たれて死んだのではない。むしろ彼らの死は、まさしく重荷からの解放であり、憩いへと移される主の慰めであったと言えないであろうか。123歳のアロンと120歳のモーセは、主に責められ自分たちの罪を認めただけでなく、その主のことばにねぎらいの響きさえも聞き取ったのではないだろうか。」
みなさんは、どう思われますか。
BRC no.24:聖書通読ノート・民数記22−35
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.25:申命記(1)
皆様いかがお過ごしですか。
4: 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
5: あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6: 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
7: 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
8: 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
9: あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
13: もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、
14:わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。
15: わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
16: あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。
17: さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。
18: あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、
19:子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
20: あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
21:こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。
37:主はモーセに言われた。
申命記を読み始めると、今までの四書とは文体が違うことが分かると思いますが、聖書の研究者たちによっても、創世記から民数記とこの申命記の成り立ちはことなるとして、様々な推測がなされています。
38:イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。
39:それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。
40:あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。
41:わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。
a. シナイからヨルダンへのイスラエルの歴史
b. 神の命令を忠実にまもるようにとの訴え
c. 歴史的な事への付加
a. 十戒の再読と、神に下が枸杞との懇願
b. 宗教的世界的生活に関する規則
c. しっくりの板に書き留められるべき定め、
d. 祝福とのろい
a. 契約更新と祝福とのろい
a. ヨシュアへの引き継ぎ
b. 祭司たちへの律法の付与
c. モーセの歌・祝福のことばと指令
d. モーセの死
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。(口語訳 コリント人への手紙第一、12章26節)
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(口語訳 ローマ人への手紙12章15節)
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
BRC no.26:聖書通読ノート・民数記36−申命記13
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.27:申命記(2)
皆様いかがお過ごしですか。通読は続いていますか。今日は3月24日ですから、申命記12章・13章です。あと1週間と少しで申命記が終わり、モーセ五書とか律法(トーラー)と言われている部分が終わります。
BRC no.28:聖書通読ノート・申命記14 − 27
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.29:ヨシュア記(1)
皆様いかがお過ごしですか。今日は3月31日ですから、申命記26章・27章です。今週、申命記が終わり、ヨシュア記に入ります。
a. 神のヨシュア任命、エリコへのスパイ 1, 2
b. ヨルダンの横断、記念の石、割礼と過越 3-5
a. エリコ陥落 6
b. アカンの罪とアイ 7-8:29
c. エバルとゲリジムでの契約の確認 8:30-9
d. 北と南での戦い 10, 11
e. 勝利の概要 12
a. ヨルダンの向こうの部族の境界 13
b. その他の部族に与えられた土地14-19
c. 逃れの町 20
d. レビ人の町 21
a.. 2部族半、ヨルダンの向こうに戻る あかしの祭壇 22
b. ヨシュアの最終の挨拶 23-24:15
c. シュケムでの契約更新、ヨシュアの死 24:16-23
BRC no.30:聖書通読ノート・申命記28−ヨシュア記7
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。エパ(かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.31:ヨシュア記(2)
皆様いかがお過ごしですか。卒業式、入学式、そしてもうすぐ新学期が始まります。卒業された方で他のメールアドレスに配信を希望する方は、受信用メールアドレスを送ってください。通読を続けるのはなかなか大変ですが、新しい発見は必ずありますよ。一度、中断してしまっていても、また、はじめてみてください。通読表にしるしをつけておけば、読んだ箇所もわかります。通読したという達成感も大切かも知れませんが、それよりも毎日少しずつ読んでいくことがたいせつだと思います。通読して、全体の感じがつかめることもたいせつですが、日常的に聖書を読みながら、それぞれの箇所から学ぶことに価値があるからです。私も、週一回のペースでサポートメールが続けられるか自信はありませんが、みなさんが、聖書を少しでも興味を持って読み続けることができるようサポートをしたいと思います。
Chapter 7 The Tribal Allotments of Israel
ですが、Chapter 7 の地図は、よく見るといろいろな情報が書かれています。
どうしても日本語でというかたは、少し古いですが、聖書地図の第3図でも概要はつかめると思います。
http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/039.jpg
http://ja.wikisource.org/wiki/聖書地図_(JBS1956)
BRC no.32:聖書通読ノート・ヨシュア記8−21
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Josh or Jo ヨシュア記、Judg or Jgs 士師記、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
BRC no.33:士師記(1)
皆様いかがお過ごしですか。今日は4月14日ですから、ヨシュア記記20章・21章です。16日から士師記に入ります。
主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。
彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」主はこれらの諸国の民をそのままとどまらせ、すぐ追い払うことはなさらなかった。彼らをヨシュアの手に渡すこともなさらなかった。
わたしたちの内にもそのようなものがあるのかも知れませんね。
士師記を読むときに一つ指針となる、ことばを書いて、今日は終わりとします。
a. 部族の移動 1:1-36
b. 契約の御使い 2:1-5
c. ヨシュアとその時代過ぎ去る 2:6-10
d. 歴史の概略
a. オテニエルによるメソポタミヤの王からの救い 3:5-11
b. エポデによるモアブの王からの救い 3:12-30
シャムガル 3:31
c. デボラとバラクによるカナンの王からの救い 4-5
d, ギデオンによるミデアンの王からの救い 6-8
ギデオンの子らの物語 9:1-57
トラとヤイルのさばき 10:1-5
e. エフタによるアモンの王からの救い 10:6-12:7
イブサン、エロン、アブドンのさばき
f. サムソンによるペリシテからの救い 13-16
a. ダンの移住と、ミカの物語 17-18
b. ギベアの不法と、イスラエルとベニヤミンとの戦い 19-21
BRC no.34:聖書通読ノート・ヨシュア記22−士師記11
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
Gen or Gn 創世記、Exod or Ex 出エジプト記、Lev or Lv レビ記、Num or Nm 民数記、Deut or Dt 申命記、Judg or Jgs士師記、Ps 詩編、Prov or Prv 箴言、1Sam or 1Smサムエル記上、Mtt or Mt マタイ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Gal ガラテヤ書、Heb ヘブル書
BRC no.35:士師記(2)・ルツ記
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
BRC no.36:聖書通読ノート・士師記12ールツ記4
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。1 オメル(1 4/5カブ) 2.2リットル、1 セア(3 1/3オメル) 7.33リットル、エパ(エファ、かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.37:サムエル記(1)
皆さんお元気ですか。今日は4月28日ですからルツ記3章・4章です。挫折という声も聞こえますが、このサムエル記から再開はお薦めです。この連休に再開してみませんか。
(榊原康夫「新聖書注解」いのちのことば社より)
i. 大祭司エリとサムエル 1-3
ii. 契約の箱の物語 4:1-7:1
i. 王国の要請 7:2-8:22
ii. サウル王即位 9-12
iii. サウル王の遺棄 13-15
i. ダビデへの油そそぎ 16:1:13
ii. サウル王ダビデを召し抱える 16:14-17:58
iii. 王の婿ダビデ 18-20
iv. お尋ね者ダビデ 21-26
v. ペリシテ亡命のダビデ 27-下1
i. ダビデ王国とイシボシェテ王国 2-4
ii. ダビデ統一王国の確立 5-8
i. ヨナタンの子メフィボシェテ 9
ii. ソロモン誕生 10-12
iii. 王子アムノンの死 13
iv. 王子アブシャロムの死 14:1-19:8
v. ダビデ王の都入り 19:8-43
vi. ベニヤミン人シェバの乱 20
i. サウルの子孫7人の処刑 21:1-14
ii. ペリシテ戦の英雄 21:15-22
iii. ダビデ感謝の歌 22
iv. ダビデの最後のことば 23:1-7
v. ダビデの勇士 23:8-39
vi. ダビデ王の人口調査 24
BRC no.38:聖書通読ノート・サムエル記上1−14
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。1 オメル(1 4/5カブ) 2.2リットル、1 セア(3 1/3オメル) 7.33リットル、エパ(エファ、かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.39:サムエル記(2)
皆さんお元気ですか。今日は5月5日ですからサムエル記上13章・14章です。挫折という声も聞こえますが、このサムエル記から再開はお薦めです。この連休に再開してみませんか。
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師記21:25)
そしてサムエル記上でサムエル登場。最後の士師とも最初の預言者とも言える特別のリーダーですが、実は祭司なのかどうかはよく分かりません。サムエル記上の最初には、サムエルのお父さんの系図は書かれており、
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
とあります。これを見ると、エフライム族のようですが、歴代誌上6:13(口語は6:28)をみるとレビ族であるように書かれています。歴代誌記者は、祭司とも位置づけていることになります。
1:サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。
そして王の権能について語ります。戦いの続く現実の前に、民が王を求めたのは十分理解できるように思います。主に信頼するといってただ敵に攻められるにまかせていけばよいのか。しかし7節は主のサムエルへの配慮も感じますがそれを差し引いても強烈です。このときの民の選択は間違っていたのか。皆さんは、どう思いますか。現代においても、起こりうる問題のように思います。エレミヤ17:5-8を引用します。
2:長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。
3:しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた。
4:イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、
5:彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
6:裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。
7:主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
8:彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。
9:今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
5:主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。
詩編1篇を思わされるような聖句ですが、主に信頼する人生とはどのようなものなのでしょうか。
このあと、次のように続きます。
6:彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。
7:祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
8:彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。
9:人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
これも信仰告白でしょうか。「現実はそんなに甘いものではない」と思ってしまうところに不信仰が入り込んでいるのかも知れません。
10:心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
11:しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように/不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て/ついには、神を失った者となる。
12:栄光の御座、いにしえよりの天/我らの聖所、
13:イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。
BRC no.40:聖書通読ノート・サムエル記上15−28
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
キュビト(新共同訳: アンマ) 約44cm 肘から先の長さ。1 オメル(1 4/5カブ) 2.2リットル、1 セア(3 1/3オメル) 7.33リットル、エパ(エファ、かごの意味)約23リットル = 1/10コル(丸い器の意味)、液体の場合はおなじ量が パテ= 6ヒン
BRC no.41:サムエル記(3)
皆さんお元気ですか。今日は5月12日ですから、サムエル記上27章・28章です。
BRC no.42:聖書通読ノート・サムエル記上29ーサムエル記下11
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.43:サムエル記(4)
皆さんお元気ですか。今日は5月19日ですから、サムエル記下10章・11章です。
こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。
そして、「ゼルヤの子ヨアブは軍の長、アヒルデの子ヨシャパテは史官、」などと続きます。20章の最後にも23節から「ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはケレテびと、およびペレテびとの長、」と続きます。記者に区切りの意識があることは確かでしょう。このようなものを見つけながら流れを読むことで、その区切りでなにが書かれているかを考えるきっかけともなります。
1:春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
ダビデは、ヨアブに命じ、戦いの激しいところにウリヤを置き、退却させて、ウリヤを殺します。12章にナタンがダビデにその罪を悟らせる場面が記されています。是非、11章、12章を読んでください。このあとの章は、ダビデの苦難について記されています。それが神から来ていることを知っているダビデ、ダビデがそのなかでどのようにいきようとしていくのか、じっくり読んでいただきたいと思います。しかし、ダビデの苦難がが、単なる、神からの罰と考えるのは、短絡のように思います。皆さんは、どう読まれるでしょうか。最後に12章13節を引用します。
2:さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。
3:ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。
4:そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。
5:女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。
6:そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。
7:ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。
8:そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。
9:しかしウリヤは王の家の入口で主君の家来たちと共に寝て、自分の家に帰らなかった。
(サムエル記下11章1節-9節)
ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
BRC no.44:聖書通読ノート・サムエル記下12ー列王紀上1
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.45:列王紀(1)
皆さんお元気ですか。列王紀に入りましたね。今日は5月27日ですから、サムエル記下24章、列王紀上1章です。
http://www.sogensha.co.jp/biblica/pdf/04.pdf
http://meigata-bokushinoshosai.info/swfu/d/auto_Z0Olvq.pdf
(北海道砂川市にある空知太栄光キリスト教会の牧師 銘形秀則先生のホームページより。内容をしっかり読んでいないので紹介はさけますが、膨大な量の情報がこの方のホームページにもあります。インターネットの普及による貢献の一つですね。)
BRC no.46:聖書通読ノート・列王紀上2ー15
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.47:列王紀(2)
皆さんお元気ですか。列王紀も今週は上を読み終わり下に入ります。今日は6月2日ですから、列王紀上14章・15章です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Lachish
聖書では列王紀下18章と歴代誌下32章に書かれています。アッスリア王のセナケリブがユダに攻め入ってラキシュを滅ぼした BC701 の記事です。たくさんのレリーフが大英博物館の一つのコーナーを埋めていたのでそこだけは時間をかけて見ました。囲んでいる軍隊、城壁の中の人、降伏する様子などが克明に描かれていました。
BRC no.48:聖書通読ノート・列王紀上16ー列王紀下7
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.49:列王紀(3)
皆さんお元気ですか。列王紀も後半となりました。来週はじめには読み終わることになります。今日は6月9日ですから、列王紀上6章・7章です。
これらは、次の歴代誌上下もそうですが、次の箇所が示すように、いくつかの資料をもとに書かれたとされています。
ソロモンのそのほかの事績と、彼がしたすべての事およびその知恵は、ソロモンの事績の書にしるされているではないか。(列王紀上11章 41節(口語訳))
レハベアムのその他の事績と、彼がしたすべての事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。(列王紀上14章 29節(口語訳)似た記述 列王紀上15章7節, 23節, 22章45節, 列王紀下12章19節, 14章18節, 15章6節, 36節, 16章19節, 20章20節, 21章17節, 25節, 23章28節, 24章5節)
ヤラベアムのその他の事績、彼がどのように戦い、どのように世を治めたかは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされている。(列王紀上14章 19節(口語訳)似た記述 列王紀上15章31節, 16章5節, 14節, 20節, 27節, 22章39節, 列王紀下1章18節, 10章34節, 13章8節, 12節, 14章15節, 28節, 15章11節, 15節, 21節, 26節, 31節)
しかし、内容から、まとめられたのは、ユダのバビロン捕囚後であることは明らかでしょう。内容を、簡単にまとめることは難しいことではありますが、概要も参考にしながら書いてみると、以下の事が中心ではないかと思います。
これらを通して、何を語ろうとしているかは、みなさんに読んでいただくことにして、王国史の記者がおそらくもっていたであろう、問いはいくつか書いておこうと思います。
この最初の問いについては、「リーダーとして王の宗教性に焦点をあてて歴史を省みる。」ことがなされているように思います。しかし、後半は少し単純化がされ過ぎているようにも見えます。しかし、それこそが、捕囚からあまり時期を経ていないときに、簡単に見つけられる原因だったのかも知れません。預言者については、活動は書かれており、ある場合には、神話のようなものとしての記述もありますが、明確にはなっていないように思われます。それは、もしかすると、預言者集団と近いひとたちが、列王記の編集に携わっていたからかも知れません。いずれにしても、王国を失い、生活の場を無理矢理に移動させられ、神殿を失い、イスラエル民族のかなりの部分が引き裂かれ、四散するという希望をうしなう時の流れの中で、列王紀記者たちの信仰告白ともいうべき本書から、後世に伝えようとしていることがらを、しっかりと受け取りたいと思います。
BRC no.50:聖書通読ノート・列王紀下8ー21
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.51:歴代志(1)
皆さんお元気ですか。通読はどうですか。続いていますか。今日は6月16日ですから、列王紀下20章・21章です。今週、歴代志に入り、そのあと、バビロン捕囚後の歴史に関するエズラ記と、ネヘミヤ記、捕囚時代のエステル記、そして、人生の苦難について書かれているヨブ記と進み、8月28日には一旦旧約聖書をはなれ、新約聖書の最初マタイによる福音書から読み始めます。遅れてしまった人は、夏休みに追いつけると良いですね。
BRC no.52:聖書通読ノート・列王紀下22ー歴代志上10
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.53:歴代志(2)
皆さんお元気ですか。今日は6月23日ですから、歴代志上9章・10章です。
BRC no.54:聖書通読ノート・歴代志上11ー24
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.55:歴代志(3)
皆さんお元気ですか。今日は6月30日ですから、歴代志上23章・24章です。今週、主としてダビデ王朝について書かれている歴代志上から、ソロモン王朝以降について書かれている歴代志下に入ります。
王のリーダーシップによる宗教集団の維持を望めない現実の中で、限界をも確認し、その体制とは異なるありかたを模索しようとしているようにも思われる。エルサレム神殿における祭司・レビ人のリーダーシップのもとでの復興を中心としているが、あらたな次の時代を模索しながら待っているということなのかも知れませんね。
BRC no.56:聖書通読ノート・歴代志上25ー歴代志下9
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.57:歴代志(4)
皆さんお元気ですか。今日は、7月7日ですから、歴代志下8章と9章です。
BRC no.58:聖書通読ノート・歴代志下10ー23
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.59:エズラ記、ネヘミヤ記(1)
皆さんお元気ですか。今日は、7月14日ですから、歴代志下22章・23章です。あと1週間で、エズラ記に入り、ネヘミヤ記、エステル記と続きます。エズラ記は10章、ネヘミヤ記は13章、エステル記は10章、そのあとヨブで、新約に移ります。追いついてくださいね。
BC550-530 ペルシャ王クロスの治世
BC539 バビロン陥落
BC538 クロス王の第一年
BC536 エルサレム帰還と神殿再建工事の開始
BC530-522 カンビュセス王の治世
BC522-486 ダリヨス一世の治世
BC520-515 神殿再建工事の再開と完成
BC486-465 クセルクエス一世(アハシュエロス)の治世
BC479 エステル、王妃となる
BC475 ユダヤ人虐殺計画
BC465-424 アルタクセルクセス一世(アルタシャスタ)の治世
BC458 エズラ帰還
BC445 ネヘミヤ帰還、城壁完成
BC433 ネヘミヤ再度帰還
「エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」勝原忠明、工藤弘雄著、いのちのことば社新聖書講解シリーズ 旧約9, p.14-15.
