2 福音書に関する問い
聖書を読んでいくときに、問いを持ち、問いと向き合いながら読むことがたいせつだと考えています。信じれば良いと考えられる方もおられるかと思いますが、わたしはそうは考えていません。もし、聖書が、信仰者のためだけのものであれば、それで良いかもしれません。しかし、もし、信仰者またはイエスをキリスト(救い主)と信じるひと以外にも、たいせつな内容が書かれているとするのであれば、疑問がある箇所については、考え、また、聖書はどう語っているのだろうか、それは、本当なのだろうか。何を伝えようとしているのかと考えることは、とても健全なことなのではないでしょうか。
疑うよりも信じることがたいせつだと考えておられる方も多いかもしれません。ある時点で、信じるかどうかを選択する場面はあるかもしれません。しかし、最初から、疑ってはいけないとしてよいのでしょうか。疑うひとは、聖書は読めないのでしょうか。わたしは、一緒に読むなかで、お互いに目が開かれていく経験をたくさんしています。自分だけでは、気づかなかったこと、問われて考え始めたからこそ、学ぶことはたくさんあるように思います。
解釈は、一人ひとり様々ですが、問いを共に考えられることは、共通の場に立つことにも繋がります。共同作業で、聖書を理解していくこと自体に、価値があると思っています。この共同作業を通して、同じテキスト、同じ問いであっても、異なる視点をもっていることを通して、他者を知ることも、ある共通の観方、同意ができる経験をもつことも素晴らしいのではないでしょうか。他者の背後にある人生を垣間見ることもあるかもしれませんし、この事自体が、共に生きることにつながるように思います。そのような経験をたくさんしていただく一助になればと願っています。
ここでは、福音書を読むことを中心においています。福音書は、イエスについて書かれています。イエスはどのような方だったのかを、一緒に考えながら読んでいくことができればと願っています。キリストは油注がれたものという意味ですが、神様に油を注がれた、救い主と告白する言葉としても使われています。また、福音書は、イエスがキリストであることを証言する文書だという面もあることは確かだと思いますが、それは、福音書を読んで、みなさんが判断することだと思います。そこで、福音書を読むときは、キリストということばは気をつけて使い、必要な場合を除いて、イエスと書いていきたいと思います。わたしは、通常は、イエス様と言っているので、イエス様ということばが出てくるかと思いますが、それはご容赦ください。一緒に、このイエスについて学び、このイエスと出会うことができればと願っています。
ある方は、福音書もイエスが生きた時代からすると、だいぶあとから書かれ、多くのひとたちの伝承をもとにして書かれ、そのひとたちの解釈を経たあとで、書かれているので、福音書を読んで、そこから、実際のイエスについて、知るのは難しいのではないかと考えられるかたもおられるかもしれません。そのように言う学者も多いようです。そのような面は否定できないことは確かですが、わたしは、福音書が一律にそのようなものとは考えていません。すこしずつ、その理由についても、書いていきたいと思います。しかし、このことは、問いとしてはあげず、皆さんに判断していただこうと考えています。まずは、福音書を読んで、わかることから始めるのがよいと考えているからです。
もう一つ大切なのは、聖書の含まれている四つの福音書をどう読むかということです。矛盾なく、一つのことを伝えているのだから、全てに共通なことを読み取っていくべきで、違いを強調することは適切ではないという立場です。わたしは、そうは考えていません。四つの福音書が、それぞれの著者によって、異なった背景のもとで書かれ、それぞれに、強調点があり、著者が受け取り、伝えたいと考えたメッセージが書かれていることは、否定できないのでしょうか。著者が何を伝えようとして、このように書いているのか、どうして同じときのことを表現するのに、このような違いが生じるのかも、考えながら、読み解いて行きたいと思います。
大雑把にいって、近年は、聖書学者たちは、以下のことについては、ほぼ共通の考えを持っているようです。まず、マルコによる福音書が書かれ、次に、おそらく、マルコによる福音書について知っているひとが、マルコはおそらく知らない「イエスの語録文書」を利用し、マタイによる福音書と、ルカによる福音書が書かれた。また、マタイも、ルカも、独自の資料もそれぞれにある程度もっていたこと、そして、それからしばらくたって、これら三つの福音書について知ってはいるが、それらには、載っていないことがらを知っているひとが、ヨハネによる福音書を書いたということです。わたしは、これらにくわえて、もうすこし、想定していることがありますが、すくなくとも、ここに書いたことは、わたしもそうだろうと考えています。このことは、いくつかの文書資料によってある程度、支持されているとともに、丁寧に、四つの福音書を読むと、浮かび上がってくることだとも考えています。
