3 共観福音書
マルコによる福音書を中心に共観福音書を読んでいきたいと思います。
新約聖書の最初には、イエスの活動や言葉について書かれている、四つの福音書があります。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書と、ヨハネによる福音書です。
マルコによる福音書は、新約聖書の順序では、二番目ですが、一般的には、福音書の中では、最初に書かれたと考えられています。その根拠のひとつは、伝承、そして、もう一つは、マルコによる福音書と、他の福音書の比較して、そのように結論づけられていますが、それは、読みながら、一緒に考えていければと思います。
伝承と書きましたが、直接的な証言は残っていませんから、しばらくたってから書かれたものなどから得られる情報なので、伝承としました。今から、2000年も前のことですから、確実なことは言えないのは、仕方がないと思います。
仕方がないと書きましたが、わたしが大切だと考えているのは、不明なことが多く、事実を確認することは、不可能だと言うことを前提に読んでいくこと、そして、そうであっても、いろいろな可能性を考え、その中で、メッセージを受け取りましょうということです。
わからないと言っても、これまでも、たくさんの研究者の方々が、調べておられますから、ある程度、概観しておきたいと思います。
賛否があると思いますが、わたしは、2022年末ごろから、生成系AI(人工知能)のいくつかに、聞いてみることから始めています。それまでは、Wikipedia の英語版をまずは読んでいました。その前は、図書館などで本を調べていました。おそらく、偏りや、不正確さは、どの方法にも付随することでしょう。
上に、わからないと書きましたように、不明なことが多い中で、ひとつの意見として、いくつかの、AI(人工知能)を利用することは、特に、これからの時代には、不可欠なように思います。
私は、若い頃から、聖書を読み、少しずつ聖書を学んで来たので、多少の知識はあるほうだと思います。しかし、皆さんに、聖書を読んでいってもらいたい。問いを持ちながら。そうであれば、疑問が生じた時に、一般的に知られていることを確認することは、たいせつなことだと思います。わたしは、そのために、AI を使うのが良いのではないかと考えています。
牧師や神父、聖書学者など、もっと詳しい人に聞いた方がより正確な答えが得られるのではないかと考えられる方が多いと思います。そうかもしれません。しかし、所属教派による解釈の違いもあるでしょうし、そして何よりも、確定的なことは、誰も知らない、すなわち、公平な理解というのは、誰にとっても不可能なように思います。そうであれば、自分達で学ぶ時には、一般的な情報をあつめている、AI に聞くのはひとつの解決策であると思いますし、仲間で学ぶ時には、最善だともいえます。
さまざまな問いを持ちながら、聖書を読んでいく。その素晴らしい経験を皆さんと共にできればと願い、皆さんが皆さんの仲間とそのようにして聖書を読むことの一助になればと考えて、書いています。違った考えの方もおられるかもしれませんが、わたしの考えを書かせていただきました。
これを書いている、2023年4月の時点では、POE(https://poe.com/)を使っています。いくつかの AI での検索を比較でき、WebSite でも、モバイルアプリでも、可能で使いやすいからです。
なお、2023年5月中旬から、Google Bard (https://bard.google.com) が公開されたので、Bard も使っています。
3.2 人物
3.2.1 バプテスマのヨハネ
2023.04.21
Q. 新約聖書に登場するバプテスマのヨハネについて、聖書以外の文献でどのように描かれているか、文献名またはリンクとともに、説明してくださいませんか。
GPT4.
バプテスマのヨハネは、新約聖書に登場する重要な人物であり、イエス・キリストの洗礼を行ったことで知られています。新約聖書以外の文献でも、彼について言及されているものがいくつか存在します。
ヨセフスの『ユダヤ古代誌』: ユダヤの歴史家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』(Antiquities of the Jews)は、ヨハネに関する重要な情報源となっています。ヨセフスは、ヨハネが義人であり、洗礼の儀式を行っていたことを記しています。また、彼はヘロデ・アンティパスによって投獄され、後に処刑されたことも記録されています。
参照リンク: ユダヤ古代誌
旧約聖書外典: バプテスマのヨハネに言及している旧約聖書外典の一部もあります。『エルサレムの詩篇』(The Psalms of Solomon)は、ヨハネが救世主イエスの到来を予言していたことを示唆しています。ただし、この文献は伝統的なキリスト教の聖書には含まれていません。
マンデ教文献: マンデ教は、バプテスマのヨハネを宗教的指導者として尊敬しています。彼らの文献には、ヨハネの教えや行為に関する情報が含まれています。『マンデ教の祈祷書』(The Mandaean Book of Prayer)や『マンデ教の創世記』(The Mandaean Book of Genesis)などが挙げられます。
参照リンク: マンデ教の祈祷書
これらの文献は、バプテスマのヨハネに関する新約聖書以外の情報源を提供しています。ただし、文献によっては伝統的なキリスト教の教えとは異なる解釈が含まれていることに注意が必要です。
2023.04.21
Q. バプテスマのヨハネに関する『ユダヤ古代誌』(Antiquities of the Jews)からの引用箇所の日本語訳をお願いします。同様に『エルサレムの詩篇』(The Psalms of Solomon)からの引用箇所の日本語訳を教えてください。マンデ教文献については特徴的な1箇所のみ引用箇所の日本語訳をお願いします。
GPT4
まず『ユダヤ古代誌』(Antiquities of the Jews)からのバプテスマのヨハネに関する引用箇所の日本語訳です。
このヨハネは義の人であり、彼がユダヤ人たちに説いた説教は、悔い改めと共に洗礼を受けるよう勧めるものでした。彼は洗礼は罪の赦しに直接的に役立つものではないと語りましたが、心身の浄化のためには必要であると説きました。多くのユダヤ人たちは彼の教えに従い、ヨルダン川で洗礼を受けました。
次に『エルサレムの詩篇』(The Psalms of Solomon)からの引用箇所の日本語訳です。
主よ、あなたの民の罪を赦し、あなたの選ばれた者たちを憐れみ、エルサレムを立て直し、あなたの聖なる都を永遠に守りたもう。あなたは罪からの救いを約束し、私たちがあなたに従順である限り、あなたの国の栄光を見ることができます。
最後に、マンデ教文献からの特徴的な1箇所の引用箇所の日本語訳です。
光の子らよ、知れ、汝らは闇の中にいるが、光を求め求めよ。汝らの守護者であるライトスピリットが、闇を破る知識とともに来たり。闇から光へと昇り、汝らの本来の故郷である光の世界へと帰りたまえ。
3.2.1.1 バプテスマのヨハネに関する聖書箇所
ルカ1:5-80
マルコ1:1-11、マタイ3:1-12, 13-17、ルカ3:1-20 21-22、ヨハネ1:19-28, 29-34
ヨハネ3:22-30 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 23ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。24 そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。25 ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。26 そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。27ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。28『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。29 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。
ヨハネ4:1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、
ヨハネ5:33 あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。35 ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。 36 しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
ヨハネ10:40,41 さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。41 多くの人々がイエスのところにきて、互に言った、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」。
マタイ4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
マルコ2:18-22 18 ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。マタイ9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。 (ルカ5:33)(マタイ9:14-17, ルカ5:33-39)
マタイ11:2-19 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、(ルカ7:18-35)
マルコ6:14-29、マタイ 14:1-12、ルカ 9:7-9
マルコ8:27-30, 8:28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。(マタイ16:13-20、ルカ9:18-21)
マタイ17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
マルコ11:27-33 30 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。32 しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。(マタイ21:23-27、ルカ20:1-8)
ルカ11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。
ルカ16:16 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
使徒1:5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
使徒1:22 すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。
使徒10:37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
使徒11:16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。
使徒13:25 ヨハネはその一生の行程を終ろうとするに当って言った、『わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしのあとから来るかたがいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値うちもない』。
使徒18:25 この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。
使徒19:3,4 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
3.2.2 ヘロデ
3.2.2.1 ヘロデ大王
Q. ヘロデ大王について教えて下さい。
A. ChaptGPT 3.5 Turbo
ヘロデ大王(ヘロデス大王)は、古代のイスラエル地域で権力を持ったユダヤ人の支配者であり、ローマ帝国の代理人でした。以下にヘロデ大王に関する一般的な情報を提供します。
ヘロデ大王の治世: ヘロデ大王は紀元前37年から紀元前4年まで統治しました。彼はイドメネウス朝(ヘロデ朝)の創設者であり、ユダヤ人としては異例の長期間にわたり支配を続けました。
政治的な地位: ヘロデ大王は、共和政から帝政への移行期において、ローマ帝国の支配下でユダヤ人の支配者となりました。彼はローマ帝国の皇帝アウグストゥスとの関係を築き、ローマの支援を受けながら統治しました。
政治的な成果: ヘロデ大王はイスラエル地域の統一と近代化に注力しました。彼は建築プロジェクトを通じて都市と宮殿を建設し、水道や浴場などの公共施設を整備しました。また、ヘロデ大王はユダヤ教の宗教的中心地であるエルサレムの神殿を豪華に再建しましたが、これは後にイエス・キリストの時代に重要な役割を果たすことになります。
ヘロデ大王の性格: ヘロデ大王は強力な支配者であり、反対勢力に対しては容赦しない手段もとりました。彼は政敵や反乱者を厳しく取り締まり、時には自身の家族や妻子すら処刑することもありました。
新約聖書との関連: ヘロデ大王の名前は新約聖書にも登場します。彼はイエス・キリストの時代に生きており、イエスの誕生直後にヘロデ大王がイエスの命を狙って幼児虐殺を命じたという記述があります(マタイによる福音書2章)。
ヘロデ大王は、イスラエル地域の歴史において重要な役割を果たしましたが、彼の統治は複雑で論争の的となることもあります。彼の治世や個人的な性格に関する詳細な情報は、古代の文献や研究者による研究を参照することで深く探求することができます。
(2023.11.16)
ヘロデ大王に関する聖書箇所
マタイ2:1-18
ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
3.2.2.2 ヘロデ(Herod Antipas II):ヘロデ大王とマルタケの子
ルカ3:19-20 ところで領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、20 彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。
ルカ8:13 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
マルコ6:14-29, マタイ14:1-12, ルカ9:7-9
ルカ13:31-35 31 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。32 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。33 しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。
ルカ23:5-12 ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。6 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。9 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。10 祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。11 またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。
3.2.2.3 ヘロデ・アグリッパ(Herod Agrippa I)
- 使徒12
3.2.2.4 ヘロデ・アグリッパ(Herod Agrippa II)
- 使徒25:13
3.2.3 パリサイ人
Q. ユダヤ教のパリサイ派(Pharisees)についてその起源、歴史、事件、主要な人物、教義などについて教えてください。律法学者との違いについてもお願いします。
GPT4
ユダヤ教のパリサイ派(Pharisees)は、古代イスラエルの宗教的・政治的な派閥のひとつで、紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて活動していました。彼らは、ユダヤ教の厳格な律法の遵守と、口伝律法の重要性を強調していました。パリサイ派は、ユダヤ教の伝統的な教義と慣習を維持し、進化させる役割を果たし、ラビ・ユダヤ教の基礎を築きました。
起源と歴史
パリサイ派の起源は完全には明らかになっていませんが、おおよそ紀元前2世紀にさかのぼるとされています。この時期、ヘレニズム文化の影響がイスラエルに広がり、ユダヤ教徒社会の中で宗教的な対立が生じました。パリサイ派は、ヘレニズム文化の影響に抵抗し、ユダヤ教の伝統的な教義と慣習を守ることを目指しました。
主要な事件
パリサイ派は、ユダヤ教の教義と慣習を厳格に守ることで知られており、そのために彼らは何度も他の宗教的・政治的な派閥と対立しました。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、パリサイ派はサドカイ派(Sadducees)と激しく対立しました。サドカイ派は、エルサレム神殿の祭司階級であり、律法の文字通りの解釈と神殿の権威を重んじていました。この対立は、紀元70年のエルサレム神殿の破壊と、それに伴うユダヤ教の形態の変化によって終わりを迎えました。
主要な人物
ハッレル(Hillel)とシャンマイ(Shammai)は、パリサイ派の最も著名な律法学者でした。彼らは、紀元前1世紀から紀元後1世紀に活動し、数々のハラハ(ユダヤ教の法律)に関する議論を展開しました。ハッレルは、寛容で柔軟な解釈で知られており、シャンマイは厳格で保守的な解釈で知られています。
教義
パリサイ派は、律法(モーセの五書)の厳格な遵守と、口伝律法の重要性を強調していました。彼らは、律法を解釈し、日常生活に適用するために口伝律法が必要だと考えていました。また、パリサイ派は、復活と最後の審判、天使と悪魔の存在など、多くの神秘的な教義を信じていました。
律法学者との違い
律法学者(Scribes)は、ユダヤ教の聖典を書き写し、解釈し、教える専門家でした。彼らは、主に律法に関する知識を持ち、社会的地位が高かったです。一方、パリサイ派は宗教的なグループであり、律法の遵守と口伝律法の重要性を強調していました。律法学者は、パリサイ派の中にも存在しましたが、全ての律法学者がパリサイ派に属していたわけではありません。
律法学者は、律法の知識を持ち、解釈し、教える役割を果たしていたため、彼らはパリサイ派の教義に影響を与えることがありました。しかし、彼らはまた、異なる宗教的・政治的な背景を持ち、パリサイ派以外のグループにも所属していました。そのため、律法学者とパリサイ派は、同じ目的を持っていた場合もあれば、異なる目的や価値観を持っていた場合もありました。
(2023.6.18)
3.2.3.1 ヨセフス「ユダヤ戦役」
- 2-8-14 彼ら(パリサイ人)は、すべての霊魂は不朽であるが、善人の霊魂だけ別の体に移され、悪人の霊魂は永遠の刑罰に復する、と言う。(榊原康夫「マタイによる福音書下」)
(2024.10.22)
3.2.4 サドカイ人
3.2.4.1 ヨセフス「ユダヤ人古代史」
13-10-6 パリサイ人は、モーセ律法にしるされていないが父祖から伝えられた非常に多くの規定を、民に発布してきた。サドカイ人が彼らを排斥するのはこのためであって、彼らは、しるされた言葉にある規定を義務的と見るが、先祖の伝承から引き出されている事項は、守らないという。(榊原康夫「マタイによる福音書下」)
18-1-4 サドカイ人の教理は次の通り。魂は肉体とともに死ぬ。律法が命ずること以外の何事をも守らない。・・・しかし彼らはほとんど何事も自らはできない。というのは、彼らが権力者となる時、大衆が我慢しないので、不本意ながら、また時には無理矢理にパリサイ人の考えに身を委ねざるをえなくなるからである。(榊原康夫「マタイによる福音書下」)
(2024.10.22)
3.2.5 エッセネ派
3.2.5.1 ヨセフス「ユダヤ戦役」
- 2-8-11 彼ら(エッセネ派)の教理は次の通り。肉体は朽つべきもので、それが造られている物質も永遠でないが、霊魂は永続する。それは最も微妙な空気から出て、獄屋にはいるごとく、そのからだに統合される。一種の自然な誘惑によって引き込まれるのである。しかし、肉のかせから解き放たれた時、久しい奴隷のくびきから救われたかのように、喜び、上に昇る。
3.2.6 ヘロデ党
Q. 聖書に登場するヘロデ党というのは、どのようなものでしょうか。ユダヤの他グループなどとの関係なども分かれば教えてください。聖書以外の文献にも登場するようでしたら、その情報も教えてください。
GPT4.
ヘロデ党(Herodians)は新約聖書に登場するユダヤ人の政治的グループで、特にマルコによる福音書(マルコ 3:6; 12:13)とマタイによる福音書(マタイ 22:16)で言及されています。彼らの正確な特性や起源については不明な部分が多いですが、彼らの名称はヘロデ(Herod)家に由来しており、彼らはおそらくヘロデ家またはそのローマ人の後援者と何らかの形で結びついていたと考えられています。
ヘロデ家はユダヤのクライアント王家で、ローマ帝国の影響力下でユダヤ地方を統治していました。ユダヤの多くのグループ、特に宗教的に厳格なファリサイ派は、このローマの支配とそれに連携するヘロデ家に反対していました。それに対してヘロデ党は、ローマとヘロデ家との関係を支持し、積極的にそれらと協力していたと考えられています。
聖書外の文献においてもヘロデ党についての言及が見られます。ユダヤの歴史家フラウィウス・ヨセフスは彼の著作「ユダヤ古代誌」でヘロデ家とその時代について詳しく記述していますが、彼の記述には「ヘロデ党」の名前は出てきません。しかし、ヨセフスが記述するユダヤの政治的な派閥やグループの中に、ヘロデ家やローマと結びつく形でユダヤ社会に影響を与えた者たちがいたことは明らかです。
ヘロデ党の具体的な信念や行動については不明な点が多いですが、新約聖書と他の古代の資料から考えると、彼らはローマ帝国とヘロデ家の影響力を認め、積極的にそれらと協力していたグループであったと考えられます。
(2023.7.19)
3.2.6.1 ヘロデ党に関する聖書箇所
マルコ3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。参照
マルコ12:13-17 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。参照
マタイ22:15-22 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。16 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
3.2.7 熱心党
Q. 新約聖書に登場する熱心党(Zealot)について教えてください。聖書以外の文献もあれば、お願いします。
GPT4.
新約聖書の中では、特に「熱心党」(Zealots)と呼ばれるグループが言及されています。このグループは、1世紀のユダヤ人の政治的な派閥で、彼らは自分たちの故郷・祖国をローマ帝国の支配から解放することを強く求めていました。
新約聖書の中で最も有名な熱心党のメンバーは、イエス・キリストの12人の使徒の一人であるシモン・ザロテス(Simon the Zealot)です。彼の名前の「ザロテス」は「熱心党員」を意味します。
ただし、新約聖書自体が熱心党について多くを語っているわけではなく、彼らについての詳細な情報は他の史料から得られます。特に、「ユダヤ戦記」と「ユダヤ古代誌」の著者であるフラウィウス・ヨセフスは、熱心党について詳細に記述しています。彼によれば、熱心党はローマ帝国に対する反乱を主導し、70年のエルサレムの破壊につながるユダヤ戦争を引き起こしました。
また、熱心党はユダヤの宗教的な規範を厳格に守ることを強調し、モーセの律法の遵守とユダヤ国家の独立を強く主張しました。彼らはその名前が示すように、ある種の「熱意」を持ってこれらの目標を追求しました。
それでも、熱心党がどの程度組織化されていたのか、どのような社会的背景から生まれたのか、そして彼らが具体的にどのような行動をとったのかといった具体的な詳細については、学者たちの間でまだ議論の余地があります。
3.2.8 収税人
Q. イエスの時代、収税所(τελώνιον)は、どのように運営され、収税人(τελώνης)はどのような仕事をしていたか、その採用などについても教えて下さい。聖書以外の文献の記述があればそれもお願いします。
GPT4
イエスの時代(紀元前4世紀 - 紀元後1世紀)の収税所(τελώνιον)は、ローマ帝国によって徴税のために設けられた施設でした。当時のローマ帝国は、征服した地域からさまざまな税を徴収していました。収税所は、通常、交通の要所や商業地区など、税収の請求が容易な場所に設置されていました。
収税人(τελώνης)は、一般的に、ローマ帝国が徴税を委託した地元の民間人でした。彼らは税金を徴収することを業務としており、その報酬は徴収した税金の一部を受け取ることによって得られました。このため、彼らはしばしば、不正や横領を行うことがありました。聖書以外の文献で収税人に言及されているものとしては、1世紀のユダヤの歴史家フラウィウス・ヨセフスの著作があります。
収税人の採用は、通常、競売の形式で行われました。競売によって税収権を獲得した者が、その地域の収税人となりました。競売の過程で、税収権を獲得するために高額な金額を支払った者は、その後の徴税活動で元を取るために、より高額な税金を徴収することがありました。これが、収税人が当時のユダヤ社会で軽蔑される要因の一つでした。
イエスの時代の収税人は、ユダヤ教徒の社会から疎外されることが一般的でした。彼らは、ローマ帝国の代理人として働くことに加え、徴税を通じた不正行為が一般的であったため、信仰共同体から離れた存在とみなされていました。新約聖書の中では、イエスがマタイ(マシュー)、ザッカイといった収税人たちと交流し、彼らを弟子に迎え入れることで、神の愛と赦しのメッセージを伝えていました。これは当時のユダヤ社会の価値観とは異なる考え方であり、イエスの教えの根幹をなすものでした。
(2023.6.24)
3.2.9 罪人たち
Q. 福音書に罪人(ἁμαρτωλός)と言われる人たちについて書かれていますが、それは、どのような人たちで、社会のなかでは、どのような存在だったのでしょうか。ここでいう、罪人とは、現代でいうと、どのような人たちなのでしょう。
GPT4
福音書における罪人(ἁμαρτωλός)は、主にユダヤ人の社会規範や宗教的な戒律に違反して行動する人々を指します。これらの人々は、ユダヤ教の法(トーラー)に従わないとみなされ、社会的には疎外されることが多かったです。
罪人たちは、様々な背景を持っていました。例えば、税務署員(徴税人)は、ローマ帝国に税金を徴収する役割を果たしていたため、協力者と見なされ、ユダヤ人社会から疎外されていました。その他にも、売春婦や盗賊、偽証者など、倫理的に疑問のある職業に従事している人々も罪人とされました。
現代の観点から罪人を考えると、社会的に疎外されたり、法律や倫理に反しているとみなされる人々に相当します。例えば、犯罪者や違法な行為を行う人々、不正行為や汚職に関与する政治家や官僚、倫理的に問題のあるビジネスを行っている企業家などが該当するでしょう。
ただし、福音書においてイエス・キリストは、罪人たちと交流し、彼らに慈しみと赦しを示す姿が描かれています。これは、イエスがすべての人々に救いの手を差し伸べることを示しており、現在のキリスト教徒にとっても重要な教えです。
Bard
福音書に罪人(ἁμαρτωλός)と言われる人たちとは、当時のユダヤ社会において、神の律法を犯した者、つまり神の敵と見なされていた人たちです。具体的には、徴税人、娼婦、盗人、殺人者など、社会の底辺に生きている人々が含まれていました。これらの人々は、神の愛から見放され、救いの恩恵を受けられないと考えられていました。
しかし、イエス・キリストは、これらの人々を神の愛する子どもとして受け入れました。そして、彼らに罪の赦しと救いの希望を与えました。イエス・キリストのこの行為は、当時のユダヤ社会に大きな衝撃を与えました。また、キリスト教の根本的な教えである「すべての人々が神の愛に値する」ことを示すことになりました。
現代においても、罪人という言葉は、しばしば、社会に適応できない人々や、道徳的に逸脱した人々を指すために使われます。しかし、キリスト教の教えによれば、すべての人々は罪人であり、神の愛に値する存在です。私たちは、誰もが神の愛を受けることができることを忘れてはなりません。
(2023.6.28)
3.2.10 こども
Q. イエスの時代、ひとびとはこどもをどのようなものと思っていたのでしょうか。どのようにこどもは扱われていたのでしょうか。
GoogleGemini. イエスの時代の子どもたち
イエスの時代、子どもは現代とは大きく異なる社会的な位置づけと扱いを受けていました。
社会的な位置づけ
家父長制社会: 当時の中東社会は厳格な家父長制社会であり、父親が家族の権限を握っていました。子どもは父親の所有物とみなされ、教育や職業選択など、人生の多くの側面において父親の決定に従わなければなりませんでした。
労働力: 子どもは幼い頃から家事や農業などの労働力として活用されました。教育を受ける機会は限られており、識字率も低かったと考えられています。
社会的地位: 社会的地位は基本的に家柄や財産によって決まりました。子どもはその家柄や財産を受け継ぐ存在として期待され、社会的な責任を早くから背負うこともありました。
扱い
体罰: 体罰は教育手段として一般的でした。子どもは言うことを聞かないと叩かれたり、むちで打たれたりすることがありました。
結婚: 当時の結婚年齢は現代よりもかなり早かったです。女の子は12歳頃、男の子は15歳頃には結婚することが一般的でした。
養子縁組: 経済的な理由やその他の理由で、子どもが養子に出されることもありました。
イエスと子どもたち
イエスは子どもたちを大切にし、彼らを受け入れました。当時の社会において、子どもたちは軽視されがちでしたが、イエスは彼らを神の国の重要なメンバーであると見なしました。
福音書の記述: 福音書には、イエスが子どもたちに手を置き、祝福したエピソードがいくつか記されています (マタイ19:13-15、マルコ10:13-16、ルカ18:15-17)。
子どもたちの言葉: イエスは子どもたちの言葉を聞き、彼らの視点から物事を見ることを大切にしました (マタイ18:1-5)。
象徴: イエスは子どもたちを、天国のようになるために必要な謙虚さや純粋さの象徴として用いました (マタイ18:3-4)。
現代への影響
イエスの教えは、子どもに対する考え方に大きな影響を与えました。彼の教えは、子どもたちは尊重され、愛され、育まれるに値する存在であるという考えを広めるのに役立ちました。現代社会においても、子どもの権利や福祉は重要な課題であり、イエスの教えはこれらの議論において重要な役割を果たし続けています。
参考資料
https://www.unicef.or.jp/crc/
https://www8.cao.go.jp/shoushi/index.html
https://sabbath-school.adventech.io/es
(2024.5.9)
3.2.11 マリアについて
Q. カトリックにおいて、聖母マリアの無原罪の御宿り(Immaculate Conception)、および被昇天(Assumption)は、どのような根拠に基づいているとしているのでしょうか。
ChatGPT
カトリック教会における聖母マリアの無原罪の御宿り(Immaculate Conception)と被昇天(Assumption)は、信仰上の教義として定められています。以下に、それぞれの教義の根拠となる主要な要素を説明します。
聖母マリアの無原罪の御宿り(Immaculate Conception):
根拠の聖書箇所: 聖書に直接的には記されていない教義ですが、この教義の根拠として最も引用されるのは、ルカ福音書1章28節の「祝福された女」(“Hail, full of grace”)という表現です。カトリック教会では、マリアが生まれながらにして罪から清められ、神の恵みに満たされていたと解釈されます。
教会の教義発展: 聖母マリアの無原罪の御宿りは、教会が継承する伝統的な信仰であり、1854年に教皇ピウス9世によって公式に宣言されました。教皇は、マリアが罪から免れた「御宿り」の状態で創造されたという信仰を宣言しました。
聖母マリアの被昇天(Assumption):
根拠の聖書箇所: 聖書に直接的には記されていない教義ですが、この教義の根拠として最も引用されるのは、聖母マリアを称える讃歌であるルカ福音書1章46-55節の「マリアの讃美歌」(マグニフィカト)です。また、マリアが死後、霊魂と肉体の両方で天に昇ったとする初期のキリスト教の伝承や教父たちの著作も根拠とされます。
教会の教義発展: 聖母マリアの被昇天は、教会が継承する伝統的な信仰であり、1950年に教皇ピウス12世によって公式に宣言されました。教皇は、マリアが死後、霊魂と肉体の両方で天に昇ったという信仰を宣言しました。
これらの教義は、聖書の一部記述や初期キリスト教の伝承に基づいて解釈され、教会の教義発展を経て確立されました。カトリック教会では、これらの教義は聖母マリアの特別な役割と尊厳を認識し、信仰の一環として崇拝されています。
Q. 聖公会についてはこれらについてどのように考えられているのでしょうか。
ChatGPT
聖公会(Anglican Communion)は、カトリック教会とプロテスタント教会の要素を組み合わせた伝統的なキリスト教の一派です。聖公会において、聖母マリアの無原罪の御宿り(Immaculate Conception)と被昇天(Assumption)に関しては、教義としては明確に定められていません。
聖公会は、「聖書、伝統、理性」の三位一体を基盤としており、教義の解釈においては多様性が認められています。そのため、信徒や聖公会の指導者は個々に聖母マリアの無原罪の御宿りや被昇天について異なる見解を持つことがあります。
一部の聖公会の信徒や教区では、カトリック教会と同様に聖母マリアの無原罪の御宿りや被昇天を信じる人々もいます。彼らはこれらの教義を重要な要素として聖母マリアを敬い、崇拝します。
一方で、他の聖公会の信徒や教区では、これらの教義を信じない人々もいます。彼らは聖書の記述や初期キリスト教の伝承に直接的な根拠がないと考え、聖母マリアへの敬意や崇拝を異なる形で表現します。
聖公会はその自由な教義解釈により、信仰上のさまざまな視点を受け入れる教派として知られています。そのため、聖母マリアの無原罪の御宿りや被昇天についての見解は、個々の信仰や教区の伝統によって異なる場合があります。
(2023.8.17)
3.2.12 参考
「マリア- キリストにおける恵みと希望」聖公会-ローマ・カトリック教会国際委員、聖公会-ローマ・カトリック合同委員会訳、教文館 ISBN978-4-7642-6426-7, 2007.12.4 初版発行
3.2.13 ペテロの妻について
2023.5.30
Q. イエスの弟子のペトロの妻について、伝承や、教父の書いたものなどでなにかわかることはありますか。もし、文書などの根拠があれば、それも併せて教えてください。
GPT4.