エズラ7章
ネヘミヤの祈りを見てみましょう。
BRC no.60:聖書通読ノート・歴代志下24ーエズラ記1
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.61:エズラ記、ネヘミヤ記(2)
皆さんお元気ですか。今日は、7月21日ですから、歴代志下36章とエズラ記1章です。今週ネヘミヤ記に入り、来週エステル記と読み進めることになります。
BRC no.62:聖書通読ノート・エズラ記2ーネヘミヤ記5
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.63:エステル記
皆さんお元気ですか。今日は、7月28日ですから、ネヘミヤ記5章と6章です。今週エステル記と読み進めることになります。
モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。(エステル記4章13節-17節)
BRC no.64:聖書通読ノート・ネヘミヤ記6ーエステル記6
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.65:諸書、ヨブ記(1)
皆さんお元気ですか。今日は、8月4日、エステル記5章と6章です。エステル記は10章ですから、もうすぐヨブ記に入ります。ヨブ記のあとはすこし旧約聖書はお休みにして、8月28日から新約聖書を読みます。来年の1月5日に旧約に戻り詩編から読み続けます。
For we have not an innumerable multitude of books among us, disagreeing from and contradicting one another, [as the Greeks have,] but only twenty-two books, which contain the records of all the past times; which are justly believed to be divine; and of them five belong to Moses, which contain his laws and the traditions of the origin of mankind till his death. This interval of time was little short of three thousand years; but as to the time from the death of Moses till the reign of Artaxerxes king of Persia, who reigned after Xerxes, the prophets, who were after Moses, wrote down what was done in their times in thirteen books. The remaining four books contain hymns to God, and precepts for the conduct of human life.
この最後に書かれている四つ、ただこれは、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌 でヨブ記はヨセフスのリストには無かったようです。当時は合本聖書ではありませんから、もちろん一冊というくくりではありませんが。全体も22と書かれていますね。現在の旧約聖書は、39巻と数えています。無論、上下というような分け方はしていませんでしたし、ネヘミヤ記は、エズラ記の一部に入っていましたから、数え方が違いますが、全部が聖書としてどの時点で確立したかは、なかなか難しい問題のようです。
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
というのです。病を得たとき
彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。(ヨブ2:9,10 新共同訳)
旧約聖書学の並木浩一先生によると、この妻のことばは「神を呪って」ではなく「神を祝福して」と訳すべきだとのことです。ここはヘブル語の「バラク」という言葉が使われていますが、直接的な意味は、祝福する (bless)、跪く (kneel) です。だいぶん意味が変わってくる気がしますね。考えさせられる訳です。しかし、おそらく、このあとですね、問題は。構成は次のようになっています。散文と書いてある部分以外は、詩文体で書かれています。
(いのちのことば社、新聖書注解 ヨブ記 安田吉三郎著を参照)
BRC no.66:聖書通読ノート・エステル記7ーヨブ記10
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.67 :ヨブ記(2)
皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、ヨブ記が終わると、旧約聖書は一旦お休みして、8月28日から新約聖書をマタイによる福音書から読みはじめます。W3 (学内掲示板)に、新約から始めるひとを募集する案内を出しました。新約からなら読んでみたいという方がいましたら、さそってみて下さい。また、今までにすでに、途中で挫折してしまったかたにとっても、チャンスです。新約からまた読み進めましょう。
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:20, 21 新共同訳)
全てを失ったときに語ったヨブの言葉です。全体的な枠組としては、中間部分のあと、32章からエリフがヨブと、3人の友人に怒りを発し語り、それを受ける形で、38章から神が語り継ぎ、ヨブを戒めます。しかし、同時に神は、ヨブを正しい者とし、ヨブの祈りを聞かれます。
テマン人エリパズ:Chapters 4, 5, 15, 22
以下に、例として、2011年の通読で私が書き留めた箇所をいくつか記します。引用は口語訳です。
シュヒ人ビルダデ:Chapters 8, 18, 25 (short)
ナアマ人ゾパル:Chapters 11, 30
ここまでとしましょう。若い頃は、わたしはなかなかこの中間部分から伝わってくるヨブの苦悩と向き合えませんでした。神様からみことばが隠されていたのかも知れません。毎日の日課のなかで、もっと瞑想したいものです。ヨブの苦しみと、賛美と、知恵と、信仰告白を。
テマン人、エリパズの言葉。まさにこれがヨブのそのときの状況だったのでしょう。そのいみで、ヨブも他の人と変わらない。その上での信仰告白。
ヨブの言葉。一般論で、神は信賞必罰とし、祝福を得られず災害が及ぶのは罪があるからだというエリバズにうめきをもらしている。
この言葉だけでは、自分を義とすることをも含んでいるが、一般論として議されることへの反発であろう。
ヨブの言葉。この痛み、これを経験しないものは、理解しづらいかも知れない、しかしその神へのうめきの近くに救いもある。
シュヒびとビルダデの言葉。私の義は、なおわたしのうちにある、というヨブに対して、それなら、子ども達の罪だと、解く。1章においては、そのようなとりなしもしていたことも記されているが、因果応報からまず考え、自己責任に帰する、それ以上の哲学、神学を持ち得ないのは、自尊心なのかもしれない。
これこそヨブの問いだろう。罪あるものとすることは、神には出来るだろうと想定している、しかし神はそのような方ではないという信頼も同時に保持している。その上での「なぜ」ヨブの一番問いたいことだろう。しかしそれでも信仰を告白するのです。ヨブは。
ナアマびとゾバルの言葉は、まちがってはいないだろう。哀れみ深いかたであることを告げている。しかしヨブの苦しみはすこしも軽くならない。その苦しみは、罰に対するものではないのだから。
このヨブの言葉はなんとも痛烈。わたしのこころにもこのような安らかな者の思いがあるのか。
ヨブの言葉は、何なのだろう。ダニエル3:18 の「たといそうでなくても」をも想起させる。神への挑戦というより、これが信仰者の態度、神への信頼の一つの表明であろう。
ヨブは親しい神に、親しい故に、このように語るのだろう。子たる身分より雇い人の方がずっと気楽。神に特別に扱われていると告白する者だけがいえる言葉なのかも知れない。
このヨブの言葉には毎回驚かされる。キリスト証言だとも言われる箇所であるが、なおも、証人は天にと、希望は天にのみあることを告白する、これこそ信仰者の姿なのだろう。
なにを記すのだろうか、ヨブの前存在をかけた遺言。これこそヨブの信仰告白であろう。それが 25-27 と続く。
わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。
ナアマびとゾバルの言葉は、結局ヨブには答え得ない。あまりに差が大きくなってしまっている。ヨブはさらに孤独になるのか。
ヨブの言葉。悪人がのさばることは良くあることをしっかりと見て取っている。ヨブはそのことを嘆いているのではない、ヨブの悩みは異次元にある。
エリバズの三回目、もうこれに続ける必要はないのであろう。三回目の Dialogue は非常に不完全に終わる。平行状態などという者でもないのだろう。
なんと実感のこもったヨブの言葉だろう。この苦しみ、心が痛くなる。
これがヨブの信仰告白。このような信仰告白をささえる、または、育むものは、何なのだろう。
シュヒひとビルダデの言葉。ただしいか間違っているかなら、正しい。しかしここで留まらないのが聖書の神信仰である。
ヨブの神賛美。ここは、このあとの、エリフの言葉にも繋がる。スケールの大きな賛美の言葉である。
このあとに続くヨブのことばは、自分にあてはまるような「悪人の神から受ける分」である。ヨブに混乱があるのか。それとも、私に混乱があるのか。
このあとに、23節、神は知っておられる。そして、28節、神を恐れることに繋がる。
BRC no.68:聖書通読ノート・ヨブ記11ー24
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.69 :ヨブ記(3)
皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、ヨブ記が終わると、旧約聖書は一旦お休みして、来週、8月28日から新約聖書をマタイによる福音書から読みはじめます。W3 (学内掲示板)に、新約から始めるひとを募集する案内を出しました。新約からなら読んでみたいという方がいましたら、さそってみて下さい。また、今までにすでに、途中で挫折してしまったかたにとっても、チャンスです。新約からまた読み進めましょう。
このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。(ヨブ記32:1-3 (口語訳))
エリフは謙虚に黙っていたわけですが、次のようにも言っています。
しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。(ヨブ記32:8. 9 (口語訳))
確かにそうですよね。わたしは、まだ老いてはいないと思っていますが、年とった者の部類に入ってきましたが、いつも若い牧師先生の説教や、聖書の会での学生さんたちの発言を聞いて、本当にその通りだと思います。このあと、エリフは、神に応答を要求するヨブに次のように言います。
神は一つの方法によって語られ、/また二つの方法によって語られるのだが、/人はそれを悟らないのだ。(ヨブ記33:14 (口語訳))
そして神の正しさと、神への信頼をもって待つこと、へりくだって、静かに神の声を聞くことをヨブに求めます。そして、主が語られます。
聞け、神の声のとどろきを、/またその口から出るささやきを。(ヨブ記37:2 (口語訳))
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。(ヨブ記38:1-4 (口語訳))
