- BRC2021:2 Chronicles 24:17,18 ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪責のため、ユダとエルサレムに怒りが下った。
- ヨヤダはクーデターにおいて大きな役割を果たしたのだろうが、それが全てではなかったろう。神殿改修においても、制度を定め「荒れ野で神の僕モーセがイスラエルに課した税を主に納めるようにとの布告」を出したのはヨアシュのようである。ヨヤダができたこととできなかったことがあったのだろう。しかし、歴代誌記者はこのようにまとめている。何が悪かったかを単純な理由で説明したかったのかもしれない。人間の性(さが)とも言える。客観的に、分析的に、考えると、単純に、悪者をみつけることも困難になる。そこから一歩を歩み出せるかでもある。
- BRC2019:2Chr 24:22 ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」
- ヨアシュも、ヨヤダの教育を受けたと思われるが、追従していただけだったのかもしれない。すると、ヨヤダにも責任がないとはいえない。その子、ゼカルヤが、おそらく、ヨヤダ存命中には、なにも言えなかった、役人たちと共謀して殺される。このなかで、ゼカルヤは、責任の追及を願い、歴代誌記者も、それを支持しているように思われる。正直、混沌としている。記者にとっても、明確では無かったのかもしれない。
- BRC2017:2Ch 24:24 攻めて来たアラム軍の兵士は少数だったが、ユダとエルサレムの人々が先祖の神、主を捨てたので、主は極めて大きな軍隊をアラム軍の手に渡された。こうして彼らはヨアシュに裁きを行った。
- 24章には不明な部分がいくつかある。まず「ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」(2節)列王記下12章全体がヨアシュについて書かれ「ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った。」(3節)となっている。アラムに聖別した物、神殿の金を送ったことは書かれているが、引用した箇所のような記述はない。「しかし、レビ人たちは速やかに取りかからなかった。」(5節)とあるが、対応する箇所は「だが、ヨアシュ王の治世第二十三年になっても、なお祭司たちは神殿の破損を修理しなかったので、」(列王記下12章7節)である。祭司たちが、レビ人に変えられている。「ヨヤダは年老い、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった。」(5節)の記事は、列王記下には見当たらない。族長たちの年齢を想起させる。さらに「ヨヤダの子ゼカルヤ」のことも、他には見つからず、不明である。
- BRC2015:2Ch24:6 そこで王は祭司長ヨヤダを呼んで言った。「なぜあなたはレビ人に要求し、主の僕モーセとイスラエルの会衆が、掟の幕屋のために定めた税をユダとエルサレムから徴収しないのか。」
- 以前からこのことばが気になっていた。ヨヤダの死後、17, 18節にあるように、ユダの高官たちに従い、主をの神殿を捨てることを考えると、余計に意味深である。ヨヤダはなにを考え、何を見ていたのだろうか。このあとの、人々の熱心さの記述にも、こころが動かされる。なんと人のこころは当てにならないものなのだろうか。
- BRC2013:2Chr24:17 エホヤダの死んだ後、ユダのつかさたちが来て、うやうやしく王に敬意を表した。王は彼らに聞き従った。
- 7歳で王になったヨアシ、治世が40年 (v1) ということは、47歳にもなっていたことになる。それまでに、学んだことは無かったのだろうか。しかし、エホヤダはある信頼をうけてはいても、民も、指導者も替わってはいなかったことがすぐに露呈されることを示している事実であろう。
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- BRC2021:2 Chronicles 25:19 あなたはエドムを討ち破ったと言って、思い上がり、誇っているが、今は自分の家にとどまっているがよい。なぜ災いを引き起こし、あなたもユダも共に倒れるようなことをするのか。」
- イスラエルの王ヨアシュのことばを引用している(列王記下14章9,10節参照)が、ここに本質をまとめているのだろう。これも、ひとつの解釈ではある。アマツヤのこの章の記述は、いろいろな要素があり、複雑に見える。おちついて、列王記とも比較してみたい。いつそれが可能かわからないが。
- BRC2019:2Chr 25:7,8 ところが、ある神の人が来て言った。「王よ、イスラエルの軍隊を同行させてはなりません。主はイスラエルの者、すなわちどのエフライム人とも共においでにならないからです。もし行くなら、単独で行って勇敢に戦いなさい。そうでなければ、神は敵の前であなたを挫かれます。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。」
- 非常に立派な助言に聞こえるが、預言者の対応として一貫性があるわけではない。気になるのは、たしかに、セイルの軍に勝利はおさめるが、同時に「他方、アマツヤが戦いに同行させずに送り返した部隊の兵士らは、サマリアからベト・ホロンまでのユダの町々を荒らしまわり、三千人の住民を打ち殺し、略奪をほしいままにした。」(13)とも書かれており、このあとのセイルの神々をまつることなどを考えると、かなりの混乱が見られる。アマツヤの最後を見ても、おそらく、民の評価も幅があったのだろう。むずかしい。
- BRC2017:2Ch 25:9 アマツヤは神の人に言った。「イスラエルの部隊に払った百キカルはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれより多くのものをを与えることがおできになります。」
- 列王記下14章1節から22節にアマツヤの記事がある。歴代誌記者が別資料を持っていたことは事実だろう。基本的に、列王記は北イスラエル中心に書き、歴代誌は南ユダ中心に書いているので、列王記では、南ユダ王朝の文書はあまり使われていなかったろうから。神の人のことばはこのような混乱の時期にあって唐突ではあるが新鮮でもある。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」(箴言10章22節)
- BRC2015:2Ch25:24 また彼は、オベド・エドムの管理下にあった、神殿のすべての金、銀、祭具、更に王宮の宝物および人質を取って、サマリアに凱旋した。
- オベド・エドムはサムエル記下6:10-12(歴代誌上13:14)にあるように、一時的に神の箱が置かれた家である。「三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。」(11節)歴代誌上15, 16章に門衛として記述され、26章にも記述がある。「彼らは皆オベド・エドムの子らで、彼らとその息子たち、兄弟たちと共に奉仕にふさわしい力を持つ勇者たちであった。オベド・エドムに属する者は六十二人であった。」(8節)「南の門を守るくじはオベド・エドムに、その息子たちには倉庫を守るくじが当たった。」(15節)家系として、主に仕えていたのだろう。
- BRC2013:2Chr25:2 アマジヤは主の良しと見られることを行ったが、全き心をもってではなかった。
- 人はこのように採点されるのだろうか。わたしはどうだろうか。主はご存じである。もし、自分で評価するとすると、人生のある時点、それは、30歳の頃であるかも知れないし、40歳の頃であるかも知れないし、50歳の頃であるかも知れないが、そのときまでは、まさにこのアマジアのような過ごし方をしていた。そのあとは、全き心で主につかえることに人生をかけたが、それゆえにかえって、どうすることもできない、神に背をむける部分が浮き彫りになった気がする。そのような評価とは別に、恵みによる救いがあると考えて良いのか。そのような評価を考えること自体が、すでに神の支配のもとで生きることとずれがあるということか。
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- BRC2021:2 Chronicles 26:5 神を畏れることを教えたゼカルヤの在世中は、ウジヤも神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を繁栄させられた。
- ウジヤは列王記ではアザルヤ(列王記下15章1節から7節)となっているが、その記述は短い。「主の目に適う正しいことを行った」(2Kg15:3)「主が王を打たれたので規定の病にかかり、離宮に住んだ」(2Kg15:5)である。歴代誌ではかなり詳細に記述されている。引用句のように、主の目に適うことを行った理由、規定の病にかかった理由まで書かれている。まさにひとつの解釈が書かれている。因果の「因」を特定している。おそらく「果」のほうの規定の病は事実なのろう。列王記を書いたと思われる預言者集団は、ウジヤが正しいことを行った「しかし、人々は高き所を離れなかった。」(2Kg15:4)としそのあとに、規定の病のことが続く。規定の病は主が背後におられると信じられていたようだから、そのことは書いているが、それを罪の結果、それもどのような罪とは特定していない。歴代誌を記述したと思われる祭司集団が、特別な情報を持っていたとも考えられるが、預言者集団はそれを知っていても、書かなかったかもしれないとも考えた。「因」を特定することで、他の課題が見過ごされるからである。正解(神様のみこころ)は不明であるとしながら、預言者集団や、祭司集団そして、アザルヤ(ウジヤ)や、民と共に、真理を生きる生き方を求めたい。それが、今のわたしの信仰告白である。聖書の解釈に一定の枠をはめることも可能だろうが。列王記下15章36節に『ユダの王の歴代誌』についても書かれていることを付け加えておく。情報の量の違いで片付けるのは、問題があるように思う。
- BRC2019:2Chr 26:15 彼はまたエルサレムで技術者により考案された装置を造り、塔や城壁の角の上に置いて、矢や大きな石を放てるようにした。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
- ウジヤについては列王記下15章にアマツヤの子アザルヤとして登場する。重い皮膚病については「主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。」(列王記下15章5節)とあるだけで、何の経緯も書かれていない。比較すると、歴代誌での記述が詳細であること、重い皮膚病の原因が重視されていると思われることである。「神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、彼も主を求めるように努めた。」(5)との記述もあるが、24章21, 22節のゼカルヤとは別人なのだろうか。混乱ともとれる。しかし、他にも、上に引用したような記述がある。ウジヤは、農業を愛したり、軍を整備したり、さらに、高度の技術も使ったようである。「神の驚くべき助けを得て」とある一方「彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。」(16)と歴代誌の評価は厳しい。
- BRC2017:2Ch 26:8 アンモン人もウジヤに貢ぎ物を献上した。ウジヤの勢いはこの上もなく増大し、その名声はエジプトに近い地方にまで届いた。
- 列王記下ではウジヤではなく、アザルヤとなっている。(列王記下14章21節、15章)十六歳で王となり五十二年間エルサレムで王であったとある。かなりの長さである。しかし「主が王を打たれたので、王は死ぬ日まで重い皮膚病に悩まされ、隔離された家に住んだ。王子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。」(列王記下15章5節)ともある。このことが、歴代誌ではかなりリアルに記述されている。引用箇所は、エジプトとはしないで、エジプトに近いとなっている。エドムやその周辺の民を想定しているのだろうか。
- BRC2015:2Ch26:1 ユダのすべての民は、当時十六歳であったウジヤを選び、父アマツヤの代わりに王とした。
- 22章のアハズヤ選択のところでも書いたが、民がどのように王の即位に関わっているかにも興味がわく。長老なのだろうか。もうすこし、広い民の意思が何らかの方法で反映されたのだろうか。アマツヤの治世後半の悲惨さと比較して、ウジヤの治世は政治的には充実していたように思われる。52年間。しかし、最後は重い皮膚病で終わる。人生をどう考えたらよいのだろうか。主はすべてをご存じである。
- BRC2013:2Chr26:16 ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。
- 列王紀下15:1-7 が対応し、そこでは、ウジヤはアザリヤとなっている。この歴代志の記録は、列王紀と比較してとても豊かである。様々な軍事施設・軍隊の整備、農業、科学技術、十分な才能があったのだろう。そしてその恩恵も民に会ったと考えられる。しかし高慢となり自らを滅ぼしている。優秀なことをどう考えれば良いのだろうか。すべては失敗だったのだろうか。
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- BRC2021:2 Chronicles 27:2 彼は父ウジヤが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。ただ主の聖所に入ることはしなかった。民は依然として堕落していた。
- ここにも、ウジヤの背景がある。ウジヤの名前についても調べておこうとおもった。ウジヤ עֻזִּיָה(uzzîâ = my strength is Jehovah:主は我が力)アザルヤ עֲזַרְיָה(ʿăzaryâ = Jehovah has helped 主の助け)どちらも良い名前である。ヨタム יוֹתָם(Yôṯām = Jehovah is perfect 主は完全または完全な主)これも良い名前である。ウジヤについては、あまり批判する気にはなれない。まずは、病で苦しんだ人にたいし、その原因を罪と特定することに、問題を感じるからでもある。むろん、そのように解釈する人を、間違っているとして、交わりを切ることは問題だと思うが。「弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である』」(ヨハネ9章2-5節)わたしは、このイエスを主としているのだから。この世に住まわれた、生きてくださった主から学びたい。
- BRC2019:2Chr 27:2 彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。
- ウジヤもそれなりに評価はされていることがわかる。しかし、気になったのは、この彼(ヨタム)のときに、北イスラエルは、一回目の捕囚を経験していることである。
「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。 」(列王記下15章29節)なにかとても悲しさを感じる。歴代誌記者は、世界情勢については、まったく関心が無かったのか。信仰とは、どのようなものだったのだろう。考えてしまう。
- BRC2017:2Ch 27:6 ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。
- 「エラの子ホシェアはレマルヤの子ペカに対して謀反を起こし、彼を打ち殺し、代わって王位についた。それはウジヤの子ヨタムの治世第二十年のことであった。」(列王記下15章30節)列王記にもウジヤの名前は出てくる。おそらく、何らかの意味があるのだろう。引用箇所は、歴代誌記者の歴史感ともいえるが、もしかすると、民の教育のためだったかもしれない。「彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。」(2節)の記述も興味深い。民は堕落していたことが書かれている。注意を促しているのかもしれない。
- BRC2015:2Ch27:2 彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。民は依然として堕落していた。
- 最後の民についての記述が強烈である。アンモン人は征服していたようだが、すでに、アッシリアが興っていると思われる。王の善政と民の態度、それが国の安泰につながるかという視点で歴史を見る見方は、歴代誌記者の視点とは近いかもしれないが、主のこころにあることとはずれているのかもしれない。イエスによって語られる真理に目を向けることも適切に行いたい。すべてそこから解釈しようとすると無理が生じる面もあるが。
- BRC2013:2Chr27:1 ヨタムは王となった時二十五歳で、十六年の間エルサレムで世を治めた。その母はザドクの娘で名をエルシャといった。
- ザドクはだれか明らかではないが、祭司の家系なのだろうか。このあとの2節をみると、ヨタムについての記述でありながら、ウジヤについての歴代志記者の評価がわかる。「ヨタムはその父ウジヤがしたように主の良しと見られることをした。しかし主の宮には、はいらなかった。民はなお悪を行った。」最後の記述が気になる。
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- BRC2021:2 Chronicles 28:12-14 エフライムの一族の頭のうち、ヨハナンの子アザルヤ、メシレモトの子ベレクヤ、シャルムの子エヒズキヤ、ハドライの子アマサは、軍から帰って来た者たちに対して立ち上がり、彼らに言った。「捕虜をここに連れて来てはならない。我々の上にある主に対する罪責を、あなたがたは我々の罪の上に増し加えようとしている。我々の罪責は大きく、燃える怒りがイスラエルの上にある。」そこで、武装した者たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を捨てた。
- 列王記下16章にアハズ王のことが書かれているが引用箇所のことは書かれていない。この章を読むだけでも、少なくとも、アラムだけでなく、アッシリアの脅威が大きかったこともわかる。歴史的には、北イスラエル王国は風前の灯で、列王記下17章で、サマリヤが陥落する。そのような背景のもとでのこととして、引用句が記されている。すごいひとたちがいたことがわかる。それも、ある程度の数いたのだろう。サマリヤや北イスラエル王国が滅んだ理由や、その後、南ユダ王国も滅んだ理由を検討することは大切だろうが、簡単な因果関係では理解できないことは、この記述からもわかるように、思う。王国の滅亡の裏だけでなく、これらの人々の背後にも、主はおられたのだろう。理解できたとせず、ていねいに、求め続けていこう。謙虚に、誠実に生きながら。
- BRC2019:2Chr 28:23 彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげ、「アラムの王の神々は、王を助けている。その神々に、わたしもいけにえをささげよう。そうすればわたしも助けてくれるだろう」と言った。しかし、その神々はアハズにとっても、すべてのイスラエルにとっても、破滅をもたらすものでしかなかった。
- このあとにも、悲しい施策が続く。「神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じ」(24)「聖なる高台」を至る所に築き、他の神々を拝む。混乱の時期である。これを「彼(アハズ)は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。 」(1)と最初にまとめている。様々な民族の間で争いがあるようだが、アッシリアの巨大化によって、この地域は、大きな混乱の中にいるように思われる。
- BRC2017:2Ch 28:9,10 ところが、その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「見よ、あなたたちの先祖の神、主はユダに対して怒りに燃え、彼らをあなたたちの手に渡された。あなたたちも、天に届くほどの憤りをもって彼らを殺した。 しかし今、あなたたちはユダとエルサレムの人々を服従させ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたたち自身はあなたたちの神、主によって罪に問われずに済むだろうか。
- 列王記下16章にユダの王アハズの記事がある。アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わす(列王記下16章7節)など、興味深い記事も多いが、ユダの人々を殺し、捕虜としたことについては、書かれていない。ユダの裁きに勝ち誇ってはいけないという単純であるが、明確なメッセージ、さらに直ちにエフライム人の頭たちヨハナンの子アザルヤ、メシレモトの子ベレクヤ、シャルムの子エヒズキヤ、ハドライの子アマサ(12節)など、これに聞き行動に移すだけのものをもっていたひとたちがいたことには、驚きを覚える。さらに最後は感動的である。「そこで兵士たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を放棄した。 そこで前に名を挙げられた人々が立って捕虜を引き取り、裸の者があれば戦利品の中から衣服を取って着せた。彼らは捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者がいればろばに乗せ、彼らをしゅろの町エリコにいるその兄弟たちのもとに送り届けて、サマリアへ帰った。」(14,15節)
- BRC2015:2Ch28:9 ところが、その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「見よ、あなたたちの先祖の神、主はユダに対して怒りに燃え、彼らをあなたたちの手に渡された。あなたたちも、天に届くほどの憤りをもって彼らを殺した。
- アハズに関しては列王記下16章にあるが、9-15の記事についてはまったく記載がない。特徴的なのは、ユダの視点が強く、ユダの罪を記述するとともに、イスラエルの悔い改めをも記録していることである。オデドについては 15:1, 8 にあるがこれは、アサ王の時代でかつ「オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。」と始まっているので、ここで言われているオデドはアサ王以前の時代の預言者となる。したがって、28章のオデドはこれとは異なるオデドということになろう。しかしこれだけの単独行動。エリヤを登場させたように、昔の預言者にこのことを帰しているのかもしれない。15節は印象深いがもう一度別の機会に考察したい。
- BRC2013:2Chr28:17 すなわち、彼は自分を撃ったダマスコの神々に、犠牲をささげて言った、「スリヤの王たちの神々はその王たちを助けるから、わたしもそれに犠牲をささげよう。そうすれば彼らはわたしを助けるであろう」と。しかし、彼らはかえってアハズとイスラエル全国とを倒す者となった。
- 分析的に論理的に信仰の対象を決めること自体が間違っている。しかし、その対極にあるものをどのように表現したらよいのだろう。
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- BRC2021:2 Chronicles 29:6 私たちの先祖は背信し、私たちの神、主の目に悪とされることを行い、主を捨てた。彼らは主の幕屋から顔を背け、背を向けた。
- 列王記下18章の記述によれば、ヒゼキヤの治世の第4年に、アッシリア王シャルマナサルがサマリアを包囲、三年後(長く持ちこたえたことになる)第6年にサマリヤを占領している。その背景のもとで、ヒゼキヤがどのように生きたか、統治しようとしたかが、書かれている。アハズ、ヒゼキヤについては、列王記でも、歴代誌でも、記述が詳細である。そして違う内容も含まれている。資料がたくさんあったのだろう。世界史をある程度知っているものとすると、虚しいことのようにも思えてしまう。しかし、それは、現代でも同じかもしれない。コロナ禍や、これからどのように世界が動いていくかはわからないが、それとはべつに、または、それだけでは評価できないものとして、ひとりひとりのいのちの営みがあるのかもしれない。わたしがどう生きるかだけでなく、それぞれのひとがどう生きるか、そこに神様は関心を持っておられるのかもしれない。たとえそうでなくても、そこに尊厳と価値があるように思う。預言書から読み取ることができることもあるかもしれない。簡単に、結論を導かず、ていねいに読んでいきたい。
- BRC2019:2Chr 29:7 また彼らは前廊の扉を閉じ、ともし火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたくことも、焼き尽くす献げ物をささげることもしなかった。
- アハズのしたことからの回復である。かなり徹底して行ったことがこのあとの記述からもわかる。現代と比較すると、このように、心を込めて、主に従おうとしているものたちを結局は滅ぼしてしまう、主の意図を理解することは、困難だったろう。わたしたちは、イエスを通して、何を学んだのだろうか。
- BRC2017:2Ch 29:34 ただ祭司は数が少なく、焼き尽くす献げ物全部の動物の皮をはぐことができなかった。そこで、その作業が終わるまで、あるいは他の祭司たちが自分を聖別するまで、彼らの兄弟であるレビ人が彼らを助けた。レビ人は自分を聖別することについて祭司たちよりも忠実だったからである。
- 最後の一文がとても興味深い。レビ人は宮の勤めをしても、中心的な役割ではない。忠実に、おそらく、裁きをうけないように、注意深くきよめを行っていたのだろう。そのような人たちに、祭儀が支えられていると言うことである。
- BRC2015:2Ch29:5 言った。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ。
- 3節にある「その治世の第一年の第一の月」に始めたヒゼキヤによる宮清めと祭礼典の改革の記事が29章から31章まで続く。対応する列王記下では「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」(18:4)のみである。(ネフシュタンの記事は興味深いが)これこそが、ヒゼキヤが正しい王であったことの証拠でもあるかのごとく、またはこれを模範にしようとしたのかのごとく。しかしどうしても、むなしく感じてしまう。イエスの宮清め(ヨハネ2:13-25)との差であろうか。締めくくりのことば「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」つまりわたしたちひとりひとりの心の中、聖霊の宮の中にあるべきものを見通しておられたという記事の故だろうか。
- BRC2013:2Chr29:6 われわれの先祖は罪を犯し、われわれの神、主の悪と見られることを行って、主を捨て、主のすまいに顔をそむけ、うしろを向けた。
- 選択の要素がある歴史を反省をもって見直す作業、これが内面化、そのもとで行動するのが、信仰的決断なのか。
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- BRC2021:2 Chronicles 30:1 ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使者を遣わし、エフライムとマナセには手紙を書いた。エルサレムの主の神殿に集い、イスラエルの神、主のために過越祭を祝うためである。
- 大々的な過越祭について書かれている。第二の月(2)とはあるが、何年かは書かれていない。3年間の包囲後のヒゼキヤの治世(BC729-BC687)の途中(BC722)にはサマリヤが陥落している。(列王記下17章)これは二度目で一度目の陥落は南ユダ王国も関与しているようだが、それより前である。これがいつのことだか不明だが、祭司が身を清めていなかった(3)との記述もあり、常に過越祭をしていてそれを拡大したものではおそらくないだろう。「そうすれば主は、アッシリアの王たちの手から逃れて生き残ったあなたがたのもとに帰って来てくださる。」(6b)の記述もあり、背景はわかるが、歴代誌は、北イスラエル王国の滅亡については書かない。全イスラエルと書かれている範囲に使者を遣わしたり、手紙を送ったりしてこのような企画をするということは、おそらく、滅亡後なのだろう。配慮に富んでいるとも言えるが、北イスラエル滅亡に関しては、アッシリアに加担したとも思えるので、背景は複雑である。ゆえに「急ぎの使いはエフライムとマナセの地を町から町へと渡り、ゼブルンまで行ったが、人々は彼らを物笑いにし、嘲った。それでも、アシェル、マナセ、ゼブルンから、へりくだって、エルサレムに来た者もいた。」(10,11)この解釈のしかたも、難しいのかもしれない。もう少し、この期間の出来事を丁寧に紡ぎ合わせて理解したい。ヒゼキヤは、主を求めようとしたことは確かだろう。それゆえ美化しようとすることは起こりうる。実際には、世界史的に、巨大王国時代に入り、小国が生き残ることは非常に困難になっている。このことも確かだろう。
- BRC2019:2Chr 30:25 こうして、ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った。
- ヒゼキヤが行った過越祭についての記事である。その布告は「イスラエルの人々よ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち帰れ。そうすれば主は、アッシリアの王の手を免れて生き残った人々、あなたたちに帰ってくださる。」(6b)と始まる(6-9)。ヒゼキヤが「そうすれば」と語ったこと、さらに「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。」(9a)なにか、むなしく映る部分もある。しかし、このように、主に従おうとし、引用したように、共に喜び祝うことは、素晴らしいことだと思う。過越祭は、主の恵みと憐れみ深さを顧みることだろうから。
- BRC2017:2Ch 30:18,19 民の大多数、エフライム、マナセ、イサカル、ゼブルンの多数の者が身を清めていなかった。それにもかかわらず、彼らは記されていることに違反して、過越のいけにえを食べたので、ヒゼキヤは彼らのために祈って言った。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。 彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。」
- 北イスラエルの人たちを同胞として過越祭に招いてたことから起こったことである。殆どの人は「冷笑し、嘲った」(10節)とあるが「ただアシェル、マナセ、ゼブルンから、ある人々が謙虚になってエルサレムに来た。」(11節)この人たちに対する、ヒゼキヤのとりなしの祈りである。「こうして、ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った。」(25節)を記録している。このときすでにかなり危機的な状況になっていたことも見て取れる。「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。」(9節)列王記下15章にはアザルヤ(ウジヤ)の時代にすでに、アッシリアが攻めてきて大きな被害があったこと、さらに、17章にはアハズの時代にサマリヤが陥落したことが書かれている。北イスラエルはこの頃、どのような状況だったのだろうか。
- BRC2015:2Ch30:1 ヒゼキヤはすべてのイスラエルとユダに使者を遣わし、またエフライムとマナセには書簡を送り、エルサレムの主の神殿に来てイスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけた。
- いつのことだか書かれていないが、年代的には、かなり初期、29章の記事が1年目であるならそれに引き続いておこったこととしないと列王記との整合性にもかけるように思われる。この記事も列王記にはないが、列王記下18章1節では「イスラエルの王、エラの子ホシェアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。」とありその前の17章1節には「ユダの王アハズの治世第十二年に、エラの子ホシェアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間王位にあった。」とあり、9年目にはサマリヤが陥落している。その前、3年間アッシリアの包囲があり、その前も貢を納めていたことからも、ヒゼキヤが王となったところは、すでに北イスラエルはすでに危機的な状況であることがうかがわれる。ヒゼキヤの呼びかけに答えた北イスラエルの人々もいたことが記されている。南ユダはヒゼキヤ時代にはアッシリアから奇跡的に守られるが、信仰の問題をどう考えるかは、簡単ではない。ダビデ譲りの(?)ヒゼキヤの信頼は貴重に思える。「もしあなたたちが主に立ち帰るなら、あなたたちの兄弟や子供たちは、彼らを捕らえて行った者たちの憐れみを受け、この地に帰って来ることができるであろう。あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、御顔を背けられることはない。」(30:9)
- BRC2013:2Chr30:18,19 多くの民すなわちエフライム、マナセ、イッサカル、ゼブルンからきた多くの者はまだ身を清めていないのに、書きしるされたとおりにしないで過越の物を食べた。それでヒゼキヤは、彼らのために祈って言った、「恵みふかき主よ、彼らをゆるしてください。彼らは聖所の清めの規定どおりにしなかったけれども、その心を傾けて神を求め、その先祖の神、主を求めたのです」。
- サマリヤがアッシリアの前に陥落したのがBC722。ヒゼキヤが王位についたのは、BC720 頃だから、陥落から2年後。この時期をどのように乗り切り、アッシリアの攻撃から王国を守るかが、重要案件である。その時のヒゼキヤの行動は、完全とは言えないまでも、共感することが多い。この引用箇所は、長く過ぎ越しの祭りをしていなかった北イスラエル王国の民で捕囚からは免れた一般庶民によびかけて行った祭の時のことである。
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- BRC2021:2 Chronicles 31:19,20 また、アロンの一族、すなわち、町の放牧地に住む祭司たちのために、どの町にも指名された人々がいた。彼らは、祭司ならすべての男子と、レビ人なら登録されているすべての者に、取り分を分配した。ヒゼキヤはユダの全土でこのように行い、彼の神、主の前に良いこと、正しいこと、真実なことを行った。
- 21節「彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた。」の最後の部分の証拠を示しているのだろう。しかし、アッシリアにも貢をおくっており、北イスラエルや南ユダからもアラムやエジプトにも助けをもとめるような状態で、レビ族への分配がすぐにできるようになるとは思えない。おそらく、歴代誌記者の理想とする社会がこの(北イスラエルは滅び、南ユダも風前の灯火の)時代にもまだあったことを記述しようとしているのだろう。ヒゼキヤのようにすれば可能だったと考えたのだろうか。それほど単純ではないと考えてしまう。このときに、ユダの多くの町がアッシリアの侵略にあっているのだから。(列王記下18章13-16節参照)そして、おそらく、歴代誌記者もそのこともわかっていただろう。その苦しさも一緒に受け取らないといけない。主の平和をもとめる旅の途中では、正しさは限定的な意味しか持たないのだから。
- BRC2019:2Chr 31:21 彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。
- これ以上はない賞賛がここにあるように思われる。しかし、同時に「更に彼はエルサレムに住む民に、祭司とレビ人の受けるべき分を提供するように命じた。これは、祭司とレビ人が主の律法のことに専念するためであった。 」(4)を読むと、これがなされていなかった時期がおそらくかなり長かったことも推測される。嗣業地は町の周辺に限られていた、祭司・レビ人は、どのように生活していたのだろうか。特に、北イスラエルにいた祭司や、レビ人は、どうだったのだろうかと気になる。一部、ユダに逃れてきたことが書かれているが、記述があまりにも少ない。それを予想はできても、知ることはできないのかもしれない。
- BRC2017:2Ch 31:1 このようなことがすべて終わると、そこにいたすべてのイスラエル人はユダの町々に出かけて、石柱を砕き、アシェラ像を切り倒し、聖なる高台と祭壇を破壊し、ユダ全土、ベニヤミン、エフライム、マナセからそれらを徹底的に除き去った。こうしてイスラエルの人々は皆、それぞれ自分の町、自分の所有地に帰って行った。
- 「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。」(列王記下18章4節)これは、ヒゼキヤがしたこととして記録されているが、歴代誌では主語がイスラエル人となっている。さらに、まずは、ユダの町々からはじめ、イスラエルの町々でも徹底的に行ったことがかかれている。北イスラエル王国は、まだ存在していたとしても、すでに指導力は失っていたのだろう。エリシャも列王記下13章14節から21節、イスラエル王ヨアシュの時代、ユダ王アマツヤの時代だろうか。このようなとき、人はどうすれば良いのだろうか。わたしならどうするだろうか。
- BRC2015:2Ch31:20,21 ヒゼキヤはユダの全土にこのように行い、自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った。 彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。
- 32章にはアッシリアのセンナケリブの侵攻が書かれている。北イスラエルはすでに滅ぼされているのだろう。そこで起こる奇跡の前提として、29章、30章があり、この20節と21節で締めくくられているというのが歴代誌の神学であろう。捕囚帰還後の民族自決を支えた祭司による宗教集団としての一致である。神はなにを見ておられるのだろう。ひとり一人の心を見ておられると同時に、その人々の社会正義も見ておられるのだろうか。権力者の責任はどうなのだろうか。簡単に結論を出さず、丁寧に見ていきたい。
- BRC2013:2Chr31:16 ただしすべて登録された三歳以上の男子で主の宮に入り、その班に従って日々の職分をつくし、その受持の勤めをなす者は除かれた。
- 実際のつとめを担うのは20歳以上であるはずである。3歳から訓練をうけるという意味なのであろうか。身の清め方などから、ひとつひとつ。もし、そうなら驚かされる。
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- BRC2021:2 Chronicles 32:27 ヒゼキヤは比類のない富と栄誉に恵まれた。銀、金、宝石、香料、盾、その他あらゆる宝物のための宝物庫を造り、
- 大英博物館にはラキシュの戦い(9)のレリーフがあり(YouTube: Lachish Battle Reliefs (https://www.youtube.com/watch?v=ZqFbxHZz_bU), Siege of Lachish in 3D (British Museum, 他にもたくさん関連のビデオや資料がネット上にある。)時間をかけて眺めたことがある。高い櫓をたてて攻めるなど、そのスケールに圧倒された。そのときに、なぜ、アッシリアが北イスラエルを制服し、ユダを攻めたのだろうと思った。(エジプトを含む地域の)覇権かなと思う。それは、税だろうか。支配欲もあるかもしれないが。それだけでは、帝国の拡大は続かないように思う。引用箇所には、ヒゼキヤが誇ったのも、富であったことである。比較もされていないので規模もわからないが、これを書くことで、アッシリアに圧倒されなかったことを示しているのかもしれないと思った。考え始めると難しい。ラキシュのあとエルサレムなのだろうが、人々は、いろいろなところに住んでいたわけで、エルサレムは、王や祭司にとっては重要だったろうが、ユダのひとたちにとっては、ほかのまちもたいせつだったろう。戦争、大国の覇権。そのなかで、ひとは一人ひとりどのように生きればよいのだろうか。考える要素はたくさんあると思った。
- BRC2019:2Chr 32:15 そのようにしてヒゼキヤに欺かれ、唆されてはならない。彼を信じてはならない。どの民、どの国のどの神も、わたしの手から、またわたしの先祖の手からその民を救うことができなかった。お前たちの神も、このわたしの手からお前たちを救い出すことはできない。」
- これらの言葉は非常に「科学的・実証的」である。ここでそれに対抗するものとして書かれているのは「神風」的な「特殊性」である。米国には、この米国だけはとくべつという考えが強いという。建国のもととなったプロテスタントの移民も分離主義者が主であった。主を信じているわたしたちだけは違う、例外である、という論理である。しかし、そう考えると、どうしても、誰が例外かを決めることになる。大切にしているのは、こっちかあっちかではない、という考え方もあるだろう。共に、喜び、共に、悲しむことは、できないのだろうか。敵を愛することはできないのだろうか。
- BRC2017:2Ch 32:31 しかし、バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた。
- 興味深い記事である。具体的には、列王記下20章12節から21節、イザヤ書39章の記事を解釈しているのだろう。この章は「ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。」(1a)から始まっている。そして「主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいる勇士、指揮官、将軍を全滅させられた。」(21a)となる。ヒゼキヤの病について書かれ、さらに「しかし、ヒゼキヤは受けた恩恵にふさわしくこたえず、思い上がり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた。」(25節)の記事が続く、さらに続けて「ヒゼキヤはエルサレムの住民と共に、思い上がりを捨ててへりくだった」(26a)と記している。これが上の背景として歴代誌記者が記していることである。ヒゼキヤの「心にある事」を神はご存じであろう。しかし、ここではそれを「知り尽くすために」としている。「捨て置かれた」についても、考えてしまう。ここでは、背景の記述から、ヒゼキヤに焦点が当てられているが、もっと広い範囲、つまり、ひとの営みについて言っているのかもしれない。記者がそう感じていたかどうかは別として。
- BRC2015:2Ch32:1 ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。彼はユダに侵入し、その砦の町々に対して陣を張り、町々を攻め取ろうとした。
- 列王記の記述とはかなり異なる。列王記下18:10によるとこの前、ヒゼキヤの治世の第六年にサマリヤは占領されている。そしてこれは、十六年のこととなっている。対応する記事が書かれている直前の列王記下18:12には「こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。」と書かれている。すなわち、2Ch32:1はこの北イスラエル王国との対比を書くことで、何が鍵であるかを浮き彫りにしたいのであろう。しかし、そのような宗教祭儀を適切に行うことを中心に据え因果応報的な理解で本当によかったのだろうか。その殻を完全に破ったのがイエスだったと短絡に結論してよいのだろうか。冷静に歴史の背後におられる神様に目を向けたい。
- BRC2013:2Chr32:8 彼(アッスリヤの王セナケリブ)と共におる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におる者はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代って戦われる」。民はユダの王ヒゼキヤの言葉に安心した。
- リーダーのことばは力がある。それゆえリーダーシップの責任も大きい。さらに、市民はリーダーのことばに頼ってもいけないのだろう。このことは、リーダーシップのありかたとしても、共同体の構成原理としてもとても難しい。
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- BRC2021:2 Chronicles 33:7,8 彼はまた自分が造った彫り物の偶像を神殿に置いた。その神殿について、かつて神はダビデとその子ソロモンにこう言われていた。「私はこの神殿に、イスラエルのすべての部族の中から選んだエルサレムに、私の名をとこしえに置く。私が命じたすべてのこと、モーセによるすべての律法、掟、法を行うように努めさえすれば、私があなたがたの先祖のものと定めた土地から、イスラエルを二度と移すことはしない。」
- この約束も、聖書の中で、時代とともに、少しずつ表現が変わってきている。丁寧に比較することもたいせつだろう。しかし、受け取り側はこのように確信していったのだろう。「私が命じたすべてのこと、モーセによるすべての律法、掟、法を行うように努めさえすれば」これは、簡単なことではない。そして、イスラエルの外の世界との関係も重要性が増してきている中で、どのように、生きていったら良いのかは、すでに困難な状況に陥っているように見える。律法を守ることがなにを意味しているのか、解釈に幅があり、すくなくとも、主の御心に生きることからは離れてしまう。そして、主の御心がなにかを求めることは置き去りにされてしまう。さらに、人類全体における、真理(神のみこころ)探求との整合性、普遍性もなくなってしまうからである。ほんとうにむずかしい。しかし、この時代に生きていた一般のひとは、声さえあげられず、信仰深く生きようとしていたかもしれない。現代も似たりよったりのようにも思う。
- BRC2019:2Chr 33:19 彼が祈って聞き入れられたこと、彼のすべての罪や背信の行為、また、へりくだる前に聖なる高台を築き、アシェラ像と彫像を立てた場所については、『ホザイの言葉』に記されている。
- マナセがへりくだった記事は、列王記にはない。そしてこのマナセこそがユダを滅ぼしたとしている。「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。」(列王記下23章26節、参照:列王記下24章3・4節)ここでは、『ホザイの言葉』という聖書の他の箇所には出てこないものを証拠としてあげている。実際には、不明である。おそらく、評価も人によって異なったのかもしれない。神様の意図はどこにあるのだろうか。難しい。自らを省みながら、イスラエル・ユダのひとたちと共に、悲しみ、苦しむことは、できるかもしれない。
- BRC2017:2Ch 33:16,17 そして、主の祭壇を築き、その上に和解と感謝の献げ物をささげ、ユダの人々にイスラエルの神、主に仕えるよう命じた。 しかし民は、彼らの神、主に対してではあるが、依然として聖なる高台でいけにえをささげていた。
- マナセについては列王記下21章1-18節に書かれているが、バビロンにひいていかれことや、へりくだって祈り求めたこと(12,13節)の記録はない。歴代誌では、次のアモンの項でも「だがアモンは、父マナセがへりくだったようには、主の御前にへりくだることなく、罪悪を積み重ねた。」(23節)と記しており、マナセの悔い改めが確認されている。実際に何が起こっていたのかは、確かめようがない。書かれていることがすべて事実だとしても、列王記記者は、このことを重視せず、歴代誌記者は、書かずにすますことができなかったのだろう。歴代誌の観点からすると、民への教育が重要なのかもしれない。王が「イスラエルの神、主に仕えるよう命じた。」とある。民は「主に対してではあるが」という句をはさんで「依然として聖なる高台でいけにえをささげていた。」としている。エルサレム神殿の重要性が確認されているように思われる。
- BRC2015:2Ch33:11,12 そこで主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った。 彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、
- アッシリアに引いて行かれたことも、悔い改めの記事もともに列王記下21章にはない。様々に想像してしまう。すべて事実と仮定したとき、列王記記者は、それは重大なこととは見なかったのだろう。大きな流れを重視し、個人の悔い改めだけに因果の根拠を求めなかったともいえる。歴代誌は、徹底して一つの思想を貫いている。背景にいる人とその信仰に興味を持つ。
- BRC2013:2Chr33:12,13 彼(マナセ)は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身を低くして、神に祈ったので、神はその祈を受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。これによってマナセは主こそ、まことに神にいますことを知った。
- 個人的なレベルとしては、明確な悔い改めである。そのあとの行動 (v14-18)もそのことを示している。屈辱的な姿でのバビロン捕囚 (v11) のあとでは当然だったとも言える。しかし、国のリーダーとしては、これで良いわけがない。神は、どのように判断されるのだろうか。
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- BRC2021:2 Chronicles 34:33 ヨシヤはイスラエルの人々のすべての地から忌むべきものを取り除き、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主から離れることはなかった。
- ヨシヤは歴代誌記者たちが望むすべてを完璧におこなったように見える。しかし、気になることもある。たとえば、預言者フルダのもとに向かったこと。もっと、意見を聞くひとは、たくさんいたのではないか。信仰的決断の弱点は、特定のひとから聞いたことを、神の言葉として絶対化することのように思われる。このときには、たとえば、アモツの子イザヤはいなかったのか。ミカや、イザヤの流れをくむ預言者集団はいたのではないだろうか。現代において考えると、セカンド・オピニオンや、宗教指導者に議論してもらうことは、多くの場合困難である。個人的に、これが神様から与えられた御言葉としてうけとり、内面化し、信仰告白としてそれを生きることは、信仰生活の重要な部分である。しかし、それを、他者にとっても、同様に、神の言葉として普遍化することは、注意すべきことである。宗教の場合、それがとてもむずかしいように思う。一人ひとりと神様の関係、そして神様が一人ひとりに示されていることをどう受け取るか。集団として何かを決めなければいけないとき、方向性をもとめるときは、やはり客観的な視点が必要である。ひとは、それをバランスよく、扱えるだろうか。
- BRC2019:2Chr 34:25 彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって注がれ、消えることはない。
- 繰り返し、他の神々に香をたく、人々のことを考えた。苦しみが多く、頼れる者なら何にでも頼りたいという気持ちだったのかもしれない。そして、この預言者フルダの言葉も、厳しいように見えるが、状況を生活に捉えていたのかもしれない。ヨシヤの改革で、完全に回復するわけでは無いことを。苦しみの時である。簡単な処方箋はない。衰えるばかりだ。最近は、ずっと、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の友人のブログを読んでいる。この病との戦いを、その病を背負った生が綴られている。日に日に衰えていく、状況を克明描写しながら。真摯な営みにわたしも加わりたいと願う。
- BRC2017:2Ch 34:32 王はエルサレムとベニヤミンにいるすべての者に誓わせた。エルサレムの住民は先祖の神、その神の契約に従って行動した。
- ヨシア王の宗教改革と呼ばれているものが書かれており、その最後が上の句である。列王記下22章1節から23章30節にヨシア王の記事が書かれている。歴代誌ではこのあと35章でも、過越の祭などについて書かれているが、引用した文章とともに、最後の節で一旦区切っているように思われる。「ヨシヤはイスラエルの人々のすべての土地から忌むべきものを一掃し、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主に従う道からはずれることはなかった。」(33節)おそらく、祭司たちが望んでいた、ほとんど全てを行ったヨシア、しかし総括は悲しさで溢れているように思われる。「彼が生きている間」である。王によって「誓わせ」られて「行動し」ても、すぐ離れてしまう。方法論で解決することがないことまで示唆しているのかもしれない。歴代誌記者はどのように受け取っていたのだろうか。
- BRC2015:2Ch34:6,7 マナセ、エフライム、シメオン、更にナフタリにまで及ぶ地方の町々でも、その周りの荒れた地方でも、 イスラエルの国中で彼は異教の祭壇やアシェラ像を取り壊し、偶像を打ち砕いて粉々にし、香炉台をすべて切り倒して、エルサレムに帰った。
- このとき、北イスラエルはどのような状況になっていたのだろう。ユダが占領された後は多少書かれているが、北イスラエルについては、書かれていないように思われる。この記事をみると無政府状態で、完全にアッシリアの支配下にあったのではないのだろうか。もう少し情報を得たい。
- BRC2013:2Chr34:3 彼はまだ若かったが、その治世の第八年に父ダビデの神を求めることを始め、その十二年には高き所、アシラ像、刻んだ像、鋳た像などを除いて、ユダとエルサレムを清めることを始め、
- ヒゼキヤのあとマナセ55年、アモン2年、あわせて57年の偶像礼拝の時が過ぎている。その期間においても、若き指導者を支えるだけの信仰を守り続けたひとたちが残されていたことを証言しているように思われる。14節のヒルキヤによる巻物の発見も、申命記などの創作というより、本当に、この57年間失われたものが少しずつ回復していく過程だったのかもしれない。
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- BRC2021:2 Chronicles 35:25 エレミヤはヨシヤのために哀歌を詠んだ。男も女もすべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝え、今日に至っている。それはイスラエルのしきたりとなり、『哀歌』に記されている。
- まず、ヨシヤのあっけない死について書かれている。エレミヤ書の冒頭は「ベニヤミンの地アナトトにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、主の言葉が彼に臨んだ。さらにユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。」(エレミヤ書1章1-3節)とあり、ヨシヤの治世は、31年(34:1)だから、エレミヤはかなりの期間を知っていることになる。引用した節の引照箇所は「死んだ者のために泣くな。/彼のために嘆くな。/去って行く者のために大いに泣け。/彼は二度と帰らず/自分の生まれ故郷を見ることがないからだ。」(エレミヤ書22章10節)「レバノンに上って叫び/バシャンで声を上げ/アバリムから叫べ。/あなたの愛する者が皆、砕かれたからだ。」(エレミヤ書22章20節)であるが、どうもピンとこない。エレミヤは、たとえば「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。」(エレミヤ22:3)のように、民に呼びかけているように、思われる。王の過越祭の壮大なパフォーマンスはどう評価していたのだろうか。歴代誌記者と、預言者集団の末裔とはどう関わっていたのだろうか。
- BRC2019:2Chr 35:21 しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」
- 「ヨシヤはエルサレムにおいて主の過越祭を祝い、第一の月の十四日に過越のいけにえを屠った。」(1)ヨシヤは、レビ人にも指導力を発揮している。祭司が表に出ること、預言者に導かれること、王が主導すること、いろいろである。そして、ここでは、ネコからの言葉もある。敵はバビロニアだろうが、巨大帝国がエジプトにとっても、脅威となってきたのだろう。世界の動きを、ヨシヤはわかっていないように見える。どうしようもなかったのか。神の御心を見極めることはとても難しい。神も、逐一知らせるようにはしておられないのかもしれない。どうじに、この苦しみをも、見ておられると信じたい。
- BRC2017:2Ch 35:20,21 ヨシヤが神殿を整えるために行ったこれらのすべての事の後、エジプトの王ネコがユーフラテス川の近くのカルケミシュを攻めようとして上って来た。ヨシヤはこれを迎え撃つために出陣した。 しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」
- 列王記下23章29節には「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した。」と書かれているが、殆どそれだけである。歴代誌の内容が多い。神のみこころを求めなかったこと(記録はない)など、責めることはできるかもしれないが、神との関係をつぶさに、第三者が判断することはできないことを思うと、それは止めるべきだと思う。ここで記録されているのは、ヨシアの宗教改革と、祭司、レビ人の編成と職務の確認と、彼がおそらく26歳ぐらいのときに行った、大々的な過越の祭である。それとは、殆ど無関係に、ネコがカルケミシュを攻めようとして上ってきたこと、そして、ヨシア王への忠告を「ネコ」の言葉として語っていることである。ヨシアの死を通して、理不尽、結局神などおられないのではないかと問うことも可能だろう。しかしまた、より広い、普遍的な信仰(これらのことばの使い方は注意を要する)、神の働きの本質を問うこともできるのかもしれない。
- BRC2015:2Ch35:7 ヨシヤ王は民のために羊、小羊、子山羊を提供した。これらは皆、そこにいるすべての人の過越のいけにえのためであり、その数は三万匹、牛も三千頭に及んだ。これらは王の財産の中から提供された。
- ヨシヤ王の改革は、どうしても悲観的に見てしまう。19節にあるように「この過越祭はヨシヤ王の治世第十八年に祝われた。」どうも盛大な過越祭は1回だけであったようである。さらに、ここでもいけにえは王が提供している。つまり自発のささげ物ではない。このあと、主の巻物が発見された記事も続くが、最後の嘆きを吐露するに過ぎない。さらに22節ではパロ・ネコの「わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」に従わず、この言葉の通りになってしまう。24節にあるように「ユダとエルサレムのすべての人々がヨシヤの死を嘆いた。」ことは確かであるが、34:28にある女預言者フルダのことば「見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られ、わたしがこの所とその住民にくだす災いのどれも、その目で見ることはない。」も実現したとは思えない。神のさらに深いみこころを読み取る必要がある。
- BRC2013:2Chr35:21 しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。
- カルケミシでおそらくアッシリアと戦うために出てきたエジプトの王パロの言葉である。歴代志貴社は、このことばを注意深く記し、これは主からでたことばのような扱いにしている。そのことは、驚かされる。実際にこのことばにようになったこと、神に背いては、ことはならないことから判断してのか。全世界をすべ治める主のまえにへりくだったとまでは言えないのかも知れない。
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- BRC2021:2 Chronicles 36:21 これは、主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである。
- ヒゼキヤとその次のマナセ(33章)までは、アッシリアのことが書かれ、ヨシヤのときはアッシリアは登場せず、エジプト(35章)、そしてこの章で、バビロンのネブカドネツァルが登場する。カルデヤ人とも書かれている。南ユダ王国は滅び、エルサレムは神殿を含めて破壊され「彼はまた、剣を免れた生き残りの者をバビロンに連れ去った。この人々は、ペルシアの王国が統治するようになるまで、バビロンの王とその息子たちの僕となった。」(20)とある。最後に、「主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。」(22b)として、ペルシャ王キュロスの神殿建設の布告が書かれ歴代誌は終わっている。どの程度、世界の歴史を南ユダ王国は理解していたのだろう。そして、歴代誌記者は。神様のみこころ、そして、神の御手の働きは、自分が認識できる範囲から読み取る。非常にすくないサンプルから、帰納的に結論する。それは、仕方がないとして、自分がどの程度のことを認識できているかを知ることはとてもたいせつだと思った。自分には、わからないこと、神様の御心と確信したことであっても、他の理解の仕方をするひとがたくさんいるだろうということを認めることは必須であることも、理解しないといけないのかもしれない。神様のみこころとしてうけとめ、それを内面化し、自らを省み、神様のみこころにそう生き方をもとめることは、すばらしいことだと思う。しかし、受け取ったことを普遍化し、帰納的に得たことから演繹することは、サンプルがすくないときには、非常に危険であることも知らなければいけない。謙虚でありたい。引用句の「地は安息を得た」は、心に響く。現実は「荒廃」である。そして、他の民族が移り住んでくる期間でもある。出エジプトのイスラエルがそうであったように。そして、現代にも同じようなモデルがあるように。しかし、それをここでは、安息と表現している。主を求める民不在の期間を表現しているとも取れないこともなく、良い意味でも、悪い意味でも、考えさせられる。
- BRC2019:2Chr 36:3 しかし、エジプトの王はエルサレムで彼を退位させ、その国には科料として銀百キカル、金一キカルを課した。
- 正確にはわからないが出エジプト25章39節によると金一キカルは燭台に使った量である。他にも王冠の重さであったりする。(サムエル記下12章30節)科料としては、とても少ないように思われる。エジプトにとって、エルサレムは重要では無かったのかもしれない。このあとの、展開が非常に早く、詳細があまり書かれていない。「先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(15, 16)に記者の評価が集約されている様である。ヨシヤ以降は記述するに値しないとしているのかもしれない。この痛みは、痛みとして、詳細を記述して欲しかったと思うが。
- BRC2017:2Ch 36:23 「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」
- この言葉をもって、歴代誌は終わっている。そして全く同じ言葉がエズラ記の最初(1章2節)にある。(4節はエズラ記のみ)ユダの最後の王ゼデキヤの時代の記述は「へりくだらなかった」(12節)「イスラエルの神、主に立ち帰らなかった」(13節)「祭司長たちのすべても民と共に(中略)神殿を汚した」(14節)そして「彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(16節)と記している。キュロスのことばは、どのように受け取られたのだろう。現在も続く、イラク(バビロン)とイラン(ペルシャ)の抗争(現在はこれにサウジアラビアが加わる三つの大国)についても考えさせられる。イスラム教、キリスト教以前の世界を、その歴史を、イスラエル、ユダの人たちはどのように受け取ったのだろうか。わたしには、まったく想像もできない。
- BRC2015:2Ch36:1 国の民はヨシヤの子ヨアハズを選び、エルサレムで父の代わりに王とした。
- ネコとの戦いの中で死んだヨシヤのあとのヨアハズの治世は3ヶ月とある。このあとエルヤキム(エジプト王にヨヤキムと改名させられる)11年、ヨヤキンは3ヶ月と10日、ヨヤキンはネブカドネツァルに退位させられ、ゼデキヤが11治める。ずっと国としては悲惨な時代が続き約23年でネブカドネツァルに滅ぼされる。希望が潰えたと思わされる時だったろう。歴代誌記者は何も語らない。
- BRC2013:2Chr36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。
- 祭司によるエルサレムの神殿における祭儀中心に復興を図ろうとする意図が、歴代志の背景として強いが、ここでは、祭司のかしらたちが「はなはだしく罪を犯した」ことが記されている。異邦人の道にいくことが罪であるという背景はあるが。この反省こそが次の出発点であるはず。可能ではなかったとしても。
エズラ記
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- BRC2021:Ezra 1:1,2 ペルシアの王キュロスの治世第一年のことである。主は、エレミヤの口を通して伝えられた主の言葉を成就させるため、ペルシアの王キュロスの霊を奮い起こされた。王は国中に布告を発し、また文書をもって次のように述べた。「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。
- 歴代誌36章22,23a節のことばと一言一句同じである。歴代誌36章23節後半は「あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい。」となっており、エズラ記1章3節とは少しことなるが、そこで歴代誌を閉じている。両方の書の記者(集団)に強い関連性があることが見て取れる。この布告の原文はわからないが、3節の「その方はエルサレムにある神である」というちょっと不自然な表現を見ると、ある程度、原文に忠実なようにも思われる。これに続く「残る者は皆、どこに寄留している者であっても、自分のいる所で、エルサレムにある神の宮への自発の献げ物を用意し、また銀や金、財産や家畜をもって彼らを援助しなさい。」(4)はさらに興味深い。バビロンからペルシャに変わり、捕囚になったイスラエルの民はどのような状態だったのだろうか。ネヘミヤ記やエステル記などから部分的にしかわからないが、ある程度の自由はあったのかもしれない。「自分のいるところで」は、"Bloom where you're planted" 「植えられたところで咲きなさい」だろうか、を連想させる。ここでは、それが、寄附に結び付けられており、このあとに、「周囲の人たちは、自発の献げ物のほかに、銀の器、金、財産や家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。」(6)とあるが、規模はわからない。神殿再建がまず先という気持ちはわかるが、礼拝の場所から始める、それは不自然でもある。困難の始まりであるが、そのことは、簡単に予想もできたことだったろう。それを敢えてしたと受け取ろう。
- BRC2019:Ezra 1:5 そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。
- ユダ王国の主要人物をさして「皆」と言っているようだ。捕囚になったのも、エルサレム住民など、指導的立場にあった人たちだろうから、たしかにこれらが中心なのかもしれないが、ほかにもいろいろな人たちがいたはずである。このくくり方で、よいとされたのだろう。非常に細かいことだが、「以上金銀の祭具の合計五千四百。」(11)の書き方が気になった。「以上」は「など」として欲しかった。全体として、配慮が行き届いていないように感じてしまうのは、わたしだけだろうか。
- BRC2017:Ez 1:4 すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
- 歴代誌での引用に加わっている部分である。このあと周囲の人たちの支援について書かれ、さらに「キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めた祭具類を取り出させた。」(7節)と続く。ダビデ、ソロモンの時代からは、様々な略奪や、贈り物としてささげた記録もあり、どの程度のものが、ネブカドネツァルによってバビロンに運ばれたかは不明である。歴代誌下36章にエジプトに貢を納めることが課されたことも書かれており、大国の間では、おそらく、十分なものは無かっただろう。しかし、そうであっても、大きな恵みと受け取ったことは確かだろう。異邦人の異教徒の支配者のめぐみの大きさ、それを神のあわれみと感謝して。祝福と呪いとしての単純ではなく、複雑でもある。
- BRC2015:Ez1:3 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
- この文章をみても、このあとの財務官ミトレダトによって選び出させた祭具類のリストを見ても、背後に王の近くで働いていた「主の民に属する者」がおそらく何人もいたことは確かである。この通達文書を見て信仰を鼓舞された人は多かったろう。同時に新バビロニアが滅ぼされ、ペルシャになるまで希望を捨てなかった人たちの喜びも目に浮かぶ。しかしこれが神の国の到来ではない。
- BRC2013:Ezra1:1 ペルシャ王クロスの元年に、主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動されたので、王は全国に布告を発し、また詔書をもって告げて言った、
- これだけでは、クロスを決断させて背景についてよく分からない。しかし伝えようとしていることは「主の言葉の成就」であること。そのために「(主が)クロスの心を感動され」これにクロスが応答したことが書かれている。
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- BRC2021:Ezra 2:64,65 会衆全員を合わせると四万二千三百六十人であった。このほかに、男女の奴隷が七千三百三十七人、男女の詠唱者も二百人いた。
- 2つ気になった。一つは、奴隷の存在。もう一つは、会衆のほかとして、男女の詠唱者について記録されていることである。2つ目は、会衆の中であるが、別途最後に記述した可能性もあるが、神殿に仕える(58)会衆の中にいれていても良かったはずである。奴隷は、バビロンなどにいたころにすでに、奴隷を所有していた裕福なひとがかなりいた可能性を感じる。異民族だったのか。このあとに、馬、らば、らくだ、とともに、非常に多くのろばの数が書かれているが、奴隷も、労働力として、重要だったのだろう。特に、中心は、裕福な、支配階級のひとたちだったろうから。しかし、神殿建築を考えると、やはり問題も感じる。また、1節には、エルサレムとユダのそれぞれの町に帰ったとあるので、やはり南ユダ王国の末裔だったのだろう。サマリヤのグループとは、最初から断絶して活動を開始したように思われる。
- BRC2019:Ezra 2:2 彼らはゼルバベル、イエシュア、ネヘムヤ、セラヤ、レエラヤ、モルドカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと共に帰って来た。イスラエルの民の男子の数。
- 最初に名前が連なるのは、指導者なのだろう。このあとに、リストが続く。「男子」とはあるが、「一族」という書き方と、「ベツレヘムの男子」(21)のように、男子と明確にしている箇所とがあり、祭司、レビ人については、「イエシュアの家族」(36)という表現もあり、さらに「男女の詠唱者」(65)とあり、その理由は書かれていない。おそらく、もともとは、ユダやレビではなく、単に、ユダに住んでいた人たちも、様々な人たちが含まれていただろう。部族も、所属部族のような者だったかもしれない。戦士となりうるとする、男子の数え方が基本なのだろうが、それぞれからの報告を、記録したのかもしれない。かえって、様々な記載があることが、現実の複雑さを表現しているとも考えられる。
- BRC2017:Ez 2:1 捕らえ移された先から上って来たこの州の人々は次のとおりである。彼らはバビロンの王ネブカドネツァルによってバビロンに連行されたが、それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰った者たちである。
- このあとには、11人の名前がまず記され「彼らは(中略)と共に帰って来た。」とあり、これから部族毎の人数が続く。人数は、帰還者のそれであり「バビロンに連行されたが、それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰った者たち」だととるのは誤りであろう。70年以上の捕囚の年月を考えると、殆ど残っていなかったかもしれない。しかし、戻ったのは、自分の町であり、まさに、連行された者たちだったのだろう。その歴史を両親または祖父母からつぶさに聞かされていたであろうから。リーダーの名前にも興味をもつ。モルドカイは、エステルの叔父だろうか、ネヘムヤは、ネヘミヤと同一人物だろうか。リーダーとはどのような人たちだったのだろうか。
- BRC2015:Ez2:64-67 会衆の総数は、四万二千三百六十人であった。 ほかに男女の使用人がいて、それが七千三百三十七人いた。また、男女の詠唱者が二百人いた。 彼らの馬は七百三十六頭、らばは二百四十五頭、 らくだは四百三十五頭、ろばは六千七百二十頭であった。
- 大変な数の人たちの帰還である。どのように生活したのだろうとまず心配になる。家畜の数も書かれているが、八千程度で、一人一頭にはほど遠い。ろばが多いことからも、物資の輸送に使ったと思われるが最小限の数であり、そのあとの生活のためではないここともわかる。ここに北イスラエルの人々はどのように加わったのだろう。混血や寄留の外国人はどうなっていたのだろう。この人たちが一つになるには、宗教しかなかったのかもしれない。
- BRC2013:Ezra2:2 彼らはゼルバベル、エシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レホム、バアナと共に帰ってきた。そのイスラエルの民の人数は次のとおりである。
- 歴代志上3:19 によればゼルバベルは王族でエホヤキムの子、ゼデキヤの父である、エコニヤの孫にあたる。エズラ3章・5章、ハガイ1:1、ゼカリヤ4をみるとこの帰還グループの長の役割を果たしている。ネヘミヤ7:7のリストと比較。エシュアはエズラ2章・3章などに現れるヨザダクの子の祭司か。ひとりひとり調べてみたい。
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- BRC2021:Ezra 3:11 彼らは「主は恵み深く、その慈しみはイスラエルの上にとこしえに及ぶ」と、主への賛美と感謝をもって唱和した。主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな喜びの叫びを上げた。
- 批判的な目でも見てしまうが、喜んでいるもの、たいせつにしているものが蘇っていくひとたちのこころと一緒にいたいとも思う。主のかわらない愛を強く感じられるのは、このようなときなのだろう。わたしも、人生で何度か、そのような時をもったのかもしれない。あまりそれを味わうことが得意な性格ではなかったが。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ書12章15節)これが難しいのはなぜだろうか。考えさせられる。「貧しい人を嘲る者は造り主を見くびる者。/災いを喜ぶ者が罰を免れることはない。」(箴言17章5節)のように、貧しい人を嘲り、他者の災いを喜ぶほうが自然なのだろうか。
- BRC2019:Ezra 3:12,13 昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。 人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。
- このひとたちと共に喜び、このひとたちと共に泣くとは、どのようなことなのだろうか。むろん、喜びの声と、泣き声が交差する状況はある程度理解できる。しかし、その複雑さは、ひとり一人の歴史にまで寄り添わないと、受け取れないように思われる。筋萎縮性側索硬化症(ALS: amyotrophic lateral sclerosis)に罹っている数学者の友人のブログを読んでいて、強く感じた。勇気をもち、また、その文才をももって、時にはユーモアも交えて、闘病記をも書いてくれるから「受け取れない」ということを、受け取れるのだろうが。捕囚帰還後のユダヤ教には、批判的になってしまう面が強い。しかし、その前に、共に喜び、共に泣く者でありたい。
- BRC2017:Ez 3:12 昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。
- どの程度いたのだろうか。現実的に考えると非常に少なかったと思われる。BC586がユダ王国の滅亡。クロスの第一年はBC538、エルサレム帰還の第一陣はBC536と言われている。すると、滅亡の時に、生まれたひとは、50歳、祭司の勤めは30歳からだから、そのような人は80歳となる。エレミヤ預言が70年間の捕囚だったので、それから、もう少し期間があると思っていたが、そうでもないのかもしれない。この人たちの、感動は伝わってくる。大声でなく人と、喜びの声をあげる人。このあとも、困難の連続であるが、ここにあらたな原点があるのだろう。それは、尊重して考えなければいけない。ヨシア王の死はBC609とすると、ヨシア王のことを知っているひとはさすがに殆どいなかったと思われる。
- BRC2015:Ez3:13 人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。
- この感動の声はわたしの耳にまで伝わってくるようだ。「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」(11節)と、唱和するにふさわしいときだったろう。しかし、ひとが生きていくことは、これだけによっているのではない。
- BRC2013:Ezra3:9 そこでユダの子孫であるエシュアとその子らおよびその兄弟、カデミエルとその子らは共に立って、神の宮で工事をなす者を監督した。ヘナダデの子らおよびレビびとの子らと、その兄弟たちもまた一緒であった。
- 2節には「そこでヨザダクの子エシュアとその仲間の祭司たち、およびシャルテルの子ゼルバベルとその兄弟たちは立って、イスラエルの神の祭壇を築いた。これは神の人モーセの律法にしるされたところに従って、その上に燔祭をささげるためであった。」と出てくる。祭司のヨザダクの子エシュアと、ユダの子孫である(従って祭司ではあり得ない)エシュアがいたことになる。
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- BRC2021:Ezra 4:2 彼らはゼルバベルと親族の頭たちに近寄って来て言った。「私たちにも一緒に建てさせてください。私たちも同じように、あなたがたの神に伺いを立てております。アッシリアの王エサル・ハドンが私たちをここに連れて来た時から、この神にいけにえを献げています。」
- このときの対応はどうすればよかったのかと思う。とても悩ましい。この人たちは「ご存じのように、私たちは王宮から俸給をいただいておりますので、王様に対する非礼を見過ごすわけにはまいりません。それゆえ、私たちは王様に使いを送ってお知らせする次第です。」(14)とも書いており、「そこで、アッシリアの王は命じた。「あなたがたが捕囚として連れ去った祭司の一人を、元いたところに連れ戻しなさい。連れ戻してそこに住まわせ、その地の神のしきたりを教えさせなさい。」こうして、サマリアから捕囚として連れ去られた祭司の一人が戻って来て、ベテルに住み、どのように主を畏れ敬うべきかを教えた。」(列王記下17章27,28節)とある人たちの末裔だろうか。この政策が、アッシリアから、バビロン、ペルシャに引き継がれているのか。理のあることでもある。しかし宗教的には、エズラ記記者たちとは、かなり離れてしまっていることも確かだろう。さて、どうしたら良いのだろうか。神様のあらたなチャレンジにようにも見える。そして、このようなことは現代でも頻発しているように思う。このひとたちの社会的・政治的役割を理解し、かつ、その人たちが担ってきた、神様から委ねられてきたものを受け取り、少しずつ協力を模索する。とても、難しいだろう。わたしなら「一緒に聖書を読みませんか」かな、または、通読をいっしょに始めてみることだろうか。時間もかかるように思う。妥協と思われることもあるかもしれない。
- BRC2019:Ezra 4:1.2 ユダとベニヤミンの敵は、捕囚の子らがイスラエルの神、主のために聖所を建てていることを聞いて、 ゼルバベルと家長たちのもとに来て言った。「建築を手伝わせてください。わたしたちも同じようにあなたがたの神を尋ね求める者です。アッシリアの王エサル・ハドンによってここに連れて来られたときから、わたしたちはこの神にいけにえをささげています。」
- この申し出を拒否、その後「ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。 」(5)とあり、どうも、何度も送っており、アルタクセルクセス王に書き送ったものが功を奏したようである。Wikipedia からの情報だと、アケメネス朝のキュロス2世(紀元前550年 - 紀元前529年)がここでペルシャの王キュロスと呼ばれているものと思われ、このあと、カンビュセス2世(紀元前529年 - 紀元前521年)、スメルディス(紀元前521年)、ダレイオス1世(紀元前521年 - 紀元前486年)、クセルクセス1世(紀元前486年 - 紀元前465年)、アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)となっていることを考えると、長期間にわたり、工作をし、手紙を送り続けたように思われる。その人達の側からも考えると、やはり、敵として遇するしかなかったのか、考えてしまう。パレスチナ問題は、綿々と続く。
- BRC2017:Ez 4:4,5 そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方、 ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。
- この人たちにも言い分はあるだろう。50年もしてから、帰還してきて、神殿建設を始めたのだから。お金もある程度持って帰ってきたであろうし。キュロスの存命中にすでに始まったことも書かれている。複雑であることは確かである。ひとは、このようなときに、どう考えたらよいのだろうか。人の行動と、神の働きについて。だれも悪くなくても、困難が生じている。
- BRC2015:Ez4:3 しかし、ゼルバベルとイエシュア、他のイスラエルの家長たちは言った。「わたしたちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、わたしたちに託された仕事です。ペルシアの王キュロスがそう命じたのですから、わたしたちだけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます。」
- 妨害に遭い24節には「そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。」とある。あまり長くなく1年半ぐらいかとあるが、このような時の対応は非常に難しい。責任問題にもなり得る。評価をするのは、とても困難に思われる。
- BRC2013:Ezra4:2 ゼルバベルと氏族の長たちのもとに来て言った、「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します。アッスリヤの王エサル・ハドンがわれわれをここにつれて来た日からこのかた、われわれは彼に犠牲をささげてきました」。
- 1節は「ユダとベニヤミンの敵である者たちは」からスタートする。北イスラエル王国の民で残された者もいたはずであるがそれには言及されていない。ここでは、アッスリヤ王による移住政策によって移動してきた民のみが言及されている。判別困難な混乱もおそらくたくさん生じていたであろう。その基準は、何で、どのように決められていったのだろうか。
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- BRC2021:Ezra 5:17 それゆえ、王がお許しになりますならば、キュロス王がエルサレムにあるこの神殿を再建する命令を下されたのかどうか、バビロンにある王の保管庫をお調べください。そして、この件に関する王のお考えをお知らせください。」
- ここに引用されている「アバル・ナハラ州の総督タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその同僚であるアバル・ナハラ州の統治者たちがダレイオス王に送った書簡の写し、」(6)は秀逸である。ペルシャやバビロンの政治も十分理解しているひとが、自らの背景と、経緯を簡潔にまとめて書いているのだろう。このようなひとが与えられていることは感謝である。そうであっても、近隣のひとたちとの関係を適切に築くことはできなかったのか。正しさが前面にあり、義を確立することをつねに望んでいたのだろう。「隣人を自分自身のように愛し」「互いに愛し合う」ことを正しいとするのではなく、神の子らとして、この言葉に生きようと目指すには、まだ時間がかかるということだろうか。現代でも、そこに目を向けることに至るのは、遠いが。それを目指していきたい。
- BRC2019:Ezra 5:6 ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイおよびその仲間であるユーフラテス西方の巡察官たちがダレイオス王に送った手紙の写し、
- 様々な人達が関わっていることがわかる。アルタクセルクセス1世のあとは、クセルクセス2世(紀元前424年 - 紀元前423年)、ソグディアノス(紀元前423年)、ダレイオス2世(紀元前422年 - 紀元前404年)と続く。引用箇所のダレイオス王は、2世のことだろうか。4章の手紙と5章の手紙を比較すると、行政官や、王の側近のしごとの丁寧さが、大きな影響を及ぼしていることもわかる。かなりのレベルで、行政が行われていたことも、見て取れる。アケメネス朝ペルシャについても、勉強してみたくなった。
- BRC2017:Ez 5:5 しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、その報告がダレイオスになされ、それに対する王の返書が送られてくるのを待った。
- 1節をみると「預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言した」とある。このことが影響していることも確かであろう。なぜ、このときに、成功したのかを厳密に問うことはできないであろう。しかし、引用した箇所の「神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので」は素晴らしい信仰告白である。神に信頼して生きる者でありたい。
- BRC2015:Ez5:13 しかし、バビロンの王キュロスはその治世の第一年に、この神殿の再建をお命じになった。
- キュロスは1:1ではペルシャの王となっている。ここではバビロンの王。通常世界史ではアケメネス朝ペルシャ帝国(BC550-330)と言われ、メディアやリュディアや新バビロニアを征服したキュロス二世(在位BC559-529)、エジプトを征服したカンビュセス二世(在位BC530-522)をへてダレイオス一世(在位BC522-486)で最盛期となる。
- BRC2013:Exra5:12 われわれの先祖たちが、天の神の怒りを引き起したため、神は彼らを、カルデヤびとバビロンの王ネブカデネザルの手に渡されたので、彼はこの宮をこわし、民をバビロンに捕えて行きました。
- ユダヤ人の長老たちの真摯なこころが見える。それを5節にあるように「しかしユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので、彼らはこれをやめさせることができず、その事をダリヨスに奏して、その返答の来るのを待った。」と書かれているところにさらに共感をもつ。現代のキリスト者の考えとは多少ずれがあるとしても、立派な教養人、信仰者、リーダーである。
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- BRC2021:Ezra 6:8,9 この神殿を再建するために、あなたがたがユダヤ人の長老たちになすべきことについて、私は命令を下す。その経費は、アバル・ナハラ州からの税収による王の資産から、これらの人々に確実に支払われるようにし、滞ることのないようにしなさい。また必要なもの、すなわち、天の神に焼き尽くすいけにえとして献げる若い雄牛、雄羊、小羊、それに小麦と塩、ぶどう酒と油が、エルサレムにいる祭司の提言どおり、日々彼らに支給されるようにし、手抜かりのないようにしなさい。
- 敵対者もいることから、おそらくこの文書の内容は正確であると思われる。イスラエルの人から見て完璧である。キュロス王の記録の内容が確認され、総督に手を引くように命じ、引用句のように、再建のときの経費の支出、礼拝のために必要ないけにえに関わる支出についても記し「王とその一族の長寿を祈る」(10)の記述も内部の非難をさけるためにも重要だったろう。さらに、最後に、反対者への罰についても述べられており、「私ダレイオスは、これらが注意深く実行されるように、この命令を下す。」(12)と締めくくっている。おそらく、起草者の中に、イスラエル人またはよく知るものがいたのだろう。完璧であるが、心配もある。いくら財政基盤が貧弱だとしても、ペルシャの税収で賄われることである。これは、最初に神殿を再建するというビジョンに関係しているとも言える。気持ちはわかるが、一時しのぎであることも覚えないといけない。それだけの準備が整えられていくか、緊張感を失っていくか、信仰生活は単純ではない。神殿建設がゴールでは無いのだから。同様のことは、現代でも形を変えて起こることなのだろう。
- BRC2019:Ezra 6:8,9 この神殿を建てるために、あなたたちがそのユダの長老たちを援助することを、わたしは命ずる。その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。天にいます神に、焼き尽くす献げ物としてささげるために必要な雄牛、雄羊、小羊、それに小麦、塩、ぶどう酒、油をエルサレムの祭司たちの要求に従って、毎日欠かさず与えなければならない。
- これは、神殿建設に反対していた人たちにとっては大きな痛手だったろう。イスラエル人たちの勝ち誇った顔がうかぶが、本当にそれでよいのかは不明である。ともに生きることを目指せないのだろうか。これも、正しさは確保されているかもしれないが、結局の所「ユダの長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言に促されて順調に建築を進めていたが、イスラエルの神の命令と、ペルシアの王キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの命令によって建築を完了した。」(14)とあるように、様々な人達の支援が関係しているのだから。ここに、アルタクセルクセスも登場することは、よくわからない。また、22節に「主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである。 」と、アッシリアと記されていることも、不明である。地名ではないように思うが。
- BRC2017:Ez 6:21 捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかった。
- 確実とは言えないが、この後半「イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々」は、捕囚にはならず、土地にのこった、どちらかというと、支配階級ではない平民のことを言っていると思われる。少なくとも、捕囚の地から帰ってきた人々とは区別されている。また17節には「全イスラエルのために贖罪の献げ物としてイスラエルの部族の数に従って雄山羊十二匹をささげた。」ともある。イスラエルの捕囚はアッシリアの頃であり、ユダ王国は、ユダとベニヤミン、それ以外は、それぞれの一部だけだったと思われるので、ここで十二部族が同等に扱われ、民族としての一致が守られたことにも意味がある。「イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。」(16節)のことばによく現れている。
- BRC2015:Ez6:8 この神殿を建てるために、あなたたちがそのユダの長老たちを援助することを、わたしは命ずる。その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。
- 原文はアラム語で書かれたものであろう。ここはおそらくヘブル語。しかし、内容は正確に伝えられていると思われる。金額は不明であるが「その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれを彼らに与えよ。」とある正確さをもって記されている。ユダヤ人という名称が適切かどうか不明であるが、この人たちにとって貴重な文章で、多くの人の前で何回も読まれたことが想像できる。15節には「この神殿は、ダレイオス王の治世第六年のアダルの月の二十三日に完成した。」とあり、5章24節からすると再開は治世の第二年であるから四年あまりでの完成である。経費は潤沢だったように思われる。
- BRC2013:Ezra6:3 クロス王の元年にクロス王は命を下した、『エルサレムにある神の宮については、犠牲をささげ、燔祭を供える所の宮を建て、その宮の高さを六十キュビトにし、その幅を六十キュビトにせよ。
- この記録が見つかったことが決定的だと記されている。この文書の記述・正確さを見ると、クロスの周辺には、ユダヤ人が仕えていたことが見てとれる。クロスの制作の影には、無名のひとたちの多くの働きがあったのであろう。
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- BRC2021:Ezra 7:27,28 私たちの先祖の神、主はたたえられますように。主は、エルサレムにある主の神殿を誉れあるものとするために王の心を動かされ、王とその参議、および有力な王の高官すべてが私に対して好意を向けるようにされた。私の神、主の手が私の上にあったので、私は力を得て、共に上って行こうとする頭たちをイスラエルから集めた。
- 不明な点もあるが、王の側近との間にも、信頼関係が築かれていたことがみてとれる。「私」は「祭司であり書記官であるエズラ」(11)のようにも思われるが、文脈からは明確とは言えない。それと、書記官がイスラエルの書記官か、「アルタクセルクセス王」(11)の書記官であるか不明である。しかし、いずれも、「是 YES」 なのだろう。「このエズラが、バビロンから帰還した。彼はイスラエルの神、主が授けられたモーセの律法に精通した書記官であり、その神、主の手が彼の上にあったので、王は彼が求めるものすべてを与えていた。」(6)とあり、ここにも書記官とある。イスラエルで任命されることは、まだできないと思われるので、ペルシャの役職なのだろう。大勢いるひとりだったろうが、仲間も多く、それが、6章の手紙や、7章の手紙を書いていると思われる。どこにおいても、忠実に仕事に当たり、信頼を得ることの大切さとともに、利益誘導ではないかとも心配になる。不公正ではなくても、不公平を誘発する。考えることは多い。
- BRC2019:Ezra 7:23 王とその子孫の国に怒りが下らないように、天にいます神の命令であれば、天にいます神の神殿のために、すべてを滞りなく実行しなければならない。
- ペルシャの政策は、それまでのアッシリア、バビロニアからの大きな変更である。「これらの事があって後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、エズラがバビロンから上って来た。」(1, 6a)節も入り組んでいるが、6章14節にあるアルタクセルクセスは、こちらの、アルタクセルクセス2世(紀元前404年 - 紀元前343年)(参照:アルタクセルクセス3世(紀元前343年 - 紀元前338年))のことで、4章にある、アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)ではないのだろう。明らかに、イスラエルが自律的に、これらのことができているわけではない。ということは、主が、イスラエルだけの神という考え方では理解できないことが出現しているとも見ることができる。当時の人達も、そのことを強く意識した可能性も高い。すでに、グローバルである。民族主義、神殿を中心とした唯一神信仰とともに、普遍性も重視される時代だったのかもしれない。
- BRC2017:Ez 7:6 エズラは、イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた。
- 1節から5節に系図が書かれているが、祭司として、アロンの家系であることが、捕囚という、祭司職が殆ど意味の無い時代においても、意識されてきたのだろう。おそらく、エズラは捕囚二代目ぐらいであろうが、親からの教育をしっかりうけつつ王の「書記官」という職を得て、その力を発揮してきたのだろう。教育を受けた、教養人としての働きでもある。この短い文章にも「イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法」「その神なる主の御手の加護を受け」と表現されている。捕囚帰還後の宗教国家設立には、個人的には、受け入れがたいものを感じるが、その中心人物の生き方には同じ神を信じるものとして、学びそしてつながりたい。
- BRC2015:Ez7:7-9 アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエルの人々、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人から成る一団がエルサレムに上り、 同王の第七年の第五の月にエルサレムに到着した。 彼らは第一の月の一日をバビロン出発の日とし、神の慈しみ深い御手の加護を受けて、第五の月の一日にエルサレムに到着した。
- アルタクセルクセス王は一世(在位BC464-424)と思われるがダレイオス王(在位BC522-486)との間にはクセルクセス一世(BC486-465)統治の期間もある。年はユダヤ暦とどのようにあわせていたのだろう。何か第一の月の一日はユダヤ暦を想像させる。
- BRC2013:Ezra7:25 エズラよ、あなたはあなたの手にある神の知恵によって、つかさおよび裁判人を立て、川向こうの州のすべての民、すなわちあなたの神の律法を知っている者たちを、ことごとくさばかせよ。あなたがたはまたこれを知らない者を教えよ。
- アルタシャスタの信頼が高かったことを意味する。学者は基本的に律法の専門家ではあるが、メディアの法もふくめたあらゆる学識に通じてもいたのであろう。それを学ぶ位置と経験を得ることができたリーダーのひとりがエズラであったということか。
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- BRC2021:Ezra 8:20,21 また、神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者として二百二十人を連れて来た。彼らは皆、指名された者であった。私はアハワ川のほとりで断食を呼びかけた。それは神の前にへりくだり、私たちのため、幼い子らのため、その他の財産のために、道中の無事を求めてのことであった。
- エズラと共に帰還したひとたちのリスト、さらに、レビ族のひとたちがいないので召集をかけていることを考えても、目的は、神殿で神に仕えることが最優先であることがわかる。引用句には「神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者」についても記されている。レビ族ではなく、下請けなのだろう。この人達がいなければ、実際の仕事はできない状況だったとも言える。ダビデが整えた神殿周辺の仕事(ダビデの時代にはまだ神殿は無いはずだが)も継続しようとしたこともわかる。引用句には、幼い子らも登場する。男何人という記述が続くが、家族での帰還だったのだろう。その体制も維持しての帰還である。「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」(22)をどのように行うかは、あまり簡単ではない。わたしも、「神を尋ね求める者」でありたいと願っているが、なにがよいのかは、正直よくわからない。エズラたちは、それを過去の栄光にもとめたのか、それとも、律法を逐一守ることに求めたのか。わたしは、どうしたら良いだろうか。
- BRC2019:Ezra 8:21-23 わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。
- エズラのリーダーシップのもとでの誠実さとともに、これが方法論となっていく危険性をともに感じる。最後の「祈りは聞き入れられた」も事実として受け取るのか、信仰告白として受け取るのかの違いもある。幼子のためだけでなく「持ち物」のためにも祈っているが、このあとの文章からもわかるように、神そして、神殿にささげられた、そして主にお返しするものとして大切に扱っていることも見て取れる。アルタクセルクセスのもとでも、丁寧な仕事がなされていたのだろう。その信頼も背後にあるように思われる。
- BRC2017:Ez 8:15 わたしはアハワに向かって流れる川のほとりに彼らを集めた。そこでわたしたちは、三日間野営した。そこには民も祭司もいるのが分かったが、レビ人が見当たらなかった。
- アルタクセルクセス王の親書をもって、エズラは旅立っているが、何をすべきなのか、目的も明確にもち、かつ、それを実行するために必要な人員についても、単に「わが国にいるイスラエルの人々、祭司、レビ人でエルサレムに行くことを望む者はだれでも、あなたと共に行ってよい。」(7章13節)だけで、ボランタリーに集まった人と、託された金銀などでは、十分ではないことを知っていた。書記官として、実際の職務の遂行に習熟していたと言うことだろう。神への信頼を忘れてはいけないが(21節・22節)それだけで、ことがなるわけではない。エズラを待ち受けている物は、単純な作業ではないのだから。
- BRC2015:Ez8:21-23 わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。 わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。
- これらのことばは31節と対応している。そこでは「道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて、免れることができた。」と書かれている。実際に攻撃があったのかどうかは不明であるが、かなりの危険の可能性が示唆されている。このような一連の信仰に基づいた行動をどう評価するかは困難である。これらの節にあることを主張する信仰者に対して、対案を出すことは非常に困難である。しかし、ひとり一人が責任をゆだねられていることも事実である。マタイ10:16「「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」をどのように解釈するかも難しい。
- BRC2013:Ezra8:31 われわれは正月の十二日に、アハワ川を出立してエルサレムに向かったが、われわれの神の手は、われわれの上にあって、敵の手および道に待ち伏せする者の手から、われわれを救われた。
- 21節から23節の部分とつながっている。この当時、護衛をつけないでの大移動はかなり危険が伴うことだっただろう。王からうけとった神殿のための高価な祭具などもある。これを一般化すべきかは、考えさせられる。しかし、このエズラの主導でこのことがなされたのは、大きな意味があったのだろう。
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- BRC2021:Ezra 9:8,9 ところが今、僅かな間、私たちの神、主の憐れみによって、私たちを生き残る者とし、その聖なる所によりどころを与え、私たちの目に光を与え、奴隷の身の私たちに僅かに生きる力を与えられました。確かに、私たちは奴隷です。しかし、神は奴隷の身の私たちを捨て置かれず、ペルシアの王たちの前で私たちに慈しみを示されました。それは私たちに生きる力を与えるため、私たちの神の宮を再建するため、廃虚を復興するため、ユダとエルサレムで私たちに城壁を与えるためでした。
- この自己分析には驚かされる。「奴隷」ということばが2回登場するがこれは具体的にはなにを意味しているのだろうか。ペルシャの王のものにあるということか、それとも、霊的な実態を含むのか。主が慈しみが示された目的が与えられている。「生きる力を与える」「神の宮を再建する」「廃虚を復興する」「城壁を与えるため」奴隷とはあまり結びつかない。さらに、キュロスの詔勅は、神殿建設について述べているが、それ以外は、どのような状態だったのかも不明である。エズラの計画なのか。それとも、ペルシャの命令か。奴隷の身のものが、慈しみを施され、生きる力を与えられたら、それが、私自身だったら、なにをするだろうか。あまりよくわからない。考えてみたい。
- BRC2019:Ezra 9:11 御命令は、あなたの僕、預言者たちによってこう伝えられました。『これから入って所有する地は、その地の住民の汚れによって汚された地である。そこは、その端から端まで彼らの忌まわしい行いによって汚れに満たされている。
- このあと申命記7章3節「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。」などが引用されている。基本的には、申命記のようである。このあとも、分離主義を貫いていく。イエスは、違った態度を取られる。主権的な力をもった言葉なしには、過去の言葉に従うことも理解できるし、それにとらわれることによって、その背後にあるみ心を理解できないこともある。へりくだり、み心を求めることの難しさでもある。わたしが「達し得たところに従って」というときのむろん、自由も、真実も、危険も、そこにあるように思われる。
- BRC2017:Ez 9:3 わたしはこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。
- 「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。」(1節)から始まる。これは、土地の住民との結婚を指している。(2節)「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。 あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。」(申命記7章3節・4節)を根拠としていると思われる。申命記は、カナンに入るときのことを言っているが、歴史的には、ずっと複雑な状況は続いており、ダビデの家系も、タマルや、ルツなどとの結婚によって続いている。しかし、エズラたちは、これこそが、民を神から引き離した重大な要因だと結論していたのだろう。クリスチャンとクリスチャン以外の結婚など、現代でも同じ種類の問題が議論される。ひとは弱さをになっている。このことが、試練となることは事実であり、それをさけても、試練がなくなるわけでもない。イエスは、このような悩みを抱えた民を、友とされたように思う。正しさではない価値観だろうか。
- BRC2015:Ez9:1,2 このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、 彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」
- 困難な問題の報告である。わたしには、この問題の解決法はわからない。しかし、イエスはエズラのように行動しただろうか。そうとは思われない。「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』」 (ヨハネ8:7)
- BRC2013:Ezra9:15 ああ、イスラエルの神、主よ、あなたは正しくいらせられます。われわれはのがれて残ること今日のとおりです。われわれは、とがをもってあなたの前にあります。それゆえだれもあなたの前に立つことはできません」。
- 8章のエズラの指導のもとでの帰還グループの献身と、すでに帰還し、混乱のなかで生活していた民とのあいだには、大きな溝ができてしまっていたと考えると、これは、ひとつの逆カルチャーショックの物語として片付けることもできる。しかし、神からのチャレンジとしてうけとめて、どうしていくか、歴史を振り返り、内面化し、現代をいきるものの選択として決断していく、非常に困難な、しかし、おそらくこれが信仰に生きることなのだろう。
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- BRC2021:Ezra 10:2,3 エラムの一族であるエヒエルの子シェカンヤはエズラに言った。「私たちは神に対する背信の罪を犯し、この地の民である外国の女と結婚しました。しかし、この件についてイスラエルには希望があります。この度、私たちは神と契約を結び、これらの女、および彼らから産まれた子らをすべて追い出します。わが主と、神の戒めを畏れ敬う人々の勧めに従ってのことです。律法に従って行いましょう。
- この人たちなりに誠実に行ったことで、非難すべきことではないのだろうが、とても残念である。正しさが生む悲劇とも言える。現代における聖書理解にも影響があることだろう。「しかしながら、民は多く、長雨の季節でもあり、外に立っている力はありません。」(13a)ともあるが、外的要因もこの決断の背後にあるかもしれない。「アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤはこれに反対し、メシュラムとレビ人シャベタイが彼らを支持した。」(15)反対したひとがいることが書かれているのは、救いでもある。声をあげた理由は様々だろう。その中には、到底許容できないものもあったかもしれない。しかし、同時に、耳を傾ける必要のあるものもあったろう。引用句の「私たち」があくまでも、自発的な集団なのか、強制をふくむものなのかも、気になる。「同意」はとったようだが。(19)「三日のうちに出て来ない者は皆、長たちと長老たちの勧告に従って、その全財産が没収され、捕囚の民の会衆から除名することになった。」(8)からすると、ある範囲は限っているものの、強制的ともいえる。裁判官のもとでの離婚という整然と、「律法」にしたがってこのことがなされることにも恐れを感じる。そのようなことは、現代でもおそらく、起こっているのだろう。
- BRC2019:Ezra 10:15 ただアサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤがこれに反対し、レビ人メシュラムとシャベタイがその二人に加担した。
- 現在のわたしであれば、おそらく、この人達のように、自分の状況がどうであれ、反対しただろう。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。」(9章1節)と始まっている。今後のユダヤ教の指導を考えると、祭司、レビ人については、明確にしないといけないと考えたのだろう。しかし「以上の者は皆、異民族の女をめとった。その女の中には子を産んだ者もあった。」(44)ともある。正しさの悲しさを感じる。普遍的な真理に行き着くのは、難しいということなのだろう。反対しつつも、この指導者たちとも、ともに生きる道を見つけていきたい。
- BRC2017:Ez 10:12-14 会衆はこぞって大声で答えた。「必ずお言葉どおりにいたします。 しかし、民は大勢であり、雨の季節でもあって外に立っている力はありません。また、わたしたちはこの罪を数多く犯しましたので、その処理は一日や二日では終えることができません。 わたしたちの長を全会衆の上に立て、わたしたちの町の者で異民族の嫁を迎え入れた者が皆、定められたときに、それぞれの町の長老と裁判官と共に出頭するようにしていただけないでしょうか。この罪に対して燃え上がったわたしたちへの神のお怒りもついに治まることでありましょう。」
- 長く引用した。集団離婚というおそらく歴史的にも類をみない大変な事態である。いま、是非は問わないが、雨の季節であることが述べられている。困難さを象徴しているようでもある。なぜ「外に立っている力がない」と言っているのだろうか。説得だろうか、反省だろうか。苦しみが伝わってくる。宗教共同体としての新たな出発と捉えると、多くの人が心を一つとしたと言うことだろう。この記事がエズラ記の最後、そしておそらく中心であることも、考えさせられる。
- BRC2015:Ez10:15 ただアサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤがこれに反対し、レビ人メシュラムとシャベタイがその二人に加担した。
- イエスはどうしただろうか。この人たちが相談に来たときに、どう答えただろうか。わたしには、このエズラの決断を支持できない。しかし、エズラが主に従おうしたとしてこのようにしたことに疑いはない。意図がよければそれでよいのだろうか。愛の行為といえるのだろうか。神が愛する人を愛していることになるのだろうか。
- BRC2013:Ezra10:44 これらの者は皆異邦の女をめとった者である。彼らはその女たちをその子供と共に離縁した。
- 15節にもあるように、反対もあったろう。困難な決断、この名前ひとつひとつに悲しみと信仰による決断があったろう。わたしがこの場にいたらどうするだろうか。いまなら、信仰のない妻であっても、信仰をもった妻であっても、そして神の前に不信の罪を得たと確信したとしても、そのことによっては離縁せず、この集団から離れるだろう。しかし、この人たちにとっては、信仰を守ることと、ユダヤ教の教団に属すること、異教の習慣を遠ざけることは一致していたのかも知れない。イエス様はどうされただろうか。
ネヘミヤ記
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- BRC2021:Nehemiah 1:1,2 ハカルヤの子ネヘミヤの言葉。第二十年のキスレウの月に、私がスサの都にいたときのことである。私の兄弟の一人ハナニが、数人の者と共にユダからやって来たので、私は捕囚を免れて生き残っているユダヤ人について、またエルサレムについて尋ねた。
- 第二十年は「アルタクセルクセス王の第二十年」(2章1節)ともあり、現代の日本の元号についても考えさせられた。世界的にも元号(王朝のよる年代)が残っている国は、他にもあるのだろうか。ネットを調べると、紀元前465‐424年がアルタクセルクセス王の治世とあるので、第一年(元年)が465年とすると「第二十年」は、紀元前444年ごろだろうか。カレンダーの決め方も気になった。「捕囚を免れて生き残っているユダヤ人」についての記述も興味をひいた。応答は「捕囚の生き残りで、その州に残っている人々は、大変な苦悩と恥辱のうちにいます。またエルサレムの城壁は崩され、門は火で焼かれてしまいました。」(3)で、サマリヤの方のことは、知らされなかったようにも思われる。複雑な背景もあったはずである。エズラ記の最後を見ると、捕囚にならなかった人の中では、混血も進んでいただろう。さらなる分裂も心配される。それと、ヨーロッパやアメリカに連れてこられたアフリカからの黒人奴隷とは、捕囚の民は扱いが違っていただろうことも、このネヘミヤの例だけではないが、気付かされた。どのように、扱われていたのだろうか。背景として気になることが多い。
- BRC2019:Neh 1:5-7 わたしはこう祈った。「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。
- 主語は「わたしも、わたしの父の家も」となっている。列王記、歴代誌にも、民の不従順についての記録があるが、これらは、王の記録、国としての記録のために、個人のことについて、あまり書かれていないのかもしれない。熱心な信仰者の個人のレベルでの告白は、表面には現れにくいことも確かである。当時の人達がどのように考え、告白していたかを表す、貴重な表現でもある。
- BRC2017:Nh 1:3 彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」
- 2章1節には「アルタクセルクセス王の第二十年、ニサンの月(BC445年)」とあるので「第二十年のキスレウの月」(1節)も同じ年だろう。キュロス(第一年はBC538年)からはすでに100年近くたっていたのかもしれない。すると、ネヘミヤは最初の帰還した世代から考えても、何代かたっている。エルサレム帰還を望む民の一人としての気持ちは、理解できる気がする。
- BRC2015:Ne1:11 おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。
- 「志」が与えられた瞬間だろう。献酌官として仕えていたネヘミヤがチャレンジをうけた。ここには、現代に生きるわたしたちと共通のものを感じる。しかし捕囚後は難しい。
- BRC2013:Neh1:9 しかし、あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの戒めを守って、これを行うならば、たといあなたがたのうちの散らされた者が、天の果にいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ所に連れて来る』と。
- Deut30:1-5 からの引用か。4節は「たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。」となっている。預言書にもこの思想は多い。Is 11:12, Jer 23:3, 31:8-10 Exe 20:34, 41, 36:24, Mic 2:12, 「あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまい」(Deut12:5) は揺るがすことのできないものだったのだろう。考えさせられる。
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- BRC2021:Nehemiah 2:20 私は彼らに反論した。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。その僕である私たちが立ち上がって再建する。あなたがたには、エルサレムの中に取り分も、権利も記録もない。」
-
- 「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のために援助しようとする人間が来たということを聞いた。それは彼らにとって甚だ不都合なことであった。」(10)エルサレムから来た同胞(ネヘミヤの兄弟の一人ハナニと数人の者:1章)からサンバラトとトビヤについても聞いていただろう。そう考えると、まずは、このグループを排除することが肝要だと思ったことは自然である。城壁修復など任務を持っており、城壁は、外敵を防ぐこと、外と中を分け、中を安全にすることなのだから。しかし「あなたがたには、エルサレムの中に取り分も、権利も記録もない。」と一蹴している。受け入れられる条件や、なにが問題なのかを明らかにできなかったのか。それは、傍からみているものの、見方で、仕方がなかったのだろう。しかし、望ましくはないが、その時点では、解決できなかった問題であるとの意識は持っていたい。それも、理想論で、現実的には難しいのだろうが。わたしが、ネヘミヤだったらどうするだろうか。そして、サンバラトやトビヤだったらどうするだろうか。
- BRC2019:Neh 2:6 王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、
- 王妃のことも書かれている。おそらく、単なる業務をしていただけではなく、信頼されていたことを表現しているのだろう。「わたしは王の前で暗い表情をすることはなかった」(1)ともある。さらに、このあとには、かなり、詳細な計画をあらかじめ考えていたと思われることが記録されている。そのような、ネヘミヤをもちいたことに意味があるのだろう。ネヘミヤに与えられた賜物とも言えるだろうし、日々の業務への忠実さによって錬られた性質とも言えるかもしれない。まさに、このときに、available だったのだろう。そのように、もちいられることを、考えてはいなかったと思うが。
- BRC2017:Nh 2:20 そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」
- 反対する、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムに対する反論である。痛快にも聞こえるが、同時にとても悲しい。やはり、そう感じるのは、後半の故だろう。めんどくさいひとたちと、反対するひとたちと、友となることは、できないのか。すぐにそれは、ならなくても、神に祈り求めることはできるのではないだろうか。それを、神が望んでおられるなら。滅びの者は、自然に滅んでいくのだから。それを、完全に止めることはできない。
- BRC2015:Ne2:6 王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、
- ネヘミヤが王や王妃に信頼を得ていることが見て取れる。不確定な要素が多い。だからこそ信頼が必要である。それは、日常でのこと、この世での営みだろう。
- BRC2013:Neh2:5 王に申しあげた、「もし王がよしとされ、しもべがあなたの前に恵みを得ますならば、どうかわたしを、ユダにあるわたしの先祖の墳墓の町につかわして、それを再建させてください」。
- 1章3節を見るとネヘミヤの聞いた報告は「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」であることがある。町の再建が、尊厳をもって生きることと密接に結びついていたのだろう。
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- BRC2021:Nehemiah 3:38 私たちは城壁を再建し、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には復興への意志があったのである。
- この章に記述されている場所で、エルサレムの城壁がすべて修復されるのかは、調べてみないといけないが、かなりの部分が修復されることになったのだろう。引用句「民には復興への意志があった」は、たしかに全員ではないだろうが、特別なことが起こったことは見て取れるように思う。サンバラトやトビヤも、これは信じられないことが起こっているとして、どうにかしなければいけないと思っただろう。祭司で書記官のエズラのように、神により頼み、護衛を頼まない(エズラ記8章22節)姿勢からも学ぶ点はあるが、献酌官で、王のそばで、統治について学んできた、ネヘミヤが総督として赴任したからこそできたことは多かったろう。これも、信仰的決断と、科学的判断の両方に適切に目をむけるたいせつさの一つだと思う。そして、このネヘミヤの準備周到な働きが、人々の協力と、一丸となる協働性も生み出している。ネヘミヤについては、学ぶことが多いように思う。
- BRC2019:Neh 3:38 わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。
- 一つ一つ丁寧に記されているように思われる。オールスターである。むろん、それは、社会的、政治的なリーダーと言う意味ではない。様々な人達が積極的に関わっている様子が見て取れる。その中に、そうではないことも加わっているが。(5)「大祭司エルヤシブ(と)仲間の祭司」(1)「鋳物師ハルハヤの子ウジエル」(8)「香料調合師のハナンヤ」(8)「自分の家の前」(10)「エルサレムの他の半地区の区長ハロヘシュの子シャルムが、その娘たちと共に」(12)「ベト・ケレム地区の区長レカブの子マルキヤ」(14)「ミツパ地区の区長コル・ホゼの子シャルン」(15)「ベト・ツル半地区の区長アズブクの子ネヘムヤ」(16)「ケイラ半地区の区長ハシャブヤ」(17)「彼らの兄弟」(18)「ケイラの他の半地区の区長ヘナダドの子バワイ」(18)「ミツパの長イエシュアの子エゼル」(19)「ザバイの子バルク(熱心に)」(20)「ハコツの孫でウリヤの子であるメレモト」(21)「盆地の男子である祭司たち」(22)「ビンヤミンとハシュブ」(23)「アナネヤの孫でマアセヤの子であるアザルヤ」(23)「ヘナダドの子ビヌイ」(24)「ウザイの子パラル」(25)「神殿の使用人」(26)「テコアの人々」(27)「祭司たちがそれぞれ自分の家の前」(28)「イメルの子ツァドク」(29)「東の門の守衛シェカンヤの子シェマヤ」(29)「シェレムヤの子ハナンヤとツァラフの六男ハヌン」(30)「ベレクヤの子メシュラム」(30)「鋳物師マルキヤ」(31)修復した部分も含めるとさらに興味深い。
- BRC2017:Nh 3:38 わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。
- 延々と続く、補修者のリスト「しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」(5節)とはあるがこの連綿と続く補修参加者、グループは圧倒的である。「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った。」(2章18節)が具現化されていると見ることができる。反対者もいる中で、専門家でも無いものが力を合わせる。常に起こることではないことが現実となっている。
- BRC2015:Ne3:1,2 大祭司エルヤシブは、仲間の祭司と共に羊の門の建築に取りかかり、それを奉献し、扉を付けた。次いでハンメアの塔まで、更にハナンエルの塔まで奉献した。 その傍らにはエリコの住民が一方に、イムリの子ザクルが他方にいて建築に携わった。
- 5節をみると「更にその傍らではテコアの人々が補強に当たった。しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」とあるが、特記すべきこととして書かれている。つまり、あらやる人が身分の違いを超えて、この作業に取りかかったと言うことである。いろいろな思いもあったろうが、それを乗り越える共同作業。あまりに美化してもいけないのかもしれないが、感動を覚える。
- BRC2013:Neh3:1 かくて大祭司エリアシブは、その兄弟である祭司たちと共に立って羊の門を建て、これを聖別してそのとびらを設け、さらにこれを聖別して、ハンメアの望楼に及ぼし、またハナネルの望楼にまで及ぼした。
- 大祭司が祭司たちと協力して、町を再建している。このあとも、5節に「その貴人たちはその主の工事に服さなかった。」とあるが、「川向こうの州の知事の行政下にあるギベオンとミヅパの人々」(v7)、「製香者」(v8)、「エルサレムの半区域の知事ホルの子レパヤ」(v9)、「エルサレムの他の半区域の知事ハロヘシの子シャルムがその娘たちと共に」(v12)、「ベテ・ハケレムの区域の知事レカブの子マルキヤ」(v14)、「ベテズルの半区域の知事アズブクの子ネヘミヤ」(v16)、「ケイラの半区域の知事ヘナダデの子バワイなどその兄弟たち」(v18)、「エシュアの子でミヅパの知事であるエゼル」(v19)、「低地の人々である祭司たち」(v22)、「オペルに住んでいる宮に仕えるしもべたち」(v26)、「祭司たち」(v28)、「金細工人のひとりマルキヤという者」(v31)、「金細工人と商人たち」(v32)とある。名前のみの人は記していないが、なんと多様な人たちええあろう。知事、大祭司、祭司、金細工人、製香者、商人、そして女性。さらに、かなり遠くからも来ているようである。協力しなかった人のことが記されているのも、興味深い。ユダヤ人以外が含まれているのかは不明。
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- BRC2021:Nehemiah 4:11 城壁を再建する人々、荷を担いで運ぶ人々は、一方の手で作業をしつつ、もう一方の手は投げ槍を握りしめた。
- 以前この句を引用し、霊的に解釈して、証をしていたことを聞いたことがある。それが悪いわけではないが、この章を読むと、状況の認識・分析、それに対応するネヘミヤの指揮官としての有能さ、こまかいところまで行き届いた指示によって信頼をえることなど「荷役の力は衰え、瓦礫の山はおびただしい。城壁を再建するなど、私たちには不可能だ。」(4)とユダがつぶやいても「あなたがたが私たちのところに戻って来ると、あらゆるところから私たちは攻められます」(6)と、十度も訴えても、仕事を忠実にかつ精密に計画して行っている。ネヘミヤの資質もあるだろうが、異教徒の異邦の政府における訓練から多くを学んでいるのだろう。それがここに生かされているように思われる。単に、信仰を持ち出しても、解決しないことは多くある。信仰を否定するのではなく、神が働かれる、すべてを、それがどのようなことかわからなくても、受け取ろうとする、謙虚に、御心を求める姿勢が、必要なのだろう。いくつか、具体的に拾ってみよう。サンバラトやトビヤの意図を理解し行動を予測し、仲間内にも、それが入り込んでいることを理解している。(1,2,5,9)ユダの不安・心配・不審など、気持ちを受け止めつつも、それの根源を考えて、それらを考慮しつつ任を全うしようとしている。(4,6,8)書かれている具体的な指示は、すべてこれに当たるかもしれない。単なる、正しさで、任を全うしようとはしていない。そこに人がいて、その人々の信頼を得なければ、ことはなされないことを理解している。ネヘミヤとその部下が身をもってその中心に居続けたことも、重要なのだろう。ネヘミヤから学ぶ点は多い。
- BRC2019:Neh 4:17 わたしも、兄弟も、部下の者も、わたしに従う警備の者も、わたしたちはだれも、服を脱がずにいて、各自投げ槍を右の手にしていた。
- 最初は「わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。しかし、ユダもこう言うのだった。『もっこを担ぐ力は弱り/土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など/わたしたちにはできません。』」(3,4)からスタートしている。指導力だろうか。エズラは、警備を依頼せず(エズラ8章22節)、ネヘミヤは警備の兵とともに、来ている。役割が異なるからもあるが、単純に表面だけで判断してはいけないのだろう。むろん、軍事力以外の平和を希求したいが。
- BRC2017:Nh 4:6 彼らの近くに住むユダの人々がやって来て、十度もわたしたちに、「あなたたちが戻ると、あらゆるところからわたしたちは攻められます」と言った。
- この文に多くの情報がはいっている。ネヘミヤが率いる部隊がいなければ、簡単に攻められてしまう。巡回をしているようだが、エルサレム以外に住むひとたちもおり、そのひとたちの保護も課題。おそらく、ネヘミヤはまずエルサレムの城壁の再建を重視したのだろう。そこに逃げ込めばよいような堅固なものとすることを。しかし、長期的に見ると、ネヘミヤの任期もあり、簡単に解決できる問題ではない。高まっていた士気がくじかれる可能性が高い時期である。施策の評価も簡単にはできない時期でもある。
- BRC2015:Ne4:8 わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」
- ネヘミヤとその部隊の存在は大きかったろう。エズラのようなひとも、預言者たちも、そしてこのようなネヘミヤというリーダーも。時代の一コマと考えればよいのか。土地の人たちとの関係を築くことはできなかったのか。このようなことが、現在の紛争につながっているともいえなくもない。
- BRC2013:Neh4:31 そして、わたしも、わたしの兄弟たちも、わたしのしもべたちも、わたしを護衛する人々も、われわれのうちひとりも、その衣を脱がず、おのおの手に武器を執っていた。
- かなり大変な状況で、様々な人が関わるグループをまとめ、仕事を続ける大変さは、簡単に表現できるものではなかったろう。ネヘミヤも献酌官のような仕事をしていたことを考えると、かなりのチャレンジであったろう。それを支えたもの、このことにかけた思いに惹かれる。
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- BRC2021:Nehemiah 5:6,7 彼らの叫びとこれらの訴えの言葉を聞いて、私は大いに怒り、よく考えた末、貴族と役人を責めて、彼らに言った。「あなたがたは同胞どうしで利息を取り合っている。」私はまた大きな集会を召集して、
- 「大いに怒り」とあるが、そのあと「よく考えた末」となっている。しかし、それだけではない、ネヘミヤの基本的姿勢、日常的な営みと神をどのような方と見るかが大切なのだろう。それなしに、単に怒りのあとの考慮を結びつけても無意味だろう。「労役がこの民にとって重荷となっていたからである。」(18b)の基本的理解の上で、この問題を解決している。おそらく、前の章で不平を言ったり、訴えたりしていたのは、ユダの中心的な人たち、リーダーだったろう。ことが動き出すと、この章では、内部の問題、指導者と一般の貧しい人たちの具体的な問題が浮上する。こちらは「叫びと訴え」(6)となっている。このネヘミヤならば、彼ら・彼女らの根本的な苦しみ、悩みも解決できるかもしれないと思ったのかもしれない。もしかすると、これは解決できないだろうと思いつつも、ネヘミヤをテストしているのかもしれない。指導者や富裕層が違法なことをしているとするのではなく、自分たちの姿勢をモデルとして示して、より本質的なこと、神様が喜ばれることへと導いている。「あなたがたのしていることは間違っている。私たちの敵である異国の民にそしられないように、私たちの神を畏れて歩むべきではないのか。」(9)それこそが、信仰的歩みであり、信仰者が「神を畏れて歩む」実質だろう。そのことに、向かい、共に、歩むものでありたい。ネヘミヤからは多くを学ばされる。
- BRC2019:Neh 5:15 わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シェケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった。
- 長官(14,18,12:26)であるネヘミヤには状況は十分理解できただろう。しかし、この税の負担を、同国民に向けている、貴族と役人を非難している。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。」(9)どちらが悪いかの判断ではなく、苦しい状況の中でも、どのように生きるかを考える先に、平和があるように思われる。
- BRC2017:Nh 5:9 わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。
- 多くのことがこの章には含まれているが、ネヘミヤの態度から学びたい。おそらく、ネヘミヤにも責められることはあったろう。しかし常に自分を省みて、神を畏れて生きたのではないだろうか。敵である異邦人に辱められないためにには、そのことがよく現れている。だからこそ、貴族や民の指導者にもいえたのだろう。ユダの地の長官としての権威は絶大だったろう。しかしそれだけでは人は動かない。信用しない。これが、Servant Leadership だろうか。一つ一つ考えてみたい。「彼らはそれに答えた。『返します。何も要求しません。お言葉どおりにします。』わたしはこの言葉どおり行うよう誓わせるために祭司たちを呼んだ。 わたしはまた衣の折り重ねたところを振るいながら言った。『この約束を守らない者はだれでも、このように神によってその家と財産から離され、振るい落とされるように。このように振るい落とされて無一物となるように。』会衆は皆で、『アーメン』と答え、神を賛美した。民はその言葉どおり行った。」(12節・13節)祭司の前で誓わすこと、民としての団結など、いろいろな要素が詰まっている。問題点の指摘はおいておいて、エズラのやりかたよりも、実際的に写る。
- BRC2015:Ne5:19 神よ、わたしがこの民に尽くしたすべてのことを快く心に留めてください。
- このことを、自分の救いの根拠としていると考える必要はないだろう。ネヘミヤは神様から与えられた自分の十字架としてこのことに当たることによって、神に対して忠実であろうとし続けたのだろう。謙虚さは必要でも、非難はあたらない。
- BRC2013:Neh5:9 わたしはまた言った、「あなたがたのする事はよくない。あなたがたは、われわれの敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか。
- そのとおりだと思っても、わたしはそれを言えるだろうか。個人の利害に関係すること。影響をいろいろと考える余り、大胆に言えないのではないだろうか。このことができ、それが実現したのも奇跡。
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- BRC2021:Nehemiah 6:10 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家を訪れると、彼は閉じこもっていた。彼は言った。/「神殿で、聖所の中で会おう。/聖所の扉は閉じておこう。/彼らがあなたを殺しにやって来るから。/夜、彼らがあなたを殺しにやって来る。」
- ここでは、最後の挑戦のようにしてこのことが書かれている。この策略に動じず、最後には「城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちのすべての敵がこれを聞いたとき、私たちの周りの異国の民は皆、恐れを抱き、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16)とまとめている。これが信仰告白なのだろう。この背景には、忠実に、誠実に、それまで学んだことを最大限活かして、できる限りのことをしている。おそらく、それが、誠実さ、忠実さなのだろう。全身全霊ということだろうか。しかし、疲れている中で、何度も何度も、挑戦を受け、それを避けられるような別の方向からの誘いを受け、それに適切に答えるのは、そう簡単ではないだろう。わたしも、注意して、少しずつ歩みを修正して行きていきたい。
- BRC2019:Neh 6:1 サンバラト、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他わたしたちの敵は、わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを耳にした。
- 直接的な脅しと殺害の陰謀、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤを買収して神殿に入るという罪を犯させようとする(12)、女預言者ノアドヤによる脅迫(14)さらに「そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。ユダの多くの人は彼と互いに誓約を交わす関係にあったからで、トビヤはアラの子シェカンヤの娘婿であり、トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた。彼らはわたしの前ではトビヤへの賛辞を述べ、トビヤにはわたしの言葉を密告した。トビヤはわたしに脅迫の手紙をよこした。」(17-19)と、捕囚から帰還した民の状況が浮き彫りになっている。この中での作業は、困難を極めただろう。これでよいのかと、確信を失うような状況もあったろう。信頼を得て、民とともに喜ぶのは、ほんとうに困難である。
- BRC2017:Nh 6:10 わたしが、メヘタブエルの孫でデラヤの子であるシェマヤの家に行くと、彼は閉じこもっていた。彼は言った。「神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来る者がある。夜、あなたを殺しにやって来る。」
- このあとには「彼は神が遣わした者ではなく、トビヤとサンバラトに買収されてわたしに預言したのだということをわたしは悟った。」(12節)巧妙な罠である。保身を第一にして、民を見捨てることも含まれているが、同時に、ネヘミヤのように祭司でもないものが、神殿にはいることは、ウジヤ王の例(歴代誌下26章)と同じく、罰せられるべきものと、民も考え、離反者がおこることは、十分予想ができる。それも、自分の演技でそれを強いる。シャマヤもある危機を脱しようとしたのかもしれない。ネヘミヤは試されているのだろうか。われわれにもそのような機会は多い。
- BRC2015:Ne6:17,18 そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。 ユダの多くの人は彼と互いに誓約を交わす関係にあったからで、トビヤはアラの子シェカンヤの娘婿であり、トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた。
- 3章5節「更にその傍らではテコアの人々が補強に当たった。しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」にすでに兆候はある。ネヘミヤもすでにある程度の情報を得ていたろう。「ユダの多くの人は彼(トビヤ)と互いに誓約を交わす関係にあった」理由はいろいろと想像することもできる。現実社会の難しさである。嘆き、主に祈り、王の支援もうけて、大志を抱いて乗り込んできたネヘミヤ、エズラもそうだったが、困難は足下にある。しかし同時に、それによってすべてを判断できないことも確かである。神にその判断を任せないといけない。
- BRC2013:Neh6:11 わたしは言った、「わたしのような者がどうして逃げられよう。わたしのような者でだれが神殿にはいって命を全うすることができよう。わたしははいらない」。
- 「メヘタベルの子デラヤの子シマヤ」がどのような人か分からないが、ネヘミヤは、「『ユダに王がある』と言わせている」(7節) という中傷にも、この節における「神殿にはい」るという誘いにも、適切に対応している。自分の職、神の前の位置も、神から与えられているものとして受け入れている。それが「ぶれない生き方」ということなのだろう。わたしもそのように生きたい。
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- BRC2021:Nehemiah 7:69 親族の頭の幾人かは、工事のために寄付をした。総督は、資金として金一千ドラクメ、鉢五十個、祭司の短衣五百三十着を差し出した。
- 最初に「また私は、私の兄弟のハナニと城塞の長ハナンヤにエルサレムを治めるよう命じた。ハナンヤは誠実な人物で、誰よりも神を畏れていたからである。」(2)を見ると、ハナニが登場する。このハナニは、ネヘミヤ書の冒頭1章2節に登場するハナニだろう。引き継ぎとしても適切だと考えたのだろう。ハナンヤについては書かれているが、ハナニについては、ほかに情報がないので、少し心配ではある。この章6節以降は、エズラ記2章とほとんど同じである。微妙に異なる部分があるのが不思議なほど符合している。正確に違いは拾っていないが、写本の違いぐらいにしか、思えない程度の差である。しかし、引用句は少し違う。エズラ記2章68節の途中からであるが、最初から引用する。「エルサレムにある主の神殿に到着すると、親族の頭の幾人かは、その場所に神殿を建てるために自発の献げ物を献げた。彼らは自分の力に応じて工事資金として金六万一千ドラクメ、銀五千マネ、祭司の短衣百着を差し出した。」(68,69)
- BRC2019:Neh 7:4,5 町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてはいなかった。わたしは心に神の指示を受けて、貴族と役人と民を集め、家系に従って登録させようとしたところ、最初に帰還した人々の名簿を発見した。そこには次のように記録されているのを発見した。
- 二方向の意味はよくわからないが、伝えていることは、その中には、あまり人が住んでいなかったということだろう。町としての機能は、まだ、持っておらず、生活のためには、町ではなく、他のところのほうが機能的ということだろうか。おそらく、基本的な理論もあるのだろう。名簿を発見したと書かれている。まだ、それらの整理もされていなかったということだろう。まず、その住民を把握するところから始めるように考えるが。様々な意味で興味深い。
- BRC2017:Nh 7:72 祭司、レビ人、門衛、詠唱者、民の一部、神殿の使用人、すなわちイスラエル人は皆それぞれ自分たちの町に住んだ。
- このことが「町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてはいなかった。」(4節)とあるように、エルサレムを守る住人が確保できなかった原因であろう。なかなか困難な問題である。
- BRC2015:Ne7:61,62 テル・メラ、テル・ハルシャ、ケルブ、アドン、イメルから上って来たが、自分の家族と血筋がイスラエルに属するかどうか示せなかった者は次のとおりである。 デラヤの一族、トビヤの一族、ネコダの一族、六百四十二人。
- このリストはエズラ2章59,60節のものと同一である。ゼカリヤ書6章10, 14節にも「帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族」と記されている。ネヘミヤ記では「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤ」または「アンモン人のトビヤ」と記されているので、別人と考えた方がよいかもしれない。しかし、61節にあるように「自分の家族と血筋がイスラエルに属するかどうか示せなかった者」として名前が挙げられていることは示唆的でもある。何らかの関係をまったく否定することはできない。最初には「アンモン人の僕トビヤ」と書かれていることも気になる。イスラエル人、またはその関係者が、寄留して生活しなくてはいけない状況も十分あったろう。このトビヤに関して断定はできないが。
- BRC2013:Neh7:5 時に神はわたしの心に、尊い人々、つかさおよび民を集めて、家系によってその名簿をしらべようとの思いを起された。わたしは最初に上って来た人々の系図を発見し、その中にこのようにしるしてあるのを見いだした。
- 捕囚から帰ってきた人は、それを選んだ人(何もないところに戻っていくことも、そのままの生活を続けることもできた)、その人たちの集団が、第二神殿時代を築いているという永田先生のコメントを思いだす。エルサレム再建、新たなユダヤ教再建の同志のリストを創ろうという気持ちはよく分かる。
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- BRC2021:Nehemiah 8:16,17 民は出て行き、枝を取って来て、各自、家の屋上や彼らの庭に、そして神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に、自分たちのために仮庵を作った。こうして捕囚から帰還した全会衆は、仮庵を作り、その仮庵で過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのように祝ったことはなく、それは大変大きな喜びであった。
- 8章は「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」(10)とあるように、喜びの日である。エズラが律法を読み(3)、レビ人が律法を民に解説し(7)ネヘミヤと、エズラとレビ人たちが、民を励まし(9)、二日目に仮庵祭をしていないことに気づき、引用句に至る。十分な家もない状況(7章4節)で、町の城壁や、門の修復作業をしていた人たちにとって、出エジプトの時を思うことは、とても意味があることだったろう。これまでの様々な労苦が喜びとなる時、それを共に祝える時、それはなんと喜ばしいことだろうか。むろん、問題が消滅したわけではないが。そのようなときも大切にしたい。
- BRC2019:Neh 8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
- 「彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」(3)とあり、そのあと、「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」(8)とある。ヘブル語を理解しない民も多かったのだろう。そして、聞いただけでは理解できなかった人たちも。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。 」(9)という中で、引用句が言われている。悲しむことがあるなかで、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」は、明記すべき、素晴らしい言葉である。
- BRC2017:Nh 8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
- 主に従っていない、自分および同胞に目を向けるのは当然であろう。しかしここでは「主を喜び祝うことこそ、力の源である」と言っている。その力なくして、自らの弱さをもって生きることはできないのかもしれない。「喜び祝うこと」は具体的に何を意味しているのだろうか。
- BRC2015:Ne8:8 彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
- ヘブル語からアラム語だろう。ヘブル語教育はどのようになされたのだろう。一般の人にとっては、日常語がアラム語で、捕囚されていたところでも、公用語がアラム語であるなら、ヘブル語は失われていったろう。しかし、意味が明らかにされなければ、翻訳だけでは理解できない。さらに、理解しようとする心が与えられなければ9節のように「律法の言葉を聞いて泣」くことはできないし、「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」(10節)と言われて「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。」と表現された状況にはならない。
- BRC2013:Neh8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。
- このときが、ユダヤ教の新しい集団が組織されたときと見なす見方もあるのかもしれない。律法、預言書の成立がやはり気になってくる。王国時代は、どのように礼拝がなされていたのだろうか。
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- BRC2021:Nehemiah 9:36,37 このとおり、今日私たちは奴隷の身です。/その実りと恵みを享受するようにと/あなたが私たちの先祖にお与えになった/この地で/このとおり、私たちは奴隷の身です。この地の豊かな産物は/私たちの罪のゆえに/あなたが私たちの上にお立てになった/王たちのものとなっています。/彼らは私たちの体をも支配し/私たちの家畜も、彼らの意のままです。/私たちは大変な苦しみの中にいます。」
- レビ人の賛美が5節から最後まで続いており、引用句がその最後である。レビ人のリスト(4)のうち、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ホディアは、8章7節のリストにも入っている。イスラエルの歴史を内面化して告白しているもので興味深い。最後は現状について述べ、奴隷の身としている。ネヘミヤ記を読んでいると、とても自由に行動しているように見えるが、収穫のどの部分かはわからないが、自分たちのものとはならないことが奴隷という意味なのだろうか。おそらく、もっと様々な不自由さがあったのだろうが。この章に含まれている、精神の自由さをみると、奴隷とはとても言えない、自由なこころの人たちだと思ってしまう。
- BRC2019:Neh 9:36 御覧ください、今日/わたしたちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地/その実りと恵みを楽しむように/与えられたこの土地にあって/御覧ください/わたしたちは奴隷にされています。
- なかなか強烈である。「奴隷」という言葉が二回出てくる。実際は、どのような状況だったのだろう。かなり自由に見えるが。「王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も/あなたの律法に従わず/度重なる命令にも戒めにも/耳を貸しませんでした。」(34)ともある。総懺悔である。みな、不従順と奴隷状態にあることを理解していたのだろうか。この祈りについて、理解したい。
- BRC2017:Nh 9:3 彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。
- この状況の前に、エズラに記されている、土地の人との婚姻関係解消があったのだろうか。それは、ここに書かれていない。しかし、一般的な過去の民族としての苦しみ以上のものがあったのではないだろうか。「その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。」(1節)も単なる宗教的な儀式とは思えない。
- BRC2015:Ne9:37 この土地の豊かな産物も/あなたがわたしたちの罪のためにお立てになった/諸国の王のものとなり/わたしたち自身も、家畜も/この支配者たちの意のままに/あしらわれているのです。わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです。」
- 3節には「彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。」とある。この罪の告白をうけて始まるのが5節以降に記されている主に対する賛美である。しかしその最後の37節を見ると状況はかなり厳しいことがわかる。アッシリアや新バビロニア時代の統治で他の地域の民も多く移住してきていただろう。総督は置かれても、十分な秩序はなかったかもしれない。この当時の状況をもう少し知りたい。
- BRC2013:Neh9:6 またエズラは言った、「あなたは、ただあなたのみ、主でいらせられます。あなたは天と諸天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、これをことごとく保たれます。天の万軍はあなたを拝します。
- この章は非常に興味深い。エズラがイスラエルの歴史(民と神の関係の歴史)を振り返って語っているから。この神理解の最初にあるのが、この節である。「すべてのものを造り、これをことごとく保たれます」創造とともに、保持が書かれている。自然現象の背後におられるだけでなく、環境を調和をもって保たれる神という面がいままで十分理解されてこなかったのだろう。
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- BRC2021:Nehemiah 10:1 これらすべてを顧みて、私たちは誓約し、書き留め、私たちの長、レビ人、祭司が捺印した。
- これは特別な新しい歩みである。これまでは、ユダヤ人すべてが国として、民族として、宗教集団として捉えられていたが、ここでは、誓約をしたものが核となっている。明確にはわからないが、他を排除するものではなかったろう。いくつかのことを考えた。まずは、ネヘミヤは王に任命され赴任しており、任期も明確だったろう。(2章6節)ハナニとハナンヤにエルサレムを治めるように命じ、そしてここでは、宗教的集団を契約によって形成している。教会や教団に近い。「以上は祭司である」(9)のリストが、ネヘミヤから始まっているが、かならずしも、ネヘミヤが祭司だということを言っているわけではないだろう。「ネヘミヤ、そして(וְצִדְקִיָּֽה (2)」と次のツィドキヤの前にワウがある。気になったのは、エズラの名前がないこと。30節から誓約の内容が書かれているが、詳細である。しかし、それだけで書き尽くせないこともあることも意味し、このゆえに、分裂もあったのかもしれないと思う。難しい。
- BRC2019:Neh 10:1 これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。
- いずれ誓約や契約について調べてみたい。「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。」(列王記下23章3節)「それから、王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った。」(歴代誌下34章31節)このあとにも、ネヘミヤ記13章25節にも誓が記されている。特殊な状況で、重要な決断をしたということだろう。誓約と契約の明確な違い、oath, vow, pledge 英語も違いを十分考えたことがなかった。わたしが使うときの区別はあるが。内容とともに、罰則、そしておそらくその運用も関係するのだろう。
- BRC2017:Nh 10:30 そのまことに貴い兄弟たちに協力するものであり、神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約するものである。
- このあとに確約の内容が続く。最初が地の民に嫁がせないこと、安息日に商売をしないこと、年に三分の一シェケルを宮に納めること、初物、初子を献げること、地の産物の十分の一はレビ人に献げることである。レビ人は、基本的に土地を所有しない(厳密ではない)ことからも、十二部族としては、地の産物の十分の一を献げて、神殿などの仕事を専業とするために必要だったのだろう。十分の一についても、もう少し学びたい。
- BRC2015:Ne10:1 これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。
- これに祭司23、レビ人17(+アルファ(兄弟たち))、民の頭44人の名が続く。このようなことを経て最高議会(70人)が形成されていったのだろうか。33節には神殿税と思われる記述もある。「わたしたちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。」1シェケルは11.4g。イエスの時代にはローマの1デナリと対応している。三分の一シェケルが当時どのような貨幣価値なのかは不明。ユダヤ教の基本が形成されていったことは読み取れる。
- BRC2013:Neh10:29 その兄弟である尊い人々につき従い、神のしもべモーセによって授けられた神の律法に歩み、われわれの主、主のすべての戒めと、おきてと、定めとを守り行うために、のろいと誓いとに加わった。(新共同訳では30節)
- このあと誓願の具体的な内容がつづく。土地の人(異邦人と一般化して良いのかは不明)と婚姻関係をもたない、安息日・聖日に売買をしない、7年ごとに耕作をやめ負債をゆるす。さらに、宗教集団を維持するための税金の既定が続く。この誓願に加わらなかった人にも適応したのか。
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- BRC2021:Nehemiah 11:1,2 民の長たちはエルサレムに住んだが、他の民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人は他の町に住むようにした。民は、自ら進んでエルサレムに住む人々すべてを祝福した。
- このあとのリストにいくつか説明が加えられていることも興味深い。「ジクリの子ヨエルが彼らの監督であり、セヌアの子ユダが町の次官であった。」(9)監督は他の集団にも書かれている場合があるが、町の次官も登場する。町はエルサレムだろうから、ある程度の組織があったこともわかる。「イスラエルの他の人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の受け継ぐべき地に住んだ。」(20)とあるが、このときの状況はどうだったのだろうか。まったくの廃墟が広がっていたわけではないだろう。前からいた人たちとの関係も様々だったことが想像される。捕囚にならずに、残された人たちも居るだろうから、どのように迎え、迎えられたかも気になる。そして、他民族で移住してきたひととの関係も。エルサレムに住むにしても、そうでなくても、大きな困難があったことだろう。
- BRC2019:Neh 11:1,2 民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。
- いくつか疑問なことがある。1つ目は、自発的な選択と、くじとはどのようになされたのかということ。もう一つは、このあとのリストに、「勇敢な人物」(6, 14)とあることである。7章4節にあるように、エルサレムに住んでいる人は少なかったことを考えると、このような行政措置も意味があったのだろう。細かく見ていくと、様々な混乱があるなかで、ネヘミヤは一つ一つ施策を展開している。献酌官だったことが書かれていたが(1章11節)他の役もかなり経験したから、総督に任命されたのだろう。召命と、それに、応答することの背景、availability の背後には、計り知れない、導きがあるのかもしれない。このネヘミヤにとっても、わたしたち一人ひとりにとっても。
- BRC2017:Nh 11:20 他のイスラエルの人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の嗣業をもって住んだ。
- この章には、エルサレムに住むことになった人たちのリストがあり、そのあとに、この節が続く。いくつかの町に分かれて住んだことが書かれているが、状況はどのようなものだったのだろう。すでに定住者もいたはずである。出身の町をそれぞれが立て直すほどの人数はいなかったろう。それが、よくわからない場合、破壊されてしまっている場合もあったろう。いまのパレスチナのような衝突は起きなかったのだろうか。アッシリア時代は、他の被征服民族を移住させて違う土地に定住させていたとも聞く。この時代について、もう少し知りたい。
- BRC2015:Ne11: 1 民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。
- 行政政策まで行っている。だれもいないところならともかく、様々な困難が伴ったことは予想できる。ユダのバビロン捕囚から、最初の帰還まで約50年、ネヘミヤの帰還までにはすでに約130年程たっている。この期間の記述は非常に限定的である。
- BRC2013:Neh11:2 またすべてみずから進みでてエルサレムに住むことを申し出た人々は、民はこれを祝福した。
- 荒廃した町、やっと城壁ができたなにもないところで生活を始めることは、かなりの大変さだったのであろう。敵の襲撃にそなえることなど、他の困難さもあったかもしれない。
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- BRC2021:Nehemiah 12:47 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの人々は皆、詠唱者と門衛のその日一日の分を提供し、レビ人には聖なる献げ物を与え、レビ人はアロンの子らにその聖なる献げ物を分け与えた。
- これまで読んできて、ゼルバベルの時代とネヘミヤ時代の関連が明確ではなかったが、ある程度この章に書かれている。ゼルバベルの時代とあるのは、最初のキュロスの勅令で帰還した第一陣のことだろうから、BC538年ごろ、エズラの帰還は BC458年ごろ、そしてネヘミヤが総督として赴任するのは、BC444年頃となる。ネヘミヤの時代に、エズラたちも含まれているのだろう。すると、1節のエズラは別人なのだろうか。しかし、この最初のリストに、ネヘミヤと共に労したひとたちと同じ名前がたくさん含まれるように見えるが、おそらく同じ名前が多いのだろう。このあと、年代は、「エルヤシブ、ヨヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代」(22)などと大祭司の名前で呼ばれているようである。どの程度厳密に、終生大祭司制が実行されていたかは不明だが。ペルシャなどで、王の第何年と呼ばれたり、日本の元号と共通点があるのかもしれない。しかし、後代のものには、わかりにくい。おそらく、まずは、整理することとして、この時代に、記録されていったのだろう。
- BRC2019:Neh 12:44 その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。
- ここでは「礼物と初物と十分の一」という言い方をしている。王国時代や捕囚時代とは、異なるこの時代に、どのように、献げものを集め、管理していたのかが少しだけ分かる。実際どのように変遷していったのだろうか。政治的な指導者が(ここではユダの人々といわれている)民のなかにいるわけではない。興味深いのは、最後に「実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。」とあることである。エズラ記やネヘミヤ記の記述などを徴収も、管理も、その背後にある、人々のこころも単純ではなかったろう。土地を失ったり、非常なる貧困に陥ったり、混血や、その土地に残っていた人たちもいたであろうから。宗教集団としての命を取り戻していった過程とも考えられ、興味深い。おそらく、困難も多々あったろう。
- BRC2017:Nh 12:22 エルヤシブ、ヨヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代にレビ人は、その家長が祭司と共にペルシアの王ダレイオスの治世まで記録された。
- すでに帰還第一世代からは何代か経ている。それが丁寧に記録されている。この系図が大切にされたことがわかる。血筋がそれほど大切にされたのは、祭司、レビ人だけなのだろうか。他のひとについては、どのようにしたのだろうか。興味がある。会衆の定義にもつながる。
- BRC2015:Ne12:46,47 ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。
- 過去とこの時とその後が対比されている。これも内省であり、信仰告白なのであろう。そしてさらに教育なのかもしれない。これらの言葉からも、考えさせられる。イエスの教えからは、これらは、この世でのことで、究極の普遍的真理追究とは異なっているのだろうから。
- BRC2013:Neh12:45 彼らはダビデおよびその子ソロモンの命令に従って、神の勤めおよび清め事の勤めをした。歌うたう者および門を守る者もそのように行った。
- 「ダビデおよびその子ソロモンの命令に従って」は何を意味するのだろうか。律法ではなく、レビ人の組織化をいみしているのか。どのように伝えられていたのだろう。
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- BRC2021:Nehemiah 13:29-31 私の神よ、祭司職を、また祭司とレビ人の契約を汚したことについて、彼らを覚えていてください。私はすべての外国人から彼らを清め、祭司とレビ人のそれぞれの仕事における任務を定めました。また定められた時の薪の献げ物と初物について定めました。私の神よ、私を心に留めて、お恵みください。
- ネヘミヤ記の最後の部分である。10章か11章で終わっていれば、ハッピーだったろう。しかし、ここまで記録したことの重さも感じる。私たちへの警告でもある。「この間ずっと、私はエルサレムにはいなかった。バビロンの王アルタクセルクセスの治世第三十二年に、私は王のもとに行っていたからである。やがて私は王にいとまを請い、エルサレムに帰り、エルヤシブがトビヤのためになした悪事、すなわち神殿の庭に彼のために部屋を手配したことを知った。」(6,7)最初の派遣から12年(BC432年頃)程度たっている。このあとには、宮清めのようなことが記録されている。ネヘミヤは素晴らしいリーダーだと思うが、そう簡単ではない。これも、大祭司の孫の代では、誓約は守られていなかったことが発端のようである。難しい。どうしたら良いのだろうかと、ネヘミヤも思ったことだろう。その難しさを、わたしたちも引き継いでいるように思う。しかし、イエスさまから学び担うというヒントも与えられつつ。
- BRC2019:Neh 13:26 イスラエルの王ソロモンすらも、このようにして罪を犯したのではなかったか。数ある諸国の中でも彼のような王はおらず、神に愛され、神によってすべてのイスラエルの王に立てられた、その彼でさえ、異民族の妻たちによって罪に引き込まれてしまった。
- この章は「その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。」(1)と始まる。十分調べないといけないが、基本的に申命記23章4節からの引用であろう。「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」ダビデはモアブの血を引くことを証言するルツ記はいつ書かれたのだろうか。系図をたいせつにする文化は、純血性を誇ることにもつながりかねず、排他的になる。ソロモンが神から離れたという、列王記の記述から学ぶことと、他者をさばくことは異なるはずである。申命記については、議論もあり、様々な問題も感じるが、イエスが多く引用している書でもあることも、覚えたい。
- BRC2017:Nh 13:1 その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。
- 申命記23章4節の「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」によっていると思われる。モアブはダビデの家系のルツもそうである。これこそ律法主義である。悲しいが、丁寧に見ていく必要もあるだろう。このあとも、律法に書いてあること一つ一つをチェックして、そのとおり指示したのに、そのようには、なっていないことが書かれている。ネヘミヤは「わたしの神よ、それゆえわたしを心に留め、神殿とその務めのために示した、わたしの真心を消し去らないでください。」(14節)とこれを「わたしの真心」といっているのだから。この章の最後は「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。」(31節)で終わっている。個人的な正しさとはいえないが、まずは、律法にしたがうこと、ここに飢えていたのだろう。それこそが、神に従うことと同じだったということか。その信仰も尊重したい。
- BRC2015:Ne13:28 大祭司エルヤシブの孫でヨヤダの子の一人が、ホロニ人サンバラトの娘婿となっていた。わたしは、彼を遠く追放した。
- 2章10節と19節に「ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤ」として出てくる。4節には「これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていたが、」とも出てくる。サンバラトとトビヤは様々な姻戚関係によってイスラエル人の中枢に入り込んでいたことがわかる。イエスなら、そして私はこの場でどうするだろうか。本当に難しい。
- BRC2013:Neh13:6 その当時、わたしはエルサレムにいなかった。わたしはバビロンの王アルタシャスタの三十二年に王の所へ行ったが、しばらくたって王にいとまを請い、
- Neh2:6 に「期間を定めて」とあるので、その期間が満ちたのかも知れない。
すると、さらに延長を願ったと言うことか。状況の報告は重要だったと思われる。しかしこのネヘミヤ記の最後をみると、道半ばで終わっている。きりがないほど問題はあっただろうことは容易に想像がつく。
エステル記
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- BRC2021:Esther 1:1,2 これは、インドからクシュに至るまで百二十七州を統治していたクセルクセスの時代のことである。クセルクセス王がスサの都で王位についていた頃、
- 「クセルクセス王の治世の第三年」(3)とこのあとに続く。クセルクセス(Xerxes I, 治世 BC486-465, アケメネス朝第4代の王)はダレイオス(Darius the Great, 治世 BC522 – 486)の子であるので、BC484年 頃ということになる。歴史背景が正確に書かれているが、歴史性は疑われており、本書の最後に書かれているプリム祭の由来として書かれたと考えられているようだ。最初に王妃とのトラブルかが書かれており、全体として興味深い。モルデカイは帰還民のリストにもあり、一般的な名前のようだが、エステルはユダヤ系にはない名前のようである。
- BRC2019:Es 1:8,9 しかし、定めによって酒を飲むことは強いられてはいなかった。王の命令によって給仕長たちは、人々に思いどおりにさせていたからである。王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女のための酒宴を催していた。
- 「人々に思いどおりにさせていた」とあり、アルハラのようなことはなかったと取るのが普通だろうが、酒宴に来ることは強制されなかったという意味も含んでいるかもしれない。すると、ワシティのことの解釈にも多少影響を及ぼすかもしれない。しかし、それぞれが、思い通りに楽しんでいた祝いではあっても、目的が「こうして王は、百八十日の長期にわたって自分の国がどれほど富み栄え、その威力がどれほど貴く輝かしいものであるかを示した。」(4)であることから「支配者と共に食卓に着いたなら/何に直面しているのかをよく理解せよ。 あなたが食欲おうせいな人間なら/自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。」(箴言23章1,2節)を思い出してしまった。自由を、自分の自由と理解してはいけないのだろう。あくまでも、王の自由なのである。パウロはローマの信徒への手紙1章24節で「なすがままにまかせる」ことをさばきの一つとして捉えているぐらいだから。
- BRC2017:Es 1:9 王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女のための酒宴を催していた。
- ワシュティも王が計画したのとおなじようなことをしている。おそらく、王もそのことを知っていたろう。任せていたかもしれないが。その状態で呼びつける。呼びつけてこないと怒る、それに同調する家来たち。ユダヤ人たちは、これをどう読んだのだろうか。ユダヤでは起こらないこととして読んだのだろうか。十分、どこでも、おそらく、ユダヤでも、そして現代でも、起こりそうなことではあるが。背後におられる神様も意識して読んでいきたい。ある意味で沈黙を保たれる神を。
- BRC2015:Es1:5 それが終わると、王は七日間、酒宴を王宮の庭園で催し、要塞の町スサに住む者を皆、身分の上下を問わず招いた。
- この王については1節に「クセルクセスの時代のことである。このクセルクセスは、インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者であった。」とあるが、アケメネス朝ペルシャのクセルクエス一世(アハシュエロス)の治世(BC486-465)と思われる。ギリシャとの戦争(3回目)のペルシャ側の王でもある。国の統治もダリヨス王以来整い、単なる強い国ではなく、統治にも心を配っていたことが、今日の箇所からもうかがい知ることができる。まず3節にあるように「その治世の第三年に、酒宴を催し、大臣、家臣のことごとく、ペルシアとメディアの軍人、貴族および諸州の高官たちを招いた。」とあり、この節はその後に位置する。このような配慮の裏でも、神は働いておられるのだろう。同時に人間の知恵としての統治も恵みの忠実な管理者として見過ごしにすることはできない。
- BRC2013:Est1:8 その飲むことは法にかない、だれもしいられることはなかった。これは王が人々におのおの自分の好むようにさせよと宮廷のすべての役人に命じておいたからである。
- 7節には「王の大きな度量にふさわしく」「惜しみなく」とあるが、実態は12節で「ところが、王妃ワシテは侍従が伝えた王の命令に従って来ることを拒んだので、王は大いに憤り、その怒りが彼の内に燃えた。」のように明らかになる。一貫性のない人間の寛大さを見る思いがする。自ら省みると共に、神がそのような方ではないことに感謝。
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- BRC2021:Esther 2:10,11 エステルは、自分の属する民と出自を明かさなかった。モルデカイが彼女に明かすなと命じたからである。モルデカイは毎日、エステルの安否と彼女がどう扱われるのかを知ろうとして、後宮の庭の前を行ったり来たりした。
- 現実離れしているように思われる。この章の最後には「その頃、モルデカイが王の門に座っていると、王の部屋の入り口を守る王の二人の宦官ビグタンとテレシュが、怒りに任せてクセルクセス王を討とうと謀っていた。」(21)と陰謀とこの二人が処刑されたことが記録されているが、絶対王政では、このような陰謀はつきもので、王妃候補者の出自を調べることは、当然のことと思われる。また、物語としては、モルデカイの行動も必要であるが、「後宮の庭の前を行ったり来たりした。」から明らかな不審者と認識されるであろうこともわかる。後宮の庭に入れることが異常、そこで、「王の部屋の入り口を守る王の二人の宦官」の情報をえることも、できすぎているようにも思う。この時期は、クセルクセス王の治世の第7年の第十の月とされているが、1章のときから、あまりに時間が立ちすぎていることも、気になる。
- BRC2019:Es 2:17,18 王はどの女にもましてエステルを愛し、エステルは娘たちの中で王の厚意と愛に最も恵まれることとなった。王は彼女の頭に王妃の冠を置き、ワシュティに代わる王妃とした。次いで、王は盛大な酒宴を催して、大臣、家臣をことごとく招いた。これが、「エステルの酒宴」である。更に、王は諸州に対し免税を布告し、王の寛大さを示すにふさわしい祝いの品を与えた。
- 1章にも関係するが、寛大さが王の威光をしめすことだと考えられていたのかもしれない。クセルクセス王は、一般的には、1世 Ahasuerus (Xerxes I, reigned 486–465 BCE) と考えられているようである。もしそうであれば、ギリシャとの戦いを何回も行った、ペルシャ戦争の王であり、これらは、サラミスの海戦以前の、ペルシャが優位であった時期のことなのかもしれない。ヘロドトスの「歴史」も読んでみたい。ペルシャ側の記録はないのだろうか。
- BRC2017:Es 2:15 ルデカイの伯父アビハイルの娘で、モルデカイに娘として引き取られていたエステルにも、王のもとに召される順番が回ってきたが、エステルは後宮の監督、宦官ヘガイの勧めるもの以外に、何も望まなかった。エステルを見る人は皆、彼女を美しいと思った。
- 単純な事実の列挙だろうか。無欲が表現されているのだろうか。エステルはこのとき、何を考えていたのだろうか。王妃となることを望んでいたのだろうか。それはわからない。神にゆだねていたというところが一番正確かもしれない。自己決定権があるわけではない。自己決定権がないことについてひとはどう向き合うのがよいのだろうか。
- BRC2015:Es2:23 早速この件は捜査されて明らかにされ、二人は木につるされて処刑された。この事件は王の前で宮廷日誌に記入された。
- このことは、しばらくの間隠される。神の配慮ともいえる。しかし、より大切なことは、神は、わたしたちのことをご存じだと言うことである。この世で紙に書かれたものが、人目に触れようと、隠されたままであろうと、それは、重要ではない。神に対して忠実な僕、神に信頼される僕として生きることができるか否かがたいせつである。それをどのように用いるかは、神の主権による。
- BRC2013:Est2:22 その事がモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに告げ、エステルはこれをモルデカイの名をもって王に告げた。
- 密告は危険を伴う。エステルを通したことによってその危険は少し減ったかも知れない。しかし、モルデカイが、このことを告げたのは、彼の良心が働いたからか。危険はある程度かくごしての事だったかも知れない。
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- BRC2021:Esther 3:10,11 王は手から指輪を外し、ユダヤ人の敵、アガグ人ハメダタの子ハマンに与えた。そして王はハマンに言った。「その銀はあなたに与えられる。その民はあなたがよいと思うようにしなさい。」
- この前にも「王の門にいる王の家臣たちは皆、ハマンにひざまずいてひれ伏した。王が彼のためにそのように命じていたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、ひれ伏しもしなかった。」(2)とあるが、引用句では、指輪を外して、ハマンに与えている。「こうして第一の月の十三日に、王の書記官たちが召集された。彼らは、王の総督たち、各州の長官たち、および各民族の長たちに宛てて、ハマンが命じたことをすべて書き記した。それは各州にはその書き方で、各民族にはその言語で、クセルクセス王の名によって書き記され、王の指輪で印が押された。」(12)まさにその指輪でこのことがなされている。「AI新生」などの本で、AI が発達した世界について学んでいる。副題は「人間互換の知能を作る」である。"Human Compatible: Artificial Intelligence and the Problem of Control" が原題である。王も自分の意思を実行する人材をえたと思ったかもしれない。しかし、その課題や、目的から生み出すものを見通すことはできない。おそらく、絶対王政の周辺で、AI の課題と似た現象が様々に実験されてきたのだろう。非常に難しい問題である。
- BRC2019:Es 3:4 来る日も来る日もこう言われたが、モルデカイは耳を貸さなかった。モルデカイが自分はユダヤ人だと言っていたので、彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。
- 「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(2)この背景のもとで、引用箇所がある。「彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。」の部分は、ユダヤ人一般がひざまずかないということかどうかか、ユダヤ人が他の民族と異なることは認知されていて、ハマンにひざまずかなかったことを、個人のことにとどめたくなかった人がいたことを示すのか詳細は不明である。事実は、後者であると思う。ネヘミヤなど、ひざまずく機会は多かったであろうし、礼拝することと同じことばが使われているからといって本質的には、ことなると考えた人もいるだろうから。捕囚の地でのユダヤ人の生活について、もう少し知りたい。
- BRC2017:Es 3:8 ハマンはクセルクセス王に言った。「お国のどの州にも、一つの独特な民族がおります。諸民族の間に分散して住み、彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません。そのままにしておくわけにはまいりません。
- このことばは当たっているのではないかと思う。ある真実を語っている。さらに、exceptionalists を表してもおり、現代の状況にもつながる。モルデカイはひざまずくこと、礼拝することにこだわったのだろうか、それとも、ハマンに問題を感じたのだろうか。もし、前者であるとすると、日本人クリスチャンの戦前・戦中の状況とも重なり、難しい問題を提示していることにもなる。わたしのいまの信仰は、もっとも重要とはいえない部分にいのちをかけないこととして許容することを選ぶだろう。しかし、それは良心が許せないひともいるだろう。本当に難しい。
- BRC2015:Es3:10,11 王は指輪をはずし、ユダヤ人の迫害者、アガグ人ハメダタの子ハマンに渡して、 言った。「銀貨はお前に任せる。その民族はお前が思うようにしてよい。」
- 信頼するとはどういうことだろうか。王は、理解せずに、行動に移している。2節に「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」とあるが、この時点ですでに、確認せずに、敬意をはらうようにされている。民にそれを求めた者は、自分もそのことの奴隷になるということかもしれない。私たちが知ることができるのはほんの一部である。最後は、神様にゆだね、信頼しなければならない。しかしそれは、信頼をした自分が責任を負うことでもある。
- BRC2013:Est3:2 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。
- モルデカイはなぜ敬礼しなかったのだろう。モルデカイは、王に対しても敬礼しなかったのだろうか。他のユダヤ人も敬礼しなかったのだろうか。王や、他のひと、もしかすると、ユダヤ人にも、たいしたことと思われていなかったこの「敬礼」にいのちをかけてチャレンジしたのかも知れない。わたしは、どのような生き方をしているだろうか。仲間にとっても迷惑な生き方だろうか。単に迷惑な生き方では、悲しい。
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- BRC2021:Esther 4:14 もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解放と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか。」
- 暗唱もして何度も考えた句である。モルデカイの信仰がよく現れている。しかし、正しくはないかもしれないと思った。因果応報は、主のなされることの本質ではない。また、ナチスや他の迫害で死んでいった人たちも同じように、このような信仰をもって死んでいったのではないか。父の家が滅びるということも、価値判断にずれが生じているように思う。しかし、「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(ダニエル3章18節)の「たといそうでなくても」は日本帝国主義にもとで抵抗した韓国人が書いた書名にもなっているが、応報を求めるのではなく、信仰告白し「たといそうでなくても」誠実に忠実に主のみこころを求めていく生き方を探していきたいと思った。それが、主が喜ばれることそのままかどうかは不明だが。
- BRC2019:Es 4:1,2 モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。 更に彼は王宮の門の前まで来たが、粗布をまとって門に入ることは禁じられていた。
- 「王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(3章2節)と比較すると、役人ではなかったかもしれないが、モルデカイは、王宮の門でなんらかの役をなしていたとも考えられる。苦悩の背景には、自分はそれで良かったかどうか、他の選択はなかったかも考えたかもしれない。正しさについては、疑わなかったのかもしれないが。このあとの、モルデカイのことばと、それに対する、エステルの応答、物語としては、最も興味深い箇所である。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」(14)むろん、信仰は、もっと広いものだと思うが。このモルデカイの苦悩を、主は、正しさだけによって、無視せず、自らの苦悩として受け取られたかもしれない。
- BRC2017:Es 4:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
- 断食祈祷の部分が以前はよくわからなかった。信仰の表明の普遍的な部分は、帰属性にも関係するのだろうか。イエスのことばで言うなら互いに愛し合う者たちだから。自分だけが正しい好意をすることとの違いと、その意味をより深く考えたい。自立性・自律性があり、自発的にまたは自己決定権をもつものの共同体とはどのようなものなのだろうか。まだ観念的にしかわからない。
- BRC2015:Es4:1 モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。
- モルデカイの苦悩を想像する。3節には「勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。」とある。この悲嘆を想像する。ナチのもとでのユダヤ人の苦悩と悲嘆も想像する。すると単に結果によって判断してはいけないことがわかる。モルデカイは、自分の態度「モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。」(3:3)を後悔しただろうか。そうかもしれない。しかし、そのあとでも、希望を失わなかったろう。それは、処刑されていったナチ政権下でのユダヤ人も同じだったのではないだろうか。希望を失わず、神を愛し、隣人を愛し続ける。ここに信仰がある。
- BRC2013:Est4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。
- 立派な信仰であるが、絶対的なものなのかは、考えさせられる。おそらく、そのように考えず、それぞれのときに、信仰によって応答することが大切と考えるべきか。しかしそれは、かなり主観的になる。主がこたえられないことを、どう受け取るべきなのか。北中先生が紹介しておられた Elie Wiesel のことばまで行き着き、答えられない神様と和解することまで考えると、本当に難しい。はたからなにかを言うことはできるかも知れないが。
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- BRC2021:Esther 5:13,14 だが、ユダヤ人モルデカイが王の門に座っているのを見る度に、このすべてが私には空しいものとなる。」妻のゼレシュとハマンの親しい者たちは皆、彼に言った。「五十アンマもの高さの柱を立て、明日の朝、モルデカイをその上につるすように、王に申し上げなさい。そして王と一緒に、楽しくその酒宴にお行きなさい。」ハマンはこの言葉が気に入り、その柱を立てさせた。
- こころの闇を見るようだが、作り話のようにも見える。ひとのこころはわからない。そうであれば、モルデカイ以外にも、喜んでいないものが多くいることはわかるはずである。そして、同調圧力かもしれないが、妻やハマンと親しい者たちが皆いうことにしては、異常すぎる。事実とすると、エステル記記者もハマンや、ゼレシュを理解できていないということなのかもしれない。
- BRC2019:Es 5:7,8 「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。 「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」
- なぜ、すぐに、エステルは望みをいわなかったのだろうと考えた。新共同訳では、7節と8節をまったく独立に訳している。ここに間を感じる。実際には不明であるが、勇気を持って、言い出せなかったのかもしれないと考えた。実際に、一日延ばしたことが、非常に有効であったことがわかるわけだが、もしかすると、主は、そして、エステル記記者も、エステルの弱さをも、もちいられたことを伝えているのかもしれない。4章16節には三日三晩の断食を願い、おそらくそれを受けて「それから三日目のことである。」(1)とこの章は始まっている。最初は、この日に、王に願いを伝えようと計画していた可能性も高い。文学的にも優れている。
- BRC2017:Es 5:13,14 だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」 妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「五十アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。
- ハマンは不安を抱え、実際平安ではなかったのだろう。なぜなのだろうか。自分への閉じた価値観だろうか。開かれた価値観では、一部の問題によって崩壊しないということか。おそらく、モルデカイを亡き者にしても、その種はあらゆるところに会ったのではないだろうか。自分を価値あるものとして、しかし、相対化されたものとして、受け入れる。かつ、同じように価値あるもの同士のひとりとして行動する。昨日学んだ、Gandhi の Trusteeship もしっかり学んでみたい。
- BRC2015:Es5:13 だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」
- 友人を招き、妻も同席させ「彼は、自分のすばらしい財産と大勢の息子について、また王から賜った栄誉、他の大臣や家臣にまさる自分の栄進についても余すことなく語り聞かせた。」(11節)さらに、王妃エステルに招待されての王との宴会のことを語る。そのあとの言葉が13節である。わたしの喜びは何で、誇りは何だろうか。そのすべてを取り去るものは、何だろうか。あるとすれば、それは、神様ご自身、イエス様から見捨てられることだろうか。おそらく、それは、わたしが信じていたものが、すべて真実ではないとなったときだろう。パスカルのように、それは無に帰するだけだから、結局損はない、という言い方はしない。わたしの一日一日に命を託して生きる。それを教えてくれた聖書のメッセージに感謝しつつ。そう考えると、創造主の存在は、わたしの信仰の大切な部分ではあるが、絶対ではないのだろうか。わたしのいのちをむなしくするものは、いったい何なのだろうか。
- BRC2013:Est5:8 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。
- なぜすぐ答えなかったのだろう。話はこのあととても劇的変化を遂げるが。慎重に事を動かすため、時が必要だと考えたのか。やはり恐れがあったのか。ハマンの行動を見極めるためか。Prob 19:21「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」
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- BRC2021:Esther 6:13 ハマンは妻ゼレシュと彼の親しい者たち皆に、自分に起きたことをことごとく話した。そのうちの知恵ある者たちと妻ゼレシュは彼に言った。「あなたは、すでにモルデカイに負け始めているのに、もし彼がユダヤ人の子孫なら、あなたは彼に勝つことはできません。あなたは必ず彼の前に敗れるでしょう。」
- 物語としての効果を高める一つの演出なのかと思う。事実かどうかを、詮索しないほうがよいのかもしれない。この箇所も、劇場でのナレータの役をゼレシュとハマンの親しい者たちに演じさせているように思われる。ハマンの10人の息子は処刑されるが(9章13節)ゼレシュとハマンの親しい者たちはどうなったのだろうかと気になってしまう。文脈からすると、処刑されたように思われるが、つまり、ナレータではなく、当事者であるもののこのような発言が、わたしは、受け入れられないということなのだろう。集中して読めなくもなっているように思う。これは、自分の問題なのかもしれない。
- BRC2019:Es 6:12,13 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。彼は一部始終を妻ゼレシュと親しい友達とに話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」
- 「妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「五十アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。 」(5章14節)柱にモルデカイを吊るすように進言したのは「妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと」であることが書かれている。ここでも「妻ゼレシュと親しい友達」となっている。その中に「知恵ある者」もいたようである。その知恵をもって、前の段階で助言ができなかったのか。おそらく、価値観の問題だろう。要職についている、ハマンのとりまき
