November 18, 2024


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マタイによる福音書

共観福音書

新約聖書の最初は、4つの福音書から始まり、その最初は、マタイによる福音書です。ギリシャ語聖書では、「マタイによる」とだけ書かれています。最初の三つの福音書、マタイ (Matthew, Mt または Mtt と略)、マルコ (Mark, Mk と略)、ルカ (Luke, Lk と略) は、平行記事が多く、共観福音書 (Synoptic Gospels) と呼ばれています。

聖書を一般信徒向きに解説した本は、たくさん出版されていますが、世界で広く読まれているもののひとつに、スコットランドの神学者 William Barclay (1907-1978) によるものがあります。

バークレー「マタイ福音書 上・下」松村あき子訳 ヨルダン社 1967.
日本語訳も早い時期に出版されていますから、ご覧になった方もいるのではないかと思います。この本の最初の部分から、まずは、共観福音書についてまとめてみると次のようになります。

共観福音書(William Barclay による上記の本による)

  1. マルコ福音書を105に区分すると、93はマタイ福音書に、81はルカ福音書に現れ、どちらにも取り上げられていないのは、4区分。
  2. マタイ福音書 1068節、マルコ福音書 661節、ルカ福音書 1149節。マタイ福音書は、マルコ福音書から606節をとりあげ、ルカ福音書は320節を用いている。マタイ福音書が取り上げなかった55節のうち31節はルカ福音書が取り上げている。マタイ、ルカ両福音書いずれにも取り上げられなかった節は、マルコ福音書の中の24節。
  3. マタイ福音書はマルコ福音書の言語の51パーセントを、ルカ福音書は53パーセントを用いている。
  4. マタイ、ルカともマルコの順序に従っている。両方同時に順序を変えることはない。
  5. マルコがマタイ、ルカの要約なのではなく、マタイ、ルカが、マルコを補修したものと考えられる。
    1. 表現の変化(明確化)
      1. Mk 1:34 (多くの) vs Mtt 8:16 (ことごとく), Lk 4:40 (一人一人)
      2. Mk 3:10 (多くの) vs Mtt 12:15 (皆), Lk 6:19 (みんな)
    2. 表現の変化(弱める)
      Mk 6:5,6 (ひとつもできず) vs Mtt 13:57 (あまりなさらなかった)
    3. マルコの強い表現を他では省略
      Mk 3:5 (怒り嘆き), 3:21 (気が狂った), 10:14 (憤り)
    4. 弟子に関する表現の変化
      Mk 10:35 (ヤコブとヨハネ), Mtt 20:20 (ゼベダイの子らの母)
    5. 歴史的背景から来る要請に応えた変化
      Mk 簡素、簡明、直裁的、Mtt, Lk 教義的、神学的
  6. マルコに現れず、マタイ、ルカに現れる資料は、共通なものが多い。かつこれらは、イエスの生涯に関することではなく、イエスの教説に関すること。イエスの教えを記した Quelle (Q資料)と研究者が呼ぶものがあったと考えられている。
    1. Lk 6:41-2 vs Mtt 7:3-5  
    2. Lk 10:21-22 vs Mtt 11:25-27  
    3. Lk 3:7-9 vs Mtt 3:7-10

マタイによる福音書(1)

上でも引用した、William Barclay の本を参考にして、マタイによる福音書の特徴についてまとめておきます。
  1. 教説を収録した教師の福音書
  2. ユダヤ人に王として生まれたことを示す

著者について(William Barclay による上記の本による) マタイは、Mtt 9:9 によると、収税人で、多くの記録を残したと考えられている。 教会史家のパピアス(1世紀から2世紀)は「マタイはイエスの生誕をヘブル語で収録した」と証言している。マタイ自身が書くのであれば、マルコを参照する必要はなかったと思われるが、マタイが収録したヘブル語の資料、とくに教説を多く取り入れて書かれ、マタイの名がつけられたと考えられる。

大体の学者は、マルコが最初に書かれ、マタイと、ルカはあとから書かれたこと、マルコの福音書以外にも、イエスの説教を書き留めたものがあったと思われること。そしてそれは、マタイによってヘブル語(またはアラム語)で書き留められたと考えているということだと思います。その説教集を大幅に取り入れて、ギリシャ語で書かれたのが、マタイによる福音書ということでしょうか。パピアスの「断片集」については、ネット上に日本語訳が出ています。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html
この、2:16 をバークレーは引用しているものと思われます。 また、最初から、何何による福音書とタイトルのついた四つの福音書が並んでいたわけではありません。おそらくは、パピルスまたは羊皮紙に書かれた巻物が別々に存在していたわけです。ある時代的背景と要請のもとでまとめられたと考えるのも自然だと思います。しかし何と言っても、イエスのメッセージ(語録 ロギア)がたくさん記されているということは、興味をそそりますね。イエスは何を語り、そして、マタイや、初代教会の人たちは、何を伝えようとしたのでしょうか。

通読は、じっくりと時間をかけて読むことは難しいですが、イエスのメッセージと、そして、旧約聖書とのつながり、すなわち旧約聖書の預言の成就としての救い主に注目して読むのもよいかもしれません。また、聖書を続けて読むのははじめてというひとは、四つの福音書を通して、イエスはどんなひとだったのか、イエスに注目しながら、イエスに出会って頂ければと思います。

マタイによる福音書(2)

英語では、新約聖書は New Testament と言います。旧約聖書は OT、新約聖書は NT と略します。わたしは新約聖書というときに使う用語ということはいつからか知っていましたが、Testament ということばは他で見たことがないので辞書で調べてみました。

プログレッシブ英和中辞典

  1. ⦅形式的⦆(…を)証明するもの, 証拠, あかし⦅to ...⦆.
  2. 〘法律〙遺言(書), (特に)動産の処分に関する遺言(書)(▼通例last will and testamentという).
  3. (神と人との間の)契約, 誓約;(一般に)契約.
  4. 新約聖書, 旧約聖書;⦅the T-⦆新約聖書(New Testament);⦅T-⦆(1冊の)新約聖書.
  5. 信条[信念]表明.
旧約・新約は古い約束(または契約)、新らしい約束(契約)と伝統的に言われていますが、上の Testament のどの意味も当てはまるのかも知れません。英語圏の方に聞いたときも、聖書以外にはあまり使わないと言っていました。例文も多いFreeのサイトの「英辞郎」では次のようになっています。
http://eow.alc.co.jp/sp/search.html?q=testament&pg=1

(1)では、バークレイからの引用で、マタイによる福音書の特徴の一つは 「ユダヤ人に王として生まれたことを示す」 と書きました。確かに、旧約聖書の成就を証言する箇所は多いですね。また、ユダヤ教の背景を知っている人に理解しやすい記述も多いように思います。しかし、それでは、ユダヤ人のため、またはユダヤ人の救いについて書いてあるのでしょうか。

注意して読んでいくとそうでも無いことに気づきます。

  1. 1章の系図には3人の女性が出てきます。(3人分かりましたか。)女性の名前が記されること自体、系図としては珍しいと言われますが、そのうち少なくとも2人は非ユダヤ人、もう一人も旧約聖書によると夫がヘテ人 (the Hittite) と書いてありますから、非ユダヤ人かもしれません。
  2. 2章にある最初にイエスを拝した人たちとして描かれているのは東方の博士達、占星術師、これもユダヤ人ではありません。
  3. 最初の系図はアブラハムから始まっていましたが、イエスにバプテスマをさずけたヨハネは3章9節で
    『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(新共同訳)
    と言っています。
  4. イエスの出身地で、最初に宣教活動をした場所は、4章で「異邦人のガリラヤ」と書かれています。
  5. しかし旧約聖書の律法(最初の五書)については、5章で
    「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(新共同訳)
    と言っています。なにかこのへんにユダヤ人のため? 異邦人は?という問いの答え、旧約聖書との繋がりと断裂があるのかも知れませんね。この段落は、次の言葉で終わっています。
    言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(新共同訳)
    これはどういうことなのでしょうか。最後の言葉は20節ですが、わたしは高校生のとき、この聖句の説明を聞いてもどうしてもよく分からず、この聖句を理解したいと思って、聖書を真剣に読み始めました。いまは何らかの説明はできると思いますが、本当にはまだよく分かっていないと思っています。
  6. 8章からはイエスに病をいやされるひとが何人もでてきますが、ユダヤ人以外もいろいろと出てきます。きわめつけは15:21-28でしょうか。
みなさんは、どのようなことを考えながら読んでいるでしょうか。おそらく、聖書をはじめて読む人もきいたことのあることばがいくつも出てくるのではないでしょうか。そのようなことばがどのような背景で書かれているかをみることができるのも、通読の楽しみの一つだと思います。

マタイによる福音書(3)

以前、ジョナサン・マゴネット、小林洋一編「ラビの聖書解釈 - ユダヤ教とキリスト教の対話 -」を読みました。ラビとはユダヤ教の教師の事ですが、ジョナサン・マゴネットは、ロンドンにある(進歩的な)ラビの学校レオ・ベック大学で学び、学長までされたラビの先生です。ご存じのように、キリスト教は、イエスの時代はもちろん、初代教会時代も、ユダヤ教の中の信仰集団でした。ともに旧約聖書を土台としています。イエスの時代といっても、福音書に描かれている時代といっても良いですが、そのときの聖書はもちろん、旧約聖書です。中でもマタイによる福音書は、特に、その旧約聖書の預言の成就、または、旧約聖書との関係を重視して書かれた福音書でもあります。しかし、同時に、旧約聖書には、明確に記述されていないことが、イエスのメッセージや、教え、行動によって表現されている、少なくとも明らかにされていることも確かでしょう。

新約聖書を読んでいると、ユダヤ教を、イエスが批判している、ファリサイ派や、サドカイ派の宗教として見てしまいがちですが、キリスト教もそのあと、いろいろの歴史を経て神学が構築され、かついくつもの派に分かれていったように、ユダヤ教も様々な歴史を経験し、キリスト教にも応答する機会を持ち、かついくつもの派に分かれていっています。この本を読んで、現代のユダヤ教との対話に開かれていくことが大切だなと強く感じています。

実は、イスラム教も旧約聖書、新約聖書を啓示の書としていますが、扱いはユダヤ教やキリスト教とはすこし異なっています。ユダヤ教とは、旧約聖書を介しての理解について語り合うことは、十分できますが、イスラム教との間でその基盤を持つことは難しいように思われます。むろんそれでも、対話は是非必要ですが。印象的な言葉を一組だけ引用しておきます。

「すべての真正な生き方は出会いであり対話である。」(M.ブーバー)
「すべての真正な宗教的生き方は危険を冒すものである。」(J.マゴネット)
皆さんは、いま、新約聖書を読み始めました。まずは、イエスが、何を語り、どのように教え、行動し、一人一人と接したか、いままでちょっと知っていることにとらわれず、聖書自体から、読み取っていただきたいと思います。そしてここで語られている、イエスと出会い、イエスをはじめ出てくる人たちと対話をしてほしいと思います。もしかすると自分の価値観が揺さぶられる危険を冒す事になるかもしれませんが。

マタイによる福音書4章17節に次の言葉が出てきます。

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
これは、3章の3節にあるバプテスマのヨハネといわれている、ヨハネのメッセージと全く同じです。ヨハネのメッセージの内容については、詳細までは分かりませんが、イエスのメッセージについては、まず、5章から7章にまとめられています。山の上で語られたので、山上の説教とか山上の垂訓などと言われています。イエスが言った、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とはどういう意味なのか、まずは、5章から7章の教えの中で、そしてその後に書かれている、イエスのなした事によって、考えてみてください。

梗概を引用していますが、むろん、いろいろなまとめ方があります。一般的に、単なる時系列で書いているのではなく、あるまとまりをもって書いていることは確かですから、みなさんも、ここでは、何を言っているのだろうかと考えながら読んでいけるとよいと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」増田誉雄

梗概

メシヤの福音

  1. メシヤの準備 1:1-4:11
  2. メシヤの宣教開始 4:12-25
  3. メシヤの倫理 5:1-7:29
  4. メシヤの力 8:1-9:38
  5. メシヤの働きの拡大 10:1-25:39
  6. メシヤの受難準備 16:1-17:27
  7. メシヤの教会 18:1-20:34
  8. メシヤの受難の週 21:1-25:46
  9. メシヤの十字架 26:1-27:66
  10. メシヤの復活 28:1-20

マタイによる福音書(4)

マタイによる福音書は、ギリシャ語聖書には、マタイによる(カタ マタイオン)と記されています。(1)でも述べたように、2世紀の記録であるパピアスの「断片集」2.15 (http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html) には次のようにあります。
 「ところでマッタイオスは、ヘブル語で〔イエスの〕語録(logia)を編集し、これをそれぞれのひとが可能な仕方で翻訳した」。
これによるとマタイが記録したイエスの語録集があったようで、それを複数の人がギリシャ語に翻訳したとあります。マタイによる福音書は、それがまとめられたものなのかも知れません。さてマタイとは「主の賜物」という意味で、マタイによる福音書には、2回出てきます。一箇所は12使徒の名前が記されている箇所 10章2節から4節です。新共同訳で引用します。
2:十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
3:フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
4:熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
ここに「徴税人マタイ」と記されています。もう一箇所は、9章9節です。13節まで引用します。
9:イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
10:イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
11:ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12:イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
13:『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
対応するルカによる福音書5章27節には「レビという徴税人」となっています。本来の名前はレビで、ニックネームとして「主の賜物」とつけられたのかも知れません。もしこのレビがレビ族に属することをも意味しているとすると、代々神殿に仕える仕事をするような家に育ったことになります。当時ローマの統治下にあり、税金を納めていました。マタイのいた、ガリラヤ湖畔の町カファルナウム(カペナウム)にも税関があったとの記録がありますから、ローマに委託されて税金を集めていた一人ということになります。ユダヤ人からは、異教徒の手先とみられ、異教徒との交流が多いことからも、汚れた仕事とされていました。しかし、一方ローマ人からは信頼され、教養もある程度ないとできない仕事で、ローマという大きな権力を後ろ盾にもつ請負であったため、かなりの利益を得、お金持ちだったようです。詳細は、不明ですが、そのようなマタイが、「わたしに従いなさい」とイエスに言われ、立ち上がってイエスに従いました。職を失ったことはほぼ確実でしょう。それでも、マタイのことを人は10:3のように「徴税人マタイ」と呼んでいました。マタイでは明かではありませんが、ルカによるとマタイがイエスのために宴会を催したと書いてあります。上の箇所は、そのような宴会での出来事です。

ひとくせもふたくせもあるような人たちが、そこにたくさんいたようです。最後に引用されているのは、ホセア書6章6節です。なぜ、イエスは、このような引用をされたのでしょうか。みなさんは、この宴会から、どのような印象を受けられるでしょうか。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。
今朝、Dietrich Bonhoeffer の言葉を読んだ。「Gott gibt uns zu wissen, dass wir leben müssen als solche, die mit dem Leben ohne Gott fertig werden. Der Gott, der mit uns ist, ist der Gott, der uns verlässt. ... Der Gott, der uns in der Welt leben lässt ohne die Arbeitshypothese Gott, ist der Gott, vor dem wir dauernd stehen. Vor und mit Gott leben wir ohne Gott. 神は私たちに、神なしの人生にも対処できる者として生きなければならないことを教えてくださいます。 私たちとともにおられる神は、私たちを離れる神です。 ...神の作業仮説なしで私たちを世界に生きさせてくれる神は、私たちが常にその前に立っている神です。 神の前で、神とともに、私たちは神なしで生きています。(Google)」(https://www.ekd.de/060307_huber_dessau.htm)神は私たちと共におられる。そして、その神は、神の作業仮説なしで私たちを世界に生きさせてくれる神なのかもしれない。神の子となる力(エクスーシア:ἐξουσία - power of choice, liberty of doing as one pleases)を与えてくださる神様。深い言葉だと思う。
Matthew 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。
この解釈を、榊原康夫先生の「マタイによる福音書講解」で読んで、このように聖書を読むこともできるのかと驚かされ、それから、聖書を考えながら読むようになったことを思い出す。「彼らはメシヤのいる所を知らないので、ユダヤの都エルサレムに一度来た上で、メシヤはどこにおられますかと尋ねなければなりませんでした。彼らがベツレヘムへ向かったのも、ユダヤ教側の学問的解答を教えられたからであって、決してメシヤの星の導きによったのではありません。事実、都エルサレムから、わずか八キロメートルほど南にあるベツレヘムまでは、ただ一本の大きな街道が通じているだけなので、星の道案内などはいらないのです。その上、中天高く輝く星がどこかの上に止まったとしても、おおよそどの星もみな止まっているのですから、この星の真下はどこ、あの星の真下はどこ、とわかるものではありません。どの星でも、わたしたちが夜空を仰いで歩けば、わたしたちに一歩ずつ先んじて、どんどん「先へ進む」のではないでしょうか。わたしたちが立ち止まると、見よ、星も止まるのです。」大阪大学工学部を中退されたと聞いたが、理系の論理的思考も働いているようで、親近感を感じたこともあるのかもしれない。
Matthew 3:1-3 その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」預言者イザヤによって、/「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
今回、この「悔い改めよ。天の国は近づいた。」を読んで、地上が神の国になるということとは、違うのかもしれないと思った。神様の支配はすぐそこだとして、生きることを言われているのかもしれない。だからこそ、信仰を持って生きることが求められているのだろう。
Matthew 4:17 その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
近づいた、であって、来たではない。そのことを間違ってはいけないと感じた。それが信仰をもって、神にしたがって生きることなのだろう。混乱しないように、生きていきたいものである。
Matthew 5:3-5 「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。
山上の垂訓である。通読で、一日半で読んでしまうのはもったいない。引用句では、悔い改めに導かれることを言っているのかなと感じた。ひとは、過ちをする。聖霊の語りかけを聞いても、簡単には、受け入れられない。それが受け入れられるのは、このような人たちなのかもしれないと思った。心の貧しい人、悲しむ人、へりくだった人。
Matthew 6:19-21 「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
この章には「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。」(1)とか、「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」(5)とか、「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」(16)の言葉が並ぶ。痛いところをつかれている。わたしも、どこかで、地上での報いを求めてしまっている。神の前に歩んでいると言いながら。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」アーメン。そのような生き方をしていきたい。
Matthew 7:26,27 私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
山上の説教はには、さまざまなことが書かれている。そして、それは、これだけ守れば永遠の命(神様の御心によって生きる命)がいただけるとは言っていない。おそらく、どれひとつをとっても、大切なのだろう。それを、語っている。しかし、ひとつの鍵は、この最後の部分に書かれているところにあるのかもしれないと思った。やってみること。やらなければ、おしまいだよ。ということだろうか。イエスも、簡単に、ことがなるとは考えていなかったのだろう。これも、人間の単純化バイアスだろうか。
Matthew 8:34 すると、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
なぜ、このようになったのかを考えた。経済的理由、豚の群れが崖から下って湖になだれこみ、水に溺れて死んだからか。たしかにそれによって損失を受けたものたちがいただろう。しかし、悪霊に憑かれた二人の人から、悪霊が追い出されたのである。そちらに目を向けても良いはずである。おそらく、人々は、そのことをそれほどまでには、望んでいなかったのではないだろうか。つまり、神様の御心がなることを望んでいない。この章には、イザヤ書からの引用「彼は私たちの弱さを負い/病を担った。」(17b)がある。これは、望まれる、救い主の姿ではなかった。つまり、神様の御心は、望まれなかったということではないだろうか。
Matthew 9:32-34 二人が出て行くと、人々が、悪霊に取りつかれて口の利けない人をイエスのところに連れて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
このあとの、ベルゼプル議論(12:22-32)では、悪霊にとりつかれ、目もみえず、口も聞けない人が登場する。ここでは、口が聞けない人、このことが、ルカでは、ベルゼブル議論(ルカ11:14-23)に書かれている。マタイが正しいのかもしれない。そして、ここで、悪霊の頭が登場し、ベルゼブル議論の、予兆を感じさせるようになっている。興味深い。
Matthew 10:16 「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。
イエスは心配でたまらなかったのだろう。しかし、いま、送り出すことをしなくてはいけない。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」(6,7)と言っている。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)の悔い改めはない。さらに、難しいことのように思われる。聖霊の働きが必要なのか。
Matthew 11:1 イエスは十二人の弟子に命じ終えると、方々の町で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。
ペトロの説教の中には、弟子たちだけに語られたことは、含まれていなかったろうと思う。すなわち、弟子たちだけに、語られたことを学ぶには、マタイやルカやヨハネなど他の証言が必要だということである。そのような見方で、福音書を分けてみることも、大切かもしれない。むろん、自分の子と呼ぶマルコに、ペトロがある程度は、弟子としての心得を語ったことは考えられるが。
Matthew 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。
いつから話しておられたのか特定することは難しい。マルコでは、22節からのベルゼブル論争の前に、家族が家にきたとして、これが、家で起こったことと、家族がきていたことを書いている。それに沿って考えると、イエスが語られたのは、22節からで、一続きと考えるのが良さそうである。しかし、場所について、マタイは、沈黙する。おそらく、カファルナウムで、そこには、イエスがいられる場所は、何箇所もあったのかもしれない。
Matthew 13:34,35 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いずには何も語られなかった。それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。/「私は口を開いてたとえを語り/天地創造の時から隠されていたことを告げよう。」
「私は口を開いてたとえを語り/いにしえから隠されていたことを告げよう。」(詩篇78章2節)からの引用とある。なぜ、たとえで語るかは、それほど簡単には、わからない。考えることはあると思うが、いくつもの解釈ができてします弱点もある。しかし、自分が欲するものをもとめるだけではいけないこと。さらには、イエスのことばに耳を傾けることの重要性は伝わるのだろうか。よくはわからない。
Matthew 14:13,14 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。
バプテスマのヨハネが殺された直後の記事である。このあと、五千人の給食の記事が続く。イエスのこころの中を理解することはできないが、ここでも、イエスはおそらく、祈っただろう。しかし、民は、押し寄せてくる。神の国を求めてではなく、イエスが与えてくれるものを求めて。イエスは、どんなことを考えていただろうか。ゆっくり考えていきたい。
Matthew 15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
「なぜ、あなたの弟子たちは、長老たちの言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(2)から始まり、ここから群衆に語り、そして、弟子たちが近寄ってきて、弟子たちに話す。まとめとして「あなたがたも、まだ悟らないのか。口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない。」(15b-20)となっている。引用句を選んだのは、オープンスペースで、おそらく、ファイサイ派のひとも何人かは聞くことができただろうということである。イエスは区別をされない。弟子たちに語ったことも、このように公開されているのだから。そして、それこそが、異邦人宣教の道が、ペトロを通して開かれた鍵ともなっている。使徒10章15節等。
Matthew 16:2,3 イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。
時のしるしなどを通して、神様は、さまざまな「天からのしるし」(1)を与えておられるということだろう。それを、見分けるのは、簡単ではない場合もある。自然科学や社会科学なども、ひとつのツールではあるように思う。
Matthew 17:15-17 言った。「主よ、息子を憐れんでください。発作でひどく苦しんでいます。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまであなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに連れて来なさい。」
現代の状況について、イエスは喜ばれるだろうか。おそらく、そうではないように思う。熱心さが足りないと言っているのだろうか。おそらく、そうでもないだろう。神様が働かれるようにされること、それをみることなのだろうが、そう簡単ではない。
Matthew 18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。(✝★底本に節が欠けている箇所の異本による訳文 人の子は、失われたものを救うために来たのである。)
「誰が一番偉いのか」(1)からはじまり「これらの小さなもの」として、こどもを、彼らの真ん中に立たせ、そして、「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」(6)について語り、引用句がある。まさに、傷ついた葦を折ることなく、消えかけた灯を消さない、ということは理解できる。しかし、おそらく、それ以上のことを言っているのだろう。神様のみこころ、かみさまが大切にされることだろうか。
Matthew 19:20,21 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(16)ここから対話がはじまる。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(17)と答えられるイエス。このあと、引用句の最初の部分の答えをするやりとりがあるわけだが、イエスは戒めを守ることは、御心を行うことだったのだろう。それが、引用句の後半に現れている。イエスと共にいるとそれは、明らかだったかもしれない。イエスの教えを聞いて、この青年も、なにか足りないと感じとっていたのかもしれない。
Matthew 20:13-16 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
最後の言葉が直前の19章30節にある。その説明のたとえなのだろう。なにがいただけるかから始まっているこの議論の最後に、引用句がある。主人がしてやりたいこと、神がしたいことそれを妬むことが戒められている。そして、気前の良さだろうか。御心を行うとはなかなか難しいことである。それは、御心を受け取ることでもある。
Matthew 21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」
「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。』」(23)から始まった議論である。引用句のイエスの答えのあとにも、イエスは話し続けてている。「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(31b,32)ここでも、ヨハネのことを語っている。まさに、このことを伝えているのだろう。「後で考え直」す必要がながす必要がある。ということだろう。このことはよくわかる。
Matthew 22:31,32 死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
驚きのことばである。子が無く死んだ場合のサドカイ派のひとの質問に答えている。死をどう考えるかという根本に関わる答えが用意されている。それは、すぐ思いつくものではないだろう。現在の状況の認識が違うのだろうか。イエスは、アブラハム、イサク、ヤコブとも交わりを持っているのではないだろうかと思った。その日常が背景にあるように思う。
Matthew 23:11,12 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
律法学者たちやファリサイ派の人々を批判したことばのあとに、引用句が続く。背景がわからないので、なぜ、ここに書いてあるほど厳しく糾弾するかわからないが、たいせつなことは、この部分にあるように思う。これに反することをしていていながら、自らが偉く、他の人はそうではないというような行動をする人たちに対して語っているのだろう。謙虚さは、わからないということからくる。たんに、へりくだるだけではなく、仕えることを学びたい。
Matthew 24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
ここから終末について語られる。しかし、イエスは、質問に応答されるが、最後に、たいせつなことを語る。ここでは、途中でも、「人に惑わされないように気をつけなさい。」とまず言っているが、このあとに、忠実な僕と悪い僕のたとえがあり、三つのたとえがつぎの章に続く。このあたりに、悟ってほしいことがあったと考えるのが正しいだろう。その最後は、この最も小さきものに、である。しっかりこのことを覚えたい。
Matthew 25:1 「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
断食についての問答(マタイ9:14-17, マルコ2:18-22, ルカ5:33-39)のときに考えたが、花婿はイエスであり、おとめは、婚礼の客、まさに、迎えられるひとたちなのだろう。通常の結婚式だと考えると、混乱が起きる。この章の三つのたとえは、すべて終末、または、人生の評価について語っている。そのもとで、読まないといけないと思う。
Matthew 26:26-28 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。
贖罪については、福音書にあまり書かれていない。しかし、この箇所は、贖罪について語っている。同時に、ここでは、契約の血という言い方をしている。いのちをかけた、証拠だと言っているのだろう。もう1箇所は、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章28節)他にはないのだろうか。探してみたい。
Matthew 27:15-17 ところで、祭りの度に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。時に、バラバ・イエスと言う名うての囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」
このときに、声をあげられるか。ひとつの問いである。しかし、声をあげることによって、そのひとの救いが得られるわけではないことも考えるべきである。たしかに、ここには、ひとりも、声をあげたひとのことが書かれていない。他にも、さまざまな場合に、そのようなことは起こる。戦争においても、戦争をやめる場面においても、社会主義者や、他の国の人をいじめるときにも。整理してみたい。
Matthew 28:16,17 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
マタイでは、復活のイエスに会ったのは、マグダラのマリアと、もうひとりのマリア。そして、引用箇所だけである。ここでは、ガリラヤで起こったこととして書かれ、かつ、疑うものもいたことが書かれている。たしかに、他の箇所には、さまざまな記録があるが、不完全であることも、確かであるように思われる。一番、早い証言は、パウロだろうか。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。次いで、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。」(1コリント15章3-8節)

BRC2023(2)

Matthew 1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
系図の不備など、ユダヤの背景のもとでの救い主の誕生を記そうとする意図は、不完全に思う。しかし、最後の「インマヌエル」預言と「自分の民を罪から救う」は、あることを表現しているとは、思う。自分の民をどう理解するかは簡単ではないけれど。
Matthew 2:18 「ラマで声が聞こえた。/激しく泣き、嘆く声が。/ラケルはその子らのゆえに泣き/慰められることを拒んだ。/子らがもういないのだから。」
「主はこう言われる。/ラマで声が聞こえる/激しく嘆き、泣く声が。/ラケルがその子らのゆえに泣き/子らのゆえに慰めを拒んでいる/彼らはもういないのだから。」(エレミヤ31:15)イスラエル回復の預言の中で語られている。マタイの記述は、無理があるように感じるが、これが、ユダヤ教徒からキリスト者となったひとたちの描いた救い主像、そして、イエスの理解だったのだろう。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(1:1)と始めているのだから。
Matthew 3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
「今は」ということは、変化を仮定している。それは、いつなのだろうか。兆候は、このあとに書かれている。「イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そして、『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(16,17)ある時ではないのかもしれない。ヨハネは、イエスがその方であるかを、ずっと問い続けたように見える。わたしもそのような生き方をしたいと思っている。
Matthew 4:5-7 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。/『神があなたのために天使たちに命じると/彼らはあなたを両手で支え/あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」
ルカ4章では、この記事が三番目になっている。いずれにしても、悪魔が聖書を引用し、イエスは「とも書いてある」と、やはり聖書を引用して議論している。聖書の解釈は当時もとても大切だったようだが、単純ではない、理解が必要であることを最初から示していることには、興味を持つ。そのような聖書の解き明かしをするものとして、たてられたのだろう。
Matthew 5:44,45 しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
マタイは、系図からはじまり、イスラエルの歴史に結びつけ、バプテスマのヨハネについて語り、悪魔の誘惑について記し、そのあとは、主として、マルコの記事に従う。しかし、この5章から7章の山上の垂訓は、まさに、独自資料として、一番たいせつなものとして、含めたのだろう。一つ一つのことばについては書けないが、これだけの内容が含まれていることには驚かされる。おそらく、書き記したことによって、ペテロが受け取れなかったものを、このように、ゆっくり、十分味わうことができるのだろう。
Matthew 6:9,10 だから、こう祈りなさい。/『天におられる私たちの父よ/御名が聖とされますように。御国が来ますように。/御心が行われますように/天におけるように地の上にも。
山上の垂訓を読んで、なにかとても当たり前のことが書かれていると思った。そこで、なにが特徴的なのだろうかと考えた。当時のひとたちのことは、正確にはわからないので、偏見を覚悟して考える。おそらく「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈れ」(5:44b)は、特徴的なのだろう。あとは、天の父なる神との近さ、または、み心が行われる世界との近さだろうか。さらに、今回読んでいて気づいたのが、「わたしたちの父よ」といい、共同体的な意識が背後にあることだろうか。互いに愛し合いなさいの萌芽があるといえるのだろうか。
Matthew 7:21-23 「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」
この章の最後には、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。」(28,29)とある。この内容をどう理解するかはわからないが、引用句でも、父の御心といいつつ、最後の部分を見ると、イエスは主権者になっている。これが、権威ある者のようにの、ひとつの根拠なのだろうか。本当に、このように教えておられたのか。おそらく、そうなのだろう。マルコでは、行動から学んでいるが、マタイからは、教えからも学びたい。
Matthew 8:4 イエスは彼に言われた。「誰にも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
規定の病が癒された人への言葉である。話さない様式をつけなさいが、これからも登場するが、今回は特に、神様との関係を味わって欲しいのかと思った。つまり、神の国が近い、神様の支配される世界は、すぐそこにある、そのことに浴したことを、しっかり、味わい、その事実と向き合って欲しいということだろうか。ひとに、イエスを宣伝することではないのだろう。ましてや、自分が癒されたことは、ひとつの神の国の発現ということだろうか。
Matthew 9:15 すると、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる。
最初の受難と死の告知だろう。このあとには、「誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(16,17)が続く。背景には、バプテスマのヨハネのときまでのことがあるようだが、どう読むのが適切なのだろうか。あたらしい世界なのだろうか、違った見方をしないといけないということだろうか。
Matthew 10:5-7 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
引用句は、十二弟子任命の直後に書かれているものである。さらに「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(23)ともある。イスラエルに特化していることがわかる。実際には、イエスも、意図しなかったかもしれないが、サマリアや、異邦人の地(スロ・フェニキア地方)にもイエス一行は行っている。マタイによる福音書が編纂された背景は明確ではないが、ユダヤ人キリスト者が多いところで書かれたのは、事実なのだろう。あまりそれを強調するとかえって混乱するかもしれないが。
Matthew 11:11,12 よく言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。
イスラエル中心主義をも思わされる記述から、この章では、引用句があり、そのあとには、ガリラヤの街への裁きが語られる。旧約的な感覚も感じられるが、引用句の記述からも、イスラエルの救いだけではない、新しい時代の到来が描かれているのかもしれないと思った。ここだけからは、わからないが。
Matthew 12:18-21 「見よ、私の選んだ僕/私の心が喜びとする、私の愛する者を。/この僕に私の霊を授け/彼は異邦人に公正を告げる。彼は争わず、叫ばず/その声を大通りで聞く者はいない。公正を勝利に導くまで/彼は傷ついた葦を折ることもなく/くすぶる灯心の火を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置く。」
片手の萎えた人に関する記事のあとに、ファリサイ派の人々がイエスを殺す相談を始め、イエスは、その場から退かれるが癒し(θεραπεύω)の業を続けられたあとにある「これは、預言者イザヤを通して言われたことが実現するためであった。」(17)の証言が引用句である。主が是認しておられること、ここに異邦人が登場することが特別であると思う。表現がとても、印象深い。
Matthew 13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは「分かりました」と答えた。
マタイだけだろうか。このような、ポジティブな表現をしているのは。おそらく、イザヤ預言や、このあとの、ナザレでのこと、などとの対比の中で語られているのだろう。しかし、むろん、弟子たちは、ほんの一部しか理解していない。現実の難しさは、イエスは、すでに十分理解していたということだろうか。イエスを殺す計画がすでに出てきているので、かなり初期の段階から、この難しさは認知されていたのかもしれない。
Matthew 14:13,14 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。
バプテスマのヨハネが殺されたことを知った直後の記述である。イエスが何を考えたかは不明だが、おそらく、自分の身に起こることも考えただろうが、神の子としていきることはどのようなことか、どのように歩んでいったら良いかを考えたのだろう。そこで描かれているのが、実際の自分の隣人たち、神様が愛しておらえっる、人々との関係である。深く憐れみ(σπλαγχνίζομαι:to be moved as to one's bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity))と表現され、この人々の仕えられたことが書かれている。それこそが、神の子として生きること、神様はどうされるかを考えてしたことなのだろう。ここの癒されたも θεραπεύω(1. to serve, do service, 2. to heal, cure, restore to health)である。現代の病気をなおすとは異なるのだろう。
Matthew 15:21,22 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に退かれた。すると、この地方に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
マルコの対応箇所では「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれた。ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足元にひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」(マルコ7:24-26)となっている。明らかに異なるのは、カナンの女(マルコではギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ)、そして、「主よ、ダビデの子よ」(マルコでは呼びかけの言葉の記載なし)、さらにマルコでは異様な光景が最初に書かれている。「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった。」ヨハネ殺害のあと、五千人の養いがあり、その後である。いろいろなことを考えておられたのだろう。マタイではそこまでは書かれていない。逆に「ダビデの子」とあるが、マルコでは、このように呼びかけるのはバルティマイ(マルコ10:47,48)だけである。マタイでは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(1:1)とはじまり、1章20節、9章27節、21章9節にもある。明らかにこの言葉を使う度合いが異なる。
Matthew 16:5,6 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に十分注意しなさい」と言われた。
マルコでは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」(マルコ8:15b)となっている。しかし、この章のはじめには、「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。」(1)ともあるので、このような姿勢に関連付けたと考えて、マタイではこのようにしたのかもしれない。常に、ファリサイ派とサドカイ派が主たる、議論の相手だったろうから。では、マルコではなぜ、ヘロデのパンだねとしたのだろうか。バプテスマのヨハネが殺されたこともあり、イエスにとったは、優柔不断で、かつ権力に取り憑かれた政治家は、やはりひとつ気をつけるべき、大切な存在として、弟子たちに伝えたかったのかもしれない。
Matthew 17:11-13 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを建て直す。言っておくが、エリヤはすでに来たのだ。しかし、人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、同じように人々から苦しめられることになる。」その時、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
イエスは、本当に、洗礼者ヨハネのことを意識していたのだろうか。おそらく、それは、否定できない。しかし、もっと大きな枠で捕らえていたのではないだろうか。律法学者がエリヤが来るはずだと言っていたのは、おそらくマラキ書の預言が根拠だろう。しかし、イエスにとっては、イザヤ書の預言が頭にあったのではないだろうか。すると、エリヤ的な存在よりも、悔い改めを促す存在という言い方のほうが適切なのかもしれない。
Matthew 18:3-5 言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
ここから、こども、小さいものについてのメッセージが続く。そして、赦しに関するメッセージが続く。もしかすると、17章14-20節の悪霊に取り憑かれた子を癒やす記事も関係しているのかもしれない。引用句では、イエスを受け入れることが、このことにかかっていることを述べている。正直、そこまで言う意図がはっきりしないが、それくらい、イエスの感覚、イエスが見ている天の国に入ることから、離れてしまっているのかもしれない。それは、神様の視点ということなのだろう。
Matthew 19:27 その時、ペトロがイエスに言った。「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」
ペトロは率直である。現在、マルコを学んでいるから、マタイなどとの対比でそう感じる面もあるのだろうが、ペトロのように受け取る人がいたからこそ、解釈し、理解したものではなく、イエスのことばが、発せられたときとあまり変わらずに伝わったのかもしれないと思う。イエスが選んだ弟子、このような弟子しかいなかったのかもしれないが、そこに、子供に対するメッセージも関係しているのかもしれない。
Matthew 20:14-16 自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』のように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
ぶどう園の労働者への支払いのたとえの最後の部分である。非常に興味深いたとえだが、主題は、この最後の部分だとして、マタイは記したのだろう。前後関係からも適切である。しかし、それ以上のものが含まれている。イエスのたとえの中でも、秀逸である。引用句は、神の主権の背後にある、神の意思については、わたしたちは、十分に知り得ないということも含まれているように思う。ひとりひとり、さまざまなストーリーを描くことは可能だし、それとはべつに、神の思いもあるのかもしれない。
Matthew 21:9-11 群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。/「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に/祝福があるように。/いと高き所にホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
イエスは、基本的に、ガリラヤ地方で有名となった地方巡回説教者という認識だったのだろう。特に、このときは、過越の祭りのために、様々な地域からも集まってきている。多様な人達のなかで、イエスを知らない人は多かったろう。マタイでは「ダビデの子にホサナ。」としているが、マルコでは「ホサナ」。やはりマルコでは、ダビデの子という名称を非常に注意深く使っている。そして、イエスは、そう呼ばれることを、快く思っていないように見える。ただ、弟子たちに浸透していたかと言うと、単純ではなかったのかもしれない。このあとには、イエスはバプテスマのヨハネのことをあげている。イエスにとって、とても大きな存在だっただけでなく、同じ神から遣わされたという意識も強かったのかもしれない。そして、バプテスマのヨハネは、祭司の家系であり、ユダヤ人にとっては、よく知られた人物だったことも確かなのだろう。
Matthew 22:29,30 イエスはお答えになった。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。天の御使いのようになるのだ。
イエスは、どのようにして、このような理解を得たのか、わからない。このあとには、復活についても、「死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(31,32)とある。こちらのほうが、もっと驚かされるが、神とともなる生活と、地上での生活の間の関係について、深い理解を持っておられたということだろうか。
Matthew 23:38,39 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」
エルサレムについての呪いの部分である。よく理解できない。主に委ね、自分たちの望むメシヤではなく、主の名によって来ること、すなわち主の御心がなるこそが、たいせつだと心から告白するようにならなければという意味であろうか。しかし、それは、考えるとなかなか難しい。わからないものを受け入れることはできないように思えてしまう。イエスにとっては、それが地上においても、見えていたのだろう。
Matthew 24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
弟子たちにとっても、興味のある話題だったろうが、特に、マタイの書かれた時点で、世の終わりについての関心が高かったことがわかる。しかし、イエスの言っているのは、「そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(11)ことと、偽預言者、偽メシアが現れて人々を惑わすことのようである。いずれ、整理をしてみたい。パウロの宣教のあと、パウロが語っていたほどすぐには、再臨はないことは、ある程度認識されていたのだろうか。人の興味ある問と、イエスが伝えたいメッセージとの乖離もあるように思う。
Matthew 25:45,46 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」
前章の「世の終わり」の記述から、つながっているのだろう。直前の前章の終わりには「忠実で賢い僕」についての記述がある。イエスが伝えたかったことは、世の終わりをみながらどう生きるかということだったのだろう。そして、願いは、引用句にもある、この最も小さい者の一人に対してどのように生きるかということに尽きるのだろう。それは、神様を、そして、イエスを愛するように、愛することなのだろう。それを、見失わないようにしたい。
Matthew 26:10-12 イエスはこれに気付いて言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。
この女性が、マグダラのマリアなのか、ベタニアのラザロと、マリアの姉妹マリアなのか、議論が分かれるところである。マタイとマルコ14:3-9と、ヨハネ12:1-8 にあるが、今、読み返してみると、ヨハネにはマリアとあるので、マリアなのだろう。マルコはひとりの女、マタイも同様である。しかし、「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のためにこんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。』」(8,9)とあるように、弟子たちの中には、反発があったことが書かれている。ヨハネにはそれがイスカリオテのユダだと書かれているが(ヨハネ12:4)イスカリオテのユダ以外にも、同様の考えをした弟子はいたかもしれないが、この状況で、イエスが特別なときにいることを理解した女性がいたということだろう。ガリラヤからついてきた、マグダラのマリアかもしれないし、兄弟ラザロが生き返った、ベタニヤのマリアかもしれない。イエスについてきたでしたの中にも、イエスの受難についての理解が混乱していたということもあるだろう。
Matthew 27:54-56 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
百人隊長のことばは、印象的である。このことばからも、この百人隊長も、ある程度、イエスについて知っていたということなのだろう。わたしたちは、そのことに関する情報を持っていないが。後半は、とても大切な記述である。イエスに仕えて、ガリラヤから来た女性たちが何人もいた問ことである。特に、その中に、マグダラのマリア、イエスの母マリア、ヤコブとヨハネの母マリアが特記されていることも忘れてはならないだろう。エルサレム巡礼としてのみ、ついてきたとは、到底考えられない。とくべつなときであることを、ある程度知っていたのだろう。十分、理解できていたかは不明だが。
Matthew 28:9,10 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」
マタイの復活に関する記述は非常に簡素である。二人のマリアが、空の墓を確認。そして、引用句の記述になる。このあとに、大宣教命令をガリラヤで受けることが書かれている。ひとつ特徴的なのは、番兵のことが、27章62-66節と、28章11-15節に含まれていることだろうか。一人ではなく、二人の証言にしたこと、二人のマリアともう一人のマリアについて詳しい説明がないこと、大宣教命令を受けるときの記述が非常に簡単であること。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(16,17)などから、マルコの記述と比較すると、イエスの体が墓から消えたことは確実であることを証言。しかし、それ以外は、確実とは言えないが、伝承があることを伝えているように思う。それが、ルカが書かれた頃と同時期ということも、重要なのだろう。


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BRC2021(1)

Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。
なんどもこの言葉を考えてきたが、これは大変なことである。神が共におられる。そのように呼ばれるということは、それが体現していると、ひとびとが、告白するということだろう。この方を通して、主がともにおられることがわかるとも、この方がおられることが、そのまま主がともにおられることを意味するとも取れる。主がおられる、神の国がここにきていることを経験することができるとも理解できる。それは、イエスが、そのように、生きられたから、生き抜いてくださったから。そして、それは、イエスにとどまらず、我々も、そのように生きることに招かれているとも言える。感謝。
Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。
いろいろと放浪したことが書かれている。これは、そうなのかもしれない。旅をしたことが、イエスや親にとって、意味を持ってくることはありうる。そして、ナザレ。ガリラヤではあるが、田舎。どのような街だったのだろう。外国人はどのぐらいいたのだろうか。少なくとも、カファルナイムなどに出れば、様々な人と出会うことができただろう。純粋なユダヤ人コミュニティで過ごしてはいないことが書かれているのだろう。
Matthew 3:7-9 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
このあとには「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(10)と続く。実はなにを意味しているか考えたくなる。ここだけでは明らかではない。しかし、マタイによる福音書全体としては、イエスを通して示される実を指し示しているように思われる。7章16-20節、12章33節、13章8節、22, 23節、26節、21章19節、43節、26章29節。実について語っている箇所は多い。血筋には依らないことが書かれている。単なる所属でも無いのだろう。一人ひとりということだろうか。そうでもないように思う。
Matthew 4:24,25 そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに付いて行った。
「その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」(17)の「その時」は「ヨハネが捕らえられたと聞」(12)いたときだろうか。ヨハネによる福音書は、もう少し前のイエスの活動も書いており、ある意図を感じる。引用箇所は、場所について書かれているが、それも、まず、シリア中とし、そのあとに、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側」としている。ほぼ、イスラエル全土で、サマリヤが除外されているようだ。これらは、何を意図しているのだろうか。考えながら読んでいきたい。
Matthew 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」
教義は後の異端といわれるものや、他の宗教との関係のなかでできてきたもので、真理に直接向かうものとは異なる、ひとつの民族主義(自分たちの文化(たいせつにしているもの)を絶対化する)かもしれないと思う。偏見なしに読むことはひとにはできないが、極力、自由に読みたい。その目的は、イエスのメッセージを受け取ることである。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4章17節・3章2節)イエスとバプテスマのヨハネのメッセージは同じである。天の国が近づいたことを確信し、そのなかでの生き方を説いていたことは確かだろう。最初の七福も、天の国が近づいた背景があるのだろう。神の支配に信頼することを前提とすると、ひとつひとつ無理とは言えない。そしてそれは、神のように完全なものとして生きることを目指すことなのだろうか。それが天の国にふさわしいものなのだろう。その内容を一つ一つ受け取っていきたい。
Matthew 6:31,32 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
「あなた方の天の父」(14,26,32)聖書でこのことばはここにしかない。「あなたの父」(6,18)が神を指す箇所は、ここだけである。イエスの宣教の初期だけに語られたかどうかはわからないが、この「天の国は近づいた」というメッセージと神様を「父」と表現したことは、マタイによる福音書の特徴であり、イエスのメッセージの特別なものであることは確かだろう。むろん、ここで、神の子らかどうか、異邦人との区別という、排他的な民族意識が生じる可能性はあるが、このメッセージをうけとって生きることはつねに開かれているとも言える。注意して、追い求めていきたい。思い煩わずに。
Matthew 7:7,8 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
「天の国は近づいた」(4章17節b)は、時間的な距離が近づいたと思っていたが、もしかすると空間的な距離、すぐそこにあることを意味しているのかもしれないと思った。求めれば、与えられるものなのかもしれない。神様の支配。神様の御心が完璧に行われる世界。そうでないところにいるゆえに、平安もないように思う。それを、真剣にもとめてみたいと思った。なにかとても遠いところにあるように、思っていた。「天の国は近づいた」を信じ、求めてみたい。
Matthew 8:13 そして、百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。
この章でも「天の国は近づいた」または天の国がそこにあることが証言されているように見える。引用句でも、「ちょうどその時」とあり、まさに、そこに天の国があり、御心が成ることが起こっている。最初の、規定の病(らい病・重い皮膚病)の場合も「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は清められた。」(3)とある。次の、ペトロのしゅうとめの場合も、「イエスが手に触れられると、熱は引き、しゅうとめは起き上がってイエスに仕えた。」(15)で、即時性が証言されている。イエスについて来たいという者へのことばも、その即時性を拒否するものを戒めているように思う。そのあとの嵐も、悪霊にとりつかれたもの二人についても。なんらかの応答によって、神の国を体現しているように思える。丁寧に見ていきたい。
Matthew 9:17,18 また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」イエスがこれらのことを話しておられると、一人の指導者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
引用箇所の後半は「イエスがこれらのことを話しておられると」と始まる。本質的なしかし、もう少し中身を問いたくなるような深い言葉の途中で、一人の指導者が懇願する。まさに、availability を発揮した箇所でもある。このように生きられたイエス様が共におられることに勇気を与えられる。「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36)深く憐れまれたと訳されているスプラッグニーゾマイ(σπλαγχνίζομαι)が始めて現れる箇所である。おそらく、群衆は、イエスのように「弱り果て、打ちひしがれている」とは自覚していなかったかもしれない。しかし、深いところでつながっている。ゆっくり味わっていきたい。
Matthew 10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
イエス様がほんとうにこのままのことばを伝えたのだとすると、「天の国は近づいた」は、時間的な近さも強く意識していたということだろう。むろん、弟子たちが受け取ったメッセージがそうだったと理解することは可能である。しかし、だからといって、イエス様は完璧であることを維持する必要はないように思う。全体の整合性だけではく、弁証論としては重要なのかもしれないが。たいして重要なことだとは思えない。「天の国は近づいた」はすばらしい、かつ日々の生き方を変える生き方でもある。メメント・モリ(死を思え)をポジティブに表現しているものとも言える。イエスの自由さ、そして直接的に本質に迫る、イエスの魅力は、ここに依拠しているように思う。
Matthew 11:27 すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。
不思議なことばである。このあとの文脈からもわかるように、子はイエスである。神の子とされていることを、確信しているということだろうか。それとも、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(25,26)に、幼子たちと書かれているように、複数で、子(としてくださったもの)たちなのだろうか。引用句の後には、イエスに学ぶことが続く。理解しにくいことばである。誇張があるのかもしれないが、いまは、不明としておこう。いずれにしても、天の父の子としての、意識は明確である。
Matthew 12:28 しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。
これを受け入れるかどうかにかかっているということだろうか。すこし乱暴にも感じるが、「天の国は近づいた」ことをまさに、「その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、連れられて来て、イエスが癒やされると、ものが言え、目が見えるようになった。」(22)において証言している。これも「イエスはそれを知って、そこを退かれた。すると、大勢の群衆が付いて来たので、彼らを皆癒やして、ご自分のことを言い触らさないようにと戒められた。」(15,16)の一つの例示なのだろう。本質は、神の国が来たこと、近づいたことを知ることなのだろうか。
Matthew 13:14-16 こうして、イザヤの告げた預言が彼らの上に実現するのである。/『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り/耳は遠くなり/目は閉じている。/目で見ず、耳で聞かず/心で悟らず、立ち帰って/私に癒やされることのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
理解が難しいことばである。見ることができれば、「天の国は近づいた」こと、神様の支配がそこにあることが見えると言っているように思う。しかし、ここで、「あなたがた」と「あの人たち」を区別しているものが何なのかわからない。イエスを信頼しているかどうかはあるかもしれないが、究極のこたえではないように思う。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。」のあなた方は弟子たちよりも広い範囲なのかもしれない。聞いている人のなかでも、見ている人はいるかも知れない。しかし、そうであっても、よくわからない。
Matthew 14:19-20 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二の籠いっぱいになった。
五千人養の奇跡である。この少ないパンと魚を祝福して配っている姿を見て、それぞれが持ってきているものを皆でわけあったとする解釈がある。(わたしも「神様の豊かさ」の中で話している。)それが事実かどうかは不明であるが、そのような解釈を通して「天の国は近づいた」と受け取ることが難しいことは確かだ。それより、物理的に、奇跡的に、パンがどんどん増えていったほうが「天の国は近づいた」と受け取りやすい。しかし、こちらは、一般的な科学的認識とは整合性がない。見えにくいけれども、そこから、「天の国は近づいた」ことをみることができれば幸いということだろうか。しかし、それは、だれにでもできることではないように思う。どのような排除が起こっているのだろうか。丁寧に考えていきたい。
Matthew 15:23,24 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ます。」イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
どのように、イエスは、この場で「天の国は近づいた」ことを確認するか、おそらく知らなかったろう。そうであっても、ここでも、神がイエスと共に働いておられるように見える。さらに、イエスは「天の国は近づいた」ことを確認して生きていたのだろう。イエスは「ティルスとシドンの地方に退かれた。」(21)と記述されていて、後ろ向きの行動のようにも見える。しかし、つねに、available であることは崩さなかったのだろう。それは、自らの使命を「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えたとしても、そこに限定もしていない。「天の国」は、限定されたところではないことは、イエスにとっても明らかだったのだろう。それに、この女が応じている。美しいと感じる。
Matthew 16:24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
イエスの十字架を自分の十字架と取り違えてはいけないのだろう。自分には、自分の追うべき十字架がある。それを、ある特別のものとして、使命として受け取る必要もないのだろう。自分の十字架はある。しかし、ここで、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」とある。イエスの十字架とは異なるが、イエスがどのように、十字架を負っておられるかから、学ぶことはできるのだろう。少し抽象的になりすぎたので、ここまでとする。
Matthew 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と言う声がした。
このとき何が起こったのかはわからない。しかし、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と聞いたと確信したのだろう。イエスが神の子だと。「天の国は近づいた」ということは、神の子イエスがそこにおられることだと知ったのだろうか。そのことの、モーセやエリヤの証言を聞いたのかもしれない。事実かどうかではなく、そのことを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは受け取ったのだろう。すこし、理解できる気がする。
Matthew 18:34,35 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
このたとえを聞いた人はそんなひどいことをする人がいるのか、すくなくとも、自分ではないと思うだろう。しかし、「天の私の父」と言われ、「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、」と言われてしまうと、返事に困ってしまう。そこまでひどいことだとは考えずに、毎日、そんなひどいことをしているのだから。神様も、わたしたちを、憐れに思い(27)、こころを痛めておられるのだろう。神様の痛みはわからない。しかし背後にある理不尽さは理解できるはずである。
Matthew 19:20,21 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
この直前には、こどもたちの祝福の記事がある。関係はあるように思う。おそらく、一般論を引き出すのではなく、このひとへの対応を考えるべきなのだろう。「まだ何か欠けているのでしょうか」にたいして「それで十分」といったら、どうなるのだろうか。マタイでは「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)とここだけ「完全 τέλειος (テレイオス teleios)1. brought to its end, finished 2. wanting nothing necessary to completeness 3. perfect 4.that which is perfect」が使われている。なにか、完全を求めることは不遜に感じるが、そうではないのだろうか。おそらく、この青年は、欠けているものに気づいただろう。それで良いのだろうか。罪の意識をもって、悔い改めることで。5章の方を考えあわせると、それも違うように思われる。
Matthew 20:15,16 自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
金持ちの青年の話(19章16-30節)などともつながっているように思う。「不当なことはしていない」(13)恵みをうけとるのは、むずかしい。このときは、イエス様は説明してくださっているが、実際の世の中のことについては、わからないことばかりなのだろう。神様の思いと、ひとの思いはことなる。理不尽に感じるところに、自らの問題を発見しなければいけないのだろうか。因果応報との関係は、丁寧に見ていきたい。そして、公平さをどのように追い求めたら良いのかも。わたしには、よくわかっていない。「天の国」はこのようなものなのだろう。
Matthew 21:32 なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
この前には「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」(31)となっている。このあとさらに、ぶどう園の主人が息子を送る例えがあり、最後に、「祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(45,46)と結んでいる。引き返せないのか、それとも、何人か、悔い改めるために、イエスはこのように語っているのか。どこかで気づくしかないのかもしれない。真理を愛することは、やはり悔い改めて(向きを変えて)新しい歩みを始める自発性が必要なのだろう。だからこそ「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4章17節)なのだろう。愛の関係は、それ以外では始まらない。
Matthew 22:45 このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
「ダビデの子にホサナ」(21章9, 15節)と群衆や、子どもたちが叫んだときは、イエスは肯定しているように思われる。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」(21章16節)おそらく、それでも、賛美としては不十分でも、賛美のこころを受け取ったのだろう。しかし「ダビデの子」の認識は、さらに、深められなければならない。このように、改定していかなければいけないのだろう。より深い理解に。その過程をも、イエスは肯定しておられるように思う。
Matthew 23:2,3 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。
わたしは、いま、このことばをとても大切にしている。立派なことばは美しく聞こえ、自分の中にないものに憧れるが、そのことばを生きてはじめて、その意味とその不完全さが見えてくるように思う。ここでも、実行が言われている。行いによって義とされるのではないが、実行してみることによって真理が明らかにされていくめんがとても大きい。このあと「先生」「父」「教師」と呼ばれることを戒め、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(12)と言い、このあと、律法学者とファリサイ派の人々を糾弾している。本質は、引用した最初のことばにあるように思う。御言葉を行うことで、その難しさ、自分の行為の不完全さ、しかし、たいせつなことを学んでいくことができる。そのように、生きていきたい。Learning though serving!
Matthew 24:45,46 「主人から、時に応じて食べ物を与えるようにと、家の使用人たちを任された忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。主人が帰って来たとき、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。
「忠実で賢い僕」でありたい。家の使用人たちを任されたともある。ある管理職でもある。そのようなリーダーとして仕えることが言われているのかもしれない。わたしは、多くを学んできたが、これからどのように生きていったらよいのだろうか 残された日々、最後の日まで、丁寧に、主の忠実な僕として生きていきたい。それは、いまの生活ではないことははっきりしている。落ち着いて、考え、一歩を踏み出してみよう。
Matthew 25:45,46 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」
おそらく、最も小さな者は、目の前にいつもいるのだろう。わたしにとっての悩みは、児童養護施設のこどもたちである。一人二人丁寧に見れば、その一人ぐらいはなにかよい方向に進むことを助けられるかもしれないと思う。しかし、その価値観についても、正直、それがよいのか確信がない。さらに、一人残さず、ていねいに見なければ意味はないのではないかと思う。それは、出来るだろうか。はっきりいって、それはできない。どうしたら良いのだろう。ただ、立ちすくんでしまう。小さな、大海の一滴であっても、はじめることはできると思うが。この課題と向き合わなければ、引用句はわたしにむけて語られるように思う。
Matthew 26:64 イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。/あなたがたは間もなく/人の子が力ある方の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る。」
イエスは何を伝えたかったのだろう。まず「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」に答えている「それはあなたの言ったことだ。」さらに「あなたがたは間もなく/人の子が力ある方の右に座り/天の雲に乗って来るのを見る。」本当にひとはそれを見るのだろうか。「神の子、メシヤ」もいろいろな解釈があるだろう。Yes でも No でもこの議論が終わるわけではない。イエスが、何を伝えたかったのかわからない。神様を信頼し、神の右に座ることは確信があっただろう。しかし、それは、大祭司などにとって、どのような意味があったのだろう。正直よくわからない。このときに、何を言っても無駄だったろうとは思うが。
Matthew 27:3-5 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。
この前には「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺すために協議した。そして、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」(1,2)とあり、引用句には「その頃」とある。ユダの自殺について書かれているのは聖書ではあと、使徒1章18-19節の、簡単な記述のみである。驚かされるのは、まだ、イエスに十字架刑の判決がでる前に挿入されていることである。死刑になることを見届けるどころか、単に、有罪とされたことを悔いている。ひとつには、それを強調する意図があったかもしれない。すなわち、刑の重さではなく、無罪であることを証言するため。実際は、どうだったのだろうか。かなり早い時期にいのちをたったことは確かなのだろう。
Matthew 28:18-20 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
大宣教命令と呼ばれる。あまりに整えられており、キリスト教としてかなりのときがたって明確になってきたのかもしれない。印象的なのはしかしながら、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との言葉である。マタイによる福音書記者は、イエスの誕生を「インマヌエル」ではじめ「いつもあなたがたと共にいる」で終わっている。復活も、それに付随していることのように思われる。主が、我らと共におられる。それよりも素晴らしいことはない。マタイはそう言っているようだ。

BRC2021(2)

Matthew 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。
ヨセフものがたりをこのように書く要請があったのだろう。真実は、不明である。マリアは、理解していたはずであるが。しかし、ここでの中心は「インマヌエル」なのだろう。イエスは、主がともにおられることを体現されたかた。イエスが、神の子、神様の子なら、みこころをこのように生きると示してくださった、証が、福音書なのだろう。その中身を、これから見ていく。神の子としてどう生きるかは、そのひとの、神理解によるわけで、それによって、みこころが示されることも意味している。みずからを、神や、神の子、神から遣わされたと言ったとたんに、大きな責任を担うことになるのだから。
Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。
マタイによる福音書の旧約聖書の引用には、いろいろと違和感がある。通常言われているように、マタイが書き残した語録をもとに、マルコによる福音書の進行を用いて、旧約聖書の預言の成就という観点を強調して編集されたように思われる。そのために、いくつもの無理があるように思われる。この引用箇所も、適切な旧約聖書の対応箇所はない。むろん、理由はいくつも主張することが可能だろうが。完全に、イエス自体について蘇らすことは不可能だが、すこしずつ、どのように神の子として行きたかを学んでいきたい。それこそが福音なのだから。
Matthew 3:11,12 私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」
ヨハネとイエスの関係は様々に描かれており、ある関係があったことは、確かなのだろう。使徒言行録の記事などからも、ヨハネは当時かなり有名だったようだが、自身も、そして、メシヤも、悔い改めを説き、さばきをともなう。イエス自身の行動は、まだ、ここからは予見できないように思う。
Matthew 4:1-3 さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
空腹を覚えた時の問として「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」が取り上げられるが、中心は「神の子なら」なのだろう。「これは私の愛する子、わたしの心にかなう者」(3:17a)との声を聞き、神に愛される子として生きることについて、誘惑も受けながら考えたのがこの期間だったのだろう。神に愛される子として生きる。それは、神に喜ばれる生き方、神の御心に生きる生き方、同時に、神の痛みを痛みとして生きる生き方でもあるのだろう。2つ目は「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(6)であり3つ目は「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」(9)である。3つ目には「神の子なら」はない。いくつもヒントはあるように思われるが、答えではない。そして、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19b)と弟子を招き、人々には「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17b)と呼びかける。神の子として生きるイエスの宣教のはじまりである。しっかり考えたい。
Matthew 5:45 天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
この章の最後は「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」(48)となっている。神の子となるため、天のお父様のように完全になる。そこで、いわれていることが、この聖句である。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」示唆に富む。このことを受け止めたい。
Matthew 6:32,33 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
これも、神様との協働(Collaboration)で育まれるものだということだろう。御心を生きる。神の子として生きる。同義なのかもしれない。神様の働きを信頼して、みずからも神の国と神の義をもとめる。そのような生き方をしたい。
Matthew 7:21 「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。
これを避けて通りたい時がある。しかし、基本的には、神様の子として生きること。それは、神様の御心を行うものなのだろう。その単純なことを、受け入れないといけない。わたしが神の子だというものではなく、神の御心を生きるものと言うことなのだろう。
Matthew 8:16,17 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現した。/「彼は私たちの弱さを負い/病を担った。」
イザヤ書の引用には驚かされる。旧約聖書にも、病が癒やされたり、死者が蘇ったりという記事はある。しかし、ここでは、イザヤのこの言葉が引用されている。イエスが、語られていたのではないかとさえ思う。ということは、いやしは、単に、神様が望まれるだけではなく(3)弱さを引き受け、病を担うことなのだろう。具体的になにを意味しているのかは、理解しにくいが。わたしたちにも、できるときがあるのだろうか。                              
Matthew 9:23 イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。
マタイでは、この時に、治ったと書かれている。関係が持たれたときと言うことだろうか。理解はやはり難しい。奇跡物語、とくにいやしの物語も、統一的に理解することは難しいのかもしれない。丁寧に理解していきたい。
Matthew 10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。
まずこの言葉に驚く。そのような権能を授けることができるのだろうか。実際、癒やされない場合も記録されている。さらに、この章には、弟子たちがこれから経験することについて、かなり厳しい現実が語られている。そして、それは親御心のようものとしては理解できるが、必ずしも、現実を投影してもいないように思われる。自分から、弟子たちに働きを広げる、大きなステップは、イエスにとっても、未知の世界への一歩だったのかもしれない。全知全能を仮定して理解するのは、問題もあるように思う。演繹だから。
Matthew 11:27 すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。
傲慢にも聞こえる。文字通り取ろうとするからかもしれない。神の御心を生きるということが難しいことは、イエスはよく知っていただろう。そして、誤解も。神の国は近いかもしれないが、御心がすべて明らかにされたわけではない。イエスにとっても、難しい時期だったのかもしれない。
Matthew 12:8 人の子は安息日の主なのである。」
安息日に関する議論が二つ続く。ユダヤ教のファリサイ派のひとたちとの軋轢が始まる箇所でもある。もし、時系列どおりなら、このあとにイザヤ書42章1-4節からの引用「見よ、私の選んだ僕/私の心が喜びとする、私の愛する者を。/この僕に私の霊を授け/彼は異邦人に公正を告げる。」(18)が続く。異邦人(イザヤ書では諸国民)のことばが入っていること「公正を勝利に導くまで/彼は傷ついた葦を折ることもなく/くすぶる灯心の火を消すこともない。」(20)と、なにを大切にするかが明確にされていることが書かれている。この場所、この時代でなければ、ことなるメッセージが聞けたと思うが、それを残念がっても仕方がないのだろう。「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(50)とあるように、人の子には、父の御心を行うものも連なるのだろう。難しいことでもある。
Matthew 13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
種まきのたとえが語られ「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(10b)を受けて、たとえの解き明かしが語られる。その最後が引用句である。結局、悟るかどうかが鍵のようである。それは、学ぶといっても良いかもしれない。さまざまな要素があるだろう。学び、成長する、すなわち、神様の御心を受け取ろうとするかどうかで、違ってくると言っているのかもしれない。学ぶことは難しい。
Matthew 14:13,14 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。
バプテスマのヨハネが処刑されたことを聞くこととつながっている。ここで、イエスが行動の方向を定めたのは、深く憐れんだことが鍵となっているように思われる。ここも深く憐れんでは、スプラッグニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)が使われている。マタイでは5回、マルコ4回、ルカ3回である。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)「群衆がかわいそうだ」(15:32)「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。」(18:27)「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」(20:34)あまりこのことばにこだわるのは問題かもしれないが、最初の3回は、群衆の状態にたいするイエスの行動の起点のように思われる。痛みがそこにあるように思われる。そしてそれは、神様の痛みでもあるのだろう。
Matthew 15:22 すると、この地方に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
ここでの憐れみはエレーオー(ἐλεέω: to compassionate (by word or deed, specially, by divine grace):—have compassion (pity on), have (obtain, receive, shew) mercy (on).)が用いられている。神の憐れみを乞うているのだろう。ここでは、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」(26)が印象的であるが、最後の、「そこで、イエスはお答えになった。『女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』その時、娘の病気は癒やされた。」(28)は、この女とのやりとりを大切にしたこととともに、弟子や、他の周囲の人達との相互作用を大切にしたように思われる。「あなたの信仰は立派だ」このことばに、イエスの感嘆も表現されているのだろう。弟子たちが何をどう学んだか、おそらく、皆で語り合ったことだろう。使命と御心の区別だろうか。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。(つづく)』」(10:5,6)
Matthew 16:2,3 イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。
直接的に語っているわけではないが、空の様子をみて、天気を予想することと同じ様なことがあるといういみでも、肯定している。聖書に限らず、様々なものから、神様の御心をしることができる。それを否定することではない。ヨナのしるしのことが書かれているが、実際には、さまざまなしるしが与えられているのだろう。みこころを受け取っていきたいものである。
Matthew 17:2,3 すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
マタイ記者は、そして、マルコも、ルカも同じ構成になっているので「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、人の子が御国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(16章28節)との関係性が初代教会では認識されていたのだろう。16章の最初の「しるし」(12:38-42参照)とも関係があるのかもしれない。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(1)とあり、この三人にしか見ることができなかったことも、注意を要するのだろう。ただ、ヨハネは、証言していない。そのことも、受け止めるべきだろう。
Matthew 18:1 その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。
イエスはこの問に直接は答えていないように思う。答えは「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(4,5)である。そして「つまづかせるもの」について語り、迷い出た一匹の羊のたとえを語り、そのようなひとがいたらどうしたらよいかを語り、ゆるしについて語る。その中で、神の憐れみのことば「スプラッグニゾマイ」(27)が出てくる。全体として神様のことを語っているのだろう。神様の痛みを痛みとし、御心をみこころとすること。それが天国では一番えらいというごく自然なことを説きながら、神様について語っているように思う。興味深い章である。
Matthew 19:21,22 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
ここで、できなくても、イエスに従えばよかったと考えるのは短絡なのかもしれない。従っていけば、少しずつ、神様のみこころが見えてきたかもしれない。しかし、単純なこたえには、イエスは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(30)と付け加えられるだろう。イエスが語っているのは、あたらしいことではなく、当時のひとたちにとっては当然なこと、律法のことばを通して、かみさまの真意をうけとることが、最重要で、それは、わたしたちにも同じように提示されていると示しておられるのかもしれない。
Matthew 20:29,30 一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
もう8年以上も前のことになるが、ルカの対応箇所(ルカ18章35-43節)を聖書の会で読んでいたときのことを思い出す。マルコの対応箇所(マルコ10章46-52節)は「一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。」(マルコ10章46節)と始まる。比較すると、様々な違いにも気づくのだが、「『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、また見えるようになることです』と言った。」(ルカ18章41節)の箇所に来て、そのとき初めて参加した重い遺伝性の視覚障害があり、ほんの少し残っていた中心視野が、日に日に失われていっている学生が「こうは言わない。おかしい。」と断言した。しかし、マタイでは「二人の盲人」とあり、マルコでは「ティマイの子で、バルティマイ」とあり、ティマイ自身が盲人という意味に使われることもあると説明すると、それならわかるという。親子で(遺伝も考えられる)盲人であったときのは、状況は異なるというのだった。一同、見えない世界を見せられたようで感動したことを思い出す。実は、その学生を一週前に誘ったが、用事がありこの日になってしまい、盲人の箇所であったので、大丈夫かなと心配して臨んだ聖書の会であった。上に書いたことだけで理解できるわけではないし、不確定要素も多いが、様々な視点によって学ぶことのたいせつさを感じさせられた。最近、そのときにやはりはじめて聖書の会に出席した方(今は卒業生)から、このときのつよい印象を聞いたので、まとめて書いておくことにした。わたしは、その方にとっても最初の会であったことを覚えてすらいなかった。聖書の会リーダーとして公平さに欠けると自戒もさせられた。同時に、黙っていた方(またはわたしが内なる声を聞きとれなかった方)の声も少し聞くことができたのも、嬉しかった。(しっかりとは聞けてないように思うが。)この章には、ほかにもいくつも興味深い記事があるのだが、記憶を記録とすることとした。
Matthew 21:15,16 しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」
わたしも年をとってしまい、この子どもたちの声が聞こえてこない。しかし、この子どもたちは子どもたちなりに精一杯に賛美しているのだろう。すこし、根拠もあるが(マタイ18章1−5節、マタイ19章13-15節など)、おそらく、イエスは、こどもたちにも、つねに、丁寧に、公平に接していただろう。おとなは、自分たちはもっとよく知っていると考えてしまう。しかし、実際、忘れてしまっているこどものころの感動も多いことを最近学んでいる。こどもは、おとなのことばで伝えることはできないが、こどものことばで精一杯表現する。自分で理解はできなくても、すこしでも、それを聞き、受け取ることができればと願う。
Matthew 22:36-40 「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」
最も重要な戒めの部分を全部抜き出した。しっかり考えたいからである。心・魂・思いについてもよくわからない。ここで、愛しなさいは何を言っているのだろうか。心から歓迎 Welcome しなさいでよいだろうか。主のなされること、思い、憐れみ、赦しだろうか。特に、マタイ 20章1節から16節のぶどう園の労働者のことが目に浮かぶ。この章の最初の祝宴についても。わからないことも多い。しかし、主にとってたいせつなものを大切にすることだろうか。自分も隣人も含めて。
Matthew 23:2,3 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。
このあとには、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。」(8)とあり、さらに、律法学者とファリサイ派の人々をのろうことばが続く。あまりにも厳しく驚かされる。ここまで言わないと、その権威に飲み込まれてしまうからだろうか。現代でも、似た状況は続いているように思うが。それは、どうなのだろうか。きょうだいとして、励まし合うことは、できないのだろうか。考えさせられる。
Matthew 24:12-14 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
「世の終わり」(3)に対する応答がまとめられている。それは、イエスの言葉「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」(2b)に関係しているように見える。実際に起こったことでもあるので、それをまとめているとも考えられる。引用箇所から考えると、イエスは「世の終わり」を意識することとはことなることを考えており、伝えようとしているようにも見える。人はつい「世の終わり」のようなものに興味を持つ。特別なときだからだろうか。しかし、日常の中に、わたしたちのすべきことがあるのではないだろうか。
Matthew 25:45 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』
王にとっては、一人ひとりが自分自身であり、愛する子のような存在なのだろう。それ以上に、一体であることも言っているように思う。すごいことでもある。「この最も小さな者の一人」に「する」「しない」は神様と関わることを意味している。わたしたちの神様の感覚とは、かなり異なるように思われる。交わり、相互性と含めて、もう少し深く考えたい。
Matthew 26:40-42 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」
イエスは共に目を覚ましていることを願っていたこと、そして主(天の父)のみ心を最優先していたことがわかる。それが、弟子たちには、必ずしも簡単ではないことをご存知でもある。イエス様も、完全な解決方法をお持ちではなかったのかもしれない。しかし、なにを望んでおられたかはわかる。それを求めていくこと、それが信仰生活、生きることなのかもしれない。
Matthew 27:11,12 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。かし、祭司長たちや長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
このあとにも「しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。」(13)とある。最後の最後まで、できる限りのことをするということとは異なるように見える。この記述からだけ、判断するのは、困難であるが、ゲッセマネでの祈りの中で「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」(26章42節)と祈っている。イエスがみ心を確信していたのかもしれない。われわれは、そこまで確信するのは、危険だと思うが、それもひとつの生き方なのかもしれない。個人的には、判断の難しさも感じるが。
Matthew 28:18-20 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
形式的にも整えられていて、それは、マタイによる福音書が書かれた時点で、イエスから受け取ったとされた命令なのだろう。それだけ重要であれば、ヨハネも加えるだろうが、そうはなっていない。だから、そのようなことがなかったということではなく、中心的なメッセージは、弟子たちは確かに受け取っていたのだろう。そう考えると「弟子」の部分だろうか。イエスに学ぶもの、それは、当時、自然なことでもあるし、弟子たちは、学ぶことをたくさん、受け取っていたのだろう。神の子として生きる道と簡単には言えないかもしれないが。