主が語られたと書きましたが、おそらく、エリフのことばから考えると、このとき、ヨブは神の声を聞いたのでしょう。神は、ヨブにメッセージを送っておられたのかも知れません。そして、最初の言葉がこの言葉です。「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。」このあと、神は、谷間のやぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、たかと、野生の生き物のことを「知っているか」とヨブに問い続けます。ヨブの無知、神の働きを知らないことを知らせるために。このあと想像上の動物なども現れます。現代人ならそんなこと知っている、これはウソなどと言うかも知れませんが、それで本当に神の働きを知っていると言えるのでしょうか。特に、調和に関することを考えると、おそらくひとには、なにも答えられないでしょう。ヨブへのヨブ記での神の答えは、このようになされますが、おそらく、ヨブの悩みにも神は様々な答えをお持ちでしょう。このような書を残したヨブ記記者にも驚かされるとともに、神の智恵に思いをはせるときとしてくださればと思います。
BRC no.70:聖書通読ノート・ヨブ記25ー38
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.71:共観福音書、マタイによる福音書(1)
皆さんお元気ですか。何度か予告しているように、今週8月28日から新約聖書を読み始めます。ちょっと遅れてしまったひとは、新約聖書のはじめから読むもの良いですよ。
バークレー「マタイ福音書 上・下」松村あき子訳 ヨルダン社 1967.
日本語訳も早い時期に出版されていますから、ご覧になったかもいるのではないかと思います。この本の最初の部分から、まずは、共観福音書についてまとめてみると次のようになります。
Mk 6:5,6 (ひとつもできず) vs Mtt 13:57 (あまりなさらなかった)
Mk 3:5 (怒り嘆き), 3:21 (気が狂った), 10:14 (憤り)
Mk 10:35 (ヤコブとヨハネ), Mtt 20:20 (ゼベダイの子らの母)
Mk 簡素、簡明、直裁的、Mtt, Lk 教義的、神学的
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html
この、2:16 をバークレーは引用しているものと思われます。
また、最初から、何何による福音書とタイトルのついた四つの福音書が並んでいたわけではありません。おそらくは、パピルスまたは羊皮紙に書かれた巻物が別々に存在していたわけです。ある時代的背景と要請のもとでまとめられたと考えるのも自然だと思います。しかし何と言っても、イエスのメッセージ(語録 ロギア)がたくさん記されているということは、興味をそそりますね。イエスは何を語り、そして、マタイや、初代教会の人たちは、何を伝えようとしたのでしょうか。
BRC no.72:聖書通読ノート・ヨブ記39ーマタイによる福音書10
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.73:マタイによる福音書(2)
皆さんお元気ですか。新約聖書はいかがですか。英語では、新約聖書は New Testament と言います。旧約聖書は OT、新約聖書は NT と略します。わたしは新約聖書というときに使う用語ということはいつからか知っていましたが、Testament ということばは他で見たことがないので辞書で調べてみました。
旧約・新約は古い約束(または契約)、新らしい約束(契約)と伝統的に言われていますが、上の Testament のどの意味も当てはまるのかも知れません。英語圏の方に聞いたときも、聖書以外にはあまり使わないと言っていました。最近例文がたくさん欲しいときは、Naver 辞書を使っています(以前は英辞郎でした)。さすがに、Naver 辞書ぐらい例文があると、聖書以外の用例ものっていますね。
http://endic.naver.jp/srch/ex/testament
さて、今日は、1日ですから、マタイによる福音書9章・10章です。
みなさんは、どのようなことを考えながら読んでいるでしょうか。おそらく、聖書をはじめて読む人もきいたことのあることばがいくつも出てくるのではないでしょうか。そのようなことばがどのような背景で書かれているかをみることができるのも、通読の楽しみの一つだと思います。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(新共同訳)
と言っています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(新共同訳)
と言っています。なにかこのへんにユダヤ人のため? 異邦人は?という問いの答え、旧約聖書との繋がりと断裂があるのかも知れませんね。この段落は、次の言葉で終わっています。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(新共同訳)
これはどういうことなのでしょうか。最後の言葉は20節ですが、わたしは高校生のとき、この聖句の説明を聞いてもどうしてもよく分からず、この聖句を理解したいと思って、聖書を真剣に読み始めました。いまは何らかの説明はできると思いますが、本当にはまだよく分かっていないと思っています。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
BRC no.74:聖書通読ノート・マタイによる福音書11ー24
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.75:マルコによる福音書
皆さんお元気ですか。今日は9月8日、マタイによる福音書23、24章です。マタイによる福音書は28章までですから、今週、通読は共観福音書の二巻目のマルコによる福音書に入ります。
ヨハネ:使徒 13:13
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
「これも長老が言っていたことだ。マルコスは、ペトロスの通訳者(hermeneutes)であって、記憶しているかぎりのことを、精確に書いた、ただし、主によって言われたことにしろ為されたことにしろ、順序立ててではない。なぜなら、主から〔直接〕聞いたのでもなく、これに付き従ったのでもなく、〔彼が付き従ったのは〕わたしが謂ったように、後になって、必要のために教えを広めたペトロスであって、主の語録のいわば集成のようなことをしたのではなかった、その結果、マルコスはいくばくかのことを思い出すままに書いたが、何らの過ちも犯さなかった。というのは、聞いたことは何ひとつ取り残すことなく、あるいは、そのさいに何らか虚言するもないよう、その一点に配慮したからである」。
以上が、パピアスによって記録されたことである。マルコスについて。
最後の一週間の重みが大きいですね。(以下引用はすべて日本聖書協会新共同訳)この福音書の最初は、
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
となっています。最初から「神の子」と宣言しています。イエス・キリストの福音 Good News の始めとしているのです。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
そして、最後には、百人隊長(ローマ軍の下士官)の証言として書かれています。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
この福音書の最後は、空の墓証言となっています。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
マルコによる福音書の最後を見てみると、なにか不思議な感じがします、いくつかの結語が書かれていたり、注がついていたり、括弧に入っていたりするのです。これは、写本によって、異なることを意味しています。その部分を抜いて考えると、最後は、空の墓となると言うことです。
2:10, 2:28, 8:31, 38, 9:9, 9:12, 9:31, 10:33, 34, 10:45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62
これは、旧約聖書のダニエル書(7:13, 10:16)で特別な意味を持った言葉として出てきています。エゼキエル書には、多数使われており、預言者自身を表しています。(エゼキエルが多用する人の子 2:1, 3, 6, 8, 3:1, 3, 4, 10, 17, 25, 4:1, 16, 5:1, 6:2, 7:2, 8:2, 6, 8, 12, 15, 17, 11:14, 15, 12:2, 3, 9, 18, 22, 27, 13:2, 17, 14:13, 15:2, 16:2, 17:2, 20:3, 4, 27, … )
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、神の子なのか、どのような人の子なのか、マルコはイエス自身をどのように描いているのか、読み取って下さい。
マタイのときにも書いたように、福音書として最初に書かれたとされる、マルコによる福音書、素朴とも言えますが、イエスの行動が生き生きと描かれていると思います。
BRC no.76:聖書通読ノート・マタイによる福音書25ーマルコによる福音書10
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.77:ルカによる福音書(1)
皆さんお元気ですか。今日は9月15日、マルコによる福音書9章・10章。あと少しでマルコによる福音書を読み終わり、ルカによる福音書に入ります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の最後です。ルカによる福音書を読みながら、これは前に読んだことがあると感じる箇所が多いのではないでしょうか。また、このルカによる福音書が一番好きだという方もいるのではないかと思います。みなさんが、どのような感想を持たれるか、楽しみです。
これから分かることは、医者であること、テモテへの第二の手紙にはその著者とされるパウロと一緒にいること、フィレモンへの手紙では、(獄中にいたパウロの)協力者とよばれ、おそらく(囚人とはなっていないようですが)一緒にいた人の一人として書かれていることです。
愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
以下のことが分かると思います。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
マタイ、マルコ、ヨハネは、または、これらの福音書の背景となったものは、ヘブル語を理解し、ユダヤについて十分に詳しい人たちが書いたと思われますが、ルカは、ギリシャ人と思われており、ギリシャ語は非常に美しいが、おそらくヘブル語は話せなかったと思われます。異邦人クリスチャン向けの福音書と言うことができるかも知れません。献呈の相手のテオフィロは「神を愛する」という意味ですが、歴史上の特定の人なのかどうかは分かっていません。
BRC no.78:聖書通読ノート・マルコによる福音書11ールカによる福音書8
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.79:ルカによる福音書(2)
皆さんお元気ですか。今日は9月22日、ルカによる福音書7・8章です。10章には「善きサマリヤ人のたとえ」15章には「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる有名なたとえがあります。それ以外にも、みなさんも聞いたことがある話がいくつも出てきているのではないでしょうか。
マタイ15:28 には、ルカに記されていない ツロ・シドンの地方でのカナンの女の娘の癒しのところでもこの言葉が使われています。
しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。
しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
BRC no.80:聖書通読ノート・ルカによる福音書9ー22
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.81:ヨハネによる福音書
皆さんお元気ですか。今日は9月29日、ルカによる福音書21・22章です。10月1日からはヨハネによる福音書に入りますから、ヨハネによる福音書について少し書いておきます。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