- BRC2017:Es 6:12,13 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。 彼は一部始終を妻ゼレシュと親しい友達とに話した。そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」
- 物語として興味深いが、ゼレシュと親しい友達についても気になった。このあとのことからすると、この人たちも、殺されるか、ひどい目に遭うのではないだろうか。その是非は別として、この人たちも、冷静に見てはいても、自分たちの価値観を問うたり、ユダヤ人について理解しようとはしていないように思われる。どう考えたらよいのだろうか。この人たちを責めることはできるのだろうか。
- BRC2015:Es6:12 モルデカイは王宮の門に戻ったが、ハマンは悲しく頭を覆いながら家路を急いだ。
- 5章9節の「この日、ハマンはうきうきと上機嫌で引き下がった。しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれを見て、怒りが込み上げてくるのを覚えた。」に対応している。5章13節の「むなしさ」が現実となり出したということだろうか。このあとの「親しい友人たちの」うにの「知恵ある者もゼレシュも」ハマンを愛をもってさとし悔い改めを促し支援することはできなかったのか。すでに遅かったのかもしれない。思慮の浅い王に知恵をもって進言してこなかった責任も問われているのか。
- BRC2013:Est6:13 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
- 文章がすこしこなれていない感じがするが、預言的役割を含んでいるからか。自分の人生にこのようなときが与えられる、どのような預言的ことばを告げられるときもあるかも知れない。悔い改めの機会なのかも知れない。
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- BRC2021:Esther 7:7 王は憤ってぶどう酒の宴の席を立ち、宮殿の庭へ向かった。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王が自分に害を加えることが決定的になったのを見たからである。
- なかなかの文学的才能だと思う。言葉ではなく、態度でこの瞬間の重さを伝えようとしている。整理をしていたのだろう。ハマンのことも、いろいろと考えながら。しかし、やはり正直、脚色が強すぎると思わされる。素直になれないのはなぜだろうか。
- BRC2019:Es 7:4 私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」
- いくつか、気になることがある。1つ目は、奴隷として売られるなら王を煩わすほどのことではないということ。もう一つは、このあとの経緯をみると、ユダヤ人抹殺に関することは、ハマンだけの考えではなかったようであることである。後者はとてもむずかしい問題なのだろう。どのようにしたら、ともに生きることができるのだろう。神様、教えてください。
- BRC2017:Es 7:9 宦官の一人、ハルボナは王に言った。「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。五十アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています。」王は、「ハマンをそれにつるせ」と命じた。
- エステル記は文学的で構成もよくできているので、あまり詳細に至るまで議論するのは、適切ではないかもしれないが、宦官は、状況を十分把握していたことが書かれている。ありそうなことでもある。みなが、問題点を把握していながら、勇気を持って言うことができない。内部告発ができない状況である。エステルは「私と私の民族」と言っている。自分をつく別扱いせず、民の一人をしている。共同体意識、それは、王と対峙させている、しかし、同時に、内部のものであることも、意識されているのだろう。もう少し考えたい。
- BRC2015:Es7:7 王は怒って立ち上がり、酒宴をあとにして王宮の庭に出た。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王による不幸が決定的になった、と分かったからである。
- ハマンは王の顔色を見ることに関しては長けていたのかもしれない。高い地位には就いていても信頼は得ていたのだろうか。ハマンの栄誉はあっという間に吹き飛んでしまう。しかし、同時に王についても考える。王は何を考えたろう。単にハマンへの怒りだろうか。自分の浅はかさだろうか。王にも問いかけがあるはずだ。本来の責任は、ハマンではなく、王にあるはずだ。それを、エステル記記者は記さない。しかし、淡々と記述しているこの文章が、読む者に省察を促している。神は、どのようなメッセージをそれぞれに伝えようとしておられるのだろうか。
- BRC2013:Est7:6 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。
- 「あだ」「敵」「悪い」が気になる。ハマンは何が悪かったのか。王に重んじられ、自己中心になったと言うことか。王に重んじられることもむなしい。神は、善い方であるから、信頼によって平安が得られる。
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- BRC2021:Esther 8:8 あなたがたはユダヤ人について、あなたがたがよいと思うように王の名によって書き、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書かれ、王の指輪で印を押された書面は、撤回することができないからである。」
- なんともおぞましい民族主義である。具体的には「その中で王は、すべての町にいるユダヤ人に、集まって自分たちの命を守り抜き、迫害しようとする民族や州の軍隊を、子どもや女に至るまでことごとく根絶やしにし、殺し、滅ぼし、その財産を奪い取ることを許した。」(11)とあり、「ユダヤ人には光と喜び、楽しみと誉れがあった。」(16)ともある。これが喜びと楽しみと誉なのか。わたしには、受け入れられない。これはたんなる復讐である。
- BRC2019Es 8:4,5 王が金の笏を差し伸べたので、エステルは身を起こし、王の前に立って、言った。「もしお心に適い、特別の御配慮をいただき、また王にも適切なことと思われ、私にも御目をかけていただけますなら、アガグ人ハメダタの子ハマンの考え出した文書の取り消しを書かせていただきとうございます。ハマンは国中のユダヤ人を皆殺しにしようとしてあの文書を作りました。
- この時点でも、エステルは命がけだったのだろうか。絶対王政の危険性を感じる。また同時に、「こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。」(11)がなされることは「奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございません」(7章4節)とはかなりかけ離れているだけではなく、大変な残虐行為である。これが問題の解決と考えていたとすると、持続的だとは思えない。
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- BRC2017:Es 8:11 こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。
- この仕返しがわたしにはどうしても受け入れられない。神が創造されたもののなかに、滅びの子がいることは理解できても、それをひとが裁くことに非常なる違和感があるのだろう。やはり民族性が強い文書である。わたしは、モルデカイや、エステルにつながることはできるのだろうか。
- BRC2015:Es8:6 私は自分の民族にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのでございます。」
- エステルは仕返しまでも考えていたのか。これはモルデカイによるのか。それまでにかなりの迫害下にあったとしても、復讐では平和は来ない。しかし背景にもう一つ問題を感じる。2節の「王はハマンから取り返した指輪をモルデカイに与え、エステルは彼をハマンの家の管理人とした。」である。復讐は、王が始めたことなのかもしれない。そして王は、ここでも自分の責任を安易に、モルデカイにゆだねている。なにも、改善されていない。モルデカイにはそれを止めることはできなかったのか。神を畏れ、王にもそれを促すことを。これが当時のユダヤ教の世界なのだろうか。悲しさと憤りを感じる。
- BRC2013:Est8:2 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。
- 非現実的に思われる。報償は与えても、管理を委ねるとは、王としては失策である。モルデカイについての記述をみると、実際に、役人だったのかも知れない。物語として読むだけでよいのか、それとも史実を読み取るのか。
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- BRC2021:Esther 9:21,22 アダルの月の十四日と十五日を毎年祝うことを定めた。すなわちユダヤ人が敵からの休息を得た日として、悲しみが喜びに、嘆きが祝いの日に変わった月として、これらを祝宴と喜びの日とし、互いに食べ物を贈り合い、貧しい人々に施しをすることとした。
- ユダヤ教も現在はいくつもの派に分かれているのでそれぞれがどのようにプリム祭を祝っているのか不明だが一応調べてみた。ユダヤ敬虔主義のサイト(https://www.chabad.org)には、Jewish Holiday の中に、Purim が入っており、次は来年の3月16日・17日だとあり、由来やそのときにすべきこと、すべきでないことが書かれている。(https://www.chabad.org/holidays/purim/default_cdo/jewish/Purim.htm)この章にも、ハマンの十人の息子たち(10)だけでなく、スサだけで500人(6)、全体で75000人を初日に殺したことが書かれている。「私と私の民は売られて、根絶やしにされ、殺され、滅ぼされようとしています。もし私たちが、男も女も奴隷として売られただけなら、その苦難は王様を煩わすほどのことではないので、私は黙っていたでしょう。」(7章4節)エズラ記でも、ネヘミヤ記でも「奴隷の身の私たち」、「確かに、私たちは奴隷です。」(エズラ9章8,9節)「今日私たちは奴隷の身です。」(ネヘミヤ9章36節)と語るものとは、差を感じる。しかし、あまり批判的にだけ見るのではなく、歴史上で、アンチシオニズムによって、迫害されてきた期間は長いのだろう。世界中に散らされながら、民族主義を守り続けたとも言えるのかもしれない。考えさせられる。
- BRC2019:Es 9:10 ユダヤ人の敵ハメダタの子ハマンの十人の息子を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。
- このあとにも、15節と16節に「持ち物には手をつけなかった。」が繰り返されている。8章11節では「その持ち物を奪い取ることが許された。」とあるが、その部分は実行しなかったということだろう。しかし、14節にあるように、「『そのとおりにしなさい』と王が答えたので、その定めがスサに出され、ハマンの息子十人は木につるされた。殺したあとで、さらに、名誉を傷つける行為はしている。 やはり、正直、このエステル記は好きにはなれないが、このユダヤ人も受け入れるかを問われているように思われる。本当に難しい。
- BRC2017:Es 9:31,32 こうしてユダヤ人モルデカイが王妃エステルと共に定めたとおり、また彼らが自分たちとその子孫のために断食と嘆きに関して定めたとおり、プリムの祭りの日付が定められた。 エステルの言葉によってプリムに関する事項は定められ、文書に記録された。
- プリムの祭りの由来を記すのが目的だったと考えてよいだろう。同時に、この記述に仕方が、当時のユダヤ人に受け入れられるものであったことも確かだろう。「スサのユダヤ人はアダルの月の十四日にも集合し、三百人を殺した。 しかし、持ち物には手をつけなかった。」(15節)スサでは二日にわたり合計八百人が殺されている。全国では、七万五千人と16節にある。だいたいの数字であろうが、かなりの数であることがわかる。それを是としたこと、しかし「持ち物には手をつけなかった。」も同時に記録すべきことだったのだろう。
- BRC2015: Es9:3 諸州の高官、総督、地方長官、王の役人たちは皆、モルデカイに対する恐れに見舞われ、ユダヤ人の味方になった。
- このあと5節には「ユダヤ人は敵を一人残らず剣にかけて討ち殺し、滅ぼして、仇敵を思いのままにした。」とある。これが、このことの顛末である。あまりに悲しい。これを祝い続けるのがプリムの祭りなのか。恐れによって見方になった者が、愛によって結びあわされることはあるのだろうか。ひとりひとりの信仰が問われているように思われる。段階的啓示の一部分としても、イエスの名による救いを求める者にとっては、重大な問題である。
- BRC2013:Est9:5 そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。
- なんとも悲しい。これが聖書に含まれていることに、恐れを抱く。神の働きとしては殆ど書かれていないことが、ひとつの信仰告白なのか。時代的なもので、当時は、ここに神の意思とはことなるものを見る人はいなかったのか。物語なのかもしれないが、モルデカイを要職につけたのも、軽率と思う。
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- BRC2021:Esther 10:1 クセルクセス王は国土および海の島々に労役を課した。
- 全体としては、この一句はクセルクセス王が偉大な王であることを印象付けることばのように思われるが、「海の島々」には、少しおどろきを感じた。ただ、アケメネス朝ペルシャの4代目の王として、サラミスの戦いで敗れるまでは、ギリシャも征服しており、アフリカの東海岸にもかなり進出していたようなので、周辺の島にも進出していたのかもしれない。最後に、モルデカイのことは書かれているが、エステルについては、書かれていない。「ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位に就き、ユダヤ人にとって偉大な者となり、多くの兄弟たちに愛された。彼はその民の幸福を求め、そのすべての子孫に平和を語ったのである。」(3)エズラが書記、ネヘミヤが献酌官をしていたことなどを考えると、有能なユダヤ人が様々に登用されていたのかとも思う。
- BRC2019:Es 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。
- かなり偏っているように思われる。クセルクセス王の寵愛、そして、支持を受けて入るが、結局は、同じことをしているようにすら感じる。クセルクセス王にも良いときや、大変なときがあったはずである。それについては、何も書かれていない。難しい。
- BRC2017:Es 10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。
- 大変な絶賛である。同時に、2節には公式記録にあること、そして、ユダヤ人にとって重要であるということに限定もされている。ある限定をおいていることは、謙虚さの表れととることもできるのかもしれない。
- BRC2015:Es10:1,2 クセルクセス王は全国と海の島々に税を課した。 王が権威をもって勇敢に遂行したすべての事業と、またその王が高めてモルデカイに与えた栄誉の詳細は、『メディアとペルシアの王の年代記』に書き記されている。
- これは何のために記されているのだろうか。ユダヤ民族が、捕囚となり、離散し、寄留している土地にあっても、ペルシャ王国の中で臣民として暮らすひとつの善良な民であることを、主張するためであろうか。エステル記については、もう少し学んでみたい。どのような解釈がなされているのだろうか。
- BRC2013:Est10:3 ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。
- 「すべての国民に平和を述べた」は何を意味するのだろう。この短い章にも、考えさせられる。1節の「アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。」の海に沿った国々は、インド洋だろうか。征服せずに属国とした国がたくさん合ったことが分かる。エステル記は、不思議な書である。成立など、背景もいつか学んでみたい。
ヨブ記
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- BRC2021:Job 1:20-22 ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、言った。/「私は裸で母の胎を出た。/また裸でそこに帰ろう。/主は与え、主は奪う。/主の名はほめたたえられますように。」このような時でも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。
- ここで表現されているのは、神の前の正しさである。しかし、その以前に(またはそれと同時に)悲しみ、苦しみ、喜びが取り去られた感情と痛みがある。この痛みを、他者は、たとえそれが神であっても、理解できない。それは、他者であることと同義といってもよいほどのことでもある。この痛みと苦しみは、存在に関わるひとにとって非常に大きな部分である。そして、おそらく、神にとっても、そうなのだろう。それを、たとえばイエスは「深く憐れまれた(はらわたが傷んだ)」という表現で表すこともある。しかし、ここでは、一貫して、正しさが語られている。この関係もていねいに読み取っていきたい。
- BRC2019:Job 1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
- おそらく、これが問題設定なのだろう。知恵文学で、実際に起こったことの描写ではない。しかし、内容は、多くの人々にとって、神にそして人生に向き合う、深刻な課題を含んでいる。軽々しく、思考実験などとして扱うことも誤っているだろう。おそらく、ヨブ記にそのこたえがあるとして読まなくてもよいのだろう。同時に、人間にとって、そして信仰者にとって、本質的な問い(明確に言語化するのは簡単ではないが)を含んでいる。ヒントを得ることを期待したい。
- BRC2017:Jb 1:20,21 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
- 二つのことが目にとまった。まずは、ヨブの行為。「立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った」とある。毅然とした態度、苦しみの表現、神の前の謙り、髭ではなく髪なのだろうか。裸を意味しているのかもしれない。そして二つ目は「主は奪う」である。ヨブがこのことをどのように受け止めていくのか。罰として受け取るのは世の通常の習わしでもある。最近は、すべての背後におられる主という面を、大切にしてきた。しかし、ここでは、主の働きを、または人生への働きかけ、介入をどう理解するか。じっくり考えてみたい。
- BRC2015:Jb1:4,5 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
- この周到さには驚かされる。あらゆるときに、考えられる、つまりひととしてできうる限りを尽くして、神に仕えていたということが表現されている。今回の発見として、18,19節でしもべは「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 と報告している。つまりいけにえをささげて程なくということになる。また、最初の二つは人災で、これは天災。これも人災ならと考えてしまう。そのように考えることを排除しているのかもしれない。
- BRC2013:Job1:20, 21 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
- ヨブは1節にウヅの人と出てくる。Gen10:23, 22:21 に現れるが、地名としては聖書ではここのみで、場所は分からないようだ。オズが東なのでそれから転じたかという説もあるとか。ヨブは、ここでシバびとの襲撃、家畜を襲った神の火、カルデヤびとの襲撃、大風による家の倒壊によって、家人、家畜、そして、子供たちとその家族がすべて失われたことを、主が取られたとしている。このように思う人は、それなりにいるかも知れない。ここでどう応答して生きるかが問われている。
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- BRC2021:Job 2:7,8 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫れ物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って体をかきむしり、灰の中に座った。
- 「このような時でも、ヨブはその唇によって罪を犯さなかった。」(10b)ここでも肉体の痛み、おそらくかゆみ、力をうしなっていくことと、ひとの神の前の正しさは分離できるように記述している。しかし、いのちを生かすことはできないように思う。重い障害をもった友人、日々衰えていく筋萎縮性側索硬化症(ALS)の友人を思い出し、また、そのひとたちのことばの重さを受け止めようとすると、無力感だけが残る。それがすべてではないことを信仰告白してはいても、正しさを相手に向けることはできない。神がひとの痛み辛さを、ご自身の痛みとしておられるかも知りたい。周囲の、ここでは、三人の友人たちとの対話を通しても。ひとは一人、総体としての存在なのだから。
- BRC2019:Job 2:4,5 サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。 手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
- 二種類のことを考えた。1つ目は、反論はいくらでもできるなということ。サタンが二度目の挑戦をすることについてである。もうひとつは、やはり、体の健康は、霊的なものにも、関係することである。忍耐力をとっても、体が弱くなっていると、なかなか続かない。希望をもつことも、困難である。その意味でも、病に苦しむひと、そして死と向き合っている人、そのひとを介護している人など、その困難は、軽視できないと思う。今日、こうして、聖書を読んでいられることにも、感謝したい。
- BRC2017:Jb 2:10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
- ヨブは意識的に、罪から遠ざかろうとしていたのだろう。だから神を呪うことからは、離れている。しかし、それは、行為の世界で、こころの中の問題と一致しているわけではない。その葛藤の吐露と外(友人たち)とのこころとこころの戦いがここから始まる。こころの中からすべて消すことをも行為と結びつけるのは、すこし違うように思われる。この問題も、いつかじっくり考えたい。
- BRC2015:Jb2:13 彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。
- 友人たちのひととしてのまごころを見る。ヨブに寄り添う最大限のことをしている。議論は、ここからはじまる。今回のヨブ記通読は楽しみである。
- BRC2013:Job2:6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
- 主は手を下されない。主は、しかしこの試練の背後におられる。神はヨブを「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」としている。これは、1:21 およびそれに続く 1:22「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」を受けているのだろう。「神を非難」することない部分だろうか。この意味を、このヨブを読みながら探りたい。
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- BRC2021:Job 3:20-22 なぜ、労苦する者に光を与え/魂の苦しむ者に命を与えるのか。死を待ち望んでも、それは来ない。/彼らは隠された宝よりも死を求めている。彼らが躍り上がるほどの喜びに溢れるのは/墓を見いだしたとき。
- ここに今回のテーマの苦しみと喜びが書かれている。苦しみとは何なのだろう。これは、ある意味で、信仰を神の前の正しさと解釈するなら、信仰とは独立のようにも思う。しかし、そう単純に言えないのは、我々には、人の子として、来られた主イエスがおられるから。そして、その苦しみを少なくとも理解してくださるかたがおられるからである。超然とした神ももしかすると、そのような存在なのかもしれないが、痛みや苦しみ、そして喜びは神のものとは異なるように思う。そこに一人ひとりの尊厳のもとがあるように思う。
- BRC2019:Job 3:1-3 やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、 言った。わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
- いままで、簡単に生まれてこないほうが良かったと、よく聞くことばと同じだと考え、あまりよく考えてこなかった。しかし、真剣に向き合うべき、問いなのかもしれないと思った。「なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」(20)「行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる。」(21)そのような状況のなかで、「彼らは死を待っているが、死は来ない。」(21a)とある。神に生かされているという信仰をもちつつ、闇の中に捨て置かれ、かつ、生かされ続ける。ていねいに、このメッセージを受け取る努力をしたい。「苦難と神の沈黙という」論理の遊びではないのだから。驚いた。2節は「言った。」だけである。新共同訳では最短の聖句ではないか。口語訳ではイザヤ書3章21節、英語では一般的に、11章35節だと言われているが。むろん、本質的ではない。
- BRC2017:Jb 3:25 恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。
- やはりヨブも恐れていたのだ。何を恐れていたのだろう。危惧していたとういからには、知っていたのだろう。神の自決権だろうか。神が好きなようにすることができると言うことだろうか。しかし、同時に神に愛されているということから来る信頼もあるのではないだろうか。神がこころを試されることへの恐怖だろうか。完全ではないものがつねに抱く不安でもある。私はどうなのだろうか。そこまで真剣に神を求めていないのだろうか。
- BRC2015:Jb3:20 なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
- この重い問いをもって生きること。それが十字架なのだろうか。しかし、われわれには、希望もある。ともにくびきを追ってくださるイエスがそこにおられるから。ボンヘッファーの「神の前に、神とともに、神なしに生きる」を想起させる。もう少し深く理解したい。
- BRC2013:Job3:20, 21 なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。このような人は死を望んでも来ない、/これを求めることは隠れた宝を/掘るよりも、はなはだしい。
- なぜ、これほど苦しみ、悩んで生きることを強いられるのかという問い。死をもとめることは、隠された宝を掘るよりも難しい。まさに苦しんで生きる意味が問われている。真剣な問いである。
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- BRC2021:Job 4:3-5 あなたは多くの人を諭し/その萎えた手を強くした。あなたの言葉はつまずく者を起こし/弱った膝に力を与えた。しかし今、あなたにそれが降りかかると/あなたは耐えられない。/それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。
- 苦しみ、怯え、そこから逃れたいと願うのは、不信仰なのだろうか。たしかに、そのように言うこともできるのかもしれない。神への信頼が不足しているからと。しかし、苦しみ、悲しみは、人間の本質であり、それを避けることは、人間であることをやめてしまうことだとも言える。だからこそ、それが尊厳のもとなのだろう。では、ひとは、この苦しみのなかでどう生きたら良いのだろうか。神の栄光をもとめることか。それほど、簡単には、表現できない。
- BRC2019:Job 4:3 あなたは多くの人を諭し/力を失った手を強めてきた。
- たしかにそうなのだろう。批判はあたっている。しかし、それで解決しない問題もある。問いは続く。傍観者ではなく、真理を求めつづけることその過酷さをともにするものでありたい。自分も真理を求め続けるものとして。真理は、知識ではないのだから。
- BRC2017:Jb 4:8 わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている。
- 因果応報として、切り捨てることもできる。しかし、これはひとつの真理でもある。自分の身に災いやそれから来る労苦を招きながら生きている人が多くいるようにも思われる。エリファズの部分についても、あまり善悪を早く決めてしまうことは避けよう。それは、ヨブ記の本質ではないかもしれない。議論によって、平安は得られないから。
- BRC2015:Jb4:18,19 神はその僕たちをも信頼せず/御使いたちをさえ賞賛されない。まして人は/塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。
- その通りだろう。そうであるにも関わらず、神の愛のうちに生きている、そして、塵の中に基を置く土の家に住む者のひとりが滅びることも神の許しなしにはおこらない。これを切り離しては「なぜ」と問うことも無益だ。
- BRC2013:Job4:6 あなたが神を恐れていることは、/あなたのよりどころではないか。あなたの道の全きことは、あなたの望みではないか。
- 今回は、ヨブ記を新鮮な気持ちで読める気がする。この箇所は、エリパズの言葉である。いままで気にならなかったが、わたしは、そしておそらくヨブも「神を恐れていることは、(わたしの)のよりどころではない」。もし、そうであるなら「完全他力にあらず。救いは恵みによる。」3節から5節の「見よ、あなたは多くの人を教えさとし、/衰えた手を強くした。あなたの言葉はつまずく者をたすけ起し、/かよわいひざを強くした。ところが今、この事があなたに臨むと、/あなたは耐え得ない。この事があなたに触れると、あなたはおじ惑う。」とあるが「神を恐れることを人に勧め、いま、落伍者になっている。」との論理も、神との関係とは異なるように思う。しかし、悩みは、実際にあり、神に問い続けたい。いま、なぜ生かされているのかと。この大きな苦しみと、我が身の弱さをご存じな神に。私は、底までは言えないにしても。
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- BRC2021:Job 5:7-9 人は苦しむために生まれ/火の粉は高く舞い上がる。しかし、私は神に尋ね求め/私のことを神に委ねる。この方は偉大なことをなされ、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。
- 最初の「人」は文脈から「無知な者」「思慮なき者」(2,3)を指すのだろう。それに対比して「私(テマン人エリファズ)」が告白している。すばらしい信仰告白である。このあと、神が「信賞必罰(手柄のあった者には必ず賞を与え,あやまちを犯した者は必ず罰すること。情実にとらわれず賞罰を厳正に行うこと。)」「因果応報」的なことが事実かどうかは、不明であるが、エリファズの言っていることは、ある真理でもあるだろう。しかし、それは、苦しんでいる人には何にもならない。正しさはひとを癒やさないのだろう。事実を確認すること、その理解を促すことは、立ち直るときには必要な要素であるが、苦しんでいるその只中で、かけることばは難しい。「神から懲らしめを受ける人は幸いである。/全能者の諭しを退けてはならない。」(17)わたしはこうは言えない。しかしではどうすればよいのか。通常、一緒にいることがたいせつと言われるが、それだけでもないように思う。一緒にいる時間の過ごし方もたいせつなのだろう。少しずつ考えていきたい。
- BRC2019:Job 5:6,7 塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
- エリファズが語り続けている。この節をみると、原因がなければ、苦しむことは起こらないはずなのに、実際には、そうではないことを、ある程度、認識しているようである。それを、火花が必ず上に向かって飛ぶようにとしている。上に向かった火花の火の粉は下におちてくるのだから。それをうけて「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。」(8,9)としているように読める。むろん、苦しむものの苦悩とともにいるわけではないのだろうが。エリファズのことばも、二回目以降変わっていくのかもしれない。
- BRC2017:Jb 5:8,9 わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。
- 今回の通読では、ヨブの友にも寄り添ってみたいと思う。多くの真理を得ている。たしかに、ヨブの苦しみを理解はできていないようの思われるが、エリファズのことばに、真実がたくさん含まれている。善いと悪いの二つにわけてこれはよいのかわるいのかと考えながらよむことだけが、読み方ではないのではないだろうか。人生の深い問い、そしておそらく答えのない問いについて、書いているのだから。この言葉の背景に、エリファズの人生が詰まっているとしたら、それを否定することはできない。
- BRC2015:Jb5:17,18 見よ、幸いなのは/神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。 彼は傷つけても、包み/打っても、その御手で癒してくださる。
- エリファズの最初の発言。8節にあるように「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。」と語る。これが中心であろう。それに「計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。」と続く。17,18節はこれに対応している箇所である。わたしも同じように言うかもしれない。そしてそれは、間違いではないのではないだろうか。ヨブの痛みと苦悶の中で、3章11節から4回続く「なぜ」苦悩の意味のついての「問い」には対応していないが。
- BRC2013:Job5:8 しかし、わたしであるならば、神に求め、/神に、わたしの事をまかせる。
- おそらく、この態度がヨブと違うのだろう。だからといって、エリパズを責めることもできない。これに続く9節「彼は大いなる事をされるかたで、測り知れない、/その不思議なみわざは数えがたい。」から続くテーマも、17節からの「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。」もアーメンと唱えたい。しかしそれが、この章の最後に、4章7節にもある神を恐れるものは、この世でも祝福されるとして因果応報を主張するところには、違和感がある。
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- BRC2021:Job 6:11,12 私にどんな力があって、待てるというのか。/どんな結末があって/私の魂が忍耐できるというのか。私の力は石の力だろうか。/私の肉は青銅だろうか。
- 今回のヨブ記の通読では「ひとの、悲しみ、苦しみ、喜びが取り去られた感情と痛み」について考えながら読んでいる。引用箇所は、精神力にも限界があると言っているようだ。その前には、神に打ち砕かれることを望んでいる。おそらく、死を望んでいるのだろう。それによって、自分の正義が保たれる(10)ことも言っているようだ。過ちを具体的に指摘してほしい(24)と願うヨブ。懲らしめが、罪によるならその「過ち」を知りたい。もし、それが「過ち」によらないのであるなら、その理由が知りたい。それなしに、ひとの体と精神をもって耐えることはできないと言っているように思える。以前からわたしには、よくわからないことがある。「ひとは意味のない人生を生きることができないのだろうか。」ということだ。神様の側にその意味が隠されているかどうかは別として、わからないことが自然なように思う。そして、自分の人生の意味をことばにしてしまうことは、危険でもあるように思う。それは、この苦しみ、悲しみ、痛みについて、そしておそらく喜びについても、わたしがよく理解できていないということなのだろうが。
- BRC2019:Job 6:9-11 神よ、どうかわたしを打ち砕き/御手を下し、滅ぼしてください。仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。
- 神によって滅ぼされる、そしてその滅びが神から来ていることがわかることが慰めだといっているようだ。そして、かつ、自分には、もう力が残っていないと。共に待つことだろうか。死後の救いなどに話を移すのは適切ではないように思われる。
- BRC2017:Jb 6:21 今や、あなたたちもそのようになった。破滅を見て、恐れている。
- 15節には「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。」とある。理解が間違っているかもしれないが、ヨブの破滅状態を見ても、流れが去った後の川床を見て、恐れるのと同じように、うろたえ、恐れ、しかし、その状態を直視はできないと言うことか。ヨブは言う「絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ。さもないと/全能者への畏敬を失わせることになる。」(14節)たしかにそうである。しかし、人はそれができない。恐怖の中で愛がわき出てこないと言うことかもしれない。人間の弱さを見ると共に、この友たちをも批判することはできないと感じる。人の苦悩の深さ、重さを感じることはできないのだから。
- BRC2015:Jb6:10 仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。
- 8節には「神よ、わたしの願いをかなえ/望みのとおりにしてください。」とあり、3章21節に「彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって/死を探し求めているのに。」命が取り去られることがいまやヨブの願いであり望みであるともいえる。しかしそこで終わらない。ヨブはこの節で「わたしの慰めとなるのは」「聖なる方の仰せを覆わなかった」ことだと言っている。意味ははっきりしないが、このように「苦痛のなかでもだえ」つつも正面から神に問い、神に訴えている精神、神との対話をもとめる自分の立ち位置を、正当化するのではなく、自分を客観的に見て、言葉にしているように思われる。もし、そうだとすると、ひとの一生の目的は、神のこころと自分のこころを一致させようとするいとなみともいえるかもしれない。その営みのなかに、ヨブは確かにいる。
- BRC2013:Job6:14 その友に対するいつくしみをさし控える者は、/全能者を恐れることをすてる。
- 12節には自分の弱さ「わたしの力は石の力のようであるのか。わたしの肉は青銅のようであるのか。」13節には神以外に救いがないことが語られている。「まことに、わたしのうちに助けはなく、/救われる望みは、わたしから追いやられた。」このような告白のあとに、この言葉が続く。全能者はこのようなときのために、友を与えられた、このようなときに、神は、友に対するいつくしみを求めておられるということだろうか。9節の「どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、/み手を伸べてわたしを断たれるように。」は、神から離れた状態で、悩み続けることを求められる神への独白なのだろうか。悩み続けることを、主から与えられた賜物とすること、それを友と共にできれば幸いである。
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- BRC2021:Job 7:1-3 地上の人には苦役があるではないか。/その日々は雇い人の日々のようではないか。奴隷のように日陰をあえぎ求め/雇い人のようにその賃金を待ち望む。そうだ/私は空しい月日を受け継ぎ/労苦の夜が割り当てられた。
- 雇い人は小作のようなものだろうが、このように表現されると、雇い人や奴隷の人生は虚しいとなる。そうかも知れない。ヨブに見下されているようにも思われるが、本質は「苦役」であり、その「空しい日々」が、「それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。」(11)とあるように、「霊の苦悩」「魂の苦痛」だと言っている。ひとの人生は、そのようなものであることは一面そのとおりだと思う。充実した日々から、「意味のある人生」と思うことでよいのだろうか。それも、幻影かもしれない。高慢かもしれない。ただ、人生は、自分だけで完結していないことも、知るべきだろう。自分だけの収支を見て、無意味な人生とすることは、できないように思う。しっかりと向き合ってみたい。
- BRC2019:Job 7:17 人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。
- この章には、多くの要素が入っている。おそらく背景には、神に訴えている、神の応答を引き出したいことがあるのだろう。生きる目的というより、なぜ生かされているのかがわからず、神からの裁きのように苦しまなければならないことを訴えている。背景に、引用した箇所のように、自分の経験している、一つ一つに意味があり、それは、神から来ているという信仰、そしてそれを神に問う信仰者の生き方がある。この考えを弱め、一つ一つに神様は関与されるわけではないとすることは可能である。しかし、背後に神を追いやり、結局、日常生活には関わらないこととすることで、神の存在すら、なくても変わらないものにしてしまう危険性もある。むろん、そこに人間の責任もあるとも言えるが。わたしの信仰の態度もはっきりしない。しかし、この章のヨブのように、神に問い続ける姿勢は、わたしの信仰の目指す生き方でもある。
- BRC2017:Jb 7:20 人を見張っている方よ/わたしが過ちを犯したとしても/あなたにとってそれが何だというのでしょう。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。
- すべて一つ一つのことが神様の制御のもとにあることが仮定されている。神のみ手のうちにあるということは、何を意味しているのだろうか。一つ一つのことに意味を求めるのは、成長のためで、その部分も、ひとにゆだねられているのだろうか。自律性をもった信仰。まだわたしにはよく理解できていないように思われる。すべてが神の制御のもとにあると考えた方がずっと楽でもある。悩みはヨブのようにつきないが。
- BRC2015:Jb7:1,2 この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。 奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む。
- 奴隷や傭兵のようだと言い、その労苦と弱さを述べ、また夜も平安でないことが続き、そのような人間と関わりを持ち続ける神に問う。「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。」(17節)「なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。」(20節b)そして「なぜ、わたしの罪を赦さず/悪を取り除いてくださらないのですか。今や、わたしは横たわって塵に返る。あなたが捜し求めても/わたしはもういないでしょう。」(21節)で終わる。ひととの関係を持たれない、超然とした存在で神がおられるなら、ヨブにはこのような問いは、苦悩はなかっただろう。神との関わりの中で日々を生きているからこその問いである。それが神のみこころに近づき、みこころを行おうとするが、ひととしての限界からそれにはるか及ばない信仰者の自然な葛藤だから。
- BRC2013:Job7:5 わたしの肉はうじと土くれとをまとい、/わたしの皮は固まっては、またくずれる。
- この段落は読んでいてもつらい。そのなかでも、ヨブは問い続ける。17節・18節「人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、/これにみ心をとめ、朝ごとに、これを尋ね、/絶え間なく、これを試みられるのか。」ヨブのひとつひとつの言葉よりも、この姿勢からチャレンジをうける。毎日、苦しみだけで過ぎていく日のなかで、主を求め続ける。すさまじい。
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- BRC2021:Job 8:8,9 先の世代に尋ねてほしい。/先祖たちの究めたことを確かめよ。私たちは昨日生まれた者にすぎず、何も知らない。/私たちの地上での日々は影にすぎない。
- シュア人ビルダドのことばである。1-7節では「もし、あなたが清く正しいならば/今や神はあなたのために目を覚まし/あなたの義の住まいを回復する。」(6)と、苦しみは罪のため、罪がなければ、義の住まいを回復するとしている。神が因果応報であるとして、現在のヨブを見ていると同時に、引用句のように、過去の人々の英知から学べとしている。哲学的手法のように思われる。知恵を得、虚しさから開放されれば、痛みも霧散するというのか。しかし、それが自らの罪と結びつき、かつ解決できないものならどうなのだろうか。神の憐れみと、ひとの苦しみの問題を直視しないと、いけないように思う。簡単な解決をもとめてはいけないのではないか。そこに、苦しんでいる人がいるのだから。
- BRC2019:Job 8:3,4 神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。
- 具体的な子らの背きを指摘しているわけではないだろう。考え始めれば、思い当たることがあるかもしれないが。7節には「過去のあなたは小さなものであったが/未来のあなたは非常に大きくなるであろう。」と支援もしている。しかし、ヨブはおそらく、なにか具体的な問題が指摘されたとしても、納得はできないだろう。自分が生かされている意味を知りたいのだから。問われていることは、とてもむずかしい。やはり、じっくり考えたい。
- BRC2017:Jb 8:11,12 沼地でもない所で、パピルスが育とうか/水もないところで葦が茂ろうか。芽を出すや否や、切られもしないのに/どんな草よりも早く枯れる。
- このあとにも続く葦についての表現は、美しい。ビルダドはそこから学ぼうとしている。そして「わたしたちはほんの昨日からの存在で/何も分かってはいないのだから。地上での日々は影にすぎない。」(9節)のようにも言う。学ぼうとしていること、素晴らしいことである。そして、十分理解できていないことを知ることも。ヨブの問うている問題とはずれているとしても。
- BRC2015:Jb8:11 沼地でもない所で、パピルスが育とうか/水もないところで葦が茂ろうか。
- 4節で「あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。」とは言うものの、6節で「あなたが潔白な正しい人であるなら」というように、ヨブが正しいかどうかは決定的ではない。ビルダドが展開するのは、因果応報。さらには、目に入るのは、ヨブの物質的、社会的、肉体的苦悩の状態であり、神の前の存在としての苦悩には、目がいかない。現在目に入る状況が目を覆ってしまっているからか。
- BRC2013:Job8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
- このとがを受けるのは、当然だということか。因果応報。一般的には、なにか問題があったとして、その問題を探し出し、その贖いをすることにより、そこから逃れられるとする。自然な考えなのだろう。罪の可能性を示されるだけでは、食い改めも、伴わない。そして、ヨブの問いに対する答えは得られない。
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- BRC2021:Job 9:11 見よ、神が傍らを通り過ぎても、私は気付かず/神が過ぎ去っても、私は悟れない。
- この章は「ヨブは答えた。確かに、そのとおりだと私は知っている。/人はどうして神に対し正しくありえようか。」(1,2)と始まる。さらに「私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。/私は生きることを拒む。」(21)おそらく、神に対して正しくありえない、自分でも、正しさがよくわからないなら、正しくありえず、それを神が裁くとしても「神は私のように人ではないから/『裁きの場に一緒に出ようではないか』/と私は応じることはできない。」(32)と。引用箇所は、神の働きを知ることができないことを象徴的に描いている。この状況のもとで神によって裁かれ、罪あるものとされ、その罰を受ける人生であるなら「私は生きることを拒む」ことも当然に思える。正しくあること、正しくないと神は罰を与えられる。この病や苦しみのように、と考えることが矛盾をはらんでいることを記している。「神は私のように人ではない」「我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない。」(33)キリスト者はここから希望も見出すのだろう。キリストがおられると。しかし、それは前の問題をしっかりと受け止めてはいない。イエスによって、上の議論にたいして、どのような答えが与えられたかをしっかり受け止めなければならない。わたしも、完全に理解しているわけではないが。
- BRC2019:Job 9:22,23 だからわたしは言う、同じことなのだ、と/神は無垢な者も逆らう者も/同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ/殺される人の絶望を神は嘲笑う。
- 結局、神がおられるということは、人間にとって何なのか。信仰をもって神の導きを求め、神の御心を行おうとすることが、何を意味するのかを問うているとも言える。信仰の意味だろうか。とても、難しい。神の側だけに集中すると、スピノザの神のようになり、神と人との関係に集中すると、このヨブの問いが出てくる。人の側だけに集中すると、おそらく、わたしは、自分がこの立場に近くなっており、それで良いのかと問うているのだろうが、真理の認知論のようになり、どのような神であるかということに関しては、ぼやけてくる。
- BRC2017:Jb 9:35 恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。
- ヨブの言葉を字義通り受け取ってはいけないかもしれない。ヨブは神とひとりの人との大きな隔たりを十分理解している。それでも「このように、人間ともいえないような者だが/わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」(32節)違いがあっても、尊重されるべきものがある。どんなこどもであっても。その感覚に近いのではないだろうか。愛の関係の中でとらえるとき、同じ平面にいることができ、それは、自分の苦しみと神の苦しみを同時に味わうことにも通じるのかもしれない。「正当に扱われていない」というとき、神もその痛みを吐露することになるのかもしれない。それを知ることが許される。そのような平面。
- BRC2015:Jb9:34,35 わたしの上からあの方の杖を/取り払ってくれるものがあるなら/その時には、あの方の怒りに脅かされることなく 恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。
- 神と同じ立場で議論しても、議論にならないことを認めつつ「神と論争することを望んだとしても/千に一つの答えも得られないだろう。」(3節)神に対して正当に扱われていないと主張したい。神の応答を求めている。興味深いのは、この直前の33節「あの方とわたしの間を調停してくれる者/仲裁する者がいるなら」調停してくれる者、仲保者を求めているのだろうか。このテーマも、注視しよう。
- BRC2013:Job9:2 「まことにわたしは、その事の/そのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。
- 罪を暴き出して、8章20節「見よ、神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。」と主張する。それに対して「その通りである」とヨブは言う。一方で生身の人間の苦悩と、それから超然としている、全能の神「不公平」だとまでは言っていないが、それに近い感覚が表明されている。神の側には「苦悩」は無いのであろうか。
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- BRC2021:Job 10:2,3 私は神に言おう。/「私を悪しき者としないでください。/どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。
- 「私の魂は生きることを拒む。」(1a)と始まる。9章21節の繰り返しである。そして引用句のあとには「あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか。」(4)と続く。わたしが今考えている重要な課題である。「神様は、わたしたちの苦しみ、痛みをも理解したいと願っておられるが、完全にわかるわけではない。」と私は考える。ここでもそれが問われている。おそらく、ヨブが語っていること、そして論理が間違っているのではなく、ヨブが、そして、わたしたちが神様のことを理解できていないということなのだろう。聖書にも十分は書かれていないということも言えるかもしれない。しかし、特に、イエスを通して示された神様について、神の子として生きることを、少しずつでも理解し、歩んでいきたいと願う。それが、達し得た所なのだから。
- BRC2019:Job 10:13,14 しかし、あなたの心に隠しておられたことが/今、わたしに分かりました。もし過ちを犯そうものなら/あなたはそのわたしに目をつけ/悪から清めてはくださらないのです。
- ビルダドに答えているのだろうか。それとも単に、自分の考えを述べているのだろうか。神に駄々をこねているのだろうか。それぞれによって、解釈は少しずつ変化するように思われる。しかし、それぞれの要素があるのかもしれない。人は語る時、それを明確にしないことが多いのだから。
- BRC2017:Jb 10:2 神にこう言おう。「わたしに罪があると言わないでください。なぜわたしと争われるのかを教えてください。
- 争っているのではないのだろう。愛している。それこそが、ヨブの状態。しかし、ヨブには理解できないだろう。そして、誰にも。神も苦しんでいるのだろうか。愛の故に。沈黙の故に。ヨブ記の中心はそこではないだろうが。
- BRC2015:Jb10:7 わたしが背く者ではないと知りながら/あなたの手から/わたしを救いうる者はないと知りながら。
- これを高慢だと責められるだろうか。ヨブは神に問うている。「神にこう言おう。「わたしに罪があると言わないでください。なぜわたしと争われるのかを教えてください。」(2節)しかしこの問いには、最後まで主は答えられないようだ。苦しみの中でももだえることに価値があるのだろうか。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイ24:12,13 のような忍耐による希望の勝利の立証をもとめているのか。ヨブの時代では、それは、難しいように思われる。
- BRC2013:Job10:21 わたしが行って、帰ることのないその前に、/これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。
- この章は「わたしは自分の命をいとう。」とはじまる。結局、死のあと何もない。死はすべての終わりであるとすることにより、救いは見つけられないのか。自分にとっての「死後」を定めるか、自分を神の国と一体化するかということだろうか。安易に、死を滅ぼされたイエスに到達せず、この問題を見つめたい。イエスのメッセージを思い巡らしながら。
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- BRC2021:Job 11:16 こうしてあなたは労苦を忘れ/それを流れ去った水のように思う。
- この「こうして」に至るために「ナアマ人ツォファル」(1)が語っているのは、神の崇高さと、苦しみは不義の結果であるということのようだ。ヨブとの議論が噛み合っていない。「ああ、神が語りかけ/あなたに対して唇を開いてくださるように。」(5)ここで言われていることとはずれているのかもしれないが、ヨブもまさにこれを求めているのだろう。しかし、苦しみ、痛み、病む、生身の人間に、どれだけのなぐさめ、力となるだろうか。やはり、神の子として生きることが、鍵となるように思う。神様だったら、人の子である、神の子なら、どうするかと考えることだろうか。やはり、難しい。
- BRC2019:Job 11:2 これだけまくし立てられては/答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと/認められるだろうか。
- このあとを読むと、ナアマ人ツォファルの主張は、「神は究めることができないかた」(7)であるといい「神が隠しておられるその知恵を/その二重の効果をあなたに示されたなら/あなたの罪の一部を見逃していてくださったと/あなたにも分かるだろう。」(6)である。さらに「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ/神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ/あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ/あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく/恐怖を抱くこともないだろう。」(13-15)としている。神の偉大さと、因果応報とはいわないが、やはり、罪の故の苦しみであることを言っているのだろう。しかし、自分が理解できず、十分な反論がある場合も、静かに受け止め、ことばの背後にあるものを探る応答もあるように、いまは思う。「あなたのことを教えて下さい」と。神について十分知らないのと同じように、ひとについても理解することはとてもむずかしいのだから。
- BRC2017:Jb 11:4 あなたは言う。「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。
- 「わたしが正しいと主張しているのに/口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。」(9章20節)ともあるが、ヨブの主張はそこにはないだろう。議論がずれてしまっているが、よく起こることのようにも思う。難解な議論の中で、あるひとつの言葉に躓き、疑問を投げかける。ナアマ人ツォファルの言いたかったことの背景には、もっとあるかもしれない。
- BRC2015:Jb11:4-6 あなたは言う。「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。 しかし、神があなたに対して唇を開き/何と言われるか聞きたいものだ。 神が隠しておられるその知恵を/その二重の効果をあなたに示されたなら/あなたの罪の一部を見逃していてくださったと/あなたにも分かるだろう。
- 「ナアマ人ツォファルは話し始めた。」(1節)正しさについて語っている。確かに神の知恵の深さを知ることはできない。恐れおののくのみである。しかしそれによって解決しない「ヨブのなぜ」がある。人間の罪と救済の問題と深く関わる。人間は確かに神の前に無垢ではいられない。その罪なのだろうか。キリスト教では原罪と表現されてきているが、神を(または「真理を」)求め、神のみこころ(または「愛」)を生きることができなくなっている状態、と表現してもよいだろうか。小さな罪ではなく、本質的な罪である。しかしそれは罪ということばで表現されるべきなのだろうか。信仰告白として「罪」としか表現できないものということなのかもしれない。
- BRC2013:Job11:6 知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも/軽くあなたを罰せられることを。
- ナアマびとゾパルのことばである。言葉自体は興味深い。13節には「もしあなたが心を正しくするならば、/神に向かって手を伸べるであろう。」そして「そうすれば」とつづく。ヨブの苦悩、問いには答えていないのだろう。一つ一つの言葉ではなく、全体の修辞を丁寧にみないと全体を見失ってしまう。
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- BRC2021:Job 12:4,5 私は友人たちの笑いぐさ。/神を呼び、神が答えてくださったのに/完全で正しき人が笑いぐさとなっている。安楽な思いの中には不運な者への侮蔑があり/人が足を滑らせるのを待っている。
- ナアマ人ツォファルや、すでに語った、テマン人エリファズ、シュア人ビルダドのことばもやはり「不運な者への侮蔑」があるのかは、断定しないが、暖かく、そばにともに居るようには、見えない。隣人になること、隣人であることは、そのような存在なのだろうか。少なくとも、「完全で正しき人が(を)笑いぐさ」にしたり、「侮蔑」を与えてたり「足を滑らせるのを待っている」のは、隣人ではない。
- BRC2019:Job 12:22 神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される。
- 「神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。」(4)とあり、ヨブは神にこたえて頂いたことがあることを言っているようだ。同時に、神の主権ともいうべき、神のなされることが単純ではないことが、縷縷のべられている。引用箇所のように。「この地の民の頭たちを混乱に陥れ/道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。」(24)とある。おそらく、ヨブは自分のようなことが孤立したことではないことを、認めているのだろう。そのようにさまよっているものの代表という意識はないにしても。
- BRC2017:Jb 12:22 神は暗黒の深い底をあらわにし/死の闇を光に引き出される。
- ヨブの苦悩の範囲は広い。「すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。」(10節)では創造物すべてが知っていることを語っている。これを自明の理としている。「御手の内にある」ことの実質の解釈を「神はすべてのことの背後におられる」とすることで、変えようとしているのだろうか。神の理解が深くなっているのだろうか。正直よくわからない。簡単に解釈すべき事ではないのだろう。並木先生の「ヨブ記」もいずれ読んでみたい。できれば、質問ができるうちに。
- BRC2015:Jb12:4 神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。
- 「友人たちの物笑いの種」とはちょっとけんかを売っているような感じもないことはないが、ヨブが問うていることは、そんなことではないよ。ツォファルの言っていることは、もちろん知っているよと言っているのだろう。興味を引くのは前半である。神との近しいやりとりのなかで生きていたと思っている者だからこそ、大きな問いがが存在するのだろう。
- BRC2013:Job12:24, 25 地の民の長たちの悟りを奪い、/彼らを道なき荒野にさまよわせ、光なき暗やみに手探りさせ、/酔うた者のようによろめかせる。
- ヨブがゾパルに答え、ゾバルが述べる知恵は、わたしも持っている。として、語る部分の章の最後にこの言葉がある。主権を明確に述べつつ、自分の問いとかすかに結びつけているように思う。もしかすると、結びついてきてしまってやめたのかも知れない。
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- BRC2021:Job 13:21,22 あなたの手を私の上から遠ざけてください/あなたの恐怖で私をおびえさせないでください。そして、呼びかけてください。私は答えます。/あるいは、私に話させ、あなたが答えてください。
- この章の前半は、ひとの批判は不要であることを伝え、後半で本当の望みを書いているようだ。引用箇所から、神の前に自由の身で、神と語りたいことが書かれている。このあとには、「私にはどれほど過ちと罪があるでしょうか。/私の背きと罪とを私に知らせてください。どうして、あなたは御顔を隠し/私をあなたの敵と見なすのでしょうか。」(23,24)と続くが、おそらく、神と自由に語りたいことに尽きるのだろう。自分の苦悩の説明を求めている。神を敬い(16)信頼するものとして。引用句の前半もたいせつだと思う。恐怖がなく、自由でないと、本当には、語れないから。少しずつ、ヨブの痛みを受け取っていきたい。
- BRC2019:Job 13:19 わたしのために争ってくれる者があれば/もはや、わたしは黙って死んでもよい。
- ヨブと親しい人たち(または友)(2章11節)に黙れ、わたしに語らせろ(5,13)と、かなり乱暴である。確かに、友ができるのは、黙ることだけなのかもしれない。ヨブのために争ってくれる者、それはおられるとするとイエス様だけ。イエス様ならこの場面でどうされるのだろうか。ヨブの願いは二つ「わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。」(21,22)2つ目は「わたしの罪咎を示してください。」とも表現されている。神から来ているとヨブは確信している苦しみの理由とも言える。このように、求め続けることでよいのかもしれない。そのようにして死んでいったひとがなんと多いことか。もしかするとすべてのひとがその苦しみを味わいながら生きているのかもしれない。その苦しみ自体に意味があると切り捨てるつもりはないが。本当に難しい。
- BRC2017:Jb 13:22 そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。
- ヨブの願いは、この一点にかかっている。神と向き合いたい。もし、神が背後にいるだけで、手は下していないとヨブが聞いたら、どうらろうか。神への信頼は、薄らいでしまうのではないだろうか。わたしは、どのように理解しているのだろうか。
- BRC2015:Jb13:19 わたしのために争ってくれる者があれば/もはや、わたしは黙って死んでもよい。
- 9:33 に現れた仲保者のイメージのおそらく第二回目の出現である。ここでは、友人たち(直接的にはナアマ人ツォファル)が神の立場に身を置いて責め立てることに対して、神に答えてほしいと願う場面である。自分に代わって、神と争ってくれるそのような存在との対比でもある。自分の訴えが聞かれているという確信の欠如だろうか。後者については、最後に満たされるが、神はヨブの「なぜ」には答えられず、仲保者もこの段階では与えられない。
- BRC2013:Job13:15, 16 見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を/彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救となる。神を信じない者は、/神の前に出ることができないからだ。
- 3節にあるように「神と論ずることを」望み、22節にあるように、神に答え、神からの応答を望む。この一時をねがっている。神とのこのような関係こそが、神の前に立つことなのだろう。すでに、ヨブは神の前に立っている。応答を聞き取ることはまだできないが。わたしは、そこまで真剣に望んでいるだろうか。ヨブが恋い慕うような神との関係を。
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- BRC2021:Job 14:7-10 木には望みがある。/たとえ切られても、また芽を出し/その若枝は絶えることがない。たとえその根が地中で古び/幹が土の上で死んでも 水気に会えば芽を吹き/苗木のように枝を伸ばす。しかし、人間は死ねば横たわる。/人は息絶えれば、どこにいるのか。
- 死には集中していないように思える。ヨブが求めているのは、「あなたが呼べば、私は答えます。/あなたの手の業を尋ね求めてください。」(15)のように、神と語り合うことのように思う。しかし、ひとは、やはり人生の意味がわからず、苦しみがの意味がわからず、朽ち果てて行くものなのではないだろうか。それを求めることと、完全回答をえることは異なるように思う。そして、全く答えが得られないわけでもないように思う。
- BRC2019:Job 14:13 どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまで/わたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてください/わたしを思い起こす時を。
- これを知識の欠如とするのは、まったく誤りだろう。すべきことではない。興味深いのは、後半である。いつかは、思い起こして「その時には、わたしの歩みを数えてください。わたしの過ちにもはや固執することなく わたしの罪を袋の中に封じ込め/わたしの悪を塗り隠してください。」(16,17)と言っている。あくまでも、神との交わりの中で、平安をもとめる。たとえ死んだあとであっても。圧倒される。その信仰に。はっきりはこたえが得られなくても、求め続ける、これを信仰と呼ばないで、なにが信仰だろうか。
- BRC2017:Jb 14:22 彼はひとり、その肉の痛みに耐え/魂の嘆きを忍ぶだけだ。
- わたしは何を求めているのだろう。希望をもって生きることだろうか。ここで表現されているひとと何がことなるのだろうか。ヨブはもう一度、整理して読んでみたい。新しい観点で読むことができると期待したが、すでに行き詰まっているように思われる。体調が完璧ではないことも関係しているかもしれないが。
- BRC2015:Jb14:13,14 どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまで/わたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてください/わたしを思い起こす時を。 人は死んでしまえば/もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから/交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。
- 7節には「木には希望がある、というように/木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない。」とあり、10節には「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」として希望がないことを語る。しかし完全に希望の存在を否定しているわけではない。それが、この13, 14節である。具体的にはよくわからない。しかし、神が自分を思い出すとき、怒りがやみ解放されるときに望みを託している。完全には希望を失わない。ここに信仰があるのだろう。その希望を実質的なものとして表現することは、困難であったとしても。
- BRC2013:Job14:13, 14 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。
- 死後については、あまり論じられていない。それは、大切なことなのかも知れない。いま、生きているときに希望を持つために。しかし、同時に、死がすべてのものの終わりとするのも、希望を失わせる。解放はやはり信じて、死に、それを知りつつ、いまを精一杯生きるのだろう。
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- BRC2021:Job 15:7,8 あなたは最初の人間として生まれ/丘に先立って生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり/知恵を自分のものにしたのか。
- テマン人エリファズの二回目のことばである。同じことばはないが、38章以降の神が語られるテーマの一部でもある。すなわち、有限な人間と、到底及ばない、神との違いである。それはそのとおりであり、その神に、答えてほしいと望むヨブは、高慢なのかもしれない。しかし、信頼関係、交わりを求められる神は、やはり答える必要があるのかもしれない。どのようにしてかは不明だが。これは、とても、大きな問である。神は、ひとが求めさえすれば、得ることができるように、真理を提示しておられるのだろうか。これは、正直わからない。究極的には、NO だが、必要なものは与えてくださるのだろうか。ヨブにとって必要なものは、結局最後に、答えられたのか。わたしたちにとっては、どうだろうか。
- BRC2019:Job 15:13 神に向かって憤りを返し/そんな言葉を口に出すとは何事か。
- 通読では、詳細に分析はできないが、エリファズの一回目と二回目には、違いがあるように思われる。心理学的な要素も含んでいるのだろうか。神との交わりを基本的なものとするヨブとはことなり、絶対他者としてしか見ていないエリファズの神学の問題もあるだろうが、同時に、ヨブを受け入れられない、理解できない苛立ちも感じる。現象面だけを捉えれば、批判はいくらでもできる。しかし、ヨブ記記者が伝えようとしていることについては、よくわからない。詩文体でもあり、きっちりとした理解は難しいのかもしれない。
- BRC2017:Jb 15:6 あなたを罪に定めるのはわたしではなく/あなた自身の口だ。あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ。
- エリファズの二度目の弁論である。なぜ、罪に定めるのが「神」といわず「あなたの唇」と言っているのだろうか。はっきりとは分からないが、注目すべき点を指摘しているのかもしれない。気をつけるのは、わたしのことばではなく、あなたの唇。この一つの文章でも、理解は簡単ではない。
- BRC2015:Jb15:13 神に向かって憤りを返し/そんな言葉を口に出すとは何事か。
- テマン人エリファズの二度目の議論である。10節には「わたしたちの中には白髪の老人もあり/あなたの父より年上の者もある。」とある。一般的には、エリファズは一番年齢が上とされているが、そうすると10節はどう解釈するのだろうか。議論がかみ合っていないことは、ヨブ記記者も十分理解しているのだろうか。しかし、エリファズのようにとらえることも可能であるように思える。冷静に考えてみたい。
- BRC2013:Job15:4 ところがあなたは神を恐れることを捨て、/神の前に祈る事をやめている。
- テマンびとエリパズの二度目の登場である。ヨブはまさに祈りのなかにいるのだろう。ただ、それが祈りと理解されないということは、祈りを丁寧に定義し直す必要があるのかもしれない。エリパズのこの章の言葉から考えると、一般的に祈りは「感謝」(11節)・「罪と自分の弱さの告白」(35節)・「願い」であろうか。しかし、このような言葉でかいた時点で、その内容を問わないと、エリパズの祈りと、ヨブの祈りを比べることができないことに気づかされる。また、神に対する「ヨブの姿勢」「キリスト者の姿勢」「当時のユダヤ人の姿勢」「一般のひとの姿勢」を整理しなければ、論じられないことも感じる。
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- BRC2021:Job 16:6,7 たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。/語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。
- ここにも、苦しみについての記述がある。最後の部分は何を意味するのだろうか。私の仲間とは誰だろうか。苦しんでいる人を罪あるものと批判することは、その友をも離れさせるということだろうか。「まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。」(7, 口語)これはなにのことかわからない。"Surely, God, you have worn me out; you have devastated my entire household." (NIV) これはわかりすぎて言語との乖離が心配になる。"But now He has worn me out; You have made desolate all my company." (NKJV) おそらく、このあたりが、原義に近いのだろう。難しい。
- BRC2019:Job 16:4,5 わたしがあなたたちの立場にあったなら/そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね/あなたたちに向かって頭を振り口先で励まし/唇を動かすことをやめなかっただろうか。
- ヨブが言いたかったことは、おそらく以下のことではないだろうか。「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(19,20)真の友は、このような弁護してくださる方、執り成してくださる方とともに、いるものだと言いたいのだろう。ヨブは真の友を天にもっていたのだろうか。どの程度実感を持っていたかわからないが、神が孤立したものではなく、その交わりは、個人的なものではない交わりであることを理解していたのだろうか。それは、驚くべきことである。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネの手紙一1章3節)
- BRC2017:Jb 16:6 語っても苦しみはやまず/黙っていても、それは去りません。
- 正直なヨブの気持ちだろう。この前には「わたしがあなたたちの立場にあったなら/そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね/あなたたちに向かって頭を振り口先で励まし/唇を動かすことをやめなかっただろうか。」(4,5節)ヨブは黙して、苦しみに寄り添ったと言っているのか。しかし、それでは、このようなヨブ記は生まれない。できることは何なのかも考えてしまう。サービスとは何なのかを。
- BRC2015:Jb16:19,20 このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。 わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。
- この執り成す方の実在にヨブはどの程度確信をもっていたのだろうか。福音的に解釈することもできるが、同時に、この章の前半はイエスの受難を表現しているともとれる。10節・11節「彼らは大口を開けて嘲笑い/頬を打って侮辱し/一団となってわたしに向かって来る。 神は悪を行う者にわたしを引き渡し/神に逆らう者の手に任せられた。」などである。ヨブが神ののろいともとれる皮膚病を身にまとっていたことにより、救い主の本質や、ヨブの内面の苦悩が読み取れなかったのかもしれない。その状況でヨブは、執り成す者に希望のすべてをかけているのかもしれない。
- BRC2013:Job16:6, 7 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
- 4節・5節と対比されている。ヨブの苦悩の一部が言い表されている。19-21節の告白がのちに現れる。単純に仲保者の必要性と受肉前の基督へと結論づけるのは、問題があるように思われるが、ヨブはひとでも、神ご自身でもないものに、望みを置こうとしているのだろうか。苦しみの極限を知ったものだけが到達できる場所なのか。
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- BRC2021:Job 17:1,2 私の霊は破れ、私の日々は消え去る。/私にあるのは墓ばかり。ただ嘲りが私を取り囲み/私の目は彼らの挑発の中で夜を過ごす。
- 「霊は破れ」はよくわからないが、精神・こころがずたずただということだろうか。希望がない状態。そして、嘲笑に囲まれている。希望とする神はいくら叫んでも答えず、滅び以外、死しかない。わたしは、そのような中で、どう生きることを求めるだろうか。いままでの恵みを感謝するだろうか。それは、神の愛のもとにいると、告白できるときだろう。ヨブは、その危機のもとにある。わたしは、そのような危機について、理解できないのだろう。自分も絶望の中にいたときはあるが、そこには、まだ甘えがあったように思う。自分を悲劇の主人公にするような。ヨブについて、もう少しだけでも理解したい。
- BRC2019:Job 17:11 わたしの人生は過ぎ去り/わたしの計画も心の願いも失われた。
- 希望が無いことが様々なことばで表現されている。かろうじて「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が/わたしの味方をしてくれましょう。」(3)は神への信頼を失っていないことの表現だろう。真の友にはなれず、できる限りのことを考えても、ヨブには届かないのだろう。しかし、そうであっても、共に生きる誠実さを持っていたい。信仰が、もしまったく個人的なものであるなら、隣人を愛することも、高慢ではないだろうか。神との主との交わりの中で共に生きる。そしてその交わりのなかに生きる。それは、可能なのだろうか。近くには見つけられないかもしれないが、そのような友とつながっていたい。おそらく、このように、共に聖書をそしてヨブ記を読みながら求めることなのかもしれない。
- BRC2017:Jb 17:11 わたしの人生は過ぎ去り/わたしの計画も心の願いも失われた。
- このあと15節には「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。」と印象的なことばが続く。希望は復活を信じてはじめて得られるものだのだろうか。11節には二つの「わたしの」が続く。それが「わたしの希望」に関連しているようにも思う。ヨブはこのように問いながら「神の希望」「神の思い」を求めているのかもしれない。その中に「わたしの希望」を位置づけることを願いながら。わたしは、そのように生きたい。そのなかに「復活」もあり、復活がなければ「希望がない」わけではないように思われる。
- BRC2015:Jb17:15,16 どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。 それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。
- ヨブが神と向き合うということから判断して、希望をもっていると言えると思われる。そう考えると、ここでは反語のように神に問いかけているのかもしれない。「塵」はいのちがとられてしまっているものの象徴として、自分がいずれ行き着く者として語られているのだろう。
- BRC2013:Job17:3 どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために/保証となってくれる者があろうか。
- この章は「わが霊は破れ、わが日は尽き、/墓はわたしを待っている。」ではじまり、11節でも「わが日は過ぎ去り、わが計りごとは敗れ、/わが心の願いも敗れた。」と絶望的状態を吐露している。ヨブの孤独の独白なのかもしれない。そのなかで、神以外に理解してくれる存在がないとして、祈願しているのが、この節だろう。この思いは理解できる。わたしもこのように思ったこともあるのだから。しかし、救いは、神の働きは、見えないところで、わたしたちを取り囲んでいる。
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- BRC2021:Job 18:3 どうして、私たちは獣のように見なされるのか。/あなたがたの目に汚れたものとされるのか。
- シュア人ビルダドの二回目である。これをみると、「いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。」(2a)とも言っており、ビルダドも途方に暮れ、自らが責められていることに耐えられないようだ。それは、お互いにとって悲しい。たしかに、そのような状況は起こりうるように思う。一つの悲劇が、人々の間にさらなる悲劇を生じる。これはまたあらたな問題でもある。ヨブ記はやはり、とてもむずかしい。手に負えない部分が大きい。
- BRC2019:Job 18:2,3 いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。
- 「言葉の罠の掛け合い」はよくはわからないが、理解できない状態がおこっていることはたしかである。ビルダドはそれでも、語り続ける。それは、多少の希望でもる。わからない、理解不能をどう克服するか、おそらく、そこに鍵があるのだろう。あなたのことをおしえてください、は、たんなる希望をつなぐことなのか。おそらく、その姿勢がたいせつなのではないだろうか。見えない希望のなかで、共に生きることにのぞみを託しているのだから。
- BRC2017:Jb 18:4 怒りによって自らを引き裂く者よ/あなたのために地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか。
- ビルダドの二回目の弁論は「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。」(2節)と始まる。しかし、かえってこの言葉によって溝が深まっているように思われる。理解することはとても難しい。「まず理解せよ」と求めることだけは、避けたい。互いが近づくことにはならないのだから。
- BRC2015:Jb18:5 神に逆らう者の灯はやがて消え/その火の炎はもはや輝かず
- 基本的に友人たちが説く基本原理は「因果応報」である。そうであれば、罪の結果とみえるヨブの苦しみだけでなく、「神に逆らう者の灯がやがて消える」こと「その火の炎はもはや輝か」ないことも真なのだろう。ヨブは異なる基本原理に生きている。それは、どのようなものと表現すればよいのだろうか。
- BRC2013:Job18:3 なぜ、われわれは獣のように思われるのか。なぜ、あなたの目に愚かな者と見えるのか。
- シュヒ人ビルダデの第二回の弁論である。弁論とは言っても、すでに決裂のにおいがする。ビルダデには理解できない。わたしがヨブを理解しようとするのは、イデオロギー的に、ヨブが正しいとしているからか、ほかの要因があるのだろうか。ビルダデのような言葉を発することも十分理解できるように思う。他者の痛みをどのように受け取るか、信仰をどのように見るかだろうか。
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- BRC2021:Job 19:21,22 あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。なぜあなたがたは神のように私を追い詰めるのか。/私の肉で飽き足らないのか。
- 「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。」(4)も興味深い。もし、誤りがあるとしても、それは、神との関係だけに限られていることを主張しているのだろうか。ヨブは、神と向き合い、そこに集中している。引用句は、そのようなヨブの側に共にいて憐れむものがおらず、神との関係においても、自分を追い詰めるだけの存在になっていると言っているようだ。せめて、このような深刻な課題をともに考えてくれる人はいないのかと訴えているようである。以前は「私は知っている。/私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる。」(25)からイエスによる救いを見て「ほっと」していたが、おそらく、そうではなく、このヨブと苦しみをともにしながら、神と向き合うヨブのそばにいることなのだろう。それとも、それも、正しさに寄りすぎていて、イエスがされることとは違うのだろうか。よくはわからない。
- BRC2019:Job 19:15-17 わたしの家に身を寄せている男や女すら/わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず/わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ/子供にも憎まれる。
- 単なる病による苦しみではない。人間として Respect されないのだろう。息は “ruwach” であり、霊など、他に訳すこともできる。しかし、かえって、息のほうが、実感がこもっている。「よそ者」とはなにだろうか。あわれみを請い、寄留するものすら、敵視するとある。しもべは、すでに、下僕ではない。関係が逆転しているようだ。卑しめられているという表現がより適切かもしれない。単なる信仰・神学論争ではない。
- BRC2017:Jb 19:6 それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし/わたしの周囲に砦を巡らしていることを。
- 口語訳では「神はわたしをしえたげ」となっている。「非道なふるまい」は何を意味しているのだろうか。ヨブ記において、ヨブは首尾一貫しているのだろうか。このことも、疑問に思っている。変化しているのか、それとも、論理の一貫性が十分ではないのか。それとも、詩文体での心情の表現のゆえに、そのような幅が生じるのか、翻訳の問題なのか。この節だけをとすと、神からの者を感謝して受けるととることは困難で、明らかなる神批判だからである。不明ではあるが、現時点では、こころのはばとゆれとしておこう。
- BRC2015:Jb19:25 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。
- この章では友人たちへの非難の部分が大きい。「わたしが過ちを犯したのが事実だとしても/その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。 ところが、あなたたちは/わたしの受けている辱めを誇張して/論難しようとする。」(4節・5節)特に、4節の「その過ちはわたし個人にとどまるのみ」という表現も注意を惹く。他人に迷惑をかける罪ではなく神との関係おけることで、少なくとも友人たちとは無関係であるにもかかわらず、ヨブの誤りを「論難しようとする」と言っている。さらに21節では「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ/神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。」とあり、25節の背景をなす。「神の手」に触れられ、友人もそれを見て、自分を責める。そんなときにも「わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵(口語では「土」)の上に立」たれる。敬語の使い方からも、たつのは、購う方である。「塵」であるなら余計、人間の側にともにたたれることが強調される。
- BRC2013:Job19:13 彼はわたしの兄弟たちを/わたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
- 「彼」は6節からの続きと考えると神であろう。この節から、ヨブがみなに見捨てられ、疎まれることが書かれている。親類および親しい友 (14節)、家に宿るものおよびはしため (15節)、しもべ (16節)、妻および同じ腹の子ら (17節)、わらべたち (18節)、親しい人々およびわたしの愛した人びと (19節)、20節には自分の肉体のことも書かれている。2章までのこと以上にヨブは苦しんでいたのだろう。孤独の戦い。そこで25節のように「わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」なぜ告白できるのだろう。
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- BRC2021:Job 20:2-4 心がいらだち、答えよと私に迫る。/私はせきたてられているのだ。諭しが私を辱めるのを私は聞く。/しかし、霊は私の分別によって私に答える。あなたも昔からのことを知っているのではないか/人が地上に置かれて以来のことを。
- 「ナアマ人ツォファルは答えた。」(1)とあるが、ツォファルはヨブと向き合っては答えていないように思う。たしかに、ヨブは、友人たちを非難しているようにも聞こえる。しかし、ヨブの求めているのは、自分に起こったことについて、自分と神との関係についての、ヨブの苦しみを前にして、神に向き合うものとして、問うものとして、ともにいてほしいということだろう。しかし、ここでも、一般論、ある意味では、正しさで答えている。どうしたらよいか、わかるわけではない。そして、神からの答えが得られるわけでもない。そのなかで、ひとはどうしたら良いのだろうか。ヒントはあるかもしれないが、よくはわからない。
- BRC2019:Job 20:27-29 天は彼の罪を暴き/地は彼に対して立ち上がる。神の怒りの日に、洪水が起こり/大水は彼の家をぬぐい去る。神に逆らう者が神から受ける分/神の命令による嗣業はこれだ。
- これが普通の見方なのかもしれない。しかし、そうではないと言いたい。この神からのさばきをうけているとしか思えない、ヨブの姿を見ても、このヨブと共にいたい。そのようなものでありたい。たとえ、自分も、その裁きが嗣業となったとしても。神の憐れみをともに、求めたい。
- BRC2017:Jb 20:3 あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。
- ナアマ人ツォファルの二度目の弁論である。一回目は11章なので、その部分を受けていると思われる。11章では、成長しうるのだから、謙虚に求め続けよと言っているように思われる。それに対して、ヨブは結論を急いでいると。その点については、わたしも同様に思う。不明な点を不明とする。そして求め続ける。感謝の心をもちながら。わたしは、そのように生きたい。
- BRC2015:Jb20:2,3 さまざまな思いがわたしを興奮させるので/わたしは反論せざるをえない。 あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。
- ナアマ人ツォファルの二度目の弁論である。このように、批判を続けることが、結局は神の出現を生んだのかもしれないと、今回思うようになった。神のこころをこころとして、ヨブに語りかける、もしくは、ヨブの苦悩を共にする友の存在を求めているのかもしれない。19:25 からはそうではないから、購い主は必要だとなるのかもしれない。ヨブ記の一つのテーマとして考えたい。
- BRC2013:Job20:5 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、/神を信じない者の楽しみは/ただつかのまであることを。
- ナアマ人ゾパルの二回目の弁論である。この5節にあることについて、ヨブはどう考えていたのだろう。イエスの毒麦のたとえ (Mtt13:24-30) から、一般的には、最後の審判まで悪しきものも残されるとキリスト者は、理解されているだろう。
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- BRC2021:Job 21:23-26 ある者は十分に満ち足りて死ぬ。 /彼らは皆、平穏で安らかだ。彼の器は乳で満ち/骨の髄まで潤っている。しかし、ある者は魂の苦しみを抱いて死に/幸せを享受することがない。彼らは等しく塵に伏し/蛆が彼らを覆う。
- この問題は深く重い。人生の不平等である。因果応報と考えてしまうことから、恵みに生かされていることに考え方を変えることは一つである。しかし、それでは、解決できない、普遍的な課題である。「満ち足りたいのち」vs「魂の苦しみとともなるいのち」それは、気持ちの持ち方だなどとは言えない。ひとつ探求しているのは、いのちは、ともに生きるものと捉えることである。満ち足りたといえる人も、そうでないひとたちの魂に思いを致し、そして、恵みを分かち合う。十二分に。それで、解決するかどうかは正直わからないが、個々のいのちで考えると、つねに行き詰まるように思う。ひとりひとりの尊厳をまもりつつ、他者と喜びも悲しみも共有できなければ豊かになれない、そのようなものをいまは、求めたい。
- BRC2019:Job 21:4 わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか。
- 人を避難しているわけではない。友に反論しているわけではないとヨブはいう。たしかに、ヨブは神の方を常に向いているのだろう。そして「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。」(7)から世の中の理不尽について語る。神に逆らうものの人生と、神に従うものの人生と、この世での祝福を考えると同じではないかと。答えとして、実際の生活における祝福による評価の価値を下げることはあるだろう。しかし、それも重要であるはずである。神のみこころの、深さを考えなければいけないのだろう。わたしも、むろん、答えはない。
- BRC2017:Jb 21:2 どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。
- ヨブはさらに自分は神に向かって訴えており、人に対してではないことを語り、つづけて「わたし自身、これを思うと慄然とし/身震いが止まらない。」(6節)と述べている。そして、ここから不正な者が裁きをうけない現実が述べられる。神の正しさについての訴えである。信仰者は、この部分を信仰の問題と切り離し問わない。しかし、神理解には、神義論は避けて通れない。問うことによらなければ、理解は得られない。「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。」(7節)
- BRC2015:Jb21:7 なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
- ヨブは、世の中を見る限り「因果応報」とはなっていないことへの神への訴えを、徹底的に「因果応報」をヨブに適用しようとする友人に語る。この章はそのことがよく現れている。17節・18節「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い/神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。 藁のように風に吹き散らされ/もみ殻のように/突風に吹き飛ばされたことがあろうか。」たしかに、因果応報の根拠は不明確である。このようなこともあるが、そうでない場合も多い。子孫の時代に報いられるのかとの自問に対する20節は強烈である。「自分の目で自分の不幸を見/全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。」正面からこの問いと向き合うのは、素晴らしい。
- BRC2013:Job21:34 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、/わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。
- 20:5 に対するヨブの応答がこの章に書かれている。この最後のことばはきっぱりしている。悪しきものが「その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。」(13節)、さらに「彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。全能者は何者なので、/われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。」(14, 15節) これは、「人生に神はいらない。何も問題はない。放っておいてくれ。」というのに似ている。それに、「いずれ神様からの罰が下るよ」という応答に対する、ヨブの決然とした応答だとも取れる。わたしは、どう答えるだろうか。
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- BRC2021:Job 22:2,3 人は神にとって益となるだろうか。/悟りある者も自分を益するだけだ。あなたが正しいとしても/それが全能者を喜ばせるだろうか。/あなたの道が完全でも/それが神の利益になるだろうか。
- 「テマン人エリファズ」(1)が語る三回目である。翻訳もあるだろうが「あなたは神と和解し、平和を得てほしい。/そうすれば、幸いが訪れる。」(21)はこころをうたれる。引用句について考えてみたい。わたしにとって、神様は、イエス様を通して表された神様で、深く憐れみ、つねに、Available で、かつ、くびきを共に負ってくださり、vulnerability をもって、本質的な困難をも、取り除こうとしてくださるかたである。「益」かどうかはわからないが、共に喜び、共に泣いてくださる方だと信じている。そしてそれは、イエスさまだけでなく、我々も、共に喜び泣くものとなることをも目指している。「神を畏れるからといって、神はあなたを弁護し/あなたと共に裁きの場に臨むだろうか。」(4)イエス様は共にいてくださるように思う。「あなたの悪は多く/あなたの過ちは果てしないではないか。」(5)これは否定できない。「あなたはやもめを空しく去らせ/みなしごの腕を砕く。」(9)共に生きることを否定する、このようなことを認識することはたいせつだが。わたしも、どうしたら良いかわかるわけではない。
- BRC2019:Job 22:21 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。
- この言葉に限らず、この章のエリファズの三回目の弁論は、ここだけを読めば、多くのキリスト者も同意するかもしれない。「あなたはやもめに何も与えず追い払い/みなしごの腕を折った。 」(9)など、罪人とみとめない人に対して、使われることがあるかもしれない。しかし、そのようなことが、ヨブの訴えをかえって際立たせているように思われる。ヨブ記に完全な答えがあるとして読まなくてもよいのだろうと、わたしは今考えている。むろん、間違っているかもしれないが。
- BRC2017:Jb 22:21,22 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。 神が口ずから授ける教えを受け/その言葉を心に納めなさい。
- エリファズの三回目の弁論である。神と人との関係において、神は超然としており、人の側からは何もなしえず、神は自律的に裁きを下されることがまず書かれ、引用句に到達する。問うこと、そして応答を求めることについて批判的である。それも、ひとつの信仰者の態度であるように思われる。しかし、わたしは、ヨブにつながりたい。神もそれを求めておられるのではないだろうか。神の苦しみをも理解しようとする者と関係を築くことを。
- BRC2015:Jb22:21 神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。
- テマン人エリファズの第三回目(最終弁論)は2節の「人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。」から始まる。おそらくこれを重要な根拠とする故、人間の側の罪にまみれた生活(5-9節)から「全能者のもとに立ち帰り/あなたの天幕から不正を遠ざけ」(23節)神に従う生活への転換による神との和解のみが祝福への道(23-30節)だと説く。しかしイエスが求めるものは、少し違うと思う。神を愛し、自分のように隣人を愛することによって「人間が神にとって有益でありえ」るのではないだろうか。これは、ヨブのように、神からの応答、神との交わりを徹底的にもとめる姿勢とも関係している。
- BRC2013:Job22:30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、/救われるであろう」。
- テマン人エリパズの3回目の弁論である。「あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない。」(5節) と非難はするが、トーンは落ちている。「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」(21節) 委ねるしかないと考えるようになっているのかも知れない。難しい。
[23] ... back to menu top
- BRC2021:Job 23:4-6 私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。/いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。
- この章のヨブには揺れもあるように思う。しかし、主に問い、答えを得たいという強い気持ちは変わらない。「きっと私を心に留めてくださるだろう」と告白できるのは、これまで、明らかにではなくても、神との交わりの中を生きてきたものの、告白のように見える。神の答えなく、ただ、滅ぼされる恐怖はあるように、思う。このように、問い続けること、それは、わたしの神のみこころ、真理の探求とは、少し違うように思う。それは、イエスのことを知っているからだろうか。そうなのかもしれない。しかし、そこに行き着くのは、ヨブにとっては、不公平、卑怯であるようにも、思う。やはり、難しい。
- BRC2019:Job 23:6,7 その方は強い力を振るって/わたしと争われるだろうか。いや、わたしを顧みてくださるだろう。そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ/わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。
- 最後の部分を丁寧に学んでみたいが、省みるということではないのではないだろうか。争われるという部分は、明確ではないが、争われると表現しても良いように思う。にも関わらず、おそらく、ヨブは、神の前に正しいとされ、訴えは解決されるように思われる。最初の部分は、やはり、友人にも訴えているように思われる。ヨブは直接的には上に向けているのに関わらず。このことも、興味深い。
- BRC2017:Jb 23:3 どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。
- あきらかにわたしはヨブのようには、神を求めていない。「今日も、わたしは苦しみ嘆き/呻きのために、わたしの手は重い。」(2節)というような中で、ヨブはこの一点に集中して、神を求め、神に問うこと(4節)を願っている。わたしは、神の義にそこまで興味がないのか。委ねられている部分により集中しようとしているのか。神をすべての背後に追いやってしまっているのか。あきらめだろうか。わたしには、答えられない。
- BRC2015:Jb23:15,16 それゆえ、わたしは御顔におびえ/考えれば考えるほど、恐れる。 神はわたしの勇気を失わせ/全能者はわたしをおびえさせる。
- おびえる理由はその前に書かれている。「神がいったん定められたなら/だれも翻すことはできない。神は望むがままに行われる。 わたしのために定めたことを実行し/ほかにも多くのことを定めておられる。」(13節・14節)自分では故意の罪はないと確信している。しかしそれでも、神が自分を罪ありとすることを否定はしない。このなかで神が応答をされれば「答えてくださるなら、それを悟り/話しかけてくださるなら、理解しよう。」(5節)解決するとの確信を持っている。ここでヨブがおびえるのは、そのような応答なしに、理由なしに、苦しみ、かつなかなか滅ぼされず(17節)かつ、神の「望むがまま」の裁きによって滅びるはかない存在としてであろう。この「恐れ」と「おびえ」はわたしも共有する。
- BRC2013:Job23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
- ヨブの憐れみ深い神への信頼は、17節にあるように「わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。」このような状況においても、変わらない。言い過ぎと思われる箇所があっても、神がよしとされる理由だろう。
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- BRC2021:Job 24:24,25 彼らはしばらくの間、高くされるが/やがて姿を消す。/彼らは低くされ/すべての者と同じように刈り集められ/麦の穂先のようにしおれてしまう。 もしそうでなかったら/一体、誰が私を偽り者とし/私の言葉を空しくすることができるだろうか。
- やはり、ヨブの中に、不法を働くものが、平安を享受し、義を求め続けた自分は、苦しむことへの、非合理さ、神への疑問があるのだろう。神の公平さ、因果応報を問うている。そうでなければ、どうなのだろうか。神の子として、生きることに、希望を持てるだろうか。それほど簡単ではないように、思われる。ヨブの、そして、ヨブ記の問をしっかり受け取りたい。
- BRC2019:Job 24:25 だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか。
- この章でヨブは「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。」(1)と始め、そのあとに、社会正義が行われていないことが、書かれている。一つ一つ重い課題である。いつか丁寧に見てみたい。悪がさばかれず、栄えていることを「権力者が力を振るい、成功したとしても/その人生は確かではない。 安穏に生かされているようでも/その歩む道に目を注いでおられる方がある。だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ。」(22-24)と最後にあり、引用箇所が続く。
- BRC2017:Jb 24:9 父のない子は母の胸から引き離され/貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
- このあとには「町では、死にゆく人々が呻き/刺し貫かれた人々があえいでいるが/神はその惨状に心を留めてくださらない。」(12節)と続く。これを神の責任とせず、われわれがあわれみのこころを起こして行動することが求められているのだろうか。貧しい人はいつもわたしたちとともにいる。
- BRC2015:Jb24:4 乏しい人々は道から押しのけられ/この地の貧しい人々は身を隠す。
- 前の章での内面的な恐れから、ヨブは今度は、社会正義に目をむける。理不尽といえるもので世の中はあふれている。単純に因果応報ではない世界である。それは、認めざるを得ないだろう。問題の一つの確信でもある。
- BRC2013:Job24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を/定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。
- 世の中の理不尽さそれをヨブは問う。人はみな罪人だから?死で終わりではないから?本当に価値のあることは、この世で言われている通常の祝福とは異なるから?この世でも神とともに生き生きと生きる恵みを受けること自体が喜びだから。だろうか。キリスト教で、これは明確になっているのだろうか。
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- BRC2021:Job 25:6 まして、人は蛆/人の子は虫けらにすぎない。
- 「シュア人ビルダド」(1)が語る三回目であるが、とても短い。神と人との距離・違いを述べている。たしかに、これも、ひとつの見識だろうと思う。ヨブにとっての神は、違うし、イエスにとっても、わたしにとっても違う。しかし、ともすると、神を自分のものとあまりに近く考えてしまう、自分を省みると、この引用箇所は、強烈である。このような謙虚さ、このような告白は、やはり素晴らしいと思う。これがないと、神は、自分の神観が生み出したものになってしまう。創造者は神であって、私ではない。
- BRC2019:Job 25:2 恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。
- ビルダドの三回目である。非常に短い。神が絶対者であって、超然として善であること、人は神の前に正しくはありえないこと(4)が述べられている。おそらく、不可知であることも、含んでいるのだろう。キリスト教の理解とは異なっていても、おそらく、非常に一般的な神観ではないだろうか。そして、むろん、キリスト教の神観にも含まれる。特に、引用箇所は美しい。人間の世界と隔絶していると捉える必要はないのかもしれない。プラトン主義とも関連しているのだろうか。
- BRC2017:Jb 25:4 どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
- シュア人ビルダドの弁論は6節しかなく、前の弁論の繰り返しにも思われるし、よくは分からない。しかし、自分に語りかけるような面を人は持っているように思われる。「恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。」(2節)は、神の超然とした様子が語られており、そこにはある価値も示されている。ヨブの求めるものとは、異なっているが、これも一つの恐れおののく姿勢なのだろう。「女から生まれた者」という表現が少し気になった。女性蔑視と人間の存在注視と両面があるように思われる。15章14節にも似た表現がある。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11章11節(ルカ7章28節も同様))には違和感はない。「自由な身の女から生まれた」(ガラテヤ4:22, 23, 30, 31)ここでは「女奴隷から生まれた子」と対比されている。この対比は、難しいと感じる部分もある。人間の出生に、このような象徴、比喩を入れて解釈して良いものかどうか。わたしが、パウロ神学を受け入れることに抵抗がある理由でもある。
- BRC2015:Jb25:6 まして人間は蛆虫/人の子は虫けらにすぎない。
- いくら何でも、ビルダトの三回目の弁論は短すぎる。その通りである。しかしその人の子らを神は愛しておられる。ヨブの問いは「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。 朝ごとに訪れて確かめ/絶え間なく調べられる。」(7:17,18)神が超然としてひとと関わらないのであれば、ヨブの苦悩も異なったものとなっていたろう。神との交わりを持っていたからとしてよいだろうか。安易にそうしてはいけないのかもしれない。私たちにしても、それは、約束ではあっても、実態として日々感じるかどうかは、単なる主観かもしれない。
- BRC2013:Job25:2 「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
- シュヒびとビルダデの三回目の弁論である。信仰は、少なくとも、このヨブ記において、神理解と、神と人間との関係の理解、および認識の問いであるように思われる。うじは聖書に何回か現れるが、6節「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」。」は強烈。(Cf. Job 17:14)
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- BRC2021:Job 26:14 見よ、これらは神の道の一端。/神について聞きうる言葉はなんと僅かなことか。/その力ある雷鳴を誰が悟りえようか。
- シュア人ビルダドが語る三回目に対するヨブの応答である。正直、もう、混乱してきて、わたしには、よくわからない。ここに書かれているのは、神について知りうることは限られていることである。たしかに、わたしたちは、神について、神の御心についても、ほとんどしらない。そのことは、理解しているように思う。ビルダドのようには断言できないということか。しかし、ヨブの明確な問は、正当なのだろうか。人生の意味、それは、ひとに、知らされるものなのだろうか。ほんの一部分しか知らないものに、神は語り得ないかもしれない。神との交わりのうちにあるものとしては、違うのだろうか。正直、よくわからない。
- BRC2019:Job 26:2-4 あなた自身はどんな助けを力のない者に与え/どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え/どんな策を多くの人に授けたというのか。誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。
- この「あなた」はビルダドだろう。自分は、そうではないと言っているのか。それとも、神について教える資格はないと言っているのか。あるいは、ヨブとともにいることを暗に願っているのか。神観の違いをどう乗り越えるかは難しい。なにか、解決の糸口はあるのだろうか。それは、愛だけのように思われるが。
- BRC2017:Jb 26:2 あなた自身はどんな助けを力のない者に与え/どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
- ヨブの生涯は、おそらく、このようなサービス、奉仕に満ちていたのだろう。ビルダドのように、神を超然としたものとして、ひとと切り離すことは、とうていできないたいせつな生き方があったのだろう。考えさせられる。
- BRC2015:Jb26:14 だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは/なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。
- 本文通りとして読むと、ビルダドを遮って始めたとも思われるヨブの弁論は乱暴にも聞こえる。4節「誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。」などは、誰も答えられないだろう。ヨブの心を変化を読み取るのは、行き過ぎだろうか。友人との対話の最初とは異なり、少なくともヨブは、友はすでに、自分とともにはいないと感じているのだろうか。
- BRC2013:Job26:14 見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所は/いかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、/だれが悟ることができるか」。
- いくら、善行を積んでいても、神のなされるわざを見切ってはいけないということか。ヨブのこの修辞はどこにつながるのだろう。
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- BRC2021:Job 27:5-7 私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。私は自分の義を保ち、手放さず/心は私の日々を責めることはない。私の敵は悪しき者のようになれ。/私に立ち向かう者は不法な者のようになれ。
- かなり意固地に聞こえる。この次には、「神は彼(神を敬わない者)の叫びを聞くだろうか/苦難が彼に臨むときに。」(9)としている。自分に対してはそうではないはずだと自分の潔白・義を主張している。それを批判しても、仕方がないのだろう。ヨブの訴えは、自分を神よりも正しいとすることではなく、神を敬わないものとおなじでよいのか、神よ答えてほしいということなのだろうから。神との関係を第一にしていると読もう。しかし、たとえそうだとしても、神を敬わないものとの違いを主張するのは、わたしにはできない。そして、神との関係もすこし、捉え方が異なるように思う。難しい課題だが。
- BRC2019:Job 27:5,6 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。
- もう手に負えない。しかし、原罪について考えた。アダムの犯した罪によって罪人になったというより、神の前には、正しくはいられないということかもしれない。人間の正しさ自身が不完全なのだから。そう考えると、やはりそれが許されるということではないのだろう。神とイエスとの交わりに入れていただき、互いに愛し合うようになることがやはり救いであるように思う。むろん、言い切ることはできないが。
- BRC2017:Jb 27:9,10 災いが彼に臨むとき/その叫びを神は聞いてくださるだろうか。 全能者によって喜びを得/常に神を呼び求めることができるだろうか。
- 人生における理不尽さ、自然災害、人為的な過ちによる人災、これらに対する神への問いである。神義論につながっているものである。この問いこそが、ひとはどのようなものか、神とは、神とひととの関係とはと問う、根源的な問いであるように思われる。これを避けるのが、宗教ではあるまい。平和の希求もふくめて、ひとはこの問いにより、成長させられていくように思う。
- BRC2015:Jb27:5,6 わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。
- 「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ1:8)のように一般的には、上の主張は偽である。しかしヨブ記は物語であり「主はサタンに言われた。『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。』」(1章8節) さらに、2章3節でも、神自体がこのように宣言して始まっている。その設定の中での苦難が問われている。ただそうであっても、この章の記述は、戦闘的であり、神に対して挑戦的な態度であることは、否定できない。
- BRC2013:Job27:10 彼は全能者を喜ぶであろうか、/常に神を呼ぶであろうか。
- 7節の「どうか、わたしの敵は悪人のようになり、/わたしに逆らう者は/不義なる者のようになるように。」からつながっており、10節の「彼」は「わたしの敵」「悪人」を意味するのだろう。しかし、このようにいうことで、ヨブ自身とは異なるものを示しているように思う。ヨブは、この時に及んでも、「全能者を喜」び、「常に神を呼んでいる。2節などから、あら探しをしても仕方がないであろう。自分の正しさの主張と言うより、神の応答を求めているのだから。
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- BRC2021:Job 28:20 では、知恵はどこから来るのか。/分別はどこにあるのか。
- 引用句が「そして、人に言われた。/『主を畏れること、これが知恵である。/悪を離れること、これが分別である。』」(28)と呼応しているように、思う。知恵を探し求めることは、ここでは、主を畏れることと言い換えられている。おそらく、わたしは、まだ、このことをよくわかっていない。単に、知恵を探し求めることで良いのではないかと。ゆっくり、考えてみたい。主を畏れることについて。それが、知恵のはじめ、分別であり、悪を離れること、すなわち、主のみこころなのだろう。
- BRC2019:Job 28:27,28 神は知恵を見、それを計り/それを確かめ、吟味し そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」
- ヨブの独白の章である。27章のヨブの叫びによって、ツォファルの三回目を消し去ってしまったのだろう。しかし、この章では、冷静を取り戻しているように見える。「知恵」がどこにあるのか、ひとは知らない。しかし、上の引用箇所で言っているように、神は知恵を持っている。そして、人へのメッセージが語られる。これは「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」(詩篇111篇10節)および、箴言の各所に見られる言葉である。神を通して以外に、知恵を求めることを、神は望んでおられたいということだろうか。それとも、知恵の本質をここで語っているのか。これも、難しい。じっくり考えたい。
- BRC2017:Jb 28:20,21 では、知恵はどこから来るのか/分別はどこにあるのか。 すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。
- このあとにさらに「滅びの国や死は言う/『それについて耳にしたことはある。』」と興味深い表現が続く。いままでは、28節の「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」で満足していた。しかし、それでは、ヨブのこころに迫ることができないように思う。全体を理解しようと試みないと。
- BRC2015:Jb28:9-11 だが人は、硬い岩にまで手を伸ばし/山を基から掘り返す。 岩を切り裂いて進み/価値あるものを見落とすことはない。川の源をせき止め/水に隠れていたものも光のもとに出す。
- 鉱山で金・銀・宝石を得る人の姿を、知恵を求める姿になぞらえている。箴言を意識しているのか、それと関連しているのか。最後の部分は、砂金の収集だろう。とても興味深い。23節からの、神との対比でも、この違いが著しい。哀れにも見えてくる。しかし、このように、自己を活写することができる「謙虚さ」と「明晰さ」には驚かされる。
- BRC2013:Job28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。
- 箴言を思わされ、なにか関連性があるのではとさえ感じる。この章は、宝をさがすような言葉で始まり、12, 13節の「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。」と問い、23節の「神はこれに至る道を悟っておられる、/彼はそのある所を知っておられる。」との確信そして、この節である。「自由と敬虔」の行き着くべきことばであるとも思わされる。
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- BRC2021:Job 29:4,5 私の人生が盛りであったとき/私の天幕には神との親しい交わりがあった。全能者が私と共におられたとき/私の周りには若者たちがいた。
- 「神が守ってくれた日々」(2)をまず記述している。これを読みながら2つのことを考えた。一つは自分のこと。もう一つはイスラエルのこと。自分も、今になって思い出すと、最後の何年かは、Service-Learning も含め、学習支援においても、聖書の会においても、数学の研究においても、データサイエンスに出会ったことについても、本当によかったなと思う。こどもたちが独り立ちしていったことについても。それらがヨブのようにすべて失われたとき、どう考えるのかはよくわからない。イスラエルについては、この章の後半に書かれているように、誠実に神を真理を求め歩んできたひとのことも、想定されているのかなと思った。代々、信仰を守り抜き、「私は見えない人の目であり/歩けない人の足であった。貧しい人の父であり/見知らぬ人の訴えに力を尽くした。不法な者の顎を打ち砕き/その歯の間から獲物を取り戻した。」(15-17)このように生きてきた人たちにとって、むろん、完全ではないにしても、奴隷の身になってしまった捕囚を振り返るとき、ヨブのような気持ちになるだろうとも思う。ヨブ記の成立にも、興味を持つようになった。
- BRC2019:Job 29:4,5 神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた。
- ヨブの独白とも言えるものが「どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。」と始まっている。内容を見ると、人々との関係である。その平和な充実した日々が記述されている。引用箇所では「神との親しい交わりがわたしの家にあり」とあるが、それは、主観的なものだったのだろうか。しかし、そうすると、信仰生活を否定することにもなってしまう。神が共におられることは、認知できるとすることが危険なのかもしれない。大きなテーマであるように思う。弱い人間は、自分だけでは生き生きと生きられないだろうから。この章に表現されていることを、祝福ととることを非難はできない。
- BRC2017:Jb 29:4,5 神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。 あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた。
- このように考える根拠は何なのだろうかと思う。このあと、豊かさと民の賞賛と祝福が書かれているが、実体は12節から17節にあるのだろう。孤児、貧しい人、死にゆく人、やもめを助け、正義を行い「わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。」(16節)ともある。しかし、である。そのことが、人生の祝福とは結びついていない。神の御心、神が望まれることを、真剣に求める、神とともに人間の弱さとも真摯に向き合って生きようとする。このヨブ記について考えさせられる核心であろう。
- BRC2015:Jb29:14 わたしは正義を衣としてまとい/公平はわたしの上着、また冠となった。
- この内容が15節から17節に続く。「わたしは見えない人の目となり/歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり/わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。 不正を行う者の牙を砕き/その歯にかかった人々を奪い返した。」神様から与えられている能力・冨の分かち合いとともに、社会正義に立ち向かう姿が書かれていることを覚えたい。この章は次のように始まる。「どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。」(2節)そのなかで不変のもの(神様の側にある真理)はなにかを考えていく過程なのかもしれない。なにがが変わったのだろう。そして、なにが、変わっていないのだろう。神様が善しとするものは、変わらないはずだから。
- BRC2013:Job29:24 彼らが希望を失った時にも、/わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。
- 2節には「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、/神がわたしを守ってくださった日のようで/あったらよいのだが。」とある。過去の「良き時」の回顧である。24, 25節のように、周囲のひとを力づけ慰める者でいたいと願う気持ちはよくわかる。わたしもそれを望む。そのような自由も奪われたとき、ひとは尊厳をもって自由に生きられるのだろうか。ヨブの苦悩は深い。
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- BRC2021:Job 30:16,17 今や、私の魂が私の上に注ぎ出され/苦しみの日々が私を捕らえる。夜が私の中から骨をえぐり取り/私の痛みはやむことがない。
- わたしには、ここまでの苦しみ、痛みを感じたことが無い。すなわち、そのようなひとの心も理解できない。それは、わたしの感覚が鈍いからか。最近考えていることとして、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びをを感じ取ることができない存在、それが「他者」の定義かもしれないということである。それは、絶対他者とよぶ神との関係においても、同様である。聖霊は、神の心だとも言えるが、神の痛みを感じることができるのは、むろん、ほとんどゼロに近い。神も、有限の体を持った人間について、その痛みがわからないことはご存じでも、やはり、ひとの、痛み、苦しみ、悲しみ、喜びは、わからないのだろう。
- BRC2019:Job 30:1,2 だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず/何の気力も残っていないような者らだった。
- 「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ/不幸な者を救おうとしないだろうか。わたしは苦境にある人と共に/泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。」(23,24)とあるが、なにか、引用箇所との整合性が欠けているように思う。見下していながら、同情し、助けるのか。おそらく、論点が二箇所で異なっているのだろうが、不自然さを感じる。自分の歩んできた道と現状との乖離を述べているのだろう。しかし、29章とは少しトーンが違うようにも思われる。丁寧にいつか読んでみたい。
- BRC2017:Jb 30:11,12 彼らは生意気にもわたしの右に立ち/わたしを追い出し、災いの道を行かせ 逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。それを止めてくれる者はない。
- 卑しいものが自分をなじることは、神の名をおとしめることにもなるのではないかと考えているのだろうか。そのように考えることも可能である。たしかに世の中を見ていると、そのような状況を神に訴えたくなる。結局、空の空なのだからと。虚無主義が産む快楽主義である。ヨブはそこまでは言っていない。あくまでも、自分と神との間から離れはしない。その姿勢についても、考えさせられる。
- BRC2015:Jb30:25 わたしは苦境にある人と共に/泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか。
- この章は「だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。」と周囲の変化の描写から始まる。9節の「ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種/嘲りの言葉を浴びる身になってしまった。」の嘆きは深い。その中で20節から神への訴えが始まる。25節はその一節である。変わってしまったことの記述のあとで、神に「普遍的な価値」について問うている。「神の御心を求めそれに生きること。」とも表現できるかもしれない。あなたが求めておられるのは、このようなこと(25節)ではなかったのですか。痛切な叫び、本質に近づいてるように思われる。
- BRC2013:Job30:11 神がわたしの綱を解いて、/わたしを卑しめられたので、/彼らもわたしの前に慎みを捨てた。
- ひどいやからがヨブを笑いものにする。神の義もおとしめられている、ち言っているのだろうか。たといそうであっても、主に訴えるのみ、ということか。たしかに、神への訴えをやめてしまうことは、信仰を捨てることかも知れない。
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- BRC2021:Job 31:13-15 僕や仕え女が私と争ったとき/もし、彼らの権利を私が退けたことがあるなら神が立ち上がるときに、私は何をなしえようか。/神が尋ねるときに、私は何と答えようか。私を胎内に造った方は/彼らをも造られたのではないか。/唯一の方が私たちを/母の胎に形づくられたのではないか。
- ヨブは自分に罪があるなら、過誤があるなら示してほしいとしてあらゆることをあげている。ここでは、社会的な問題にまで言及している。社会的な課題、他者、それも、複数以上の他者と関わる問題に関して、特に公平性に関しては正解がないことが多いとも思い、ヨブのようにはなれない。しかし、これは、ヨブ記のひとつの設定、問題提起として受け入れるべきなのだろう。同時に、それが仮定なら、現実ではないなら、生きてみることから始めることとはズレが生じている。わたしには、大きな問題ではなくなってしまうようにおもう。
- BRC2019:Job 31:15 わたしを胎内に造ってくださった方が/彼らをもお造りになり/我々は同じ方によって/母の胎に置かれたのだから。
- ここでの「彼ら」は、13節にあるように、「奴隷たち」や「はしため」である。神の前の平等、尊厳が語られている。この章は、ヨブの最後の弁論で、そんなことはしていない。という罪を犯しておらず、自分は、潔白であることが、述べられている。当時、考えられていた、倫理の最高のものが連ねられているのだろう。知恵文学で、実際のことを述べているのではない。このヨブに、神はどう答えられるのだろうかと、読者に期待をもたせる。「ヨブは語り尽くした。」(40b)このあとは、エリフのことばが始まるのだが。
- BRC2017:Jb 31:4 神はわたしの道を見張り/わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。
- 口語訳は「彼はわたしの道をみそなわし(「見る」の尊敬語)、わたしの歩みをことごどく数えられぬであろうか。」となっている。このことが前提である。知ることができることと、知ろうとすることは別であるとも考えられる。ひとに任せられるということである。人の責任のもとで。神義論の難しい部分である。神がすべてをコントロールしているとの仮定から始めるのか、そうはしないのか。神の業とはなになのかということである。神の問いかけにもこの面がある。「どこにいるのか。」「何をしているのか。」
- BRC2015:Jb31:10 わたしの妻が他人のために粉をひき/よその男に犯されてもよい。
- この章はヨブが潔白を訴える部分、さらに最後の言明となっている。一つ一つの項目を学ぶことは、当時の正しさの背後にあるものを理解する意味でも、とても興味深い。上の10節は今の私たちの目で見ると疑問符がつけられるが、当時は、このことこそが、妻に対することではなく、夫に対する最大の侮辱、裁きととらえられていたのだろう。一つ一つの正当性を検証するのは、おそらくあまり意味はない。ヨブ記の枠組みが「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1章8節)この人間にはあり得ない、際だった設定自体、それも、ユダヤ教主流派には、受け入れがたいかもしれない「ウツ」という外国の人に起こったことが、すごいのだろう。さて、出口はあるのだろうか。この章は「ヨブは語り尽くした。」(40節)で終わっている。
- BRC2013:Job31:15 わたしを胎内に造られた者は、/彼をも造られたのではないか。われわれを腹の内に形造られた者は、/ただひとりではないか。
- このことを明確に根拠にしていることはすばらしい。貧しい者、みなしご、着物が無いもの、死にゆく者などにたいする憐れみと同時に、もしかするとさらにむずかしいことが13節に書かれている。「わたしのしもべ、また、はしためが/わたしと言い争ったときに、/わたしがもしその言い分を退けたことがあるなら、」そして14節が続く「神が立ち上がられるとき、わたしはどうしようか、/神が尋ねられるとき、なんとお答えしようか。」まさに、これが神を畏れることであろう。
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- BRC2021:Job 32:1,2 この三人の者たちはヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと考えていたからである。そこで、エリフの怒りが燃え上がった。この人はラム族出身のブズの人、バラクエルの子である。彼の怒りがヨブに対して燃え上がったのは、ヨブが神よりも自分を正しい者としたからである。
- エリフが語り始める設定を書いた部分で、いままではそのまま受け入れていた。そして、若いエリフがかっこいいとも思っていた。しかし、地の文は、聖書にあるのだから、すべて正しいとせず、丁寧に読もうとすると、今回はすこし違うのではないかと思った。たしかに、「ヨブが自分を正しいと考え」は、そのとおりだろう。「ヨブが神よりも自分を正しい者とした」かどうかは不明だが、ヨブは、神に応答を求めていることが中心だろう。それが、ヨブが神様に向き合うことなのだから。わたしは、そのように、み心を求めることはしないが。やはり、難しい。いつか、ヨブ記をある程度理解するときが来るのだろうか。
- BRC2019:Job 32:13,14 「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。ヨブはわたしに対して議論したのではないが/わたしはあなたたちのような論法で/答えようとは思わない。
- 興味深いのは、神に任せるという態度ではいけないと言っている。また、エリフは、三人の年長の者たちとは違う論法で答えるという。エリフの評価は難しいにしても「しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」(8)は、自分が、ある年齢になった今、いろいろな意味で、たいせつにしたいことばである。自分は、真の悟りを得ておらず、神は、様々な人を通して語られるのだから。
- BRC2017:Jb 32:8 しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。
- エリフについての評価は困難である。しかし、異彩を放っていることは確かである。人は、神から与えられる息吹をうけてそれを理解することができるとしている。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)また「わたしも話して、気持を静めたい。唇を開いて、答えたい。」(20節)はよくその気持ちが伝わってくる。評価を急がず、味わいながら読んでいこう。
- BRC2015:Jb32:2 さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。
- 今までは、エリフはなかなか立派だと考えていたが、エリフも「ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張する」ことで立ち上がるなら、ヨブ記の設定の中での回答は得られない。創世記22:21に「長男はウツ、その弟はブズ、次はアラムの父ケムエル」ナホルとミルカの子の名前である。ヨブの出身地としている、ウツの語源と思われる人の兄弟である。「ブズ」は、他に歴代誌上5:14、エレミヤ25:23にも登場する。
- BRC2013:Job32:8, 9 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
- 老いた者、年とった者が、道理をわきまえるのは、神との関係のもとで生きた歩みを、真摯に内面化し、造り変えられることによるのだろう。わかいひとのことばを丁寧に受け取りたい。
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- BRC2021:Job 33:12-14 これについて、「あなたは正しくない」/と私は答える。/神は人より偉大であるからだ。なぜ、あなたは神と争うのか/自分の言葉に神が一つも答えないからといって。神は一度語り、また再び語るが/人はそれに気付かない。
- 正直にいって、ヨブ記はこのエリフのことばをどのような位置づけし、どう理解したら良いかという問いも投げかけていて難しい。「私は清く、背きの罪はない。/私は潔白で、過ちはない。それでも、神は私を責める理由を見つけ/私を敵と見なし私に足枷をはめ/行く道すべてを見張っている。」(9-11)ヨブのことばについてここで表現されているエリフの理解はわたしのそれと似ている。そして引用した応答も、今のわたしの応答と近い。神は様々なことでみこころを示されており、ひとはそれ受け取ろうと求めるが、そうであっても、受け取る部分は、一部分に過ぎない。しかし、同時に、これから受け取っていく部分も少しあるように思う。人文学、社会科学だけでなく、自然科学も少しずつではあるが発達してきている。それを通して、神様のみ心を受けとることも、あるように思う。他の視点もさらにあるのかもしれない。すくなくとも、わたしは、神が語られていることを少しずつ受け取っていきたいと願う。
- BRC2019:Job 33:13,14 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを/いちいち説明されない。神は一つのことによって語られ/また、二つのことによって語られるが/人はそれに気がつかない。
- 「そのとおり」と言いたいところだが、論理的矛盾は明らかである。神が、人が気づかないようにかたるのであれば、語ったことにはならない。神は、むろん、そのことをご存知のはずである。前半の13節は、そのとおりなのだろう。それでは、神がおられないことと、どう区別するのかという疑義は起こる。そして、ヨブは、まさに、この部分を問うているのだから、ヨブにとっては受け入れられないだろう。
- BRC2017:Jb 33:13,14 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを/いちいち説明されない。 神は一つのことによって語られ/また、二つのことによって語られるが/人はそれに気がつかない。
- ここだけでは判断できないかもしれないが、13節の「神はそのなさることをいちいち説明されない」と言う部分と、14節の「神はさまざまな方法で語られる」という部分は、神の主権を主張しているのだろう。たしかにその通りである。もう少し考えると、個別的にすべて答えられるわけではないが、自然現象は、歴史など、ひとが良心と理性をもって神を求め続ければ理解できることもあるあることを語っているようにも思う。わたしの理解とも近い。エリフの評価は難しいだろうが。
- BRC2015:Jb33:1 さてヨブよ、わたしの言葉を聞き/わたしの言うことによく耳を傾けよ。
- この章でのエリフの主張で目にとまるのは、二つ。一つは、ヨブに聞くように促していること。(1節・31-33節)そして、もう一つは、神の沈黙の理由は、わからないが、同時に、語る方法も様々であり築かないかもしれないということ、であると思われる。神の応答を求めているヨブに、向き合っている。その意味では、3人の友人とは、異なる見解をもつ。たしかに、ここですぐヨブが答えていたら、神は語られなかった、またはヨブが、神の声を聞き取れなかったかもしれないと思わされてしまう。言語的には、エリフの部分は加筆と考える学者もいるようだが、個人の聖書読者としては、まずは、本文のメッセージを読み取りたい。
- BRC2013:Job33:14-18 神は一つの方法によって語られ、/また二つの方法によって語られるのだが、/人はそれを悟らないのだ。人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、/夢あるいは夜の幻のうちで、彼は人々の耳を開き、/警告をもって彼らを恐れさせ、こうして人にその悪しきわざを離れさせ、/高ぶりを人から除き、その魂を守って、墓に至らせず、/その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。
- エリフの最初のポイントは、神が様々な方法で語られるということだろう。生かされていること自体が、神が答えておられること、そのすべての背後におられる、神からのメッセージを受け取るべきことを伝えているのか。
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- BRC2021:Job 34:35-37 「ヨブは知識もないのに語る。/その言葉は悟りある者と共にはない。どうか、ヨブが終わりまで試されるように。/彼は悪事を行う者のように答えている。彼は自分の罪に背きの罪を加え/我々の間で手を叩き/神に向かって言葉数を多くしている。」
- エリフの理解するヨブについて「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒やされない」(5,6)とまとめている。神の公正さについての問いである。これについて、引用句では、「ヨブは知識もないのに語る。」「ヨブが終わりまで試されるように。」としている。今回、テーマとして読んでいる、ヨブの苦しみ、痛みに寄り添っているとは言えない。しかし、正しさにおいて、おおよそ、わたしのもつヨブの言説に対する印象と近い。前章の「神は人より偉大である」ことから導かれることとも言える。ただしさを、ひとは主張することはできないのだろう。しかし、やはり、神が、ひとの苦しみ、悲しみ、喜びを共にすることはできないとしても、たとえ、異なる苦しみ、悲しみ、喜びであっても、神がともにいてくださり、苦しんでくださることを、イエス様を通して示されているようにも思う。自分の苦しみ、悲しみ、喜びとするということだろうか。共に喜び、共に泣くことの本質なのかもしれない。すこし、ヒントを得ているようにも思うが、エリフのことばとともに、考えていきたい。
- BRC2019:Job 34:35-37 「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮に欠けている。 悪人のような答え方をヨブはする。彼を徹底的に試すべきだ。まことに彼は過ちに加えて罪を犯し/わたしたちに疑惑の念を起こさせ/神に向かってまくしたてている。」
- 「理解ある人」「知恵ある人」のことばとして語られている。エリフの言説は、すでに、他のひともいっていることなのではないかと今回思った。すくなくとも、大同小異である。神の主権の前に、苦しみながら、沈黙を守るしかないことを、ヨブは神に訴えているのだから。ヨブは、一般論を語っているのではなく、神との関係について語っているのだから。
- BRC2017:Jb 34:3,4 耳は言葉を聞き分け/口は食べ物を味わう。 わたしたちは何が正しいかを見分け/何が善いかを識別しよう。
- たしかにひとは、理解力をある程度与えられている。それを十分つかうことは、大切なこと、神を讃美することでもある。むろん、完全に理解できないことも覚えつつ。「知恵ある者はわたしの言葉を聞き/知識ある者はわたしに耳を傾けよ。」(2節)と語っている。これは、ヨブへの語りかけである。理解できる部分が残っている、それを求め続けることを勧めているのか。苦しみに寄り添うことばは、みられないが。
- BRC2015:Jb34:28,29 その時、弱い者の叫びは神に届き/貧しい者の叫びは聞かれる。 神が黙っておられるのに/罪に定めうる者があろうか。神が顔を背けられるのに/目を注ぐ者があろうか/国に対してであれ人間に対してであれ。
- 「その時」は23節「人は神の前に出て裁きを受けるのだが/神はその時を定めてはおられない。」を指すであろう。「神が黙っておられる」は「神はその時を定めてはおられない。」を受けているように思われる。最後の審判のときには、正しく裁かれる。その前に、まだ神が沈黙しておられるときに、神を告発するのは、誤りだと言っているように思われる。その中で、神との交わりをもち、限定的であっても、神から応答を得る。神秘主義に問題を追いやっているようにも思われるが、十分、エリフのメッセージは伝わってくる。
- BRC2013:Job34:12 まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない。
- エリフの第二のポイントは、この12節にも、そして10節にもあるように「神は断じて悪を行うことなく、/全能者は断じて不義を行うことはない。」との確信であろうか。しかし、36節を見ると、厳しすぎるように思われる。「どうかヨブが終りまで試みられるように、/彼は悪人のように答えるからである。」ヨブが神に聞くことを信じ、神の働きに信頼しているからか。
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- BRC2021:Job 35:14 確かに、「あなたはそれを顧みられない」と/あなたは言っている。/しかし訴えは御前にある。/あなたはただ神を待つべきだ。
- これもそのとおりだと思うが、今回はなぜかエリフの言葉を素直に受け入れられない。自分で肯定しているにも関わらず。エリフがヨブの正しさの主張に対して、正しさで答えているからだろうか。今のわたしには、共に痛みを担う存在がたいせつに見える。共に生き、ともに苦しみ、共に泣き、ともに喜ぶ存在なのか。たとえ同じことは経験できなくても、そして、そのひとの行動が誤解に基づくものであったとしても。しかし、それもあまりに単純すぎるように思う。イエスの深い憐れみの内容が知りたい。形式的なものでは無いはずだ。エリフが語るように、一方で神に深く信頼することだろうか。
- BRC2019:Job 35:14 あなたは神を見ることができないと言うが/あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。
- これは、私の現在の信仰の態度に近い。待つことは、積極的な意味がある。「今はまだ、怒りの時ではなく/神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので ヨブは空しく口数を増し/愚かにも言葉を重ねている。」(15,16)と続くが、怒り、語り続けると、神からの応答を受け取りにくいように思われる。ヨブ記においても、エリフにヨブは答えない。そして、神が答えられる。それぞれの内容は、わたしには、理解できない部分が多いが、様々な答えがあるのに、わたしは、それをていねいに受け取っていないと感じるからである。
- BRC2017:Jb 35:8 あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に/あなたが正しくても/それは人の子にかかわるだけなのだ。
- 6節・7節には神に影響しないこと、そして、この8節には同じ人間に関係するだけであることが書かれている。事実はその通りだろう。しかし、神は、その人間を愛しておられること。人間の世界での不条理や、人間に任せておきながら、それが適切に為されない状態を悲しんでおられることはないのか。こころに懸けておられる。これは、新約的な解釈なのかもしれない。
- BRC2015:Jb35:12-14 だから、叫んでも答えてくださらないのだ。悪者が高慢にふるまうからだ。 神は偽りを聞かれず/全能者はそれを顧みられない。あなたは神を見ることができないと言うが/あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。
- 直接的な論理としては、ヨブは高慢にふるまっている者とも、偽りを言っている者とも区別されているようだ。しかし、そのような状態から距離を置いて、神を待つべきだと言っているのかもしれない。これは、陰府に下るとのみ考えている、ヨブに希望を与えられるのだろうか。そして、永遠の命についてのメッセージをうけとったわたしたちは、単純にそこに希望をおいて、待つのだろうか。もう少し深く理解したい。
- BRC2013:Job35:13, 14 まことに神はむなしい叫びを聞かれない。また全能者はこれを顧みられない。あなたが彼を見ないと言う時はなおさらだ。さばきは神の前にある。あなたは彼を待つべきである。
- まず、目を閉じ、聞くこと、思い巡らすことを静かにするべきなのかもしれない。限定したひとつの方法で神が答えられるのを望むのも、ひとの傲慢かもしれない。
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- BRC2021:Job 36:15,16 神は苦しむ人をその苦しみによって救い/彼らの耳を虐げによって開く。まさしく、神はあなたを苦しみから/束縛のない広々とした場所にいざなう。/あなたの食卓には憩いがあり/豊かな食物で満ちる。
- エリフもやはり正しい者は、苦しみから救われると言っているようである。このことは、難しい。ヨブは、この引用句のようなことばを受け入れられるだろうか。ひとの苦しみには、ある限界もあるように思う。それを、精神的な頑強さによって乗り切ることはできないだろう。ただ、それでも、このような信頼を持つ頃は意味があることのようにも思う。いずれにしても、やはりエリフのことばはよくわからない。ヨブ記の枠組みと、三人とのやり取りがあり、あとから挿入されたのだろうか。やはりヨブ記の成立についても知りたい。決定的ではないにしても。
- BRC2019:Job 36:16 神はあなたにも/苦難の中から出ようとする気持を与え/苦難に代えて広い所でくつろがせ/あなたのために食卓を整え/豊かな食べ物を備えてくださるのだ。
- 少しは、ヨブへの答えになっているのだろうか。ヨブのような状態でも、感謝を持ち、神への賛美を語ることができるのだろうか。ヨブは、このメッセージを受け取れるだろうか。神は、おそらく、それを受け取ることを要求される方ではない。しかし、そのように、苦難の中に生きるものを、痛みをもって、喜ばれるのかもしれない。神の子と苦難をともにするものだから。わたしは、そのような、ものでありたい。私の望は、イエスに従い、イエスに学ぶことだから。
- BRC2017:Jb 36:15,16 神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し/苦悩の中で耳を開いてくださる。 神はあなたにも/苦難の中から出ようとする気持を与え/苦難に代えて広い所でくつろがせ/あなたのために食卓を整え/豊かな食べ物を備えてくださるのだ。
- 「貧苦を通して」とある。「苦難の中から出ようとする気持ちを与え」る。19節には「苦難を経なければ」とある。「夜をあえぎ求めるな。」(20節)は、そこで終わりにしてしまうことを求めてはいけないと言うことなのだろう。「苦悩によって試されている」(21節)「神のような教師があるだろうか。」(22節)エリフの苦難に対する信仰、苦難によってはじめて神のみこころを知る重さに感銘をうける。聖書の中心的解釈とはずれているかもしれないが。
- BRC2015:Jb36:19-21 苦難を経なければ、どんなに叫んでも/力を尽くしても、それは役に立たない。 夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ/悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは/まさにこのためなのだ。
- 苦難の意味が語られている。興味を惹くのは、20節と、その意味を説明していると思われる21節前半。もう夜でよいとあきらめてしまう、絶望してしまうことを、戒めているのだろう。希望を持ち続けるように。
- BRC2013:Job36:5 見よ、神は力ある者であるが、/何をも卑しめられない、/その悟りの力は大きい。
- 「何をも卑しめられない」は新共同訳では「たゆむことなく」となっている。ここに、ひとりひとりに対する神の働きが表現されている。7節から10節も興味深い。「正しい者」が苦難にあい(8節)、とがをおかし、たかぶる(9節)ときのことも書かれている。これらすべてをも含んで、26節で「われわれは彼を知らない」と告白する。もう少しじっくり読んでみたい。2年後また戻ってこよう。
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- BRC2021:Job 37:14,15 ヨブよ、耳を傾けてほしい。/立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。
- エリフは自然現象のことを様々に語る。その背後に主がおられることを認めても、それらについてほとんど知らないことを表明しているように思われる。このような読み方が適切かどうかはわからないが、現代において、自然科学は発達し、多少自然について理解が進んでも、こころの問題、神と人との個人的な関係に集中して行き詰まっているように見える、神理解と宗教界の動向にも一石を投じているように見える。現代はさらにAIや、データサイエンスによって、環境要因を意思決定に結びつけることがある程度可能になり、それを駆使する世の中において、宗教界がそれにまったく背を向けているのではと危惧する。エリフは次のように結んでいる。「全能者を見いだすことは私たちにはできない。/この方は力と公正に優れ/正義に満ち、苦しめることをしない。それゆえに、人々は神を畏れる。/神は心に自ら知恵があると思う者を/顧みることはない。」(23,24)すこし短絡に感じる。わたしは、全能者を見出すとは言わず、真理を、神のみ心を少しずつ理解することと表現するが、それが、神を畏れる生き方なのではないかと思う。
- BRC2019:Job 37:5 神は驚くべき御声をとどろかせ/わたしたちの知りえない/大きな業を成し遂げられる。
- このあとに、わたしたちが知り得ない多くのことを神がなさっておられることが続く。人間の側から見れば、まったくそのとおりだと思う。しかし「全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。」(23)で、不可知論が徹底されること、ヨブの問題をこのひとことによって解決することはできないように思う。しかし、全体の流れとしては、引用箇所が、主が語られる背景を提供しているように思われる。
- BRC2017:Jb 37:23,24 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。
- エリファズの論理に近くなってきているようにも思う。神は超然としておられる。おそらく、これは「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。」(21・22節)の説明ととるのがよいのだろう。神の為されることの奥深さと、神に希望を置くこと。だろうか。これがエリフの最後の言葉となる。
- BRC2015:Jb37:21,22 今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。
- 不可知をどう取り扱うか。死後の世界などを語らないとしても、やはり、希望の源は、重要であるように思われる。ヨブには、その確信がないように思われる。この章での、自然界での神の働きの不可知性、そして、不可知性の彼岸を思う、信頼、このあと、主が語られる。
- BRC2013:Job37:2 聞け、神の声のとどろきを、/またその口から出るささやきを。
- 大きな声と小さな声ともとれるが、とどろきも、ささやきも聞き取りにくい。耳をすまさなければいけないのだろう。エリフの語る最後の章で、このあと、神が語られる。もしかすると、神の声をヨブが聞くようになるのかも知れない。エリフのことばを通して、耳が開かれていったのかも知れない。エリフのことばの最後は23節、24節「全能者は――/われわれはこれを見いだすことができない。彼は力と公義とにすぐれ、/正義に満ちて、これを曲げることはない。」それゆえ、人々は彼を恐れる。彼はみずから賢いと思う者を顧みられない」。
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- BRC2021:Job 38:10,11 私は海のために境を定め/かんぬきと扉を設けた。私は言った。/「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。/あなたの高ぶる波はここで止められる」と。
- この二つの節は関連しているようにも思われる。詩文体であり、翻訳も難しいのかもしれない。海の境なら理解できるが、神がひとが到達できる境を設けているとはわたしには思わない。単に、人間というものには、とうてい到達できないもので満たされているだけのことのように思われる。それは、直線的な距離だけでなく、複雑さも関係しているように思われる。複雑系とは、単純に、因果が特定できない世界とも表現できるだろう。その中にわたしたちは暮らしている。そして、その背後に神様がおられ、働いておられると、わたしは受け止めている。神様がどのような実体なのかはわからないが。だから、真理と言い換えたりするわけだが。
- BRC2019:Job 38:2,3 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
- エリフの部分をどう考えるかは難しいが、主の応答の最初の部分(38章)は、エリフの言っていることとつながっている。主は「お前は知っているか」と尋ねる。しかし、このあとに、書かれていることは、科学の知識のあるものは、ある程度答えようとしてしまうのが、最初の反応ではないだろうか。例を取り替えることはできても、その問に満足できないひとも多いだろう。問自体を考えることが、重要な課題なのだから。無知を、自然界のことに向けることは、自然と離れて生活する多くの現代人にとって、もっともたいせつなこととして結び付かない面もあるのだろう。現代におけるヨブ記の限界なのか、現代人があまりに、特殊な生き方をしてしまっているからか。難しい。
- BRC2017:Jb 38:33 天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か。
- ここで神は、ヨブには知り得ないこと、制御し得ないことを問うている。第一ステップは、ギャプに働かれる神の考え方とも言えるかもしれない。しかし、引用箇所は面白い。点の法則を理解して、それを地上に及ぼす。自然法則とも言えるし、神のみこころとも言えるかもしれない。これを書いた人はどのような人なのだろうか。驚かされる。
- BRC2015:Jb38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
- まず、ひとは「知識」がないと断言し(2節)その証拠として、創造世界について語る。それは、創造の行為自体とともに、制御・管理、創造世界の統治についてを含む。その目的は何だろうか。人間世界(共同体として)の倫理(そこでの正義)についての審判以外の世界の広がりをまずは、示しているように思われる。このあと、どのように展開するのだろうか。直球による応答ではないが、心が知的に啓かれる瞬間であることは、確かだろう。
- BRC2013:Job38:2-4 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
- 主が語られる。おそらく、主はいつも語っておられるのであろう。それを、聞き取る時が、ひとに来る。神は、まずヨブと向き合うところからはじめ、ヨブに問う。ひとつひとつの記述が興味深い。ひとの思い至るところは本当に狭いなとも思うと同時に、このような書が残されていることに、ひたすら驚く。
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- BRC2021:Job 39:1-3 あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。/雌鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。これらが月満ちるのを数え/産むべき時を知ることができるか。これらは身をかがめて子らを産み/陣痛の実を送り出す。
- 自然界のことが並べられている。ヨブ記記者の不思議に思う探究心もここに披瀝されていて興味深い。むろん、この中に、誤りの記述があったり、現在は、よくわかっていることもある。しかし、エリフの唱えるような、神の偉大さ、ひとと異なることが書かれている。しかし、これらも、エリフの言葉として聞いていたとしたら、ヨブのこのあとの応答にはつながらなかったのではないだろうか。難しいところである。実際は、エリフなどが語ったことであっても、ヨブの中で、神の声としてうけとめることが生じてきたとも言える。一つ言えることは、自然環境の背後に、神様がおられることを、明確に示していることだろう。そこからも、神は語られているはずである。
- BRC2019:Job 39:5 誰が野生のろばに自由を与え/野ろばを解き放ってやったのか。
- 39章でも自然界の神秘について書かれている。はっきり言って、古い。現代人が、自然について知らないことは多いが、自然と離れた生活をする人が多く、この章を書き換えたとしても、人が書き換えるなら、限界があるだろう。専門家にしか通じない問かもしれない。また、16節の駝鳥の記述は誤りだとされる。この5節も適切ではないだろう。神の領域が狭まっている、神を無視しても生活ができると、考える人が多いのは、自然なのかもしれない。わたしは、どのように答えるだろうか。
- BRC2017:Jb 39:19 お前は馬に力を与え/その首をたてがみで装うことができるか。
- 古代のひとの神の賢さ、God’s Intelligence だろうか、について様々に書かれている。進化の背後に神の配在があるのだろうか。背後とすればあるように思われる。ひとつひとつ個別選択的には行動されないようにも思うが。しかし、いずれにしても、不思議なことはたくさんある。ひとはそれを極めることができないのと同じように、不思議だと思うことも、尽きることがないように思われる。そして、真理をもとめる。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレト3章11節)
- BRC2015:Jb39:1 お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。
- 外部世界に目を向けること。これは、マタイ5:24-33 も近いのだろうか。神が統治・制御される世界というだけではなく、共同体の倫理基準とは、異なることがあると言うことだろうか。神の働きの違った面を受け入れることが、内省につながるのかもしれない。
- BRC2013:Job39:5 だれが野ろばを放って、自由にしたか。だれが野ろばのつなぎを解いたか。
- この章で神は、ヨブに自然界の神秘を知っているかと説く。谷間のやぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、たかとつづく。自然・野性は神秘の象徴だったのだろう。おそらく、今も、それを神秘ではないかのごとく人間が生き、調和を乱しているところに問題があるのだろう。静まって、ひとが何を知り、何を知らないか、考えてみたい。
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- BRC2021:Job 40:27 レビヤタンがあなたに嘆願を繰り返し/あなたに優しい言葉で語るだろうか。
- 15節から24節にはベヘモット(Behemoth)のこと、そして、25節から32節には、レビヤタン(Leviathan)のことが書かれている。聖書によっては、41章とにわかれている。これらについては、よくわからないが、引用句の表現は、興味深い。おそらく海にいる、おそろしい悪魔的存在も、神には嘆願を繰り返し、やさしく語るということなのだろう。悪をもコントロールするということだろうか。神様が用いられると表現すると問題があるのかもしれないが、ヨブ記の冒頭との関係も興味深い。
- BRC2019:Job 40:27, 28 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。
- 彼はレビヤタン(25)である。ヨブ記には「日に呪いをかける者/レビヤタンを呼び起こす力ある者が/その日を呪うがよい。 」(3章8節)にある。それ以外に、詩篇74篇14節、104篇26節、イザヤ書27章1節に登場する。悪をなすものであるが、1章のサタンとは区別されている。その悪の働きを、制御し、僕にすらすることのできるものとの主張なのだろう。イエスの働きとともに、考えたいが、同時に、このヨブ記のテーマを考えると、苦難の意味について、さらに、混乱をもたらすようにも思う。
- BRC2017:Jb 40:27,28 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。 彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。
- 「彼」は「レビヤタン」である。ヨブ記もう一箇所「日に呪いをかける者/レビヤタンを呼び起こす力ある者が/その日を呪うがよい。」(3章8節)に登場する。詩篇74編10節、104編26節、そして「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。」(イザヤ27章1節)にある。一般には、サタンであろう。しかし、創世記でも、ヨブ記でも、サタンは、神のもとにある。そして、神との約束をまもり、永久に神の僕である。理由を理解することは困難であるが。
- BRC2015:Jb40:15 見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。
- 「ペヘモット」は口語訳では「河馬」となっていた。このあとの記述以外に、手がかりはない。19節には「これこそ神の傑作/造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。」とある。このあとには「レビヤタン」(15節)の記述が続くことを考えると「ペヘモット」も想像上の動物か。なにか、象徴的な意味があるのかもしれない。これらは、神のヨブに対する問いかけなのかもしれない。単に、知り得ない空間の提示では、おそらくないだろう。しかし、それとは、別に、我々は不可知をどのように、考え、向き合ったら良いのだろうか。
- BRC2013:Job40:15 河馬を見よ、/これはあなたと同様にわたしが造ったもので、/牛のように草を食う。
- 「あなたと同様にわたしが造ったもの」考えさせられることが多い。このあと、河馬の生態の記述がつつく。そしてその背後に神がおられることを感じさせられる。ヨブと神の対話とともに、このように記した、ヨブ記者に思いを巡らす。どんな人だったのだろう。
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- BRC2021:Job 41:4 私はレビヤタンの体について/語らないではいられない。/その偉大な力の物語と見事な調和とに。
- 前章からのレビヤタンの記述が続く。話をはぐらかしているようにも見える。引用句はレビヤタンに神が敬意を払っているようにも読める。レビヤタンがなにかを正確に理解することは困難であるが、主のもとにはあるが、神様も、完全に理解できているとは言えない存在なのかもしれない。神様にはできないこと(他者と互いに愛し合うようになること、人が神様を真の意味で愛させるようにすること)、神様にはわからないこと(有限な存在の痛み苦しみ悲しみ喜びなど、他者の定義といってもよいこれらのもの)がある、その部分を表現するものなのかもしれない。1章ともつながるように思われる。これが真実というより、神の側の混沌、それは、人間のものとは完全にことなるが、それを、ヨブ記記者が表現しているのかもしれない。もう少し丁寧に読み、理解していきたい。
- BRC2019:Job 41:25,26 この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。
- こんなに、レビヤタンのことばかり書いてあると認識したことがなかった。引用箇所が最後である。これを見ると、主の支配下にはあるが、良きライバル、友のような感覚さえ持つ。すくなくとも、主は楽しみながら語っているように感じる。それは、おそらく、ひとにとっては、苦痛なこと、苦難をもたらすものなのかもしれない。そう考えると、とても興味を持つ。ヨブ記者が行き着いた、神理解だとすると。次回、ヨブを読むときは、もう少し、しっかりと読めるだろうか。
- BRC2017:Jb 41:25,26 この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。 驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。
- レビヤタンについての記述が続いている。(海という)神秘の世界を支配する(へびのような)ものについて書かれている。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。彼のからだの各部について/わたしは黙ってはいられない。力のこもった背と見事な体格について。」(3節b・4節)とあるが、神と彼との関係は具体的とは言えない。神秘の部分の存在、おそらくそれが、理不尽ともいえることに関係していると表現しているのかもしれない。これが、神の主張の最後の部分である。
- BRC2015:Jb41:1 勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。
- 口語訳では41章9節となっており、章の切れ目が異なる。レビヤタンについての記述の続きである。レビヤタンについては、一度調べてみたいが、ヨブ記3:8, 40:25, 詩編74:14, 104:26, イザヤ27:1 に現れる。これと、黙示録にある蛇とが同一かどうかは、不明。しかし、サタンととれないこともないのかもしれない。神以外に押さえつけることができない、レビヤタン。その力の表現がこの箇所である。「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。 驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。」(25, 26節)
- BRC2013:Job41:1 あなたはつり針で/わにをつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。
- 新共同訳では「わに」は「レビヤタン」となっている。想像上の生き物である。ひとが、知っていること、知りうることの範囲を、謙虚に認めることは、基本的であるということだろう。想像上の生き物についてこれだけ長く書いてあることに違和感を感じることもあるだろうが、おそらく、そのときに、ひとが考えるべき事は、それだけの長さを必要とすると言うことだろう。
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- BRC2021:Job 42:2,3 私は知りました。/あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」/そのとおりです。/私は悟っていないことを申し述べました。/私の知らない驚くべきことを。
- ここには、二つヨブが受け取ったとメッセージが書かれている、引用句が1つ目だが、二つ目はよくわからない。「聞け、私が語る。/私が尋ねる、あなたは答えよ。」(4)これも、最初のものと、同じなのだろうか。結局、神の働きは、わからない、見えていないということだろう。それは、わたしも、そのとおりだと思う。ここではエリファズたちについて、「確かなことを私に語らなかった」(7,8)と表現されている。ひとつわかることは、神に問うことをしていなかった、自分の知識で答えようとしていたことは確かだろう。今回は、その程度しかわからなかった。十分時間は取れていないが、これからも、ヨブ記と、そして、聖書と、丁寧に向き合っていきたいと思う。
- BRC2019:Job 42:8 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
- 最後の部分が美しい。祝福の回復に目が行くのはおそらく、方向が違っているのだろう。それは、この引用箇所が主のみこころであり、そのことに伴って起こることが、祝福なのだと今回は、思えた。ヨブをどう読むかが、長い間わからなかった。今回、ほんの少し、光が見えたように思える。ヨブ記者の信仰告白に目を留めたからだろうか。むろん、理解していることは本当に表面的ではあるが。
- BRC2017:Jb 42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
- 「それゆえ」は何を指すのだろうか。直接的には「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。」(3節b)「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」(5節)一つ目は理解できるが、二つ目は、神を目の前にして、ことばを失うということだろうか。自分の求めていたことが実現し、かえっておそれおののくということだろうか。7節の「お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」も、このあとの祝福の回復も十分には理解できない。しかし、今回、あらたに、ヨブ記と向き合えたことは確かである。ほんの小さなステップではあるが。並行して「進化をめぐる科学と信仰」大谷順彦著、を読んでいたことも良かったと思う。感謝を持って。
- BRC2015:Jb42:10 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。
- これは、単なる時系列として「祈ったとき」なのだろうか、それとも、とりなしの祈りによって、その結果として、祝福が与えられたのか。こどもができるなど、もとにもどったとはいえないとしても、それも文学的手法でやはり「元の境遇に」戻ったと考えるべきなのだろう。
- BRC2013:Job42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
- エリパズたちにとっては、屈辱とは写らなかったのか。理解できたのだろうか。ヨブにとっては、このとりなしが、神の新しい理解の元での最初の仕事たっだのだろう。
詩編
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- BRC2021:Psalm 1:2 主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
- 「幸いな者」と始まる美しい詩である。信仰告白でもあるだろう。主の教えを喜びとする。これは、十誡のような禁止ではなく、主の喜びを喜びとすることを言っているように思われる。律法をどのように、人が受け入れているかにかかっているように思われる。禁止か教えか、難しいこともあるのだろう。わたしは、やはり、御心と真理を近いものとして、それを求め、そのように生きたいと願っている。むろん、禁止が関係していないわけではなく、御心とはことなることに、心が奪われることは頻繁にある。これからも、主の教えを学び続けるものでありたい。真理を求めて続けることと表現してもよいが。
- BRC2019:Ps 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
- 山上の垂訓の最初は、おそらく、この詩編第一編が意識されているだろう。イエスの応答から発展したものなのかもしれない。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(2)と続くが、イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7章21節)としている。ルター以後、信仰のみが強調されるが、大きな部分が失われてしまっているように思われる。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」(6)イエスは、これにどう返したのだろうか。山上の垂訓は「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7章27節)で終わる。
- BRC2017:Ps 1:1,2 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
- 正直わたしもそうありたい。そうできているのだろうか。おそらく、不安があって良いのだろう。前半と後半はどうだろうか。後半は、明らかにできていない。前半はよくは分からない。自分はそのような道を歩んでいるのだろうか。謙虚に生きていきたい。
- BRC2015:Ps1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
- 主の教えを知り、主の教えを理解したい。ここでは教えはおそらく律法を意味しているだろう。その背後にある主のこころをこころとしたい。そのような生き方をしたい。願うこと、信じることを生きることができるように、主に祈る。1節に「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」とあるように、謙虚に、かつ主の教えに逆らう者に与せず生きていきたい。
- BRC2013:Ps1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
- なにか特別な悪人のように思っていたが、これは、単に神に敵対する者ということかも知れない。神を畏れないという言い方がよりぴったり来るかも知れない。周囲の人の生き方で、そして私の生き方の中で、良い面でも悪い面でも、このようなものを見つける作業をしてみたい。
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- BRC2021:Psalm 2:7-9 私は主の掟を語り告げよう。/主は私に言われた。/「あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。求めよ。私は国々をあなたの相続地とし/地の果てまで、あなたの土地としよう。あなたは彼らを鉄の杖で打ち砕く/陶工が器を叩きつけるように。」
- 新約聖書で「あなたは私の子。/私は今日、あなたを生んだ。」の部分が引用されている(使徒13章33節、ヘブル1章5節、5章5節)こともあり、イエスに結びつけて語られるが、この詩篇自体についてはよくわからない。また、福音書には、マタイ3章17節・17章5節と、イエスの受洗のときと、山の上での変貌のときの神の声が「これは私の愛する子、私の心に適う者」と記されているが、関係性は明白ではない。イスラエルの王国が背後にあるとすると「なぜ、国々は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことをつぶやくのか。なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。」(1,2)は別の様相を呈する。世界の一部の記述とも読めるからである。王は、主によって立てられ、子のように、主が愛されるということの表現だと考えるにとどめておくのがよいようにも思う。
- BRC2019:Ps 2:10-12 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。
- 不思議な詩編である。しかし、治める者について、言われていることは確かだろう。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」(6)の宣言があり「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」(7)と続く。引用句の「子に口づけせよ」は印象的である。神の子として、神に即位させられたものが、子に口づけするようにへりくだるべきことが、言われているのだろう。イエスは、そのように生きられたのかもしれない。そのような王として。
- BRC2017:Ps 2:12 子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。
- 「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。 」(7節)からして、主から子と呼ばれるその存在に口づけせよと、言っているのだろう。しかし、あまり、根拠は述べられていない。主がそのように呼ばれたと言うことだけだろうか。ヒントはあるのだろうか。
- BRC2015:Ps2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
- これはメシヤ預言の詩編なのだろうか。この箇所から「わたし」を特定することは困難である。しかし10節の「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。」はメシヤ性のあるメッセージである。同時に、この詩編の最後の「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。」(12b)は印象的である。詩編もいずれ学んでみたい。
- BRC2013:Ps2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
- 詩編記者は、どの世界を思い描いていたのだろう。普通に考えると、ダビデ王朝と、周囲の異邦人の国または、遠い地の強国であろう。しかし、この内容をみると、記者もそれ以上のことを意識していたように思われる。なぜそのようなことができるのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 3:2,3 主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。/多くの者が私に立ち向かい多くの者が私の魂に言っています/「あの者に神の救いなどない」と。〔セラ
- ダビデの詩とある。作者がダビデなのか、ダビデによせて創られたのかは、わからないが、このような苦悩は、仕事を委ねられたものの常である。わたしも、並べてはいけないかもしれないが、そのような、苦悩はなんども経験している。その苦悩のなかで主を呼ぶ。主にしか希望を持てないということだろう。それがひとを支える。信仰の為せるわざであるが、独善のあぶなさもあるのだろう。「救いは主のもの。/あなたの民の上に祝福を。〔セラ」(9)救いは、この詩篇作者も、自分にとどまらない祝福を願っていることだろうか。
- BRC2019:Ps 3:2,3 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ
- 「ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。」(1)となっているが、そのときのダビデの信条はもっと複雑だったのではないだろうか。しかし、この状況の苦しさは理解できる。自分も完璧ではないことは、自認せざるを得ないだろう。自分を非難するものと比較しても、仕方がないことも、理解できるだろう。しかし、その中で「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。」(6)には、主への信頼が感じ取れる。最後の「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ」(9)は印象的である。自分を主の救いのもとにある一人だと認識すること。わたしも、そのような心を持っていたい。
- BRC2017:Ps 3:2,3 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ
- 「ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。」となっている。信仰者が、そしてあるときは、イエスが、詩篇を好み、ダビデの祈りに、こころをあわせることは自然に思われる。どの時代にも、理不尽と思われる、批判、攻撃がある。正しさをもって、それに立ち向かう道もあるかもしれないが、同時に、信仰によって、神とつながり、神に苦しみを委ねる、または、神がその苦しみを知っていて下さることに、望みをおく道がここにあるのかもしれない。
- BRC2015:Ps3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。
- ダビデ(詩編記者としてもよい)が「救いは主のもとにあります。」(v9a)と言っている主と、私が主と呼んでいる者とが同じであることが信仰が一つである基盤である。わたしは、このダビデと同じ神を主と呼んでいるのだろうか。自分の不完全さ故に、他者を敵とは呼べないわたしは、単に歴史や個人的背景の産物なのだろうか。何をもって共通の神を礼拝する信仰とするのか。もう一度、よく考えてみたい。
- BRC2013:Ps3:5, 8 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ
- この信仰告白と、祈りの幅に驚かされる。この詩編は「主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。〔セラ」から始まっている。このような状況下で、平安の根拠を主に帰し、民全体の祝福をいのる。わたしもこのような、主への信頼に生きたい。
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- BRC2021:Psalm 4:9 平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。
- この背後に「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ 義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。」(5,6)のような苦悩と戦いがあるところが印象的である。詩篇記者のように「あなたは私の心に/穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを/与えてくださいました。」(8)といえる経験を積み重ねていくことも、ひとを成長させていくのかもしれない。そのひとだけでなく、神様との交わりや、他者との関係、多くのひとのなかでの生き方。
- BRC2019:Ps 4:8,9 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
- 「麦とぶどう酒」もたいせつな、祝福だろう。しかし、主が与えてくださる、平安こそが、ここに住まわせてくださるものなのだろう。そこまでの確信をわたしは、告白できるだろうか。
- BRC2017:Ps 4:8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
- 6節から8節は特に印象深い。麦とぶどうの収穫の喜びをこの人は知っているだろう。しかし、神は、それにもまさる喜びを与えてくださることを信じ、その神に信頼を置いている。それは、おそらく、その喜びを経験して知っていることによるのではないだろうか。信仰告白でもあり、その喜びに生きることにかけているように、思われる。その喜びにわたしも生きよう。
- BRC2015:Ps4:3 人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
- ここに「人の子ら」が使われている。この「わたし」はおそらく詩編記者であって、神ではないだろう。それが人の子らと言っている。同じ人の子である。そこにある同等性もこれらの言葉に含まれているのかもしれない。人の子らの世界と、主がこの世でなされると思われること「主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。」(4節)を行き来しながら。表現の違いだけなのかもしれない。今回は詩編を集中して読んでいきたい。
- BRC2013:Ps4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。
- 3:5 と共に、安らかな眠りについて、考える。平安をもって生きることの象徴のようなことが、この安らかな睡眠なのだろう。安らかに眠らせてくださる方に感謝。
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- BRC2021:Psalm 5:11 神よ、彼らに罪を負わせてください。/その謀のために、倒れますように。/度重なる背きのゆえに、彼らを追い出してください。/彼らはあなたに逆らったのです。
