Last Update: December 28, 2023
2023年読書記録
- 「AIとオープンソースで真贋を見る目を養う Nourish our eyes of authenticity with AI and open source〜素人の発想力・玄人の技術力 Rich & fruitful ideas from amateurism and professional skills of genuine experts」武藤佳恭 Yoshiyasu TAKEFUJI 谷口敬太 Keita TANIGUCHI 春秋社(ISBN978-4-393-35002-7, 2022.10.20 初版第1刷発行)
出版情報、目次情報。AIについて知識を Update したいと思い借りたが、すばらしい内容、すっかり、武藤さんのファンになってしまった。慶應義塾大学の退任のときの講演をまとめたものだとある。まずは、本のタイトルが、本質を表していて、素晴らしい。おそらく、ご本人自身を、素人とも、ある場合は、玄人とも位置づけておられる。お父さんは、公務員で、その傍ら自動ドアの設計販売をしていたというが、三歳にして、マーブルチョコの入れ物で回転型のスイッチのついた懐中電灯を作成したとか。ものづくりの考えが、AI の世界でも遺憾なく発揮されていて、一つ一つの発明といってよいと思うが、AI を使って、問題解決を目指して、アイディアを結実させていく様子にワクワクさせられる。わたしには、そのようなことは出来ないが、データ・サイエンス教育においても、いろいろなヒントを頂いたように思う。「だれにもわかるデジタル回路」を含め、他の本も読んでみたいと思う。備忘録:GITHUB ACCOUNT、hiscovid:国のコロナ政策でいつ失敗したかを計算できるソフト(台湾、日本、ニュージーランド)、「A.G.Lafley: I think of my failures as a gift 失敗は天からの贈り物だ」(p.56)「行き詰まったとき:隣接分野・異分野の重要トピックの収集やそれを引き寄せるキーワードを活用して検索し、そのテーマの全体像を正しく認識することが肝要である。新しいキーワードの獲得は、新しい概念の獲得でもあり、新たな可能性の領域を出現させてくれる。」(p.57)「一つの道を究めることができれば、そこで考え抜いたことが他の分野にも適用でき、応用力が効いてくることは普通にある。しかし、そもそもの専門領域からすると主たる専門家ではないので、素人、アマチュアとみなされる場合も少なくないが、こうした一つの分野で、卓越した能力をもっているときには、他の分野に援用して優れた勘を働かせることもできるので、その人たちを敢えていえばスーパー・アマチュアとでも言い得るのではないか。主婦たちが日常の積み重ねから、何かを直感的に発想して行ったことがうまくいく時、これも、素人あるいはアマチュアの力を生かした科学と言えるだろう。さらに幼児の当たり前すぎる純朴な疑問、常識を覆すような気付きや感性にハット驚かされ、言葉に窮する場面は多く見られる。こうした幼心から発せられた自然の謎、この世の不思議も実は偉大なるアマチュア力といえるのではなかろうか。」(p.82)「たいていの専門家と呼ばれるひとたちはプライドが高く、過去の業績や常識とされてきた通念に固執し、反論や批判をなかなか受け入れられない。」(p.83)「人生において目の前にたちはだかる問題、それは文系と理系にほどよく分けられられるものではない。問題は一緒くたにやってくるので、そこで考える力を養い、解決の手がかりを見出すためには、固定した枠組みにとらわれない発想と問題解決能力が欠かせないのである。」(p.88)「素人のように真っ新なところから柔軟に捉え、何事も玄人として実行していく。未来への可能性を切り拓く潜在能力は、各人に備わっていることを改めて認識してもらいたい。」(p.89)「オープンデータの活用:その背景には、コンピュータの抽象化とモジュール化によってプログラミングという行為そのものが簡素化されつつあること、さらに、それらによってビッグデータ解析等に役立つ人工知能のオープンソースライブラリも充実し、非常に難解な数学の知識も一旦横において、物事の解析や証明を行えるようになったことがあげられる。ものづくりや建設の世界でも、これまで設計士が一から図面を書き上げる時代が続いたが、現在は部品や材料などのパーツデータはすでにオンラインに多数存在している。それらのパーツ情報の抽象度(詳細度)を設定してダウンロードし、積み木(モジュール)を組み上げるようにして一つの形をコンピュータ上につくりり上げることができる。この抽象化とモジュール化という概念は非常に重要で、この機能そのものが、コンピュータの進化だけでなく学問そのものや、人間の思考や学習プロセスの進化にも貢献している大きな要素といえるかもしれない。」(p.92)「AIができるまでの行程:①AIを作る目的を明確にし、②詳細なデータセットを作成し、③可能なAIモデルを全て試したところで、④AIプログラムを開発し、⑤そこで出た結果を解析し可視化する。AIの目的が明確になってから、データセットづくりが完了するところが最も難解。データを偏り無く、適当な量だけ揃えるためには、ひとつひとつが良いデータでなければならない。そのために不可欠なのが直感力。目的に見合った、最適なデータを手仕事で揃えなければいけないのである。」(p.189)
(2023.1.4)
- 「なぜ人に会うのはつらいのか〜メンタルをすり減らさない38のヒント」佐藤優、斎籐環、中公新書ラクレ750 中央公論新社(ISBN978-4-12-150750-1, 2020.1.10 発行)
出版情報、目次情報。人に会うのがつらいひとがわたしの周囲にも何人もいる。よく、知らない人と会うこと、わたしは、特に苦手ではないが、実は、一方的に話してしまうくせもあり、それは、防衛しているのかもしてないと感じていた。コロナ下で、人と会うことが制限されるなかで、この問いに、正面から向き合っているようなタイトルの本を、娘が読んでいて、わたしも借りて読んだ。「なぜ人に会うのはつらいのか」に正面から答えているようには思えないが、幾つもヒントがあったことは確か。佐藤優(まさる)の本もすこし読んでみたいと思うようになった。以下は備忘録:「木村敏の心理的時間感覚:アンテ・フェストゥム(祭りの前)、ポスト・フェストゥム(祭りの後)、イントラ・フェストゥム(祭りの最中)のような変化」(p.50)「鬼滅隊のメンバーによって殺される鬼たちは、みんな死の直前に走馬灯を見ます。そのほとんどは、忘れていた『被害の記憶』なんですね。つまり、その瞬間、『人間』に戻るのです。人間になって、初めて彼は自らの責任を自覚し、そして尊厳を持った責任の主体として消えていく。そのように見ていくと、この作品は『加害者に転じた被害者をいかに処遇すべきか』という問いに対して、ぎりぎりの、しかしこの上なく優しい回答を試みている、と解釈できるかもしれません。」(p.58)「炭治郎という主人公も鬼に家族を惨殺されるわけですが、彼はひとり『空っぽ』の人間なのです。およそ想像力というものが欠如していて、他人と共感する力も持ち合わせていません。」(p.60)「私自身、対人恐怖症気味の人間で、人と会うのは基本的に苦痛なのです。約束の時間が近づくと、妙に緊張したり不安になったりもします。ところが、不思議なことに、実際に会って話をすると、とたんに心が楽になる。毎回この繰り返しで、会えば楽になるのがわかっているのに、会うまでは苦痛を感じるわけです。」(p.79)「人には実際に会わないと満たされないものが二つあると、私は考えているんですよ。『欲望』と『関係性』です。人間同士が会うことの意義が最大化されるのは、この二点に関してだと言っていいと思うのです。」(p.97)「実習・体験、不確実性は、リアルだからおこる事故で、事故があるから、新たな発見がある。不確実性は、リモートで再現するのは、難しい。」(p.99)「人に会うのに苦痛を感じるのは、そこに『暴力性』があるからだと理解する。しかし、その『暴力』には意味がある。人は、人に会うことで欲望を維持できる。多くの人は、ひとりぼっちで欲望は維持できない。欲望の減退は元気を失わせる原因となることも知っておこう。人と会うことで不確実性は高まる。『偶然の事故』から新しい発見があったり、新たな展開が生み出されたりする。だから対面はリモートにはない意義がある。」(p.115)「脳が様々な問題を外在化する装置になっている。自分がこんな人間なのは、自分をコントロールする脳内分泌物のせいだ。もっと言えば、そういう脳のつくりを遺伝させた親のせいだ。だから自分には責任はない。恨むべきなのは親なのだ。(中略)気分が落ち込んだりするのも脳の問題なのだから、サプリメント的に向精神薬を使って調整しましょう、といった脳の『操作主義』とも親和性が高いことも押さえておく必要があります。」(p.129)「精神医学三大スキャンダル:パブロフは、反体制知識人に『怠慢分裂病』といった病名をつけて強制入院させたが『薬物で思想は変えられない』ことを証明。二つ目、ナチスドイツが精神障害者などに対して行った安楽死政策T4作戦。三つ目、現在進行形の日本の『収容主義』日本の精神医療の隔離政策。約34万床という日本のベッド数は、世界の五分の一を占める。」(p.137-8)「『同義的にけしからんものは取り締まるべき』というような発想が強くて、科学的、医学的にこうです、という話は通じにくい。その政策に凝り固まった麻薬取締官の論理は、たかがエビデンスくらいではびくともしない。まさに『理屈抜き』の世界が今の日本でまかり通っていることは、しっかり認識しておくべき。」(p.147)「スペイン風邪;社会的に外傷化されなかった悲劇」(p.170)「例えば、愛する人を亡くした苦悩といった個人レベルの外傷についてならば、適切に語ることによって、その外傷性を緩和することが可能です。外相がすっかり消えてしまうことはないけれど、無害化・瘢痕化することはできるわけです。一方『社会的外傷』はどうかといえば、逆にしばしば容易に忘却されます。語られることをやめたとき、外傷はなかったことになってしまう。」(p.177)「日本の同調圧力の本質は、『僕は得をしたい』ではなく、『自分だけ損をするのは嫌だ』『人と違う状況にはなりたくない』なんですね。例えば国ぐるみで何かをしようとする時には、国民に『損をしたくない』と思わせてしまえば成功なのです。」(p.191)「メディア人は大衆の心に影響を与えたい、できれば変えてしまいたい、という抜きがたい欲望を持っているというのが、私の理解です。」(p.198)
(2023.1.7)
- 「流れのほとりの木のように〜大樹への出発〜」矢澤俊彦、荘内教会(2022.11.22 発行, 本文131頁)
昨年末に送っていただいて、しばらく読めなかったが、やっと時間をみつけて読むことができた。80歳の牧師である。一度大学でお会いし、二度、教会を訪問し、何度もメールのやりとりをしているので、知人と言ってもよいと思う。書かれたものは、いままでもいくつも読ませていただいたが、今回のものは、よくまとまっていると思う。しかし、同時に、キリスト教信仰について、なにも知らない人に伝えるのは、ほんとうに難しいと、感じさせられた。ひとつは、世の中の変化と、価値観の多様化だろうか。一人一人にメッセージを届けること、または、違った世代の、さまざまな背景のひとと、対話をするのは、難しい。共通の土台を見つけることが困難だからだろうか。しかし、そのような対話に開かれたものでありたいと願う。このような冊子が、多くの人が読めるような形で、残ると良いのだが。第一章 天からの呼び声、第二章 牧師館での連想ゲーム、第三章 自己愛が破れる時、第四章 我がジグザグコース、第五章 地元民へのメッセージ〜荘内日報紙への寄稿から。
(2023.1.15)
- 「ナージャの5つのがっこう」キリーロバ・ナージャ ぶん 市原淳 え、大日本図書(ISBN978-4-477-03130-9, 2018.9.15 第一刷発行)
出版情報。キリーロバ・ナージャ:ソ連(当時)レニングラード生まれ。数学者の父と物理学者の母の転勤とともに、6カ国(ロシア、日本、イギリス、フランス、アメリカ、カナダ)の各国の地元校で教育を受けた。電通に入社後、様々な広告を企画、世界の広告賞を総ナメにし、2015年の世界のコピーライターランキング1位に。その背景にあった世界の多様でアクティブな教育のことを、コラムとして連載し、キッズデザイン賞を受賞。「アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」設立。好きなものはゾウと冒険。著者紹介にある。とある。この絵本では、順に、ロシアのサンクトベルク、イギリスのケンブリッジ、フランス、アメリカ、日本の学校の様子、持ち物、友達、先生を簡潔に描いている。日本のがっこうについて「このがっこうは へんだ・・・とっても へんだ・・・なんで? どうして? りゆうがわからなくて ふしぎなことで いっぱいだーーー。なんでがっこうは4がつにはじめるの? なふだって なに?うわばきって なに? なんで がっこうにぷーるがあるの?スクール水着って? キャップをかぶるの? ぼうさいずきんって なに? したじきって なに? なんでこんなに たくさんのーとがあるの? しゅうじどうぐって なに? ピアニカってなに? ぞうきんてなに? そうじとうばんって なに? きゅうしょくとうばんって なに? たいいくずわりって なに?さかあがりって なに? とびばこって なに? なんで きいろいぼうし? しゅうだんとうこうって なに? ラインひきって なに? くみたいそうって なに? はちまきって なに? ぱんくいきょうそうって なに?らじおたいそうって なに?なんで せんせいはいつもじゃーじなの?」ここでおわらずに、このあとに、「なんで がっこうも きょうしつも こんなに ちがうんだろう? もしかして、もっとほかにも いろんな きょうしつが あるのかな? たとえば・・・」もおもしろい。日本の学校のおかしさは、海外の学校をみると、すぐ疑問になるが、ここまで、列挙されるとさらに、考えたくなってくる。面白い。
(2023.1.16)
- 「<共生>から考える〜倫理学集中講義〜」川本隆史著、岩波現代文庫/学術459、岩波書店(ISBN978-4-00-600459-0, 2022.12.15 第1刷発行)
出版情報・目次。
仮想的な一週間7回の講義と一回の補講という形式で、さまざまな見方を紹介しながら、共生を中心において考える倫理学講義である。いくつか背景があるが、著者から献本していただいた。倫理学も哲学も学問として学んだことはなかったが、共生という、わたしも若い頃からいろいろと考えてきたことばでもあり、考えながら、読むことができた。特に、本文最後の「補講 人間の権利の再定義」の最後に「さて『それで終わり?』と聞いてくる想像上の塾生がいます。(中略)『哲学を本当にやっているの?』との詰問にはこう応じておきましょう。『お前は自分の頭で考えていない』といわれれば、そうだと認めるしかありません。その上で『哲学ではない』と指弾する人に対しては、自分の知識や経験、生活感覚を吟味にさらし、『今とは違ったやり方で考える』(ミシェル・フーコー『快楽の活用』序文)企てという意味での《愛知の業》になら、私は携わっているつもりなのだ、と。」(153)失礼ながら、わたしの生き方も、聖書との向き合い方も、行動や、思考もこのようなものだと考えているので、すこし嬉しかった。以前は、同じ大学に勤めていたときもあったわけだが、いまは、お会いしてお話しする機会もないだろうが、いろいろと伺いたいことが、首をもたげてきたことは、確かである。以下は備忘録。「ロールズ『正義論』:社会をましな暮らし向きの対等な分かち合いを目指す、協働の冒険的企て」(p.12)「石原吉郎全集第3巻528頁:数年前より続いた抑留体験に関するエッセーは詩人の散文による仕事の中心になるものであるが、同時にこの仕事は極度の神経の緊張を強いるものであった。執筆中幾度も精神的不安に襲われ、飲酒量の増す原因にもなった。生来弱者に対して優しい人であったが、この頃から病弱の人への同情がやや極端な傾向を帯びるようになる。」(p.24-25)「石原吉郎:
日常生活をていねいに生きよ。」(p.33)「子どものものの見方の特徴として『自己中心性』(ものごとを自分の立場からしか見ることができない性質)があると論じたピアジェは、自己中心性をこどもが脱却していくプロセスと並行して、大人の権威に縛られたまま目上のものに対して一方的な尊敬を捧げる『他律的な道徳から』共に力を合わせる仲間同士の尊敬を軸とする『自律的な道徳』の段階へと、子どもの道徳の見方も『脱中心化』(decentration) すると考えます。」(p.38)「コールバールのジレンマに対するギリガン:よくよく問うてみると、女の子はこの物語に『コミュニケーションの失敗』を見て取り、コミュニケーションのネットワークの中で自分はどんな『責任』を負っているのか、誰を『世話(ケア)する』べきかを身につまされて悩んでいることがわかりました。」(p.44)「ギリガン:すべての人が他人から応えてもらえ、受け入れられ、取り残されたり傷つけられるものは誰ひとり存在しない人間関係を理想とする。」(p.47)「デューイ:デモクラシーは統治の一形態にとどまらず、それ以上のものである。つまり、デモクラシーとは、第一義的に、多様な人びとが共に生きることの様態、共同のコミュニケーション経験の様態を意味する。」(p.58-59)「科学史家小松美彦:『死の自己決定権』は、死が存立する共鳴的な関係の絆を断ち切り、個性ある死者と個性ある人々との間で成立する個性ある死を無人称化し、個々の死を無機的な死亡一般の中へと飲み込むのである。」(p.73)「『自己決定権』を支持しながら同時にこれを万能視できない両極感情の底には、『他者があることによって生きている感覚』がある。この直感を立岩さんは、教育と医療、福祉の現場で発せられている難問(能力主義や優生学的な発想の克服)にアタックしていきます。」(p.76)「これは『何かではなく、誰かではないものとして私をとらえ、私ではないものとして誰かをとらえることから始まる』ものであって、先ほどの立岩さんの本では、『<他者>が在ることの受容』に相当します。」(p.81)「生態学の二つの意味合い:(1) 産業革命以後、急速に進行した自然破壊に対する反省の上に立って『自然との共生』を基本目標とする。(2) 生物学の一分野として確立されていき、1970年前後から公害に反対する住民運動や環境保護運動との連携を強め、価値中立的な科学という色彩を弱めている。」(p.86)「義務の観念は権利の観念に先立つ。権利の観念は義務の観念に従属し、これに依拠する。ひとつの権利はそれ自体として有効なのではなく、もっぱらこれに呼応する義務によってのみ有効となる。権利に実効性があるかないかは、権利を有する当人ではなく、その人間に何らかの義務を負うことを認める他の人々が決める。個としてみた人間にはもっぱら義務しかない。」(p.107)「シモーヌ・ヴェイユ:あなたを苦しめているものは何ですか。(Quel est ton tourment?」(p.109)「人権概念:①制度的側面、②道徳的側面以外にも、③普遍性、④平等性、⑤不可譲性、⑥切り札性、⑦一応性、⑧歴史性的特徴を有する。」(p.130)「ローティは、人権思想の基盤を『合理性や道徳性の本質についての理解』に求めてきた通説を見直し、『自分たちと異質な人たちとの相違以上に、類似性の方を重視する能力』を向上させる『感傷性の教育』と『悲しい、感傷的な物語』の意義を唱道する。」(p.135)「大沼保昭:今日人権が世界的に注目されるようになった背後には、一時の知的流行を超えて二十一世紀に引き継がれる深刻な問題が存在している。(1) 経済や情報の国境をこえる広がり(国際化)と主権国家体制の相剋。(2) 人間の尊厳を求める全世界的な希求と、欧米による過去の植民地支配や今日の南北の巨大な格差への途上国の怨念・反感との相剋。(3) 東アジア諸国の経済的隆興と欧米中心的な国際情報・文化のあり方との相剋。」(p.136)「『人間の権利の再定義』は『人権』という言葉が直截に語られていないところにあっても、『めちゃくちゃにされ』『自分が自分でなくなるような』窮状を訴えているさまざまな《声》に耳を澄ませるようにするためでもある。」(p.150)
(2023.1.29)
- 「この時のためにこそ〜若きフローレンス・ブースの物語 FOR SUCH A TIME, The story of the young Florence Booth」ジェンティ・フェアバンク著 by Lt. Colonel Jenty Fairbank, 張田和子訳 救世軍本営(ISBN978-4-87685-032-7, 2022.11.10 初版 第1刷発行)
出版情報。救世軍の方から出来たてのものを頂いたが、やっと読むことができた。医師の家に生まれ、早くに母を亡くし、父にもなかなか救世軍に入ることを支持されず、苦しんだことも書かれている。救世軍の初代の指導者ウイリアム・ブースの長男ブラムエルと結婚し、第二代の指導者夫妻となった、フローレンス・ソーパー・ブースの前半生を、日記などを資料として紡いでいる。特に、人身売買などで、苦しんでいた女性を助け、教育をする施設をはじめ、家庭団の創立をするなど、身を粉にして奉仕した女性である。ジョン・ウエスレーのメソジストの流れが色濃く現れ、霊的体験から献身、家族も全員が献身していく姿勢など、時代的なものも感じ、本人も辛さを各所で表現しているが、その生身の人間の奉仕のこころを痛いほど感じることができたことは確かである。以下は備忘録。「さて、ソーパー家のクリスマスでは、いつも思い出に残るものだった。それが、不思議なことにブース家の習慣と重なっていた。というのは、1860年代の終わりに向けてウイリアム・ブースは『私は自分たちを喜ばすようなクリスマスは二度と過ごすことはしないだろう!』と宣言した。その言葉通り、その次の年のクリスマスからは、一家総出で東ロンドンのスラム街に、台所で焼いた手作りのブラムプディング150個を配り歩いたのであった。ソーパー家でもこれとよく似たことが行われていたのである。1880年、クリスマスの朝の礼拝が終わるソーパー家の面々はいつものように、最も貧しい患者たちのためにクリスマスの食事を提供した。ソーパー医師自ら牛のサーロイン・ステーキを切り分けた。いろいろな大きさのクリスマスプディングが熱々に蒸し上がっていた。患者たちはそれぞれ家族一人が食事を受け取りに来ていて、ソーパー医師はその全員に優しい言葉をかけ、具合の悪い家族の様子を訪ねたりするのだった。また、子どもたちには洋服、女性たちにはショールなどのプレゼントを用意したが、フローレンスは、その年は短い手紙と御言葉を添えて渡した。」(p.24)「ひどく気分が落ち込んでしまった。でも、イエスはわがすべて。他に求めるものはなにもないと言えるほど回復した。」(p.84)「1885年の法改正:(性交渉の)同意の年齢が13歳から16歳に上がった。麻薬を使ったり、脅したり、不正手段によって、少女たちに売春をさせることは犯罪である。自分の屋敷内で未成年の性交を許すものを処罰する。18歳以下の少女を、肉欲のためであることに彼女が同意しないまま誘拐することは、犯罪である。治安判事は、失踪した女性たちを探し出すために捜索令状を出す権限をもつ。法律上の保護者たちが、少女が誘拐されることを見逃すならば、裁判官は彼らから少女を引き離す原研を持つ。売春宿に対しては訴訟手続きを整える。重罪の強姦の年齢を13歳に、軽罪の強姦を知能の低い婦人や少女と同様、13歳と16歳の間とした。」(p.114-5)「私たちの子どもは生まれる前から、救世軍の中で神への奉仕に献げられていました。私が素晴らしいと思うのは、女の子であれ、男の子であれ、こどもたちに対する神の愛に溢れたご計画は同じであるということです。私たちの七人の子ども一人ひろちが、聖霊の感化を受け、奉仕の喜びをもって弟子としての十字架を担うと思うと、言葉に表せないほどの喜びを覚えます。彼らは皆若いときに主イエスを知り、聖霊の恵み深い働きがこどもたちに自分の必要を悟らせてくださったのです。」(p.138)「翻訳に携わって:フローレンス・ソーパーは、救世軍の創立者ウイリアム・ブースの長男ブラムエルと結婚しました。家事をしたことがなかった彼女は家政のやりくりに苦労し、『子どもは好きではなかったし、欲しいとも思わなかった』彼女が、七人のこどもたちを育て、救世軍の働きのために必要な時間と、子どもたちのために用いるべき時間、何をどれだけなすべきか、識別させてください。と祈ったという彼女の思いは、私の心にも強く響きました。」(p.159)
(2023.2.6)
- 「6カ国転校生ーナージャの発見 The Discoveries of Nadya」キリーロバ・ナージャ著 by Nadya Kirillova 集英社インターナショナル(ISBN978-4-7976-7413-2, 2022.7.10 第1刷発行)
