14 福音書が伝えるイエス
四つの福音書を読みながら、イエスはどのような方なのか考えていきたい。以下は、あくまでも、わたしが読み取ったイエス像であり、一般的にキリスト教会で理解されているものとは、異なることを断っておく。
14.1 マルコによる福音書から
14.2 マルコによる福音書について
聖書箇所:1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
14.2.1 洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える
14.2.2 イエス、洗礼を受ける
14.2.3 試みを受ける
14.2.4 ガリラヤで宣教を始める
14.2.5 四人の漁師を弟子にする
14.2.6 汚れた霊に取りつかれた男を癒やす
14.2.7 多くの病人を癒やす
14.2.8 巡回して宣教する
14.2.9 規定の病を患っている人を清める
14.2.10 体の麻痺した人を癒やす
14.2.11 レビを弟子にする
14.2.12 断食についての問答
14.2.13 安息日に麦の穂を摘む
14.2.14 手の萎えた人を癒やす
14.2.15 湖の岸辺の群衆
14.2.16 十二人を選ぶ
14.2.17 ベルゼブル論争
14.2.18 イエスの母、きょうだい
14.2.19 「種を蒔く人」のたとえ
14.2.20 たとえを用いて話す理由
14.2.21 「種を蒔く人」のたとえの説明
14.2.22 「灯」と「秤」のたとえ
14.2.23 「成長する種」「からし種」たとえを用いて語る
14.2.24 「成長する種」のたとえ
14.2.25 「からし種」のたとえ
14.2.26 たとえを用いて語る
14.2.27 突風を静める
14.2.28 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす
14.2.29 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす(1)
14.2.30 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やす(2)
14.2.31 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女
聖書箇所:
14.2.32 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(1)
14.2.33 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女(2)
14.2.34 ナザレで受け入れられない
14.2.35 十二人を派遣する
14.2.36 洗礼者ヨハネ、殺される
14.2.37 五千人に食べ物を与える
- 五千人の給食とはどのようなものだったのだろうか
14.2.38 五千人に食べ物を与える(1)
14.2.39 五千人に食べ物を与える(2)
14.2.40 湖の上を歩く
14.2.41 ゲネサレトで病人を癒やす
14.2.42 昔の人の言い伝え
聖書箇所:
14.2.43 昔の人の言い伝え(1)
14.2.44 昔の人の言い伝え(2)
14.2.45 シリア・フェニキアの女の信仰
14.2.46 耳が聞こえず舌の回らない人を癒やす
14.2.47 四千人に食べ物を与える
14.2.48 人々はしるしを欲しがる
14.2.49 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
14.2.50 ベトサイダで盲人を癒やす
14.2.51 ペトロ、イエスがメシアであると告白する
14.2.52 イエス、死と復活を予告する
14.2.53 イエスの姿が変わる
14.2.54 汚れた霊に取りつかれた子を癒やす
14.2.55 再び自分の死と復活を予告する
14.2.56 いちばん偉い者
14.2.57 逆らわない者は味方
聖書箇所:マルコによる福音書9章38-41節 福音書対照表/マルコによる福音書9章38-41節 福音書対照表(ルカ参照付)
14.2.58 罪への誘惑
14.2.59 離婚について教える
14.2.60 子どもを祝福する
14.2.61 金持ちの男
14.2.62 金持ちの男(1)
14.2.63 金持ちの男(2)
14.2.64 イエス、三度自分の死と復活を予告する
聖書箇所:マルコによる福音書10章32-34節 福音書対照表/マルコによる福音書10章32-34節 福音書対照表(参照付)
14.2.65 ヤコブとヨハネの願い
14.2.66 盲人バルティマイを癒やす
14.2.67 エルサレムに迎えられる
マルコ、マタイ、ルカでは、このときが公生涯において、最初にエルサレムに来たときとして描かれているが、ヨハネでは、逆に、エルサレムや、その周辺、ユダヤなどでの活動についてたくさん書かれている。
エルサレム入城の書き方が、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネそれぞれに異なる。実際、エルサレム入城は、イエスにとってどのようなものだったのだろう。
14.2.68 神殿から商人を追い出す
聖書箇所:マルコによる福音書11章12-26節 福音書対照表
マルコ、マタイ、ルカでは、宮きよめと言われる記事は、イエスのエルサレム入城のすぐ後に書かれているが、ヨハネでは、イエスの活動の最初に書かれている。
14.2.69 いちじくを呪う
マルコ11:12-14 と 20-26 に分かれて書かれており、その間に、宮きよめ(11:15-19)の記事が挟まっている。マタイでは、宮きよめを先におき、そのあとに、まとめて(21:18-22)記しているが、記述内容的にも、マルコがもとであると思われる。このあと、イエスは、宮で、何日も教え続けることもあり、宮きよめのあとのこととしては、あまり辻褄があわないように、感じる。そこで、個人的には、この地域、ベタニヤなど、エルサレム近郊の信仰者を守るため、共観福音書、とくに、そのもととなっていると思われる、マルコによる福音書には、通常受難週とよばれる、最後の週の活動以外、ユダヤやエルサレムでのイエスの活動を書かないしわ寄せが背景にり、宮きよめの直前に連動させて、いちじくを呪う(あとで、ペテロが「あなたが呪ったいちじく」と言っている)記事が、ここに置かれているのではないかと思う。
しかし、エルサレム入城の翌日ではないかもしれないが、実際に、このようなこともあったのかもしれない。すなわち、イエスが空腹のゆえに、不機嫌になり、それがゆえに、宮きよめのような、乱暴なこともしてしまったのかもしれない。「いちじくの季節でなかったからである。」(13)というマタイにはない一文や、「弟子たちはこれを聞いていた。」(14)という、冷静にながめている弟子たちの記述は、それを表現しているのかもしれないと思う。イエスは、「食をむさぼる者、大酒を飲む者(マタイ11:18,19、ルカ7:33,34)」だとも言われており、聖人君主にあるまじきこととして、このできごとを、なぞが秘められているなどと、特別な解釈をしないほうが良いと思う。同時に、そうであっても、不機嫌ではおわらずに、かならず、たいせつなことを教えてくださるのが、ペテロをはじめとする、弟子たちにとっての、イエスだったのだろう。
