- 詩篇 15:1 讃歌。ダビデの詩。主よ、誰があなたの幕屋にとどまり、聖なる山に宿ることができるのでしょうか。
- このあとに、詩篇記者のことばが続く。主は聖なる方であるから、共に宿るには、聖でなければならないということなのだろう。ただ、わたしがイエスから教えられている主は、少し違うように思う。すくなくとも、イエスは、もっとこの世の、どろどろの世界に入ってきてくださっている。そして、わたしも、そのような人と共に生きたい。それが、主と共に宿ることと異なるのかどうかはわからないが。
- 詩篇 16:7 諭してくださる主をほめたたえよう。夜ごと、はらわたがわたしを戒める。
- この「はらわたは」感覚としてよくわからないが、こころの奥底にある、深い感情・思いを司る部分だと考えられていたのだろうか。しかし、それは、わたしの中にあるもの。わたしは、そこに、望みを置けないが。聖霊が住んでくださるのだろうか。それとも、はらわたにそのような機能があるように、主が造ってくださったのだろうか。わたしには、よくわからない。ただ、なんでも、神を自分と分離してしまうのも、いけないのかもしれない。自分で、判断しなければいけないのだから。
- 詩篇 17:13-15 主よ、立ち上がってください。/彼に立ち向かい、屈服させてください。/あなたの剣によって、悪しき者から/私の魂を救い出してください/主よ、人々から、あなたの手で。/人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から。/あなたがかくまった人に/十分な食べ物を与えてください。/子どもたちも満ち足り/その幼子たちにも豊かな富を残せますように。私は義にあって御顔を仰ぎ見/目覚めてあなたの姿に満ち足りるでしょう。
- このような祈りが自然なのかもしれないが、なかなか敵にたいするものを、わたしは受け入れられない。この詩篇でも、この作者は、正しい側にいる。しかし、それは、それほど単純なことではないのだろう。どうなのだろうか。
- 詩篇 18:5-7 死の縄が巻きつき/滅びの河が私を脅かす。陰府の縄が取り囲み/死の罠が私を待ち受ける。苦悩の中から主に呼びかけ/わが神に叫びを上げると/主はその宮から私の声を聞き/叫びは御前に至り、その耳に届く。
- これが信仰なのだろうか。どのように確信が持てるのだろうか。少し不思議でもある。あとからの告白なのだろうか。信頼することの大切さは伝わってくる。
- 詩篇 19:13 誰が知らずに犯した罪に気づくでしょうか。隠れた罪から私を解き放ってください。
- 罪は、神様が望まれないこととしておこう。それがわからないことはいくらでもあることを認識している。少しずつ、ひとは、そして、人類は、学んでいく。しかし、わかっていても、犯してしまう罪もある。おそらく、それは、わかってはいないものなのだろう。これをどう理解するかは、また難しい。御心に生きること、神の御国を求めることは、それほど単純ではないことは心しなくてはいけない。他者との比較で甘んじてはいけない。
- 詩篇 20:7,8 今、私は知った/主が油注がれた者を救ったこと/聖なる天から彼に答えることを。/右の手による救いの力をもって。ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。/しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。
- 一連の聖句なのだろう。これも、自分の神、味方の神、自分の国の神ではあるように、思う。しかし、自分のものに頼らない。そこに本質的な基盤を置かないことは伝わってくる。おそらく、主が油注がれたものも、王というよりも、やはり、主が建てられた方なのだろう。それは往々にして混乱し、取り違えてしまう。
- 詩篇 21:9,10 あなたの手はすべての敵を探り出し/右の手はあなたを憎む者を探り出す。主よ、御顔を現すとき/あなたは彼らを火のついた炉のようにする。/主は怒りで彼らを吞み尽くし/火は彼らを食らい尽くす。
- 敵にどう対するか、敵にたいして、主がどのように対するか、これこそが主要な課題だったのだろう。しかし、味方を敵をそのように峻別することができるわけではないし、できたとしても、それを善悪、主が、守り、滅ぼす対象には、峻別できないように思う。これは、間違った望みだとは思わないし、悪い詩篇だとは思わないが、より、開かれた、主のみこころを求めていきたいとは思う。
- 詩篇 22:7-9 だが私は虫けら。人とは言えない。/人のそしりの的、民の蔑みの的。私を見る者は皆、嘲り/唇を突き出し、頭を振る。「主に任せて救ってもらうがよい。/主が助け出してくれるだろう。/主のお気に入りなのだから」と。
- 詩篇22編には、主イエスの十字架上のことばが含まれており、それを映し出す詩篇とも言われ、ある人は、この詩篇全体を、主イエスは、十字架上で唱えていたのではないかともいう。イエスは、十字架でなにを思っておられたのだろうか。わたしには、それは、わからない。引用句も、後半は、たしかに、福音書がこのようなことばを振り返り記しているようには、思うが、イエスが、このように考えていたかどうかは特に、最初のひとことを見ると違うように思う。人がみる見方とは異なるのではないかと思う。しかし、主イエスが、最後まで、神と向き合っていたこと、たいせつにしてきたことをたいせつにしていたことは、その通りかと思う。ヨハネによる福音書にある部分まで、まさにその通りかどうかは、わからないが、何らかのかたちで、伝えられたことは確かなように思う。
- 詩篇 23:6 命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。/私は主の家に住もう/日の続くかぎり。
- この「主の家に住む」は、具体的になにを意味しているのだろうか。たんに、宮に住むことではないように思う。主がおられるところだろうか。そこまで、完全に抽象化もしていないのだろうが。わたしは、どうだろうか。主から目を背けて生きるようにならないように、ぐらいだろうか。主の御心をもとめて生きていきたい。
- 詩篇 24:4-6 汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。その人は主から祝福を/救いの神から正義を与えられる。これこそ、主を尋ね求める人々/ヤコブの神の御顔を求める者。〔セラ
- このあと「万軍の主」の入城のことが書かれている。その主をほめたたえるのが、このひとたちなのだろうか。あまり、関係性がよくわからない。もう少しよく考えたい。
- 詩篇 25:22 神よ、すべての苦しみから/イスラエルを贖い出してください。
- イスラエルの全体のための祈りなのだろうか。しかし、全体としては、個人的な祈りの部分が多い。「私の魂を守り、助け出し/恥をさらすことがないようにしてください。/私はあなたのもとに逃れます。」(20)など。それとも、個人についてをイスラエルに投影しているのか。ダビデの詩としているが、どの時代のものだろうか。捕囚後のことなのかもしれない。イスラエルを全体として捉えるために、ダビデの名前が用いられているのかもしれない。詩篇記者の苦しみは伝わってくるように思う。「御顔を向けて、私に恵みを与えてください。/私は独り、苦しんでいます。心の苦悩から解き放ち/苦難から私を引き出してください。見てください、私の苦しみと労苦を。/取り除いてください、私の罪のすべてを。」(16-18)
- 詩篇 26:1-3 ダビデの詩。/主よ、私を裁いてください。/私は全き歩みをしてきました。/私は主に信頼し/揺らぐことはありません。主よ、私を調べ、試してください。/私の思いと心を確かめてください。あなたの慈しみは私の目の前にあります。/私はあなたの真実に従って歩んできました。
- なにか、危険も感じる。正直な気持ちとしてうけとればよいのだろうか。このようにいう時こそ、問題だと感じてしまうのだが。それは年寄りだからだろうか。そうかもしれない。平安を祈りつつ。適切なアドバイスができれば良いのだが、それもできない。それでは、このように危険性だけを思うのは、かえって問題なのかもしれない。
- 詩篇 27:9 御顔を私から隠さず/怒りによって僕を退けないでください。/あなたは私の助けとなってくださいました。/私を置き去りにせず、見捨てないでください/わが救いの神よ。
- このあとには、「父と母が私を見捨てようとも/主は私を迎え入れてくださいます。」(10)とも続く。「私を苦しめる者の思いのままに/させないでください。/偽りの証人と暴言を吐く者が/私に向かって立ち上がりました。」(12)などを見ると、苦しい状況も見え隠れする。しかし、その人との状況を変えることよりも、自分の救いを求めている。わたしには、よくわからない。大きく感覚がことなるとも思えないが。
- 詩篇 28:4,5 彼らの行い、悪行に応じて報いてください。/その手の業に応じて彼らに報い/報いの罰を彼らに返してください。彼らは主の働きと手の業を悟ろうとしません。/主は彼らを倒し、再び興すことはありません。
- 基本的に、わたしは、知っている、彼らは知らない、という枠組みである。わたしは、こうは言えない。信じていることは告白できるが、事実はそうではないかもしれないと常に思っている。謙虚に求め続けたい。それでは、いけないのだろうか。絶対的な正しさは、危ういもののように思ってしまう。それは、信仰者とは言えないのだろうか。わたしは、わたしの信じるところにしたがって、謙虚に生きていくしかないと思うが。
- 詩篇 29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。
- このあとには「主の声は杉の木を砕き/主はレバノン杉をも砕く。」(5)「主の声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。」(8)ともある。人間には、どうしようもないものを支配しておられることの表現なのだろうか。自然と深く関わっていたひとたちにとっては、それこそが偉大だと感じられることだったのだろう。自然崇拝とはことなるのかもしれないが、繋がってもいるのかもしれない。信仰は、このことが、個人のこととも繋がるということだろうか。
- 詩篇 30:2-4 主よ、あなたを崇めます/あなたは私をすくい上げ/私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒やしてくださいました。主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ/墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。
- 最初の部分は、わたしには、理解できないが、自然を統べ治める神が、すべてのことに関係し、癒し、生かしてくださる。これが、信仰の基本なのだろうか。わたしは、あまりに、頭でっかちになり、このような感覚がないとは言えないが、離れてしまっているようにも思う。
- 詩篇 31:10,11 主よ、憐れんでください。/私は苦しんでいます。/目は憂いによって衰えました/魂もはらわたも。悲しみによって、私の命は/嘆きによって、私の歳月は尽き果てました。/過ちによって、私の力はうせ/骨は衰えました。
- 宗教について学んでみたいが、ここで、詩篇記者は、願いと讃美とともに、苦しみの表現と、自分の過ちの告白もしている。主が聖なるかたであることを知っているからだろうか。しかし、中心的な部分は、敵を貶めることのように思われる。敵をあいすることではない。イエスとはやはり異なる印象をうける。
- 詩篇 32:1,2 ダビデの詩。マスキール。/幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。
- このあとには、「私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/『私の背きを主に告白しよう』と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ」(5)もある。罪の告白と赦し、これが他の宗教ではどうなっているのかを知りたい。これは、ユダヤ教や、キリスト教に特徴的なものなのだろうか。深い宗教ならこのことを含んでいるようにも思うが。
- 詩篇 33:12 幸いな者/主を神とする国民/主がご自分のものとして選んだ民。
- 国との結びつきは、よくわからないが、教育背景もあり、主を正しく、深く認識できるひとは、多くない現実があったのだろう。といっても、現代は、そうではないとは言い切れない。ひとは、欲にひかれ、どうしても、純粋に主を、真理をもとめることは、できないのだから。では、一部のひとには、できるのだろうか。それで国のようなある程度の規模の人々を導くことはできるのだろうか。やはり疑問である。そのようなとき、やはり、正しさの限界を感じてしまう。個人レベルではある程度の希望は持てるが、偽善が入り込む余地は大きい。
- 詩篇 34:19,20 主は心の打ち砕かれた者に寄り添い/霊の砕かれた者を救い出す。正しき者に災いは多いが/主はそのすべてから助け出してくださる。
- 心や霊の砕かれた者は、美しい表現だが、「正しき者に災いは多い」と語ることには、驚かされる。主により頼んでいるために、危機をも、主の前に申し上げることが、このような表現になるのだろうか。それとも、正しく生きることに、反対が生じるということだろうか。難しい。
- 詩篇 35:1 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。
- どうも好きになれないが、これが信仰の最初の形なのかもしれない。「わが神、主よ/あなたの義にふさわしく私を裁いてください。/彼らが私のことで喜び/心の中で「あはは、我らの望みどおりだ」/と言わないように。/「奴を一吞みにしてやった」/と言わないように。私の災いを喜ぶ者が皆、恥を受け、辱められ/私に対し尊大に振る舞う者が/恥と屈辱を身に負いますように。」(24-26)これは、イエスの神概念から変わったのか、それとも、キリスト教か。よくわからない。イエスの教えにはインパクトがあったと思うが、どうようなことは、ユダヤ教にもある程度あったはずだが。ことばを生きた、生き方のようにも思う。
- 詩篇 36:2-4 背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。彼は自分の過ちを認め、憎むはずが/自分の目で自らにへつらった。その口の言葉は悪事と欺き。/悟りを得ること、善を行うことをやめた。
- 他者の態度と比較している。裁いているとも言える。他者よりましな信仰を持っていることを主張しているともいえる。これも、一つのステップなのかもしれない。そして、自らの罪の大きさにも気づき、他者と比較することではないことに目覚めるのだろうか。自分の中にも、そのような優越感はないだろうか。素朴である。
- 詩篇 37:9-11 悪をなす者は絶たれ/主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ。しばらくすれば、悪しき者はいなくなる。/そのいた所を探しても彼はいない。苦しむ人が地を受け継ぐ。/彼らは豊かな平和を楽しむ。
- 山上の垂訓を思い出した。「へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。」(マタイ5:5,6)しかし、すこし違うのだろうか。ルカ6:20からの対応箇所には、近いものは、見つけられなかった。通じるものはあっても、イエスの特徴的なものなのだろうか。一般には、ルカの方が古いと言われているが、どうなのだろうか。マタイのものが創作だとは、思えない。「主に望みを置く」を深く考えていくと、主がなにを求められるかに行きつき、主を知ることにつながるのかもしれない。イエスは不思議な方である。
- 詩篇 38:5,6 私の過ちは頭を越えるほどにもなり/重い荷物のように重くのしかかります。私の傷は、愚かな行いのために/膿んで悪臭を放ちました。
- 自らの罪・過ち・愚かな行いを認めることは、詩篇的なのかもしれない。単に、敵と自分との対立のなかで、主を求めるのではなく、主に目を向ける時、自らの弱さ、罪にも、気付かされる。しかし、やはり、イエスのことばとは、違う部分を感じる。その違いを意識し過ぎているのだろうか。聖書以外の当時の文書も理解したい。それによって、当時の人々の考え方、信仰を理解しないといけないように思う。
- 詩篇 39:5,6 主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。そうです/あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。/私の寿命など、あなたの前では無に等しい。/確かに立っているようでも/人間は皆空しい。〔セラ
- わたしは、自分の人生の短さを嘆く気持ちはないと思っているが、どうなのだろうか。わたしが若い時にはどうだったろうか。あまり、死を恐れてはいなかったし、さまざまなことの途中で死ぬことを恐れてもいなかったように思う。生への執着がないのだろうか。最近、イスラム過激派、特に、ウサマ・ビン・ラディンや、アルカイダについて学んだが、その人たちも、生への執着はないように見える。ここは、深く考える必要があるように思われる。共通なものなのか、ことなる原因によるのか。わたしには、わからない。
- 詩篇 40:6-8 わが神、主よ、あなたは多くのことを/奇しき業と計らいを/私たちのために成し遂げられた。/あなたに並ぶ者はありません。/私がそれを語り伝えようにも/おびただしくて数えきれません。いけにえも供え物も、あなたは喜ばれず/私の耳を開いてくださった。/焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも/あなたは求められなかった。その時、私は言いました。/「御覧ください。私は来ました/私のことが記された巻物の書を携えて」と。
- 「私のことが記された巻物の書」とは何なのだろうか。自分の記録だろうか。それは、わたしは、主の前に携えて出ることができるかと考えると、正直、それはできないように思う。主が望まれないようなことを、たくさんしてきたからである。それは、自分の力が足りないからそうなったこともあるが、主の御心を知りつつそれに反することをしてきたこともある。人間の弱さと受け入れてもいるが。主との交わりを大切にしたい。それなしには、主の御心は理解できないだろう。
- 詩篇 41:2 幸いな者、弱い者を思いやる人は。/災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
- このあとには、この「弱い者を思いやる人」について、語られているようだ。しかし「主は彼が病の床にあっても支えてくださる。/その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる。」(4)とあるが、その直後には「私は言いました/「主よ、私を憐れみ、魂を癒やしてください。/私はあなたに罪を犯しました」と。」(5)ともある。ひとは、さまざまな困難や苦難を抱えて、そのときを生きている。それが弱いものを思いやる、そのような生き方につながるとよいと思う。わたしもさまざまななか生きてきた。このようなものとして生きていきたい。
- 詩篇 42:10 わが岩なる神にこう祈ろう。/「なぜ、私をお忘れになったのか。/なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか」と。
- 「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(2)と印象的な言葉で始まり、「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/『御顔こそ、わが救い』と。」(6)ともある。このあとを見ても、複雑な、難しい中で、主を求めていることがわかる。引用句も「こう祈ろう」とある。自分を奮い立てるのも、信仰なのだろう。信頼とは、関係とはいえ、やはり、自分を鼓舞する部分が鍵なのだろうか。難しい。
- 詩篇 43:3 あなたこそ、わが砦なる神。/なぜ、私を拒まれたのですか。/なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩むのですか。
- この詩篇の最後は、「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/『御顔こそ、わが救い』と。/わが神よ。」(5)と自らを叱咤激励することばで終わっているが、途中では、引用句のように、悩みがあるのだろう。それこそが真実の告白なのだろう。
- 詩篇 44:24,25 我らの主よ、目覚めてください。/なぜ、眠っておられるのですか。/私たちを永遠に捨て置かず/起き上がってください。なぜ、御顔を隠されるのですか。/私たちの苦しみと受けている虐げをお忘れですか。
- ここも苦しさが伝わってくる。そのなかでの信仰告白なのだろう。そして、その信仰告白のもとで生きていく。それが信仰者の生き方なのか。わたしは、生チョロい生き方をしているのかも知れない。祝福を感謝しつつ。
- 詩篇 45:4-6 勇士よ、腰に剣を帯びよ。/それはあなたの威厳と輝き。輝きを帯びて進み行け/真実と謙虚と義の馬を駆って。/右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び/もろもろの民はあなたの足元に倒れる。
- 王を支える兵士の詩篇である。距離があるように感じてしまうが、とてもたいせつな営みだったのだろう。現代においても、いつ、どのようなことが起こるかわからない。非暴力・無抵抗がよいように思うが、それも、たいせつなひとと共に生きることを考えると、そう簡単には、いかない。武器をもつことは、わたしの場合はないと思うが、闘いはあるのかも知れない。勇士としての闘いが。
- 詩篇 46:9-11 来て、主の業を仰ぎ見よ。/主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」
- イエスが示された、天の父なる神のイメージとは異なるが、このようなイメージが、当時は大切だったのだろう。ただ、この当時はいつだろうか。「指揮者によって。コラの子の詩。アラモト調。歌。」(1)とあり、祭儀でつかったものなのだろうか。いつの時代なのだろうか。通読では、いつも、この箇所を引用しているように思うが。
- 詩篇 47:8,9 まことに神は全地の王。/ほめ歌え、優れた歌を。神は国々の王となられた。/神は聖なる王座に着いておられる。
- 神が王であるということが飲み込めない。王とは、人々を治め、裁く、リーダーだと思うが、神がそのような方なのか、わたしには、わからない。これらのことは、人間にまかせているのではないだろうか。たとえその事によって、混乱があったとしても。神が望んでおられることはあるとしても、手を直接くだされるのだろうか。
- 詩篇 48:14,15 城壁に心を向け、城郭に分け入ってみよ/後の代に語り伝えるために。この方こそ神、代々とこしえに我らの神。/神は、死を越えて、私たちを導かれる。
- この詩篇でも、「神はその城郭にあって/砦としてご自分を示される。」(4)とある。神が我々の城郭であり、砦として守ってくださるから、怯むことはないと言うことなのだろうが。それは、単なる守り神ということになる。敵にとっては、どうなのか。単に、部族の神のレベルをこえていないように見える。イエスは、この状況をどう考えて読んでおられたのだろうか。
- 詩篇 49:13,14 人間は栄華のうちにはとどまれず/屠られる家畜に等しい。これが自分を頼みとする者/自分の言葉に従う者の行く末。〔セラ
- 「屠られる家畜」は痛烈である。この前には「彼らが土地を自分の名で呼んでも/墓がとこしえに彼らの家、代々に彼らの住まい。」(12)ともある。何を希望として生きるのかは、難しい。この詩篇記者は「しかし神は私の魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる。〔セラ」(16)といっている。この確証はどこにあるのだろうか。おそらく、この世で、平安に生きることに尽きるように思う。そして、それには、主に信頼して生きることなのだろう。
- 詩篇 50:23 感謝をいけにえとする者は私を崇める。/道を正す人に私は神の救いを示そう。」
- 神の御心(たいせつなこと)をもとめ、そのときに、受け取っているたいせつなこと、もの、ひとを、たいせつにすること。これが信仰生活だと考えている。むりやり、広げる必要はないが、だれにでも、自分のたいせつなことを、分かち合いたいとは思う。感謝をいけにえとして捧げることだろうか。そのようなものとして生きていきたい。
- 詩篇 51:9-12 ヒソプで私の罪を取り払ってください/私は清くなるでしょう。/私を洗ってください/私は雪よりも白くなるでしょう。あなたが喜びと祝いの声を聞かせ/砕かれたこの骨を喜び躍らせてくださいますように。御顔を私の罪から隠し/あらゆる過ちを拭ってください。神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください。
- 有名な詩篇だが、なにか、特に、後半、あまりにさっぱりしていて、現実味をあまり感じない。どうも真実味もないように思う。どうなのだろうか。バト・シェバとの物語も創作なのかと思われてしまう。いままでは、まったく疑いもなく、素直に読んでいたが、ちょっと今回は疑問が多かった。
- 詩篇 52:3 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。/神の慈しみは絶えることがない。
- 「指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(1,2)とある。サムエル記と詩篇がペアになっているのか、それとも、伝承がながくあったのか。あとから、作ったのか。これも、よくわからない。引用句は、どうなのだろうか。ドエグはなにを考えていたのはは、また聞いてみないとわからないように思う。
- 詩篇 53:3,4 神は天から人の子らを見下ろし/神を求める悟りある者はいないかと探られる。彼らはすべて背き去り、ことごとく腐り果てた。/善を行う者はいない。一人もいない。
- 「愚か者は心の中で言う/『神などいない』と。/彼らは堕落し/忌むべき不正をなす。/善を行う者はいない。」(2)と始まる。この印象が強く、無神論への批判のように見えるが、引用句をみると、神の目から見ると、微妙な表現である。善を行うものはないということとともに、神を求める悟りある者がいないということなのだろう。わたしは、真理をもっていないが、少なくとも、悟りというより、神を求める、真理を求めることをしていきたい。それが、ひとの分なのかもしれないと最近つよく思っている。
- 詩篇 54:6 見よ、神はわが助け。/わが主は私の魂を支える人々の中におられる。
- これは、興味深い表現である。「私の魂を支える人々」は何を意味しているのだろうか。そのような人が周囲にいることは、幸せ、その人たちを通して、いのちが支えられているのかも知れない。わたしも、そのような多くの人に支えられていると感じる。そのようなものを持っていることこそが幸せなのかも知れない。
- 詩篇 55:13-15 私を嘲るのは敵ではない。/そうであるなら耐えられる。/尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。/そうであれば彼から隠れられる。だが、それはあなたなのだ。/私と同等の立場の者、友、心を許した人。一緒に親しく交わり/神の家を群衆と共に歩いたではないか。
- 死を恐れ、鳩のように翼があれば荒野に逃れてを過ごしたい(8)とさえ願う。そのように自分を苦しめるのは、敵ではないとここで語っている。ともに神の家を群衆と歩いた仲間、友、同等の立場のものと言っている。その苦しさが伝わってくる。しかし、表面上のことで、他者を理解してはいけないことも背景にあるのだろう。敵を憎むのは簡単だが、その敵の背後にも、神がおられ、そのひとを、導いておられる。同様に、友と思えるひとの中にも様々な葛藤があり、裏切ることもあるのだろう。共に互いに祈り合うものでありたい。あなたのことをおしえてください。神様がどのように導いておられるかを知ろうとしつつ。
- 詩篇 56:9 あなたは私のさすらいの日々を/数えてくださいました。/私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。/あなたの記録にはそうするよう書かれていませんか。
- なにか痛切な呼びかけと感じる。痛み、苦しみ、その涙の日々は、実際には、自分にしかわからない。同時に、その背後にあるものは、自分ですらわかっていないことも多い。ここでは、それを主に呼びかけ、記録に残っていないかと語りかけている。すべてを知っておられる神ということなのだろう。神は、共に、苦しみ、悲しんでくださるのかも知れないとの、希望なのかも知れない。
- 詩篇 57:4-6 神が天より使いを送り/私をお救いくださいますように。/私を踏みにじる者が嘲っています。〔セラ/神が慈しみとまことを送ってくださいますように。私の魂は雌獅子の群れのただ中に/人の子らを貪り食らう者たちの間に伏しています。/その歯は槍、矢。/舌は鋭い剣。神よ、天の上に高くいませ。/あなたの栄光が全地にありますように。
- 「指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき。」(1)となっているが、少なくとも、ユダ王国が滅ぼされようとしているときには、このことばはとても身近なものとして、響いたことだろうと思った。信仰も、宗教も、そのような中で、深くなっていったのかも知れない。どのような形でかは、わからないが。
- 詩篇 58:12 人は言う。/「まことに正しき者には実りがある。/地には裁く神がおられる」と。
- このように、わたしも、告白したいけれど、正直に、このようには、言えない。ただしき者は、いないのかもしれない。神の裁きが見えないのかも知れない。しかし、神様に信頼をし、神様のみこころを求めることは続けていきたい。それが、わかったといったときには、危険なのかも知れない。ただしき者、これは、どのようなひとを指しているのだろうか。
- 詩篇 59:4,5 主よ、力ある者らが私の命を狙って身を潜め/争いを仕掛けて来ます。/私には背きもなく、罪もなく/過ちもありません。/彼らは走り寄り、身構えています。/目覚めて私に向かい、見つめてください。
- わたしは、このようには言えないが、同時に、当時の理不尽さは、様々な面で大きかったのだろう。あまり、自然災害のことは、出てこないが、その被害もおおきかっと思われる。他者理解を、現代を比較するのは難しいが、法や、規範、その教育などが、一般的ではなかったことはあるのだろうか。苦しみの内容や背景が異なるのかも知れない。
- 詩篇 60:12-14 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。私たちを敵から助け出してください。/人の与える救いは空しい。神によって私たちは力を振るいます。/神が敵を踏みにじってくださいます。
- 冒頭に「ミクタム」とある。Google 検索での Gemini の説明は「聖書の詩篇における「ミクタム(Miktam)」とは、詩篇の表題(タイトル)に記されるヘブライ語の専門用語で、「黄金の歌」「金文字で刻まれた詩」を意味し、「秘められたもの」「(碑銘のような)銘文」といったニュアンスを持つ、特に価値の高い詩篇(詩篇16篇、56〜60篇など)を指し、神への深い信頼や信仰告白を歌う重要な詩とされています。 」となっている。さらに「語源: ヘブライ語で「金(zahav)」に関連する言葉から来ていると考えられ、黄金のように貴重で優れた詩であることを示唆します。内容: 神の臨在の喜び、救い、信頼、そして信仰の基本が歌われており、特に苦難の中での希望を表現する「信頼の詩」として位置づけられます。対象: ダビデが作ったとされる6つの詩篇(16, 56, 57, 58, 59, 60篇)の表題に登場します。解釈: 「碑銘(Michtam)」と関連付けられ、出来事の記録や特別な教訓が込められた銘文のような詩、という意味合いもあります。詩篇16篇は「ダビデのミクタム」として知られ、イエス・キリストの復活に関連する預言的な意味でも引用されるなど、新約聖書でも重要視されています。 これら「ミクタム」の詩篇は、絶望的な状況下でも神に完全に委ねる信仰の模範を示し、読者に深い平安と希望を与える力を持っています。」とある。AI で得られることの豊かさにも驚かされる。どのように使っていくかについても、考えさせられる。
- 詩篇 61:7,8 王の日々になお日々を加え/その年月を代々に長らえさせてください。神の前にあって、王がとこしえの王座に着き/慈しみとまことに守られますように。
- 王のことが書かれているが、前半と、最後は、個人のことばのようになっている。それは、ダビデの詩となっているが、この王の部分とがどのように結びつくのかが不明である。自分の安寧と王の安泰とが繋がっているということだろうか。その関係は、どのように確信するのだろうか。わたしには、わからない。国の安泰を願うようなことが、どうみても、御心とは異なるものと成ることをあまりにも見てしまっているからだろうか。
- 詩篇 62:10-12 人間の子は息のようなもの。/人の子は欺き。/秤にかければ/共に息よりも軽い。暴力に頼るな。/略奪に空しい望みを置くな。/富が増えても、心を奪われるな。一つのことを神は語り/二つのことを私は聞いた。/力は神のもとにある、と。
- 人の儚さと、その望むものの儚さを言っているように思う。そして、力は神にある。しかし、現状は、どうも、そうは告白できないように見える。世界はどうなっていくのだろうか。戦後、築き上げようとしてきた、国際協調は、虚しいものだったのだろうか。そうなのかもしれない。諜報部員が作動し、特殊作戦部隊が闘いを主動し、秘密裏にことを動かす。それが超大国のもとにあると、短期的な結果で、価値を判断することになるのだろう。本当に心配である。
- 詩篇 63:2 神よ、あなたこそわが神。/私はあなたを探し求めます。/魂はあなたに渇き/体はあなたを慕います/水のない乾ききった荒れ果てた地で。
- わたしは、普遍的なものを探し求めてはいるが、それが、あなたこそという対象を選択しているようには思えない。絶対者がおられる、または、定冠詞付の真理があると信じているのだろう。宗教と言う名では、完璧に表現されていないかも知れないとも思いつつ。それは、一般的には、信仰者とは言えないのかも知れないが。この詩篇のことばのように、渇き、慕っているとは思う。
- 詩篇 64:4-6 彼らは舌を剣のように鋭くし/苦い言葉の矢をつがえています。物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。彼らは悪の言葉に身を固め/それを数え上げては罠を仕掛け/「誰が見破ることができよう」と言います。
- 神がこの中でどうされるかは、8-10節に書かれ「正しき人は主によって喜び/また主のもとに逃れます。/心のまっすぐな人は皆、誇ることができます。」(11)と結んいる。しかし、この悪をなすもの(3)の表現がすごい。引用句はその一部である。しかし、わたしは、このような感覚はない。鈍いのか、そこまでの窮地に陥ったことがないのか。周囲にいるひとが違うのか。文化の違いも感じてしまうが、表現自体は、興味深い。
- 詩篇 65:2-42 シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。祈りを聞いてくださる方よ/すべての肉なる者はあなたのもとに来ます。数々の過ちが私を責めたてます。/私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。
- 「沈黙も讃美興味深い。沈黙も賛美、そのあとで、誓いと祈り、さらに、数々の過ち・背きを覆ってくださる存在として、神を捉えている。ほかには、と考える面と、それぞれの関係や、より深い理解もたいせつなのだろう。ひとつひとつたいせつに向き合っていきたい。後半には、まさに、沈黙の中で神がなされていることが書かれている。興味深い。
- 詩篇 66:9-12 神は私たちに命をお与えになる。/私たちの足をよろめかすことはない。神よ、あなたは私たちを試み/火で銀を練るように私たちを練った。あなたは私たちを網に追い込み/腰に重荷を付け/人が私たちの頭の上を乗り越えることを/お許しになった。/私たちは火の中、水の中を通ったが/あなたは私たちを広々とした地に導き出された。
- 最後の部分が特に興味深い。神が、わたしたちを、試み、練るさまざまな表現がなされている。具体的にはよくわからないが、人、火、水で、表現されたものには、たいへんな状況を感じさせられる。最後には、広々とした地がでてくるが、これは、視界が広く、自由に歩き回れるということだろうか。遊牧民の生活も表現されているのか。
- 詩篇 67:2,3 神が私たちを憐れみ、祝福し/その顔を私たちに輝かせてくださいますように。〔セラ/地があなたの道を知り/すべての国があなたの救いを知るために。
- 主の顔というと「その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)を思い出したが、神の顔を仰ぎ見たり、神が顔を隠したりと、神の顔に関する表現が、詩篇には、多い。相互の関係をこの顔ということばで表現しているように思われる。まずは、その顔を仰ぎ見、神がその顔を書か輝かせておられるのを見ることが信仰の最初なのかもしれない。
- 詩篇 68:31,32 叱咤してください、水草の茂みに住む獣を/もろもろの民の子牛の中にいる猛牛の一群を/銀の品々を踏みにじるものを。/闘いを望むもろもろの民を散らしてください。エジプトから青銅の品々が到来し/クシュは神に向かって手を伸べる。
- 最後の部分との関連がよくわからない。エジプトとクシュはどのような存在だったのだろうか。前半もよく理解できるわけではない。さまざまな侵略があるということだろうか。ただ、表現が、変わっている。敵というものでも無いように感じる。
- 詩篇 69:5 いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く/私を滅ぼそうとする者/偽り者の私の敵は強いのです。/私は自分が奪わなかったものさえも/償わなければなりません。
- 苦しさがこの前に描かれているが、もしかすると引用句にある「奪わなかったものさえ償わなければならない」という理不尽さに起因しているのかもしれない。この後には、自分の愚かさ、罪、つまり神の方を向くと、自分も適切には生きていないことも告白している。公平さは難しい。神になにを求めるかも。しかし祈りは神に向かって祈る時に、少しずつ、自分と他者、神の苦しみを明らかにしていくのかも知れない。
- 詩篇 70:5,6 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「神は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。私は苦しむ者、貧しい者です。/神よ、私のために急いでください。/あなたこそわが助け、わが救い。/主よ、ためらわないでください。
- ひとは、いろいろな背景のもとで祈っているのだろう。その背後にあることを祈りに加えることも、加えないことも、自分で気づいている場合も、気づいていない場合もあるのだろう。しかし、祈りの中で、そして、神を思う中で、気付かされていくことも多いように思う。絶対他者だろうか、神にいのるときのたいせつさ、それが命につながる道であることも思う。
- 詩篇 71:14,15 私は絶えず待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。日夜、私の口はあなたの正義を/あなたの救いを語り継ぎます。/しかし決して語り尽くすことができません。
- 信頼と讃美、これが、信仰生活なのだろう。そして、神との関係なので、このように表現するが、基本的には、この関係を大切にしていることの表明なのかも知れないと思った。絶対他者との関係は、このように、表現し、維持されていくものなのかも知れない。
- 詩篇 72:1 ソロモンの詩。/神よ、あなたの公正を王に/あなたの正義を王の子にお授けください。
- ソロモンの詩で始まるが、最後には「エッサイの子ダビデの祈りの終わり。」(20)となっている。まずは、第2巻、42-72篇の締めくくりということなのだろうが。様々な議論があるところなのだろう。深く学んでみたい。
- 詩篇 73:13,14 なんと空しいことか。/私は心を清く保ち/手を洗って潔白を示した。日ごと、私は打たれ/朝ごとに懲らしめを受けた。
- なにか、空しさが伝わってくる。この詩篇記者にも、いろいろな苦しさがあったのだろう。最後には、主との関係の告白につながっている。「しかし、私は常にあなたと共にある。/あなたは右の手を捕らえてくださる。あなたの計らいは私を導き/やがて栄光のうちに私を引き上げてくださる。」(23,24)それ以外に救いはないのかもしれない。それがこのように、最後に告白されているのだろう。「しかし私には、神に近くあることこそが幸い。/私は主なる神を逃れ場とし/あなたの業をことごとく語り伝えよう。」(28)
- 詩篇 74:19 あなたの山鳩の命を獣に渡さないでください。/あなたの苦しむ者たちの命を/永遠に忘れないでください。
- これは、重要な関わり方のように思う。この祈りが、信頼にもつながっていくのだろう。しかし、意識にあるのは、敵のこと「忘れないでください/あなたに敵対する者の声を/あなたに立ち向かう者の絶えず起こす騒ぎを。」(23)それも、身近な問題として、これを避けることはできなかったのだろう。批判していてはいけないのだろう。
- 詩篇 75:7,8 人を高く上げるものは/東からも西からも/荒れ野からも来ません。神こそが裁く方。/ある者を低くし、ある者を高く上げられます。
- 神の主権だろうか。わたしには、そうは、思えないが、否定もできない。神はどのような存在なのだろうか。わたしにとっては、真理とあまり変わらない。宇宙の意思のようなものとして存在するのだろうか。それをしていないとすると、どのような実在なのだろうか。正直、わたしにもよくわからない。イエスが伝える神は、どのような方なのだろうか。それを学んでいきたい。
- 詩篇 76:13 地上の王たちに恐れられる方は/君主たちの霊を挫く。
- やはり、主がどのようなかたなのか、わたしには、わかっていないように思う。詩篇記者とすべて一致するのは難しいとしても、古典的には、地上のすべてのことを支配しておられる存在だと信じられていたのだろう。しかし、いまは、すこし変わってもきている。そのなかで、わたしは、そのようなことをほとんど信じていないと思う。では、どのような存在だとしているのだろうか。人間の側の信仰、生き方にすべてがあるのだろうか。わからない。
- 詩篇 77:21 あなたはモーセとアロンの手によって/ご自分の民を羊の群れのように導かれた。
- 最後の節を引用したが非常に唐突に感じる。「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/私の声よ、神に届け。/神は私に耳を傾けてくださる。苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手を差し伸べた。/しかし、私の魂は慰めを拒む。神を思い起こし、呻き、思い巡らそう/私の霊が萎え果てるまで。〔セラ」(2-4)と始まり、信仰告白のようなことばが続く。神がどのように導いてこられたかが背景にあるのだろう。それが、「指揮者によって。エドトンによる。アサフの詩。賛歌。」(1)に現れているのか。ChatGPT のまとめである。「神が沈黙しているように見えるときでも、神は過去にご自分の民を確かに導かれた。その神は今も変わらない。」個人の嘆きが、救済史の想起によって変容する詩篇に分類している。(詩篇44, 22, 78, 106, 136, 143)
- 詩篇 78:55 彼らの前から諸国民を追い払い/測り縄で彼らの相続地を割り当て/イスラエルの諸部族をそれぞれの天幕に住まわせた。
- イスラエルの歴史に関する、考察が書かれている。それが信仰の基盤として需要だったのだろう。そして、祭儀としての祈り、詩篇朗誦に用いられたのだろうか。一つ一つ学ぶ時間はないが、興味深い。
- 詩篇 79:1 賛歌。アサフの詩。/神よ、諸国民があなたの相続地に入り/あなたの聖なる宮を汚し/エルサレムを瓦礫の山としました。
- この詩篇も難しい。アサフの詩は、後の時代に、アサフを想定しているのだろうが、これが、バビロン捕囚を意味しているのか、他の時期なのかも不明である。いずれにしても、「主よ、いつまでなのですか。/あなたは永遠にお怒りになるのでしょうか。/あなたの妬みは火のように燃え続くのでしょうか。」(5)このような表現は、バビロン捕囚以降、すべての時代に通じるのかもしれない。個人的な祈りとも、捉えることができる。
- 詩篇 80:1 指揮者によって。「百合」に合わせて。証し。アサフの詩。賛歌。
- 礼拝形式が整っているようにみえるが、おそらく、わからないことが多いのだろう。百合についても、さまざまな想定があるようである。決まった旋律があったという説や、百合のかたちの楽器が指定されているという説、百合は「純潔」や「美しさ」の象徴として、使われているという説なのだろうか。なかなか、わからないことばかりで、全体を受け取るのは、難しい。
- 詩篇 81:10,11 あなたのうちに他の神があってはならない。/異国の神にひれ伏してはならない。私は主、あなたの神/エジプトの地からあなたを上らせた者。/口を大きく開けよ、私はそれを満たそう。
- 最初にある、ギティトは、詩篇8編・81編・84編にもあるとのこと。これも、百合と同じであまりわかっていないようだ。詩篇には、古いものも多いのだろう。引用句でも、民族の神としての意識が強い。それが保存されていることは、伝承などが、続いているのか。成立は、興味深い。
- 詩篇 82:2-4 「あなたがたはいつまで不正に裁き/悪しき者におもねるのか。〔セラ/弱い人やみなしごのために裁き/苦しむ人や乏しい人を義とせよ。弱い人や貧しい人を救い/悪しき者の手から助け出せ。」
- これは、為政者とは、異なる視点なのだろうか。為政者や王からは出てこない視点のように思われる。「賛歌。アサフの詩。/神は神の集いの中に立ち/神々の間で裁きを下される。」(1)と始まる興味深い詩篇でもある。それが、この引用句の背景にあるとするととても、興味深い。背後にあるものをもっと学びたい。
- 詩篇 83:3,4 御覧ください。/あなたの敵が騒ぎ立ち/あなたを憎む者は頭をもたげました。彼らはあなたの民に陰謀を巡らし/あなたにかくまわれている人たちに/悪だくみを働いています。
- 神の敵という概念が登場する。見ると、それは、神の民、すなわち、イスラエルに陰謀をめぐらしているということだが、本当に、それが神の敵なのだろうか。神が、私達を愛してくださるとしても、それに敵する、仇なすものが神の敵とはならないように思うが。喫緊の問題として、攻められている、侵略されているという場合、このような祈りと成るのも自然なように思われる。その祈りを神が良しとするかどうかは別なのかも知れない。
- 詩篇 84:5,6 幸いな者、あなたの家に住む人は。/彼らは絶えずあなたを賛美します。〔セラ/幸いな者、あなたを力とし/心の中に大路を敷く人は。
- なかなか良い言葉だが、具体性には乏しい。わたしは、どのようにして、主が通られる道を準備していけるのだろうか。それは、難しい。「彼らの心の中には大路(舗道・街道)がある。」と解釈するほうが普通だと、ChatGPT は答えている。「人が神のもとへ向かって行く巡礼の道を、心の内に持っていること」なのだろうか。翻訳の問題もあり、難しい。
- 詩篇 85:11-14 慈しみとまことは出会い/義と平和が口づけする。まことは地から芽生え/義は天から目を注ぐ。主はまた恵みを与え/我らの地は実りをもたらす。義は主の前を進み/主の歩まれる道を備える。
- 義とはなになのだろうか。公平と近いのだろうか。しかし、義は、ここでは、擬人化されている。主とは、区別されている。何なのだろうか。ChatGPT によると、義とは「関係を正しい状態に戻すこと、契約に忠実であること、救済的行為」であり、「契約に対する誠実さ・圧迫からの解放・正しい秩序の回復・神の救済行為」とある。関係性を正しい状態に戻することとは、興味深い。
- 詩篇 86:10 まことに、あなたは大いなる方/奇しき業をなさる方。/あなただけが神。
- あなただけが神ということは、神という概念が、エホバ神以外にあるということだろうが、それは、どのようなものなのだろうか。どの時にかかれたことかわからないが、唯一神信仰への過渡期にあるということだろうか。それも考えうる。
- 詩篇 87:7 歌う者も踊る者も言う/「私の泉はすべてあなたの内にある」と。
- あなたは、「主」をさすだろう。わたしは、常にイエスのあとについていこうとしているが、正直、わからないことが多く、もう少し、いろいろなことにアドバイスしてくれればと願うことも多い。もっと長く生きて、生き方を示してくれればとも思う。他方、十分理解できていない点も多いことは確かだが。イエスの生き方を通して知ること以外を聖書にもとめることには、注意していることも事実である。イエスの示された神から学びたいからだが、この詩篇記者のように、「すべてあなたの内に」とは言えないことも感じる。
- 詩篇 88:19 あなたは私から愛する者と友を遠ざけ/闇だけが私の親しいものとなりました。
- 祈りの詩篇であると同時に、叫び求めるが、主が、自分の魂を拒んでいるように見える(14)ことが書かれている。引用箇所以外にも、「あなたは親しい人を私から遠ざけ/彼らにとって忌まわしい者としました。/私は閉じ込められて、逃れることができません。」(9)とあり、人との関係が、この苦しさを表しているように見える。そのなかでの祈りなのだろう。共に祈れること、そばにいてくれる人がいることは、大きな力なのだろう。主の救いを感じ、受け取るためにも。他者にとっても、そのような存在でありたい。
- 詩篇 89:12,13 天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。/世界とそこに満ちるものは/あなたが礎を築いたもの。北も南もあなたが創造された。/タボルもヘルモンもあなたの名を喜び歌います。
- 「僕との契約を破棄し/その冠を地になげうって汚されました。」(40)からは、バビロン捕囚(前586年)後のことかとも思われるが、その頃に、ダビデ王朝について、そのダビデと神との契約について、再解釈が行われたということなのだろうか。北と南の関係、信仰的基盤のつながりなど、興味深いことが多い。
- 詩篇 90:4-6 まことに、あなたの目には/千年といえど過ぎ去った一日のよう。/夜回りの一時にすぎない。あなたは人を死の眠りに落とされる。/人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り、なお萌え出づるが/夕べにはしおれ、枯れ果てる。
- 神の永遠性とともに、人の時間の有限性が対比され、そのなかで、どう生きるかが語られているように見える。キリスト教においては、その時間軸が狂うように見える。または、復活について、どう考えるかによって変わってくるように思われる。それは、どう考えたら良いのだろうか。
- 詩篇 91:4 主は羽であなたを覆う。/あなたはその翼のもとに逃れる。/主のまことは大盾、小盾。
- 鳥が、羽で雛を守る姿は、おそらく、いろいろなところで、神に結びつけて使われたのだろう。詩17:8、詩36:7、詩57:1、詩63:7、詩61:4、詩91:4にあるとのこと。古代中東で他にも使われているようだ。ケルビムも似たものの影響があるのかもしれない。鳥が神だとはいわないが、保護には似た起源があるのだろう。
- 詩篇 92:15 年老いてもなお実を結ぶ/命豊かに、青々として。
- 直接的には子供なのだろうか。それ以外にも、考えられていたのだろう。詩篇1編3節「その人は流れのほとりに植えられた木のよう。/時に適って実を結び、葉も枯れることがない。/その行いはすべて栄える。」などがあるようだが、具体的にはどのように考えられていたのだろうか。不明である。
- 詩篇 93:1 主は王となられた。/主は威厳をまとい/力の衣を身に帯びておられる。/世界は固く据えられ/決して揺らぐことはない。
- 詩篇47,95-99 にも主が王であるとの表現があるようだが、単なる世界の国々を収めるということよりも、宇宙的な支配者を意味するのだろう。それが、「主は大水のどよめきにまさり/大波にまさり、勢いがあり/威勢があり、高みにおられる。」(4)などに現れているのかもしれない。しかし、王という感覚がよくわからないのは、仕方ないのだろうか。
- 詩篇 94:10,11 国々の民を懲らしめる方が/人に知識を教える方が/責めたてないことがあろうか。主は知っておられる、人の思いを/その空しいことを。
- 神が、最終的審判者であるということだろうが、正しさは、詩篇記者が判断しているようにも見える。しかし、訴えとして、神の法廷に立っていると考えれば、それでよいのだろうか。公平さは、難しい。
- 詩篇 95:8,9 「メリバにいた時のように/マサの荒れ野にいた日のように/心をかたくなにしてはならない。あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。/私の業を見ていながら、私を試した。
- 民族を結びつける、共通の歴史、恵みを受けていながら信頼できていないことなどが、言われているのだろうか。出エジプト記17章の、マサ(「試み」)と民数記20章のメリバ(「争い」)は、出エジプトという救出のあとになお「主は私たちの中におられるのか」と疑うことだからか。申命記6:16、詩篇78編、詩篇106編でも取り上げられている。もう少し考えたい。
- 詩篇 96:13 主の前に。/主は来られる。/地を裁くために主は来られる。/主は義によって世界を/まことをもってもろもろの民を裁かれる。
- もろもろの民の神が意識されている。「もろもろの民の神々はすべて空しい。/主は天を造られた。」(5)、「もろもろの民の氏族よ、主に帰せよ。/栄光と力を主に帰せよ。」(7) このような信仰はどのように形成されていったのだろうか。興味深い。バビロン捕囚の頃に完成されたのだろうが、そのひとたちがどのように生きていたかなども含めて興味がある。
- 詩篇 97:10-12 主を愛する者よ、悪を憎め。/主は忠実な者の魂を守り/悪しき者の手から救い出す。光は正しき人に/喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。正しき者よ、主によって喜べ。/主の聖なる名に感謝せよ。
- 美しいことばが並んでいるが、そして、喜びも、嬉しいが、あまり、感動がない。どうしてなのだろう。悪の中身がないからか。主についての、表現が深くないからだろうか。典礼詩なのかもしれないが、典礼の形式化にも、嫌悪感を感じてしまう。
- 詩篇 98:9 主の前に。/主は来られる、地を裁くために。/主は義によって世界を裁き/もろもろの民を公平に裁かれる。
- 人々は、このことを期待していたのだろう。それは、伝わってくる。その意味では、その前の、「海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものはとどろけ。川という川は手を打ち鳴らせ。/山々はこぞって喜び歌え」(7,8)は、印象的に響く。
- 詩篇 99:1 主は王となられた。/もろもろの民は震えよ。/主はケルビムの上に座しておられる。/地は揺れよ。
- 「主は王」という括りの詩篇だが、モーセ、アロン、サムエルも登場し、全体的な構造が、神殿礼拝を中心に展開されていると思われるが、やはりケルビム(おそらく神殿にあり契約の箱を覆う二体と思われる)が起源や、なぜこれが主のイメージなのか、気になった。
- 詩篇 100:1 賛歌。感謝の詩。/全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
- 有名な詩篇で何度も読んでいるが、なぜ、全地なのかが、気になった。このあとは、地を連想させるものは、少ない。神が支配する世界そのもの、被造世界全体を意味するもので、それが鍵なのだろうか。それは、何時頃からできていたのだろうか。
- 詩篇 101:1 ダビデの詩。賛歌。/慈しみと公正を私は歌い/主よ、あなたに向かってほめ歌います。
- 慈しみはどのようなものを言っているのだろうか。神の慈しみ、人間の間の慈しみ。ヘセドは、AI によると、契約に基づく忠実さ、恩恵、揺るがない愛、誠実、慈愛。ここで慈愛がでてくるのは、やはり契約と関係して、見捨てない、助ける、赦す、施す、守るということらしい。すると、イエスの愛(アガペー、動詞:アガパオー)との違いも感じる。イエスはアラム語でどのような感覚で話したのだろうか。
- 詩篇 102:18 主はすべてを失った者の祈りを顧み/その祈りを軽んじませんでした。
- すべてを失った者という表現は、いろいろな状況をさすのだろうが、能力がなかったり、怠惰だったり、または、不正などに絡んだ場合もあるだろう。それは、どのように考えられていたのだろうか。民として、主は守られると考えられていたのだろうか。おそらく、その差別はないのだろう。民としてと考えた形跡はあるが。原意は、「主は荒れ果てた者(困窮者)の祈りに向き直り、彼らの祈りを侮られなかった。」のようだ。しっかり学んでいきたい。
- 詩篇 103:3-5 主はあなたの過ちをすべて赦し/あなたの病をすべて癒やす方。あなたの命を墓から贖い/あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。あなたの望みを良きもので満たす方。/こうして、あなたの若さが/鷲のように新しくよみがえる。
- かなりきっぱりと宣言している。どのような背景から、このような告白が出てくるのだろうか。実際のことからの証言ではないように思われる。民族を一つにする、出エジプト体験、伝承が背後にあることは、想像できるが、このように言い切るのは、典礼の一部だからだろうか。
- 詩篇 104:19 主は季節のために月を造った。/太陽は沈む場所を知っている。
- 季節は、祭儀の時を定めているということなのかも知れない。祭りは、月齢できまっていたのだから。太陽の沈む位置で、農耕などの計画をしたということなのだろうか。
- 詩篇 105:45 これは彼らが主の掟を守り/主の教えに従うためである。/ハレルヤ。
- 歴史を振り返っている。そして、最後の言葉が、引用句である。おそらく、後になってまとめられたのだろうが、創世記、出エジプト記、そして、もしかすると民数記はどの程度出回っていたのだろうか。歴代誌16章に引用されているようだ。人の側については、殆ど書かれず、主の忠実さが語られているのか、AI の助けにより、学びが広がることは確かである。
- 詩篇 106:47 我らの神、主よ、私たちを救い/国々から集めてください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。
- 105編と比較すると、こちらは、人の側に焦点がある。そのような比較も興味深い。引用句からも、捕囚後のことなのだろう。105編と対と考えるのは一般的なのだろう。詩篇106編とネヘミヤ9章は、学界でもしばしば並べて論じられる代表的な「悔悛の歴史回顧テキスト」とのこと、ゆっくり学ぶ時はまたあるだろうか。
- 詩篇 107:41 貧しい人を苦しみから高く上げ/氏族を羊の群れのようにした。
- この詩篇は、主と、民との関係が語られているようだが、民族を守られる主であるとともに、貧しい人を顧みられる主でもある。広がりはないように見える。捕囚とその帰還の時期も、資料が十分ではなく、あまりよくわかっていないように見える。難しい。するとましてや王国時代や、その前は、断片的なのだろう。
- 詩篇 108:7 あなたの愛する人々が助け出されるように/右の手で救い/私に答えてください。
- これは、何時が想定されているのだろうか。捕囚後だろうか。それとも、もっと古いのか。重なり合っているのかも知れない。詩篇57編、60編の統合もあるようで、これは、しっかり学ばないと理解できない。捕囚帰還後は、何を目指すか、統一したものは、形成しづらかったのかもしれない。
- 詩篇 109:28,29 彼らが呪っても、あなたは祝福してくださいます。/彼らは反逆して恥をかき、あなたの僕は喜びます。私を訴える者らが辱めを衣とし/恥を上着としてまといますように。
- 「呪詛詩(imprecatory psalms)」(裁きを神に訴える詩)というらしいが、詩篇109、35、69、137など、どう読むか難しい。自分では裁かず、神にさばきを委ねる詩だということのようである。しかし、敵対関係は続くのではないだろうか。新約でも、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ローマ12:19)のことも AI は指摘している。いろいろな段階があるのだろう。相手の背景を十分理解できておらず、自分についても適切に評価できていないかもしれないとも思うが、これは、現代的解釈のようだ。むろん、現代でも、そう考えることは難しいかも知れないが。
- 詩篇 110:1 ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」
- 新約でも、そして、イエスも引用したとされていますが、もともとの詩篇での意味はどのようなものなのだろう。נְאֻם יְהוָה לַאדֹנִי(neʾum YHWH laʾdōnî)の、 לַאדֹנִי(私の主)をどう理解するかが難しいのだろう。死海写本にもいろいろとあり、当時、注目され、議論されていた詩篇のようだ。そこまでは、なかなかわからない。
- 詩篇 111:3-5 その働きは威厳と輝き/その正義はいつまでも続く。主は奇しき業を記念するよう定めた。/主は恵みに満ち、憐れみ深い。ご自分を畏れる人々に糧を与え/とこしえに契約を心に留める。
- 契約とそれを守る正義がついなのだろう。それを証するものが、主の奇しき業なのだろうか。ノア契約(普遍的契約)、アブラハム契約(祖先契約)、シナイ契約(モーセ契約)、祭司契約(ピネハス契約)、ダビデ契約(王権契約)、申命記的更新契約、新しい契約(預言的再解釈)と、AI は主要な契約を挙げたが、意識していなかったものもあった。
- 詩篇 112:1 ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。
- 「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」(9)は興味深い、正義には、貧しい人々に与えることと、深く関係しているのか。角はどのような感覚なのだろう。קֶרֶן qeren = 角 は、力・威厳・勝利・尊厳の象徴的な意味とのことである。
- 詩篇 113:6-9 天にあっても地にあっても/低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こし/貧しい人を塵の中から高く上げ/高貴な人々と共に/民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。子のない女を家に住まわせ/子らを授かり喜ぶ母にしてくださる。/ハレルヤ。
- このような主の概念は、どのように、形成されていったのだろうか。支配者とは、独立の概念のように思われる。しかし、それを支配者に求めず、主を誉め称えている。出エジプト伝承までもどる古いことばもあると、AI は答えている。成立は、捕囚後としても、さまざまなものが含まれているのだろう。おそらく、平和な問題のない時代はなかったのだろう。そこで呼び求め、ほめたたえる主だったということだろうか。それは、今も続いているのだろうか。
- 詩篇 114:3,4 海は見て、逃げ去り/ヨルダン川は後ずさりした。山々は雄羊のように/丘は小羊のように跳ね踊った。
- 主の前で身悶えすることの表現なのだろうが、印象的である。なにを伝えているのだろうか。紅海が割れた、ヨルダン川が堰き止められた、この奇跡を詩的に人格化した表現とある。確かにそうなのかも知れない。しかし、すごい表現だ。
- 詩篇 115:8 それを造り、頼る者は皆/偶像と同じようになる。
- 偶像を作らないというのも、特徴的だと思われるが、神道もそうなのだろうか。引用句の表現は、奇抜で驚かされる。AI によると、中東では、他にない。偶像礼拝は:人間が作ったものに依存すること=神の主権を否定する行為。神学的には、人は:礼拝するものに似てくる。とある。興味深い。日本の神道は、神体(鏡・剣・岩・木)、自然物を媒介とするという点で、「神像」より「象徴的媒体」に近く、完全な無像宗教ではないが、人格彫像中心でもないとのこと。興味深い。
- 詩篇 116:8-11 あなたは私の命を死から/目を涙から/足をつまずきから助け出してくださった。主の前を私は歩む/生ける者の地で。私は信じる/「とても苦しい」とあえぐときも。「人は皆噓つきだ」と口走るときも。
- 自分の体験、日常的な信仰が表明されていて、個人の信仰と強く結びついている。これが、聖書信仰の強さのように思うが、これは、どのように受け継がれていったのか。預言者や、ラビなのだろうか。祭司もある役割を果たしていたのだろうか。この継承は、興味深い。歴史との結び付き、わたしと私達の関係、継承だろうか。
- 詩篇 117:1,2 主を賛美せよ、すべての国よ。/主をほめたたえよ、すべての民よ。その慈しみは私たちに力強く/主のまことはとこしえに絶えることがない。/ハレルヤ。
- なにか、広いところからスタートし、狭いところに進み、わたしたちに向かっている。なにを表しているのだろうか。すべての国や民には、呼びかけ、命じているだけにも思われる。讃美は、命じられてするものではないように思うが。命令ではなく、呼びかけではあっても、やはり、自己中心に思われる。弱い私たちに示された神の誠実さこそが、万国に知られるべきだという捕囚後の弱いイスラエルの呼びかけと考えられているようだが。やはり、違和感を感じる。
- 詩篇 118:22,23 家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。これは主の業/私たちの目には驚くべきこと。
- 家造りの捨てた石のモチーフは、新約聖書で何度も登場するが、このような感覚は何時頃成立し、どのような背景があったのでしょうか。捕囚後なのだろうか。 しかし、すでに、起こったこととしても表現されている。この捨てられた石の表現は、 どのようなところから、生じているのか。詩篇では共同体的回復の象徴 → 新約では個人メシア的適用ということなのだろうか。
- 詩篇 119:45 私は自由に歩みます。/あなたの諭しを尋ね求めているからです。
- 詩篇119編は、アルファベット詩で長いので、なかなか通読では丁寧に読めない。引用句は、わたしの姿、わたしの生き方だと思ったので選んだ。律法、戒め、諭し、御言葉を表現することばが多い。ここでは、諭しとなっている。自由さとともに、諭しは、常に求め続ける者のように思う。
- 詩篇 120:2 「主よ、私の魂を助け出してください/偽りの唇から、欺きの舌から。」
- 最後には「私が平和を語っても/彼らはただ戦いを好む。」(7)ともあり、この詩篇全体としては、詩篇記者の受け入れられない状況が起こっていることがわかる。ただ、それに都に上る歌とついている。理解しやすいことばもあるが、難しいものも多い。
- 詩篇 121:4 見よ、イスラエルを守る方は/まどろみもせず、眠ることもない。
- イスラエルとの契約のもとで、個人も守られる。「主はあらゆる災いからあなたを守り/あなたの魂を守ってくださる。主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。/今より、とこしえに。」(7,8)これが一致するのは、どのようにして育まれたものなのだろうか。エゼキエル18章などの、「父が酸いぶどうを食べ、子の歯が浮く」のではない各人が自分の罪によって死ぬという、個人責任神学になっていくと、AI が答えている。もう少し、根拠がほしい。
- 詩篇 122:1,2 都に上る歌。ダビデの詩。/「主の家に行こう」と人々が言ったとき/私は喜んだ。エルサレムよ、あなたの城門の中に/私たちの足は立っていた。
- なぜ、ここまで、聖地、エルサレムにこだわるのか、理解しにくい。個人の信仰、創造信仰のもとで、なぜ、場所にこだわるのだろうか。AI の答えを見ていると、人間の性なのかも知れないとも思う。記憶を刻む場所だろうか、そこから、主との関係性を思う。
- 詩篇 123:3,4 私たちを憐れんでください。/主よ、私たちを憐れんでください。/蔑みは飽きるほど受けました。私たちの魂は飽きるほど受けました/高ぶる者らの嘲りを/傲慢な者らの蔑みを。
- 苦しさが伝わってくるが、このことが、「見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように/女奴隷の目が女主人の手に向かうように/私たちの目は我らの神、主に向かう/主が私たちを憐れんでくださるまで。」(2)に繋がっているのだろうか。AI によると、「主人の手を見る」とは:次に何が与えられるかを待つ姿勢、生殺与奪を握られている状態、完全な依存を表しているようである。伝わってくるものがある。
- 詩篇 124:2,3 「もしも、主が我らの味方でなかったなら/人が私たちに逆らって立ち上がったとき/彼らの怒りが私たちに燃え上がり/私たちは生きたまま吞み込まれたであろう。
- 創世記1章(創造神)と出エジプト記(解放の神)は同じ伝統の中に共存しているとのことだが、やはり、こちら側と、あちら側の意識が強いようにも思う。創造神信仰との関係は複雑なのだろう。
- 詩篇 125:4,5 主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に/幸いをもたらしてください。しかし、曲がった道にそれる者らは/悪事を働く者らと共に/主が去らせてくださるように。/イスラエルの上に平和があるように。
- ひとが、心がまっすぐだったり、するのだろうか。曲がった道にそれるつもりもないかも知れない。そして、真っ直ぐなものも、そのようなときもあるだろう。いずれにしても、裁きが、平和をもたらすという祈りなのだろう。
- 詩篇 126:1 都に上る歌。/主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。