出版情報・概要・もくじより・著者略歴。ロシア(サンクトベッテルブルグ/ロシア語)小1(6歳)、日本(京都/日本語)年長(7歳)、イギリス(ケンブリッジ/英語)小3/前半(8歳)、フランス(パリ/フランス語)小3/後半(9歳)、日本(東京/日本語)小4(10歳)、アメリカ(ウィスコンシン州マディソン/英語)小5(11歳)、日本(東京/日本語)小6(12歳)、カナダ(モントリオール/英語・フランス語)中1・中2(13・14歳)、日本(札幌/日本語)中3(15歳)。これがナージャの6カ国転校ヒストリーとある。お父さんが、数学者、お母さんが、天文学者とあるので、わたしの知り合いでそれぞれの場所でしっているひともいるかもしれない。現在、児童養護施設に関わっており、特に、小学生、中学生を見ていることもあり、興味をもって読んだ。違いとその背景にある意味と、考え方を解き明かしているが、同時に、このなかで、ことばも、不自由な中、さまざまに学んでいく過程を想像してしまった。「電通アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」のメンバーで、コピーライターとして、世界的にもさまざまな賞を取っておられるが、その背景を描いているとも言える。「おわりに」を引用してみよう。どこの国がいちばんよかったですか?わたしにとっていちばんよく聞かれて、いちばん答えに困る質問が実はこれ。なぜなら、正解がないと思っているから。あるいは、かぞえきれないほどの正解があると言ってもいいかもしれない。筆記用具として、えんぴつがベストか?ペンがベストか?ということに絶対的な正解がないように、「親と一緒に登校する。ひとりで登校する。」「自己主張する、調和を大事にする」「7に横棒をつける、7に横棒をつけない」「計算機を使う、暗算をする」「カタチからはいる、目的からはいる」「自由にやる、ルールに沿ってやる」「個人プレーで戦う、チームプレーで戦う」・・・どちらが「正解」というわけではない。国によって先生の言うことも180度違うことを、何度も経験してきた。ずっと「正解」が変わり続ける環境の中で、「誰かの正解」は、必ずしも「自分の正解」ではないことにも気づいた。講演などで大人の統計を取れば、だいたい自由に見えるアメリカの学校が一番人気で、グループで学ぶイギリスの学校が2番手になる。でも、低学年のこどもに、なんと大人が選ばない日本の学校が一番人気!高学年になれば人気の学校はまた変わる。いつなぜこの違いがうまれるのかはまだ発見できていないけれど、一番人気が変わるのは考えてみれば当たり前。人見知りにとって、とにかく自己主張を求められる環境はつらいし、逆に自己主張が得意な子どもは、自分の意見を殺さないといけない環境につらさを感じるに違いない。褒められて伸びるタイプもいれば、プレッシャーがないと力を発揮できないタイプもいる。チームワークによって、飛躍的に活躍する子どもも、個人の方が能力を伸びるこどももいる。同じ家族でも、親にとってのベストと子どもにとってのベストは違うし、兄弟でもベストは異なる。同じ国の学校でも、今と30年前とでは違うところが必ずある。かつてのイギリスの教室が、今のアメリカの教室に、フランスの教室が今の日本の教室になっていたりする。読み書きができることが当たり前になれば、次に社会が必要とする能力を身につけられるように学び方がシフトする。だから、「絶対的な正解」をみんなでさがすのではなく、一人一人の「正解」をみんなでみつけていくしかないのだ。それが、6カ国転校生ナージャのいちばんの発見なのかもしれない。子どもが変われば、ベストは変わる。時代が変われば、ベストは変わる。目的が変われば、ベストは変わる。正解はない。違いがあるだけ。あなたにとってもベストはなんですか? *本書の第1章は電通総研「電通アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」掲載「ナージャの6カ国教育比較コラム」(2015.11.27〜2016.07.28)、第2章は、日経xwoman掲載「世界6カ国育ち&日本で働くナージャが教えるグローバルスキル」(2020.04.09〜10.06)を大幅に加筆修正し、構成し直したものです。以下追記:第2章大人になったナージャの5つの発見 ①「ふつう」が最大の個性だった!?「ふつう」を「個性」として考えるためのヒント 1. 意識して、違う「ふつう」の環境に身を置いてみる。2. 自分の「ふつう」に他の「ふつう」を少し混ぜてみる。3. どちらにとってもあたらしい「ふつう」が生まれる。4. みんながそれを「個性」として重宝するようになる。②苦手なことは克服しなくてもいい! わたしが見つけた「苦手」を克服しないで活躍する法則 1. 自分の「苦手」をしっかり把握する。2. 目の前にあるルールの抜け道を探す。3. 自分がこれならできるやりかたに変えてみる。4. 実行してみる。③人見知りでも大丈夫!しゃべらなくても大丈夫! 1. 客観的に人や状況を観察する。2. しゃべる前にしゃべる内容としゃべりかたを考える。3. こう言ったらどんな反応があるかとなあと予想もする。4. 返ってきた言葉を振り返って、次の発言を考える。④どんな場所にも必ずいいところがある! ⑤6カ国の先生からもらったステキなヒントたち。1. 「すべてに理由、そして面白さがある」ロシアの先生、2. 「分からないことがあるから、仲間がいる」イギリスの先生、3.「人生に完璧はなかなかない」フランスの先生、4.「わたしも、答えを知らない」アメリカの先生、5. 「目標を立てるのも、達成するのも自分だ」カナダの先生、6. 「前例を覆すからこそ、進化がある」日本の先生。
(2023.3.24)(2回目:2023.3.28)
- 「ヒミツのひだりききクラブ レアキッズのための絵本 (レアキッズのための絵本) 」キリーロバ・ナージャ著、古谷萌・五十嵐淳子 (絵)、文響社(ISBN9784866514086, 2021.10.7 第1刷発行)
出版情報・著者紹介。図書館で読んだ。世界の歴史上の左利きや、仲間がたくさんいることなどを紹介した後で、ここで知ったことは、ヒミツと書いている。正しさで人を変えていくのではなく、すばらしい仲間がたくさんいることと共に、自分の個性として、生きることだろうか。アプローチとしても、素晴らしいと思う。
(2023.3.29)
- 「じゃがいもへんなの レアキッズのための絵本」キリーロバ・ナージャ著、古谷萌・五十嵐淳子 (絵)、文響社(ISBN9784866515496, 2022.12.8 第1刷発行)
出版情報・著者紹介。「みぎききにはぜったいないしょ。」「右利きのみなさんは、この絵本を読む時、左利きになってみてください。鈴木福」図書館で読んだ。じゃがいもが南米からまずヨーロッパにもたらされた時、かなり嫌われたが、牢屋に入っていた博士と会い、世界中に広まっていたことを書いている。じゃがいも三兄弟のはなしとして、へんといわれて、嫌われてから、レアさで人気者になることが書かれている。「へん」が、すこし誇らしくなるかな。なかなかたいへんだなとも感じた。わがやのこどもたちは、みな同じ大学に入ったが、気に入った理由が「へんでいい大学」「へんなひとがたくさん」とのこと。実は、そんな大学が日本では、とてもレアなのだとちょっと寂しくなった。
(2023.3.29)
- 「からあげビーチ レアキッズのための絵本」キリーロバ・ナージャ著、古谷萌・五十嵐淳子 (絵)、文響社(ISBN9784866513652, 2021.5.13 第1刷発行)
出版情報・著者紹介。「みんな違ってあたりまえ、自分らしく生きよう。アレルギー、菜食主義? 親子で食の多様性を学べる本」とある。近くの図書館にもあるはずだったが見つけられず、少し離れた図書館で読んだ。からあげクンがビーチに行き、衣を脱ぐと、近くにさまざまなからあげが現れ、12歳でベジタリアンになったという、ナージャでも、食べられそうなからあげや、アレルギーなどさまざまな理由で、食べられない多種多様なからあげが、ころもの違いも含めて登場する。宗教、信条、体調などの多様さを包摂するメッセージが込められている。ただ、ヤム芋や、キャッサバしか食べられない人たちのことを思うと、ちょっと贅沢かなとも思ってしまった。多様さを包摂することは、豊かさと関連はあっても、ベクトルの方向はちがうことも確かだが。「レアキッズのための絵本」三冊を比較すると、難しいこともあるなと思わされた。
(2023.3.30)
- 「イノベーションするAI」武藤佳恭・宇田川誠著著、春秋社(ISBN9784393350010, 2019.11.20 第1刷発行)
出版情報。PowerShell: Enable-WindowsOptionalFeature -Online -FeatureName Microsoft-Windows-Subsystem-Linux で、Linux が使えるようになっていることも初めて知った。目次情報:序 科学とは脆弱で暫定的なもの 第1章 ブレークスルー、第2章 人工知能、第3章 セキュリティ、第4章 奇想天外な発想と常識のウソ、ホント、特別付録 スパコンをつくってみよう! 人工知能社会のこれからーあとがきに代えて。第1章3.GPU が壁を超えるが、内容的にも、話としてもよく書けていて興味を持った。"GPU parallel computing for machine learning in Python" を書いておられるので、ことばも筋もわかりやすいと感じた。「GPU は複雑な演算はできないが、演算データの種類やビット数を制限したものが一つの演算コアとなっています。GPUでは一つのチップに多くの演算ユニット(演算コア)を詰め込むことができるため、並列処理ができる人工知能計算の主役になったのです。(少し改編・中略)NVIDIA 社は、元来AIの企業ではなく、ゲーム専用の高速な画像生成と表示を滑らかにするためのビデオカードの会社でした。ゲーム専用のビデオカードでつかわれているGPUがAI処理に使えることに早い段階で気づき、NVIDIA社は、GPUカード専用の人工知能オープンソースソフトウエアを開発しました。それらは、無料のCUDA toolkito として一般公開されています。」(p.11)「イノベーション:見方を変える、考え方を変える。異分野の技術を活用する。」(p.12)「米国ではベンチマークデータを公開し、そのデータを用いて誰もがアルゴリズムの性能を比較したり入札業者を選択したり、自由にできるようになっています。日本では税金で収集したデータもほとんど公開されず、その多くはデータを利用できない場合がほとんどです。」(p.57)「釜石の学校では、防災訓練を定期的に行なっていたそうです。その訓練では、1. 想定にとらわれるな。2. どんな状況下でも最善を尽くせ、3. 自らが率先して避難せよ、という内容が教訓でした。」(p.151)「AI society in the future: For AI society in the near future, the followings must be prepared by us for fulfilling our reaponsibility as the role of adults: 1) we need to reform the drastic education for children because AI will take our current jobs, 2) the gap between rich and poor must be filled by regulations, 3) regulations for incubating good-will AI systems are required where malicious Frankensteins should not be used in our society, and 4) we should be ready for diversity in AI society. (Yoshiayasu Takefuji)」 (p.222)
(2023.3.30)
- 「ニッポン未完の民主主義〜世界が驚く、日本の知られざる無意識と弱点」池上彰・佐藤優共著、中公新書ラクレ725 (ISBN978−4−12−150725−9、2021.04.10 初版 )
出版情報。「メルケル首相:開かれた民主主義のもとでは、政治においてくだされる決定の透明性を確保し、説明を尽くすことが必要です。私たちの取組について、できるだけ説得力ある形でその根拠を説明し、発信し、理解してもらえるようにするのです。」(p.4)「専門家集団の発言力が高まるほど、政治のブラックボックス化が進み、代議制民主主義が相対的に軽視されていくことになるのです。」(p.18)「デモクラシーはもはや、あらゆる個人の普遍化可能な利益を認めさせようとする生活形式の内容によって規定されてはいない。それは、もっぱら単に指導者と指導部を選抜するための方法と見なされている。デモクラシーはもやは、あらゆる正統な利益が自己決定と参加への基本的な関心の実現という道を通って満たされうるための条件と言う意味では理解されていない。それはいまやシステム適合的な補償のための分配率、すなわち私的利益を充足するための調整器ということでしかない。このデモクラシーによって自由なき福祉が可能になる。(ユルゲン・ハーバマス『後期資本主義における正統化の問題』岩波文庫p.223)」(p.20)「起訴便宜主義:ある事件を起訴するか否かの裁量を検察官に認める」(p.25)「民主主義の根本精神は何であろうか。それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。」(p.109)「民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。」(p.110)「本来民主主義は、それが何なのかというところから一人一人が考えて、主体的に獲得してこそ血肉になるものなのだけど、その不可欠なプロセスが、残念ながら抜け落ちていたわけです。」(p.147)「共和制は『公共の利益の支配』として、正当な政治体制のモデルとして語り続けられたのです。結果として、自由な市民による自己統制という理念は、むしろ共和制という言葉とともに継承されました。」(p.165)「ジョン・ロック:生まれながらにして権利を付与されている国民の信託によって、国家は成り立っている。政府が国民の意に反して生命、財産や自由を奪うようなことがあれば、抵抗権を持って政府を変更することができるのだ。」(p.169)「人は、自由かつ権利において平等な物として出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。」(p.177)「さまざまな『非宗教化』政策が実行された結果、1905年に政教分離法(ライシテ法)という法律ができるわけですが、これは、人権宣言第10条の『何人もその意見について、それが、たとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安を持たないようにされなければならない』という精神を受け継いだものでした。」(p.179)「ウィンストン・チャーチル:実際のところ、民主主義は最悪の政治形態ということができる。これまでに試みてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが(1947年イギイス下院)」(p.182)「アイデンティティーの政治」(p.194)「メルケル:次の点はしかしぜひお伝えしたい。こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取れた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶体的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです。」(p.231)「希望の資本論:朝日文庫、池上彰・佐藤優」(p.250)
(2023.4.3)
- 「オープンダイアローグとは何か」斎藤環著+訳、医学書院(ISBN978-4-260-02403-7, 2015.7.1 第一版第一刷、2015.8.15 第3刷)
出版情報・序文・目次・書評。以前から読みたいと願っていた本。背景には、人間の尊厳を大切にした、平板なダイアローグ(対話)を通した、相互理解があり、わたしが、テーマとしている、互いに愛し合うことの実践例とも取れる。それに、学問的な系譜もついているが、方法論としてのみ、受け入れるのであれば、おそらく、あまり効果は期待できないだろうとも思った。一人一人、尊厳を持った、存在として、対話を通して、信頼関係を築き、互いに愛し合うことを大切なものとして受け取る、その中で癒しが起こる。Iaomai からtherapeuoo。少しでも、進んでいけばと願う。セイックラ(J. Seikkula)氏の3本の論文([Open Dialogue Approach to Acute Psychosis: Its Poetics and Micropolitics],[Open Dialogue with Good and Poor Outcomes for Psychotic Crises: Examples from Families with Violence],[Healing Elements of Therapeutic Conversation: Dialogue as an Embodiment of Love])の訳を含み、最後に用語集も付いている。以下は備忘録:「YouTue: Open Dialogue: An Alternative, Finish Approach to Healing Psycosis, Short Introduction」(p.10)、「治療
すなわち『キュア』と考えるなら難しいことでも、『ケアにかぎりなく近いキュア』と考えるなら、ありそうに思えてきませんか?」(p.23)、「『病的体験の言語化=物語化』はなんらかの治療的意義をもつ」(p.36)、「有意義な対話を生成していくためにも、治療チームは、患者や他のメンバーの発言力がすべてに応答しなければなりません。言語にとって(すなわち人間にとって)応答の欠如ほどおそろしいものはない(バフチン)」(p.37)、「いつごろから息子さんのことを心配されていましたか?」(p.39)、「『あいまいな否定』は、患者が意地になって自分の主張に固執しなくても済むようにすることが目的」(p.40)、「前にかかった家族療法セラピストは全員、娘に対する私たちの接し方を変えようとしました。しかし、あなた方は私たちを変えようとせずに、私たちのすべてをまるごと聴こうとしてくれました。以前の私は娘の話を聴こうとしていませんでしたが、今は娘の話を聴こうとしています。」(p.42)、「以前の治療では、医師は私がどんなにおかしいか、その点だけに焦点を絞って家族を問診していました。私はまるで、その場にないかのように扱われました。今は、すべてが違います。私はここに確かにいるし、きちんと尊重されています。医師が夫と話しているのを聞くのが私は好きなのですが、夫が私に対していかに深い敬意を払ってくれているかがよくわかります。」(p.43)、「1. ミーティングには二人以上のセラピストが参加する。2.家族とネットワークメンバーが参加する。 3.開かれた質問をする。 4.クライアントの発言に応える。 5.今この瞬間を大切にする。 6.複数の視点を引き出す。 7.対話において関係性に注目する。 8.問題発言や問題行動には淡々と対応しつつ、その意味には、注意を払う。 9.症状ではなく、クライアントの独自の言葉や物語を強調する。 10.ミーティングにおいて専門家同志の会話(リフレクティング)を用いる。 11.透明性を保つ。 12.不確実性への耐性。」(p.46-7)、「人間的表現から切り離された外側に、真理や現実は存在しません。治療に必要な条件は、新たな言葉や物語が日常の言説い導入されるように、社会ネットワーク上の対話の効果からもたらされるのです。この目標を達成する上で、治療ミーティングにおける言語的実践には二つの目的があります。すなわち、メンバーを十分な期間参加させること(不確実性への耐性)と、表現し得ないことに声をもたらすこと(対話主義)です。」(p.51)、「精神分析が言葉をメスとして用いるというなら、オープンダイアローグは言葉を包帯とし用いるのです。」(p.52)、「オープンダイアローグの試みはまた、よい意味での『空気』の活用とも考えられます。決定を空気に委ねることは悪しき日本的習慣と考えられますが、それは『空気』が、しばしば声の大きな発言者によって歪められているためでしょう。言葉の正しい意味で、すなわち『多数決』よりは『個人主義』を重視するという本来の意味で『民主的』な手続きでオープンダイアローグが進められるのであれば、話は違ってきます。」(p.53)、「望ましい対話の条件:対話のやりとりの主導権や内容に関して、全般にクライアント側が優位であること。現実をただ指し示す言葉よりも、象徴的な言葉(比喩や喩えを使った話し方)が多く用いられること。治療チームとクライアントとのあいだで、言葉のキャッチボールが成立していること。患者の重要な訴えが無視されず、しっかりリフレクティングされていること。」(p.69)、「オープンダイアローグの古くて新しい特徴は、人間という存在の『固有性』や『現前性』を極めて重視しているところです。」(p.70)、「愛とは、分かち合い、一体となることへの強い集団感情」(p.72)、「リフレクティングでは、チームは『論理的意味付け』のスタンスをとります。」(p.105)、「モノローグとは、他者を受動的な存在とみなすこと。」(p.159)、「社会構成主義」(p.160)、「つらい感情を危険物扱いするのではなく、その場の自由な感情の流れの中に解放した時にこそ、こわばって縮こまっていモノローグがダイアローグへと変化を遂げる、ということです。」(p.166)、「精神病患者の幻覚には、トラウマ体験が隠喩的な形で取り込まれているものです。」(p.167)、「ミーティングにおいて感情プロセスが出現したら、それはモノローグからダイアローグへの移行を示すサインである。」(p.168)、「発達心理学者(レフ・ビィゴツキー)の思想は、彼の旧ソビト時代の同胞であるミハイル・バフチンの対話主義的思想と、多くの点で共通しています。」(p.169)、「(1) できるだけ話しやすい雰囲気で、かつ苦悩に直面しつつ語れるように、質問の仕方を工夫する。(2) 誰の話に対しても、神経を集中しつつ、思いやりを持って耳を傾ける。(3)治療チームのメンバーどうしのリフレクティングを導く。その際、ネットワークメンバーの発言に対してだけはなく、その発言に対する治療チームの発言にもコメントする。」(p.173)、「ターニングポイントとなる経験:分かち合い一体となりつつあるという強い集団感情、あふれ出るような信頼感の表明、感情の身体的な表現、緊張がほどけ身体がくつろいでく感じなど。」(p.177)、「Vygotsky, Lev Semenovich: 1896-1934 旧ソビエトの心理学者。幼児の発達研究で大きな貢献を残した。彼の研究によれば、①人間の精神は記号、特に心理的道具としての言語を使用することをその機能としており、②精神の発達の過程において、まず人々との間で対話を通して記号使用を学び、そのあとに個人的内で絵の言語使用つまり内言が可能になるという順序をたどる(社会的水準軻心理的水準へ向かう発達)。」(p.182)、「モノローグ(独白)をダイアローグ(対話)に開くために:本人抜きではいかなる決定もなされない。依頼があったら24時間以内に、本人・家族を交えて初回ミーテングを開く。治療対象は最重度の統合失調症を含むあらゆる精神障害を持つ人。薬はできるだけ使わない。危機が解消されるまで、何日でも対話をする。テーマは事前に準備しない。スタッフ限定のミーティングなどもない。もちろん幻覚妄想についても突っ込んで話す。本人の目の前で専門家チームが話し合う『リフレクティグ』がポイント。治療チームは、クライアントの発言全てに応答する。」(裏表紙))
(2023.4.6)
- 「古代大和朝廷」宮崎市定著、筑摩叢書 327、筑摩書房(ISBN4-480-01327-X, 1988.09.22 初版第一刷発行)