BRC2019(1)

Mt 1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
この記述よりも前に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(18)とある。また、イザヤ書からの引用の最初にある「おとめ」(23)によって、「処女降誕」が基本的教義になっている。そして、この解釈は、これらの箇所から考えると自然にも思える。しかし、福音書記者は本当にそれを意図したのだろうか。「聖霊によって」と言っているだけである。このこと、すべては、神の霊によってなったことだと言っているに過ぎない。同時に、この記述を読んで、イエスのことを思うと、特別な生まれ方をしたと考えるのも当然かもしれない。そして、そのような人たちが出てきたときに、それを否定することも信仰者の世界では難しい。不信仰と決めつけられる可能性が大きいから。宗教の難しさがある。聖書記者は、ヨセフとの肉体関係によって生まれたわけではないこと、このようにしか表現できない誕生であったことを、伝えたかっただけであるように思われる。個人的に「科学信仰」との整合性をはかるための、脱構築とでも呼ばれるような行為をしているとは思わないが、批判は歓迎したい。さて、ここで書いたことは、50年ほど前の父との会話のあとに考えたことから少しは深まっているのだろうか。
Mt 2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1章23節のイザヤ書7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」の預言の成就と唱えて以降、この章では6節のミカ書5章1節「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」引用したホセア11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」さらに18節でのエレミヤ書31章15節「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」最後に、引用箇所を示せない(候補はあるが)「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」(23)と記している。おそらく「自分の民を罪から救う」(1章21節)の「自分の民」に語りかけているのだろう。その意図は達成されているように思われるが、根拠や文脈に関しては、問題があるように思われる。インターネットなどでのテキスト検索が簡単にできる時代であるなら、もっと注意を払い、こうは書かなかっただろう。同時に、現代でも、どうにかそのまま理解しようとする人がいるわけだが。ここにも困難がある。
Mt 3:7,8 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。
洗礼者ヨハネが宣べ伝えたメッセージ「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2)の意味を考えた。引用箇所から、「天の国」は、神の支配が完全に行われることを意味しているのだろうが、すると、そのような時が来ることから、最初に考えられるのが、裁きということなのだろう。(12節など)それが「悔改めよ」で語られ「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と引用箇所でファリサイ派やサドカイ派の人々に伝えている。大勢の人たちが罪を告白し、洗礼を受けるためにやって来ているにも関わらず、最初のコメントが、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対するものであることは注目に値する。(祭司は入っていない。)表面と中身の乖離が悔い改めにはふさわしいくないのだろう。祭司の家系とも言われる(ルカ1章)ヨハネの荒野での生活は、その一致を表現しているのかもしれない。注目に値するのは、このあとのイエスの洗礼の部分では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とだけ述べられ、さばきについては述べられていないことである。すべてにおいて、心に適うことを伝えている。声はだれが聞いたのか明らかではないが、おそらく、明確に聞いたのは、イエスで、イエスから弟子たちは、聞いたのだろう。
Mt 4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
洗礼を受けた時、イエスが聞いた天からの声は、3章17節に記録されているのみである。召命を確信したのかもしれない。その最初にしたことが4章冒頭に書かれている。それは、悪魔の誘惑を受けることである。霊に導かれたとはあるが、自発性・能動性も感じられる。「心に適う」とはどういうことなのかを求めて悪魔または誘惑に立ち向かっているように思われる。召命を受ける、または、神様に従っていこうとする時、天の国に生きる「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(23)とある活動を始める前に向き合って明確にしておくことである。内容は、一言で述べるなら「地の国」の価値観との対峙「天の国(神の心に適う生き方)」への集中と表現できるかもしれない。「物や肉に心が占領されないこと」「神を主とすること」「この世での自らの栄誉に心を奪われないこと」だろうか。この三点を自分のことばで、もう少し考えてみたい。
Mt 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
わたしは、このイエスのことばがなかなか理解できなかった。むろん、今でも、理解できているとは思わないが、以前とは、違った受け止め方をし始めていることは確かである。イエスは、これまでが、間違っていて、正しいのは、これだと真理を示していない。イスラエルの人たちが求めてきた神様の御心を否定せず、より本質的なことを、示しているのだろう。それを「完成するため」と読んでいる。一人ひとりがたいせつにしていることをたいせつにする、肯定から、出発しようとしている。書かれていることも、一つ一つ間違いとして正しているのではないようだ。ていねいに見ていくことをしてみたい。
Mt 6:33,34 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
神様との関係だろうか。神様が望んでおられることを、神様が喜ばれることを求め続け、生きること。一日一日を。そして、達し得たところに従って歩む。神様がどのような方であるかを、イエスは語っているのだろうか。基本的な姿勢であって、具体的なものではないように思われる。ていねいに、もとめて、歩んでいきたい。
Mt 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
何についてと限定できないが、キリスト者が非キリスト者をさばくことにも当てはまるだろう。どのように、真理、本当に善いこと、善なる方、主のみこころをもとめ、主が喜ばれることをしているか、わからないのだから。おそらく、正しさを持っていると思ってしまった途端に、裁きにつながってしまうのだろう。宗教の難しさでもある。しかし、この文脈で「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(7)はどう関係しているのだろうか。
Mt 8:16,17 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
ペトロのしゅうとの熱病をめをいやした記事に続けて書かれている。重要なこととして記され、イザヤ書53章4節が引用されている。3節から引用すると「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 」悪霊についても、学びたいが、悪霊にとりつかれたひとの痛みを知っていたのだろう。「軽蔑されるような痛み」を。たんなる病ではないのだろう。引用箇所での「いやす」は therapeuo(1. to serve, do service 2. to heal, cure, restore to health)、病は kakos(1. miserable, to be ill 2. improperly, wrongly 3. to speak ill of, revile, one)である。
Mt 9:4,5 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
イエスが何を伝えたかったか、様々な解釈が可能だろう。しかし、おそらく、イエスは嘆いておられるのだろう。病を負われる、イエスは、この中風の人の問題すべてと向き合っておられる。それを表面的な議論で、このひととの交わりを中断される。しかし、同時に、イエスは、「彼ら」に問うている。いちばん、たいせつなことを考えてもらうために。これは、賢さではない。やはり、天の父なる神様を表す方としか、表現できないように思う。
Mt 10:19,20 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
驚かされるのは、イエスが、弟子たちを信頼しているように見えること。しかし、おそらく、それは、父なる神様、派遣される方を信頼しておられるのだろう。それとも、特別の力を、イエスが与えたのか。さらには、弟子たちのこのときの状況を適切に把握しているのか。どの場合も、一般化は難しい。同時に、この状況にしか適用できないわけではないだろう。このことばを受け取ったひとにも、イエス様と神様の関係につながることにより、同様のことが起こるのかもしれない。
Mt 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
これだけを取り出すと、ひととしては、かなり傲慢にみえる。これは、洗礼者ヨハネのことについて言及し「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」(12,13)を起点としているようである。旧約聖書は、ヨハネの時までとして、新しい時代が始まっていることを、明確に示しているのだから。ただ、エリヤについて語ることで、預言者と律法(旧約聖書のひとつの呼び方は通常律法と預言者)からの継続性も否定していない。どのように、変化しているのか。それを、記述するのが、引用箇所なのだろう。
Mt 12:18-21 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
イザヤ書42章1-4節からの引用である。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」マタイに引用は、特に、1,2章の引用を見ると、適切なのかどうかとも思う。ここでは、11章13節の「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」を考えると、矛盾も感じる。マタイ記者がなにゆえ、この箇所をここで引用したのか明確にはわからないが「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。」(16)に続いていると考えると、19節が関係しているのかもしれない。しかし「イエスは皆の病気をいやして、」(15b)とすると「彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」(20b)と関連しているかもしれない。いずれにしても、イザヤ書の主のしもべの預言につなげたことで、預言者と律法とのつながりが明確になっている面がある。新しい時代が始まっていることも、確かなのだろう。旧約聖書との関連も詳細に考えたい。
Mt 13:16,17 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
実際には、弟子たちも、見えていなかったのかもしれない。「フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」と言うのか。』」(ヨハネ14章8節・9節)イエスを通して、父を見ているはずだといっている。神を直接ではないが、見る、それを弟子たちは許されている。そう考えると引用箇所は、イエスが信仰の目をもち、または、神様を信頼して、悟るときがくることを見抜いているのかもしれない。
Mt 14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
ヨハネによる福音書6章15節から21節との記述の違いに目をむけるのも一つだろう。比喩的にとることは、基本的に避けるのが正当であるが、比喩としてまた信仰告白として捉えることのたいせつさも、感じる。実際、恐れによって愛することができなくなることは、いくらでもあり、怖くなることによって、神様をみることができなくなることも頻繁にあるのだから。あえて、そのように書いておこう。
Mt 15:15-17 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
ペトロは本当にこのたとえについて聞いたのだろうか。直前にイエスが「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(13,14)と言ったことへの質問であった可能性も十分高い。イエスは、言い過ぎたと思ったのだろうか。そうかも知れない。同時に、より本質的な先行する問について伝えたかったのだろう。後に、コルネリオの項で現れる重要なこと(使徒言行録10章15節など)である。敵対するグループに目を向けるよりも、より、たいせつなことを、示されたのかもしれない。
Mt 16:9-11 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
次の節から見ると、弟子たちは、理解したようである。しかし、この説明も、直接的ではない。おそらく、より本質的なことを教えているのだろう。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意」しないと、パンの給食のことの本当の意味がわからなくなってしまうと言っているのだろうか。パンのことは、とても重要視されている。サタンの試みでも。よく考えたい。
Mt 17:26, 27 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
多くのことが詰まっているが、完全な形かどうかは、不安でもある。子供たちはだれを意味しているのだろうか。複数であるから、神の子たちということだろう。おそらく、イエスとペトロは含む。最後の指示は、二人分のみについて言及している。あまり、厳密に考えず、神殿税という、世のシステムをとりあげて、本質的なことを教えようとしていると考えてよいのだろう。同時に、この問題解決においても「彼らをつまずかせないようにしよう。」という「神殿税を集める者たち」への配慮といえるものも含まれる。祭司などとの議論であれば、変わったかどうかは不明である。正しさよりも、愛を優先していること、具体的な解決方法に関しては、一般的ではないことに訴えて、煙に巻いていることなど、興味深い。いつでも、可能な方法に訴えると、その方法が良いこととして固定してしまうことを回避しているのかもしれない。
Mt 18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
この章では、天の国での価値観のようなものからスタートし、「わたしを信じるこれらの小さな者」が迷い出ることを、父が望まれないこと、迷いでたら、探されることがかかれ、赦しのことが語られている。そして、最後が、引用句である。イエスにとって、天の国での父との交わり、とくに父がどのような方であり、父が自分たちにしておられるように、することがみ心にいきることとして、自然にこれらのことを語られているように思われる。み父のように生きること。そのみ父を、わたしたちに、示すことが、イエスがここでも、されていることのように思う。イエスによって顕された天の父なる神のように、生きること、それが永遠の命に生きることなのだろう。わたしも、そのように生きたい。
Mt 19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
十戒(出エジプト20章)の分け方も一定ではないが、ここで引用されているのは、6, 7, 8, 9, 5戒(数え方によれば、6,7,8,9,10戒)と、レビ記19章18節b「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 」である。いずれも、人と人との関係に関する主のみこころを表した部分である。長谷川眞理子氏によると、チンパンジーとヒトの遺伝子の違いは、5パーセント程度、600万年前までは同じ生き物だった。ホモ・サピエンスは20万年前に出現、しかし、チンパンジーとの明らかな違いは、前頭前野の発達(チンパンジーの脳380cc、人間1400cc)。「自分を客観的に見る」感覚を司っているという。「他者の気持ちを読み、力を合わせて共同作業をすること」を覚えたこと、としている。未解明の部分も多いが、示唆にとんだ知見である。人間となった、人間であることは、ひととの間の関係が基本なのだろう。考えることは、たくさんある。
Mt 20:20, 21 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ27章56節)ルカ8章2,3節にある、一行に奉仕していた婦人たちにも入っていたのかもしれない。その願いである。御心をしるのは、簡単ではない。
Mt 21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)御心に生きることに焦点があるのだろう。神の業は、いのちをあたえること。わたしたちの業は、いのちを生きること。悔い改め(metamelomai: it is a care to one afterwards, あとからたいせつにすること)は、向きを変えて、実際に、それをたいせつにして、あるきだすことだろう。
Mt 22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
イエスは、ダビデをポジティブには引用していない。ダビデの子と呼ばれることを正すことが重要だったからか。人の意識から、ダビデが救い主であることを消さないといけなかったのかもしれない。ダビデについて言及しているのか、引用している箇所と、もう一箇所、祭司のほかにはだれも食べてはならないパンを食べたことだけである。
Mt 23:3,4 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
「律法学者たちやファリサイ派の人々」を批判しているその理由は、「言うだけで、実行しないから」同時に「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」ことである。前者は、みこころを行い、生きることかどうかが、鍵であること。後者は、どのように表現したらよいだろうか。重荷を担い合う、互いに助け合う、互いに愛し合うことが含まれている。
Mt 24:29,30 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
天変地異の前兆とともに、「人の子の徴」があるといっている。単に、まだそのときでは無いことを強調したのだろうか。おそらく、そうではないだろう。ここで伝えたかったことがあるはずである。イエスが、全能であることを、強調してもいけないのかもしれない。わたしたちと同じ、ひとであることもたしかなのだから。事実としてというより、真実な、メッセージとして受け取ることをまずは、優先させたい。
Mt 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
このたとえは、十分理解できたことがない。また、設定や流れも、ちょっと違和感を感じるところもあり、どのように、理解したら良いか、はっきりとはわからないでいる。ここで賢さと愚かさを分けているのは、目を覚ましているかどうかなのだろうか。油のことを考えると、もう少し広い意味があるように思われる。すると、このあとの二つのたとえの内容を含んでいる、または、導入なのかもしれない。
Mt 26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
生まれなかった方がよいいのちなどはあるのかと考えてしまうが、そのことを言っているのではないのだろう。ユダは、自殺することになるが、自分のなしたこと、おそらく、自分の人生を悔やんだだろう。なんてたいへんなことをしてしまったのかと。そのユダのこころを、イエスは予知し、ともに苦しんでいるのかもしれない。
Mt 27:3-5 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
とても悲しい人生である。「後悔し」に惹かれる。人は、後悔なしの生活はできないだろう。最後に、自分の人生に納得ができたら、それで良いのだろうか。非常に主観的である。どう考えたらよいのだろう。ユダの人生は、やはり悲しい。惨めである。「生まれなかった方が良かった」(26章24節)かもしれない。
Mt 28:11-14 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
詳細は不明である。実際、本当に、墓を守っていたのか。そのときをどのように証言しているのか。兵士を殺すオプションはなかったのか。ローマ兵士では無さそうであるが。判断は困難である。

BRC2019(2)

Matthew 1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
神秘である。実際何が起こっているのかは不明である。婚約後でもあり、ヨセフが関係して子が宿ったことをあとから、このように表現したのか、他者によって身ごもっているマリアをそれと知りながら、引き取ったのか。超自然的な懐胎なのか。ヨセフがある程度早くになくなっていたと思われることも関係しているだろう。このように、伝えたかった背景もあるだろう。「神は我々と共におられる」(23)というもっとも大切なメッセージを届けるためには、このような記述にならざるを得なかったのかもしれない。ひとは、どうしても、この世の現実に照らして、このことばを理解しようとするだろうから。イエスはどのように伝えていたのだろうか。
Matthew 2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
おそらく、ベツレヘムで生まれたとするイエスが「ナザレの人」と呼ばれるようになったことを説明する必要があったのだろう。逆に、ナザレ出身であることは、明らかだったため、そこに結びつける必要があったのだろう。ルカ(1章26節)では、出発点をナザレに定めている。書簡には現れないが、使徒言行録には「ナザレの人」(2章22節、3章6節、4章10節、6章14節、10章38節、22章8節、26章9節)とありさらに24章5節には「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。」ともある。ルカ文書の特徴とも言えるが、一般的には、このような呼び方が主流だったのだろう。だからこそ、あるひとたちは、いろいろな議論のもとで、マタイにあるような記述を期待し支持していたのだろう。
Matthew 3:7-9 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
マルコとヨハネでは、バプテスマのヨハネによるイエスに関する証言と悔い改めのメッセージのみであるが、ルカとマタイには、ヨハネのメッセージが伴っている。ルカ3章7節では「そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 」とあるが、対象は「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」で、マタイだけが「ファリサイ派やサドカイ派の人々」となっている。マタイに特徴的な(特に23章)ファリサイ派やサドカイ派批判がここにもある。マタイによる福音書を書いたひとたちは、どのような人たちだったのだろうか。ファリサイ派やサドカイ派の人々からある距離があったのだろうか。これらのひとたちでキリスト者となったひとたちもある程度近くに居たはずであるが。
Matthew 4:9,10 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これ(世のすべての国々とその繁栄)をみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
悪魔からの誘惑(1)は理解が難しいが、これも神の御心を求めるひとつのステップだったことは確かだろう。イエスは自由をもってひとの救いを考え行動することは可能だったはずである。すくなくともわたしたちと同じように。しかし「世のすべての国々とその繁栄」(8)を選んでいない。はっきりしていることは、主を拝み、主に仕えることを選んだことである。世の国々とその繁栄ではないこと、とともに、主の御心を求め続けることを決断したと表現できるかもしれない。それがなにかを正確に理解していたわけではなく。
Matthew 5:13,14 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
イエス(または主)の目から見た「幸い」のあとに続いている。「地の塩・世の光」は有名なことばである。これがどのような生き方なのかが、このあとに書かれている。主を畏れ、隣人を愛する生き方と言えるかもしれない。素朴に感じる。そこに、イエスが伝えていることがあるのだろう。神学はどうしてもひつようなのだろうか。ひとのことばでの神理解の表現なのだろうが。神(永遠)のいのちを生きることを学びながら一日一日を生きたい。
Matthew 6:9,10 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
このあとに描かれている世界観は、イエスにおける御国の世界観なのかもしれない。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(11)は25-34節にも通じるが、御国では主に養われなにの心配もないのだろうか。「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(12)神は赦しの神なのだろう。神様のようにということだろうか。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(13)悪や誘惑の存在を否定はしていない。御国にも悪や誘惑はあるのだろうか。そのなかで主によって保たれている、それを信頼して生きる世界だろうか。やはり御国については、なかなか想像すらできない。
Matthew 7:11,12 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
天の父のように生きることが、イエスが信仰によって生きること、そしてそれをわたしたちにも薦めているのが、山上の説教なのだろう。そう考えると、この二節は密接につながっている。天の父は、人々にしてもらいたいことをされるかたなのだろう。わたしが人々にしてもらいたいことは、なんだろうか。互いに愛し合い、互いに仕え合うこと?はっきりとはわからない。
Matthew 8:31,32 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
マルコ5章1節から20節、ルカ8章26節から39節に並行箇所があるが、マタイは際立って短い。最初に「向こう岸のガダラ人の地方」(28)とあり、この地名が、この地域をよく知っている、マタイだけが正しいと思われる。ルカは、マルコからとったのだろう。引用箇所のやりとりも、簡潔である。こちらについては、はっきりとは言えないが、マルコの装飾をはぶいたのかもしれない。マルコは、論理的にもちぐはぐさを感じる。「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。 」(13)も印象的である。(ルカ7章1節から10節と比較)ルカは称賛でおわるが、マタイは、願いで終わっている。二人としているのも、マタイだけである。
Matthew 9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
中風の人にたいし「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(2)と言って癒やされた記事の結びである。このあとも、驚きの表現が続く。収税所にすわっていたマタイを招き(9)徴税人や罪人が大勢やって来て、食事の席にイエスや弟子たちと同席している理由を聞かれると驚くべき答えをし(10)断食に関する驚くべき回答をし(15)12年間も出血が続いている女の信仰に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(22)と即座に答え、死んでしまったと思われた少女を生き返らせ、そのうわさがその地方一帯に広まり(26)癒やされた二人の盲人に口外無用と説くが、二人は黙っていることができず、その地方一帯にいい広め(31)悪霊に取り憑かれて口の利けない人をいやすと「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」としかファリサイ派のひとは言えない状況が起き(34)働き人が足りないことを弟子たちにも認識させる(37,38)。このように編集されているにしても、凄まじい勢いである。わたしも、ほんとうに、驚かされる。
Matthew 10:40-42 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
前の章は「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9章38節b)で終わっているが、この章で12弟子が選ばれその派遣について書かれていることはかなり厳しい。その最後が引用箇所である。イエスの弟子として派遣されることは、イエスを遣わされた方に派遣されること。それは、同じ拒絶を担うことと言っているのだろう。マタイが書かれた背景も影響しているだろうから、そのままイエスが言われたかどうかはわからないが、本質はかわらないように思う。それだけの一体感はイエスにおいてだけではなく、ひとり一人において求められているのだろうか。まさにルカ14章のような覚悟を求められているようだ。
Matthew 11:28-30 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
バプテスマのヨハネについてそして、ヨハネやイエスが語ることを受け入れない民・この時代からはじめ、最後が引用箇所になっている。ここに安らぎがあると言っているのだろう。そして、わたしも、そのイエスのもとに行くことに惹かれる。しかし、それは大きく異なる価値観のもとに身を委ねることだと言っているのだろう。父の御心に生きることだと、イエスは言っておられるようだ。どのようなことか、はっきりはわからないが、イエスについていきたい。独善的にならないよう気をつけながら。
Matthew 12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
このことばは「赦されない罪」について考えさせられる。話は「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。 」(23,24)から始まっている。内輪もめの説明や、ファリサイ派のひとが悪霊おいだしていることをどう考えるかを示して、(人間のちからで)論理的に考えることもできることを示し、さらに、神の国についてメッセージを語って、この節に至っている。非常に深い議論が織りなされており、簡単には書けないが、イエスと言い争うことを許容しつつ、神の声に聞き従わないことを責めている。「神の声」は明確にはわからなくても、それに聞きしたがわないことについてはわかるチャンスがあると言っているのだろう。さらに考えたい。
Matthew 13:51,52 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
「天の国」についてたとえを用いて語られたものがまとめられている。神の支配、天の国については、ひとの言葉では語れないのかもしれない。しかし、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す主人のようだと言われている。ヒントは、さまざまにある。これらの原則をとおして見れば、天の国のことかそうでないかは理解できるといっているのだろうか。まだ、殆ど、理解できていないことを感じる。ヒントを与えられていることを否定しないが「分かりました」とは言えない。
Matthew 14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 」(ヨハネ20章31節)とあるが、マタイでは「神の子」証言は10回ある。最初の2回は悪魔の試み(4章3,6節)で悪魔が「神の子なら」と言い、3回目は山上の説教で「平和を実現する人々」(5章9節)を神の子と呼び、4回目は8章29節で悪霊に取り憑かれた二人が「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」と叫び、引用箇所のあとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)と告白。26章63節では大祭司が「お前は神の子、メシアなのか。」と問い、イエスは「それは、あなたが言ったことです。」(64)と返答している。さらに民衆が「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(中略)神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(27章40、43節)そして、最後に27章54節で「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。 」との告白が10回目となっている。引用箇所が特別なのは、「拝んだ」ことだろう。当時拝むのは、神のみ。神と同一視、または、神と本質において変わらないことを証言しているのだろう。マタイでは、神の子証言を注意深く書いているように思われる。読者に多くのユダヤ人がいたからだろうか。
Matthew 15:18-20 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(10b,11)について、ファリサイ派の人々がつまづいたとの報告があり、イエスのそれに対する応答に引き続いてのペトロの質問に対する言葉である。ファリサイ派がなににつまづいたか、また、ペトロの質問は、なにを聞いているのか不明確であるが、イエスは教えの本質的な部分のみ解説しているように思われる。また、それだけが理解され、印象深かったために記録されたのかもしれない。引用箇所において、「汚す」とはなにを意味するのかが問題になる。おそらく、神さまとの関係を妨げるということなのだろう。そのひとの本質(心)から「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」が出ている間は、神との関係が回復されないのだろう。儀式的な清め(手を洗うなど)によって、神との関係が回復されるのではないことを教えている。もう少し、考えたい。「人を汚す」にはもう少し深い意味があるかもしれない。
Matthew 16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
これは、イエスがご自身をメシアだとお認めになったと言える。メシアであることではなく、どのようなメシアかが鍵なのだろう。メシアということばが独り歩きすることを望まなかったのだろうか。すると、直前のペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」(16)の内容も問いたくなる。後半が重要なのかもしれない。メシアであることではなく、神の御心をそのまま体現する神の子ということか。しかし、十分理解できているわけではない。考え続けたい。
Matthew 17:22,23 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
二回目の告知である。一回目は、16章21節。この直後の、24節から26節の「イエスについて来たいもの」についての表現からも、よくはわからなくても、本気度は伝わってきたろう。17章の最後には神殿税のことが語られているが、このような差し迫った状態で「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」(27節)のきっぱりとした言い方に感銘をうける。
Matthew 18:19,20 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
「教会」(17)や、突如「あなたがたが地上でつなぐこと」(18)が現れ不自然である。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(15)と引用箇所が元来のイエスのことばだったのではないだろうか。この二人が、「二人または三人の証人」という、申命記17章6節、19章15節に結び付けられ、教会での戒規と、その背景にある、16章17-19節にあるペトロの告白に応答する形でイエスが語ったことばに結び付けられているように思われる。そこをとばして、15節からすぐに19節に続いても、良いように思う。「はっきり言っておく」が、18節と19節に繰り返されているのも、それを裏付けるように思われる。むろん、推測の域を出ないが。
Matthew 19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
「金持ちが天の国に入るのがむずかしい」(23)に中心を置くことが多いが、流れとしては、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 (16)の答えとして、引用箇所があると考えるのが自然である。間に、十戒の引用があるが、たいせつな部分は、イエスに従うことなのだろう。その中で、永遠の命を得る営みがなされる。または、イエスに従うことこそが、永遠の命を生きることだと言ってもよいのかもしれない。
Matthew 20:20,21 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
マルコ10章35-45節と比較し、ここでは本人たちではなく、母に願うことをさせることで、ゼベダイの子らを擁護しているととる節があるが、正直受け入れられない。マタイは、事実はこうだったと細かい修正をしたのだろう。もし、本当に、二人の兄弟を擁護するなら「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」(24)とはしなかっただろう。ゼベダイの子らの母は十字架のときにも居る三人の女性の一人である。(27章56節)これはマルコ15章40節と比較すると、サロメという中もしれない。確実ではないが。そのようなよく知られたひとがここでも登場しているというに過ぎないだろう。
Matthew 21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
隅の親石の引用のあとに続いている。マタイは、ユダヤ人、それも、ファリサイびとや、サドカイ派のひとたちから、神の国が取り上げられることを強く警告しているように思われる。だからこそ批判も強いのだろう。それは、隅の親石においても、価値観の大きな違いについて、言っているように思われる。
Mathew 22:2,3 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
この章では、このたとえのあと、皇帝に税金を納めるべきか、復活とはなになのか、そして、最も重要な掟、メシアはダビデの子かとの問いが続く。23章は、律法学者やファリサイ派の人々への非難となっており、その前のひとつのまとまりである。引用箇所に設定が記されている。王子はイエス、婚宴に招いておいた人々は、律法学者やファリサイ派の人々に代表されるユダヤ人ととるのが一般的だろうが、中心は最後の部分にあるのかもしれない。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(14)その核となるのは、招きを受け取るということに思われる。応答と表現してもよいかもしれない。むろん、生き方、いのちに生きることによってだろうか。
Matthew 23:11,12 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
律法学者やファリサイ派の人々への非難が続く章である。これでもかこれでもかと続くので正直辛くなるが、マタイ記者にとって、それこそが重要だったのだろう。それは、単なる批判ではなく、自分自身が一番たいせつなこととして学んだからだろう。律法学者たちの教えを違和感を感じつつも、真理と信じていたのかもしれない。行き着いた先が、イエスを通して学んだ、仕えること。へりくだる者となること。神の前にへりくだることは、ひとにたいして謙虚になることにむすびついているのだろう。他者・自己を含めて。
Matthew 24:12,13 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
以前からすきな言葉である。耐え忍ぶことは、我慢することを考えてしまうが「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 」(45)にあるように、賢さと忠実さであるように思った。いつも言っている「たいせつなことをたいせつにしていきる」その忠実さであるが、同時に、なにがたいせつなことかを見極める賢さがひつようである。イエスの目を通して、そのことを学び続けていきたい。イエスの行動を学びそのように生きていきたい。
Matthew 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(40)と対になっている。本人が気づいていないことなど、他の焦点のあてかたもあるが、イエスに対することと、イエスの兄弟であるこの最も小さい者のひとりに対することの対比は、印象的である。イエスの兄弟は、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12章50節)を思い出させるが、マタイには、「兄弟」が30回登場する。「人間はみな兄弟である」を思い出すが、ここでも、ひとの区別をしてはいない。そのテーマもしっかり受け取ってみたい。
Mattew 26:31,32 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」(ゼカリヤ13章7節)からの引用のようだ。この光景をイエスは重ねたのだろう。背後の主がおられることを確信して。興味深いのは、ガリラヤについての言及である。みなが、ガリラヤに帰ること、そこには、イエスがいることを示しているようだ。それが、あらたな生活の始まりである。イエスの愛を感じる。
Matthew 27:11-14 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
何箇所か登場する「それは、あなたが言っていることです」が昔から気になっていた。「そのとおりです」との訳もあったので、宣教師に聞いたこともある。肯定だという答えに満足は得られなかった。この箇所を見ると、文脈としては「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかった」とあり、やはり明確には答えていないのだろう。整理して調べてみたい。
Matthew 28:16,17 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
今回印象的だったのは、マタイでは、イエスがガリラヤに行くことを何度も言っていることである。それが共にいるということなのだろう。弟子たちにとって、イエスが共にいるのは、ガリラヤだったろう。特に、マタイにとっては、それが重要だったのかもしれない。例外として「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 」(8,9)しかしここでも「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』 」(10)とあり、ガリラヤが繰り返されている。

BRC2017(1)

Mt 1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
14人(アブラハムからダビデ)、14人(ソロモンからエコンヤ)、13人(シャルティエルからイエス)の名前が連なっている。系図から抜け落ちている名前もあると言われる。なぜアブラハムなのかは、アブラハムの子、ダビデの子と最初に書かれている部分から考えるのだろう。正確さは別として、なにか起こる期待が背景にあるのかもしれない。ヨセフを父としていることも、そのあとの記述を考えると、血肉に固執しないことの表明なのかもしれない。メッセージを受け取りたいが、はっきりとは分からない。早い時期にインマヌエル「神は我々と共におられる」(23節)とイエスを紹介し「アブラハムの子ダビデの子」(1節)としていることを、まずは、覚えて読み進めよう。
Mt 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マリアはいるが、ヨセフはいない。しかし、み告げは、マタイでは、ヨセフになされている。文化的なものもあるのだろう。預言についての記述も、み告げ、記録されていること、伝えたいことはあるのだろうが、正直、素直には読めない。おそらく、一つ一つの旧約の引用にも懸念を感じるからであろう。マタイは本当にこの部分を書き残したのだろうか。ほぼ同時期ともいわれるルカにもことなる誕生物語が書かれていることから、さまざまな誕生物語がすでに確立していたとは思われるが。
Mt 3:16,17 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
「そのとき」が二回あらわれる。イエスが洗礼を受けられたとき。天がイエスに向かって開いたとき。イエスが神の霊がご自分の上に降ってくるのをご覧になったとき。とある。少なくとも、この二つ目の「そのとき」は、天とイエスが神の霊によってつながったとき。イエスが神の霊を受けたとき、と言えるだろう。それを象徴する言葉が、愛する子である。神の心に適うものである。この言葉を聞いたのは、この時点では、イエスだけかもしれない。それを、この福音書を読んだものが信じるかどうか、問われているのかもしれない。
Mt 4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
「シリア中」と書いてあることに驚いた。どの地域をさすのだろうか。このあとに出てくる「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側」(25節)を含むのだろうか。大きなくくりとしては、シリア州だったのかもしれない。マタイが使う言葉としては多少違和感がある。イエスの第一声「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)と、苦しむ者たちに仕えることは、密接に結びついていたのだろう。今のことばでは、他者理解、それが福音理解、さらに福音を伝えることのスタート地点であるだろうから。イエスも多くを学んだのではないだろうか。このサービス・ラーニングをとおして。最後のいやしたは therapeuoo が使われているが、本来の意味は、(i) to serve, do service (ii) to heal, cure, restore to health である。Therapy は 19世紀になって使われたギリシャ語から派生したことばで「【病気に対する】(薬物や手術によらない)治療, 理学 [物理] 療法」の意味とある。
Mt 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
このことばは、このあとの、イエスのおしえと呼応している。しかし、この次の二節は、付け足しのように感じてしまう。「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(19節)ただし「これらの最も小さな掟」を、その背景にある本質をと理解すれば、よいのだろうか。ここも、当時の人がどのように考えていたかを、まずは理解することから始めないといけないのかもしれない。現代のひとが考える「これらの最も小さな掟」と当時の人が考えることは異なるのかもしれない。わたしも、字義通りの解釈に陥っているかもしれない。
Mt 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
神に守られて生きる生活。「明日できることは、今日するな。」ということば(敬愛する亡くなった弁護士による)は、このようなことにもつながっているかもしれない。表現の妙がある。イエスが、ひとびとに伝えたかったことは何なのだろう。山上の説教も、通読だとすぐ読んでしまう。単純ではあるが「神が守ってくださっている日常において、神の国、神の義に目を向けて生きること」なのかもしれない。もう少し、ことばを錬ってみたい。山上の説教、5章から7章をどのようにまとめるか。
Mt 7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12章50節)を思い出す。さらに「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14章23節)結局のところ「天の父の御心を行う」ひとであるかどうか「イエスのことばを守る=イエスを愛する」ひとであるかどうかが、判断基準であることがわかる。さらに、父、子たち、兄弟の記述も顕著である。兄弟とは、神の子として兄弟であり、兄弟は、互いに愛するもの、神のみこころを行うもの、神が遣わされた方を愛するものなのであろう。このポイントをはずしているひとには「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」(23節)のことばが与えられる。
Mt 8:16,17 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
イザヤ書53章4節「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」からの引用である。「いやす」は、「仕える」「奉仕する」を意味する therapeuoo だが、負うは lambanoo、担うは bastazoo でいずれも、実際にからだを動かして負い、担うことを表現することばである。「天の父の御心を行う」と呼応しているように思われる。仕えるは diakoneoo もあるが、こちらは、僕となるが原意である。ガラテヤ5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」は、douleuoo で、僕、奴隷となると言う言葉である。エペソ5章21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」は hyupotasso でひとの下に自らを置くと言う意味である。1ペトロ4章10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」は、diakoneoo が使われている。すこし調べてみると、使われているギリシャ語は非常に多い。いつか調べてみたい。
Mt 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
イエスの現状分析である。しかし、自分ひとりの行動ではなく、弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言っている。驚くべき発言である。まずこの状況を、収穫は多いとポジティブに受け止めている。さらに、収穫の主に願うことを勧めている。すでに、弟子になっているひとたち、献身というより、自発的な行動を、イエスと同じような状況分析のもとですることを願っていたのだろう。しかし、直接は弟子たちに行動を要請しない。神のみこころをもとめること、自分の行動もそこから決断すべきことを言っているのかもしれない。ボランタリーな行動の原点かもしれない。
Mt 10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」権威もすでに与えられている。語ることも与えられる。それが神から遣わされると言うことなのだろう。「引き渡されたとき」イエスご自身のことも考えておられたのかもしれない。弟子は、師のようになること、師はその先を歩むもの。
Mt 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
イエスによってはじめて父なる神のことが示される。ヨハネによる福音書1章18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」など、ヨハネ文書にあらわれることでもある。この章の前半にある「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(11節)もそのことを指しているのだろうか。この節については、いくつか解釈が可能であると思われる。地の国と天の国をわけることも。しかし時代の転換を思わせることばからすると、イエスの出現が関係していると見るのが、正統かもしれない。
Mt 12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
「はるかに大切」はどのような意味においてであろうか。宗教性をあげるひともいる。神様がとくべつに愛しておられるからというのは、単純な理由であるが、その答えで良いかは不明である。独善に陥りやすく、他がそうではないとの理由にはならないから。シュバイツアーの「生命への畏敬」のように、いのちにくべつをつけずまずは畏れ敬うのもひとつの態度ではあるが、どこまでを命とするかなど、問題もある。ここでは、羊をたいせつにするなら、人間はもちろんだよね。ぐらいに理解しておくのが良いのかもしれない。
Mt 13:34,35 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
たとえを用いて話す理由がこの章のテーマでもあるが、イエスの洞察力にも驚かされる。イエスは自然をそしてひとの営みをよく観察し、そこから学んでいる。まさに、天地創造の時から隠されていることをしっかりと見て、それを語っているように見える。たとえ一つ一つは、ユダヤ教の中にも見られると言われている。そうであるなら、神のみこころを読み解く鍵は、案外我々の近くにあるのかもしれない。
Mt 14:35,36 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
どう理解したらよいだろうか。インドのケララで見た、トマスの骨のことを思い出す。その骨に触れて病が癒されたとされる人も多いだろう。実際に起こったことは、検証できず、因果関係も確認はできない。このようにしか表現できない現実として伝えられてきたものがここに記されたのだろう。触れるは haptomai (to fasten one's self to, adhere to, cling to)が使われている。いやされるはここでは diasoozoo (to preserve through danger, to bring safely through)である。were made perfectly whole とKJV では訳されている。
Mt 15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
この直前には、障害者や病人をいやし(therapeuoo)、神を讃美するようになったことが書かれている。イエスをこの行動に移させたのは、ひとり一人に仕えている時に、ひとり一人の必要について学び、そして、かわいそうだ(スプラッグニゾマイ splagchnizomai: to be moved as to one's bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity) はらわたが痛んで)というあわれみを持ったからだろう。単に、病や障害が治ればそれでよいとは見ていない。実際に治療をし、観察し、本来の必要を知り、こころが痛み、自然に行動している。弟子たちは、このことも、学んだのかもしれない。
Mt 16:1-3 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
「しるし」を求めるものに、イエスはこのように答えている。あなたたがは「科学」を知っているのに、なぜ「神のみこころ」を悟ろうとしないのかと言っているようである。また、さまざまなことから、神のみこころを知ることはできるのに、それから神のみこころを求めることをせず、奇跡的な神の介入を見たいと言う、それはどうしたことか。とも言っているようである。イエスは、自然を見、ひとの行動を見、ひとり一人の苦しみと痛みに仕えながら、神のみこころを学んでいる。「科学と信仰」の学びから与えられた、新たな視点かもしれない。
Mt 17:13 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
何を表現しているのだろう。弟子たちは異常さを感じている。何が起こっているかは分からない。イエスについて、特別な啓示を見たことは確かなのだろう。3人の証人もいるが、それがなんであるかは、やはり問えないのかもしれない。
Mt 18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
どちらが原因で、どちらが結果ということは、ないのだろう。特に神の世界においては。神はすべてをご存じなのだから。イコールなのだろう。赦す(アフィエーミ aphieemi: to send away 行かせる)こと、それは、罰さないこと、命を与えて、生かすことだろうか。
Mt 19:18,19 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
最も重要な掟の項では「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(マタイ22章37節)と前半が置き換えられている。これは、同じ事なのかもしれない。神様から与えられたもので満足しなさい。感謝して受けなさいということで、人の命を奪ったり、ひとのものをほしがることは、神をないがしろにすることだから。具体性にとんだ戒めである。十戒をただまもるというより、その背後にあることに目を留めよと言っているように思われる。
Mt 20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
ここでも深く憐れんでは「spragchnizomai はらわたが傷つく」という表現が使われているが、20章を読んで特に感じるのは、このイエスと、ぶどう園の労働者のたとえや、ヤコブとヨハネの母の願いとその周囲の弟子たちの行動との差である。イエスは、すべてにおいて、神の苦しみを自分の苦しみとしていたのかもしれない。一見、不公平と見える背後にある、神の苦しみの理解をこころみるような行為。この章の慰めは、最後にこの盲人たちが、イエスに従っていったことである。イエスの深いあわれみを、その身に受け取り、それに応答した記録でもある。この人たちも、神の苦しみを自分の苦しみとして生きることを選んだのかもしれない。
Mt 21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
イエスのそばにいるのは、目の見えない人や、足の不自由なひとたちである。なぜ、そばに寄ってきたのだろう。イエスが、大切にしたからだろう。イエスは、単に病気をいやしていたわけではない。ひとりひとりを大切なひとりとして、神に愛されている一人として、仕えられたのだろう。ここも therapeuoo である。更に見ると、マタイ16回、マルコ6回、ルカ13回、ヨハネ1回、使徒5回、黙示録2回である。theros 暖める、夏から来ているようである。それが仕えるとなっている。
Mt 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
この二つとは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(37節)と「『隣人を自分のように愛しなさい。』」(39節)である。愛するは確かに両方とも、agapaoo である。意味は、歓迎すること。Welcome である。神からのもの、それを善いものとして受け入れることだろう。ここに本質がある。そして、隣人をも、Welcome することである。
Mt 23:11,12 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
「彼ら(律法学者たちやファリサイ派の人々)は背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(4節)から、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。」(8節)「地上の者を『父』と呼んではならない。」(9節)「『教師』と呼ばれてもいけない。」(10節)と続き、引用した節となる。「律法学者たちやファリサイ派の人々」に倣うなと批判したイエスが、模範として述べている。仕える者。deakonos: one who executes the commands of another, esp. of a master, a servant, attendant, minister となり、例の一つは、a waiter, one who serves food and drink となっている。イエスが給仕する者(diakoneoo)ルカ22章27節。ここに惹かれる。イエスの教えの中心かもしれない。
Mt 24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
これは、難しい言葉である。特に、師と仰ぐようなひとに、従っていかないことは。たとえ何らかの情報を持っていても。だからこそ、23章で、あなた方の間ではとして、仕えるものになりなさいと述べているのかもしれない。リーダが、しもべであれば、そのようなことはおこらない。批判しやすい状態を維持することも、よいのかもしれない。これも、vulnerable であることとつながっているだろうか。
Mt 25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25章の三つのたとえの二つ目は「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。」(14節)とはじまり、三つ目は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」(31節)とはじまる。神のみこころにいきるものたちは、天の国に住む者。24章最後の「忠実(pistos: objectively, trustworthy; subjectively, trustful:—believe(-ing, -r), faithful(-ly), sure, true.)で賢い(phronimos: thoughtful, i.e. sagacious or discreet (implying a cautious character; while G4680 denotes practical skill or acumen; and G4908 indicates rather intelligence or mental acquirement); in a bad sense conceited (also in the comparative):—wise(-r).)僕」から繋がっており、賢い、忠実なの順番でたとえが語られていると考えてよいだろう。そして御国の王座が確定するときのこと、この世のものが裁かれることが言われているのではないのかもしれない。天の国、神の支配に生きるものの世界だろうか。
Mt 26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
ヨハネ18章8節にある「すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」」との比較を考える。これこそ見方の差なのだろう。ペトロのことも言われているように、イエスにつまずき、イエスを捨ててさることも確かである。しかし、ヨハネは違う面を、語っている。こんなこともイエス様言っておられたよということだろう。ヨハネがイエスの愛を特別に感じていたからだろうか。
Mt 27:1,2 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
殺そうとすることは、いままでにもあったが(マタイ12章14節)ここでは、おそらく、どのようにしたら殺せるかを協議したのだろう。自分たちが責められることもなく。その結論は、ローマに引き渡すことだった。十分な勝算があったのだろうか。そこは、よくわからない。しかし、マタイによると直後に、ユダのことが書かれている。ユダはイエスが死ぬことをここで予期していたのだろう。時系列が正確ではないかもsh知れないが。それだけ、この人たちの力は大きかったのだろう。少なくともこの地域において。
Mt 28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
ここは目撃証言ではない雰囲気がある。このあとの大宣教命令が教会として合意された形式に見えること。疑うものもいたのあとに、何の説明もないことである。マタイが書かれた頃には、おそらく、多くの弟子たちはすでに亡くなっていたろう。実際の状況を問うことは、意味のないことなのかも知れない。マタイによる福音書は、大宣教命令で終わるが、弟子たちの中にさえ、復活の主に出会った時のことを疑うものもいたことを記録しているということである。その誠実さと、復活が科学的検証と相容れないのかも知れないことを覚えよう。

BRC2017(2)

Mt 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(1節)となっているが、最後は少なくとも、血筋による系図ではないことが分かる。伝えたかったことは、何なのだろうか。おそらく、最後以外は、血筋であろう。ヨセフに重点があるのか、それとも、血筋ではない、親子関係が大切なのか。考えさせられる。
Mt 2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
歴史的事実を書く書き方としては、適切とは言えない。年すら書かれていないのだから。他の文書、特に、ユダヤ教の伝統の中にある旧約聖書と比較しても、そのように感じる。「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、」(22節)もあるが、おそらく、ベツレヘムで生まれたことと、なぜ「ナザレの人」と呼ばれるようになったかを、書く必要があったのだろう。系図の議論だろうか。「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」(1テモテ1章4節、参照:テトス3章9節)しかし、書いた人が、キリストに従うものであったこと、書いた目的は、分かるように思われる。
Mt 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
口語訳も「悔い改めのために」となっている。「悔い改めに導くため」とあるが、悔い改めましたと言って洗礼を受けるのではないことがわかる。洗礼の機会から、悔い改めた生活に向かっていくようにと言うことなのだろう。やはり、出発点である。批判的に言うならば、この時点で救われているとは言えない。起点である。しかし、大切な方向転換である。(悔い改め metanoia: 1. a change of mind, as it appears to one who repents, of a purpose he has formed or of something he has done)
Mt 4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
「神の子なら」は6節にも現れる。神によって何でもできることと、何でもすることとは、異なることを最初から選択している。No Poverty にしても Zero Hunger にしても、それだけで、人は、神の前に、神の子として生きられるわけではない。これらが、必要条件に過ぎないこと、必要条件をどのように満たしていったら良いかを考える必要がある。
Mt 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
「実現」は重い。通常は Peace Maker だろうか。おそらく、世界平和を、想定しているわけではない。しかし、現実に、平和を実現する人、平和を創り出す人。考えさせられてしまう。何が求められているのだろう。神が望まれる、互いに仕え合い、愛し合う世界だろうか。飛躍しすぎだろうか。平和について考えたい。
Mt 6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
「施し」「祈り」「断食」についてまず語られ、人に見てもらうためではなく「隠れたことを見ておられる(あなたの)父」(4,6,18節、4節には「あなたの」は無い)の評価を願うように説かれている。引用箇所ではさらに進んで「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくため」となっている。なにか、神様の通信簿が気になる子供のようだが、本質は「見える部分」ではなく「隠れたところ」にあるのかもしれない。神様が見ておられるものは、わたしたちには、分からないのだろう。
Mt 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
福音宣教でも同じことを感じてしまう。「兄弟」は「神の御心を行う(行おうと生きる)者」と考えると、「あなたの生き方は間違っている」とは、とても言えない。仕えることが、仕えることになっていない。そう考えてしまうが、それでよいのだろうか。
Mt 8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
「よろしい。清くなれ」(3節)とともに、非常に力強いともいえるし、乱暴だとも言える。マタイ記者の意図だったのかもしれない。引用箇所の「いやす」は、therapeuo(1. to serve, do service 2. to heal, cure, restore to health)が使われており、それほど強くはないのかもしれない。これだけでも、難しい。
Mt 9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
共観福音書の他の箇所では、Mk 2:16「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。」Lk 5:21「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。」となっている。公式見解があったわけではないのだろう。しかし、正しさで議論し始めるとき、すでに憐れみの心は遠のいている。「病人」(12節)「罪人」(13節)は、もう眼(心の)中にない。自分の中で思考が回っているからだろう。考えてはいけないと言うことではないだろう。しかし、現実から目を背けてはいけない。
Mt 10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
派遣していることが背景にあるが、それだけで、この関係が成り立つわけではないだろう。権威が授けられたからか。なにか不足している。共にいて守っていて下さるからか。少し、行きすぎのように思われる。我々は、どのように、イエス様と結びついているのだろうか。日常的に。
Mt 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
マタイによる福音書のここまでの箇所が、イエスが、来たるべき方であることの証明と読むのは、間違いだろうか。おそらく、そう単純ではないのだろう。しかし、ヨハネの弟子との問答、この章の最後の25節から30節を読むとそう感じる。
Mt 12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
安息日に関する議論がいくつか続くが、より深いところに、イエスの伝えたいことはあったのだろう。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 (9章13節)にも同様のことばが書かれている。ひとは、表面的な正しさを求め、本質を見失ってしまう。神様が求めることに集中したい。ここの「知っていれば」はginosko おそらく「悟っていれば」「しっかり理解していれば」という意味なのだろう。
Mt 13:51,52 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
おそらく、理解はできていなかったろう。しかし、イエスはこのように伝える。ここで使われている「学者」は律法学者と同じである。本来の学者を識者を、意味しているのだろう。むろん、完全な学者は存在しないが。
Mt 14:35,36 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
土地の人々は、救いを求める心だけではなく、助け合いの精神も現れていたのではないだろうか。「いやされたは」diasozo(to save thoroughly, i.e. (by implication or analogy) to cure, preserve, rescue)が使われている。「完全な救い」に至る経緯は書かれていない。おそらくそれはひとり一人異なるのだろう。病が癒されるのは、それを狭くしてしまっているように思われる。
Mt 15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
五千人を五つのパンと二匹の魚で養った記事(14章13-21節。参照:マルコ6章30-44節、ルカ9章10-17節、ヨハネ6章1-14節)のあとに記されているにもかかわらず、弟子たちは、このように言っている。簡単に繰り返される状況では無いことを知っていたのだろう。プロセスをまねして人が救われるわけではない。
Mt 16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
この前に「パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。」と聞いている。数字による合理的解釈ができないことを表現しているようである。特別の経験を共有しているとも言える。それと「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え」とはとても違い、問題をはらんでいることを示している。この直後に、ペトロのフィリポ・カイサリアでの信仰告白が記されていることも、関連しているのだろう。
Mt 17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
時が迫っていることを意識していたろう。給食も重要な要素なのだろう。神に信頼することだろうか。世の制約から自由であることだろうか。正直、分からない。結論はすぐには求めないことにしよう。
Mt 18:4,5 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
「子供のようになる」「子供を受け入れる」「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(10節)「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(14節)「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(35節)すべてつながっている。天の父にとっては、みなが小さな者、子供、私たちは、兄弟。神の子、兄弟であることの意味をしっかりと受け入れることが、神の御心に生きることにつながるのだろう。
Mt 19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
この部分だけを読むと、十二弟子は特別の存在であるように思われる。しかし「あなたがたも、わたしに従って来たのだから」とあること、このあとには「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(29節)とあり、普遍的真理を述べていること、さらに「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 (30節)と結んでいることを考えると、イエスは弟子たちを特別扱いしているとは考えにくいように思われる。
Mt 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(19:30)と順序が逆になっている。この「ぶどう園の労働者の譬え」の直後に「ヤコブとヨハネの母の願い」が書かれ「仕える」ことが書かれ、さらに、イエスがまさに「仕えるために来た」と結ばれている。19章からの構成は意図的なのだろう。イエスのように、仕えることが目的であれば、ぶどう園の主人のしたことを喜べるかもしれない。そして、引用箇所は、とても深い。
Mt 21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
明らかな部分と複雑な部分がある。まずは、ぶどう園のたとえを考えてみても、中心は「父親の望みどおりにしたか」どうかが本質的であること。これは、明らかだろう。複雑なのは、「先」か「後」かという部分である。「先」「後」は何を意味しているのか。結局、皆が天国に入れるのか。これは、不明である。しかし、中世にあったようだが、なるべく最後に悔い改めるのがよいというのは、最初の明らかな部分に抵触することは明らかだろう。イエスのように、仕える者として、父なる神様の望まれる生き方を求めていきたい。
Mt 22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
イエスは旧約聖書の証言をどう考えておられたのだろうか。解釈もふくめ、完全ではないことを知っていたのだろう。しかし、批判することは、それを信じて、神に従おうとしている人への侮辱にもなる。旧約聖書の記述に敬意を払う理由なのかもしれない。引用箇所は、その扉をそっと開けているように思われる。神のみこころを知るものの葛藤も感じる。
Mt 23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
本当は、言うことも、問題があるのだろう。この段落の最後は「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(11, 12節)となっている。互いに、仕える心をもって、天の父なる神のみこころ、望まれることを学び続けることを、して行きたい。それが、いま、わたしが、受け取っている真理だから。
Mt 24:28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
弟子たちの知りたいことと、イエスが伝えたいことは食い違っているのだろう。引用したことばは乱暴だとも言えるが、弟子たちも含めて、神様のみこころを求めることは、自然な習性のおもむくところとは違うことも伝えたいように思われる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(12, 13節)「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。」(45節)
Mt 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
兄弟、これは「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12章50節)とも関係しているだろう。そして「天の父の御心を行わない人」は、兄弟、姉妹ではないとすることとも違うのだろう。「天の父」が望んでいること。こうしてほしい、こうなってほしいと望んでいること、その行き着く先が、引用箇所である。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね」(35、36節)という行為が最終目的ではない。
Mt 26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
弟子たちは「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(24章42節)や25章の10人のおとめのたとえを思い出したかもしれない。天の父なる神のみこころの近くにいることがどれほど難しいかも示しているようにもとれる。しかし引用箇所に続く「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」は、それでも共に進んで下さるイエスの姿を見る。
Mt 27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
番兵は「宮守」または神殿警護の人だろうか。武力を持っていたとは思えないが、警護は十分できたということだろう。「そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。」(66節)と続いている。しかし、この記述は、他の福音書にはない。復活には妨げとなる。そこまで真剣には、考えていなかったと言うことか。不思議な文章である。
Mt 28:18-20 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
大宣教命令と呼ばれるものである。福音書により記述が異なることなど、不思議な点が多く、教会確立後の文言になっているとも言われる。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」の解釈も様々だろう。後ろの関係させて、まさにキリスト教会に属する者とすることなのか「わたしの天の父の御心を行う人」(12章50節など)を指しているのか。最近考えるようになったのは、イエスが意図したことと、弟子たちが受け取ったこと、そのあとで記したことにも、おそらくずれがあるだろうと言うことである。このように、記録された文章から、イエスの意図したこと、または、天の父のみこころを読み取ろうとするのは、聖書のことばをないがしろにすることなのか、真摯に神のもとにある真理をもとめる姿勢なのか、考えさせられる。

BRC2015(1)

Mt1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 
イエス・キリストの系図はアブラハムからはじまり、アブラハムの子と呼び、さらに、ダビデの子としている。ひとから生まれたこと、つまり人の子であることが、まずは証言され、アダムからではなく、神との約束によって呼び出され、信仰の父とされるアブラハムを最初にあげている。さらに鍵となるのは、救世主のモデルとされるダビデである。このように始まり、系図が記されたあとで、マリアは「聖霊によって」みごもり、イエスは「聖霊によって」宿っていることが18節・20節に書かれている。そうであるにもかかわらず、系図から始めた意図は何であろうか。肉によるのではなく、しかし人の子として、さらに、救い主として生まれたイエスについて、これから書き始めますよ、という書き出しとして、その内容をしっかり受け取りたい。
Mt2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 
文学的な表現である。これも、科学的な現象ととるひともいるのだろう。その判断をわけるものは、何なのだろう。星に導かれてと印象的に述べられている。実際は、どうだったのだろう。マタイもルカも、誕生物語の記述はむずかしい。どのように、読むべきなのだろうか。
Mt3:1,2 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 
「天の国」は「神の完全な支配がおこなわれること」を意味すると言われる。それから連想する最初のものは「悪が裁かれる」なのだろう。宗教観も「恐れや欠乏からの脱却」とそれをもたらす「因果」にたいする「応報」と関連している。それが、このヨハネが説いたこと、さらには、人々の行動からも見ることができる。しかし、イエスは同じ言葉で語り、進む方向は異なる。神の理解の広さと「恐れや欠乏からの脱却」の先「罪の悔い改め」の先が重要だと言っているように思われる。もう少し、表現することばを整理したい。
Mt4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
これこそが福音なのだろう。ひとは、なぜ暗闇に住んでいるのか、死の陰の地に住むのか、その原因そのものを取り扱い本質的な変化を与えるのが、イエスの福音なのだろう。しっかりと、学びたい。
Mt5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(3節)からはじまる、山上の説教を聞いて、喜ぶことができるかどうかがまず大きな分かれ道であると思う。そしてこの内容こそが、イエスが説く「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)の実体なのだろう。すでに、それを望まないひとが多いのかもしれない。まさにこの世的な祝福を受けて、それで満足してしまっている人たちである。内部世界とともに、外部世界にも目を向けたい。そのなかでイエスのメッセージを真に福音だと、受け取ることができる。
Mt6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 
「隠れたところにおられるあなたの父」との関係が中心である。その反対を求めてしまうところからまずは、脱却しなければならない。これは4節にも「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」18節にも「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」繰り返されている。
Mt7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 
知らないはむろんギノースコーが使われている。マタイ10:33「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」も同種類である。関係ないといもいえる。ペテロが知らないといったのも、結局はそのことなのだろう。知識として知らないというよりかえって積極的に関係を絶つことである。父または神が何かを知らないという記事は福音書にはない。しかし、たとえの中で主人が知らないという場面はいくつかある。全知という教義が背景にあるのかもしれない。まず心にとめることは、ヨハネ2章23節-25節「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」何を知っていて、何を知らないのかではなく、何をご存じなのかがより大切なのかもしれない。
Mt8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 
「イエスはこれを聞いて感心し」さらに「わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われるイエスの心の躍動に正直感動する。しかし、さらに驚かされるのは、この事実が結びつけられた先である。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(11節・12節)イエスの喜びは、嘆き、そして痛みでもあったのかもしれない。
Mt9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 
とても印象的な光景である。ユダヤ人の指導者がひれ伏して娘の命について願っている。そして、生き返ることを信じている。わらにもすがる気持ちかも知れないが、必死さと、娘への愛情が浮き彫りになっている。心の貧しさなのかもしれない。マルコ、ルカと比較して短いが、マルコは「私の幼い娘が死にそうです。」となっているが、ルカでは会堂司ヤイロ(マルコ、ルカですでに書かれている名前をマタイは「ある指導者」としている)の言葉を記さず「死にかかっていたのである」と説明文となっている。マルコで「生きるでしょう」となっている部分が、マタイでは「生き返るでしょう」となっている。家に向かう行程で死んだとなっている他の福音書の部分をこの最初に取り込んでいるのかもしれない。
Mt10:36-39 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
イエスによって分裂が起こることが言われている部分に続いている。そう考えると、迫害について述べているともいえるが、だんだん一般化、普遍化されていく。本質的には、この最後の言葉に行き着くとすると、家族をも相対化し、自分の十字架を担ってイエスに従うことこそが決定的であると述べているのだろう。論理の展開の仕方も、行き着くところも、非常にきっぱりしている。
Mt11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 
バプテスマのヨハネに告げた、メシヤ予言の実現を列挙した箇所である。これらは、すべて神の直接介入の事象であるといえる。どう考えたら良いのだろうか。20節にあるように「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」必ずしもすべての人に明らかではなかったのか。ヨハネが記しているように、これらはしるしとしての意味が強く、通常の奇跡としての意味にとるべきではないとの考え。イエスの活動の本質をならべており、介入をことさら述べているのではないということもあるのだろうか。
Mt12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
なぜ安息日のことで、殺そうとするまでこの人たちを怒らせるのかいぶかしく思う。ヨハネを見ると、イエスの宣教の最初から、または、バプテスマのヨハネの宣教のころから、すでに反対があったこともわかる。正しさ以上に、自分の命の根拠のようなものは、論理的なものを超えているのかもしれない。そのようにとらわれてしまっている状態から逃れることはできるのだろうか。
Mt13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。 
Mk6:5 では「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」すこし表現が緩和されているのか。マルコは強烈。妨げたものがあったのだろう。単に敬われないこと以上のことがあったのだろう。血肉の関係が邪魔をするのか。
Mt14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。 
あまりに単純に書かれていると疑ってしまう。何を表現しているのだろう。いやしは、イエスに結びつけられたものとして特別な意味を持っていたのだろう。ただ、ヨハネは、それを頻繁には、書いていない。
Mt15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 
これは唐突でもある。どのような目的があったのだろう。近隣の異邦人の町であるから、そのような地域の状況を見に行ったのかも知れない。むろん、文脈からすると、一時、ファリサイ人の反対から離れて、弟子とゆっくりとした時を過ごしたかったのかも知れないが。そして、もう一つ、このカナンの女に会いに行ったとも言える。結局わからないのだろう。その中で、とても重要な異邦人の女とのやりとりが記されている。
Mt16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 
ペテロのことがあってからこのことばを発している。これこそ、ひとり一人に委ねられていること。ひとり一人にとって、自分の十字架は異なるのだろう。自分を捨て、自分の十字架を背負って従う。とても重いものを感じる。
Mt17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがた にできないことは何もない。」
何を伝えたかったのだろう。「信仰が薄い」のは「信仰の質」に関係していると取るのが、まず最初のステップかもしれないが、全体的な方向性としては、信仰の力を伝えたかったのかも知れない。信仰はそれほど、すごいことなのだと。
Mt18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる 者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
わたしたちは、生まれ変わった存在、つまりは、赤子の状態から始まる。そして、お互いそれを認識することから、互いに愛し合うことが始まる。そして、その赤子を、イエスはこよなく愛しておられる。それらが、実際の幼子を前にして、実物教育として、さらに本質的なことを伝えるメッセージとして、伝えようとしているのではないだろうか。
Mt19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちの ものである。」
いろいろなことを教えられる。子供をまずは受け入れ、天国をこのような者たちのものと言っている点である。同時に、人の偏見をあばいている。当時の人が一番軽んじそうな子供を取り上げている。さらには、ひとり一人が新しく生まれなければ、神の国を見ることができないことを想起させる。すなわち、自分や、周囲の人、この視点で受け入れることを促す。イエスはしかしながら、このような論理的な思考でここにたどり着いたのではあるまい。こどもを、そして、拒絶され、叱られてみもとに来ることを拒まれているひとり一人をいとおしく思われたのだろう。
Mt20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人 の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
一つの福音書の謎である。こんな大事なことを、福音書では、まるでついでのように記している。そして他では語られていない。イエスにとっては、それよりも重要な事が意識に強かったのかも知れない。この文脈では、仕える人になりなさいというメッセージである。こどもにたいして「天国はこのような者たちのもの」というメッセージ、それの方が大切だったかも知れない。
Mt21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 
単なる不服従が、主人の取り替えに発展している。これが不服従の本質なのかもしれない。恐ろしい状況だけを見て、罪の大きさを測るのは、適切ではないのかも知れない。
Mt22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 
「友よ」にすべてが込められている。マタイでは「友よ」は3回、20:13, 22:12, 26:50。一つめは「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」三つ目は「イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。」新約にはもう一回、ルカ11:5 に出てくるのみである。同じ信仰の仲間に使われている。そして 26:50はイスカリオテのユダである。そしてこの言葉は 22:14「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」に続く。
Mt23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 
律法学者たちやファリサイ派の人々への痛烈な批判が延々と続く。正直いやになるほどである。この4節はどうだろうか。批判ではあるが、それぞれ自分の生き方について、問われている。神の国に生きるとは、神を愛し、隣人を愛して生きることは、このような生き方ではないことを、示している。指一本貸すということは、どういう生き方だろうか。私はそれをできるのだろうか。本質的には、不可能なのだろう。しかし、そうなるかも知れないことを求めて生きることはできるのかも知れない。
Mt24:12-14 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」 
わたしが大切にしたいことがここにある。不法(神様の望まれることと反対のこと)がはびこる中でも、耐え忍び、希望を持ち続け、愛に生きること。それが「この福音」の証である。と言っているかのようだ。希望をもって精一杯生きること。それを、神様が望んでおられる。
Mt25:12,13 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 
「わたしはお前たちを知らない」は厳しい言葉だ。ここでは、eidoo が使われている。ginoskoo との違いをもう一度、使われている箇所とともに学んでみたい。本質的な違い、アラム語で対応する言葉の使われ方など。どちらの言葉が使われていたも、知らないは、関係の絶対的破綻を意味しているように思われる。13節の「知らない」も eidoo が使われているが、知らない中で、目をさましている。知識とは違う部分の知覚だろうか、目を覚ましていることも、もう少し深く理解したい。
Mt26:74,75 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 
「知らない」はここでは arneomai 否定する・拒否するである。ペテロが三度否むところも、この arneomai を用い、eido を使った否定 ouk oida を使っている。言葉の用法よりやはり、拒否するところに焦点があるのだろう。そう考えると、マタイ10:33 「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」との関連も考えたくなる。神以外に、イエスのとりなし無しには、だれも救われないのだろう。
Mt27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 
ユダの内面を覗くことはできない。しかし、26:25「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。』」や、27:11の「さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と言われた。」などに現れる「それはあなたの言ったこと (legei autoo su eipas, autoo su legeis)」という言葉で、責任を問うているのかもしれない。イエスが判断をして、伝えることではないという意味において。
Mt28:5,6 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 
「十字架につけられたイエス」は一般的な個人の特定だともとれるが、探しているひとが違う定義のもとにいるのだよと告げているようにも思われる。「復活なさったのだ」すでに、「十字架につけられたイエス」ではなくなっているという印象をうける。

