Last Update: January 28, 2025
聖書通読の会 2025:
今週(2025/01/27-2025/02/02)は、出エジプト記3章ー出エジプト記16章
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聖書の各巻についての記述は、BRC2013 で配信したものを編集したものです。聖書ノートは、各章ごとに少しずつ「わたしが考えた事」「感じた事」「問い」などを通読にあわせて書いたものです。このようなことを考えながら読んでいる人もいるのだぐらいに読んで頂ければ幸いです。聖書からの引用は、今回わたしが通読している、聖書協会共同訳聖書からのものです。過去の聖書ノートは、BRC2013, BRC2015, BRC2017, BRC2019 のものです。新約聖書は二度ずつ読んでいますので、それぞれ(1)・(2)としています。
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創世記 聖書通読ノート
BRC2025(2025.1.1-1.25)
- 創世記 1:1-3 初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
- このように天地創造を告白するまでどのような経緯があり、どのように人は考えたのだろう。むろん、人は、信仰者を表す。神様から、モーセが直接啓示を受けたとすれば、ことは単純化できるが、みこころを受け取ることについて、わたしたちへの意味づけはほとんどなくなる。モーセが関係したかどうかは別として、ひとりの信仰者が、あるメッセージをうけとり、それを、神のわざとして書き記すのはどのようなことなのかとも考える。おそらく、最初は神の業として書き記したのではないのかもしれない。しかし、この背後にある、創造信仰には、とても深いひとの営みと、ひとの神様を求めた記録があるのだろう。それを少しずつ学んでいきたい。矛盾をさがすことによってではなく、その背後にある信仰者との対話を通して。
- 創世記 2:19,20 神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった。
- 興味深い。神が、人と、それぞれの人の周りにあるものの関係に興味があったという記述である。むろん、その逆を考えると、わたしたちにとっても、神様のさまざまなものについての関係は気になるところである。名前をつけることは、関係性の構築の最初の段階なのだろう。ここで、助け手がいないことに至り、男と女のことが登場する。これがとても難しいことの始まりでもあるが。
- 創世記 3:22 神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
- 興味深いが、同時に、ひとにとって、知恵のことが重要であること、そして命が限られているということをどう理解したら良いかということが背景にあったのだろうとも思う。正直、これだけで説明のできるものではないが、ここからひとがさまざまな思いを巡らせたことは、とても重要な問題提起があるということなのだろう。とはいえ、善悪を知る者はなにを意味するのだろうか。本能とはことなる行動がありうることだろうか。もう少しよく考えたい。
- 創世記 4:10-12 主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今やあなたは呪われている。あなたの手から弟の血を受け取るため、その口を開けた土よりもなお呪われている。あなたが土を耕しても、その土地にはもはや実を結ぶ力がない。あなたは地上をさまよい、さすらう者となる。」
- アベルの血が叫んでいるとは何を言っているのだろうか。血は聖書ではいのちだからいのちが叫び声をあげていることか。呪われているもの、それゆえさすらうもの。われわれはその子孫なのだろう。セトのほうは、どうなのだろうか。聖書の記述は、カインの末裔とは違うというところから始まっているように見えるが、明確ではない。
- 創世記 5:1,2 アダムの系図は次のとおりである。神は人を創造された日、神の姿にこれを造られ、男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。
- どうもこの祝福には、カインの末裔も含まれている。祝福と呪いのもとに置かれているのが人間だということだろうか。そうかもしれない。そのなかで、祝福とのろいのもとである神様とどのようなものとして向き合うかということだろうか。とても挑戦的である。しかし、関係性というのは、すべてそのようなものなのかもしれない。そのなかで、愛すること、互いに愛することへの挑戦もあるのかもしれない。
- 創世記 6:5-7 主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」
- 神様もたいしたことがないなとまずは思ってしまう。しかし、同時に、それが神とひととの関係のもといだと伝えているのだろうとも思う。古代の信仰者は、どのように神様との関係、人々との関係、他者と自己を見ていたのだろうか。簡単には言えない。簡単には答えられない。それで良いのかもしれないが、同時に、たいせつな問いがあることも確かである。
- 創世記 7:1-3 主はノアに言われた。「さあ、あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい。この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めたからである。あなたは、すべての清い動物の中から雄と雌を七匹ずつ、清くない動物の中から雄と雌を一匹ずつ取りなさい。空の鳥の中からも雄と雌を七羽ずつ取りなさい。全地の面にその種類が生き残るためである。
- 何がきよく、何がきよくないかは、まだ、人間には伝えられていない。それとも、もともと、清いか、清くないかは、定められているのか。「それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、」(マルコ7:19)七はすべての意味だろう。ただ、動物の定義など考えれば、これが、現実的ではないことは明らかである。これも、絶対的なものというより、当時の人が受け取った神様からの啓示としたほうがよいのだろう。それは、たいせつであっても、不完全である。
- 創世記 8:21,22 主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない。」
- ここで、どこまでのことが言われているのか不明である。最後は、「地の続く限り」とあり、「地が続く限り」生活が続くと考えるのは、あまり特別なことではない。命あるものをすべて打ち滅ぼすことはないと言っているが、これも「この度起こしたような」とついている。ある程度の留保をしているのだろうか。ここの中心は、最初の「人が心に計ることは、幼い時から悪い」という部分なのかもしれない。
- 創世記 9:25-27 そこで彼はこう言った。/「カナンは呪われ、兄弟の僕の僕となるように。」さらにこう言った。/「セムの神、主はたたえられ/カナンはセムの僕となるように。神はヤフェトの土地を広げ/ヤフェトはセムの天幕に住み/カナンはその僕となるように。」
- こんなことが記されている。むろん、知っていたが、今読むと、前の読み方とは変化している。聖書を絶対的なものとしなければ、これは、カナンとの争いがここから正当化されていると取れる。人間の浅ましさ、それを神も同じ考えだとする。ここでは、カナンへの呪いを、ノアの言ったこととしている。それがかろうじて救いだろうか。これがひとの思いである。”25 And he said, Cursed be Canaan; a servant of servants shall he be unto his brethren. 26 And he said, Blessed be the Lord God of Shem; and Canaan shall be his servant. 27 God shall enlarge Japheth, and he shall dwell in the tents of Shem; and Canaan shall be his servant.” (KJV: Gen 9:25-27)
- 創世記 10:15-17 カナンは長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、
- シドンは、ツロとともに海の民かと思っていたが、どうなのだろうか。シドン人と呼ばれた人は、やはりカナン人の中にいたのかもしない。いずれにしても、ここにリストされている人たちが、イスラエルが滅ぼす人々として後に登場するひとたちである。どう理解するかは難しい。
- 創世記 11:5-7 主は、人の子らが築いた町と塔を見ようと降って来て、言われた。「彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにしよう。」
- 有名な箇所である。現状を考えると、たしかに、言語やコミュニケーション方法は多様で、通じ合わない場合がほとんどである。それを聖書はこのように表現している。しかし、このことにどのように向き合うかも大切なのかなと思う。個人や、グループの尊厳の問題も含んでいる。全体として、大きなことをなそうということはできないようになっていることが表現されているが、それは、個人や尊厳を制限することとも関係しているのかもしれない。さまざまな考え方を尊重することは難しい。コストも大きい。しかし、真剣に向き合うべき課題なのだろう。
- 創世記 12:4 アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。
- 現代の年齢とは異なるのかもしれないが、ある程度の歳となってから旅立ったのかもしれない。すくなくとも、テラが亡くなってからである。(11:32)私は、余生だと思っていまを生きている。いままでできなかった奉仕ができれば嬉しいと願っている。しかし、新しい人生がここにひらけているのかもしれない。アブラハムの苦難と奉仕は、わたしのこれから歩むべきそして、向き合うべきものとは異なるだろう。しかし、神様の前に丁寧に生きて行きたいとは願う。