祈りについて、または、願いの実現については、簡単に、語れるものではない。ここでは、最初に、「神を信じなさい」(22)とはじめ、「よく聞いておくがよい。」(23a)という重要なことを語るときの、慣用句ではじめ、まずは、神に信頼することから、「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」(23b)と続ける。おそらく、眼の前に、オリーブ山(「この山」)があり、死海(「海」)が見えているかどうかは別として、その光景も想像できる場所だったのだろう。つづけて「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(24)というが、このことばが、独り歩きすると、危険も伴う。神様への信頼、そして、神様が何を望まれるかが理解できていなければ、利己的に、祈りを使ってしまう可能性もあるからである。ここで、「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。」(25)と日常に引き戻すように、ゆるしについて語っている。ここでは、恨み事とあるので、それはなにかと考えてしまうが、「だれかに対して何らかのわだかまり (anything you have against someone)」ぐらいの意味で、それを、許容(προσεύχομαι)しなさいとしているように見える。つづけて「あなたがたのあやまち(παράπτωμα)」(25)とあるものも、英語では、trespasses とも訳されている。それが、神様のご性質なのだろう。常に、小さな過誤も、ゆるしてくださっているということなのだろう。
(2024.9.26)
14.2.70 権威についての問答
「イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、『何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか』。」(マルコ11:27b,28)から始まっている。祭司長、律法学者、長老たちは、最高議会(サンヘドリン)の構成メンバー、主だった人たちという意味だろう。ギリシャ語では、みな、複数男性の定冠詞が3つともについており、みな、複数いたのだろう。
実は、使徒行伝4章7節で弟子たちも、同じように問われている。「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。このときも、大祭司の一族も集まっているので、まさに、最高議会の中心メンバーがイエスの前に現れたのだろう。イエスを殺そうとする企てについては、何回かすでに書かれているが、指導者たちが問うているということでも、重要な場面である。
気になるのは「何の権威」「これらの事」「誰が権威を授けたか」だろう。まず最初に、「これらの事」「そうする権威」である。マルコの記述によると、エルサレムでのことはこのときのことしか書かれていないので、はっきりしない。「これらの事」が、宮きよめ(マルコ11章15-19節)を指すのであれば、もうすこし具体的に問うだろう。すると、マタイ21:23b で「その教えておられる所にきて」とあり、ルカ20:1 では「イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると」とあるので、宮で教えることを指すととるのが良いように思う。マルコでは、直接的には書かれていないが「宮の内を歩いておられると」とあり、回廊(柱:スコラで支えられている)を歩きながら教えるのが、エルサレムでも通常のことであったようなので、「教えていること」について言っていると取るのが自然だろう。マタイ21:14では、宮きよめの際に「そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。」とも書かれているので、そのような噂を聞いたことも背景にあったのかもしれない。実際、ヨハネによる福音書を見ると、癒やしもふくめ、多くのわざをエルサレムおよびその周辺でされていることが分かる。
何の権威によって教えているのか、誰が宮で教える権威を授けたのか、と理解すれば、非常に自然である。そのように書かれていないのは、癒やしのような力ある業や、福音の宣教など、さまざまなことを排除しないように「これらのこと」とまとめられているのかもしれない。一義的に教えることであれば、宮で教えることに関しては、祭司長たち、教える内容については、律法学者たちが、権威を授ける人たちであったのだろう。宮きよめもふくめた全体的な秩序を考えると、長老たちを含めた、最高議会のもとにある事項となる。
しかし、イエスは、直接的には答えず「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」(29b,30)と逆に問い返す。これは、議論の技術などではなく、本質を突いた問いだったと思う。おそらく、この人たちのなかにも、ヨハネの「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(マルコ1:4)は天から、すなわち、神様の喜ばれることと、認めざるをえないと考えていた人もいただろう。ルカが記すように、ヨハネが祭司の子であるなら、ヨハネをよく知っている人もいたことだろう。同時に「人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていた」(32b)ということは、ヨハネのバプテスマが天からのものではないとし、地に引き下ろすことは、自分たちの人々に対する宗教的優位性も失いかねないとうことにもなる。
ヨハネ福音書記者またはその付近には、祭司長の知人(ヨハネ18:15)も居たようであるし、実際、ヨハネ福音書では次のように証言している。「しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。」(ヨハネ12:42,43)心の分裂が表現されている。真理だと思っても、それを受け入れられない。信じても告白できない。さらに、行動にまでは移せない。共観福音書には、かろうじてアリマタヤのヨセフのことが記されているが(マルコ15:43、マタイ27:57、ルカ23:51、ヨハネ19:38)微妙な心の内を持っていた人たちも多かったのだろう。すくなくとも、祭司長、律法学者、長老たちと出てきたら、これは敵対する「悪者」などと考えないほうがよい。わたしたちと同じような人たちだったのではないだろうか。
おそらく、この人たちは「自分たちは、神の御心、真理を知っている。少なくとも、群衆(一般の人々)とは比較にならない知識をもっている。」と考え、「真理を探求するのではなく、自分たちが持っている知識に頼って判断しようとし」さらに、「自分たちの優越によって人々の間で築いてきた『ひとのほまれ』を手放せない。」面はあるのだろう。しかし、わたしたちに、このような態度がないとは言えないように思う。
求められているのは、自分の弱さを知り、悔い改めによって救いをもとめる生き方。神の御心をつねにもとめて、自分の信じることがほんとうに、神様のみ心なのかを問いつづける生き方だろうか。ここで、はからずも、このひとたちは「わかりません」と答えているが、それは、たいせつな出発点であるようにも思う。宿題をもらったと感じた人も居たかもしれない。まさに『わたしの家(宮)は、祈の家ととなえらるべきである』。自分の心が、神様のみこころと同期しているかを問う場所なのだろう。わたしたちも、悔い改めて、自らを低くし、御心を求めて生きるものでありたい。そして、この人たちの中にも、そのような悔い改めを経験したひとがいることを期待する。