BRC no.82:聖書通読ノート・ルカによる福音書23ーヨハネによる福音書12
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.83:使徒言行録(1)
皆さんお元気ですか。新約聖書通読は続いていますか。今日は10月6日、ヨハネによる福音書11・12章です。ヨハネによる福音書は21章までですから、10月11日には、使徒言行録に入ります。使徒言行録は日本聖書協会の新共同訳の名前で、同じ日本聖書協会ものでも口語訳では使徒行伝となっています。日本聖書刊行会の新改訳を読んでおられる方は使徒の働きとなっています。英語では Acts と呼ばれます。この書を何と呼ぶかで、その方がその聖書の訳を読んでいるかが大体わかるとも言えます。
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエスによるこの宣言がローマにまで至る経過を記録したものが使徒言行録だとも言うことができます。まだ先があることの、最初の部分と言うことができるかも知れません。
C. H. Turner による6つの区分として知られているものに次のものがあります。
引用したのはすべてそれぞれの区分の最後の節です。つまり、神のことばの進展の様子が書かれているとも言うことができると思います。
これらの問いは、使徒言行録の中でも問われていると思いますが、今の私たちにとっても単純な答えが用意されているわけではない問題だとも言えるのではないでしょうか。そして、人々の平和、それぞれの共同体に関わる、日常的な営みに対する問いともなっています。
BRC no.84:聖書通読ノート・ヨハネによる福音書13ー使徒言行録5
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.85:使徒言行録(2)
皆さんお元気ですか。新約聖書通読は続いていますか。今日は10月13日、使徒言行録4・5章です。サウロという人が、使徒言行録7章58節に初めて登場、9章に回心記事があり、その後9章中頃から一端姿を消します。11章で再登場、それ以降は、このサウロが使徒言行録の中心的人物となります。このサウロが使徒言行録13章4節ー12節の出来事以来、パウロという記述に変わります。そしてそのパウロ由来の書簡が、使徒言行録のあと続きます。そこで、この「サウロ、またの名はパウロ」(13章9節)についていくつか引用しておきましょう。
(ステファノを)都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
ステファノは、イエスの弟子の最初の殉教者と言われている人です。そして、回心記事です。実は、この回心記事は、使徒言行録に3回記載されています。1回目は9章、あと二回は、22章と26章のパウロの弁明の中に現れます。9章の最初1節から6節を引用します。
1:さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
2:ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
3:ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4:サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5:「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6:起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
次は、再登場の箇所です。11章22節から26節。
22:このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
23:バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
24:バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
25:それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
26:見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
バルナバというひとが重要な役割を果たしていることが分かります。バルナバについては、4章36節、37節に記載されています。
36:たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
37:持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
このあと、13章から、サウロと一緒に海外伝道旅行に出ます。その最初の訪問地は、バルナバの出身地でもある、キプロス島です。そこに「地方総督セルギウス・パウルス」の回心記事が書かれ、その直後に、最初に引用した、「サウロ、またの名はパウロ」の記述があり、このあとは、ずっとパウロとなります。そして、この記事以降「バルナバとサウロ」だった記述が「パウロとその一行」(13章13節)または「パウロとバルナバ」(13章14節)に変わります。特に何も記されていませんが、パウルスというのは、ギリシャ語名で、パウロと書かれてる名前と同じですし、サウロは、パウロの属するベニヤ民族でイスラエルの最初の王となったひとの名前、パウロは「ちいさい」または「小さき者」という名前だということを考えると、いろいろと想像してしまいますね。
BRC no.86:聖書通読ノート・使徒言行録6ー使徒言行録19
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.87:ローマの信徒への手紙
皆さんお元気ですか。今日は10月20日、使徒言行録18章・19章です。使徒言行録は28章ですから、今週、ローマ信徒への手紙に入ります。使徒言行録の最後は、パウロがローマに着いたところで終わっています。ローマ信徒への手紙1章13節には、
兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。(新共同訳)
とありますから、パウロは、まだ一度も、ローマに福音を携えては行っていないことが分かります。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(新共同訳)
とありますから、すでに迫害もあったのでしょう。その状況を考えながら12章9節から最後を読むとこれは単なる倫理的な教えではないことが分かるのではないでしょうか。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(新共同訳12:15-18)
最後は口語訳では「できるだけ」となっていますが、どこにいっても、紛争が絶えなかったパウロの言葉だと思うとさらにいろいろと考えさせられます。9節には「愛には偽りがあってはなりません。」とあり、この章は最後「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(21節)」と締めくくられています。一日一日偽りのない愛をもって、善をもって神の支配に委ねていきたいと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」がイエスの説いた福音ならば。
BRC no.88:聖書通読ノート・使徒言行録20ーローマの信徒への手紙5
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.89:コリントの信徒への手紙一
皆さんお元気ですか。今日は10月27日、ローマの信徒への手紙4・5章です。ローマ信徒への手紙は16章ですから、今週中に、コリント信徒への第一の手紙に入ります。キリスト教が形作られたと言っても良いローマ信徒への手紙を読み始めたばかりなのに、その次の話をするのは、ちょっと急ぎすぎのような気もしますが、それが通読の限界であると同時に、良さでもあると思っています。聖書全体のなかで、その部分を読むという視点を失わずにすむからです。そこで、今日は、少しコリントの信徒の手紙、特にその第一の手紙について書きます。
神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
このソステネは、使徒言行録18:17に出てくる会堂司だと思われます。会堂司は、その地のユダヤ人にも信頼されていた長老ですから、コリントの信徒については、かなり詳細に知っていたでしょう。
このコリント信徒への手紙では、現代にも通じる問題が多く語られています。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。(新共同訳 8章1-4節)
わたしはコリント信徒への手紙一の中で、13章とこの8章を大切にしています。いろいろな人と会い、いろいろな人と関係をもち、共に働き、あるときは衝突し、あるときは心配になり、あるときは、この立派な人には神様の救いなど必要ないのではないかと思ったりもします。そのたびに、わたしは、次の聖句の後半を唱えることにしています。(ガラテヤ2:21を唱えることもありますが)
そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(新共同訳 8章11節)
わたしたちは理性が与えられ、自分で考えることができることは本当に恵みであり感謝です。しかし、わたしたちの行動が私たちの知識や、思考に依存して、もし愛がないのなら、たとえ、聖書のことばをたくさん引用して正当化しようとしても、かみさまが与えて下さった、自由を汚れたものにしてしまうと思うからです。イザヤ書64:5 の表現と似た感じを持ちます。
わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
この章の結び、パウロは次のように言い切ります。キリスト者の自由について決然としてこのパウロの潔さに撃たれます。
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(新共同訳 8章13節)
愛によって造りあげられたいものです。
BRC no.90:聖書通読ノート・ローマの信徒への手紙6ーコリントの信徒への手紙一3
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.91 :コリントの信徒への手紙二
皆さんお元気ですか。今日は11月3日、コリントの信徒への手紙一 2・3章です。コリント信徒への手紙の印象はどうですか。ローマ信徒への手紙とちがい、教理的なものよりも、具体的な問題についての言及が多いこと、そして、パウロが感情をおさえきれないという感じで、配慮をしつつも率直に書いているのは、印象的ですね。前回も書いたように、ローマ信徒への手紙はパウロがまだ訪ねたことのないローマの教会に宛てて書かれたものであるのに対し、コリント信徒への手紙は、パウロが開拓伝道をし(使徒言行録18章)、その後も何回も訪れ、かつ長く滞在した教会に宛てた手紙ですから、コリント教会の人たちについても、コリントやそこの人たちの問題についても、したがって起こりうる状況の可能性についてもかなりよく知って書いている点が大きく違います。さらに、こころがつながっているコリントの人たちを思うと、ある意味では冷静ではいられない、いとおしくかつ心配な、霊的なこどもたちに対する思いが書かれています。同時に、すでに、アポロなどパウロ以外の影響を受けたグループもいくつもあったようですから、そのような背景から来る複雑さもあったでしょう。コリントは、すでにアテネよりも大きくなっており、商業的に栄えていた町です。この当時は大きな劇場などを使うことは困難なことも多かったでしょうから(エペソで「ティラノという人の講堂で議論した」という記事はあります(使徒言行録19:9))、いくつも集会があったとも思われます。この複雑な状況のなかで、「最高の道(新共同訳、口語訳では「最もすぐれた道」コリント信徒への手紙一12:31)」として愛をパウロは語ります。そのような背景を想像して読むとより豊かに読むことができるかも知れませんね。