- 最後も印象的である。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)しかし、これは、何時のことを言っているのだろうか。
- 詩篇 127:3 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。/胎の実りは報い。
- 非常に印象的なことばで始まるが、子どもについての考え方は、正直よくわからない。単純には、祝福と思うが、現在は、そのように受け取らない場合の方が多いように思う。非常にさまざまな背景があるので、確かなことは言えないが、考えを整理してみたい。
- 詩篇 128:1 都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。
- ここまでは言えるように思う。アーメンと。しかし、このあとの幸いなものの姿については、あまりに、異なるイメージをもっていて、心配にもなる。主が同じであれば、それでよいのか。しかし、それを確かめるすべもあまり簡単ではない。
- 詩篇 129:2,3 「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。/しかし、私に勝つことができなかった。悪しき者らは私の背に鋤を当て/長い畝を作った。」
- この後半はなにを意味しているのだろうか。とても厳しい状況を表現しているのだろうが、実際に、「私の背に鋤を当て/長い畝を作った」はわからない。長期間にわたって搾取し続けたということだろうか。イスラエルといわれているが、それは、民のことなのだろう。
- 詩篇 130:6 私の魂はわが主を待ち望みます/夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。
- 具体的には、なにを意味しているのだろうか。שֹׁמְרִים(ショメリーム)=「見張る者たち」「守る者たち」で、城壁の上をまわることが想定されているとのことである。すべてに松明などを置き、明るくしておくことはできなかったのだろう。
- 詩篇 131:1 都に上る歌。ダビデの詩。/主よ、私の心は驕っていません。/私の目は高ぶっていません。/私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。
- 心、目が出てくるのが興味深い。こころ、目のような形で表現されるのは、ヘブル語表現の特徴なのだろうが、ある程度は、伝わるが、感覚を共有するのは難しいとも言える。態度や、ことばではないのだろう。
- 詩篇 132:3-5 「私は決してわが家の天幕に入らない。/決して寝台の床にも上らない。決して目には眠りを/まぶたにはまどろみを与えない。主のために場所を/ヤコブの力ある方のために/住まいを見つけるまでは。」
- 主の住まいを探すというのは、それほど特別なのか。どこでもよいとは考えなかったのか、それとも、特別なものを一つ作ることが最初から考えられていたのか。מִשְׁכָּן(ミシュカン)=住まい、幕屋、「神が共に住むという思想」が背後にあるらしいが、あまりよくは理解できない。なぜ、特定の場所なのか。
- 詩篇 133:1 都に上る歌。ダビデの詩。/兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。
- とても良い感じはするが、兄弟が共に住むとは何を表しているのだろうか。家族構成は。気になると、よくわからない表現である。AI によると、典型的な家族単位:ベート・アーヴ(父の家)は、祖父母・結婚した息子たち・その妻たち・孫たち・時には未婚の叔父叔母が共に住むのが基本だったとのことである。その背景や、そう単純ではない問題もたくさんあることや、もう少し広い家族・兄弟を意味していると考えることも必要なのかも知れない。
- 詩篇 134:3 主がシオンからあなたを祝福してくださるように/天と地を造られた方が。
- 主がおられる場所が、シオンに限定されていることに違和感がある。おそらく、契約の箱は、一つと考えると、それが中心になるのだろうが、そのあと、契約の箱は運び去られ、エルサレムに無いことを考えると、それでも、固執する理由はなんだろうと考えてしまう。エリヤ、エリシャなどを考えると、北イスラエルでは、シオンでの礼拝という信仰は重要視はされていない。ソロモン神殿の豪華さも、未確定。難しい。
- 詩篇 135:4 主はヤコブをご自分のために選び/イスラエルをご自分の宝とされた。
- 選民思想、宝の民という考え方は、この詩篇にもあるように、出エジプトなど、ある経験の伝承が背景にあるのだろう。しかし、親の愛と同じで、成長し、普遍化していくのが、一般的だと思われるが、イスラエルにおいて、その方向性が、捕囚などを通してある程度育まれていても、選民思想が長く保存されているのはどのような理由なのだろうか。出エジプト記13:5 「それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。」旧約聖書は、排他的優越と排他的優越との緊張の中にあるという、AI の答えは素晴らしいと思う。キリスト教の中での考え方も、このようなものがある程度の度合いでバランスをとっているのだろう。
- 詩篇 136:5 英知をもって天を造った方に。慈しみはとこしえに。
- 創造主としてほめたたえるところから初めて、歴史のなかで、イスラエルを守られた主の告白と、讃美が続いている。歴史の中で、小さな民族、苦しいところに置かれた人々、信仰者を振り返る中で、創造にまで行き着いたのだろうか。それが、信仰の核を形成するのは、やはり特殊な信仰のように見える。他の民族ではそのようなものがあっても、失われるように思われるが。
- 詩篇 137:1-4 バビロンの川のほとり/そこに座り、私たちは泣いた/シオンを思い出しながら。そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め/私たちを苦しめる者らが慰みに/「我らにシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。どうして歌うことができようか/異国の地で主のための歌を。
- この嘆きはわかる気がするが、実際はユダ王国の捕囚は指導者階級だけなのだろうか。バビロンは、ペルシャに敗れ、その首都は、スサだと思うが、捕囚になった人たちが、どのような地域にいたのかは、どの程度わかっているのだろうか。また、一般の人は、パレスチナに残ったと考えてよいのだろうか。一部は、エジプトに行ったかも知れないが。この時期の人口動態が知りたい。
- 詩篇 138:2 聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝を献げる。/あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされた。
- 詩篇は、順番などは、どのように決めたのだろうか。前の詩篇は、捕囚時代が想定され、これは、宮について書かれ、捕囚前が想定されているように見える。
- 詩篇 139:23,24 神よ、私を調べ、私の心を知ってください。/私を試し、悩みを知ってください。御覧ください/私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。/とこしえの道に私を導いてください。
- この詩篇では、主が共におられることについて様々な角度から書かれている。細かいところまで制御しておられるとは、わたしは思っていないが、すべてを支配しているように見える。同時に、主とは独立した存在でもあると言っているようだ。主の人生への関与をどう考えるかは、神観においてたいせつな部分だと思うが、当時はどのように考えられていたのだろうか。
- 詩篇 140:13 私は知っている/主が苦しむ人の訴えを取り上げ/貧しい人のために裁きを行うことを。
- この詩篇140でも、自分は正しく、悪しき者によって苦しめられているという詩篇記者において、主がその「貧しい人」のためにさばきを行うと言っている。他者の背後にも、そして、他者も願い求めるものであることには、至っていないように見える。、またここで、貧しいものとされているのは、なにを表しているのだろうか。
- 詩篇 141:2 私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように。/高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。
- 香は、神殿だけだろうか。それとも、各家庭など、個別にも焚かれたのだろうか。7節の「地で石臼が砕かれるように/彼らの骨は陰府の口にまき散らされます。」はよくわからない。これは、AI も難解な箇所と言っている。
- 詩篇 142:8 私の魂を牢獄から引き出してください。/あなたの名に感謝するために。/あなたが私に報いてくださるので/正しき人々が私の周りに集まります。
- 魂が牢獄に繋がれるとはどのようなことだろうか。自由がないということだろうか。肉体の状況とはべつに、魂だけ自由にいることはできないのだろうか。AI によると、伝統的には
サウルから逃げて洞窟に隠れていた時(例:サムエル記上 22章や24章の状況)が背景と考えられてきました。
そのため「牢獄」という言葉は、必ずしも本当の監獄とは限らず、追い詰められた状態の比喩として読むことが多いようだ。
- 詩篇 143:7,8 主よ、すぐに答えてください/私の霊は絶え果てました。/御顔を私から隠さないでください。/私は墓穴に下る者のようになってしまいます。朝に、あなたの慈しみを聞かせてください/私はあなたに信頼しています。/歩むべき道を知らせてください。/私はあなたに向かって魂を高く上げます。
- 霊と魂が出てくるが、これは、どのように考えられていたのだろうか。AI によると、ざっくり、魂・נֶפֶשׁ・私という存在・soul, life、רוּח、霊・内側の力・息・spirit 限定的だが、これも考える基盤にはなる。
- 詩篇 144:1 ダビデの詩。/わが岩、主をたたえよ。/私の手に戦いを/私の指に戦闘を教える方。
- 手と指はなにを意味しているのだろうか。我が岩といい、具体的にも、想像する岩もあったろうが、それが神のようなものとならなかったのだろうか。並行法(parallelism)で、手と指は、戦う能力すべてを表しているという。たしかに、そうかも知れない。岩山 = 避難所ということなのだろう。
- 詩篇 145:14-16 主は、倒れそうな人を皆支え/うずくまる人を皆立ち上がらせる。すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと/あなたは時に応じて食べ物をくださる。あなたは手を開き/命あるものすべての望みを満ち足らせる。
- 神を王として称えている一方、あとは、引用句のように、倒れそうなひと、うずくまる人、食べ物も十分でない人が描かれている。中産階級、または、支配階級もほとんど視野にないように見えるが、そのような世界で書かれたと考えてよいのだろうか。たとえば、捕囚時代のような。
- 詩篇 146:7-9 虐げられている人のために裁きを行い/飢えた人にパンを与える方。/主は捕らわれ人を解き放ち/主は見えない人の目を開き/主はうずくまる人を立ち上がらせ/主は正しき人を愛し/主は寄留の者を守る。/みなしごややもめは支えるが/悪しき者の道は滅びに至らせる。
- 虐げられている人、飢えた人、捕らわれ人、見えない人、うずくまる人、寄留の者、みなしごややもめに中心がある。民として、このひとたちに目を向けることがたいせつだと受け入れられたいたのだろうか。イエスは、たしかに、かなりの割合で、このような人々に寄り添っている。しかし、受け入れられない。キリスト教は、パウロなどのより、どちらかというと知識人に広がっていったことから、このような苦しむひとにたいしては、上から恵みを施す姿勢が強くなっているようにも見える。イスラエルではそれぞれの時代どうだったのだろうか。
- 詩篇 147:10 馬の勇ましさを喜ばず/人の健脚も望まない。
- 人の力に頼らず、主に頼ることが背景にあるのだろうが、神が与えられたものとも考えられる。なにのために使うかが問題なのではないだろうか。「心の砕かれた人々を癒やし/その傷を包む。」(3)この心砕かれたものは、その対極にあるようには思うが、聖書によく現れるこの表現も含めて、もっとよく理解したい。心は、感情、意志、思考の中心とのことである。
- 詩篇 148:1 ハレルヤ。/天から主を賛美せよ。/もろもろの高い所で主を賛美せよ。
- 讃美は、具体的にはなにを意味するのか。このような詩篇を唱え、歌い、踊ることはあるのだろうが、もっと内的なもの、生活を通してなど、他の面もあるはずである。讃美の全体像はどう考えられ、実践されたいたのだろうか。「ハレルヤ」(動詞 הלל (halal) )は、輝かせる、誇る、声を上げる、公に宣言する、という意味で、神の価値を明らかにすることだそうである。
- 詩篇 149:4-6 主はご自分の民を喜びとし/苦しむ人を救いによって輝かせる。忠実な人々は栄光のうちに大いに喜び/床に伏していても喜び歌う。その喉には神のほめ歌があり/手には両刃の剣がある。
- 讃美のもたらすものなのか、主が呼応し、そして、裁きへと結びついている。他者理解が未発達のようにも感じてしまう。しかし、主との呼応を期待することは理解できる。裁きは、神の公平さへの希望なのかもしれない。
- 詩篇 150:1 ハレルヤ。/主の聖所で神を賛美せよ。/主の力の溢れる大空で神を賛美せよ。
- 主の力の溢れる大空は、具体的には何を表現しているのだろうか。天が主がおられるところだということに基づいているのだろうか。詩篇はここで終わるが、AI を使った学びは、とても学ぶことが多かったように思う。便宜上一つの Chat にしたが、わたしのコンピュータでは反応がおそくなり、すこし大変だった。
AI による応答:ChatGPT(詩篇68篇以降)
箴言 聖書通読ノート
BRC2025(2026.3.21-4.5-1)
- 箴言 1:1,2 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。
- 知恵(ホクマー(חָכְמָה))とはどのようなものなのだろうか。AI によると、「うまく生きる」ことではなく、「神に沿って正しく生きる」こととあるが、生きることと直接関係したものなのだろう。しかし、なぜ、そのようなものとして深められていったのだろうか。
- 箴言 2:4,5 銀を求めるようにそれを尋ね/隠された宝を求めるようにそれを探すなら/その時、あなたは主を畏れることを見極め/神の知識を見いだすだろう。
- 知恵はどのように求めるかが書かれ、求め方によって与えられたり与えられなかったりがあるようだが、どのようなことが大切なのだろうか。そして知恵が得られない原因は。「知恵は、心からそれを恋い慕い、犠牲を払ってでも手に入れようとする者に、神が報酬として与えてくださるもの」とのことである。
- 箴言 3:5,6 心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。どのような道を歩むときにも主を知れ。/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
- 「子よ、私の教えを忘れず/私の戒めを心に保て。」(1)の内容は、引用句なのだろうが、ここまではっきりと私には言えない。ひとつ感じるのは、近年はあまりに変化が大きく、過去の経験からの知恵が生かされないことのようにも思う。天変地異もあるが、科学技術特に、AI などによる社会変化は、あまりに大きく、少し先の時代についても、予測できない。そのようなときでも、わたしは、主に信頼し、自分の分別に頼らないように歩みたいとは思うが、それを、他者に勧めるところまではできないというのが正直な気持ちである。
- 箴言 4:10,11 子よ、聞け、私の言葉を受け入れよ。/それはあなたの命の歳月を増す。私はあなたに知恵の道を教え/まっすぐな道のりを示した。
- わたしには、このようには言えない。子供達にたいしても、おしえていたころの学生たちに対しても、一般的に若い人たちにも。変化が激しいこともあるだろうが、自分もつねに、探究者で、わからないことに囲まれ、ほんのすこしヒントがえられても、それは、ごくごく小さなもので、それから広がるわからないことの世界の方が遥かに広い、すなわち、自分が到達している地点は、非常に限られていると思うからでもある。そして、ひとは、同じ道を歩むわけではなく、ひとりひとり異なり多様である。そう考えると、自身をもって教えられるものはないと思ってしまうのだが。どうだろうか。
- 箴言5:21 人の道は主の目の正面にある。/主はその道のりのすべてに気を配っておられる。
- 口語訳では「人の道は主の目の前にあり、/主はすべて、その行いを見守られる。」となっている。正面という訳には驚かされた。この章では、父親が息子に悪い女に気をつけろという種類のことをかたっている。母親が、娘に語ることばなどは、残されていないのか。箴言の最後に少し入っているだけだろうか。女性は、学ぶ機会もなかったのだろうか。記録がないのは、寂しい。
- 箴言6:29 友の妻と通じる者も同様。/彼女に触れる者は誰も罰を免れることはない。
- これはすでに姦淫ではないのか。ここでは、罰を免れないとなっている。この章でも、男性が子供に諭す形式になっており、女性が教え聞くことは登場しない。ヨハネ八章などでも、姦通罪で女が裁かれることが登場し、男性は登場しない。女性に厳しかった印象をうける。十分教育の中心におかないで、罰だけ与えるのはあまりに、不公平ではないのか。
- 箴言7:4 知恵に「わが姉妹」と言い/分別に「わが親族」と呼びかけよ。
- 「姉妹」とか「親族」とはどのような存在で、どのような意味でここで使われているのだろうか。この章でも、悪い女性に騙されるなということが基調である。基本的に、男性のそして人間の弱さが背後にあるわけだが、弱さについて理解するというより、強くあらねばならぬという教えのように見える。この方法で成功するのは、自分のこころの中は見ない自惚屋か、ごくごく一部の異常な感覚の持ち主のように感じる。一般的には、自分はこのようには生きられないという、神の前に正しくはいられないと感じるだけではないだろうか。キリスト教ではここで罪の赦しを説くが、イエスの教えは、すこし違うように思う。よりそうものがなければ、生きられないようにおもうが。どうだろうか。
- 箴言8:13 主を畏れることは悪を憎むこと。/高ぶり、高慢、悪の道/そして偽りを語る口を、私は憎む。
- 悪を憎むとされ、悪人を憎むとされていないことは多少救いだが、これでは行き着けるところは「私を愛する人を私も愛し/私を探し求める人を私も見いだす。」(17)となるのは、自然に思われる。悪をなす人がいれば、自分に見えていないことがあることを知り、その背後に主がどのように働き、そのひとを導いておられるかを見ようとしなければ、御心はわからないのではないだろうか。まずは、自分が見、理解できることは非常に限られていることをみとめて「あなたのことをおしえてください」との態度で「あなたの背後におられる神様を見えるようにしてください」との祈りをもってだろうか。
- 箴言9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別。
- 主を畏れるとはどのようなことなのだろう。聖なる方を知るとはどのようなことを言っているのだろうか。主も、多様なひとりひとりにとって、なにがたいせつなのかも、ご存知ないのではないかと思う。それほど、簡単なことではない。神様も悩んでおられるほど、難しいことなのではないだろうか。一人一人を愛し、幸せを願っておられると思うが、それがどのような道なのかは、それぞれの人生をあゆむ一人一人を考えると、苦しんでおられるように思う。どうなのだろうか。
- 箴言10:6 正しき者の頭には祝福があり/悪しき者の口は暴虐を隠し持つ。
- この章で使われているものは、対比しながらあることを明確に示す文学的表現なのだろうが、単純化しすぎのように見える。これらのことばで考えさせるのは難しいように思える。同時に人は、これを読んで、何を学ぶのだろうかと思う。おそらく、これらから学ぶこともあるのだろうが。
- 箴言11:27 善を探し求める人は主が喜びとすることを尋ね/悪を求める者には悪が訪れる。
- 探究者を主が喜ばれるということは、その通りではないかと思う。つまり、正しいところにいるとは受け入れておらず、求め続けることを意味しているのだから。悪を求めることがどのような形であるのかは不明だが、的をはずしていることの表現なのかもしれない。対して「悪は確かに罰を免れることはないが/正しき者の子孫はそれから逃れる。」(21)のようなことは、苦しんでいるひとにとって、助けにはならないように思われる。単純な表現は危険に思う。
- 箴言12:1 諭しを愛する人は知識を愛する。/懲らしめを憎む者は愚かしい。
- ものごとには多面性があり、あることを神からきた懲らしめとみるか、なにかを教えようとしているのか、原因となるものを、ひとつひとつ峻別することの難しさなど、複雑な世界に生きていることが基本であると思う。単純化は、他の面を見落とし、結局、謙虚さを装いつつ、なにも学ばないことにもなりうる。引用句のように表現することを、否定はしないが、それを読んで、理解した気になることは、非常に危険なのだろう。背景は複雑に絡み合っており、善悪はそれほど簡単に見極められるものではない。
- 箴言13:8 富を自分の命の身代金とする者がいるが/貧しい者は脅迫を聞くこともない。
- この章は一般的教訓が多いように思われる。箴言全体の枠組みはどうなっているのだろうか。他にも「貧しい人の耕作地で多くの食物が実っても/公正が行われないところでは奪われてしまう。」(23)など悲しい現実を表現したものもあるが、それにどう対応するかは、書かれていない。引用句(8節)は、現実を表現しているとも見えるが、結局、富をもっていると、身代金で自分の命を計っている愚かさや、結局は命は贖えないこともあることも指摘しているようにみえるし、何も持っていなければ、どうすることもできない面もある一方、強さも感じさせる。
- 箴言14:10 心は自分自身の苦しみを知っている。/その喜びに他人はあずかれない。
- 「こころ」となっているが、いずれにしても、苦しみや悲しみ、そして痛みは基本的には、そのひとにしかわからないのだろう。しかし、他者には、喜びだけでなく、痛みや、悲しみ、そして苦しみは、理解できない。しかし、そのひとの行動から、その他者をさばいしていまったりする。その背後に、主がおられることを知ることが、おそらく、信仰なのだろうが、現代では、その主を畏れることが衰退しているようにもみえる。さまざまな進歩の中で、わからない、見えないという意識が衰退していることが背後にあるのかも知れない。「友を侮る者は罪人。/苦しむ者を憐れむ人は幸い。」(21)とあるが、現代では、自己責任論の方向性が強くなっているようにも感じる。社会としても、どのようにしていったらよいのだろうか。
- 箴言15:9 主は悪しき者の道をいとい/正義を追い求める人を愛される。
- 悪しき者の道であって、悪しき者ではないのだろうが、愛されるのは、正義を求める人とあり、対称性は崩れている。この微妙な違いも気になる。悪しきものにたいして、主はどのような計画を持っておられるのだろうか。
- 箴言16:7 人の歩みが主の喜びのうちにあるとき/主はその人を敵とも和解させる。
- 和解は、他者との間でなされるもので、相手も、同意しないと不可能である。この句は、なにを言っているのだろうか。美しいが、背後にあるものを知りたい。似た箇所もほかにあるだろうか。
- 箴言17:1 一切れの乾いたパンしかなくとも平穏であるのは/いけにえの肉で家を満たして争うことにまさる。
- 雰囲気は理解できるが、後半のいけにえの肉が家を満たすことがどのようなことを表しているのかは、あまり理解できない。いけにえの肉が家の中にあることは、どの時代に、どのようにあったのだろうか。「愚かな子は父の悩み/産んだ母の苦しみ。」(25)こちらは難しい。悩み、苦しみというと、逆にその問題を外部化している感じをうける。愚かな子ではなく、子の愚かさは自らの悩み、苦しみなのではないだろうか。
- 箴言18:18 くじはいさかいを鎮め/手ごわい者どうしを引き分けさせる。
- 具体的には、どのようなくじが、どのように、使われていたのだろうか。記録などは、残っているのだろうか。不満はのこらないのだろうか。くじにすることを決める段階では、争いが生じるように思うが。
- 箴言19:23 主を畏れれば命に向かう。/満ち足りて眠りに就き/災いに襲われることはない。
- 主を畏れるとは、どのようなことを言っているのだろうか。この章のいくつかのことがそれを表しているようにも見える。たとえば、「人の心にはたくさんの企て。/主の計らいだけが実現する。」(21)このように告白できることは、主を畏れることのようにも思う。しかし、引用句にあるように、「満ち足りて眠りに就き、災いに襲われることはない」は、どうなのだろうか。そのようなことが目的化していたら、それは、すでに、主を畏れることではないように思う。主を畏れるの中身は何なのだろうか。
- 箴言20:11 若者であっても自分の行動を省みる/その行いが清いか、まっすぐか、と。
- 「清いか、まっすぐか」は確定できるものなのだろうか。それほど単純ではないし、主のみこころも、確定できない。人のこころは、清いといったとたんに、清くはない、清くないと言ったところで、どのような意味で清くないのかも、判断できないことが多い。物事に両面あることもある。若者であってもとあるので、自分の高度を省みることは当然ということを言っているだけと理解するのが良いのかも知れない。それが、次の「聞く耳、そして見る目/主がこの両方を造られた。」(12)に続いているのかも知れない。
- 箴言21:30,31 知恵も、英知も、謀も/主の前には無に等しい。人は戦いの日のために馬を備える。/しかし勝利は主による。
- それなりに引用句に本質が詰まっているように思われる。「主の前には」とあるが、主ももしかすると、判断できないこともあるのかもしれない。もし、多様なひとびとが、平和に互いに愛し合う世界に向かおうとするなら。そのなかでも、人は、どうにかしようと、馬を備えることはするのだろう。馬に頼ってはならないが、やはり、ひとの達し得る所にしたがって、謙虚さを失わず、その「知恵」を用いて生きていくことしかできないのだから。主との直接てきな交わりの中に生きてはいないことも、もしかすると重要な意味があるのかも知れない。
- 箴言22:2 富める者と貧しい人が行き会う/どちらも造ったのは主。
- 興味深い。「富める者は貧しい者を支配し/借りる者は貸す者の奴隷となる。」(7)としつつ富める者と貧しい人はどちらも主が造られたとする。ひとの浅薄な考えで、貧富の差をなくすことに邁進するのは、おそらく、間違い、見えていない部分があるのだろう。同時に、「弱い人からかすめ取るな、その人は弱いのだから。/苦しむ人を町の門で踏みにじってはならない。主が苦しむ人のために争い/その命を奪う者の命を奪うからだ。」(22,23)と説く。このあたりに、箴言の知恵も現れているのだろう。現代では、公的な働きで、貧富の差を減らそうとする。その営みは素晴らしいと思うが、どうじに、それが、主を畏れることから離れることに繋がっているようにも見える。難しい。
- 箴言23:17,18 心で罪人を妬むことなどせず/日夜、主を畏れよ。そうすれば、未来もあり/希望が絶たれることもない。
- そのとおりだと思う。しかし、現代は複雑化し、知識も増え、問題解決方法も多岐にわたる。そのなかで、「知恵」を駆使しているうちに、主を畏れること、人間にできることは限られているという現実からこころが離れてしまうのだろう。直近の未来に希望を置く方法を駆使する間に、結局、未来が混沌とし、希望が絶たれてしまうのではと危惧する。これも、難しい。
- 箴言24:33,34 「しばらく眠り、しばらくまどろみ/しばらく腕を組み、また横になる。すると、貧しさと乏しさは/盾を持つ者のようにやって来る」と。
- 「外で仕事にいそしみ、畑を整えよ。/そうすれば、あなたは家を建てることができる。」(27)ともある。現代は、働きに働く世界のように見える。かえってそのなかで、本来の生きる目標、希望が見えなくなり、神を畏れなくなっているようにも見える。もしかすると、それが、実際には、「しばらく眠り、しばらくまどろみ/しばらく腕を組み、また横になる。」の状況なのかも知れない。逆説的だが。
- 箴言25:7,8 「上座に着け」と言われることは/高貴な人の前で席を下げられることにまさる。/あなたがその目で見たことを/性急に争いの場に持ち出すな。/後に友人に辱められ/あなたが何か事を起こさないために。
- どの程度の知恵について語っているのかは不明だが、軽薄さを咎め、様々な視点があるなかで、見た目による判断だけに頼るなということは言っているのだろう。レベルということばは適切ではないが、やはり人間の知恵で、どこまで深いものかは不明である。
- 箴言26:12,16 自分に知恵があると思い込む者を見たか/それよりも愚かな者のほうに希望がある。怠け者は聡明な答えを出す七人にもまさって/自分を知恵ある者だと思い込む。
- 知恵があると思い込む者、怠け者について書かれているが、疑問も生じる。それは、ひとはみな平等な資質をもち生まれ、平等な環境のもとで生きてきているのだろうかという問いである。ここでの非難は、このことを前提としているように見える。たしかに、知恵を求めることは、たいせつなのだろうが、そう簡単ではない状況もある。そのひとたちを見下すことではなく、たとえ、なすことは愚かでも、無知に因っていても、神様が隣人として置かれたものとしてどのように生きていくかを考えるべきことなのではないだろうか。箴言の限界のようにも感じる。これも間違っており、ここで非難されていることが当たっているのかも知れないが。
- 箴言27:1-3 明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。自分の口で褒めるのではなく、他人に褒めてもらえ。/自分の唇で褒めるのではなく/異国人に褒めてもらえ。石は重く、砂も重しとなる。/無知な者の悩みはこれらのものよりもなお重い。
- 基本は、自分の判断に頼ってはいけない。わからないことが多いのだからと言っているように思われる。他者の評価は、自分が思っていることとかなり異なることが多い。その人はよくわかっていないと思うこともあるが、様々な人の評価を聞けば、自分がどれほど自分のことすらわかっていないことがわかるのだろう。そして、人が評価するのも、ほんの一部である。そう考えると、最後の、無知なものの悩みは、書かれた意図とはもしかすると異なるが、一人ひとりの本質的な悩みを表現しているのかも知れない。みな、無知なのだから。15節には「いさかい好きな妻」のことが出てくるが、妻を理解することも、適切に評価することも、おそらく、そう簡単ではないはずである。
- 箴言28:21 人を偏り見ることは良くない。/勇者も一切れのパンのことで罪を犯すことがある。
- ひとの本質的弱さをよく表現していると思う。勇者も、勇者に憧れるものにも、同様に謙虚さを教える。この章にも貧しさや貧しいひとにどうするかなどが何箇所か現れる。背景には共通のことがあるのかもしれない。同時に、ユダヤ人の社会は、この箴言を受け取り、日常生活を送ることがどの程度なされていたのか興味を持つ。他の社会との比較は、適切ではないかも知れないが、特殊ではあっても、尊敬され続けたのかどうか疑問もある。それを調べるのは難しいだろうが。
- 箴言29:13 貧しい人と虐げる者とが行き会うとき/主はどちらの目にも光を与える。
- この章にはたんなるこの世の知恵のようなものが多く感じられた。引用箇所について考えてみた。興味深い。どうなるのかは具体的ではなく、ただ、光を与えられるとなっている。それぞれが学ぶことはあるのだろう。出会ったあとで、この両者に交流が起こればよいのだが、そこには、言及していない。人生は変わるかも知れないが、共に生きるようになるのは、難しいということなのだろうか。
- 箴言30:2,3 私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない。知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない。
- 構造が難しい。今読んでいる訳では、6節と7節の間が区切られている。「その人は言う」とあり、その人のことばが続くようだが、引用句は、無知の謙虚さを表しているとも、たんなる嘆きとも言える。しかし、4節、5節をどう理解するかは難しい。箴言全体の中で、30-31章はどのような位置づけなのだろうか。
- 箴言31:1 レムエル王の言葉。/これは母が彼に与えた諭し。
- これまで読む時は、文字通り受け取っていたが、今回は、どうも、これは、母が彼に与えた諭しではなく、レムエルが母から受け取った諭しなのではないかと思うようになった。女性視点が無いからである。それが現れるのは、他者に理解しにくい、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びである。これらについても、男性視点であり、女性のこのようなものが背後に感じられないように思う。箴言のこれが最後の章だが、AI のお陰もあり、いろいろと考えられたが、主を畏れることの深さとともに、箴言の限界をも学んだように思う。
AI による応答:ChatGPT・Gemini
コヘレトの言葉 聖書通読ノート
BRC2025(2026.4.5-2-4.11-1)
- コヘレト 1:2 コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。
- コヘレトの言葉に特徴的なことばから始まる。そして、なぜ空の空なのかが、様々な視点から語られている。単純には、まとめられないが、引用句に続く「太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。」(3)が中心にあるように見える。ひとの存在、営みになにか益、意味があるのかということだろう。自分にとって、そして、後代のひとにとってだろうか。このように言い切っていることで、他者に問いを与えることで、逆説的に、意味や価値が与えられていることも確かで、かえって、これを読んで、空の空という感覚が強められる人は少ないのではないかと思う。興味深いことである。AI も活用して、基本的なことから少しずつ学んでいきたい。
- コヘレト 2:11 だが、私は顧みた/すべての手の業と労苦を。/見よ、すべては空であり/風を追うようなことであった。/太陽の下に益となるものはない。
- 快楽、富、事業、知恵など、すべて虚しいことが書かれている。しかし、なぜ虚しいか、その理由はあまり書かれていない。18節以降を見ると、いずれは死んでいくことがその理由であるようだ。そしてこの章の最後には、「食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。/これ以外に人に幸せはない。/それもまた、神の手から与えられるものと分かった。」(24)とある。個人の中にとどまる価値を求めている所に課題があるようだ。だから、最後に御心に目を向けるのだろう。しかし、私はと問うと、まずは、他者との関係、時代の中でのひととの関係性についても、考える。コヘレトのことばの次を少しずつ学んでいこう。
- コヘレト 3:11 神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。
- 様々な時について語り、引用句に至る。限界のある人間から見たときの認識なのだろう。それが、「私は知った。/神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく/加えることも除くこともできない。/こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。」(14)とも表現されている。しかし、現代は、なかなかここには向かわない。人間にできることが、まだまだあると思い、そこに人生をかけている間に、違った視点から見ることができなくなっているからだろうか。箴言のときにも考えたが、やはり、わからないことに囲まれていることが、畏れにつながっていたと思われるときと、現代の違いだろうか。実際には、現代においても、ほとんど理解できていないにもかかわらず。
- コヘレト 4:1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。/見よ、虐げられる者の涙を。/彼らには慰める者がいなかった。/また、彼らを虐げる者の手には力があった。/彼らには慰める者がいなかった。
- 虐げられるひとには、望みが無いように見える。このあとに、「一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。」(9)ともあるが、やはり、虐げられるものの苦しさは、あまり和らがないように見える。世界を見ても、力があるものが、虐げることは、変わらない。その中で、神に求めてしまうが、やはり理不尽さは解消しないように見える。現代でも改善していないように見える。ひとが協力して、この状態を変えていくことは可能なように見えるのだが。主はなにを求め願っておられるのだろうか。
- コヘレト 5:17,18 見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。神は、富や宝を与えたすべての人に、そこから食べ、その受ける分を手にし、その労苦を楽しむよう力を与える。これこそが神の賜物である。
- 「唯、足ることを知る」のようにも見えるが、それよりは、積極的な希望もあるように見える。神の賜物と言い切る、わからないことの中に、恵みを感じることなのだろうか。「夢が多ければ、ますます空しくなり/言葉も多くなる。/神を畏れよ。」(6)ここでいうところの、神を畏れることが鍵なのだろうが、箴言を読んでいても、必ずしも、納得できなかったことでもあった。コヘレトではなにを伝えているのだろうか。
- コヘレト 6:12 空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。
- 富・宝・栄誉を求めたり、たくさんの子どもをえることなどの虚しさが書かれている。9節はそのときを楽しむ享楽について言っているようにも見える、さらに、10節の自分より強いものは、主を意味するのか不明である。最後に引用句があり、ここにこの章の中心があるのだろう。求めるなにかが二次的なもの、幸せ自体ではなく、幸せの必要条件としてあるものを求めている愚かさを語っているようにも見える。互いの関係やともに喜ぶことなど、積み上げるものではないものに目を向けたいとは思うが、この章で語られていることが十分理解できているわけではない。
- コヘレト 7:29 ただし、見よ、これを私は見いだした。/神は人間をまっすぐに造ったのに/人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。
- この章は難しい。神の前では、人ができることは非常に限られていることも背景にあるようだ。それでも、引用句のように、ひとはあがく。しかし、それは肯定しても良いように思う。その姿は愛らしく、人間らしいことでもあり、かつ尊重することでもあるように思う。虚しさとみることはできるが、そうでもないようにも見えるし、主がどう見られるかは、また別のことでもあると思う。この章は難しい。神の前では、人ができることは非常に限られていることも背景にあるようだ。それでも、引用句のように、ひとはあがく。しかし、それは肯定しても良いように思う。その姿は愛らしく、人間らしいことでもあり、かつ尊重することでもあるように思う。虚しさとみることはできるが、そうでもないようにも見えるし、主がどう見られるかは、また別のことでもあると思う。
- コヘレト 8:1 誰が知恵ある者でありえよう。/誰が言葉の解釈を知りえよう。/知恵はその人の顔を輝かせ/その顔の険しさを和らげる。
- 興味深い章である。その最初の節を引用したが、知恵は良いものであることを肯定しながら、知恵ある者であることはできないことを宣言している。このあとも、王の存在、時と法、息のことなどを述べある種の理不尽さが支配する世界について語っている。神を畏れることは肯定するが、地上でのことは空なることがあることを否定しない。最後は、人間の限界について述べて終わっている。この考察は、わたしの現在の立ち位置と近い。もう少し深めたい気持ちはあるが。コヘレトの言葉の後半を丁寧に味わいたい。
- コヘレト 9:16 そこで、私は言った。/知恵は武力にまさるが/貧しい男の知恵は侮られ/その言葉は聞かれることがない。
- この章では、ひとは、神の手の内にあることを述べてから「確かに、すべて生きる者として選ばれていれば/誰にも希望がある。/生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。」(4)と生へと目を向ける。しかし、単純な生の肯定ではない。最後の一つの例が挙げられ、引用句で結ばれている。単純な結論に向かわないようにとの意図からか、貧しい男の知恵は覚えられないことを、聞かれないとしている。記憶に留められないことが、聞かれないとするところは、用語を理解しないといけないのかも知れないが。もう少し深く掘り進んで語られてもよい章のように思う。
- コヘレト 10:4,5 支配者があなたに憤っても/自分の場所を離れてはならない。/冷静になれば、大きな罪には問われない。太陽の下に不幸があるのを私は見た。/それは権力ある者が引き起こす過ちで
- 4節の内容は明確ではないが、ある程度想像はつく。しかし、続く5節を合わせると理不尽さが世の中にあることを否定はしていないようだ。愚かさと知恵の対比がこの章には何回も登場するが、知恵の教育は旧約聖書の時代(イスラエルではでもよいが)どのようになされていたのだろうか。地位の低い人、貧しい人も、女性も学ぶことができたのだろうか。公的な取り組みがあったのだろうか。それなしに批判するのは、残酷でもある。むろん、なにを大切にして教えるかは難しい問題だが。
- コヘレト 11:1,2 あなたのパンを水面に投げよ。/月日が過ぎれば、それを見いだすからである。あなたの受ける分を七つか八つに分けよ。/地にどのような災いが起こるか/あなたは知らないからである。
- 人間には知り得ないことが、多くあり、もしかすると殆どという中で、いろいろとやってみることの意味が書かれているのだろう。ひとは、因果関係などの論理推論はするが、確率統計的な思考は苦手であるように思う。その意味でも、引用句は、特別なことと響くのかも知れない。神はどうなのだろうか。こまごまとすべてを制御しておられるのか、ある程度、自然にまかせているのかは、神学的にも難題なのだろうが、ここでは、背後の神様の働きについては述べられていないように見える。
- コヘレト 12:1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。/災いの日々がやって来て/「私には喜びがない」と言うよわいに/近づかないうちに。
- 印象的な言葉である。このあと、身体的な衰弱と死についての表現の隠喩た続く。そして最初の「空の空、とコヘレトは言う。/一切は空である。」(8)に戻り、コヘレトが求めてきたことを記し「知恵ある者の言葉は/突き棒や打ち込まれた釘に似ている。/集められた言葉は一人の牧者から与えられた。」(11)とも言っている。11節の位置付けは明確ではないが、何かをすれば知恵が得られるわけではなく、さまざまな形で与えらるということか。そして最後は「神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。」(13)で結ばれている。このことばをどのように生きるかが鍵なのだろう。引用句にもどり、一生をかけて、求め続ける歩みなのかもしれない。
AI による応答:ChatGPT・Gemini
雅歌 聖書通読ノート
BRC2025(2026.4.11-2-4.15-1)
- 雅歌 1:4 私を引き寄せ/あなたの後ろから付いて行かせてください。/さあ、急ぎましょう。/王はその部屋に私を連れて行ってくれました。/楽しみましょう/あなたのもとで喜びましょう。/あなたの愛をぶどう酒よりもたたえましょう。/彼女たちはあなたをひたすらに愛します。
- 劇のスクリプトのようになっているのだろうが、明確に、誰のことばなのか、書かれていないので、判断が難しい場所が多い。引用句もそのひとつである。しかし、愛を語り合うことは人間にとってとてもたいせつな部分のひとつ。「恋人よ、あなたは美しい。/あなたは美しい、あなたの目は鳩。愛する人よ、あなたは美しく、麗しい。/私たちの寝床は緑の茂み。私たちの家の梁はレバノン杉。/その垂木は糸杉。」(15-17)なにを象徴してるかなど、あまり、解釈を入れずに、表現を鑑賞するのも良いのかもしれない。
- 雅歌 2:7 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。
- この句は、若者のことばなのだろうか。いずれにしても、「愛する人」「恋人」以外に、引用句を含め、愛について何箇所か語られている(4,5節)。ここで言われている愛はどのようなものなのだろうか。愛には何種類かあるのだろうか。それとも、みなつながっており、一つと考えて良いのだろうか。少なくとも、雅歌では、どのように愛を描いているのだろうか。それをまずは、整理しておきたい。また、聖書にはよく登場する、いちぢくとぶどう以外に、ここではりんごが登場する。りんごは、イスラエルやパレスチナでは、どのような存在なのだろうか。
- 雅歌 3:7 御覧なさい、ソロモンの輿を。/イスラエルの勇士/えり抜きの六十人が周りを囲んでいます。
- この章には何回かソロモンが登場する。ソロモンは、雅歌ではどのような存在なのだろうか。恋しい若者がソロモンとは限らないようであるし、そう考えた方が一般的で雅歌自体が興味深いしかし、一定の役割は持っている。「エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(5)またこの言葉が登場するが、「ガゼルや野の雌鹿にかけて」は何を意味するのか気になった。
- 雅歌4:9,10 私の妹、花嫁よ/あなたは私の心をときめかせる。/あなたの一瞬のまなざしも/首飾りの玉の一つも私の心をときめかせる。私の妹、花嫁よ/あなたの愛はなんと美しいことか。/あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく/あなたの香油は/どのような香料よりもかぐわしい。
- 実際の妹なのかどうか不明だが、ここで表現されている愛はどのようなものなのか気になった。恋心と似ているが、違うのだろうか。「あなたの首は/武器庫として建てられたダビデの塔のよう。/千の盾がそこに掛けられている。/それらは皆、勇士たちの小盾。」(4)首は長く、そこに首輪などの装具が付けられているのが美しいとされたのだろうか。
- 雅歌5:7 町を巡る夜警たちが私を見つけました。/彼らは私を打ち、傷を負わせました。/私からかぶり物を剝ぎ取ったのは/城壁の見張りたちでした。
- この前の節「私は愛する人に扉を開きました。/けれども、愛する人は背を向けて/去ってしまった後でした。/あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。/私は捜し求めましたが/あの方は見つかりません。/私は呼び求めましたが/あの方は答えてはくれません。」(6)と関係しているのか独立なのか、何を意味しているのか理解できない。人の関係が不明である。
- 雅歌 6:8,9 王妃は六十人、側女が八十人/若い娘は数えきれない。私の鳩、私の汚れなき人はただ一人。/彼女は母の一人娘。/彼女を産んだ母にとって輝いている娘。/娘たちは彼女を見て、幸せな人だと言い/王妃も側女も彼女をほめたたえる。
- 厳密な解釈は難しいと思うが、別訳もあるという最後の「知らぬ間に、私の魂が/私をアミナディブの車に乗せていました。」(12)とともに、どう理解したら良いのか不明である。引用句は、ソロモンの王宮を表現しているのだろうが、結びはおそらく、解釈が難しいのだろう。
- 雅歌 7:11,12 私は愛する人のもの。/あの方は私を求めています。私の愛する人よ/さあ、野原に出かけましょう。/ヘンナの中で夜を過ごしましょう。
- ジェンダーに関する課題を感じる。やはり、男性社会が映し出されているのだろう。全体としても、文化的背景を知らないと理解できない表現が多いように思う。言葉として知らなかったのはヘンナ、これは何を意味するのだろうか。
- 雅歌 8:6,7 印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。/愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。/愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。/洪水もそれを押し流すことはありません。/愛を手に入れるために、家の財産をすべて/差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。
- 最後の有名なところに達した。母のことや、身ごもったところなどが書かれているのは、背後に性的関係も表現しているように思われる。このあとには、わたしたちの妹という言葉も登場し、おとめの周辺のおとめたちがどのような人たちを表現しているのか、明確には、わからない。聖書に含まれているので、雅歌からインスピレーションをうけて劇などに作り上げるこころみもあったのだと思うがなにかよく知られているものはあるのだろうか。
AI による応答:ChatGPT・Gemini
イザヤ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.4.15-2-5.18-1)
- イザヤ 1:8 そして、娘シオンが残った。/ぶどう畑の仮小屋のように/きゅうり畑の見張り小屋のように/包囲された町として。
- 「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤがユダの王であった時代のことである。」(1)とある。この一章がどの王の時代だか気になるが、アッシリアによって、北イスラエル王国とよばれている国が滅ぼされた、ヒゼキヤの時代にこの一章は書かれているように思う。イスラエルの罪について語られていることからも、北イスラエル王国と南ユダ王国という区分ではなく、一体のものが想定されているように見える。この章の後半にはシオンが贖われることが書かれているが、まずは、イスラエル全体が危機に直面し、エルサレム周辺だけが残されている時代と考えたほうがよいように思う。イザヤ書の全体的な構成は後回しにするとして、基本的に、北イスラエル王国の地域(またはイスラエル全域)で、エリヤ、エリシャ[AIに聞く時には、間違って エレミヤと書いてしまった] などが活躍した時代から、イザヤのようなエルサレムにいる預言者へと移っていったことを見ても、上に書いた、北イスラエル、南ユダとして理解するのは、適切ではないように思われる。ヒゼキヤ、ヨシヤ改革ともいわれる宗教的な再構成のなかで、史観の修正もあったのではないかとも思われる。少しずつ読んでいきたい。
- イザヤ 2:3,4 多くの民は来て言う。/「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。/主はその道を私たちに示してくださる。/私たちはその道を歩もう」と。/教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出るからだ。主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。
- エルサレム、シオンに望みがおかれ、主が高く挙げられることは言っているが、ヤコブ、イスラエルが高く上げられるより、普遍的なことが語られている。そして、最後を見ても、それが感じられる。「主が立ち上がり、地を脅かすとき/人間は岩の洞窟と岩山の裂け目に入る。/主の恐怖から、その威厳ある輝きから/逃れるために。人間に頼ることはやめよ/鼻で息をするだけの者に。/人に何の値打ちがあるのか。」(21,22)ヤコブが打ち破られ、かつ、勝利者が正しいわけではないというなかで、どのようにして、このような普遍性を宣言するところに行き着いたのだろうか。イスラエルには、アッシリアに滅ぼされる前から、このような伝統があったのだろうか。引用句の後半は有名な部分だが、圧倒的な武力を前にして、普遍性を求めると、このような告白になるのだろうか。現代においても、武力を持つものがこのように告白するのは難しいように見える。
- イザヤ 3:1 見よ、万軍の主なる神は、エルサレムとユダから/頼りとなり、支えとなるもの/頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。
- 三章を通して、混乱した状態、カオスとも言える状態が描かれている。7節なども、人間は癒し手になれないことが宣言される。その中で、主が立ち上がられることが書かれている。しかし、その主との対話のなかでも、結局は、無力さを表す独白のように見える。主がおられることは否定しないが、主の働きは見えないということなのだろう。おそらく、それは、時代を超えた、われわれへの問いかけでもあるように見える。そのなかで、我々は、そして、イスラエルの人たちは、どう生きたら良いのだろうか。
- イザヤ 4:4-6 主は、シオンの娘たちの汚れを洗い、裁きの霊と焼き尽くす霊によって、エルサレムの血をその内側から清める。主は、シオンの山の全域と、そこで行われる集会の上に、昼は雲を、夜は煙と燃える火の輝きを造る。それはまさにすべてを覆う栄光の天蓋、また仮庵となる。それは昼の暑さの陰となり、嵐と雨からの逃れ場、また隠れ家となる。
- この章には3節に「残ったもの」「残されたもの」というおそらく、イザヤ書で核となるモチーフが現れるがこの章では限定的。引用句は、状況が十分は理解できないので、書いてみた。娘たちの汚れがまず書かれてあり、そして、エルサレムの血、多少想像はできないことはないが、よくはわからない。そのあとは、イスラエルの天候を理解していないと、わからない表現なのかもしれない。
- イザヤ 5:15,16 人間は腰をかがめ、人は低くされる。/高慢な者の目は低くされる。しかし、万軍の主は公正によって高くされ/聖なる神は正義によって/自らが聖なる者であることを示す。
- この章の最初のぶどう畑のたとえを読むと、主との(ある自由意志に基づいた)関係性(愛とまではまだ言えないが)のために、ある自由度を人間に与えたことが、問題の核のようにも見える。しかし、ここでは、なぜそうなったかについては語られていない。主なら、結果を予想できただろうにという反論もこの時点ではできるが、おそらく、それは短絡すぎるのだろう。引用句では、人間と万軍の主のことが対照的に表現されている。また、この章の最後は、暗示的なしかし、まだ明確ではない、かつ示唆に富むことばで終わっている。「その日には、主は彼らに対して/海鳴りのようにうなり声を上げる。/主が地に目を注がれると/見よ、闇と苦悩ばかりだ。/光は雲に閉ざされ、闇となる。」(30)結論をいそがず、丁寧に読んでいくのが良いのだろう。
- イザヤ 6:9,10 主は言われた。/「行って、この民に語りなさい。/『よく聞け、しかし、悟ってはならない。/よく見よ、しかし、理解してはならない』と。この民の心を鈍くし/耳を遠くし、目を閉ざしなさい。/目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず/立ち帰って癒やされることのないように。」
- この章は「ウジヤ王が死んだ年」と限定されており、おそらく、召命を語る箇所なのだろう。しかし、もしかすると、振り返って、全体をまとめているのかもしれない。ここに、本質的なことがすべてまとまっているように見える。自分が汚れた唇の者で汚れた唇のものたちの中にそのようなものであることを告白し、それでも、召されれば、それに応答するイザヤの姿勢が描かれる。そして、引用句から、主の主たるメッセージが始まる。内容は難しいが、イザヤ書でも有名な箇所だろう。そして、イザヤの問いに、十分の一が残ることまでふくめて荒れ廃れることが伝えられている。細かい内容は、これから語られるのだろう。少しずつ読んでいきたい。
- イザヤ 7:1,2 ウジヤの子ヨタムの子アハズがユダの王であった時代に、アラムの王レツィンと、イスラエルの王であるレマルヤの子ペカが、エルサレムを攻めるために上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせがダビデの家に伝えられると、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
- 一般的に理解されている二王国(北イスラエルと南ユダ)のもとで理解して良いのか、主要な部族として、北のエフライムと、南のユダと理解して読むのが良いのかは不明だが、引用句は何らかの歴史的事実を反映しているのだろう。アハズに対して「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14)と新約聖書でも引用される有名な箇所も登場する。まずは、このときの、パレスチナの状況を確認しておきたいと思う。アッシリアはどの程度の国になり、どの程度領土拡大をしていたのだろうか。ここには、アラムとエフライムが攻めてくることが書かれているが、すでに、アッシリアの影響が強くなっているのか、まだなのかそのことも確認したい。
- イザヤ 8:17,18 私は主を待ち望む。/ヤコブの家から御顔を隠されていても/私は主に望みをかける。見よ、私と、主が私に与えてくださった子たちは、シオンの山に住まわれる万軍の主によるイスラエルのしるしと奇跡である。
- この章は『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』から始まり、次の世代の子供を残すところから始まる。イザヤは、引用句を告白する。わたしたちは、何を求めて、日々を生きているのか問われる箇所でもある。富・時間・力など、たいせつなものを求めるために、必要であろうものを求めることに熱心であっても、実際には、何を求めるのかはわかっていない。イザヤはそれを知っていたのだろうか。引用句からは、主への信頼と、主から与えられたものを通して、得られるものに望みをかけている。周囲のひとたちが求めているものの儚さと、主の恵の豊かさへの信頼があるのだろうが、同時に、イザヤなりの正しさが背後にあり、主のことがわかっているわけでもないのだろう。わたしは、ある年齢になり、儚いものではなく、主とともに喜ぶことができるものをもとめて、富・時間・力などを使おうとしている。しかし、それを本当に主が喜んでくださるのかは、明確にわかるわけではない。儚い望みではなくとは言えるかもしれないが。難しい。
- イザヤ 9:1,5 闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
- イザヤが見た幻、希望が、ここに現れている。しかし、同時に、それは、すぐすべてを解決するものではなく、「それゆえ、主は若者たちを容赦せず/みなしごもやもめも憐れまない。/すべての者が神を敬わない者となり、悪を行い/すべての口が愚かな言葉を語るからだ。/それでもなお、主の怒りは去らず/その手は伸ばされたままだ。」(16)とも告白し、自分がその救いを見るとは思っていないのかもしれない。自分の命の儚さとは対照的なものに、主のみこころを見ているのかもしれないが、それが正しい生き方なら、そのようにひとが生きるのは難しいし、違う生き方を求めることを批判もできないように思える。あがくこと、希望や本当に欲しいもの、実際に求めるものとの乖離はそう簡単に解決するものではないとも思う。このギャップは、イエスによって福音がもたらされてからも、ある意味では残る、人間の性のようにも思える。
- イザヤ 10:3,4 刑罰の日、遠くから来る嵐に対して/あなたがたはどうするつもりなのか。/誰に助けを求めて逃れるのか。/どこにあなたがたの栄光を残すのか。捕らわれた者たちの中で身をかがめ/殺された者たちの中に倒れるだけではないか。/それでもなお、主の怒りは去らず/その手は伸ばされたままだ。
- 「どこに栄光を残すのか」アッシリアの猛攻の中で、悔い改めを求めているのだろうか。イザヤは、アッシリアは「主の怒りの鞭」と見ているが、そのアッシリアはそのような存在にも見えないことから、その裁きも預言しているようだ。主の主権のもとでの認識なのだろうが、主からのメッセージとして確信できたのはどんな背景なのだろうか。最後には、残りのもののメッセージが明確に語られている。これは、預言であると同時に、希望でもあるのだろうか。ただ、このアッシリアの破壊のもとで、どのような存在だったのかは、書かれてはいないように見える。
- イザヤ 11:12,13 主は国々に向かって旗を揚げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放された者を集め/ユダの散らされた者を呼び集める。エフライムの妬みはやみ/ユダに敵対する者は絶たれる。/エフライムはユダを妬まず/ユダもエフライムに敵対しない。
- エッサイの根から始まる新約聖書でも引用されている箇所だが、イザヤ預言の直接的なものは、このあとの、残されたものに関係しているのだろうか。引用句とそれに続く箇所は、当時の様子を窺い知ることができる箇所のように見える。まずは、エルサレム中心の地域以外は、アッシリアに滅ぼされて、ユダだけが主として残っている時代でると同時に、背景にエフライム(北イスラエル王国の主要部族とも取れるが、エフライムを中心とした部族連合ともとれる)とユダとの分断が大きな課題となっていたことも伝えているように見える。もともとは、一つということなのだろうか。列王記からみると、王国として分断してかなりの時がたっているように見えるが。当時の状況がもう少しりかいできないと、ここに書かれていることも、わからないようにも思う。
- イザヤ 12:3 あなたがたは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
- 感動を覚える章である。しかし、同時に、このときを味わうことができなくても、そのようなことを信じて生きていればよいのかには、疑問が残る。滅ぼされる、または、信頼できずに迷いながら生き、苦しみの中で死んでいく、そのようなひとには、このメッセージで伝わるのだろうか。やはり、正しさの主張で終わってしまうようにも感じる。人間の一生が限られていても、その中で、主を信頼して生きていくには「その日」の描写では不十分な気がする。このことは、死後の天国や、終末論においても、同じ問いが残るように思われる。
- イザヤ 13:1-3 アモツの子イザヤが見たバビロンについての託宣。禿山の上に旗を揚げ/彼らに向かって声を上げ/彼らが貴族の門から入るように、手を振りなさい。私は、聖別された者たちに命じ/私の勇士、私の勝利を喜ぶ者たちを呼び集めて/私の怒りを遂げさせる。
- このときの脅威がアッシリアならば、ここでバビロンと書かれているのは象徴的な意味でのバビロンなのか、それとも、このときのアッシリアを象徴するものなのか、後の新バビロニアを意味しているのかよくわからなかった。自分たちへの脅威の存在が裁かれるということは、ある希望を与えることではあるが、その課題をみると、自分たちの課題、主への不忠実、悪の存在などとも関係し、滅ぼされるのは、自分たちなのかも知れないとも思わされる。イザヤはなにを見ていたのだろうか。それをわたしも共に見ることは可能だろうか。
- イザヤ 14:1,2 しかし、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び、彼らの土地に住まわせる。/寄留の民も彼らに加わり、ヤコブの家に連なる。もろもろの民は彼らをその地に連れて来る。イスラエルの家は主の土地で、もろもろの民を男も女も奴隷として所有する。かつて自分たちを捕らえていた者を捕らえる者となり、かつて自分たちを虐げていた者を支配するようになる。
- この章にはある回復と、虐げるものの裁きとして、アッシリアの滅亡などが語られている。わたしたちのように、当時から、2800年もあとの時代から、答え合わせをするように、預言書を読むのは適切ではないと思うが、御心の宣言として受け取るのは難しいことも多い。歴史の部分を見ると似たようなことは起こる、盛者必衰、そして、それを勧善懲悪と理解して、あるモラルを示す、引用句にあるような、寄留の民、奴隷の固定に対する意識の固定化などである。御心を受け取るのにも段階があるのだろうとは個人的に考えているが、どのように読めばよいのかは難しい。最後にペリシテのことが書かれているが、歴史的には、アッシリア侵攻では、持ちこたえ、バビロン侵攻のときに、中心的な部分が滅ぼされたということは、考古学も含め、いろいろなことから立証されているのだろうか。
- イザヤ 15:5 私の心はモアブのために叫ぶ。/逃れる者たちはツォアルまで/エグラト・シェリシヤにまで達する。/彼らはルヒトの坂を泣きながら上り/ホロナイムの道で破滅の叫びを上げる。
- モアブの悲惨な状況が書かれている。引用句は、それを嘆くことばなのか、それとも、たんにそれほど悲惨だという描写なのかはわからないが、かなりひどい状況であることは想像できる。モアブというとルツ物語なども思い出すし、列王記などでは、戦いの記述もある。しかし、近隣の民であり、完全な一つの国として存在していたのか、やはり部族として、王といわれるものの支配が強固だったときなどあるのではないかと思うが、モアブについて、そして、周囲の部族との関係などは、どの程度明らかにされているのだろうか。文献や考古学的な発見など、また、基本的な文献があれば、いつか学んでみたい。遊牧、牧畜が中心だったのか、農業や、都市化がある程度進んでいたのかなども聖書だけからは、十分な情報が得られないので。
- イザヤ 16:13,14 これはかつて主がモアブについて語られた言葉である。そして、今、主は語られる。「雇い人の年季のように三年のうちに、多くの群衆がいたモアブの栄光は侮られ、生き残る者は極めて少なくなり、力を失う。」
- モアブがアッシリアの攻撃に因って実際にどの程度破壊されたのだろうか。モアブとの関係は複雑だったろう。しかし、主の思いも同様だったのではないだろうか。「それゆえ、私のはらわたはモアブのために/私のはらわたはキル・ヘレスのために/琴のように震える。」(11)これは、苦しみ、痛みも表現しているのかも知れないが、人間には、神の苦しみ痛みの内容はわからない。イザヤのような預言者であったとしても。そのなかで語ることの難しさも感じる。
- イザヤ 17:3 エフライムからは砦が/ダマスコからは王国が消え去る。/アラムで生き残った者は/イスラエルの子らの栄光と同じようになる/――万軍の主の仰せ。
- ダマスコについての託宣として始まる。ダマスコはダマスコを中心とした王国を意味するのだろうが、引用句では、エフライムも含まれているように書かれ、アラムというもう少し広い範囲に住む民族としても、表現されている。どの範囲を統治し、アッシリア侵攻後、エフライム(北イスラエル)が王国としては滅亡してから、どうなっていたのかが気になる。また、エフライムと呼ばれている北イスラエルが、滅亡後、どのような経緯をたどるのかは、このあとの歴史を理解するうえでとても大切なように思う。どの程度わかってきているのだろうか。
- イザヤ 18:1,2 災いあれ、クシュの川のかなたで/高い羽音を立てている国に。その国はパピルスの舟を水に浮かべ/海路を通じて使節を遣わす。/行け、足の速い使者たちよ。/背が高く、肌の滑らかな国民のもとへ。/ここかしこで恐れられている民のもとへ。/その国土が多くの川で分かたれ/強い力で踏みにじる国のもとへ。
- 聖書に時々登場するクシュ、基本的なことも、あまりわたしは知らない。おそらく、ナイル川中流、スーダンの一部の王国だろうが、旧約聖書の時代(通常アブラハムの時代といわれている BC2000頃から、イエスの時代ぐらいまで)の全体像が知りたい。どの程度わかっているのだろうか。背が高く、肌の滑らかな国民ということばが引用句以外にも7節に登場する。民族的にも、かなりことなる特徴的な人たちなのだろうか。引用句には、海路を通じてということばもある、ナイル川河口から、地中海内でも、活動していたのだろうか。ここでは、あまり具体的な裁きは述べられていない。イスラエルとの関係についてはどのようなことがわかっているのだろう。
- イザヤ 19:22-25 主はエジプトを打たれ、打ちながらも癒やされる。彼らが主に立ち帰ると、主は彼らの願いを聞き入れ、癒やされる。その日には、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。「祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに」と。
- まず、聖書は一般的に、エジプトには親近感があるように描かれることが多いように見える。隣接ではないが、近隣の超大国だったのだろうが、引用句の最初の部分からも、そのことが感じ取れる。一般的なこと、出エジプトという強い関連性以外にも、エジプトとの日常的な交流の記録はあるのだろうか。引用句の後半は、壮大な世界が描かれているが、アッシリア時代には、そこまではならなかったように理解している。さらに、第三のものとは、どのようなことが意識されていたのだろうか。世界は広く、このような世界観は、まだまだ狭いとも言えるが、それでも、イザヤは御心を受け取ろうとしていたのだろうと思う。ここで表現されていることは何なのだろうか。
- イザヤ 20:1 アッシリアの王サルゴンから遣わされた将軍がアシュドドと戦い、それを占領した年のことである。
- 最後は「その日には、この海辺に住む者は言うだろう。『見よ、我々がアッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様だ。我々はどうして逃げ延びることができようか。』」(6)で終わっている短い章である。基本的には、クシュとエジプト(この時期はクシュの方が優勢だったのか?)に望みをかけていた、ペリシテの都市国家が、アッシリアによって占領されたことが書かれているのだろう。何年か記録はあるのだろうか。ペリシテは海沿いにいくつか大きな都市(国家)を作っていたと思われるが、他の都市についてはなにかわかっているのだろうか。イザヤが裸・裸足で生活すると言う、特別な行為をして示したことで、確信をもって受け取っていたのだろうが、実際には、そこまでのことは起こらなかったように思われる。それをどう受け取るかの悩みが書かれているような箇所はあるのだろうか。王宮にも行ったと思われるイザヤが腰の粗布と履き物だけで生活していたことも驚かされるが、通常の一般人の服装はどのようなもので、イザヤが素っ裸にまでなることには、なにか他に意味があったのだろうか。