- 創世記 13:1-4 アブラムは妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上って行った。ロトも一緒であった。アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。彼はネゲブからさらにベテルまで旅を続け、ベテルとアイの間にある、かつて天幕を張った所までやって来て、初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼んだ。
- 初めに祭壇を造った場所についてはおそらく、12:7-9 が想定されているのだろう。しかし、おそらく、今回はかなりことなる意識があったろう。少なくとも、家畜や銀と金に恵まれていた。ロトとの話がこの章には書かれているが、新たな課題と向き合う時でもあったのだろう。わたしにとっての今の課題は何なのだろう。
- 創世記 14:13,14 あるとき、逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムはアモリ人マムレの樫の木のそばに住んでいたが、マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは親類の者が捕虜になったと聞き、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者を動員し、ダンまで追って行った。
- いくつかの情報が書かれていて、興味を持った。マムレのことと、彼の家で生まれて訓練された三百十八人の従者である。マムレは創世記にしか登場しないが、地名としては、今後も何回か登場する。従者がこんなにいるだけではなく、数が明確なことは何を意味するのだろうかと思った。語り伝えられる中で、加えられていったのだろうか。興味深い。
- 創世記 15:1,2 これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」
- 神の祝福への信頼と、現実的な困難さ、不安、ここでは、主は、「私はあなたの盾である」と言っている。守るものということだろうか。ただそれが「報い」とつながり「子孫」の不安へとつながっている。守っていただけるというところで止めておくのが良いのかもしれない。それが信頼だろうか。アブラムに不安や満たされないものもあったのかもしれない。難しい。
- 創世記 16:5,6 そこでサライはアブラムに言った。「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。あなたに女奴隷を差し出したのはこの私ですのに、彼女は身ごもったのが分かると、私を見下すようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。」アブラムはサライに言った。「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライの前から逃げて行った。
- なかなか難しい。「あなたのせいで」と言われて、アブラムも困ってしまったのだろう。しかし、主への信頼が問われているとも取れる。同時に、アブラムに任せられているとも取ることができる。後者だとしたら、どうしたら良かったのだろうか。それは、わからない。サライをたいせつにすること自体は、問題ではないだろう。あまりここで普遍的価値で議論してもいけないのかもしれない。そのわからないことを通して、神は導き、ひとは、学んでいくのだろうか。結局、わからないかもしれないが。
- 創世記 17:19-21 すると神は言われた。「いや、あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについてのあなたの願いは聞き入れた。私は彼を祝福し、子孫に恵まれる者とし、その子孫を大いに増やす。彼は十二人の族長をもうけ、私は彼を大いなる国民とする。しかし私が契約を立てるのは、来年のこの時期に、サラがあなたに産むイサクとである。」
- この次には「こう語り終えると、神はアブラハムを離れて昇って行かれた。」(22)とある。無論、幻かもしれず、他者には理解できないことだが、否定できないことがあったのだろう。そして、この箇所は、アブラムが、割礼で応じたことが重要なこととして書かれている。単に、信じたということではないことが書かれているのだろう。パウロの考え方と同時にヤコブの考え方の両方がこの箇所からは読み取れると思われる。「では、この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。」(ローマ4:9-10)「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義とされたではありませんか。あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。」(ヤコブ2:21,22)
- 創世記 18:1-3 主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた。昼の暑い頃のことで、彼は天幕の入り口に座っていた。ふと目を上げると、三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、言った。「ご主人様、もしよろしければ、どうか僕のところを通り過ぎて行かないでください。
- 地にひれ伏したことが書かれており、これは、主の使いではなく、主であると認識して書かれているとして良いだろう。つまり、この時期に連続して、主と出会うことが書かれているわけである。サラにも現れることが重要だったろうし、ソドムとゴモラのことを伝えることもあったのかもしれない。ハイライトとして書かれているのかもしれない。丁寧に読まないとわからない。
- 創世記 19:16-18 しかしロトはためらっていた。そこで二人の男たちは、主の憐れみによってロトと妻と二人の娘の手をつかんで連れ出し、町の外に置いた。彼らを外に連れ出したとき、主は言われた。「生き延びるために逃げなさい。振り返ってはならない。低地のどこにも立ち止まってはならない。山へ逃げなさい。滅ぼされないためです。」しかしロトは言った。「主よ、私にはできません。
- 文学としてもよく書かれていると思うが、読むたびに本当に悲しくなる。救いが用意されていても、それを素直には受け取れないのが人間なのだろうか。そのことは、自分でもわかるのかもしれない。本当に難しい。神がおられるかどうか以前の問題なのかもしれない。
- 創世記 20:11-13 するとアブラハムは言った。「この地には、神を畏れるということが全くありませんので、人々は妻のゆえに私を殺すだろうと思ったのです。それに実際、彼女は私の父の娘で、妹でもあるのです。ただ母の娘ではないので、彼女は私の妻となることができたのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうしてくれると助かる。行く先々で、私のことを兄と言ってくれないか』と頼んだのです。」
- よくこの人たちの前で、こんなことを言えるなと思うが、キリスト者もこれに近いことをしているように思う。非キリスト者にたいし、「神を畏れるということが全くありません」などという。おそらく、それは、神様がそのようなひとの背後にもおられることが見えないからなのだろう。神様を過小評価すると同時に、自分が神になっているのかもしれない。「人が神にならないために - 荒井献説教集」を、わたしも考えたい。
- 創世記 21:12-13 神はアブラハムに言われた。「あの子と女奴隷のことでつらい思いをすることはない。サラがあなたに言うことは何でも聞いてやりなさい。イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるからである。しかし私は、あの女奴隷の子もまた一つの国民とする。彼もあなたの子孫だからである。」
- 創世記記者がこのように考えたのだろう。わたしは、こんなことを神様が言われるとは考えられない。このあとに「さあ、子どもを抱え上げ、あなたの手でしっかりと抱き締めてやりなさい。私は彼を大いなる国民とする。」(18)泣くイシュマエルのことが記されている。このときイシュマエルはいくつだったのだろうか。少し振り返ると、11:32 には、テラは205歳でハランで死んだことになっている。11:26 では、アブラムを産んだのは、70歳となっている。12:4 には、ハランを出てカナンの地に行ったのは、75歳の時となっている。さらにハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であったことが、16:16 にある。イサクが生まれたのは、21:5 (17:17参照)によると、アブラム100歳、サラ90歳のようである。アブラムが割礼を受けたのは、17:24 からすると99歳。そのとき、イシュマエルは13歳。すると、イサクが生まれた時、イシュマエルは、14歳である。引用句のときには、イサクは乳離れしているので(21:8)1歳とすると、イシュマエルは、15歳となる。当時はもう勇者だったのではないだろうか。さらに、ハランには、テラは、まだ、170−171歳で生きていることになる。その交流が、イサクの嫁探しまで描かれていないのは不思議である。
- 創世記 22:23,24 ベトエルはリベカをもうけた。ミルカはアブラハムの兄弟ナホルにこれら八人の子を産み、またレウマという名の側女も、テバ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。
- アブラムの兄弟がナホルということは、ナホルもかなりの歳となって、子を持ったのだろうか。このあたりも不明である。あまり、拘らない方が良いのかもしれない。ただ、民族の系譜のようなものは、ある程度重要だったのかもしれない。創世記をどのような書として読むかはとても難しい。
- 創世記 23:15 「ご主人、お聞きください。土地は銀四百シェケルです。それが私とあなたの間で何ほどのものでしょう。どうか亡くなられた方を葬ってください。」