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(コリント信徒への手紙二9章12-15)
BRC no.92:聖書通読ノート・コリントの信徒への手紙一4ーコリントの信徒への手紙二1
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.93 :ガヤテヤの信徒への手紙
皆さんお元気ですか。今日は11月10日、コリントの信徒への手紙二 2・3章です。
コリントの信徒への手紙二に入ったばっかりですが、11月17日からはガラテヤの信徒への手紙に入ります。少し早い感じもしますが、これから、短い書簡が続きますから、ガラテヤの信徒への手紙についてひとこと書いておきます。ガラテヤは今のトルコの中部の地名です。ガラテヤの信徒への手紙には「福音の真理とキリスト者の自由」キリスト教の核心が書かれていると言われています。少し引用してみます。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節(新共同訳))
神様に正しいと認めていただくのは、律法の実行ではなく、信仰によると言っているのですが、さらに進んで、
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙2章19,20節(新共同訳))
このように言い切っています。これは、おそらく、当時のユダヤ人キリスト者にとっては、戸惑いとも言えるようなものだったのではないでしょうか。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節(新共同訳))
ここに到達していたパウロにとっては、「律法のもとにはいない」ことは自明だったのかも知れません。ユダヤ人の中で生活している、特にユダヤのユダヤ人キリスト者は、当時も、おそらく、ユダヤ教徒として生きていたでしょうから、生活の根底を揺さぶられることだったでしょう。一方、ユダヤから離れて住んでいた、ユダヤ人でキリストによる救いのメッセージを受けた者には、ある程度自然に受け入れられたかも知れません。そして、異邦人キリスト者にとっては、これほどの福音は無かったでしょう。そう考えると、多少の混乱も感じられますが、ガラテヤの信徒への手紙のすばらしい点は、このあと、自由を得た、キリスト者がどう生きるかを丁寧に書いている点ではないかと思います。特に5章・6章。一カ所だけ引用しておきます。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤの信徒への手紙5章13-14節(新共同訳))
みなさんは、何を読み取られるでしょうか。
BRC no.94:聖書通読ノート・コリントの信徒への手紙一2ーガラテヤの信徒への手紙2
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.95:エフェソの信徒への手紙からフィレモンへの手紙まで
皆さんお元気ですか。今日は11月17日、今週エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)に入ります。ローマの信徒への手紙から、ピレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。パウロが書いたものかどうか議論のあるものもいくつもありますが、それを議論することは、ここではあまり有益だとは思えませんし、わたしが確信をもって、みなさんに説明することもできませんから、パウロ由来としておきたいと思います。基本的には、使徒言行録からも分かるように、パウロ達が伝道旅行をした地域の教会に書いた手紙がいくつもあり、それが集められたものです。テサロニケの信徒への手紙一は、テサロニケ伝道の後、コリントへ行ったパウロがテサロニケの信徒へ宛てて書かれたもので、これらの書簡の中で一番最初に書かれたと考えられています。
BRC no.96:聖書通読ノート・ガラテヤの信徒への手紙3ーフィリピの信徒への手紙4
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.97:フィリピの信徒への手紙
皆さんお元気ですか。今日は11月24日ですからフィリピの信徒への手紙3章・4章です。みなさんは、フィリピの信徒への手紙を、どのような印象を持って、読んでおられますか。
BRC no.98:聖書通読ノート・コロサイの信徒への手紙1ーテモテへの手紙一2
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.99:ヘブライ人への手紙
皆さんお元気ですか。12月に入りました。今日は12月1日ですからテモテへの手紙一1章・2章です。みなさんは、パウロの手紙、どのような印象を持って、読んでおられますか。
パウロがローマ人への手紙で、旧約の歴史から救済について書いていますが、このヘブライ人への手紙の論理立ては、大分異なるようです。使徒言行録の18章24-28節にアポロという人が登場します。
24: さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。
25: 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
26: このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
27: それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
28: 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
このアポロが、ヘブライの信徒への手紙の著者である証拠はありませんが、このアポロのような人が著者でないかとは、思われます。
BRC no.100:聖書通読ノート・テモテへの手紙一3ーヘブライ人への手紙2
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.101:ヘブライ人への手紙およびヤコブの手紙からユダの手紙まで
皆さんお元気ですか。今日は12月8日、ですからヘブライ人への手紙1章/2章です。
このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
と書かれており、また、ペテロ第一2:5, 9 にも、私たちが神の祭司であること、ヨハネの黙示録1:6, 5:10, 20:6 にも似た表現があります。ここから万人祭司という言葉もうまれていますが、イエスが祭司だということを明確に述べているのは、このヘブル人への手紙以外は、ありません。その意味でも特徴的ですね。また、ヘブル人への手紙に書かれている大祭司としてのイエスの性質も特徴的です。たくさんありますから、いくつかだけ拾ってみましょう。
この救いにあずかれない理由としてあげられているのが不信仰です。3:12-19。そして信仰者の例を11章ではたくさんあげています。最初を引用しましょう。
11:1-2 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
みなさんは、どのような印象を持って、読んでおられますか。
BRC no.102:聖書通読ノート・ヘブライ人への手紙3ーヤコブの手紙3
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.103:寄留者
皆さんお元気ですか。今日は12月15日、ヤコブの手紙一 2章・3章です。皆さんは、sojourner という英語の単語を知っていますか。日本語でいうと寄留者、口語訳聖書で使われています。新共同訳では「仮住まいの者(身)」です。アメリカで勉強していた頃に、この単語を知って、好きになりました。アブラハムなど族長といわれる人たちは、その地の寄留者でした。アブラハムはカナンの地を与えるとの約束をうけましたが、実際に手に入れたのは、サラを葬るために買った、畑とその畑の中にある墓だけでした。(創世記23章)この言葉は、新約聖書にも二箇所出てきます。
ヘブル人への手紙 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 (新共同訳)
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(口語訳)
ペトロの手紙一2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(新共同訳)
この世での生活は仮住まいの生活だから、いいかげんでよいなどと言っていることではありません。本質的な決断をしなければいけないときの、信仰告白だと思っています。「神の国は近づいた」として、いまは地の国にいるが、神の国の(神様の完全な支配のもとにある)ものとして生活する、地の塩として。そんな意味合いでしょうか。
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 (口語訳)
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
BRC no.104:聖書通読ノート・ヤコブの手紙一4ーヨハネの手紙一4
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.105:クリスマス、ヨハネの黙示録(1)
皆さんお元気ですか。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
(ルカによる福音書2章11節(新共同訳))
イエスの誕生を記録しているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。しかし、神の子が人として幼子としてお生まれになった。このことを覚えるクリスマスは、たとえそれが 12月25日かどうかはわからなくても、聖書の基本的なメッセージを理解する大切な機会だと思います。そしてそのイエスのメッセージは、次の言葉で始まります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコによる福音書1章15節(新共同訳))
新約聖書の通読ももう少しで終わりますね。今週、新約聖書の最後ヨハネの黙示録に入ります。1月5日からは旧約聖書、詩編から読み継ぎます。
宛先は、上の 1:4,5 にあるようにアジア州にある七つの教会で、1:11 によると
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ
となっています。今のトルコ西部の七つの町で、エフェソはその州都でいちばん大きな町です。そして最初の部分は、この七つの教会へのメッセージの形式になっています。黙示文学ともよばれ、神の啓示を述べたものとされています。ヨハネ黙示録は、特に、世の終わりに向けた神の意思を伝えるものと考えてよいと思います。
BRC no.106:聖書通読ノート・ヨハネの手紙一5ーヨハネの黙示録10
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.107:ヨハネの黙示録(2)
皆さんお元気ですか。
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」(ヨハネの黙示録1章11節(新共同訳))
2章からそれぞれの町の教会に具体的なメッセージが書かれていますが、とても興味深いですよ。ひとつひとつの教会について良いことと悪いこと、賞賛と叱責が書かれています。当時の教会にも様々な問題があったことを想像するとともに、現代に対しても励ましと警告を与えているように思います。それぞれのメッセージは皆さんが読み取って下さい。おそらく、一人一人によって、印象的な箇所が異なるでしょう。
1: わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