イエスの弟子ペトロの妻については、新約聖書やその他の文献に限られた情報しかありませんが、いくつかの記述があります。
新約聖書 - ペトロの妻については、新約聖書のマタイによる福音書8:14-15で言及されています。ここでは、イエスがペトロの義理の母を癒す場面が描かれており、ペトロに妻がいたことが示唆されています。
イエスはペトロの家に行くと、ペトロの義理の母が熱を出して寝ているのを見た。イエスは彼女の手を握って、熱が下がるようにした。それから彼女は起き上がり、イエスに仕えた。
教父の文書 - 教父たちの著作にもペトロの妻について言及されている例があります。教父クレメント・オブ・アレクサンドリアは、『教育論』(Paidagogos) の中でペトロの妻に言及しています。彼はペトロが妻とともに伝道旅行をしていたことを述べており、妻が彼を支える役割を果たしていたことが示されています。
また、エウセビオスの『教会史』にもペトロの妻に関する記述があります。エウセビオスは、クレメントの記述を引用しつつ、ペトロが夫婦で福音を伝えるように励んでいたことを述べています。
これらの文献により、ペトロには妻がいたことがわかりますが、彼女の名前や詳細な情報は記されていません。ペトロの妻は初代教会の歴史において重要な役割を果たしていたと考えられているものの、詳細については不明な点が多いです。
3.2.14 人の子
Q. イエスは自分を人の子とよぶ箇所が何回かありますが、なぜそのように呼んだのでしょか。例とともに、教えてください。いくつか説があれば、それもお願いします。
GPT4
イエスは自分を「人の子」と呼ぶことが何度も聖書に記されています。これにはいくつかの理由が考えられますが、以下にその主な説を紹介します。
ダニエル書の預言の参照: イエスが「人の子」という言葉を使うことで、旧約聖書のダニエル書にある預言に言及しているとされます。ダニエル書7章13節-14節1には、神によって権威と王国が与えられる「人の子」の姿が描かれています。これはメシアの到来を予告する預言とされており、イエスは自らがその人の子であることを示唆していたといわれます。
謙遜と人間性の強調: イエスが「人の子」という言葉を使うことで、自分の謙遜さや人間性を強調していたという説もあります。この説によれば、イエスは神性を主張することなく、自分が神の子であることを示すために、「人の子」という言葉を選んだとされます。
アラム語の諺の使用: イエスが話していたアラム語では、「人の子」という言葉は一般的な諺で、「人間」という意味で使われることがありました。そのため、イエスが「人の子」と言うことで、「自分も他の人間と同じである」ということを示していたという説もあります。
いくつかの例を挙げます:
マタイによる福音書8:20
イエスは彼に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には、頭を伏せる場所がありません。」
マタイによる福音書9:6
「しかし、あなたがたに人の子には地上で罪をゆるす権威があることを知ってもらうために」イエスは麻痺した人に言われた、「立ち上がって、あなたの寝床を持って家に帰りなさい。」
ルカによる福音書19:10
「人の子は、失われたものを捜して救うためにきたのです。」
これらの例のように、イエスは自分を「人の子」と呼ぶことで、さまざまな意味を込めていたと考えられます。しかし、その意図の全てを正確に理解することは難しいです。
3.2.14.1 福音書における人の子の使用
マタイ 8:20, 9:6, 10:23, 11:19, 12:8, 32, 40, 13:37, 41, 16:13, 27, 28, 17:9, 12, 22, 18:11, 19:28, 20:28, 24:27, 30, 33, 37, 39, 44, 25:31, 26:2, 24, 45, 64
マルコ2:10, 28, 3:28, 8:31, 38, 9:9, 12, 31, 10:33, 45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62
ルカ5:24, 6:5, 22, 7:34, 9:22, 26, 44, 58, 11:30, 12:8, 10, 40, 17:22, 26, 30, 18:8, 31, 32, 19:10, 21:27, 36, 22:22, 48, 69, 24: 7
ヨハネ1:51, 3:13, 14, 5:27, 6:27, 53, 6:62, 8:28, 9:35, 12:23, 34, 13: 31
3.2.15 イエスとともにいた女たち
最初の頃の同行者 ルカ8:1-3 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
十字架にかかったとき
マルコ15:40,41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
- マタイ27:55,56 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
マルコ16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。
ルカ23:55,56 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
ルカ24:10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
マタイ28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
ヨハネ20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
ヨハネ19:25-27 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。
- 注:マルコ、マタイの記述を合わせると、母は、ヤコブとヨセフ(小ヤコブとヨセ)の母マリア、母の姉妹は、ゼベダイの子らの母サロメとなる。ここで記されている愛弟子が、ヨハネだとすると、イエスの甥ということになる。特別な関係にあった可能性もある。
3.2.16 ヨセフス(Flavius Josephus)
Q. ヨセフス(Flavius Josephus)は、どのような人ですか。
GPT3.5 Turbo
ヨセフス(Flavius Josephus)は、1世紀から2世紀にかけて活動したユダヤの歴史家、司祭、軍人です。彼はローマ帝国時代のユダヤ人であり、ユダヤ戦争(66年-73年)におけるユダヤ人の反乱の際、司令官として戦った後、捕らえられてローマに連行されました。
ヨセフスはローマ皇帝ヴェスパシアヌスとその息子タイトゥスによって保護され、ローマ市民権を与えられました。彼はローマで暮らし、後に歴史書や著作を執筆しました。彼の最も有名な著作は『ユダヤ古代誌』(Antiquities of the Jews)と『ユダヤ戦記』(The Jewish War)です。
ヨセフスの著作は、ユダヤ人の歴史や宗教、文化に関する貴重な情報を提供しており、特にユダヤ戦争や第二神殿崩壊に関する詳細な描写が含まれています。彼の記述は、新約聖書の時代やその後のユダヤ人の歴史を理解する上で重要な資料とされています。
Q. もっと教えてください。
ヨセフスは、ユダヤ人の歴史や宗教に関する知識を広めるために、自身の経験や研究に基づいて著作を執筆しました。
『ユダヤ古代誌』は、ユダヤ人の歴史や宗教的な伝承に関する包括的な記述を提供しています。旧約聖書の物語や、ユダヤ人の始祖であるアブラハムから始まる系譜、モーセやダビデなどの偉大な指導者たちの物語、エルサレム神殿や神の契約、またユダヤ人の宗教的な慣習や法律に関しても詳細に書かれています。
一方、『ユダヤ戦記』は、ユダヤ戦争やローマによるエルサレム神殿の破壊についての記述を含んでいます。彼は自身がユダヤ人反乱軍の司令官であった経験をもとに、戦争の経過や出来事、ローマ軍との交渉などを詳細に描写しました。
ヨセフスの著作は、ユダヤ人の歴史や宗教に関する情報を提供するだけでなく、当時の政治情勢や社会の様子、ユダヤ人とローマ帝国の関係などについても触れています。彼の著作は古代のユダヤ人社会やその周辺地域の研究において重要な資料とされています。
(2023.11.15)
3.2.17 オリゲネス(Origen)
Q. キリスト教教父のオリゲネスについて教えてください。
ChatGPT 3.5 Turbo
オリゲネス(Origen)は、2世紀から3世紀にかけて活躍したキリスト教教父であり、学者・神学者としても知られています。彼はエジプトのアレクサンドリアに生まれ、キリスト教の神学的・哲学的な思想を発展させる上で重要な役割を果たしました。
オリゲネスは非常に広範な知識を持ち、ギリシャ哲学やユダヤ教の教えにも通じていました。彼の主要な貢献の一つは、聖書の解釈方法に関する学問である「アレゴリー」を発展させたことです。彼は聖書の文字通りの解釈だけでなく、象徴的な意味や精神的な教えを探求することも重視しました。
また、オリゲネスはキリスト教の信仰と理性との関係についても重要な考えを持っていました。彼は信仰の真理を理性的に解明し、信仰と知識を結びつけることの重要性を強調しました。また、彼はキリスト教の教義に対して異教哲学や異教思想を取り入れ、キリスト教をより広範な知識と統合することを試みました。
しかし、オリゲネスの一部の思想は後に異端視され、彼自身も一時的に異端とされました。彼の一部の教義は後に修正されることとなりましたが、彼の学問的な影響力はキリスト教の発展に大きな影響を与えました。
オリゲネスは自身の信仰に対する忠誠心と学問的好奇心を持ち続け、多くの著書を執筆しました。彼の代表作には『神秘論』や『原則論』などがあります。彼の思想と著作は、後のキリスト教思想家たちに大きな影響を与え、キリスト教の神学的発展に重要な地位を占めています。
(2023.11.15)
3.3 場所・地名
3.3.1 ユダヤとガリラヤ
3.3.1.1 統治者について
Q. ユダヤとガリラヤの統治者、領主について、ローマが支配するようになってから、神殿が破壊されるAD70年まで、年代順に教えてください。特に、ガリラヤの統治について、イエスの活動した時代、領主と、ローマの総督の支配関係、徴税責任者などについても教えてください。
GPT4
ユダヤとガリラヤの統治者や領主について、ローマが支配するようになってから、神殿が破壊されるAD 70年までの時代を見ていきましょう。
紀元前63年 - ローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを占領し、ユダヤはローマの支配下に入ります。
紀元前40年から紀元前37年 - ユダヤの王であるアンティゴノスがパルティアの支援を受けてローマに対抗しましたが、最終的にローマ軍に敗れました。その後、ヘロデ大王(ヘロデ1世)がローマの支援を受けてユダヤの王位に就きます。
紀元前4年 - ヘロデ大王が死亡し、息子たちによって彼の領土が分割されます。アルケラオスがユダヤ、サマリア、イドマヤを統治し、ヘロデ・アンティパスがガリラヤとペレアを、フィリップがバタネア、トラコニティス、アウラニティスを統治します。
AD 6年 - ローマ皇帝アウグストゥスは、アルケラオスが統治能力に欠けると判断し、ユダヤ、サマリア、イドマヤをローマの直轄領とし、シリア属州に編入します。シリア属州の総督が指導者を選び、ユダヤの統治を監督します。この時期にイエスがガリラヤで活動を始めます。
AD 26年からAD 36年 - ポンテオ・ピラトウスがユダヤの総督として任命されます。彼はローマの法と秩序を維持する責任を負い、徴税責任者を任命して税収を確保します。一方、ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主として続けて統治し、ユダヤの総督と協力関係を築いています。
AD 41年 - ヘロデ・アグリッパ1世がユダヤの王位に就き、ユダヤ、サマリア、ガリラヤを統治します。
AD 44年 - ヘロデ・アグリッパ1世が死亡し、ユダヤは再びローマの直轄領となります。以降、ユダヤの統治はローマの総督によって行われます。
AD 66年からAD 70年 - イエスの活動から約40年後、ユダヤ戦争が勃発し、ローマ軍が神殿を破壊するまで続きます。
この時代のガリラヤの統治に関しては、イエスが活動した時期にはヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主でした。彼はローマの総督と協力関係を築き、徴税責任者を任命して税収を確保していました。このような支配構造の中で、イエスはガリラヤで説教を行い、多くの信徒を獲得していきました。
ヘロデ・アンティパスとローマ総督の関係は、一般的には協力関係にありましたが、時には緊張関係が生じることもありました。ローマは徴税責任者を通じてユダヤの地方統治者に対して影響力を行使し、税収やローマ法の遵守を確保していました。一方、地方の領主たちは、自らの権力を維持するためにローマと協力しながらも、民族や宗教的なアイデンティティを保ち、民衆の支持を得るために努力していました。
この時代の徴税責任者は、ローマ総督によって任命され、税収の徴収や管理を担当していました。彼らはしばしば地元のエリートや富裕層から選ばれ、自身も利益を得ることができました。しかし、徴税責任者はしばしば民衆から搾取者と見なされ、その行為は民衆の反感を買うことがありました。新約聖書では、徴税人マタイがイエスに従って改心するエピソードが語られており、このような徴税責任者の立場と行為に対する批判が表現されています。
(2023.6.29)
3.3.2 カペナウム
Q. イエスの時代、ガリラヤのカペナウム(Capernaum in Galilee)は、どのような街だったのでしょうか。人口などの推測、どのような人が住んでいたかも、分かる範囲で教えてください。
ChatGPT. ガリラヤのカペナウムは、イエスの時代には重要な商業都市であり、漁業が盛んな港町でもありました。当時のカペナウムは、海岸線に面しており、ガリラヤ湖の北西に位置していました。
カペナウムには、ローマ帝国の支配下にあったため、多様な人々が住んでいました。また、漁業が盛んだったため、漁師たちや商人たちも多く住んでいました。
当時のカペナウムについては、正確な人口などの数字は不明ですが、考古学的な発掘調査や聖書の記述から、かなり大きな町であったとされています。また、カペナウムは、当時のユダヤ教の教育、文化、商業、政治などにおいて重要な役割を果たしていたとされています。
イエスのカペナウムでの活動は、多くの人々に影響を与えました。彼は、シナゴーグでの説教や奇跡的な治癒などを通じて、多くの人々を惹きつけました。また、イエスは、カペナウムを拠点として、周辺の地域を巡回し、人々に福音を広めました。
カペナウムは、イエスの時代において、イエスの教えや奇跡に触れた人々の中心地の一つであり、多くの信者が生まれた場所でもありました。また、イエスの活動が、ローマ帝国の支配を受けていた当時の社会情勢にも大きな影響を与え、後の宗教改革にも影響を与えたとされています。
現在のカペナウムは、イスラエルの北部に位置し、遺跡が残っています。カペナウムの遺跡には、シナゴーグや家屋、公共建築物などが残されており、当時の町並みを垣間見ることができます。また、イエスがペテロの家として滞在したとされる場所も遺跡として残されています。カペナウムは、多くの観光客にとって、聖地として重要な場所の一つとなっています。
Q. イスカリオテは、どのあたりをさす地名ですか。イスカリオテについて知られていることがあれば教えてください。
GPT4.
「イスカリオテ」は、一般的に新約聖書の中でユダ・イスカリオテというキャラクターに関連付けられます。ユダ・イスカリオテは、イエス・キリストの12人の使徒の一人で、最も有名にして最も悪名高い使徒であり、キリストを30個の銀貨と引き換えに裏切った人物とされています。
「イスカリオテ」の語源については、正確にはわかっていません。一部の学者は、それが「Kerioth」または「Iscariot」(ヘブライ語で「男」または「都市」という意味)という地名から来ていると提案しています。これが正しいとすれば、それはユダがKeriothの地域(おそらく現在のヨルダン南部)から来たことを示しているかもしれません。しかし、こうした解釈は全て推測の域を出ません。
他の解釈としては、「イスカリオテ」がアラム語の「sicarius」から派生したもので、「暗殺者」を意味するという説もあります。これは、ユダ・イスカリオテがキリストを裏切った行動に基づいています。
以上のように、イスカリオテの正確な意味や起源は未だに確定的には解明されていません。この名前の最も有名なホルダー、ユダ・イスカリオテに関しても、彼が何故イエスを裏切ったのかや裏切りの詳細については多くの議論があるため、これらの質問に対する最終的な答えはないと言えるでしょう。
Q. 新約時代のデカポリス(Decapolis)はどのような地域で、どのような人たちが住んでいたのでしょうか。簡単な歴史も教えてください。
Bard
デカポリスは、新約聖書の福音書に登場するガリラヤ湖南方のヨルダン川両岸(主に東岸)の広大な地域に存在するパレスチナにおけるギリシアの10の植民地の町の総称です。
地理
デカポリスは、現在のヨルダン、イスラエル、シリアの国境にまたがる地域に位置します。ガリラヤ湖の南、ヨルダン川の東岸に広がり、ダマスコからガザまで、約400kmにわたります。
歴史
デカポリスは、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の征服によってギリシア化された地域です。その後、セレウコス朝、ローマ帝国などの支配を受けました。前63年にローマのポンペイウスによってユダヤ人支配から解放され、ローマの属州となりました。
人口
デカポリスの人口は、ギリシア人、アラム人、ペルシャ人、エジプト人など、さまざまな民族が混在していました。主な言語はギリシア語でしたが、アラム語やヘブライ語も話されていました。
宗教
デカポリスの宗教は、多神教が主流でした。ギリシアの神々やローマの神々が信仰されていました。また、ユダヤ教やキリスト教も信仰されていました。
新約聖書におけるデカポリス
デカポリスは、新約聖書の福音書にたびたび登場します。イエスは、デカポリスの町々を訪れて、説教や奇跡を行ったとされています。
例えば、マタイによる福音書8章28-34節には、ガダラの豚に群がる悪霊を追い出したというエピソードが記されています。このエピソードは、デカポリスのガダラで起こったとされています。
また、マルコによる福音書7章24-30節には、イエスがツロとシドンを経由してガリラヤ湖畔に戻ったというエピソードが記されています。このエピソードでは、イエスがツロとシドンの人々に奇跡を行ったとされています。
まとめ
デカポリスは、新約聖書の時代には、ギリシア文化と多様な民族が混在する地域でした。イエスは、デカポリスの町々を訪れて、説教や奇跡を行ったことで、キリスト教の伝播に大きな役割を果たしました。
(2023.10.3)
3.3.3 ガリラヤからエルサレムの行程
Q. ガリラヤのカペナウムから、エルサレムは、ヨルダン川東岸を通ると、どのぐらいの距離がありますか。徒歩だと、通常何日ぐらいでしょうか。
GPT-4o
ガリラヤのカペナウムからエルサレムまで、ヨルダン川の東岸を通るルートについて説明します。
距離
ガリラヤ湖のカペナウムからエルサレムまでの直線距離は約120キロメートルですが、実際のルートは曲がりくねった道を通るため、距離はもう少し長くなります。
ヨルダン川東岸を通る場合、ルートは以下のようになります:
カペナウムから南下し、ヨルダン川の東側を通過。
デカポリスの地域を経由。
ペレアを通過し、エリコ付近でヨルダン川を渡り、西側のエルサレムへ向かいます。
このルートの距離はおおよそ160キロメートル(約100マイル)と見積もられます。
徒歩での移動日数
徒歩での移動速度は、地形や体力に依存しますが、古代の巡礼者や旅行者は通常、一日に約20キロメートル(約12マイル)を移動すると考えられています。
そのため、カペナウムからエルサレムまでの約160キロメートルの道のりを以下のように計算できます:
160キロメートル ÷ 20キロメートル/日 = 8日
つまり、通常の徒歩速度で移動すると、カペナウムからエルサレムまで約8日間かかると推定されます。
注意点
地形と気候: ヨルダン川東岸の地形は多様で、山地や丘陵地帯を含み、夏は非常に暑くなるため、旅行者はこれらの条件を考慮する必要があります。
休息日: 連続して歩く場合、休息日を間に挟むこともあるため、実際の旅行日数はもう少し長くなる可能性があります。
このような条件を考慮に入れると、カペナウムからエルサレムまでの徒歩旅行は、8日から10日程度かかると見積もるのが現実的です。
(2024.7.5)
3.3.4 エリコ
Q. エリコは、イエスの時代どのような街だったのでしょうか。エルサレムとの関係なども含めてできれば、根拠資料とともに、教えて下さい。
GPT-4o
エリコ(Jericho)は、イエスの時代において重要な歴史的・地理的な役割を果たしていました。以下に、エリコの歴史的背景とエルサレムとの関係について詳細を説明します。
エリコの歴史と特徴
古代の歴史:
エリコは「世界最古の都市」とも呼ばれ、紀元前8000年頃から人が住んでいた痕跡があります。
新石器時代から連続的に人々が住み続けてきた地域であり、古代の要塞都市としても知られています。
ローマ時代のエリコ:
イエスの時代、エリコはローマ帝国の支配下にありました。
エリコは豊かな農業地帯であり、特に香料やバルサムの生産で有名でした。
ヘロデ大王はエリコに冬の宮殿を建設し、都市の発展を促しました。
エリコとエルサレムの関係
地理的関係:
エリコはエルサレムの北東約27キロメートルに位置しています。
エリコはヨルダン川の近くにあり、エルサレムに向かう重要な交易路の一部でした。
宗教的・文化的関係:
エリコはユダヤ教の歴史においても重要な場所であり、旧約聖書の中でエリコの陥落(ヨシュア記6章)が描かれています。
イエスもエリコを訪れ、その中でザアカイ(ザッカイ)の家を訪れるエピソード(ルカ19:1-10)が記録されています。
経済的関係:
エリコはエルサレムとの交易や経済活動において重要な役割を果たしました。
エルサレムへ向かう巡礼者や商人たちにとって、エリコは重要な中継地点でした。
根拠資料
聖書:
『ヨシュア記』6章: エリコの陥落の記述。
『ルカによる福音書』19章: イエスがエリコを訪れた際のエピソード。
歴史文献:
- Flavius Josephus(フラウィウス・ヨセフス)による『ユダヤ古代誌』:エリコの歴史やヘロデ大王の関与についての記述。
考古学的資料:
- エリコの遺跡(テル・エリコ):新石器時代から続く人々の住居跡や城壁の遺構。
これらの資料から、エリコは古代から重要な都市であり、イエスの時代には宗教的・経済的な重要性を持つ場所であったことが確認できます。
(2024.7.16)
Q. エリコとエルサレムの経済的な関係について、具体的な貿易品目や交易ルートなどの詳細を教えていただけますか。
GPT-4o
エリコとエルサレムの経済的な関係は、古代の交易ルートや特産品を中心に展開されました。以下に、具体的な貿易品目や交易ルートについて説明します。
貿易品目
バルサム:
エリコはバルサムの生産で有名でした。バルサムは香料や薬用として高価な商品であり、ローマ帝国全体で需要が高かったです。
ヘロデ大王の時代には、バルサムの栽培と生産がエリコ周辺で盛んに行われていました。
香料:
- エリコは様々な香料の生産地でもありました。これらの香料は宗教儀式や日常生活で使用されました。
農産物:
エリコは肥沃な土地を利用して、様々な農産物を生産していました。特にナツメヤシの栽培が盛んで、デーツ(ナツメヤシの実)は重要な貿易品でした。
その他、穀物や野菜、果物などもエリコからエルサレムへ供給されました。
鉱物資源:
- エリコ周辺には死海があり、ここから塩やミネラルが採取されていました。これらも貿易品として重要でした。
交易ルート
エリコからエルサレムへの主要ルート:
エリコからエルサレムへ向かう主要な交易ルートは、ヨルダン川沿いを通り、エルサレムへと続く道でした。このルートは「Jericho Road(エリコの道)」としても知られています。
このルートは比較的平坦で、キャラバンや巡礼者が頻繁に利用していました。
エリコを経由する広域交易ルート:
エリコはヨルダン川沿いに位置し、北はガリラヤ湖地方、南は死海やネゲブ砂漠方面へと続くルートの中継地点でもありました。
東西方向では、ヨルダン川を越えて現在のヨルダン王国(古代にはトランスヨルダン地方)へと続くルートがありました。
経済的な関係の具体例
市場と商業活動:
- エリコやエルサレムには市場があり、両都市の商人たちが交流していました。エリコからの特産品はエルサレムの市場で高値で取引されていました。
巡礼と宗教儀式:
- エルサレムはユダヤ教の中心地であり、多くの巡礼者が訪れました。エリコは巡礼者が通過する重要な地点であり、宿泊施設や商店が発展していました。
輸送と税金:
- エリコとエルサレムの間の輸送には多くのキャラバンが関わり、これに伴う税金収入が両都市の経済に貢献していました。
根拠資料
歴史文献:
- Flavius Josephus(フラウィウス・ヨセフス)による『ユダヤ古代誌』:エリコの経済活動や交易ルートについての記述があります。
考古学的資料:
- エリコとエルサレムを結ぶ古代の道路や交易路の遺跡が発見されており、これらは当時の交易活動の証拠となっています。
これらの資料から、エリコとエルサレムの経済的関係は、特産品の交易や巡礼者の移動を通じて非常に密接であったことが確認できます。
(2024.7.16)
3.3.5 会堂について
Q. イエスの時代に、会堂(シナゴーグ)はどのように管理され、そこで語るひとは、どのような基準のもとで、誰が決めていたと思われますか。
GPT4. イエスの時代の会堂(シナゴーグ)は、ユダヤ教の宗教生活の中心地であり、礼拝、学び、コミュニティ活動が行われていました。シナゴーグは、主に地域社会によって管理されており、運営は役員(アルヒ・シナゴーグ)や指導者(シナゴーグの長老たち)によって行われていたと考えられます。
シナゴーグで語る人物に関しては、通常、ユダヤ法(ハラハ)に精通した者や聖書の知識が豊富な者が選ばれました。また、その地域の指導者や尊敬される人物も、語る機会が与えられることがありました。この選定は、シナゴーグの指導者たちやコミュニティのメンバーによって行われたとされています。
イエス自身も、シナゴーグで語る機会が与えられたことが、新約聖書の中で記録されています(ルカ4:16-30など)。これは、彼が当時のユダヤ教の教えに精通していたこと、そしてその地域で尊敬される人物であったことを示していると考えられます。
しかし、イエスの教えは従来のユダヤ教の教えとは異なる部分も多く、彼の登場によってシナゴーグでは議論や抵抗が生じることもありました。
(2023.5.24)
Q. イエスの時代の、律法学者は、聖書を教えることを職業としていたのでしょうか。どのようなことを日常的にはしていたのでしょうか。
ChatGPT. イエスの時代における律法学者は、聖書を教えることを職業としていました。律法学者たちは、聖書の解釈や、宗教的な法律や規範の解決方法を教え、人々を導いていました。また、彼らは、宗教的な議論や論争にも参加していました。
律法学者たちは、ユダヤ教の聖書である「旧約聖書」を熟知しており、その解釈方法も学んでいました。彼らは、聖書のテキストに従って、宗教的な法律や規範を解釈し、人々に教えていました。彼らは、聖書の解釈については非常に厳密であり、細かい点にまで注意を払っていました。
また、律法学者たちは、宗教的な法律や規範の解決方法についても重要な役割を果たしていました。彼らは、宗教的な紛争や問題について、法的な判断を下し、解決することがありました。これは、当時のユダヤ社会において非常に重要な役割であり、律法学者たちは高い地位と尊敬を受けていました。
日常的には、律法学者たちは、自分たちの教育や研究に専念することが多かったとされています。彼らは、自分たちの家で生活し、学生たちを教育したり、研究を行ったりしていました。また、彼らは、自分たちの教えや見解を広めるために、講演や論争に参加することもありました。
律法学者たちは、当時のユダヤ社会において重要な役割を果たしていましたが、イエスは彼らの教え方や思想に批判的であり、聖書のテキストに固執することが重要ではなく、神の愛や慈悲、人間性に焦点を置くよう教えました。また、律法学者たちが高い地位や権力を持っていたことに対しても批判的であり、卑しき者や社会的に排除された人々を重視する姿勢を示しました。
Q. イエスの時代に、イエスのような巡回教師、または、伝統的な訓練を受けていたい、どちらかと言うと、権威とはかけ離れた、カリズマテッィク(Charismatic)な説教者がいたと言うような記録はありますか。
ChatGPT. イエスの時代には、イエス以外にも巡回教師やカリスマ的な宗教指導者が存在しました。彼らは、従来の宗教的権威とは異なる教え方をし、多くの人々に影響を与えたとされています。
例えば、歴史的な記録によれば、当時のユダヤ教においては、ハスミモンという教派が存在していました。この教派は、従来のユダヤ教とは異なる教えを持ち、個人的な神への直接的な接触を重視していました。また、ハスミモンの指導者たちは、従来のラビのような教育を受けたわけではなく、自己流で宗教的な知識を習得していたとされています。
また、当時のユダヤ教には、エッセネ派というグループも存在していました。彼らは、社会から隔離されたコミュニティで暮らし、徹底した禁欲的な生活を送っていました。エッセネ派には、カリスマ的な指導者たちがいたとされ、その中には、洗礼者ヨハネという人物も含まれていました。ヨハネは、イエスの前身となる存在として重要な役割を果たしており、カリスマ的な説教や象徴的な行為などで多くの人々を惹きつけました。
さらに、イエスの時代には、ゼロアスター教やギリシャ哲学の影響を受けたシンクレティズム(融合主義)的な宗教運動も存在していました。これらの運動には、カリスマ的な指導者が多く参加しており、彼らの教えや行動は、当時の人々に大きな影響を与えました。
しかし、当時の歴史的な記録には、これらのカリスマ的な宗教指導者たちに関する情報が限られており、詳細な情報は不明な点が多いです。また、イエス以外のカリスマ的な指導者たちの教え方や活動については、イエスの教えと比較されることが多く、彼らの独自性が強調されることはあまりありません。
しかし、当時の社会や宗教状況を考えると、イエス以外にも、権威とはかけ離れたカリスマ的な宗教指導者たちが存在していたと考えられます。彼らの教えや活動は、当時の人々に大きな影響を与え、イエスの教えと同様に、宗教改革の一つのきっかけとなった可能性があります。
Q. ハスミモン派の教えは伝統的な教えとどのような違いがあったのでしょうか。また、エッセネ派についても、教えてください。
ChatGPT. ハスミモン派は、ユダヤ教の一派であり、従来の教えとは異なる教えを持っていました。彼らは、個人的な神との接触を重視し、律法の解釈についても独自の解釈を行っていました。また、聖書の中には書かれていない秘教的な知識を持っていたとされています。
ハスミモン派の指導者たちは、従来のラビのような教育を受けたわけではなく、自己流で宗教的な知識を習得していたとされています。彼らは、神との直接的な接触を通じて、神の意志を知ろうとすることを重視していました。また、彼らの教えには、軍事的な要素も含まれており、反乱を起こすこともあったとされています。
一方、エッセネ派は、ユダヤ教の一派であり、社会から隔離されたコミュニティで暮らしていました。彼らは、徹底した禁欲的な生活を送り、財産を共有する生活をしていました。また、エッセネ派には、カリスマ的な指導者たちがいたとされ、彼らの教えや行動は、当時の人々に大きな影響を与えました。
エッセネ派の教えには、従来のユダヤ教とは異なる要素が含まれており、古代イランの宗教であるゾロアスター教や、ギリシャ哲学の影響を受けたとされています。彼らは、神秘的な世界観を持ち、天使や悪魔、魂の存在などについて独自の見解を持っていました。
また、エッセネ派には、メシアの到来を待ち望む信仰がありました。彼らは、メシアが到来すると、世界は再生され、正義と平和が訪れると信じていました。エッセネ派の中には、イエスがメシアであるという説もあったとされます。
ハスミモン派やエッセネ派は、従来のユダヤ教とは異なる教えを持ち、社会から隔離されたコミュニティで暮らすなど、独自の生活様式を持っていました。彼らの教えや生活様式は、当時の人々に影響を与え、後の宗教改革にも影響を与えたとされています。
(2023.05.24)
3.3.5.1 イエスが会堂で教えた聖書の記録
ルカ4:15 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。
ルカ4:44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。
マタイ4:23 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
マタイ9:35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
マルコ1:21-28 21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。(汚れた霊を追い出す)(ルカ4:31-37)
マルコ1:39 そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。
マルコ3:1-6 1 イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。(中略)6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。(マタイ12:9-14、ルカ6:6-11)
マルコ6:1-6 1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。(マタイ13:53-58、ルカ4:16-30)
ルカ13:10-17 10 安息日に、ある会堂で教えておられると、(中略)14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。(腰の曲がった女を癒やす)
ヨハネ6:59 これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。(どこからが「これらのこと」か不明)
ヨハネ8:20 イエスは答えられた、「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。
3.3.6 カペナウムの会堂について
Q. イエスの時代、カペナウムには、会堂は、一つでしょうか。それとも、いくつかあったのでしょうか。発掘などはされていますか。
ChatGPT.