- 1シェケルが 11.4g だとすると、4,560g である。おそらく、これは、相当の銀なのだろう。「こうして、マムレの向かい、マクペラにあるエフロンの畑地、すなわち、畑地とそこにある洞窟、および畑地の境界の中にあるすべての木々が、町の門にやって来ていたすべてのヘトの人々が見ているところで、アブラハムの所有と決まった。」(23,24)契約を大切にしたということだろう。しかし、後には戦争で奪い取る。この辺りの関係はどうなっており、どのように解釈されたのだろうか。それは、時代を超えて続いたものなのだろうか。
- 創世記 24:50,51 ラバンとベトエルは答えた。「これは主から出たことですから、私どもにはその良し悪しを言うことはできません。ここにリベカがおりますので、連れて行ってください。主が言われたように、ご主人の息子の妻にしてください。」
- どのように、だれが結婚について決めていたのだろうか。このあとの場面(57,58)では、リベカに聞いている。しかし、ここでは、どうも聞いているようには見えない。あまりそこにこだわるのはよくないと思うが、創世記の成立年代を議論するのであれば、このような習慣についても理解も大事なように思う。
- 創世記 25:1-3 アブラハムは再び妻をめとった。その名はケトラと言った。彼女はアブラハムに、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアを産んだ。ヨクシャンはシェバとデダンをもうけた。デダンの子孫はアシュル人、レトシム人、レウミム人であった。
- イシュマエルの子孫もそうだが、周囲の部族名が書かれている。アブラハムの末裔として、イスラムのひとたちもその意識をもつ箇所でもある。しかし、やはり選民は、直系。このあたりにも、編集意図はあるのだろう。そして、南アメリカの人たちなどは、そのスコープに入っていない。当時認識されている人たちだけである。
- 創世記 26:28 すると彼らは言った。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで、私たちの間で、つまり、私たちとあなたとの間で誓約を交わしてはどうかと考えました。私たちはあなたと契約を結びたいのです。
- いろいろと編集意図を考えてしまうようになった。なかなかいくつかの読みかたを並行してすることはできない。このことは、しっかり考えてみたい。
- 創世記 27:40,41 あなたは剣によって生き/弟に仕えるようになる。/ただいつの日か、あなたは束縛から脱して/自分の首からその軛を解き放つだろう。」こうしてエサウは、父がヤコブに与えた祝福のゆえに、ヤコブを恨むようになった。エサウは心の中で言った。「父の喪の日もそう遠くはない。その時には、弟のヤコブを殺してしまおう。」
- 興味深いことが示唆されている。「ただいつの日か、あなたは束縛から脱して/自分の首からその軛を解き放つだろう。」である。そして、このあとのストーリでは、イサクはなかなか死なない。これも一つの主の導きなのだろうか。エサウの物語も、非常に興味深い。
- 創世記 28:8,9 さらにエサウは、カナンの娘たちが父のイサクの気に入らないということを知った。そこでエサウはイシュマエルのところへ行き、すでにいる妻たちのほかに、さらにアブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨトの姉妹であるマハラトを妻に迎えた。
- なにかとてもかわいそうだ。精神が捻じ曲がるのは理解できる。こんなとき、どうしたら良いのだろうか。信頼し続けることだろうか。わからないことは、わからないとして。
- 創世記 29:13,14 ラバンは妹の子ヤコブの知らせを聞くと、彼を迎えに走って行き、彼を抱き締めて口づけした。そして彼を自分の家へと招き入れた。そこでヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、ラバンは言った。「あなたは本当に私の骨肉だ。」それでヤコブはラバンのところで一か月滞在した。
- 「あなたは本当に私の骨肉だ。」の意味するところは不明だが、ヤコブがエサウを出し抜いた背景には、リベカがいたことは確かだろうから(27:5-17)、自分達と似たところがあることを気取ったのかもしれない。真実(ことの次第すべて)を聞いて、このおひとよしのヤコブを信頼したのかもしれない。なんとも言いようのない戦いがここから始まる。これは、ある物語だとして、やはりヤコブの訓練としては、とてもたいせつなものだったのだろうとも思う。わたしもそのような経験を通して、学んだことはとても多いのだから。
- 創世記 30:32,33 今日、私はあなたの群れをすべて見回り、そこから、ぶちとまだらの羊をすべて、若い雄羊の中では黒みがかった小羊をすべて、山羊の中ではまだらとぶちのものを別にしておきます。それを私の報酬としてください。明日、あなたが私の報酬のことでやって来られるとき、私の正しいことはあなたの前で明らかとなるでしょう。もし山羊の中にぶちでもまだらでもないもの、若い雄羊の中に黒みがかっていないものがあれば、それは私に盗まれたものと見なして結構です。」
- この下りを読んで、遺伝的にどうなのかと科学的な判断を考えていたが、おそらく、重要なのは、このようなことがありうること、しかし、それほど一般的ではないことを当時のひとが信じうるかどうかにかかっていたのだろうと思った。たいせつなのは、巧妙で、通常はこのようなことはしないこと、そして、このようなことで実際、ここに書かれていることが起きそうだと考えるかどうかなのだろう。そう考えると、巧みに書かれていることは確かである。物語を読んでいて非常に興味深いものにしている。
- 創世記 31:38,39 この二十年の間、私はあなたと一緒でしたが、あなたの雌羊と雌山羊が子を産み損ねたことはありませんでした。また私は、あなたの群れの雄羊を食べたことはありません。野獣にかみ裂かれたものは、私にその弁償が求められたので、あなたのところへはそれを持って行かずに自分で償いました。昼盗まれたものも、夜盗まれたものもそうです。
- 文学的にも、とても緻密に書かれている。ここで、ラバンやラバンの息子たちの否定する言葉は書かれていない。すなわち、承認せざるをえないこととして記述されている。そして、ここにあることは、当時の当地のひとたちにとって、よくわかる内容だったのだろう。そして、わたしのように羊飼いについて、まったく知識のないものにも通じる内容が含まれている。やはり文学性としても高いと思う。その背後で働かれる主、ヤコブの信仰面は、まったく書かれていないが、それがかえって人生の重みを表現するものになっている。
- 創世記 32:28,29 男が、「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねるので、彼が、「ヤコブです」と答えると、男は言った。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」
- 神と言われると、唯一神、主を考えるが、おそらくそうではないのだろう。「その頃、またその後にも、地上にはネフィリムがいた。神の子らが人の娘たちのところに入り、娘たちが彼らに産んだ者である。昔からの勇士で、名の知れた男たちであった。」(6:4)にあるネフィリムのようなものを想定したのではないだろうか。ネフィリムは『私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。』」(民数記13:33)にも登場する。検索ではこの二件だけだったが。
- 創世記 33:15-17 エサウは、「では、私が連れている者を何人か、あなたのところに残しておくことにしよう」と言ったが、ヤコブは、「いえ、それには及びません。ご主人様のご好意だけで十分です」と答えた。そこでエサウは、その日セイルへの帰途に着いた。ヤコブはスコトへ移り、自分のために家を建て、家畜のために小屋を作った。それで、その場所の名はスコトと呼ばれた。
- 場所が良くはわからないが、セイルは死海の南東、シャケルはヨルダン側の西、だいたいガリラヤ湖と死海の中間だろうが、スコトは不明である。かなり離れており、理解が難しい。このヤコブの固辞も気になる。事実というより、ヤコブとエサウの関係を表現しているのかもしれない。ヤコブの述懐(思い出)として記述されているのかもしれない。
- 創世記 34:1,2 ある日、レアがヤコブに産んだ娘ディナは、土地の娘たちを訪ねて出かけて行った。ところが、その地の首長であるヒビ人ハモルの息子シェケムは、彼女を見かけて捕まえ、共に寝て辱めた。
- 事件勃発である。ディナについては、生まれたことが 30:21 に「その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名付けた。」とあるが、この事件の背景として書いており、娘が生まれたことは基本的に書かれていないのだろう。「三日目になって、男たちがまだ傷の痛みを覚えていたとき、ヤコブの二人の子、ディナの兄弟シメオンとレビは、それぞれ剣を取って難なく町に入り、男たちをすべて殺した。」(25)とも書かれており、女性の価値をどう考えるかは難しい。
- 創世記 35:2,3 ヤコブは、家族および一緒にいるすべての人に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身を清めて衣服を替えなさい。さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。」
- ヤコブの信仰告白である。「苦難の日に答え、常に共にいてくださった神のみを主とする」ということだろう。その方が特別とういことだろうか。しかし、この時点では、他の神を否定してはいない。自分にとって、または、一族にとっては、この神こそが主であるということだろう。神として認めるということが、最初のステップなのだろう。
- 創世記 36:6-8 エサウは、妻、息子と娘、家のすべての者、家畜とすべての動物、カナンの地で蓄えたすべての財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へと赴いた。一緒に住むには彼らの財産があまりにも多く、彼らが身を寄せていた地は、その家畜のゆえに、自分たちの生活を支えることができなかったのである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