(2024.10.3)
14.2.71 「ぶどう園の農夫」のたとえ
彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。(マルコ12:12)
と最後にある。まず「彼ら」は誰であろうか。1節にも「そこでイエスは譬で彼らに語り出された」と彼らが登場するので、それより前、すなわち、権威についての問答で、質問する、祭司長、律法学者、長老たち、これらは、サンヘドリン(最高会議)のメンバーを代表しているが、民の指導者たちをさすと考えてよいだろう。すると、このたとえは、11章27-33節とつながっていると考えるのが良さそうである。
マタイでは、「二人息子」のたとえ(マタイ 21:28-32)が挿入されているが、それを除くと、マタイも、ルカも、権威についての問答のあとに置かれている。注意を要するのは、ルカでは、「そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された」(ルカ20:9)と始まっており、他にもひとが居たことが想定されている。ただ、そのルカも最後は「このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。」(ルカ20:19)となっているので、やはり主としてはたとえが語られた対象は、民の指導者たちと考えてよいだろう。追加しておくと、マタイで挿入されているたとえの最後にも「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:31b,32)とあり、この前の権威についての問答でのイエスの相手である民の指導者が「あなたがた」に対応している。
そうすると、たとえのなかの、ぶどう園の主人は、神様、農夫は、民の指導者たちと理解するのが自然だろう。では、ぶどう園はどうだろうか。おそらく、民の指導者たちが、世話をすべきだった、イスラエルの民を意味するのだろう。しもべたちは、預言者など、神様からの使いで、明確ではないが、バプテスマのヨハネも含まれているように思われる。主人の愛子は、イエスであろう。民の指導者たちは、すでに、宮きよめのときにも、どうかしてイエスを殺そうと計っているが(マルコ 11:18)、その人たちに対して、神の愛子である、イエスが殺されることを語っていることになる。同時に、「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、/わたしたちの目には不思議に見える』」。(マルコ12:10,11)とも語られており、殺されるという事実以上のことが語られている。そのことも含めて、イエスが「これらのことをする権威」(マルコ11:28)に対する、応答以上のものが語られていることになる。
疑問に思うのは、なぜ、民の指導者は、主のしもべを受け入れず、打ちたたき、殺してしまうのか。そして、主は、なぜ、愛子ならうやまってくれると考えたのか。そして、神様が受け取ろうとしていた実は何なのだろうかということである。一つ一つ考えてみよう。
神様は、ぶどう酒が欲しかったのだろうか。おそらく、なにかにたとえられているのだろう。ぶどう園から得られるもの。民から得られるものである。それは、神様が喜ばれること。神様が受けるべき栄光だろうか。それは、神様が望まれること、神様が望まれることをもとめ、神様のみ心に生きることだろうか。それこそが、神様が栄光を受けることだろう。そのことのために、民の指導者は立てられているにもかかわらず、神様の栄光のためではなく、自分たちの栄光のため、自分たちのためになることを求めたということだろうか。それを、神様がうけるべきものを、自分たちのものとするということだろうか。もう少し、適切な表現があるかもしれない。
この民の指導者たちは、民が主に仕えるために立てられた人たちであったはずである。神様は、このひとたちが、神様のためと言っているなら、愛子をうやまってくれることは当然と思ったということだろうか。実際は、そうではない。なんと悲しいことだろうか。しかし、おそらく、それは、様々なところに存在することなのだろう。現代的には、一人ひとりが、神様に従うことがたいせつで、指導者の責任ではないという観方もあるかもしれない。しかし、指導者として立てられるものはおり、互いに愛し合うにしても、神様が喜ばれることのために、互いに助け合うこともまた、当然だろう。責任というより、それを喜びとできるかということだろうか。
民の指導者は、そしてわたしたちは、どうして、そのようにできないのだろうか。それこそじっくり考えるべきことである。
(2024.10.10)
14.2.72 皇帝への税金
聖書箇所:マルコによる福音書12章13-17節 福音書対照表
イエスの言葉じりを捕らえようとして、「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。(14b)と問うてきたひとたちに、「デナリを持ってきて見せなさい」(15b)と答え、彼らがデナリをもってくると、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。(16b)と問い、「カイザルのです」(16c)との答えに対して「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(17a)と命じる。彼らはイエスに驚嘆した。(17b)と終わっているが、なんとも痛快である。しかし、それで良いのだろうか。
まず、我々が理解しておかなければならないのは、聖書に明確に書かれてはいないが、熱心なユダヤ教徒、とくにファリサイ人は、税金を納めることは、ローマに従属することで、自由を失い、アブラハムの子としての尊厳が失われる危機的な状態だと考えていたのではないかと言うことである。ルカ20:20bに「イエスを総督の支配と権威に引き渡す」ことが目的であったとも書かれている。マルコでは、単に「言葉じりを捕らえようとした」とあるだけだが、すでに、イエスを捕らえ(12:12b)殺そうと考えていたことが「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。」(11:18)と、宮きよめの箇所の最後に書かれている。このあとの経緯からも推察できるように、おそらく、死刑の権限は、サンヘドリンにはない。すると、ルカが書いているように、総督に殺してもらうことが合法的に、かつ自分たちの手を汚さず、民衆からの批判の矢面にも立たずにできる最良のこととなる。それには、ここで議論されている、問いは重要で、これもルカが後の裁判の場でのこととして書いているように「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。(ルカ23:2)という言質(げんち:あとで証拠となるような約束の言葉。ことばじち。)をとることを目指したのだろうと想像できる。
我々にとって理解しにくいのは、政治的に、ローマに支配されており、レギオン(大隊)などの存在を見れば、熱心党のテロ的なものではこの状態を覆せず、ヘロデ大王の死後、アケラオの支配から直轄地となったように、その支配が強化されることを見ているひとたちにとっては、税金を納める程度は仕方がないと思うのではないかということである。しかし、貨幣に書かれた、自ら DIV 神とする、ローマ皇帝、最高神祇官と名乗る、政教一致と思われる支配状況の中で、税金を自分たちの貨幣ではなく、支配者の貨幣に支配され、それによって税をも納めることは、我慢ならないことだったのかもしれない。一般的にみると、ローマ帝国は、支配体制も盤石で、制度などもしっかりしていたような印象を受け、当時としては、ある程度、永続可能にみえるが、ユダヤ人にとってはそうではなかったのだろう。ヨハネ8:33の「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。は印象的である。これだけで、十分な理解が得られたとは思わないが。