- イザヤ 21:1,2 海の荒れ野についての託宣。/ネゲブを吹き抜ける暴風のように/荒れ野から、恐るべき地から、それはやって来る。厳しい幻が私に示された。/「裏切る者は裏切り/荒らす者は荒らしている。/エラムよ、上れ。/メディアよ、包囲せよ。/私はすべての嘆きを終わらせる。」
- ここでいう、エラム、メディアは何を意味しているのか。アッシリアの一部だった頃のある勢力なのか。ネゲブ、ドマ、アラビアへの託宣が続く。地域名だと思われるが、実際には、どのような範囲のことで、この地域は、どのような統治が行われていたのだろうか。遊牧民の地域で、王国ではなかったのか。アッシリアの侵攻が想定しているようだが、アッシリアはなにを求めていたのだろうか。単なる覇権だろうか。大きな国を滅ぼすことは利権が関係していただろうが、単なる従属で、貢ぎを納めさせるためなのだろうか。それだけの必要もあったのだろうか。
- イザヤ 22:2,3 騒音に満ち、賑やかな都/歓声に満ちていた町よ。/お前の中の殺された者たちは/剣で刺し貫かれたのでもなく/戦いで死んだのでもない。お前の支配者たちは皆、一斉に逃げ出し/弓を引くこともなく捕まった。/遠くに逃げていた者も皆/見つけられ、共に捕まった。
- いつの、どのような状況を伝えているのだろうか。「エラムは矢筒を取り上げ/人を乗せた戦車と騎兵を伴い/キルは盾の覆いを外した。」(6)のエラムとキルは何を表しているのか。9-11節の記述は、その続きから、主により頼まないで、このようなことをすることについていっているのだろうが、単純には、受け取れない。どう考えたら良いのだろうか。最後の節「万軍の主の仰せ――その日には、確かな所に打ち込まれた杭は抜け、それに掛けられていた荷は切り裂かれて落ち、壊されると、主は語られた。」(25)は具体的には、なにを伝えているのだろうか。
- イザヤ 23:1-3 ティルスについての託宣。/泣き叫べ、タルシシュの船よ。/あなたがたの砦は破壊されてしまった。/キティムの地から帰ると、それは知らされた。嘆け、海辺の住民たちよ。/シドンの貿易商よ。/あなたがたの使者は海を渡っていた。大いなる水を越えて/シホルの穀物、ナイルの収穫はその収入となり/あなたは国々の交易の場であった。
- ティルスについての託宣と始まる。ティルス、シドンはペリシテ都市国家と思われるが、タルシシュ、キティム、シホルは、確定できているのか。海洋民族の都市国家交易範囲は、地中海が中心と思われるが、どのあたりまで、交易が広がっていたのだろう。カルタゴなど、現在のチュニジアや、イベリア半島まで含まれていたのだろうか。
- イザヤ 24:15,16 それゆえ、東の地で主を崇めよ。/海のかなたの島々でイスラエルの神/主の名を崇めよ。地の果てから私たちは歌声を聞いた。/「正しき者に誉れあれ。」/しかし、私は言った。/「私は衰える、私は衰える。/ああ、災いだ。/裏切る者たちが裏切った。/裏切りだ。裏切る者たちが裏切った。」
- 引用句は、誰に呼びかけているのだろうか。離散したユダヤ人だろうか。かなり広い範囲が想定されているようだが、アッシリア、そして、イザヤの時代よりは後だろうが、新バビロニアによって、滅ぼされてから、あまりたたない時期に、ユダヤ人は、どのあたりに離散していったのだろうか。そこでも、コミュニティが作られていたのか。このようなイザヤ書のようなことばが共有される母体はあったのかが気になった。最後には、「月は辱められ、太陽は恥じる。/シオンの山において、万軍の主が王となられ/エルサレムにおいて/長老たちの前にその栄光を現されるからだ。」(23)とある。一つの希望ではあるが、現実社会で苦しみの中に生きていた時に、どの程度の力になったか疑問も残る。
- イザヤ 25:10 主の手はこの山にとどまる。
- この章の後半では、この山が多く登場する。エルサレムを意味するのだろうが、エルサレムが特別な地位を持つようになったのは、聖書的にはダビデ、ソロモン以降だろうが、歴史的には、北イスラエルが滅ぼされて以降のようにも思われる。南ユダも、エルサレム近郊以外は、国としての政治的なまとまりは、崩壊していた可能性も高いように思うので。預言者の間でも、エルサレムが中心的になっていくのは、どのような経緯によるのだろうか。神殿は一つの拠り所だろうが、それも、バビロンにより破壊される。場所にこだわった理由は何なのかと考えさせられる。サムエルのときなどは、定まっていなかったし、その文書も共有されていたと思われるが。
- イザヤ 26:3,4 志の堅固な者を/あなたは確かな平安をもって守られる。/彼があなたを信頼しているゆえに。主をどこまでも信頼せよ。/主こそとこしえの岩。
- 前章では、エルサレムへの特殊性が語られ、ここでも最初にユダの地が特別であることが語られているように見える。「その日には、ユダの地でこの歌が歌われる。/私たちには堅固な町がある。/主は救いのために城壁と塁壁を築かれる。門を開け/真実を守る正しい国民が入ることができるように。」(1,2)しかし、引用句を見ると、場所よりも、少しずつ、主への信頼へと、純化が見られるように感じる。ここだけから判断してはいけないのだろうが。預言者の中でも、御心の受け取り方が変化している面もあるのだろうか。個別に絶対化するのではなく、変化も受け取る読み方の方が柔軟であるとともに、不完全な人間が受け取る御心という意味でも良いように感じる。反対もあるだろうが。
- イザヤ 27:1 その日、主は/鋭く大きく、強い剣によって/逃げようとする蛇レビヤタンと/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また、海にいる竜を殺される。
- 聖書に時々現れる「蛇レビヤタン」は時代的な変化があるかどうかも含め、どのように理解されていたのか。ここでは、主は、園の番人ということばも登場するが、レビヤタンと主との関係はどのように考えられていたのか。従順ではないことの一つとして「大枝が枯れて折れると/女たちが来て燃やす。/分別がない民だからだ。/それゆえ、造り主は憐れみをかけず/その民を形づくられた方は恵みを与えない。」(11)も登場する。8節も含め、どうも女(または女のような)無分別、愚かさが、不従順を引き起こすと言っているようにもとれる。愚かで、無分別であれば、主に従えないのであれば、人間に救いはないように見える。女性を持ち出すのは不適切。無分別で片付けるのは単純すぎるように思われる。なにを伝えたいのだろうか。
- イザヤ 28:10 「命令に命令、命令に命令/規則に規則、規則に規則/しばらくはここ、しばらくはここ。」
- 「災いあれ、エフライムの酔いどれの誇る冠に。/その栄えある麗しさはしぼんでいく花。/ぶどう酒で酔い潰れた者の肥沃な谷の頂にある。」(1)エフライムの酔いどれは、3節にも登場する。北イスラエルは、すでに滅んでいる時期と思われるが、エルサレム防衛にエルサレムの周囲に来ようとせず、エフライム、北イスラエルの地に残っているたみのことを揶揄しているのだろうか。引用句は、やなり2回登場し、印象的であるが、なにを意味しているのだろうか。文脈からもあまり理解できない。28章全体で伝えていることも十分は理解できないが、もう少し全体的な位置付けを確認したほうが理解できるのだろうか。
- イザヤ 29:16 あなたがたの考えは逆様だ。/陶工が粘土と同じに見なされるだろうか。/造られた者が、それを造った者に言えるだろうか/「彼が私を造ったのではない」と。/陶器が陶工に言えるだろうか/「彼には分別がない」と。
- 聖書で時々登場するアリエルがここには、何回も使われている。シオンの山も使われている。エルサレムも含め、アリエルについての確認と、このことばが使われるときの背景や特徴は何なのだろうか。引用句はイザヤ書で何回か登場する鍵となるイザヤの信仰告白のように思われる。このあとには、へりくだるものたちへの救いが書かれているが、同時に「暴虐な者はうせ、嘲る者は滅び/悪事をたくらむ者はすべて絶たれる。」(20)も書かれ、これを見ると、ほんとうにそのような時を待ち望むのが良いのかどうか、不安にもなる。ひとつの救いや希望の表現なのかもしれないが。人間社会はもっと複雑だから。
- イザヤ 30:15 主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。/「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」/しかし、あなたがたはそれを望まなかった。
- このようなメッセージは受け取り方が難しい。どの時代かにもよるが、最後を見ると、アッシリアが滅びる前だろうか。エルサレムやユダ王国も、すくなくとも、アッシリアに貢ぎを納めていた時期もあるとすると、4節のツォアンが何を指すのかはわからないが、少しでも対アッシリアとして安全なエジプトに逃れるのは、自然にも見える。引用句は立派である。そのような精神の重要さはある程度普遍性があるのだろうが、この場面で、このイザヤのことばを主のことばとして信頼するかどうかは難しいように思う。どうなのだろうか。
- イザヤ 31:1 災いあれ、助けを求めてエジプトに下り/馬を頼みとする者に。/彼らは、戦車の数が多く/騎兵が強力であることに頼り/イスラエルの聖なる方に目を向けず/主を求めようともしない。
- 前の章から続いているのだろう。イザヤ書自体は、アッシリアが滅びるよりも、または、バビロンによって、エルサレムが滅ぼされるよりも、あとに、まとめられたように思うが、何代か先まで、エジプトや、北アフリカに逃れて、エルサレムの最後を知ったひとたちは、どのように、これらのことばを受け取ったのだろうか。何を頼とし、誇りとするかの部分を受け取ったろうか。アッシリアのときは、エルサレムに残り、何代かあとに、二度のバビロン侵攻のころに、エジプトに逃れてきたひともいただろう。どのように、これら預言者のメッセージを受け取り、共同体の中で共有していったのだろうか。興味をもつ。
- イザヤ 32:20 あなたがたは幸いである。/すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放牧するあなたがたは。
- 引用句は素朴だが、これこそが当時の人たちが求めていた平安な生活なのだろう。イザヤはそれを「しかし、ついに、高き所から/霊が私たちの上に注がれる。/すると、荒れ野は果樹園となり/果樹園は森と見なされる。」(15)によって到来すると言っている。前半の「見よ、正義によって一人の王が統治し/公正によって高官たちが治める。」(1)から始まる描写は「もはや愚か者が高貴な人と呼ばれることはなく/ならず者が尊い人と言われることもない。」(5)と単純化しすぎているようにみえるが、現実からこう語らざるを得なかったのかも知れない。希望を与える章ではあるが、世の中をみると、疑いを持ってしまう。ほんとうに、このようなことが主の御心なのだろうかと。難しいが。
- イザヤ 33:21,22 そこには/主の威厳が私たちのためにある。/そこには川があり、その流れは幅広く/櫓で漕ぐ舟はそこを通らず/強大な船もそこを通過しない。主こそ私たちを裁く方。/主は私たちを指揮される方。/主は私たちの王。/この方が私たちを救われる。
- この章の始まり「ああ、自分は滅ぼされなかったのに、滅ぼす者よ。/人に裏切られもしないのに、裏切る者よ。/あなたは滅ぼし尽くしたときに滅ぼされ/裏切りを終えたときに裏切られる。」(1)を見ても、これが書かれた時代と、理解しないと、描写が理解できないように思う。どのような時代なのだろうか。アッシリアに北イスラエルも、南ユダの大部分も滅ぼされ、エルサレム周辺だけが残り、貢を治めていた時代なのだろうか。引用句を見ても、パレスチナとくにその南部の山が多い乾燥地域川は、平和の象徴だったのかも知れない。ただ、船が通らないとはどのようなことなのかよくわからない。主についての描写もあまりつながっているように見えない。
- イザヤ 34:1,2 国々よ、近づいて聞け。/諸国の民よ、心して聞け。/聞け、地とそこに満ちるもの/世界とそこから生ずるすべてのものよ。主はすべての国々に向かって怒り/そのすべての軍隊に向かって憤られる。/主は彼らを滅ぼし尽くし/彼らを屠るために引き渡された。
- これまでも、イスラエル以外に向けた預言があったが、ここでは、国々、諸国に向けて語られている。イザヤ書全体の中での位置づけは、ここだけではわからないが、すべての人々の主、国々を統べ治められる主は、どの程度明確だったのだろうか。明確になっていったのだろうか。5節からは、エドムに向けた預言がある。どこまでがエドム向けかは不明。この章は終わりまで、エドムが意識されているのだろうか。「それは主にとって報復の日/シオンの訴えに応じて報いる年。」(8)とあり、シオンが中心であることは、明確。また「主の書を調べて、読め。/これらのうち、一つも欠けるものはない。/それぞれが相手を見いだせないことはない。/主の口が命じ/その霊が集めたからである。」(16)ともあるが、これは、エドムに向けていっているのだろうか。諸国に向けて語るのは難しいように思われる。イザヤの(主に関する)世界的視点が少しずつ発展整備されているように見える。
- イザヤ 35:4 心を騒がせている者たちに言いなさい。/「強くあれ、恐れるな。/見よ、あなたがたの神を。/報復が、神の報いが来る。/神は来られ、あなたがたを救う。」
- 章の区切りは後代のものといわれているが、この35章と34章とのつながりをどう考えたら良いかはよくわからない。しかし、エドムだけに向けられているとは考えにくい。レバノン、カルメルなど、エドムとは、方向的に逆の地のことが語られている。引用句に続く回復の表現は美しいが、引用句では報復、神の報いとされている。そして、「主に贖い出された者たちが帰って来る。/歓声を上げながらシオンに入る。/その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。/喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。」(10)と、主に贖い出されたものたちのシオンへの帰還が語られている。究極の回復なのだろうが、イザヤの中でも、まだ、明確になっていないということだろうか。全体像が示されているわけではないように見える。
- イザヤ 36:1,2 ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダの城壁に囲まれた町すべてに攻め上り、これらを占拠した。アッシリアの王はラキシュからラブ・シャケを大軍と共に、エルサレムのヒゼキヤ王のもとに送り込んだ。ラブ・シャケは、洗い場に至る大通り沿いにある、上貯水池の水路に現れた。
- 基本的な確認をしたい。まず、ラキシュからとあるが、これは、ユダの町なのか、それとも、ペリシテなどの都市国家なのか。大英博物館に、ラキシュを攻めるレリーフがあったように思う。ラブ・シャケは私の読んでいる聖書の注には献酌官長とあるが、名前がそうも取れるということなのかそれとも、他の写本ではそうなっているということか。献酌官長はネヘミヤを思い出させる。次に、ヘブル語で話していると思われることが書かれているが、アラム語は、地元の普通の人は知らなかったのだろうか。通商などでは使われていたとすると、かなりの人は知っていたのでは。このときの、聖書以外の記録は残っているのか、それも合わせて知りたい。
- イザヤ 37:36-38 主の使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が朝早く起きてみると、皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって退却し、ニネベにとどまった。彼が信じる神ニスロクの神殿で礼拝していたとき、息子のアドラメレクとサルエツェルが剣で彼を打ち殺した。二人はアララトの地に逃れ、別の子エサル・ハドンが彼に代わって王となった。
- センナケリブからの脅しの手紙を受け取り、ヒゼキヤが神殿で祈り、イザヤがメッセージを送り、引用句の結末が書かれている、聖書の中でも、印象的な箇所である。イザヤは当時どのような位置にいたのだろうか。物理的にも、エルサレムが包囲されている時にどこにいたかも気になるが、王宮との関係も、興味をもつ。王宮にはいかなかったようだが。引用句のことは、歴史的な記述が、聖書以外に残っているのだろうか。一般的には、結局、ヒゼキヤはアッシリアに隷属して貢を送るように思うがそのあたりも、他の記録などから、どの程度わかっているのだろうか。
- イザヤ 38:21,22 イザヤが言った。「いちじくを干したものを持って来させ、腫れ物に当てなさい。そうすれば王は回復するでしょう。」ヒゼキヤは言った。「私が主の神殿に上ることができるというしるしは何でしょうか。」
- 列王記にも記録があったと思うが、これは、ヒゼキヤが何歳ごろのことだか、特定できるのだろうか。それによっても、解釈が少し変わってくるようにも思う。構成を整理する必要がある。最初にイザヤによるヒゼキヤの死の宣告、そして、ヒゼキヤの涙、次にイザヤへの主の言葉、次には、回復してから記したヒゼキヤの言葉、最後が引用句である。ただ、回復してから記したヒゼキヤの言葉には、まだ、回復していないときのものが多く含まれているように見える。ヒゼキヤの思い、願いは個人的なことに、終始しているように見えるが、イザヤの言葉には、アッシリアから主が守られることを見ることができることが中心のようである。アハズの日時計の記事はどのような解釈がされているのだろうか。いろいろなことが詰まった章である。
- イザヤ 39:8 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」と答えた。自分の在世中は平和と安定が続くと思ったからである。
- 引用句の解釈、イザヤが、ヒゼキヤを責めているかどうかの解釈も含め、どのように、理解するかは、単純ではないだろう。ヒゼキヤが病から回復した頃とすると、冷静に、主の御心を考えられなかったと解釈することは可能だろう。同時に、一つ一つの人間の行為が、そのあとの歴史に影響を与えると考えるのが適切かどうかも不明でもある。この時点では、宝物がたくさんあったことの証には、なるのだろう。一般的には、ヒゼキヤの行為に対して批判的な目が多いのかも知れない。
- イザヤ 40:27-29 ヤコブよ、なぜ言うのか。/イスラエルよ、なぜ語るのか。/「私の道は主から隠されており/私の訴えは私の神に見過ごされている」と。あなたは知らないのか/聞いたことはないのか。/主は永遠の神/地の果てまで創造された方。/疲れることなく、弱ることなく/その英知は究め難い。疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる。
- この章の最初の宣言、そして、引用句もそうだが、非常に大きなスケールの神理解と宣言がスターとする。内容を一つ一つ見ていってもよいが、まずは、イザヤ書の新しい展開をどう考えたら良いか基本的な部分を理解したい。どの時代に、どのようにして書かれたと考えられているのか、その根拠など。それがイザヤ書の中に納められた理由などについても、どのように考えられているのかなど。
- イザヤ 41:8-10 しかし、イスラエルよ、あなたは私の僕/私が選んだヤコブ/私の友アブラハムの子孫。私はあなたを地の果てから連れ出し/その隅々から呼び出して言った。/「あなたは私の僕。/私はあなたを選び、拒まなかった」と。恐れるな、私があなたと共にいる。/たじろぐな、私があなたの神である。/私はあなたを奮い立たせ、助け/私の勝利の右手で支える。
- 最初の部分を見ると、諸国の民はみな主である神のもとにいることが書かれているが、引用句では、イスラエルとの特別な関係が語られる。他の国にも、特別な関係として啓示をすることを否定はしていないように見えるが、やはり、イスラエルは特別であるとしているようだ。個人的な信仰、神の選びと導きが、他者をも神が愛し、特別な導きをしているところまで、ある公平さをもって、広げられるのは難しいのだろう。そこまで到達するには、他者だけでなく、敵をも、相対化し、主なる神がその他者、敵をも愛しているとの信じがたいことを受け入れる一歩が必要なのかも知れない。捕囚時代なのだろうか、苦難の中で、どのように、主なる神を理解していったかを、少しずつ理解していきたい。
- イザヤ 42:3,4 傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。彼は衰えず、押し潰されず/ついには、地に公正を確立する。/島々は彼の教えを待ち望む。
- 多少異なるが、マタイ12:18-21にも引用されている有名な箇所である。通常は、僕をメシアと解釈し、メシアを期待するのかもしれないが、主が喜ばれる僕と解釈すれば特定の個人に限定したり、一人ですべてをすると考えなくても良いのかなと読んでいて思った。「私は目の見えない人に知らない道を行かせ/知らない道を歩かせる。/私は彼らの前で暗闇を光に変え/起伏のある地を平らにする。/私はこれらのことを行い/彼らを見捨てない。」(16)なども、部分的には、御心に従って主に仕えることもできるのかも知れない。この章のすべてを理解しているわけではないが。イザヤとともに、主はどのようなひとを望まれるかを考え、求め続け、そのように生かされることを求めることも、ひとつなのかも知れないと思った。
- イザヤ 43:1 しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方/イスラエルよ、あなたを形づくられた方/主は今こう言われる。/恐れるな。私があなたを贖った。/私はあなたの名を呼んだ。/あなたは私のもの。
- 贖いの考え方が登場している。代価を払って買い取られたという意味なのかと思うが、気になるのは「私はエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代わりとする。」(3b)として、その代価のようなものを、他国に割り当てている。このあとには「あなたは私の目に貴く、重んじられる。/私はあなたを愛するゆえに/人をあなたの代わりに/諸国の民をあなたの命の代わりに与える。」(4)と、好まれる節があるが、この主にとっての価値が、他者にも向けられることに理解が広がるのは、難しいのだろうか。贖い主ということばも登場するが、贖いについて、イザヤは、そして当時の人は、どのように考えていたのだろうか。自分と他者との関係については、どうなのだろうか。
- イザヤ 44:21 ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。/イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。/私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。/イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。
- 最初に、イスラエルを主は選び、造りとある。これをみると、造る前から選んだのか、単なる計画ということか、いずれにしても、これが自己理解で、そのことは、引用句にも現れている。民にとっての主の位置づけが書かれ、次に、偶像の虚しさが書かれている。おそらく、偶像を造らない理由説明にもなっているのだろう。一つの信仰告白でもある。そして、最後には、キュロスが登場する。キュロスについては、次の章にもあるので、そこで考えることにするが、他者認識はどうなっていたのだろうか。他者の創造者、主と他者との関係をどのように認識していたかは気になる。細かいことだが、3節のエシュルンは申命記にも現れるが何を意味するのだろうか。
- イザヤ 45:14 主はこう言われる。/エジプトの産物とクシュの商品/それに背の高いセバ人が/あなたのもとにやって来て、あなたのものとなる。/彼らはあなたの後を歩み/鎖につながれてやって来る。/あなたに向かってひれ伏し、願って言う。/「神はあなたのところにだけおられ/ほかにはいない。/ほかに神々はいないのだ。」
- この章は「主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。/私は彼の右手を取り/彼の前に諸国民を従わせ/王たちを丸腰にする。/彼の前に扉は開かれ/どの門も閉ざされることはない。」(1)と始まるが、あまり、キュロスのことについては、書かれていない。イスラエルの主、聖なる方について、書かれているように見える。しかし、引用句を見ると、イスラエルより強いと思われていた人たちが奴隷となるようなことが、幻として書かれているようである。それが望みだったのだろうか。キュロス登場でも、まだ混乱した状況だったのだろうか。キュロスが寛容だったのは、イスラエルだけではなく、すべての民の神を許容したと理解しているが、そのことについては、どのように理解したのだろうか。イザヤ書の書き手についても、興味を持つ。
- イザヤ 46:1,2 ベルは身をかがめ、ネボは身を伏せる。/彼らの偶像は獣と家畜に背負われる。/あなたがたの運ぶものは荷物となり/疲れた動物の重荷となる。彼らは共に身を伏せ、身をかがめ/重荷を解くこともできない。/彼ら自身が捕らわれの身となって行く。
- 次の二節(3,4節)との対比のための偶像に関する引用句なのだろう。印象的な表現である。そのあとも、偶像に頼らず、主に信頼することが述べられている。まず、ベルとネボは何なのか。そして、おそらく、バビロンでの捕囚が前提とされているのだろうが、そこでの、偶像礼拝をここまで書いているのは、それが大きな危機だったということなのだろうか。偶像に関する記述があまりに徹底しているのでかえって驚かされる。現代においては、様々なものが偶像になりうるので、そのようなことを注意することならばある程度理解できるが、ここでは、どうも実際の異教の神をかたどったものについて述べているように見える。
- イザヤ 47:1-3 おとめである娘バビロンよ/下って、塵の上に座れ。/カルデア人の娘よ、王座のない地に座れ。/あなたはもはや/優美でしとやかな娘とは呼ばれない。挽き臼を取って粉を挽け。/ベールを取り、裾をまくり/すねをあらわにして、川を渡れ。あなたの裸はあらわにされ/あなたの恥も見られる。/私は復讐し、一人も容赦しない。
- この章では、バビロン自体が、娘にたとえられて、その裁き、没落が語られているように見える。いくつか疑問が湧く。まず、なぜ娘なのか。女性蔑視が背後にあるようにも考えてしまう。バビロンは、娘にたとえられる必然性があったのか。このような文書が、バビロンで見つかったら、たいへんなことになると思われる。そのような危険はなかったのか。秘密結社のようなユダヤ人の集まりの中で、共有されていたのだろうか。
- イザヤ 48:9,10 私は、自らの名のために、怒りを遅らせ/自らの誉れのために、これを抑えて/あなたを絶ち滅ぼさなかった。見よ、私はあなたを精錬したが/銀としてではない。/私はあなたを苦難の炉の中で試みた。
- 少し変化が見られるように思う。この章では「ヤコブの家よ、このことを聞け。/イスラエルの名で呼ばれ/ユダの流れを汲む者よ。/主の名によって誓い/イスラエルの神の名を唱えるが/真実もなく、正義もなくそれをなす者よ。」(1)と呼びかけている。イスラエル全員なのか、個人なのか明らかではないが、一人ひとりに語られているように見える。さらに、「それは今創造された。/昔からあったことではない。/今日まで、あなたはこれを聞いたことはない。/『私はそれを知っていた』などと/あなたに言わせないためだ。」(7)新に始めることを告げ、引用句のように、苦難の意味を語っている。さらに「あなたの贖い主、イスラエルの聖なる方/主はこう言われる。/私は主、あなたの神。/私はあなたの益となることを教え/あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(17)主自らが導く事を告げる。ここではまだ御心の内容、どのような道なのかは、述べられていないが、期待が持たされる。4節に、頑なさを首が鉄、額が青銅とある、標準的な表現なのだろうが、かなり強い表現のようにも見える。
- イザヤ 49:4,5 しかし、私は言った。/「私はいたずらに労苦し/意味もなく、空しく力を使い果たしました。/それでも、私の公正は主と共にあり/私の報酬は私の神と共にあります。」今、主は言われる。/主は、ヤコブをご自分のもとに立ち帰らせ/イスラエルをご自分のもとに集めるために/母の胎にいる時から/私をご自分の僕として形づくられた方。/私は主の目に重んじられ/私の神は私の力となった。
- 主の僕に対して、イスラエルの回復が宣言され、主が忘れていたわけではないと告げているようだ。引用句には「私」も登場する。イザヤ書記者と考えるのが自然だろうが、イスラエル全体の回復の中で、個人へのメッセージが強く込められているようにも見える。一人ひとりがどのように受け取るかが鍵なのかも知れないが、主への信頼はあるのだろうが、主がなにを求めているのかは明確ではない。まずは、主がどのような方であるかが述べられているように見える。少しずつ理解して行くことがもとめたれているのか。
- イザヤ 50:4-7 主なる神は、弟子としての舌を私に与えた/疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。/主は朝ごとに私を呼び覚まし/私の耳を呼び覚まし/弟子として聞くようにしてくださる。主なる神は私の耳を開かれた。/私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中を差し出し/ひげを抜こうとする者には頰を差し出した。/辱めと唾から私は顔を隠さなかった。主なる神が私を助けてくださる。/それゆえ、私は恥を受けることはない。/それゆえ、私は顔を火打ち石のようにし/辱められないと知っている。
- 主との関係を確認する部分が最初にある。引用句以降を見ると、僕と私という一人称とが混在している。弟子として、耳を主に開いていただき、自らも、打とうとするものに背中を差し出す。しかし、主が助けて下さるとの確信のもとに、恥を受けることはないと言っている。なかなか、素晴らしい構造だと思う。読み手も、この僕、わたしの立場に身をおいて読むことになるのだろう。もしかすると、この打たれているものは、主なる神でもあるのかも知れない。そして、この弟子は、その主から学び、その主に聞こうとしている。それが、主と、主の僕の関係なのかも知れない。
- イザヤ 51:1,2 聞け、義を追い求める者たちよ/主を探し求める者たちよ。/あなたがたが切り出されてきた岩に/掘り出された石切り場の穴に目を留めよ。あなたがたの父アブラハムに/あなたがたを産んだサラに目を留めよ。/私は彼がただ一人であったとき呼び出し/祝福し、子孫を増やした。
- 人は、自分と主なる神との関係、自分と他者との関係を、その時に起こっていることを元に判断することが多い。しかし、その関係に聞き、その方、その人との関係を辿れば、非常に豊かな関係が蘇ってきて、現在についての認識も変化することがあるように思う。ここでも、そのことが背後にあるように思われる。そして、それだけではなく、知らされていないこと、わからないことが膨大に背後にあることも、覚えるべきなのだろう。謙虚にさせられるが、ひとは、それほど、賢くもなく、信仰的でもなく、強くもなく、そのように、主なる神や、他者との関係を位置づけることは難しいようにも思う。難しい。
- イザヤ 52:4-6 主なる神はこう言われる。私の民は、初めにエジプトに下り、そこに寄留した。また、アッシリア人がその後、彼らを抑圧した。今、ここで私は何をしよう――主の仰せ。私の民はただで奪い取られ、民の支配者たちは泣き叫んでいる――主の仰せ。私の名は、日夜、絶え間なく侮られている。それゆえ、私の民は私の名を知るようになる。その日、「私はここにいる」と告げる者、それが私だ。
- 13節からおそらくいくつかの僕の詩(うた)のうちもっとも有名なものが始まる。その前に、シオンの救いが語られ、その知らせの重要さが語られている箇所である。引用句には過去の経緯が簡単にまとめられている。現時点は、バビロン捕囚ではないかと思われるが、なぜ、アッシリアのところまでしか、書かれていないのだろう。新バビロニアに滅ぼされたことは、当時は、どのように表現するのが、一般的だったのだろうか。
- イザヤ 53:4,5 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
- 有名なしもべの歌の核心部分であるが、基本的なことを確認したい。ここで彼とは、イザヤの時代には、どのような人が想定されていたのだろうか。そして、ユダヤ教のラビにもいろいろな考えがあったと思われるが、ここをどのように解釈したのだろうか。キリスト教では、イエス・キリストと解釈するが、しもべというもう少し一般的なことから、キリスト者自身であったり、わが僕という表現から、主なる神ご自身がたいせついすることが表現されているとも理解できるように思われる。
- イザヤ 54:1 喜び歌え、子を産まなかった不妊の女よ。/歓声を上げて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。/夫に捨てられた女の子どもは/夫のある女の子どもより多いからだ/――主は言われる。
- この章では、夫に捨てられた妻、女性になぞらえ「捨てられて、心を痛めた妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。/若い時の妻を見捨てることなどできようか/――あなたの神は言われる。」(6)とその回復が宣言されている。当時の状況を正確に理解できていないが、族長のようなある程度裕福な家においては、その家が維持されることがたいせつで、一夫多妻制で、こどもを産むことは妻にとって、非常に重大なことだったのだと思われる。しかし、それは、裏を返すと、結婚できない男性が多くいたことともつながると思われる。その人達は、最初から、財産を持たないところからすでに、祝福の及ぶ範囲から、外されていたのだろうか。もう一つは、妊娠しない理由は、基本的には、女性側と、男性側に半々の理由があると考えるのは、ある程度昔にもあったと思われる自然な考え方だと思うがそのような考え方はイスラエルではなかったのだろうか。社会的枠組みのなかで表現される祝福の普遍性に関して疑問も感じる。
- イザヤ 55:12,13 あなたがたは喜びをもって出て行き/平和のうちに導かれて行く。/山々と丘はあなたがたの前で歓声を上げ/野の木々もすべて、手を叩く。茨に代わって糸杉が生え/いらくさに代わってミルトスが生える。/これは主のための記念となり/絶たれることのない永遠のしるしとなる。
- 一章一章読んでいると、区切りを意識するのは難しいが、引用している、55章の最後のことばは、よろこびを感じさせる。イザヤはそのような希望を持って、これを書いていたのだろう。そして、「天が地よりも高いように/私の道はあなたがたの道より高く/私の思いはあなたがたの思いより高い。」(9)ではじまる、この一つ前の段落は、信仰とは、畏れからはじまることを表現しているように思われる。実際には、人間は、ほとんど知らず、力にも大幅な限界があるにもかかわらず、特に、現代では、自分たちはほとんど知っている、なんでもできるという方向に意識が偏りすぎているように思われる。AGI や、ASI、Strong AI の理解においても、そのような人間を凌駕することは、神のような存在と AI を思ってしまう傾向が強いように思う。単に、人間より少しましになる程度だと思うのだが。おそらく、この混乱は、イザヤの時代にもあっただろうが、現代ではさらに強められているように感じる。
- イザヤ 56:2,3 なんと幸いなことか、このように行う人/それを揺るぎなく保つ人の子は。/安息日を守り、これを汚すことのない人/いかなる悪事にも手を出さない人。主に連なる異国の子らは言ってはならない/「主はご自分の民から私を分け離す」と。/宦官も言ってはならない/「見よ、私は枯れ木だ」と。
- 公正と正義の内容が、ここでは、安息日と、悪事に手を出さないと表現され、主に連なる幸いが、異邦人や、宦官のように、通常は、忌み嫌われていた人にも与えられることが書かれている。さらに、9節からは、自分の好む道、自分の利益に追い求めるものの浅ましさが表現されている。この人たちについてはどうなるかなどは、書かれていないし、イスラエルなのか異邦人なのかも書かれていない。すこしずつ、示されていく、または、主の御心を理解していくのだろう。転換点なのかどうかは不明だし、どこまで明確かは不明だが、重要な要素が含まれている章のようである。礼拝の場所の中心がエルサレムが特別であることは継承されているように見える。
- イザヤ 57:1,2 正しき人が滅びたが/誰一人心に留めなかった。/慈しみ深い人々が取り去られたが/気付く者はいない。/正しき人は災いのゆえに取り去られたが 平安に入る。/正しく歩んできた人々は自分の寝床で安らぐ。
- この時代は、滅びは死を、死は滅びと理解されていたと思われるが、その一般的な理解に挑戦しているように見える。同時に、3節からは、他の神に向かう、主に聞かないひとたちのことが続く。これに対して「誰におびえ、誰を恐れて、あなたは欺くのか。/あなたは私を思い出しもせず/心にかけることもなかった。/私が長らく沈黙してきたので、私を畏れないのか。」(11)とあり、神の沈黙が背後にあることが書かれている。気になるのが、この部分など(通常第二イザヤ・第三イザヤとよばれる部分)が、どのようにして、当時の人たちに伝えられたかである。捕囚地や、帰還後などに、イザヤ書の内容は、どのような時期に、どのように伝えられたのか気になる。それが第二イザヤ、第三イザヤとは何なのか、その役割をあぶり出すように思う。
- イザヤ 58:1,2 喉をからして叫べ。抑えてはならない。/角笛のように、あなたの声を上げよ。/私の民にその背きの罪を/ヤコブの家にその罪を告げよ。彼らは日々私を尋ね求め/私の道を知ることを喜ぶ。/正義を行い、神の法を捨てない国民のように/彼らは正しい裁きを私に尋ね/神に近づくことを喜ぶ。
- このあとに正義の内容が、まずは、主の選ぶ断食とはとして、安息日を守ることの実質などについても含め、主が求められることの内容が書かれている。一つ一つたいせつだとは思うし、たしかに、主の望まれることとは異なることをしてしまっていることも事実だが、それを、喉をからして叫ぶことで改善されるのかには、疑問をもつ。自分の奥底の問題を指摘されたらだれも嬉しくないだけではなく、どうしたら良いかも簡単にはわからない。生まれながらに持っている罪を犯してしまう傾向もある。どうすればよいかは明らかではないが、問題点を指摘することで、人間が、自分が欠けばかりの人間であることを悟らせることが最終的な目的ではないはずである。課題を持ちつつ、学び続けることなのかも知れないが。
- イザヤ 59:20,21 贖い主がシオンに来る。/ヤコブのうちで/背きの罪から立ち帰る者のもとに来る/――主の仰せ。これが彼らと結ぶ私の契約である――主は言われる。/あなたの上にある私の霊/あなたの口に置いた私の言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/その子孫の子孫の口からも/今より、とこしえに離れることはない/――主は言われる。
- 主との間を隔てるものを取り去れば、引用句のように、贖い主がシオンに来るということなのだろう。これが信仰告白または、祈りの中で示された希望としては理解できるが、主との間を隔てるものとして、行動の裏にある汚れなどを指摘されるのであれば、それは、不可能だと思う。まさに、そのような人間の愚かさ、不完全さ、そのなかでの苦しみ、罪ということばが適切かどうかは不明だが、それを一方的に主の側が負うのではなく、ともに、それをどう担うかに向かう道を求めるかにかかっているように思う。人間社会でも、正しさをもとめることでは、平和は来ないように思う。課題が残る。
- イザヤ 60:14 あなたを苦しめた者たちの子孫は/あなたのもとに来て、身をかがめ/あなたを侮った者たちも皆/あなたの足元にひれ伏し/あなたのことを/主の都、イスラエルの聖なる方のシオンと呼ぶ。
- この章は最初から、シオニズムの原点のような描写に溢れている。イザヤ書全体を理解しようとすれば、背景となる時代もかなりの期間にわたっていることからも、明らかではないが、このあたりから、これを結論ととって、極端なユダヤ、シオン至上主義に至る懸念を持たざるをえないと思った。「主があなたにとって、とこしえの光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。」(20b)主が、光だと確認はされているが、この章を読むと、その中心にいる、ユダヤ人、イスラエルが栄光の座にいるように感じさせられるのは、私だけだろうか。
- イザヤ 61:3 シオンの嘆く人に/灰の代わりに頭飾りを/嘆きの代わりに喜びの油を/沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために。/彼らは義の大木/主が栄光を現すために植えられた者と呼ばれる。
- この章には、新約聖書に引用されていると思われる箇所もあり、単純ではないが、やはり、世界観がシオニズム中心であるように、感じさせる。引用句のシオンの嘆く人は、意図としては、捕囚帰還後荒れ廃れた、シオンを見て嘆くことなどを踏まえて理解すべきだろうが、この章全体からすると、やはりユダヤ人中心主義を支えるひとつとなってしまうように思う。歴史的には、中東だけでなく、東アジアや、少し時代は降るかもしれないが、アメリカ大陸などに、かなり独立した文明が存在していることがわかっている。そのような事実を踏まえて聖書を読み直すことは当然だと思うが、神の御心の記述として、そこを出発点とすると、ひとは、簡単に誤った方向にいってしまうとも感じた。聖書は、イザヤ書だけではないので、丁寧に読んでいきたいが、ひとの愚かさとともに、真理探究の難しさも感じる。
- イザヤ 62:11,12 見よ、主は地の果てまで布告された。/娘シオンに言え。/見よ、あなたの救いがやって来る。/見よ、その報いは主と共にあり/その報酬は御前にある。彼らは聖なる民、主に贖われた人々と呼ばれ/あなたは、尋ね求められる女/見捨てられることのない町と呼ばれる。
- シオンの回復が、「私の喜びは彼女にある」と呼ばれるような女性として、そして、地の果てまで布告されるものとして描かれている。ユダヤ人中心の救いが語られていると理解しても、間違いないのだろう。ここから、イザヤ書の最後までは、あと少しとなっているが、イザヤ書全体を編集した人・グループの基本的な立ち位置が見えてくるのかもしれない。あと少し、丁寧に読んでいきたい。
- イザヤ 63:8,9 主は言われた/彼らは確かに私の民、偽りのない子らであると。/そして主は彼らの救い主となられた。彼らが苦しむときはいつでも、主も苦しまれた。/御前に仕える御使いによって彼らを救い/その愛と憐れみによって彼らを贖い/昔からずっと彼らを負い、担ってくださった。
- 主が救い主ということが、ここでは、彼らが苦しむ時はいつでも、主も苦しまれたという表現になっている。おそらく、苦しい中にいるとき、ひとは、このような存在が一番嬉しいのだろう。苦しみのなかを共に歩んでくださるかた。通常は、全知全能で、なんでも解決してくださる方として、救い主を求めるが、自分の罪深さや、問題の複雑さなどを振り返ると、簡単に、救いを描けないことは、真実であると思う。異なる他者で、同じ苦しみを感じるわけではないが、異なる痛みかもしれないが、苦しまれる主、そこに希望を見出すのかもしれない。「あなたは私たちの父です。/アブラハムが私たちを知らず/イスラエルが私たちを認めなくとも/主よ、あなたは私たちの父です。/「私たちの贖い主」がいにしえからあなたの名です。主よ、なぜあなたは私たちを/あなたの道から迷い出させ/私たちの心をかたくなにし/あなたを畏れないようにされるのですか。/立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの所有の民である部族のために。」(16,17)など、複雑な苦しみの中での訴えは、どのようなことばでも、ある真実が表現されているのかもしれない。
- イザヤ 64:9-11 あなたの聖なる町は皆、荒れ野となりました。/シオンも荒れ野となり/エルサレムは荒れ果てました。私たちの聖なる、栄光の神殿/私たちの先祖があなたを賛美した場所は/火で焼かれ/私たちが喜びとした場所はことごとく/廃虚となりました。主よ、それでもなお/あなたはご自分を抑えて黙し/私たちをひどく苦しめられるのですか。
- 引用した悲痛な叫びの前に、どれほど罪を犯し、汚れた者であるかが、「私たちは皆、汚れた者のようになり/私たちの正義もすべて/汚れた衣のようになりました。/私たちは皆、木の葉のように枯れ/私たちの過ちが風のように/私たちを運び去りました。」(5)などの印象的なことばで告白されている。神を待ち望むものは、まさに、このようなものだということなのだろうが、そして歴史的には、このような告白は意味があるのだろうが、日常生活からは、少し離れているように感じる。やはり、このイザヤ書または第三イザヤと言われる集団がどのような環境で、どのように生きていたかがわからないと、ことばの背後にある真実が見えない。もし、捕囚帰還後のことであるなら、ネヘミヤ記にあるような異邦人との婚姻を厳しく断罪したり、排斥していたりが背後にあるのかも知りたい。そのような背景をしることは許されていないのかもしれないが。
- イザヤ 65:25 狼と小羊は共に草を食み/獅子は牛のようにわらを食べ/蛇は塵を食べ物とし/私の聖なる山のどこにおいても/これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない/――主は言われる。
- この章の最後には引用句のような「新しい天と新しい地」(17b)のビジョンが展開される。主なる神がどのような方であるか、そして、どのように滅ぼされるか、さらに、残りのものとここでは明確には書かれていないが、そのようなものも想定されているのか。それほどに、どうしようもない汚れの状態をみているのだろうが、正直、このような一新は、あまり本質をつたえていないように見える。このようなものであれば、主なる神の創造の失敗事例ともなってしまうから。主なる神と、不完全な弱い人間がどのように、関係を育むか、この明らかに難しい難題にどう取り組むかこそが、関心事であると思う。残りのもののことは、明確ではないように見えるが、これも、全体としてイスラエルや神の民を捉える歴史観で、信仰の中心、または重要な部分であるとも思われる、主なる神と個人との関係を蔑ろにすることのようにも思われる。
- イザヤ 66:21,22 私は彼らの中からも祭司やレビ人を選ぶ――主は言われる。私の造る新しい天と新しい地が/私の前にいつまでも続くように/あなたがたの子孫とあなたがたの名も/いつまでも続く――主の仰せ。
- イザヤ書最後の章である。最初を見ると、主の王座の場所は、特定されていないようにもとれるが、20節をみるとやはり、エルサレムに特定されているのかもしれない。祭司は、イスラエルの中だけではないのかもしれない。いずれにしても、回復、新しい世界の創造が語られているが、明確とまでは言えない。これがイザヤ書の最後ということは、隠されていること、わからないことが多いというあたりが結論なのかもしれない。だからこそ、信仰が、そして、求め続けることが大切なのだろう。ただ、イザヤ書を読んできて、終わり方として、さまざまな面が語られてきたが、不満が残ることも確かである。それで良いのかもしれない。
AI による応答(37章まで):Claude・ChatGPT・Gemini
AI による応答(38章以降):Claude・ChatGPT・Gemini
エレミヤ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.5.18-2-6.13-1)
- エレミヤ 1:11,12 主の言葉が私に臨んだ。/「エレミヤよ、何が見えるか。」/私は答えた。/「アーモンドの枝が見えます。」主は私に言われた。/「あなたの見たとおりだ。/私は、私の言葉を実現するために見張っている。」
- 「ベニヤミンの地アナトトにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、主の言葉が彼に臨んだ。さらにユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。」(1-3)祭司の子と書かれ、祭司とはなっていないので、30歳前ということなのだろうか。すると、最初は、かなり若かったことになる。引用句が、主の最初の言葉の一部分でもあるが、主が見張っているそこでの出来事だということが、第二次または最終的な捕囚だろうか、その時まで、または、それを超えて、エレミヤには、生涯重要なことだったのかもしれない。
- エレミヤ 2:2 行って、エルサレムの人々の耳に呼びかけよ。/主はこう言われる。/私は覚えている/あなたの若い頃の誠実を/花嫁の時の愛を/種の蒔かれない地、荒れ野で/あなたが私に従って来たことを。
- 離れてしまった内容の一部がこの章に書かれている。基本的には、他の神々(偶像)を拝むようになったこと、そして「主があなたを道で導かれたときに/あなたが、あなたの神である主を捨てたので/このことを身に招いたのではないのか。それなのに今、エジプトの道に向かい/ナイルの水を飲もうとするとは/一体どうしたことか。/また、アッシリアの道に向かい/ユーフラテスの水を飲もうとするとは/一体どうしたことか。」(17,18)としている。主と我、主と我らという関係をもとに築かれていた信仰が、アッシリアやおそらくこの時代はバビロンなどの脅威のもとで、これは、人間が考えることとして助けを求めたのだろう。「わが民は二つの悪をなした。/命の水の泉である私を捨て/自分たちのために水溜めを掘ったのだ。/水を溜めることもできない/すぐに壊れる水溜めを。」(13)たしかに、自分に頼る行為なのかも知れない。しかし、後世の我々の時代からみると、主なる神が、イスラエルの神なのか、全世界の創造者なのか、全世界に関わることであれば、イスラエルはどのような位置づけにあるのかなどが、不明確、すくなくとも、人々の中では、明らかではなかったのではないだろうか。捕囚や捕囚帰還後の時代まで待たないといけないのか。現代でも、自然災害などについては、神を求めるが、人間世界のこと、政治などは、どんどん、信仰から離れている。どのように信仰を育むかは難しい。
- エレミヤ 3:6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての生い茂る木の下に行って淫行にふけった。
- ヨシヤの時代、アッシリアの勢力は弱くなっていたのだろうか。末期には、エジプトと戦うこともあったようだ。いずれにしても、北イスラエルは滅ぼされ、南ユダは、エルサレム周辺が残されて貢を収める状況になったことは確かだろう。これが書かれた時代の正確な特定はできないが、北イスラエルの滅亡から何を学ぶかにエレミヤは倫理的な表現で、問題点をついている。エルサレムではある程度、主を求めることはなされていたろう。エレミヤはまだ若いのかも知れないが、ヨシヤの改革といわれるものがあったとして、どのようなことが実際になされていたかは、正直よくわからない。いずれにしても、その中で、エレミヤは、主の御心を伝えようとしたのだろう。必死さは伝わってくる。
- エレミヤ 4:1-3 イスラエルよ、もし立ち帰るなら/私のもとに立ち帰れ――主の仰せ。/憎むべきものを私の前から除くなら/あなたは決してさまようことはない。真実と公正と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国民は主によって祝福を受け/主を誇りとするようになる。主はユダの人/エルサレムに住む人々にこう言われる。/あなたがたの開墾地を切り開け。/茨の中に種を蒔くな。
- このあとには「ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/心の包皮を取り除け。」(4a)と印象的なことばも続く。そして、北からの脅威が語られる中でのエレミヤのことばが語られている。エレミヤには、信仰的な面で清められなければという思いが強かったのだろう。この章には、ダン、エフライムということばも登場する。このころに、これらはどのような状態だったのだろう。荒れ果てていたのだろうか。「私のはらわた、私のはらわたよ。/私はもだえ苦しむ。/私の心臓の壁よ、私の心臓は高鳴る。/黙ってはいられない。/私の魂は角笛の響きを/戦いの鬨の声を聞くからだ。」(19)私が誰だかは明確ではないが、エレミヤのこころが主のことばと一体になっているのかもしれない。このような危機的な時に、どうしたら良いのかは、簡単ではない。わたしならどうするのだろうか。主に信頼することを第一にしつつもやはりできる限りのことで、家族や、周囲の人など、多くのひとにとって何がよいのか、考えるだろう。難しいが。
- エレミヤ 5:18,19 しかし、その日にも、私はあなたがたを滅ぼし尽くしはしない――主の仰せ。「我々の神、主はなぜ、我々にこれらすべてのことをされたのか」と彼らが言うなら、あなたは彼らに言いなさい。「あなたがたが私を捨て、自分たちの国で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分のものではない国で他国人に仕えることになる。」
- 「エルサレムの通りを行き巡り/見渡して知るがよい。/町の広場で探せ。/一人でも見つかるだろうか/公正を行う者、真実を探求する者が。/もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。」(1)と始まるが、実際には、おそらく、正確ではないのだろう。熱心さが、かえって他者と共に祈ることを妨げているようにもみえる。現代でも起こることでもある。しかし、引用句のように、ここまで見通して、語っているとも言える。実際には、滅ぼし尽くされてはいない時代、なにを語るかは難しように思う。神理解の深化も必要だろう。それが、預言者の仕事でもある。葛藤は、受け取れるように思う。そこにエレミヤのそしてエレミヤ書の真実もあるのだろう。
- エレミヤ 6:18,19 それゆえ、諸国民よ、聞け。/会衆よ、知れ。彼らの中で私がなすことを。地よ、聞け。/私はこの民に災いをもたらす。/彼らのたくらみが結んだ実を。/彼らが私の言葉を心に留めず/私の律法、それを彼らが退けたからだ。
- 「ベニヤミンの子らよ/エルサレムの中から避難せよ。/テコアで角笛を吹き鳴らし/ベト・ケレムに向かってのろしを上げよ。/災いが北から見下ろしている/大いなる破滅が。」(1)から始まる。ベニヤミンにこのように具体的に語る意味はわからないが、全体としては、エルサレム中心に、不信、不従順が満ち、北からの危機が迫っていることが繰り返し述べられている。このようなときに、悔い改めを求めているように見えるが、正直、手詰まりでもあろう。暴利を貪るのも、このような状況での悪あがき、人間の弱さの表現でもあろう。非常に困難なときであることは伝わってくる。さらに、このあとのユダヤ人の歴史を考えると、ポグロムなどで、繰り返し、残虐な迫害を受ける中で、祈りに専念する指導者にたいして、疑問も生じ、団結して、自衛を目指すという、現在のイスラエルのひとつの形(全体ではないが)を考えると、行き詰まりも感じる。個人的には、主の側にも、苦しみがあるのではないかと思うが、それはまた別次元のことか。
- エレミヤ 7:12,13 さあ、初めに私がわが名を置いた、シロにある私の場所に行ってみよ。そして見るがよい、わが民イスラエルの悪のゆえに、私が行ったことを。今、あなたがたはこれらのことをすべて行っている――主の仰せ。そして私があなたがたに繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。私が呼んだのに、あなたがたは答えなかった。
- この章にはエルサレムの腐敗、不信、偶像礼拝などについての批判も書かれているが、今後起こることとして、シロのことが書かれている。サムエルの時代に、シロがたいせつないけにえを捧げる場所であったことは書かれているが、イスラエル分裂時代、シロは、どのような役割を果たしたか、聖書には、どのように書かれているのか、疑問に思った。また、考古学的には、シロについて、ある程度わかってきているのだろうか。エレミヤの時代に、シロはどのような場所、または象徴だったのだろうか。
- エレミヤ 8:1-3 主の仰せ――その時、彼らはユダの王たちの骨、高官たちの骨、祭司たちの骨、預言者たちの骨、そしてエルサレムの住民たちの骨を墓から引き出し、彼らが愛し、仕え、従い、尋ね求め、ひれ伏した太陽や月、天の万象の前に、それらをさらす。それらは集められることも葬られることもなく、地の面で肥やしとなる。この悪い一族の残りの者は皆、私が追いやった残りの者たちのいるすべての場所で、生よりも死を選ぶだろう――万軍の主の仰せ。
- いろいろと考えさせられる箇所である。しかし、今日は、ちょっと違う観点から考えてみたい。基本的にエレミヤ書は、広い意味であろうが、偶像礼拝を告発し、主なる神以外の神に、向かっていったことが、現在の危機の背景にあると主張することが中心にあるように思う。しかし、現代に目を移すと、神を畏れること、人間にはどうにもならないことがあるという、根本的な部分が失われてしまっているように見える。経済や政治的な力、それが世界を制御するとして、それを自由に使う方向に向い、自然のなかで、人間が無力であることには、目を向けない。カリフォルニアや、日本でも起きている山火事や、日本では多い、地震、それ以外にも、人間関係の複雑さ、まさに経済や政治に関係する貧富の差の拡大などを考えると、AI が発達しても、おそらく、簡単には、解決できないことばかりのように思う。「畏れ」という根本的な認識について、もう少し向き合う必要があるように感じる。
- エレミヤ 9:22,23 主はこう言われる。/知恵ある者は自分の知恵を誇るな。/力ある者はその力を誇るな。/富める者はその富を誇るな。誇る者はただこのことを誇れ。/悟りを得て、私を知ることを。/私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。/これらのことを私は喜ぶ――主の仰せ。
- 9章の最初「荒れ野に旅人の宿を持っていたなら/私はわが民を見捨て/彼らを離れ去るものを。/彼らは皆、姦淫する者たちだ/裏切る者の集まりだ。」(1)の意味はよくわからない。なにを伝えているのだろうか。この章は様々な、ある意味では雑多な問題について指摘しているが、引用句は、本質的なこととして指摘しているように見える。ただ、このあとには、割礼を受けたものを罰する、心に割礼を受けていないからだと続く。情報として基本的なことを整理したいが、現代では、東アフリカなどで、女性の割礼も含め、割礼をしている民族がいる。これは、ユダヤ教の影響なのだろうか、古代には、ユダヤ人以外にも割礼をしていた民族はある程度あったように思うが。
- エレミヤ 10:19 ああ、災いだ。/私は傷を負い/私の傷は痛む。/しかし、私は言った。/「これこそ私の病。/私はそれを負わなければならない。」
- 前半は、偶像礼拝の愚かさが続き「このようにあなたがたは彼らに言え。/『天と地を造らなかった神々は/地からも、これらの天の下からも滅びる』と。」(11)と明言する。後半はいろいろな内容が書かれており、十分理解出てきていないかも知れないし、この部分がいつ書かれたのかも不明だが、すでに、エルサレムも蹂躙され、ユダが滅ぼされたあとに身を置いているようにも見える。いずれにしても、引用句では痛み、病を負うことが書かれ、主に心を注いて祈っている。読んでいても心が痛む。エレミヤの正しさの主張と同時に、痛みがあるところに、訴えかけるものがあるのかも知れない。
- エレミヤ 11:14 あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声を上げてはならない。災いのゆえに彼らが私を呼び求めるときも、私は決して聞かないからだ。
- 「この契約の言葉を聞け。あなたはそれをユダの人に、エルサレムの住民に告げよ。」(2)から始めるが、契約について述べつつ、引用句のように、祈るなともエレミヤに語っている。最後には、エレミヤの出身地・祭司の家系としては仕えていた地でもあるが、聞き従わないアナトトの人々への裁きも語られる。かなり緊張した状態であることを感じる。前の章に「主よ、私は知っています。/人間の道はその人自身のものではなく/歩く者が自分自身の足取りを/確かにすることもできないことを。」(10:23)ともあるが、このような中でどう生きればよいかは、本当に難しい。
- エレミヤ 12:1 私があなたと争うときも/正しいのは、主よ、あなたです。/それでも私は、裁きについてあなたと語りたい。/なぜ、悪しき者たちの道は栄え/裏切る者たちが皆、安穏としているのですか。
- へりくだりつつも、神の公平・公正さにたいする問い、挑戦から始まる。現代でも感じる、理不尽な現実という表現が適切かもしれない。エレミヤの苦悩は、相続地を見放し、愛するものを敵の手にわたし、ぶどう畑が荒れ果てているすがたが語られている。やるせない気持ちになるのだろう。この章の最後には、主のことばとして、かならず、悪しき隣国は、裁かれることが書かれている。しかし、この裁きに望みをおくことには、救いはないように、わたしは思う。主なる神の側の苦しみ、問題の大きさ、全知全能と思われる神であっても、ある自由意志のもとで神を愛し、主なる神との、そして互いの信頼関係を築き、愛し合う方向に向かうのは、非常に困難なことなのだろう。今の時が、なにを目指しているかを考えたい。難しい中にいるが。
- エレミヤ 13:13,14 あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。私は、この国のすべての住民たち、ダビデの王座に着く王たち、祭司たち、預言者たち、およびエルサレムのすべての住民たちを酔いで満たし、互いに打ちつけて粉砕する。父と子も同じように。私は同情せず、惜しまず、憐れまず、彼らを砕く――主の仰せ。」
- このあとには「王と太后に言え。/身を低くして座れ。/あなたがたの誉れある冠は/頭から落ちた。」(18)もある。引用句の表現があまりよく理解できない。酔いで満たすことと、打ち砕くことは、どのような事態を表現しているのだろうか。王と太后は、ここでは誰なのだろうか。これを告げることは辛いだろうが、同時に、告げられたものが、どう応答するかもむずかしい。ひとは、このようなときに、何が求められ、どのように生きたらよいのだろうか。どうにもならない時が、人生には、あるように思う。
- エレミヤ 14:8,9 イスラエルの希望、苦難の時の救い主よ。/なぜ、あなたは、この地に身を寄せる者/一夜を過ごす旅人のようなのですか。戸惑う人/人を救えない勇士のようなのですか。/主よ、あなたは私たちの中におられます。/私たちは御名によって呼ばれています。/私たちを見捨てないでください。
- 干魃の預言から始まり、次に引用句がある。この二節の表現は、あまり、他には出てこないように見える。預言者は、ここで、何を訴えようとしているのだろうか。そして、超越した神ではなく、私たちの中におられますと、明確に語っている。わたしたちの中に住むことが困難であることも、理解できる。そして同時に、ここでは、中におられ、身を寄せて一夜を過ごすものと表現しているのだろう。
- エレミヤ 15:19-21 それゆえ、主はこう言われる。/もしあなたが立ち帰るならば/私はあなたを立ち帰らせ/あなたは私の前に立つ。/もしあなたが無価値なことでなく/尊いことを口にするなら/あなたは私の口のようになる。/彼らがあなたのところに帰るのであって/あなたが彼らのところに帰るのではない。私はあなたを、この民に対して/堅固な青銅の城壁とする。/彼らがあなたと戦っても/あなたには勝てない。/私があなたと共にいてあなたを救い/助け出すからである――主の仰せ。私はあなたを悪人の手から助け出し/凶暴な者の手から贖う。
- この章では、完全な滅びが告知され、さらに、エルサレムの裁きが明確に書かれているが、最後は、引用句でしめられている。エレミヤも強く感じている、痛み、傷、しかし、悔い改めるならが続く。滅ぼされたら終わりなのではないのだろうか。そう、当時の人が考えるのも、当然ではないかと思うが、どのようなメッセージなのだろうか。難しい。
- エレミヤ 16:11-13 あなたは彼らに言いなさい。「あなたがたの先祖が私を捨て、他の神々に従い、これに仕え、これにひれ伏し、私を捨て、私の律法を守らなかったためである――主の仰せ。あなたがたは、先祖よりも、さらに大きな悪を行った。しかも、おのおのかたくなで悪い心に従って歩み、私に聞き従わなかった。私はあなたがたをこの地から、あなたがたも先祖も知らなかった地へ追い払う。あなたがたは、そこで昼も夜も、他の神々に仕える。私はあなたがたに恵みを施さない。」
- 前半のエレミヤが受け取った神の言葉や、なぜ滅ぼされるのかという理由を述べた引用句の部分を読むと、エレミヤの真摯さは理解できるが、どうしようもない状況のなかで、このようなことばが良かったのかは正直疑問に感じる。むろん、ではどうしたら良いのかと考えると、方策があるわけではない。わたしなら、絶望の中でも、互いにいたわりあい、助けあい、主なる神に委ねたいと思うが。エレミヤの預言を周囲の人は、どのように聞けばよいかも難しかったろう。自分の罪を認め、悔い改め、しかし、恐怖のなかで、おじ惑っていた人もいただろう。ポグロムやホロコーストなどのときも同様かもしれない。ひとは複雑系の世の中にすみ、天災もあり、社会的な枠組みも含み、どうにもならないこともたくさんある。そして、その背景もわからないこともおおい。その中でどう生きたら良いのか、そのことを考えたい。エレミヤからも信仰者の生き方としてヒントを貰いたい。
- エレミヤ 17:14-16 主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます。/私を救ってください。/そうすれば私は救われます。/あなたこそ、私の誉れだからです。御覧ください。/彼らは私に言います。/「主の言葉はどこにあるのか。/さあ、それを実現させてみよ」と。私は、あなたに従う牧者であることから/逃げたことはありません。/病になる日を望んだこともありません。/あなたはご存じです。/私の唇から出るものはあなたの顔の前にあります。
- エレミヤの人間としての弱さも率直に語られ、人々から責められるなかで、主の前に立つエレミヤの姿は、素晴らしいと思う。同時に、このあとも、安息日の遵守など、主を第一にすることを主張するメッセージが続く。一般的に人は弱く、その弱さは、ひとによっても異なり、どの度合いも、簡単には比較できない。逃げ込む先を人がもつのも、この弱さ故の自己防衛の手段でもあるように思う。正しさを中心におくエレミヤのメッセージは、おそらく、現代のように、様々な人の考え方が工作する時代を考えても、限界があるように感じる。だからといって、わたしが回答を持っているわけではないが。一人ひとりの弱さ、苦しさは理解できなくても、思い巡らし、自分のをも正直に語り、しかし同時に、そのときに与えられることばに生きるものでありたい。その生き方は、エレミヤとは異なるかも知れないが。
- エレミヤ 18:21 それゆえ、彼らの子らに飢饉をもたらし/剣に渡してください。/彼らの妻が子を失い、やもめとなり/夫は殺害されて、亡くなり/若者は戦いで剣に打たれますように。
- エレミヤは正しさを貫く、これこそ主のことばと信じるものを主からのメッセージとして語り続ける。状況が緊迫していく中で、そのようなエレミヤを抹殺しようとする計画が起こっているのだろう。主に、裁きを願う。裁きは、おそらく、課題解決にはならない。それは、現代でも同じで、正しくない人の排除で可能なことは殆どないように思う。何らかの教育、周知は必要だろうが。エレミヤの時代でも、創造神と書いておくが民族の神ではなく、もう少し広い意味での神認識が広がってはいても、一般庶民や、下級官僚まで、浸透していたかどうかは不明である。エレミヤは正しいか知れないが、それは、彼の住んでいた世界と隣接した空間だけのようにも思う。現代でも、理解できていない、他者の痛みや悲しみはわからない世界が殆どの中で、裁きを問題解決の手段とすることには、人間の性とはいえ、課題の大きさを感じる。
- エレミヤ 19:6,7 それゆえ、その日が来る――主の仰せ。この場所がもはやトフェトともベン・ヒノムの谷とも呼ばれず、虐殺の谷と呼ばれる日が。私はユダとエルサレムの計画をこの場所で打ち砕く。私は彼らを敵の前で剣によって、また命を狙う者の手によって倒し、その死体を空の鳥、地の獣に餌食として与える。
- ベン・ヒノムとトフェトについては、正確な知識は持っていないが、列王記下23:10によると、トフェトはベン・ヒノムのの中の地名のようである。どのような場所として知られているのだろうか。また、考古学的には、どのようなことが確認されているのだろうか。おそらく、偶像礼拝が関係していのだろうが、虐殺の谷と呼ばれるともいわれている。このことの、検証はされているのだろうか。いずれにしても、当時のひとたちとともにいることは難しいし、エレミヤの厳しさと向き合うことも困難に感じる。違う空間、異なる時間帯に生きるものの、限界なのかも知れない。
- エレミヤ 20:13 主に向かって歌い、主を賛美せよ。/主は貧しい人の魂を/悪をなす者の手から救われた。
- ここでは、エレミヤに実際の迫害がおこったことが、書かれ、そのなかで、主に信頼し続け、語り続けることを使命とする、エレミヤのことが書かれている。主の神殿の責任者で監督者でもある祭司イメルの子パシュフルについては、ここだけではよくわからない。しかし、パシュフルに関する預言も書かれていて、エズラ2章には、イメルの一族、パシュフルの一族と現れる。どう理解したら良いのだろうか。引用句では、「貧しい人」という言葉が登場するが、これは、どのように、理解したらよいのだろうか。エレミヤ自らも投影しているのだろうか。全体として、不明な点が多い。
- エレミヤ 21:11,12 ユダの王家に対して。/「主の言葉を聞け。ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。/さもなければ、あなたがたの悪行のゆえに/私の憤りは火となって燃え上がり/消す者はいないであろう。
- 最初にマルキヤの子パシュフルが登場するが、イメルの子パシュフルとは、異なる人と考えてよいのだろうか。結局、エレミヤは、ゼデキヤ王への答えとして、どの部分を伝えたのかあまり明確ではない。4節から6節だろうか。さらに民に語るが、引用句は、ユダ王家にとなっている。内容的にも、整合性に欠けるようにも見える。どのようなメッセージだたのだろうか。