- 史実ではないかもしれない。しかし、エドムはセイルの山地にある時期に住んでいたことは確かだろう。カナン、特に、南部とセイルは土地としてはどうなのだろうか。どちらも山地のように見える。しかし、セイルの方が過酷な場所のように見える。いつか、そのような地理についても、学んでみたい。それを理解すると、ここに書かれていることから伝えようとしているメッセージが受け取れるのかもしれない。事実ではないとしても、真実は受け取れるかもしれない。
- 創世記 37:9-11 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄弟に話した。「私はまた夢を見ました。すると、日と月と十一の星が私にひれ伏していたのです。」ヨセフはこれを父と兄弟に話したので、父はヨセフをとがめて言った。「お前が見たその夢は一体何なのだ。私やお母さん、兄弟たちがお前にひれ伏すとでもいうのか。」兄弟はヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた。
- すでにこの時には、ヨセフの母、ラケルは死んでいるはずである。(35:19)とすると、これは、レアを意味するのだろうか。ヨセフは、どのように、これを理解していたのだろう。おそらく、十分な、理解はできていなかったのではないだろうか。しかし、推測はつく。どう理解したらよいかわからないが。
- 創世記 38:25,26 彼女は引きずり出されたとき、しゅうとのもとに人を送って言った。「この品々の持ち主によって私は身ごもったのです。」そして続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章と杖が誰のものか、お確かめください。」ユダはそれらを確かめて言った。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ。」ユダは再びタマルを知ることはなかった。
- 印章と杖をみたとき、引きずりだしてしもべたちも、それが誰のものか分かったのではないだろうか。ということは、ユダは、僕たちにも、恥となったということである。その状態で、このように認められるということは、やはり、神をおそれる気持ちは、あったのだろう。ヨセフの事件とどちらが先かはわからないが、時系列を重視して書かれたとすると、主をおそれず、イシュマエル人にヨセフを売り渡す提案をして、ユダはこれらによって、主を恐れるようになったのかもしれない。
- 創世記 39:20,21 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人がつながれている牢獄に入れた。彼はこうして、牢獄にいることになった。しかし、主はヨセフと共におられ、慈しみを示し、牢獄長の目に適うようにされた。
- 創世記には「主が共におられた」との表現が多い。ヨセフについては、39:2, 3, 21, 23 とこの章に集中している。苦難の中で、主が共におられたということなのだろう。ヤコブの「さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。」(33:3)の告白と通じているように見える。それぞれに表現のしかたは異なるが。最後にヤコブ(イスラエル)がヨセフに語る「私は間もなく死ぬ。だが神はお前たちと共にいてくださり、先祖の地に連れ戻してくださる。」(48:21)とも繋がるように見える。主が共におられることについて、もう少し深く考えたい。
- 創世記 40:16,17 料理長は、ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて言った。「私も夢を見たのですが、なんと三つのパン籠が私の頭の上にあったのです。いちばん上の籠には、料理人がファラオのために作ったあらゆる料理がありました。しかし鳥が私の頭の上で、籠からそれをついばんでいたのです。」
- 「これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理人が主君であるエジプト王に過ちを犯した。」(1)と始まる。引用句の「ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて」に注目していた。他に、こんな劇的な差異が生じる理由が分からなかったからである。しかし、そのような因果関係をもとめてはいけないのかもしれないと考えた。この二人の違いは、他に理由があったかもしれないし、単なる、王のきまぐれであったかもしれない。理由を知ろうとすること自体は、間違いではないと思うが、因果関係を強調することは、神様のみこころを狭く解釈する、これも、単純化バイアスであるように思えるようになった。真実はわからないが。
- 創世記 41:25,26 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく太った雌牛は七年のことで、七つのよく実った穂も七年のことです。夢は一つです。
- 夢解きからは、さまざまなことが考えられる。まずは、このような夢から、豊作や飢饉との関連について想起することは、それほど奇抜なことではないということである。しかし、それが現実のことだと考えるには、文化的な背景も必要だろう。さらに、それを食糧計画や、納税システムにまで発展させることは、この謎解きにたいする信頼も必要である。しかし、さまざまな予兆から、将来に備えることは、ひとの責務だと考えると、夢とは独立に考えられることでもある。それが賢く生きるということか。信仰とは、別のところ、人間理解に関係があるようにも思われる。
- 創世記 42:35,36 彼らが袋を空にしてみると、それぞれの袋の中には、めいめいの銀の包みが入っていた。銀の包みを見て、兄弟も父も怖くなった。父のヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、私から子どもを奪ってしまった。ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった。そして今度はベニヤミンを私から取り上げようとする。すべて私にばかり降りかかる。」
- 文学表現としてもよく書かれているが、このように、いくつかのことを関連させ、すべてがそうであるように考えてしまうことは、ひとによくある。だから、文学的表現にも使われ、ひとは納得してしまうのだろう。そして、そこから、主の御心を読み取ろうとすることを、否定してはいけないのだろう。しかし、さまざまな要因があり、科学的に考えるならば、さまざまな可能性がある。そのような考え方も、主は、ひとに与えてくださったようにも思う。すべての人にではないし、漸次的で、当時は難しかったのかもしれないが。御心の解釈は困難である。受け取り手にも依存してしまうのだから。よく考えたい。
- 創世記 43:23,24 その人は言った。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、布袋に宝を隠してあなたがたにくださったのでしょう。あなたがたの銀は私のところに届いています。」そしてシメオンを彼らのところに連れて来た。その人は一行をヨセフの屋敷に招き入れ、水を与えて足を洗わせ、ろばには飼い葉を与えた。
- 他者の神を尊重する表現が現れている。特殊な状況ではあるが、寛容さや、愛が感じられる。これは、どのような書き手のもとで、表現されたのだろうか。唯一神、創造主のみということからは、現れてこないように思われる。「主が共におられる」こちらの方が、創世記の族長物語においては、中心なのだろうか。
- 創世記 44:32,33 僕は父にこの子の安全を請け合って言いました。『もし、この子をあなたのもとに連れ戻さないようなことがあれば、私は生涯、父に対してその罪を負います。』それでどうか僕をこの子の代わりに、ご主人様の僕としてここにとどめ置き、この子は兄弟と一緒に上らせてください。
- 特に、感動的な場面である。この前には、前回、穀物を買いに来た時の、家族に関する会話が含まれている。実際にこのことがあったときには、書かれておらず、ここで、それが明かされることも、感動の瞬間を盛り上げているように見える。さらに、ユダは「もし、この子をあなたのもとに連れ戻さないようなことがあれば、私は生涯、父に対してその罪を負います。」と、父、イスラエルに言うが、罪をどのように負うかは、明かされていなかったものが、ここで初めて明かされる。そのことも、特に、この場面が感動的であることの、理由でもあるように思う。ルベン、ユダ、この二人の行動が、興味深く、背景も多少描かれているが、やはり、ユダが、この時点で、リーダーとして描かれているのだろう。このあとの歴史においても、重要な位置をしめる。それが長男ではなく、四番目だということも、興味深い。
- 創世記 45:5-7 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。この二年の間、この地で飢饉が起こっていますが、さらに五年、耕すことも刈り入れることもないでしょう。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。
- どのように解釈するかは難しいが、ひとつの解釈は、自分の苦しい時、大域的な観点から、状況を捉えることでもあろう。大飢饉の中で、父の家、神様が導いておられる民が滅びないために必要な苦しみだったとも言えないことはないと言うことだろう。神様の計画の一ピースというものではないが、他にも苦しんでいる人がいることに目を向けることもあるかもしれない。同様な苦しみの中にいる人を知ること。同じではなくても、おなじときに苦しんでいる人たちもいる。自分だけに、それが向いてしまっていては、ただ苦しむだけになってしまう。
- 創世記 46:29,30 ヨセフは車に馬をつないで、父のイスラエルに会いにゴシェンへ上って来た。ヨセフは父に会うなり、その首に抱きつき、その首にすがってしばらく泣いた。イスラエルはヨセフに言った。「これでもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」