イエスの時代のカペナウムについては、会堂が一つだけであったのか、または複数存在したのかについては、新約聖書の記述や現地の発掘調査から得られる情報に限定されます。
新約聖書では、カペナウムがイエスの活動の中心地の一つであり、イエスがカペナウムの会堂で教えたという記述があります(マルコ1:21-22、ルカ4:31-32など)。しかし、具体的に一つの会堂の存在が言及され、他の会堂についての記述はないため、会堂が一つしか存在しなかったのかどうかははっきりしません。
カペナウムの遺跡は現代でも発掘調査が行われており、会堂の遺跡とされるものが複数の場所で発見されています。最も有名なのは、カペルナウムの遺跡で発見された「白い会堂」と呼ばれる建物です。この建物は4世紀のものであると考えられていますが、イエスの時代の会堂であったかどうかははっきりしません。
他の場所でも、小さなシナゴーグの遺跡が発見されていますが、これらがイエスの時代のものであるかどうかもはっきりしていません。
総括すると、カペナウムにおける会堂の数や具体的な配置については、新約聖書の記述や現地の発掘調査から得られる情報には限定があり、確定的な回答はできません。
(2023.10.20)
3.3.6.1 会堂司について
Q. 新約聖書時代の会堂司はどのような役割と責任を持っていたのでしょうか。
ChatGPT.
新約聖書時代の会堂司(シナゴーグの司会者)は、ユダヤ教の会堂で重要な役割と責任を担っていました。以下に、その主な役割と責任をいくつか挙げます。
会堂の管理と監督: 会堂司は、会堂の日常的な管理と運営に責任を持ちました。会堂の清潔さや整頓、必要な儀式用品や文書の管理などを行いました。
礼拝の調整: 会堂司は、安息日や祝日などの礼拝の調整を担当しました。聖書の朗読や解説、祈りや賛美歌の指導などを行い、集まった信徒たちの礼拝を取り仕切りました。
教育と教義の伝達: 会堂司は、ユダヤ教の教えや伝統の伝達にも関与しました。彼らは聖書の解釈や法律の教えを教え、信徒たちに正しい信仰と実践を教え導きました。
法的な問題の処理: 会堂司は、一定の法的な権限も持っていました。彼らは地域の司法機関と連携し、特定の犯罪や紛争の解決に関与したり、教会の規律を維持するための措置を取ることもありました。
社会的な指導者としての役割: 会堂司は、地域社会においても重要な指導者の役割を果たしました。彼らは信仰の指導者としてだけでなく、地域の問題や福祉に関わる役割も担いました。
ただし、会堂司の具体的な役割や責任は、時代や地域によって異なる場合もあります。また、新約聖書の文脈では、会堂司の存在や役割について詳細な記述は限られているため、具体的な情報については限定的です。
(2023.10.20)
3.4 事項
3.4.1 聖霊・悪霊
3.4.1.1 聖霊について
Q. イエスの時代、ユダヤ人たちにとって、聖霊とはどのようなものなのでしょうか。
GPT4.
イエス・キリストの時代のユダヤ教では、「聖霊」は『ルアハ・ハコデシ』(Ruach Hakodesh)というヘブライ語で表現され、神の霊または神の力を表していました。その存在はタナハ(旧約聖書)の中で頻繁に言及されています。
ユダヤ教では、聖霊は神の力や存在の一部として理解され、神の意志を遂行するために働くとされています。聖霊は神の命令を実行し、神の使者として働き、預言者に啓示をもたらすなどの働きを果たしています。
たとえば、創世記1:2では、地球がまだ形成されていない時点で聖霊が地上を覆っていました。「地は混沌として、空は暗闇で、深淵の上に神の霊が動いていた。」この文は、ユダヤ教の神が創造の力であり、その力が聖霊を通じて行使されたことを示しています。
また、預言者たちはしばしば聖霊によって神のメッセージを受け取ると記述しています。預言者イザヤは神の霊が彼に与えられたと述べ(イザヤ61:1)、また預言者エゼキエルも神の霊によって引き起こされ、神のビジョンを見ることができたと記録しています(エゼキエル37:1)。
しかし、これらの理解はユダヤ教の枠組みと一致していますが、後のキリスト教の聖霊の概念とは一部異なります。特に、キリスト教の三位一体の教義(父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三つが一つの神を形成する)はユダヤ教では受け入れられていません。ユダヤ教では神は唯一無二の存在であり、その部分や形態が分けられるという考え方は存在しません。
以上のように、イエスの時代のユダヤ人にとって、聖霊は神の力と存在の表現、神の意志を遂行する手段、そして神の預言者への啓示の源でした。
(2023.8.10)
3.4.1.2 悪霊について
3.4.1.3 Q. イエスの時代、悪霊とか、汚れた霊は、どのようなものと考えられていたのでしょうか。
Poe Assistant
イエスの時代、悪霊や汚れた霊に関する信念や考え方は、古代のユダヤ教やその他の宗教的な信仰体系に基づいていました。以下に、一般的な信念のいくつかを挙げます。
悪霊の存在: ユダヤ教やキリスト教では、悪霊は神に背く天使や堕天した霊的存在とされています。これらの悪霊は、神の支配の逆らい、人々に害を与えることや病気を引き起こすことができると考えられていました。
悪霊の支配と排除: イエスの時代では、イエス自身が悪霊を追い出すことで知られていました。イエスは病気や悪霊の支配から人々を解放する力を持っているとされ、その力を用いて悪霊を排除したとされています。
汚れた霊と儀式的な清め: 古代のユダヤ教では、人々が神聖なものに接触したり、罪を犯したりすると、霊的な汚れが生じると考えられていました。このような汚れを取り除くためには、特定の儀式的な清めが必要であるとされていました。
これらの信念は、当時の宗教的な文脈や文化によっても異なる解釈がされていた可能性があります。また、現代の視点から見ると、これらの信念は超自然的な解釈や信仰に基づいているとされることがあります。
(2023.10.4)
3.4.1.4 悪霊・汚れた霊を追い出すエピソード
マルコ1:23-27 ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、24 「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。25 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。26 すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。27 人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。(ルカ4:33-38)
マルコ1:32-34 夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。33 こうして、町中の者が戸口に集まった。34 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。(ルカ4:41)
マルコ1:38.39 イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。
マルコ3:11, 12 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。
マルコ5:1-20 2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。(中略)6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。8 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。(中略)12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。14 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。16 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。(マタイ8:28-34、ルカ8:26-39)
(弟子たち)マルコ6:12,13 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
マルコ7:24-30 24 さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。25 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。27 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。29 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。30 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マタイ15:21-28)
マルコ9:14-29 17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。(マタイ17:14-20、ルカ9:37-43a)
マタイ9:32-34 彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれて口のきけない人をイエスのところに連れてきた。33 すると、悪霊は追い出されて、口のきけない人が物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。34 しかし、パリサイ人たちは言った、「彼は、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」。
3.4.1.5 悪霊を追い出す権威
マルコ3:13-15 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マタイ10:1)
マルコ3:20-30 22 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。(中略)28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。30 そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。(マタイ12:22-32 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。ルカ11:14-23)
マルコ6:7-9 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。(マタイ10:5-15、ルカ9:1-6)
マルコ16:17,18 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
ルカ10:17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。
3.4.2 祭り
3.4.2.1 ユダヤのお祭り
3.4.2.2 過越の祭り
Q. イエスの時代に、過越の祭りはどのように過ごされていたのでしょうか。
GTP-4o
イエスの時代における過越の祭り(ペサハ)は、ユダヤ教の最も重要な祭りの一つであり、イスラエルの民がエジプトからの解放を記念するものでした。この祭りはエルサレムで盛大に祝われ、多くのユダヤ人が巡礼のためにエルサレムに集まりました。以下に、イエスの時代の過越の祭りの過ごし方について詳しく説明します。
3.4.2.3 1. 準備
3.4.2.4 清掃と発酵物の除去
- 過越の祭りの前には、家中の発酵した食品(ハメッツ)を取り除くことが行われました。これは、イスラエルの民が急いでエジプトを脱出した際に発酵させる時間がなかったパンの象徴です。
3.4.2.5 過越の子羊の準備
- エルサレムの神殿では、過越の祭りのために子羊が犠牲として捧げられました。この子羊は特定の規定に従って準備され、家庭ごとに食べられるために各家族が神殿で子羊を受け取ります。
3.4.2.6 2. 過越の祭りの食事(セーデル)
3.4.2.7 過越の食事の構成
過越の祭りは、家族や友人が集まって行う特別な食事(セーデル)で祝われました。この食事には、以下のような象徴的な食品が含まれました。
過越の子羊: 犠牲として捧げられた子羊の肉。
無酵母パン(マッツァー): 発酵していないパン。
苦菜(マロール): エジプトでの苦役を思い出させる苦い野菜。
ハロセット: リンゴ、ナッツ、ワインなどで作られたペーストで、レンガの泥を象徴する。
3.4.2.8 儀式的な順序
- セーデルの食事は、特定の順序に従って行われました。これは、エジプト脱出の物語を再現するものであり、祈りや祝福、物語の朗読、賛美歌の歌唱などが含まれます。
3.4.2.9 3. 神殿での儀式
3.4.2.10 子羊の犠牲
- 過越の祭りの間、神殿で多くの子羊が犠牲として捧げられました。この儀式は神殿の祭司によって行われ、祭りの中心的な行事となっていました。
3.4.2.11 巡礼
- イエスの時代、多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、神殿での儀式に参加しました。エルサレムはこの期間中、非常に混雑し、祭りの雰囲気が街全体に広がりました。
3.4.2.12 4. イエスと過越の祭り
3.4.2.13 最後の晩餐
- イエスが弟子たちと共に行った「最後の晩餐」は、過越の祭りのセーデルの食事と関連しています。新約聖書の記述によれば、イエスはこの食事の中でパンとワインを弟子たちに分け与え、自分の体と血の象徴としました(マタイ26:17-30、マルコ14:12-26、ルカ22:7-20)。
3.4.2.14 公開の場での教え
- 過越の祭りの期間中、イエスはエルサレムの神殿やその周辺で教えを説き、多くの人々が集まる中で活動しました。これは、彼の公の働きの中でも非常に重要な時期となりました。
3.4.2.15 まとめ
イエスの時代の過越の祭りは、宗教的な意味合いが非常に強く、エルサレムで盛大に祝われました。家庭でのセーデルの食事、神殿での儀式、そしてエルサレムへの巡礼が中心となり人々はこれらの行事を通じてエジプト脱出の出来事を記憶し、神への感謝と信仰を新たにしました。
過越の祭りはまた、イエスの生涯と教えにおいても重要な位置を占めています。特に「最後の晩餐」は、キリスト教の聖餐式(エウカリスティア)に深く影響を与え、過越の祭りが持つ解放と救済のテーマが、キリスト教信仰の核心とも結びついています。
3.4.2.16 参考文献
新約聖書: マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書には、過越の祭りとイエスの関係が詳述されています。
旧約聖書: 出エジプト記12章には、過越の祭りの由来とその詳細が記されています。
歴史的資料: ユダヤ教の伝統的な文献や歴史書(例えば、ヨセフスの著作)は、イエスの時代の過越の祭りの背景を理解する上で有益です。
このように、イエスの時代における過越の祭りは、宗教的、文化的に極めて重要なイベントであり、当時のユダヤ人の信仰と生活に深く根ざしていました。
(2024.7.4)
3.4.3 生活・習慣
3.4.3.1 断食
Q. イエスの時代、ユダヤ人たちはどのようなときに断食をしていたのでしょうか。また、実際に、断食はどのようにしていたのでしょうか。
GPT4.
イエスの時代、ユダヤ人はさまざまな宗教的、文化的な理由で断食を行っていました。断食は、悔い改め、祈り、瞑想、神への感謝を表すために行われることが一般的でした。以下は、ユダヤ人が断食を行う主な状況です。
ヨム・キプール(贖罪の日): ユダヤ暦の10月10日2にあたるこの日は、ユダヤ教の最も重要な断食日であり、悔い改めと神からの赦しを求める日です。この日は、日の出から日没までの間、食事や飲み物を摂らずに過ごし、祈りと瞑想に専念します。
タニート・エステル(エステルの断食): プリム祭3の前日に行われるこの断食は、エステル記に記されたエステル女王がユダヤ人を救うために断食を行ったことを記念しています。この断食も日の出から日没までの間に行われます。
タニート・ゲドリア(ゲドリアの断食): ユダヤ暦の7月3日4に行われるこの断食は、ゲドリアというユダヤ人の指導者が暗殺されたことを悼むために行われます。これも日の出から日没までの間に行われます。
ティシャ・ベアヴ(破壊の日): ユダヤ暦の9月9日5にあたるこの日は、エルサレム神殿が二度破壊されたことを悼むために行われる断食です。この断食は、日没から翌日の日没までの25時間にわたって行われます。
断食の方法は、主に食事や飲み物を摂らないことでした。ただし、ヨム・キプールやティシャ・ベアヴでは、さらなる厳格さが求められ、身体的快楽を避けるために、性行為、沐浴、香水の使用、革製の靴の着用も禁じられていました。断食期間中は、祈りや瞑想に専念し、個人的な反省やコミュニティとの絆を深めることが重視されていました。
(2023.7.3)
Q. 熱心なユダヤ人にとって、断食とはどのような意味を持っていたのでしょうか。また、定められたとき以外、どのようなときに、断食をしていたのでしょうか。
GPT4.
ユダヤ教では、断食は精神的な浄化や悔い改め、神への敬意や感謝を示す手段とされています。熱心なユダヤ人にとって、断食は自己犠牲や献身、そして敬虔さを表現する重要な宗教的行為です。
ユダヤ教には、定められた時期以外にも、個人やコミュニティーが断食を行う機会があります。以下にいくつかの例を挙げます。
悔い改めのための断食:個人が自分の罪を悔い改めるために、神への敬意を示すために断食を行うことがあります。
災害や試練に対する反応:自然災害や困難な状況に直面したとき、コミュニティー全体が断食を行い、神に助けを求めることがあります。
追悼や悲しみの表現:親しい人の死に対処するため、悲しみを表現する手段として断食を行うことがあります。
特別な祈りや願い事:個人が神に特別な祈りや願い事を捧げる際、断食を行うことがあります。
ユダヤ教では、断食の目的や意義は個人やコミュニティーによって異なりますが、神とのつながりを強化し、敬虔な生活を送る助けとなると信じられています。
(2023.7.4)
3.4.3.2 断食に関する聖書箇所
3.4.3.2.1 新約
マタイ4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
マタイ6:16-18 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
マルコ2:18-20、マタイ9:14,15、ルカ5:33-35: 参照
ルカ18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
使徒13:2,3 一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。3 そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。
使徒14:23 また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。
使徒27:9 長い時が経過し、断食期も過ぎてしまい、すでに航海が危険な季節になったので、パウロは人々に警告して言った、
3.4.3.2.2 旧約
士師20:26 これがためにイスラエルのすべての人々すなわち全軍はベテルに上って行って泣き、その所で主の前に座して、その日夕暮まで断食し、燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。
サムエル上7:6 人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。
サムエル上31:13 その骨を取って、ヤベシのぎょりゅうの木の下に葬り、七日の間、断食した。
サムエル下12:16 ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。
サムエル下12:21-23 家来たちは彼に言った、「あなたのなさったこの事はなんでしょうか。あなたは子の生きている間はその子のために断食して泣かれました。しかし子が死ぬと、あなたは起きて食事をなさいました」。22 ダビデは言った、「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは、『主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかも知れない』と思ったからです。23 しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼の所に行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」。
列王記上21:9 彼女(イゼベル)はその手紙に書きしるした、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、12 彼らは断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせた。
歴代誌上10:12 勇士たちが皆立ち上がり、サウルのからだとその子らのからだをとって、これをヤベシに持って来て、ヤベシのかしの木の下にその骨を葬り、七日の間、断食した。
歴代誌下20:3 そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。
エズラ8:21 そこでわたしは、かしこのアハワ川のほとりで断食を布告し、われわれの神の前で身をひくくし、われわれと、われわれの幼き者と、われわれのすべての貨財のために、正しい道を示されるように神に求めた。23 そこでわれわれは断食して、このことをわれわれの神に求めたところ、神はその願いを聞きいれられた。
エズラ9:5 夕の供え物の時になって、わたしは断食から立ちあがり、着物と上着を裂いたまま、ひざをかがめて、わが神、主にむかって手をさし伸べて、
ネヘミヤ1:4 わたしはこれらの言葉を聞いた時、すわって泣き、数日のあいだ嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈って、
ネヘミヤ9:1 その月の二十四日にイスラエルの人々は集まって断食し、荒布をまとい、土をかぶった。
エステル4:3 すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。
エステル4:16 「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。
エステル9:31 断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。
詩篇35:13 しかし、わたしは彼らが病んだとき、/荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、
詩篇69:10 わたしが断食をもってわたしの魂を悩ませば、/かえってそれによってそしりをうけました。
詩篇109:24 わたしのひざは断食によってよろめき、/わたしの肉はやせ衰え、
イザヤ58:3-6 彼らは言う、/『われわれが断食したのに、/なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、/なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、/おのが楽しみを求め、/その働き人をことごとくしえたげる。4 見よ、あなたがたの断食するのは、/ただ争いと、いさかいのため、/また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、/その声を上に聞えさせるものではない。5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、/荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、/主に受けいれられる日と、となえるであろうか。6 わたしが選ぶところの断食は、/悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、/しえたげられる者を放ち去らせ、/すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
エレミヤ14:12 彼らが断食しても、わたしは彼らの呼ぶのを聞かない。燔祭と素祭をささげても、わたしはそれを受けない。かえって、つるぎと、ききん、および疫病をもって、彼らを滅ぼしてしまう」。
エレミヤ36:6 それで、あなたが行って、断食の日に主の宮で、すべての民が聞いているところで、あなたがわたしの口述にしたがって、巻物に筆記した主の言葉を読みなさい。またユダの人々がその町々から来て聞いているところで、それを読みなさい。
エレミヤ36:9 ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの五年九月、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来たすべての民とは、主の前に断食を行うべきことを告げ示された。
ダニエル9:3 それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。
ヨエル1:14 あなたがたは断食を聖別し、/聖会を召集し、/長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、/主に向かって叫べ。
ヨエル2:12 主は言われる、/「今からでも、あなたがたは心をつくし、/断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
ヨエル2:15 シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集し、
ヨナ3:5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。
ゼカリヤ7:3 かつ万軍の主の宮にいる祭司に問わせ、かつ預言者に問わせて言った、「わたしは今まで、多年おこなってきたように、五月に泣き悲しみ、かつ断食すべきでしょうか」。5 「地のすべての民、および祭司に告げて言いなさい、あなたがたが七十年の間、五月と七月とに断食し、かつ泣き悲しんだ時、はたして、わたしのために断食したか。
ゼカリヤ8:19 「万軍の主は、こう仰せられる、四月の断食と、五月の断食と、七月の断食と、十月の断食6とは、ユダの家の喜び楽しみの時となり、よき祝の時となる。ゆえにあなたがたは、真実と平和とを愛せよ。
3.4.3.3 旧約(身を悩ます)
レビ16:29 これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。
レビ16:31 これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。
レビ23:27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。
レビ23:29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。
レビ23:32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。
民数記29:7 またその七月の十日に聖会を開き、かつあなたがたの身を悩まさなければならない。なんの仕事もしてはならない。
民数記30:13 すべての誓願およびすべてその身を悩ます物断ちの誓約は、夫がそれを守らせることができ、または夫がそれをやめさせることができる。
ダニエル10:12 すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。
3.4.4 安息日
Q. ユダヤ教の安息日について教えてください。どのように定められ、どのような意味を持ち、どのように過ごすことが推奨され、どのようなことをしてはいけないと考えらているのでしょうか。
GPT4.