- エレミヤ 22:20 レバノンに上って叫び/バシャンで声を上げ/アバリムから叫べ。/あなたの愛する者が皆、砕かれたからだ。
- 展開が早く、すべて理解できるわけではないが、最初に現在も生きている主のことばなのか、過去に語られたことを思い出さすためにあるのか、王への主の命令が書かれている。そして、それに従わなかったということによる滅びとその結果が書かれている。ヨシヤがエジプトとの戦いの中で死に、その子ヨアハズをエジプトに連れていき、やはりヨシヤの子のエルヤキムをヨヤキムと名前を変えさせて隷属させたと列王記下23章にある。そのあとは、今度はバビロンによりヨヤキン、ゼデキヤと続く。ヨアハズが、11節のシャルムだろうか、ヨヤキンが24節コンヤだろうか。変化が目まぐるしく、記録も十分ではないように見えるので、この章についても、不明なことが多い。基本的なこととして、引用句の、レバノン、バシャン、アバリムはどのような位置づけで、ここでなぜこれらが挙げられているのかも気になった。
- エレミヤ 23:38-40 もし、あなたがたが「主の託宣」と言うなら、主はこう言われる。「私はあなたがたに『主の託宣』と言ってはならないと命じたのに、あなたがたは『主の託宣』と言った。それゆえ、私はあなたがたを全く忘れ、あなたがたと先祖たちに与えた町を、私の前から捨てる。そして私は、あなたがたに忘れることのできない永遠のそしりと永遠の辱めを与える。」
- 長い章なので、十分読み込めていないが、一部祭司も含むが、基本的に、通常、偽預言者といわれる人たちについて語りかけ預言している箇所なのだろう。たしかに、主の託宣ではないものを、主の託宣として、危機的な状況で、偽りの平和を語るのは問題であろうが、人の弱さを考えると、そのような人を責める気にはなれない。エレミヤはそれだけの確信があったのだろうが、他者を責めることは、自分の正しさを主張するためにも、必要だったのかも知れないが、このどうしようもない時に、わたしは少し異なる感覚を持つ。ほんの一部しかわからないことは、エレミヤも似たりよったりで、なかなか、エレミヤの気持ちに寄り添えないが、それが、置かれた環境の違いなのかも知れない。
- エレミヤ 24:1,2 主は私に示された。見ると、主の神殿の前に二籠のいちじくが置かれていた。それは、バビロンの王ネブカドレツァルがユダの王であるヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、職人、鍛冶屋をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。一つの籠には初なりのような上等のいちじくがあり、もう一つの籠には食べることもできない傷んだいちじくがあった。
- 印象的ないちじくのたとえである。この一回目の捕囚の民の中には、エゼキエルもいたと思われる、ダニエルたちもそうだろうか。よいいちじくとみなされている。捕囚帰還民を考えると、よいいちじくという表現はある程度受け入れられるが、「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。」(7)と言えるかどうかは、疑問ももつ。ひとは、つねに、主に、反逆的であるのだから。なにか、このことによって問題が解決するとの希望をもつなら、虚しいようにも思う。8節から最後まで、結局、それ以外のひとたち、エレミヤが非難していた人たちに対して、厳しい裁きを伝えるための、対比であるようにも見える。ここからメッセージを受け取るのはそれほど簡単ではない。
- エレミヤ 25:17,18 そこで、私は主の手から杯を取り、主から遣わされて行った先のすべての国民に飲ませた。エルサレムとユダの各地の町、その王たちと高官たちに飲ませた。彼らを今日のように廃虚とし、恐怖と嘲りと呪いの的とするためである。
- この章には、有名な七十年という預言が書かれている。正確には、これが、いつから、七十年なのかは明確ではないが、一次捕囚から、一次帰還までだろうか。エレミヤ書が、捕囚の地で読まれ、希望を与えたことは、確かなのかも知れない。引用句は、だれが「主から遣わされて行った先のすべての国民」を表しているのか、よくわからない。いずれにしても、主が、完全に滅ぼされることを、伝えるメッセージなのだろうか。「主は、若獅子のように、その住みかを捨てられた。/激しい怒りによって/燃える怒りによって、彼らの地は荒れ果てた。」(38)これが、エレミヤが受け取ったことなのだろう。おそらく、七十年との希望だけを持って生きるなら、適切ではないのだろう。人の悔い改めでこころが改変されるのは難しいし、本質的ではないのかも知れないが。
- エレミヤ 26:1-3 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ。「主はこう言われる。主の神殿の庭に立ち、主の神殿に礼拝に来るユダのすべての町の者に向かって、私が命じた言葉をすべて語れ。一言も減らしてはならない。彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、私は彼らの悪行のゆえに下そうとしていた災いを思い直す。
- 時代がすこし戻っている。時系列では、つながっていないのだろう。主の言葉が記され、これを聞いて、エレミヤを殺そうとする人たち(「祭司と預言者たちとすべての民」と書かれている)、そして、エレミヤが高官に向かって語ることば、さらに、高官達とすべての民が、過去にミカや殉教したウリヤが語ったことを思い出し殺してはならないといったことなどが書かれている。最初の主のことばも、応答は一人ひとり異なるし、一人ひとりの中でも、揺れがあるだろう。危機のなかでは、ひとの心は揺れる。エレミヤのような一貫した正しさは必要なのだろうが、預言という行為は難しい。わたしならエレミヤの時代どう生きるだろうか。
- エレミヤ 27:1-3 ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の初めに、この言葉が主からエレミヤに臨んだ。「主は私にこう言われる。軛の綱と横木を用意して、あなたの首にはめよ。そして、エルサレムにいるユダの王ゼデキヤのもとに来た使者たちの手によって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王に伝言を持ち帰らせよ。
- また、ゼデキヤの時代に戻っている。ここで、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王が登場するが、おそらく同じように、バビロンの攻撃が身近に迫っていたと思われるが、ユダとこれらの王の関係はどうだったのだろうか。あるリーダーシップを保っていたのだろうか。その力は無いように思われるが。同盟など、何らかの根拠は、歴史的に残されているのだろうか。軛については、ゼデキヤに降伏を勧めているが、主の神殿が破壊されず、祭具が残されることのたいせつさを主張しているようにも見え、その保証もないだろうから、疑問にも感じる。エレミヤにとっても、神殿のことがおおきな懸念だったのだろうか。
- エレミヤ 28:15,16 さらに、預言者エレミヤは預言者ハナンヤに言った。「ハナンヤよ、よく聞け。主はあなたを遣わされていない。あなたは偽ってこの民を安心させようとした。それゆえ、主はこう言われる。私はあなたを地の面から追い払う。あなたは今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。」
- エレミヤこそが、主が遣わされたことの証言なのだろうが、正直、あまり、興味はわかない。正しさは、人間の限界を表すものでもあると考えるからだ。ここに書かれたことによって、エレミヤが主が遣わされた預言者で、ハナンヤはそうではないことが示されたのだろう。しかし、ハナンヤの心の中までは、わからない。ハナンヤが、これこそ主の言葉と信じて、伝えていたのだとしたら、それをわたしは否定できない。また、誤って、主の言葉を受け取ることも、誠実な信仰生活を送っていても、あると思う。このような考え方は、信仰的ではないのかも知れないが。
- エレミヤ29:11 あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている――主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。
- 若い頃、引用句のような部分を覚えて、感謝して祈っていた時期もある。これは、エレミヤの手紙の一部分であるだけではなく、それが自分にも適用できるものかどうかはまったく不明である。たしかに、信仰者の中にはそのような読み方をするひとも一定度いるだろう。そして、全体的な文脈のなかで読むことは難しいことも確かである。このあと、ゼデキヤが裁きとして殺されることも告げている。これは、歴史的にも正しくないように思うが、それは、置いておいても、このエレミヤの手紙をどう読むか、捕囚のひとたちの受け取り方、そして、現代において、どう読むか、いずれも、難しさを今は感じる。
- エレミヤ 30:2,3 「イスラエルの神、主はこう言われる。私があなたに語った言葉を一つ残らず巻物に書き記しなさい。その日が来る――主の仰せ。私は、わが民、イスラエルとユダの繁栄を回復する――主は言われる。彼らをその先祖に与えた地に帰らせ、彼らはそれを所有する。」
- 困難な時代から、回復の約束が語られる。しかし、これを読むと、エルサレム帰還によって、得られるものとは、やはり異なるようにも見える。この章では、完全な回復が語られているが、それがすぐに実現されるわけではない。さらに、土地に住んでいる人も含め、状況はより複雑になっているとも言える。現代では、さらに、複雑になっているだろう。これを、どう読み、どのような希望を持って生きるのかは、難しい。個人的には、土地の回復など、農業・牧畜をしているときには、基本的なものなのだろうが、そこでの回復を願うのは、さらに、困難な状況に、民を導くことにも思われるが、エレミヤは、どこまでをこの幻でみているのだろうか。
- エレミヤ 31:18-20 私はエフライムが嘆くのを確かに聞いた。/「あなたは私を懲らしめ/私は飼い馴らされていない子牛のように/懲らしめを受けました。/私を立ち帰らせてください。/私は立ち帰りたいのです。/あなたこそ私の神、主だからです。私は背いた後で後悔し/思い知らされた後で腿を打ちました。/私は恥じ入り、その上辱められました。/若い時のそしりを負っているのです。」エフライムは私の大事な子ではないのか。/あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。/彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し/彼のために私のはらわたはもだえ/彼を憐れまずにはいられない――主の仰せ。
- 回復とも関係して、特に、エフライムに代表される、北イスラエル王国の人々について確認しておきたい。イスラエルとかヤコブというときは、12部族または、レビを別に数えれば13部族をさすのだろうが、数え方は別として、エレミヤの当時、アッシリアによって滅ぼされた北イスラエルの人たちについては、どの程度わかっていたのだろうか。一部は、アッシリアによる北イスラエル滅亡のときに、ユダに逃れてきた人たち、おそらく、レビびとなどは、そうだろうが、しかし、山がちな南ユダで、十分な収容力はなく、北イスラエルには、他民族も入植されてきているといわれている。エレミヤが、エフライムと書く時、どの程度の知識を持っていたのだろうか。他の記録や、考古学なども含め、どの程度わかっているのだろうか。このあとの時代に、ユダヤ人とかイスラエルということばで民族を語る時、まずは、この時代について確認しないといけないので。
- エレミヤ 32:3-5 彼を拘留したときに、ユダの王ゼデキヤが言った。「なぜ、あなたはこんな預言をするのか。『主はこう言われる。私はこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの都を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃れることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、互いに口を利き、目と目を合わせることになる。ゼデキヤはバビロンへ連行され、私が彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれる――主の仰せ。たとえあなたがたがカルデア人と戦っても、勝つことはできない』と。」
- ゼデキヤの口から、エレミヤ預言が語られている。ゼデキヤにとっては、これが真実であることを受け入れられないというより、悪いことを語ることが理解できなかった面もあるのかも知れない。あくまでも人間視点、人間に都合の良い視点に縛られていたということなのだろうか。ゼデキヤに起こることについての預言をみると、29章21節のゼデキヤとは、異なるのか。同じ名前の人が多いのでの難しい。しかし、帰還預言も含まれているが、ゼデキヤ王はおそらく、戻っては来なかっただろう。このあとには、印象的なアナトトの畑を買う話が記録されている。戦争に負け滅ぼされれば、そのような証文は意味がなくなることは確かで、おじも、それを知っていたが、逃れる路銀が必要だったのかも知れない。しかし、エレミヤは、取引をすることがもう一度起こるということを証言するために買い取る。すごい人だとは思う。ただ、実際の帰還は、ほんの一部でしかおこない。この実態と意味については、また考えたい。
- エレミヤ 33:6-9 しかし、私はこの都に回復と癒やしをもたらし、彼らを癒やして、確かな平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めの時のように建て直す。私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らが私に対して犯し、背いた過ちのすべてを赦す。この都は地上のすべての国民にとって喜ばしい名声、賛美、誉れとなる。彼らは、私が行うあらゆる恵みの業について聞き、この都に私が与えるあらゆる恵みとあらゆる平和のために、恐れおののく。
- 人は脳の容量も心の幅も限界があり、そのためにも、実際には複雑であっても、単純化して伝える傾向があるのは、仕方がないのだろう。預言にもそのような面がある。ただ、このこと自体は、理解しておかないと、メッセージの本質を受け取りそこねるのかも知れない。実際との違いに目が行ってしまうので。AI が助けてくれる時代では、複雑なものを複雑なまま、パターン認識などから、人間には見えないものについても知ることができるようになるのだろう。しかし、同時に、人間が理解できることには限界があり、おそらく、AI が知りうることにも大きな限界があることを常に意識して、現実世界に臨むことが必要なのだろう。なにをたいせつにして学ぶかも含めて難しい。
- エレミヤ 34:6,7 預言者エレミヤはエルサレムで、この言葉をすべてユダの王ゼデキヤに告げた。この時、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町の中で、これらの城壁に囲まれた町だけがまだ残っていたからである。
- この章には、ゼデキヤ王への警告、奴隷の解放に関する件が書かれている。引用句では、ラキシュとアゼカの攻略のことが書かれている。ラキシュについては、大英博物館にレリーフが展示されていたと思うが、アゼカについても記録が残っているのだろうか。大枠としては、エジプト方面へ向かう途中だと思われるが、エジプト軍の援助は記録にないのだろうか。奴隷の解放については、この後に及んでも、私利私欲から離れられない指導者たちを描いているのだと思われるが、ヘブライ人の奴隷の解放の規定は、歴史的に、ある程度守られていたのだろうか疑問に思った。解放されても、生活の糧をえるなど、実際面は、様々な困難もあったとも思われる。聖書以外にも資料があるのだろうか。
- エレミヤ 35:1,2 「レカブ人の家に行って、彼らに語り、主の神殿の一室に連れて来て、ぶどう酒を飲ませなさい。」
- この章にはレカブ人の話が記されている。少し時代が戻っているが、危機に瀕しても、先祖代々守ってきたことを守り続けるレカブ人の行為が称賛されその祝福が章末に書かれている。(18,19)先祖の言いつけを守り「生涯、我々も妻も、息子、娘もぶどう酒を飲まず、住む家を建てず、ぶどう園も、畑も、種も所有せず、天幕に住んでいます。我々は、父祖ヨナダブが我々に命じたすべてのことに聞き従って、行ってきました。」(8b-10)とある。経緯もこの意味も書かれておらず、このことが何を意味するのがわからないが、他の人々特に指導者には、欠けているように見える、忠実さについてこのレカブ人は称賛されているのだろう。しかし私がレカブ人であったときには、そして、違う場所に移動して生活することになったときなどを考えると、先祖の教えを守ることはできないように思う。なにか、主の教え、主との契約に関係しているのだろうか。
- エレミヤ 36:4-6 エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が彼に語られた言葉をすべて巻物に書き記した。エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、主の神殿に入ることができない。あなたは断食の日に行って、私が口述したとおりに書き記したこの巻物の中から主の言葉を読み上げて、神殿にいる民に聞かせなさい。また、それぞれの町から来るすべてのユダの人々にも読み聞かせなさい。
- ヨヤキムの第4年とある。この記事を読むと、エレミヤ書成立の背景が書かれていると最初は考えるが、エレミヤの意図は、広い範囲の人たちに、語り聞かせることのようだ。このバルクは、32節には、書記官と書かれている。これだけで、実際の公職としての書記官かどうかは不明だが、書き記す訓練は十分受けたものだったのだろう。引用句では「私は閉じ込められていて」とあるが、どのような状況であるかは不明である。26節では、王はエレミヤとバルクを捕らえようとしたこと、主が隠されたことが書かれているので、余計、エレミヤの最初の状態がどのようなものであったかはっきりとはしない。エレミヤは、破られた巻物をもう一度、さらに、内容も増やして書き記す。伝えることが、まさに、預言者の使命だと考えていたのだろう。私達は、彼の命がけの働きから何を受け取ったら良いのだろうか。
- エレミヤ 37:11-13 ファラオの軍隊が進軍して来たことを耳にして、カルデア軍がエルサレムから撤退したとき、エレミヤはエルサレムから出て、ベニヤミンの地に行った。民の間で郷里の割り当て地を受け取るためであった。彼がベニヤミンの門にさしかかったとき、ハナンヤの子シェレムヤの子であるイルイヤという名の守備隊長がそこにおり、預言者エレミヤを捕らえて言った。「お前はカルデア人に投降しようとしている。」
- 以前書かれていた、土地の買取に関して、何らかの手続が必要だったのだろうか。最後の望みだったかも知れない、エジプト軍も、引き上げる、この事態に及んで、土地を取得することは、エレミヤは一つのことの証のために行ったのだろうが、一般的には、カルデア人に投降する予定が背景にあると考えたのかも知れない。ゼデキヤの時代になっているが、ゼデキヤのことは、人間味あふれる存在として描かれている。この時点である意味では、傀儡のように、王位につき、周囲からも、いろいろと意見される。おそらく、だれであっても、信念をもって、行動することは困難だったろうと同情してしまう。それでも、決然とした生き方が求められるのだろうか。
- エレミヤ 38:20 そこで、エレミヤは言った。「いいえ、彼らに引き渡されることはありません。どうか、私が申し上げる主の声に聞き従ってください。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたは生き延びます。
- エレミヤの大変な状況は続く。ゼデキヤも難しい状況にあったことは、理解できる。興味深いのは、ゼデキヤが恐れていたのは、「カルデア人のもとに投降したユダの人々」(19b)だと告白している。自分が、彼らになぶりものにされるとしている。いろいろな状況が考えられるが、一番大きいのは、ゼデキヤにもよめない状況だったのだろう。エレミヤは毅然としている。しかし、すべて、エレミヤの言った通りになるわけではない。この時点で、どう生きたら良いかと問うても、だれも、答えられなかったのかもしれない。ただ、エレミヤには、帰還と復興が見えていた、主の言葉として受け取っていたということなのだろう。しかし、当時生きていたひとにとっては、受け入れられるものではなかっただろうとも思う。難しい。
- エレミヤ 39:10-12 その日、何も持たない貧しい民の一部を、親衛隊長ネブザルアダンはユダの地に残し、ぶどう畑と耕地を与えた。バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関して、親衛隊長ネブザルアダンを通して命令を下した。「彼を連れ出し、世話をせよ。いかなる害も加えるな。彼が求めることは、何でもかなえてやれ。」
- 1年半の包囲の後エルサレムは陥落する。かなり持ちこたえたとも言えるのかも知れない。そのために、最大限の努力をしたひとたちもいただろう。忠実に主に従うとは、どのようなことかを考えさせられる。この章の記述をみると、エレミヤと、エベド・メレクが忠実で、他のひとは、そうではなかったとなるのだろうが、わたしには、そのようには言い切れない。ゼデキヤになにができたかを考えてもそう簡単ではない。大きな中東の歴史を考えると、イスラエルだけではなく、さまざまな地で、似たような状況が起こっていただろう。だからといって、バビロンの王ネブカドレツァルにその責任を負わせるのも、適切かどうかはわからない。引用句には、何も持たない貧しい民の部分も含めておいた。この人たちは、どのように生きていったのだろうか。内面までは描かれていない。パレスチナ人の一定の部分になっていったのだろう。現代においても、困難な問題がつづく。単純に、信仰の正しさでは考えられないと思う。
- エレミヤ 40:7,8 野にいたすべての将軍はその部下と共に、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤにその地の監督を委ね、バビロンに捕囚として移送されなかった男、女、子ども、その地の貧しい者たちの監督を彼に委ねたと聞き、ミツパにいるゲダルヤのもとにやって来た。それはネタニヤの子イシュマエル、カレアの二人の子ヨハナンとヨナタン、タンフメトの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザンヤ、および彼らの部下であった。
- 次の章で事件が起こるわけだが、征服のあとの混乱なのだろう。ここに名前のあがった人たちについて、詳細はわからないが、すくなくとも、エルサレムの貴族ではない有力者なのだろう。民の指導者になりうるひとを、すべて、捕囚とするとそのあとを治めるのはむずかしいことを告げているのだろう。エレミヤは、このときは、なにを考えていたのだろうか。自分の使命は達したと考えていたのだろうか。ある正しさが証明されたこのようなときこそ、どう考え、どう行動するかはとても難しい。
- エレミヤ 41:1,2 ところが第七の月に、王の血筋で、王の高官でもあった、エリシャマの子ネタニヤの子イシュマエルが、十人の部下と共にミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事を共にした。その時、ネタニヤの子イシュマエルと、彼と共にいた十人の部下は、立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣にかけて打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がその地の監督を委ねた者を殺した。
- イシュマエルの浅はかさを感じるが、血筋で、高官でもあったとあるので、バビロンに捕囚となる可能性もあるなかで、残されたのだろう。この中で、適切な判断をすることは、困難だったのだろう。あまり、批判する気にもなれない。このようなときに、ひとは、どのように生きたら良いのだろうか。御心を求めて謙虚にとは表現したいが、それが、具体的にどのような生き方なのかは、わからない。ここには、「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など、貴重なものを畑に隠していますから」(8)という人たちも登場する。おそらく、ひとは、様々な方法で生き残りを考えていたのだろう。それは、批判できない。理不尽かつどうしようもない中で、ひとは、どのように生きていったら良いのだろう。無力さを感じる。
- エレミヤ 42:4-6 預言者エレミヤは答えた。「承知しました。お言葉のとおり、あなたがたの神である主に、今、私は祈ります。主があなたがたに答えられることを、一言も隠さないで、そのすべてのことを示します。」すると、彼らはエレミヤに言った。「主が私たちに対して真実で誠実な証人となられますように。私たちは必ず、あなたの神である主があなたを遣わして私たちに語られる言葉のとおり、すべて実行します。良くても悪くても、私たちがあなたを御もとに遣わす私たちの神である主の声に聞き従います。私たちの神である主の声に聞き従うのは幸せになるためです。」
- エレミヤの使命は、これが神の言葉だと聞いたものを忠実に伝えることだろう。人々のすべきことは、それを聞いて、実行することだろう。それが本当に神のみこころなら。この判断は、あまり簡単ではない。実際、ここに来ていたひと全てかどうかは不明だが、エレミヤがつげた言葉には、聞き従わなかったようである。実際には、このようなバビロンの侵攻のときに、エジプトに逃れて、生き延びた人もいただろう。判断は、むずかしい。何を基準に、ことばに、危機従えばよいのだろうか。この絶望的な時に、わたしがどうするかも、明確には答えられない。
- エレミヤ 43:2,3 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナン、および傲慢な人々は皆エレミヤに向かって言った。「あなたが語っていることは偽りだ。我々の神である主は、『エジプトへ行ってそこに寄留してはならない』と言うために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクがあなたを唆して、私たちと対立させ、私たちをカルデア人の手に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」
- 難しい状態が続く。わたしには、正直よくわからない。家族のリーダーとしての責任もあるだろう。ユダヤ人はエジプトとは長い年月の交流がある。おそらく、エジプトにも、知人はいただろう。ここにとどまることが、御心だとは、なかなか受け入れがたいことだったろう。しかし、エレミヤ書は、傲慢な人々と、決めつけている。エレミヤにとっては、そうなのかもしれない。また、ここに、また、ネリヤの子バルクも登場する。書記官は、ある程度の、力を持っていたのか。エレミヤの言っていることが、神の御心かどうかは不明でも、エレミヤが、そそのかされるような人物ではないことは、これまでの経緯からは、ある程度判断できたのではないかとも思うが。わたしには、この場で、何も言えない。
- エレミヤ 44:11,12 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、顔をあなたがたに向けて災いを下し、ユダをことごとく絶ち滅ぼす。エジプトの地に行ってそこに寄留しようとするユダの残りの者を私は取り除く。彼らは一人残らずエジプトの地で滅びる。彼らは剣で倒れ、飢饉で滅ぼされる。小さな者から大きな者までが剣と飢饉で死に、呪い、恐怖、罵り、そしりの的となる。
- ユダのひとたちの偶像礼拝の故に、滅ぶこと、残されて、エジプトに下ったものたちも、殆どが、滅びることが書かれている。興味深いのは、エレミヤはほかの神々と言っているが、より具体的に、天の女王が登場する。これは、パレスチナの神なのか、エジプトの神なのか不明。ユダが滅ぶとあるが、実際に死に絶えるというより、万軍の主から離れることが死と捕えられているのかとも感じる。そして、最後には、エジプトの王ファラオ・ホフラの滅亡について述べている。すべて偶像礼拝の罰とすることには、単純すぎるように感じるが。万軍の主から離れていたことは確かなのだろう。
- エレミヤ 45:2,3 「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、安らぎを得ない。』
- 短い章で、バルクに語りかけている。引用句では、バルクのことばがあり、バルクの痛み、悲しみ、嘆き、疲れ、これらが安らぎがない状態が語られているが、自分が戦いの中で滅ぶようなことを考えて嘆いてはいない。国や民、イスラエルの神との関係の中で、滅んでいくものに心が向けられている。このようなひとは、バルク以外にも、おそらく、いただろう。戦いの中で死んでいったかも知れないが。しかし、このようにエレミヤ以外にも証人が残されることも重要なのだろう。
- エレミヤ 46:2 エジプトについて。すなわち、ユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍隊について。バビロンの王ネブカドレツァルは、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世第四年にこれを討ち破った。
- このあと「娘エジプトの住民よ/捕囚として行く支度をせよ。/メンフィスは荒廃し/焼かれて、住む人はいなくなる。」(19)とありさらに最後は「あなたは恐れるな、わが僕ヤコブよ/――主の仰せ。/私があなたと共にいるからだ。/あなたを追いやった先の国々はすべて/私が滅ぼし尽くす。/しかしあなたを滅ぼし尽くすことはない。/私はあなたを正しく懲らしめる。/あなたを罰せずにおくことは決してない。」(28)と結んでいる。実際の歴史から答え合わせをするような読み方が適切だとは思わないが、確認もしたい。このときの、エジプト王朝は、どのようなもので、中心部はどのあたりにあり、この敗北によって、どの程度隷属するような状況になったのだろうか。一般的には、エジプト関連は、ナイル上流の、スーダンあたりまで勢力圏はあり、そこまでバビロンが支配することは、かなり困難だと思うが。
- エレミヤ 47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について、主の言葉が預言者エレミヤに臨んだ。
- 当時の年表のようなものがないと、前後関係がよくわからない。ガザを撃ったのは、ペリシテが、バビロンに加担したからなのだろうか。エレミヤ書は、ときの流れにあわせて書かれているわけではないので。このあとには、ガザだけではなく、ペリシテの滅亡が預言されている。ペリシテは、海洋民族が定着したと理解しているが、エジプトもデルタが栄えた時代。地中海における交流が盛んだったと思われるが、カルタゴやエジプトなどなどの国が地中海を経済的に仕切っていたのではなく、いろいろな交易が盛んだったということだろうか。イスラエルだけをみていると、地中海交易の記事は非常に少な。しかし、当時も、重要な地域だったと思われる。
- エレミヤ 48:46,47 モアブよ、あなたに災いあれ。/ケモシュの民は滅びた。/あなたの息子たちは捕囚として/娘たちは捕虜として連れて行かれた。しかし、終わりの日に/私はモアブの繁栄を回復する――主の仰せ。/ここまでがモアブへの裁きである。
- モアブに対する預言の章である。個々の地名まで明確に理解できてはいないが、モアブは、古くからイスラエルと交流のある、主としてヨルダン川東岸に住む遊牧・牧畜などをする民族なのだろう。聖書には王も登場するが、特に有名が王が登場するようには思えないので、有力部族の長のような存在がいたのではないかと想像している。アッシリア、バビロン、ペルシャと中東の覇権が変わっていくが、帝国拡大の目的、方法、王など中心的人物の関わり方、統治の仕方なども、変わっていったのだろう。聖書だけからは、理解できないことも多いように思う。モアブについても、考古学的発掘だけでなく、文献もたくさん残されているのだろうか。
- エレミヤ 49:11-13 あなたのみなしごを置いて行け/私が育てる。/あなたのやもめは私に信頼するがよい。主はこう言われる。その杯を飲むように定められていない者すら必ず飲むのだから、あなたがどれほど免れようとしても免れることができず、必ず飲まなければならない。私は自分にかけて誓う――主の仰せ。ボツラは、恐怖、そしり、廃虚、呪いの的となる。その町はすべて、とこしえの廃虚となる。
- この章は長く、丁寧には読めない。アンモンから始まり、エドム、ダマスコ、ケダル、ハツォル、エラムなどについて書かれているが、聖書に出てくる民族としては聞いたことがあるが、正確には理解していない。アンモンは、モアブの南、エドムはさらに、その南シナイ半島にまでかかる地域なのだろうか、ダマスコは、北で、古い街であることは、わかるが、ケダル、ハツォル、エラムはよくわからず、引用にある、ボツラもよくはわからない。みな、イスラエルと、長い間、関係のあった国々、民族であることは、確かだろう。ただ、引用句も含め、興味深い表現はたくさん含まれている。エレミヤは、このような預言をしつつ、大転換の中での、万軍の主の御心、計画を知ろうとしていたのだろうか。わたしが、エレミヤの立場なら、なにを考えるだろうか。民族としても、深い浅いはあっても、それなりに関係を持ってきた人々が消え去るように見えるこのときに。
- エレミヤ 50:45,46 それゆえ、あなたがたは聞け/主がバビロンに対して練られた計画/カルデア人の地に対して立てられた企てを。/羊の群れの幼いものらが引きずって行かれ/牧場は彼らのせいで必ず荒廃する。バビロンが捕らえられる音で地は揺れ動く。/叫び声は諸国民の間に聞こえる。
- この章は長いので地名(メラタイム、ペコド(21))など詳細は不明なものもあるが、引用句にもあるように、基本的には、バビロンが滅びることが書かれている。現代でもそうであるように、イスラエルやバビロン、そして我々の悪、罪については、おそらく、簡単に語ることができたのだろうが、では、どのように生きればということは、「その日、その時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない」(20)とは書かれているが、そう簡単ではないように思う。その光景が、「彼らは泣きながらひたすら歩き/彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね/顔をその方向に向けて言う。/「さあ、行こう。/主に連なろう。/永遠の契約が忘れられることはない」(4b,5)やに少し表現されているようにみえる。さらに「バビロンの地から逃れた者や難を免れた者の声が/シオンで、我々の神、主の復讐を/その神殿の復讐を告げ知らせる。」(28)とあるが、やはり実体は不明である。興味深いのは、バビロンを滅ぼすものは、やはり北から来るとされていることだろうか。イスラエルに置き換えて象徴的な表現なのかも知れない。
- エレミヤ 51:20 あなたは私の鉄鎚、戦いの道具。/あなたによって、私は諸国民を打ち砕き/あなたによって、諸王国を滅ぼす。
- 印象的な箇所である。「力によって地を造り/知恵によって世界を固く据えられた方。/この方が英知によって天を広げられた。」(15)エレミヤの神理解も書かれている。しかし、やはり、強い方、創造者である。諸国民、どんな国より強い方という認識からは、出ていないように見える。イエスによって示された神の姿は、あまりにも異なり、それ故、排斥されたのだろう。少しずつ、異なる神観も育っていくのだと思うが、族長の神、部族の神、イスラエル民族の神、世界を造り統べ治められる創造者。この路線ではやはり正しさによって裁く神のイメージからは逃れられないように思う。どのように生きていくこと、神様との関係を持っていくか、これを深めるのは、難しいのだろうか。旧約聖書も少しずつ丁寧に読んでいきたい。
- エレミヤ 52:1-3 ゼデキヤは二十一歳で王位につき、十一年間エルサレムで統治した。母の名はハムタルと言い、リブナ出身のイルメヤの娘であった。彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは主の怒りのためであり、ついに主は彼らを御前から捨て去られたのである。ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。
- イスラエル、ユダ王国の最後が書かれている。ゼデキヤについてはこのあとに書かれていない。列王記、歴代誌の対応する記事と比較すると、詳細は異なるが、列王記に近いように見える。また、記述の仕方は、どれも、似ている。ネリヤの子バルクは、記録の背景まで知っていたのだろうか。成立は、歴代誌はもっとあとだろうが、基本資料は、共通であるようにも見える。エレミヤ書は、なぜこのような形で終わっているのかも、興味を持つ。
AI による応答(27章まで):Gemini・ChatGPT・Claude
AI による応答(28章以降):Gemini・ChatGPT・Claude
哀歌 聖書通読ノート
BRC2025(2026.6.13-2-6.15)
- 哀歌 1:20 御覧ください、主よ。/私は本当に苦しいのです。/私のはらわたは痛み/心は私の内で動転しています。/私が逆らい続けたからです。/外では剣が子を奪い/家の中を死が支配しています。
- エレミヤの哀歌とも呼ばれるようだが、形式が整いすぎていて、なにか、かえって痛みが伝わってこない。わたしの偏見だろうか。この書が、聖書の中で、そして、歴史の中で、どのような位置づけとなっているのかも、考えながら読んでいきたい。
- 哀歌 2:15 道行く人は皆、あなたに向かって手を叩き/娘エルサレムを嘲笑い、頭を振って言う。/「これが麗しさの極み/全地の喜びと言われた都なのか。」
- この章も、アルファベット詩なのだろう。しかし、「わが目は涙が尽き、わがはらわたは痛み/娘であるわが民の破滅のゆえに/わが肝臓は地に注がれる。/幼子や乳飲み子は町の広場で弱り果てている。彼らは母親に言う/『どこにあるの、穀物やぶどう酒は』と。/傷ついた者のように町の広場で弱り果て/母の懐で息絶えてゆく。」(11,12)と語っても正直、痛みが伝わってこない。傍観者のようにしか聞こえてこない。時代がずれているのだろうか。知的層とく苦しんでいる層とがそれなりに分離しているのか。引用句にしても、どのような敵対するひとたちが想定されているのかわからないが、そこまでの嘲りはないように思う。バビロンに滅ぼされた、多くの街の一つでしかないのだから。しかし、その中から、メッセージを受け取りたい。それが難しい。
- 哀歌 3:18-21 私は言った。/「私の栄光は消えうせた/主から受けた希望もまた。」私の苦難と放浪を/苦よもぎと毒草を思い起こしてください。思い出す度に私の魂は沈む。しかし、そのことを心に思い返そう。/それゆえ、私は待ち望む。
- この章でも、主に見捨てられたという自覚が書かれており、引用句から、それが、その中でも希望をもつことが語られ、後半につながる。非常に宗教的な問いが背後にはあるが、なかなか入り込んでいけない。この著者はどこにいるのだろうか。どのような状態にいるのだろうか。一般的に、ひとは、自分が苦しい状態にあることは、理解できるが、そこから逃れようとしても、どのように生きていったら良いかの答えはもっていない。しかし、ここでは、苦しさは、表面的で、よい侵攻的な生き方が、描かれているように見える。このあたりが、なかなか、哀歌記者の心に入っていけないことなのだろうか。
- 哀歌 4:20 私たちの命の息、主に油を注がれた者も/彼らの網に捕らえられた。/異国の民の中にあっても彼の陰で生きていこうと/私たちは思っていたのに。
- 哀歌の記者や背後にいるひとが見えないが、どうしても、批判的にみてしまう。民への批判ではじまり、預言者たち、祭司たちも批判しているようだ。引用句では、希望がなくなったことを、王の系統が失われたことが書かれている。そして、最後22節は、次はでエドムだと語る。アルファベット詩という、非常に整えられた形式などを考えると、かなりの教養のある人が背後にあることがわかるが、そこに関わっている人たち、一人ひとりの痛みは伝わってこない。実際の人たちとは、異なる世代、世界に住む人が書いているようにも見える。実際に経験したひとであっても、冷徹に美に溺れることもあるのだろうが。もうすこし、丁寧に読みたいと思うが、なかなか難しい。
- 哀歌 5:18-20 荒れ果てたシオンの山を/ジャッカルがうろついている。主よ、あなたこそ、とこしえに座する方。/あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも私たちを思い出さず/これほど長く捨てておかれるのですか。
- 引用句の次の2節が最後で、「昔のような」復興を求めている。捕囚帰還後の可能性もあるが、おそらく、捕囚後ある程度たち、エルサレム陥落、ユダ王国滅亡の現実は直接は経験しておらず、その次のときを期待して祈っているようなものなのだろうか。捕囚の地でも、熱心な礼拝も続けられていたのかも知れない。しかし、「私たちの日々を新たにし」(21b)とはあっても、「昔のような」としか願えない現実があったのかもしれない。また、次に読むときには、新たな視点から読んでいけることを願う。
AI による応答:Gemini・ChatGPT・Claude
エゼキエル書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.6.16-7.9)
- エゼキエル 1:26 生き物の頭上の大空高くに、ラピスラズリの玉座のようなものが見えた。その玉座のようなものの上にひときわ高く、人の姿のようなものがあった。
- 「第三十年の第四の月の五日に、私がケバル川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、」(1,2)これだけあると日付も特定されるだろう。しかし、急に、なぜ、このときに、幻が臨んだのかは、よくわからない。おそらく、主は明らかに見えるわけではなく、その周囲をまもっている、4つの生き物からスタートしているのだろう。このような4つの生き物は、エゼキエル以前からも、何らかの形でイメージが共有されていたのだろうか。他のひとは、違うイメージを持っていたのだろうか。エゼキエルは、すでに、祭司としてあるリーダーシップは持っていたのだろうか。不明な点が多い。
- エゼキエル 2:7,8 彼らが聞こうと、反逆の家ゆえに拒もうと、私の言葉を語らなければならない。人の子よ、あなたは私が語ることを聞きなさい。反逆の家のように逆らってはならない。口を開け、私が与えるものを食べなさい。」
- 「人の子よ、自分の足で立ちなさい。私はあなたに語ろう。」(1b)からも、自分がしっかりと立つことが重要だと確信していただろう。そのことは、引用句からも読み取れる。ただ、内容は、まだ、ここではわからない。エゼキエル30歳のときと取り、祭司としてのリーダーシップをとる責任を感じていたのだとしたら、これから、語られる内容も重要だが、やはり、当時、捕囚として、エゼキエルの周囲にいるひとたちの状況も重要であると思われる。アッシリアと、バビロン、そして、ペルシャは、捕囚した民の扱いが異なるといわれるが、実際、エゼキエルなどは、当時どのような生活をしていたかについてあるていど記録が残っているのだろうか。捕囚民の、日常がよく見えない。
- エゼキエル 3:16,17 七日の後、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。私の口から言葉を聞いて、私からの警告を彼らに伝えよ。
- 「しかし、イスラエルの家はあなたに聞こうとはしない。彼らは私に聞こうとはしない。イスラエルの家はすべて額が硬く、心がかたくなだからだ。」(7)バビロンのひとや、外国人ではなく、イスラエルの民に遣わされることが語られるが、どうじに、聞こうとしないことも語られている。祭司としての教えというより、預言者的な務めであることは理解したであろうが、エゼキエル自身は、過去の様々な預言者のことばについてどのように理解していたのだろうか。文書として、持ち得たのだろうか。引用句では、見張りということばが出てくる。城壁の上にたって、押し寄せてくる敵、または、これからおこる、未来について語るものなのだろうか。整えられた表現になっているが、あとから、まとめたもののような印象も受ける。
- エゼキエル 4:4,5 あなたは左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の過ちを自分の身の上に置きなさい。その上に横たわっている日の数だけ、彼らの過ちを負わなければならない。私は彼らの過ちの年を、日数にして三百九十日をあなたに割り当てた。こうしてあなたは、イスラエルの家の過ちを負わなければならない。
- このあと、ユダの家の過ちを負うことも書かれている。何を意味しているのだろうか。これで、過ちがなくなると考えたわけではないだろう。その期間を、身に負うことで、その長さを感じることだろうか。それとも、主がどのように、それを受け止めていたかを、少しでも知るためだろうか。最後に汚れた食べ物のことが登場するが、エゼキエルのようなエリートはともかく、一般人は、なんでも食べていかなければならなかったのではないのだろうか。やはり、当時の生活状況があまりよくわからない。通常は何をして暮らしていたのだろうか。余暇はあったように見えるが。
- エゼキエル 5:13,14 私の怒りが燃やし尽くされると、私は彼らへの憤りを鎮めて満足する。私が彼らに対する憤りを燃やし尽くすとき、彼らは主である私が妬みのうちに語ったことを知るようになる。私は、周囲の諸国民の間で、また傍らを通るすべての者の目の前で、あなたを廃虚とし、恥辱とする。
- 原因は「エルサレムは諸国民よりも邪悪で、私の法に逆らい、周囲の国々よりも私の掟に逆らった。彼らは私の定めを拒み、私の掟に従って歩まなかった。」(6)にあると言っているようだ。最初に髭について命じられ、おそらく、疫病か飢餓、剣、四散と、異なる形での滅びが預言されているようだ。エゼキエルは第一次捕囚なので、そのあと、ゼデキヤ時代の、エルサレムの完全な破壊が預言されているのだろう。しかし、滅ぼされる理由も、方法も、その結果の評価も、単純すぎるように思われる。おそらく、エゼキエルのエルサレムや神殿への強い思いが背後にあったのだろう。髭をそることの具体的な意味はわからないが、ある種の絶望の表現を意味しているのかも知れない。続けて丁寧に読んでいきたい。
- エゼキエル 6:7 刺し貫かれた者があなたがたの中に倒れる。その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる。
- 「刺し貫かれた者」は4節にも書かれている。なにか、特別のことを意味しているのだろうか。新約聖書では、イエスを表すことにも使われると思うが、ここでは、単純に、剣で殺されたものともとれる。いずれにしても、殆どの人々が滅ぼされ、残されたものが、主を知るという構造には、納得できないものも感じる。それが、滅びのなかでの主の栄光なのだろうか。背後には、主を知らない、主に従わない民の滅びということがあるのだろうが、主を知るようになっても、また、その人達も、主との適切な関係を築けるわけではない。どう理解したらよいのだろうか。エゼキエルはどう考えたいのだろうか。難しい。
- エゼキエル 7:6 終わりが来た。終わりが来た。/まさにあなたに向かって。/今や、終わりが来た。
- 2節にもあるが「終わりが来た」が印象的である。また、「苦悩が臨む。/平和を求めても、どこにもない。」(25)も印象的、そしてこの章は「こうして/彼らは私が主であることを知るようになる。」(27b)で終わっている。自身は離れた地に捕囚となっているものが、エルサレムの陥落、全面的敗北を預言し知るこころのなかはいかばかりかと思う。そこに至る道を思い描く、これで終わりではない、神様は見放されないだろうとの主への信頼はあっても、それを思い描くことが難しいということだろうか。おそらく、その背景には、不十分ではあっても、それなりに自分もその中に居て関わってきた世界への思いがあるのだろう。主に委ねる以外にない、それは、存在においても、根本的な部分なのだろう。その覚悟をもって、どのようなときにも、日々を生きていきたい。
- エゼキエル 8:1 第六年の第六の月の五日に、私が自分の家で座り、ユダの長老たちが私の前に座っていたとき、主なる神の手がそこで私の上に下った。
- もしかすると、エルサレムに帰れるかも知れないとの希望を持っていた周囲の人の中で、預言をしてきたエゼキエルにとっても、その望みが潰えた状態のなかでの幻なのだろう。極度の精神的憔悴のなかでの経験だったかも知れない。エゼキエルの幻は、ある見方からすると、精神疾患による幻影ともみられるが、その中でエゼキエルがみたものの中から、主のみ心、そして、希望を見出すことが鍵なのだろう。この章には、かなり具体的な表現もみられる。「またその前に、イスラエルの家の長老七十人がそれぞれ立っており、その中にシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。おのおの香炉を手にし、香のかぐわしい煙が立ち上っていた。」(11)この、ヤザンヤについては、歴史的に特定できているかどうか不明だが、エゼキエルは知っている人だったのかも知れない。
- エゼキエル 9:1 私が聞いていると、その方は大声で叫んで言われた。「町を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」
- 町を罰することが書かれている。町を清めることが目的なのだろうが、悪者を殺して回ることで、よい方向に進んでいくのかは、大いに疑問である。「あの印のついたもの」が登場するが、ここでは、まだあまり明確ではない。このようなことで平安が、そして、主が望まれる世界が到来するのだろうか。ただ、まずは、悪を、偶像礼拝を罰することからはじめないと、真理も見えてこないのかも知れない。
- エゼキエル 10:1,2 私が見ていると、ケルビムの頭上、大空の上に、ラピスラズリに似た玉座のようなものの姿が見えた。主は亜麻布をまとった者に言われた。「ケルビムの下にある回転するものの間に入り、ケルビムの間から炭火を取ってあなたの両手に満たし、それを町の上にまき散らせ。」彼は、私の目の前で入って行った。
- ケルブ、ケルビムがたくさん登場するが、玉座に座っておられる主についての描写はほとんどない。声だけということのようだ。4つの車輪など、少しずつ、具体的な描写が登場する。エゼキエルの中でも、それがだんだんはっきりしてきているのだろう。
- エゼキエル 11:16,17 それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった』と。それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。私はあなたがたをもろもろの民から集め、散らされていた先の国々から呼び集め、イスラエルの地を与える』と。
- 「霊は私を引き上げ、東に面した主の神殿の東門に連れて行った。すると、その門の入り口に二十五人の男がいた。私はその中に民の長であるアズルの子ヤアザンヤとベナヤの子ペラトヤを見た。」(1)と始まる。幻の中の出来事なのだろう。しかし、かんり具体的で、このあと、13節には「私が預言していたとき、ベナヤの子ペラトヤが死んだ。」とある。現実と、幻の世界が交錯していて、どのように理解したら良いかも不明である。引用句に至り、現在のことと、将来のことが書かれている。このようにしか表現できなかったのかもしれないが、引用として書かれているということは、同様な言葉が、何回か伝えられたのだろう。エルサレム崩壊を異なる場所で見守るギャップの中で、書かれたものを理解するのは難しい。
- エゼキエル 12:1-3 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、あなたは反逆の家のただ中に住んでいる。彼らは見る目があっても見ず、聞く耳があっても聞かない。反逆の家だからである。人の子よ、あなたは捕囚の荷物を準備し、彼らの目の前で、昼のうちに捕囚の身となって行け。彼らの目の前で、あなたのいる所からほかの所に、捕囚の身となって行け。そうすれば、彼らは自分が反逆の家であることに気付くであろう。
- エゼキエル書は、その場に、わたしがいないから、大きなことは言えないが、正直、因果応報、信賞必罰のような、狭い世界観に縛られているようで、なかなか深く入り込んで読むことができない。世界史的な流れや、人間の弱さ、間違いを起しながらも、主に信頼して生きていくことなどの現実的な生き方が見えず、危機の中にあって、過去の悪に目を向けることに集中しているように見えるからである。丁寧に読んではいきたいが、一次捕囚のほかの人たちの見方や生活もみないと、幅広く理解するのが難しいように思う。
- エゼキエル 13:1-3 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、預言しているイスラエルの預言者たちに向かって預言しなさい。心のままに預言する者たちに『主の言葉を聞け』と言いなさい。主なる神はこう言われる。災いあれ、自分の霊に従って歩み、何も見ない愚かな預言者に。
- 心のままに預言する、愚かな預言者に対する非難が続く。最後には、「その時、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」が繰り返される。この時点で、預言の内容が正しいかどうかは確定できなかったろう。むろん、エゼキエルはある確信を持っていたのだろうが、正しさという面では、完璧ではなかったと思われる。すると、預言の内容よりたいせつな、主との向き合い方が問われるべきだと思うが、それが、簡単には、表現できないのかも知れない。しかし、やはり、正しさの議論は、虚しく感じてしまう。相手も、簡単には、受け入れられず、主との関係を築いていくことはできないように思うからである。いずれにしても、このようなときに、どう生きるかは難しい。わたしのように、外から、批判的な内容を書くことも、適切ではないだろう。どのように、読めばよいのかも、考えてしまう。
- エゼキエル 14:12-14 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、ある国が私に背信を行って罪を犯すなら、私はその国に手を伸ばし、パンの蓄えを絶ち、飢饉をもたらし、そこから人と家畜を絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、あの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らがその義によって救えるのは自分の命だけである――主なる神の仰せ。
- この章には、あの三人の人物という表現が何回か登場する。まずは、この三人が当時、どのように、認識されていたか確認しておきたい。ノアについては、知られていたと思うが、ダニエルとヨブについては、我々が持っているダニエル書や、ヨブ記のような物を通して知っていたかどうかは不明であると思う。どのような存在だったのだろう。この章の前半には、「立ち帰れ」のことばのもと、主のもとに戻ることが語られているが、捕囚の地で、どのような自由があったのか、また、他の捕囚民や、バビロニアの人たちと、どのように交流ができたかも、わからず、具体的に、立ち帰るがなにを言っているのかも、想像できず、実感がわかない。難しい。
- エゼキエル 15:2-4 「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。その木から何かを作るために木材を取り出せるだろうか。あるいは、何かものをかける木釘を作れるだろうか。それは薪として火に投げ入れられ、火はその両端を焼き尽くす。真ん中まで焦がされては、何の役に立つだろうか。
- イスラエルを火にくべられるぶどうの木にたとえられた短い印象的な章である。ぶどうの木は、木としては、ほとんど役にたたないもので、ぶどうを産することがその役目だということが背景にあるのだろう。ここでは、裁きと、結末としては、主を知るようになることが書かれ、そのようになるのは、背信の罪の故と結んでいる。これをメッセージとして受け取る滅びゆく民に、エゼキエルは、そして、主は、何を求めているのだろうか。さらに、ぶどうの木にこめられた、エゼキエルと、主の思いはなになのだろうか。比喩としては、ぶどうの木にたとえられることが多いようだが。ヨハネ15章も思い出すが、このエゼキエル15章からなにを受け取るのかは難しい。
- エゼキエル 16:61-63 そこで私があなたの姉たちと妹たちを取り、あなたとの契約によらずに彼女たちを娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。私はあなたと契約を立てる。その時、あなたは私が主であることを知るようになる。それは、私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをするとき、あなたがそれを思い起こして恥じ、その恥辱のゆえに再び口を開くことがないためである――主なる神の仰せ。」
- 長い章である。主がどれほど、忠実に愛し続けたか、恵みを施し続けたか、そのなかで、どれだけ背き続けたかが、他の周囲の民族との比較をこめて書かれ、最後に、サマリア、ソドムなどがもとに戻されることが書かれ、主の契約への忠実さとともに、新しい契約へと向かう。信仰は、関係性であり、このように考えると、主の側の失敗ともとれないこともない。そして、このようにしては、復興があったとしても、やはり、背信、裁きの繰り返しになるように思う。エゼキエルは、違うメッセージを受け取っているのか。わからない。
- エゼキエル 17:22,23 主なる神はこう言われる。私は高い杉の梢を取って植え、その柔らかな若枝の先を摘み取って、高くそびえる山に植える。私がそれをイスラエルの高い山に植えると、枝を出し、実をつけ、見事な杉になる。その下にはあらゆる鳥が住み着き、翼を持つものはすべて、その枝の陰に住むようになる。
- 二羽の鷲とぶどうの木のたとえではじまり、最後は、イスラエルの回復預言が書かれている。二羽の鷲は、何を意味しているのか、アッシリアとバビロンとも、ダマスコと、バビロンとも取れるように思われる。正直、シオニズム的なものに望みを託すことの、社会的、そして、信仰的にも、問題を感じる。ただ、エゼキエルの状況、その周囲には、どんでん返しで、すぐエルサレムに帰れるのではないか、主が見捨てるはずはないというような、期待を持った人が多い中で、御心をもとめると、このあたりに、限界があるのかも知れないと思う。同時に、あとの時代のひとが、ここから、何を学ぶかこそ、注意すべきことがあるのかも知れない。エゼキエルの行き詰まりをそのまま、受け取るほうが、ここでは、良いのかも知れない。
- エゼキエル 18:30-32 それゆえ、イスラエルの家よ。私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁く――主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきとはならない。あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」
- 「あなたがたがイスラエルの地について、『父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』ということわざを口にしているのは、どういうことか。」(2)から始まり、引用句で原則が示される。おそらく、エゼキエルの時代には、いま、苦しい状態にあるのは、先祖の罪を負っているのだという考えもあったのだろう。それを、いったん、白紙にするのが、この章のことばなのかもしれない。しかし、同時に、歴史的な責任を負っているように見えることも、確かである。そう簡単には、言えない。そして、世界を見れば、様々な不公平さがあることも事実である。エゼキエルが、このようなメッセージを語ることは、ある程度理解できるが、そう簡単ではないことが背景にあることも事実である。また、律法違反と、善行について対比して書かれているが、これをもとに、厳格に、律法を守ることへと進む、律法主義の課題も考えてしまう。エゼキエルの苦しみ、悩み、揺れもあるのかも知れない。
- エゼキエル 19:3,4 彼女は子獅子の中から一頭を育て上げ/それは若獅子となり/獲物を引き裂くことを学び、人を食らった。諸国民は若獅子のことを聞いた。/彼らは若獅子を落とし穴で捕らえ/鉤にかけて、エジプトの地に連れて行った。
- いくつか疑問を持つ。まず、イスラエルを獅子にたとえることについて。一時的に、ある勢力があったかもしれないが、強いようには見えない。なぜ、獅子にたとえたのか。次に、引用句。このエジプトに連れて行かれた獅子はなになのか。歴史的背景があるのか。落とし穴というと、ヨセフのことも思うが、異なるように見える。三番目に、この哀歌は、何を目的として、何を描いているのだろうか。単に、獅子のようにすら見えると思っている人たちの、最終的な滅びだろうか。
- エゼキエル 20:44 私があなたがたの悪の道や堕落した行いによってではなく、私の名のためにあなたがたを遇するとき、イスラエルの家よ、あなたがたは私が主であることを知るようになる――主なる神の仰せ。」
- 前半には、偶像礼拝、特に、エジプトの神々に仕えること、また、こどもを火の中をくぐらせる、カナンのモレク神に関係したことか、などによる批判が書かれ、最後には、民が集められて、約束の地にもどることと思われる描写となっている。まずは、そこまで、偶像礼拝がひどく、主なる神をともかくも、礼拝する人があまりいなかったのかが気になる。それは、ペルシャの時代、キュロス王などのもと、イスラエルに戻ってくるときも、熱心なひとだけが戻り、そうでない人が残ったのかという問題にも関係する。もっと、複雑だったのではないかと想像するが、ここでのエゼキエルを通しての批判をみていると、エゼキエルの側に立つ長老など、民のリーダはいなかったように見える。
- エゼキエル 21:23,24 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、あなたはバビロンの王の剣が通れるように、二つの道を作りなさい。二つの道は同じ地から出るようにし、一つの道しるべを作り、町に至る道の分かれ目に置きなさい。
- ネゲブからはじめ、エルサレム、そして、さまざまな裁きについて書かれ、最後にはアンモンについて書かれている。正直、十分は理解できない。少しずつでも、理解していく努力として、いくつか基本的なことを疑問として記す。ネゲブは、どのようなところで、イスラエルの人たちにとっては、どのような意味を持った場所なのだろうか。また、ここで預言されていることは、意味しているのだろうか。引用句からの、段落は正直、預言の中身も理解できなかった。アンモンとユダ、どちらを滅ぼすかを占いによって決めているのだろうか。実際、どのようなことをしていたかも含めて、重要さがわからない。32節にあるように、バビロンに裁きの権威を与えたということを示すためなのだろうか。
- エゼキエル 22:1,2 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、あなたは裁くのか。流血の町を裁くのか。それなら、その忌むべきことをすべてこの町に知らせなさい。
- エルサレムの崩壊の時期なのか、正確にはわからないが、ここで、これまでに、この町、民がしてきた、忌むべきことを告げよと始まる。イスラエルは、金滓だという表現があり、さらに、祭司、預言者などへの糾弾も書かれている。エゼキエルにとっては、主の主権のもとにおり、裁き主であることを確信し、イスラエルが、滅ぼされても仕方がない存在であることを認めて、書いているのだろう。エルサレムの状況は逐一、知らされたのだろうか。おそらく、知らされても、全体的な状況だけで、ひとの苦しみ、悲しみ、痛みではないのだろう。そのあたりが、エレミヤ書との違いかなと思い、エゼキエル書になかなか入り込めない理由でもあるのだろう。現代に生きるものとしても、どのように学んでいけばよかも、難しい。
- エゼキエル 23:48,49 こうして私は、この地から恥ずべき行いを絶やす。すべての女たちは、自らを戒めて、あなたがたがしたような恥ずべき行いをすることはない。恥ずべき行いの報いはあなたがたの上に降り、あなたがたは自分の偶像による罪を負わなければならない。こうして、あなたがたは私が主なる神であることを知るようになる。」
- 「オホラはサマリア、オホリバはエルサレムのこと」(4b)として、同じ母の娘が淫行をしたことが書かれている。聖書を読むたびにここを通過するが、丁寧に読めない。まず、母と娘二人という女性の淫行になぞらえている。男性の淫らな、あってはならないぶぶんを女性になぞらえる。さらに、世界が見えているわけではないのに、これこそが、本質だと告げる。祭司の家系の自らの不十分さに目をむけるのは、よいだろうが、主の権威のもとで、これが何を意味しているのか、そう簡単には、わからないだろう。エルサレムにもおらず、痛みも十分感じられない中、神理解がひろがっていく、ひとつの経過地点なのだろうか。他者視点のたいせつさをも感じる。近くにいるカルデア人や他の捕囚の民の痛みは、感じることができたのではないかと思う。エゼキエルの主題ではなかったのだろうか。わたしのように、さらに離れた地から、批判的にみることは適切ではないのかもしれないが。
- エゼキエル 24:25,26 人の子よ、私が彼らから、その砦、誉れある喜び、目に慕わしいもの、魂の憧れ、彼らの息子と娘たちを取り去る日、その日、逃れて来た者が、その知らせを告げるために、あなたのもとに来る。
- この前には、妻の死の予告と実際の死について書かれている。突然であるかのように書かれているが、エゼキエルにどうしても批判的になってしまうが、このエゼキエルが、寄り添うことができていなかったのではないかと思う。一人の近くにいる主が愛される人格とともにいたのだろうか。文脈としては、おそらく、エルサレム陥落の知らせがくるときに、妻のことで、嘆いていてはを示しているように見えるが、それも、どうも、自らを正当化するようなことのように見えてしまう。家族も、大変だったろう。エゼキエルには、友もいなかったのだろうか。
- エゼキエル 25:15-17 「主なる神はこう言われる。ペリシテ人は復讐を行った。彼らは心の内で嘲りながら、昔からの敵意によって、滅ぼそうと復讐した。それゆえ、主なる神はこう言われる。私は手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を絶ち、海辺の残りの者を滅ぼす。私は憤りに満ちた懲罰をもって、彼らに大いなる復讐を行う。私が彼らに復讐するとき、彼らは私が主であることを知るようになる。」
- この章には、アンモン、モアブ、エドム、ペリシテと、イスラエルの周辺の民族に対する預言が書かれている。これも、そのひとたちに対して悲惨なことが起きるという同情より、滅びと、主を知るというイスラエルが信じる神の究極的勝利といってもよいだろう。彼らの嘲りも書かれているが、このときまでの、関係が、そのようなものだったのだろう。本当に、これが主の言葉かどうか、疑わしく思ってしまうのが正直の気持ちだが、もう少しちがった読み方が適切なのだろう。まずは、引用句で、ペリシテについて、クレタ人とされているが、これは、一般的な認識なのだろうか。確かに、海洋民族で、距離から言っても近いのは、クレタだろうが。
- エゼキエル 26:21 私はあなたを恐怖に陥れ、あなたはもう存在しなくなる。あなたは捜し求められても、もはやとこしえに見いだされることはない――主なる神の仰せ。」
- この章には、独立したものとして、ティルスに対する預言が書かれている。ティルスがかなり持ちこたえるが最終的には滅ぼされたようだが、一次捕囚の時代から、エルサレムが攻められ陥落し捕囚となるときとの年代的な変遷を理解したい。また、引用句では、永久に見出されることはないと書かれているが、実際には、このあと復興がなされ、イエスの時代などには、ある程度繁栄していたようだが、ティルスについての簡単な歴史を学びたい。ペリシテは、クレタ人とされているが、ティルス、そして、シドンなどその周辺、ペリシテよりは北の海岸沿いの都市は、どのような背景があるのだろうか。民族的なものもふくめて。海洋民族とされるが、ペリシテとは区別されているようなので、このあたりも理解したい。
- エゼキエル 27:10 ペルシア、リディア、プトの人々は/あなたの軍隊の戦士となり/盾と兜をあなたに掛け/あなたに輝きをもたらした。
- ティルスへの哀歌として記されている。エゼキエルの博学なのか、当時の常識としてこのような記述があるのかは不明だが、非常に詳細に、様々なことがティルスについて書かれているという印象をうける。あまり、宗教的な色がないことも、エゼキエルの他の章とは、すこし違う印象を受ける。ロドス島など、ある程度距離のある地中海の地域についての記述もある。わたしは、ここに書かれている地域をすべて理解できるわけではないが、多くの関わりがあった商取引の拠点だったことがよくわかる。引用句には、ペルシア、リディア、プトの人々も軍隊の戦士となっていたとあるが、傭兵なのだろうか。バビロンとは、どのような交流があったのだろうか。かなり大変だったようだが、どうしても、ティルスを滅ぼさなければならない必然があったのだろうかなど、いくつか疑問が生じる。
- エゼキエル 28:1,2 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、ティルスの君主に言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたの心は驕り高ぶり、『私は神だ。海のただ中にある神々の住まいに住んでいる』と言った。しかし、あなたは人であって、神ではない。自分の心を神々の心のように思っているだけだ。
- 27章とは異なり、28章は、エゼキエルの通常の文体に戻っている。ティルスと、シドンについての裁きについて書かれている。ティルスが滅ぼされることは、エゼキエルだけではなく当時のひとたちにとっても、驚きだったのだろう。シドンは、ティルスと一緒に語られることが多いが、ティルスに従属していたのだろうか、まったくのフェニキア系の独立した都市国家だったのだろうか。政治体制なども、気になる。ユダヤで育ったエゼキエルにとっては、異教徒であり、批判することは簡単だろうが、驚きとともに、このあとの世界については、エゼキエルはどのように考えていたのだろうか。この中で、ティルスやシドン、そこのひとたちが、主なる神を知るとは、エゼキエルは具体的に、どのようなことを思い描いていたのだろうか。エゼキエルに頻繁に登場する慣用句としてだけ受け取ることはしたくないので。