これがヨハネが見た「新天新地」の幻です。地上のエルサレムは破壊されてしまいましたが、霊的なエルサレムを見ていますが、それは、何と人の間にあると言うのです。アルファとオメガは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後です。これが歴史上のある時を意味しているのか、それとも、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17) といわれた意味での神様の支配のもとにある世界を表現し、今でも、その一部を体験できるものなのか、皆さんも考えてみてください。
2: 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
3: そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
4: 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
5: すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
6: また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
7: 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
8: しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
BRC no.108:聖書通読ノート・ヨハネの黙示録11ー詩編2
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.109:詩編(1)
皆さん主の2014年いかがお迎えですか。
41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。
72:18-20 主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。エッサイの子ダビデの祈りの終り。
89:53 主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。
106:48 イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ。
150:1-6 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。
BRC no.110:聖書通読ノート・詩編3ー詩編16
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
NT 新約聖書:Mtt or Mt マタイ福音書、Mark or Mk マルコ福音書、Luke or Lk ルカ福音書、John or Jn ヨハネ福音書、Acts 使徒、Rm ロマ書、Cor コリント書、Gal ガラテヤ書、Eph エペソ書、Phil ピリピ書、Col コロサイ書、Thess テサロニケ書、Tim テモテ書、Tit テトス書、Phlm ピレモン書、Heb ヘブル書、James or Jas ヤコブ書、Pet ペテロ書、1Jn ヨハネ書、Jude ユダ書、Rev 黙示録
BRC no.111:詩編 (2)第一巻
皆さん詩編を読み始めましたか。
1. 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2節に「主のおきて」「そのおきて」と出てきます。新共同訳では「主の教え」「教え」ですが、この言葉はトーラーという言葉で律法という意味で、通常はモーセ5書と呼ばれる、聖書の最初の5巻を意味します。詩編でもトーラーという言葉はたくさん出てくるのですが、翻訳ではいろいろな訳になっています。1節、2節は、日本語で考えると、2節は、1節で言われているようなひとが、「おきてをよろこび」「おきてを思う」となりますが、おそらく因果関係などは考えない方がよいでしょうね。1, 2, 3 と並列に書いてあるのです。「さいわいだな!」からはじまって「皆栄える」となります。そして「悪しき者」最後は6節で締めくくられています。最後から前に戻ると、正しいものについてうたわれている詩だということがわかります。そして、主はその道を知っておられます。その道は、1に書いてあるような生き方ですね。みなさんにとっては、1節はどのような生き方でしょうか。犯罪に手を貸さないというような事でしょうか。2節には「主のおきてをよろこび」とありますよね。この感覚はしっくり来ますか。
2. このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3. このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
4. 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
5. それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6. 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。
それを知りつつ、この1篇。みなさんは何を考えられますか。
わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
(詩編41篇4,5節 口語訳)
BRC no.112:聖書通読ノート・詩編17ー詩編30
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.113:詩編(3) 第一巻
皆さん詩編を読み始めましたか。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15:34にも同様の言葉が記されています。この詩編に記されている事ひとつひとつが、十字架でのイエスの苦しみを暗示させます。
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
4-6節には、つねに、主に救われてきた先祖たちと、その賛美をうける主について書かれていますが、7--9節はなんと、
わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
詩編記者の苦悩、神から見放され、人から嘲笑されている姿が記されています。さらに12-18節には、肉体をおそう苦痛と苦悩も表現されています。しかしそれでもなお、最後は、主をよびもとめ、賛美へとかわっていきます。神からの助けがなく、人に捨てられあざけられ、肉体もばらばらになっていく、ここまで過酷な状態があるでしょうか。そしてそれでも、神に信頼と賛美を唱える。凄まじささえ感じます。
イザヤ52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
詩編23篇は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まります。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
と続きます。みなさんは「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」という経験がありますか。
BRC no.114:聖書通読ノート・詩編31ー詩編44
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.115:詩編(4) 第一巻
皆さん詩編を読み始めましたか。
1. そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
しかしこれは、単なる一般論ではないことが直後にわかります。
2. 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
3. わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
この苦しみは並大抵で張りません。みなさんは、このような経験はありませんか。おそらく、この詩編記者もなにか訳がわからず苦しんでいたのではないでしょうか。おそらく祈っていなかった訳ではないと思います。もしかすると、苦しみの原因をだれか他の人の責任にしたりしていたかもしれません。しかし、苦しみとは別に、自分に問題があることを、少しずつ気づかされます。苦しみが、主の御手として認識され、罪、不義を自覚させられます。
4. あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
5. わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
とてもあっさり書かれていますが、おそらく、葛藤の末に、ここに至ったのでしょう。そして次のように告白します。
6. このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
津波のような大水に襲われても、沈んでしまうことはないと告白します。口語では「このゆえに」とあります。祈る、基本的な理由は、主からゆるしを得、圧倒されそうになるときにも、支えてくださる、この確信ゆえなのでしょう。いのるのは、ゆるしていただくためかもしれません。そして主に信頼するものはゆるされたものです。そして、この詩編記者はそのことを「あなた」に教えています。
7. あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
8. わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
自分勝手に暴れ回る、統制のとれない馬や騾馬のようであってはならないと教えています。
9. あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
10. 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
主に信頼する以外に、救いはない。ゆるしが得られるものは、本当に幸いですね。イエスによって、まさに、そのゆるしが与えられるのでしょう。
11. 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
1ヨハネ1:9-11
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
「告白してゆるされる」そんな単純ではないのではと思われるかもしれません。そうですよね。でも、詩編33篇にはつぎのような言葉もあります。
7. 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
深淵を倉におさめてしまうのです。神様だからこそできることでしょう。罪のゆるしはそれゆえ神業以外のなにものでもありません。そして、人間の世界では「ゆるすること」と「愛すること」の間には、隔たりがあるように見える化も知れませんが、神様においては、同じなのではないかと思います。
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
そして次のようにむずばれています。
22. 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに/罪に定められることはない。
ゆるしをえるために主の前に出て祈る。信頼の生活の基盤がここにあるように思います。最後に、イエスが、いのりについて教えてくださる普通「主の祈り」といわれるものの次にかいてある箇所を引用しましょう。マタイによる福音書 6章14, 15節
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
オランダ人でナチの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人をかくまい、家族全員が強制収容所に入れられ、自分だけ解放されそのあとは、愛と赦しを説いてまわった「隠れ家」の著者コリー・テン・ブーンのことばを最後に書きます。
赦しとは、囚人を解放することであり、その囚人とは自分であったと気づくことです。
疑問や感想、最近考えていることをお送り下されば幸いです。
Forgiveness is to set a prisoner free, and realize that prisoner was you.