- このあとには「あなたのもとに逃れるすべての者が喜び/とこしえに喜び歌いますように。/あなたは彼らを覆い/御名を愛する者があなたを喜び祝いますように。」(12)と続き、善悪、敵味方の二分があり、神が自分の側にいることを根拠に祈っている。他者と出会いながらこれは変化していくのだろうか。わたしは、ほとんどこのような考え方をしなくなっている。しかし、だからといって、清い思いだけをもっているわけではない。引用句に「彼ら」そして「彼らの神」と自分の神、双方にとっての神、真理を考える必要があるということだろうか。しかし、それだけで、ことは解決しないように思う。「主よ、義によって導いてください。/私に敵対する者がいます。/私の前にあなたの道をまっすぐにしてください。」(9)このような、主との対話、自分と向き合うことは、かわらないことでもある。他者と向き合えば解決することではない。解決するとすることは、主と向き合わず、自分を主とすることでもあるだろう。難しい。
- BRC2019:Ps 5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。
- このように、賛美することがあるのだろう。おそらく、わたしも、そうだったと思う。しかし、いまは、なかなか、単純にこのように、言えない。なぜだろう。おそらく、避けどころとするという内容を聞きたくなり、それによっては、アーメンと言えないからだろう。もっと、素直になっても良いのだろうか。欺瞞を裁きはしなくても、自分のものとしては、受け入れがたいからだろうか。
- BRC2017:Ps 5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。
- 詩篇記者の信仰告白としてよいだろう。すべての善いもの、喜ばしいものが、主のもとにある。それを、あなたとよびかけるたしかな対象として、信仰を告白する。わたしも、その語りかけをたいせつにしたい。思想および思考をまとめるための形而上学的存在ではない。
- BRC2015:Ps5:8,9 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。
- この二つの節が対になっているのだろうか。それとも独立だろうか。教義的には独立ととるべきだろう。しかし強い相互関係にある。「恵みの御業のうちにわたしを導き」は具体的に何を言っているのだろうか。反対の「のろい」ではないと言うことだろうか。神の導きは必ずしもいつもは見えない。導きの中を歩むことの確信は何から来るのだろうか。単純に恵みを感じるかどうかではないだろう。このような応答関係の中で、神のみこころを求め続けていくことか。
- BRC2013:Ps5:8 主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
- その道を歩みたいということだろう。最初の「わたしのあだのゆえに」は十分は、わからないが、様々な悪をなすひとたちが周囲にどれだけいようとも、このような主の義の道をあるきたいという告白には、心を撃たれる。
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- BRC2021:Psalm 6:3,4 主よ、憐れんでください。/私は病み衰えています。/主よ、癒やしてください。/私の骨はおののいています。私の魂は震えおののいています。/主よ、いつまでなのですか。
- この詩篇も詩篇5篇と同じく、最後は「敵が皆、恥を受けておののくように。/恥にまみれて瞬く間に逃げ帰るように。」(11)と終わっている。敵への裁きを願う言葉だ。しかし、背後には、引用句のような病み、痛み、苦しみ、魂の震えおののきがあり、主の憐れみにすがる以外にない状態があるのだろう。自分の弱さとも言えるかもしれない。自分には、どうすることもできない状態、そのなかでの裁きである。相手の状態に思いを馳せることをしていないとするのは、単に正しさで、この詩篇記者をさばいていることにすぎないのだろう。まずは、この詩篇記者の痛みにこころを向けたい。そこにこそ、たいせつなことが隠されているように思う。苦しんでいる人に、そんな考えではだめだよといってもどうにもならないのだから。
- BRC2019:Ps 6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。
- 続く苦痛は、分かるように思う。しかし、あまりにも、個人的な祈りに、アーメンと言えない。ダビデの個人的に見える信仰に拒否反応を持ってしまうのだろう。この詩編もそれと同種類に感じてしまう。これでも、おそらく、問題は、ないだろうが。わたしが求めている信仰、真理とは、異なる気がする。耳を澄まして、聞きたい。主に、こころを向けて。
- BRC2017:Ps 6:7,8 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
- 主は、このように、語りかける存在。嘆き、涙、苦悩、自分を苦しめる存在、命を衰えさせる存在をご存じで、そのことを取り扱って下さる方であることの、確信が背景にある。それが信仰者の歩み、神にかたりかける内容なのだろう。それに応じて下さる存在がこの詩篇記者にとっての、主である。
- BRC2015:Ps6:5 主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。
- この祈りと 10節にある「主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」この組み合わせがこの詩編記者の信仰である。神からの応答はすぐにはない。しかし、6節に「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。」とあるように、救いを自らが見ることを期待している。このような信頼の根拠はなのだろうか。ある意味で驚かされる。
- BRC2013:Ps6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
- 怒りの背景は分からない。しかし、その苦しみを神に投げかける。そのような生き方をわたしもしたい。本質をしっかり見据えて。
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- BRC2021:Psalm 7:7 主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。/身を起こしてください/私を苦しめる者に激しい憤りをもって。/目を覚ましてください、私のために。/あなたは公正をお命じになりました。
- 公正はたしかに主が喜ばれることだろう。とすれば、それを行わないものを、裁かれる方と考えるのも自然だろう。「悪しき者の悪を絶ち/正しき者を堅く立たせてください。/神こそ正しき方/心と思いを試す方。」(10)しかし、同時に、特定のことについては、自分の潔白と正しさを、自分で理解できる範囲内で主張できるかもしれないが、他のことについてはそうとは言えない。また、公正は公平とも関係し、単純になにが公正か公平かを判断できないことも多い。そのいみで、現代の解釈、すべてのひとを罪人とする考え方は、進化しているとも見える。同時に、地上で公正さ、公平さが行われていないことに対するいらだちは、神の権威を貶(おとし)めているようにも見える。神の苦しみ、痛みの理解へと向かうのは、ハードルが高い。正しさでは、判断できない世界、ほんとうに、難しい。
- BRC2019:Ps 7:8,9 諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと。
- 個人的な敵に対する裁きの祈りがあり、後半は、裁きを期待する祈りに戻る。その間に、より一般的な祈りがこの二節に含まれている。祈りの幅が、神理解の幅となるように思う。敵を愛することは、主イエスに出会うまでは、待たなければいけないのだろうか。
- BRC2017:Ps 7:10 あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。
- 正しさをどう考えるかは簡単ではない。しかし、ここでは「神は正しくいます。」と、神のただしさと、その神が、自分の心と、こころがある場所と考えられていた「はらわた」を調べられるとしている。それが、前半の部分を受けているとしても、謙虚さが現れているとも言える。謙虚さを失わない者でありたい。基本的には神の前で、だからこそ、ひとの前でも。
- BRC2015:Ps7:18 正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。
- 「正しくいます主」これはイエスの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)の内容とは異ならないだろう。しかし、神のさばきを福音とするのではなく、神の救いを、御心を中心に据えるところに、違いがあるのか。苦しむ人の願いを受け取りつつ、神の御心のなることを宣言する。もう少し丁寧に言語化したい。
- BRC2013:Ps7:10,11 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。
- 並木先生が言っておられた「『神』は私にとっての超越的な他者のことですが、この他者も私に愛のかたちで、あるいは怒りのかたちで働きかける存在です。その意味で、神=愛、とは言えません。神は愛を私に対して優先させるか、怒りを選ぶかは神の『自由』です。」を思い出す。新約にあらわれる福音書のイエスは、少し違う印象がある。
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- BRC2021:Psalm 8:5 人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
- この畏(おそ)れ慄(おのの)くこころは、人間にとって、共通のもので、時代をはるかに超えるものであるように思う。科学でほとんどのことが理解できるとして、ここに心が向かわないひともいるかもしれないが、科学者こそが、この気持を持っているのではないだろうか。向かう相手が、キリスト教でいう主、神かどうかは別として。わたしは、それでよいと思っている。ひとは、被造物にすぎない。140億年の進化など、自然の産物だとしてもよい。そのある時点の、ほんの瞬間に存在している自分について考えたとき、そして、人類について考えたとき、謙虚にならざるをえない。この感覚はやはり宗教的と言えるものだと思う。
- BRC2019:Ps 8:6,7 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
- このあとに、動物が続く。「人間中心主義の」教理として取る必要はないのだろう。「神に僅かに劣るもの」の定義も簡単ではないだろう。「その足もとに置かれた」目的は何だろうか。「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」(10)と、神を誉めて讃えるためだろうか。ここからだけ、読み取る必要もないのだろう。
- BRC2017:Ps 8:2,3a 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。
- 口語訳も新共同訳も「幼子、乳飲み子の口によって。」で区切られている。そのため、2節のあとに、句点がないのだろう。しかし、なぜ「幼子、乳飲み子の口によって」なのだろうか。幼子はまだしも、乳飲み子が賛美を歌うことはないだろう。神の威光の現れを表現しているのだろうか。人間の存在にたいするおそれだろうか。定かにはわからない。
- BRC2015:Ps8:2,3 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
- 3節冒頭は、この文章からすると2節を終わる文である。その方がおそらく自然なのだろう。いずれにしてもここで幼子、乳飲み子を持ち出すことに驚かされる。何が意識されているのだろうか。純粋さだろうか。最も弱い者ということだろうか。それとも、イエスがこの時に何らかの方法で意識されているのか。
- BRC2013:Ps8:3,4 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
- この驚きの創造主が、とるにたらないものと関係を大切にされる。不思議としか言いようがない。独りよがりの解釈だと人は言うのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 9:13 流された血の償いを求める方は/彼らを心に留め/苦しむ人たちの叫びを忘れない。
- 「主は義によって世界を裁き/公平に諸国の民を裁かれる。主は虐げられた人の砦/苦難の時の砦。」(9,10)とあり、この詩篇でも主は裁き主である。そして、虐げられた人の砦、苦難のときの砦で、流された血の償いを求め、苦しむ人たちを忘れない方である。しかし、実際に世の中をみると、そのような裁きが行われているとは見えないのではないだろうか。それを、詩篇記者はどのように考えていたのだろうか。その中でこそ、信頼することが信仰だとしていたのだろうか。わたしは、いまは、異なる考え方をもっているが、それが正しいかどうかはよくわからない。この詩篇記者とも語り合ってみたい。おそらく、このような感覚をもった、すばらしい、信仰者が、現代にもいるのだろう。謙虚に学びたい。
- BRC2019:Ps 9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
- 「敵」に対する裁きが気になり、批判的になってしまうが、「虐げられている人」が常にたくさんいる状態。他の言い方では、理不尽な状態がはびこっていて、そのなかで「神などいるものか」という人たちが多い中で、このような詩をつくり、賛美しているのかもしれないと思った。「乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。」(19)が王として、神に最初から委ねることになってしまっては、問題だが。「ムトラベン」(1)とは何なのだろう。聖書でもここだけに出てくる単語の様だ。英語訳(Muthlabben)不明のようだが、「ムトラ」は死、「ベン」は子を意味することから、子の死が関係しているという節や、演奏法だろうとの推測があるようだ。
- BRC2017:Ps 9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
- 正しい裁きをされるかたと、わたしは、信じているだろうか。正しさを、ひとの正しさと重ねるから、問題を感じるのかもしれない。神は、自律的に裁かれ、因果応報に縛られているわけではない。同時に、ひとり一人の訴えを取り上げて下さることも、聖書信仰の一部だろう。苦しみ、悩みのそばにいて下さる神様ということと結びついて。それは、ひとの生きる方向性と結びついているのだろう。
- BRC2015:Ps9:20,21 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。 主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ
- 6節、16節、18節と異邦の民の裁きを祈る。しかし、基本は、貧しい者、虐げられた者の救いであるようにも思われる。さらに、12節で「諸国の民に御業を告げ知らせよ。」と語られ、それが、この20, 21節につながっている。イスラエルの民の信仰する神が、世界をすべ治められる神だとの確信があったのだろう。神の愛が、イスラエルの民に限定して示されていたと考えると、自然なのかもしれない。
- BRC2013:Ps9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。
- 「貧しい者」はマタイ5:3, ルカ6:20 を思い起こさせられるが、ここでは、悪い者との対比で出てくる。そう考えると、義のために迫害されまたは冷遇され、または、貧しさを強いられているという意味かもしれない。ルカには、幸いと共に、わざわいについて書かれているように、ここには対比があるのか。
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- BRC2021:Psalm 10:17,18 主よ、あなたは苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。/彼らの心を確かなものとし/耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた人のために裁き/この地の人が/二度と脅かされることがありませんように。
- すばらしい告白、祈りである。「(主は)苦しむ人の願いを/聞いてくださいました。」は実体験なのだろうか。あることを経験して、それが信頼に結びついているのか。この詩篇には、この信仰に対する考え方が書かれている。「悪しき者は鼻高々で神を尋ね求めず/『神などいない』と/あらゆる謀をたくらむ。」(4)「彼は心の中で言う。/『私は代々に揺らぐことなく/災いに遭うはずがない』と。」(8)「彼は心の中で言う。/『神は忘れているのだ。/顔を隠し、永遠に見るまい』と。」(11)「なぜ悪しき者は神を侮り/『神はとがめなどしない』と心の中で言うのか。」(13)これは間違っている、こうではないと言っているようだ。葛藤の表現でもあると思う。この詩篇記者の痛みと葛藤も正しさとともに、受け取りたい。
- BRC2019:Ps 10:16-18 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。
- 「異邦の民」はユダヤ人以外を意味するのだろうが、神を神としないと理解することもできるだろう。「主の地」はどうだろうか。ユダヤを意味するのだろうが、より広く、パレスチナが念頭にあるだろうか、きなくささを感じるが、地はすべて主のものであることを考えると、全地の意味なのかもしれない。祈りとして、心を合わせたい。主の御心がなるようにと。
- BRC2017:Ps 10:10 不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり 心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。
- 「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。 」(3節)も気になる。ひとは、神の業を、見極めることはできない。人に、どのような自由、自律性と、それにともなう、責任があるのかが、鍵だろうか。これも、限定的だろう。そのはっきりとは言えない中で、生きていく。どのように、生き、行動するかを問いながら。そのように、謙虚に生きることが、人の生なのであろう。
- BRC2015:Ps10:17,18 主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。
- なぜ聖書の神は、貧しい人、みなしごと虐げられている人に目を向けるのか。常に、マイノリティの側にいた者たちの中で育った信仰だからだろうか。いつ頃からなのだろうか。このような信仰が重要な位置を占めるようになったのは。通常の支配者の宗教ではあり得ない。捕囚以降なのだろうか。
- BRC2013:Ps10:1 主よ、なにゆえ遠く離れて/立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
- この詩編は、いろいろなことを考えさせられる。悪しき者と貧しい者 (vs1, 9, 15)、寄るべの無いもの (vs10, 14)、そして柔和なもの (v17)。そして、悪しき者の言葉の中に (vs6, 11) v1 の自分の認識と同じものを発見する。そして、叫ぶ。「主よ、立ちあがってください。神よ、み手をあげてください。苦しむ者を忘れないでください。」(v12)そして、17, 18節で、主への賛美としての信仰告白へと導かれる。主との交わりによって (Jn17:3) 神様がどのような方かを信仰体験によって知っていることが、内面化されているからできる告白であろうか。それとも、その交わりの中で、その告白・賛美い導いていただく奇跡を体験できるのか。
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- BRC2021:Psalm 11:1,2 指揮者によって。ダビデの詩。/主のもとに私は逃れた。/なぜあなたがたは私の魂に言うのか/「小鳥よ、山に飛んでゆけ」と。見よ、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。/闇の中、心のまっすぐな人を射るために。
- 意味はよくわからないが、おそらく、悪しき者にもてあそばれている状況が描かれているのだろう。なかなか、想像ができない。しかし、あからさまに、このようにいう人が居たのかもしれない。そう考えると、現代は、良い時代である。たしかに、他人を陥れる人はいるが、それに、一定の歯止めはかかっているように思われる。社会によるのかもしれないが。当時のことをもう少し知りたい。
- BRC2019:Ps 11:1-3 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
- ひとは、二心で(清い心ではなく)生きるように促すのか。主を避けどころとしながら、現実面では、異なる行動を取るべきだと揺さぶりをかける。「世の秩序が覆っている」とある程度客観的と言えることに訴える。このあとには「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4)と続くが、希望をどこに置くかが問われているのだろう。
- BRC2017:Ps 11:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。
- 「主を避けどころとする」とはどういうことだろうか。主に信頼する、希望をおく、救ってくださると確信を持つことだろうか。よく分かるとは言えない。3節に「世の秩序が覆っているのに」とある。確かに、主への信頼が揺らぐこと、聖書における価値観が揺らぐことはあるように思われる。それでも主を避け所とするのは、主のすばらしさゆえだろうか。それを知らなければできないのだろうか。
- BRC2015:Ps11:3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
- 口語訳では「基がこわされるならば」となっている。正常にことが進まないように思われ、つまり神の国(支配)が遠いように思われるとき、1節にあるように「主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。」との言葉を聞く。愛が冷える時、神様にかけた者たちに忍耐が必要なときである。この詩編記者のように「主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(7節)と確信して生きていきたい。この神様に望みを置いて。[2016.1.10 通読箇所:2015.12.31 記]
- BRC2013:Ps11:5 主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
- この主の前にわたしは立てるのだろうか。「乱暴を好む者」の反対が、マタイ12:20「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。」だろうか。
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- BRC2021:Psalm 12:2,3 主よ、お救いください。/忠実な人が消え/真実な人は人の子らの中から去りました。人々は互いに空しいことを語り/滑らかな唇で、二心をもって語ります。
- このあとには主のことばとして「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。/今こそ、私は立ち上がり/あえぎ求める者を救いに入れよう。」(6)ともある。今は、こうではないのかと問われると判断は難しい。状況はいまも、同じだとも言える。同時に、改善しようとするひとも多く、努力もなされているように思う。二心は気になるが、一心のほうが問題がある場合も感じる。それほど、単純ではないように見える。社会をどうみるのか、その問題の核心はなになのか、それは、簡単には言えない。改善策は、単純ではないからである。複雑な問題を、整理することは大切でも、実際に課題に向き合うには、課題をひとつのことに押し込めてはいけないように思う。
- BRC2019:Ps 12:3 人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
- 人は二心、主は清い。この対比が語られている。「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。 」(2)とあるが、主が清いように、こころを清く保ち(二心ではなく)歩むことが、「信仰・信頼・忠実」「主の慈しみに生きる(こと)」の一つの表現なのかもしれない。
- BRC2017:Ps 12:5 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
- 鍵は無知だろうか。それとも、不従順だろうか。自分のものは、自分のためではないこと。委ねられているものであることを知らない。普遍性からも語ることはできるだろう。そこにあまりに依拠して良いのかどうか、まだ分からないが。主への信頼と自己中心、どちらも、丁寧に学んでみたい。
- BRC2015:Ps12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
- 口語訳は「卑しいことが人の子のなかにあがめられているとき」となっている。2節には「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。」とある。これらは、周囲の人に向けたことばであろうが、自分の中、つまり自分に対して語る言葉としても意味をもつ。すなわち「わたしの中で、卑しむべきことがもてはやされるこのとき」「主の慈しみに生きようとする意思が絶えようとし」「わたしの中で、信仰が敗北を宣言しそうになるとき」「わたしの中でも、主に逆らう心が勝手に動き出す」わたしが、本当に苦しんでいるなら、その苦しみを主はご存じである。「主は言われます。『虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。』」(6節)わたしは神の前にどのように立っているのだろう。へりくだって生きることを望む。それができない、自分と日々戦いながら。
- BRC2013:Ps12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。
- この詩編は「主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。」(v1)ではじまり、「卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています。」(v8) で終わっている。その真ん中にこの言葉がある。これがこの人の信仰の中核にあるのだろう。
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- BRC2021:Psalm 13:4 わが神、主よ、私を顧み、答えてください。/私の目を光り輝かせてください/死の眠りに就くことのないように。
- 主の応答、主が共に居てくださることを実感していたい。それが、訴えに答えてくださる神として表現されているのだろう。神の側にも、いろいろな事情があるだろうが、この詩篇記者の背景にある苦しみ・痛み、これだけの熱心さ、そして、そこに頼る信仰、いずれも、わたしには、ない。すくなくとも批判をすることはできない。学ぶことをしていきたい。最後は、「私はあなたの慈しみに頼り/私の心はあなたの救いに喜び躍ります。/『主に歌おう/主が私に報いてくださった』と。」(6)と締めくくっている。このことばを発するまでには、ある時間の経過もあるのかもしれない。そのような信仰告白の詩篇なのだろう。
- BRC2019:Ps 13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。
- 通常は「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(2)からの苦しみの祈りから始まり、この節でハッピー・エンドを迎えると理解するかもしれないが、もしかするとそうではないかもしれない。主の「慈しみに依り頼(む)」詩編記者が、過去の経験を思い出してか、信頼する喜びを確信してか不明であるが、希望を告白しているのかもしれない。わたしは「わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います」と言えるだろうか。主の慈しみに依り頼む日々でありたい。
- BRC2017:Ps 13:2 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
- 「主の働きが見えない、救いがないように見える」こと(この表現も難しい)は、どのように、理解したらよいのだろうか。神の自律性と応答性、関係性すべてが係わってくる。愛の神であるなら、これらを、断ち切ることはできないが、同時に、これらも、互いに矛盾し合う内容を含んでいる。そこには、明らかな解答がないとも言える。主の救いを求め、それに信頼すること、主の働きを求め、希望をもって、主が望まれること、互いに仕え、互いに愛することを続けることだろうか。
- BRC2015:Ps13:2 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
- 救いを求めてもそれが来ない。ここに信仰もあり、神の主権もある。この節に続いて「いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」とある。まさに、宗教の質が問われるところかもしれない。この詩編は「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/『主はわたしに報いてくださった』と。」これも、おそらく完全な解決を意味していないだろう。この悩みと信仰について、もっと深く学びたい。
- BRC2013:Ps13:5 しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
- この詩編は次の有名な言葉ではじまる。「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。」(vs1,2) そしてこの5節、冒頭の「しかし」に信仰がかかっている。物理的状況ではない、神との関係、内省の世界を保つことか。では、それは、根拠のないものなのか。物質的なもののみを根拠とする人も、人との関係、起こったことの内省なしには、人は生きていけないことを知っているのではないだろうか。
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- BRC2021:Psalm 14:4 悪事を働く者たちは誰もこのことを知らないのか。/パンを食らうように私の民を食い尽くし/主を呼び求めようとはしない。
- 「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。/善を行う者はいない。一人もいない。」(3)とあるが、どうも、それは、引用句につながっているようだ。「パンを食らうように私の民を食い尽くし」はなにか具体的な問題が背景にあったことを暗示させる。このときにその背後にいる人たちを「悪事を働く者たち」と呼び「善を行う者はいない。一人もいない。」と宣言する。ある意味では正しいのだろうが、民族対立も背景にあることがわかる。(7)正しさだけでは、平和は訪れないように思う。ともに生きるためには、どうしたらよいのか。むろん、解決策を持っているわけではないが、問題の難しさは感じる。
- BRC2019:Ps 14:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。
- 「喜び躍(る)」が詩編には19回現れる。あとはイザヤに8回現れる。他は1回または2回である。ここでは「主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき」となっている。すると、最初の「【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 」(1)は、捕囚時代をあらわしているのかもしれない。むろん、「ダビデの詩」とあり、他の可能性も否定できないが。いずれにしても、絶望しかないときが、背景にあるのだろう。そして「ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。」からすると、まだ起こっていないことでもあるようだ。そのときに、「喜び躍(る)」ことをわたしは、このように賛美の祈りとして告白できるだろうか。
- BRC2017:Ps 14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
- 詩篇の一節をとりだして、事実として用いることはできない。この節も一つの例だろう。「神を知らぬ者は心に言う/『神などない』と。」(1節)から始まり、「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。 」(5節)もあり、主は「貧しい人」の避け所となられることが続いている。(6節)少なくとも「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 」(ローマ3章12節)の引用は適切なのか疑問をもつ。これが、罪の贖いに結びついている。現実からの乖離がある。それは、神の働きを矮小化することでもある。
- BRC2015:Ps14:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
- 口語訳は「愚かな者は心の内に」と始まる。この背景には、詩編13篇のような状況があるのかもしれない。紙一重の差である。それをわけるものはなんだろう。人を腐敗さすものは、なんだろう。希望を捨て去ることだろうか。神のより深い心、人生の意味といっても良いかもしれない、を求め続けることか。
- BRC2013:Ps14:4,5 すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。 その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。
- 信仰者もやはり苦しみ悩む。しかし平安を与えられる神に信頼するとき「恐れ」は消え去る。ひとの中に「平安」の根拠がないことは、神を畏れる人にとっても、おそれない人にとっても同じように思う。しかし、この詩編の様に、悪を行う者は、神だけではなく、神に信頼する者をも恐れるのか。具体的にはなにを恐れるのだろう。自分が犠牲にして生きている大切なものがそこに見えるからだろうか。謙虚に生きたい。
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- BRC2021:Psalm 15:1,2 賛歌。ダビデの詩。/主よ、誰があなたの幕屋にとどまり/聖なる山に宿ることができるのでしょうか。それは、全き道を歩み、義を行い/心の中で真実を語る者。
- このあとに、少しずつ具体的にその内容が書かれ、最後は「利息を取って金を貸さず/賄賂を取って罪なき人を苦しめない。/これを行う人はとこしえに揺らぐことがない。」(5)と終わっている。「全き道を歩み、義を行い/心の中で真実を語る者」は、日常をどう生きるかに関わっていることを表現しているのだろう。そして、それは、かなり広範囲に及ぶことも告白している。ある程度まとめることはできても、それが具体性を伴わなければ空虚になる。ことばに終わらない、生き方、これは、一人ひとりに委ねられているように思う。他者との関わりで、矛盾のように感じられることもあるのかもしれない。そんなときにも「舌で人を傷つけず/友に災いをもたらさず/隣人をそしることもない。」(3)ものでありたい。
- BRC2019:Ps 15:1,2 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
- 「心には真実の言葉があり」から具体的な記述に入る。最初の問いの答えは「完全な道を歩き、正しいことを行う人」である。「完全」という言葉からは「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(マタイ19章21節)そして「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(コリント一13章2節)を思い出す。「完全である天の父のように完全になることを目指すことは」わたしたちは、完全ではないことを認めることと、完全な道を歩くことはできないわたしたちが、どう生きるかが、問われている。
- BRC2017:Ps 15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
- 「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 」(1b節)の問いかけから始まり、引用した句が続く。完全、正しさ、真実には、すぐ反応してしまうが、ここでは、自分の主張ではなく、完全な道、おそらくそれは、主が望まれる道のことだろう、それを歩くとなっている。さらに、正しいことも、神が判断することとすると、それを行う人となっている。自分の正しさを主張しているわけではない。正しさはあり、完全さも、神の元にはあるとの基盤に立っている。次は、心に真実の言葉がありとし、次の「舌には中傷をもたない人」(3節)と続いている。単純ではあるが、わたしも、そのように歩きたい。
- BRC2015:Ps15:1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
- 「あなたの幕屋」「聖なる山」を、神殿やエルサレムと考えていた。よく考えると、これは神と共に住むこと。または、神の国、天国に住む事とも捉えられる。つまり、神の御心が行われるところに住む者。さらには、神の御心を自分の心として住む人はどのような人かとの問いかけともとれる。イエスを通して、主を示されたものは、そのように理解すべきだろう。
- BRC2013:Ps15:2,3 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、 その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、
- このことばのとおりに生きたい。後半は、人生でなにを大切にしているかにかかっているように思われる。その大切なことは、神様が大切にしていることだと言うことか。
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- BRC2021:Psalm 16:5,6 主はわが受くべき分、わが杯。/あなたこそ、私のくじを決める方。測り縄は麗しい地に落ち/私は輝かしい相続地を受けました。
- "To understand God’s thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose. – Florence Nightingale" 「神の御心を理解するには、統計学を学ばなければいけません。それは神様のご計画のものさしだからです。」(私訳)比較をして価値判断をするときのものさしについて知ることができると言っているのだろう。引用句は、そのようにして決められたものは、すばらしいものだと言っているのだろう。測り縄については、正確には調べていないが、土地の境界線を決めるようなときに用いられたのだろう。偶然のようにみえるものを、感謝して受ける。しかし、その偶然にみえることも、ある程度、神様は、人にわかるようにしておられる。それをしっかり学びなさいというのが、ナイチンゲールが主張することだろう。Decision Making Science 意思決定の科学と呼ばれる、Data Science データサイエンスの萌芽である。たしかに、わからないことばかりである。しかし、わかることも少しはある。それは、神様がわたしたちに、情報提供していることなのだから、しっかりと受け取るべきだということ。信仰者にとって、ひとつのチャレンジでもある。
- BRC2019:Ps 16:10,11 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
- 原語はよくわからない。口語訳は「あなたの慈しみに生きる者」を「あなたの聖者」としている。chaciyd (faithful, kind, godly, holy one, saint, pious)をどう訳すかに関わっているようだ。陰府や、死、命をどう考えていたのだろうか。ここだけを見ても、単なる肉体的命ではないようである。
- BRC2017:Ps 16:5,6 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
- 嗣業地という感覚は、現実的になかなか伝わってこないが、自分が与えられているもの、すばらしいものなのだろうか。他のものに依存しないということだろうか。さらに、他を求めないということだろうか。与えられている分を、その恵みをしっかりと受け取る。賜物ではない。主こそわたしに与えられた分。主の御心を、真理をもとめ、主に従って歩むことを、一生の歩みの基盤としたい。他の杯をもとめたり、飲み比べたりせず。謙虚に飲み干したい。
- BRC2015:Ps16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
- 15篇にある神と共に住む者の喜びがこの詩編に語られている。なにか窮屈な、息が詰まる、そして自分には出来そうもないものではない。9節にあるように「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」喜び、安心して憩う場所であり、11節にあるように「命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」そこで命を得る道を教えた頂く場所でもある。命が育まれる場所でもあるのだろう。
- BRC2013:Ps16:4 おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない。
- 神以外のものを大切にする事だろうが、価値基準だけではないだろう。どのように表現したら良いのだろう。
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- BRC2021:Psalm 17:14 主よ、人々から、あなたの手で。/人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から。/あなたがかくまった人に/十分な食べ物を与えてください。/子どもたちも満ち足り/その幼子たちにも豊かな富を残せますように。
- 「人々から」が二回現れるがよく意味がわからない。「主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、/あなたの宝をもってその腹を満たされる/世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、/その富を幼な子に残すのです。」(口語訳)こちらのほうが意味は通るが、おそらく、言葉を加えて訳しているのだろう。詩文体の難しさでもある。児童養護施設に週二回行き「子どもたち」のことを、考えている。多くの困難が凝縮されたかたちで、存在している。現代でも、迫害されている人、難民のことなどを聞くと、子どもたちだけではないのだろう。主がかくまってくださる。十分な食物が与えられ、満ちたり、祝福を受け継いでいくことができますように。そう祈ろう。
- BRC2019:Ps 17:14,15 主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。
- 「御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」(2)とあり、主の裁きを願い求めている。「御心が地で行われますように」との祈りと近い。しかし、引用箇所などから受ける印象は、自分を正しい側に置き、相手が滅びることを願う祈りでもある。イエスの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)を聞いて、この詩編作者はどう思うだろうか。律法の完成・成就として受け入れるだろうか。むろん、わたしも、このようにして正しさを求めているのなら、同じだろうが。
- BRC2017:Ps 17:10 彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。
- 様々なレベルで自分の肥え太った心の虜となり得ると感じる。「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて 」(4節)もその温床のように思われる。では、どうしたらよいのだろうか。自戒の念を持つ以外に、謙虚に生きるにはどうしたらよいのだろうか。「あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」(5節)は、その姿を表現しているように、感じる。わたしは、どのようにして、肥え太った心の虜とならず、貧しい人として歩むことができるのだろうか。
- BRC2015:Ps17:3,4 あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて
- このように言えることというより、このようなことが聖書にあることに、違和感を感じていた。それは、聖書は神の言葉で完全、かつ整合性も完璧と考えていたからだろう。信仰者のこころをそのまま表現したものだと考えれば何の不思議もない。このように思うときもあるだろうし、そのように表現するひともいるだろう。そして、それを即座に神様があなたはよくわかっていないと拒否すると考えるわたし自身にも問題があることを感じる。このような信仰者も、そして、わたしのような信仰者もすぐに切り捨てられる神様ではないのだろう。
- BRC2013:Ps17:1 主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に/耳を傾けてください。
- 今までこのような祈りは、高慢だと思ってきた。しかし、自分が正しい者ではないことをあげつらい、謙遜を装い、実際には、罪を悔い改めようとせず、隣人との和解の心を閉じているのであれば、それの方が高慢であろう。神の前に、このように祈れる者であることを願い、このように祈れる者であるかを省みると共に、そうでないときには、その問題をまずは、解決していただくことを祈るべきだと強く感じた。
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- BRC2021:Psalm 18:48 この神は私に報復を許す方。/もろもろの民を私に従わせた。
- わたしはこんなことは死んでも言えない。詩篇記者にとっては、違っていたのだろう。民の争い(48)の中から、敵や暴虐の者(49)から救い出された経験からこのように、告白しているのだろう。それを批判はできない。しかし、正直、この詩篇記者とともに、同じ主を賛美できるかは自信がない。この詩篇の一部は共有できても、全体としてそのひととともに生きることができるか、わたしには、わからない。
- BRC2019:Ps 18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】
- 51節あり詩編としては比較的長い。ある程度安心した状況の中で作られたと想定されているのだろう。「主は勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。」(51)が最終節である。これを見ると、決定的ではないにしても、ダビデ王朝が想定されているようでもある。そう考えると、作られたのは、だいぶあとになってからだろうか。「あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。」(26-28)など、主のこころを心とする基本がよく現れているように思う。因果関係ではなく、相関関係として観察されることなのだろう。主との交わりが背景にあって起こることだろうが、適切な表現形式がないのかもしれない。
- BRC2017:Ps 18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
- ここから、賛美が始まる。信仰告白でもある。神への応答でもある。しかし、それが、文字通りの真理ととるひともいる。文学とは何なのだろう。聖書が神の言葉であるとは、なにを意味するのだろう。「神の言葉は人間の言葉と別な何ものかではなく、神の力が働くとき、人間の言葉が、同時に神の言葉です。逆に、もし教条的に『神の言葉』を繰り返しても、神の力が働かなければ、ただの『騒がしいドラ、やかましいシンバル』です。」これは、永田竹司先生の説教集の「はじめに」からの引用である。共有できる部分と「神の力が働くとき」ということばを挟んでいる事への多少の違和感と両方を感じる。わたしは、どう応えるだろうか。
- BRC2015:Ps18:24,25 わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。
- これは自然な願望。これから行いと信仰を議論するのは、少しすれているのだろう。神様の心を心とする、ひとつの過程に過ぎない。
- BRC2013:Ps18:27,28 あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。
- この詩編はサムエル記下22:2-31と殆ど同じであるが、多少違うことも発見した。28節によると、主は、二種類の光を与えられる。一つは、わたしたちにともしび、そして、もう一つは、神ご自身の世界を照らし出す光。優しい光と、すべてをあらわにする光、27節にもつながる印象をうける。
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- BRC2021:Psalm 19:2-4 天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる。昼は昼に言葉を伝え/夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく/その声は聞こえない。
- 美しい詩である。引用句を含む前半では、自然のことを神の栄光を語っているとしている。そして、後半は「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」(8)と主の律法について賛美している。おそらく、見ているものは、同じなのだが、見方は違っているのだろう。大自然の中で過ごすことを実感することは現代では少ない。律法は、書物として聖書を読むが、こころに残っている律法のことばをたいせつにいきることとはすこし違っているのかもしれない。わたしのような聖書の読み方は、おそらく、詩篇記者の時代にはしなかったろう。この違いも考えてみたい。
- BRC2019:Ps 19:8,9 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
- このようには、わたしは、律法や主の戒めを受け取っていなかったように思う。これは、一つ一つの律法や戒めにこころが向かうと言うより、それを通して、主の心を思うことを表現しているのだろう。律法主義とはかなり離れている。だからこそこれを受け取って「主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(10,11)と続くのだろう。
- BRC2017:Ps 19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
- 美しい詩篇である。構成も素晴らしい。最後には、神の御前での人間存在へと焦点が移る。全体と深く結びついている。わたしも、このように、告白したい。それは、宇宙や、自然に目を向け、神の働き、そして神のもとにある、普遍的真理を愛でることから始まるのだろう。そして、神への信頼で終わる。そうありたい。
- BRC2015:Ps19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
- 神の天地創造とそれが素晴らしいものだと言うことを表している。それ故に、悪の問題は、困難な難題となっていることは確か。悪は善の反対ではないのだろうか。正義はどのような関係にあるのだろうか。このあとの3節「昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。」は分からない。創造なのか統治なのか。引用箇所とされている74:16 には「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」とある。昼と夜を定められたのも神だということだろう。
- BRC2013:Ps19:12,13 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
- 12節には、無意識のあやまち、13節には、故意の罪について書かれている。それらが大いなるとがとされ、それから逃れるためにも、神の導きが必要だとされている。本当にその通り、そのことを神様に願い求めたい。
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- BRC2021:Psalm 20:8 ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。/しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。
- これが信仰的な態度だと教えられてきた。しかし、わたしは、いまは、少し違うことを考えている。自然からも、環境からも、人々との関係からも、無論、ひとの内面のこともふくめ、あらゆることから、神様からのメッセージを受け取るべきだと。神様が、あらゆることを通して示そうとしておられることを受け取らなくてよいのかということである。そのうえで、主のいつくしみに感謝し、その愛のうちに生きる。あまりに、内面化されすぎたものを宗教的とすることに、違和感を感じている。もう少し、ゆっくり考えたいとは思うが。
- BRC2019:Ps 20:8,9 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。
- いままで、自分達を利するためにこのように言うのだと思ってきた。純粋に、このように語れることは幸せだと今回は思った。主との関係、主のことばを喜ぶ、そのような日常的な交わりが、このような告白につながり「苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。」(2,3)につながっているのだろう。批判的に読むより、この詩編作者の信仰生活から学ぼう。
- BRC2017:Ps 20:10 主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。
- 美しいとりなしの詩篇である。最後の方で、それは、王に向けられている。全体が、王に向けられているのかは、正確には分からない。7節から視点が変わっているのだろうか。よくは分からない。わたしも、とりなしの祈りをしよう。神に信頼して。
- BRC2015:Ps20:2,3 苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。
- 苦難の意味を問うよりも、神に救いを求め、神の応答を願い求めることに中心が置かれている。苦難の先にあるものに価値があると考えているのかもしれない。取るに足らないことともせず、解決される事ともせず、そのときを通して得られる神との関係の構築に価値を置いていると言うことか。
- BRC2013:Ps20:6 今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって/その聖なる天から彼に答えられるであろう。
- 詩編記者はこのことを示されている。事実が示されたというより、信仰によっって「アーメン」その通りだといっているのだろう。だからといって、根拠がないわけではない、まさに「からしだねほどの信仰」のように、神様の約束の一部の成就をみて、その神様の約束全体に信頼していることを表現している。
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- BRC2021:Psalm 21:2 主よ、王はあなたの力を喜び/あなたの救いにどれほど喜び躍ることか。
- 王を支援しそのために祈る。現代の民主主義と言われる世界では希薄になっている。みなで議論してというのは、良いが、どちらがよいかは不明のことについて、決断せざるをえないのは、政治家であり、多様な人々への影響を考えて、きめ細かな対応をするのは、行政者である。行政者の部分でよいことばが見つからなかった。civil servant は、公僕が対応するのだろうが、現在はほとんど使用されない。おそらく、これも「公」の解釈が日本語では、People(人々・人民) や civil(市民社会)ではないからだろう。しかし、祈ることはたいせつだろう。どのように、祈ったらよいのだろうか。しっかり考えよう。国や地方公共団体の長や職員だけでなく、世界中で、このような責務を担っている人を思って。
- BRC2019:Ps 21:9 あなたの御手は敵のすべてに及び/右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
- 常に、逼迫した状況の中に、暮らしていたのだろう。その人達の信仰を、批判することはできない。現在の、紛争地にいる人も、戦争の中にいる人たちもたくさんいるのだから。それを、安穏としているものが裁くことはできない。平和を祈ろう。
- BRC2017:Ps 21:8 王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。
- 政教分離が良いのだろうと、なんとなく、考えていた。それは、西洋の歴史を通して人間が学んだことに深く依拠しており、それだけが人間が学んだものではないと、考えるようになった。このことを含め、より多くの問いを得る。それこそが学ぶということなのだろう。知識も、発散してしまい、結局、なにも決断できなくなるのではないかとの不安も同時にある。謙虚に、求め続ける姿勢を大切にしたい。より多くのひとたちに寄り添い、共に生きることを求めながら。
- BRC2015:Ps21:2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い/御救いのゆえに喜び躍る。
- 王についての祈りはわたしには実感がなく、王の周囲の人の祈りとしても、受容が困難である。一方、このような祈りの姿勢自体に、驚かされる。王を絶対化するのではなく、あくまで、主を絶対化し、その主からの助け、救いを求める。そのような祈りが他の国でもあるのだろうか。神のみこころを問うことを王が独占することから、権力を絶対化する危険性ははらむが、この姿勢には、信仰者のそれと共通のものがある。信仰者にとっても、同時に、神に問うことを自分の独占的かつ個人的祈りに求める危険性があるとも言えるだろう。詩編を通して、王についての祈りをもう少しじっくり学びたい。
- BRC2013:Ps21:13 主よ、力をあらわして、みずからを高くしてください。われらはあなたの大能をうたい、かつほめたたえるでしょう。
- 主の「大能」をあらわすか表さないかも主の選択、しかし、われわれのために、それを表していただくことを望んでいるのだろう。
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- BRC2021:Psalm 22:27 苦しむ人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美する。/あなたがたの心がいつまでも健やかであるように。
- 「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。」(2a)から始まる有名な詩篇である(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。最後は引用句とそれに続けて「地の果てまで/すべての人が主を心に留め、立ち帰るように。/国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように。」(28)となっている。この詩篇記者は恵みと平安を受けたのだろうか。よくわからない。しかし、苦しむ人の中には、おそらく、自分と、そして同じように、苦しむ人が入っているのだろう。わたしは、さらに、なかなか、29節のようにはなっていかないことの背景も含めて、状態を苦しむ主がおられるように思える。主の苦しみと共に生きるものでありたい。それが、主の御旨とともに、主のこころをこころとして、生きるものなのだから。
- BRC2019:Ps 22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
- 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(2)から始まる、イエスが十字架上で唱えたとされる有名な詩編である。引用句のように、主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれないことを告白しているのだろう。これは、義のために迫害されているひとと同じ祝福として(マタイ5章3節・10節)と通じるものでもある。
- BRC2017:Ps 22:31-32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
- ヨハネによる福音書の19章以降を読んでいると、この22篇が背景にあることを色濃く感じる。共観福音書を通して伝えられたことも踏まえられているのかもしれない。たしかにそうだとアーメンとヨハネも是認したのだろう。むろん「ことば」である主イエスは、自ら証言することができ、旧約聖書に依存する必要もないだろう。それでもヨハネはこの詩篇をとおして理解している。「貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 」(27節)この命にも息を吹き入れて。「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 」(30節)にも命がある。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 」(23節)も「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 (ヨハネ20章17節)を思い出させる。
- BRC2015:Ps22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
- 最終的な目標はここにあり、普遍性がある。それは、25節「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」からも見て取れる。この詩編は、イエスの十字架上の祈りとも言われる。最初の言葉が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27:46, etc)を想起させるからだろう。しかしそれは一つの見方に過ぎない。イエスは、べつに詩編の引用する必要はないのだから。しかし、同時に、見ている世界は、この詩編に書かれているものと、通じているのかもしれない。「貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(27節)
- BRC2013:Ps22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
- Mt27:46 などに現れるこのことば、イエスは十字架上でこの詩編をとなえたとも言われている。関係する箇所を考えながらていねいに読んだが、どこまでが関係するとするかは難しい。同時に、この詩編が最初に詠まれたときの状況に興味を持った。イエスの死には適切であっても、通常の状況を想像しにくい箇所もある。いつか、ゆっくり学んでみたい。
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- BRC2021:Psalm 23:4,5 たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
- 正確にはわからないが、詩篇記者は、かなりの苦しい状態、それも、複雑に絡み合う困難の中に居たのだろう。それが、表現され、その中での平安を告白しているように思われる。ダビデの詩と書かれている。サムエル記上・下の中に、十分表現されているとも思える。ダビデのそれぞれのときの、対応や決断は、問題なしとは言えないが、そのなかで、主に信頼していったことは、そのとおりだと言えるように思う。信仰と正しさは、必ずしも同期していない。しかし、謙虚さを保ちつつも、ひとのできることの重要な部分が神信仰なのかもしれない。
- BRC2019:Ps 23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
- どのような状況が背景にあるのだろうか。眼前の状況は絶望的なものであっても、主は羊飼いとして、その牧の羊をいつくしみをもって、養ってくださるという告白だろう。食卓、油、杯とある。それぞれに象徴しているものがあるのかもしれない。
- BRC2017:Ps 23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
- この美しい詩篇が22篇の次におかれていることをはじめて考えた。おそらくイエス様は全体をご存じで、そのなかで、22篇を十字架上で周囲の人々に伝えられたのだろう。十字架のあとに来るもの。それが23篇の平安なのかもしれない。ここで歌われている世界に住む者でありたい。
- BRC2015:Ps23:1-3 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
- これがこの詩編記者の信仰告白である。羊飼いの仕事が目に浮かばないので、部分的にしか理解できないが、主の導きに信頼する信仰は、共有できる。そしてそれが長い間、主に従おうとしてきた者に与えられる事なのかもしれない。2節のなんと美しいことか。ここまでは正直告白できない。
- BRC2013:Ps23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
- ダビデのように、つねに命を付け狙われていたのかも知れない。この次の節にも「わたしの敵の前で」という言葉がでてくる。しかし、そのような「死の陰の谷を歩む」ときも、主がともにおられるという実感があり、主のつえによって導かれ、主との交わりの中にいることを「慰め」ますと表現しているのだろうか。主との日常的な、交わり、これが信仰生活そのものだろう。
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- BRC2021:Psalm 24:4 汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。
- わたしは、これは、とてもたいせつだと思っている。しかし、同時に、それでは、不十分だとも思っている。しかし、それは、かえって混乱をきたすこともある。同時に、他者にとっての価値判断も加味しないと、適切とは言えないことが、膨大に生じてしまうようにも思う。まだ、整理はできていないが、この点が、一番、自分の中で混乱していることのように思う。自分の内面の問い、それは、神との関係でもあるが、神からのメッセージは、直接ではなく、わたしの周囲の環境や状況、そして他の人からも、知らされると考えているからだ。もう少し学問的に、社会学的、自然科学的、または総合的に知らされる神からのメッセージに耳を澄まさなければいけないと考えている。それは、引用句のような、内面の問だけでは答えられないものに思える。
- BRC2019:Ps 24:3,4 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。
- 清い心は、二心ではないという意味とすると、そのあとの「魂をむなしいものに向けず」「偽りの誓いをしない」は、その具体的例だと解釈することができる。他にも、いろいろと表現することはできるかもしれない。
- BRC2017:Ps 24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。
- 「潔白な手」悪を行わないことか。「清い心」ふたごころではない、すなわち、こころが分裂していない、日本語での用法では表裏がないことか。「むなしいものに魂を奪われることなく」これはとても難しいが、世の煩いに心が行き、神様から目がそれてしまうことだろう。「欺くものによって誓うことをしない」はどうだろうか。おそらく不正に荷担することで、社会ではよく起きることのように思う。「それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ 」(6節)そのように生きたい。
- BRC2015:Ps24:1,2 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。 主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。
- 主のもの、そして、主が築かれたのであれば、そして、それを神が「良しとされた」のであれば、その全体を感謝して受けるのがスタート地点であるように思われる。私たちの時間で、今の不具合についてつぶやいていてはいけない。
- BRC2013:Ps24:3,4 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
- 後半では「栄光の王」とあり、それは主だとされている。すると、ここで言われているものは、王または祭司なのだろうか。しかし、一般的な人とすると教えられる点が多い。手が清くは、なす事が清いこと、心は、その行為の背景にもある、意図だろう。それとは区別される実在として、その人の本質的生き方を支える魂の活動があるのか。そして、最後は偽って誓わないものとなっている。これは、神の前の態度を言っているのではないだろうか。四つに明確に区別することはかえって混乱を生じる。しかし緩やかな区別なのかで、ひとつひとつ考えさせられる。
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- BRC2021:Psalm 25:9 主は苦しむ人を公正に導き/苦しむ人に道を教える。
- わたしが決して祈らない、祈りもあるが、「主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください。」(4)は、わたしの祈りと同じである。しかし、引用句にたどり着いて、わたしの心には迷いが生じる。わたしには、このように、告白できないばかりか、「主は、苦しむ人とともに、苦しまれる」としか言えない。苦しみの背景は複雑で、解がない場合がほとんどであると思われるからである。互いに愛し合う、そのことができない。そのことを悩まれる主を思ってしまうのだろうか。主は、それを力づくでは解決されない。それは、互いに愛し合うことにはつながらないから。他の困難はどうなのだろうか。やはり、複雑に絡み合い、それほど、簡単には、解決できないように思われる。
- BRC2019:Ps 25:15-17 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。 御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。
- 「わたしは貧しく、孤独です。」「どうかわたしの罪を取り除いてください。」に惹かれた。正しさが前面に出ているように感じることがあるが、背後には、苦しさ、悩みがあり、それを、主に注ぎだしている。そして、罪、聖い神様と隔てているものを、すべて取り除いていただきたいと祈るこころ。おそらく、わたしは、いまのままでもよいと考えているのだろう。救いを求める心、わたしには、あるのだろうか。(実は昨日(2019年12月30日)日本聖書協会の「聖書本文検索」を使ったとき、フォーマットが変化していることに気づいたが(フォーマットは数日前に変更になったように思うが、正確なところは不明)「聖書協会共同訳」が加わっていることに気づかなかった。今日の箇所であまりにも、異なった訳で確認して気づいた。通読は、BRC2019は「新共同訳」で始めたので、これからも、それを続けようと思う。2018年末、「聖書協会共同訳」を購入したがそのときは、検索がまだなく「新共同訳」を使う決断をしたのだった。「聖書協会共同訳」も検索できるようになり、とても嬉しい。)
- BRC2017:Ps 25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
- 「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 」(1節)から始まり「わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」(2節a)と続く。しかし、主のまことはひとは持っていない。謙虚さをもって、教えてくださる主を仰ぎ見るのだろう。それこそが、主に依り頼むことなのかもしれない。つねに、主に目をむけていること。そのような生き方でありたい。
- BRC2015:Ps25:15 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。
- この詩編には記者の罪の問題が何回か書かれている。「主よ、あなたの御名のために/罪深いわたしをお赦しください。」(11節)「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。」(18節)しかしそれにもまして圧倒的なのは、主への信頼である。この節では、「わたしの足を網から引き出してくださる方に。」とあり、そのような罠に落ちる、またはその危機につねに瀕していることが書かれている。上で引用した18節にもあるように「貧しさと労苦」この謙虚さが逆に信頼のもとなのかもしれない。「心の貧しい人々は幸いである。」(マタイ5章3節a)
- BRC2013:Ps25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
- 7節に少し過去のことが現れるが、ここではじめて現実の苦しさが吐露される。ここまでは、信頼と、それに応えられる主について語られる。まずは、自分を省み、主がどのような方かを、振り返っているのだろう。この深い、主との交わりは、わたしにはないように思われる。
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- BRC2021:Psalm 26:11,12 私は全き歩みを歩みます。/私を贖い、憐れんでください。私の足は平らな所に立つ。/集会の中で、私は主をたたえよう。
- わたしも、たしかに、このように、告白するときがあるだろう。そして、それは、常にではない。しかし、いつも、主を思い、主に語っていれば、そのようなときもあるのかもしれないと思った。信仰告白の普遍化に問題があるとすると、信仰告白を取り上げて、普遍的ではないとすることも、同様に、問題があるのかもしれない。ひとの苦しみや悲しみの日常を考えると、それがそのひとを形作っており、尊厳の源だとも思っている。そうであれば、普遍性をもってすべてに当てはめることも、不適切である。このことを、もう少し、適切に言語化したい。
- BRC2019:Ps 26:1,2 【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。
- この詩編の最後の11節/
12節「わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。 わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」と呼応している。「完全な道」の定義が、通常考えるものと異なるのだろうか。ちいさなミスも犯さないということではないのだろう。清い心を持ち、一心に、主をもとめている。そこから揺らいでいないことなのだろうか。そう考えると、ウリヤの妻、バテシバと通じたときも、そうだったのかもしれない。しかし、「天の父が完全」(マタイ5章48節)でいうときの、完全とは異なるように思う。主イエスによって、天の父が表されているのだから。
- BRC2017:Ps 26:2 主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。
- あまり自信と考えないほうが良いのかもしれない。わたしは、そう言えないと思いつつも、真摯に真理を求め、主の導きを願い歩んできたことも確かである。神の道を離れた記憶もあるが、満点でなければ、主の前に立てないと言うことでもないのかもしれない。主の前から離れては生きられないのだから。
- BRC2015:Ps26:9 わたしの魂を罪ある者の魂と共に/わたしの命を流血を犯す者の命と共に/取り上げないでください。
- わたしはこのようには言えない。そして傲慢にも感じる。しかしこの詩編を読むと「【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」(1節)と始まっており、その前提のもとでは、まさに、神の国(神の完全な支配)の到来、悪の問題の解決を伴った世界の刷新が語られているとも言える。聖書の読み方の幅は広い。
- BRC2013:Ps26:1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。
- わたしは、主のさばきを喜べない。それは、なぜだろう。マタイ18:21以下の僕のように1万タラントも負債があることを知っているからか、裁かれたらひとたまりもないと考えているからか、他のひとが気になるからか、主に信頼することを学びたい。裁きを、神の国がくることを喜ぶことができるように。
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- BRC2021:Psalm 27:4 私が主に願った一つのこと/私はそれを求め続けよう。/命のあるかぎり主の家に住み/主の麗しさにまみえ/主の宮で尋ね求めることを。
- 主の家とは、主がおられる場所、それは、主とお会いできる場所なのだろう。それは、地勢的な場所ではなく、主の宮と通常言われている場所でもないのだろう。しかし、逆に、そのような場所に住むことは困難でもある。常に、主を尋ね求め、主に心を開いて、主に聴くことが求められているのだろう。同じ場所にいても、会っているとは言えないことは、よくあることなのだから。主は常に、わたしの近くにおられると信じている。しかし、それでも、わたしが、主の近くにいるとは限らない。主の家に住み、主ある限り、主を尋ね求めたい。
- BRC2019:Ps 27:1 【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。
- 「光 'owr」は何を意味しているのだろうか。希望だろうか。「私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(1ヨハネ1章5節)にあるように、「神は光」であるという、神のひとつの性質を表現しているのだろう。ヨハネでは、なにも隠れることができない「確信 parreesia」とも通じるものだろうか。ここでは「主はわが光」となっている。主が共にいてくださることがどのようなことなのか、考えてみたい。
- BRC2017:Ps 27:13,14 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
- 「命あるものの地で」は、生きている間にという意味だろう。「主の恵みを見る」は明確とは言えないが、主の働きを見ることを間接的に述べている。その最初が「わたしは信じます」明確ではない部分があることを確認している。だからこそ、後半部分があるのだろう。信じることと、心を強くして待ち望む事は、深く関係している。
- BRC2015:Ps27:5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ
- 6節には回復の記述が続く。しかしこの5節は4節「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。」との対比で読むべきだろう。「主の家」「主の宮」と「仮庵」「幕屋」である。もう一つ気づくのは、4節は「わたしの願い」であるが、5節では主語が「主」に変わっている。私の願いが、主の願いと近づいていく信仰生活でありたい。
- BRC2013:Ps27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
- このあとには「それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。」と続く。私も、まさにこのことの故に、主のことを知ることに集中したいと願っている。しかし、この詩編記者はさらに「今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。」となっている。私のような歳をとっての人生の整理ではなく、現実の問題に関係しているようだ。いずれにしても、現実に生きる世界の違いか、これを理解するのは難しい。
[28] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 28:3 悪しき者や悪事を働く者と共に/私を引いて行かないでください。/彼らは友に平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。
- 確かに、ここに描かれている悪しき者や、悪事を働く者はいる。多いのかもしれない。しかし、わたしは、そのようなひとと最近関係を持っていないように思う。多少は、そのようなことを考えている人はいるのかもしれないが。それは、わたしの活動の場が限られているからか。それとも、ここで言われている心の中まで、入り込んでいないからか、はたまた、わたしが鈍感になっているからか。好んで、そのような人の中に入っていくことが良いことなのかどうかわからない。おそらく、利害関係が生じる、厳しい場面に、最近は、あまり遭遇していないのかもしれない。それも、詩篇記者との距離を遠くしてしまっているのかもしれない。
- BRC2019:Ps 28:1 【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。
- わたしは、ここまでの自信はない。主に信頼はするが、自分が主の救いに足るものであるかは、まったく自信がないからである。憐れみに、すがるしかないが、それは、他者とも同じだろう。他者も、同じように、主に頼る以外に救いがないものであるのだから。
- BRC2017:Ps 28:6 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
- 神との関係の中で、そのように、告白できる時があるのだろう。そう思えないときもある。それは、神を求める営みの一部なのだろう。それで良いのかもしれない。求め続けることこそ、信仰生活なのだから。はっきりとそれがなったかどうかが中心ではない。
- BRC2015:Ps28:8,9 主は油注がれた者の力、その砦、救い。 お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。
- 国と王とに関係した詩編はなかなか実感がわかず理解できない。これをそのまま、新約の主の民として良いのか。それ以外と分けることに違和感を感じる。主が愛する者とするなら、概念的になるのか。主の嗣業の民という概念も聖書に何回か現れるが、やはりよく分からない。一度学んでみたい。「嗣業の民」で検索すると、Dt4:20「しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。」が最初である。他には、Dt 9:26, 9:29, 1Sm10:1「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」,Ps28:9, 106:5,40, Is47:6「わたしは自分の民に対して怒り/わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず/老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。」Jer10:16,51:19, Mc7:18「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。」引用を見ても興味深い。
- BRC2013:Ps28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって/耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。
- この詩編の最後は、王と民についての祈りとなっているが、前半は、この詩編記者のこころ、誠実さが伝わってくる。しかし、主が黙っておられることが、滅びととらえることは、神の働きを無理に誘導しているようにも観ぜられ、祈りの過程としては、理解できるが、呪術的なものも感じてしまう。その人の祈り全体で判断すべきであろうが。
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- BRC2021:Psalm 29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。
- 最後の方にも「主は洪水の上に座し/主は王として、とこしえに座した。」(10) とあるが、これらは何を意味するのだろうか。基本的には、乾燥地帯である。「荒ぶる大水」、「洪水」は何を意味するのだろうか。むろん、イスラエルの民は、ナイルや、チグリス、ユーフラテスの氾濫も知っていたろう。水を豊かに湛(たた)えた世界を、主の座所としているのだろうか。まったく不明である。
- BRC2019:Ps 29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ
- 詩編には「神の子」は個々だけである。旧約には非常に少ない。ネフィリムに関する創世記6章2節・4節、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。」(申命記32章5節)「いと高き神が国々に嗣業の土地を分け/人の子らを割りふられたとき/神の子らの数に従い/国々の境を設けられた。」(申命記32章8節)「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。 」(ヨブ記38章7節)、「王は言った。『だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。』」(ダニエル書32章25節)「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。」(ホセア書2章1節)だけである。訳にもよるようで、一度丁寧に調べてみたい。
- BRC2017:Ps 29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ
- 「神の子」はどのように理解されていたのだろうか。創世記のネフィリムに関する6章2節・4節、申命記32章5・8節、ヨブ38章7節、ダニエル3章35節「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/『生ける神の子ら』と言われるようになる。 」(ホセア2章1節)以外は旧約聖書ではこの詩篇だけである。申命記やホセアから考えるとイスラエルの人々、またはその中で、神に従う人たちだろうか。しかし、この詩篇は冒頭にあり、大胆である。ともに、神の前に集うもの全員に呼びかけているようで「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)を思い出す。
- BRC2015:Ps29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
- 10節には「主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。」とある。創世記6章・7章のノアの箱船の記事が有名だが、洪水に関しては雅歌8:7「大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。」を思い出す。ヨブ20:28には「神の怒りの日に、洪水が起こり/大水は彼の家をぬぐい去る。」とある。圧倒的な力、すべてを押し流すものとして洪水があり、それを支配しておられることが言われているのだろうか。支配とは書かれていないが。
- BRC2013:Ps29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、とこしえに王であらせられる。
- 何を言っているのだろう。英語は NIV で「The Lord sat enthroned at the Flood, And the Lord sits as King forever.」となっている。洪水は文字通りの意味だろうか。エジプトでの経験が反映しているのか。ユダヤで洪水が頻繁にあったとは思われない。
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- BRC2021:Psalm 30:7,8 安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。
- 自分の不安を吐露し、哀れみを乞うている。正直な詩篇である。これが通常のひとの様子なのだろう。詩篇記者も、そして、一般の信仰者にも、様々な状態がある。そのもとで、信仰とは、主の憐れみとはと考えることなしには、救いはないだろう。
- BRC2019:Ps 30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
- 人生を生きていく中で学んで行くことが多い。主の業をどのように受け取るかは、つねに変化するのだろう。神の側が、心変わりするわけではないとしても。命を得させることは、悲しみを、喜びに変えてくださることと関係しているように思う。
- BRC2017:Ps 30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
- 「死」が終わりではないことが、どれほど重要であるかを示すことばだろう。しかし「死」が終わりではないことと「死」のあとを考えることには、ギャップがあるように思われる。「死」の後についても、神様に委ねることもできるのだから。終わりではない、その信仰で十分なのかもしれない。
- BRC2015:Ps30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
- 3節の「あなたは癒してくださいました。」4節の「わたしに命を得させてくださいました。」が印象的である。癒やし、生かしてくださる、命を得させてくださることが御旨である。それは、喜びの歌と共に朝を迎えられるような命である。
- BRC2013:Ps30:3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。
- 当時の人にとって死はすべての終わりを意味していたのだろう。「いのち」この理解が、信仰が中心だったのかも知れない。
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- BRC2021:Psalm 31:8 私はあなたの慈しみに躍り上がって喜びます。/あなたは私の苦しみを見つめ/私の魂の苦悩を知っておられる。
- このあとを見ると、「主よ、憐れんでください。/私は苦しんでいます。/目は憂いによって衰えました/魂もはらわたも。悲しみによって、私の命は/嘆きによって、私の歳月は尽き果てました。/過ちによって、私の力はうせ/骨は衰えました。」(10,11)とあり、苦しみの原因は、自分にもあることを告白している。いずれにしても、主は、自分の苦しみを見つめ、その苦悩を知っておられることが、一番大きなことなのだろう。苦しみは、ひとを、衰えさせる、力をなくさせる。まずは、その状態を知っておられる方、その方に信頼するものであることを願っているのだろう。
- BRC2019:Ps 31:8 慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
- 喜び踊る背景として、苦しみ、悩みを知っていてくださることだけが、ここに書かれている。このあとに、「主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。」(10)と続くことを考えると、一つの信仰告白なのかもしれない。これが、引用箇所の直前にある「主に、信頼します。」なのかもしれない。
- BRC2017:Ps 31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
- 「主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。 」(10節・11節)の嘆きは深刻である。苦悩の故に肉体、それもひとの本質の部分が衰え、さらに罪の故に、その人を立たせる部分が衰えていくと言っている。しかし、引用箇所では「わたしにふさわしいときに」と最初に語っている。神様に委ねる信仰、神の自律性を認めている。その神に信頼する信仰、これはどこから来るのだろうか。
- BRC2015:Ps31:10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。
- 衰えていく三つの部分が書かれている。目を肉体と捉えると、体と、魂と、そしてはらわたである。最後のはらわたからは、スプラッグニーゾマイ(深く憐れむ)ということばのもとの「はらわたが傷つく」を思い出す。このように三つが表現されているのは興味深い。詩編記者は、この三つをどのように区別し、これらで何を表現していたのだろう。詩編にでてくる「はらわた」のみ記す。「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。」(7:10)「主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。」(26:2)「わたしは心が騒ぎ/はらわたの裂ける思いがする。」(73:21)「呪いを衣として身にまとうがよい。呪いが水のように彼のはらわたに/油のように彼の骨に染み通るように。」(109:28)そしてこの第31篇10節である。また時間をとって、もっと調べてみたい。
- BRC2013:Ps31:22 わたしは驚きあわてて言った、「わたしはあなたの目の前から断たれた」と。しかしわたしがあなたに助けを呼び求めたとき、わたしの願いを聞きいれられた。
- 信仰者が慌てたと書かれているのは、慰めである。12節・13節からも苦しさがうかがわれる。そのときに、希望を失わず、救いを経験する。神の慈しみ深さを体験しながら、神との関係性が築かれていくのだろう。
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- BRC2021:Psalm 32:5,6 私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/「私の背きを主に告白しよう」と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ このゆえに、忠実な人は皆/時に応じてあなたに祈ります。/荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません。
- 引用句の最後を見ると、大洪水にも影響されない忠実な人は、罪、背きを告白するひとなのだろう。そのような関係こそが、基本なのだろうか。興味深い。背きの罪を告白できないものが、悪しきもの(10)そして、痛みを抱え続けるものなのかもしれない。
- BRC2019:Ps 32:5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
- 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1章9節)の背景となっている言葉なのだろう。引用した節は「【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 」(1,2)と呼応している。この背景に「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。」があり、日常的な主との交わりがあるのだろう。
- BRC2017:Ps 32:4,5 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
- 最初は「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」から始まる。しかし、この人には平安はない。「わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 」(3節)とまで言っている。31篇と共通するものも含んでいる。弱り果てた中で、罪を告白する。神との関係回復がそれによって起ったことを告げている。これが絶対化されると問題があるように思うが、ひとつの重要なステップであることは、確かである。意識もできない間に、赦していただいていることも多いと思われるが。
- BRC2015:Ps32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
- 今までこの詩編を読むとき、5節までの罪の告白にいたる部分に中心をあてて読んでいたように思われる。それまでに聞いたメッセージの影響も多いだろう。この6節には「あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」とある。ここでも因果関係は、どちらが原因でどちらが結果なのか明かではないが、神様を見いだしうる間に祈る。常にそうなってはいない、時があることは、確かであるように思われる。アーメン。
- BRC2013:Ps32:3,4 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
- この状態はだれにもくるのだろうか。この詩編記者は、主をよく知っている故に、これだけ良心にさいなまれるのではないだろうか。しかし、それが、神の像(imagio dei)が残っているということによって、すべての人にあり得ることだと信じられるのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 33:1 正しき人よ、主によって喜び歌え。/賛美はまっすぐな人にふさわしい。
- たしかに、主も、それが嬉しいだろう。しかし、同時に、主が愛されるのは、そのような人ばかりではない。そのような人たちの救いを願い、苦しまれるのも主。そうであれば、そのような主を覚え、祈るものでもありたい。それは、さらに、隣人との関係にも帰ってくる。たいせつなかたをたいせつにするために。
- BRC2019:Ps 33:15 人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。
- この詩編には創造の業が語られている。「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。」(6)「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。」(9)そして引用箇所では「人の心」にいたる。人はどちらをさきに思うのだろう。世界の創造だろうか、人の心の創造だろうか。わたしにとっては、人の心を知っておられる主は、それを創られた方と告白することから始まって、創造主なる神様を思っている。それが必然なのか、教えられたことなのかは、わからないが。
- BRC2017:Ps 33:3 新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
- 聞き慣れた「新しい歌」という言葉に興味を持った。黙示録5章9節、14章3節にも使われている。旧約聖書では詩篇以外はイザヤ書42章10節「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。 」主の僕の詩の一節である。詩篇はこの箇所が初出で、40篇4節、96篇1節、98篇1節、144篇9節、149篇1節にある。特別なこころで特別な賛美をということなのだろうか。新しいに他になにか意味があるのだろうか。
- BRC2015:Ps33:1 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
- 主を賛美することは、まず、主のなされることを肯定するところからはじまる。「主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。 主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。 御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。 主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。」(4-7節)これが神への信頼ともなるのだろう。自らの姿に対する不満と未熟さから、神を賛美することもできない。主に従うのであれば、主のなされることをまずは肯定したい。しかし、現実を見たときに、なかなかそれができないし、単純に肯定することに、違和感も感じる。賛美についても、根本的な部分をもう少し理解したい。
- BRC2013:Ps33:7 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
- これだけスケールの大きな告白をどのようにこの詩編記者は得たのだろうか。わたしには、とうていそこまでの認識は得られない。しかし同時に、この言葉(告白・賛美)にふれることによって、その主のスケールに思いをはせ、想像力を飛躍させることができる。
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- BRC2021:Psalm 34:7 苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き/あらゆる苦難から救ってくださった。
- 続いて「主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き/彼らを助け出した。」(8)とあるが、そうなのだろうか。わたしには、そうは思えない。主は、憐れみ深い方だから。主を畏れない者をも哀れんでおられる。その状態を望んでおられないだろう。わたしがすべきことはなんだろうか。主のこころとともに有りたい。
- BRC2019:Ps 34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
- 「どのようなときも」は印象的である。「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」(19)の背景にある「苦難」(18)だけではなく、様々な状況があるのだろう。表面には出なくても。「【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】」(1)ともある。サムエル記上21章に関わることであろうが、アヒメレクは祭司(歴代誌上18章16節では、アビメレク)、ペリシテの王はアキシュ。アビメレクという名は、他にも登場する。一つの解釈は、マルコ12章26節で「モーセの書の『柴』の個所で」と言っているように、ここが、ダビデがアヒメレクを訪ねたときのことを書いた箇所でと理解することである。
- BRC2017:Ps 34:18,19 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。
- 単純であるが、基本である。このことが、少しずつ進んで、神の僕、イエスにつながっているように思われる。「打ち砕かれた心」は感覚的にはわかるが、何を意味しているのだろうか。詩篇にはもう一箇所使われている。「打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」(147篇3節)イザヤ書に二箇所「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。 」(57篇15節)と「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 」(61章1節)である。「包む」に興味を持つ。
- BRC2015:Ps34:19-21 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。
- 20節の「主に従う人には災いが重なる」これを否定的には語っていない。その背景には19節があり、21節に対する信頼があるからか。自分にとって都合がよいことではなく、主の御心に近い生き方に、喜びをもつ生き方を良しとしているからか。もう少し適切な言葉で表現したい。
- BRC2013:Ps34:18,19 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
- いつも、18節に引きつけられて、19節を見落としていたように思われる。19節には驚かされる。しかし、もしかすると、これこそが、18節と対をなしているのかも知れない。「災いの中にいても正しいもの」は「心の砕けたもの、たましいの悔いくずおれた者」もう少し、言葉を錬りたいが「正しい」という日常語に感覚が引きずられすぎていたように反省する。さらに、ある時間的経過で考えるのも、適切ではないかも知れない。
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- BRC2021:Psalm 35:1 ダビデの詩。/主よ、私と争う者と争い/私と戦う者と戦ってください。
- 詩篇記者の敵、争うものとの対立の中での詩篇である。戦い以外にも具体的な記述がある。「彼らは訳もなく私に落とし穴と網を仕掛け/訳もなく私の魂を狙って穴を掘りました。」(7)「悪意のある証人が立ち上がり/身に覚えのないことばかりを問い詰める。彼らは私の善に悪をもって報い/私の魂を不毛なものにした。」(11,12)まったく想像ができないわけではないが、わたしは、相手の背景を考えるだろう。詩篇記者の生きていた世界では、それはできなかったのかもしれない。しかし、このようなことをされていると感じるとき、どのように生きるかこそがたいせつなように思う。敵を呪うことはしたくない。主により頼むことは、共通しているが。
- BRC2019:Ps 35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」
- 「【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。」(1)と始まる詩編において「貧しい人」は唐突にも感じる。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」(マタイ5章3節)と「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 」(マタイ5章10節)の呼応と似たものがここにあるのかもしれない。すなわち「貧しい」とは、正しさをたもちつつも、理不尽に扱われ、消え入るばかりになっているもの。いつか「貧しい」について調べてみたい。詩編だけで「貧しい」は32件もあるようである。おそらくたいせつなキーワードなのだろう。
- BRC2017:Ps 35:13,14 彼らが病にかかっていたとき/わたしは粗布をまとって断食し、魂を苦しめ/胸の内に祈りを繰り返し 彼らの友、彼らの兄弟となり/母の死を悼む子のように嘆きの衣をまとい/うなだれて行き来したのに
- 直前の「わたしの魂を滅ぼそうとして、子供を奪いました。 」が何を意味しているのか、不明である。最後「うなだれて行き来したのに」とあり、このあと「彼ら」の仕打ちが書かれている。理不尽なことは多い。同時に、引用箇所で表現されているのは、共感は伝わらないということかもしれない。共感を拒否されているように思われる。うわべだけと言うことではなく、本当の痛みは、共有することはできないのだろう。単なる、サービスと考えてはいけないのだろう。
- BRC2015:Ps35:1 【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。
- わたしには、このような祈りはできない。独善的だから。わたしにとって、祈りは、神の意思とのシンクロナイゼーションである。しかし、そうであっても、考えてみよう。27節をみると「わたしが正しいとされることを望む人々が/喜び歌い、喜び祝い/絶えることなく唱えますように/「主をあがめよ/御自分の僕の平和を望む方を」と。」とある。ダビデが王として詠んだ詩篇とすれば、ここには、民の代表として、自分の責任を担い、神の導きを願う、姿勢もあるのかもしれない。また、内容からも、24節・25節のように「主よ、わたしの神よ/あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで 『うまく行った』と心の中で言いませんように。『ひと呑みにした』と言いませんように。」神を畏れない人々に、向き合う姿勢なのかもしれない。ひとつの言葉をきっかけに、心を閉ざさず、向き合って詠むことができるようになりたい。
- BRC2013:Ps35:13,14 しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、 ちょうど、わが友、わが兄弟のために/悲しんだかのように。わたしは母をいたむ者のように/悲しみうなだれて歩きまわった。
- 1節にあるように「わたしと争う者」からの救いの詩編はたくさんあり、理解しがたい面があるが、この中でも、13, 14 で書かれていることは目にとまる。日常的な愛、とりなし、憐れみが背景にあることには、思いを新たにさせられる。
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- BRC2021:Psalm 36:7 あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。/主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。
- 主の、正義と公正が賛美され、人も獣も救ってくださるとなっている。主は、これゆえに、苦しんでおられるように思う。真理は複雑だとも言える。しかし「あなたの公正は大いなる深淵」ということばに、詩篇記者も理解し難いが、深い真理がそこに潜んでいることを見ているように思う。獣をも含めているところに、すくなくとも、主の恵みが自分や、人間にはとどまらない範囲に及んでいることも見て取れる。わたしなら、どのように、主について語るだろうか。それなしに、批判的になるのはよそう。わたしには、賛美は難しく、詩は書けないように思うが。
- BRC2019:Ps 36:2,3 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。
- 不思議な印象を受ける。「背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。彼は自分の過ちを認め、憎むはずが/自分の目で自らにへつらった。」(聖書協会共同訳)だいぶん印象が異なる。なぜ、神に逆らうものに語りかける声が聞こえるのか。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6章22節・23節)を思い出す。自分を偽っているものは、目が澄んでいないもの、体のともし火が消えているものなのかもしれない。
- BRC2017:Ps 36:6,7 主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
- 慈しみは checed ヘセド(1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)である。二番目の意味は難しい。ここでは、人をも獣をもに驚いた。獣の救いについても調べてみたい。獣も神様が養っておられること、そして、賛美をすることも聖書にあるが、救いはどうなのだろう。そして救い yasha`ヤーシャー(to save, be saved, be delivered)とは。
- BRC2015:Ps36:10 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。
- 2節の「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」に対して6節から始まる主の慈しみ「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。」が対比されている。慈しみについても、学んでみたい。慈しみにつづいて、この命が語られている。慈しみ深い神の、変わることのない愛のうちに歩むことが、光の内に命をもって生きることなのか。
- BRC2013:Ps36:6 あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。
- 文字通りとると、獣も救いの対象であることになる。何からの救いなのだろうか。私には、分からないが、獣には、獣の救いがあるのかも知れない。むろん、ここを文字通りとらない方法もあるだろうが、すると少し唐突である。
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- BRC2021:Psalm 37:16 正しき者の持つ僅かなものも/多くの悪しき者の富にまさる。
- 美しいことばが多く、わたしの好きな詩篇のひとつだ。悪しき者との対比もあり、個人的には違和感があるが、主への信頼、他者への憐れみや施しの箇所が印象的である。引用句は、ほんとうにそのとおりだと思う。しかし「日ごと憐れみ、貸し与える人/その子孫は祝福にあずかる。」(26)については、そうではないのかもしれないと思う。統計的回帰だろうか。やはり、それぞれのひとが、どのように生きるかに依っているように思う。箴言のような詩篇でもある。アルファベット詩とあるので、いつかゆっくり味わってみたい。
- BRC2019:Ps 37:1 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
- 冒頭のこのことばと近いことばとして「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」(7,8)とある。さらに「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」(11)ヨブが問うているように(ヨブ24章25節など)悪事を謀るものが、滅びるとは限らない。しかし、貧しい人への祝福はあるように思う。「主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」(16)と言われている通りである。神の国については、語られていない。「貧しい人」受け継ぐのは「地」である。「主に従う人」が受け継ぐのも「地」なのだろう。「主に従う人は地を継ぎ/いつまでも、そこに住み続ける。」(29)今の私にとってもっとも大切なのは「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。」(23)この言葉に信頼することのように思われる。この詩編もっと味わってみたい。
- BRC2017:Ps 37:24,25 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを。
- 倒れることと、捨てられることを分けている。信仰的な見方なのだろう。ここから見えるのは、主は見捨てない方、これが愛と表現されることでもある。そして神の愛をこのように表現することが、信仰告白である。神様のご性質を証言することだから。
- BRC2015:Ps37:1,3 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。3. 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
- 人は、もしかすると、ある文化的背景(アジアのひとのような)のもとでは、自然災害などは、受け入れる。しかし、悪事を謀る者にたいしては、別の感覚をもつ。不正を行うことをうらやむと言う気持ちも、理解できる。しかし、ここで 3節以降繰り返されるのは、主への信頼である。信頼は「主に自らをゆだねよ」(4節)「あなたの道を主にまかせよ。」(5節)「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」(7節)などと続く。さらに、驚かされるのは、上の3節で「この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」と語られている事である。天にあげられる時を待ち焦がれよではない。それこそが神は善いかたであること、その方に信頼して生きることである。
- BRC2013:Ps37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
- 主の前に黙し、耐え忍び、主を待ち望む。これが信仰生活だろう。特に「おのが道を歩んで栄える者」という表現には、惹かれる。このような人のために、心を悩ますことをやめよう。
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- BRC2021:Psalm 38:18,19 私は今にも倒れそうです。/常に痛みが私の前にあります。私は自分の過ちを告げ/罪のためにおびえます。
- この詩篇記者の痛みとともに、後半が気になった。苦しみや痛みは、自分の過ちや罪の故ではないかと自らを省みている姿に見える。そして、このひとは怯(おび)えている。わたしにも、そのような時期はあったように思うが、いまは、なぜか鈍感になってしまっている。主は、一人ひとりをたいせつにされることは信じているが、一人ひとり個別に、対応されるのではないだろうとも思うからである。どのように、表現したらよいかは、よくわらかないが。
- BRC2019:Ps 38:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。
- 「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます/わたしが愚かな行いをしたからです。」(5,6)とある。その中で、主にこのように叫ぶことができる信仰、信頼、真実はどこから来るのだろうか。「仕方がない」とはならないのだろうか。すべてが、おそらく、罪を犯してしまうことも、愚かな行いをすることも、主の御手の内にあるということだろうか。神の義について、困難な問題をひきおこすと共に、とても重い問いでもある。罪を犯してしまう存在であることを、神はご存じであろう。キリスト贖罪論は、やはり、救いの真理の全体を表しているようには思えない。むずかしい。
- BRC2017:Ps 38:17 わたしは願いました/「わたしの足がよろめくことのないように/彼らがそれを喜んで/尊大にふるまうことがないように」と。
- 12節には「疫病にかかったわたしを/愛する者も友も避けて立ち/わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。 」とあるが、実際の疫病なのだろうか。それを問うことは、意味がないのかもしれない。その前後に書かれていることは、いずれも、危機的な状況なのだから。「わたしが過ちを犯したからです。 」(4節)「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。 」(5節)そのように悩む姿勢こそが、信仰者の姿なのだろう。
- BRC2015:Ps38:4 わたしの肉にはまともなところもありません/あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません/わたしが過ちを犯したからです。
- ここでは「肉」と「骨」について語られている。肉は自分の外側、骨は自分の内側を象徴しているのだろうか。これらは、一点「あなたが激しく憤られたから」にかかっている。主に信頼するとともに、様々な困難、平安のなさを、神との関係に求める。お題目となってしまっては、意味はないが、ここに内省があり、信頼があり、献身があるのだろう。
- BRC2013:Ps38:4,5 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
- この苦しみが伝わってくる。ひとは、このような時を持っているのではないだろうか。わたしには、確かにある。だからこそ、いま、生かされているのかもしれないが。
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- BRC2021:Psalm 39:2-4 私は言った/「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。/悪しき者が私の前にいるうちは/口にくつわをはめておこう」と。私は黙り込み、口を閉ざし/善いことについても沈黙した。/だが、私の苦痛は募り私の内で心が熱くたぎった。/私の呻きで火は燃え上がり/私の舌で私は語った。
- 不思議な詩篇である。まず「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。」とあり、エドトンと、ダビデの関係が不明である。引用句のあとは、「主よ、知らせてください、私の終わりを。/私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。/私は知りたい、いかに私がはかないかを。」(5)と人生のはかなさが語られており、どうも、詩篇記者は、病気だったようである。「あなたによる病を私から退けてください。/あなたの手に打たれ/私は尽き果ててしまいました。」(11)そして、その背景に罪が関係しているのかを問うている。そしておそらくそのことについて「私は黙り込み、口を開きません。/あなたがそうなさったからです。」(10)と語る。全体として、理解できるのは、人間のはかなさ。理解できる部分のいかに少ないか、だろうか。その謙虚さと、実際の苦しみの中での葛藤が引用句や詩篇全体を通して表現していることなのだろうか。こころひかれる詩篇であるが、よくは理解できない。それでよいのかもしれない。
- BRC2019:Ps 39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
- 口を閉ざし続けることから苦しみがつのり(2)主に語り始める。ひとの人生のはかなさと、罪を責められる神が背景にある。しかし「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。 」(13b)と告白し、主に救いを求める以外にないと、信頼を表明している。これこそが「心の貧しいもの」なのかもしれない。そして、おそらく、そこにとどまるものではない。喜びと平安に生きることがゆるされているのだろう。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)ここに行き着きたい。
- BRC2017:Ps 39:2 わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」
- 「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。 」(11節)が背景にあるのだろう。罪を犯さないように、口をつぐむ。そして苦しむ。「わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。 」(3・4節)ここから人の空しさが語られる。神と向き合う、信仰者の姿の真摯さに衝撃を受ける。わたしはどうだろうか。自分の存在自体にもしっかり向き合いたい。
- BRC2015:Ps39:5 「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。」
- このあと「この人生も無に等しい」(6節)「人はただ影のように移ろうもの」(7節)と続く。またこの5節だけカギ括弧で語りかけるようになっている。そして「主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」(8節)とあり、そのあとで「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。」(11節)が続く。最後は「あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。」(14節)と締めくくられている。どのように理解すれば良いか、あまり簡単ではない。しかし5節は、罪の赦しを、主に撃たれた苦しみのなかで望みを神に起き神に救いを求める前に、自分の存在が神の前には、はかないものであることをまず自分が思い知るように語られている。神にとっての自分に視点を向けている。そのことが、わたしの心に響くのか。
- BRC2013:Ps39:12 主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。
- この直前には「まことにすべての人は息にすぎません。」とあり、4節・5節では、命がはかないことが述べられている。ここでは、主のもとに身を寄せる旅人とされている。天国から、この世への旅人ではない。もう少し、学んでみたいと思う。
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- BRC2021:Psalm 40:17 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「主は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。
- このように祈るということは、そのようには見えないということだろう。正しく生き、それを伝えてきた詩篇記者が「数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。」(13)と書いている。最後も「私は苦しむ者、貧しい者。/わが主が顧みてくださるように。/あなたこそわが助け、わが救い。/わが神よ、ためらわないでください。」(18)苦しさと信仰・賛美と、祈りが交錯している。生き生きしたすごい詩篇だと思う。わたしも、このように祈りたい。わたしは、ここまでの苦しみや、葛藤を経験していないが。
- BRC2019:Ps 40:18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。
- 「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き/わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」(15,16)を読み、このひとは、本当に「貧しく」はないのではないかと思ってしまう。ひとを裁いている自分を発見する。それは、正しさの追求であり、敵を愛すること、隣人を愛することでも何でもないのだろう。主にすがりつくだけでよいのかという心もあるように思う。難しい。
- BRC2017:Ps 40:18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。
- 人の歩みは複雑である。主による救いが語られ、次に、それを証ししていることが語られる。(10節)しかし同時に、様々な困難があることが語られ、引用した句で終わる。ここに、現実とともに、信仰者の姿が明示されている。「貧しく身を屈め」るとはどのような姿を現しているのだろうか。
- BRC2015:Ps40:13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。
- わたしには、この感覚がないが、実際には、このような状況なのかもしれない。簡単には悪と同定しないようにしているからだろうが、イエスのことばも響く。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(ヨハネ7:7)「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3:20)特に7章7節を考えてみたい。
- BRC2013:Ps40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
- 「滅びの穴」「泥の沼」から引き上げて「岩の上」において下さる主、何という信仰告白だろう。1節に「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。」さらりと書かれているが、この背景にある苦しい時については知るよしもない。しかし、そのような信仰者だからこそ13節にあるように「主よ、みこころならばわたしをお救いください。」と祈ることができるのかも知れない。
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- BRC2021:Psalm 41:2 幸いな者、弱い者を思いやる人は。/災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
- このあとには、どのように祝福を受けるかが書かれている。「主が守り、生かし/彼はその地で幸いな人と呼ばれる。/その人を敵の思いのままにさせないでください。主は彼が病の床にあっても支えてくださる。/その人が病気のとき/あなたはその床を新たに変えてくださる。」(3,4)とある。丁寧に読むと、前半も「敵の思いのままにさせないでください」との祈りであり、後半も「主は彼が病の床にあっても支えてくださる」とあり、病にかからないとか、癒やされるとはしていない。幸いな者とは、主を愛し、主に信頼しているものであって、祝福を受けているものではないのだろう。いずれにしても、きっぱりと、幸いな人を「弱い者を思いやる人」と言い切る潔(いさぎよ)さには、感銘を受ける。それこそが、主を愛する、主の御心に生きることなのだろう。
- BRC2019:Ps 41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
- この詩編は「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」(2)と始まっている。互いに支え合い、愛し合うことを重視していることはわかる。引用箇所から考えたのは、現実社会で「罪を犯したなら罰せられるのは当然だ」自業自得という考えが強いことへの違和感を持っているからだ。罪を犯した人にすべての責任を負わすことは楽だが、それでは、もっと大きな問題は解決しない。さらに、だれでも罪を犯すからというよりも「弱いものに思いやりのある」ことの価値が高いからである。ひとり一人の罪をみな同じと薄めてしまうことは問題がある。それは、やはりまだ、正しさの地平にいるのだろう。簡単に愛とよびたくはないが、違った次元に目を向けること、そこに生きる場をもとめることを考えたい。罪を犯した人を見るときに、切り捨てることでは、なにも生じず、神の栄光をみることはない。
- BRC2017:Ps 41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
- 「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」(2節)から始まる詩篇は「わたしは申します。『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。』 」(5節)と詩篇記者自身のことに移り、引用箇所では、急にどろどろとして現実が見える。最後は主の賛美で終わっている。これが信仰に生きる、神の前に、神と共に生きることなのだろう。この人とも命を共有していると思う。
- BRC2015:Ps41:2 いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。
- 「その人」は「弱いものに思いやりのある人」だろう。なぜ「主はその人を逃れさせ」てくださるのだろう。倫理的に高い良い人だからだろうか。おそらく「神様のわざ」「命を与えること」に関与しているからだろう。4節を見ると「主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」とある。これは、祈りであって、神がそうなされると言っているわけではないが、詩篇記者の中にも、上に書いたのと同じ思いがあるのではないだろうか。主こそがそれをなしてくださる方という信頼である。それを、経験もしているのだろう。その信仰告白でもある。
- BRC2013:Ps41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。
- 新共同訳では「弱い者に思いやりのある人」となっている。貧しい、弱い、そのひとを、神の名のゆえに、かえりみることで愛をあらわし、神様のすばらしさをあらわし、さらに、兄弟を得る。それを神様は望んでおられるのかも知れない。
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- BRC2021:Psalm 42:12 私の魂よ/なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/私はなお、神をほめたたえる/「御顔こそ、わが救い」と。/わが神よ。
- まったく同じことばが6節から7節にかけてある。「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(2)は美しいフレーズだが、おそらく、その内容は、引用句で表現されているような、葛藤なのだろう。信仰は、そして、神を、主を、魂からあえぎ求めることは、このような葛藤と一体なのだろう。自らを省み、現実を見て、あえぎならが、叱咤(しった)激励している姿が目に浮かぶ。そのようなものなのだろう。わたしは、そこまでの葛藤を最近していないように思う。
- BRC2019:Ps 42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
- 6節も全く同じである。自分を鼓舞することばである。これが、神への信頼であろう。そして、ダビデの姿勢を思い起こす。しかし、そこで行き詰まってしまう。どう生きるかは、このさきにあるのだろう。イエスはそれを神の子、神の国としてつたえたように思う。
- BRC2017:Ps 42:9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。
- 「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 」(2節)から始まる。引用の箇所は、その神とのコミュニケーションが美しく描かれている。祈りに対して、慈しみを送って下さるとは言わない。主の歌は、賛美なのだろう。わたしは、それをしているだろうか。感謝の祈りから始めたい。
- BRC2015:Ps42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
- 詩人のことばは美しい。しかしこの詩篇はそれだけでは終わらない。4節から5節には「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/『お前の神はどこにいる』と。 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。」この葛藤。ただものではない。周囲には「喜び歌い感謝をささげる声」そして「祭りに集う人」さらに「お前の神はどこにいる」と絶え間なく批判され、うなだれ、呻く。信仰者の忍耐だろうか。その究極のものとして、復活信仰もあるのかもしれない。
- BRC2013:Ps42:11 わが魂よなにゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
- 新共同訳では「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」となっている。「わが助け」の部分が、5節とこの11節で驚かされる。新教同訳のようにする根拠はあるのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。/それらは私を導き/聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。
- この詩篇の最後5節には詩篇42篇12節が再度引用されている。「神に忠実ではない国民」(1b)をさばいてくださいと始まる。正直、そのような部分は読みたくないが、そうしていると、この詩篇記者とは、共に生きることができなくなるだろう。引用句では「光とまこと」を求めている。どのようなことばで表現するかは別だが、神のみこころを求めそれに照らされ、導かれることを願っていることは確かだろう。他の部分も拒否せず、共に受け入れ合い、歩んでいきたい。
- BRC2019:Ps 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。
- この詩編は「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」(1)から始まる。個人的には、好まないものだが、様々なことが混在しており、それを素直に注ぎ出すのが祈りなのだろう。そして引用箇所にいたり、最後5節は、42篇6節・12節と同じことばが並ぶ。この「光とまこと」は聖書中ここだけでの実体は不明である。しかし、それがイエスを表しているのではないかと思うのは自然であろう。それを求めている。その呼応に驚く。
- BRC2017:Ps 43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
- 自分を奮い立たせる。これも信仰生活の一部であろう。弱い体をもち、人間としてこの世で生きていくのだから。「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。 」(1節)から始まっている。委ねること。善きことは神から来ることを信じていれば、神のみこころをへりくだって待つこと。これが信仰の大切な部分であることは、明らかである。「わたしはなお、告白しよう」と。
- BRC2015:Ps43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。
- ここでいう「あなたの光とまこと」とは何なのだろうか。「光とまこと」として書かれているのは、この箇所だけである。これが神から来る者という理解は良いとして。これがキリスト預言なのだろうか。直ちに、そこに結びつけるのは危険に思われる。
- BRC2013:Ps43:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
- 神に訴え (v1)、神に助けを求め (v2,v3)、礼拝し (v4)、自らを鼓舞する (v5)。神は、その力をも与えてくれると信じて良いのだろうか。それともあまりに神を擬人化しすぎる考え方か。
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- BRC2021:Psalm 44:24,25 我らの主よ、目覚めてください。/なぜ、眠っておられるのですか。/私たちを永遠に捨て置かず/起き上がってください。なぜ、御顔を隠されるのですか。/私たちの苦しみと受けている虐げをお忘れですか。
- ゆっくりと歴史を語り始める。しかし、最後には、引用句のように激しい言葉が続く。導かれてきた歩みとともに、救い、さばきを訴えている。現代にも通じる神の義についてがテーマである。わたしは、主の苦しみに思いがいっているが、それは、まったく一般的ではない。そして、わたしも、それを、語ることには、注意している。正しさでは、この痛みは癒やされず、この叫びには、答えられないのだから。どうしたらよいのだろうか。
- BRC2019:Ps 44:25,26 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。我らの魂は塵に伏し/腹は地に着いたままです。
- 「貧しい」が気になり、この箇所を選んだ。詩編には32回登場ずる。「虐げられ」は詩編で8件だった。関係しているのかもしれない。そう考えると、貧しいは、経済的な乏しさだけを意味していないことは確かである。考えさせられる。
- BRC2017:Ps 44:26,27 我らの魂は塵に伏し/腹は地に着いたままです。立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
- 神の主権をみとめつつ、主に訴える。異教徒にはずかしめをうける現実。そのなかで、訴える。「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。」(24節)「なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。 」(25節)そして「立ち上がって下さい。」と。わたしは、ここまで祈っていない。信頼してもいないとは言いたくないが。信仰の成熟だろうか、弱体化だろうか。
- BRC2015:Ps44:4 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも/自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく/あなたの右の御手、あなたの御腕/あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。
- ここでも「御顔の光」が現れる。これによって勝利が与えられたと言うことだろう。そして、それが神様の望み。分からないことはないが、救いは、神の主権だけを示しているのだろうか。
- BRC2013:Ps44:17 これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。
- このような潔癖さをみると、すぐ疑ってしまう。確かに神の目からみて、完全に神に従っているとは言えないとしても、このような潔さを持つことはすばらしい。汚れた衣にならないように、自らを省みつつ。
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- BRC2021:Psalm 45:11,12 娘よ、心して聞け。/よく見て、耳を傾けよ。/あなたの民と父の家を忘れよ。王があなたの美しさを慕うなら/王はあなたの主人。彼の前にひれ伏すがよい。
- 王に召されるときの詩なのだろう。「百合にあわせて」(1)ともある。儀式の中で歌われたのだろうか。宗教が社会・政治の一部分であった時代なのだろう。しかし、ひとこと書いてみたい。「父の家を忘れよ」はわかるが「民を忘れよ」は、問題を感じてしまう。中央集権ということなのだろうが。主人の前には、そうなのだろうが、主人が誤りを起こすときは、それに従うことで良しとされたのかもしれない。
- BRC2019:Ps 45:11-13 「娘よ、聞け。耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。 王はあなたの美しさを慕う。王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え/あなたが顔を向けるのを待っている。」
- 王について「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」(8)と書かれ、王妃について書かれている。ここにあるのが、王妃の務めなのだろう。ひととして、または、神の子としての尊厳より、その役割を全うすることによって、神に愛されるものでいることが求められたと言うことだろうか。その時代にいないと理解しがたいのかもしれない。
- BRC2017:Ps 45:8 神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。
- 不思議な詩篇にも見えるが、祝福とは、このようなものを言うのだろうと思わされる。こころから、そのように、祝福の歌を歌い、それを受けるとき、それも、神が許されているのだろう。神様に結ばれた人々の前で、喜びの油を注がれるとある。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節)のような事だろうか。
- BRC2015:Ps45:2,3 心に湧き出る美しい言葉/わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。 あなたは人の子らのだれよりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。
- どのような詩篇なのか、特定は難しいが、3節の「あなた」の賛歌ではある。8節には「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」とある。神に従う「あなた」に神の霊が注がれるようにと歌う。このような賛美、祈りについても、学んでみたい。わたしの生活の中では、どのような意味があるのだろうか。自分の周囲の神を畏れる人への思いの表現であろうか。
- BRC2013:Ps45:3,4 ますらおよ、光栄と威厳とをもって、つるぎを腰に帯びよ。 真理のため、また正義を守るために/威厳をもって、勝利を得て乗り進め。あなたの右の手はあなたに恐るべきわざを/教えるであろう。
- 正義の戦い (Just War) のその醜さをいやと言うほど見せつけられたとき、聖戦も、ここで言われている「真理のため」の戦いも、疑問を感じる。人を殺すということがどのようにも正当化されないという気持ちからだろうか。もう少し、しっかり考えたい。
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- BRC2021:Psalm 46:9-11 来て、主の業を仰ぎ見よ。/主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」
- 美しいことばである。このように、願うことは、時代を超えたものなのだろう。そして、それは、最後の部分にあるように、主こそ神であることを、世界中の人たちが認め、崇めることによってなることも自然なのだろう。しかし、人の願い、ひとの考えた、神の計画かもしれないが、主の御心は、違うかもしれないと思う。主は、さらに、驚くべきことを考えておられるように思う。問題は、それほど、簡単ではないのだから。静かに、主の業を仰ぎ見ていたい。
- BRC2019:Ps 46:9,10 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
- 「地の果てまで」とある。詩編記者はどこまでを思い描いているのか。中東で、イランと米国の緊張が高まっている。その中で、一般の人たちが多くの被害に遭う。命を落とす人も絶えない。引用箇所などは、単なる願いなのだろうか。むなしいことばではあって欲しくない。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(11)
- BRC2017:Ps 46:3,4 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
- ここまで言えるだろうか。本当に、小さな事でも、夜、眠れないことが頻繁に起こる。なんと、小心ものなのか、神に頼ることができないのか。神を避け所とすることができないのか。神に信頼しよう、そしてそれは、神への愛のゆえだろうか。愛は恐れを取り除くから。
- BRC2015:Ps46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
- この句のみこの訳では括弧で囲まれ、神の宣言としている。「力を捨てよ」この前9節10節には「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。 地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」とある。その日の到来を待っているひとの詩なのだろう。
- BRC2013:Ps46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
- そのあとに続く、2,3節「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ」のように、表現することはわたしにはできない。ちっぽけな信仰なのかも知れない。驚かされる。
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- BRC2021:Psalm 47:9,10 神は国々の王となられた。/神は聖なる王座に着いておられる。もろもろの民の諸侯らは集められ/アブラハムの神の民となる。/地の盾は神のもの。/神は大いに崇められる。
- 最終的な望みが表現されているのだろう。すべての人々、国々が、神の民となる。おそらく、キリスト者でも、それを夢見ている方々が多いだろう。しかし、わたしは、少なくとも、神様は、それが最後の形だとは考えておられないのではないかと思う。たとえそれを望んでおられたとしても。人々の関係は、もっとずっと複雑である。そして、愛によって結び付けられる関係は、単純に語ることはできない。わたしは、この詩篇記者にかわって何を書き、どのように賛美すればよいのかわからないが、そうであっても、この詩篇記者の背後にある祈りとは、こころを合わせたいと思う。それは、主の願いであるかもしれないから。
- BRC2019:Ps 47:10 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
- 「自由な人々」が目にとまったが、大枠では、諸国は異邦人をさし、その中で、偶像に心を奪われていない、自由な民が、アブラハムの神の元に来て、その民となり、地の盾となるといわれているのだろう。「地の盾」も正確にはわからないが。普遍性は、イエスから出たことなのだろうか、それとも、パウロから出たことなのだろうか。イエスの自由さが本質的だと思うが、「キリスト教」として、明確化したのは、やはりパウロなのだろうか。
- BRC2017:Ps 47:9,10 神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
- 「地の盾となる人々」とはどのような人のことだろうか。口語訳は「地のもろもろの盾は神のものである」となっている。また「もろもろの民の君はつどい来て」ともなっており「自由な人々」とは書かれていない。英語訳もいろいろのようである。詩とはそのようなものだろうか。神が王として君臨されることを考えると、やはりそれを守る盾となることを想像する。それは、どのような人のことだろうか。この世の様々な拘束から自由であるひとだろうか。
- BRC2015:Ps47:10 諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
- 「自由な人々」という言葉にまずひかれる。しかし口語訳は「もろもろの民の君たち。大分ことなる。また「地の盾となる人々」についてもひかれる。口語では「地のもりもろの盾」である。ゆっくり考えてみたい。
- BRC2013:Ps47:9 もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。
- 新共同訳などでは、このように一つの節だが、わたしの持っている古い口語では、二つに分かれている。3節では「主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。」とあり、パシフィストとしては、不安を覚えるが、7節「神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。」の告白を持つことはすばらしい。
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- BRC2021:Psalm 48:5,6 見よ、王たちは時を定め/共に進んで来たが 彼らはこれを見てひるみ/恐怖に陥って逃げ去った。
- このようなときもあったのだろう。そして、主を賛美する。しかし、そうでないときも、ある。その中で、信仰は、そして、神理解は、成長していくのだろうか。ある事件・できごとについての解釈には、その解釈者の神理解が影響している。しかし、それが、そのできごとではない、または、それだけが背景ではないことが、ほとんどである。我々が知るのは、一部分だから。世界史的な展開、技術革命、指導力の強い指導者の誕生、そして、気候や、偶然、様々な要素がありうるからである。それらを、どのように、考えたら良いのか、わたしは、まだ整理はできていない。しかし、これらの背後にも、主はおられ、これらの人々にも、主は働いておられるだろうとは、思う。丁寧に、いろいろな面について考えていきたい。主のみこころを求めて。
- BRC2019:Ps 48:11,12 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。
- 神の力は、全世界に及ぶことを宣言しているのだろう。しかし、中心はあくまでも、エルサレムである。「この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」(15)とあり、死をも超えて、わたしたちを導いていかれると言われているが、当時、何が信じられていたのだろう。死後について、一般的には否定的だったろうが、死を越えることは、なにを意味していたのだろう。
- BRC2017:Ps 48:13,14 シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ
- シオンの堅固さを誇っているのだろうか。しかし、最後の節は「この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 」(15節)となっている。口語訳は「とこしえに」である。やはり、ヘブル語が十分理解できるようにならないと、判断できないように思われる。しかし、いずれにしても、いつまでもの意味だろう。エルサレムの堅固さ、それからしか人は想像できなかったとしても、神の町はそれ以上のものなのだろう。見える部分と見えない部分、人を裁くことをやめよう。表現の完璧さは、かえって、人間の告白から超越してしまうかもしれないのだから。
- BRC2015:Ps48:15 この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。
- 「死を越えて」詩篇記者はなぜここまで言えたのだろう。「世々限りなくわたしたちの神」であるならば、当然だと言うことだろうか。死はすでに眼中にない。神のいのち、神が生かしてくださる命、永遠のいのちに生きているからか。
- BRC2013:Ps48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちで/あなたのいつくしみを思いました。
- わたしもこの聖書を読むとき、あなたの慈しみを思いたい。
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- BRC2021:Psalm 49:21 人間は栄華によって悟ることはできず/屠られる家畜に等しい。
- 引用句と似たことばが途中に「人間は栄華のうちにはとどまれず/屠られる家畜に等しい。」(13)とある。栄華、富よりも、たいせつなことがあることをこのように表現している。その「悟り」の中心部分と思われるのが次の箇所である。「しかし、人は兄弟を贖うことができない。/神に身代金を払うことはできない。魂の贖いの値はあまりに高く/とこしえに払い終えることはない。」(8,9)ここで「兄弟を贖うことができない」と表現されているのは、興味深い。自分の命ではなく、まず「兄弟」と書いている。これが、たいせつな「悟り」なのだろう。この詩篇をまたゆっくり味わってみたい。
- BRC2019:Ps 49:13 人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。
- 人が「屠られる獣」にたとえられていることに、驚いた。似たものが「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」(21)にある。「自分の力に頼る者の道/自分の口の言葉に満足する者の行く末。〔セラ」(14)とある。しかし、「屠られる獣」ではない人生があるのだろうか。神に捧げられるなら、それで良いようにも思う。結局なにを伝えようとしているのだろうか。空しさだろうか。おそらく、そうではない。
- BRC2017:Ps 49:8,9 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。 魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。
- 魂のことをいっているのだろうか。そのひと自身だろうか。いのちを与えるのは神と、深い認識をもっていたのだろう。自分でどうにかなることではないと考えてもよいのかもしれない。だからこそ、神をもとめ、信仰をもつのだろう。
- BRC2015:Ps49:16 しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる。〔セラ
- 20節に「彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない。」とあるように、死のあとは、ない。復活は、永遠の命はかたれていない、この16節は陰府について語っている。永遠に光を見なくなる一つ手前を想定しているのだろう。しかしこれらすべてを、霊的な死、霊的に瀕死の状態についての記述と考えることも出来るかもしれない。この詩篇はいつか学んでみたい。
- BRC2013:Ps49:8,9 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
- これに続いて10節には「まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。」となっている。いのちと死の問題は、当時どのように考えられていたかも含めて、じっくり学んでみたい。ここで短絡に書くことは避けよう。
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- BRC2021:Psalm 50:14,15 感謝を神へのいけにえとせよ。/いと高き方に誓いを果たせ。苦難の日には、私に呼びかけよ。/私はあなたを助け出し/あなたは私を崇めるであろう。」
- 「私のもとに集めよ/私に忠実な者を/いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを。」(5)と語るが、このあとには「いけにえ」が自分の求めるものではないとの神の声を記している。そして行き着いた表現が、引用句である。この詩篇記者が、神が求めるものとして上げていること。「感謝」と「呼びかけ」である。非常に、シンプルであるが、わたしも、そうかなと思う。感謝は、恵みとして受け取ること、このふたつで、神様との交わりが表現されている。わたしも、そのように、これらをたいせつに生きていきたい。
- BRC2019:Ps 50:23 告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」
- 似た節がある。「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。」(14)「告白」は、捧げ物なのだろうか。それだけの、決意と、神へのいけにえとして、信仰を告白しているだろうか。いのちを賭けたものなのだろう。そして、それは、言葉だけではなく、行い、生き様もそうだろう。そのような生き方をしたい。
- BRC2017:Ps 50:7 天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。〔セラ
- 天と神は別なのか。天は神の被造物。それが、神の正しいことを告げ知らせるということだろうか。あまり、そのように、論理的に考えてはいけないのかもしれない。すべてはと言うことなのかもしれない。
- BRC2015:Ps50:12 たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。
- 前半は何を言っているのだろう。神が「飢えることが」あるのだろうか。仮定上の話で、そのようなことはあり得ないと切り捨てることはできる。しかし、神も、苦しみ、悲しみ、痛み、飢えるととることもできる。そうであっても、だからと、ひとに助けを求めるのではない。はっきりとした自覚があることを、この詩篇記者は見ていると言うことなのだろう。そのように考えると、驚かされる。
- BRC2013:Ps50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。
- この詩編は、「全能者なる神、主は詔して、日の出るところから日の入るところまで/あまねく地に住む者を召し集められる。」と始める、明確ではないが、ある程度広いひとびとの救いを想定しているように思われる。悩みの日に主をよぶものが増えることを願う。
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- BRC2021:Psalm 51:3 神よ、私を憐れんでください/あなたの慈しみによって。/深い憐れみによって/私の背きの罪を拭ってください。
- 美しい有名な詩篇である。「ダビデがバト・シェバと通じたことで、預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(2)と記され、サムエル記下12章1節のことが背景に想定されている。しかし、そのときに、すぐにこの詩篇を詠んだわけではないだろう。「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。」(1)サムエル記下にあるダビデの葛藤は書かれていない。ダビデが関与したとしても、あとからの信仰告白のようなものと考えるべきだろう。罪は、神様との交わりの断絶とも表現されるが、その痛みが伝わってこない。最後は「御旨によってシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。」(20)ともあり、国家または民族全体として、神の前にへりくだる、儀式のなかで詠われた詩篇のように思われる。
- BRC2019:Ps 51:5,6 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
- 「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(2)とあるにも関わらず「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。」と言っていることに違和感を感じる。常に主にのみ信頼するダビデをよく表しているともとれるし、社会的責任という言い方は適切かどうか不明であるが、ヘト人ウリヤを殺害したこと(サムエル記下11章)も、主に対する罪とすることでよいのかという疑問である。特に、王という特別の社会的地位にいたダビデ、主の憐れみ(サムエル記下12章22節など)に望みをおいていたダビデ、おそらく、そのようなダビデを受け入れられない・赦せない心がわたしの中にあるからなのだろう。自分がウリヤの子どもであるときにダビデのしたことを知ったらどうだろうか。すべてを神との関係とすることを個人の責任に帰して良いのだろうか。詩編記者と神様に問いたい。どうしたらよいのか、わたしには、わからない。
- BRC2017:Ps 51:12-14 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
- 主日礼拝で、丁度この箇所からのメッセージで、瞑想する機会があった。「清い心」の創造、「新しく確かな霊」、「あなたの聖なる霊」はおそらく、全く同じではなくても、共通する実体を表現しているのだろう。それによって、生かされていると、詩篇記者は信じている。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 」と告白する者が。「実体」はいくら美しい言葉で表現されていても、表現し尽くせないものかもしれない。しかし、それが神から来ている、自分の中からではなく、このように表現できるものをたいせつにする意識は、十分読み取れる。わたしも、そのように生きるものでありたい。
- BRC2015:Ps51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
- 「あなたのみに」は何を意味しているのだろうか。口語訳は「あなたに向かい」となっている。この詩篇では、最後の部分を除き、神と向き合うことに集中している。2節には「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」となっている。この場面で神との対峙のみが取り上げられていることも、考えさせられる。
- BRC2013:>Ps51:11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
- 有名な詩編であるが、ここで「あなたの聖なる霊」と言っている。命を取らないでという意味だろうか、それとも、それ以上の意味があるのだろうか。ひとに宿る「聖なる霊」についてもう少し調べたい。
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- BRC2021:Psalm 52:11 私は、あなたの計らいのゆえに/とこしえに、あなたに感謝します。/私は忠実な人たちを前に/恵み深いあなたの名に望みを置きます。
- 「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(2)とあり、サムエル記上21章7,8節、22章9節の、ダビデのサウルからの逃避行の故事が背景に想定されている。「主の計らい」とともに、「忠実な人たち」が記されている。ダビデには、友がおり、そして、相談するひとが近くにいたのだろう。それは、ダビデとの相互信頼関係でもあるだろうが、そのことを「前に」「恵み深いあなたの名に望みを置きます」とされていることが印象に残った。信仰は、自分個人のものだけではない。そして、神様の恵みは、友の存在を通しても示される。
- BRC2019:Ps 52:10,11 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。
- 「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき。」(2)とある。危機の時である。「生い茂るオリーブの木」はいのちに満ちていることが表現されているのだろうか。わたしには、このような信仰はない。心の貧しいものではないからだろうか。こころの中で「甘い」と叫びたくなる自分がいるからではないだろうか。しかし、完全に主に信頼して委ねることを拒否する自分に、ある希望ももっている。難しい。わたしが、ヨアブを好む傾向が背景にあるのかもしれない。
- BRC2017:Ps 52:9 「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
- 「自分の膨大な富」だけではないかもしれないが「神を力と頼まず」ということは、そこかしこにあるだろう。ここまでは、普通の表現である。しかし、それを「自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」と表現するひとは、どのような人だろう。その反対が「自分を生かすもの」が「神を力と頼む」生活であることを、知っているのだろう。二元的なというよりも、はっきりとその方向性を見ていると言うことだろう。
- BRC2015:Ps52:8,9 これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。「見よ、この男は神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み/自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
- 教育的にも大切なのだろう。しかしわたしは、自分を省みることにこの聖句を用いることに限ろうとする。その性向は行きすぎなのかもしれない。他の人の魂に関心があっても、このようなことばを伝えると、それを目的として、結局、神には心を向けないことを危惧し、あきらめているからか。結局のところ、わたしも、神に望みを置いていないのだろうか。自分の心の中も調べたい。
- BRC2013:Ps52:1 力ある者よ、何ゆえあなたは/神を敬う人に与えた災について誇るのか。あなたはひねもす人を滅ぼすことをたくらむ。
- 神に逆らう者の姿は、まさにこの通りだろう。そして、そのつもりではないと言いつつ、こころの中で「神はいない」という。信仰者の戦いは、そのようなこころとの戦いでもある。自分の中にある神への反逆のこころとの。
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- BRC2021:Psalm 53:2 愚か者は心の中で言う/「神などいない」と。/彼らは堕落し/忌むべき不正をなす。/善を行う者はいない。
- 何度も読んできた詩篇だが、理解は難しい。特に、この「善を行う者はいない」は、4節にもあるが、それは、「神などいない」という者の中にいないということなのか、一般的なことなのか、不明確。文脈からはおそらく、前者なのだろう。「神などいない」は、おそらく、当時は、裁きを恐れないことと関係していたのではないかと思う。現代では、多様性故と考える人が多いのではないだろうか。神義論からそう考える人もいるだろうが。「神などいない」については、もう少し、丁寧に考えてみたいと思う。
- BRC2019:Ps 53:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。
- 「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」(2)と始まる。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(4)という状態を認めている。その人間の状態を変えることが、救いなのだろうか。そうなのかもしれない。
- BRC2017:Ps 53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
- この詩篇記者の確信には驚かされる。「だれもかれも」「皆ともに」「ひとりも」現代もそうなのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、その人々のなかで生きていく、神が忠実であり、清いお方であり、善なる方であることを証しながら、かつ、自分も、背き去り、汚れ、善を行わないものの一人であることを告白しながら。
- BRC2015:Ps53:3,4 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
- ヨハネ7:17「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」を思い出す。「御心を行おうとするもの。」「神を求める人」主はそのような人を求める。しかし、次の節が続く。これはローマ3:12に引用されている。「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」このフレーズは2節にもあるが、他にも詩篇14:1,3にも出てくる。この二つの詩篇は共に「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。」で始まり、似た部分が多い。
- BRC2013:Ps53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。
- 「恐るべきことのない時に」恐れる。ひとは常に信頼できるかたがおらず、嵐に耐える基盤の上に立っていないときに、このようになるのではないだろうか。それが「神はない」(v1) という愚かさだろうか。根源的には、人の弱さを知っているかと言うことか。そしてひとの大切さを本当に認識しているかということかも知れない。
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- BRC2021:Psalm 54:6,7 見よ、神はわが助け。/わが主は私の魂を支える人々の中におられる。敵対する者に悪事を突き返してください。/あなたのまことによって彼らを絶やしてください。
- これも故事(サムエル記上23章19節・26章1節)を背景としていることが、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデが私たちのもとに隠れていないか』と言ったとき。」(2)と書かれている。真ん中の2つの文「わが主は私の魂を支える人々の中におられる。敵対する者に悪事を突き返してください。」が気になった。魂を支える人々、詩篇記者はこのことばの中にどんな思いが込めているのだろうか。わたしにとっては、それは、どのような人だろう。たくさんいるようにも思うし、ほとんどいないようにも思う。「悪事を突き返」すなどという表現は、わたしは思いつかない。ついつい、そのひとの背景を考えてしまう。共感するのは、難しい。
- BRC2019:Ps 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
- 「ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。」(2)とし、サムエル記上23章19節が背景にあるとしている。詩編記者は、ダビデのこころをどのようにとらえていたのだろうか。「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ 」(5)この節などは、どうも、状況にぴったりはあっていない。「わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。」(7)これも、サウルが想定されているのだろうか。最初の部分が新改訳では、節に組み込まれているので、丁寧に読もうとしているが、背景として、厳密には考えない方がよいのかもしれない。
- BRC2017:Ps 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
- 敵対する者に対する詩篇はなかなか受け入れられないが、信仰者のある時期に詠んだものと考えれば、別の感覚を持つようになる。そのようなこころのときにも、詩篇を詠んでいると言うことなのだから。わたしは、調子の良いとき、確信をもったときしか、賛美をしないように思う。それは、ある意味で、正しくいようという意思の現れでもあるが、同時に、自分の弱さ、そのときに、神に頼ることを、表現しないことでもある。
- BRC2015:Ps54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
- 「異邦の者」はすなわち神を知らない者として排斥し、個人的に神とつながり、裁きをもとめる。特に、ダビデに強いように思われるが、イエスの教えは少し異なるように思われる。神の国という、普遍的価値がある。御旨、御心、神の心を心とすることにより集中することには、普遍性がある。まさに「神以外の何者をも神とせず」立派な信仰告白だと思わされる。
- BRC2013:Ps54:5 神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。
- こうは祈れない。しかし、このような危機に直面したときにも、4節のように「見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。」と告白し、6節のように「わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。」感謝の犠牲をささげ、7節のように「あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。」信頼する者でありたい。
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- BRC2021:Psalm 55:23,24 あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。神よ、彼らを滅びの穴に突き落としてください。/血を流す者と欺く者が/人生の半ばにも達しませんように。/私はあなたに信頼します。
- 一番ショックなのは「私を嘲るのは敵ではない。/そうであるなら耐えられる。/尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。/そうであれば彼から隠れられる。」(13)からの三節である。 「心を許した人」(14)「一緒に親しく交わり/神の家を群衆と共に歩いた」(15)人が嘲っていることが書かれている。そして、引用句が最後に二節である。「重荷を主に委ね」ることとともに「彼らを滅びの穴に突き落としてください」と祈っている。相反することのようにも思うが、これが人間なのだろう。わたしも表立ってはそのようには、言わないし、そう考えないように思うが、実際は、そのようなこころが強くあるようにも思う。その葛藤のなかで「あなたの重荷を主に委ねよ」と自分の魂に語りかけるものでありたい。
- BRC2019:Ps 55:23,24 あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。神よ、あなた御自身で/滅びの穴に追い落としてください/欺く者、流血の罪を犯す者を。彼らが人生の半ばにも達しませんように。わたしはあなたに依り頼みます。
- 背景はよく分からないが、引用句で注目したのは「とこしえに」と「人生の半ば」。簡単に言うと、主に従うものには、生きている間にいつか、救いが来、そうでないものは、長く生きることはない、ことを願っている。死後の世界での救いを考える必要はないが、死を絶対的なものとする必要もないように思う。もし、神と人との関係に目を向けているなら、一方にとって、人の死は、決定的ではなく、そのことは、他方も、十分にご存じなのだから。
- BRC2017:Ps 55:13 わたしを嘲る者が敵であれば/それに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば/彼を避けて隠れもしよう。
- 「だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。 」と続いている。この痛み・苦しみは大きい。だれも信頼でいないのだろうか。最後は、神に信頼する。人への非難へ向かっても、解決には至らない。信仰の根本的な部分がここにあるのかもしれない。理不尽さだろうか。
- BRC2015:Ps55:3 わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。
- 23では「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」となっている。ここにいたる背後には何があるのだろうか。この二つの節は、同じひとから出てきているところに、信仰の本質を感じる。「悩みの中にあってうろたえて」いる自分をすなおに出して「重荷を主にゆだね」る、そのようなものでありたい。
- BRC2013:Ps55:22 あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。
- 主に訴え、祈りの生活のなかで、このように勧める。この詩編記者の濃密な、主との関係と比較して自らを省みる。わたしは、ひとにこのように勧められるような祈りの生活をしているだろうか。
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- BRC2021:Psalm 56:9 あなたは私のさすらいの日々を/数えてくださいました。/私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。/あなたの記録にはそうするよう書かれていませんか。
- 訴えからはこの詩篇記者のこころの痛みが伝わってくる。基本的には、自分は正しいと主張しているようだが、理不尽さを訴えているようにも見える。悲しみ、苦しみ、これを、本当に理解して自分の葛藤を理解してくれるひとは、いない。それは、無理なのだろう。それは、主のみ。このことが背景にあるように思う。自分と主。この痛みを、苦しみを受け取ってくださる方、それが主だと信じているのだろう。とても、深い。主、神の側には、ひとには、はかりしれない痛みが、苦しみがあるのだろうが。
- BRC2019:Ps 56:2,3 神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ 陥れようとする者が/絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ/多くの者がわたしに戦いを挑みます。
- 常に争いの中にいる理由は、おそらく分からないのだろう。世の中には、争いを引き寄せているように思われる場合もある。しかし、困難が次から次へと生じ、やはり、その理由が分からない場合がある。この中で、神はどこにいるのかと叫びたくなることも理解できる。わたしは、どうだろうか。人の困難を見ると、関わらざるを得ないように考える。といって、その人に益になることだけを考えているわけではない。それは、その周囲の人も目にとまるからだろう。絶対的な善は、見えない。わたしのような生き方もまた偽善なのだろうか。すくなくとも、「貧しい」状態ではないようには思う。貧しくならないといけないのだろうか。正直よくわからない。
- BRC2017:Ps 56:14 あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます。
- 最初に表現されているのは「踏みにじられて」いる姿である。「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。 」(6節)と告白するが、苦しみは続く。苦悩が、相対化されると言うこともあるだろう。自分や他者だけに向かわない。命のみなもとなる神に訴えること、その神に依り頼むこと。ここに救いがある。
- BRC2015:Ps56:4,5 恐れをいだくとき/わたしはあなたに依り頼みます。 神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。
- この詩篇は「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます。」(14節)で結ばれている。この確信をもって生きること、わたしも自分の人生の中心におきたい。死ではなく、命の光の中に歩ませてくださる主をみつめて。
- BRC2013:Ps56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。
- 「いのちの光のうちで」と’いまの私の生活を表現して良いのだろうか。へりくだり、祈りつつ、このような生き方を求めたい。
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- BRC2021:Psalm 57:2 私を憐れんでください。/神よ、私を憐れんでください。/私の魂はあなたのもとに逃れました。/災いが過ぎ去るまで/あなたの翼の陰に私は逃れます。
- 「あなたの翼の陰」美しい詩的表現である。しかし、わたしは、これでは、感覚的すぎるとも考えている。Ego Gram でいうと、わたしは、Adult Ego State 志向が強すぎるからか。なんとなく神様を呼ぶだけで、良いことにしてしまう。わたしは、どうだろうか。神様が求めることを探求し続けるだろう。どこが、主の翼の陰かを知るために。それほど、簡単に決められるものではない。しかし、同時に、探求の期間、ただ、主に憐れみをもとめることはあるように思う。ひとは、そのようなものなのだろう。
- BRC2019:Ps 57:8 わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして/あなたに賛美の歌をうたいます。
- 「心を確かにする」とはどういうことだろう。「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。」(口語訳7節)「神よ、私の心は確かです。/私の心は確かです。/私は歌い、ほめたたえよう。」(聖書協会共同訳)ヘブル語は「心」は leb: inner man, mind, will, heart, understanding、「確か」は、 kuwn: to be firm, be stable, be established である。揺るがないことを言っているのだろう。不信仰の反対だろうか。不安はないことはないだろうが、それでも、心は確かにすることは、できるかもしれない。理性的なものの制御下にいる間は。
- BRC2017:Ps 57:5 わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。
- このなかで詩篇記者は祈っている。「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。 」(2節)と、さらに「天から遣わしてください/神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りから/わたしを救ってください。〔セラ 」(4節)わたしなら、神様との距離をある程度とり、神様に委ねることを選択するのではないだろうか。この人は違う。わたしは、なぜ、このように求めないのかも考える。不信仰と切り捨てることもできるかもしれない。しかし、違いとして受け入れることもあるかもしれない。神は、そのどちらにも、神でおられるのかもしれない。
- BRC2015:Ps57:2 憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。
- 「憐れんでください」は何を言っているのだろう。神に自分の惨めな状態を知ってもらいたい。そのような意味だろうか。しかし、おそらく、神は、そのことをご存じで、かつ、それ故に、心が痛んでおられるように思われる。神が憐れまれることと、私たちが憐れんでいただきたいと願う部分は、異なるかもしれないけれど。まさに、イエスが深く憐れまれたように。
- BRC2013:Ps57:9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。
- もろもろの民は通常異邦人といわれるユダヤ人以外のすべての人を含む。このことは、その人たちにも大きな影響を与えるだけでなく、その人たちも、感謝と賛美に加わることを意味するのかもしれない。スケールの大きさに驚かされる。
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- BRC2021:Psalm 58:11,12 正しき者はこの報復を見て喜び/悪しき者の血で足を洗う。人は言う。/「まことに正しき者には実りがある。/地には裁く神がおられる」と。
- わたしは、このようなことがどうしても受け入れられない。それは、ひとの正しさに忌避感があるからだろう。しかし、ただしさ、主のみ心でもよい、それを求めることは、素晴らしいこと。それが簡単には、わからないとしている。同時に、み心はわからなくても、これは、み心ではないと思うことはある。そうであれば、それをし続けるひとに批判的になっても良いはずである。しかし、それも、なかなかしない。わたしにも、少し、違ったことではあっても、み心ではないと思っていても、それをし続けることがあるからだ。だからといって、それでよいと思っているわけではないが。他者に、厳しくはなれない。
- BRC2019:Ps 58:4 神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。
- さらに「なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。」(9)とまで呪っている。救いようがない。というようにとれる。「悪い木だ」というのと同じだろうか。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」(マタイ7章17・18節、偽預言者を警戒せよの項で)イエスの教えには、希望もあるが、なにか、ここからは、希望が見えない。世の中(の人)がそのように見えるのは、理解できるように思うが。わたしの希望の根拠はどこにあるのだろうか。「偽預言者」と「偽預言者となっている者」をわたしが区別しているからか。
- BRC2017:Ps 58:2 しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。
- 公平さに思いを寄せる。英語でコースを教え始めて、様々な批判、改善提案に接するからもある。全体に対して公平ではなく、ひとり一人にとって公平、これはどのようにしたら可能なのだろうか。絶対的なものを求めているのではない。そのような配慮であろう。「信じない」というトマスの要求に応えるようにして応答されたイエスのように。弱さに寄り添うことはできるはずである。そのひとがひととして行動し、学び、働き、生きることができるように。この節で語られる「正しさ」「公平さ」はおそらく、わたしがいま悩んでいるものとは異質だろう。しかし、神の正しさ、神の公平さを考えることとは、大きくずれていないように思われる。「ひとり一人にとって公平」「ひとり一人をたいせつにすること」について、もっと考えたい。
- BRC2015:Ps58:2,3 しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。 いや、お前たちはこの地で/不正に満ちた心をもってふるまい/お前たちの手は不法を量り売りしている。
- 「お前たち」「人の子ら」は誰なのだろうか。特定の人なのだろうか。4節では「神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。」と続けている。7節から10節では、このような人たちへの裁きを願い、11節、12節には「主に従う人」との対比が記されている。全体として、世の不正などに対する、そしてそれは、自分をも含むかもしれない世界にむけての詩篇記者の信仰告白なのかもしれない。真理の記述と考えて詠むと、混乱を来す。
- BRC2013:Ps58:10 正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう。
- この感覚はとても遠く感じるが、基本的には、神のさばきは、喜んで受け入れるもの、神の御心がなりますようにと祈るべき事なのだろう。同時に、この詩編記者の背景にある、人間の弱さも覚えることも必要だろう。
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- BRC2021:Psalm 59:17 しかし私はあなたの力をたたえ/朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。/あなたはわが砦。/苦難の日の逃げ場になってくださいました。
- 共にいてくださる方、語りかけ、聞いてくださる方。実際には、その神について、よくわからなくてもよいのだろうか。自分に語りかけていることとの差は何なのだろうか。おそらく、自己を相対化するものがそこにあるのだろう。しかし、それも、外からの情報があったとしても、自分の中から、発せられたもののように思う。あまりに、分析的になりすぎてもいけないと思うが、この、神のとの交わりについては、丁寧に考えていきたい。他者にも説明ができるように。
- BRC2019:Ps 59:15,16 夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。彼らは餌食を求めてさまよい/食べ飽きるまでは眠ろうとしません。
- 前半の15節と同じことばが7節にある。「犬のようにほえ」は、この詩編だけである。しかし、これほどの悪がはびこっている状態を表現している。現在とは異なるのだろうか。それとも、現在でも似た状態なのだろうか。天の父なる神様は、このように表現される人たちをも愛しておられるのではないのだろうか。神が愛し、ひとり一人に呼びかけておられることを理解するように、導かれているのだろうか。そうであるはずだと、思い込んでいるのだろうか。背景にある、根本的な部分が難しい。
- BRC2017:Ps 59:12 彼らを殺してしまわないでください/御力が彼らを動揺させ屈服させることを/わたしの民が忘れることのないように。わたしたちの盾、主よ。
- なかなか複雑であるが「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。 」(11節)からも、主に対する信頼には、驚かされる。神の支配のもとにあることを信じ切っているのだろうか。平安もあるのだろう。しかし、このように、言えるときもあると言うことなのかもしれない。それも、主が与えてくださるもの。
- BRC2015:Ps59:14 御怒りによって彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さないでください。そのとき、人は知るでしょう/神はヤコブを支配する方/地の果てまでも支配する方であることを。〔セラ
- この前の12節には「彼らを殺してしまわないでください/御力が彼らを動揺させ屈服させることを/わたしの民が忘れることのないように。わたしたちの盾、主よ。」とある。1節には【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。】 とあるので、この背景のもとでの詩篇とすると、理不尽に付け狙われるダビデの姿が浮かび上がる。しかし同時に、ダビデは主に油注がれたものに対する畏れから、サウルを殺すことはしない。12節はそのこととは異なる根拠による「彼らを殺してしまわないでください」だろう。最初にあげた「彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さない」こととあいまって、望むことは、ひとが神が神であることを知ることとして、神に栄光を帰すところにつながっているのだから。
- BRC2013:Ps59:13 憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。〔セラ
- この言葉をとやかくいうことはすまい。それは、分裂をもたらすだけかも知れない。どう対応したらよいか、分からないけれども。
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- BRC2021:Psalm 60:3,4 神よ、あなたは私たちを拒み/打ち倒し、怒っておられます。/私たちを回復させてください。あなたは地を震わせ、引き裂かれました。/どうかその裂け目を癒やしてください/地が揺らいでいるのです。
- 最初には「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。」(2)とある。なにか、内容と符合していないように思われる。最後の方でも、「神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。/神よ、あなたは私たちの軍勢と共に/出陣しようともされない。」(12)と書かれている。サムエル記下8章3-14節の解釈の問題があるのだろうか。何度も戦いはあったろうから、特定できないのかもしれない。よくわからない。
- BRC2019:Ps 60:12-14 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