最初に、問いをもって読むたいせつさについて書きました。むろん、ほとんどの、疑問や問いは、わたしたちが丁寧に読んでも、解決しないかもしれません。しかし、それを、問わずに置くことによって、真理に近づくことができないなら、とても、残念なことであるとも思います。真理の探求とまでは、言えないにしても、問いを持ち続けることは、次に、さらに、そのあとで、読むときにも、理解を深める助けになると思うのです。いかがでしょうか。
わたしが考えたい問い、たいせつにしたい問いもあります。それは、自分に問いかける、そして、今の時代に対する問いです。これは、一人ひとりによって異なると思いますが、なにのために聖書を読むかという問いにも関係していることだと思います。真理の探求、神様の御心を求めることをわたしは大切にしていますが、同時に、それは、どう生きるか、どう生きていくかを選択していくことをしたいからです。上にも書いたように、それは、完全な答えを得ることではありません。問いを持ちながら生きる、しかし、同時に、考えながら生きるということでしょうか。
そのようなことを考えて、ここに、いくつかの問いを書いておきたいと思います。
2.1 マルコによる福音書を中心として
2.1.1 背後にいる証言者はどのような人たちなのだろうか
マルコは使徒言行録に登場するヨハネ・マルコをさすと一般的に考えられているようだが、実際にマルコが著者かどうかには、議論もあるようである。いずれにしても、マルコは、イエスとともに生活をしたひとではない。すると、著者が情報を得た入手先があるだろう。複数かもしれないが、それは、誰なのだろう。
エウセビオスが引用しているパピアス断片と呼ばれる文書には、マルコはペテロの通訳だったと書かれている。これについても、議論はあるだろうが、マルコによる福音書を読んでいきながら確認できることもあるように思われる。
11章にあるエルサレム入城以降は、筆致が変わっているように見える。それまでは、イエスの行動について書かれているが、教えや譬え、論争記録などで構成されている。このような記録はどのような起源があるのだろうか。
残されている記録が限られているが、背後にいる証言者についてすこしずつ情報を集めていきたい。どんな人達なのだろうか。
2.1.2 病気の癒やしはどのようなものだったのだろうか
ギリシャ語では、テラペウオ、イアオマイ、ソーゾーが使われているようだが、現代の病気が治ることとは同じだと考えてよいのだろうか。
イエスのいやしは、どのような行為なのだろうか。
マルコでは、イエスの癒やしの活動の中心は、ガリラヤのようだが、病人は、大きく減少したのだろうか。
2.2 個別の記事について
2.2.1 マルコによる福音書について
聖書箇所:1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
- マルコは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」としている。ここで言われている「福音」とは何なのだろうか。それとも、マルコ全体をとおして、福音について語られているということなのだろうか。
2.2.2 洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える
- バプテスマのヨハネのメッセージはどのようなものだったのだろうか。イエスのものとの相違は何だったのだろうか。
- 福音書ごとに伝える内容が異なっているようだが、それは、何を意味するのだろうか。
- バプテスマのヨハネのことは、イエスの活動に関しても、大きな影響を及ぼしたように見えるが、イエスにとって、ヨハネはどのような存在だったのだろうか。
2.2.3 イエス、洗礼を受ける
2.2.4 試みを受ける
サタンと悪魔はどう違うのだろうか。どのように使い分けられているのだろうか。
悪霊は、サタンや、悪魔とは異なるようだが、どのように違うのだろうか。
2.2.5 ガリラヤで宣教を始める
マルコを手にしたひとは、福音の意味が理解できたのだろうか。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。はどのようなメッセージなのだろうか。
2.2.6 四人の漁師を弟子にする
2.2.7 汚れた霊に取りつかれた男を癒やす
2.2.8 多くの病人を癒やす
2.2.9 巡回して宣教する
2.2.10 規定の病を患っている人を清める
2.2.11 体の麻痺した人を癒やす
2.2.12 レビを弟子にする
2.2.13 断食についての問答
2.2.14 安息日に麦の穂を摘む
「ダビデとその供の者たち」に関する挿入話(25,26)は、唐突に感ずるが、イエスの真意は、どのようなことだったのだろうか。弟子たちを守るために、反論したようにも見えるが、どうなのだろうか。
イエス自身は、安息日に、麦の穂を摘むことはしなかったのだろうか。律法に関して、どのように行動していたのだろうか。守っていたのだろうか、それとも、自由人だったのだろうか。
「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」(27)とあるが、安息日とは何のためにあるのだろうか。