- 「これでもう死んでもよい。」と、ひとはどんなときに思うのだろうか。わたしは、家族が、どうやらやっていけそうになった時、死んでも大丈夫かなと思ったが、それとは、違うのかもしれない。わたしが、すべきことは、これからも、Be available, stay vulnerable! の精神で続けて行きたいと思うが、できなくもなってくるだろう。力が衰えて。だからといって、できなければ、死んだ方がよいというのも、違うだろう。ヤコブの場合は、痛み、神様との関係における棘のようなものが存在したのだろうか。それがこの表現なのだろうか。わたしはどうだろうか。
- 創世記 47:8,9 ファラオがヤコブに、「何歳になったのか」と尋ねると、ヤコブはファラオに答えた。「異国の地に身を寄せた年月は百三十年になります。私の生きた年月は短く、労苦に満ち、先祖たちが異国の地に身を寄せて生きた年月には及びません。」
- ファラオの質問から、ヤコブがかなりの老人であったことが見て取れる。ヤコブの答えからは、幸せではなかった、つまり、祝福の内に生きた年月は長くないことを言っているのだろう。それが、ヤコブが本当に思っていたことかどうかは不明である。ファラオの前だからこう言ったのか。そうすると、自分の先祖は、もっとすごいと言っているようにも見える。真意だからとすると、苦しかった日々を思い出しているのかもしれない。たしかに、ヤコブの物語は、苦難に満ちている。それでも、おそらく、主はともにおられたのだろうが。
- 創世記 48:21,22 イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬ。だが神はお前たちと共にいてくださり、先祖の地に連れ戻してくださる。私はお前に、兄弟よりも一つ多く分け前を与える。それは私が剣と弓によってアモリ人の手から奪ったものである。」
- 最後のことば「それは私が剣と弓によってアモリ人の手から奪ったもの」がわからない。預言として語られているのか。エフライムとマナセの祝福も、不思議である。イスラエルは、このような、ひとびとのねじれと、時代のねじれのなかで生きているということなのだろうか。なにを、創世記記者は伝えたかったのだろうか。
- 創世記 49:28 これらすべてがイスラエルの十二部族である。これが、彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らをそれぞれにふさわしい祝福をもって祝福した。
- ここでの十二部族には、レビが入っていて、ヨセフの子ら、マナセとエフライムはひとつにまとめられている。「後の日にお前たちにおこること」(1)と始まっているが、すでに起こっていた(創世記に記述されていること)と、書かれていない、おそらく、他の伝承に由来するものが含まれているように思われる。すなわち、これが書かれた時には、十二人のこどもたちは、みな死んでいることを考えると、すでに起こったことが記されているように見える。同時に、引用句にあるように、十二部族についての記述であるようにも見える。ユダや、もしかすると、ベニヤミン、また、ゼブルンは海辺に住むなどもそうかもしれない。混在しているように見える。同時に、これを読んだ、それぞれの部族のひとたちは、どのようにこのイスラエルの祝福を受け取ったのだろうかとも思った。複雑である。
- 創世記 50:15-17 ヨセフの兄弟は父が亡くなったので、ヨセフが自分たちを恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに伝えた。「父は亡くなる前に、こう命じていました。『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」この言葉を聞いてヨセフは泣いた。
- 物語ではあるが、ひとの人生は、そして、こころは、複雑であることがよく書かれている。ヨセフは、「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(19b,20)と告白しているが、他の兄弟の信仰告白は書かれていない。信仰の父祖たちがこのように描かれていることも興味深い。
出エジプト記 聖書通読ノート
BRC2025(2025.1.26-2.14)
- 出エジプト記 1:15-17 エジプトの王はヘブライ人の助産婦たちに言った。一人の名はシフラ、もう一人はプアであった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるとき、お産の台を見て、男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ。」助産婦たちは神を畏れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、生まれた男の子を生かしておいた。
- ある伝承があったのか。書く段階で、創作されたのか、不明である。この出エジプトをどのようなものと捉えるかは難しいのだろう。なにかの伝承があったのか、まったくの創作か。ただ、イスラエルの民と、エジプトとのなんらかのつながりは、かなり古くからあったように思われる。いつか少なくとも確実になってきていることだけでも、学んでみたい。
- 出エジプト記 2:13,14 翌日モーセが出て行くと、今度は二人のヘブライ人が争っていた。それで、悪いほうを、「なぜ仲間を打つのか」とたしなめた。するとその男は、「誰がお前を我々の監督や裁き人としたのか。あのエジプト人を殺したように、私を殺そうというのか」と言ったので、モーセは恐れ、きっとあのことが知られているのだと思った。
- 前日に助けたヘブライ人から話が伝わっており、その解釈が、ヘブライ人の中でも一定していなかった、少なくとも、信頼は得ていなかったということだろう。短い記述だが、非常に巧みに書かれている。創世記、出エジプト記の物語はどのように成立したのだろうか。おそらく、古代の人の知恵は、素晴らしいものだったのだろう。
- 出エジプト記 3:13,14 モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」
- 創世記でも、「主が共にいてくださった」ことが信仰の基盤にあったと強く感じた。信仰の最初の形なのかもしれない。むろん、それは、そこにとどまるものではなく、主についての認識は広がっていくことでもあるのだろう。ここでも、「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」(12)と関係して、こう訳されたのだろうが、名前とすることは、慎重にすべきなのかもしれない。むろん、同じ言語ではないので、適切に表現する訳語がなかったとも言えるが。理解するものが適切にうけとらないといけないことなのかもしれない。
- 出エジプト記 4:12,13 だから行きなさい。私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう。」しかしモーセは言った。「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」
- 雄弁なアロンが助け手となるが「あなたは彼に語って、言葉を彼の口に授けなさい。私はあなたの口と共に、また、彼の口と共にあって、あなたがなすべきことを教える。」(15)とあり、ここでも、引用句とともに、共にあることが強調されている。その主の存在が、信仰の基本であることが表現されているのだろう。いくつかの奇跡を起こせる能力については、物語的意味しか感じないが、このあたりに、本質があるようにも思える。
- 出エジプト記 5:4,5 エジプトの王は二人に言った。「モーセとアロン、お前たちはなぜ民をその仕事から引き離そうとするのか。自分たちの労働に戻れ。」また、ファラオは言った。「今や、この地の民は増えているのに、お前たちは彼らの労働を休ませようとするのか。」
- エジプト人、または、使役するものの関心事は、労働である。この労働の搾取、その対象としてしか、民をみていない。他者、主がともにいる他者になるかどうかが、鍵なのかもしれない。そう考えると、現代でも、たくさん、関係することがらがあることを思う。これは、使役する側だけでなく、使役される側にもある認識なのかもしれない。労働をどう考えるかもあるが、違うものとして、自分を認識できることも重要なのだろう。もう少し整理して考えたい。
- 出エジプト記 6:6-9 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。『私は主である。あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出し、過酷な労働から救い出す。またあなたがたを、伸ばした腕と大いなる裁きによって贖う。私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。あなたがたは、私が主、あなたがたの神であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出す者であることを知るようになる。私は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地にあなたがたを導き入れ、それをあなたがたに所有させる。私は主である。』」モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは落胆と過酷な労働のために、モーセの言うことを聞こうとしなかった。
- そう簡単に、関係が成立するわけではないのだろう。主もそれをご存知なのかもしれない。時間がかかることをひとはなかなか理解できない。時間をかけることをいとわず、ていねいに生きていきたい。
- 出エジプト記 7:17,18 それで、主はこう言われる。『次のことによって私が主であることを知るようになる。』私が手にする杖でナイルの水を打つと、水は血に変わる。ナイルの魚は死に、ナイルは悪臭を放ち、エジプト人はナイルの水を飲むのが嫌になる。」
- 今回は、杖が気になった。アロンの杖なのか、モーセの杖なのか。両方に、そのような力があったのか。確かな根拠はないが、羊飼いだとすると、男性は、杖を常に持っているのではないかと思う。すると、引用句で言われているのは、モーセの杖のように思われるが、実際に行動を起こすのは、アロンのようである。たいしたことではないのかもしれないが、気になった。