BRC2015(2)

Mt1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イザヤ7:14「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」からの引用とされる。「おとめ」の訳の議論があるが、文脈としては、アラムが攻めてくることを心配しなくても良いということにおける、神のしるしを求めないアハブに対して、語られた言葉である。16節には「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。」とあり、この預言をイエスと結びつけるのは、非常に困難に思われる。インマヌエルという言葉だけからの引用なのだろう。他にイザヤ8章8節(Cf. 10節)もあるが「共におられる。」で調べた方が良いのかもしれない。これは多数現れる。それを表現したかったのだろう。
Mt2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
イエスは確かに「ナザレ人」と呼ばれるようになる。しかしこの旧約聖書の根拠は乏しい。一般のユダヤ人がが受け入れられやすい書き方をしたのだろうか。それとも、この箇所までが、マタイと関係なく後代の創作なのだろうか。いずれも疑問が残る。
Mt3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。」(7節)からの最後にある言葉である。ファリサイ派やサドカイ派の人々に対するチャレンジであるから、裁きに焦点が合わせられていると考えるのが適切であろう。中には、様々な人たちがいたであろう。人によってメッセージは異なるのかもしれない。理解は本当に難しい。
Mt4:23,24 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
イエスは民衆の反応を知っていたろう。しかし「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」これこそが、イエスの教えと宣教と切り離すことができなかった証拠なのだろう。人々が求めるものを知り、かつ、それでは問題もあると知っていたであろうイエス、そこで伝えたかったのは、その姿、生き方だったのかもしれない。不完全な人間が求める姿でもある。
Mt5:3 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
山上の説教の第一区切りを読むと、最初は「あなたがた」に対する祝福で始まっているように思われる。「幸せだな」自分の存在を肯定することからだろうか。それは、どのように生きるかとつながっている。それが中盤であり、さらにそれは神との関係、神をどのような方としてその御心を求めるかにつながっている。このイエスの声にもう一度聞きたい。
Mt6:22,23 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
20節の「富は、天に積みなさい。」すなわち、お金のことのトピックに挟まれているので、ここも、そのことと関係しているととるのが自然であろう。目は天に、主に向けるということでよいだろうか。「澄んでいる」は、二人の主人に兼ね仕えることはできないと関連しているのかもしれない。もう一度、じっくり学んでみたい。
Mt7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、 求める者に良い物をくださるにちがいない。
神がどのような方でおられるかを知るのが中心である。当然である、父への信頼を保ちたい。
Mt8:2-4 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
感動的な場面である。主の御心そしてその憐れみに生きることがこの人にはできていたのか。イエスは、この人に触れている。「よろしい。清くなれ」たちまち「清くなった」とある。このあとを読むと、治ったことも確実である。社会的証明が伴っているから。しかし、それにしても、清められることの威力は伝わってくる。やはり何があったかは、問いたくなる。この書き方であるなら。
Mt9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
「そのとき」とある。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思って「後ろからイエスの服の房に触れた。」時ではなかったのか。しかし、そのとき、他の福音書のように、イエスは力が出ていくのを知ったのではなかったろうか。強調点が違うのかもしれない。いつ治ったかは、重要ではないのかもしれない。
Mt10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
弟子たちの派遣の際に語られている言葉である。しかし、この節は、一般にも真理であるだろう。何を中心にして生きるかがかかっているからである。私はどうだろうか。今でも自分の命にしがみついている部分がたくさんある。何を第一とするかは、明確にして生きたい。
Mt11:28-30 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
悔い改めなかった町に対する叱責につづき「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(25節)から始まることばの締めくくりである。幼子のようなイエス、だからこそ、われわれも幼子のようになって、イエスから学ぶのだろう。無知な者としてへりくだって、父なる神の御心を求めて生きる生活を。
Mt12:49,50 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
この箇所だけを単独で理解するのでは、一部しか理解できないかもしれない。このときの、家族の状況、イエスが何をしていたか、と共に、イエスが母や兄弟に伝えようとしたこと、弟子たちに伝えようとしたこと、イエスの話を聞いている人たちに伝えようとしたことを理解すべきだろう。まずは血縁や地上のことから考えてしまう性向から神様に目を向けることか。
Mt13:16,17 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
イザヤ書の引用から始まる。イエスが語り、イエスを通して神の業を見るときには、聴いて理解することができ、見て認めることができ、心で理解し、悔い改めることができると言っているように聞こえる。新しい時代に入ったと言う事だろうか。あえて書くとそれでも認められないのは、自己の責任なのか。
Mt14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
イエスならどうしただろうか。1節には「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、」とあり、また、ヨハネによる福音書の記事(3章22節-30節、6章66節)によると、イエスの社会的影響が(ヨハネのそれと比較して)どの程度大きかったのか判断は難しい。さらにこの節では「ヨハネが」「ヘロデに言った」とあるので、直接言いに行ったのかもしれない。そう考えると、イエスがそのようなことをするとは思えない。これらの考察の上でも、イエスは問われたときにどう答えられたかは興味がある。
Mt15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
「わたしを憐れんでください。」と訴える。娘ではない。それが原因とは言えないだろうが、イエスは沈黙を守る。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。」必死さが伝わってくる。謙虚さも。イエスに「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(28節)と言わしめた本質は何なのだろうか。わたしには、まだよく理解できていないように思われる。
Mt16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
何を言っているのだろうか。これは、成就しなかったのだろうか。マタイの書かれた時期を考えると、怪しい言葉は書かなくても良かったはずである。では、聞き間違いだろうか。少し言い方を変えてみると「あなた方のうちの何人かは、生きている間に、人の子がその国と共に来るのを見る。」ということではないだろうか。まさに、信仰によって、見た者がいたと思う。そう簡単には、結論は出せない。
Mt17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
てんかんの息子のいやしについてである。これを病を治すことができるかどうかに集中して考えるのは無理があるかもしれない。たとえば、フィリポ・カイザリアでのペテロの告白、受難告知、その六日後の変貌と関連させて考えれば、弟子たちの中に動揺や、懐疑、不満があったかもしれない。それを言っているのではないだろうか。だからこそ、日にちも記録され、すべて変貌の直後に置かれているのかもしれない。
Mt18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
これで十分だ。すべての人の救いを神が願っていることの、本質は、このことばに凝縮されているように思う。抽象的な一般論ではない。まさに、これらの小さな者、ひとり一人である。ここに天の父なる神の御心がある。
Mt19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
「善い方」は「完全な方」でもある。その方は「貧しい人々」と地上での富を分かち合うことを望んでおられるのか。16節の問い「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 に対して、行為ではないと答えるのではなく、行為自体を示し、その奥にある真理を伝えようとする、イエスの言葉の奥の深さに感嘆する。
Mt20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
これに対する主人の答えは「友よ、あなたに不当なことはしていない。」(13節)「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」(14節)「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(15節)である。私の力では十分ギリシャ語のニュアンスを理解することはできないが、最初に雇われた者たちが、主人の前で「自分のもの」を並べ立てていることがわかる。18章14節の「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」がやはり鍵であるように思われる。救われる人とそうでないひとがいることに、理不尽と言いつつ、一人も滅びないことを願う主には不平を言う。もう少し、丁寧に言語化したい。
Mt21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
イエスは防御しているのだろうか。それとも「祭司長や民の長老たち」(23節)に内省を促しているのか。ヨハネによる福音書の記述は多少異なるが、イエスは基本的には、本質的な判断は、我々に委ねているように思われる。答えが与えられるのではなく、答えを自ら求めることは、いずれにしても、完全には知りうることのできない人間にとって大切だからかもしれない。求め続けることこそが、私たちに求められていること、私たちの責任なのだろう。上のイエスの問いに対する答えも、完璧でなくても良いのかもしれない。何度も、同じ問いに立ち返るかもしれないから。
Mt22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
直接的には「メシアはダビデの子か」(41-45)の議論に続いているが、ここで異なるトピックに移ることなどを考えると、少なくとも「税金の問題」(15-22)「復活について」(23-33)「重要な教えについて」(34-40)すべての決着をまとめて「これには」と言っているように思われる。主として、イエスが語る場面が始まる。
Mt23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
8節の「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」との差異はよくわからないが、NHKで淵田美津雄、ジェイコブ・デシェーザーについての番組「二人の贖罪」を見たがそこで、淵田は、ルカ23:34の「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」無知に焦点を当てていた。このあとの律法学者やファリサイ人への批判も「もののみえない」ということが中心となっている。そうでありながら「先生」や「教師」と呼ばれるのを好む。やはり本質は、無知をしっかりと認識することにあるように思われる。だから「あとは皆兄弟なのだ。」「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む。そして憎悪が戦争を生む。」(淵田)
Mt24:45 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
このあとには「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」と続き、運のようなイメージもうけるが、むろんそうではないのだろう。直前44節の「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」が最初の弟子の質問から始まった話の全体としての核心であろうから。おそらく、それであっても、再臨のときに、しっかりしていればよいと受け取る人がいたことも、イエスは見透かしていたろう。わかりやすく言ってほしいと望むが、結局、これで十分なのかもしれない。いまと、再臨のそのときはつながっている。
Mt25:8,9 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
意地悪だと受け取ることもあるだろう。ここは「分けてあげるほど」と量の問題のような言葉になっていることもあるだろうが、自分の救いは自分にかかっているということなのだろう。誰かに助けてもらえるかもしれないと考えているところに、浅はかさがあるのではないだろうか。愛は、神の喜ばれることである。しかし、誰一人として、自分を救うことはできないのだから。
Mt26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 
衝撃的である。特に「うつ伏せ」になっていのる光景が。天上で神とともにおられたイエス「わたしは死ぬばかりに悲しい」(38節)と言い、地に伏せる。まさに我々の一人のようになられたのだろう。我々はかえって高ぶり、神に不平ばかりのべているのに。これを聖書は「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2章6-8節)と表現している。しかし、おそらくそれ以上の苦悩が、そしてそれは、神の苦悩につながるものがこの背景にあるのだろう。
Mt27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
マタイによる福音書にだけ、ピラトの妻のことばが記録されている。「一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。『あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』」(19節)ひととの間でどちらの責任と決められると、ピラトは判断したのだろう。しかしそうではないことは、この妻のことばからも理解できたのではないだろうか。ピラトを弁護するものも多いが、ひとり一人がこの法廷に立ち、それが神の前に立っていることを意識させられる記述である。そしてだれも、責任をとることも、責任を押しつけることもできないことも見つめるべきである。
Mt28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
リアルさを感じる。しかし、この婦人たちの全員が復活のイエスと出会ったわけではないだろうし、弟子集団とその周辺のすべてのひとがその機会をえたわけではないだろう。最終的には、トマスにイエスが言われたように「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (20章29節)に本質があるように思われる。それこそが信仰に生きることである。知り理解することができない社会のただ中で、神のみこころをもとめて生きていく生き方を思う。

BRC2013(1)

Mt1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムの子、ダビデの子とし、4人の女性、(息子たちの妻)タマル、(カナン人)ラハブ、(モアブ人)ルツ、(ヘテ人)ウリヤの妻と、通常は罪と関係した、あるいは異邦人を加え「インマヌエル(神われらと共にいます)」と呼ばれるイエス・キリストの紹介。このかたがどのような方なのか、こころときめく。ここだけであまり判断しないほうが良いのだろう。
Mt2:2,3 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
いままで、降誕物語の事実性ばかりにとらわれていた。マタイ福音書全体のなかで、書き方も特殊で、事実性も薄いと考えたからだ。これは、イエス・キリストの紹介として、読めば良いのかも知れないと今回思った。東方から時代を超えて探し求められるような王、そして、ヘロデ王もエルサレムの人々にも不安を感じさせるイエス・キリストの登場である。これが、このマタイ福音書のテーマでありそのための文学表現だと考えれば良いのかも知れない。読む人には、どこからが証言で、どこまでが文学表現なのかわかることを想定して書かれたのかも知れない。
Mt3:13 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
12節の「わたしのあとから来る人」についての記述である。2節の「悔い改めよ、天国は近づいた」は3章17節のイエスのメッセージと同じであるが、裁きを強調し、それがすぐにも起こることであることを示すことによって、悔い改めを促すことが異なる。「麦とから」の対比は、13章24-30節の「麦と毒麦」のたとえを想起させる。メッセージはかなり異なると思われる。
Mt4:15,16 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
Is9:1, 2 からの引用である。すでに、異邦人のガリラヤと「異邦人」のただ中での福音宣教が語られている。ユダヤとくにエルサレムでの宗教改革とはことなる活動だったのだろう。異邦人のただ中でのしかしユダヤ人宣教について考えさせられる。
Mt5:3, 4 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
イエスについてきた群衆は、このメッセージを単純に福音と感じただろう。しかし、その中味は、非常に深いもので「みもとに近寄ってきた」弟子たちに教える内容だったろう。メッセージの深さには毎回毎回読むたびに驚かされる。
Mt6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
ひとつひとつは、どれも、How-to のような技術的な項目に見える。しかし、その一つ一つに理由が付されている。それによって、ひとつひとつに考えさせられる内容になっている。
Mt7:12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
7節からの結論として、11節に「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」と書かれている。天にいますわたしたちの父なる神のようになるのであれば、この節は多少のずれがある。「何事でも人々からしてほしいと望むこと」と人の必要ではなく、自分にてらして表現されている。また「そのとおりにせよ」と「良いもの」が置き換えられている。人が本当に望むものはわからないということ。そのひとにとって良いものは人間には分からない、与えられないということが背景にあるのだろう。その背景のもとでこの節は「これが律法であり預言者(旧約聖書)」としている。「律法」と「預言者」はその意味で、完全なものではないと言うことでもあろう。
Mt8:26 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
Mt14:22-33 の水の上を歩くイエスの箇所とともに、自然をも従わせるイエスの奇跡とも取れる。しかし、14章の記事は、この記事に比較して長く、注意深く書かれており、正確に読めば、他の解釈も可能で、かつ自然をも従わせること以外に中心があるように思える。9章にマタイが弟子となる記事があることを考えると、この部分は、受け売りで、伝えられた事実だけが書かれているのかも知れない。つまり、直接証言ではない。事実としてよりメッセージとして取るべきかも知れない。
Mt9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
他の人には見えなかった世界なのだろう。しかし、たとえば、2節の「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」、13節の「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」、22節の「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」、24節の「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」に励ましをうけ、いのちを得たひとから、希望を与えられる。
Mt10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす」のは「権威」であることにまず驚かされる。それだけ、神を信頼していたと言うことだろうか。すべてのことの背後におられる神とは、やはり少し違う。
Mt11:4 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
このやりとりは興味深い。群衆には、ヨハネを限定的にではあるが、賞賛し、さらなる奥義の一部が示される、しかし、ヨハネには、直接は伝えない。単に、一部の真理で、満足することがないようにすると言うより、ヨハネもふくめ、本当の救いは、神のこころをこころとして生きることは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」とよびかけるイエスについて行くことなのだろう。おそらく、十字架の前だからではなく、つねに。それが、天の父なる神のみこころに生きることとして、示されていることであるように思う。イエスの謙虚さ、へりくだった生き方、それを思い、共にくびきを負う。
Mt12:49, 50 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
父だけは、別。天の父なる神の家族となること、それがみこころをおこなうことなのだろう。
Mt13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
これが「さいわい」となるかどうか、それは、このつぎで受け手のことが書かれている。土地をたがやしなさいということではないのかもしれないが。ほんとうに、さいわいをうけとりたい。
Mt14:2 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。
罪によって、ここれがとらわれ、呪縛されているような状態になっているのだろう。そこから解放され、真理に近づくためには、まず、罪を悔い改めなければ、いけない。まず、認識している罪を。
Mt15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
この言葉をどう取るかは、議論があるところだろう。しかし、この婦人は、異邦人、しかしイエスを主とあがめ、娘のいやしを願っている。このあとも、ユダヤ人の異邦人に対する宗教的蔑視のなかで生きていかなければならない。このイエスのチャレンジを乗り越えなければ生きていけない現実をも乗り越える信仰が求められたのではないだろうか。ひいき目過ぎるだろうか。
Mt16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
「そんなことがあるはずは」ない。気持ちはよくわかる。しかし、それを単に不吉なこととだけとらえ、その意味、背景を考えられないのであれば、自由とは言えない。やはりなにかにとらわれていたのだろう。ペテロにとってそれは何だったろう。このときがずっと続けばよいということだろうか。
Mt17:20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
10:1にあるように弟子たちが授けられたのは権威である。そのような力を所有したのではない。神に信頼する以外に、道はない。いやされるのは、神様だから。
Mt18:24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
1タラントは6000デナリ、1デナリは兵卒1日の給与。一万タラント、いまなら、1兆円、そこまでいかなくても、1人の人ができる借金ではない。一年で 200日働くとすると、30万年分の給与となる。
Mt19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
イエスの答えは「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか、よい方はただひとりだけである」。神のみこころがよいことで、それは神に聞くことといういみだろうか。しかし、おそらく、このひとの意識は、具体性をもった「こと」だろう。結局、その答えは受け入れられない。なぜだろうか。かみのみこころに生きることに、生活が直結していないのだろうか。多くの先のものはあとになる。
Mt20:16 このようにあとの者は先になり、先のものはあとになるであろう。
19:30 とこの節の間に、ぶどう園の農夫のたとえが挟まっている。このあとには、イエスの死に方、そしてゼベダイの子らの母の話がでてくる。19:16-22 の金持ちの青年の話などとも、関係し、多くの示唆に富む。イエスは、なにを一番伝えたかったのだろう。神の主権に目をむけられない、人間の考えのあやまった方向だろうか。
Mt21:7 ろばところばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
「主がお入り用なのです」(v3) この状況では、イエスはろばに乗られたであろう。すると、ころばは何のためか。なにかの象徴だろうか。じっくり考えたい。
Mt22:34 さてパリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
ここでのパリサイ人たちは、友好的に感じる。いろいろなパリサイ人がいるということだろうか。41節にもういちど「パリサイ人が集まっているとき」と出てくる。イエスについて、議論があったのだろうか。律法学者とは区別しているようだ。
Mt23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
8節には「先生」についても書かれている。ことばについても、調べてみたい。先生は、指導は、教師は、職業人か。ここで、明確に、キリストと言い切っていることは注目に値する。イエスの意図と、マタイ伝記者の意図を考えたい。
Mt24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
週末だけを考えなくてもよいのかも知れない。忠実さとは、何であろうか。考えさせられる。これが、25章のテーマだとすると、しっかり学びたい。
Mt25:3 思慮の浅い者たちは、あかりを持っていたが、油を用意していなかった。
24章の「思慮深いしもべ」をうけており「思慮深さ」がまずは、問われている。「あかり」「油」の意味するものを詮索するよりも重要な事なのであろう。
Mt26:25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
この「いや、あなただ」のギリシャ語表現をもう一度、しっかり理解したい。イエスは、なにをユダにつたえ、ユダはなにを受け取ったのだろう。そして、それは、他の弟子たちにもわかったのだろうか。福音書によってすこしずつ書き方も異なる。
Mt27:24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末するがよい」。
なぜ、この一文があるか定かではないが、ピラトの持っている権威は、神から与えられたと考えると、この言葉で「責任がなくなるわけではない」むろん、群衆たちの責任がなくなるわけでもない。ピラトは暴動を嫌ったことは確かだろう。
Mt28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見に来た。
「ほかのマリヤ」と書いたのは何故だろうか。27:56 には「その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。」とある。ここでどのようにして名前を選んだのだろう。当時の人に伝えるメッセージがあったのか、それとも、27:56 をうけての省略か。

BRC2013(2)

Mt1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
マタイ記者のイエスというひとの中心的表現である。このあと、このことを見ていこうということだろう。
Mt2:23 ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。
これは、どこからの引用か明確ではない。みなが、聖書を持っている時代ではない。この書の意図として、特に、最初の部分において、預言の成就を強調する事が重要だったからか。
Mt3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
これが基本的に、ヨハネのメッセージだったろう。そして。マラキ3:1-3, 4:5,6 などをみても、その意識が高かった事は、間違いないだろう。しかし、4:5 には、余韻がある。
Mt4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
サタンの三つのチャレンジにすべて「書いてある」と答えている。神の子スーパーパワーで答えるのではなく、われわれにも答えられる方法で答えられたのだろうか。自らを絶対的な権威としないためか。それこそが「神の口から出る一つ一つの言で生きることか。このあとのすべてを代弁している肉を持って生まれた神の子の言として受け止めたい。
Mt5:15,16 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
16節には「あなたがたの光」とあるが、励ます為にそのように言われているだけで、自分が創り出している光ではない。エミール・ブルンナーの説教のように、そのカンテラの周りに自分の名前をペンキで書き、あかり自体が見えにくくしていてはいけない。あかり自体は、神様から来るもの。そのあかりは、隠しておいてはいけないだけではなく、自分という覆いによって暗くしてもいけない。
Mt6:23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
地上の富の問題で、突然このことが現れるのはすばらしい。本質は、目、こころなのだろう。
Mt7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
イエスのメッセージは「悔い改めよ、天国は近づいた」(4:17) 7章ではさばきのことが書かれ、次がこの言葉である。それは、自分にはできません。という人に、求めよと言っているのだろう。自分で門をあけるのではなく、あけてもらうのである。新共同訳では「開けられる」自動的な印象をうける。しかし、自分で開けるのではないのだろう。
Mt8:34 すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
この章にはすでに多くの要素が含まれている。そして最後は、この拒否である。日常をかえる事が恐ろしいのか。真実に向き合う事を恐れるからか。
Mt9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
イエスは無関心の人のことは、責めなかったのかもしれない。時が必要な事もあるから。Mt8:34 にも何もイエスの言葉が記されていない。
Mt10:5 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
まず、「イスラエルの家の失われた羊」(v6) のところ、という意味と、まだ、異邦人、サマリヤ人の町に宣べ伝えるときになっていないということと二つのメッセージが入っているように思われる。前者は救済の歴史、後者は、十字架上での贖罪の時を待っているからか。もしかすると、単に、トレーニングの為だったかもしれない。
Mt11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
「心のへりくだった者」が鍵かもしれない。ひととなられた神。その方と共に歩む事が学ぶ事。
Mt12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
Is 42:3 からの引用。この章を見ていくと、空腹、病、障がい、悪霊、これらに悩む人たちの近くにイエスはおられる。最初の「彼が正義に勝ちを得させる時まで」はなにを意味するのだろうか。神の国の支配が確立されるときとつながるのであろう。
Mt13:41,42 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
不法を働く以外に、つまずきとなるものが入っている。自分が、そのようなものかどうか、どう検証したら良いのだろうか。
Mt14:14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。
「深くあわれんで」(splagchnizomai) は、Mt9:36, 14:14, 15:32, 18:27, 20:34, Mk1:41, 6:34, 8:2, 9:22, Lk 7:13, 10:33, 15:20 で使われている。その憐れみの表現がまずは、病をいやす事だったのだろう。はらわたが傷つく。それほどまでに同一化する、人にできるのだろうか。
Mt15:31 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
なぜ、イエスは「イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(v24) にも関わらず、イズラエルを出られたのだろう。反対がすでにあったこと。弟子達の教育が必要だった事。しかし、この異邦人の女を憐れまれる、このことの為だったかもしれない。v24 はすでに、本質ではなかったのかもしれない。
Mt16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
イエスと共に戦いに向かう覚悟を彷彿とさせる。このときには、実際、その事も意味していたのかもしれない。しかし、イエスの命に生きるもの、イエスの説く真理に人生を賭けるものともとることができる。イエスにつくことは、なにかいままで大切にしていたものを失うことを想起させることは、確かだから。
Mt17:27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
イエスがさけたことは「つまずかせないとは」どのような事だったろうか。信仰生活を大切にしている人たちにとって、当時、神殿は、特別な意味をもち、その税を集める仕事は、誇りをもってあたる仕事だったろう。それらを超越しているようにも思えるイエスの教えを前にして、戸惑った人たちも多かったろう。自由の故に信仰からはなれる事のないように、という配慮もあったかもしれない。もうすこし、言語化したい。
Mt18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
1節の「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。」から始まっている。これには、多くの要素、問いが関わっている。しかし、イエスは、そのように問う批判ではなく、本質で答えている。「自分を低くする」その前に、「天国で」に関連づけて「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」と言っている。応答の内容だけでなく、この応答への向かう方向性にも、驚かされる。
Mt19:21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
これは16節の「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 からスタートしている。この節では「もし、永遠の命を得たいなら」とは答えていない。それよりも、「どんなよいことをしたらいいでしょうか」をいくつかに分けて答えている。さらに「そして、わたしに従ってきなさい」と結んでいる。どのぐらい、この青年は、メッセージを受け取れたのだろう。そして、わたしは、どうだろうか。
Mt20:14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
ここでは「あたな」に語りかけている。そして、この主人の「してやりたいこと」が書かれている。16節にあるように「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」の先は自分が先だと考えてしまっているのだろう。別にあと先は関係ない。
Mt21:15,16 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
Mt21:41-46 を見ると「ダビデの子」について議論されている。しかし、主は、心を見るのだろう。ここでの対応では「ダビデの子、ホサナ」を批判していない。教育的なのか。人には、客観性を欠くようにも見える。整理しておきたい。
Mt22:21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
この章のいくつかのイエスの応答には、驚かされる。賢さを越えている。しかし、これも、神の子のなせる技と簡単に「切り捨て」るのではなく、十分な思考と祈りの結果とみることもできる、その事により、私たちの責任回避の基盤を崩し、ひとり一人が誠実に、世の中の問題と向き合う基盤を築く事にもつながる。
Mt23:1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
これは、律法学者やパリサイ人に語った言葉ではない。群衆や弟子達に、戒めの為に語っている。これを、律法学者やパリサイ人への批判とだけとれば、イエスの意図は全く伝わらないだろう。
Mt24:42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
44節には「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」そのときは、必ず来ることとともに「いつか」を知る事が重要ではなく「目をさまして」いつも「用意している」ことがたいせつだと言っているようだ。それが肉体を持ちつつも、今、天国(神様の支配のもと)に生きる事なのかもしれない。
Mt25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
目をさましていること、用意していることが、このしもべたちのような差となって現れるのだろう。それが、小さなことに忠実、この世のことに忠実。そして、しかしながら、それは絶対的な価値ではないことも知る事であるように思う。
Mt26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
この悲しみの中、弟子たちに、打ち明けたのは、私たちのためだったろう。愛し合うため。隣人の悲しみを、自分の悲しみとするため。弟子達が、このとき、それができなかった事が、あとで、生かされたのではないだろうか。
Mt27:25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
そうなったのだろうか。実際は、そうではない。民はこのように言ったにもかかわらず、その血によって、罪があがなわれている。それが聖書のメッセージである。神の一方的なあわれみと、恵みを感じる。
Mt28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
なぜこの女達にまず最初に伝えられたのだろうと考える。まずは、探しにいったからだろう。なにかを求めて墓に言ったからかもしれない。しかし、この節も証言しているように、おそらく神の側には、そのようなことで優劣をつけるような考えは全くない。だれが、そこに遣わされていたとしても、このことが伝えられ、そのひとがその事を担う事になる。大切な任務ではるが、それによってその人の価値が変わる訳ではない。


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マルコによる福音書

マルコによる福音書(1)

マルコによる福音書は共観福音書の二巻目です。

マルコによる福音書の著者がマルコであることを疑う学者は殆どいないようです。マルコはギリシャ語の発音ではマルコス(語尾変化もします)となり、聖書には、マルコスという名前の人も出てきますが(ヨハネ18:10)新共同訳、口語訳、新改訳とも福音書名では、マルコとしています。新共同訳はカトリックとの共同訳で、最初はなるべく言語の音に近い方をとるという取り決めでマルコスで進んでいたようですが、日本語で最も受け入れられているマルコに最終的にはなったようです。最初に出たのは「ルカスによる福音書」でそこに出てくる人の名前になじめないと批判が出て、今の訳になったとのことです。カトリック、プロテスタントで、使われてきた訳語をある程度統一しようとしたわけですが、なかなか難しかったと言うことでしょうか。

さて、このマルコは、上に引用したヨハネ18:10のマルコスではなく、マルコという名前で8回、ヨハネという名前で1回出てくる、ヨハネ・マルコと呼ばれている人です。使徒言行録に記述されている、最初の異邦人伝道旅行に、バルナバ、パウロ二人のリーダーについていった人で、バルナバのいとこだと書かれています。

マルコ:使徒 12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ 4:10, 第1テモテ4:11, ピレモン24, 第1ペテロ5:13
ヨハネ:使徒 13:13

最初にでてくるのは、使徒言行録 12章 12節
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。

エルサレムでの集会所として有名な家の子どもだったようで、学者によっては、最後の晩餐もこの家でされたのではないかと考えています。

聖書の最後に出てくるのは、ペトロの手紙一 5章 13節
共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。

ペテロとの近い関係が表現されていますが、ペテロの通訳として伝道旅行に同行し、それをもとにこの福音書を書いたとされています。根拠の一つは、前回も引用した、パピアスの証言です。これは、それより少し後の教父といわれているキリスト教指導者が書き残した物です。

パピアス「断片集」2.15.

「これも長老が言っていたことだ。マルコスは、ペトロスの通訳者(hermeneutes)であって、記憶しているかぎりのことを、精確に書いた、ただし、主によって言われたことにしろ為されたことにしろ、順序立ててではない。なぜなら、主から〔直接〕聞いたのでもなく、これに付き従ったのでもなく、〔彼が付き従ったのは〕わたしが謂ったように、後になって、必要のために教えを広めたペトロスであって、主の語録のいわば集成のようなことをしたのではなかった、その結果、マルコスはいくばくかのことを思い出すままに書いたが、何らの過ちも犯さなかった。というのは、聞いたことは何ひとつ取り残すことなく、あるいは、そのさいに何らか虚言することもないよう、その一点に配慮したからである」。
以上が、パピアスによって記録されたことである。マルコスについて。

マルコによる福音書は、大体次の区分に分けられます。

  1. 宣教準備 1:1-13
  2. ガリラヤ伝道 1:14-9:50
  3. エルサレムへの旅 10:1-52
  4. 十字架までの一週間(受難週)11:1-15:47
  5. 結語 16:1-20
最後の一週間の重みが大きいですね。(以下引用はすべて日本聖書協会新共同訳)この福音書の最初は、
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
となっています。最初から「神の子」と宣言しています。イエス・キリストの福音 Good News の始めとしているのです。

神の子、神の聖者との証言は、天から、そして、汚れた霊の証言によってもなされます。

1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。

5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」

そして、最後には、百人隊長(ローマ軍の下士官)の証言として書かれています。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
この福音書の最後は、空の墓証言となっています。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
マルコによる福音書の最後を見てみると、なにか不思議な感じがします。いくつかの結語が書かれていたり、注がついていたり、括弧に入っていたりするのです。これは、写本によって、異なることを意味しています。その部分を抜いて考えると、最後は、空の墓となると言うことです。

マルコによる福音書で、イエス自身は自分をどう呼んでいたのでしょうか。それは、人の子という言葉です。なにか変な言葉ですよね。
2:10, 2:28, 8:31, 38, 9:9, 9:12, 9:31, 10:33, 34, 10:45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62
これは、旧約聖書のダニエル書(7:13, 10:16)で特別な意味を持った言葉として出てきています。エゼキエル書には、多数使われており、預言者自身を表しています。(エゼキエルが多用する人の子 2:1, 3, 6, 8, 3:1, 3, 4, 10, 17, 25, 4:1, 16, 5:1, 6:2, 7:2, 8:2, 6, 8, 12, 15, 17, 11:14, 15, 12:2, 3, 9, 18, 22, 27, 13:2, 17, 14:13, 15:2, 16:2, 17:2, 20:3, 4, 27, … )

この人の子という言葉をつかってイエスは自分自身をどのようなものと言っているでしょうか。一箇所だけ引用してみましょう。

10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、神の子なのか、どのような人の子なのか、マルコはイエス自身をどのように描いているのか、読み取って下さい。

最後に少しだけ、ペテロ由来としての、マルコによる福音書の特徴を書いておきます。

  1. ペテロが弟子になったところから書き出し、イエスの誕生にはふれない。
  2. ガリラヤ伝道が中心で、特にペテロの出身地のカペナウム周辺が中心
  3. ペテロにとって好都合なこと、たとえば、ピリポ・カイザリアでの祝福や、水上歩行などの記録は省かれ、ペテロの否認などは、特に詳しく述べられている。(ペテロの信仰告白)
  4. ペテロのカイザリアでの説教との対比 使徒 10:34-43
マタイのときにも書いたように、福音書として最初に書かれたとされる、マルコによる福音書、素朴とも言えますが、イエスの行動が生き生きと描かれていると思います。

マルコによる福音書(2)

通読は、それなりに、進みますが、それでも、たとえば、福音書の場合、イエスの生涯のどのあたりにいるのかが分からず読み進めることもあります。梗概を記していますが、それは、全体の流れの中で、通読箇所の位置づけを大体でよいですから、把握して読んでいただきたいからです。もちろん、分け方はいろいろとあり、マルコによる福音書も以前引用した「パピアス断片集」にあるように「順序立ててではない」とありますから、Chronological Order だとして読むことにも注意が必要ですが。

いのちのことば社「新聖書注解」山口昇

梗概

メシヤの福音

  1. 準備期間 1:1-13
    1. 表題 1:1
    2. バプテスマのヨハネの出現 1:2-8
    3. イエスの受洗 1:9-11
    4. 荒野の誘惑 1:12,13
  2. 初期の伝道 1:14-3:6
    1. 伝道活動の開始 1:14-45
    2. 学者たちの論争 2:1-3:6
  3. 伝道の最盛期 3:7-8:30
    1. イエスに対する誤解 3:7-8:30
    2. たとえによる教え 4:1-34
    3. いろいろな奇蹟 4:35-5:43
    4. ガリラヤ湖周辺での伝道活動 6:1-56
    5. 神の戒めと人の言い伝え 7:1-23
    6. いろいろな地方での伝道活動 7:24-8:30
  4. 十字架を目ざして 8:31-10:52
    1. 苦難の第一回目の予告 8:31-9:29
    2. 苦難の第二回目の予告 9:30-50
    3. 苦難の第三回目の予告 10:1-52
  5. エルサレムでの活動 11:1-13:37
    1. エルサレムに入る 11:1-25
    2. エルサレムでの教えと論争 11:27-12:44
    3. 終末についての講話 13:1-37
  6. イエスの受難物語 14:1-15:47
    1. 最後の晩餐 14:1-25
    2. ゲッセマネから逮捕まで 14:22-52
    3. 裁判から埋葬まで 14:53-15:47
  7. イエスの復活 16:1-8
  8. 末尾の補足 16:9-20

マルコによる福音書(3)

マルコによる福音書は話しの展開も軽快で、たとえば「すぐ」「すぐに」ということばだけでも、新共同訳で調べても31回あらわれます。口語訳ではさらに多くなっています。パピアスの断片集から判断すると、イエスの弟子であるペテロの通訳としてペテロが語ったことを記録したようですから、語り口調で書かれているのかもしれません。マルコによる福音書1章でも、21節から34節まで一続きの一日のこととして記されています。ある一日が眼前によみがえる効果があるのかもしれません。

前回マルコによる福音書「梗概」を引用しましたが、それを見てみても、全体16章のうち、11章からの6章が最後の1週間にかけられています。8章の終わりで、エルサレムでの受難のことが語られ、それからは、エルサレムへの道であることが強調されていますから、ほぼ半分が十字架への最後の数週間についてかかれているともとれます。その起点を、8章27節とすると、ピリポ・カイザリアというガリラヤよりかなり北の町での出来事です。27節から33節まで口語訳で引用します。

27:さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
28:彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
29:そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
30:するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
31:それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
32:しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Mark 1:8 私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。
ヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマ。イエスのバプテスマ、または、やはり、促すものは、悔い改めかもしれない。しかし、それは、聖霊によるのであれば、神様の霊によって、つねに、語りかけてくださるものなのだろうか。かたくなにならないように、受け入れられるように。その鍵は、イエスと共にいること、イエスに従うことだろうか。
Mark 2:19,20 すると、イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。
マタイによると、この質問は、ヨハネの弟子たちがしたことになっている。ヨハネはすでに、捉えられ、ある意味で、彼らの花婿は、取られている。イエスはまだ弟子たちと一緒にいるが、それが取られる日が来る。それは、ヨハネの弟子たちへの配慮のように思われる。このあとの、「誰も、真新しい布から布切れを取って、古い服に縫い付けたりはしない。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れが古い服を引き裂き、破れはもっとひどくなる。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(21,22)が、ヨハネの弟子たちに言っているのであれば、余計、意味がはっきりしてくるように思える。
Mark 3:28,29 よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」
聖霊の働き、あまり教義から出発して考えない方がよいように思う。教義に詳しい人たちは、それこそがイエスを通して教えられたことだと考えるのだろうが。イエスは、もっと、ナイーブなこころで、答えたのではないだろうか。一人一人に神様は、聖霊をとおして、働いておられると考えておられたのではないか。それを、日々実感していたのかもしれない。
Mark 4:31,32 それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
成長を与えてくださるのは、神様だろう。しかし、それが自然にそうなっているのか、神様の介入があるのかは、わからない。土壌の違いもあるのかもしれない。これも、複雑系なのかもしれない。ここでは、とても、小さいものが、大きくなることのたとえである。イエスはそれを信じて、メッセージを語っていたのだろう。
Mark 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」
この章には、印象的な話が連続して記されている。レギオンに取り憑かれた人、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女。イエスは、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、『私の衣に触れたのは誰か』と言われた。」(30)と言われている。力が出ていった。エネルギーがなくなったのを感じたのかもしれない。しかし、それを、引用句で補っている。ここに、病を負う、イエスの姿がある。犠牲は十分にあるのだろう。
Mark 6:24 そこで、少女は座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
ヘロデの妻はこれで幸せになれたのだろうかと考えた。なにが幸せかよりも、目障りだったのだろうか。わからない。これで一生幸せになれるとはとうてい思えない。目前の批判者を消すということか。なにかとても寂しい。そのような精神生活は、食べ物のために日々、毎時毎時を生きざるを得ないひとと同じに見える。
Mark 7:14,15 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」
外から人に入って、問題を起こすものは、たくさんある。ただ、そのことと、宗教的な清さとを混乱してはいけないと言っているのだろう。ただ、この箇所は、「そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(2)から始まっている。衛生の問題と取ることができないことはない。ここも、弟子たちを、守るために、議論をはじめ、より本質的なことに話を導いていっているようにも思われる。
Mark 8:34,35 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。
ここは、弟子の覚悟について語っている。しかし、イエスに従うという意味では、真理を求める人すべてに適用されるかもしれない。そして、ここに書いてあることが、まさに、従うということなのだろう。しかし、「自分を捨て」は、ある意味ではアーメンと言えるが、そのままは、受け入れられない。イエスは、どのような意味で言っているのだろうか。
Mark 9:38,39 ヨハネがイエスに言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。
いくつもトピックがあり、通読で、みな考えるのはむずかしい。ここにあるのも一つの真理ではあろうが、判断はむずかしいだろう。いろいろな場合があるのだから。イエスは、ここに記されていない情報を持っていたのだろうか。そうかもしれない。同時に、一旦は、従わなくても、従うかもしれないとの期待が込められているのかもしれない。
Mark 10:29-31 イエスは言われた。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(23b)とイエスが語ったところから続いている段落である。イエスのさまざまな配慮を感じる。すぐに、弟子たちをしからず、しかし、注意すべきことを述べる。イエスは、弟子たちの成長を望んでいたのだろう。わたしたちの理解をも。
Mark 11:30-33 ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」
群衆は「ヨハネは本当に預言者だと思っていた」ことを考えてみたい。イエスよりも、人気は高かったようにも見える。ユダヤの外でも、バプテスマのヨハネの知名度は高かった。ひとつには、旧約の預言者と近い方法で語り、生活したからか。祭司の子でありながら、それを捨てたことに、既存勢力への不満が民にあったからか。悔い改めの必要を、受け取ることができたからか。ひとは、自分が惨めな状態であることは、知っている。しかし、どのように、生きるか、神の子として、生きることに、焦点が置かれている、イエスには、ついていけなかったのかもしれない。理解できるのは、現実の病や悪霊に疲れている人の癒しなど。
Mark 12:32-34 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
最後の「あなたは神の国から遠くない」には、いろいろな解釈がありうるだろう。そこで、考えてみることにした。この律法学者の答えは、この枠組みでは、正解だろう。同様な記事が、マタイ22:34-40と、ルカ10:25-28 にある。この後者は、善きサマリヤ人のたとえに続く部分である。つまり、答えとしては正しいが、どのことばをどう生きるかが問われているように思われる。それが、遠くないが、それで終わってはいけないということだろう。みことばに生きることに挑戦することに、つねに招かれている。
Mark 13:1,2 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう。」イエスは言われた。「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」
終末論とも言えるものが、このあと展開される。正直にいうと、そのことにわたしは懐疑的である。まず、引用句において、物質的なことに目を向けている弟子に、そのようなものは、崩れ去ると言っている。そして、このあとも、苦難の時が起こることは言っているが「人に惑わされないように気をつけなさい。」(5)「また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13)「主がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(20)「気をつけていなさい。」(23b)このあと、再臨を思わせる箇所はある。丁寧にみていきたい。
Mark 14:33-35 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、
このあとには「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(36b)の祈りが続く。今回は、「この時を過ぎ去らせてくださるように (καὶ προελθὼν μικρὸν ἔπιπτεν ἐπὶ τῆς γῆς καὶ προσηύχετο ἵνα) εἰ δυνατόν ἐστιν παρέλθῃ (παρέρχομαι: i) to go past, pass by, to come near, come forward, arrive) ἀπ’ αὐτοῦ ἡ ὥρα,」に目が止まった。過ぎ去るとは、どのような感覚なのだろう。苦しみの一つの表現なのだろうか。よく考えてみたい。
Mark 15:8-10 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。
悲しさも感じる。ピラトは、祭司長たちは、妬みからイエスを引き渡したと考えている。群衆たちは。しかし、ここでも、祭司長たち、民の指導者のことばに抗(あらが)ってまで、違う意見を言わなかったということか。このあと、「しかし、祭司長たちは、バラバのほうを釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』」(11-13)と続く。そして、最終的には、「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(15)と結んでいる。積極的には、責任を取らないということではあったろう。
Mark 16:8 彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
ここが、一番、古い、写本の最後である。復活の記事を、切り裂いたと考えるのが自然だろう。どのような気持ちだったのだろうか。自らが信じていない、幻ではと考えていることを、含めたくなかったのか。それとも、何回か、書き換えがなされたのか。確かに、現存の結びは、整えられ過ぎているようにも見える。

BRC2023(2)

Mark 1:23,24 するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
他者が、イエスによびかけた最初だろうか。ここでは、ナザレのイエスとなっている。このあと、規定の病を患っている人は、ひざまずいて願い「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言っている。(41)ここは、マタイ、ルカの並行箇所では「主よ」となっている。ひざまずく行為からも、ある程度表現されているが、やはり、注意して書いているマルコとは違いも感じる。イエスを当時の人がどのように認識していたかは丁寧に見ていきたい。
Mark 2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
背景設定をどう考えるかが重要である。マタイでは「そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、」(マタイ9:14)である。つまり、この前のアルファイの子レビと書かれている、マタイの家での宴会のときということであり、連続しているように書かれている。マタイがそう書き残したとすると、真実味は高いだろう。そして、そこには、ヨハネの弟子たちが来て言ったことが書かれており、マルコではそれがぼけてしまっているように見える。つまり、ここは、断食はたしかに、ファリサイ派のひともしていたのだろうが、バプテスマのヨハネの弟子たちがきたときに語ったことと理解するのが順当だろう。すると、このあとの、花婿が取り去られる記事も、古い、新しいに関する記述も、しっくり来ると思う。丁寧に読んでいきたい。
Mark 3:9,10 そこでイエスは、群衆に押し潰されないよう小舟を用意してほしい、と弟子たちに言われた。イエスが多くの人を癒やされたので、病苦に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、押し寄せてきたからである。
イエスが小舟を用意した記事は興味深い。ペテロがそのように語ったのだろう。そこに、ペテロも関与しているので光景が浮かんだのだろう。イエスは、説教だけをする人ではなかった。ひとびとに仕える、奉仕者だったのだろう。それが、このように記述されている。そのいみでも、πολλοὺς γὰρ ἐθεράπευσεν とあるように、θεραπεύω、すなわち、癒やすということばではあるが、もともとの意味が、仕えるという動詞が使われていることはとくに重要であると思われる。マルコでは、癒やし人イエスというより、仕える人イエス、権威をかさに着る、律法学者、パリサイ人、祭司、サドカイ人などとは、ことなる活動が特徴的だったのだろう。
Mark 4:33,34 イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
マルコには、他の共観福音書と比較して、非常に、たとえが少ない。しかし、引用句のように語っている箇所もある。ペテロ由来であることに関係しているのではないだろうか。ペテロは、イエスがどう行動されたかに関心があり、自分が舟をどう動かしたかなどを明確に体で覚えていて、そのことを伝えている。たとえは、理解しにくかったのかもしれない。しかし、この章のたとえのように、ペテロが伝えたものもある。「また、イエスは言われた。『このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。』」(13)ともあり、これだけではないが、最初は、そのような簡単なものだけ、心に残ったのかもしれない。あとは、マタイなどの記録に依る部分が多いのだろう。
Mark 5:41-43 そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。十二歳にもなっていたからである。それを見るや、人々は卒倒するほど驚いた。イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じ、また、少女に食べ物を与えるようにと言われた。
印象的な箇所である。アラム語が含まれ、臨場感がましている。そこにいたもの(ペテロたち)の耳にも、強く刻まれたのだろう。そして、ここでは、「卒倒するほど驚いた」とも表現されている。驚きの大きさである。この前を読むと、このようなことは、全く期待されていなかったのだろう。そして、最後の食べ物を与えるよう命じたことも印象的で、単なる奇跡ではないことを伝えているように思われる。実際に起こったことなのだろう。
Mark 6:31-33 イエスは、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気付き、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた。
興味深い記事が続く。この五千人の給食の記事は、ヨハネにも書かれていて、一つの転換点にもなっている。この転換点がどこで起こったかは、不明である。ナザレで、預言者は自分の故郷で敬われない(4)との自覚することになったときか、十二弟子を派遣して、一人祈っておられたときか、洗礼者ヨハネが殺されたことを知ったときか、群衆が飼い主のない羊のような状況にあることを見たときか、そのあとに、祈っておられたときか(45)、そのあとの群衆の様子を見たときか。複雑に交錯し、おそらく、弟子たちはまだ気づいていない。わたしたちにも、隠されている。しかし、少しずつ自覚しておられたのだろう。おわりについて。
Mark 7:14,15 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」✝
使徒10:15,11:9 との関連もあり、シリア・フェニキアの生まれのギリシャ人の女性の記事の前に置かれているのだろう。それ故に、ここだけは、詳しくなっている。ペテロが強調したと確定できるかは不明としても、ペテロ、マルコの周辺では、その理解が、一定していたことは確かなのだろう。それが、使徒15のエルサレム会議でも、反映されている。一部には、抵抗があったことだろうが。
Mark 8:34,35 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書のほぼ中程にある章である。多くのことが詰まっている。分析は難しいだろうが、重要な章だと認識している。受難告知のあとに語ったイエスの言葉が引用句である。まず、驚くのは、この内容を、「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」語られたことである。弟子たちだけではなく、かえって逆の表現になっているのは、なぜだろう。そして、十字架ということばは、ここで初めて出てくる。あとは、マルコでは、15章まで登場しない。実際に、この時点でイエスが言われたかどうかは、疑問もあり、紛れ込んだとも言えるが、マルコやペテロの思いがここに詰まっているようにも思う。すくなくとも、ペテロや、マルコは、このように受け取って、人生を送ったのだろう。そして、それは、特別な弟子たちだけに求められるものではないことも意識していたのかもしれない。その十字架は、自分の十字架であり、自分の命をいきいきと生きる鍵でもあるものなのだろう。
Mark 9:1 また、イエスは言われた。「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
これは、どのようなことを表現しているのだろうと、議論があるのは、当然である。しかし、このあとに山上の変貌の記事あるので、それと切り離して考えるのは不自然だろう。つまり、このことばの一部は、この山上の変貌で実現しているということである。しかし、同時に、それだけによって実現したということでもないのだろう。この前の節にある「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」(8:38)と完全に切り離すことも、不自然だろう。弟子たちは、イエスに従うものの多くが、この時を待ち望み、おそれ、思い描いていただろう。それは、部分的に、一人ひとりに起こったのではないだろうか。そして、完全な形では、それは起こっていないと考えるのが自然ではないだろうか。イエスも、すべてを理解して、知っておられたわけではないかもしれない。そう考えるほうが自然である。
Mark 10:43-45 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
身代金(λύτρον)が使われている。贖いと訳される場合もある。福音書では並行箇所のマタイ20:28 にあるだけで、他に、贖いを表現することばは、使われていない。ここも、主題は、仕える(διακονέω)ために来たのだという部分なのだろう。たしかに、イエスの行動をみていると、そのように感じる。servant leadership ということばも使われるが、まさに、仕えることを主とされたのだろう。私の好きな、癒し(θεραπεύω)も、もともとは、仕えるという意味である。「さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(32a)の弟子たちが驚いた光景からも、決然としたイエスの姿が浮かび上がる。
Mark 11:29,30 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
エルサレム入城後の、最初の論争である。祭司長、律法学者、長老から「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか。」(28)と問われ、それに対する応答が、引用句である。いままで、イエスが、これほどまでに、バプテスマのヨハネ、ヨハネの洗礼について大切にしていたことを意識していなかった。ヨハネが、エルサレム内で、メッセージをしたり、議論をしたりしたかは不明だが、イエスが決然と、エルサレムに登場して、最初の議論がこのことであることは、注目に値する。まず、イエスが、バプテスマのヨハネの洗礼は、神からのものであることを認識していたことは、確実だろう。
Mark 12:10-12 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。/『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』」彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
エルサレム入城後ほとんど最初のこととして記録されている。実際の順番は不明だが、毅然とした態度が見て取れる。おそらく、弟子たちは、恐れただろう。そして、ここには、このことが、指導者たちへのチャレンジであることを、すぐに認識したことも書かれている。ここが、戦いの始まりである。
Mark 13:3-5 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
ここには、最初に弟子となったと思われる四人が登場する。アンデレが含まれているのは特記に値する。考えてみたい。この問は、イエスが、「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」(2b) と語ったことに結びついている。イエスは、世の終わりまで考えておられたのだろうか。疑問に思う。しかし、ここでは、しっかりとその問と向き合っておられる。ただ、結びは、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(37)で、ここに集約されているように思われる。そう考えると、ゲッセマネのことも思い出される。
Mark 14:8-10 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
ヨハネ12:1-8 では、イスカリオテのユダのことが、この前半の香油を注がれる記事にも登場する。香油の無駄遣いを咎めたのが、ユダとされている。ここでは、そのことは、書かれていないが、イスカリオテのユダの裏切りは、その直後に置かれている。関連性をほのめかしつつ、確定させていないようにも見える。無駄遣いを咎めたのは、またはそのように感じたのは、ユダだけではなかったのかもしれない。しかし、ユダは裏切っている。この違いは何なのだろうか。説明は難しい。
Mark 15:40,41 また、女たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この女たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、その後に従い、仕えていた人々である。このほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た女たちが大勢いた。
興味深いことが書かれている。6章3節でも支持しているように、小ヤコブとヨセの母マリアは、イエスの母マリアなのだろう。まず、マタイ27:56には「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」とあり、そして、ヨハネ19:25に「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」とある。ルカには具体的な名前はない。これからすると、サロメは、ゼベダイの子らの母であり、それは、イエスの母の姉妹ということになる。確実ではないが、可能性が十分高い。さらに、ここには、イエスと共にエルサレムに上ってきた女たちが大勢いたとある。男性は、いなかったのかもしれない。十二弟子以外は。とても興味深い。どのぐらいの数の女たちなのだろうか。
Mark 16:6-8 若者は言った。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」(1)とあり、女たちはこの三人だと思われる。特に親しかった、または近親者といってもよい存在だったのかもしれない。イエスをおそらく慕っていた、マグダラのマリアと、イエスの母と、その姉妹で、ゼベダイの子らの母である。その三人の証言で結ばれているのはやはり興味深い。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Mark 1:14,15 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。
マタイでは、イエスも、バプテスマのヨハネも「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節・3章2節)が第一声だったが、マルコでは、バプテスマのヨハネは「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(4)と紹介され、イエスについては、最初に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1)と始まるところからも、福音が鍵である。ただ、神の国が近づいたとも述べている。ニュアンスは少し違うように思う。福音は神の国が近づいたことに関係しているのだろうが、福音ということばを中心においている。福音がなにかは、明示的ではない。マルコで多く使われる「すぐ」は、マタイと比較すると、神の国が近づいたこととは、直接関係させていないようにも感じる。どうだろうか。
Mark 2:10,11 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」
人々は、一般的には、体の麻痺は、罪のため。麻痺を改善することは、人間にできるが、罪の赦しは神のみと考えていたのだろう。しかし、より本質的な、そして、それが事実かどうかではなく、このひとを縛っているものであれば、それを解決する。そこに福音があり、神の国が近づいたこと、そして、さらに、「悔い改めて、福音を信じなさい」と罪の赦しが関係していることを説いているのか。複雑でもある。「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」は力強い言葉である。それが福音を信じることに結びついているのだろうか。
Mark 3:28-30 よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
聖霊の働きを汚れた霊の働きだとすることを、冒瀆と呼んでいるのだろうが、単純にそれだけなのだろうか。「聖霊を冒瀆する」のは人ではないのだろうか。とりなしてくださる「聖霊」を冒瀆するという意味なのだろうか。救いを拒否するということと同じなのだろうか。ここで「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言った人の中に、知らないでそうした人と、聖霊を冒瀆しているひとといるのだろうか。それは、区別出来るのだろうか。正直よくわからない。
Mark 4:26,27 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
印象的なのは「どうしてそうなるのか、その人は知らない。」である。病気から回復するときもそうだが、なにが起こっているのかよくわからない、まさに自然にそうなったとしか言えないことが多い。そこに、神様が働いておられるのだろうが。最初の種蒔きのたとえも、「『種を蒔く人』は、神の言葉を蒔くのである。」(11)はたしかであっても、そのあと、どうなるのかわからないことがテーマのようでもある。自分たちがどうかしたから、種の良し悪しでもない。良い地かどうか、それはわからないのだろう。そして、どのように、芽を出し、実をならせるのかも。それが神の国のはたらき、神様の支配のもとで起こることなのかもしれない。謙虚でありたい。希望を持って。
Mark 5:15 そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
「正気になって座っているのが恐ろしい」という表現が興味深い。それだけ、このひとにたいする偏見が強かったのだろう。マルコの記述の仕方も、整然とはしていない。「度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。」(4,5)正直可愛そうである。わたしに、なにかできないだろうか。しかし、この状態でも生きていたということは、食事を与えるなどしていたひとがいたのだろう。家族だろうか。どうしようもない状態の時、なるべく関わらないようにするのだろうか。長年関わっている、児童養護施設も、一人ひとりどうしたらよいのか、正直よくわからない。理不尽さ、不合理さ、不公平さも感じる。そして、自分の無力感も。でも、ていねいに一人ひとりと関わっていきたい。愛をもって。どうしたらよいのだろうか。
Mark 6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
イエスはなにを深く憐れまれたのだろう。イエスは、神の国は近づいたことを確信していた。そして、神の働きを間近に見ていたのだろう。しかし、人々はイエスと弟子たちを追いかけ、休む暇も与えていない。安心できる場所、平安がないということだろうか。現代はどうだろうか。いまは、変化のときでもある。わたしはまだたいして生きていないが、子供の頃と今とは生活が一変してしまっている。そして、将来はよく見えない。考えられない。しかし、その難しさを人々はあまり真剣にとらえていないようにも見える。それで良いのだろうか。イエスは、何を深く憐れまれたのだろう。多少のヒントはわかっても、イエスの痛みはわからない。今なら、イエスは私達をどのように見、どのように思われるだろうか。
Mark 7:18,19 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、
「そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(2)から始まっている。つまり、食べ物についての議論ではない。しかし、引用句のイエスの言葉から「このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし」たと結論付けている。応用問題の解を見つけたようなものだろう。イエスが扱ったトピックにすべての答えがあるわけではないが、イエスが伝えようとしたことを理解して、身近な課題に応用していったのだろう。簡単ではない、歩みである。おそらく、わたしたちも、そのような様々な課題に囲まれている。誠実に、向き合っていきたい。
Mark 8:17-19 イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。
かなり厳しい口調に聞こえる。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」(33)は有名だが、引用句のように、その理解の遅さ鈍さを叱られたことが何度もあったのだろうか。おそらく、単に頭が悪いのではなく、イエスにとっては、本質的と思われることが欠けていたのだろう。それは、何なのだろうか。この「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」(15)については、わかるように思うが、「覚えていないのか。私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」と言われるとかえってわからなくなってしまう。不思議なものである。イエスは、わたしたちに、何を期待しているのだろうか。わたしにも「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と言われているように思う。
Mark 9:7,8 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた。
「イエスだけが彼らと一緒におられた。」は、「これは私の愛する子。これに聞け。」の「これ」は、イエスを指すこと、そして、エリヤや、モーセではないことを示しているのだろう。預言者または預言書や、律法授与者または律法ではなく。イエスという神が愛する子を、わたしたちは、学ぶものとして与えられている。それこそが大切なのだろう。それを、弟子たち三人に示されたことは重大である。
Mark 10:14,15 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
このあとの金持ちの男の話の中に「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」(20)とあり、ここに「少年の頃」とあることに気付かされた。この男の「少年の頃」は、子供のように神の国を受け入れていたのだろうか。それを否定するものはない。いまは「少年の頃」から継続していることだと思っても、実は、失っていることがたくさんあることに気付かされたのかもしれない。「子どものように」はなにを言っているのだろうか。この箇所からすると、しがみつくもの、神以外に、大きな価値をおくものがないことなのかもしれない。そのいみでは、染まっていないとも言えるのかもしれない。
Mark 11:23,24 よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
本当にそうなのか、イエスはこの通りに言われたのか疑問に思っていた。今もそれは不明であるが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)、すなわち、「神の国は近づいた」ことを、完璧に信じ、神様に信頼していることが、このようなことばになったのかと思った。一般的に、ひとは、そこまでは、神の御心がなることを信じていない。イエスについていくことは簡単ではないが、「神の国は近づいた」というイエスの中心的なメッセージを、ないがしろにせず、しっかり受け取りたいとは思う。
Mark 12:32,33 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」
律法学者の答えに、不満である。第一の戒めについては後半の「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(30)が、『隣人を自分のように愛しなさい。』につながっていると思うからである。イエスは、「あなたは神の国から遠くない」(34)と答える。律法学者に対しても、偏見なく答える、そして、イエスはおそらく、もっともっとメッセージを伝えたかったかもしれないが、適切なレベルでも、是認・肯定をしている。たしかに、わたしの解釈は、イエスが伝えたかったことであったとしても、一部分に過ぎないだろう。「遠くない」ということばは、是認と同時に、探究心を持ち続けることを奨める、奨励のようにも感じる。わたしも、不完全な理解をたいせつに、深めていきたいものである。
Mark 13:33,34 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである。
新約聖書が書かれた時代、終末を感じていたひとは多かったろう。そして、イエスのメッセージも「神の国は近づいた」であり、さらに、神の子と信じていた、イエスが十字架上で殺され、もう地上にはいない。そのなかで、終末の切迫感を感じたのは自然なことのように思われる。当時の状況について、十分は知らないが、ローマの支配のなかで、ユダヤで農耕・牧畜を主としていた世界は大きく変化していただろう。変化は、恐れをも生み出す。現在も変化の時代である。わたしたちは、どのように生きればよいのだろうか。「気をつけて、目を覚ましていなさい。」にどう応答すればよいのだろうか。委ねられたことに忠実に。それは、わたしがいま、考え・しているようなことで良いのだろうか。正直、よくわからない。終末が近くても、遠くても、神さまの支配を求めたい。
Mark 14:1,2 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、どのようにイエスをだまして捕らえ、殺そうかと謀っていた。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民衆が騒ぎ出すといけない」と話していた。
「だまして」ということばに驚いた。直接的には、「偽証」(57)などがこれに当たるのかもしれない。同時に、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13章33節)と命令されてすることではないと思った。そしてこの次にある「イエスがベタニアで、規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(3)は、まさにそのような行為なのかもしれないとも思った。ゲッセマネで、弟子たちが祈っていられなかったの(37,41)は、物理的にも目を覚ましていられなかった例だろう。例からもひろっていきながら、ことばの意味を理解していきたい。特に通読においては、深く読み込むことはできないが、流れの中で、どのようなエピソードが語られているかは、読み取ることが容易いので。
Mark 15:33,34 昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
このあと周囲の反応(エリヤを呼んでいる、酢をふくませた海綿をさしだす)が書かれ「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」(37)さらに、その後の様子が書かれている。マルコでは、イエスがなされたことは、基本的に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と大声で叫ばれただけである。詩篇22篇2節a のことばと酷似しており、この詩篇を暗証しておられらという説もあるが、大声で叫んだことを考えると、まさに、文字通りの意味で理解したほうが良いだろう。イエスは神との神学的理解で、イエスを理解することが多いため、イエスの苦しみや、イエスの絶望感を受け取ることは困難になりがちだが、おちついてじっくり考えるべきだろう。基本的には、「神の国は近づいた」ことを宣べ伝え、神の子として生きことはどのようなことかを周囲のひとたち、そして、わたしたちの前で生きてくださった。その最後のことばが引用句であることは、重い。他の福音書などに、他のことが書かれていても、最初に記されたマルコによる福音書、おそらく、ペトロが伝えたイエスの最後は、みな厳粛に受け止めたろう。わたしは、どう受け止めるだろうか。イエスの挑戦がわたしたちに委ねられたと今日は感じた。これからも、しっかり受け取っていきたい。
Mark 16:6,7 若者は言った。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」
マルコはこのあと「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8)とあり、最も古い写本はここで終わっている。切り取られた部分があるとして、いくつかの結びが加えられた写本があると言われている。まずは、8節までとして理解したほうがよいように思う。このあとに続いていたかもしれないが、少なくとも最初の形では残されていないのだから。引用句では3つのことが言われている。この墓にはおられないこと、復活されたこと、ガリラヤで会うこと。信じられないものもいたろう。しかし、イエスのことばと生き様が強く、こころに刻みつけられていたことは確かだろう。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」で終わらず、復活していることは確実なのだろう。それがどのような形での復活なのかは、当初からはっきりしなかったということだろうか。マルコによる福音書は、すくなくとも、これらのことは伝えている。ていねいに受け取りたい。

BRC2021(2)