同様の規則・習慣で、本来の目的が、捻じ曲げられているものはどのようなものがあるだろうか。
「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。(28)は、何を伝えているのだろうか。
2.2.15 手の萎えた人を癒やす
2.2.16 湖の岸辺の群衆
2.2.17 十二人を選ぶ
2.2.18 ベルゼブル論争
2.2.19 イエスの母、きょうだい
2.2.20 「種を蒔く人」のたとえ
2.2.21 たとえを用いて話す理由
2.2.22 「種を蒔く人」のたとえの説明
2.2.23 「灯」と「秤」のたとえ
2.2.24 「成長する種」「からし種」たとえを用いて語る
2.2.25 「成長する種」のたとえ
2.2.26 「からし種」のたとえ
2.2.27 たとえを用いて語る
2.2.28 突風を静める
2.2.29 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす
2.2.30 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす(1)
2.2.31 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす(2)
2.2.32 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女
聖書箇所:
2.2.33 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(1)
2.2.34 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(2)
2.2.35 ナザレで受け入れられない
2.2.36 十二人を派遣する
2.2.37 洗礼者ヨハネ、殺される
2.2.38 五千人に食べ物を与える
- 五千人の給食とはどのようなものだったのだろうか
2.2.39 五千人に食べ物を与える(1)
2.2.40 五千人に食べ物を与える(2)
2.2.41 湖の上を歩く
2.2.42 ゲネサレトで病人を癒やす
2.2.43 昔の人の言い伝え
聖書箇所:
2.2.44 昔の人の言い伝え(1)
2.2.45 昔の人の言い伝え(2)
2.2.46 シリア・フェニキアの女の信仰
2.2.47 耳が聞こえず舌の回らない人を癒やす
2.2.48 四千人に食べ物を与える
2.2.49 人々はしるしを欲しがる
2.2.50 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
2.2.51 ベトサイダで盲人を癒やす
2.2.52 ペトロ、イエスがメシアであると告白する
2.2.53 イエス、死と復活を予告する
2.2.54 イエスの姿が変わる
2.2.55 汚れた霊に取りつかれた子を癒やす
2.2.56 再び自分の死と復活を予告する
2.2.57 いちばん偉い者
2.2.58 逆らわない者は味方
聖書箇所:マルコによる福音書9章38-41節 福音書対照表/マルコによる福音書9章38-41節 福音書対照表(ルカ参照付)
2.2.59 罪への誘惑
2.2.60 離婚について教える
2.2.61 子どもを祝福する
2.2.62 金持ちの男
2.2.63 金持ちの男(1)
2.2.64 金持ちの男(2)
2.2.65 イエス、三度自分の死と復活を予告する
聖書箇所:マルコによる福音書10章32-34節 福音書対照表/マルコによる福音書10章32-34節 福音書対照表(参照付)
2.2.66 ヤコブとヨハネの願い
聖書箇所:マルコによる福音書10章35-45節 福音書対照表
- あがないという言葉は、共観福音書では、ここと対応するマタイの箇所にのみ現れるが、イエスの死は罪の贖いのためなのだろうか。
- マルコだけではなく、共観福音書には、ほとんど、罪のあがないについて書かれていないように見える。
2.2.67 盲人バルティマイを癒やす
2.2.68 エルサレムに迎えられる
マルコ、マタイ、ルカでは、このときが公生涯において、最初にエルサレムに来たときとして描かれているが、ヨハネでは、逆に、エルサレムや、その周辺、ユダヤなどでの活動についてたくさん書かれている。
エルサレム入城の書き方が、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネそれぞれに異なる。実際、エルサレム入城は、イエスにとってどのようなものだったのだろう。
2.2.69 神殿から商人を追い出す
聖書箇所:マルコによる福音書11章12-26節 福音書対照表
マルコによると、エルサレム入城のあと、宮も見て回り、その翌日に、宮きよめをしたことが書かれている(11:11, 12)。入城した日も、同じ様子を見ながら、何もしなかったように見える。また、このあと、どうなったかもかかれていない。宮の境内を歩いておられ(11:37)たり、宮の境内で教えておられること(12:35)賽銭箱の前に座っておられること(12:41)も書かれている。