ユダヤ教の安息日(シャバット、Shabbat)は、週の終わりを祝い、神への感謝を捧げるための休息の日です。シャバットは、ユダヤ暦の週(日曜日から土曜日まで)の最後の日、すなわち金曜日の夕方から土曜日の夕方までと定められています。
シャバットの意味は、創世記に記されている神が世界を創造した後に休息したという話に基づいています。これは、ユダヤ教徒が世界創造の物語を思い起こし、神の創造の偉業を称える機会となります。また、シャバットは、家族や友人との絆を深める時間でもあります。
シャバットを過ごすために推奨されることは、以下のようなものです。
礼拝:シャバットは、ユダヤ教徒が集まり、神への感謝を表明する礼拝を行う日です。
家族と過ごす時間:シャバットは家族と一緒に過ごす時間を大切にすることが推奨されています。家族はシャバットの食事を共にし、祈りや讃美歌を歌います。
食事:シャバットの夕食は特別なもので、通常はキャンドルに火を灯し、ハラ(丸いパン)やワインを用意します。
シャバットでは、以下のようなことを避けることが推奨されています。
労働:シャバットは、労働から解放される日です。ユダヤ教徒は、労働や商業活動を休み、休息を取ることが求められます。
家事:シャバットでは、料理や洗濯などの家事も避けることが推奨されています。金曜日の日中に家事を終え、シャバットを迎える準備をします。
電気製品の使用:シャバットでは、電気製品の使用が制限されることがあります。携帯電話やコンピューターの使用は避けることが推奨されています。
ただし、シャバットの過ごし方や制限事項は、ユダヤ教徒によって異なる解釈が存在し、実践の程度も異なります。一部のユダヤ教徒は厳格にこれらの規則を守る一方で、他のユダヤ教徒はより柔軟な解釈を採用しています。重要なのは、シャバットがユダヤ教徒にとって心の休息と精神的なリフレッシュの機会であることを理解することです。
(2023.7.7)
3.4.4.1 安息日に関する聖書箇所
3.4.4.2 新約
会堂で教える
ルカ4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
マルコ1:21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。ルカ4:31 それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、
マルコ6:2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
麦の穂を摘む マルコ2:23-28、マタイ12:1-8、ルカ6:1-5: 参照
手の萎えた人を癒す マルコ3:1-6、マタイ12:9-14、ルカ6:6-11: 参照
安息日に、腰の曲がった女を癒す ルカ13:10-17
安息日に水腫の人を癒す ルカ14:1-6
ベトザタの池で病人を癒す ヨハネ5:1-18
生まれつき目の見えない人を癒す ヨハネ9:1-41(14,16)
イエスの十字架の前後
ヨハネ19:31 さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。
マルコ15:42 さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、ルカ23:54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。
マルコ16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。ルカ23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
マタイ28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
その他
マタイ24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
ヨハネ7:22-23 モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。23 もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。
使徒時代
使徒1:12 それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。
ピシディア州のアンティオキアにて安息日に教える 使徒13:13-51
使徒15:21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。
使徒16:13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
使徒17:2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
使徒18:4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。
コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
ヘブル4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
3.4.4.2.1 旧約
安息日の由来(マナ)
出エジプト16;4,5 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。
出エジプト16:22-30 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわちひとりに二オメルを集めた。そこで、会衆の長たちは皆きて、モーセに告げたが、23 モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。24 彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。25 モーセは言った、「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。26 六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。27 ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。28 そこで主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。29 見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない」。30 こうして民は七日目に休んだ。
十戒
出エジプト20:8-11 安息日を覚えて、これを聖とせよ。9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
申命記5:12-15 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。13 六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。 14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。15 あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。
出エジプト31:12-18 主はまたモーセに言われた、13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。
出エジプト35:1-3 モーセはイスラエルの人々の全会衆を集めて言った、「これは主が行えと命じられた言葉である。2 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。
レビ記 19:3 あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
レビ記 16:29-31 これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。 この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。贖罪の日 レビ記 23:27-32,
レビ記 23:38-39 このほかに主の安息日があり、またほかに、あなたがたのささげ物があり、またほかに、あなたがたのもろもろの誓願の供え物があり、またそのほかに、あなたがたのもろもろの自発の供え物がある。これらは皆あなたがたが主にささげるものである。 あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。
レビ記 19:30 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
レビ記 23:3 六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。
レビ記 23:11 彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。
レビ記 23:15 また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。16 すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。
レビ記 24:8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。
レビ記 26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
民数記 15:32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。
民数記 28:9, 10 また安息日には一歳の雄の全き小羊二頭と、麦粉一エパの十分の二に油を混ぜた素祭と、その灌祭とをささげなければならない。10 これは安息日ごとの燔祭であって、常燔祭とその灌祭とに加えらるべきものである。
列王記下 4:23, 11:5, 7, 9, 16:18
歴代誌上 9:32, 23:31, 歴代誌下 2:4, 8:13, 23:4, 8, 31:3
ネヘミヤ 9:14, 10:31, 33, 13:15, 16, 17, 18, 19, 21, 22
詩篇92:0 安息日の歌、さんび
イザヤ 1:13 あなたがたは、もはや、/むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――/わたしは不義と聖会とに耐えられない。
イザヤ 56:1-6 主はこう言われる、/「あなたがたは公平を守って正義を行え。わが救の来るのは近く、/わが助けのあらわれるのが近いからだ。 2 安息日を守って、これを汚さず、/その手をおさえて、悪しき事をせず、/このように行う人、/これを堅く守る人の子はさいわいである」。3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、/「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、/「見よ、わたしは枯れ木だ」と。4 主はこう言われる、/「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、/わが契約を堅く守る宦官には、5 わが家のうちで、わが垣のうちで、/むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、/絶えることのない、とこしえの名を与える。6 また主に連なり、主に仕え、/主の名を愛し、そのしもべとなり、/すべて安息日を守って、これを汚さず、/わが契約を堅く守る異邦人は――
イザヤ 58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、/わが聖日にあなたの楽しみをなさず、/安息日を喜びの日と呼び、/主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、/これを尊んで、おのが道を行わず、/おのが楽しみを求めず、/むなしい言葉を語らないならば、
イザヤ 66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、/すべての人はわが前に来て礼拝する」と/主は言われる。
エレミヤ 17:21-27 主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。22 また安息日にあなたがたの家から荷を運び出してはならない。なんのわざをもしてはならない。わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい。23 しかし彼らは従わず耳を傾けず、聞くことも、戒めをうけることをも強情に拒んだ。24 主は言われる、もしあなたがたがわたしに聞き従い、安息日に荷をたずさえてこの町の門にはいらず、安息日を聖別して、なんのわざをもしないならば、25 ダビデの位に座する王たち、つかさたち、ユダの人々、エルサレムに住む者は、車と馬に乗ってこの町の門からはいることができる。そしてこの町には長く人が住むようになる。26 また人々はユダの町々やエルサレムの周囲、ベニヤミンの地、平地と山地およびネゲブから来て燔祭、犠牲、素祭、乳香、感謝祭をたずさえて主の家にはいる。27 しかし、もしあなたがたがわたしに聞き従わないで、安息日を聖別して守ることをせず、安息日に荷をたずさえてエルサレムの門にはいるならば、わたしは火をその門の中に燃やして、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす。その火は消えることがない』」。
哀歌 2:6 主は園の小屋のようにおのれの幕屋を倒し、/その祭の場所をこわされた。主は祭と安息日とをシオンに忘れさせ、/激しい怒りによって、王と祭司とを捨てられた。
エゼキエル 20:12-17 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。13 しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、14 わたしはわたしの名のために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。15 ただし、わたしは荒野で彼らに誓い、わたしが彼らに与えた乳と蜜との流れる地、全地の最もすばらしい地に、彼らを導かないと言った。16 これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。17 けれどもわたしは彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった。18 わたしはまた荒野で彼らの子どもたちに言った、あなたがたの先祖の定めに歩んではならない。そのおきてを守ってはならない。その偶像をもって、あなたがたの身を汚してはならない。19 主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。21 しかしその子どもたちはわたしにそむき、わが定めに歩まず、人がこれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを守り行わず、わが安息日を汚した。そこでわたしはわが憤りを彼らの上に注ぎ、荒野で彼らに対し、わが怒りを漏らそうと思った。22 しかしわたしはわが手を翻して、わが名のために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。23 ただしわたしは荒野で彼らに誓い、わたしは異邦人の間に彼らを散らし、国々の中に彼らをふりまくと言った。24 これは彼らがわがおきてを行わず、わが定めを捨て、わが安息日を汚し、彼らの目にその先祖の偶像を慕ったからである。
エゼキエル 22: 8, 26, 23:38, 44:24, 45:17, 46:1, 3, 4, 12
ホセア 2:11 わたしは彼女のすべての楽しみ、/すなわち祝、新月、安息日、/すべての祭をやめさせる。
アモス 8:5 あなたがたは言う、/「新月はいつ過ぎ去るだろう、/そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、/そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、/偽りのはかりをもって欺き、
3.4.5 舟での移動に関する福音書の箇所
マルコ3:9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
マルコ4:1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。(マタイ13:2)
マルコ4:36,37 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。(マタイ8:23,24、ルカ8:22)
マルコ5:2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
マルコ5:18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。(ルカ8:37)
マルコ5:28 イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。
マルコ6:32, 33, 34 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。(マタイ14:13,14)
マルコ6:45-56 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。47 夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。52 先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。53 彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。54 そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、55 その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。56 そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。(マタイ14:22-33)
- ヨハネ6:16-20 夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
マルコ8:10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。13 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。(マタイ15:39)
マタイ9:1 さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。
3.4.6 血について
3.4.6.1 血といのちの結びつき
Q. 聖書は、どのような箇所で、血を命の源と表現していますか。なぜ、そのように考えたのでしょうか。
ChatGPT.
聖書では、血が命の源として表現される箇所がいくつか存在します。これは、古代のユダヤ文化や宗教的な背景に基づいています。
創世記 9:4: 「ただし、肉にその命、すなわちその血を含んではならない。」この箇所では、神がノアに対して命令を出し、動物の血を食べてはならないと宣言しています。血は命そのものであり、神聖なものとされています。
レビ記 17:11: 「生ける者の命はその血にある。わたしはそれをあなたがたに与えた。あなたがたの罪を贖うために、その命のためにその血を祭壇に供える。それはいのちそのものである。」この箇所では、血が命の源であり、罪の赦しのために血を捧げることが重要であると述べられています。
レビ記 17:14: 「生ける者のすべての肉には、その命、すなわちその血がその中にある。だから、わたしはイスラエルの人々に言う、あなたがたは、どんな肉でも、その血を食べてはならない。」ここでも、血が命そのものであり、食べてはならないと宣言されています。
これらの箇所では、血が命そのものであるという宗教的な信念が表現されています。古代のユダヤ人は、血を神聖なものと考え、命の象徴として尊重しました。また、血を祭壇に捧げることによって罪の赦しを求める儀式が行われました。
血が命の源とされた理由は、おそらく生命が血によって血が命の源として表現される箇所として、以下のような記述が聖書に存在します。
レビ記 17:11 - 「生ける者の命は、その血にある。わたしはそれをあなたがたに与えた。あなたがたの罪を贖うために、その血を祭壇に供える。それはいのちそのものである。」
この箇所では、血が命そのものであり、罪の赦しのために血を捧げることが重要であると述べられています。ヘブル人への手紙 9:22 - 「事の法によれば、ほとんどすべてのものが血によってきよめられる。罪のゆえに、血を流すことなくは、ゆるしが得られないのである。」
ここでは、罪の赦しやきよめには血が必要であると説明されています。ヨハネによる福音書 6:53 - 「イエスは彼らに言われた。「よくよく言っておく。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたには命がない。」」
この箇所では、イエスが自身の肉と血を食べることの重要性を説いています。
これらの記述により、血が命の源として位置づけられていることが分かります。血は生命の象徴であり、罪の赦しや救済のために血が必要であるとされていました。
この考え方の根源は、ユダヤ教の宗教的な背景に由来しています。古代のユダヤ人は、血を神聖なものと見なし、生命の象徴として重要視していました。また、血を通じて罪が贖われるという信念がありました。このような観念は、聖書の教えや祭儀に反映されています。
(2023.10.19)
3.4.6.2 血に関わる聖書箇所
創世記9:4,5 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。5 あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。
レビ記17:11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
レビ記17:14 すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。
申命記12:23 ただ堅く慎んで、その血を食べないようにしなければならない。血は命だからである。その命を肉と一緒に食べてはならない。
レビ記15:19-30 また女に流出があって、その身の流出がもし血であるならば、その女は七日のあいだ不浄である。すべてその女に触れる者は夕まで汚れるであろう。20 その不浄の間に、その女の寝た物はすべて汚れる。またその女のすわった物も、すべて汚れるであろう。21 すべてその女の床に触れる者は、その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。22 すべてその女のすわった物に触れる者は皆その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。23 またその女が床の上、またはすわる物の上におる時、それに触れるならば、その人は夕まで汚れるであろう。24 男がもし、その女と寝て、その不浄を身にうけるならば、彼は七日のあいだ汚れるであろう。また彼の寝た床はすべて汚れるであろう。25 女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。26 その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。27 すべてこれらの物に触れる人は汚れる。その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。28 しかし、その女の流出がやんで、清くなるならば、自分のために、なお七日を数えなければならない。そして後、清くなるであろう。29 その女は八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を自分のために取り、それを会見の幕屋の入口におる祭司のもとに携えて行かなければならない。30 祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその女のため、その汚れの流出のために主の前に、あがないをするであろう。
3.4.7 パン種
Q. 聖書にはパン種が出てきますが(例マルコ8:14-21)パン種とはどのようなもので、当時のユタや人は、パン種についてどう理解していたのでしょうか。
Google Gemini. 聖書におけるパン種
聖書に登場するパン種は、現代で言うイースト菌のような働きをするもので、パン生地を発酵させるために用いられました。当時のユダヤ人は、パン種を以下のように理解していました。
1. パン作りの必須アイテム
パン種は、パンをふっくらと膨らませ、美味しくするために必要不可欠なものでした。パン種なしでパンを焼くことは難しく、味も劣ってしまいます。そのため、パン種は日常生活に欠かせない存在でした。
2. 生命の象徴
発酵は、生命の力と結びつけられて考えられていました。パン種が生地を膨らませるように、生命は様々なものを成長させると考えられていたのです。そのため、パン種は生命の象徴として、繁栄や豊穣を願う意味合いも持っていました。
3. 罪の象徴
一方で、パン種は腐敗や罪の象徴として使われることもありました。発酵は、腐敗と紙一重の現象であると考えられていたためです。そのため、罪が人の心の中で徐々に広がっていく様子を、パン種に例えることがありました。
4. イエス様の教えの象徴
イエス様は、パン種を様々なたとえ話の中で用いました。例えば、マルコ8:14-21では、パリサイ人の教えを「パン種」に例えて、弟子たちに注意しています。これは、パリサイ人の教えが偽善的で、人々を腐敗させてしまうという警告です。
3.4.7.1 ユダヤ人のパン種に対する考え方
当時のユダヤ人は、パン種に対して以下のような考え方を持ち合わせていました。
パン種は神からの賜物であり、感謝して使うべきもの
パン種は正しく使わなければ、罪に繋がる
パン種は生命の象徴であり、繁栄や豊穣をもたらす
これらの考え方は、聖書におけるパン種の様々な意味合いと密接に関係しています。
3.4.7.2 パン種に関する聖書の記述
聖書には、パン種に関する記述がいくつかあります。以下に、代表的な例をいくつか紹介します。
出エジプト記12:15-20:過越祭の期間中は、パン種を含んだパンを食べることを禁じられていた
レビ記2:11:神への献げ物には、パン種を含めてはいけない
マタイ13:33:天国は、少量のパン種が全体を膨らませるようなもの
ルカ13:20-21:天国は、女の人が小麦粉に混ぜたパン種のようなもの
これらの記述は、パン種が古代ユダヤ社会において重要な役割を果たしていたこと、そして、聖書の中で様々な意味合いを持っていたことを示しています。
3.4.7.3 まとめ
聖書におけるパン種は、単なるパン作りの材料ではなく、様々な意味合いを持つ象徴的な存在でした。当時のユダヤ人は、パン種を生命の力、罪、神の賜物など、様々な側面から捉えていました。これらの理解は、聖書におけるパン種の解釈を深める上で重要な役割を果たします。
3.4.8 たとえと比喩
Q. たとえ(parable)と比喩(metaphor)の違いを詳しく説明してください。
GPT4.
たとえ(parable)と比喩(metaphor)は、両方とも物語やアイデアを表現するための文学的な手段ですが、その使い方と目的は異なります。
たとえ(Parable)
たとえは、一種の象徴的な物語で、道徳的または宗教的な教訓を教えるために使用されます。たとえは一般的に比較的短く、具体的なキャラクターや出来事を含む完全なストーリーであることが多いです。
たとえの目的は、抽象的な考え方や複雑な道徳的問題を、より具体的で理解しやすい形で表現することです。たとえば、新約聖書の中には、イエスが倫理的な教訓を伝えるために使ったたとえが多数含まれています。
比喩(Metaphor)
一方、比喩は、あるものを直接的に別のものに比較するための言語的な手段です。比喩は、文字通りの意味ではなく、比較される二つのものの間に共通点を見つけることによって、新たな理解や洞察を生み出すことを目指しています。
比喩は、一般的には単一のフレーズや文の中で使用され、その効果は即座に表現されます。たとえば、「彼の心は石のようだ」という表現は、その人が感情を表現しないことを示しています。
まとめ
したがって、たとえと比喩はどちらも異なるものを比較するために使われますが、その形式と目的は異なります。たとえは具体的なストーリーを通じて教訓を教えるのに対し、比喩はあるものを別のものに直接的に比較することで新たな洞察を提供します。
(2023.8.19)
3.4.9 宣教・伝道
Q. Propaganda の語源と用法の歴史を教えてください。
ChatGPT
「Propaganda」は、ラテン語の「propagare(拡散する)」から派生した言葉で、元来はキリスト教の信仰を広めるために用いられた言葉です。17世紀には、教皇庁が設立した「Propaganda Fide(信仰の拡散)」という機関名が一般的に使われるようになりました。
19世紀に入ると、政治的・社会的な目的で情報を広めることを指す言葉としても用いられるようになりました。特に第一次世界大戦以降、政治的宣伝・プロパガンダが広く行われるようになり、その中で「Propaganda」は広く使われるようになりました。
プロパガンダは、ある特定の思想や立場を広めるために、不正確な情報や偏った情報を意図的に広めることがあります。そのため、プロパガンダはしばしば悪い意味で使われることがあります。しかし、プロパガンダには中立的なものもあり、政府や企業などが自社のサービスや製品を宣伝するために広告を出すこともプロパガンダの一種と言えます。
現代では、プロパガンダは主に政治的な宣伝・情報操作を指す言葉として使われることが一般的です。しかし、一方で、広告やマーケティングなどの分野でも、特定の製品やサービスを宣伝するためにプロパガンダ的な手法が使われることがあります。
(2023.6.18)
3.4.10 奇跡などについて
Q. 新約聖書には、イエスが悪霊を追い出した記事がいくつもありますが、これは、どのようなものの表現と考えられているのでしょうか。
GPT4. 新約聖書には、イエスが悪霊や悪魔を追い出すという記述がいくつかあります。これらの記述は、悪霊や悪魔が人々に悪影響を与え、病気や精神的苦痛を引き起こすとされていました。イエスが悪霊を追い出すことで、彼が神の力を持っていることを示し、また、神の慈しみと回復の力を示す目的があったとされています。
これらの記述がどのようなものの表現と考えられるかについては、解釈が分かれるところです。一部の解釈では、悪霊や悪魔は現実の存在として認識されており、イエスが実際に悪霊を追い出していたと考えられます。この場合、悪霊追い出しは、イエスの神の力を持つ救い主としての役割を強調していると言えます。
一方、現代の解釈では、悪霊追い出しの記述は、イエスが当時の文化や宗教的な概念に基づいて、人々の病気や精神的苦痛を回復させたことを象徴的に表現していると考えられます。この解釈によれば、悪霊追い出しは、現代の医学や心理学で説明される病気や精神的苦痛と関連している可能性があります。イエスが悪霊を追い出すことで、彼が人々の苦しみから解放し、神の愛と回復の力をもたらしていたことを示していると言えるでしょう。
どの解釈が正しいかは、個々人の信仰や認識によって異なりますが、重要なのは、イエスが人々の苦しみを取り除き、神の愛と回復の力を示すことで、人々に希望を与えたというメッセージです。
3.4.11 病気
3.4.11.1 病気と罪の関係
Q. マルコ2章7節で神だけが罪をゆるせるとありますが、聖書からの引用であれば教えてください。
ChatGPT: マルコ2:7節の箇所は、新約聖書の中での記述であるため、古代のヘブライ語やギリシャ語で書かれた旧約聖書の引用ではありません。しかし、同様のテーマが旧約聖書でも扱われており、神が罪をゆるすことについての教えがいくつかあります。
たとえば、詩篇103:2-37では、「わが魂よ、主をほめたたえよ。わが内なる者よ、主の聖なる名をほめたたえよ。わが魂よ、主をほめたたえよ。その恵みを忘れるな」と語られています。また、詩篇130:3-48では、「主よ、あなたが罪をおしとやかにおしとやかにお赦しになることを、だれが耳にしたことがありましょう。しかし、あなたはゆえなく恐れられます」という言葉があります。
さらに、イザヤ書43:259では、「わたしは、自分のために自分の名のために、あなたのとがを消し去り、あなたの罪を覚えない」という神の言葉が語られています。
以上のように、聖書には神が罪をゆるすことについての教えが数多く記されています。
(2023.6.22)
Q. イエスの時代の律法学者や、パリサイ人は、病気は罪の結果だと考えていたのでしょうか。タルムードや、ミシュナーには、記述がありますか。
ChatGPT
イエスの時代のユダヤ教徒の中には、病気が罪の結果であると考える人々がいました。これは一般的な見解ではありませんでしたが、一部の律法学者やパリサイ人がこのように考えていたとされています。
タルムードやミシュナーには、病気が罪の結果であるという考え方が記述されている箇所がいくつかあります。たとえば、ミシュナーの「アボット」には、「苦しみは罪の結果である」という記述があります。また、タルムードには、ある人物が病気にかかった理由を問われた際に、「父親が銀貨を偽造したため、神が彼の息子を罰しているのだろう」と答えたという逸話があります。
しかし、ユダヤ教には、病気が罪の結果であるという考え方に反対する立場も存在しました。たとえば、ユダヤ教の聖書である旧約聖書には、病気が罰であるとは明確に示されておらず、また、イエスも病気が罪の結果であるという考え方に反対していました。
したがって、病気が罪の結果であるという考え方がユダヤ教全体で一般的であったわけではありませんが、一部の律法学者やパリサイ人がこのように考えていたことが記録されているとされています。
(2023.6.22)
3.4.12 祈りについて
3.4.12.1 イエスの祈りの記録
マルコ1:35 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコ6:46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。ルカ5:16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。
ルカ3:21-22 さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
マタイ14:23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
ヨハネ6:15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
ルカ6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
ルカ9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。
ルカ9:28-29 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
3.4.12.2 イエスの祈り
マルコ14:32-42 さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。 33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、 34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。 35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。37 それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。 38 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。39 また離れて行って同じ言葉で祈られた。 40 またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。41 三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 42 立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」。
マタイ26:39-46 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
ルカ22:40-45 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。 44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。
ヨハネ17章全体
3.4.12.3 イエスの祈りについての教え
マルコ11:24-25 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
マタイ6:5-15 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、/天にいますわれらの父よ、/御名があがめられますように。 10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、/地にも行われますように。11 わたしたちの日ごとの食物を、/きょうもお与えください。 12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、/わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、/悪しき者からお救いください。14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
ルカ11:1-3 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
ルカ18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。(神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官のたとえ)
ルカ18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
マタイ10:12 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。 13 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
マタイ21:22 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
3.4.12.4 祈りに関連した記述
マルコ9:29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
マルコ11:17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。マタイ21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。ルカ19:46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。
マルコ12:40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
マルコ13:18 この事が冬おこらぬように祈れ。 マタイ24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
マタイ19:13 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
マタイ26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
マタイ26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
ルカ1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
ルカ1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
ルカ2:37 その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。
ルカ5:33-35 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。34 するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。 35 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。
ルカ6:28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
ルカ10:6 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。
ルカ20:47 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
ルカ21:36-37 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。37 イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。
ルカ22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
3.4.12.5 AI への祈りについての質問
Q. イエスはどのような機会に祈ったと書かれていますか。具体的に教えてください。イエスにとって祈りはどのような意味を持っていたのでしょうか。
GPT4.
イエス・キリストは、聖書の新約聖書に記されているさまざまな機会に祈りました。以下は、いくつかの具体的な例です。
洗礼:イエスがヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたとき、祈りました(ルカ3:21)。
荒野での誘惑:イエスが悪魔に誘惑された40日間の断食の間、祈りにより神とのつながりを維持しました(マタイ4:1-11、マルコ1:12-13、ルカ4:1-13)。
一人での祈り:イエスは、多くの人々から離れて祈るために、しばしば孤独な場所に行きました(マタイ14:23、マルコ1:35、ルカ5:16)。
選ばれた弟子たちの選出:イエスが12人の弟子を選ぶ前に、一晩中祈りました(ルカ6:12-13)。
ゲッセマネの園:イエスは、十字架にかけられる前の最後の夜、ゲッセマネの園で祈り、「父よ、もしこの杯を取り除くことができるなら、どうか取り除いてください。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」と言いました(マタイ26:36-44、マルコ14:32-42、ルカ22:39-46)。
イエスにとって祈りは、神との親密な関係を維持し、神の意志に従う力を求める手段でした。祈りはまた、悩みや恐れ、喜びや感謝を神に打ち明ける方法でもありました。イエスは、祈りを通して神とのつながりを強め、自分の使命と目的に忠実であることができました。
イエスは、弟子たちにも祈りの重要性を教えました。例えば、「主の祈り」として知られる祈りを教えたり(マタイ6:9-13、ルカ11:1-4)、祈りを通じて神に信頼し、頼ることの大切さを説いたりしました(マタイ7:7-11、ルカ18:1-8)。
(2023.6.7)
3.5 旧約聖書の引用
3.5.1 イザヤ書53章
Q. 旧約聖書のイザヤ書53章の一部が引用されている、新約聖書の箇所をすべて教えてください。
GPT4.