Mark 1:11 すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1) マルコの最初である。バプテスマのヨハネのことが語られ、受洗、そしてこのことばがあり、サタンの試みがあり、宣教開始が宣言され、弟子を招き、安息日に会堂で教え、汚れた霊に憑かれたひとから悪霊を追い出し、シモンの姑をいやし、巡回宣教に入る。そして、規定の病を患っている人を清めるとここまでが、第1章である。非常にテンポが早い。時間もある程度たっていることが見て取れる。実際の宣教を書きたかったのかもしれない。それが当時中心にかかれていたのかもしれない。
Mark 2:5 イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
「数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」(1,2)と始まる。御言葉よりも実質的な苦しみの解決がまずはあるのだろう。痛み・苦しみを持っておられる方を前に言葉はなく、それを批判することはできない。たとえ、病がいやされても、問題は残ると考えるからだ。しかしここでは、「イエスは彼らの信仰を見て」とあり、病が癒やされ、さらに、神様との関係も回復されているように見える。「彼ら」は誰かという議論は何度か聞いたが、ここでは、彼らの相互の愛・関係なのかなと思った。担いでいったひとも、担がれた人も、このことは、一生記憶に残ることだろう。そして、ここでその信仰が認められたことも。原理にこだわらず、たいせつなことを模索していきたい。
Mark 3:11,12 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言い触らさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
「あなたは神の子だ」このことばは誰が聞いたのだろうか。記述からわかることは、イエスはこれを聞いただろう。神の子とは何者かが独り歩きすることは避けたかっただろう。特に、そこで起こっていることだけであれば「気が変になっている」(21)「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(22)「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22)とも言われる。イエスは「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(35)と語り、「神の御心を行う人」というキーワードを残している。イエスにとっては、これが神の子として生きることだったのだろう。弟子についてはもう少し知りたい。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(14,15)
Mark 4:33,34 イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
たとえで語ることはいろいろな効果があるのだろう。ゆっくり考えてみたい。抽象的ではなく例示という手法で具体性を持って考えられること。考えることによってその中に含まれる本質を見抜くことができる可能性があることだろうか。そう考えると、あらぬ方に行ってしまうこともある。ここにあるように、それを避けるために、弟子たちには、たとえに加えて語られたのだろう。しかし「すべて」とあるが、そのように受け取ったとするとおそらくそこには問題もあるだろう。求め続けること、これも、たとえの効用のように思われる。
Mark 5:28,29 「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。すると、すぐに出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。
マルコでは「すぐに出血が止まり」とあり、病苦からの解放を「感じた」とある。他の訳では、この記述がことなるということは、疑問も出され、批判もされたのだろう。どの時点で癒やされたかはそう簡単に判断できるわけではない。感覚も、あまり頼りになることではなく、特別な薬を飲めばそのときに効いたような気がするときもある。だからあまり細かいことで、教義的な正確さを議論することは適切ではないのだろう。このあとに、「私の衣に触れたのは誰か」(30)とイエスの側がなにかを感じたことは興味深い。そのメカニズムまではわからないが、よくわからない隠された関係が表面化し「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(34)と終わっているのは、感動的である。
Mark 6:12,13 十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。
当事者はこのように簡単には言えないだろう。一つ一つに物語があり、一人ひとりに違いもあるはずである。実際には、その場にいなかったものの証言とも言える。しかし、まったくの虚偽というわけでもないのだろう。まずは、悔い改めを宣べ伝えたこと。そして悪霊に憑かれたひとに向き合ったこと、油を塗るなどして病人にも仕えたことだろうか。実際の活動で学んだことは多かったと思う。背後にある困難さも、学んだと思われる。現場を、人々と接しながら知ることはたいせつである。
Mark 7:19,20 それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。
この箇所だけで「このようにイエスは、すべての食べ物を清いものと」したとするのは、無理がある。しかし、このように、弟子たちが、イエスが明言はされなかったことで、学び判断しなければならないことはたくさんあったのだろう。そのことに敬意を表し、同時に、わたしも、イエスに目を留めつつ、さまざまな課題に向かっていきたい。間違えることもあるだろうが。
Mark 8:19-21 私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
不思議な会話である。正直、わたしも「悟らない」弟子たちと同じである。基本的には、簡単な数学的な計算や、人の努力でできる方策 - ロジスティクス(logistics)ではなく、神様の恵みを言っているのだろう。パンのことはヨハネにも書かれており、弟子たちにとってもとても印象的な出来事だったのだろう。最後には「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(34b)とある。悟ることができない、おろかな私だが、それを解決するのではなく、わたしの十字架を負って、イエスに従うことを求めるべきなのかもしれない。
Mark 9:49,50 人は皆、火で塩気を付けられねばならない。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
二度目の死と復活の預言があり、誰が偉いのかの議論などがあり「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」(42)から始まるイエスの言葉が引用句である。理解が困難である。「火で塩気を付け」るがよくわからない。塩も不明である。そしてなぜ急に「平和」について書かれているのか。平たい言葉でいうと、様々な苦い経験から学び、互いに平和に過ごす道を求めなさいということだろうか。ここにも「互いに」が現れる。一度、このことばについても調べてみたい。
Mark 10:45 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
贖罪について書かれた数少ない共観福音書のことばである。中心は「仕える」ことにあるのだろうと感じた。それは「自分の命を献げる」ことによってなのだろう。あまり教義的に理解しなくて良いのかもしれない。そして、この章は「金持ちの青年」についての記事があるので「金持ちが神の国に入る」ことの困難さにも目がいく。何かを豊かに持っている者は、仕えることが難しいのかもしれない。仕えることを大切にしたい。
Mark 11:12-14 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
あまり細かいことに執着するのは適切ではないかもしれないが、なんとも理不尽なことである。イエスはいちじくが実をつける季節も知らなかったようだ。そしてこのいちぢくが枯れたことが書かれている。(20)これが信仰のたいせつさのメッセージにつながるが、やはり理不尽である。イエスが空腹を覚え、なんでも知っているわけではなく、間違いもする例とすることも可能である。また、このいちじくから、イエスが学んだこともあったのかもしれない。それがこのように伝えられてしまった。神は自律的に判断する、不明であるということで終わりにはしたくない。
Mark 12:43,44 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
神がみておられることは、人が見るのとは違うよ。ということを言っているように感じた。この章では、イエスの見方の違い、見せかけのものと、神様の見方についていくつか述べられているからでもある。やもめの行為自体に目を向けると問題もおこるように思う。しかし、最初のぶどう園を作って農夫たちに貸した話など、決裂を予告しているようにも見える。それは、イエスの地上での宣教の敗北ではないのだろうか。もっと、時間を使って待つ道はなかったのか。難しいなと感じる。
Mark 13:28,29 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
このあとには「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(32)ともあり、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(33)と続く。全体的には、終わりのときについてはわからないこと。それよりも、気をつけて目を覚ましていることがたいせつだと言っている。この目を覚ましているは、繰り返されるが、なにを言っているのだろうか。引用句からすると、神様からのメッセージに目を向けることのようにも思われる。しっかりとした観察がひつようであることも、言っているのかもしれない。不明としておくのが安全なのかもしれない。
Mark 14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」
「生まれなかったほうが、その者のためによかった。」とはどのような意味か考えてみることにした。イエスは、ユダを愛しておられ、これから、彼が苦しむことになることを言っているのではないかなとまず思った。さらに、永遠の命、永遠の滅びもあるかもしれないが、単に肉体的に朽ち果てる以上のことをも考えているなら、まさに、自分の人生を悔い続けることに、こころが引き裂かれる思いだったのかもしれない。それは同時に、神様やイエス様の苦しみでもあるように思う。軽々しく、「生まれてこなかったほうがよいような命はない」と言い切れる軽さはここには無い。
Mark 15:4,5 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。あんなにお前を訴えているのに。」しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった。
イエスは争わない。批判はするが。議論で、解決することではないことをご存知のようだ。列王記下1章のエリヤのように力も使わない。神様にまたは弟子たちに委ねているのだろうか。自分の役割は終わったと考えているのだろうか。それとも、贖罪死を絶対化しているのか。正直わからない。しかし、対立や二分化を避けているようには思う。対立はどのようにして、避けられるのだろうか。難しい。
Mark 16:7,8 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
マルコの最後は不思議である。しかし、具体性があるものとしては、ガリラヤだろうか。復活の主はガリラヤに行かれることを告げられたのか。エルサレムではご自身を現さないのか。これは、ひとつ重要な点である。ガリラヤについては、マタイによる福音書28章10節、16節以降でも証言している。しかしルカによる福音書24章では、エルサレム近郊での証言が主であり、エルサレム近郊で召天されたとも書かれている。ヨハネはエルサレム(20章)と、ガリラヤ(21章)についてイエスの顕現を証言しているが21章は追加ともされ、ヨハネの直接証言では無いかもしれない。もう一点は、女たちの証言。どの福音書にも現れる、重要な要素であるが、正気を失っていたとあり、証言能力が十分あったかどうか、不明という書き方でもある。しかし、ヨハネによる福音書などにより、復活を弟子たちが確信するに至ったことは確かだろう。すくなくともそのように伝えることが確定している。客観性を持って理解できることはそのあたりだろうか。

BRC2019(1)

Mk 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
「時が満ち」は、なにかわくわくさせる言葉であるが、同時に、さばきなのか、救いなのか、何を意味するのかを考えることになるだろう。このあとに、活動開始の様子が書かれているが、そのひとつひとつが、神の国が近づいたことを表現しているのかもしれない。「権威ある新しい教え」(27)様々ないやし。このことが福音のようにも思われる。神学的に「十字架上のあがない」と、マルコは考えていたのだろうか。福音書記者においては、福音書で記されていること自体が、福音だったのではないだろうか。だからこそ「神の子イエス・キリストの福音の初め。」であるように思う。「初め」をどう解釈するかに関わるのかもしれないが。
Mk 2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
「福音」が語られている。神の国が近づいている。このあとの「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)も、それを表現しているように、思われる。これが、神の国の様子であるかもしれない。それをイエスによって見せていただく。神の国のほんの一部だろうが。
Mk 3:34,35 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
2章の終わりに「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とあり、この章では、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4)のメッセージと共に、安息日に癒やす記事からはじまる。さらに「悪霊を追い出す権能を持たせ」使徒を派遣し、聖霊のことが語られる。律法、神のみこころのことが、強く関係しているのだろう。旧約と関連しつつ、新しい時代、神の国の到来が宣言されているのだろう。本質に立ち返るゆえ「神の御心を行う」かどうかに、基準が移っている。
Mk 4:33,34 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
弟子たちを通して学ぶことは、このことからも大きいはずである。弟子たちだけではないにしても。イエスの解き明かしのある部分は、福音書に書かれているのだろう。福音書のイエスのことばに聞きたい。
Mk 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
このときの恐れは何だったのだろうか。「この方の服にでも触れればいやしていただける」(28)と思ってイエスの服に触れ「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(29)とある。最初は、魔術的な力を予想していたのだろうか。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。 」(30)は正確にはわからないが、イエスの力を要しただけではなく、おそらく消耗したのだろう。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53章5節b)どのようにかはわからないが。女は何を感じどこまで理解したのだろうか。おそらく、この次のことばは、このできごと以上のことを女に与えたのだろう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(34)恐れについて理解したい。
Mk 6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
驚くべきことである。「服のすそに触れる」は、5章の女が癒やされた記事を思い出させる。最後の「癒やされた」は sozo: to save, keep safe and sound, to rescue from danger or destruction が使われている。救われたである。なにが起こっていたのだろうか。病が次々に治ったのだろうか。この書き方からは、明確にはわからない。しかし、これが、マルコがイエス・キリストの福音のはじめとして書いたことであることは確かである。
Mk 7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
表面的には、イエスは失敗している。それでも、口止めをしている。一人ひとりに神の国を届けることがイエスの使命なのだろう。しかし、効率などは考えない。神の国は効率でどうにかなるものではないのだろう。そして、賛美を止めることはできない。イエスは、この状態をどう考えていたのだろうか。
Mk 8:29,30 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
弟子たちは、使徒でもある。イエスのことを話さないで、福音を伝えることができるのだろうか。おそらく、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)は、言えるのだろう。このときには、福音は、イエスご自身ではなかったのか。難しい。
Mk 9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
この直後に山上での変貌の記事が記されている。「現れるのを見る」とあるので、一義的には、変貌の記事が「神の国が力にあふれて現れるのを見る」ことだと言っているのかもしれない。しかし、あまり大きな話ばかり語らず、このあとも「霊に取り憑かれているこども」のこと「一番偉いもの」「従わなかった者」「これらの小さな者の一人をつまずかせるもの」について記されている。足がしっかり、地についている。
Mk 10:43-45 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
直接的には、ヤコブとヨハネの申し出に続いて出た、弟子たちの怒りに対して語られている。弟子たちとあまりに、心が離れていたことがわかる。もう少し、ていねいに考えたい。
Mk 11:12-14 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
イエス様の身勝手と、解釈して、終わることもできる。いちじくの実であれば、たしかにそうだろう。しかし、身につまされるものを感じるのは、このことを自らと神様の関係の中で捉えるからだろう。イエスがどのようなメッセージとして語ったかはわからないが、神様が用いてくださるときに、available でありたい。わたしは、そのように、今は受け取った。
Mk 12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
この次には「やもめの献金」の記事が続く。「やもめ」は社会的弱者の象徴だったのだろう。いまであれば、「シングル・マザー」だろうか。しかし「シングル・マザー」には、社会は温かい眼差しを向けない。自己責任(もある)と判断して。おそらく、この時代であっても「やもめ」となって貧しい生活を送っている人に対して、その人の罪であるとか、親が罪を犯したからだとか、言ったり、そのような目で見た人もいただろう。頼るものがない「やもめ」は、律法学者を信頼し、相談する。そのようなひとから、十分な配慮なしに、残された、ほんの少しの希望をも、食い尽くす行為が行われていたのだろう。現代の「シングル・マザー」やそのほかの社会的弱者にも、同様な構造があるのかもしれない。
Mk 13:14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
「読者」は、対応するマタイ24章15節以外には、現れない。だれがこのことを言っているのだろう。文脈からも、イエスではなく、福音書記者だろう。では、イエスは何を伝えたかったのか。この終末に関するイエスの説教は、弟子たちの「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4)の問から始まっている。この問の答えとしては、14節は重要である。しかし、イエスは、徴を伝えたかったのではないと思う。イエスの関心は、終末の徴と人びとが考えるようなことが起こったときに「人に惑わされないように気をつけなさい。」(3)だろう。終末を否定してはいない。しかし、それよりもっと大切なことがあると、問を否定せず、語っているように見える。そして、この章は次のことばで締めくくられている。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(37)終わりの時に生きるものとして謙虚に、目を覚まし、神さまのもとにある真理以外のものに、惑わされないようにしたい。
Mk 14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
この悲しさをともにすることをしなかった弟子たちのこころに、この光景は強く残っていたろう。イエスは、何が悲しかったのだろうか。死は、地上でのいのちのいとなみから切り離されるときである。それが、ひと、とくに、弟子たちの間で、生き続けるかどうか、父なる神に信頼しても、不安だったのではないだろうか。長くても、3年程度、弟子たちと一緒に活動、しかし、イエスのこころを受け取れない、理解できない弟子たち、その弟子たちに、そして、聖霊に委ねること、さらに、そしておそらく、最もたいせつなこと、愛について、死を通しても、伝えることが伝わるかどうか、それが弟子たち、そのまた弟子たちの中で生き続けるかどうかを考えたのではないだろうか。おそらく、これらのことばは、十分にこなれてはいない。わたしは、そう考えるということと、イエス様の思いをどのていど、同期させてもよいのか、距離感がわかならい、というのが正直な気持ちだろうか。
Mk 15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
「そこで、ピラトは、『あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか』と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(9, 10)とあるが、引用箇所では「群衆を満足させようと思って」とある。最近、よく使われる用語のポピュリスト的な、ほかの言い方では、人気取りなのかもしれない。しっかりした信念によっているわけではない。同時に、制度として、民主主義ではないが、大衆の意思であるなら、ある意味で民主的に決めたとも言える。歴史的には、ピラトに責任の重要な部分が与えられるが、多数決とすると、一人ひとり、または、その一人として、我々に、責任が問われることにもなる。このような状況が、身近にもいくつもあるのだろうか。謙虚にさせられる。
Mk 16:15,16 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
新共同訳では「結び一」に含まれる。大宣教命令といわれるもので、マタイ28章のもとのともに、このことばによって宣教に送り出されていったひとたちが数限りなくいる。しかし、イエスのメッセージとしては、唐突に感じる。少なくとも、信じる、信じないで、救いと、滅びをわけることは、違和感を感じるし、洗礼をうけることも、その条件として書かれるものなら、イエスがこのことについて述べているはずである。このように、疑い、または、別の解釈の可能性を考えること自体が、クリスチャンのコミュニティでは、議論されにくいが、イエス様からのメッセージをしっかりと受け取りたい。

BRC2019(2)

Mark 1:23-26 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
「権威ある教え」(22,27)の例示としてこの記事が挿入されているようだ。痙攣を起こさせるという目に見える証拠を示している。おそらく、表現のしかたは、重要ではなく、何らかの具体性をともなったものとして記述されているのだろう。ここでは、イエスが、どのように行動されたかは、書かれているものの、正確ではないかもしれない。痙攣については、目撃証言的イメージを与えているが。
Mark 2:27,28 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」
きっぱりとしている。周囲の人は驚いたろう。人の子は安息日の主とまで言い切らせたのは、なにゆえだろうか。イエスを通して、安息日も理解するためだろうか。イエスが、安息日にどうされたか。これは、それまでの実践とはかなり異なっていたと思われるが。神は創造のとき、ひとのために休まれたのだろうか。一週間の創造がひとのためなのだろうか。権威をもってして初めて定められることであることは確かだ。
Mark 3:33-35 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」(32a)とある。このひとたちは、神の御心を行うひとなのだろうか。おそらく、そうは断定できないだろう。ただ、それを求めて集まってきていた人たちではあったかもしれない。イエスの兄弟、姉妹、母とは、ここに書いていあるのが定義だと伝えているのであって、差別をするために、囲い込みをするために、伝えているのではないのだろう。これも、恵みとして受け入れられるひとは、幸せである。
Mark 4:26-29 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17章21節)をひいて、ナイチンゲールが「神秘主義とは何か。祭典や儀式によってではなく、心の姿勢によって神に近づこうとする試みではないのか。『神の国はあなたがたの中にある』という聖句を、ただ難しく表現した言葉ではないのか。天国は場所でも、時間でもない。それは・・・ここにあるばかりか、今あるのかもしれない・・・」と言っている。引用箇所を実際の生活の中に発見すること、それはたしかに神秘主義かもしれない。ナイチンゲールは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4章34節)は、神秘主義宗教の礎を、熱烈に印象的な言葉で表したものと表現している。ナイチンゲールは、統計も使いながら、いろいろなところに書かれている神の言葉を読み取ろうとしていたのだろう。
Mark 5:27-29 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
このことは、イエスが魔法の杖で病を直していたのではないことを立証しているように思う。イエスのことば「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 (34)は非常に印象的である。これが本質的な回復を生んでいるのだろう。病からの回復にとどまらない。全人的な回復である。そしてそれは、イエスとの関係によって、一時的なものではなく、保たれるものでもあるのだろう。
Mark 6:12,13 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
「いやした」は、ここでは、テラペウオ (therapeuo: 1. to serve, do service 2. to heal, cure, restore to health) が使われている。マタイ16回、マルコ6回、ルカ14回(13節)、ヨハネ5章10節のみ、使徒5回、あとは、黙示録に 13:3, 12 にあるのみである。十二人は、油を塗って「仕えて」いる。当時はそれをいやしといったのだろう。しかし、現代的に考えると、病気が治ったと考える、そのギャップが仕えたという意味さえも葬り去ってしまったのだろう。全人格的ないやしを、イエスは願っていたろう。それを弟子たちも、受け取っているはずだ。症状が消えたこともあるかもしれない。そして、それは、継続したけれども、made whole という「いやし」が実現したことを、このように表現しているように思う。ヨハネで証言していることとの、違いを理解する必要もある。
Mark 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
この箇所も、マルコは乱暴である。マタイ15章21節から28節に並行箇所があるがそちらがより丁寧である。おそらく、批判もあったのだろう。当時は、シリア・フェニキアにも福音は伝わっていたろうから。イエスのなされたことの理解が、少しずつ深くなっていると考えることもできる。断片的に、伝えられたものをつないで、真実を学ぶことは、いまでもできるように思われる。
Mark 8:6-8 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
何度も考えてきた箇所である。ここでは、4000人(9)のひとたちが、満腹したようである。これが、魔術でないと思われるのは、もし、魔術なら、かえって人を簡単に魅了し、「解散」(10)できなかった、またはこのあとも、パンの魔術を求めたと思うからだ。魔術とはことなることがここに出現したと考えるほうが、より自然だろう。4000人養いの記事はマルコ以外は、マタイ(15章32-39節)にしかないが、どちらも、その直後に、ファリサイ派の人々とヘロデのパンだね(14-21, マタイ16章5-12節)が書かれている。イエスは「まだ悟らないのか」(21)と言っているが、悟らなければいけないことがこのことに結びついているのだろう。ひとつ考えられるのは、主が養ってくださること。ここでは「賛美の祈りを唱えて」(7、マタイでは「感謝の祈り」はあるが弟子たちへの指示はない)とある。主に目を向けることが関係していることはたしかだろう。
Mark 9:49,50 人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
48節では、地獄の火について述べられており、その関連性は不明である。しかし、火で塩味がつけられること。そして塩気、さらに、互いに平和に過ごしなさい。は印象的である。私にとって、火はこの聖書を読む時間が基盤となっているように思う。聖書を読みながら、何度、火がつけられたか。そして、消えそうな火が何度ふたたび燃え立ったか。神からの火なのだろう。そしてそこには、何かを変えるエネルギーがある。文脈は、小さなものをつまずかせないことにあることも、興味深い。
Mark 10:23-25 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
このあとの続きからすると、神の国(支配)のもとに入るのに、すべてを捨て去ることができないということだろうか。いのちを、ささえるものがほかにもあると未練がのこってしまうからか。鍵は、めぐみとして、受けることができるかなのだろう。「神はなんでもできるからだ」(27)神への信頼とつながっていることなのだろうか。
Mark 11:24,25 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
イエスが呪ったいちじくの木が枯れていたことに発するイエスの教えである。祈りについて教えているが、この最後の言葉をみると、イエスは、ちょっと後悔しているようにも思う。一番、たいせつないのりは、恨み故に赦せない自分が、変えられることなのだから。すこしずつ本質的なほうこうに、教えも導かれているように思う。
Mark 12:26,27 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
この章は、イエスが本音を続けて語っているように感じる。学習を待つのではなく、真理をぶつけているということか。この引用箇所は、しかし、難しい。すくなくとも「アブラハム、イサク、ヤコブの神であった」と言っているわけではないということか。それとも、アブラハム、イサク、ヤコブも、いま生きていることを伝えているのか。「死者が復活することについては」とあるが、肉体において死んでも、生きている、そして、神は、そのひとたちともともにいるということだろうか。アブラハム、イサク、ヤコブと神との関係は、もしそこに永遠の命があるなら、いまも、存在しているというより、生き生きと生きているのかもしれない。その実体は、ひとりひとりの中にあるのだろうか。
Mark 13:32,33 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
弟子のひとりが「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(1)といい、イエスが神殿の崩壊について語り、ペトロたちが「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4)と聞いたことに端を発している。イエスは、それに答えているが、一番、気にしていた、心に懸かっていたことは、弟子たちや、神をもとめ、イエスについてこようとしていた人たちのことだったように思う。「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(7)の中でも、目を覚ましていること、いつかが重要なのではないと伝えているのだろう。学ぶことが多い。
Mark 14:61,62 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」
「それはあなたの言っていることです。」という間接的な表現ではなく、このイエスの応答は直接的である。Ego eimi. I am. そのあとに詩篇110篇1節「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」を背景とした引用が続く。「あなたたちは」と書かれている人たちは、それを見るのだろうか。見るように定められているのだろうか。難しい。
Mark 15:40,41 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
多くの女性が従っていたことが書かれている。過ぎ越しの祭りのときではあるが、特別なことが起こることを知っていてついてきたのだろうか。その婦人たちは、名前のある3人とともにそこに居たのだろうか。どのような状況だったのだろうか。ただ、正直、これが世界を変えるすごいことだとは残念ながら思えない。イエスが、歩み、生きた生涯こそが価値があると思う。
Mark 16:19,20 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
(結び1)の終わりである。結びがいくつかあるのは、復活に関する記述にマルコの周囲でも合意がなかったのかもしれない。主要な復活証言(14-18)には場所も書かれていない。ガリラヤなのか、エルサレムなのかも不明である。興味深いのは、天に上げられたことが書かれ、そのあとに、「主は彼らとともに働き」とあることである。天に上げられたということは、物理的には不在になったと考えることが自然だろう。しかし、彼らとともに実際に働かれたことは、否定しようがないこととして合意できていたのかもしれない。ただ、このことが、地上でのイエスを知らない人たちにまで広がりを持つ信仰として共有されるには、より具体的な復活証言が必要だったのだろう。難しい。

BRC2017(1)

Mk 1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
マルコでは、深く憐れんでの背景は述べられていない。それでもよいのかもしれない。憐れみ(へセド)からこの行為になる。どのように、憐れみをもつかは、別のことなのかも知れない。同じ場所にいて、イエスのような心を持つ場合を持たない場合がありうるだろう。その背景は、ここでは問わない。他に焦点があっている。
Mk 2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
「実に大勢の人がいて」となっているが、多くの徴税人や罪びとの説明だろう。むろん、それ以外のひとも多くいたのかも知れないが。16節によると「ファリサイ派の律法学者」の関心事は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」である。弟子たちに質問している。汚れたものを避けるという日常的な自分たちの行為がここに現れているのだろう。イエスは、この人たちに仕えていた。あまりに、次元が違う話であると思う。
Mk 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
怒りは orgee (anger, the natural disposition, temper, character) まさに怒り、感情が抑えられなくてでたものである。悲しみは、sullupeoo (1. to affect with grief together, 2. give with one's self) 同情に近いだろう。反対にかたくなは pooroosis (obtrusiveness of mental discernment, dulled perception) である。感じることができない。洞察することができない。イエスとの大きなさを感じる。簡単に罪の故と言えるものではないように思える。この場合は、手のなえた人であるが、その人と対したときに、または、仕えようとしたときに、自然にわき出てくることがあるだろう。それを邪魔するものもある。それが、この場合は、安息日規定である。正しさだろうか。
Mk 4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
なぜ良い土地に蒔かれたのだろう。おそらく、土地も神様が備えて下さっている、しかし、それをよい土地として受け入れるかどうかも関係してくる。受け入れ側の問題なのだろうか。見守っている人、土地を耕す人、ここですべては語れないのかもしれない。
Mk 5:19,20 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
信徒伝道者の証のたいせつさが述べられている。イエスは、この悪霊につかれていた人の効果的な働き場所を知っていたともいえるが、おそらく、もっとさまざまな理由があるのだろう。少なくとも、弟子として、イエスについて行くことが献身ではない。イエスのことばは、主についてのあかしについて述べている。形式的になるのは、問題があるが、中心的なメッセージはそこにある。
Mk 6:33,34 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
異常な状態である。しかし、イエスは、そのように思うことで終わらない。イエスはその背景にあるひとびとの心を「飼い主のいない羊のような有様」と見ておられる。そして「深く憐れみ(spragchnizomai)」である。このあとに、5000人給食の記事が続く。そのひとり一人に必要なものを学ぶ、さらにその先にまで、思いを馳せる。わたしもそのようなものでありたい。World Vision Japan の方が開発援助について講演されたときも、村の人たちとかたり、その人たちが必要に気づき、さらに、その中からより本質的なものを得て、納得してそれに取り組むということで、夢をもって取り組むことができる。その背景にもこのような働きがあると思われる。「水を汲みに遠くまでこどもたちがいき一日の多くの時間を費やしてしまう」「井戸がほしい」「本当にほしいのは時間」「勉強ができる、自分も村も良くなることができる」
Mk 7:27-29 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
イエスは、この女性から学んでいると考えるのが自然だろう。イエスはすべてを知っているということから、始めるのは、肉体をとって来られた神の御子を遠ざけることになるのではないだろうか。イエスは何を学んだろうか。ここにも、純粋な信仰者(ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれの女性)がいること。苦しんでいるひとがいること。それも、おそらく、子供たちに十分食べさせなければならないと言った、そのことばが、イエスに戻ってきている。まさに、この女性は、自分のことを求めてイエスのもとに来たのではなく、娘のかかえる苦しみのために来たのだから。
Mk 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
ペトロの信仰告白の直後に置かれているが、ここでは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」となっている。そこで言われたことである。群衆がこのあとに続く(35・36節)「命」について理解できたかどうかは分からないが、大きなチャレンジとして受け止めたことは事実だろう。すくなくとも、そうした人は、従ったろう。「わたしの後に従いたい者」は、イエスのように神のみこころに生きることを意味しているだろう。「自分を捨て」はある程度わかるが「自分の十字架を背負って」は理解できたのだろうか。まさに、イエスに従うことの本質がここにあるだろう。イエスの十字架とは異なる十字架である。
Mk 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
印象的な光景である。31節で弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と告げる。弟子たちは、このことが理解できないが、怖くて尋ねられない。そして弟子たちは、だれがいちばん偉いかと議論し合う。何を議論していたか問うイエスに、弟子たちは答えられない。そのようなことを話すことが、不適切であることを知っている。そして引用した言葉があり、これに続いて「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 (37節)の言葉を言われる。仕える者は diakonos(one who executes the commands of another, esp. of a master, a servant, attendant, minister)すなわち、僕となれと言っている。この文脈では、学ぶことが背景にあるように思われる。頑なな弟子たちが変化すること、そのための教えである。それは、単なる謙遜とは違うように思われる。まさに、仕える者となることである。
Mk 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスの死を正面からとらえられない弟子たちに、イエスが直球を投げた場面である。購いについてマルコで明確に述べているのは、ここだけではないだろうか。おそらく、弟子たちにとって必要なことは、自分の十字架を負って、イエスの従うこと。それには、仕えることにより、頑なさから解放されることが必要である。
Mk 11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
このあとのイエスの問いと祭司長、律法学者、長老たちの議論が興味深いが、おそらく本質は、この質問を投げかけた人たちの、頑なさへのチャレンジだったのではないだろうか。頑ななこころでは、まなぶことができない。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11章29節)を思い出す。これも「柔和で謙遜な者」が「軛」の負いやすさに関係していると考えていたが、学ぶことに関わっているのかもしれないと思う。学ぶことは、神の創造の業を受け入れること。それは、平安をもたらす。逆に、引用した箇所は、それを拒否するものに対する、イエスの一つの処方箋なのかもしれない、
Mk 12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
次の段の38節では「律法学者に気をつけなさい。」とイエスは言っている。ここで質問したのも律法学者である。この質問内容が適切であるかどうかはわからない。しかし、少なくともこの応対を見ていると、この律法学者には学ぶ姿勢がある。議論を聞いて、なにを感じ、なにを考えていたかは不明であるが、謙虚になり、学ぼうとしたのだろう。そうなれる人と、なれないひとがいる。それは、どのように、考えたら良いのだろう。「いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人。心の頑な者は苦難に陥る。」(箴言28章14節)ここでは「恐れを抱く」ことが書かれている。こころの貧しさだろうか。こころの豊かさの反対か。
Mk 13:9,10 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
神殿に気をとられるなとでも言うようにそれが崩されることを告げるイエスに「そのことはいつ起こるのですか。」と弟子たちが質問するところから始まる、通常「終末の徴」について語っているとされる箇所である。マルコはその徴を余すところなく伝えようとしているかもしれないが、イエスは、弟子たちなどひとりひとりに語りかけている。おそらく「いつ」などということは関係ないのだろう。「目をさましていること」、弟子たちは、証をし、福音が宣べ伝えられることを告げている。そう考えると「父よ、時が来ました。」(ヨハネ17章1節)も違った意味をもって迫ってくる。
Mk 14:35,36 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
くどいほどていねいに書かれている。口語調のマルコの特長とも言える。ペトロ由来と思われるが、特別に印象に残ったものを伝えているのだろう。ヨハネ17章の祈りとの違いの印象は大きい。この箇所で、興味深いのは、神が全能であることを告白しつつ、御心に適うことがなされることが別のことであることをイエスは十分に知っていた事である。イエスは「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(1:35)「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(6:46)など人々と離れて祈り、そして、パンをさくとき(6:41, 8:6,7,  14:22, 23)祈り、様々なときに祈り、また、祈りについて語っている。神の御心に適うことが行われるように祈ること、ここに中心があるのだろう。
Mk 15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。」(マタイ27:16)「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。」(ルカ23:19)「すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」(ヨハネ18:40)これらが福音書におけるバラバの紹介である。一般的に被征服民の中では、暴動には同情的である場合もあるだろう。単なる強盗(ヨハネは政治色を消しているのか)は別であるが、これも、支配階級からの強盗であれば、やはり同情的であるかもしれない。ある程度の同情票が得られなければ、釈放への声はあがらない。ある種のポピュリズム(民衆の情緒的支持を基盤とする指導者が,国家主導により民族主義的政策を進める政治運動)がここにはあったのだろう。イエスはこの中でも自由である。
Mk 16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
当時の感覚でここまでは、科学的・理性的・立証可能との共通理解があった部分を記しているように思われる。マルコの切り取られた最後の部分は、おそらく当時の人たちにとっても議論のあったところなのだろう。そこに、他の文書から補おうとする動きが起こる。何が書いてあったかを追求することはあまり意味の無いことのようにも思う。直接の目撃者であるヨハネの影響のもと書き残したことには、一定の意味を感じる。

BRC2017(2)

Mk 1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
荒野で、神に仕える。人がいないところである。特に、夜は、厳しい。神にのみ仕えることと共に、野獣をも、自然すべて、神の御手の内にあることを学ぶ時なのだろうか。状況を想像しただけで、恐ろしさのほうが先にたってしまう。アフリカのマサイランドで、わたしは、一人で一夜でも過ごせるだろうか。昼は暑く、夜は寒さも厳しい。各所から野獣の鳴き声が聞こえる。
Mk 2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
とても強烈で断言的である。イエスの確信、天の父をよく知っている方の。ここで、十字架上の贖罪の死を仮定しているとすると、コミュニケーションとしては成り立たなくなる。預言的断定ととる必要はないように思われる。
Mk 3:34,35 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
(父なる)神の御心を行う仲間、それは、兄弟、姉妹、母とも呼べる者を、イエスは求めていたのだろう。だからこそ、ここで「見なさい。ここに」と言っている。この人たちが、完全に「神の御心を行う人」かどうか問うことをせず、断言していることは重要である。判定条件を作ることではなく、向かっていく先を指し示している。そしてそれは、ひとが縛られかねない、肉親としての「兄弟、姉妹、母」からも自由にされて。
Mk 4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
この箇所は、「イエスが命じられ、イエスが共におられるのだから」という特別恩寵として理解すべきなのか、それとも「天の父なる神、風も波に対しても権威をもち、つねに恵みを賜る方である」という一般恩寵として理解すべきなのか、それとも、その先にある、複合的な真理を伝えようとしているのか。弟子たちは、後者を、前者と結びつけて認識したと伝えているようだ。(41節)たとえの箇所と続けて考えると、弟子たちには「ひそかにすべてを説明された」(34節)ことの一つの事例なのだろうか。天の父なる神を知り、その御心を行うことの、深さを感じる。
Mk 5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
人の病、苦しみ、痛み、そして不幸は、複合的であることが多い。苦しんでいる人と接すること、その問題の複雑さに圧倒されることが多い。むろん、そのなかに、その人自身の問題(罪と言ってもよいかもしれない)を発見し、因果応報を根拠としてそれを指摘したくなることもある。自分に関することでも同様である。この後に出てくる女性や少女からは一つの問題が際立って描かれているが、それだけではないのかもしれない。しかし、イエスは「名」をよぶ。名の主であるこの人では無く、そこに巣くっている、悪霊が答える。名の主が、とらわれの身から、取り戻された瞬間なのかもしれない。困難さの原因がすべて理解できたわけではないだろうが、新しい命の営みが始まっている。
Mk 6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
へロディアは、ヨハネを憎みと書かれ、悪女として描かれているが、それは、男性の目なのかもしれない。「恨む」は主観で、他者が判断するのは、困難である。ヨセフスにもこの記事は書かれており、当時の人たちの共通認識だったと思われるが。なかなか、はっきりしない、ヘロデ(アンティパス, Herod Antipas)の態度をはっきりさせようとしただけなのかもしれない。
Mk 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
イエスの意図は何だろうか。娘に取りついた「悪霊」の問題と関係しているのだろうか。適切な解釈だとは思えない。謙虚になれるかということだろうか。表面的には異邦人差別ともとれるような状況、発言のなかで、神の前にへりくだる、自らに関する認識と、イエス以外に救いがないというしたい求める心だろうか。論理性に気をとられると、理解できないのかもしれない。この女性が、父なる神と、イエスとの交わりに入る鍵に、注目したい。
Mk 8:19-21 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
他にも聞き方はあるはずである。「わたしがどのようにしたか」「神様がどのようにパンを与えてくださったか」「奇蹟を見なかったのか」などなど。しかし、イエスはそうは、聞いていない。かつ、「悟る」ことを求めている。何を悟ることだろうか。「神は有り余るほどに豊かに養ってくださる」ということか「神様の恵みは、単なる数の論理ではない」ということか。おそらく、わたしは、まだ基本的な部分も「悟っていない」
Mk 9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
このことが何を意味するのかは、議論の分かれるところである。マルコは、これに続く「変貌 Transfiguration」と言われる事と結びつけて書いているのかもしれない。または、それを通して信じることができる世界を意味しているのか。イエスが間違っていたという解釈は通常しない。弟子たちが間違って受け取ったという解釈も殆どの場合しないだろう。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」 (ヨハネ1章51節)のような言葉が、十字架への道を歩むイエスの姿を見、誰が偉いかなどと議論するなかで、引用した言葉が一人歩きした可能性もある。いずれにせよ、やはり、わからない。
Mk 10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
意味深な表現である。定められた人という表現も難しい。すくなくとも、ヤコブとヨハネの望んでいることは、そして、おそらくそれに伴っていること、さらに、そこに至る一歩一歩、一日一日の重さを、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 (38節)の中に込めているのだろう。イエスが知りうるか、決められるかどうかとう問いとはずれているのだろう。
Mk 11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
おそらく「言う」「言わない」の問題ではない。この問答で、イエスが「答えている」とは言えないが「問い」の「答え」は、自分で分かるように、示しているとも言える。質問は、自分への問いかけであることがある。それを、人は気づいていて、自分からその問いを発することで、問いから逃れようとしているのかもしれない。その状態がイエスによってあらわにされている。
Mk 12:26,27 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
アブラハム、イサク、ヤコブは復活したのだろうか。復活したというならどのような意味においてだろうか。後半からすると、死んだが、モーセに神が語った時点で生きていることを意味しているようである。復活とは、地上での命の終わりが終わりではなく、神と共に生きつづける命があることを指しているようである。
Mk 13:30 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4節)が、弟子達の関心事である。「いつ起こるのか」しかし、イエスの答えはない。あるとすると、引用箇所である。準備を求めているのだろう。時間がかかることもわかる。
Mk 14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(4,5節)は、ヨハネの12章では「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 」と、イスカリオテのユダの発言としているが、裏切りの決断は、もう少しあと(13章)であるように書かれている。事実関係を特定することはおそらくできないであろう。しかし、ヨハネが、このマルコの記事の背景を説明しようとして書いたことはほぼ確実なのだろう。ユダのこころをしりたいのは、現代の我々も、福音書記者達も、同じと言うことか。
Mk 15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
マタイでは「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(27章51-53節)となっている。ルカでは「太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 」(23章45節)が息をを引き取る直前のできごととして書かれている。神殿の垂れ幕の象徴的意味は語られるが、どのような状態だったかは、明らかではない。もう少し、調べてみたい。そのように、語る現実があったのだろう。
Mk 16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
新共同訳ではこの節が終わりで、このあと結び一、二となっている。マルコによる福音書のミステリーである。本文最後としては、適切ではないことは確かである。だれにも言わなかったでは、その内容は、伝わらない。同時に「震え上がり、正気を失っていた。」はとても、リアルに感じる。失われた部分があることと同時に、ここを本文の終わりとすることが適切なのかもしれない。

BRC2015(1)

Mk1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
なぜ「何も話さないよう」にと指示したのだろうか。このあとの結果を見ると、話すことの、直接的な影響は明白だが、そこに中心はなかったのではないか。ヨハネ2:24,25「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」が鍵のように思われる。とくに奇跡の受け取られ方に、心配されたのではないだろうか。そうであっても、いやしはイエスにとって避けて通れない愛の行為だったと思われる。
Mk2:21,22 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 
古い服や古い革袋を否定しているわけではないが、将来的な、新たな信仰生活をも視野にいれて、本質的なことが語られている。おそらく、イエスにとっては、中身が大切で、外側は最大の関心事ではなかったろう。それにもかかわらず、外側にも大きな影響を及ぼすことを見通し、それによって、中身の違い、ここでは発酵力が強い「新しいぶどう酒」について、断食のトピックにあわせて語っている。19節の「花婿が一緒にいるとき」というある意味で一時的なものをまず語り、本質的な部分に進んでいる。その洞察力にも、驚かされる。
Mk3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 
この箇所の論理と、イエスの話の展開はとても興味深い。身内の者たちは、現象面から、緊急の対処を行おうとしている。自分たちなど、身近な人への影響も考えたろう。つまり、短期間、表面的な影響である。しかし、その本質を見る見方を、イエスは提供している。一つは論理性である。「サタンがサタンを追い出」すという批判に目を向け、ある程度だれにでもわかるように論じている。そこでは、家族の問題も語られ、マルコには続けて記述されている、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)へと向かう。サタンにおいても、おなじことばが提示されている可能性さえうかがえる。サタンの家族はどんなものたちだろうか。つねに本質に行き着く思考法と、論述、驚かされる。
Mk4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 
イエスがたとえで語られる理由をもう少しじっくり考えてみたい。この箇所からは、思考訓練の目的もあるように思われる。一つの教えをうけとり、さらに、深いものに思いを巡らし、そこから学ぶ。それは、自然観察においても、内省においても、同じことがいえると思われるし、イエスの思考法、弁舌法が、このようなものを含んでいるともいえる。直接的に、語ることの危険性も示唆しているのかもしれない。
Mk5:32-34 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 
この女の動機は「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」(19節)救いを求める者の、偽らない心の状況の現れである。しかし、イエスは群衆の中で触れたものを探す。そして、女の側から「進み出てひれ伏し、ありのまま話した」とある。そこでイエスは語る。探される主とそれに応答する信仰。教義的にではなく、しかし深く理解したい。
Mk6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 
「いやす」はここでは therapeuoo もともとの意味は to serve, または do service である。heal, cure, restore to health の意味もあるが、二次的。これに対して、56節の「触れた者は皆いやされた。」では、soozoo が使われている。一つとなった。made whole という言い方である。いやすは、病気を治す意味が、一番強いと思われるが、イエスの行為は、すこし違うのかもしれない。治療ということばは、また感じが違うかもしれないが、attend や serve つまり、仕えることで、ばらばらになっていた状態のひとが、ひとつの自律性をもった人間となったということが本質なのかもしれない。マタイ20:28 の仕えるは、もっとはっきりと、diakoneoo (to be a servant, attendant, domestic, to serve, wait upon) を使っている。もうすこし、ギリシャ語で読んでみたい。
Mk7:14 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 
2節の「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいる」から始まっている。エルサレムから来た「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」の意図は見えるが、その中でも、驚かされるのは、イエスの話の構成である。6, 7節で「『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』」とイザヤ29:13「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。』」から心に目をむけさせ、口先で近づくことの問題を指摘し、さらに、本質に迫る。しかし、最後の「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」は少し幅がある言い方のように思われる。人と二回出てくるがそれらは、同じ人をさしているように思われる。すると判断は、神だろうか。
Mk8:19-21 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 
この時のことを、詳細にはかたらない。しかし、目を向けるべきことは、しっかりと教えている。やはり、物理的に増えたのではないのだろう。弟子たちもそれを知っていた。丁寧にこのメッセージを考えてみたい。
Mk9:21,22 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 
一見、奇妙である。20節bには「霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。」とある。そのひきつけを起こしてのたうち回っているそばでの問いである。イエスの問いに対する父親の答えには「わたしども」とある。夫婦ととることもできるが、父親と息子ととる方が自然だろう。自分たちの救いに、ここで結びつけられている。その答えの中の「おできになるなら」から、さらにこれが信仰の本質の問答へと続く。「イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』 その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」信仰がないものが「信じ」る。この物語は最後「イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」(29節)で終わっているが、おそらく、これも祈りが魔法のように働くということではなく、このことにおける、神のみこころとの一致をもとめることが鍵だといっているのかもしれない。
Mk10:6-9 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 
とても多くの要素が入っている。一つだけにしぼると、夫と妻は「神が結び合わせてくださった」とある。どの夫婦もそうなのだろう。例外は書かれていない。神のはたらきを結婚に見ること。人がそれを破壊してはいけないこと。それが一体に込められたメッセージなのだろうが、イエスがそこまで言い切ることに、正直驚愕する。
Mk11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 
この言葉は、実のないいちじくの木に関することに発して、22節の「神を信じなさい。」とイエスが語り出す言葉の結びである。いちじくの木に関する話は、イエスが「空腹を覚えられた」(12節)ことと「いちじくの季節ではなかった」(13節)を考えると、すこし乱暴に感じるが、神を信じる力の説明に用いられている。25節はその前の23, 24節「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」の乱用を防ぐために付け加えて語られた印象が強い。やはり「祈りは神さまのみこころとのシンクロナイゼーション」それを呪術的な利用に堕してはいけない。神が望んでいることにこころを向けることに集中したい。
Mk12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。 
「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て」となっていることからしても、最高の賛辞だったのではないだろうか。あまり神の国に入っていないことを強調するのは問題だろう。むろん、イエスが「神の国から遠くない」と言われたのは、このような知識をもって、さらに神の国に生きることを求め続けることを表現したことばであろうが。この最も重要な掟、神のみこころを考えるときに、つねに、第一におきたい。
Mk13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 
この時のイエスの言葉は、5節の「イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」からスタートしている。マルコで書かれている事例は、時代背景から限られているかもしれないが、ここから本質を読み取る必要がある。だからこそ、まずは福音書の平行箇所を学ぶのだろう。9節10節で「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」ここにあるように、基本は「自分のことに気をつけてい」ることだろう。そのような信仰者の生き方をとおして、福音が証される。そう信じたい。
Mk14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 
一般的には、イエスが特別な者であるとして、語られるように思われる。しかし、そこにイエスの意図はないかもしれない。確かに8節の「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」を考えると、それが主なのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。つねに、本質へ、本質へと、進むイエスの論理からすると「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」からスタートして「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』」で終わっている。進行的というより、重層的と考えた方がよいのかもしれない。実は、貧しい人々はいつもわたしたちと一緒にいるのは、その通りでもあるが、そうでもない二面性をもっている。愛の行為は簡単に値踏みできないもの「できるかぎりのこと」「わたしに良いこと」をさせたのだろう。簡単に議論を打ち切りたくない。
Mk15:9,10 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 
マルコの記述が正確さとすると、ピラトはかなり正確に背景まで理解している。そして実際「ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」(14節)と弁護ともいえる発言をしている。しかし動機は15節にあるように「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」すなわち、群衆を満足させることを超えることはできなかった。確かに、ここで、群衆の要求と異なることをすることは、かなりの困難を引き起こし、さらに、イエスはいずれにせよ、殺されたかもしれない。たとえそうであっても、そして、このようになることが神の御心であったとしても、ピラトはイエスの言葉に応えなければならなかったのだろう。「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた。」(2節)責任を持った、応答が求められている。
Mk16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 
安息日は土曜の日没と共に終わるとすると、そのあと、香料を手に入れることはできたのかもしれない。用意周到で、翌朝(日曜の朝)墓に向かったともいえるが、3節の「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」を見ると、そうともいえない。混乱していた様子もうかがえる。しかし、できる最大をもとめる愛は、彼女たちの行動の背景に色濃く見える。イエスそのひとに心が結びつけられていたともいえるかもしれない。そのことは、男の弟子たちととらえ方が違っていたのかもしれない。そして、イエスが復活されたことは、この女たちにまず告げられる。興味深い。
 

BRC2015(2)

Mk1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マルコを読む限り、27節にもあるように「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 権威あるとは、汚れた霊も従うことにあるようである。34節の「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」も同様の主張である。しかし、マタイでは7章29節「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」と山上の説教の直後に語られており、メッセージの内容、語り方にその中心があるように思われる。ヨハネでは神のもとから来たことがテーマとして語られていることを考えると、どちらに重きが置かれていると考える必要はないのかもしれない。まさに権威ある教えとして、人々が受け取ったことが書かれ、その証拠として語ることは、人によって異なったのであろう。しかし、まさに、メッセージの内容と、悪霊の働きと病に対する権威の印象が人々には強かったのであろう。
Mk2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
平行箇所がマタイ9章1節から8節, ルカ5章17節から26節にある。マタイでは上の箇所は「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」(4節)となっており、ルカでは「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。」(22節)表現が変化している。語り口調で進むマルコと比較して、伝えたいことに集中しているように思われる。実際にどのようにイエスが彼らの考えを知ったのかはわからないが、まさに「見抜いた」のだろう。それで十分である。
Mk3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
イエスは安息日にいやしを行うことが多い。通常のユダヤ教の律法理解とは異なっている。聖書もこの事実を繰り返し述べている。神の業である「命を救うこと」に目が向かない阻害要因が律法主義、人間の世界の決まりを絶対化することなのかもしれない。イエスは律法をどう理解していたのか、そのこととも関係してくる。
Mk4:33,34 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
「聞く力に応じて」とはどのような意味だろうか。弟子たちとの違いを不公平だと思うひともいるだろう。しかし、この章を読んでいくと、考えさせられることが多い。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(22節)いつかは公になることなのだろう。24節には「何を聞いているかに注意しなさい。」ともある。27節にあるように、知らないことが圧倒的に多いことは、こころに留めておきたい。そして「聞くことに注意」することも。
Mk5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
「恐れることはない」とはどのような意味だろう。33節には「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」とある。会堂司を襲う恐れ、それは「わたしの幼い娘」(23節)が取り去られることによって訪れる闇だろう。恐れは、神の働きを見ることをできなくさせるのかもしれない。愛の判断だろうか。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(34節)と、鰯の頭も信心のようなこの女性の信仰を是認し、さらに、平安と、いのちを与えたもう方である。まさに、いのちの主である。恐れずいのちの主にであいたい。
Mk6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
こんなことが人間に許されるのかと問いたくなる。ひとりの人が滅びることは神は喜ばれない。しかし、それは、ひとのがわの応答を伴う、愛の本質故だろう。いのちに関わることは神の仕事である故に、31節では休むことを命じ、45節では自ら群衆を解散させるようなことをし、さらに弟子たちを先にいかせ、自らは夜を徹して祈っている。神の業に関わることを経験させる訓練、しかしやはり問いたくなる。人間にそれは堪えられるのだろうか、と。
Mk7:20-23 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
何を言っているのだろうか。これら自体が悪いとはいわず、これらが「人を汚す」と言っている。一般的には「汚れ」は神との交わりを妨げるものということだろうか。神がこれらを嫌うから、妨げとなるのか。もう少し深い意味があるのだろう。このようなものが出てくるということは、これらのものとその人が一体、その人自身であることを言っているように思われる。たまたまとか、ちょっと失敗などと、自分の本質とは関わりないものとして、自分の中から出てきたものを、処理しがちであるが、その自分自身に目を向けることだろうか。これもまだ十分な説明にはなっていないように思われる。
Mk8:17,18 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないこ とで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がか たくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えて いないのか。
叱責ともとれるイエスの悲痛な叫びである。弟子たちが自分で解決できることがあったのだろう。それは何であろうか。神を、神の業をみることだろうか。それほど、簡単にはいえないが、見えていない世界、しかし素晴らしい世界があることに気づくことだろうか。このあとの19節をみると、弟子たちの見たこと、経験に問いかけている。体験したことが、内省によって霊的経験になることだろうか。やはりよくわからない。
Mk9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
おそらく直接的には、弟子たちであろう。しかし、そのように分けてはいけないのかもしれない。このあと父親に語りかけている。父親も「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しまし たが、できませんでした。」(18節b)で言っている。この父親も、このことばに向き合うように、主は語っておられるのではないだろうか。だから、弟子たちに向かってとは書かれていない。このことばに、わたしも向き合うように促されている。
Mk10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているも のが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施し なさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたし に従いなさい。」
この人は、走り寄ってきて、ひざまずいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよい でしょうか。」と質問している。しかし、イエスの答え、チャレンジに「気を落として、悲しみながら立ち去」っていく。なにが問題だったのだろう。一つは、失いたくないものがあったことだろう。イエスに従う恵みの大きさに目を留めることができなかったからか。この世の問題と霊の問題を区別することができなかったからか。最後の表現は、もう少し修正する必要がある。
Mk11:24,25 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あな たがたの過ちを赦してくださる。」
いちじくの話の後であることを考えると、前半は結びついているが、後半は唐突である。祈りに関して、イエスが他のところで語られたことを、ここに追加で入れたとも考えられる。しかし、たとえそうだとしても、ここに入っている意味は大きい。祈りの力と同時に、祈りが神に喜ばれることは密接に結びついている。神との関係は、我々の周囲の人との関係とつながっている。それを、ここで確認しているように思われる。我々の独善と自己中心的性格と傲慢を戒めるように。
Mk12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
どんな思い違いなのだろうか。24節でも「思い違い」といい「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(25節)に続いているから、ひとつは、復活がいまと同じような生活に戻ることではないことを言っているのだろう。しかし、この27節はどうだろうか。いくつか解釈ができるように思われる。しかしよくわからない。生きる、死ぬも、肉体的なものだけを言ってはいないことも、確かだろう。よく考えてみたい。
Mk13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当 てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけ ておくようなものだ。
37節には「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましてい なさい。」と書かれている。門番の仕事は、主人が帰るのを待つことだろうか。むろん、そうではない。門番には主人の家の門を守る「責任」がある。単に、その責任を忠実に果たしていることのひとつの証が、主人が帰ってきたときに目をさましていることあろう。しかし、門番にたとえているのは、目を覚ましていることが、そのときを待ち、そのときかどうかを、みていることは重要だとも言っているだろう。いまがそのときかと言うよりも、神の働きに目を留めることだろうか。
Mk14:34,35 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
マルコの素朴な記述から考えたい。33節では「イエスはひどく恐れてもだえ始め」と言っている。伴われた弟子たちも、このイエスと共にいることができなかったことは、いまは、置いておこう。このイエスの恐れは、神から引き離される事への恐れだろう。本当にこれで良いのだろうかと問う。他の道があるかもしれない。ヒットラー暗殺を計画する情報部に身をおいたディートリッヒ・ボンヘッファーを思う。イエスに従うことは、自分の十字架を負い、悪であっても、神から引き離されることであっても、それを引き受けることだったのか。義兄のハンス・フォン・ドナーニーたちと共に生きること、神と共に、神無しに生きること、このイエスの姿と重なる。イエスも、このときは、復活のことなど、考えていなかったのではないだろうか。言語化をもうすこし丁寧にしてみたい。
Mk15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエスの十字架上でのことば(7つと言われている)のなかでこの言葉に集中したい。最初に書かれた福音書に明確に記録されている言葉でもある。37節には「イエスは大声を出して息を引き取られた。」とある。つまり、周囲で、エリヤ(か、だれか)が助けに来る可能性が考えられていたにもかかわらず、ある意味であっけなく死んでしまったのである。まさに、神に、イエスが見捨てられた瞬間だと考えられる。これを神への従順(フィリピ2章8節)と表現することもできるだろうが、ボンヘッファーの言う「神と共に、神なしに生きる」瞬間であるように思われる。イエスもすべてを知っていたわけではないだろう。肉体をもって来られたのだから。そしてこの重い事実、この瞬間が、われわれのために死なれたことを意味している。まさに、34節の言葉は、それを証言しているのだろう。わたしの先生も教師もただイエス・キリストのみ。(マタイ23章8,11節)しかし担うものは、自分の十字架。
Mk16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
これが信頼できる写本の最後だというのは、驚きである。しかし、それで良いのかもしれない。このあとに書かれたことが失われたのだから。そして、これこそが、現実の世界なのだろう。何か大変なことが起こったと証言している。復活の主には、出会った人も、空の墓だけを見て、復活のキリストに出会わなかった人もいるだろう。空の墓は、客観性が高いものなのだろう。あとは、信仰である。わたしは、神がイエスの死を勝利とされたと証言した人たちの信仰に加わりたい。空の墓も見ず、復活の主にも、弟子たちの様には、出会わなくても。

BRC2013(1)

Mk1:35-37 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。
祈っておられるイエス、イエスを捜し回る、群衆、その間を走り回る、弟子たち。思いの差が大きいのだろう。それぞれの思いをしっかり受け止めてみていきたい。
Mk2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
「彼ら」は基本的には、連れてきた人たちではないだろうか。中風の人も含まれるかも知れない。しかし、救われた人をいままでよく考えていなかった。神様の恵みをうけることができたのは、いやされた中風の人だけではなく「子よ、あなたの罪はゆるされた」という衝撃的なことばによっていやしをみた「彼ら」そして、12節にある「大いに驚き、神をあがめ」た多くの人もふくまれるだろう。そして、恵みをうけとることができなかったひとも存在する。7節で「それは神をけがすことだ。」として、そのめぐみを受け止めることができなかった人たちである。
Mk3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。
マルコでは、2章からすでに疑いの目で、行動が見られていたことが記されている。しかし、これは、当然かもしれない。現代でも、本当に必要を持っている人以外は、多少余裕があることもあり、まずは、正しいかどうかを見極めようとし、さらに、異なっているものには、批判的になるのは、自然かもしれない。
Mk4:40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
信仰をもって生きるとはどのようなことだろうか。神様の支配のうちにいることを確信して生きることだろうか。単に、何かを信じると言うこととは、異なる気がする。このイエスの言われる、信仰を見ていると。
Mk5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
ひとつひとつ印象的である。手を取ったこと、アラム語が残されていること、「さあ」という少女との対話の言葉が入っていること。いずれも、イエスがこの少女としっかり向き合っていること、そしてそれを目撃者が証言していることが、よく分かる。
Mk6:24 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。
少女の母はなぜ、バプテスマのヨハネの首を要求させたのだろう。自分たちの結婚を非難した仕返し? 単に憎かった? 殺せば、状況は改善すると思ったのだろうか。とらえてもなおバプテスマのヨハネに完全には反発できない夫領主ヘロデを、完全に自分のものとするためか。しかし、Mt14:1,2 にあるように、死後もヘロデの心はバプテスマのヨハネにたいする怯えの感情をぬぐい去れないでいる。その意味では、やはり失敗。神に反逆する人間は、愚かとしか言いようがない。
Mk7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
一般のユダヤ人も念入りに手を洗ってからでないと、食事をしなかった。それに対する、メッセージが適切に伝わるかは、大きな問題だったろう。ここで、イエスは、パリサイ人と律法学者に対するメッセージ、群衆に対するメッセージ、弟子たちに対するメッセージを少しずつ注意深く変えている。細心の注意をしているように思われる。
Mk8:31, 32 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
「しかもあからさまに」にイエスの決断を見る。これまでも、弟子たちには、踏み込んだメッセージを語ってきている。しかし、弟子たちの、信仰告白、そして、ペテロの告白からは、さらにチャレンジを与えるようになっていく。決意とそのことに対する弟子の成長、すべてに神様を信頼していたと言うことか。
Mk9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
リーダーにいずれなるヨハネに、寛容、inclusive community の大切さを説いたのだろう。分裂は、頻繁に生じる、そのたびに、チャレンジが与えられる。分かれるのは簡単だから。
Mk10:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
多くの人にとって、バルテマイは邪魔者でしかなかったのだろう。信仰に関する本質的議論をしたかったのかも知れない。しかし、イエスは、このバルテマイのために立ち止まり、癒される。なにが信仰に関して「本質的」かを知っておられる。
Mk11:7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
マタイでは Mt21:2, 7 からろばとろばの子となっている。実情はよくわからない。しかし、マタイによる特別証言のようにも思われる。
Mk12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
かなりしつこく書かれている。「乏しい中から」「あらゆる持ち物」「その生活費全部」どれも、チャレンジングである。なぜ、この婦人はそれだけのものを献げたのだろう。すくなくとも、イエスは「そんなばかなことは考え直した方がよい」とは言われず、賞賛したということである。
Mk13:31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
宮の崩壊という天地が滅びることに匹敵すると考えた当時のひとたちに対して、このように述べられている。天地が滅びるそれより先に、イエスの関心があったと言うことにもとれる。天地が滅びるかどうかより本質的なイエスのことばを指し示しているということであろうか。
Mk14:10 ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。
14:4 で「すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。」となっているが、ヨハネでは 12:1-11 でこの質問をした人は、イスカリオテのユダだとし「彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。」(v6) と記している。ヨハネだけがそれを気取ったということなのだろうか。
Mk15:39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
このことばはどのように理解したら良いのだろう。完了形でかかれており、終わってしまった、絶望感を表しているのか。それとも、死に至るまで忠実であった神の子を証言しているのか。一部始終をそばで見ていたものの証言は、やはり重い。このことばは、まだ、この百卒長に直接関わってはないようである。しかし、これが記録されたと言うことは、そして、これを証言ととるのであれば、これは、のちに神の業の目撃証言として生きたものとなったのであろう。想像にすぎないが。
Mk16:6 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。
「ここにはおられない」が重要である。あらたな関係をイエスと結ぶ必要性がここで求められているのだろう。とても印象的である。

BRC2013(2)

Mk1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
マルコに記された、イエスの第一声である。まずは、神の国が近づいたとのめぐみのメッセージから始まる。悔い改めて、信仰に入る、それによって、神の国に生活するようになる訳ではない。神の支配のなかで生きる為に。そうありたい。だからこそ福音。
Mk2:15 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。
「こんな人たち」が印象に残った。「取税人や罪人たち」を意味するだろう。しかし、この言い方は、やはり多少見下した言い方である。マルコの口語調の書き方故の言葉遣いかもしれないが、これが書かれた当時の教会には、あまりこのような人たちが多くなかったのではないだろうか。いまは、明らかに少ない。考えさせられる。
Mk3:35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
この一言により、厳密な意味で、イエスの兄弟、姉妹、母は誰もいないというメッセージを伝えようとしているのか。そうではあるまい。コミュニティとして、または神の国の一員として、生きようとするものは、みんな兄弟・姉妹・母なのだ、天の父なるお父さんの家族として。と言いたいのだろう。そんな呼びかけに答えたい。
Mk4:28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。
神様が、すべてを直接コントロールしているようには表現されていない。このあとの 32節の「成長して」もそうである。しかし、40節の「イエスは彼らに言われた、『なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか』。」とも比較して考える。主への信頼は、時々にすべてコントロールしてくださるという信頼ではなく、すべてを良く造っておられる事への信頼だろうか。背後におられる事への信頼だろうか。いずれにしても、イエスは、神様を信頼している。
Mk5:17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
そしてイエスは出て行く。しかし、この「悪霊につかれていた人」はお供をすることは断られ次のように言われている。「しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、『あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい』。」証人として残された事は、イエスの弟子達の歩みを先取りしている。それも、この人だけでなく、周囲の人をも憐れんでくださる方であることをも伝えるとても大きなミッションのために。
Mk6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
31節では「するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」とありこのあと追いかけてきた群衆をみて 34節で「イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。」五千人給食のあとがここである。奇跡は経験してもこころも体も休まる暇もなかった、弟子たち、イエスなら、穏やかな船旅を保障してあげることもできたのではないか。とも考えられる。おそらく、God Intervention という考えはなかったのだろう。それがわれわれの世界でもあるから。
Mk7:32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
この前には、娘がいやされることを願って母親の話、ここでも、つれてきたのは人々。自分でもくることはできたろう。自分では、それを望まないのかもしれない。世界が変わることはあり得ないと思って。受容をしているのだから。
Mk8:17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。
食べるパンではないことを言っていることはわかるべきだったろう。しかし、それだけだろうか。神さまが恵み深い方であること。もっと注意すべきことがあること。正直、わたしにもこれだとは、言えない。
Mk9:35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
「イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた」この表現からも、とても大切なことを伝えようとしていることがわかる。これは、単に偉いものはだれかではなく、弟子たちの、今後の生き方に全面的に関係してくるからであろう。そして、わたしたち一人一人に関係している。一番あとになり、仕えるものになりたい。そしてそういいつつ、日ごとそれを否定する生き方をしてしまっている自分に驚かされる。
Mk10:46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
テマイはヘブル語のテーメー(unclean, impure)から来ているとも言われる。("highly prized” の可能性もある。)マタイ20:30 では同じ場面で、2人としている。
Mk11:28 「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
人の権威を問うているのだろう。神の事を思わない。これが人の弱さなのか。
Mt12:6 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。
この話を読むと、お人好しの農園主と、利益追求の農夫のどちらの愚かしさにも驚かされる。しかし、農園主のものは、信頼したい、信頼し合える関係に入りたいと願っている部分は、異なっている。それが、めぐみということか。
Mt13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
いなか者のイエスに、エルサレムの神殿の荘厳さを自慢したかったのかもしれない。ひとが見えている部分は、限られている。どうしたら、イエスのように見る事ができるのだろうか。人となられた神の子のように。
Mk14:6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
4節・5節の「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。との批判との違いは、一般論と、個別背景の違いだろうか。一人の人を愛する(大切にする)とは、その人の個別事情にも思いを馳せることだろうか。一般的重要性は、では、どのように測ったらよいのだろうか。
Mk15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
この言葉を簡単に見過ごすことはできない。イエスの神への信頼は並大抵ではない。しかし、ここでも信頼することをやめているのではなく、意味を問うている。イエスすら、救いの方程式などということの、意味を知らずに、死んでいったのだろう。簡単にその方程式を書くことは、危険であるように思う。
Mk16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。
2節は「そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。」と続く。買い求めた時期は本当に、この朝だったのだろうか。購入ではなかったのかもしれない。それとも、安息日の違反をさけるためか。状況を理解したい。


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ルカによる福音

ルカによる福音書(1)

ルカによる福音書は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の最後におかれています。ルカによる福音書を読みながら、これは前に読んだことがあると感じる箇所が多いのではないでしょうか。また、このルカによる福音書が一番好きだという方もいるのではないかと思います。みなさんが、どのような感想を持たれるか、楽しみです。

ルカによる福音書は、批判的な学者もルカによって書かれたと考えているようですが、ルカとはどのような人でしょうか。聖書には、3回出てきます。マルコによる福音書の著者マルコも出てきますから、三つとも引用してみましょう。引用はすべて新共同訳です。

  1. コロサイの信徒への手紙 4章 14節
    愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
  2. テモテへの手紙二 4章 11節
    ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
  3. フィレモンへの手紙 24節
    わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
これから分かることは、医者であること、テモテへの第二の手紙にはその著者とされるパウロと一緒にいること、フィレモンへの手紙では、(獄中にいたパウロの)協力者とよばれ、おそらく(囚人とはなっていないようですが)一緒にいた人の一人として書かれていることです。また、マルコとも知り合いだったと思われます。

もう一つ、重要なことは、ルカによる福音書の書き出しです。それと、使徒言行録の書き出しを比べてみましょう。

  1. ルカによる福音書 1章 1‐4節
    わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
  2. 使徒言行録 1章 1‐2節
    テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
以下のことが分かると思います。
  1. 非常に似た献呈の言葉から始まっていること。同じ著者であることの証言。
  2. これら二巻が、一対となっていること。そして一巻目のルカによる福音書は 「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて」書かれていること。つまり、二巻目はそれ以降ということになります。ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初の記事を比較してみるのも良いでしょう。
  3. ルカによる福音書が書かれた時代には、すでに「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」によって、記されたものがいくつかあったこと。間接的には、自分は、その目撃証人ではないことも証言していると思います。
  4. ルカによる福音書記者(これからはルカと書きます)は、自分で詳細に調べたことを順序正しく書こうとしていること。
  5. 目的は、このテオフィロという人が、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分か」ることを目的としているということです。弁証といえるような事かも知れません。
マタイ、マルコ、ヨハネは、または、これらの福音書の背景を考えると、これら三つの福音書は、ヘブル語を理解し、ユダヤについて十分に詳しい人たちが書いたと思われますが、ルカは、ギリシャ人と考えられており、ギリシャ語は非常に美しいが、おそらくヘブル語は話せなかったと思われます。異邦人クリスチャン向けの福音書と言うことができるかも知れません。献呈の相手のテオフィロは「神を愛する」という意味ですが、歴史上の特定の人なのかどうかは分かっていません。

使徒言行録を読んでいくと、途中から「わたしたち」という表現があらわれ、いったん途切れ、またそれが復活し、最後まで続きます。疑問を呈する人もいるようですが、ルカが、ある時点から使徒パウロに同行し、途中で一旦わかれ、また行動をともにしていたと考えられています。その意味で、使徒パウロ(パウロについては、今後、どこかで書くことがあるでしょう)の語っていた福音、イエス・キリスト伝が元になっているのではないかと言われています。上の考えのもとでは、パウロに同行してエルサレムにも1回は行ったことになりますし、イエスの母マリアに会ったかどうかは不明ですが、イエスの直接の弟子達の多くと会った可能性は大きくなります。医者として、当時の教養人として、奇蹟物語の実態も含めて、いろいろと調べ、記録したことが書かれているのでしょう。ルカの表現に注意して読むのも良いと思いますよ。

ルカによる福音書成立の経緯については、2C の後半大体AD170頃ののムラトリ断片(The Muratorian Fragment)に記されています。(http://www.bible-researcher.com/muratorian.html) 和訳も田川健三訳を参考にしたと書かれたものが以前はネット上にありましたが。今は見つかりませんでした。わたしが勉強した頃は、ベッテンソンの「キリスト教文書資料集」が日本語でかつコンパクトにまとまった唯一の資料集だったので、それで最初に読んだ記憶があります。今調べましたら、この本は、版切れでした。聖書を勉強するときは、残念ながら、日本語だけでは、十分な情報が得られないことが多いですね。

ルカによる福音書は、たとえが豊富な福音書でもあります。ルカのきめ細かな表現とともに、味わって頂けたらと思います。ルカによって描かれているイエスにみなさんと一緒に出会いたいですね。

ルカによる福音書(2)

10章には「善きサマリヤ人のたとえ」15章には「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる有名なたとえがあります。それ以外にも、みなさんも聞いたことがある話がいくつも出てきているのではないでしょうか。

以下に、ルカによる福音書を読んでいて印象にのこった「信仰」について少し書いておきます。この言葉は新共同訳で検索すると、福音書の中では、マタイに 14, マルコに 9, ルカに 16 現れます。ヨハネには現れません。その中で「あなたの信仰」と書かれているものを見てみると、口語訳聖書では、マタイに 2, マルコに 2, ルカに 5, 現れます。新共同訳でも大体同じですが、ルカには 4 で、22:32 は少し違う訳になっています。マタイ、マルコ、ルカ共通に現れるのは、12年間長血をわずらっていた女(新共同訳では「十二年間も患って出血が続いている女」)が癒された記事です。病が癒された時にイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。口語訳で列挙してみます。

  1. ルカによる福音書 7章 50節香油を注いだ罪の女
    しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
  2. ルカによる福音書 8章 48節12年間長血をわずらった女(マタイ9:22, マルコ5:34)
    そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
  3. ルカによる福音書 17章 19節重い皮膚病を癒されたサマリヤ人
    それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
  4. ルカによる福音書 18章 42節エリコ入城のときに癒された盲人 (マルコ10:52(バルテマイ))
    そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。