- 出エジプト記 8:1-3 主はモーセに言われた。「アロンに言いなさい。『あなたは杖を持って、流れの上、水路の上、沼地の上に手を伸ばし、蛙をエジプトの地に這い上がらせなさい。』」アロンはその手をエジプトの水の上に伸ばした。すると、蛙が這い上がって来て、エジプトの地を覆った。魔術師たちも秘術を使って、同じように蛙をエジプトの地に這い上がらせた。
- 杖はアロンの杖のようである。もう一つは魔術と奇跡の違いである。魔術は人間の目的によって自然ではないことを行うこと、奇跡は神の意志を示すため自然には起こらないことを起こすことかと思うが、やはり区別は難しいし、ここでも判断はできないように思われる。
- 出エジプト記 9:14-17 今度こそ私が、あなた自身とあなたの家臣と民に、あらゆる災いを送る。それによって、私のような者は地上のどこにもいないことをあなたは知るようになる。事実、私が今、手を伸ばしてあなたとその民を疫病で打ち、地から滅ぼすこともできる。しかし、私があなたを生かしておいたのは、私の力をあなたに示し、私の名を全地に告げ知らせるためである。あなたは、私の民に向かってなおも高ぶり、彼らを去らせようとしない。
- このあと、「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕や家畜を家に避難させた。」(20)ともあり、周囲に変化もあることが書かれている。正直、描き方が乱暴に感じるが、それでも、伝承の中で整っていったことは確かなのだろう。人々は、主からどのようなメッセージを受け取ったのだろうか。苦難の中にあって、絶対的な支配下においても、主こそが主であることだろうか。こう言えるのは、捕囚よりは前のように思われる。
- 出エジプト記 10:7,8 家臣はファラオに言った。「いつまでこの男は私たちの罠となるのでしょうか。あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びかかっていることが、まだお分かりにならないのですか。」モーセとアロンがファラオのもとに呼び戻されると、ファラオは二人に言った。「行って、あなたがたの神、主に仕えなさい。誰と誰が行くのか。」
- 周囲の変化が描かれている。しかし、ファラオはまだ従順にはならないようにされている。物語としては、創世記の族長物語ほどではないが、緻密に構成はされているのだろう。脚色はあったとしても、背後に、それなりの事実があったのかは、これでは不明である。
- 出エジプト記 11:2,3 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」主はエジプト人が民に好意を持つようにした。モーセその人もまた、エジプトの地でファラオの家臣や民から厚い尊敬を受けた。
- 正直、これが理解できない。エジプトでさまざまな災厄を与えているモーセがなぜ、尊敬されるのだろうか。災厄は一部、ファラオの周辺にしか及ばなかったのだろうか。どのように、異民族と認識できる、イスラエルの民やその指導者が好意を持たれたり、尊敬されたりすることになるのだろうか。尋常ではない。
- 出エジプト記 12:48 もし、寄留者があなたのもとにとどまり、主の過越祭を祝おうとするならば、男は皆、割礼を受けなければならない。そうすれば、過越祭に加わって祝うことができ、イスラエル人のようになる。しかし、無割礼の者は誰も、これを食べてはならない。
- 当時も今も、割礼を受ける民はイスラエル人だけではなく、特に中東からアフリカにはいる。割礼にこだわっている理由はわからないが、捕囚などの折には、明確に、イスラエル人を分ける根拠だったのかもしれない。いずれにしても、これは、男性の割礼を言っているのだから、男女差がある。イスラエルの子孫は、ヤコブの子供達には、おそらく、ひとつとは言えない分断があり、それは、パレスチナの部族集団説の場合も同様だろうが、それが一つになる重要な儀式として、過越祭があり、出エジプトの物語があるのだろうとは思う。しかし、これは、他の民族と分けるという意味で、分断を意味することも確かである。ここに根拠を置く以上、イスラエルの民に普遍的な神の意思は現れないように思う。
- 出エジプト記 13:13-15 ろばの初子はすべて、小羊で贖わなければならない。もし贖わないならば、その首を折らなければならない。あなたの初子のうち、男の子はすべて、贖わなければならない。将来、あなたの子が、『これはどういうことですか』とあなたに尋ねるときはこう答えなさい。『主は力強い手によって私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださった。ファラオがかたくなになり、私たちを去らせないようにしたとき、主は、人の初子から家畜の初子まで、エジプトの地のすべての初子を殺された。それゆえ私は、初めに胎を開く雄をすべて主にいけにえとして献げ、また、自分の初子である息子をすべて贖うのである。』
- あがないという概念が登場する。牧師によると「『あがなわれる』とは、かつて、神がエジプトから⼈々を救い出してくださったように、買い戻されること、救い出されること、あわれみの⼼を忘れないことでした。」と説明していました。やはり、難しい概念である。イスラエルのような土地には、そのような商取引概念もあったのかもしれない。共観福音書にはあまりない概念であることも、理解を難しくしているようにも思う。イエス様が示される神様においては、あながいはどのように説明されるのだろうか。
- 出エジプト記 14:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。引き返して、ミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前、すなわち、その向かいにあるバアル・ツェフォンの手前の海辺で宿営しなさい。
- 意図的にこのようにしたと書かれている。物語としてよめばよいが、どうなのだろうか。我々の人生においても、あとから考えると、そのように神様が意図されたと考えることもあるのかもしれない。そのようにして、信仰が形成されていくのだろうか。しかし、それだけであると、心配でもある。そのような、神の特別介入に依存することになる。この箇所でも、たみの訴え(11,12)と対比されている。掘り下げて理解しないといけないと言うことだろうか。よく考えたい。
- 出エジプト記 15:25,26 そこでモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で、主は掟と法を示し、その場で彼を試みて、言われた。「もしあなたの神、主の声に必ず聞き従い、主の目に適う正しいことを行い、その戒めに耳を傾け、その掟をすべて守るならば、エジプト人に下したあらゆる病をあなたには下さない。まことに私は主、あなたを癒やす者である。」
- エジプトを脱出し、ミリアムが歌い、最初の水に関する訴えを主が聞かれる場面である。当時の人たちにとって、主はどのような存在だと描かれているのだろうか。ここには「癒す者」とある。「癒」の字は、創世記には一箇所「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクと妻、および侍女たちを癒やされたので、彼女たちは子を産むようになった。」(創世記20:3)、出エジプト記では、この箇所だけである。主が共におられること、そして、敵を打ち砕く方なのだろうか。少しずつ、進化していくと考えて良いのだろうか。書かれた時代も複雑だろうが。
- 出エジプト記 16:2,3 イスラエル人の全会衆は荒れ野でモーセとアロンに向かって不平を言った。イスラエルの人々は二人に言った。「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」
- このことばは否定されておらず、このあと、「私はイスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えなさい。『夕方には肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたは私が主、あなたがたの神であることを知るようになる。』」(12)と、主はモーセを通して答えている。ということは、食べるものが豊かではなかったからエジプトを出たわけではないことがわかる。主を主として礼拝するためだろうか。ある宗教的自由、良心の自由を得るためだったのだろうか。
- 出エジプト記 17:10,11 ヨシュアはモーセが言ったとおりに行い、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルが丘の頂に登った。モーセが手を上げているとイスラエルが強くなり、手を下げているとアマレクが強くなった。
- 魔術的にも感じるが、おそらく、民のためなのだろう。フルが登場する。フルはおそらく、この箇所が初出。12節にも登場するが、他に、「モーセは長老たちに言った。『私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。ここに、アロンとフルがあなたがたと共にいる。訴えのある者は誰でも、彼らのところに行きなさい。』」(24:14)に登場する。31,35,38章に「ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエル」と登場するが同一人物かどうかは不明。フルはヨシュアとは違った形で、助けたのだろう。24:14 からは、アロンと同じくレビ人である可能性を感じるが。
- 出エジプト記 18:10-12 言った。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。
- モーセのしゅうとエトロの助言によって統治体制も変化していく。礼拝について、少し考えた。エトロの神への捧げ物は、どのように理解したら良いのか。エトロはミデアンの祭司である。(2:16,3:1 など)これは、ミデアンの神にささげたのだろうか。それとも、彼の宗教心の表現だろうか。
- 出エジプト記 19:21,22 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