- エゼキエル 29:20,21 彼の働いた報酬として、私は彼にエジプトの地を与える。なぜなら、彼らは私のために行ったからである――主なる神の仰せ。その日、私はイスラエルの家に一つの角を生やす。また私は、彼らの中であなたに口を開かせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」
- エジプトが破壊され、民は離散し、しかし、40年の後戻ってくるという預言などが書かれている。エゼキエルの立場から仕方がないのかも知れないが「こうして、エジプトのすべての住民は/私が主であることを知るようになる。/あなたはイスラエルの家にとって/葦の杖にすぎないからである。」(6)のように、イスラエル中心史観で、エジプトが裁かれる理由を『ナイル川は私のもの/私がこれを造った』と言っていることだと二回述べている。イスラエルとエジプトは、非常に長い関係があり、その大国が滅びるということは、大変なことだったのだろう。ただ、エジプトの長い歴史の中では、何度も王朝がかわっていることもたしかだろう。この史観からなにを受け取るのかは難しい。引用句では、新しい希望だろうか「一つの角」のことが書かれている。エゼキエルにとってのこれが希望の幻だったのかも知れない。
- エゼキエル 30:20-22 第十一年の第一の月の七日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、私はエジプトの王ファラオの腕を折った。それは包帯を巻かれず、そのため癒やされず、添え木を当てられず、固定もされず、剣をつかむ力すらない。それゆえ、主なる神はこう言われる。私はエジプトの王ファラオに立ち向かい、その両腕、強い腕とへし折られた腕を砕く。私は彼の手から剣を落とす。
- エジプトへの裁きの記述が続く。まず、第十一年の第一の月の七日が歴史的、特に、バビロンのエジプト侵攻との関係で、どのような時点かは、わからないが、いずれにしても、エゼキエルにとっても、イスラエルの捕囚民にとっても、エジプトが打ち破られること、滅ぼされることは大きな驚きだったろう。ただ、「彼はバビロンの王の前で、刺し貫かれた者のように呻きを上げる。」(24)命が取られるような記述はない。エゼキエルは、基本的には、イスラエルの民に語りかけていると思われるが、どのようなメッセージが伝えられているのだろう。将来について、なにをエゼキエルや、民は受け取っていたのだろう。
- エゼキエル 31:18 そのようにあなたは、エデンの木のうちで、栄光と偉大さにおいて誰に比べられようか。あなたはエデンの木々と共に地の底に落とされ、無割礼の者たちのただ中で、剣で刺し貫かれた者と共に横たわることになる。これがファラオとそのすべての軍勢である――主なる神の仰せ。」
- エジプトについて語っているが、登場するのは「エデンの木々、レバノンのえり抜きの美しい木々、水に潤う木々」である。レバノンの杉は聖書に頻繁に登場するが、エデンの木々は、具体的に指しているものがあるのだろうか。また、それらとともに、地の底に落とされとあることからは、エデンの木もそのようにされることを意味し、エデンの園の木とは異なるようにも感じるが、「私が多くの枝で美しくしたので/神の園にあるエデンの木々は皆この木を羨んだ。」(9)との記述もある。ここに来て、「第十一年の第三の月の一日に、主の言葉が私に臨んだ。」と明確な日付がつづけて書かれていることにも興味をもつ。
- エゼキエル 32:31,32 ファラオは彼らを見て/自分の全軍勢について慰められる。/ファラオとその全軍は剣で刺し貫かれた/――主なる神の仰せ。確かに、彼は生ける者の地に恐れを引き起こした。/ファラオとその全軍勢は、無割礼の者たちの間に/剣で刺し貫かれた者たちと共に横たわる/――主なる神の仰せ。」
- この章にも二回正確な日付が登場する。そして、その区切りのもと、二段階に分けて、エジプトまたはその王のファラオのと滅亡が書かれている。同盟国もいたようだが、滅びへと向かう。ネブカドネザル軍に敗北してから統治がどうなったのかは、知らないが、そのあとのことを考えると、完全統治ではなかったように思う。引用句以外にも、無割礼の者たちの間というようなことばがあるが、エジプトではある程度、割礼が行われていたとの記録もあるように思われる。割礼については、民族的、社会的には、この時代には、どのように考えられていたのだろうか。イスラエルにおいては、ある時点からかなり厳格に行われていたようだが。
- エゼキエル 33:25,26 それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたがたは血の付いたままの肉を食べ、偶像を仰ぎ見、人の血を流している。それでもなおこの地を所有しようというのか。あなたがたは剣を頼みとし、忌むべきことを行い、それぞれが隣人の妻を汚している。それでもなおこの地を所有しようというのか。
- この章は見張りについて語り、エゼキエルがその見張りなのだという宣言から始まる。さらに、「彼らに言いなさい。私は生きている――主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」(11)と語りかける。しかし、後半では、ユダの残りのものに対しする引用句のようなメッセージが語られている。主の憐れみと赦し、そして、我々人間の応答と生き方、その本質について語られているが、現実の難しさが見え隠れしている箇所でもある。祭司の家系である、エゼキエルが本能的に受け入れられない汚れに対する意識が強いのだろう。私とは様々な面で異なる、エゼキエルの中での、主、そして御心についての理解を丁寧に受け取りたい。
- エゼキエル 34:30,31 こうして、私が主、彼らと共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになる――主なる神の仰せ。あなたがたは私の群れ、私の牧草地の群れである。あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である――主なる神の仰せ。」
- イスラエルの民は、主の羊の群れであること、その指導者を羊飼いにたとえ彼らが適切ではないこと、羊同士にも争いがあることなどが、語られ、その上で、ダビデのような(指導者)をたてて導くことが書かれている。これこそが、エゼキエルの見た救いのビジョンなのだろう。羊を養われる主とは異なる視点であり、主の働きは、新しい指導者をたてることに限定されているようだ。正直、これでは、失敗の繰り返しのように見えてしまうが、主が憐れんでおられることについては、表現されているように見える。理解は難しいが、エゼキエルの苦しみもあるのかも知れない。
- エゼキエル 35:2-4 「人の子よ、顔をセイルの山に向け、それに向かって預言し、言いなさい。主なる神はこう言われる。/セイルの山よ、私はあなたに立ち向かう。/私はあなたに向かって手を伸ばし/ことごとく荒廃させる。私は幾つもの町を廃虚とし/あなたは荒廃する。/その時、あなたは/私が主であることを知るようになる。
- セイルはエドムの地(創世記36:8)だから、エドムに対する預言と考えてよいだろう。「あなたがいつまでも敵意を抱き、イスラエルの子らを、その災難の時に、また最後の刑罰の時に、剣に渡したからである。」(5)と理由を述べ、『これら二つの国民、二つの地は私のもの、我々がそれを所有する』(10b)、『これは荒れ果てて、我々の餌食となる』(10)などと言ったからだとしている。近隣の他民族との友好関係を維持することが難しいことは理解できるが、おそらく、多少の婚姻関係や交流はあり、友好関係といわれる部分もあるだろう。創世記に、近隣の諸民族、特に、エドムがイスラエル(ヤコブ)の兄弟だとスタートすることの意味は、考えさせられる。兄弟こそが、最初の他者、互いに愛し合うことが困難な存在なのだろう。ただ、このような預言がどのような意味があるのかについては、正直、負の意味しか感じない。同時に頻繁に登場する「私が主であることを知るようになる。」にどのような思いが込められているのかも、よくわからない。
- エゼキエル 36:22,23 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、私が行うのはあなたがたのためではなく、あなたがたが行った先の諸国民の中で汚した私の聖なる名のためである。私は、あなたがたが諸国民の中で汚したために、汚されてしまった私の大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、あなたがたの内に私が聖なる者であることを示すとき、諸国民は私が主であることを知るようになる――主なる神の仰せ。
- 捕囚となった民に預言の関心が移っているように見える。そして、このあとには、エルサレム帰還(シオニズム)と思われる預言が続く。十分読み込めていないが、エゼキエルが活動できる、ある程度の自由、そして、捕囚の民がコミュニティとして存続できる環境が与えられたことが、このような希望をも生み出したようにも思う。タイなど東南アジアの山地族の村々を何回か訪ねたことがあるが、総じて貧しく、生き残るのがやっとという中で、自身の文化や伝統のようなものは、失われ、あるのは、後に、周囲の人たちや、宣教師たちから与えられたもので、寂しさを感じたことも思い出す。アッシリアによって捕囚になった民には、このような預言書が存在しなかったのではないかとも思う。かろうじてではあるが、民族自決といえるようなものが残ったこと、それを、エゼキエルなど、指導者が紡いでいったことも、背景にあるのだろうとも思った。それもひとつの祝福なのだろう。
- エゼキエル 37:22-24 私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と二つの王国に分かれることはない。彼らは二度と偶像や憎むべきものや、もろもろの背きによって汚されることはない。私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。わが僕ダビデが彼らの王となり、彼らすべての者のために、一人の牧者となる。彼らはわが法に従って歩み、わが掟を守り、これを行う。
- 骨に預言して生き返らす箇所である。この章の前半に関心をもつが、後半を読むと、ダビデの時代まで戻ることが書かれている。それこそが、エゼキエルにとっての復興だったのだろう。興味深いのは、エフライムとユダが一つになることの記述が丁寧に書かれていること。書かれてはいないが、分裂がその後の衰退や滅亡のもとにあることを示唆しているようにも読める。そのあとは、ダビデへと続き、そこで終わる。ダビデが主を求めようとしたことが理想化されているのだろうが、サムエル記などを読むとそれほど単純ではないし、その後の種もダビデの時代にたくさんあるようにも見える。しかし、ダビデなのだろう。ダビデのあとはなにも書かれていない。想像できることはそこまでだったということだろうか。人は苦しい状態はリアルにわかるが、幸せや主にある平安は、本当にはわからないのかも知れない。
- エゼキエル 38:1-3 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、メシェクとトバルの頭である指導者、マゴグの地のゴグにあなたの顔を向け、彼に向かって預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。
- 創世記10:2にヤフェトの子らとして、ゴメル、マゴグ、メシェクが登場するが、個人的にはなにも知らない。中東の民族なのだろうか。5節にはペルシャ、クシュ、プトなども登場して、かなり広範囲のことが語られているのかも知れず、この章で語られている背景がよくわからない。エゼキエルの置かれた状況の現実が投影されているのだろうが、それがわからないまま、無理して解釈することは避けたいので、このままわからないとしておこう。
- エゼキエル 39:26 彼らが自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、自分の恥辱と私に対して犯したすべての背信の罪を負う。
- 前の章の続きだろう。7節には「私はわが聖なる名を、わが民イスラエルの中に知らせ、二度とわが聖なる名を汚させない。こうして、諸国民は私が主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。」とあり、この章の最後には「私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐ――主なる神の仰せ。」(29)これが、エゼキエルが見た回復なのだろう。引用句だけ、すこし、気になることが書いてあった。「自分の恥辱と私に対して犯したすべての背信の罪を負う」という部分である。これは、何を意味しているのだろうか。エゼキエルが必死に求め、受け取ったメッセージなのだろう。完全なかたちではエゼキエルも、わたしも受け取れなくても、不完全な中から、複雑な痛みは感じられるように思う。
- エゼキエル 40:1 我々が捕囚となって二十五年目、その年の初めの月の十日、都が破壊されてから十四年目、まさにその日に、主の手が私に臨み、私をそこに連れて行った。
- このときには、エルサレムは完全に破壊されていたのだろうか。幻で見る神殿がその細部の寸法とともに書かれている。これが、ソロモン神殿とよばれる、破壊前の神殿と同じなのか、別の特徴があるのか、わからないが、丁寧に記録しようとしたのだろう。祭司である、エゼキエルにとって、おそらく、もっともたいせつなもの、主とお会いできる場が、神殿だったのだろう。その幻を書き記すエゼキエルの苦しさ、そして、希望だろうかも、感じる。エゼキエルの気持ちにはなれないし、寄り添うことも難しいが。
- エゼキエル 41:1 彼は私を外陣に連れて行った。その脇柱を測ると、その幅は一方が六アンマ、他方も六アンマであった。これが脇柱の幅であった。
- 40章では門や外庭からスタートし、ここでは、外陣、すこし中に入ったということだろうか。幻の中の神殿についての記述が続く。まず、昔の聖書(口語訳など)では長さの単位はキュビットと記されていたと思うが、いまはアンマとなっている。いずれも、44cm 位なのだろうか。神殿の縮尺は多少ことなるとの記述も見たことがあるが。神殿の壁の厚さが六アンマ(5)はかなり厚いように感じるが、これは普通なのだろうか。ここの記述で、通常とは異なるものもあるのだろうか。それが伝えたいことなのかもしれないので。後半には、ケルビムの記述がある。ケルビムは、エデンの園にも登場し、契約の箱をいれた幕屋にもあるが、起源は何で、どのようなものと考えられていたのだろうか。メソポタミヤや、エジプトにも似たものは存在するのだろうか。
- エゼキエル 42:1,2 それから、彼は私を北の方の外庭に連れ出し、神域と別殿の北に面する部屋に連れて行った。正面の横幅は百アンマで、入り口は北にあり、その間口は五十アンマであった。
- 長さの記述が続く。長さだけをみていると、かなり規模が大きいように見えるが、ソロモン神殿と比較してどうなのだろうか。また、再建され、その後ヘロデなどによって建てられて神殿との大きな違いはなになのだろうか。わたしは、建築は詳しくないが、基本的には、建築するには、長さ以外にも重要なことはたくさんあるように思う。すると、これは、実際に再建することを想定して書いているものではないように見える。ただ、祭司が
仕事を行う場所の記述などもあり、エゼキエルが実際の祭司職に、エルサレムで関わったかは不明だが、たいせつにしていた部分も書かれているのだろう。個人的には意味は感じないが、エゼキエルの思いに寄り添いたいとは思う。
- エゼキエル 43:9 今、彼らは淫行と王たちの死体を私から遠ざけなければならない。そうすれば、私は彼らの間にとこしえに住む。
- 神の栄光を見、「あの人」(6)が傍らにたち、とこしえに住む場として、おそらく、これまでに語られてきた神殿を指定する。このあとには、祭儀について語られているようだ。この「あの人」は、神、ご自身なのかとの疑問がまず湧く。傍らに立ち、私の玉座というからには、王に匹敵するものであろうが、近さから、主ご自身とは、ことなるようにも見える。引用句では、忌避すべきものが語られているが、ここに書かれていることも、祭司が避けるべきことで、一般人とは異なるようにみえる。祭司の務めがまずは更新されているということなのだろう。美しく表現されてはいるが、本質的な汚れ・広い意味での淫行をひとが犯してしまう弱さについては、語られていない。一般人についても、すくなくともここには、語られていない。
- エゼキエル 44:9 主なる神はこう言われる。「心にも肉にも割礼を受けていない外国人、すなわちイスラエルの人々の中にいる外国人は誰一人として、私の聖所に入ってはならない。
- これを真実として受け入れるべきなのかも知れないし、また、エゼキエルの限界なのかも知れないが、外国人に対して排他的、かつすべて祭司が聖なる事の責任を担う社会への回帰が書かれているように見える。ユダヤ人、ユダヤ教というものが、どのように確立していったかをしっかりと理解したい。アッシリアに捕囚になったひとたちは、失われたかのようになり、パレスチナに残されたひとたちは、混血などもあり、なかなか受け入れられず、キュロス以降、帰還した者たちが中心となって形成されていったように見える。そのひとつの起源は、このエゼキエル書にもあるのかもしれない。エズラなどのリーダーシップなどについてはまた考えたいが。難しい。
- エゼキエル 45:1 「あなたがたがその地を相続地として分配するとき、その地の聖なる部分を献納地として主に献げなければならない。その長さは二万五千アンマで、幅は二万アンマである。この周囲の領域もすべて聖なる地である。
- 土地の献納だけでなく、収穫からの献納物についても書かれている。祭司中心である。そこからしかエゼキエルは考えられなかったのかも知れないが、祭司やレビ族のなりたちにも興味と疑問を持つ。イスラエルの中では、大雑把に、十二分の一、または、十三分の一が、レビびとで、さらに、祭司はその中でも特権階級だったはずである。北イスラエル滅亡後は、南に逃げてきた人たちの中に、レビびとや祭司が多かったとしても、レビびと祭司が少数派であったことには、かわりはないだろう。その支配を確立する基盤が書かれているように見える。ただ、中世以降の貴族階級が、革命・改革のあとも、力を持ち続けた場合が多いように、血筋などだけでなく、教育環境など、他の知的な面での優位もあり、簡単には、変えられなかったのかも知れない。すべての人に教育が行き渡るようになるまでは。急がないほうが良いのかも知れない。
- エゼキエル 46:13,14 あなたは毎日、欠陥のない一歳の雄の小羊一匹を焼き尽くすいけにえとして主に献げなければならない。朝ごとにこれを献げなければならない。あなたは、それに添えて、朝ごとに、六分の一エファの穀物の供え物と、上質の小麦粉に振りかけるための三分の一ヒンの油を献げなければならない。これは主のための穀物の供え物であり、変わることのないとこしえの掟である。
- 祭りとともに、日々の献納物などについて書かれてある。やはり気になってしまうのは、これらの供え物はどこから来るかという問いである。当時、捕囚民としての制限は、さておき、そのあとであっても、そして、レビ族も、住んでいた町の周囲の放牧地などが与えられていたとしても、一般のひとからのささげ物がなければ、引用句にも書いた燔祭はささげられなかったはずである。エゼキエルにとっては、祭司としての務めを適切にするところが、主との関係をただすことの中心に置かれていたのだろうが、経済学や政治学の基本だけではなく、初等数学・算術もここにはない。その限界を思いつつも、焦らず読んでいくことがたいせつなのか。キリスト教会においても、似たことが起こる背景は十分にある。
- エゼキエル 47:23 寄留者には、寄留する部族の中で、相続地を与えなければならない――主なる神の仰せ。」
- 47章は、流れ出る水から始まり、後半には土地の分割について書かれ、引用句で終わっている。これが、回復のイメージなのだろう。まず、三つの地名が登場する。アラバ、エン・ゲディ、エン・エグライム。これらは、どこ、そして何を意味するのだろうか。分割には、そのまえに、このとちをどのように取得するかが課題となるはずであるが、そのことは述べられていない。そこにいる人について、言及があるとすると、引用句だけである。ひとは、他者視点にたつことが、とても難しいということだろうか。他者にとっての主、たいせつな方、たいせつなものについては、考えられないのだろう。ひとの弱さでもある。
- エゼキエル 48:23 残りの部族については、東端から西端までがベニヤミン族。これが一つの割り当て。
- 分割について書かれている。北のはしのダンからはじめているが、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライムときて、ユダ、そして祭司たちの土地などについて言及し、引用句から残りに移る。ヨシュアの時代の分割と比較すると非常に単純に北から南に分割しているようにみえる。長さは正確にわからないが、帯状のもののように見え、正確でもないように感じる。幻は、幻であって、現実とはズレがあるのは、エゼキエルも認識していたかも知れない。ここが終わりというのは、興味深い。前にも書いたように、ひとは、苦しさ、悲しさ、そして、現実の問題・課題については、詳細に記述できるが、どうなったらよいかは、つまり、幸せの記述はできないのかも知れない。やはり、難しい。これも、ひとの限界なのだろう。
AI による応答(26章まで):Gemini・ChatGPT・Claude
AI による応答(27章以降):Gemini・ChatGPT・Claude
ダニエル書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.7.10-7.15)
- ダニエル 1:4-6 彼らは体に全く欠陥がなく、容姿端麗で、あらゆる知恵を悟り、豊かな知識と理解力のある若者たちであった。彼らは王宮に仕える能力を備えており、王は彼らにカルデア人の文字と言語を学ばせた。王は、王の食事と王が飲むぶどう酒から日々必要な分を彼らに与え、三年間養育した後に、彼らを王に仕えさせることにした。彼らの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。
- 三年というのは、表現が誇張されているように見えるが、ここに四人が登場する。ダニエルについては、エゼキエル書にも登場する。エゼキエルと同じ時に捕囚になったと考えられるが、これら四人について、聖書以外にも、記録があるのだろうか。特に、ダニエルについては、イスラエル人にとって、どのような人物と考えられていたのだろうか。最初に食事によって汚れないようにと、王の食事とぶどう酒について書かれてあるが、肉などはある程度理解できるとしても、ぶどう酒も忌避されたのは、なぜなのだろうか。
- ダニエル 2:37,38 王様、あなたは王の王です。天の神はあなたに王国と権威と力と栄誉をお与えになりました。また、人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいようと、神はこれをあなたの手に渡し、あなたをこれらすべての支配者になさいました。あなたこそあの金の頭です。
- 夢を語らずにその解き明かしを求めるというのは理不尽だと思わえるが、ここでダニエルが解き明かしをしている。ネブカドネツァルは、イスラエル(ユダ王国)にとってどのような存在だと見られていたのだろうか。王の王、神に王国と権利と力と栄誉を与えられたと考えられていたのだろうか。これにつづくような世界観は、当時からある程度はあったのだろうか。ローマ時代まではいかなくても、それに近いあたりまでの歴史を踏まえて書かれているのだろうか。
- ダニエル 3:12 ここに、あなたがバビロン州の行政官に任命したユダヤ人たちがおります。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴです。王様、この者たちはあなたの命令を無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みません。」
- この三人については、1章に紹介されているが、それ以外では、この章だけに登場する。「その時、カルデア人たちが進み出て、ユダヤ人たちを中傷した。」(8)とあり、ユダヤ人を、または、ユダヤ人の生き方を代表させているのだろう。そう考えると、同じではなくても、同種の状況はあり、伝承のような形で伝えられてきたということだろうか。捕囚になっている地で、主人の命令に服従しないということはあまり考えられないが。伝承があったとしても、すこし、あとの時代に書かれたのであろうか。あまり史実性を問うのは大切ではないのだろう。
- ダニエル 4:24 ですから、王様、私の勧告をお受けになり、正義を行うことによってご自分の罪から離れ、貧しい者を憐れむことによってご自分の過ちから離れてください。そうすれば、あなたの安泰は続くでしょう。」
- 「この言葉は、直ちにネブカドネツァルに成就した。彼は人間の中から追放され、牛のように草を食べ、その体は天の露に濡れ、ついに彼の髪は鷲の羽のように伸び、爪は鳥の爪のようになった。」(30)とあり、史実であることが書かれている。そうであったかどうかよりも、これが書かれた背景を考えてみたい。ネブカドネツァルは、主に信頼せず、偶像礼拝などにはしったユダヤ人たちを罰するため、主によって、遣わされたと理解していた宗教人は多かったろう。同時に、現実をみると、ネブカドネツァルを主が遣わされたということは、受けいれられない、現実もあるなかで、書かれたエピソードなのかもしれない。時代が下れば、キュロスをどう考えるかなど、ユダヤ人の範囲を大きくこえた世界をりかいする状況が多発する。その中で生み出され記述されたものなのかも知れない。
- ダニエル 5:29,30 そこでベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を首に掛けるように命じ、彼が王国を支配する第三の位に就くと布告した。その夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。
- まず、このベルシャツァルについて、その最後については、どのように聖書以外の文書には記され、考古学的には理解されているのかが気になった。ネブカドネツァルの人生の後半に起こったことが、この章にも繰り返されている。そのこととの関連も気になる。また、第三の位は、この章の前半にも登場するが、第一は王だとして、第二は通常どのような位だと考えられているのだろうか。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』は、他のひとには、理解できないものだったのか。
- ダニエル 6:1-3 王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。この時、彼は六十二歳であった。ダレイオスは百二十人の総督を配置して王国全土を治めさせるのがよいと考えた。そして、総督たちの上には、彼らから報告を受け、王が損失を被らないようにする三人の大臣を置いた。そのうちの一人がダニエルであった。
- バビロンは、メディアとペルシャに滅ぼされたと思うが、ここでは、ダレイオスはメディア人と書かれている。メディアとペルシャは二つの国だと思うが、これらの関係や、当初の支配体制について考古学・古代史ではどのように理解されているのか。またこの地域で、ライオンによる刑罰は一般に行われていたのか。ダニエル書の歴史的位置付けに幅があるようなので、どのように理解したら良いかわからないが、歴史的背景は理解しておきたい。
- ダニエル 7:25-27 彼はいと高き方に逆らう言葉を語り/いと高き方の聖者たちを疲弊させる。/彼は時と法を変えようとたくらみ/聖者たちは、一年、二年と、半年の間/彼の手に渡される。しかし、裁きが行われ/彼の支配権は奪われ/破壊され、滅ぼされて終わる。王国と支配権、天の下の国々の権威は/いと高き方の聖なる民に与えられる。/その王国は永遠の王国であり/すべての支配者は彼らに仕え、服従する。」
- 黙示文学だろうかの形式で書かれているようだ。内容や、預言のときあかしより、どのような時代に、どのような背景の人たち向けに書かれたかが、重要だと感じた。引用句は、その行き先をメッセージとして伝えているのだろう。あまりその時代時代のひとたちの痛みのようなものは、感じることができず、励ましになったかは不明であると感じた。
- ダニエル 8:1 初めて私に幻が現れてから後、ベルシャツァル王の治世第三年に、再び私ダニエルに幻が現れた。
- 引用句が最初で、最後には「私ダニエルは疲れ果て、何日か病に伏したが、その後起きて、王宮の務めを行った。あの幻について私は驚くばかりで、理解できずにいた。」ある時代背景のもとでの、実際の出来事として書かれている。黙示文学のひとつの形態とも理解できるが、同時に、何らかの伝承もあったのではとも思わされる。歴史上にダニエルに投影しているだけかもしれないが。そのような、歴史上の一時点ということは、省いて読んだ方がよいのかも不明である。ただ、具体的な解き明かしが付随している箇所としても興味深い。
- ダニエル 9:7,8 主よ、あなたは正しい方です。しかし、今日このとおり、私たち、すなわち、ユダの人々、エルサレムの住民であり、また、あなたに対して犯した背信の罪のゆえに、あなたに追い散らされて、遠くであれ近くであれ、あらゆる国々に住む全イスラエルの民は、恥辱に直面しています。主よ、恥辱に直面しているのは、あなたに罪を犯した私たちであり、私たちの王、高官、先祖たちです。
- 「ダレイオスの治世第一年のことである。」(1)と始まる。捕囚後何年目ぐらいが想定されているのかも気になった。ここでは、恥辱ということばが二回でているが、背信の罪を犯し、これからは、そのような状態にならないのかなどの考察はない。そして、エレミヤ預言は期待として描かれている。最後は、黙示・預言で終わっており、ついついその解釈を考えようとしてしまうが、ダニエル書がかかれたときには、どのような意味を持っていたかも考える。しかし、いずれにしても、主のことばに聴く、自らを省みる、わからないということから来る畏れ・畏敬のようなものは、感じられない。あまりに批判的すぎるだろうか。
- ダニエル 10:13 ペルシアの王国の天使長が私の前に二十一日間立ち塞がったが、見よ、偉大な天使長の一人ミカエルが私を助けるために来た。そこで、私はペルシアの王たちのもとに彼を残した。
- 20節にはギリシャの天使長も登場する。おそらく、このようなそれぞれの国の天使長ということは、聖書の中ではほかにないように思うが、どのように発生し、伝承され、受け入れられていたのだろうか。さまざまな国の天使長以外にも、さまざまな外国の天使についても、考えられていただのだろうか。この章は、キュロス王の第三年とある、また、三週間喪に服していたとあるが、とくべつな時期を設定しているのだろうか。記述された詳細を理解しようとすることがよいことかどうかは不明だが。
- ダニエル 11:40,41 終わりの時に、南の王は彼に戦いを挑む。北の王は戦車、騎兵、大船隊を率いて彼を襲撃する。また国々に侵入し、押し流して、越えて行く。彼は麗しの地に侵入し、多くの人々が倒れる。だが、エドム、モアブ、アンモン人のおもだった人々は彼の手を免れる。
- 「メディア人ダレイオスの治世第一年」が想定され、そのとき以降におこることが黙示・預言されている。この書が書かれた時期の投影やその後のことにも関わっているのかも知れず、やはり、ここに登場する国などについて、なにが想定されていると考えられているか、その理解なしには、背景や書かれた目的を理解することもできないだろう。どこまで理解したら良いかはわからないが、概要は知りたい。
- ダニエル 12:12,13 待ち望んで千三百三十五日に至る者は、幸いである。あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう。」
- 「その時、大天使長ミカエルが立つ。/あなたの民の子らの傍らに立つ者として。/国が始まって以来、その時までなかった/苦難の時が来る。/しかし、その時にはあなたの民/かの書物に記録が見いだされたすべての者は/救われる。」(1)とはじまる。このような励ましが、ダニエル書の中心メッセージなのかもしれない。背景を理解しないと、背後にあるもの、目的は理解できないので、引用句でいわれていることは、どのように理解したら良いのかを知りたい。ダニエル書は、書かれた当時にはたいせつな意味があったのかも知れないが、現代のわたしたちがどのように読めばよいのかは、やはりあまり判然としない。
AI による応答:Gemini・ChatGPT・Claude・Magisterium(〈ラテン語〉《カトリック》教導権)
ホセア書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.7.16-7.22)
- ホセア 1:1 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世と、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの治世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。
- 北イスラエルが滅びるのは、ヒゼキヤの時代、そして、ヤロブアムの時代は、それなりの繁栄をした時期ともいわれていると思う。活動の中心は、ユダだったのだろうか。不明である。「淫行の女」ゴメルをめとり、男児イズレエル(神が蒔く)、女児ロ・ルハマ(憐れまぬ者)、男児ロ・アンミ(わが民ではない)をもうけ、それぞれについて預言的なことばを添えている。こどもは、将来を投影する、そして、親は夢を託すものでもある。イズレエルは三日月型肥沃地帯の最南端の名前でもあり、ある程度理解できるが、あとの二人はこどもの名前としては尋常ではない。そして、淫行の女という部分も背景が書かれていないのでよくわからないが、直接的には、異常さを感じる。即断はせず、少しずつ読んでいきたい。
- ホセア 2:25 私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマを憐れみ/ロ・アンミに向かって/「あなたはわが民」と言う。/彼もまた言う。「わが神よ。」
- 冒頭には祝福も書かれ、あなたがたは兄弟に向かって/「アンミ」と/また姉妹に対しては/「ルハマ」と言え。などとも書かれている。実際の家庭は、このあとの、妻に関する記述もふくめて、実際の詳細は不明だが、信仰生活においても、家庭生活においても、さまざまなことがあったことがうかがえる。このような家庭のことを通しても、ホセアは、主の働きやみこころを学んでいったのかも知れないと思う。いそがず、少しずつ読んでいきたい。
- ホセア 3:1 主は再び、私に言われた。「行って、ほかの男に愛され、姦淫を繰り返す女を愛せよ。」これは、イスラエルの子らが他の神々のもとに赴き、干しぶどうの菓子を愛するのに、主がなおも彼らを愛しているからである。
- この短い章の最後には、「イスラエルの子らは、長い間、王もなく、長もなく、いけにえも聖なる石柱もなく、またエフォドもテラフィムもなく過ごす。」(4)と書かれ、イスラエルの子らが戻ってくることが書かれている。明確ではないが、捕囚と帰還が預言されているのかもしれない。「終わりの日」は、いつのことが想定されているのか不明だが。引用句では、「姦淫を繰り返す女」を愛することが書かれている。当時の清い生き方からすると忌避されていたと思われるが、ゴメルとの関係から学んだこともあったのかもしれない。ただ、誠実に向き合っても、人間の努力だけでは、他者の人生は変化しないことも心しなければいけないだろう。いずれにしても、主の求め方が、当時の通常のひととは異なっていたことは確かなのだろう。
- ホセア 4:14 だが、娘たちが淫行にふけっても/嫁たちが姦淫をしても、私は罰しない。/男たちも遊女らと一緒になって離反し/神殿娼婦らと共にいけにえを献げるからだ。/悟りのない民は滅びる。
- 北イスラエルを中心に告発しているのだろうか。引用句のようなある意味で男女にな意識を当時もてたのは、ホセアの二人の女性との関係から学んだことが影響しているのかも知れない。淫行・姦淫の背後に、男性の様々な影響があり、または、社会的不遇などの背景があることも、学んだのかも知れない。そこまで書いてはいないので、即断は避けるべきだろうが。イスラエルの罪をとおしてみる世界、単なる忌避や非難ではなく、新しい視点をもつこともできたのかも知れない。
- ホセア 5:14,15 私はエフライムには獅子となり/ユダの家には若獅子となる。/ほかならぬこの私が引き裂き、奪い去り/誰も救い出す者はいない。私は行って、自分の場所に戻っていよう。/彼らが罪を認めてわが顔を尋ね求め/苦境にあって私を探し求めるときまで。
- 特に、北イスラエルで、そして、南ユダでも、淫行(主に背く行為)がはびこっていたことが書かれている。途中8で、ギブア、ラマ、ベト・アベンと地名が出てくるが特別な意味があるのだろうか。ベニヤミンは、エフライムとユダの間あたりが割り当て地だったとされるが、背後は、エフライムなのだろうか。引用句で、獅子と若獅子という言葉がある。あとのことを知っているものとしては、ユダへの裁きはすこし時間的にあとなのかもしれないし、破壊・裁きの規模を言っているのかも知れない。北イスラエルがエフライムで代表されることが多いことは理解できるが、あまりに他の部族は登場しない。これはなにを意味するのだろうか。すでに、いくつかの部族は非常に小さくなっていたのだろうか。リーダーシップとともに、一般の人たちのせいかつについても知りたい。
- ホセア 6:1-3 さあ、我々は主のもとに帰ろう。/主は我々を引き裂いたが、癒やし/我々を打たれたが、包んでくださる。主は二日の後に我々を生き返らせ/三日目に起き上がらせてくださる。/我々は主の前に生きる。我々は知ろう。/主を知ることを切に求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/雨のように我々を訪れる。/地を潤す春の雨のように。
- 力強く美しいことばで、呼びかけている。しかし、特に後半を見ると、実際には難しく、イスラエルは戻ってこないことを予感させる記述になっている。当時の主は、出エジプトから、イスラエルを導かれた主なのだろうか。主をどのように理解していたかが、主に従うかどうかにもかかってきているように思う。ヤロブアムの時代に、外国との交流も盛んになり、ある経済的富を築くようなとき、人々は、そして、ホセアは主を、日常的にどのような方として、慕い、主のもとに帰ろうといっているのだろうか。裁き主としても理解しているようだが。
- ホセア 7:7-9 彼らは皆、かまどのように熱くなって/その支配者たちを食い尽くした。/彼らの王たちは皆倒れた。/それでも、彼らの中に私を呼ぶ者は一人もいない。エフライムはもろもろの民の中に混じり合う。/エフライムは裏返さずに焼かれたパン菓子。他国人が彼の力を食い尽くそうとも/彼は気付かない。/また、白髪が増えても、気付くことがない。
- この章では、様々なことが起こっていることが、興味深い表現で書かれているが、実際に、北イスラエルで何が起こっているのかは判然としない。一つは、人を欺く盗人のようなあり、そのような人が王や指導者に取り入っていることのように見える。また、引用句からは、周囲の国々との交易が盛んになるなかで、主をおそれる本質的なものが失われていっていることを表現しているようだ。株価を含む禁欲に強く惹かれ、たいせつなことの本質が失われていっている現代とも共通点があるようにも思う。しかし、国際化、異なる他者との関わりはそう簡単には、判断しにくい。また、周囲で、アッシリアのような強大な、イスラエルではどうにもならない力が起こっている時代であることも考えると、本当に難しい。現代でも、AI を戦争に使うなど、人間の嗜好・思考を統率するのは難しい。どう生きるのかは、ホセアのころも、今も同様に難しいのかも知れないと思う。
- ホセア 8:2-4 彼らは私に向かって叫び求める。/「わが神よ/我々イスラエルはあなたを知っています」と。しかし、イスラエルは善を退けた。/敵は彼を追い詰める。彼らは王を立てた。/それは私から出たことではない。/彼らは高官を立てた。/だが、私は知らない。/彼らは自らの銀や金で偶像を造った。/それは打ち砕かれるためである。
- 本質をついているのだろう。しかし同時に、アッシリアに攻められた時のヒゼキヤなどと比較すると、北イスラエルの異なる状況も感じる。三日月型肥沃地帯の最南端を含み、農業・牧畜、いずれも、ユダの山地よりは、やりやすく経済的に豊かに成ることができただろう。ツロ、シドンといった海洋民族の豊かな都市も隣接し、古い町のダマスコも近く、その北には、チグリス・ユーフラテスの古代からの重要な地域がつづく。交流をするのは、当然で、小さな民族が交わりを拒否することに逆に疑問を抱く。引用句では、その中での選択について、なにをたいせつにするかについて、批判しているようだ。そこに自分をおくと、難しいと感じる。
- ホセア 9:10 荒れ野のぶどうの房のように/私はイスラエルを見つけた。/初なりのいちじくのように/私はあなたがたの先祖を見いだした。/ところが彼らはバアル・ペオルに赴き/恥ずべきものに身を委ね/彼らの愛人のように憎むべきものとなった。
- 1節に「淫行」という言葉が二度繰り返されているが、引用句にあるバアル・ペオルに赴き、はずべきものに身を委ねるが、淫行のひとつの表現なのだろう。15節には、彼らの悪はすべてギルガルにある。とある。ここに、祭壇があったのだろうか。バアル・ペオル礼拝などは、なぜそれほどひとをとりこにし、主なる神からはなれさせたのだろうか。それはよくわからない。豊穣の神なのだろうか。批判的なことだけではなく、人々を惹きつけた理由も考えたい。同種類のことはおそらく、現代にもあるだろうから。
- ホセア 10:15 ベテルよ、あなたがたの甚だしい悪のゆえに/同じことがあなたがたにも起こる。/夜明けとともに、イスラエルの王は必ず絶たれる。
- アッシリアに滅ぼされる時代のことが含まれているのだろうが、どの時点のものなのか、不明である。3節には「我々は王を失ってしまった」とあり、引用句では、まだ、王はベテルにいるようにも見え、6節には「子牛はアッシリアへ運ばれ」ともある。「ユダは耕し、ヤコブは牛鍬を引く」が何を意味しているかは不明だが、ユダはまだアッシリアに攻撃されていないのだろうか。冷静に、イスラエルを描くところがかえって不気味である。14節なども含め、わからないことが多い。
- ホセア 11:9 私はもはや怒りを燃やさず/再びエフライムを滅ぼすことはない。/私は神であって、人ではない。/あなたのただ中にあって聖なる者。/怒りをもって臨むことはない。
- 印象的なことばが多い章である。3節、4節など、親こころや、献身的なリーダーを感じさせる。それが、8節以降にもつながっているように見える。ホセアそのひとの経験も背後にあるのかもしれないとも感じさせられる。主とのまじわりも日常的なものだったのかもしれない。最後の10,11 が具体的になにを預言しているのか、わからないが、何らかの回復を述べているのだろう。歴史的には失われた民とされるが、どこかで生き続けていたことも事実だろう。
- ホセア 12:15 エフライムは主を激しく怒らせた。/血の責任は彼にある。/彼から受けた恥辱を、主は彼に返される。
- 引用句にはすぐにはいけない、ホセア自身の痛みも表現されているように見える。一方で、「あなたはあなたの神に立ち帰れ。/慈しみと公正を重んじ/絶えずあなたの神を待ち望め。」(7)のように叫びつつも、他方「私は確かに豊かになり、富を得た。/この私の労苦の実りすべてが/罪から出た悪だとは誰も気付くまい。」(9)というような声も聞こえてくる。ホセアのなかで、絶望も広がっているのだろうか。
- ホセア 13:15 エフライムは兄弟の中で最も栄えている息子。/しかし東風が吹きつける。/荒れ野から主の風が舞い上がって来る。/泉は涸れ、井戸は干上がる。/富、貴重な財宝はすべて奪い去られる。
- 13章は「エフライムが語ると、人々は恐れ/彼はイスラエルの中で地位を高めた。」(1)と始まる。引用句を見ても、エフライムが最も栄えていることが書かれている。10部族といわれる北イスラエルで、エフライムがなぜここまで繁栄したのか、疑問に思っている。安定政権ではなく、なんどもクーデター的なことが起こっているようだ。出エジプトのときの人数などが書かれているため、それに引きずられて、10部族はそれほど強弱はないと思っていたが、最初から人数も多かったのだろうか。どのように覇権を築き、それが維持されたのか興味を持つ。「だが、バアルによって罪を犯したので/彼は死ぬ。」(1b)ともあり、ヤロブアム(1世)が偶像礼拝を用いて、南との分離、北の独自性を築いたという記述もあるが、宗教を利用したのだろうか。疑問に思う。
- ホセア 14:9,10 エフライムよ/私と偶像とに何の関わりがあろう。/私は彼に答え、彼を見守ろう。/緑豊かな糸杉、それが私である。/私によって、あなたは実を結ぶ。知恵があり/これらのことを理解し/洞察をもってそれと認める者は誰か。/主の道はまっすぐで、正しき者はそこを歩む。/だが、背く者はそこにつまずく。
- 最後の章も印象的である。一端戻って、エフライム以外の北イスラエルを構成していた9部族についても考えたい。主を捨て、偶像礼拝に至ったことは、おそらくエフライムと同様だったのだろうが、エフライムとはことなる部族のアイデンティティを持って、主体的に、この危機に考えていた部族や人々はいたと思われる。もっと前の時代だが、エリアやエリシャの活動の中心は北イスラエルと思われるし、ホセアの預言も北イスラエル中心、これから、学んでいくが、他にもおそらく、12小預言書の中に、北イスラエルについて語るひとなどもいただろう。神殿での礼拝としては、エルサレムが中心としても、神信仰としては、北イスラエルは重要な役割を果たしていると思われる。エフライムやその王に代表される人たちの歴史以外のことを丁寧に学んでいきたい。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ヨエル書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.7.23-7.24)
- ヨエル 1:12 ぶどうの木は枯れ、いちじくの木は朽ち果てた。/ざくろも、なつめやしも、りんごも/野の木はすべて枯れ/人の子らから喜びは涸れてしまった。
- 4節のばったの表現が印象的。7節にも引用句と似た表現がある。「それは私のぶどうの木を荒らし/いちじくの木をなぎ倒し/その皮を剝ぎ取り、投げ捨て/その枝を白くした。」ぶどうの木、いちじくの木は、イスラエルのシンボルのような木なのだろう。そして、その実への依存も大きいと思われる。不明なのは、祭司が登場することと、6節の「一つの国民がわが地に攻め上って来た。/それは強大で数えきれない。/その歯は雄獅子の歯/牙は雌獅子の牙。」をどう理解するかだろう。それによって、時代背景の理解が変わるだろう。このなかで、主を呼び求める。ばったについてはここまでの被害を与えることが想像しにくいが、アフリカなどで、ときどき、大群が襲ってくる映像を見る。ときどきそのようなことが起こったのだろう。
- ヨエル 2:12,13 しかし、今からでも/心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって/私に立ち帰れ――主の仰せ。あなたがたの衣でなく心を裂き/あなたがたの神、主に立ち帰れ。/主は恵みに満ち、憐れみ深く/怒るに遅く、慈しみに富み/災いを下そうとしても、思い直される。
- 何度かヨエルも読んでいるが、やはり引用句あたりの表現が胸をうつ。ここに預言者ヨエルの叫びも詰まっているのだろう。この章を読むと、ばったが軍隊を表しているのかなと思わされる。(4,5,25)ここから、主の日を連想して警告をだしているように見える。同時に、後半からは、冷静さも感じる。預言者が本書を書いた時、本当に危機の中にいるのかは、不明である。
- ヨエル 3:1-3 その後/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。私は、天と地にしるしを示す。/血と火と煙の柱が、それだ。
- 主の霊が注がれることは何を意味するのだろうか。主の息なのかもしれないが、個人的には、主のこころのようにも思う。主のこころをもって生きることができるように。それも、すべての肉なる者にと言っている。いずれにしても、ここに希望のときを示しているのだろう。そのあとに書かれている、血と火と煙の柱はなにを意味するのだろうか。出エジプトのときの光景が背後にあるようにも思うが、これは主の臨在を表すものなのか、しかし血は、いのちなのだろうか。5節の表現とともに、わかったようでわからない。
- ヨエル 4:20,21 しかし、ユダはとこしえに/エルサレムは代々にわたって民の住む所となる。私は彼らが流した血に報復する。/罰せずにはおかない。/主はシオンに住まわれる。
- 残念ながら、結局ここに行き着くのかと思ってしまった。ヨシャファトの谷での裁きが二回登場するが、この場所はどのような意味があるのだろうか。また、「ティルスとシドン、ならびにペリシテの全土」についての預言と「ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り渡し/故国から遠く引き離した。」のような表現もある。海洋民族の都市国家をひとまとめにしているが、「ギリシャに売り渡し」はなにか具体的なことが背景にあるのだろうか。いずれにしても、ユダからみていると、呪いたい、復讐したい相手はいくらでもいるのだろうが。ヨエル書がいつごろのものか議論があるようだが、読んできて、素朴さもあり、古い時代のほうが適切なのではないかと、思う。よくわからない部分も多いが。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
アモス書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.7.25-7.29-1)
- アモス 1:6 主はこう言われる。/ガザの三つの背きの罪、四つの背きの罪のゆえに/私は決して容赦しない。/彼らが捕囚の民のすべてを連れて行き/エドムに引き渡したからだ。
- 1節に時代的背景が書かれているが、ユダ中心なのか、北イスラエル中心なのかは不明な書き方である。十二小預言書のなかでは、古い時代に属するものなのだろう。この章をみても、イスラエル全体そしてその周囲に目が向いているように見える。羊飼いのひとりとしているが、視野はとても広い。このような人がどのように育ったのかにも興味を持つ。引用句はペリシテのについて書かれている。1節の地震、そしてこの節の捕囚の民をエドムに引き渡すなど、具体的な記述も多いように思う。この章では、つづけて、ティルス、エドム、アンモンとあり視野の広さとともに、周囲から語る語りが、ひとつの形式なのだろうが、同時に、イスラエル中心的な史観が、強かったのか、それなりに、イスラエルの覇権が及んでいた時期からの変化なのかも気になった。いずれにしても、すごい羊飼いである。
- アモス 2:9 しかし、彼らの前からアモリ人を滅ぼしたのは/この私だ。/彼らはレバノン杉のように高く/樫の木のように強かったが/上は梢の実から/下はその根に至るまで私が滅ぼした。
- この章では、預言の矛先がモアブを経て、ユダとイスラエルに向かう。おそらく、周辺から核心という道筋なのだろう。ヤロブアム(二世)の時代には、領地も拡大し、経済的にも繁栄したといわれている。引用句では、アモリ人を滅ぼしたとあるが、これも、そのひとつでもあったのだろう。それを、滅ぼしたことは、主の業によるとしている。自分たちがこの繁栄を築いたと考えていたであろうひとたちにきっぱりという潔さも感じる。ただ、やはり、前章からの続きで考えても、周囲のひとたちについては、まとめて語られ、そこにひとの顔は見えない。また、ユダ、(北)イスラエルにしても、具体的なことについて述べてはいても、個人の顔は見えないように思う。テコアの牧者がどのような生活を送っていたかにも興味をもつ。まずは、周囲を観察して、理不尽さをふくめ、問題を感じる中で、主の御心をもとめ、それから、すこしずつ内面に入っていくことも、ひとつの道筋であり、無論わたしも含めて一般的には愚かなひとの営みであることは確かだが。
- アモス 3:6-8 町で角笛が吹き鳴らされたら/人々はおののかないだろうか。/町に災いが起こったら/それは主がなされたことではないか。まことに、主なる神は/ご自分の僕である預言者にその秘密を示さずには/何事もなされない。獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。/主なる神が語られる/誰が預言せずにいられよう。
- 引用句には、預言者の明確な使命感が表明されている。その根拠の一つは、災いは主がなされたこと、主は秘密を預言者に示されることとしている。いずれも、そう単純ではないとわたしは考えるし、現代では、そのような考えをする人も多いように思う。しかし、主の御心をもとめ、それに従って生きることを中心においていれば、アモスのように考えて行動することは誠実であるようにも見える。むろん、実際には、複雑で、主が災いの背後におられるとしても、主がなされたと考えるかどうかは単純ではなく、主の御心をうけとったと思っても、完璧なかたちで受け取れているかは不明、この複雑さを適切にうけとり、思考し、行動するのは、難しい。そのなかで、謙虚に、生きていきたい。それがアモスに倣うことなのかも知れない。
- アモス 4:11,12 神がソドムとゴモラを滅ぼされたように/私はあなたがたに破滅をもたらした。/あなたがたは炎の中から取り出された/燃えさしのようになった。/それでも、あなたがたは私のもとに帰らなかった/――主の仰せ。それゆえ、イスラエルよ/私はあなたに対してこのようにする。/私がこのことを行うゆえに/イスラエルよ/自分の神に会う備えをせよ。
- ベテルやギルガルで当時行われていたことがよくわからないので、4、5節などどう理解したら良いか複雑な部分もあるが、基本的には、引用句の最初にあるように、繰り返し、主が警告をされているのに、主のもとに戻らなかったことを告げているのだろう。その上で、自分の神に会う備えをせよと、語り、このあとには、万軍の主がどのような方であるかが加えられている。どのようなひとたちがこのアモスの声を聞いたのか不明だが、もし、一般人であるなら、ここから、自らの主への背きにまで思い致すのは難しいように思う。すると、支配者だろうか。ヤロブアム(二世)やその周囲の人々にこの言葉が通じるだろうか。おそらく、イスラエルの繁栄をもとめ、経済的に豊かになることを必死にしていただろう。むろん、自らも肥やそうとしていたと思うが。現代とも通じる部分がおおいこの、主に聴くことは、難しいと思わされてしまう。
- アモス 5:2-4 「おとめイスラエルは倒れて/もはや起き上がれず/自分の地に投げ捨てられ/助け起こす者は誰もいない。」主なる神はこう言われる。/「イスラエルの家では/千人が出征した町で、生き残るのは百人/百人が出征した町で、生き残るのは十人。」主はイスラエルの家にこう言われる。/私を求めよ、そして生きよ。
- これがいつのことなのか不明である。最後には「ダマスコのかなた」に捕囚されることが書かれているが、預言としてはアッシリアのことのようにも思うが、引用句はアッシリアの勢力圏に入ったダマスコなどとの戦いなのだろうか。ユダにいるアモスが語っているからか、冷静でもある。「主を求めよ」という。偶像礼拝での献げ物ではなく、主にといっても、北イスラエルでは、それは難しかったろう。当時の、ユダとの関係性は多少良かったのかも知れないが、勢力的には、北イスラエルのほうが、南ユダと比較すると優勢だったと思われる。「それゆえ、悟りある者はこの時代に沈黙する。/まことに、これは悪い時代だ。」(13)は印象的である。
- アモス 6:9,10 もし、一軒の家に十人残ったとしても、彼らは死ぬ。そして、その親族、すなわちこれを焼く者が、遺体を家の中から運び出そうとし、家の奥にいる者に尋ねる。「あなたと一緒にまだ誰かいるのか。」彼は「いない」と答え、「声を出すな、主の名を唱えるな」と言うであろう。
- 正確に理解できるわけではないが具体的に描かれている分恐ろしさも強く感じる。このようなことが起こると預言しているのだろう。この章は「災いあれ、シオンに安住し/サマリアの山を頼みとする者/イスラエルの家が行って仕える/国々の名高い頭たちに。」(1)と始まる。ユダの指導者に対して語られているようである。北イスラエルにかなり従属しているユダを映し出しているのだろう。最後14節の「一つの国」がアッシリアなのか後のバビロンなのか不明だが、13節の「ロ・ダバルを喜び」などよくわからない表現はあるが、かなり混乱した状況を映し出していることは確かだろう。現代のよくわからない状況とも通じているようにも見える。アモスはどのようにして主との関係を保っているのだろうか。
- アモス 7:1,2 主なる神はこのように私に示された。見よ、二番草の生え始める頃、主はばったの群れを造られた。それは、王が刈り取った後に生える二番草であった。ばったが大地の青草を食べ尽くそうとしたとき、私は言った。/「主なる神よ、どうぞお赦しください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう。/彼はとても小さいのです。」
- まずは二番草の意味がよくわからない。一番草は、王が刈り取るとあり、こちらが良いもので、次に生えるものを、一般のイスラエル(ヤコブ)が刈ることができるのか。この預言をしている場所も気になった。アモスは、ユダの出身だと思われるが、北イスラエルでユダにも近いベテルに行って預言したのだろうか。基本的に第一と第二の幻の中で示された裁きは行われず、罪がより明確になっている、第三の幻を通しての預言から、アマツヤの批判へと進む。この章の記述を見ると、イスラエルは、ヤコブやイサクと表現され、全体が一つであるように見え、課題は、ヤロブアムであるように見える。最後には、捕囚の預言へと進む。このときの、イスラエルがどのような統治だったのかも気になる。南ユダは、族長のような王がいても、南ユダ王国といえるような状態ではなかったような印象を受ける。ベテルの祭司がエルサレムの神殿などとはどのような関係を持っていたのかも気になる。
- アモス 8:12-14 人々は海から海へと行き巡り/北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが/見いだすことはできない。その日、美しいおとめも若者も/渇きのために気を失う。サマリアの悪にかけて誓う者たち/また「ダンよ、あなたの神は生きている。/ベエル・シェバよ、あなたの道は生きている」/と言う者たちは/倒れて再び立ち上がることはない。
- 引用しなかったが、11節のような印象的なことばから、終わりが預言されている。ヤロブアム(2世)は、列王記によると41年間治めたとある。領土を回復し、経済的にも繁栄したように書かれて入るが、このアモス預言がどの時期なのかも気になる。同時に、世界状況も知りたくなる。アッシリアが巨大帝国となりつつあるときだとは思うが、すると北のダマスコ、シリア地方は、北からの脅威から、弱体化したことも、領土のと関係しているのかも知れない。また、一つの古くからのアクターが力を落とす中で、まだ繁栄をしていたと思われる、ティルスとシドンや、おそらくまだある程度力があったペリシテは地中海貿易としては力を維持し、民族的、宗教的なこととは無視して、それらと、富を貪っていたということだろうか。上の見方が正しければだが、その中であれば、虚飾にまみれた、サマリアの悪を見ることができるかも知れない。そして、主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだろうが、ほんとうに乾きを感じるひとたちがどの程度いるのだろうか。現代に移してみても、飢え渇きを感じることができるひとは、少なく、そこから世界が変化することは難しいように思う。
- アモス 9:11 その日には/私はダビデの倒れた仮庵を起こし/その破れを修復し、廃虚を復興させて/昔の日のように建て直す。
- 引用句以降、イスラエルの復興・回復の最後の日について語られる。希望はこのような形で語られる、共通のものなのだろう。批判的な思いもあるが、希望を持ち続けることが信仰、主に従うことであれば、これは、ひとつの形なのだろう。刺激的で、様々な視点を含む、勇気あるアモスがこのように終わっているのはちょっと残念だが。「イスラエルの子らよ。/私にとってあなたがたは/クシュの人々と変わりがないではないか」(7)ともある。そこからイスラエルを導き上ったという記述から、自分たちは神に選ばれた特別の存在という意識が育ち、自分たちが優れた存在だと自惚れるようになったのだろうか。そうともとれるが、ある程度、生活が順調に進んでいるようにみえるときに、謙虚さを保つことは難しいということだろうか。希望だけではなく、謙虚に、ほとんど何もわかっていないことを認めて、求め続けることが神信仰を支える基盤にあるということなのだろうか。難しい。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
オバデヤ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.7.29-2)
- オバデヤ 19-21 彼らは、ネゲブをエサウの山と共に、シェフェラをペリシテ人の地と共に所有し、またエフライムの野とサマリアの野、ベニヤミンの地をギルアドと共に所有する。捕囚となったイスラエル人の軍団はカナン人の地をサレプタまで所有する。セファラドにいたエルサレムの捕囚の民はネゲブ各地の町を所有する。救われた者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。
- オバデヤがいつの時代のことを描いているのか不明である。エルサレムをくじで分けたあの日という表現もあるので、バビロン捕囚以降だろうか。しかし、ある程度おちついて預言しているようにも見え、捕囚帰還後なのか、どの時点なのか、はっきりしない。エドムとの交流や相克は長い歴史があるだろう。それが兄弟的な関係でもあるのだろう。ただ、ここに書かれている内容はある意味で決定的な裁きのようにも取れ、イスラエル、エルサレムの回復と書かれていると、定型的な希望の表現なのかなとも思ってしまう。短くて、ここだけから、理解するのは難しい。オバデヤ書がどのように継承され、旧約聖書に含まれたかにも興味をもった。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ヨナ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.7.30-7.31)
- ヨナ 1:2,3 しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。
- いろいろと整合性がとれないことがあるが、あまり重要ではないのだろう。疑問とともに書き記す。「主の御顔を避け」とあるが「海と陸とを造られた天の神、主を畏れる者」(9)とあり、タルシシュは地中海沿岸の街なのだろうが、どこへ行っても主の顔を避けられないことはわかっていただろう。「船賃を払って」は当たり前のこととおもうが何か指し示すことがあるのか。「海に積み荷を投げ捨て」とあるのは、そのほうが制御しやすいということか。「災難がだれのせいか」をくじできめる。聖書には、他にもそのような記述が記述があるが、危険な行為としか思えないが、一般的にも受け入れられていたのか。このあとの「ああ、主よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください。あなたは主、思いのままになさるお方です。」とあわせてどの程度このような考えが受け入れられていたのか気になった。「船を漕ぎ」とあるが、帆船だと思うが、大風のため、帆を下げ、艪を使ったということか。陸地に沿っての航海が一般的だったと思われる。人々についてもヨナについても、まっとうな信仰を表現しているところも、かえって気になる。もともと、作り話とわかるように書かれたということだろうか。
- ヨナ 2:6,7 大水が私を取り囲んで喉にまで達する。/深淵は私の周りで逆巻き/水草は私の頭に絡みつく。私は山々の基、地の底に沈み/地の扉に長く閉じ込められた。/しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。
- 当時の知識人でもありそうもないとわかるような記述とともに、非常にリアルな表現も含まれている。一つの文学なのだろう。引用句の時点では、過去のこと、主の恵を思い出していると解釈した方がよいのだろう。主への信仰による決断は、人間の思いに邪魔されてできないことがあるが、そうであっても、主との関係性を思い出し、たいせつにして、それをいまのときの選択に活かすことは、わたしもパニックになったときに心がけていることでもある。それが10節の潔い信仰告白へとつながっているが「空しい偶像に頼る者たちは/慈しみの心を捨てている。」(9)のような正しさの主張が混在しているところが、気になるところではある。
- ヨナ 3:7-9 王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むこともしてはならない。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」
- 主の言葉に従ってヨナがニネベの町で「あと四十日で、ニネベは滅びる」と宣教した結果である。悔い改めよとも告げていない。しかし、引用句の記述は、有りえないものになっている。これが文学ということだろうが、おそらく、ここまで徹底的に表現することで、イスラエルの民に、ここまでする王や民はいたかという問いかけもしているのだろう。一般的には、ひとりの預言者のことばを信じるかどうかが鍵となる。ここには、なぜ人びとがヨナの言うことを信じたかは書かれていない。百歩ゆずって、ヨナの経験が背景にあることばにも、力があったのかも知れない。そう書くのは、現代では、起こり得ないと思ってしまうからである。同時に、このように主のことばを担うこと、明らかにされることもないし、もしかすると、主なる神も、こころを痛めることはしても、人間の自由意志にまかせている面もあり、悩んでおられる面が強いのかも知れない。難しい。
- ヨナ 4:1,2 このためヨナは非常に不愉快になり、怒って、主に訴えた。「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。
- ここから、ヨナ書の逆転が起こる。最後の「あなたは自分で労することも育てることもせず、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまをさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」(10,11)が印象的であることは確かである。正しさと裁きとは、異なる視点を、引用句からも、ヨナは知っているが、理解してはいないということだろうか。最後のところに、本質があるのだろうが、同時に、主の主権のもとでされることの意図、その背後の主の思いは、わからないということが中心なのだろうか。ヨナ書の中心メッセージを考えると、わたしは、ある程度以上の深さでは、まだわかっていないように思う。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ミカ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.1-8.4-1)
- ミカ 1:6,9 私はサマリアを野にある瓦礫の山とし/ぶどうを植える所にする。/その積み石を谷に投げ捨て/土台をむき出しにする。まことに、その傷は癒やし難く/ユダに広がり、わが民の門エルサレムにまで達する。
- アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされ、南ユダもエルサレムに至るまで攻められると第一章に預言されている。最初には、主が神殿を出て、このことをなされるというくだりがある。主がなされることだということを示しているのだろう。ミカ独特の表現がいくつもあるように見える。このあとに、たくさんの地名が登場する。なぜ、ガトから始まるのか、ベト・レアフラ、シャフィル、ツァナン、ベト・エツェル、マロト、モレシェト・ガト、マレシャなどは、よく知らない。少しずつ読んでいこう。
- ミカ 2:1,2 災いあれ、床の中で悪をたくらみ、悪を行う者に。/彼らは朝の光の中でそれを行う。/権力が手中にあるからだ。欲望に駆られて畑を収奪し/家々を取り上げ/住人から家を、人々からその相続地を強奪する。
- 引用句のあとに続く部分もふくめて、主を畏れることがない世界が、あらゆる形で表現されているようだ。しかし、読んでいると、現代の状態と酷似しているようにも見える。未知の世界の中で、ひとの弱さをみとめるなかで、畏れは生じるようにおもう。それが、宗教を支える人びとのこころにあると思うが、それが失われている、または、甚だしく希薄になっているのかもしれない。ニヒリズムと呼ぶかどうかはわからないが。それに抗うように、または、預言者の宣言として、「ヤコブよ、私はあなたがたをことごとく集め/イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。/私は彼を囲いの中の羊のように/牧場の群れのように一つにする。/それは人の騒ぎとなる。」(12)とミカは語る。乱れた世界のなかで、理想を語ることは、多くの場合、虚しいが、希望のもとで、畏れをもって謙虚に生きることは、鍵となるように思う。
- ミカ 3:11,12 その頭たちは賄賂を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者らは金を取って占う。/しかも、主を頼みにして言う。/「主が私たちのただ中におられるではないか。/災いが私たちに及ぶことはない」と。それゆえ、あなたがたのゆえに/シオンは畑となって耕され/エルサレムは瓦礫の山となり/神殿の山は木の生い茂る高台となる。