    そして最後は、ペテロに対してです。

  5. ルカによる福音書 22章 32節ペテロ(新共同訳では「あなたの信仰」とは表現されていない)
    しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
マタイ15:28 には、ルカに記されていない ツロ・シドンの地方でのカナンの女の娘の癒しのところでもこの言葉が使われています。

ひとつひとつ見てみると、これがイエス様が称賛される「信仰」なのだろうかと疑ってしまうような印象もうけます。「いわしの頭も信心」とどこが違うのだろうかと。しかしイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。信仰の不完全さとか十分でないことをとがめるのではなく、信仰による応答をたたえる、または、信仰によった部分を気づかせ、それこそがあなたを生かすものだと告げるのです。そして、嵐にあったときおろおろする弟子達に「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25)」信仰を増して下さいと願うと「からし種一粒ほどの信仰(ルカ17:6)」があれば十分と言われます。そして「安心して行きなさい(ルカ7:50, 8:48)」わたしは、この言葉になんども力を与えられました。そして、このような言葉を語ることができたら良いなといつも思っています。みなさんは、どのように受け取りますか。

ルカによる福音書(3)

新約聖書の最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書(共感と書く人もいます Synoptic Gospel)と呼ばれ、共通の記事がたくさんあふれています。現在では、マルコが最初に書かれ、マタイとルカは、マルコの流れを基盤として他の独自資料をもとに編集したと言われていますが、同じ記事または似た記事を比較してみると、取り上げる場所・背景が違っていたり、強調点が違ったり、新たなことが付け加えられていたり、修正されていたりしていることにも気づきます。通読で比較して読むことは時間の関係でなかなかできませんが、それぞれの箇所が簡単に行き来できるとよいと思うことも多いと思います。聖書には、対応箇所が見出しと共に書かれていたり、引照箇所が記されているものもあり、助けとなりますが、対照表があるのも便利です。わたしが主催している聖書の会では、下の Life of Christ サイトの Gospel Harmony を参照しています。個人的には、よくまとまっていると思います。キリスト教の牧師や宣教師になる勉強をする神学校にいくと、この対応表を自分で作成することがよく課題とされます。この対応についての本もたくさん出版されているぐらいですから、自分で作成しようとしてみるとなかなか大変であることも分かりますよ。
四福音書対観表(西日本福音ルーテル教会)
マルコによる福音書表題を中心とした共観福音書対照表
この下の英語のサイトには、他にも、奇蹟や、たとえ、イエスの説教などについてまとめた表も掲載されています。最後に、ルカによる福音書の梗概を引用します。

いのちのことば社「新聖書注解」榊原康夫

梗概

  1. 序文 1:1-4
  2. イエスのメシヤ性と職務 1:5-9:50
    1. メシヤ時代の夜明け 1:5-2:40
    2. メシヤ職への就任 2:41-4:30
    3. ガリラヤ巡回伝道・メシヤのわざ 4:31-9:50
  3. メシヤの教え 9:51-19:44
    1. 神の国の指針の意味と受容 9:51-10:42
    2. メシヤの教え・御国とその力 11:1-13
    3. メシヤの教え・御国と審判 12:35-13:21
    4. メシヤの教え・御国に入る者 13:22-16:13
    5. メシヤの教え・御国の到来 16:14-18:14
    6. エルサレムへの道・御子たる道と捨てられる王 18:15-19:44
  4. メシヤ職の完成 19:45-24:53
    1. メシヤと神殿 19:45-21:38
    2. メシヤの死の宣告 22:1-23:25
    3. メシヤの栄光化 23:26-24:53

ルカによる福音書(4)

わたしは、この BRC サポートレターを書くこともあるので、みなんより少し先を読むように心がけています。今回は、ルカによる福音書6章12節から7章1節から通読でわたしがどのようなことを感じながら読んでいるかひとつの参考として書こうと思います。わたしは、ここ何年かは、通読は口語訳を使っていますが、以下の引用は主として新共同訳とします。

前にも書きましたが、章の区切りは後代のもので、記者がつけたものではありませんし、キリスト教全体の会議で決まったものでもありませんから、区切り方は、読みながら考えてくださればよいと思います。とはいいつつ、やはり章の区切りは便利ですから、通読では一日2章としていますが。

今回選んだ区切りの最後の7章1節には次のようには書かれています。

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
カファルナウム(口語訳などではカペナウム)は、ガリラヤという地方にあるガリラヤ湖の北の湖畔にある町で、イエスが宣教の拠点とした町で、わかっているだけでも、14節から16節で「使徒」と呼んでいる12人の弟子たちのうち「イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ」「マタイ」は、この町の出身または、この町の周辺の地を拠点として働いていた人たちです。この節では「民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから」とあります。そのイエスの説教、おそらく記録されているのは一部でしょうが、それが、20節から49節に書かれています。「すべて」(口語訳では「ことごとく」)は強調している印象をうけますね。イエスの中心的説教と言ってもよいと思います。書かれていることは、マタイによる福音書5章から7章の通常「山上の垂訓」とか「山の上の説教」と言われているものと、共通の言葉が多いので、おそらく、何度もイエスはこのようなメッセージをしたのだと思いますが、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とあるので、マタイによる福音書の記事と対比して「平地の説教」などとも言われます。

12, 13節を見てみましょう。

12:そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
13:朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
徹夜で祈りこの12人を選んだことが書かれています。使徒言行録もルカが書いていますから、その1章にあるリストとは同じですが、他の福音書にあるリストとは多少名前が違っていますが、ニックネームや、ヘブル語・アラム語の名前と、ギリシャ語の名前とを両方持っていた人も多いようですから、12人のリスト自体に食い違いがあるとはいえないのだと思います。マタイによる福音書10章のはじめにも似た表現がありますが、マルコによる福音書から対応する箇所を抜き書きしてみます。3章13節から15節です。
13:イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
14:そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15:悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
「使徒」の英語名は、Apostle です。ICUのアメリカンフットボールチームの名前でもありますね。わたしはあまり詳しくありませんが、アメリカンフットボールは11人のようですね。ここには、イエスの任命であること。そばにおくため(生活を共にするため、おそらく教育と訓練のためでしょう)、派遣して宣教させるため、そして、悪霊を追い出す権能を持たせるためとあります。つまりこの時点からは、イエスだけが教えるのではなく、チームで宣教する、かつ、常に訓練をし続けることが書かれているわけです。

このあと12人が紹介されていますが、17節後半から引用すると次のように書かれています。

17b:大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18:イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19:群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
17b と書きましたが、これは、17節後半という意味です。エルサレムはユダヤの山地にある町で、イスラエルの中心都市、カファルナウムからは、150km 以上南です。ティルスやシドンは、カファルナウムから北北西70kmから100kmにある海岸の町で、地中海貿易で栄えた町です。地図は、BRC のホームページにリンクがありますが、Bible Atlas のサイトには、いろいろなものがあり、わたしはまずそのサイトの地図を利用しています。

さて、大勢の弟子と、おびただしい民衆とあります。イエスのもとに来た目的は何でしょうか。ここに書かれているのは、「教えを聞くため」「病気をいやしていただくため」「汚れた霊に悩まされていた人」が「いやしていただく」ためでした。それも、イエスに触れることによってイエスから力がでて、いやしていただいていたようなのです。こんな信仰で大丈夫なのか心配になってしまいますが、イエスはこのようなひとを受け入れ、いやしておられたと書かれています。ルカによるとこのとき、イエスのメッセージが始まります。6章20節です。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
マタイによる福音書でも大体同じようになっていて、中心的に語りかける相手は、弟子たち。聞いているのは、もっと多くの人々です。(マタイによる福音書 5章1節、7章28節)「貧しい人々」とは、どのような人なのでしょうか。そして、「あなたがた」とは誰なのでしょうか。

みなさんは、どのように思われますか。イエスの祝福。だれにたいして、どんなひとにたいして。福音書を読みながら、ぜひ、それを考え、できたら、みなさんがよみとったことを分かちあってください。ここに中心的なイエスのメッセージがあるのだと思いますよ。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Luke 1:1-4 私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。
「伝えたとおりに」からも、語られた事実であって、事実と言っているわけではない。これは、実証不可能なことでもある。しかし、やはり、受け取ったものが伝えられ、それが書かれたという事実は、踏まえて読むべきだろう。それが、事実と比べると、正確ではないことはありうる。聖書を神の言葉と信じることを仮定しないと、確定できないことと、証言として、受け入れられることは、やはり区別して考えた方が良いように思う。
Luke 2:48-50 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。
善意に解釈することも可能だが、相手の気持ちが理解できない、未熟者とも考えることができる。ただ、「なぜ、こんなことをしてくれたのです」に対する、いさめる気持ちはあったかもしれない。難しい判断である。さまざまに解釈しうる。
Luke 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
福音という言葉が出てくる。ヨハネがその意識があったかどうかはわからないが、ヨハネのメッセージはどのようなものだったのだろう。マタイとルカが詳しい。「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(3)基本的に、悔い改めであるように見える。マタイには「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3章2節)とイエスと同じメッセージが書かれている。神の国が近づいた。これは、福音だろう。しかし、ヨハネにおいては、裁きを前にして悔い改め。イエスは、神の国の到来自体を知ることのように思われる。福音ということばで結ぶのは、一体であることを示すためだろうか。
Luke 4:23,24 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」そして、言われた。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
この記事は、マルコでは、6章、マタイでも、大体対応する場所にあるが、ルカでは非常に早い段階に置かれている。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」とあるが、カファルナウムでの記事は、このあとに置かれている。ペトロたちを弟子に招く記事もこれよりもずっと後に置かれている。何らかの意図はあったのだろう。イエスの動線を単純にしたかったからか、ナザレから、ガリラヤ、ユダヤ、そして世界と、反発とともに、広がっていくことに焦点を起きたかったか。少しずつ学んでみたい。
Luke 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。
ルカはなぜ、ここに、ペトロたち四人の漁師が弟子となった記事を入れたのか考えながら読んだ。この章では、これが最初のエピソードで「私は罪深い人間です」と告白している。イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10)。このあとは、規定の病にかかった人の癒しである。「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」(12)イエスは「私は望む。清くなれ」(13)。そのあとは、運ばれてきた体が麻痺した人に対して「人よ、あなたの罪は赦された」(20)。最後は、レビの家での会食の場面で「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31b,32)である。罪からの清めが、中心テーマとしてあるように感じた。ルカの編集である。
Luke 6:46-49 「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった。しかし、聞いても行わなかった者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
平地の説教のあとで言われている言葉である。やはりここでも、「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」と言い、さらに、「私の言葉を聞いて行う者」について述べている。ここに核心があるのだろう。しっかり受け取りたい。
Luke 7:33-35 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。」
最後のことばが心に残った。「知恵の子であるすべての者が証明する。」どういうことだろうか。いずれ、静まって考えれば、わかるということだろうか。おそらく、ここで引用されていることは、おかしいことは、理解できるのだろう。さらに、ここで話しているのは、弟子たち、さらに、ヨハネの弟子たちのことをよく知っている人たちである。批判に対して、それにたじろいではいけないと言っているのかもしれない。
Luke 8:1-3 その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。
このあと種まきのたとえが語られる。仕えていた女性たちも、そのたとえを聞いていただろう。「イエスが独りになられたとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人と共に、たとえについて尋ねた。」(マルコ4章10節)これは、この女性たちなど、十二弟子以外が、十二弟子に尋ね、わからなかったので、イエスに尋ねたという構図を浮き上がらせる。十二弟子の権威を貶めることは、マタイや、ルカは、書かなかったのかもしれない。しかし、ルカのこの証言によって、わたしたちは、ある程度それを知ることができる。十二弟子が、必ずしも、「神の国の奥義」を理解できていたわけではないことがわかる。それは、おそらく大切なことだろう。
Luke 9:33-35 この二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆った。彼らが雲に包まれたので、弟子たちは恐れた。すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。
興味深い。「ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかった」と書いてある。しかし、それを咎めるのではなく、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」で結ばれている。イエスの権威に委ねられたとも言えるが、ペトロを咎めなかったことも背景にある。印象的な出来事だったのだろう。
Luke 10:20 しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
「七十二人は喜んで帰って来て、言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」(17)を受けている。そして、イエスは、それに答える形で語り、その節の後にも、賛美のことばが続いている。一連の、悔い改めなかった町を叱ることで、ある総括をしていると同時に、ほんの少しのみのりも確認しているのだろう。そのバランスと、自らを顧みる姿勢だろうか。考えさせられることが多い。
Luke 11:4 私たちの罪をお赦しください。/私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。/私たちを試みに遭わせないでください。』」
何度も読んでいる箇所ではあるが、「私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」が特に、印象的に響いた。この決意、できるかどうかは別として、それが、神様との関係を築くのかもしれないと思った。むろん、神様との関係は対等ではない。しかし、互いに愛し合うことをある部分、自由意志に委ねられているのだとすると、そのような決意と、行動がともなわなければいけないことも、事実だろう。たんに、甘えているだけでは御心を行うことにはならない。できないと、すぐ、結論してしまうが、それも、単純化バイアス。できることだけでも、少しずつする決意なのかもしれない。「"なにもかも" はできなくとも、"なにか" はきっとできる。」(「すべての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはできる」ボブ・ピアス)わたしも、そのように生きたい。
Luke 12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
主体的判断。この前にあるのが、「イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹くと、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように地や空の模様を見定めることは知っているのに、どうして、今の時を見定めることができないのか。」」(54-56)である。科学的探究・知識を含むように思われる。様々なことが、神様から、知らされている。そこからもメッセージを受けなければならない。
Luke 13:4,5 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
この前には「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(1)ことからの、イエスのコメントがある。悲劇的な死に方をした人は、特別に負い目のあるものかということについて答えている。しかし、今回は、最後の、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」に中心があるように思われた。悔い改めて生きることが難しい現実をイエスはみているからだろう。しかし、希望も捨てていないように見える。
Luke 14:12,13 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
「ある安息日に、イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったときのことである。人々はイエスの様子をうかがっていた。」(1)から始まる。このときにも、イエスの目には、様々なことが入ってきたのだろう。「水腫を患っている人」(2)「招待を受けた客が上席を選んでいる」(7)様子、そして、引用句からは、招かれた人全体だろうか。これがどのような人かはわからないが、「ファリサイ派のある議員」で、イエスに興味を持ち、尊敬していた人ではないかと思われる。アリマタヤのヨセフや、ニコデモのような人たちがいたのだろう。しかし、そのひとたち、ある意味で、富んでいるものが、神の国に入るのは難しいことも、ここに表されているように見える。ひとつひとつたいせつなことではあるが。
Luke 15:31,32 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」
この兄は、ファリサイ派のひとや、律法学者などをさすと言われるが、その理解だけで、止まっていては、幾つもの受け取るべきメッセージを受け取れないように思った。この兄のような気持ちになるのは、様々な場合にあるが、同時に、この最後のことばを理解できるかどうかにかかっているようにも思った。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」の評価だろうか。ともに生きる弟と認識するところだろうか。日常的な課題である。父の感覚ともギャップとも言えるが、兄弟愛、互いに愛し合うことがここに詰まっているように思った。
Luke 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
この章は「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。」(10)のメッセージから始まっている。この最後のことばも、関係しているように思った。キリスト者も、復活に集中すると、小さなことに不忠実になってしまうように思う。ここでは、「モーセと預言者に耳を傾け」れば、それで十分であることも言っている。イエスによってあたらくしなったというより、やはり連続性が強調されているのだろう。
Luke 17:5,6 さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。
大きい小さいは関係ないということか。イエスは、本当に、小さな信仰表明であっても、そこに神の国の到来を見られるように思われる。それが信仰なのだろう。しかし、それで良いのだろうかとも思う。この前には、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたの方を向いて、『悔い改めます』と言うなら、赦してやりなさい。」(4)とある。こんなときにも、おそらく迷いがある。しかし、からし種一粒ほどの信仰があれば、そこで赦すことができるということかもしれない。
Luke 18:41,42 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
中途失明者ということか。明確に、見えるようになることを希望するのは、そのような場合なのかもしれない。人生が変わることへの恐れも一般的にはある。目が見えない中で、幸せを求めている場合との少しの違いがあるのかもしれない。難しいが。
Luke 19:14 しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。
タラントのたとえと似ているムナのたとえである。むろん、さまざまな箇所が異なっている。共通の部分を見つけ出すこともできるが、独自に理解した方がよいようにも思った。イエスは、ほんとうにたくさんのたとえを人々に語られたのだろう。神の国のことは、理解できないのは当然だから、こんなことから理解してねといろいろな方法で。引用句では、「我々はこの人を王に戴きたくない」という人たちが出てくる。イエスを主としては受け入れられないひとはたくさんいるのだろう。それは、神の御心を受け入れないことではあっても、それが現実なのだろう。すべてのひとの救いを神様が願っていたとしても、神の救いを願っていない人がたくさんいることも知らなければならないと思った。
Luke 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活の子として神の子だからである。
このあと、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」(38)さらに、「律法学者の中には、『先生、おっしゃるとおりです』と言う者もいた。」(39)ともある。アーメンというひとも律法学者の中にいたということだろう。復活の子として神の子ということばに、ちょっと驚いた。マルコにも、マタイにもない。パウロの近くにいた、ルカが理解したことのように感じた。そのようにイエスは言われたのだろうか。そうではないようにも思う。
Luke 21:37,38 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。
最後の晩餐の直前である。このときにも、まだ、イエスの話を聞こうと民衆が集まってくる。さまざまなひとがいたのだろう。しかし、このあと、すこしで、イエスは十字架に架けられる。他には道がなかったのかを正直に思う。もっと、イエスの話を聞きたかったと思うのは、わたしも、この民衆たちと同じように思う。
Luke 22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。
「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ26:28)「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マルコ14:24b)マタイ20:28の「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と、マルコ10:45 「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」以外に、共観福音書で贖罪死のことを言っているとすると、聖餐のことばだと思って比較して調べてみた。ヨハネには、贖罪死については、書かれていると思われるが、聖餐の記述はない。しかし、よく読んでみると、やはり明確とは言えないように思う。契約の内容は明確ではなく、契約には、血は、通常付随するものだからである。福音書の不思議でもある。パウロ書簡の不思議かもしれない。
Luke 23:50,51 さて、ヨセフと言う議員がいたが、善良な正しい人で、同僚たちの決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
群衆や、弟子たちの中で、声を上げた人のことは書かれていない。しかし、ここには、議員のヨセフが、同僚たちの決議や行動には同意しなかったとある。声を上げたかどうかまでは正確には分からないが、勇気ある行動だったのだろう。ルカを読んでいて、ピラトの法廷には、一般群衆というより、議会からついてきた、一部の群衆が中心だったのかもしれない。それは、たんなる安易な付和雷同だったのだろうか。考える。そのなかで、わたしは、声をあげられただろうか。沈黙して、ことの成り行きを見るしかなかったかもしれない。
Luke 24:25-27 そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
おそらく、このことは、共有されていただろう。しかし、復活証言の理解は難しい。特に、福音書が書かれたのは、かなり時間がたってからだから。この引用句のような共通認識のもとで、イエスが生きておられるということを、証言した人が、たくさんいたのだろう。

BRC2023(2)

Luke 1:76-79 幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。/主に先立って行き、その道を備え/主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。/これは我らの神の憐れみの心による。/この憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ/暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く。」
バプテスマのヨハネについてのザカリアの預言・賛歌と呼ばれる。最後のことばは印象的である。しかし、バプテスマのヨハネは、それを見ることなく殺される。どのような思いだったのだろう。マリアと、エリザベトの関係はどのようなものだったのだろうか。これは、不明である。
Luke 2:41,42 さて、両親は毎年、過越祭にはエルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
熱心であったことを証言しているのだろうが、毎年かどうかはわからないのかもしれない。少なくとも、イエスは、何回もエルサレムに行っていたことは確かだろう。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親にお仕えになった。母はこれらのことをみな心に留めていた。」(51)イエスが、このようにしなければいけなかったことは、十分考えられる。ヨセフはいつ頃まで生きていたのだろうか。
Luke 3:4-6 これは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。/「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ/山と丘はみな低くされる。/曲がった道はまっすぐに/でこぼこの道は平らになり人は皆、神の救いを見る。』」
聖書協会共同訳の聖書の引用箇所には、ヨハネ1:23 とあり、イザヤ書の箇所は書かれていない。ヨハネや他の印象箇所からは、イザヤ書40章であることは想像がつく。「呼びかける声がする。/『荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。/主の口が語られたのである。』」(イザヤ40:3-5)かなり異なるのは、七十人訳(LXX SEPTUAGINT)からの引用だと思われるが、本当に最後もこのように書かれているのだろうか。”καὶ ὀφθήσεται ἡ δόξα κυρίου καὶ ὄψεται πᾶσα σὰρξ τὸ σωτήριον τοῦ θεοῦ ὅτι κύριος ἐλάλησεν’ (And shall be seen the glory of Lord, and shall see all flesh the salvation of the God,for Lord he said.)たしかに、そのようになっているようにみえる。
Luke 4:22,23 皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」
ルカでは、イエスの宣教のほとんど最初に置かれている。ペテロたち弟子を招くより先である。「イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が周り一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から称賛を受けられた。」(14,15)のみが、悪魔の誘惑のあとに加わっている。しかし、引用句からもわかるように、カファルナウムですでに、力あるわざをされたことが書かれていて、そのようなことを否定してはいない。編集があることを意味している。故郷のナザレから、広がっていくことを書きたかったからか。いずれにしても、最初から反対があったことも記されている。「敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」(1:3)とはあるが、文字通り、順序通りではないのかもしれない。順序通りを取ることも可能かもしれないが。
Luke 5:7,8 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に合図して、加勢に来るように頼んだ。彼らが来て、魚を両方の舟いっぱいにしたので、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。
この記事が書かれているのは、ルカのみである。ルカは、このようなことが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが、弟子となった契機だと考えたのかもしれない。または、それを、説明に使ったのかもしれない。しかし、ルカにも含まれる、続きがある。「とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(9-11)ここでも、ペテロに語ったように書かれ、彼らが従ったという枠組みになっている。ペテロにとっては、この言葉が鍵だったのだろうが、他の証言もあったのかもしれない。
Luke 6:35,36 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」
「敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。」(35b)から続く部分である。基本は、最後にあるように、父(なる神)のようになりなさい。しかし、対象は、隣人である。そして、その根拠は、父が、わたしに憐れみ深い方であるからとなる。この関係は、ルカでは、かなり明確に説明されているように見える。
Luke 7:37,38 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
この女性は、このあとに、「あなたの罪は赦された」(48)と言われ、さらに「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50)とも言われている。この記事と、ベタニアでの記事とをどう区別するかは難しい。文脈は非常に異なる。また、詳細も異なるように見える。ここでは、特別に高価であることは書かれていない。そうすると、このような行為が、ひとつの懇願と敬意の表現を表すと考えられるのかとも思う。さらに、考えたい。
Luke 8:40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。皆がイエスを待ちわびていたからである。
イエスを取り巻く状況が目に浮かぶ。このあとには、「するとそこに、ヤイロと言う人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足元にひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。」(41)と続くが、このひとのために、皆が待ちわびていたようには見えない。それは、どのようなことのゆえなのだろうか。丁寧に、読んでいきたい。
Luke 9:51-53 天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。それで、先に使いの者たちをお遣わしになった。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである。
この次には、「弟子の覚悟」として、イエスに従ってこない様々な理由が続く。しかし、サマリヤ人の記述は、興味深い。エルサレムを特別とすることをみて、自分を大切にしてくれるとは考えなかったのだろう。たしかに、イエスの行動は、エルサレムに集中しすぎているようにも見える。これも、ひとつの課題である。
Luke 10:33,34 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
この、気の毒に思いについて、考えてしまう。あまり、広がりをもって、考えてはいけないのだろうか。率直に、気の毒ということだろうか。そのように、心が動かされるのは、その苦しさを、自分の苦しさと同一視できるからだろうか。最後に、「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37) と言われた律法学者は、隣人について、理解したかもしれない。すると、サマリア人であっても、自分の苦しさと同一視できたかもしれない。そこで、行動できるかどうかは、また、別の問題かもしれないが。
Luke 11:37-39 イエスが話し終えると、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、驚いた。主は言われた。「なるほど、あなたがたファリサイ派の人々は、杯や大皿の外側は清めるが、自分の内側は強欲と悪意で満ちている。
この食事は、このあとどうなったのかが気になった。それについては、なにも書かれていない。こんなことが議論になってしまっては、少なくとも気持ちよくは食べられなかったろう。ということは、そこにいたものの証言ではないのではないだろうか。マルコでは、清めにかんしては、7章1-23節にあるが、ここでは、その食事の設定については書かれていない。解釈は難しい。
Luke 12:19-21 自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」
このあとに続く段落の最後には、「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(34)とある。引用句の「お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」についても、誰のためか考え、こどものため、誰かわからない人のためともなるが、「神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」とあるように、神のために宝をつむことが大切だと語っておられるのだろう。では、神様に貢ぐことがすべてなのか。おそらく、そうではない。神様はすべてのものを持っておられるから。神様がたいせつにされることのため、神様がたいせつなひとびとのために。神様の価値観を大切にするということなのだろう。
Luke 13:29,30 そして人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
マルコでは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:31)マタイでは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(19:30)「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20:16)となっている。引用句のルカでは、先にいる多くのもの、あとにいる多くのものである。文脈にも夜が、マタイのあとの方は、断定的である。いずれにしても、意味深で、演繹を難しくする言葉である。ルカでは、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」(23b)からスタートしている。気をつけなさいということが中心メッセージなのだろう。
Luke 14:27 自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。
弟子の覚悟について語っている箇所だが、文脈がはっきりしないと、理解も難しい。マルコとヨハネをあわせて読むと、群衆はついてくるが、弟子たちは、離れ去り、残ったのは、12弟子と婦人たちという光景が浮かび上がる。エルサレムを目指す中で、イエスについていこうというものに、チャレンジとして与えていることが書かれている。ここでは、唐突に十字架が現れるが、多少は、背景を継承してもいるのだろう。この段落の最後は「だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」(33)で結ばれている。これだけではわからないが、マルコの流れでは、金持ちの人にたいする言葉から浮かび上がることでもある。そのときの、イエス様の慈しみは、ここには書かれていない。
Luke 15:31,32 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」
イエスは、神の子として、父なる神のこころを伝えたかったとすると、ここに集約されているのだろう。放蕩息子に自己を投影し、さらに、中心は、長男のほうだと考える。しかし、やはり、神の子として生きぬかれた、イエスから学ぶことは多い。
Luke 16:10-12 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。
興味深い。小さいことは、おそらく、この世のことなのだろう。不正の富も、この世の富、他人のものは、いくつか理解が可能かもしれないが、この流れからは、この世のものと取るのが自然だろうか。すると、与えられる、あなたがたのものとは何なのだろうか。おそらく、神様と共に喜ぶことができることなのではないだろうか。真実なものも、すると、神様の働きだろうか。そのようなことを望めるのは素晴らしいことである。
Luke 17:15-18 その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。外国人となっているが、この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」
ここでは、外国人となっているが、サマリア人は、どのようにみられていたのだろうか。確かに混血なども多く、純粋に、ユダヤ人といえないひとたちも多かったのだろうが、イエスは、そのような人たちを、やはりアブラハムの子として、招かれたのではないだろうか。しかし、ルカは、それを外国人と描いている。いずれにしても、このあとに続く、「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」(19)に本質があると思う。これが、イエスとつながり、イエスが父と呼ぶ神様とつながることなのだろう。
Luke 18:15-17 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
マルコでは、子どもたち(παιδίον の複数形)を用いており、ルカでも、「こどもたちを」とも言っているが、なんと、乳飲み子(βρέφος: an unborn child, embryo, a foetus, a new-born child, an infant, a babe)までもと書かれている。このようなことが驚きを持って強調されていたということなのだろう。イエスの行動で驚かされることは多いが、このこどもへの態度もその重要な一つである。
Luke 19:47,48 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうしてよいか分からなかった。民衆が皆、イエスの話に熱心に聞き入っていたからである。
民衆と、民の指導者たちを分けたものはなになにだろう。持っているものが多いものが、受け入れられないということか。イエスの、おさなご、乳飲み子の祝福にもつながるのかもしれない。と言って、反知性でもないのだろう。謙虚でありたい。
Luke 20:36-38 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活の子として神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」
驚かされる論理である。まずは「この人たち」は、その前の節によると「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」である。その人々は神の子だという。さらに、アブラハム、イサク、ヤコブの名前をあげ、生きているといい、最後には、「すべての人は、神によって生きるから」、神は「生きているものの神」だと言っている。イエスには、神が生きておられること、生きているものすべての神であることの確信が会ったのだろう。もうすこし掘り下げたいが、論理ではないのかもしれない。
Luke 21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
終わりの日について語られているが、これは、とても難しいトピックである。パウロが強調したこと、当時の人が期待していたことなどが混じり合って、ここに期待していた人も多かったからだ。そこでのイエスのメッセージとして残されているのはつねに「目を覚ましていなさい」である。ただ、今回注目したのは、その前にある「人の子の前に立つことができるように」である。どのようにしてこのことばがあるのかは不明だが、主イエスに恥ずかしくない生き方ということなのだろう。ゲッセマネなどの記事からも、それが、それほど簡単ではないことを、弟子たちも知っていただろうが、文字通りに受け取ってしまうと、理解に限界があるようにも思われる。もう少し考えたい。
Luke 22:38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、ここに二振りあります」と言うと、イエスは言われた。「それでよい。」
この議論は、よくわからない。核心は、「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」に対して「何もありませんでした」と答えたところなのだろうが、なぜ、様々なものを用意するかはあまり明確ではない。このあと実際に剣を使うものがいるが、イエスはすぐ制止する。おそらく、このような剣の使い方を望んでいたのではないのだろう。同時に、ここに二振りありますということは、常に、剣を持っているものもいたということだろう。盗賊などにたいする抑止力または、寝る場所を切り開くためなど、作業用に大鉈のようなものを常に持っていたのか、不明なことが多い。
Luke 23:50,51 さて、ヨセフと言う議員がいたが、善良な正しい人で、同僚たちの決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
不思議な登場の仕方である。おそらく、ガリラヤでの活動などについてはほとんど知らなかったのだろう。そうであっても、正しい行動ではないと考え、勇気ある行動に出ている。すごい人がいたものである。エルサレムでの少しの議論だけを知っていたのかもしれない。
Luke 24:6-8 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。
マルコでは、三回受難告知をしているが、三回目は十二人と書かれているが、一回目、二回目は、弟子たちとしている。ルカでも、構造は同じである。十二人とする、ルカ以外は、三回目においても、その直後に、ヤコブとヨハネの願いが書かれ、マタイでは、それは、その母の願いと書かれている。ルカは、十二弟子の望ましくない行動は、省略または、緩和して表現しているので、省いたのであろう。いずれにしても、女性たちも、弟子と認められ、受難について聞かされていたと思われる。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Luke 1:24,25 その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた。そして、こう言った。「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」
二人の女性の妊娠について記されているこの章には月や期間(その頃(39)など)の表現が多い。ここでは、五ヶ月となっている。一般的に、安定期に入り、胎動(41)のようなものも感じはじめる時期とも言われる。このような知識もあり、確信して、このように語ったととれる。同時に、医者であるルカが、不妊の女だった(7)老年の(36)エリサベトの妊娠と、「男の人を知らない」(34)マリアの妊娠について、正確に理解しようとしたからかもしれない。不妊は、一般的には、夫婦双方に原因があると現代では考えられているが、当時はそのような理解はなかったのだろう。ルカは冷静に知りうることを丁寧に書いており、判断は下していない。月や期間については、待つこと、ある程度時間がかかることも、当然のこととして受け入れられたことも見て取れる。それは「イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」(16)と地域的にも少しずつ拡大していくことを想起させる表現にも現れている。いまは、人権問題など、すぐ普遍化をもとめてしまい、それがかえって地域的には軋轢を生じさせることもある。普遍性を尊ぶ科学的認識の発達という現実とともに、世界観に関してそれを適切に理解することが困難な難しい課題も感じる。
Luke 2:11 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
ルカは、最初から書こうとし、生まれた時からメシアだと証言している。最初に「神の子」(マルコ1章1節)と宣言しつつも、明確な告白は最後に「まことに、この人は神の子だった」(マルコ15章39節)と百卒長の証言を書くマルコとは、異なる印象を受ける。マルコが最初に書かれたと言われていることを考えると、ある期間の間に、「神の子」や「主メシア」の理解も議論され、教義的に定着していったのかもしれない。聖書に書いてあるということで、疑わないことも可能だが、おそらく、単純に事実としてみるよりも、それを真実として、キリスト者が受け入れるようになっていったと理解したほうがよいように思う。このように考えると、ありのままのイエスを読み取ることは困難でもある。しかし、ある程度は可能なのかもしれない。ていねいに読んでいきたい。
Luke 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
「福音」ということばが使われていることに驚いた。ヨハネのことばなのか、ルカのことばなのか、それは不明である。ここに書いてあることをそのまま受け入れると、まず「アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ。」(2)とある。預言者の出現が望まれていた時代に、このことはひとびとにとってひとつの「福音(よきおとずれ)」だったろう。メッセージと実際の活動は「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(3b)であり、悔い改めによってあたらしい生活をおくることだろうか。このあとイザヤ書(おそらく40章)のことば「主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ。」(4b)が引用され、さらに「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(8a)と宣べ、具体的な教えが記され(8b,11-15)、最後にメシアではないかとの期待(15)に対して「私よりも力のある方が来られる。」(16b)と説いている。ここまでのメッセージをみると「福音」が語られたと確信できる。丁寧に書かれている。ひとつだけ追加すると「実・良い実」(8,9)について書かれているが、単なる実ではなく、良い実を結ぶように、求め続けることを意味しているのであって、ある地点に達すればそれで合格というものではないのだと思う。「悔い改め(μετάνοια(メタノイア):a change of mind, こころの変化・方向の修正)」と「良い実を結ぶ」こと、これが、主たるメッセージだとすると、イエスとも密接につながると思う。悔い改めと訳しているのは、こころの変化には、過去の間違いを認めるところから始まるということを加味しているのだろう。原義ではないが。
Luke 4:43,44 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
「神の国の福音」とある。印象的なことばは「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(21)「人々はその教えに驚いた。その言葉に権威があったからである。」(32)そして「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(36)のように、言葉に権威と力があること、さらに「日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。」(40)とあるように、一人ひとりにていねいに接せられたことだろうか。なお、この箇所の「癒やす」は、θεραπεύω(therapeuō: 1. to serve, do service, 2. to heal, cure, restore to health)であり、(身分の低い召使いや下働きが)仕えること(to wait upon menially)である。癒やす意味もあるが、実際に病気を治すことばは他にもあり、ルカがここでこのことばを使ったのは、そこに本質があると考えたからだろうか。
Luke 5:38,39 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」
後半は、マタイ9章14-17節、マルコ2章18-22節にはない。イエスが説くのは新しい教え、新しい袋にはいった新しいぶどう酒である。ぶどう酒がどちらが美味しいかという比較ではないだろうが、ここでは「古いものが良い」としている。ぶどう酒は古ければよいというものではないだろうが、それに慣れ親しんだ人は、そこから離れられないことを言う比喩なのだろう。このパラグラフの「断食をし、祈りをする」(33)は、おそらく、古い革袋をさし、古いぶどう酒ではないだろう。古いぶどう酒から離れたれないのは「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(32)の単純明快なイエスのことばを受け入れられないことを指しているように思われる。そして、年寄への警告でもあるように感じる。わたしのような。
Luke 6:35,36 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」
「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(27)をここで言い換えている。そして、最後に、報い(報酬)が書かれている。それは「いと高き方の子となる」ことである。理由は、それこそが「慈しみ深い」いと高き方なのだからということだろう。イエスが教え、そのように生き、勧めていたのも、そのこと、いと高き方を見習い、いと高き方のようになることなのだろう。背後には、いと高き方についての理解が不可欠である。そのいと高き方について語ることも、イエスがたいせつにしていたことであるが、そこでとどまらないことが肝要なのだろう。
Luke 7:8,9 私も権威の下に服している人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。」
「私も権威の下に服している人間ですが(καὶ γὰρ ἐγὼ ἄνθρωπός ὑπὸ ἐξουσίανεἰμι)」で始まる。「も」が何を意味しているかは必ずしも明らかではないが「イエスさまと同じ様に」と解釈するのが自然なように思われる。すると、イエスが魔術的な力をもった人間とするのではなく、イエスが主である父なる神さまの権威のもとにあることをまずは告白し、権威がしっかりとその人の背後にあり、そのことも手伝って、その人のもとにあるものは、ことばひとつで従うのだということが言われているのだろう。兵隊は、この人の権威のもとにあり、その人はさらに上の権威のもとにある。そのことが、イエスのことばにも当てはまるとこのひとは告白している。そのことがこれらのことばの背後にあることを、イエスは見て取って、称賛しているのだろう。構造全体を確信し、告白する、上に書いた表現は完璧ではないかもしれないが、それでも、驚かされる。権威ということばを聞いただけで、ある拒否反応を起こす場合もあるが、それは、不完全なひとの権威であり、信頼する神様の権威と基本的には、理解することが出来る意味でも、このひとの信仰は創さんに値すると思う。
Luke 8:28 イエスを見ると、叫んでひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
「神の子イエス、構わないでくれ(Τί ἐμοὶ καὶ σοί Ἰησοῦ υἱὲ τοῦ θεοῦ)」訳し方はいろいろあるだろうが、関係はないとしている。ルカでは明確ではないが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)このメッセージとは関係ないとしているのだろう。この章の最初には十二人も女性たちもイエスについていって「自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。」(3b)ことが書かれている。十分理解できていたかは不明であるが、関わりをもち、悔い改め(生き方を変えて)希望をイエスにゆだねて歩んでいく様子が書かれている。その次に種まきの例えがある。「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(15)とあるように、基本的に種の蒔かれた地によって違いが出てくることが書かれている。関係をもち、生き方を変えることを望むか、それを拒否するかの違いでもある。家族との関係も同様であるように、思う。神の国(神様の御心が完全になる世界)がすぐそこにあることとの関連でみるかどうかということだろう。出血の止まらない女のこと、そして、ヤイロとその娘のこと、この緊張感を覚えて読んでいきたい。
Luke 9:40,41 お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように頼みましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの息子をここに連れて来なさい。」
イエスの嘆きは、「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。」である。神の君が近づいているのに、それが見えないということだろうか。同時に、「歪んだ時代」とも言っている。これは、歪んだゆえに神の御手が見えないのか、または、不信仰なひとで満たされていることが、歪んでいるのか。異邦人の役人や何人かの女性など、信仰的なひとたちもいたことが証言されているが、いままさに目前にある現実はそうではないのだろう。次の「あなたがた」はおそらく弟子たちだろう。時間が迫っていることを認識しているということか。でも、弟子たちもなにもできなかったのではないだろうか。イエスは何を求めておられるのだろうか。鼓舞しておられるのか。しかしその中でも、イエスは行動される。これを、最後のときまですることを決めて生きておられるのだろう。わたしも、よくはわからないし、イエスに叱責される存在であるが、イエスのように生きたい。
Luke 10:9 そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
やはり、主たるメッセージは、「神の国は近づいた」ことのようだ。この段落の最後にも、『足に付いたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことは知っておけ。』(11)とある。こちらは、悔い改めないものには、裁きが臨むということのようである。良いものが臨む時、やはり二つに分けられるのか。根本的な、この教えがわたしには、よくわかっていないようだ。受け入れられないだけだろう。
Luke 11:27,28 イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から一人の女が声を張り上げて言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
ジェンダー(文化的・社会的役割としての性)について、それらの言葉を廃し、普遍的な価値をイエスが語っているように見える。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人」しかし、もう少し丁寧に見る必要もあるように思う。まず、この「女」は、直接的にはイエスの母マリアが幸いだと言っている。イエスは、それに対して「むしろ」ということばで、単純な否定ではなく、異なる方向を指し示している。このころ、マリアがどのように、イエスを見ていたかは、明らかではない。そのことも多少影響しているかもしれないが、この「女」にも、マリアにも、これを聞いているすべての「女」にも、そしてすべての人にも、当てはまる基準を示している。まさに、普遍的な価値である。しかし「むしろ」ということばにも現れているように、否定はしていない。母性本能のようなものの背景を強調することは問題があるものの「男」としては、このような関係の母・子の関係が羨ましくもある。実際、わたしも、こどもたちが生まれて最初の何ヶ月か、何かをしようとしても、どうすることもできない、あまりの役割の違いに、圧倒されたのを思い出す。それが乳房の問題であった。「母性本能」は社会的に作られたものと主張する人がいるが、それほど単純ではないと思う所以でもある。
Luke 12:1 とかくするうちに、数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。
この章のイエスはなかなか過激である。引用句では数万人もの大勢に向かって、一般的には尊敬されているファリサイ派を批判している。また、「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな。」(4)の「友人であるあなたがた」は、ちょっと耳慣れない言葉だが、相手の反発を恐れるなと言っているかのようである。さらに「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」(10)とし、続けて「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは」(11a)と訴えられることも想定されている。さらに「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(51)とあり、さらにいくつかの過激なことばが続く。ご自身や弟子たちの行く末、神の国の到来を解くことが、このようなことも引き起こすことを予見もしている。過激さに心撃たれる人もいるかも知れないが、一般的には、距離を置こうとするだろう。イエスはどのように、人々や世の中を見ておられたのだろうか。ルカは何を伝えようとしているのだろうか。
Luke 13:31,32 ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。
最初に「ファリサイ派」の人々がイエスを守ろうとしていることに驚かされたが、そのあとの、イエスの辛辣な、そして乱暴にも聞こえることばに、驚かされた。このあと「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」(33)と続く。また「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。」(ローマ13章1,2節)とはかなり異なる印象を受ける。イエスはヘロデを、そしてローマの支配をどう考えていたのだろうか。ご自身が主から委ねられていることに忠実であること以外なにも受け取れない。最後は「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」(35)と結ばれている。通読では限界があるので、いつか丁寧に考えてみたい。
Luke 14:15 同席していた客の一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
「イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された。」(7)から語られる発言を受けての客の一言である。この発言に関するイエスの切り返しは秀逸。驚かされる。たとえの前には、安息日にイエスが癒やされた例がいくつか書かれている。まず第一には、神の国は近づいた」というメッセージをどう受け取るかとういことのように思う。そして、それは「悔改めよ」ということなのかもしれない。これは、一人ひとりに投げかけられているメッセージでもある。真摯にこれらのメッセージを受け取ることは簡単ではない。弟子たちにはこのあと、厳しいことばが語られ最後には「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」(34)とあり、「聞く耳のある者は聞きなさい。」(35b)と締めくくられている。宴会に招かれる人々について説明した 16節-24節は、乱暴にも見えるが、まずは、丁寧に、これらのことばと向き合うことから始めたい。
Luke 15:6,7 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。」(10)「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」(32)とても強い印象をうけた。この神様の喜びはイエス様の行動原理にもあったのだろう。そして、神の喜びは、そこに、ひとが介在することを、まっておられるように思う。「一人の罪人が悔い改める」ように無理矢理にすることはできない。これは、神ができないまたは、神がしないことにしておられることである。それは、否定的に捉えることもできるが、そこに人が介在ることで、神の思いが実現することであり、悔い改めたひとも、そこで働いた人も、そして、神もともに喜ぶことができる。悔い改めは、方向転換であるから、つねに、微調整をしながら生きていくことが必要である。それには、何人もの関わりが必要であり、あるときに関わったひとだけで実現することではない。神様の喜びと喜びとするものでありたい。
Luke 16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
このあとには「妻を離縁して他の女と結婚する者は誰でも、姦淫の罪を犯すことになる。夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(18)をあげている。「人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」の重要な例なのだろう。特に現代では、こうなってしまっていては、離婚はしかたがないという感覚が強いだろう。イエスの時代は、それを、男性が一方的に決めたり、社会的にさばいたりもあったのかもしれない。それが、「みかけ上の正当性」の男性目線の安易な判断を戒めている言葉にも現れているだろう。しかし、結婚をイエスが尊ばれたことは、たしかだろう。わたしが、児童養護施設や、学生学習支援のときに感じた、離婚を原因とした困難はほんの一部だろうが、その深刻さも、神様は見ておられるのだろう。そして、この重さが、引用句のようにまとめられている。ちょっと引いて、一つ一つ、見直してみたい。
Luke 17:18,19 この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
いくつか気になったことがあった。1つ目は、同じ様に「声を張り上げて」(13)憐れみを請うた他の9人とこのひとを分けたのは何なのだろうか。2つ目は、規定の病がいやされたほかの9人は救われなかったのか。3つ目は、「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(20,21)との関連である。鍵は「神の国」だろうか。他のひとたちは「神の国」を求めてはいなかった。または規定の病が癒やされることと神様の働き、それが自分のうちに起こることと「神の国の到来」が結びつかなかったということだろうか。非常に魅力的な、しかし、よくは理解できない「神の国はあなたがたの中にある」をていねいに考えたい。
Luke 18:7,8 まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
「神の国はあなたがたの中にある」(Lk 17:21)を正面から捕らえるものは多くないことを言っているようにもみえる。同時に、このあと、イエスは(ルカの編集かもしれないが)徴税人(9-14)、こども、乳飲み子(15-17)、金持ちの議員(18-30)、盲人(35-43)を通して、ヒントを与えてくれているようにも見える。これらをまとめるのは難しい。しかし、希望は持つことができるように思う。正義を地上にもたらす、み心が天上と同じ様に地上でも完全に行われるようになる、神の国と、それの鍵となる、神の国をわたしたちの中に見出す信仰だろうか。難しい。
Luke 19:9,10 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ザーカイにとって「この人もアブラハムの子なのだから」と言われたことはとても印象的だったのだろう。そして、周囲のひと(ルカも含めて)も、このことばを特別なものとして受け取ったのだろう。それが「失われたものを捜して救う」のピッタリとした表現だったものと思われる。「アブラハムの子」を神様は、この石ころからも生じさせることがおできになる。しかし、可能であっても、この、失われたものを捜して救うことに特別の働きをされる。ザーカイとこの晩話された内容はわからない。しかし、このことばが、事実も喜びも表現しているのだろう。このあとムナの例えが続き、最後は唐突に「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。」(27)と閉じている。ザーカイの件についてイエスに「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7)と言った人たちは「私(神・主)が王になるのを望まなかったあの敵ども」であり、神が支配される神の国でおこる、ザーカイに起こったようなことを望まないということなのだろう。神の国の到来は、やはり、両刃の剣が、この世に投げ込まれることなのかもしれない。
Luke 20:46,47 「律法学者に注意しなさい。彼らは正装して歩きたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
このような者たちは「神・主が王になるのを望まない」者たちなのだろう。神の国では、人から栄誉を受けることで評価されるようなことはない。そして、やもめの家を食い物にしたり、見せかけの長い祈りをすることもないのだろう。わたしは、ほんとうに、神の国、神・主が王になられることを望んでいるのかと問われているように思う。すこしずつ、神・主について学んでいるはずである。その神・主に委ねることでよいようには思っているが、本当に心の底から思っているかと問われると、そして、それによって、日常的な行動がそれに向かっているか問われると自信がない。悔い改める(方向を変える・修正する)ことが必要なのだろう。
Luke 21:32,33 よく言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
後半は、なかなか大胆な、表現の仕方を変えると尊大なことばである。「しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。」(ルカ16章17節)との関係も考えた。おそらく、ここも、これは確かなことだよ。という程度の意味なのだろう。長々と話してきたのは、弟子たちが、もっとも興味のあった、いつこの世の終わりが来るのかという問いである。その意味では、その前に、いろいろなことが起こるよ、と言っているだけなのかもしれない。イエスが伝えたかったメッセージは、「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ10章9節)というメッセージである。その事実(とイエスがつたえたこと)を通して、自分の周囲、中に起こっていることを見る、信仰のたいせつさを説いたとも言えるかもしれない。その意味でも、周囲の様々な変化に惑わされてはいけないとも言っているのだろう。いまは、おそらく、未曾有の変化のとき、わたしたちは、神の国を見出すことができるだろうか。特に、わたしのような曇った目で。
Luke 22:22-24 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、一体誰がそんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という言い争いも起こった。
そしてさらに「食事の席に着く人と仕える者とは、どちらが偉いか。食卓に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、仕える者のようになっている。」(27)とイエスは語る。ここで、仕えるは διακονέω(diakoneō: to be a servant, attendant, domestic, to serve, wait upon)が使われている、「給仕するもの」とも訳された箇所である。このことばを通しても、イエスは、このどうしようもない弟子たちに、仕えておられる。裏切るものがいることが伝えられたあとの、使徒たちの心の動きが興味深いが、それ以上に、その中で、イエスのなされることである。このように、生きたいけれど、やはり使徒たち以上に、ただひたすら、混乱を起こすのが現実なのだろう。そうであっても、イエスから学ぶ(まねぶ)ものでありたい。
Luke 23:27,28 大勢の民衆と嘆き悲しむ女たちとが、イエスに従った。イエスは女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、私のために泣くな。自分と自分の子どもたちのために泣け。
このイエスの応答からみると、ついてきた女たちは、深くは悼んでいなかったのだろう。少なくとも、十分は理解していなかった。泣き女というひとたちだろうか。正直に嘆いていた人もいたのではないだろうか。このイエスのことばは、どう理解したらよいかよくわからない。ただ、嘆きの向かう方向が違うと言っているように思う。エルサレムが破壊されることを言っているようにも見えるが、おそらくそれよりも、もっと深いことが言われているのだろう。自分への問として受け止められるかだろうか。
Luke 24:18 その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
興味深い。あなただけがご存じない。と言っているが、イエスは「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」(25b,26)と語っている。すなわち、自分たち(おそらくイエス以外全員)が、「ここ数日で起こったこと」が理解できていない。または、神の国が見えていないと言っているように思われる。神の働きに目をとめることが抜け落ちているのだろう。難しいが、それを受け取ることができるようにしていきたい。

BRC2021(2)

Luke 1:46-48 そこで、マリアは言った。/「私の魂は主を崇め 私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に/目を留めてくださったからです。/今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう。
ルカによる福音書の特徴の1つは、このマリアの物語である。ルカがパウロについてエルサレムに上ったとき、マリアに会ったかは不明だが、会えなかったとしても、マリアを知っている人、とくに、女性の中でのマリアについての称賛する声はたくさん聞いたのではないだろうか。この美しいマリアの讃歌のようにまとまっていたかはわからないが、それに近いものを聞いたルカは、それを記さずにはいられなかったろう。伝えられたエピソードを超えた、真実がそこにあったのだろうと思う。事実かどうかを争うのとは、べつの次元の真実がそこにあるように思う。
Luke 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」
これも母のことばとしている。ルカが、マリアの周辺のおそらく女性たちから聞き取った話なのだろう。ルカが、どのエピソードをルカによる福音書に加えるかにあたって、みずから詳しく調べたことを書くことにしたのだろう。ヘロデはBC4に亡くなっているので、イエスの誕生はそれ以前ということは、おそらく、正しいだろう。しかし、マタイによる福音書の誕生物語との整合性をとるのは、困難ではないが、可能性としては低いように思われる。ルカによる福音書には、マタイによる福音書の記事はほとんどどれも、書かれていないからである。ルカがしかしながら、これらを加えて一つの書物となったことにはある意義・メッセージがあるのだろう。これも、読み取っていきたい。
Luke 3:23 イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり、人々からはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡ると、
マリアがイエスの年齢について無知だったとは考えられない。イエスが生まれたのは、BC4年以前、処刑されたのは、AD28または29 とすると、三十歳とは誤差がある。マリアから直接ではなく、その周囲の人からの情報だったのだろう。系図もマタイとは異なる。これも、整合性をとる試みはあるが、やはり直接は知らない人の証言や、伝承に依っているのだろう。それが、系図について(テモテへの手紙一1章4節)の争いを避けなさいということばにつながっているようにも思う。これも、多少時代が下がってからのものかもしれないが。この3章までの理解は難しい。いずれしっかりと考えてみたい。
Luke 4:41 また悪霊も、「あなたは神の子だ」と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊を叱って、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスがメシアだと知っていたからである。
ちぐはぐに感じられる。悪霊は語っており、イエスはそれを叱って「ものを言うことをお許しにならなかった。」神の子証言も、なぜ、悪霊がいうのか、よくわからない。イエスが、神の子として、これらのことをなしていることは、何らかの方法で、理解できる人には理解できたということだろうか。「神の子」や「メシヤ」ということばも、どのような意味で言われているのか不明である。
Luke 5:31,32 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
イエスにも遣わされた目的があり、万人の救いをめざして日々働いておられたのではないのだろう。謙虚に、今日の日をいきていきたい。
Luke 6:32,33 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
ここには、神様の驚くべき憐れみと愛がある。神様のように愛することは難しい。しかし、その愛で互いに愛しあうものになりたい。それを示してくださる主に感謝。
Luke 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
原因と結果などというものとは違うのだろう。このあと、イエスは、「あなたの罪は赦された」(48b)と言われさらに、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50b)とも言っている。罪の赦し以上に、いのちが与えられることが重要なのか。同じことなのかもしれない。同じことであれば、原因も結果もない。
Luke 8:15 良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
詳細な比較はしていないが、ルカの記述は、御言葉を受け取った人の資質について言及した表現になっているようでちょっと気になった。「道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。」(12)道端さんは、資質ではないが、他のひとと比較するとすると主の主権だろうか。「岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。」(13)根がないとは、何を意味しているのだろうか。受け取り方が浅いということだろうが、原因は不明確。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。」(14)これは、受け取ったひとに責任があることを言っているのだろうか。引用句もふくめ、いろいろある、としか言えないのかもしれない。他の共観福音書と比較して、また学んでみたい。
Luke 9:48 言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」
不思議なことばである。「私の名のために、この子どもを受け入れる者」が「私をお遣わしになった方を受け入れる(者)」に置き換えられることが言われているが、そのようなものが偉いのではなく、いちばん小さい者が偉いとなっている。神様にとってたいせつなこども、一番小さい者が、たいせつだということだろうか。
Luke 10:27,28 彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25)から始まる。ここで出てくるものは、マタイ22章36-40節、およびマルコ12章29-31節における最も重要な戒めの答えと同じである。最も重要な戒めを守ること、これらを行うことによって永遠の命を受け継ぐことができるということだろう。このあと、善きサマリア人の例えが語られ、マルタとマリアの話が続く。イエスはマルタに永遠のいのちを受け継ぎなさいと言われているのかもしれない。
Luke 11:41 むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。
イエスご自身が食事の前に身を清められなかったことに発する清めの議論のあとでイエスが言われたことである。このあとには「それにしても、あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もなおざりにはできないが。」(42)と続く。少し、揺れがあるようにも思われるが「できることを施しとして与えなさい」は、とても新鮮である。できることをするではなく、より具体的である。
Luke 12:6 五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。
マタイ10章29節には「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」とあり、昔見た Cliff Richard の映画 Tow a Penny を思い出す。しかしここでは、「五羽の雀は二アサリオン」である。最小単位のお金で換算しても、割り切れない。一羽いくらといえないような雀一羽でも、神の前で忘れられていない。驚きである。
Luke 13:8,9 園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」
「それから、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。』」(6)から始まる。共観福音書に並行記事はないが、マルコによる福音書 11章12-14, 20-24節と、マタイによる福音書の21章18-22節の、イエスが実のないいちじくの木を呪いそれが枯れた記事を思い出す。ルカはその記事を含めないで、この記事を入れている。おそらく、マルコの記事は読んでいたろう。その記事に、疑問を感じた人もいたのかもしれない。とても、興味深い記事である。実際どうだったかは不明だが。
Luke 14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
マタイ22章1節〜14節にも似た話があるが少しずつ違っている。ルカでは最後「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。」(24)で終わっている。現実からすると整合性があるとは言えない。マタイでは、礼服を着ていない者について「王は召し使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(13,14)で終わっている。こちらも理不尽に感じる。しかし、おそらく、この2つのバージョンが残されていることは、書くときに違和感があったということなのかもしれない。客観性より、イエスの嘆きがあるのかもしれない。
Luke 15:31,32 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」
兄と弟、そして、父、最後、感動して、終わってしまう。兄について、もし、マタイ20章のぶどう園の話であれば、やはり 9時、12時、3時、5時の雇い始めの時間の違いを理不尽に感じてしまう。どちらの場合も、神様の恵みをうけとること、神様の愛をうけとることは、簡単ではないのだろう。公平の難しさをも感じるが、そこに公平の意味があるのかもしれない。
Luke 16:8,9 主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
何度も考えさせられてきた「不正な管理人」の話である。今回は「不正の富で友達を作りなさい」に眼が止まった。不正の富はこの世で任せられているものであることは、よいとして、ここでは、友を作ることが大切であることが強調されているように思われる。そして、急に「あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と天上のことに場面移動する。友は「互いに愛し合うもの」なのではないかと思う。「互いに愛し合いなさい」はルカには無いが、イエスが「新しい戒め」として弟子たちに最後に委ねるのであれば、その萌芽、またはヒントは、それ以前にもあるとみるのが自然だろう。それが、このたとえのように思う。おそらく、弟子たちにも理解できなかったろうが。そして、ルカはこの形で記録している。
Luke 17:5,6 さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。
「からし種一粒ほどの信仰」として何度も、聞いてきたことだが、あまり、真剣に読んでいなかったように思う。桑の木は、単純なたとえなのだろうか。中心は「信仰を増してください」が当を得ていないというこどなのだろう。もし、この続きに注目するなら、謙虚に、持てるもので、できる限りのことをし「私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません」(10b)という心持ちをたいせつにすることなのだろう。これは儀礼や、形式ではないはずである。そして、背後にあるのは、信仰のことを神の子イエスに頼んでいるのだから、ひとにたいしてではなく、神様に対してである。そして、この世でのあゆみがやはりたいせつだということだろう。
Luke 18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。
マタイ20章の並行箇所で、過去の聖書の会での印象的な出来事を書いたが、その印象が強すぎたので、もう一度、落ち着いて読んでみようと思った。一つの鍵は「また」である。すなわち、このひとは、中途失明者であると思われる。そのことによる生活の変化など大きな傷みを抱えていたのかもしれない。中途失明者にも、いろいろとあり、遺伝的なもの、病気や事故によるものがある。このひとについて、原因はわからない。マタイの二人や、マルコのバルティマイという名前などもあり、この箇所については、それも、考慮に入れるべきであろうが、やはり「主よ、また見えるようになることです」は、単純に信仰といえるかどうかは、これだけの記事ではわからないように感じる。そして、自分にとって、なにがほんとうに必要なのかは、わからない場合も多い。
Luke 19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」
この発言に至るまでには、さまざまな会話が、イエスとザアカイの間にあったのだろう。それこそが、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10)という、イエスが巡回伝道をしていた重要な意味だったのだろうと思う。興味深いのは、財産は、貧しい人々に施すのであって、イエスと弟子たちの働きに献げるわけではない。おそらく、そのことを含む、基本的な会話も、イエスとの間になされたのだろう。相互性は、限られた集団のなかだけでたいせつにするわけではなく、神様との関係の中で、神様が愛される人々との間でなされるということなのだろう。
Luke 20:37,38 死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」
マタイ22章23-33節、マルコ12章18節〜27節には、前半は書かれているが、最後の一文「すべての人は、神によって生きるからである。」は含まれていない。このメッセージをどう受け取ったらよいかは難しい。神と共に生きる存在は永遠でつねに神と共にあるということだろうか。ある時点で、終了したりするものではない、それが「永遠のいのち」なのかもしれない。では、「永遠のいのち」は、このことを意味するのか。むずかしい。
Luke 21:18,19 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」
この前には「あなたがたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ、中には殺される者もいる。」(16)とも書かれている。そのうえで、髪の毛一本も失われない、とはどういうことだろう。「神によって生きる」(ルカ20章28節b)ことが中心にあるのだろうか。本質的には、そうなのかもしれない。これを当時の人達はどのように受け取ったのだろうか。「忍耐によって命を得なさい」このことを考えたい。
Luke 22:35,36 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、衣を売って剣を買いなさい。
興味深い。ルカによる福音書9章1-6節に書かれていることが対応している。そこでは「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持つな。」(9:3)である。すこしズレが有る。しかし、本質は、何も不足しなかったということなのだろう。しかし、ここでは、準備をせよといっている。さらに、「剣のない者は、衣を売って剣を買いなさい。」も奇異に感じる。緊急事態に備えなさいという意味だろうか。いまは、どうなのだろうか。このあとに起こることをみてもあまり簡単ではない。
Luke 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
このあとには、ルカだけに書かれているイエスと共に十字架にかけられた二人の犯罪人の話が続く。その中にも、一人が「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」(39b)という場面がある。これが当時の客観的に考えられるイエスの評価だったのだろう。このあとの、贖罪論も、これに対する反論として生じてきたものなのかもしれない。この感覚は、キリスト者、弟子たちの中にもあったろうから。その「なぜ」は、深い。
Luke 24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
エマオの途上での話である。様々な情報が紡ぎ合わされているように思うが、引用句には、現実味があるように思う。まさに、望みをかけていたが、そののぞみが打ち砕かれたのが十字架上の死。しかし、どうもそれで終わりではないという情報も少し入ってきている。それこそが希望だろうか。様々なひとの証言のひとつで、このあと、弟子たちに現れたことが書かれている。事実として検証することは、困難であるが、弟子たちのこころの変化は、理解できるように思う。

BRC2019(1)

Lk 1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
四福音書とも、描き方は異なるが、洗礼者ヨハネの記述から始める。(使徒言行録1章5節・21節、10章32節、11章37節、13章24節・25節参照)記述の仕方が異なることからも、重視していることが理解できる。なぜなのだろうか。ルカの時代であっても、ヨハネの知名度が高かったことはあるだろう。(使徒言行録18章24節-19章7節)ヨハネ1章35-42節にあるように、イエスの弟子たちのある部分はヨハネの弟子たちだったからだろうか。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(76,77)このことを重視しているということだろう。イエスに始まったわけではないということか。旧約とつながり、その最後の預言者でもある。
Lk 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
直接か、間接かは、不明だが、マリアを通しての伝聞であろう。自分のこどもの成長期には、理解できなかったが、いま、こどもたちをみていると、こどもたちは、伝え方、表現は、未熟であっても、よく状況を理解している。両親が、イエスのことを理解していなかったとみることもできると、いまは、言える。こどもから学ぶことを続けたい。
Lk 3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヘロデとヘロディアのことがこの直後に書かれている。正しさ、そして裁きが神のみこころについて伝えるときに、鍵だったのだろう。これを「福音」(18)と呼んでいる。はっきりいって、イエスのメッセージとは、かなり異なるように見える。イエスも、差異を強調することはできただろう。しかし、そうはしない。イエスは、ヨハネが真剣にみこころをもとめて、それを民衆に伝えていたことを知っていたということなのだろう。
Lk 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
このあとに、「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(21)とあるが、読まれた箇所はどこなのだろうか。新共同訳の脚注にはイザヤ書が三箇所引用されている。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 」(イザヤ61章1節)「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」(イザヤ42章7節)「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」(イザヤ29章18,19節)単に、七十人訳との差異ではないように思われる。編集があるということだろうか。時間をとって、調べてみたい。
Lk 5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
どのような意図でイエスはこのように言ったのだろう。病が罪の結果であることをみとめてこういったのだろうか。おそらくそうではないだろう。(ヨハネ9章)しかし、この人は、罪の故にこのような状態にあると考えていたとは十分考えられる。また、罪は、神との関係の断絶であるなら、その状態にあったことを否定はできないかもしれいない。いずれにしても、この宣言こそ福音であるように思われる。「その人たちの信仰」とあるが、誰のかを問うのではなく、ここの信仰が、みられたことこそがたいせつなのではないだろうか。誰の信仰かと問うと、それは、分離を生じる。
Lk 6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
ふたつのことが目につく。ひとつは、自分のものを主張しないこと、二つ目は、「あなた」がすべきこととしていることである。イエスの世界観はどのようなものなのだろうか。前者は、ものに注目せず、それを必要しているひとにこころがいっているのかもしれない。自分のただしさを主張するのではなく、そのひとをもふくめたひととの関係、そしてそのひとをも含む、ひとの交わりに注目するかだろうか。これだけでは、決められない。ていねいに見ていきたい。
Lk 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
イエスはファリサイ派のシモンになにを伝えたかったのだろう。この物語を読むと、イエスのシモンへの愛情も伝わってくる。そして、引用箇所は、文字通り読むと、女が多くの罪を持っていて、それが赦されたこと、さらに、シモンは、罪をあまりもっていないこと。しかし、そうなのだろうか。多くの罪が赦されたことと、愛の大きさは、因果関係なのだろうか、相関なのだろうか、他に隠された因子があるのだろうか。シモンは、なにを受け取っただろうか。シモンが、イエスの愛を受け取っていたとしたら、自分も罪赦されたものであることを確認するだろう。では、イエスはどうなのだろうか。やはり、罪赦されたものは、なにか過去の不法が暴かれ、それを一つ一つ責められるなかで、それが裁かれず、赦されていくというモデルではないように思う。anomia 法がない状態、なにがたいせつなことかわからない状態から、愛する者へと変えられていくことを意味しているのかもしれない。
Lk 8:38, 39 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
このひとの希望が受け入れられなかったこと、そして、イエスが命じたことと、このひとがなしたことにずれがあることがわかる。どのように理解したら良いのだろうか。イエスが伝えたかったことは、家族のことだったろう。家族の痛み、そして、このことできごとから生じる喜びを知っておられたのだろう。すごいことがおこったことではなく、このひとも、家族も、その傷が、病が、癒やされたことに、イエスの喜びがあり、イエスのうけた傷もあり、イエスのことひとの生き方への願いもあったのではないだろうか。イエスの、そして、神の業のすごさを語ることではなく、互いに愛し合い、ともに悲しみ、ともに喜ぶことがイエスの願いではなかったのだろうか。
Lk 9:52-55 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。
サマリアを通ったこともいろいろな背景が考えられる。しかし、サマリア人の拒否の理由が「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」とある。イエスはサマリヤ人が差別しなかったことが書かれているが、イエスの進む先はエルサレムだったのだろう。ヤコブとヨハネを戒められるイエス。イエスの死後のサマリア宣教にもつながるたいせつな記録だったのだろう。
Lk 10:41,42 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
このことが記録されているのは、おそらく、マルタがそのことを良としたという事だろう。マルタが、このことを他の人にも自ら伝えたかもしれない。ベタニヤでマルタは特にキリスト者の間で有名人だったろうから。すると、ますます、マルタの凄さを感じる。イエスのマルタとマリアに対する愛を感じる。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11章5節)
Lk 11:27,28 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
まず「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8章21節)にあるように、血によるつながりではなく、神の子となることこそが、たいせつであることを言っているのだろう。ここでは、おそらく母親の栄誉はこのようなすばらしい子によって与えられるということを否定して、この女にとっても「神の言葉を聞き、それを守る」ことこそ求めるべきだと言っているのだろう。こどもによって栄誉をうけることは、こどもと、自分との血のつながりを、自分のために、利用しているともいえるのだから。
Lk 12:41,42 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
イエスは、完全に、ペトロを無視している。ペトロが、分離から始めたからだろう。この段落は、最後に「しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 (48)とある。ペトロが聞くべきことは、しっかりと含められているようだ。
Lk 13:8,9 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
この章の最初には、侮蔑的な殺され方をしたり、災害で死んだ人たちの例をあげ、その人たちがより罪深かったからでは決してないことをのべたあとで「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(3,5)と結んでおり、その次に、6節から実のならないいちじくの例えがありその結びが引用箇所である。基本的なメッセージを単に悔い改めを促すメッセージとして理解されないように、このメッセージが続いているように思われる。そしておそらくこの園丁がイエスであり、父なる神とのコミュニケーションを我々に伝えている。ここにも、父なる神と、イエスの密な信頼関係が現れているように思われる。
Lk 14:26,27 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
何度読んでも、厳しい言葉である。神に信頼して、その希望に自分の命をかける。それが、永遠のいのちに生きる道であるように思われる。このようなことばのゆえに、牧師や宣教師などフルタイムのひとと一般信徒を分けることが多いように思うが、おそらく、そうではないだろう。自分の十字架を背負ってイエスについて来るものすべてに関わっていることだろう。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16章13節、参照:マタイ6章24節)「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12章25節)
Lk 15:5-7 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
このあとに、10枚のドラクメ銀貨1枚を無くした女の話があり、いわゆる「放蕩息子」の話へと続く。喜びが理解できない人たちへのメッセージである。このたとえをみると、理解できるのかもしれない。ふたつのたとえが続くのは、だれにでも、通じるものがあることを言っているのだろうか。たとえは、貴重である。具体的すぎると、通じるひとが非常に限られるが、このように、二種類のたとえを示されると、理解できる人は多いだろうから。同時に、受け入れられない人へのさばきともなっている。
Lk 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
やはり、聖書は続いているのだろう。旧約時代から、新約時代に。救いを待ちわびるこころを持ちながら、真摯にみこころをもとめることは、共通なのかもしれない。共通なものを確認したい。そこに、救いがあるゆえんかもしれない。復活は、その、旧約時代と、新約時代、福音をしらないで、生きていた人たちを公平にあつかう、要素なのかもしれない。
Lk 17:1,2 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
このあとには、兄弟が罪を犯したらとあり、赦すべきことが書かれている。どのような、状態になれば、赦さなくて良いとの条件も書かれていない。さばくことは、神様に属することなのだろう。パウロは「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(1コリント5章12節、参照:ローマ2章1節、14章4節、10節)と書いてある。裁きについての記述が整合性があるのかどうか、不明である。実際のコミュニティの問題をたくさん抱えていた中で、ブレがあった可能性もある。イエスは、つまずきをもたらすものについて言及した直後に、裁きのことを述べている。個人的に、コミュニティを破壊するものにどのように対処すべきか、いくつもの事例から考えている。まずは、不幸だということと、裁かくべきことを区別すべきなのだろう。神様に信頼して。
Lk 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
イエスが祈りについて教えられた「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」のたとえの締めくくりである。17章の最後に、神の国はいつ来るのかの議論があるが、18章の前半は、神の国について書かれている。神の支配、神様がどのように、なされるかについて書かれているとも言える。介入と考えなくてもよいのかもしれないが、人格神として理解する神様についての記述が、神の国の背後にある。呪術的に神の介入を呼び起こす行為が祈りなのではなく、神の望まれることとの同期だとわたしは、言っているが、結局、神への信頼のように思われる。
Lk 19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイの記事は、ルカによる福音書にしかない。しかし、とても、印象的で、特に、このことばは、多くのひとの人生を変えてきたのではないだろうか。それは、単に、イエスの名を信じることだけではなく、生活が一変することである。このようなことが、様々なことで起こっていたのではないだろうか。それこそが、神の国が近づいたと表現される『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」(5)
Lk 20:3,4 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
この記事はマタイ21章23節から27節と、マルコ11章27節から33節に含まれる。ヨハネの扱いは異なるが、イエスは常に、洗礼者ヨハネのことを、つねに、大切にしているように思う。メッセージの内容はことなるように思われるし、質も大きくことなる。しかし、ヨハネを、旧約からの連続、預言者の最後としてしっかり受け入れているからだろう。ひとは、新しいものが現れると、その背景となることを忘れてしまう。価値が高いものとは見ない。しかし、イエスは、自分がどこから来たか、旧約聖書によって養われた民を、その過去も、不十分さも含めて、愛しておられるように見える。この箇所を、単なる議論のための論理と考えてはいけない。
Lk 21:31,32 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
混乱があるのだろうか。「神の国は近づいた。」は福音書でのイエスのメッセージである。そして、神の国が近づいていることを、福音書は、様々な根拠をもって示しているように思われる。同時に、終わりのときとして、神の国が語られるが、それは「すべてのことが起こるまでは」来ない。この二つは一つだとも言えるが、やはり、異なるように思われる。後者を期待することで、前者が薄れてしまっているように思われる。それだけ、後者を期待するこころが弟子たちにも、人びとにも強かったということだろうか。
Lk 22:28,29 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
イエスは、これでよいと考えていたのだろうか。この段落は「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」(24)と始まっている。無責任ではないだろうか。聖霊に委ねたのだろうか。おそらく、父なる神様との信頼関係なのだろう。いまの世の中の混乱も、委ねることでよいのだろうか。ここでも、からし種ひとつぶほどの信仰のたいせつさを、イエスは受け入れているのだろう。そう考えておこう。
Lk 23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
ヘロデの望んだしるしと、イエスのしるしは、目的が異なるのだろう。3年近く、活動していても、ヘロデヤ、ピラトにメッセージが伝わっていないことは、イエスもよく知っていたのだろう。おそらく、他の殆どの人にも。イエスは、効率の良い方法を取らなかった。ひとのこころをよく知っていたからだろうか。(ヨハネ2章24節)からしだねのたとえは、とても重い。
Lk 24:30,31 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32)とも二人は語り合っているが、目が開かれたのは、イエスがパンを裂いてお渡しになったときである。日常的な、イエスを彷彿とさせるものが、伝わったのだろう。しかし、姿は見えなくなっている。目に見えるものがしるしではないことを言っているのだろうか。あまり、うがって考えてはいけないが、パンを裂くという行為、イエスが、弟子たちに仕えていたことが、イエスとの結びつきを示す、重要な要素であったことは、確かだろう。