税金についてイエスはどのように考えていたのだろうか。イエスの「デナリを持ってきて見せなさい」(15b)という、実物教育にまず驚かされる。実際に、デナリには、神的存在、または神との仲介者としての皇帝のイメージが描かれ、言葉が添えられている。それを確認し「これは、だれの肖像、だれの記号か」(16b)と問い、ことばじりを得ようとする人に答えさせる。「カイザルのです」(21a)そのあとで「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(21b)と答えるのである。神のものにも、神の肖像、神の記号が記されているのか。象徴的には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27)も、ひとつの回答なのかもしれない。しかし「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1:1)と信じるなら、すべてのものが神の創造物なのだろう。すると、すべてが神のものとなる。しかし、すると、神のものの中に、カイザルのものがあるのか、それがどのような関係にあるのかが問題になる。とても難しい問題も生じるように思う。実物教育とともに、この質問は、イエスのことばじりを捕らえようとしていた人たちは、それ以上、なにも言えなかったかもしれないとは思うが、イエスが伝えたかったこと、または問いたかったことは何なのだろう。おそらく、最初の問い「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。(14b)に戻るなら、「神様のものは神様にお返しすべきでしょうか。お返ししなければならないでしょうか。」となるように思われる。そして、これは、「すべてのものが神様のものであるなら、神様のものを神様にお返しするにはどのようにしたら良いのでしょうか。という問いにもつながる。」このことを、イエスは考えてもらいたかったのだろうか。神様にお返しすることは、おそらく、神殿税などではなく、神様のみこころを行うこと(マルコ3:35)なのだろうか。
国または統治者と信仰の問題、政治・経済と宗教だろうか、神様のもとでの自由も関係するだろうか、これらについての、現代的意味を考えたいが、イエスのことばは、これらに関係はしていても、明確には何も伝えていないように思う。あくまでも、問いかけなのだろうか。問いかけは、質問者にとっては、驚き(17b)であり、真剣にこのことばについて考えようとしたひとも居たかもしれないが、わたしたちにとってはどうなのだろうか。困難な問題が目の前にあるときに、神様の視点で見てみることが促されているのかもしれないとは思う。自分の置かれた状況や、その他の障壁に困難や苦しみや理不尽さの原因を求めるのではなく、神様がなにを求めておられるか、わたしたちが、どのような応答をすべきかは、問われているように思う。神のものが、神様のしるしが付いているものに囲まれているならば。
(2024.10.17)
14.2.73 復活についての問答
聖書箇所:マルコによる福音書12章18-27節 福音書対照表
23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。と、サドカイ派の人たちが問うた時、イエスは、24b「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。と答え、さらに、26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。と教えている。
神様による復活は、御使のような存在としてよみがえることをいっているのであって、この世での規定などとは、無関係、次元がことなるものであるとまずは述べている部分は、ある程度理解できるように思う。しかし、サドカイ派ということで、モーセ五書のだれでも知っている出エジプト記3章6節からの引用の解釈には驚かされる。確かに、モーセに、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と現在形で語っているのだから、アブラハム、イサク、ヤコブの神であるということは、今も続いているということを意味するように思う。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブも何らかの意味で、神と共に生きていることと、復活とは同一のことなのだろうか。それは、正直良くわからない。
もう少し問いを拡大してみると、「死んだひとが生き返ること、イエスの復活、一般の(イエス以外の)ひとの死後の(最後の日の)復活、神との関係において生き続けること、それぞれの関係と、それぞれの意味についてはどう考えたらよいのだろうか。」少し整理しないといけない。まず、エリヤ(列王記上17:17-24)や、エリシャ(列王記下4:18-37)が、死んだひとを生き返らせたり、イエスが、ヤイロの娘(マルコ5:35-43、マタイ 9:23-26、ルカ 8:49-56)、ナインでのやもめの息子(ルカ7:11-17)、ラザロ(ヨハネ11:38-53)を生き返らす記事は、死から生き返るまで、あまりときを経ていないので、他の三種類のこととは、別のものと分類してもよいように思う。むろん、これらが、神様が肉体の死にも介入しうることを示していることは確かなのだろうが。また、マタイ27:53の記事(そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。)については、検証が難しいので、これも、別のものと分類することにしよう。
すると、大きく分けると、イエスの復活と、一般の人の死後の復活と、ここでイエスが述べている、神と共に生きることに分類できるように思う。どれも難しい。イエスの復活はと、一般の人の死後の復活は、別の機会に扱うこととし、今回のテキストの中心部分を占めると思われる、神と共に生きることについては、ここで考えておきたい。テキストは最初にも引用したように、次のようになっている。
26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている
永遠の方との交わりは、一瞬のこと、わたしたちが肉体的に生きていることではなく、時を超えたものだと伝えているのだろう。すごいこと、素晴らしいことである。
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ11:25-26 )
ヨハネによる福音書の言葉も、通じる部分があるように思われる。ヨハネによる福音書の言葉を使うと、永遠の命だろうか。イエスを通して、神様との交わりの中に生きることだろうか。そのように、抽象化・普遍化してよいのか、不安は残る。
わたしが、現在書けるのはこのぐらいだが、最後に、この箇所の並行箇所におけるルカによる福音書の言葉を引用しておく。
34 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。