BRC no.116:聖書通読ノート・詩編45ー詩編58
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.117:詩編(5) 第二巻
皆さん詩編はいかがですか。神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。なかなか記者のこころがピンとこないこともありますが。同時に150篇からなる詩編を選択して、この一巻にまとめたひと(たち)もいるわけですね。そしてそれが聖書の中にくわえられている。わたしもよくわからないことが多いですが、イマジネーションを働かせて、一篇一篇味わうようにして読んでいます。
詩編46篇
この詩編は、宗教改革者マルチン・ルターの愛称詩編で常に唱えていたようです。
2: このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
3: たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ
9: 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10:「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
11: 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
詩編49篇
5: わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
8: とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
10: まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。
15: しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ
詩編51篇
ダビデの詩編として有名です。サムエル記下11章・12章が背景にあります。是非、もう一度、サムエル記下の記事を読んでみてください。わたしは、この事件は、11章・12章で終わるものではないと考えていますが、それはまたの機会にしましょう。個人的には、51篇はすこし不満です。そこで、かなりあとになってから振り返って作った詩篇なのか、ダビデのこの事件を想定して作った詩篇なのかとさえ思います。もちろんわたしがまだ十分理解できていないのかもしれません。おそらくそうなのでしょうね。じっくり読んでいただければ幸いです。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
[新共同訳] 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
BRC no.118:聖書通読ノート・詩編59ー詩編72
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.119:詩編(6) 第二巻
皆さん詩編はいかがですか。前回も書いたように、神様と向き合ういろいろなひとのこころと出会うことができるのが詩編です。特に救いを待ち望む祈りと賛美の詩編がたくさんありますね。敵からの救いとして、敵が滅びることを祈り求めるものもたくらんあります。平和な日本にすむ私たちにとっては、抵抗があることは確かですが。
詩編62篇
1: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
5: わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。
7: 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
8: わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
10: あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
詩編64篇
1: 神よ、わたしが嘆き訴えるとき、わたしの声をお聞きください。敵の恐れからわたしの命をお守りください。
2: わたしを隠して、悪を行う者の/ひそかなはかりごとから免れさせ、不義を行う者のはかりごとから免れさせてください。
4: 隠れた所から罪なき者を射ようとする。にわかに彼を射て恐れることがない。
5: 彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、「だれがわれらを見破ることができるか。
6: だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。人の内なる思いと心とは深い。
8: 神は彼らの舌のゆえに彼らを滅ぼされる。彼らを見る者は皆そのこうべを振るであろう。
10: 正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる。
詩編66篇
5: 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
6: 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
11: あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
12: 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。
BRC no.120:聖書通読ノート・詩編73ー詩編86
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.121 :詩編(7) 第三巻
詩編も第73篇から第三巻にはいりました。今日2月16日は、詩編85篇・86篇です。最近学んだ第三巻の最初の詩編73篇と81篇について書きたいと思います。今回も口語訳を中心とします。
詩編73篇
このように始まります。
2: しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
3: これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
22: わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
23: けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
11: それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
12: 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
13: 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
14: まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
15: わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
16: もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
17: しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
18: わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
19: まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
20: なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
詩編81篇
この詩編は今度は、神様に従わない民の側のことが次のように書かれています。
12: それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
13: わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
BRC no.122:聖書通読ノート・詩編87ー詩編100
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
BRC no.123:詩編(8) 第四巻
先週、第90篇から第四巻に入りました。第四巻は106篇までですから、今週読み終えることになります。各巻はどのようなまとまりになっているのでしょうか。テーマはあるのでしょうか。詩編の最初に神をなんと読んでいるか、用語の使い方が異なることは書きましたが、正直わたしにも、テーマなどはよく分かりません。ただ、この第四巻は、公的な賛美といっても良いような統治者としての主への祈りと賛美が多いですね。それ以外にも、いくつか連続したテーマの詩編があるとか、なんとなく雰囲気はことなることはわかるのですが。2月27日から最終の第五巻に入ります。全体を五巻にまとめたのは、旧約聖書の最初のモーセ五書とよばれ、トーラー(律法)として特別な価値を付される五巻に対応してのことではないかと考えられているようです。なにか発見があれば、教えていただければ幸いです。
詩編100篇
感謝の供え物のための歌
1:全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
2:喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
3:主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
4:感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
5:主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
102:2 わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、あなたの耳をわたしに傾け、わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。
105:2 主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ。
105:3 その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。
105:4 主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
106:1 主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
[UNESCO handbook, “Is There a Way of Teaching for Peace?” (trans.) Marie-Therese Maurette, 1948; UNESCO document, Mainstreaming the Culture of Peace, http://unesdoc.unesco.org/images/0012/001263/126398e.pdf; (UNESCO Constitution §7.1(a) ](IB_-_Connecting_the_Dots.ppt より)
BRC no.124:聖書通読ノート・詩編101ー詩編114
わたしがノートに記録していることの一部を書きます。自分のために書いているものですから、「聖書通読ノート」と書いてあるこちらは読まなくても構いません。しかし、通読を繰り返しながらも、新たな発見を記したり(実際には再発見のことも多いですが)、自分の信仰と向かい合いながら、日々の日課として聖書を読み、記録を残す例として書いておきます。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。