BRC2019(2)

Luke 1:13,14 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
ザカリヤにとってヨハネの誕生は喜びとなるという預言が印象的だった。ザカリヤは年を取っており、いつまで生きていたか不明であるが、ヨハネのような生き方を喜ぶことができると見初められたと証言している。ヨハネについては「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(80)とあるが、実質的には、何も書いていないように思われる。ヨハネはどのような人だったのだろう。
Luke 2:36-38 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
不思議に感じる。まず、非常に具体的な情報が満載である。しかし、「そのとき」とあるが、実際にしたことは「幼子のことを話した。」だけである。おそらく、この女性は、実在のエルサレムでは有名な人だったのだろう。シメオンもそうなのかもしれない。情報を集めていた、ルカが、聞いたことは、丁寧に含めたのだろう。事実を確かめることは、不可能であったろうが。ルカの誠実さに感謝することにしよう。
Luke 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
かなりの部分が、マタイと酷似している。詳細を確かめないといけないが、焦点はすこし違うように思われる。ルカにおいては、ファリサイ派やサドカイ派(マタイ3章7節)は登場しない。より広い人たちへのメッセージなのだろう。ルカでは「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。」(10)に対する、群衆・徴税人・兵士への具体的なメッセージが記され、悔い改めがなにを意味するかが例示とともに説明されている。おそらく、読者を想定して、罪の悔い改めは、行動をともなった、非常に自然な行為・生活の転換として描かれているのだろう。
Luke 4:21,22 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
イエスは何を語ったのだろうか。イエスが、メシアであるとは語らなかったのではないだろうか。ここでは、単に、読まれた聖書の箇所の恵み深い解き明かしをされたのではないだろうか。しかし、このあとの、「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 (23)からは、この言葉が、ナザレで実現することを、民は期待したのだろうか。イエスのメッセージを聞いてみたかった。山上の説教には、対応することは含まれていないように思われる。
Luke 5:36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
このあとにはぶどう酒と、革袋のたとえが続く。新しい教え、生き方を、古い教え、生き方に取り入れることを言っているとしてよいだろうか。一部だけを取って、ツギハギをすることは、われわれの得意とするところであるように思う。西洋からよいことの一部をとってきて、日本流の改善をしたりする。ただ、それが、西洋のよい部分を損なうことではないように思われる。とすると、このたとえで伝えていることは何なのだろうか。主体は、古い副にあるようだ。断食について語っているのだが。もう少し良く考えたい。
Luke 6:46,47 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
このあとに「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(48,49)と続く。つまり、聞いても行わないということは、土台がないと言っている。それは、おそらく、行うこと自体が土台なのではなくて、行うことによって学ぶこと。イエスの言葉を実体を伴って理解すること、人間のことばだけでは不十分なところをしっかりと埋めることにつながっているのだろう。まさに、サービス・ラーニングを通して学ぶことである。
Luke 7:22,23 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
バプテスマのヨハネからの使いのヨハネの問「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(20)への回答である。使いが去ってから、おそらく使いが聞いたら嬉しかったと思えるようなヨハネのことを語りだすなど、意地悪にも感じる。しかし、おそらく、問に、イエス、ノーで答えても意味がないことをご存知だったのだろう。そのように答えると、ヨハネが信頼するのは、イエスという人になってしまう。疑うとすればそれは、やはりイエスという人である。イエスは、ヨハネだけではなく、使いにも、その場にいる人にも、神様との直接の関係において、この問を考えてほしかったのだろう。それこそが信仰の営みであり、自分を含めた、ひとではなく、神に信頼することだから。イエスの最後のことばは印象的である。「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(35)
Luke 8:21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
マタイとマルコでは、種まきのたとえの前に置かれているが、ここでは、種まきのたとえと、灯火のたとえに続いて、この記述がある。無関係だとも取れるが、「神の言葉を聞いて行う人」が最近考えていることなので、直前の「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(13)との関連性が気になった。どう聞くかが、聞いて行う人につながっているように思われる。行いながら、学ぶことができるからである。種まきのたとえからわかるように本人の責任とも言っていないところが興味深いことである。しかし、改善の指針は示されている。
Luke 9:53-55 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 イエスは振り向いて二人を戒められた。
イエスは裁かれる方ではない。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」もあとから弟子たちにイエスが説明したのかもしれない。サマリヤ人がイエスを歓迎しない理由があることを。そんなことはお前たちにはできないと言わずに、戒めている。拙速に、怒ってしまう、私たちに、大きな教訓を与えている。
Luke 10:5,6 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」(1)とあり、イエスが訪れる前触れに限定しているようである。興味があるのは、引用した「平和 (eirene: 1. a state of national tranquillity, exemption from the rage and havoc of war 2. peace between individuals, i.e. harmony, concord 3. security, safety, prosperity, felicity, (because peace and harmony make and keep things safe and prosperous))」そして「あなたがたの願う平和」である。神の支配のもとにある完全な状態かなと思うが、これがどのようなものであるのか、落ち着いて学びたい。弟子たち、そしてイエスにとって、これは、どのような意味をもった言葉だったのだろうか。平和の反対が起こらないように祈るのだろうか。
Luke 11:34,35 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
わかるようで、わからない言葉である。目と、ともし火が結び付けられている。これは外からなにかを取り込む窓なのか、それとも中にあるエネルギーなのか。おそらく、分離せず、外(神が周囲のものや人を通して示してくださる世界)の中(すでに蓄えられている考え方や価値観・経験をもとに決断していく意志)の関係について理解すべきなのかもしれない。よく考えたい。
Luke 12:29-31 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」(26)は印象的である。そこで「ただ、神の国を求めなさい。」とあるが、それは大きな事で、それこそできないのではないかと思ってしまう。中心は、「思い悩むな」ということ。神様の支配のもとで生きることを求めなさいといっているのだろう。いちばんたいせつなことを求めることで、現実世界の問題はかえって簡単になるのだろうか。それとも、それは、解決しないのだろうか。また、考えてみたい。
Luke 13:28,29 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23)への応答として書かれている。このあと「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(30)と続く。多いか少ないかではないことを伝えているのだろう。そして、後になっても神の国に入れるのだろうかとも考えてしまう。イエスにとっては、神の国の宴会はリアルなものだったのだろうか。わたしには、正直、想像できないが、神とそこに集まった人たちと喜びをともにするときのことなのだろうか。
Luke 14:10,11 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
おそらく日本では、末席の取り合いになることが多いだろう。そして、実際には、上席を薦められることはまれである。そうであっても、自分を他の客と比較し、自分はそれなりに重要人物であることを心のなかで思うことはある。国民性もあるのだろうが、核は最後の謙虚さのたいせつさなのだろう。評価を神に任せることだろうか。このあとに「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(13)とある。最後に「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(14b)とあり、次の節に「神の国で食事をする人」(15)の幸いについて書かれており、聞き手もそれを意識していたことがわかる。単に、この世での称賛を受けず、天国での神からの称賛に取っておくことを言っているのだろうか。イエスは、神の国のことと、この世の生き方がつながっていることも伝えているのだろう。難しい。
Luke 15:1,2 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
このあとに迷い出た一匹の羊のたとえ、なくしたドラクメ銀貨のたとえ、そして、放蕩息子のたとえが続く。神の国で食事をする人の幸いに続く、イエスの教えの後である。神様がどう見られるか、何をたいせつにしておられるかを伝えていると同時に、父なる神がたいせつにすることを、この地上でも自然にたいせつにして生きるイエスの姿が印象的である。話を聞こうと近寄って来ている徴税人や罪人をたいせつにすることは当たり前の自然なことなのだろう。わたしは、天の父なる神様がたいせつにすることもよくわからず、自然にはそのように生きられないが、このイエスさまの生き方に見習っていきたい。少しずつ学びながら。まさに、WWJD=What Would Jesus Do?や、WWNJD=What Would Not Jesus Do? と常に問いながら。
Luke 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
興味深いたとえである。「不正な管理人のたとえ」もこの「金持ちとラザロ」もルカの独自記事である。途中に挟まれている14-18も、言葉自体は、同様のものがマタイなどにあるが、背景などは異なるようである。10章の放蕩息子のたとえなど、ルカの特徴をあらわす部分だろう。しかし、わかりにくいことも事実である。ラザロの復活まで書かれており、ヨハネ11章を思い出させるが、結論は、結局、聞き入れはしないと結ばれている。では、どうすれば、変わりうるのだろうか。神による、聖霊によるというのは、容易いが、イエスは何を伝えているのだろうか。結局、このたとえを聞いた時点で、悔い改めることを求めているのか、単に、金に執着してイエスをあざ笑った(14)ファリサイ派の人々へ厳しいことばを投げかけるだけなのか。たとえの中の金持ちは、特別な悪をなしているわけではないし、死後の世界のリアリティも含めて気になる。こころからの、悔い改めを求めているのか。
Luke 17:17-19 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
このあとに「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。 「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」(20,21)がある。前の章の内容、もしかすると、放蕩息子の兄も含め、とくべつな世界を求めるのではなく、ここに、神の国はありうる。からし種ひとつぶほどの信仰があれば、このもどってきた重い皮膚病を癒やされたサマリヤ人のように。自分が、変えられてはじめて、なにかができるようになるのではなく、いま、このときに、この自分のありのままの状態で、神に従い、神に喜ばれ「あなたの信仰があなたを救った」と称賛され、あなたがたの間に神の国があるといわれる奇跡が起こり得ると言っているのかもしれない。引き続き問い理解を深めていきたい。
Luke 18:6-8 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」が気になった。選民という、ルカによる福音書にはそぐわないことばに感じられたからだ。「神の国はあなたがたの間にある。」のパラグラフの次であるが、同時にこのあとには、ファリサイ派のひとと徴税人の祈り、こどもの祝福と続く。神を真剣にもとめている、また、み言葉を行う人のことだろう。真意をじっくり理解しよとしないといけない。聞いている人に、不正な裁判官ということばから注意を引いて、考えさせているのだろう。文字通りに読むことが問題であるひとつの根拠でもある。
Luke 19:9,10 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。
「選ばれた人たち」が「アブラハムの子」と解釈する人もいるだろう。しかし、ここでも、イエスは、ザアカイの救いを第一に考えて行動したと思われる。「おまえのような人間がアブラハムの末裔にいることはなんという恥辱だ」というような声を聞き、それに甘んじていたのではないだろうか。そのときに、アブラハムの子、まさに、選ばれた人として「今日は、是非あなたの家に泊まりたい。」(5)と言われる。まさに、失われた、羊をみつけるために、イエスは、このエリコにも来たのだろう。心理学などの技術的なことではなく、愛の神を生きる、イエスの姿がここにある。イエスは、イエスが来た、そして生きている目的「失われたものを捜して救う」ことを生きておられる。
Luke 20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
この章の記事、イエスや、バプテスマのヨハネの権威はどこから来たのか、皇帝へ税金を収めるべきか、復活とはどのようなものか。いずれも、イエスは非常に賢く答えている。ただ、賢さは、本音、本当に伝えたいことではないことも感じる。その極みが、このメシアはダビデの子かという問いによく現れている。ダビデの評価を適切にすることは、できなかったのだろう。弟子たちには、比較的本音で話したのであろうが、理解力は十分ではなかったろう。賢さについても、考えさせられる。エルサレムでのイエスの状況はすでに行き詰まっていたのかもしれない。
Luke 21:3,4 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
ここでは、周囲に気にせず、伝えたいことを言っているように思う。イエスはほんとうに伝えたいことを言えなかったのではと思ったが、そうかもしれないが、伝えてはいるのだと思う。わたしのような読み方でも、何らかのメッセージを受け取っているのだから。むろん、表面的な読み方で、そのメッセージを受け取ることはできないが。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8章18節)さて、引用箇所でも、実際の行為に目を向けていてはいけないのだろう。向こう見ずにも見えるが、神への信頼だろうか。金持ちにはできないことなのかもしれない。難しさも感じる。
Luke 22:21-24 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」(3)とある。ルカは、このようにしか表現できなかったのだろう。同時に、引用した箇所で、イエスは「人の子は、定められたとおり去って行く」であること「人の子を裏切るその者は不幸」であることを伝えている。そこで「裏切るものは誰か」という議論と「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」との議論が起こったことが書かれ、(イエスがしてきたように)仕えるものになりなさいということと、ペテロの離反予告が続く。ルカの書き方は、裏切りは、だれにでも起こりうることを強調しているように思う。イエスと共に「種々の試練に遭ったとき」踏みとどまり、互いに仕えるものとなること。そこに鍵があると言っているようである。困難の中でともにおり、互いに仕えることが、裏切らず、サタンに空きを見せないことになるのだろうか。
Luke 23:3,4 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
イエスの「それは、あなたが言っていることです」は印象的である。同様の言葉が、22章70節にもある。慣用句でもあったかもしれないが、答えることを委ねており、意味深さを感じる。ピラトだけではなく、ルカによる福音書の読者みなに問いかけ、そして応答を求めているのだろう。わたしは、どう応答するだろうか。
Luke 24:33,34 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
ルカでは、復活証言はすべてエルサレム付近に集中している。マタイとの大きな違いである。マタイとルカは同様の資料を使ったと言われているが、同時に、同時期に成立し、お互いの福音書の存在を知らなかったろうとも言われている。その根拠にも違いが上げられるので、成立状況を考えて、根拠とすることには問題があるが、内容や重点の置き方が、実際に起こったときからかなりのときがたっていても食い違っていることは、確認すべきことだろう。ルカでは、エルサレムでの昇天と「エルサレムからはじめて、あらゆる国の人々に」(47, 使徒1章8節参照)とまとめており、フォーカスが違うとも言えるが、実際の移動に2日ほどかかることを考えると、それだけを理由にすることは困難でもある。いくつもの証言が存在していたこと、しかしそれぞれの証言がばらばらで、食い違っていたのかもしれない。

BRC2017(1)

Lk 1:25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
24節の「五か月の間身を隠していた。」という表現からルカのこまやかさを感じる。神の介入について考える。25節は、エリサベトの信仰告白と理解するのが一番よいだろう。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」と言っているが、それをもって、主のがわに変化が起こったと見る必要は無い。われわれは、祈りに答えてくださったと表現するが、それは、神の愛が現実のものとして理解できるようになったともとることができる。同時に、そのようにすべて解釈するのも、人間という有限の存在の限られた言語表現だともいえるのだろう。神の働きを、人間のことばですべて表現することは、できないのだから。後半の「人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」からは、エリザベトの痛みを感じる。その意味では、この記事を、エリザベトの痛みを共有している神の痛みの理解、そして、全体として、御心との同期と表現したい。それが、おそらくわたしの今の理解であり、信仰告白である。
Lk 2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
いままで、ルカに多い、マリア情報について、ルカはマリアに会った可能性があり、その情報を書いているかもしれないと考えていた。しかし、そうではないのかもしれない。ルカの時代には、マリアを直接知り、マリアから直接話を聞いた人は多く生存していたろう。1節の記事は、時代的な背景の証言とともに、ナザレ人イエスが、ベツレヘムで生まれることになったいきさつの証言でもある。マリアを直接知っている人からの伝聞であるなら、当時おそらくあった系図と出生地論争から、離れることの大切さをルカは理解して、これを書いたことも十分納得できる。この文章が流布する意味と影響を、知っていただろうし、ルカの誠実さを失いはしない。わたしがそこにいたら、情報の不確かさを思いつつ、このように書くことを良しとしたように思う。そしてそれは、イエスに従う者たちにとっても、一般的には幸せな選択だったのではないだろうか。それをマタイ由来の説教集をまとめた人たちも踏襲した。しかし、「最初から目撃して御言葉のために働いた人」(1:1)であるヨハネはそうは語らないし語れない。
Lk 3:23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。」(38)とある系図のはじまりである。1節にあるバプテスマのヨハネの活動開始時期の特定の詳しさとは極端に異なる。この書き方から、少なくとも表現的には、マタイにある系図と大きく異なることがわかる。マタイは王家の系図がほぼ含まれているのに対して、ルカはダビデの子の時代からすでに異なっている。いろいろな説明もあるが、互いに他者の書いた福音書を知らなかったことは確かだろう。知っていたら、別の資料、ある理由があっても、それが何らかの方法でわかるように書く。詳しい系図を具体的に示されると、それを含めたくなる、含めざるをえないことも、記録者の常のように思われる。このような考察が適切かどうかは不明だが。
Lk 4:22 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
並行記事はマタイ13:53-58, マルコ6:1-6 にあり、宣教を開始してある程度たった時期に置かれている。ルカはまったく宣教の最初である。内容から見るとすでに「カファルナウムでいろいろなことをした」ことがわかる。マルコについては、ルカは知っていたと思われるから、何らかの意図があって、ここに配したのだろう。それは、なぜだろうか。「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」(4章14節)の例示だろうか。
Lk 5:22-24 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)と言われたのは「イエスはその人たち(中風を患っている人が含まれるかどうかも議論されるが、含まれている可能性の方が高いのでは)の信仰を見て」とあるように、その人たちへの応答として、または、その人たちに仕えることとしてである。そこからずらしてはいけないだろう。むろん、それは、方便ではない。ことの本質は、罪が赦されることと、中風がいやされること、そしておそらく他のことも、ひとかたまり、全体の問題のいやし、その問題のあるひとに仕える事なのではないだろうか。
Lk 6:43-45 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
厳密に考えることだけをすると、このことばは受け入れられない。完全に良いひとはおらず、完全に悪い人もいないからである。それは、イエス様も知っておられる。善い方は父なる神様だけである。そうであっても、引用したことばに価値があるのは、良い木、悪い木、それをイエス様はどのようなものとしているかだろう。自分の十字架を負ってイエスにしたがっていく者。いろいろな表現が可能であろうが、光に来るものだろう。そこには、神の祝福もあるのかもしれない。良い実を結ぶという。
Lk 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
複雑である。神様が罪を赦され、その事実を、イエスが宣言しているとも、このあとの、この女への宣言によって、赦されたともとれる。いずれにしても、神は、罪を赦される方であることに目を向けなければ、この女を受け入れることはできないのかもしれない。
Lk 8:56 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
この記述には非常におどろかされる。イエスにとってはまるで日常のようである。「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。」(54,55)しかし、少し、違和感がのこる。両親は「非常に驚いた」だけなのだろうか。それしか表現できなかったのだろうか。異様である。
Lk 9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
サマリヤの村で村人が歓迎しなかったときのできごとである。この段落は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(51節)から始まっている。ある決意を感じたヤコブとヨハネと捉えると、気持ちは良く理解できるが、受難預言が理解できず「怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(45節)「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論」(46節)になってしまう弟子たち、乏しい理解の弟子たちを思うと、ひとはなぜこのように互いに裁いてしまうのだろうと考えてします。また、同時に、これは、ルカにしか書かれていない記事である。ボアネルゲ(マルコ3:17)の由来として得た情報を入れたかったとも考えられる。ルカはリアリティを伝えているのではなく、やはり情報を伝えているのだろう。
Lk 10:33-35 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
なんとこの「憐れに思い」は spragchnizomai(はらわたが傷つく)である。直接的にイエス以外に使っているのは、この箇所と、ルカ15:20の放蕩息子の帰還の時だけである。いずれも、イエスまたは神の深いあわれみを投影していると言える。介抱は epimeleomai (to take care of a person or thing)ある写本にテモテI 3:5にあるが、それ以外はこの34節35節だけにあることばで、おそらく、医者ルカが選んだことばなのだろう。一般的な、terapeuoo (仕える・治療をする・いやす)は使いたくなかったのかもしれない。興味深いことがまだまだある。
Lk 11:2-4 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
ルカによる福音書の主の祈りである。とても短く感じられる。神の支配が地に完全なものとなるように祈っているようにもみえる。神に向けて祈っているが、ひとのことを思っている。ひとへの配慮に富んだ祈りに感じる。短いだけに考えさせられる。短いだけに注目されないのかもしれないが。マタイによる福音書6章9-13節と比較して、しかし内容はかなり共通している。いつか勉強してみたい。
Lk 12:54-56 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
(当時得られる)科学的知識を低く見ているようにもとれるが、基本的な知識として認めているともとれる。経験知よりは、高度のもののように思われる。おそらく共有されていたから。しかし、霊的な世界に注目することを求めている。このことは、わたしには特に教えられる面である。
Lk 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
「災難に遭ったガリラヤ人たち」の話と「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」に続いて、この話が続く。主人と思われる人が、園丁に「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」といったその応答である。人間は、限られた少ない情報しか持たない。それでも、因果応報を好みはしないものの、それに縛られている。この園丁(通常イエスと解釈されるが)は、そこでボランティア(自発的)精神で、いちじく園の所有者(通常神様と解釈される)に願っている。このあとには「十八年間も病の霊に取りつかれている女」の話が続く。イエスは、ひとびとが悔いあららため、永遠のいのちに生き、それによって、神を愛しひとを愛することを望んでおられる。これは、自発的な行為である。流れに流される、因果応報に縛られる生き方ではない。自由にされ、その自由をもって互いに愛し合うことに、用いたい。
Lk 14:12-14 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
この直前には「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とある。イエスが日常から「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」に仕えていた、その理由を話されているようにもとれる。pay-forward "Pay it forward or paying it forward refers to repaying the good deeds one has received by doing good things for other unrelated people.” の背景はおそらくここにあるが、イエスは、支えられ、何かを受けていることは言っていない。おそらく当然であると同時に、それを意識することからも自由なのだろう。give-and-take という、ある公平性からも自由である。そのように人々が生きる世界を、神の国と呼んでいるようにおもう。そのような世界の一員になろうではないか。
Lk 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
この憐れに思いは、spragchnizomai(to be moved as to one's bowels, hence to be moved with compassion, have compassion (for the bowels were thought to be the seat of love and pity))が用いられている。この感情は、このときに生じたものであろうが、その背景として長い期間があったのではないだろうか。父親はおそらく、息子が家を出てから、もしかすると、生まれたときから、心配していたのではないだろうか。それがこのとき、特別の思いとなって現れ、抑えきれなくなる。最後の父親の言葉「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(32節)も批判ではない。問いかけになっている。ここにも父親がこころにかけているもう一人の子がいる。素直に喜べない。こころから喜ぶには、自由が必要なのだろう。自発的な行為である。
Lk 16:11,12 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
ルカにこころより感謝する。ルカだけが、理解しにくいこのような譬えも、丁寧に拾い上げて我々に残してくれたから。「不正にまみれた」は adikos が使われており、マタイ5章45節で「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とある「正しくない者」である。この世には、様々なひとたちがいる。イエスの言う「小事」を丁寧に拾い上げてくれたのだろう。この世に生きる我々への大切なメッセージである。
Lk 17:18,19 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
このあとに「神の国はあなたがたの間にある」(21節)のメッセージが続いている。「重い皮膚病」がいやされた。このことは、神の国のおとずれを伝えるできごとだろう。しかし、神の国そのものではないのだろう。ひとりの外国人とよばれるサマリア人が戻ってくる。それも神を賛美するために。宗教的差別を乗り越えて、このひとは、イエスのもとに戻ってきているのだろう。そして、「イエスの足下にひれ伏」す。そのひとに対するイエスのことばである。ここで起きていることが神の国そのものだというと言い過ぎだろうか。
Lk 18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
この一つ前には「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(9節)からファリサイ派の人と徴税人二人の祈りを比較したたとえがある。これに続けて「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(16節)と語り、引用した節が続く。「このような者」は子供のどのような部分をさしているのか、議論になる。ことばにするのは、あまり簡単ではない。しかし、成長していく存在。成長していくことがあたりまえのような存在とは言えるかもしれない。それが学ぶものである。受け入れるは dechomai: to take with the hand, to takeup, to receive が使われているが、to learn という意味もある。こどものようには、受け入れられない。そこに強調点があるのかもしれない。
Lk 19:9,10 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
イエスは血筋のことを言っているのだろうか。おそらくそうではない。ザアカイは、あんなのが「アブラハムの子」なのかとか、イスラエルの面汚しだとか言われていたのではないだろうか。神の家族に迎え入れられる。信仰によってつながって。その表現なのだろう。ザアカイは、失われていた者であることを、十分知っていただろうから。ザアカイは、このあとどのように生きたのだろうか。
Lk 20:15,16 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
このあと「イエスは彼らを見つめて言われた。」と続く。自分でなにを言っているのか、そして、何をしているのかわからない。この彼らのこたえは、ダビデの答えを思い出させる。「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。』」(サムエル記下12章5節)ナタンの言葉に、ダビデは悔い改めるが、彼らは悔い改めない。この違いは何から来るのだろうか。神との関係を人生の中心に置いているかだろうか。もう少しよく考えたい。
Lk 21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
このあとイエスは「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」と続けている。このことを読み取れる、または、見逃さない、そこにイエスが常に、貧しい人、悪霊につかれた人、病人、そして、障害者と共にいたことが現れているのではないだろうか。このやもめには、特別な願いがあったのだろうか。本当に乏しい中から、献げたかったのだろうか。それは、わからない。
Lk 22:26,27 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
このあとには「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」とのべ、支配権を弟子たちに委ねている。だからこそ、この前半は大きな意味を持つ。通常の伝え方と順番が逆のように思われるが、ここにイエスの特色があるのかもしれない。気になるのは「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」という言葉である。民を解散させたり、坐らせたり、そのような細々とした指導もしているが、この「給仕する者(diakoneoo (verb) to be a servant, attendant, domestic, to serve, wait upon)」を使っている。本来的には、仕える者である。実際は、弟子たちがよく知っていたのだろう。5000人給食、4000人給食、最後の晩餐でのことなども思い出す。それがエマオの途上の主の認識にもつながったのかもしれない。弟子たちの目にそしてこころに残っていること、なかなかはっきりとはイメージできない。
Lk 23:3,4 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
ふと、これが何語での会話なのか気になった。ピラトはアラム語は話せなかったろう。イエスはギリシャ語をどの程度話せたのだろうか。「異邦人のガリラヤ」(マタイ4章15節)出身であることを考えると、ある程度できたとも考えられる。この会話、どのように記録されたかは不明であるが、ヨハネの関係や、後にイエスを救い主と信じるようになった人たちに、ピラトに近い人たちがいたと考えられるから、そのような関係だろうか。伝承のゆえかもしれないが、会話が、非常にスムーズである。「それは、あなたが言っていることです」という独特の表現がどのように捕らえられたかは、言語にも関係すると考え疑問に思ったのである。やはり、この表現の聖書以外の用例について、知りたい。
Lk 24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
イエスをキリストと信じる者は、イエスを今も生きておられる方として信じていることは確かだろう。復活の実体はよくわからない。記録も、一定ではない。しかし、死に飲み込まれてしまった存在を死と仰いでいるのではない。生きて、今も働いておられる方に望みを置いている。わたしも、その実感は強くもっている。その根拠は何なのだろう。亡くなったかたがこころのなかに生きているという感覚とはやはり少し違うように思う。あらたな命が与えられ、それに生きていると思えるような何かだろうか。もう少し、言葉についても考えたい。

BRC2017(2)

Lk 1:73-75 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。
なぜこのように表現されたのかは、よくわからない。しかし、核となる部分は「恐れなく主に仕える」ことだろう。主に仕えることができるようにしてくださる方が「救い主」である。そう考えると「敵」は、それを阻害するものとなる。形式的な礼拝を仕えることと考えれば「敵」は、ローマ帝国だったかもしれないが、霊的な礼拝を考えるなら「敵」は内的なものとなるかもしれない。「罪」と表現できるかもしれないが、具体的に、わたしは、どのように表現するだろうか。
Lk 2:10,11 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
注意を引くのは「民全体」「大きな喜び」「あなたがたのため」。特に、最後は、これが、最下層の羊飼いに語られていることを考えると、民全体(神様が愛されるすべての民。イスラエルに限定されるものではないだろう)に語られてはいても、羊飼いは、その大切な一部であることを意味している。ルカの福音理解が、このことを記させたのだろう。今も、福音は「羊飼いのための大きな喜び」だろうか。考えさせられる。ケニアのマサイ族の礼拝も思い出される。羊飼いにいまも大きな喜びが与えられていることも事実なのだろう。
Lk 3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
信仰の家族(アブラハムの家系)に連なっていることではなく「良い実」について語られ、この11節につながっている。イエスの教え「神を愛し、隣人を愛せよ」と大きくは変わらない。しかし、行為は、それが救いの根拠となることをおそれて、強調されないようになっている。なにかおかしいように思われる。世界中を考えると、UN の SDGs の最初の二つ 1. No Poverty, 2. Zero Hunger とも密接に関係している。何を着ようかと迷うひとが、下着のように、必要なものさえ持てないひと、ありあまる食とともに生活しているひとが、そうでないひとと「分かちあう」よろこびをえること、それは、この世界に「差」が存在することを許容しておられる神様の恵みなのかもしれない。
Lk 4:18,19 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イザヤ61章1,2節からの引用とされる。ルカは七十人訳から引用しているのだろう。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(21節)は強烈であるが、その内容は記されていない。そのためかこの後の議論が唐突に感じられる。イエスはなにを伝えようとし、何を予告していたのだろうか。これが宣言、宣教なのだろうか。啓示以外を根拠に語ることはできるのだろうか。
Lk 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
ヨハネによる福音書によると、どうも、このときが、初めての出会いではなかったように思われる。しかし、この時こそが、人生の最大の転機だったと告白している記事のように思われる。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)それは、召命の時でもある。普遍性ではなく特別恩寵である。
Lk 6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(12節)とあり、その直後に12人を選び使徒と名付けている。20節からは、通常平地の説教と言われる、マタイによる福音書の山上の説教に対応する部分が語られる。引用句は少し不満に思う部分(師にまさるものではない)があるが、ここでは師は神の子イエスが想定されているのか。そうではなく、弟子は、学んでしたがっていく者で、一般的に言っているのかもしれない。「修行を積めば」は言語では明確ではない。だんだん強められという意味合いの言葉(katartizo)をこのように、訳しているのだろう。KJV では、perfected いずれにせよ、イエスとその弟子たちに重ね合わせると、大変な恵みである。
Lk 7:22 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)とも関係しているかもしれない。十分信頼できると思われる、バプテスマのヨハネの弟子たちへも、明らかな形では答えられない。信仰の目で見なければ、神への信頼を持って見ないと見えない、そこに本質があることをイエスは、伝えているのかもしれない。「罪深い女」の姿から、この「ファリサイ派のシモン」も、その背後の真理を見るように促され、ヨハネの弟子たちも、メシヤ的行為の向こう側に、神の働きを見て、神が、イエスを遣わされたことを受け入れることが促されている。「来たるべき方はあなたでしょうか」(19節)「イエス」「ノー」とは、違う世界なのだろう。
Lk 8:39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
「お供したいとしきりに願った」(38節)悪霊にとりつかれていた人である。「家に住まないで」(29節)とつながっている。家族は、どのように受け入れたのだろうか。家族も悲惨な状態だったと思われ、簡単には受け入れることはできなかったろう。同時に、これこそ「神業(神のみがなされる業)」だということが、一番分かったのも、家族だったかもしれない。このひとがこのあとどうなったのかわからない。家族のもとでイエスに従いながら、神と共に生きることができたことを願う。
Lk 9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」(8章52節)で周囲の人たちが死んだと思っていた娘についてのイエスのことばである。イエスにとっては、おそらく死んでいなかったのだろう。すると、引用箇所での「身を滅ぼしたり、失ったり」は、神の前に、神と共に生きる命を失うことを言っているのではないだろうか。この続きには「わたしとわたしの言葉を恥じる者」(26節)とある。全世界を手に入れるがなにを意味しているか分からないが、個人が、そして、世の人々も、この人は全世界を手に入れたと思っているとき、イエスはその人を恥じる。その人に、永遠の命はない。
Lk 10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家の質問は「わたしの隣人とはだれですか」(29節)である。「自分を正当化しようとして」との言葉もあるが、イエスは、この質問をより本質的な問いに変えて答えている。「隣人とは誰か」から「隣人になったのは誰か」。「隣人を愛する」ときに「隣人とは誰か」と問うとき、すでに「天の父のように完全なものとなる」(マタイ5章48節、19章21節)ところから離れてしまっているのかもしれない。自分の前にいる人を愛することは、その人の隣人となること、イエス様が我々ひとり一人の隣人となってくださったことから考えると、それが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(27節)に応答して生きることである。神から遣わされ、天の父の御心をおこなうイエスは、まさにそのためにこられたのだから。「誰が隣人か」の問いから「隣人となる」へ導かれる深さを感じる。
Lk 11:14 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
この直前には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)から「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節)とある。すなわち、求めるものは「聖霊=神の心」である。「神の心をこころとすること」が「完全なものとなる」ことであるなら「悪霊=神の心をもつことを妨げるこころ」とも言い換えられるかもしれない。ここでは「口を利けなくする悪霊」である。どのようにして、このひとが、口が利けなくなったのか不明であるが、とらわれの身から、解放されて「神の心をこころとすること」が可能にされたのかもしれない。むろん、通常の聾唖者のいやしととることもできるであろうが、ルカのつながりは、それよりも、深いことを伝えているように思われる。
Lk 12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
なぜひとはたいせつなものをたいせつにすることができないのだろう。引用句からすると、たいせつだとおもっているところに、こころもあると書かれている。ということは、なにがたいせつかが、わかっていないのかもしれない。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。」(29節)も、たいせつなものは、これではないよと言っている。このあとの、ペトロの質問「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41節)に対しても、ペトロがたいせつにすべきことをイエスは語っているように思われる。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(47節)わたしがたいせつにすべきことを求め、それをたいせつにしていきたい。
Lk 13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
5節にも同じことばが書かれている。最初は「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(1節)事件、次は「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」(4節)について、引用している言葉をイエスは言っている。ひとは、悔い改めなければ、たいせつなものをたいせつなものとして生きること(「神の国を求めること」(12章31節))ができないと言っているようである。これがヨハネにある、新しく生まれる、永遠のいのちが与えられることと関係してくるのだろう。
Lk 14:5,6 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。
おそらく「『不急』のことにたいしては、安息日を守ることを優先すべき」と答えたかったろう。しかし、たとえは、息子か牛である。牛は、一家にとって生計を左右する重要な家畜だったろう。「たいせつな家族や財産」イエスにとって「水腫を患っている人」がそのようにたいせつな存在であることは、見て取れたということか。それとも、福音書記者のルカが「それは分かるでしょ」と書かなかったのか。問いかけの深さを感じる。それは、イエスと共にはたらく、霊の働きとも言えるかもしれない。
Lk 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
私はおそらく放蕩息子のたとえの後半部分を十分理解できていない。最近ひとつわかったのは、共に食事をする(食べる)ことは、特別なことだということである。ルカ14章15節から24節など、聖書では大宴会は重要な意味を持つが、同じ時、同じ場所で、めぐみを共有すること、神様につながることを意味しているのだろう。そんなことは、考えていないということもあるだろうが、同じ食卓を囲んで、食べながら、言い争いをし、相手を拒絶することはできない。すくなくとも、その場では。わがやの聖書の会では「他の参加者を拒絶しないこと」などとルールを作ってはいないが、ともにお茶を飲み、なにかを食べながら、同じ場所、同じ時を、聖書を読みながら考えるという共通の行為をしながら、めぐみを共有することにより、それが実現しているように思う。この兄は31節・32節に父の言葉として記されている、自分に与えられているめぐみと他者を通して父が喜んでいるめぐみを喜んで共有することができなかったということだろうか。共に喜べるものになりたい。
Lk 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
金持ちとラザロのたとえでなぜ「陰府」と「宴席にいるアブラハムのすぐそば」にわかれるのかは、あまり明確ではないが、30節をみると「悔い改め」がそれをわけているようだ。天の宴席でアブラハムのすぐそばという表現に興味を持つと同時に、アブラハムに「モーセと預言者」と言わせていることにも興味を持つ。アブラハムのときには、モーセも預言者もいなかったのだから。また「モーセと預言者」で悔い改めには十分とも言っている。イエスの役割は、悔い改めに至らせるかどうかではないと言うことでもある。神の御心を求めることができるように、人々を解放することとも表現できる「救い」について、よく理解したい。
Lk 17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
このあとには「ゆるし」についての教えが続く。16章から続いているとすると「悔い改め」を妨げたり、そのあと御心を求めて生きることを邪魔したりが「つまずきをもたらす」行為だろうか。しかし、すぐ「ゆるし」について書かれている。「これらの小さい者」「兄弟」と、互いに、励まし合い、ゆるしあう、すなわち、愛し合うことまで、イエスはここで教えているのかもしれない。それがなければ、御心をおこなうことは、天の父なる神様の御心がなることは、ない。
Lk 18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
何が欠けていたのだろうか。マタイによる福音書19章16−30節の並行箇所をみると「男が『どの掟ですか』と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」(18節・19節)となっており「隣人を自分のように愛しなさい」が加わっている。(マルコ10章17-31節にはない)この章のやりとりを見ていると、言葉は変えていても、誰に対しても、イエスは公平に伝えている。そう考えると、金持ちにだけ強いメッセージを語っているわけではないように思われる。ただ、この人にとって「慈善=隣人を愛すること」とは「貧しい人々に分け」ることだったのだろう。分かち合うことに隣人を自分のように愛する本質があると思われる。
Lk 19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
「夢中」は新共同訳ではここだけである。ギリシャ語は ekkremamai (1. to hang from, very attentive) で、やはり、ここだけである。とても印象的である。しかし、この状態で、そこに入り込めず、異なることを考えていた人たちがいる。「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」(47節)これを分かつものは何なのだろうか。自分の義を守ろうとしたからだろうか。恐れか、謙虚に御心を求めることをしないからか、愛の欠如か。夢中に、イエスのことばに聞き入るものでありたい。そして、そのことばに生かされるものになりたい。
Lk 20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
なぜそうなのだろうか。ある部分の専門家ではあるが、決定的な知識を持っていると、考えるからだろうか。そう考えると、一般的に学者には、その傾向がある。目の前のものがあまりに巨大であることを知るために、広がりが視野に入らなくなるのか。ニーチェの遠近法(perspective)的制約が極端になるからだろうか。見えていないという漠然とした、謙虚さで見ることは、ひとには、できないのかもしれない。そうであっても、学者にとっての落とし穴に注意しなければならない。
Lk 21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
ここから終末についての記述が始まる。「見とれている」ものからの解放には、それを相対化すること、一番簡単な方法は、終末を考えることだからだろうか。イエスは、終末を事実として伝えようとしたのだろうか。それとも、目を開かせるためだったのだろうか。ひとは、終末を実際に起こることとして、その解釈を深めようとしていく。それに備えることでは無く。簡単には、分からないのかもしれない。
Lk 22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
不思議な表現である。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」(21節)に至る何かが必要だったのでは無いだろうか。しかし、ルカには、どの時点か、何が起こったのか分からなかった。当時の人たちにとっても、大きなことだったろう。それを意識して、ヨハネは書いていると思われる。ヨハネ 6:71, 12:4, 13:2, 13:26 など。自らを省みたい。
Lk 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46,マルコ15:34参照)は共観福音書であるにも関わらず、ルカにはない。ルカは、他の印象的な十字架上のことばを記している。(34, 43)そして、引用した言葉が最後のものである。詩篇22編を唱えていたのではないかと言われているように、他にも、イエスは言葉を発した可能性はある。しかし、この46節のことばは、われわれへの、模範を示しているように思われる。そのように生き、そのように死んでいきたい。
Lk 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
二人の弟子(12節)の認識が書かれている。イエスが聞くことに意味があったことも示している。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(21節)が続く。イエスが、ご自身を示そうとされていたこととは、ずれがあるように思われる。しかし、イエスは丁寧にこのあと、解き明かされたようだ。少しずつ導いていただき、理解を深めていきたい。わたしもおそらくまだ何も理解できていない。

BRC2015(1)

Lk1:5,6 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 
ヨブ1:1では「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」とあるが、ここでは、正しさが「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」と表現されている。ヨブとは少し異なり、当時のユダヤ教の枠組みの中で「正しい」ことが主張されているように、思われる。これと比較して、マリアに対しては、28節に天使が「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 と伝えたと書かれている。正しさは、主張されていない。マリアは完全に恵みによる祝福によりイエスが宿るのである。
Lk2:49,50 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 
正直、面倒な存在だったろう。このことだけが、記されているが、他にもあったのかもしれない。このことで、三四日予定が狂ってしまう。ただ救いはこのあとに書かれている51節である。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」ここでは「心に納めていた」とあるが、背後にある神の働き(見えないもの)に目をむけ、思い巡らすことだろうか。
Lk3:16,17 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 
15節を見ると民衆は、メシヤを待ち望んでいることがわかる。ヨハネのメッセージは、自分はメシヤではないことと、そのメシヤは、さばきのために来られるということである。「神の裁き」が「聖霊と火」で表されている。それが洗礼に結びついているのは、清められる、神のものとなるときに、それが必要なのか。洗礼によって滅びることはないのか。いずれにしても、イエスの福音とは、やはり本質的木、異なっているように思われる。
Lk4:26,27 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 
イエスの行為をここに映しているのかもしれない。しかし、そこでいやしたことは確かだが、それ以外でいやさなかったという記述は確かだろうか。これは、ナザレのひとたちの悔い改めを求めるレトリックだろうか。
Lk5:39 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」 
これは、ユダヤ人たちが悔い改めないことを言っているのだろうか。本当においしいぶどう酒ならそれを飲み続けてよいとすると、解釈が変わってくる。どのような背景があるのだろうか。新しいものは、受け入れないということだろうか。
Lk6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 
イエスへの批判の記述を避けるため、行為者を「弟子たち」とした可能性もあるが、おそらく、イエスは、このような行為をしなかったのだろう。イエスの一挙手一投足を監視していた人が、イエスの活動の初期から続いていたと思われるからである。イエスは、少なくとも、このような行為を避けることで、不必要な軋轢を回避しようとしたろう。同時に、弟子たちの行為に対しては、寛容だったと思われる。さらに、批判に対しても弁護する。さらに深いところで、神のこことを求める弟子たちの日常を大切にしたかったのだろう。
Lk7:28 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」 
「女から生まれた」は「肉から生まれた」を意味するのだろうか。神の国の者は、霊によって、新たに生まれる者だということだろうか。これだけ聞いて、理解するのは難しい。偉大の意味はなんだろうか。神のみこころを行う者ということだろうか。
Lk8:21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。 
イエスはつねにきっぱりしている。イエスのメッセージは常に、神の国のこと、霊によって生まれる新しい命に関わることだったのだろう。だから、あらゆる機会にそのことを伝えようとしている。それを、しっかりと受け取りたい。
Lk9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。 
これも神様の働きともいえる。しかし、一つ一つに神様は介入されないのかもしれない。自然なのかもしれない。時が来て急に、理解できることがある。その背後に、神がおられるのかもしれない。無理矢理に、神の働きを活発なものと理解すると、人間の自律性は失われ、神は暴君になり、ひとは、たんなる操り人形、その責任も自覚できなくなる。
Lk10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」 
すべては何を意味するのだろうか。イエスが何者かは、神しか知らない。そのミッションが隠されていると言うことなのかもしれない。次には驚くべき恵みの言葉がある。神を知るものは、イエスだけでなく、イエスが示そうと思う者が入っている。これは、どのような人だろうか。ヨハネ15:15に「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」とあるように、イエスから真理を伝えられた者だろう。
Lk11:27,28 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 
これも、マタイ12章、マルコ3章と同じく、ベルゼブル論争の直後に置かれている。この女がどのような話の関連でこのことばを発したかはわからないが、イエスの中では、悪霊のかしらと、悪霊たちとの関係と、神の霊(聖霊)と聖霊の宿る者たちの平行関係に興味があったのだろう。イエスにとっては、それは「神の言葉を聞き、それを守る人」である。
Lk12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
このイエスの答えは、40節の「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 に対する、41節のペトロの「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」の問いに発している。非常に適切な、応答であると感心させられる。それが、みこころをもとめ、みこころを行うことなのだろう。そして、自分の十字架を負って、イエスについて行くこと。
Lk13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 
この章には1節から5節に不慮の死はなくなったひとの罪の故かが問われている。10節から17節は安息日の問題が中心ではあるが、この女性の病についても書かれている。サタンに縛られていた。その解放がこのとき、となっている。女性の罪の故にサタンに縛られていたというような原因は語られていない。罪が赦されたという可能性もあるだろうが(他のあしなえの癒やしなど)それも、解放を宣言しているので、病気の原因を説いているものではないだろう。応報思想とイエスの見方について、一度まとめてみたい。
Lk14:26,27 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 
丁寧に解釈することが大切である。そして、ことばのつながりからも、この26, 27節は続いているだろう。中心は26節よりも27節にあるように思われる。「自分の十字架を背負って(イエスに)ついて」行く、このことにつきる。選択があるということだろうか。前半や「自分の命であろうと」に重きがあるのだろう。これは、地上での命をさしているのだろうか。おそらく、それに限定したことではあるまい。自分の感覚や意思から生まれることは、不完全なのだから。そして、命は、神様から与えられるものなのだから。
Lk15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 
「天」を神様をどのように理解するかの非常に重要なことばである。このあと、ドラクメ銀貨の話、そして放蕩息子へとむかう。最後は、放蕩息子の兄との対話である。神の理解が、この地上での人間理解に結びつくことの重要性がここで語られている。この7節の宣言は、考えれば考えるほど、驚かされる言葉である。
Lk16:14,15 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。 
このあと、金持ちとラザロの話が続いている。金や人に見せびらかす自分の正しさが、人に尊ばれるもの、神は心をご存じだと続く。金持ちとラザロの話でも、それが中心なのであろう。そしてそれが、地上でのことに結びついている。こころをご存じである神に尊ばれるもの、おそらく、それは人には忌み嫌われるものかもしれないが、それに目を向けたい。
Lk17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 
この段落は「イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」(1節)から始まっている。3節の「戒め」「赦す」のは、「それ(つまずき)をもたらす者」に対してであろうか。それとも、つまずいた者に対してであろうか。後者ではないだろうか。いろいろなつまずきの理由があってつまずく、そこには、つまずきをもたらす人もいる。もしかすると、自分がそれをもたらしているかもしれない。むろん「悔い改めれば」とは書かれている。様々な状況を考えてみたい。
Lk18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 
この段落は「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(1節)から始まっている。神の速やかな裁きを信仰を持ち続け祈り求める大切さを例を用いて説明している。その最後のこの8節のイエスの嘆息ともいえる言葉である。おそらく、この言葉をもって、聞く者を激励し、神の裁きをなされる信仰を持ち続けて生きることこそが、イエスの求めておられることだと言いたいのだろう。神は、放っておかれるわけではない。しかし、その寛容をもって、悔い改めを待っておられる。
Lk19:16,17 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 
神にとって良い僕とは、神が望まれること、そのうちの委託されたことに忠実であるものである。充実は信仰と同じ pistos とすれば、神に信頼をおくこととなるので、この信頼は相互関係である。つまり、神の意思と関係し合って信頼し合う生き方である。そのように生きることがわたしの望。
Lk20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 
単なる議論のためには、真実を明かさないのだろう。正しさではなく、神に信頼して、神のみこころを求め、委ねられたことに忠実に生きることが、イエスの望みだと思われる。争いを激しくすることはしない。
Lk21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 
34節には「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」とあり、この節の言葉で結んでいる。どちらかというと個人的な忍耐と救いに焦点があるように思われる。しかし背景にあることは、おそらくマタイ24:14だと思う。ただ、それを強調するとかえって、党派心をあおる結果にもなるのかもしれない。キリスト党の戦いのような。一人の分は、やはり一人分なのかもしれない。日々、自分の十字架を背負ってイエスについて行くこと。
Lk22:41 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
この前に弟子たちに、「いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」(39節)というのは、自分にも語っているのかもしれない。そしてまさにそのように祈っておられるのだろう。イエスのように祈りたい。誘惑に陥らないように、つまりは、御心のままではなく、自分の希望のようにことがなるようにと願う誘惑に陥らないように。神の御心に自分の心が向いていきますように。
Lk23:41,42 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 
十字架上で処刑されたひとりの言葉である。これにイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えられる。教義的な解釈をして「イエスに希望があることを、罪と信仰の告白とともに公にすること」と表現することも可能だろうが、イエスのこころと結びつく希望という表現のほうが、近いように思われる。むろん、それには、応答されるイエスの存在が必要である。その希望に信仰をみとめ、神とともに生きる楽園に導き入れてくださらなければ、まったく不完全な、様々な批判が可能な存在なのだから。
Lk24:47,48 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 
「これらのこと」とは何なのだろうか。46節には、死と復活が書かれている。しかし、おそらく、そこに中心はないだろう。47節、それも、その背景にある、神の国を指しているのではないだろうか。ゆっくり考えたい。

BRC2015(2)

Lk1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
そのまま読むと何も超自然的なことは書かれていない。この時以降に、身ごもることと、男の子を産むことである。合理的な解釈を選ぶのは、注意も要するが。聖霊の働きについては35節に「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。』」と書いてある。しかし、それだけである。処女懐胎は、解釈の問題なのだろうか。関連箇所としてマタイ1章18節をあげておく。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」ヨセフの子ではないことが証言されている。しかし、どのように懐妊したかは、書かれていない。聖霊の働きは、つまり神が働かれたことは、どちらの記事も証言している。当時の人々は、どのように理解していたのだろうか。
Lk2:29,30 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これこそ信仰告白、それも聖霊に満たされてなされたことだろう。まだほとんど何も目撃してはいないのだから。信仰に生きる恵みがここに表現されているのかもしれない。
Lk3:12,13 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
このあと、兵士に対する言葉も続くが、とても単純である。これが、小事に忠実であること、この世のことに忠実であることの最初であるだろう。そして、そのことは、あまり簡単なことではない。世界中の兄弟姉妹とともに生きることを考えたときはなおさらである。
Lk4:28,29 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
ヨハネでは、かなり初期から反対があったことが記録されているが、ルカでも宣教を始めたことの記録のほとんど最初のエピソードの結びが上のものになっている。マルコではイエスの宣教のある程度初期に反発があったことが書かれているが、この記述ほどではない。マタイは、編集の故かもしれないが、かなり進んでから反発が記録されている。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」と関連しているかもしれない。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」からではないだろうか。単純に受け入れることを、助長しておられない。それにしても、最初からかなり過激な反発である。
Lk5:31,32 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
イエスは常にそこにいる人たちひとり一人にメッセージを語っているように思われる。この場合は、質問した「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」(30節)だけでなく「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。」(29節)人たち、むろん、レビも、弟子たちも他の弟子たちもいたろう。様々な人たちに同じ言葉で語ることができるのは、普遍的な真理を語っているからだろうか。それとも、理解に至るため、聖霊の働きに信頼しているからか。ひとり一人の心の印象的な言葉として記録されたのであろう。それを一生考え続けるために。神の国の宴会がここで先取りされていると考えると、神の国は近い、すでに来ていると言うことなのかもしれない。
Lk6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
続けて同種類のことが書かれている。神様と自分の関係の中で、人と自分との関係を見定めよ。神を愛することと、人を愛することは深く関連しているということがあるのだろう。さらに、現実的には、一部分しか知らない、理解できない、人間には、正しい裁きができるわけでは亡いこと、神に任せるべき事も含んでいるだろうか。単に因果応報として、この箇所を解釈するのでは悲しい。神の心をこころとすること。神の悩み、痛みを共有することなのかもしれない。裁きに値する人間を裁かずに、罪人と定めずに赦すことを、それも、ご自身の御子をも与えて罪をあがなおうとしておられる神の心を心としようとすること。
Lk7:16,17 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
ナインはユダヤではなくガリラヤの町のようである。青年を生き返らせたこの事件を人々は、大預言者の出現として神を賛美している。単に、エリヤやエリシャのようなと言う意味だろうか。神のみこころを伝える預言者は、その神との近さ故に、神のみこころを地上で行うことができると信じられていたのか。いずれにしても、神のことばを取り次ぐ預言者のイメージと照らして、イエスはそれ以上の者として見られたという表現なのだろう。イエスは、預言者の一人とされることに対してなにもコメントをしておられない。ひとが判断すべきことがらと言う面と、神のみこころを自分の心と一致させ、神のみこころを伝えると言う意味では、預言者としても良いのかもしれない。モーセのような預言者もそのような意味なのだろうから。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記18章15節)
Lk8:1-3 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。
十二人以外は、女性たちについての説明である。男性については、不明である。しかし「そのほか多くの婦人たちも一緒であった。」とあるところから推察すると、男性も多くいたのではないだろうか。もし、女性が圧倒的多数であったとすると「町や村を巡って旅を続け」る集団としては、不自然な感じを受ける。ルカはここで、女性も多く含まれた集団だったこと、婦人たちにもずっと同行していた人たちがいたこと、その中には「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」もいたことを記録したかったのだろう。スサンナは聖書でここだけでどのような人か不明である。ヨハナはルカ24章10節に再登場する。ヘロデの家のことにも詳しかったかもしれない。そして、経済的にも支援していたのだろう。大集団の移動はおそらくいろいろな困難も伴う。
Lk9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
「いやす」はイアオマイ(iaomai:to cure, heal; to make whole. to free from errors and sins, to bring about (one's) salvation)「治療」はテラピア(therapeia:service rendered by one to another: spec. medical service: curing, healing; household service body of attendants, servants, domestics)ヘンリ・ナウエンの言うように、治療なのだろうか。そうとも理解できる。一方、37節以降の事件は、ルカでは、悪霊に取り憑かれたとしている。マタイ17:14-18では「てんかん」。いやしに関わることは、もう少し時間をかけて考えたい。
Lk10:23.24 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
このあとに「すると」とあり、善きサマリア人のたとえが続く。弟子たちだけに述べているが、弟子たちが「見ているもの」とは何だろうか。この段落のはじめの21節も「そのとき」とあることを考えると、その前からの続きと考えられる。そこでは72人が喜んで帰ってきたことが記されている。報告の中心は「悪霊」や「サタン」が「イエスの名をいうと(権威のもとで)」従うことである。すべきことと、述べ伝えたメッセージが「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(9節)であったことを考えると、弟子たちが見たのは、神の国が近づいたことを目の当たりにすることなのだろう。これに続く譬えを聞いたひとに願ったことは、同じように「神の国が近づいたことを目の当たりにすること」なのかもしれない。隣人を愛することによって。
Lk11:33-36 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
よくはわからないが、全身を見渡すことができるような目のことを言っているのだろうか。このあとには「イエスはこのように話しておられたとき」として「清め」の話が続く。外側だけを清めていることは、ともし火によって全身、こころの中までも見えるようにすることとは違っているのだろう。神は、それもご覧になる。ともし火は、神の御心や働きを見る神に向かう信仰の目だろうか。それが消えていると、神が見ておられるものを見ることができない。
Lk12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
「自分のため」と「神の前」が対比されている。「神のため」ではない。「神の前に豊かになる」とはどのようなことだろうか。神の良しとする、神の国の価値観のもとでということだろうか。このことと「自分のため」つまり自己完結的な価値観とが対比されているのだろうか。倫理的な面だけを述べているのではなさそうですが。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのもの(私たちに必要なもの(29・30))は加えて与えられる。 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(31・32節)「小さな群れよ恐れるな。」
Lk13:1,2 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
他の時期の似た記録はあるようだが、この事件についての歴史記録は見つかっていないようだ。通常は、礼拝に来たガリラヤ人がその場で殺されたことと解釈されているようだ。そう考えると、礼拝所に集まっていた人たちが、空爆で死んだり、地震で教会が壊れてなくなったりといったことが対応しているかもしれない。このあとの、(これも歴史記録がみつかっていない)シロアムの塔のことと並べられていることにも、注意を払うべきだろう。人の死からその人が神様の前にどのように生きたかを推測するのは、たとえそれがポジティブな評価であっても、おそらくイエスは、喜ばれなかったろう。神に属することだから。自分が悔い改めて、神の前に生きること、神の国を求めることに集中すべきである。ひとを裁くな。(参照:ヨハネ9章)
Lk14:5,6 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 彼らは、これに対して答えることができなかった。
このあと「招待を受けた客が上席を選ぶ様子」をみて、11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とのメッセージを語り、「大宴会のたとえ」「弟子の条件」と続く。恥をうけないことは、神の前で栄誉をうけることについて言っているのだろう。栄誉という言い方が適切でなければ、神と共に喜ぶことができるかという問いかもしれない。神の価値観の共有、御心に生きる。おそらく、上で引用した箇所こそが、「恥をかいて末席に着くことになる。」(9節)の表現なのだろう。神の価値観を理解していなかったことでもあるので。13節に「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」とあり、21節にも「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」と似た表現がある。神様の価値観を自分の価値観としたい。
Lk15:29,30 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
兄の求めていたものは結局「子山羊一匹」のようなものだったのだろうか。そうとって、結局弟が最初「死んでいたとき」に求めたものと同じと考えるのは行きすぎかもしれない。しかし何年も仕え、言いつけに背いたことがないと言っても、父親は何を喜ぶかを知らない。このことは確かだろう。そして、父親は、そのような無理解の兄をせめてはいない。自分の喜びを理解してほしいとは言っているかもしれない。そしてそれと同時に、弟を「あなたのあの息子」ではなく「お前のあの弟」として、それも「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」者として受け入れること、ひとりも失われることを望まない父親と共に「楽しみ喜ぶ」(32節)生き生きと、父親が生かされているのと同じ(神の)命にいきることに、気づきたい。
Lk16:10-12 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
小事はこの世のこと、大事は神の国のこと、不正にまみれたもこの世のということで間違いないだろう。この世で委ねられているものに忠実にと言うメッセージは重い。最後の「他人のもの」「あなたがたのもの」も考えさせられる。後者はおそらく神の御心に生きる生活(神の国)、または神の御心を理解する聖霊としてよいだろうか。神は、他人のものへの配慮が、神の国の価値観につながっていると言っているのだろうか。他人のものに忠実でないような人には、自分のものもおろそかにするだろうから与えないよと言っている。自分のものはたいせつにするという考え方も、実際には、荘ではないのかもしれない。
Lk17:20,21 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
このあとには「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」と続く。人の子の日は、イエスが共におられるとき、または、イエスによって神の国がちらっちらっと見えたときと言う意味なのかもしれない。ここでは、ファリサイ派の人たちに語っているので、イエスを通して神の国(神の支配)を心の目で見ることを言っているのだろう。それが見えない人には、どのようにしても神の国を見ることはできない。
Lk18:8,9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
この前は、神を畏れず、人をひととも思わない裁判官のたとえがあり、結びは「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」となっている。自分は大丈夫と思っている人に語られた譬えということだろう。神の前にへりくだるとは、どのようなことだろうか。自分は完璧ではないことを知っている者だろうか。おそらく、そうではないだろう。神を信頼する者だろうか。神が裁かれることを知っているものだろうか。やはりしっくりと表現できない。
Lk19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
14節には「国民は彼を憎んでいた」とある。その中での商売である。困難が多いことだろう。その困難に立ち向かうことも、そして、一時的なものにも忠実であることを、求めているようである。人々は神の国はすぐにでも来るものと思っている。それに対するメッセージも含まれている。このたとえを思い返す者は、様々な示唆が与えられたろう。悔い改めに至った者もいるかもしれない。わたしは、この主を信頼し続けることができるだろうか。
Lk20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
イエスは、この問いに答えない。「祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て」(1節)問うたとあるが、何を求めているのだろう。単純に知りたいのではなく、言葉尻を捕まえたい事もあったかもしれない。これは、神殿から商売人を追い出したあとに書かれているから。人間社会のルールだから、人間社会の何らかの権威を持っている者でなければ、単なる犯罪だという論理か。しかし、本質は違うところにあるように思われる。問われているのは、イエスの行動は神の御心にあったものは、または、神が喜ばれることかということではないだろうか。つまり、行き着くところは、神が与えた権威かどうかとうことである。そこまで行き着いたとき、イエスは、それは、自分で判断すること、神の御心を行う者であれば、イエスが神から来たかどうか、分かるはずだと言っているのだろう。何層にも重なっている、構造を理解したい。
Lk21:2-4 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
背景はよく分からないが、二つの面があるように、思われる、献げられたものを管理するのも人間の仕事である、祭司や、今であれば教会役員などであろう。その人たちも、レプトン銅貨二枚の背景にある、生活費を全部入れたことをも、うけとって、その管理にあたること。もう一つは、献げられた物は神に献げられたものであるという現実である。管理するものが、どうであれ、それは、その人たちと神との関係であって、献げる者がそれに左右されてはいけないということだろう。
Lk22:38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
36節の「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」を受けて、弟子たちが答えたものである。この言葉の意味は、明白ではないが、以前の宣教訓練のときとは、違う状況であることを伝えるものであることはたしかだろう。「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたし(イエス)の身に必ず実現する。」(39節)時に至っているからである。「神なしに生きる」(ボンヘッファー)時なのだろうか。剣については49節から51節にも関わっている。イエスにまず「主よ、剣で切りつけましょうか」(49節)と問い、弟子たちの「ある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」(50節)とある。51節の「そこでイエスは、『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた。」とつながっている。36節でイエスが伝えたかったこと、弟子たちが剣を振るうことを許されたと思われること、そしてその制止、もう少し、じっくり学んでみたい。我々が現代をどう生きるかを考える指針を得るためにも。
Lk23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
〔〕が付いている箇所である。いくつかの重要な写本にはない。最初の殉教者ステファノの最後の言葉、使徒7章60節「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」とも比較され、それがここに紛れ込んだと見る人もいるかもしれない。しかし、本質はかなり異なるようにも思われる。上のことばは「無知」が中心にある。それは、とても大きい。そのことをこのように祈られたイエスに、わたしは感謝の気持ちが絶えない。実際、本当に分からないで、行動してしまう、間違いを犯すことがあまりにも多い。むろん、ある程度気づいていることもあるが。それをも含めて、この祈りが多くの人の心を動かしたことを思う。
Lk24:25-27 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
正直、よく分からない。物わかりの悪い一人である。まずは「預言者たちの言ったことすべてを信じられない」という部分にもひっかかる。このすべては文字通りすべてなのだろうか。イエスの本質をついたメッセージ、そしてイエス自身は非常に限られた引用をしていることからも、よく理解できない。メシアの苦しみは、イザヤ53だけでなく、イザヤなどではある程度、書かれているが、栄光に入るはどうだろうか。このときのメッセージを聞きたかった。しかし、おそらく、説明を聞いて納得することが本質ではないのだろう。この弟子たちも、この段階で目が開けたわけではない。文脈からも、イエスがメシヤであったことを聖書全体から、理解することなのだろう。

BRC2013(1)