38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。
前半における「かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たち」では、復活にあずかることを、それにふさわしい者たちに限定している。「御使い」が「天使(福音書ではここのみ)」に変えられ、さらに、「また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ない」と論理的に、死なないことに結びつけられている。
後半では、「人はみな神に生きるものだから」と、解釈が入っている。パウロの解釈が入っているかどうかまでは、検証できないが、マルコのような素朴な記述ではなく、一歩、踏み込んだものになっていることはたしかである。ルカの解釈である。
まったくの私見でかつ確信・確証もないが、マルコが書かれた時点では、パウロの書簡(少なくとも主要なもの)は、すべえて書かれ、ある程度流布されていた可能性もあると思うが、マルコ著者の周辺、または、マルコの情報源では、復活についての理解が一定しておらず、深められていなかったのかもしれない。そのような背景のもとで生み出されたことも、勘案して読まないといけないのかもしれない。
(2024.10.24)
14.2.74 最も重要な戒め
聖書箇所:マルコによる福音書12章28-34節 福音書対照表
神殿での議論において、「イエスが巧みに答えられたのを認めて」(28b)律法学者が、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」(28c)とイエスに問い、イエスが「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。(29-31)答える。律法学者は「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」(32b,33)と応じたのにたいして、イエスは「あなたは神の国から遠くない」(34b)と応じた箇所である。
マタイに対照箇所があり、ルカの善いサマリア人のたとえの直前にある律法学者との問答も、内容的に非常に似ているが、すくなくとも、マタイ、ルカとも、イエスを試そうとして問うたとあり、マルコに書かれている動機、およびそのあとの、律法学者の応じ方とは異なるので、まずは、マルコのテキストに集中して考えてみたい。
まず、この律法学者は、「イエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した」とあるので、マルコは、このひとを好意的に描いている。最後に、このひとが、イエスのことばに応答したあとにも、「イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた」とあるので、イエスとこの律法学者のやりとりを、マルコが好意的に書いていることは確かだろう。マタイは、このあとの23章で、律法学者、パリサイ人に対して非常に厳しい言葉を延々とイエスが語った様子を描いているので、この律法学者に対しても好意的には書けなかったのかもしれない。
さて、この律法学者の質問は、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」である。これに対して、イエスは、「第一のいましめはこれである」、「第二はこれである」として旧約聖書のことばを引用し、最後に「これより大事ないましめは、ほかにない。」と語っている。「第一のもの」という質問に、第一、第二と答えているので、これらは、一つのもの、または、深く関係しているものと捉えることができるように思う。
旧約聖書にも、また、他の同時代の文書(十二族長の遺言など)からも、旧約聖書にあるたくさんのいましめを数えたり、別のことばで、まとめたり、特別に重要なことばを抽出したりというこころみがされていたようである。その中心にあったのが、「聞け(シェマ)」ではじまる、イエスが最初にあげている、申命記6章4・5節であろう。
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
イエスは、さらに、レビ記19章18節からの引用も用いている。引用は一部であるが、全体は以下のようなものである。
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
この二つを結びつけて、「主(または神)を愛し、隣人を愛する」という表現は、上に挙げた『十二族長の遺言』にもあり、特に新しいことではないようである。
しかし、いくつか気になることがある。イエスのこたえは、
「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
まず、「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 」の部分は、マタイにもルカにも欠けている。また、さらに、小さいことではあるが、申命記にはない、「思いをつくし(with all thy mind)」が、イエスのことばには、入っていることである。
ひとつめについては、あとで考えることにして、思いをつくしは、あとで、この律法学者が復唱している場面では、「知恵をつくし」となっており、英語では、“with all the understanding” であり、すべてをもって、または全身全霊をもってと言う意味のものが、このように表現されているだけで、大きな違いはないかもしれない。しかし、やはり、英語の “mind” から、知的、または理性的な面も含めているということを表現しているのかもしれない。しっかり、イエスが語ったことも考えてみよう。
実は、わたしは、この箇所は、何回か学んでいるが、この二つのいましめをつぎのようにまとめることにしている。
「たいせつなひと(かた)をたいせつにすることは、たいせつなひと(かた)のたいせつなひとをたいせつにすること。」が、神様を愛し、隣人を愛すること。神様を愛することは、かみさまがたいせつなことをたいせつにすること。そして、それは、御心をおこなうとも表現でき、それは、このように表現できるのではないかと思うからである。
レビ記では明らかに、隣人は、同胞、「あなたの民の人々」である。しかし、神様が愛される人びととすれば、それほど、限定されるわけではないし、さらに、「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。」と宣言すれば、全世界のひとを含みうることになるからである。
きょうだい、隣人、すべてのひとは、そう単純に一括りにはならないが、それこそが、知的、または、理性的な面もふくめて、神様を理解し、神様が愛しておられるひとが広がっていき、さらには、自分への神様の愛の大きさ広さも広がっていくことではないだろうか。
最後にイエスが、「あなたは神の国から遠くない」。と語る時、これは、ほとんど満点と、ポジティブなことを表現しているのか、ちょっと足りないということも含んでいるのかどちらかを考えてみよう。もう少し、表現を変えると、なにをもって、イエスが、この律法学者が、適切な答をしたと見たのだろうか。もし、少し足りないとすると、それは、何なのだろうかということである。