- 「聞け、ヤコブの頭たち/イスラエルの家の支配者たちよ。」(1)から始まり、「わが民を惑わす預言者について/主はこう言われる。」(5)そして最後にまた、頭、支配者に語りかけている。預言者の段では、「しかし、私は主の霊による力/公正と勇気に満たされ/ヤコブにその背きを/イスラエルにその罪を告げる。」(8)とおそらく自分のこと、あるべき姿を語っている。実際の状況は、この章の記述だけではわからないが、問題をされているのは、公正だろうか。主のまえにゆだねられたものに忠実であることのように思う。預言者の項では、「彼らは歯で何かをかんでいる間は「平和」と叫ぶが/その口に何も与えないと、戦いを準備する。」(5)と非難している。これも、主を信頼していないということだろうか。最後には、ヤコブ、イスラエルに対して、シオンの裁きが語られている。北イスラエルと分裂していても、エルサレムが、主を礼拝する中心であることを基本としているからか。
- ミカ 4:1,2 終わりの日に/主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。/そして、もろもろの民が川の流れのように/そこに向かい/多くの国民が来て言う。/「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。/主はその道を私たちに示してくださる。/私たちはその道を歩もう」と。/教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出るからだ。
- 崇高なビジョンだとも思うが、同時に、本当にこれが主のみこころなのかは、わからない。そうであっても、ミカがこれと信じ、うけとった、みこころなのだろう。正直に言うと、どの時点に書かれたものかが、見えてこない。ミカ書の最初をみると、最後は、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、エルサレムも危機に瀕するときである。しかし、ミカ書の記述からは、あまり切迫感が感じられない。しかし、同時に、「娘シオンよ/子を産む女のように、もだえて苦しめ。/今、あなたは町を出て、野に宿る。/しかし、バビロンにたどりつけば/そこであなたは救われる。/その地で、主は敵の手からあなたを贖われる。」(10)とユダの捕囚についての預言も含まれているようである。北イスラエルは滅び、エルサレムへの危機が減少している時期なのだろうか。
- ミカ 5:1,2 エフラタのベツレヘムよ/あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。/あなたから、私のために/イスラエルを治める者が出る。/その出自は古く、とこしえの昔に遡る。それゆえ、産婦が子を産むまで/主は彼らをそのままにしておかれる。/彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。
- キリスト教は、イエスをこの「イスラエルを治める者」とし、出生地もベツレヘムとして描く。しかし、この預言の箇所を読むと、なかなか複雑である。彼の兄弟の残りの者の記述がある。また、「この方こそ平和である。」とあるが、攻めてくるのは、ミカ時代の脅威、アッシリア、ミカの時代で考えても「七人の牧者、八人の王侯」や「彼らは剣によってアッシリアの地を/抜き身の剣でニムロドの地を治める。」が何を示唆しているのか受け取るのが難しい。6節からは、イザヤ書でも重要なモチーフの「残りの者」が登場する。ただ、この存在、および、この人たちがどのような人たちなのか、このあとの記述も複雑である。9節からは「その日」の記述がはじまる。そこで書かれていることも、最終的なものとは、受け取りにくい表現になっている。ミカが、ある現実をもみながら、幻を、断片的に、記述しているようにも見える。イザヤとの違いも感じ、やはりかなり難しい。
- ミカ 6:8 人よ、何が善であるのか。/そして、主は何をあなたに求めておられるか。/それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。
- この章は「主が語ることをよく聞け。/立ち上がって、山々の前に告発し/峰々にあなたの声を聞かせよ。」から始まる。この言葉自体もくいが、このあとも、一貫して、メッセージを伝えているようには見えず、これを読んだ人も、十分は、理解できないように思われる。引用句は、それでも、ミカが主のみこころだと確信していることを記述していると思われる美しいことばなので引用したが、それが他の節と十分に結びついているようには見えない。これが書かれたときの状況がわからないので、明確には、書けないが、アッシリアの攻撃のさなかにいるわけではないが、様々な形でそのニュースが伝わり、混乱の中にあるような状況を想像していしまう。そう思って読むと、記述は、恐ろしいものとして、迫ってくるようにも思う。やはり難しいが。
- ミカ 7:1 なんと悲しいことか。/私は夏の果物を集める者のように/ぶどうの摘み残しの実を集める者のように/なってしまった。/食べられるぶどうの房はなく/私が好む初なりのいちじくもない。
- このあとを読んでもわたしも「なんと悲しいことか。」と言いたくなる。この1節では、殆どいなくなってしまったということを表現しているのだろうが、いなくなったのは「忠実な人」であり「善い者、正しい者」であり、「信頼できる友」である。そのなかで、主を光とし、罪を犯した自らを省み、再建を夢見、主の憐れみにすがり、再び憐れまれる主をほめたたえる。アッシリアに、エルサレムに至るまで蹂躙された状態の中で、このことを記しているのかも知れない。「なんと悲しいことか。」と言いたくなるときは、現代にも多い。ただ、その中で生きるものとして、主をほめたたえ、讃美するだけではなく、どのように生きていくかを模索しなければいけないように思う。最悪に見えるときであっても、おそらく、それは、程度のさこそあれ継続するのだから。主を見上げ主に信頼しつつも。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ナホム書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.4-2-8.5)
- ナホム 1:1,2 ニネベに向けた託宣。エルコシュの人ナホムの幻の書。主は妬む神、報復する神。/主は報復し、その憤りは激しい。/主は対立する者に報復し/敵に向かって怒りを燃やす。
- 時代的には正確にはわからないが、アッシリアの首都としてのニネベについて、主の怒りをのべているようにみえる。現実を見ると、こんなことがおこってはいけない。主はこんなことを許されるはずがないと確信し、怒りを表現するのは、義憤でもあり、自然なことでもあると思う。アッシリアについて、そのように気持ちは大きかったろう。しかし、長い主との関係を顧み、自らの主への応答を考えれば、そう単純に、敵をののしることはできない。しかし、同時に、現実をどう捕えたら良いのかは、大きな問いだろう。現代でも、同様なことは、様々な機会に、地域で起こる。やはり、主のはたらきにのみ、希望をたくし、ある意味で、主に全責任を負ってもらうのでは、いけないのだろう。さらに、主は、ニネベのひとをも愛しておられるだろうから。そのような視点は、捕囚後に育っていくのだろうか。疑問も感じるが、丁寧に読んでいきたい。
- ナホム 2:1,2 良い知らせを伝え/平和を告げる者の足が山の上を行く。/ユダよ、あなたの祭りを祝い、誓願を果たせ。/よこしまな者があなたを侵すことは二度とない。/そのすべての者は絶ち滅ぼされたのだ。追い散らす者があなたに向かって攻め上って来る。/砦を守り、道を見張れ。/腰に帯を締め、大いに力を結集せよ。
- 敵の敗北は、うきうきする体験である。新バビロニアとメディアの連合軍によって首都ニネヴェが陥落したことを伝え聞いたのだろうか。アッシリアは、非征服民にたいして過酷な支配をしたといわれている。自分だたちが被害をうけただけではなく、アッシリア、エルサレムに対応するニネベが悪いのだとするのは、とても自然なことなのだろう。しかし、そこで、終わってしまってよいのだろうかと思う。背後におられる主のみこころをうかがい知ることは簡単ではない。求め続ける姿勢が必要なのだろうか。謙虚に。
- ナホム 3:8-10 あなたはテーベよりも優れているのか。/ナイルのほとりに座し/水に囲まれ、海を塁壁とし/水を城壁としていたあの町よりも。クシュは力/エジプトは限りない力/プトとリビアもその援軍であった。それでも、テーベは捕らえられ/捕囚として連れ去られた。/乳飲み子さえ、街角の至るところで八つ裂きにされ/高貴な人たちもくじ引きで分けられ/有力者も皆、鎖につながれた。
- エジプトや、スーダンあたりのクシュまで、プトは知らないが、リビアまで登場する。アッシリアは、エジプトに攻め入ったことを書いているのか。大勝利とはならなかったのだろう。しかし、このあとの、新バビロニアは、完全な勝利に至ることを考えると、この巨大帝国時代での変化を捉えるのは難しい。変化の中で、特に正しさには限界があるということか。現代も、各地で戦争が起き、AI によって、大きな変化の時代を迎えている。まさに、正しさによる判断は、時期尚早で難しい時代なのだろう。どのように生きるか、それがナホムとともに、我々にも問われているように思う。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ハバクク書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.6-8.7-1)
- ハバクク 1:17 だからといって、彼らはその引き網を使い続け/諸国民を容赦なく殺してもよいのでしょうか。
- 基本的には、カルデヤ人のバビロンに攻められることについて、主に問うているのだろう。自分たちや周囲との関係だけをみていた時代、そして、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされ、エルサレムも危機に陥る、そのあとではある。しかし、律法を守るただし民は、主が守って下さるという信仰があったのだろう。しかし、(当時の中東でよいが)世界的な視野をもって見ると、主の働きがよく見えないということなのだろうか。これは、そう簡単ではない。主がすべてのことの背後におられることをどう理解するかということなのだろう。それと、我々人間社会の課題をどう理解するかだろうか。ハバククは、ここからどのように進んでいくのだろうか。
- ハバクク 2:3,4 この幻は、なお、定めの時のため/終わりの時について告げるもので/人を欺くことはない。/たとえ、遅くなっても待ち望め。/それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」
- 今の時が理不尽で、希望がみえないとき、先のこと未来に希望をたくすのだろうか。預言書のひとつの構造ではあるが、ほんとうにそれで良いのか、最近は、考えてしまう。ひとは、ひどい状態、危機的な状況は理解し、そこから脱したいと思うが、よい世界は正確には想像できず、描くことができないように思う。とはいえ、周囲の小さな世界での関係性の中で、幸せを感じることは可能でもある。しかし、それを広げることは難しい。ほんとうに、正しき人は、信仰によって生きるのだろうか。正しさにも虚しさを感じる。
- ハバクク 3:15,16 あなたは海を馬で駆け抜けて/大水に逆巻く波を立てられた。これを聞くと、私のはらわたは震え/その響きに私の唇はわなないた。/腐敗は私の骨まで入り/足元は揺らいでいる。/私は静かに待とう/我々を攻撃した民に苦しみの日が来るのを。
- 現在の悲惨な状況の背後には主がおられ、それは、基本的に主の怒りの現れだと認識している。しかし、そのときの、信仰者の姿が、引用句以降に表現されている。このようなときに、静かに待ち、主にあって喜び、救いの喜びに踊ると告白している。この章の始めには、数年の内にが繰り返され(2)、救いが早く来ることが熱望されている。歴史的には、このあとに、さらに大きな災厄がもたらされるわけだが、その中でも、このように主に望みをおき生きること、それを嘲笑するようになったらほんとうにおしまいなのだろう。現代もやはり先が見えない希望を形のあるものとして抱くのが難しい時代、たとえそうであったもとこのように告白できるとよいが。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ゼファニヤ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.7-2-8.8)
- ゼファニヤ 1:18 銀も金も救いにはならない。/主の怒りの日に/全地は主の妬みの火で焼き尽くされる。/実に、主は恐るべき破滅を/地上に住むすべての者にもたらす。
- 主の日、主のいけにえの日、主のおおいなる日、主の怒りの日、また、その日、その時と、ことばを変えて語られている。アッシリアに、北イスラエルが滅ぼされ、エルサレムもあと少しで滅ぼされるかもしれないというところまで追い詰められた。主の日と表現するかどうかは別だが、滅びに至る日は、切迫したものとして感じられただろう。その中で、大丈夫と、頼りにならないものに望みにおくこともあったのだろう。現代は、おわりの日を語る人もいるが、すこし、様相は異なる。しかし、特に、AI や、戦争で世界が分断していく、未知の世界を前に、未来が描けない時代であることは、みなが思っているのではないだろうか。ゼファニヤは、このような中で、なにを語りかけるのだろうか、そこから、わたしは、そして読者は、なにを受け取ったら良いのだろうか。
- ゼファニヤ 2:1-3 恥を知らぬ国民よ/集まれ、共に集まれ。もみ殻のように追い散らされ/吹き飛ばされないうちに。/主の燃える怒りが来ないうちに。/主の怒りの日が来ないうちに。主を求めよ。/地の苦しむすべての者たち/主の法を行った者たちよ。/義を求め、謙遜を求めよ。/主の怒りの日に/あるいは、かくまってもらえるであろう。
- 主の法を行い、苦しんできたものたちは、主を求め、義と謙遜を、主は救ってくださると言っている。同時に、すでに、ペリシテの地などは、危機に瀕しているのだろうか。モアブやアンモンへの裁きが書かれているが、近隣の諸民族とは簡単には語れない、関係があるのだろう。最後には、アッシリアが出てくるが、ゼファニアの時代の脅威は、まだ、アッシリアだったのだろうか。北からの脅威としてアッシリアの印象が強いとうことだろうか。ただ、すこし単純化が感じられ、ユダのひとたちの信仰の問題も、国際関係の中での超大国による変化もまだ受け取れていないように感じる。バビロンに攻められる最終的な段階に達していないと言うことか。
- ゼファニヤ 3:12 私はあなたの中に/貧しい者、弱い者を残す。/彼らは主の名を逃れ場とする。
- イザヤやミカに見られる残りのものがここでは、貧しい者、弱い者とされているのは、興味深い。この章の最初に、高官、裁判官、預言者、祭司についての記述があるが、リーダーたちに期待が持てない背景があったからか。おそらく、現代も含め、どの時代でも、危機的なときに、頼るものがある程度ある支配階級は、自らを守ろうとして、冷静に自らを顧みたり、苦しいものたちの苦しみを感じることができなかったりするのだろう。だれにとっても、他者理解は難しいが、高慢さが背後にある無理解は赦されないということだろうか。しかし、「その日」救いの日に望みをおいても、それは、やはりわからない。ひどい状態は、惨めな状態はいくらでも、記述することはできるが。難しい。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ハガイ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.9)
- ハガイ 1:3,4 主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「この神殿が廃虚となっているのに/あなたがたが板張りの家に住む時であろうか。
- 1節には「主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。」つまり、リーダーたちに神の言葉を伝えたということだろう。神殿建設がずっと放っておかれ、自分たちの生活に没入していたのだろう。むろん、神殿建設続行には、課題があったろう。たんに、怠けていたわけではない。信仰の問題としては、たしかに、重要なことであるが、このことを普遍化すると、危険な面もあるように思う。ハガイについても、丁寧に見ていきたい。
- ハガイ 2:22 私はもろもろの王国の王座を覆す。/諸国民の王国の力を滅ぼす。/私は戦車とその乗り手を覆す。/馬も、その乗り手も/互いに味方の剣にかかって倒れる。
- 単に鼓舞しているわけでもないだろうが。ハガイの二章と、エズラ、ネヘミヤだけからは、十分な背景がわからないように思う。「あなたがた、生き残った者のうち/かつて栄光に輝いていたこの神殿を見た者は誰か。/今、あなたがたが見ているものは何なのか。/目に映るのは無に等しいものではないか。」(3)とあるが、ソロモン神殿の再建というときに、実際、どれぐらいの人が、実際に目にし、またはそこで仕えたのかは不明だが、祭司は三十歳からとすると、祭司として仕えたひとは生きていなかっただろう。なにか、形優先で、危うさも感じる。短すぎてここからは、わからないが。
AI による応答:Gemini・ChatGPT
ゼカリヤ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.10-8.16)
マラキ書 聖書通読ノート
BRC2025(2026.8.17-8.18-1)
マタイによる福音書聖書通読ノート
BRC2025(1)
- マタイ 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。
- 系図には、マリア以外に、ルツ(5)と、ウリヤの妻(6)が含まれている。少なくとも、ルツは、モアブの出身であるとルツ記に書かれており、申命記23:4には「アンモン人とモアブ人は、主の会衆に加わることはできない。十代目であっても、いつまでも主の会衆に加わることはできない。」とあり、エズラ、ネヘミヤによると、異邦人の妻を徹底的に排除することが書かれている。イエスが生まれた頃、どこまでそれが守られていたかは別として、厳格なラビ集団からは、忌避されていた事実であることは確かだろう。それを意識せずに単に挿入されたとも考えにくい。マタイ記者の主張が含まれているのだろう。ユダヤ教とは区別される、キリスト教の成り立ちの重要な部分だったのかもしれない。
- マタイ 2:22,23 しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞き、そこへ行くことを恐れた。すると、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方へ退き、ナザレという町に行って住んだ。こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。
- ハスモン朝の王たちは勢力拡大の中で、ガリラヤ地方に住む異民族(非ユダヤ人)を追い出すか、ユダヤ教に改宗させた、とされているが、ガリラヤとサマリヤの境界線などは、どのように決められたのだろうか。ローマ時代には、すでに行政区として別れていたことは確かだが。サマリヤやユダヤ人とは誰かという問題は難しい。
- マタイ 3:9,10 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
- この言葉自体とても重い。ユダヤ人の問題を正面から指摘していると思われる。しかし、ヨセフスなどには、記録されているのだろうか。調べてみたい。当時のユダヤ人は、どのように聞いたのだろうか。同時に、これは、自分自身の悔い改めが本質的で、なにか外部的なものに頼ることでそれを避けるようなことでは解決にならないということを述べているとも言えるので、すべての人に適応されるべき言葉なのかもしれない。
- マタイ 4:1 さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。
- 何度読んでも興味深い。イエスは、その公生涯のあいだ、このことを思い出しながら、いくつかの誘惑にたいして、御心を確認するようにして、歩んでいかれたのだろう。荒れ野での経験がどのようなものだったのか不明だが、イエスが主の御心を求めるたいせつな時だったことは、確かだろう。それぞれに御心を確認したということか。そこでは、聖書のことばが重要だったことは、見て取れる。聖書のことばをすべて受け入れることとは異なるかもしれないが。
- マタイ 5:3,4 「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。
- 印象的な言葉である。このあと「へりくだった人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を造る人々」「義のために迫害された人々」とあり、最後に、「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。」(11)となっている。やはり心の貧しい人々とはどのような人々かがわからないといけないが、ルカでは、もっと単純で「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」(ルカ6:20,21)となっており、通常いわれているように、ルカのほうがもともとのイエスのことばに近いように思う。まさに、これらの人々に語りかけているということなのだろう。逆転だろうか。もう少し、丁寧に表現できないだろうか。やはり福音と言えるものかもしれない。マルコとは福音の伝え方が異なるのか。
- マタイ 6:12 私たちの負い目をお赦しください/私たちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
- ルカ11:2-4を見ると、9b, 10, 11, 12 までなので、ここが核なのだろう。そして、マタイでは、祈りのあとに、「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(14,15)がついている。これは、他のところで言われた付け足しかもしれないが、そう考えると、マタイは、6:12 がたいせつだと考えて、これを付け加えたと思われる。引用句は、イエス特有のものだったのかもしれない。赦す、赦される、これを神様とのあいだでのこととして、伝えているのだろう。わたしも、このように祈りたい。
- マタイ 7:1,2 「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
- 戦争における被害を語り合うことは多いが、加害について検証し、被害者の側の痛みを思うことは少ない。アジア・太平洋戦争では、詳細は不明だが、日本人犠牲者は、310万人、内民間人が80万人と言われる。兵士の死については、あまり語られない。証言も少ない。では、この時期にアジアで亡くなったかたは、日本人以外ではどのくらいいたのだろうか。一つの資料によると、最低で2000万人とされる。すくなくとも、13パーセント程度が日本人となる。日本が戦争を起こさなければ、日本人以外のひとは死ななくて良かったのだろう。それをどう考えるのだろうか。わたしの高校生からの問を、発信しなければいけないように考えている。聖句は続く「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」(3-5)悔い改めは、イエスの最初のメッセージにも含まれる、たいせつな鍵である。
- マタイ 8:2,3 すると、規定の病を患っている人が近寄り、ひれ伏して、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は清められた。
- 山上の垂訓の直後にある、癒やしの記事である。印象的なのは「主よ、お望みならば」に対する「私は望む。清くなれ」。清くなることができるのだろうか。わたしも、それを望みたい。汚れも理解しつつ。
- マタイ 9:35-38 イエスは町や村を残らず回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた。また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
- この章の記事は、16節までは、マルコなどと並行している。二人の盲人の癒やしと、口の利けない人の癒やしがあり、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(13)ではイエスの宣教の目的について語られている。そして、この最後の節に至る。それだけの苦しみをみたということか。ガリラヤのカペナウムあたりであれば、イエスだけでも活動可能だったかもしれないようにも見える。どうなのだろうか。弟子の育成のほうに、視点があったのか。
- マタイ 10:5-7 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
- すでに、異邦人と思われる、百人隊長の子を癒やし、悪霊に憑かれたガダラ人を癒やし、罪人に遣わされていることが書かれており、将来的に、宣教対象を限定しているわけではないのだろう。実際、直後に「また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」(18)とも書かれている。
- マタイ 11:28-30 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
- イエスは本当に皆が来てそれに対応することを考えておられたのだろうか。一般的には、そのような人たちが大勢入れば、身動きが取れなくなってしまう。限定された条件、または、特定のひとしかこないと考えていたのだろうか。
- マタイ 12:25,26 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも内輪で争えば荒れ果て、どんな町でも家でも、内輪で争えば立ち行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。それでは、どうしてその国は立ち行けよう。
- これだけでも、イエスは十分賢いと思う。イエスは、どのような人だったのだろうか。よくはわからないが、主との時をたいせつにしていたことはたしかなのだろう。ついつい、その賢さがほしいと考えてしまう。
- マタイ 13:51,52 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは「分かりました」と答えた。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」
- 正直、たとえを用いて話す理由もふくめて、弟子たちが本当に理解できたのか、正直不明である。マタイ著者が、理解できたと思ったいたとすると、とても、危険でもある。丁寧に読んでいきたい。
- マタイ 14:13,14 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。
- 深く憐れみ(σπλαγχνίζομαι)がここに使われている。全体では、12回だが、マタイには、5回と多い。9:36「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」 14:14(引用箇所), 15:32「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。空腹のまま解散させたくはない。途中で動けなくなってしまうから。』」 18:27「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。」 20:34 「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」である。福音書によって使い方が少し異なるように見える。しかし、群衆にたいして、イエスがこの言葉を使った視線で見ておられたことは、確かなのだろう。
- マタイ 15:12,13 その時、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「私の天の父がお植えにならなかった草木は、みな根こそぎにされる。
- この部分は、ファリサイ派ではない、群衆に語っているようにみえる。いずれにしても、厳しい。本当に、このように言ったのかも疑問でもある。マタイの記者の周辺では、シリアの、ユダヤ人に対することが重要だったのだろう。このあにある、汚れたものに対する、おそらく、コルネリオの話にもつながる、ペテロなど由来のマルコに含まれる話が中心なように思う。
- マタイ 16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に十分注意しなさい」と言われた。
- マルコ8:15では、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」となっている。文字通りとると、すでに、ヘロデのような力はなくなっていた時代なのだろう。しかし、やはり、もともとのメッセージが、政治的なものと取れば、意味は十分大きい。このあたりは、難しいが、丁寧に福音書の違いを見ていきたい。
- マタイ 17:3,4 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口を挟んでイエスに言った。「主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、ここに幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」
- どのような光景なのかと思うが、このあとに、復活のことが出てくる。マタイの17:9の言葉に添えて、マルコ9:10では「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」とある。この光景も復活と関係していると考えたのだろう。モーセとエリヤと話し合う、これは、これらのひとが今も生きていることを表現しているものである。イエスは、そのように生き続ける状態になることを伝えたのだろう。弟子たちも、そのことを思い、十字架後も、イエスと語り合ったのではないだろうか。
- マタイ 18:4,5 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
- イエスはやはりこどもが好きだったのだろう。そして、自身を神の子どもと考えていたことも確かだろう。そこからだろうか、最も小さいものに優しさがあり、このあとを見ていると、赦しのメッセージまで続いている。マルコは、異なる構造になっているが。
- マタイ 19:13-15 その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子どもたちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
- 「その時」(マルコも同じ)と始まり、この前の結婚・離婚に関する問に続いている。こどもは、基本的に、結婚の祝福である。独身を勧めるわけでもないことと関係しているのだろう。しかし、こどもの祝福については、謎も多い。なぜ、天の国は、こどもたちのものなのか。この次には、するとと金持ちの青年の話がつながることを考えると、そのこととも関係しているかもしれない。前後関係から考察したが、ほかにもありそうだ。(マタイ 21:14-16参照)
- マタイ 20:32-34 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
- ここでも、σπλαγχνίζομαι(はらわたが引き裂かれる)が使われている。そして、マルコ、ルカでは、一人なのが、ここでは、二人になっている。今回は、他の共観福音書にない、マタイ9:27-31の盲人の癒やしでも二人であったこと、また、マルコ、ルカでは、一人なのに、悪霊に憑かれたガダラ人の箇所も二人になっていることを思い出した。二人にこだわっているようにも見える。なぜなのだろうか。
- マタイ 21:14-16 境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちが御もとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」
- ここにも、幼子や乳飲み子が登場する。その前には、目の見えない人や足の不自由な。どちらも、なにのこだわりもなく、癒やしてもらい、賛美をするのだろう。おとなは、健常者は、それができないのかもしれない。
- マタイ 22:31,32 死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
- イエスにとって、アブラハム、イサク、ヤコブは、生きているのだろう。そして、それが復活の真の意味でもあるように思う。救いと関連させたり、体のよみがえりに固執してはいけないように思う。弟子たちにも、いろいろな受け取り方があったのだろうが。
- マタイ 23:29-31 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。そして、『もし先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流す側には付かなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫だと、自ら証明している。
- 「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。」(8)ここにも「きょうだい」が使われている。引用句からは、アジア・太平洋戦争をどう考えるかにも、似た側面があると感じた。戦争について、深く考えず、犠牲者としてのことばかり考えていたのでは、同じことをするとも言える。イエスから学びたい。
- マタイ 24:48-51 しかし、それが悪い僕で、主人は遅れると思い、仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
- これが具体的にどのような意味を持っているか、よく考えないといけない。「いつ」について弟子たちは、関心が強くあったのだろう。イエスは、「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(44)とこたえ、引用句に進む。イエスも、心配だったのかもしれない。
- マタイ 25:45 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』
- 問題は、ここでの「この最も小さな者」が誰かということである。最近は、「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。」(28)として、取り上げられたもの、そして、「しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。」(12)と言われた愚かな乙女ではないかとも思う。そう断言できない理由も多少ある。文脈として、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」(13)がやはり鍵のように思う。また、40節の、「わたしのきょうだいであるこの最も小さい者」との異本もあるとのこと。もし、そうであるなら、きょうだいとしていることは、ある意味があるかもしれない。
- マタイ 26:27,28 また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。
- 本当に、ここまで明確に言われたのあろうか。わたしは、疑いの心をもってしまう。イエスの死は、そのような仕組まれたものだったのだろうか。やはり、あとの人たちが、考えたことなのではないだろうか。イエスに聞いてみたい。
- マタイ 27:22 ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
- ここに自分がいたらどうだろうか。わたしは、どのように反応するだろうか。イエスの愛に触れていたとしても、ここで、声は挙げられないかもしれない。イエスは、これらの最も小さいものとともにおられるのではないだろうか。
- マタイ 28:14,15 もしこのことが総督の耳に入ったとしても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
- 戦争のことを考えると、様々な人間の弱さが見えてくる。自分が正しい側にいることはできないということである。イエスが伝えたかったことを受け取りたい。マタイも、もう少し丁寧に読んでみたいとも思う。
BRC2025(2)
マルコによる福音書聖書通読ノート
BRC2025(1)
- マルコ 1:14,15 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。
- このあとには「人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。」(22)ともある。宣言だけではなく、それには、権威が伴ったということだろう。それは、神の国が近づいたことが、現実のものと思われるようなことが次々に起こったということなのではないかと思う。癒しであるが、同時に、イエスの奉仕であり、神の義、神の国がすぐそこにあるということだろうか。
- マルコ 2:8-10 イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。
- ここでは、罪を赦す権威について語られている。神の国は近いことを実感させられるような、ことだけではなく、罪の赦しが得られこと。それを、神の国が近づいたことと関連させているのだろう。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17b)「だから、人の子は安息日の主でもある。」(28)も驚かされることなのだろう。
- マルコ 3:24-26 国が内輪で争えば、その国は立ち行かない。また、家が内輪で争えば、その家は立ち行かない。もしサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
- このあとには「また、まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27)ということは、イエスは、その強い人を縛っている、または縛ろうとしているということだろう。その戦いは、あまり、わたしたちからは、見えない。しかし、そのことを問として持ち、それには、どうしたらよいか、おそらく、それには、聖霊が鍵だと、考えておられるのだろうとおもう。主と共に働く、戦うということか。ひとのこころに巣食う、サタンや、悪霊と戦うために。
- マルコ 4:40,41 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。
- イエスに驚く。しかし、このようにして、弟子たちが、すべてを学んでいったわけではない。わたしたちも、同じように、学んでいかなければ。少しずつ、理解することができるのだろうか。不安ではある。本当に、互いに愛し合うことは難しい。
- マルコ 5:3-5 この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。
- この状況には驚かされる。あまり、想像ができないが、イエスは、このことを聞いて、この地まで、わざわざ来たのかもしれない。このひとと、ひととして、関係を築くことは、みな諦めていたのだろう。しかし、イエスは、そうではなかった。印象的なのは、イエスが、まずは、「汚れた霊、この人から出て行け」(8)のあとに、「名は何と言うのか」(9)という場面である。そして、願いを聞く。不思議ではあるが、感動的でもある。ほとんどのひとに見放されたひと。それを、救うために、だろうか。神の御心を行うためだろうか。
- マルコ 6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
- ヨハネ6:1-14 には、この背後にいろいろな人が登場する。ピリポ、アンデレ、そして子供。ここには、その記述がない。やはり、こちらがオリジナルだったのかもしれないと思う。同時に、無名のだれかが、これらを献げたこともあったのかもしれない。そのことも、書いておいてほしいと考える背景を考えると、書かないこともそれなりに重要なのかもしれないと思った。
- マルコ 7:20-2 さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒瀆、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
- イエスが、弟子たちが、洗わない手で食べていたことに対する批判に対して、一番伝えたかったことがこれなのだろう。ここに、あらゆる悪のことばが書かれている。しかし、興味深いのは、ここにおける「人」がこれを語る人なのか、語られる人なのかがあまりはっきりしないことである。両方の可能性もあるかもしれない。汚れたものなのだから。
- マルコ 8:15 その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。
- ヘロデのパン種は、ある程度時代が下ると、理解がむずかしかったろう。だから、マタイでは、これをサドカイ派に変えたのだろう。それは本質をも変えてしまっていると思うが、それよりも、この最後の部分はよく理解できない。数がたくさんでてくるが、おそらく、それは、あまり関係がないのだろう。それよりも、パンを持っていないことにとらわれていることを叱っているのか。はっきりとはわからない。
- マルコ 9:28,29 イエスが家に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われた。
- イエスが、弟子たちの状況に満足できなかったことも、このようにイエスが言った背景にあるかもしれない。「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れて来なさい。」(19)ただ、このあとすぐ、この問題とイエスは向き合っている。恐ろしいほどの、その場に自らを置く、こころの転換と集中である。祈りは、すべてにかかっているのかもしれない。イエスにとって我慢ならない状況を神様に委ねる祈りと、常に用いられるように祈っていることが、ここですぐ使えることができたこと、そして、祈りを通して、弟子たちが、イエスから学ぶことだろうか。またさらに考えたい。
- マルコ 10:14-16 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。
- どう理解したらよいかわからない。しかし、構造としては、マタイとマルコでは、離婚の箇所の直後に置かれている。ルカでは、ファリサイ派のひとと徴税人の祈りのあとに置かれている。自然に出てきたことなのかもしれない。あまり、理屈をこね回してはいけないのかもしれない。難しいが。とても、すばらしい、イエスの言葉のように思う。
- マルコ 11:24,25 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
- 祈りの中心を語っているように見える。イエスのことばは、最後に重要なことを持ってくるように見える。すると、まさに、この部分なのだろう。「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(ルカ11:4a)と呼応している。(マタイにもあるが、ルカのほうがシンプルでもとのことばに近いと言われている)
- マルコ 12:26,27 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。」
- 最近、よく考えさせられる箇所である。復活について、イエスが語ったと思われる、おそらく、最古の(伝承)記録である。(通常は、コリント前書15:1-11をあげるが。)パウロが伝えるものとは、異なる。それは、どちらかが正しいということではなくても、イエスのことばをしっかり受け取ることは重要である。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』これが、復活した族長を表すと考えた人がいたのかどうかはわたしは知らないが、イエスは、少なくとも、族長と聖書のことばを通しても、日々語り合っていたのではないだろうか。9:2-13 で、エリヤがモーセと共に現れたこととも、関係しているように思う。
- マルコ 13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
- 質問は、イエスが「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」(2)と言われたことへの応答である。しかし、このあとの流れからして、世の終わり、終末について語られている。しかし、イエスの答えは、そう簡単にはその時は来ないということと、注意していなさいということに尽きるように思う。たとえば「こうして、まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(10,11)すべての民族に宣べ伝えられるなど、すべての民族がなにかという問いをしたとしても、大変なことである。そのなかで、重要なことも述べられている。弟子たちや、当時のひとたちのの関心、再臨のキリストを待ち望むひとたちの気持ちが背景にあるように思う。イエスの伝えたかったことを丁寧に受け取らなければならないと思う。
- マルコ 14:6-8 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
- この女性(ヨハネ12:1-8によるとマルタの姉妹マリア)がなぜこのようなことをしたかは不明である。しかし、特別のことをしたことは確かで、これを何回もすることができる状況ではなかっただろう。すると、この女性は、できる限りのことをしたことになる。嫁入り道具のようなものだったのかもしれない。このときが、特別の時であることは、ある程度周囲のひとたちは聞いていただろう。しかし、そのようなことを受け取って、行動に移した人は、この女性だけだったのかもしれない。考えさせられる。この章を通読で短時間で読むのは難しい。
- マルコ 15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
- この章に、12弟子は登場しない。40-41節には女性たちが十字架のもとにいたことが書かれており、そして、ここには、はじめて登場する「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」が登場する。キレネはリビアあたりのことのようだが、おそらく、黒人だろう。「ニゲルと呼ばれるシメオン」(使徒13:1)とあり、このシモンとシメオンが同じであろうとされている。黒人である。キリスト教は、コプト教など、スーダンあたりで守られていたようだが、黒人の力はあまり多くはなかったようである。ここに、登場することは、興味深い。イスラム教には、アラビアの位置が関係しているようだが、初期から、黒人の間でも、広がっていったようである。マルコムX はそのことに、力を受けたと言われている。キリスト教世界での人種差別は、キリスト教とは関係ないのかもしれないが、厳然として存在したことも事実である。
- マルコ 16:7,8 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
- ペトロには、少しして伝えたということだろうか。ここでマルコは終わっているので不明だが、マルコは、しばらく経って書かれたことを考えると、伝えられたこととともに、おそらく、ガリラヤに行ったことも確かだろう。復活証言の多くが、エルサレムであることとは、多少食い違う。イエスは、やはり、ガリラヤでの生活の中で、心の中のイエスと語り合ってほしいと願ったのかもしれないと、マルコだけを読んでいると思う。一般の人は、それでは満足しないだろうが。
BRC2025(2)
ルカによる福音書聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ルカ 1:32,33 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
- ルカに記されている、イエスについての最初の証言である。まず、「いと高き方の子と呼ばれる」とあり、「である」とは、書かれていない。また、「永遠にヤコブの家を治め」とあり、ヤコブの家の支配に限られている。どちらも興味深いことである。ルカ記者も、ヤコブの家が関心の中心であり、そこから離れていないということである。どうなのだろうか。使徒言行録も「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)の問から、始まっている。
- ルカ 2:25,26 その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。また、主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。
- 「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたとある。つまりは、緩やかにだが、イエスの誕生は、この実現のためだということなのだろう。ヤコブの家に配慮しているのかもしれないが、ルカが書くことに、どのような意味があるのか、不明である。まだ、このあたりが、中心だったのだろうか。これは、今回の通読の中で、一つのテーマとして考えていきたい。
- ルカ 3:23 イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり、人々からはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡ると、
- 十分調べたと思うが、マタイでは、ヨセフはヤコブの子となっており、ここでは、エリの子である。母マリアは、ゼベダイの子らの母の姉妹だったとすると、母系は、ある程度わかっていたのかもしれない。また、およそ三十歳とあるが、これも、十字架に架かった日の特定などから、37歳ぐらいではないかとされている。若く見えたということだろうか、歳に関して7歳も誤差が生じさすことはあるのだろうか。不思議な記述である。
- ルカ 4:18,19 「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」
- ルカでは、ガリラヤで宣教をはじめたとしているものの、宣教の詳細は、ナザレからはじめている。その中にも、カファルナウムですでに、活動しておられることが書かれているので、それを否定しているわけではないが。マルコでは、ほとんど、中間、または、エルサレムに向かう前に、北方をさまよう前にナザレの記事をいれている。かなり位置づけが異なるように見える。引用句は、少し違和感がある。本当にこのことによって、権威が示されたのだろうか。マルコなどの記述から受ける印象とかなり異なる。
- ルカ 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。
- この章の後半は、基本的にマルコ2章の記事を辿るが、前半は少し異なる。特に、ペテロ以下、漁師を招く記事が異なる。正直にいうと、ルカの創作ではないかと思う。ヨハネ1:35以下にあるエピソードを知らず、マルコの弟子の招きの記事では、納得できず、他のところからエピソードをとったか、創作したのではないかと思う。全体の流れや、ペテロや、漁師の扱いが、不自然である。さらに、最後の「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10b)の印象も薄れる。
- ルカ 6:20,21 さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。/「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は、幸いである/あなたがたは笑うようになる。
- 単純である。これが Q 文書のオリジナルに近いという。わたしには、よくわからない。いろいろな形式があることは、考えないのだろうか。資料が少ないから、仕方がないのかもしれない。可能性の問題なのだろう。ただ、独り歩きすることには、疑問も感じる。これを聞いていた、貧しい人、飢えている人、泣いている人は、希望を感じたことは確かだろう。マタイの方だと、難しいかもしれない。
- ルカ 7:41,42 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
- この章には、他の福音書にない記事が二つはいっている。「やもめの息子を生き返らせる」(11-17)そして引用句を含む「罪深い女を赦す」(36-50)独自記事は、どのように収集されたのだろうか。引用句を選んだのは、背景によって、どちらが多く金貸しを愛するかは、状況によってことなり、簡単には、言えないと思う。イエスの問の秀逸さが、ここには現れていないようにも見える。個人的な、対話との設定なので、これで良いのかもしれない。あるファリサイ人と登場して、途中でシモンという名前が登場するのも、気にかかる。そのあたりも、興味深い。
- ルカ 8:1-3 その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。
- ルカにとって、この女性たちや、これらの女性を知っているひとたちは、たいせつな情報源だったのかもしれない。それも、独自記事の特徴に含まれているのかもしれない。また、このような人たちも一緒にいたことが、イエスの宣教旅行について、想像できることを豊かにする。これが独自記事であることは、少し心配でもあるが、十字架に架かる時にいた女性たちの記述は、4つの福音書に入っていることを考えると、おそらく、問題ないのだろう。
- ルカ 9:23-25 それから、イエスは皆に言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。
- ペテロの信仰告白の直後に、イエスが、死と復活の記事の直後に置かれている。イエスの決意の反映としてこのように書かれているのかもしれないと思った。弟子の使命なのかもしれない。しかし、その中身は、つまり、自分の十字架を負って、イエスに従う中身は、語られていない。それを受け取れなければ、いけないだろう。わたしは、それを、語れるだろうか。正直、あやしい。イエスについていきたいとは思うのだが。
- ルカ10:41,42 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」
- 善きサマリア人のたとえに続いて、この記事が置かれていることからは、ルカの編集の意図が考えられるし、マルタの嫉妬を戒められたとする解釈もあるだろう。しかし、一人ひとりの違いに焦点があるように思う。そして、マリアが、多少特別なキャラクターであったことも考えられる。そのようなひとにとってのたいせつなものを取り上げてはならないということが、伝わってくる。
- ルカ11:20 しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。
- ベルゼブル論争にもいくつかポイントがあり、マタイやマルコの記述との比較も必要だろう。ただ、あまり、議論において、イエスの答えが秀逸だということよりも、イエスが伝えたかったことをうけとることが、たいせつなのだろう。すると、ここでは、引用句なのではないかと思う。すなわち、悪霊が追い出されることから、神の国が近い、すぐそこに来ていることを認めること、そして、それこそが、イエスの宣教の主目的だったと思うからである。わたしたちは、おそらく、多くの場合、神の国を身近に感じることはない。では、どのようなことから、神の国の到来を知ることができるだろうか。
- ルカ 12:1-3 とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
- 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」とあると、マルコ8:14-21 を思い出す。そこでは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」(マルコ8:15)とあり、マタイ16:6に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に十分注意しなさい」とある。時代とともに、ヘロデと言っても伝わらず、意図を伝える適切な変更も難しかったのだろう。いずれにしても、わたしたちが、注意すべきことは色々とあるのだろうが、中心は偽善なのだろう。本質をついていないものは、化けの皮が剥がれるときがくるとも言える。よく考え、発言したい。
- ルカ 13:16,17 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではないか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさったすべてのすばらしい行いを見て喜んだ。
- この章には、最初の悔い改めなければ滅びる、「実がならないいちじくの木」のたとえ、そして、この安息日に、腰の曲がった女を癒やすの三つの独自記事がある。しかし、いずれも、似た記事は、他の福音書にもある。そして、引用句では、この女性自身のことばが書かれていないことが気になる。「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた。」(13b)だけである。ルカが伝えたかったことは、引用句の反応の部分、それとも、この女性またはその関係者か聞いたことを含めようと思ったのか。よくわからない。
- ルカ 14:26,27 「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。
- この前には、客と招待する者への教訓、「大宴会」のたとえと、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(13)「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」(21b)とある。このことを踏まえて、引用句は語られているのかもしれない。家族ではなく、このような人たちを大切にすること、イエスは、まさに、そうされていたのだろう。
- ルカ 15:7 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」
- これは、この章にある三つのたとえの最初の「見失った羊」のたとえの最後にある言葉である。このあとの「無くした銀貨」のたとえの最後にも、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。」(10)、さらに、放蕩息子のたとえの最後にも「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」(32)とある。探し、見つけ、そして、このように喜んでくださる、イエスは、この神様を伝えているのだろう。神の子(のひとり)として。これが、本当にそうなのかどうか、わたしには、わからない。しかし、このイエス様の父なる神様を信じたい。
- ルカ 16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
- この章には、途中に、最初のたとえを嘲笑したファリサイ派の人々へのことばが含まれているが、「不正な管理人」のたとえと、金持ちとラザロのたとえが書かれている。すべて、いま、わたしたちが生きている世界と、神の国がつながっている、ある意味では、近いということなのかもしれない。イエスの、神の国は近いは、そのような意味も持っているのかもしれないと思った。もう少し、このことも続けて考えたい。
- ルカ 17:17-19 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
- これは、ルカの独自記事だが、ルカが伝えたかったことなのかもしれない。ここには、サマリヤ人を、外国人とあり、血筋的には、ガリラヤ人とあまり変わらないひとを登場させていて、さらに、信仰を最後に強調している。ただ、メシヤをユダヤ人たちへの預言としてもルカは理解しているようだが。
- ルカ 18:4,5 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかったが、後になって考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わないが、あのやもめは、面倒でかなわないから、裁判をしてやろう。でないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてしかたがない。』」
- 神様は、めんどくさがりやなのかと思う。しかし、愛は、もともと面倒なことだと思う。そのことを想起させるには、
表現なのかもしれない。わたしの辞書には、めんどうくさいということばはないといいたい。そのこととも、関係しているように思う。
- ルカ 19:26,27 主人は言った。『言っておくが、誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」
- 「タラントのたとえ」という似たものが、マタイ25章にある。そこでは、三つまたは四つ(24章の最後のたとえを入れれば)の関連したたとえが続いており、その中で考えると、その最後の羊と山羊を分けるたとえが中心だと思えるが、ここでは、文脈が異なる。ザアカイの記事に続いてあるが、主への応答に中心があるようである。関連はよくわからない。ここに関しては、マタイのほうがイエスの伝えたいことを表しているように見えるが。
- ルカ 20:37,38 死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」
- このように言い切ることには驚かされる。この箇所を復活と結びつけて理解している。イエスは、これらのひとたちとも語り合っていたのだろう。そこまでの理解で良いのだろうか。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」(35)は、どう理解したら良いのだろうか。よくわからない。
- ルカ 21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
- この章の内容は、マルコ12章の最後から、13章全体と対応していて、細かい表現は別として、ほとんど同じである。13章には、終末の徴について書かれているが、いくつかの話がまとまられているように見える箇所なのと、実際の問題として、どのように受け取るかは難しいので、大きな修正は、ないのかもしれない。いろいろと考えてしまうが、情報が少ないように思う。
- ルカ 22:67-70 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「私が言っても、あなたがたは決して信じないだろう。私が尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は力ある神の右に座る。」そこで、皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「私がそうだとは、あなたがたが言っている。」
- イエスは、なぜこのように答えたのだろうか。神の右に座るなどは、いままでのイエスからは考えられない。仕えることをつねにしてこられたのだから。神の子であることを示しておかなければならないと考えたのだろうか。しかし、なにか、しっくりこない。
- ルカ 23:39-41 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
- 最後に「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(43)とあり、重要とされるが、正直不自然に感じる。本当に、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」というだろうか。こころの声だろうか。消耗刑のなかで、どのような状況なのだろうか。ただ、このあとの、「本当に、この人は正しい人だった」(47)も、不思議である。
- ルカ 24:48,49 あなたがたは、これらのことの証人である。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」
- 使徒言行録1:8や、2章の聖霊降臨につながる。一方「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」(マルコ16:7)とは、非常にことなる。イエスによる復活証言をどう理解するかに背景があるように思う。
BRC2025(2)
ヨハネの福音書聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ヨハネ 1:40,41 ヨハネから聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
- おそらく、アンデレおよびシモンのイエスとの最初の出会いは、このようなものだったのだろう。しかし、アンデレのイエスとの出会いはある程度積極的でも、シモンのそれは、この時点では、能動的ではなかったのかもしれない。それが、マルコによる福音書の出会いとして書かれているように思う。同時に、アンデレが、イエスに会ってから、シモンに、シモンに伝えるまで、間がなかったかどうかは不明である。アンデレの関わり方も興味がある。バプテスマのヨハネの影響が強かったのかもしれない。
- ヨハネ 2:19,20 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。
- なにか、イエスに若さを感じる。単に、マルコに記されているときの、一年では無いのかもしれない。この出来事は、やはり過激である。弟子たちは、驚いたことだろう。どのように、理解したのだろうか。それも不明である。
- ヨハネ 3:5-7 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
- ニコデモがひっかかったのは、なになのだろうか。霊から生まれるということが、新しかったのか、または、それを想像できなかったのか。霊の理解が追いつかなかったのか。では、わたしは、理解できるだろうか。正直、わたしもわからない。霊的生活は、想像はできても、具体的には理解できない。理解できなくても良いというのは、乱暴に思う。丁寧に読んでいきたい。
- ヨハネ 4:34 イエスは言われた。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
- サマリアの女との対話は非常に興味深い。ユダヤ人以外に、より本質的なことを伝えたことを記録したとも理解できるが、最初に、イエスが「水を飲ませてください」(7)と会話をはじめるところも興味深い。交際をしていなかったサマリア人との対話をはじめるには、まずは、お願いすることだったのかもしれない。イエスはなぜそのようなことができたのだろうかと考えてしまう。
- ヨハネ 5:17,18 イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。
- なぜ、イエスを殺そうとしたのか、考えなければならない。自分の正しさ、そして、正しさの基盤の上にたった生活、その上で築かれた社会的地位を失いたくなかったのだろうか。おそらく、それだけではなく、論理についていけない。仲間を失いたくないなどもあっただろう。他にもあるだろうか。相手のあら捜しのなかで、受け入れられないことがあったということか。私の父と言い切るイエスを友にはできなかった。神の理解を大きく変えることはできなかったということか。
- ヨハネ 6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」
- こどもに焦点をあてて話したこともある。そのような説教を聞いたこともある。しかし、大麦のパン五つと魚二匹は、大勢の群衆(2)には、足りないことはたしかだが、こどもには、多すぎることも確かだと思う。経緯は不明だが、こどもをとおして、献げたひとたちがいたのかもしれない。まさに、神様がこころを動かして、ささげられたものが、増えていくということなのかもしれない。常におこることではないし、ここには、おおよそ五千人とある。興味深い。
- ヨハネ 7:3,4 イエスの兄弟たちが言った。「ここをたってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に現しなさい。」
- すこし不思議なことばである。ユダヤで、業を弟子たちに見せてやりなさいということは、ユダヤでなければ見せることができない業があるのか、または、ユダヤに多くの弟子たちがいるのかの何れかだと思うが、後者は考えにくい。ある程度は、いたと思われるが。弟子をもっと広く取って、学ぼうとするもの、とすることもできるかもしれないが、確定は難しい。学ぶ側にたって、このあとの「私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。」(6b)は、真実だと思う。
- ヨハネ 8:28-30 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人がイエスを信じた。
- 難しいが、これがイエスが信じていたことなのだろう。父なる神が、イエスと共にいること。そして、使命(十字架上の死による贖いだろうか)を果たしたら、イエスがそのようなかただとわかるという。一つの真理ではあるのだろうが、その意味するところは複雑である。
- ヨハネ 9:39 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
- 目の見えなかった人が見えるようになった記事の最後の部分である。聖書記者が、伝えたかったのは、おそらく、引用句の部分なのだろう。裁きといっても、このあとにあるように、「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41)と合わせて考えると、自己認識の問題なのだろうか。謙虚に求め続けなさいと表現すると、すこし矮小化してしまっているようにも思われる。この表現に欠けているものは何なのだろうか。