Lk1:79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。
このことばをアーメンといいながら受け入れるひとは、多いだろう。しかし「暗黒と死の影」も「平和の道」も、ひとりひとりによって異なるのかも知れない。
Lk2:29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしも、このように告白しても良い。しかし、神様は、なにか私を通して働かれるのだろうか。わたしがまだ全く見えていない場所で。
Lk3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
大きな生活の基本的変更を強いるものではないが、イスラエルの人たちには、かなり大きなチャレンジだったろう。それも、一番系図がはっきりしている、祭司の家系のヨハネの言葉なのだから。
Lk4:13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。
このことが記されているのは、イエスが弟子たちにこのことを何回か語ったからだろう。すると、この試みはむろんイエスにとってのものであったと同時に、弟子たちが、イエスの行動について、そして、メシヤについて理解する、重要なメッセージだったのだろう。
Lk5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。
エルサレムから来たパリサイ人や律法学者がいたにも関わらず、イエスが教えていたということは、この時点では十分受け入れられていたと言うことだろうか。安息日ではないが。どういう時間帯なのだろう。
Lk6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
「そのとき」とある。平地の説教のはじまりである。18節から「教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。」このときである。癒しと、教えについての密接な関係を、もう少し深く理解したい。これをみても、単に教えを広めるために人を集める道具として、いやしをしていたのではないと思われる。単なる愛の行為とも言い切れないように思われる。
Lk7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
多く愛していることは多くの罪をゆるされている証拠だとされているが、おそらく、ひとは、罪がゆるされていることを、十分に理解することはできない。この女にしても、そうではないだろうか。そう考えると、この女は、まさに、信仰によって、ゆるされていることを自覚できていたということなのかもしれない。表面的な罪をゆるされているという感謝から、さらに、そのような信仰へと導かれるのかも知れないが。
Lk8:18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
これを、能力のように取るのは、とても愚かなことだろう。7:50 に「「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。」とある。さらに、8:48に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。とある。どちらも女性であることも興味深い。信仰をもつかどうか、信仰に生きるかどうかが、大きな差を生むのだろう。
Lk9:53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。
背景を理解することは難しいが、エルサレムに向かうということがサマリヤのひとにとっては、受け入れられなかったのだろう。しかし、サマリヤで何らかの活動を計画したことはたしかである。受け入れられなかったと取るべきだろう。
Lk10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
「幼な子」は複数形である(英訳でも複数形にしている)。22節の「父をあらわそうとして子が選んだ者」23節「それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである」」をみても、これは、弟子たちのことなのだろう。大変なことである。
Lk11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
最後の「聖霊」の部分は、この流れからすると、かなり唐突に感じる。「良い贈り物」は聖霊である。そして、神様のこころと、自分の願いを一致させることが祈りの目的でもあろう。しかし、おそらく、それは、不可能で、そうであっても、「天の父」は「求めて来る者」に「良い贈り物」を与えてくださるのだろう。恵み深さに感謝。
Lk12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
「御国をくださる」神様が完全に支配される御国、どのように考えたら良いかは分からないが、恐れはたしかに、そうではない世界に生きるゆえに、私たちに生じる。求め、祈ることなのだろうか。そしてこの御国がどのように実現するかはわからなくても、神の支配を垣間見て、それが完全になることを信じることか。
Lk13:33 しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。
英語も "for surely no prophet can die outside Jerusalem!" (NIV) となっている。実際には、エルサレム以外で死ぬ預言者のほうが多いだろう。最大の預言者と、イエスが言ったバプテスマのヨハネも死海付近の牢である。エルサレムは象徴的なのかもしれないが、ここでは、実際にエルサレムに向かっていることを考えると、理解は難しい。
Lk14:15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
弟子となる覚悟と言われている箇所が始まる。よく考えて決断が必要な事は理解できるが、厳しさだけを感じる。25節にあるように、大勢の群衆をみて、イエスが率直に感じたことなのかも知れない。
Lk15:14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
深くは考えず、どこかで、食べていくことぐらいはどうにかなると思っていたのかも知れない。しかし、人の考えは危うい。とくべつに、神がそのようにしたのではないかも知れない。しかし、このひとを「本心に立ち返」(v17) らすには十分だったのかも知れない。すべての背後で働かれる神。本心に立ち返ったこの弟を思う。そして、兄は本心に立ち返ることが難しかったのかも知れない。
Lk16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
だれに対しても「モーセと預言者」で十分だとは思えない。しかし、この金持ち、そしてその家族には、それで十分であることを、この金持ち自身が理解できたであろう。そのように、これを聞いているひとに語っているのである。あまりに普遍化することには、問題がある。
Lk17:18,19 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
ここで、サマリヤ人を「他国人」と呼んでいる。これらの言葉は、その場にいる、他の人、特に弟子たちや、ユダヤ人のために言われたのだろう。信仰にこそ目をむけるために。
Lk18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
ルカのこのあたりは、「信仰」にそして、それを脅かすものに、焦点が当てられている。まとめて、学んでみたい。
Lk19:11 人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。
これは、ザアカイの記事の直後におかれ、ミナのたとえが続いている。ザアカイの8節のことば「ザアカイは立って主に言った、『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します』。」をあざ笑ったひとがいたのだろうか。どうせ、神の国はたちまち現れるのだからと。もしくは、9,10節のイエスの『イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである』。」をうけてのことか。いずれにせよ、ミナのたとえで、この世の生き方の大切さ、現実の中で生きることが本質的であることが、示されている。
Lk20:41 イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。
これは、最終的に、真実を、群衆にも知らせなければという意思の表れであろうか。
Lk21:3,4 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
「ありあまるなか」と「その乏しい中から、持っている生活費全部」が対比されている。人が注目しやすいことと、見えにくいけれど、大切なことが対比されていると言うことだろう。神は、すべてを知っておられる。そしてそれは結局のところ、信仰が問われているのだろう。そうでなければ、生活費全部は決して献げることはできない。
Lk22:44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
この苦しみを、理解することはできないのだろう。しかし、この苦しみに、寄り添うことはできるかもしれない。
Lk23:40,41 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
自分自身と向き合っている。自分がどのようなものであるかを、神様の前に真摯にうけとめる姿勢が、信仰なのかもしれない。それは、神がどのような方かを受け入れることだから。
Lk24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
とても、不思議な光景である。イエスであることを認めたのは、心の目が開けたということだろうか。肉体の目で確認することを、このときは、赦されなかった。しかし、とても、幸せな時だったろう。

BRC2013(2)

Lk1:63,64 ザカリヤは書板を持ってこさせて、それに「その名はヨハネ」と書いたので、みんなの者は不思議に思った。 すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。
18節「するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。」の不信仰に対する悔い改めの証としての行為への応答として示された神の惠と考えるのか。危険にも思われる。人間の側がかわることによって、人間の側の状況がかわるということか。救いとは別次元の信仰体験として記述されているということか。
Lk2:31,32 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
10節では「すべての民に与えられる大きな喜び」となっており、ユダヤ人の範囲を出ない可能性もあるが、この31, 32節からはそれが、すべての民すなわち異邦人を含む万民であることがわかる。しかし、イエスがどの時点でどのように意識していたか、そしてそれがどのように弟子達に受け入れられていったかは、よくわからない。
Lk3:17 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
ヨハネにとって救いとさばきは対である。イエスも両方について語られるが、悔い改めを促す為にさばきを語られているように思われる。もう少し丁寧に理解したい。
Lk4:2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。
「御霊に引き回され」とはどのような意味だろうか。御霊は神の霊、それに導かれたと同じだろうか。おそらく、イエスの意思とは異なっていたのだろう。我々の特に若い頃の経験と一致する。「その日数が尽きると」も興味を引く。
Lk5:12,13 イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病にかかった人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。
これこそ祈りにおける神様の心とのシンクロないゼーションである。祈りを通して、神の御旨を深く知ること。もう少ししっかり、理解したい。Col1:9,10「そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。」
Lk6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
なぜこうなってしまうのだろう。自分が望む事が、主が望む事とあっていないからだろう。さらに、自分の持っているものに加えようと思い、それを捨てる事や、まったく方向を変える事は望まないのかもしれない。
Lk7:9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
イエスはこの人の何に感心されたのだろうか。長老達は「わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです。」(5節) と言っている。権威を理解し、神の権威の元では、ことばだけで僕がいやされる事を確信していた信仰に感心されたのだろうか。自分の日常の経験を神の業に投影できているからか。神が善い方である確信が明らかな形で示されたからか。他の人々にも印象深い、考えさせられる出来事だったろう。
Lk8:10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
いろいろな解釈が可能な難しい言葉である。神様とひとの働く余地を残しているようにも思う。本質を語っても、How-to のように受け取られないため、そして言葉というものの限界を含みにしたのかもしれない。
Lk9:55 イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。
「振り返って」からは、イエスには、すでに次に進んでいかれる様子が見える。サマリヤの人たちが、イエスがエルサレムに向かうのを歓迎されなかった。長い歴史の上にたった違和感を、正しさで押さえ込もうとはされなかった。本質的な救済、神のみこころに従う事を見ていたからか。
Lk10:6 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。
平和の子とは誰の事だろう。イエスだろうか。そう考える事はできるだろう。しかし、そのように極論することは、適切ではないように思われる。人間の責任を回避することにもなるから。ひとりの人間として「平和の子」に思いを馳せたい。
Lk11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
この言葉の後、パリサイ人への非難が始まる。ずれているという事か。確かに、全体が明るく、暗い部分がなければ、すばらしい。神にすべてを向けていると言う事だろうか。
Lk12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
自分のたましいを安心させる事ができると思い込んでしまうのか。豊かさの要素ではあるかもしれないが、富は、他の要素も含み、かつ豊かさを支えるものは、富ではない。主にある豊かさを求めたい。
Lk13:8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
このとりなしを無駄にしてはいけない。実を結ぶ事を求めたい。実を結ばせてくださるのは神様だろうが。
Lk14:26 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。  
15節の「『列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。』」これに対する言葉である事は、心に留めておくべきだろう。この人にも、他の人にも、すべての聞いている人に大きなチャレンジを与え自らを省みるときを与えている。おそらく、このあとの「いいわけ」は33節の「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」へとつながっているように思われる。これを真剣に受け取れるかどうか。
Lk15:32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
このいのちの救いをどれほど大切な事として受け入れる事ができるか。それができない人は、その人を殺す人でもあるという事だろうか。そしてそのいのちをともに共有して生きる事が、兄弟として生きる事。
Lk16:4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
いのちを守る事の重要性と、危機が迫っている緊急性をしっかりと捕らえているまたはそのことが「そうだ、わかった。」と言える状態になったということ。8節の「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」につながっている。もう少し整理したい。
Lk17:33 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。
Lk16:4 に「いのちを守る事」について書いたが、これをみると、それは「自分の命」ではない事がわかる。どのいのちを守るのか、考えないといけない。むろん、神の支配のもとで生かされるいのちであろう。これについて、もっとよく知りたい。言葉だけで表現できるものではないかもしれない。
Lk18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
「イエスは彼の様子を見て言われた、『財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。』」からの続きである。人々のことばに「貧しい者は幸いだ」とは答えられなかった。ひとり一人の困難と、救いが神様によることを表現している。
Lk19:21 あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。
これに対して「悪い僕よ」としかっている。主人がどのような人と見ているかが鍵であるようだが、それで良いだろうか。確かに、イエスにとって、神は善い(アガトス)お方である。
Lk20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。
新共同訳では「すべての人は、神によって生きているからである」と書かれている。ここに本質があるだろう。「神に生きる」本質をしっかりと受け取りたい。いずれにしても「神は神に生きる者の神だ」と言っているのだろう。
Lk21:34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。
ここには、本質があるように思う。当時の特別の感心と、普遍的な部分、そしてその両面の関係、しっかり学びたい。
Lk22:3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。
これは、ユダの責任と考えてよいのか。おそらく、誘惑に抵抗する事もできたのであろう。しかしそれを知る事はできない。神がゆるされなければこれはおこらない。しかし、それを神がなされたと考えてはいけないのだろう。表現をゆっくり探したい。
Lk23:3 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。
この箇所とLk22:70「彼ら(ユダヤ人議会の議員たち)は言った、『では、あなたは神の子なのか』。イエスは言われた、『あなたがたの言うとおりである』。」は、明確である。ギリシャ人にはこの表現が良かったのかもしれない。
Lk24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
26節では「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか。」とイエスは答えている。このギャプを埋めていくのが、この当時のひとの一番の困難だったのではないだろうか。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも大きな課題があり、それは異なっていたのだろう。


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ヨハネによる福音書

ヨハネによる福音書(1)

ヨハネによる福音書以外の3つの福音書は、共観福音書とよばれ基本的に似た記述が多く含まれ、イエスの活動時期の記述も、中心部分は、バプテスマのヨハネが捕らえられてから以降になっていますが、ヨハネによる福音書はことごとくといっても良いほど違っています。それは、読めばすぐわかることだと思います。なお、この書のヨハネは、通常バプテスマのヨハネと呼ばれている、イエスにバプテスマ(洗礼)を授けたとされる、ヨハネとは別の人です。ルカによる福音書(2)で、信仰の事を書きましたが「信仰」ということばが含まれていないのも四福音書でヨハネだけです。逆にヨハネによる福音書に多い言葉もあります。たとえば「真理」。新共同訳聖書では、マタイ、マルコ、ルカには1箇所ずつですが、ヨハネには20箇所出てきます。また、ヨハネ福音書には、この書の著者について書かれています。以下、新共同訳からの引用とします。

ヨハネによる福音書 21章 24-25節
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

ひとつ、追加して書いておくと、まさにこの言葉のように、証しすべき「イエスのなさったこと」は、たくさんあるが、その一部を記しているという事実は、他の福音書を読むときと同様、そして、この書ではなおさら大切だと思います。イエスの活動の殆ど最初から四六時中一緒にいたと考えられるヨハネがこの書の証言者だとされているのですから。ということは、たくさんの事の中から、どうしても伝えたいことを記していることになります。さらに、ヨハネによる福音書には、この書が書かれた目的も書かれています。

ヨハネによる福音書 20章 31節
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

これほど、明確に執筆意図が書かれていることには驚かされます。しかし、著者については、自分のことを主の愛しておられた弟子(ヨハネ21:20) と書くことは不自然なことから、主の愛しておられた弟子の影響のもとで書かれたとするのが安全なのかも知れません。実際に書き記したのがだれかは、議論があるようですが、イエスの弟子の一人のゼベダイの子ヨハネを意識して(またはその証言をもとに)書かれたこと、他の福音書にはなく、かなり詳細なそこに居合わせたものだけが語れるような証言、ユダヤや、ユダヤ教に関する豊富な知識は、各所で認められると思います。12弟子と呼ばれるイエスに近い弟子たちについても、他の福音書には、一回も登場しなかった弟子の記述が現れたりもしていますし、名前が記されていなかったひとの名前が明かされたりもしています。

四福音書のなかでは、一番遅く書かれたとされています。おそらく、大切なのは、そのころのキリスト教の中心は、すでにユダヤにはなく、エルサレムは破壊され (AD70)、異邦人キリスト者が中心だったと言うことでしょう。異邦人キリスト者の社会、つまり背景にギリシャ、小アジアの文化などが入り込んで来ていることから来る問題もあったでしょうし、脱ユダヤ的なキリスト教、つまり、ユダヤ教徒にならずに、ユダヤ教の習慣とは独立に、直接的に救いが得られるかは重要な問いだったでしょう。みなさんが、どのように読まれるか、楽しみです。共観福音書とは違った、このヨハネによる福音書は、イエスの実際の行為や言葉という「事実」よりその意味すること「真理」が語られているのかも知れません。

ヨハネによる福音書(2)

ヨハネによる福音書の冒頭の部分はつぎのようになっています。新共同訳で引用します。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
「言(ことば)」はギリシャ語でロゴスです。AD70年にエルサレムが破壊されてから、キリスト教も、ユダヤ人が中心のエルサレムから、異邦人社会、ギリシャ文明の強い影響を受けた地域、人々にその活動の中心が移ってきていましたから、この福音書が書かれた1世紀末から2世紀はじめにかけて、ギリシャ的な概念を大切にして書かれたことは確かでしょう。その意味でも「ロゴス」という言葉を用いて、ヨハネは何を伝えたかったのかを考えることは大切でしょう。

ヨハネ以外の三つの福音書を見てみると、マタイとルカは、基本的にイエスの降誕からはじめています。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とはじめ、15節にある

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
をマルコによる福音書のほとんど最初に持ってきています。ヨハネも「さいしょ」「はじまり」について考えたのではないでしょうか。ヨハネは、イエスの弟子たちの中でも、ほとんど最初から、イエスに従った弟子でしたから、ほとんど最後の初代キリスト者として、マタイ、マルコ、ルカや、他の文書には、書かれていないことで、書き残すべきだと考えたことがあったでしょう。確かにヨハネによる福音書には、他の福音書に書いてあることとの重複は極力避け、書いていないことを独特の筆致で書いている傾向があります。ここでは、最初にしぼって考えてみたいと思います。
1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6:神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7:彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8:彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10:言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11:言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ここに出てくるヨハネは、バプテスマのヨハネと言われている人で、著者のヨハネとは違います。 そのヨハネを通して「言(ことば)」についての証言をし 4節では「言(ことば)の内に命(いのち)があった。命は人間を照らす光であった。」としています。さらに「言(ことば)があった」からはじめ、それは「神と共にあった」としているのです。「どんなひとか」ではなく「なにをしたか」に中心をおくのでもなく「なんであるか」を語っているように思えます。

6節から9節には、簡単にバプテスマのヨハネの紹介があり、10節から14節には、「この言(ことば)が世にあった」こと「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ことを証言しています。では、言(ことば)がこの世に宿られたことによる影響はどんなことだと書いてあるでしょうか。ここからは、細かくは、書かないことにします。

18節には「この方が神を示された」とあります。そして「律法はモーセを通して」「恵みと真理はキリスト・イエスを通して現れた」とあります。律法をとおして、神が何を望んでおられるかが示され、「恵みと真理」という神様の本質が、キリスト・イエスによって表されたと書いてあります。神と直接接する機会がなければ、神が望んでおられることを少しずつ知って、それを通して、神について推察することがベストでしょう。しかし、直接接する機会、または、その方がどんな方であるかを直接知ることができれば、神が望まれることも、その本来的意味にまでさかのぼって知ることができますよね。ヨハネは、キリスト・イエスを通して、そのように神を知ることができるようになったと言っているのではないでしょうか。それが「神の子となる資格」の内容ではないでしょうか。聖書を読み、福音書を読みながら、みなさんが、聖書で言っている神は、どのような神なのか、その神と直接出会えると良いですね。

ヨハネによる福音書20章31節
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
どのような命(いのち)が受けられるのでしょうか。「神の子となる」こととあわせて考えながら読んでいただければと思います。

いのちのことば社「新聖書注解」村瀬俊夫
ヨハネによる福音書 梗概

  1. 序説 1:1-2:12
    1. 序文 1:1-18
    2. 序幕的出来事 1:10-2:12
  2. 公的宣教 2:13-12:50
    1. 初期の公的宣教 2:13-4:54
    2. しるしと論争 5:1-9:41
    3. いのちを与える良い牧者 10:1-11:57
    4. 最後の公的宣教 12:1-50
  3. 受難物語 13:1-20:31
    1. 告別の説教 13:1-17:26
    2. 十字架 18:1-19:42
    3. 復活 20:1-31
  4. 付録 21:1-25
    1. ガリラヤでの顕現 21:1-14
    2. ペテロと愛弟子 21:15-23
    3. 結語 21:24, 25

ヨハネによる福音書(3)

ヨハネによる福音書は、いろいろな意味で、他の三つの福音書と違った印象をうけます。いろいろな理由がありますが、一つは、他の福音書には、書かれていない時期のイエスの活動について書かれていることです。以下は、新共同訳から引用します。たとえば、マルコによる福音書 1章15-16節にあるように、
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
三つの福音書では、イエスが福音宣教を始めたのは、(バプテスマの)ヨハネが捕らえられた後としていますが、ヨハネによる福音素3章22節から24節には、
22:その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
23:他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24:ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
とありますから、ヨハネが捕らえられる前から、活動していた記録があること、そして、2章をみると、この時期に、過越の祭りのためにエルサレムに行ったことも記されています。

その時期の記事からすこし引用してみましょう。2章23節-25節です。

23:イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
24:しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25:人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
13節から22節までエルサレムでのことが書かれていますが、そこには、驚くべき奇蹟がいくつも行われたとは、書かれていません。しかし「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあります。それに続けて「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」ここは、口語訳では「イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」となっています。これは、どういうことなのでしょうか。マタイ、マルコ、ルカにも、奇蹟について、だれにもいわないように注意した箇所が出てきますが、ここは、その理由を書いているようにも思われます。6章26節, 27節には、次のように書かれています。
26:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
では、これは、霊の世界について語っていて、現実の世界のこととは関係ないと言っているのでしょうか。

3章に戻ると、ファリサイ派のひとりのニコデモとの会話が記されていますが、3節で、

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
と言っていますが、そのあとの12節で、
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
ということは、先ほどの3節は地上の事のようです。イエスが語っておられるのはどのようなことで、人々を信用されなかったのは、何故なのでしょうか。そして何を我々に求めておられるのでしょうか。ヨハネはこの福音書をとおして何をわれわれに伝えようとしているのでしょうか。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

John 1:17,18 律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書は、バプテスマのヨハネについて丁寧にかつ気をつけて書いているように感じた。イエスの弟子たちとの関わり(弟子の一部がヨハネの弟子であったこと)をこの時点から書いていることもあるが、イエスがたんに、ヨハネの後継者ではないことも明示している。特に引用句は、前半は「恵みと真理」後半は、神を示したと記している。神の、恵みと真理という面を、明らかにしたとも言える。それも、この世を生きて。「神の恵みと真理の性質」を受け取っていきたい。
John 2:16 鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
神の子であることを意識した行動だということだろう。ヨハネは初期にこのことをおいている。これだけの記述では判然としないが、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 」(15)このことをせざるを得ない衝動に駆られたのか。正直、よくはわからない。やはり、乱暴である。ひとつの過程と考えることもできるのだろうか。このあとには、人の心の中にあることは信用ならないこと(24,25)が書かれているのだから。
John 3:2,3 この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは、神のもとから来た教師として、イエスを認めている。しかし、イエスは、さらに突っ込んで切り込んでいく。この直前にある「しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2章24,25節)と繋がっているのかもしれないと思った。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5b)へと進む。「神のもとから来られた教師」という認識では不足なのだろう。しかし、むずかしい。
John 4:16,17 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「私には夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』というのは、もっともだ。
「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」(15b)への応答である。夫の許可が必要である背景のもとでの会話であるように思った。それを配慮しつつ、あたらしい展開になっている。どうして、この女の婚姻歴について言い当てたかは不明だが、自然さは感じる。当時の社会を壊そうとはしておられないように見える。
John 5:15-17 この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」
安息日論争は、共観福音書にも何回も出てくるが、特にマルコでは、躍動感を感じる。弟子を守るためだったり、一つのことを示すためだったり。しかし、ここでは、すでに、教義のようになっている。神の働きを指し示している。ただ、それが完璧な答えかというと、疑問も生じる。神が休まれたところから、安息日はスタートしているのだから。
John 6:41,42 ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやいて、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」
ここには、それなりに、近い人達がいるように思われる。そこで、ヨセフの息子、父と母も知っているとある。ヨハネは、処女降誕を認めていたのだろうか。ヨハネほど、弟子たちの中で、イエスに近いひとはいなかったと思われるので、非常に興味深い記述である。このあとの、イエスの反論も、肉的なことには、言及していないように思われる。続けて考えたい。
John 7:37-39 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。
本当に「ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われた」のだろうか。ヨハネにとっては、天に昇り、栄光を受けたことが、大きな切れ目となっているのか。これは、注意してみていかないといけない。どこかで切れ目があると理解するのかどうかである。
John 8:58 イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」
本当に、このように言われたのだろうか。共観福音書を読んでいると、そのような感覚はない。やはり、ヨハネが理解したことだろうか。とすると、全体的な理解がとても難しくなる。信仰告白として受け取ることになるのだから。いずれ、ヨハネによる福音書の学びに突入できるだろうか。ちょっと心配である。
John 9:39 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスは裁きについて語っている。ここからわかることは、イエスがさばくというのは、白か黒か判断するということではなく、イエスと出会うこと、イエスが示すことを通して、それが明らかになるということなのだろう。判決を下すことではなく、そちらに本質がある。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41b)
John 10:4-6 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
最後のことばからすると、前の章の最後の部分が関係していると思われる。さばきである。声はどのようにして聞き分けるのか、ここには、書かれていない。しかし、9章の生まれつき目の見えなかったひとで見えるようになったひとと、ファリサイ派の人とのやり取りを見ていると、ヒントはあるように思われる。耳を覆っているもの、目を塞いでいるものは何なのだろうか。それは、取り除けるのだろうか。そのひとの責任なのだろうか。わからないことばかりである。
John 11:33,34 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
「憤りを覚え」「心を騒がせて」"ἐνεβριμήσατο τῷ πνεύματι καὶ ἐτάραξεν ἑαυτὸν" を調べてみようと思った。イエス自身の強い心の動きについて知りたかったので。前者は、ἐμβριμάομαι(to charge with earnest admonition, sternly to charge, threatened to enjoin)、ただ、聖書で使われている箇所は、11:38 「イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石で塞がれていた。」以外は、マタイ9:30、マルコ1:43、マルコ14:5 のようだ。もう一つは、ταράσσω(to agitate, trouble (a thing, by the movement of its parts to and fro)だろうか。これは、マタイ2:3、14:26、マルコ6:50、ルカ1:12、24:38、ヨハネ 5:4、7、12:27、13:21、14:1、27 近いうちに、ちょっと時間をかけて調べてみたい。
John 12:7,8 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」
これは、ユダが悔い改める最後の機会だったかもしれない。同時に、今回読んでいて、この出来事が、ルカ7章36-50節の記事とは明らかに違う場面であると確信した。ルカの記事がマグダラのマリアかどうかは不明だが、ガリラヤでの記事である。ヨハネなど(マタイ26:6-13、マルコ14:3-9)にかかれている記事はエルサレム近郊のベタニアである。また、トマスのことば(11章16節)からもわかるように、かなり切迫した状況であることは、皆知っていただろう。その中で来られたイエス。最後の機会かもしれないと思い、マリアは、最大のことをしたかったのだろう。打算ではできない。このあと20節以降には、イエスに会いに来たギリシャ人に、どうも、イエスは丁寧には会わなかった印象をうける箇所がある。いつも、available だったイエスが、available ではない、特別なときだったことを表す記事なのかもしれない。
John 13:15-17 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。よくよく言っておく。僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
引用句を通して「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34b)について考えた。この「私があなたがたを愛したように」の部分の「私」を軽々しく、他に置き換えてはいけないと思った。「私に倣う者となりなさい」(1コリント4:16,11:1,フィリピ4:17)が危険だと思った。たしかに、模範が見えないなかで、パウロはその模範となろうとしたのだろうが、分派に近いものを作り出す可能性も出てくる。イエスを特別視し、自分たちにはできないとするのも問題だが、自分がイエスになることを模索してはいけない。
John 14:15,16 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
イエスを愛すること、そして、聖霊の助けを得ることだろう。しかし、それも、なかなか難しい。イエスを愛するためには、イエスのことを知らなければならないが、基本的には、福音書以外に、それを知る手立てはない。だから、福音書をわたしは学ぶのだが。もう一つの聖霊。聖霊のはたらきなのか、そうでないかの区別がとてもむずかしい。おそらく、イエスを愛することと結びついているのだろうが、それを確かめるすべもない。この分離が、分派に結びつくように思うので、途方に暮れる。
John 15:5 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。
イエスにつながっていること、そしてイエスがつながっていてくださること、こここそが基本なのだろう。そして「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」(12)。イエスが友と呼んでくださるようなものでありたい。それだけを求めて生きていければと願う。
John 16:7 しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
やはり、わたしには、このようには思えない。もっと、イエスに教えてもらいたかった。活動において、そして、言葉において。神の子として実際にこの地上で生きることとと、聖霊によって教えられることは、質は同じでも、おろかな私達には大きな違いがあるように思う。聖霊と悪霊の働きの違いもよくわからないのだから。イエスにつながっている以外に、結局はないのだから。
John 17:22,23 あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。
「あなたがくださった栄光」とは何だろうか考えた。この文脈からすると、明らかではないが、父なる神様と、子なるイエスが完全に一つであること、すなわち、御心と、イエスのこころが一つで、イエスのなすことが、御心にかなったことであることを表しているように受け取れた。すると、彼らが完全に一つとなることも、そこにつながってくるのだろう。世が知るようにはなっていないように見えるが。イエスの願いは、最後にある「私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」(26)で、これも、神様が何を望んでおられるかを語っているように思われる。
John 18:19-21 大祭司はイエスに、弟子のことや教えについて尋ねた。イエスはお答えになった。「私は、世に向かって公然と話してきた。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。隠れて語ったことは何もない。なぜ、私に尋ねるのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている。」
弟子たちに直接語ったことは多くあり、会堂や神殿の境内ではなく、海辺で教えたこともあった。ここでは、エルサレムでのことを語り、焦点は、隠れて語ったことは何もないという宣言なのだろう。そして、それは、「それを聞いた人々に尋ねるがよい。」に繋がっている。それを語る責任は「私の話したことを知っている」人々に移っていると言っているのだろう。そしてそれは、わたしたちの責任である。イエスに委ねられたもの、しっかりと受け取っているだろうか。
John 19:10,11 そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
すごいやり取りだ。正確に、このようなやりとりがあったかどうかは分からないが、ヨハネは、ずっとイエスと一緒にいて、このようなメッセージを受け取っていたのだろう。もしかすると、イエスの死後も生きていた中で、このような言葉として結実したのかもしれない。「私をあなたに引き渡した者」は一義的には、イスカリオテのユダを意味する。しかし、直前に「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」(7b)とユダヤ人が言っており、このユダヤ人たちを意味するとするほうが自然であるように思う。さらに、自分に語りかける聖霊の促しに抗して、イエスの業とことばを見ようとしない、聞こうとしないものも一緒なのかと思った。わたしはどうだろうか。
John 20:5-8 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見たが、中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。
今回読んでいて、最後の「信じた」が気になった。なぜ、「確認した」ではないのだろうと。'τότε οὖν εἰσῆλθεν καὶ ὁ ἄλλος μαθητὴς ὁ ἐλθὼν πρῶτος εἰς τὸ μνημεῖον καὶ εἶδεν καὶ ἐπίστευσεν·' 「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」(2)のマグダラのマリアのことばの内容を信じたということだろうか。やはり、信じたということばとはズレが有るように感じる。前章の19章35節「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」と区別しているのだろうか。一つ一つ正確に記す必要があったのだろう。また、考えてみたい。
John 21:12,13 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
ある人に間違いないと思うのは、どのような理由だろうか。いまは、DNA 検査などもあり、生体についてかなりの確率で、同一体だと見分けることが可能である。しかし、おそらく、ここでは、イエスの仕草を見て、いつも一緒にいた弟子たちは、疑う余地はなかったのだろう。厳密に何によってとすることはできないが、そのような行動はたくさんあるだろう。そして、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。至福のときだったに違いない。そのようなものをここで弟子たちは共有したということだろう。DNA 検査とは違うレベルの同一性であるように思われる。

BRC2023(2)

John 1:40-42 ヨハネから聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのもとに連れて行った。イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
ペテロにとっては、このときに残ったのは、ケファと呼ばれたことだけだったのかもしれない。このあと、「私に付いてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17b)までは、ペテロは、イエスに従うものではなかったのだろうか。丁寧に読んでいきたい。アンデレは、ここで、メシアに出会ったと言っているが、アンデレの活躍はペテロほどではない。興味深い。
John 2:12,13 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
ここにある、弟子たちがだれなのか、不明である。同時に、母と兄弟もいっしょであったことが書かれている。ヨハネは、マリアに好意的である。住まいも変えたということだろう。大工一家は、移動してもそれが可能だったからだろうか。過越祭にエルサレムに向かうが、このとき、誰がいっしょであったかは書かれていない。ただ、17節には、弟子たちが、宮清めのエピソードを思い出したとあるので、何人かはいっしょだったのだろう。アンデレ、シモン、フィリポ、ナタナエルなのだろうか。わからない。
John 3:14-16 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
16節の前で、新しい段落が始まっているので、分けて読むが、実際には、つながっているのかもしれない。人の子もあげられなければならないとの記述がまずある。それが、永遠の命をもつことにつながることが書かれている。このあと洗礼者ヨハネの項でも、花婿と花婿の介添人のことが登場する。マルコなどの、花婿が取り去られる日が来るが連想されるように思われる。
John 4:27-29 その時、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何をお求めですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いて町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
この女性の背景は、五人の夫がいた事、いまは、別の男性といっしょにいることぐらいである。しかし、この受け答えからしても、教養がある、とくべつな女性なのではないだろうか。大きな困難を抱えていた女性で、弟子たちもそのことを道道話していたのかもしれない。それが、イエスが、井戸に残った理由かもしれない。この章の最初には、「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。」(1a)とある。弟子たちはどれぐらいになっていたのだろうか。
John 5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
罪の結果が病気だとはいっていないが、それに近いことも匂わせている。しかし、核心は、罪を侵さずに生きなさいということなのだろう。イエスの表現を使えば、神の子として生きることだろうか。このあと、父なる神と、イエスの関係の議論が続く。
John 6:66,67 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。
目撃証言かどうかを判定するのは、あまり簡単ではない。もう一点、ここで「十二人」の部分を引用したのは、ヨハネには、十二弟子の名前が上がっていないからである。ヨハネ記者は、マルコ、マタイ、ルカも知っていただろう。そこでの名前に、多少の違いがあることも。そして、はじめから、終わりまでいたものが証言者であれば、ある程度の真実を知っているだろう。しかし、同時に、たとえばこのパンの奇蹟のときに、その場にいたかどうかは、やはり判定が難しいとも思った。
John 7:8-10 あなたがたは祭りに上って行くがよい。私はこの祭りには上って行かない。私の時がまだ満ちていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、人目を避け、ひそかに上って行かれた。
興味深い記述である。おそらく、イエスは、少なくとも十二弟子はつれずに、単身または、それに近い形で、エルサレムに上ったのだろう。そして、たしかに、ヨハネには、エルサレム周辺の記事が多い。この章のイエスの行動をみていると、自分自身も、どのようにすればよいか、まだ決めかねているように思われる。それが、「私の時がまだ満ちていないからである。」にも現れているように見える。
John 8:57,58 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」
「イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時であり、人々からはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それから遡ると、」(ルカ3:23)とあり、そちらのほうが、一般的な認識のように思われるが、引用句からは、四十歳代であることを思わされる。ただ、一般的には、マタイの記述などからも、紀元前7年から4年の間に生まれ、紀元後30年から32年の間に十字架刑になったと考えられており、最大では、39歳となる。これを逸脱することは困難に思われる。この五十歳にもならないは、ある程度の長老にもなっていないという意味だろうか。ヨハネのイエスの答えはつねにとは言わないまでも、挑戦的である。
John 9:40,41 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」
わたしは、このことを一般化しすぎているのだろうか。わたしは、見えないということしか言えないが、見えていることがあることも確かである。おそらく、わたしは、どんなことに関しても、たいせつなことと言えるものが見えているとは思えないということなのだろう。しかし、同時に、見えているもので、決断をくださなければならないことも確かである。
John 10:36-38 父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう。」
難しい箇所だと感じる。イエスの神とユダヤ人の神は同じかと問うているようにも見える。ただ、このあと、ユダヤ人たちは、イエスを殺そうとする。ユダヤ人たちにとって、イエスはどんな存在だったのだろうか。神認識がことなっている、つまり、違う宗教では、理解し得ないのだろうか。かなりあとになって書かれたものであるので、イエスのことばそのものではないのだろうが、マルコなどとは、かなり異なり、正直、よく理解できない。
John 11:53,54 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
この前には、大祭司カイアファの言葉が書かれている。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(50)この、国民全体が滅びないで済むことに関して「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」(52)とも書かれている。シオニズム的なものすら感じる。エフライムがどのようなまちかは不明だが、小さな町で、かつ、イエスの弟子が住んでいたのかもしれない。ここで言われている弟子たちがどのようなひとたちなのかもよくわからない。マルコとの整合性を保つのは、難しい。マルコが書かれた時代には、すべてを話すことは危険が伴ったのかもしれないが。
John 12:50 父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである。」
この章にはいくつも難しい箇所がある。ヨハネによる福音書はもう一度、丁寧に聖書研究をしないと語ることができないように思う。この章の最後が、この言葉である。命令が永遠の命というのは、どうにもわかりにくいが、神が求めるものは、神のものである永遠の命、それを人々に知らせ、持たせるためということだろうか。それは、簡単ではない。イエスは、なにをどう語っておられたのだろうか。もし、ヨハネによる福音書のように語ったら、付いてこれる人はさらに少なかったのかもしれない。
John 13:23,24 イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者が席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。
ここからわかるのは、ペトロは、イエスのすぐ隣には座っていなかったこと。そして、この「イエスの愛しておられた者」が着いていたことである。座席のランクなどは決まっていなかったろう。すると、それを気にしないひとが、「イエスの愛しておられた者」だったのだろう。ということは、十二弟子ではないのかもしれない。この部屋がどこだかはわからないが、特別に用意した場所だったのだから、イエスは知っていた場所なのだろう。そこに、このひとはいたのかもしれない。たくさん招いたことは考えられないとすると、この家の若者だったかもしれない。ゼベダイの子ヨハネの可能性も、ここだけなら、残るが、そうではないのかもしれない。
John 14:31 私は、父がお命じになったとおりに行う。私が父を愛していることを世が知るためである。立て。さあ、ここから出かけよう。」
最後の晩餐と呼ばれるときに、語ったと思われる言葉だが、とても力強い。この前には「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『私は去っていくが、また、あなたがたのところに戻って来る』と言ったのを、あなたがたは聞いた。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」(26-28)これで直接伝えるべきことは伝えたということなのだろう。おそらく、それを思い出しながら、福音書記者(イエスが愛しておられた弟子)は、残していく者たちに同じことをと耐えているのだろう。
John 15:26,27 私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。
最後のことばは力強い。「初めから私と一緒にいた」ことが、証をする根拠だと述べているのだろう。すると、この「イエスの愛する弟子」も最初から、イエスと一緒にいたものなのだろうか。すると、一緒にいなかったものは、どうなるのだろうか。この証を受け継いだものは、証ができるのだろうか。互いに愛し合うことによってだろうか。難しい。
John 16:31-33 イエスはお答えになった。「今、信じると言うのか。見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
この章には、後のことが、たくさん書かれている。それを、ヨハネが、あとになってから、振り返って書いているのだろう。ここに書かれている言葉通りにイエスが言われたかどうかは、不明だが、イエスのメッセージとして、このように受け取ったことは確かなのだろう。ここには、「あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。」ともある。実際、そのようなときがあったのだろう。それが、使徒言行録の記述のように、ペンテコステまでには、ひとつにまとまっていたかどうかは不明である。しかし、ある時間を経てまとまったからこそ、十二弟子ということばも、語られるようになったのだろう。ほかに、弟子たちもいたであろうに。イエスが、指名し、ガリラヤを中心に旅した弟子たちは、やはり特別だったのかもしれない。
John 17:20-22 また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
ヨハネが、これを書いた時、ひとつには、なっていなかったのだろう。イエスの祈りを思い出していたのだろうか。それとも、イエスの愛する弟子故に、イエスの願いを受け取っていたのだろうか。いずれにしても、現代においても、そのようにはなっていない、おそらく、もっとも大きな問題である。ひとつのいみについても、抽象的ではあるが書かれている。ゆっくり、じっくり考えたい。祈り求めつつ。
John 18:6-9 イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「誰を捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。
「イエスが言われた言葉」は「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。」(17:12)なのだろう。滅びの子、おそらくユダについては、ぜひ勉強してみたい。しかし、いずれにしても、ここで、「私である」と言ったこと、かつそれが二回書かれていて強調されていることには、弟子たちを守ることがあったのだろう。たしかに、弟子たちが逃げ去った面はあるのかもしれないが、主の意図は、ここにあったと考えるほうがよいように思う。
John 19:10,11 そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
すごい言葉だと思う。このばでこのように言えるのは、このあとの、「それで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。」(12a)からは、このことばがピラトに一部届いたことも見て取れる。むろん、ヨハネ記者の視点かもしれないが。一人ひとりの役割、持っている権威、その根拠などを理解できることは大切であると本当に思う。
John 20:24,25 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
トマスは他の福音書では、十二弟子のリストに名前が現れるだけである。しかし、ヨハネでは、この20章以外に「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」(11:16)と「トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」」(14:5)とさらに「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。」(21:2)にも登場する。ナタナエルとともに、ヨハネ記者と近かったのかもしれない。この箇所は、有名だが、とても大切でもある。これがなければ、復活を信じられなかったひとは多かったろう。
John 21:23,24 それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
ボウカム氏の本に影響をうけていることは確かだが、すこし、ヨハネの著者について整理してみよう。ここにあるように、著者は「イエスの愛しておられた弟子」と書かれている人であることがわかる。200年頃の写本には、すでに、4つの福音書とも名前が記されているので、ヨハネとしてよいだろう。ただ、一つ問題があるのは、この21章は、独立したものであるような書き方になっており、このヨハネの死後書かれたものであるように見える。それは、ほとんど、この弟子が書いたものでありながら、この部分は、違うというだけなのかもしれない。ヨハネ由来で、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。」(2)ともあるので、かつゼベダイの子ではないのだろう。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

John 1:14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1)と非常に印象的なことばからはじまる。しかし、それは、ヨハネが最後に確信にいたったことのように思う。だれがどういっても変わらない、確かな告白はと考えると、この14節なのではないかと思う。イエスとともに生活し、振り返ってみたとき、イエスを通して経験したことは「(イエスが父とよぶ)神の独り子としてのすばらしさ」であり、その栄光は「恵みと真理」として受け取ったといっているように思う。そしてそれは、わたしも、受け取っていることととても近く、そのように表現することに、違和感がない。神の子として生き抜いたイエスについて、そしてその「恵みと真理」についてなにを伝えようとしているのか、見ていきたい。
John 2:10,11 言った。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
カナの婚礼でのこのことは、詳細に書かれ、臨場感もある。ヨハネがそこにいたのではないかと思われる。そしてそれを「最初のしるし」としている。あまりまとめすぎるのは本質を失う可能性もあるが「恵みと真理とに満ちていた、父の独り子としての栄光」の「しるし」と表現されるものだろうか。旧約の大預言者というと、エリヤとエリシャ、彼らの奇跡的な行為にも、サレプタのやもめとその息子の小麦粉と油がつきなかった記事(列王記上17章8節から16節)と、預言者の仲間の妻の家を支えるための油の記事(列王記下4章1節から7節)も思い出す。それに対応するしるしであるとともに、これは、「恵みと真理」と言えるものとして、ヨハネは受け取ったのかもしれない。そこに居合わせたものが受け取った恵みと、イエスと共に居ることが神がともに居るという真理を含んでいるということだろうか。まさに、ここから、ヨハネは、これはと思い、惹きつけられていったことなのかもしれない。また、考えてみたい。
John 3:3,4 イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
以前はこれは、ニコデモが霊的な生まれ変わりについてイエスが言っていることを理解していないのだと簡単に考えていた。しかし、自分が年をとってみると、そうではないかもしれないと思うようになっている。このあと、今回気になった箇所がある。「よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。」(11)である。「私たち」はだれのことだろう。イエスと弟子たちだろうか、それとも、イエスと父なる神だろうか。年をとると、まったく新しい生き方をすることに躊躇が強くなる。失うものが大きいこともあるかもしれないが、それよりも、それだけ、気力が続くだろうかとの心配のように思う。背後には、神様に導かれてきたとの自覚がありつつも、どうにかここまで来たという気持ちもあるように思う。自分が理解している御心は、ほんの一部分に過ぎないとはわかっていても、方向を大きくかえることはなかなかできない。それを可能にするものは何だろうか。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(2)このように認めていても、一歩を踏み出すこと、そして、新しい道を歩み続ける決断をすることは、簡単ではない。おそらく、わたしもそうだろう。
John 4:34-36 イエスは言われた。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。
サマリヤ人の町に食べ物を買いに行った弟子たちのことを思うと、もう少し配慮があってもよいと思う。しかし、ヨハネは、とても印象的な言葉として受け取り、それを伝えているのだろう。二つのことが言われている。神様の御心を行いそれを成し遂げることがいのちの源泉であること、そして、今まさに、永遠の命に至る実を集めるときにいることに気づきなさいということだろう。サマリヤの女との会話を受けて、イエスは、これらのことを言ったことは確実である。イエスにとっても、こころ震える瞬間、神様が働いておられることを実際にみるときだったのだろう。イエスが「神の国は近づいた」というとき、それは、まさに、このような、背景のもとで「わたしたち」(22)にとって、明らかなことだと確信して言っているのだろう。「わたしたち」ということばで、あかしの主体を広げながら。引用したことばも「わたしたち」が広がっていき、ヨハネもその中に入っていくことになったのかもしれない。このように断定するのは、難しいが。
John 5:17,18 イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。
このあと、父なる神と子なる人の子(イエス)の関係について、自分が知っている父のように証言し、語り、成し、裁くことが、縷縷(るる)語られている。引用箇所のようにイエスが「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と語り、それを「イエスが、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」とユダヤ人が批判したことが発端である。イエスの目には、神が今もなお働いておられることが明らかで、それをつねに見ていたということだろう。「神の国は近づいた」もその一つの表現である。すると、わたしたちの最初の務めは、神が今もなお働いておられることを見ることである。わたしも、アインシュタインが言った「すべてのことの背後に神がおられる」と似た表現をよく使うが、イエスにとっては、もっとリアルだったのだろう。今日も、そのような、神様の働きを見せていただけるように祈りたい。
John 6:7-9 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」
ヨハネには共観福音書と共通の記事が少ないが、五千人養いといわれるこの記事と次の湖の上を歩いたとされる記事は例外である。描写がとてもリアルで、そこにいたものしかわからない、かつ名前を出してフィリポとアンデレが登場することも、特徴的である。次の湖でのできごとの記述でも「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(21)と他には書かれていない記述がある。そのあとには、命のパンのことも書かれており、五千人に食べ物を配ったことよりたいせつなことを伝えているようである。興味深い。
John 7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった。
ヨハネや弟子たちの目にはそのように見えたのだろう。使命を十字架上での死による贖いと捉えれば、一定の決定的瞬間(カイロス)があり、そのときに向かって時(クロノス)は過ぎていく。しかし、イエスが伝えようとするメッセージを弟子たちが受け取り、それを委ねることを考えると、聖霊に委ねるとするのは、単純に受け入れられることではない。最終的には、委ねざるを得ないとしても。イエスは「うわべで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(24)と言っているが、このようなことは訓練を要する。少しずつ学んでいくことである。この一点か、継続的なこと、発展性のあることかは、律法や聖書についての理解にも当てはまる。ある人たちは「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」(49)という。しかし「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(51)とニコデモは緩やかに反論しているが、神のみこころを受け取ることを、単純化し、切り捨てることは、不完全な人間の世界ではありえない。
John 8:31,32 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
とても、魅力的なことばである。しかし、これを聞いたユダヤ人たちは、理解していない。おそらく、わたしもほとんど理解できていないのだろう。この章には、『私はある(ἐγώ εἰμι: I am)』(24,28,58,13:19)が複数回登場する。この内容も語っているように思うが、それこそがとても難しく、受け取ることは困難である。おそらく、イエスの全体がここに表現されているのだろう。むろん、出エジプト記3章14節が対応していると考えられているのだろうが。イエスの言葉も理解できるわけではない。一生をかけて、少しずつ学んでいきたいと願っているが。それを、聖霊により完全に理解できると、誤解することは避けたい。
John 9:3-5 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。   私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」
3節はとても印象的なことばである。しかし、引用箇所の後半はなかなか難しい。単純に、イエスが地上にいる間が「昼」ととることもできる。しかし「誰も働くことのできない夜」については、よくわからない。今は、夜なのか昼なのか。イエスが復活してから、または、復活したことを告白すれば、そこからは、昼だとすることもできるが、断定はできない。昼か夜かは、それぞれの人の認識によるのだろうか。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41)からは、認識は人によるが、実際には、神の国が近づいたとみることができるかどうかによるのだろうか。いずれにしても、難しい。正直、いま「世におられない」「世の光である」イエス様を知る手がかりがもっとあればと思ってしまう。
John 10:14,15 私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。
「よい羊飼い」のイメージである。最近、これに疑問を持っている。犠牲的精神も誤解を招くと思うが、それについては、今回は置いておく。イエスは、自分と自分の内面、自分と父なる神、そして、自分と他者、さらに、自分と人々の関係の中で語っている。たしかに、基本は「自分」かもしれないが、様々な問題、課題の背景には、他者間だからこそおこり、制御、運営、共通理解、共同、共感が困難であることがあり、他者間という枠組みが本質的であることが多い。社会科学的課題と言えるかもしれない。さらに、遺伝要因、環境要因など、人間社会の中ではない、自然科学的課題も多く、それを抜きにしては、社会科学的課題も、人間存在に関わる課題も語ることができないことが、認識されてきていると思う。その中で、最初に書いた「自分」を起点とする見方では、理解できないことが増えているように思う。これは、教育から学習への流れでもあることで、リーダーによって導かれて学んでいく世界観も変わらなければいけないと思っている。もっと、一人ひとりが学び、かつ、客観的な視点も持ちながら、考え、行動することの重要性である。「父の御心を行う」(マタイ7章21節・12章50節)ことは、行いながら学んでいくことをさしていると思われるし、イエスに学ぶことは、神様、わたしを用いてくださいとして、神の国が近づいていることを見せていただくことでもあるように思う。リーダーに頼るのではなく、グループで学んだり、議論したりすることの、重要性もあると思う。自分の中には、解決はないが、他者と共感すること、協働することもできるかもしれないし、それが二者間からひろがることも可能かもしれない。難しいが、さらに学んでいきたい。
John 11:21,22 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」
立派な信仰告白である。しかし、主イエスのように、神の子として生き、神の国が近づいたことを実感し、日々の生活のなかで、神の栄光を見ること(4)とは次元がことなる。たとえそうであっても、人の信仰告白はここまでであるように思う。このあと、イエスは復活のことを語る。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25,26)とイエスは伝え、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」(27)と告白する。イエスを信じること、イエスが生きていて、命であり、イエスによっては、決して死ぬことはなく、死んでも生きるものであることを、信じて生きることが、わたしたちができることなのだろうか。抽象的である。イエスとわたしたち一人ひとりの違い、その違いを受け入れて、どのように、生きるかはやはりわからない。
John 12:47,48 私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
裁きについてはよくわからないとして避けてきた面があるが、それで良いのかもしれないと思う。裁きが怖いから信じるということは、イエスの願うことではないだろう。本質も逸しているように思う。まず引用句ではイエスは「世を救うために来た」(ヨハネ3章16,17節参照)ことを明言している。そして、裁きは終わりの日だとしている。日常生活において、救いと裁きが関係していないわけではないだろう。ヨハネ3章では「信じないものはすでに裁かれている」(18)「闇を愛していることがもう裁きになっている」(19)とも書かれているのだから。そのことも、含めて、今、救いを求め、イエスが神の子であり、いのちが、イエスのもとにあることを信じ、イエスに従い、「イエスの言葉を」(17)学んで行くことだろうか。
John 13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた。「よくよく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」
まず最初に「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。」(2)とあり、「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた。」(27)以前は、ユダに対して、一つのストーリーを作って理解しようとしていた。しかし、人の決断・行動の背景は複雑である。ヨハネによる福音書はかなり早い段階から、ユダのことを書いている。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」(6章70節)さらに、12章1節から8節にも背景が書かれている。イエス様がユダにどのように対していたのかよくわからない。そして神様がどうしておられたのか。しかし、やはり、ユダに委ねられている部分があるのだろう。神様や、イエス様には、できないことがあるのだから。ユダが、悔い改めて、イエスを、神を、そして兄弟を愛するようには、神様はおできにならない。強制できないことが、愛の本質だから。そうであっても、様々な交流が、あったろう。それがどのように働いたか、わたしたちには、わからない。ヨハネもそれは理解できず、ヨハネの福音書に何回か登場させているのかもしれない。ヨハネにとっても、大きな問だったろう。
John 14:11,12 私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。
「イエスが神の内におり、神がイエスの内にいる」ことは、業によって信じることもできるとある。そして、さらに、信じるものは、イエスが行う業を行う。おそらく、ここは、論理ではない。しかし、同時に、信じるは、内にいることをあらわしているようにも思う。関係を確信することだろうか。それは、ひとの努力ではなく、約束の成就なのだろうか。このあとには「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」(13,14)と続いている。やはり、難しい。
John 15:2 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
ぶどうの木のたとえが好きな人は多いが、引用した部分は嫌われる。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6)も同様だろう。いつくか、考えたことを書いておく。まず、13章から17章は、最後の晩餐と言われる、弟子たちとの時に語られたものであることは、注意を要すると思う。すなわち、主として弟子たちにむけて語られている。枝の剪定(せんてい:果樹の生育や結実を調節するため,枝の一部を切り取ること)について語られている。実を結ぶ働き人がさらに豊かな実を結ぶように、主がこの働き人を選び、このひとを通して働かれることが言われている。6節も、働き人としては、主に捨てられたものとなることが言われていると考えるべきだろう。ぶどうの木のたとえ全体をこう捉えることがたいせつであると同時に、わたしたち一人ひとりが働き人として召されていることも、認識すべきだろう。クリスチャンと呼ばれたのは、弟子たちであることも、覚えておきたい。(使徒言行録11章26節)また、もう少し、丁寧に、考えてみたい。
John 16:7 しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
本当にそうだろうか、疑問を抱く。イエスが共にいること、それも、実際に行動し、神の子として生きること、神の御心をいきることを示し、それをことばでも、伝えてくれることにまさることはない。しかし、弟子たちが、そして、わたしたちが、学ぶためには、イエスが去ること、そして、聖霊・弁護者・助け主に聞き、求め、考え、試行しながら、歩んでいくことは絶対条件であることも、確かなのだろう。神とひととに仕えること、神を愛し、隣人を愛すること、神様とイエス様の関係のように、わたしたちが互いに愛し合うためには、やはり、イエスが去ることが必要だったのかもしれない。しかし、そうであっても、もっと、残してもらいたかった。イエスさまの命の営みを、この世での歩みを。大きなチャレンジを与えられていることは確かである。
John 17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
「これが永遠の命だ」と何度引用したことだろう。しかし、その内容はほとんど考えていなかった。「知る」ことの内容が、この章にたくさん書かれていることを今回の通読で気づいた。「えっ」と思わせる、表題のようなものかもしれない。まず、知る γινώσκω(ginōskō: 1. to learn to know, come to know, get a knowledge of perceive, feel, 2. to know, understand, perceive, have knowledge of, 3. Jewish idiom for sexual intercourse between a man and a woman, 4. to become acquainted with, to know)言語上の他の「知る」との比較は置いておいて、この章では、ほかに4回使われている。「私に与えてくださったものはみな、あなたから出たものであることを、今、彼らは知っています。」(7)「なぜなら、私はあなたからいただいた言葉を彼らに与え、彼らはそれを受け入れて、私が御もとから出て来たことを本当に知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じたからです。」(8)「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。」(23)「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。」(25)神とイエスが一致していることを体現することもふくめ、あらゆることが含まれているように思われる。神とイエスの関係の中に入ることなのかもしれない。さらに深めてみたい。
John 18:37,38 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
「私が王だとは、あなたが言っていることだ」がここにも現れる。(マタイ26章25節、26章64節、27章11節、マルコ15章2節、ルカ22章70節、参照:マルコ14章62節)他の福音書では、ピラトの法廷では何も答えなかった(マルコ15章5節)ともあるので、あまり内容を深く詮索するのは適切ではないかもしれない。しかし、印象的ではある。「真理とは何か Τί ἐστιν ἀλήθεια」共通の一般的にも使われることば「真理」ということばでイエスが語り、それに、ピラトが応答している。イエスがコミュニケーションできる、最大のことをし、問いを投げかけた(チャレンジした)のだろう。「真理とは何か」おそらくそれはわからない。しかし、イエスのもとに真理があり、その証に来られたイエスを通して、真理を少しずつ受け取ることができるのだと信じ、イエスのもとに行き、イエスの声に耳を傾けたい。
John 19: 11 イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
ピラトが「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」(10)と言ったのに答えて語った言葉である。イエスは、一部始終をどのように理解していたのだろう。「私をあなたに引き渡した者」は誰だろうか。男性・単数である。イスカリオテのユダだろうか、それとも、ユダヤ人を一人の人として表現しているのだろうか。後者の用法はよくわからない。イスカリオテのユダだとしたら、それだけの責任の重さを、イエスは認識していることになる。たしかし、イエスと共に生活していたことを考えると、責任は重いように思う。ただ、そうだとしたら、イエスは、このことをどう捉えていたのか正直よくわからない。ユダの苦しみを思い、担いきれないだろう、その罪を、ここで意識していたのかもしれない。
John 20:17,18 イエスは言われた。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
聖書協会共同訳では「きょうだい」とひらがな表記になっている。ここでは二つの意味があるように思う。ひとつは、男性の兄弟をいみしてはいないこと。これがひらがなにした主たる理由だろう。そして、もう一つは、この兄弟が肉親ではなく、イエスの弟子たちを指すことである。マリアの向かった先が「弟子たちのところ」であったことから明らかである。聖書協会共同訳は注意して、訳していることも確かである。特に、弟子たちときょうだいを結びつける次の箇所は特徴的である。「そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。『見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マタイ12章49節・50節、同様な箇所:マルコ3章33,34節、ルカ8章19-21節)社会的背景から生じる時代の産物なのかもしれないが。
John 21:5 イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。
「おかず」にちょっと驚いた。「子たちよ、何か食べる物があるか」(新共同訳)たしかにこの原語は προσφάγιον(prosphagion: anything eaten with bread, spoken of fish boiled or broiled)となっており、おかず、または、魚となる。このあとには「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。イエスが、『今捕った魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」(9,10)すなわち、すでにパンはあり、皆で食事をするために、もう少し魚をということのようである。このあと、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12a)といい、「イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」(13)と続く。非常に印象的な光景である。イエスが準備し、弟子たちも共に働き、共に食する。このような光景は、以前にも繰り返されていたのだろう。それが、「弟子たちは誰も、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。」(12b)に現れている。最初にもどって「おかず」であるが、名訳としておこう。おかずも主の導きによって得られたものではあるが、それを、主の前に持ってきて、共に食する。イエスがともにいる生活は、イエスが地上にいなくなっても続くということを顕しているのかもしれない。

BRC2021(2)

John 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
「権能」について調べてみたくなった。ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases)他にも辞書に意味は並んでいるが、最初の「選択できる力、そのようになりたいと望んで行動する自由」という表現に、惹きつけられた。権能というと、それを得ることができれば、自然とそれになれるように思うが、どうもそうではない。神の子として生きることを選択し、神の子として生きる自由が与えられるということなのかもしれない。神様から、免許が与えられることに近いのかもしれない。神の子として生きてみようよという背景には、イエスがそのような生き方を示してくれたことを信じ、イエスに従っていくということだろうか。もっと考えてみたい。
John 2:11,12 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」(4)と、その後の記述、そして、その結論のような引用句、とても不思議な文章である。奇跡ともとれるが、そうでないともとれる。母、マリアとの関係も、最後の一文もふくめて、理解し難い。非日常が起こり、母はそれをある程度理解したことが書かれているのか。このしるしや、このあとの、家族の時間も明確には理解できない。それでよいのかもしれない。信頼関係を維持することを大切にしたのかもしれない。このことを、ヨハネがどのように描いているかも、しっかりみていきたい。
John 3:13-15 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
なにが言われているのか、正確な理解は難しい。イエスは、「天に上ったもの」なのだろうが、最後には「上げられねばならない」ともしている。すでに、贖罪的なイエスの死が預言されていると理解してよいのかもしれない。ヨハネが、どの時点でこのメッセージを受け取ったのかはわからないが。イエスは、神様との直接の関係を、弟子たちにも伝えていたと思われる。それが「天に上った」にあらわれているように思う。しかし、それ以上について、ここから理解するのは難しいようにも思う。
John 4:48-50 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
イエスの最初の応答が意地悪に聞こえる。役人の信仰をためしたとも考えられるが、それよりもここで際立っているのは、役人の必死さと純粋さだろう。イエスはそれに動かされたように見える。一般論としては、イエスの最初の応答はそのとおりだろう。しかし、役人の痛みをうけとる柔軟性も持っている。イエスの行動の特徴は、正しさだけでなく、深い憐れみに基づいた行動規範である。これだけのことばから、全てを理解するのは、難しく、危険な面もあるが。
John 5:27-29 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。
「父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。」(19b)の内容が、引用句にも表現されているのだろう。裁きを行うかどうかが鍵ではないのだろう。しかし、ここで、復活して命を受けることが書かれている。そのことを語る、または、思い描くと、そうはならない人についても語らなければいけないということだろう。万人が救われることを望んでいても、現実はそうではないことをイエスは苦しんでおられたと考えるが、正確ではないかもしれない。
John 6:40 私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」
どうしても、死の辛さ、寂しさから心が逃れられない人々にとっては、復活はそれを克服するものに映ってしまうが、イエスが伝えようとしていることは、少し焦点が異なるのかもしれない。永遠の命も、神様の命に生きること、神様の御心を生きることだとすると、そのような状態に招きいられることが中心なのかもしれない。ここで、永遠の命と、復活の関係も気になった。しかし、その整合性を考えるよりも、御心に生きることから外れないことに中心があるように思う。この章も難しいが。
John 7:17 この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。
この章の議論も難しい。イエスにも迷いがあるとは言えないにしても、直接的にメッセージが語られていないように思う。反対者にどのように答えるか、困惑があるのかもしれない。この引用句を語るだけでは、通じないのだろう。しるしによって人々が信じることにもイエスは違和感を持っていたと思われる。イエスの苦悩は不明であるが、ヨハネによる福音書を見ると、イエスの宣教を理解するのは、簡単・単純ではないことを感じさせられる。特に、エルサレムでの活動については。
John 8:28,29 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
『私はある』がよくわかないので、考えてみることにした。このあとには「これらのことを語られたとき、多くの人がイエスを信じた。」(30)とある。ある程度、イエスのことばを受け入れたということだろうか。『私はある』の意味は、直接的には、イエスを遣わされた方がいつも共におられるということなのだろう。もう一つ興味を持ったのは「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」(41b)とユダヤ人たちが言っていることである。このあとには、アブラハムを父と呼んでおり、イエスはこれに、「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。」(42b)と答えている。興味深いやり取りである。父論争であるが、それは、子論争であるとも言える。また、ゆっくり考えてみたい。
John 9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちはすでに、イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
生まれつき目の見えない人が見えるようになった記事で今回二箇所印象的だった。一箇所は、引用箇所。これは、その場にいたものだけが、言い切ることができる証言であるように思う。ヨハネがそう証言していれば、認めざるをえないということだろう。もう一つは、イエスのことば「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39b)である。これまでも「あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。」(15,16)などを思い出す。しかし「父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。」(5:22)などもあり、裁きについてはしっかりと調べないとわからないこともわかった。
John 10:4,5 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」
正直、これは難しい。本当に、羊はその声を知っていると言えるのだろうか。たとえの一部としてであって、聞き分けられる力が備わっていると言っているのではないと考えたほうがよいのかもしれない。盗人、強盗との区別をどうするのか。やはり、神からのものかどうかは、一人ひとりが判断しなければいけないのだろうか。難しい。
John 11:43,44 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書は、奇跡、しるしを簡単には記述せず、ていねいに書いている。しかし、特に、この記事には驚かされる。信頼できる証人が何人もおり、かつ、その人々も、そんなことは、起きないことと証言しているからである。さらに「もう、臭います」(39b)などということばすらある。おそらく、ヨハネもその場にいたと思われ、かつ、12章にも繋がってるので、驚かされる。
John 12:44,45 イエスは叫んで、こう言われた。「私を信じる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を信じるのである。私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。
この章の最後には「父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである。」(46)とある。そこまでの確信は、どこから来るのか、不思議かつ不安にも思うが、父のみこころをそのまま語り、みこころのように生きる、それが、神につく命、永遠の命との確信があったことは、確かだろう。わたしも、そのように生きていきたい。正直に言うと、隣人、周囲の人、周囲の問題に対するだけで、みこころがなるのかどうかには、不安もあるが。この章をよんでいてもう一つ気になったのは、イエスに従っていったひとたちの記述(19)とイエスを信じないものの記述とその中でも信じるものがいたという証言(37-42)が’併記されていることである。それがヨハネが見た、裁きなのかもしれない。
John 13:1,2 過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。
この二節はとても重い。そこに、イスカリオテのユダもいるときに語られた言葉である。そして、『先生』とか『主』とか呼ばれている、イエスが、弟子たちの足を洗う。おそらく、これまでも、仕えてこられたのだろう。(確認もしてみたい。)しかし、それが明らかに目に見える形で、示されたのが、このときのことだったのだろう。そして、このあと、イスカリオテのユダが去った後に、惜別のメッセージとして、新しい戒めが語られる。しっかり、かみしめ、また、考えてみたい。
John 14:31 私は、父がお命じになったとおりに行う。私が父を愛していることを世が知るためである。立て。さあ、ここから出かけよう。」
最終メッセージの一つの区切りの言葉である。この章は「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。」(1)から始まる。様々なことが語られるが、残る弟子たちに「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。」(15)とおそらく「互いに愛し合いなさい」(13:34,35)のメッセージを確認し、真理の霊(17)弁護者(15,25)と聖霊について語る。父にゆだねている部分と様々な心配が見え隠れする。それこそがイエスが弟子たちを愛していることの証なのだろう。「父は私よりも偉大な方だからである。」(28b)として、父に委ねる姿勢を明確にしている。父なる神と子なるイエスの関係が、イエスと弟子たち、そして、弟子たちどうしの「互い」の関係になりうるのかどうかが鍵なのだろう。
John 15:11,12 これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5)ここで言われている「実」は「互いに愛し合う」ことなのかなと思う。その前に、ここでは「喜び」について語られている。神に養われているイエスにつながる喜びが背後にあり、互いに愛し合うことがその実として示されているのだろう。これからも、このことを最も大切なこととして、わたしの中心においていきたい。
John 16:12,13 言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
イエスは、ほんの一部しか語らなかったことは、確かである。それは、受け取り側の私達が、それに耐えられないからだと明確に述べている。そして、それを、聖霊から受けると。この理解が難しいが「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」(27)とも関係しているように思う。イエスを通して御心についての基本的なことを伝えられた私達が、神様とつながり、御心を求め続ける中で、「聖霊を通して」真理に導かれるというのが基本であるように思う。ただ、それが神からのものか、そうでないか、見分けるのは難しい。おそらく鍵は、イエスによって示された父なる神、主について、少しずつを理解をしながら、確認することなのだろう。
John 17:26 私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」
父なる神と、ここで語っておられるイエス、そして、聞いている弟子たち、さらに、弟子たちの言葉を聞いてイエスを信じる人たち(20)が、父と子のように、一つになることが繰り返し述べられており、最後に引用句がある。「一つ」の意味は、神の愛が、「彼ら」のうちにあり、イエスも「彼ら」の内にいるようになるためとある。論理的に明確とは言い難いが、伝えたいことはわかるように思う。
John 18:37,38 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
共観福音書では記述のしかたはそれぞれであるが「しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった。」(マルコ15章5節)とあるように、イエスはあまり語っては居ない。しかし、ヨハネではある程度語ったことが記録されている。どのように情報を得たかは、推測しかできないが、内容に集中すると、結局は、根本の御心を知るという部分から共有するのは難しかったようにみえる。それは、イエスが遣わされたひととは異なるということだろうか。同時に、ここに書かれているところから、異邦人にも福音は開かれているようにも感じられる。
John 19:21,22 ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
ピラトの前の裁判から、十字架上の死と埋葬までがこの章には書かれている。今回は、ピラトがイエスをどうみていたかに集中して見てみることにした。ピラトは責任放棄のような態度を取り「見よ、あなたがたの王だ」(14)といって、イエスをユダヤ人たちに引き渡す、自由にさせることにして、十字架に架けられることとなる。むろん、決断の責任は、ピラトにあるが、真理、御心の問題から、自分を切り離したかったのかもしれないとおもう。そのことが、余韻となって残っているように思う。これを読んだギリシャ人に、真理が、福音が開かれていることを伝えているのかもしれない。
John 20:7,8 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。
復活に関して、共観福音書に共通して書かれている記事の続編として、ペトロともう一人の弟子(4,8)が確認したことが証言されており、引用句を見ると、直接の目撃証言であることを示すような具体的情報が書かれている。しかし、ここで、二人は、復活のイエスには会えなかったこと。そのあとに、弟子たちに、さらに、その場にいなかったトマスに現れた記事が書かれ、この章、そしておそらくヨハネがまとめたと思われる部分が終わっている。ここまでが、おそらく、本書が書かれていた頃の公式見解だったのだろう。その場に居たものとして、おそらく、様々な文書での記述があるなかで、残すべきことを精査したのだろう。すでに、50年以上経ていると思われるので、正確な情報とは言えないかもしれないが、真実を残したいという気持ちは強かったと思う。混乱による分裂を避けるために。
John 21:18,19 よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。
21章では、20節以降のエピソードで、この弟子(24)について言及されるが、基本的には、ペトロ中心のもので、その中心が引用句だろう。ヨハネが残したかったものとは、違う情報がこの章には、含まれているのだろう。ヨハネの周囲に様々なひとがいることがわかるが、それは自然なことで、おそらく、悪いことではないのだろう。

BRC2019(1)