- 直前には「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」(11)とある。状況は不明であるが、エドムなどに責められ窮地に陥っている中での叫びなのだろう。引用箇所3節も、訴えから始まり、信仰告白へと導かれ、最後に決意をもって、おそらく行動に移すことが記述されている。それだけ、切迫した、そして、現実の課題のなかで、神と、神の救いに向き合い、それなしには、生きられないと、告白する信仰が表現されている。わたしは、だいぶん、距離を置いているように思う。冷静ではあるかもしれないが、冷徹な、醒めた面も持っている。詩編記者とつながるのは難しい。
- BRC2017:Ps 60:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。
- 共に出陣されることとの違いを考えたい。共におられるとは何を言っているのだろうか。ひとりで、御心をなして生きることができるのだろうか。祝福がないことを感じているのだろうか。複雑で、混乱してくる。「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。 」(13節)これだけ言えることが幸せなのかもしれない。
- BRC2015:Ps60:13,14 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
- ここで「人間の与える救い」は何を言っているのだろう。「神と共に力を振るうこと」「神が敵を踏みにじ」ることとの違いは何なのだろう。ヨハネ7:18の「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」を思い出す。「人間の与える救い」は「自分の栄光を求める」救い、「共に力を振るって」くださる「方の栄光を求める」こととの違いだろうか。神が神としてあがめられること、神以外の何者をも神とせずから、この部分が抜け落ちてしまってはいけないのだろう。
- BRC2013:Ps60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
- 何があったか具体的には分からないが、神がともにおられれば、神が戦って下されば、こんな事にはならなかったと確信できる状況だったのだろう。これも、信仰か。
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- BRC2021:Psalm 61:3 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。/私よりはるか高くそびえる大岩へと/私を導いてください。
- 正直よく理解できていない。前半は神との関係が書かれ、次に「神よ、あなたは私の誓いを聞き入れ/あなたの名を畏れる人に/継ぐべきものを与えてくださいます。」(6)そのあとには、王についての祈りが書かれている。詩篇記者の中ではつながっているのだろう。その中で、引用句は、印象的だった。自己達成ともとれるが、神様の御心を知る歩みとも取ることができる。自らが、地の果てにいることを認識しており、それを「心が挫けるとき」としている。神が近くおられると感じられるときだけでなく、その距離が絶大であると感じるときにも、このように祈りたい。主の導きに希望を持って。
- BRC2019:Ps 61:7,8 王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。
- どうしても、王制、政治と宗教の問題から、忌避されるが、落ち着いて考えてみたい。政治制度は、相対的なもので、どれがベストと言うことはないだろう。ひとは、ある政治体制のもとで生活する。それをすべて宗教のもとで行うことは、おそらく、イエスは目指していなかったと思われる。しかし、政治は、日々の生活に、大きな影響を及ぼす。地域の安寧か、地球規模のものかは、十分考慮すべきシステムの問題も含むが、どのレベルであっても、政治が安定し、信頼できるものであることは、だれにとっても、たいせつであろう。ひつようなものを神にもとめることは、自然なことなのだろう。わたしには、すべてを理解することはできないが、祈りを持っていたい。
- BRC2017:Ps 61:4 あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。
- 戦いの中の祈りはわたしにはなかなかこころに響かない。しかし、常に戦いの中にいる人が神を求めるのはどのようにしてだろうかと考えると、引用したことばを読み、この詩篇記者にこころを寄せることができるように思われる。信仰者の多様性を意識することは、神が愛されるひとり一人に目を向けることでもある。単に、理論的にそれが正しいからではなく、こころを少しでもあわせることができれば、ともに生きることができ、時代と状況を超えて、同じ神に仕えていることを共有することもできるかもしれない。
- BRC2015:Ps61:9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い/日ごとに満願の献げ物をささげます。
- 「満願の捧げ物をささげます」の部分は口語では「もろもろの誓いを果たすでしょう」となっている。神への願いをもちつつ、それをいただいたから、感謝ではなく、献身の意思を示したものと思われるが、この詩篇については、まだよく理解できない。
- BRC2013:Ps61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
- 「君が世は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで。」とまったく同じと言って良いだろう。どのように、向き合うべきか整理しておきたい。
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- BRC2021:Psalm 62:11 暴力に頼るな。/略奪に空しい望みを置くな。/富が増えても、心を奪われるな。
- 若い頃は、殺人が最大の悪で、いのちが残れば、どうにかなると思っていた。しかし、暴力は、ことばの暴力もあり、社会的圧力、経済的貧困によってもたらされるものもある。略奪も、本来は、自分が適正に受け取るべきものではないものに、手を出すことも含まれるだろう。公平性が損なわれることは、略奪でもある。そのようは背景のもとで、富が増えたり、心が、自分がほんとうに求めていることではないことに奪われたりする。引用句に続く「一つのことを神は語り/二つのことを私は聞いた。/力は神のもとにある、と。」(12)はよく理解できないが、神からの語りかけは、様々な形でなされているように思う。上のような考察をしている背景にある、これまで受け取ってきた問いかけを考えても。そして、わたしが受け取ったと思っていることも、暴力の最たるものとして、殺人だけを考えていたように、適切に受け取れてはいないのかもしれない。
- BRC2019:Ps 62:10,11 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
- 「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」(7)全く同じことばが、3節にもあるが、このことばと、対応するものとして、引用句があるのだろう。軽さ、空しさ、この「人の子ら」には、自分も入っているのだろう。信頼しうるものではないことを告白しているのだろう。しかしわたしは単純に「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」(13)とは言えない。自業自得ではない恵みに希望をおいているから。たとえ恵みを思っても、基本線は自業自得だというのか。わたしは、違うように思う。
- BRC2017:Ps 62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
- 深く考えさせられる。わたしは「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」と言えるだろうか。神に問うことはある。神を自分の側に引き寄せようとすることもある。願いをし、とりなしをし、正しさに不安があるとき。しかし、沈黙してただ神に向かう魂は、これらのいずれとも異なっているように思われる。詩篇記者もこのあと語り出す。根本的な姿勢について、学びたい。
- BRC2015:Ps62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
- この言葉を、ひとを裁くために用いてしまう。5節にある「人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。〔セラ」このような状況のもとでこそ、この詩篇記者のように「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」(6節)人への批判ではなく、神にこころを向けたい。
- BRC2013:Ps62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
- この詩編にあるように、だから、主に信頼するのだろう。神には救うことができる。しかし、このように明確に言い切る人にはみこころがあかされる。そして、そのように生きる人にはさらに驚かされる。
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- BRC2021:Psalm 63:7,8 私が床であなたを思い起こし/夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら あなたは必ずわが助けとなってくださる。/あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。
- ここで表現されている信仰はやはり、いとしい人との愛とも近い、関係性であるように思う。床、夜回りのときは、静まったときだろう。そのときに、思うのが主、神である。応答は、受け取ることができるのだろうか。それは、簡単ではないだろう。しかし、そばにいる人であっても、通じ合うことはほんの一部分なのかもしれない。具体的にはわからなくても、信頼する、それは、何によるのだろうか。
- BRC2019:Ps 63:12 神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
- 突然「王」が現れ戸惑いを覚える。主に信頼するものが、報いを受け、主は結局、答えられないとして、主を侮る者は、罰せられるということが書かれているのだろうか。「誓いを立てる者」と「偽って語る口」の対比が興味深い。「誓い」は自分が成し遂げることの宣言ではなく、神に委ねて、神の働きを祈り求めることなのだろうか。主を侮ることなく、謙虚でありたい。
- BRC2017:Ps 63:2 神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。
- ここまで飢え乾きをもって神をさがし求める姿にうたれる。しかし、わたしも、いま、それを求めていることは確かである。神のもとにあるという真理を、わたしの魂を解放し、生かしてくださる永遠の命を。この詩篇記者のように表現はできないが、わたしは、それを捜し求める。友と、隣人と分かち合うことができるように。
- BRC2015:Ps63:12 神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
- 1節には【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】 とある。これは、サウルから逃れていたときのものだろうか。いずれにしても、苦しい状態の時だろう。そのときに、このような詩篇を詠むことができることに驚く。さらにこの最終句12節にいたる最初の2節は「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」となっている。この渇きが最後の祈りにつながっているのか。宗教性の訓練ということばは当たらないだろうが、驚かされる深さがある。
- BRC2013:Ps63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
- 全体的には十分理解できているわけではないが、この1節は美しい。わたしは、自分のことをこのように澄み切った心としては、表現できない。違いは何なのだろうか。近代以降の批判的思考のせいだろうか。
[64] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 64:3-5 悪をなす者の群れから/悪事を働く者の騒ぎから私を隠してください。彼らは舌を剣のように鋭くし/苦い言葉の矢をつがえています。物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。
- このように見えることはある。しかし、なぜ、そのようにするのかの背景はここには書かれていない。神を恐れないからだろうか。やはり、そのような行為に至る理由があるはずである。わたしは、それを知りたい。あたなのことを教えて下さい。共に、生きるために、ともに喜ぶために。それは、夢物語なのだろうか。正しいものと、悪をなすものを分けなければいけないのか。分けられるかとの問とともに、神様は、それを望んでおられるのかを問いたい。神は、その一人ひとりをも心にかけ、憐れみをもって、見ておられるのではないだろうか。はらわたが傷つくような思いで。
- BRC2019:Ps 64:4-7 彼らは舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ 隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。
- 恐ろしいことが書かれているが、現実には確かにこのようなことがあるだろう。主を侮ることであることは、間違いがないが、無神論のひとにとっての倫理基盤はないのだろうか。自分にも返ってくることから判断する普遍性だけなのだろうか。「見抜かれることはない」という価値観は、プラトン時代から議論されていたことのようだ。そして、心理学的には、人の判断基準として逃れられない一面を含んでいる。「人は胸に深慮を隠す」は、たしかにそうだろうと思ってしまう。そのなかで、すべての人が平和を愛し、互いに仕え合う世界は、求められないのだろうか。
- BRC2017:Ps 64:5 隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。
- 神を畏れない人の姿である。自分の中に最大の価値を置きそこに閉じこもっていると、知らずにこうなってしまうのだろう。様々なレベルはあるだろうが。「人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。 」(10節)そのような時が来るのだろうか。わたしは神に期待しているだろうか。単に世の中を斜に構えて見ているだけではないのだろうか。希望についても、考えたい。
- BRC2015:Ps64:7 巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。
- 3節の「わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」始まる「悪を行う者」の記述の最後である。神を神とせず、自らを誇る恐ろしさを感じる。
- BRC2013:Ps64:7 しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
- この前の5,6節で「だれがわれらを見破ることができるか。 だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」に対応している。神の矢は、すべてを射貫かれる。
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- BRC2021:Psalm 65:2 シオンにいます神よ/あなたには沈黙も賛美。/あなたへの誓いが果たされますように。
- 「あなたには沈黙も賛美」すごい言葉だ。ひとは軽々しく口を開く、おそらくわたしだけでなく。大口をたたくくことばかりではなく、自分にはできないと言ってしまう事も含めて。課題を前にして、おそらく、全知・全能といわれる神ですら、すべてを、一人ひとりに対して適切なこと、恵み豊かな、憐れみにとんだ、業をなすことは、難しいだろう。そうであるにも関わらず、わたしたちは、口を軽々しく開く。神様の思いを抱くこと、だいそれているが、それは、沈黙から始めることなのかもしれない。「沈黙は賛美」と心に刻もう。
- BRC2019:Ps 65:9 お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。
- このあと自然の恵みを覚えることばが続く。現代では、神秘的なものが、科学的な見方とそれを誇大評価した科学信仰がとってかわり、自然と距離を持って暮らす生活が、自然を通しての神への畏敬を衰退させている。いのちをも、操作できると思わせるような部分が増えてきたことも、関係しているかもしれない。本来は、人間が捉えることができたものは、そこまで多くはないのだろうが、上にのべた感覚を、完全に否定することはできない。肉体的いのちを含む自然への畏敬を冷静に見ると共に、世界を全体的に捉えることで、神の働きを見ることが必要なのかもしれない。難しい問題である。
- BRC2017:Ps 65:4 罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。
- 罪がなぜ重要な関心事なのかすこし分かった気がする。常に神の前に立つこと、礼拝する毎日だからだろう。だから、罪があると、それができない自分を嘆くことになる。神の前に立てない自分を省みているからかもしれない。それを日常的に欲していない者は、罪の感覚は薄い。人の前に立てるかどうかは重要であっても、完全であられる神様のまえに、たつことは、その人の日常にはないのだから。真理の探究においても、似た構造はあるが、全人格的なものではない点で、異なっている。
- BRC2015:Ps65:2 沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。
- 沈黙して、賛美を献げる。音楽だろうか。音はなくても、賛美を献げられるのだろうか。賛美は、何を意味しているのだろうか。レビ7:16「和解の献げ物を満願の献げ物ないしは随意の献げ物としてささげる場合は、ささげた日にそれを食べ、翌日にもその残りを食べることができる。」が「満願の献げ物」の初出である。口語は「誓願のささげもの」NIVでは上の箇所は”Praise awaits you, our God, in Zion;
to you our vows will be fulfilled.” となっている。英語はいくつか訳をしらべたがすべて vows だった。満願は誓いと考えるのがよいだとう。もう少し調べてみたいが。
- BRC2013:Ps65:7 あなたは海の響き、大波の響き、もろもろの民の騒ぎを静められる。
- ここにある三つのどれが一番難しいかは、簡単ではないが、航海の安全を祈るのと同じように、民の騒ぎも静められると信じることはすばらしい。私は本当に信じて祈っているだろうか。
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- BRC2021:Psalm 66:5,6 来て、神の業を見よ/人の子になされた恐るべき業を。神は海を乾いた地に変えた。/人は大河を歩いて渡り/そこで、私たちは神を喜び祝った。
- 神がどのように導かれたかが書かれ、神殿での礼拝へと進んでいる。実体験、神様がどのように、人生を導いてこられたか、世界を導いてこられたかを振り返ることが最初なのだろうが、神への賛美へと向かえないときが多い。あまりにも、御心がわからなすぎて。それでも、神の業を見させてくださいと、祈りつつ、現在起きていること、過去のことをもしっかりと受け止めたい。
- BRC2019:Ps 66:5,6 来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。
- このあと歴史の中で働かれる主を覚えることばが続く。自分の人生に引き寄せて、神の働きを見ることができれば賛美ができるかもしれないが、それを見取ることができないとき、世界の歴史の中から神の働きを見るのは、難しいのかもしれない。進歩・発展はあるように思われるが、同時に新たな問題が増え続ける世の中、理不尽さは、どうしても残る。人の歴史から神の業を認めることは、難しくなっているのかもしれない。ある種のポストモダンの考え方で、歴史を神の歴史と紡ぐ考えからは、なにかひとの浅はかさを感じてしまうことも否めない。なにが良いことなのかと、価値について考え、真理を探究するこころは、永遠であるように思われるが。
- BRC2017:Ps 66:18,19 わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
- 「しかし」といえる日常があったのだろう。それは、常に、神に願い、その応答を求める毎日の中でのみ、起こることである。そして自分の心が悪事を見ているかどうか常に検証している生き方があったのだろう。その日常が異なる中で、福音を説いても上の空だろう。
- BRC2015:Ps66:1 【指揮者によって。歌。賛歌。】全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。
- 地が賛美すること、詩篇では何回も出てくるが、何を意味しているのだろう。深く考えたことがない。詩篇に現れる「全地よ」だけ調べてみた。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(96:1)「主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。」(97:1)「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。」(98:4)「【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(100:1)「全地」は神の被造物、それは、良いもの、神の栄光を表すものということが背景にあるのだろう。
- BRC2013:Ps66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
- 「神を喜んだ」という表現は印象的。わたしは、そのような機会を持っているだろうか。
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- BRC2021:Psalm 67:5 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ
- 「神さまの裁きの公平さ」について考えてみたいと思った。裁きをどう定義するかは大きな問題だが、まずは、神様がなされていると思っていることとして考えてみる。病気、天災、不慮の事故、疫病などの影響、人間のちからではどうにもならないと思われることについて、「神はいない」と言うひとがおり、多くの場合「神様それはどうしてですか」と問いたくなる。戦争、経済格差や、人種差別、生活環境の違いなど、ある程度人間由来であっても、自分ではどうにもならない場合にもこういうだろう。そして、このようなときに、神の裁きは公平なのかとも問いたくなる。すべてがよかったと言われる、神様が創造された世界。これらが、すべて人間の罪の故とするのも、不適切に思う。すこしずつ整理して考えてみたい。神様は、もっと違うところに思いがあり、悩みを持っておられるのかもしれない。
- BRC2019:Ps 67:4 神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。
- 全く同じことばが6節にあり、その間には「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 」(5)とある。イスラエルでは、すべての民、諸国の民をどう捉えていたのだろうと考えた。まず「すべての民」と「諸国の民」は同じだろうか。5節を見ると、同じように使われているように思われる。祝福の中心は「わたしたち」であり(2,7,8)「この地」もおそらく、イスラエルが想定されているように思われるが、それが全世界に及ぶことが祈られている。喜びや、公平さは、すべての民でともに喜ぶものとの理解が十分あったのだろうか。「あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。」(3)興味深い。この考えは、キリスト教にも引き継がれているように思われる。
- BRC2017:Ps 67:4 神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。
- 「すべての民」が5回「諸国の民」が1回、この詩篇には現れる。英語では、All Nations や People と書かれている。少し調べないといけないが、異邦人も含めた、すべての民が想定されていると思われる。スケールの大きさに驚かされる。5節は "May the nations be glad and sing for joy, for you rule the peoples with equity and guide the nations of the earth.” (NIV) とある。「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 」単に従わせるいことが歌われているわけではない。これこそが主への賛美なのだろう。
- BRC2015:Ps67:5 諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ
- この詩篇は「神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように〔セラ」(2節)から始まる。様々な要素を含むが、最初は「わたしたち」である。そして、3節では「この地」「すべての民」(通常はユダヤ人)となる。そしてこの節では「諸国の民の喜び」へと発展する。ひとりひとりの信仰の広がりなのかもしれない。この節を頂点に「すべての民」そして最後は「神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべてのものが神を畏れ敬いますように。」(8節)となる。興味深い。
- BRC2013:Ps67:6 地はその産物を出しました。神、われらの神はわれらを祝福されました。
- 5節に「神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。」とあるが、まさに、一般恩寵には、垣根がない。それがまずは基本なのだろう。
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- BRC2021:Psalm 68:20 わが主をたたえよ。/我らの救いの神は/日々、私たちを担ってくださる。〔セラ
- 「神様からの恵み」について考えてみたいと思った。科学的な事実を知るたびに、(神様が創造された世界では)奇跡的にさまざまなことが組み合わさってわたしたちが生かされていることを知る。ひとと人との関係でも、(神様が置いてくださった)多くのひとに支えられて、感謝の日々を送ることができていると感じる。事故や災害や病気などを考えると、(神様によって)それらから守られていると感じることもある。それを、偶然と取ることも、できないことはない。たとえそうであっても、偶然のなかの、そのような状態に置かれたものとして、感謝のこころを持つことも、奇跡的ではあるがすばらしいことのように思う。神の裁きを考え、神の恵みに感謝する。その事自体がとても幸せであるように思う。
- BRC2019:Ps 68:2-4 神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る。煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。
- 「敵」が登場すると反応してしまい、「誇らかに喜び祝(う)」も気になってしまう。ただ、このあとに続くことを見ると、神をどうみているかは、共感を覚える。「神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。」(6,7)神は聖なる宮にいますとあるが、ここで表現されていることが、清い心の発現なのかもしれない。この詩編は長く、このあとにも数々の記述があるが、通読では十分には読み込めない。次回また少しずつ理解していきたい。
- BRC2017:Ps 68:7 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。
- 「身を寄せる家」は、家族なのだろう。しかし今は、住宅を提供するだけのように思われる。孤独な人は、詩篇が書かれた時代にもいたのだろう。そして、それは、ある社会問題として認識されている。神が超自然的な方法で、それを与えられると信じていたのではあるまい。孤独な人の存在を認識し、そのためにこころが動かされる人、そこにも神様が働かれると言っているのではないだろうか。二番目の部分は意味がよく分からなかったので英語で見てみると "he leads out the prisoners with singing;”(NIV) となっている。分からないことには、変わりないが、こころにかけてくださることが分かる。背く者は「既に裁かれている」(ヨハネ3章18節)という状態なのかもしれない。
- BRC2015:Ps68:6,7 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。
- これらのことをなされる神が、聖なる宮に住まわれる方という意味なのだろう。このようなことをされるかただから、聖なのでもる。最後は「背く者は焼けつく地に住まねばならない。」として、住まわせるとはなっていない。ヨハネ1:18「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」を思い出す。
- BRC2013:Ps68:5,6 その聖なるすまいにおられる神は/みなしごの父、やもめの保護者である。 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、めしゅうどを解いて幸福に導かれる。しかしそむく者はかわいた地に住む。
- どのような方かを表現する基本がこのようなおとということに、うれしくなる。感謝。
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- BRC2021:Psalm 69:33,34 苦しむ人はこれを見て喜びます。/神を尋ね求める人よ/あなたがたの心に命が与えられますように。主は貧しい人に耳を傾け/捕らわれた民を決して侮ることはありません。
- 複雑な詩篇であるが、それ故にこの詩篇記者の苦しみと悩みが伝わってくるようでもある。引用句はその最後の方にある。正しい人ではなく、「苦しむ人」「神を尋ね求める人」「貧しい人」「捕らわれた民」に目が向けられている。この詩篇記者の痛みを思い、祈りをともにしたい。最近、いろいろな相談を受ける。どうすることもできないものが多いが、痛みは伝わってくる。求める心、どうすることもできない無力感だろうか。この詩篇記者と同じなのかもしれない。
- BRC2019:Ps 69:6,7 神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。万軍の主、わたしの神よ/あなたに望みをおく人々が/わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ/あなたを求める人々が/わたしを屈辱としませんように。
- 37節ある長い詩編で、十分理解することはできない。様々な要素が入っているようだ。「理由もなくわたしを憎む者は/この頭の髪よりも数多く/いわれなくわたしに敵意を抱く者/滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら/償わねばなりません。」(5)および、引用箇所は、複雑な状況が表現されており、それは、このあとも続く。この混乱の中で「叫び続けて疲れ」(4a)「目は衰え」(4b)と表現している。7節も正確には、わからないが、自分が躓きとならないように祈っているようである。わたしの現状は、少し異なるが、この複雑な中で、主に栄光を帰して生きることの難しさ、もだえは、共感できるものがある。詩編は、特に背景を理解することが難しいが、いつかていねいに読んでみたい。
- BRC2017:Ps 69:19 わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。
- 敵の手中にある状態は、魂が捕らわれていると捉えられているということか。単なる身体的不自由ではなく、精神の不自由。神による魂の贖いが、解放の本質であることを述べている。ここで言われている敵も、もっと本質的な意味があるのかもしれない。魂の贖い。その本質を見つめてみたい。
- BRC2015:Ps69:33 貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には/健やかな命が与えられますように。
- ここでの貧しい人は経済的な貧しさではないだろう。マタイ5:3の「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」を思い出すが、マタイ11:5の「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(イザヤ26:19「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」)聖書の貧しさの意味をもっと根本的に学びたい。この節はそれが「健やかな命」につながっている。「天の国はその人たちのもの」につながっているのかもしれない。
- BRC2013:Ps69:5 神よ、あなたはわたしの愚かなことを/知っておられます。わたしのもろもろのとがは/あなたに隠れることはありません。
- 現実を受け入れる、この謙虚さを、つねにもって生きていきたい。
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- BRC2021:Psalm 70:5 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「神は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。
- 暖かい言葉である。しかし、実際には困難なこともある。自分の敵とすら考えてしまうような相手も、神様を尋ね求めるひとであったりする。異なる神とすることもできるかもしれないが、それは、この詩篇記者のことばを裏切ることにもなってしまうだろう。真理を尋ね求める人すべてが、喜び楽しみ、救いを得る、それをわたしも願い、そう祈りたい。真理はどうなのだろうか、神様は、どう思われているのだろうか。実際は、とても複雑であるようにも思う。
- BRC2019:Ps 70:6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。
- ここにも「わたしは貧しく」とある。理解できない部分が多いが「わたしの命をねらう者」(3)「はやし立てる者」(4)に囲まれているのだろう。「身を屈めてい(る)」それが、「貧し(い)」と表現される状態なのだろう。
- BRC2017:Ps 70:6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。
- 「わたしは貧しく、身を屈めています。」はどのような状態を表現しているのだろう。特に「貧しく」は、何だろう。神以外頼る者がない状態だろうか。身をかがめているは、自分には頼ることができないことの表現だろうか。へりくだるとは、自分で自分のこころを制御することなのだろうか。おそらく、それは異なる。もう少し理解したい。
- BRC2015:Ps70:5 あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。
- 尋ね求めるもの。ここに鍵がある。ヨハネ7:17の「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」御心を行おうとする者とも関係している。
- BRC2013:Ps70:4 すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/つねに「神は大いなるかな」ととなえるように。
- 主を喜び楽しむ。そうありたい。主を訪ね求めることが、その基本なのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 71:17,18 神よ、若い時からあなたが教えてくださったので/今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。神よ、私が老いて白髪になっても/どうか捨て去らないでください/あなたの腕の業を、力強い業を/来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。
- 前半はわたしの告白としても言えるように思う。しかし、後半は、少し違う感覚になっている。今のわたしは、主に信頼しつつも、自分でできる限り、主を求めることに集中したいと願っている。そのなかで、主を認めていきたい。それは、自己中心なのだろうか。その面が頭をもたげることは確かにある。しかし同時に、自分でしなければいけないことが山ほどあるとも感じている。おそらく、神様から委ねられたものとして。
- BRC2019:Ps 71:13 わたしの魂に敵対する者が/恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が/嘲りと辱めに包まれますように。
- 詩編のこのようなことばを避けてきたが、そろそろ向き合うときなのだろう。この時代の神認識は、自分の神で、かつ、周囲の人も敵も、自分の神をもっていたのだろう。普遍化を前提に、すべてのひとにとっての真理から、ひとり一人にとっての、真理に落とし込むことは、まだ現れていないか、原始的なかたちでしかないのだろう。信じる神様の偉大さの故に、それは、他者・敵にとっても神、従わない場合は、罰を下されるとなり、さらに、神はそのような他者にも恵み深いと導かれるのかもしれない。急がず、少しずつ考えていきたい。そのもとで、全人格的な交わりを、詩編記者としていきたい。
- BRC2017:Ps 71:5-7 主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。
- 主が私を母の腹から取り上げたとあるのには、驚かされる。おそらく、詩篇記者は、若いときからと書き始めて、いやもっと前から、母の胎にあるときからなんだと至り、それからこの言葉にたどり着いているのだろう。そしてさらに、多くの人は私に驚くと書く。それは、むろん、主の故であることを、記者は知っている。私も同じように告白しよう。「主よ、あなたはわたしの希望です。」「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。 」(9節)と。
- BRC2015:Ps71:18 わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。
- 9節には「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」とある。詩篇記者は「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。」(5, 6a)と言い、この直前の17節に至るまでこの人がどのように生きてきたかが分かる。「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。」それまでに生きてきたようにしか生きられない。老いて白髪になったとき、それは、今と同じ。
- BRC2013:Ps71:5 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの/わたしの望み、わたしの頼みです。
- 長い期間、主なる神との交わりのうちに生きる。その中で培われる信頼だろうか。一日一日の交わりを大切にしたい。
[72] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 72:17 王の名がとこしえに続き/その名が太陽のあるかぎり栄えますように。/すべての国民が彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。
- わたしは王制のもとにいたことがなく、戦前の天皇制の課題を教えられてきたこともあり、背景になかなか実感がわかない。しかし、教育が十分行き渡っていないときには、強いリーダーシップが必要であることは理解できる。それだけではなく、制度自体が問題を解決すると信じ、単純に民主主義を唱えることにも問題も感じている。しかし、統治が適切になされることについて祈るのは自然で、必要である。自分ですることはできず、様々な知恵も必要なのだから。問題をあげて、責任を追求するより、課題をみなで、さがして、協力して改善していくものでありたい。統治者たちについて祈りつつ。
- BRC2019:Ps 72:12-14 王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い 不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。
- 義を思うこころが、王に対して、義を望み、それが神の義・憐れみとつながる。それは、自然なことなのかもしれない。宗教集団は、倫理的な集団でもあり、その政治的な部分の長が王という位置づけだろうか。王が指導力をもつ範囲はどうかんがえられていたのだろうか。宗教的なこととの間を、完全に切り離すことはできないし、判断困難な問題もたくさんあるだろうから。やはり一人の王に委ねるには、複雑すぎる、といって、民主主義がよいのかも、不明ということだろうか。引用した価値観には、普遍性があると考えてよいだろうか。おそらく、具体的な問題に落とし込むと、単純ではないのだろう。
- BRC2017:Ps 72:12 王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。
- 神様に丸投げしているわけではない。神が立てられた、王についても祈っている。人間世界の連帯だろうか。それとも、神のそのような働きに信頼しているのか。または、神のこの祈りにあるような、介入を期待しているのか。全体としての、神の働きに信頼しているのか。いろいろと考えてしまう。
- BRC2015:Ps72:1 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
- このあとに、神による裁きがどのようなものかが語られている。たとえば、直後には「王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。」王がこのように裁かれるのであれば、しかし、それを条件としてはいけないのかもしれない。
- BRC2013:Ps72:1,2 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。彼は義をもってあなたの民をさばき、公平をもってあなたの貧しい者をさばくように。
- わたしもこのように祈りたい。なぜ祈れないのだろう。神を信頼していないからだろうか。
[73] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 73:3-5 悪しき者の安泰を見て/驕り高ぶる者を妬んだ。彼らには苦しみがなく/体も肥えて健やかである。人間の負うべき労苦もなく/人々のように打たれることもない。
- このように妬みや羨む心があるときは、結局、その人たちと同じものを求めていることが露呈している。祝福を得ることが、最終目標なのか。祝福とは何なのか。神様との信頼関係のもとでの祝福とは。それを考え直したい。綺麗事だろうか。
- BRC2019:Ps 73:3-5 神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。
- この状態を「【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」(1,2)と表現している。神は、なぜ裁かれないのかという、神義論のひとつの形式である。この詩編においては、「聖所を訪れ彼らの行く末を見分けた 」(17)とあり「あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え/彼らを迷いに落とされるのを彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし/災難によって滅ぼし尽くされるのを 」(18,19)と告白している。結局、裁かれているということだろう。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマの信徒への手紙1章24節)と通じるのかもしれない。「見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。」(27)と結んでいる。もっと知りたい。考えたい。
- BRC2017:Ps 73:3 神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。
- 神義論だろうか。だれでもそうおもうことだろう。結局、それからくる神の報酬、神に逆らうことは悪だとは言えないのだろう。神は因果応報から自由であられること、憐れもうとするひとを憐れむことも知らなければならない。では、なにか良いことがあるのだろうか。この詩篇は「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。 」(78節)で終わっている。この前をみると、やはり、悪は滅びることに信をおいているようだが、自分が生きていく動機、たいせつにしていることこそがたいせつなのだろう。自分を見直しながら生きていきたい。
- BRC2015:Ps73:1 【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。
- 非常に興味深い詩篇である。1節は、主題なのか、背景なのか、それとも、最終的な記者の告白を最初に持ってきているのか。「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「心の清い」という表現は、聖書で二カ所だけである。イエスもこの詩篇を意識したとも考えられるだろう。2節には「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」そしてこのあとには「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。」(3-5節)と続く。これも一つの世の不条理とも言えないこともない。一つ一つ印象に残る言葉が多いので、ここに書き切れないが25節「地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。」を心に留めたい。この詩篇記者と共に神に向かって生きるために。神を見ることが出来るかもしれない。
- BRC2013:Ps73:2,3 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
- 1節の「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。」と呼応している。そして、4節につづく。信仰告白に至るのは、痛みもあるだろう。神様は、それを導いてくださる。
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- BRC2021:Psalm 74:18 主よ、心に留めてください/敵があなたを嘲るのを/愚かな民があなたの名を侮るのを。
- そのときに、神の痛みを覚えたい。主は、どのような苦しみを感じておられるだろうか。おそらく、嘲りや侮りよりも、さらに深いことのように思う。そのようなひとのこころ、その背景を思っておられるのではないのか。そしてそのような敵対している世界を。主のみこころを求めたい。
- BRC2019:Ps 74:21 どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように。
- じっくりと読むことはできないが、底に、このような価値観があることは、本当に素晴らしい。繰り返し繰り返し、詩編に登場する。現代人は、そのことをこころに秘めているだろうか。行動や思考の重要な部分を占めているだろうか。「虐げられた人」「貧しい人、乏しい人」に目をとめて生きていきたい。それが共に生きることにつながるように思う。
- BRC2017:Ps 74:11 なぜ、手を引いてしまわれたのですか/右の御手は、ふところに入れられたまま。
- このような気持ちになることはわかる。それこそが、神への訴え、神のこころとの同期なのだろう。それでよいのだ。真実がどうかではない。謙虚に神の前に生きたい。
- BRC2015:Ps74:21 どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように。
- この詩篇も衝撃的である。「永遠の廃虚となったところ(シオンの山, 2節)に足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました。 あなたに刃向かう者は、至聖所の中でほえ猛り/自分たちのしるしをしるしとして立てました。」(3節・4節)神に逆らう者たちのしるしが立てられ、至聖所がまったくけがされてしまっている状態である。その中での祈りである。アサフの詩となっているが、捕囚後を思わせる。
- BRC2013:Ps74:19 どうかあなたのはとの魂を/野の獣にわたさないでください。貧しい者のいのちをとこしえに忘れないでください。
- こんな箇所があるのは、知らなかった。もう、40回程度読んでいるだろうに。マタイ(「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。」12:20)でも引用している、イザヤ書42章3節の言葉を思い出す。「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。」
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- BRC2021:Psalm 75:3,4 「私は時を選び/公平に裁く。地とそこに住むものすべてが揺らいでも/私は地の柱を堅くする。」〔セラ
- 最後には「私は悪しき者の角をことごとく折る。/正しき者の角は高く上げられる。」(11)とあるが、このような二分法をわたしは、支持していない。神様もそうなのではないかと思う。引用句における「公平に裁く」これは、人間には、到底理解できないように思う。「公平」は、一人ひとりが同じ地平に立つものとしてという意味だろうが、裁きを、そのようには、人間には語れないように思う。それで良いのかもしれないし、その葛藤や、痛みを、しっかり持ち続けないければいけないのかもしれない。「公平」とはなにかを問いつつ。
- BRC2019:Ps 75:11 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り/従う者の角を高く上げる。」
- 一つの信仰なのだろう。しかし、これは、つねに、敵を想定しているようにも思われる。神は、何を望み、なにをなしておられるのだろうか。イエスの説く主も、すべてを赦す主であっても、全員が救われるわけではない。この詩編にはもう二回角が登場する。「わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな。」(5,6)一度、角についても、調べてみたい。角笛などを除くと、詩編には「救いの角」(18:3)「御旨によって、我らの角を高く上げてください。」(89:18)「わたしの真実と慈しみは彼と共にあり/わたしの名によって彼の角は高く上がる。」(89:25)「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ/豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(92:11)「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(112:9)「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。」(118:27)「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。」(132:17)「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。」(148:14)難しい。
- BRC2017:Ps 75:7 そうです、人を高く上げるものは/東からも西からも、荒れ野からも来ません。
- 裁きは神によって為されることへの確信の表明である。人からの評価ではなく、最終的な神の評価に身を委ねる。だから安心して生きることができるのかもしれない。しかし、同時に、わたしにはとても遠い感じをうける。なぜだろうか。人の責任が書かれていないからだろうか。いまは、わからない。
- BRC2015:Ps75:9 すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み/おりまで飲み干すでしょう。
- 裁きの杯である。詩篇16:5では「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。」とあり、杯は特に裁きではない。詩篇23:5bには「わたしの杯を溢れさせてくださる。」とあり、詩篇116:13には「救いの杯を上げて主の御名を呼び」とある。様々に用いられているが、神から与えられたものを受けるという意味合いなのだろう。上の箇所では、神に逆らっている者が、神から受けるものについて、あまりよく考えず、結局は、裁きを飲み干している様を表現しているのだろう。あまり杯にこだわらず、神様の主導であるが、それが、人間世界のことばで美しく表現されているととるのがよいかもしれない。
- BRC2013:Ps75:2 定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく。
- イエスのたとえばマタイ4:17「悔い改めよ、天国は近づいた」。 とは少し違う感触がある。共通点は、さばきに関わる希望だろうか。
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- BRC2021:Psalm 76:10,11 神は裁きのために立ち上がり/地の苦しむ人をことごとく救われる。〔セラ 憤る者さえあなたをたたえ/怒りを免れた者はあなたを祝う。
- 「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。/怒りを発せられるとき/誰がその前に立ちえようか。」(8)この感覚は、理解できる。そして、引用句の「地の苦しむ人をことごとく救われる」に期待するのだろう。しかし、次の「憤る者さえあなたをたたえ/怒りを免れた者はあなたを祝う」は興味深い。「憤る者」をどう捉えるかはいろいろだろう。単に、神の裁きが遅いと、義憤を持っているものととることもできる。しかし、裁きが理不尽に見える人とも取ることができるかもしれない。御心をひとは、完全には理解できないのだから。
- BRC2019:Ps 76:10 神は裁きを行うために立ち上がり/地の貧しい人をすべて救われる。〔セラ
- どうも、ここでも、裁きは、貧しい人を救われることである。他のひとは、どうなるのだろうか。何が期待されているのだろうか。貧しさについて、もっと理解したい。天の国、神の国が近いことと、貧しい者が幸いであることは、つながっていることは、旧約から続いていることなのかもしれない。
- BRC2017:Ps 76:10 神は裁きを行うために立ち上がり/地の貧しい人をすべて救われる。〔セラ
- これが神の国の到来なのだろうか。これこそが救いなのだろうか。距離を感じてしまう。とても遠い世界のことのように。それでも、それを、期待して待つのだろうか。
- BRC2015:Ps76:7 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると/戦車も馬も深い眠りに陥る。
- 4節には「そこ(サレムの幕屋・シオンの宮)において、神は弓と火の矢を砕き/盾と剣を、そして戦いを砕かれる。〔セラ」とある。戦いが日常的であった時代に、どのような気持ちから、このように詩篇記者は書いているのだろう。日常的であったからこそ、神がそこに働かれることの表現は、このようになり得るのかもしれない。周囲で最も困難なところにも、主は、そこでも主導権をもって働かれるということだろう。
- BRC2013:Ps76:1 神はユダに知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大である。
- 第73篇からはじまっている第3巻はスケールが小さい気がする。もう少していねいに見ていきたい。
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- BRC2021:Psalm 77:8-10 「わが主はとこしえに捨て置き/もう二度と顧みてくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われ/約束は代々にわたって絶たれてしまったのか。神は恵むことを忘れ/怒りのあまり憐れみを閉ざされたのか。」〔セラ
- 主の救い、恵みが受け取れず、自分は、完全に捨て置かれたと感じたことが引用句に書かれている。この詩篇記者はそのあと、歴史を思い、過去にどのように、主が導かれたか、恵みを賜ったかを、書いている。主からの応答は、なかなか受け取れない、みこころがわからないときが長く続くときは多い。まずは、恵みを思い、どのように、恵みを賜ったか、さらに、その背後にある、主のみこころを受けとりたいものである。
- BRC2019:Ps 77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
- 神の変わらぬ愛に捉えられていた(と個人的に考えていた頃)ときがあって、この祈りに至っている。最近、世の中の急激な変化の中で、世界中の人々が、神の変わらぬ愛に寄り頼むことは困難になっているのではないかと考えている。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」 (11)これも、自分の状態ではなく、世界の人々の声として叫びたくなる。大きな変化の時代にも、変わらぬ神の愛に信頼していけばよいのだろうか。今までの恵みを糧に、新たな行動を起こさなければならないのか。この二つを一つに統合したところに救いがあるのか。地球環境、コミュニケーション環境、それにともなって人とひととの関係が大きく変化している中で、平安を求め祈る。
- BRC2017:Ps 77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし/深淵はおののいた。
- 大水も深淵もイスラエルの民にとっては、遠い存在、それゆえに、得体の知れない恐ろしいものだったのかもしれない。それゆえに「あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。 」(20節)の中に神の神秘が表現されているのだろう。神の業を見極めることはできないという謙虚さを表現するとともに、信頼を表しているのだろうか。
- BRC2015:Ps77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
- 口語では「あなたはわたしのまぶたを支えて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほど悩みます。」となっている。口語は分かりやすい。原語での意味は分からないが、NIVは、"You kept my eyes from closing; I was too troubled to speak.” である。目に入るものの悲惨さから、悩み苦しみの深いことが読み取れる。そして9節10節では「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ」とあり、これが、12節以降は「わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け」と主の恵みに目をむけ賛美をしている。これだけの深さの苦悩をわたしは神に持って行っているだろうか。こころの底(おそらく「はらわた」)が傷つく。
- BRC2013:Ps77:19 あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。
- 絶望の中で備えられている主の道、恐れおののきはよく表現されている。紅海での奇跡(Ex14:22-29)も盛り込まれているのか。
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- BRC2021:Psalm 78:1 マスキール。アサフの詩。/民よ、私の教えを聞き/私の口の言葉に耳を傾けよ。
- 民に伝えたい、たいせつな事、それは、主がどのように導かれたか、そして、どのように、我々その民が反抗してきたかの歴史のようだ。わたしは、何を、後代、こどもたち、まごたち、わかいひとたちに伝えようか。主の恵み深さ、主がどのように導かれたかも伝えたい。しかし、どのように、求め続けてきたか、主のみこころを求め続けることについて伝えたいと、今は思っている。それは、まだ、自分を伝えたいことになっているのかもしれない。まだまだ、わたしが学ぶべき、基本的なことがたくさんあるのだろう。謙虚に求めたい。
- BRC2019:Ps 78:72 彼は無垢な心をもって彼らを養い/英知に満ちた手をもって導いた。
- 「僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り 」(70)とありこの主語はおそらく「主」(67等)である。ここで「無垢な心」「英知に満ちた手」とある。わたしには、この前者が気になり、ヨアブに同情し、なかなか、ダビデを好きになれないが、後者をもっと、ていねいに受け止めるべきかなとも思った。すくなくとも、詩編記者のとらえ方に、示唆をうけた。興味深い。
- BRC2017:Ps 78:4 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう/主への賛美、主の御力を/主が成し遂げられた驚くべき御業を。
- わたしなら、おそらく、自分で考えたことを伝えたいだろう。しかし、ここでは、そうではない。主への賛美、主への御力、主が成し遂げられた驚くべき御業である。たしかに、一人の人の考えなど、むなしい。このあと、おそらく、出エジプトと思われる記事が続く。わたしにとって、それは、何だろうか。民としての、共通のものが必要にも思われる。主への賛美として。
- BRC2015:Ps78:19,20 神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整えることが/神にできるのだろうか。 神が岩を打てば水がほとばしり出て/川となり、溢れ流れるが/民にパンを与えることができるだろうか/肉を用意することができるだろうか。」
- ヨハネ7:38「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」に関係している。(Ps78:15,16)ここでは、それでも疑う民のことが語られている。つぶやきの根は深い。
- BRC2013:Ps78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
- この伝承が第78篇に書かれている。しかし、内容の一つ一つを聖書と照らして特定することは、難しい。おそらく無理であろう。他方、信仰体験として、内面化した歴史的経験として、それを伝えることの価値は、大きいと思わされる。
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- BRC2021:Psalm 79:8 先祖の過ちを思い起こさないでください。/あなたの憐れみが/私たちを速やかに迎えてくださいますように。/私たちは弱り果てました。
- つらい詩篇である。どの時点のものかはわからないが、エルサレムとあるので、南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされたことが背景にあるのだろう。先祖たちの過ち、そして「私たちの罪をお赦しください。」(9b)ともあるので、自分たちの過ちも自覚している。主と、イスラエルの民との関係について、幼児のように考えてはいけないと、することも可能だろうが、あらゆる面で、大きな危機の時代であったことは、想像できる。批判することは、容易いが、この詩篇記者のところに自分を置いて、ゆっくり考え、感じてみたい。その痛みを。そして、主の痛みにも、思いを馳せてみたい。可能かどうかはわからないが。
- BRC2019:Ps 79:1 【賛歌。アサフの詩。】神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い/あなたの聖なる神殿を汚し/エルサレムを瓦礫の山としました。
- この悲惨な中で、信仰者は何を神に訴えうるのだろうか。4節まで残酷な異国の民と、周囲のあざけりを描き「主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。」(5)と訴えている。続けて、「(主を)知ろうとしない異国の民」への怒りをもとめ(6,7)、次に、罪の赦しと、救い出してくだっさることを願い、周囲の民のあざけりは主へのものであることをかき栄光のために裁きと救いをと願っている。「倍返し」どころか「七倍返し」(12)も祈り、最後に「わたしたちはあなたの民/あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ/代々に、あなたの栄誉を語り伝えます。」(13)としている。これが、エルサレム陥落・捕囚時の定型の祈りだったのかもしれない。アサフが民の思いを代表ししているのだろう。「アサフの詩」と書かれた詩編が12篇ある。いつか調べてみたい。
- BRC2017:Ps 79:12 主よ、近隣の民のふところに/あなたを辱めた彼らの辱めを/七倍にして返してください。
- わたしには、そして、おそらく、キリスト者は、このようには、祈れない。イエスは、この祈りをどう受け止められるだろうか。じっと、このひとの目を見つめられるのかもしれない。正しさでは無いものを、ここから学びたい。神は、この詩篇記者も愛し、導いておられるのだから。この熱心さ、まねのできないものがあるのだから。
- BRC2015:Ps79:1,2 【賛歌。アサフの詩。】神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い/あなたの聖なる神殿を汚し/エルサレムを瓦礫の山としました。 あなたの僕らの死体を空の鳥の餌とし/あなたの慈しみに生きた人々の肉を/地の獣らの餌としました。
- 異国の民であるわたしには、この感覚はなかなか理解できない。そして、キリスト者としても、わたしはこの感覚を持っていないように思われる。神の民という概念を否定しないが、神が愛されるひとり一人を区別することの問題点をより大きく感じるからだ。そこを越えないと、詩篇記者と信仰告白を共にできない、つまり同じ神を信仰していると言えないのだろうか。このことはいつかしっかり考えてみたい。
- BRC2013:Ps79:12 主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを/七倍にして彼らのふところに報い返してください。
- 祈りは「神様のみこころと、わたしたちの思いとのシンクロナイゼーション」と考えると、その途中段階のものがあることは、当然でり、批判することではない。だれの祈りも完全ではないのだから。ここに「隣り人」という言葉が登場することは、注意をひく。これは「シャヘイン」(住人、隣りに住む人)で、Lev19:18 の「レーアー」(友・仲間)とは別の単語。
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- BRC2021:Psalm 80:20 万軍の神、主よ、私たちを元に返し/御顔を輝かせてください。/その時、私たちは救われるでしょう。
- 「万軍の神、主よ」の呼びかけが「神よ」(4)「万軍の神よ」(8)と、少しずつ力が入ってきているが、ほとんど同じことばが3回記されている。「私たちを元に返し/御顔を輝かせ」が「救い」だと告白している。印象的である。「元に返し」こそが願いなのだろうが、それを「御顔を輝かせ」ることに結びつけている。いまは、わたしたちの方を見ていないという表現なのだろうか。教会での派遣の祈りにも使われる「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように。」(民数記6章24-26節)を思い出す。わたしがなかなか実感をもって受け取ることができない聖句でもある。ゆっくり、味わってみたい。
- BRC2019:Ps 80:18 御手があなたの右に立つ人の上にあり/御自分のために強められた/人の子の上にありますように。
- これがキリストを指し示すとすることも可能であるが、まずは、この詩編の文脈でていねいに読むべきだろう。この詩編記者の神への嘆きと、神への問いを。無神論への挑戦でもある。わたしのこころにも、ひょっとしたら、神はいないのかもしれないとのこころもある。絶望の中で、この詩編記者のように訴える信仰についても、御心についても、真剣に考えたい、そして祈りたい。
- BRC2017:Ps 80:20 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。
- 破壊されたエルサレムの回復、捕囚からの帰還、民の回復、これらを主の救いとして求めていたことは確かで、それは、当然とも言えるだろう。それを、単純に批判はできない。イエスの時代に、さらに、普遍的な、神の御心が新たにまたはさらに進んだ形で示されたととるべきだろう。神に栄光を帰す、詩篇記者の祈りは、わたしたちの祈りと本質的に何も変わっていないのだから。
- BRC2015:Ps80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
- ぶどうの木はまず9節に「あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。」としてあらわれ、ここにもぶどうの木がでてくる。このぶどうの木はイエスキリストではないのだろうか。神につながる木として植えられたと考えると、同じなのかもしれない。すでに、人々は、このぶどうの木から離れてしまっていることを気づいていないのだろうか。全体としてそう考えるのは、この詩篇に関しては適切ではないだろうが。
- BRC2013:Ps80:14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。
- ここでもイスラエルは、ぶどうの木にたとえられている。背景は何なのだろう。もう少し知りたい。
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- BRC2021:Psalm 81:16,17 主を憎む者が主に屈し/その災いの時はとこしえに続くがよい。「私は最上の小麦で民を養い/岩から出る蜜であなたを満たそう。」
- 主語がわかりにくいが、交読・交唱していたのかもしれない。ひとの声と、神の声。すると、引用句の前半は、人の声、後半は、神の声なのだろう。そう考えると、前半の思いも、許容できるように思える。詩篇の中で、主の思いと、人の思いを、明確に分けることはできないし、現実的には神の声も、ひとが受け取ったものであることに間違いない。しかし、そのように、少しずつ、こころが清められ、主の思いを受け取っていく過程が表現されているとすると、とても興味深い。交読文は、礼拝で読まれ・唱えられる。これからは、もう少し丁寧に、意識して考えながら唱えてみよう。
- BRC2019:Ps 81:12,13 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。
- これも「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマの信徒への手紙1章24節)と通じる部分がある。掟が与えられているにもかかわらず、神に従わないイスラエルの民をどのように、見るか、神はどのようにしておられるのかについての一つの告白である。ローマの信徒への手紙は、それを拡大して、すべての人に対して述べていると思われるが。この拡大は普遍的価値とともに、問題をも生じさせる。「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。」(10)を、異邦の民にも適用しようとする。これは、同じではないと思う。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13章35節)が中心ではないだろうか。
- BRC2017:Ps 81:16 主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。
- 神に従わない者たちがいる。それを、主を憎む者と表現している。この運命については、明確ではないが、屈服が永劫に続くことを祈っているのだろう。聖書の他の記述とは食い違っているのかもしれないが、それを願うのは自然、そして、健全なことだろう。批判などとうていできない。悪の問題をどう克服するか、わたしも解決策は持っていないのだから。
BRC2015:Ps81:17 主は民を最良の小麦で養ってくださる。「わたしは岩から蜜を滴らせて/あなたを飽かせるであろう。」 - ヨハネ7:37,38「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」を学んでいるので、イエスという岩から流れ出る水についても考えている。1コリント10:4「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」などを背景とした解釈である。ここでは「蜜を滴らせ」とあり、さらに驚かされる。この詩篇は13節の「わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。」や、詩篇記者が取り次ぐ神のメッセージという面、偶像礼拝禁止はイスラエルに向かって述べていることなど、興味があるが、深めることはできない。備忘録として記す。
- BRC2013:Ps81:12,13 それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。 わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
- ここに神がどのような方かを告白する、詩編記者のこころが現れているように思う。なすがままに任される神、その背景にある思い。Rm1:24 を思い出す。
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- BRC2021:Psalm 82:5 彼らは知らず、悟らず/闇の中をさまよう。/地の基はことごとく揺らいでいる。
- 悟らない内容は、この前に引用されている部分だろう。「 あなたがたはいつまで不正に裁き/悪しき者におもねるのか。〔セラ 弱い人やみなしごのために裁き/苦しむ人や乏しい人を義とせよ。弱い人や貧しい人を救い/悪しき者の手から助け出せ。」(2-4)しかしこれが行われない現実が目の前に広がっている。それをうけて、最後には「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての国民をご自分のものとされます。」(8)と叫んでいる。葛藤と祈り、理想と自戒。ひとを「あなたがたは神々。/あなたがたは皆、いと高き方の子。」(6)神の子としていることでも有名な詩篇であるが、その現実の複雑さも表現している。興味深い。
- BRC2019:Ps 82:2-4 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
- 不思議な詩編である。「【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 」(1)と始まる。「神々」はもともと議論があるところであろうが、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。」(5)と引用箇所に続き、さらに、「あなたたちは神々なのか」(6)と問う。最初の「神々」は、「人間として」(7)ではなく「神々」のように生きる者を指しているのかもしれない。この詩編の最後は「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(8)と終わる。人間の世界、神の世界と分離して考えないこともできるのかもしれない。「父なる神と御子イエス・キリストとの交わり」は「わたしたちの交わり」であるように。
- BRC2017:Ps 82:2-4 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
- この詩篇は「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 」から始まる。それと、対比して、人間の世界を描いているのか。しかし「神々の間で」は良く意味がわからない。このあとも、不思議な詩篇である。独特とも言えるかもしれない。いつかよく考えてみたい。「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」(6節)などの問いも含まれており、トピックも特殊に感じる。
- BRC2015:Ps82:8 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
- この詩篇は「【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」と始まる。「すべての民を嗣業とされる」ということは未来形なのだろうか。すると、ユダヤ人に限ったことではない。口語では「すべての国民」となっているので、異邦人も含むのだろう。1節の解釈は、いろいろあるようだが、全世界を意識しているのかもしれない。そして神の完全な支配は、神が「地を裁」くことであると共に「神々の間で裁きを行われる。」事なのかもしれない。少なくとも詩篇記者がそれを意識していたのかもしれないとも思う。
- BRC2013:Ps82:1 神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。
- 神の集団的な機能の表現なのだろうか。もうすこし、ナイーブに考えても、良いのではないか。神と言われるものそれらすべてのを裁かれる方。この詩編全体を読むと、神のかたちにつくられた人間ひとりひとりがこの背後にあるようにも思える。
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- BRC2021:Psalm 83:12,13 彼らの諸侯たちをオレブとゼエブのように/王侯たちすべてを/ゼバとツァルムナのようにしてください。彼らは言いました/「神の牧場を我らのものにしよう。」
- オレブとゼエブは、士師記のギデオン物語の中にあるが、引用の後半は書かれていない。記録があったことを否定はできないが、伝承はあったのだろう。これをとんでもないことと評価しているのだろう。しかし、いまのわたしは、神様がどう見ておられるかはわからないよと思い、冷ややかな目で見てしまう。冷静さ、客観さは、必要では有り、危機においては、とくにたいせつにすべきことではあるが、同時に、共感をし、ともに生きることを困難にさせるようにも思われる。他者のこころは基本的には理解できないなかで、他者の思いをみずからのおもいとすることはほんとうに難しい。よくわからないで同情することは、その他者をかえって傷つけることにもなる。共観が困難ななかでの共感、それが必要だとは思うのだが。
- BRC2019:Ps 83:6-9 彼らは心をひとつにして謀り/あなたに逆らって、同盟を結んでいます。天幕に住むエドム人/イシュマエル人、モアブ、ハガル人。 ゲバル、アンモン、アマレク/ペリシテとティルスの住民。アッシリアもそれに加わり/ロトの子らに腕を貸しています。〔セラ
- どの時代のもので、どの程度正確なのか不明であるが、イスラエルの東と南の諸部族がすべて含まれているようだ。近隣部族との関係はつねに重要だったろう。ただ、歴史的にみると、アッシリアが台頭、北イスラエル王国が滅ぼされる。(BCE722) それ以降のことか。おそらく、単独の国で盛衰を語れなくなっていた時期でもあろう。この連合国も、アッシリアの脅威を強く感じていたはずである。すると、信仰者にも、世界をどう捉えるかが問われていたときなのかもしれない。そして、現代も、そのような大きな変化の時なのかもしれない。
- BRC2017:Ps 83:6 彼らは心をひとつにして謀り/あなたに逆らって、同盟を結んでいます。
- 二つの要素が書かれている、共謀があること。逆らっている相手は、神であること。どちらも、直接的に観察・証明できることではないだろう。しかし、確かに、そうなのかもしれない。闇にとどまること、神のもとにある命に来ないことは、共謀していることなのかも。自分もそうかもしれないと、謙虚に顧みていきたい。決めつけることのないように。
- BRC2015:Ps83:13 彼らは言います/「神の住まいを我らのものにしよう」と。
- このようにはっきりと言う民がいるのだろうか。一部の声かもしれない。しかし9節の「アッシリアもそれに加わり/ロトの子らに腕を貸しています。〔セラ」を見ると、これはある程度古い詩篇であることも、わかる。世界観は、神観とも、人間観とも密接につながっている。しかし、神がどのように見られるか、それを大切にしたい。
- BRC2013:Ps83:1 神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。
- 主とつねに語り合えれば良いのだが、おそらく、この世では、神の国ではないかぎり、無理なのであろう。しかし、そうであっても、神が答えてくださることを信じて、求めていきたい。なにが鍵なのだろう。
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- BRC2021:Psalm 84:10 神よ、私たちの盾を見てください。/あなたの油注がれた者の顔に目を向けてください。
- なかなか、詩篇記者とこころをあわすことができない。背景には、リーダー、王を「あなたの油注がれた者」ということに、抵抗があることもひとつだろう。信仰に、儀式が加わり、このことが実際にそのとおりであることが、民に共有される。「神である主は太陽、盾。/主は恵みと栄光を与え/全き道を歩む者に/良いものを惜しむことはありません。」(12)もう一つは「全き道を歩む者に」といいきるところに、抵抗があるからか。王にも、リーダーにも、そして、全き道を歩む者ににも、迷いさまよっているものにも、愛を注がれる主に出会ったことが、かえってひとをさばくことになってしまっているのかもしれない。注意したい。イエス様ならどうされるだろうか。共に、聖書を学ぶことができたらと思ってしまう。
- BRC2019:Ps 84:3,4 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
- 後半(4節)をみると、これは、現実の神殿ではおそらくないだろうと思う。主のおられる場所、神の国、天の御国と言ってもよいかもしれない。それは、神様の支配が完全に行われているところと考えられている。まさに「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 」(マタイによる福音書6章10節)しかし、続けて主の祈りから引用すると、それは、あこがれではなく「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイによる福音書6章12節)の祈りが実現する世界、わたしたちにも関わってくることなのかもしれない。
- BRC2017:Ps 84:6,7 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
- 「そこを泉とする」の「そこ」とは何だろうか。「広い道」だろうか。「広い道」とはなんだろう。その前にあなたによってとあるが、広い道を神とはせず、あなたによって勇気を出し、となっている。神の元にある真理に限定していないのだろうか。このあとには、嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするとある。「彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 」(8節)ともあり、勇気を出して、心に広い道をみているひとが、神にまみえるという素晴らしいことが記されている。考えてみたい。
- BRC2015:Ps84:6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。
- 最後の「心に広い道を見ている人」とはどのような人だろうか。口語訳は「その心がシオンの大路にある人」となっている。神の道に希望を置くということだろうか。自分の見える範囲、自分で解決できる範囲の視野で物事を見ないことかもしれない。そして神への信頼へと導かれるときに、勇気が与えられる。背景に、自分の小ささ、弱さの認識がなければ、無批判の盲信と変わらないのかもしれない。区別はしかしながら簡単ではない。
- BRC2013:Ps84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
- このように、告白できたらすばらしい。わたしは、まだそのようには言えない
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- BRC2021:Psalm 85:9 主なる神が何を語られるかを聞こう。/主は平和を語られる/その民に、忠実な人たちに。/彼らが愚かさに戻らないように。
- 前半はアーメンと唱えられるが、後半は今の私にはアーメンとは言えない。このあとに、以前は好きだった美しい言葉が並ぶが、ただしさについて少し違う感覚を持ってしまっているからだろう。しかし、主なる神が何を語られるかを聞こう。そして、他者が、このことばに、アーメンと唱えているときには、静かに黙想し、その方の声にも耳を傾けよう。その結論に至る、考え方、そして、その方が、経験してきたことを通して、主は語られるのではないかと思うから。あまり、自分は、それが得意ではないかもしれないが、その大切さは、少しずつ理解してきているつもりである。たとえ、教条的な理由をその方が述べたとしても、それでもよい。その、背後にある声を、聴きとりたい。神様からのことばとして。
- BRC2019:Ps 85:2,3 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ
- 帰還後の描写とすると、5節から8節に「あなたはとこしえにわたしたちを怒り/その怒りを代々に及ぼされるのですか。」(6)などをどのように理解の方向性は二種類あるように思う。ひとつは、帰還に至る前の苦悩を覚え、主が与えられた「平和」(9)を感謝すること、もうひとつは、帰還しただけで、救いの実感はまだまだで、混乱も続いている中で、主の怒りはまだ続いていると解釈するもの。おそらく、両面があるのだろう。9節から最後は、主への信頼を述べている。信仰は、そのような、複雑な状況のなかで、こころも揺れながら、悩むこととつながっているように思う。
- BRC2017:Ps 85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
- 「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメス)」「正義(ツェデク)」と「平和(シャローム)」当時の人たちのこれらに関する思いはわからないが、それなりに、これらがどれも欠けてはいけないものでありながら、一致することは、難しいと感じていたことは理解できる。
- BRC2015:Ps85:7 再びわたしたちに命を得させ/あなたの民があなたによって/喜び 祝うようにしてくださらないのですか。
- 神の業は命を得させること。そしてそれは、私たちが喜び祝うようにされることである。しかし、この詩篇をみると、詩篇記者は、微妙なことばで揺れている。1節では捕囚から連れ戻られたことが書かれ4節では「怒りをことごとく取り去り/激しい憤りを静められました。」と書いているが、同時に6節では「あなたはとこしえにわたしたちを怒り/その怒りを代々に及ぼされ るのですか。」と声を上げている。帰還後の微妙な状況が背景にあるのだろうか。
- BRC2013:Ps85:10,11 いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし、まことは地からはえ、義は天から見おろすでしょう。
- これが平和、神に守られた世界のイメージなのだろう。わたしは同表現するだろう。
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- BRC2021:Psalm 86:11 主よ、あなたの道を示してください。/私はあなたのまことの内を歩みます。/私の思いを一つにし/あなたの名を畏れる者にしてください。
- 「祈り。ダビデの詩。/主よ、私に耳を傾け、答えてください。/私は苦しむ者、貧しい者です。」(1)とあり、引き続いて、様々な願いが書かれている。まずは、わたしの祈りと同じではないと読んでしまうが、そうではなく、この方を理解しようと心を向けるのがよいのかもしれない。引用句のように、わたしと同じように、主、神様の道を求めて、歩んでいる一人の神様が愛しておられるひとがおられるのだから。少し読み方が広がるかもしれない。それを期待することも、あなたの道を示してください。わたしは、あなたのまことの内を歩みますの一部分なのかもしれない。
- BRC2019:Ps 86:16 わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。
- 詩編記者が自らを僕とよび、はしための子と言って、憐れみを乞うているのだろう。ここだけを取り上げて、主イエスを読み込むこともできないことはない。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)をどのように受け取るかにも関わってくるが、ていねいに少しずつ読んでいきたい。分からないことばかりでも。
- BRC2017:Ps 86:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。
- 耳を伸ばし、広げてが、耳を傾けになるのは、理解できる。「貧しい(アニー)」「身を屈める(エヴィオン)」は何を意味しているのだろう。ヘブル語についても、いずれ、しっかりと学びたい。詩文体は、理解できないかもしれないが。
- BRC2015:Ps86:11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中 を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。
- まさにこれがわたしの願うこと。このように生きたい。主のみこころを自らの心として。神様、あなたの道を教えてください。あなたの御名を畏れうやまうことができるように。
- BRC2013:Ps86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
- しかしこのような時にこそ、神に近いのかも知れない。貧しく、たましいのくいくずおれた者。
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- BRC2021:Psalm 87:4 「私はラハブとバビロンを/私を知る者として挙げる。/見よ、クシュと共に、ペリシテとティルスも。/この者はそこで生まれたと。」
- ラハブは何回か聖書に現れるが、ここでの意味は不明である。おそらく、バビロンの並べてあるので、罪人または、悪人の代表をしているのだろう。そのあとには、クシュ、ペリシテとティルスが現れる。明らかに、イスラエルとは、異なる民族を表現しているのだろう。「そこ」もまた不明であるが、この前の節は「神の都」とあるので、それを意味しているのかもしれない。「主はもろもろの民を数え上げる/『この者はそこで生まれた』と記すときに。〔セラ」(6)とも呼応して、すべての民がそこで生まれたと唱えられているのだろう。結びは、「歌う者も踊る者も言う/『私の泉はすべてあなたの内にある』と。」(7)である。自分たちにとどまらない者たちの主という賛美なのだろう。問題はあるとは思うが、そのような発想ができていることは、やはり素晴らしい。
- BRC2019:Ps 87:4-6 「わたしはラハブとバビロンの名を/わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも/この都で生まれた、と書こう。シオンについて、人々は言うであろう/この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。 主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。〔セラ
- 「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される/シオンの城門よ。」(2)とあり、エルサレムが主にとっても特別であると始まる。しかし、引用した箇所には、驚かされる。ここで「わたし」はその前をみると「人々」のようである。最後には「歌う者も踊る者も共に言う/『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」(7)と結ぶ。普遍性へと向かっている。自然なことなのかもしれない。そして、エルサレムも相対化されるのだろう。
- BRC2017:Ps 87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を/わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも/この都で生まれた、と書こう。
- このあとにも「この人もかの人もこの都で生まれた」「主は諸国の民(も)この都で生まれた者」と すべての民が含まれる宣言が続く。これを、しかし中心は、「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される/シオンの城門よ。 」から、エルサレムと考えるか、主が住まわれる場所とするか。普遍的な喜びと祝福がここにある。
- BRC2015:Ps87:6 主は諸国の民を数え、書き記される/この都で生まれた者、と。〔 セラ
- この詩篇では、4節でも5節でも、諸国の民のことが語られているだけではなく、神を諸国の民の創造者と告白しているのが「人々は語る」と表現されている。神でも、詩篇記者でもないところが注意を引く。他国との関係は、必ずしも良好とは言えなかったときに、国名まで出すこの告白にも驚かされる。「ラハブとバビロンの名」を主を知るものの名としてあげ「ペリシテ、ティルス、クシュ」をもエルサレム、主の都の出身としている。
- BRC2013:Ps87:4 わたしはラハブとバビロンを/わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
- この詩編は十分理解できているわけではないが、シオン(エルサレム)は特別であることをいっていると共に、神を知り、知られている者は、イスラエルにとどまらないことが言われているように思う。この4節のラハブはカナン人(イスラエルの中または近隣の異邦人)の象徴か、そして、バビロンは広く、繁栄する異邦人の象徴か。このあと、ペリシテ、ツロ、エチオピアと近隣から、遠くへとその世界を包括するようにあげていることも興味をひく。
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- BRC2021:Psalm 88:19 あなたは私から愛する者と友を遠ざけ/闇だけが私の親しいものとなりました。
- この詩編の最後のことばである。このように終わる詩編は珍しい。しかし、それ故に、とても、現実味と真実味が感じられる。ひとは、まさに、そのような中で生活しているのだろう。愛するものと友が遠ざけられた状態。闇だけが私の親しいもの。私も、かつてそのような感じた時があった。おそらく、現実は、心配してくださった方が何人もおり、愛するものも、友も、近くにいたのだろうが。ひとの痛み、苦しみ、やはりよくは理解できない。
- BRC2019:Ps 88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。
- 詩編は、苦難からの救いを訴えても、最後には、主への信頼、賛美へと変わるものが多いが、この詩編は最後まで暗闇である。「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。」(4)と叫んでいる。その叫びは「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」(14)となり、平安へと向かうかと思うとそうではない。「主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」(15)そして、引用箇所で終わる。このような詩編が含まれていることに、かえって真実と希望を見る。その苦悩の深さが偽りなく表しているからだろうか。
- BRC2017:Ps 88:2 主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。
- この詩篇は闇の中で苦しんでいる信仰者の祈りである。このような時も、わたしにもあった。答えが、救いが見えないときの祈り、ゆっくり味わいたい。
- BRC2015:Ps88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。
- この詩篇の最後の節である。4節には「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。」これほどの絶望で終わる、詩篇は他にもあるのだろうか。しかし他の考え方をすると、この最後の節においても、目は「あなた」に注がれ、希望を持っているようにも思われる。中途半端な信頼とは、異なる。
- BRC2013:Ps88:9 わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。
- 目が悲しみによって見えなくなる。これは、神の働きが見えなくなることを意味しているのだろう。Mt6:22, 23「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」まさに、心の扉だからだろう。
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- BRC2021:Psalm 89:47,48 主よ、いつまでなのですか。/永遠に隠れておられるのですか。/憤りはいつまで火のように燃え続けるのですか。心に留めてください。/私の寿命がどれほどのものなのかを。/あなたがすべての人の子を/いかにはかなく創造されたかを。
- 「私は私が選んだ者と契約を結び/僕ダビデに誓った。『あなたの子孫をとこしえに堅固なものとし/あなたの王座を代々に築こう』と。」(4,5)からはじめ、現在、主に見捨てられ、荒廃した状態であることが書かれ、引用句に至っている。どの時代のものなのかは不明である。一般的には、バビロニアによって最終的に滅ぼされて以降と考えて良いのではないかと思う。この祈りは、最後「主をとこしえにたたえよ。アーメン、アーメン」(53)と唐突に終わる。しかし、それ故にこそ、信仰者の葛藤が伝わってくるようである。そして、おそらく、その寿命の間に、光を認めることができずに、なくなっていったかたも多かったのだろう。考えさせられる。
- BRC2019:Ps 89:50 主よ、真実をもってダビデに誓われた/あなたの始めからの慈しみは/どこに行ってしまったのでしょうか。
- 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(4,5)この神の約束が変更になるはずがない。この背景からもとめる、ダビデの子への救い主願望は、外からはなかなか理解できないものなのかもしれない。むろん、これも、原理主義ともいえないことはないが。それを取り出して、バサッと切ることは、わたしにはできない。ここに希望の根拠もあるのだから。本当に難しい。
- BRC2017:Ps 89:52 彼らは、主よ、あなたの敵であり/彼らは辱めるのです。彼らはあなたの油注がれた者を追って/辱めるのです。
- 自分たちを苦しめている国、民を敵とする。この当時はとても自然だったろう。疑うことはできなかったろう。いまは、その認識において進化しているのか。それは分からない。神の御心が深いことを告白すると共に、信頼が弱くなっていることもあるかもしれない。この記者を心から兄弟として愛することができるだろうか。考えさせられる。
- BRC2015:Ps89:35 契約を破ることをせず/わたしの唇から出た言葉を変えることはな い。
- 32節から34節では戒めをまもらないようになったとしてもと書かれている。そのような主の不変の契約を覚えている。しかし最後をみると、その背景は、平穏ではないことが分かる。「主よ、御心に留めてください/あなたの僕が辱めを受けていること を/これら強大な民をわたしが胸に耐えていることを。」(51節)そして「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。」で結ばれている。これが信仰なのだろう。
- BRC2013:Ps89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた/昔のいつくしみはどこにありますか。
- 主への訴えと、主の御心がひとつになることはあるのだろうか。いのりは難しい。
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- BRC2021:Psalm 90:12 残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。
- ある年齢に達するととてもこころに響くことばである。しかし、この詩篇記者は続けて「主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。/あなたの僕らを憐れんでください。」(13)と言っていることからも、当惑したなかにいるように思う。単に、余生をどう生きるかを、問うているのではない。そのなかで、賛美もしているが、この葛藤こそが、人生、信仰なのだろう。もっと、この詩篇記者に寄り添って、丁寧に読んでみたい。悠久の中を生きる神と、一瞬の中で苦しむ人間、その対比が美しいことばで語られている詩篇であもる。
- BRC2019:Ps 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
- 「生涯の日を正しく数える」とは何をいみしているのだろうか。「あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。 」(16,17)と言われているように、神の業に目をそそぎ、子らもあなたを見失わず、主に喜ばれる存在として、営みが神のまえに確かなものとされることだろうか。
- BRC2017:Ps 90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
- わたしは、自分の生涯の日を肯定的に数えている。しかし、この詩篇記者のように、神からの救いが見えず苦しみ、人生の終わりに神から「帰れ」と呼ばれている声だけが聞こえるとき、わたしはどうしたらよいのだろう。神の命に生きることについて語るかもしれない。しかし、それは、やはり、正しさ。寄り添うことが最善であるように、思う。共に生きているものを互いに感じることができるように。
- BRC2015:Ps90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。
- この詩篇はひとのはかなさと神の雄大さを語っているが、中心は、そのはかないひとの人生に目を留めていただくことを願っている部分だろう。わたしは、確かに若い頃、苦難とはいえないかもしれないが、もがいていた時期があった。しかしいま喜びを返していただいているように思う。12節にあるように「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」と祈り、これからの人生を生きていきたい。
- BRC2013:Ps90:3,4 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。 あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
- ひとはちりに過ぎないことを思い出すときは、大切。
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- BRC2021:Psalm 91:1,2 いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。私は主に申し上げる/「わが逃れ場、わが城/わが神、わが頼みとする方」と。
- このあとに、「まことに主はあなたを救い出してくださる。」(3a)として、様々な災厄から守られることが書かれている。わたしはすぐこれは危険と思ってしまう。逆に、守られていない人は、主に信頼していない人だとして裁きが始まると思うからだ。しかし、おそらく、そのときに、踏みとどまればよいので、ここでは、この方の信頼を称賛すればよいのだろう。災厄には「闇に忍び寄る疫病も/真昼に襲う病魔も。あなたの傍らに千の人が/あなたの右に万の人が倒れようとも/その災いがあなたに及ぶことはない。」(6,7)とも書かれている。コロナ禍で、わたしがすべきことは、わたしにできることを探すこと、他者とこころをあわせること、そして、できないことについて、主に祈ることなのだろう。主の御心を求めて。すくなくとも、このような信仰を持った方を裁くことではない。
- BRC2019:Ps 91:14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
- 詩編記者が、神の介入(God’s intervention)について記している。どう考えたら良いのだろうか。現代の科学の理解は、量子論の不確定性や還元論では解決できない問題と向き合うこと、宇宙論などの不思議のなかで(完全な)決定論から離れているが、それでも、神が現実の世界につねに介入する余地はほとんどないように思われる。古代のひとのようなナイーブな信仰は持てないことは、自然であるとも思う。実際に起こった・起こっていることの意味を考えることは可能である。それだけでよいのだろうか。ある場合は、それを神の介入として信仰告白することで。
- BRC2017:Ps 91:1,2 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
- 「神のもとに身を寄せて隠れる」という意識はわたしの日常にはない。何から隠れるかという問題とも関係しているのかもしれない。しかし、様々な困難の中で、神に信頼することは、あるように思われる。詩篇記者にわたしはどのようにつながることができるのだろうか。神について、生活において、何を共有することができるのだろうか。
- BRC2015:Ps91:14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
- そうなのだろうか。この詩篇は「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ/『わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方』と。」(1,2節)とはじまる。なにかそのように言うことが重要で、それに神が応じられると書かれているように思われる。しかし、単に、神との関係、応答関係を伝えているのかもしれない。単純で、かえって難しい。
- BRC2013:Ps91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
- 親鳥の羽の下に守られた、卵、そして幼鳥、常に目にしていたのだろう。そして大館、小盾は、それぞれに利用目的が異なったのかも知れない。生活に結びついた表現だと思われる。現代では、どう表現するのが適切なのだろうか。個人、個人の表現があるのかも知れない
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- BRC2021:Psalm 92:5,6 主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。/私はあなたの手の業を喜び歌おう。主よ、あなたの業はなんと大きく/あなたの計らいはいかに深いことか。
- この詩篇は「賛歌。歌。安息日のために。」(1)と始まる。わたしは、賛歌、賛美が苦手である。いろいろと考えすぎてしまうのだろう。それが自分の思考の傾向であることを認めて、他者の考えや、行動を感謝できるものでありたい。そして、わたしのようなものをも、主が、よころんで、愛してくださることを感謝しよう。謙虚に。
- BRC2019:Ps 92:15,16 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。
- このように生きる可能性はある。そうでないかもしれない。このように、告白することが幸せなのか。このように、告白できないことは、幸せではないのか。わたしには、わからない。周囲の、このように告白できない人を、主を自分の岩と頼まない人とは、いえない。ひとのこころは、わからない、そして、神様のはたらきをすべて見ることはできないから。
- BRC2017:Ps 92:2,3 いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
- わたしも、感謝の内に、日々を送り、皆をほめうたう。しかし、同時に、独りよがりではないのか、不安があることも事実である。感謝をささげること、ほめ歌うことにも、価値判断があるからである。すなおに、それを語るしかないのかもしれない。客観性は、限界があり、主体としてのわたしを殺しては、いのちはないのだから。喜びを持って生き、感謝をささげながら生きること、それがどのように、共に生きることにつながるかは、自分で制御することは、できないのだから。
- BRC2015:Ps92:15,16 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。
- このようでありたい。このように述べ伝えること自体が、命に溢れ、いきいきと生きることなのかもしれない。生きがいをもって老いることは、老いてもなお実を結ぶ事なのだろう。そのことに挑戦したい。
- BRC2013:Ps92:14,15 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
- 「主はわが岩です。主には少しの不義もありません。」と告白して、死に至るまで、忠実にありたい。そして、主が「年老いてなお実を結」ばせてくださるように祈ろう。実を結ばせて下さるのは、主だから。
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- BRC2021:Psalm 93:1 主は王となられた。/主は威厳をまとい/力の衣を身に帯びておられる。/世界は固く据えられ/決して揺らぐことはない。
- このあとには、出そうな反論に答え、少し修正するかのごとく「王座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえよりおられる。」(2)しかしこの微妙な感覚が、信仰告白だとも考えられる。主は常に主権をもって統べ治められる方、しかし、完全にそのようになっているようには、人間の側からは見えない。同時に、それは、信仰者の望みであり、祈りでもある。「御国が来ますように。/御心が行われますように/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)の主の祈りもそれと通じるのか。ゆっくり考える必要のある課題であると思う。
- BRC2019:Ps 93:3,4 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
- すべてのことにおいて、主を誉め讃える。これが、わたしには、苦手なのかもしれない。おそらく「神以外のものを神(絶対的なもの)としない」習慣が、神をも、または、神の様々な働きをも、一つ一つ相対化して考えているように思う。主を誉め讃えることは、完全なるもの、絶対のものに目を向け、それを求める上で、不可欠なのだろう。同時に、あまりに、それとは異なる現実を見て、課題と向き合うことに時間と勢力をかけるからか。主を誉め讃える詩編記者から、学んでみよう。
- BRC2017:Ps 93:1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
- 「主こそ王」という感覚は、よく分からない。すばらしい王様がどのような方なのかがイメージできないからであろう。世界を統べ治めるということについても、よく分からない。そのなかで、God’s Intervention のようなことだけを、考えても、偏ってしまうように思われる。神の統治についても、十分な内容を学ぶ必要を感じる。当時の人の理解と共に。
- BRC2015:Ps93:2,3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
- 聖書で海の記述はあまり多くないように思っていたが、詩篇だけで37件ある。あまり多くないと考えたのは、海を船で移動する、つまり海伝いでの海外との交流を精神的なことに反映した例は、旧約時代にはあまりなかったように思われるからかもしれない。ヨナや、ソロモン時代の交易などはあるだろうが。それと比較して大水は特別な意味があるように思われる。詩篇は17件。巨大な御しがたいものとして現れる。いつかしっかり考えてみたい。
- BRC2013:Ps93:3 主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。
- 水は恐ろしい者だったのだろう。大きな混乱を意味していると思われる。そして4節に「主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。」とある。現代においては、どう表現されるだろうか。
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- BRC2021:Psalm 94:1,2 報復の神、主よ。/報復の神よ、輝き出てください。地を裁かれる方よ、立ち上がり/高ぶる者に報いてください。
- 「報復の神」には驚かされる。しかし、「主よ。/幸いな者/あなたに懲らしめられ/あなたの教えを受ける人は。あなたはその人の災いの日々にも/憩いを与えられる。/悪しき者には滅びの穴が掘られる。」(12,13)ともあり、単純に「報復」を「仕返し」ととるのは、誤りなのかもしれない。同時に、背景には、現実世界の矛盾・理不尽さの認識もあるように思われる。信仰とは、それを単に自分の人間の怒りに変えず、その意味、背後におられる主の御心を問うところにあるのかもしれない。そのような相対化が、あらたな視点を生み、世界を違ったかたちで捉えることができるのだから。それが「あなたはその人の災いの日々にも/憩いを与えられる。」のような味方も生むのだろう。不思議だが、魅力的な言葉である。信仰告白であり、普遍的な事実、他者にも適用可能なこととして述べているわけではないが。
- BRC2019:Ps 94:9-11 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。 人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。
- 創造の業、自分の存在は自己完結的に規定することはできないということに目をむけることはが「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。」(8)と語り初め、引用句につながっている。なぜ、ひとはこのことをなかなか自覚できないのだろう。それを自覚させてくださるのが、創造主(の概念)である。それが「人間の計らい」の空しさにつなげられている。では、どうすればよいのだろうか。創造主なる父なる神に寄り頼むだけだろうか。おそらくそうではない。その次の段階も、ていねいに考えたい。
- BRC2017:Ps 94:1,2 主よ、報復の神として/報復の神として顕現し 全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。
- わたしは、これまで、このような言葉にどう向き合ったら良いか分からなかった。これは、ひとの痛みを表現する、理不尽さを、神に訴えているのだろう。おそらく、神も「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」(7節)という人たちの前で、苦しんでおられるのだろう。簡単には、答えは得られない。それで良いのかもしれない。
- BRC2015:Ps94:11 主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。
- このようにこの詩篇記者は告白している。自分の計画に頼ることがむなしいこと、そしてこれにつづく12節13節「いかに幸いなことでしょう/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は。 その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。」静かに待つ信仰。それが主を主とすることかもしれない。
- BRC2013:Ps94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
- とても深い印象を与える。信仰生活をしている者の告白だろう。魂が生き生きと生きる、それが永遠のいのちに生きることか。そしてその力は、神から、われわれの喜びとして与えられる。
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- BRC2021:Psalm 95:1,2 さあ、主に向かって、喜び歌おう。/救いの岩に喜びの声を上げよう。感謝のうちにその前に進み/賛美と共に喜びの声を上げよう。
- 「その前」が印象に残った。おそらく「救いの岩」をさすのだろう。主は救い、その前を進むということは、様々な解釈が可能だろう。一つは、常に、後ろには、主の救いがあるという確信のもとに歩むこと、もう一つは、救われたことにとどまらず、前に進んでいくこと。信仰と希望だろうか。どのように進んでいくかは課題としても、委ねられたものに忠実に、主のみこころに生きることをこのように表現して歩んでいきたい。
- BRC2019:Ps 95:4-6 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
- このあとには、主と自分たちとの関係が述べられる。「すべては主のもの、主が造られた」との告白は、裏返すと、自分のものと言えるものは、何もないこと。自分で生み出したものは、何もないことを告白することなのかもしれない。そして、この主との関係こそが自分を存在させ、生かすものということか。この告白に生きることが、信仰によって生きることだと言っているようだ。この関係を認識して生きることは、無視して生きることと、大きな違いを生じるのだろう。
- BRC2017:Ps 95:5,6 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
- いろいろな地域や民族で創造者信仰はあるように思われる。聖書における創造者信仰はそれと同じなのだろうか。起源がなければいけない。自分たちの存在にも起源と意図を持った創造者が。ここでも、世界と、私たちの創造が語られている。啓示としてしか、真理としては認識できないものであるが、わたしにとってそれは何を意味するのだろうか。あまり良くは考えていないように思う。普遍的な真理という面でも理解できるのだろうか。
- BRC2015:Ps95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
- 次の8節で「荒れ野のメリバやマサ」を回顧し9節は「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。」と続く。上に引用した7節はこの背景のもと「今日こそ」と言っている。これを傲慢とは言えない。自分が何者かを理解し、自己義認ではなくへりくだる、そして自らを鼓舞するさらに神に助けをもとめ委ねる。信仰者の態度だろう。
- BRC2013:Ps95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
- これを礼拝することは、ユダヤ教の中では考えられないが、これらが特別な神聖さをもって、考えられていたと言うことには、人間の共通の怖れと、畏敬を感じる。
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- BRC2021:Psalm 96:13 主の前に。/主は来られる。/地を裁くために主は来られる。/主は義によって世界を/まことをもってもろもろの民を裁かれる。
- 最初にある「主の前に」は直前の「天は喜べ。地は喜び躍れ。/海とそこに満ちるものは、とどろけ。野とそこにあるものも皆、喜び勇め。/森のすべての木々も、喜び歌え」(11,12)が対応しているのだろう。「喜び歌え」引用句からすると、それは、希望につながっているということだろうか。正直、裁きを期待をもって待つことは、個人的にはできない。自分が裁かれることも、人が裁かれることも、地が裁かれることも。神様は、それを望んでおられないのではないだろうか。しかし同時に、裁きを望む、理不尽さの中に生きているひととともに生きることをしたい。難しいけれども。
- BRC2019:Ps 96:13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。
- 引用句の最初「主を迎えて。」は前につながるものとして訳してある。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え 」(11,12)とあり、期待が強いことがわかる。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」(コリントの信徒への手紙一16章 22節)「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書6章10節)こう並べてみると、やはりパウロは厳しい。イエスの言葉との違いを感じる。
- BRC2017:Ps 96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
- 感謝と賛美と宣教はひとつなのだろうか。自分の外のものに向かって感謝と賛美をすることにより、自分の存在を豊かなものの一部として捉えることができることは確かである。閉鎖的に、自己中心的になることとの違いは大きい。そうなりがちな人たちに、御救いの良い知らせを告げることは、賛美の一部だとも言えるかもしれない。それは告げることであって、議論すること、説得することとは異なるのだろう。自分の理解、主体的行動に基盤があり、他者のそれらも、尊重しなければ、存立し得ないのだから。
- BRC2015:Ps96:13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。
- 最初のことばは口語訳には入っていないように思われる。主が来られる、その裁きが、神の国の到来と多くの人は考えていたろう。そして、バプテスマのヨハネも。神の到来は、神の御心が完全に地に成るときであることは、イエスについても同じで、裁きも語られるが、さらに新たな面が含まれている。それこそが、神の御心が完全に行われることであり、神と共に生き、神の栄光を表すことなのだろう。
- BRC2013:Ps96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
- このことばを、わたしは、素直には喜べない。国民性だろうか、同胞への撞着だろうか、自分の罪故だろうか。おそらく、この御言葉自体も十分理解していないからだろう。神の国が来ること。主のみこころが天で行われるように、地でも行われるように望むこと。基本から、学びなおしたほうが良いように思われる。
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- BRC2021:Psalm 97:11,12 光は正しき人に/喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。正しき者よ、主によって喜べ。/主の聖なる名に感謝せよ。
- これだけを取り出せばそのとおりかなと思う。同時に「正しき者」について考えてしまう。神様からみて「正しき者」であろう。それは、判断が困難である。しかしそうであっても、この詩篇の最後の「主によって喜べ」は、わたしもアーメンといい、それを自らにも語りかけたい。喜びのもとは、自分のうちにはなく、希望は人々の中にではなく、主のもとにあるのだから。それが、よくわからないことも、希望と言う名にふさわしいように思う。
- BRC2019:Ps 97:1,2 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ/正しい裁きが王座の基をなす。
- 地上の王、為政者はどうなのだろうか。限定的に、裁きの正しさが求められるのか。正直、地上の世界はとても判断が難しいと思う。人が多くなり、複雑さも増しているからだろうか。主にも、人にも、正しさのある基準はあっても、それで、問題が解決するようには思えない。どちらに進むべきかもとても難しい世の中に、わたしたちは、生きているように思う。その状況を、主の前にていねいに広げよう。委ねるのも難しいかもしれないが。
- BRC2017:Ps 97:11 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。
- 極力、前回とは異なる箇所を選び、書いているが、この箇所は、前回と同じである。そして書こうとしていることも、前回BRC2015と同じである。「喜びを種蒔いてくださる」それを、喜べるかどうかは、主に従い続け、主を認めるかどうかにかかっているのかもしれない。人生は、神様が蒔いてくださった喜びを、収穫していくことなのかもしれない。
- BRC2015:Ps97:11 神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。
- この詩篇では主について詩篇記者が語る形式をとっており、この部分も記者の告白である。興味深いのは、与えてくださるとせず、種まいてくださるとしているところである。趣がある。そしてこれに続く12節では「神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。」と結んでいる。これが信仰なのだろう。
- BRC2013:Ps97:6 もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た。
- この感覚がわたしには、まだよくわからない。このひとたちは、どのように、世界を見ていたのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 98:1,2 賛歌。/新しい歌を主に歌え。/まことに主は奇しき業を成し遂げられた。/主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。主は救いを知らせ/正義を国々の目の前に現された。
- 「新しい歌」の内容は「救い」と「裁き」である。それだけ、地上は、不義で満ちているということだろう。理不尽に思うことがあるとも表現できるかもしれない。しかし、どのような状態がよいかは、正直ことばにできない。正に、複雑系である。神様のもとに答えがあるかどうかは不明で、神様も悩んでおられるかもしれないが、主を、みこころを求めよう。それは、単に、祈るだけではなく、神様からのあらゆるメッセージに耳を傾け、目をを凝らして。
- BRC2019:Ps 98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
- 「新しい歌」は、主の救い、主の働きを発見したことを意味するのだろうか。日ごとにあたらしい神の働きを認めることはあまり簡単ではない。しかし、主の働き、この世におけるとも言えるし、他者を通しての場合もあるだろうし、他者に働いておられる主の業を認めることができれば、常に、新しい歌を歌えるかもしれない。深い霧の中で、それが神の業かどうか、疑心暗鬼になり、そこで終わってしまう場合もあるだろうが。そこにも真実があるのかもしれない。
- BRC2017:Ps 98:2,3 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。
- イスラエルの救いが中心である。普遍主義は、ユダヤ教の中にもあり、民族主義は、キリスト教の中にもある。少しずつ、神様の前で、神様の求めるものに、近づこうとしていると思いたい。その過渡期での信仰告白とすると、まったく、つたない信仰、不完全な聖書理解、神理解である、わたしも、詩篇記者と、つながることができる。それが、神様と共なる歩みであることを願う。
- BRC2015:Ps98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
- おそらく、特定の救いについて述べているわけではないだろう。これに続いて「主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。」(2,3節)となっている。イスラエルの救いについて述べているが、その影響は地の果てまでである。当時は、確かにイスラエルの救いについて述べているが、これはまさに、全世界の民の救いにつながる、神の業としての救いなのだろう。
- BRC2013:Ps98:9 主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。
- 正しさに執着するのは、当然かも知れない。しかし、いつか人の正しさになりさがる。どうしたらよいのだろう。
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- BRC2021:Psalm 99:4 王は力ある方、公正を愛される。/あなたは公平を堅く打ち立てられた。/ヤコブの中に公正と正義とを/あなたは成し遂げられた。
- 「主は王となられた。」(1a)から始まるので引用句での「王」は「主」だろう。公平は、とても困難で、定義も難しいが、わたしが、いちばんたいせつなものとして追い求めているものだが、ここでは「公正と正義」も現れる。そして「ヤコブの中に」とある。おそらく、「王」ということばも「ヤコブ=全イスラエル」に結び付けられているのだろう。6節から8節には「モーセとアロンは祭司の中に/サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。/彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。」(6)から、関係が書かれている。主をどのような方として賛美するかは、難しい。
- BRC2019:Ps 99:4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。
- 裁き・公平・恵みとある。まず、ここでいう公平とは何なのかと考えた。「御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」(詩編17:2)などとあるが、どのような公平なのかは、よく分からない。新約には少ない。「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ4:1)「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」(1ペトロ1:17)の二カ所だけである。「神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。」(7,8)とある。律法を与えたことは公平さの基盤かもしれないが、与えられたのは、イスラエルのみである。公平はどの範囲なのか。「赦す」と「咎に報いる」もよくわからない。
- BRC2017:Ps 99:6 主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。
- 「主こそ王」から始まる幾つかの詩篇の一つである(93篇・96篇・97篇・99篇)。「主はシオンにいまし、大いなる方。」(2節)とあり、主の御座は、シオンである。こう見ていくと、引用した箇所も含め、非常に、民族主義的な傾向が強い。しかし、これは、どのような時代のどのような人によって書かれたものだろうか。それによって、かなり、解釈に幅が出てくる。同時に、すなおに、この詩篇記者の心とともに居ることもできるように思う。世界を統べ治められる主に期待を持って。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。国々にふれて言え、主こそ王と。 」(1Chr16:31)
- BRC2015:Ps99:8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。
- 4節では「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。」となっている。「裁き」これは「公平」に結びついているが、さらに「赦す神」「咎に報いる神」と続く。一つ一つを強調しない方がよいかもしれない。聖書全体で理解しないと。いずれも、一部分を表しているに過ぎず、かつある信仰告白なのだから。
- BRC2013:Ps99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。
- 主はもともと王。しかし、このように告白するのは、王として治められていることを告白することか。
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- BRC2021:Psalm 100:2 喜びながら主に仕えよ。/喜び歌いつつその前に進み出よ。
- 「喜びながら」が印象に残った。喜ぶことは、人に強いられたり、勧められたりするものではないだろうが、「喜びながら主に仕える」ものでありたいとどうじに、わたしにとって「主に仕えることは喜び」という日々と思えるときは本当に幸せである。わたしはどうだろうか。おそらく「主に仕えることは喜び」と言ってもよいと思うが、実際には、様々な痛みや、苦しみなどが、その思いを覆い隠しているように感じる。しっかり、内省してみたい。ゆったりとした気持ちで。
- BRC2019:Ps 100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。
- ここで言われている「真実」とは何なのだろう。「虚偽」ではないことか。「真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。」(詩編119:43)「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 」(詩編19:8)「主よ、あなたは近くいてくださいます。あなたの戒めはすべて真実です。」(詩編119:151)すばらしいものという意味だろうか。「わたしの真実」「あなたの(主の)真実」にも興味を持った。考えてみたい。
- BRC2017:Ps 100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。
- 「主こそ神」であることを「知れ」と言っているが、同時に「神」であることにおける、我々との関係がこのあとに続き、それを知ることに、導かれているように思われる。我々は主の被造物であること。今も、主のものであること、そして、主に日常的に養われている羊の群れであることである。牧者は、神、よい羊飼いは、イエス様。
- BRC2015:Ps100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。
- 主の真実とは何だろう。ひとつ分かるのは、わたしの真実は永遠ではないこと。それに、対するものとして理解することである。もう一つは、なにが起こっても、理解できないことがあっても、主は常に真実であるという告白だろうか。神は善い方、善いということばは、神だけに対して使われる言葉である。「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』 イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。』」(マタイ19:16,17)
- BRC2013:Ps100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
- 羊飼いと羊の様子をみてこのように告白しているのだろう。日本では、どのように表現できるだろうか。
[101] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 101:1 ダビデの詩。賛歌。/慈しみと公正を私は歌い/主よ、あなたに向かってほめ歌います。
- 慈しみと公正は愛と義だろうか。しかし、それは、個人がどのように生きるかについて言っているようにも思う。「私はこの地の誠実な者に目を向けます。/彼らは私と共に住みます。/全き道を歩む者が私に仕えます。欺きをなす者は/私の家の中に住むことはありません。/偽りを言う者が/私の目の前に立つことはありません。」(6,7)主の慈しみと公正について、もっと学びたい。同時に、この詩篇記者とともに「慈しみと公正」について語り合えたらと思う。お互いに、Welcome しあい、共に生きるために。
- BRC2019:Ps 101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。
- 「卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず」(3)このあとにも自らが行っていることが続く。期待をもって待つこと、そして、自ら、主を迎えるために、日々の生活を整えること。それが信仰生活なのかもしれない。「わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」(7,8)と判断が難しいものもあるが。
- BRC2017:Ps 101:7 わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
- この詩篇記者は、裁きの座にある、または民の指導者の地位にいる人のように思われる。「完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。 」(2節)からは、主を待つ姿勢とともに、家での働きが、完全な道について解き明かすもののすることとして描かれている。これが、引用箇所にもつながっている。小家族の現代を考えると、家といっても、もう少し大きな、職場・コミュニティなどを想定しても良いように思われる。そこでのマネージメントにおける適切な指導者の配置について述べられている。具体的に書かれている「完全な道」についての記述も、それが行動とともに書かれていることについて考えさせられる。
- BRC2015:Ps101:3,4 卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず 曲がった心を退け/悪を知ることはありません。
- 神の前にあゆむ、決意表明だろうか。神の業は命を与えること。私たちの業はその命をうけとり生きること。すこしヨハネ的かもしれないけれど。その命を生きることは、よりよく生きることと世の賢人が表現したことなのだろう。1節のほめ歌うことにつづき、2節には「完全な道について解き明かします。」となっている。みこころを理解する事とも通じているのかもしれない。自分を縛ることだけではなく書かれている。御心を知りたい。
- BRC2013:Ps101:3 わたしは目の前に卑しい事を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
- このように潔くいきたい。しかし、やはりわたしの生き方とは違うように思われる。なぜだろう。二番間の文章だろうか。
[102] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 102:24 主は道半ばで私の力を挫き/私の生涯を短くされた。
- このあとには「私は言う。/『わが神よ/生涯の半ばで私を取り去らないでください。/あなたの歳月は代々にわたります。』」(25)ともあり、先があまりないことを想起させる。病気だろうか。他の理由だろうか。わたしは、結婚前は、特に米国で、いまから考えると、かなり危険なことをいろいろとしていた。そこで、生涯が終わっていたかもしれない。そして、その後、子どもたちが小さかった頃、あとすくなくとも何年は生かしてくださいと祈っていた。いまはもう十分生き、いつ主に召されてもよいと正直思っている。しかし、特に、30代、40代に、この詩篇記者のような状態になったら、自分はどう向き合っていただろう。ひとの苦しみは、わからない。そして、自分の苦しむ姿が想像できないことが、他者の苦しみにより添えない理由でもあるように思う。
- BRC2019:Ps 102:19 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
- この詩編は「【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】 」(1)となっている。特に、「わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。」(4,5)と始まる部分は、心が痛い。しかし、引用句を挟む、13節から23節は力強い。それに続く後半の24節から29節は「あなたの僕らの末は住むところを得/子孫は御前に固く立てられるでしょう。」(29)で終わっており、非常に整っている。どのような詩編なのか、いろいろな人生の時期のものを集めたものなのか、考えてしまう。じっくり読むときをいつか持ってみたい。
- BRC2017:Ps 102:1 【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】
- 口語訳を主として読んでいたので、詩篇のこの部分にあまり注意を向けてこなかった。新共同訳では、この部分が第1節になっている。どのような起源があるのか分からないが、この表題はすごい。神の前の信仰者の姿、神が助けてくださるものの姿が現されているように思われる。
- BRC2015:Ps102:19 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
- この詩篇は難しい。あまりにもいろいろなことが書いてあり、なにを言おうとしているのかがよく分からない。その中で、この節が突出して見える。ひとの営みは御心をもとめて、全力で生きること。それは、その命を与えてくださる、カミオン素晴らしさを表現することなのかもしれない。
- BRC2013:Ps102:18 きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。そうすれば新しく造られる民は、主をほめたたえるでしょう。
- このビジョンには、驚かされる。この事はこの前の17節の「乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられないからです。」だろうか。新しく造られる民に希望を持つ。いま、それが成就しているのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 103:3-5 主はあなたの過ちをすべて赦し/あなたの病をすべて癒やす方。あなたの命を墓から贖い/あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。あなたの望みを良きもので満たす方。/こうして、あなたの若さが/鷲のように新しくよみがえる。
- 直前には「私の魂よ、主をたたえよ。/そのすべての計らいを忘れるな。」(2)とありその「計らい」について書かれている最初の部分を引用している。アーメンと言いたいところだが、なにか、こころからは言えない。それがわたしの性格なのだろう。わたしなら、どのように「主の計らい」を表現するだろうか。共に考え、悩んでくださり、どんなときにも、じっとそばにいて支えようとしてくださる。おそらく、わたしが表現しているのは、わたしがしっくり来ることではあるが、ほかにもいろいろとあり、他のかたがたには、また別の計らいが受け止められているのだろう。
- BRC2019:Ps 103:14-16 主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ/生えていた所を知る者もなくなる。
- 全体の中での位置づけはよく分からない。(自分を含む)ひとり一人に慈しみ深い主について語られ、引用句があり、そして「主の慈しみが主を畏れる人の上にある」(17)と告白し、賛美で終わっている。引用句のメッセージが理解できない事を感じると共に「主は(何を目的として)わたしたちを/どのように造」ろうとされたのかを考えてみたい。
- BRC2017:Ps 103:14 主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。
- 何を語っているのだろう。「どのように」なのだろうか。不明ではある。詩篇記者が知っていると言っているわけではないのだろう。しかし、このように告白することのなかに、神への信頼が表現されている。
- BRC2015:Ps103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
- このあとに、主のお計らいの内容が続く。罪の赦し、病の癒しと3節にあるが、このあとには「命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。」(4,5節)と続く。具体的にどのようなことを言っているのだろうか。思い巡らすことが多いが、いずれ考えてみたい。
- BRC2013:Ps103:12 東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
- この103に書かれていることは、驚くような表現が多い。一つ一つが2節にある「そのすべてのめぐみ」なのだろう。
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- BRC2021:Psalm 104:14,15 家畜のために草を/人間の働きに応じて青草を生やす方。/こうして主は地からパンと人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し/油で人の顔を輝かせる。/パンは人の心を強くする。
- 主がどのような方かを語り、賛美している詩篇である。青草、パン、ぶどう酒、油と出てくるのが興味深い。おそらく、いまは、素晴らしいものとして誉め讃えるものが、人工物に変わってしまっていることも、主にこころが向かないことなのかもしれないと思った。しかし、実は、この箇所だけではなく、現代では目が向かないが、様々なものに養われていることは確かで、人工物では立ち向かえない。人工物はひとの欲の部分に答えるものだからだろうか。ゆっくり、じっくり、恵みを数えてみたい。
- BRC2019:Ps 104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ/主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。
- 十分はこの詩編を理解できなかった。引用した、最後のことばは、アーメンと言いたいが、そうすると、すべての人が消え去ってしまうように思う。自分も含めて。わたしたちの祈りは「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)を含む、主の祈りにつきるように思う。
- BRC2017:Ps 104:10 主は泉を湧き上がらせて川とし/山々の間を流れさせられた。
- このことを見せていただこう。おそらく、目が開かれることによって、すでにそのようになっていることを見ることができるのだろう。わたしの身近なところでも。
- BRC2015:Ps104:15 ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。
- みなポジティブな影響を与えるものが書かれている。油は化粧に用いられたのだろう。これについては、実感がないが、ぶどう酒と、パンをこのように表現しているのは、興味深い。
- BRC2013:Ps104:34 どうか、わたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ。
- わたしの気持ちに違いが、本当は、主の思いが、わたしの喜びとなるようにと祈りたい。
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- BRC2021:Psalm 105:45 これは彼らが主の掟を守り/主の教えに従うためである。/ハレルヤ。
- 「主に感謝し、その名を呼べ。/もろもろの民に主の業を知らせよ。」(1)から始まり、引用句で終わる。中心には、アブラハムとの契約からはじめ、ヨセフのことと、出エジプトについて語られている。これらすべては、主のみこころに生きるためということだろう。それは、なにも、主の言いなりになるというわけではなく、完全な平和の中で喜びに満ちて生きることが言われているのだろう。同時に「主の僕アブラハムの子孫よ/主に選ばれたヤコブの子らよ。」(6)とあるが「もろもろの民に主の業を知らせよ」(1b)と、目は世界に開かれている。最後にハレルヤとあるが、次の詩篇は、ハレルヤで始まっている。
- BRC2019:Ps 105:15 「わたしが油を注いだ人々に触れるな/わたしの預言者たちに災いをもたらすな」と。
- アブラハムと結ばれた契約、イサクに対する誓い(9)ヤコブに対する掟(10)とし「宣言された/『わたしはあなたにカナンの地を/嗣業として継がせよう』と。 」(11)とある。しかし、引用箇所は、聖書には見られない。このあと、ヤコブの子らから、出エジプトと歴史の中での救いを記述し「それゆえ彼らは主の掟を守り/主の教えに従わなければならない。ハレルヤ。」(45)と結んでいる。個人の歴史、民族の歴史から、世界を見る目は、養われるのだろうか。どのように、普遍化が行われるのだろうか。考えさせられる。
- BRC2017:Ps 105:42 主は聖なる御言葉を御心に留め/僕アブラハムを御心に留められた。
- 人間的な表現ともとれるが、主はご自分の言葉、約束を忘れることはないということの表現だろう。神の言葉は、それが発せられたときに、成就することとも通じることか。人にはそれが実現したことが見えないことはあるとしても。
- BRC2015:Ps105:41 主が岩を開かれると、水がほとばしり/大河となって、乾いた地を流れた。
- Ex17:5,6には「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」とあるだけである。しかし、ここでは「大河となって、乾いた地を流れた。」との表現になっている。ヨハネ7:37,37「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」と呼応して興味深い。
- BRC2013:Ps105:44 主はもろもろの国びとの地を彼らに与えられたので、彼らはもろもろの民の勤労の実を自分のものとした。
- ここで「もろもろの国びとの地」という言葉が使われている。それはさておき、勤労の実をえることも、神が与えられたことであることを、ここで覚えているのか。そしてその目的が45節に続く。「これは彼らが主の定めを守り、そのおきてを行うためである。主をほめたたえよ。」
[106] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 106:47,48 我らの神、主よ、私たちを救い/国々から集めてください。/私たちはあなたの聖なる名に感謝し/あなたの誉れを誇ります。イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ。」
- 最後の2節、そして、写本によっては、第4巻の終わりである。前の105篇とも同じ記者なのではないかと思わされる継続性がある。105篇では主の恵みが、106篇では民の不従順のなかで守られたことが書かれている。引用句を見ると、国々に散らばっていることがわかる。細部は、十分読み取れていないが、美しい言葉も有り、捕囚後の苦しみの中で、105篇、106篇が書かれたと考えると、やはり、印象深い。
- BRC2019:Ps 106:32,33 彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。彼らがモーセの心を苦しめたので/彼がそれを唇にのせたからであった。
- これは、メリバの出来事(民数記20章7-13節)のひとつの解釈なのだろう。聖書に書いてあるからと絶対的な解釈とする必要はおそらくないと、個人的に考えるが、違った考えのひともいるだろう。「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。 」(23)このモーセに関するこの事件は、ゆっくり考えてみたい。
- BRC2017:Ps 106:14-16 荒れ野で欲望を燃やし/砂漠で神を試みた。主はその願いをかなえられたが/彼らをやせ衰えさせられた。 彼らは宿営でモーセをねたみ/主の聖なる人アロンをねたんだ。
- 最後のねたみについて書こうとしたが、15節のことばに引きつけられた。願いをかなえられるが、やせ衰えさせられる自分。人間の愚かさがよく現れている。欲望は、自分と神の関係を、自分とものの関係で見てしまう愚かさ、ねたみは、それを、他人との比較において見てしまう愚かさなのだろう。
- BRC2015:Ps106:23 主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。
- エゼキエル22:30には「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」とある。一般的には破れは城壁の破れに多く使われている。たしかにそれは町を守るためには、鍵となる。モーセの行為は何を意味するのだろうか。主との対話を通して、主の性質をよりよく表すためか。
- BRC2013:Ps106:23 それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは/破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。
- 「とりなし」は神の御心との同期以上のものを含むのだろう。神の御心が地上で行われるそのことを神に喜んでいただくことだろうか。神の御心が天で行われるように、地でも行われるようにシンクロナイズすることだろうか。そう考えると、「とりなし」というより「信仰に生きること」そのものかもしれない。ここで第4巻終了。
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- BRC2021:Psalm 107:6,8 苦難の中で主に叫ぶと/主は彼らを苦しみから助け出した。主に感謝せよ。その慈しみと/人の子らになされた奇しき業のゆえに。
- 6節と8節は、微妙なことばの違いはあるが、13節と15節、19節と21節、28節と31節にあり、その前に、背景が、その間に、どのように贖われたか(2)が書かれている。興味深い詩篇である。最初には「国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。」(3)とあるが、まさに、様々な背景のものが、様々に、主のもとに集められていることが表現されているのだろう。それこそが、主の民なのだろう。ゆっくり学んでみたい。
- BRC2019:Ps 107:1,2 「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
- このあとに、主に購われたひと、事例が続く。その最初には、「国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。」(3)とあり、そのような人々は、全世界におり、主のみもとに集まってきていることが説かれているようだ。その主は、どのような人を購うかについては、最後の方に書かれている。「主は貴族らの上に辱めを浴びせ/道もない混沌に迷い込ませられたが 乏しい人はその貧苦から高く上げ/羊の群れのような大家族とされた。」(40,41)必ずしも、お金持ち、貧乏人ではないにしても、この思想が底流にあることは、しっかりと受け止められるべきだろう。「正しい人はこれを見て喜び祝い/不正を行う者は口を閉ざす。知恵ある人は皆、これらのことを心に納め/主の慈しみに目を注ぐがよい。」(42,43)
- BRC2017:Ps 107:12 主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは倒れ、助ける者はなかった。
- 「主」が主語となっている。このように告白する詩篇記者は、どのような人なのだろうか。このあとには「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し/束縛するものを断ってくださった。 」と続く。自分には、どうにもならないこと。それを、実体の不明な「悪」や「悪魔」の仕業にせず、善いものを与えてくださる根源である神様に帰する。主の祈りの「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。 」(マタイ6章13節)について教皇フランシスが主が誘惑をもたらすと訳すのは聖書全体から考えると誤りだと発言したが、考えさせられる問題である。
- BRC2015:Ps107:9 主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
- 主の主権的なはたらきが、裁きと救い、導きと恵み、種種記されている。そして最後は「知恵ある人は皆、これらのことを心に納め/主の慈しみに目を注ぐがよい。」(43節)と締めくくられている。扱われている内容は広く、要点は、まだ把握できない。しかしこのような広さをつねに心に納め、主のはたらきに目を注ぐことも大切にしたい。
- BRC2013:Ps107:6 どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。
- 「彼ら」は2節の「主に(悩みの中から)あがなわれた者」である。そのような者が感謝をする。当然のことに思えるのだが。むろん、現実はそうではない。
[108] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 108:6,7 神よ、天の上に高くいませ。/あなたの栄光が全地にありますように。あなたの愛する人々が助け出されるように/右の手で救い/私に答えてください。
- 賛美は、苦難のときの祈りと一対であるように思われる。たしかに、何もないときの賛美は、薄っぺらになりやすい。そのときであっても、自らの経験や、周囲のひとたちの苦悩の中での賛美であるはずなのだろう。わたしも、祈りのときに、苦しんでいる人に思いをはせ、すくなくとも、思い出すようにしている。形式的になってしまうことも多いが、それでも、そのときをたいせつにしていきたい。
- BRC2019:Ps 108:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。
- 賛美から始まり、「シケム、スコト、ギレアド、マナセ、エフライム、ユダ、モアブ、エドム、ペリシテ」もすべて主のもとにあることが語られ「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」(11)が、引用句の前にある。苦しい状態が、語られているのだろう。人々は、その中をずっと生きてきた。それが、信仰の歴史なのでもあろう。いまは、ひとの責任で解決すべき事が多く、その外に目を向けることが、極端に減ってはいるだろうが。
- BRC2017:Ps 108:8 神は聖所から宣言された。「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。
- 正直、何が語られている不明であるが、イスラエルの領土を失いそうな状況が語られているのかもしれない。それがどの程度重要なことを、地理的にも、時代的にも離れているわたしには、分からない。しかし、ここに、その痛みを注ぎだして、神に訴え祈っている一人の人の存在は、身近に感じる。
- BRC2015:Ps108:13,14 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
- 人間の与える救いのむなしさを知っているこの記者はどのような人だろうか。わたしは、ここまで、はっきりと、神と共に力を振るいたいと言えるだろうか。神の価値観に本当に委ねることができるだろうか。この世で実感をもって把握できない、神の救いよりも、むなしさを多少感じてはいても、ある実感を持つことのできる、人間の与える救いを受け取ろうとしてしまうのではないだろうか。この弱さと戦い、神の救いを自分のものとしていく、日々の営み、それが神と共に力を振るい生きることなのかもしれない。
- BRC2013:Ps108:12 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいからです。
- この詩編は「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」と始まる。「いのち」の生き方を選び取る。そのことに「心が定まった」と言うことだろうか。
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- BRC2021:Psalm 109:3-5 憎しみの言葉が私を取り囲み/理由もなく戦いを挑んで来ます。私の愛に反して、彼らは私を訴えます。/私は祈るばかりです。彼らは善には悪をもって/私の愛に憎しみをもって報います。
- 今回は、なぜ、このように考えるのか考えてみた。わたしはそう考えないというわけではない。少なくとも、若い頃は、このような思考も一つの要素だった。いまは、自分がそうであるように、他者もいろいろな理由によって、あることを決断し、行動するのだろうと思っている。そして、その理由の殆どは、他者にはわからない。そして、自分でもわかっていないかもしれない。後に少し見えてくることもあるかもしれないが、わからないこともあるだろう。その背景のもとで、理由を、悪を、問題を特定することは、問題の解決に、近づく道ではない。かえってそれを遠くしてしまうように思う。共に、課題として、考えること、悩むことはできないだろうか。背景にあるもののいくつかは、そうすることができるかもしれない。難しいかな。これが、解決に近づける保証はまったくないのだが。
- BRC2019:Ps 109:3-5 憎しみの言葉はわたしを取り囲み/理由もなく戦いを挑んで来ます。愛しても敵意を返し/わたしが祈りをささげてもその善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます。
- このような状況は十分想定できる。しかし、そのときに、自分の正しさは、必ずしも、担保はできない。すくなくとも、わたしの場合は。背景が複雑なことが多いことも原因する。同時に、そのような困難や悩みを、神の前に開示しつつも、逃げることなく、それと向き合っていくものでもありたいと願っている。最終的な判断・裁きは神様に委ねて。
- BRC2017:Ps 109:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】わたしの賛美する神よ/どうか、黙していないでください。
- このあと「神に逆らう者」について語られ、20節あたりから、自らについての神の恵みについて語る。具体的な問題がある人との間にあったのではないかと思わされる。それを、神が黙っていないで、裁いてくださいという形での祈りになっている。わたしの感覚とは少し異なる。それは、何なのだろう。
- BRC2015:Ps109:31 主は乏しい人の右に立ち/死に定める裁きから救ってくださいます。
- 今日は、ただ、このことを感謝しよう。混乱とまでは、いかないが、限界も感じている。神様は、そのように導いておられるのかもしれない。わたしが本当に乏しい者になったとき、主を見ることができるのかもしれない。救いは、死以外になにも見えなくなったときに得られるのかもしれない。
- BRC2013:Ps109:2 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、偽りの舌をもってわたしに語り、
- この詩編は「わたしのほめたたえる神よ、もださないでください。」と始まり、最後までこの「彼ら」への訴えが続く。これが、同じ信仰者なのか、やはり、人の違い、おそらく文化の違いに驚かされる。
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- BRC2021:Psalm 110:5 わが主はあなたの右に立ち/怒りの日に王たちを打つ。
- 有名な詩篇である。マタイ22章44節、マルコ12章36節、ルカ20章42,43節でイエスが引用した以外にも、使徒2章34,35節、ヘブル1章13節でも引用され、イエスは主である、と証言しているように、理解されているが、イエスの引用は、ダビデの子ではないことの立証に使っているのであって、もしかするとずれているかもしれない。旧約聖書の記述、詩篇記者の記述を絶対化することは、危険であるようにも思う。この箇所も祈りであり、一般的には、ここで「私の主」とされている存在は、明確ではない。メシアはダビデの子かという問に限定して考えたほうがよいようにも思う。裁きは、本当に中心的なことなのだろうか。
- BRC2019:Ps 110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
- このわが主が、イエスなのかどうかは不明である。「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。 」(マタイ22:41-45、Cf. マルコ12:36、ルカ20:42,43、使徒2:34,35)神の子として生きることだけが、イエスのこころにあったのかもしれない。そして、わたしたちにも、誰かをダビデの子とするのではなく、神の子として生きることを願って。
- BRC2017:Ps 110:4 主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
- この詩篇は「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』 」から始まる。ダビデによせて「わが主」とは誰なのかが問われる。一つの鍵が引用した箇所である。これがイエス・キリストの預言なのか、これを預言とみて、解釈されたのかは、もう少し、注意してみる必要はる。メルキゼデクは創世記14章18節に登場し、ヘブライ人への手紙5・6・7章で引用されるまでは、この詩篇のみに書かれている。
- BRC2015:Ps110:7 彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。
- 彼はだれだろう。1節の「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」から考えると、マタイ22:43-45「イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」」このような有名な箇所でもあるので、メシヤのことだろうか。ここでも、大河から水を飲みと、水が現れる。知らなかった。
- BRC2013:Ps110:6 主はもろもろの国のなかでさばきを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる。
- このようなことは、私は望めない。たとえ、この人たちが、明らかに神に敵対する人たちであっても。
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- BRC2021:Psalm 111:2 主の業は偉大/それを喜びとするすべての人が求めるもの。
- このあとも、主の働きの偉大さが語られている。正直、同じようには、主の偉大さを讃えられない。なぜなのだろう。少しは理由はわかっているが。それなら、わたしは、主の働き、神様はどのような方かをどのように語るのだろうか。これも、最近、明確ではない。どんどん、わからなくなってきているというのが、正直な気持ちである。だからといって、神様から離れていっているともあまり思っていない。大きな反論はないのであれば、単純に、この詩篇の記者に心をあわせ、ハレルヤと叫ぶのもよいのだろうか。
- BRC2019:Ps 111:2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
- 当時と現代の違いは何なのだろうか。主の御業を尋ね求める人が、減っている。おそらく、日常生活において、人間にはどうにもならないこと、天候や、天災や、まったく未知の民族による略奪・侵略などが満ちている世界に人々は住んでいたのだろう。現代にも、人間にはどうにもならないこと、自分では解決できないことが山ほどある。しかし、同時に、情報が多く、ある程度の制御もでき、対応が可能になっている、その中で、これらの問題と対峙しているのだろう。日常的なことでは、倫理的な問題、個人のこころの制御の問題は、対応が難しい課題で、そこから、この問題を考えるようになっているのだろうか。自らの外に目を向けること自体が、難しいのかもしれない。出自を制御できないこと、過去の様々な営み、文化・歴史を背負って、生まれてきていることは確かであるにもかかわらず。
- BRC2017:Ps 111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
- 記念は、感謝の一つの表現の形態であるとともに、単なる自発的なものとは、異なり、思い出し、他者と共に感謝する機会を与えるものなのだろう。形式的になることを恐れるが、ひとにとって、基本的なことだと思う。
- BRC2015:Ps111:7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実
- ヨハネ5:21「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」これがイエスが行う神の業であるというのが、ヨハネにおけるメッセージである。この詩篇では、裁きとなっている。命を受け取るかどうか、それが裁きになると言うこととして良いのだろうか。もう少し、丁寧に確認したい。
- BRC2013:Ps111:10 主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。
- 「これ」は「主を恐れ」ることか。人に対する説明ではなく、神の前にたつとき、口を閉ざすしかなくなる。
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- BRC2021:Psalm 112:1,2 ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。彼の子孫はこの地で勇士となり/正しい人々として祝福される。
- この二節について考えた。正直、わたしは、こどもたちに、一定のことについては、家のルールとして厳しくしたが、それが、良かったのかどうかまったく不明である。信仰については、あまり、強くは言わなかったように思う。そして、今の子供たち。一人ひとりの成長、そしてその家族の状態、感謝している。それぞれに、様々な困難を抱えていると思うが。しかし、それで良かったのかと言われると、よくわからない。任せるしかない。委ねるしかないと思っているからか。おそらく、それだけでなく、こどもたちやその家族を、ひとびとのうち、近くに神様が置いてくださった何人か程度にしか考えていないからもあるように思う。自分のこどもたちという意識を極力、薄めたいと、こころの奥で考えているのだろう。たいせつにしてきた、公平さのゆえに。
- BRC2019:Ps 112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
- 昨日何気なく見ていたテレビで、ミャンマーのマンダレーで自分の商売は、9時からなのに、朝2時から準備して、たくさんのお坊さんたちに朝食を20年間、無償で提供している人(毎日1万5千円かかると言っていた)、すこしでも、たくさん喜捨できるようにと祈っている人など、功徳をたいせつにするひとたちが映し出されていた。来世でよい生活ができるようにとも言っていた。なにか、批判的な気持ちは、まったく起きなかった。自分にも返ってくることを願っているとしても、憐れみ深く、貸し与える人は良い人だと、わたしは思う。主も祝福されるのではないだろうか。あまりにも、この逆の人、知ってか知らずか、人の富を奪って生活することに何も疑問を感じない人が多いのだから。そして来世のことを考えることは、自分がこの世で完結する存在ではないことの自覚がある。次の世代に大きな負債を残すことになにも具体的な行動をおこさない多くの人たちを考えると、前世や来世の考えも、重要度が増すように思う。
- BRC2017:Ps 112:9 貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
- 1節には「主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人」とあり、4節には「まっすぐな人」5節には「憐れみ深く、貸し与える人」6節には「主に従う人」とある。9節はそのような人のことである。社会正義に係わることは、主の業をおこなうこと。そこに、宗教心といわれるものがあるのか。それとも、それとは、独立なものなのだろうか。
- BRC2015:Ps112:10 神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。
- 例えばヨブ12:6で「略奪者の天幕は栄え/神を怒らせる者/神さえ支配しようとする者は安泰だ。」とヨブが語るように、必ずしも、世の中で一般的なことではない。しかしもう少し深い意味があるかもしれない。この直前の9節には「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」特にこの前半である。このような価値観に生きる者の存在自体が、神に逆らう者の敗北といえるのかもしれない。
- BRC2013:Ps112:4 光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。
- すごい信仰。正しい者は「惜しげなく施す人」v9 かもしれない。おそらく、日常的な主への信頼を表しているのだろう。だからこそ、暗黒の中で光を認めること、神が働かれておられることを認めることができるのかも知れない。
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- BRC2021:Psalm 113:6 天にあっても地にあっても/低きに下って御覧になる方。
- 主についての描写である。続いて、7,8節と9節に例が挙げられ、最後 「ハレルヤ」で終わっている。例は、詩篇記者が具体的に思い描く人、または、経験とも関係しているのだろう。主との関係は、このようなもの、それ故に賛美に至るのだろう。わたしも振り返ると、主に祈り、答えを受け取り、力を得た経験をいくつか思い出す。それを、客観的に、主の働きと立証することはできないが、同時に、わたしの歩みの中で単なる偶然と消し去ることもできない。ひとは、そのように、力を得て、生き、生かされているものなのだろう。信仰はそれゆえに、共有には大きな困難が伴う。
- BRC2019:Ps 113:7,8 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。
- 弱いもの、乏しいものには、自由がない。その自由を主が与えてくださることが述べられている。これに続けて「子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」(9)この希望をもつことが、信仰なのか。しかし、現実は、単純ではない。せめて、互いに愛し合うため、弱いもの、乏しいものには、自由がないことを心にとめ、どのようにしたら、共に生きることができるか考え、なにかの一歩を踏み出すものでありたい。
- BRC2017:Ps 113:7,8 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。
- ハレルヤから始まる。わたしは、賛美をあまりしないように思う。それは、ここにあげられているような、神の業を見ていないからか、神がそのような方であることを信じていないからか。しかし、このようなことに、希望を持って生きていることは確かである。それだけで、賛美へと向かっても良いのかもしれない。それが、その希望を信じることであり、神の業を見る機会も得ることになるのだから。このような素晴らしい表現をもって、神様を賛美している友人を持っていることも、忘れてはいけない。
- BRC2015:Ps113:6 なお、低く下って天と地を御覧になる。
- 4節では「主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。」と述べ、その上で、この5節が語られる。「低く下って」とともに「天と地」と書かれていることにも興味を持つ。さらに、7節以降には、その具体的な神の働きが語られている。「弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。 子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」一つ一つ丁寧に学んでみたい。「自由な人々の列」も最後の記述も、わたしには、分からない事だらけである。
- BRC2013:Ps113:7,8 主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、 もろもろの君たちと共にすわらせ、その民の君たちと共にすわらせられる。
- 驚くべき信仰である。しかし、同時に、神とひととの隔たりは、詩編を詠んでいてとても大きいと感じさせられる。背景として、イエスによる神の顕現がわれわれの信仰に非常に大きな影響を及ぼしていると言うことなのだろう。
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- BRC2021:Psalm 114:7,8 地よ、主である方の前で身もだえせよ。/ヤコブの神の前で。それは岩を池に/硬い岩を泉に変える方。
- 出エジプトのときの奇跡が書かれている。しかし、引用句は、それを、表現したものと考えられないこともないが、そうではではないように思われる。岩を池に、硬い岩を泉に。乾燥地帯においては、これこそ、日常的に願うことだろう。そして、象徴的には、わたしたちにとっても、象徴的な意味で、伝わってくるものがある。「地よ、主である方の前で身もだえせよ。」という表現、すごい。
- BRC2019:Ps 114:1,2 イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。
- 最近、Multilingualism の本を読み、言葉と文化の問題を考えるようになった。ここで言われていることは、分離だろう。聖となることには、分離が重要な要素とされている。ここには、ユダとイスラエルが分けて書かれているが、最近学んでいる、Histroy of the World によると、ユダはアッシリアに協力して、イスラエルの滅びに至らせたとされている。たしかに、聖書の記述をみても、あまりにもあっさりと書かれている。兄弟をも愛せない、この分離の思想は、さまざまな分野にはびこっている。注意して考えなければいけない。
- BRC2017:Ps 114:2 ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった。
- この詩篇はいつごろ書かれたものなのだろうか。ユダを「神の聖なるもの」イスラエルを「神が治められるもの」と言っている。国として分裂していた時代なのだろうか。それとも、その時代を思い出して、捕囚または、その帰還後に書いたのだろうか。ユダヤ人たちにとって、神と民との関わりは、特別なものとして、語り継がれ、それが信仰の基盤となっていたことを、相対化することは、できないのだろう。この告白を、アーメンと受け取ることとしよう。同じ神様を礼拝するものとして。
- BRC2015:Ps114:8 岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
- 岩は水とは全く関係ない、水がでるとは考えられないとことなのだろう。そこから、水が溢れる。硬い岩が泉となる。ペテロを思うが、教会や、そして、神の子にもこのことが関係しているのかもしれない。これほど、詩篇に岩からの水が語られているとは知らなかった。
- BRC2013:Ps114:8 主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。
- この詩編は3節に「海はこれを見て逃げ、ヨルダンはうしろに退き、」ともあるように、出エジプト時の紅海およびヨルダン渡河の奇跡を背景としている。この8節もその一部と取れないこともないが、同時に、より身近な、現実世界における、神のおそるべきみわざを讃えているように思われる。
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- BRC2021:Psalm 115:17,18 主を賛美するのは死者ではなく/沈黙の国に下った人々でもない。私たちこそ、主をたたえよう/今より、とこしえに。/ハレルヤ。
- 死者の国、沈黙の国については、わからない以上、アーメンとは唱えにくい。しかし、まさに、このごちゃごちゃした現実の中でこそ、主に信頼し(9-11)日々、主を賛美するものでありたい。自らを、騙すことなく、裏切ることなく、誠実に歩みつつ。わからないことばかりだが。
- BRC2019:Ps 115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。
- 「同じ」は、その前の5節から7節「口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。」とあるが、厳密に神だとしているわけではないだろう。偶像をとおして、神とのコミュニケーションができるとしていた場合も多いと思われる。むろん、そのことが良いかどうかは別として、偶像礼拝批判には、問題も感じる。ここでは、「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(9)以下展開するが、自らが信頼するものを求めることがたいせつで、他の神々よりすぐれているからではないのではないか。
- BRC2017:Ps 115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。
- 「人の手が造ったもの」に依り頼み(4節)、「口があっても話せず、目があっても見えず」(5節)、「耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができず」(6節)、「手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」(7節)が「偶像と同じようになる」の中身なのであろう。人にすべての根拠を置き、それ以外のものに支えられていることを知らないとも言える。造ったものに魂が入るなら、魂を入れる方に目を注ぐべきなのかもしれない。しかし、信仰は、自分の中に救いがないことから発していることとも言える。すると本質は、偶像にはなく、自分の中にすべての解決を見つけようとする、自分を神とすることなのかもしれない。
- BRC2015:Ps115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。
- よくは分からないが「偶像と同じようになる」考えてみたい。「人間の手が造ったもの」(4節)に頼る。人間のそのものの大切さ、自然から学ぶことも含め、人間が理解できないことが多くあることを認めておらず、制限している。「口があっても話せず/目があっても見えない。 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。」(5節,6節)認識は、自分の中にないものを取り込むこと、自分の中であっても、見えないものを理解すること。それに目を閉ざすことは、自殺行為だと言うことか。
- BRC2013:Ps115:16 天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた。
- これは様々に解釈することができると思う。しかし、一つは、この地の営みに、人の子らは責任があることの意味しているように思われる。そして祈る。「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」Mt6:10
[116] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 116:9-11 主の前を私は歩む/生ける者の地で。私は信じる/「とても苦しい」とあえぐときも。「人は皆噓つきだ」と口走るときも。
- 「主の前を私は歩む」どんな時も。だろうが、その表現がとてもおもしろい。そして、身近にも感じる。このあと、どうなったかは、書かれていない。しかし、このように言うときも、主の前を歩んでいるのだろう。それが、信仰者の姿である。おそらく、わたしも、そうである。
- BRC2019:Ps 116:10,11 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
- 苦しむ現実があるのだろう。「死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして」(3)とある。「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」(9)とあるように、どんなときにも、わたしもこのように、告白して生きていたい。しかし、これらのことばも、上っ面をすべってしまうような感覚に、時々陥る。いのちの営みともつながり、論理やデータにおいても、整合性があり、他者と自由に語ることができ(パレーシア)、互いに愛し合いながら生きることが基盤にないといけないのではないだろうか。
- BRC2017:Ps 116:1,2 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
- 神様が望まれることは、主が為されることなのだろう。すると、ここでは、愛されることと、嘆きに耳を傾けることとなる。愛することよりも、愛されることの方が、難しいだろう。むろん、愛することも、簡単ではないことは確かだが。耳を傾けること。主は、仕えてくださっているのかもしれない。わたしも「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 」(9節)この詩篇記者とともに。それが「わたしたち」の告白になることを、直接的に求めるのは危険かもしれないが。
- BRC2015:Ps116:10,11 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
- 痛みの中では、考えることすらできなくなる。まして、人は必ず欺くと考え、不安の中にいるときはなおさらである。痛みや、不安そして、その背景にあるものをすべて神の御手に委ねる。それが9節で言っている「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」主の御前に歩み続けることなのだろう。わたしもそのように生きたい。
- BRC2013:Ps116:6 主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。
- 無学であっても、高慢になることはあるのだろう。ここには「わたしが自らを低くしたとき」と書いてあると思っていた。しかしそうではなかった。「わたしが低くされたとき」すべてが恵みなのだろう。しかし、すべてをそれでわたしが納得できているわけではない。また考えてみよう。
[117] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 117:1 主を賛美せよ、すべての国よ。/主をほめたたえよ、すべての民よ。
- 二節しかない詩篇。そこで、すべての国よ、すべての民と、賛美を促している。自己中心とみることもできるが、同時に、この神は、自分たちだけのものではないとの、信仰表明でもある。わたしは、そのように、言えるだろうか。いまは、わからないとしか言えない。
- BRC2019:Ps 117:1,2 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
- 117篇はこの2節ですべてである。賛美はその多様さからも日常的なものだったのだろう。その核が、主の慈しみだろうか。ヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness 2. a reproach, shame)よく分かるわけではない。日本語の「慈しみ(慈愛、恵み)」とはだいぶん異なった感じをうける。
- BRC2017:Ps 117:2 主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
- 「慈しみ」と訳されているのは、ヘセド(1. goodness, kindness, faithfulness, 2. a reproach, shame)とある。2 の意味はどのようなことなのだろう。「まこと」はエメス(firmness, faithfulness, truth, 1. sureness, reliability, 2. stability, continuance, 3. faithfulness, reliableness, 4. truth)とある。ヘブル語は、いつか、丁寧に学んでみたい。もう時は残されていないかもしれないけれど。
- BRC2015:Ps117:1,2 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。
- 2節しかない聖書でもっとも短い章である。目にとまるのは「すべての国」「すべての民」と全世界に呼びかけている点と「わたしたちを超えて」の部分だろうか。そこに賛美、ハレルヤが結びつけられている。現実には、受け入れられない様々な問題を前にして、主に委ねる部分も、この「わたしたちを超えて」に秘められているように思われる。
- BRC2013:Ps117:2 われらに賜わるそのいつくしみは大きいからである。主のまことはとこしえに絶えることがない。主をほめたたえよ。
- For His merciful kindness is great toward us, And the truth of the Lord endures forever. [NKJV], For great is his love toward us, and the faithfulness of the Lord endures forever. [NIV], For great is his steadfast love toward us, and the faithfulness of the Lord endures forever. Praise the Lord! [ESV] 慈しみとは何かと問われて、答えられなかった。英語は上のようになっている。ヘブル語は「ヘセド」In a good sense, ‘zeal’ toward anyone, ‘love’, ‘kindness’, specially of men among themselves. [Gesenius' Hebrew-Chaldee Lexicon]
[118] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 118:8 主のもとに逃れるほうが/人間に頼るよりもよい。
- 少し、このことについて考えてみようと思った。知恵にたよらず、主に祈る。人に頼らず、主のもとに逃れる。これらは、もう少し深く掘り下げないといけないと考えているからだ。困難ななかで、人に頼ることを最終手段とするのは、問題があるだろう。相手も生身の人間で、いろいろな環境のもとにあり、変化もする。しかし、人と協力してできること、人の力を借りることは、素晴らしいことだとも思う。主は、そのことを通しても働かれると思うからだ。知恵に頼らずも、主をとおして与えられ、自分の一部となっているものを最大限活用することを、主は喜んでくださるだろう。むろん、それも、祈りの中で、慈しみ深い主(1-4)が示してくださることなのかもしれないが。
- BRC2019:Ps 118:1-4 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。
- 「慈しみはとこしえに。」が続く。この詩編は最後にも「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(29)とある。慈しみとは、何なのだろうか。正直よくわからない。Strong の定義は kindness; by implication (towards God) piety; rarely (by opposition) reproof, or (subjectively) beauty:—favour, good deed(-liness, -ness), kindly, (loving-) kindness, merciful (kindness), mercy, pity, reproach, wicked thing. となっている。248回旧約聖書に現れるが、詩編に一番多く現れる。いつか、ていねいに考えてみたい。
- BRC2017:Ps 118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
- 同じことばが、1節と、歴代誌上16章34節、歴代誌下20章21節にある。あとの節は、「モアブ人とアンモン人が、メウニム人の一部と共にヨシャファトに戦いを挑んだ。 」ときにヨシャファトが主に御心を求めたときのものである。この信仰告白とともに、戦いに出ている。慈しみはもう少しよく理解したい。NIV は "his love endures forever” NKJV は "For His mercy endures forever.” NRSV と ESV は "his steadfast love endures forever!”