マタイの福音書8章16-17節:
夕方になると、人々は多くの悪霊につかれている者たちをイエスのもとに連れてきた。イエスは一言の命令でその霊たちを追い出し、また、すべての病気やけがをいやされた人もいた。これは、預言者イザヤが言ったことが実現するためである。「彼は私たちの弱さを負い、私たちの病気を背負ってくれた」。
マルコの福音書15章27-28節:
また、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、彼と一緒に十字架につけられた。こうして、聖書に書かれている言葉が成就された。「彼は罪人たちと一緒に数えられた」。
ただし、マルコの福音書15章28節は一部の写本には存在しないため、引用の有無は議論があります。
ルカの福音書22章37節:
これからは、「わたしには犯罪者と同じ扱いがされる」と書かれていることが、私に適用されなければならない。私に関することはすべて成就しなければなりません。
ヨハネの福音書12章37-38節:
イエスがこれほど多くのしるしを行ったのにもかかわらず、彼らはイエスを信じなかった。これは預言者イザヤが言った言葉が成就するためである。「主よ、だれがわたしたちの話を信じましたか。主の力はだれに現れましたか」。
使徒言行録8章32-35節:
フィリポは近くに行って、エチオピア人が預言者イザヤを読んでいるのを聞いた。それは次のような部分である。「彼は、ひきとられて屠られる羊のように、また、羊がその毛を刈る前に黙っているように、口を開かなかった。彼は卑しめられ、裁きを受け、その子孫を取り去られた。彼が地上の生き物の中でだれと比べられるだろうか」。
この場面では、エチオピア人宦官がイザヤ書53章を読んでおり、フィリポがこれを説明しています。
これらの箇所は、新約聖書においてイザヤ書53章が引用されている例です。ただし、これ以外にも、イザヤ書53章の内容が言及されている箇所があるかもしれません。
Q. イザヤ書53章は、なぜ、イエス・キリストと関連させて考えられるようになったのでしょうか。
ChatGPT
イザヤ書53章は、キリスト教徒にとって、イエス・キリストの受難と犠牲を預示した預言書として重要視されています。この章は、悲しみと苦しみに満ちた人生を送り、人間の罪のために死を受け入れた一人の人物を描写しています。この人物は、「神のしもべ」と呼ばれ、多くのキリスト教徒にとって、イエス・キリストに対応すると考えられています。
イザヤ書53章がキリスト教と関連付けられるようになったのは、初代キリスト教徒が旧約聖書を解釈する際に、この章をキリストの受難と犠牲を預示した預言書として理解したことが大きな要因です。また、イザヤ書53章の記述が、キリストの受難や犠牲と類似していると考えられることも、この章がキリスト教で重要視される理由の一つとされます。
さらに、イザヤ書53章は、古代ヘブライ語で書かれているため、初代キリスト教徒が使用したギリシャ語の旧約聖書での翻訳によって、キリスト教の聖書に取り込まれたことも関連しています。この翻訳によって、イザヤ書53章がキリスト教徒の間で広く知られ、重要視されるようになりました。
以上のように、イザヤ書53章がキリスト教と関連付けられるようになったのは、初代キリスト教徒が旧約聖書を解釈する際に、この章をキリストの受難と犠牲を預示した預言書として理解し、また、この章がギリシャ語の旧約聖書で翻訳され、キリスト教の聖書に取り込まれたことが大きな要因とされます。このように、イザヤ書53章がキリスト教の聖書において重要視されるようになった背景には、歴史的、文化的な複数の要因が関わっています。
Q. イザヤ書53章の記述が、キリストの受難や犠牲と類似している点はどのようなところでしょうか。
ChatGPT
イザヤ書53章の記述が、キリストの受難や犠牲と類似している点は、以下のようなものがあります。
苦しみと悲しみに満ちた人生を送る
イザヤ書53章では、「神のしもべ」と呼ばれる人物が、苦しみと悲しみに満ちた人生を送っていると描写されています。同様に、キリストも苦しみと悲しみに満ちた人生を送りました。キリストは、拒絶され、裏切られ、磔刑に処されるなど、多くの苦しみを経験しました。人間の罪のために死を受け入れる
イザヤ書53章では、「神のしもべ」と呼ばれる人物が、人間の罪のために死を受け入れるという描写があります。同様に、キリストも人間の罪のために死を受け入れ、自分自身を犠牲にして人類を救うために十字架にかけられました。軽蔑され、打ちのめされる
イザヤ書53章では、「神のしもべ」と呼ばれる人物が、軽蔑され、打ちのめされるという描写があります。同様に、キリストも十字架にかけられる前に、軽蔑され、侮辱され、打ちのめされるなど、多くの屈辱的な状況に置かれました。無抵抗で受け入れる
イザヤ書53章では、「神のしもべ」と呼ばれる人物が、無抵抗で受け入れるという描写があります。同様に、キリストも自分自身を犠牲にして人間を救うために、無抵抗で受け入れるように神の意志に従ったとされています。他人の罪を引き受ける
イザヤ書53章では、「神のしもべ」と呼ばれる人物が、他人の罪を引き受けるという描写があります。同様に、キリストも人間の罪を引き受け、自分自身を犠牲にして、人類を罪から救うために死を受け入れました。
これらの点から、イザヤ書53章の記述が、キリストの受難や犠牲と類似していると考えられています。しかし、イザヤ書53章は、キリスト教徒にとってキリストの受難と犠牲を預示した預言書として理解されているものの、イザヤ書自体は、キリスト教以前のユダヤ教の聖書であり、ユダヤ教徒にとっては、異なる解釈が存在するこる可能性があります。
Q. ユダヤ教徒にとっては、どのような意味があったのでしょうか。
ChatGPT
ユダヤ教徒にとって、イザヤ書53章の意味は、キリスト教徒とは異なります。
イザヤ書53章は、ユダヤ教の聖書である旧約聖書の一部であり、ユダヤ教徒にとっては、主にメシア(救世主)に関する預言書として解釈されます。イザヤ書53章の中で語られる「神のしもべ」については、ユダヤ教では、一般的にはイスラエル民族全体を表すとされています。つまり、「神のしもべ」は、イスラエル民族が苦しみや迫害を受けた歴史的な出来事を描写したものとして解釈されます。
また、イザヤ書53章の「神のしもべ」について、ユダヤ教徒の間でも、様々な解釈が存在します。たとえば、一部のユダヤ教徒は、「神のしもべ」を、預言者イザヤ自身や、イスラエルの王たちなど、歴史上の人物を指すと解釈しています。また、他のユダヤ教徒は、「神のしもべ」が、イスラエル民族の苦しみを象徴していると捉えています。
総じて言えることは、イザヤ書53章が、ユダヤ教徒にとっては、キリスト教徒が考えるようなキリストの受難や犠牲を預示した預言書ではなく、歴史的な出来事や、イスラエル民族の苦しみを描写したものとして解釈されているということです。
Q. イザヤ書53章の「神のしもべ」について、他にどのような解釈があるのでしょうか。
ChatGPT
イザヤ書53章の「神のしもべ」について、ユダヤ教徒の間でも論争があり、様々な解釈が存在しています。以下に、その一部を紹介します。
イスラエル民族全体を表す解釈
イザヤ書53章の「神のしもべ」は、イスラエル民族全体を表すという解釈が一般的です。つまり、「神のしもべ」は、イスラエル民族が苦しみや迫害を受けた歴史的な出来事を描写したものとして解釈されます。預言者イザヤ自身を表す解釈
一部のユダヤ教徒は、「神のしもべ」を、預言者イザヤ自身を指すと解釈しています。この解釈では、イザヤ書53章は、イザヤ自身が苦しみや迫害を受けた歴史的な出来事を描写したものとされます。イスラエルの王たちを表す解釈
他のユダヤ教徒は、「神のしもべ」が、イスラエルの王たちを指すと解釈しています。この解釈では、イザヤ書53章は、イスラエルの王たちが苦しみや迫害を受けた歴史的な出来事を描写したものとされます。イスラエル民族の苦しみを象徴する解釈
一部のユダヤ教徒は、「神のしもべ」が、イスラエル民族の苦しみを象徴するものであると解釈しています。この解釈では、イザヤ書53章は、イスラエル民族が苦しみや迫害を受ける歴史的な出来事を象徴的に描写したものとされます。
以上のように、イザヤ書53章の「神のしもべ」については、ユダヤ教徒の間でも様々な解釈が存在しています。これらの解釈は、歴史的な文脈や、聖書の文脈、伝統的な解釈など、多くの要因によって形成されています。ユダヤ教徒にとっては、イザヤ書53章が、キリスト教徒が考えるようなキリストの受難や犠牲を預示した預言書ではなく、他の意味を持つものとして捉えられています。
Q. 苦難のしもべの預言を、マタイ8:17 では、病を癒し、悪霊を追い出したあとに引用しています。これには、どのような意味があるのでしょうか。
ChatGPT
マタイ8:17において、イエス・キリストが病を癒し、悪霊を追い出した後に、イザヤ書53章の「苦難のしもべ」に関する預言を引用しているとされています。この引用には、いくつかの意味が含まれています。
まず、この引用は、イエス・キリストが「苦難のしもべ」であることを示すものとされています。イザヤ書53章は、苦難を受け、犠牲を払う「神のしもべ」についての預言であり、キリスト教では、この預言がキリストの受難や犠牲を預示したものと考えられています。マタイ8:17において、イエス・キリストが病を癒し、悪霊を追い出した後に、イザヤ書53章の預言を引用することで、イエス・キリストが「苦難のしもべ」であることを強調しているとされています。
また、この引用は、イエス・キリストが苦しみや病気を克服する力を持っていることを示すものとされています。イエス・キリストが病を癒し、悪霊を追い出すことで、彼が神の力を持っていることを証明しています。そして、イザヤ書53章の預言を引用することで、イエス・キリストが苦難を受け、犠牲を払ったことを示すと同時に、彼が人々の罪や病気を取り除くために犠牲を払ったことを強調しています。
さらに、この引用は、イエス・キリストが救い主であることを示すものとされています。イエス・キリストが病を癒し、悪霊を追い出すことで、彼が人々の苦しみや悲しみを取り除く力を持っていることを示しています。そして、イザヤ書53章の預言を引用することで、彼が人々の罪を負い、人々を救うために犠牲を払ったことを強調しています。イエス・キリストが苦難を受け、犠牲を払ったことで、人々が神の恵みに与ることができるようになったのです。
以上のように、マタイ8:17におけるイザヤ書53章の預言の引用には、イエス・キリストの「苦難のしもべ」であること、彼が人々を救う力を持っていること、そして彼が人々を救うために犠牲を払ったことを示す意味が含まれています。また、この引用は、キリスト教徒にとって、復活や救いの希望を与えるものでもあります。
Q. キリスト教におけるイザヤ53章の引用について、ギリシャ語訳の聖書が関係していると言われましたが、もう少し、どのように訳が関係したか教えてください。
ChatGPT
イザヤ53章は、キリスト教の聖書である旧約聖書の一部であり、主にキリスト教徒によってメシアの預言として解釈されています。この章は、キリストの受難や十字架について言及しており、そのためキリスト教において非常に重要な章とされています。
キリスト教において、イザヤ53章の引用は、主にギリシャ語訳聖書である「セプトゥアギント」と呼ばれる聖書の影響を受けています。セプトゥアギントは、ヘブライ語聖書の古代ギリシャ語への翻訳であり、古代ヘブライ語のイザヤ書をギリシャ語に翻訳したものです。
キリスト教の聖書では、イザヤ53章が引用される際に、主にセプトゥアギントのギリシャ語訳を使用しています。そのため、イザヤ53章の一部の言葉や表現について、ギリシャ語訳の影響が見られます。例えば、イザヤ53:5の「彼はわたしたちのとがのために傷つけられ、わたしたちは彼の打たれたところによっていやされた」という箇所は、ギリシャ語訳では「彼はわたしたちの罪のために刺され、わたしたちは彼の打たれたところによって癒された」となっています。このように、一部の言葉や表現について、ギリシャ語訳による影響が見られるのです。
また、イザヤ53章の引用には、他の聖書の書簡や福音書でも言及されている箇所があります。例えば、マタイによる福音書8:17では、「彼はわたしたちの病気を負い、わたしたちは彼によって癒された」という箇所があり、この部分はイザヤ53:4の引用とされています。同様に、ペテロの第一の手紙2:24では、「キリストは、わたしたちの罪を自分のからだに負って、木にかけられた」という箇所があり、これはイザヤ53:5の引用とされています。
総じて言えることは、キリスト教におけるイザヤ53章の引用は、ギリシャ語訳聖書であるセプトゥアギントの影響を受けていることが多いということです。しかし、この章がキリスト教において重要な位置を占める理由は、単に翻訳の問題に留まらず、イザヤ53章がキリストの受難や十字架についての預言を含んでいるからだと考えられます。この章がキリスト教において重要な位置を占める理由は、イザヤ53章がキリストの受難や十字架についての預言を含んでいるからです。そのため、イザヤ53章は、キリスト教徒にとって非常に重要な聖書の一部となっています。
(2023.5.31)
3.6 ギリシャ語・ヘブル語・アラム語
3.6.1 仕える
2023.05.11
Q. Koinee greek において、λατρεύω10 と διακονέω11 は、どちらも serve 仕えるだと思いますが、どう違うのでしょうか。
ChatGPT
ご質問ありがとうございます。Koine Greekは、古代ギリシャ語の一種であり、キリスト教聖書の原典などに使用されています。
「λατρεύω」と「διακονέω」は、どちらも「仕える」という意味であり、キリスト教の文脈では特に宗教的な仕えるという意味合いが含まれますが、微妙に異なるニュアンスがあります。
「λατρεύω」は、より崇拝的な仕えるという意味合いがあります。神に対しての献身的な奉仕を表し、神への礼拝や祈りを含みます。また、神が受け入れるべき、真の礼拝を行うことを示します。
一方、「διακονέω」は、より実践的な仕えるという意味合いがあります。主に、他人に奉仕することを示し、愛と仕えることを通じて、他人を助けることを目的としています。キリスト教の文脈では、教会の役員や神父などが信徒に奉仕することを示す場合にも使用されます。
つまり、「λατρεύω」は神に対する崇拝的な奉仕を表し、「διακονέω」は他人に対する実践的な奉仕を表します。これらの単語は、キリスト教の文脈において、異なるニュアンスを持って使用されます。
3.6.2 サタンと悪魔
Q. Koinee greek において、διάβολος と、σατανᾶς は、それぞれどのような意味で、違いはどのようなものなのでしょうか。
ChatGPT
「διάβολος」と「σατανᾶς」は、どちらもキリスト教の文脈で使用されるギリシャ語の言葉で、英語で「devil(悪魔)」と訳されることがありますが、微妙に異なるニュアンスがあります。
「διάβολος」は、原義で「分裂させる者」「中傷する者」といった意味を持ちます。一般的には、悪意や陰謀を持って人を誘惑し、罪に誘う存在を指します。キリスト教の伝統では、この言葉は主に、悪魔としての役割を表すために使用されます。
一方、「σατανᾶς」は、原義で「敵対する者」といった意味を持ちます。キリスト教の文脈では、神に対する反逆者や敵対者、悪魔としての役割を表すために使用されます。また、新約聖書においては、イエス・キリストを誘惑しようとした存在としても登場します。
つまり、「διάβολος」と「σατανᾶς」は、どちらも悪魔としての役割を持つ言葉であり、似たような意味を持ちますが、「διάβολος」は誘惑や罪に誘う存在を、「σατανᾶς」は主に神に反逆する存在を表す傾向があります。
Q. これらの違いの説明はどのような根拠・出典によっているのですか。
ChatGPT
「διάβολος」と「σατανᾶς」の違いについての説明は、主にキリスト教の聖書や古代ギリシャ語の辞書などの文献に基づいています。
例えば、ギリシャ語の辞書である「Liddell and Scott’s Greek-English Lexicon」では、「διάβολος」が「中傷する者」や「悪魔」としての意味を持ち、「σατανᾶς」が「敵対する者」や「悪魔」としての意味を持つことが説明されています。
また、キリスト教の聖書においても、両者の違いが示されています。例えば、新約聖書の「ヨハネの手紙一書」4章1節には、「愛する者たちよ。すべての霊を信じてはならない。かえって、霊が神から出たものかどうかを、試りなさい。偽預言者たちが、この世に出てきたからです。」とあり、この中で「偽預言者たち」として「διάβολος」が言及されています。
また、新約聖書の「マタイによる福音書」4章1-11節においては、イエス・キリストが40日間の断食の後、誘惑される出来事が描かれており、「σατανᾶς」がイエスを誘惑する役割を担っています。
以上のように、語源や聖書などの文献から、両者の微妙な違いが説明されています。
2023.05.17
3.6.3 神の国と天国
Q. 福音書などで使われる「神の国」と「天国」は、原語からは、どのような違いがあるのでしょうか。用法などあれば、教えてください。
Bard. 「神の国」と「天国」はどちらも、福音書でイエスがよく使っていた言葉です。しかし、これらの2つの言葉には、ニュアンスの違いがあります。
「神の国」という用語は、神の支配と統治を表しています。それは、神がすべての人々の生活の中で支配し、支配する時代の到来を指します。一方、「天国」という用語は、より個人的な意味合いを持っています。それは、愛、平和、そして喜びに満ちた場所を指します。それは、神が信者に与える約束された故郷です。
「神の国」と「天国」はどちらも、イエス・キリストの教えの中心的な部分です。彼は、人々が神の国に入るためには、悔い改め、新しい生き方を始めなければならないと教えています。また、神の国はすでに私たちの中にあり、私たちの周りにあると教えています。
「神の国」と「天国」は、信者の希望と約束です。それは、私たちが罪と死から解放され、神との永遠の交わりを持つ時代の到来を表しています。
GPT4. 新約聖書は、もともとギリシャ語で書かれています。福音書で使われる「神の国」と「天国」は、原語であるギリシャ語ではそれぞれ「Βασιλεία τοῦ Θεοῦ」(Basileia tou Theou)と「Βασιλεία τῶν Οὐρανῶν」(Basileia tōn Ouranōn)と表現されます。
「神の国」は、「Βασιλεία τοῦ Θεοῦ」(Basileia tou Theou)で、神(Θεοῦ, Theou)の支配や権威(Βασιλεία, Basileia)を意味します。これは、神の支配が地上に広がり、人々の間に認知されることを指します。福音書の中で「神の国」は、イエスの教えの中心的なテーマであり、彼の教えと奇跡を通して実現しようとしているものです。
一方、「天国」は、「Βασιλεία τῶν Οὐρανῶν」(Basileia tōn Ouranōn)で、直訳すると「天の国」や「天の領域」を意味します。これは、まさに神の住まいであるとされる場所を指し示しています。特にマタイ福音書では、「天国」の表現が頻繁に用いられます。
両者の違いに関しては、解釈によって異なりますが、一般的には、「神の国」は神の支配や権威が地上で展開される概念であるのに対して、「天国」は神の住まいや霊的な領域を指すとされています。
ただし、実際には、これらの言葉は福音書の中でほぼ同義語として使われており、イエスが語る神の支配や権威が実現する場所や状況を指しています。したがって、両者の違いは微妙であると言えます。
補足
口語訳および KJV で 天国 Kingdom of Heaven は、マタイのみに、32回。一方、神の国は、すべての福音書および、書簡にも多く見られ、マタイには5回(6:33, 12:28, 19:24, 21:31, 43)。マルコは14件、ルカは31件、ヨハネは2件のみ(3:3, 3:5)。
3.6.4 癒す - heal
Q. 新約聖書 の Koinee Greek で、KJV に、heal 癒すと訳されている語はどのようなものがありますか。その違いはどのようなものですか。
Chat GPT. 新約聖書のKoine Greekで、“heal”(癒す)と訳される単語はいくつかあります。以下にいくつかの例を挙げます。
θεραπεύω (therapeuō) - これは最も一般的な単語で、主に身体的な癒しを指します。例えば、マタイによる福音書4:23では、「イエスは全ガリラヤに教え、会堂で彼らの中で御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる病気を癒しました。」と記されています。
ιάομαι (iaomai) - これも身体的な癒しを意味する言葉で、特に病気や傷を治療するために使用されます。例えば、マルコによる福音書5:34では、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 平和を得なさい。あなたの病気から解放されました」と、イエスが病気を治療したことが記されています。
σῴζω (sōzō) - これは、身体的な癒しだけでなく、霊的な救済も含む幅広い意味を持つ言葉です。例えば、マタイによる福音書9:21-22では、「彼女は自分の心の中で、たとえ端からでも御子に触れれば、癒されると信じていた。 すると、イエスは振り向いて彼女を見て、『娘よ、勇気を出しなさい。 あなたの信仰があなたを救った』と言われました。 そのとおりになりました」と記されています。
これらの単語は、身体的な癒しと霊的な救済を含む幅広い範囲の意味を持つため、文脈によって異なる訳語が使用されます。KJVのような英語訳聖書では、これらの単語は通常、“heal”や”healing”などの単語に翻訳されますが、文脈によっては、“cure”や”restore”、“save”などの単語にも翻訳されることがあります。また、同じ単語が使用されていても、訳語が異なる場合があります。例えば、マタイによる福音書4:23で使用されている「θεραπεύω」は、KJVでは”heal”と訳されていますが、NIV(New International Version)では”cure”と訳されています。
したがって、これらの単語の正確な訳語は、文脈によって異なることがあるため、注意が必要です。
Q. θεραπεύω (therapeuō) 、ιάομαι (iaomai)、σῴζω (sōzō) は語源的にはどのような違いがありますか。
ChatGPT. 「θεραπεύω」、「ιάομαι」、「σῴζω」は、いずれもギリシャ語で、語源的には以下のような違いがあります。
「θεραπεύω」 - この単語は、ギリシャ語の「θεράπων(therapon)」から派生しています。この語は、もともとは「奉仕する人」を意味していましたが、後に「治療する」という意味にも使われるようになりました。つまり、「θεραπεύω」は、「治療する」という意味の動詞であり、健康状態を改善することを目的としています。
「ιάομαι」 - この単語は、ギリシャ語の「ἰατρός(iatros)」から派生しています。この語は、「医師」を意味します。そして、「ιάομαι」は、「治療する」という意味の動詞であり、病気や傷を治療することを目的としています。
「σῴζω」 - この単語は、ギリシャ語の「σωτήρ(sōtēr)」から派生しています。この語は、「救世主」を意味します。そして、「σῴζω」は、「救う」という意味の動詞であり、身体的な救済だけでなく、霊的な救済も含む広い意味を持っています。
つまり、「θεραπεύω」と「ιάομαι」は、身体的な健康状態を改善することに焦点を当てている一方、「σῴζω」は、幅広い意味を持ち、身体的な救済だけでなく、霊的な救済も含んでいます。ただし、これらの単語は、文脈によって異なる訳語に翻訳されることがあるため、注意が必要です。
Q. これらの単語は、どのような状況で使われるのでしょうか。
ChatGPT. これらの単語は、それぞれ異なるニュアンスを持つため、異なる状況で使用されます。
「θεραπεύω」 - この単語は、一般的に身体的な病気や傷を治療する場合に使用されます。例えば、マタイによる福音書4:23では、「イエスは全ガリラヤに教え、会堂で彼らの中で御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる病気を癒しました。」と記されています。この場合、「θεραπεύω」は、病気や傷を治療することを意味しています。
「ιάομαι」 - この単語は、「θεραπεύω」と同様に身体的な病気や傷を治療する場合に使用されますが、より具体的には医療行為を指します。例えば、ルカによる福音書5:31では、「イエスは彼らに答えて言われた:『健康な人には医者は必要ありません。 病人にしか必要ありません。』」と記されています。この場合、「ιάομαι」は、医療行為や治療を指しています。
「σῴζω」 - この単語は、身体的な救済だけでなく、霊的な救済も含む広い範囲の意味を持っています。例えば、ローマの信徒への手紙10:9では、「もし口でイエスを主と告白し、心で神が彼を死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われます。」と記されています。この場合、「σῴζω」は、霊的な救済を指しています。
したがって、これらの単語は、文脈によって異なる使用法があります。一般的には、「θεραπεύω」と「ιάομαι」は、身体的な病気や傷を治療する場合に使用され、一方、「σῴζω」は、霊的な救済を含む広い範囲の意味を持っています。ただし、これらの単語は、文脈によって異なる訳語に翻訳されることがあるため、注意が必要です。
3.6.5 病気
Q. 聖書で、癩病、規定の病、ツァラアトなどと訳されている言葉の原語の意味は、どのようなもので、どのように、理解されて来たのでしょうか。
ChatGPT. 聖書で「癩病」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ツァラアト」(צָרַעַת)と呼ばれ、皮膚病や壊死、カビのようなものによって引き起こされる病気を指します。しかし、この言葉は病気そのものを指すだけでなく、精神的な不浄や罪の象徴としても使用されていました。
また、「規定の病」と訳される言葉は、ヘブライ語で「צָעַת」(צָעַת)と呼ばれ、不明瞭な病気や痛み、疾患を指します。
これらの病気や疾患を伝える聖書の文章は、現代の医学的な知識とは異なりますが、当時の人々にとっては、神が人々の健康を管理しているという信念に基づいて、これらの病気が神によって与えられる罰や試練であると考えられていました。
聖書の時代には、これらの病気は社会的な排除と関連しており、感染が広がらないように感染者は別の場所に移動し、特別な衣服を着用する必要がありました。これは、聖書の記述によれば、神によって命じられたものであり、特定の祭司によって管理されていました。
Claude+. 聖書で「癩病」、「規定の病」、「ツァラアト」と訳されている言葉は、原語では「ツァラアト」(צרעת)を意味します。この語は旧約聖書でよく使用され、本来の意味はハンセン病を指します。
ハンセン病は古代イスラエルでは嫌われる病で、ツァラアトの人は汚れていると考えられていました。そのため、モーセの律法ではツァラアトの人は隔離され、社会から追放されていました。ツァラアトは罪の象徴でもあり、神からの罰だと信じられていました。
イエスの時代になると、ツァラアトの人は差別と偏見の対象でした。しかしイエスはツァラアトの人を癒し、隔離されていた人を社会に受け入れさせました。この事はイエスの愛と憐れみを示すものでした。
このように、ツァラアト(癩病)は古代イスラエルでの汚れや罪の象徴であり、隔離の対象となっていました。しかしイエスはこの考え方を覆し、ツァラアトの人を癒して社会に受け入れることで、神の愛を示したのです。こうしてツァラアトの意味は、汚れから愛へと変化していったのです。
Sage. 「癩病」や「規定の病」、「ツァラアト」などと訳されている言葉は、ヘブライ語の「צָרַעַת」(tsara’at)に由来します。
ツァラアトは、律法においては身体に現れる病気として扱われていますが、現代医学的な見解によれば、ツァラアトは単なる皮膚病ではなく、細菌感染や真菌感染、あるいは代謝異常などによって引き起こされる病気と考えられています。
ヘブライ語の「צָרַעַת」(tsara’at)の語源については諸説ありますが、一般的には「切り裂く」という意味の動詞「צָרַע」(tsara)に由来するとされています。この病気は、皮膚が切り裂かれたような症状を示すことがあるため、このように呼ばれるようになったと考えられています。
また、ツァラアトは、古代イスラエルにおいては、単なる病気ではなく、神が人間に対する懲罰として送る病気と考えられていました。そのため、ツァラアトにかかった人は、祭司によって検査され、清いかどうかが判断され、患部が広がらないように隔離されることが決められていました。このように、古代イスラエルの信仰と密接に関わっていた病気であったと言えます。
(2023.6.3)
Q. 福音書に記述のある λεπρός 規定の病、癩病などは、ハンセン氏病と同じなのでしょうか。当時は、この病におかされたとき、どのような生活をしていたと思われるのでしょうか。もし、聖書以外の記録があれば、文献とともに、それも教えてください。
GPT4.