- この箇所は、理解しにくい。しかし、民と祭司、さらに、祭司の中で、モーセとアロンを分けた重要な箇所でもある。エトロの助言(18:17-23)も関係しているように思われるが、なぜ、このような体制をとるかの説明でもあり、重要な箇所である。あるリーダーシップを仮定することは当然として、主が聖であることとの関係で書かれていることが、理解しづらい点なのだろうか。
- 出エジプト記 20:19 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」
- 統治体制を、民が望んだように書かれている。固定するかは、またべつのように思うが。たしかに、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(7)は難しい。十戒は、どれが十個かも判断が難しい。この7節より前の部分は、序文または、前文であるように見える。すると、殺してはならない以降、5戒、父母を敬え、安息日とあわせると、8戒にしかならない。どのように当時は理解したのだろうか。現代は、教会によってある程度異なっているようだが。
- 出エジプト記 21:4-6 もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。
- 奴隷制度をどのように理解するかは、現代と社会的構造が異なる中で判断が難しい。しかし、そう考えてみると、神の義、公平さとは、なになにかを、当時の人たちなりに、考えた結果であるように思う。この世での正しさの判断には、多くの要素が関わっており、絶対的なものではないから。その中で、ここで「愛(אָהַב)」という言葉が登場するのは興味深い。
- 出エジプト記 22:20,21 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。
- 背景としては、エトロが現れ、モーセがすべて裁かなければならない状態はやめなければならないと言う助言から律法ができたことを考えなければならないと思った。自分たちが寄留者であったことや、苦しんでいるものの保護などが、含まれている。これによって、当時のひとたちが考えた、神の御心が表現されているのだろう。同時に、ここに表現されていることが完全だとは思えないし、十分であるとも思えない。システムを作ることは、ある程度以上の人数になれば、必要で、それがなければ、公平性は担保できないことは確かである。そして、その公平性も、完全ではなく、少しずつ整えていくものなのだろう。
- 出エジプト記 23:1-3 あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。
- 当たり前かもしれないが、たいせつなことが書かれている。公平性、神の義(ただしさ)のお裾分けのような感じがする。今回読んでいて驚いたのは、これらのこと(段落)の最後
「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」(9)で締めくくられていることである。寄留者の弱い立場をあなた自身も知っているよねと語りかけているようである。このことを忘れてしまう、または知らないと、やはり、神の正しさを求めることが出来ないのかもしれないとも思った。むろん、それだけで、完璧になるわけではないが。
- 出エジプト記 24:12-14 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
- アロンとフルに山の下(地上)のことを任せて、モーセはヨシュアとつれて山に登る。しかし、このあとの悲劇を我々は知っている。本当に、難しいのだなと考えさせられる。そして、聖書はそのことを知っているということだろう。それは、神を畏れているからだろうか。ひとは神になってはならない。
- 出エジプト記 25:8,9 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。
- どうも、ここから、わたしが苦手なところに入るようだ。幕屋の建設のために、献納物を集めるくだりである。その最初の段落、実際に作る具体的なものの記述の前に、この引用句がある。ここで、彼らのうちに住むとあるが、すでに、問題を引き起こす元凶とも言えるものが現れているように感じてしまう。他者(イスラエル以外)との区別が明確になると思われるからである。宗教の難しいさでもある。
- 出エジプト記 26:31 また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
- 垂幕は、聖所と至聖所を分けるもの(33)である。至聖所には、さしあたり、証しの箱が置かれる。そこには、掟が書かれた石の板が納められるようだが、神の掟を固定するということは、間違いなく、神の御心を受け取ったことを意味すると共に、変更されないことが前提となる。そのような正しさをひとは受け取ることができるのだろうか。そのようなものとして受け取ったということは、確かであり、そう考えることを否定しない。しかし、社会は変化し、世界についての認識も広がっていく。正しさをある時点で固定することは、学ぶことを否定することにもつながるように思う。ていねいにこれからもみて、考えていきたい。
- 出エジプト記 27:1 アカシヤ材で祭壇を造りなさい。祭壇は長さ五アンマ、幅五アンマの正方形で、高さは三アンマである。
- このあと、詳細な記述が続く。ソロモン以降神殿が作られ、その記録はさまざまに残っていただろうが、幕屋についても、記録が残っていたのだろうか。伝承だろうか、想像だろうか。非常に正確に書かれていると、どう考えたら良いのかも考えてしまう。文書として残されていたのだろうか。
- 出エジプト記 28:21 宝石はイスラエルの子らの名に合わせて十二あり、十二部族に従ってそれぞれの名を印章を彫るように彫りつける。
- この十二部族は、(ヨセフの子のマナセ・エフライムを加えた)レビ以外の十二なのだろう。すると、レビについて祈ることはなかったのだろうか。祭司長などは良いとして、アロンの家系ではない、レビ人は、やはりかなり大変だったように言われており、このシステム自体も心配してしまう。どう考えられていたのだろうか。不満はなかったのだろうか。
- 出エジプト記 29:9 飾り帯を締めて、ターバンを巻きなさい。こうして、祭司職はとこしえの掟によって彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを任職しなさい。
- 「とこしえの掟」と書かれているが、おそらく、現在は、幕屋も、神殿もなく、このようには、守られていないだろう。それも、調べてみたいが、バビロン捕囚以降、困難になったことは、明らかである。それでも、律法を、とこしえの掟として守ることは、どのようなことを意味しているのだろう。キリスト者も同様だろう。何が変わって、何が変わっていないのか、神様の御心を求め続けることはしていきたいが、これが、とこしえの掟と断定することの嘘も感じる。
- 出エジプト記 30:23-25 「あなたは最上の香料を取りなさい。すなわち、液体の没薬を五百シェケル、香り高いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香り高い菖蒲を二百五十シェケル、桂皮を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒンである。あなたはこれで、聖なる注ぎの油を作らなければならない。香料作りの技に倣って調合した油は聖なる注ぎの油となる。
- 油や香料がたくさん登場する。最近、アラブの遊牧民の地域でのイスラム教の風習についての本を読んでいるが、香水、香りが、日常の一部として非常に重要なものであるらしい。水が十分になく、乾燥した地域で、つねに移動しているひとたちにとっては、匂いや香りをどうするかは、重要なのかもしれない。その延長線上にあるようにも見える。そして、特別の油、香油、没薬を作る。これが、都市文化の中でどうなっていくのか、そのあたりの変化も知る必要があるのだろう。
- 出エジプト記 31:4,5 それは、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工し、宝石を彫ってはめ込み、また、木を彫るなど、あらゆる仕事をさせるためである。
- この前に「彼(ユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエル)を神の霊で満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けた。」(3)とあるが、道具だけでなく、炉のようなものもなければできなかったろうと思う。基本的なものは、もってでたのかもしれないが、もしかすると、実際には、もっとあとのことをここに入れているのかもしれないとも思った。このあと、安息日のことが書かれ、唐突に「主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。」(18)と書かれている。
- 出エジプト記 32:4 アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。
- 「のみで型を彫り」とかいてあるが、モーセへの説明ではアロンは「私が彼らに、『金を身に着けている者は外しなさい』と言うと、彼らは私に渡しました。それを火に投げ入れたら、この子牛が出て来たのです。」(24)と言っている。自己弁護なのだろう。今回は、特に「宿営に近づくと、子牛の像と踊りが目に入った。そこで、モーセの怒りは燃え、手にしていた板を投げつけ、山の麓で打ち砕いた。」(19)が目に止まった。神の前でどうすればよいか、細部に至るまで、掟について祈り求めてきたであろうモーセ、そのある基本が書かれている、神から与えられたとしてもってきた板、民の状態とのあまりの乖離に怒りとしてしか表現できなかったのだろう。しかし、これが現実でもある。急いではなにもできない。ひとの愚かさを軽くみてはいけない。そして、その愚かさは、アロンだけではなく、おそらく、モーセにも本質的にあるのだろう。