- BRC2015:Ps118:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
- 「慈しみはとこしえに。」が4回続く。慈しみとは何だろうか。ヘブル語ではヘセドである。goodness, kindness, faithfulness とともに a reproach, shame とある。Vines によると、in a good sense, zeal towards anyone, love, kindness, in a bad sense, zeal, ardor against anyone, envy hence reproach. なかなか難しい。いずれしっかり学びたい。ここは、KJV は mercy, ESV, NIV, RSV は (steadfast) love である。日本語の慈しみや、仏教における慈悲を連想させる。といっても、中身はよくわからないが。
- BRC2013:Ps118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。
- この歌は何回歌っただろうか。しかし、これが「家造りらの捨てた石は/隅のかしら石となった。 これは主のなされた事で/われらの目には驚くべき事である。」(22, 23) に続く節であることを意識したことは無かった。さらに、それは、その前の21節「わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。」から続いているように思われる。2/20 今年度最後の聖書の会は「ザアカイ」の話だったが、その一人の人の救いにも、この詩編の一節がよみがえる。私の救いも、このようなものだったと思う。主が設けられた日の出来事。
[119] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 119:124,125 あなたの慈しみにふさわしく/あなたの僕をあしらってください。/あなたの掟を教えてください。私はあなたの僕です。/私に悟らせてください/あなたの定めを知ることができますように。
- 律法、掟、戒め、教え、定め、諭し、仰せ、(御)言葉など、様々な言葉が使われているが、それが、どのようなものか、文字として、固定されたものかに興味を持って、今回読んだ。引用句以外にも、何箇所か、学ぶものとしての姿勢が明らかで、文字として書かれたもの以外にも、その背後にある意味、指し示すもの、そこには、書かれていない自然や経験から学ぶものも含まれているようである。わたしが時々表現する、御心に近いように思う。この美しい詩篇が、アルファベット詩で書かれているというのも驚きである。いまは、YouTube などで聴くこともできるが、やはり、その美しさを味わうことまではわたしにはできない。
- BRC2019:Ps 119:25 わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。
- この詩編には「命を得させてください。」という祈りが多いことが分かった。25節以外に、40節、77節、88節、107節、116節、114節、149節、154節、159節、他にも「命を得ることができますように。」(37)などもある。御言葉をもとめ、それを守ことの目的が、ここにあるのかもしれない。命を得ること。これは、神の命に生きることだろうか。この長い詩編をしっかりと読むことができる日は来るのだろうか。
- BRC2017:Ps 119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
- 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8章12節)とは、大分印象が異なる。イエス自体を光として従うことができる、それほど素晴らしいことはないとともに、大きな驚きであることも確かである。最後の言葉も印象に残った。「わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。 」(176節)ここでも、イエスが「善い羊飼い」であることを思い出す。
- BRC2015:Ps119:19 この地では宿り人にすぎないわたしに/あなたの戒めを隠さないでください。
- 詩篇119は「みことば」を中心に数え歌形式で書かれている。この句では「戒め」が「みことば」に対応するが、わたしの好きな「宿り人」という言葉に反応してしまった。口語訳では「寄留者」である。主の「戒め」意外に寄る辺とするものはない。それを隠さないでくださいと、御心を求める。そこにひかれるのだろう。他にもいくつもの御言葉が心に残るが、どのようにこの詩篇を学んだら良いか、困難も感じる。ゆっくり何日かかけて学んでみたい。
- BRC2013:Ps119:1 おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。
- この176節ある詩編の最後は「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。」で終わっている。この詩編のテーマは「主のおきて」であり「あなたの戒め」であるが、その道に歩むことが難しいこと、そしてそれは神の憐れみによって可能であり、迷い出たときに見つけ出してくださらなければ可能ではないことを証言している。いつか集中して学んでみたい。
[120] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 120:5-7 ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。平和を憎む者と共に/私の魂が久しくそこに住むとは。私が平和を語っても/彼らはただ戦いを好む。
- 「苦難の時に主に呼びかけると/主は私に答えてくださった。」(1b)と始まり、その苦難は「偽りの唇、欺きの舌」(2)から来ていることも書かれているが、最後は引用句で終わっている。「ああ、何ということだ」は印象的である。「メシェク・ケダル」をどう理解するかははっきりしないが、この交錯した思いが生き生きと描かれ、興味深い。こんな詩篇も面白い。
- BRC2019:Ps 120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
- 偽りや欺きから窮地に陥っているのだろうか。わたしの周囲の世界ではあまり、そのようなことは、見聞きしない。ユダヤではたくさんあったのだろうか。メシェクや、ケダルでの事なのだろうか。そうかもしれない。「平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。」(7)このことは、現代でもあるように、思われる。大きな不満が背景にあるのかもしれない。不公平に思えるような亀裂が。
- BRC2017:Ps 120:1 【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。
- わたしは、そのように、賛美することができるだろうか。共にいて下さるとは、信じているが。続きを読むと、この詩篇記者も、この節以外は、苦しみと、理不尽さを吐露している。最初は、信仰告白だとして良いのだろうか。
- BRC2015:Ps120:7 平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。
- 6節には「平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。」とあり、それは5節によると「わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」となっており、近隣との関係が嘆かれている。しかし遊牧民と農耕民との間には、常に戦いがあったろう。そのなかで、7節はどう理解すれば良いのだろうか。私には、よく分からない。
- BRC2013:Ps120:6 わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。
- これは単に戦争を好むということではなく、神の与えられる平安のうちに住むことを望まないと言うことかもしれない。
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- BRC2021:Psalm 121:5,6 主はあなたを守る方。/主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。昼、太陽があなたを打つことはなく/夜、月があなたを打つこともない。
- 美しい詩である。イスラエルのように乾燥した土地で、かつ、夜は寒くなると思われる場所では、このように、表現されるのだろう。この詩篇を読むと、自然の厳しさも伝わってくる。現代では、その意識が薄れてきており、そのことが、主の守りを認識する感覚も、鈍化させているのかもしれない。外を歩くとき、自然の中で、主を思うときを大切にしたい。
- BRC2019:Ps 121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
- 美しい祈りである。しかし、このあと「イスラエルを見守る方」とあり「あなた」はイスラエルを意味しているようである。さらに「昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 」(6)は、主の特別介入を求めているのだとすると、現代では受け入れがたいかもしれない。しかし、最後の節の「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(8)から思うのは、客観的になにが起こるかではなく、たいせつなひとをたいせつにしてくださいという願いの祈りなのかと思う。いろいろな読み方もあるのだろう。
- BRC2017:Ps 121:1,2 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
- 山々は何なのだろう。自然を見ているのか、押し迫る、困難の山を見ているのか。天地を造られた主以上のものは、ない。周囲の人たちも、この言葉を聞いては、何も言えないだろう。しかし、それで十分かどうかは分からない。
- BRC2015:Ps121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
- 2節は「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」とあり、これが全体の核にあるように思われる。しかし、この3節は「あなた」となっている。これは誰に向けられているのだろう。王なのかもしれない。しかし、何も書かれていないことを考えると、誰に対しても、適用できるともいえる。自分の確信ととりなし。共に都に上るときに口ずさむ。そのような実際の光景を見てみたい。
- BRC2013:Ps121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
- そうであれば、すべてのひとの助けも、この主から来ることは、明白であろう。
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- BRC2021:Psalm 122:5 そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられてあった。
- 都に上る歌(1)である。しかし、引用句は、過去形で書かれている。これにつながる表現も、王位が安定しているときではないことを想起させる。「エルサレムの平和を求めよ。/『あなたを愛する人々が安らかであるように。あなたの城壁の内に平和があるように。/あなたの城郭の内に平安があるように。』」(6,7)さらに続けて、「あなたの内に平和があるように。」(8b)「あなたに幸いがあるように。」(9b)とある。より普遍的なものへと移動しているようである。他者の、平和と、幸いを祈ろう。どのようなときでも。
- BRC2019:Ps 122:8,9 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」
- いくつかの発見がある。この長くはない詩編に「平和」が5回も現れる。そして最後は「幸い」で終わっている。完全な平和が幸いであり、平和はたんに戦争がない状態ではなく、神が良しとされる状態なのだろうか。平和(シャローム:1. completeness, soundness, welfare, peace, A. completeness (in number), B. safety, soundness (in body), C. welfare, health, prosperity, D. peace, quiet, tranquillity, contentment, E. peace, friendship a. of human relationships b. with God especially in covenant relationship, F. peace (from war), G. peace (as adjective))については、ゆっくり考えたい。「幸い」は、towb:good, pleasant, agreeable で、単に良いといういみのようだ。
- BRC2017:Ps 122:3 エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
- このエルサレムが、ユダヤ教と、キリスト教徒、イスラム教徒が結び合う都となる日が来るのだろうか。すべてを含みはしなくても、そのときには、エルサレムは、まさに、都として建てられたと言えるだろう。
- BRC2015:Ps122:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。
- このような連帯と喜び、わたしも共にしたい。わたしはその喜びが、共にできない人を裁くことになるのではと慎重になりすぎているようにも思われる。主をともに喜びたい。
- BRC2013:Ps122:1 人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」/と言ったとき、わたしは喜んだ。
- わたしも何人かの事を覚えて祈ろう。われらは主の家に行こうとかたりあう共をえるために。
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- BRC2021:Psalm 123:3,4 私たちを憐れんでください。/主よ、私たちを憐れんでください。/蔑みは飽きるほど受けました。私たちの魂は飽きるほど受けました/高ぶる者らの嘲りを/傲慢な者らの蔑みを。
- 激しい訴えである。この前には「見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように/女奴隷の目が女主人の手に向かうように/私たちの目は我らの神、主に向かう/主が私たちを憐れんでくださるまで。」(2)ともある。しかし、この巧みな表現にも関わらず、すこし冷めた感じがする。「都に上る歌。」(1a)からもそれを感じてまうからか。巧みな表現だからこそ、かえって、白々しさを感じてしまう。おそらく、最初に、この詩篇を書いたかたは、真剣に、主の憐れみを乞うていたのだろう。そちらにこころを向かわせたい。
- BRC2019:Ps 123:4 平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。
- 主の憐れみを乞うている。憐れみはカナン(chanan: I. to be gracious, show favour, pity A. (Qal) to show favour, be gracious B. (Niphal) to be pitied C. (Piel) to make gracious, make favourable, be gracious D. (Poel) to direct favour to, have mercy on E. (Hophal) to be shown favour, be shown consideration F. (Hithpael) to seek favour, implore favour II. to be loathsome)最初に出てくるのはヤコブがエサウと再会する場面。「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです。」(創世記33章5節b)「どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」(創世記33章11節a)どちらも恵みと訳されている。そしてもう一カ所は、ヨセフ物語である。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(創世記42章21節:助けを求めた)、「ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、『わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように』と言うと、」(創世記43章29節)感動の場面である。それは、背景があるからだろう、この引用箇所のように。
- BRC2017:Ps 123:2 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。
- これは、何を求めているのだろうか。指図を待っているのだろうか。ご褒美を待っているのだろうか。それすらも分からない。文脈からは、憐れみを待っているようだが。憐れみを待つとはどういうことだろうか。主よ憐れんで下さい。祝福だろうか。
- BRC2015:Ps123:3,4 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。
- 2節の「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。」から分かるように、救いは神からのみ来ることを知り、信頼している。個人的に、この詩篇記者の告白のようにまでは、嘲笑、侮りにさらされてはいないかもしれないが、理不尽さ、誤解などから、平安を保てなくなることはある。そのときに、この記者のように、神に憐れみを請う、そのように、わたしはできるだろうか。
- BRC2013:Ps123:1 天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。
- ひとにではなく「天に座しておられる方に」目をそそぐ。そのような者でありたい。
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- BRC2021:Psalm 124:4,5 その時、大水が私たちを押し流し/激流が私たちの上を越えていったであろう。その時、荒れ狂う水が/私たちの上を越えていったであろう。」
- 「もしも、主が我らの味方でなかったなら」(1b)で始まる。そこで、引用句。津波を思わせる。こんなことを、経験し、現実のものと思えるようなひとがいたのだろうか。急に水が湧くことは乾燥地でもあるだろうが、もしかすると、チグリス・ユーフタテスや、ナイルなどの大河の周囲で経験したことなのかもしれない。自分は経験していないとしても、東日本大震災(2011年3月11日)や、スマトラ沖大地震(2004年12月26日)のあとのように、なにか、目に浮かぶものがなければ、このようには、表現できない。両方とも、映像がはっきりと脳裏に刻まれている。
- BRC2019:Ps 124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
- このようなことは、殆どおきない。奇跡的に救われたと言うことか。それを告白することは、素晴らしいが、そうではない人たちも多くいただろう。歴史は、勝者が記録すると言われるが、勝者ならずとも、他者の多様な視点から、歴史を見るのは、とても難しい。
- BRC2017:Ps 124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
- これこそが、主が逃れさせて下さった、救いの表現なのだろう。「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」(8節)
- BRC2015:Ps124:3-5 そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。 そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。」
- 「敵意」は誰のものだろうか。おそらく、敵のものが想定されているのだろう。しかし、そうでないと理解することもできる。すなわち、わたしたちの「敵意」である。この詩篇は「イスラエルよ、言え。『主がわたしたちの味方でなかったなら』」と始まる。主が共におられることは、平和を与える。2節にあるように「わたしたちに逆らう者が立ったとき」にも。「大水」に「押し流」されることも「激流」が「超えて行」くことも。これらはすべて神の支配のもとにあるのだから。
- BRC2013:Ps124:7 主はほむべきかな。主はわれらをえじきとして/彼らの歯にわたされなかった。
- この詩編は「今、イスラエルは言え、主がもしわれらの方におられなかったならば、」と始まる。すこし表現に違和感はあるが、主が共にいてくださるとの約束のもとに生きる幸い、神のあわれみこそが、わたしの、日々を支えている。
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- BRC2021:Psalm 125:4,5 主よ、よい人々、心のまっすぐな人々に/幸いをもたらしてください。しかし、曲がった道にそれる者らは/悪事を働く者らと共に/主が去らせてくださるように。/イスラエルの上に平和があるように。
- わたしには、このようには、祈れない。よい人々の弱さと、曲がった道にそれる者らの、弱さとともに、背後にある困難な状況、複雑に絡み合った、要因に目が行くからである。それでも、その人の責任を問う部分は、ないとは言えない。同時に、その責任を問える部分は非常に限定的だとも思う。おそらく、限定的であっても、責任を問えるなら問うべきとの考えもあるのだろう。比較は困難で、尺度は、絶対的ではなくても、何らかの判断をして、行かないといけないのだからと。本当に、困難な問題である。人々の上に平和があるように。主の平和。
- BRC2019:Ps 125:4,5 主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。よこしまな自分の道にそれて行く者を/主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。
- 自然な願いではあるが、これが、イスラエルに平和をもたらすのだろうか。人々に平和をもたらすのだろうか。心のまっすぐなひとが常にまっすぐに生きられるわけではなく、曲がった道にそれる者、悪事を働く者が、常にその状態であることを願うわけではないはずである。同時に、その問題を引き受けることにこそ、人間への神様からの問い・使命があるのではないだろうか。主に寄り頼みつつ、平和を祈る。この詩編記者とも、似た考えの人とも共に語りたい。
- BRC2017:Ps 125:1 【都に上る歌。】主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。
- このあとも「山々はエルサレムを囲み/主は御自分の民を囲んでいてくださる/今も、そしてとこしえに。 」と続く。しかし、エルサレムもダビデがとった町、いずれは滅びてしまうことも知っている。シオンの山は、もう少し普遍的な意味があるのかもしれない。とこしえに座るから、なにか、神がそこにおられることが伝わってくる。
- BRC2015:Ps125:3 3:主に従う人に割り当てられた地に/主に逆らう者の笏が置かれるこ とのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。
- 1,2節では「都に上る歌」として「主に依り頼む人」とエルサレムの堅固さが対比されている。他方この3節では、そのエルサレムが占領されることと、主に従う人が悪に手を伸ばすことが対比されている。そのことが全くないとするのではなく、そうならないよう祈っているところに謙虚さと信仰を感じる。
- BRC2013:Ps125:5 しかし転じて自分の曲った道に入る者を/主は、悪を行う者と共に去らせられる。イスラエルの上に平安があるように。
- 新共同訳では「よこしまな自分の道にそれていく者」となっている。正しい主の道に歩み続ける者がこれに対応することばか。
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- BRC2021:Psalm 126:1 都に上る歌。/主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。
- 主語は、主である。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)と、最後に美しい言葉が有り、こちらが強調されることにより、ひとにスポットライトがあたってしまう。さらに、苦境における努力を訴えることにもつながる。すくなくとも、この詩篇は、そこに焦点はないだろう。とはいえ、このような、慰めは、そのときどきに、少なからず、力になることは事実である。それも、信仰なのかもしれない。
- BRC2019:Ps 126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
- 表題が何を意味するのか分からないが、この詩編記者は、都に上れる状態にあるのだろうか。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」(5,6)と喜びが重ねられ、主を賛美しているのだろう。歴史と文化は重い。そのひとと神様のつまりは、宗教そのものだろうから。
- BRC2017:Ps 126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
- すでに、祈りがかなえられたのかどうか、よく分からない詩である。しかし、その中でも、希望と喜びの歌が歌われている。涙が何を意味しているか分からないけれど。
- BRC2015:Ps126:1 1:【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/ わたしたちは夢を見ている人のようになった。
- 捕囚からの帰還について述べているのだろうか。そうすると、最後の5節6節「5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」を努力が報いられるととるのは、誤りである。あくまでも、神の憐れみによって、喜ぶのだから。
- BRC2013:Ps126:5,6 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
- 何か、一時点でのことを思い浮かべるが、これは、日常的なことなのかも知れない。
[127] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 127:3,4 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。/胎の実りは報い。若い頃生んだ子どもたちは/勇士の手にある矢のようだ。
- わたしは、子どもたちの存在をほんとうに感謝し、喜んでいる。そしていまも、こどもたちやその家族から多くを学び喜びも得ている。しかし、それを強調したくないとも思ってきた。単純に祝福と捉えることは、やはり、単純化で、還元論的な意味合いが強い。また、子どもたちは、自分のものというより、ある期間、預かっているという面が高く、成長してからは、隣人だと思っている。特別な隣人ではあるが。少なくとも「幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。/町の門から敵を追い払うときも/恥を受けることはない。」(5)とは思っていない。児童養護施設で接するこどもたちも、まったく同じようにたいせつ。関わっているものとして、悩みつつ、喜びを感じつつ、関わっている。わたしの近くにはいない、こどもや、隣人たちを思いながら。
- BRC2019:Ps 127:2 朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
- わたしも「朝早く起き、夜おそく休み」疲れ果てていることは、否めない。だから、むなしいとは思わないが、自分がなにか達成したいという思いは、いくら消し去ろうとしても、残ることも確かである。主に感謝をささげて、静かな眠りにつく生活を整えたい。形式だけではなく。
- BRC2017:Ps 127:1 【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
- 空しさは、二通りにとれるように思う。一つ目は、どんなに努力しても、主の仕事でなければ、簡単に瓦解してしまう可能性があること。もう一つは、なすこと自体が、主の仕事、それを、為しているのでなければ、なにをなすこともむなしいと言うこと。いずれにしても、このように、断言し、それを詩として、歌うことができることに、潔さと、驚きを感じる。
- BRC2015:Ps127:3-5 見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。 いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。
- 前半とのつながりは難しい。いずれじっくり考えたい。後半は、他者への配慮もあって、いままで取り上げてこなかったが、感謝の内に、このことばをアーメンといいながらとりあげたい。私は結婚もそれほど早くはないが、こどもたちは「主からいただく嗣業」だとこころから思っている。あまり強い願いを、こどもたちにかけなかった。自分のものではないと最初から考えていたからだ。しかし同時に、神様についての伝え方はもっとほかにあったのではないかと、何度も考えた。わたしの信仰を顧みると、十分証になっていないことは容易に想像がつくから、こどもたちによい影響をあたえていないことは事実なのだろうが。それでも、自慢(人から見るとそうかもしれない)をしているわけではないが、こどもたちに誇りを持ち、ひとと語れることは事実である。わたしは、心よりの感謝を抱いている。
- BRC2013:Ps127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
- この言葉には違和感がある。一つには、子供を戦いの道具としての矢にたとえること、もう一つは、子供のない人が多い社会に住んでいるから感じることか。しかし前者は、時代のずれを持ちながら共に生き、夢と神への信頼を共有する言葉だと考えれば良いかも知れない。後者は、マタイ18:1-5、19:1-15 を考えると、基本的な神の祝福と、個々のひとへの配慮を併せて考えることが大切だと言うことなのだろうか。
[128] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 128:3,4 妻は、家の奥にいて/豊かな房をつけるぶどうの木のよう。/子どもたちは、食卓を囲んで/オリーブの若木のよう。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
- このように見ることは、おそらく、自然なのだろう。主を畏れるものかどうかは、本来は、家族が、こどもたちが、祝福をうけとるかどうかにかかっているように思う。それもまた、難しいことだが。家族で、感謝し、祝福を受け取れるかどうかには、主を畏れることが関係していると思う。その延長線上に、引用句のような告白があるのかもしれない。こどもたちに、主を畏れることを伝えることに関しては、ずっと、躊躇と悩みがあった。他者の悩みとは異なるのかもしれないが、神を畏れるゆえに、悩むこと、かつ、神や聖書についても、わからないこと、どちらかというと、反発を感じることが多かったから。それでも、子どもたちが、主を畏れるものであってほしいと強く願うのだが。
- BRC2019:Ps 128:1,2 都に上る歌。/幸いな者/主を畏れ、その道を歩む人は皆。あなたの手が苦労して得た実は/必ずあなたが食べる。/あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。
- 裏返しの現象があったのだろう。苦労して得た実を自分では食べられない。幸せを、恵みを感謝するに至らない。しかし、単純な因果関係では現すことができないことも、おそらく当時もたくさんあったろう。しかし、これは、そのような論理や事実を語ったものではなく、讃美歌なのだろうか。
- BRC2017:Ps 128:1 【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。
- 主を畏れることと、主の道に歩むこと、これこそ、信仰者の道のように、思われるが、詩篇でこの組み合わせは、ここだけのように思われる。主の道を歩むとは、主が備えられた道という意味と、主が喜ばれる道という意味と両方あるのだろうか。主を畏れることについては、十分理解できていないのかもしれない。いつか、学んでみよう。
- BRC2015:Ps128:1,2 【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。 あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。
- 幸せであることは「(自分の)手が労して得たもの(が)(自分の)食べ物となる」こととある。遊牧民が互いに略奪していた時代だからともいえるが、人生の労苦が、祝福として見ることができることは、どの時代にも幸せであろう。わたしも、何度も、多くの時間をかけたことが、引き継がれず、水泡となったことを経験したが、それから学んだことも事実である。主を畏れ、主の道に歩んでいきたい。
- BRC2013:Ps128:3 あなたの妻は家の奥にいて/多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んで/オリブの若木のようである。
- なんでも普遍化して考えてはいけないのだろう。この詩編記者が考えた「さいわい」(v1) が、2節の「あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。」に表現されているだけなのだから。では、わたしはどのように表現するだろうか。普遍的な言葉を使うメリットと、個人的な告白の大切さ、両方あるだろう。
[129] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 129:2,3 「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。/しかし、私に勝つことができなかった。悪しき者らは私の背に鋤を当て/長い畝を作った。」
- 前半はある程度想像できるが、後半の表現がよくわからない。私を傷つけようとしたが、実際には、人生の溝を掘り、より豊かなものにしたということだろうか。英語では "Plowmen have plowed my back and made their furrows long." (NIV) となっており、わたしに傷つけながら、得を得たという解釈のようだ。しかし、そのような歴史の中で、キリストによる贖いがもたらされたとのメッセージもあるようだが、そう考えると、わたしの、最初の解釈も、Their Furrows かどうかは言語的にしらべる必要があるが、あながち外れてはいないようにも思える。誰の畝なのかは、あまり重要ではないのかもしれない。
- BRC2019:Ps 129:1,2 【都に上る歌。】イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。
- 「彼らはわたしを苦しめ続けたが」が繰り返されている。外部・他者からの圧迫の中で生きてきた、それが平安を破壊していた。しかし、ということだろう。他者の行為に自分の苦しさの根拠を求めることは、一般的には問題があるだろうが、そうしか言えない、状況と、こころの痛みがあるのだろう。正しさから批判はできない。「イスラエル」となっている。この存在自体が、様々な軋轢を生んでいたのだろう、それは、主をこころから礼拝していたからだろうか。難しい問題である。
- BRC2017:Ps 129:3 耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った。」
- 「イスラエルは言うがよい。」とあり「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが 」が二回繰り返されている。それに続く節である。苦しみが、畑を耕し、次の実りの準備であることを言っているのだろう。そして、主に信頼すべきことを、教えている。世を教えるメッセージという詩篇の役割もあるのだろう。
- BRC2015:Ps129:4 主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。
- あまりよくは分からないが、主に逆らう者から自由で得られるのはすばらしい。いつでも、主に従う状況が整っているともいえる。世の中には複雑な難しいこともあり、そこまで告白できない、現在の複雑さと、個人的な信仰の弱さを感じる。まさに主が断ち切ってくださることに信頼することが求められているのだろう。
- BRC2013:Ps129:6 彼らを、育たないさきに枯れる/屋根の草のようにしてください。
- わたしは、こうは祈れない。なにが違うのだろう。このように、祈る心を理解できなければ、聖書が理解できないだろうか。
[130] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 130:3,4 主よ、あなたが過ちに目を留めるなら/わが主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあります。/あなたが畏れられるために。
- 事実として、そのとおりと読んでいたが、神様の側には、べつの論理があるのかもしれないと最近考える。主のみこころは、正しさではなく、互いに愛し合うことであるなら、そして、それは、主と、我々、そして、人間同士も同様な交わりをと望んでおられるなら、過ちも、そして、赦しも、べつの意味を持ってくるだろう。そして、おそらく、互いに愛し合うことは、その場で終わるものではなく、広がりをもっていくものなのだろう。そこに、答えは、終わりは見えない。「私は主を望みます。/私の魂は望みます。/主の言葉を待ち望みます。私の魂はわが主を待ち望みます/夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。」(5,6)わたしも、このように、祈りたい。みこころを求めて。
- BRC2019:Ps 130:3,4 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
- 主にのぞみを持つことができる根拠は、ここにあるのだろう。罪をすべて裁かれることには耐え得ない。しかし、そこで終わるわけではない。この詩編は非常に美しい後半が続く。「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」(6)待ち望む、ここには、心が分裂していない、清さと、身を委ねる服従と、信頼があるのだろうか。他は、何だろうか。
- BRC2017:Ps 130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
- 赦される方。愛される方。捨てない方。これは、共有されていたのだろう。それが希望を生む。しかし、あくまでも、神の主権のもとでである。
- BRC2015:Ps130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
- 「【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」と始まる。「深い淵の底」ということばにまずひかれる。3節には「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」とあり「赦しが主のもの」であることが4節に書かれている。7節の「贖い」は何を言っているのだろうか。罪の購いだろうか。それとも、買い取られた状態からの購いだろうか。購いひとつについても、わたしは何も理解できていないことを感じさせられる。
- BRC2013:Ps130:7 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
- これが信仰。わたしも、この人と共に、あなたを呼ぶ。主よ、あなただけが希望です。あなたを待ち望みます。
[131] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 131:1 都に上る歌。ダビデの詩。/主よ、私の心は驕っていません。/私の目は高ぶっていません。/私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。
- 最後の言葉が印象的である。それこそが、驕(おご)らない、高ぶらないことだと言っているのだろう。'God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed'(神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。)で始まるラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の Serenity Prayer を思い出させる。これを深めたものなのかもしれない。ゆっくり、ニーバーの祈りも考え、味わってみたいが、まずは、この詩篇とも向き合いたい。自分には、すべきことが他にあると、受け取ることをまずは考える。他には、わからないことをわからないこととし、神を訴えることをしないということもあるだろうか。丁寧にかんがえると、なかなか難しい。
- BRC2019:Ps 131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
- マザーテレサのカレンダーにあったことば「大きな事をする必要はありません。小さな事に大きな愛を込めればよいのです。」"You do not have to do anything great. Do a little thing with great love.” を思い出す。ひとは、大きなこととは言わなくても、自分がすべき特別なことがあるはずだと、それを探し求めることが多いのではないだろうか。この詩編は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。」(2)と続く。幼子は、母の愛をうけることだけを考えているのだろうか。少なくとも、多くのひとから評価されることは求めていないだろう。「主を待ち望め」(3)とあるが、難しい。
- BRC2017:Ps 131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
- この謙虚さを、わたしは、たいせつにしたい。人生を丁寧に、神に向かって生きるために。わたしもこう言いたい。「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」
- BRC2015:Ps131:2 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。
- 「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。」から始まるこの詩篇で「幼子のように」は驕らないことの象徴として語られていると思われる。イエスが「言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3 および 4, 5, 19:13-15)で「子供のように」と言っているのと同じだろうか。「幼子のように」はパウロの書簡で二回使われる以外は、聖書でここだけである。傲慢についてのこの詩篇は興味深い。
- BRC2013:Ps131:1 主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。
- これこそが「敬虔」の表現かもしれない。人は、力のおよぶことを、ていねいにする責任を担っています。
[132] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 132:11,12 主はダビデに確かな誓いを立てられた。/主がそこから引き返されることはない。/「あなたの胎の実りの中から/あなたの王座に着く者を定める。あなたの子らが、私の契約と/私が教える定めを守るなら/その子らも、永遠にあなたの王座に着くであろう。」
- 「都に上る歌。/主よ、ダビデを思い起こしてください/彼が受けた苦しみのすべてを。」(1)と始まる。儀式的な要素が強いように思う。引用句は、サムエル記下7章12節-16節 が背景にあるのだろう。しかし、祈りの答えとして記されていることを文字通り受け取ったり普遍化することは危険でもある。同時に、イスラエルの人たちにとって、この約束をたてに、神に訴えるというより、ここに、希望の拠り所を求めていた面は強いのだろう。宗教の難しさも感じてしまう。影響を考え、その後の歴史を見ていると、素直に受け取ることはどうしてもできない。
- BRC2019:Ps 132:13 主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。
- シオニズムの原点となったような言葉で、問題だともとらえるかもしれないが、イエスを通しての福音、律法の完成を求めて、生きることによって、それを克服することができるのかもしれない。聖書のみが、Biblical Literalism となることは、自然である。しかし、論理的帰結ではなく、必然ではないのだろう。
- BRC2017:Ps 132:8 主よ、立ち上がり/あなたの憩いの地にお進みください/あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。
- シオンを示している。普遍性と民族性、この後者のなかで、語られるとき、常に、違和感を感じるが、それこそが、そこに人がいる証拠なのだろう。主体が失われては、生きていないのと同じなのだから。
- BRC2015:Ps132:17 ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。
- ダビデの謙虚さ(1節)から始まる。それは、神殿建設への希望を語っている。それを受け継ぐ者として、油注がれた者を望んでいるのだろう。メシヤはこの系譜なのだろうか。
- BRC2013:Ps132:14 「これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む。
- これは「シオン」である。いまも、物理的に、この約束が続いているのだろうか。
[133] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 133:1 都に上る歌。ダビデの詩。/兄弟が共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。
- 最後は「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。」(3b)で締めくくられている。「そこ」はその直前の比喩として書いた場所とともに、最初の「兄弟が共に住む」にかかっているのだろう。口語訳の「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。」に馴染みが強く、新共同訳の「【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」も覚えているが、ここでは「住む」となっている。「共にお(居)る」「共に座っている」「共に住む」と少しずつ、継続性が強調されているように思う。真意は継続性にあるように思う。兄弟も、ある程度広い関係の範囲が想定されているかもしれない。共に住む、その日常に、様々な軋轢が起こりそうな状況を想像する。「共に」の深さを感じる。
- BRC2019:Ps 133:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
- おそらく、このような状態がいつもあるわけではないのだろう。兄弟が共に座っている。なんと難しいことか。それこそが、恵み、喜びである。その現実を思いつつ、この詩編も味わいたい。
- BRC2017:Ps 133:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
- 肉親の兄弟のことからあまり思いが発展しなかったが、そこに限定されるものではないだろう。まさに、互いに愛し合う状態がここに表現されているのだろう。最後は、なんと「主は布告された/祝福と、とこしえの命を。 」(3節)永遠の命の宣言で終わっている。驚かされる。
- BRC2015:Ps133:3 ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
- 「シオンの山々に滴り落ちる」は2節の「かぐわしい油」である。そして1節は「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」と始まっている。その中で考えると、主が布告される「祝福と、とこしえの命」の重さも感じる。
- BRC2013:Ps133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。
- イエスが「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。」とマタイ23:8で言っているように、兄弟は、肉親の兄弟よりひろい兄弟を想定しているとしてよいだろう。しかしそう考えると、これは、大変な事である。この詩編は「これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」と終わっている。主が祝福を「命じ」られ「命を与え」られたには、驚かされる。もう少し考えてみたい。
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- BRC2021:Psalm 134:1 都に上る歌。/さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。/夜通し、主の家に立つ人たちよ
- 「夜通し、主の家に立つ人たち」がどのようなひとか不明であるが、霊的な意味に受け取ることも可能かもしれない。「主の僕たち」の中にも、さらに、「夜通し、主の家に立つ」ことを言っているのかもしれない。新共同訳では「夜ごと、主の家にとどまる人々よ」、口語訳では「夜、主の家に立って/主に仕えるすべてのしもべよ」ということばが使われている。言葉通り取ろうとするとかなり印象がことなるが、その共通部分に目を向けるのもたいせつなのかもしれない。「夜ごと、様々な課題に向き合おうとする」わたしの生活とは、やはり、かなり異なるように思う。簡単に、善悪を判断しようとは思わないが。
- BRC2019:Ps 134:1 【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
- この詩編は、133程、批判的な視点から読まなくても良いだろう。しかし、単純ではないことも、確かである。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 」(ヨハネ2章23節〜25節)
- BRC2017:Ps 134:1 【都に上る歌。】主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
- 「夜ごと」とは、主の家が宿となるのだろうか。昼は、そこから、送り出されるのだろうか。それが、主の僕。主をたたえるもの。そのようなものの一人でありたい。
- BRC2015:Ps134:3 天地を造られた主が/シオンからあなたを祝福してくださるように。
- 天地創造の神を主とする宗教はおそらくいくつもあるだろう。しかし、それがどのような意味を持っているかまで、発展する段階で、質が問われるのだろうか。難しい。
- BRC2013:Ps134:1 見よ、夜、主の家に立って/主に仕えるすべてのしもべよ、主をほめよ。
- 毎晩、灯火を絶やさず、宮を守っている祭司がいたのだろう。驚かされる。形式的などと、排除することではないだろう。謙虚にさせられる。
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- BRC2021:Psalm 135:3,4 ハレルヤ、主はまことに恵み深い。/その名をほめ歌え。その名はまことに麗しい。主はヤコブをご自分のために選び/イスラエルをご自分の宝とされた。
- 主の素晴らしさをほめたたえること。あまりわたしはしていないかもしれない。感謝は常にある。引用句の後半は、この感謝に当たるのかもしれない。この事が、主の恵み、その名をほめたたえることの根拠のたいせつな部分に、なっているのだろうが、それは、この詩篇記者にとって、と言っても良いかもしれない。この後半は、受け取り手によって異なる。わたしも、主が導いてくださり、生かしてくださったり、誤解を恐れず書くなら、ご自分の宝のように愛してくださったことに感謝し、それ故に、主はまことに恵み深いとこころから思う。あまり違いは無いのかもしれない。このことを、他者に敷衍(ふえん:おしひろげること。展開すること。)するときにていねいにしないといけないのだろう。自分の経験と理解が根拠になっているから。ほめたたえることに躊躇があるのは、他者に敷衍する部分が、そう簡単にはできないと考えているからだろう。
- BRC2019:Ps 135:15 国々の偶像は金や銀にすぎず/人間の手が造ったもの。
- 最近、The History of the World Podcast を聞いていて、学問的にも、ユダヤ人の起源や、一神教、像を持たないことなどがどのように成立したかがよくわからないのだということに興味を持った。それは、聖書においても、あまり明確ではないように思う。ただ、聖書によれば、出エジプト以来は明文化されたことになっている。明文化は、継続性を生んだのだろう。むろん、様々なことが起こるわけだが。父と呼ぶ、アブラハムはどうだったのだろうか。神を、そして自らの存在を知るようになっていく、歩みでもあるのかもしれない。
- BRC2017:Ps 135:6 天において、地において/海とすべての深淵において/主は何事をも御旨のままに行われる。
- 難しい課題に追われているように感じるときが多い。そのときにこそ、神の働きに信頼すべきなのだろう。天、地、海、深淵について、当時の人たちがどのような感覚を持っていたのかは分からないが、そのスケールは、理解できるように思われる。これを、宇宙と言い換えても、全く意味は無い。すべての深淵において、御旨のままに行われる主に委ねたい。
- BRC2015:Ps135:1 ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を/賛美せよ、主の僕らよ
- 詩篇は祭りでの賛美にも多く使われ、今でもいくつも使われていると聞くが、この詩篇もそのような目的があるかもしれない。個人の信仰告白とともに、民としての賛美の要素を軽視すると、理解できないことも多いのだろう。キリスト教会には、なかなか理解しにくい部分だが。
- BRC2013:Ps135:3 主は恵みふかい、主をほめたたえよ。主は情ぶかい、そのみ名をほめ歌え。
- これは恵まれているから、憐れまれているから、このように言えるのだろうか。そうではないのだろう。主の御業をずっと見ているから。様々な御業をみているから、このように言えるのだろう。どうぞ、主のお働きに目をとめるようにさせてください。
[136] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 136:1 主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。
- 感謝することは、一人ひとりにとって異なるだろう。同時に、共に、感謝できることは、素晴らしい。それは、共通の、体験をしているからだろうか。それができない状況で、共に、感謝することはできるのだろうか。それが、宗教なのかもしれないが、やはり、不安が残る。人間が文字とした事柄の正しさが根拠となる部分が大きいからである。少しずつ、共に、感謝することを広げていくことはできるかもしれないが。本当に、難しい。普遍的な真理とは何なのだろう。それは、主に関することでどのように表現できるのだろうか。
- BRC2019:Ps 136:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
- 非常に短いが、慈しみはとこしえにが繰り返されているので、ヘブル語をみてみた。最初の恵み深いは、おそらく、Tob で良い、あとの、慈しみは、Hesedo で憐れみのようだが、原文を特定するのも難しく、聖書の学びの先は長いと感じた。ギリシャ語も、ヘブル語も、理解できるようにはならないのかもしれないと思う。でも少しずつ学んで行きたい。
- BRC2017:Ps 136:23 低くされたわたしたちを/御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
- 出エジプトについて語り、最後に一般的なことを讃えている。わたしは、どのように、神を賛美するだろうか。確かに、普遍性ばかりを中心とするのではなく、このようなものをもひとり一人こころに留めてくださる神を見失っては、神の愛を理解することは、決してできないのだろう。難しさもある。
- BRC2015:Ps136:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
- この詩篇の中に多くの思いが込められていると思う。ひとつひとと味わいたい。そのこころが、祭りでの賛美、過越の食事での賛美につながっていったのだろう。ひとつひとつの神の慈しみを覚えること、それは、人にではなく、神に目を向けることであり、私たちにとっては、慰めであり、喜びであり、希望でもある。
- BRC2013:Ps136:23 われらが卑しかった時に/われらをみこころにとめられた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
- 「いつくしみ」は「ヘセド」の変化形である。この前半には、驚かされる。詩編のようなところだからこそ、自然に、このような言葉が含まれているのか。
[137] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 137:8,9 娘バビロンよ、破壊者よ/幸いな者/お前が私たちにした仕打ちを/お前に仕返しする者は。幸いな者/お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は。
- 恐ろしいことばが書かれている。特に、後半は、目をそむけたくなる。しかし、怒り、憤りがこころに溜まっていることを非難はできない。このようなことばは、決して言ってはいけないと自戒の念をもって心に刻み、この詩篇記者にも、時を待って、語り合えるようになりたい。そこに、神様の御心を求めるプロセスがあるように思う。そして、おそらく、このようなプロセスを通して、学ぶことがたくさんあるのだろう。怒り、復讐心なども、その方の尊厳を形成するものなのだろうから。単純な拒否ではないことを学びたい。
- BRC2019:Ps 137:1,2 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
- 悲しい詩である。それが伝わってくる。しかし、今回は、このようなことは、世界中のひとたちに、あるのだろうと思った。パレスチナの人たちにも、キリスト教徒から、迫害されたひとたちにも。もう一つは、シオンへの思いが強いこと。わたしは、いろいろな場所を移動してきたこともあり、ふるさとはない。それでも、多くの問題はあっても、日本に心地よさを感じるが。それこそが、自分の帰属場所なのかもしれない。そして、それは、いろいろな形で多くの人たちにあるのだろう。
- BRC2017:Ps 137:1 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。
- わたしは、泣けるだろうか。おそらく、いまは、泣けない。自分の姿を見つめられていないから。あるべき姿を、見ていないから。感謝の根拠を確認していないから。希望をしっかり持っていないから。そのなかで、人生の終焉と向き合おうとしていてよいのだろうか。
- BRC2015:Ps137:1-4 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。 どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。
- 嘆きが伝わってくる。しかし、同時に、限定的な状況について語っていることも注目すべきだろう。賛美をしないと言っているわけではない。柳の木に掛けたという言葉も、永続的なことではないことの表現でもある。主のための歌を結局このように歌っているのだから。
- BRC2013:Ps137:9 あなたのみどりごを取って/岩になげうつ者はさいわいである。
- この「あなた」は「エドム(近隣の敵)」や「バビロン(遠国の敵)」への復讐をこめて使われている言葉だろう。新共同訳では「おまえ」となっている。しかし、真の平和の到来には、イエスが「岩になげうたれる」ことが必要だったのかも知れない。
[138] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 138:3 私が呼び求めた日に答えてくださった。/あなたは私の魂を力づけてくださる。
- 背景やどのような祈りなのか不明であるが、このようなことがあれば、主に感謝し、主をほめたたえたくなるだろう。それに対して、あれこれいうのは、不適切である。良かったね。といいつつ、共に、横に座って、そのときのことを、もう少し一緒に考えるときが持てればとも思う。いろいろな時があり、それをうけとめる一人ひとりに様々な状態がある。その中で、感謝し、主のみこころを探っていきたい。
- BRC2019:Ps 138:6,7 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
- すばらしい、信仰告白だと思う。しかし、背景としてあるのは、主は、ひとり一人を愛し、心にかけておられると言うことなのかもしれない。この敵さえも、こころにかけておられるのだろう。主に信頼して生きることは、しかしながら、自分を愛して、慈しんでおられることを抜きにしては語れないのだろうが。むずかしい。
- BRC2017:Ps 138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
- 命を与えてくださるのが、神の業。その神様としっかり向き合いたい。「主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。 」(6)とわたしは、告白できるだろうか。
- BRC2015:Ps138:3 呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。
- 2節前半の「聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。」を見ると、今と異なることも感じるが、解放してくださり、力を与えてくださる主、その主を呼び求め、希望を置くことは、変わらない。詩篇の時代の信仰者も、わたしたちも。いのちを与えてくださる主。そのいのちに生きることを一生学んでいきたい。
- BRC2013:Ps138:7 たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。
- 「わが敵の怒りを防ぎ」は特別な意味合いを感じる。敵かどうかは別として、人の心に起こることは、わたしには、制御できない。そして、それが恐れていた方向に進まなかった経験をたくさん持っている。この背後にも神がおられることを覚えたい。
[139] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 139:1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。
- 主について語っていると思い読んでいたが、「主に知られている」ことをたいせつにしている詩篇なのかもしれないと今回思った。いずれにしても、それが、最後にあるように「御覧ください/私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。/とこしえの道に私を導いてください。」(24)偶像礼拝をしているかどうかによって、敵と味方を二分しているようだ。敵の一人ひとりも、主に知られているという方向には進まないのだろうか。偶像礼拝も、様々な形があり、自分で、神以外のものを神としているかどうか判断はとてもむずかしいのに。そうであっても、特に最初の部分は、美しい表現の詩篇である。この詩篇記者ともゆっくり話してみたい。
- BRC2019:Ps 139:21,22 主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。
- 主は、自分のすべてを知っておられる。そのことが、美しく書かれている詩編の最後の部分は、引用句になっている。主との親密さが、逆に、主が自分の味方であると考えるようになってしまうのだろうか。「主を憎む者、主に立ち向かう者」明確に判断できるのだろうか。わたしは、揺れているように思う。それは、正しさだから。それも、おそらく、人の正しさだから。愛の神は、違うところにいるように思う。
- BRC2017:Ps 139:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
- 神が、私たちひとり一人について知り尽くしておられることが書かれている。造られたときから、そして最後は「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 」(23節)おそらく、これが告白したいこと。しかしそこに留まらず、神が知っておられることを賛美している。そこに信仰と信頼があるのだろう。
- BRC2015:Ps139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
- 内蔵はキリヤ(kilyah)が使われている。肝臓や犠牲の内蔵とともに、人間の感情や愛情のある場所の意味をもち、転じて手綱の意味ももつ。日本語では「こころ」なのかもしれない。だからといって分かったことにはならない。この詩篇は、神が自分のすべてをご存じであること、そして最後には「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」(23節24節)で締めくくっている。自分に主体的な部分があるとすればそれがキリヤで、それを作られたのは主と言っているのかもしれない。神との関係の中で自分の価値を判断していることは、確実。
- BRC2013:Ps139:23 神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを/知ってください。
- 神に知られていること以外に、試みても書かれている。わたしには、まだまだ理解して切れないレベルか。
[140] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 140:13 私は知っている/主が苦しむ人の訴えを取り上げ/貧しい人のために裁きを行うことを。
- 最初は「心に悪をたくらみ・日ごとに戦いを挑んで来る」(2)「邪悪な人間・暴虐の者」(1)から守ってくださいと始まる。わたしが歳をとったからか、わたしの住む世界がある程度落ち着いているからか、他者理解が、あまりにも違うと、詩篇を読んでいて感じる。しかし、困難なときにも、主の救いに希望を持ち、主がどのような方か認識する方向は、引用句を含めて、共通性も高いように思う。世界では、現代でも紛争が絶えない。今回のロシアのウクライナ侵攻を見ても、アメリカのアフガニスタン侵攻、イラク侵攻との違いや区別の評価は、なかなか困難でもある。友人が支援しているイエメンのひとたち、シリアのひとたち、世界中で混乱の中にいる人達は多い。平和は、単純ではないことが、これら一つ一つを考えても、わかる。ほんとうに、わたしは、何をしたらよいのかも、わからず、無力さを感じる。主の御心を知りたい。
- BRC2019:Ps 140:13 わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。
- この詩編にも正しさからの厳しい言葉がならぶ。「わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。」(10-12)たしかに、このように、主に逆らうものに取り囲まれていたのかもしれない。しかし、そうであっても、その裁きでは、問題は、解決しないように思われる。引用句には、真実があるように思われるが。
- BRC2017:Ps 140:14 主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。
- 神の前に座る、神の前を歩むも似たものだろう。神の御前を避ける生き方にはなりたくない。神に従おうとする意思と、感謝なのだろうか。
- BRC2015:Ps140:13 わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。
- 主の働きに希望を持っている。主がいのちを与えてくださる方、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを知っている。それが信仰なのだろうか。
- BRC2013:Ps140:12 わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。
- 主は、このような方だと知っていることは、すばらしい。
[141] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 141:1,2 賛歌。ダビデの詩。/主よ、私はあなたを呼び求めます。/急いで来てください。/あなたに呼びかけるとき/私の声に耳を傾けてください。私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように。/高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。
- わたしも祈るが、同時に、すべきことがたくさんあるように思い、それをどのようにするかを考えている。それは、自分中心、自分の中に救いを求めることとは異なると思うが、そうなる危険性があると指摘されれば否定することはできない。同時に、神様が、いろいろな解決方法を示しておられるのに、すべて、神業に頼ることを、神様が求めておられるとは思わない。究極的には、友となり、互いに愛し合うものとなることを求めておられるように信じているからだが。おそらく、ここは、とても、判断が、難しいのだろう。
- BRC2019:Ps 141:5 主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません/彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。
- 明確に意味がとれるわけではなかったので、他の訳を見てみた。「正しき人が慈しみをもって私を打ち/私を戒めますように。/悪しき者の油が私の頭に塗られることが/ありませんように。/彼らの悪行の中にあっても/なお私の祈りを献げます。」(聖書協会共同訳)意味としては、こちらのほうがよくわかる。だいぶん、印象が異なる。通読では詳細には、調べられないが、謙虚さは感じられる。最後は「主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」(10)となっているが。
- BRC2017:Ps 141:8 主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。
- 最後が印象的である。うつろは、神不在でおこることか、神との関係性が希薄になることによって起こることか、神が愛される隣人との関係によって満たされることもあるのではないだろうか。Social Capital についても学んでみたい。
- BRC2015:Ps141:4 わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。
- 誘いはつねにある。決然として自分の心(leb レイブ:inner man, mind, will, heart, understanding)が悪に傾くことに抗したい。主の支え以外にないことを、詩篇記者は知っているのだろう。9節に「どうか、わたしをお守りください。わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。」とあるようにわたしも祈りたい。
- BRC2013:Ps141:3 主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。
- 聖書にくり返しくり返し書かれており、わたしも同感と思ってきたが、いま、もう一度、名誉欲(ひとから評価されたいという願望)と関連しても、舌を御することが、わたしのとても大きな困難というより、本質的な罪の入り口のように思われてきた。有効なコミュニケーションを追求し、神様の前での謙虚さが失われる。つまりは、自分を前に置いてしまう。自分で御すことができないことをもっと自覚しなければならないだろう。リペラル(自由さ)が一人歩きしてしまう、危険性でもある。自由にして敬虔、これを追い求めたい。
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- BRC2021:Psalm 142:4 私の霊が萎え果てるときも/あなたは私の小道を知っておられる。/私が歩むその道で、彼らは私に網の罠を仕掛けた。
- 最後の一文はどうしても引っかかってしまうが、知られていること、それは、愛されていることと深く関係していると思う。主に、知られていることが、主に愛してくださっていることとどう関係しているか、書いてみようと思ったが良くはわからない。しかし、自分のすべてを知っていてくださる方がいることは、自分の尊厳が守られていることにもつながっているように思う。尊厳の源は、悲しさ、苦しさ、痛み、喜びなど、通常は、他者に理解し得ない、共有できないことに依っているからだろうか。その方が、違うことであっても、同じように、苦しんでおられることを知ることはさらに、慰めにもなるように思う。あまりに、感傷的だろうか。もう少し深めていきたい。
- BRC2019:Ps 142:4 わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。
- 「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。」(2)としか、言えない状況なのだろう。肉体的にも、精神的に、弱り果てているとき、不安もあり、誤った道に陥る危険も高い。主に声を上げて、叫び、求める。それが、信仰なのだろう。自分の中に、解決がないことを認めているのだから。
- BRC2017:Ps 142:5 目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。
- このときに、神に目を向けて祈っている。しかし、同時に、神は、人をおいてくださってもいるのではないだろうか。目を開いて、それを見ることができるように。神を信頼して。
- BRC2015:Ps142:4,5 わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。 目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。
- このような状況にいると感じることがある。現実はわからないが、それこそが「わたしの霊がなえ果てているとき」なのだろう。その状況を「御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。」(3節)と訴える。神との関係の中で、自分の弱い状態も見つめ、かつその救いが自分の中にないことを認めているのだろう。それこそが信仰生活である。
- BRC2013:Ps142:5 主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。
- 「生ける者の地で」となっている。この時代は、死ぬと、塵にかえり、もはや賛美はできない。と一般的には思われており、死後の天国と地獄のような感覚はなかったと思われるが、それであっても「生ける者の地でわたしの受くべき分」と言い切る詩編記者には、特別な信仰を感じる。3節には「わが霊のわがうちに消えうせようとする時も」とあり、4節には「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。」とある。わたしは、そのように今を生きているだろうか。
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- BRC2021:Psalm 143:8 朝に、あなたの慈しみを聞かせてください/私はあなたに信頼しています。/歩むべき道を知らせてください。/私はあなたに向かって魂を高く上げます。
- "Cause me to hear Your lovingkindness in the morning, For in You do I trust; Cause me to know the way in which I should walk, For I lift up my soul to You."(NKJV)"Let the morning bring me word of your unfailing love, for I have put my trust in you. Show me the way I should go, for to you I entrust my life." (NIV) 慈しみは、これらの訳では、lovingkindness, unfailing love である。常に、愛し、わたしとの関係を保ってくださるということだろうか。それに、導きがつながっている。英語を調べてみたのは、慈しみとともに、魂を高く上げることがよくわからなかったからである。おそらく、NKJV のように、原語近いのだろう。わたしも、わたしの命を委ね、主に向かって、主と顔を合わせられるように、生きていきたい。
- BRC2019:Ps 143:10-12 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。
- 10節の「御旨を行うすべを教えてください。」は、わたしの祈りでもある。11節の「災」12節の「敵」が出てくると、ついつい注意してしまう。御旨を行い生きようとするひとを妨げるものを現代的に考えても良いのかもしれない。ある公衆衛生(Public Health)の専門家によると、感染症の世界的な流行、金融危機、世界大戦、地球温暖化、極度の貧困が五大リスク。現在は、この最初のものの危機に、世界中、日本は特にあたふたしている。わからないもの(不確定性)への恐怖は、昔も今も変わらないのかもしれない。
- BRC2017:Ps 143:12 あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。
- 「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。」(9節)とありそれに続いて「御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」(10節)ともある。「御旨を行うすべ」を求めることから「敵を愛する」御旨自体を問わなければいけないのかもしれない。しかし、そのように、わたしは、この詩篇記者を裁くのであれば、それは、おかしい。どうすれば良いのだろうか。
- BRC2015:Ps143:4,5 わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。 わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。
- 心が挫けるとき、この人の向かう先が、自分の歩みの中における神の働きである。恵みを数えることとも言われる。苦しみは霊がなえ果てるところからくるのかもしれないが、それは、自分の内にあるものである。自分の内なる世界をみながらその行き着く先が、そとに向かうことがやはり必要であると思わされる。
- BRC2013:Ps143:2 あなたのしもべのさばきに/たずさわらないでください。生ける者はひとりもみ前に義とされないからです。
- 神の、さばきと、憐れみは、紙一重、気まぐれなのか。そのように見えるだけなのだろうか。
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- BRC2021:Psalm 144:11 私を解き放って助け出してください/異国の子らの手から。/彼らの口は空しいことを語り/その右手は欺きを行う右手。
- いろいろなことが書かれている詩篇であるが、ロシアのウクライナ侵攻二日目を迎え、いろいろなニュースが入ってくる中で、その中にいるひとたちの思いを考えて、この箇所を選んだ。わたしには、想像できないことであっても、なにか、できないか、考えてしまう。一人ひとりは本当に無力である。黒白で判断はしたくないが、やはり、現実を受け入れられない。一方的であるように思えてしまう。様々な、困難が背後にあるとしても。
- BRC2019:Ps 144:3,4 主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。
- 「息に似たもの」危ういものとの認識が出発点であるように思われる。それは、つねに、不確定性の高いリスクにさらされていることだろうか。それが、今は、かなり緩和されていることは確かだろう。子どもの死亡率は減少し、寿命は延び、交通事故や自然災害死も減少している。しかし、それは、人間の謙虚さを欠く結果を招いたことは事実だろう。どう考えれば良いのだろうか。信仰は、限定的なものになってきたと言うことだろうか。そして未来的には。
- BRC2017:Ps 144:4 人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。
- この謙虚さが神への畏れを抱かせるのか。神への信頼は、これを不安とはしないのだろうか。わたしはどうだろうか。もう十分という気持ちもある。十分生かしていただいたので。そして、日々、学ぶことだらけであることも事実である。
- BRC2015:Ps144:3,4 主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。 人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。
- この詩篇は「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。」(1,2節)そして唐突にこの3,4節があり、さらに5節からは「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。」と天地を治められる神の出動が語られる。この3,4節はそのような句の間にある。思い上がらない、自覚がここに込められているのかもしれない。
- BRC2013:Ps144:4 人は息にひとしく、その日は過ぎゆく影にひとしいのです。
- 放っておかれたら、すぐ滅びてしまう存在であることを、訴えているのか。そう考えると、3節「主よ、人は何ものなので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何ものなので、これをみこころに、とめられるのですか。」をどうとるかは、考えさせられる。
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- BRC2021:Psalm 145:20 主は、ご自分を愛する者を皆守り/悪しき者はことごとく滅ぼします。
- このようなことばに違和感を感じるのだが、常に戦いがあり、悪がはびこり、略奪が横行している世界では、こう考えることも仕方がないのかもしれないと思う。悪しきものが滅びる以外に、救いは見いだせないのだろう。そう考えると、現代は、社会自体が良い方向に変化していると思えてくる。しかし、それは、わたしが生きている場だけではないにしても、そうではない世界がたくさんあるのだろう。単純に、引用句のような考え方を切り捨てることはできないのだろう。そのような世界で苦しんでいる人がおられる以上。難しい。
- BRC2019:Ps 145:14-16 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。
- このように告白し賛美できるひとは、幸いである。そうではないように、見えてしまうときは、どうしたらよいのだろうか。ひとつの考え方は、主の働き、いのちを与える営みに、加わることだろうか。倒れようとするひとの支えとなり、うずくまっている人を起こそうとする。主が命を与えてくださっている者すべてとともに生きようとすること、そのような社会の一人となることだろうか。そのことを通して、主を賛美することができれば、幸いである。
- BRC2017:Ps 145:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
- 「ひとりひとり」は詩篇33:13, 62:13、イザヤ27:12、エレミヤ12:15(言葉自体は以下の箇所にも:哀歌3:39、エゼキエル18:30)にある。ヘブル語で特別な言葉が使われているわけではないようだ。七十人訳では「すべての pantas」。しかし、倒れようとする人、うずくまっている人、いずれも、いのちを失いそうになっているということだろう。10節には「すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 」ここに神の働きが、または、人の希望があるのだろう。
- BRC2015:Ps145:9 主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
- 「【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。」(1節)と始まる。どこまで意識を神が造られ、統べ治められるものに向けられるのだろうか。そしてそれが他者にとって何を意味するのかに。他者にとっての理解が大きくことなるとき、どのようにしたら良いのだろうか。共通のものを築いていくこと、丁寧な営みとしかいえない。
- BRC2013:Ps145:13 あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに/絶えることはありません。
- 「あなたの国」と「地上の国」をどの程度、意識的に区別しているかはわからないが、神様の国、神様の支配は、永遠だと告白して、そこに望みを置いて生きて行きたい。
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- BRC2021:Psalm 146:3,4 諸侯を頼みにするな/救うことのできない人間を。霊が去れば、彼は土に帰り/その日、彼の企ても滅びる。
- 偶像礼拝を忌避することに近いが、このような思想・祈りの中で、信仰が純粋になっていったことには、やはり驚かされる。人間の側の協力、日々の誠実な歩み、誠意をもった働き・労働を適切に位置づけることが難しくなる危険性はあるが、まず、このことを、受け入れ、決断の基盤とすることは大切なのだろう。正しさについても、どうようなことが言えるのかもしれない。一つ一つのことばだけにとらわれることは気をつけないといけない。原理主義的になってしまうから。
- BRC2019:Ps 146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
- このような祈りに普遍性を感じられなかったが、わたしの祈りとそれほど変わらないのだとも思った。霊的幼年期は、自分からみた世界から神を誉め讃えるのだから。それを、批判するのは、おそらく当たっていないのだろう。ただ「ヤコブの神」が一人歩きし出すと問題が起きる。
- BRC2017:Ps 146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
- ハレルヤからスタートしている。様々なひとの救いが述べられ、「主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 」(8節)から引用した箇所が続き、ハレルヤで終わる。社会的弱者を守られる主、その方を礼拝し、賛美する宗教はやはり素晴らしい。
- BRC2015:Ps146:8,9 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
- このような主に希望を置くのはやはり素晴らしい。それは、捕囚などの惨めな状態を通して形成されたのだろうか。この価値観は素晴らしくとも、これに反することに人は惹かれる面も無視できない。放蕩息子の兄、ぶどう園で朝から働いた労働者のように。ここが鍵でありながら、イエスに指摘されても気づくことができないまたは悔い改めることができない。神のこころとシンクロナイズするのは、なんと難しいことか。
- BRC2013:Ps146:7 しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。
- 「しえたげられる者」「飢えた者」「捕らわれ人」は自分とは関係ないと、思ってしまってはいけないかも知れない。二つの文章に分けられていることを考えると、あらゆることに捕らわれている人の解放、まさに、リベレーションがここで言われているのかも知れない。
[147] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 147:17,18 氷をパン屑のように投げる。/その冷たさに誰が耐えられようか。主が御言葉を送ると、それらは溶け/息を吹きかけると、水が流れる。
- 様々な角度から、主の偉大さが詠われている詩篇である。引用句では、御言葉の力が表現されているとともに、氷、冷たさが印象的である。このときにも、避難壕のなかで凍えているひとがたくさんいることを思うと、その冷たさをわたしも感じてしまう。主のことばは、どのように働かれるのだろうか。凍えてしまっているひとびとのこころの氷が溶け、水が流れることを祈る。
- BRC2019:Ps 147:19,20 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。
- 「自分だけ」という受け止め方は「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」(ローマの信徒への手紙3章2節)にもあるが、危険でもある。ユダヤ人を迷わせただけではなく、誰でも迷わせうるものだろう。幼子の信仰においては、自然かもしれないが。その注意をどのように受け取るか。あまり簡単ではない。ただ、引用箇所に「掟と裁き」と書かれていることは、注意に値する。それは、新しい掟(「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節))においては、どうなのだろうか。裁きは、少し違う形で述べられている。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3章18節)
- BRC2017:Ps 147:6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
- 「貧しい人々」はたくさん聖書にあるようだ。詩篇だけでも、72:2, 4, 74:19, 112:9。何を意味しているのだろうか。「打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。 」(3節)にある「打ち砕かれて心」と関係しているのだろうか。「傷を包む」はなにか、いやし以上のものを感じる。
- BRC2015:Ps147:3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
- 直前には「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。」(2節)があり「打ち砕かれた心の人々」は「追いやられた」イスラエルの人々なのだろう。「癒す」はラファ(rapha')to heal, make healthful である。興味深いのは「その傷を包んでくださる」とあり、完全に治るのではなさそうなことである。主が包んでくださった傷跡を見ながら、神の恵みに感謝し「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。」(1節)とあるように、神をほめ歌いたい。
- BRC2013:Ps147:19,20 主はそのみ言葉をヤコブに示し、そのもろもろの定めと、おきてとを/イスラエルに示される。主はいずれの国民をも、このようにはあしらわれなかった。彼らは主のもろもろのおきてを知らない。主をほめたたえよ。
- 賛美が続き、ここに行き着く。これこそが特別の恵みであることを悟ったのだろう。そして、それは、この前に続く、神様をまさに表すみ言葉であることに意味がある。
[148] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 148:3-5 太陽よ、月よ主を賛美せよ。/輝く星よ、こぞって主を賛美せよ。天の天よ/天の上にある大水よ主を賛美せよ。主の名を賛美せよ。/主が命じ、それらは創造された。
- 自然に覆われた世界。このなかでしか、生きられない人間が、それを破壊してしまっており、それは限界に来ているとも言われる。自然と深い関係を持つことが希薄になっていることも大きいように思う。わたしも、その一人。なにも考えずに享受だけしている、その恵みを、味わう日々を大切にしたい。
- BRC2019:Ps 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
- ハレルヤは、ハラル+ヤで、神を誉め讃えよ。ハラルが賛美、誉め讃えることである。halal: a primitive root; to be clear (orig. of sound, but usually of color); to shine; hence, to make a show, to boast とある。賛美は、正直に言うと、わたしは、よく理解できていない。つねに、考えてしまうからだろうか。自然には、出てこない。音楽に、没頭できないのも、似た背景があるのかもしれない。それは、性質なのだろうか。問題なのだろうか。ときどき、それを問いながら生きている。形式的には、賛美するのだが。
- BRC2017:Ps 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
- 主を賛美せよ。とあるが、素晴らしさは、分からないのだろう。それでも、賛美する。それは、主に委ねること。しかし、自分は何もしないことではおそらくないのだろう。賛美することが伴うことは、どのようなことなのだろうか。
- BRC2015:Ps148:5,6 主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。 主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。
- この詩篇は最初から最後まで「ハレルヤ、主を賛美せよ」(1節)である。その途中に創造と超ええない掟が書かれている。口語訳では「越えることができないその境を定められた」である。掟・境は、ヘブル語はホーク(choq = statute, ordinance, limit, something prescribed, due)である。とても、考えさせられる。聖書での使い方も考えさせられる。掟の積極的な意味も感じさせられる。主を賛美することの中に、人に越えることのできない境、掟を神が定められていることを自ら告白することも含まれているのかもしれない。
- BRC2013:Ps148:14 主はその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、主に近いイスラエルの人々の/ほめたたえるものである。主をほめたたえよ。
- この詩編は「すべてのものに主をほめたたえさせよ」ということで一貫している。天使も、日も月も、地のすべてのつかさも。しかし、ここで一つの角がほめたたえるものとして突然現れる。詩編記者はなにを想定していたのだろう。
[149] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 149:4 主はご自分の民を喜びとし/苦しむ人を救いによって輝かせる。
- わたしは、聖書にいくら書いてあろうと、選民思想は、御心ではないと考えている。御心につながる、過渡的なものとしては、神様は受け入れてくださるのだろうが。ずっと、公平さについて、考えてきたからだろうか。他者視点を探ることで、自分の弱点を見つけ、克服しようとしてきたからだろうか。そして、その根本にあるのが、ひとの尊厳をたいせつにすることであり、そこには、ひとそれぞれの苦しみ、痛みを、相対化しないことがある。十分に、まだ言語化できていないので、何回も書いてみているのだが。公平さという視点と、一人ひとりの尊厳をたいせつにしたいという気持ちは、これからも変わらないように思う。
- BRC2019:Ps 149:1 ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
- 「新しい歌」は、詩編では、33:3、40:4、96:1、98:1、144:9に登場するが、「新しい歌」の「新しい(chadash: new, new thing, fresh)」は何を意味するのだろうか。新しい気持ちで、心を一新させてということだろうか。マンネリではない(mannerism ではなく)ということは、少し理解できるように思う。習慣になってしまう傾向が強いのだろう。日々、主の働きを見ることを願いたい。
- BRC2017:Ps 149:7-9 国々に報復し/諸国の民を懲らしめ 王たちを鎖につなぎ/君侯に鉄の枷をはめ 定められた裁きをする。これは、主の慈しみに生きる人の光栄。ハレルヤ。
- 「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 」(ヨハネ12章31節)「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。 」(ヨハネ16章11節)を思い出すが、同時に、少し乱暴にも感じる。この世をどう解釈するかに依っているのだろうが、そうであっても、はっきりとそれを規定することはできるのだろうか。疑問を感じる。
- BRC2015:Ps149:4 主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる。
- 「自分の民」すなわちユダヤ人と「貧しい人」とは同義語とは言わないまでも、意識的にかなり強くつながっていたのだろう。主に希望を置く民の信仰を表すと共に、排他的な面が含まれることも確かだろう。「貧しい人」がどのような意味で使われているかは、いずれ丁寧にみてみたい。
- BRC2013:Ps149:2 イスラエルにその造り主を喜ばせ、シオンの子らにその王を喜ばせよ。
- 後半が素直に受け入れられない。シオンの子らは、エルサレムの住民だろうか、それとも、主の宮に集う者という意味だろうか。新共同訳では「その王によって喜び踊れ」となっている。主の権威がそこにあるということだろう。もう少し深く理解したい。
[150] ... back to menu top
- BRC2021:Psalm 150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。/竪琴と琴を奏でて神を賛美せよ。
- 角笛は、ホルンのように、音楽を奏でられるものなのかはよくわからないが、様々な楽器が登場する。音楽は、嫌いではないが、愛しているとは言えない。それだけ、浸ったこともないのだろう。静かに聴くのは好きだが、やはり人によっても好みがいろいろとあるのだろう。神様は、なにを喜ばれるのだろうか。兄弟が和合しているようなことのように思う。そこに、音楽が流れているのかもしれなが。芸術というものが一般的によくわからない。尊厳から派生した、多様性と、深く関係しているように思う。
- BRC2019:Ps 150:2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
- 最後の詩編で、讃美の場所、方法以外、理由について述べている、唯一の節である。主の「力強い御業」「大きな御力」に目を留めることが、讃美の一番たいせつなことなのかもしれない。そしてその背景は、常に、神との関係を密にしていることだろうか。なかなか、困難である。
- BRC2017:Ps 150:6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。
- 賛美すること。わたしも、学びたい。むずかしく、感じてしまう。希望の先取りとはしないで、主自体を、賛美することに集中できればよいのだろう。イエス様を送って下さった神様、イエス様によって知ることができた神様について。
- BRC2015:Ps150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
- 音楽とは何なのだろう。この節のあとも、太鼓・弦・笛・シンバルが踊りとともに賛美と結びついて語られる。人の心を楽しませるものとして、自然なのかもしれない。そして、人が喜ぶことを神も喜ばれるのかもしれない。神様が音楽をこよなく愛されるかどうかは別として。
- BRC2013:Ps150:1 主をほめたたえよ。その聖所で神をほめたたえよ。その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。
- 新共同訳では「大空の砦で」となっている。「”raqiya` ‘oz” 力の領域」というような意味ということは、神の力の元でというような意味かも知れない。KJV は “in the firmament of his power” (力の天空)
箴言
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- BRC2021:Proverbs 1:2,3 これは知恵と諭しを知り/分別ある言葉を見極めるため。見識ある諭しと/正義と公正と公平を受け入れるため。
- 今朝(3月3日)の天声人語に「戦前の満州事変のあと、日本の立場もかくのごときものだったか。日本軍は自作自演の線路爆破をきっかけに部隊を展開し、傀儡(かいらい)国家「満州国」をつくった。強引なやり方に批判が集まり、国際連盟の総会で44カ国のうち42カ国が満州国を否認した」とあった。反対は日本のみ、棄権がシャム(タイ)一カ国。ロシア侵攻に反対する国際連合の決議案に、反対したのはロシアのほか、ベラルーシ、北朝鮮、エリトリア、シリアだけだったという。(棄権した国は多かったようだが。)箴言というと知恵を思い出すが、諭しも何度も書かれていることを今回発見した。引用句は、現在のウクライナ侵攻を続けるロシアにも、戦前の日本にも当てはまり、おそらく、われわれ一人ひとりも、「見識のある諭し」、「正義と公正と公平」に、もっと向き合わなければいけないのだろうと思った。「分別ある言葉を見極める」これは、単純に信仰があれば、とは言えない、精神も、訓練も、学びも必要なものなのだろう。「主を畏れることは知識の初め。/無知な者は知恵も諭しも侮る。」(7)主を知ることが、知恵も諭しを知ることに繋がりますように。
- BRC2019:Prv 1:23 私の懲らしめを受け入れるなら/私の霊をあなたがたに注ぎ/私の言葉を知らせる。
- 「懲らしめ」とあるが、たいへんな経験をすることなどを考えると、知恵を得ることは、生きながら、生活を通して得られるものが多く含まれると思われる。「恐怖が嵐のように襲うとき/災いがつむじ風のように起こり/苦難と困難があなたがたを襲うとき」(23)こそが当時の人たちが一番恐れていたことなのかもしれない。続けて「その時に、彼らは私に呼びかけるが、私は答えない。/探し求めても、私を見いだすことはできない。」(24)とある。「知ること・主を畏れること」(28)「勧めに従い、懲らしめをないがしろにしない」(29)教えなのだろう。
- BRC2017:Prv 1:4 未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。
- わたしもそのような知恵を語りたい。自分は、それが乏しく、失敗してきたのだから。しかし、それが、まさに、その目的であって、自分自身を持ち上げるためではないようにありたい。
- BRC2015:Prv1:28 そのときになって/彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず/捜し求めても/わたしを見いだすことはできない。
- 「そのとき」が語られている。20節の「知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。」のように「知恵」が擬人化されていることも興味深い。22節「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。」からがその内容である。29節に「彼らは知ることをいとい/主を畏れることを選ばず」とあるように、反知性主義は不信仰だと言ってのけている。ヨハネ3章19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」が思い出される。そう考えると、箴言を格言集などととるのは、大きな間違いである。
- BRC2013:Prv1:4 思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
- 思慮のない者に悟りなど得られるのだろうか。その言葉を学びたい。慎みは、神を畏れることから得られるのか。
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- BRC2021:Proverbs 2:16 また、よその女、滑らかに話す異国の女からも/あなたは救い出される。
- 文脈からは、救い出してくれるのは「慎みがあなたを守り/英知があなたを見守る。」(11)とあるので、慎みと英知のようだ。この箴言の最初に戻ると「知恵に耳を傾け/英知に心を向けるなら さらに分別に呼びかけ/英知に向かって声を上げ」(2,3)とある。これらが、女性の誘惑から守ってくれるというのだろう。「よその女」「異国の女」については、よくわからないが、家族から、自分の属する民族から引き離され、難民のようになって、売春をしていたのだろうか。高校生の頃にシンガポールで、私の乗っていた貨物船に、おじいさんに連れられて来た、中学生ぐらいの、コールガールの女の子を思い出す。今は、どうしているのだろうか。高校生のわたしは、ただ、その状況が恐ろしく、部屋に閉じこもって、布団にくるまっていたのを思い出す。いまも、わたしには、どうしたらよいかわからない。
- BRC2019:Prv 2:1-3 子よ、もし私の言葉を受け入れ/私の戒めをあなたの内に納め 知恵に耳を傾け/英知に心を向けるなら さらに分別に呼びかけ/英知に向かって声を上げ
- 極端に変化が大きい時代に、教えをこころに納めるだけでは、いけないことを今考えている。これらも、方法論であり、本質ではないのではないかと。しかし、学ぶことも、方法論であり、求めるものではない。「その時、あなたは主を畏れることを見極め/神の知識を見いだすだろう。」(5)ここに目的があると断言することに躊躇を覚えている。これも、ことばあそびに見えてしまうからである。真理とか神の御心とは何なのだろうか。求め続ける先にあるものとしか言えないのかもしれない。
- BRC2017:Prv 2:5 あなたは主を畏れることを悟り/神を知ることに到達するであろう。
- これこそが、わたしの求めている道、これ以上のことを、わたしは望まない。それは、この箴言を学べば得られるのだろうか。じっくり思い巡らしてみたい。一つ一つの言葉を。
- BRC2015:Prv2:9 また、あなたは悟るであろう/正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。
- あまりこの言葉を真剣に考えてこなかったように思う。正しさに対してある意味で拒否感があるからだろう。その背景にあるものは、良しとして「正義と裁きと公平」を正しく理解したい。ひとり一人の尊厳が守られる根拠なのかもしれない。最近、このことを学ばされている。
- BRC2013:Prv2:3 しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、
- どちらも声が出ている。なぜだろう。なぜそれが大切なのだろう。わたしは声をあげるほどに、求めているだろうか。
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- BRC2021:Proverbs 3:27 あなたの手に善を行う力があるなら/なすべき相手にそれを拒むな。
- このあとも、非常に具体的な教えが並ぶ。具体性が高くなると、汎用性は低くなるばかりか、その評価もどうしても下がる。しかし、この具体的な生き方なしには、真理は生きたものとはならないのだろう。「心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。」(5)暗証もしている好きな言葉だが、上に引用した句の背後にあるように思える。自分で細かい評価基準を作り、損得を考えてしまうために、それを行うことができるにも関わらず、躊躇したり、実行が遅れてしまったりするのだろう。そして、結果も目減りしてしまう。真理が生きたものとなるように、学び、実行することが、教条化することなく、真理への(神様の御心知る)入り口となるようにと願う。それが、「心を尽くして主に信頼」することなのかもしれない。
- BRC2019:Prv 3:1,2 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。
- ここには、「(父の)教えを忘れず、戒めを心に納める」目的らしきものが書かれている。「命の年月、生涯の日々は増すこと」と「平和が与えられる」ことである。前者は単に寿命が延びることのみを意味するものではないだろう。命は神が与えられるものと考えると「主との交わりが豊かに続くこと」を意味すると表現しても良いかもしれない。「平和(シャローム)」は単に戦争・争いがない状態ではなく、完全で、安心していられる、最高の状態を現すと考えると、それは「主の御心が成る、神の国・天の御国」を現しているのかもしれない。
- BRC2017:Prv 3:27 施すべき相手に善行を拒むな/あなたの手にその力があるなら。
- この章の具体的な教えは「わが子よ、力と慎重さを保って/見失うことのないようにせよ。 」(21節)と、引用した箇所にまとめられる。隣人に対する善行は「友に対して悪意を耕すな/彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。 」(29節)で悪意についても語られている。21節は正直、方法論に陥らないように注意はしたいが、本当にその通りだと頷きたい。
- BRC2015:Prv3:21 わが子よ、力と慎重さを保って/見失うことのないようにせよ。
- 3章の様々な言葉の中で、今回はこの節が一番心に残った。様々な難しい問題が周囲にある。個人的にも、大学の中でも、社会でも、世界でも。なにを見失うなと言っているのだろうか。この前の段落を見るとそれは主の知恵・主の英知・主の知識(19,20)であり、それはいのちの木となるものである(18)。では「力と慎重さ」はなんであろうか。むろん、これらも主によって与えられるものであろうが、わたしはそれよりも、主体的な行動力と思考に思える。人は、神が与えてくださったものを判断する役割もあるから。わたしは、いままで十分できていないが、これらのことを、子供にも責任を持って伝えたい。
- BRC2013:Prv3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
- 自分の知識に頼らず生きたい。神に信頼することを学びたい。
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- BRC2021:Proverbs 4:6,7 知恵を捨てるな、それはあなたを守る。/分別を愛せ、それはあなたを見守る。知恵の初めとして知恵を得よ。/あなたが得たすべてを尽くして分別を得よ。
- 「分別(物事の是非・道理を判断すること。わきまえること。)」がたいせつと教えられていることに、気付かされた。英語は understanding 、ヘブル語は בִּינָה(bina; understanding, discernment)。分別が特別な気がするのは、辞書には、分別として、〘仏〙 虚妄(事実でないこと。うそ。いつわり。)である自他の区別を前提として思考すること。転じて,我(が)にとらわれた意識。とも書かれている。なかなか理解できないが、いずれにしても、表面的な理解で、知恵を得たとするのではいけないのだろう。
- BRC2019:Prv 4:3,4 わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけない独り子であった。父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。
- 「わたし(父)も父の息子」連続性が語られている。「独り子(yachiyd: only, only one, solitary, one)」は何を意味するのだろうか。本当に一人だったのだろうか。当時としてはめずらしいだろう。特別な感情が含まれたものか。連続性は、変化が少ない世のものである。だからこそ、変化の時代である現代では、学んで応用する力が求められる。知恵・分別(6-8)は、単純に本質的なこと以上のものが含まれているのだろう。
- BRC2017:Prv 4:25 目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに/まなざしを正しく向けよ。
- これこそ、わたしが、求めている、そのように生きようとしていることのように思われる。それ以外のことに、こころを迷わせない。そして、まっすぐ前がなになのかのみを問い、そこから目を離さない。分からないこともあるかもしれないが。
- BRC2015:Prv4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
- 中島みゆきの「命の別名」には「君にも僕にもすべての人にも、命につく名前を『心』と呼ぶ、名もなき君にも名もなき僕にも」とある。感覚ではなく、根拠は何なのだろう。神からの知恵、主との関係の中で学んだことが、すべて心に入っているからなのか。21節22節には「見失うことなく、心に納めて守れ。 それらに到達する者にとって、それは命となり/全身を健康にする。」とある。それこそが全身を健康にするものである。
- BRC2013:Prv4:6 知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。
- 守ってくれるのはいつかは分からない。だから捨ててはいけない。そして、知恵に保たれる。今の、私もそうかも知れない。
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- BRC2021:Proverbs 5:21 人の道は主の目の正面にある。/主はその道のりのすべてに気を配っておられる。
- 性欲について男性を戒めている。女性視点はない。異国の女性との関係を求めたと思われる記述のあとに「どうして、私の心は諭しを憎み/懲らしめを軽んじたのだろう。導く人の声を聞かず/教える人に耳を傾けなかったのか。集会の中で、会衆の中で/私は追い詰められていた。」(12b-14)ともある。そのような状況で語られているのが、引用句である。「正面」という言葉が印象的である。主がどのように、気を配っておられるかは、不明である。しかし、主がそのような存在であること、自分の中にない配慮に目を向けることが、語られているのだろう。アーメンと言いたい。
- BRC2019:Prv 5:15 あなた自身の井戸から水を汲み/あなた自身の泉から湧く水を飲め。
- 「その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。」(17)とあり、独占的所有が書かれている。むろん、文脈からは「よその女」(3)を「遠ざけよ」(8)という教えの一部であり「あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。」(18)に続く。しかし、この関係性は、やはり問題がある。ただ、表現は難しい。「よその女」「若いときからの妻」との関係である。「わが子よ/どうしてよその女に酔うことがあろう/異邦の女の胸を抱くことがあろう。」(20)を見ると、これは、女性問題、異性についてだけではなく、主が与えてくださっているもの以外、他者のものをむさぼることを戒めているととる方が良いのかもしれない。
- BRC2017:Prv 5:8 あなたの道を彼女から遠ざけよ。その門口に近寄るな。
- 「よその女の唇は蜜を滴らせ/その口は油よりも滑らかだ。 」(3節)からよその女におぼれることを、戒めている。妻以外の女に引かれることについて、続けて書かれている。なぜ、引かれてしまうのだろう。神様が与えてくださる恵みに満足できないことが、一番大きいのだろう。感謝は、おそらく、見える部分も、見えない部分も、過去のことも、未来のものも、すべてを通してすることなのだろう。やはり信頼だろうか。
- BRC2015:Prv5:3,4 よその女の唇は蜜を滴らせ/その口は油よりも滑らかだ。 だがやがて、苦よもぎよりも苦くなり/両刃の剣のように鋭くなる。
- 「よその女(口語訳は遊女)」に惹かれることへの戒めがこの章のテーマである。対比されているのは「あなた自身の井戸から水を汲み/あなた自身の泉から湧く水を飲め。 その源は溢れ出て/広場に幾筋もの流れができるであろう。」(15・16節)である。抗うことが難しい誘惑がある。まさに「わが子よ、わたしの知恵に耳を傾け/わたしの英知に耳を向けよ。」(1節)知恵と英知が必要である。ここに「わたしの」と言われているように、教育とその結果を自分のものとすることが鍵である。
- BRC2013:Prv5:15 あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。
- なぜ、こうしないのだろうか。神に愛されていること、神の恵みの大きさに気づいていないからだろうか。自分の井戸から水を湧き出させて下さるのは主。
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- BRC2021:Proverbs 6:2,3 あなたが自分の口から出た言葉によって罠にかかり/自分の口から出た言葉によって捕らえられたなら 子よ、その時にはこうして自らを救い出せ。/あなたは友の手中に落ちたのだから/気弱にならず、友にうるさく求めよ。
- このような教えも書かれているのは興味深い。友にうるさく求めて自らを救えという。これが効果的かどうかは不明だが、「友」とあるので、問題の原因は理解してくれる可能性が背景としてあるのだろう。そのようなことが、お互いに起こる可能性があるということか。たしかに納得ができないことでも、受け入れることはある。ただ、この戒めのあとには、もっと、様々なことが追加されるべきことだと思うが、どうだろうか。この「友」への配慮など。
- BRC2019:Prv 6:3 わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから/行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。
- 「わが子よ、もし友人の保証人となって/他国の者に手を打って誓い あなたの口の言葉によって罠に陥り/あなたの口の言葉によって罠にかかったなら」(1,2)この状況に関する対処方法である。なんとも乱暴である。おそらく、それだけ、危機的な状況であり、それは、時々起こったのだろう。どうしたらよいだろうか。謝る以外になにも思いつかないわたしには、正直どうしたらよいかまったく見当もつかない。
- BRC2017:Prv 6:3 わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから/行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。
- 友人の保証人となって危機に陥ることは、それなりの頻度であるのだろう。しかし、解決策が、厳しい。お人好しで受け入れていてはいけないと言っているのだろう。友人とはどのようなひとかが鍵であろうが、なんでも、自分でかぶるのは良いわけではないと言っているのだろう。わたしは、どのように、行動するだろうか。少なくとも、自分と友人との関係だけで考えないことは確かだろう。神はなにを望むのだろうか。
- BRC2015:Prv6:9-11 怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。 しばらく眠り、しばらくまどろみ/しばらく手をこまぬいて、また横になる。 貧乏は盗賊のように/欠乏は盾を持つ者のように襲う。
- 7節からのこれらの言葉の背景を考えていなかった。それが、1,2節に書かれている。「わが子よ、もし友人の保証人となって/他国の者に手を打って誓い あなたの口の言葉によって罠に陥り/あなたの口の言葉によって罠にかかったなら」自分の責任を全うすること、単に嘆いていてはいけないことが書かれているのだろう。できる限りのことをすることが求められている。ここまではっきりと。
- BRC2013:Prv6:17-19 すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、 悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、 偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。
- 「主の憎まれるもの」としてあげられている。他にも思いついたであろう。しかし、ここでやめている。もう少していねいに、考察したい。
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- BRC2021:Proverbs 7:4 知恵に「わが姉妹」と言い/分別に「わが親族」と呼びかけよ。
- 「知恵」と「分別」これらは、文脈からは、教えられるものだとある。「知恵」は、神の御心だけではなく、人々が神からうけとったとして学んだことも含まれるだろう。多少、間違ったこと、表現が不完全なものも含まれるだろうが。一方「分別 underdatanding」は、それを受け取る主体である、自分がなければ、成立しない。深い理解が必要である。とくにそれが生きるものとなるために。そして「わが姉妹」「わが親族」と言えるほど、親しいものとなれと言っている。知恵を、理解したことを生きてみて、少しずつ身について行き、自分の一部のようになっていくということの表現なのだろう。学ぶことは多い。
- BRC2019:Prv 7:10 見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。
- 「よその女・滑らかに話す異邦の女」から守る教えが書かれている。描写が物語り仕立てになっていて、非常に興味深い。「浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。」(7)から男性の描写が少しあり、引用した10節からは、女性の描写がなんともいかがわしく表現されている。「和解の献げ物をする義務があったのですが/今日は満願の供え物も済ませました。 」(14)などという脚色もある。しかし、読んでいて気になったのは、女性の視点は、殆ど無視されていることである。男性が書いた限界だろうか。神様に性別はないと言われるが。この箴言に対応する、女性版も個人的には興味がある。
- BRC2017:Prv 7:22,23 たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。 やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく/自分の欲望の罠にかかったことを知らない。
- 「浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。 」(7節)からつながっている。「浅はかで、意志が弱い、経験も少ない若者」がこのプロフィールだろうか。「無知な者への教訓となって」とあり、繰り返されていることであるとともに「矢が肝臓を貫く」と命に関わる結末も書かれている。何を表現しているのだろうか。肝臓と内臓、こころは一緒だろうか。
- BRC2015:Prv7:6,7 わたしが家の窓から/格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。
- この記述のみなにか特殊である。しかし、記者のやさしさと心の痛みをなにか現実のことのように際立たせる。さらに、浅はかなものと、意志の弱そうな若者を区別しているのも興味を惹く。後者に特にこころを寄せている。意志があるのに弱いために罠に陥ってしまう。わたしも、自分をも含めて、そのようなもののために祈りたい。
- BRC2013:Prv7:4 知恵に向かって、「あなたはわが姉妹だ」と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ。
- このあと「そうすれば、これはあなたを守って遊女に迷わせず、言葉巧みな、みだらな女に近づかせない。」とつづく。よい友、すばらしい姉妹を持ちたい。
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- BRC2021:Proverbs 8:5,6 思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。/愚かな者よ、心を見極めよ。聞け、私は唇を開いて語ろう/高貴なことを、公平なことを。
- 「熟慮」「心」「高貴なこと」「公平なこと」について考えたい。「高貴なこと」は、人の目から見ても美しい、神に属することだろうか。わたしのことばでは「御心」である。そして「公平なこと」は、人が、できるかぎりの知恵を用いて、そのときに、実現すべき、人々の間の平和だろうか。絶対的なことではないが、公平を求め、改善を続けることに大きな価値がある。そこに必要なのが「熟慮」と「心」だろうか。心は、よくわからないが、究極的には「御心」だが、おそらく、他者と自分の「心」その言葉や行動の背後にあるものだろうか。これらを、見極めることは難しい。しかし、その方向に進み、探求していきたい。
- BRC2019:Prv 8:18,19 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。
- 知恵の与える実りとは何なのだろうか。ここでは、富と名誉、財産と慈善が語られ、それにまさるものとして、実り、収穫が語られている。なにが平和で、主との交わりとはなになのか。それを求めたい。
- BRC2017:Prv 8:12 わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。
- 知恵は、単なる、技術ではないことが、ここからも、読み取れる。知識が、熟慮や、慎重さと共に書かれている。行動様式ととることができるかもしれない。それは、一生をかけて、学び取っていくもので、一瞬に与えられるものではない。
- BRC2015:Prv8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え/愚か者は反省することを覚えよ。
- 7章にある「浅はかな者」が心に残っていてこの節にひかれた。教育について言っているように思われる。8章の核は「わたし」だろう。最後だけ引用すると「わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。 わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」 (35,36節)「わたし」の言い換えは考えられるが、それを言い換えることはしない方が良いのかもしれない。「わたしを見いだす者」「わたしを憎む者」愛する者の反対としての憎む、これもヨハネを思わされる。7章7節だけ引用する「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」他には、12:25, 15:18, 19, 23 に「憎む」が現れる。
- BRC2013:Prv8:36 わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」。
- この詩編での「わたし」は必ずしも明らかではない。王とするのは限定的「知恵」と「悟り」とするのは、箴言では一般的だが、この章を読む限り、その大本をさすように思われる。すると「神ご自身」だろうか。しかし22節には「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。」とある。キリストなるロゴスなのだろうか。ここからヨハネ1章が生まれたのだろうか。
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- BRC2021:Proverbs 9:7,8 嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。/知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
- 「嘲る者を諭すな」「悪しき者を懲らしめるな」と直接的には言っているように見えるが、おそらく、ここでも、直前の「思慮のない業を捨て、生きよ。/分別の道を進み行け。」(6)や直後の「知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。/正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。」(10)にある、知恵と、分別・判断力を教えているように思った。嘲る者を諭し、悪しきもの懲らしめることで、問題が解決するなどとは考えるなと言っているのだろう。まさに、これが、ここで教えられている、知恵と分別・判断力である。完璧とは思えない格言もあるが、やはり、考えさせられる知恵である。
- BRC2019:Prv 9:13 愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。
- 「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(1テモテ2章14節)など、聖書に女性はあさはかであるという記述はいくつかある。ここでは、愚かさを女でたとえている。騒々しい、浅はかな女が軽蔑されていたからだろう。しかし、これらは、すべて男性視点だとも言える。ひとは、他者の目から見た世界は殆ど理解できない。さらに、著者がおそらく全部男性ということで、女性視点の記述がない。バランスをとることは、まず、必要だろう。女性が書いたら、どうなるのだろうか。単なる、男性・女性の置き換えではなく、新たな視点が広がるのではないだろうか。そのような記述も知りたい。
- BRC2017:Prv 9:17,18 「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまいものだ。」 そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる。
- 死霊は何を意味しているのだろう。少なくとも、そこにいのちはなく、いのちを失っていくということだろう。あまり、霊の実体を求めない方がよいのかもしれない。深い陰府は戻ってこれない場所ということだろうか。神を畏れないものの、行く末と言うことか。
- BRC2015:Prv9:3-6 はしためを町の高い所に遣わして/呼びかけさせた。 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。 「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい 浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」
- 1節に「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。」とあるように「知恵」の言葉として語られている。対比として13節に「愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。」とあり「道行く人に呼びかける/自分の道をまっすぐ急ぐ人々に。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言う。 『盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまいものだ。』」(15-17)いろいろなものが微妙に変化を持たせて対比されている。そして真ん中の10節に「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。」とある。かなり計画された構造があるように思われる。
- BRC2013:Prv9:8 あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。
- このことは、12節の「もしあなたに知恵があるならば、あなた自身のために知恵があるのである。もしあなたがあざけるならば、あなたひとりがその責めを負うことになる。」へとつながる。なにか、考えが浮かんだとき、どうするか、根本にかえって考えたい。わたしはあまりに軽率であるようだ。
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- BRC2021:Proverbs 10:16 正しき者の働きは命のために/悪しき者の収穫は罪のために。
- 命は、生かすものとも言え、罪は、滅ぼすものとも言えるように思う。そして、これは、自分だけではなく、他者を生かすためのもの、他者を苦しめるためのものも含むのかもしれない。さらには、「正しき者の望みは喜びとなり/悪しき者の希望は滅びる。」(28)も、正しき者の喜びだけではなく、多くのひとの喜びにつながるようにも思う。悪しき者の希望については、現実を見ると、正直よくわからない。滅びると言い切れるのかどうか。おそらく、平安は無く、おそらく、そうなのだろう。
- BRC2019:Prv 10:11 神に従う人の口は命の源/神に逆らう者の口は不法を隠す。
- 「神に従う人」は箴言11章など他の箇所にも現れるが、この章には、12回現れ、24節・25節以外は、すべて冒頭、かつ、「神に従う人」とそうではない人の対比が続く。「神に逆らう者」以外にも「無知な者」(21)「暴言をはく舌」(31)が登場する。引用句では「神に従う人の口は命の源」とある。命を与えるのは、神の業、神に従うものは、神の働きをするようになるということなのだろう。他は、ほとんど、自らの利益と神の祝福が語られているが、この箇所は特に、印象に残る。
- BRC2017:Prv 10:22 人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。
- 主によって、豊かになることは、確か。しかし、人間が苦労しても、何も加えることはできないと、言い切ることには、驚かされる。わたしは、そのように、告白できるだろうか。
- BRC2015:Prv10:21 神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。
- わたしは、多くの人とまではいかなくても、いのちを養う唇をもちたい。後半は何を言っているのだろう。神への信頼が鍵だろうか。そうすると、前半も、養われるのは神、神との関係によるいのちのことばだから、他の人のいのちさえも養うことになるのかもしれない。
- BRC2013:Prv10:22 主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。
- 主のゆるし、主のなぐさめ、主のあわれみ、主の祝福、すべて完全。人からくるこれらのものは、悲しみをともなうものも多い。こころに刻んでおきたい。
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- BRC2021:Proverbs 11:27 善を探し求める人は主が喜びとすることを尋ね/悪を求める者には悪が訪れる。
- 対をなした表現が続く。それほど単純だとは思わないが、対比を考えるには、よいのだろう。わたしは「探し求める」「尋ね」が好きで、究極的には「主が喜びとすること」とも表現される主の御心を求めていきたいと思っているので、この句を選んだ。対比として書かれている「悪」おそらく「善」に対応するものとして書かれているのだろうが、すこし表現に豊かさが欠ける。おそらく「悪を探し求め」「主が忌み嫌うことを尋ねる」ひとはいないだろう。やはり、的外れのことが言われているのかもしれない。もうひとつ、印象に残った句を引用しておく「主は人を欺く秤をいとい/正確な量り石を喜ばれる。」(1)商取引が想定されているのだろうが、根拠を確かめない議論も同様に人を欺く秤であると思う。
- BRC2019:Prv 11:24,25 散らしてなお、加えられる人もあり/締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。
- 与えることは、ものは失うかもしれないが、目に見えない多くのことで豊かになっているのだろう。最大のものは、神様からの祝福だろうが、他者との関係性のたいせつさに目をとめることは、神様との関係性を強めることにもつながる。「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」(30)となりたいものである。
- BRC2017:Prv 11:23 神に従う人の望みは常に良い。神に逆らう者の期待は怒りに終る。
- わかる気がする。神の御心を求めるひとには裏切られることはない。しかし、神の御心を求めない人の望みは、自分から出たものであるので、限界があり、運任せになる。望みについても、自分の外に求めること。そこに命があるように思われる。
- BRC2015:Prv11:18 神に逆らう者の得る収入は欺き。慈善を蒔く人の収穫は真実。
- 「慈善」が、2, 4, 5, 6, 18, 19節に現れる。これらはすべてツェダカー(tsedaqah: justice, righteousness)である。17節の「慈しみ」はヘセド(checed: 1. goodness, kindness, faithfulness, 2. a reproach, shame)明らかに異なる。「慈善」は、口語訳では「正義」大分異なる印象を受ける。施しはまた別なのだろうか。
- BRC2013:Prv11:12 指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全である。
- 示唆に富んでいるが、助言者によるだろう。新共同訳では「参議」となっている。わたしが助言者となれればよいのだが。
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- BRC2021:Proverbs 12:25,26 人は心の憂いを抑えようとする。/しかし親切な言葉は憂いをも喜びとする。正しき者は友に尋ねて道を探す。/悪しき者の道は人を惑わす。
- とても興味深い節である。ひととの関係が人を生かすと表現されているようだ。親切な言葉、そして、探求において、友に尋ねる。ということは、友が助けてくれることを言っているのだろう。自分で、憂いと向き合うことは、避けられないし、たいせつなことだろう。しかし、それだけで、解決することはないだろう。親切な言葉は、簡単ではないが、探していきたいものである。
- BRC2019:Prv 12:10 神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情すら残酷だ。
- 家畜を飼ったことのないわたしには、「家畜の求めるもの」など、よくわからないので、考えてみることにした。ここで家畜はなにを意味するのだろうか。「家畜の求めるものすら」となっているから、まずは、他のこと、おそらく、家族や使用人、そして友人や隣人などの他者が想定されているのではないだろうか。「神に逆らう者」について「同情すら残酷」とあるので、「神に従う人」は、同情のしかた、同情において留意すべき事はもちろん、知っているのだろう。いずれにしても、隣人との関係である。「同情すら残酷」はわかるようで、はっきりはしない。不作為なのか、作為的なのか。ただ、「神に逆らう者」とあるので、神が望まれることを求めず、それとかけ離れたまたはずれた思いを抱く者はということかもしれない。「同情」は究極の目的ではなく、ひとつの方策なのだろうから。
- BRC2017:Prv 12:23 思慮深い人は知識を隠す。愚かな心はその無知を言いふらす。
- わたしは明らかに、愚かな心である。しかし、愚かになって、練習しているつもりでいる。思慮深いとみられる必要はないから。神に真実に向き合いたい。それだけがわたしの望みである。
- BRC2015:Prv12:28 命は慈善の道にある。この道を踏む人に死はない。
- 口語訳では「正義の道には命がある、しかし誤りの道は死に至る。」である。ここでも慈善は正義である。愛の行為だろうか。考えさせられる。もう少し調べてみたい。
- BRC2013:Prv12:15 愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。
- 「自分の目に正しく見える」このことが愚かさの証拠なのだろう。そして「勧めをいれる」ことが知恵あるものの証明。この逆をも示しているように思われる。
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- BRC2021:Proverbs 13:23 貧しい人の耕作地で多くの食物が実っても/公正が行われないところでは奪われてしまう。
- 本当に、これは、残酷。理不尽である。公正は、ひとに委ねられているのだろうか。公平とともに。神様は、それを、見守っておられるのかもしれない。これも、愛の神のなさることなのかもしれない。魔法によって、解決したとしても、それは、なにも生み出さないのだろう。今回のロシアのウクライナ侵攻はなにかを生み出すのだろうか。神様が望まれるなにかを。
- BRC2019:Prv 13:12 待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。
- 聖書協会共同訳では「望みがかなえられないと心が病み/願いがかなうと命の木を得たようだ。」となっている。この箴言には「怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる。」(4)とあるように、勤勉さなど、生活における経済的な記述が多い。そう考えると、聖書協会共同訳のほうが一貫性が高いように思う。しかし、この箴言でも様々なトピックがちりばめられており、一つのことばでまとめるのは、問題もあるだろう。「命の木」は創世記2章・3章および黙示録に登場するが、それ以外は、上の引用箇所を除くと、箴言3章18節、11章30節と、15章4節である。箴言に多く現れていることを知らなかった。知恵を勤勉に求めるものことは、命の木を得ることと関係しているのかもしれない。
- BRC2017:Prv 13:24 鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
- 体罰容認のように見える。同時に、この後半の重要性とでバランスをとっているのだろう。体罰によって教えることを是とはしていない。当然のこととして受け入れられているからこのように書けるのか。体罰についても、1度よく考えてみたい。クリスチャンが80%程度のケニアではいまも、学校で体罰があるようである。
- BRC2015:Prv13:9 神に従う人の光は喜ばしく輝き/神に逆らう者の灯は消される。
- 因果応報ととることもできるが、ヨハネ3章20,21節「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」このように見ると、自らが光に来るか、来ないかが背景にあるともいえる。それが明らかになるのが、イエスの到来、神の子が世に来られたことによるのだろうか。
- BRC2013:Prv13:11 急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。
- これは、この時代から真実だったのか。驚かされる。今は、しかし、そうは思われていないかも知れない。
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- BRC2021:Proverbs 14:31 弱い人を虐げる者は造り主を見くびる。/造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。
- 興味深いことばである。主のみこころを求める人は、それを実行する人、造り主と共に喜ぶ人なのかもしれない。他方、弱い人をしえたげる人は、主に責任を押し付けつつ、主の御心は受け取ろうとしない人なのだろう。「心は自分自身の苦しみを知っている。/その喜びに他人はあずかれない。」(10)神様の苦しみを知り、その喜びにあずかるものとなりたいものである。
- BRC2019:Prv 14:21,22 友を侮る者は罪人。/苦しむ者を憐れむ人は幸い。悪を耕す者は必ず迷う。/善を耕す人には慈しみとまことがある。
- 神を畏れることの、一般生活との関わりが書かれているように思う。このような倫理観は、神を畏れるという以外にも表現できるかもしれない。自分の存在は、生まれてきたことにおいても、受け継いできたことにおいても、いままで生きてこられたことに、人びとと関係し合いながら生きていることについても、自然の恵みについても、自立的存在ではなく、自己完結ではないことは、明らかであるのに、ひとは、それを忘れ、傲慢に振る舞う。やはり、神を畏れるという表現が一番適しているように、わたしには映る。
- BRC2017:Prv 14:10 魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない。
- これはその通りだと思う。その魂の苦しみを、神様は知っていてくださるのだろうか。神様の苦しみはどうだろうか。聖霊によって、ある部分、知ることができるのだろうか。喜びはどうだろうか。神の喜びを喜びとすることはできるのだろうか。
- BRC2015:Prv14:13 笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。
- 14章には「心:レイブ (leb: inner man, mind, will, heart, understanding)」が5回現れる。10, 13, 14, 30, 33節である。(箴言全体では92回)なかなか深いことばである。自分自身でも、把握できないものなのかもしれない。
- BRC2013:Prv14:1 知恵はその家を建て、愚かさは自分の手でそれをこわす。
- 本当にそのとおり。わたしは自分で建て、自分で壊しているのだろうか。
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- BRC2021:Proverbs 15:22 計画は相談しなければ挫折し/多くの助言があれば実現する。
- このようなことばに惹かれるが、聖書では、そして、箴言に限定しても、少ないように思われる。ダイナミックな人との関係の中で、協力してことを進めることが少なく、まだ未発達だったからだろうか。現代での重要性とともに、その難しさは、際立っているように思う。相談、助言、それぞれの取り扱い方、すなわち、相談を受けたり、加わったものや、助言をする側が、なにを考えなければいけないかなどである。単に、神を畏れるものの助言や、共に、祈りつつ相談するといったことの枠をでることが、有効である場合が多いばかりか、そこに、神様の御心があることもあると思われるからである。難しい。
- BRC2019:Prv 15:15-17 貧しい人の一生は災いが多いが/心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは/乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは/青菜の食事で愛し合う方がよい。
- 真実であると同時に、注意する点も含まれる。このことを、貧しい(苦しむ(聖書協会共同訳))人に(貧しくても、苦しくてもいいのだと)押しつけてはいけないことである。あくまでも、真実(主への信頼を通して学んだこと)の信仰告白である。それを普遍的事実(科学的正しさ)と置き換えると問題がおこる。ひとのいのちの営み(信仰生活)が消されてしまうからである。
- BRC2017:Prv 15:15 貧しい人の一生は災いが多いが/心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。
- 確かにぎりぎりの生活の中では災いが大きな影響を及ぼし、人を滅ぼしかねない。しかし、ここで言われている「心が朗らか」は何を意味しているのだろうか。災いをも、喜べることだろうか。神への信頼の故だろうか。
- BRC2015:Prv15:31,2 命を与える懲らしめに聞き従う耳は/知恵ある人の中に宿る。 諭しをなおざりにする者は魂を無視する者。懲らしめに聞き従う人は心を得る。
- 年長になってくると、助言を受け入れることが困難になる。経験から、反論もできるからであろう。しかし、諭し(助言に含まれる)の中に真実を見取ることは多くある。懲らしめ(怒り・憤りを感じるとき)を通して背後にあるものを、受け取るとき、その人の信頼をも得ることができることは確かである。まさに33節にあるように「主を畏れることは諭しと知恵。名誉に先立つのは謙遜。」
- BRC2013:Prv15:24 知恵ある人の道は上って命に至る、こうしてその人は下にある陰府を離れる。
- すごい。これこそ、ここにこそ、命があるということか。それを見いだした人は、どんな人なのだろう。それこそ神様から与えられた知恵なのだろうか。
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- BRC2021:Proverbs 16:31 白髪は誉れある冠/正義を行う道に見いだされる。怒りを遅くする人は勇士にまさり/自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。
- 聖書には歳をとって毛が薄くなったりはげになったりする記述がほとんどないように思われる。これは、民族性なのか、ほかの捉え方がされているのか、毛が薄くなった自分は、気になる。それに続く、引用の後半は、前半と関係しているとは言えないが、自分のことを考えると、明らかに、自制心が高まり、怒りが遅くなっている。そう簡単には、判断できないと思うからだ。心を治めるというより、自分の弱さ、知らないことの多さを痛いほど、学んできたからだろうか。
- BRC2019:Prv 16:19 貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
- 本当にそう思う。「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」(18)は教訓としては、その通りだと思う。何度か似たフレーズが登場するが、まさに「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(25)なのだから。
- BRC2017:Prv 16:22 見識ある人にはその見識が命の泉となる。無知な者には無知が諭しとなる。
- 前半はある程度わかるが、後半は何を言っているのだろう。良いことを言っているのだろうか。無知がかえって諭しとなることは実際あるように思われる。神は、無知をも用いられると言うことだろうか。
- BRC2015:Prv16:5 人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
- 19:21には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とある。ここで使われているのはカシャブ(chashab: to think, plan, esteem, calculate, invent, make a judgment, imagine, count)19:21 はマハシャバー(machashabah: thought, device)。今回この「一歩一歩」にひかれた。口語訳は「しかし、その歩みを導くものは主である。」上に引用した新共同訳は味わいがある。
- BRC2013:Prv16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
- 「人の道」は外側、しかし、主は「魂」をも見通すということか。神様の目によって、自分のこころを省みることが赦されるように祈りたい。
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- BRC2021:Proverbs 17:16 愚かな者が代金を手にしているのはなぜか。/思慮もないのに知恵を買おうとしている。
- 意味がわからないので、他の訳を調べてみた。「愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。」(新協同訳)「愚かな者はすでに心がないのに、/どうして知恵を買おうとして/手にその代金を持っているのか。」(口語訳)「愚かな者が良識もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはどうしたことか。」(新改訳2017)'Why is there in the hand of a fool the purchase price of wisdom, Since he has no heart for it?' (NKJV) NKJV は直訳に近いため選んだ。おそらく、いくつも、意味のとり方があるということなのだろう。じっくり読むと、聖書協会協同訳の意味も浮かび上がってくる。名訳だと思えてくる。不思議なものである。NKJV の疑問符は、とても興味深い。日本語には、ない表現なのだろうか。自然さを欠くのかもしれない。「愚かな者が代金を手にして何かを買おうとしているのはなぜか。思慮もないのに知恵を買おうとしているのだろうか。」(私訳)
- BRC2019:Prv 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。
- その通りだと思うが、どうすれば、裁判沙汰にならぬうちにやめられるのだろう。続けて「悪い者を正しいとすることも/正しい人を悪いとすることも/ともに、主のいとわれることである。」(5)とある。正しさをうやむやにして、切り抜けることではないのだろう。しかし、正しさの主張となれば、争いは収まらない。「愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く。」(9)やはりここに至るように思われる。「貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。」(5)をたいせつにしたい。造り主をみくびることの反対が、主を畏れることのように思う。「貧しい人を嘲る」「(他者の)災いのときに喜ぶ」背景に潜む闇は、自分にもあるように思う。
- BRC2017:Prv 17:17 どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。
- 友は兄弟より勝ることはあっても、ここでは、友が、兄弟となることが暗示されているのだろう。友と、兄弟は、やはり異なるもの。真の兄弟姉妹として生きることが、やはり、共に生きること、友の共に願うことなのだろう。肉親としての兄弟からはじめては、なにも生まれない。
- BRC2015:Prv17:1 乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。
- 乾いたということは、スープがないということだろうか。いけにえの肉で家を満たすとは、どのような状況なのだろうか。最大の捧げ物を豊富に準備すると言うことだろうか。自分の正しさの証明にこだわり、神が求めておられることに、目を向けられないのかもしれない。
- BRC2013:Prv17:27 言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。
- わたしは、どうみても、そのような者ではあり得ない。どうしたらよいのだろう。それほど、ピントが外れていないかもしれないが、長い目で見て、考えると、さとくはないと感じてもいる。
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- BRC2021:Proverbs 18:14 人の霊は大病にも耐えられるが/霊が沈めば誰が支えることができようか。
- 箴言記者は、様々なことを観察している。そして、それを知恵として伝え、単純に、主に祈ればよいとは書かない。引用句においても、ひとはすぐ回答を、慰めを求める。しかし、ことばを言葉として、受け取ることがたいせつなのかもしれない。直前には、「よく聞きもせずに言葉を返す/無知も恥辱もこういう者のこと。」(13)ともある。ひとは、解決策を求める。しかし、それは、簡単には得られないことを、しっかりとわきまえるべきなのだろう。自分の問題か、他者におこったことか、それぞれの場合に、簡単に答えがみつかるわけではない。
- BRC2019:Prv 18:8,9 陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。仕事に手抜きする者は/それを破壊する者の兄弟だ。
- こころに残る知恵が多く語られている。「離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。」(1)こころにあることを、見透かされているようにもうつる。言語化されていることも、重要なのだろう。味わい、こころに蓄え、そのことばを生きることができればと思う。むろん、それが終着点ではなく、ことばは、表現も変えながら、成長していくようにも思うが。
- BRC2017:Prv 18:1 離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。
- 離反はすでに、一つになっているもの、あることによって結びあわされた共同体から、離れることを意味するのだろう。しかし、この後半を見ると、わからないように、離反することを、暗示している。すると、離反とは、単なる裏切りであるように思われる。口語訳はあまりに異なるので、驚かされる。「人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。 」(An unfriendly person pursues selfish ends and against all sound judgment starts quarrels. [NIV]) いろいろな訳を見るよりも、やはり原典を当たったほうが良いのだろう。いつか、ここに戻ってこられることを期待して。
- BRC2015:Prv18:24 友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。
- いろいろと考えさせられる。真の友、それは、イエス様。兄弟よりも、愛し、親密になってくださる。わたしは、人に対してどうであろうか。真の友となっているだろうか。今日も何人かのひとと語った。しかし、真の友になれただろうか。
- BRC2013:Prv18:20 人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
- これは何を意味しているのだろう。「満ち足り」は自己満足だろうか。わたしの危険な状況を表しているかもしれない。
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- BRC2021:Proverbs 19:13,14 愚かな子は親の破滅/いさかい好きな妻は滴り続ける雨漏り。家と財産は先祖から受け継ぐもの/悟りある妻は主からいただくもの。
- まずはそのとおりだと思う。同時に、父・夫の責任については述べられておらず、一方的でもある。たしかに、因果応報的に、適切にすれば、こうならないとは、わたしは考えていない。適切な対応はむろんあっても、それだけで、このような事態を避けられるわけではないのだから。背後に主がおられることが書かれているが、主がどのように、関わっておられるのかは不明である。混乱の元となる「愚かな子」「いさかい好きな妻」を神様はどのように見ておられるのだろう。そして「賢い妻」「家や財産」の分配についても。
- BRC2019:Prv 19:22,23 欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い。主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。
- 仏教の「煩悩(ぼんのう)」が欲望と近いのかと思うが原語のサンスクリットのクレーシャは、単に苦しめる・汚すといった意味のようだ。ここでは、貧しい人と、欺く者が対比されている。欲望は、欺くこととつながっているのか。貧しいは、単に経済的に苦しいひとではない。神以外に、救いがない状態にあるものなのだろう。主を畏れるひとがそれに近いということか。災難は、天災などを考える必要はなく、ここでは、恥を受けることがないといういみなのかもしれない。
- BRC2017:Prv 19:23 主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。
- 主に信頼することと、主を畏れることは同じだろうか。主を畏れるとは、主の主権にゆだねることだろうか。主がなされることに信頼を置くことだろうか。命をあたえてくださる方のなされることに信頼すれば、命を得て生きることができ、さらに、平安に暮らせるだろう。死に至るまで。わたしは正直、そのように生き、そのように死んでいきたい。それがだまされていることだとは私には思えない。私が知ることは、ほんの一部分で、そのもとで、精一杯生きることを否定するものではないのだから。
- BRC2015:Prv19:3 人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。
- この章は個々の格言を集めた感じもある。ただ、理解できないものもある。たとえばこの章は「貧乏でも、完全な道を歩む人は/唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。」(1節)から始まるが、何がポイントなのか分からない。あまりに当然なことであるからだ。3節の「無知」と「憤り」が結びついていることに興味を持った。本当にその通りである。ひとは、なんと浅はかなことか。
- BRC2013:Prv19:14 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。
- 個人的には、家や富は選んで生まれてきたのではないので、神からのもの、賢い妻は、自分で選んだので、失敗しても、自分の責任を思うかもしれない。ここの力点は、後半におかれているのだろう。賢い妻は主から賜るももの。アーメン。
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- BRC2021:Proverbs 20:3 争いを避けることは人の誉れ。/無知な者は皆、争いを引き起こす。
- 争いによって得られるのは虚しさ、失われるものが多いこと、よいことを考えることさえエネルギーを残さないということだろう。その火中にはいっていくことを、わたしは望むのだろうか。よく、わからないが、それが、争いを最小限にすることなら。争いが始まる、または、大きくなりそうな時、身を引くことも、ひとつの選択肢だと思っており、時間も必要なのかもしれないと考えている。しかし、争いを避けることは、もっと、もっと深いものが必要なのだろう。わたしには答えられない。英知がないからか。「人の心にある企ては深い水。/英知ある人がそれを汲み出す。」(5)
- BRC2019:Prv 20:5,6 思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。親友と呼ぶ相手は多いが/信用できる相手を誰が見いだせよう。
- 直前の4節は「怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない。」とあり「英知のある人」はこれに対応する語でもあるようだが「思い計らい(聖書協会共同訳は単に「企て」)」を「くみ出す」とはどのような事だろうか。ひとの思い、考えることより、自分の外に目をむけることをたいせつにしようとしてきた。謙虚に。しかし、じっくりと考えることともうすこし、ていねいに向き合ってみたい。確かに「思い計らい」を「くみ出し」ているひとでなければ「信用できる相手」とは言えないかもしれない。信用しようとしても、怠け者だったり、心の中の深い水に目をむけないひとは、実際的に、信頼には値しないのだから。わたしにとって、イエス様は、信用できる相手である。
- BRC2017:Prv 20:5 思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。
- 「思い計らい」とはなんだろうか。しかし、この後半を見ると、それは、非常によいものである。確かに、神様からあたえられたものをすべて用いて、思い計れば、そこからくみ出すものは、無尽蔵のように、わたしには、思われる。それが英知といえるかどうかは、そこから生まれたものを生きてみないとわからないが、生きながらまた、くみ出すことができるのかもしれない。そのような生き方を、わたしはしていきたい。
- BRC2015:Prv20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
- 無知であることを知ることの大切さ、それが知恵なのかもしれない。そしてそれは、神に信頼することとつながっている。5節の「思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。」にもひかれる。「思い計らい」は口語では「計りごと」である。何を意味しているのだろうか。
- BRC2013:Prv20:6 自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。
- 新改訳では「信用できる」となっている。そのような人でありたい。これも、神が与えられるものかもしれない。
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- BRC2021:Proverbs 21:26 その者は日夜欲望を満たそうと願うが/正しき者は与え、惜しむことはない。
- 与えるものも、自分のものというより与えられたものとの意識があるからだろう。「虚偽を語る証人は滅び/よく聞く人は永遠に語り続ける。」(28)とくに後半は興味深い。語り続けるのは、短くであっても、よく聞いた人のことばは、生きたものとして語り続けるのかもしれない。語るのを待つというより、自分の中には、たいしたものがないことを知っているということだろう。「知恵も、英知も、謀も/主の前には無に等しい。」(30)聞き方を方法論としてではなく、学びたい。
- BRC2019:Prv 21:29,30 神に逆らう者は厚かましく事を行う。正しい人は自分の道を整える。どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。
- このあとの21章最後の節は「戦いの日のために馬が備えられるが/救いは主による。」とある。「自分の道を整える」は、おごらず、謙虚にを表現しているのだろう。しかし、それは、正しい人を目指す道で、互いに愛することを向いているようには思えない。イエス様が来られるまで待つ必要があったのか。「救いは主による」謙虚に、「主の御前」での価値を思いつつ、主のみこころを求め続けることだろうか。
- BRC2017:v 21:30 どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。
- 私は、数学を学んだからだろうか。すくなくとも、このことがその通りだと、心の底から思っている。このように、証言する知恵すら、むなしいということも含めて。わたしにできることは、神の前にへりくだることを、決して忘れないで謙虚に生きることである。
- BRC2015:Prv21:26 欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。
- 口語訳はかなり異なる「悪しき者はひねもす人の物をむさぼる、正しい者は与えて惜しまない。」全体で7語、いろいろな訳があり得る。前半は共同訳が、後半は口語訳が直訳になっている。前半は、仏教の「煩悩(人間の心身の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望,他者への怒り,仮の実在への執着など。(スーパー大辞林))」を思い出す。仏教では「修行によって消滅させることによって悟りを開く(スーパー大辞林)」聖書においては、この後半は異なる。正しい者、聖書では、神に従う人は、与え、惜しまないとなっている。神を善い方として受け入れるかどうかに大きな分かれ道があるのだろう。
- BRC2013:Prv21:4 高ぶる目とおごる心とは、悪しき人のともしびであって、罪である。
- 新共同訳は「愚かな女、高慢なまなざし、傲慢な心」とはじまる。ヘブル語をみてもよく分からなかった。ここでは、これらが罪である、と断定している。人は、これらは、罪に誘うものと考えるかもしれないが、こころで自分を高くすること自体が罪だと言っている。
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- BRC2021:Proverbs 22:2,3 富める者と貧しい人が行き会う/どちらも造ったのは主。賢い人は災難が来ると見れば身を隠し/思慮なき者は向かって行って罰を受ける。
- ゆっくり考えたい言葉だ。身を隠すことも、わたしには、よくわからない。どうしようも無いときに、あらがっても仕方がないということか。神様の働きは、様々で、見極めることができないこととも通じるのかもしれない。おそらく、神様も、理解できているわけではなく、ただ、望んでおられることが、御心としてあるのかもしれない。神様は、身を隠されるのだろうか。罰を受けることがあるのだろうか。前者はあるかもしれないが、後者はないのだろう。
- BRC2019:Prv 22:2 金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。
- このように宣言するのは、勇気のあること、または、現実を、しっかりと直視していることだろう。「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。」(7)これも、現実の直視である。しかし、そこで終わるわけではない。「寛大な人は祝福を受ける/自分のパンをさいて弱い人に与えるから。」(9)祝福を求めるからではなく、主を思い、主の御心を求めることだろうか。現実を直視することから、主に目をそらすことではない。
- BRC2017:Prv 22:2 金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。
- あまり、その答えを性急に求めない方がよい。しかし、それは、主のご計画でもあり、よしとされたことなのではないだろうか。金持ちと貧乏なひと、それだけで価値が決まるわけではない。問いを持つことも、自分に問いかけることも、そこから生じてくる。主がそのどちらも造られたと、証言できるひとは幸せ。無責任ではまったくないのだろう。
- BRC2015:Prv22:3 思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。
- 2節には「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。」とある。箴言は「いのちの言葉」と「長老の知恵」が集められている。それを、区別することは、あまり良い結果を生まないであろう。詩篇と同じように、信仰者の知恵としてうけとるのが、良いのかもしれない。そこには、神によって養われた、神からの知恵が豊かに宿っている。その知恵を得て、生きる。これこそが、信仰者の生き方なのだろう。科学者とも似ている。どちらも、真理探究で、知恵の上に築かれていく。浅はかにならず、思慮深くしかし、神を畏れて生きていきたい。
- BRC2013:Prv22:24,25 怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。 それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである。
- この後半が興味深い。自分もそのようにならないため。自分は大丈夫と人を批判していても、いつしかそのようになってしまうのだろう。そのことは理解できる。
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- BRC2021:Proverbs 23:4,5 富を得るために労するな。/分別をもって思いとどまれ。目を富に向けても、そこに富はない。/自ら鷲のような翼を生やし、天に飛んで行く。
- 箴言が書かれた時代にも、富を得るために労しているひとたちがたくさんいたのだろう。少し驚かされる。富は、それ自体に、自分を満足させる魔力があるのだろうか。なんでもできるという気にさせるのか。昔から、富は、それ自体が目的ではなく、それによってなにをするか、何のために富を蓄えるのかがたいせつだと思ってきた。時間ともにているが、二次的な存在を中心に考えるのではなく、本質的にどうありたいか、なにをしたいのかに目を向けるべきだと。むろん、だからといって、富に目が奪われることと無縁とは言えないことも確かだが。引用句では、富よりも、さらに、一歩手前の、富を得ることについて語られている。労したくなる、そのような魔力があるのかもしれない。
- BRC2019:Prv 23:29,30 不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か/いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か/理由なく傷だらけになっているのは誰か/濁った目をしているのは誰か。それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。
- 富、食、遊女などとあるが、この表現だけ、特別である。酒におぼれるものが、多かったのだろう。現実から逃避していることは、確かである。もっとたいせつなものを見つめず、それを忘れようとしているのか。気分転換は、すでに、過ぎてしまっているのだろう。もう少し、ゆっくり考えてみたい。
- BRC2017:Prv 23:4 富を得ようとして労するな/分別をもって、やめておくがよい。
- 身にしみているひとの言葉なのだろう。分別をもってとある。それで何でもできるように思ってしまうが、そのときには、何もできないことを知っている人の言葉なのだろう。すでに、目標が変わってしまっているからだろう。
- BRC2015:Prv23:35 「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
- 前半は接待による食事一般が語られているが、後半は酒に酔うことについての注意である。そしてそこに流れがある。行き着くところが、この最後の節である。現実を見ることができなくなるだけでなく、それを無意識に避ける状態に陥る、それこそが酔いなのだろう。そう考えると、酒に限ったことではない。たたかれても痛くもなく、感じもしない。その状態に甘んじる状況。これは、神から与えられるいのちに生きることの正反対にある生き方なのだろう。注意して、自分の状態を見守りたい。
- BRC2013:Prv23:17 心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。
- なぜ普遍的でないことをもとめ、それによって一喜一憂するのだろう。神ではなく、人を見ているから、自分の目に入るものに頼っているからだろう。神を恐れることは、知恵のはじめ。
[24] ... back to menu top
- BRC2021:Proverbs 24:13,14 子よ、蜜を食べよ。実に良いものだ。/滴る蜜は口に甘い。魂にとって知恵も同じと知れ。/それを見いだせば、未来があり/希望が絶たれることもない。
- 未来と希望につながるという表現に惹かれた。蜜もそのようなものなのだろうか。体によく、エネルギーのもとだと考えられていたのか。「悪に未来はない。/悪しき者の灯は消える。」(20)が対応している。そのようなものに、心を奪われるなということだろう。知恵のたいせつさは、箴言の中心テーマでもあるが、ここでは、「それを見い出せば」と言っている。知恵を求めることはわかるが、見出してはじめて未来があるのだろうか。すこしずつ、見出すことをも表現しているのかもしれない、としておこう。
- BRC2019:Prv 24:1,2 悪者のことに心を燃やすな/彼らと共にいることを望むな。悪者が心に思いめぐらすのは暴力。唇が語るのは労苦を引き起こすこと。
- わたしには「悪者」という考え方は受け入れられない。結局、そのようにしか表現できないことはあるだろう。その意味で、悪者の存在は、真実である。しかし、自分の目の前にいる人間を悪者と判断することは、できない。つまり、事実として、それを正しいとすることはできない。自らも、悪と善の間で揺れ動き、その間をさまよい歩く存在である。真理、主のもとにある知恵を尋ね求め、自らを省みながら、他者とともに生きる道をめざすことだろうか。次のことばは心地よい。「わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。滴る蜜は口に甘い。そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」(13,14)「魂にとって知恵は美味だと知(り)」未来に向かって希望を持って歩んでいきたい。
- BRC2017:Prv 24:27 外ではあなたの仕事を準備し、畑を整え/それから、家を築くがよい。
- 人はこの逆の順番を好むのかもしれない。家を築けば、畑を整えられ、そうすれば、しっかり働けると。実際は、その逆なのだろう。
- BRC2015:Prv24:10-12 苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ 死に捕えられた人を救い出さず/殺されそうになっている人を助けず 「できなかったのだ」などと言っても/心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される。
- 神に依り頼まないものの姿が描かれているのだろうか。苦難の襲うとき気力を失うのも、力を出し惜しみするのも、おそらく、自分の中に救いをもとめ、神に依り頼まないからだろう。心を調べる方、魂を見守る方に信頼したい。16節aにあるように「神に従う人は七度倒れても起き上がる。」
- BRC2013:Prv24:16 正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる。
- 本当だろうか。おそらく真実である。それだけの力が与えられるのだろう。主が背後におられるから。ともいえるが、生きることに価値を求めているからだろうか。
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- BRC2021:Proverbs 25:10,11 銀細工に付けられた金のりんごは/時宜に適って語られる言葉。それを聞く耳に与えられる知恵のある懲らしめは/金の輪、また純金の飾り。
- 「時宜に適って」これがとてもむずかしいことは、おそらく、多くの人が知っているだろう。「言葉」や「語る」ことだけに、本質があるのではなく、他の様々な要素が働いて「それを聞く耳」に届くのだろう。「金のりんご」「金の輪」「純金の飾り」となりうるが、それ自体だけに価値をもとめるのは、誤りであるように思う。その複雑さの背後で、神様が働いておられるように思う。
- BRC2019:Prv 25:20 寒い日に衣を脱がせる者/ソーダの上に酢を注ぐ者/苦しむ心に向かって歌をうたう者。
- 「ソーダの上に酢を注ぐ」とどのような化学反応が起こるのだろう。よくわからず、聖書協会共同訳をみると「寒い日に衣を脱がせ、傷の上に酢を注ぐ。/それは苦しむ心に向かって歌を歌うこと。」とある。新改訳2017では「ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」とあり、原語は見ていないが、聖書協会共同訳が一番、意味が通る。英語もいくつか調べてみたい。しかし、ここは、文脈からすると、相手にまったく配慮がない行動を表現しているのだろう。このあとには「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」(21)とある。アーメンと言いたい。しかし「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(22)には驚かされる。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ローマの信徒による手紙12章20節)が引用箇所にあるが、個人的には、全く理解できない。
- BRC2017:Prv 25:13 忠実な使者は遣わす人にとって/刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。
- 使者の仕事は、完全に、主人の使命を果たすことである。イエスにとっては、このことが、常に中心にあり、それを完遂して、弟子たちに新たな使命を与えたのだろう。主は、魂を生き返らせるものを得ておられるのだろうか。なにか、わたしには、とても、不安に感じる。主の使者としての使命に忠実なのだろうか。伝えるべきことを、理解もできていないのではないかと。
- BRC2015:Prv25:25 渇いた喉に冷たい水、遠い地からの良い便り。
- 昔、この言葉は特別な意味があった。遠い地からの便りがどれほど待ち遠しかったか。いまは、このことの喜びが薄れてしまった。かえって、乾いた喉に冷たい水の方が普遍性を持つようにも感じられる。肉体の感覚が他のことにも通じるから。そう考えると、遠い地からの良い便りも、もう少し、象徴的な意味にとることもできるのかもしれない。遠いと感じる存在は、多々あるのだから。
- BRC2013:Prv25:16 蜜を得たならば、ただ足るほどにこれを食べよ、おそらくは食べすごして、それを吐き出すであろう。
- この言葉は、27節「蜜を多く食べるのはよくない、ほめる言葉は控え目にするがよい。」に続く。ほめること、賞賛をうけることは、そのようなことなのだろう。しっかりと心に刻みたい。
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- BRC2021:Proverbs 26:4,5 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな/あなたがその人に似た者とならないために。愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。/その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。
- 「愚かな者」への対し方である。平等を教えられてきた学校教育の中で、愚かな者と賢い者を区別するのはいけないことだと学んできたように思う。しかし、より多様な人々の社会の中で生きていると、「愚かな者」の愚かさと「賢い者」の賢さが、いかんともしがたいものとして存在することも、経験する。「愚かな者」は、簡単には「賢い者」にはならず「賢い者」は完璧には程遠いものの、やはり、あらゆる場面で賢さを発揮する。この箴言のことばをこころの片隅に蓄えることは、注意喚起にはなるのかもしれない。そして、平等ではなく、それぞれの場で適切なことばをさがし、行動を考える縁(よすが)となるように思う。
- BRC2019:Prv 26:23-25 唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は/混じりもののある銀で覆った土器のよう。唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は/腹に欺きを蔵している。上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。
- ことばだけでは、こころはわからないことが、表現されている。こころは、自分でもわからないこともあり、ましてや、他者のこころは、理解できないことが多い。それを、みられるのが、神様なのだろう。わからないということを、謙虚にうけとめ、ていねいに生きていくこと、自分にできる、誠実さを貫くことだろうか。「七つの忌むべきこと」は慣用句かもしれない。具体的に、何をいみするのだろうか。
- BRC2017:Prv 26:20 木がなければ火は消える。陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる。
- 陰口は、多くの場合、明確ではない根拠に基づいて語られる。虚偽ではなくても、不正確、または、ほんの一部を伝えることが多い。そのような陰口を言うものはどのようにして消えるのだろうか。論理は、とても不完全である。自分の利を引き寄せるために、そのような論理を使うことも多い。これもまた、いさかいを助長する。
- BRC2015:Prv26:25 上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。
- ヨハネ2章23-25節「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」を思い出す。しかし同時にイエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7章50節)などとも言われる方である。ヨハネと他の福音書の違いもあるだろうが、ヨハネでも平和を与えられる方である。(ヨハネ14:27, 16:33)おそらくこの世では「七つの忌むべきことを持っている」状態の中で、平和が与えられるのだろう。
- BRC2013:Prv26:4,5 愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、自分も彼と同じようにならないためだ。 愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ、彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。
- 答え自体に目的をみてはいけないのだろう。二つの言葉は、興味深い。
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- BRC2021:Proverbs 27:1 明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。
- このことばをそのとおりだと思う人と、そうではない人といるのだろう。戦争の中にいる人ではなくても、自然災害も含め、多くの人が、そのような環境に生きてきたのだろう。いまは、そうではない環境で生きている人が増えていると思われる。そして、そうではないひとも多く存在する。そのようなひとたちに心を向けたい。「満ち足りている者は極上の蜜をも踏みつけるが/飢えている人には苦いものもみな甘い。」(7)貧しい時代を知っており、日本が豊かになってからも、貧しい国や地域に何度も訪れ、このことはよく分かる。自分も、乏しい食事、極上ではないもので、日常を生きることをたいせつにしてきたが、実際に苦いものもみな甘いといえるわけではない。「鉄は鉄で研がれ/人はその友人の人格で研がれる。」(17)有名な言葉だが、わたしも、異なった環境にいる友を大切にしていきたい。みんな、それぞれどうしているかな。
- BRC2019:Prv 27:1,2 明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
- 明日のことは、わかならい。この自覚が、信仰へと向かったのかもしれない。現代では、明日のことを自ら制御できると考えられる時代でもある。科学が発達し、事故や病気もある程度対応できるようになってきた。しかし、最近は、未曾有の出来事が多い。地震、台風、感染症。未曾有ということは、予測がしにくいということでもある。謙虚にさせられる。自分の口、他人、異邦人とだんだん、遠くなってく。おそらく、普遍性が増し、主観的なものから、自由になっていく様も現しているのだろう。大きなわくでみると、自分は、ちっぽけな者、価値も小さく見える。謙虚さを生み出すかもしれない。それも、知恵、神を畏れることなのだろう。
- BRC2017:Prv 27:2 自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
- 最後が興味深いが、口語訳では「ほかの人」となっている。解釈は、おそらく、簡単ではないが、仲間内ではないことを意味しているだろう。異なる背景の人に評価されることには、普遍的な観点が含まれるのだろう。
- BRC2015:Prv27:1,2 明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
- 「異邦人」に驚かされた。口語訳では「ほかの人」である。ノックリー(nokriy: foreign, alien)で、他人と最初に訳されている語とは、異なる。少なくとも、全く関係ない人ということだろう。1節を見ると、何か達成した事に対する評価が関係しているのかもしれない。確かに、評価は謙虚でなければならない、人の制御できないことばかりなのだから。
- BRC2013:Prv27:3,4 石は重く、砂も軽くはない、しかし愚かな者の怒りはこの二つよりも重い。 憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう。
- 「その通り」だと考え込んでしまう。賢者として行動するときには、心に留めるべきことだろう。しかし、箴言はそこでとどまるものもあると考えてよいのだろうか。あまり固く考えない方がよいのかもしれない。通常の格言と区別する必要はないのだろう。
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- BRC2021:Proverbs 28:8 利息や高利によって財産を殖やす者は/弱い者を憐れむ人のために蓄えることになる。
- 最初は意味がよくわからなかった。しかし、その後のいくつかの節を読むと、「利息や高利によって財産を殖やす」ような行為は、結局は破綻し、その逆のような「弱い者を憐れむ人のために蓄える」ことになるよ、と言っているのではないかと思った。「正しい人を悪の道に迷い込ませる者は/自分の掘った穴に落ち/完全な人は良いものを受け継ぐ。」(10)この節もその路線であり「富める者は自分を知恵ある者と思い込むが/貧しくても分別ある人はそれを見破る。」(11)も、真理を見抜くことについて語っている。「貧しい人に与える人は欠乏することはない。/貧しい人に目を覆う者は多くの呪いを受ける。」(27)つねに、このような世界とは言えないとやはり思ってしまうが、イエスが「神の国が近い」といわれたことを、信じて、現実からは、必ずしも、そのように見えない場合でも、神の支配(神の国)のもとに生きることが、イエスが生きられたように、神の子としていきることなのだろう。
- BRC2019:Prv 28:3 貧しい者が弱者を搾取するのは/雨が洗い流してパンがなくなるようなものだ。
- 聖書協会共同訳には「弱い人を虐げる貧しい男は/収穫を押し流し、台なしにする雨。 」とある。こちらの方が意味がとりやすい。「貧しくても完全な道を歩む人は/曲がった道を歩む富める者にまさる。」(6、聖書協会共同訳)こちらも、わかりやすいが、原語まで調べないといけないとも思う。「弱い人を虐げる貧しい男」貧しい者は、聖書で特別な意味に使われることが多いから、他の言葉を使ったのだろうか。いずれにしても、悲しいことが書かれている。しかし、実際、そのようなことは、世にもある。社会が悪い、環境が悪いということを、考えることも大切だが、やはり、悲しいことに向かわないが良い。
- BRC2017:Prv 28:26 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。
- ここでは「知恵によって歩む人」が「自分の心に依り頼む者」と対比されている。つまりは、知恵は、自分の心とは別のところにあると言うことだろう。自分の外にある、自分の内にはないものに、救いはあるのだろう。自分の中にあるものに救いがあるとしたら、救いと言えるものではないのかもしれない。
- BRC2015:Prv28:26,27 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。 貧しい人に与える人は欠乏することがない。目を覆っている者は多くの呪いを受ける。
- 「自分の心に依り頼む」と対比されているのが「知恵によって歩む」である。知恵は長老からの教えだろうが、神からの知恵を根源的には、意味するだろう。自分の中にあるものに依り頼んではいけないことをつげ、27節はその行動を言っているように思われる。行動においても、自分の中での損得勘定に頼らないということだろう。
- BRC2013:Prv28:13 その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。
- 「その」は新共同訳にはない。わたしは、ここにあるように「(罪を)言い表してこれを離れる者」でありたい。
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- BRC2021:Proverbs 29:11 愚かな者は自分の感情をすべてさらけ出し/知恵ある人は最後にこれを鎮める。
- 感情については、よく理解できていない。感じる主体は、個人であるので、他者からは直接的には理解できない。すなわち、自分の感情をさらけ出しても、理解できる人はいない。むろん、感情を吐露しているひとを前に、自分の経験の記憶を思い出し、共感の努力をすることはできるかもしれない。喜怒哀楽の中で、それを無視するのではなく、冷静に考えるべきことがあるということだろう。後半の「最後に」が興味深い。知恵ある人も、悲しいときは悲しく、苦しいときはやはり苦しいのだから。あまり関連性はないが「貧しい人と虐げる者とが行き会うとき/主はどちらの目にも光を与える。」(12)にも興味を持った。主は公平なのだろう。悲しさ、苦しさ、そして喜びを感じるとき、そして、他の人はそうではない状況においても、神様はどちらの目にも光を与えておられるのかもしれない。受け取り方、その光によって、見える世界は、異なるかもしれないが。
- BRC2019:Prv 29:1 懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。
- 深いことばだ。教育でも、上手にほめることがたいせつだという。しかし、本質は、こちらにあるように思う。人生で辛いことが多いと、素直でいることはできない。論理的帰結でもある。しかしまるでカタストロフィーのように、あるところまで頑張っても、現象は、突然坂を転げ落ちる。悲しいのは、最後に、もう癒やすことができないとあることだ。希望はもちたいが、このようにならないようにするひとと人との関係が作られていかなければいけない。懲らしめられることが多い(と感じている人)を放置しておいてはいけない。わたしにできることを探していきたい。
- BRC2017:Prv 29:1 懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。
- 「神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。 」(7節)ともある。しかし、実際、暴力団などの人の訴えは聞かないだろう。背景は、引用箇所のようなことが多いにもかかわらず。イエス様はどうだったろうか。イエス様は、このような人の心からの訴えをも聞き、癒すことがおできになるのではないだろうか。わたしの知らない、考えていない世界は、広い。
- BRC2015:Prv29:13 貧しい人と虐げる者とが出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる。
- 「出会う」は口語訳では「共に世におる」。様々な状況が目に浮かぶ。ここで「主はどちらの目にも光を与えておられる。」と言い切る信仰に圧倒される。これが、長老の知恵なのだろう。クリスチャンとノンクリスチャンを分けて考えることの第一の問題は、ここであるように思われる。神の前に謙虚に生きたい。’
- BRC2013:Prv29:11 愚かな者は怒りをことごとく表わし、知恵ある者は静かにこれをおさえる。
- 6節・7節は「悪人は自分の罪のわなに陥る、しかし正しい人は喜び楽しむ。正しい人は貧しい者の訴えをかえりみる、悪しき人はそれを知ろうとはしない。」とある。正しい人は、神様の正しさにたとうとする人のことだろうか。知恵ある人は、怒ろうとすることの背後に働く神様の働き、真理をみようとするということだろうか。
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- BRC2021:Proverbs 30:1-3 ヤケの子アグルの言葉。託宣。/その人は言う。/神よ、私は疲れた。/神よ、私は疲れた。/吞み尽くされてしまいそうだ。私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない。知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない。
- 最初の「神よ、私は疲れた。」の繰り返しが印象的である。何を伝えているのだろう。印象に残る言葉、そうでもないものが混在しているように思う。おそらく、箴言の他の部分と違って、精査・取捨選択されていないのだろう。「空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ/貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください。」(8)若い頃から、このことばで御何度祈ったことだろう。いまも、そう願っている。アーメン。
- BRC2019:Prv 30:18-20 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。そうだ、姦通の女の道も。食べて口をぬぐい/何も悪いことはしていないと言う。
- 「男がおとめに向かう道。」「姦通の女の道も。」これらは、個人の倫理感の問題だと考えていた。おそらく、それでは語り尽くせないだろう。一般的には、社会的にそのことがどのように評価されるかが影響されるからである。一つ一つの行為だけで倫理的価値判断がされることが減った。そのこと自体は、多様性・寛容性・全体的な視点からも、おそらく、たいせつなことだろう。しかし、その社会が維持する倫理基準が緩くなると、倫理自体の実体が消滅する方向に向く。非常に難しい問題である。わたしも、答えを持っていないだけでなく、端緒・ヒントすらない。
- BRC2017:Prv 30:1 ヤケの子アグルの言葉。託宣。この人は言う、神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
- わたしもこのように言いたくなるときはある。大切なのは、それが神に語りかけられているかどうかだろう。疲れもご存じの神に訴える。そこで力が与えられていくのだろう。神を見上げて、謙虚に生きていきたい。「まことに、わたしはだれよりも粗野で/人間としての分別もない。知恵を教えられたこともなく/聖なる方を知ることもできない。 」(2,3節)
- BRC2015:Prv30:8 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。
- 神のみこころに生きる、すなわち「公平と正義」に生きることをひたすら願うということだろうか。「むなしい」とは、どのようにわかるのだろうか。神が良しとされるものではないということだろうか。「偽りの言葉」も考えさせられる。本質ではないことにこだわることも多いから。
- BRC2013:Prv30:18 わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。
- 悟ることができないことがあることは、残念かもしれないが、そのことを知るのは、幸せなこと。いま、知っていることから、少しずつさとっていけばよい。謙虚に生きていきたい。
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- BRC2021:Proverbs 31:6,7 麦の酒は滅びようとする者に/ぶどう酒は苦い思いをかみしめる者に与えなさい。飲めば貧しさも忘れ/労苦も思い出さなくて済むでしょう。
- 女に溺れることについて注意し、次に酒について述べ、少しずつ目を向ける内容が変遷している。前半は、すこし乱暴にも見えるが、後半は、貧しいものに寄り添い始めている。そして、続いて「あなたの口を、ものを言えない人のために/捨てられた人の訴えのために開きなさい。あなたの口を開いて/苦しむ人と貧しい人の訴えを正しく裁きなさい。」(8,9)としている。レムエル王(不明)が母の言葉として書いているという設定になっているので、このように書かれているが、王でなくても「ものを言えない人」を思い「捨てられた人の訴え」「苦しむ人と貧しい人の訴え」を聴くことはできる。もとに戻ると、女や酒に溺れることが言いたいことの中心ではなく、もっと、価値のあることにこころを向け、エネルギーを避けと、教えているのだろう。母の教えである。わたしも、いろいろな方から、このような教えを小さい頃から学んできたように思う。
- BRC2019:Prv 31:3 あなたの力を女たちに費やすな。王さえも抹殺する女たちに/あなたの歩みを向けるな。
- 箴言には「女」に関わることを注意せよとの言葉が多い。性的誘惑だけではなく、それと関係するような女性との関係が「女」ということばで表現されているのだろう。箴言記者は男性と思われ(父が多く現れる)教える相手も男性が多いように思われる。男性と女性との人としての関係、それは、おそらく、共に労する、全く同じ仕事ではなくても、一つの目的のために、共働することによって、始まるのではないだろうか。箴言が書かれた時代にも、そのような関係は、牧畜を営んでいる者、農業によって生計を立てていた者には多くいたはずである。協力なしには、生活できなかったろうから。そう考えると、ソロモンの箴言は、少し偏ったものであることも、留意すべきかもしれない。王や、王宮にいるものまたは、役人など、給与生活者が想定されていたのかもしれない。
- BRC2017:Prv 31:30 あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。
- これは、女性に言っているのか、男性に向かって言っているのか。おそらく、両方だろう。ひとは、目に見えることから、判断してしまう。あでやかさ、美しさは、性的アピールもあり、ひとに魅力を感じさせることは、自己肯定感にもつながり自然な傾向である。主を畏れることは、それとは、かなり異なるベクトルを持つ。長期的な、深い考察、普遍的な価値に依っている。聖書は、しかしながら、これを求めることも、ひとの本質にあると言っているのかもしれない。
- BRC2015:Prv31:4 レムエルよ/王たるものにふさわしくない。酒を飲むことは、王たるものにふさわしくない。強い酒を求めることは/君たるものにふさわしくない。
- 最初の酒はヤイン(yayin: wine)後の強い酒はシェカール(shekar: strong drink, intoxicating drink, fermented or intoxicating liquor)前者は非常に一般的で聖書にも多数現れるが後者は20回程度。「酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない。」(20:1)この章の6節でも「強い酒は没落した者に/酒は苦い思いを抱く者に与えよ。」と使い分けている。酒-強い酒-強い酒-酒の順序で現れるのも一つの表現形式であろう。そう考えると、王-君-没落した者-苦い思いを抱く者にもある関係があるのであろう。考えさせられることも多い。苦い思いを抱くときは、おそらくいろいろな場合に生じる。没落することはどうであろうか。そして基本的に、酒ではない解決を勧めている
- BRC2013:Prv31:8 あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
- 6節・7節には「濃い酒を滅びようとしている者に与え、酒を心の苦しむ人に与えよ。 彼らは飲んで自分の貧乏を忘れ、その悩みをもはや思い出さない。」とある。王が母に教えられたこと。完全な真理ではないかもしれないが、すばらし知恵と指針に富んでいる。おごらず、みなしごの訴えをしっかり聞きたい。
コヘレトの言葉
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- BRC2021:Ecclesiastes 1:2,3 コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。
- 印象的な言葉である。この章の最後は「知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば、悩みも深まり/知識が増せば、痛みも増す。」(17,18)と結ばれている。わたしは、最近、神様とともに、悲しみ、苦しみ、喜び、労すること、それが求めることかな、と考えている。背景には、神様がどのような方かが、あるわけだが。自分や有限のものに目を向けている限りにおいて、知恵や知識も虚しく、一切は空であるという結論に達するのは、自然なように思う。むろん、神様の思い(みこころ)にまで昇華させないことも可能である。互いに愛し合うこと、他者と、悲しみ、苦しみ、喜びをともにしながら、共に生きようとすること。その他者の範囲を限定せず、広げていくことだろうか。人間の範囲は有限かもしれないが、関わる世界には、無限の広がりがある。そこに、神様もおられるように思う。
- BRC2019:Eccl 1:9-11 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい。
- 「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(2, 12章8節参照)とあるが、この空しさはどのようなものを表現しているのだろうか。引用箇所では、歴史は、世の中は繰り返しであるが、その一つ一つは、後の人たちは、心に留めない、とある。心に留められるようなことを求めているのだろうか。今は、変化の時代でもある、しかし、そこで何か新しいことをすることがたいせつなのだろうか。歴史になにかを刻むために生きているのだろうか。そうかもしれないが、最近は、そうではないことがたいせつに思える。共に生きること、みこころを味わいながら。
- BRC2017:Eccl 1:13 天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。
- 最後のことばは、実感がこもっている。神と、神の為されること、神が制御される世界の中に住む者としての実感なのだろう。その観察の上に、考察が始まる。自らを、誰でも知っている、知恵の王、ソロモンに身を置いて。最初は「知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(18節)である。しっかりと、コヘレトの言葉記者と向き合ってみたい。
- BRC2015:Eccl1:18 知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。
- 確かにそうだろうが、それが悪いことなのだろうか。憂うべきことなのだろうか。知恵が神を知ることから来るとすると、神の悩み、神の痛みを自らのものとすることともいえる。世界の状況、様々な紛争と人々の争い、ひとり一人の苦悩、痛み、病と死、愛と憎しみとねたみは、知れば知るほど、そしてその複雑さを学び考えればさらに、悩みは深くなり痛みも増す。わたしは、それを受け入れたい。自分の罪による、神様への不従順から来る痛みと悩みでなければ。
- BRC2013:Eccl1:2,3 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
- 生きることに何も意味がないならば、神がいないならば、そうだろう、ということは簡単である。しかし、同時に、神を知らないひとも、生き生きと生きる姿、そのような生き方を求める姿は、それ自体価値があるように思われる。空には思えない。この伝道の書を読みながら、このことを考えてみたい。
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- BRC2021:Ecclesiastes 2:22,23 太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は休まることがない。これもまた空である。
- この章では、喜び、快楽のこと、知恵のことが、語られ、そして、労苦のことについて述べられている。「私はぶどう酒で体を元気づけようと心に決めた。私は知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした。」(3)これも興味深い。苦悩は理解できるように思う。引用句では「その人にとって」「彼の一生は痛み、その務めは悩みである。」とあるが、一人ひとりの問題と考えると、行き詰まるのだろう。しかし、単純には、それを人類とか、神の国と広げることもできない。それは、かえって、無責任なのかもしれない。み心が、普遍的な価値がわからないと。それは、こうだと決めてしまえば簡単なのだろうが、同時に、時代とともに、揺れ動くことも確かだろう。不思議なものである。
- BRC2019:Eccl 2:18,19 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
- コヘレトのむなしさは、ここに依拠しているようだ。労苦の結果を受け継ぐ者が信頼的ないということ。たしかに、ソロモンの場合も、他の様々な聖書に登場する人の場合にも、言えること、現代でも同様なことは、数多くある。時代を超えて価値のあるもの、同時代のひとたちに価値のあるもの、自らが生き生きと生きるために価値のあるものを整理すべきだとまず思う。ここでは、時代を超えて価値のあるものが論じられているようだが、それは個人に委ねるのではなく、たいせつなこととして受け継がれるように考えることとともに、自分は価値があるものと考えても、後の世の人たちに委ねること、主に任せる謙虚さもたいせつだと思う。価値判断自体、正確にはできないのだから。
- BRC2017:Eccl 2:18,19 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
- 特に、ある役目を負って精一杯仕事をし、ほとんど一日にして、それが消え去った記憶もある。しかし、それは、適切に、後を継ぐ者に残せなかった、残さなかった、大切なものなら、それが残るにはどうしたらよいかを、十分考えてことを為すべきことを学んだ。そうであっても、おそらく、このことばは真実なのだろう。神が建てられるのでなければ。そして、自分の結果を求め続けるうちは。
- BRC2015:Eccl2:24-26 人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。 自分で食べて、自分で味わえ。 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。
- 結局のところ人間にとって最も良いものは何なのだろう。限定的には「飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること」も悪くはない、と言っているのだろう。このあとの展開も興味深い。そして最後は「これまた空しく、風を追うようなことだ。」確かに、注意して表現を選んではいるが、因果応報に対する、疑いも含まれている。人間がこれが「最も良いこと」とは定めることはできないし、自分はそれをしているともいえないのだろう。様々な神の知恵を求めながら生きることだろうか。少なくともコヘレトの言葉の最後までこの問いを考えたい。
- BRC2013:Eccl2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
- よくわかる訳ではないが、仕事と、知恵と喜びは、違うレベルのことなのだろう。しかし、最後のことばは、何だろう。よくはわからないということだろうか。
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- BRC2021:Ecclesiastes 3:22 私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。/彼の後に起こることを/一体誰が彼に見せることができようか。
- おそらく「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」(11)と対応している。とても、説得力がある。わたしの言葉では、「神様のみ心、真理、普遍的な価値は、求めても、見極めることはできないのだから」となるように思う。ここでは、「自分の業を楽しむ」となっているが、生きることを楽しめるかどうかは、やはりとてもたいせつな要素であるように思う。わたしが、神様のみ心、真理、普遍的な価値をもとめるのは、少しずつ発見をしていくこと、それが、自分の業に関係していることが、楽しいからなのかもしれない。わたしと同じではなくても、そのようなものを持っているかどうか、そこに、行き着くと、行き止まりでもある。難しい。
- BRC2019:Eccl 3:21 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
- すこしこの言葉が理解できるようになったと思う。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。」(18)のように、「人間を特別なものと扱うこと」も「地球が人間の住む典型的な惑星だ」という考えも、謙虚につつしむべきことなのだろう。もし、人間が特別なことがあるとすれば(そしてそれは、人間だけに特別ではないかもしれないが)神との関係が与えられていることだけなのかもしれない。自分が思考するときには、自分は特別な存在であらざるを得ない。しかし、思考とはそのようなものであることを、忘れてはならない。
- BRC2017:Eccl 3:22 人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
- 楽しみは、(良くない意味での)快楽だと思っていた。しかし、自分にとって、これが喜びだとする生き方を、精一杯するという意味であれば、その通りだと思う。そして、わたしも、そのように、生きているように思う。幸せである。謙虚さを失わないこと。神を求めて、成長し続けることを求めることも、自分のわざとしての楽しみであることを自覚して。
- BRC2015:Eccl3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
- 1節の「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」から続いている。この言葉は重い。つまり結局は分からないのだ。人生の意味、自分にとって最も良い生き方は。興味深いのは18節「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。」そして22節「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」これがこの章の最後になっている。深い思索がある。しかし個人的には、疑問がある。価値が自分の内面にのみ目が向けられていることだろうか。もう少し的確に表現したい。
- BRC2013:Eccl3:14 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
- 古典的な世界観としてよいのか。自然科学もそのようにとらえられてきた。しかし、これをそうとらず、アインシュタインのように、科学の背後に神がおられるととることもできる。直接介入はしないが、神の配慮のうちにある。それは、意味の問題なのだろうか。まだまだわからない。
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- BRC2021:Ecclesiastes 4:1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。/見よ、虐げられる者の涙を。/彼らには慰める者がいなかった。/また、彼らを虐げる者の手には力があった。/彼らには慰める者がいなかった。
- この章も考えることが多い。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」(4)妬みは、本当に深くひとのこころを蝕(むしば)む。「一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。」(9)有名なことばだが、今回は「一人より二人のほうがましだ」と読めた。ここでも、空ではないものに本質的には行き着いてはいないようなので。引用句は、戦争のあるなしに関わらず、日常的に、あらゆる場所であることなのだろう。興味深いのは、どちらにも「彼らには慰める者がいなかった」としている点である。これが「一人より二人のほうが幸せだ」につながっているとも言える。慰めるものは「貧しくても知恵ある少年のほうが/もはや忠告を聞き入れない/老いた愚かな王よりまさる。」(13)にもつながっているように思う。慰めるものすら拒否することが、忠告を受け入れないと対応し、慰めを感謝できること、それが知恵なのかもしれない。謙虚さと結びついているのか。
- BRC2019:Eccl 4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
- このあとに「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」(2,3)と続く。生まれてこなかった者がより幸福だと思うぐらい、虐げられる人の涙は悲しく、慰めるひともいないと言っているのだろう。虐げる者の手にある力とある。たしかに、見てはいけないもののような虐げを記者は見ているのだろう。どうにもならないのだろうか。確かに紛争地でのできごとなどは、どうしようもないとわたしも思ってしまう。
- BRC2017:Eccl 4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
- 最後の「彼ら」は「虐げる者」ではないかとすら思った。単数・複数を考えれば、それは間違っているだろう。「彼ら」は「虐げられる人」だろう。しかし、「虐げ」の理不尽さは感じる。聖書記者も、そのつらさを知っているのだろう。なぜ、そのようなことが起こるのだろう。逆転させて、それは権力の問題だとするのは、短絡だろう。そして、すべてを、神の責任にすることも。
- BRC2015:Eccl4:13 貧しくても利口な少年の方が/老いて愚かになり/忠告を入れなくなった王よりも良い。
- 年をとってきた自分の愚かさを感じつつこの節がとても響いた。しかし、15節「太陽の下、命あるもの皆が/代わって立ったこの少年に味方するのを/わたしは見た。」を見ると、特別な少年のことを言っているようである。口語訳は「かのわらべのように王に代わって立つのを見た」となっている。ダビデを意識しているともはっきりとはいえない。さらに16節「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」へと続く。名もなき少年を思って語っているのかもしれない。忠告を入れなくなることはいずれあるだろう。いますでにその兆候が始まっているのかもしれない。聖書のことばに聞き、謙虚でいたい。それを神様がゆるしてくださるように。
- BRC2013:Eccl4:4 また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
- ひとのいとなみは、ねたみ合いなのかもしれない。近くのひとと比較してしまうのか。新共同訳では「仲間に対して競争心を燃やしているからだということもわかった」となっている。いろいろと考えさせられる。
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- BRC2021:Ecclesiastes 5:17 見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。
- 今回の通読では、この句を読んで、本当にそうだなと頷(うなづ)いた。ひとの受ける分。わたしが若い頃から暗唱していた「夢が多ければ、ますます空しくなり/言葉も多くなる。/神を畏れよ。」(6)が、この背後にあるように思う。夢は良いもののように一般的には言われるが、神を畏れることの反対側に向かわせるものなのか。夢を抱くことは、健全でも、それを絶対化し、それが、または、その結果が幸せをもたらすように、考え始めたときには、すでに、御心を求めるところからは、離れているのかもしれない。絶対化までは、いかなくても、陶酔する状態になることは、あり得るように思う。特に、若い頃は、そして、夢がやぶれると、絶望の淵に落とされる。
- BRC2019:Eccl 5:11 働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。
- 心地よく眠れることは幸せなのだろう。ここにあるように、勤労の実なのかもしれない。富、財産を殖やすと、眠れないのだろう。それは、理解できる。もう少し、もう少しと欲張る心の虜になり、失うことも怖れ、そこに、人生がかかってしまうからだろうか。
- BRC2017:Eccl 5:1 焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。
- 続けて「夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。 」ともある。神の前に黙すこと、これが敬虔、畏敬なのだろうか。神の前に謙虚に歩むことについて考えさせられる。「分からない」ことを、たいせつにしていきたい。わたしは「地上にいる」のだから。
- BRC2015:Eccl5:10 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
- 17節には「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。」とある。コヘレトの言葉の著者がいいたいのはこのことなのだろう。なにか快楽主義のようにも映るが、最後のことばはこころに響く。この逆は、自分の日を思い返し、自分の人生を褒め称え、それに付け加えてそのようにしてくださった神様を誉め讃えることだろうから。わたしも、そのような人生でありたい。ひたすら前に向かって歩むことでそのようになることも考えていたが、それとは、別の方法で、このような生き方をすることもできるのかもしれない。さらに、そのような日々の中での喜びは、喜びを周囲の人と分かち合うことかもしれない。
- BRC2013:Eccl5:20 このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。
- これが平安が与えられて生きる生き方なのかもしれない。ただ、自己満足と紙一重ではないかとも思わされる。冷静に自らを省み、神から与えられているものを喜びたい。
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- BRC2021:Ecclesiastes 6:7,8 人の労苦はすべて口のためである。/だが、それだけでは魂は満たされない。愚かな者にまさる益が知恵ある者にあるのか。/人生の歩み方を知る苦しむ人に/何の益があるか。
- とても深い。人の労苦は、すべて経済活動、生きていくためと言っているかのようだ。愚かな者にまさる益、なにかを挙げることはできるかもしれないが、ほんとうに、そうだと、言いうるだろうか。幸せとはなにかを問い「空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。」(12)とこの章を結んでいる。「人生の歳月は豊かであったのに/その幸せに心は満たされず」(3b)ともある。豊かさと幸せの違いだろうか、わたしは、コヘレトの言葉(伝道の書)を高校生の頃から愛ししっかり読もうとしてきた。しかし、完全には、答えられない。どこまで、真剣に向き合っているかを問われているように思う。
- BRC2019:Eccl 6:12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
- コヘレトの空しさは「ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」(2)にもあるように、受け継いでいける永遠に続くものを残すことはできない、つまり、自分の存在、営みが残ることはないことにあるようだ。コヘレトの言葉2章18,19節では、後継者が信頼できるものではないことを嘆いているが、ここでは、より一般的に語られているのだろう。自分の存在を誇示できるものとして残せなくても、人や自然と影響し合いながら、そして、神と向き合いながら生きていれば、その存在を消すことはできないとも言える。それでよいとわたしは思う。
- BRC2017:Eccl 6:12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
- 確かに、幸福が何かを言えない。わたしは、これで幸福だと言うことはできるかもしれない。それで良いようにも思えるが、永遠の時のもとでは、何も分からない。それで良いのかもしれない。
- BRC2015:Eccl6:11 言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。
- こころからそう思う。自分の中にはなにもないのに、言葉多く語る。自分が考えていることがさも相手にとってもたいせつであるかのごとく。そのような自分を反省することは多々あると共に、それを止められないだけでなく、そして、そのことの空しさを思いつつ、自分を正当化することも忘れない。人間とは不思議な者。自分という人間を見ていると、むなしい。このあとコヘレトは次のように続ける「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(12節)また、考えよう。
- BRC2013:Eccl6:2 すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。
- 「悪しき病」と断定している。たしかに、目標をもって、得たものが結局は、自分のものにはならない。かつそういうものに、命をかける。何と、人は近視眼的なのか。
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- BRC2021:Ecclesiastes 7:18 一方をつかむとともに/他方からも手を離してはならない。/神を畏れる者はいずれをも避ける。
- この章は「名声は良質の香油にまさる。/死ぬ日は生まれる日にまさる。」(1)と「まさる」ということばで始まる。絶対的なものではないが、こちらのほうがマシだよと言っているようだ。そして「空である日々に私はすべてを見た。/義のゆえに滅びる正しき者がおり/悪のゆえに生き長らえる悪しき者がいる。」(15)と、実際に見てきたことを述べ、それが、「あなたは義に過ぎてはならない。/賢くありすぎてはならない。/どうして自ら滅びてよかろう。」(16)さらに、引用句の「他方からも手を離してはならない」につながっているように思われる。若かったころ「そうだな」と自分の悩みを照らす鏡のようだった、壮年のころは、自分なりに、答えらしきものが持っていると思い、がむしゃらにできることに力を注いだ、しかし、今、もう一度、ゆっくり向き合ってみたいと思う、コヘレトの言葉に。
- BRC2019:Eccl 7:28,29 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
- 「見よ、これがわたしの見いだしたところ/――コヘレトの言葉――/ひとつひとつ調べて見いだした結論。」(27)とあり、この二節が続く。最初の「わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。」も考えたいが、それ以外に、二点興味深いことがある。一つは男女の違い。もう一つは最後のことばである。コヘレトは男性で男性として自分が持ちたい資質を思い描いて「千人に一人という男はいたが/千人に一人として、良い女は見いださなかった。」と言っているのだろう。女性はこれを逆にしたことを考えるのだろうか、興味を持つ。同時に、助け手、協力者、足りない部分を補う存在と見れば、異なることを見出すのではないかとも思う。二つ目は「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる」こと。この表現が最善であるかどうかは別として、雰囲気は伝わってくるように思う。神の失敗作なのか。おそらく、互いに愛し合う存在の難しさもあるのだろう。「複雑な考え方」についても、こころにおさめ、思いめぐらしたい。
- BRC2017:Eccl 7:18 一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。
- 分からないからだろうか。神を畏れ敬うことは、神に信頼することでもある。神に任せることだろうか。それで良いのだろうか。悩みつつ、委ねる。分かりやすいが、どこまで悩むのか、それも、わからない。
- BRC2015:Eccl7:29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
- そうなのかもしれない。世の中はよく分からない。不透明なことばかりである。しかしその中で、神のみこころをもとめて生きていくように創造されたのかもしれない。しかし、主体的に。主体性を取り除いてしまうことは、神様の愛のご性質からされなかったのだろう。主体性がなければ愛することもできないから。その中でつい10節「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」のようなことが起こるのかもしれない。冷静な分析とはいえないことをしてしまう。
- BRC2013:Eccl7:24 物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見いだすことができよう。
- 新共同訳では「存在したことは、はるかに遠く」となっている。原語は調べていないが、極め尽くすことは難しいということだろう。しかしそれ以上であるように、思う。知ることはできない。そのことを知ることも、さらに、神にもわからないことを思いめぐらすことは、無駄ではないように思われる。
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- BRC2021:Ecclesiastes 8:12,13 百度も悪を重ねながら/生き長らえる罪人がいる。/しかし、私は知っている/神を畏れる人々には/神を畏れるからこそ幸せがあると。悪しき者には/神を畏れることがないゆえに幸せはない。/その人生は影のようで、生き長らえることがない。
- 印象的なことばである。幸せの尺度(measure)について言っているようでもある。世俗のはかりで計って一喜一憂しているのであれば、結局、悪しきものも、神を畏れるものも違いは見えない。なにをたいせつにするか、それがそのひとを幸せにするのかもしれない。興味深い。神を畏れるからこその幸せ、しっかりと考え、求め続けていきたい。
- BRC2019:Eccl 8:12,13 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり 悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。
- 微妙なことばである。このあとにまた「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。」(15)がある。「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり」とある。「快楽」がなにかは、不明である。「飲み食いし、楽しむ」ことだろうか。神を畏れること自体が、幸せだととることもできる。それが、広い意味での「快楽」なのかもしれない。わたしは、そのように、生きているように思う。
- BRC2017:Eccl 8:5 命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている。
- 幼児時代から祖母(鈴木ハナ(父の養母))に言われていた「新政府には従え。しかし、新政府が正しいわけではない。」を思い出す。若い頃は、そんなことは、理不尽に思われた。しかし、今考えると「神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。 」(17節)にこそ真実があり、正しさは、限定的な状況で言えることであると知り、納得できるようになった。だから、求めないわけではもちろんない。そしてこの知識も求めたからこそ得られるものなのだろう。
- BRC2015:Eccl8:12-14 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。
- 「にもかかわらず」といいつつ、最後「この地上には」とはじめ「これもまたむなしい」と締めくくる。このつぎには「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。」が続く。非常に興味深い。それゆえに至るまでの思考である。「にもかかわらず」にはいのちそのものの見方の単純ではないという洞察が含まれているのだろう。現実は「この地上には」に続くと同時に、9, 10 節なども、現実をしっかりと直視している姿を現している。「それゆえ」は、恵みとしての快楽をたたえることであろうか。快楽に現をぬかすこととは異なる。
- BRC2013:Eccl8:17 わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。人はこれを尋ねようと労しても、これを窮めることはできない。また、たとい知者があって、これを知ろうと思っても、これを窮めることはできないのである。
- まさにその通りである。そのことを否定して、そのことに覆いをかぶせて生きていてはいけない。さらに、知ることができることも、ほんのわずかであることも。
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- BRC2021:Ecclesiastes 9:9,10 愛する妻と共に人生を見つめよ/空である人生のすべての日々を。/それは、太陽の下、空であるすべての日々に/神があなたに与えたものである。/それは、太陽の下でなされる労苦によって/あなたが人生で受ける分である。手の及ぶことはどのようなことでも/力を尽くして行うがよい。/あなたが行くことになる陰府には/業も道理も知識も知恵もない。
- 秀逸である。生きていることこそたいせつだ(4,5)とのべ、どう生きるかに行き着いている。空であると認めつつ。まさに「力を尽くして」生きていきたい。知恵と武力そして貧しさについての言及(17,19節)も興味深い。コヘレトのことばを楽しめるようになったということだろうか。
- BRC2019:Eccl 9:3 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
- このようにも表現できるかもしれないが、因果応報は、主の道とは異なるように思う。ひとり一人が因果で裁かれたら、それで良いのだろうか。単にまじめだからと言って、心の中はわからない。それを主は見られるのだから。恵みに信頼したい。それ以外に、救いはないのだから。
- BRC2017:Eccl 9:3 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
- 因果応報を求めるのは、むなしいことを伝えているように思われる。ひとは、他人の幸福を喜べないことに起因している部分もあるだろう。なにかを得ること、与えられることによって、幸せを評価しては、いけないのだろう。つながっていることに、価値がある。神様をもとめて生きること自体が素晴らしいということだろう。それが、My Tribute.