出版情報・目次。漢文などが難しく、完全には読み込めなかったが、良い本に出会ったと思う。日本古代史の問題を、東アジア史の研究者が、東洋史の観点から論じている。日本の歴史はあまりに、世界と切り離されていると感じていたが、せめて、中国や、朝鮮の歴史と関連づけたものが読みたいと思っていたので、適切だった。日本の中で受け入れられるのは、難しいのかもしれないが。以下は備忘録:「正直申して、どこか一本、大事な棒が抜けているような気がしてならぬのである。それは、はっきり言えば、国史という狭い立場を抜け出して、もっと広いアジア史的な見地からする気構えが見られないからだ。」(p.11)「『古事記』の真価は、それが純粋に近い日本の古典を用いて、上代の伝承を文字に表した点にあり、『日本書紀』と並んで、上代日本人の歴史観を知るために比類なき貴重な資料であることは、考古学的知識の増加によって左右されるべきものではない。」(p.25)「古史を読む時に先ず注意せねばならないのは、記紀の場合に限らず、すべて古代の歴史というものは、知識の総集であるという事実である。すなわちそれは、歴史であると同時に、百科全書であり、辞書であり、また詞華集(アンソロジー)であった。但し当時のいわゆる知識とは、今日の我々が考える知識とは性質が違っていた。古代人にとって、彼らが日常生活している地理的空間や、日常生活に実行している技術などは、分かりきったこととして、特別な知識とは知覚されない。」(p.27)「奈良盆地から吉野山地に通じる入り口が即ち山の門、ヤマトであり、大和なる国名の起源となったのである。」(p.34)「王(殿下・大王、孤)、天王(陛下、朕)、皇帝(陛下、朕)」(p.81)「日本は、あくまでもアジアの中の一国であり、世界と共に歴史を造り、世界の歴史を共有する国であるという事実を忘れないでほしいことである。」(p.94)「日本・三韓・中国位階制対照表」(p.184)「最も古くから、最も深く中国に接した高麗は、制度を作るにも中国の圧迫を身近にうけているため、真正面からそれを受け入れて翻訳することができなかった。然るに遠方に行くにつれて、素直に中国の制度を受け入れるとともに、憚ることなく中国まがいの朝廷を作ることができた。高麗より新羅が、新羅より日本が、中国に近い制度を打ち立てている。しかしこれは別に日本が最も民族意識が希薄だということにはならない。事実はかえって日本が最も自尊心が強かったのだろう。こういう一見矛盾した現象は結局、力の関係から来ていると思われる。」(p.188-9)「歴史学の研究はそれが基礎的な研究であればあるほど、その効果は間接的になる。要するに、それは人生観を打ち立て、また既存の人生観を検討するのに役立つのであって、明日の行動を命令するような性急な即効剤にはならないのである。そして、人生観は即ちその人の歴史観に外ならない。おおよそ世の中に、未熟な人生観で騒ぎ廻られるほど、迷惑なことはない。われわれはこれまで、いろいろな組織の中の点取主義の働き者のためにどれほど犠牲にされてきたことか。くだらぬ政策や実践はない方がいい。何もせずに昼寝をしていて貰った方がよっぽど有難いことがある。」(p.201)「日本を含めた世界の姿を、一度地球上の人間であることまでを忘れ、現実の世界から一歩遠のいた私自身の目で見つめることでなければならぬ、談何ぞ容易ならんや、である。」(p.202)「気候の乾燥した華北を中心とした中国建築が、内部を土間、もしくは瓦敷きにしたのは当然の成り行きである。ところが雨の多い日本では土間にしても瓦敷きにしても生活に不愉快である。どうしても縁を高くした板敷きにしなければならぬ。然るに縁を高くすることは同時に天井を相対的に低める結果になる。更に日本では風雨を防ぐために、軒先を深くしなければならぬ。屋根が低くて深いと、内部は自然に暗くなる。もしもその内部で姿勢を高く座っていれば、光線がいよいよ不足する。そこで、端近かに低い机を持っていき、そこで地面にぴたりと正座するより他はない。そのときに板敷きだと足が痛いので、やがて畳というものが発明された。最初はこの畳は特別な場所にだけ敷かれたに過ぎなかったが、やがて家の内部一面に敷き詰められるようになったのである。」(p.222)「徳富蘇峰著『近世日本国民史』」(p.309)
(2023.4.12)
- 「真説 日本左翼史〜戦後左派の源流 1945-1960」池上彰・佐藤優共著、講談社現代新書2620、講談社(ISBN978-4-06-523534-8, 2021.06.20 初版第一刷発行, 2021年8月11日第4刷発行)
出版情報・目次。自分の原点のようなものを考えた時、1969年10月13日に起こった高校での学園紛争(バリケード封鎖で授業がしばらくできなくなった)を外しては考えられない。とはいうものの、その背景や、左翼思想や源流などを、十分理解しているわけではない。この機会に、理解しておきたいと思い手に取った。この二人以外の見方もさまざまにあるように思うが、深さとさまざまな人々の絡み、歴史的な事件との関係に関しては、この二人によって語られる内容は十分に豊富だと感じた。わたしの知る限り三部作であるので、少しずつ、読み進めていきたい。ただし、あとがきに佐藤氏が書いている、今後の世の中の展望については、わたしの予想とは食い違う面が大きいとも感じた。もう少し、自分でも考え、言語化もしてみたいと思う。以下は備忘録:「マルクスの読み直しが盛んに行われているのは、格差や貧困といった社会矛盾の深刻化が背景にあるからにほかなりません。特に2020年からの新型コロナウイルスパンデミック以降は、格差がさらに拡大し、命の問題に直結するようになってきました。(中略)格差の是正、貧困の解消といった問題は、左翼が掲げてきた論点そのものです。(中略)反戦平和、戦力の保持をめぐる問題も、左翼が議論を積み重ねてきた主要な論点となっています。」(p.14,15,16)「少し原理的な説明をすると、人類が近代以降に重視してきた『自由・平等・友愛』という三つの価値がありますよね?この三つには、自由を重視すると格差が拡大して平等ではなくなるし、平等を重視すると社会から自由が失われていく、しかし自由と平等の間で、友愛(フランス語の"fraternite"『博愛』『同胞愛』などとも訳されてるが、皆が他人を兄弟のように愛することを指す)が二者の調整原理として働くことでようやく社会が安定するという関係にあります。」(p.17)「左翼はきわめて近代的な概念です。(中略)理性を重視すればこそ、人間は過不足なく情報が与えられてさえいればある一つの『正しい認識』に辿り着けると考えますし、各人間の意見の対立は解消される、そうした理性の持ち主が情報と技術を駆使すれば理想的な社会を築くことができる、と考えます。」(p.21)「渡邊恒雄さんは『カントとマルクスの融合は無理』と言っていましたが、カントの認識論や倫理学によって、マルクス主義を補完しようとする新カント派マルクス主義の一派も存在します。」(p.108)「多種多様な人材が揃い独自の憲法草案を作成するなど積極的な動きを示し、国民からも支持を得ていた社会党と共産党が戦後間もない時期の左派、とりわけ共産党が占領軍内部の路線対立やソ連=コミンフォルムの意向に悲しくも振り回され、主体性を取り戻せないままに暴発を余儀なくされた、という点に集約できそうですね。」(p.140)「左右どちらの陣営にもそれなりの国家観があったというわけですね。ただそれは野党にそうさせるくらい世論も真剣に平和を願っていたということの裏返しだとも思います。」(p.146)「新アチソンライン:アチソンが列挙したアリューシャン列島、日本列島、琉球弧、フィリピンに台湾を新たに加えてアメリカの防衛戦として示した一方で、朝鮮半島の安全保障に関しては、アメリカは当事者である北朝鮮と韓国に任せ、自分達は身を引くという意思を鮮明にした。」(p.148)「金天海:『不逞者』宮崎学著幻冬社アウトロー文庫」(p.180)
(2023.4.19)
- 「日本神話の世界」中西進著、ちくま学芸文庫、筑摩書房(ISBN978-4-480-09509-1, 2013.01.10 第一刷発行)
出版情報・目次。)古事記についてほとんど知らないので、手に取ってみたが、最初に読む本ではないかもしれない。著者の博学はすばらしいが、あまりにさまざまな読み方があることしか理解できなかった。神話とはそのようなものなのかもしれない。かえってひとつの解釈に落ち着く方が危険なのかもしれない。備忘録:「われわれが日ごろ何も考えずに使っていることばに、気がついてみると驚くことがある。たとえば手を洗う、足を洗うという、このアラウというのは一体どういう意味か。アラとは『気持ちをあらたにする』、『改まってお願いします』などというときのアラだから、新しくするという意味だ。現代語では『新しい年』というが、昔は『新しき年』といった、つまり、アラウというのは、手にしろ足にしろ新しくすることで、何も汚れを落として元通りにするのではない。手を洗えば古い手は死んで、新しい手が誕生するのであり、だからこそ『その世界から足を洗った』という表現がいまでも生きているのである。」(p.9)「吾が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり。そこで男神はこういう。我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故、この吾が身の成り余れる処を、我が身の成り合わぬところに刺し塞ぎて、国土生み成さむと思ふはいかに。『しか善けむ』これが女神の返事であった。」(p.43)神のまぐわい(目合ひ:目を見合わせて愛情を通わせること。めくばせ。 情交。性交。「唯その弟(おと),木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)を留めて一宿(ひとよ)―したまひき」〈古事記・上訓〉)の話が多い。命に神秘さを感じたのだろう。さらに、全国統一に関する話が、神話として語り伝えられていることも、面白い。まさに、さまざまな伝承があるということか。
(2023.4.21)
- 「絵で見るたのしい古典① 古事記・風土記」萩原昌好・野村昇司指導(ISBN4-05-104231-6, 1990.03.29 第1刷発行, 1993.05.12 第6刷発行)
出版情報。)学研のサイトには、小1〜小6とある。まず、基本情報を得るには、ジュニア向けのものからはいるのがよいと思っているので、手に取った。もう少し、上のレベルが良いかもしれないが、それでも、知らないことがいくつも書かれてあった。小学生向けのものは、情報を限定して、バランスも取っているので、有用だと思う。本来は、目次情報があると良いと思い、紀伊國屋のサイトも見たが「絵で見てわかるはじめての古典 古事記・風土記・万葉集 (増補改訂版)」もあると書いてあったが、目次情報はなかった。備忘録の意味でも、目次情報を記する。古事記:天上の神々(この世の始まり、国生み、黄泉の国に行った妻、この世とあの世、乱暴なスサノオ、おこったアマテラス、開かれた天の岩戸)、出雲の英雄(出雲のスサノオ、スサノオの大蛇退治、因幡白うさぎ、オオクニヌシいじめ、スセリヒメの愛、火の野原、ゆるされたオオクニヌシ)、国づくりと国ゆずり(スクナヒコナの協力、葦原の中つ国、使者の交渉、国ゆずり、天から下りるニニギノミコト、二人の姉妹)、進む国土の統一(海幸彦と山幸彦、二つの玉、イワレヒコ東に向かう、大和に入る神武天皇、追い出され皇子、ヤマトタケルの名、イズモタケルを撃つ、ヤマトタケルの悲しみ、広がる火、海に身を投げたヒメ、ヤマトタケルの死)、風土記:富士山と筑波山(思いやりがない富士の神、やさしかった筑波の神、求婚の祭り)、松になった少女と少年(楽しい出会い、やがて朝になると)、出雲の国引き(国を大きくしよう、引きよせられた土地)、我慢くらべ(大便と粘土、我慢ができない!)、豊の国という名のおこり(里芋に変わった島、ゆたかな国)、「火の国」と不知火(火の国のおこり、ふしぎな火)、天に帰れなかった天女(かくされた羽衣、追い出された天女、天女のなげき)。これ以外に、かこみ解説・イラスト解説(矛、『古事記』の性格、櫛、美豆良、さかき、かくされた太陽の秘密、ヤマタノオロチは何を示しているのか、日本神話の中の出雲、天孫降臨、熊襲と蝦夷、白鳥伝説、あわ、歌垣、はに岡の里)もある。
(2023.4.26)
- 「激動 日本左翼史〜学生運動と過激派 1960-1972」池上彰・佐藤優共著、講談社現代新書2643、講談社(ISBN978-4-06-526569-7, 2021.12.20 初版第一刷発行)
出版情報・目次。三巻本の第二巻。わたしがまさに生きていた、そして、少し経験し、考えるきっかけとなった学園紛争の時代を描いている。佐藤優は1960年生まれで少しあとだが、池上彰は1950年生まれ、まさに東京大学と東京教育大学の入試がなかった年に、慶應義塾大学に入学している。学生運動に関わった若者が、本質的な問いと向き合っていたことと同時に、経験がない中で、実現性も持続性もなく、大衆から分離して過激化していく様子が vivid に描かれている。第三巻や、他の本に書かれているのかもしれないが、このときを踏まえた将来に向けての反省と展望そして激励が、次の世代になされないといけないと強く感じた。個人的には、知識が整理され、いま求めつつ歩んでいる道を歩み続けたいとは思ったが、余韻というより、すこし消化不良の面も感じた。著者二人の視点と語り口は、貴重であるが、もっといろいろな知識人の間で語られなければいけない話題だとも感じた。以下は備忘録:「日米安保条約は米軍の日本駐留を認める一方でアメリカが日本を守る義務があるとは規定されていなかったほか、日本国内で暴動が起きた際には米軍が出動することも可能な条文になっていた。(中略)日本社会党は、安保改定は米軍の恒久的な日本駐留を許すのみならず、台湾や朝鮮半島での戦争に日本が巻き込まれるリスクを高めると猛反対。」(p.48,p.49)「安保闘争に関して、共産党はあくまでも反米闘争という位置づけをしていた。」(p.55)「社会党や新左翼:日本の資本主義が復活を遂げた1960年代という時代にあって、かつてアジアを侵略した日本帝国主義もまた甦りつつあるという認識を強くもっていた」(p.57)「当時の学生たちは、後輩として入ってくる学生たちの授業料を値上げするのは理不尽だと声をあげて、その反対運動が盛り上がった。(中略)現代の学生からすると『だってこれから入ってくる学生の授業料を値上げするんでしょう?在学生は関係ないのに、何で反対するんですか。』」(p.114)「学生たちが大学側の学費値上げ画策に怒ったのは、学費値上げとはすなわち大学当局が資本の論理に基づき大学を運営していることの表れであり、ひいては学生たちを資本家階級が期待する労働力として育て配給するための期間に成り下がっているのが許せなかったからでした。もちろん屁理屈じみたところはあったかもしれないけれど、いんな一生懸命に理屈を組み立てようとしていた。」(p.115)「映画『日大闘争の記録』『続・日大闘争の記録』(日大芸術学部映画学科)(HS追記)『全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968』(ニュースセンター1968.12.30)」(p.140)「帝国主義教育秩序の第一の根幹は、その教育形態にある。一方的処分という形で発揮されるブルジョア論理『特別権力関係』は、教育者ー被教育者という二元論的に距離をおいた『教える』ことについて自己完結した独自形式の打破なしには、批判をなしえない。」(p.141-142)「『大学の自治を守れ』と叫んだ東大闘争と『俺たちの学費を悪いことに使いやがって』という怒りに火がついた日大闘争とう、怒りの方向性が異なる闘争が盛り上がったことで全共闘が拡大し、ほかのいろいろな大学に飛び火していったのも間違いないでしょうね。」(p.143)「要するに企業という組織は二重忠誠をものすごく嫌うんですよ。会社以外に忠誠を誓っている対象を持っている人を採りたくない。創価学会の会員がある時期まで就職でふりだったのもそれが理由でしょうし、今だって入社試験で『普段どの新聞を読んでいますか?』と尋ねられ、宗教団体の機関紙の名前を挙げるような人は落とされるでしょう。それは思想・信条の問題とは無関係に、二重忠誠の問題があるからです。」(p.147)「厳しい合理化の時代にあって、マルクスの理論の中でも、資本家が労働者を搾取して自己増殖を繰り返すごとに労働者を貧困に追い込んでいくという窮乏化理論の部分は相対的に顧みられなくなっていったのと対照的に、労働者が労働力を商品として資本家に売り渡すほどに仕事がくだらないものになっているという疎外感は必然的に台頭しました。まもなく社会に出ることを意識せざるを得ない立場にあった学生たちの多くも、この点には最もビビッドに反応しました。」(p.208)「左翼というのは始まりの地点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこかに内包されていると思います。(中略)人間には理屈では割り切れないドロドロとした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。」(p.209)「滝田修(本名:竹本信弘):(三島事件に対して)われわれ左翼の思想的敗退だ。あそこまでからだをはる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転した。七十年代の闘争をやり抜くためには、新左翼の側にも何人もの『三島』をつくらねばならん」(p.229)「人権先進国フランス:良妻賢母を美徳としていたが、パリの五月革命をきっかけに劇的に男女平等の意識が高まったんです。だから、選挙結果という現実政治の動向とは別に、五月革命には女性の権利向上、社会的地位向上に関して国民の意識を変えたという功績がありました。」(p.247)「日本のどの選挙区も悪い政治家ととんでもない政治家しかいなくて、選挙がそいつらを排除するために一票を投じるという消極的な位置づけのものになってしまった。国家を運営する側からすれば、自分達に異議申し立てをするような本格的な左翼運動をする政党が共産党だけになってしまったので、非常に助かっている面もあるでしょう。その意味では『権力による泳がせ政策』という共産党の見立てはある意味で正しかった。もっとも権力が新左翼を『泳がせた』ことで、全体として見た場合、左翼運動は打撃を受けたけれども、共産党自身も日本左翼内のヘゲモニー(hegemony:⦅かたく⦆ (特に同盟国・組織などの間での)覇権, 支配)を握るという恩恵を受けたわけですが。」(p.249)「自分一人の栄達だけで満足できてしまえる二十一世紀型のエリートではなかった。そこはやはり評価しなければいけない点だと思います。ある意味で、ノブレス・オブリージュ(高貴な者が宿命的に負う義務)をめざしていたとも言えますね」(p.255)「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言う奴が勝つに決まっている。」(p.260)
(2023.4.29)
- 「絵で読む日本の古典1 竹取物語」監修 田近洵一、ポプラ社(ISBN978-4-591-12805-3, 2012.03 第1刷発行, 2018.2 第6刷発行)
出版情報・目次情報。子供用の本で、日本の古典のさわりを知りたいと思い、「絵で見るたのしい古典」シリーズをまず手に取ったが、図書館で見て「絵で読む日本の古典」を手に取った。古文も少しだけ書かれていて、時代的なことの説明もあり、興味深い。監修が、小・中・高で教鞭の経験があると書かれている。それが、わかりやすさに反映しているようにも思う。ただ、この内容、レベルは楽しめるこどもは、あまり多くないように思う。個人的には、興味を持てる編集だったので、他の本も読んでみたい。常識としても知っておきたい内容である。
(2023.5.5)
- 「漂流 日本左翼史〜理想なき左派の混迷 1972-2022」池上彰・佐藤優共著、講談社現代新書2667、講談社(ISBN978-4-06-529012-5, 2022.7.20 初版第一刷発行)
出版情報・目次。三巻本の第三巻。左派が衰退していった過程を追っている。最初の二巻に比較すると期間が長い。私は同時代を生きてきたわけだが、背後にあることを理解するのは難しかった。評価も難しいのだろう。いずれにしても、冷戦の終結、ソビエト連邦崩壊は、日本の左派にとって、スターリン批判をどう扱うか以上に決定的であることは理解できた。しかし、その背後で、社会の構造が変化していることも事実で、この本で全体を捉えることは無理だろうとも思った。マル系経済学についても学んでみたい。経済学は、科学にはなっていないのだろうか。それとも、欧米の発展と経緯を日本に適用しようとしたところに無理があったのか。中国については、十分に述べられていない。日本の左翼を考える意味で、中国、北朝鮮、ベトナムなどについても、理解すべきだと感じた。以下は備忘録:「ウクライナ侵攻のように極めて二十世紀的な侵略戦争がこの時代に起きたことに驚いた人も多かったでしょう。アメリカの作家マーク・トウェインの言葉として知られる『歴史は繰り返さないが韻を踏む』という言葉を思い出します。『左翼の思想』を検証するというのは、激動の時代をいかに乗り越えればよいのかの知恵を歴史から謙虚に学ぶということなのです。」(p.14)「左翼の功罪を学んでおくことで思想の免疫が身につく。危機の時代に思想に踊らされない真の教育を身につけてほしい。」(p.16)「企業の利潤を勤労大衆に、より多く再分配していく役割についての左派政党への期待が少しずつ弱まっていった理由のひとつは、全人口に占める戦後生まれ世代の割合が増えた結果、国民がそれまで抱いていた切実な反戦願望が薄れ始めたことにあるのでしょうね。また、社会が労働運動に寄せていた理解・共感が七十年代を通して次第に萎んでいったのも大きな要因でしょう。国鉄の遵法闘争などにしても、これを実行するばどうしたって大勢の市民が通勤・通学に不便を被るわけで、市民たちが鷹揚に構えていられるのも限界がありました。そうした、一般市民の反労組感情が最初に吹き出したのが、1973年3月13日の『上尾事件』そして同年4月24日に起きた『首都圏国電暴動』という二つの事件でした。高度経済成長時代に首都圏の人口が郊外に流出して、この被害を受ける人が増えたことも背景にある。」(p.96)「ミッシング - The Execution of Charles Horman: An American Sacrifice」(p.107)「思い返せば三池闘争にしても、エネルギーが石油に変わっていった過渡期にあって切り捨てにあっていた炭鉱労働者たちが起こした抵抗運動であったわけですが、国労や動労の場合は自分たちの運動がひとつめのきっかけになって流通革命を招き、それが組織力低下につながっていったというのはなんとも皮肉です。」(p.111-2)「浅田彰著『構造の力』勁草書房」(p.114)「国鉄を民営化すれば、八十五年時点で十八万人以上の組合員を抱える日本最大の労働組合であった国労の力を削ぐことができ、総評は弱体化し社会党も弱体化する。日本の左翼勢力は総崩れになる。こういうと若い読者は私たちが急に陰謀論を話し始めたと面食らうかもしれませんが、中曽根が最初からそれを狙っていたことは、後年彼自身が様々なインタビュウなどで証言しています。」(p.134)「ロシアでは第一次世界大戦への参戦で国内が食糧不足に見舞われていた1917年3月(ユリウス暦2月)困窮した民衆によるでもを皇帝が鎮圧したことに首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)の労働者たちが怒りゼネストで蜂起。これに様々な勢力が同調する市民革命で皇帝を退任に追い込み、大学教授や弁護士、貴族などによる政党『立憲民主党』を中心とした臨時政府が発足しました。(二月革命)しかし臨時政府は戦争を継続する方針をとったことで民衆の不満は増大。これを受けてレーニンは亡命先のスイスから帰国して戦争中止を訴え、ボリシェビキを指導し、十一月(ユリウス暦10月)の武装蜂起で臨時政府を打倒しました。これが社会主義革命である『十月革命』です。」(p.174)「イエスが述べた『隣人を自分のように愛しなさい。』という価値観を左翼の人々は、神なき状況で実践しようと命がけで努力したのだと思う。しかし、神(あるいは仏法)不在のもとで、人間が理想的社会を構築できると考えること自体が罪(増上慢)なのだ。社会的正義を実現するためには、人間の理性には限界があることを自覚し、超越的な価値観を持つ必要があると私は考えている。日本左翼史というネガ(陰画)を示すことで、私は超越的価値というポジ(陽画)を示したかったのである。(佐藤)」(p.186)
(2023.5.5)
- 「絵で読む日本の古典2 源氏物語」監修 田近洵一、ポプラ社(ISBN978-4-591-12806-0, 2012.03 第1刷発行, 2014.7 第3刷発行)
出版情報・目次情報。箱入りの全巻・現代語訳をいただいているので、いずれは読みたいと思っているが、あまりに知識がないので、まずは、子供用の本で、日本の古典のさわりを知りたいと思い「絵で読む日本の古典」で読んだ。人間関係も複雑で、なかなか名前も覚えられないので、まずは、ざっと読むことができたのは、よかった。表現の美しさなども、多少修正された原文もはいっているので、雰囲気を味わえたのではないかと思う。近いうちに、上記、現代語訳を読んでみたい。
(2023.5.10)
- 「日本人は知らなすぎる 聖書の常識」山本七平著、講談社(1980.10.01 第一刷発行)