祭司長たちや、律法学者たちは、イエスの言葉を聞いて、殺そうとするが、殺意を抱くほどのことを言っているとは思えない。
ヨハネでは2章となっている。似た記事だが、終わり方は少し異なっている。
宮きよめは、何を伝えているのだろうか。
2.2.70 いちじくの木を呪う
聖書箇所:マルコによる福音書11章12-26節 福音書対照表
悪魔の試みのときも含め、自分のためには、奇跡的な方法を使われないイエスの呪い、魔術的なとも言える力によって、いちじくが枯れてしまったように見える。(マルコでは翌日、マタイではたちまち枯れている。)
まだ実がなる時期になっていないときのことであり、道理に適っていない。同時に、その時期ではなかったこと書かれていることも興味深い。
マルコでは、祈りについての教えが続き、赦しについても書かれている。
ルカには、宮きよめの記事が、エルサレム入城に引き続いて、マルコ、マタイと同じ位置に書かれているが、この記事はない。その代わりかどうかは不明だが、ルカ13:6-9 に、実のならない、いちじくの木について、あと三年待ってほしいと懇願する園丁の話が載っている。しかし「それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」という期間限定がなにを意味するのか不明。
マルコ、マタイ、ルカとも、いちじくの状態から、季節を見極める、話が登場する。イエスは、いちじくの実のなる季節についても、よく知っておられたのだろうか。それとも、このエピソードのときに学んだのだろうか。(マルコ13:28-32、マタイ24:32-35、ルカ21:29-33)
実らないいちじくを枯らすはなしは、何を伝えているのだろうか(マルコ、マタイ)
2.2.71 権威についての問答
聖書箇所:マルコによる福音書11章27-33節 福音書対照表
「権威についての問答」(マルコ11:27-33, マタイ 21:23-27, ルカ 20:1-8)において、「何の権威によって、これらの事をするのですか」と聞かれ、直接的には答えず「ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか」と聞いています。なぜ、祭司長、律法学者、長老たちは、このような質問をしているでしょうか。そして「これらの事」は何を指すのでしょうか。そして、直接的には答えることは、訴える口実を与えてしまうおそれもあったので、それを避けたのでしょうか。
イエスは問いに対して問い返すという場面があるように思いますが、「ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか」では、イエスは本質的に何を、祭司長、律法学者、長老たちに問い、私たちに、どのようなことを考えることを迫っているのでしょうか。
あるものが「天(神)から」か「人から」かは、どのように判断したら良いのだろうか。とても、本質的な問いであもる。民の指導者たちはどう考えていたのだろう。イエスはどうだろうか、そして、私たちは、どのように判断したらよいのだろうか。
2.2.72 「ぶどう園の農夫」のたとえ
主人が神様をあらわしているとすると、たとえで語られている、ぶどう園にたいしてしたことは、何を著しているのだろうか。
農夫たちが、収穫を主人に与えず、しもべたちを受け入れないことは何を意味しているのだろうか。
主人は、すでに、しもべたちが何度もひどい目にあっているのに、なぜ、農夫たちは、息子ならうやまってくれるだろうと考えたのだろうか。
語られている「彼ら」が祭司長、律法学者、長老たちであるなら、このたとえを通して、このひとたちに、どのようなメッセージが語られており、また、この人たちは、なにをどうすべきだ(った)と言っているのだろうか。
主人と農夫の信頼関係が、壊れてしまったのは何が原因なのだろうか。回復は不可能なのだろうか。
2.2.73 皇帝への税金
聖書箇所:マルコによる福音書12章13-17節 福音書対照表
イエスに質問をしにきた人たちは、どのような答えを期待していたのだろうか。
税金についてイエスはどのように考えていたのだろうか。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」で、イエスは何を教えているのだろうか。
このひとたちが考えていたことと、イエスのこたえには、どのような相違があったのだろうか。
2.2.74 復活についての問答
聖書箇所:マルコによる福音書12章18-27節 福音書対照表
サドカイ人は、復活を信ぜず、パリサイ人は、それを信じていたようだが(使徒23:6)なぜ、そのように信じ、何を根拠にそう信じていたのだろうか。そのように信じるような経緯もしりたい。
復活を信じる、パリサイ人は、サドカイ人の12:19-23節の問いに、どう答えていたのだろうか。
アブラハム、イサク、ヤコブは生きていると証言しているようだが、イエスは復活についてどのような理解をもっていたのだろうか。
イエス自身が「よみがえる」ことについて何回か述べられているが(マルコ8:31, 9:9-10, 9:31, 10:34)、イエスは自身の復活についてどのように認識していたのだろうか。