- BRC2015:Eccl9:10 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には/仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
- この地上でわたしはこのように生きたい。賢い忠実な僕として。今日も「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。」ここでいわれることを行いたい。すこしずれるが11節の最後と12節の最初にまたがる「時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ。」が真実だと考えているからだ。わからない、それを受け入れること、それも、ひとが神の前に謙虚に生きる鍵だと思う。
- BRC2013:Eccl9:15 しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。
- わたしは、この貧しい知恵のある人の生き方をしたい。10節前半で「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。」とあるように、生きたい。謙虚にそのように生きるものにならせてください。
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- BRC2021:Ecclesiastes 10:19 食事を整えるのは笑うため。/ぶどう酒は人生を楽しませる。/銀はそのすべてに応えてくれる。
- この章では、さまざまな理不尽が世に起こっていることを柔らかく語っている。興味深い、または、考えてみたい節もあるが、引用句を選んでみた。食事を整えるのは何のためだろうか。酒を飲むのは何のためだろうか。ここでは、笑うため、人生を楽しませるためとしている。それは、すばらしいこと。おそらく、銀、お金や富も、笑ってともに食事をし、人生を楽しくするものなのだろう。お金や富が目的ではないのだから。笑いや、楽しみについても、学んでみたい。
- BRC2019:Eccl 10:18-20 両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる。親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え/翼あるものがその言葉を告げる。
- 聖書になぜこのように書かれているのか、以前は不思議だった。おそらく、すべてを霊的な信仰、神の義に結びつけるべきだとの考えがあったのだろう。ひとの営みの現実を肯定するというよりも、そうだな、そうなのかな、と自然に読めば良いのだろう。そうかもしれない。なるほどね。
- BRC2017:Eccl 10:14 愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。
- 未来のこと、死後のこと、分からないことをみなが共有できることだろう。そうであるのに、それらに関わることを、分かっている如く語る。まさに、それが愚か者と言うことなのだろう。謙虚にさせられる。一方「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」(10節)ともある。
- BRC2015:Eccl10:16,17 いかに不幸なことか/王が召し使いのようで/役人らが朝から食い散らしている国よ。 いかに幸いなことか/王が高貴な生まれで/役人らがしかるべきときに食事をし/決して酔わず、力に満ちている国よ。
- わたしにはこのような心はない。しかし、責任をもって治めるものが、高貴であり、役人たちも、きっちりと仕事をすると言うことは、すばらしいこと。王もおそらく十分な信頼を得ているのだろう。力に満ちている状態。神の働きを因果関係に結びつけると困難も生じるが、麗しい状況であることは、確かである。
- BRC2013:Eccl10:1 死んだはえは、香料を造る者の/あぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。
- 「愚痴」は、神への不満、神を見ず、神の働きを見えなくしているということなのだろうか。比較されている「知恵」より重いことは、多少思い当たるが「誉」よりも重いのは、よくわからない。
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- BRC2021:Ecclesiastes 11:10 あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け。/若さも青春も空だからである。
- 悩みが取り去られるなら取り去りたい、痛みを取り除けるなら取り除きたいと思うのは自然である。しかし、ここでは、そのようなものではない、悩み、痛みを言っているのかもしれないと思った。たしかに、若者を見ていると、まだその世界が狭いために、狭い部分に力が入りすぎて、悩み、苦しみ、それでも、体に痛みを伴うことから離れない傾向もある。それは、よい経験だとも言えるが、もっと、学ぶことがあることも確かなのだろう。そして、それは、この前の節にも関係しているのかもしれない。「若者よ、あなたの若さを喜べ。/若き日にあなたの心を楽しませよ。/心に適う道を/あなたの目に映るとおりに歩め。/だが、これらすべてについて/神があなたを裁かれると知っておけ。」(9)信仰深く生きることではなく、神様の視点も考えてみようよと語りかけているように聞こえた。
- BRC2019:Eccl 11:3,4 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても/木はその倒れたところに横たわる。風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
- 完全にはよくわからないが、「木はその倒れたところに横たわる」は、興味深い。それが、次の「風向きを気にすれば種は蒔けない。」につながっているのかもしれない。「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」(5)たしかに、世の中わからないことばかり。神のみこころをわかったなどとは言えない。謙虚に求め続けよう。
- BRC2017:Eccl 11:2 七人と、八人とすら、分かち合っておけ/国にどのような災いが起こるか/分かったものではない。
- どのような災いが想定されているのか「分かったものではない」が、天災とともに、国が滅びること、世界にちりぢりになることも含まれるだろう。「分かち合っておけ」が何を意味するのか分からないが、助け合い、共同体のようなものが想定されているのだろう。「国」が滅んでも残るものがここにある。
- BRC2015:Eccl11:5 妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。
- すこしこのような事が分かってくると、ひとは傲慢になる。しかし、このコヘレトの言葉の背景にあるのは「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」ということ、その中で、人はどう生きたら良いのかという問いのように思われる。前半を現代でも解明が不可能な、非常に困難な問題に取り替える必要はないだろう。このコヘレトの言葉を読む者は、様々な問いをすでに投げかけ続けられているのだから。その中で、コヘレトは言う。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。」(9, 10節)この一部分のみに、価値を置いては、コヘレトの言いたいことは受け取れない。ひとつ一つにこの聖書記者の信仰告白と、若者に伝えたいことがある。
- BRC2013:Eccl11:5 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。
- 前半の表現は変わっても「すべての事をなされる神のわざを知らない。」事実を深く受け止めなければならない。知ることができないことも。そして、神にも知ることができないことがあるかもしれないことにも、思いを巡らすことか。
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- BRC2021:Ecclesiastes 12:14 神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。
- 「裁き」はできれば考えたくないものである。それだから言葉を弱めているのかもしれないが、わたしは「すべての一人ひとり業をご存知である。」と読み替えたい。神の言葉を改変する大逆だと言われればそれでもよい。神様はともに悩んでくださる方だと思っている。この章は「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」(1a)と始まるが、わたしは、子供の頃から、主を心に刻み、主の御心を求め続けてきた。むろん、そのみこころの反することもたくさん行ってきた。それを、神様が裁かれ、永遠の火の中に投げ込まれるのであれば、それで良いと思っている。引用句の直前には「聞き取ったすべての言葉の結論。/神を畏れ、その戒めを守れ。/これこそ人間のすべてである。」(13)とあるが、みこころを求め、みこころをなすにはどうしたらよいかを考え、そして行動してきたことが、わたしのすべてだと告白したい。闇の部分が多く残っていることを正直に認めつつ。
- BRC2019:Eccl 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
- なぜ「青春の日々にこそ」なのかを考えた。このあとには「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」(2)と続く。若い日々に主との交わりを持っていること、主が恵み深い方であること、神の義は人の義と異なること、主に信頼し、主の掟を守ろうとする人々との交わりの深さ、互いに仕え、愛することの素晴らしさを少しでも知っていることだろうか。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」(13)コヘレトの言葉を真摯に受け取りたい。
- BRC2017:Eccl 12:9,10 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。 コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。
- コヘレトの人としての営みが書かれている。この貴重な営みが、これを生み出したのだろう。むろん、その背後に、神のおられること、他の表現としては、コヘレトの真摯に(神のもとにある)知恵を深める姿勢があることを、無視できないが。
- BRC2015:Eccl12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
- 共同訳の「こそ」にひかれた。その通りだと思う。それが、老境に達したと思われる、そして一生、創造主への信仰の問いと格闘してきた、コヘレトの言葉なのだろう。わたしもそう言いたい。「心を留めよ」となっている訳にもひかれる。口語訳は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、」となっている。単に、信じよということとは、違ったニュアンスが、共同訳で明確になったように思われる。新しい発見である。
- BRC2013:Eccl12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
- この背景にあるのが 8節の「伝道者は言う、『空の空、いっさいは空である』と。」詩編127編のように「主が建てられるのでなければ」「主が守られるのでなければ」だろうか。人の営み、人の努力、それによって得るものは、何も残らないことを知れということだろうか。もう少し、深みがあるように思われる。
雅歌
- 雅歌
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- BRC2021:Song of Songs 1:4 私を引き寄せ/あなたの後ろから付いて行かせてください。/さあ、急ぎましょう。/王はその部屋に私を連れて行ってくれました。/楽しみましょう/あなたのもとで喜びましょう。/あなたの愛をぶどう酒よりもたたえましょう。/彼女たちはあなたをひたすらに愛します。
- 正直、わたしには、状況設定がよくわからない。舞台上で、再現して見せてほしいと思う。混乱させるのは、引用句を語る「おとめ」と「若者」と「王」の関係がよくわからないことなのだろう。いろいろと解釈もあるのだろう。でも、それに頼らず、読んでいきたい。「王」と「若者」は同一なのだろうか。考えていきたい。なお「おとめ」「若者」「おとめたち」「王」と書かれた部分は、原語から話者が判断できるので、記されているが、議論もあるとのこと。(NIV注)
- BRC2019:Sg 1:6 どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。
- おとめと、「恋人よ」とおとめに語りかける若者と思われるものの歌のようである。どちらが支配することもなく、対等に感じられること、さらに、おとめに、さまざまなひとが登場すること、引用句のように、畑で、見張りをしていたようなおとめも登場することに興味をもつ。豊かな世界が展開しており、それが書き留められているように思う。正直、雅歌はよくはわからないが、少しずつていねいに読んでいきたい。
- BRC2017:Sg 1:5,6 エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。
- 黒人ではないようだが、肌の色が黒いことを魅力としている。背景も、興味深く描かれている。雅歌は、理解が難しい。楽しむこともしてみたい。
- BRC2015:Sg1:15-17 恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。 恋しい人、美しいのはあなた/わたしの喜び。わたしたちの寝床は緑の茂み。 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。
- 雅歌はこのようなものとはっきりはいえない点で、よく分からない。単純に恋の歌でも、神に捧げるものでもないように思われる。まったく抽象的に歌っているのでもないように思われる。今回は少し丁寧に読んでみたい。そのようにできるかは不明だが。
- BRC2013:Sg1:2 どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり、
- この雅歌は混乱もあるように思われる。そうではないのかもしれない。しかし、誰が誰に対してということが明確にはわからないように書かれていることは確かであろう。男性なのか、女性なのか、神に対してなのか、もう少しほかのことが想定されているのか。今回、その辺も考えながら読んでいくことができればと思う。
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- BRC2021:Song of Songs 2:4,5 あの方は私をぶどう酒の館に誘いました。/私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。干しぶどうの菓子で私を力づけてください。/りんごで私を元気づけてください。/私は愛に病んでいます。
- 後半を読んで、このおとめの願いは、祈りなのかもしれないと思った。恋の中で、息苦しくなり、愛に病んでいると表現している。その中で、干しぶどうの菓子、りんごは、現実的で、興味深い。肉体に力を与えることで、こころもからだも安定することを、客観的な事実から、経験から知っているのだろう。雅歌には、主の名が現れないと言われる。しかし、表現の豊かさは、興味深い。聖書の幅を広げていることは確かである。
- BRC2019:Sg 2:15,16 狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。恋しいあの人はわたしのもの/わたしはあの人のもの/ゆりの中で群れを飼っている人のもの。
- 恋をしている間、邪魔が入らないように、不要なことに、こころを配らなくて良いようにといっているのだろうか。「わたしのもの・あの人のもの」は、そのような心を表現しているのであって、持ち物であることを主張しているのではないだろう。雅歌は、どのようにして読まれたのだろうか。現代では、過越の祭の日曜日に読まれるという。過越の祭は、最初の収穫を祝う祭りでもある。神とイスラエル、キリストと教会の関係にたとえられることもあるが、直接的には、恋人関係であろう。劇のようなスタイルをとっていることからも、単純な男性目線ではなく、女性のこころも、表現されているように思われるが、どうなのだろうか。
- BRC2017:Sg 2:8,9 恋しい人の声が聞こえます。山を越え、丘を跳んでやって来ます。 恋しい人はかもしかのよう/若い雄鹿のようです。ごらんなさい、もう家の外に立って/窓からうかがい/格子の外からのぞいています。
- なにか、ドキドキする瞬間を感じる。この前の「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」と「恋しい人は言います。「恋人よ、美しいひとよ/さあ、立って出ておいで。」に挟まれている。聖書の中に、このような表現があることに大きな価値があるのだろう。自然に読みたい。
- BRC2015:Sg2:7 エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
- 個人的な思い出のあることばである。同じことばが3章5節にもある。ここでは明らかに、掛け合いになっている。実際に舞台で劇またはミュージカルのように上演されたかどうかは疑わしいが。ここは、新共同訳の区分では「おとめの歌」の途中にある。ということは、他のおとめたちに、恋心を起こさないでね。わたしの愛しい人に。と言っているのだろうか。それとも「愛がそれを望むまでは」は別の解釈があるのか。詩文であるから、論理的に綴られてはいないことは当然であるが、解釈は難しい。
- BRC2013:Sg2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。
- この章は「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。」から始まる。2節のつなぎの節があり、3節以降を見ると、これに答えるように、台詞ともいえるものが続く。 それは、7節で立場が変わるのか、7節もその一部なのか、7節だけなのか、構造はなかなか難しい。その7節を記す。「エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。」若い頃を思い出す。この言葉が書かれた手紙を受け取ったときのことを。
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- BRC2021:Song of Songs 3:1 夜ごとに寝床で/私の魂の愛する人を探しました。/あの方を探しましたが、見つかりません。
- 状況を理解するのは、簡単ではない。単に想像することはできるかもしれないが。このあと、外に出て、探し回り、夜警にも聞き、しかし、その直後に見つかることが書かれている。「彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。/この方を抱き締めました。もう離しません。/私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。」(4)この気持はわかるように思うが、たしかに、これは、「愛に病んでいる」(2章5節b)なのだろう。あまり思考を働かせず、そのようなこころに思いを寄せればよいのか。やはり「病」であり、課題も多いように思うが。こう考えるのは、自分が年寄りだということだろうか。
- BRC2019:Sg 3:4 彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
- 恋い慕う気持ちは良く表れているが、通奏低音のように、何回か(2:7, 3:5, 8:4)現れる「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(5)が、深みを与えているように思う。恋心は不可解。
- BRC2017:Sg 3:3 わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
- 夜警に見つかったと言う表現のあとに、その夜警にも、この質問をしている。こころがこのことでいっぱいであることが分かる。その世界が表現されているとして読むので良いのだろう。
- BRC2015:Sg3:11 いでよ、シオンのおとめたちよ/ソロモン王を仰ぎ見よ。その冠を見よ/王の婚礼の日に、喜びの日に/母君がいただかせた冠を。
- 4節には「彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。」とある。このあと、2章7節と同じ言葉が続き、合唱がはじまる。恋人を慕うおとめに語らせながら、じつは、王宮に迎え入れられるおとめについての、歌っているのか。想像をかき立てられる。
- BRC2013:Sg3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。
- これは、もう、恋人。このあとしかし、5節には、2:7 と同じ言葉がつづき、6節からはソロモンの輿(のりもの)のことが続く。ソロモンに恋している娘たちなのか、ソロモンを想定しているのかさえ、わたしには、わからない。
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- BRC2021:Song of Songs 4:9,10 私の妹、花嫁よ/あなたは私の心をときめかせる。/あなたの一瞬のまなざしも/首飾りの玉の一つも私の心をときめかせる。私の妹、花嫁よ/あなたの愛はなんと美しいことか。/あなたの愛はぶどう酒よりも心地よく/あなたの香油は/どのような香料よりもかぐわしい。
- この章の最初には「若者」とあり「なんと美しい、私の恋人よ。/なんと美しい。ベールの奥の目は鳩のよう。/あなたの髪は/ギルアドの山を駆け下りる山羊の群れのよう。」(1)と始まる。引用句は「私の妹、花嫁よ」となっている。同一人物のことばだと無理やり解釈することはできないことはないが、見ているのは、花嫁であっても、語り手は異なると思うようになった。原語的に、若い男性のことばだと特定してそれがわかるように「若者」としているだけで、切れ目を限定しているわけでは無いように思う。しかし、どこで切れるのかは判然とはしない。それも、理解を困難にしているように思われる。
- BRC2019:Sg 4:7 恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。
- このことばに象徴されているように、すべてが美しいというように「恋人よ、あなたは美しい。」(1a)からはじめて、様々な表現をしている。表現自体は、理解できなかったり、現代ではこのようには表現しないのではと思うこともあるが、いずれにしても、これが恋なのだろう。このあとは「わたしの妹、花嫁よ」(9,10,12)とあるが、意味は必ずしもはっきりしない。恋人を、妹と表現しているのか、花嫁の妹を、恋人のようにほめているのか。あまり、堅く考えなくて良いのかもしれない。
- BRC2017:Sg 4:16 北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。わたしの園を吹き抜けて/香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして/このみごとな実を食べてくださるように。
- 直前には「園の泉は命の水を汲むところ」と霊的なことを感じるが、おそらく、純粋に恋の歌と受け取って良いのかもしれない。相手に、よかれと、自分のものを捧げる、それが、自己犠牲とか、真実の愛と言えるかどうかは不明であるが。
- BRC2015:Sg4:9 わたしの妹、花嫁よ/あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も/それだけで、わたしの心をときめかす。
- 7節は「恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。」と恋人にむけて語られている。8節は、花嫁にむけて、そして、この9節は「わたしの妹、花嫁よ」となっている。8節からは、語り手が代わっているのではないだろうか。新共同訳では、4章はすべて若者の歌となっているが。1章から「若者」は「おとめ」の「恋人」だとすると、ここでの語り手を区別しても良いのではないだろうか。
- BRC2013:Sg4:9 わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。あなたはただひと目で、あなたの首飾のひと玉で、わたしの心を奪った。
- なぜ「わが妹、わが花嫁よ」なのか。具体的な話だと考えるのが行けないのかもしれない。愛する美しい人の象徴と考えるべきなのか。謎は深まるばかり。愛しさというものの表現なのか。
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- BRC2021:Song of Songs 5:7,8 町を巡る夜警たちが私を見つけました。/彼らは私を打ち、傷を負わせました。/私からかぶり物を剝ぎ取ったのは/城壁の見張りたちでした。エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。/私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。
- 正確にはよくわからないが、恋人が訪ねてきて、躊躇していて去ったあとに、夜中に、探しに出て、不審がられて起こったことなのかもしれない。この「愛に病んでいる」状態を際立たせているのが、このあとの「女たちの中で誰よりも美しい人よ/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。/私たちにそれほどまでに誓わせるとは/あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか。」(9)でもある。「愛に病む」ほどの状態は、客観的には、そとから、わからないものなのだろう。おそらく、肉体や脳で、あるプログラムが動いていて、通常の働きができない、または、違うモードになっているということなのだろう。
- BRC2019:Sg 5:6,7 戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。恋しい人の言葉を追って/わたしの魂は出て行きます。求めても、あの人は見つかりません。呼び求めても、答えてくれません。街をめぐる夜警にわたしは見つかり/打たれて傷を負いました。城壁の見張りは、わたしの衣をはぎ取りました。
- 詳細は不明であるが、香油を塗り、街をさまよい歩き、遊女としてとがめられたのかもしれない。暴力も書かれている。ただ、これに続けて「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/もしわたしの恋しい人を見かけたら/わたしが恋の病にかかっていることを/その人に伝えると。」(8)と「恋の病」と表現しており、暴力を受けた部分は強調されていないのかもしれない。「恋の病」のひとつの表現は、なにか心苦しくなる。
- BRC2017:Sg 5:5 恋しい人に戸を開こうと起き上がりました。わたしの両手はミルラを滴らせ/ミルラの滴は指から取っ手にこぼれ落ちました。
- 恋する人の気持ちがよく表れている。ミルラは香料の様である。「上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラの樹脂五百シェケル、シナモンをその半量の二百五十シェケル、匂い菖蒲二百五十シェケル、」(Ex 30:23)「十二か月の美容の期間が終わると、娘たちは順番にクセルクセス王のもとに召されることになった。娘たちには六か月間ミルラ香油で、次の六か月間ほかの香料や化粧品で容姿を美しくすることが定められていた。」(Es 2:12)「あなたの衣はすべて/ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち/象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。 」(Ps 45:9)「床にはミルラの香りをまきました/アロエやシナモンも。」(Prv 7:17)あとはすべて雅歌である。1:13, 3:6, 4:6, 14, 5:1, 5, 13「恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。」(Sg 1:13)香料を確認したと言うことだろう。
- BRC2015:Sg5:1 わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。香り草やミルラを摘み/蜜の滴るわたしの蜂の巣を吸い/わたしのぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。
- 新共同訳には、この章の最初にも「若者の歌」とある。ここも、わたしの上の4章に書いた考え方からすれば、1章2章と続いている「若者」とは区別すべきではないかと思われる。しかし、もし、本当に妹なら「愛する者よ、愛に酔え。」という気持ちの背後には、何があるのだろうと考える。少しずつ味わって読んでいきたい。
- BRC2013:Sg5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
- 4節では「わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。」となっている。この結末が、この6節である。なんとも切ない。それが恋の表現なのかもしれない。それに対する、9節の「女のうちの最も美しい者よ、あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあるか。あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあって、そのように、わたしたちに誓い、願うのか。」が恋の一面を表現していて興味深い。
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- BRC2021:Song of Songs 6:8,9 王妃は六十人、側女が八十人/若い娘は数えきれない。私の鳩、私の汚れなき人はただ一人。/彼女は母の一人娘。/彼女を産んだ母にとって輝いている娘。/娘たちは彼女を見て、幸せな人だと言い/王妃も側女も彼女をほめたたえる。
- 状況はあまりよくわからない。この女性の愛らしさを、褒め称えているひとつの表現なのだろう。王妃、側女、若い娘はたくさんいても、その全員に幸せな女だと言われ、ほめたたえられるということか。これも、おそらく、一瞬のこと、しかし、特別なことでもあるのだろう。
- BRC2019:Sg 6:8,9 王妃が六十人、側女が八十人/若い娘の数は知れないが わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘/産みの親のかけがえのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し/王妃も側女も彼女をたたえる。
- 「かけがいのない娘」この視点が失われてはいけない。ただ、かけがいのなさをどのように、たいせつにするかは、よく考える必要があるが。この雅歌と似たものが、演じられたことが、あるのだろうか。そのようなものを観てみたい。いろいろな、演出方法があり、それによって、かなり多様に変化するだろうが。
- BRC2017:Sg 6:4 恋人よ、あなたはティルツァのように美しく/エルサレムのように麗しく/旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。
- 様々な恋歌が重なっていると考えてもよいだろう。ティルツァは、嗣業を受け継ぐツェロフハドの娘の一人の名前として出ており(民数記26:33等)、その後、北イスラエル王国の首都なっていた時期もある(列王記上15:33等)が、ここでの記述との関係は、不明である。最後に恋人に対して「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」は興味深い。通常の感覚で理解して良いなら、伝わってくるものがある。
- BRC2015:Sg6:5 わたしを混乱させるその目を/わたしからそらせておくれ。あなたの髪はギレアドを駆け下る山羊の群れ。
- 口語訳は「あなたの目はわたしを恐れさせるゆえ、わたしからそむけてください。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。」となっている。「あなた」は4節からすると「恋人」おとめを指すと思われる。1節は「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ/あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。」不安から始まり「わたしの恋しい人は園に/香り草の花床に下りて行きました。園で群れを飼い、ゆりの花を手折っています。」と続く。「ゆりの花を手折る」ことになにか象徴的な意味があるのだろうか。それによって解釈がかなり変わって来るように思われる。なかなか難しい。
- BRC2013:Sg6:3 わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。彼はゆりの花の中で、その群れを飼っています。
- 恋心が如実に現れている。周囲とは切り離された主観的な世界なのだろう。この雅歌を理解するには、しかし、男性女性がどのように理解され、原語では表現されていることも重要に思われる。語り手が変わるのがわかるも関係しているので。文法的な性と意味のこともあり、単純には、わからない。
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- BRC2021:Song of Songs 7:7 喜びに溢れた愛よ/あなたはなんと美しく、なんと麗しい。
- この前の6章の最後には「知らぬ間に、私の魂が/私をアミナディブの車に乗せていました。」(6章12節)と急に具体性を伴う表現が登場し、この章に入ると「戻れ、戻れ、シュラムの女よ。」(7章1節a)「ナディブの娘よ」(7章2節a)と具体的な表現がある。しかし、引用句は、非常に一般的である。急に現れたようで、前後関係がよくわからない。しかし「喜びに溢れた愛」はよいことばで印象に残った。「喜び」は自分の中の感覚と関係し「愛」は他者との関係である。そして、それが「美しく、麗しい」と表現されている。おそらく、他者視点なのだろう。他のかたの解釈も聞いてみたい。正直わたしにはよくわからないので。
- BRC2019:Sg 7:14 恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も/恋しい人よ、あなたのために取っておきました。
- 恋人を表現するのに、当時もっとも適切な表現が「恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。」だったのだろう。それを、あなたのために。いまは、それをどのように表現するのだろうか。
- BRC2017:Sg 7:13 朝になったらぶどう畑に急ぎ/見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか/ざくろのつぼみも開いたか。それから、あなたにわたしの愛をささげます。
- 気持ちが良く伝わってくる。何をしても楽しい。その時を大切にしたいのだろう。共有する時間、それは、何かと共に残したいという願望なのだろうか。
- BRC2015:Sg7:14 恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も/恋しい人よ、あなたのために取っておきました。
- おそらく、長い間、恋人が離れていることを表現しているのだろう。一心に思う心「わたしは恋しい人のもの/あの人はわたしを求めている。 恋しい人よ、来てください。」(11, 12a)そう考えると、6:2 の「ゆりの花を手折っています」は、混乱のなかの、悩みを表現しているのかもしれない。
- BRC2013:Sg7:12 わたしたちは早く起き、ぶどう園へ行って、ぶどうの木が芽ざしたか、ぶどうの花が咲いたか、ざくろが花咲いたかを見ましょう。その所で、わたしはわが愛をあなたに与えます。
- 美しい光景である。ともに、自然を愛でる。人を愛でるのは、恋人たちには難しいのかもしれない。
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- BRC2021:Song of Songs 8:6,7 印章のように、私をあなたの心に/印章のように、あなたの腕に押し付けてください。/愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。/愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。/洪水もそれを押し流すことはありません。/愛を手に入れるために、家の財産をすべて/差し出す者がいたとしても/蔑まれるだけでしょう。
- 雅歌をしっかりと読むことが今回もできなかった。難しい。「エルサレムの娘たちよ、私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」(4)は印象的である。この後半「私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。」は、2章7節、3章5節にもある。こちらは、恋について言及しているとも、愛の相互性について述べているとも理解できる。引用句は、愛の強さ、激しさなど、特別な価値について述べている。愛について述べていることはそのとおりだが、イエスが説いた愛とは、なにか距離を感じる。恋心と呼ばれる、心の燃え上がりではないものを、イエスは説いているからだろうか。
- BRC2019:Sg 8:6 わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。(合唱)愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
- 最後の章(区切りは原文にはないだろうが)は「あなたが、わたしの母の乳房を吸った/本当の兄だと思う人なら/わたしをとがめたりはしないでしょう/外であなたにお会いして/くちづけするわたしを見ても。」と始まる。それぞれの登場人物をどう理解すればよいか正確にはわからない。「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(4)と「荒れ野から上って来るおとめは誰か/恋人の腕に寄りかかって。(おとめの歌)りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。 」(5)の「わたしはあなたを呼びさましましょう。」が対応しているのだろうか。そして引用句に続く。愛と熱情を対比している。愛はどのようにとらえられているのだろうか。
- BRC2017:Sg 8:4 エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
- 「エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。 」(2:7, 3:5)二箇所似た箇所がある。どのように、違うのだろうか。一つは、エルサレムおとめたちよ、と呼びかけ、舞台は、エルサレムであることを、連想させる。そして、この表現こそ、恋を感じさせる、なにか、わくわくするものであること。「野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください」は私には、分からない。
- BRC2015:Sg8:13,14 園に座っているおとめよ/友は皆、あなたの声に耳を傾けている。わたしにも聞かせておくれ。 恋しい人よ/急いでください、かもしかや子鹿のように/香り草の山々へ。
- 雅歌の結びである。新共同訳では13節を「若者の歌」14節を「おとめの歌」としている。もし、若者が最初から同じ若者で、おとめがそうであるのであれば、中間部分の微妙な表現をもう少し丁寧に読まなければいけないのかと思った。そう考えると2章15節「狐たちをつかまえてください/ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。」の狐がすでに気になる。
- BRC2013:Sg8:6,7 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
- 雅歌はむずかしい。誰の言葉か、男女の愛はどの程度関係しているのか、信仰はと、基盤が不明なことが多すぎる。しかし、そう考えず、この言葉を記したかったのかもしれない。恋について記し、そして、愛がどのようなものかを表現する、この二つの節に至る。「恋するものの心、愛の讃歌」とでもしようか。
イザヤ書
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- BRC2021:Isaiah 1:23 長たちは反逆者となり/盗人の仲間となっている。/彼らは皆、賄賂を好み、贈り物を要求する。/孤児のために裁かず/寡婦の訴えは彼らのところまで届かない。
- イザヤの義憤が背後にあると感じた。引用句のあとに「それゆえ――万軍の主なる神/イスラエルの力ある方の仰せ――/ああ、私は反抗する者たちを罰し/敵たちに報復する。」(24)と続いており、裁きにつながる、御心とはことなる生活をしていることとして挙げていることが、長たちの不正のように見える。「牛は飼い主を知っており/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。/しかし、イスラエルは知らない。/私の民は理解していない。」(3)と言い「もう二度と空しい供え物を携えて来るな。/香の煙はまさに私の忌み嫌うもの。/新月祭、安息日、集会など/不正が伴う集いに私は耐えられない。」(13)とする、その背景にあるものは、引用句のようなものなのだろうか。イザヤはなにを糾弾しているのか、義憤を覚えているのか。いま起こっていることにも照らしてじっくり読み進めてみたい。
- BRC2019:Is 1:2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
- イザヤ書は、イエスも引用され、新約聖書でも多く引用され、救いの預言書との印象があるが、最初は、主に背いたことから始まる。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」(1)とあるが、いつの時代なのだろうか。荒廃した状況の描写から始まる。しかし、荒れ果てた状況にあっても、回復が常に語られているようだ。それは、国の状況の回復ではない。「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。」(27)悔い改めから始まる恵みの御業による贖いである。裁きをとおしての部分は、この時の状況を表現しているのだろうか。それとも、一般的な人類の「(信じない者は)既に裁かれている」(ヨハネによる福音書3章18節)状態を言っているのだろうか。
- BRC2017:Is 1:10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
- このように呼びかけているが、文脈から、おそらく、ユダの人たちに語っているのだろう。そして、このような、表現は、ユダの人たちにとっては、聞きたくないものだったろう。これを、聞くことができるには、どうしたらよいのだろうか。自分の罪を十分自覚できていないときに。それが、当たっているかもしれないという、謙虚さしかあげられない。
- BRC2015:Is1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
- 有名なことばだが、神に希望をおくのは、全能とするのは、ここに根拠を持っているように思われる。悔い改めやり直すことができる。そのようにさせてくださる。それは、9節の「もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。」にもつながっているのかもしれない。わずかでも残された神様の意図。
- BRC2013:Is1:9 もし万軍の主が、われわれに少しの生存者を残されなかったなら、われわれはソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう。
- 6章の記事が、再召命なのか、最初の召命なのかを考えながら読んだ。1章は預言書の王道といえるような構成になっている。イスラエルを苦しめる存在への叱責、イスラエルの不従順の告発。しかし、同時に、この9節のように「残され」た者という、イザヤを貫くテーマもすでに現れている。いつか、丁寧に読んでみたい。
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- BRC2021:Isaiah 2:4 主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。
- 世界各地で戦争や紛争が起こっている現状をみると、はやくこのようにならないかと思う。それは、自然な考えだろう。この章は「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。」(1)と始まり続けて「終わりの日に」となっている。ある時間軸で、将来的にこうなることを期待するのは自然である。しかし、落ち着いて考えてみると、そうではなく、イザヤが、神様が望まれる世界として、御心をうけとったその表現ではないかと思う。これが主が望んでおられる世界だよというメッセージを語っているのではないかということである。この受け取り方の違いは大きい。御心をうけとったものが、御心がこの世になるようにと、生きる、そちらに重点が移るからである。むろん、そのようにしなさいと、神様が命じておられるわけではない。謙虚に、待つ姿勢も必要である。しかし、待っていればよいということとは、違うように思う。ゆっくり考えながら、預言書を読んでいきたい。
- BRC2019:Is 2:9 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。
- ヤコブの家が「異国の子らと手を結んだからだ。」(6b)としてそのことを糾弾しているようだ。嘆いているのかもしれない。「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。」(7)この状態を、引用箇所では「人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。」としている。ひとは、どのようなときに、卑しめられ、尊厳を失うのか。イザヤの目には驚かされる。この章の最初は「終わりの日」の記述から始まり、この状況の中で、そしてそのような中だからこそ「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(4)と終わりの日を表現し「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(5)と激励している。訴えているのかもしれない。ヤコブの家は北イスラエル王国ではなく、南ユダ王国も含むのだろうか。異国との同盟なしには、滅ぼされてしまうときだったことも確かである。特に、アッシリアは強大になっている。イザヤは、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされるBCE722(ユダ王国アハズ王の時代)に生きていたようである。時代的なことも考えさせられる。
- BRC2017:Is 2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
- このあとに「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 」(4,5節)と続く。主の光の中を歩むことは、主の教え、みことばを聞くところから始まると言っているのだろう。その先に、主の平安が待っている。主が高く上げられるのだから。そこに希望を持って歩むことを意味しているのだろうか。
- BRC2015:Is2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
- この幻を見たのか、それとも言葉だけだろうか。そこへの道筋が見えたわけではないだろう。それを告げ、主への信頼を促すのが預言者のつとめなのか。わたしはそのような善いことをされる神に信頼したい。
- BRC2013:Is2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
- 神の支配のもとにあるという意味で「神の国」ともいえるだろう。これは、そのときを待てば良いのだろうか。我々の中にあるとして、神の働きの中に入ることか。人間が創り出す意識が強くなりすぎるとことはならないだろう。
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- BRC2021:Isaiah 3:1 見よ、万軍の主なる神は、エルサレムとユダから/頼りとなり、支えとなるもの/頼みとするパンと頼みとする水をすべて取り去る。
- 前の章の最後は「人間に頼ることはやめよ/鼻で息をするだけの者に。/人に何の値打ちがあるのか。」(2章22節)と終わっている。引用箇所のあと神が取り去られるものが列挙され続く。頼りとなるひと・人材、システム、食べ物、水、他者を思う心、礼儀、仕えるこころ(serving heart)、自らを用いてくださいという謙虚な積極性(availability)、醜さを悔いる心、そして、通常はリーダーシップを取らない、こども、女性が支配し、抑圧し、勇士は、戦いで倒れる、などなど。疑問符がつく箇所もあるが、主旨は伝わってくるように思う。主に信頼するのではなく、それ以外のものに、頼っていることを嘆いているのだろう。そのように描かれているものには、たいせつなものもあるように思う。おそらく、そのたいせつなものの背後にある、万軍の主への信頼なしにということなのだろうか。それが、このようになるとの裁きの形に現れている。裁きの表現としてのメッセージを受け取るべきだろう。
- BRC2019:Is 3:4,5 わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。
- 「見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。」(1)から始まる。この裁きによって起こることの記述に驚かされる。「気ままな者が国を治め」「民は隣人どうしで虐げ合う。」そして「無礼」。政治的、社会的、倫理的混乱だろうか。ただ、このすべてのことをイザヤは「主なる万軍の神は」として語っている。また、イザヤ書と向き合うことができることを幸せに思う。
- BRC2017:Is 3:15 何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。
- 神に逆らうこととは「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした。 」(14b)とあるように、貧しい者を虐げること、それが、神を畏れないことなのだろう。罪と言っているのは何なのだろう。
- BRC2015:Is3:1 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。
- 人的資源も、食料も取り去られることが宣言されている。そしてそれをなされるのは、主なる万軍の神である。たんたんと、幻を、預言をしているが、大変な状況であることがわかる。それを、どれほどの人が、受け止めたのだろうか。
- BRC2013:Is3:5 民は互に相しえたげ、人はおのおのその隣をしえたげ、若い者は老いたる者にむかって高ぶり、卑しい者は尊い者にむかって高ぶる。
- まさに人の尊厳が守られていない状態である。それこそが、さばきの状態だということだろうか。構造としては、2:5 で「ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。」とあり、2:6a に「あなたはあなたの民ヤコブの家を捨てられた。」そして、3:1 からは将来のことをいっているようでもある。「見よ、主、万軍の主は/エルサレムとユダから/ささえとなり、頼みとなるもの――すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水――を取り去られる。」あまり過去か、現在か、将来かは関係ないのかもしれない。心はつながったいるから。
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- BRC2021:Isaiah 4:3 こうして、シオンに残った者とイスラエルに残された者は、聖なる者と呼ばれる。その者たちはすべてエルサレムにおいて命の書に書き記されているのである。
- 「その日」(2:11, 17, 20, 3:7, 18, 4:1,2 など)の記述である。最終的には、命の書に書き記されているものだけが残るということのようである。イザヤが見た、理想の世界が書かれているのだろう。たしかに、そのことは、素晴らしいが、神様が見ておられる世界と一致してるのだろうか。神様が望んでおられる世界ではあるかもしれないが。互いに愛し合う世界は、単純ではない。わたしは、では、どのように、記述するだろうか。それは、また、困難な課題である。神様も、見えておられないのかもしれない。わたしは、軽々に、その世界を描くことはできない。たとえそうであっても、入り口で引き返すのではなく、イザヤを通して示された世界をしっかりと、受け取っていきたい。
- BRC2019:Is 4:1 その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。
- 「シオンの男らは剣に倒れ/勇士は戦いに倒れる。」(イザヤ3章25節)と直前にあり、男がいなくなっている状況がわかる。同時に「主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。 主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い/彼女らの額をあらわにされるであろう。」(イザヤ3章16,17節)の裁きとしても表現されているのだろう。詳細はわからない。しかし、表現は豊かである。
- BRC2017:Is 4:2 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。
- 「その日」についての記述が続く。1節には、子をもてない女のことが書かれているが、4節では「裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い」そしてそのあとは「昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火」でエルサレムが覆われること「昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。」と続く。生き残ったものの栄光とは何なのだろう。出エジプトが意識されていることは確かだろう。主の若枝は、イエスを指すと考えて良いのだろうか。丁寧に読んでいきたい。
- BRC2015:Is4:1 その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。
- このあとに「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」とある。生き残った者がごくわずかという表現が、この1節の背景にもあるのだろう。15年ほど前の映画「Left Behind」では、残された者の苦悩が焦点であったが。文化的背景の違いと理解して善いのか、それとも、不変な真理があるのか。
- BRC2013:Is4:3,4 そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。
- 新共同訳では「エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる」となっている。汚れは、聖なる者となることを阻害するものなのだろう。人の感覚だろうか。本質が含まれているのだろうか。
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- BRC2021:Isaiah 5:2 彼は畑を掘り起こし、石を取り除き/良いぶどうを植えた。/また、畑の中央に見張りのやぐらを建て/搾り場を掘った。/彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。/しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
- 神の業は失敗だったのだろうか。このあとには「ぶどう畑に対してすべきことで/私がしなかったことがまだあるか。/私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに/どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。」(4)ほんとうに、このような幼稚ともいえる表現を、イザヤも受け入れていたのだろうか。たしかに、神が、そしてイザヤが望んだ世界にはなっていない。そうだからと言って、失敗だと決めることはないように思う。すばらしいこと、しかし、困難な歩みをしているのだから。丁寧に読んでいきたい。
- BRC2019:Is 5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
- このたとえは、二つの面から、よくはわからない。一つは、主のなされることで、主は原因をご存じなのではないかと言うこと、二つ目は、責任を、ぶどうに問うことの理不尽さである。このあとの推移からは、主はなすべきことをすべてした、となっている。神との関係は、いくら譬えだとは言え、少し異なるのではないだろうか。
- BRC2017:Is 5:7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。
- 神義論の議論には、いかず、人の責任を問うている。当時の人も、応答として、主との関係の中での正しさ、人の側の責任という感覚を持っていたと言うことだろうか。丁寧に考えてみたい。
- BRC2015:Is5:1,2 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
- かなりイザヤ書の最初は、飛ぶ。これがいずれ一貫性をもつようになるのか。興味もある。
- BRC2013:Is5:2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。
- 1節によると「わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。」と始まっている。これは誰なのだろう。そして、ぶどうのことがよくわからないが、いったいどうすると、良いぶどうを植えて、野ぶどうがなるのであろうか。
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- BRC2021:Isaiah 6:11 私は言った。/「主よ、いつまでですか。」/主は言われた。/「町が荒れ果て、住む者がいなくなり/家には人が絶え/その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」
- 「行って、この民に語りなさい。/『よく聞け、しかし、悟ってはならない。/よく見よ、しかし、理解してはならない』と。この民の心を鈍くし/耳を遠くし、目を閉ざしなさい。/目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず/立ち帰って癒やされることのないように。」(9b,10)のことばを受けている。これが「ここに私がおります。/私を遣わしてください。」(8b)の直後に与えられた言葉である。イザヤの原点なのかもしれない。よくわからないことばを伝える。それが神のことばの啓示であったことは、興味深い。イザヤも手探りで、進んでいくのかもしれない。明確に、御言葉が示されるときも、そうでないときもあっただろう。精神的には、かなり苦しい日々であったことも想像できる。
- BRC2019:Is 6:11,12 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
- 「ウジヤ王が死んだ年のことである。」(1a)と始まっている。BCE742年のこととされる。アハズ(735年 - 715年)の時代にアッシリアに隷属、次のヒゼキヤ(715年 - 687年)時代に、アッシリアのセナケリブに攻められる。そしてユダ王国がバビロンに滅ぼされ、最後の王となるのはゼデキヤ(597年 - 587年)のときである。北イスラエル王国が滅亡したのは BCE722年。この背景のもとで書かれている。しばらく、安泰だった時期もあり、イザヤのことばが現実になったとはっきり言えるまでには、まだ、150年もある。「かたくなに」するメッセージ(9,10)に対して、「主よ、いつまででしょうか。」と問う、重さを感じさせられる。その間の歴史も思い描きながら。
- BRC2017:Is 6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
- 「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。」とあり「いつまででしょうか」に対して語られている部分である。ここまで、見えていたのだろうか。とくに「ウジヤ王が死んだ年」に。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」(5節)などと言える謙虚さも、あるだろう。あまり予言としての言説に引っ張られない方がよいかもしれない。いつか書かれたかは、不明なのだから。
- BRC2015:Is6:8-10 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」
- いくつもの本質的なことが書かれ、かつ、問いが投げかけられているように思われる。「我々に代わって」神のいくつもの機能を指す用法か。イザヤの言葉は、私が available であることと表現しているものの元となった言葉であるが、ここには積極性がある。そしてそのあとの理解困難な言葉。因果関係とかあることの根拠とは考えない方が良いのかもしれない。神のことばを、人間が本当には理解できるわけはない。新約聖書では「聖霊」つまり神の心によって理解できることになっているが、その恵みに感謝しつつも、肉体に宿るという限界もある。メッセージをうけとり、救いが得られる。そのような単純な構造では無いことが示されているのかもしれない。
- BRC2013:Is6:9-11a 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。
- イザヤのおそらく再召命のときに最初に与えられた言葉である。こんなことを言われたら、失望しかない。イザヤがどう受け取ったかは、明確ではないが、この「主よ、いつまでですか」の言葉にひかれる。神に対する信頼故か。
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- BRC2021:Isaiah 7:11,12 「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるいは天へと高く求めよ。」しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。
- 「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。」(申命記6章16節)「イエスは言われた。『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある。』」(マタイ4章7節、ルカ4章12節参照)を思い出す。この違いをどう理解したら良いのだろうか。こころの状態のように思われる。信頼だろうか。信頼があるから試さない、信頼していないから試さない。両方があるように、思われる。この箇所では、このときに与えられるとされる「しるし」は、次のように書かれている。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14)通常イエスの誕生預言と呼ばれる。(マタイ1章23節)正直、この解釈は、乱暴である。まず、この文脈でなにが語られているのかを丁寧に理解すべきだろう。インマヌエルということばが現れるのは、この二箇所に加えて、次の一箇所のみである。「ユダにみなぎり、溢れ、押し流し、首にまで達する。/インマヌエルよ/その広げられた翼はあなたの国土を/隅々まで覆う。」(8章8節)宿題としておこう。
- BRC2019:Is 7:1,2 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
- 北イスラエル王国滅亡には、南ユダ王国も荷担したと言われており、単純ではないが、北イスラエル王国との兄弟げんかのようなものが、アラムという大国を巻き込んで始まっている。背景には、アッシリアの脅威があるのだろう。「その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。」(20)を見ても、アッシリアの前に、危険を察知していたことがわかる。預言者として、まだ民が理解する前に、先を見て、警告しているのかもしれないが。不安なときの行動が問われている。
- BRC2017:Is 7:20 その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。
- 予言の理解は難しい。イザヤにしても、示されていたことが、あとに、はっきりとしてきて、それが神からのものであることを確信した面もあるだろう。もう少し、違う面を、読み取らなければいけない。
- BRC2015:Is7:1,2 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
- エフライムとは北イスラエル王国、アラムとは今のシリアで、ダマスコという世界最古ともいえる都市を中心とした、三日月型肥沃地帯の先端の王国である。まだ、アッシリアに滅ぼされる前のことである。8節にはかっこつきで「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)」追記もある。そのころの事である。アラムは、隷属で完全には、滅びなかったのかもしれない。興味を惹くのは、1節の終わりに「エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。」とある記述である。要塞都市であったことは確かだが、そこに依り頼んでいたのでは、平安は得られないのだろう。人間のレベルで安全性を考えているから。神に委ねれば安全というわけではない。しかし、神に委ねることが信仰だろう。
- BRC2013:Is7:14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
- マタイ1:23でメシや預言に引用される言葉である。このイザヤでのこの言葉に至る流れが非常に興味深い。まず2節で「時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。」とあり、神からのことばが示され、その後で11節に「『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ』。」これに対して12節で「しかしアハズは言った、『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』。」との応答に対して示された言葉である。特に「陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に」に惹かれた。そのようなしるしが、この預言である。
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- BRC2021:Isaiah 8:4 なぜなら、その子がまだ『お父さん、お母さん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの財産とサマリアの戦利品は、アッシリアの王の前に持ち去られるからである。」
- わたしは世界史を十分学んでいないが、おそらく、中東の大きな変革期だったのだろう。エジプトとは人の行き来があったと思われるが、戦争・紛争はないように思われる。ダマスコは、シリア、サマリアは北イスラエル王国で、長い間、紛争や様々な関係を繰り広げてきたのは、この二国である。それとは全く異なり、それらを凌駕するアッシリアが中東世界最初の世界帝国を作り始める頃である。イザヤはこの時代に生き、この歴史的大変化の背後にある、主のみこころを聴こうとしたのだろう。丁寧に考えていきたい。
- BRC2019:Is 8:3,4 わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」
- 「主はわたしに言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と。 」(1)から始まっている。この時期に、アラム(首都はダマスコ)とイスラエル王国(首都はサマリア)が同盟を結んで、ユダ王国を攻めてきている。背後のアッシリアも強大になっているときであると思うが、ここでは、そのことは書かれていない。イザヤも部分的に理解していったのかもしれない。しかし「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という言葉を受けて、そのことが何を意味するか、考えたのだろう。このことばの実現は、まだ先のことだったかもしれないが、歴史の事実ではなく、より本質的なその奥にあることを、女預言者と、その子と生活しながら、毎日考えたのかもしれない。それが預言者なのだろう。
- BRC2017:Is 8:9,10 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。
- この章の全体的な預言はもう少しじっくり読まないと理解できない。しかし、インマヌエルは、民族主義とは、独立に、安心のもと、そして、それは、畏敬、おののくこととつながっていたように思われる。
- BRC2015:Is8:1 主はわたしに言われた。「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。
- 口語訳には、意味が書かれていなかったので、昔、調べたかもしれないが、意味を知らなかった。子供の名前としては、不適切だと思うが、このあとの預言の内容は、いろいろな要素が含まれているように思う。今まで気づかなかったこととして16節に「わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。」という言葉もある。すでに、弟子たちがいて共に活動していたと言うことだろう。1章の時代とは、変わっていると考えてよいのか。
- BRC2013:Is8:16,17 わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。 主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。
- この章も内容が非常に多く、とても通読で理解するのは困難である。同時に、イザヤにとっても、言葉を与えられても、その意味をすべて理解することはできなかったのかもしれない。ここで表現されている、弟子たちへの教えと、信仰は、そのような中で、鍵である。
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- BRC2021:Isaiah 9:5,6 一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。/ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる/今より、とこしえに。/万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。
- ルカ2章11節にも引用されている、有名な箇所である。しかし、ダビデの王座と結び付けられており、イエスが、どう考えていたかは不明であると思う。当時、通常考えられていた、ダビデの王国は、とこしえには続かない。ヒゼキヤや、(ひょっとするとウジヤや、)ヨシヤを想定していたと考えたほうが良いのかもしれない。しかし、国際社会の大きな変化のなかで、まずは、このような預言をしていることには、驚かされる。単なる楽観主義ではないことも確かなので。イザヤはどのような人だったのだろうか。
- BRC2019:Is 9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
- アラムとイスラエルの攻撃が大きなダメージとはならなかった時かどうかは、わからないが、この時点で、単に、その戦いに限らず、壮大な、主の救いの御業と、さばきについて、預言している。まさに、このなかで、主がより普遍的なこととして、なにを伝えようとしているかを、考えていたのだろう。そのうけとったものを、言語化している。学ぶべきは、預言が成就したかどうか、この預言者の背後に主がおられるかどうかではなく、このように、主のみこころを求める姿勢、より本質的なことを見ようとする生き方なのかもしれない。しかし、一つ一つの言葉に驚かされる。
- BRC2017:Is 9:15,16 この民を導くべき者は、迷わす者となり/導かれる者は、惑わされる者となった。 それゆえ、主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るからだ。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。
- 「主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。」などということがあるのだろうか。そのような状態になることは、あるかもしれないが。それは、指導者の責任なのだろうか。他に原因を求めるべきなのだろうか。
- BRC2015:Is9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
- これが福音なのだろう。このあと続く言葉は、どうみても、麗しい言葉ばかりではないが。しっかり受け止めたい。
- BRC2013:Is9:6,7 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
- 6節はメシヤ預言としてよく引用される。しかし、それに続く7節を見ると「ダビデの位に座し」とある。ダビデの子と考えられていたのは当然だろう。新約聖書での引用か、それとも、キリスト教での解釈か、丁寧にしらべていきたい。
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- BRC2021:Isaiah 10:1,2 災いあれ、不正な掟を定める者/苛酷な判決を書き記す者に。彼らは弱い者の訴えを退け/私の民の苦しむ者から権利を奪う。/寡婦を餌食とし、孤児を獲物とする。
- この章の記述は複雑である。しかし、基本的には「災いあれ、私の怒りの鞭であるアッシリアに。/その手にある杖は私の憤り。」(5, 参照 12, 24)とあり、アッシリアに対する裁きが語られている。すると、引用箇所も、アッシリアのことを言っているのだろうか。より、一般的なことをまずは述べているのだろうか。20節から23節には残りの者という、イザヤ書のモチーフの一つも現れる。「その日になると、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者は、自分たちを打った者にもはや頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。」(20)残りの者だけであることが書かれ(23)、この章の最後は、アッシリアを恐れるなと語っている。一段高いところからのメッセージには聞こえる。
- BRC2019:Is 10:20,21 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。
- 「残りの者」の救いがイザヤの預言の特徴の一つである。「残らなかったものは」と聞くことは自然だろう。さばきは、動かしがたいことだったのだろう。二つのことを考えた。ひとつは、永遠のいのちのメッセージがまだないこと。すなわち、死は、絶対的に生と分かつものであること。もうひとつは、神のめぐみをつたえる神の救済の全体的提示なのではないだろうか。欠点を考える良い、ここから受け取れるメッセージを考えるべきだろう。イザヤが受け取ったこと、信じて頼ったことから、希望を受け継ぎたい。
- BRC2017:Is 10:27a その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛は砕かれる。」
- これが幸せと考えるのは自然だろう。しかし、イエスの答えは少し違っている。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)わたしは、完全に軛が砕かれるより、イエスの軛を共に負いたい。重荷は取り去られず、重荷を負いながら、休みが与えられる場所があればよい。
- BRC2015:Is10:’5-7 災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。 神を無視する国に向かって/わたしはそれを遣わし/わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ/野の土のように彼を踏みにじれ」と。 しかし、彼はそのように策を立てず/その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと/多くの国を断ち尽くすこと。
- アッシリアも神に対してへりくだらないといけないというのか。その通りだろう。しかし、神の意思が伝えられなくて、ひとはそれを受け取れるのだろうか。それは、イスラエルの価値観ではないのだろうか。一般恩寵から、ひとは、神の基本的な意思を受け取れるのだろうか。そうかもしれない。ある程度は。
- BRC2013:Is10:1,2 わざわいなるかな、不義の判決を下す者、暴虐の宣告を書きしるす者。彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、わが民のうちの貧しい者の権利をはぎ、寡婦の資産を奪い、みなしごのものをかすめる。
- 弱い者を苦しめるものということとすると、大学の成績評価などでもあり得るように思われる。飛躍がないように、ていねいに、考えたい。
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- BRC2021:Isaiah 11:16 アッシリアに残されたこの民の残りの者のために/大路が備えられる。/エジプトの地から上って来た日に/イスラエルのために備えられたように。
- 「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。/知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。」(1,2)から始まるこの章は「水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。」(9b)にも表現されているように、救いが語られている。しかし、おそらく、遠くに、神の子イエスの誕生が預言されていたとしても、直接的には、現実の危機にたいする救いなのだろう。「主は国々に向かって旗を揚げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放された者を集め/ユダの散らされた者を呼び集める。」(12)ともあるように、イスラエルの滅亡とともに、ユダもかなりひどい目にあっている。逆に、残りの者に対する、福音なのかもしれない。残りのものについて明確に限定しているわけではないが。
- BRC2019:Is 11:6-8 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
- 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」(1)から始まる。一般的に、救い主預言だとされる。どのような救い主かが書かれ、引用箇所に至る。こころから驚かされる光景である。同時に、救いの範囲は、イザヤにとっては「残されたもの」である。「地の四方から」(12)とは言われているが、中心には「エジプトの地から上った日に/イスラエルのために備えられたように/アッシリアに残されていた/この民の残りの者にも、広い道が備えられる。」(16)アッシリアである。限界を、はっきりと見ながら、この預言者が受け取った者から学びたい。
- BRC2017:Is 11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
- 思い出すのは「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ2:25)を思い出す。このあとに、具体的なことが続く。しかし「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。 」(イザヤ11:4,5)がイエスの活動の中身なのかと問われると、少しずれを感じる。
- BRC2015:Is11:1,2 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
- アッシリアの脅威の中で書かれているのだろうか。そのアッシリアの傲慢を非難し、恐れるなと10章では書かれている。それに続いて、この11章である。10節にあるような「その日」の記述はには、驚かされる。これがメシヤ預言。最初は、エッサイの株からスタートする。これは、肉的なつながりを意味しているのだろうか。もしそうではないとすると、なぜダビデのようなとも言わず、エッサイの株、根といわれているのだろう。このことは、キリスト教会においても、系図の論議として、イエス降誕の次第について、長く議論されたことように思われる。預言を字義通りにはとらないということ、または、詩篇のように、神の御心とのシンクロナイズを表現した信仰者の告白ととるのがよいかもしれないが、それは、神信仰の集団が培ってきたものを破壊してしまうことになるのかもしれない。難しい。株(geza: stem, trunk, stock (of trees))は聖書に三回のみ。Job 14:8, Is 11:1, 40:24. Job14:7-9 は友人との議論の第一ラウンドの最後にあるヨブの弁論にある。「木には希望がある、というように/木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない。 地におろしたその根が老い/幹が朽ちて、塵に返ろうとも 水気にあえば、また芽を吹き/苗木のように枝を張る。」これに対して人は死んでしまうとどうなるのかと語られている。エッサイは分からないが、株は分かる気がする。
- BRC2013:Is11:3,4 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、 正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
- ローマ12:15「またイザヤは言っている、/『エッサイの根から芽が出て、/異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう』。」は1節の引用とすると、やはり治める者である。そう考えるのは自然だろう。
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- BRC2021:Isaiah 12:1 その日に、あなたは言うであろう。/「主よ、私はあなたに感謝します。/あなたは私に怒りを向けられましたが/その怒りを去らせ、慰めてくださいました。」
- 「その日」を検索すると、イザヤ書には47件あった。(他に多いのは、エレミヤ41件、エゼキエル20件、ゼカリヤ24件)その日を期待するということだけではなく、ここでは、先取りして、慰めに関する感謝を述べている。(4節参照)このあとにも、ほめたたえることばが続く。当時の人は異常に感じたかもしれない。すくなくとも、この主への信頼が、預言者を預言者たらしめているのだろう。
- BRC2019:Is 12:1,2 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
- 救いのときに、このように考えるのだろうが、主は変わらないのかもしれない。このあとに「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」(3)と続く。美しい表現である。イザヤの特徴のひとつのように思われる。最後は「シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」(6)とあるが、シオンに集中していることが気になる。シオンに住まない一般の人はどうなのだろうか。「シオンに住む」は、広い意味なのだろうか。
- BRC2017:Is 12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
- 救いの泉から水を汲むとは、何を意味するのだろうか。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネ4:14)を思い出す。水を汲むとは、神が与えられるいのちに生きることだろうか。ユダヤの地に住む人にとっての、水は、特別なのだろう。そして、それは、日々生かすものである。
- BRC2015:Is12:1-3 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
- 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(Heb11:1)とあるが、まさに、神様に信頼し、「その日」を先取りして、感謝すること、なのだろう。救いの泉は、水たまりではなく、水がこんこんとわき出る場所だろう。
- BRC2013:Is12:1 その日あなたは言う、「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。
- 11章10節から続いている。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。 その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。」ここにも「あがない」が現れる。Mt20:28「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。を思い出させられる。
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- BRC2021:Isaiah 13:20 そこには永遠に誰も住まず/代々にわたってとどまる人もいない。/アラブ人さえ、そこに天幕を張らず/羊飼いたちも、群れを伏させることはない。
- 「そこ」は、「諸王国の麗しさであり/カルデア人の高き誉れであるバビロン」(19a)である。そのままではないが、周辺に町が建てられ、いまでも、栄えている。精神的な意味で、バビロンをとっても、世界各地で、バビロンのような存在は、各所にあるように思う。むろん、完全な預言の成就は、まだ、なっていないとも取ることができるが、預言は、正確に、未来を予知・予言することではないのだろう。しかしすると「その日」について、そして「そこ」について問いたくなる。メッセージを正確に受け取ることは、とてもむずかしい。
- BRC2019:Is 13:19 バビロンは国々の中で最も麗しく/カルデア人の誇りであり栄光であったが/神がソドムとゴモラを/覆されたときのようになる。
- 「アモツの子イザヤが幻に見た、バビロンについての託宣。」(1)とあるが、このときのバビロンはどのような状況だったのだろうか。当時は、アッシリアの時代で、そのことが繰り返されている。アッシリアをバビロニア王朝に含める見方もあるようだが、聖書の記述からは、ユダが滅ぼされる時代までそのような記述はないように思われる。ここでは、バビロンという町について言っているのだろうか。いつか、しっかり学ぶ時を持ちたい。
- BRC2017:Is 13:10 天のもろもろの星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かさない。
- 主の日、裁きの日の描写である。救いと同時に起こることを表現するのは、難しいのだろう。そして、一般恩寵と、特別恩寵を、ともに、主の日に表現することは。考えさせられるテーマでもある。
- BRC2015:Is13:9 見よ、主の日が来る/残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ/そこから罪人を絶つために。
- バビロンについての託宣(1:1)であり、ここには、義が立てられることとして、「主の日」「残忍な、怒りと憤りの日」が語られている。これは、神の本当の願いなのだろうか。神を思うひとの願いではあるかもしれない。それがこのような預言という形式をとる信仰告白として現れる。これも、神の意思とのシンクロナイゼーションの過程なのでは内だろうか。それとも、やはり、神の言葉の宣言ととるべきなのか。難しい。
- BRC2013:Is13:17,18 見よ、わたしは、しろがねをも顧みず、こがねをも喜ばないメデアびとを起して、彼らにむかわせる。 彼らの弓は若い者を射殺し、腹の実をあわれむことなく、幼な子を見て、惜しむことがない。
- 後半は何とも恐ろしい。若い者はかなり若い少年などを想定しているのか、そして妊婦や幼子。メデアは、アッシリア滅亡後の、エジプト、リディア(トルコ)、新バビロニア、メディア(BC715-BC550) の内の一つの王国で、ペルシャのクロスに滅ぼされる。
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- BRC2021:Isaiah 14:1,2 しかし、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び、彼らの土地に住まわせる。/寄留の民も彼らに加わり、ヤコブの家に連なる。もろもろの民は彼らをその地に連れて来る。イスラエルの家は主の土地で、もろもろの民を男も女も奴隷として所有する。かつて自分たちを捕らえていた者を捕らえる者となり、かつて自分たちを虐げていた者を支配するようになる。
- どの時点で書かれたものかは不明だが、基本的には、バビロンの滅亡とヤコブ(イスラエル)の家の回復について書かれている。歴史的には、このようにはなっていない。それも、直視すべきだろう。さらに、回復の状態として、寄留の民は相変わらず寄留の民、そして、諸国民を奴隷として所有するとある。報復としての記述もある。イザヤだけではなく、信仰者一人ひとりがみ心を求める過程で、様々な不完全さを担っていることの証であるとも思う。捕囚の前に書かれた可能性が高く、その意味では、先の先を見る預言者が希望を伝えているとも取れる、しかし同時に謙虚になりたい。
- BRC2019:Is 14:1,2 まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり/ヤコブの家に結び付く。もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。
- イザヤは、主との交わりの生活の中で、主はどのような方で、どのようなことをされるかを確信したのだろう。それが、預言となっても現れる。引用箇所などは、わたしは、読み飛ばすようにしていた。イスラエル中心であること、諸国民を奴隷として自分のものとすることを、救いの一部としていることからである。イザヤの視点からは、それは、とても自然だったのだろう。それを、あげつらっていると、イザヤから学ぶことはできない。
- BRC2017:Is 14:2 もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。
- このあと、イスラエルを虐げたと考えられる民族への裁きが続く。この一節でそれを責めるのは問題だとしても、おそらく、あまり疑問なしに、逆転について、記したのではないだろうか。救いとはなにか、普遍的な神のみこころはなにかを求めることはとても難しい。同じ地平での逆転を考えるのが自然だから。
- BRC2015:Is14:24,25 万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。 わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし/わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛は、わが民から取り去られ/その重荷は、肩からはずされる。」
- 預言とは何なんだろう。神が、直接、ひとの口に言葉を授けると思っていたが、すこし違うように思う。神信仰をもって真剣に生きるなかで、神の心、神の意思との同期を表現したものではないのだろうか。ということだ。そのように言い切ってしまって良いかどうかは分からないが。神の働きを否定するわけではないが、信仰者のより大きな責任を問うものを考えているように思う、私は。
- BRC2013:Is14:2 もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしえたげた者を治める。
- v1「主がヤコブをあわれ」まれるときの記述である。正直、これで良いのかと思ってしまうが、あまり善悪で判断しない方が良いのかもしれない。パーフェクトなものは、ひとは受け入れられないものなのだから。
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- BRC2021:Isaiah 15:1 モアブについての託宣。/一夜のうちにアルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。/一夜のうちにキルは荒らされ/モアブは滅ぼされた。
- Encyclopedia Britanica によると、モアブは紀元前8世紀ごろ栄え、その後アッシリアの一部となり、バビロンにアッシリアが滅ぼされてからは歴史から消えたとある。聖書の記述は多いが、不明な点が多いようである。近隣の民族との軋轢は、ずっと継続して続き、大きな問題であったことがわかる。しかし、神様が働かれるのは、神様が世界を創造されたなら、もっとずっとずっと広い世界なのだろう。隣人との諍(いさか)いの痛みの傷が、ひとを形作っているように、世界との関係も、特に国際社会との関係が広がり深まるなかで、大きな影響を持つに至っているのだろう。現在の世界の状況を見ると、遠い国の出来事ではなくなっている。
- BRC2019:Is 15:1 モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。
- この章の最後には「ディモンの水は血に染まる。わたしが、ディモンに災いを加え/モアブの難民とアダマの生き残りの者に/獅子を送るからだ。」(9)近隣の国・民族とは様々な交流、紛争、思いがあったろう。さばきを思うと同時に、隣人も主が憐れまれることを確信するのは、困難なのかもしれない。自らを思い見る前に、主との契約と長い歴史があり、それが選択肢を広げることもあるが、狭めることもあるのかもしれない。
- BRC2017:Is 15:3 巷で、人々は粗布をまとい/屋上でも広場でも皆、泣き叫び、嘆きくずおれる。
- いまのシリアのような状態だろう。そして、それは、世界の何カ所でも繰り返される。それが、神からのものだとすると、その背後に神がおられるとすると、ひとは、どのように考えたら良いのだろうか。痛みを感じる。それが、神の痛みでもあると考える以外に、わたしには、方向性すら、分からない。
- BRC2015:Is15:1 モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。
- 神の意思をこのことに見いだしたと表現できるのではないだろうか。その目で見たものが実現する。本質を見抜く謙虚な目だからではないだろうか。そして、それこそが神が望んでおられること。もう少し、表現を考えたい。
- BRC2013:Is15:7 それゆえ、彼らはその得た富と、そのたくわえた物とを携えて、柳の川をわたる。
- モアブについての託宣である。しかし、わからないことだらけである。この節は何を意味しているのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 16:11,12 それゆえ、私のはらわたはモアブのために/私のはらわたはキル・ヘレスのために/琴のように震える。モアブが疲労に耐えて高き所に出向いても/祈るために聖所に赴いても、何の力にもならない。
- この章もモアブの裁きについての預言がつづき最後に「そして、今、主は語られる。『雇い人の年季のように三年のうちに、多くの群衆がいたモアブの栄光は侮られ、生き残る者は極めて少なくなり、力を失う。』」(14)三年とあり、イザヤはその滅亡または凋落を見たのかもしれない。わたしが知りたいのは、神様はどう見ておられ、そしてわたしはこのことをどう見るべきなのかということである。「私たちは、モアブの高ぶりのことを聞いた。/その高慢は甚だしい。/思い上がり、高ぶり、横柄さ。/その自慢話には根拠がない。」(6)これだけではよくわからないが、モアブに問題はあったのだろう。しかしそれは、アッシリアに頼り生き残りを計ったことなのかもしれない。それが、隣国から見ているとこう見えるのかもしれない。そして、引用句。「わたし」はイザヤなのか、神様なのか、明瞭ではないが、はらわたが震えている。こころの奥底が揺さぶられる表現である。それ以上はわからないが。
- BRC2019:Is 16:10,11 わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくなり/わたしは喜びの声を終わらせる。それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレスのために/竪琴のように嘆く。
- 「わがはらわたは・・・嘆く」とある。単に、悲しい状況になることを言っているのだろうか、それとも、本当に嘆いているのだろうか。はらわたに感じるほどに。「それゆえ、わたしはヤゼルのために/また、シブマのぶどうのために泣く。ヘシュボンよ、エルアレよ/わたしは涙でお前を浸す。お前の果物の取り入れと麦の刈り入れに/鬨の声が襲いかかったからだ。」(9)ともある。さばきとしての滅びを、この預言者は、どのように受け取っていたのだろうか。
- BRC2017:Is 16:11 それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレスのために/竪琴のように嘆く。
- 「モアブの栄光が終わる」(14)ことのなかで、「そのとき、ダビデの幕屋に/王座が慈しみをもって立てられ/その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。 」(5)ダビデ王朝の確立と、そして、上の引用箇所が書かれている。心が痛んでいる。これは、主のことば(13)とされているので、主の心なのだろう。イザヤが伝えようとしたこと、神の裁きが何を意味するのか、単純ではないのかもしれないと思わされる。そして、おそらく、一部しか、イザヤは理解できていないこともあるのだろう。
- BRC2015:Is16:5 そのとき、ダビデの幕屋に/王座が慈しみをもって立てられ/その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。
- モアブからエルサレム(娘シオンの山)に貢ぎ物と使いをおくって嘆願せよとはじまる。そして、そのあとが、この節である。王朝が弱体化しているときに、一番の願いはやはりダビデ王朝の復興だったのか、と言ってしまってはいけないのかもしれないが、預言について考えさせられる。預言者も完全に神の意思を捕らえることもできないことがあると言う方が自然だから。信仰とは異なるのかもしれない。
- BRC2013:Is16:10 喜びと楽しみとは土肥えた畑から取り去られ、ぶどう畑には歌うことなく、喜び呼ばわることなく、酒ぶねを踏んで酒を絞る者なく、ぶどうの収穫を喜ぶ声はやんだ。
- この状態は悲しい。しかし、それは、それなりに、多くの場所に見られるのではないだろうか。恵みと救いを乞い願う。
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- BRC2021:Isaiah 17:3 エフライムからは砦が/ダマスコからは王国が消え去る。/アラムで生き残った者は/イスラエルの子らの栄光と同じようになる/――万軍の主の仰せ。
- この預言が何年ごろなのかは不明であるが、イザヤの時代に、北イスラエル王国は、アッシリアにより滅ぼされる。ダマスコと書かれているシリアについて正確には理解できていないが、アッシリアに飲み込まれてしまったことは確かだろう。この激動の時代、イザヤはなにを見、神様のみこころをどのように受け取ったのだろうか。「あなたは救いの神を忘れ去り/自分の砦である岩を心に留めることはなかった。」(10)これはおそらくイスラエルまたはその盟主であるエフライムについて語ったものだろうが、これは、南ユダにとっても、自らを省みなければいけないときだったのだろう。時代が大きく変化している。世界史的にも。ひとは、どのように、神様の声を聞き、普遍的な価値、真理をもとめていったらよいのだろうか。今も、そのような時代なのかもしれない。
- BRC2019:Is 17:13,14 国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。
- 「災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。」(12)このどよめきは、なにをあらわしているのだろうか。ダマスコ(アラム)とエフライム(北イスラエル)の滅びをこの章では語っているようだ。正直詳細はよくわからない。預言者は、どよめきのときの主の働きもみているのかもしれない。現代は、そして、いまは、どのような時なのだろうか。イザヤはどのように、見るのだろうか。
- BRC2017:Is 17:10 お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。
- 「ダマスコについての託宣。『見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫の山となる。』 」(1) 今までも、アラムそして、現在のシリアのダマスコは何回も瓦礫の山となってきただろう。そして、そのシリアには、多くのキリスト教徒もいる。おそらく、ユダヤ教徒もいるのだろう。「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。 」(7節)にもあるが、総じて、混乱した状況が語られている。この一つ一つから、どのようなメッセージを受け取るべきなのだろうか。わたしは、ある理解を得ることができるのだろうか。
- BRC2015:Is17:7 その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。
- これに続くのは、偶像礼拝をしないという8節。人は、すべての人を意味しているのだろうか。どうしても、それがなかなか信じられない。簡単には、変わらないように考えてしまうから。そこにこそ信仰が必要なのだろう。
- BRC2013:Is17:10,11 これはあなたがたが自分の救の神を忘れ、自分の避け所なる岩を心にとめなかったからだ。それゆえ、あなたがたは美しい植物を植え、異なる神の切り枝をさし、 その植えた日にこれを成長させ、そのまいた朝にこれを花咲かせても、その収穫は悲しみと、いやしがたい苦しみの日に/とび去る。
- 「美しい植物を植え、異なる神の切り枝をさし」の結果は、むろん、さした枝の実がなる。逆であれば、そこに良い実がなる。やはり内村鑑三の接ぎ木思想のほうが正しいように思われる。Rm11:17「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、」は接ぎ木について十分理解されていない。
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- BRC2021:Isaiah 18:1 災いあれ、クシュの川のかなたで/高い羽音を立てている国に。
- クシュは、北スーダンと南エジプトのあたりのヌビア地域の国。エジプトと関係が深いが、独立した地域として、存在し続けたようだる。ただ、文字を持っていなかったようで、記録が乏しく、殆ど、エジプトの文書によっているとのこと。「その国はパピルスの舟を水に浮かべ/海路を通じて使節を遣わす。/行け、足の速い使者たちよ。/背が高く、肌の滑らかな国民のもとへ。/ここかしこで恐れられている民のもとへ。/その国土が多くの川で分かたれ/強い力で踏みにじる国のもとへ。」(2)とあり、最後にも「背が高く、肌が滑らかな民」(7b)との記述がある。記述に乏しいとも言えるが、恐れられてもいたようだ。
- BRC2019:Is 18:1,2 災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。
- クシュは Wikipedia によると「クシュ(Kush)は現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。」とあるが、他の資料(ネット上にも多数)を見ると、起源や繁栄の時期など諸説あるようだ。現在のエチオピアの地域と同一視して、クシュはエチオピアとする場合もあり、わたしも基本的にはそう思ってきたが、詳細は、よく調べる必要がある。奥地にあることで、アッシリアなどの影響は限定的だったのかもしれない。しかし、国際的交流の広さに驚かされる。日本のような極東の島国にいるのとは、世界観もかなり異なるのだろう。イザヤを含めて、預言者の視野の広さも、このあたりに背景があるのかもしれない。
- BRC2017:Is 18:3 世界の住民、地上に住むすべての人よ/山に合図の旗が立てられたら、見るがよい/角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい。
- 「災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。」(1)から始まり、クシュ(エチオピア)への裁きのように思われる。しかし、主が何をされるのかは、不明である。そして、最後に「そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。」(7)となっている。無理には、解釈しないほうがよいのだろう。預言の成就の有無に心が捕らわれてしまう可能性もあるから。
- BRC2015:Is18:1,2 災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。 彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。
- クシュはエチオピアと訳してあるものもある。ノアの子ハムの息子の一人で、その土地をクシュの土地とも呼ぶ。エジプトの南、北スーダンあたりを拠点にしており、BC700年ごろには、勢力が最大となり、エジプトから、スーダンの地域、すなわち、ナイル川流域を支配した国をさすこともあるようだ。まさに、イザヤのころにも、十分な勢力だったのだろう。ただ、海を渡っての海は、地中海だろうか。幾筋もの川で区切られているは、ある行政区に分かれていたと言うことだろうか。不明な点が多い。
- BRC2013:Is18:4 主はわたしにこう言われた、「晴れわたった日光の熱のように、刈入れの熱むして露の多い雲のように、わたしは静かにわたしのすまいから、ながめよう」。
- エチオピアは遠いからだろうか。世界観がまだ未成熟で、ユダ中心であるようにも見える。結論は 7b で「万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る。」となっている。
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- BRC2021:Isaiah 19:23 その日には、エジプトからアッシリアまで大路が敷かれ、アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人と共に主に仕える。
- 「その日」の記述が興味深い。このあとにも「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる。万軍の主は祝福して言われる。『祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエルに』と。」(24,25)と続く。この章はエジプトについて記述されており「私はエジプトをエジプトに刃向かわせる。」(2a)ともある。エジプトの歴史も学んでみたい。第何王朝という名前が続くことも不思議に感じていた。似た王朝のことも、外部からの侵入のこともあったようだが。ナイルの恵みは多くのひとに魅力的だったのかもしれない。「その日」は、イザヤが見ていたほど単純ではないように思われる。しかし、そのようなビジョン自体が、主の、みこころの理解のひとつの形態、探求の歩みなのかもしれないとも思う。すくなくとも、批判するようなことではないのだろう。
- BRC2019:Is 19:24,25 その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。
- イザヤの視野の広さに驚かされる。「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。」(23)とある。中東を見ると、ものごとをどのように理解したとしても、いまも、この状況にはほど遠い。これは、単に、イザヤの願いだったのか。おそらく主との交わりをもっていた、イザヤからすると、主がなされることとして、明らかだったのだろう。わたしたちは、これをどう受け取ったらよいのだろうか。
- BRC2017:Is 19:22 主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。
- このあとには「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。 」(3)と続く。エジプトとアッシリアは当時の巨大な二大勢力だったのだろう。すなわち、その間に挟まれたイスラエルがどうなるのか、預言者は主の御心を求めている。神をあがめるようになること。エジプトも、アッシリアも関係なく。そして「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。 」(24)普遍的な救いを求めていることは分かるが、聖書をどう読めばよいのか、正直よく分からない。この預言者の真摯な御心を求める姿を読み取ればそれでよいのだろうか。
- BRC2015:Is19:24,25 その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。 万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。
- これがイザヤにとっての神の世界観だったのだろう、壮大である。さらにこの前提に神の性質が表れているように思われる。19節20節には「その日には、エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、その境には主のために柱が立てられる。 それは、エジプトの地において、万軍の主を指し示すしるしとなり、証しとなる。もし彼らが、抑圧する者のゆえに、主に叫ぶならば、主は彼らのために救助者を送り、彼らを救われる。」さらに22節には「主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。」とある。そして、23節に「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。」最初に書いたように、当時の世界が、エジプト、アッシリアの超大国、その間にある弱小ユダ王国であることを、考えると、まさに、世界が共に、神を礼拝するのが「その日」である。
- BRC2013:Is19:17 ユダの地は、エジプトびとに恐れられ、ユダについて語り告げることを聞くエジプトびとはみな、万軍の主がエジプトびとにむかって定められた計りごとのゆえに恐れる。
- 逆転現象だけだとすると、悲しい。ここからの発展を待つ必要があるのだろうか。注意深く丁寧に読んでいきたい。
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- BRC2021:Isaiah 20:5 彼らは、自分たちが望みをかけていたクシュのゆえに、また誇りとしていたエジプトのゆえに、おののき、恥じ入るであろう。」
- アッシリアによる、エジプトとクシュ攻略について書かれている。歴史的には、完全には滅びなかったと記憶しているが、望みや誇りは砕かれたのだろう。クシュとエジプトの友好関係もあったことがわかる。クシュ(BC920年頃成立)については、あまり、資料がないのかもしれないが、学んでみたいと思う。現在の北スーダンから南エジプト、黒人の支配者による大きな国だったようである。アッシリアは、クシュにも影響を及ぼす大帝国となったのだろう。アッシリアについては、あまり文書の記録がないらしいが、アッシリアについて、その戦略や、統治政策についても、学んでみたい。
- BRC2019:Is 20:6 その日には、この海辺の住民は言う。「見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」
- 「海辺の住民」が、エジプトやクシュ、そしてアッシリアという巨大王国とは別に、重要な時代だったようだ。正確にはわからないようだが、ペリシテやツロなどを含むもともとは海洋民族で王国の盛衰にも大きく影響したと言われる。どのように評価するか難しいのだろう。この時代からフェニキア人の地中海での活動がまた活発化しているという説もあるようだ。背後にある地中海沿岸の歴史も学んでみたい。それにしても、イザヤの身を挺しての預言、驚かされる。
- BRC2017:Is 20:1 アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い、これを占領した。
- 「アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚を引いて行く。若者も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行く。 」(4節)とエジプトとクシュがアッシリアに敗北する預言が記されている。史実的には、はっきりしないようである。現在では、イザヤがこれをいつ書いたかを特定することは、不可能であろう。その上で、どのようなメッセージを読み取るべきかは、注意を要する。個人的な理解と、普遍的な理解をわけることは、簡単であるが、難しい。歴史の中で、神を求める人が、どのように、伝えているかを、丁寧に見ていきたい。
- BRC2015:Is20:6 その日には、この海辺の住民は言う。「見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」
- 「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い、これを占領した。」からこの章ははじまり、2節には「それに先立って、主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け。」彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った。」とあり実際にそのようにしたことも書かれている。海辺の民と書かれているのは、アシュドドという町の名前から判断すると、ペリシテの流れをくむ民か。海岸沿いを進んで、エジプトに向かうための戦いだったのだろう。その意味で、(イスラエルまたは)ユダ王国は、無視されているとも言える。その中で、イザヤはエジプトとクシュに対する預言として、奇怪な行動をとる。神に従うことは、完全に意味が分からなくても、そしておそらく本当に神の御心かどうかも分からなくても、従うことなのだろう。
- BRC2013:Is20:1 アッスリヤの王サルゴンからつかわされた最高司令官がアシドドに来て、これを攻め、これを取った年、――
- 明確にはわからないが、サマリヤ陥落の少し前だろうか。冷静に見ることができるということだろうか。しかし、ここで預言されていることは、なんとも悲しい。さすがにイザヤは嫌われたろう。
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- BRC2021:Isaiah 21:12 見張りは言った。/「朝は来る、だが、まだ夜だ。/尋ねたければ尋ねよ。/もう一度来るがよい。」
- この章ではバビロンが倒れることが書かれ、ドマ、アラビアと続く。引用箇所は、ドマについてのものである。(新)アッシリアの首都はニネベとされているが、中心的地域はアッシュール、バビロンはもっと南だが、この地域の帝国をバビロンと呼んでいたのだろうか。見張りが登場する。イザヤは世界の状況を知るべく、情報を集めていたのだろう。先の先の世界を見ていたのかもしれない。とても、興味深い。ドマは、イシマエルの子の名として現れるが(創世記25章14節、歴代誌上1章30節)詳細は不明。ひとつの近隣の民族なのだろう。引用句の表現は興味深い。「朝は来る、だが、まだ夜だ」信仰者が暗い世界を見る心持ちのようにも見える。
- BRC2019:Is 21:11,12 ドマについての託宣。セイルから、わたしを呼ぶ者がある。「見張りの者よ、今は夜の何どきか/見張りの者よ、夜の何どきなのか。」見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ/もう一度来るがよい。」
- 「今は夜の何どきか」は、朝が待ち遠しくて寝ていられない。夜が早く去って欲しい。という表現なのではないだろうか。その夜を見張っているものもいることも興味深い。人生でそして、世の中が、真っ暗と感じるときなのだろう。夜警は「もう一度来るがよい。」としか答えられないとしても、辛い期間なのだろう。夜明けが近い明け方が一番暗いという。
- BRC2017:Is 21:2 厳しい幻が、わたしに示された。「欺く者は欺き続け/荒らす者は荒らし続けている。上れ、エラムよ/包囲せよ、メディアよ/わたしは呻きをすべて終わらせる。」
- 「バビロンの陥落」(9節参照)と表題にある。アッシリアの首都は、ニネベだろうか。現在のイラクのモスルとのことである。つい最近まで、Islamic State が占領していた地域で、クルド人が住んでいる場所である。しかし、ここで語られるのは、バビロン。アッシリアが滅ぼすとは書かれていないようである。もう少し、基本的な知識がないと、理解できないのだろう。
- BRC2015:Is21:4 わが心は乱れ、おののきが、わたしを打ちのめす。楽しみにしていた夕暮れは/かえって、わたしを恐怖に突き落とした。
- 預言者の日常はどのようだったのだろう。この章の内容も良くは分からない。9節bには「倒れた、倒れた、バビロンが。神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた。」との宣言がある。アッシリアの首都はニネベだったのでは無いかと思われるから、これは象徴的な意味でのバビロンか、それとも、新バビロニア帝国を指すのか、将来を見る、それを告げる役割の者の、苦悩をみる。
- BRC2013:Is21:1 海の荒野についての託宣。つむじ風がネゲブを吹き過ぎるように、荒野から、恐るべき地から、来るものがある。
- これはバビロンについての託宣ととっている注解(バビロンの地名を表すアッシリヤ語)もあるが、よくわからない。本当に「海の荒野」はバビロンを意味していたのだろうか。
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- BRC2021:Isaiah 22:12,13 その日、万軍の主なる神は/「泣き、嘆き/髪をそり落とし、粗布をまとえ」と呼びかけられた。ところが、お前たちは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲み/「食べたり飲んだりしよう/どうせ明日は死ぬのだから」と言う。
- 「幻の谷についての託宣」(1)と始まるが、この人達がどのような人たちかは不明である。引用句から、神から離れた存在であること「その日になると/私は私の僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び あなたの衣を彼に着せ/あなたの飾り帯を彼に締めさせ/あなたの支配権を彼の手に与える。/こうして彼は/エルサレムの住民とユダの家の父となる。」(20,21)とあるので、ユダの一部なのだろう。もしかすると、そのような民族名や国名では分けられない状態に、あるのかもしれない。悔い改めなければならない状態か、自分で気づくことは難しく、人から言われてできることでもないのだろう。
- BRC2019:Is 22:5 混乱と蹂躙と崩壊の日が/万軍の主なる神から来る。幻の谷に、騒音が響き渡り/山に向かって叫ぶ声がある。
- 「その日」(8, 12, 20)はいつのことなのだろう。「その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」(20,21)に現れる、ヒルキヤの子エルヤキムは、ヒゼキヤのときに、アッシリアのセナケリブに攻められたときの人のようである。(列王記下18章18節)すると、引用箇所の「混乱と蹂躙と崩壊」は目の前にあることなのかもしれない。「ユダの防備をはぎ取った」(8)もそのときに符合する。時が記されていないと、どのように理解するか混乱する。通読ではなかなか深くは読めない。
- BRC2017:Is 22:11 二つの城壁の間に水溜めを造り/古い池の水を入れた。しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず/遠い昔に都を形づくられた方を/見ようとしなかった。
- 内容を十分理解できるわけではない。具体的なことと関係しているのだろう。おそらく、ある知恵を用いて、ここで言われている工事をしたが、本質的なことが見失われていることが言われているのか。宮廷の家令シェブナの罷免、ヒルキヤの子エルヤキムの任職に関する記述と、かなり具体的なことに言及している。そのような場で働いていた預言者。困難も、十分経験していただろう。記者は何を見ていたのだろうか。
- BRC2015:Is22:25 だが、その日には、と万軍の主は言われる。確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる、と主が語られた。
- この章はよく理解できない。少なくとも、後半は、国の要職の人事にも関わっているように思われる。単なる預言の域を出ている。イザヤはどのような存在だったのだろうか。最後がこの言葉である。この世に生きている限り、この世における基盤、頼るもの、すがりつくものは、誰でも持っているだろう。それが抜け落ちるとき、人はどうなるのだろうか。
- BRC2013:Is22:23 わたしは彼を堅い所に打ったくぎのようにする。そして彼はその父の家の誉の座となり、
- これは、20節にある「わがしもべヒルキヤの子エリアキム」のことである。重大であるが、あまりに負担の大きなこのようなことの意味はよくわからない。
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- BRC2021:Isaiah 23:18 しかし、彼女の利益と報酬は主の聖なるものとなり、積み上げられず、蓄えられもしない。その利益は、主の前に住む者たちのものになり、彼らは飽きるまで食べ、最上のもので着飾ることになる。
- ティルス、そして、シドン、タルシシュについて書かれている。通常、海の民と言われ、各地に都市国家を作ったフェニキア人たちについてである。歴史的には、アッシリアにも抵抗するが隷属、勢力は削がれるが、滅ぼされず、新バビロニア王国にも抵抗、アレクサンダー大王の東征にも、唯一抵抗したとも言われているようだ。カルタゴなどもふくめ、この海の民については、ぜひ学んでみたい。
- BRC2019:Is 23:10 娘タルシシュよ/ナイルのように、お前の国を越えて行け/もはや、遮るものはない。
- この章にはティルスについて書かれ、シドンも現れる。海の民の都市国家としてティルスは歴史上も有名であるが、タルシシュ(Tarshish)(1,6,10,14)は、「タルシシュの船」(1, 14)として聖書に何回か現れる(列王記上10章 22節、22章49節、歴代誌下9章 21節、詩編48編8節、イザヤ書2章 16節、イザヤ書60章9節、エゼキエル書27章 25節)。いつか調べてみたい。海洋民族で、似た名前のいくつかの候補はあるようだが、不明のようである。聖書のなかだけでなく、海の民は、歴史的にほとんどわかっていないが非常に大きな影響を与えた様である。むろん、民族ではなく、ひとくくりにはできないのかもしれないが。イザヤの時代のグローバルな人たちなのだろう。不思議な存在である。
- BRC2017:Is 23:15 その日が来ると/ティルスは、一人の王の生涯に等しい七十年の間/忘れられているが/その七十年が終わると/ティルスは遊女の歌にうたわれているようになる。
- ここでも「その日」について書かれている。新共同訳では46件出てくる。「その日が来ると」は引用した以外に二回、27:12, 13。ティルスのような海洋民族の都市国家を理解するのは難しかったろう。しかし、そのような町の人たちが、大きな影響を与えたことも確かだろう。イスラム教の興りの一要素でもある。ティルスについて学んでみたい。
- BRC2015:Is23:6 渡って行け、タルシシュに。泣き叫べ、海辺の住人たちよ。
- タルシシュは創世記10:4によると「(ノアの子、ヤフェトの子)ヤワンの子孫は、エリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニムであった。」として最初に現れる。列王記10:22「(ソロモン)王は海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。」(ヨシャファトについては、22:49参照)とある。Wikipedia によると「本来の語義は「精錬所」を意味するといわれている。現在のトルコ地中海岸のタルススとする説とスペイン南部のタルテッソスとする二つの説がある。」となっている。23章にティルスなどと関連して書かれているように、海洋民族のフェニキア人と関連する地で、特に金属などの精錬技術をもっていた場所だと考えられる。ペリシテは、いち早く鉄の精錬をしていた。
- BRC2013:Is23:18 その商品とその価とは主にささげられる。これはたくわえられることなく、積まれることなく、その商品は主の前に住む者のために豊かな食物となり、みごとな衣服となる。
- ツロの回復のあとの記述である。どうも、偏りがあるように思われる。これで良いのだろうか。
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- BRC2021:Isaiah 24:5 地はそこに住む者たちの下で汚された。/彼らが律法に背き、掟から逸脱し/永遠の契約を破ったからだ。
- この直前には「地は乾き、しぼみ/世界はしおれ、しぼむ。/天も地と共にしおれる。」(4)とある。凄い表現である。その理由をのべたのが引用箇所。預言者の心持ちは理解できるように思うが、狭いように思ってしまう。批判的にならず、共に、考えたいきたい。最後にもやはりなかなか心を共にできない部分があった。「月は辱められ、太陽は恥じる。/シオンの山において、万軍の主が王となられ/エルサレムにおいて/長老たちの前にその栄光を現されるからだ。」(23)これで、被造物がすべて神を崇めるようになるのだろうか。世界は広い。それがイザヤにはある程度見えていたと思うのだが。
- BRC2019:Is 24:4,5 地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。
- 世界は揺れているように見える。倫理的な基準も揺るがされ、なにが正しいのか見えなくなっている。正しさだけでは、互いに愛し合うことは困難であることも、認識しはじめているように思う。異なる多様なひとたちが、互いに受け入れるためには、正しさを根拠とすることが困難だからだろう。ここでは、混乱の理由は「彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。」とある。そうなのだろうか。しかし、そうかもしれないとも思う。根本的と思われる、いのち、肉体的なものだけでなく、ひとが生き生きといきることを育むことについても、相対化されるのは、おかしいとも思う。性のことや、こども、家族はどうなのだろう。どうしたらよいのかよくわからない。
- BRC2017:Is 24:1 見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。
- 4節には「地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。」ともある。引用箇所は、それを、為されたのが、主であると、書かれている。神義論を語るときの、一つの問題がある。正直、わたしには、わからない。このことの、背後に神がおられることを、否定すれば、神の存在すら、否定することにつながる可能性もある。肯定すると、主権は理解できても、神の性質については、よく分からなくなる。
- BRC2015:Is24:1 見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。
- 3節に「地は全く裸にされ、強奪に遭う。主がこの言葉を語られた。」似た言葉がある。何を意味しているのか不明であるが、滅ぼし尽くされること、手がつけられない状況がおこることが預言されているのだろう。大きな戦争を予見させられる。しかし、当時の戦争は、大軍同士の戦いではないだろうから、理解が難しい。さらに5節を見ると「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。」とあり、単なる物理的な荒廃だけが語られているわけではないことも分かる。難しい。
- BRC2013:Is24:23 こうして万軍の主がシオンの山/およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前に/その栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。
- 1節は「見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる。」と始まる。23節は栄光がどれほど大きなものかを表現したものであろう。しかし、しっかりつながってはこない。
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- BRC2021:Isaiah 25:4 まさに、あなたは弱い者の砦/苦難の中にある貧しい者の砦/豪雨を避ける逃れ場/暑さを避ける日陰となられる。/横暴な者たちの勢いは壁を叩く豪雨
- 「主よ、あなたは私の神。/私はあなたを崇め/あなたの名をほめたたえよう。/あなたははるか昔の驚くべき計画を/忠実に、誠実に成し遂げられた。」(1)前の章の最後のことばに続いてその日について書かれている。わたしが、素晴らしいと思うのは、引用句のような倫理性のように思う。神がどのような方かを表現するとき、弱いもの、貧しいものの避ける場所としての表現が現れる。弱者がどうなるかに目線がある限りに於いて、大きく道を踏み外さないようにも思う。
- BRC2019:Is 25:4,5 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。
- このあとに「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」(8)ともある。引用箇所は、日々の労苦の中での慰め、和らぎ、そして、「死」。死は、当時はもっと身近にあったのかもしれない。こどもの死亡率が高く、生まれたこどもが成人するのは、率がひくかったろうし、争いで亡くなることも。そして、弱いものは、苦難に遭うものには、救いはないのではないかと思われたのかもしれない。今も、同様の状況とも言えるが、異なる部分もある。わたしたちは、主の恵みをどのように表現するだろうか。
- BRC2017:Is 25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
- これに続く、9節も含め、預言者の中にある、または、預言者が表現している、救いと望ましい状況を見て取れる。まずは、死を滅ぼすこととある。新約の世界の永遠の命とは、少し違うように思われる。悲しみは亡くなるのだろうか。イエスとともに生きることは、悲しみを背負って生きることとつながっているようにも思われる。神があがめられること、神の栄光が表現されているならば、そうかもしれないが。難しい。
- BRC2015:Is25:4,5 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。
- 実質的にも、詩的にも、その通りだと告白したい。つまり、これが、イザヤの神様のイメージ、それが私たちにもつながっているのだろう。細部の預言は分からない。しかし、神様に希望をおくものが、神のみこころを探り続けた記録としては、理解できる。
- BRC2013:Is25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
- 祝福について書かれているその最初が祝宴、7節は「顔おおいの除去」、8節は「死、悲しみ、恥ずかしめの除去」9節は「民の応答」
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- BRC2021:Isaiah 26:7 正しき人の道は平坦であり/正しき人の道筋を、あなたはまっすぐにされます。
- 背景にある価値観の違いなのかなと最近は考えるようになっている。同じことが起こっても、その評価は異なる。神様の目から見たものさしをしっかりと学んでいくことが、このことばの背景にもあるのかもしれない。「正しき人の道筋」は主の、みこころにつながっているということだろうか。
- BRC2019:Is 26:12,13 主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。わたしたちの神なる主よ/あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは/あなたの御名だけを唱えます。
- わたしは、主に信頼している。そして、平和の源だと考えている。しかし、その根拠は薄弱でもある。いままでそのようにして生きてきて幸せだったからだろうか。そうかもしれない。後半には「あなた以外の支配者が我らを支配しています。」とあるが、もしかすると、わたしの人生を支配しているのは、主ではなく、主以外の支配者なのではないだろうか。不安にもなる。不安さを抱えて生きることも、ひとの歩みの一部であるのかもしれない。結局わたしも「主よ、苦難に襲われると/人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと/彼らはまじないを唱えます。」(16)と同じ存在なのだろうか。主を求めることも、まじないも、あなた以外の支配者に支配されていることなのだろうか。
- BRC2017:Is 26:7 神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
- 3節には「主への信頼」が平和へと結びつくことが書かれている。引用箇所は「神に従う者」である。従うことは、信頼なしには、あり得ないし、信頼するといっても、従わなければ、実質は得られないのだろう。「主イエスに従う」とわたしは表現したい。そして、様々なことがある日常の中で、その道は平ら、その道はまっすぐ、そして平和だと告白できると思う。
- BRC2015:Is26:3,4 堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
- 信頼(batach; I. to trust, A. to trust, trust in, to have confidence, be confident, to be bold, to be secure, B. to cause to trust, make secure, II. to feel safe, be careless)が中心である。この章の始めで、堅固なのはエルサレムであるように描かれているが、これは、象徴的なものだろう。どこまでも主に信頼すること、ここに尽きる。それは、神が善い方だととして信頼することとつながっている。
- BRC2013:Is26:1 その日ユダの国で、この歌をうたう、「われわれは堅固な町をもつ。主は救をその石がきとし、またとりでとされる。
- 町によって守られるという感覚は日本で育った私にはないが、この節には、その人たちの主の救いに対する信頼が色濃く表現されている。ここで「救い」という言葉を使った理由を考えてみたい。
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- BRC2021:Isaiah 27:12,13 その日になると/主は、ユーフラテスの流れから/エジプト川まで穂を打つ。/イスラエルの子らよ/あなたがたは一人一人拾い集められる。その日になると/大きな角笛が吹き鳴らされ/アッシリアの地に失われた人々と/エジプトの地に散らされていた人々が来て/聖なる山エルサレムで主を礼拝する。
- ここにも「その日」が二回現れる。アッシリアによって荒廃した地、失われた人々がどうなるのかが、この当時の一番の問題だったのだろう。「その日」について知ることは、「当時」について知ることでもあるのかもしれない。わたしたちは「今日」をどのうように見「その日」にどのような希望を持つだろうか。
- BRC2019:Is 27:5,6 そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす。
- 主との和解。それは、信頼することの質を転換することだろうか。具体的には、よくわからない。ただ、後半をみると、やはり、イスラエルの地上での回復が言われているように思われる。これを、イザヤの限界とみるのか、それとも、和解による回復の象徴なのか、あるいは、実際のことなのか。わたしには、わからない。
- BRC2017:Is 27:2,3 その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
- 主が守っていて下さることは、良く見えない。しかし、ここでは「見事なぶどう畑について喜び歌え。」ともある。「その日」とあるが、救いの日は、今日なのかもしれない。26:7 で告白したように、毎日が救いの日なのだから。
- BRC2015:Is27: 1 その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。
- 悪魔を滅ぼすことが書かれている。さらに2節には「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。」とあり、さらに3, 4a節では「主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。 わたしは、もはや憤っていない。」そして5節「そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」と続く。和解できない理由があるのかもしれない。私たちに見えないところで。単純に、自由意志による罪だけを考えるのは、偏っているのかもしれない。
- BRC2013:Is27:15 その日大いなるラッパが鳴りひびき、アッスリヤの地にある失われた者と、エジプトの地に追いやられた者とがきて、エルサレムの聖山で主を拝む。
- 四散した人たちが、集められ、共に礼拝する、これが望みだったのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 28:26 神はふさわしいしかたを彼に示し、教えられる。
- なにを示されるかはその前に書かれている。「耕す者は、種を蒔くために/いつも耕すだけであろうか。/その土地を起こして畝を造るだけであろうか。地面を平らにしたら/黒種草を蒔き散らし、クミンを蒔き/小麦を畝に、大麦を定められた場所に/デュラム小麦を土地の境に植えるではないか。」(24,25)自然を通して示し、それを農夫はそれを受け取っているということである。このことによって「黒種草は脱穀板で踏まれることはなく/クミンの上に脱穀車が回されることもない。/黒種草は棒で、クミンは杖で打たれる。穀物を砕いて粉にするとき/いつまでも脱穀することはない。/脱穀車の車輪と馬を動かしても/それを砕き尽くすことはしない。」(27,28)とあり、最後には「これもまた万軍の主から出たことである。/主は驚くべき計画を行われ/大いなる洞察を示される。」(29)と結んでいる。残念ながら、わたしには、農夫が学んでいることがあまり理解できないが、農学であろうか、当時の科学的知見、それらも、主から与えられる洞察であるとの解釈には、納得させられる。すぐその霊的な意味を説いていないことも、興味深い。このこと自体に価値があることをみな知っていたのだろう。
- BRC2019:Is 28:1 災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は。その麗しい輝きは/肥沃な谷にある丘を飾っているが/しぼんでゆく花にすぎない。酒の酔いによろめく者よ
- 北イスラエル王国は、もうすぐアッシリアに滅ぼされる。それを、南ユダ王国はどう見ていたのだろうか。アッシリアはすでに南ユダ王国にとっても脅威であったはずだ。北を売ったとも言われている。しかし、北には預言者もおり、信仰深いひとたちもいただろう。たしかに、たくさんの問題があった。イザヤはどう考えていたのだろか。北イスラエル王国の滅亡を。そして、南ユダ王国の行く末を。「それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」(16)イザヤはここに立っているのだろうか。よくわからない。
- BRC2017:Is 28:1 災いだ、エフライムの酔いどれの誇る冠は。その麗しい輝きは/肥沃な谷にある丘を飾っているが/しぼんでゆく花にすぎない。酒の酔いによろめく者よ
- なぜ「酔いどれ」「酒の酔いによろめく者」と表現されているのだろう。3節にも、7節にも現れる。正気になっていない。自分の状態が分かっていないと言うことだろうか。自由を、酔うことに使ってはいけないと言うことなのだろうか。もう少し理解したい。
- BRC2015:Is28:15,16 お前たちは言った。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
- 後半は、新約聖書でも引用されている(マタイ21:42, ルカ10:17, 使徒4:11, エフェソ2:20, ローマ9:33,10:11, 1ペテロ2:6-8)前半から通してみると、ヨハネ8:21を思い出す。「そこで、イエスはまた言われた。『わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。』」この最後は、18「お前たちが死と結んだ契約は取り消され/陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき/お前たちは、それに踏みにじられる。』」である。
- BRC2013:Is28:13 それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。
- この言葉と16節の「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。」が神様の側でなされることである。その間で、神に信頼するのは、ひとしかできないことなのかもしれない。
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- BRC2021:Isaiah 29:24 心の迷った者は悟りを得/つぶやく者は教えを学ぶ。」
- 救いとはなにか、「その日」について預言者は何を語るのかを考えている。おそらく、これが、神様の喜ばれる、みこころのなる世界として受け取ったことを書いているように思う。真理を求め、それを、公正と正義とよび、みこころを求め、受け取ったことを、伝える。それが、まさに、神の言葉に預かる、預言者の歩み・営みなのかもしれない。時系列で、その日がいつかと問うことは、的を射ていないのかもしれない。引用句のようになってほしい。そして、神様はそれを願い、喜ばれると、わたしも思う。
- BRC2019:Is 29:19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
- イザヤには、裁きと、回復が繰り返し現れる。イザヤの中で、それは、何を意味していたのだろうか。苦しんでいた人々、貧しい人々、正しいものだけと言っているのでもないようである。「心の迷った者も知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。」(24)混乱してしまう。
- BRC2017:Is 29:18,19 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
- 実際に聴覚障害者、視覚障害者について言っているのだろうか。11節・12節のように「封じられているから」聞こえない、読めない野ではないだろうか。ここでも「書物に書かれている言葉すら」とある。聴覚障害者が聞こえるようになり、視覚障害者が見えるようになるのはそのさきがけ、象徴なのかもしれない。
- BRC2015:Is29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
- 主のみこころを求めるのはどうしたらよいのだろうか。正直言って簡単ではない。求められるのは、謙虚さと、主のみこころを知ろうとする日常的な営みではないだろうか。あまりにもアバウトである。唇を制御することか。たしかにそれはあるだろう。これは、人に聞く、神に聞くことが重要な要素として含まれているのかもしれない。これは謙虚さのひとつか。心を調べる事か。内省は重要だ。そこでは、人間の戒めを覚え込んだだけかどうかを問う誠実さも必要である。
- BRC2013:Is29:24 あらぶる者は絶え、あざける者はうせ、悪を行おうと、おりをうかがう者は、ことごとく断ち滅ぼされるからである。
- こんなことになるのだろうか。それは、本当の救い、新たないのちのはじまりのように思われる。このあとの預言も丁寧に見ていきたい。
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- BRC2021:Isaiah 30:10,11 彼らは先見者たちには、「見るな」と言い/予見者たちには/「我々に正しいことを予見するな。/我々に甘言を語り、欺瞞を予見せよ。道から離れ、進路から外れ/イスラエルの聖なる方を/我々の前から取り除け」と言う。
- この前には「彼らは反逆の民、偽りの子ら/主の教えを聞こうとしない子らなのだ。」(9)とあり、あとには「あなたがたはこの言葉を拒み/抑圧と不正を頼み、それを支えとしている」(12b)とある。そのあとで、主なる神、イスラエルの聖なる方のことばとして「立ち帰って落ち着いていれば救われる。/静かにして信頼していることにこそ/あなたがたの力がある。」(15b)がある。このことばについて何回も考えたことがある。信頼がすべてで、自分で解決しようとしなくて良いのかと。判断は、とても、難しいと思う。特に、政治のように、複雑な課題においては。確かに「抑圧と不正」があったのだろう。そしてそれは許されざるべきものだったのだろう。それを、神様はどう見ておられるか。現実世界の様々な困難な問題を見ると、ここにイザヤが記したことも、神様のみこころだろうが、それは、その一部かもしれないと思った。
- BRC2019:Is 30:1 災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが/わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが/わたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。
- ここに原因が集約されているようである。「彼らは先見者に向かって、『見るな』と言い/預言者に向かって/『真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ/我々の前でイスラエルの聖なる方について/語ることをやめよ』と言う。 」(10,11)のような状態が実際に蔓延していたかは不明であるが、イザヤに聞かない状況はすでに、存在していたろう。そのことと、引用箇所は一致しているのだろうか。わたしもたしかに反逆の民なのかもしれない。主によるかどうかは、不明でも、主に聞くものでありたい。
- BRC2017:Is 30:16 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。
- たしかに、主の御心を求めず、自分で行動してしまうことが多い。"The first duty of love is to listen.” などの言葉も、このことと近いのだろう。見える必要を満たそうとする。全体が見えていないにもかかわらず、そして、それを見ようともせず。
- BRC2015:Is30:9-11 まことに、彼らは反逆の民であり/偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。 彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い/預言者に向かって/「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。 道から離れ、行くべき道をそれ/我々の前でイスラエルの聖なる方について/語ることをやめよ」と言う。
- リーダーシップではなく、民自身が反逆の民だと言っている。そしてその最初に語られているのは、神の言葉をもとめようとしない、聞こうとしない態度である。自分を主としているとも言えるだろう。15節「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」の本質もそこにあるように見える。
- BRC2013:Is30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
- 待つこと、それは、神に信頼すること、それが、信仰の歩み。神に目を向けるということ、人にはそれが難しいのか。
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- BRC2021:Isaiah 31:8 アッシリアは滅びる。/人間のものではない剣によって。/人間のものではない剣がアッシリアを食い尽くす。/彼らは剣の前から逃げ/若者たちは労役に服す。
- 実際に、巨大なアッシリアは、滅びる。記録があまりないこともあり、経緯は十分には、わかっていないのかもしれないが、「紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落(ニネヴェの戦い)。 亡命政権が、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡。」(Wikipedia)とある。ただ、このあとも、アッシリア人は、いろいろな政権に加わっていたようだ。神様が背後におられる。たいせつな視点だが、それだけで片付けられることでもないように思う。
- BRC2019:Is 31:2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。
- 正直、この感覚はない。主がどのように働いておられるのか確信がない。イザヤの言うように、「災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。」のだろうか。「主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。」ことは真実としても。神の個別的介入についても、求め続けたい。どのようなものなのか、どのようにされるのかと問いながら。
- BRC2017:Is 31:8 アッシリアは倒れる/人間のものではない剣によって。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす。彼らは剣を恐れて逃げ/その若者たちは労役に服す。
- 「人間のものではない」とあることも、超自然的なと言う意味ではなく、想像もしていなかった、想定外のということなのかもしれない。人は本当に、なにも分かっていないのだから。
- BRC2015:Is31:2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。
- 災いをもたらす部分がわかりにくい。神はそれを為されるが同時に、災いをもたらすものを攻められる。神のご性質をもっと学びたい。
- BRC2013:Is31:1 助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。
- 信頼するもの。ここに、希望があり、命があるのだろうか。わたしは、どうだろうか。信頼されるとは。大切にされていること。尊厳を守られていること。信頼するのは、最初は、力あるひとのような気がする。しかし、そうではない。「信頼される地球市民」はどのように育まれるのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 32:1 見よ、正義によって一人の王が統治し/公正によって高官たちが治める。
- 預言書は、預言者が神様の御心として受け取ったことを書いている。イザヤが受け取った神のみこころは、すばらしい王が、正義(神の望まれる正しさ)に拠って統治し、高官たちが、それを補佐して公正(神の正しさが一人ひとりにどのように行き渡るべきかを考えること)によって、統治の仕事を行う、と言っているのだろう。次に、素晴らしいことが次に書かれている。「彼ら(王と高官だろうか)はそれぞれ、風の時の逃げ場/嵐の時の隠れ場のように/また、乾いた地にある水路のように/荒れ果てた地にある大きな岩陰のようになる。」(2)さらに「見る者は目をそらさず/聞く者は耳を澄ます。気短な心が知ることを得/もつれた舌が速やかにはっきりと語る。」(3,4)しかし、気になることもある。「もはや愚か者が高貴な人と呼ばれることはなく/ならず者が尊い人と言われることもない。」(5)このあとにも続く。そのように、二元的に区別できるのだろうか。ひとは、それほど単純ではない。そして希望もある。同時に、だれでも、その希望を持てると短絡に結論することもできないが。
- BRC2019:Is 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。
- 「見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。」(1)と始まる。「正義が造り出すもの」に懐疑的であったが、おそらく、それは、正義を道具として権力を振るい、はっきりしないことなどを絶対化し、正当とすることに拒否感があるからだろうか。正義はもっと良いものなのだろう。平和を造り出すのが正義、とこしえに安らかな信頼を生み出すのが、正義なのだろう。このような正義を求めていきたい。
- BRC2017:Is 32:17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。
- このことが受け入れられないのは、わたしが、人の世界に「正義」はないとの強い確信を持っているからである。それだけではなく「正義」が平和を造り出すと考えるところから、平和ではなく、争いが生じるからである。では、ここでは、何を言っているのだろうか。おそらく「正義」の内容が異なるのだろう。旧約聖書における「正義」について、ゆっくり学んでみたい。
- BRC2015:Is32:1,2 見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。 彼らはそれぞれ/風を遮り、雨を避ける所のように/また、水のない地を流れる水路のように/乾ききった地の大きな岩陰のようになる。
- このあとに重要なことばが続くが、イザヤ時代の理想的な統治がここに述べられている。王や高官たちの理想的な姿である。3000年の間に人が学んだことは重要である。その違いも踏まえるべきだろう。預言者について、考えたい。
- BRC2013:Is32:3,4 こうして、見る者の目は開かれ、聞く者の耳はよく聞き、 気短な者の心は悟る知識を得、どもりの舌はたやすく、あざやかに語ることができる。
- これは、6:8-10 から解き放たれるときの預言なのか。しかしこの続きを見ると「愚かな者は、もはや尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや、りっぱな人と言われることはない。」などとなっており、示唆に富む。もう少し時間をかけて丁寧に読んでみたい。
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- BRC2021:Isaiah 33:15,16 正義によって歩み/正しいことを語り/虐げによる利益を拒み/手を振って賄賂を取らず/耳を塞いで流血の謀を聞かず/目を閉じて悪を見ない者 このような人は高い所に住み/その砦は岩の要害となる。/そのパンは与えられ/水は絶えることがない。
- イザヤが(神様の前で)正しい人と信じているひととについて、記述されているように思う。同時に、そうではない、人たちが多い世界が、イザヤの前に広がっているのだろう。わたしたちは、今の世の中で、それをどう表現するだろうか。単純に、イザヤの記していることに、そうだそうだというのではなく、丁寧に、求めていきたい。神様の前で正しい人について、考えており、それは、それほど単純にわかるわけではないのだから。
- BRC2019:Is 33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。
- もう少しまともにこのことばと向き合ってみたい。この章は「都に住む者はだれも病を訴えることはない。都に住む民は罪を赦される。」(24)で終わっている。病が罪のゆえとはされていないが、罪を赦されることと関係はしているのかもしれない。苦しみやいたみが病を引き起こすこともあるのだから。主の裁きはどのようなものなのだろうか。
- BRC2017:Is 33:6 主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
- ここで「あなた」と書かれているのが、特定のひとなのか、どうか、文脈からも判断しにくい。ここでは「時」「知恵と知識」「救い」「主を畏れること」「宝」と続く。みな、美し言葉である。抽象的に過ぎるともいえるが、魅力も感じる言葉である。
- BRC2015:Is33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。
- 「神以外のなにものをも王(絶対的な主権者)とせず」(ICUで使われている「神以外の何ものをも神(絶対的なもの)とせず」からとったもの)が基本なのかもしれない。これは、絶対王政への警鐘であると同時に、民主主義という形態も絶対化しないことともつながる。同時に、ひとが決めていく責任と真摯に向き合うことも重要である。いまのわたしにとっても、このことは、基本だろう。リーダーシップについても学んでいきたい。
- BRC2013:Is33:1 わざわいなるかな、おのれ自ら滅ぼされないのに、人を滅ぼし、だれも欺かないのに人を欺く者よ。あなたが滅ぼすことをやめたとき、あなたは滅ぼされ、あなたが欺くことを終えたとき、あなたは欺かれる。
- これは本当にわざわい。こんなことを人は求めてしまっている。悲しい。
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- BRC2021:Isaiah 34:4 天の全軍は朽ち果て/天は巻物のように巻かれる。/その全軍は枯れ落ちる。/ぶどうの葉が枯れ落ち/いちじくが木から枯れ落ちるように。
- 不思議な文章である。天の全軍について理解できるわけではないが、それが朽ち果てるとはどういうことだろう。不思議な状況は他にもある。「烏とふくろうがその地を住みかとし/森ふくろうと烏が住み着く。/主はその上に混沌の測り縄を張り/空虚の重りを下げる。」(11)単なる、イザヤの義憤の表現、神の裁きの預言とは少し違うものを感じる。確かに、神の怒りについて書かれ(2)最初には、エドムについての裁き(5-10)について書かれているが。ここだけでは、正直よくわからない。
- BRC2019:Is 34:16 主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。
- 明確には書かれていないが、ジャッカル(14)や、ふくろう(11,15)などは、主のコントロールのもとにあるが、人間は、決めることができるように、造られたというのだろう。おそらく、注意深く、明言はせず、「主の書に尋ね求め、読んでみよ。」とのみ言っている。本来なら、自然を見よといいそうなものだが。人間とは、どのような存在で、イザヤはどう考えていたのだろうか。
- BRC2017:Is 34:4 天の全軍は衰え/天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ/いちじくの葉がしおれるように/その全軍は力を失う。
- 6節には、エドムと書かれているが、もろもろの国(1)すべての国(2)とあり、全地におよぶように読める。驚かされるのは、ここにその裁きによって「天の全軍は衰え」とあることである。命をすり減らす行為なのだろう。神の軍隊であっても。痛みを伴うからか。
- BRC2015:Is34:17 主は彼らの分をくじによって定め/御手の測り縄によって土地を分け/とこしえに彼らの所有とされる。代々にわたって、彼らはそこに住む。
- 「彼ら」は15節のふくろうだろうか、さらに14節の様々な動物が含まれるかもしれない。ふくろうは日本人が通常想像するものと同じであれば、夜活動し、生態が不明なものの代表なのかもしれない。そして、ここには、くじと測り縄が用いられている。想像力豊かである。細部を正確かどうか問うのは野暮だろう。神への信頼「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。」(16節)が読み取れる。
- BRC2013:Is34:8 主はあだをかえす日をもち、シオンの訴えのために報いられる年を/もたれるからである。
- 911のとき、アメリカのニュースでretariationがすぐ語られたことに強い違和感を感じた。しかしそれは私の方が例外的な考え方をしているのかもしれない。単に、日本の平和教育のせいだろうか。それとも、普遍的な価値があるのだろうか、神の御心につながる。
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- BRC2021:Isaiah 35:5,6 その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。/荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る。
- 回復の預言が書かれている。神の御心がなる世界の描写だろう。イザヤ書の記述は、不思議である。まず、目の見えない人、耳の聞こえない人、歩けない人、口の聞けない人と障害者についての記述から始まり、次には、自然についての描写である。政治的な支配者の問題や、外国の侵略についてなどの、正義の記述ではない。そして、この章の最後は「主に贖い出された者たちが帰って来る。/歓声を上げながらシオンに入る。/その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。/喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。」(10)と喜びの記述になっている。わたしなら、回復について、神の御心がなる世界についてどのように記述するだろうか。まずは、イザヤのそれをしっかり受け取りたい。
- BRC2019:Is 35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
- 「主は言われた。『行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。』 」(6章9,10節)「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。 」(42章18節)に対応しているのだろうか。イザヤには、目や耳に関する記述が多い。「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。 」(29章18節)イザヤは、どのような世界を見ていたのだろう。
- BRC2017:Is 35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
- このあとにも「そのとき」について語られる。わたしたちは「そのとき」をどう表現するだろうか。それは、神様をどのように、認識しているかにかかっている。自分たちの苦しさについて、どのように、理解しているかにもかかっているだろう。自分のことばで「そのとき」について書いてみたい。
- BRC2015:Is35:5,6 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
- 「そのとき」は1節から4節まで語られ最後に「神は来て、あなたたちを救われる。」(4b)とある。「そのとき」を預言者はみることができたのだろう。そしてそれを見て取ることが主の到来を知る鍵なのだろう。マタイ11:2-6「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。』」
- BRC2013:Is35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
- 「とこしえの喜び」「楽しみと喜び」わたしの日常とはことなるように思う。喜びはつねにあるが。
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- BRC2021:Isaiah 36:7 お前は、自分たちの神、主を頼りにすると言っている。だが、その神がヒゼキヤに高き所と祭壇を取り除かせたのではないか。ヒゼキヤがユダとエルサレムに向かい、この祭壇の前で礼拝せよと言ったのはそのためだ。
- アッシリアの王、センナケリブがエルサレムに攻めてきたこととヒゼキヤ王に関しては、列王記下18章13節から20章20節(歴代誌下32章9節-24節参照)に書かれており、そこには、イザヤについての記述もある。この類似からも、列王記は預言者文書とも言われる。この書記官ラブ・シャケのユダヤのことば(いわゆるヘブライ語)で語った言葉は、非常に興味深い。そのとおりにはならなかったということがこのあと続くが、ある程度はそうなったと思われるし、いずれは、ネブカデネザルによって似たことが起こっていることを考えると、否定することはできないひとつの預言のようにも思われる。引用句は、どうも、民は、偶像も自分たちの神と思っており、それを、ヒゼキヤが排除したと想定されているのかもしれない。翻訳にもよるかもしれないが、興味深い。
- BRC2019:Is 36:19,20 ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」
- 「カルノはカルケミシュと同じではないか/ハマトは必ずアルパドのようになり/サマリアは必ずダマスコのようになる。 」(10章9節)と対応しているようである。サマリアは、北イスラエルの首都であり、ヒゼキヤの時代には、すでに滅ぼされている。このように、並べ立てられ、「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」(10)と主の名も出されている。状況的には、八方ふさがり、evidence based や、データサイエンスでは、よい結果は考えられない。このときに、主に寄り頼む源泉はなになのだろうか。相手も、ヘブル語を使い、語りかける、恐るべき相手である。
- BRC2017:Is 36:11 エルヤキムとシェブナとヨアは、ラブ・シャケに願った。「僕どもはアラム語が分かります。どうぞアラム語でお話しください。城壁の上にいる民が聞いているところで、わたしどもにユダの言葉で話さないでください。」
- 4節から始まる、ラブ・シャケの言葉は痛烈である。この箇所から、それは、ユダの言葉(おそらく、ヘブル語)で語られたとある。単に、民衆が理解できる言葉というより、民衆の心に届く言葉で語ったと言う方が正しいだろう。外交官としても、優秀である。アッシリアは、残酷なイメージが強く、占領した国の間で民を移住させるなど、乱暴な支配方法が語られるが、急激に強くなる国には、それなりの優秀さがあったのだろう。「なぜこんな頼りないものに頼っているのか。 」(4節)は、今のキリスト者への挑発でもあるように思う。多くのことを考えさせられる箇所である。それが、異質なものとの出会いがもたらすものなのだろうが。
- BRC2015:Is36:7 お前は、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『この祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。
- ラブ・シャケとはどのような人物だったのだろうか。ヘブル語をあやつる(11節:通訳を使っていた可能性もあるが)民に語りかけるなどして、内部分裂を起こそうとする。7節も高台を取り除いたことに不満を持っていた人もいるだろうから、それを利用してのものだろう。その宗教的な意味も熟知していたのかもしれない。たしかにそれと比較すると、ヒゼキヤの王としての備えは、立派なものとは言えなかったろう。ここでは、主に頼ることの重要さが示される。しかし、おそらく、それで良いわけではない。
- BRC2013:Is36:11 その時、エリアキム、セブナおよびヨアはラブシャケに言った、「どうぞ、アラム語でしもべたちに話してください。わたしたちはそれがわかるからです。城壁の上にいる民の聞いているところで、わたしたちにユダヤの言葉で話さないでください」。
- 13には「そしてラブシャケは立ちあがり、ユダヤの言葉で大声に呼ばわって言った、「大王、アッスリヤの王の言葉を聞け。」と語り始める。ユダの人たちのこころが揺るいだ、これこそが信頼を得る国際人だったのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 37:27 住民たちは力を失い/おののき、恥に覆われ/野の草、青草のように/育つ前に枯れる屋根の草のようになった。
- このあとに、ヒゼキヤに語る。「あなたが立つのも、座るのも/出るのも、入るのも/私は知っている。/私に対して、あなたが怒りに震えているのも。あなたが怒りに震え/あなたが高ぶるのが私の耳に届いたので/私はあなたの鼻に鉤をかけ/口にくつわをはめ/あなたを元来た道に引き戻す。」(28,29)リーダーシップを取るものの責任、そして、信仰(なにをたいせつにして生きるか)はたいせつである。しかし、同時に住民たちがどのようなものをたいせつにして生きるかこそが、鍵となるように思う。時代的にも、そして、おそらく、現代でも、すばらしいリーダーの出現を期待し、求める。それは、たいせつだが、それでは、継続しないのだろう。一般市民が、変わっていくことができるか。これは、非常に難しい。
- BRC2019:Is 37:26 お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を/瓦礫の山にすることとなった。
- イザヤは、何を見ていたのだろうか。シオンの滅びと、救い。両方を語っている。将来的には、滅びること、しかし、いまはそのときではないとして、最大の窮地において、救いを見せることで、人々を訓練しているのだろうか。自分の問題として考えたとき、本当によくわからない。
- BRC2017:Is 37:7 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」
- イザヤの言葉である。神がアッシリア軍を追い返すことが預言されている。主に頼ることの大切さを述べていると通常はとるが、主はもっと深いことを計画しておられたように思う。イザヤにも気づくことができなかったことを。寛容さをもって、ゆるし、一人でも多くが、悔い改めをするとともに、もっと大きなことを学ぶことも、願っておられたのかもしれない。ひとは、そこに目を向けることが困難ではあるが。これからの、様々な歴史、ひとの営みをみている私たちは、もう少し多くのことを学ばないといけない。
- BRC2015:Is37:32 エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。
- ヒゼキヤの信仰と通常表現されるが、イザヤを通しての神の言葉にも、それをたたえるものは見当たらない。ただ、最後35節に「わたしはこの都を守り抜いて救う/わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」 とあるのみである。一方的な恵みであることがわかる。因果応報を持ち込まない方がよいように思われる。むろん、ヒゼキヤの信仰からも、一信仰者として学びたいが。
- BRC2013:Is37:30-32 あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。
- 回復されることがこのように表現されている。限定的ではあるように思われるが。
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- BRC2021:Isaiah 38:15,16 私に何が語れるだろう。/主が私に語り、ご自身でそうされたのだから。/私はすべての年月をゆっくりと歩んで行こう/魂に苦悩を抱えながら。主よ、こうしたことによって人は生きる。/私の霊の命もすべてこうしたことに従っている。/私を健やかにし/どうか私を生かしてくださるように。
- 「病気であったユダの王ヒゼキヤが、その病気から回復して記したもの。」(9)とあり、まとまっているため、逼迫感は感じられないが、引用箇所は、興味深い。主の主権を肯定しながら、弱さを担っている、ひとの苦悩について語り、願いを祈りとしている。個人の尊厳を考えると、神も、ひとの尊厳をたいせつにしてくださるのではないかと思う。その尊厳のもとにあるもの(の、おそらくひとつ)が、死の病(1)の中に苦しみ、おそらくそう表現するより、深いのが「魂の苦悩」である。「私はすべての年月をゆっくりと歩んで行こう」には、有限の人生をひとに与えられている神様への興味深い応答も感じられる。わたしも、生き急ぐのではなく、ゆっくりと歩んでいきたい。
- BRC2019:Is 38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない、と。
- わたしは、地上での命と、約束された永遠の命はつながっているように信じている。しかし、このヒゼキヤのことばのように、「命ある者の地にいて主(の働き)をみること」と「人(と共なる営み)を見ること」を喜びとしている。その意味で、ヒゼキヤと同じ価値観に立っているのかもしれない。最近、三人の友人が突然亡くなった。特に二人は、一瞬だった。ほかの人にも、そして自分にもそのようなことはあり得るだろう。上に掲げた、二つのことをこれからも喜びとして、一日一日をていねいに生きていきたい。日々弱っている、もう一人の難病の友とも共に。
- BRC2017:Is 38:4-6 主の言葉がイザヤに臨んだ。 「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、 アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」
- 主は、全体に対する配慮をしておられるとすると、この最後の部分も重要なのかもしれない。しかし、ヒゼキヤをみていると、その意識は薄い。個人的な救いのみを求めていることが、このあとの歌からも読み取れる。イザヤはどのように見ていたのだろうか。
- BRC2015:Is38:16 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
- 主は命を与えてください。その命に生きるのがわたしたちちの使命。一方、死の負の面をヒゼキヤは歌として残している。(9節)「わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか/陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない、と。」(10,11節)主を求め、人と関係して生きることに希望があったのだろう。「陰府があなたに感謝することはなく/死があなたを賛美することはないので/墓に下る者は/あなたのまことを期待することができない。 命ある者、命ある者のみが/今日の、わたしのようにあなたに感謝し/父は子にあなたのまことを知らせるのです。主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で/わたしの音楽を共に奏でるでしょう。」(18-20節)命が延びることは、本質的な解決では無いことは知っているのかもしれない。同時に、すべてが感謝と変わるための15年(5節)だったのかもしれない。わたしはどうだろう。命はいつでも取ってくださいというのが正直な気持ちである。もし、神様が私を用いてくださるなら、精一杯生きたいと願ってはいるが。
- BRC2013:Is38:5,6 「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、 アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」
- ヒゼキヤの祈りのは非常に個人的な願望であるように思われる。しかし神の側には別のビジョンがある。ヒゼキヤはそれでも次のように表現する。「見よ、わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ/滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて/あなたの後ろに投げ捨ててくださった。」(v17) これは、人間のがわの信仰と、神の哀れみという構図なのか。
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- BRC2021:Isaiah 39:6,7 『見よ、王宮にあるものすべて、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものすべて、それがバビロンへ運び去られる日がやって来る。何一つ残されはしない』と主は言われる。『また、あなたがもうけた息子の中には、連れ去られてバビロンの王の宮殿で宦官になる者もいるであろう。』」
- 預言者イザヤに見えていた世界は広いだけでなく、遠く先の世界も含むのだろう。教養人の最たるものなのかもしれない。このあとには、いろいろな解釈がされている「あなたが告げられた主の言葉はありがたい」(8b)と、ヒゼキヤのことばが含められている。結局の所、自分が生きている限り、将来のことも、考えながら、丁寧に生きることなのだろう。将来のことを恐れるだけでは、いまのときを台無しにしてしまうように思う。
- BRC2019:Is 39:1 そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。病気であった彼が健康を回復したことを聞いたからである。
- なぜ、このようなことが起こったのだろうか。列王記20章12節に同じ記事がある。歴代誌下32章31節には以下のようにある。「しかし、バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた。」この奇跡はヒゼキヤの病のことか、アッシリアに征服されなかったことか不明だが、後者かもしれない。諸外国は、すでに、外交的に、かなり進んでいたことがわかる。信仰者は、ヒゼキヤのようであって良いのだろうか。
- BRC2017:Is 39:7 あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」
- これを「ありがたいものです」と受け入れる。やはり、ヒゼキヤ、この当時の、傑出したリーダーの信仰も、そこに留まるものであることを、ヒゼキヤの信仰を評価しつつも、イザヤは記しているのかもしれない。ひとは、成長しなければならない。
- BRC2015:Is39:8 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた。
- 難解な箇所である。この章のイザヤとヒゼキヤのやりとりと行動をみるとわかることは、イザヤはさらに遠くを見ていたと言うことである。それが預言者と信仰者の違いかもしれない。しかし、ヒゼキヤは単に信仰者ではない、一国の王である。その責任としての先見性についても、考えさせられる。
- BRC2013:Is39:3 預言者イザヤはヒゼキヤ王のところに来て、「あの人々は何を言ったのですか。どこから訪ねて来たのですか」と問うた。ヒゼキヤは、「彼らは遠い国、バビロンから来ました」と答えた。
- イザヤには、ヒゼキヤとは違うものが見えていたのだろう。ヒゼキヤはやはりとても個人的。信仰者としは、すばらしいが、神様からの仕事を預託されたものとしては、不十分なのだろう。そしてたとえそうであっても、神はそのヒゼキヤを愛し用いられる。イザヤをも備えて。
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- BRC2021:Isaiah 40:3-5 呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。」
- 福音書で引用される箇所である。今回の通読では、この言葉が、バビロンの王によるエルサレム攻略と捕囚預言の直後に書かれていることについて考えさせられた。荒廃の時期は、歴史的には、様々にある。しかし、預言者イザヤは、ここからは、第二イザヤによる預言とも呼ばれているが、アッシリア帝国衰退後の、新バビロニアの悲惨な時代を、ヒゼキヤに伝えた・預言した直後にこのことを記している。神理解の深さと将来を見る力と、信仰に驚かされる。27節以降の力強い、ことばは、どの時代の人にも、大きな力となってきただろう。
- BRC2019:Is 40:1,2 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
- 福音書にも何度か引用される有名な箇所である。イエス様は、これをなんども読み、ご自分の召命を確信していったのかもしれない。エルサレムに中心があり、シオン、ユダ、ヤコブ、イスラエルと出てくるが、これを、イエス様は、どう読まれ、どう受け取られたのだろう。イザヤが見えていなかったことを、最初から見ていたのだろうか。それとも、イザヤを通して、その向こう側をみたのだろうか。イエス様とともに、味わって読みたい。
- BRC2017:Is 40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
- 「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。 」(27)との見方に、抗うかのように語る預言者の言葉である。神への信頼は、その偉大さを見通す目と同時に、自分には、見えていないことを告白する、謙虚さだろう。神との関係のなかで、常に、力が与えられていると言うことだろう。信仰は、関係性と表現したほうがよいのだろう。
- BRC2015:Is40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
- このことは28節に「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。」とあるように、神様の性質に関係している。それは、力を得ることだけではなく、真理を知ることとも通じる。それが主に望みをおくこと、主とつながることである。
- BRC2013:Is40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
- 「草」で表現しているメッセージは、風が吹けばすぐ枯れてしまう弱いもの。そして、野の花のような美しさをひとつひとつが担うもの。ということだろうか。
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- BRC2021:Isaiah 41:27 私は初めにシオンに告げた/「見よ、これらを見よ」と。/エルサレムに良い知らせを伝える者を/私が与えよう。
- 「良い知らせ」は「福音」である。福音は、滅ぼされ、荒れ果てた、希望もないような状態の中で語られるものなのだろう。まさに、現実の、荒れ果てた状況を直視しつつ、福音を語ること、福音の中身をしっかりと受け取ることが、福音信仰なのだろう。福音を紋切り型にことばにし、それを、信じるかどうかがたいせつではないのだと思う。イザヤ書をしっかり読み込めているとは言えないが、丁寧に読んでいきたい。
- BRC2019:Is 41:1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。
- なぜ、島々なのだろう。国々の民が、島々にたとえられているようだ。島々は、地中海で、このころに、重要な意味をもっていたのか。歴史的に「海の民」の活躍は語られているが、あまりに不明なことが多い。アッシリアや、バビロンなどではないところが不思議である。「島々は畏れをもって仰ぎ/地の果てはおののき、共に近づいて来る。」(5)ともう一度、出てくる。イザヤ書の「島々」をリストする。24章15節、40章15節、42章4節・10節・12節、49章1節、51章5節、59章18節、60章9節、66章19節。「遠い国々よ」(49:1)とあり、イザヤにとっても、未知の存在だったのかもしれない。
- BRC2017:Is 41:6,7 彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。 職人は金工を励まし/大鎚を振るう者は小鎚を使う者を励ます。ひとりが据え付けて、良しと言うと/ひとりは釘を打って動かないようにする。
- 助け合いに、引かれた。「この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。 」(4)とあるように、背後に主がおられるのだろう。それを、伝えているとも言える。イザヤの目は、何を見ていたのだろうか。真摯に謙虚にもとめ続けていたことは確かなのだろう。イザヤについて、もっと学びたい。
- BRC2015:Is41:6,7 彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。 職人は金工を励まし/大鎚を振るう者は小鎚を使う者を励ます。ひとりが据え付けて、良しと言うと/ひとりは釘を打って動かないようにする。
- 文脈がよく分からないが。ここに助け合い、励まし合うことが語られている。ひとの為すべき事なのだろうか。ピアサポートについて考える。
- BRC2013:Is41:20 彼らはこれを見て、悟り/互いに気づかせ、目覚めさせる/主の御手がこれを成し遂げ/イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
- 「これ」は16節にある「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。」以下をさしているのか。神の哀れみを認めることができれば幸い。
[42] ... back to menu top
- BRC2021:Isaiah 42:18,19 耳の聞こえない者たちよ、聞け。/目の見えない者たちよ、まじまじと見よ。私の僕ほど目の見えない者があろうか。/私が遣わす使者のように/耳の聞こえない者があろうか。/私に買い取られた者のように/目の見えない者があろうか。/主の僕のように目の見えない者があろうか。
- 「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」(1)で始まるしもべのうたにこのような記述があることを知らなかった。見よ、と、目の見えないが現れる。「目の見えない人の目を開き/捕らわれ人を牢獄から/闇に住む者を獄屋から連れ出すためである。」(7)「私は目の見えない人に知らない道を行かせ/知らない道を歩かせる。/私は彼らの前で暗闇を光に変え/起伏のある地を平らにする。/私はこれらのことを行い/彼らを見捨てない。」(16)「目の見えない」は、59章10節にも現れるがそれだけである。この章は、ゆっくり読んでみたい。
- BRC2019:Is 42:24 奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。
- この章は、ゆっくり学んでみたい。主の僕について「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(3)とその性質をあげ、さらに「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。」(18,19)とイザヤ書の中心的な枠組みの中で、主の僕について語る。そして引用箇所である。このときには、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、捕囚になっている。それも、かなり残酷に。南ユダ王国は、かろうじて、滅亡を逃れている。引用箇所に続く最後の節が悲しい。「主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(25)
- BRC2017:Is 42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。
- なにを言っているのだろうか。ひとつは、耳の聞こえない人、目の見えない人と同じような状況にあることは伝えている。それだけだろうか。「わたしが信任を与えた者ほど」をみると、それだけでは、ないように思われる。このあとの、21節には「主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。」とある。興味深い。
- BRC2015:Is42:18-21 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。 多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。 主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
- これは難しいが。とてもこころひかれる。主が遣わす僕は「目がみえず、耳が聞こえない」。そしてここで、そのような者たちに、語りかけている。その人たちが聴衆なのだろう。目が見え、耳が聞こえる人は受け取れないのかもしれない。Is6:9, 10 につながっているのかもしれない。さらに、この章の3節にも。「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(マタイ12:20「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」参照)
- BRC2013:Is42:16 わたしは目しいを/彼らのまだ知らない大路に行かせ、まだ知らない道に導き、暗きをその前に光とし、高低のある所を平らにする。わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。
- この下りは、主こそが一番のめしい、耳しいで、それが導くということか。この 42章、どこかでしっかり学びたい。
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- BRC2021:Isaiah 43:14,15 あなたがたの贖い主、イスラエルの聖なる方/主はこう言われる。/あなたがたのために、私はバビロンに使いを送り/かんぬきをすべて引き降ろし/歓声の上がる船の中にいるカルデア人を引き降ろす。私は主、あなたがたの聖なる者/イスラエルの創造者、あなたがたの王である。
- 最初に目に止まったのは、「イスラエルの創造者」ということば。次には「カルデヤ人」である。カルデヤ人は一般的には、新バビロニアのことを指す。「創造」についても調べてみたいが、この文脈で、イザヤは、神をカルデヤ人の創造者として捉えていないのだろうかということ、アッシリアではないのかということである。第二イザヤと言われる所以だろうか。わからないことが多い。イザヤはどのように見ていたのだろうか。
- BRC2019:Is 43:10 わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。
- 「わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。 」(3,4)とある。これだけを見ると、イスラエルへの偏愛とも言えるような表現である。12節には、引用したことの「証人」であることが語られている。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(21)にもある。購った理由はここにあると言っているのだろう。それが、キリスト教においては、イスラエルに限らず、購われた者へのメッセージだと理解されていると思われる。どのような解釈が許され、適切なのか、やはり単純ではない。
- BRC2017:Is 43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。
- 主が共におられること。そのことを、このように、表現している。驚かされるとともに、単なる言葉遊びではないようにも思われる。わたしは、主が共におられることをどのように表現するだろうか。
- BRC2015:Is43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
- この章は「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」から始まる。しかし、救済の歴史を考えると、もっと普遍的なものなのかもしれない。この章の記述は、完全に理解できるものではないが、刺激的でもある。4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」なぜ値高いのか。創造されたからか。主のものとしてあがなったからか。(1節)主の栄誉を語る(21節)証人だからか(10節)。ここで理由を問うことは、神の栄光を天から引き起こすことになるのではないだろうか。主が愛してくださる。それだけで十分なはず。それは変わることのない愛。その主に信頼することが、主を愛することである。信頼と愛との関係を言葉表現してみたい。
- BRC2013:Is43:16 海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり、
- これは、42:16 に対応しているのだろうか。もう少していねいに理解したい。
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- BRC2021:Isaiah 44:21 ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。/イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。/私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。/イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。
- イザヤには、主が全世界の創造者であるという認識はないのか。この章では、偶像礼拝の虚しさが書かれている。引用箇所のような認識、主との信頼関係が根幹にあることを持ってすれば、偶像礼拝の儚(はかな)さを、簡単に受け入れられるのかもしれない。しかし、全世界の創造者とすることは、また、別のことのようにも思う。創造信仰に至るには、民族宗教の枠を出ることが必要であるとともに、他者との関係をどう認識するかも関係するように思う。単なる創造信仰というより、それが影響することを丁寧に考え、受け取ることは、それほど簡単ではないように思う。イザヤの信仰を丁寧に受け取っていきたい。
- BRC2019:Is 44:8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
- この「あなた」は文脈からは、「わたし(主)の僕ヤコブ」(1)だろう。しかし、そのように、聞く人は多くなかったかもしれない。イザヤはこのメッセージを受け取り伝えている。孤独ではなかったかもしれないが、信じ切るのは、簡単ではなかったろう。わたしが今、最良を望むとか。最悪をおそれるとかとは、異なるのだろう。信仰とは、何なのだろうか。
- BRC2017:Is 44:21 思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。
- 24節には「あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方」とある。創造者としての神が記されているが、引用箇所は、関係である。内容はこれだけではよく分からないが、関係性の方が普遍性が高いように思われる。否定できない現実があるから。
- BRC2015:Is44:3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。
- 主の働きは主権的というのか、ひとがどうだからどうするというような因果応報の原則ではない。乾いた土地の水が流れとして与えられることと霊を与えることが対比されている。ヨハネ4章、7章を思う。我々はこの驚くべき事の証人である。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。」(8節)これと対比させて「偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。」(9節)このことばで始まる、偶像の無力さの記述がある。記述もいきいきとした躍動感がある。
- BRC2013:Is44:17 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。
- わたしの信仰もこれと変わらないかもしれない。「余りをもって」ということばは強烈。では、イスラエルはどうなのか。これに対しては、自分自身の義は示されていない。21,22節「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」
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- BRC2021:Isaiah 45:18 天を創造された方、すなわち神/地を形づくり、造り上げ/固く据えられた方/地を空しくは創造せず/人の住む所として形づくられた方/主はこう言われる。/私は主、ほかにはいない。
- ここには、創造主としての神が登場する。この章の最初には「主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。」(1a)と、イスラエルの帰還を許可する、ペルシャの王、キュロスについて書かれている。その根拠として「地を造り、その上に人間を創造したのは私だ。/私はその手で天を広げ/その万象に命じた。私は義によって彼を奮い立たせ/彼の道をすべてまっすぐにする。/彼は私の都を再建し/私の捕囚の民を解き放つ。/代価によってではなく、賄賂によってでもない/――万軍の主は言われる。」(12,13)としている。キュロスの寛容な政策を見て、ここにも、主が働いておられると認めたのだろうか。アッシリア、バビロニア、ペルシャの歴史を、しっかり学んでみたい。
- BRC2019:Is 45:1 主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。
- キュロスの名前は、前の章の最後にある。「キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。 」(44章28節)これを、どう解釈するか不明であるが、キュロスに主が働いて、帰還を許したと皆が信じたことは確かだろう。ユダヤ教の信仰をもっていたわけではないキュロスに、違った見方はなかったのだろうか。これを、イザヤが書いているとすると、イザヤは、何を信じていたのだろう。
- BRC2017:Is 45:7 光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。
- 闇について調べてみたい。イザヤは、この闇も神が創造したとしている。それとも、光であるゆえに、闇が生じたのか。神が光であるのひとつの帰結なのか。光についての認識を、イザヤに求めるのは酷であろう。
- BRC2015:Is45:8 天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。
- この章はキュロス預言から始まる。「主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。」そして主こそが神であることの記述が続く。この8節は、とてもいきいきしている。天地を見て、自然をみて、このように神の業を表現できるのは、素晴らしい。
- BRC2013:Is45:1 わたしはわが受膏者クロスの/右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主は/その受膏者クロスにこう言われる、
- これをアモツの子イザヤのことばとする必要はまったくないだろう。人の弱さ故だろうか。単純なものがよい、と考えてしまうのは、なぜだろうか。世の中は複雑なのに、だからこそ単純なものにあこがれをもつのか。真理は単純であっても、限界だらけの人からは、複雑に見えることはたくさんある。
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- BRC2021:Isaiah 46:4 あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。
- 偶像に関する記述が続き「金を袋から惜しげもなく出し、銀を秤で量る者は/細工師を雇い、それで神を造り/ひれ伏して、拝みさえする。彼らはそれを肩に乗せ/背負って行き、しかるべき場所に据える。/それは立ったまま、その場所から動かない。/人がそれに叫んでも応えず/苦しみから救ってはくれない。」と対置されているのが、引用句の言葉だろう。主に対する、わたしの感覚とはかなり異なるが、イザヤ書の表現は、印象に残り、秀逸である。イザヤ書が、好まれる理由の一つは、そのような表現のうまさにもあるのかもしれない。
- BRC2019:Is 46:3,4 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
- このあとに、偶像のことが語られ「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。」(7)とある。実は、ヤコブの家こそが、主に負われていると言っているのだろう。痛烈である。そして「あなたたちの老いる日まで/白髪になるまで」は今ではとても身近に感じる。主のみ手の内に生きていることを、背負われていることを覚えていたい。倒れそうなときだけでなく、いつのときも。
- BRC2017:Is 46:13 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。
- 最終的には、このことを、イザヤも求めていたのだろう。そこから自由ではいられない。普遍性は、愛から遠いのだろうか。普遍的愛を日常的に感じながら、共有しながら、生活することはできないのだろうか。
- BRC2015:Is46:3,4 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
- このように預言、すなわち確信をもって述べることができる信仰者は幸せ。赤子のように、いつくしんで、背負い、救ってくださる。それが主だ。単純に預言として受け入れるだけでなく、信仰の仲間として受け取り、それを通して、神を賛美することも素晴らしいと思う。
- BRC2013:Is46:3,4 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
- これらイスラエルを担ったという神と、6,7節の人が担ぐ偶像とが比較されている。3,4節をみて、アーメンと言える経験がイスラエルにはあったということだろう。しかしたとえそうであっても、神に従わず、偶像を拝む、そのことにも圧倒させられる。
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- BRC2021:Isaiah 47:9 これら二つのことが/一日のうちに、瞬く間にあなたを襲う。/子を失うことと、やもめになることが。/どれほどあなたの呪術が多く/あなたの呪文の力が強くても/それらは必ずやって来る。
- まず、「おとめである娘バビロンよ/下って、塵の上に座れ。/カルデア人の娘よ、王座のない地に座れ。/あなたはもはや/優美でしとやかな娘とは呼ばれない。」(1)とあり、さらに「カルデア人の娘よ、黙って座り、闇の中に入れ。/あなたは二度と諸王国の女王と呼ばれることはない。」(5)と、カルデア人の娘という表現で、カルデア人、新バビロニアについて書かれている。国を女性になぞらえる慣習があったものと思われる。しかし、女性になぞらえて語られた引用句、表現の幅の広さとも言えるかもしれないが、国についてこのように表現することには、現代的感覚では違和感を感じ、驚かされる。
- BRC2019:Is 47:10 お前は平然と悪事をし/「見ている者はない」と言っていた。お前の知恵と知識がお前を誤らせ/お前は心に言っていた/わたしだけ/わたしのほかにはだれもいない、と。
- ひとは、厚顔無恥に生きてしまう。人前でのいいわけを持ち、他者への説明の知恵で自らを欺きながら。自己中心から逃れるには、絶対他者との出会いが必要なのだろうか。主の前に生きることを求めたい。謙虚に。
- BRC2017:Is 47:13 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。天にしるしを見る者、星によって占う者/新月によってお前の運命を告げる者などを/立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。
- 確かに草なのかもしれない。自分では分からないから、助言を求める。しかし、それに翻弄される。だからといって、自分で考えることには限界がある。神に頼ることなのだろうが、その先は見えない。互いに愛し合うこと、それが、神様との交わりとつながっているなら、希望は持てるのかもしれない。
- BRC2015:Is47:12 まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。若い時から労して身につけたものが/あるいは役に立ち/それを追い払うことができるかもしれない。
- バビロン、カルデアに対する預言である。(1節など)自分が頼りとしているものが、本当に救いとなるかどうか、突き詰めてみることは良いことかもしれない。13にあるように「助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。」結局役に立たないことが分かるかもしれない。では、神信仰はどうだろうか。学んだことは多くある。学んだことと、真理は同じなのだろうか。
- BRC2013:Is47:1 処女なるバビロンの娘よ、下って、ちりの中にすわれ。カルデヤびとの娘よ、王座のない地にすわれ。あなたはもはや、やさしく、たおやかな女と/となえられることはない。
- 「娘バビロン」と同じなのだろうか。単に国や、町に対する以上のものがここで表現されているのだろうか。感覚について知りたい。
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- BRC2021:Isaiah 48:12,13 ヤコブよ、聞け。/私が呼び出したイスラエルよ。/私がそれだ。/私は初めであり、また終わりである。私の手は地の基を据え/私の右の手は天を押し広げた。/私が呼びかけると、それらは共に立ち上がる。
- 直前には「私は、自らのために、自らのために行う。/どうして私の名が汚されてよいだろうか。/私は自らの栄光を他の者には与えない。」(11)とあり、このあとには「主に愛された者が主の望みをバビロンに行い/その腕をカルデア人に下す。」(14b)ともある。なにか、自己中心のような表現だが、真理、御心のたいせつさを、他のものに変えてしまっている民を嘆き、このように書いているようにも思う。イザヤが預かったメッセージを、どのように、みこころとして受け取るか、それは、受け取るものの、信仰と、技術も問われているように感じる。ていねいに読み続けたい。
- BRC2019:Is 48:6,7 お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。自分でもそれを告げうるではないか。これから起こる新しいことを知らせよう/隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたと/お前に言わせないためだ。
- この内容は定かではない。「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ/地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。」(20,21)について語っているのだろうか。すでに、44・45章で、キュロスのことは、語っている。このあとにある、主のしもべのことだろうか。どのように、文脈としてつながるのかよくわからない。
- BRC2017:Is 48:1 ヤコブの家よ、これを聞け。ユダの水に源を発し/イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。まこともなく、恵みの業をすることもないのに/主の名をもって誓い/イスラエルの神の名を唱える者よ。
- 神の名が、神の意思に反して、用いられる。それは、いつの時代でも、同じかもしれない。この章では、それに対する、神の応答が書かれている。神の応答といっても、イザヤが信じる表現であるが、真剣に神をもとめたひとまたはひとたちの応答と言っても良いかもしれない。自分勝手に、神はないといい、あるときは、神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのかと責任を神に負わせる。とても、難しい問題が背景にあるように、思われる。
- BRC2015:Is48:21 主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
- 彼らは21節の「僕ヤコブ」を直接的にはさすだろう。印象に残ったのは「わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。」(18節)水は、ユダヤ地方に住む人たちにとって貴重なもの、特別なもの、それが「流れ出る」「大河のように」と表現される。神様の祝福の一番わかりやすい表現が「乾くことがない」なのだろう。大河は、エジプトへのあこがれかもしれない。シリア(アラブ)ではなく、エジプトにこころがひかれる背景も見て取れるかもしれない。
- BRC2013:Is48:10,11 見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。 わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光を/ほかの者に与えることをしない。
- 神の言葉であるが、何とも潔い。わたしも、これは、自分のためと言い切れたらなんと、幸せなことだろう。この章の17節には「あなたの利益のため」と発展する。なかなか普遍性がある考え方を学んでいる気がする。
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- BRC2021:Isaiah 49:6 主は言われる。/「あなたが私の僕となって/ヤコブの諸部族を立たせ/イスラエルの生き残った者を連れ帰らせるのは/たやすいこと。/私はあなたを諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。」
- このあとには、イスラエルの回復について述べられている。すでに、45章1節にキュロスのことについても言及されており、預言者は、いろいろな意味で、イスラエルの回復が見えていたのだろう。その事も踏まえて、引用句が語られる。しかし、正直、主にとっても、回復は、簡単ではないと、個人的には思う。悔い改めは、継続的な姿勢であり、単純に、回復へとはつながらないことを、おそらく主は、よくご存知だろうから。互いに愛し合うこと、それが、民の中でも実現すること、さらに、主が基を据えられた地に住む、すべてのものが、このことに価値を置いて、御心を求めつつ生きることが、どれほど困難であるかを、ご存知だろうから。たといそうであっても、引用句に希望を持ちたいと思う。
- BRC2019:Is 49:25,26 主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしが、あなたの子らを救う。 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ/新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。すべて肉なる者は知るようになる/わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う/ヤコブの力ある者であることを。
- ほんとうに、そのような時は来るのだろうか。正直、それとは、逆に進んでいるように思う。おそらく、ヤコブとは、イスラエルとは、シオンとはについて、理解しないといけないのだろう。それらから離れられないことが、イザヤの限界なのだろうか。世界をみているイザヤにしても。正直よくわからない。
- BRC2017:Is 49:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
- この章の始めに新共同訳には「主の僕の使命」とある。また、引用した節に引き続き「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。」と続く。イザヤはそれは自分のこととまでは考えなかったとしても、そこに、自分を投影していたように思われる。神の主権のもとにある、僕のひとり。その僕がどのような姿なのか、イザヤは尋ね求めたのかもしれない。自分とは、少し距離をおいたところに置いて。
- BRC2015:Is49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
- 「わたし」は「わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。」(3節)からすると「イスラエル」となるが、最初に新共同訳の見出しにもあるように「主の僕」ととるのが自然だろう。ここで言われている「主の僕」こそが真(まこと)の「イスラエル」である。しかし、その働きは単純ではない。「わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。」(4節)とあるように、徒労としか思えないような働きである。そうでありながら「裁いてくだっさる(働きを評価してくださる)方への」全き信頼がある。「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は」(5節)この言葉につながり、次が上に掲げた6節である。「だがそれにもまして」にひかれる。預言者が「主の僕」を思い、神の心と同期(シンクロナイズ)していく中で行き着いた表現である。さらにこれは7節・8節へと続く。いつかじっくり学ぶときが与えられるだろうか。
- BRC2013:Is49:8 主はこう言われる、「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
- 圧倒されてしまうようなことば。このような言葉を、ひとが与えられること、聞くことができることにも、おそれを感じる。
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- BRC2021:Isaiah 50:10,11 あなたがたのうち、誰が/主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。/明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする者だ。見よ、あなたがたは皆、火をともし/松明で身を守る者。/あなたがたの火の光によって/あなたがたが燃やす松明を持って歩くがよい。/私の手によって/このことはあなたがたの身に起こり/あなたがたは苦痛のうちに倒れ伏すであろう。
- この章は「主はこう言われる。/私が追い出したという/あなたがたの母親の離縁状はどこにあるのか。/私があなたがたを売り渡したという/私の債権者とは誰か。/見よ、あなたがたは自らの過ちのゆえに売り渡され/あなたがたの背きの罪のゆえに/母親は追い出された。」(1)と始まる。この部分だけでも、理解がたやすくはない。全体的に見ると、信仰・信頼について語っているようである。主が、追い出した、主に、捨てられた、そう考えて、信仰を捨て、信頼をやめるのではない道について語られているのだろう。引用箇所も興味深い。そして、理解も簡単ではない。「明かりを持たずに闇を歩くときでも/主の名に信頼し、自分の神を支えとする」ことと「(自分で)火をともし/松明で身を守る」者とが対比されている。後者が間違いだとは個人的には思わないが、信仰・信頼の欠如を伝えようとしているのだろう。イザヤの表現は複雑である。
- BRC2019:Is 50:10,11 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。
- 1-3節はよくはわからないが、民はまだ主のものであることを表現しているのだろう。そのあと、主の弟子について、4-9節に描かれており、この章の最後が引用句である。たしかに「闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする」かと聞かれて、はいとは言えない。やはり自分の松明に頼っているのだろうか。否定はできないが、肯定もしたくない。
- BRC2017:Is 50:10 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。
- イザヤはこれに、「わたしがここにおります」(6章8節)と答えるのではないだろうか。「闇の中を歩くときも、光のないときも」これは、イザヤが経験していることなのだろうか。現代もそのように感じられるかもしれない。その中で、ひとは続く11節にあるように「自分の火の光に頼って」進んでいく。
- BRC2015:Is50:10,11 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。
- 最初からわかりにくい。「主はこう言われる。お前たちの母親を追い出したときの/わたしの離縁状はどれか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰か。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され/お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ。」(1節)神の主権のうちにあることを宣言しているのか。最後の10節・11節もそうかもしれない。ひとそれぞれの松明を掲げ、自分の火に頼って行く。これもひとつ裁きなのかもしれない。そうであっても、神の御手の中にある。
- BRC2013:Is50:1 主はこう言われる、「わたしがあなたがたの母を去らせたその離縁状は、どこにあるか。わたしはどの債主にあなたがたを売りわたしたか。見よ、あなたがたは、その不義のために売られ、あなたがたの母は、あなたがたのとがのために出されたのだ。
- イスラエルは、そして、われわれは、自分から主の前から出て行ったのだろうか。それとも、主が、出されたのか。両方の見方ができるのかもしれない。大切なことは、不義か。どのように表現したらよいのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 51:22 あなたの主なる神/ご自分の民を弁護してくださる神はこう言われる。/「見よ/私は、よろめかす杯をあなたの手から取り上げた。/私の憤りの大杯をあなたが再び飲むことはない。
- 「聞け、義を追い求める者たちよ/主を探し求める者たちよ。/あなたがたが切り出されてきた岩に/掘り出された石切り場の穴に目を留めよ。」(1)と始まり、信仰の歩みを振り返れと言っているようだ。引用句の前では「あなたは主の手からその憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した。」(17b)としている。さばきをうける次の段階に進むことを示しているようである。希望が見えない時、絶望の中で、「我にかえり」(ルカ15章17節)父の愛のうちにある自らを振り返り、父のもとに帰っていく、放蕩息子を思い出す。
- BRC2019:Is 51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。
- シオンにしか目は向いていないのか。シオンを責める者の救いはないのか。もし、そうなら、世界の救いはないだけではなく、互いに愛し合うことは困難であるように思う。記者は、しかし、主に信頼する者の希望を、このように表現しているのだろう。それを、責めることはできない。
- BRC2017:Is 51:17 目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。
- イザヤの声が聞こえるようだ。とても熱いものを感じる。高揚感のようなもの。祈りの中で、神との交わりのなかで与えられているのか。わたしは、どうしても、冷めてしまう。信仰者のこのような面をどう理解し、わたしは、どのように歩んでいったら良いのだろうか。
- BRC2015:Is51:4 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
- イエスの言葉にとどまること、すなわち、イエスの弟子であることを通して真理が得られる。それによって真の自由が与えられる。(ヨハネ8:31,32)これは、本当だとおもう。しかし、それ以外のものに救いを求めることは確かである。自分をまずは、第一にしたいのかもしれない。つまりは、罪である。
- BRC2013:Is51:3 主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。
- 1節は「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」と始まっている。今日の UperRoom の記事は「三つ感謝することを思い出して感謝の祈りを捧げその日を終わる」ということを教えられたかたの証だったが、主のなされたことに目をとめること、それにつきるような気がする。その恵みにそれまで気づかなかった自分にも気づかされる。
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- BRC2021:Isaiah 52:1 目覚めよ、目覚めよ/力をまとえ、シオンよ。/美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。/無割礼の汚れた者が/あなたの中に入ることは二度とない。
- この章の最後から「主の僕の詩(うた)」が始まる。最初が引用句である。「無割礼の汚れた者」ということばに反応しすぎているのかもしれないが、悪の排除を、民族的伝統に関わる言葉で語り、かつ、回復を堕落を消し去ることによって描くことに違和感を感じた。現実を描写していないからである。いまの、世界をまったくやめて、新たに創造するなら可能かもしれないが、それは、救いではない。主が創造された世界にいると告白し、その主に信頼するなら、連続性を切り捨てることはできない。しかし、そうであっても、このあとの傷ついた僕のすがた、イザヤがつたえる主の僕の像からは、わたしたちの日常生活も含め、考えさせられる。
- BRC2019:Is 52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
- 「見よ、ここにいる」は、インマヌエル「神が我らと共におられる(インマヌエル)」(8章10節、参照:7章14節、8章8節)ことと通じているのか。しかし「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。 」(1)などを見ると、いつのことなのかと思う。この章も、新約への引用が多い。しかし、その実現をかぞえる読み方は、狭いように思う。イザヤがみた幻をまずは受け取りたい。
- BRC2017:Is 52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
- ここでいう「あなた」とは誰だろうか。ここだけで考えると「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が/あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。」(1,2)とある、エルサレム、滅ぼされるシオンなのだろうか。略奪され、奴隷としてひいて行かれる。何度も読んでいるイザヤ、何も分かっていないように思われる。
- BRC2015:Is52:13-15 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
- 53章に続く52章の最後の3節である。イザヤはどのような幻をみたのだろうか。7節で「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」と語られた、その良い知らせである。53章が先にあるのかもしれない。その僕の姿が。
- BRC2013:Is52:14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――
- 単なる容姿ではないのかもしれない。その痛みを担うこと、ひとにはみえないのか。