λεπρός(lepros)は、ギリシャ語で「らい病」を意味し、新約聖書の福音書には、イエスがらい病患者を癒したという記述があります。しかしこの用語が指す病気が、現代医学で言うハンセン氏病(ハンセン病)と同じかどうかは、完全には特定できません。らい病(λεπρός)は、古代では広く皮膚病を指す用語であり、ハンセン病だけでなく、様々な皮膚病を含んでいた可能性があります。
当時のらい病患者は、病気が伝染すると考えられていたため、社会から隔離されることが一般的でした。彼らは、集落の外れや、専用の「らい病患者の集落」で暮らすことが多かったとされています。また、らい病患者は、自分の病気を他人に触れさせないために、特別な衣服を着用し、不浄とされた場所に近づかないように注意が払われていたとされています。
聖書以外の史料としては、ヨセフス・フラウィウスの『ユダヤ古代誌』や、タルムードなどがあります。『ユダヤ古代誌』では、らい病患者が隔離され、礼拝に参加できないことが記述されています。タルムードでは、らい病患者の扱いに関する法律や規定がいくつか記されています。これらの史料からも、古代社会においてらい病患者が厳しい隔離生活を送っていたことがうかがえます。
(2023.6.5)
3.6.5.1 旧約聖書における重い皮膚病(צָרַע)の記述
出エジプト4:6 主はまた彼に言われた、「あなたの手をふところに入れなさい」。彼が手をふところに入れ、それを出すと、手は、重い皮膚病にかかって、雪のように白くなっていた。
レビ記13章1-59 1主はまたモーセとアロンに言われた、2 「人がその身の皮に腫、あるいは吹出物、あるいは光る所ができ、これがその身の皮に重い皮膚病の患部のようになるならば、その人を祭司アロンまたは、祭司なるアロンの子たちのひとりのもとに、連れて行かなければならない。44 その人は重い皮膚病に冒された者であって、汚れた者である。祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない。患部が頭にあるからである。 45 重い皮膚病の患者は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。
レビ記14章:1-32 1 主はまたモーセに言われた、2「重い皮膚病の患者が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、3 祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もし重い皮膚病の患部がいえているならば、
レビ記22章4-7 アロンの子孫のうち、だれでも、重い皮膚病の患者、また流出ある者は清くなるまで、聖なる物を食べてはならない。また、すべて死体によって汚れた物に触れた者、精を漏らした者、または、すべて人を汚す這うものに触れた者、または、どのような汚れにせよ、人を汚れさせる人に触れた者、このようなものに触れた人は夕まで汚れるであろう。彼はその身を水にすすがないならば、聖なる物を食べてはならない。日が入れば、彼は清くなるであろう。そののち、聖なる物を食べることができる。それは彼の食物だからである。
民数記5:2-4 主が王を撃たれたので、その死ぬ日まで、重い皮膚病になって、離れ家に住んだ。王の子ヨタムが家の事を管理し、国の民をさばいた。男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである」。イスラエルの人々はそのようにして、彼らを宿営の外に出した。すなわち、主がモーセに言われたようにイスラエルの人々は行った。
民数記12:10 雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、重い皮膚病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女は重い皮膚病になっていた。
サムエル下3:28-29 その後ダビデはこの事を聞いて言った、「わたしとわたしの王国とは、ネルの子アブネルの血に関して、主の前に永久に罪はない。どうぞ、その罪がヨアブの頭と、その父の全家に帰するように。またヨアブの家には流出を病む者、重い皮膚病を病む者、つえにたよる者、つるぎに倒れる者、または食物の乏しい者が絶えないように」。
列王記下5:1 スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、重い皮膚病をわずらっていた。
列王記下5:27 それゆえ、ナアマンの重い皮膚病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。彼がエリシャの前を出ていくとき、重い皮膚病が発して雪のように白くなっていた。
列王記下7:3 さて町の門の入口に四人の重い皮膚病の患者がいたが、彼らは互に言った、「われわれはどうしてここに座して死を待たねばならないのか。 5:8 そこで重い皮膚病の患者たちは陣営のほとりに行き、一つの天幕にはいって食い飲みし、そこから金銀、衣服を持ち出してそれを隠し、また来て、他の天幕に入り、そこからも持ち出してそれを隠した。
列王記下15:5 主が王を撃たれたので、その死ぬ日まで、重い皮膚病になって、離れ家に住んだ。王の子ヨタムが家の事を管理し、国の民をさばいた。
歴代誌下 26:16-23 ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。その時、祭司アザリヤは主の祭司である勇士八十人を率いて、彼のあとに従ってはいり、 ウジヤ王を引き止めて言った、「ウジヤよ、主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません」。するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、重い皮膚病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。 祭司の長アザリヤおよびすべての祭司たちが彼を見ると、彼の額に重い皮膚病が生じていたので、急いで彼をそこから追い出した。彼自身もまた主に撃たれたことを知って、急いで出て行った。ウジヤ王は、死ぬ日まで重い皮膚病にかかっていたので、離れ殿に住んだ。主の宮から断たれたからである。その子ヨタムが王の家をつかさどり、国の民を治めた。 ウジヤのその他の始終の行為は、アモツの子預言者イザヤがこれを書きしるした。ウジヤは先祖たちと共に眠ったので、人々は「彼は重い皮膚病にかかった人である」と言って、王たちの墓に連なる墓地に、その先祖たちと共に葬った。その子ヨタムが彼に代って王となった。
3.6.5.2 中風
Q. マルコ2章1-12節に中風のひとが登場しますが、どのような病気だったと思われますか。
ChatGPT
マルコ2章1-12節に登場する中風の人物は、ギリシャ語の「παραλυτικός(paralytikos)」という言葉で表されています。この言葉は、現代の英語でいう「paralytic(麻痺した人)」に相当する言葉であり、神経障害や脳卒中による麻痺を指していると考えられます。
当時の人々は、病気や身体障害を直接的な原因として、罪や神の怒りと結びつけることがありました。したがって、中風の人物がイエスによって癒されたことは、彼が罪から解放されたことを示す象徴的な出来事であったと捉えられることがあります。また、この物語は、イエスが身体的な病気や障害に苦しむ人々を癒すことによって、神の愛と慈悲を表現していることを示しています。
(2023.6.22)
3.6.6 愛する・愛
Q. コイネーギリシャ語の愛する(ἀγαπάω)という動詞の原語の意味は何ですか。
ChatGPT. 「ἀγαπάω」は、古代ギリシャ語で「愛する」という意味を持つ動詞です。この動詞の原義は、物事に価値を見出し、それを大切に扱うことです。このため、この動詞は神や家族、友人など、人々が特別な愛情を抱くものに対して使用されることが多く、単なる好きという表現よりも深い、真の愛情を表現する言葉として重用されていました。
Sage. コイネーギリシャ語の動詞「ἀγαπάω」(agapaō)は、「愛する」という意味を持ちます。この動詞の原語である古代ギリシャ語の「ἀγαπᾶν」(agapan)は、一般的に「価値を認める」「尊敬する」という意味でしたが、新約聖書の中で特に愛情や情熱を表す言葉として使われるようになりました。また、この動詞は、単に感情的な愛情だけでなく、行動による愛や奉仕の愛なども含んでいます。
Claude+. コイネー・ギリシャ語の動詞ἀγαπάω(アガパオ)は、「愛する」、「大切に思う」という意味です。
この語は新約聖書などでよく用いられ、高度な愛としての「アガペー」の概念を表しています。ἀγαπάωは単純な物理的・感覚的な愛よりも、相手を理解し、受容し、大切に思うという精神的な愛を意味しています。
ἀγαπάωの語源は不明ですが、おそらく「尊敬」「賞賛」を意味する語に関連があると考えられています。新約聖書の著者であるヨハネはこの語を神からの愛と人間同士の愛を表すのに用いています。
要するに、ἀγαπάωは高潔な愛としての「アガペー」の概念を表しており、物理的な愛よりも精神的、道義的な愛を意味する語でした。新約聖書の時代にはキリスト教の愛の考え方の中心概念となったのです。
(2023.6.3)
3.6.7 憐れみ
Q. 共観福音書で、特徴的な使われ方をしている、σπλαγχνίζομαι は、聖書以外の文献ではどのように使われているのでしょうか。もともとの意味はどのようなものなのでしょうか。
ChatGPT.
「σπλαγχνίζομαι」は、古代ギリシャ語で「内臓をかき混ぜる」、「心を揺さぶる」という意味があります。共観福音書では、この単語は主にイエス・キリストが人々に対して示した慈愛や憐れみを表現するために使用されています。
聖書以外の文献では、この単語は主に医学的な文脈で使用されており、内臓の病気や痛みを表現するために使われています。例えば、古代ギリシャの医学者であるガレノスは、内臓の疾患についての著書で「σπλαγχνίζομαι」という単語を使用しています。
しかし、共観福音書での「σπλαγχνίζομαι」の使用は、単純な医学的な意味を超えて、より深い感情や思いやりを表現するために用いられています。この単語を使うことで、人々がイエス・キリストの慈愛深い性格や神の恵みに触れることができるようになっています。
(2023.6.5)
3.6.7.1 深くあわれむ σπλαγχνίζομαι (σπλαγχνίζομαι)
聖書の中で12回(マタイ9:36, 14:14, 15:32, 18:27, マルコ1:41, 6:34, 8:2, 9:22, ルカ7:13, 10:33, 15:20)イエスの奇跡などの特別の活動の前、または、譬の中でイエスまたは主を想起させる箇所で使われている。
- 憐れむ:(日本国語大辞典)i) いつくしむ。愛する。感心する。賞美する。あわれぶ。ii) 不憫に思う。同情する。また、慈悲の心をかける。恵む。あわれぶ。- 一般的な日本語の意味
- マルコ1:41 - 今回の箇所、重い皮膚病のひとが、ひざまずいて「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言った時。
- マルコ6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。マタイ14:14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。- このあとに、五千人の給食が続く。
- マルコ8:2,3 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。マタイ15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。- このあとに、四千人の給食が続く。
- マルコ9:21-24 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。- イエスに深く憐れむことを願っている。
- マタイ9:35-38 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。- マルコ6:34 と表現が似ているが、異なる文脈に置かれている。
- ルカ7:11-14 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。- ナインで若者を生き返らせる
- マタイ18:27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。- たとえの中で、一万タラント12負債のあるものに対する王の言葉
- ルカ10:33-35 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。- 善きサマリヤ人のたとえの中
- ルカ15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。- 放蕩息子のたとえの中での父
3.6.8 アラム語
3.6.8.1 新約聖書におけるアラム語の使用
マルコ3:17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
マルコ5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
マルコ7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
マルコ7:34 34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
マルコ11:9,10 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、/「ホサナ、/主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
マルコ15:22 そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。
マルコ15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
3.7 イエスとその時代
荒井献著の岩波新書(青版)909 からの抜粋。出版年は1974年と古く、岩波書店のホームページによると絶版である。荒井氏もこのあと何冊も著しているので、決定版からは程遠いとも思うが、よくまとまっているので、主として I. 方法と、II. 時代から、抜書する。また、海外の研究者の個別の視点・論点を述べた部分は、省略した。理由としては、私の個人的な理解がまったく欠けていることが大きい。おそらく、出版年以降での様々な研究上の進展もあるだろうし、個人的には、荒井献の主張も、根拠が十分ではないと思われる部分もあるが、おそらく、現在でも有力な説の一つだと思われるので、そのまま記す。
3.7.1 I. 方法
3.7.1.1 歴史的研究と方法
昨年(1973年)の夏に私は、「最近のイエスの研究」と題する文章を『朝日新聞』の文化欄に公にした。これに対して読者から予想外に多くの意見が寄せられたことに驚いたものであったが、これらの中、キリスト者や仏教者の意見の大半が、イエスに関する歴史的研究それ自体に疑念を表明していたのである。彼らによれば、「イエス・キリスト」のような存在は、信仰を媒介として実存的にしか把握しえず、歴史的方法をもってしては、究極のところキリストを「物」に化してしまうのではないか、というのである。
他方、昨年から今年にかけて、イエスを素材にした文学作品、演劇、そして映画などが、例年になく多くわが国において公にされた。これらの中、遠藤周作『イエスの生涯』は、私どもとして見過ごすわけにはいかない。著者自身がこの作品を歴史研究の成果でもあると謳っているからである。
さて、この作品の中で遠藤は、イエスに関わる事実と真実を区別して、事実よりむしろ真実を前景に押し出す。このような立場は、文学者ならばある意味で当然とるべきものであろう。しかし遠藤が、イエスの復活は真実であるばかりでなく事実である(と少なくとも信じたい)のに対して、処女降誕は事実ではないが真実であり、奇跡行為は事実でも真実でもないと主張する時、彼は歴史に対して彼にとっての真実を押し付ける結果になるのではなかろうか。もしそうならば、むしろ歴史研究の衣を脱ぎ捨て、わたしの文章に批判的意見を寄せてくれた人々に習い、歴史的方法によってはイエスの真実は捕らえ得ない、と言い切った方が正直というものである。
いずれにしても、イエスのような存在に対しては歴史的方法によって接近することができないという人々の多くは「歴史」というものに対して予断と偏見を持っているように思われる。もっとも、このような事態を引き起こした責任の大半は、いわゆる「歴史学者」の側にあることは事実であろう。彼らもまた、資料の積み重ねだけで歴史とはならず、資料に対する歴史家の解釈を通して初めて歴史は再現されることを知ってはいる。しかし彼らの多くが、資料解釈は歴史の法則的因果関係を捉えるという科学的歴史叙述の目的に使えなければならないという立場に固執しているように思われる。私見によれば、歴史はとりわけそれが人間個人の歴史である場合、いかなる意味においても「法則」の中に押し込まれうるものではない。なぜなら、人間の固有性は他ならぬ「法則」を踏み越えたと所において露わになるものだからである。
以上の事柄に関連して注目すべきは、「歴史小説とはなにかー史実と虚構の間ー」と題する菊地昌典の論文である。菊地は自ら歴史家でありながら、あるいはそうであるからこそ、敢えて「詩人と歴史家は、けっして異母兄弟ではなく、シャム双生児なのである。」と言い切っている。すなわち、歴史家にとって、史料と史科とを結合して歴史を構築する際に不可欠な歴史解釈は、当然のことながら史料そのものの制約を受けるにしても、しかしそれは「詩人のイマジネーション」と決して異質なものではない、否、そうあってはならないのである。他方詩人は、もしも同時に歴史小説家でもあることを志すならば、「イマジネーションが歴史である」などといる幻想から自由になるべきである。歴史家にしても歴史小説家にしても、「過去は、過去として語らしめることによって、現在との対話が成立しうるのである。過去の衣装をまとった現代人の説法は、ただ、現代のありふれた説教にすぎない。しかも、その説教は巧妙にも、決して講壇の上から下をみおろす型をとるものではない」。
この発言は、現代の歴史家および歴史小説家に対する痛烈な批判である。もっとも私には、菊地が歴史叙述と歴史小説とをあまりにも接近させ過ぎているように思われる。私見によれば、菊地が歴史家に要請する「詩人のイマジネーション」は、歴史家の歴史叙述にとって必要な手段ではあるが、それ自体が決して目的であってはならない。歴史家の本領は何と言っても緻密な史料批判にあり、それを「歴史」に構成する「史観」の原基とも言わるべき想像力は、史料批判の結果によって常に制限される用意がなければならない。他方、歴史小説家にも「過去は過去をして語らしめる」という禁欲の精神が要求されるけれども、彼の生命は、作品を「創作」たらしめる想像力にかかっている。
いずれにしても、菊池が指摘しているもう一つの重要な事柄は、「史観」がそれを軸にして展開すべき「視座」の問題であろう。「重要なことは、どの階級のどのような人間、具体的な人間に焦点をあて、視座を設定するか、にある。私は、歴史の最下部によどむ人々こそ、もっともその時代相を刻印された人々ではないか、と考える。皮肉に言えば、この最下層の庶民こそが、もっとも歴史のはかなさを表層の動きとは別の次元で実体験している階層に当たるのではないか、とさえ思う。だが、この最下層から俯仰して歴史をみる姿勢を、史実によってうちかためる作業は、その庶民が無告の群れであることによって、不可能に近い。ここでは、史実の不足とイマジネーションの膨張が要求され、それがためにまた安易な階級的人物として描かれやすい。」
後で指摘されるように、イエス自身は「最下層の庶民」に属してはいない。しかし、彼の思想と行動は、私の見るところでは、徹頭徹尾この「庶民」との連帯を志向するものであった。この想定に基づいて、私は「イエス」を史実に復元する際に「庶民」に視座を設定するつもりである。もちろん、「無告の群れ」に言葉と状況を取り戻すことは「不可能に近い」。しかし、福音書の厳密な史料批判と想像力によって、「不可能に近い」事柄をいくらかでも可能性の領域に近づけることが、歴史叙述を試みる者に課された、苦しいけれどもやりがいのある仕事ではなかろうか。
さて、菊池が歴史家に要求する「詩人のイマジネーション」を、先に触れた私の小論に批判を寄せてくれた人々のいわゆる「信仰」に置き換えたら、またまた敬虔なクリスチャンの顰蹙(ひんしゅく)をかうことになるであろうか。実は私自身、右の小論の中で、まさにこの意味を込めて次のように書いておいたのである。「勿論、いかなる場合にも、歴史上の人物を現代に再現するためには、それを試みる人の優れた想像力(資料解釈)を必要とする。しかし、少なくともそれが歴史的になされる場合には、緻密な資料批判を踏まえなければならず、その成果によって想像力をいつでもチェックできる用意がなければならない。」それでも、信仰という真面目な事柄を、歴史家の、いわんや歴史小説家の想像力などというものと混同されては困る、といわれるかもしれない。しかし、イエスに関する最も重要な資料を私どもに提供している福音書記者たち自身が、まさに彼らの福音信仰を想像力に転化して『福音書』を創作しているのである。
このように書くと、今度は、「福音書は創作ではない」と言われるであろう。それならば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書、それに最近発見されたトマス福音書を加えて、これら五つの福音書を相互に比較しながら読んでみるとよい。各福音書記者が同じイエスのことを書いているのに、各々の福音書に描き出されているイエス像は、確実に異なっているものではないか。このようなイエス像は、確実に異なっているのではないか。このようなイエス像の多様性は何に由来するのであろうか。その理由の一つに、各福音書記者によって採用されたイエスに関する伝承資料が異なっている事実があげられる。しかし、このことは決定的な理由にはならない。なぜなら、例えばマタイとマルコ(HS ルカ?)は、共通したイエスの語録資料に依りながら、全体として異なるイエスの言葉を、それぞれの福音書の中で読者に提示しているからである。とすれば、イエス像の多様性は、各福音書記者の史観と視座の設定点の相違から以外に説明のしようがないであろう。そして、この史観と視座の設定の仕方は、各福音書記者の信仰の持ち方、想像力の内実によって設定されているのである。このように見てくると、もし福音書を現代における文学類型にあてはめることを許されるとすれば、それは、「歴史記述」というよりは、むしろ「歴史小説」に近いのではないかと思われる。これは何も福音書に限ったことではない。古代や中世の歴史記述、例えばヘロドトスの『歴史』(ペルシャ戦争史)にしても、我が国の『鏡』文学にしても、現代の歴史よりは「歴史小説」に近いのである。そこでは、現代史学のいわゆる史料批判は必ずしも行われておらず、他方、歴史作家の信仰や道徳観に方向づけられた想像力の所産と思われる部分が極めて多い。
要するに私は、イエスに対して歴史的に接近する際に、信仰を排除すべきであるなどと思っていない。信仰が想像力として機能する限り、それはイエスの史的復元にとって不可欠な要素である。問題は信仰の内実であり、その視座をどこに置くかということである。
3.7.1.2 「史的イエス」の問題
実は、今世紀の聖書学のみならず神学一般にとって最大の問題となった「史的イエスの問題」が、右に述べたことと深く関わっているのである。この問題は、ドイツの代表的新約聖書学者R・ブルトマンが、原始キリスト教団の信仰にとって本質的な事柄は、彼らによって宣教されたキリスト、いわゆる「宣教のキリスト」であって、「史的イエス」では必ずしもない、と提言したことに端を発している。この提言は、資料批判によって客観的に史実を再建できると夢見た歴史主義の立場と、これに依拠して史実のイエスを信仰の根拠として要請したいわゆる「自由主義神学者」に対する痛烈な批判であった。他方においてこれは、原始キリスト教史家としてのブルトマンが自ら福音書に史料批判を試みた結果でもあったのである。すなわち、福音書記者たちが資料として利用した伝承そのものの中に、伝承形式の目的は伝承者の信仰に基づくキリストの宣教にあったのであり、彼らはイエスに対する「史的」興味を最初から持っていなかったことが確認される。そして、福音書記者たちはこの伝承を受容して、それぞれに固有な立場から「福音書」著作したのであるが、その際に彼らは、伝承者の宣教目的を前景に押し出した。それ故に、「史実のイエス」は「宣教のキリスト」の史的前提ではあるが、前者が後者を本質的に規定する事柄ではない、といういうのである。ー以下に、主としてブルトマンの系統に連なる聖書学者たちの「史的イエスの問題」をめぐる論争の経過を、本書の「方法」との関わりにおいて短く報告することにしよう。
問題は、原始教団の「宣教のキリスト」と「史実のイエス」とがブルトマンの主張する意味において断絶しているのか、それとも、ブルトマンの主張を生かしてもなおかつ継続しているのか、ということである。ここで確認しておくべきは、以下に紹介する学者たちはすべて、福音書記者における福音書執筆の目的、あるいは伝承者における伝承形式の動機を無視した上で、「没主体的に」「客観的に」再構成された「史実のイエス」には決別しているということである。そのような「イエス」は、現代史学の立場から見て存在しないのであろう。
(略)
わが国では八木誠一が「神の国」に直面して生きたイエスの実存理解は、「キリスト」にあって生きた原始教団の人々の実存理解の中に、彼らの復活信仰を通して間接的に伝達されたと主張する。(中略)彼によれば、人間実存の根底にはいかなる意味においても歴史の内にあってはならない。それは、超越的存在としての神であるが、同時にそれは、人間に対して歴史を超えながら人間実存をその中に生起せしめる「統合への規定」として働く。これをイエスは「神の国」の中に、そして原始教団の人々は「キリスト」あるいは(神の)「ロゴス」(言葉)の中に見出した。さらに、このような、人間実存を生起せしめる「本質原理」としての「統合への規定」は、元来普遍的なものであって、キリスト者のみならず、ーもちろん彼らとは違った形式においてではあるがーたとえば仏教者もまた知っていた。こうして八木は、「統合への規定」に即して生きた一人の例として『イエス』を私どもに提示したのである。
(略)
このような傾向に対して、激烈な批判を展開しているのが、我が国の最も個性的な聖書学者田川建三である。彼は元来、フランスの聖書学界では最もブルトマンに近く立つトロクメのもとで学んだのであるが、帰国後の赤岩栄との出会い、大学闘争、キリスト教主義大学からの追放という経験と、彼独自の新約学およびマルクス研究の成果とが相俟って、既成のキリスト教、とりわけパウロ主義の中に「現実と観念の逆転」を見出し、キリスト信仰それ事態の止揚を提言する。田川によれば、イエスの言葉の神学的・実存論的解釈をもってしては、イエスを古代の歴史的文脈の中に位置づけることはできない。いわんや八木のごとく、「統合の規定」を視座に据えては、それがいかに論理的に整合していても、実際には、イエスを歴史から切り離して、その一般化・観念化を助長する結果となる。こうして田川自身は、エルサレムというユダヤの首都を中心にしてイエスの弟子ペテロの指導化に成立しつつあった原始キリスト教の主流に対し、ガリラヤという辺境における民衆の立場から批判を加える作業として「福音書」を創出したマルコの立場を高く評価する。そして彼は、このマルコの作業を彼なりに徹底する形で、イエスの言葉伝承を、奇跡物語伝承を媒介として、歴史的ひろがりの中に取り戻すことにより「逆説的反抗者」としてのイエスの生と死の再現を試みるのである。
私には、マルコが直接ペテロの指導下にある弟子集団を批判したとは思われないし、イエス自身に志向した「現実」がパウロによって「観念」に完全に逆転されたとも必ずしも考えられない。しかし、マルコとパウロとでは、イエスに関わるべくとられた視座に、明らかに相違があることは認められなければならない。私見によれば、マルコは死に極まったイエスの世に、それに対してはパウロは世の「低み」としてのイエスの死に、それぞれ視座を設定した。しかも、マルコは、大別すれば、イエスの言葉伝承と奇跡物語伝承に依っており、パウロはこれらの伝承系列とは必ずしも交わらない、イエスを「キリスト」と告白する「信仰告白伝承」に依っている。とすれば、マルコを始祖とする福音書文学を資料としてイエスに接近する際に、また、ブルトマン学派の多くに見られるように、パウロの視座に自らのそれを重ねることは方法論的に正しくないであろう。また、ブルトマン学派の描く『イエス』には、当時の社会的構造とイエスとの関わりが見事に落ちていることも、田川の指摘する通りである。これは、彼らが採用する実存論的方法が史的方法としては有効に機能しない証拠となるであろう。ただ、田川の場合、彼の立場から、ペテロやパウロのみならず、マルコ以前のイエスに関わる伝承をも批判の対象とする際に、伝承批判からイエスの思想を結論するに急で、伝承それ事態の歴史、伝承の担い手の変化、その背後に想定される社会的要因、とりわけ伝承史とイエスとの関係等についての緻密な考察に欠ける憾みがある。もう一つ、果たして田川のごとく、イエスをその生活の基盤においてのみ追体験することにより、換言すれば、そのような基盤の上に構築されたイエスの神信仰を批判的に止揚することによって、イエスの行動と思想を全体として理解できるのかどうかを問わなければならないであろう。この問題は本論に譲ることにして、ここでは伝承から史的イエスへ接近する方法の可能性を明らかにしておかなければならない。
3.7.1.3 福音書の伝承史
ブルトマンによれば、マルコ(60年代)が採用したイエスに関わる伝承は、その「様式」に従って次のように分類される。
A. イエスの言葉
アポフテグマ(イエスの言葉に、伝承の過程で、言葉の語られた史的状況が、物語形式で事後的に付加されたもの)
主の言葉(状況描写なしに、単独に伝承されたイエスの言葉)
B. 物語資料
奇跡物語
歴史物語