出版社情報。父が読んでいた本を書棚から取り出して読んでみることにした。著者の山本七平は父の2歳年下。ほぼ同じ時代を生きたのだろう。ユダヤ教について詳しく、聖書についての本としては、学者・研究者が書いたものとは異なり、一つ一つに根拠をつけることはしていないが、全体として十分な質の本に出来上がっていると思う。基本的な理解については、わたしの理解とあまり変わらないが、わたしが知らなかった、または、考えていなかった視点も多く含まれる。新約聖書について、イエス、パウロ、ヨハネと書きながら、ヨハネについての記述は非常に短く、十分な考察がされているとは言えない。たくさん父が引いたと思われる線を眺めながら、このようなトピックについて突っ込んだ話がしたかったと思った。以下は備忘録:「輪廻転生の思想では、現世だけを見ていると不公平だけれども、前世・現世・来世を通してみると、みんな平等にあんってしまう。(中略)旧約の世界は安易な『悟り』が全くないせかいであり、その点では恐るべきリアリズムの世界である。」(p.64)「東方世界は史料を残すことが非常に好きで、歴史的資料という意味で記されたものは、列王記以前にも多い。しかし、それらの史料は、一つの歴史哲学に基づいて編纂されておらず、歴史としてみるためには、史料分析の上にさらに再構成しなければならない。その点、はじめから歴史として読めるのは、やはりサムエル記と列王記であろう。」(p.72)「最初は非常にゆるい連合体で、その中心の聖所ははじめはシケム、後にシロに置かれていた。それは、民族国家といえるようなものではなかったと思われる。」(p.92)「オリエントの宗主権条約:1.大皇帝の自己紹介、2. 過去の歴史的関係を与えた恩恵、3. 契約条項、4. 証人または証拠、5. 契約を守った場合の祝福、破った場合の呪い」(p.108)「聖書学者塚本虎二は、『神が全能ならこうしてくれるはずだ』といった発想を『人間が全能という召使を持っているような意識』だと言っている。」(p.144)「イスラエルの歴史は契約更改史であったとも言いうる。すなわち古くはアブラハム契約、ついでシナイ契約、シケム契約、ナタン契約、そして申命記の新しい契約となり、そこで未来にまた新しい契約とそれによる完全な変革を待望しているのである。契約の更改によって社会を変えうるという考え方は、申命記とエレミヤ書が生み出したもっとも大きな思想であったと思われる。これがなければ、キリスト教も近代もなかったであろう。」(p.167)「ハルマゲドンとは、メギドの山という意味。メギドは地中海に面した平野から内陸部のエズレルの平原へ抜ける峠の隘路にある町で、ここを突破すると、エズレルの平野から一気に北に抜けられるという場所で、古来戦略の要点だった。」(p.168)「旧約、特にその古い資料におけるサタンは決して『神と悪魔の対立』という形にならず、サタンは神の傍らにあって人の罪を告発するものになっている。とするまさに『正義の味方』なのだが、なぜそれが『悪』なのか。それは、告発は正義を口にしながら、その動機が憎悪であり、憎悪の悪の根元をみるからである。」(p.189)「現実に、神があたえたものとして世俗の秩序があり、一方に絶対的な神聖の秩序がある。この二つを結ぶのが知恵であるというのが、知恵文学の基本思想であり、人間の知恵はなんのためにあるか。二つの秩序を結びつけ、世俗の秩序を神聖の秩序に近づけていくためにある、というのであろう。そして、歴史的未来のどこかで、世俗の秩序を神聖の秩序に完全に一致させることができるという期待から、終末論が出てくる。」(p.202)「いまの苦しい時代はやがて終わり、救済者が現れて、神の秩序が回復される。これがダニエル書を貫いている思想である。終末思想といってよい。」(p.230)「さらにダニエル書の大きな特徴は個人の復活という思想が出てきたことである。」(p.231)「ヨハネによる福音書の著者は、同書に、名をあげず『もう一人の弟子』と記されているものと見る人もいる。彼は大祭司の知り合いで、大祭司邸に自由に出入りできたことが、その記述から明らかである。そこで彼の著作だけ、暦が違っていても不思議ではない。」(p.236)「洗礼はキリスト教独特のものではなく、クムランの教団でも行われていたことは、立派な洗礼槽の発掘で明らかである。またパリサイ派の中にもこれを重んじる派があり、その洗礼パリサイ派がキリスト教の母体とも考えられる。」(p.237)「神が唯一の絶対者であるという発想から出発すれば、選ばれた民イスラエルがなぜ苦しまなければならないかという問題は世界主義的に捉えるしかない。」(p.246)「西暦を作ったのはスクテヤ人の修道僧ディオニシウス・エクシグスである。彼が533年にキリスト起源を確定しようとしたとき、ルカによる福音書の『皇帝ティベリウス在位の第15年』『宣教を始められたのは年およそ30歳のとき』を結びつけ、ティベリウスの在位15年をアウグストスの死後15年とした。称号の付与は、死の4年前。」(p.251)「しかし同時にイエスは、当時のユダヤ教という枠組みの中では理解できないというような存在ではない。彼の姿は、あくまでも、紀元一世紀のガリラヤのカリスマ的ユダヤ教という宗教的背景の中で見て、初めて正確に把握できるのである。」(p.262)「七十人訳をみるとヘブライ語マーシアのところが全部クリーストスになっている」(p.285)
(2023.5.15)
- 「絵で読む日本の古典3 枕草子・徒然草」監修 田近洵一、ポプラ社(ISBN978-4-591-12807-7, 2012.03 第1刷発行, 2017.2 第4刷発行)
出版情報・目次情報。シリーズ第3冊目である。古文も少しだけ書かれていて、入門としてはとても良い。小学校の頃(中学でも良いが)このぐらいに親しんでおけば、わたしには、苦痛でしかなかった高校の古典も楽しかったかもしれない。随筆の種類だろうか、有名な二書が収められている。枕草子は、いくつかの本で読んでいたので、良かったが、明らかに、徒然草は読みやすい。おそらく教育課程でもそうしているように、徒然草あたりから読んでいくのが良いのかもしれない。機会があれば、次のレベルのものを読んでみたい。当時の人の考え方、心も伝わってきて、簡単さも手伝って余裕があったせいか、繰り返し味わうこともでき、絵にも助けられ、とても良かった。適切なレベルから、順に学んでいくことは大切であると感じた。
(2023.5.16)
- 「絵で読む日本の古典4 平家物語」監修 田近洵一、ポプラ社(ISBN978-4-591-12808-4, 2012.03 第1刷発行, 2018.5 第4刷発行)
出版情報・目次情報。シリーズ第4冊目の、軍記物語である。小学生の頃、源義経が好きだった時もあるが、その背景には、平家物語の記述などがあるのだろう。琵琶法師が語っていたからもあるだろうが、いくつも異なる写本があり、著者も明確にはわからないとのこと。それだけ庶民に浸透していった物語なのかもしれない。他の文書で歴史を振り返るほどの興味はないが、文体もきびきびしていて、擬態語も多く、読んでいても、聞いていたもリズムがよいものだったのだろう。それも、受け継がれてきた理由だと感じた。
(2023.5.22)
- 「サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福」ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)著、柴田裕之訳、河出書房新社(ISBN978-4-309-22671-2, 2016.9.30 初版発行, 2018.9.8 57刷発行)
出版情報・目次。以前から読みたかったが、後回しになっていた。知人が感動していたので、急いで手に取ることにした。先史時代と言われるときから、歴史をどう見るか、その基本的な考え方を問うた書で、おそらく、あまり類を見ないのだろう。鋭い切り口で、よくまとまっている。ただ、個人的には、高校生の頃から、普遍性を求め、誰でも受け入れられるものをもとめて学んできたこともあり、個々の歴史的事実で私が知らなかったり、ハラリのようには、見ていなかったことは多いが、とくに驚きはなかった。普遍性が備わっているものは、ほとんどない。それを、ハラリは虚構ということばで説明しようとしているが。共同主観現実をどう捉えるかはわたしもよく理解できていなかったので、思考の助けにはなったと思う。知的に高い人は、複雑なものを極度に単純化することなく、ひとよりは多くの尺度で見ることができるということのように思う。むろん、そうであっても、全体の一部の視点でしかなく、ひとりのひとには見えないものばかりであると思うが。下巻を楽しみにしている。以下は備忘録:「一連の『改良』は、どれも生活を楽にするためだったはずなのに、これらの農耕民の負担を増やすばかりだった。(中略)人々は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉えきれないのだ。種を地面にばらまく代わりに、畑を掘り返すと言った、少しばかり追加の仕事を決めるたびに、人々は『たしかに仕事はきつくなるだろう。だた、たっぷり収穫があるはずだ!不作の年のことを、もう心配しなくて済む。子供たちが腹をすかせたまま眠りにつくようなことは金輪際なくなる』と考えた。それは道理にかなっていた。」(p.115)「贅沢の罠の物語には、重要な教訓がある。より楽な生活を求める人類の探究は、途方もない変化の力を解き放ち、その力が、誰も想像したり望んだりしなかった形で世界を変えた。農業革命を企てた人もいなければ、穀類の栽培に人類が依存することを求めた人もいなかった。数人の腹を満たし、少しばかりの安心を得ることを主眼とする些細な一連の決定が累積効果を発揮し、古代の狩猟採集民は焼け付くような日差しの下で桶に水を入れて運んで日々を過ごす羽目になったのだ。」(p.118)「こうした惨事の根本には、人類が数十人からなる小さな生活集団で何百万年も進化してきたという事実がある。農業革命と、都市や王国や帝国の登場を隔てている数千年間では、大規模な協力のための本能が進化するには短すぎたのだ。」(p.133)「アメリカ独立宣言『我々は以下の事実を自明のものとみなす。すなわち万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる』vs生物学『我々は以下の事実を自明のものとみなす。すなわち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快楽の追求が含まれる。』」(p.142)「ソヴィエト連邦の失敗『誰もがその能力に応じて働き、必要に応じて受け取れる』は『誰もがさぼれるだけさぼり、もうらえるだけもらおう』という現実を招いた。」(p.219)「実際、今日でさえ、硬貨と紙幣は貨幣の形態としては少数派だ。2006年に全世界の貨幣は合計約476兆ドルだったが、硬貨と紙幣の総額は47兆ドルに満たない。貨幣の合計の9割以上(私たちの帳簿に記載されている400兆ドル以上)は、コンピュータのサーバー上にだけ存在する。」(p.221)「貨幣の二つの普遍的原理:a. 普遍的転換性:貨幣は錬金術師のように、土地を忠誠に、正義を健康に、暴力を知識に変換できる。b. 普遍的信頼性:貨幣は仲介者として、どんな事業においてもどんな人どうしでも協力できるようにする。」(p.231)「帝国とは二つの重要な特徴を持った政治秩序のことを言う。第一:それぞれが異なる文化的アイデンティティと独自の領土を持った、いくつも(2,3では少なすぎ、20,30 は必要ない。その中間)の別個の民族を支配していることだ。第二:帝国は変更可能な境界と潜在的に無尽の欲を特徴とする。帝国は、自らの基本的な構造もアイデンティティも変えることなく、次から次へと異民族や異国領を飲み込んで消化できる。」(p.235)「たとえば、現代のユダヤ人の政治的、経済的、社会的慣行が、ユダヤの古代王国の伝統よりも、過去2000年間に支配を受けた諸帝国に負うところの方が大幅に多いことは、言うまでもない。もしダビデ王が今日のエルサレムにある超正統派のシナゴーグに現れたとしたら、人々が東ヨーロッパの服を着て、ドイツの方言(いディッシュ語)で話し、バビロニアで編集された律法集(タルムード)の意味について果てしなく議論しているのを目にして、さぞ戸惑うだろう。古代ユダヤには、シナゴーグもタルムードも、モーセ五書の巻物さえもなかったのだから。」(p.239)
(2023.5.22)
- 「絵で読む日本の古典5 おくのほそ道」監修 田近洵一、ポプラ社(ISBN978-4-591-12809-1, 2012.03 第1刷発行, 2018.2 第4刷発行)
出版情報・目次情報。シリーズ第5冊目の、紀行文である。子供の頃東北地方で育ったこともあり、みにのくには愛着を感じている。東北地方のどこに行っても、松尾芭蕉(本名宗房)の碑があると思っていたが、旅路を見ると、岩手県、秋田県には、ほんの少ししか入らず、北陸路を折り返していたことを知り、ちょっと驚いた。同行した、弟子の河合曽良の日記も残っているとか。最後に、与謝蕪村、小林一茶の句も並べてあり、時代的な関係も知らなかったので、復習になった。ただ、一定度以上は、なかなか俳句の美しさは、受け取れなかった。五七五の中に、季語や、技巧的なものも盛り込むところに、やはり無理があるように思う。
(2023.5.28)
- 「サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福」ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)著、柴田裕之訳、河出書房新社(ISBN978-4-309-22672-9, 2016.9.30 初版発行, 2017.2.4 16刷発行)
出版情報・目次。いくつかコメントはあるが、基本的に、上は、整理できていると思うことはあったが、そこまでの刺激は受けなかったが、下は、考えさせられることが多かった。将来に関わることが多いからだろう。根本的に、わたしがハラリと異なるのは、これだけの思考力があっても、人の知りうる範囲は、ほんとうに限られた部分だけだということ。さらに、古代の人も含めて、過去のひとたちや、世界の様々な人とも、語り合うこと、互いに慈しみ合い、共に生きていることを実感し、大切にしていきたいと願う強さだろうか。最後に「ひよっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか』かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。」(p.263)とあるが、まさに、このことをわたしはずっと考えてきた。ひとの幸せがなにであるかは、わからないが。このあとの「ホモ・デウス」も近いうちに読んでみたい。以下は備忘録:「宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。これには、二つの異なる基準がある。1. 宗教は、超人間的な秩序の存在と主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の産物ではない。プロ・サッカーは宗教ではない。なぜなら、このスポーツには多くの決まり事や習慣、奇妙な儀式の数々があるものの、サッカー自体は人間自身が発明したものであることは誰もが承知しており、国際サッカー連盟はいつでもゴールを大きくしたり、オフサイドのルールをなくしたりできるからだ。2. 宗教は、超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力があるとみなす。今日、西洋人の多くが死者の霊や妖精の存在、生まれ変わりを信じているが、これらの信念は道徳や行動の基準の源ではない。したがって、これらは宗教ではない。」(p.10)「キリストが十字架に架けられてから皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗するまでの300年間に、多神教徒のローマ皇帝がキリスト教徒の全般的な迫害を行ったのはわずか4回だった。地方の管理者や総督は独自に、反キリスト教の暴力をいくらか煽った。それでも、こうした迫害の犠牲者を合計したところで、この三世紀間に多神教のローマ人が殺害したキリスト教徒は数千人止まりだった。これとは、対照的に、その後の1500年間に、キリスト教徒は愛と思いやりを説くこの宗教のわずかに異なる解釈を守るために、同じキリスト教徒を何百万人も殺害した。」(p.17)「人間至上主義の宗教(人間性を崇拝する宗教:ホモサピエンスは、他のあらゆる生き物や現象の性質とは根本的に異なる、独特で神聖な性質を持っている。至高の善は人間性の善だ。)1. 自由主義的な人間至上主義:『人間性』は個人的なもので、ホモ・サピエンスの各個人の中に宿っている。至高の戒律は、ホモ・サピエンスの各個人の内なる核と自由を守ることである。2. 社会主義的な人間至上主義:『人間性』は集合的なもので、ホモ・サピエンスという種全体の中に宿っている。至高の戒律は、ホモ・サピエンスという種の中での平等を守ることである。3. 進化論的な人間至上主義:『人間性』は変わりやすい、種の特性だ。人類は人間以下の存在の退化することも、超人に進化することもありうる。至高の戒律は、人間以下の存在を退化しないように人類を守り、超人への進化を促すことである。」(p.37)「歴史を研究するのは、未知を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。たとえば、ヨーロッパ人がどのようにアフリカ人を支配するに至ったかを研究すれば、人種的なヒエラルキーは自然なものでも必然的なものでもなく、世の中は違う形で構成しうると、きづくことができる。」(p.48)「近代科学:a. 進んで無知を認める意志:近代科学は『私たちはしらない』という意味の、ignoramus というラテン語の戒めに基づいている。近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、わたしたちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け入れている。いかなる秩序も、考えも、説も、神聖不可侵ではなく、異議を挟む余地がある。b. 観察と数学の中心性:近代科学は無知を認めた上で、新しい知識の獲得を目指す。この目的を達するために、近代科学は傘つ結果を収集し、それから数学的ツールを用いてそれらの観察結果を結びつけ、包括的な説にまとめあげる。c. 新しい力の獲得:近代科学は、説をうみだすだけでは満足しない。近代科学はそれらの説を使い、新しい力の獲得、特にあたらしいテクノロジーの開発を目指す。」(p.59)「古代の伝統上の無知:個人が何か重要な事柄を知らない場合、誰かもっと賢い人に聞く。伝統全体が重要でないことがらについて無知な場合、偉大な神や過去の賢人たちが伝えないことは、何であれ重要ではない。」(p.60)「『貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない』(マルコ14:7)今日、キリスト教徒も含めて、この点に関してイエスに賛成するひとはますます減っている。貧困は、人間の介入によって解決できる技術上の問題であると、しだいにみられるようになってきているのだ。農学や、経済学、医学や、社会学の分野での最新の成果に基づく政策で、貧困を排除できるというのが、今や常識だ。」(p.78)「1775年にアジアは世界の経済の8割を担っていた。インドと中国の経済をあわせただけでも全世界の生産量の3分の2を占めていた。それに比べると、ヨーロッパ経済は赤子のようなものだった。」(p.95)「日本が例外的に19世紀末にはすでに西洋に首尾よく追いついていたのは、日本の軍事力や、特有のテクノロジーの才のおかげではない。むしろそれは、明治時代に日本人が並外れた努力を重ね、西洋の機会や装置を採用するだけにとどまらず、社会と政治の多くの面を西洋を手本として作り直した事実を反映しているのだ。」(p.98)「近代科学とヨーロッパ帝国主義との歴史的絆を作り上げたのは何だろう。(中略)科学者も征服者も、無知を認めるところから出発した。両者は『外の世界がどうなっているか見当もつかない』と、外に出ていって新たな発見をせずには得られなかった。そして、そうすることで、獲得した新しい知識によって世界を生するという願望を持っていたのだ。」(p.100)「アメリカの先住民が宇宙飛行士に託した言葉:この者たちのいうことは一言も信じてはいけません。あなたの方の土地を盗むためにやってきたのです。」(p.103)「アルジェリアも、北ベトナムも、ゲリラ的な兵力は、限られた地域での戦いが、世界的大義になれば、超大国でさえ負けうることを立証した。」(p.116)「信用に基づく経済活動によって、わたしたちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べものにならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らしい機会が無数に開かれる。」(p.131)「アダム・スミス『国富論』すなわし、地主にせよ、あるいは職工、靴職人にせよ、家族を養うために必要な分を超える利益を得た者は、そのお金を使って、前より多くのした働きの使用人や職人を雇い、利益をさらに増そうとする。利益が増えるほど、雇える人数も増える。したがって、個人起業家の利益が増すことが、全体の富の増加と繁栄の基本である。」(p.134)「スミス:強欲は善であり、個人がより裕福になることは当の本人だけでなく、他の全員のためになる。利己主義はすなわち利他主義である。」(p.135)「産業革命は、わずか二世紀あまりの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた割合の大部分は、国家と市場の手に移った。」(p.189)「個人になるのだ:親の許可を求めることもなく、誰にでも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老たちが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席につけないとしても、どこでも好きなところに住めばいい。あたなたがたは、もやは家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなたがたの面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか。」(p.193)「さらに重要なのは、私たちが集団全体の苦しみよりも個人の苦しみに共感しやすい点だ。だが、長大な歴史展開を理解するためには、個人の話ではなく大規模なおつけ位置を検討する必要がある。2000年には、戦争で、31万人が亡くなり、暴力犯罪によって52万人が命を落とした。犠牲者が一人出るたびに、一つの世界が破壊され、家庭が台無しになり、友人や親族が一生消えない傷を負う。とはいえ、鋸歯的な視点に立てば、この83万人ちおう犠牲者は、2000年に死亡した5600万人のわずか1.48パーセントを占めるに過ぎない。その年に、自動車事故で、126万人が亡くなり、81万5千人が自殺した。(World report on violence and health (WHO))」(p.202)「経済成長と自立が人々の幸せを増大させないのなら、資本主義にはどんな利点があるのか。巨大帝国の被支配民のほうが、一般に独立国家の市民より幸せで、たとえばアルジェリア人が独立後よりも、フランスの支配下にあったときのほうが幸せだということが判明したらどうだろうか。それは、植民地解放の進展や国民の自決権の意義に対してどんな意味を持つのだろう。」(p.215)「中世の祖先たちは、死後の世界について集団的妄想お中に人生の意味を見出していたおかげで幸せだったのだろうか?まさにその通りだ。そうした空想を打ち破るものがでない限りは、幸せだったに違いない。これまでにわかっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生には全く何の意味もない。人類は、目的も持てずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし、明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう。現時点の知見から判断すると、人間の主観性の喪失が惜しまれることはなさそうだ。したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想に過ぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義や、国民主義的意義、資本主義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があるという科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに、人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字架に参加したり、新たな大聖堂を建造することおに人生の意義をみつけていた中世の人々におとらず、妄想に取り憑かれているのだ。」(p.233)
(2023.5.30)
- 「ユダヤ教の歴史」アンドレ・シュラキ、増田治子訳、白水社(ISBN4-560-05745-1, 1993.08.10 印刷, 1993.8.20 発行)