- ヨハネ 10:37,38 もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう。」
- 「私と父とは一つである。」(30)とあるが、この内容は、引用句にあるように、イエスが、神の業を行っているということ、この章の前半からは、神が愛される(神の思いを自分の思いとして)羊を飼っている・養っているということだろうか。明確には理解できないが、父がこうされることを、このように生きることを望んでおられるということを明確にもっておられ、そのように生きているということだろう。わたしも、そのように生きたいが、確信はない。
- ヨハネ 11:11,12 こうお話しになり、また、その後で言われた。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
- 「私たちの友」は、聖書内でここだけである。「互いに愛し合いなさい」が含まれているヨハネによる福音書を考えると、このことばは、特別な意味を持つようにも思う。しかし、ここでの弟子たちの応答からは、友への愛、互いに愛する気持ちは、まったく現れていない。非常に残念である。この章でもう一つ気になるのが、「憤り(ἐμβριμάομαι: to charge with earnest admonition, sternly to charge, threatened to enjoin)」(33,38)である。他には、マタイ9:30「二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、誰にも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。」, マルコ1:43「イエスは、彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、」、マルコ14:5「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。」 である。また学んでみたい。
- ヨハネ 12:35,36 イエスは言われた。「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
- イエスに会いに来たギリシャ人たちの記事のあとにある箇所である。つながっているのか、つながっていないのか不明である。しかし、ギリシャ人たちが、近くにいたとすると、まずは、異様さを感じただろう。同時に、メッセージというより、衝撃も受けたかもしれない。イエスは、このギリシャ人たちとは、向き合えなかったのだろうか。考えさせられる。わたしには、わからない。
- ヨハネ 13:33,34 子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
- 通常は、35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」との関係で、34節を理解するが、今回は、33節との関係が気になった。ここでは、イエスが離れていくことが中心に書かれている。つまり、そのイエスが「私があなたがたを愛したように」と言っているのである。むろん、このヨハネ福音書が書かれたときには、イエスは、その場にはおられない。だからこそ、イエスがどのように愛されたかを思い出すことが鍵となるのである。それを学んでいきたい。
- ヨハネ 14:30,31 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。私は、父がお命じになったとおりに行う。私が父を愛していることを世が知るためである。立て。さあ、ここから出かけよう。」
- ここで区切りのようであるが、このあと、メッセージと、祈りが続く。何れにしても、ここがひとつの区切りなのだろう。しかし、同時に、最後に、「私が父を愛していることを世が知る」と言っている。これは、意味深いが、不明でもある。何を伝えようとしているのか。ヨハネは、やはり、一度、丁寧に読んでみたいと思う。
- ヨハネ 15:4,5 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。
- イエスにつながっているべきことが繰り返されている。具体的には、何を意味しているのだろうか。イエスによる救いという概念なのだろうか。罪をみとめ、キリスト・イエスによる贖罪をいのちのみなもととする。しかし、そうではないように思われる。やはり、イエスがどう生きたか、なにをたいせつにしたか、この地上での、イエスの生涯、イエスのように生きることが、イエスにつながることのように、わたしには思われるのだが、どうなのだろうか。イエス教だといわれそうだが、それで良いのではないだろうか。
- ヨハネ 16:22,23 このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。
- イエスが再び会うことを、ヨハネ記者はどのように理解していたのだろうか。イエスが、何回か、弟子たちに現れた、通常復活と呼ばれることだろうか。または、パウロなどにも現れたというその後の顕現をも意味しているのだろうか。この章には、助け主(おそらく聖霊)のことも書かれている。その聖霊が注がれている状態を言うのだろうか。しかし、どれも、常にと考えると、問題があるように思う。信仰によって、いつでも、イエスと語り合えるということは、ある程度理解できるように思う。祈りである。「今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(24)正直、ヨハネが伝えようとしていることも、よくわからない。
- ヨハネ 17:23 私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。
- この章は特に感じるが、エルサレム入場以降も、マルコのような論争はなく、弟子との関係をたいせつにしているように見える。ヨハネが受け取ったことなのか、当時、このことがとても大切だったのか。これが本質なのか。まだ良くわからないが。ヨハネのひとつの特徴なのかもしれない。世が知るのも、神が愛しておられることを知ることによってというのも、特徴的である。
- ヨハネ 18:8,9 イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。
- 弟子が逃げたのではなく、イエスが逃がしたという、ヨハネの記述は興味深い。ここも、イエスが、愛し通されたことを伝えるものなのかもしれない。イエスの行動としては、毅然としていて、こちらのほうが自然なように思う。同時に、そうではあっても、弟子たちは、イエスを見捨てて逃げたと考えたのだろう。たとえ、それが、みこころであったとしても。
- ヨハネ 19:25-27 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
- 他の箇所と比較すると、クロパの妻マリアが加わっているとみてよいだろう。これがクレオパの妻かどうかは、不明だが、マルコの情報源が語られた初期には名前を出せなかったのかもしれない。マリアとサロメは、イエスや、ゼベダイの子らの母とすると、年齢的にある程度上で、早く亡くなっていたかもしれない。やはり、難しいのは、愛する弟子だが、これが、ゼベダイの子ヨハネだとすると、サロメとの関係を書くのが自然で、それが書かれていないということは、やはり、ゼベダイの子ではないだろう。長老ヨハネと呼ばれている人かどうかは、明確にはわからないが、ある程度若年で、しばらくは、マリアと、ひっそりと暮らしたのかもしれない。
- ヨハネ 20:26-29 八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」
- マグダラのマリアへの顕現は、非常に限られた情報しか提示しておらず、証人もいない。すると、この弟子たちに、現れ、さらに、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」(25)と言ったトマスにも現れたところが復活の証言としては、鍵なのだろう。しかし、トマスに教える最後のことばは印象的だが、内容はあまりないように思われる。ヨハネによる福音書は、重要な証言だと思うが、復活証言は、丁寧に見ていかなければいけないと思う。21章は、イエスの愛する弟子の証言が関係しておらず、付け足しだとも言えるのだから。
- ヨハネ 21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。
- 「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。」(1)から始まる。イエスの指示に従うと、たくさんの魚が取れたことがまず書かれているが、ほとんど内容がない。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(14)で終わり、ペトロとの対話に入る。ここは、意味のある内容を含んでいる。ペテロは、このような会話をまさに経験したのだろう。そして、それが、ペテロを一生導いたのではないかと思う。すると、イエスの顕現の仕方はあまり重要ではないように思う。わたしだけの感覚だろうか。
BRC2025(2)
使徒言行録聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 使徒 1:6,7 さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
- このあとに、聖霊について語られるが、この会話は不思議である。使徒たちの興味は、イスラエルのための国の立て直しである。このことを、イエスは、否定していない。ルカのような、異邦人キリスト者にとっても、このことが重要だったのだろうか。具体的に、なにを意味しているのだろうか。聖霊降臨について書こうとする時に、其の前に、このことを書いたのは、どのような意図によっているのだろうか。正直よくわからない。
- 使徒 2:38,39 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
- パウロ以後のものと、イエスのメッセージがつながっているような印象をうける。罪の赦しがどのように語られたのか、贖いについては、ここからだけではよくわからない。このあとには、「そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。」(42)とあり、43-47節にも、より詳しい記述がある。非常に美しい表現で、このような生活について、憧れてしまうが、日々の生活については、書かれていないように見える。どのようにしていたのだろうか。
- 使徒 3:18-21 しかし、神は、すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。
- 悔い改めからはじめ、慰めのとき、再臨についてまで書かれている。ここまで、どの程度、弟子たちは、理解していたのだろうかと考えてします。どうなのだろうか。
- 使徒 4:12,13 この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。
- 二つのことを感じた。1つ目は、イエスがおそらく言わなかったこと。前半である。イエスに従うべきことを弟子たちには伝えたが、それは、イエスに学ぶためであった、イエスを通してしか救いがないと言っているわけではない。イエスは、弟子たちを通して、福音を、神様を伝えることを考えていただろう。そして、そのために選んだのが、無学な普通の人である。このように書かれていることは、ペトロとヨハネにとって、特別な表現だったろう。ここに、この二人であることから、ほかの弟子たちがどうであったかは、不明である。ヤコブは、12章で殺されているが、まだ、時間があるように思われる。他の使徒たちの活動については、著者は知らなかったのだろう。その時代には、エルサレム周辺にはいなかった、または、すでに、亡くなっていたのかもしれない。
- 使徒 5:17-20 そこで、大祭司とその仲間たち、すなわち、そこにいたサドカイ派の人々は皆、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜間に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
- ここでは、使徒たちとなっている。使徒たちという表現はこのあとも続くが、どの程度、全体を表現しているのかは不明である。ここでは、その使徒たちが公の牢に入れられたとあるが、これも、どのような範囲なのか、不明なのかもしれない。すこし、表現も荒いように見える。アナニアとサフィラのこともふくめて、評価しにくいことがいくつかあったのかもしれない。
- 使徒 6:9 ところが、「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」と呼ばれる会堂の人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などが立ち上がり、ステファノと議論した。
- キレネは、キレネ人シモンが十字架を負うエピソードがあるが、Cyrene, Libya すなわち、リビアの都市のようである。アレクサンドリアは、エジプト、キリキア州は、パウロの出身地である、タルソも含む、現在のトルコ(小アジア)の南の海岸沿いのローマの属州、アジア州は、現在のトルコの西のあたりのようである。何れにしても、地方の人たちであることがわかる。解放奴隷ということばもあり、もしかすると、異邦人からの改宗者もいたのかもしれない。その人達にとっては、異邦人に囲まれ、自らの、正しさが、信仰に関して重要だったろう。議論ではない方法はなかったのだろうかと考えてしまう。ひとの、正しさの議論は、そう簡単に、相互理解には、至らない。
- 使徒 7:51-53 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。あなたがたは、天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
- ステファノに反対する人たちと同じ基盤に立っていることを示そうとして、歴史を語ったのかもしれないが、ここでは、ソロモンの神殿の話から急に、批判的なことばになっている。これがそのとおり、スタファノが語ったことかどうかは不明だが、これでは、相互理解に至るのは難しいだろう。使徒言行録記者がここで伝えたかったことは何なのか。このあとの部分がたいせつで、ここは、関係ないのか。少し、不安になる。
- 使徒 8:18 シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して、言った。「手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。」
- この章には、フィリポの活動が書かれている。特に、この記事はシモニア(聖職売買)と言う名でもよばれる悪名高き例だが、まずは、驚くほどの変化が、イエスを受け入れた人たちに起こったということだろう。そして、そのような力をほしいと思った。とても自然なことである。その背後にあることを理解するのは、それほど簡単ではないのは、いまも同じであるように思う。ここから、なにを受け取るのかは簡単ではない。しかし、このような人にも福音が届けられたことのほうが大切なように思う。こんなのはいけないと切り捨ててはいけないと思う。
- 使徒 9:3-6 ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」
- パウロ(サウル)回心に関する最初の記述で、このあとには、「同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。」(7)とあり、パウロの個人的体験であったことがわかる。このときが、最初かどうかは不明だが、神に問うことは、イエスの弟子たちの迫害を始めたときからあったろう。向き合える場合と、そうではないものを分けるのはなになのかと考えるが、難しいのだろう。神様の側に理由があるとも言えるが、基本的には不明である。問う姿勢を維持していたい。つねに。
- 使徒 10:1,2 さて、カイサリアにコルネリウスと言う人がいて、イタリア大隊と呼ばれる部隊の百人隊長であった。敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。
- このような人の存在は、興味深い。どこの出身の人なのか不明だが、少なくともユダヤ人ではないのだろう。しかし、「神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とあり、このことが敬虔なひとであることを表現する慣用句だったのかもしれない。神は、民との関係からも、ユダヤ人が礼拝している神だったのだろう。そのようなひとに福音が伝えられる。最高の宣教だと思う。神様とコルネリウスと、キリスト者の協働だろうか。
- 使徒 11:13-15 すると彼は、自分の家に天使が立っているのを見、また、その天使がこう告げたと言うのです。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉を話してくれる。』私が話しだすと、聖霊が最初私たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
- 天使だと認めるところも、いろいろな考えがあるだろうが、これだけ特別なことが必要だったのかもしれない。そして、それを、解釈することだろうか。さらに、証すること。それが書き留められることだろうか。このあとの、アンティオキアのことも、背景としては大きいのだろう。「さて、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語っていなかった。ところが、その中にキプロス島やキレネから来た人がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスの福音を告げ知らせた。」(19,20)も興味深い。
- 使徒 12:1,2 その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
- このあとに「そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、さらにペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。」(3)とある。詳細はわからないが、ヘロデにとっては、人気取りが必要であったようで、キリスト者の教会との衝突があったわけではないということなのだろう。しかし、おそらく、そのころの中心であったペテロが殺されることになると大きな影響があったろう。ただ、ヨハネのことなど、全体像がわからない。十二弟子はこの時点でそれぞれどのような状況だったのか、書かれていないのが不思議である。一致した動きではなかったのかもしれない。
- 使徒 13:46,47 そこで、パウロとバルナバは堂々と語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている。そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます。主は私たちにこう命じておられるからです。/『私は、あなたを異邦人の光とし/地の果てにまで救いをもたらす者とした。』」
- 「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。」(44b)となっているので、一般の人ということだろう。どうして、この人たちは、パウロたちの話を聞きに来たのだろうか。面白いもの見たさだろうか。ユダヤ人が嫌われていたからだろうか。これだけではわからない。また、これを歓迎したからと言って、キリスト者として生きるまではそう簡単ではないのだから。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を崇めた。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」(48)この表現も信仰告白としては理解できるが、実際の状況の表現としては微妙である。
- 使徒 14:4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側に付いた。
- 背景は「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人は、異邦人を唆して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。」(1,2)と書かれている。宣教が分裂を生んでいる。これで良いのだろうか。わたしは、良くないと考えているわけだが、これでよいと考える人も多いだろう。正直良くわからない。このような分裂を
イエス様は、神様は当然のこととして、喜んでおられるのだろうか。分裂は、分断を生む。ますます、相互理解ができなくなる。愛することが困難になると思うのだが。
- 使徒 15:1,2 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。そして、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい対立と論争が生じたので、この件について、使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムに上ることになった。
- ここでは「激しい対立と論争」とある。これも、わたしは、好まない。対立していて、そして、論争していて、共に賛美し、互いに愛し合うことができるのだろうか。わたしは、難しいと考えてしまう。そして、共に、神の御心を求め、互いに愛し合うように導かれることこそがたいせつで、わたしたちの望むことのように思うのだが。
- 使徒 16:17-19 彼女は、パウロや私たちの後ろに付いて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると、霊は即座に彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて行った。
- たいせつにしていることが異なるのだろう。この章には、価値観の違いが見て取れることがいくつか出てくる。このあとの、牢獄で大地震が起こったときの様子もそうだが、最初に、テモテに割礼を施したことも、その一つかもしれない。そのひとが、なにを大切にしているのか、そして、なにを大切にして自分は生きるのか、それを考えながら行きていきたい。
- 使徒 17:4,5 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスの仲間になった。その中には、神を崇めるギリシア人が大勢おり、貴婦人たちも少なくなかった。しかし、ユダヤ人たちはそれを妬み、広場にたむろしているならず者たちを抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。
- ねたみはなぜ起きるのか。たいせつにしていることの差や違いが示されたときだろうか。それでも、たいせつにしているものをたいせつにするのか、それとも他者から学び、すこしずつ修正していくのか。柔軟に、謙虚さを持って、自己修正していくみちをていねいに考えていきたい。
- 使徒 18:7,8 パウロはそこを去り、神を崇めるティティオ・ユストと言う人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家を挙げて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた。
- 2節には「ポントス州(アナトリア地方の黒海南岸、特に南岸のうち東部の地方名)出身のアキラと言うユダヤ人とその妻プリスキラ」が登場し、引用句では、「神を崇めるティティオ・ユスト」「会堂長のクリスポ一家」が登場する。様々な人、しかし、一部の人が、信仰を受け入れたということだろう。そして、協力者となった。そうならなかった人たちの存在も確認できる。「口汚く罵ったユダヤ人」もいた。どうすればよいのだろう。これは、とても大切な問だと思う。
- 使徒 19:35,36 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。これを否定することはできないのだから、冷静になるべきで、決して無分別なことをしてはならない。
- それなりに寛容に書かれている。パウロたちは、どのような態度だったのか。正しさ優先か、一人ひとりにたいする神様の愛を伝えることか。現代にまでつづく、難しい課題でもある。使徒記者は、このように言い切っていて、騒ぎを収めようとする、市の書記官をたいせつにしているように見える。論争で、なにが生み出されるのかを見極めるのはそれほど簡単ではない。
- 使徒 20:4,5 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスで私たちを待っていたが、
- このあとに「私たちは」と続く。自然に考えれば、著者が「私たちに」含まれていること、すると、引用したリストに、著者が含まれるかと考えるが、自分をここで書くことは避けるのも十分考えられる。同行者は7人だったのか、8人だったのか、もう少し多かったのか不明である。いずれにしても、パウロをふくめて、10人ぐらいのグループだったか、パウロの弟子と考えてよいのかも不明だが、ここからの、記述は、証人がたくさんいるということも言えるのだろう。
- 使徒 21:17-19 私たちがエルサレムに着くと、きょうだいたちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロは私たちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。
- エルサレムに長老たちがあつまっていたということは、べつに、ここで迫害によって、散り散りになっていたわけではないことを意味しているのだろう。パウロのことと、異邦人との関係がおそらく問題だったのだろう。それがこの後の騒動からもわかる。だからといって、パウロを退けることは、15章のエルサレム会議以降は難しかったろう。同行者がたくさんいたことも、活動が進展していることの証明だったのかもしれない。引用句は、このときの状況を知ることができる箇所でもある。
- 使徒 22:17,18 「さて、私はエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。私についてのあなたの証しを、人々は受け入れないからである。』
- この前には「アナニアは言いました。『私たちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人々に対してその方の証人となる者だからです。さあ、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を呼び求め、洗礼(バプテスマ)を受けて罪を洗い清めなさい。』」(14-16)と言われている。しかし、引用句では、人々は証を受け入れないから、エルサレムから出ていけという。パウロにとっても、苦しい時期だったのではないだろうか。自身の混乱を表しているとも、そのなかで、御心を探し続けたともいえる。わたしにも、そのような時が、あったと思う。そんなときも必要なのだろう。背後で起こっていることは、ひとには、わからない。
- 使徒 23:14-16 彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も口にしないと、堅く誓い合いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところに連れて来るように、最高法院と組んで大隊長に願い出てください。私たちは、彼がここに来る前に殺してしまう手はずを整えておきます。」しかし、パウロの姉妹の息子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。
- パウロの姉妹の息子もエルサレムにいたことが書かれている。タルソ出身であっても、家族で、エルサレムに来て、長くいたのだろうか。パウロについて、個人的な背景はほとんど語られていない中で、貴重な情報である。この誓を立てた人たちは、どのような人たちなのだろう。今の日本では考えられない血気にはやる人たちなのだろう。後先は考えられない時代だったのかもしれない。
- 使徒 24:14,15 ただ、このことははっきり申し上げます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道に従って、先祖の神に仕え、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。さらに、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
- 前半は訴えているユダヤ人と同じ事、しかし、後半は、議論があることは確かだろう。さらに、最後に、「彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」(21)でも、復活のことについて。ファリサイ派の復活についての理解をしらないと、判断はできない。さらに、ここに言われていることだけが論点ではなく、たんに、サドカイ派とファリサイ派の分断を考えているようにも見える。正直、課題も感じる。
- 使徒 25:25 しかし、彼が死刑に当たることは何もしていないということが、私には分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。
- 実際にどのように考えられていたのか不明であるし、このパウロの罪状もはっきりしない。また、上訴したら、かならず皇帝のもとにいくということも十分は理解できない。パウロというひとについて書いてある使徒言行録の後半、どうも、わたしには、しっくりこない。難船のことは、実際のことだろうと思うが。
- 使徒 26:22,23 ところで、私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる、と述べたのです。」
- ここに、パウロが語ったとされていることが書かれている。旧約聖書の中で証しされていることを語っているだけだということ、その内容は、メシアがどのような方かということだろうか。このことの証には、どうしても、ユダヤ人との正しさの議論になるように思われる。イエスがどのように生きたか・歩んだかとは、やはり違うようである。その生き方、一人ひとりとの出会いは、学ばなかったわけではないだろうが。
- 使徒 27:23,24 私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
- 本当に、これが御心だったのだろうか。わたしには、客観的には、判断できない。そうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。神様は、導かれた生き方も、思い込みでしたことも、用いられることもたしかだろう。詳細は、わたしには、判断しかねるが。わたしには、御心はよくわからない。しかし、その時点で、これが御心かな信じることに、誠実に向き合い、御心か問い続けながら、修正しながら歩んでいきたい。
- 使徒 28:26-28 『この民のところへ行って告げなさい。/あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り/耳は遠くなり/目は閉じている。/目で見ず、耳で聞かず/心で悟らず、立ち帰って/私に癒やされることのないためである。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
- このあと2節あるが、ほとんど、ここで終わっている。そう考えると、ある結論ということになるが、「だから」と結論するのは、乱暴だと感じてしまう。イザヤ書からも変更があるが、七十人訳などを丁寧に見てはいないが、このことばをどう理解するかは、そう簡単ではない。単純に、ユダヤ人から異邦人と理解するのは、異邦人を傲慢にしてしまうことにもなるだろう。使徒言行録の締めがなになのか、ここまでの経緯を考えると、このときには、皇帝の法廷には、立たなかったのではないかと思う。
BRC2025(2)
ローマの信徒への手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ローマ 1:4,5 聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。私たちは、この方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
- 「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:35)などからみて、神の子についての表現が、すくなくともイエスが語っていたこととは異なるように見える。復活によって神の子と定められる根拠は、どこにあるのだろうか。異邦人と言いつつ、ここでは、ローマのユダヤ人に語っているようである。整理されていることは確かだ、根拠は不明確に思う。
- ローマ 2:12,13 律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを行う者が義とされるからです。
- パウロはここで「律法を行う」ことをどのようなことだと考えていたのだろうか。おそらく、ファリサイ派の一人として「律法を行う」ということとは異なるのだろう。しかし、必ずしも明らかではない。イエスは、それをどう考えたいたのだろうか。どのように、伝えていたのだろうか。すくなくとも、このローマ書から、このことについては、理解したい。
- ローマ 3:27,28 では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
- 「なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(20)と連動させれば辻褄はあう。しかし、それは、本当にイエスが伝えたことなのだろうか。イエスの世界観、イエスの言う、神の国、神の支配のもとで御心を行い、生きることと同じだとは正直わたしには言えない。ひとつの解釈、それも、ある意味で、単純化バイアスに陥っているようにも見える。どうなのだろうか。
- ローマ 4:10,11 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証印として、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
- 信仰義認が語られ、割礼によって義と認められるのではないことが縷縷語られている。このことが重要だったのだろう。ただ、ユダヤ人の割礼は男性のみ、そして、引用句では、割礼は「信仰によって義とされた証印」とされ、そうであれば、ある価値を主張しつつ、アブラハム以外の他のひとにとっての意味については述べていない。ユダヤ人への一つの議論ではあるとしても、そして、パウロにとっては、大切だったのだろうが、わたしには、議論が乱暴であるように思う。
- ローマ 5:18,19 そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
- 疑問を感じる。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(8)は、印象的ではあるが、そのように受け取ったのは、イエスの地上での歩みがあったから、理論や理念が最初にあったわけではない。そして、そのように、明確に示されているわけでもない。引用句の原罪の考え方もどうだろうか。人間が過つものである、罪を犯すものであることは示しているが、それ以上のものではないように思う。そろそろ、落ち着いて、神学書をよみ、どのように語られているか学ぶときなのかもしれない。
- ローマ 6:16-18 知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
- 難しいが、このように、A か B かということは、説明としてはわかりやすいが、現実の説明には、十分ではない、ある意味では、極端すぎるとも思う。このようなことが、分断を生むように思う。冷静に、丁寧に考えていきたい。「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか」これをうけいれないといけないのだろうか。
- ローマ 7:15-17 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
- 現実を考えると、このようなジレンマに陥る。ここでは、この困難を、憎んでいることをおこなっているのは、私ではないと言い切るが、それは、「私」の定義をも変更することで、罪をわたしの外にある実体だとしている。では、罪とは何なのか。どこまでが私で、どこからが罪なのか。これは、さらなる困難を引き起こすように思う。ていねいに、謙虚に考えていきたい。
- ローマ 8:31,32 では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
- 正直、パウロ神学は、人間の神学だと思ってしまう。イエスが救い主であることを、考え抜いたものなのだろう。しかし、それが現代でも残っているのは、神の理解が、愛の神である、イエスの死の背後にも、神の愛があることを、説いており、パウロが解釈したキリスト論の背後にある、神理解が、イエスの行動や説いたこととつながることがあるのではないかと思う。引用句も、それを表現している。ある意味で、イエスと共に生きた弟子たちが、その意味では、拒否できないものがあったのかもしれない。続けて考えていきたい。
- ローマ 9:19,20 そこで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。」ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
- ユダヤ人の問題に至り、選びと摂理へと進み、そのようになった理由を、ユダヤ人が信仰ではなく、行いによる義へと進んだからだとしている。乱暴であるとも思う。わからないとするしかないのではないだろうか。人間が神の御心を理解したと考えることこそ問題だと感じる。たしかに、イエスは地上ですべてを明らかにしたわけではない。しかし、神について、さまざまなことを教えてくださった。それを受け取って、謙虚に生きていくこと、それで十分であるように思う。
- ローマ 10:2-4 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。
- 正しさの議論がここにある。さらに、キリストは律法の終わりだと宣言している。本当に、イエスは、そのように意識していたのだろうか。わたしには、そう思えない。律法を全うすることはその行動の中にあったと思うが。ユダヤ人も様々な、その熱心さを一括りにして良いのだろうか。コミュニケーションの仕方がわたしは気になっているのだろうか。そうかも知れない。丁寧に考えてみたい。
- ローマ 11:23,24 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるからです。もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
- 以前にも、接ぎ木について考えたことはあるが、整理してみよう。接ぎ木は、根は元のものを使うが、接ぎ木されたものが育っていき、接ぎ木されたものの形質を受け継ぐことになるはずである。元のオリーブの木についていた枝は、もとの形質を保つことになる。ということは、その段階で、本質が変化したものが接ぎ木されることを言っているのだろう。しかし、それがどのようにして変化するかは述べられていない。そこが問題なのか。
- ローマ 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
- これがたいせつなことは、理解できるが、これをどのように知ればよいかが問題である。それを、イエスに求めるのではないかと思うが、ここでは、一般的なことが3節以降に書かれている。それぞれに与えられている賜物を活かすこと、そして、「善に親しみ、互いに深く愛する」(9,10)ことだろうか。パウロは、イエスの地上での歩みについてどう考えていたのだろうか。
- ローマ 13:8-10 互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな」、そのほかどんな戒めがあっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
- このように言ってもイエスには、もどらない。なぜなのだろうか。ここまで、きっぱり言うには、イエスの影響も多いと思うのだが。根拠は、どのように考えていたのだろうか。単に、当時、福音書がなかった、一般的ではなかったということでは、説明できないことがあるように思う。
- ローマ 14:22,23 あなたは自分の持っている信仰を、神の前で持ち続けなさい。自ら良いと認めたことについて、自分を責めない人は幸いです。しかし、疑いながら食べる人は、罪に定められます。信仰に基づいていないからです。信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです。
- 謙虚に求め続けること。同時に、これで良いのだとも思う。第一原則。わたしたちが、知っている知識は一部分に過ぎない。第二原則。わたしたちは、間違える。それを修正していくことにつねに心と強い意思を持つこと。第三原則。謙虚に、求め続け、ともに学び続けること。今日は、このように表現してみた。この信仰を、神の前で持ち続けたい。
- ローマ 15:14-16 きょうだいたち、あなたがた自身は善意に溢れ、あらゆる知識で満たされ、互いに相手を戒め合うことができると、この私は確信しています。記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、私が神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そして、それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、御心に適う供え物となるためにほかなりません。
- パウロとはどのような人なのだろう。なかなか複雑。文章だけでは、理解できないのかもしれない。ここには、祭司の役を務めているとしている。それだけの確信を持っているのだろう。ここでは、教義は持ち出さない。祭司とはなどと語り始めたらそう簡単にはいかないだろう。ある幅も持っているのだろうが、それが適切に伝わったかはわからない。背景が十分わからない、私たちには、さらに難しいわけだが。
- ローマ 16:17,18 きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えている。そして、甘い言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心をだましているのです。
- 最後の章で、挨拶が記されているで突如厳しい言葉が挿入されている。背景の説明もなく、驚かされる。ローマには、パウロはまだ行っていないようだから、知っている人は何人もいるようだが、このような伝え方には、疑問も持つ。パウロの性質だろうか、何らかの部分が紛れ込んだのだろうか。内容が、誤解なく、適切に伝わったのだろうか。「自分の腹に仕えている」など、あまりにも、厳しいことばで驚かされる。以前は、あまりこのようなことは考えなかったが。
BRC2025(2)
コリントの信徒への手紙一聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 1コリント 1:11,12 私のきょうだいたち、実は、あなたがたのことをクロエの家の者たちから知らされました。あなたがたの間に争いがあり、あなたがたはめいめい、「私はパウロに付く」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」などと言い合っているとのことです。
- まず書かれているのは、分裂・争いである。これが人間なのかもしれない。戦争という人間の悲しい現実を避けるためには、分裂・分断を解消することだと思うのだが。不可能なのだろうか。聖書を読んでいて、とても、苦しい気持ちになる。
- 1コリント 2:2 なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
- このあと、「私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。」(4)と語り、霊のことを語り、霊によってのみ、霊ことを理解できる(14)としています。「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。」(3)という状態だったと告白しており、神にのみ頼ることは、十分理解できるし、素晴らしいが、これを一般化するのは、危険でもあるように思う。イエスの語ったこと、弟子を教えた事、イエスが地上でなした様々なことを、知恵の言葉も用い、丁寧に語り、様々な力を使って理解を促すことも重要なのだろう。
- 1コリント 3:1 きょうだいたち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストにある幼子に対するように語りました。
- 2章の内容とは食い違っている。妬み、争いがあるということは、霊の人であることを受け入れられないということだろう。現実は、そう簡単ではない。すなわち、霊の導きをもとめつつ、現実の肉の人と向き合うことだろう。どちらかに単純化するのは、危険である。丁寧に読んでいきたい。
- 1コリント 4:15,16 あなたがたに、キリストにある養育係が無数にいたとしても、父親が大勢いるわけではありません。キリスト・イエスにあって、福音を通して、あなたがたを生んだのは、私なのです。そこで、あなたがたに勧めます。私に倣う者となりなさい。
- 本当に、なにもないところから、ユダヤ教の背景もなく、神についてもかなりことなることを考えていた人たちにとって、パウロが説いたことは、すべてが新しかっただろう。とはいえ、一章にあるように、分派が起こるということは、他のひとからもある程度情報が得られるようになったこともあるだろう。そう考えると、パウロのことばは、強すぎるようにも思う。パウロの中にも様々な葛藤があったのかもしれないが。わたしは、十分背景を理解できているわけではないが。わたしの考えることとはだいぶん乖離を感じる。
- 1コリント 5:11 今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
- 教会内の分断は、許容するように見える。ひとつひとつそれほど簡単ではないことは、キリスト教の歴史を見れば明らかなように思うが、どうなのだろうか。パウロが許容できない、見えている世界が、私が考える世界と異なっているのだと思うが、線をひくことは、極度に難しいと思う。そのような中でどうしたらよいか、わたしにもよくわからない。平和は、分断を回避することは、本当に難しい。
- 1コリント 6:19,20 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
- 私にはこのような感覚はない。折に触れて祈り、主に問うことはするが、そして、自分で決めたとしても、そのとおりになるわけではなく、主に委ねることが多いことも確かだが、やはり、選択はわたしに委ねられていると考えている。それが、主体的に生き、責任をもって行動するわたしの生き方だと思う。むろん、これに関しても、神がともに居てくださることを求めつつだが。パウロのような感覚にはなれない。十分理解できていないということか。
- 1コリント 7:25,26 未婚の人たちについては、私は主の命令を受けていませんが、主の憐れみによって信任を受けた者として、意見を述べます。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているのがよいと思います。
- この章の内容も難しい。それだけ何に関しても、パウロが判断しようとしたということなのだろうが。危険でもある。理由として理解できるのは、ここにある「現在迫っている危機のゆえ」ということばだが、具体的な内容は書かれていない。他のキリスト者がある程度合意するには、しばらくのとき(これがどのぐらいだか不明だが)が必要だったように思う。終末論は、そのうちの、主たるものなのだろうか。
- 1コリント 8:12,13 このように、きょうだいに対して罪を犯し、その弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物が私のきょうだいをつまずかせるなら、きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません。
- たいせつな教えであるが、同時に、愛するように導かれているきょうだいは、たくさんおり、かつ多様であり、何をすることが愛するのかは難しいということでもある。夏に、石破首相が真榊を靖国神社に捧げたことについて、偶像にささげられた肉についての解釈を踏まえて、朝日新聞ポッドキャストで、朝日新聞で記事「(多事奏論)詫びる首相 クリスチャンを自認、胸の内は」「『石破君も覚えているはず』クリスチャン首相、神社に祈る胸の内は」を書いた田玉恵美さんらが話していた。より深い議論が必要だともまた説明責任もあると感じた。あまり、簡単ではない。
- 1コリント 9:21,22 私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にあるのですが、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。
- 素晴らしいと同時に、疑問も抱く。「得る」とは何だろうか。この意味が明確にならなければ、いけないだろう。背後には、イエスをとおして、神のみこころを伝えることがあるように思われる。つねに、答えがあると考えるのはやはり傲慢だが、イエスならと考えたいのがわたしの立場である。党派心的な誘惑は常にあるので。
- 1コリント 10:4 皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
- なぜ、このように言えるのだろうか。わたしには、とても理解できない。このような解釈は、みなに許されているのか、それとも、パウロは特別なのか。特別だとすると、なぜなのだろう。8節に「彼らの中のある者がしたように、淫らな行いをしないようにしましょう。淫らな行いに及んだために、一日で二万三千人が死にました。」とあるが、民数記では一日とは書かれていないように見える。このあとも、「これらのことが彼らに起こったのは、警告のためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちを戒めるためなのです。」(11)とあるが、これは、一般的に、高解釈されるということなのだろうか。解釈は難しい。
- 1コリント 11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
- この部分は、福音書の記述とことなる。また、主の晩餐の制定の文章も、「食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。」(21)とあり、制定の文章のあとにも、「私のきょうだいたち、こういうわけですから、食事のために集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。あなたがたが集まることによって裁きを受けることにならないためです。その他のことは、私がそちらに行ったときに決めましょう。」(33,34)とある。こちらが主のように思われる。どう厳密に解釈すべきかは、よくわからない。
- 1コリント 12:26-28 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。
- とてもよい言葉だが、疑問ももつ。教会とは、世界の教会全体なのだろうか。すると、多くは、ここに挙げられている役割を担うものではないように思う。共に苦しみ、共に喜ぶのは、すばらしいが、なぜそうなるのか、ここが難しいように思う。そして、排他的にはならないのか。疑問をもってしまう。
- 1コリント 13:12,13 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。
- 今回は「それゆえに」を考えてみたい。「今は一部分しか知りません」にかかっているのか「その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。」の方なのだろうか。すくなくとも、今は、よくわからない時代を生きている。しかし、その今でも、神様には、はっきり知られている。これが、どのように、この次に繋がるのだろうか。正しさは不完全、しかし、その現在においても、完全に知られ、神様に愛されている。ということだろうか。やはり、明確には、わからない。
- 1コリント 14: 34-36 女は、教会では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように、服従しなさい。何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。女が教会で語ったりすることは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
- 背景としては、女性は公的な、教育を受ける機会がなかったのだろう。そうであっても、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(33b)と、普遍化してしまうところに、問題があるのだろう。批判ばかりしては、いけないだろうが、変化の後の世界でのことを考えるのは難しいが、必要なことなのだろう。より本質的な問をたいせつにすることが一つだろうが、ほかには、どのような事があるだろうか。
- 1コリント 15:42-44 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
- どのような体で復活するのかについても、語られている。肉体とは、分けて考えているように見える。通常霊体と呼ぶが、実際のところはよくわからない。個人的には、関係をもてることが大切なのかと思い、イエスは、神とも、悪魔とも、エリアやモーセとも、そして、おそらく、アブラハム、イサク、ヤコブとも個人的な関係を持っていたのだろう。肉体てきなものに近いことを否定しなくてもよいだろうが。
- 1コリント 16:8 しかし、五旬祭まではエフェソに滞在するつもりです。
- この記述からは、この手紙は、エフェソで書かれたようである。「私は、マケドニア経由で、そちらへ行きます。」(5a)からもある程度推測が立ち、「アジアの諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカとその家の教会が、主にあって心からよろしくと言っています。」(19)からもそのことがわかる。ここには、アキラとプリスカのことも書かれている。ローマの信徒への手紙16:3には「キリスト・イエスにあって私の協力者であるプリスカとアキラによろしく。」とあり、このときには、この二人は、ローマにいたことになる。どちらが先かは不明だが、献金をエルサレムに送ることが書かれていることからすると、コリントの信徒への手紙一のほうがあとに書かれたと考えられるかもしれないし、プリスカとアキラは、頻繁に移動していたのかもしれない。拠点は、コリントにあったのだろうか。
BRC2025(2)
コリントの信徒への手紙二聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 2コリント 1:15,16 このような確信をもって、私は、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニアに行き、マケドニアから再びそちらに戻って、ユダヤに送り出してもらおうと考えたのでした。
- また、「私は、神を証人として、命にかけて誓いますが、私がコリントに行かなかったのは、あなたがたに情けをかけたからです。」(23)とある。手紙が他にもある可能性もあるし、不明の部分もあるが、おそらく、エペソにいて、船で、コリントにわたり、それから、陸路マケドニアに行き、それから、また、コリントに戻って、そこから、ユダヤに出発を考えていたのだろうが、それを変更し、エペソから、直接ユダヤに向かったのだろうか。なにが良かったかは不明である。コリントにいる人たちの顔も見えない。もう少し情報があると良いのだが。
- 2コリント 2:9-11 私が前に書き送ったのも、あなたがたが万事にわたり従順であるかどうかを確かめるためでした。あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かのことでその人を赦したとすれば、それは、あなたがたのために、キリストの前で赦したのです。私たちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
- パウロについていけない人もいただろうなと思う。人間指導者の限界でもあるが、プロテスタントのように分裂をする大本がこのあたりにあるように思う。たしかに、多くのことについて、パウロが知識を持っていたことは確かだろうが、知識は、真理と関係はしていても、神の知恵、御心そのものではないだろう。ここで、落ちこぼれてしまう人、離れていく人、どうするのが良いのだろうか。わたしも、どうしたらよいかよくわからない。
- 2コリント 3:16-18 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。
- 「人が主に向くなら」これが具体的になにを意味しているかが重要であるように思う。わたしの考えと、パウロの考えとは異なるように思う。わたしにとっては、これは、福音書を中心として描かれているイエスの行動から学ぶことを意味しているが、パウロにとっては、十字架上での贖いの死と、復活を通して示されているとする御心ではないのだろうか。むろん、これは、相対するものではないかもしれない。しかし、日常生活、そして福音理解には、大きな差があるように思う。丁寧に、求め続けたい。ひとつの考えに固まらずに。
- 2コリント 4:10-12 私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働くのです。
- わたしには、ここまでの法則は見えない。そして、「すべてのことはあなたがたのためであり、こうして、恵みがますます多くの人に及んで、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光となるのです。」(15)このような手紙を受け取ったら、苦しくなってしまうように思う。イエスの死を通して示された愛は、ある程度理解できる。そして、その死によって生かされているとも思う。しかし、イエスの地上での生涯を負って生きたいとの願いはあるが、それ以上のものかどうかは、私には不明である。このようなメッセージを受け取ったら、どのように応答したらよいのだろうか。
- 2コリント 5:14,15 事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
- この論理も、正確にはわからない。キリストによって生きるようにされたこと。死んでくださったかたを思い、生きることは、理解できるが、それ以上に進めることは、観念的でもあるように見える。実質的に、キリストの愛を感謝して生きることができればと願う。
- 2コリント 6:12,13 私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
- 具体的にどのようなことを言っているのかは不明である。何らかのトラブルがあることは確かだが。受取人は、それが何なのか理解できたのだろうが、内容によってどのように判断するかは、変わってくるように思う。おそらく、パウロたちに対する批判があったのだろう。これも、コリント前書の冒頭にある分裂と関係しているのだろうか。ひとつとなることは、本当に難しい。
- 2コリント 7:11,12 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱い思い、弁明、不快、恐れ、慕う心、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの事件に関しては、あなたがたはすべての点で自分が潔白であると主張しました。ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を働いた人のためでも、その被害者のためでもなく、あなたがたが私たちに抱いている熱い思いが、神の前に明らかになるためだったのです。
- ここもあまりはっきりしない。背景が明確でないからだろう。いずれにしても、パウロの側は、自分たちに問題があったとは、
言っていないようである。同時に、引用句から、コリント教会も潔白であるという。批判したのは、パウロ側であることを考えると、どれがどう説明されるかが重要だが、それは、されていないように見える。正直、よくわからない。いつか、ゆっくり学んでみたい。
- 2コリント 8:7,8 あなたがたは、信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛など、すべての点で満ち溢れているのですから、この恵みの業にも満ち溢れる者となってください。こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心に照らして、あなたがたの愛が本物であるか、確かめたいのです。
- このあと、献金のところに至るのだが、正直、この言説が嫌な人、受け入れられない人はいただろう。愛とは、このようなものなのだろうか。愛が本物かどうか、たしかに、本物ではない愛は、多いのだろうが、このように言うことで、本物の愛が得られるのだろうか。それも、ユダヤの貧しいひと(聖なる者)たちへの献金を集めるという背景があるなかで。現代でもあるように思う。自発的な、ある意味で本物の愛は難しい。イエスはどう考えていたのだろうか。このようなときに、どうされただろうか。考えてしまう。
- 2コリント 9:8,9 神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ち溢れる者となるのです。「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与え/その義は永遠に続く」と書いてあるとおりです。
- 引用は、「主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人」の幸いについてのべた、詩編112:9「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」からの引用とある。引用句で「彼」は、神なのか「あらゆる善い業に満ち溢れる者」なのか不明だが、神と共に働くものとなることが語られているのだろう。その基本のほうが、たいせつであるようにおもう。献金を集めるのは、どの時代でもあまり簡単ではない。受ける側も同様に簡単ではないのかもしれない。
- 2コリント 10:1-3 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロが、キリストの優しさと公正さとをもって、あなたがたに願います。私たちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に振る舞うつもりです。そう確信していますが、私がそちらに行くときには、強気にならずに済むようにと願っています。私たちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦っているわけではありません。
- このように人々が口にするのは、なにが原因だったのだろうか。ユダヤの貧しい聖なる者たちへの献金が関係しているのではないだろうか。コリントの人たちにとっては、偶像礼拝から、キリスト教に移行したことはある意味を持っていただろうが、この人たちのことを思い見ることは簡単ではなかっただろう。イエスの歩みについてパウロが丁寧に語っていれば、そして、証人たちの価値が通じるかたちで話していれば違ったのではないだろうか。福音書を好むわたしには、十二弟子やそこにいた目撃証言は重要に思うが、死と復活だけに集中していたとすると、新しい教えとしての価値しかなかなか理解できなかったのではないだろうか。つづけて考えたい。
- 2コリント 11:7-9 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたことが、私の罪になるのでしょうか。私は他の教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための賃金を得たのです。あなたがたのところにいて生活に困ったときも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。
- やはり、共通理解が進まない背景に、経済的な問題があったように思う。最初に、キリストを受け入れた層の問題もあるかもしれない。パウロの神学を理解できるのは、ある程度教育のある人たちだけだったろう。経済的な余裕もある人たちだったかもしれない。イエスが伝えた層とは、ことなる。その社会のなかで、共生や、弱者をも神に愛されているものとして受け入れ、愛するのは難しかったのではないだろうか。どうすればよかったかは簡単ではない。そこで、パウロを批判はできないが、構造的な問題が、背景にあり、福音についても、やはり一面しか伝えられていないように思う。どうだろうか。
- 2コリント 12:16,17 それはともかく、あなたがたに重荷を負わせなかったのに、私は悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに遣わした人たちの誰によって、あなたがたから貪り取ったでしょうか。
- 十分な信頼関係が築けていないのだろうか。推測の域をでないが、多くの人は信頼しているにも関わらず、中には批判する人がいたということではないのだろうか。ついついそれに強く反応してしまう。それが、とくに、自分がたいせつだとして注意していることについてであったりするとなおさらである。この場合がそれに当たっているかどうかは不明だが。この章の始めは「私は誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示とについて語りましょう。」(1)となっている。「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません。」(5)とあるので、中心ではないことは確かだが、なぜこのようなことを書くのか気になる。このような経験をしているひとを好む傾向がコリント教会にあったのだろうか。異言のことなどを考えると、否定はできない。個人的には、このようなことを書くのは適切だとは思わないが、わたしには、理解できない、様々な難しい背景があったのだろう。
- 2コリント 13:11 終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
- どうも、まとまりがよくない終わりになっている。通常の他のひとからの挨拶などもかかれていない。この章の最初に「私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の人の証言によって確定されるべきです。」(1)とあり、そのような背景が、このような手紙になったのかもしれない。望みは平和である。しかし、それは、難しいのだろう。現実社会では、それはないのかもしれない。
BRC2025(2)
ガラテヤの信徒への手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ガラテヤ 1:4 キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。
- まず冒頭に「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、」(1)とあり、さらに、「きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。」(11,12)とされており、御心が啓示により、使徒とされたのも直接神によると断言し、その内容が引用句に書かれている。贖いの死である。ここまで断定されると、反論はできない。しかし、とても危険でもある。これをそのまま受け入れないと、キリスト者にはなれないのか。
- ガラテヤ 2:9,10 私にこのような恵みが与えられたのを認めて、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに交わりのしるしとして右手を差し出しました。こうして私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、私たちがこれからも貧しい人たちを顧みるようにとのことでしたが、私はこのことのためにも大いに努めてきたのです。
- 使徒15章のエルサレム使徒会議について述べているように見える。そこには「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことにしました。すなわち、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。では、お元気で。」(28,29)と末尾にある手紙がついている。この正確性については、問われているのでわからないともいえるが、ある程度詳細に関する議論は残ったのではないだろうか。さらに、「貧しい人たちを顧みるように」とのことが含まれているが、懸念があったということだろう。それは、知的な議論に対するものであったのかもしれない。不明な点が多いと思わされる。
- ガラテヤ 3:16 さて、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この子孫とは、キリストのことです。