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- BRC2021:Isaiah 53:4,5 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
- 有名な箇所である。イザヤ書記者は、このようなひとを知っていたのではないだろうかと今回思った。おそらく、完璧にそうだというわけではないかもしれない。しかし、そのような人を通して、主の僕の姿を見たのかもしれない。現実の世界と神のみこころはつながっている、それが、神の国は近いということだろう。そして、イエスのように、わたしたちが生きるように招かれている。わたしたちが、主の僕としていきることをイエス様は願っておられる。
- BRC2019:Is 53:4,5 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
- イザヤはこのことばをどのように得たのだろうか。主との深い交わりの中で、他に正しさによる救いを見出し得なかったのかもしれない。人の罪を深く知っている故に。しかし、それにしても、わたしたちの病や痛みを担い、神の手にかかり打ちたたかれたのだと見えるような存在。そこに、主の救いを見る。驚かされる。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」はあまりに明確だ。聖書を、キリストをここだけの集約してしまうことに反発は感じるものの、イザヤの伝える真理の深さに圧倒される。
- BRC2017:Is 53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
- 「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか」とある。真理は後に知られていくことを言っているのかもしれない。同時に、10節には「彼は、子孫が末永く続くのを見る。」とある。しかし、わたしは、また、預言の成就を見つけ歩いているように思われる。どのように、読むかは注意しながら、丁寧に読んでいきたい。
- BRC2015:Is53:11,12 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
- 本当に主は喜んでおられるのだろうか。いまでも苦しんで折られるのではないだろうかと考えてしまう。主は「何が人間の心の中にあるか知っておられるから」(ヨハネ2:25)しかしだからこそ、満足しておられるのかもしれない。主の苦しみを痛みとしているものもいるであろうから。多くの人の命は、それを担われた主のものとして、生かされているのだろう。
- BRC2013:Is53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
- 全容がわかる訳ではないかもしれないが、とても、重い。すこしでも理解したい。
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- BRC2021:Isaiah 54:9,10 これは、私にとってノアの洪水の時のようだ。/ノアの洪水を二度と地上に起こさないと/誓ったように/私は、あなたに対して怒らず/あなたを責めないと誓う。山々が移り、丘が揺らごうとも/私の慈しみはあなたから移らず/私の平和の契約は揺らぐことはない/――あなたを憐れむ主は言われる。
- ノアの洪水の記事、おそらく、創世記も、イザヤの時代にはよく知られていたのだろう。しかし、この「ノアの洪水を二度と地上に起こさない」を、イザヤ書が書かれた時代にどのように理解するかは、簡単ではなかったのだろう。民の堕落、不信をあげつらうことは、可能だろう。そして、現実は、主の裁きのもとにあるように、感じられる。そのときに、主の憐れみ、主の平和の契約をどう解釈するか。現代でもおなじことが言えるようにおもう。おそらく、どちらかによりすぎる判断は、できないのだろう。しかし、両面とも、無視することはできない。ともに、主の御心なのだろう。
- BRC2019:Is 54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。
- 当時は、女性にとって子を産むかどうかは、祝福されているかどうかと近いものだったのかもしれない。この後に続く「あなたの天幕に場所を広く取り/あなたの住まいの幕を広げ/惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。あなたは右に左に増え広がり/あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ/荒れ果てた町々には再び人が住む。」(2,3)を見ると、ある程度は想像が付く。しかし、おそらく、理由がわからない理不尽さが、背景にあるように思われる。いまも、他の形で、存在しているのだろう。祝福の本質は、どのように表現したらよいのだろうか。
- BRC2017:Is 54:5 あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。
- この章は「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。」(1)から始まる。不妊は、離婚の理由になったのだろうか。少なくとも、イスラエルと神との関係においてはそうではなかったかもしれない。しかし同時に、造り主の妻であれば、子をもうけることは、神の子を得ることだったかもしれない。そのようには、なっていなかった。ということが背景にあるのだろうか。イスラエルの回復を、イザヤはこのように表現する。理解しにくいことではある。
- BRC2015:Is54:8-10 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと/あのとき誓い/今またわたしは誓う/再びあなたを怒り、責めることはない、と。 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。
- 様々な苦難をどう考えるのか。預言者は、それを神の思いに照らして綴っている。この災難・苦難はノアの洪水ではないのか。神は「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。』」(創世記8:21,22)後半の自然災害によって滅ぼすことだけに限定するのは、誤りだろう。理由が「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ということだから。では、神はどうされるのだろうか。大きな問いである。
- BRC2013:Is54:2 「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。
- このような言葉をみて、一般化するのは、問題である。そのようなことを、いままでどれだけ見てきたいか。いまがそのときだと、どのように求めるのが良いのだろうか。それとも、神はいつもよいことを望んでおられると、ナイーブにポジッティブなことを考えれば良いのか。
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- BRC2021:Isaiah 55:10,11 雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく/必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ/種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も/空しく私のもとに戻ることはない。/必ず、私の望むことをなし/私が託したことを成し遂げる。
- 前半から、後半のような結論を見て取ることもできるが、一般恩寵と言われる、恵みを受け取ることもできるだろう。これらの言葉の前には「天が地よりも高いように/私の道はあなたがたの道より高く/私の思いはあなたがたの思いより高い。」(9)とある。主の御心・思い、真理といってもよい、それは、私達の思い、こころにあるもの、脳で理解できることをはるかに超えているという謙虚さ、学ぶ心だろうか、それを、イザヤ書記者は、持ち続け、求め続けていたように思う。わたしも、イザヤ書記者のように、生きるものでありたい。主が与えてくださっている、周囲の、様々なもの、事柄から学びながら。
- BRC2019:Is 55:8,9 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
- イザヤがこのように言い切れるところが美しいと思う。不可知を意味しているというよりも、われわれの思いも及ばないことを主に帰しているのだろう。しかし、その高さを垣間見ることがなければ、人間には意味がないだろう。それは、イエス様を通して見ることができるのだろうか。それとも、日常的な経験を通してだろうか。
- BRC2017:Is 55:7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。
- 「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 」(1ヨハネ1章7節)ここに、基本的な部分があるように思われる。
- BRC2015:Is55:2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
- イザヤは本質を見ている。それが、イエスが引用する回数の多さなのかもしれない。神からの啓示を預言として語り、その預言が成就する。一般的にはそのように解釈されるが、神を信仰するものの、神の心とのシンクロナイゼーションともとらえることができるのではないだろうか。わたしには、それが神の主権を侵すことには思えない。イザヤのように、主の心を求めたい。
- BRC2013:Is55:1,2 「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
- ヨハネ7:37,38「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。」を思い出させる。そうなのだろうか。
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- BRC2021:Isaiah 56:4,5 主はこう言われる。/宦官が私の安息日を守り/私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば 私の家と城壁の中で/私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え/消し去られることのないとこしえの名を与える。
- 「主はこう言われる。/公正を守り、正義を行え。/私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。」(1)と始まる。イエスの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3章2節)と近いメッセージである。「悔い改め」で検索したが、この言葉は旧約聖書には「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。」(ヨブ42章6節)だけであることをはじめてしった。もうすこし詳しく調べてみたい。ヘブル語はナハム(nāḥam: נָחַם to be sorry, console oneself, repent, regret, comfort, be comforted)が使われており、これは、旧約聖書にも多い。さて、宦官と異国の子らについて語られている。おそらく、宗教的に差別されていたのだろう。安息日は、律法の中でも、象徴的なことなのかもしれない。「私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば」にわたしは、普遍性を感じてしまうが。
- BRC2019:Is 56:1,2 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
- 「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。」(8)とあり、いつのことかと考えてしまう。捕囚帰還後なのだろうか。引用箇所は、救い、恵みとある。そこに正義が語られている。「恵みの業を行え」とは、具体的にどのようなことを伝えているのだろう。字面をみると「安息日を守り、それを汚すことのない人」につながっているように思われる。恵みの業は、主の業なのだから、それに預かることは、主の業に励むことなのだろうか。いのちを与える業だろうか。続けて考えてみたい。
- BRC2017:Is 56:2 いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
- ここであげられているのは、安息日である。イエスがそのときに、癒したことは、大きな衝撃だったのだろう。それもまた、安息日を守る精神「正義を守り、恵みの業を行」う(1)ことではあるが。
- BRC2015:Is56:6,7 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
- 「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。」(1節)イエスのメッセージ「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)とほとんど同じである。このあと、3節に「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」とあり、まず、宦官についての救いが語られ、次に異邦人について語られている。その最後が、マタイ21:13「そして言われた。『こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。』」(マルコ11:17, ルカ19:46)に引用されている。これらは、宮浄めのなかで出てくる場所である。異邦人の庭でのできごとだとおもわれるので、まさに、このことが意識されているのだろう。
- BRC2013:Is56:6,7 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。
- Mt21:13 で「そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。」と引用されている。異邦人の庭でのこと。この預言の先取りなのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 57:17-19 彼の貪欲の罪に私は怒り、彼を打ち/姿を隠して怒った。/しかし彼は背いたまま、心の赴くままに道を歩んだ。私は彼の道を見た。/私は彼を癒やし、導き/慰めをもって彼とその悲しむ人々に報い 唇に賛美の実りを創造しよう。/遠くにいる人にも近くにいる人にも/平和、平和があるように。/私は彼を癒やそう――主は言われる。
- 明らかな転換が感じられる。背くものの道を見、その人を癒やし、導き、慰め、唇に賛美の実りを想像する。イザヤが受け取ったメッセージの深さに感銘をうける。しかし、このあとには、やはり難しいことも添えられている。「悪しき者はかき回された海のようで/静めることはできず/その水は泥とぬかるんだ土とを吐き出す。悪しき者に平和はない――私の神は言われる。」(20,21)難しさも、付け加わっているところに、真実味を感じる。
- BRC2019:Is 57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
- この章は「神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。」(1,2)と始まる。世の評判や評価ではない、主がどのような方であるかにより頼むことが語られているのだろうか。その主の恵み深さは、個人的に、そして、歴史の中で、他者の歩みとあかしを通して、受け取れるものなのだろうか。自分自身を省み、ひとのあゆみから学び、他者とともに歩むことのなかに、主の恵みを見出して生きる者でありたい。
- BRC2017:Is 57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
- なにか低いところと高いところがつながっている。「へりくだる(shaphal)」low, humble A. low (in height) B. low (in station), humble (of condition or spirit) C. humiliated D. lowly (as subst) 打ち砕かれては、神に打ち砕かれるのだろうか。よく考えるとますます分からなくなる。
- BRC2015:Is57:1,2 神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。
- これこそ、名もなき、平和を作り出す人。このように生きたい。15節には「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」とあり、さらに16,17節には「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。」ここからは、完全なひとを想定しているのではないことも分かるのではないだろうか。そして18節「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために」詳細は分からない。しかし、これは、1,2節の「あの人」ともつながっているように思われる。
- BRC2013:Is57:1,2 正しい者が滅びても、心にとめる人がなく、神を敬う人々が取り去られても、悟る者はない。正しい者は災の前に取り去られて、 平安に入るからである。すべて正直に歩む者は、その床に休むことができる。
- 驚かされる。神様の計画は不思議。
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- BRC2021:Isaiah 58:6-8 私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか。その時、曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。/あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
- 「断食」と書かれているが「礼拝」としてもよいし、他の宗教的行為に置き換えても良いだろう。イザヤ書では、虐げられた人、飢えた人、苦しむ人にこころを開くことが語られている。御心に生きること、それは、神様の憐れみが、人の世界に、反映されること、そして、それこそが「あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る」ことになる。その前には「曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。」ともある。すばらしい表現だと思う。
- BRC2019:Is 58:6,7 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
- 3節から断食・苦行について書いてある。マタイによる福音書の6章のイエスのことばを思い出すが、イザヤの言葉も、なんとも、すごい。このあとの祝福も。このところ、STAY HOME [SUNDAY] が Covid-19 関連で叫ばれているが「安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら 」(13)もじっくり意味を考えてみたい。イザヤは、いまならどのように「喉をからして叫(ぶ)」(1)だろうか。単なる正しさではないものを語りそうな気がする。家にいて何をするの?気になっている人に手紙を書いたり、なにかできることはないのかな。
- BRC2017:Is 58:6,7 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
- (社会正)義と慈善による愛の行為は、つながっていることが表現されている。神の御心と考えれば、当然であろう。同胞の理解も、イエスによって普遍的になっている。表現は、少しずつ変化して行くのだろう。イザヤの表現の重さも同時に感じる。イザヤの見ていたものをわたしも共に見たい。
- BRC2015:Is58:8-10 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
- 断食などについて不適切なことが指摘された後で、6節/7節に「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」とありこれに続くのが上の言葉である。これは、原因と結果というような因果関係ととる必要はないだろう。条件というより、まさに、神が望まれる歩みが書かれているのだろう。ヨハネおよびマタイの「世の光」を思い出す。特に印象的なのは、神との近さと、しんがりとなって守られる主だろうか。
- BRC2013:Is58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。
- これはわたしの願い、わたしの夢。しかし傲慢だろうか。6節から10節までを丁寧に学びたい。
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- BRC2021:Isaiah 59:21 これが彼らと結ぶ私の契約である――主は言われる。/あなたの上にある私の霊/あなたの口に置いた私の言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/その子孫の子孫の口からも/今より、とこしえに離れることはない/――主は言われる。
- 直前には「贖い主がシオンに来る。/ヤコブのうちで/背きの罪から立ち帰る者のもとに来る/――主の仰せ。」とあり、「贖い主」が来る世界を描いている。これが、イザヤが、神様から受け取ったとする、御心のなる世界なのだろう。「私の霊」まさに御心(主のこころ)「私の言葉」とあるが、それもまさに、御心なのだろう。御心がわたしたちの上にあり、私達が語る言葉も御心。わたしは、どう表現するだろうか。このイザヤ書の表現は、本当にすばらしいと思う。
- BRC2019:Is 59:15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
- 悪を行うとは、とても、悪いことをすることのように思ってしまうが、58章の断食のように、ここでも「正義の行われていないこと」が悪だという。正しさを中心におくことに、躊躇はもちつつ、やはり、なにをわたしは、躊躇しているのかもっと深く顧みなければならないとも思う。主の御心、真理を求めるとは、深いこと、そして果てしないこと。
- BRC2017:Is 59:1,2 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
- 主は、望んでおられる。永遠の命を与えることを。それを、妨げているものがある。ここで罪とは、具体的なことが考えられているだろう。しかし、それが隔てていることは確かである。
- BRC2015:Is59:2 むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
- これが通常罪と言われているものか。58章で語られている状態の反対の状態に甘んじている。その原因が「悪」だと言っている。預言者のは常に義憤を感じていたのだろう。そう考えると、ますます預言者イザヤについて知りたくなる。
- BRC2013:Is59:1,2 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
- イザヤはどのようにしてこのように表現できたのだろう。本質がここにあるように思われる。罪が隔てているとは、このようなことか。
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- BRC2021:Isaiah 60:1 起きよ、光を放て。/あなたの光が来て/主の栄光があなたの上に昇ったのだから。
- 「あなたの光、主の栄光」から、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(マタイ5章16節)を連想した。その光の発出源がどこなのかというよりも、主の栄光との結びつきと関連させて理解すべきだろう。神の国が近いことが、見て取れる。マタイでは、さらに、具体的である。おそらく「あなたがたの立派な行いを見て」を、皮肉のように取る、すなわち、不可能なことと理解する人もいるだろうが。不完全ながら、素直にとる方法もあるように思う。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(マルコ5章34節)と言われる方なのだから。
- BRC2019:Is 60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。
- なにか、すごいことが言われているようだ。想像もつかない。そしてこの章は「最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。」(22)で終わっている。こんなことを、想像できることに驚かされる。わたしには、とても、見ることはできない世界である。こころが清くなく、二心だからだろうか。
- BRC2017:Is 60:14 あなたを苦しめた者の子らは/あなたのもとに来て、身をかがめ/あなたを卑しめた者も皆/あなたの足もとにひれ伏し/主の都、イスラエルの聖なる神のシオンと/あなたを呼ぶ。
- この考えが、自然なのだろう。しかし、本当に、神様の御心なのだろうか。これが、神の御心なら、わたしは、聖書の信仰を受け入れられない。そうではなく、イザヤも、完全には、悟っていなかった、真摯に、真理を求め続けた、神のひとであったが、と理解したい。間違っているのだろうか。
- BRC2015:Is60:1,2 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
- ここで「光を放て」と言っているのは、文脈からすると、主の栄光が「あなた」を媒体として輝くということだろう。ヨハネ8:12「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」はどうだろうか。そして、マタイ5:13-16のイエスのことば「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」これは、どうであろうか。おそらく、イエスの中では、そんな区別はなかったのではないだろうか。まさに、神の子として生きること、神の心をこころとすることだけなのではないだろうか。そうであれば、光を区別したりする必要は、もうない。
- BRC2013:Is60:1-3 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。 もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
- マタイ5:16「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」を思い起こさせる。救いの預言、それが今まさに成就しつつあると信じて、その救いの中を生きること。イエスはまさにその救いをみて生きていたのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 61:1,2 主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために。
- 「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4章18節・19節)はこの箇所からの引用と思われる。イザヤ書では、シオンの回復預言であるが、イエスは、ナザレで、この聖書の箇所から「この聖書の言葉は、今日、あながたがが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4章21節b)と語っている。神の国が近づいたことを、このように証言しているのだろう。捻じ曲げられた引用も新約聖書にはあるように思うが、これは、おそらく、イエスの真正の証言そのとおりなのだろう。
- BRC2019:Is 61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
- わたしは、貧しい人でも、打ち砕かれた心をもっているともいえないように思われる。捕らわれ、つながれていることは、おそらくそうだろうが。イザヤが好まれ、愛読される理由は、このような恵みのことばに関係しているのだろう。イエスにおいて、それが実現しているようにも、思われるから。ユダヤ教のひとたちにとっては、どうなのだろうか。イザヤは。むろん、トーラーのみを読む人たちもいるようだが。
- BRC2017:Is 61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
- 「報復」は、ここにも出てくる。9.11のときの衝撃がいまも生々しい記憶として残っているが、次の節の「彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。」にもつながっているのだろう。その時点で、排他的ではない(inclusive)といっても、この考えに立ち向かいたくなってしまう。わたしも、よく理解できていないと言うことなのだろう。
- BRC2015:Is61:11 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
- とても麗しい光景である。また、前半は、通常一般恩寵として受け取られていること、後半は、特別恩寵。そのような、区別も必要なくなるのかもしれない。人の論理、不完全な人間が、不完全な言語で説明するときの便法なのかもしれない。
- BRC2013:Is61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
- イエスはこのことばを意識していたろう。そしてこう結ぶ。10, 11節「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。 地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。」
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- BRC2021:Isaiah 62:1,2 シオンのために、私は口を閉ざさず/エルサレムのために、私は沈黙しない。/その義が光のように現れ/救いが松明のように燃えるまで。国々はあなたの義を見/王たちは皆、あなたの栄光を見る。/あなたは、主の口が定める新しい名で呼ばれる。
- この章の最後は「彼らは聖なる民、主に贖われた人々と呼ばれ/あなたは、尋ね求められる女/見捨てられることのない町と呼ばれる。」(12)とあり、イザヤ書記者が見た御心が、このように表現されていると見てよいだろう。引用句からは、正直に書くと、主の声なのか、イザヤ書記者の声なのかわからない、シオン、エルサレムへの熱愛(想い焦がれる気持ちだろうか。うまく表現できない)が感じられる。それがかえって、リアルでひしひしと迫ってくるように思う。一人の、真理の、御心の探求者の姿が。
- BRC2019:Is 62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
- このあとには「諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。」(2)と続く。シオン、エルサレムを特別なものとしている。イエスの嘆きとは異なる。しかし、このような文言から、シオニズムを掲げるひとたちを責めることはできない。「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。」(11,12)とあるのだから。ただ、わたしは、それを、いまは受け入れない。イザヤも、我々の仲間、人間だとみているから。神から受け取ったものを伝えてくれると共に、すべて完全に文字通り正しいとはしない。いろいろな受け取り方があることも、否定できない。
- BRC2017:Is 62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
- あまり「彼女の正しさ」に捕らわれない方が良いかもしれない。しかし、それが、神からの正しさと解釈するとしても、違和感が残る。同時に、イザヤ記者の時代に、理不尽な屈辱的な圧迫があり、それに対して「彼女の正しさ」と言っているのだとも思われるが。
- BRC2015:Is62:12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。
- この章は「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」(1節)と始まる。また「あなたの労苦による新しい酒を/異邦人に飲ませることも決してない。」(8b)などを見ると、あまりにエルサレム、イスラエルに偏った救済に見える。しかし「エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。 また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。」(6,7節)ともある。「わたし」は「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」(61:1)の「わたし」だろう。「主の沈黙」あお招かないために、語り続けることが、語られているのだろう。
- BRC2013:Is62:11,12 見よ、主は地の果にまで告げて言われた、「シオンの娘に言え、『見よ、あなたの救は来る。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その前にある』と。 彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、あなたは『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられる」。
- この反対がイスラエルの通常だったのだろう。報いがなく、種をまき、収穫物は、敵のものとなる。そして最後には、捨てられる。鍵は、主にあがなわれたものとなること。
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- BRC2021:Isaiah 63:17 主よ、なぜあなたは私たちを/あなたの道から迷い出させ/私たちの心をかたくなにし/あなたを畏れないようにされるのですか。/立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの所有の民である部族のために。
- この章を読んでいて、イザヤ書記者の主との交流、相互性を強く感じた。むろん、イザヤ書記者には、主の声が(すべて)聞こえるわけではない。まさに、探求者として、耳をすますが、それだけの関係ではないのだろうと感じた。もう一つ、感じたことは、根拠が明確なわけではないが、イザヤ書は基本的に、アモツの子イザヤが記者なのかなということである。預言者集団に引き継がれる中で、多少の修正が加わっていったことを否定しないが。引用句の前半、これは、表現は少し変化があるのかもしれないが、一貫しているように思う。
- BRC2019:Is 63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。
- 「主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。」(8,9)も深い言葉である。救いについての深い理解。しかし、同時に、主に背き、逆らう民(10)。この構図にたいして、イザヤは引用句を訴える。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」とあるが、イザヤが、民の苦難を自分の苦難として受け止めていることもあるのだろう。これが、裁きと救いの主を見、高慢な民に悔い改めを求めると共に、希望を捨てない信仰者イザヤの姿を見る。
- BRC2017:Is 63:19 あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
- この表現を「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のこと」(1章1節)とするのが無理があるとするよりも、アッシリアだけでなく、バビロン、または、捕囚までも、視野に入れて読むのが適切だというのは、当然だろう。そのなかで、イザヤ記者は、神の御心を真摯に求めながら、どのような世界を見ていたのだろうか。「天を裂いて降ってください」文学的表現というより、切望する痛みを負った預言者の心が伝わってくる。
- BRC2015:Is63:18,19 あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。 あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。▲いにしえから治められない者+あなたが天を裂いて
- 不思議なマークがある。ここに、預言者の苦悩がある。その中で、主を信頼し、預言をし続ける。歴史を見る「継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。」も痛々しい。主の御心をもとめること、主の御心とのシンクロナイゼーションのチャレンジの大きさを感じる。しかしイザヤはそれに、真っ向から挑戦している。わたしもそのように生きたい。
- BRC2013:Is63:1 「このエドムから来る者、深紅の衣を着て、ボズラから来る者はだれか。その装いは、はなやかに、大いなる力をもって進み来る者はだれか」。「義をもって語り、救を施す力あるわたしがそれだ」。
- これは特別な歴史上の人物をさしているのか。エドムは、近隣の兄弟、そして友好関係を築くのが難しい、存在だったのだろう。モアブ、アンモンと同レベルだったのだろうか。家計的には多少異なるように記されているが。
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- BRC2021:Isaiah 64:3,4 神を待ち望む者のために事をなしてくださる方は/あなたのほかにありません。/昔から聞いたことも耳にしたことも/目で見たこともありません。あなたは迎えてくださいます/喜んで正義を行う者を/あなたの道を進みながら/あなたを思い起こす人々を。/しかし、あなたは怒られました。/私たちは罪を犯し、久しくその罪の中にいます。/私たちは救われるのでしょうか。
- 「神を待ち望む者のために事をなしてくださる方」に、イザヤ書記者の姿勢がよく現れているように思う。わたしなら「みこころを求め続けるものを導かれる方」と表現したいようにおもう。同時にここには、苦悩も表現されている。「あなたは迎えてくださいます」と始めるが、やはり、そこには、条件があるのだろうということ。そして、自分たちの現状を考えると「私たちは救われるのでしょうか。」となってしまう。イザヤ書記者の問いかけ、これが、相互性の高いものであることを願う。「互いに愛し合いなさい」と、主イエスが言われたように。真理なのか、わたしの単純な独りよがりの願いなのかわからないが。
- BRC2019:Is 64:1 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。
- 目に浮かぶような秀逸な表現である。しかし、現実は、自ら(ユダヤの民)の荒廃した状態が背景にある。「わたしたちの輝き、わたしたちの聖所/先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ/わたしたちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。」(10,11)やはり、バビロン捕囚のあとの荒廃があるのだろう。「わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。」(5)と自らのことを表現している。イザヤにも、迷いがあるのかもしれない。主の御心が見えない。
- BRC2017:Is 64:8 どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。
- 混乱した状況が書かれている。イザヤ書記者にも、困惑があるのかもしれない。どうしたらよいのかと。その叫びが伝わってくるように感じる。神のあわれみ以外に、神が目を留めてくださり、いのちを与えてくださらなければ、救いはないとの確信を持ちつつ。
- BRC2015:Is64:4 喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。
- 非常にシンプルに、表現されている。神が喜ばれる人、われわれの状態、そして神の主権的救い。さらに「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(7節)とある。何度かイザヤ書で現れる、陶工と粘土の比喩である。「しかし」が重い。それにつづく「主よ、あなたは我らの父。」はイエスの感覚を思い出させる。
- BRC2013:Is64:12 主よ、これらの事があっても/なお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。
- この章のイザヤは揺れているように思われる。預言でも、祈りでもない。魂のうめきのようにも聞こえる。これが生身の人間、神の言葉に預かったものの葛藤なのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 65:8 主はこう言われる。/「ぶどうの房に発酵しかけの果汁があるのを見たら/それは潰すな、そこには祝福があるのだから」/と人は言う。/そのように、私は私の僕たちのために/そのすべては滅ぼさない。
- 前の章は「主よ、それでもなお/あなたはご自分を抑えて黙し/私たちをひどく苦しめられるのですか。」(11)と終わっている。このイザヤ書記者の苦悩の答えが、引用句から始まるのかもしれない。残りのもの「私は私の僕たちのために/そのすべては滅ぼさない。」ここまでが、イザヤが受け取ったことのように思う。いずれにしても、イザヤ書の表現は、美しいものが多い。それは、イザヤ(書記者)の生まれ持った、神様から特別に与えられたものなのか。わたしには、それを、丁寧に鑑賞する力もないが、このような苦悩の表現であっても、豊かさを感じさせられる。
- BRC2019:Is 65:22,23 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。
- 当時の苦しさ、理不尽を思われていたことが浮かび上がる。おそらく、ここにあることの逆が起こっていたのだろう。報われない世界である。しかし、祝福の世界は、完全な因果応報でもないと思う。「(主を、)喜び楽しみ、喜び踊る。」(19)ことなのだろうが、正直、何が、シャローム(完全な祝福のよる平安)なのか、わたしには、よくわからない。
- BRC2017:Is 65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
- イザヤ書記者は、この告白に至る。これを、神の御心として。それが、簡単、それしかないと思われる。しかし、イエスは、そうではなかったのではないだろうか。このあとに、痛みがなく、苦しみがなく、無駄な労苦をしない世界が描かれているが、今の世界のあとに、そのようなものを造ることが、神の御心なのだろうか。美しい言葉が続くが、イザヤ記者が到達した限界のようにも、感じる。
- BRC2015:Is65:8 主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな/そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために/すべてを損なうことはしない。
- ぶどうの房の汁から救いを思う。イザヤはつねに、主の救いに思いを抱いていたのかもしれない。1節にはひかれる「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。」マタイ22:8,9「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』」を思い出させられる。
- BRC2013:Is65:25 おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。
- 信じられないようなことというより、想像を絶するようなことという意味なのかもしれない。世界が変わってしまう。それが救いなのだろう。
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- BRC2021:Isaiah 66:2 これらはすべて私の手が造ったもの/これらはすべて私のものである――主の仰せ。/私が目を注ぐのは/苦しむ人、霊の打ち砕かれた人/私の言葉におののく人。
- イザヤ書最後の章である。引用句の次には「牛を屠る者は、人を打ち殺す者。/羊をいけにえとする者は、犬の首を折る者。/穀物の供え物を献げる者は、豚の血を献げる者。/乳香をしるしとして献げる者は、偶像をたたえる者。/これらの者は自分の道を選び/その魂は憎むべきものを喜んだ。」(3)と続く。一般的に言って、正しい礼拝、犠牲を献げることに、異議を唱えているようだ。主が目を注ぐものとして、イザヤ書記者が書いているのは、みっつ。「苦しむ人・霊の打ち砕かれた人・私(主)の言葉におののく人」どれも、苦しい、辛い状態にあり、新たな一歩は踏み出していないひとのように思われる。その一歩、希望を与えられるのが、主ということだろうか。同時に、主も、同じように「苦しみ、霊が打ち砕かれ、自ら善いと宣言することの重さに畏れ慄いて」おられるのではないかとさえ思う。非常に困難な道を、歩まれる決意をされているから。イザヤは、そこまでは、明言はしないが、目を注いでいる対象は、主と近いのではないかと思わされる。
- BRC2019:Is 66:1,2 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
- 神とは、人とは、結局、よくわからない。説明を付けることはできるかもしれないが、創造主の顧みるのが「苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」であると言う。不思議な関係である。イザヤはどう思っていたのだろう。「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。」(22)と結びの段落にあるが、イザヤの時代には、このことを望のがやっとだったのかもしれない。
- BRC2017:Is 66:5 わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
- 新しい天と新しい地の創造を通しての完全な救いの宣言(65章17節)のあともなにかすっきりしない状況の記述が続く。そして22節には「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。 」とあり、最後は引用はしないが、おぞましい状況で閉じられている。イザヤ記者にも、迷いがあるように見える。主に求めることが明確にならない。救いを具体的に表現できない。イエスを待たなければいけない面と、それで、良いのかもしれないと考える面とがある。わたしには、本当にわからない。
- BRC2015:Is66:1,2 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
- イザヤ書のしめくくりは、より普遍的なものへの誘いから始まる。この章が書かれたときに、神殿がどうなっていたかは不明であるが、すくなくとも、地上の神殿からは、意識がはなれている。そして、主が顧みるひとについて書かれている。神のいのちを意識しようがしまいが、いとおしく生きている人の姿であろう。18節には「わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。」とある。イザヤが導かれたところなのだろう。驚かされる。
- BRC2013:Is66:2 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
- このようにすっきりと言えるのは、成熟している故か。啓示だからとすべきか。
エレミヤ書
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- BRC2021:Jeremiah 1:17 さあ、あなたは腰に帯を締め/立ち上がって、彼らに語れ/この私が命じることすべてを。/彼らの前でおののくな/彼らの前で私があなたを/おののかせることにならないように。
- 第1章は、エレミヤの召命について書かれている。エレミヤは、引用句の声に答えて、歩みだすことになる。引き返すことはできない、しかし、最初から、非常に困難だとわかっている道である。そのような、道を歩みはじめることは、ある程度理解できる。しかし、歩み続けることは、簡単ではない。それぞれの場で、妥協の可能性もあるだろうから。そして、主が指し示す道は、明確には見えないこともあり、他にも、良い道があるかもしれないと考えるのは自然だからである。どれが、主のみこころか、明確に受け取ったときもあるだろうが、そうでないのが、日常のように思うので。その意味でも、ていねいに、エレミヤ書を読んでいきたい。
- BRC2019:Jer 1:18,19 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は言われた
- これが、エレミヤの召命だろうか。脅威の前にある南ユダ王国(北イスラエル王国はすでに滅ぼされている)にあって、民の悪を糾弾する使命を与えられた、祭司ヒルキヤの子。仲間は居なかったのかと考えてしまう。民主的にことを動かすことではないのだろうが。現代ではどうなのだろうか。
- BRC2017:Jer 1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
- 召命のしばらくあとに書かれたと考えてもよいだろう。もしかすると、筆記者は別かもしれない。そうであっても、このことを、エレミヤは告白できた。それは、素晴らしいことである。
- BRC2015:Jer1:1-3 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、 更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
- ヨシヤの治世の第十三年は、BC627年、完全降伏はBC586年7月9日、この間約50年の間の預言である。かなりの期間であるが、同時に、イスラエルにとっても、もっとも苦しい、神の救いが見えない時だったのかもしれない。アナトトはヨシュア記21:13-19に祭司アロンの子孫に与えられた祭司たちのまち(詳細は不明)13の中の一つとして名が記されている。またサムエル記下23:27にはアナトト人アビエゼルの記述が、列王記2:26には「(ソロモン)王はまた(ダビデ継承争いでアドニアについた)祭司アビアタルにこう言った。『アナトトの自分の耕地に帰るがよい。お前は死に値する者だが、今日、わたしはお前に手を下すのを控える。お前はわたしの父ダビデの前で主なる神の箱を担いだこともあり、いつも父と辛苦を共にしてくれたからだ。』」
- BRC2013:Jer1:18,19 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。
- エレミヤが戦う相手が、これによると、全国、ユダの王、つかさ、祭司、その地民。これ以外に考えられるのかと思われるほど広範囲。すなわち、周囲の皆ということだろう。これからの、エレミヤの預言者として神の言葉を取り次ぐ戦いの大変さを暗示している。エレミヤに与えられている言葉は 17節「しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。」
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- BRC2021:Jeremiah 2:2 行って、エルサレムの人々の耳に呼びかけよ。/主はこう言われる。/私は覚えている/あなたの若い頃の誠実を/花嫁の時の愛を/種の蒔かれない地、荒れ野で/あなたが私に従って来たことを。
- エレミヤは、ここから始めているが、果たしてそうなのだろうか。最初から、従ってはこなかったのではないだろうか。ひどくなったかもしれないが、分裂は早い段階から、そして、その前も、おそらく、多くの問題があったように思う。現実は、悪く見える。そして、悪化しているように。しかし、そうなのかは、判断が、とてもむずかしい。
- BRC2019:Jer 2:19 あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ/あなたの背信が、あなたを責めている。あなたが、わたしを畏れず/あなたの神である主を捨てたことが/いかに悪く、苦いことであるかを/味わい知るがよいと/万軍の主なる神は言われる。
- 徹底的に、罪の糾弾である。アッシリアに苦しめられ、いま、バビロンの手に落ちようとする原因は、と、まだはっきりは言わないが、それは、罪だと言う。背景にあるのは、因果応報。確かに、主との関係において、主への愛がなかったのだろう。国の滅びはそれ故なのだろうか。
- BRC2017:Jer 2:13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
- 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4章14節)を思い出す。このような泉について聞いていながら、無用の水溜を掘る、壊れた水溜を。ひとは、なんと愚かなのだろうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)光と認められないことに問題があるのか。光を指し示すことが、わたしの使命なのだろうか。
- BRC2015:Jer2:13,14 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。 イスラエルは奴隷なのか/家に生まれた僕であろうか。それなのに、どうして捕らわれの身になったのか。
- 二つの悪はなんだろうか。もしこの二節なら、生ける水の源である、主を捨てたこと、そして、自由の身から、奴隷となったことだろうか。水はキーワードである。18節にはさらに「それなのに、今あなたはエジプトへ行って/ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って/ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。」とある。いまの私たちにも同様なことがあるように思われる。二つの悪が。
- BRC2013:Jer2:21 わたしはあなたを、まったく良い種の/すぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか。
- その本来の姿でありたい。優れたぶどうの木でありたい。主よ、そのように用いてください。イエス様が空腹でイチジクのきに近づかれたときに、おいしいイチジクの実を差し出すことができるように、available であることができますように。
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- BRC2021:Jeremiah 3:18 まさにその日にこそ、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から、私があなたがたの先祖に相続させた地へと共に帰って来る。
- こんな事になったのだろうか。おそらく、そうはなっていない。そして、今後も、それが望まれているのではないように思う。エレミヤ書は、どのように読めばよいのだろうか。不正確さは、問わなくてよいのだろうか。歴史的事実と符合しているかではなく、エレミヤがうけとった、神様からのメッセージを、しっかり受け取ってみたい。それが、歴史的事実とは符合していなくても。
- BRC2019:Jer 3:25 我々は恥の中に横たわり/辱めに覆われています。我々は主なる神に罪を犯しました。我々も、先祖も/若いときから今日に至るまで/主なる神の御声に聞き従いませんでした。」
- わたしには、アーメンと言えない。神のまったき平安が得られないのは、もっと複雑な背景があるように思われてしまう。罪の故なのか。たしかに、それも否定できない。主よ、教えてください。わたしの、生きるべき道を。あなたに向かう歩みを。
- BRC2017:Jer 3:22 「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。
- これがエレミヤの聞いた神の声、エレミヤのこころに響いた言葉なのだろう。「背信の子らよ、立ち帰れ」と14節にもある。背信の意味は、上に引用した 2章13節などを指すのだろうか。現代の人々はどうなのだろうか。
- BRC2015:Jer3:1 もし人がその妻を出し/彼女が彼のもとを去って/他の男のものとなれば/前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに/わたしに戻ろうと言うのかと/主は言われる。
- つまり「戻ることはありえない」そのなかで「帰れ」と繰り返される。「立ち帰れ」(7, 12, 14, 22, 4:1, 31:21)4:1 には二度繰り返されている。尋常ではないことが起こっている。しかしそれでも、帰らないのか。「背信の女イスラエルは、そして裏切りの女ユダは」「背信」もエレミヤに10回現れるうちの6回(6, 8, 11, 12, 14, 22)が3章である。「裏切り」はエレミヤに5回現れるがそのうちの4回(7, 8, 10, 11)が3章である。
- BRC2013:Jer3:15 わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う。
- どうか、知識と悟りを持って、わたしを養ってください。
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- BRC2021:Jeremiah 4:18,19 あなたの歩み、あなたの行いが/これらのことをあなたにもたらした。/これはあなた自身が犯した悪であり/実に苦く、あなたの心臓にまで達している。私のはらわた、私のはらわたよ。/私はもだえ苦しむ。/私の心臓の壁よ、私の心臓は高鳴る。/黙ってはいられない。/私の魂は角笛の響きを/戦いの鬨の声を聞くからだ。
- 「イスラエルよ、もし立ち帰るなら/私のもとに立ち帰れ――主の仰せ。」(1a)から始まり、「私は北から災いを/大いなる破滅をもたらす。」(6b)と、おそらく、バビロンの驚異について警告している。そして、引用句では、その原因とともに「私のはらわた」「私の心臓の壁」について書かれている。「戦いの鬨の声を聞い」て、そのような状態になるのは、戦いが恐ろしいからではなく、間近に迫っているからだろう。ここでの「私」は、主なのか、エレミヤなのか、明確ではないが、主のこころと痛みを、エレミヤが受け取ったものと考えれば、どちらにしても大きな問題はないことになる。「心臓の壁」という表現は、ここだけのようだが、ドキドキ感は、伝わってくる。しかし、主は、本当にはどう見ておられるのだろうか。いろいろと考えてしまう。
- BRC2019:Jer 4:1,2 「立ち帰れ、イスラエルよ」と/主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」 もし、あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする。
- エレミヤの叫びは聞こえるが、やはり、疑問が残る。イスラエルへの呼びかけなのか。ある、集団への呼びかけで、これが実現することは、あるのか。では、個人でよいだろうか。おそらく、それも、正しい者と、そうでないものとの間の、隔ての垣根をつくるだけで、解決にはならないだろう。おそらく、エレミヤの時代にも、悔い改めて、主のもとに来る者は何人もいただろう。それが完全な改心ではないと、責めるのか。本当に、そのために、主は、十字架に架かられたのか。わたしには、そうではないように思う。求め続けて行きたい。
- BRC2017:Jer 4:4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」
- イスラエルに対しては「立ち帰れ、イスラエルよ」(1)としている。北イスラエルとユダを分けているのか。しかし、7節ではすでに「諸国の民を滅ぼす者は出陣した。」と述べられている。構造もよく分からない。しかし、引用した箇所の直前の「茨の中に種を蒔くな。」(3)など興味深い。おそらく、このあたりは、捕囚前に書かれたのだろう。エレミヤは、何を見ているのだろうか。危機的な、ユダの姿だろうか。
- BRC2015:Jer4:2 もし、あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする。
- 前半と後半の結びつきに驚かされる。「主は生きておられる」は士師記18:19「ギデオンは、『それはわたしの兄弟、わたしの母の息子たちだ。主は生きておられる。もしお前たちが彼らを生かしておいてくれたなら、お前たちを殺さないのに』と言い、」ルツ記3:13「今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」など各所に見られる。私たちが持つ感覚と異なることがあるのだろう。22節には「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず/愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく/善を行うことを知らない。」とある。無知は「関係しようとしない」ことだろうか。少なくとも、この人たちは「主は生きておられる」とは言わないだろう。知るはヤーダー(yada)だが Strong の Definition では「a primitive root; to know (properly, to ascertain by seeing); used in a great variety of senses, figuratively, literally, euphemistically and inferentially (including observation, care, recognition; and causatively, instruction, designation, punishment, etc.):—acknowledge, acquaintance(-ted with), advise, answer, appoint, assuredly, be aware, (un-) awares, can(-not), certainly, comprehend, consider」となっている。
- BRC2013:Jer4:19 ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は、はげしく鼓動する。わたしは沈黙を守ることができない、ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである。
- 9節の「主は言われる、「その日、王と君たちとはその心を失い、祭司は驚き、預言者は怪しむ」。」から最後31節まで続く。このはらわたこそ、イエスが「深くあわれ」まれたときに、傷ついたものだろう。わたしは、知的活動だけでなく、そのようにはらわたに関わることをしているだろうか。日々。
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- BRC2021:Jeremiah 5: 1 エルサレムの通りを行き巡り/見渡して知るがよい。/町の広場で探せ。/一人でも見つかるだろうか/公正を行う者、真実を探求する者が。/もしいるなら、私はエルサレムを赦そう。
- キリスト教の罪理解についても同様のことがあるが、正直にいって、この理解は、論理的でも、科学的でもなく、十分な現実理解に則っていないと感じる。この中には、おそらく、エレミヤも含まれているはずであるし、個人的には、こころから主をもとめ、真実を探求するものがいると思う。そして、もちろん、それは、本当にこころからか、偽りはないのか(2)と問われれば「真実を探求する者」であればあるほど、そうですとは言えないだろう。それを根拠に、滅ぼすというのは、主の計画の破綻、ノアの洪水の繰り返しである。主は、苦しんでおられると考えるほうが、より、正確な表現なのではないだろうか。むろん、わたしも良くは理解できていないが。
- BRC2019:Jer 5:1 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
- このあと、結局、ひとりも、見いだせなかったことが書かれている。それでは、エレミヤもそうなのか。そうなのかもしれない。それでは、主が望まれるのは何なのだろうか。このエレミヤがみたものの中にはないように思う。この章の最後には「預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」 (31)とある。エレミヤには、そう見えたのだろう。一方で、エルサレムが消えてなくなることが見える中で、エレミヤの苦しみを読み取ることが大切なのだろう。エレミヤの語っていることが正確かどうかではないのだろう。読み方を考えたい。
- BRC2017:Jer 5:1,2 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 「主は生きておられる」と言って誓うからこそ/彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。
- 不思議な箇所である。このあと、記者も、一人ぐらいいると思って探す。口先では、主への忠誠を尽くし、実際の心では離れていると言うことか。
- BRC2015:Jer5: 1,2 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 「主は生きておられる」と言って誓うからこそ/彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。
- ここにも「主は生きておられる」があらわれる。表面的には、4:1と矛盾するような記述である。慣用表現になってしまって畏れおののきはなくなっているのだろう。このあとの「わたしは思った。『これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない。 身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。彼らなら/主の道、神の掟を知っているはずだ』と。だが、彼らも同様に軛を折り/綱を断ち切っていた。」(4,5節)も興味深い。実際、そのような議論は、現代でもよくおきるのだから。
- BRC2013:Jer5:31 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたは/その終りにはどうするつもりか。
- 預言者、祭司、民、それぞれの生き方。それは、究極の状態を考えると、どうしようもないものであることがわかる。そして、それは今の混沌とした時代の状況につながっている。それを変えるには、まさに深い悔い改めが必要である。
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- BRC2021:Jeremiah 6:10 誰に対して語り、厳しく命じれば/聞くのだろうか。/彼らの耳は無割礼で/彼らは耳を傾けることができない。/主の言葉が彼らに臨んでも/それをそしり、喜ぼうとしない。
- このあとには「私の身には主の憤りが満ち/それを耐えることに疲れ果てた。」(11a)と続く。預言者には、すでに大きな危機が迫っていること、そして、それは、主の言葉に聞き従わなかったこと、そして、今も、聞き従おうとしないこと、だからこそ、主は、この民を滅ぼされるのだという確信と嘆きと憤りに満ちているように感じる。そのようにして、主の憤りを自らの憤りとして表現しているかのようだ。正直に書くと、本当にそうなのだろうかと思う。主の思いはもっと深いのではないだろうかと。同時に、主も、どのようにすれば、聞くのだろうか、こころから受け入れるのだろうか、と悩んでいるようにも感じられる。回答は、まだ、私達が持っていないだけでなく、主も、持っておられないのかもしれない。そのなかで、どう生きるかを、預言者エレミヤとも、現代の人とも、そして、主とともに、求めていくことができればと思う。
- BRC2019:Jer 6:16 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。
- これを拒否したことが、災いの元だと述べているようだ。そうなのだろうか。たとえば、今、Covid-19 で世界中が苦しんでいるとき、それは、主に従わなかったからだと言うのだろうか。そうかもしれない。しかし、わたしは、違うようにも思う。因果応報から、主は自由である。エレミヤの時代、そして、今、主は何をなそうとしておられるのだろうか。
- BRC2017:Jer 6:13 「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
- このメッセージと列王記19章10節の「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」とをどう考えたら良いのか。単純に「皆」とは言えないだろうに。
- BRC2015:Jer6:16,17 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。 わたしは、「あなたたちのために見張りを立て/耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。しかし、彼らは言った。「耳を澄まして待つことはしない」と。
- 主のことばに聞かない。主に従わない。これがひとの定常状態なのかもしれない。しかし、前半をみると、それが幸いに至る道でないことは分かるはずだと言っている。おそらくそうなのだろう。27節「わたしはあなたをわが民の中に/金を試す者として立てた。彼らの道を試し、知るがよい。」の「あなた」は誰なのだろう。「わが民」は、口語訳では単に「民」となっているが、民は基本的には、イスラエルのはず。
- BRC2013:Jer6:13 「それは彼らが、小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。
- この章それも13-15 あたりがエレミヤのみた現実の世界のリアルな表現だったのではないだろうか。それが見えたのは、神と向き合い、ひとの醜さが見えていたからか。
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- BRC2021:Jeremiah 7:6,7 この場所で、寄留者、孤児、寡婦を虐げず、罪なき人の血を流さず、他の神々に従って自ら災いを招かないならば、私はあなたがたをこの場所に、あなたがたの先祖に与えた地に、いにしえからとこしえまで住まわせる。
- この前には「あなたがたが本当にあなたがたの道と行いを改め、本当に互いの間に公正を行うなら」(5)ともある。しかし、この基準であれば、どの時代のどの人々も、批判の対象から外れないだろう。行き先は、人はみな罪人だという結論である。しかし、それで良いのだろうか。悩みながらも、主の義、公正をもとめて、不完全ではあっても、それを求め続け、同時に、不完全であることを、省みる生き方ではないのだろうか。主が喜ばれるのは。わたしも、わからないことばかりだが。
- BRC2019:Jer 7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
- バビロン帝国の襲来は、イスラエルの悪のゆえ、それをただすためだろうか。悔い改めれば、バビロンは、おそってこないのだろうか。バビロン帝国にとって、ユダは、それほどの脅威ではなかったろう。なにか、井の中の蛙のような感じさえ受ける。しかし、同時に、エレミヤの苦しみは、伝わってくる。エレミヤには、このようにしか表現できなかったのだろう。
- BRC2017:Jer 7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
- 前半の意味と、後半の意味は異なるのだろう。イエスが「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。」/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。』 」(マルコ11:17)と宮清めで言うのと重なっているのか。ヨハネでは「鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』 」(ヨハネ2章16節)
- BRC2015:Jer7:4-6 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
- マルコ13:1,2「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』 」(マタイ24、ルカ21:5,6)が思い出される。このエレミヤでも7章は「わたしはユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃虚となる。」(37節)で終わっている。正しい行いも、明確である。
- BRC2013:Jer7:10,11 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。
- マタイ21:13 に強盗の巣がでてくる。だれが何を奪っているのか。ここには二つの目がそのように見ている。神の恵みをどうとらえるかだろうか。もう少し考えたい。
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- BRC2021:Jeremiah 8:18,19 私の悲しみは癒やし難く/私の心は弱り果てている。聞け、遠くの地から届く/娘であるわが民の叫び声を。/「主はシオンにおられないのか。/シオンの王はそこにはおられないのか。」/なぜ、彼らは彼らの彫像によって/異国の空しいものによって/私を怒らせたのか。
- 原因は「彼らの彫像・異国の空しいもの」とあり、神ではないものに主を取り替えたことを言っているのだろう。それは、間違ってはいないかもしれないが、それだけでたとえば現代を表現できるようには思えない。当時もそうだったのではないだろうか。しかし、エレミヤは主の癒しがたい悲しみ、弱り果てている心について描いている。主は、超然として、おられる方ではなく、愛しておられるわたしたちによって、悲しみ、傷つかれるかたであると、認識しているということだろう。自然に描かれているので、それは共有知であったと思われる。とすると、最初にある、偶像礼拝も、悲しませることに、重大な帰結があるということだろうか。単に、偶像礼拝が、誤ったことというだけでなく、正しいかどうかだけでは捉えられないものがあるように思う。
- BRC2019:Jer 8:15 平和を望んでも、幸いはなく/いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
- この章の記述の背景は不明である。しかし、主に従わないものの状態と、警告が繰り返されているようだ。しかし、引用句に続いて「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの/都とそこに住むものを食い尽くす。」(16)とあるように、北から、敵がまさに攻めてくる状況が語られている。バビロン王国自体か、バビロンに滅ぼされた国が、その先鋒を担っているのか不明であるが、世界的にみても、歴史的に見ても、風前の灯火であることは確かである。そのとき、ひとは、どう生きればよいのだろうか。主との関係を、現在の生の危機的状況とは独立に、喜ぶことだろうか。Covid-19 crisis のもとで、現在、世界の人たちは、この引用句のような気持ちを抱いているのではないだろうか。そして、おそらく、世界的な感染症の蔓延は、これからも起こるだろう。どう生きることが求められているのだろうか。なにがたいせつなのだろうか。
- BRC2017:Jer 8:23 わたしの頭が大水の源となり/わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう/娘なるわが民の倒れた者のために。
- 5節に「どうして、この民エルサレムは背く者となり/いつまでも背いているのか。偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。」とあるように、立ち返ることを拒む民に対する嘆き、預言者の悲しみとして書かれているように思われるが、それこそが、主の悲しみ、苦しみ、痛みなのかもしれない。深く憐れまれる主を思い出す。
- BRC2015:Jer8:1-3 そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。 それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。わたしが他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる。
- 死者の骨がひどい状態にされることが書かれている。背景には、偶像を礼拝し、平安に死んでいった多くのひとへの呪いを感じる。神義であろうか。なにか、受け入れがたいものを感じる。因果応報が強すぎるからであろうか。人間感覚が強いからだろうか。エレミヤをもう少し理解しないと、このような箇所も理解できないのかもしれない。
- BRC2013:Jer8:13 主は言われる、わたしが集めようと思うとき、ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木に、いちじくはなく、葉さえ、しぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、彼らを離れて、うせ去った」。
- いちじくの実の話はここを意識していたのだろう。知らなかった。背景はこの前半にある。そして、10節「彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らを罰するとき、彼らは倒れると、主は言われる。」この悩みであろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 9:23 誇る者はただこのことを誇れ。/悟りを得て、私を知ることを。/私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。/これらのことを私は喜ぶ――主の仰せ。
- この章にも、背信と裁きについて、これでもか、これでもかと書かれている。まだ、光は見えないが、戻るべき場所、進むべき方向は、ここで、示されているように思う。とはいえ、現実世界に照らすと、これで、理解できる人は稀(まれ)だろう。主を「この地に慈しみと公正と正義を行う者」として認識することも簡単ではない。なにから、始めればよいのだろうか。ここには「主を知ること」とある。わたしの表現では「御心を知る」となるが、これも、律法主義のようなもので妥協しなければ、方向性すらよく見えない。しかし、謙虚に求めていきたい。
- BRC2019:Jer 9:3 人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても/「押しのける者(ヤコブ)」であり/隣人はことごとく中傷して歩く。
- おそらく、そうなのだろう。特に、危機においては。このあとにも「人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。」(4)と続く。ひとは、これを「知恵や力や富」(22)で、どうにか切り抜けようとする。「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(23)これが、エレミヤの伝えたいことだろう。本質的かもしれないが、不満も感じる。主は、なにを求めておられるのだろう。やはり、互いに愛し合うことではないのだろうか。裏切られることがあっても。裏切られる背景には、いろいろなことが考えられるのだから。
- BRC2017:Jer 9:24,25 見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者を/ことごとく罰する。 エジプト、ユダ、エドム/アンモンの人々、モアブ/すべて荒れ野に住み/もみ上げの毛を切っている人々/すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し/また、心に割礼のないイスラエルの家を/すべて罰する。
- 本質的なところ、すなわち、その心を見るのだろう。そして、それは、主の裁きでもある。同時にその前では誰も耐え得ない。23節には「目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事」を主は喜ぶとあるが、やはり心配になる。「闇が去って、既にまことの光が輝いている 」(1ヨハネ2章8節)今であっても。
- BRC2015:Jer9:11,12 知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり/通り過ぎる人もいない。 主は言われる。「それは、彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。」
- まだエルサレムは完全に陥落はしていなかった時期と思われる。しかし、かなり決定的な状況だったのだろう。神のヤコブへの約束を思い「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても/『押しのける者(ヤコブ)』であり/隣人はことごとく中傷して歩く。」(3節)のような表現も用いている。エレミヤには、明らかだったのだろう。しかし、本当に、偶像なのだろうか。イエスならなんと言われただろうか。
- BRC2013:Jer9:23,24 主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。 誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
- このようにすばらしいところを読むときにわたしは十分時間が取れなかった。とても残念。
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- BRC2021:Jeremiah 10:19 ああ、災いだ。/私は傷を負い/私の傷は痛む。/しかし、私は言った。/「これこそ私の病。/私はそれを負わなければならない。」
- この「私」が誰なのか判然としない。この前の節には「主はこう言われる。/私はこの地に住む者たちを今度こそ放り出す。/私は彼らを苦しめる。/彼らが思い知るように。」(18)主と解釈するのが自然であるが、引用句では「しかし、私は言った。」ともあり、このあと、引用符がついている。おそらく、あまり、重要ではないのだろう。預言者が、主とこころを一致させようとして語っているのだから。もう一つ、気になったところがあった「このようにあなたがたは彼らに言え。/『天と地を造らなかった神々は/地からも、これらの天の下からも滅びる』と。」(11)これは、宣言であるが、ほんとうに、そんなときが、来るのだろうか。ひとのこころからは、神ならぬ者の存在は、続くと思う。その弱さ、不完全さを担いつつ、(完全ではないにしても)自律的に生きることを許されているのが人間だから。
- BRC2019:Jer 10:23 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。
- わたしは、本当に、このことを知っているだろうか。自分で、どうにかなると、考えていないだろうか。たいへんなことが起こっても、解釈を変え、いみを転換すれば良いと。「ああ、災いだ。わたしは傷を負い/わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病/わたしはこれに耐えよう。』」(19)これと、同じなのかもしれない。
- BRC2017:Jer 10:23,24 主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。主よ、わたしを懲らしめてください/しかし、正しい裁きによって。怒りによらず/わたしが無に帰することのないように。
- この章は、主の偉大さの賛美から始まっているが、11節から、実際の混乱について語られ、この節に至る。預言者も、わからないまま歩むこと、そして、信頼すべきことが求められているのだろう。それを、自覚しているかどうかが、大切なのだろうか。それを感じさせられる箇所である。謙虚さと信頼。
- BRC2015:Jer10:19 ああ、災いだ。わたしは傷を負い/わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。「これはわたしの病/わたしはこれに耐えよう。」
- 2, 3 節には「主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。もろもろの民が恐れるものは空しいもの/森から切り出された木片/木工がのみを振るって造ったもの。」異国の民の恐れるものは、恐れるに足るものではないことが語られている。しかし、同時に、預言者は、苦しんでいる。イザヤとの違いは、現実の逼迫感だろうか。人々も、預言者も、世の中を落ち着いてはみることができな。苦悩の時代である。しかし、そうだからこそ、民も現実の益に走るのかもしれない。現代のように。
- BRC2013:Jer10:19 わたしはいたでをうけた、ああ、わざわいなるかな、わたしの傷は重い。しかしわたしは言った、「まことに、これは悩みである。わたしはこれを忍ばなければならない」と。
- 偶像に関する立派な認識がつづく。しかし現実は生易しい者ではない。エレミヤはそれをどう受け止めていくのだろう。それにとても興味を持つ。
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- BRC2021:Jeremiah 11:21-23 それゆえ、主はアナトトの人々について/こう言われる。/彼らはあなたの命を狙い/「主の名によって預言するな/そうすれば我々の手にかかって/死ぬことはない」と言う。それゆえ、万軍の主はこう言われる。/私は彼らに罰を下す。/若者たちは剣で死に/彼らの息子、娘は飢えで死ぬ。一人も生き残る者はない。/私がアナトトの人々に災いを/刑罰の年をもたらすからだ。
- この前には、幻の中で、エレミヤは「私は、屠り場に引かれて行く/おとなしい小羊のようでした。」との状態を見せられたとあり。引き続いて、裁きを願い、引用句が続く。その最後は、裁きである。エレミヤの願いに答える形になっている。現実は、許容できな状態であったとしても、わたしは、裁きを願うことはできない。その状況を、主とともに、苦しみたい。
- BRC2019:Jer 11:20 万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
- この章は「ひとりも生き残る者はない。わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ。」(23)で終わる。エレミヤは、アナトトの祭司ヒルキヤの子である。(1章1節)それを、主に委ねる。それでも、エレミヤには、主に信頼と、希望を持っていたのだろうか。よくわからない。引用句には、主は「人のはらわたと心を究め」る方だとある。はらわたは、悲しみ、苦しみ、痛さを味わうところなのだろう。それをも、究めておられる主に委ねるところに、さらに、驚かされ、重さを感じる。
- BRC2017:Jer 11:3 彼らに向かって言え。イスラエルの神、主はこう言われる。この契約の言葉に聞き従わない者は呪われる。
- 祝福(4節)と呪いである。ここでは、呪いが先になっている。「この契約の言葉を聞け。それをユダの人、エルサレムの住民に告げよ。」(2節)となっているから、すでに、北イスラエル王国は滅んでいるのだろう。人々はこれをどう受け取ったのだろうか。そして、わたしたちは、神の呪いをどう理解したら良いのだろう。
- BRC2015:Jer11:20 万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
- アナトトの人々への裁きのことばが続く。13節にも「ユダよ、お前の町の数ほど神々があり、お前たちはエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇を設けた。」とあるように、象徴的な罪は、主を捨てて、偶像を拝むことである。しかし、おそらく、主を礼拝していた人もある程度いたろう。その人たちには、周囲の偶像を除くことを望んでいたのだろうか。解決は得られないように思われる。まさに、危機。そのなかにいない者は何も言えないのかもしれない。エレミヤの悩み、苦しみ、そしておそらくいらだちは、伝わってくる。
- BRC2013:Jer11:20 正しいさばきをし、人の心と思いを探られる万軍の主よ、わたしは自分の訴えをあなたにお任せしました。あなたが彼らにあだをかえされるのを/見させてください。
- 自分の訴えを神に任せる。そして神の働きをまつ。わたしもそうでありたい。
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- BRC2021:Jeremiah 12:14,15 私の民イスラエルに継がせた相続地に手を触れる悪しき隣国の民すべてについて、主はこう言われる。私は彼らをその土地から引き抜く。また、ユダの家を彼らの間から引き抜く。私は彼らを引き抜いた後、再び彼らを憐れみ、それぞれをその相続地に、その地に帰らせる。
- 厳しさとともに、希望をも抱かせるメッセージである。このあとには「もし彼らが、かつてバアルによって誓うことを私の民に教えたように、私の民の道をしっかりと学び、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うようになるならば、彼らは私の民の内に建てられる。」(16)と、条件のようなものが続く。いずれにしても、この言葉に希望を託し、それぞれの地で生き抜き、キュロスの勅令により、帰還した人たちがいたことを知っている。素晴らしいことだが、同時に、そこでおこったことが、この預言の成就なのかについては、正直疑問もある。喜べないことが、たくさんあるのだから。わたしたちの、希望はどのようなことだろうか。条件もたいせつなのだろうが、希望の内容を問うこともたいせつであるように思う。願うことは、まだ、御心とは遠いように思う。
- BRC2019:Jer 12:1 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
- 神義論(theodicy)にも関係しているが、ここでエレミヤは、おそらく神の義を問題にはしていないだろう。コンテクストから、裁きが近いことを目の当たりにしながら、このように言う者、または一般的な問いをまず持ち出しているのだろう。しかし、これには、個人的な思いの交錯もあったろう。「人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主」(11:20)と語る直後だから。ここでは「主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。」(3)と語っている。ひとつの答えとして「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら/どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら/ヨルダンの森林ではどうするのか。」(5)があり、そのあとに、全世界の裁き(14)と、回復が語られる。回復におけるユダの家の扱いは、ここからだけでは十分わからないが。
- BRC2017:Jer 12:3 主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。
- わたしは、このように、絶対に言えない。正しさから来る悲しみをたくさん見ているから。しかし、同時に、わたしは、正しさにも、背を向けているのだろうか。「多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし/わたしの所有地を踏みにじった。」(10節)では、主と、自分または、隣人とを重ね合わせているのかもしれない。1節と2節ゆっくり考えてみたい。
- BRC2015:Jer12:1-3 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。 あなたが彼らを植えられたので/彼らは根を張り/育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く/腹ではあなたから遠いのです。 主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください。
- ヨブのような(たとえば23章・24章)葛藤がみてとれる。そして詩篇139篇のような信頼がある。最後の裁きをもとめる部分をどう理解したらよいのか。そのあとに、主のことばか、それとも、預言者が自分を奮い立たせている言葉か5節がある。「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら/どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら/ヨルダンの森林ではどうするのか。」神への信頼から発せられることばだろうか。
- BRC2013:Jer12:5 「もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことができようか。もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林では、どうするつもりか。
- わたしはいまかなり仕事を増やし、もしかすると競走しているように見えるかもしれない。もしそうだとしたら、自分と戦っているのか。しかし、それは、究極の目的ではないはず。神様のもとで生きたい。神様の働きに参与したい。もう少し、ゆっくりでも良いのかもしれない。
[13] ... back to menu top
- BRC2021:Jeremiah 13:27 あなたの姦淫、あなたのいななき、淫行のたくらみ。/野の丘の上で/私はあなたの憎むべき行いを見た。/ああ、エルサレムよ/あなたは清くならない。/いつまでそうなのか。
- この章の最初には、帯をユーフラテス川の岩の裂け目に隠すことからの学びが示されている。引用句を読むと、やはり悲しくなる。なかなか、この状態は変わらない。自らを省みても、そう簡単ではないと思う。水を含んでいないものでも、ぼろぼろになる。主は、わたしたち、一人ひとりの状態について、どのように理解しておられるのだろうか。互いに愛し合うことはできない。その、わたしたちの、弱さをご存知であるはずである。
- BRC2019:Jer 13:9 主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。
- 「このように」は、ユーフラテスに隠した帯が腐り全く役に立たなくなっていたことをさす。まず、このとき、エレミヤはどこにいたのかと考えた。エレミヤ書は、時系列で書かれていないのかもしれない。このとき、エレミヤはバビロンにいたのかもしれない。ここでは「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。」(11)に結びつけている。主の腰にしっかりと付けられたものが、まったく、その(存在意義である)用を離れて、ぼろぼろになる。それだけではなく、主との強い関係性をも、伝えているのだろう。
- BRC2017:Jer 13:16 あなたたちの神、主に栄光を帰せよ/闇が襲わぬうちに/足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし/暗黒に変えられる。
- 主イエスが光の中に輝いている今は違う時代なのだろうか。裁きを望んでいた時代と、救いを、永遠の命に生きる時代と。救いを望む時代は、やはり幸せである。それ以外に、共生はあり得ない。
- BRC2015:Jer13:12-14 あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ」と。すると、彼らはあなたに言うだろう。「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」と。 あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。 わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と主は言われる。
- 1節は「主はわたしにこう言われる。『麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。』」そしてこれが使い物にならなくなることから始まる。主のことばがのぞみ「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。」(9節)とあり、そのあとに、このことばが続く。しかし、このことばを聞いてもおそらくもう遅いのだろう。歴史もそれを示している。しかし同時に、遅くはないのかもしれない。わたしたちの希望を考えると、主のご計画の一部なのかもしれない。すくなくとも、12章のエレミヤの答えにはなっているように思われる。
- BRC2013:Jer13:17 もしあなたがたが聞かないならば、わたしの魂はひそかな所で、あなたがたの高ぶりのために悲しむ。また主の群れが、かすめられたために、わたしの目はいたく泣いて、涙を流すのである。
- この主体はだれだろう。神様だろうか。神様が、密かなところで、泣かれる。もう少しじっくり読みたい。
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- BRC2021:Jeremiah 14:22 他の国の空しい神々の中に/雨を降らせる者があるでしょうか。/それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。/私たちの神、主よ/それはあなたではありませんか。/私たちはあなたを待ち望みます。/あなたがこれらすべてをなさるからです。
- 一般恩寵と言われるものが書かれている。「天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章45節)しかし、そのことは、主がイスラエルと同じく、他の人達をも愛している可能性を示しているとも理解できるはずである。しかし、そうは書かれていない。ことばによる啓示がないからということだろうか。聖書に書かれている、受け取られた御言葉以外に、御心を示すものがないのかは、だれにも、わからないように思う。恵みは、より普遍的なものであるように思う。
- BRC2019:Jer 14:8,9 イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。
- 最初に「干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」(1)とあり、ユダの危機的な状況が記述されており、次に、エレミヤの主への訴えが書かれている。これに続けて、主のことばが11節から書かれている。「主の言葉」とあるが、主との対話、または、主への訴えに対して受け取った主の言葉の形式になっている。主との交わりがエレミヤの中心にあるのだろう。引用句は興味深い。主を「この地に身を寄せている人/宿を求める旅人」「人を救いえない勇士」のようになっておられると訴えている。天災も含め、危機的な状況で主に真剣に問う姿が印象的である。
- BRC2017:Jer 14:20 主よ、我々は自分たちの背きと/先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました。
- 預言者の根幹にあることは、信仰によって、このことを深く悔いていることではないだろうか。「自分たちの背きと先祖の罪」「我々は過ちを犯した」と言い切る潔さだろうか。そして、とりなしもしている。やはり、エレミヤは、イエスを待たなければいけないのだろうか。
- BRC2015:Jer14:7-9 我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく/あなたに対して罪を犯しました。 イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。 なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。
- この章は「干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」と始まる。この苦しさの背景には「我々の罪」があることを告白している。そうであっても「イスラエルの希望」の主に訴える。この答えも、10節以降に示されている。エレミヤの苦悩、干ばつに対する、神の沈黙から内省し、神を、主の御心を少しでも、理解しようとしている。
- BRC2013:Jer14:22 異邦の偽りの神々のうちに、雨を降らせうる者があるであろうか。天が自分で夕立を降らすことができようか。われわれの神、主よ、あなたこそ、これをなさる方ではありませんか。われわれの待ち望むのはあなたです。あなたがこれらすべてのことをなさるからです。
- この毅然とした態度には、わたしの表現の仕方とはことなるが、力づけられる。「われわれの待ち望むのはあなたです。」
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- BRC2021:Jeremiah 15:4 私は彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王、ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。
- むろん、このように書かれていたとしても、それだけのためとは言えないのかもしれない。しかし、一人ひとりのこととは異なるようである。罰・裁きは国に与えられるのだから。しかし、10節からは「ああ、災いだ。/私の母よ、あなたが私を産んだので/国中で私は争いの男/いさかいの男とされている。/私は貸したこともなく/借りたこともないのに/国中が私を呪っている。」と、エレミヤのことが書かれている。個人を守られる主についても書かれているが、普遍性は十分ではないように思える。この章の最初に「たとえモーセとサムエルが私の前に立っても」(1b)とあるが、エゼキエル14章14節・20節には「ノア、ダニエル、ヨブ」とある。モーセ、サムエルはとりなし、ノア、ダニエル、ヨブは正しさの象徴なのだろうか、と思った。
- BRC2019:Jer 15:10,11 ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも/だれの債務者になったこともないのに/だれもがわたしを呪う。主よ、わたしは敵対する者のためにも/幸いを願い/彼らに災いや苦しみの襲うとき/あなたに執り成しをしたではありませんか。
- 周囲には、危機的な状況がある。その中で、主の厳しい声が聞こえてくる。それを消し去ることはできない。そして、それを宣言する役目をエレミヤは担っている。様々な時代に生じることのように思う。主のことばに預かるものの苦しさとも言えるが、主との交わりに生きるひとの歩みなのかもしれない。ということは、主はそのような生き方を、ひとり一人に望んでおられるのだろうか。苦しい。しかし、どうも、わたしは、そのように苦しんではいない。真剣に主との交わりに生きていないのか。それとも、エレミヤとは異なる生き方で主に従おうとしているのか。イエス様はどうだろうか。おそらく、喜びも、悲しみも、苦しみもあり、その中で、平安ももっておられたのだろう。
- BRC2017:Jer 15:17,18 わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。
- 苦しみが伝わってくる。引用した14:20と対になっているのかもしれない。それが、ひと。それが、誠実に神のみこころをもとめる、預言者の姿なのだろう。丁寧に読んでいきたい。
- BRC2015:Jer15:18 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。
- エレミヤの苦悩がまず次のように記されている。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも/だれの債務者になったこともないのに/だれもがわたしを呪う。」(10節)実際、トラブルメーカーだったろう。それが預言者のつとめとも言えるし、神の御心と真摯に向き合うことに伴うことなのかもしれない。しかし同時にエレミヤをささえる日常的な経験がある。「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」(16節)ここでの御言葉は啓示というより、聖書、律法だろうか。わたしにとっては、明らかに聖書である。
- BRC2013:Jer15:19 それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。
- 「もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。」口に手をあててしまう。語らない方が良いかもしれないと思い。考えて、神を思って、神と心を一つにすることを願って、語りたい。
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- BRC2021:Jeremiah 16:5 主はこう言われる。あなたは喪中の家に入ってはならない。嘆くために行ってはならない。彼らのために悼んではならない。私が、この民から私の平安を、慈しみと憐れみを取り去ったからだ――主の仰せ。
- これは何なのかと思う。どんな状態でも、悲しむものと共にいることは大切ではないのかと。しかし、それだけ、切迫した状態であることを「あなたはこの場所で妻をめとってはならない。また、息子や娘を得てはならない。」(2)などとともに、示しているのだろう。そして、大転換が書かれている。「それゆえ、その日が来る――主の仰せ。もはや、『イスラエルの子らをエジプトの地から導き上った主は生きておられる』とは言わず、『イスラエルの子らを北の地から、また彼らを追いやったすべての地から導き上った主は生きておられる』と言うようになる。私は彼らを、私がその先祖に与えた土地に帰らせる。」(14,15)しかし、正直にいうと素直には受け入れられない。「それゆえ、私は彼らに知らせよう。/今度こそ、私は彼らに知らせる/わが手とわが力を。/彼らはわが名が主であることを知るようになる。」(21)が不可能に見えてしまうから。どのようにかはわからなくても希望を持つべきなのだろうが。
- BRC2019:Jer 16:9 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる。」
- 章の始めから、主の裁きがどのような形で起こるかが書かれている。「まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。」(18)ともある。最後には「それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。」(21)とある。国が滅び、民が離散する、そのようなエレミヤの時代に生きていないのだから、これは、違うとは言えないが、主は本当にそのような形で、交わりを回復されるのだろうか。疑問に思う。だからといって、わたしが答えを持っているわけではない。人々が「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」(19b, 20)という時は来るのだろうか。
- BRC2017:Jer 16:11 あなたは、彼らに答えるがよい。「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ」と主は言われる。「彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった。
- 確かにこれが原因なのかもしれない。そして、分かりやすい理由でもある。さらに、だれも反論することは困難である。しかし、このことを伝えて、本当に、神とその御子の関係のように、互いに愛する世界が、我々に来るのだろうか。私には、その問いに答えられない。
- BRC2015:Jer16:14,15 見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、 「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。
- 新たな出エジプトについて書かれている。しかし16節以降に書かれている様子は、大分異なる。まずは漁師が釣り上げ、猟師が狩り出し罪と悪を二倍にして報いる。このことを通して、偶像礼拝の空しさ、そして主こそ神であることが知らされる。北は方向としては少し異なるが、バビロンを意味しているのか、それとも、歴史的に他のことを考えることもかのである。しかし、それを詮索することはあまり、意味がないように思われる。エレミヤにとっては、むなしいものを神とせず、神を神とすること、ここにすべてがかかっていたろう。
- BRC2013:Jer16:20 人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません」。
- 明らかでありながら、それをしてしまうのは、本当の神と出会っていないからだろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 17:14 主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます。/私を救ってください。/そうすれば私は救われます。/あなたこそ、私の誉れだからです。
- 主に逆らい、それを正そうとする自分(エレミヤ)を嘲り呪う人々の前で、傷付くエレミヤの姿が描かれている。葛藤があるのだろう。主に、正しさを擁護してもらっても、傷は残る。しかし、その中でも求め続ける姿勢が、主の前に立つエレミヤなのだろうが。混乱も感じる。おそらく、イザヤのときと比較して、危機の切迫感が異なるのだろう。
- BRC2019:Jer 17:24,25 主は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう。
- 安息日の遵守について書かれている。イエスの活動から、安息日を軽く考えてしまう傾向がある。エレミヤの時代、それが非常に乱れていたのか。それとも、わかりやすい、違反が見えやすいからだろうか。安息日にすべきこと、たいせつなことをたいせつにしたい。
- BRC2017:Jer 17:10 心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
- 因果応報とは、多少ずれていても、とても自然な論理である。しかし、これでは、人は救われない。互いに愛しあうことはできないだろう。互いに愛し合うのはひとの世界のことであり「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(9節)なのだから。確かに「希望」は「主」にのみあり(13節)「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。」(14節)主が癒し、主が救ってくださらなければ、生きることはできないが。わたしが立っている場所は、この答えからはとても遠いように思われる。
- BRC2015:Jer17:9,10 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。 心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
- エレミヤにとっての神の表現であろう。人の心には自分の心も含まれているのかもしれない。ヨハネ4章や8章を思い出させる「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」(13節)そして信頼であろうか。「主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」(14節)エレミヤと訴えは異なるが、やはり同じ神を真摯に求めている姿に共感する。
- BRC2013:Jer17:14 主よ、わたしをいやしてください、そうすれば、わたしはいえます。わたしをお救いください、そうすれば、わたしは救われます。あなたはわたしのほめたたえる者だからです。
- このように単純に告白したい。救いをもとめて。
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- BRC2021:Jeremiah 18:20 悪をもって善に報いてよいでしょうか。/しかし彼らは、私の命を狙って穴を掘りました。/御前に私が立ち、彼らについて善いことを語り/あなたの憤りを彼らからそらそうとしたことを/思い起こしてください。
- 陶工のたとえが書かれ、裁き(7)と共に「その国民が私の語った悪から立ち帰るなら、私は下そうとした災いについて思い直す。」(8)についても語るが、エレミヤを殺そうとする計画が起る。そこでの祈りである。引用句の後には「それゆえ、彼らの子らに飢饉をもたらし/剣に渡してください。/彼らの妻が子を失い、やもめとなり/夫は殺害されて、亡くなり/若者は戦いで剣に打たれますように。」(21)などと続く。正しさを主張し続けるエレミヤ、これが、エレミヤに与えられた使命なのかもしれない。しかし、主はその正しさを持ちつつも、それは、一部に過ぎないのではないのか。裁きを下してくださいと祈っている、人たちをも深く憐れまれる方ではないのだろうか。どちらにしても、神の御心を十分受け取ることは、ひとには、難しい。
- BRC2019:Jer 18:9,10 またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」
- 主はほんとうにそのような方なのだろうか。エレミヤはそのように受け取ったとしか言えない。ひとは、主の目には悪とされることを行い、主の声に、全く聞き従うことは、できないのだから。様々な国の盛衰をみながら、エレミヤが受け取ったこととして受け入れれば良いのだろうか。エレミヤも、わたしも不完全なのだから。
- BRC2017:Jer 18:23 主よ、あなたはご存じです/わたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず/罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう/御怒りのときに彼らをあしらってください。
- わたしは、このようには、言えない。なぜなのだろう。正直言って、このように考えることもないように思われる。こころの奥底では思っているのだろうか。ここまでの状況になっていないのだろうか。わたしのこころが普遍主義で麻痺してしまっているのだろうか。ひとり一人に対してかえって、無関心になっているのだろうか。わからない。John H. Walton 先生のいうように、異なる Cultural River にいるから理解できないとすべきなのだろうか。イエスによる啓示以前だからだろうか。
- BRC2015:Jer18:6-8 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。 あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。
- イスラエルに呼びかけているが、後半は、一般的に、一つの民や王国としている。イスラエルの民が受け入れられなかったのは、何だろうか。自分たちはつねに特別と考えていたのか、主の主権的裁きを軽んじていたのか。それとも、また別の理由だろうか。結局、自分自身を神としていることなのか。もう少し掘り下げたい。神の存在すら信じないひとにとって、これらのことばはどのようなメッセージとして映るのだろうか。その人たちにも、メッセージが伝わってほしい。
- BRC2013:Jer18:15 彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。
- エレミヤが書いた言葉としても、なかなか恐ろしい言葉だこんなことを人は考えるのか。これこそ神への反逆。
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- BRC2021:Jeremiah 19:3,4 「ユダの王たち、エルサレムの住民よ、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は災いをこの場所にもたらす。これを聞く者は皆、耳鳴りを起こす。それは、彼らが私を捨て、この場所を異国の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、この場所を無実の人の血で満たしたからである。
- これを言い続けることが、エレミヤが、主から受け取った使命なのだろう。それを、わたしは、批判はできない。ユダが滅びるときに、ここを原点とすることは、必要だったのかもしれない。しかし、ここでも「ユダの王たち、エルサレムの住民」となっており、ユダのひとたち、イスラエル全員ではない。一人ひとりの悔い改めを促しているのではないように思われる。そして、このことが、ひとを、罪びとと捉えることが、人々の呪いとなってしまっているようにも思う。ゆっくり見ていこう。考えていきたい。
- BRC2019:Jer 19:15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」
- 結局、これが、この時点での結論だったのだろう。わたしならどうするだろうか。最後の最後まで、この民と一緒に居て、滅びることを選択するのではないだろうか。正しさは、やはりむなしく感じる。主とともに、そして、隣人とともに、生きることを望みつつ、それが自分には、完全な形ではできないことも覚えつつ。エレミヤの嘆きはともにしたい。
- BRC2017:Jer 19:11 彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。
- 最初の部分が印象的。一度砕いたら元に戻すことができない。それほどに、徹底的に、砕く。これを記すときの恐ろしさをエレミヤは持っていなかったのだろうか。万軍の主への信頼だろうか。
- BRC2015:Jer19:4,5 それは彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである。 彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった。
- 「息子たちを火で焼き」レビ18:21の「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」列王記上11:7「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。」にあるように、ソロモンのころからすでに始まっていたのか。ヨシヤはこれを壊したようだが。「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。」(列王記下23:10)「ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」(エレミヤ32:35)「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり」(エレミヤ1:2)とあるから、まさに子供を犠牲としてささげること(イエスのことともつながる最も大きな罪とされていた)が為されていたことを黙認していたのだろうか。大部分の人たちがしていたとは思えないので。
- BRC2013:Jer19:15 「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、見よ、わたしは、この町とそのすべての村々に、わたしの言ったもろもろの災を下す。彼らが強情で、わたしの言葉に聞き従おうとしないからである」。
- ちょっと怖い。エレミヤは、どのように自分のこととして受け入れていたのだろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 20:7 主よ、あなたが惑わしたので/私は惑わされました。/あなたは私より強く/私にまさりました。/私は一日中笑い物となり/皆が私を嘲ります。
- 世界史的にも、ユダ王国、そして、エルサレムは風前の灯火である。そこで、断罪を叫ぶことを委ねられた、またはそれが、主から任せられたことだと、自分の全存在をかけて、信じている、エレミヤの困惑が吐露されている。このあと、主が共におられることとともに「正しき人を試み/思いと心を見られる万軍の主よ。/私に見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから。」(12)復讐されるのを見せてくださいと祈っている。さらに「呪われよ、私の生まれた日は。/母が私を産んだ日は祝福されてはならない。」(14)自分の人生を肯定できないということだろうか。「労苦と悲しみ」(18b)の中での葛藤も見て取れる。正しいかどうかではないのだろう。そして、おそらく、このエレミヤの叫びが、捕囚後の、イスラエル、捕囚帰還後のイスラエルの中心を形成していったのだろう。イエスの時代までは、まだ遠い。
- BRC2019:Jer 20:12 万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
- この章は「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。」(1,2)から始まり、偽りの預言者およびユダの人々への裁きについて語られ、引用句に至る。正義がどれほど大切であったかがわかる。しかし、わたしは、理解できないでいる。引用句は、しかし、万軍の主との交わりについて、主に委ねることについて書かれており、それは、普遍性をもつように思う。エレミヤやユダの人々の危機的な状況を置いておいて、無駄な議論は不遜なのだろう。引用句に続く「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。」(13)に声を合わせよう。
- BRC2017:Jer 20:7 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。
- なんとも恨みがましい。しかし「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。」(11節)ともある。このエレミヤの祈りとも言える詩文体の文章は「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(18節)で終わっている。葛藤があり、悩みは深い。その中で、神に従いながら、それでも、真剣に神に問い続ける。わたしには、この態度が弱いように思われる。神の御心を探求することを、普遍的な真理に少しでも近づくことの道具としてしまっているのかもしれない。
- BRC2015:Jer20:7-9 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。 主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
- 預言者の苦悩と、それでも語らずをえない、まさに信仰と良心から発せられるうずきが感じられる。まさにアモス3:8「ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう。」そしてその背景にある、苦悩なのだろう。この前の部分をみると、恐怖の預言もある。人々を恐怖に陥れる。こんなことの召命を受け入れられるのかとの苦悩が見える。仲間の不正をあばく、裁きを告げる、簡単に預言者の言葉を読むことはできない。良心との葛藤が、自分自身の尊厳をもおびやかす。そして18節「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」
- BRC2013:Jer20:12 正しき者を試み、人の心と思いを見られる万軍の主よ、あなたが彼らに、あだを返されるのを見せてください。わたしはあなたに、わたしの訴えを/お任せしたからです。
- エレミヤの祈り、その誠実さと、神の主権のもとにあることの告白から学ばせられる。しかしやはり「あだを返す」には抵抗がある。他の表現ならば抵抗がないのかもしれないが。それともこれも神の行為に信頼することであろうか。人の好意とは異なるのだから。
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- BRC2021:Jeremiah 21:12 ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。/さもなければ、あなたがたの悪行のゆえに/私の憤りは火となって燃え上がり/消す者はいないであろう。
- 「主からエレミヤに臨んだ言葉。それは、ゼデキヤ王がマルキヤの子パシュフルと、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤをエレミヤに遣わして、こう言わせたときのことである。」(1)と始まっている。悲しい章である。滅ぼされ、捕囚となることが、預言され、民には、降伏するように説く。しかし、そのときにも、引用句のように語っている。ゼデキヤ王たちは、困ったときの神頼みのように、エレミヤに「主に尋ねてください」(2b)と、願う。その答えだとすると、どのようなとき、すぐにでも起こることを変更はできないかもしれないが「朝ごとに公正な裁きを行い/搾取されている者を虐げる者の手から救い出せ。」がメッセージなのだろう。主が、現状改善ではなく、善いことをしてくださることに、信頼して。
- BRC2019:Jer 21:7 その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。
- ていねいに読むと、このあとの「命の道と死の道」(8)の前に、疫病、戦争、飢饉とある。ここで、すでに、多くの人たちが死んでいったのだろう。そこには、意味はないのだろうか。そのひとり一人をも、主は愛しておられるのではないだろうか。そのひとり一人への主の愛は記録されなくても、そのことを覚えていたい。
- BRC2017:Jer 21:3,4 エレミヤは彼らに答えた。「ゼデキヤにこう言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、お前たちを包囲しているバビロンの王やカルデア人と、お前たちは武器を手にして戦ってきたが、わたしはその矛先を城壁の外から転じさせ、この都の真ん中に集める。
- ゼデキヤ王とその周りの人たちは、エレミヤをひどい目に遭わせても、神から来ていることをおそらく知っているのだろう。知っていて、主の言葉に耳を貸さない。それに対して、エレミヤは毅然としている。主の愛は潰えたかのように。
- BRC2015:Jer21:1,2 ゼデキヤ王に派遣されて、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ツェファンヤが来たとき、主からエレミヤに臨んだ言葉。彼らは言った。 「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう。」
- このあとの、厳しいエレミヤの言葉は有名である。しかし、この心の内を語っている20章を今回すこし考えることができたのは、収穫だった。そして、この厳しいことばの中にも12節のようなことばが含まれている。「ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人を/虐げる者の手から救い出せ。わたしが火のような怒りを/発することのないように。お前たちの悪事のゆえにその火は燃え/消す者はいないであろう。」ひとはこれを条件としてなにかを願う。そうではないのだろう。希望が潰えたときにも、主と向き合うこと、たとえ、滅ぼされることが当然であっても、それを今日始めることに召されているのだろう。考えさせられる。
- BRC2013:Jer21:1,2 ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュルと祭司マアセヤの子ゼパニヤを、エレミヤのもとにつかわし、「バビロンの王ネブカデレザルがわれわれを攻めようとしているゆえ、われわれのために主に尋ねてほしい。主はそのもろもろの不思議なわざをもって、われわれを助け、バビロンの王をわれわれから退かせられるかも知れない」と言わせた。その時、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
- まず悔い改め、主の御心を求めるものではない。苦しいときの神頼みそのものであろう。神の御心をまずは求めたい。
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- BRC2021:Jeremiah 22:3 主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。
- 「公正」はこの後にも登場するが、王が守るべきこととして最初にかかれているのが「公正・正義」そして、その具体的なことが続く。それが神の価値観だということだろう。素晴らしい。しかし、同時に、民、個人については、偶像礼拝をしない以外、明確ではないように思う。滅びも、王の過ちにの責任が多いように感じる。個人の信仰の価値が未発達だということだろうか。国家の、危機にあって、中心となるのは「公正・正義」であることを強調しているのだろうか。
- BRC2019:Jer 22:8-10 多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに尋ね、「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」と聞くならば、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」と答えるであろう。死んだ王のために泣くな。彼のために嘆くな。引いて行かれる王のために泣き叫べ。彼が再び帰って/生まれ故郷を見ることはない。
- 南ユダ王国の滅亡の理由を、単に、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」という表現に帰することに違和感を感じるが、ここでは、ある文脈のもとで語られていることは、受け取るべきだろう。「死んだ王」「引いて行かれる王」について書かれている。18節に「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキム」とあり、その前の記述「あなたの父は、質素な生活をし/正義と恵みの業を行ったではないか。」(15)「彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。」(16)とあり、この二人が背景にあるのだろう。どのような王かは、たしかに、国の盛衰に関係する。リーダーシップも影響があるだろうが。文脈は重要である。しかし、そこだけに、原因を押しつけることには、やはり違和感を感じるが。
- BRC2017:Jer 22:24 「わたしは生きている」と主は言われる。「ユダの王、ヨヤキムの子コンヤは、もはやわたしの右手の指輪ではない。わたしはあなたを指から抜き取る。
- 「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである。」(37章1節)「ヨヤキムの子はエコンヤ。その子はゼデキヤである。」(歴代誌上3章16節)(エステル記2章6節参照)「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。」(マタイ1章11節)となっており、他ではエコンヤと呼ばれている。ヨヤキムは上記以外、エレミヤにしか現れていない。29節の「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。」はとても印象的である。この地に残るもの、または、国の盛衰に関係なく、そこにあるものに言葉を届ける必死さだろうか。ひとには届かない空しさもあるのかもしれない。
- BRC2015:Jer22:28-30 この人、コンヤは砕け、卑しめられた壺か。だれも惜しまない器か。なぜ彼と彼の子孫は追放され/知らない国へ追いやられるのか。 大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。 主はこう言われる。「この人を、子供が生まれず/生涯、栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは/だれひとり栄えてダビデの王座にすわり/ユダを治める者が出ないからである。」
- コンヤはユダの王、ヨシヤの子、ヨヤキムの子である。(18, 24節)1節から5節ではまだ悔い改めを迫っているが、むなしい。そして、ヨヤキムについて預言し、この箇所にいたる。「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。」ここに、エレミヤの苦悩が現れているように感じる。ユダの滅びの直前でありながら、だれも聞かない、嘆きだろうか。このことばを、だれも覚えていなくても、地は覚えておけと言っているのか。すでに、冷静ではないのかもしれない。世界情勢も、そして、霊的な神との交わりにおいても、エレミヤにはまったく確実なことだったのかもしれない。
- BRC2013:Jer22:3 主はこう言われる、公平と正義を行い、物を奪われた人を、しえたげる者の手から救い、異邦の人、孤児、寡婦を悩まし、しえたげてはならない。またこの所に、罪なき者の血を流してはならない。
- この危機的なときにも、求めることは同じ。わたしたちがすべきことも同じなのだろう。
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- BRC2021:Jeremiah 23:1,2 災いあれ、私の牧場の羊の群れを滅ぼし、散らす牧者に――主の仰せ。それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者についてこう言われる。あなたがたは、私の羊の群れを散らし、追い払い、顧みなかった。そこで、私はあなたがたの悪行を罰する――主の仰せ。
- この章では「(民の)牧者」と「(偽 - にせ)預言者」(9節以降)について書かれている。牧者は具体的に、どのような人を指しているのだろうか。祭司だろうか。長老だろうか。もう少し、広く、指導的立場にある人を背指しているのかもしれない。ここでは、罰するとあるが、その内容はなく「群れの残りの者」(3)を集めることが書かれている。これらの人たちについても、注意して学んでいきたい。
- BRC2019:Jer 23:35,36 お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。 「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神で/ある我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。
- 7節・8節で、捕囚後の帰還の預言が語られるが、そのあとは、預言者の糾弾が続く。特に「サマリアの預言者たち」(13)について語る直後に「わたしは、エルサレムの預言者たちの間に/おぞましいことを見た。」(14)は強烈である。預言をしながら、偽りに歩み、悔い改めないということか。預言者(祭司も含めて(33))への裁きは厳しいのだろう。エレミヤも、祭司の子の、預言者であるが。
- BRC2017:Jer 23:23,24 わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。
- ”From a Distance” という歌を思い出した。この箇所は、far, far away, far off が英語では使われているが。主を、自分勝手に理解してはいけないことが、この箇所からも伝わってくる。
- BRC2015:Jer23:33 もし、この民が――預言者であれ祭司であれ――あなたに、「主の託宣(マッサ)とは何か」と問うならば、彼らに、「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、と主は言われる」と答えるがよい。
- 難しい箇所である。21節には「わたしが遣わさないのに/預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに/彼らは預言する。」とある。次の言葉もとても興味のある表現である。「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。」(23, 24節)「お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、『主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか』とだけ言うがよい。」(35節、参照37節)預言の問題はむずかしい。しかし、神の御心を問うこと、求めることこそに本質があるのだろう。答えをすぐみ求めず。エレミヤはまたじっくりと読んでみたい。いままでは、好きな箇所のつまみ食いだったので。
- BRC2013:Jer23:19 見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。
- このようなメッセージに目を留めなければいけないのだろう。しかしそれを語るのは、とても辛い。
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- BRC2021:Jeremiah 24:7 私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。
- このあとの歴史を少し知っているわけだが、このことは、真実であると同時に、そうとも言えない面も持っている。複雑な世界、しかし、神様は、その中で、どうしたらよいか、迷っておられるようにも見える。神様と言わなくても良いのかもしれないが。わたしは、真理を御心と同一視して求めている。しかし、現実が少しずつ分かっていく中で、なにをたいせつにして生きるべきか、それほど簡単ではないことも、感じている。おそらく、それぞれのときに、正しいことは、わからないのだろう。そして、おおきな間違いをしなければよいとも言えない。ひとは、間違えるので。結果責任のようなことは、避けられない部分もあるのだろう。難しい。
- BRC2019:Jer 24:8 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。
- 5節には「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。 」とあり対をなしている。この二つを分けたものはなにか。自ら選ぶことは、できなかったろう。そして、おそらく、優秀な人材は、捕囚となったろう。そう考えると、理不尽に感じる。
- BRC2017:Jer 24:7 そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
- 「非常に良いいちじく」と「非常に悪くて食べられないいちじく」にたとえて「カルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民」(5節)と「この国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者」(8節)とに対する預言を書いている。わたしたちは、聖書に書かれている記述から、これが限定的にではあるが、そのようになったことを知っている。同時に、永遠に関することではないことも。両方の面を丁寧に受け取らないといけない。真理を求めるためには。捕囚は、王や高官たち以外にも「工匠や鍛冶」のことが書かれているのは興味深い。技術者は、有用だったのだろう。
- BRC2015:Jer24:8-10 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。 わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。 わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」
- これを人間として理不尽だと考えるのは当然だろう。しかしキリスト教会は、5-7節を中心にかたり、こちらはあまり語らない。それも、信仰の問題だと言わんばかりに。バビロンに捕囚されるか、残るかは、自己責任の選択だったのだろうか。捕囚を希望することは果たして、任意だったのか。さらに、任意だったとしても、この結果は理不尽である。そしてそれは、人間の考えで、主権的な神の働きのうちにあると考えるのも信仰なのだろう。さらには、エレミヤが見えていたこと、神の御心としていたことがある本質を捕らえていても、絶対的なものではないのかもしれない。
- BRC2013:Jer24:8 主はこう仰せられる、わたしはユダの王ゼデキヤとそのつかさたち、およびエルサレムの人の残ってこの地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、この悪くて食べられない悪いいちじくのようにしよう。
- 神様に実を提供するものになりたい。しかし悪いいちじくではなく「はじめて熟したような非常に良いいちじく」でありたい。
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- BRC2021:Jeremiah 25:7 しかし、あなたがたは私に聞き従わなかった――主の仰せ。あなたがたは自分の手で造ったもので私を怒らせ、災いを招いた。』
- わかりやすいメッセージではあるが、今のわたしには、受け入れられない。神様が、(わからないことは不明としてそのうえで)すべてをご存知なら、このようなことは、単純に、ノアの洪水の繰り返しになることを知っておられるだろう。だからといって、条件をゆるくすることがよいようにも思わない。イエス様の言われたことが「神の子として生きる道を、選びましょう。神様はあなたの近くにおられます。」と理解すれば、ある程度は、そのように、生きることができるかもしれない。正解はなく、神の子として生きることにはならないわけだが。そのように、生きようとするもの同志と、互いに学び合いながらということなのだろうか。
- BRC2019:Jer 25:8,9 それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。
- ある状況の意味を考える。それが、将来への希望へとつながる。そうなのかもしれないが、そうでないかもしれない。この直後の、11節に「この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」これが実現することとなる。それは、様々な記述からおそらく正しいだろう。しかし、そうだからと行って、意味づけがみな正しいとは限らない。わたしには、わからない。
- BRC2017:Jer 25:33 その日には、主に刺し貫かれた者が地の果てから地の果てまで、嘆くこともなく横たわる。集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。
- 「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53章5節)「――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2章35節)を思い出す。そして詩篇には「あなたに打たれた人を、彼らはなおも迫害し/あなたに刺し貫かれた人の痛みを話の種にします。」(詩篇69編27節)ともある。「主に刺し貫かれる」ことの背後にも、深い、神の痛みがあるように思われる。
- BRC2015:Jer25:11,12 この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。 七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。
- 少しずつ現実とずれているところが真実に近いのだろうか。でも、七十年は不思議ではある。このあとに、様々な国への裁きが書かれている。これを事実とまず受け入れる読み方は狭いように思われる。エレミヤが受け取ったものをまずはしっかり学びたい。
- BRC2013:Jer25:37 主の激しい怒りによって、平和な牧場は荒れていく。
- 平和の主を誤解してはならない。平和が目的ではないということだろう。じっくり言語化したい。
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- BRC2021:Jeremiah 26:19 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺そうとしたであろうか。主を畏れ、主に願い求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」
- モレシェトの人ミカのユダの王ヒゼキヤの時代の預言(18)のときのことを語っている。たしかに、ヒゼキヤとの違いは大きいのだろう。ただ、正直に言って、アッシリアの時代とバビロニアの時代の違いもあり、このような単純な因果関係で、悔い改めれば、主は災いを思い直されると考えることに、わたしは同意できない。イスラエルの民だけの神ではないと思っていることも一つの理由である。学問的には、理解は異なって来ているが、聖書理解において、それをコミュニティは受け入れられるだろうかとの危惧も同時に持っている。難しい。
- BRC2019:Jer 26:19,20 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それは、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。
- たしかに「彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。」(3)とも語られている。ここでの、「この地(どの地か不明)の長老数人」(16)は勇気のある行動だったろう。しかし、このように、割れたときに、主はどうされるのか。すでに、遅いのではと考えてしまう。
- BRC2017:Jer 26:3 彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。
- 神のあわれみと忍耐を感じさせることばである。この後に及んで、まだこのようなことを語られるのかと。エレミヤの神理解の表れかもしれない。同時に、単純すぎるのではとも感じてしまう。神様のなさることは、もう少し複雑なように見える。現代では、神理解が深まっていると言って良いのだろうかという疑問も生じる。エレミヤが語っている、危機的な状況で、神を求めることについて、考えさせられる。
- BRC2015:Jer26:20-24 主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それは、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。 ヨヤキム王は、すべての武将と高官たちと共に彼の言葉を聞き、彼を殺そうとした。ウリヤはこれを聞いて、恐れ、逃れて、エジプトに行った。 ヨヤキム王はアクボルの子エルナタンを、数人の者と共にエジプトに遣わした。 ウリヤはエジプトから連れ戻され、ヨヤキム王の前に引き出された。王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた。 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤを保護し、民の手に落ちて殺されることのないようにした。
- 因果応報で考えるのは、誤っているだろう。21:8,9 にある「命の道と死の道」をここに持ち込むことも、預言的なことばの解釈としては意味があるかもしれないが、本質を見誤るように思われる。神の主権と、すべてに神が介入されるわけではない、ひとの責任の部分の大きさと、神の憐れみについて思い巡らす。結局、納得できる解答があるわけではないが。
- BRC2013:Jer26:13 それで、あなたがたは今、あなたがたの道と行いを改め、あなたがたの神、主の声に聞き従いなさい。そうするならば主はあなたがたに災を下そうとしたことを思いなおされる。
- 神様にはできないことがあることを思い知らされる。われわれが心から悔い改めて、道と行いを改めること。そして神様はそれを望んでおられる。
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- BRC2021:Jeremiah 27:6,7 今や私は、これらすべての地を私の僕であるバビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかしついには、彼の地にも時が来て、多くの国民と偉大な王たちが彼を自分たちに仕えさせる。
- バビロンの王ネブカドネツァルを「私の僕」と呼び、その孫の時代までのこと、諸国民のことを語り、この時点ではときは明確ではないが、そのバビロンも「多くの国民と偉大な王たち」に使えるようになることを預言している。エレミヤは、悔い改めを説いても、それが受け入れられることはないことにも、確信があったのかもしれない。時代は、エレミヤの預言では終わらない。御心を求め続けることの困難さも感じる。しかし「主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る」(16)のような預言(後の加筆ではないとすると)を信じて、捕囚の民の中で、ここに希望を見出していたひともいたのだろう。難しい。
- BRC2019:Jer 27:8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼす。
- このことを主のことばとして語らなければならないとは、残酷である。しかし、このような時に、先の先を見ながら、主の声に聞き従うことが求められるのか。エレミヤにとっても、わからないことが、多かったのではないだろうか。エレミヤに聞いてみたい。
- BRC2017:Jer 27:11 しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる。」
- 「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国」(8節)に対してのことばであるが、このような確信はどこから来るのだろうか。ユダヤの人々、ユダ王国の人々に、残ったり、エジプトに逃げたりする選択肢以外を示すことは、ある程度意味を感じるが、預言者の役割とその権威については、正直疑いも持つ。なにもわからない人間は、限界の中で生きていることは確かだから。
- BRC2015:Jer27:14,15 バビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ。 主は言われる。わたしは彼らを派遣していないのに、彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしている。彼らに従うならば、わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす。」
- 主が遣わしたかどうかはどのように分かるのだろうか。むろん、簡単ではない。証は本質的には神から来る。わたしたちは、それを完全に知ることはできないだろう。ヨハネによると(5章31-41節)その業を見て見極めることになる。日常的に、神の業を求め、学んでいると、それが神からのものかどうかが分かるというのだろう。しかし、結局は、神のものであるかで、それが分かるかどうかは決定される。論理的な明確さでは判断は、難しい。まったく不可能なわけではないが。
- BRC2013:Jer27:22 これらはバビロンに携え行かれ、わたしが顧みる日までそこにおかれている。その後、わたしはこれらのものを、この所に携え帰らせると主は言われる」。
- これは、最後ののぞみまでも奪い曝れれるような気がしたであろう。しかしこの時に及んでも、人は悔い改めることができない。悲しい。
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- BRC2021:Jeremiah 28:13,14 「行って、ハナンヤに言え。『主はこう言われる。あなたは木の横木を打ち砕いたが、その代わりに鉄の横木を作ることになる。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらのすべての国民の首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。そこで彼らは彼に仕える。私は野の獣まで彼に与えた。』」
- エレミヤは「七十年が満ちると、私は、バビロンの王とその国民の上に、またカルデア人の地の上に、その過ちのゆえに罰を下し、これをとこしえに荒廃させる――主の仰せ。」(25章12節、参照25章11節、29章10節、イザヤ23章15節には「一人の王の生涯に等しい七十年」との表現もある)と預言している。ここでは、預言者ハナンヤがその期間は2年だということ、さらに、すべての民を帰らせるという預言をする。同様の筋に載っているが内容はかなり違う預言、それに対する対応が書かれているのがこの章である。「平和を預言する預言者は、その言葉が成就したときに、本当に主が遣わされた預言者であったと分かる。」(9)は印象的であるが、預言の難しさも感じる。ひとは、そして、エレミヤも完全ではないのだから。正しさを追い求めることに限界を感じている現代人の困難でもあるのかもしれない。難しい。
- BRC2019:Jer 28:2-4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
- ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤの言葉である。これに対して、エレミヤは「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(9)と応える。この章の最後は「預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。」(17)と結ばれている。エレミヤも捕囚の期間は、70年と預言しているので、これも、それが成就してはじめて、主が遣わされた預言者であることがわかるのだろう。しかし「平和を預言する者は」ともある。裁きを告げる場合は、成就しないこともあることが暗に含まれているのかもしれない。悔い改めがあるのだから。いずれにしても、預言者、主のことばを取り次ぐことは、たいへんな使命である。通常は、その役目を担い得ない。
- BRC2017:Jer 28:10 すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。
- ちょっとしたパフォーマンスである。このときも、エレミヤは立ち上がり、預言をする。ここまでの確信は、どこから来るのだろうか。わたしには、言えない。
- BRC2015:Jer28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
- 似た言葉が聖書に何回も登場すると思っていたが、見つからなかった。「エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちよ。平和がないのに、都のために平和の幻を見る者たちよ、と主なる神は言われる。」(エゼキエル12:16, Cf. 13:10)なども心に残っていたからだろうか。偽りを語る預言者ともとれるが「滅びを預言する者」を考えたくなる。これは、警告であり、神の憐れみによって、そうならないことがあることが背景にあるのだろう。神からのメッセージの取り次ぎは、基本的に、神のみこころに従って生きるように勧めるものであるから。さらに、平和は耳障りがよい、ひとびとに安心を与える。ここまでは、問題はないと思われるが、多くの場合、それにより賞賛をうけることも、警告しているのかもしれない。
- BRC2013:Jer28:9 平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
- このあとにハナニヤとエレミヤのやり取りがつづく。預言者の仕事は、予言するということより、神が望まれる生き方を伝えることなのかもしれない。それを背景に理解した方がよい。
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- BRC2021:Jeremiah 29:10,11 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている――主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。
- 若い頃暗証していた聖句である。希望を与えられた。しかし、前半に続くもので、一般的な神様の計画と取ることはできないことも明らかだ。「平和を預言する預言者」(28章9節a)のそしりを免れない。しかし、このあとに続く「あなたがたが私を呼び、来て私に祈るならば、私は聞く。私を捜し求めるならば見いだし、心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる――主の仰せ。」(12-14a)は、このあとに続く、具体的な預言を考えると、やはり、一般的な言説ではないにも関わらず、神様の一般的なご性質だと取れないこともない。このような解釈も非常に難しいと感じた。
- BRC2019:Jer 29:21,22 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、わたしの名を使って、あなたたちに偽りの預言をしているコラヤの子アハブとマアセヤの子ゼデキヤに対してである。今、わたしは彼らをバビロンの王ネブカドレツァルの手に渡す。王は彼らをあなたたちの目の前で殺す。この二人のことは、呪いの言葉として使われ、バビロンにいるユダの捕囚民は皆、『主が、お前をバビロンの王に火あぶりにされたゼデキヤとアハブのようにしてくださるように』と言うようになるだろう。
- バビロンに手紙を送ってまで、このように断言する。わたしには、エレミヤのことがよくわからない。エレミヤの思い、願いは何だったのだろうか。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(11)この希望だろうか。主との交わりの中で、これを確信していたのだろうか。
- BRC2017:Jer 29:31 「すべての捕囚民に書き送れ。ネヘラミ人シェマヤに対して主はこう言われる。シェマヤは、あなたたちに預言したが、わたしは彼を遣わしてはいない。彼は偽ってあなたたちを安心させようとしている。
- これについても、はっきりしている。この毅然とした態度が、エレミヤの言葉を信じさせたのかもしれない。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」(10節)は信じられ、かつ、ほとんどその時期に解放が始まったのだから。
- BRC2015:Jer29:10,11 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
- エレミヤは「平和」を預言している。このあとには「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」(12-14)と続けている。エレミヤは、イスラエルの民の信仰にも望みを置き、それに神様が答えてくださるところまで含めて、神様に信頼しているのか。エズラ1;1 や、歴代誌36:21,22、ダニエル9:2 を見ると、エレミヤのことばは、十分知られていたようにも見える。12節は印象的である。
- BRC2013:Jer29:5 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
- これはかなりつらかったろう。しかし同時に、現代も同じだと感じる。
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- BRC2021:Jeremiah 30:20-22 ヤコブの子らは昔のように栄え/その集いは私の前に揺るぎなく立てられる。/彼らを抑圧する者を私は罰する。力ある者が彼らから起こり/治める者が彼らの中から出る。/私が彼を近づけるので/彼は私に近づく。/彼のほかに、一体誰が命を懸けて/私に近づくであろうか――主の仰せ。こうして、あなたがたは私の民となり/私はあなたがたの神となる。
- この章には「なぜ自分の傷のことで叫ぶのか。/あなたの痛みは癒えない。/あなたの多くの過ち/あなたの数知れない罪のために/私があなたにこうしたのだ。」(15)と語りつつ、最後は、引用句にある、希望のメッセージになっている。エレミヤも、傷の痛みを感じながら、希望を持ち続けていた預言者なのかもしれない。しかし、正直、引用しているような平和は来ない。現状分析は厳しく、正しくとも、それがどのように解決されるかは、とても、困難なのではないかと思う。
- BRC2019:Jer 30:3 見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」
- 回復は、この記述からは、エレミヤは、捕囚帰還とともに、起こると考えていたのではないだろうか。「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。」(8)ともあり、さらに「こうして、あなたたちはわたしの民となり/わたしはあなたたちの神となる。」(22)とも言っている。最後の「主の激しい怒りは/思い定められたことを成し遂げるまではやまない。終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る。」(24)とあり、これが終わりの日に起こることとして語っているようだ。だからといって、エレミヤを責める気にはならないが、おそらく、エルサレムが完全に打ち破られ、廃墟となることは、それほど、決定的であり、それゆえに、回復は、終わりの日の回復ほど、本質的なものとして確信したのだろう。
- BRC2017:Jer 30:8,9 その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。 彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる。
- このような救いを考えることは自然だろう。そして、それが、絶対に起こらないと言い切ることはできない。しかし、本当に、それが、万軍の主の望まれることなのだろうか。わたしは、はなはだ疑問である。エレミヤは間違っていると排除するわけではない。エレミヤの時代に、命を危険な状態においても、真剣に神の御心を求め続けたのだから。わたしもそのように生きたい。
- BRC2015:Jer30:21 ひとりの指導者が彼らの間から/治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので/彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて/わたしに近づくであろうか、と主は言われる。
- 脈略はよく分からないが、特別な、新しい指導者が予見されていることが分かる。イエスのような指導者なのだろうか。もし、政治的な指導者であれば、指導できる期間は短い。民主的な体制も永続的ではない。神から来る救いを見極める以外にはないのだろう。それで良いのかもしれない。
- BRC2013:Jer30:23,24 見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。主の激しい怒りは、み心に思い定められたことを行って、これを遂げるまで、退くことはない。末の日にあなたがたはこれを悟るのである。
- これは、重く受け止めるべきことだろう。しかし不満が残る。この神に信頼するのは難しい。ひとも、神のかたちを少しでも頂いている以上。信頼はどのようにして、生まれるのだろう。
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- BRC2021:Jeremiah 31:15 主はこう言われる。/ラマで声が聞こえる/激しく嘆き、泣く声が。/ラケルがその子らのゆえに泣き/子らのゆえに慰めを拒んでいる/彼らはもういないのだから。
- マタイ2章17,18節で引用されている言葉である。このあとには「主はこう言われる。/あなたの泣く声を/目の涙を抑えなさい。/あなたの労苦には報いがあるからだ――主の仰せ。/彼らは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある――主の仰せ。/子らは自分の国に帰って来る。」(16,17)とある。26章からはエレミヤの後半生について書かれている部分であもる。エレミヤは涙の預言者とも言われるが、このような預言は、もしかすると、主が、エレミヤへの慰めとして与えたのかもしれないと思った。そのような感想には、批判もあるだろうが。エレミヤと、神様との深い、交わりをのことばも、受け取りたいと思う。
- BRC2019:Jer 31:16,17 主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。
- エレミヤは、イスラエルの滅亡のときにも、希望をしっかり持っていたのだろう。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 」(33)ひとを知り、主を知り、のぞみを託し、主からのメッセージとして受け取ったのだろう。驚かされる。
- BRC2017:Jer 31:20 エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。
- いとおしいエフライム。このときは、エフライムはすでに他の地に移されている。まだ、消息はあったかもしれない。しかし、残念ながら今は分からないといった方が正しいだろう。一つの部族の救いを語るなら、それは失敗している。しかし、このことによって、エレミヤが知っている方の愛を伝えるなら、それは、十分な価値のあるものなのだろう。
- BRC2015:Jer31:5,6 再び、あなたは/サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。 見張りの者がエフライムの山に立ち/呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう/我らの神、主のもとへ上ろう。」
- エレミヤは、サマリヤ、そして北イスラエルの復興をみている。実際には、このあとの歴史は、それと逆方向に動くことになるが。それでも、希望はかわらないだろう。それがエレミヤの祈りでもある。
- BRC2013:Jer31:26 ここでわたしは目をさましたが、わたしの眠りは、ここちよかった。
- おそらくそのような目覚めだけではなかったろう。しかしこのように、告白する。エレミヤのすごさも感じる。
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- BRC2021:Jeremiah 32:42,43 主はこう言われる。かつて、この民にこの極めて大きな災いを下したように、私は、約束したあらゆる恵みを彼らにもたらす。あなたがたが、「この地は荒れ果て、人も獣もいなくなり、カルデア人の手に渡される」と言っているこの地で、畑が買い取られるようになる。
- エルサレムが包囲され、エレミヤが監視の庭に勾留されている時(2)に、おじの子花ムエルが監視の庭に来て、ベニヤミンの地のアナトとにある畑を買ってください(8)と依頼し、このことは、主から出たこととして、それを買う決断をする、最後に記されていることばである。信仰・希望、そして、愛もあるかもしれない。通常は、絶望で、率直に、神の言葉を伝えようとするエレミヤに対する批判が強く、自らの自由がないときに、(自由さを保って)行動まで起こす。やはりこれは、大変なことだろう。ひとつの正しさに固執するのではなく、神の御心を求め続けることは、自分が受け取った真理は、ほんの一部に過ぎないことをわきまえ、求め続けることにつながっているということだろうか。その態度を見習いたい。たいへんであることは、理解できるが。
- BRC2019:Jer 32:8 主の言葉どおり、いとこのハナムエルが獄舎にいるわたしのところに来て言った。「ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください。」わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。
- ベニヤミン族の所領に属するとある。エレミヤは祭司の家系であり、族をまたいで嗣業があったのだろう。しかし、70年との関係は気になる。ヨベルの年には、返還することになるのだろうか。17も少し気になる。いずれにしても、カルデヤ人にエルサレムが包囲されている中で、エレミヤがこの行為に及んでいることが重要なのであろう。しかし、土地所有は、統治体制が変化すると、変化するとはエレミヤには思われなかったのだろう。主からの嗣業だから。
- BRC2017:Jer 32:24,25 今や、この都を攻め落とそうとして、城攻めの土塁が築かれています。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデア人の手に落ちようとしています。あなたの御言葉どおりになっていることは、御覧のとおりです。それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたしに、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。この都がカルデア人の手に落ちようとしているこのときにです。」
- エルサレムが陥落する直前の言葉として記録されている。神の御言葉、自分がこれこそ神からの言葉だと信じたことを伝え、その通りにいま実現しようとしている。そしてさらに70年後に捕囚の地から帰還する預言に対して、証人となるべく、土地の正式な取引をする。生き方を通して、神に信頼していることが分かる。それが、今に至るまでエレミヤ書が読み継がれている理由なのだろう。すべて正しいからとすることは、かえって方向性を誤られる可能性がある。わたしも謙虚に主に信頼し、真理と信じることを受け入れてリスクをとりながら生きていきたい。
- BRC2015:Jer32:37-40 「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。 わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。
- これは、成就したのだろうか。それとも、計画の一部しか、エレミヤは見ていないのか。このように考えること自体に、問題があるのかもしれない。エレミヤが神の御心を求める中で、現実の世界をみつつも主を信頼して、希望のなかで見た世界がこれなのだろう。そして、それを見せてくださったのは、主だと、告白できるように思われる。そして、それは、われわれにも通じている。エレミヤが見た希望を、わたしも希望としよう。
- BRC2013:Jer32:2,3 その時、バビロンの王の軍勢がエルサレムを攻め囲んでいて、預言者エレミヤはユダの王の宮殿にある監視の庭のうちに監禁されていた。 ユダの王ゼデキヤが彼を閉じ込めたのであるが、王は言った、「なぜあなたは預言して言うのか、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはこの町をバビロンの王の手に渡し、彼はこれを取る。
- この章には、エレミヤが、この後に及んで、叔父と土地売買の契約をする、エレミヤの信仰に目を向けていたが、神様の忍耐、ゼデキヤや、ユダの改心を神様が待っておられることに強い印象をうけた。The Savior is Wating to Enter Your Heart. Why don’t you let him com in?
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- BRC2021:Jeremiah 33:21,22 僕ダビデと結んだ私の契約も破られる。彼には、その王位を継ぐ子がいなくなり、私に仕えるレビ人である祭司との契約も破られる。数えきれない天の万象や、量りえない海の砂のように、私はわが僕ダビデの子孫と、私に仕えるレビ人の数を増やす。」
- この章の最後は「私はヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、彼の子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないであろう。しかし私は、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」(26)とある。不思議な預言である。彼らの繁栄を回復するとしながら、ダビデの子孫が王位につくこともなく、祭司の系統も途絶えるのだろう。しかし、これらの人たちの数は増す。正しいかどうかの解釈に終始よりも、エレミヤが十分は理解できなくても、自分が受け取ったことを伝えようとしたことに、希望を感じさせる。将来について知りたいということよりも、主に希望を置くことがたいせつなのだろうから。
- BRC2019:Jer 33:17,18 主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。」
- エレミヤは、獄舎に拘留されている。(1)まだ、イスラエル(ユダ王国)が滅亡する以前に、その回復を預言している。他のエレミヤの預言のように70年後のことではないのかもしれない。引用句のような回復は起こっていないとみるのが、正しいだろう。そこで、これがいつか起こるとみる見方もあり、それが信仰ある者の希望だとするひとも多くいるだろう。わたしは、それよりも、この信仰者エレミヤから学ぶことのほうが多いのではないかと思う。すべてを正しいとするのではなく、エレミヤが与えられているすべてをもって、どんなときにも、希望を主に委ねて、主を信頼し続けることだろうか。
- BRC2017:Jer 33:9 わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。
- 主の憐れみなのかもしれないと、今日読んでいて思った。エレミヤだけではなく、主に信頼する者たちへの。人がどのくらいのことに耐えられるかも、その弱さとともにご存じなのだろう。乱暴な解釈かもしれないが。私たちには、完全には知ることはできない。
- BRC2015:Jer33:6 しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。
- 本当にそうなのかと問うことこそ不信仰なのだろう。「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(28:9)と自ら宣言するエレミヤにとって、回復の宣言は、とくにチャレンジだったかもしれない。しかし、それこそがエレミヤが見せていただいた幻なのだろう。すこし異なる形でそれが実現したとしても、それを非難するのではなく、獄舎に拘束されたなかで、預言し続けた、エレミヤにならいたい。
- BRC2013:Jer33:3 わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。
- やはり主は待っておられる。
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- BRC2021:Jeremiah 34:8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。
- 興味深い章である。ゼデキヤについての預言(1-5)、その直後に、奴隷解放宣言が記され、契約に加わった高官や民が実行するが、自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し仕えさせた(9-11)ことが書かれ、それに対するエレミヤの言葉が記されている。また「この時、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町の中で、これらの城壁に囲まれた町だけがまだ残っていたからである。」(7)の記述も含まれており、客観的状況もある程度わかる。「『七年の終わりには、あなたがたはそれぞれ、あなたのもとに売られて来た同胞のヘブライ人を去らせなければならない。六年間、彼があなたのために働いたなら、彼を自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない。』ところが、あなたがたの先祖は私に聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。」(14)は出エジプト記21章2節、申命記15章12節にあるが、本当にこのことが実行されていたのか、興味を持っていた。おそらく、常には実行されていなかったであろう。律法とは当時の人達にとって何だったのかも垣間見ることができ、興味深い。
- BRC2019:Jer 34:17 それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。
- エルサレムの貴族と民が契約に従わない民であることを再確認されたことが記されている。「このとき、バビロンの王の軍隊は、エルサレムと、ユダの残っていた町々、すなわちラキシュとアゼカを攻撃していた。ユダの町々の中で、これらの城壁を持った町だけがまだ残っていたのである。」(7)これが背景である。そのような状況で「ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。」(8)とある。危機的な状況で、まだ、契約を破ってでも、奴隷を自分のために留め置くのか。悲しくもなる。絶望的な中で、人はなにを望んでいたのだろうか。エレミヤの行動にも驚かされる。
- BRC2017:Jer 34:11 しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分とした。
- ゼデキヤによる奴隷解放令(9節)も、ゼデキヤの自己保身があったのかもしれない。何と人は弱いものか。なぜ、守れないのだろうか。神を愛すること、隣人を愛することが理解できないからだろうか。身近な利得を手放すことができないのかもしれない。「わたしの契約を破り、わたしの前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。」(18節)契約方法の中に表された重要さも形式と化すのかもしれない。
- BRC2015:Jer34:17 それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。
- 8節から奴隷の解放について書かれている。イスラエルの民が奴隷の身から解放されたことも根拠として書かれている。それをしていない裁きがこの節である。エレミヤを通して、様々なことが語られている。実務的なことともとれるが、そのときどきに、様々な現実から、神の御心を学び取っていたといえるかもしれない。おそらく、ずっと続いていたことが、このとき、エレミヤに明らかにされたのだろう。
- BRC2013:Jer34:8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を立てて、彼らに釈放のことを告げ示した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。
- このあとも単純とは言えないが、5節の「あなたは安らかに死ぬ。」の根拠としているのかもしれない。同時に、2Chr36:12「彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。」の言葉も思う。
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- BRC2021:Jeremiah 35:6,7 すると、彼らは言った。「我々はぶどう酒を飲みません。我々の父祖、レカブの子ヨナダブが我々に命じて、『お前たちも、お前たちの子孫も、決してぶどう酒を飲んではならない。また、お前たちは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう園を造ったり、また所有したりしてはならない。お前たちは生涯、天幕に住まなければならない。お前たちが滞在する土地で長く生きるためである』と言ったからです。
- このことに聞き従ってきた(8)とある。エレミヤはそのことを知っていて、民の前でこのことを確かめ、語っている。神の命令ではないが、このように聞き従う者を知ることは、エレミヤにとっても、重要なことだったのではないだろうか。忠実な人たちを見出したのだから。内容はともかく、イエスももしかすると「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5章34節、10章52節、ルカ7章50節、8章48節、17章19節、18章42節、参照マタイ9章22節)と言われるかもしれない。
- BRC2019:Jer 35:18,19 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。」
- 一方で主のことばを守らない民がおり、他方で、先祖のことばをしっかり守る人たちがいる。それを象徴的に描くことで、無理なことを求めているわけではないことが示されているのだろう。同時に、先祖の言い伝えを頑なに守ることについて疑問も感じる。人間の戒めではないのか。文脈としては、誓ったことが背景にあるのだろう。主との契約である以上、守り続けるということか。終わりはないのだろうか。おそらく、主の言葉として、しっかりと受け止めることが、求められているのだろう。
- BRC2017:Jer 35:18 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。
- 契約を守れない民との対比であろうが、おそらく、様々な人たちが居たのだろう。しかし、このレカブ一族が解放されるのは、いつなのだろうか。前の章の奴隷解放令を遵守したひとは居なかったのだろうか。変化のときの、エレミヤの生き方には、学ばされる点が多い。普遍性を求めすぎてはいけない。
- BRC2015:Jer35:18,19 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。」
- 前半には、イスラエルの民に、従うことが可能であることの、例として、ヨナダブの子孫のことが語られている。ぶどうの実からつくったものを食さない飲まないということである。しかし、そのようなルールとは別に、主のみこころを行うことは簡単ではない。主はなにを求めておられるのだろうか。それを問うのも、われわれの責任なのだろう。ヨナダブ一族への祝福も、限定的である。それは、ひとり一人へのちゃんレンジであると同時に、希望をも抱かせる。
- BRC2013:Jer35:11 しかしバビロンの王ネブカデレザルがこの地に上ってきた時、われわれは言いました、『さあ、われわれはエルサレムへ行こう。カルデヤびとの軍勢とスリヤびとの軍勢が恐ろしい』と。こうしてわれわれはエルサレムに住んでいるのです」。
- ずっと天幕に住んでいたレカブ人もその場を捨てて、エルサレムに逃げてきている。このことについて、なにも言われていない。主の憐れみを感じる。そして、このような忠実な人たちとエレミヤは会うことができた。これも慰めだったろう。
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- BRC2021:Jeremiah 36:6,7 あなたは断食の日に行って、私が口述したとおりに書き記したこの巻物の中から主の言葉を読み上げて、神殿にいる民に聞かせなさい。また、それぞれの町から来るすべてのユダの人々にも読み聞かせなさい。人々は主の前に願いを献げ、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。この民に主が語られた怒りと憤りが大きいからだ。」
- 口述筆記した書が読まれるが、違った反応が記されている。まずは、引用句にある「断食の日に神殿にいる民」。この人達は、敬虔な人たちなのだろう。次に「エルサレムのすべての民、およびユダの各地の町からエルサレムに来ているすべての民」(9)この人達も、断食をする。「(書記官)シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤ」(10,11)と「(何人かの)書記官とすべての高官たち」(12)も、巻物に書かれていることを聞こうとする。それを王に告げるが、エレミヤの言葉だと聞いて、口述したエレミヤと筆記したネリヤの子バルクを隠す(19)。そして、王に告げるが「王とそのすべての家臣たち」(24)は、書に書かれたことばを受け入れず、王は、それを燃やしてしまう。その後、多くの言葉を加えて再度巻物に書き記す(32)ことが書かれている。いろいろな人達がいることを丁寧に理解して読んでいきたい。目が向けられるのは、王とその家臣であることが多く、その人達の民に対する責任は大きいことは確かだが。
- BRC2019:Jer 36:1-3 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
- 34章には、ユダ王国最後の王であるゼデキヤへのことばと、預言者、貴族達が主との契約を守らなかったことがかかれ、35章には、ヨシヤとゼデキヤの間のヨヤキムの時代のことが書かれ、この章につながっている。間に短い統治期間の他の王が居るが、一般的には、ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤと認識されていたのだろう。1章2,3節でも、この三人の名前がエレミヤの活動時期として記録されている。628年(ヨシヤ王の13年)から活動を開始、587年(ゼデキヤ王の11年)のイスラエルの民の捕囚までの約40年とある。ヨヤキムの第4年は606年、すでに22年ほど活動したあと、ほぼ中間地点である。イスラエルにとっても、とても貴重な時期であることもわかる。悔い改めを説くだけではいけないと考えたのかもしれない。歴史を通して働かれる主を意識したのだろうか。
- BRC2017:Jer 36:7 この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」
- 「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。」(9節)とある。「ヨヤキムの子はエコンヤ。その子はゼデキヤである。」(歴代誌3章16節)「それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。」(エレミヤ24章1節b)とあり、ヨヤキムの子の時代に一回目の捕囚が行われる。危機的な状況であったろう。受け止め方が、神殿で読んだときの状況、役人たち、王に仕える役人たち、王でそれぞれ少しずつ違うのも興味深い。民も含めて、このあとのことに対する教育的な面もあったのかもしれない。
- BRC2015:Jer36:24-26 このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。 また、エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王はこれに耳を貸さなかった。 かえって、王は、王子エラフメエル、アズリエルの子セラヤ、アブデエルの子シェレムヤに命じて、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえようとした。しかし、主は二人を隠された。
- 19節には「そこで、役人たちはバルクに言った。『あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい。だれにも居どころを知られてはなりません。』」とある。エレミヤやバルクの保護には、この役人たちもかかわったと思われる。しかし、ここには「主は二人を隠された。」とある。主が隠してくだされば、安全である。王とその側近たちにも、同情してしまう気持ちもある。この時点での判断としては、それに耳を貸すことは困難である。むろん、そのなかで、主に聞くこと、従うことが求められているのだろうが。
- BRC2013:Jer36:3 ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を聞いて、おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。そうすれば、わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない」。
- すこし歯切れは悪いが、いずれにしても、このことが常に含みとしてあり、目的は、悔い改めであったということだろう。
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- BRC2021:Jeremiah 37:11,12 ファラオの軍隊が進軍して来たことを耳にして、カルデア軍がエルサレムから撤退したとき、エレミヤはエルサレムから出て、ベニヤミンの地に行った。民の間で郷里の割り当て地を受け取るためであった。
- 割当地の受け取りは何らかの契約の締結が関係したのだろう。(エレミヤ32章6節〜15節)そのある意味で日常的な、この世的なことを、一つ一つすすめることにも、主への信頼、この世がこれで終わるわけではないとの確信が感じられる。どのような危機においても、日々を誠実に丁寧に生きること。それが、信仰と希望による生き方なのだろう。
- BRC2019:Jer 37:3-5 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと祭司であるマアセヤの子ツェファンヤとを預言者エレミヤのもとに遣わして、「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」と頼んだ。エレミヤはまだ投獄されておらず、人々の間で出入りしていた。折しも、ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来た。エルサレムを包囲していたカルデア軍はこの知らせを聞いて、エルサレムから撤退した。
- 「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである。 」(1)とあり、カルデア軍はネブカドレツァルの軍隊である。エジプトが進撃してくると聞いて、撤退したとある。ゼデキヤが出兵を依頼したかどうかは、ここでは不明だが、判断が分かれる難しい事態でもあろう。そのなかでのゼデキヤの優柔不断さもあるが、エレミヤとの親密さも見て取れる。内部分裂もあったのだろう。おそらく故郷のベニヤミンの地に帰ろうとして捕縛、ゼデキヤに保護と依頼する。エレミヤは、何を考えていたのだろうか。
- BRC2017:Jer 37:14 そこで、エレミヤは言った。「それは違う。わたしはカルデア軍に投降したりはしない。」しかし、イルイヤは聞き入れず、エレミヤを捕らえ、役人たちのところへ連れて行った。
- このような人も居たのだろう。エレミヤについてそれ以上深いことを見ることができなかったのは、意識的にか、それとも、すでに、盲目になっていたのか。わたしたちの目もそれに近いことがある。神様の働きを見ることができますように。
- BRC2015:Jer37:18-20 更に、エレミヤはゼデキヤ王に言った。「わたしを牢獄に監禁しておられますが、一体わたしは、どのような罪をあなたとあなたの臣下、あるいはこの民に対して犯したのですか。『バビロンの王は、あなたたちも、この国をも攻撃することはない』と預言していたあの預言者たちは、一体どこへ行ってしまったのですか。 王よ、今どうか、聞いてください。どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように。」
- 前章で「主は二人を隠された。」とあるが、ここでは、エレミヤは捕らえられている。なぜ、エルサレムを出たのかの理由も書かれている。「カルデア軍は、ファラオの軍隊が進撃して来たので、エルサレムから撤退した。 そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、親族の間で郷里の所有地を相続するために、ベニヤミン族の地へ行こうとした。」(10,11節)回復を信じ、土地の相続計画をこともなげにしている、おそらく、カルデヤ軍が撤退しても、またすぐ来て滅ぼすことは、エレミヤには明らかだったのだろう。19節のことばには、ゼデキヤも頷かざるをえない。しかし大きな混乱のなか、神に依り頼む生活は、気が遠くなるほど、難しい。
- BRC2013:Jer37:21 そこでゼデキヤ王は命を下し、エレミヤを監視の庭に入れさせ、かつ、パンを造る者の町から毎日パン一個を彼に与えさせた。これは町にパンがなくなるまで続いた。こうしてエレミヤは監視の庭にいた。
- エレミヤは何度捕らえられ投獄されたのだろう。精神的に崩れなかったのはなぜだろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 38:4,5 高官たちは王に言った。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを人々に語り、この都に残っている戦士とすべての民の士気を挫いているからです。この民のために平和を求めず、むしろ災いを求めているのです。」ゼデキヤ王は言った。「あの男はお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
- エレミヤ書にかかれているゼデキヤは非常に興味深い。人間の弱さを表現しているが、同時に「私が恐れているのは、カルデア人のもとに投降したユダの人々だ。彼らの手に引き渡されると、私はなぶりものにされるかもしれない。」(19b)と複雑な心情も吐露している。列王記下24章18-20節歴代誌下36章11-16節などと比較すると、複雑な心境がより理解できる。正しさによって、概観し、それによって人をさばくことは、単純化であり、神様の見方とは、異なるように思われる。
- BRC2019:Jer 38:5 ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
- ゼデキヤの描写が興味深い。エルサレムの有力者には、逆らわない。また、ゼデキヤ王はエレミヤに次のようにも言っている。「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々である。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない。」(19)人を恐れている。しかし、エレミヤを通しての神のことばにも、一定の信頼を置いている。それが、クシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」(10)と命じたことからもうかがい知れる。ゼデキヤ王がエレミヤにひそかに誓って言ったことば、「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない。」(16)は多少滑稽に感じるが、絶望的な状態での、ゼデキヤにも同情してしまう。このような記録は興味深い。
- BRC2017:Jer 38:9 「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」
- 役人たちが「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」 (4節)と言っているころの「宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレク」(7節)の言葉である。どのような理由で宮廷に使えているのかは分からないが、宦官、クシュ人ということを考えると、複雑な背景も考えてしまう。しかし、それだから、エレミヤの言葉を真摯に聞き「士気をくじいている」とだけの判断では終わらなかったのだろう。勇気ある行動にも撃たれる。ゼデキヤについても、その心の内を良く知っていたのかもしれないが。
- BRC2015:Jer38:19 ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々である。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない。」
- ゼデキヤの恐れは、仲間への恐れ、そして、自分になされる行為に対する恐怖である。エレミヤが預言し、役人たちが「あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。」(4節)というと「ゼデキヤ王は答えた。『あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。』」(5節)そして、エベド・メレクに諭されるとすぐ、異なった行動をする。そして、エレミヤの言葉を聞いたときの言葉が上のことばである。ヤコブ2章6節のように「風に吹かれて揺れ動く海の波」ともとれる。しかし、自分はどうだろうか。このエルサレムの状況を考えれば、ゼデキヤのようになるかもしれない。おそらく、今、どのように信仰をもって生きるかが、そのようなときにどう生きるかにつながっているのだろう。12章5節のことばがまさに真実となる。
- BRC2013:Jer38:4 すると、つかさたちは王に言った、「この人を殺してください。このような言葉をのべて、この町に残っている兵士の手と、すべての民の手を弱くしているからです。この人は民の安泰を求めないで、その災を求めているのです」。
- ネブカデネザルに攻め囲まれ、食料も尽きているような状況で、このような考えは当然だろう。そのなかで、神の望みとその応答を見つけるにはどうしたら良いのだろうか。日常的に、真摯に神に聞くことか。
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- BRC2021:Jeremiah 39:6,7 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子どもたちをその目の前で惨殺した。ユダの貴族たちもすべてバビロンの王は惨殺した。彼はゼデキヤの両眼を潰し、青銅の足枷につないでバビロンに連行した。
- この章には、エレミヤのことについても書かれている。これを、ゼデキヤへの裁きだと考えるのは単純化し過ぎであると思う。わたしが、ゼデキヤの立場であったとして何ができたかは、不明である。ここには、貴族たちが惨殺されたことが書かれている。バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関しては「彼を連れ出し、世話をせよ。いかなる害も加えるな。彼が求めることは、何でもかなえてやれ。」(12)と言っていることなどを勘案すると、ある程度、調べて、ある程度個々に決めた処分なのかもしれないと思った。武力だけでなく、政治規範としても、バビロンの方が上だったのかもしれない。
- BRC2019:Jer 39:6,7 リブラでバビロンの王は、ゼデキヤの目の前でその王子たちを殺した。バビロンの王はユダの貴族たちもすべて殺した。その上で、バビロンの王はゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
- 「イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない。」(38章17,18節)のエレミヤのゼデキヤへの言葉と、引用箇所を比較すると、降伏せずに、逃亡したことが誤りであったとなるのであろう。しかし、それをもって、神の言葉に従わなかったゼデキヤを責めることは、わたしにはできない。主に従うことは、難しい。
- BRC2017:Jer 39:11,12 バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関して、親衛隊の長ネブザルアダンに命令を下した。 「彼を連れ出し、よく世話をするように。いかなる害も加えてはならない。彼が求めることは、何でもかなえてやるように。」
- このとき、エレミヤが求めたものは何だったのだろう。一つ分かることは「監視の庭からエレミヤを連れ出し、シャファンの孫で、アヒカムの子であるゲダルヤに預け、家に送り届けさせた。こうして、エレミヤは民の間にとどまった。」(14節)ことである。王族や、貴族は、殺されたり、捕囚になったりする中で、残った人たちと共にいたことである。エレミヤのこのあとの歩みに興味を持つ。わたしならどう生きるだろうか。
- BRC2015:Jer39:16-18 「クシュ人エベド・メレクのもとに赴いて告げよ。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都について告げたわたしの言葉を実現させる。それは災いであって、幸いではない。その日には、あなたの見ている前でこれらのことが起こる。 しかし、その日に、わたしはあなたを救い出す、と主は言われる。あなたが恐れている人々の手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる。」
- 15節には「監視の庭に監禁されているとき」とあるから「クシュ人エベド・メレクのもとに赴いて告げよ。」とはなにか奇異な感じを受ける。エレミヤも思い巡らせ、そのときとは、別の記述のあとに書いているのかもしれない。クシュ人、勇気ある行動でエレミヤを助けたのは、この異邦人だったことになる。(38章7節-13節)そこには、宦官ともある。外国人として仕える、ひとつの方法だったのかもしれない。マタイ19章12節「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」を思った。
- BRC2013:Jer39:16 「行って、エチオピヤびとエベデメレクに告げなさい、『万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、わたしの言った災をわたしはこの町に下す、幸をこれに下すのではない。その日、この事があなたの目の前で成就する。
- エレミヤの危機を救ったのは、このエチオピヤ人だった。Cf:Jer38:7-13
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- BRC2021:Jeremiah 40:11,12 モアブ、アンモン人、エドムなど、あらゆる地にいたユダの人々も皆、バビロンの王がユダに人を残したことと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに彼らの監督を委ねたことを聞いた。そこで、ユダの人々は皆、散らされていた先のすべての場所から帰り、ユダの地に来て、ミツパのゲダルヤのもとにやって来た。彼らは大量のぶどう酒と夏の果物を集めた。
- 戦後処理は難しい。おそらく、土地はそれなりに荒れていただろう。「野にいたすべての将軍とその部下」(7a)この中には、いずれ反逆を起こすイシュマエルなどがいる、そして「バビロンに捕囚として移送されなかった男、女、子ども、その地の貧しい者たち」(7c)「バビロンの王がその地の監督を委ねたアヒカムの子ゲダルヤ」(7b)、さらに、引用句からは、「あらゆる地にいたユダ」だけでなく「モアブ、アンモン人、エドムなど」もそこにいる。新しい世界を築いていくには、しっかりとしたリーダーが必要である。善良でそのことを忠実になそうとする、ゲダルヤ、このひとについてはあまりよくわからないが、このひとも一瞬のすきと判断ミスで大変な状況が起こる、難しいときなのだろう。戦争の後遺症である。それは、バビロンが整復した多くの地であったろうから、ゲダルヤは、それなりの能力を持っていたとも考えられるが。新しい世界を生きるのはだれにとってもむずかしい。
- BRC2019:Jer 40:5,6 ――エレミヤはまだ民のもとに戻っていなかった――シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤのもとに戻り、彼と共に民の間に住むがよい。彼は、バビロンの王がユダの町々の監督をゆだねた者である。さもなければ、あなたが正しいとするところへ行くがよい。」親衛隊の長はエレミヤに食料の割り当てを与えて釈放した。こうしてエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、国に残った人々と共にとどまることになった。
- エレミヤはこのとき何を思い、考えていたのだろう。なすべき事はなし、伝えるべき事は伝え、警告すべきことはして、預言のとおりになる。ここでは、解放され、保護もされる。共に、バビロンに行くことも可能だったはずである。しかし、残ることを選択する。恐れもあったのだろうか。わからない。
- BRC2017:Jer 40:4 さあ、今日わたしはあなたの手の鎖を解く。もし、あなたがわたしと共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。あなたの面倒を見よう。一緒に来るのが良くなければ、やめるがよい。目の前に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい。
- 一般的にこんなことを言われたらどうするだろうか。しかし、その答えは決まっている。いま、していることを続けること。そういう生き方をしたい。現在、できることは限られていても、それこそが、わたしの生きる道。
- BRC2015:Jer40:7 野にいたすべての軍の長たちはその部下と共に、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地に立てて総督とし、バビロンに移送されなかったその土地の貧しい人々に属する男、女、子供たちを彼のもとにゆだねたことを聞き、
- 列王記下25章には平行記事が殆ど同じことばで語られている。ゲダルヤについては不明であるが、歴代誌上25章3節やエズラ記10章18節やゼファニア書1章1節に、祭司の家系として同じ名前が現れるので、このゲダルヤもユダヤ人で、祭司の家系ではないかと思われる。早くから、バビロンに投降していた人たちがいたようなので(38章19節)このひともそのような一人だったかもしれない。エレミヤもアナトトの祭司の子であったから、あるいは、地方の祭司で、早くにカルデヤ人に征服され、仕えていたのかもしれない。ゲダルヤについては、いろいろと想像の域ではあるが考えさせられることが多い。
- BRC2013:Jer40:6 そこでエレミヤはミヅパへ行き、アヒカムの子ゲダリヤの所へ行って、彼と共にその地に残っている民のうちに住んだ。
- エレミヤが自由になって最初の決断。ほとんど虚脱状態にあったのではないだろうか。ここでさらにビジョンを持つのはとても難しい。
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- BRC2021:Jeremiah 41:16 ネタニヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアの子ヨハナンと、彼と共にいた将軍は皆、イシュマエルのもとから連れ戻した民の残りの者をすべて、すなわち、ギブオンから連れ戻した男、戦士、女、子ども、宦官らをミツパから連れ出した。
- ネタニヤの子イシュマエルは「王の血筋で、王の高官でもあった、エリシャマの子ネタニヤの子イシュマエル」(1a)と書かれているが、まず、「ゲダルヤと共にミツパにいたユダのすべての人々と、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを打ち殺し」(3b)さらに「シェケム、シロ、サマリアから来た八十人の一行が、ひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿で通りかかった。彼らは、主の神殿に献げる穀物の供え物と乳香を手に携えていた。」(5)を(一部は取引をして残すが)惨殺、結局は、(野にいた将軍のひとり)カレアの子ヨハナン(40章8節)に攻められ、アンモン人のもとに逃げる。混乱の続章である。エレミヤはその混乱をも知る状況にある。(ゲダルヤのもとにいた(40章6節))エレミヤはなにを考えていらだろうかとも思う。一喜一憂ではなかったのだろう。おそらく、この時代を生きることは、だれにとっても、とても困難だろうが。
- BRC2019:Jer 41:5 シケム、シロ、サマリアから来た八十人の一行が、ひげをそり、衣服を裂き、身を傷つけた姿で通りかかった。彼らは、主の神殿にささげる供え物と香を携えていた。
- アンモンの王の命で、ゲダルヤ暗殺に遣わされたネタンヤの子イシュマエル(40章14)ユダの残留者など、様々な勢力が残っていたことがわかるが、この記事は興味深い。北イスラエル王国滅亡後も、信仰を持って、ユダの滅亡を悲しんでいる人たちがたくさんいたといことである。この人たちもほとんど、イシュマエルに殺される。かなり、混乱した状況であったこともわかる。エレミヤはこれらの目撃者的存在でもあったのだろう。それも、一つの使命だったかもしれない。
- BRC2017:Jer 41:18 バビロンの王がその地の監督をゆだねたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが殺したために、彼らはカルデア人の報復を恐れたのである。
- 混乱の中にある。エレミヤは何をすべきだったのだろうとも考えるが、一人のできること、そして、神から与えられたこと、忠実であることだけ考えていたのだろう。そこでよいと考えることをできるわけではない。謙虚に、今を生きたい。
- BRC2015:Jer41:8 しかし、一行の中にいた十人の者は、「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など貴重なものを畑に隠していますから」とイシュマエルに哀願したので、この十人だけは殺さずにおいた。
- この十人については問わないが、結局イシュマエルの求めていたものが露呈する。イシュマエルについては、記述が少なく(列王記下25章25節「王族の一人、エリシャマの孫でネタンヤの子であるイシュマエル」歴代誌下23章1節「七年目に、ヨヤダは決意を固め、百人隊の長たちエロハムの子アザルヤ、ヨハナンの子イシュマエル、オベドの子アザルヤ、アダヤの子マアセヤ、ジクリの子エリシャファトを連れて来て、彼らと契約を結んだ。」)この人の求めたものは、定かではないが。しかし、混乱のとき、難しいときであったことはたしかだろう。王族や、祭司など、指導者が残されていたことも、見て取ることができる。イシュマエルを打ち破りアンモンに追い出す「カレアの子ヨハナン」についても情報は多くないのだろう。
- BRC2013:Jer41:5 八十人の人々がそのひげをそり、衣服をさき、身に傷をつけ、手には素祭のささげ物と香を携え、シケム、シロ、サマリヤからきて、主の宮にささげようとした。
- イスラエルにもこのような人たちが残されていたことをみるのは、希望でもある。しかし、悲劇的な結末が記される。エレミヤはここで何を考えたのだろう。
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- BRC2021:Jeremiah 42:5,6 すると、彼らはエレミヤに言った。「主が私たちに対して真実で誠実な証人となられますように。私たちは必ず、あなたの神である主があなたを遣わして私たちに語られる言葉のとおり、すべて実行します。良くても悪くても、私たちがあなたを御もとに遣わす私たちの神である主の声に聞き従います。私たちの神である主の声に聞き従うのは幸せになるためです。」
- バビロンの王が監督を委ねた、アヒカムの子のゲダルヤを暗殺した、イシュマエルを撃った「すべての将軍とカレアの子ヨハナン、ホシャヤの子エザンヤ、そして小さな者から大きな者まですべての民」は「エジプトへ向かおうとしていた。」(41章17,18節)とある。その途中で、エレミヤに主の言葉を求めている。引用句を見ると、心惹かれるが、単純ではないのだろう。この時代はどのように生きるのも困難な時代である。エレミヤはこの人達に、エジプト行きに対する警告をし、とどまることが主の御心と告げる。エレミヤは、主のことばに信頼し、回復のときのためにも心を砕いていたのかもしれないが、それは、やはり困難だとも思わされた。現実世界で、将来を予見し、これが暫く先のことを考えると正しいと思えることでも、そこに皆で向かうことは非常に困難である。ましてやリーダーシップをとることは、不可能に近い。
- BRC2019:Jer 42:5,6 すると、人々はエレミヤに言った。「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」
- 結局は、エレミヤの声に聞き従わないのだが、このときの心情はどのようなものなのだろうか。聞き従うつもりでいたのだろうか。不安であったことは、確かだろう。エレミヤは特別だとも考えていたろう。正直よくわからない。このあとを読んでわかるのだろうか。
- BRC2017:Jer 42:3 あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを示していただきたいのです。」
- 混乱のあと、残留民は、エレミヤに問う。混乱のときには、エレミヤは登場しない。このときにこそ、エレミヤは、残ったのかもしれないさえ思われる。しかし、結果は、無残である。エレミヤは、民の心を知ってはいたろう。しかし、違うことを求めることはできなかったのだろうか。それは、神の御心に従うこととは、違う道なのだろうか。
- BRC2015:Jer42:10 もし、あなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあなたたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない。わたしはあなたたちにくだした災いを悔いている。
- このことばにどのように民が応答するか、興味をもつが、最後のことばも気になる。悔いるよりも、残された者たちの、使命をともにもとめることはできなかったのだろうか。これは、現代的な解釈なのか。人は弱いのだから、希望を持ちたい。それをかすかにでも、見たい。
- BRC2013:Jer42:6 われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう」。
- 大変な混乱、何の秩序もなくなったときの依頼と「決意」である。しかし、ひとは、それだけでは、変わることはできないのだろう。
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- BRC2021:Jeremiah 43:4,5 それで、カレアの子ヨハナンとすべての将軍、およびすべての民は、「ユダの地にとどまれ」という主の声に聞き従わなかった。カレアの子ヨハナンとすべての将軍は、散らされていた先のすべての国々からユダの地に住むために帰って来たユダの残りの者をすべて連れて行った。
- 主のことばに従うというカレアの子ヨハナンたち(42章5,6節)は、結局、警告を無視して、エジプトに向かう。将軍たちのもとでは、民(散らされていた先のすべての国々からユダの地に住むために帰って来たユダの残りの者)は無力だったことも考えられる。同時に、自ら選択ができる人は、限られていたのかもしれない。価値判断を、個人でできるようになることは混乱を引き起こすることも確かだが、やはり、尊厳のひとつの基盤でもあるように思う。
- BRC2019:Jer 43:2,3 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」
- みずからの安全をもとめていたのだろうか。エジプトが滅ぼされることはないと考えていたのだろう。いくら、エレミヤを通して語られた言葉であっても、それを信じるのは、難しいだろう。時代の先を、エレミヤは見ていたのだろうか。それとも、神様から、超自然的な方法で、示されたことなのだろうか。
- BRC2017:Jer 43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。
- 「すると、人々はエレミヤに言った。『主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。 良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。』 」(42章5,6節)の言葉から考えると、エレミヤは、この言葉の裏にあることを知っていたのだろう。この人たちは、自分たちの考えを少しでも有利に進めるために、エレミヤを利用しようとしただけなのかもしれない。しかし、そうであっても、この場にイエスがおられたら、どうされるだろうか。と考えてしまう。
- BRC2015:Jer43:6 そこには、親衛隊長ネブザルアダンが、シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤに託した男、女、子供、王の娘たちをはじめすべての人々、および預言者エレミヤ、ネリヤの子バルクがいた。
- 4節には「こうして、カレアの子ヨハナンと軍の長たちすべて、および民の全員は、ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった。」とある。なぜとどまることができなかったのだろう。それは、別として、ここにゲダルヤの名が登場する。そして、エレミヤ、バルク、全員が、エジプトについていくことに、特別な歴史的意味があったということだろうか。考えさせられる。
- BRC2013:Jer43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。
- 自分が好むことが神に従う道、つまりは「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」(Phil3:19)「彼らの神はその腹」
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- BRC2021:Jeremiah 44:28 剣を逃れてエジプトの地からユダの地へ帰還する者の数は僅かである。その時エジプトの地に来て寄留したユダの残りの者はすべて、私の言葉と彼らの言葉のどちらが実現するかを知るようになる。
- ここに、エレミヤの信仰が現れているようにも思う。神の言葉のそして預言の正しさを確信している。おそらく、それは、世界情勢を冷静に見、考えることも含まれているのだろう。しかし、あげ足取りではないが、「エジプトの地に行ってそこに寄留しようとするユダの残りの者を私は取り除く。彼らは一人残らずエジプトの地で滅びる。彼らは剣で倒れ、飢饉で滅ぼされる。小さな者から大きな者までが剣と飢饉で死に、呪い、恐怖、罵り、そしりの的となる。」(12)と、引用句の状況には多少の違いがある。エレミヤの中でも、少しずつ修正、神様のみこころをより深く理解することが進行しているのかもしれない。わからないことばかりなのだから。
- BRC2019:Jer 44:27 見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。
- 正直、これが主のみこころなのかわたしには、わからない。エジプトに落ちのびるひとの中にも、様々な葛藤のなかで、主に従おうとするひともいるだろう。そして、ひとりもいなかったとしても、正しさによって、ひとが、神との関係を適正に持つことができるのだろうか。疑問に思う。預言したとおりに、エジプトに向かったひとたちが滅びることをエレミヤは願ってはいなかったとは思うが、エレミヤのこころの中もわからない。ひとりもいない、ひとりのこらず、これらの言葉から、エレミヤの孤独も感じる。このエレミヤとも共に祈るものでありたい。
- BRC2017:Jer 44:18 我々は誓ったとおり必ず行い、天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いで献げ物とする。我々は、昔から父祖たちも歴代の王も高官たちも、ユダの町々とエルサレムの巷でそうしてきたのだ。我々は食物に満ち足り、豊かで、災いを見ることはなかった。
- エジプトに逃れた、異教の神を礼拝してきた民に対する、エレミヤの言葉に対する反論である。ユダヤ人としてのアイデンティティーは神礼拝にはないことが見て取れる。すると、捕囚帰還後の形が、民族主義を強めたのだろうか。この環境の中で、共通のものを持つのはとても難しい。
- BRC2015:Jer44:17 見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。
- エレミヤの言葉の背景は理解できるが、福音書で語られている神理解とはかなりかけ離れているのではないだろうか。過去にも、いろいろな理解がされてきた。しかし、神のみこころの啓示、または、信仰者の神理解が、少しずつ進む、または、一部しかなされないことが背景にあると考えても良いのではないだろうか。宗教として統一見解を確立しぬくくなることはたしかであるが。それとはべつに人間に与えられている責任については、受け取りたい。
- BRC2013:Jer44:2 「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたはわたしがエルサレムとユダの町々に下した災を見た。見よ、これらは今日、すでに荒れ地となって住む人もない。
- これはとても悲しい現実。エレミヤにとっても、見たくない現実だったろう。
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- BRC2021:Jeremiah 45:4,5 バルクにこう言うがよい。『主はこう言われる。私は自分が建てたものを破壊し、自分が植えたものを引き抜く。全地をこのようにする。あなたは大きなことを求めている。求めてはいけない。私はすべての肉なるものに災いを下そうとしているからだ――主の仰せ。しかし、あなたがどこへ行っても、あなたの命を戦利品としてあなたに与える。』」
- 「ああ、災いだ。主は、私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、安らぎを得ない。」(3b)と言ったエレミヤ書の筆記者バルクへのことばである。いくつもの要素が含まれているように思う。主はご自身が望まれることをすること、そしておそらく、このような裁きは、ユダに留まらず、他の民にも及ぶこと、それを、留めることはできないが、主は、どこにいても、共に居て、生命を守ってくださること。基本的に、これが、エレミヤや、バルクとともに、わたしたちに与えられている道なのだろう。謙虚に、主の道を求め、それに従って歩むことだろうか。
- BRC2019:Jer 45:1-3 ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤの口述に従ってこれらの言葉を巻物に書き記した。そのとき、エレミヤは次のように語った。「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。 あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない。』
- 畑買い取りの証書を受け取り(32:12,13,16)エレミヤの預言を書きとめ(36:4,5,27,32)公表し(36:8, 10,13-19)その後もエレミヤと共に行動し(43:3,6)た人物である。外典にバルク書もある。身分などは不明であるが、エレミヤのことばを真摯に受け止めていたことは確かだろう。引用箇所のバルクのことばには、こころが痛くなる。このあと、命が守られることが告げられるが、バルクはどのようにうけとったのだろうか。エレミヤだけでなく、行動をともにしたバルクにとっても、たいへんなときだったろう。「ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」(43:3)こんなことまで、言われているのだから。
- BRC2017:Jer 45:5 あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」
- エレミヤの口述を筆記したバルクへの言葉である。自分だけ救われるというようなことは無いことがまず言われ、さらに「命を守り与える」とある。"But I will give your life to you as a prize in all places, wherever you go.” (KJV) "but wherever you go I will let you escape with your life.” (NIV) である。ニュアンスがよく分からない。NIV は「いのちだけは守ってあげるよ」という感じをうけるが、NKJV では「あなたに永遠の命を与える」というメッセージを感じる。本当のところは、どうなのだろう。
- BRC2015:Jer45:4,5 バルクにこう言いなさい。主はこう言われる。わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする。 あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」
- エレミヤの後述筆記をしていて、バルクへの言葉である。3節に「あなたは、かつてこう言った。『ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない。』」とあるように、バルクの苦しみ悲しみが痛いほど伝わってくる。ここでは、主の主権的働きが述べられ、そして恵みが語られている。主権的働きには、このような厳しい裁きは、イスラエルにのみ下されるわけではないことが言われている。エレミヤの師としての愛情を感じるが、同時に、周囲にはケアがひつようなひとがいることのエレミヤの認識と共に、さらに、エレミヤ自身も共通の悩みがあったのではないかと推測される。
- BRC2013:Jer45:5 あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならない。見よ、わたしはすべての人に災を下そうとしている。しかしあなたの命はあなたの行くすべての所で、ぶんどり物としてあなたに与えると主は言われる」。
- ぶんどり物か。どのようなイメージなのだろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 46:28 あなたは恐れるな、わが僕ヤコブよ/――主の仰せ。/私があなたと共にいるからだ。/あなたを追いやった先の国々はすべて/私が滅ぼし尽くす。/しかしあなたを滅ぼし尽くすことはない。/私はあなたを正しく懲らしめる。/あなたを罰せずにおくことは決してない。
- 諸国民について(1)と始まり、最初にエジプトが、バビロンのネブカドレツァルの手に落ちることが書かれ、しかし、復興もほのめかす記述(26b)がある。最後に、引用句がある。エジプトは古代から、イスラエルのすぐ隣の、隣国としては唯一の超大国で、アッシリアに敗れるが回復したことなどからして、エジプトに頼るのは、自然だったろう。しかし、エレミヤは世界史的な流れも、理解できていたのかもしれない。単純な期待ではなく、冷静に見る目と、主への信頼だろうか。しかし、どこまで理解できていたかは、やはり判断が難しい。同時に、どうなるかよりも、引用句などを通して、希望をもって、信仰的に生きることを促すことも、重要な役割だったのだろう。