出版情報 Abdre Chouraqui, Histoire du judaisme, Que sais-je? の訳である。文庫クセジュから出版されている、『イスラエル』、『ユダヤ思想』と合わせた三部作になっているとのことである。正直、これだけ読んだだけではよくわからない。少し、古いこともあるだろうが、書き方もあるように思う。また、歴史の評価をしないことも、実際に起こったことがどのようなことかを判断しにくい理由なのかなと思う。父の本棚にあった一冊で、たくさん線が引いてあった。このように、父の本棚の本を読んでから、語ることができるとよかったのだが。シュラキは、アルジェリアで生まれ、フランスで教育を受け、エルサレムに居を定めたユダヤ人で、キリスト教、イスラム教との融和も目指している。以下は備忘録:「『捕囚は贖罪の代価である』が、また、あがないの徳をももっていたのである。耐え忍ばねまならぬ苦しみは、永遠の秤に必要な、愛の苦しみであり、それは、さらに烈しく待ち望まれる『ダビデの子』の栄光の統治を準備するものであった。こうして、民全体が、ラビの宣教する悩めるメシア、イザヤの幻や詩篇における『悲しみの人』(イザヤ53:3, 詩篇116:3)の立場に置かれていた。」(p.33)「ユダー・ハレヴィは、キリスト教とイスラム教の神学者たちの面前で、次のように述べた。迫害され、卑しめられ、傷つけられたイスラエルが、歴史においてまさしく苦悩する『僕』の存在を具現し、もろもろの根原を守護する民として、キリストおよびイスラム教の博士たちにより万人に説き伝えられた理想の状態を実現しているのであると。三世紀のバビロニアの博士、R・エレアザール・ベン・ペダトが、次のように語ることができたのは、この意味においてである。『神殿が破壊された日より、イスラエルと天にいますその父との間の鉄の壁が取り払われたのである、・・・』エゼキエル4:3 イスラエルを鉄の壁で取り囲むように。」(p.34)「マイモニデス『迷える者たちへの手引き』1195」(p.79)「三重の暴力に特徴付けられる捕囚:神殿の破壊によって自らの神から切り離され、外国の支配下に置かれたみずからの土地と、イスラエルを除外的待遇の下に置いた諸国家とから切り離されていた。近代になると、歴史に導入された逆説的次元によって、大さんの行動の糸口がつけられた。すなわち、ユダヤ人を諸国家から切り離していた壁は、広範囲にわたって打ち倒され、聖書の民、土地、言語がよみがえり、その間に新しい光が約束の究極的成就への道を準備したのである。」(p.115)「人々は、正典律法、ハラハー(従うべき歩み)の定める戒律全体に、満足できるか否かによって『宗教的』と『非宗教的』とに分けられる。」(p.134)
(2023.6.7)
- 「世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教」弓削達著、河出書房新社(ISBN4-309-47164-1, 1999.07.25 初版印刷, 1999.8.04 初版発行)
出版情報・目次情報初期のキリスト教とローマ帝国との関係と背景が丁寧に書かれている。ローマ帝国の歴史としても、キリト教とどう向き合うかが成熟のためにも、重要な課題であったことがわかる。キリスト教側でも、護教論などが整備されるなど、どのように迫害に対するかを通して、神学が整備されていったこともある。ある程度の必然があるとともに、どちらにとっても、新たな問題を抱えたことも確かであるように思われる。これも父の書棚にあった本だが、特徴がある本だけに、論理のバランスが取れているか少し気になるが、ローマの歴史も含め、基本的なことは、十分に書かれているので、ひとつの良い入門書だと思われる。以下は備忘録。「カトー;吝嗇(けち、極度の倹約家)カトーの本質は極度の合理主義ということであろう。彼のさまざまな名言はそれを示しているが、中でも『自分は生涯に3度後悔した。一度は妻に秘密を打ち明けた時、一度は歩いていけるところを船で行った時、一度は無為に1日を過ごした時』という言葉にはかれの面目躍如たるものがある。」(p.89)「ローマ人は相続税以外いっさいの直接税免除であったから、支配民族であるローマ市民と被支配民との区別は、税を払うか否かの点にあった。イタリアにあるローマ市民の所有地も免税となった。」(p.91)「かれらのかたい信仰によれば、かれらの先祖がエジプトでファラオ(王)の圧制にたえかねていたとき、ヤーヴェは、モーセを指導者にたててエジプトより救い出してくださった。この『出エジプト』の苦難を切り抜けさせてくれたヤーヴェは、もし人々がヤーヴェにたいする忠誠を失わず律法を守るならば、その選んだ民イスラエルを、かならずやいかなる苦境からも救い出してくれるであろう。これが彼らの信仰であった。」(p.203)「ユダヤ人にとて、貨幣に支配者の像を刻むことは、支配者を神とみなすことを意味したが、ヘロデは絶対にそれをやらなかった。神殿の再建にあたっても、ユダヤの律法の定めのとおり、祭司のレビ人だけに建築をゆだね、自分は決して聖域に足を踏み入れなかった。かれは、イェルサレムの町を競技場や劇場などの大建造物で飾ったが、そのいずれにも画像の装飾を用いなかった。ユダヤ人のもっともきらう偶像礼拝の疑いを細心に避けたのであった。」(p.221)「熱心党というのは、パリサイ派の中の左派であるシャンマイ派の考え方を実行にうつしたようなグループで、ユダヤ人がヤーヴェからうけた律法を冒すものはローマ支配者であるから、ローマ支配とその傀儡であるヘロデ王朝と徹底的に戦わなければ、終末のメシアはこないのだ、という立場にたっていた。つまりかれらは『熱心』に神の国の到来を待ち、メシアの来臨をはやめるために、ローマにたいする政治的反抗運動に身を投じた人々であった。」(p.227)「ある事実を事実として認めることが不利であるような立場にある人々が、その事実を事実として認めるか黙認の前提にしている場合、あるいは積極的に否定していない場合、われわれはその事実を疑い得ない事実として考えても良いという基準で、イエスの生涯も書いてきた。そこには、ラザロの復活のような今日の自然科学的な常識では説明しにくい事件があったが、それらのいわゆる奇蹟にしても、敵もまたそれが事実であることを認め、その事実性の承認のうえにたって次の行動を起こしているかぎり、それらのいわゆる奇蹟に説明や照明を加えることなく、そのまま単純な事実として伝えてきた。」(p.290)「かれはイエスの教えの超民族的本質を正しく継承することができたが、しかし他面、イエスが終始その矛先をゆるめることのなかったローマと、その手先であるユダヤ支配層にたいする批判と攻撃は、パウロによってすっかり影をひそめてしまっている。反対にかれには国家あるいは支配を認める論理が表れている。」(p.300)「フェリクスはもと解放奴隷の出身であったが、兄バルラスがクラウディウス帝の側近で勢力を振るっていたおかげで、総督という高官になれた男であった。ところが、パウロのこの事件の前の年、首都ローマではクラウディウスが死に、ネロが帝位についたばかりであった。新帝寝ろはクラウディウスの被解放奴隷重用の政策を一変し、バルラスも失脚させられた。フェリクスの政治的生命は風前の灯火であったのである。」(p.302)「ユリウス・クラウディウス朝にかわって、ウェスパシアヌス(在位69-79)、その息子ティトゥス(在位79-81)、その弟ドミティアヌス(在位81-96)、これら3台にわたるフラウィウス朝が続く。」(p.329)「こうした好条件に助けられて、帝国各地の特産品交換の通商が栄え、それが各地の生産を刺戟した。エジプトからは穀物、パピルス、麻、ガラス、宝石が、シリアからは染料、ガラス、絹製品、小アジアからは、羊毛、木材、鉄、ギリシャからはオリーブ油、大理石、アフリカ(現在のチュニジア、アルジェリア地方)からは穀物、豆類、果実、スペインからは各種鉱産物、織布、羊毛、サカナ、ガリアからは穀物、畜産品、織物類、ブリアニアからは鉄、皮革、羊毛、ドナウ地方からは鉄、皮革、ウマ、奴隷、こういった商品がおもいイタリアに向けて輸出され、イタリアからは、各種の工業精神が輸出された。」(p.337)「この地球の略奪者(ローマ人)は、あらんかぎり荒らしまわって、土地がなくなると大洋を求めた。かれらは、敵が富裕であるときは貪欲で、貧困のときは名誉心を満足させる。東の世界も西の世界ももうローマ人を満足させることができない。全人類のうちかれらだけが、同じ熱情をもって世界の財貨をも窮乏をも求める。破壊と殺戮と掠奪をかれらはいつわって支配とよび、廃墟をつくったときかれらはそれを平和と呼ぶ。」(p.339)「二世紀の二人の律法学者の対話。A 『ローマ人の事業はなんと偉大ではないか。かれらは市場を建て、橋をかけ、浴場をつくる』B 『いや、かれらが作るすべては自分の欲を満たすためだけだ。かれらが市場を立てるのは遊女を買うため、浴場をつくるのは享楽のため、橋をかけるのは徴税のためだ』これらが辛辣であっただけでなく、一面真実であったことは読者もおわかりだろう。」(p.340)「このキリスト教もパウロ的な『権威への服従』に加えて政治的メシア主義の克服と彼岸的終末思想によって、現実逃避的な姿勢を強めつつあったが、フラウィウス朝、特に専制的なドミティアヌス帝が皇帝礼拝をにわかに強化したことを契機として、ローマに対する抵抗の姿勢を急速に回復する。」(p.341)「ティルトゥルリアヌス:ティベル川が氾濫する時、ナイルの出水が足りない時、雨が降らない時、地震のとき、飢饉、悪疫が起こるとき、すぐさま人はキリスト教徒をライオンに投げよと叫ぶ。いったいこれだけの人数をライオン一頭に投じきれるというのか。われわれはあなた方によって斃(たお)されるたびごとに多数増加する。キリスト教徒の血は種子なのである。」(p.353)「神と帝国の富強との等価交換的思想が、キリスト教のなかにもあらわれてきているのを見出すのである。この等価交換思想だけが、迫害をめぐる論争において、両者に共通の論理であった。」(p.357)「マルタ(女主人という意味)ドムナ(ラテン訳ドミナ)」(p.364)「キリスト教徒は、父祖伝来の神々をすてたけしからん奴であるが、迫害の結果、かれらは自分たちの神をも拝さなくなってしまった。だから事態はまえよりも悪くなってしまった。こういう神なき人間がふえてはたいへんだから、かれらに、彼らの祭祀を返却しよう。キリスト教徒は、自分たちの神を拝し、国家の安全と皇帝の健康のために祈れ。」(p.399)「コンスタンティヌスは、たんにひとりの皇帝たるにとどまらず、神の救いの計画のなかでキリストに準ずるほどの位置をあたえられ、神学的意味を持つものとなったのである。キリスト教は長い間、皇帝が神であることを否定し、皇帝礼拝を拒否しつづけてきたが、いまや皇帝は神以外のすべてのものにまさる地位を、神の意志によてあたえられたものとされたのであった。」(p.415)「二世紀以来、キリスト教護教家たちは、キリスト教徒こそ支配者にとって最良の弟子であり、キリスト教徒こそ為政者のために真剣に神に祈るものだ、と主張し続けてきたが、その主張がいま実ったのである。」(p.415)「いまや等価交換的思想をすて、まったく新しい前提でキリスト教の神を弁証し、かつ希望を失い、打ちひしがれているローマ人に新しい希望を与えなければならない。それをしとげたのがアウグスティヌスの『神国論』であった。」(p.422)
(2023.6.21)
- 「預言者」カリール・ジブラン著、佐久間彪訳、至光社(1990年4月23日第一刷)
出版情報。内容紹介には「レバノンの詩人・哲学者・画家である著者が人間の普遍的テーマ…愛、労働、喜びと悲しみ、友情など26項目について深く語りかけている。小型携帯版」とある。瞑想本だろうか。熱心なカトリック信者の方から頂いた本の中にあり、手にとって読んだ。扉には、訳者の署名もある。表紙裏には、曽野綾子の紹介文が付されている。「この本は 神様とのあいだに ひそかなる 自分の道をつくることを気づかせてくれる。」カリール・ジブラン(Kahlil Gibran)は、1883年レバノンの山間部、Bcharre村に生まれる。ボストン、レバノン、パリで活動し、1931年、ニューヨークで死去。基本的には、アルムスタファが語る形式で、後半は、アルムスタファに問い、答える形式になっている。抜粋してみる。以下は備忘録。「アルムスタファは言った。あなたの子は、あなたの子ではありません。自らを保つこと、それが生命の願望。そこから生まれた息子や娘、それがあなたの子なのです。あなたを通ってやってきますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです。子供に愛を注ぐが良い。でも、考えは別です。子供には子供の考えがあるからです。あなたの家に子供の体を住まわせるが良い。でもその魂は別です。子供の魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢のなかにでも、そこには立ち入れないのです。子供のようになろうと努めるがよい。でも、子供をあなたのようにしようとしてはいけません。」(pp.25-26)「労働して自分の糧を得てこそ、生きていることを愛することになります。労働を通して生きることを愛する。それは生命のもっとも深い神秘に触れること。しかし、もし苦しみの日に、『生まれてきたことは禍いだ。肉体を養うことは額に記された呪いのせいだ』というなら、わたしは答えます。『あなたの額の汗だけが、記された呪いを消し去れるのだ』と。」(p.36)「あなたがたは道です。そしてまた道ゆく者です。もしひとりが倒れれば、それは、後からくる者たちのためなのです。つまずかせる石のありかを告げ知らせていますから。ああ、かれが倒れるのはまた、先に行く者たちのせいなのです。彼らの足がどんなに速く確かであっても、つまずきの石を取り除けはしなかったのですから」(p.54)「殺されたものは、自分を殺したものに負い目がないわけではない。奪われたものは、奪われたことに科(とが)がないわけではない。正しい者は、悪人の行いに関わりのないわけではない。そして、手の清い者も罪人のわざに触れなかったとは言えないのです。まことに、罪のあるのは、しばしば当の被害者。そして、さらにしばしば、罪を問われたものは、罪なく科なしと見なされたものの代わりに、その思い荷を担うもの。ひとは分けることが出来ない。義人と罪人、善人と悪人とを。かれらは皆一緒に陽に向かって立っている。ちょうど黒糸と白糸が一緒に織られるように。」(p.55)「正しくあろうと努めるあなたがた裁き手たちよ。どのような判決を下すのですか。肉においては正しくても、精神においては盗人である者よ。どのような刑罰を科すのですか。肉においては殺人者でも、精神においては殺されたものに。」(p.56)
(2023.7.1)
- 「あかちゃんはこうしてできる」えとぶん P.H. クヌートセン、やく きたざわきょうこ、だれもおしえなかったえほんしりーず、アーニ出版(ISBN4-87001-011-9, 1992.5 初版発行, 1992年7月15日第17刷)
国立国会図書館。我が家にあったものを、6歳の孫(女の子)が持ってきたので、2回読んで聞かせた。ちょっとニヤッとしたが、しっかり、聞いていた。最後は「こうして、あかちゃんは、うまれるんだ。もし、なにかわからないことがあったら、おとうさんおかあさんに、きいてごらん。ほかにだれか、すきなおとながいたら、そのひとに、きいてもいいんだよ。」と閉じられている。セックスがそのまま描写されているが、このようなものを教えない、教えられない性教育には、問題を感じる。ここにとどまっていてはいけないが。しっかりと議論ができる、基盤を築くのは急務であると同時に、日本では難しいのかもしれないと再確認した。
(2023.7.2)
- 「動物農園 Animal Farm」ジョージ・オーウェル(George Orwell)著、吉田健一訳、ヒグチユウコ画、中央公論新社(ISBN978-4-12-005566-9, 2022.9.25 初版発行)
出版社情報・紀伊国屋書店サイト。知人からこの内容について書いた記事を送っていただき、返信のためにも、読まなければと思い、最も、最近出版されたものを図書館で借りた。出版社のページに「非人間的な政治圧力を寓話的に批判したジョージ・オーウェルの世紀を超えた衝撃作。発掘された名訳を、描き下ろし装画とともに。」とある。訳者は、吉田茂元首相の長男で、1966年が邦訳の初出のようである。オーウェル,ジョージについては「本名エリック・アーサー・ブレア。1903年インドに生まれ、イギリスで育つ。イートン校を卒業後、警察官としてビルマで勤務。33年からルポルタージュ『パリ・ロンドン放浪記』。小説『ビルマの日々』を発表。36年にはスペイン内乱の国際義勇軍に参加し、38年『カタロニア讃歌』を出版。第二次世界大戦中はBBC放送に勤務、『トリビューン』紙の編集主任を務めた。45年に小説『動物農園』がベストセラーとなる。46年に移り住んだスコットランドのジュラ島で未来小説『一九八四』を書き上げ、50年に肺結核のため死去」とある。スターリンによる支配を描いたともされ、アメリカで反共宣伝に使われたようだが、読んでみると、特定の国の状態を想定するのは、読み方が狭いと感じた。まさに、寓話で、いろいろな読み方があるのだろうが、個人的には、ひとは、知識も乏しいのに、知識があるように思い込んだり、判断力も十分にないのに、それで良いことにしたりする。脳の省エネ活動と戦わなければ、いけないと感じるとともに、どうすればよいかは、深い謎だと感じた。
(2023.7.2)
- 「絶望名人カフカの人生論」フランツ・カフカ Franz Kafka、頭木弘樹編訳、飛鳥新社(ISBN978-4-86410-115-8, 2011.11.3 第1刷発行)
出版社情報・新潮社文庫としてでています。天声人語に載っていたのと、ちょうど、カフカが好きだという学生の推薦状を書いたり、その学生をドイツに住んでおられる、以前、わたしと同じ大学でカフカについて教えておられた先生を紹介して、お会いできたとメッセージをもらったことも、思い出して、手に取った。「変身」は読んだことはあったが、感激もしなかった。20世紀最大の文豪というひともいるようなので、再挑戦である。扉裏には「すべてお終いのように見えるときでも、まだまだ新しい力が湧き出てくる。それこそ、おまえが生きている証なのだ。」第1章の初めには「将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。将来に向かってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。ーフェリーツェへの手紙ー」これが、天声人語で引用していたものだと思うが、恋人へのラブレターからの引用だというかおどろかされる。この女性とは二度婚約するが、結局、二度とも、カフカから婚約破棄、二度目は、結核を患っていたときで、女性は、その看護もするというが結局、結婚できずに別れる。表題の絶望名人ということばは、よく表現していると思う。「ぼくはいつだって、決してなまけ者ではなかったと思うのですが、何かしようにも、これまではやることがなかったのです。そして、生きがいを感じたことでは、非難され、けなされ、叩きのめされました。どこかに逃げようにも、それはぼくにとって、全力を尽くしても、とうてい達成できないことでした。ー父への手紙ー」父への長大な手紙(タイプ原稿で45ページ)の一部だそうである。「たとえば、ここにAとBの二人がいて、Aは階段を一気に五段上がっていくのに、B は一段しか上がれません。しかし、B にとってのその一段は、A の五段に相当するのです。A はその五段だけでなく、さらに、100段、1000段と着実に上がっていくでしょう。その間に、通過した階段の一段一段は、彼にとってはたいしたことではありません。しかし、B にとって、その一段は、人生で最初の、絶壁のような、全力を尽くしても登り切ることができない階段です。乗り越えられないものはもちろん、そもそもとりつくことさえ不可能なのです。ー父への手紙ー」「人間の根本的な弱さは、勝利を手にできないことではなく、せっかく手にした勝利を、活用できないことである。ー断片ー」「ずいぶん遠くまで歩きました。5時間ほど、ひとりで。それでも孤独さがたりない。まったく人通りのない谷間なのですが、それでも寂しさが足りない。ーフェリーツェへの手紙ー」「死にたいという願望がある。そういうとき、この人生は耐え難く、別の人生は手が届かないように見える。いやでたまらない古い独房から、いずれイヤになるに決まっている新しい独房へ、なんとか移してほしいと懇願する。ー罪、苦悩、希望、真実の道についての考察ー」最初の12の中から選んだ。まだまだ引用したいがこのぐらいにしておく。頭木氏がひとことずつコメントしているが、そのいくつかは、こころに響くものだった。カフカをよく知っているものだけが、鑑賞できるのかもしれない。最後に「まるで二人の子供がふざけ合っているようです。一人が友達の手をきつく握りながら、『さあ行けよ。なぜ行かないんだ?』とからかっているのに似ています。もちろん、ぼくとおとうさんの場合には、あなたの『行けよ』という命令は、真剣なものですし、本心です。でも、あなたは、以前から、ご自分では、それと知らずに、ぼくを引き留め、押さえつけてこられたのです。父親という存在の重みによって。ー父への手紙ー」「ぼくは同級生の間では馬鹿でとおっていた。何人かの教師からは、劣等生と決めつけられ、両親とぼくは何度も面と向かってその判定をくだされた。極端な判定を下すことで、人を支配したような気になる連中なのだ。馬鹿だという評判は、みんなからそいう信じられ、証拠まで取り揃えられていた。これには、腹が立ち、泣きもした。自信を失い、将来にも絶望した。そのときのぼくは、舞台の上で立ちすくんでしまった俳優のようだった。ー断片ー」頭木さんの結びのことば「生きることが苦しくて仕方がない時、気持ちが落ち込んで仕方がない時、ポジティブになんてとてもなれないとき、死にたいとおもったとき、ぜひこの本を開いてみていただければと思います。カフカのネガティブな言葉たちは、意外にもあなたに力を与えてくれるはずです。」本当にそう思う。最後にとして「ぼくの本があなたの親愛なる手にあることは、ぼくにとって、とても幸福なことです。ーカフカー」とある。良い本に出会うことができたと思う。
(2023.7.19)
- 「阿Q正伝・故郷」魯迅作、小田嶽夫訳、偕成社文庫4067(ISBN4-03-850670-3,1990.6 初版第1刷発行)
紀伊國屋書店による書誌情報「思うに、希望というものは、もともとあるというものでもないが、ないというものでもない。ちょうど地上の道のようなものだ。じっさい地上にはもともと道はないのだが、歩く人がおおくなれば、しぜんに道になるのだ(「故郷」より)。」(表紙裏)中国人の知人の話の中に出てきた。しっかりと読んだ記憶になかったので、近くの図書館にあったものをすぐ借りて読むことにした。阿Q正伝・小さなできごと・祝福・藤野先生・阿長と『山海経』・故郷、訳注・解説・年譜と収録されている。最初は、すこし苦痛ですらあったが、少しずつ背景を理解すると、訴えてくるものの鋭さに驚かされるようになった。いままでに、ほとんど読んだことがない種類の本だった。その意味でも、解説が秀逸である。魯迅は仙台の医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学中(解剖学の藤野先生にもここで会っているようだ)の回想が書かれている。「ある日のこと、画面にとつぜんひとりの彼の同胞の姿がうつり出てきた。その同胞は日本軍にひったてられ、いましも銃殺されるところであった。ロシアのスパイになっていたのがわかって、捕まったものらしかった。ところが、そのほかにもたくさんの同胞の姿があった。彼らはその銃殺の見物人であった。受刑者も見物人もみなりっぱな体格をしていた。銃殺は、いままさに行われようとしている。で、生徒たちは拍手し、歓呼した。が、彼だけはひとり無限の苦痛をおぼえた。同胞が銃殺されるためだけでなく、見物の同胞が、嬉々として楽しんでいるさまが、たまらなく悲しかったのである。この瞬間をさかいにして、魯迅の、医学を勉強しようという気持ちは、急激に衰えてきた。彼は、祖国の同胞に対し、新しい医学でいかにその身体を強壮にし、寿命を長くしても、彼らの精神がいまのままでいるならば、中国はちっともよくならない、ということを深く考えた。彼らの精神を改革することこそが、急務だと考えられた。それではその精神を改革するには?それには、文学の力にたよるしかないーというのが彼の結論であった。彼は東京へもどって文学運動を起こすことを決意した。」(p.210)風刺的とともに、象徴的な描き方。おそらく、日本にも、同様の文学があるのだろう。ここまで痛烈かどうかは不明だが。
(2023.7.23)
- 「源氏物語の楽しみ方」林望、祥伝社新書618(ISBN978-4-396-11618-7, 2020.12.10 初版第1刷発行)
出版社情報、紀伊國屋書店による書誌情報。いずれは、源氏物語の現代訳を読みたいと思っているので、準備として、まずは、「絵で読む日本の古典2 源氏物語」を読み、次に、「謹訳 源氏物語」の著者である、林望氏の本を手に取った。リンクをつけた書誌情報からも窺い知ることができるが、トピックごとに、源氏物語の面白さ、深さ、女性視点、男性視点などについても、語られ、引き込まれて読んだ。まだ、原文を味わう力はないが、なぜ、源氏物語が素晴らしいとされるかの一端は、受け取ることができたと思う。それは、何よりも、自分が、多くの経験をして、いわゆる、おとなになってきたからだろう。単に、林望さんが源氏物語に魅せられているということだけでなく、その魅力が十分に伝わるように書かれている。特に、紫上を中心に置いた全体解釈は、優れていると思う。少し準備ができたと思うので、次には、いただいた、現代訳を読み、できればそのあとに、「謹訳 源氏物語」も読んでみたい。おそらく、女性視点、男性視点の微妙な違いも訳に現れるのではないかと思う。著者も書いているが、高校生のころは、技術的な解説でなかなか楽しめなかったり、大学時代は、すばらしい講義であっても、後になって、理解できたことが多かったことなども書かれていた。わたしは、古典は、まったく理解できなかったが、日本古典の世界に、大人になって、ほんのすこし、近づくことができたと感じるとともに、高校の教科書に含まれていて、強制的に、読まされることには、今も、違和感を感じる。高校の教科書の数学も同様にことが非常い多いと思うが。
(2023.8.4)