- 「主はアブラムに現れて言われた。『私はあなたの子孫にこの地を与える。』アブラムは、自分に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」(創世記12:7)からの引用である。’לְזַרְעֲךָ אֶתֵּן אֶת־הָאָרֶץ הַזֹּאת’ たしかに、זֶרַע(seed, sowing, offspring)の単数のようである。一般的には、イシュマエルなどではなく、イサクのみを指すと理解されていると思う。ここで、キリストのこととするのは、飛躍があると思う。そうとも理解することができるということだろうか。
- ガラテヤ 4:30,31 しかし、聖書は何と言っているでしょう。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷の子は、断じて自由な身の女の子と一緒に相続をしてはならない」とあります。それゆえ、きょうだいたち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由な身の女の子どもなのです。
- 「エジプトの女ハガルはアブラハムに子を産んでいたが、サラは、その子が遊び戯れているのを見て、アブラハムに言った。『この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子が、私の子、イサクと並んで跡を継ぐことはなりません。』この言葉はアブラハムにとって大変つらいことであった。その子も自分の子だったからである。神はアブラハムに言われた。『あの子と女奴隷のことでつらい思いをすることはない。サラがあなたに言うことは何でも聞いてやりなさい。イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるからである。しかし私は、あの女奴隷の子もまた一つの国民とする。彼もあなたの子孫だからである。』」(9-13)これが原文である。だいぶん、印象が異なる。ここでは、イサクとイシュマエルを差別しているように見える。本当にそれが核心なのだろうか。イスラムのことも考えると、より進んだ理解が必要だと思う。
- ガラテヤ 5:13-15 きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句において全うされているからです。互いにかみ合ったり、食い合ったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。
- ここには、たいせつなことがたくさん含まれていると思う。自由について十分語っていないが、自由であることは、その行動からみてとれる。そして、互いに仕えることは、そのように、伝えられてはいないが、教えていたことは確かである。ここは、もっとじっくり考えたい。他者、それも、仲間とは思えないようなひととどう対応するかである。丁寧に学びたい。
- ガラテヤ 6:9,10 たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
- 刈り取ることを期待するのは、どうかと思うが、このあとの、特に信仰によって家族になった人々に対してもふくめ、まずは、そのような自然な、身近なところからは、真実を含んでいると思う。
BRC2025(2)
エフェソの信徒への手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- エフェソ 1:3-5 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。
- 予定説といえる内容が書かれている。これは確かめることができない、すなわち、反証可能性がない。同時に、このような宣言が、差別を引き起こす危険性があることも思わされる。世界の中での分断が生じる。それは、著者の意図したことでは無いだろうが、人間の罪の結果であるように思う。難しい。
- エフェソ 2:18,19 このキリストによって、私たち両方の者が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
- キリストがすべての分かれ道である。キリストの十字架上の死のあがないの前と後で完全に世界が変化しているとする。これは、福音宣教の核だとも、言えるが、個人的に、危険性も感じる。キリスト以前のひとびとを切り捨ててしまっているからである。大きな歴史の中で捉える歴史認識もこの危うさを含んでいる。神は、そのような方なのだろうか。分断である。ここから、逃れなければいけないように、わたしには思われる。
- エフェソ 3:6 すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続する者、共に同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるということです。
- これは、ユダヤ人にとっては、とてつもなく大きなことだったろう。受け入れられない人も多かったと思う。これを、パウロは啓示によりとしているが、「この秘義は、前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(5)このようにも書かれており、パウロへの啓示だけではないとしているのだろう。それは、イエスによるものか、ここでは、明確ではない。福音書からも、おそらく、明確とは、言えないのだろう。否定はできない、証拠はいくつもあるが。
- エフェソ 4:14,15 こうして、私たちはもはや子どもではなくなり、人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすることなく、愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
- このように、望みたいが、実際、そうなっているかは、わたしには、よくわからない。たくさんの試練があり、誘惑もある。変化はしており、学んでもいると、それが、頭であるキリストへと成長しているのかはっきりはしない。確信はない。それでよいのだろうか。正直よくわからない。
- エフェソ 5:1,2 ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。
- そのとおりと言いたいが、神に倣うものの実際がわからない。イエスの生き方に倣うことはある程度学ぶことができ、わたしはそれをめざしている。この章には、日常生活における、倫理的な教えがおおい。それは、おおむね理解できるが、これが神に倣うものの生き方、歩み方だとすると、疑問を感じる。危険性をもかんじてしまう。
- エフェソ 6:1-3 子どもたち、主にあって両親に従いなさい。それは正しいことだからです。「父と母を敬いなさい。」これは第一の戒めで、次の約束を伴います。「そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる。」
- 敬うことと、従うことは同じなのか。わたしには、そうは思わない。両親は、自分で選ぶものではなく、神様から与えられている、定められているともいえる。その両親を尊重することは、神が定められたことを受け入れることでもある。神に従うことと、権威に従うこととの違いでもある。尊重しつつ、御心に照らして丁寧に考えるべきだと思う。時代性や、社会性もあるかな。
BRC2025(2)
フィリピの信徒への手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- フィリピ 1:6,7 あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、獄中にいるときも、福音を弁明し立証しているときも、あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。
- わたしは、昔からフィリピの信徒への手紙が好きだが、その理由は何なのだろうか。いろいろな出会いが背後にあることは、確かだが、パウロとフィリピの人たちの友好関係がよみとれる、いい雰囲気の手紙だからであるように思う。パウロの厳しさがときどき現れるが(この章では、例えば16節)一定して親しさを感じる。パウロの晩年ということも関係はしているかもしれないが、信頼関係、自分を支えてくれているひとたちという意識があるからかもしれない。そんなことも考えながら読んでいきたい。
- フィリピ 2:30 彼はキリストの業のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。
- エパフロディトに関することだが、実際になにがあったかはわからないが、なにか気持ちが伝わってくる感じがする。フィリピのひとたちも、エパフロディトにも感謝するとともに、パウロとの関係も深くなるだろう。不明な点は多いが、あたたかいものを感じる。
- フィリピ 3:2,3 あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者に気をつけなさい。神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。
- 分断は、回避できないのだろうか。あの犬どもと、わたしたちの対比、正しさによる裁き・判断、わたしには、ここに大きな課題があると思うが、正しくないと思われるひとたちとの対応のしかたが鍵なように思う。暴力をもって闘って来たら、対応は簡単ではない。「あなたのことを教えて下さい」と向き合えるだろうか。
- フィリピ 4:8 なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
- 美しいことばである。これらとの出会いがあることも含んでいるのだろう。学びは日々あり、出会いがある。その背景には、知らないことが非常に多いことがあると思うのだが、ひとはなかなかそのことを受け入れられない。ここに争いのもとがあるように思う。
BRC2025(2)
コロサイの信徒への手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- コロサイ 1:28,29 このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです。このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。
- 「すべての人」が二回登場する。これは、全世界のひとなのだろうか、パウロが福音を伝えた、コロサイのひとたちなどなのだろうか。世界観がよくわからない。パウロの時代に世界全体を語ることはできなかったとは思うが、わたしたちには、その責任がある。
- コロサイ 2:20-22 あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。
- ここまで言い切るのは、当時は、とても、たいへんなことだったろう。人間世界の決まり事と、普遍的な神のがわの決まり事を区別する。そう簡単ではないと思うが、ここに、パウロの教えの強さと弱さがあるのかもしれない。しかし、わたしには、なにもできないように思う。キリスト教の中で、すこし異なることをとくことも、キリスト教のそとで、新たな道を伝えることも。
- コロサイ 3:5 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
- これはできない。肉体を持って生きている以上できないとも言えるし、気づかず、少しずつ気付かされることもあり、一生気づかないこともあるだろう。理想を言っているだけでなく、キリストを救い主と信じれば、すべてが新しくなるとの考え方が背後にあるのだろう。たしかに、多くのことが新しくなる。しかし、すべてではない。そのことも、心しておくべきことなのだろう。
- コロサイ 4:1 主人たちよ、奴隷を正しく公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも天に主がおられるのです。
- 3章のおわりでは、奴隷にたいして語っている。そして主人にたいして。正しく公平に扱うなら、すでに、奴隷ではなくなるだろう。そこに至るには、2000年近くかかることになる。現代でもそうかもしれない。神様が正しく、公平なかただと理解するなら、すこしずつ見えてくることなのかもしれない。おそらく、すこしずつなのだろうが。
BRC2025(2)
テサロニケの信徒への手紙一聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 1テサロニケ 1:9,10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。
- 聖書に含められている中で、パウロが最初に書いた手紙だといわれている。このあとも、ずっとこの意識だったかどうかは不明だが、この時点では、1. 偶像から神に立ち返った、2. 生けるまことの神に仕えるようになった、3. イエスの再臨を待ち望むようになった。ことが核なのだろう。正直にいうと、個人的には問題点も感じる。イエスは、異邦人にたいするときも、このように対したのだろうか。分断のもとではないのか。平安祈りたい。
- 1テサロニケ 2:11,12 あなたがたが知っているとおり、私たちは、父親が子どもに対するように、あなたがた一人一人に、神にふさわしく歩むように励まし、慰め、強く勧めました。神は、あなたがたをご自身の国と栄光へと招いておられます。
- テサロニケの人たちの指導内容はここに書かれている。神にふさわしく歩むということは、ユダヤ教についても、ほとんど知識のないひとには、非常に理解しづらいことだったのだろう。その内容はどのようなものだったのだろうか。このあとに書かれているのか、丁寧に読んでいきたい。おそらく、倫理的に高い人達は、どの社会にもいたと思われるが。
- 1テサロニケ 3:12,13 私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強めてくださり、私たちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共に来られるとき、私たちの父なる神の前で、あなたがたを聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように、アーメン。
- パウロの熱情と愛情だろうかは、伝わってくる。しかし、前半は、一生のことであり、後半を強調するのは、問題もあるようにおもう。一方で、再臨を差し迫ったものとして伝え、他方、前半を目指せば、自らの欠陥がますます明らかになっていくのだから。それを避けようとすると、目に見える判定条件を持ち出すなどの、危険性も増すことになる。
- 1テサロニケ 4:15-17 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
- このあとには「ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。」(18)が続く。愛する人を天に送り、悲しみの中で、再臨のときにどうなるのだろうかとの不安が生じていたのだろう。人間の通常の思いの中で理解するのは、問題も生じるだろう。そのように伝えられたのなら、パウロの責任もあるように思う。主の再臨は、どうしても、興味をもたれ、一足飛びに、それを眼の前に描こうとする。気をつけなければいけないと思う。実際、世の終わりかと思わされる状況は、起こるのだから。
- 1テサロニケ 5:11-13 ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい。きょうだいたち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。
- 主の再臨のとき、終わりのときの迎え方が書かれている。しかし、引用句のように、基本的には、パニックになったり、特別なときと考えてそのために特別のことを準備したり企画したりするのではなく、日常を、御心にそって、イエスを思い見て過ごすことのように思う。その生活において、大切なことが書かれており、引用句もまさにそのような生き方なのだろう。このことを、大切にして日々を生きていきたい。
BRC2025(2)
テサロニケの信徒への手紙二聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 2テサロニケ 1:3 きょうだいたち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがた一同の間で、互いに対する一人一人の愛が豊かになっているからです。
- このように言えるのは幸せ。互いに対する一人ひとりの愛、これが広がっていくことはできないのだろうか。分断を引き起こさず、互いのことを思い、その背後におられる神様のはたらきを思い見て、信頼しつつ愛を育むことだろうか。
- 2テサロニケ 2:8 その時、不法の者が現れますが、主イエスはご自分の口から吐く息で彼を殺し、来られるときの輝かしい光によって滅ぼしてしまわれます。
- 何年ごろのことか不明だが、「主の日がすでに来たかのように言う者」(2)もいて、混乱していることが見て取れる。婉曲表現を使っているのは、そのような断定ではなく、パウロの語っているようなことが一部起こっているという人がいたのだろう。終末論は、日常生活を豊かにするのは、難しい。気をつけて日々を送るのは、難しい。引用句に書かれているようなことは、正直想像できない。大変な混乱があったのだろう。パウロの働きの意義はある程度理解できるが、終末論は、混乱を引き起こしていると感じる。
- 2テサロニケ 3:6,7 きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないすべてのきょうだいを避けなさい。どのように私たちを見習うべきかは、あなたがた自身がよく知っています。私たちは、あなたがたの間で、怠惰な生活を送りませんでした。
- 生き方は、怠惰な生活を送らず、適切に働いていたのだろう。しかし、主の日、世の終わり、新しい世界になるというメッセージが混乱を生じさせていることがこの手紙の背後にある。これが、イエスの生き方を学ぼうとする働きにつながったのかもしれない。そのような資料はないのだろうか。
BRC2025(2)
テモテへの手紙一聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 1テモテ 1:13,14 私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。私たちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛と共に満ち溢れたのです。
- 変化があったことを述べている。しかし、このことによって、本当に死から命に移ったのだろうか。フィリピを書いた頃のパウロであれば、求め続けていること、達成はしていないことを付け加えたのではないだろうか。すこし、心配する。回心にあまりに依存することの危険性だろうか。わたしは、同じように、目が開かれたという経験があるが、結局、ほとんど何もわかっていなかったとその後も何度も感じさせられた。求め続けるものでありたい。
- 1テモテ 2:11-13 女は静かに、あくまでも従順に学ぶべきです。女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜなら、アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。
- このあとには「また、アダムはだまされませんでしたが、女はすっかりだまされて、道を踏み外しました。」(14)さらに「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保ち続けるなら、子を産むことによって救われます。」(15)とまで書かれている。これを文字通り受け入れる人たちがいることも知っているが、「アダムはだまされませんでしたが」とどのような考察から言えるのか、誤りも含まれる。むろん、これも、啓示で、神から直接霊感によって示された、神のことばだとする考え方もあるだろうが。難しい。
- 1テモテ 3:4,5 自分の家をよく治め、常に気品を保って、子どもを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家を治めることのできない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
- たいせつなことではあるが、すでに組織化が進んでいることも確かである。イエス様の時代は、そうではなかったのだろう。イエスが選ばれたのは、おそらく、このような人たちではなかった。しかし、ひとの世界では、やはり必要なことであるとも思う。判断は難しいが。イエスならどうされただろうか。
- 1テモテ 4:16 自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
- これは、すでに、ひとの世界の事になっている。それで良いのだろうか。やはり、イエスが求めておられたことは違うようにおもう。だからといって、こうすればよいとはわたしには、書けない。どうしたら良いのだろうか。そういう中で、ここに落ち着くしかなかったのかもしれない。つまらないことを書いてしまったか。
- 1テモテ 5:3 本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。
- どうも、いろいろと切り捨てているように見える。限られた富の分配なのだろうが、このように原則を並べ立てるのは、気になる。甘くすることが良いわけではないが、このようなやり方は、神の愛からは、程遠くなってしまうだろう。ていねいに、向き合いたいものである。
- 1テモテ 6:6 もっとも、満ち足りる心を伴った敬虔は、大きな利得の道です。
- わたしは、ケチと言われても、自分の持てるもので満足しようとしてきた。それは、アジアの人たちに恥ずかしくない生き方をしようと決意したからである。自分を敬虔に、謙虚にみせるためではなく、責任をもった生き方として、アジアの、日本が侵略した国々のひとたちと、共に生きる道を模索したいからだろうか。そして、最初に出会った人たちが、ほんとうに貧しい人たちだったから。それ故の、満ち足りる心をもった、敬虔な求めてきたということだろうか。
BRC2025(2)
テモテへの手紙二聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 2テモテ 1:10 今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。
- キリストを起点として大きな変化が起こったとあるが、イエスはそう思われていただろうか。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言われたとき、そして、エリヤ、モーセと語り合ったとき、イエスの死の前と後とを区別されたのだろうか。わたしには、そうは思えない。どのような区別があるのか、それも不明である。
- 2テモテ 2:4 兵役に服している者は、生計を立てるための仕事に関わることなく、ただ自分招集した者を喜ばせようとします。
- わたしには、正直わからないが、おそらくそうなのだろう。すると、価値観は明らかにことなる。このことから、ある程度自由な人もいるだろうが、特に、職業軍人においては、この意識が強いのだろう。それを、否定していくのはむずかしいい。このことは、もっとしっかりと理解したい。
- 2テモテ 3:1,2 このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。その時、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒涜し、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。
- これは、一般のひとについて言っているのだろうか、それとも、キリスト者について言っているのだろうか。おそらく、そういう区別は必要ないのだろう。ひとりの人の中でも、このような面が現れてくると、言っているのかもしれない。人間のなかには、このような面が常にあり、闘っているように思う。すくなくとも、わたしはそうだろう。それが人間であるとも言える。
- 2テモテ 4:6-8 私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。私は闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今や、義の冠が私を待っているばかりです。かの日には、正しい裁判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。わたしだけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人にくださるでしょう。
- わたしには、このように言えない。しかし、ある人たちにとって、パウロはそのような立派なモデルだったのだろう。そのことはある程度理解できる。それを拡張適用していくことは、やはり危険であると思う。そのような真理は絶対化され、独り歩きを始めてしまうからである。霊感と啓示いうようなことばで。
BRC2025(2)
テトスへの手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- テトス 1:15,16 清い人には、すべてが清いのです。しかし、汚れた不信仰な者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。実に忌まわしく、不従順で、どんな善い行いについても失格者です。
- このような二元的な原理が、さまざまな場所で使われることは致し方ない。ひとつの省エネなのだから。しかし、実際の人間社会は、そのような単純な構造ではない。そして、愛は、そのような中で働くのだと思う。人間には、不得意な、確率や度合いの問題。これは、いつまでも、どうしたらよいかわからないものとして、続くことだろう。
- テトス 2:11-13 実に、救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教え、また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
- 最初の一文に依存はないが、そのあとは、どうも、イエス様のメッセージとはことなるように感じてしまう。おそらく、さらなる啓示が必要なものなのだろう。そして、それもキリスト教の一部であると受け入れたものが、継承されてきたのだろう。否定はしないが、絶対的なものだとは、わたしには、言えない。
- テトス 3:9,10 愚かな議論、系図、争い、律法についての議論を避けなさい。それらは無益で空しいものだからです。分裂を引き起こす人は、一、二度、戒めたうえで、除名しなさい。
- 議論が、分裂を引き起こすとし、それを避けなければとしている。分裂について、その中身もみないといけないのだろうが、わたしも、共に生きられなくなる分裂・分断は避けなければいけないと思う。議論も、そこに至るかどうか、これは、そこにいる人に依存するので、一概にはいえないのだろう。難しい。どうしたらよいのだろうか。人間に判断できるのだろうか。
BRC2025(2)
フィレモンへの手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- フィレモン 18 また、彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負っていたりしたら、それは私の借りにしておいてください。私パウロが自分の手でこう記します。私が返済します。あなたが自分を、私に負うていることは、言わないことにしておきましょう。
- どうも、あまりよい雰囲気ではないが、これも、パウロの性格なのだろう。人間味溢れていると理解しておこうか。ひとに任されていることで、そう簡単ではないことは、多い。どのように、生きていったらよいのかは、あまり簡単ではない。
BRC2025(2)
ヘブライ人への手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ヘブライ 1:3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。
- ヘブライ1章冒頭は、いろいろなものが詰まっている。ここには、イエスについて、栄光の輝き、本質の現れ、すなわち素晴らしいものがすべて現れているとしている。わたしの信仰告白とも通じる。その次の、万物を支えることば、わたしは、ここまでは言えないが、本質的なたいせつなことが、イエスの言葉と歩みに現れていると思っている。そして、罪の清めを成し遂げてと続く。このイエスによって生きるようにさせられていることには、単純にアーメンと応じたい。
- ヘブライ 2:18 事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
- おそらく、これも、神の栄光の輝き、本質の現れなのだろう。神も、苦しんでおられ、悩んでおられるのだと思う。神の痛みがどのようなものかはわからないが、イエスが苦しまれたことは、神の苦しみでもあったことは、確かだろう。人間が互いに愛し合うことは本当に難しい。神の設計ミスなのだろうか。自由意志の難しさを感じる。
- ヘブライ 3:12-14 きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。あなたがたのうち誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。
- 不信仰が、荒野の40年を生み、安息に入れず屍を荒野にさらした(17)とある。それを回避する道として、ここでは、日々励まし合うことが書かれている。すこし、頼りない感じをうけるが、これこそ、互いに愛し合うことであり、新しい命に生きることなのかもしれない。ヘブライ書の伝えることを丁寧に受け取っていきたい。
- ヘブライ 4:6,7 こういうわけで、この安息に入る機会は人々にまだ残されており、先に福音を告げ知らされた人々は、不従順のゆえに入ることをしなかったので、神は、改めてある日を「今日」と定めて、すでに引用したとおり、長い年月の後に、ダビデを通して言われました。/「今日、あなたがたが神の声を聞くなら/心をかたくなにしてはならない。」
- 論理としては乱暴に感じる。パウロとの違いだろうか。ただ、このあとの、「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」(12)、「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。」(15)など、印象的なことばも多い。これも、ひとつの役割なのだろうか。
- ヘブライ 5:7 キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
- これは、ゲッセマネのことをいっているのだろうか。この前には、「あなたは私の子/私は今日、あなたを生んだ。」も引用されている。最後には、「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」とある。もし、これがゲッセマネのことであるなら、すこし、特殊な解釈のようにも思うが、どうなのだろうか。いずれにしても、人として生きておられたとき、このことの理解が重要だと思う。わたしは、人間イエスだけに集中するわけではないが、その地上での生き方を学ぶことは、やはり大切だと思う。
- ヘブライ 6:18,19 それは、この二つの不変の事柄によって――この事柄に関して、神が偽ることはありえません――目の前にある希望を手にしようと世を逃れて来た私たちが、力強く励まされるためです。私たちはこの希望を、魂のための安全で確かな錨として携え、垂れ幕の内側へと入って行くのです。
- ヘブライ書は、不思議な書だ。印象的なことばが多いが、福音書とも、パウロ書簡とも、かなり違った印象を受ける。神の約束が不変であること、すなわち、わたしたちが、希望をもち、魂が安全であることを、保証される。そして、神との交わりに入れてくださるということなのだろう。わたしの思いとは、少しことなるが。
- ヘブライ 7:4 この人がどんなに偉大かを考えてみなさい。族長のアブラハムが最上の戦利品の中から十分の一を彼に与えたのです。
- 前の章の最後には、「イエスは、私たちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクに連なる大祭司となられました。」(6:20)から繋がっているが、正直、あまり根拠がないように見える。おそらく、論理的には、レビ族につらなる祭司職が絶対的ではないこと、そして、この章の最後に書いてあるように、「律法は、弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後から来た誓いの言葉は、永遠に完全な者とされた御子を大祭司としたのです。」(28)へと繋がっているのだろう。やはり、祭司の役割が不可欠と考えたえてたのだろう。わたしのような門外漢には、わからないが。
- ヘブライ 8:10-12 『それらの日々の後/私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と/主は言われる。/『私は、私の律法を彼らの思いに授け/彼らの心に書き記す。/私は彼らの神となり/彼らは私の民となる。彼らは、自分の同胞や兄弟の間で/「主を知れ」と言って教え合うことはない。/小さな者から大きな者に至るまで/彼らは皆、私を知るからである。私は彼らの不正を赦し/もはや彼らの罪を思い起こすことはない。』
- 「その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」(エレミヤ31:33,34)からの引用だとされるが、このような新しい戒めには、いまだなっていない。心には書き記されておらず、やはり「主を知れ」と言わなければならないし、私にしたところで、主を知っているという確信はない。どう読んだらよいのだろうか。
- ヘブライ 9:25,26 それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました。
- 人間の論理に見える。神様は、つねに、人々を見て、苦しんでおられたのではないだろうか。たしかに、キリストにおいて、それは明示され、わたしたちに知らされたが、それ以前も神の側の愛の故の苦しみはあったのではないかと思う。わたしたちには、キリストの死なしには、神の痛みがわからなかったと思うが。
- ヘブライ 10:37,38 「もう少しすれば、来るべき方がお出でになる。/遅れられることはない。私の正しい者は信仰によって生きる。/もしひるむようなことがあれば/その者は私の心に適わない。」
- ハバクク2:3,4「この幻は、なお、定めの時のため/終わりの時について告げるもので/人を欺くことはない。/たとえ、遅くなっても待ち望め。/それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」からの引用とある。ハバククの背景は、ここでのものと同じなのだろうか。理不尽に、なかなか裁きが来ず、正しいものが苦しみから解放されず、悪がはびこる。その中での信仰を歌っているようだ。イエスにより、贖罪の死がなされたとしても、まだ、不十分なのだろうか。理不尽でない、神の支配が見える形で来ることが必要なのだろうか。わたしには、そこまででなくても、よいように思うが。
- ヘブライ 11:5,6 信仰によって、エノクは死を経験することなく天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証しされていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
- エノクについての記述が興味深い。まず、エノクが、死を経験することなく、天に移されたということは、神に喜ばれており、それは、エノクに信仰があったことを証しするものだとしている。論理は、厳密とは言えないが、創世記の不思議な記述も、信仰者の歩みとして、位置づけるのは、興味深い。
- ヘブライ 12:2 信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。
- イエスにとって、自分の前にある喜びとは、何だったのだろうか。神の王座の右に座ることだろうか。おそらく、そうではない。み心に生きることだろうか。そうかも知れない。神のこころを心として生きることだろうか。わたしには、すでに、十分は、理解できない。
- ヘブライ 13:1-3 兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気付かずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。
- ヘブライ書は、だいぶん異なる感じがするが、このような言葉に出会うと、安心する。同時に、この3節はどう理解したら良いのか考えてします。牢屋に入っていることなのか、それとも、もう少し、一般的なことをさしているのか。最後に、肉体を持っていることが書かれ、「虐げられている人たちを思いやりなさい」としている。やはり、肉体的な苦しみを持っていることが、想定されているのだろう。迫害下ということだろうか。「また、他の人たちは、嘲られ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、欠乏し、苦しめられ、虐げられ、荒れ野、山、洞穴、地の割れ目をさまよいました。世は、彼らにふさわしくなかったのです。」(11:36-38)世にふさわしくない、肉体をもった人間は、ほんとうに、大変だろう。
BRC2025(2)
ヤコブの手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ヤコブの手紙 1:1-3 神と主イエス・キリストの僕ヤコブが、離散している十二部族に挨拶いたします。私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。
- このあとには、「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。」(4)が続く。十二部族をどの予定度意識しているのか、よくわからない。十二部族は、確認されていたのだろうか。それとも、慣用句だろうか。忍耐は、その結果として、完全に申し分のない人になると書かれている。難しいさも感じる。そうなっていくと信じてよいのだろうか。約束だろうか。妄想だろうか。
- ヤコブの手紙 2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
- ヤコブにおいては、「隣人を自分のように愛しなさい」が、ちょっと肩身が狭い感じでおかれている。「きらびやかな服を着た人に目を留めて、『どうぞ、あなたはこちらにお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい』と言うなら、」(3)このことを中心におき、貧しい人をたいせつにしないことを、断罪している文章になっている。貧富によって、別け隔てをすることを責めている。おそらく、エルサレムのユダヤ人キリスト者は、ユダヤ教のひとから疎まれ、貧しい生活をしていたのだろう。貧富に本質はないだろうが、それだけ、たいへんな状況にあったのだろう。その背景がわからないと、誤解することになる。ガラテヤ2:10のような背景もあったのだろう。
- ヤコブの手紙 3:14-16 しかし、あなたがたが心の内に、苦々しい妬みや利己心を抱いているなら、誇ったり、真理に逆らって噓をついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から降って来たものではなく、地上のもの、自然のもの、悪魔から出たものです。妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。
- ここでは、「妬みや利己心」について語られている。しかし、それは、不適切だとしても、なかなかそれを捨て去ることはできないものなのだろう。断罪ではなく、その背後にある、ひとの弱さを理解したほうが良いように思う。人の努力によって、これを消し去ることはおそらくできないだろう。謙虚にともにいのるものでありたい。
- ヤコブの手紙 4:1-3 あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、求めないからです。求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。
- 欲望(ἡδονή: pleasure, desires for pleasure)と欲しがる(ἐπιθυμέω: to turn upon a thing, to have a desire for, long for, to desire, to lust after, covet of those who seek things forbidden)と熱望(ζηλόω: to burn with zeal to be heated or to boil with envy, hatred, anger [in a good sense, to be zealous in the pursuit of good], to desire earnestly, pursue to desire one earnestly, to strive after, busy one's self about him; to exert one's self for one (that he may not be torn from me; to be the object of the zeal of others, to be zealously sought after), to envy)と、求める(αἰτέω: to ask, beg, call for, crave, desire, require)ことを区別しているようだ。日本語での表現は、難しいのかも知れない。自分のための欲求をみたすことと、神が与えてくださるよいものを求めることの違いだろうか。
- ヤコブの手紙 5:19,20 私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい。
- わたしには、このようなことはできない。御心を探求することはしており、これからも求めていきたいが、わたしがそれをそれを得たとは思っておらず、探求者に過ぎないのだから。できるとしたら、一緒に求めることだろうか。
BRC2025(2)
ペトロの手紙一聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 1ペトロ 1:1,2 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散し、滞在している選ばれた人たち、すなわち、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。
- 「聖なる者」「選ばれた人」という表現が登場する。また「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」(8,9)とも書いている。このあとの「聖なるものとなりなさい」というメッセージをみると、聖であることを断言したり保証したりはしていないこともわかる。励ます内容なのだろう。しかし、それが、聖であり、ほかとは区別することになってしまう危惧ももつ。難しい。どうしたらよいのだろうか。
- 1ペトロ 2:23-25 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。
- このような定型句がすでに、共有されていたのだろう。それは、パウロ由来とも、ペトロ由来とも言えないものだったのかも知れない。キリスト者の信仰告白の一つの形として、多くのひとたちに告白されていったものなのだろう。確定したものとしては、告白できないが、わたしも、その列に加わっているとしてよいように思う。その構造をまだよくは理解できていないが。
- 1ペトロ 3:10-12 「命を愛し/善い日々を過ごしたい人は/悪から舌を/欺きの言葉から唇を守れ。悪から離れ、善を行え/平和を求め、これを追え。主の目は正しい者に注がれ/その耳は彼らの祈りに傾けられる。/主の御顔は悪を行う者に向けられる。」
- 「命を慕い/日々を愛して恵みにまみえる人は誰か。悪からあなたの舌を/欺きの言葉からあなたの唇を守れ。悪から離れ、善を行え。/平和を求め、これを追え。主の目は正しき人に注がれ/その耳は彼らの叫びを聞く。主の御顔は悪を行う者に向き/彼らの記憶を地から絶つ。」(詩編34:13-17)これは、かなり近いと言ってよいだろうか。ただ、文脈として、この引用が適切なのかは、不明である。9節に続けての引用で、関連性はよくはわからない。詩編は、みな、暗唱していたのだろうか。
- 1ペトロ 4:18,19 「正しい人が辛うじて救われるのなら/不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」ですから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。
- 「すなわち、律法は、正しい者のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、」(1テモテ1:9)ちょっとよく関連がわからない。不敬虔なもの、罪人は、どうしたら良いのだろうか。創造主に魂を委ねる、その平安を持ちたい。
- 1ペトロ 5:8,9 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい。あなたがたのきょうだいたちも、この世で同じ苦しみに遭っているのは、あなたがたも知っているとおりです。
- この前には、謙虚になること、委ねることなどが書かれており、それは、その通りであるが、やはり、上に引用したように、ある種の訓練をしながら、備えをすることは、必須であると思う。しかし、同時に、それが仲間、互いに愛し合う兄弟のもとでできれば、幸いである。失敗も、間違いも、苦しい経験も。そのようなひととともにいる人は幸いである。
BRC2025(2)
ペトロの手紙二聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 2ペトロ 1:5-7 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
- これは、良い言葉だが、背後に、深い思いもあるように思う。信仰、徳だけでは、十分でないと言っているように見える。知識、節制、忍耐、これらは、技術的なことであもる。しかし、それだけでも、不十分なのだろう。ここには、敬虔と、兄弟愛、さらに、愛と書かれている。もうすこし、説明があった方がよいが、わたしも、私なりに、一つ一つに思いがある。おそらく、ある程度、キリスト教会コミュニティで、共有されていた言葉でもあるのだろう。この背後にあるものは、これを通してどう生きるかが大切なのだろうが。
- 2ペトロ 2:1-3 しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。しかも、多くの人が彼らの放縦を見倣い、そのために真理の道がそしりを受けるのです。彼らは欲に駆られ、噓偽りであなたがたを食い物にします。この者たちに対する裁きは、昔から滞りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
- 偽預言者の問題は難しい。できることは、自ら生活を立することなのだろうが、迷うものも多く出てくるだろう。正しさの議論は、恵みとはならない。本当に難しい問題である。平安を祈る。
- 2ペトロ 3:3,4 まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、こう言います。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」
- この再臨についての批判は、わたしも共感する面がある。このあとに書かれているように、「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(9)をそのときの答えとしているが、終わりの日について初期のパウロがたとえばテサロニケの信徒への手紙一などで強調しすぎ、それを待ち望むことが正統な信仰だと考えた人が多かったということではないだろうかとの疑念は持つ。
BRC2025(2)
ヨハネの手紙一聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 1ヨハネ 1:1,2 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。――
- この感覚は、著者にはあったのだろう。それを伝えたかったと取るのが自然である。しかし、もし、そうでなかったらどうだろうか。それを、受け継いだ、これがリアルであるように、感じられるほどにということだろうか。そういうことが言える人はどのくらいいたのだろうか。疑問に思う。難しい。やはり、実際に手で触れた人を、想像したい。
- 1ヨハネ 2:6 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。
- このことをわたしは、もっともたいせつなこととしてきた。むろん、それは、福音書を通して示されている、イエスの歩みである。それが十分魅力的だからよいと考えているが、それは、おそらく、弟子たちが受け取ることのできた、ほんの一部分に過ぎないのだろう。しかし、ほかのことを、理解することはできないのだから、それでよいとわたしは、思っている。あまり、異なるものも含まれうる、想像上のものを加えることなく。
- 1ヨハネ 3:24 神の戒めを守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。
- 正直、よくわからない。神が、その人の内にとどまることがよくわからないし、それが、霊によって分かると言われていることも、よくわからない。直感的な、ある意味では、主観的なものに、はまってしまうことはないのか。危険性も感じる。あまり、突っ込まない方が良いのか。
- 1ヨハネ 4:11,12 愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。
- 抽象的なことばが続いて、正直、完全には、わからない。雰囲気だろうか。神の愛ゆえに、互いに愛し合う。たしかに、愛を知らなければ、愛することはできない。しかし、それほど、簡単に愛を知ったと言えるものでもないように思う。程度の違いもある。互いに愛し合いながら、愛について学ぶこともあるのかもしれない。
- 1ヨハネ 5:1,2 イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。神を愛し、その戒めを守るなら、それによって、私たちが神の子どもたちを愛していることが分かります。
- やはり抽象的で、十分理解できるとは言えない。イエスこそ救い主という告白を言っているのだろうか。このイエスによる救いに預かることが、みこころだと言っているのだろう。しかし、戒めなど、ちょっと広すぎる。特定の戒めなのだろうか。それゆえに、私たちが神のこどもたちを愛していることがわかると続いているのだろうか。神の子どもと限定しているところも、ちょっときになるが。
BRC2025(2)
ヨハネの手紙二聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 2ヨハネ:6,7 愛とは、御父の戒めに従って歩むことであり、この戒めとは、あなたがたが初めから聞いているように、真理の内に歩むことです。なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。
- 肉体をとってこられたことによって、従っていく、模範ができたことは、大きい。わたしは、それゆえに、このかたに従っていきたいと思う。モデルがなければ、目指すことはできない。そして、それが、模倣するべきことと、そうでないことが混在していたのでは、正直に困る。その判断を人間がしないといけないのだから。愛について、さらに、学んでいきたい。
BRC2025(2)
ヨハネの手紙三聖書通読ノート
BRC2025(1)
- 3ヨハネ:9,10 私は教会に少しばかり書き送りました。ところが、その頭になりたがっているディオトレフェスは、私たちを受け入れてくれません。だから、私が行って、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は口汚く私たちを罵るばかりか、きょうだいたちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
- ある程度、目に浮かべることができる。このようなことは、ある程度、どの世界にもあるのだろう。そのときに、どうしたら良いのだろうか。ここにもあるように、他者に、悪い影響が及ぶことも確かである。受け入れることや、その場を去ることが、良いわけではない。困難に、やはり、ここでは、「指摘(ὑπομιμνῄσκω: i. to cause one to remember, bring to remembrance, recall to mind: to another, ii. to put one in remembrance, admonish, of something, iii. to be reminded, to remember)」日本語訳は、口語・新共同訳いずれも、指摘となっている。そこまでは、強くない意味なのかも知れない。実際に、どのように語り、どのようになっていったのか、知りたい。
BRC2025(2)
ユダの手紙聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ユダ: 3,4 愛する人たち、私たちが共にあずかっている救いについて書き送りたいと、心から願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰のために闘うことを、勧めなければならないと思ったのです。というのは、ある者たちが忍び込んで来て、私たちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の支配者である私たちの主イエス・キリストを否定しているからです。彼らは不敬虔な者であり、次のような裁きを受けると昔から前もって記されています。
- 初代教会時代にも、たくさんの難しい状況がおこっていたことがわかる。ここでは、「神の恵みを放縦な生活に変え」ということばと「私たちの主イエス・キリストを否定」するということが書かれている。具体的には、よくわからない。しかし、闘いがあったことがわかる。闘わないといけない状況だったのだろう。当時の対応が適切かどうかは不明だが、いろいろなことを学ぶことは重要である。
ヨハネの黙示録聖書通読ノート
BRC2025(1)
- ヨハネ黙示録 1:9 私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
- 黙示録をどう理解するかは、キリスト者によってもかなり幅があるように思う。そして、その書が誰によって書かれたかも、定かではないのだろう。ゼベダイの子、長老ヨハネ、その他のヨハネ、または、まったく、他人が、これらの誰かに寄せて書いたのか。しかし、それだけの幻を見、影響力があるひとが、いたということなのだろう。初代教会の謎については、これから、新しい資料が見つかることはないのだろうか。キリスト教の成立・教会の確立など、もう少しその経緯が知りたい。
- ヨハネ黙示録 2:2-4 「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪しき者たちに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者たちを試し、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のゆえに忍び、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。
- 7つの具体的な教会について述べている。おそらく、何らかの実体は表しているのだろう。エペソはその中では、一番大きかったと思われる。しかし、ここに書かれている後半は、よくわからない。どの教会にもありうることだから。いろいろとあるのだろう。とくに、大きな教会では。
- ヨハネ黙示録 3:9,10 サタンの集会に属し、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足元に来てひれ伏すようにし、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから、地上に住む人々を試すため全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう。
- 厳しさと寛容、背景がわからないと推測では理解が難しいように思う。ここでユダヤ人と言われている人たちは、どのような人たちなのだろう。ここでは、ユダヤ人ではないとしている。そして、このフィラデルフィアの人たちは守られる。そのような区別が大切だったのだろうか。
- ヨハネ黙示録 4:1 その後、私が見ていると、開かれた扉が天にあった。そして、先にラッパのような声で私に語りかけた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来なさい。そうすれば、この後必ず起こることをあなたに示そう。」
- 啓示だろう。内容的に、黙示なのだろうが。しかし、これをどう理解するかはやはり難しい。当時の教会のひとたちは、これは、信じるに足るものだと理解したのだろう。わたしは、どうだろうか。キリスト教の権威にゆだねてもよいのだろうか。正直、よくわからない。
- ヨハネ黙示録 5:4,5 この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者が誰一人見つからなかったので、私は激しく泣き出した。すると、長老の一人が私に言った。「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を解き、この巻物を開くことができる。」
- イエスの故に、巻物を開けるなら、イエスにその中身を告げてもらいたかった。ちょっとおかしいようにうつる。イエスが、伝えてくれた真理では、十分でないことを言っているように見える。たしかに、ひとは、さらに知りたいのかも知れないが、伝えることは十分なのではないのか。わたしたちが興味があることを、興味があるからと言って、このような形で伝えられることでよいのだろうか。
- ヨハネ黙示録 6:3,4 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が「行け」と言うのを聞いた。すると、火のように赤い馬が現れた。それに乗っている者には、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取る力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。
- なぜ、あるときに、このような人々が互いに殺し合うようにために、地上から平和を奪い取る力が与えられるのか。平和はどのようなものかは、わからないが、どれとは、反対の世界があるのだろう。それは、存在しなければいけないのか。それともそのときも、主に希望をもつ者にとっては、平安なのだろうか。
- ヨハネ黙示録 7:13,14 すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
- 正直言ってよくわからない。この長老との会話は何なのだろう。ここに記述されているようなひとの存在が想定されていることは理解できるが、このような、啓示の確かさと内容を理解するのは難しい。
- ヨハネ黙示録 8:13 また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのを私は聞いた。「災いあれ、災いあれ、災いあれ、地に住む者たちに。なおも三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」
- これだけ、たくさんの災難があることを告げる必要があったのだろう。未来に関して楽観的になってしまう人が多かったのだろうか。ただ、それがこのような黙示の形で知らされることに、違和感がある。イエスは、たんに、目をさましていないさいと言っておられるだけのように思うが。
- ヨハネ黙示録 9:20,21 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった。
- 何度も何度も災厄が計画されているのは、神が、忍耐して悔い改めを待っておられることの表現なのだろうが、そのような全体的な視点は、危険であると思う。実際には、悔い改められる場合も、そうでない場合もある。人間側からみると、このような表現になるのだろうが、神の側から見ると、または、実際、もっと複雑であることは明らかだろう。教育的な表現なのかも知れない。
- ヨハネ黙示録 10:7 第七の天使がラッパを吹き鳴らすとき、神の秘義が成就する。それは、神がご自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」
- これも、人間にわかりやすい表現になっている。神の秘儀も、そのようなものなのだろう。ご自分の僕である、預言者も、時代とともに変化していく。やはり、受け取る側についての認識がたいせつなのだろう。つまり、聖書の時代性である。そのことも、受け取らないといけないのだろう。
- ヨハネ黙示録 11:1,2 それから、私に杖のような物差しが与えられた。そして、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また礼拝している者たちを数えなさい。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。測ってはならない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。
- どうも、これを読むと、これからの世界においても、神殿の中庭と外庭、ユダヤ人と異邦人は区別されるということのようだ。たしかに、そのように主張している聖書解釈者もいるが、御心はどこにあるのだろうか。時代的制約だろうか、それとも、勝手に公平性や平等を基盤にして考えてはいけないということだろうか。聖書解釈の難しさでもある。
- ヨハネ黙示録 12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた。
- この男の子の父については、なにも書かれていない。聖霊なのだろうか。特定の、女性から生まれたとしても、そして、それは、確かであったとしても、男性がわからないことは、いくらでもあったのだろう。実際の風習・文化にもよるだろうし、経済レベルなども関係しているかも知れない。むろん、宗教的なものも。子を産むことなどは、宗教的な意味も持っていたろうから。遺伝子検査などの評価は難しい。
- ヨハネ黙示録 13:2,3 私が見たこの獣は豹に似ていて、足は熊のようで、口は獅子のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。獣は頭の一つに死ぬほどの傷を受けたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。
- ミカエルなどと戦うことになるが、サタンは、どのように理解したら良いのだろうか。そのような分け方が、前近代的にも見える。それほど、二分できるものではないように思うので。すくなくとも、人間の世界ではそうである。神様も、悩まれることが多いように思うが、どうなのだろうか。その、表現だとしてしまうことも可能だろうが。
- ヨハネ黙示録 14:8 また、別の第二の天使が後に続いて、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を、あらゆる国々の民に飲ませたこの都が。」
- このような宣言は理解できるが、実際には、判断はそう簡単ではないだろう。大バビロンのようなものが存在するのかもわからないし、神様の御心は、さらによくわからない。真理という言い方をすると、ますます理解は難しい。なんらかの悪があり、それを避けることを考えるのは、たいせつだとは、思うが。
- ヨハネ黙示録 15:2 また私は、火の混じったガラスの海のようなものを見た。その岸辺には、獣とその像とその名の数字とに勝った者たちが、神の竪琴を手にして立っていた。
- このような勝利を求める感覚がない。そして、この章の最後には、また災いのことが書かれている。「そして、四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。」(7,8)それほどに、災が必要なのか。それは、もう無いようにと願う。それだけがわたしの祈りである。
- ヨハネ黙示録 16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、「事は成った」と言った。
- 前の章にある七人の天使による、7つの災いが、この章にかかれている。人が見えないが、実際には、第一の天使「ひどい悪性の腫れ物ができ」(2)第二の天使「海は死人の血のようになり」(3)第三の天使「川と水の源に注ぐと、水は血になり」(4)第四の天使「太陽は人間を火で焼き」(8)第五の天使「獣の国は闇に覆われ」(10)第六の天使「水が涸れ、日の昇る方角からやって来る王たちの道ができ」(12)さらに「汚れた三つの霊は、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に王たちを集めた。」(16)とあり、引用句につながる。神はこのような災の神、裁きのなのだろうか。主イエスの父なる神とは異なるように見える。
- ヨハネ黙示録 17:8 あなたが見た獣はかつていたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、かつていたが今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。
- 書き方もはっきりしないが、どうもこのような存在を仮定することにも違和感がある。最後には、以下のようにある。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまな民族、群衆、国民、言葉の違う民である。また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身ぐるみ剝いで裸にし、その肉を食らい、火で焼き尽くすであろう。神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御旨を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである。」(15b-18)わたしは、福音書に書かれていても容易には信じないだろう。
- ヨハネ黙示録 18:21 すると、一人の力ある天使が、大きな挽き臼のような石を取り、海に投げ込んで、こう言った。/「大いなる都バビロンは/このように荒々しく投げ捨てられ/消えうせる。
- 最初には「天使は力強い声で叫んだ。/「倒れた。大バビロンが倒れた。/そこは悪霊どもの住みか/あらゆる汚れた霊の巣窟/あらゆる汚れた鳥の巣窟/あらゆる汚れた忌むべき獣の巣窟となった。」(2)とあり、これと呼応しているのだろうが、イエスの到来と、神の国の到来をどう考えるかが、難しいのだろう。完全には、救いがもたらされていないと考えると、残りはどうなるのかということになる。これが、再臨信仰へと結びついていくのだろう。むずかしい。イエスはそこまでは、明確に伝えなかったはずである。
- ヨハネ黙示録 19:6 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。/「ハレルヤ/全能者である神、主が王となられた。
- このあとにも「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた。」(16)と出てくるが、主、神、王は、どう違うのか。王は、支配者という意味なのだろうか。それとも政治的な意味合いが強いのか。主である神、それでよいのではないだろうか。わたしには、わからない。王が、あまりに遠い存在だからか。
- ヨハネ黙示録 20:5,6 その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する。
- その他の死者とあるが、それは、「また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。」(4)と書いてある。人間的には理解できるが、神様がこのような人間が考えるようなことをされるだろうか。神様は、すべてをご存知で、かつ、我々が互いに愛し合うことを望んでおられると思うのだが。これは、余分なことに思われる。
- ヨハネ黙示録 21:22-25 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。
- 神殿がない。太陽も月も必要でない。夜がない。と書かれている。これで、慰められる人は多かったろう。ただ、受け入れられない人もいたかも知れない。わたしには、この世界は見えない。混沌の中を、わたしは生きていきたい。混沌の中であえぐ人とともに。
- ヨハネ黙示録 22:16 私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。」
- このような明確な宣言が、欲しかったのだろう。しかし、わたしは、この現実の世界を、イエスとともに歩んで生きたい。苦しみを抱えて。ダビデとの関係は、わたしには、関係が無いように思う。この方を、たいせつに、目指して歩いていきたい。
BRC2025(2)
BRC 2023 Memo
登録人数は以下の通り
- BRC 2023から継続: 79人
卒業などで、メールが届かなくなった方は、省いています。私は人数に入れていません。
2024.12.31