個人的には、適切な答えをしたと見たのは、弟子たちではないだろうかと思う。弟子に比較して、適切な旧約聖書(サムエル記上15:22、ホセア6:6)も踏まえて答えていることがあるように思う。同時に、「それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」とあるが、ここからは、弟子たちとの話が書かれていることを考えると、イエスに従っていくこと、イエスとともに生きることによってしか、自分の十字架を負ってイエスに従っていかなければ学べないことがあることを言っているのではないだろうか。弟子たちは、自分たちと比較して、この人はすごいと思ったかもしれないが、弟子たちには、学ぶ機会がつねに与えられていたのかもしれない。
14.2.75 ダビデの子についての問答
聖書箇所:マルコによる福音書12章35-37節 福音書対照表
最も重要な戒めの最後は「それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」(12:34b)で終わっており、様々な人達との議論、問答は終わり、この箇所では、イエスから「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。」と問うところから始まっている。
マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(1:1)から始まるが、イエスがキリストであることについては、ペテロの告白(8:29)以外は、9章41節に「だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。」とある以外は、書かれていない。イエスがキリストであること、どのようなキリストであるかは全体で証言しているが、イエスが、自ら宣言するようなことは書かれていない。そんなマルコで、キリストとは、どのような方かについてこの箇所は、語っている。その意味からも、ここでキリストとうときは、直接的には、イエスのことを指しているのではなく、「イエス・キリストがダビデの子か」と問うているのではなく、最初の問いは、当時待望されていた「来たるべき神の油注がれたもの(キリスト)はダビデの子だと言えるのか」という問いであることを確認しておく必要がある。
ダビデについては、サムエル記上16章から記述が始まり、サムエル記下の全体、そして、先祖と共に眠って、ダビデの町に葬られるまで、イスラエルを40年治めた王である(列王記2章10,11節)また、ナタン預言と呼ばれている、サムエル記下7:8-17では「あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる」(7:16)ことが書かれているだけではなく、「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。」(エゼキエル34:23,24)など、明確とは言えないにしても、ダビデのような神のしもべが、治めるようになるとの預言が旧約聖書にいくつか見られる。(イザヤ9:6,7、11:1,2、詩篇89:20-24)律法学者たちは、この先を、いろいろと議論していたようだ。そのことを踏まえたイエスの問いかけである。
イエスは引き続き次のように語っている。
36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、/『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』。37a このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。
この詩篇は、一般的に、ダビデの詩で、かつ、メシア(キリスト)に関する詩篇だと考えられており、ここで、主は、主なる神、わが主は、メシア、「わが」と読んでいるわたしは、ダビデをさすという理解のもとで、イエスは、「ダビデ自身がキリストを(わが)主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」と言っているのである。
整理すると三つの問いが考えられる。
A. イエスは、キリストはダビデの子だということを否定しているのか。
B. イエスは、自分がダビデの子であることを否定しているのか。
C. キリストは、ダビデの子を超える存在であるということか。
一つ一つ考えていくことにする。A は、少なくとも、表面的には、そのとおりであるように思われる。B については、イエスがキリストであり、かつ、A がその通りなら、論理的帰結として、キリストであるイエスは、ダビデの子ではないとなるが、上にも述べたように、ここでも、イエスは、ここでいうキリストであるかどうかについては、明確にしておらず、否定も肯定もしていないととるのが穏当であろう。最後に、C については、キリストとダビデの関係が明確に示されているわけではないが、ダビデのような、または、ダビデに従属する子分のようなものではないと言っているという意味で、ダビデの子を超える存在であると言っていると解釈してよいだろう。ただ、だから、神の子だと断言するのは、神の子について明確にしなければならいこともあり、すこし、行き過ぎであるように思われる。
簡単に言うと、来たるべきキリストは、ダビデが主と呼ぶようなもので、ダビデの子といわれるようなものではないと言っているのだろう。ダビデの子は、文字通りの息子ではないので、どのように定義するか考える必要があるが。
実は、マルコでは、ダビデの子ということばも非常に注意して使われているように見え、実際にイエスをダビデの子であると、呼ぶのは、エリコでの盲人(10:47,48)だけである。マタイでは、各所でイエスに対してダビデの子と言っていることとは、対照的である。(マタイ1:1(系図)、12:23(ベルゼブル論争)、15:22(カナンの女)、21:9(エルサレム入城))ルカでも、降誕物語からは、ダビデの子孫であることが語られるが、ヨハネ7:42「キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。」や、系図の議論に関する注意(テモテ前書1:4、テトス3:9)を考え、聖霊による処女降誕などの話を考えると、血筋として、ダビデの子孫かどうかは、あまり重要ではないとしたほうがよいように思う。そのいみで、ダビデの子かという問いも、血筋について無関係と理解したほうが良いだろう。
マルコは最後「37b 大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。」で終わっている。問答は前段で終了し、群衆は、イエスの話に非常に良い印象をもっていたことが書かれているのだろう。問答における驚かされる応答とともに、このような議論においても、イエスの聖書の一歩深い理解を通して語られており、非常に興味深い。
14.2.76 律法学者を非難する
聖書箇所:マルコによる福音書12章38-40節 福音書対照表
大ぜいの人々に、「律法学者に気をつけなさい」とイエスは教えている。律法学者に対して、非難しているのではなく、教えの一部として語られていることがたいせつなのだろう。すなわち、ここから、どのような学びを得るかということである。単に、「長い衣を着て歩くこと」や「広場であいさつされること」や「会堂の上席、宴会の上座を好」むことや、「やもめたちの家を食い倒」すことや、「見えのために長い祈」をしなければ良いのだろうか。もし、そうであれば、そのようなものを避けるように教えるべきである。