- 「君たちはどう生きるか」吉野源三郎著、岩波文庫 青158-1(ISBN4-00-331581-2, 1982.11.16 初版第1刷発行, 2011.11.15 第66刷発行)
出版社情報、紀伊國屋書店による書誌情報・目次。以前から少し気になっており、最近、宮崎駿監督のジブリのアニメも公開されたと聞いて、家にあったこともあり読んでみた。丸山眞男による「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」が付いている。ほぼ読み終わる頃、アニメ映画も見る機会があった。途中に、この本が登場するが、内容的には、関連しているわけではない。しかし、ある種の、オマージュ(hommage:芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受け、似た作品を創作すること、またその創作物)だろうか。本書では、倫理的な点を社会科学的背景のもとでおじさんが、中一の少年に語る形式が取られているが、アニメでは、それらを一切廃して、危害を加えようとした相手とも、最後は友となることだけを、表現していた。岩波文庫版は、1939年に書かれた初版に基づいており、時代的に、戦中を背景としているため(新版では、設定が変えられているとのこと)このような形になったのかもしれないと思うが、少し、違和感を感じる面はあった。物語仕立てと、おじさんノートで、倫理的な面を語るという、形式としては、よくできていると思う。以下は備忘録。「英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただ、この流れに沿って行われた事業だけだ。」(p.192)「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだとは認めない。なるほど、『自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ』というのは、真理だが、しかしまた、ひとが自分自身をあわれだと認める場合、それがすなわち偉大であるということだというのも、同様に真理である。だから、そいういう人間のあわれさは、すべて人間の偉大さを証明するものである。これは、王位を奪われた国王のあわれさである。『王位を奪われた国王以外に、誰が国王でないことを不幸に感じるものがあろう。ただ一つしか口がないからと言って、自分を不幸だと感じるものがあろうか。また、眼が一つしかないことを、不幸に感じないものがあるだろうか。誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったことはないだろうが、眼が一つしかなければ、慰めようのない思いをするものである。(パスカル)』」(p.249)「人間が本来、人間同志調和して生きていくべきものでないならば、どうして人間は、自分たちの不調和を苦しいものと感じることが出来よう。お互いに愛し合い、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎しみあったり、敵対しあったりしなければいられないなら、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて働いていけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やりきれなく思うのだ。」(p.252)「『誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、わたしはみたことがある。』これはゲーテの言葉だ。僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから誤りを犯すこともある。しかし、僕たちは自分で決定るる力を持っている。だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。そして、コペル君、君のいう『人間分子』の運動が、ほかの物質の分子の運動と異なるところも、また、この点にあるのだよ。」(p.257)
(2023.8.14)
- 「また会う日まで」池澤夏樹著、朝日新聞出版(ISBN978-4-02-2518972, 2023.3.30 第1刷発行)
出版社情報、紀伊國屋書店による書誌情報・目次。内容紹介:海軍軍人、天文学者、クリスチャンとして、戦前、戦中、戦後を生きた秋吉利雄。この3つの資質はどのように混じり合い、たたかったのか。史実を融合した歴史小説。朝日新聞連載を加筆修正し単行本化。(728ページ) 新聞連載のかなり初期のころから、毎日楽しみに読んでいたが、単行本にするにあたり、歴史的な資料も多く含まれ、改訂がなされているようだ。たんたんと進む日常ではあるが、キリスト者、科学者、軍人として生きる、主人公の葛藤と誠実さが丁寧に描かれている。むろん、批判をすることも可能だが、自分がそこに生きていたらと思うと、考えさせられることが多かった。小説ではなく、実際のひとりのひとの生き様が描かれているが、一級の歴史資料であると思う。M 氏が生きていたら、と感じる。それを、M 氏だけに頼ったところに、日本の脆弱性があるとも言える。以下は、備忘録。「トキナさんのことば『アメリカには気をつけなされよ』『このハワイはもともとは独立した王国。それをアメリカが武力で併合した。最後の女王だったリリウオカラニという方が去年なくなりました。二十五年前に王座を追われて寂しい晩年でした。大きな国が小さな国を取り込む。どこでも起こっていることです。琉球もまた日本に取り込まれた』『おもしろいことがありましてな。まだハワイが王国だった頃、カラカウアというこちらの王様が日本に行って天皇さまと会われた。カラカウアは、先にも王仕上げたハワイ最後の主君リリウオカラニ女王の兄上ですよ。ハワイの王様が天皇さまに、私の姪の一人をそしらに嫁にやってもよいが、と言った。カイウラニ女王はその時は七歳、相手と目された山階宮は十五歳』『ハワイ王国はアメリカによる併合に対抗するために新興国日本と絆を結んでおこうと考えた。広い海を隔ててとはいえ隣国には違いない。しかし天皇さまは今の我が国にそんなことをしている余裕はないと、その話をお断りになった。』『後にカイウラニ女王はまことに美しく成長なさったがな。』」(pp.117-118)「一、海軍大尉である、二、東京帝国大学理学部の学生である、三、芝白金の三光教会の信徒である。三本の木が隣り合って立ち並び、それぞれから横に伸びた枝の先に開く葉叢(はむら)は互いに重なり合っている。あるいは互いを遮って陽光を奪い合っている。私の中で争っている。(中略)艦船が天測暦を信頼するようにわたしは聖書を信頼していた。しかし海上で観測なくして自分の位置を知り得ないように、聖書を手にするだけでは霊の導きは得られない。読むこと、考えること、祈ること、主を背にして現世に向けて力を尽くすこと。三本の木は実は根を共有している。それがわたしという人格である。そう信じられる。」(p.217)「大連ほど遠くなければ一緒に旅もできた。例えば群馬県の万座温泉。わたしが気散じのためにどこかに行こうと言い出し、チヨがここを選んだ。標高一千八百メートルとずいぶん高いところにある。日進館という宿に荷を置いて、近所の山を歩いた。」(p.221)「信徒は聖書を読むことができる。それを推奨されていると言ってもよい。かつては聖書は聖職者だけのものだった。一般の人々は意味のわからないラテン語を聞き、連禱では空で覚えた文言をただ唱えた。マルチン・ルターがそれを変えた。俗語であったドイツ語に訳し、グーテンベルグが改良した印刷術を応用してたくさんの聖書を民衆に配布した。自分で読め!自分で考えろ!おまえは主と向かい合っている。おまえと神は一対一の契約関係にある。契約の条項はすべて聖書に書いてある。神父に仲介を頼む必要はない。聖者や聖母マリアにとりなしを頼むことさえない。まっすぐ神と主に対面せよ。」(pp.454-455)
(2023.8.20)
- 「漫画 君たちはどう生きるか」吉野源三郎(原作)/羽賀翔一(漫画)、マガジンハウス(ISBN978-4-8387-29470, 2017.8.24 第1刷発行)
出版社情報、紀伊國屋書店による書誌情報。「君たちはどう生きるか」の漫画版ではあるが、わたしが読んだ初版を基盤としている岩波文庫とはかなり異なっている。おなじマガジンハウスから「君たちはどう生きるか」も出版されているので、そちらとは合っているのかもしれない。漫画がわかりやすく挿入されているが、同時に、おじさんノートなどは、そのままコラムのような形で、挿入されている。いくつかの場面が、削除されるなど、整理されている。順番も入れ変わっている部分もあるが、善悪はなんとも言えない。これで読む人が増えることは良いことなのだろう。かならずしも、同意できない部分は多く、特に、自由意志に強く依存する部分は疑問を感じるが、時代的なものもあるのだろう。わたしも同じように「君たちはどう生きるか」と問う物語を書くことを求められているのかもしれない。
(2023.8.20)
- 「(Mary)マリア キリストにおける恵みと希望」聖公会ーローマ・カトリック教会国際委員会(ARCIC)、聖公会ーローマ・カトリック合同委員会訳、教文館(ISBN978-4-7642-6426-7, 2007.12.4 初版発行)
出版社情報。マリアについて、特に「無原罪の御宿り・被昇天」については、ことばを聞いたことがあるだけで、真剣に考えてみることがなかった。公式に教理として持つカトリックと、教義としてはもたない、聖公会が、第二バチカン公会議のあとの二教派間対話の一貫として、対話をすすめた成果物である。教義の背景も理解でき、支持はしなくても、やはりこのような対話の営みが大切であると思った。中心部分としてシアトル声明としてまとめられている。序論のあとは、以下の構造になっている。A. 聖書の中のマリア、B. キリスト教の伝統におけるマリア、C. 恵みと希望の構図におけるマリア、D. 教会生活におけるマリア。そして、結論。プロテスタントは、積極的ではないが、次のようにも書かれていた。「2005年3月21日付の週刊誌『タイム』はマリアの特集を組んでいた。『キリスト教のすべての教派がイエスの母を崇敬する根拠を見出しつつある』とその見出しは述べている。マリアはイエスの母であるのにプロテスタント教会ではこれまで説教で取り上げられず、信者に意識されなかったが、特にバプテスト系やペンテコステ系の牧師たちはイエスの母マリアのキリスト教信仰にとっての重要性を発見し、教会堂の中にマリア像を置く者も出てきたことをこの特集で書いた記者はのべていた。ルター(1483-1546年)、カルヴァン(1509-60)、英国の宗教改革者たちは、キリスト教伝統を背景にし、生きていたから、マリアに対する過度の信心は排斥したが、マリアに対する崇敬の念をもっていたことはよく知られている。しかし、時代が経っていくにしたがって、イエスの母マリアはプロテスタント信者の意識に上らないようになっていった。(高柳俊一)」AIRCICの「教会における権威II」30 の合意事項。1. マリアの役割に関するいかなる解釈も、キリストが唯一の仲介者であることを不明瞭にしてはならない。2. マリアについてのいかなる考察も、キリストと教会に関する教理と結ばれていなければならない。3. われわれは祝福されたおとめマリアを「テオトコス」、受肉した神の母と認め、マリアの祝日を守り、諸聖人の中でマリアに栄誉を記する。4. マリアは恵によって、われわれの贖い主の母となるために準備された。マリア自身、この贖い主によって贖われ、栄光に迎え入れられた。5. マリアは教会を表す預言者的な姿であるとみなしうる。
(2023.8.23)
- 「ひきこもり文化論」斉藤環著、ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-09683-8, 2016.4.10 第一刷発行)
出版社情報。ひきこもりについていつか勉強してみたいと思ったので、手に取った。この前に書かれた「社会的ひきこもり」を先に読んだ方が良かったかもしれない。「ひきこもり:病気以外の理由で、半年間、所属や対人関係をもてなかったらひきこもり」の両義性(病気ではない・治療の必要性)は理解できる。ラカン研究者ということもあり、理論的な解説も深いが、正直、当を得ているかどうかは不明である。不登校や、ひきこもりは、現象であり、すべて異なるというのは、拙速であったとしても、心理学的な、分析が、どの程度正確なのかは、わからない。著者は、患者と向き合いながら、ある意味では、走りながら考えていることも自認しているので、批判はしないが。個人的には、もっとゆっくり考えたいと思わされた。以下は備忘録。「彼ら(ひきこもり救出ビジネス)のしていることは、専門家が手を出したがらない感激をうまくついたニッチビジネスです。たしかにそうした手法で『直る(治るにあらず)』ケースもあるでしょう。しかし、社会復帰できるなら、手段を選ばない、という態度こそ、最悪の治療主義ではないでしょうか。私はひきこもりの問題については、回復過程の品位こそがもっとも重要ではないかと考えています。『とにかく治りさえすれば良い』という乱暴な発想は、余裕がないときほど魅力的に見えるものですが、ここは、断固、踏みとどまるべきところです。」(pp.38-39)「中野好夫著『悪人礼賛』から。善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一才の責任は解除されるものと考えているらしい。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付き合いやすい。後腐れのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えず僕は恟々(きょうきょう)として恐れていなければならぬのである。」(pp.39-40)「10代・20代を中心とした『ひきこもり』をめぐる地域精神保健活動のガイドライン」(p.63)「三人の囚人に5枚の円盤が与えられています。3枚は白で2枚は黒。囚人たちはの背中に円盤が貼り付けられます。他の囚人の背中をみることはできるが、自分の背中を見ることはできません。もちろん、会話も禁止されています。ゲームの規則は、自分の背中の円盤の色を論理的に推論して言い当てることができた囚人だけが、解放されるというものです。規則の説明がなされた後に、三人の囚人の背中には、三つとも白い円盤が貼られます。ゲームはあっけない結末を迎えます。三人の囚人はいっせいに走り出し、三人とも正しい解答を述べて解放されるのです。三つの主体:注視する主体、理解するための時間の相互的に不確定な主体、結論を下すときの主体。」(pp.100-101)「神田橋條治:自立のもっともつたない形が家出、もっとも望ましい形が親孝行。」(p.112)「明治期以降の日本では、本来別者であるはずの『孝』と『忠』がしばしば混同されるようになりました。その典型が、たとえば天皇に対する意識です。天皇はあたかも国民にとっての家長として表象され、そこにはもはや『忠』と『孝』の明瞭な区別は存在しなくなります。その結果、血縁性にもとづく『孝』の優位は後退し、これとともに、関係性を規定する固定的・絶対的な準拠枠は限りなく希薄化することになったのです。『身内』意識の流動性は、おそらくここに起源があると見なすことができます。」(pp.118-119)「たとえば脅迫症状の存在を理由として、ひきこもり事例をことさらに『強迫神経症』と診断することははたして正当な態度と言えるでしょうか。その際、診断体系の厳密な適用は、現象の解釈を無用なまでに複雑化することにはなりはしないでしょうか。わたしたちに必要なのは仮説原理を節約するオッカムの剃刀なのであって、現象よりも尺度を優先するプロクルステスの寝台ではないことを、ここであらためて確認しておきましょう。」(p.155)「理論は過激に、臨床は素朴に」(p.173)「フロイト:エディプス・コンプレックス」(p.228)「フランシス・ベーコンの四つの偏見:『日本人にひきこもりがおおいのは、日本人に自立心が足りず未成熟だから』種族的偏見、『あそこの子供がひきこもっているのは、親があまやかすからだ』個人的偏見、『ひきこもりの青年たちは、何をやらかすかわからない犯罪予備軍だ。テレビでそう言っていた。』風聞にいよる偏見、『ひきこもりは、日本を滅ぼす。なんとしてもこの私が、ひきこもりの子供達を救わなければならない』権威的・自己顕示的偏見」(p.233)「ヴァレリー:人間は自分自身と折り合える程度にして他人とも折り合えない。」(p.234)「村上龍:『寄生虫』、『最後の家族』」(p.249)「孤立無業者(SNEP)二十歳以上五十九歳以下の在学中を除く未婚の無業者のうち、普段ずっと一人でいるか、家族以外の人と二日連続して接していない人」(p.286)「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」(p.290)「現代の若者の自信と安心の拠り所は、もはや『お金』ではありません。それはほぼ『他者からの承認』に一元化されています。」(p.296)「マズローの欲求五段階説」(p.297)
(2023.8.29)
- 「世界から戦争がなくならない本当の理由」池上彰、祥伝社新書578(ISBN978-4-396-11578-4, 2019.8.10 初版第1刷発行)
紀伊國屋書店による書誌情報。様々な番組で、非常に分かりやすく、ニュースなどについて語る著者が、この問題についてどのように語るか興味をもって手に取った。後半、少し、様々な複雑な要素があることは、語っているが、ほとんど、外交史の観点から表題について振り返っている。テレビなどでは、かなり抑制的に話しているが、この本の中では、あまり、抑制的ではなく、かなり断定的に書かれていることもあり、読者は、この著者がこのように書いているということで、単純化バイアスに陥りはしないかと心配になった。著者は、わたしより、三歳年上であるが、ほぼ同時代を生きてきたこともあり、書かれている内容については、90% 以上知識としては、わたしも持っている基本的な事項であるように感じた。むろん、要約の仕方は、秀逸。著者が伝えたいのは、「主体的に考えなさい」ということのようだ。「日本に主体性がなかったから、いろいろなことがギクシャクしているのです。」(p.72)「一番問題なのは、そうやって、アメリカに振り回されているうちに、日本がますます物事を主体的に決められなくなっていることではないでしょうか。」(p.85)それは、戦後の当初は、占領されており、当時は、世界のGDPの50% がアメリカを占めるような時代、そのあとも、日本を加えれば、50% という時代が続いた中では、政治家も国民も、主体的には考えず、怠慢になったことは、仕方がなかったなと個人的には、考えている。現在は、世界の状況は変化しており、まさに、いま、主体的に取り組まなければいけない時期に来ていることも確かだが。そのような教育をしてこなかったつけがあるということだろう。以下は備忘録:「セイロン:憎悪は憎悪によって止むことはなく、愛によって止む。」(p.73)「村山富市 - 戦後五十周年の終戦記念日にあたって:植民地支配と侵略とによって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするがゆえに、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためた痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明致します、。」(p.80)「安倍談話:我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。(中略)アジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。」(p.81)「原発事故のとき、アメリカ政府は原子炉の廃炉を前提にした技術支援を日本に申し入れました。初期の段階でアメリカの提案を受け入れていれば、爆発が起きて高濃度の放射性物質が飛散するような事態は防げたかもしれません。」(p.87)「『過ちを繰り返しません』というなら、その過ちを生んだ思考法や行動パターンなどもあらためる必要がある。そうしなければ、『誰が総理大臣をやっても戦争をしない国』を作ることはできないのではないでしょうか。」(p.91)「相互確証破壊:Mutual Assured Destruction (MAD) - 双方が相手に破壊的な損害を与えられるほどの核兵器を持つと、攻撃すれば自分たちも滅びてしまうので、お互いに相手国へミサイルを撃ち込むことができない。」(p.125)
(2023.9.3)
- 「経済学・哲学草稿」マルクス Karl Marx 著、長谷川宏 訳 、光文社古典新訳文庫(ISBN978-4-334-75206-4, 2010.6.20 初版第1刷発行)
出版社情報、紀伊國屋書店による書誌情報。共産主義の考え方、歴史を学びたいと思い、どこから読むか迷っているときに、手にした。マルクスにしても、歴史的にどのような位置にいたのかも知らなかったので、その意味では良かったが、訳者が「初期マルクスの著作は、完成稿・未定稿を問わず、一様に、『心あまりて、ことばたらず』といったところがあるのだ。」(p.294)と書くのが当たっているのだろう。正直、論理が先に進まず、明確に伝えようとする意思も感じられず、読みにくかった。ただ、三つの草稿を中心としているが、ほとんど、アダム・スミス、セイ、リカード、ジェームス・ミル、シュルツなど、産業革命後の資本主義社会を分析する「国民経済学」の論客からの批判的引用がすべてであることをみても、それらを背景に、少しずつ、賃金、資本の利潤、地代、疎外された労働、そして、私有財産と労働の関係に向かっていったことはある程度理解できた。使用されている用語の「疎外」「外化」がなかなかしっくりと理解できないでいたが、訳者の解説で丁寧に説明されており、ある程度理解できた。こちらを先に読んでおいたほうが良かった。後半には、社会との関係や、文学からの示唆などもあり、興味深いが、どの程度、これらが「資本論」に結実していったのかは、かなり学ばないとわからないだろう。単に、印象だが、本質を理解してその矛盾をつく語り口は、60年代、70年代の日本の論客、そして、それ以後の、社会学に通じるものも感じる。単純化バイアスを感じるが、時代性もあるように思った。マルクスの生きた時代性、ドイツという地の背景もあるのだろう。以下は備忘録:「批判的神学者たちは、神学の外へでることがないから、ヘーゲルと対決することはなく、哲学的には中途半端な位置にとどまらざるをえない。」(p.12)「賃金は、資本家と労働者の敵対する闘争によって決まってくる。資本家の勝利は動かない。資本家が労働者なしで生き延びられる期間は、労働者が資本家なしで生き延びられる期間より長いからだ。」(p.17)「地主は社会のすべての利点を利用する、ということから、スミスは、地主の利害はつねに社会の利害と一体化している。と結論するが、これはばかげた結論だ。私有財産の支配する国民経済の下では、個人が社会に対してもつ利害は、社会が当の個人にたいしてもつ利害とはまさしく反比例の関係にある。ちょうど、高利貸しが、浪費家にたいしてもつ利害が、浪費家自身の利害とはけっして一致しないのと同じだ。」(p.74)「労働者は労働の生産物にたいし疎遠な対象として関係する。この前提から出てくる明白な帰結は、労働者が苦労すればするほど、かれが自分のむこう側に作り出す外的な対象世界の力がおおきくなり、逆に、かれ自身の内的世界は貧しくなり、かれ自身の所有物は減少する、ということだ。宗教でも同じことが起こるので、人間が多くを神にゆだねればゆだねるほど、人間のもとにあるものは少なくなる。」(p.93)「すべての富は産業的な富、労働の富、となる。産業こそは労働の完成形であって、工場制度は産業の、つまり、労働の、成熟したありさまであり、産業資本は私有財産の完成した客観的な形態である。」(p.139)「産業が人間本来の能力を大らかに開示するものだととらえられるなら、自然の人間的本質と人間の自然的本質とがともに理解されるようになり、かくて、自然科学は、物質一辺倒の観念的な方向性を捨てて、人間的な学問の土台となるはずだ。実際、いまの自然科学は、疎外された形態を取ってはいても、すでに現実の人間生活の土台になっているのであって、生活と学問にそれ以外の土台があるとするのは、はなから間違っている。人間の歴史のうちに、人間社会の生成行為のうちに、生成してくる自然こそが、人間にとっての現実の自然だ。産業の生み出した自然こそが、疎外された形をとっていても、真の人間的な自然なのだ。」(p.159-160)「社会主義なるものはそのような媒介を必要とせず、人間と自然とが本質であるという、理論的かつ実践的な感覚意識から出発するのだ。」(p.165)「フォイエルバッハこそ、ヘーゲル弁証法にたいして、真剣に、批判的に、向き合い、この方面で真の発見をなした唯一の批評家であり、古い哲学の真の克服者だ。」(p.169)「(1) 資本は蓄積された労働である。(2) 生産の内部での資本の働きは、利益をともなった資本の再生産という形をとるにせよ、原料(労働の素材)としての資本という形を取るにせよ、生産的な労働としてあらわれる。(3) 労働者は資本である。(4) 賃金は資本のコストの一部をなす。(5) 労働者にかんしていえば、労働はかれの生活資本の再生産である。(6) 資本家に関していえば、労働はかれの資本の活動の一要素である。(7) 国民経済学者は資本と労働の根源的統一を、資本家と労働者の統一として想定するが、それは楽園のような原始状態だ。国民経済学者にとって偶然の、それゆえ外からしか説明できない出来事なのだ。」(p.220)「金利の低下は、浪費的な富に対する勤勉な資本の完全な勝利を示す一兆候に過ぎない。」(p.227)