さて、マタイとルカ(共に70−80年代)は、右のBの多くとAの若干のものをマルコに負い、その他に両者共通してイエスの言葉資料(これをドイツ語で「資料」を意味する Quelle の頭文字をとって「Q 資料」と呼ぶ)を利用し、これらにマタイおよびルカに固有ないわゆる特殊資料を加えてそれぞれの立場から福音書を編集した。
ヨハネ(90−100年)は、右のA、B、およびQと重なる部分をも採用しているが、その多くは、おそらくBの1と部分的に重なり、しかも、ヨハネの時代には文書として存在していたと思われる「しるし資料」に依っており、他方、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書を、観点を共にする福音書とみなして「共観福音書」と総称する)の場合とはかなり様式を異にするイエスの言葉(たとえば「私は・・・である」という宣言定式、イエスの「離別の言葉」等)を利用して、共観福音書とは異質の視座から福音書を著作している。
(略)
さて、M・ディベリウスは、福音書の「様式史」的研究により、右にあげた伝承様式の背後に、このような種々の様式を生み出した伝承者の「生活の座」として、原始教団の意図的業を確認した。すなわち、Aの1およびBの1の背後に「宣教」、Aの2の背後に「教え」、Bの2の背後に「礼典」という、教団の「生活の座」があった、というのである。こうして、もしも伝承そのものが、教団の宣教、教え、礼典という意図的な業に仕える形で、その様式が形成され、それに内容が盛られ、言い伝えられて行ったとすれば、伝承は、教団の設立以前に活動したイエスとは、必ずしも直接的に連続しないことになるのである。
これに加えて、近年、福音書の研究に「編集史」的方法が導入され、伝承資料に対する核福音書記者の編集作業と編集の視座に見られる彼らに固有な思想が確認されている。さらに、近年になると、福音書伝承そのものーとりわけQーの中に、伝承の担い手としての教団による編集部分を想定することにより、それを手がかりとして、いわゆる「Q教団」の思想が明らかにされている(S・シュルツ)。このような研究の成果は、福音書を史料として試行されるイエス像の史的復元をますます困難なものにする。なぜなら、福音書のイエス像は、編集史的にみれば、各福音書記者伝承を担う各個教団に固有な視座から描き出されたイエスの諸像であって、それは必ずしもイエスの原像とは重なるものではないからである。
従って、以上のことを十分認識した上で、現在できる限り史的『イエス』を執筆しようとすれば、たとえばトロクメのように、右にあげた伝承の様式に準拠して、そのような伝承様式を担った集団のイエス像を並列的に書かざるを得ないことになるであろう。実際トロクメは次のような順序で『イエス』を描いている。『主の言葉のイエス』『アポフテグマのイエス』『物語伝承のイエス』『譬話のイエス』『奇跡物語のイエス』『公人としてのイエス』『イエスは誰か』さらにトルクメの採った方法の新しさは、譬話伝承を担った集団の背後に小市民層を、奇跡物語伝承を担った集団の背後に民間伝承の担い手としての農民層を、それぞれ想定していることである。しかし、彼は残念ながら、このような伝承者と特定の社会層との結びつきを、伝承様式の全体に至るまで徹底させていない。これが後に述べる私どもの方法の一つの課題となるであろう。
さて、このようなイエスの史的復元を試みる者にとっては極めて悲観的な福音書研究の傾向を踏まえながらも、なおかつイエスに対する史的接近への道を方法論的に切り開く可能性が少なくとも私には残されていると思うのである。
その一つは、田川建三が指摘するようにー編集史的方法によって確認されたマルコの史観が、その視座がガリラヤの民衆に据え、イエスの言葉伝承に、奇跡物語伝承を介して、史的状況をとり戻すことに仕えたとすれば、いずれにしてもマルコ福音書は、その成立年代が他の諸福音書に先行している事実からしても、イエスに史的に接近する史料として、比較的に信頼性に富むということである。
次にマタイ福音書は、イエスの教えを旧約の律法の完成とみなすマタイの視座から編集されたことが、編集史的研究によって明らかにされている。ところがこの福音書には、ユダヤ人としてのマタイに即するイエスの言行ーここにはユダヤ主義的傾向が強く出ているーと並んで、これとは全く逆の傾向を示すイエスの言葉、例えば、「汝の敵を愛せよ」というようなその史的信憑性を否定し得ないような言葉もそのまま含まれているのである。このことは、マタイ福音書がマタイ個人による強力な編集作業として成立したというよりも、むしろマタイが所属する教団内の諸処の立場を並置しながら、最終的にはマタイ自身がその視座から纏めようとした結果であるとみなすべきであろう。とすれば、マタイの編集作業からイエス伝承をとり戻すことによって、比較的に信頼性のある史料を確定していくことが、編集史的研究の結果、かえって可能になったことになる。
ルカ福音書の場合、ルカは神による救済の歴史の中心に「時の中心」として「キリスト」を据え、キリストの「十二使徒」によって担われたエルサレム原始教団の歴史の中に「真のイスラエル」の完成を見出しながら、「時の中心」から「原始教団の歴史」を質的に区別している。そしてルカは、このいわゆる「救済史観」から、イエスの個人志向性を、それに対して使徒たちの共同体(教団)志向性を、それぞれ質的に異なるものとして対照的に描き出す。もちろん、その際にルカは、例えば個人的志向性を示すイエスの言葉に、ルカに固有な共同体倫理の視座から手を加えて、福音書の中に編集している。しかしルカが「失われた一匹の羊」の譬話の原型や「よきサマリア人」の譬話のごとき、他の福音書にはない、しかも極めて信憑性の高いイエスの言葉を自らの福音書の中に導入することができたのは、ルカがとりわけイエスの個人志向性を強調しようとした結果なのである。
他方、ヨハネ福音書においてイエスは、十字架を通して天に挙げられた「栄光のキリスト」の「しるし」として描き出されている。そしてここでも、イエスの業はヨハネの解釈に基づく編集を経て再現されている。しかし彼は、幾つかの場合、イエスの業に関する伝承を原型のまま残して、その解釈を、ーヨハネの志向する方向にではあるがー福音書の読者にゆだねている。
最後に、トマス福音書には、トマスの思想をイエスに帰している言葉や、共観福音書に並行するイエスの言葉にも、トマスによる編集の手を加えられた部分がかなり多く認められる。しかしこの福音書には、少なくとも形式的には共観福音書の伝承とほとんど異ならない、あるいは、伝承史的にはそれよりも古い段階を示す言葉も保存されているのである。これは、トマスの目的がイエスの言葉の解釈をートマスの志向する方向にー読者に促すことにあるのだが、その解釈がトマスの手を加えなくても可能な場合は、イエスの言葉を伝承のままで提示した結果であろうと思われる。
いずれにしても、イエスの言行を伝承史的研究のみによって確定することは不可能である。伝承は、例えばその原型が復元されえたとしても、イエス自身が自らの言行に関する記録を残していない限り、彼の振舞の、伝承者の振舞を通して行われたロゴス(言語)化であり、その意味で二次的だからである。このことは、特にイエスの言葉伝承に妥当するであろう。
とすれば、イエスの原像の史的復元を試そうとするならば、イエスの振舞の中で史的蓋然性の最も高い部分から問題を立て直さなければならない。十字架の史実性は、キリスト教以外の資料(F・F・ブルース)から見ても、まず否定できないであろうし、イエス伝承も、たとえそれが断片的に伝えられていたとしても、究極的には十字架刑に極まるイエスの振舞の「ロゴス化」であった。他方、イエスの奇跡伝承や、言葉伝承と全くその性質を異にする受難物語伝の古層から見ても、イエスがこの十字架刑に至る道として、当時社会的に差別されていた「罪人」と同行したこと、そして、そのような振舞が、この人々を差別することによって自らの社会体制を維持しえたユダヤの最高法院勢力と、その宗教的=経済的拠点としての神殿を批判するに至らせ、ついにはその背後に立つローマ国家権力の介入せしめる結果を伴ったこともまた、史実として否定しえないと思われるのである。
従って、以上の前提からイエス伝承の史的信憑性を問おうとすれば、それが一方において伝承史的に最古の層に遡るか否かが、他方においてそれが十字架刑に極まるイエスの振舞に即応しているか否かが問題にされなければならない。そして、私どもには、この条件を満たしている伝承の古層に、比較的信憑性のあるイエス資料を見出すことが許されるのである。
3.7.1.4 歴史家のイエス研究
以上の方法論的成果を踏まえた上で、私どもは、最近の歴史家のイエス研究と、それに対する聖書学者たちの反応を検討しておくことにしよう。
(略)
以下において私は、できる限り厳密な史料批判によってイエスの伝承の古層を掘り起こし、これを史料として、この伝承を担った人々ー彼らはいずれにしても庶民層に属するーに視座を据えながら、十字架の死に極まったイエスの振舞に、この時代の歴史、とりわけ社会構造との関わりにおいて接近を試みるであろう。そのためには、まずイエスの時代の歴史的ー宗教史的諸相を全体として把握しておく必要がある。
3.7.2 II. 時代
3.7.2.1 イエスの誕生と没年
イエスはおそらくヘロデ王治世(BC37-4)の末期に、ガリラヤの町ナザレに生まれ、紀元後30年頃ユダヤの都エルサレムにおいて、ローマのユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスにより十字架に処せられたものと思われる。
(略)
次に問題になるのは、イエスの誕生地である。伝統的には、マタイ福音書1−2章とルカ福音書2章に従い、イエスはユダヤの町ベツレヘムで処女マリアから生まれたと信じられている。しかし、最古のマルコ福音書も、その大部分がマルコ福音書以前に書かれたパウロの手紙も、さらには福音書の中で最も後期に著されたヨハネ福音書も、ベツレヘムにおける処女降誕について何も証言していないのである。そればかりか、ヨハネ7:41-43では、イエスがキリストならば、ダビデ王の子孫としてダビデの誕生地であるベツレヘムから出て来なければならないのに、イエスの出身地はガリラヤである、と主張されている。他方、マルコ12:37のみならず、マタイ22:46、ルカ20:44さえもが、イエスがダビデの子孫であることを否定しているのである。これらの箇所には、イエスが「人の子」または「主」として、すなわち超地上的存在と信じられており、イエスはたとえ「キリスト」であっても、ダビデ王の子孫に連なる単なる地上の王ではないという主張が認められる。しかも興味深いのは、マタイやルカの伝える処女降誕物語自体の中に、一方においてイエスが「ダビデの子」としてベツレヘムに生まれたという伝承と、他方においてイエスの超地上的存在として処女から降誕したという伝承が重なっていることである。もし、イエスが処女から生まれたのならば、どうしてイエスと、そしてマリアとも関係がないはずのヨセフの系図をダビデにまで遡らせる必要があるのであろうか(マタイ1:1-16, ルカ3:23-38)。もっとも、それをマタイは、ダビデを超えてアブラハムにまで、そしてルカはさらに神にまで遡らせているのであるが。このような処女降誕物語には、イエスを「ダビデの子」キリストとして信じる信仰が、おそらくそれに対するユダヤ教側からの批判に促されて、イエスを「神の子」キリストと信じる信仰によって超えられていく伝承の過程、あるいは福音書記者たちの編集の跡が認められる。従って、史実としては、全福音書が一致してイエスについて用いている術語「ナザレ人」あるいは「ナザレ出身者」を文字通りにとって、イエスの出身をガリラヤのナザレとみなすべきであろう。
いずれにしても、私どもにとって重要なことは、イエス時代の政治的・社会的・宗教的背景を、できうる限り正確に把握しておくことであろう。
3.7.2.2 政治的背景
ユダヤの南に隣接するイドマヤ出身の「半ユダヤ人」ヘロデは、その血統・権力欲・残忍な性格故にユダヤ人からは憎悪の対象とされていたが、彼の卓越した政治手腕によって親ローマ政策の功により、ローマ皇帝アウグストゥスから「盟邦の王」(rex socius)の称号と地位とを与えられて、約30年間、パレスチナ全域にその権勢を誇った。しかし彼の没後、この地域は、アウグストゥスの承認を得て彼の三人の息子に分割されることになる。すなわち、ユダヤとサマリアとイドマヤはアルケラオスに、ガリラヤとペレアはアンティパスに、イツリアとテラコニテを含む来たトランスヨルダン地方はフィリッポスにー。その際彼らには、父ヘロデの如く「王」の称号は与えられず、アルケラオスは「民族指導者(エスナルケース)」、アンティパスとフィリポスはそれより一段位の低い、「分封指導者(テトラルケース)」の称号を得るにとどまった。そして、アンティパスは紀元後39年まで、フィリポスは34年までこの地位を保ったが、アルケラオスは既に紀元後6年にユダヤから追放され、以後彼の領地はローマ皇帝直轄属州に編入され、「ユダヤ州」としてローマの総督(Praefectus または Procrator)によって直接治められることになる。
とすれば、イエスがその公生涯を送った時期(28/29-30年頃)は、ガリラヤでは、ヘロデ・アンティパスの、ユダヤではローマ総督の治世下に当たることになる。イエスはその生涯の大部分をガリラヤで送ったのであるし、ガリラヤはユダヤに比較して、風土的にも社会的にも固有性を持っていたことは事実である。しかし、政治的・宗教的にガリラヤは、圧倒的にユダヤの支配下に立っていた。すなわち、政治的にはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスもローマのユダヤ総督の傀儡に過ぎず、宗教的にはガリラヤも徹底的にユダヤ教化されていたのである。このことを念頭に置いて、私どもはまずユダヤの状況から考察していくことにしよう。
ユダヤとサマリアの領主アルケラオスは、度重なる失政、とりわけ彼のユダヤ教大祭司に対する弾圧政策と不法な結婚の故に、たえずユダヤ人の反抗を受けていたのであるが、ついにユダヤ人の支配者(貴族祭司と大土地所有者)が不倶戴天の敵サマリア人と組んでアルケラオスを皇帝アウグストゥスに讒訴するに至った。皇帝はこれを受けて、アルケラオスのその領土内における財産を没収したうえで、かれをガリアに追放する。このようなユダヤ人支配層とローマ皇帝との容易な結びつきは一見奇異に思われるかもしれない。しかし、実はここで、両者の利害が一致していたのである。既に紀元前4年に、すなわち、ヘロデ王が没した年に、ユダヤの支配層は、ユダヤ教徒は神以外に王を戴かないという理由で、パレスチナをローマのシリア州に編入してもらうべく皇帝に願い出ていたのである。この種の請願は、表面的には宗教的にもっともらしさを装ってはいるが、しかし実際には、ユダヤ人の富裕層が自らの財産をヘロデ家の蚕食(〔カイコが桑の葉を食うように〕端から次第に奥深く他の領域を侵略すること。)から守ろうとする自衛手段であったのである。彼らの請願は実現しなかった。しかしこの度は、この種の請願が、無能な領主の仲介と中間搾取を経ずにユダヤ地方を直接支配下に置こうとしていたローマ側の利益とまさに一致することとなったのである。ローマ皇帝は、ユダヤ人支配層に信仰の自由とある程度の自治を認め、彼らの財産に保護を加えることを約束したが、実際にはアルケラオスの旧領地をシリア州に編入することはできず、むしろこれを、シリア州とならぶ皇帝直轄属州、いわゆる「ユダヤ州」にして皇帝の直接支配下に置いたのである。こうして、ユダヤ人の一部特権階級は皇帝の保護下に「平和」を享受したが、大部分のユダヤ民衆は、アルケラオスの治世下よりもまして、新しくローマ側からも課される重税に耐えざるを得ない窮状に陥れられたことになる。ガリラヤのユダが戸籍調査拒否をスローガンに一揆を起こしたのは丁度この年に当たるが、この問題については後にふれることにする。
これ以後、ユダヤ州はローマ総督によって統治されることになる。ポンティウス・ピラトゥスはユダヤ州の五代目の総督に当たり(26-36年在職)、この時代になると皇帝はアウグストゥスからティベリウス(14-37治世)に変わっていたが、ピラトゥスは、ローマでの皇帝以上の実権を振るっていた親衛隊長セヤーヌスの庇護をも得て、ユダヤ人に対して弾圧政策を貫いていたのである。
(略)
さて、ローマの総督がユダヤ州において所有していた最大の権限には徴税権があった。これは「戸籍調査」によって課せられる人頭税・地租の直接税と、移動税・市場税などの間接税から成っており、ローマの大商人「徴税請負人(ブプリカーニ)」によって、ー直接的にはその出先機関であるユダヤの「取税人」によってー徴収され、直接皇帝財庫(フィスクス)に入れられたのである。軍政面では、ユダヤ州総督は五つの「千人隊(コホルス)」からなる「補助軍(アウクシリア)」を掌握し、その中四コホルスを総督の常駐するカイサリアに、一コホルスをエルサレムに配していた。この他に、司法権としては、イエスの時代におそらく、政治犯に対する死刑執行権をもっていたはずである。そして、これらの職権以外の一切はユダヤ人の自治機関である「最高法院(サンヘドリン)」に委託されていたのである。
ユダヤ最高法院の頂点には「大祭司(アルヒエレウス)」が立っており、この職にある人物は「ユダヤ人の元首(プリンケプス)」といわれるほど絶対的権力を、少なくともユダヤの民衆に対しては掌握していた。大祭司職には、伝統的にはサドク家の子孫がついていたのであるが、ハスモン王朝時代(BC134-63)には王が大祭司を兼務し、ローマのポンペウスにより王制が廃止された(B63)以後も、またヘロデ家の治世中も、いずれにしても時の為政者の傀儡的存在ではあったが、ハスモン家の者が、この職をまもっていたのである。しかし、紀元後6年にアルケラオスの領地が皇帝直轄属州に編入された時点において、反アルケラオス運動の功績を認められたアンナス(サドカイ派の貴族祭司)が、シリア州総督クイリニウスによって大祭司職に任命され、以後彼はローマ当局の絶対的信任を得て、彼がこの職を下りた(AD15)以降も、五代の長きに亙ってアンナス家から大祭司が選ばれ、イエスの時代の大祭司カヤパ(AD18-36在職)の時も、実際にはむしろアンナスが大祭司としての実権を握っていたのである。
いずれにしても、最高法院ではこの大祭司の下に八ないし十名からなる最高評議員会組織があり、その後世メンバーが「祭司長たち(アルヒエレイス)」または「役人たち(アルコンテス)」と呼ばれた。この職は貴族祭司と貴族信徒(いずれも大土地所有者)によって占められ、前者は神殿における祭儀執行の長を、後者は神殿守衛隊長と神殿財務管理の役目を果たしていたのである。しかも、大祭司が執務不可能な場合には、この役を神殿守衛隊長が代行することになっていた。もちろん、彼の本職は神殿守衛隊を統率することにあったのであるから、当時のユダヤにおいては宗教(立法・司法)と政治(行政・軍事)がいかに密接に結びついていたかが分かるであろう。他方、神殿財庫管理者はいわゆる「収穫の初穂」、さらに祝祭日毎に、ー特にディアスポラ(国外在移)のユダヤ人からー奉納される莫大な数に昇る貢物の他に、二十歳以上のすべてのユダヤ人から毎年徴収する神殿税(いわゆる「二ドラクマ」)を管理運営することにより、ユダヤ国内の財務を担当したのである。さらに、神殿に仕える祭司たちの生活を支えるために、下級祭司「レビ人」を遣わしてイスラエルに伝統的ないわゆる「十分の一税」を民衆から取り立てていた。その上に、なお東方にあってローマ帝国と対峙していたパルティア王国とユダヤ当局との間には親交があり、パルティア王国からユダヤ神殿にかなりの貢物が搬入されていた、と言われる(C. コルペ)。
最高法院は大祭司を頭として彼の他に七十人の議員によって構成されている。それは、右の祭司長たちまたは役人たちの他に、「長老たち」と「律法学者たち」から成っていた。前者は貴族信徒(大土地所有者)、後者は主として小市民層の利益を代表する。そして、前者が与党的、後者が野党的性格を持ち、前者の多くが「サドカイ派」に属し、後者の中の同志的結合グループに、有名な「パリサイ派」があったのである。
3.7.2.3 サドカイ派とパリサイ派
サドカイ派の呼称は、イスラエルにおける最古・最大の大祭司「サドク」に由来するといわれる。また、一説によるとこの呼称は、「義を行使する」意味のヘブライ語「サドゥク」に遡るとも言われる。いずれにしても彼らは、伝統主義・保守主義の立場をとり、「モーセ律法」ないしは「モーセ五書」のみを聖文書として、ここに認められない、あるいはこれ以後の時代に成立したと言われる新思想ー例えば律法の敷衍解釈による法の細則・天使論・復活思想などーを一切認めなかった。もっとも、政治的には、彼らがユダヤ社会の経済的上層と密着していただけに、外国支配勢力に対しては一般的に協調策をとっている。そのために、たとえば復活思想の否認は、当時における世界体制の思想であるヘレニズム・ローマ思想を受容した結果であるとも説明できる。その意味で、サドカイ派の保守的国民主義は自由主義として機能することもできたのである。実際この派は、紀元前66年にはローマ軍から神殿祭儀を守り、信教の自由を確保して確保してはいる。しかし、イエスの時代には、ローマの傀儡的存在であったアンナス家の大祭司、祭司長たち、長老たちと密着することにより、体制を思想的に擁護する役割を果たしていたのである。
これに対して、「パリサイ派」は「分離者」を意味するヘブライ語「ベルーシーム」に由来すると言われる。彼らは実際、律法を守らない者、いわゆる「地の民(アム・ハ・アレツ)」の不浄から自己を「分離する」ことによって、宗教的清浄の理念を世俗内に貫徹し、その場を彼らの同志的結合「ハーベール」の中に形成していった。その際、彼らがとった手段は「律法」の敷衍解釈であった。その目的は元来、古き律法からその「理念」(ラティオ)を取り出し、それを解釈することに依って新しい時代に生かそうとする、律法のいわゆる「合理化」(ラティオナリジールング)にあったのである(M.ヴェーバー)。彼らが、 サドカイ派と違って、天使論や復活信仰を積極的に受け入れたのも、モーセ五書に固有な「神の使い」(天使)の概念や一元的人間観を、ペルシアから導入された新思想や、マカベア戦争(対シリア解放戦争(BC168-164))による殉教者の排出という新事態に即応せしめて解釈した結果なのである。このような法理念の現実的解釈に依拠する彼らの合理主義は、他国支配勢力に寄りかかった法の精神を曖昧にするサドカイ派、また、法を遵守しない「地の民」から自らを分離しただけではなく、マカベア戦争時代にともに「敬虔派」(ハシーディーム)としてシリアに対する抵抗運動を担ったかつての彼らの同志、いわゆる黙示文学的ラディカリストたちからも袂を分かっていた。このラディカリストたちはー後述するように彼らの中にも種々の分派が存在するがー終末の時に救世主(マスーアハ(メシア)=キリスト(ギリシャ語)、本来は油注がれた者、つまり「王」の意)によって導入される神の国の故に、現実における一切の政治的・宗教的妥協を拒否し、その結果として霊的熱狂に基づく予言活動を行っていた。これに対してパリサイ派は、預言者の時代は既に終わったという認識に立ち、法理念のこの世における貫徹の中に神の国の建設を期待したのである。その結果、律法とその解釈に基づく細則を守らない者は救われないという、いわゆる律法主義に陥る傾向は十分にあったが、この傾向が前景に出てくるのは紀元後70年以後に、この派がユダヤ教正統派の位置についた以後のことであって、イエスの時代にこの傾向を読み取ることについては、慎重でなければならない。なお、主としてパリサイ派出身の律法学者たちは、「教師(ラビ)」と呼ばれて、ガリラヤを含む地方の各地に設立された「会堂(シュナゴーゲー)」で礼拝を司どり、民衆に律法の教育を与えた。最高法院においては、長老たちが保守勢力を代表したのに対して、彼らは都市(主としてエルサレム)の小市民階級を背景に革新勢力を代表した。彼ら自身多くの場合その日常生活においては、皮鞣(なめし)工・天幕作り、大工などの手工に携わっていたのである。
3.7.2.4 社会構造
以上のごとく、ユダヤの最高法院は、社会的には貴族祭司と大土地所有者、および手工業者を中心とする小市民層との利益代表者によって構成されており、サドカイ派とパリサイ派は、それぞれの社会層の存立を宗教的に正当化する役割を果たしていたのである。しかし、当然のことながら、ユダヤ社会全体は、最高法院にその利害を直接反映しえない、圧倒的多数の民衆によって支えられていたのである。もっとも、これらの民衆の声はある程度パリサイ派の律法学者を通してユダヤ支配層に通じたであろうことは否定できない。パリサイ派の中には、たとえばヒルレルのごとき「地の民」出身者も少数ではあるが存在していたからである。しかし、民衆は全体として、経済的にはローマ当局者、大土地所有者による搾取の対象とされ、宗教的社会的にはパリサイ派などにより明らかに差別の対象とされていたのである。
まず注意しなければならないことは、イエスの時代のユダヤではまだ大土地所有者と大商人とが分離していなかったという事実である。たとえば、大土地所有者は彼らの広大な土地にバルサム材や棕櫚の木を植え付け、これからとれる高価な薬品や香料を輸出することによって莫大な利益をあげているだけではなく、小麦をまでー国内の需要にさえ十分ではなかったにもかかわらずー彼らの利益のために輸出の対象としていたのである。他方彼らは、国内においては、穀物の買い占めを手段とする投機によってあくどい商売をしている。穀物の隠匿が行われたことは箴言11:26からも既に明らかである。「穀物を、しまい込んで売らない者は民に呪われる。それを売る者の頭には祝福がある」。これがラビ文献になるとーラビたちの多くが小市民層に属していた。ー彼らに対する怨嗟(えんさ)の声に満ちている。例えば、
祭り(仮庵の祭り)の最終日の夕方になると、すべての人々が煙を見上げた。それが北方にたなびいたら、貧乏人は喜び、土地所有者は悲しんだ。なぜなら、その年には多くの雨が振り、穀物(隠匿されても)腐っ(てしまっ)たからである。煙が南方にたなびいたら、貧乏人は悲しみ、土地所有者は喜んだ。なぜならその年には降雨が少なく、土地所有者が穀物を隠匿し(しまておくことができ)たからである。
こうして、大土地所有者たちは豊作の年には穀物を隠匿しておくことができず、それを法外な安値で放出セざるを得なかったのであるが、しかし、これは同時に余剰穀物をほとんどもっていない小農民にも不当な安値で穀物を売ることを強制する結果を伴ったのである。
このような状態において、とりわけ古代においては穀物の生産が自然条件に大きく支配されていたのであるから、市場価格を一定の額に保つことは問題にならなかったのである。例えば、イエスの時代、穀物四セアの通常値段は一セラ(=一デナリ)であった。具体的に言えば、バケツ一杯ほどの穀物の値段は、日雇い労働者一日分の平均給与に当たる一デナリであった。ところが、凶作の年には、これがその十七倍にはねあがって入るのである。しかも、エルサレムの市場管理者は、最高価格を押さえることはせずに、購買量を制限しているのである。
このような大農場経営に立脚する、いわゆる古代資本主義経済機構は、ローマ市民共同体から巨視的に見れば、奴隷を含むいわゆる「外人(ペレグリーニ)」に対する、ーそしてこれを属州ユダヤの自治共同体から見れば、小農民に対する経済的搾取によって成り立っていたのである。ユダヤの農民は、ーそれが大土地所有者に雇用されている小作人ではなくー小土地を私有する独立自営農民の場合でも、多くの場合、その農具を大土地所有者からの借金によって購うか、あるいは彼らから一定の額で現物を貸与されるかして、農業を営む状態に置かれていた。しかもその借金ないし借財には、律法で禁止されているにもかかわらず、実際には利子がつけられたことは、ラビ文献でも福音書でも(マタイ25:27)確認されている。
このような状態において、ある程度生活条件を安定させるためには、小農民は、通常家内手工や小規模な家畜(主として羊)の飼育、そしてガリラヤでは漁業を営んでいた。しかし、それでも生活を維持しえない悪条件のもとでは、土地を放棄して自ら小作人になるか、町に出て日雇い労働者となるか、あるいは負債奴隷となるか、女子の場合は春をひさぐか、いずれの道を選ばざるをえなかったのである。もちろん、ユダヤにおいて奴隷はー他のローマ所属州の場合とは異なってー七年毎に来る安息年には自動的に解放されるという掟があったので、彼らは比較的に人道的扱いを受けていたはずである。しかし、実際にそして完全にこの掟が守られていたことは疑わしく、また、たとえそれが遵守されていたとしても、解放後に自ら進んで再び奴隷となった、あるいは奴隷とならざるを得なかった例も確認されているのである。特に、このような状態にある農民が不具者となったり重病に取りつかれた時には、大商人に独占されている高価な薬品を入手することはほとんど不可能な彼らにとって、その悲惨さは極に達したはずである。
もちろんここでも、ユダヤには、古代社会においては例外的に、貧民救済組織があった事実があげられるであろう。しかし、この組織が有効に機能していた例証を私どもは確かめることができないのである。また、たとえこのような救済組織に一定の評価を与えたとしても、ユダヤ社会においてーもちろん貧者からみてー最悪の事態は、小家畜飼育者、日雇労働者、売春婦、奴隷、不具者、病人、ーしかも彼らの多くが農民層からでていたのでー小農民それ自体が「地の民」として、他方においては大土地所有者に怨嗟の声をあげているラビたち自身によって、宗教的=社会的な差別の対象とされていたことである。そして、その理由は要するに、ラビの側から見れば、彼らが律法を守らないことにあった。しかし、事実は彼らは律法を守らないのではなく、それを守ることができなかった、あるいは守ることができない状況に置かれていたのである。つまり彼らはローマ当局から人頭税と間接税を徴収され、ユダヤ自治機関からは神殿税(これは貧富の差なく一律に課された)と十分の一税を課されており、後者はたとえこの時代には文字通りに実行されていなかったとしても、なおその上に大土地所有者による投機の被害をもろに受ける状態に立たされていた時、右のような生活状態をとらざるをえなかたことはむしろ当然であろう。それをラビたち、とりわけパリサイ派が宗教的差別の対象としたことは、宗教が政治・経済と密接に結びついていたユダヤ社会において、たとえ彼らが貴族祭司・大土地所有者の政治・経済政策を激しく批判したとしても、全体としては、社会の流動化を阻止し、その固定化を宗教的に正当化することによって、結果としては現代社会体制をイデオロギーで補完する役割を果たしていたことになるであろう。