マルコの律法学者非難は簡素で短く、マタイは非常に長く、ルカは異なる形にまとめてあるようだがそれは何を意味するのだろうか。調べてみると、マルコでは、イエスがパリサイということばを出す箇所は、マルコ 8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。だけのように思われる。イエスの受難告知でも、律法学者としている。ユダヤ人が多い地域で、対抗上、イエスの律法学者批判が拡大しているのかもしれないが、マルコでは、教えに集中しているとして、理解すべきだろう。
しかし、マルコの最初から見てみると、まず、イエスの教えに関して「人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」(マルコ1:22)からはじまり、律法学者やパリサイ人が絡む記事が非常に多いことに気付かされる。ということは、やはり、「律法学者に気をつけなさい」という教えを通して、イエスの真意を受け取らなければならない。
律法学者の対極はおそらくイエスであり、イエスに従うことが、律法学者に注意することなのだろう。すでに、最も大切な戒めとした目的が、神様を愛すること、隣人を愛することからズレてしまっていることを指摘しているのではないだろうか。それを示すには、この短い箇所で十分なのかもしれない。同時に、それは、キリスト者にも同じ危険があることを示してもいるだろう。神様を愛そうとしてはじめたことが、そこから離れてしまう。隣人を愛そうとしてはじめたことが、そこから離れてしまう。離してしまうものは何なのだろうか。おそらく、それが、自分中心視点、利得をもとめることなど、最初の目的とは離れたことが入り込んでしまっていることなのだろう。それを偽善というのかもしれない。自ら気づくことは難しいのかもしれないが、イエスは、それに気づくように促しているように見える。
14.2.77 やもめの献金
聖書箇所:マルコによる福音書12章41-44節 福音書対照表
イエスが、賽銭箱に向かって座り、様子を見ていると、多くの金持ちがたくさん賽銭箱に投げ入れているのに対し、一人の貧しいやもめがレプタ二枚を捧げたのをみて、弟子たちに、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」と教えた箇所である。
マルコと、ルカは、ほぼ同じ構成で、やもめの献金を、ダビデの子についての問答、律法学者を非難する箇所のあと、神殿の崩壊を予告するの前においている。教える相手について、マルコでは、途中で「弟子たちを呼び寄せて」語られるが、ルカでは、その記述はなく、その前の律法学者を非難する箇所の冒頭の、「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちにいわれた。」(20:15)から続いているように思われる。内容を見ると他にもマルコとルカの違いがある。マルコには「さいせん箱にむかってすわり Καὶ καθίσας κατέναντι (over against) τοῦ γαζοφυλακίου」とあるがその部分はルカにはない。そのあとも「多くの金持ち πολλοὶ πλούσιοι」「ひとりの貧しいやもめ μία χήρα πτωχὴ」とマルコではなっているが、ルカでは「金持ちたち」「ある貧しいやもめ」となっている。短い箇所ではあるが全体として、ルカには、マルコの現場を切り取ったような表現が欠け、話し、または教えとしてまとめられているように見える。マタイでは、ダビデの子についての問答のあとは、律法学者とファリサイ派の人々を非難する箇所が殆ど一章続き、最後にルカでは別の箇所に含まれ、マルコにはない、エルサレムのために嘆く記事(マタイ23:37-38, ルカ13:34-35)があり、このやもめの献金についての記事はない。すなわち、律法学者やファリサイ派の人々は批判し、エルサレムが中心であることについては批判的でも、やもめの献金に対して最大の評価をする記事は入れられなかった背景があるのかもしれないと考えられる。ユダヤ人キリスト者の指導的な立場の人達が著書だったことと関係しているのだろうか。
貧しいやもめはなにかの象徴だろうか。やもめのようになれと言っているのだろうか。それとも、そうではないひとを非難しているのだろうか。おそらくそう単純ではないだろうが、少数者(minority)として描かれ、多数者(majority)には、「多くの金持ち」だけでなく、「ありあまる中から投げ入れた」「みんなの者」が含まれ、さらに、弟子たち、クリスチャンにも呼びかけられているのだろう。それ故に、マタイはこの箇所を加えず、律法学者やパリサイ人への批判・呪いでとめておいたのか。そう考えると、キリスト者自身として、心配になり、恐ろしくもなる。現代のキリスト者はどう読むだろうか。しかし、同時に、この貧しいやもめのようになりなさいと言っているのかと言う問いは、深く考えないと行けないと思う。同時に、ザアカイが財産の半分捧げて、イエスに「きょう、救がこの家にきた。」と言われたように、全財産を捧げるのが良いと考えるのもおそらく、適切ではない。
律法学者を非難する前段では、律法学者が律法の真意をそれを守ることによって神様の御心を行い、人々に教えることから離れて、またはそれて、違った方向にいってしまったことが問題であったように思われる。このやもめの献金の箇所でも、献金や寄付の本来の意味からそれてしまっていることが指摘されているのかもしれない。では、献金のとは寄付の目的は何なのだろうか。それをまず考えなければならない。「神様の恵みと憐れみに対する感謝の応答として神様の業に捧げ物と奉仕によって加えさせていただくこと」だろうか。すなわち、神様との関係の営みの中に、捧げ物があるはずである。しかし、それが、自分の義を見せびらかすことになってしまっているのか。それを指摘しているのが、マタイ6章2節の「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」かもしれない。
しかし、この箇所では、同時に、強烈な対比がある。イエスの「だれよりもたくさん入れた」という根拠が、「みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」となっている点である。律法を徹底するとういマタイの山上の垂訓の背景とは異なり、もっと直接的に、神様の視点を教えているように見える。すなわち、神様がどう見ておられるかをイエス様の視点から教えているのだろう。
では、イエスの目から見て(神様の秤で)やはりたくさんいれることがよいのかという問いが生じるが、それも少し違うように思う。では、結局、何を教えているのだろう。神様の視点を解き明かすだけでよいのだろうか。このやもめに「安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ5:34,10:52)と言えるだろうか。神さまに委ねることで良いのだろうか。正直、このやもめの明日がきになってしまう。さらに、このやもめが、もし、その前の律法学者を非難する箇所にあるような、律法学者に家を食い倒された(マルコ12:40)やもめだったら、放って置いて良いのだろうか。どう考えたら良いのだろうか。
この答えはわたしはわからない。しかし、おそらく、それは、正しい答えをイエスに教えてもらうのではなく、わたしたち一人ひとりが、神様の御心を行うことによって、神様とともに働くことに加えさせていただくことに、委ねられているのだろう。Savior Complex (わたしが助けなければいけないという強い感情)はどうしたら良いのだろうか。わからないことは、多い。