(2023.9.14)
- 「聖トマス・アクィナス」G.K.チェスタトン著, 生地竹郎 訳、ちくま学芸文庫文庫(ISBN978-4-480-51202-4, 2023.8.10 第1刷発行)
出版社情報、無類のトマス入門:生地竹郎訳『聖トマス・アクィナス』より。トマス・アクィナスのような、スコラ哲学、スコラ神学者の限界や、そこからの反動としての、宗教改革の流れの中で生きてきたので、まずは、トマス・アクィナスについて、基本的なことを理解したいと思い、「これまで聖トマスについて書かれた最善の書物」(p.251)などの宣伝文句に引かれて手に取った。正直に言うと、わたしにとっては、最善な書物ではなかったと思う。カトリックの背景で、「神学大全」についての、親近感がまずはないと、理解できないと思った。記述が具体性にかけている。それこそが本書の特徴で、全体を十分理解できているひとにとっては、ピンとくるものが多いのだろうが。どうだろうか。いつか、また、ここに戻ってくることができるのだろうか。以下は備忘録:「二人の托鉢修道士(フランチェスコとトマス):太った人と痩せた人、背の高い人と低い人という、顕著で滑稽な比較・対照にもかかわらず、また、放浪者と学者、徒弟と貴族、書物嫌いと書物好き、布教者の中で最も野性的な人間と大学教授の中で最も温厚な人間という対照にもかかわらず、これら二人の偉人が、ひとりは書斎、ひとりは街頭という差こそあれ、同一の偉大な仕事をなしつつあったことは中世史上、まことに偉大な事実である。彼らは異教徒的・異端的なものをキリスト教に持ち込むという意味で、なにか新しいものをキリスト教に持ち込んだのではなかった。その逆に彼らはキリスト教をキリスト教世界に持ち込みつつあったのである。彼らは歴史的傾向の圧力に逆らって、キリスト教会内の大きな学派や権威の中で硬直して習慣と化していたのとは異なる本来のキリスト教を持ち帰ってきたのである。彼らは多くの人には異端とか異教とかに結びついて見えた道具や武器を用いた。聖トマスがアリストテレスを用いたのと同じぐらいに、聖フランチェスコは自然を用いた。ある人には彼らが異教の女神と異教の賢者を利用しているように思われた。本書は彼ら、特に聖トマスが現実に行いつつあったのは何か、という問題を主として扱おうとするものである。」(p.24)「聖フランチェスコはその動物愛好にもかかわらず、われわれを仏教徒たることから救ったといい、聖トマスはそのギリシャ哲学愛好にもかかわらず、われわれをプラトン主義者たることから救ったといえば、たぶんそのことは誤解を招くであろう。真理は簡単に述べるのが最も良い。つまり、彼らはともに神を地上に連れ戻すことによって御託身(インカーネーション)という教義を再確認したのである。」(p.25)「おそらく、歴史に記録される革命などというものは、現実には存在しないのである。起こったものはつねに反革命であった。人々はつねにすぐ前の反逆に対して反逆するか、あるいはすぐ前の反逆を後悔しているのである。」(p.86)「すでに少数者に知られていたこと、つまりアリストテレス学者も真実にキリスト教徒であることができるということが多数の人にも知られるようになった。(中略)科学者の謙遜に関して世間では、きわめて純粋に謙遜である人が多くいる反面、謙遜を非常に自慢にしている人も少数いるという。トマス・アクィナスが聖人の謙遜さの特別な変種として、科学者の謙遜さを実際に持っていたことは、短い研究書たる本書でうるさいほどわたしは繰り返し述べている。(中略)聖書の霊感という問題においては、彼は四世紀にわたる猛烈な宗派争いによって忘れられていたところの、聖書の意味は自明とは言いがたく、他の真理の光をあてて多くの場合解釈しなければならない、という明らかな事実に注目したのである。もし文字通りの解釈が明白な事実と完全に矛盾する場合には、文字通りの解釈は間違った解釈に違いないと言いうるのみである。だが、事実は、現実に明白な事実でなければならない。そして、不幸にも十九世紀の分離派信者が聖書についてのどんな推量も明解な説明だという結論にすぐとびついたのと同じように簡単に、自然についてのどんな推量も明白な事実だという結論にとびついたのである。このようにして聖書は何々を意味するはずという個人的な理論と、世界は何々を意味するはずだという未熟な理論とが、特にヴィクトリア朝において、広く宣伝され、大声で行われた論争の中でぶつかったのである。この二つの性急な形態の無知のぶざまな衝突が宗教と科学の闘争として知られているのである。」(pp.100-102)「もし病的なルネサンスの知識人が『生か、死か、そいつが疑問だ』と言うと仮定するなら、このがっしりした体格の中世の教会博士は雷鳴のごとき大音声で、『生。それが解答だ』とはっきり答えるであろう。この点は重要である。多くの人は当然のことながらルネサンスを目してある種の人びとが生を信頼し始めた時期であると言う。だが事実を言えば、それは少数の人びとが初めて生を疑い始めた時期だったのである。中世人は生に対する普遍的な人間の渇望と熱情に対して、多くの制限、そしていくつかの極端な制限をもうけた。これらの制限はしばしば狂信的で過激な言葉、偉大な自然の力に抵抗する人びとの言葉、生きたいと思う人の力に抵抗する人びとの言葉で表現された。現代思想が始まるまでは、人びとは死にたいと思う人間と戦う必要は決してなかったのである。」(pp.136-137)「逆説:一番耳にする実例は、英国人が、おれたちは論理的でないから、実際的なのだと、自ら自慢していることである。古代ギリシャ人や中国人の耳には『ロンドンの事務員は計算が不正確だから、帳尻を合わせるのが上手』といたふうな言い方に聞こえるだろう。しかし、要点は、これが逆説であるということではなく、逆説が正説となったということ、つまり、人は今や逆節に対しても、平凡な言葉に対する同様心を安んじているということなのである。それは実際的な人が逆立ちーそれは、ぎょっとさせるけれども刺激になる体操であるーをするということではなく、彼が逆立ちをしたままで休息し、しかも眠れるということである。これは重大な点である。というのは、逆説の効用とは精神の覚醒にあるからである。巧みな逆説の例としてオリヴァー・ウェンデル・ホームズの『人間は贅沢品を与えられると、必需品を捨ててしまう。』という言葉を引こう。」(p.180)
(2023.9.24)
- 「不登校・ひきこもり急増ーコロナショックの支援の現場から」杉浦孝宣✕NPO法人高卒支援会共著、光文社新書 1170(ISBN978-4-334-045777-7, 2021.11.20 第1刷発行)
出版社情報・目次。不登校・引きこもり急増とあるが、不登校を引きこもり現象の一部とする捉え方もあるものの、基本的に、本書で扱っているのは、不登校についてである。杉浦氏以外に、現在、NPO法人高校支援会の理事長の、竹村聡志などが語る具体事例が多い。巻末には、高卒支援会のアウトリーチ支援実例(2017年度以降)ひきこもりのステージの状況による分類と、2017年度から2021年度にかけての支援事例をケースごとに番号を振り、相談開始年月日、学年/年齢、ステージ、支援期間、結果、進路の表が含まれている。2017年度、成功8、失敗1、2018年度、成功6,失敗1,2019年度、成功14、失敗2、2020年度、成功5、失敗2、2021年度、成功2 の事例が書かれている。期間は長くても1年。コロナ禍における、欠席がカウントされなくなったり、休校だったりが、児童・生徒に及ぼす影響、これによって、不登校が見えにくくなっている状況についても説明されている。周囲にも、何人も、不登校の人達がいることを知っているが、不登校と成人のひきこもりを、ある程度分けて考えることもたいせつだと感じている。しかし、不登校が、成人のひきこもりへなる事例も、斎藤環の本では、およそ30%と書かれており、不登校時点での支援がたいせつであることは、確かである。この方たちがしていることは、非常に合理的で、同年代のインターンや、こどもたちの興味に寄り添う姿勢や、eスポーツなど、ゲーム、プログラミング教育を積極的に使い、規則的な日常生活ができるように支援していくことなど、基本的な部分は、素晴らしい。また、スタッフミーティングで、何人もで、情報を共有して、診断、対応を決めていくことも、たいせつである。同時に、人生全体を考えると、学校の問題は、深く、難しい。どの年代にも、ひきこもりや、極度の鬱になるような状況は存在するので。基本的に、通信制高校などを積極的に利用して、高校卒業資格を取ることを中心においていることは、理解はできるが、問題は残したままでもあり、緊急支援を専門にしているということか。現実にしっかり対応している素晴らしさと、これでは、不十分という感覚と両方を感じた。ひきこもりのステージを備忘録と、より具体的な表現を理解するために記する。ステージ1:不登校状態だが、親子間のコミュニケーションはとれている。生活リズムもなんとか維持できている。食事は3食とっている。ステージ2:不登校状態だが、親子間のコミュニケーションはなんとかとれている。生活リズムは不規則。食事は3食とれているかあやしい。ステージ3:不登校状態で、親子間のコミュニケーションはとれない(特に進路について)。生活リズムは不規則。食事は3食とれているかあやしい。ステージ4:ステージ3が1ヶ月以上続き、自室に閉じこもっている。子どもの引きこもり状態を親は普通の社会生活に戻そうとしているが、両親の考えが揃っていない。もしくは疲弊している。ステージ5:子どもがすでに20歳を過ぎ、親子にとってひきこもり生活が年単位で常態化している。普通の社会生活に戻すのは極めて困難。ステージ5はひきこもり状態であるので、ひきこもりの前に支援するということなのだろう。文部科学省:児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査、e-Stat データ。児童生徒の自殺対策について、コロナ禍における児童生徒の自殺等対策について、コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について、コロナで不規則生活、引きこもり増の懸念 「高卒支援会」杉浦孝宣代表、不登校・高校中退の救済!迅速に教育相談ができる環境をつくりたい!
(2023.9.30)
- 「トッド人類史入門ー西洋の没落」エマニュエル・トッド、片山杜秀、佐藤優、文藝春秋、文春新書1399(ISBN978-4-16-661399-1, 2023.3.20 第1刷発行)
出版社情報・目次。トッドの本を読みたくて、大分前に図書館で予約、やっと読むことができた。これからも、何冊か、読んでみたいと思った。家族類型と人口学の知見をもとに、単に学問としてではなく、まさに、いま起こっていることを読み解き、将来を予見する。すべてが正しいかと考えると、頷くことはできないが、トッドの枠組みでの読み解きからは、多くの刺激を受ける。複雑系である世の中を読み解くには、いくつかの重要な要素の組に目を留めることが重要なのだろう。基礎となる「トッドの家族類型(親子関係、兄弟関係、内婚性 or 外婚制で分類)」を参考として上げておく。絶対核家族:子どもは成人後、親元を離れ、結婚後、独立した世帯を持つ。遺産相続は親の遺言で決定。親子関係は自由で、兄弟間の平等に無関心。英米など。平等主義核家族:英米型と同様に、子供は結婚後、独立した世帯を持つが、相続は子供たちの間で平等に男女差別なく分け合う。フランス北部、パリ盆地、スペイン、イタリア南部など。直系家族:通常は男子長子が結婚後も親と同居し、すべてを相続。兄弟間は不平等。日本、ドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェー、韓国など。共同体家族:男子が全員、結婚後も親と同居し、家族が一つの巨大な『共同体』となる。相続は兄弟間で平等で、親子関係は権威主義的。外婚制共同体家族:イトコ婚を認めない共同体家族。中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部のトスカーナ地方など。内婚的共同体家族:イトコ婚を奨励する共同体家族。アラブ地域、トルコ、イランなど。*歴史的に最も新しいのは『共同体家族』で、最も原始的なのが『核家族』。参考:【コラム】エマニュエル・トッドの家族システム分類。以下は備忘録:「ロシアの『普遍主義的特殊主義』に対して、日本は、自国の独自性のみを追求する『特殊主義的特殊主義』であると、日本に来る時の飛行機の中で思いつきました。(笑)」(p.59)「『能力主義(学歴競争)』の『負け組』は、『能力主義(学歴競争)』というルール自体を批判できない。<絶望に追い込まれた人たちは、(略)自分自身に怒りを向けて、(略)ますます絶望に落ち込む>(メリトクラシー)そうした競争はますます激化していて、トッドさんは、『学歴の高さ』と『知性の高さ』はもやは無関係だとしています。」(p.78)「今日、アカデミックな世界の公式イデオロギーは『リベラル』、つまり進歩主義であり、左翼である。(略)しかし、それでいて、アカデミアが客観的に果たしている機能は、むしろ平等の破壊なのだ。」(p.81)「平たく言うと、英米の『核家族(子供が親元を離れる)社会』は、『世代交代』や『創造的破壊』を得意とするのに対し、日独の『直系家族(長子が親と同居する)社会』は、『(知識や技術の)世代継承』や『キャッチアップ』を得意とし、ただしどこかで『硬直化』してしまう、ということです。確かにこう言われると、『外圧なしにはなかなか自己変革できない日本』の核心を突いている気がします。」(p.92)「客観的な言葉と主観的な言葉のバランスを慎重にとりながら、しかも、自分をかなり自由に保っている。過去に言っていたことに拘りすぎずに、必要であれば、現実に合わせて誤りを認めて発言を自由に変えている。そこも、トッドさんの特徴です。」(p.101)「トッドさんの本を読んで感じるのは、『日本の自己像』をさらに豊かにできる余地とともに、近代以降の日本が常に参照してきた『西洋像』が、あまりに一面的すぎた、ということです。」(p.103)
(2023.10.22)
- 「第三次世界大戦はもう始まっている」エマニュエル・トッド、大野舞訳、文藝春秋、文春新書1367(ISBN978-4-16-661367-0, 2022.6.20 第1刷発行)
出版社情報、紀伊国屋による書誌情報・目次。ちょうど、パレスチナガザ地区とイスラエルの問題が起こったこともあり、手によって読むこととした。トッドの本は、少し、過激である。そのとおりとは言えない部分もあるが、データも示しており、わたしになかった視点を提供してくれることもあり、もう少し続けて読みたいと思う。特に、この書では、Why the Ukraine Crisis Is the West’s Fault, by John J. Mearsheimer. Linkや、THE GRAND CHESSBOARD American Primacy and Its Geostrategic Imperatives, ZBIGNIEW BRZEZINSKI, Link を根拠としてあげ、さらに、自身の、米国人の対露感情の変遷(1990-2021)ギャラップ社世論調査、米国とロシアの乳幼児死亡率(1960-2019)世界銀行、米国の平均寿命(1970-2020)米国疾病対策予防センター、米国とロシアの死亡率(1980-2019)OECD、地図1 ロシアによるウクライナ侵攻に対する各国の反応(2022年3月7日時点)Groupe d'études géopolitiques、地図2 家族構造における父権制の強度 ネイサン・ナン作成の地図を著者が一部修正、ロシアの小麦生産量(1985-2021)IndexMundi、米国の小麦生産量(1960-2021)IndexMundi、ルーブルの対ドル為替レート(2021.6-2022.5.13)TradingView.Inc.、ルーブルの対ユーロ為替レート(2021.6-2022.5.13)TradingView.Inc.、ルーブルの対英国ポンド為替レート(2021.6-2022.5.13)TradingView.Inc.、ルーブルの対円為替レート(2021.6-2022.5.13)TradingView.Inc.、米国のインフレ率(前年同期比 2017.7-2022.3.28)Traiding View Inc.、英国のインフレ率(前年同期比 2017.7-2022.3.28)Traiding View Inc.、ドイツのインフレ率(前年同期比 2017.7-2022.3.28)Traiding View Inc.、フランスのインフレ率(前年同期比 2017.7-2022.3.28)Traiding View Inc.、日本のインフレ率(前年同期比 2017.7-2022.3.28)Traiding View Inc.、ロシアのインフレ率(前年同期比 2017.7-2022.3.28)Traiding View Inc. のグラフが含まれているのも、興味深い。これからも、データとともに、考えていきたい。以下は、備忘録:「『民主主義』が成立するには、まず『国家』が建設されなくてはなりません。民主主義は、『強い国家』なしには機能しないのです。個人主義だけでは、アナーキーになってしまうからです。」(p.39)「ソ連の『全体主義的民主主義』とアメリカの『人種主義的民主主義』」(p.122)「アメリカでは、識字率の向上によって形成された平等的な文化が、大学進学率上昇によって、他国と同じように、ただしどの国よりも、早く破壊されました。ある年齢の二五%が高等教育をうけた時点で、『平等』の意識は失われ、上層部の人は彼らを『新たなエリート』と認識するようになるようです。国によって変化の速度はまちまちですが、この新しいエリート層は、自ら獲得した地位を『能力主義』の結果として誇りに思っています。」(p.125)「人種主義、すなわち『人種』へのこだわりが、アメリカの白人の民主主義を可能にしたわけですが、オバマ以降は『多人種』を夢見ながら、寡頭制を持続させています。『民主制』から『寡頭制』への移行は、ロシアとの対立によって形作られたのです。もしロシアが『黒人の解放』をアメリカに迫っていなかったら、平等をあちこちで蝕むような、教育による『新たな階層化』にアメリカはいかに対処していただろうかと考えることがありますが、現実とは異なるあり得たかも知れない歴史は、想像をし、欠くことしかできません。この作業は、SF作家に譲ることにしましょう。より控えめに言っても、ロシアに対するアメリカの執着心は、いまや、明確に確認できます。それは、アメリカが幸福だった時期(1945-1965)に対する強烈なノスタルジーと同時に、共産主義との競争によって生じたアメリカの社会システムの崩壊(1965以降)に対する癒しがたい恨みを表しているのです。」(p.131)「こうして悲観的な形で問題の核心に迫っていくと、『キリスト教の原罪』という概念にまで『人間は何をすればいいかわからなくなると戦争へ逃げる』という結論にまで至ってしまいます。」(p.192)
(2023.11.2)
- 「我々はどこから来て、今どこにいるのか?アングロサクソンがなぜ派遣を握ったか」エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳、文藝春秋(ISBN978-4-16-391611-8, 2022.10.30 第1刷発行)
出版社情報、紀伊国屋による書誌情報・目次。一般書の中では、トッドの体表的な本だと思うので手に取った。「米国人は明らかに先に行っている。そのくせ、およそまったくと言ってよいほど洗練されていない」との問いに答えることを中心に置いているように見える。データや、考察が書かれていることから、示唆を受けることは多いが、論理的に、緻密とは言えない部分が多いように思う。トッドの本は、これからも読んでいきたいが、主張されていることを受け取るには、注意が必要であるように思う。以下は備忘録:「こうした経済至上主義的アプローチに対して、本書で私が提示したのは、人間の行動や社会のあり方を『政治』や『経済』より深い次元で想定している『教育』『宗教』『家族システム』の動きに注目する人類学的なアプローチです。」(p.3)「ツキディデスは、新興国アテネに対してその他のポリス国家が恐怖心を抱いたことでペロポネソス戦争が起きたと『歴史』に記しました。このことにちなんで、『新興勢力の擡頭を既存勢力が不安視することで戦争が起こる現象』を『ツキディデスの罠』と呼ぶようになりました。この『ツキディデスの罠』を米中関係に当て嵌めて、『数十年以内に米中戦争が起こる可能性は、ただ『ある』というだけでなく、現在考えられているよりも非常に高い』と主張しているのが、アリソンの著書です。急速に擡頭する中国が米国に恐怖を与えている以上、戦争は避けられなくなる、と。」(p.11)「自由貿易と資本の自由な移動は、利潤率を押し上げる効果を持つが、平均以下の所得を落ち込ませ、不平等を拡大し、世界規模で総需要の不足を招き、過当競争の果てに経済危機を再来させるのである。先進国の人間は、技術の進歩によって解放されるどころか、ふたたび隷属状態に入ってしまう。雇用が不安定になり、生活水準が低下し、ときには平均寿命までも低下する。」(p.29)「ダーウィン(1809-1882)『人間の由来』」(p.148)「肝腎なのは、どの集団にも、他の諸集団との関係に依存しない絶対的なアイデンティティなど存在しない、ということを理解することなのである」(p.155)「紀元前63-65年頃、エルサレムの第二神殿が破壊される少し前、ユダヤ教・パリサイ派の大祭司ジュシュア・ベン・ガラムが、ユダヤ人で子を持つ父親全員に対し、六歳または七歳の息子を小学校に通わせて旧約聖書冒頭の『トーラー』(教え、律法)、すなわち『モーセ五書』を読むことを学ばせよと指令した。ルターとプロテスタンティズムより約1500年も早く、ひとつの宗教が神学的理由により大衆の識字化を求めていたわけだ。」(p.169)「コンスタンティヌス一世により312年と337年の間にカトリック教会の教えが公認され、それが後続の皇帝たちにも継承され、やがて国教化されたわけだが、その直前の時期まで、キリスト教徒はローマ帝国総人口のわずか10%にとどまっていたというのが事実だ。しかし、当時の都市住民の人口にだけ限定すると、その中で彼らの占める割合は大きかった。」(p.189)「ある信仰は、本人にとっては当然の要請だが、外部の者には嗤うべきものでしかないという場合がある。その場合、その宗教への帰属の精神的コストは非常に高いが、しかしそれゆえに、入信する諸個人は例外的なまでに信頼のおける人々の集団に属していると確信できる。集団の内部にみなぎる忠誠心こそ、信者にとっての真の報いだ。この満足感は即時的であり、来せいの約束よりも確実で、実感を伴う。」(p.190)「ユダヤ教のゆるぎなさが示唆するのは、ホモ・サピエンスが究極的には、死よりも孤独を恐れるということである。」(p.192)「十戒 家の主人が家のものたち(その子供たちと奉公人たち)に分かりやすく示すために(家父長的家族主義)」(p.212)「表7-1 識字率、出生率の低下、経済的離陸」(p.372)「ユスティアヌス法典」(p.332)「ニューイングランドを築いた植民者たちは、彼らにとって文字通り聖なる書だった旧約聖書を携えて大西洋を渡った。彼らは、ヨーロッパのカルヴァン主義者たち以上に、ユダヤの民に自らを投影することができた。まさに『約束の地』に定着しつつあり、その『約束の地』を現地の異教徒たちから、つまりインディアンたちから奪い取らなければならないのだった。彼らはすべての行動において、古代のイスラエルの民の歴史を再現すべく努めた。植民地時代を対象とする固有名詞研究がリストアップする名前といえば、ベニヤミン、ヤコブ、ソロモン、エズラ、サラ、ラケル、エステル、レベッカだ。」(p.332-3)
(2023.11.19)
- 「許される悪はあるのか? テロの時代の政治と倫理」The Lesser Evil - Political Ethics in an Age of Terror, by Michael Ignatieff, マイケル・イグナティエフ著、添谷育志・金田耕一訳、風行社(ISBN978-4-938662-83-7 2011.12.26 初版第1刷発行)