ただ、ここで注意すべきは、イエスの時代、祭司と民衆の間に社会層上の区別は必ずしも明確につけられないという事実である。貴族祭司が同時に大土地所有者兼大商人であり、最高法院の頂点に立ってユダヤ自治組織の体制を動かしていたことは既に述べた通りである。しかし、一般祭司たち、とりわけ下級祭司、いわゆる「レビ人」たちは、むしろ小農民と同列の、あるいはそれより低い経済生活を余儀なくされていたのである。当時、エルサレム神殿には約八千人の祭司たちと約一万人のレビ人たちが仕えていたといわれるが、その中、約八千人の祭司たちとレビ人たちは、年に交代で一、二ヶ月だけ神殿に奉仕し、その他の期間は多くの場合、地方において一労働者として食いぶちを得ていたのである。ヨセフスによれば、ある時祭司長たちが、祭司たちの脱穀場に僕を遣わして、祭司たちから十分の一税を持ってこさせたが「祭司の中資力を失った者たちは貧困の中に死んでいった」といわれている(ユダヤ古代史20・181)。他方ラビ文献にも、実際に下級祭司たちが十分の一税を求めて農民の脱穀場に這い蹲(うずくま)り、それを得られない時には、自ら農民に雇われ、羊番等の労働を提供し、それを十分の一税に替えた例が記録されている。従ってこの時代には祭司層の間にも階級的ギャップが生じていたのである。
いずれにしても「持てるものは与えられ、持たざるものは持てるものまでも取り上げられるであろう」という福音書(マルコ4・25、マタイ25・29、ルカ19・26)にも収録されている格言は、当時の社会の仕組みを実によく言い当てている。
さて、次には、このようなユダヤの社会構造を踏まえた上で、ユダヤ教の非主流的分派の形成を概観してみることにしよう。
3.7.2.5 ユダヤ教非主流派
紀元後66年から70年まで続いた第一次ユダヤ戦争において対ローマ解放運動を最も積極的に担ったといわれる「ゼロータイ」(熱心党)の内実は極めて複雑で、それだけに仮説も多く、それらをすべて系統立ててここに述べることはできない。
まず、この戦争の担い手は、大祭司アナニアの子エレアザル、下級祭司を代表するシモンの子エレアザル、ガリラヤの民族派ギスガラのヨハネ、さらに戦争末期に至っては、奴隷解放のプログラムをさえ持っていたギオラの子シモンに代表されるセクト、これに加えて、アナニアの子エレアザルとエルサレムにおいて壮絶な内ゲバを繰り返した末に、その指導者メナへムを失ったが、その後マサダに拠って73年の全員自害に至るまで戦いを貫徹したシカリ派によって代表されるであろう。そしてマサダの戦(73年)には後述のエッセネ派も加わっていたことが最近の発掘でほぼ明らかにされているのであるから、この第一次ユダヤ戦争は、これに消極的にしか加わらなかったパリサイ派と、おそらく参加を避けたと思われるキリスト教徒を例外とすれば、ユダヤからガリラヤに至るユダヤ人社会の各層によって担われたっことになる。彼らは、ローマから独立を勝ち取るという一点において結集したのであり、その意味において彼らのイデオロギーの中に黙示的ユダヤ民族主義をはっきりと読み取ることはできるのである。しかし、その具体化が新祭司体制国家か、メシア国家か、あるいは社会革命のプログラムまで含むものなのかによって対立し、緒戦において博した予想外の勝利も束の間のこと、ローマ軍の優勢もあいまって、自滅の運命を辿ることになったのである。
いずれにしてもこの中で、イエスの故里ガリラヤとの関連で注目すべきはシカリ派の場合であろう。すなわち、マサダの戦いを指揮したエレアザルは、エルサレムで殺害されたメナヘムの親類であるといわれ、このメナヘムは、ユダヤーサマリアーペレアのローマ皇帝管轄属州への編入に際し試行された戸籍調査(6年)に、これに反対して一揆を起こしたガリラヤのユダの息子であったといわれている。しかもユダは、既にヘロデ王の治下にガリラヤで反乱を指導したーヨセフスのいわゆるー「盗賊」の首領ヘシキアの息子とみなされている。このようにガリラヤのユダ一家が一貫して反ローマ・反体制運動に関わっていただけではなく、既に述べたように、ギスガラのヨハネもユダヤ戦争には、はるばるガリラヤから農民を率いて参加しているのである。このヨハネが信奉したイデオロギーについては何も詳しいことはわかっていない。しかし、ガリラヤのユダについては、彼がパリサイ派のサドクと共に一揆を起こしたこと、彼の息子メナヘムがメシアを自称したこと等から、一般的にパリサイ派のさはとみなされてきた。しかし最近になって、その黙示的ラディカリズムをむしろエッセネ派の左派とみなされてきている(K・シューベルト)。しかし、いずれにしてもヨセフスによって「盗賊」と名付けられた一揆や反乱の多くが、ユダヤ戦争勃発の60年以上も以前に、しかもそれがユダではなく、他ならぬガリラヤで続発した理由はまだ十分に明らかにされていないのである。
この問題との関わりにおいてガリラヤの風土的特色がーたとえば田川建三によってーあげられている。ガリラヤはユダヤの北方に隣接するサマリアの、さらに北部に位置し、ユダヤ教の中心であるエルサレムから見れば、地理的にも辺境といえる。この地は元来北イスラエル王国に属していたが、紀元前722(または1)年にサマリアとともにアッシリアの属領となって以来、アリストブロス一世の治世(前104−3)にユダヤのハスモン王朝の支配下に置かれていわゆる「ユダヤ化」されるまで、約六百年の間絶えず外国の支配下にあって、ユダヤとは隔絶されていたのである。「異邦人のガリラヤ」(マタイ4・15)という呼称には、この地が、この地が地理的だけではなく精神的にも辺境にあるという意味が含まれているであろう。このような精神的風土を背景として、ガリラヤ人には反ユダヤ的ー反都市(エルサレム)的傾向が現出するのだ、といわれる。しかし、これだけでは少なくともガリラヤのユダ、とりわけその子メナヘムの熱狂的メシアニズムを説明することはできないであろう。彼らはむしろ辺境に位置したが故に、中央のユダヤ人以上にユダヤ人的であろうとしたのではなかろうか。
他方ガリラヤは、ギリシャ植民市「デカポリス」を東に控えているのみならず、領主ヘロデ・アンティパスが自らティベリウス帝に因んで名付けた首都ティベリアスを中心として、慎重にではあるが、しかし積極的にガリラヤのヘレニズム・ローマ化政策をとっている。その上、シリアのダマスカスから地中海のカイサリアに走る「海の街道(ウィア・マリス)」がここを貫通していたために、交通・商業が発達し、ゲネサレ湖を中心とする漁業にも地の利を得ていた。この湖の西北岸は、なだらかな岡に囲まれた牧草地帯で、パレスチナには珍しい亜熱帯性気候に恵まれていたのである。要するにガリラヤは、ユダヤに比して明らかに自然条件に恵まれていたのである。事実、ユダヤはガリラヤなしには経済的になりたたなかったといわれており、エルサレム在住の貴族祭司、大土地所有者は、その土地の多くをガリラヤに持っていたことは当然予想されるであろう。そして、律法学者、パリサイ派の人々は「ラビ」としてガリラヤの諸会堂を支配していた。ユダヤで土地を失った農民たちがガリラヤで漁夫等の職を求めたことも考えられるであろう。このような事情のすべてが重なって、ガリラヤから「盗賊」あるいは「ゼロータイ」の先駆者が排出したと見てさしつかえないのではなかろうか。
さて、パレスチナにはもう一つユダヤ教の分派があった。ー時代を遡ってマカベア戦争の頃、元来はパリサイ派と同様に敬虔派(ハシディーム)に属していたが、戦後、新体制の担い手となったハスモン家から大祭司が出たとき、これを拒否し、イスラエル宗教に伝統なサドク家出身者を大祭司に奉じて荒野に逃れ、この地で、彼らに固有な暦(祝祭日と安息日が重ならない太陽暦)に従って、徹底的な律法遵守と旧約聖書のいやゆる「ナジル派」(民数記6:1-12)の理想実現を計った祭司たちのグループがあった。これが「エッセネ派」とよばれるユダヤ教の分派である。一方、死海の西北岸にいわゆる「クムラン教団」が存在し、かれらが「死海文書」を所有していたことが最近の本文発見と遺跡の発掘によって明らかにされている。そして、この教団がおそらくエッセネ派の一形態であろうことはほぼ間違いないと思われる。ここでは、厳格な宗規に即する徹底した律法生活と、同時に神の恵みに対する絶対的信頼に基づいて信徒相互間に実践さるべき愛の倫理が強調されている。しかも、この中で神の計画が更新され、世界の終末に関する神の予言が実現されるという確信が持たれた。
(略)
以上のごとき、ユダヤ教の主流・反主流いずれにも同定できない、いわゆる「人の子」の来臨を期待する黙示文学者の集団も存在したと思われる。「人の子」の表象は、再びハシディズム運動の担い手によって創出された『ダニエル書』(7章)に遡り、これを展開した黙示文学には『エチオピア語のエノク書』、『第四エズラ書』、『シビュラの託宣』(第五巻)が存在している。なかでも、紀元後一世紀に成立したと思われる『エノク書』においては、神話的「人の子」像の中に王としてのメシア像が吸収されているのであるが、注意すべきはここで人の子が「虐げられたる者の希望」とみなされている限り、イザヤ書61:1(66:2)の意味における「貧しい者」に対する「福音」の告知者に近い表象をともなっていることであろう。しかも、これらの黙示文学には多くの素材が神殿と関係ある諸表象から採用されている。とすれば、このような黙示文学を担った社会層は、地方にあって貧しい生活を強いられた下級祭司以外に考えられないのではないだろうか。
最後にサマリアについて一言しておく。サマリアは、ガリラヤとユダヤの丁度中間に位置するが、この地域はガリラヤとともにアッシリアの一属州に編入されて依頼、イエスの時代に至るまで百年余の間、ユダヤとはほとんど接触がなかった。そのためにここでは、その起源をユダヤ教と共有するが、しかし、ユダヤ教徒は異なる独自の宗教、いわゆる「サマリア教」が成立したのである。すなわち、サマリア人は旧約聖書の中でも、モーセ五書だけを彼らの経典とみなし、エルサレム神殿を拒否して、彼ら独自の神殿をゲリジムに奉じ、「メシア」でも「人の子」でもなく、「預言者」の来臨を待望したのである。そのために、ユダヤ教徒とサマリア人との間には争いが絶えず、ガリラヤ人やユダヤ人がサマリアを通ることさえほとんど不可能なほどであった。ローマ帝国の側から見れば、サマリアもユダヤとともに「ユダヤ州」の一部であったにもかかわらずである。
イエスはこのような時代に、その生涯の大半をガリラヤで過ごし、晩年にエルサレムに上り、この地でローマの極刑「十字架」刑に処されて没したのである。
3.7.3 III. 先駆
イエスが「洗礼者」と呼ばれたヨハネから洗礼を受けたこと(マルコ1:9-11, マタイ3:13-17, ルカ3:21-22, ヨハネ1:29-34)の史実性は否定できないであろう。四つの福音書における洗礼者ヨハネに関する証言から総合的に判断すれば、ヨハネの死後に形成されたヨハネ教団と、イエスの死後に成立したキリスト教団とが一種の競合関係にあたことは事実とみなさざるをえず、私どもがこれから検討するイエスの受洗以前のヨハネに関する記事(マルコ1:2-8, マタイ3:1-12, ルカ3:1-18, 1:5-25, 57-80, ヨハネ1:6-8m 15, 19-28, 3:22-36, その他)にも、このような関係が反映しているのである。そして、この事実が確認されればされるほど、イエスがヨハネから洗礼を受けたということ、すなわちイエスが、たとえ短期間であったとしても、ヨハネの思想的影響下にあったということは、ヨハネ教団と競合関係にあったキリスト教団にとっては不利な事柄であったはずである。
(略)
3.7.4 IV. 民衆と
3.7.4.1 1 ヨハネとイエス
3.7.4.2 2 奇跡物語伝承
3.7.4.3 3 イエスの言葉伝承
3.7.4.4 4 イエスをめぐる人々
3.7.4.5 5 イエスの譬話
3.7.4.6 V. 権力に
ユダヤの権力機構を政治的に掌握していたのは、最高法院の構成員から見ても明らかなように、貴族祭司と大土地所有者(大祭司ー祭司長たちー長老たち)であった。しかし、これを究極的には合法化する機能を果たしていたものが、民衆の指導者と言われた律法学者たち、とりわけパリサイ派であった。そして彼らは、いずれにしても自らの振舞を律法に依拠せしめていたのである。従って、この律法にイエスがどのように関わったかということを見据えておくことが、権力に対するイエスの振舞を考察する出発点となるであろう。そこで私どもはまず、有名な「山上の垂訓」を素材にして、イエスの律法に対する姿勢を明らかにしてみよう。
3.7.4.7 1 律法
いわゆる「山上の垂訓」は、マタイ5:1以下、ルカ6:20以下に記されており、ルカ福音書のほうが、多くの場合、マタイ福音書よりも「垂訓」の原型に近いのである。そしてこのことは、「幸い・・・」で始まる「垂訓」冒頭のイエスの言葉(マタイ5:3−11,ルカ6:20−23)にも妥当する。ここでは、これらの記事の比較から伝承の原型を復元する手続きを一切省略して、復元された原型のみを提示すると、次のことくなるであろう。「貧乏人は、幸いだ」(ルカ6:20a、マタイ5:3a)。「飢えている者は、幸いだ」(ルカ6:21a、マタイ5:6a)。「ないている者は、幸いだ」(ルカ6:21c、マタイ5:4a)。
わたしはこれを、「貧乏人、飢えている者、泣いている者」に対するイエスの慰めの言葉とはとらない。なぜなら、このような人々が幸いでないことを最もよく知っていたのが、他ならぬイエスであったからである。とすれば、この言葉は明らかに逆説的意味を込めて語られたものであろう。すなわち、例えば「地の民(その多くが貧乏人であり、彼らは飢え、泣いていた!)にパンを与えたこの私は災だ」と、飢饉の時に行ったという一人のラビの、まさに逆のことを、イエスはここで発言しているのである。さらには「律法を知らないこの群衆は呪われている」(ヨハネ7:49)と言ったパリサイ人に対して、イエスは、そのような群衆こそ幸いだ。と言い切ったのである。つまり、ここでもイエスは律法に基づくユダヤ人の価値観を逆転している。それ以外のことをこれらに読み込むべきではない。
(略)
3.7.4.8 2 安息日
ユダヤの権力を支えたイデオロギー(ユダヤ教主流派の見解)の基準とされた律法が、民衆の日常生活に最も具体的に関わってきた形の一つに「安息日」の戒めがある。安息日は元来、古代イスラエル農民の農耕生活における休息日に過ぎなかったものである。しかし、それが創世記の天創造神話(1:1−2:4)に取り入れられ、後期ユダヤ教の時代になると、創世記2:4に対する律法学者たちの解釈によって、夥しい数に上る極めて煩瑣な「安息日禁止条項」が作られていた。そして、これが逆に民衆の生活を圧迫する結果になっていたのである。次の記事では、人間があたかもそのために存在しているかのごとき安息日の機能の機能の仕方が問題にされている。
(略)
3.7.4.9 3 清め
3.7.4.10 4 神殿
3.7.4.11 5 納税
3.7.4.12 6 国家権力
3.7.5 VI. 祈り
3.7.6 VII. 死
3.8 イエスとその目撃者たち
副題として「目撃者証言としての福音書」とされている、リチャード・ボウカム著、“Jesus and the Eyewitnesses -- The Gospels as Eyewitness Testimony” by Richard Bauckham の 浅野淳博訳の書籍(新教出版社)からの引用を少しずつ参考として追記していきたいと思う。現在は備忘録的な抜書。
ここでわたしは、福音書が証言記事であるという意識をもつことの重要性を強調しよう。しかし、それは福音書が『歴史でなく証言である』ということではない。証言という種類の歴史記述なのである。そして証言記事という形態には、読者(聴衆)からの信頼が求められるという特徴が欠かせない。これは、無批判の信用を前提としているということではなく、第三者の証拠による裏付けが可能な場合にのみ信頼を置くことができる、という扱いを拒むのである。ある証言を信用するか信用しないかの判断には、十分に合理的な理由が存在しなければならない。証言を信頼することがすなわち合理的批評を介せず『信じる』という非合理的な行為なのではない。合理的に適切な方法で、証言を真正と認めることは可能である。証言記録としての福音書は、わたしたちをイエスの歴史的現実性に導く媒体として適切である。現代における歴史批評学には明確な傾向がある。それによると、証言を信頼するという行為は、歴史学者が独自におこなう検証をとおして真理に到達するうえでの妨げとなされがちである。しかし、すべての歴史がーじつに歴史をも含むすべての知識がー証言に依拠しているという事実に目を向けるものは少ない。特にある種の歴史的事象に関しては、証言の重要性は否定しがたい事実である。本書の最終章では現代史に刻まれたホロコーストという出来事について考えるが、この歴史的出来事の真実に迫ろうとする場合、証言が不可欠な役割を果たしている。わたしたちは次のことを認識しなくてはならない。すなわち、証言とはある事柄の歴史的現実性にいたるための媒介であり、この点で無類の価値を備えているということである。(p.16)
彼ら(パピアスが『主の弟子たち』とよぶ目撃者)は、イエスの公生涯をとおして、その弟子として従い(使徒1:21)そして初代教会にあっては教師として重要な役割を果たした。十二弟子がこのなかに含まれることは当然だが(使徒6:4)それ以外に、多くの弟子がいたことをルカ文書は記しており(ルカ6:17, 8:1-3, 10:1-20, 19:37, 23:27, 24:9, 33, 使徒1:15, 21-23)これらの人物がルカへの情報提供者であったことは十分に考えられる。(p.42)
イランに基づいたボウカムによる統計:シモン(243)、ヨセフ(218)、エリエゼル(166)、ユダ(164)、ヨハナン(122)、ヨシュア(103)。女性名では、マリア、サロメ、シュラム、マルタ、ヨアンナ、サッフィラ、ペレニケ、インマ、マラ、キプロス、サラ(p.72)
ペテロのよるイエス拒絶物語をその文脈から深く理解しようとするならば、これはイエス・キリストの使徒として召命を受ける以前のパウロが教会を迫害していたことを躊躇なく告白する様子と比べられよう。(ガラテヤ1:13,1コリ15:9, 1テモテ1:12-14)(p.167)
正典福音書のテクストはイエスの言動を報告する目撃証言に近い、という本書の議論は、近年一般的な新約聖書研究への異論を唱えるものである。福音書形成に関するもっとも一般的な理解は、目撃者証言と福音書記者が入手するイエス伝承との間には、教会による長い継承期間が横たわっているというものである。そして当然、目撃者が口述伝承プロセスのスタート・ラインにいるが、この伝承は何度も何度も語り直され、再構築され、敷衍され、こうして福音書記者の手元に届いたものが、今度はこれらの記者によって編集された、という理解が一般的である。(p.232)
福音書物語はその終結部分の視点から書かれている、とは非常に言い古された表現だが、これはすなわち、福音書記者が復活し高挙された共同体の主を伝えんがためにイエスの物語を記した、という意味である。(p.347)
エイレナイオスはポリュカルポスに関する記憶を重要視した。なぜなら、それは二人の仲介過程(プリュカルポスとヨハネ)のみを経てイエス自身にたどり着くものだからである。これは、ポリュカルポスとヨハネ両者が長く生きたから可能なのである。エイレナイオスによると、ヨハネはトラヤヌス帝の治世(AD98-)時期まで存命であり、ポリュカルポスはスミルナで156-67年の期間に殉教したときに86歳であった。(p.457)
『他者の証言を信じる傾向は、わたしたち人類にとって基本的な行為である。これは知識に関する他の手段(独立機能)によって正当化されるべきではない。』というリードの理解が近代の哲学者によって受け入れられてこなかったもっとも大きな理由、そしてその結果として哲学研究の題材として証言が注目されてこなかった理由は、啓蒙主義による哲学が個人主義をいまにいたるまで引きずってきたこと、その結果、個人的認識論が他者に依拠する個人の知性という側面を過小評価してきたためである。出発点としての個人的認知という問題が認識論において何よりも重要であり、それが共通的認知(何がわたしたちの知識を特徴づけ、わたしたちは以下に知るようになるか)という課題に対して優先されてきたのである。個人の独立した知識のみを知識として正当化しようとする欲求は、証言を問題視視がちである。(p.472)
歴史学上の厳密性は歴史証言への根本的懐疑主義と同じではない。(p.482)
これは文字とおり、あまりにも境界外の経験であることと関係しており、共通の理解のもとで教育を受けた聴衆の受容力の限界を超えている。理解とは、状況、感情、思考、行動など人間の共通性を基礎として成り立っている。しかしこの経験は、標準的な人間の経験値を外れた非人間的な経験の継承である。この意味において、それは境界外の経験である。(リクール)(p.489)
3.9 年表
Q. イスラエルのバビロン捕囚帰還後から、AD70のエルサレム陥落までの歴史を簡単に年号順にまとめてください。
ChatGPT 3.5 Turbo
以下にイスラエルのバビロン捕囚帰還後からAD70のエルサレム陥落までの歴史を年号順にまとめます。
BC538年:ペルシャの王キュロス2世により、バビロン捕囚のユダヤ人が解放され、エルサレムへの帰還が許される。
BC515年:エルサレムの再建が完了し、第二神殿が建設される。
BC332年:アレクサンドロス大王によってイスラエルが征服され、ヘレニズム文化が広まる。
BC167年:セレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスによって、ユダヤ教の禁止と神殿の略奪が行われる。
BC164年:ユダス・マカバイによるユダス・マカバイの反乱が勃発し、ユダヤ人が神殿を奪還する。
BC63年:ローマ帝国がイスラエルを征服し、ヘロデ大王がイスラエルの王となる。
AD37年:ヘロデ大王の死後、ヘロデの子供たちによるイスラエルの分割と内戦が始まる。
AD70年:第一次ユダヤ戦争の結果、ローマ帝国の将軍ティトゥスによってエルサレムが陥落し、第二神殿が破壊される。
以上がイスラエルのバビロン捕囚帰還後からAD70のエルサレム陥落までの歴史の要点です。
(2023.11.16)
3.10 参考
英文がほとんどですが、ホームページ閲覧ソフト(Web Browser)の翻訳機能を使うことも可能ですし、DeepL のアプリで、ショートカットをオンにしておけば、Ctrl+C+C (Windows)や、Command+C+C(Mac)で、かなり正確な翻訳を読むことも可能です。
わたしは、英語のテキストであれば、ある程度読むことができますが、日本語で他の人に伝えることを考えると、翻訳機能はとても便利です。すくなくとも、わたしよりは、適切な翻案を提案してくれます。
聖書
Early Christian Writings by Peter Kirby(年代などにより分類されてリスト)以下は本文テキストへのリンク、トップページからは解説など様々なリンクがある。下はそのほんの一部であり、このリンクから情報を得て、英訳などを見るのがよい。
- Psalms of Solomon(ソロモンの詩篇)
- The Testaments of the Twelve Patriarchs (十二族長の遺訓)
- The Gospel of Thomas (トマスによる福音書)についての情報
- The Gospel of Thomas (トマスによる福音書)Berlin Working Group によるコプト語の英訳
- Gospel of Thomas Commentary
- Fragments of Papias(パピアス断片)英訳
Perseus Digital Library(タフツ大学 Tufts University)
Christian Classics Ethereal Library (Bringing Christian classic book to Life) CCEL
Fragments of Papias, by Ignatius of Antioch
Introductory Note to the Fragments of Papias: VI にマルコによる福音書について書かれています。
-
- Mandaean Scriptures and Fragments マンデ教の祈祷書
イスラエルの歴史:年表(駐日イスラエル大使館)
地図:Bible Maps
3.10.1 個人的に参考にしたもの
主として参考にしたものを少しずつ書いていきたいと思うが、さしあたって、2000年以降は、読書記録をつけているので、そのリンクを付けておく。
読書記録:本・BOOKS
口語訳:7:13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、/見よ、人の子のような者が、/天の雲に乗ってきて、/日の老いたる者のもとに来ると、/その前に導かれた。14 彼に主権と光栄と国とを賜い、/諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、/なくなることがなく、/その国は滅びることがない。(10:16 見よ、人の子のような者が、わたしのくちびるにさわったので、わたしは口を開き、わが前に立っている者に語って言った、「わが主よ、この幻によって、苦しみがわたしに臨み、全く力を失いました。)↩︎
ヨム・キプールは、ユダヤ教の最も重要な祭日の1つであり、贖罪の日として知られています。ユダヤ教では、ヨム・キプールは毎年、ユダヤ暦のティシュリ月の10日目に祝われます。
ユダヤ暦は、太陰太陽暦であり、月の満ち欠けと太陽の位置に基づいて決定されます。ユダヤ暦の1年は、約354日であり、グレゴリオ暦の1年よりも短くなっています。したがって、ヨム・キプールの日付は、毎年、グレゴリオ暦の日付と異なります。
具体的には、2023年のヨム・キプールは、ユダヤ暦のティシュリ月の10日目にあたる予定です。グレゴリオ暦での日付は、2023年9月30日(金)の夕方から10月1日(土)の夕方までとなります。ただし、ユダヤ教の祭日は日没から翌日の日没までの期間に渡って祝われるため、実際には9月30日の夕方から10月2日の夕方までの期間にわたって祝われます。(SAGE 2023.7.7)↩︎
ChatGPT:プリム祭は、ユダヤ教の祭りの一つで、ユダヤ教暦の12番目の月であるアダル(またはアダルII)の14日に祝われます。ただし、ユダヤ教暦とグレゴリオ暦とは異なるため、グレゴリオ暦のどの月に当たるかは毎年異なります。例えば、2022年のプリム祭は、グレゴリオ暦の2022年3月16日に相当しました。↩︎
タニート・ゲドリア (Ta’anit Gedaliah) は、ユダヤ教の祭日の1つで、紀元前6世紀にバビロンの総督であったゲドリアが暗殺された出来事を記念する断食日です。タニート・ゲドリアは、ユダヤ暦のティシュリ月の3日目に行われます。
ユダヤ暦は、太陰太陽暦であり、月の満ち欠けと太陽の位置に基づいて決定されます。ユダヤ暦の1年は、約354日であり、グレゴリオ暦の1年よりも短くなっています。したがって、タニート・ゲドリアの日付は、毎年、グレゴリオ暦の日付と異なります。
具体的には、2023年のタニート・ゲドリアは、ユダヤ暦のティシュリ月の3日目にあたる予定です。グレゴリオ暦での日付は、2023年9月9日(土)になります。ただし、ユダヤ教の祭日は日没から翌日の日没までの期間に渡って祝われるため、実際には9月8日の夕方から9月9日の夕方までの期間にわたって断食が行われます。(SAGE 2023.7.7)↩︎
ティシャ・ベアヴ (Tisha B’Av) は、ユダヤ教の祭日の1つで、第一神殿と第二神殿の破壊を記念する日です。ティシャ・ベアヴは、ユダヤ暦のアブ月の9日目に行われます。
ユダヤ暦は、太陰太陽暦であり、月の満ち欠けと太陽の位置に基づいて決定されます。ユダヤ暦の1年は、約354日であり、グレゴリオ暦の1年よりも短くなっています。したがって、ティシャ・ベアヴの日付は、毎年、グレゴリオ暦の日付と異なります。
具体的には、2023年のティシャ・ベアヴは、ユダヤ暦のアブ月の9日目にあたる予定です。グレゴリオ暦での日付は、2023年8月6日(日)になります。ただし、ユダヤ教の祭日は日没から翌日の日没までの期間に渡って祝われるため、実際には8月5日の夕方から8月6日の夕方までの期間にわたって断食が行われます。(SAGE 2023.7.7)↩︎
ChatGPT. はい、ゼカリヤ書8:19の「四月の断食と、五月の断食と、七月の断食と、十月の断食」は、それぞれユダヤ教の年中行事です。
四月の断食は、アッシリア王セナケリブがエルサレムを包囲したとき、ユダヤ人が断食した日です。
五月の断食は、バビロニア人によってエルサレムの神殿が破壊された日です。
七月の断食は、バビロニア人がユダヤ人をバビロンに連れ去った日です。
十月の断食は、アッシリア王セナケリブがエルサレムを包囲したときに、ユダヤ人が神に助けを求めた日です。
これらの断食は、ユダヤ人が神の恵みと憐れみを覚えるために行われました。ゼカリヤ書8:19では、これらの断食が喜びと楽しみの日に変わると預言されています。これは、神の恵みによってユダヤ人が救われ、エルサレムが再建されることを意味しています。
Bard. ゼカリヤ書8:19の「四月の断食と、五月の断食と、七月の断食と、十月の断食」は、それぞれユダヤ教の年中行事です。
四月の断食は、アッシリア王セナケリブがエルサレムを包囲したとき、ユダヤ人が断食した日です。
五月の断食は、バビロニア人によってエルサレムの神殿が破壊された日です。
七月の断食は、バビロニア人がユダヤ人をバビロンに連れ去った日です。
十月の断食は、アッシリア王セナケリブがエルサレムを包囲したときに、ユダヤ人が神に助けを求めた日です。
これらの断食は、ユダヤ人が神の恵みと憐れみを覚えるために行われました。ゼカリヤ書8:19では、これらの断食が喜びと楽しみの日に変わると預言されています。これは、神の恵みによってユダヤ人が救われ、エルサレムが再建されることを意味しています。↩︎
口語訳:わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。主はあなたのすべての不義をゆるし、/あなたのすべての病をいやし、 ↩︎
口語訳:主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、/主よ、だれが立つことができましょうか。 しかしあなたには、ゆるしがあるので、/人に恐れかしこまれるでしょう。 ↩︎
口語訳:わたしこそ、わたし自身のために/あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。 ↩︎
マタイ4:10 主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ↩︎
マタイ4:11 御使たちがみもとにきて仕えた。↩︎
1タラントは、6000ドラクメ(6000デナリ相当)。1デナリは一日の給料。↩︎