- BRC2019:Jer 46:25,26 万軍の主、イスラエルの神は言われた。「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。わたしは、命を求める者の手に彼らを渡す。すなわち、バビロンの王ネブカドレツァルとその家来たちの手に。その後、エジプトは昔のように人の住む所となる」と主は言われる。
- 歴史をよく調べないといけないが、記憶によると、アッシリアを助けるために遠征したファラオ・ネコ二世は、一旦は新バビロニア軍を破るが、結局はネブカデネザルに敗れる。しかし、滅びるのは、ずっとあとの、ペルシャの時代、そして、アレクサンダー大王の遠征によって完全に途絶えるようだ。このあとには「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。」(27)と、イスラエル帰還について記されている。予言の評価は難しい。エレミヤの預言としてのことば、生き方と向き合いたい。
- BRC2017:Jer 46:25 万軍の主、イスラエルの神は言われた。「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。
- このとき、エレミヤはエジプトにいるのだろうか。一般的に、地理的関係もあるだろうが、イスラエル、ユダ王国は、エジプトとの関係が緊密である。交流も多かったろう。しかし、エレミヤは、その安易な関係を糾弾しているようにも思われる。しかし、神の御心はどこにあるのだろうか。当時のエジプト、今のエジプトの人たちを、神様はどのように、愛しておられるのだろうか。問い自体が、おかしいようにも思われる。落ち着いて考えたい。
- BRC2015:Jer46:27,28 わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。 わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと/主は言われる。わたしがお前と共にいる。お前を追いやった国々をわたしは滅ぼし尽くす。お前を滅ぼし尽くすことはない。わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。
- 今回の通読のテーマでもある「預言者とは何者か」について考えさせられる。信仰を鼓舞し、主への信頼を呼びかける預言者の言葉としては理解できる。そして、預言者は、自ら神に忠実に従おうとして、主の意思を求め続け、そして、確信に至った内容を記述しているということも非常に自然である。そしてその多くがその先見性から事実となったこと、そしてそのような先見性がある預言者がさらに深い真理を得ていったことも事実だろう。その次である。逆に、そこの誤りがないとは、だれが言い切ることができるのだろう。かえって、主への信頼、信仰をそぐのではないかとさえ思わされる。むろん、上の箇所のように、いろいろな解釈を施すことで、正しさを証明することは可能であろうが。
- BRC2013:Jer46:28 主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々を/ことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決して罰しないではおかない」。
- 最後の「罰しないではおかない」は誰をだろうか。神様がともにおられることはすばらしい。しかし、ここで民族を言っているのは、個人の象徴なのだろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。/生き残っていて、ティルスとシドンを/助けようとするすべての者を絶ち滅ぼす日が。/その日、主はカフトルの島に残っている/ペリシテ人を滅ぼされる。
- フェニキア人の系統と言われる、ペリシテは、イスラエルとの関係でも、長い歴史をもつ。しかし、歴史的にも、ネブカデネザルによって、歴史の舞台から消滅するようだ。(英語版 Wikipedia)このようなことの背後にどのように、主が関わられるかを判断することは、とてもむずかしい。しかし、それを、理解したいとする、エレミヤの思いも読み取ることができるように思う。わたしも、丁寧に世界を見ていきたい。主からのメッセージを読み取ることができるかもしれない。明確にはわからなないかもしれないが。
- BRC2019:Jer 47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。主がペリシテ人を滅ぼされる/カフトルの島の残りの者まで。
- ここに現れる、ペリシテも、ティルスと、シドンも、海の民と呼ばれている、歴史的にもよくわかっていない民の都市国家から発展したもののようだ。どうなるのだろうか。滅亡の預言が続いているが、その後の歴史をみていると、やはり実際は複雑である。エレミヤが伝えたかったことは、何なのだろう。
- BRC2017:Jer 47:1 預言者エレミヤに臨んだ主の言葉。ファラオがガザを撃つ前にペリシテ人に向かって。
- 時が下り、ペリシテ人は、大きな問題ではなくなっていたのだろう。アッシリアや、バビロニアなど、中東の巨大王国の影響が大きな時代である。しかし、この章を読んでいると、ある程度活発な行動が見える。フェニキア人の末裔なのだろうか、それとも、フェニキア人の一部として、地中海沿岸に、このときも、ネットワークを持っていたのだろうか。違った視点から見ることにも興味がある。
- BRC2015:Jer47:4 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。主がペリシテ人を滅ぼされる/カフトルの島の残りの者まで。
- ペリシテはこの時代まで、残っていたことにも驚かされる。ネブカドネザルの猛威だろうか。この預言者のなかでは、それを受け止めるすべは、これしかないのかもしれない。
- BRC2013:Jer47:5 ガザには髪をそることが始まっている。アシケロンは滅びた。アナクびとの残りの民よ、いつまで自分の身に傷つけるのか。
- ペリシテはどのようにして滅びたのだろう。歴史をもう少し理解したい。それにしても、このことばが誰のものなのかもわからない。
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- BRC2021:Jeremiah 48:47 しかし、終わりの日に/私はモアブの繁栄を回復する――主の仰せ。/ここまでがモアブへの裁きである。
- モアブの裁きについて延々と書かれている。ただ、この終わりの日のことは、不明である。いまでも、モアブは残っているのだろうか。正直に言うと、裁きについての記述を読み続けるのが、辛かった。この時代は、基本的に、バビロンに整復され、その後も、中東は、大国の支配が続く。ひとつの民族が残ることは難しい時代にはいっている思うので。わたしが、モアブなら、エレミヤのメッセージをどう受け取るだろうか。風前の灯火で、結局は、ユダと共に、滅ぼされるときに。
- BRC2019:Jer 48:26,27 主に向かって高ぶったモアブを、酔いしれたままにしておけ。モアブはへどの中に倒れて、笑いものになる。お前はイスラエルを笑いものにしたではないか。イスラエルが盗人の仲間であったとでも言うのか、お前がイスラエルのことを口にするたびに嘲ったのは。
- モアブが略奪にあい、「モアブの町々は荒廃し、住む者がいなくなる」(9)ことが書かれているが、滅びについては、あまり明確ではない。実際には、ペルシャ時代に、姿を消すようだが、詳しくはわからない。裁きかどうかも明確ではないが、引用箇所とともに「自分の業と富に頼った」(7)は挙げられている。しかし、最後には「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47)とある。審判とあるが、繁栄を回復すると記されており、明確にはわからない。近隣の国々がどうなるのかは、気になることではあったろう。
- BRC2017:Jer 48:42 モアブは滅び、民であることをやめる。主に向かって高ぶったからだ。
- 公平性について考えさせられる。モアブとイスラエルの。この章の最後をみると「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47節)となっており、これが、モアブにむけた預言の最後である。エレミヤに見えたのは、ここまでと言うことだろうか。差別は、わたしの中にも色濃くある。それを、少しずつ、学び、自分の罪を認識しながら、解放されていきたい。
- BRC2015:Jer48:1 モアブに向かって。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。災いだ、ネボは略奪され/キルヤタイムは恥を受け、占領された。砦の塔は恥を受け、打ち砕かれた。
- このような預言を聞いて、悔い改めることは可能なのだろうか。モアブとは交流が頻繁にあり、かつ、差別もしていたように思われる。旧約の福音の不完全性を感じる。神が人類を導いてこられた歴史ととれないことはないが、不完全な人間が神の意思を明らかにしようとしてきた歴史とも言えるのではないだろうか。この章の最後が「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの繁栄を回復すると/主は言われる。ここまでがモアブの審判である。」(47節)とあるのが、せめてもの救いである。
- BRC2013:Jer48:47 しかし末の日にわたしは再びモアブを栄えさせると/主は言われる」。ここまではモアブのさばきの事をいったのである。
- モアブは滅ぼし尽くさない。ペリシテとは異なるのか。それが親族ということだろうか。やはりよくわからない。
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- BRC2021:Jeremiah 49:5,6 私は恐怖を四方からあなたのところに来させる/――万軍の主なる神の仰せ。/あなたがたは、ちりぢりになって追われ/逃げる者を集める者はない。この後、私はアンモン人の繁栄を回復する/――主の仰せ。
- 前章に続き、この章では、まず、アンモン、次に、エドム、さらに、ダマスコ、そのあとには、ケダルおよびハツォル、エラムと続く。回復が明示的に、書かれているのは、引用した、アンモン、そして、エラムのようである。ほかはどうなのだろうか。正直、わたしには、わからない。滅びも、回復も。何か、空虚に感じてしまう。
- BRC2019:Jer 49:12 主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない。
- この章では、まず、アンモン(1-6)、ついで、エドム(7-22)、さらに、ダマスコ(23-27)、ケダルとハツォルの諸国(28-33)、そして、エラム(34-39)についての主の言葉である。アンモン(6)とエラム(39)については、モアブと同様に、回復が付加されている。印象に残ったのは、引用した箇所。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされる」とある。審判、裁きとは、何なのだろうか。エレミヤは、どう考えていたのだろうか。審判は、神のみこころであろうが、それが、理不尽さをさらに、生み出すのだろうか。完全ではない人間にとって、それは、仕方がないことなのだろうか。
- BRC2017:Jer 49:25 栄えある都、わが喜びの町は/どうして捨てられたのか。
- この章は、アンモンから始まり(1-6)エドム(7-22)ダマスコ(23-27)ケダル・ハツォル(28-33)エラム(34-39)と続く。その、ダマスコへの預言の途中にあるのが引用箇所である。この町は、ダマスコなのか、それとも、エルサレムなのか。直接的には、ダマスコだろう。しかし、預言者の中でも、エルサレムが重なっているのではないだろうか。煩悶が記されているとも感じられる。詳細な中身を問うことについては、不明である。
- BRC2015:Jer49:30 ハツォルの住民よ/逃げよ、落ち延びよ/深い谷に隠れよ、と主は言われる。バビロンの王ネブカドレツァルが、お前たちを攻める計画を練り、お前たちを滅ぼす企てを立てているからだ。
- ハツォルは、ヨシュア記から現れる(11章)士師記4章に現れるヤビンは「ハツォルで王位についていたカナンの王」とされている。その後も記録があり、ソロモンが建てた町としても記録されている。(列王記上9章15節(上記のものと異なるかもしれない))ここでも、バビロンの王ネブカドレツァルによって滅ぼされることが記されている。現実の猛威が感じられる。
- BRC2013:Jer49:35 しかし末の日に、わたしはエラムを再び栄えさせると、主は言われる」。
- 末の日はなにを想像していたのだろう。「末の日」はあるのだろうか。「裁きの日」だろうか。
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- BRC2021:Jeremiah 50:45,46 それゆえ、あなたがたは聞け/主がバビロンに対して練られた計画/カルデア人の地に対して立てられた企てを。/羊の群れの幼いものらが引きずって行かれ/牧場は彼らのせいで必ず荒廃する。バビロンが捕らえられる音で地は揺れ動く。/叫び声は諸国民の間に聞こえる。
- この章には、バビロンについての言葉が書かれている。少し長いことも有り、丁寧には読めなかったが、ゆっくり読む価値があると感じた。おそらく、私たちは、知らない事実が背後にある内容もあるのだろうが。同時に、イスラエルとの関係もいろいろと書かれている。印象に残ったのは「そして、イスラエルを元の牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食み、エフライムとギルアドの山で心から満足する。その日、その時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない――主の仰せ。ユダの罪も見いだされない。私が生き残らせた人々を赦すからである。」(19,20)帰還することは、他にも書かれているが、ここでは、罪が見いだせなくなること、それは、過ちを犯さないことではなく、主が許すからだとある。丁寧に読むことができる日がくればと願う。
- BRC2019:Jer 50:3 一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り/バビロンの国を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。人も動物も皆、逃れ去る。
- バビロンに対する預言をどう読めばよいのかよくわからない。盛者必衰は仏教用語で無常を表すようだが、そのような預言ではないのだろう。ただ、バビロンはメディアに滅ぼされ、国としては方向は東である。そのあとの、イスラエルとユダの記述も、よくはわからない。エレミヤの見ていた世界は、どのようなものなのだろうか。現代においても、盛者必衰的なことをいうことはできるだろうが、主が望まれることは何なのだろうかと考える。「何かのためにではなく、誰かのために働きなさい。Do not work for something but for somebody」(マザー・テレサ)のほうに、心が引かれる。「互いに仕え合い、互いに愛し合う」ことを、わたしは、求めたい。
- BRC2017:Jer 50:6,7 わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ/山の中を行き巡らせた。彼らは山から丘へと歩き回り/自分の憩う場所を忘れた。彼らを見つける者は、彼らを食らった。敵は言った。「我々に罪はない。彼らが、まことの牧場である主に/先祖の希望であった主に罪を犯したからだ」と。
- バビロンが、なぜ、支配地域を拡大して行ったのか、その理由もわたしは、知らない。考えたこともなかった。植民地主義に至る、西洋の海外侵略の背景は少し考えてきたのに。ひとの心の中にあること、もっと知りたい。歴史を通しても。教えて下さい。学ばせて下さい。主よ。
- BRC2015:Jer50:4,5 その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る/ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て/彼らの神、主を尋ね求める。 彼らはシオンへの道を尋ね/顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき/永遠の契約が忘れられることはない。
- 本当にそのような時は来るのだろうか。預言者は、その幻をみたのだろう。どう実現されるかはわからない。すでに、それは、種族としての、イスラエルや、ユダではないかもしれない。この預言者の信仰を共有したい。真実な悔い改めを伴った、主への帰還は、主が導いてくださることなのだろう。
- BRC2013:Jer50:4 主は言われる、その日その時、イスラエルの民とユダの民は共に帰ってくる。彼らは嘆きながら帰ってくる。そしてその神、主を求める。
- 20節には「主は言われる、その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである。」とあり、かつこの章の後半をみても、何がおこってから、このようなことがおこるのか不明だが、民族の救いという観点から逃れられないでいるのではと考えてしまう。どうなのだろうか。セミニズムにもつながるので、安易には受け入れられない。
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- BRC2021:Jeremiah 51:60,61 エレミヤはバビロンに下るすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンに到着したとき、注意してこのすべての言葉を朗読し、
- バビロンの部分が書かれた背景が書かれている。おそらく、50章・51章は、この巻物の内容と関係しているのだろう。このあとに、書かれている、この巻物をどうするかの記述も、興味深い。大帝国、バビロン(新バビロニア帝国)が最も力があったときに、このようなことをするのは、大きな挑戦だったろう。それも、優遇され、解放されたエレミヤが。この二章は長いので、じっくり読めなかったが、エレミヤの凄さを感じさせるものでもある。なかなか、好きにはなれないが。
- BRC2019:Jer 51:60-62 エレミヤはバビロンに襲いかかるすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。 エレミヤはセラヤに言った。あなたがバビロンに到着したとき、注意してこの言葉を朗読し、そして言いなさい。「主よ、あなた御自身がこの場所について、これを断ち滅ぼし、人も獣も住まない永久の廃虚にすると語られました」と。
- メディアが、11節と28節に登場する。バビロンを滅ぼすことになる国である。引用箇所からは、エレミヤの徹底ぶりに驚かされる。これが預言者なのだろうが、平安は感じられない。わたしは、どうしても、冷ややかに見てしまう。エレミヤの苦しみ、悲しみは、感じられるが。
- BRC2017:Jer 51:5 イスラエルとユダは/その神、万軍の主に見捨てられてはいない。カルデア人の国には罪が満ちている/イスラエルの聖なる方に背いた罪が。
- 他者理解は、特に、民族的な立場からは困難である。交流も少なかったのかもしれない。しかし、このまま受け入れることはできない。神の御心とは、ほど遠いのではないだろうか。そして、わたしの理解も。
- BRC2015:Jer51:63,64 この巻物の朗読を終えたとき、巻物に石を結び付け、ユーフラテス川に投げ込み、 そして言いなさい。「このように、バビロンは沈む。わたしがくだす災いのゆえに、再び立ち上がることはない。人々は力尽きる」と。ここまでがエレミヤの言葉である。
- ネブカドレツァルに蹂躙される世界、そして、その支配は、どう見ても受け入れられるものではない。そのときに、預言者に去来したものが、この記述なのだろう。バビロンが滅びることが記されている。その書物は、ユーフラテス川に投げ込まれたかどうかは不明だが、このように残そうとした人たちも、この預言者を通して信仰そして希望に自らを結びつけていったのだろう。我々は、いま、どのように生きていったら良いのだろうか。
- BRC2013:Jer51:49 イスラエルの殺された者たちのために、バビロンは倒れなければならない、バビロンのために全地の殺された者は倒れたのだ。
- この前の節をみても、神の言葉に預かったのだろう。しかし、この時期にこの論理には、人間的なものを感じる。
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- BRC2021:Jeremiah 52:28-30 ネブカドレツァルが捕囚とした民は次のとおりである。第七年にはユダの人々三千二十三人、ネブカドレツァルの治世第十八年にはエルサレムから八百三十二人、ネブカドレツァルの治世第二十三年には、親衛隊長ネブザルアダンがユダの人々七百四十五人を捕囚とした。総数は四千六百人である。
- きっちりとした数が書かれているが、他の記録にもなく、かつ、捕囚から帰ってくる人たちの数などを考えると、少なすぎるように思う。正確には調べられなかったが。「貧しい民の一部、都に残っていたその他の民、バビロンの王に投降した者、その他の人々は、親衛隊長ネブザルアダンが捕囚として連れ去った。親衛隊長ネブザルアダンは、この地の貧しい民の一部を残し、ぶどう作りと土地を耕す者とした。」(15,16)ともあり、全体像が不明である。出エジプトのときや、ダビデの時代の人口調査などを考えると、全体では、数百万はいたのではないかと考えていた。ユダの地域だけでも、100万人近くいたのではないだろうか。どのようにしたら、情報を集められるのだろうか。そして、ここにかかれている数は何の数なのだろうか。
- BRC2019:Jer 52:31 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の十二月二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。
- ヨヤキンは、エレミヤ書では、この章にしか現れない。列王記下24章・25章、および、歴代誌下36章に書かれている。「ヨヤキンは八歳で王となり、三か月と十日間エルサレムで王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行った。 」(歴代誌下36章9節)とあるが、列王記には「ヨヤキンは十八歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった。その母は名をネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。 」(列王記下24章8節)とある。8歳で王となり、主の目に悪とされることをおこなったはあまりに不自然である。これだけでは、不明だが、若くして、短い期間王となり、すぐ捕囚になる。それから、37年である。自分の人生はなんだったのだろうと思って、ずっと獄で生活していたのだろうか。記述が少ないのでわからないが、国が滅びるときには、他にも多くの理不尽な状態があっただろう。エレミヤ記は、このヨヤキンが平穏に暮らすことが書かれて、終わっている。捕囚の人数の記録もあるので、総決算のようであるが、終わり方も、不思議である。
- BRC2017:Jer 52:31,32 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の十二月二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。
- 理由は記されておらず、史実性も確認できないのではないだろうか。なぜ、これが含まれているのだろうか。「その上で、バビロンの王はゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行き、死ぬまで牢獄に閉じ込めておいた。」(11節)と対応しているようにも思われる。前の章は「ここまでがエレミヤの言葉である。」(51章64節)で終わっているので、52章を書いたのはエレミヤではないとするのが適切だろう。「しかし、ユダの王ゼデキヤよ、主の言葉を聞くがよい。主はあなたについてこう言われる。あなたは剣にかかって死ぬことはない。あなたは平和のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖である歴代の王の葬儀に際して香をたいたように、あなたのために香をたき、『ああ、王様』と言って嘆くであろう。このことをわたしは約束する、と主は言われる。 」(34章4,5節)の実現について証言する文章なのかもしれない。すべてが実現したと証言するものではないかもしれない。
- BRC2015:Jer52:28-30 ネブカドレツァルが捕囚として連れ去った民の数をここに記すと、第七年に連れ去ったユダの人々が三千二十三人、 ネブカドレツァルの第十八年にエルサレムから連れ去った者が八百三十二人であった。 ネブカドレツァルの第二十三年には、親衛隊の長ネブザルアダンがユダの人々七百四十五人を捕囚として連れ去った。総数は四千六百人である。
- どのように選択されたのだろうか。いずれにしても、四千六百人は主だった人だったのだろう。単に年号で出てくるとはいえ、ネブカドレツァルはユダヤの歴史に非常に大きく名を刻まれることになる。エレミヤはどのような気持ちで、この巻を締めくくったのだろうか。
- BRC2013:Jer52:30 ネブカデレザルの二十三年に侍衛の長ネブザラダンは、ユダヤ人七百四十五人を捕え移した。この総数は四千六百人であった。
- 27節にあるように、多くが殺され「バビロンの王は、ハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。こうして、ユダは自分の地から捕え移された。」多くが捕囚となる。エレミヤは70年という期限とともに、希望をもってこのときを見ていたのだろうか。記録することもふくめて。
哀歌
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- BRC2021:Lamentations 1:20 御覧ください、主よ。/私は本当に苦しいのです。/私のはらわたは痛み/心は私の内で動転しています。/私が逆らい続けたからです。/外では剣が子を奪い/家の中を死が支配しています。
- 「哀歌」の名にふさわしい苦悶が書かれている。背景は「主は、私のうちにいるつわものたちを皆/退けられた。/私に向かって定めの祭りを召集し/若者たちを打ち砕いた。/搾り場でぶどうを踏むように/主はおとめである娘ユダを踏み潰された。そのために、私は泣き/私の目から、この目から涙が溢れ出る。/私を慰め、魂を生き返らせてくださる方が/私から遠ざかったからだ。/敵はあまりに強く、私の子らは見捨てられている。」(15,16)と書かれている。「敵はあまりに強(い)」は偽らざる印象なのだろう。どうすることもできない。主は正しく(18)様々な悪事を思っても、苦しさ、哀しさが和らぐわけではない。信仰者の心の内を、受け取っていきたい。
- BRC2019:Lam 1:20 御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い/内には死が待っています。
- 苦しみが伝わってくる。この苦しみに価値があるのかもしれない。むろん、面と向かっては言えないが。苦しみは、なにをもたらすのだろうか。その、苦しんでいる人と、ともに居ることに、価値があるのかもしれない。
- BRC2017:Lam 1:21 聞いてください、わたしの呻きを。慰めてくれる者はありません。敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして/あなたの仕打ちを喜んでいます。彼らにも定めの日を来らせ/わたしのような目に遭わせてください。
- わたしは、この節のような復讐の祈りが理解できないでいた。心の様々な面を描いているのかもしれないと思った。そう考えると、ひとつひとつについて、善悪を判断し、批判するのは、あたってはいない。全体で判断すべきなのだから。これが実質的な問題を引き起こしたことに関する、裁判であれば、別である。これは、陳述書ではないのだから。
- BRC2015:Lam1:19,20 わたしは愛した人々に呼びかけたが/皆、わたしを裏切った。わたしの祭司ら長老らは、都で息絶える/命をつなごうと、食べ物を乞いながら。 御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い/内には死が待っています。
- なんとも、悲しい状態である。愛した人には裏切られ、自らも背きに背いたと告白する。外でも、うちでも、死。哀歌を、じっくり読みたい。
- BRC2013:Lam1:20 主よ、顧みてください、わたしは悩み、わがはらわたはわきかえり、わが心臓はわたしの内に転倒しています。わたしは、はなはだしくそむいたからです。外にはつるぎがあって、わが子を奪い、家の内には死のようなものがある。
- この悲しみの向かう先が v22「彼らの悪をことごとくあなたの前にあらわし、さきにわがもろもろのとがのために、わたしに行われたように、彼らにも行ってください。わが嘆きは多く、わが心は弱りはてているからです」。」となっていることには、正直違和感を感じるが、苦しみ、悲しみその深さは十分伝わってくる。
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- BRC2021:Lamentations 2:11,12 わが目は涙が尽き、わがはらわたは痛み/娘であるわが民の破滅のゆえに/わが肝臓は地に注がれる。/幼子や乳飲み子は町の広場で弱り果てている。彼らは母親に言う/「どこにあるの、穀物やぶどう酒は」と。/傷ついた者のように町の広場で弱り果て/母の懐で息絶えてゆく。
- 引用句だけでなく、驚く表現がこの第二の歌にはたくさん含まれている。「主はご自分の祭壇を拒み、聖所をも見捨て/城郭の壁を敵の手に渡された。/主の家で、彼らは祝いの日のように歓声を上げた。」(7)熱心な人たちには、神殿で敵が、祝の日のように歓声をあげるなど想像すらしていなかったことだろう。それを、主が許容、または命じられるとは。この章(第二の歌)の最後にも祝の日が登場する。「あなたは祝いの日のように/私が恐れる者たちを周りから呼び集められました。/主の怒りの日に/逃げ延びた者、生き残った者はいませんでした。/私が生み育てた者たちを/敵は滅ぼし尽くしてしまったのです。」(22)「あなた」は主だろうが「私」は誰だろうか。イスラエルか、エルサレムか、哀歌記者か。
- BRC2019:Lam 2:5 主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し/その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし/おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。
- 延々と続く。「幼子は母に言う/パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて/母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。 」(13)さらに「おとめエルサレムよ/あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。おとめシオンよ/あなたを何になぞらえて慰めよう。海のように深い痛手を負ったあなたを/誰が癒せよう。」(14)と続く。嘆きが伝わってくる。これが現実なのだから。強烈である。これを、アルファベット詩に載せて歌い上げる、その深さにも驚かされる。
- BRC2017:Lam 2:14 預言者はあなたに託宣を与えたが/むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには/一度、罪をあばくべきなのに/むなしく、迷わすことを/あなたに向かって告げるばかりであった。
- 罪を暴くのが、まず預言者のすべきことだとある。わたしは、にわかには、うなずけないが、それが、エレミヤなどの仕事であったことは確かだろう。気づくことができないから、指摘してもらう。少しでも、気づいているものは、そのことを学んだものは、語り伝える責任がある、ということなのだろうか。
- BRC2015:Lam2:20-22 主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられた者がありましょうか。女がその胎の実を/育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が/主の聖所で殺されているのです。 街では老人も子供も地に倒れ伏し/おとめも若者も剣にかかって死にました。あなたは、ついに怒り/殺し、屠って容赦されませんでした。祭りの日のように声をあげて脅かす者らを呼び/わたしを包囲させられました。主が怒りを発したこの日に/逃げのびた者も生き残った者もなく/わたしが養い育てた子らは/ことごとく敵に滅ぼされてしまいました。
- 記者の痛み、苦しみが伝わってくる。聖所に逃げ込み、主にすがる、祭司が預言者が殺され、老人や子供も無残にころされ、若い男女も斬り殺される。最後の「わたしが養い育てた子ら」には、預言者が育てた、霊的な子が多くいたのではないだろうか。主に従い、主に信頼することを預言者を通して学んだ者たちも。こころが痛くなる。
- BRC2013:Lam2:19 夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて/息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。
- 「夜、初更」は何を意味するのか。寝ている場合ではないということか。まず、この危機的状況に目を向けよということか。
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- BRC2021:Lamentations 3:37-39 主が命じられたのでなければ/誰がこれを語り、このようなことが起きたのか。災いも幸いも/いと高き方の口から出るものではないか。生きている人間がどうして不平を言えるのか。/自分が罪を犯したのだから。
- この章は転換点なのかもしれない。21節に「私は待ち望む」とあり、主の賛美(22,23)が続き、(自分が経験し理解してきた)主の性質が書かれている。そのあとに、引用句がある。基本的には、主の主権のもとで、シオンが滅んでしまったこと、ひとは罪を犯しており、滅びるのは当然で、不平は言えないという考え方である。これは、新約にもつながっているが、神の愛が、その罪人の状態からの救いが、特に、パウロによって語られる。まだ、わたしたちは、十分に、主について、基本的なことですら、理解できていないように思うが。
- BRC2019:Lam 3:1,2 わたしは/主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。
- さらに、「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。」(17)ともある。正直にいうと、2章は、エルサレム陥落の現実が目に浮かぶが、それに続けて、より一般的に苦しむ人を描写しているように見える。どのようにしてこの哀歌は書かれたのだろう。そのなかで、有名な「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。」(22,23)これを切りはなして鑑賞していたが、それは、不遜な感じすらした。まずは、嘆きをしっかり受け止めたい。
- BRC2017:Lam 3:30 打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。
- 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5章39節)と似ているのだろうか。ここでは「主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。」(25節)の文脈の中で語られ、マタイでは「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5章48節)の文脈の中で、語られている。とても、興味深い。あまり、哀歌に対して、批判的にもなれない。引用した25節から30節の間の句もすごみがある。「主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。」(26節-29節)その背景が、神のことを思うことであれば、あきらかにつながっている。
- BRC2015:Lam3:22-24 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
- この言葉に至るまでの告白を読むと、苦しくなる。「砂利をかませてわたしの歯を砕き/塵の中にわたしを打ち倒す。 わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。」(16,17節)などである。単に象徴的な表現ではないのだろう。そして、上の言葉に至る。最後は、主こそわたしの受ける分となる。まさに、それを告白するのが、信仰者なのだと思う。主こそわたしの受ける分。主こそわたしの受ける分。
- BRC2013:Lam3:27,28 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
- 苦しみ、悲しみの中で、このように告白することについてその重さを思う。わたしはこの言葉にアーメンと言いたい。
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- BRC2021:Lamentations 4:21,22 ウツの地に住む娘エドムよ、楽しみ喜ぶがよい。/あなたにもいずれ杯が巡って来る。/あなたは酔いしれて裸をさらす。娘シオンよ、あなたへの罰はもう終わった。/主はあなたを再び捕囚とすることはない。/娘エドムよ、主があなたの過ちを罰せられ/あなたの罪を暴かれる。
- シオン(エルサレム)が破壊され、そこに住む人々の悲惨の極みが描かれている。これで、もう、終わり。これ以上何があるのかということなのだろうか。ただ、その章の最後に、エドムのことが書かれている。周辺の国、民族と比較すると、栄光の中にいたであろう、エルサレム、しかし、関係が良くないときが多かったとしても、その裁き、破壊について書かれていることには、違和感がある。それは「これはエルサレムの預言者たちの罪のゆえ/祭司たちの過ちのゆえだ。/彼らはエルサレムの中で正しき人々の血を流した。」(13)に根拠を求めているからにも見える。正しさ追求の呪いだろうか。悪いから滅ぼされるのであれば、神の前に立ちうるものは、いない。
- BRC2019:Lam 4:11 主の憤りは極まり/主は燃える怒りを注がれた。シオンに火は燃え上がり/都の礎までもなめ尽くした。
- エルサレム陥落は、どのように表現しても、し尽くせない悲惨と屈辱なのだろう。ただ、最後には、「おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない。娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。お前の罪はことごとくあばかれる。」(22)ともある。悲しみは、そこでは、終わらないのだろうか。憎しみではないにしても、裁きは、公平になされることが、神の義だというのだろうか。
- BRC2017:Lam 4:6 ソドムは、その罪のゆえに/人の手によらず、一瞬にして滅んだが/わたしの民の娘は/それよりも重い罪を犯したのだ。
- ソドムについては、おそらくその罪について十分知られていないだろう。ロトの物語の伝聞だけだろうか。しかし、一瞬にして滅んだ「ソドムよりも」となっている。比較は簡単にはできないだろうが、このように言い切るところに、記者の強いメッセージが読み取れる。
- BRC2015:Lam4:20 主の油注がれた者、わたしたちの命の息吹/その人が彼らの罠に捕えられた。異国民の中にあるときも、その人の陰で/生き抜こうと頼みにした、その人が。
- このような状況で,神を信頼し続けるのは、苦しいだろう。しかし、神の御心をより深く知ることができるようになる。と信じたい。
- BRC2013:Lam4:13 これはその預言者たちの罪のため、その祭司たちの不義のためであった。彼らは義人の血をその町の中に流した者である。
- 指導者が悪かったのだろうか。それとも、指導者は責任を負わなければならないのか。羊の牧舎たちがすべきことは多いのだろう。
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- BRC2021:Lamentations 5:2 私たちの相続地は他国の民のもの/私たちの家は外国人のものとなった。
- 「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。/私たちは立ち帰りたいのです。/私たちの日々を新たにし/昔のようにしてください。それとも、あなたは私たちをどこまでも退け/激しい怒りのうちにおられるのでしょうか。」(21,22)哀歌はこの悲痛な裁きで終わっている。ただ、引用句にある相続地は、やはり、他民族から奪ったものである。それは、永遠の神からの相続地と信じてきた。その約束を、不変のものとしてきた。しかし、この現実は、それが誤りであったことを意味する。聖書に書いてあるメッセージを文字通りに受け取ることの問題点も指摘しているように見える。「あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓い、『私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにこれを受け継がせる』と告げられました。」(出エジプト32章13節)
- BRC2019:Lam 5:21,22 主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。 あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
- これが哀歌の最後である。解決してないところで、終わるところが余計余韻を引く。解決ではなく、待つところに、求めるところに、信仰があり、いのちがあるのではないだろうか。救いを求めるものにとっては、辛いが、それが現実なのかもしれない。
- BRC2017:Lam 5:21,22 主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
- 哀歌の最後の言葉である。祈りと、現実が、はっきりと書かれて終わっている。まさに、見えない希望のもとで信仰を持って生き続けていることが見て取れる。同時に、その順序が、現実が後に来ることで、強いインパクトを持っている。
- BRC2015:Lam5:22 あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
- 哀歌の最後のことばである。エレミヤは、すべてをしらされはしなかったのだろう。それで良いのかもしれない。それが、神様の答えなら。
- BRC2013:Lam5:16,17 われわれの冠はこうべから落ちた。わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。 このために、われわれの心は衰え、これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
- エレミヤは自覚している。これは罪の故だと。そしてそれが、心が衰え、目は暗くなったと表現しているのは興味深い。だから見えないのかもしれない。大切なことが。
エゼキエル書
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- BRC2021:Ezekiel 1:1-3 第三十年の第四の月の五日に、私がケバル川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、カルデア人の地、ケバル川のほとりで、祭司ブジの子エゼキエルに主の言葉が臨み、主の手が彼の上に臨んだ。
- 「ヨヤキン王が捕囚」は BC597年(捕囚1回目)とすると、第5年はBC593年。まだ、エルサレム(完全降伏は、BC586年)は残っている時ということになる。祭司の子は基本的に祭司なので、捕囚の地で、祭司として、語り始めたということだろうか。エゼキエルは、幻が書かれ、よく理解できない。できるだけ、集中を途切れさせず、読んでいきたい。
- BRC2019:Ez 1:1-3 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
- 正確には調べないとわからないが、おそらく、ゼデキヤの第5年である。ヨヤキン王とともに捕囚(第一次捕囚)された人々の中に、エゼキエルもいたのだろう。これは、エルサレムはまだ、破壊はされていないときである。どのような生活をしていたのだろうか。エゼキエルは何を望み、なにを考えていたのだろうか。読みとれることはあるだろうか。
- BRC2017:Ezek 1:4,5 わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
- 「カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。」(3節)とある。この表現も興味をひくが、考えたいのは、エゼキエルはどのように、主のまぼろしに応答していったかである。それは、主からのものかどうかを、どのように判断したかについても興味がある。おそらく、彼の状況も考える必要があるだろう。「第三十年(ヨヤキン王が捕囚となって第五年)の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。」(1節(2節))とある。一回目のエルサレム陥落は、BCE598/7年(二回目はBCE586年)その時にバビロンに連れてこられた祭司の一人だろうか。もう少し学んで読み進めたい。
- BRC2015:Ez1:28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
- 5節に四つの生き物が登場しその記述が続いている。そしてこの節で初めて、断定的に「これが主の栄光の姿の有様であった。」としている。これを起点として「語りかける者」を主としているのだろう。預言者の告白。啓示として受け止める前提である。神についての思いが、これこそ「主の栄光」と告白させたのか。それとも、圧倒され、これが「主の栄光」以外であるはずがないとしたのか。エゼキエルの確信の元を知りたい。
- BRC2013:Ez1:4 わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。
- ここから幻について記されている。ひとうひとつ解釈すべきなのだろうか。むずかしい。このあとの歴史を見て、逆に、推量することはある程度できるが、それが正しい態度なのだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 2:1,2 主は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立ちなさい。私はあなたに語ろう。」主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は、語りかける者に耳を傾けた。
- 「主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。」とある。主の霊(聖霊)によって「耳を傾け(る)」と聴くことができたと証言しているのだろう。精神医学的には、自我と外界または他者を隔たっている壁が薄くなり、透過しやすくなる状態なのかもしれない。これにより、どれが自分かは、わからなくなり、幻影の中にいることになるとも言える。一つの精神疾患の状況とも言えないことはないが、それだけ、精神が敏感になって、他のひとにとっては大したことではないことが、大きな意味を持ってくるということだろうか。ある精神医学者のエゼキエルについてのコメントから連想したものだが、言葉にしてみると、まだ、わたしには、ほとんど理解できていないことがわかった。
- BRC2019:Ez 2:9,10 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
- エゼキエルが遣わされたのは「イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民」(3)である。このときは、エレミヤがエルサレムで活動していた時期でもある。交流はあったのだろうか。「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」になにか通じるものを感じた。エレミヤ書とは、かなり異なる文章であるが、共通のものも含むのかもしれない。ともに、祭司の家系なのだから。エゼキエルのほうが年長なのだろうか。
- BRC2017:Ezek 2:5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
- 「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」(7節)とあり、「聞き入れようと、拒もうと」は3章11節、27節にも現れる。これが、エゼキエルの使命でもあり、神の為されることと言っているのだろう。聞いたものの責任と、神に結果を委ねることの両面が背景にあるということか。
- BRC2015:Ez2:7,8 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」
- この二つが主がエゼキエルに命じたことである。「(おそれず(v6))語ること」「主の言葉を聞くこと」エゼキエルにとって主に従うことは、聞くことと語ることである。目的らしきものが5節にある。「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」
- BRC2013:Ez2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
- 自分のことを人の子と呼んでいるのは、エゼキエルがはじめだろうか。しかしこれも、自分を呼んでいるのではないかもしれない。エゼキエルには「人の子」が口語訳で93件現れる。その最初である。祭司の子として生まれ、預言者としてたてられたエゼキエルが自らが何者かを表す信仰告白の言葉だったのだろうか。これをイエスは使われたのか。
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- BRC2021:Ezekiel 3:17,18 「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。私の口から言葉を聞いて、私からの警告を彼らに伝えよ。私が悪しき者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたが彼に警告せず、悪の道から離れて命を救うように彼に語って警告しなければ、彼は自分の過ちのために死ぬが、私は、彼の血の責任をあなたに問う。
- このあとにも、いくつかの場合について書かれている。主からのことばを警告として伝える責任ある者として「見張り」ということばが使われている。異端ともいわれるひとつの宗派が使っていることばである。(神様からの)真理(御心)を得たと確信したときに、それを、他者にも語る責任があるということは、おそらく、普遍性もあるが、困難も伴う。わたしは、受け取ったとする、自分の確信をまずは、疑うが、他者への役割、主のしもべとして生きるものの責任もあるのだろう。「しかし、私があなたと語るとき、私はあなたの口を開く。そこであなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者には聞かせ、拒む者には拒ませよ。彼らが反逆の家だからだ。」(27)ここで語らているのは、特別任務なのだろう。
- BRC2019:Ez 3:20 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに問う。
- 語る責任の部分である。正しい人にも語ることが求められている。正しい人には、語らなくてもよいように思ってしまう。エゼキエルの場合だけではなく、やはり語るべき事は、正しい人にも語らなければいけないのだろう。それが、共に永遠の命に生きることにつながればと願う。ここには、そこまでは書かれていないが。
- BRC2017:Ezek 3:15 こうしてわたしは、ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに来たが、彼らの住んでいるそのところに座り、ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた。
- 「ぼう然として」の理由は書かれていない。「ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民」という言い方は、戦後の引き揚げ者住宅や、震災後の被災者住宅を思い出させる。語れと言われて臨んだ預言者は、実際の民の状況を見て、語ることができなかったのではないだろうか。このあと、語ることについて、再献身が求められる記述がある。預言者の務めは、正しさをただ宣言することではないのだろう。むろん、わたしは、この箇所がよく理解できていないかもしれないが。
- BRC2015:Ez3:7 しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。
- イザヤ6:10「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」を思い出す。預言者は常に、このような人たちに語る使命を持つのかもしれない。神の御心に従って生きようとする者も。イエスの宣教を見ても、そうである。しかしこのあとの8節「今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。」は、それに対抗できるようにと言う意味なのか。他の意味なのか、不明である。
- BRC2013:Ez3:8,9 見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。 わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」。
- イスラエルの人々は「厚顔でまた強情」ゆえの措置である。しかし、額を堅くするとはどのようなことだろうか。顔色を崩さないということだろうか。単に強靭な意思の現れだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 4:3 また自ら鉄板を取り、あなたと町との間の鉄の壁とし、顔を町に向けよ。こうして町は包囲される。あなたが包囲するのだ。これはイスラエルの家のしるしである。
- エゼキエルはおそらく第一次捕囚のときに、民とともに、ケバル川(Wikipedia によると、バビロニアのニップル市付近の灌漑用運河)のほとりに連れてこられている。(1章1節)ここでは、最終的に、エルサレムが陥落、イスラエル、ユダ王国が滅ぼされることが預言されている。鉄板は意味が不明だが、大英博物館で見た粘土板によると、城壁のある街をせめるときは、大きな櫓を組み、そこから攻撃したようなので、そのようなことをイメージしているのかもしれない。このあと、イスラエルの家の過ちのために、390日、ユダの家の過ちのために、40日、一日は一年と言っているので、捕囚帰還までの年月なのだろうか。サマリア陥落は、BC721年、エルサレム陥落は、BC598/7年とBC586年、キュロスの治世第一年は、BC538年。ぴったりと合うわけではないが、エルサレム陥落から、帰還許可命令までは、だいたい48年、エレミヤが預言した、70年より近いと思った。まあ、そのようなことにとらわれるのは、あまり価値がないと思うが。
- BRC2019:Ez 4:4 左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。
- イスラエルの家の罪ために390日、ユダの家の罪のために40日とある。かなりの違いがある。イスラエル陥落はBC724年、ユダは一回目がBC598/7年、2回目の完全降伏は、BC586年。合計で、430年。もし、BC724 から考えると、BC294年。BC586年から考えると、BC156年。いずれも、あまり意味がない年のように思われる。なにを言っているのだろうか。あまりそれに固執しない方が良いのかもしれない。それよりも、エゼキエルが受け取ったことをしっかり受け取りたい。
- BRC2017:Ezek 4:6 その期間が終わったら、次に右脇を下にして横たわり、ユダの家の罪を四十日間負わねばならない。各一年を一日として、それをあなたに課す。
- この前には「わたしは彼らの罪の年数を、日の数にして、三百九十日と定める。こうして、あなたはイスラエルの家の罪を負わねばならない。」(5節)とある。ユダの方が短いのではなく、あわせて、430日という解釈もあるようだ。いずれにせよ、これが何を意味しているかは、はっきりとはしない。しかし、語るには、まずは、その罪を負うことから始まっていることは語られているのだろう。預言者、そして、祭司としての責任だろうか。
- BRC2015:Ez4:8 わたしがあなたに縄をかけるので、あなたはその包囲の日が終わるまで、一方の脇から他の脇へと寝返りを打つことができなくなる。
- これはしるしなのだろうか。エゼキエルに確信させるための。よくわからない。
- BRC2013:Ez4:16 またわたしに言われた、「人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。彼らはパンを量って、恐れながら食べ、また水を量って驚きながら飲む。
- 十分この意味を理解することはできないが、自らが頼りとするものが汚れた物となり、恐れをもってそれと向き合うことになるということだろうか。糞で焼いたパン。エゼキエルにとってそれはどのような意味をもち、人々はそれからどのようなメッセージを受け取ったのだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 5:5,6 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムである。私はこれを諸国民の中に置き、その周りに国々を置いた。エルサレムは諸国民よりも邪悪で、私の法に逆らい、周囲の国々よりも私の掟に逆らった。彼らは私の定めを拒み、私の掟に従って歩まなかった。」
- おそらく、ユダヤでは、諸国民より邪悪だと言われるのは、非常にきつかったろう。いろいろと課題はあっても、近隣の部族、国、異邦人よりはマシだと。それを、はっきりと述べ、さらに「私は、周囲の諸国民の間で、また傍らを通るすべての者の目の前で、あなたを廃虚とし、恥辱とする。」(14)は、耐え得ないことだったのではないだろうか。エゼキエルはそれを告げる任務を負ったということなのだろう。
- BRC2019:Ez 5:2 その三分の一は包囲の期間が終わったときに都の中で火で燃やし、ほかの三分の一は都の周りで剣で打ち、残り三分の一は風に乗せて散らしなさい。わたしは剣を抜いてその後を追う。
- 「お前の中で三分の一は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、三分の一は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る三分の一は、わたしがあらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う。」(12)が対応している。多くの貧しい人たちは、残ったようだが。詳細に成就したかどうかではなく、自らの髪と髭で絵空事ではなく、民に知らせることがここの核心なのだろう。エルサレムから遠く離れた地で、これを預言することは、なにを意味しているのだろうか。エゼキエルと、エレミヤはコミュニケーションできたのだろうか。
- BRC2017:Ezek 5:10 それゆえ、お前の中で親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。
- これが神の裁きの結果である。神は、このことを容認されるのかと問いたくもなるが、神の御手の内にあると言うことなのだろう。しかし、翻って考えると、エゼキエルの解釈とも言える。単純に、裁きだと、その一面だけで、解釈してはいけないのかもしれない。むろん、そうすると、複雑になりすぎて理解を超えるだろうが。
- BRC2015:Ez5:5,6 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムのことである。わたしはこの都を国々の中に置き、その周りを諸国が取り巻くようにした。 しかし、この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい、周りの諸国より激しくわたしの掟に逆らった。まことに彼らはわたしの裁きを拒み、わたしの掟に従って歩もうとしなかった。」
- この預言者のテーマが詰まっているように思う。諸国に包囲させて攻めさせたのは、主の裁きに従うためなのか。さらに特徴的なのは「この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい」と比較もしていることである。比較自体は、むなしいものであろうが、エルサレムそしてイスラエルをへりくだらせるには十分であろう。そんなことはないと、言うだろうが。クリスチャンはどうだろうか。
- BRC2013:Ez5:13 こうしてわたしは怒りを漏らし尽し、憤りを彼らの上に漏らして、満足する。こうして、わたしの憤りを彼らの上に漏らし尽した時、彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう。
- 字義通りとると乱暴である。おそらく、最後の言葉を伝えたかったのだろう。それまではわからない。しかし「熱心に語」られている。
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- BRC2021:Ezekiel 6:14 私は彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒れ野からリブラに至るまで、彼らの住むすべての地をことごとく荒廃させる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」
- 結論は、救われることではなく「主が、主であることを知ること」だとある。それが、栄光を帰すということなのだろうか。神様は、そのような方なのだろうか。違うように、わたしは、思ってしまう。神様も、苦しんでおられるのではないかと。それは、正しくはないのだろうか。結論を急がず、求めていきたい。
- BRC2019:Ez 6:12,13 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣で倒れる。それを免れ、生き残る者も飢饉で死ぬ。こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす。殺された者たちが、祭壇の周りの偶像の間や、高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。
- これで良いのだろうか。ここに、主のみこころがあるのだろうか。実際には、すこしずれているし、主のみこころは、違うところにあるようにも思う。ただ、偶像に仕えた事に関して、とても重く考え、是こそが滅びの原因であると主張していることはよくわかる。
- BRC2017:Ezek 6:9,10 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。
- 最終的な目的は「主」と「主が為されたこと」を知ることである。その前段階として「自分を嫌悪する」ことがある。罪の自覚だろうか。神はそのためにだろうか「逃れた者」を残される。神の栄光のためか。しかし、不満も残る。「一人として滅びることなく」と少なくとも願っておらる神はここにいない。
- BRC2015:Ez6:9,10 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。 そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。
- 二つのことを教えられる。一つ目は「姦淫」が神から離れ去ることに、明確に使われていること、そして、災いの理由をこの「姦淫」としていることである。理由がある災いである。ひとがまずこのように考えるのは自然だろう。そして、そこから学ぶことも。しかし、神の意思の理解、信仰の深化はそこにとどまらない。ヨハネ9章(生まれつきの盲人)やルカ13章1-5節(シロアムの塔の倒壊)である。まさに、神のみこころを見てきたかのごとく伝えたのがイエスだと思わされる。
- BRC2013:Ez6:12,13 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者はつるぎに倒れる。生き残って身を全うする者はききんによって死ぬ。このようにわたしはわが憤りを彼らの上に漏らし尽す。彼らの殺される者がその偶像の中にあり、その祭壇のまわりにあり、すべての高き丘の上にあり、すべての山の頂にあり、すべての青木の下にあり、すべての茂ったかしの木の下にあり、彼らがこうばしいかおりを、すべての偶像にささげた所にある時、あなたがたはわたしが主であることを知るのである。
- 5章の髪の毛と髭をそりまき散らす命令から続いている箇所である。本当にこれで神様が「主であることを知る」のだろうか。おそらく、知らしめること、そして、地上での悔い改めだけに結果を求めていないのだろう。さらには「あなたがた」も「人の子」のような広い意味があるのかもしれない。いずれにせよ、エゼキエルは難しい。
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- BRC2021:Ezekiel 7:27 王は嘆き悲しみ/指導者は望みを失い/その地の民の手は震える。/私は彼らの行いに応じて彼らを扱い/彼らの法に従って彼らを裁く。/こうして/彼らは私が主であることを知るようになる。」
- 「私が主であることを知る」で検索をすると(訳にも依存するが、現在わたしが読んでいる聖書協会共同訳では)、まずは、出エジプト記7章・14章に合計4回あるが、いずれも、エジプト人が主語である。列王記上20章13節・28節では、主語はアハブ王である。エレミヤ24章7節には「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。」と一箇所記されている。それがエゼキエルには、49回現れる(最初は6章7節、最後は39章6節)、そしてこの章ではもう一箇所4節にある。エゼキエルに特徴的なメッセージである。主語は「あなたがた」「彼ら」で、他の箇所では、異教徒や、神を信じないひとが対象であったが、エゼキエルでは異なっている。今後も、この言葉を丁寧に読んでいきたい。
- BRC2019:Ez 7:6,7 終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。
- 最初に「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。」(2)と始まるので、引用箇所の「この地」は、エゼキエルのいるカルデヤの地ではなく、イスラエルの地だろう。「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。」(15a)とエゼキエルで繰り返されるフレーズがここにもあるので、エルサレム陥落を表現しているのだろう。たしかにそれはイスラエルの人々にとって「終わり」である。しかし、エルサレムにいる、エレミヤの方がかえって(回復の)希望を表現していることが印象に残る。エゼキエルにおいては、この章の最後にもある「王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」(27)回復とは異なる。地域の差だろうか。わたしが冷淡で受け取れないことが多いのか。
- BRC2017:Ezek 7:27 王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」
- 「そのような状態」「いまはない状態」について言及しているが「王」「君公」「国の民」は象徴的なものなのだろう。「終わりが来る。」(2,3節)のときのことだから。現実に痛みを持っている人には、慰めとなるのだろうか。危うさを感じる。
- BRC2015:Ez7:3 今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り/お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。
- 「終わり」について語られている。そしてそれは「怒り」と「裁き」である。目的とおぼしきものは9節にある。「わたしは慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いに応じてわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは知るようになる/わたしが、お前たちを打つ主であることを。」これは、いつのことなのだろう。これが、神の支配が完全に為される、神の国の到来なのだろうか。イエスの説いた福音との差を感じる。気になるのは、「お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。」である。回復は得られない。当時は、絶望しかなかったのかもしれない。
- BRC2013:Ez7:27 王は悲しみ、つかさは望みを失い、その地の民の手はおののきによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らをあつかい、そのさばきに従って彼らをさばく。そして彼らはわたしが主であることを知るようになる」。
- 4節、9節と似た言葉が続き、最後にこの27節。最後はつねにこの言葉である。主をしらしめること。イエスの働きとは違うように思うが、これも神の働きなのか。もう少し読み進めたい。
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- BRC2021:Ezekiel 8:17,18 その方は私に言われた。「人の子よ、あなたは見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしている忌むべきことは取るに足りないことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらに私を怒らせたからである。彼らは自分の鼻に枝を刺している。私は憤りに駆られて、憐れみの目を向けず、彼らを惜しまない。彼らが大声で叫んでも、私は耳を貸さない。」
- この章で、エゼキエルが見たのは、基本的には、偶像礼拝であるが、引用句では「暴虐」という言葉でまとめている。おそらく、偶像礼拝は、偶像を拝むことに留まらず、主の御心、それを表した律法を、まったく関係ない、人間が作り出した掟に取り替え、暴虐を行うことを含んでいるのだろう。偶像礼拝をあまり、単純化して考えないほうがよい。考えること、学ぶことは多い。
- BRC2019:Ez 8:9,10 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。
- 忌まわしいことは偶像礼拝である。「主を神ならぬものに取り替えたこと」である。捕囚から帰ったひとたちの中では、この偶像礼拝はほとんどなかったと言われ、その後の歴史でも、そのことが守られる。抽象化すると、偶像礼拝は形式的なものではないのだろうが、少なくとも当時の人たちが自分達の歩んできた道を顧みて最大の問題だとしたのがこのことなのだろう。たしかに、預言者は繰り返しこのことを戒めて預言している。現代でも、キリスト教以外の宗教を偶像礼拝することも多い。主は何を望んでおられるのだろうか。形式的なものではないように思う。そして、正しさでもないように思う。わたしが間違っているのだろうか。
- BRC2017:Ezek 8:6 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る。」
- ここから神殿で行われていた悪が暴かれている。「イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざける」は、神殿または神のおられる場所がコントロールセンターだとすると、神の制御を排除したと言っているのだろう。預言者の最初の仕事は、その悪を人々に示すことなのだろう。
- BRC2015:Ez8:9,10 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」
- このあとに続くのは、偶像、異教の神「タンムズ神」礼拝、太陽礼拝である。預言者が神が忌み嫌われることと考えた中心がこれらだったのだろう。イエスはどうだったのだろうか。たしかに、イエスの時代には、このようなものが多くはなかった。信頼がすでに途絶えているということか。
- BRC2013:Ez8:5 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。
- このあと、ずっと悪が暴かれる。祭司の子であるエゼキエルは、そのことを知っていたのだろうか。それとも、このとき初めて知ったのだろうか。深刻な事態である。しかし、これは幻なのかそれとも、現実なのか。16節の「彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。」をみると現実のこととは思われない。これが真実だったとすると、それをエゼキエルが知らなかったことも不思議である。
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- BRC2021:Ezekiel 9:3,4 すると、ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光がそこから立ち昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「町のただ中、エルサレムの中を行き巡り、そこで行われているすべての忌むべきことについて嘆き呻く人々の額にしるしを付けよ。」
- 額に印のないものが殺されていくのだが、なにか虚しさを感じる。まずは、このように、厳密に分けることはできないだろうこと。街も、神殿も消滅するときに、することなのかどうかという疑問である。「腰に書記の筆入れを着けた者」など、なかなかリアルである。自分たちの惨めな状態、そして、その背後にある背き、正しさについてまず考えることとしては自然なのかもしれない。
- BRC2019:Ez 9:8 彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」
- 「ひとり残され」という表現が気になった。ほかにも、仲間は居たであろう。エレミヤにしても、バルクにしても。そして他にもいたと思われる。ダニエル書に記されているように。それが見えなくなってしまっていないだろうか。しかし、これは、独善というより、孤独なのだろう。バビロンにおいても、孤独だったのかもしれない。いずれにしても、厳密に調べられたら、主の前に立つことのできるものは居ないことは確かだが。そのときにも、エゼキエルは残されると考えていたのだろうか。
- BRC2017:Ezek 9:10 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」
- さばきは、やはり簡単に見える。和解や、平和構築は、果てしなく難しい。神の痛みは、おそらく、それほど簡単に表現できるものではないのだろう。そして、それをひとの言葉で表現することは、なおさら。
- BRC2015:Ez9:9 主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。
- 8節にある預言者の問い「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」に答えるものである。裁きは、絶望に関連づけられている。マタイ24:12「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」を思い出す。最後まで耐え忍ぶものでありたい、そして、それによって「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)ように。神のいのちのいき続けるものでありたい。
- BRC2013:Ez9:11 時に、かの亜麻布を着、物を書く墨つぼを腰につけていた人が報告して言った、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」。
- 町にほとんど望みがないとき、背後で神は働いておられる。おそらくこの11節には4節が背景にあるだろう。「彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。」
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- BRC2021:Ezekiel 10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上、大空の上に、ラピスラズリに似た玉座のようなものの姿が見えた。
- この章には、ケルビムについての記述が詳細に書かれている。祭司の子(1章3節)であるエゼキエルは、親や親戚からも、神殿の一対のケルビムについて聞いていたろう。ケルビム自体についての表現は、聖書には少ない。創世記3章24節「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。」出エジプト記11回、民数記7章89節、いずれも、神殿の契約の箱の上のケルビムと幕に織り込んだものの作成などについて、サムエル記4章4節、サムエル記下2回「ケルビムの上に座す万軍の主」(サムエル記下6章2節b)、列王記上13回、神殿を建てるときの記述、列王記下1回、歴代誌上2回、歴代誌下8回は、いずれも神殿を建てるときの記述、詩篇3回、イザヤ書1回「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。」(イザヤ37章16節)エゼキエル24回(9章・10章・11章・28章・41章)
- BRC2019:Ez 10:18,19 主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。 ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。
- この栄光をみたことがたいせつなのかもしれない。そしてなぞの多い四つの生き物を。この解釈を云々するのではなく、エルサレムが滅びるときに、神の栄光をみたことに意味があるのかもしれない。それは、エゼキエルにとって慰めであり、興奮をもたらし、希望をもたらすものだったかもしれない。主が働いておられることを見て。
- BRC2017:Ezek 10:18 主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。
- 「主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。」(4節)にも「主の栄光」が現れる。エゼキエルには、全体で9回現れる。1:28, 3:12, 23, 11:23, 43:4, 5, 44:4 である。ケルビムの上は、この10章の二回だけである。しかし、ケルビムの上が、神のコントロールセンターのように思われる。
- BRC2015:Ez10:22 これらの顔の形は、まさしく、わたしがケバル川の河畔で見た顔であった。それらは同じような有様をしており、おのおのまっすぐに進んで行った。
- 15節、20節、22節と、これらの生き物が、以前にケバル川でみたものと同じであることが繰り返し語られている。ここでは、ケルビムとし、神の乗り物として記述されている。大きな確信を得たのであろう。主観的とも言えるが、同時に、他者から評価はできないものとも言える。わたしは、明らかにそのような確信に満ちたものを、見ることは避けているが。
- BRC2013:Ez10:14 そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。
- 第1章の四つの生き物が再登場する。再述であることが、4節にも21節にも書かれている。この4つの生き物を具体的に何を意味するかは考えなければいけないことであろうが、確定することには危険があるように思われる。もう少し丁寧に読み進めたい。
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- BRC2021:Ezekiel 11:16,17 それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。確かに私は彼らを諸国民の中に遠ざけ、国々の中に散らした。しかし私は、彼らが行った先の国々で、しばらくの間、彼らのための聖所となった』と。それゆえ、言いなさい、『主なる神はこう言われる。私はあなたがたをもろもろの民から集め、散らされていた先の国々から呼び集め、イスラエルの地を与える』と。
- 神殿・聖所を中心に書かれている。祭司になるはずだった、エゼキエルにとっては最大の関心事だったのかもしれない。引用句で、「主が、聖所となる」という表現が出てくるが、霊的な、より普遍的な礼拝を考えるべきときだったのかもしれない。そのあと、回復の預言とともに「私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(19)とあるが、正直、懐疑的である。少なくとも、エルサレム帰還のときに起こったことは、部分的。それでも、良いのかもしれないが。「あなたの信仰が救った」と言ってくださる方だから。
- BRC2019:Ez 11:16,15 「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』
- 皮肉な宣告でもあるが、興味深い記述でもある。このあとの記述も興味深い。しかし最後は「しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。 」(21)結局正しさ、自業自得からは離れていない。神の義と恵みを一つのものとして理解するのは、本当に難しい。
- BRC2017:Ezek 11:21 しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。
- 「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(19,20節)とあるが、結局引用箇所が続く。神の主権のもとで、新しい霊が授けられるが「信賞必罰」ではないが、理解しにくい。新約の福音との区別は、キリストの十字架なのだろうか、構造は変わっていないのか。難しい。「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3章36節)
- BRC2015:Ez11:16,17 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。
- 直前のエルサレムの住民の「この土地は我々の所有地として与えられている。」というエゼキエルたちに対する排斥の言葉をうけて、上の言葉が語られ、さらに大きな幻が与えられる。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(19節)表面的に見るとべつの歴史観があるのかもしれない。神の業を見て取るのは、難しいが、すくなくとも、それを求めて生きたい。
- BRC2013:Ez11:16 それゆえ、言え、『主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる』と。
- この章はエゼキエルに25人の人たちが来て預言を促すところから始まっている。19節に「そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」にありそれに注目していたが、16節がより普遍的であるように思う。聖所は特定の場所ではない。
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- BRC2021:Ezekiel 12:18,19 「人の子よ、震えながらパンを食べ、不安におののきながら水を飲み、この地の民に言いなさい。『主なる神はエルサレムの住民、イスラエルの地にこう言われる。彼らは不安を抱きながらパンを食べ、恐れながら水を飲む。その地が、住民すべての暴虐のゆえに、地に満ちていたものを失い、荒れ果てるからである。
- 単に、パフォーマンスとして、自ら「震えながらパンを食べ、不安におののきながら水を飲(む)」のではなく、おそらく、心も、体も、エルサレムの住民、イスラエルの地と結びついていたのだろう。情報は、それなりに頻繁に入ってきていたのではないだろうか。(ネヘミヤ1章2節など)このあと「彼の見た幻は多くの日々の後のことであり、彼は遠い将来のことを預言したのだ。」(27b)という人々の声も書かれている。ケバル川のほとりにいても、捕囚の民のこころは、遠い地にあったのだろう。エゼキエルも、他の捕囚の民も、そのこころは、エルサレムにあったのかもしれない。
- BRC2019:Ez 12:16 しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」
- 「わたしが主であることを知るようになる。」このフレーズがエゼキエルでは多い。この章には16節と20節だけであるが、エゼキエル全体では45回出てくる。他には、出エジプトに4件(7:5, 17, 14:4, 18)エレミヤ書に似た表現が一カ所14章7節に「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」とあるだけである。エゼキエルが一番たいせつにしていた、言葉なのではないだろうか。いつかこのことばを追ってみたい。エゼキエルには、偶像礼拝も出てくるが「わたしが主」であることがわからないことの表現なのかもしれない。
- BRC2017:Ezek 12:11 あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。
- エゼキエルの奇怪な行動はすべてしるしとなる。しかし「人の子よ、反逆の家、イスラエルの家は、あなたに向かって、『何をしているのか』と尋ねなかったか。 」(10節)あるところを見ると、無視されているのだろう。それでも語り続けるのが、預言者の仕事なのか。わたしは、すぐ、人間の側に視点を向けるが、何人かが救われるために、ではおそらくなく、神の栄光のためなのだろう。
- BRC2015:Ez12:2 「人の子よ、あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない。まことに彼らは反逆の家である。
- ヨハネ9章41節「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。』」との対比を考える。生まれつき盲人であったひとが見えるようになった記事の締めくくりの言葉である。ヨハネでも、ファリサイ派の人たちは、見る目を持っていながら、神の栄光を見ないのかもしれない。もし、そうであるなら、まさに、反逆の家である。ヨハネ9章39節のイエスの言葉「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」について考えさせられる。
- BRC2013:Ez12:2 「人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である。
- イザヤ6:9,10「主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」」とはどのように違うのだろうか。神の計画なのか、それとも、人の反逆なのか。もう少し丁寧に考えたい。
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- BRC2021:Ezekiel 13:2 「人の子よ、預言しているイスラエルの預言者たちに向かって預言しなさい。心のままに預言する者たちに『主の言葉を聞け』と言いなさい。
- 「主の言葉を聞け」はなかなか重いことばだ。「エルサレムに対して預言し、平和がないのに、エルサレムのために平和の幻を見るイスラエルの預言者たちよ――主なる神の仰せ。」(16)ともある。わたしたちは、平和だろうか。世界は平和だろうか。心のままに神の言葉として語ることの愚かさを感じる。聴く・見る内容にも、平和とはなにかにもよるのだろうか。
- BRC2019:Ez 13:10-12 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。
- 「自分の心のままに預言する者たち」(1)「何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たち」(2)に対して語られている。どちらが正しいかということに至るが、引用箇所は「反証可能性」的なことを述べているとも言える。将来が見通せない未曾有の事態。あることばが漆喰の上塗りかどうかは、本人にもある程度わかるのかもしれない。主の声に聞き従うことの難しさを軽減するものではないが。
- BRC2017:Ezek 13:20 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。
- 「自分の心のままに預言する者たちに向かって」(2節)語られていることばである。「お前たちは、ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに、わが民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入るわが民を欺くことによって、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきではない者を生かしている。」(19節)は痛烈である。わたしも、あまり変わらないのかもしれない。謙虚でありたい。
- BRC2015:Ez13:2 「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。
- 偽預言者はここでは「自分の心のままに預言する者」としている。真の預言者かどうかは、むろん、判定は簡単ではない。しかし、自分に問うことはできるだろう。真剣に神の心をもとめて、神のことばに聞こうとしているか。
- BRC2013:Ez13:4 イスラエルよ、あなたの預言者たちは、荒れ跡にいるきつねのようだ。
- この章では「自分の心のままに預言する人々」(v2), 「自分の霊に従う愚かな預言者たち」(v3), 「心のままに預言するあなたの民の娘たち」(v17) への預言が語られている。4節ではそれを「荒れ跡にいるきつね」と表現している。具体的な意味はわからないが、人を生かすものとは正反対の存在を言っているのか。そしてエゼキエルではこの人たちも「わたしが主であることを知るようになる。」(vs 14, 21, 23)
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- BRC2021:Ezekiel 14:9,10 もし預言者が惑わされて、言葉を語るなら、主である私がその預言者を惑わしたのである。私は彼に手を伸ばし、わが民イスラエルの中から滅ぼす。彼らは自分の過ちを負う。尋ね求める者の過ちは預言者の過ちと同じである。
- すべてを主がご存知であるなら、預言者が誤ったことを語るときの、背後にも、主がおられると考えるのは、自然であるが、状況を理解するのはやはり難しい。ひとに、主は、任せ、手を出さず、自由を与えておられるのではないかと思う。自由がなければ、責任もないように思う。難しい判断だが。
- BRC2019:Ez 14:9,10 もし、預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす。 彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。
- 不思議である。「主なるわたし自身がその預言者を惑わした」とある。「ある時点から」という条件があるのかもしれない。しかし、やはり不可解でもある。それは、このようにして、浄化されることは、ないと思うからである。清い心で主のことばを求めることは、どのように実現するのだろうか。わたしは、イエスの生き方にならって歩む以外には、ヒントを持っていない。
- BRC2017:Ezek 14:13,14 「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。
- 前半部分も、後半の、ノア、ダニエル、呼ぶも、細部はよくわからない。しかし、ある程度、普遍的な価値のもとで、書かれている。ここにノアがあるのは、よいとして、なぜ、ダニエルと、ヨブなのか。明確な答えがあるのだろうか。考えてしまう。時代的にも、不明である。
- BRC2015:Ez14:23 お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」と主なる神は言われる。
- 理由を問いたい気持ちは、だれにでもある。しかし、神に栄光を帰するとは、理由を求めないことなのではないだろうか。
- BRC2013:Ez14:14 たといそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみであると、主なる神は言われる。
- この章にはこのことばがたくさん出てくる。15, 18, 20, この3人が当時の義人の代表格だったのか。アブラハムの子ということが信仰に生きることを表さないように、3人のとりなしも、その人を義としないということか。
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- BRC2021:Ezekiel 15:2 「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか。
- 自分自身を異なる視点で見ると、取るに足らないものであることが理解できるとうことだろう。この章にも「私は彼らに顔を向ける。彼らが火から逃れ出ても、火は彼らを焼き尽くす。こうして、私が彼らに顔を向けるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」(7)とある。エゼキエルは、ここに最も大切なこと、神様の御心を見ているのだろう。
- BRC2019:Ez 15:2 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。
- イスラエルがぶどうの木にたとえられている。しかし、ここでは「それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。 」(4)と、焦げてしまった木にするということまで述べている。役に立たないもの。それが自分達でよくわかっていなかったということだろうか。エゼキエルのテーマは「わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(7)と表現されている。自分達が主の栄光を表すという傲慢を打ち砕き、主が主であることを知ることに集中させるというのだろうか。
- BRC2017:Ezek 15:8 わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。
- 本当に、こんなに、単純で良いのだろうか。それなら、機械仕掛けでもよいかもしれない。神は、主権をもって、因果関係、勧善懲悪からも自由なのではないだろうか。慈悲の故に。恵みを施すために。イスラームではそうではないのだろうか。むずかしい。ある部分、この秩序がなくなったら、生きていけないようにも思えるし。
- BRC2015:Ez15:2,3 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。 ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。
- 「それが火に投げ込まれると、」と続く。印象的な文章である。ぶどうの木は、イスラエルの象徴であることはすぐ読み取れるである。実際の木についてわたしは、知らないが、これが16章へと続くエルサレムの背信の記述につながっていく。イスラエルが選ばれたのも、どの木よりも優れているわけではないことがここの背景に明確に表現されているのだろう。それは、すでに、イスラエルも申命記7章7節「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」などから知っていることではあったろうが。
- BRC2013:Ez15:2 「人の子よ、ぶどうの木、森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。
- このあと5節には「見よ、これは完全な時でも、なんの用をもなさない。まして火がこれを焼き、これをこがした時には、なんの役に立つだろうか。」とある。役に立つかという観点はちょっと気になるが、エルサレムそしてその中のひとがこのように例えられている。7節「わたしはわたしの顔を彼らに向けて攻める。彼らがその火からのがれても、火は彼らを焼き尽す。わたしが顔を彼らに向けて攻める時、あなたがたはわたしが主であることを知る。」本当に厳しいとしか言えない。
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- BRC2021:Ezekiel 16:14,15 あなたの美しさのために、名声は諸国民の間に広まった。あなたに施した輝きによって、その美しさが完全だったからである――主なる神の仰せ。ところが、あなたは自分の美しさに頼り、自分の名声のゆえに淫らな行いをした。通りかかる誰とでも淫行をし、その人のものとなった。
- この章は長く、歴史も詰まっていて、それが象徴的な言葉で語られているので、十分は理解できないが、「私(主)」がすべてを与えたにも関わらず、その美しさに頼って、主から離れたということだろうか。自分自身について知ることは、自分がどこから来たかを見つめることでもあろう。恵みとして受け、それをどのようにお返しするか、考えてみたい。
- BRC2019:Ez 16:45,46 お前は、自分の夫と息子たちを捨てた母の娘であり、自分の夫と息子たちを捨てた姉妹たちの一人である。お前の母はヘト人、父はアモリ人である。お前の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。
- 3節にも「あなたは言わねばならない。主なる神は、エルサレムに対してこう言われる。お前の出身、お前の生まれはカナン人の地。父はアモリ人、母はヘト人である。」とあるがこれは、かなりの侮辱だったろう。イスラエルは、そしてエルサレムはこれらの隣人を見下していたから。さらにここでは「お前の姉はサマリア」「お前の妹はソドムとその娘たち」と言っている。耐えがたいことであったろう。それほどに、ひとは、自分の存在自身が高貴なもの、すくなくとも、それほどひどくないものだと信じているのだろう。それは、ここで述べられている姦淫の罪もあるが、現代での、宗教や人種による差別、または社会的に線を引くことによって、分け隔てする背後にあるおぞましさと通じることであろう。クリスチャンと、ノンクリスチャンの間に線をひくことも含めて。恵みとしての救いを受け入れることは、大きな挑戦である。
- BRC2017:Ezek 16:62,63 わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」と主なる神は言われる。
- なにか、単純に見えて仕方がない。これで良いのだろうか。すでに、多くの人が裁かれている。形式的にだけ、神があがめられているように、思われる。それで良いのだろうか。神は、それで本当に良いのだろうか。学び続けよう。エゼキエルが考えていたことを。
- BRC2015:Ez16:6 しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。
- 繰り返しは、一般的には強調であろう。ヨハネ5章21節「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」とあるように、神の愛故に、命が与えられたのである。愛は結果として、選択的である。しかし、神の愛が万民に注がれていることも事実である。応答したのが、イスラエルであったとは書かれていない。ヨハネ5章24節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」などでは応答が問われている。しかしヨハネ15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」は神の側の選択。教理問答などを調べたくなる衝動にも駆られるが、まずは、じっくりこの問題を考えてみたい。
- BRC2013:Ez16:63 こうしてすべてあなたの行ったことにつき、わたしがあなたをゆるす時、あなたはそれを思い出して恥じ、その恥のゆえに重ねて口を開くことがないと、主なる神は言われる」。
- ここに息つく間では本当に長い。そしてその希望を持ちつづけることができるのだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 17:7 また、もう一羽の大鷲がいた。/大きな翼と豊かな羽毛を持っていた。/このぶどうの木は/根をこの鷲の方に向かって伸ばし/水を得ようとして/植えられた苗床から/枝をこの鷲の方に伸ばした。
- この謎解き(11-18)を見ると、もう一羽の大鷲はエジプトのようである。最初に読んだ時、よくわからなかった。ぶどうの木などの栽培に精通していれば理解できるのだろうか。エゼキエルは、バビロンにおり、その勢いや、中東の状況は、エルサレムにいるよりも、情報が得られたのかもしれない。エジプトは、敗れることになる。ここで記述されていることとは、少し違う経緯をとるように思うが、エルサレムの人々にとっては、十分な警告だったのかもしれない。
- BRC2019:Ez 17:14,15 それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。しかし、彼は王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとした。果たして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか。
- エゼキエルはバビロンにいて、エルサレムの政策について意見を述べている。エホヤキンがとらえられてバビロンに捕囚となり、ゼデキヤが王に任命され、そのゼデキヤがエジプトに助けを求めたことが背景にある。イスラエルとエジプトは長い交流の歴史もあり、ある程度エジプトについて親近感を感じていても、アッシリア、バビロンについては、あまり情報を持っていなかったのかもしれない。世界は変わりつつある。バビロンからのほうが世界を見やすかったのかもしれない。捕囚の民が多くバビロンにいるにもかかわらずそのバビロンを裏切るのには驚かされるが、混乱は十分理解できる。ましてやそれが主から出たこととどのようにしてわかるのだろうか。
- BRC2017:Ezek 17:14 それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。
- 一回目の捕囚のことを言っていると思われる。しかし、その時点で、本当にこう言えるのだろうか。形式に過ぎないように思われる。主の憐れみいつくしみはとこしえになのだろうか。
- BRC2015:Ez17:18 彼は誓いを軽んじ、契約を破った。彼は約束をしながら、これらすべての事を行った。彼は逃れることができない。
- この誓いは、バビロンの王との約束である。そのような約束であっても、約束を守ることは、神との契約を守ることと、同種のことであることが想定されている。それが神を畏れることなのだろう。
- BRC2013:Ez17:7,8 ここにまた大きな翼と、羽毛の多いほかの一羽の大わしがあった。見よ、このぶどうの木は、潤いを得るために、その根をわしに向かってまげ、その枝をわしに向かって伸ばした。 これが枝を出し、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、わしはこれを植えた苗床から水の多い良い地に移し植えた。
- 3-6節の対比として書かれている。わかりやすいとは言えないが、若枝や、種の時ではなく、その苗木自体を移植するのでは、育たないと言っているようである。そしてそれは、バビロンやエジプトに捕らえ移されたイスラエルの人々を象徴しているようである。しかし、わかりやすいとは言えない。エレミヤの預言等を考えてしまい、エジプトとバビロンの違いを際立たせるからか。ここでは、その違いは明確には捕らえられない。
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- BRC2021:Ezekiel 18:31,32 あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」
- 「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。」(21)「正しき者がその正義から離れて不正を行い、悪しき者が行うようなあらゆる忌むべきことを行うなら、彼は生きるであろうか。」(24a)このことは、公正であると書かれている。21節から29節は、同じ文章ではなく、順序も異なるが、ほとんど同じことが繰り返されている。その結びが、引用句である。中心的なメッセージは、エルサレムに向けられているのだろう。しかし「自ら新しい心と新しい霊を造り出せ」と言われても、国家の危機、おそらく、他国の侵略がもたらした経済的にも危機的状況の中で、新しい心、霊は造れるのだろうか。人間の弱さを主はご存知のはずである。苦しく、難しい。
- BRC2019:Ez 18:30-32 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
- エゼキエルはエルサレムの陥落と破壊を前に国について語っている。しかし「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。」(4)と父の罪によって、子が死ぬことはないという、個人の罪、さばきに焦点を移しているようだ。それは、バビロンに移され、国もなく生活する中で行き着いたのだろうか。このあとどのように変化するかわからないが、転換点であるのかもしれない。神殿のある国から移されることで、自由にされているのかもしれない。それは、あまりに新約的解釈だろうか。
- BRC2017:Ezek 18:2,3 「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。
- 自分の行いに目を向けよ。そらすなと言っているのだろう。原理は、前からそうなのか。祝福はどうだろうか。
- BRC2015:Ez18:20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
- 親の問題ではない。本人にかかっていることを、明確にしてから、20節以下が続き、最後「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」(32節)力強い言葉である。
- BRC2013:Ez18:31,32 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。
- この背景にある論理の核心は26-28節「義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。
彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。」この論理は18章の最初から展開される。5-9節、10-13節の記述は、部分否定などが明確でない為に十分論理的とは言えないが、全体としては、最後につながっていると思われる。「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」おそらく、エゼキエルの二つ目の核であろう。
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- BRC2021:Ezekiel 19:1,2 あなたは、イスラエルの指導者たちのために哀歌を歌い、言いなさい。/あなたの母は、獅子たちの中で/どのような雌獅子だっただろうか。/彼女は若獅子の間に伏し、子獅子たちを育てた。
- 正直、どのような具体的な歴史的背景があるのか、よくわからなかった。少しは、調べてもみたが、どれも、しっくり来るものではなかった。イスラエルの母(主だろうか)を、雌獅子(に譬えるならそれ)は、たくさんの、若獅子を育てたが、すべて、滅んでしまった。ぶどうの木(に譬えるならそれ)は、豊かに実を結び、多くの枝を茂らせたが「憤りによって」(12)引き抜かれ、地に投げ捨てられた。ということは、読み取れるように思う。「これは哀歌であり、哀歌となった。」(14)の部分だけ受け取ろう。無理な解釈をせずに。
- BRC2019:Ez 19:12-14 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。今や、その木は/荒れ野に、乾いた水なき地に/移し植えられた。また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。
- いろいろな要素が表現されている。一番印象に残ったのは、「この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。」という表現である。ダビデ王朝の終焉。これからは、違った形になることが、はっきりと述べられているように思う。実際、イスラエル王国は、すでに、このような威容は最初からなかったが、単なる王国という形式以上のものが終わったことをエゼキエルは見ているようだ。それを悲しみながら。
- BRC2017:Ezek 19:12 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。
- 「エジプトの地へ連れて行かれたと。」(4節)「彼は鉤にかけられ、籠に入れられ/バビロンの王のもとに連れて行かれた。彼らは獄に彼を閉じ込め/二度とその声が、イスラエルの山々に/聞こえないようにした。 」(9節)となっている。ここでエジプトがでてくるのは、なぜだろうか。何を言っているのだろうか。バビロンも、よくは分からない。若獅子は具体的に何なのか。単に王ではないように思われる。
- BRC2015:Ez19:14 また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。
- 「悲しみの歌」として「子獅子を育てた母獅子」と「水のほとりに植えられた園のぶどうの木のような母」と二様の比喩が語られて、そのぶどうの木の結末が上のものである。明確に理解できるわけではないが、悲しさが伝わってくることは確か。預言者は、少しずつ、神の痛みとして受け取っていったのだろう。
- BRC2013:Ez19:1,2 あなたはイスラエルの君たちのために悲しみの歌をのべて言え、あなたの母はししのうちにあって、どんな雌じしであったろう。彼女は若いししのうちに伏して子じしを養った。
- この章には、獅子とぶどうの木のたとえがあるが、正直よくわからない。物理的なこととして考えず、霊的なものとして捕らえるべきなのだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 20:25,26 私もまた、良くない掟と、それによって生きることができない法を彼らに与えた。彼らがすべての初子に火の中をくぐらせたとき、私は彼らの供え物によって彼らを汚した。それは、彼らをおののかせるため、また彼らが私が主であることを知るためである。
- 驚くことが書かれている。すべてのことの背後に主がおられることをこのように表現しているのかもしれない。この章を読んでいると「第七年の第五の月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老のある人たちが、主に尋ねるためにやって来て、私の前に座った。」(1)ともあり、ある程度、自由が与えられていたことがわかる。ただし、この「イスラエルの長老のある人たち」が(第七年はBC591年と思われ、まだ完全には滅びていない(最後はBC586年)ので)エルサレムから来たのか、それとも、一回目の捕囚で、エゼキエルと同じ地域にいた人かは不明である。この章に「私が主」は五回現れ、エゼキエル全体で62回あるが、それなりに多い。
- BRC2019:Ez 20:39 お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。
- 16節には「それは、彼らがわたしの裁きを退け、わたしの掟に従って歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。」(8章12節、23章37節参照)と「自分たちの偶像」ということばが出てくる。「このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。 」(列王記下14章41節)ともある。エゼキエルはつねに、偶像礼拝を糾弾している。しかし、究極は、この「自分(たち)の偶像」なのかもしれない。これは、イスラエルの長老たちに語っている(1,2)。真摯に受け止めるものは、異教の神々に跪かなかったものも、理解できたかもしれない。ただ、「わたし(主)が主であることを知るようになる」(44)以降のことは、エゼキエルは十分には語っていないように思われる。つまり、いのちに生きること、主を主としていきることについては。
- BRC2017:Ezek 20:25 わたしもまた、良くない掟と、それによって生きることができない裁きを彼らに与えた。
- 神とイスラエルの歴史が語られ、その途中で、このように書かれている。口語訳も殆ど同じであるから、大きな解釈の幅があるわけではあるまい。神はそのようなことをされるのだろうか。驚かされる。似た箇所を探してみたい。
- BRC2015:Ez20:43 その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
- 正直終わりの時になるまでこのようなことが起こることは信じられない。しかしからしだね一粒ほどの信仰は、神の栄光の表れとして、ひとりひとりに芽生えているのかもしれない。私が見えないものを「ない」としてはいけないのかもしえれない。また、エゼキエルの希望を受け取ることもエゼキエルと主を通してつながるためにたいせつなのかもしれない。
- BRC2013:Ez20:47 すなわちネゲブの森に言え、主の言葉を聞け、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたのうちに火を燃やす。その火はあなたのうちのすべての青木と、すべての枯れ木を焼き滅ぼし、その燃える炎は消されることがなく、南から北まで、すべての地のおもては、これがために焼ける。
- 何らかの特別の事実の預言なのか、不明である。エゼキエルの時代について、もう少し勉強しないといけないのだろう。
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- BRC2021:Ezekiel 21:29,30 それゆえ、主なる神はこう言われる。あなたがたの過ちを思い起こさせ、背きをあらわにし、そのすべての行いにおいて罪を明らかにするために、すなわちあなたがたが思い起こすために、あなたがたは敵の手に捕らえられる。悪に汚れたイスラエルの指導者よ、あなたの日が、終わりの刑罰の時にやって来た。
- 正直このような預言しかできないことが悲しい。一つは、イスラエルの指導者に批判の先を向けているが、一般のひとはどうなのだろうか。みなが、バビロンの侵攻を受ける。城壁の中に入らないものは、関係ないのか。世界史的には、大きな流れの中にもある。悪をしてあげつらっても、問題の解決には至らない。バビロンの人も含めて、互いに愛し合うようになることはできないにしても、その方向を模索することはできないのだろうか。現在の世界の状況を見ても同じことを思う。隣人との間でまずは、互いに愛し合うことを学びたい。「破城槌(battering ram)」という聞き慣れないことばで立ち止まった。聖書にはエゼキエル書のみ。他に4章2節・26章9節にある。外典のマカバイ二12章5節には「ユダたちは、ヨシュアの時代に破城槌や攻城機(siege engine)なしにエリコを陥落させた方、すなわち世界の偉大なる支配者に呼ばわってから、猛獣のように城壁を攻撃した。」とある。いずれ調べてみたい。大英博物館で見たレリーフを思い出すが、もう少し良く見ておけばよかった。Wikipedia には画像もあった。
- BRC2019:Ez 21:5 そのとき、わたしは言った。「ああ、主なる神よ、彼らはわたしについて、『彼はことわざを語る者にすぎないではないか』と言っています」と。
- 正確にはわからないが、神からのことばではなく、一般的なことを言っているに過ぎないと非難されていたのかもしれない。もう一箇所気になったのは「イスラエルの地に向かって言いなさい。主はこう言われる。わたしはお前に立ち向かい、わたしの剣の鞘をはらい、お前たちの中の正しい者も悪い者も切り捨てる。」(8)である。こちらは、一般論としては、乱暴である。しかし、このあとを読んでみると「人の子よ、あなたはバビロンの王の剣が来るために、二つの道を用意せよ。」(24)とあり、最終的なエルサレム攻撃のことを語っているように思われる。エゼキエルにしても、主がなされる未曾有のことにとまどいながら語っているのだろう。正確さはむろんたいせつであるが、この背後に驚きや、とまどい、そしてこれは主のみこころではないのかもしれないという不安もあるのかもしれない。それが引用句を記した背景かとも思ったが、すこし穿ち過ぎか。
- BRC2017:Ezek 21:10 そのとき、生ける者は皆、主なるわたしが剣を鞘から抜いたことを知るようになる。剣は二度と鞘には戻らない。
- 「剣をもとの鞘に納めよ。」(35節)とアンモン人に対する部分では語られている。引用箇所の「剣は二度と鞘には戻らない」も、裁きがどのようなものかを表現する文学的表現なのだろう。いずれにしても、悪に対する裁き、悔い改めに対する赦し、それだけで、主のメッセージは良いのだろうかと思う。
- BRC2015:Ez21:31,32 主なる神はこう言われる。頭巾をはずし、冠を取れ。これはこのままであるはずがない。高い者は低くされ、低い者は高くされる。 荒廃、荒廃、荒廃をわたしは都にもたらす。かつてこのようなことが起こったことはない。それは権威を身に帯びた者が到来するまでである。わたしは権威を彼に与える。」
- 口語では「すべてのものはそのまま残らない」となっているが、新共同訳では「これはこのままであるはずがない。」となり、なにか信念が感じられ、それが預言者の義憤のあらわれともとれる。最後は「彼」が登場する。預言者の心のうち、義憤と希望の中に、神の思いが見えるのかもしれない。
- BRC2013:Ez21:3 イスラエルの地に言え。主はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、わたしのつるぎをさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪しき者をも断ってしまう。
- この章をみても、なにかメッセージが伝わってこない。主の思いが伝わってこない。これが現実、これほどまでに、どうしようもない状態だと言うことだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 22:29,30 この地の民は虐待を行い、強奪をした。彼私の前で石壁を築き、その破れ目に立ち、この国を滅ぼさないようにする者を、私は彼らの中から探し求めたが、見つけることができなかった。らは苦しむ者や貧しい者を抑圧し、寄留者を不当に虐待した。
- 一般の人について書かれているようだ。しかし、最後は引用した悲しい文章で終わる。引用句のあとには「そこで私は、憤りを彼らの上に注ぎ、激怒の火によって滅ぼし尽くし、彼らの行いをその頭上に報いる――主なる神の仰せ。」(31)としてこの章を閉じている。正直悲しくなる。主イエスから学びたい。私達のあゆむ道を、エゼキエルとともに考えるために。
- BRC2019:Ez 22:7,8 父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている。お前はわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。
- イスラエルを滅ぼす前に悪をあげる箇所である。このあともずっと続くが、この箇所が目に止まった。最初に父母、そして他国人、さらに、孤児や寡婦がつづく。これらの人々をたいせつにすることが神を恐れることの象徴なのだろう。まさに、それらが、聖なるものに結びついているのかもしれない。30節の「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」の直前にも「国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。 」(29)とある。弱いもの、貧しいもの(霊的な部分を含むのだろう)乏しいもの、寄留の外国人、その生活に目をむけることから始めたい。
- BRC2017:Ezek 22:16 お前は諸国民の前で自分の罪によって汚される。こうして、お前はわたしが主であることを知るようになる。」
- 主を知ること「そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」(22節)主がなぜこのようにされたかを知る。つまり主の働きを知る。それも、主との関係を豊かにすること、それは、裁きと、救いとは、別に語られることなのかもしれない。
- BRC2015:Ez22:1,2 主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、あなたはこの流血の都を裁くのか。それならば、この都にそのすべての忌まわしいことを知らせよ。
- 何か不思議な言葉である。神が人の子に対して問うている。預言者の葛藤があるようにも見える。さらに「人の子」というイエスが好んだ自分の呼称の意味についても考えさせられる。一般的にはダニエル7章13節などがあげられるが、使用頻度は、エゼキエルが圧倒的に多い。(ダニエル3件、エゼキエル94件)自分を人の子以上の者とはしないという決然とした告白なのかもしれない。
- BRC2013:Ez22:29 国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。
- いまはこのようなことにかくもなれきってしまうほどに、堕落した状態なのかもしれない。神は、ローマ1:28 にあるように「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。」のだろうか。この種類のさばきの恐ろしさを感じる。
[23] ... back to menu top
- BRC2021:Ezekiel 23:46-48 主なる神はこう言われる。彼らに向かって集団を攻め上らせ、彼女たちをおののきと略奪に委ねよ。集団は彼女たちを石で打ち、剣で切り、息子と娘たちを殺害し、家々を火で焼く。こうして私は、この地から恥ずべき行いを絶やす。すべての女たちは、自らを戒めて、あなたがたがしたような恥ずべき行いをすることはない。
- オホラとオホリバに、サマリア(北イスラエル王国)と、エルサレム(南ユダ王国)にたとえた箇所である。淫行にふけることを女性をつかって表現しているのだろうが、現代的なジェンダー公平性から考えると、問題が背後にある。エゼキエルは、引用句からも、滅ぼされること、裁きを中心におきつつ「恥ずべき行いの報いはあなたがたの上に降り、あなたがたは自分の偶像による罪を負わなければならない。こうして、あなたがたは私が主なる神であることを知るようになる。」(49)最後は、このように結ぶ。悪の裁き、それをとおして、主の名が崇められることが中心である。読んでいてもつらい。
- BRC2019:Ez 23:11,12 妹オホリバはこれを見たが、彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫行は姉よりもひどかった。 彼女はアッシリアの人々に欲情を抱いた。彼らは知事、長官、戦士、盛装した者、馬に乗る騎兵たちで、皆、好ましい男たちであった。
- 有名な、オホラ(サマリア)とオホリバ(エルサレム)の記述である。いままでは、あまり疑問に思わなかったが、今回の通読では、ここまでひどかったのだろうかと思う。妹オホリバについても、アッシリアとなっていることは、象徴的にしたのだろうが、この記述には納得がいかないひともいたのではないだろうか。世界の状況からしても、ほんとうに難しいときだったと思う。むろん、誠実に信仰を守り通さなかったことはあるだろうが。ここに原因をもっていく信仰に疑問も感じる。主のみこころが知らされるひとつのステップだったのかもしれないが。
- BRC2017:Ezek 23:5 オホラはわたしのもとにいながら、姦淫を行い、その愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱いた。
- 「それゆえ、わたしは彼女をその愛人の手に、彼女が欲情を抱いたアッシリアの人々の手に渡した。」(9節)ユダについても同様のことが書かれている。一つの解釈だろうが、単純過ぎるように思われる。これが預言者の使命なのか。人間の理解のレベルをあまり超えていない因果関係のように思われてしまう。
- BRC2015:Ez23:28 主なる神はこう言われる。わたしはお前が憎む者の手に、既にお前の心が離れてしまった者の手にお前を渡す。
- 姉オホラ(サマリア・北イスラエル王国)、妹オホリバ(エルサレム・南ユダ王国)になぞらえ、エジプトでの姦淫のはじめ、その後、神のものとなってからの、姦淫が書かれている。異教の神々を持ち込んだことを述べていると思われる。しかし、それをもって、裁きや、国の運命を見る見方を、今も、イエスの福音の時代にも、続けるのか。これも、ひとつの面とすることもできるが、違和感を感じる。キリスト教会における、問題の一つの根でもあると感じるからだろうか。ヨハネ2章23節から25節「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」創世記8章21節「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」を認めた上で、この世において信仰に生きる不完全な営みの中で、互いに愛し合うことによって神の栄光が表される、そこに希望をもつ信仰だろうか。もう少し言語化を考えたい。
- BRC2013:Ez23:49 あなたがたの淫乱の報いは、あなたがたの上にくだり、あなたがたはその偶像礼拝の罪を負い、そしてわたしが主なる神であることを知るようになる」。
- アホラとアホリバ姉妹の淫行にたとえた、イスラエル、ユダの偶像礼拝に対する批判の章である。民の指導者やひとびとはこの批判をどの程度受け入れられたのだろう。43節に「人々」が出てくるが、実態はよくわからない。この節にも現れる「わたしが主なる神であることを知るようになる」は悔い改めではなく、裁きが世に行われるだけで終わりなのだろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 24:1,2 第九年の第十の月の十日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日に、エルサレムを包囲した。
- 20章1節には、第七年とあり、それから二年後である。1章冒頭には五年目とあり、この第九年もヨヤキン王が捕囚(1回目)BC597年から数えているのかもしれない。すると、預言を始めた五年目(1:2)はBC593年。エルサレム完全降伏(BC586年)は、十二年目となる。第九年は二度目の陥落のときなのだろうか。この年に、エゼキエルの妻(?)が、おそらく捕囚の地でなくなっている。(16)歴史的な背景ももう少し詳しく確認しておきたい。
- BRC2019:Ez 24:18 朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。
- 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」(16,17)と直前にあり、このように行ったのだろう。預言者はこのことをもって主のみこころを示している。それだけ、厳しい仕事だとわきまえていたのだろう。そして、イスラエル、エルサレムの状況の厳しさも。それを、非難することは、できないだろう。主のみこころは見えないが。
- BRC2017:Ezek 24:16 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。
- この意味は分かりづらいが「朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。」(18節)をみると、これは、預言者の妻のことを言っているようである。この章は「人の子よ、この日付(第九年の十月十日(1節))、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日にエルサレムの攻城を始めた。」(2節)から始まっている。この日、この期間、エゼキエルには、どんなことが起こっていたのだろう。それを語らないで、神の意思が通じるのだろうか。民へのメッセージは、それと独立なのかもしれないが。
- BRC2015:Ez24:16-18 「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」 朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ。翌朝、わたしは命じられたとおりに行った。
- 妻の死を、神の痛みの共有として受け入れようとしているのかもしれない。預言者とはそのような者だったのかもしれない。主イエスは、どう語られるだろうか。語らずに、この痛みをも担われるのだろうか。わたしの理解をはるかに超えている。
- BRC2013:Ez24:1,2 第九年の十月十日に、主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、あなたはこの日すなわち今日の名を書きしるせ。バビロンの王は、この日エルサレムを包囲した。
- 1章は第30年から始まっている。これはもとに戻っているのだろうか。エルサレムの包囲、陥落そして捕囚。この時代に希望よりも、神のさばきの理由を考えることが自然だったのか。エゼキエルの言葉のぬくもりのなさがとても辛い。
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- BRC2021:Ezekiel 25:5 私はラバをらくだの牧場とし、アンモン人の町を羊の憩い場とする。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。
- この章では、アンモン人、モアブ、エドムそして、ペリシテと、近隣の民族への裁きについて書かれ、最後は、つねに、エゼキエルの決り文句「こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」(引用句後半および、11,17 参照)ただ、エドムに関しては「私はわが民イスラエルの手によって、エドムに復讐する。彼らが私に従って私の怒りと憤りをエドムに示すとき、エドムは私の復讐を知る――主なる神の仰せ。」(14)となっており、異なる。しかし、正直、近隣の人々の隣人になることを考えるべきで、自分たちについても、過去のことばかり考えるようでは、いけないと思う。エゼキエルの時代には、そのような視点はなかった、または未発達なのだろうが。そして、おそらく、現代でも、未知、無理解、未発達なものがたくさんあるのだろう。
- BRC2019:Ez 25:14 わたしは、わが民イスラエルによってエドムに復讐する。彼らは、わたしの怒りと憤りのままにエドムに対して行う。そのとき、彼らはわたしの復讐を知るようになる」と主なる神は言われる。
- この章はアンモン、モアブ、エドムそしてペリシテについて書かれている。それぞれに起こることは異なる。「アンモン:それゆえ、わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を国々の略奪にゆだね、諸国民の中から断ち、諸国から一掃して滅ぼし尽くす。」(7)「モアブ:わたしは、アンモン人と共にモアブを東の人々に渡して所有させる。アンモン人が諸国民の間で思い起こされることはない。」(10)「エドム:わたしはエドムに向かって手を伸ばし、その中から人と獣を断って荒れ地とする。彼らはテマンからデダンにいたるまで剣で倒れる。 」(13b)「ペリシテ:わたしは手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を断ち、海辺に残っている者を一掃する。」(17)最後は引用したエドム以外は、すべて「わたしが主であることを知るようになる。」(7b,11b,17b)エドムは特別だったのかもしれない。兄弟部族、隣人との関係は難しい。
- BRC2017:Ezek 25:16,17 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を断ち、海辺に残っている者を一掃する。わたしは、彼らを憤りをもって懲らしめ、大いに復讐する。わたしが彼らに仇を報いるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」
- この章では、イスラエル、ユダに何らかの悪を行った者に対する預言が書かれている。アンモン(1-7節)、モアブとセイル(8-11節)、エドム(12-14節)そしてペリシテ(15-17節)その記述の最後の分が引用箇所である。クレタのことも書かれており、海洋民族であることは分かる。イスラエル、ユダ中心主義でよいのだろうか。普遍性ととともに公平性は、神の公平性で、人間の考える平等ではないとしても、疑問を持つ。
- BRC2015:Ez25:14 わたしは、わが民イスラエルによってエドムに復讐する。彼らは、わたしの怒りと憤りのままにエドムに対して行う。そのとき、彼らはわたしの復讐を知るようになる」と主なる神は言われる。
- この章には、アンモン、モアブ、エドム、ペリシテへの復讐と裁きについて書かれている。それぞれに表現が異なるところも興味があるが、通読では十分理解することはできない。周囲の国にのみ向けられていることからも、エルサレムを中心とした宗教国家が特別であることをうかがい知ることができる。旧約の時代の神のイスラエルに限定的な特別恩寵とも取ることができる。しかし、最近のわたしの視点からすると、預言者の視野、神様の御心理解の限界とも表現できる。有限な人間が把握しうる有界な世界の認知にもとづく帰納的結論なのだから、それを責めることは不適切でもある。今の時代は地理的視野は明らかに広がっているが、認知の範囲は、ごくわずかに過ぎないこと自体は変わっていないのだから。「復讐」911の時にアメリカで報道機関からすぐ出てきた retaliation という言葉への違和感が強いからかもしれない。神の御心を求め続けたい。
- BRC2013:Ez25:3 アンモンの人々に言え。主なる神の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、あなたはわが聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味であると言った。
- モアブとアンモン、そして、エドム、近隣のかつ聖書の記述によれば、兄弟関係にある民族との関係が難しい。預言者の限界とも感じさせられる。イエスの出現を待たないといけないのか。
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- BRC2021:Ezekiel 26:20,21 私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの民のところに下らせる。また、私はあなたを、穴に下る者たちと共に、とこしえの廃虚のような地の底に住まわせる。あなたが生ける者の地に住むことも場所を占めることもないようにするためである。私はあなたを恐怖に陥れ、あなたはもう存在しなくなる。あなたは捜し求められても、もはやとこしえに見いだされることはない――主なる神の仰せ。」
- ティルス、フェニキア人の都市国家についての厳しい言葉である。たしかに、かなりの抵抗のあと、バビロンによって滅ぼされ、歴史から姿を消したようだが、その理解だけで良いのだろうか。海洋民族だから、その人々は、その後も、生き残ったであろう。そして、ここに書かれているようなことは、たんなる仕返しでしかない。どのように、ともに生きることができるかを、考えるべきであると思う。なにか、エゼキエルを読んでいて、悲しくなってしまう。イエスの登場を待つしかないのだろうか。
- BRC2019:Ez 26:16 海の支配者たちは、皆その座から降り、礼服を取り去り、美しく織った衣服を脱ぐ。彼らは恐怖を身にまとい、地に座り、絶え間なく震えながらお前を見て驚きあきれる。
- ティルスに対する言葉である。ティルスについては、この章では「わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。」(21)と締めくくるが、このあとも、28章まで続く。分量からしても、特別な存在だったのだろう。引用にあるように「海の支配者たち」である。歴史的には、不明なことも多いようだが。ティルスについてていねいに学んでみたい。
- BRC2017:Ezek 26:21 わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。
- 前章に引き続き、この章では、ティルスについての預言である。ペリシテのような、定住したグループと、海洋都市国家は、区別されているのか、もともと全く違う民族なのか、良くは分からない。周囲の脅威で、相互に様々な関係があったろうに、世界の理解がこの域を出るのは難しいのか。
- BRC2015:Ez26:7 主なる神はこう言われる。わたしは、王の王であるバビロンの王、ネブカドレツァルを北からティルスに来させる。彼は馬と戦車と騎兵と多くの軍勢を引き連れてくる。
- 具体的に、ネブカドレツァルの名があげられる。この時代にどれほどの脅威だったかがわかる。ネブカドレツァルに滅ぼされることは当然である世の中である。すると裁きは別の形で記述される。それが、21節にあるような「わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と主なる神は言われる。」永久消滅の預言なのかもしれない。それが現実的に、なにを意味しているにしても。
- BRC2013:Ez26:2 「人の子よ、ツロはエルサレムについて言った、『ああ、それはよい気味である。もろもろの民の門は破れて、わたしに開かれた。わたしは豊かになり、彼は破れはてた』と。
- 次はツロである。ツロ、シドン、少し前であれば、ペリシテという、フェニキア人、さらには、アラム。これらが兄弟関係にはない、近隣の異邦人、異教徒である。この人たちとの平和は、神のビジョンの中には含まれないのだろうか。まだ時を待たないと行けないのかもしれない。
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- BRC2021:Ezekiel 27:35,36 島々の住民は皆、あなたのことでおののき/王たちは身震いし、顔をゆがめた。もろもろの民の商人はあなたに対して/嘲笑の口笛を吹く。/あなたは恐怖の的となり/とこしえに消えうせる。」
- この章は「人の子よ、あなたはティルスに対して哀歌を歌いなさい。」(2)と始まる。最後は、「嘲笑の口笛」ということばもあるが、全体的には、どれほど凄い都市国家であったかが、書かれているように思う。それは、おののき・身震い・顔をゆがめで、表現されているものにつながる。中東におけるバビロン侵攻は、当時の人達にとっても、驚くべきこと、その象徴が「あのティルス」が滅びるということだったのかもしれない。当時の世界をもう少しよく知りたい。
- BRC2019:Ez 27:35,36 海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き/王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。諸国の民の商人は/口笛を吹いて、お前を嘲る。お前は人々に恐怖を引き起こし/とこしえに消えうせる。」
- ティルスについての預言の続きである。この章を読むと、ティルスが貿易の拠点としていかに繁栄していたかがわかる。25節には「タルシシュの船」タルシシュは「ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニム。」(創世記10章4節)と最初に現れ、「海には、(ソロモン)王のタルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった。三年に一度、タルシシュの船団は、金や銀、象牙、ひひや猿を運んで来た。」(列王記上10章22節)「ヨシャファトは金を求めてオフィルに行こうとして、タルシシュの船を数隻造った。しかしながら、船団はエツヨン・ゲベルで難破したため、行くことができなかった。 」(列王記上22章49節)イザヤ書23章にはやはりティルスについてとともに、タルシシュについて書かれ「島々は私を待ち望み/タルシシュの船を先頭に/あなたの子らを彼らの銀と金と共に/遠くから運んで来る。/あなたの神、主の名のために/イスラエルの聖なる方/あなたに栄光を現したその方のために。 」(イザヤ60章9節、参照:同20節)と現れる。イザヤの記述との比較も興味深い。通常の国とは異なり、とくべつな存在だったのだろう。
- BRC2017:Ezek 27:10 ペルシア、リディア、プトの人々は/お前の部隊に入って戦士となり/盾と兜をお前の中に掛け/お前を美しく飾り立てた。
- リディアは小アジア(現在のトルコの西半分)プトはリビアと言われているようである。26章からティルスに関する預言が28章の終わりまで続いている。ティルスについては、ゆっくり調べてみたい。海洋都市国家は巨大帝国にも、ある程度対応が可能だったのだろう。
- BRC2015:Ez27:1,2 主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、あなたはティルスのために、嘆きの歌をうたいなさい。
- 深く読めていないことは、確かだが、ティルスへの預言に関しては、違和感を感じる。Wikipedia には次のようにある「ティルスは、現在小さな漁村であるスールの位置にかつてあった都市である。都市の起こりは紀元前2500年ごろといわれている。ティルスは紀元前1000年頃、ティルス王ヒラムが陸地から1キロメートルほど離れた小島に移した。紀元前332年に半島となった。以後、フェニキア人の造った都市国家でも最大級にまで発展し、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都となった。また、アレクサンダー大王に対して唯一抵抗したフェニキア国家でもあった。」ネブカドレツァル以降も存在したこともわかる。紀元前1000年頃は、ダビデ王朝の頃である。首都だったとは知らなかった。海洋民族というイスラエルとは異質の国家の持ち方と、商取引で豊かになるという体制が受け入れられなかったのだろうか。アレクサンダー以後についても、もう少し知りたい。マルコ7章24-30節、マタイ15章21-28節でのティルス、マタイ11章21-22節「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。」(マルコ10章13-14節参照)を記す。
- BRC2013:Ez27:3 海の入口に住んで、多くの海沿いの国々の民の商人であるツロに対して言え、主なる神はこう言われる、ツロよ、あなたは言った、『わたしの美は完全である』と。
- ツロも高慢の故にさばかれるのだろうが、やはり世界観が狭い気がする。同時に、ツロの繁栄について調べてみたくなった。『わたしの美は完全である』と言えるような人たちは、どのような人たちだったのだろう。フェニキア人全体を意味しているのか、それともツロという海洋民族の都市文明だろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 28:2 「人の子よ、ティルスの君主に言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたの心は驕り高ぶり、『私は神だ。海のただ中にある神々の住まいに住んでいる』と言った。しかし、あなたは人であって、神ではない。自分の心を神々の心のように思っているだけだ。
- このように断言できるのだろうか。ひとは、それぞれに、驕り高ぶり、みずからを神としている。ここでは、バビロンに攻められていることが背景にある。かなり持ちこたえ、歴史から姿を消すことになるようだが、それを、このようなところに、原因を求める神様ではないように思う。その弱さをも、よくご存知なのが主なのではないだろうか。憐れみ深い方なのだから。
- BRC2019:Ez 28:5,6 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。
- ティルスや、海の民については不明なことが多いようなので、乱暴なことは、言えない。しかし、現代の Money Game のことを思い起こさせる。どんなに、ひとが苦しんでいる状況でも、互いに協力して株価をつり上げたり、「取引に知恵を大いに働かせて富を増し加え」ている。アダム・スミスもまだ学んでいないが、わたしには、自由市場経済に、神の見えざる御手がはたらいているとして、とらえることはできない。このような知恵をどう考えたらよいのだろうか。エゼキエルは「わたしは、町の中に疫病を送り/また、通りに血を流れさせる。剣が周囲から迫るとき/殺された者がその中に倒れる。そのとき彼らは/わたしが主であることを知るようになる。イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(23,24)という。これは直接的には、シドンについての預言であるが、すくなくとも、わたしには、わからないとしか言えない。
- BRC2017:Ezek 28:2-4 「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。
- ティルスについて驚かされることが書かれている。本当に、わたしは、何も知らない。おそらく、預言者も、知らないのだろう。人には隠されている中で、神を真摯に求め、神から啓示されたことと信じることを伝えていく。ティルスについては、学んでみたい。
- BRC2015:Ez28:24 イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。
- この章もティルスについてである。高慢さの中身も書かれていて興味深い。現代にもあてはまるとも思う。しかし、今回は、あまり集中せずに読み流してしまった。エゼキエルに親しみを感じるときが来るのだろうか。むろん、異質として排斥をするものではないが。引用は、エゼキエルがティルス批判のあとに絞り出すように書いている箇所である。これが、エゼキエルの希望だったのだろう。
- BRC2013:Ez28:1 「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
- バビロン(新バビロニア帝国)が世界を征服しているときに、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と言えるツロはどのような町だったのだろう。逃げる場所がいくらでもあったということだろうか。全体が、24節「イスラエルの家には、もはや刺すいばらはなく、これを卑しめたその周囲の人々のうちには、苦しめるとげもなくなる。こうして彼らはわたしが主であることを知るようになる。」に向かっている構成は神様の理解が狭いように感じてしまう。エゼキエルをわたしはまだ全く理解していないということか。
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- BRC2021:Ezekiel 29:19,20 それゆえ、主なる神はこう言われる。私は必ず、バビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの地を与える。彼はその富を運び去り、略奪をほしいままにし、強奪する。それが彼の軍隊の報酬となる。彼の働いた報酬として、私は彼にエジプトの地を与える。なぜなら、彼らは私のために行ったからである――主なる神の仰せ。
- この前には「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはその軍隊をティルスの攻撃のために大いに働かせた。皆の頭は禿げ、肩はすりむけた。しかし、彼にもその軍隊にも、その働きに対する報酬は、ティルスからは何もなかった。」(18)とあり、ティルス攻略はネブカドレツァルにとっても、大きな消耗であったことがわかる。エジプトはその報酬だ。背後に主なる神がおられるのだから、という。なにか、素直には受け入れられない。この章は次のことばで結ばれているが。「その日、私はイスラエルの家に一つの角を生やす。また私は、彼らの中であなたに口を開かせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」(21)
- BRC2019:Ez 29:18 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。
- 歴史的な事実を具体的には知らないが、海の民が帝国の中で、特別な存在だったことは、確かなようだ。ティルスに費やした労苦を、エジプトをとることで報いるとあるが、歴史は複雑である。予測に目を向けるのは、おそらく適切ではないのだろう。このような預言のなかに「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(21)が伝えたいことなのかもしれない。しかしそれも、なにかあまりにイスラエルに固執するように感じてしまう。
- BRC2017:Ezek 29:17,18 第二十七年の一月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。
- エジプトへの預言の項で、ティルスの記載がある。この記述から考えると、明確な歴史的事実が背景にあったと思われる。ネブカドレツァルに抵抗する都市国家、興味を持たされる。歴史遺産にもなっているレバノンの遺跡について、詳しく知りたい。Wikipedia によると13年間抵抗したようである。
- BRC2015:Ez29:18,19 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはバビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの土地を与える。彼はその富を運び去り、戦利品を分捕り、略奪をほしいままにする。こうして、エジプトは彼の軍隊の報酬となる。
- ティルスはすごいと思ってしまう。預言者にとってネブカドレツァルは、エレミヤ51章20節に「お前はわたしの鎚、わたしの武器であった。お前によって、わたしは国々を砕き/お前によって、諸王国を滅ぼした。」とある鎚とみていたのか。傲慢を打ち砕く鎚。単純過ぎるように思えてしまう。
- BRC2013:Ez29:15 これはもろもろの国よりも卑しくなり、再びもろもろの国民の上に出ることができない。わたしは彼らを小さくするゆえ、再びもろもろの国民を治めることはない。
- エジプトへの預言である。いまの状況はまさにこの預言通りになっている。しかし、そのメッセージをどのように受け取ったらよいのかは、わからない。いずれにせよ、国家単位のさばきや盛衰に中心があることには違和感がある。
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- BRC2021:Ezekiel 30:26 私がエジプト人を諸国民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは私が主であることを知るようになる。」
- すこし疲れてきてしまっているが、当時は、エジプトに行けば、どうにかなるとイスラエルやエルサレムの人たちは思っていたようなので、これは、強烈なのだろう。おそらく、エジプトに住み着いていたユダヤ人もたくさんいたろう。それを頼ることは自然なこと。そのことに対する警告でもあるのかもしれない。しかし、一本調子に見えてしまう。これがエゼキエルが見えていたことだとすると、精神的には、本当に辛かったろうとも思う。
- BRC2019:Ez 30:7,8 荒れ果てた国々の中でも、エジプトの荒廃は甚だしく、荒れ廃れた町々の中でも、その町々は甚だしい廃虚となる。わたしがエジプトに火を放って、これを助ける者がすべて滅ぼされるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
- エジプトは、バビロンに敗れるが、完全には滅びなかった様である。バビロンも、海の民との戦い、エジプトとの戦いで、疲弊していくようである。ただ、エゼキエルにとっては、そのあとのペルシャ帝国の隆盛や、アレキサンダー大王の帝国までは、わからなかったのかもしれない。そのことは、個人的には、かえって安心する。
- BRC2017:Ezek 30:3 その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。
- エジプトへの預言である。「それは他の王国よりも低く、もはや彼らが他の国々の上に立つことはない。彼らが他の国々を踏みつけることがないように、わたしは彼らを小さくする。」(29章15節)など、前章での預言は、細かいところにまで至り、歴史を踏まえているように思われるが、30章は記述が少し異なり、主の日としての記述となっている。
- BRC2015:Ez30:25 わたしはバビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる。わたしがバビロンの王の手に剣を与え、彼がそれをエジプトの地に伸ばすとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
- 単純な繰り返しではないが、前の24節と非常に似ている。私の違和感は、おそらく、キリスト教会でも根強いまたは正統的な教義でもある「神の歴史への介入」について、完全に否定はしないものの、基本的には排除しているわたしの信仰が背景にあるように思われる。信仰者が肉体の弱さをもってこの世での限定的ではあるが責任を担う、それが神を愛することの一部でもあり、かつ神はひとの弱さをもご存じで、神の御心を求め続け、責任を負おうとする信仰者を喜ばれると、私が最近強く思い、そのように行動しようとしているからかもしれない。キリスト教の長い歴史の中ではその考え方は一般的ではないだろう。
- BRC2013:Ez30:3 その日は近い、主の日は近い。これは雲の日、異邦人の滅びの時である。
- このあと、エジプト、「エチオピヤ、プテ、ルデ、アラビヤ、リビヤおよび同盟国の人々は、彼らと共につるぎに倒れる。」とつづき、それが、バビロンによるものであることがわかる。そして、26節「わたしがエジプトびとを、もろもろの国民の中に散らし、国々に散らす時、彼らはわたしが主であることを知る」でこの章は締めくくられる。神理解について違和感を感じる。わたしがまだ読み込めていないという理由も大きいだろうが。
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- BRC2021:Ezekiel 31:1,2 第十一年の第三の月の一日に、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に言いなさい。/あなたの偉大さは、誰に比べられようか。
- この章も第何々年の記述から始まる。正確にはわからないが、1章の記述から推定すると、捕囚となってからの年月のように思う。すると、第十一年は、おそらく、エルサレムが最終的に陥落、破壊され、ユダ王国が滅亡する年となる。ゼデキヤの治世は十一年「ゼデキヤは二十一歳で王位につき、十一年間エルサレムで統治した。母の名はハムタルと言い、リブナ出身のイルメヤの娘であった。」(列王記下24章18節)とあるので、計算は合う。この第七の月がエルサレムの城壁が破れたときである。この章はエジプトについて書かれているが、その偉大さから書き、最後は「そのようにあなたは、エデンの木のうちで、栄光と偉大さにおいて誰に比べられようか。あなたはエデンの木々と共に地の底に落とされ、無割礼の者たちのただ中で、剣で刺し貫かれた者と共に横たわることになる。これがファラオとそのすべての軍勢である――主なる神の仰せ。」(18)と結ばれている。「エデンの木々と共に」とあるが、エルサレム陥落を意味しているのだろうか。
- BRC2019:Ez 31:2,3 「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。お前の偉大さは誰と比べられよう。見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり/丈は高く、梢は雲間にとどいた。
- 美しい言葉が続き「わたしが、多くの枝で美しく飾ったので/神の園エデンのすべての木もうらやんだ。」(9)とも書かれている。主語は「わたし」である。最後には「お前は、エデンの木のなかで、栄光と偉大さを誰と比べられたか。しかし、お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である』と主なる神は言われる。」(18)エデンの木々はなにを意味しているのだろうか。エジプトの中の預言も聞いてみたい。レバノンの杉はエジプトでも特別だったのだろうか。いずれにしても、エジプトはイスラエルにとって、つねに特別な存在だったのだろう。そのエジプトへの預言である。
- BRC2017:Ezek 31:16 穴に下る者と共に彼を陰府に下すとき、わたしは彼の倒れる音で諸国民を揺り動かす。そのとき地の深き所で、エデンのすべての木も、レバノンのえり抜きの美しい木も、水に潤うすべての木も、再び慰められる。
- 「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。」(2節a)とあり、エジプトに関する預言である。しかし、記述の仕方は、ファラオに通じる用語なのだろうかと気になった。すると、これは、エジプトに関する預言であっても、エジプトに対する預言ではないのかもしれない。すなわち、あくまでも、想定読者は、ユダヤ人。エジプトに逃れた人も含まれるかもしれないが。どう理解したのだろうか。これを受け取ったイスラエル、ユダの子孫で、バビロンへの捕囚民、残った人たち、エジプトに逃れた人たちは。おそらく、それ以外のひとたちも多くいたろう。読者には。
- BRC2015:Ez31:18 お前は、エデンの木のなかで、栄光と偉大さを誰と比べられたか。しかし、お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である」と主なる神は言われる。
- エジプトの王ファラオに対することばである。歴史上でアッシリアなどの脅威にさらされるまでは、北のアラム(首都ダマスコ、今のシリア)と南のエジプトが大きな国で、エジプトも王朝が変わっているがその存在は常に大きかったと思われる。そのエジプトも、新バビロニアに敗れる。そのなかでの預言である。歴史的に時期を特定することは、わたしにはまだできない。ここで目をひくのは「エデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。」という表現である。何を意味しているのだろうか。割礼がエジプトで一般的であったかどうかすらわからない。一生理解するには至らないのだろう。それも、受け止めよう。
- BRC2013:Ez31:16 わたしがこれを穴に下る者と共に陰府に落す時、もろもろの国民をその落ちる響きのために、打ち震えさせる。そしてエデンのすべての木、レバノンのすぐれて美しいもの、すべて水に潤うものは、下の国で慰められる。
- エジプトにさばきについて語られている箇所である。レバノンについてどうして書かれているかは不明である。3節「見よ、わたしはあなたを/レバノンの香柏のようにする。麗しき枝と森の陰があり、たけが高く、その頂は雲の中にある。」との関係だろうか。ここにエデンが出てくる。創世記と、ヨエル2:3 以外は、Ez28:13, 31:9, 16, 18, 36:35 にあるのみでる。他は、地名または人名。
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- BRC2021:Ezekiel 32:32 確かに、彼は生ける者の地に恐れを引き起こした。/ファラオとその全軍勢は、無割礼の者たちの間に/剣で刺し貫かれた者たちと共に横たわる/――主なる神の仰せ。」
- エジプトに関する記述はとても丁寧である。イスラエルの人にとっての「大国」は常に、エジプトだったろうから、エジプトが破れて、滅ぼされることをどのように受け入れるかは、とても大きな問題だったろう。もうひとつ、「無割礼の者たち」が頻繁に登場する。イスラエル以外にも、周囲に割礼の慣習があったようだが、エジプトも割礼の慣習があったのだろうか。さらに、それが、宗教的な特別な意味をもっていたかなど、不明である。調べておきたい。"Circumcision likely has ancient roots among several ethnic groups in sub-equatorial Africa, Egypt, and Arabia, though the specific form and extent of circumcision has varied." (Wikipedia 訳 by DeepL:割礼は、赤道直下のアフリカ、エジプト、アラビアのいくつかの民族の間で古くから行われてきたようだが、その具体的な形や範囲はさまざまである。)「古代エジプトで紀元前2000年前に作られた王家の墓に手術の様子を書いた浮彫りがあり、術後のミイラもあります。」とネット上の記述がある。
- BRC2019:Ez 32:29,30 そこには、エドムがその王たちと/すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが/剣で殺された者と共に置かれ/割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。そこには、北のすべての君主たち/シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが/辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と/共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。
- エジプトへの預言の、この箇所には「割礼のない者」が二回出てくる。エジプト人は、割礼を受けていたのだろうか。割礼の習慣のある人たちは、それなりにいたのだろう。その部族についても、調べてみたい。ケニアでも、今は違法とされているが、女性のFGMだけでなく、割礼も存在した。どのくらいの範囲に習慣としてあったのだろうか。それを受けていない民を軽蔑することは、一般的だったのだろうか。
- BRC2017:Ezek 32:16 これは嘆きの歌。彼らは悲しんでこれを歌う。国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う。彼らはエジプトとそのすべての軍勢のために/悲しんでこの歌をうたう」と/主なる神は言われる。
- このときの、エジプトの嘆きの歌を聴きたくなった。エジプトではどのように、備え、どのような嘆きの歌を歌ったのだろう。そして、ネブカドレツァルについても。
- BRC2015:Ez32:32 まことに、わたしは生ける者の地に/恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は/割礼のない者の間に/剣で殺された者と共に横たわる」と/主なる神は言われる。
- 31章の終わりと似た表現がある。しかし、異なってもいる。どのように理解したら良いのだろう。神様の意図はさらにわからない。知らないのも良いのかもしれない。
- BRC2013:Ez32:2 「人の子よ、エジプトの王パロのために、悲しみの歌をのべて、これに言え、あなたは自分をもろもろの国民のうちの/ししであると考えているが、あなたは海の中の龍のような者である。あなたは川の中に、はね起き、足で水をかきまぜ、川を濁す。
- なぜ「しし」ではなく「龍のような者」なのかわからないが、このあとの表現からあまりかっこのよい者ではないのかもしれない。いずれにしても、エジプトは特別、割礼のない者の王者なのかもしれない。「割礼を受けない」で検索すると、Gen17:14, 34:14,17, Is52:1 以外はすべてエゼキエル、28:10, 31:18, 44:7, 9 以外は、すべてこの章、19, 21, 24, 25, 26, 28, 29, 32。エゼキエルが祭司の血筋故だろうか。
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- BRC2021:Ezekiel 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に告げなさい。ある地に私が剣をもたらすとき、その地の民は自分たちの中から一人を選び、見張りとする。
- この「見張り」については考えさせられる。教育を受けたもの、真理を受け取ったもの、周囲の人々に危険が迫っていると知ったものは、それを伝える責任を負うということである。世の中の人々が情報などについて均等に分配されていないことを考えると、当然なのかもしれない。まさに、相互性が必要である。コミュニケーション以上のものである。しかし、同時に、その責任が、有限であること、そして、それに人々は多くの場合耳を傾けないことも知っておくべきだろう。「人の子よ、あなたの同胞は、城壁のそばや家々の戸口であなたについて語り合い、一人一人、『さあ、行って、主から出る言葉が何かを聞こうではないか』と語っている。彼らは集団であなたのところにやって来る。私の民はあなたの前に座り、その言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。口ではお世辞を言うが、心は自分の利益を追い求めるからだ。」(30,31)これは示唆に富む。この状況を知っていれば、「心で自分の利益を追い求め」、「見張り」の役目をおろそかにするものも多いだろうから。
- BRC2019:Ez 33:2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。
- ここから見張りが吹き鳴らす角笛による警告についての記述が始まる。最初は、引用句のように、国であるが、個人に向かっていく。結局は、個人の問題になることを、エゼキエルは明確にしているのだろう。しかし、同時に、イスラエルに語ることも続く。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(11)エゼキエル特有の「帰れ」メッセージにのせて。しかし、疑問も残る。ほんとうにこれで神との平和は来るのだろうか。
- BRC2017:Ezek 33:6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。
- このあとに「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。」(7節)と続き、預言者の責任を述べていたことが分かる。限定責任であることが分かると同時に、個人の責任を問うことも明確である。そうなのだろうか。神からの召命、使命と考えるとそうなのかもしれない。そして、人が責任感を持って生きることは、望ましいことでもある。しかしこの章の最後に「しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」(33節)とあるが、個人の責任を問うことは難しいように思われる。
- BRC2015:Ez33:7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
- ここに預言者の使命がある。語らずにはいられない。神の意思を生活すべてをかけて求めつづける信仰者が、特別の使命を受けていると確信する。そこで語らないことはできない。それが絶対的に正しいこととして成就するのではないことも知っている。それは、主がどのような方かを知っているからだろう。「正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。」(13節から15節)正しさではないことも覚えなければならない。最後のことば「しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」(33節)にこの預言者の主への信頼と主の慰めに基づいた信仰告白をみる。預言者について、いちどよく考えてみたい。
- BRC2013:Ez33:12 人の子よ、あなたの民の人々に言え、義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない。
- 主は心をみるということの表現か。行為の順序を言っているととるのが最悪だろう。つまり最後に良いことをすれば救われると。しかし、エゼキエルではまだ未成熟であるように思われる。イエスから学びたい。
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- BRC2021:Ezekiel 34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者に預言せよ。預言して、彼ら、牧者に言いなさい。主なる神はこう言われる。災いあれ、わが身を養うイスラエルの牧者に。牧者は羊の群れを養うべきではないのか。
- 「牧者」に語りかけている。大きな群れの責任者、管理者、導き手ではなくても、家族であったり、グループのリーダー的存在であったり、ひとは、いろいろな場で、牧者の任務を負うことがあるだろう。一部であっても、その責任を負う。しかし、おそらくそれは、責任を問うことが主眼なのではなく、主と同労することを言っているのだろう。主は「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。」(16)と言われる。「あなたがたは私の群れ、私の牧草地の群れである。あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である――主なる神の仰せ。」(31)この主と、共に働くものでありたい。
- BRC2019:Ez 34:23,24 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。 また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。
- このあとにも続く、エゼキエルが見た、回復だろう。そのような回復はいつ来るのだろうか。個人的には、主の計画はすこし違うように思う。それは具体的には語れないが。
- BRC2017:Ezek 34:23,24 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。
- 「羊飼いを裁く」ことは、指導者たちに問題があったことを示すことであろう。しかし、その問題の解決を、このようにして良いのだろうか。これでは、結局、続かなかったことに目を向けるべきではないのか。まさに、ダビデ自身が王だったのだから。
- BRC2015:Ez34:4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。
- 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。」(2節)と始まっている。それから考えても、この逆が牧者の重要な、いやむしろ主要なつとめだと、認識されているのだろう。弱いものを強め、病める者をいやし、傷ついたものを包み、追われたものを連れ戻し、失われた者を探し求める。力ずくではなく、やさしく群れを導く、これこそが、よい羊飼いの姿であろう。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(マタイ12章20節、イザヤ42章3節)導き手、主イエスに感謝。今回再確認して、マタイには「正義を勝利に導くまで」とついていることに気づいた。この世でのひとの弱さを十分知っておられる、主イエスのことばに改めて感謝する。
- BRC2013:Ez34:23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
- ここでは「主のしもべ」としてイスラエルを導くのは「ダビデ」である。Mt22:42「「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。」イエスによって明確にされることとしてよいのか。
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- BRC2021:Ezekiel 35:8,9 私はその山々を刺し貫かれた者で満たす。あなたの丘、谷、あらゆる涸れ谷で、剣によって刺し貫かれた者が倒れる。私はあなたをとこしえに荒れ果てた地とし/あなたの町には住む者がいなくなる。/その時、あなたがたは/私が主であることを知るようになる。
- エゼキエルには「刺し貫かれた者」という表現が多いと思った。全体で、29件、この箇所が最後である。思い出すのは「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」(ルカ2章35節)シメオンがイエスが生まれ感謝を捧げる宮詣のときにヨセフとマリア(ここは「あなた」と単数なので、ルカ書であることを考えるとマリアだけかもしれない)に語った言葉にある。死に至る決定的ダメージを与えるという意味だろうか。エゼキエルのこの章はエドムに向けて語った言葉である。ここでも、エゼキエルの決め台詞「その時、あなたがたは/私が主であることを知るようになる。」で終わっている。「あなた方」が誰なのかも少し気になったが、やはり、エゼキエルはここまでしか言えず、希望は見えないように感じた。
- BRC2019:Ez 35:10,11 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。
- 悪を見張っていて、復讐をされる神なのだろうか。ここはセイル、おそらくエドムに対する事であろうが、世界的には、弱小民族はすべて滅ぼされる可能性のある時代である。アッシリアや、バビロンを恐れ、海の民のように他に生きる場所を持たない、遊牧が中心の民の苦しみは、ある程度想像もつく。義は神のたいせつな属性だったのだろう。それが人の義とどう関わるかは別として。正直わたしには、わからない。
- BRC2017:Ezek 35:13 お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた。
- イスラエル、ユダに対する批判は、神に対する批判。当時としては、とても、自然な考えなのかもしれない。しかし、普遍性は乏しい。いろいろと考えさせられる。
- BRC2015:Ez35:10 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。
- セイル(エドム)に対する預言である。正直、平安を持って読むことはできない。「お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。」(5節)などを見ても、近隣の似た民族である故に、多くの紛争があったことは、理解できる。エドムに限らず、王をもつようになったのは、イスラエルより早いであろう。国の成り立ちや意思決定が異なっていたことはおそらくその通りなのだろう。その意味でも、イスラエルは特別だったのかもしれない。しかし。セイルに限らず考えると、この10節は興味深い。それは、最後の「しかし、そこに。主がおられた。」の部分である。預言者は、様々な経験のなかで、このように告白せざるを得ないことを経験してきたのかもしれない。わたしもそのような発見をしていきたい。
- BRC2013:Ez35:10 あなたは言う、『これら二つの国民、二つの国はわたしのもの、われわれはこれを獲よう』と。しかし主はそこにおられる。
- セイルすなわちエドムについての預言である。なにか浅い気がする。主はたしかにそこにおられる。それゆえ神を畏れなければならない。しかし33章からの変化もある。それは「わたしが主であることを悟る」という書き方が現れた点である。33:29, 34:27, 35:4, 9, 15, 36:11, 23, 38, 37:6, 13, 38:23。ここまでは、ずっと「知る」だったが。「わたしが主であることを知る」は、6:6, 10, 13, 14, 7:4, 27, 11:10, 12, 12:15, 16, 20, 13:14, 21, 23, 14:8, 15:7, 16:62, 20:38, 42, 44, 22:16, 24:27, 25:5, 7, 11, 17, 28:6, 22, 23, 24, 29;6, 9, 21, 30:8, 19, 25, 26, で 32:15 が最後である。
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- BRC2021:Ezekiel 36:26,27 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。私の霊をあなたがたの内に授け、私の掟に従って歩ませ、私の法を守り行わせる。
- イスラエルの回復が書かれている。主が顧み、捕囚から帰還し(8,9)民の数を増やし廃墟の町が建て直され(10)家畜が増え(11)昔よりも栄えるようになる。(11)しかし、内的に変えられることが語られている。希望をもたせる内容ではあるが、正直、これは主の望みであっても、これが主の御心ではないように思う。人に(完全とは言えないまでもある程度の)自由意志が与えられていることが、互いに愛することの鍵なのだから。難しい。
- BRC2019:Ez 36:25-27 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
- これが、エゼキエルが行き着いた答えだろう。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 」(18章30b-32節)と呼応している。ひとは、主体的にはこれに応えることができないのだろう。主が清め、罪による交わりの喪失から回復し、新しい心と新しい霊を主が与え、頑ななこころを取り除く。しかし、それならなぜ最初からそうしなかったのかと問いたくなる。そして、これは、イエスのメッセージと同じなのだろうか。同じと説くひともいるが、わたしには、少なくともイエスのメッセージだとは思えない。難しい。
- BRC2017:Ezek 36:25,26 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
- 儀式を感じさせられる25節と、本質を語る26節、これが、祭司エゼキエルにとっては、密接につながっているのだろう。26節の表現はもう一度すでに書かれている。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(11章19節)つながりを丁寧に学びたい。
- BRC2015:Ez36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。
- おそらくこの36章はエゼキエル書の中で最も好まれる章ではないだろうか。25節から32節の記述に希望を見いだすからであろう。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(26節)22節はその目的と取ることができる。ここでも、神の主権的働きとして書かれている。イスラエルの中のこの信仰については、驚嘆させられる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」も、人間的な思いから、旧約の厳しさを思いながら「神様やっぱりいいかた」などと思ってしまうが、主権的な働きとして捉えないといけないのかもしれない。
- BRC2013:Ez36:26,27 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
- 「知る」から「悟る」に変化したその鍵を担うのが、この「新しい心」「新しい霊」なのだろうか。たしかにこれなしには、新しいことは始まらないだろう。
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- BRC2021:Ezekiel 37:11,12 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの家のすべてである。彼らは、『我々の骨は枯れ、我々の望みはうせ、我々は滅びる』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私の民よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げ、イスラエルの地に導き入れる。
- 枯れた骨に霊を吹き込み、生き返ることが書かれている箇所である。これまで、滅びることと、「わたし(主)が主であることを知るようになる」を決め台詞のようにして、預言されてきた。それに対する反論と同時に「死んだらおしまい」ではない。神は、枯れた骨にも霊を吹き込んで生きるようのさせてくださる方だと語っているのだろう。このあとに、ユダとイスラエルの統一などが書かれ、回復のメッセージとなっているが、個人的には、素直には、受け入れられない。そこに真の解決はないと思うからだ。
- BRC2019:Ez 37:11,12 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
- 骨が生き返る預言は、よみがえりを意味しているのかと思っていたが、もしかすると、このときに絶望しているイスラエルの民に希望を持つべきことを教えているのかもしれないと思った。死ですべてが終わるものではない、主にとって不可能なことはない。これを、エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」(3)と告白している。この章の最後には回復の預言が続くが、それも、主に希望をおくことを伝えているのかもしれない。エゼキエルの信仰であり、主からのメッセージの本質なのではないだろうか。それがどのように実現されるかに目を向けてしまうが。
- BRC2017:Ezek 37:11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
- 骨に向かって預言する箇所である。後半では、一人の牧者によって(24節)一つの国となり二つに分かれることはない(22節)とあるが、転換点が、この11節であるように思われる。「死んでしまったらおしまいでしょう。」「希望なんてないんだよ」というところに語りかける、エゼキエルで最も愛されている枯れた骨への預言は、まさにそこに希望を与えるメッセージとして語られている。
- BRC2015:Ez37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
- 命を与えるのは、神の業との認識が、預言者にあること。そしてこのあと、神の業をおこなうことを幻のうちかもしれないが、許されていること。肉体と霊とを「独立」ということばは適切ではないかもしれないが独立に扱っていること。「わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。」(8節)そしてこの幻を、イスラエルの帰還と復興に結びつけていることである。「そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。」(21節)そうであるなら、36節の記述ともあいまって、生まれ変わりが必要なのかもしれない。さらに、これは、神の御心を求め続けた、預言者が見た幻であるゆえに、ある真実を読み取りたいとすることとともに、神の霊感のもとでの、ひとの営みであるということか。
- BRC2013:Ez37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
- 復活は肉体をもったものであることの証言箇所である。しかし、本論は、まったく希望のない中で、想像できないような回復がなされることを表現しているのだろう。そしてここでも「悟る」となっている。旧約聖書における復活の記事については、もう少し丁寧に調べてみたい。
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- BRC2021:Ezekiel 38:2,3 「人の子よ、メシェクとトバルの頭である指導者、マゴグの地のゴグにあなたの顔を向け、彼に向かって預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。
- メシェクとトバルをよく知らないので、まずは聖書の中で調べてみた。まず、ノアの子孫の中に「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。」(創世記10章2節、参照:歴代誌上1章5節)歴代誌の記述にはセムの子としても書かれている。「セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラム、ウツ、フル、ゲテル、メシェク。」(歴代誌上1章17節)また、メシェクについては「ああ、何ということだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。」(詩篇120篇5節)ともある。残りは、エゼキエル「ヤワン、トバル、メシェクは取り引きし、人と青銅の器をあなたの商品と交換した。」(27章3節)「そこには、メシェクとトバルとその全軍勢がおり/周りにはその墓がある。/彼らは皆、無割礼の者、剣で殺された者であり/生ける者の地で恐れを引き起こした。」(32章26節)あとは引用しているこの章の二箇所と「人の子よ、あなたはゴグに向かって預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。」(39章1節)以上である。よくはわからない。
- BRC2019:Ez 38:2,3 「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。
- マゴグ、ゴグはときどき見るが、よく知らなかったのでまずは聖書の中で調べてみる。まず「マゴグ」は、ノアの洪水以後の民族表にある「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスであった。」(創世記10章2節、参照:歴代誌上1章5節)そして次の章の「わたしは、火をマゴグと海岸地方に安らかに住む者たちに送る。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル39章6節)「ゴグ」は「ヨエルの子孫は、息子がシェマヤ、孫がゴグ、更にシムイ、」(歴代誌上5章2節)そしてこの38章と次の39章に多数。「お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。」(16)参照として「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 」(黙示録20章8節)「メシェクとトバル」も調べてみたが、明確にはわからない。多少の伝説もあるようだが、イスラエルを滅ぼし、主が立ち向かう存在で、象徴的なものなのかもしれない。しかし、創世記などにもあるところを見ると、旧約時代には、ある程度認識されていた特定の土地や民族が関係していたのかもしれない。
- BRC2017:Ezek 38:23 わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
- 本当にこれが、最大の目的なのだろうか。たしかに、神の栄光が現れるひとつの表現ではあろう。しかし、このような現れ方が、神の望まれることなのだろうか。正直疑問である。イエス様と共に、旧約聖書を学びたい。弟子たちの様に。
- BRC2015:Ez38:2,3 「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、 言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。
- マゴグは創世記10章2節に「ヤフェトの子孫はゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスであった。」とある。歴代誌上1章5節にも同様の記述があるが、あとは、エゼキエル(上のほか39章6節)と黙示録20章8節「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。」のみである。毎回なんとなく読んでいて、聖書の地名と思っていたが、何も知らないことに気づいた。どのような認識があったのだろうか。黙示録に含められているということは、ある共通の理解があったのだろう。
- BRC2013:Ez38:19 わたしは、わがねたみと、燃えたつ怒りとをもって言う。その日には必ずイスラエルの地に、大いなる震動があり、
- ゴグ、マゴグについては、不明。ここでは、神のねたみが強調されている。「ねたみ」はキンアー。ardour 熱意、熱烈さ、ねたみ。論理さを越えているものか。
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- BRC2021:Ezekiel 39:11 その日になると、私はイスラエルの中で由緒ある場所を墓地としてゴグに与える。そこは海の東の旅人の谷である。その墓は旅人を遮る。人々はそこにゴグとそのすべての軍勢を葬り、そこをハモン・ゴグの谷と呼ぶようになる。
- 「メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。」(1b)として、ゴグについて書かれているが、詳細はよくわからない。最後には、イスラエルの回復と「私が彼らをもろもろの民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は多くの国民の前で、彼らを通して自らが聖なる者であることを示す。こうして私は、彼らを諸国民の間に捕囚として送ったが、彼らを自分の土地に集めるとき、彼らは私が主、彼らの神であることを知るようになる。私はもはや彼らの一人をもそこに残さない。私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐ――主なる神の仰せ。」(27-29)とあるが、これは、ノアの洪水のときの繰り返しにならないのか。もう少し進んだ理解をする必要があるように思う。エゼキエルの状況と立場からにある程度縛られることは非難できないが。
- BRC2019:Ez 39:1,2 人の子よ、あなたはゴグに向かい預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ。わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前を立ち帰らせ、お前を導いて北の果てから連れ上り、イスラエルの山々に来させる。
- このあと「イスラエルの山で倒れる」と書かれている。ゴグなどは、不明であるが、諸国の裁きのために使われたということだろうか。「わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。」(7)とあり、この章の最後には、イスラエルの回復が語られている。「二度と」とあることは、イスラエルの敗北と捕囚に至る経過で主の名が汚されたということが背景にあると思われる。エゼキエルを批判するつもりはないが、記述は近視眼的であるように思われる。文字通り解釈すると、さらに混乱を来す。ひとごとにしか書けないが、それほど大きな事件、まさに未曾有のことが起こっているのだろう。
- BRC2017:Ezek 39:29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
- 回復、そして、永久の平和が語られている。それを求めることは自然に思われるが、それが、御心なのだろうか。わたしは、疑い深すぎるだろうか。
- BRC2015:Ez39:22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
- 「主であることを知る」がエゼキエルのテーマであるように思われる。この章にも6節、22節、28節と3回現れるが、全体で49回。検索してみると出エジプトに6回、列王紀上に2回、イザヤ書に1回、エレミヤ書に2回である。数だけで考えるのは不適切であろうが、出エジプトが強く意識されているのかもしれない。「神を主とする」(Lordship-Stewardship)こととは表現されず、「主であることを知る」と表現されていることも、考えさせられる。わたしは、前者を意識するが、絶対的な主の主権をはらわたの奥で知ること、その深さをわたしはまだ理解していないのかもしれない。
- BRC2013:Ez39:28 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを悟る。これはわたしが彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めたからである。わたしはそのひとりをも、国々のうちに残すことをしない。
- シオニズムを支える一つの思想である。キリスト教会はこれを指示してきたが、それで良いのだろうか。イエスは、このような形を教えておられるだろうか。かえって、逆である。エゼキエルや、イスラエルの預言者たちの限界とみたい。同時に、エゼキエルのメッセージの中心は、この帰還・回復ではなく繰り返し繰り返し語られる、メッセージであることも覚えたい。21, 22「わたしはわが栄光を諸国民に示す。すべての国民はわたしが行ったさばきと、わたしが彼らの上に加えた手とを見る。 この日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを悟るようになる。」
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- BRC2021:Ezekiel 40:46 北を向いている部屋は祭壇の務めを行う祭司のためのものである。彼らはツァドクの子孫であり、レビ人の中で彼らだけが主に近づいて仕えることができる。」
- この章は「我々が捕囚となって二十五年目、その年の初めの月の十日、都が破壊されてから十四年目、まさにその日に、主の手が私に臨み、私をそこに連れて行った。」(1)と始まる。神殿が破壊されたのは、ゼデキヤの治世が11年だから、十一年目か十二年目となるのだろう。正確な表現は難しい。いずれにしても、ある程度の年を経、おそらく、エゼキエルが、25歳ぐらいで捕囚になったとすると、50歳ぐらいである。祭司の勤めは三十歳から五十歳(民数記4章3節)とすると、祭司としての働きがかなわないと自覚したときだとも言える。神殿の構造は、個人的には、なかなか興味を持てないが、エゼキエルにとってはとても大切なものであったことは容易に想像がつく。どう向き合えばよいかは難しいが。
- BRC2019:Ez 40:46 北の方へ向いている部屋は、祭壇の務めを行う祭司のためである。」彼らはツァドクの子らであり、彼らだけが、レビ人の中で、主に近づいて仕えることが許される。
- 「我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。」(1)ここから最後の部分に入る。神殿についてである。終末を預言しているのだろうが、祭司の家系である、エゼキエルは、ここにツァドクの子らという名称も使っている。回復とさらなる栄光なのだろう。捕囚になって25年、エゼキエルの頭にあること、そして希望は、つねにこのことだったのかもしれない。
- BRC2017:Ezek 40:5 見ると、神殿の周囲を囲んでいる外壁があった。その人は六アンマの測り竿を手に持っていた。ここでいう一アンマは、普通のアンマに一トファを加えた長さである。彼がその壁を測ると、その厚さも、高さも一竿であった。
- アンマは、わたしの慣れ親しんだ口語では「キュビト」新共同訳聖書巻末の表によると「ひじから中指の先までの長さで、約45cm。(注:「アンマ」と「ゼレト」はエゼキエル書に限り(50:5, 43:13,17参照)それぞれ約52.5cm と 26.25cm。」トファは「指4本の幅で、アンマの1/6、約7.5cm」ちなみにゼレトは「手を広げたときの親指の先から、小指の先までの長さで約22.5cm。1アンマの1/2。(上記注参照)」なお新約においては「ペキス」が用いられ、これが、アンマと等しいとある。旧約の長さの単位として明確に書かれてあるのは「指(ゆび)」指の幅、約1.9cm で、「ゴメド」不明とある。
- BRC2015:Ez40:1,2 我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。 神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。
- 二十五は考えさせられる。この神殿の幻はわたしの理解を超え、ヨハネ4章21節「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」や使途言行録7章49節「『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。」など、ステパノの言明にある礼拝する場所についての新約的理解からすると、なかなか受け入れがたいが、そういう知識をもて、この期間の捕囚下にある人たちの信仰と希望を馬鹿にすることはできない。「知識は人を高ぶらせる」(第一コリント8章1節)
- BRC2013:Ez40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
- 回復の象徴が宮だろうか。確かにこのあと、宮は回復される。しかし、そこに希望を託したこと自体に、批判的になってしまうが、同時に、このようなビジョンと希望こそが、当時、もっとも求められていたことなのかもしれない。たとえ、それが本質的でなくても、絶望の中で希望を持つために。
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- BRC2021:Ezekiel 41:6 脇間は、脇間の上に脇間があって三階建てになっており、各階には三十の脇間があった。神殿の壁には脇間のために周囲に突き出た所があり、支えになっていた。神殿の壁自体には、支えがなかった。
- 脇間について詳細に書かれている。ソロモン神殿にも書かれているのか気になって調べてみた。エゼキエル以外には「脇間」は三回記載されそれらは、「神殿の壁の周りには脇廊を造った。すなわち、外陣と内陣のある神殿の壁の周囲を囲むように脇間を作った。」(列記上6章5節)、「中の階の脇間へ通じる入り口は、神殿の右側にあり、螺旋階段で中の階に、さらに中の階から三階へ上るようになっていた。」(列記上6章8節)、「脇間は、各列に十五本ずつ、計四十五本の柱に支えられ、レバノン杉で天井が覆われていた。」列記上7章3節)おそらく、エゼキエルは父親などから聞いて、情報を持っていたのだろう。そうであっても、ここの記述が何を意味するのか、ソロモン神殿のものとは、何が同じで何が異なるのかは不明である。
- BRC2019:Ez 41:6,7 脇間の上には脇間があって、三階建になっていた。各階に三十の脇間があった。神殿の壁には、周囲に突き出た所があって、脇間の支えになっていた。神殿の壁には、支えが差し込まれていないからである。回廊となっている神殿の脇間は上にいくほど広くなっており、神殿は各階ごとに回廊がついている。しかも、階が上がるごとに広くなっている。地階から最上階へは中間の階を経て上っていく。
- 詳細な神殿の記述がある。おそらく、これは、ソロモンの神殿とも、捕囚期間後建設された第2神殿とも異なる構造なのだろう。引用箇所の記述は構造上は困難であるように思われる。なにかを象徴しているのだろう。しかし、全体的な大きさはとてつもなく大きいといえない。終末のことなのか、近い将来の実現を考えていたかも不明である。おそらく、この神殿の詳細な研究もあるのだろうが、なかなか興味がわかない。祭司の家系のエゼキエルは、非常にたいせつなこととして伝えているのだろうが。
- BRC2017:Ezek 41:19 人間の顔はこちらのなつめやしに向き、獅子の顔はあちらのなつめやしに向いていた。それは神殿の周りにも刻まれていた。
- ケルビムに関する記述であるが、おそらく、聖書の他の箇所にはない。「人間の顔」と「獅子の顔」は、1章10節、10章14節にも現れる。エゼキエルの幻にも関係していると思われる。
- BRC2015:Ez41:3 内部に入って、次の入り口の脇柱の厚さを測ると二アンマ、その入り口自体の幅は六アンマ、入り口の両側の壁の幅はそれぞれ七アンマであった。
- アンマは口語でキュビトすると、44cm 程度、人の肘から先程度の長さとなる。柱も1m近い厚さというのは、かなり大きい。専門家によらないとわからないが、ソロモン神殿より大きいのだろうか。エゼキエルが見た幻はなんだったのだろうか。再建されるべき神殿なのだろうか。
- BRC2013:Ez41:1 彼がわたしを拝殿に連れて行って、脇柱を測ると、こなたの幅も六キュビト、かなたの幅も六キュビトあった。
- 3メートル近い。5節を見ると壁の厚さが6キュビットとあるから、柱の太さ出る可能性もある。それとも間隔なのだろうか。英語 (NIV) は the width of the jambs。これも Native に聞いてみないと明らかではないが、間隔ととるのが、普通か。
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- BRC2021:Ezekiel 42:13 彼は私に言った。「神域に面した北の部屋と南の部屋はいずれも聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちがここで最も聖なるものを食べる。そこに彼らは最も聖なるものを置く。それは、穀物の供え物、清めのいけにえ、償いのいけにえである。この場所が聖なる所だからである。
- エゼキエルが最後の仕事として書き残したのは、捕囚先での祭司の家系のものとして、祭儀が適切に行われるための神殿の設計図と祭儀の執り行い方だったのかもしれない。だれかが書き残さなければ失われる。改善ではないかもしれないが、そして、自分は、祭司の職についてはいないので、正確ではないかもしれないが、そうであっても、できる限りのことをしたように思う。わたしにもそのような事があるかもしれない。
- BRC2019:Ez 42:13 彼はわたしに言った。「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である。この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである。
- 「残りの分はアロンとその子らが食べる。それを酵母を入れないパンにし、しかも聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べねばならない。」(レビ記6章9節)「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる。これは聖域で食べねばならない。これは神聖なものである。」(レビ記7章6節)「それを聖域で食べよ。これは主に燃やしてささげたものの残りで、あなたとあなたの子らに与えられた分である。わたしはそう命じられている。」(レビ記10章13節)「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。燃やして主にささげる物のうちで、これは彼のものである。これは不変の定めである。」(レビ記24章9節)最初の部分の引用箇所のみ上げてみたが、祭司の務めについては「不変の定め」を踏襲していると思われる。「献げ物」を「最も神聖なもの」と記述している。「最も」がつくのはエゼキエルのみである。エゼキエルの思いがこもっているのだろう。すでに神のものだという意識が強かったのかもしれない。現代なら、捧げたひと一人ひとりのいのちとこころが詰まっているからと表現するかもしれない。「最も神聖なもの」はなにだとわたしは考えるだろうか。
- BRC2017:Ezek 42:20 彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。
- 聖なるものと、俗なるものを区別する必要を感じるのは、当然なのだろう。しかし、それは、人の感覚なのかもしれない。
- BRC2015:Ez42:13 彼はわたしに言った。「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である。この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである。
- 祭司の子として生まれ、おそらく祭司のつとめをする前に捕囚となったエゼキエルにとって、祭司の最も神聖な仕事の記述は、特別な意味を持っていたのだろう。こころに刻むべきもの。そこからは心が離れることはなかったのかもしれない。
- BRC2013:Ez42:1 彼はわたしを北の方の内庭に連れ出し、庭に向かった北の方の建物に対する室に導いた。
- この建物は、100キュビト×50キュビトかなり大きい。45m×22.5m。おそらく、ソロモン神殿よりも全体が大きいのではないだろうか。それぐらいは、いつか調べたい。
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- BRC2021:Ezekiel 43:12 これが神殿の律法である。山の頂の周囲の領域は、すべて最も聖なるものである。これが神殿の律法である。」
- この前には「もし彼らが行ったすべてのことを恥じるならば、神殿の設計と配置、その出口と入り口、そのすべての設計とすべての掟、そのすべての設計とすべての律法を彼らに知らせ、彼らの目の前で書き記しなさい。彼らがそのすべての設計とすべての掟を守り、それらを行うためである。」(11)とある。神殿建設には、無論、霊的な面がたいせつなのだろうが、ここでは、祭壇の詳細を書く前に、このことが述べられ、さらに引用句では「神殿の律法」ことばが二回用いられている。聖書でここだけである。祭司の家系のエゼキエルがたいせつにしたことなのだろう。
- BRC2019:Ez 43:7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。
- 語っているのは誰だか不明である。しかし、わたしの王座としているので、主ご自身と考えるのが自然かもしれない。新共同訳では「人の子」は94回使われすべて「人の子よ」という呼びかけの言葉として現れる。神が語られ、エゼキエルは自分が「人の子」であることを明確にしているのだろう。しかし、イエスがご自分に使われるのとは大分意味合いも、使われ方も異なると実感した。
- BRC2017:Ezek 43:2 見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。
- 「大水のとろどき」のように、神の栄光の到来を感じる。そして、その表現は、祭司としての存在をかけたように、神の聖なることを、儀式を通して示すことともとれる。どうしても、違和感を感じてしまうが、エゼキエルにとっては、それが日常であり、それが、神との交わりなのだろう。それにしても「大水のとどろき」として感じられる感覚には、驚かされた。
- BRC2015:Ez43:27 これらの日が終わると、八日目以後、祭司たちはあなたたちの焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を祭壇にささげる。そして、わたしはあなたたちを受け入れる」と主なる神は言われる。
- 献げ物をする。そして礼拝者が受け入れられる。その象徴として献げ物が焼き尽くされて天に昇る。それを神聖な仕事として行うのが、祭司たちなのだろう。エゼキエルが望んだことだったろう。そして、ここでその幻が示されている。特に大切な幻として「わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。」(3節)と記している。まず1章1節から、そして「ケバル川の河畔で見た栄光と同じ主の栄光」(3章23節)「ケバル川のほとりでわたしが見たあの生き物」(10章15節, 20節、22節)
- BRC2013:Ez43:10 人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。彼らはその悪を恥じるであろう。
- なにか単純すぎるように思う。エゼキエルも現実を知っていたはず。これだけでは、変わらないのではないか。どう考えたら良いのだろう。これもひとつの預言なのか。
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- BRC2021:Ezekiel 44:4,5 それから彼は私を北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、主の栄光が主の神殿に満ちていた。私はひれ伏した。主は私に言われた。「人の子よ、主の神殿のすべての掟について、またそのすべての律法について、私があなたに語ることをすべて心に留め、目で見、耳で聞きなさい。あなたは神殿の入り口と聖所の出口すべてに心を留めなさい。
- ここで主が登場する。主が住んでくださらなければ、神殿は神殿とならない。とはいえ、やはり人間の考える神、ほんとうにこれでよいのかは不安になる。おそらく、わからないとしても、できる限りのことをすることが、ひとのつとめとしているのだろう。ここにも「主の神殿のすべての掟」「その(主の神殿の)すべての律法」ということばが登場する。畏(おそ)れ畏(かしこ)むことと関係しているのだろう。人間の思いが、かえって、主との関係を絶ってしまっているようで心配にもなるが。
- BRC2019:Ez 44:23,24 彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。争いのあるときは、彼らが裁く者として臨み、わたしの裁きによって裁かねばならない。彼らは、わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない。
- エゼキエルは祭司の子である。自らがどう生きるか、終末をそして捕囚の地で、それをこの幻のなかでも語っているのかもしれない。主に与えられたことを忠実になすということだろうか。祭儀に関することは、実行不可能だったろうから、そのあるべき姿を終末の姿として描き、日常的な祭司の務めは、捕囚の地において覚え、可能な限りしていたのだろうか。自らの責務として主との関係を証する辛さも感じるが、もしそうであるとすると、共感できることも多い。
- BRC2017:Ezek 44:23 彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。
- 祭司の務めの記述は、復古調である。まずは、祭司が適切に、神の前に立つことができるようにすることをしなければと、考えていたのだろう。それは、自然かもしれないが、普遍性があるわけではない。この構図はとても、難しい。
- BRC2015:Ez44:15 イスラエルの子らが迷って、わたしから離れたとき、わたしの聖所の務めを守ったレビ人の祭司であるツァドクの子孫は、わたしに近づき仕えることができる。彼らはわたしの前に立って、脂肪と血をささげねばならない、と主なる神は言われる。
- 「ツァドクの子孫」として記述されているのは、エゼキエルのみである。(上記以外は、43章19節、48章11節のみ)限定されているが、正直危険な気がする。そのように、正しさの血統で保持することはできないと思われるからである。ツァドクは何回か祭司などに現れている。どのツァドクであろうか。
- BRC2013:Ez44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
- 宮の設計図の次は、聖と俗の区別である。祭司としてイスラエルをただすことを考えると、当然なのかもしれないが、限界も感じる。
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- BRC2021:Ezekiel 45:1 「あなたがたがその地を相続地として分配するとき、その地の聖なる部分を献納地として主に献げなければならない。その長さは二万五千アンマで、幅は二万アンマである。この周囲の領域もすべて聖なる地である。
- 「献納地」はエゼキエル書だけで用いられていることばのようである。しかし、嗣業地を得ないレビびとのための放牧地は街の周囲に与えられていたので(民数記35章2節など)基本的にはその回復が書かれていると言えるが、正確にはわからない。そのあとには、6節から、町の共有地のような概念が書かれ、秤を適正なものを用いること、献納物と祭りについて特に、過ぎ越しの祭りについて書かれている。回復後もとに戻すこととともに、改善が示されているのだろう。
- BRC2019:Ez 45:1 「あなたたちが、国を嗣業として割り当てるときは、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない。その土地は、長さ二万五千アンマ、幅二万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものとなる。
- 12km x 10km ぐらいだろうか。まあまあの大きさである。周囲には、祭司用の放牧地、君主のこと、計量を正確にすべきことや、捧げもの、祭りの規定などが続く。これが再生・復興を意味していたのだろう。もとに戻すことではないようだ。「これは、君主がイスラエルにおいて所有する土地である。わたしが立てた君主たちは、もはやわが民を虐げない。彼らはその他の土地をイスラエルの家とその部族にゆだねる。」(8)とあるが、それは、現実にはかなわない。エゼキエルはどう考えていたのだろうか。神殿の記述と比較して、概要だけが書かれているように感じる。
- BRC2017:Ezek 45:17 そして君主は、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物を、巡礼の祭り、新月の祭り、安息日、およびイスラエルの家に定められたすべての祝日にささげねばならない。君主は、イスラエルの家の贖いのために、贖罪の献げ物、穀物の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげねばならない。」
- 君主の宗教上の役割について書かれている。君主制をとると言う意味よりも、民のリーダーとして、祭司だけではなく、政治的なリーダーの役割を明記しているのだろう。王に対する、否定的な見解は、無かったのだろうか。「主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(サムエル記上8章7節)
- BRC2015:Ez45:16,17 国のすべての民はこれらの献げ物をイスラエルの君主にもたらさねばならない。 そして君主は、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物を、巡礼の祭り、新月の祭り、安息日、およびイスラエルの家に定められたすべての祝日にささげねばならない。君主は、イスラエルの家の贖いのために、贖罪の献げ物、穀物の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげねばならない。」
- 復古である。エレミヤ預言により70年程度の短い期間での帰還と復興を信じていたからかもしれないが、統治体制についても、王制をそのまま仮定している。そのあとの、歴史を考えると、おそらく、この預言とはことなるだろう。むろん、まったくこれから起こることとすることも可能ではあろうが。ひとが神の御心を真摯に全身全霊をもって求めて神が知らせてくださる部分を限定すべきなのか、それとも、これも一つのひとの努力と考え、神の主権のもとでの働きとはまったく独立と考えるべきなのか。わたしにはわからない。
- BRC2013:Ez45:1,2 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
- 1キュビトは40:5には「そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。」とあり定かではないが、長い基準をとると、約50cm。地所は 12.5km × 10km となる。聖所は 25m × 25m。少し驚くのは、どうもエルサレムとは想定されていないこと。
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- BRC2021:Ezekiel 46:18 指導者は、民の相続地を取り上げて、彼らの所有地で彼らを抑圧してはならない。民の所有地はその息子たちに相続させなければならない。それは、私の民の誰も、その所有地から散らされないためである。」
- 供え物について書かれてから、指導者の相続地について書かれている。土地所有は困難な課題で、民が捕囚から戻ったとしても、すでにそこに住んでいる人もおり、問題解決は簡単ではない。また、以前の分配が公平だったかも多くの争議が生じるだろう。ここでも、この件については、非常に短く書かれている。おそらく、主たるものは、引用句にある倫理面なのだろう。実際は、現在のパレスチナ問題と同様に、非常に困難だと思われる。
- BRC2019:Ez 46:17 君主が家臣のだれかに嗣業の一部を贈与すれば、それは解放の年まで彼のものとなる。しかしその後、君主に返さねばならない。君主の嗣業を所有できるのは、その子らだけである。
- 「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25章10節)は、問題のあるケースはあったろうが、慣習として根付いていたのかもしれない。自然に書かれている。祭司がなすべきことがこのあと書かれているが、おそらく、律法に記され、適切であればなされているべきことと考えられたことが書かれているのだろう。わたしは、どのような世界を思い描くだろうか。主が望んでおられること、計画しておられることはどうなのだろうか。今のときを丁寧に生きることがわたしには、中心に思える。回復のときのことは、主に委ねたい。
- BRC2017:Ezek 46:20 彼はわたしに言った。「ここは、祭司たちが賠償の献げ物と贖罪の献げ物を煮、穀物の献げ物を焼くところである。これらのものを外庭に持ち出して、神聖さを民に移すことがないためである。」
- 一つ一つの機能を持った部屋を案内する。エゼキエルは、エルサレムでそれらの部屋を知っていたのだろうか。おそらく、知識としては知っていたろう。完璧な形で伝えておきたいという気持ちは強かったかもしれない。祭司の務めについたものは、いなくなっていたであろうから。
- BRC2015:Ez46:18 君主は民の嗣業を取り上げてはならない。彼らの所有地を奪ってはならない。自分の所有地は自分の子らに相続させねばならない。それは、わが民の一人でも、その所有地から追い立てられることがないためである。」
- 列王記上21章のナボト(口語はナボテ)とアハブ王のこと(列王記下9章参照)を思い出させる。しかし、土地所有制度自体が、以前と同じで良いのだろうか。これも、45章とともに、気になる。もうそのような詮索は止めた方が良いかもしれない。
- BRC2013:Ez46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
- 礼拝を中心とした宗教国家。イスラムではいまもこれを求めているのだろうか。キリスト者はこれとどう向き合えば良いのだろうか。やはりエゼキエルはよくわからない。
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- BRC2021:Ezekiel 47:8 彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。
- このあとには「しかし、沢と沼は癒やされず、塩を取ることができる。」(11)ともある。流れるものと、そこに留まっているものの違いを示唆しているとも取れる。しかし、塩を取ることができるという表現から、他の役割があると理解することも可能である。おそらく、この章の中心は後半の、土地の分配の部分なのだろうが、エゼキエルもこの幻からいろいろと考えたろう。神殿から流れ出る水、川となり、深くなっていき、海に注ぐ。おそらく、完全な答えは得られなかったろうが、エゼキエル書の最後にある記述として、印象深い。
- BRC2019:Ez 47:21-23 あなたたちは、この土地を自分たちイスラエルの各部族に分けねばならない。この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われる。
- エゼキエルの見た幻の限界とともに、それが開かれている両方がみえるところのように思う。出エジプトのころとは違う状況を、理解している。外国人、寄留者とどのようにしたらともに生きていくことができるかが語られている。クリスチャンになったひととか、ユダヤ教に改宗したひとという条件もない。ただ、土地という物理的なものについては、イスラエル王国の場所が強く意識されている。そのため、そこに住まない人については、言及できない。批判的にではなく、すこしずつ主とともに歩むことの意味が深化していることから学びたい。
- BRC2017:Ezek 47:22,23 この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らにも嗣業をくじでイスラエルの部族の間に割り当てねばならない。 外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われる。
- この前には、川のことと、十二部族に公平に嗣業をあたえるべきことが書かれている。引用箇所は、外国人への配慮として興味深いが、疑問もある。エゼキエルの時代、北イスラエルは、すでに捕囚(BC722)から、130年程度はたっていたと思われ、どこに捕囚となったかも、不明になっていたのではないだろうか。そう考えると、比喩的な意味を持っているかもしれない。「彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。」の記述は興味深い。おそらく、差別的なことがあったことを、反省しているのだろう。
- BRC2015:Ez47:9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
- 神殿から流れる多量の水についての記述である。命の水と新共同訳では小見出しがある。1節から12節の間に、いくつか興味深い記述がある。汚れた海としているアラバがきれいになること(8節)、すべての生きものが生き返る(9節)とあるが、ひとは現れないこと。沢と沼はきれいにならないが(11節)塩がとれることを評価しているような記述をしていること、最後は実の記述である(12節)。エデンの園の記述(創世記2章6節、10節)に関連しているのだろうか。
- BRC2013:Ez47:21 あなたがたはこのように、イスラエルの部族に従って、この地をあなたがたの間に分割せよ。
- 正確にはよく調べないとわからないが、ダビデの時代に拡大した最大の領土が示されているように見える。イエスはそれを解いただろうか。キリスト教会は、このことにも真摯に向き合わなければいけないだろう。すなわち、旧約聖書の解釈に対して。
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- BRC2021:Ezekiel 48:8 ユダ族との境界に沿って、東端から西端までは、あなたがたが献げる献納地にしなければならない。その幅は二万五千アンマ、その長さは東端から西端まで割り当て地の一つと同じで、その中央に聖所がある。
- 正確には地名など知らないものが多くよく調べないとわからない。すこし単純化されているようだが、基本的に分配地は、ヨシュアのときと大きくは変わらないのかもしれない。ただ、実際には、ユダ、ベニヤミンと、レビ以外は、ユダ王国に住んでいた、少数を除き、アッシリアによる捕囚により、混血も含め、殆ど失われてしまっているだろうから、このような復古が適切なのかは、不明である。捕囚の民の困難は、そのようなところにも、あるのだろう。宗教としても、大きな転換点であったように思う。
- BRC2019:Ez 48:35 都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。
- ここでエゼキエル書は終わっている。不自然である。もっと書きたかったことがあったのではないだろうか。エゼキエルが置かれている状況が変わったのだろうか。そのことに、なにも言及されていない。そうでなかったとするならば、主のことばが途切れたのかもしれない。確信をもって書いていたなかで、他のことを示されたのかもしれない。それが書かれていないことが余韻を与える。エゼキエル書、今回は、適切かどうかは不明であるが、しっかり向き合って読めたとは思う。もしかするとはじめてかもしれないが、それも、高慢かもしれない。また、少しずつ読んでいければ嬉しい。
- BRC2017:Ezek 48:23 また残りの部族については、東の端から西の端まで、先ずベニヤミン族のものである。これが一部族。
- 最初に北の端ということで、ダンからはじまり、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベン、それから、ユダとレビについての記述が長く続く。引用したベニヤミンのあと、シメオン、イサカル、ゼブルン、ガドと続く。すなわち、これら5部族の記述は、非常に簡単である。公平とは何を意味しているのだろうか。
- BRC2015:Ez48:1 部族の名は次のとおりである。「北の限界は、ヘトロンの道からレボ・ハマトを経てハツァル・エナンに至る。これがダマスコとの国境である。その北側にハマトがある。その東の端から海までがダン族のものである。これが一部族。
- 割り当て地についての記述がエゼキエル書の最後の部分である。北の端のダン族からはじめている。詳細を調べることはできないが、記述は部族によりかなり異なる。北からはじめ7部族とレビ族についての記述はある程度あるが、残りの5部族については非常に短い。預言者が回復の幻の中で詳細を書こうとした中で、明確ではなくなったと考えるのは、うがちすぎか。ひとが知りうることはほんの一部分に過ぎない。その中で、神の御心を告げる使命を帯びた預言者の苦しみと痛みは、すこし受け取ることができたかもしれない。
- BRC2013:Ez48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
- エゼキエルはこの言葉で終わっている。主による回復の設計図は、十分には書けなかったのではないかと思われる。そう考えると、民に伝えようとしたメッセージを読み取り、それ以外は、祈って次を待つ態度が必要なのかもしれない。これをそのまま神の言葉と受け取って、その通りになると理解することも、イエスの言われたこととの不整合を無理に埋めることも、エゼキエルの限界として切り捨てることも、不適切なのかもしれない。わからないことは、わからないこととして、丁寧に理解していきたい。