出版社情報、紀伊国屋による書誌情報。高校時代に学園紛争を経験し、そのときから、考えている、「どのような状況下で、法を犯し、悪に訴えることが許容されるのか。」という問いがあるが、実際には、これまであまり深めることができなかった。2003年1月にエディンバラ大学のプレイフェア・ライブラリーで開催された約5時間の「ギフォード講義(Gifford Lectures)」を基にしているとのこと。第1章 デモクラシーとより小さな悪、第2章 緊急事態の倫理、第3章 強者の弱さ、第4章 弱者の強さ、第5章 ニヒリズムの誘惑、第6章 自由とハルマゲドン、という構成になっている。わたしがぼんやり考えたいと思っていたことが、項目として挙げられている。楽観的に感じられる面もあり、かならずしも、議論が十分できているとは言えないが、わたし一人ではどうにもならなかった問いについて、たくさんの考え方が提供されており、十分満足できた。英語版で、もう一度読んでみたい。英文タイトルの、The Lesser Evil で検索すると、このタイトルの、論文や、本なども、いくつも出版されている。時間をみつけて、読み、考えてみたい。非常に重要な問いであると感じる。Peace of Westphalia または、合意書についても、調べてみたいと感じた。以下は備忘録:「デモクラシー国家にふさわしい市民集団が実行しなければならないのは、自分たちの自由と安全との間でバランスをとることではなく、自分たちの安全と、通常は市民でない人である他者の自由との間でバランスをとることなのだ。」(p.19)「私の問いは『私たちは何をなすべきか』ではなく、『私たちは誰を、また何を守ろうとしているのか』なのである。」(p.22)「ひるがえってなぜ自由が問題なのかと言えば、自由こそが尊厳を持って生きるための前提条件だからなのだ。」(p.32)「人格を有する人間を拘束できるのは、彼らの実行行為を理由にしてだけであって、彼らが何者であるか、あるいは彼らが何を考え、何を自白し、何を信仰しているかを拘束の理由にすることはできないということである。」(p.40)「私たちの政府の中で情報公開の原則を免れる領域がないようにする唯一の方法は、立法機関に関して言えば政府を監視する権利に固執することであり、メディアに関して言えば情報のアクセスを要求し続けることであり、そして法律に関して言えば真実を語る内部告発者の権利を擁護することなのだ。」(p.63)「テロとの戦いにおける政策作成者たちの検定基準(開かれた当事者論争主義的審査(open adversarial review))1. 尊厳テスト(dignity test)、2. 伝統(現存している適正手続から逸脱することは必要不可欠か)テスト(conservative test)、3. 有効性テスト(effectiveness test)、4. 最後の手段テスト(last result test)」(p.64)「さて共和国にとって、一番望ましいことは、非常手段に訴えて時局を収拾することをぜひ避けることである。そのわけは、このやり方で、その時はうまく切り抜けられても、そういった先例を作ることが、好ましくないからだ。つまり、正しい目的のためだからといって、旧来の法律を無視するような慣例がいったん作られてしまうと、やがては悪い目的のためにも、法律が覆されるようになるからだ(ニッコロ・マキャヴェリ『ディスコルシーローマ史論』)」(p.73)「大雑把に言えば緊急事態の立法は、国家的、領域的、選択的の三つの形を取る。国家的緊急事態においては、軍法(martial law)が未確定な期間、国内全域にわたって文民支配(civilian rule)にとって代わる。」(p.74)「共和政ローマにおける政体を救うための一時的な任命に基づくこの種の独裁は、つねに共和主義思想の特徴をなしてきた。しかしながら立憲的政治に関するリベラルな理論は、行政府が権力を掌握するために緊急事態を口実として利用し、憲法で定められた自由を廃止するのではないかということを絶えず恐れてきた。だから緊急事態における権力をめぐっては、共和主義的(republican)理論とリベラルな(liberal)理論の間で対立がある。」(p.76)「デモクラシー国家に最大の打撃を与えるのはテロリズムそのものというよりも、むしろテロリズムへの対応なのである。フランス語にはテロリズムの論理を要約する卓抜な一句 la politique du pire、字義通りに訳せば『最悪の政治』がある。テロリズムの目標とは、事態が改善されないようにするために事態を悪化させることなのである。」(p.142-3)「革命家の一部がテロに転じたのは、封建的反動に囚われて身動きがとれなくなっていたからではなく、自己改革に乗り出したからだ。、ニヒリストたちは、1861年に農奴解放を達成した皇帝アレクサンドル二世その人の暗殺に成功した。なぜなら彼を暗殺することは、農民と労働者の忠誠心を都に除くためには是非とも必要だとみなしたからだった。反動家ではなく改革者を殺害することでニヒリストたちは、平和的な政治的変革の可能性への信頼を破滅に導こうとしたのであった。」(p.146)「シーダ・スコッチポル(Theda Skocpol):革命的危機は、旧体制諸国家が進展しつつある国際的状況の試練に答えることができなくなった時に深まったのである。」(p.148)「永く存続した政府は、軽微かつ一時的の原因によっては、変革されるべきではないことは、実に慎重な思慮の命ずるところである。したがって、過去の経験もすべて、人類が災害の絶ええられる限り、彼らの年来したがってきた形式を廃止しようとせず、むしろ耐えようとする傾向を示している。しかし、連続する暴虐と簒奪の事実が明らかに一貫した目的のもとに、人民を絶対的暴政のもとに圧倒せんとする企図を表示するに至るとき、そのような政府を廃棄し、自らの将来の保安のために、新たなる保障の組織を創設することは、彼らの権利であり、また義務である。(1976年7月4日)」(p.184)「チェ・ゲバラ:テロリズムは、われわれが望むような結果をもたらさず、人民を革命的運動から離反させかねない否定的武器であり、他方ではそれを使用する人々の間に達成される結果とは到底見合わない人的損失を引き起こす否定的な武器であると、そう我々は衷心から確信するものである。」(p.205)「民族自決闘争の正当化の条件:1. その集団が求める正義の要求が暴力に直面してきたこと、2. その要求にこたえようとしない相手側の態度が一貫していて、永続的で、変わりそうもないこと、3. この要求がその集団の生存にとって根本的なものであること、4. その闘争が戦争法規と『文民に対する攻撃の禁止』の原則を守っていること。」(p.217)「暴力に訴えること自体が悪なのではない。それというのも暴力は、抑圧、占領、不正に直面した場合には最後の手段として正当化され得るからである。平和的な政治を不可能にするために、最初の手段として暴力に訴え掛けることこそが悪なのである。」(p.228)「ニヒリズムということばを、わたしは、テロとの戦いにおける両陣営が自らの掲げる目的を見失ってしまうという疎外(よそよそしくしてのけものにすること。きらってのけものにすること。)の一形態として捉えるために用いる。」(p.249)「ドストエフスキー:いや、それどころか、道徳性そのものをまったく否定されましてね。最終的なよき目的のためには全般的な破壊のあるのみという最新の原理を封じておられるんです。ヨーロッパに健全な理性を確立するためには、一億以上の人間の首が必要だとまで主張されているほどでしてね。」(p.252)「原理的に言って、文民の殺戮に対するいかなる形而上学的なもしくは神命に基づいた正当化もあり得ないと断言することなのだ。」(p.262)「われわれが実行するテロリズムは賞賛に値する類のものである。なぜならそれは我々自身の祖国、我々自身の信仰、我々自身の預言者、我々の民族に対する裏切り行為に加担する暴君や侵略者、アラーの敵、反逆者に向けられたものであるからだ。(オサマ・ビンラディン:1998)」(p.264)「われわれの母親、娘、そして息子たちは、アメリカによる是認とその支持の下に毎日虐殺されている。さらに、アメリカはイスラム諸国への武器搬入を妨げる一方で、イスラエル人には武器供給を続け、結果としてさらに多くのムスリムを殺害し虐殺することを可能にしている。お前たちの宗教は、お前たちがこのような行為を行うのを禁じていない。だからお前たちにはその行為に対する報いとして、いかなる対応、報復を受けても、それに意義を唱える権利はないのである。(オサマ・ビンラディン:1998)」(p.270)「ベトナム戦争の最中に、CIA は『フェニックス作戦(Operation Phoenix)』を展開した。この作戦は北ベトナム勢力が南ベトナムに潜入させた組織幹部を転向させるか中立化させる、さもなければ抹殺することを目的とした、暴動に対抗する計画であった。」(p.278)「私たちの憲法に定められた諸々のコミットメントは、たとえ敵が私たちの権利を尊重していないとしても、敵の権利は尊重すること、まったく法をまもろうとしない相手に対しても合法的手段を用いることを義務として課している。」(p.303)「予防的軍事活動(preemptive military action)の三つの区分:1. デモクラシー国家にいおいて予防的軍事活動に頼ることをどのようにコントロールするかという問題、2. それが正当化される場合をどのように決定するかという問題、3. 誰がそれを国際的に正当なものとして認定するのかという問題。」(p.334)
(2023.12.1)
- 「非暴力による平和創造ーウクライナ侵攻と日本国憲法」木村公一著、カイロスブックス8、いのちのことば社(ISBN978-4-264-04442-0 2023.8.31発行)
出版社情報・目次、紀伊国屋による書誌情報。気になって手に取った。著者が、インドネシアでの宣教師であったことは、知っていたが、他にも、さまざまな活動をしていることは知らなかった。ウクライナの歴史的背景に関して、正教会がこの地域は複雑であることは知っていたが、かなり詳しく説明してあり、確認ができた。後半は、日本国憲法における、平和論であるが、正直、これで、世界的なレベルで賛同者が増えるのは困難だと感じた。憲法では、理念的には普遍的なことが語られているが、基本的には、国民にしか適用されず、国民の考え方も、非常に狭く考える人たちもいるためでもある。具体的なステップを切っていくには、ある理解における理想を正しいとしている面もあり、利害関係が深く絡んだ世界で、合意を得ていく一つ一つのステップを考えると、困難を感じる。それには、受容と書いておられるが、受容できないないようについて、どのように、異なる考えを持ったひとと向き合うかが、問われなければいけないだろう。以下は備忘録。「ウクライナに存在する三つの正教会(モスクワ派、キーウ派、独立系)が合同でウクライナ独立教会樹立の許可願いを、コンスタンチノープルに出すがよい。」(p.30)「カール・バルト:国家は(その本性からして)真実な本来の人権である『唯一にして不可欠の権限』ius unum et necessarium すなわち義認を宣教する自由権と、建てることもできないということを、教会は知っている。それゆえに、教会は、それがどのような場合にもなされることをもとめるのである。」(p.35)「ウラジミール・プーチン:私は、ウクライナの真の主権はロシアとのパートナーシップにおいてのみ可能であると確認しています。私たちの霊的、人間的、文明的な結びつきは何世紀にもわたって形成され、同じ源泉に起源があり、共通の試練、成果、勝利によって確かなものとされてきました。私たちの家族関係は世代から世代へと受け継がれてきました。何百万もの家族を結びつけるものは、現代のロシアとウクライナに住む人々の心と記憶の中に、私たちの血のつながりの中にあるからです。」(p.37-8)「アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918-2008):
暴力はそれ自体だけではいきていけない。常に嘘と結びついている。嘘だけが暴力を隠すことができ、暴力だけが嘘をつき通すことを可能にする(東京新聞社説 嘘と暴力の共犯関係。2022.4.3)」(p.39)「だれかがあなたがたの右の頬を打つなら、挫けてはいけない。左の頬を打たれる覚悟をもって、善を持って抵抗しなさい。」(p.79)「『安全』という考え方が、世界の紛争の原因だと考えたのが、神学者のディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)であった。世界が安全を引き寄せるために、『政治的な条約』『国際資本の投資』『大銀行や資本力の育成』『軍備の拡張』などを求めて奔走している中で、ボンヘッファーは『これらすべてのことによって平和は来ない』と言った。」(p.88)「ボニファティウス8世:世界には、たった一つの教会しかありません。それはローマ・カトリック教会です。この教会の外に、罪の赦し、すなわち、救いはありません。ちょうど大洪水のとき箱舟が一隻しかなかったのと同じです。あのとき箱舟の外のものはみな滅びました。それゆえに、ローマ教皇に従属することは、すべての人の救いにとって絶対に必要なのです。(中略)この教説を読む多くの人は『ヨーロッパ中世の人間は何と愚かなのだろう』と思うに違ういない。しかし、その『愚かさ』は、そのまま現代の多くの日本人にもあてはまる。なぜなら今日の日本国民の八十%前後が『アメリカの核の傘の外に救いなし。』という日本政府の教条を信じて疑わないからである。」(p.90)「ルトガー・ブレグマン『希望の歴史 人類が善き未来を作るための十八章』上・下、文藝春秋」(p.94)「インマヌエル・カント:常備軍は、時とともに全廃されなければならない。なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えることによって、他の諸国をたず戦争の脅威にさらしているからである。」(p.99)「ミッシェル・フーコー:近代国家の戦争はもはや、守護すべき君主の名においてなされるのではない。国民全体の生存の名においてなされるのだ。住民全体が、彼らの生存の必要の名において(相手国の国民と)殺し合うように訓練されるのだ。」(p.105)「南原繁『いやしくも国家たる以上は、自分の国民を防衛するというのは、またその為の設備を持つということは、これは普通の原理である。これを憲法において放棄して無抵抗主義を採用する何らの道徳的義務はないのであります。』幣原喜重郎『実際この改正案の第九条は戦争の放棄を宣言し、我が国が全世界中もっとも徹底的な平和運動の先頭に立って指導的地位を占むることを示すものであります。文明と戦争は結局両立し得ないものであります。文明が速やかあに戦争を全滅しなければ、戦争が先ず文明を全滅することになるでありましょう。私は斯様な信念をもってこの憲法改正案の起草の議に与ったのであります。』(1946.8.27 貴族院本会議)」(p.118)「P.ティリッヒ:あらゆる有限なものは、自らを無限なものへと拡張しようとする。同時に、個人は境界のある自らの生を無限に継続しようとする。」(p.120)
(2023.12.5)
- 「欧州の謀略を打ち破り よみがえるロシア帝国」佐藤優・副島隆彦共著、ビジネス社(ISBN978-4-8284-2449-1 2022.11.1 第一刷発行)
出版社情報・目次。なかなか、過激な本である。むろん、副島さんが。安倍元首相殺害は、山上容疑者ではなく、アメリカのCIA が息がかかったものであり、統一教会の分裂が背景にあり、山上容疑者は、サンクチュアリ教会のメンバーだという。誰が得したかというような視点で考えれば、ある推測もできるだろうが、そうだと断定するのでは、怪しさをます。ただ、わたしたちが、理解できているだけが世界ではないと言う点については、以前からそう思った板が、ますますそう考えるようになったことも確かである。いつかは、少しずつ表面化するのだろうか。以下は備忘録:「副島 捕虜の扱いを定めたいわゆる『ジュネーブ4条約』では、傭兵やゲリラ、スパイは守られません。お揃いの軍服を着て、部隊の一員あであることを証明するワッペンや腕章を身につけていなければいけません。」(p.138)「佐藤:日本も世界各国が国家承認していないような国と国交を結んでいます。たとえば、南太平洋のニウエです。人口1800と、世界で二番目に人口の少ない小さな国ですが、人権に問題があるということで、世界のほとんどの国は承認していません。ところが、日本は、承認している。その理由は、中国の太平洋への進出への対抗です。ニウエを承認している国は、20カ国ぐらいしかありません。」(p.140)「仕事と育児両立できても出生率は1.5どまりに。いずれにせよ、我々が先進国の出生率を人口置換水準にまで復活させたいと考えても、それは、無理かもしれない。フィンランドは仕事と育児を両立できるような様々な政策を実施しているが、出生率は、いまでに置換水準の1.2をはるかに下回ったままだ。フィンランドの人口研究所のアンナ・ロストルヒ研究教授はこう話す。『16歳未満の子どもをもつ親たちがどのように仕事と家庭を両立させているかを調査したところ、最大の問題はどうしたら、興味深い調査結果をかけるかだった。というのも、誰もが現状に非常に満足していたからだ。そしてこう続けた。『これまで、真の男女平等を実現されれば出生率は、上がると言う期待があった。ところが、両親が共に働き、キャリアを要求しつつ家庭を築けるようになっても、平均出生率は、1.5ちえどにしかならなさうだということが判明した。ただ、人々がそれで満足しているのであれば、この出生率の低さは、果たして問題視なすべきなのだろうか、ということだ。』」(p.225)「だけど、日本語を母語にしても、本土の日本人とは、別のアイデンティティをもている、沖縄人がいる。このことが、本土の日本人には、わからない・プーチンも一緒です。ウクライナの人のアイデンティティをわかて地内。これが、私が、プーチンに違和感を覚えることなのです。私のルーツが大縄じゃなければ、気づかなかったと思う。」(p.249)「ロシア語のことわざで『熊の親切』というのがあります。寝ているお爺さんの額に、ハエが止まっているのを見たクマが、親切心からハエに親切心から、ハエを叩き出そうとして、お爺さんを殺してしまうという、余計なおせっかいという意味です。」(p.250)
(2023.12.15)
- 「我々はどこから来て、今どこにいるのか?民主主義の野蛮な起源」エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳、文藝春秋(ISBN978-4-16-391612-5, 2022.10.30 第1刷発行)
出版社情報、紀伊国屋による書誌情報・目次。「我々はどこから来て、今どこにいるのか?アングロサクソンがなぜ派遣を握ったか」が上巻で、本書が下巻である。何冊か、エマニュエル・トッドの本を読んで、考えさせられるというよりも、思考の技術を学ぶ面もあるように思う。ただ、分析よりも、考えを述べる部分が多く、人口人類学という分野の特色かもしれないが、説得力が十分に高いとはいえない。ただ、データサイエンスを学んでいることもあり、どのような資料を、どのような目でみるかについては、学びが多い。実際に、一つ一つデータを見ていきたいが、すべてに明確な出典があるわけではない。あとで調べるために、出典を一部書いておく。Barro-Lee Data bank, Statistical Abstract of the United States, 2012, p.151, Eurostat, OECD。以下は備忘録:「フランスに目を向け、25歳の諸個人に注目する時、高等教育普及が停滞の段階に達したのは1995年ごろであったと言える。アメリカに約30年遅れていたわけで、これは、フランスにおける高等教育普及の離陸がアメリカよりも遅かったことの結果に他ならない。韓国はごく最近に、米国の数値をも上回る高等教育修了率に達したが、その「快挙」は、家族が生み出す子供の数を犠牲にして成し遂げられたのであった。なにしろ、その現象には出生率の急落が伴ったのであるから。」(p.49)「教育の新たな階層化というこの現象がいつのまにか徐々に社会に流布されるのは、人間というのはやはり全く平等ではないという感覚である。すでに見たように、イギリスと米国では、職業的なイデオローグらが、人類は知能と能力の差によっていくつかのグループに分離されて当然だという信念を公然と表明した。フランスでは、不平等感覚は擡頭したものの、それにともなって公式の平等主義イデオロギーが揺らぐことはなかった。知能指数も、フランスではたいてい胡散臭い、怪しげな概念だと思われている。そういうわけだから、フランスにおける不平等主義の進展は、政治的な危機状況の場合を別にすると、完全に下意識の次元にとどまっている。」(p.59)「西洋における上位1%の最富裕層が国民所得に占める割合(1900-2000)(Anthony Atkinson et Thomas Piketty. Top Incomes Over the 20th Century.)」(p.73)「各国の収監率(10万人あたり)Roy Walmsley, World Prison Population List (9e) International Center for Prison Studies」(p.97)「アカデミアは左翼なのに、もはや民衆を愛していない。民衆は、上層階級の用いるイギリス独特の用語では『チャヴ』(chavs, 無教養な下層民)なのである。現地でそうした用語を過激化しているのはさまざまな階級差別的態度だ。その点はイギリス固有であって、それに匹敵する態度が米国で見られたためしはない。」(p.112)「さてここで、根本的な逆説は、弱い価値観という仮説こそが、各地域の気質の持続性を、いいかえれば『場所の記憶』という現象を説明してくれるという点にある。実際、あるテリトリー上の圧倒的多数の個人が有する価値観が弱ければ、これまた弱い、または相対的に弱い価値観を有していて、それを受け入れ側の集団の価値観に取り替える傾向のある個人たちが移民として流入してきても、結果として元々のシステムが希釈されることはない。」(p.153)「『最終的子孫』といえば、特定の一世代の人口集団(人口学用語では『コーホート』という)に属する女性全員が産んだこどもの数の平均値だが、それと同じで、あるコーホートの女性全員が妊娠可能性の終わりに達するのを俟たなければ、非出産率を測ることはできない。女性が38歳を過ぎると、生物学的に妊娠可能性が急速に落ちることと、その年齢以降は医療支援生殖の成功率も低いことに鑑みて、多くの人口学者がやむなく、未来予測によって、将来確定する完結出生児数の値や、45歳から50歳まで出産したことのない女性の割合を割り出した。」(p.170)「物事の経済的表面から、社会的生活の深い層、女性のステータス、性行動、子供の教育、に及ぶ世界化の影響へと眼を移す時、われわれは、ドイツや日本のような国々は、個人主義と、その国々の大方の人の眼に極端すぎるように映るフェミニズムに対して、適応しにくい素質を有しているので、その齟齬の結果、もはや自国の人口の再生産を確実になしえないところにまで追い込まれてしまった。長い期間にわたって、合計特殊主将率はを女性一人当たり1.4人に近い水準を維持していれば、必ず最終的な子孫(女性の各世代が生み出す子供の数)が不可避的に低いレベルに近づいていく。年々、出生数の大きな不足が明らかになっている。ところで、ひとつの社会は、経済の成功・不成功を気に病む前に、自らの人口の再生産を確実に維持しようとしなければならない。」(p.192)「2012年にドイツに住む外国人が人口の8.8% であるのに対し、日本では、人口の1.6%しか外国人を見出すことができない。たしかに、すでに日本列島の中で、移民流入の始まりは確認できる。この国の経済が露わにしている労働力不足を埋めるという実際上の必要が背景にある。ところが、特に確認すべきは、日本が自国の人口問題をかいけつするために大量移民の導入に打開策を求めることを拒否しているということなのだ。こうした状況の中で、2010年以来、日本の人口は減少の一途を辿っている。どう見ても、日本は、国力の増強や維持を諦めたのである。」(p.195)「東欧への拡大と西欧での単一通貨ユーロの導入以来、ヨーロッパ連合(EU)は機能不全に陥っているように見える。欧州のこの危機的状況を理解するには、まず統合欧州の建設を導いてきて二つの知的大原則から自由になることが不可欠だ。すなわち、一つは、経済の決定力が何ものにも優るという信念。もう一つは、諸々のネイションのあり方が、消費生活の中で収斂していくという仮説。」(p.200)「米国、イギリス、カナダ、オーストラリアでは、絶対核家族が、平等の概念に無関心な自由の理想を再生産し続けている。ロシアでは、共同体家族は消失したが、その家族類型に培われた権威と平等の価値が、家族的・社会的行動の無意識的模倣を通して永続化している。もっとも、外婚制と、女性のステータスの高さは、両システムに共通している。」(p.256)「ヤングの仮説:メリトクラシーが平等感覚を侵食する。なぜなら、メリトクラシーの原則に基づく学校システムによって選別されたものは、ついには、自分の優越を自分に内在する理由によるものと思ってしまうから。まず、メリトクラシーの理想が、デモクラシーの所産だということを、視野から逃さないようにしよう。その理想とは、平等主義的な熱望の逆効果としての機会均等、結果的にメリット(功績・能力)の不平等を作り出さずにはいない機会均等である。(中略)メリトクラシーの理想に沿って学校システムが君臨すればするほど、人間の選別も合理的に徹底される。それに対し、生まれを尊ぶ貴族性と学校外での身分の継承が学校システムと恒存する社会には、アカデミアによって管理される不平等主義的選別の容赦のなさに対するカウンターウェイとが存在する。」(p.292)「アングロサクソン世界の動向、とくに米国の動向が今後の日本にとって最大のリスクになる怖れがあるー日本を愛するがゆえにそのことを最後に指摘しておきたいと思います。」(p.316)
(2023.12.27)