14.2.78 神殿の崩壊を予告する
聖書箇所:マルコによる福音書13章1-2節 福音書対照表/マルコによる福音書13章1-2, 3-13節 福音書対照表
神殿の壮麗さに注意を促した弟子のひとりに対して、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。とイエスが答えている箇所で、この次の段落に続く。
柱はすべて金箔で覆われ、それ以外の部分も大きな大理石で作られていたため、白く輝いていたと、ヨセフスが描いている神殿であるが、AD66年からのユダヤの反乱に対し、AD70年に、ローマのテトス将軍によって補給路を断つことで、エルサレム内が飢饉となり、ユダヤは敗北。ローマ軍が金箔を剥がし取るために、丁寧に石柱を「その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなる」かたちで、神殿を破壊したと言われている。
その意味で、ここに書かれているイエスのことばは、40年も前に、そのことを預言したものだと言われ、また学者たちは、あまりにも記述が正確で、それが、おそらく、AD70よりもあとに書かれた、マタイやルカにも全く同じ記述で書かれていることから、マルコが書かれたのも、AD70年代ではないかとも言われている。
神殿破壊のことは、ヨハネ2:19 にも、イエスが、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。と語ったと書かれており、このことは、マタイ27:40でも「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。と、イエスを非難する言葉として書かれているので、こちらの方は、確実にイエスの言葉であろうと思われる。無論、それだからと言って、13章2節をイエスが言わなかったことにはならない。
しかし、この言葉は、基本的には、やもめの献金に関する記事に引き続き、物質的な壮麗さに目を奪われている、「弟子の一人」に対して、物質的な壮麗さは失われることを告げたものだとも取ることができる。その意味でも、預言の成就にこだわらない方がよいように思われる。
実際、このあとに続く会話でも、「いつ、そんなことが起るのでしょうか。」との問いからはじまるが、イエスは、AD70 年のことにとらわれず、主の日や、終わりの時などについて、考えている弟子たちに、たいせつなことを教えようとしておられる。人間の興味としては、世の終わりや、預言の成就に心が囚われてしまうことは、仕方がないが、イエスのメッセージはそこには、ないと思われる。
14.2.79 終末の徴
聖書箇所:マルコによる福音書13章3-13節 福音書対照表/マルコによる福音書13章1-2, 3-13節 福音書対照表
神殿のことに関するイエスの言葉を受けて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。と尋ね、それに対して、イエスが応答している箇所である。
四人の中心的な弟子たちが「ひそかに」「わたしたちにお話しください」とイエスに尋ねる描写はとても、リアルで、弟子たちが、われわれと同じ地平に立っていることを感じさせ、親近感を感じる。しかし、おそらく、そのような問いにも、イエスは、注意すべき点、神様の御心をと伝えているのだろう。
にせのイエスに惑わされるな。戦争や自然災害や飢饉は起こっても、それで終わりではないこと。福音のために証言を求められる。そして、家族などすべての人に憎まれる。と書かれ、それぞれについて、注意点を語っている。一つ一つ実際にこのあと起こったことなのだろう。
個人的には、愛をたいせつにするにもかかわらず、すべての人に憎まれるようになるという箇所がとても衝撃的である。どう向き合えば良いのだろうか。さらに、「福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。」とも書かれている。これはどう理解すれば良いのだろうか。考えたい。
14.2.80 大きな苦難を予告する
聖書箇所:マルコによる福音書13章14-23節 福音書対照表/マルコによる福音書13章14-23, 24-27節 福音書対照表
「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」(14)と始まるこの箇所は、まず、二重の意味があることを理解しなければいけないのだろう。すなわち、直接的には、神殿破壊がされる、ユダヤ戦役(AD66-70)のときのことであり、そして、そこで終わらない、将来のことについて語られている二重の構造である。実際、「荒らす憎むべきもの」は一義的には、ユダヤ教を冒涜し棄教させるために、神殿におぞましいものをもちこんだシリアのアンティオコスによるギリシャ化が想定されている。しかし、それは、イエスの時代にすでに終わっていることでもある。マルコが書かれた時代がユダヤ戦役の前か後かは不明だが、いずれにしても、それこそがこの箇所の預言ではないのだろう。もし、その預言のために書かれたのであれば、その時をもって、意味を失う。実際、「山へ逃げよ」と語られ、ユダヤにいた、その教えゆえに、キリスト者の多くは、山に逃げ、ローマによって滅ぼされなかったことも伝えられている。さらに、ここには「ユダヤにいる人」と限定的にも語られており、キリスト者は、すでに、広い範囲に広がっていたことも想定されている。つまり、ローマによるエルサレムの破壊、神殿崩壊は、ここで語られていることと重なると言えども、それが終わりではないことも確かである。それを理解して、読まなければならない。
イエスが伝えたかったことは、この前の部分(13節まで)で尽きているようにも見えるが、同時に、そこで言われていることが、そのあとの時代に起こったことに照らして、理解しようとしているとも考えられる。いずれにしても、難しい箇所である。
14.2.81 人の子が来る
聖書箇所:マルコによる福音書13章24-27節 福音書対照表/マルコによる福音書13章14-23, 24-27節 福音書対照表
また、イエスの再臨、世の終わりといわれるものが、来ないとは言っていない。まさに、「24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」である。このことに注意を向けなければいけない。
ただし、旧約聖書の預言、そして、ダニエル書からの引用などが中心で、正直、イエスがこのような再臨の現象のことを弟子たちに伝えていたかは、よくわからない。しかし、それは、再臨がないということではない。ヨハネによる福音書などにも、イエスが戻ってくることは繰り返し述べられている。ただ、世の終わり、再臨などについて、イエスが何を私達に伝えたかったのかは、正直よくわからない。おそらく、弟子たちが知りたかったことに、かき消され、もともとのイエスのメッセージを読み取るのが難しくなっているのかもしれない。わたしたちは、主に従って、どう生きるかよりも、そのときがいつで、どのような前兆があるかのほうに、興味が行ってしまうように思う。それは、おそらく、イエスがわたしたちに伝えたかったこととは異なるのだろう。
14.2.82 いちじくの木の教え
聖書箇所:マルコによる福音書13章28-32節 福音書対照表/マルコによる福音書13章28-32, 33-37節 福音書対照表
14.2.83 目を覚ましていなさい
聖書箇所:マルコによる福音書13章33-37節 福音書対照表/マルコによる福音書13章28-32, 33-37節 福音書対照表