- 出エジプト記 33:2,3 私はあなたに先立って使いを差し向け、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。乳と蜜の流れる地に上りなさい。しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない。私が途中であなたを滅ぼすことのないためである。あなたはかたくなな民であるから。」
- 自分たちの弱さから、このように人々は神が考えられると想像したのだろう。神の性質として、自然な考えなのかもしれない。しかし、イエスが伝えた神は、少し異なっている。その弱さを担ったわたしたちを愛し、互いに愛し合うことを促している。神が喜ばれることはなになのかの理解が変化したということだろうか。神様の御心を行うとは、神様が喜ばれることをすること。神がお嫌いになることを排除することとは、ずれがあるのかもしれない。
- 出エジプト記 34:11,12 私が今日あなたに命じることを守りなさい。見よ、私はあなたの前からアモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたはよく注意して、入って行く地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがあなたの中にあって罠とならないためである。
- 二つのことが気になった。まずは、追い出すと言っておきながら、契約を結ぶな、つまりは、そこに人が残っていることを前提としていること。もう一つは、このように、断絶することで本当によいのか、まさに、このあとの、厳格な保守的ユダヤ教徒の基礎が築かれてしまうのではないかということである。ここだけで、結論を出すつもりはないが、まず、短絡に結論にいたらないことの大切さ、そして、おそらく、さまざまな考え方が当時からあったろうと思われること、そして、イエスはどう言っておられるかを丁寧にみていこうとすることだろうか。ゆっくり進んでいきたい。
- 出エジプト記 35:1-3 さて、モーセはイスラエル人の全会衆を集めて言った。「これは主が行うように命じられたことである。六日間は仕事をすることができる。しかし、七日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。その日に仕事をする者はすべて死ななければならない。あなたがたの住まいのどこであっても、安息日には火をたいてはならない。」
- 「火をたいてはならない」は、現代ならエネルギーを消費するなだろうか。いずれにしても、これが、世界にひろがり、休日のもととなったことなのだろう。その意味でも、影響は大きい。同時に、これは、聖なる日、安息日、その過ごし方も大切なのだろう。神の前にたつ日なのだろうか。こちらは、もう少し整理して行きたい。
- 出エジプト記 36:8 仕事をする者のうち、心に知恵のある者たちは皆、幕屋を十枚の幕で造った。上質の亜麻のより糸、青や紫、また深紅の糸を使って、意匠を凝らしてケルビムが織り出されていた。
- 引用箇所はどこでも良かったが、当時、その場でできることを結集して、幕屋を作ったことが描かれているのだろう。そのいみで、美しい。同時に、さまざまなひとが関わることで、この作業や、その後の礼拝も重要な意味を持ってきたのではないかと思う。ただ、いろいろなバランスもあり、現代では、教会建設が原因で、分裂が起こる場合も多いが。
- 出エジプト記 37:29 また、香料作りの技に倣って、聖なる注ぎの油と純粋なかぐわしい香を作った。
- この章は「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。」(1)と始まり、ここでも、主語は、ベツァルエルのようである。香料作りが香料を作るのではなく、ベツァルエルが作ったように書かれている。実際には、職人が加わっていたかも知れないし、そのように変化していくのかもしれないが。香料が、乾燥地の遊牧民にとっては、大切で、みな、鼻も良かったのだろう。現代とは少し違う感覚が、匂いにはあったのかもしれない。
- 出エジプト記 38:25,26 会衆の中で登録された者が献げた銀は、聖所のシェケルで、百キカル千七百七十五シェケルであった。これは、二十歳以上の男で登録された者、六十万三千五百五十人が一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルを献げた量であった。
- 聖書協会共同訳聖書の巻末の表によると、ベカは、1シェケルの二分の一で、約5.7g 、シェケルは 約11.4g。キカルは約34.2kg とある。すると、1キカルは、3000シェケル、または、6000ベカとなる。銀の方が重要だったのかもしれない。この前には、「聖所のすべての仕事のために用いられた金の総量、つまり、奉納物の金は聖所のシェケルで、二十九キカル七百三十シェケルとなった。」(24)とある。87730シェケル。100122g 約1t となる。銀は、3440235g ぐらいだろうか。3.4t となる。
- 出エジプト記 39:14 宝石はイスラエルの子らの名に合わせて十二あり、十二部族に従ってそれぞれの名を印章を彫るように彫りつけた。
- 十二部族が公平に扱われること(レビ族は別だが)が基本としてあるように思う。十二部族のための祭儀である。同時に、ある程度、大きくなっており、どの時代であっても、かなりの違いや差があったと思われる十二の部族をまったく同じように扱うことにはなんらかの合意があったのだろう。それが「部族同盟」と言われるものかもしれないが、やはり、そこにいたった背景を知りたいと思った。ひとはどうしても、違いや優劣に注目してしまうものだから。さらにこれが人間一人一人に広がるのは、理念は単純でも、意識としてはとても難しいのだろうとも思った。
- 出エジプト記 40:17 第二年の第一の月の一日に、幕屋が建てられた。
- 第2年については厳密にはよくわからないが、おそらく、出エジプトから考えられているのだろう。それがニサンの月(通常は、過越祭はその14日)であるとすると、この時も、ニサンの月だったのだろうか。いまは、年の初めもカレンダーとして変わっているようだが。いずれにしても、ここまで一年で到達したとするとそれも驚かされる。そのようなまとめ方なのかもしれないが。何らかの形にはしたのかもしれない。荒野の40年と言われるが、その記述は日誌のようには書かれていないことは、覚えておくべきだろう。
レビ記 聖書通読ノート
BRC2025(2025.2.15-2.28-1)
- レビ記 1:1,2 主はモーセに呼びかけ、会見の幕屋から告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。あなたがたのうち誰かが主への献げ物を献げるときは、家畜、すなわち牛や羊を献げ物として献げなければならない。
- 出エジプト記の最後には、会見の幕屋が建設される。レビ記では、会見の幕屋で語られたとされる律法がはじまる。基本的には、モーセまたは祭司が神から受け取ったとされたことが神からのことばとして記録され、守るようにされていくのだろう。そして、それが神と人々の契約として人々は守り、主は祝福するという関係となる。律法主義の始まりでもある。
- レビ記 2:1,2 人が穀物の供え物を主への献げ物にする場合、その献げ物は上質の小麦粉でなければならない。その小麦粉に油をかけ、乳香を載せ、祭司であるアロンの子らのもとに携えて行きなさい。祭司は油のかかった上質の小麦粉一握りとすべての乳香をつかみ、記念の分として祭壇で焼いて煙にする。これは主への火による献げ物、宥めの香りである。
- 1章冒頭では「あなたがたのうち誰かが主への献げ物を献げるときは、家畜、すなわち牛や羊を献げ物として献げなければならない。」としていたが、2章では、穀物の献げものについて書かれている。関係は不明確である。これは、べつの献げものであって、基本は、1章で述べたものということだろうか。荒野では、穀物の献げものはできないだろうから、追加されていったのだろう。修正し、さまざまなことが加味されていったのかもしれない。すべて神からの律法としたのだろうが、ひとの責任でなすことのようにも思う。
- レビ記 3:17 これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」
- 「もし献げ物が会食のいけにえで、その人が牛を献げるなら、雄であれ雌であれ、欠陥のないものを主の前に引いて行かなければならない。」(1)とはじまり、6節からは羊の場合、12節からは雄山羊の場合について書かれ、最後が引用句になっている。規定が細かく決まっているということは、専門職でないと不可能ということになるのだろう。ある敬意も生じる。しかし、それが目的ではなかっただろう。どのように、礼拝するのが適切かが追求され、このような形になっていったと思われる。そのような営みは貴重であるが、結果は形式であり、そちらが一人歩きして逆にひとを縛るようになっていく、難しいとも感じてしまう。
- レビ記 4:1,2 主はモーセに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。主が行ってはならないと命じた戒めの一つについて、人が過って違反した場合、次のようにしなければならない。
- 最初に祭司(3)、次に全会衆(13)、さらに民を導く者(22)、この地の民の一人(27)と続く。だれでも、違反があることが想定されている。祭司の項には「民にもその罪責を及ぼすことになるなら」、全会衆の項には、最初会衆の目に隠されていて「その過失が知らされた場合」などなどと書かれている。注意深く書かれていることも確かなのだろう。これをどう解釈するか、解釈学も発展していかざるを得なかったろう。法律も似た部分があるだろうが、正しさをもとめることで、救いはないようにやはり感じてしまう。間違いだろうか。
民数記 聖書通読ノート
BRC2025(2025.2.28-2-3.18-1)
申命記 聖書通読ノート
BRC2025(2025.3.18-2-4.4-1)
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BRC 2023 Memo
登録人数は以下の通り
- BRC 2023から継続: 79人
卒業などで、メールが届かなくなった方は、省いています。私は人数に入れていません。
2024.12.31