死んだひとが生き返ること、イエスの復活、一般の(イエス以外の)ひとの死後の復活、神との関係において生き続けること、それぞれについて、そして相違について、どう考えればよいのだろうか。
2.2.75 最も重要な戒め
聖書箇所:マルコによる福音書12章28-34節 福音書対照表
イエスが「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と問われて答えている箇所である。「わたしたちの神は、唯一の神である。その主をあなたのすべてをもって愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」(要約)が、聖書の中心的な教えということだろうか。
「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」で、聖書は、そして、イエスは何を伝えているのだろうか。他の神を認めない、排他的であることを奨励しているのだろうか。
なぜ最も重要な戒めは一つではなく二つなのだろうか。二つとも絶対的に必要なのだろうか。二つのいましめは関連しているのだろうか、それとも独立なのだろうか。
2.2.76 ダビデの子についての問答
聖書箇所:マルコによる福音書12章35-37節 福音書対照表
キリストはダビデの子かという問いに対して三つの共観福音書ともイエスは否定している。イエスがダビデの子かという問いに関しては、福音書によってどのように記述されているのだろうか。
マルコにおいても、一箇所、エリコで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(10章47節、48節では「イエス」が省略)と叫んでいる箇所があるが、他の福音書と比較して非常に注意して「ダビデの子」とは書かれていないように見える。この箇所でも、ひとびとは、必ずしもメシアをダビデの子だとは考えてないように見える。実際には、どうだったのだろうか。
2.2.77 律法学者を非難する
聖書箇所:マルコによる福音書12章38-40節 福音書対照表
なぜ律法学者を非難する記事が入っているのだろう。
マルコの律法学者非難は簡素で短く、マタイは非常に長く、ルカは異なる形にまとめてあるようだがそれは何を意味するのだろうか。
2.2.78 やもめの献金
聖書箇所:マルコによる福音書12章41-44節 福音書対照表
やもめはなにかの象徴だろうか。やもめのようになれと言っているのだろうか。それとも、そうではないひとを非難しているのだろうか。
イエスはこの「やもめの献金」で何を教えようとしているのだろうか。
2.2.79 神殿の崩壊を予告する
2.2.80 終末の徴
2.2.81 大きな苦難を予告する
聖書箇所:マルコによる福音書13章14-23節 福音書対照表/マルコによる福音書13章14-23, 24-27節 福音書対照表
2.2.82 人の子が来る
聖書箇所:マルコによる福音書13章24-27節 福音書対照表/マルコによる福音書13章14-23, 24-27節 福音書対照表
2.2.83 いちじくの木の教え
聖書箇所:マルコによる福音書13章28-32節 福音書対照表/マルコによる福音書13章28-32, 33-37節 福音書対照表
2.2.84 目を覚ましていなさい
聖書箇所:マルコによる福音書13章33-37節 福音書対照表/マルコによる福音書13章28-32, 33-37節 福音書対照表
2.2.85 イエスを殺す計略
聖書箇所:
2.2.86 ベタニアで香油を注がれる
聖書箇所:
2.2.87 ユダ、裏切りを企てる
聖書箇所:
2.2.88 過越の食事をする
聖書箇所:
2.2.89 主の晩餐
聖書箇所:
2.2.90 ペトロの離反を予告する
聖書箇所:
2.2.91 ゲッセマネで祈る
聖書箇所:
2.2.92 裏切られ、逮捕される
聖書箇所:
2.2.93 一人の若者、逃げる
聖書箇所:
2.2.94 最高法院で裁判を受ける
聖書箇所:
2.2.95 ペトロ、イエスを知らないと言う
聖書箇所:
2.2.96 ピラトから尋問される
聖書箇所:
2.2.97 死刑の判決を受ける
聖書箇所:
2.2.98 兵士から侮辱される
聖書箇所:
2.2.99 十字架につけられる
聖書箇所:
2.2.100 イエスの死
聖書箇所:
2.2.101 墓に葬られる
聖書箇所:
2.2.102 復活する
聖書箇所:
2.2.103 (結び一)マグダラのマリアに現れる
聖書箇所:
2.2.104 二人の弟子に現れる
聖書箇所:
2.2.105 弟子たちを派遣する
聖書箇所:
2.2.106 天に上げられる
聖書箇所:
2.3 ヨハネによる福音書を中心として
2.4 マタイによる福音書、ルカによる福音書を読むときに
2.4.1 復讐してはならない/敵を愛しなさい
マタイ5:38-48、ルカ6:27-36
実際にこのようにすべきだと命じているのだろうか。
- 詐欺にあったとき、強盗に襲われた時、テロにあった時、他国が侵略してきた時、それをひたすら受け入れることが命じられているのか。