Jn 1:1,2 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
ヨハネがまず伝えたかったことなのだろう。ヨハネの信仰告白である。この二節を読むと、二節は繰り返しのように思われる。といことは、強調であろうか。3節以降の前にもう一度確認したかったのか。ヨハネにとって、イエスが、神とともにあったことは、明らかで、そのことこそ、伝えたかったことなのだろう。それが、創造にまで至っている。イエスが言われたように、イエスこそ、その救いこそが中心であることを、受け取ったからだろうか。もう一度、ヨハネを楽しんで読んでいきたい。
Jn 2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
この前に書かれてあることからは、ここで言われている「しるし」が何なのか不明である。両替商を追い出し、鳩を売る者たちを追い出したことだろうか。それと同時に発したメッセージもあるのだろう。しかし、ヨハネは書かない。このあとは、ニコデモの話が続くが、その後でもない。読む人に、24,25節の注意を喚起していると考えるのも一つだろう。個人的には、わくわくする。
Jn 3:5,6 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
通常は、水は洗礼を意味するととるのだろう。しかし、そうではないかもしれない。イエスは、血とはことなるものを示していること、水は洗礼を想起させるとしても、明確ではないこと。このあとでは、霊から生まれるとしていることを考えると、厳密に考えることはしないほうがよいかもしれない。イエスは、人の言葉で語るが、演繹をしてよいかどうかは、簡単には、わからないからである。では、ここは何を「水」で表しているのだろうか。生ける水を飲むことだろうか。ヨハネでは、洗礼以外に、ぶどう酒に変えたしるし、サマリアの女、ベトザタの池、弟子たちの足を洗った水、イエスの体内から出た水、そして「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7章38節)
Jn 4:1,2 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
証言者は、ヨハネだろう。早い時期からイエスに従ったと考えられるヨハネの証言は重い。ここからわかることは、イエスが率いる弟子集団は、洗礼を授けていた。実際には、イエスではなく、弟子たちであるということである。洗礼者ヨハネと同じように、悔い改めを重視していたと思われる。もしかすると、少しずつ、悔い改めのあとどのように生きるかにシフトしていったかもしれない。しかし、洗礼を授けていたのが弟子だとすると、ヨハネのもとから来た弟子が重要だったのだろうか。それとも、洗礼を受けていないで、授ける場合もあったのだろうか。ここからは、明確ではない。すくなくとも、教会員のようなものが出来上がっていたわけではないので。ただし「弟子をつくり」がどの程度、洗礼と関係しているかも考慮する必要がある。そして、年を経て、形式が確立していったのだろう。
Jn 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
なんとも慎ましい。まずは、解説でもしたくなるところなのに。しかし、このあとに、その理由をとくヒントが与えられているように思う。まずは「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』 」(17)あるデモンストレーションをすることが目的ではなく、父のわざを続けることこそが、イエスのしていることなのだろう。そして「わたしは、人からの誉れは受けない。」(41)なんと、わたしは、表面的には、善人ぶって、心の中では、賞賛を求めていることだろう。イエスに従う者でありたい。
Jn 6:38-40 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
イエスが来られた目的をあからさまに話しておられる箇所である。これが神からの直接啓示であるのか、イエスが悟ったのかはわからない。おそらく確かめようもない。しかし「神の御心を行うこと」が原点にあり、その御心は「子(イエス、もしくはもう少し広い意味で神の子だろうか、しかしおそらく単数)を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」そして「子(イエス)を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」とある。つまり、いくつかのレベルがあることもわかる。イエスを見て信じる者が皆、永遠の命を得るのではない。
Jn 7:47,48 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。
分けることの問題がここでも例示されている。下役は「議員やファリサイ派の人々の中」に含めず、範囲を狭めているが、このあと、ニコデモの発言で、ニコデモもその範囲から外すことにならざるを得なくなる。ある人間的正しさの保持でグループを作成すると、普遍性はない。おそらく、契約もそうだろう。国としての契約も、団体としてのそれも。誓い(pledge)はどうなのだろうか。中身がどのようなものかにもよるだろう。危うさを感じる。
Jn 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
「再び」がなにを意味しているか不明である。しかし、ここでの問題を、ファリサイ派の人たちは「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 (13)と言っている。このあとに、イエスの応答が続くが、イエスは、聖書を持ち出したり、人々(教会)の証言を根拠にはしない。父なる神だけである。すると、それは、一般的には、啓示であろうか。もし、三位一体ならますますひとつだけの根拠となる。結局はそれを受け入れるかどうかなのだろうか。それで良いのかもしれない。すくなくとも、わたしにとっては。
Jn 9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
同じ質問を10節でも26節でもユダヤ人達はしている。また、19節には同様の質問を両親にしていることが書かれている。これは、科学的な問いである。また「ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。」とあるが、ここでは、律法的問いが提出され、宗教的解釈と衝突している。イエスは「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」 (3)といっているが、ユダヤ人たちは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34)と言っている。非常に興味深い。イエスは、議論ではなく、まさに、しるしをなさったのだろう。「わたしは、世にいる間、世の光である。」(5)「光」でありきった、イエス。ここに希望がある。
Jn 10:14,15 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
イエスの父なる神様への信頼は、自信過剰のあぶなそうな言葉でもあるが「わたしと父とは一つである。」(30)によく現れている。それと、イエス様とわたしたちの関係が同じだと言い切っている。それはないだろうと思う。ここに、イエスの信頼と希望があるのかもしれない。現実はそうではない。「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(8)と過去のことにまで言及している。理想主義者なのだろうか。おそらく、そうではないのだろう。ここに希望を置きたい。
Jn 11:3,4 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
生まれつき目の見えないひとについて「神の業がこの人に現れるためである。」(9章3節)と言っているが、ここでは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」となっている。ラザロは生き返るが、同時に「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(53)との結果になったとも言える。ここでイエスが述べている、栄光とは何だろう。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(25,26)が実際に示されたことだろうか。このあとで、マルタが「もうにおいます。」というのに答えて「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40)と言っている。命を与えるのは、神の業、それがここに現れているということだろうか。
Jn 12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
この章には記録したいことがたくさんある。備忘録として簡単に記す。まずは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27,28a)は、ゲッセマネで寝てしまっていたヨハネが、記した真実ではないだろうか。最後に「父の命令は永遠の命である」(50)としている。これもとても興味深い。さて、引用した箇所、11章の直後に、それも「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」(1)と始まるところをみると、その関連性を考えるのは、自然だろう。マリアは、感謝の気持からナルドの香油を使ったように思う。もし、それを売って、薬をえるなどして、ラザロの病が癒やされるなら、それをしただろう。恵みにより、生き返ったそのときには、ひとは感謝を十分しないこともあるように思う。なんと打算的なのだろうか。しかし、マリアはそうではなかった。愛に答え、イエスを愛したのだろう。イエスの計り知れない苦しみを感じつつ、永遠のいのちを生きていたのかもしれない。学ぶことは多い。
Jn 13:31,32 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
すでに、栄光を受けたと言っている。これも、直接的には、十字架を意味しているものではないと解釈すべきだろう。すると、それは、何を意味するのだろう。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1章14節)わたしたちの間に宿られたこと、それによって示されたこと、直接語られたこと、教えられたこと、なされたこと、その全てなのだろう。それをしっかり受け止めたい。
Jn 14:12-14 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
「わたしが行う業」とはなんだろう。「わたしの名によって願うこと」とは何なんだろう。イエスの名を信じるもの、イエスに望みを置くもの、それは、イエスが伝えた新しいメッセージからは、互いに愛し合うことではないのだろうか。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネ第一3章23節)もっと深く理解したい。
Jn 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
この時点で清くなっていることが書かれている。十字架による贖罪によってではない。同時に、実のことも語られている。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(2)そして「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(17)である。つながっていることと、この命令をまもることに強い関係があるようである。イエスの愛は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(13)であらわされている。それこそが象徴なのだろう。しかし、それだけに終わるわけではない。それまでも、そして、それ以後も、イエスは、わたしたちを愛しておられる。だからこそ「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(12)と言っているのだろう。キリスト教神学、プロテスタント神学とは、かなりずれてしまっている。
Jn 16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
ふたつの鍵が書かれている。「イエスを愛すること」「イエスが神のもとから出てきたことを信じること」である。ヨハネは、この二つをいろいろなことばで言い換えている。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネ第一3章23節)ここでは、おそらく「イエスを愛すること」は「この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」と言い換えられ「イエスが神のもとから出てきたことを信じること」は「神の子イエス・キリストの名を信じ」ることだと言っているように思う。あまり教義的に、厳密にすることが良いかどうかは不明であるが、一つの概念をいろいろな言葉で言い換えることが、ヨハネ文書の特徴であることは確かだろう。
Jn 17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(ヨハネ第一1章3節)に含まれる曖昧さがあるように思う。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わり」と「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つに」の部分である。後者では「ように」となっている。一つであることが内容なのか、父なる神様とイエスの業も意思も一致することなのか。いずれにしても、実現はされていないように見えてしまう。約束として、希望とすることなのだろうか。それとも、根本的な原因があるのだろうか。成就していない。プロテスタント教会はバラバラである。
Jn 18:37,38 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ピラトは言った。「真理とは何か。」
イエスがここで言われている「真理」とは何なのだろうか。一般的には、神の御心と考えて良いかもしれない。ここまで教えておられたことから考えると、イエスが父なる神に遣わされたこと、そして、神のみこころは、互いに愛し合いなさいということであるということだろうか。おそらく、キリスト者の間でも、かなり揺れがあるように思われる。まずは、一緒に聖書を読むことから始めたいが、そのことは、可能なのだろうか。だれかのことばをそのまま受け入れてしまうように思われる。みことばに仕える人たちであっても。
Jn 19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
ピラトのイエス尋問の一部である。イエスは、答えられた部分と、答えておられない部分がある。正確なやりとりをどのように得て記録したのかは不明である。側近でイエスを救い主と信じるようになったひともいただろうが、はっきりとはしない。ピラトの問に答えられた場合と答えようとされなかった場合が書かれており、引用箇所の「お前はどこから来たのか」と「真理とは何か」(18章28節)には答えておられない。この二つこそ、鍵となる質問であるはずである。なぜ、答えようとされなかったのだろうか。ピラトに聞く準備ができていなかったなどもあるが、これらこそ、弟子たちに委ねたことだったのかもしれない。イエスは、弟子たちを通して、これらについて、人びとに伝えられることへの、希望を持っていたのかもしれない。答えられた質問も含めて、ゆっくり学んでみたい。
Jn 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
本文の最後はこのことばだと考えて良いだろう。復活に関する弟子たちの証言は、マグダラのマリアのものは別として、限定的である。しかし、それを列挙することは避けているように思われる。まさに、このことばにかかっているのだから。イエスが、復活され、死んだままではおられないことを証言しているのだろう。天に昇ることは、マグダラのマリヤへの次のことばで記録されている。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 (17)
Jn 21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21章はどのような経緯で、文書に含まれるようになったのだろうか。すべての写本に含まれているとされることから、ヨハネもそれを認めていた可能性もある。21章は復活証言、ペトロに関する記事、そして「この弟子」に関する証言となっている。ペトロとヨハネは使徒言行録の最初には、つねに一緒に行動していた弟子集団の核であり、おそらく、イエスのほとんど最初の弟子の数人の中にいたであろうから、お互いについても、よく知っていたであろう。福音書の中心ではなくても、この記事を記録する必要があったのだろう。直接の弟子が全員亡くなるそのある意味で危機的な状態のなかでの、引用句の重さを感じる。直接の証言者としての役割を全うした最後のひとことなのであろう。

BRC2019(2)

John 1:16-18 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書の冒頭の1節から5節があまりにも印象的であるが、それはイエスをことばとして表現するとという内容で、ヨハネが証言者としてあかししていることは、引用箇所にある「恵みと真理」なのかなと今回強く思った。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14)個人的にも、イエスに付加する(不遜な感じがするが)もっとも適切なことばは「恵みと真理」かもしれないと思う。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16)にもある「恵み」が最も特徴的なことで、それを通して示される「真理」なのかなと思う。また、ヨハネによる福音書に戻ってくることができて幸いである。
John 2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
神殿で羊や牛をを境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒したあとのイエスの言葉である。「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」(17)ともあり、弟子たちもやりすぎだと評価したのではないだろうか。引用箇所も預言的要素を含むとしても、かなり乱暴である。建て直してみせると、あるが、それを自らする印象を受ける。この2章は序章なのかもしれない。カナでのしるしも、おそらく、最後までマリアの世話をしたヨハネの記述であることも、考慮に入れる必要があると今回思った。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5)にも現れているのかもしれない。敬虔にみことばを受け取る方からは反発があるだろうが。
John 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(1)と始まる。この前の記事は、エルサレム。このあとは「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。」(22)とあるが、ニコデモは、サンヘドリンの議員でもあり、エルサレムにいたのではないかと思われる。すると「あなたのなさるようなしるし」はなにかと考えてしまう。最初のしるしと書かれているのは、ガリラヤのカナ(1)でのできごとであるからである。おそらく、救いの本質を、ニコデモとの対話に始まる部分と、サマリヤの女との対話などの部分(4章)などと、ならべた最初なのだろう。すなわち、ヨハネは、共観福音書より前の時間帯から書き、早い段階からイエスと行動をともにしたと思われ、共観福音書にない記事は、この早い段階のものと考えることが多いが、そうではないのかもしれない。ヨハネがたいせつだと考えたこと、それもひとつのまとめ方で書いているのかもしれない。ヨハネが受け取り、そのことばに留まり続け、伝えなければと考えたことを伝えるために。
John 4:35,36 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
現実と、預言的な要素とがともに含まれているのだろう。サマリヤの女がイエスが明かされた「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(26)を信じて、水がめをそこに置いたまま(28)すなわち、戻ってくる意思を示して、街にイエスのことを告げに行く。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(29)と遠慮がちではあるが。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(42)の証言を待たずとも、ここですでに、刈り入れが始まっていることを確認したのだろう。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」(25)など、この女性がメシアについて理解していたことも大きく働いていることもご存知だったのだろう。そして、このメッセージこそが、サマリヤ人に対する偏見などを跳び越えて、サマリヤへの宣教が弟子たちによっても、なんのためらいものなく、進んだ大きな要因であるように思う。
John 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
この解釈は丁寧にしていきたい。この章は、ベトザタの池で38年間病気に苦しんでいる人にイエスがかけた「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8)を安息日故に、ユダヤ人たちが批判したところから、始まり「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(17)と、父なる神との一致が焦点に語られている。永遠の命が律法の守り方から得られるわけではなく、永遠のいのちのもとである天の父なる神と、その神様との密接な関係をしめす、イエスとともに生きることにあると言っているように思われる。聖書の中から、イエスについての預言を見つけ出して、これこそ、その部分の中心メッセージと理解することではないように思われる。この読み方は、最初の律法主義的読み方と本質的に変わらないように見えてしまう。続けて考えていきたい。
John 6:12,13 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
このあとは「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(14,15)と続く。5千人に食べ物をあたえた記事は、共観福音書にもすべて書かれている。それでも、ヨハネが書いた理由があるのだろう。一つは、このあとイエスがどのように行動し(15)、弟子たちも含めて人々が離れていったこと(66)が書かれている。その直前にあるのが引用箇所である。神様がイエスのからだまたはいのちを分かちあたえてくださったこと、すなわち、神様の痛みもそのパンくずからご覧になったのかもしれない。悪魔の試みで石をパンに変えるかどうかを問われたことを思い出す。マタイ14章13-21節、マルコ6章30-44節にあるような、群衆を深く憐れまれた(Mt14:14,Mk6:34。ルカ9章10-17節は異なる)という動機づけは書かれていない。いのちのパンをあたえたことがヨハネでは書かれているのだろう。しかし、人々は、そのようには受け取っていない。
John 7:14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
イエスはエルサレムで教える予定はなかったのかもしれない。エルサレムでイエスを信じるものが大勢おり(31)ガリラヤでは離れていったひとも多くいたが、まだ殺す計画は(5章18節)にあるものの「なぜ、わたしを殺そうとするのか」というほどの状況だったかは、不明である。25節以降の記述から、議論があったことは確かだが。しかし、イエスは、先を見通しておられたのだろう。そのなかで教えておられるイエスにもなにか突き動かされるものを感じる。弟子たちの教育も含め、このことにそのときそのときにいのちを与えることに集中していたのだろうか。このあたりは、もう一度じっくり読んでみたい。
John 8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
有力な写本には含まれていないエピソードの最後である。通常は、罪のないイエスも裁かなかったことが言われる。イエスは、罪なきものとして生きてきたと考えていたのだろうか。天の父のみこころを生きているとは思っているだろう。次の段落は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12)と始まり、「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」(15)とあり、この「裁かない」と関連して、ここにこのエピソードが挿入されたのだろう。では、イエスは女にそして人々になにを伝えているのだろうか。 15節からは、裁く基準がことなることのようだが、裁かないとも言っている。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 」(ヨハネ3章19節)からは、それを自ら選んでいるともとれる。自由意志というより、そのような状態にあり、光(神とともにある世界)に来るように促しているのだろう。それは「世の光」ともつながる。「罪を犯してはならない」も、神とともにある生活を、イエスに従い歩むことを促しているのだろうか。これだけで伝えるのは難しいだろう。
John 9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
期間限定というよりも、イエスがこの世で歩まれたことをしっかりと見ることを伝えているのだろう。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39)も、ヨハネ3章19節や、引用箇所ともつながっているように思う。神の子イエスが、肉体をもって、わたしたちの弱さも担い、神のみこころに従って歩むことを示してくださったことは、いかに大きいことだろうか。少なくとも、ヨハネはそれを伝えたいのだろう。主のみこころに従って歩むことを教えて下さい。そのような思いで聖書を、読んでいきたい。
John 10:14,15 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
このあと「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」(16)と続くが、この囲いはユダヤ人を指すのだろう。父とイエス、イエスとイエスの羊の関係が、お互いに知っている(ginosko: to learn to know, to become acquainted with)ということで結ばれている。お互いに知り合っているという関係なのだろう。それは、羊たちの間にも成立するのだろうか。互いに仕え合い、互いに愛し合う関係になるには、鍵かとも思うが。イエスを知り、イエスに知られていることを基盤に築くだけで十分なのだろうか。たしかに、羊と羊の間に、お互いに知っているという関係は簡単には見られないが。世界の問題がここに凝縮しているように思う。
John 11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
Google Map で調べてみると、ガリラヤのカペナウム(イエスの活動の本拠地)からエルサレム(ラザロたちの住んでいたベタニアからは2.8キロほど)への距離と、歩いてどのぐらいかかるか調べてみた。「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(18)(1スタディオンは185m)165km、35時間とのこと。急いで3日である。知らせが届いてから(3)なお二日間同じ場所に滞在された(6)とある。知らせるのにも、おそらく3日かかるから、どの時点でラザロが亡くなったかは、はっきりはしない。また「同じ場所」(6)を、「ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所」(10章40節)とすると、はっきりはわからないが、「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。」(ヨハネ1章28節)のベタニアはラザロの住んでいたベタニアとは異なるが、エルサレムからも洗礼をうけにくる人が多かったことを考えると、日帰りができるような、もっと近い場所だったのかもしれない。なお、ヨルダン側の向こう側ベタニアは、検索では現れなかった。聖書地図には、だいたい、クエスチョンマークがついている。また、Google Map では、Bethany beyond Jordan という Lutheren Church も検索であらわれ、これは、エリコの近くのヨルダン川沿いで、エルサレムからはとても、近い。同時に、現時点では、国境や紛争もあり、この場所であっても、非常に遠回りしないといけないといけないこともわかった。この教会の場所に救急隊がいても、ビザ申請から始まり、大変な時間がかかるのだろう。いろいろなことを考えさせられた。
John 12:7,8 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
マリアが香油をイエスの足に注いだことを非難したイスカリオテのユダに対する言葉である。基本的に、受容である。そして、ユダに対しても、真っ向から非難しているわけでもない。神のみ心を完全にはわからない私たちのこころからの行為やことばをじっと見ておられるように思う。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」(50)ともある。父なる神のみ心は、永遠の命なのだろうか。ていねいに生きていきたい。永遠の命に思いを馳せながら。それが永遠の命を生きることなのかもしれない。
John 13:14,15 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
「従う」ことも、「留まる」ことも、イエスの教えともとれるが、このように、イエスの模範を生きることのように思う。「イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』 」(10)このイエスのことばにも、最後の「皆が清いわけではない」からも、イエスの生き方が伝わってくるように思われる。いろいろな人にメッセージを送り、ていねいに生きておられる。これが「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1)にある「愛し抜かれた」ことの中身でそれが、34,35節の新しい戒めの背後にある模範のように思われる。
John 14:20,21 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
「かの日」は不明であるが、いずれはとでもいえる、行き着く先を意味していると取ってよいだろう。いつかはわからないが。かの日には、イエスと父なる神の関係(記述はすべて双方向に書かれているわけではないが)がイエスとわたしたちの関係になると言っている。そしてそのことと、「掟を守ること」と「イエスを愛する者である」ことが結び付けられ、それは、父に愛され、イエスに愛されるという双方向性をもうみだすことが述べられている。最後の表現は、このあとのイスカリオテでないほうのユダの問にも関わるが、上のような関係が、イエスがどのような方であり、なにを望んでいるか、つまりみこころも、その人が理解できるようになると言っているようだ。これらのことばをたいせつにしたい。
John 15:14,15 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
CMCC(http://www.mmjp.or.jp/cmcc/)の事務局の仕事を担うことになった。「心病む人々の友となる」ことを掲げている。ここではイエス様が弟子たちを友と呼ぶことが書かれている。おそらく、ここでは、今までは弟子という、教え教えられる関係であったものが、たいせつなかた(父なる神)のたいせつなもの(掟)を共有し、それを、たいせつにして生きていくものとして、友と呼んでいるのだろう。イエスが友と呼んでくださることは、驚くべきことである。しかし、CMCC の掲げる「友」は「心病む人々とともに」という願いが「友になることができれば」との願いにつながっているように思う。(友になるとは、多少尊大に響く。これは願いなのだろう。)背景に一人ひとりそれぞれが誠実にこの世的には愚かと思えるような生き方をしながら、共に生きることがあるのかもしれない。友について、もう少し考えてみたい。
John 16:9-11 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(8)に続く説明である。その方は「弁護者」(7)と訳されている「真理の霊」(13)原語ではパラクレートス(parakletos: summoned, called to one's side, esp. called to one's aid)である。引用箇所はわかりやすいとは言えない。理解した範囲で書いてみると「罪について明らかにするとは、(イエスを)信じないことにより、神様との交わりのうちにいるかどうかが明らかになること、義について明らかにするとは、(イエスが)父のもとに帰り、父なる神と共にいることが明らかとなるということ、裁きについて明らかにするとは、天の父のみこころを求めようとしない人たちが、神様との交わりが絶たれた状態にとどまっていることが明らかとなることである。」現在のわたしのヨハネによる福音書理解である。また修正していきたい。
John 17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
互いに仕え合い、互いに愛し合うこと、によって、天の父なる神とイエス様が一つであるように、一つでありたいと願うが、その鍵は、イエスがわたしたち一人ひとりの中にいるかどうかが鍵だと言っているようだ。難しいことも確かである。恵みなのだろうか。われわれが拒否する自由(とはいえない)意志のゆえなのだろうか。最大の問題のように思うので、今後も考えていきたい。完全に一つになることはどのように表現されるのか。
John 18:8,9 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
マルコ14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とあり、マタイ26章でもほぼ同じ表現になっているが、ルカ22章には見捨てて逃げた記事は書かれていない。引用したヨハネでは、イエスが弟子たちが捕まらないようにしたことが書かれている。さらに切りつけたのがペトロであることも書かれている。剣は二振りあったことも書かれており(ルカ22章38節)もうすこし争いが大きくなる可能性はあったろう。イエスの働きがそれをとどめたことが重要で、さらに、剣をふるったような弟子が単にイエスを見捨てて逃げ去ったというのも、不自然である。心情的に、キリスト者は、自らもイエスを見捨てるようなひとだと考えるのだろうが、ここは、主の恵みと配慮と神の計画として受け入れたほうがよいと思う。ヨハネは唯一の直接目撃証言者として書いている面もあり、常に正確ではないとしても、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 」(ヨハネ14章1節)と書いた背景が重みをまして伝わってくる。
John 19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
(可能性を全否定するつもりはないが)ピラトとの会話がこれだけ正確に伝えられたのはなぜかとの問は残るが、ここで言われている、2つの事に注目したい。1つ目は、ピラトに対するきっぱりとした信仰者(天の父なる神とひとつとされているもの)の態度である。もう一つは、「あなたに引き渡したもの」という表現である。ユダのことを言っているのではないだろう。文脈からは、(地上で)お前を釈放する権限も、十字架につける権限ももっていても自由には決断できないピラトに引き渡したということで、ユダヤ人たち(18章38節など)を指すと取るのが自然だろう。同時に、イエスを救い主として神のもとから遣わされたものとして受け入れず、イエスの示した神の国を受け入れなかった人たちだろう。世に留まり続けた人たちである。特定の人間を責めているのではないかもしれない。
John 20:8,9 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
ヨハネによる福音書は、復活証言を、空の墓とマグダラのマリアの証言と、トマスの2つに限っている。ここでは、おそらく、ヨハネをさすと思われる「もう一人の弟子」の証言が書かれ、トマス関連の記事では、弟子たちのなかに、ヨハネもいたことが暗に示されているが、詳細は書かれていない。ヨハネが受け取ったたいせつなことが記されているのだろう。その意味で、21章は証言者であっても、たいせつなこととして、どうしても伝えたいこととして含めることは考えなかったのではないだろうか。しかし、それが「この道」のひとには不可欠なことだったと思われる。引用箇所の、復活のことを理解していなかったということばが印象的である。後に、理解したのだろう。見た見ないではなく、理解したことの証言でもある。
John 21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
20章には復活証言が大きく分けて2つ書かれているが、どちらも、エルサレムでのこととして書かれている。しかし、この21章の記事は、ガリラヤである。ここでは、イエスとのやりとりの詳細も書かれており、単なる復活証言とは異なる。復活されたイエスとともに生き、行動していることが詳細に書かれているだけではなく、そのまま共に居続けることはまったく想定されていないことがわかる。多少、これを付け加えた意図も見え隠れし(23,24)、そのために、実際の証言についての理解が難しい。

BRC2017(1)

Jn 1:40,41 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
なぜ「メシアに出会った」とアンデレは言えたのだろうか。ここで「ヨハネの言葉を聞いて」となっているので、アンデレの信頼していたのは、ヨハネの言葉だったかもしれない。イエスに出会ったときの最初のことばは、それぞれである。しかし、おそらく、それは、始まりに過ぎないのだろう。不思議と、ペトロの第一声は書かれていない。イエスの言葉だけである。「そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。」(42節)
Jn 2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
不思議な言葉である。「信じます」などという言葉だけでそのひとを見ないということだろうか。痛みや苦しみ、そして真実を知っておられたのか。スーパーパワーなのだろうか。わたしは、その解釈を拒否しているようだ。
Jn 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 
ヨハネにおける「救い」神とのよい関係を表すことばのひとつが「神の国」である。3節に「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」とあるが、引用箇所とあわせて「神の国」は二回しか現れない。マタイは5回、マルコは14回、ルカは33回。「天の国」はマタイのみで使われ32回。「御国」はマタイ7回、ルカ2回である。むろん、新共同訳での話であるが、おそらく「神の国」に近いことばはこれぐらいだろう。ヨハネには「わたしのいるところ」(12章26節)など他のことばで言い換えているように思う。「神の国」について、ヨハネは他の言葉でも理解し、実質的な意味を示そうとしているように思われる。
Jn 4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 
イエスを生かしめているもの、イエスの食べ物は、まさにこのことなのだろう。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(14節)も、近い意味なのかもしれない。イエスが与えてくださる「永遠の命(神の命)」に生きていれば、それは、その人の内で泉となり、まさに「永遠の命」につながるのかもしれない。もうすこし、ていねいに理解したい。
Jn 5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 
このあとの応答は興味深い。良くなりたいとは答えられない。しかし、イエスはその先をすでに、思い、深く憐れんでいるのではないだろうか。だからこそ、この人の応答に対しても「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 とまさに、命を与えることばを告げることができる。仕えることによって学ぶこと以外にも、神の業(与えたいと思う者に命を与える)ことに集中しておられるように見える。もう少し、考えたい。
Jn 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 
共観福音書と共通の五千人への給食のはなしの続きの部分の書き方は、ヨハネは大分異なる。ヨハネはこのやりとりを見逃さなかったというよりも、どうしても記録すべきだと考えたのだろう。マタイ(14:13)でも、マルコ(6:34)でも、五千人給食では「深く憐れんで」が使われており、ルカでは「治療の必要な人々をいやしておられた」(9:11)とある。ヨハネはそのことは、書かないで、おそらく、このあとのイエスの祈りと、議論と、去って行くひとたちと、弟子たちについて記す。群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と答えるところをみると、引用したイエスの認識は正しい。ひとのこころの深みのなかをさぐられていたのだろう。悲しみもここにある。それが、ヨハネで表現されている、深い憐れみなのかもしれない。
Jn 7:23,24 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」 
21節の「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。」の内容に関してであろう。そして「一つの業」とは「安息日に全身をいやした」ことである。少し前の出来事であるが、5章1節から18節のエルサレムのベテスダの池での癒やしのことを言っているかもしれない。印象的なのは最後「うわべだけで裁くのはやめ」なさい。ということばと、そこで終わらず「正しい裁きをしなさい」と続けている部分である。「裁く」は krinoo (1. to separate, put asunder, to pick out, select, choose)が使われているが、最初の意味は、分ける、選ぶである。Anti-Reductionism, Anti-Empathy(簡単に共感するな)にも近いかもしれない。しかし、不可知ではない。求め続けなければならない。安息日を守るという表面的なところでとまってしまったのは、やはり仕えるこころがなかったからのように思われる。
Jn 8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 
「わたしの言葉」とは何を指しているのだろうか。新しい戒め「互いに愛し合いなさい」(13:34)はまだ語られていない。考えてみたい。父なる神から委ねられていることばだろうか。留まらない人がいるからだろうか。
Jn 9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 
つながりがはっきりしないが、直前には、両親との会話があるので、「そこで、人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』彼は『あの方は預言者です』と言った。」(17節)と関係しているのだろうか。うわべだけで裁いてしまっている。それは、おそらく、自分たちにも見えているだろう。しかし、それを脱却できない。神と一つに仕えることだろうか。ここから出発することができるのは。
Jn 10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 
弟子たちは、どこまで悟ることができたのだろう。父がイエスのうちにおり、イエスが父の内にいることを悟ったのだろうか。このことを悟れば、イエスから学ぶことが、神を見ることになる。神から遣わされたことを受け入れることで十分なのだろうか。そうかもしれない。
Jn 11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 
ここでいう「栄光」とはなんだろうか。「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」(11章4節)とあるその栄光であろう。引用箇所のあとに祈りが続く。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(41,42)神がいかに慈愛に富んでおられるかという、神のご性質が顕されることだろうか。それとも、イエスの願いを聞いて下さる。それによって、イエスが神から遣わされたことをみなが知るようになることだろうか。神の御心がなる神の国がまさに来ているのだと言うことを人々が知るようになるためだろうか。17章の祈りを思い出す。
Jn 12:25,26 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 
なんとすごいことが書かれているのだろう。イエス様に従い(akoloutheoo: to follow one who precedes, join him as his attendant, accompany him)、イエス様に仕える(diakoneoo)生き方、それは、自分の命を愛する生き方とは異なる。しかし、イエス様に仕え、イエス様の生き方をなぞっていくものを、父なる神様は大切にして下さる。神様が与えてくださる、神様の命、永遠の命に生きる道がここに示されているだろう。従っていくことで、イエスの居られるところに、いることができるのかもしれない。
Jn 13:31,32 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 
まず「ユダが出て行くと」とあり27節の「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」がその通りになったことが表現されている。すでに起こったことと、まだ起こっていないことの区別はあるだろうが、イエスは、この時点で、確実にあることが起こったと受け取り、このことばが宣べられていると考えられる。通常は、十字架での贖罪のわざと表現されることだろう。このような表現は、聖書の特に、パウロ書簡に根拠を求めなければ明らかとはいえない。ヨハネの文脈でいえば、遣わされた目的が為されたということだろう。命を与える権威(権能)(17:2)が与えられたのかもしれない。時は、hora が遣われており、特別な時であることは、よいだろう。しかし「栄光」と結びつけるとすると、簡単に言葉にはしづらい。「世を愛される神の愛が示された」と、ここでは書いておく。もっとよく考えたい。
Jn 14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 
イエスが持っている栄光を、弟子たちにも与える。それが書かれている。イエスが神と共にいる、神と共に生きるその場に、わたしたちを招いてくださる。そこにいさせてくださる。それが、愛する者たちへの、イエスの望みであり、わたしたちにとって、もっとも素晴らしいことなのだろう。わたしも、それを求めたい。神と共におり、神と共に生きることを願いつつ。
Jn 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 
語られただけで、清くなっているのだろうか。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(15節b)や「あなたがたは世に属していない。」(19節b)と関係しているのだろうか。言葉を受け入れることが完全な形ではまだ成立していないとすると、イエス様とのコミュニケーションがはじまったことで、つまり、交わりがはじまったことで、清くなっているのだろうか。それとも、イエスの宣言が、まさに清くしているのだろうか。
Jn 16:29,30 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 
これが信仰告白だとすると、心もとない。これが、イエス様が「わたしは彼らによって栄光を受けました」(17:10)の内容だとは正直思えない。しかし、ここから育っていったのかもしれない。イエス様がこのあとも知らせ続けて下さるのだから。(17:26)尋ねなくてもわかる。このときに、ほんとうにそのような状態になったのだろうか。考えさせられる。
Jn 17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
わたしの喜びは「父なる神様とイエスが一つであること」(11節)または「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(21節)であることではないだろうか。この喜びを「彼らも」共にすることができる、それも、世にいる間に。それは、イエスの世での生と関係していなければおかしい。イエスは、この世にいる間にも、その喜びを持って、生きていたことになる。苦しみを負いながらも。そのイエスと喜びを共にしたい。
Jn 18:19-21 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
ヨハネはペトロの否認と重ねている。そして大祭司は「弟子のことや教え」について尋ねている。大祭司はこれらの情報について知らなかったのだろうか。知ろうとはしなかったのではないだろうか。つまり、尋ねてはいるが、本当にしたいことは別にある。イエスに出会い、イエスから聞いた人、それは「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」も含んでいるのかもしれない。「その人々がわたしの話したことを知っている。」すごいことが証言されている。イエスは、もう十分だと考えているのだろう。イエスが地上で為すべき事は、すでに終了しているのだろうか。
Jn 19:8,9 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 
「この言葉」は7節の「神の子」と関係しているのだろうか。ローマ人の役人にとっては、皇帝が「神の子」だろうか。ヨハネが証言したいのは「わたしはある」といわれるお方の子。そして神から遣わされたことを信じるこそがイエスをうけいれることだとすると、それをここで、ひとつの答えとして示すものではなかったのだろう。
Jn 20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 
「わたしの主が取り去られました。」ここに、マリアの気持ちが詰まっている。遺体になっていても、マリアにとっては「わたしの主」に変わらなかったのだろう。このあとの不思議な会話につながっている。「わたしの主」の内容が変わっていくのかもしれない。じっくり学びたい。
Jn 21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 
7節には「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。」とあることを考えると、イエスの愛しておられたあの弟子」は、この7人の中のペトロ以外となる。ゼベダイの子ヨハネだと伝統的には言われているが、他の候補を探る人もいるようでなので記しておく。福音書の中で、3人がイエスに従う記事はあるが、他のグループは、ここだけではないだろうか。目撃証人の証拠である。

BRC2017(2)

Jn 1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
イエスが言っているように、もっと、偉大なことを少しずつ見るのだろう。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(18節)もそう考えると、神を示されることと、見ることに、やはり、隔たりがあるのかもしれない。少しずつ、神の業をみていく。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(第一ヨハネ4章12節)神の業は現れ、神の業をみることはできるのだろう。
Jn 2:23-25 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
驚かされる言葉である。信じた人々を、イエスは、信用されなかったとある。他の言い方をすると「しるし」を見て、受け取ったメッセージは、イエスが伝えようとしていたこと、とずれがあることを見て取ったということだろうか。神の業は示されても、神の業、そして、神から遣わされた方として見ることができない。いつか、急に、目が開かれるのだろうか。そうかもしれない。少しずつ何度にもわたって開かれるのだろうか。おそらくそうだろう。私のことを知っておられるイエスのなされたしるしを、少しずつ受け取っていきたい。
Jn 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
反対は「悪を行う者」(20節)「行いが悪いもの」(19節)となる。光を求められない。闇を愛し、光の方に、来ることができないのだろう。ひとは、一般的には、闇に向かう部分をもっている。ニコデモに答えたように「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(5節・6節)さて、新たに生まれるには、どうしたらよいのだろうか。イエスを信じるだけでは、2章23-25節のように、どうも、ひとは、変わらないようだが。
Jn 4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
著者と思われるヨハネは1章35節から書かれている、バプテスマのヨハネの二人の弟子の一人だとも言われている。たとえそうでなくても、共観福音書の記述からも、弟子たちの中ではかなり初期に弟子になったと思われるので、引用した注釈を証言することができたのだろう。ふと気になったのは、最初の弟子はどうだったのだろうかと言うことである。おそらく、イエスがそうであったように、バプテスマのヨハネから、悔い改めのバプテスマをうけた弟子たちが何人もいたのではないだろうか。その弟子たちが、バプテスマを授けたのではないだろうか。そのようにさせたのは、イエスがコリント人への第一の手紙の1章にあるような分裂を予期していたからかもしれない。
Jn 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
文脈を考えるべきだろう。ここから聖書はイエス・キリストについて書いてある書だとするのは、問題があるのではないか。永遠の命に関連させて、メシアについて証言しているととるべきなのかもしれない。しかし、あまり、狭く考えない方がよいとも言える。イエスが天の父なる神様のもとからきたことを証言しているととれば、神の性質について、表現している聖書は、イエスのことを証言していることになる。ヨハネによる福音書の主題は、イエスは神から遣わされたメシア、神の子であることの証言なのだから。「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(20章31節)
Jn 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
終わりの日の復活もなにかこの世的な復活を考えていた。しかし「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(ヨハネ第一3章2節)などを考えると、復活を新しい神からの命、真の永遠の命ととれば、御子と似た者となることなのかもしれない。神の国のことばは、世のことばでは、表現がむずかしく、信仰によってのみ、一部理解できるものなのかも知れない。
Jn 7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」(ヨハネ第一2章5節)神の御心を行おうとする者は、すなわち、互いに愛し合うなら、兄弟を愛するなら、神の心がわかり、イエスが、神からのメッセージを語っていることがわかるといっているのだろう。互いに愛し合うことには、そうなのかもしれないと思える、普遍性がある。
Jn 8:28,29 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
『わたしはある』はエゴー・エイミー = I AM である。ヨハネの中では『わたしは(「なになに」で)ある』と書かれることが多い。しかし、単独で書かれると、出エジプト記3章14節を想起するのが自然だろう。最近、ここの解釈が『わたしはある』ではなく『わたしはいる』としたほうがよいと言われているようだ。『わたしはともにいる』と結びついているからである。引用箇所も「わたしと共にいてくださる」と続いている。何にもよらず、存在する神というより、共にいてくださる神がメッセージとして語られているのかもしれないと思った。
Jn 9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
わたしが見るべきは「どうして」ではないのだろう。そのしるしをとおして、何を受け取るか。考えてみたい。
Jn 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
このあと「命を捨てる」「命を再び受ける」ことについて語られている。永遠の命はひとつなのかもしれない。それを、分かち合ってくださるのではないだろうか。ひとは、神の命をともに生きることに招かれていると解釈するのは、いきすぎだろうか。命を豊かに受けるようにしてくださる。パンを分けることとも通じるように思う。
Jn 11:9,10 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
イエスには、光の中を歩んでいる、光を持って歩んでいるという実感があったのだろう。だから「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 (8節)に対しても、その通りと言えるのだろう。光は「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」(10章17節)と言い切ることができるほどの、神の御心の確信だろうか。それよりも、父なる神への信頼と言った方が良いかもしれない。
Jn 12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(3章19節)とあわせて理解する必要があるだろう。光よりも闇の方を好むので、光にこない。それが、裁きの現実なのだろう。光にこないと、命がえられない。それは、滅びる者であると言うことである。ヨハネの記述は一環している。悪いことをしたから、裁くのではない。罪(不法=lawlessness)にとどまっている状態、神の御心を中心とせず、自分本位に生活すること、神が愛される、一人一人をたいせつにしないで、神の掟である、互いに愛し合うことをしない、すなわち、光にこようとしないものは、「愛することのない者は、死にとどまったままです。 」(ヨハネ第一3章14節)
Jn 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ICU初代総長(初期この名称を使う)湯浅八郎氏のことばとして残されている「ICU は決して回心を迫るような狭量な大学ではありません。キリスト教を人生観に掲げ、キリスト教により価値判断を下すという意味において、キリスト教大学なのです。あなた方はキリスト者になるように求められることはありません。けれども、私たちは、あなた方に --- あなた方一人一人に---キリスト者としての生き方で挑戦していくつもりです。」(湯浅八郎ー『国際基督教大学創立史』341頁」)にある「キリスト者としての生き方による挑戦」は、この「互いに愛し合う」ことだと表現できるように思う。もちろん、それは自発的な応答で、構成員に強いるものではない。引用した箇所は、それを表現しているように、わたしには、思える。
Jn 14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
わたしの掟は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13章34節)だと思って良いだろう。ここでは、父を愛する人は、私を愛する人、私を愛する人は、わたしの掟を守る人という流れではない。しかし、父に愛されるに置き換えると、これらは、等しいといって良いのかもしれない。もう少し探りたい。
Jn 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネの手紙一3章16節)イエスの生き方、死に方を「わたしたちのために、命を捨ててくださいました」と表現しているのだろう。イエスが、この世で、人々に、そして弟子たちに、仕え、愛し、命をも投げだしてくだっさった「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙第一3章18節)これも、まさに、イエスから、受けたことなのだろう。
Jn 16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
23節では「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」と書かれているが、24節では「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」となっており、与えられるかどうかの次、すなわち喜びの生活の基盤が与えられることが書かれている。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(15章11節)イエスと共に、イエスのように歩み、イエスが望むこと、すなわち、イエスの天の父なる神様が望むことを求め、イエスと喜びを共にする。わたしは、そのように生きたい。
Jn 17:4,5 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
この世で「栄光」を表している。神様がどのような方であるかを、イエスの言葉と行動によって示されたのだろう。そして、地上での生活を終えて、父のみもとに帰られる。そこでは、栄光が待っている。ひとがどう生きるかの模範のように思われる。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネ第一3章18節)この背景には、イエスの地上での生活がある。
Jn 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
「(わたしが王だとは、)あなたが言っていることです。」は、イエスが何回か言われた不思議なことばである。マタイ26章24節、27章11節、マルコ15章2節、ルカ23章3節。しかし、ヨハネ18章はその背景と、この言葉の意味することが分かるように思われる。この会話は「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)から始まる。それに対してイエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 (34節)と問うている。そのあとで「それでは、やはり王なのか」となっている。このピラトのことばも様々な取り方があるだろう。しかし「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」によって、尋問が逆転している。この意味の中身「王」の意味や「王」かどうかを問う意味も変わっているように思われる。もう少し考えてみたい。
Jn 19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
14節には「見よ、あなたたちの王だ」とユダヤ人に言っている。そう考えると、18章37節は預言ともいうことができる。イエスが王であることの意味は、正確には伝わっていない。しかし、王と認める状況に、ピラト自らが進んでいっているように思われる。それが「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」の意味するところなのかもしれない。
Jn 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
「見ないのに信じる」が信仰。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 (27節)と教え、実際に見せるのが愛。「イエスは天の父から遣わされ、真理を持っていると受け入れること」が信仰。「イエスが愛されたように、互いに愛し合うことが」愛、なのかもしれない。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)ここでも、信じることのあとに、命を受けることと表現されている。これは、命で、互いに愛することに招かれていることなのだろう。
Jn 21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
神を愛することと、兄弟を愛することが詰まっている。19節の「わたしに従いなさい」も。イエスが何もかもご存じですも、信仰の表現なのだろう。これの問いを、ペトロは、何度も何度も繰り返し考えたろう。一生の間。このときに、すべて受け取ったわけではない。

BRC2015(1)

Jn1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 
3章のニコデモとの対話を思い出させる。神によって、上から、霊によって与えられた、永遠の命に生きる。「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」ここにサマリヤの女との対話の真実をみる気がする。ヨハネを読みながら、1章に書かれていることを読み取っていきたい。
Jn2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 
本質(ヨハネのことばでは真理)を突き、かつ、こころの中まで刺し通すことが、イエスの説く命の本質であれば、これはせざるを得なかったのだろう。しかしこれに続く引用部分については、よくわからない。
Jn3:19,20 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
光よりも闇を好むのは、行いが悪いからとしているが、人は自律性をもって、ある方向を選んでいかなければならないと言うことなのだろうか。そして、イエスと共に、イエスに従って、神の前に歩いて行く。それが、闇よりも光を好む生活だろう。自律性がなければ、ひとは愛することができない。そして、光を選ぶことができない。それには、勇気は必要ないのだろうか。それは、人の資質なのではないだろうか。おそらく、そこは微妙で、その力を与えてくださるのが神様なのだろう。そこは分けることができるのだろうか。
Jn4:11,12 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 
この言葉には多くが詰まっている。「生きた水」は流水である。またサマリアの女は「わたしたちの父ヤコブ」と言っている。おそらく、ユダヤ人はそれを認めないであろう。21節ではイエスは神を父と呼んでいる。この対比も背景にある。流水が得られるのだとすれば、30m 以上も掘って、水たまりしか得られなかったヤコブよりも、偉いというのか。これにも泉のようにわき出すとイエスは答える。しかし、このように、女性が思いを、言葉にしたことで、すでに、築き始めていることがあるのだろう。このあと、急激な変化が起こる。
Jn5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 
ヨハネ2:25の「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」も関係しているかもしれない。この箇所で、ヨハネの証にまさる証を二つあげている一つ目が「行っている業そのもの」これがしるしであろう。しかし、本質的には、二つ目の父なる神ご自身の証、これでイエスは十分だったのだろう。むろん、霊によらなければ、人々には理解できないが。
Jn6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 
4章14節で「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ともつながる。4章34節の「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」にあるように、イエスはこれに生きている。ニコデモに伝えたのも、同じことだったかもしれない。イエスが与えるのは、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物である。それをしっかりと学びたい。
Jn7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 
39節をみると「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」と注をつけ、聖霊降臨以降のことをさしたと言っているようである。おそらくイエスは神の霊によって生きることを言っており、いつからということは、ないのではないか。弟子たちにわかる形で、聖霊の働きが示されてはいなかったかもしれないが。
Jn8:31,32 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 
30節を見ると「多くの人々がイエスを信じた。」とかかれそれに続いた言葉である。神から来られたことを信じたのだろう。しかし、言葉にとどまらない。光ではなく、闇を見ているからだろうか。3章20節にある「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」が変わらないからだろうか。神はどのように招き、力を与えてくださるのだろうか。それとも、ひとの意思だろうか。
Jn9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 
41節には「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」」3章17節には「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とある。裁くことは目的ではないのだろう。しかし、すでに裁きになっている。それは、見えないにもかかわらず「見える」と主張するからかもしれない。この章の最初の「神の業がこの人に現れるためである。」を阻害しているのかもしれない。
Jn10:38 しかし、(わたしが父の業を)行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 
神、そして、神の業の理解が鍵なのかもしれない。それが理解できていないと、神の業と認めることも、それを通して、神を信じることもできない。盲人の苦しみ、いやし、生きる姿、そして、喜び、そのなかに働かれる神、そしてその業が9章から問われている。癒やされたのが、安息日であったために、神の業が見えない。他にもいろいろな理由があるのだろう。
Jn11:25,26 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 
イエスのマルタに対する最初のことばは「イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、」である。これを、このときに起こる肉体の復活ととるのは、拙速なのかもしれない。イエスは、まさに、このメッセージを告げようとしたのだろう。イエスを信じる者は、永遠の命に生きる者なのだから。
Jn12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 
「彼ら(祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中(の)何人かのギリシア人)は、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」から話が始まっている。おそらく、じっくりとは会わなかったのだろう。それは、やはり普遍性の故かもしれない。常に、肉的に会うことはできない。常に、人々に仕えておられるイエスのことばである。それを心に刻みたい。
Jn13:35 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 
なぜこれが「新しい掟」なのだろうか。この章は洗足からはじまり、ユダの裏切りが書かれ、そしてこの部分に続いている。31節には「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」とある。27節に「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」とあるこの時点で、新しい時代に移ったと、イエスは認識したのだろう。それまでは、ユダが改心し、他の道へ進む可能性があると考えていたのか。イエスが友のために命を献げること、同じように「あなたがた」が互いに愛し合うことによって35節にあるように「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」これこそが、シモン・ペトロに言ったように「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ことなのかもしれない。
Jn14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。 
イエスは十字架上での死をどのように理解していたのだろうか。ヨハネを読んでいてあまり明らかではないように思われる。愛の行為であることは、知っておられたろう。互いに愛し合うそのときに見上げるような存在。そして、イエスにとっては、神の御心に生きる道。贖罪というひとつのことばで言うのは、かえって、見えなくしてしまう部分が多いように思われる。深く思考したい。
Jn15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 
「掟を守ること」と「イエスの愛にとどまること」が言われ、それは、イエスが「父の掟を守っていること」と「神の愛にとどまっている」ことと同じ関係であることが指摘されている。神とイエスの関係は今そのよう「であること」。私たちには、そのような関係にあることの鍵が解かれている。イエスについては、二つのことは、併置されているが、私たちには、そうではなく、掟を守ることが先に来ている。掟は「互いに愛し合うこと」(13:34)だろう。それがイエスの愛にとどまることだと明言している。
Jn16:26,27 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 
わたしたちと、イエスと、神の関係が書かれている。イエスはいちいちとりなす必要はない。わたたしたちが信じているのは、イエスと神の関係であり、それ故に、神ご自身が直接、わたしたちを愛しておられるのだ。神と結びつけるものが、ここにおられる。
Jn17:1,2 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 
「栄光」とは何だろう。「イエスを信じることによって永遠の命を持つ」ことだろうか。5節では「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と書かれていることを考えると、もっと本質的なものを言っているのだろう。そこで3節に至る「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」つまり、父なる神と子なるイエス・キリストは一体であり、そのみこころに近づきながら生きることが永遠の命につながるということか。もう少し整理していきたい。
Jn18:37,38 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ピラトは言った。「真理とは何か。」
非常に印象的な会話である。ピラトは真理の有無を議論しているわけではあるまい。しかし、真理を求めて生きているわけではない。そして、それがそれほどに重要だとも思っていなかったろう。イエスの「真理について証するために生まれ、そのためにこの世に来た」は象徴的である。光の方をむき、そお真理を聞きたい。
Jn19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 
18章37節で「そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」(33,34参照)と比較してみると、自立性とともに自律性を感じる。ある責任を負っているのかもしれない。自分の問題とできたかどうかは、わからないが。ヨハネはピラトの記述が長い。何らかの情報を持っていたのか。
Jn20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 
聖霊はことのきにも、弟子たちのこころに入っていったのだろう。しかし一般的には、ペンテコステのときを、聖霊降臨とする。弟子たちが認識したときと、ずれているのではないだろうか。聖霊をみとめることができるのは、聖霊の働きによるのだろうか。それには、時が必要だったのだろうか。基本的には、イエスのことばはと行為はそのときに成就したとみてよいだろう。たとえ、命令として書かれていても、行為を伴っているのだから。
Jn21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 
「愛している」ことと、「愛する」ことは、ギリシャ語の違いだけでなく、おそらく異なっているのだろう。そして、イエスを愛することは、一般的には、兄弟を愛すること、互いに愛し合うことであろうが、ペテロには、それを特別な形で、行うことを求めている。それが、イエスの羊を飼うことである。それを、託されているともいえる。それは、イエスがペテロを愛していること。ペテロに信頼していることをも、意味しているのだろう。わたしたちは、どうなのだろうか。イエスとの関係において。

BRC2015(2)

Jn1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
20章31節には「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と書かれている。イエスによって神を示された、そのことを伝えることで、イエスが神の子メシアであることをわたしたちが信じるようになるのだろう。福音書はそのために、書かれている。我々が「神によって生まれる」(13節)ために。
Jn2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
正直に言って、乱暴である。もう少し文脈があるなら理解できるが、ヨハネの書き方から、おそらく、それはなかったこと、そして、他の福音書とことなり、このことが、初期に起こったことを意味しているのだろう。15節・16節の記事「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」は、霊的な現実ともつながっていることを示していると思われる。その義憤が19節の言葉を生んでしまったのではないだろうか。イエスが少しずつ学ばれていくことは、キリスト教会では通常受け入れられないが、わたしは、学んでいく過程も感じさせられる。18節のユダヤ人たちのことば「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。」や、何度も引用している、22節から25節の「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」が自身の行動を決めていくようになったのではないだろうか。これはあくまでもヨハネの記述に対する感想で、もし、これが、最後の一週間に起こったことであれば、別の解釈になるだろう。
Jn3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
2章の最後のことばの立証が、ここにあるように思われる。イエスは、最初から、ニコデモに必要なもの、鍵を知っておられる。おそらく、ニコデモもある程度は気づいていただろう。その本質から、話し始めているように思われる。ヨハネにとっては、25節の例として、すぐこの記事を書いているのかもしれない。
Jn4:6,7 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
なにか惨めな感じすらするイエスである。旅に疲れ、井戸のそばに座っている。しかし、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。」(11節)とあるように、井戸のそばにいても、その水は手に入らない。水をくむものを弟子たちは持っていただろうと言われている。旅をするものの常である。しかし「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。」(8節)賢さは、くむ物を置いていくように頼むことによって発揮されるように思われるが、イエスはおそらく、それを第一にはしていないのだろう。わたしなら、弟子たちにそれを告げなかったことを悔いてしまうかもしれない。イエスは、この見知らぬ女性と会話を始める。その心にあること(闇)を見、霊的な(神様との関係についての)会話をし、かつ普遍的な真理(神の前の生き方)を告げる。イエスの賢さ(神との交わり、御心に生きる生活)に学びたい。
Jn5:13,14 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
なぜ、立ち去られたのだろうか。このあとの、目の見えない人の癒やしのときも、イエスはそのひとが戻ってきたときにいない。まずはマタイ6章の「人に見られるため」ではないことだろう。ひとからの賞賛を受けない。これは、神様の働きを自分の働きとする危険性をはらむと同時に、もっと大切なことを失うことになるのかもしれない。癒せばそれでよいとは、考えておられない。それが、そのあとの言葉の意味だろう。この人が(神様からの永遠の)命を豊かにもつことを願っているのだろう。それには、ある時間と個人的な交わりが必要である。
Jn6:34,35 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
イエスがこのように語ったのは、他に方法がなかったのかもしれない。聞いている者の頑なさのゆえに。イエスとそして示されている真実と向き合えば、理解できたのではないだろうか。霊的なことに敏感な人たちだから。しかし向き合うことはできない。わたしもそのような時がよくあるように思われる。愚かだと思うが、おそらくそれ以上のことを含んでいるのだろう。
Jn7:16,17 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
これは15節の「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」というユダヤ人たち(通常イエスに反対するひとたちの総称としてヨハネでは使われることが多い)の問いに答えている言葉である。その答えは驚嘆に値する。神の教えそのものだということ。神の「御心を行おうとする者は」それが分かる。羊は羊飼いの声を聞き分ける(10章)ということか。それを拒否する別の力学がこのユダヤ人たちそして私たちにも働いている。それは「御心を行おうとする」ことを拒否する力だろうか。澄んだ目で見たい。
Jn8:39,40 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。
アブラハムの子という表現には、それに連なる者、信仰の父につながって生きる者という意味が含まれているのだろう。だからこそこの言葉は真実である。イエスが神の子かどうかは、私たちが判断しなければいけないのだろう。それは、イエスが神の言葉を語っているから、神の業を行っているか。特に後者においては、命を与えているか、それとも「殺そうとしている」かが問われているのだろう。
Jn9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
2節には「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』」と始まっている。結局「ユダヤ人たち」はこの盲人が「全く罪の中に生まれた」と考えていたことになる、イエスは異なる。神は、この一人の盲人も愛し、ほかのひとと同じ尊厳をもった人格として認めておられたからだろう。「神の業が現れるため。」その中味をしっかりと学び取りたい。永遠(神)の命をもって生きるようになることだろうか。この盲人がひざまずいたときからだろうか。
Jn10:19-21 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
これがまさに9章39節などにある「裁き」なのだろう。二つに分かれてしまっている。「悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言う者。盲人の目が開けられたことを心に刻み「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。」と言う者。その両方がいることを、ヨハネは記述しているのだろう。このあとには、イエスを殺そうとする人たちとの議論が記述され、この章の最後、40節から42節の記述にもあるように、エルサレムから遠く離れたところでは、バプテスマのヨハネの事をしっている人たちが、イエスを信じている。
Jn11:32,33 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
43節では「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫び、ラザロは生き返る。なぜイエスはラザロを生き返らせたのだろうか。25節・26節にある「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」の実際の権威を持っていることを示すことだろうか。そうかもしれない。しかし上に引用した箇所を見ると、信仰者であっても、死の前に悲しみ、苦しむその姿の中に真実な者を見、その心と一つになりその苦しみを、自分のものとされたときに、この世で生きることと、霊的ないのちとの垣根を取り去ってしまわれたのかもしれない。わたしが学ぶべき事はまだまだ多い。
Jn12:20,21 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
このあと、フィリポはアンデレに話すが「フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。」(1章44節)とある。異邦人の町ガリラヤと言われているように、異邦人の往来も多く、知り合いだったのかもしれない。しかし、このあとの推移を見ると、イエスはこの人たちに冷たいように思われる。過越の祭りにエルサレム巡礼として上ってきた人たちが噂のイエスにお会いしたい。ここでもイエスは直球である。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(25節)配慮ばかりが愛することではないのかもしれない。しかし考えてしまう。このギリシャ人たちは、この言葉を受け取れたのだろうか。
Jn13:31,32 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
ヨハネによる福音書にゲッセマネの祈りはない。すでに、最後の晩餐に入っている。ユダが出ていったことと、ここでは結びつけているかのごとく「今や、人の子は栄光を受けた。」と言っている。時が確実に来たことを見ておられるのだろう。27節の「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」と、30節の「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」も関連して読まなければいけないのかもしれない。ユダは「裏切ろうとしている」(21節)人の目には、この時点ではよくは見えないが「心の中のことをよく知っておられる」(2章25節)イエスは、もっと前からご存じだったのだろう。「悪魔だ」(6章70節)とかなり早い時点から書かれているのだから。
Jn14:19,20 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
この20節の状態は、私が願っていることである。御心に従って生きる。神の喜びを喜びとする生活である。19節は復活後のことが述べられているようだ。どのような体かを問う必要はないのかもしれない。私たちの信仰は、今も生きておられる、主イエスキリストを愛することから始まるのだから。その命によって生きたい。
Jn15:12,13 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
「わたしがあなたがたを愛したように」は主イエスが、わたしたちの一人となって愛することを示すことで、互いに愛し合うことを示したことも含んでいるのだろう。ここに掟(口語:いましめ entolee)が現れる。10章18節「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」のあと互いに愛し合うことに関しては「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13章34節)が最初であるようだ。ヨハネではこれ以外は、14章15節、21節、15章10節のみである。
Jn16:2,3 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
1節は「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」と始まる。この章でも、すべてを理解できるように、弟子たちに話しているわけではない。それは、信仰が鍵だからだろう。しかし同時に愛ゆえに、弟子たちを兄弟として、たいせつなことを知らせた友として愛するが故に、どうしても伝えておかなければいけないことがある、として語っているのだろう。ユダヤ教のひとつの派として行動していた弟子たちが、いずれはそこから離れざるを得なくなる。これは、大きなチャレンジだったに違いない。ユダヤ教に残った人たちもいたのだろう。そのときに、弟子たちが、はっきりと思い出すために、イエスの言葉を。生活のすべてに関係している、共同体から追放されること、それも、正しいと大多数が主張する中で決定されることについても、もう少し考えてみたい。
Jn17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
23節には「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」とある。神と、イエス、父なる神と、子なるキリストが一致している(交わりの中にと書くのはおそらく弱い印象を受けるのであろうが)そのように一つとなること、または、イエスの中にいること、そのことによって一つとなる。イエスとの交わり抜きには存在しない、交わりであり、一致である。この一致によって、人々が、神様が愛する者たちの群れ、そして神様自体を知ることになると言っているのか。もう少し、言葉を洗練されたものにしたい。
Jn18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
このあと、ピラトは「それでは、やはり王なのか」と聞いているところからみると、どの程度理解していたのかわからない。しかし、はっきりと、ここでイエスは、この世に属していないことを伝えている。弟子たちが戦わなかったことには他にも理由があるように思われるが。
Jn19:34,35 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
死んだことの目撃証言が大切だったのだろう。水はなにを意味しているのだろうか。ヨハネは何を伝えたかったのだろうか。
Jn20:30,31 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
この目的のために編集して書かれている。一つ一つの出来事も、丁寧に経緯や、本質を追って記そうとしている。おそらう、言葉の使い方も、注意しているだろう。ゆっくりじっくり味わって読んでいきたい。あと2年ぐらいだろうか。
Jn21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ひとはなぜそれほど周囲のひととくらべたがるのだろうか。交わりにおいても本質的なのは、ボンヘッファーのいうように、イエスを通しての交わりなのだろう。隣人を愛することも、まずは、神を愛すること抜きにはありえない。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22章39節)あくまでも第二である。イエスという門を通り、イエスという羊飼いの声を聞き、イエスに従い、豊かに命を得る(ヨハネ9章6節・10節など)。そして受けたものを、友のために献げ(ヨハネ15章11-13節、1ヨハネ3章16節)、仕える、そこに、キリスト者の交わりがある。それが互いに愛し合うことである。

BRC2013(1)

Jn1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
このように伝えることが、1世紀の終わりに、この書を読んでくれる人たちに、最も適切にイエスのことが伝わると信じたのだろう。実体はこの書全体であかしされる。と考えると、まず、興味をひき、このあとを読み続けるためだったかもしれない。今の日本であればどのように伝えるべきだろうか。それとも、このことばから出ずに、中を探ることに集中すべきか。
Jn2:23-25 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
この早い時点で、神殿のこと(13-22)のことが記され、この言葉が続く。後から振り返ると、この23-25をここに欠かざるを得ないことを記者は悟ったのだろう。これによって不可解なイエスの行動を理解することができると。
Jn3:12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
ニコデモがイエスの元に来たのは、かなり初期のことになる。(v24) この12節のあとは、天上のことが書かれていると読むこともできる。ニコデモがこの時以降、聞いたことをまとめて書いてあるのかも知れない。この次の13節は次のように始まる。「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。」
Jn4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
共観福音書では、イエスがご自身のことを明確にあかしされたのは、かなりあとのような印象をうける。このときは、かなり早い時点である。ヨハネはそのことを伝えたかったのかも知れない。同時に、後になってから、考えると、そのときに本質的にはそれと同等のことを言っておられたと気づいたのかも知れない。
Jn5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
このように明確に書かれてあるとかえって驚かされる。28, 29節を見ると、これは、まさに、死者のよみがえりのことであることがわかる。マルタとマリヤが11章で復活を信じているとのべるのは、このような言葉を聞いているからだろう。どのようにかはわからないが、「今やその時である。」ということは、イエスのことばは、死者を生かす力があると言うことか。
Jn6:39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
40節はよりクリアではあるが、39節も興味深い。イエスに与えて下さった人、これは、40節では「子を見て信じる人」である。ひとりも失わずには、「イスラエルの家の失われた羊」(Mt10:6,Mt15:24) を思い出させる。イエスの場合は、ひとりも失わずにである。しかし、それもユダのように簡単ではない。イエスのこころには、感動を覚える。
Jn7:1 そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。
2節には「仮庵祭(ティシュリの15日から7日間)が近づいていた」とある。おそらく、十字架にかかる過ぎ越の半年前、すなわち、他の福音書に書かれている時期の真ん中頃には、この状況にあったと考えられると言うことだろう。5000人給食のあとである。
Jn8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
このあと、イエスが自分のことをあかししていると言って、パリサイ人たちに責められる。たしかに、論理的には、前にイエスが言ったこと(例5:31)と矛盾がある。7:22でも、ヨハネ記者が注釈をするほど事実誤認がある。しかし、イエスに真理がある。イエスをどう考えたら、どう表現したらよいのだろうか。
Jn9:34 これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
2,3節の問答「『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。」は、この節と対応していると思われる。しかし、旧約聖書での理解は、複雑であるように思われる。一度、じっくり理解してみたい。
Jn10:18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
この時期になって、ヨハネは、そのころのことを理解でき始めたのであろう。ことばはそのままかどうかは、分からない。しかし、透明な言葉には、衝撃を受ける。
Jn11:27 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。
マルタも理解はできなかったろう。しかし、イエスがどのような方かだけを知っていて、このように答えているのだろう。神様がどのようなかたで、イエスがどのような方か、すべては分からなくても、このように告白できれば幸せ。
Jn12:47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
イエスはキリストである。これは、わかりやすい。救い主以外の何ものでもない。
Jn13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
ついにこのときが来た。ここには「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」とある。その続きとして、足を洗われた事が書かれ (14節)、最後に、互いに愛し合うことが語られている。(34節) このことを告白できる弟子たちは幸せ。
Jn14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
「わたしを見た者は、父を見たのである。」すごいことばだ。いままで、福音書をとおしてイエスについてのあかしを読んできているが、それこそが、神についてのあかし。神様について知ることができることは幸い。
Jn15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
このことばと、15節が関係しているように思われる。「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」友と呼んだことに驚かされる。きよくされたものは、イエスのこころをこころとするものなのだろう。
Jn16:27 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。
イエスの友となるということは、父なる神が愛してくださるということなのだろう。イエスのこころを心としたい。
Jn17:14 わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。
わたしはどうなのだろう。世のものではない。たしかに、世と調子を合わせてはいない。しかし、神のものとなっているだろうか。御言をうけとることによって、神のこころを、わたしの心としているのだろうか。正直不安を覚える。あなたのものとしてください。ハイデルベルク信仰告白のように、ただひとつの慰めに生きることができればよいのだが。「問1 生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか? 答 わたしのからだも魂も、生きる時も、死ぬ時も1、わたしのものではなく、わたしのほんとうの救い主イエス・キリストのものであることです3。」(楠原博行訳)
Jn18:37 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」
このあとピラトは「真理とは何か」と問う。ピラトはなにを考えていたのだろう。イエスはなにを伝えたかったのだろう。
Jn19:5 イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。
「見よ、この人だ」この人を見よを思い出す。ピラトもふくめ、自らにチャレンジを与えているのだろう。しかし、見るだけでは分からないのかも知れない。
Jn20:22,23 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
マタイ16:19「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」を思い出させる。本質は、神を知ること、神のこころを心とすること、それは、神の霊によってはじめて可能となること、神の霊が自分のうちにも働くように願うことなのだろう。
Jn21:23 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
普通に考えるなら、ヨハネはこの時点で死んでいたのだろう。不安を払拭、そのあかしを残す。あまり死から時を移さずすることは、重要だったと思われる。初代教会がつぎの世代へと移っていく、様々な困難をはらんだ時代だったと考えられる。

BRC2013(2)

Jn1:24 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
これには、ヨハネは直接は答えていない。そのあとに続く言葉が重要だから、省略したのかもしれない。いずれにせよ、ファリサイ人の質問は「なぜ」というより「誰が権威を与えたか」が中心で、イエスにこの質問を投げかけた、Mt21:23-27と同じなのかもしれない。
Jn2:18,19 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
この状況では、いろいろな応答の仕方があったのではないか。しかし、一般的には、これは、少し乱暴。つまずいたひともいたのではないか。それは、良いのだろうか。それとも、弟子達のあとからの思い出が語られており、この状況がつぶさに記されていないのかもしれない。
Jn3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
これは何を表現しているのだろう。なにが同じなのだろう。見えるものではない。すべて人が理解できる中で起きる事ではないという事だろうか。いつか、ヨハネをしっかり学んでみたい。
Jn4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
ここでの「知っている」は「eidoo (to see)」これは、やはり一部分。その事の故か、この次に感激するような言葉が続く。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」この違いをもっと学びたい。
Jn5:17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。
これは16節にあるように「そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。」に対する応答である。他にもいろいろと応答があったろうに、このように答えている。これも、神様のこころをイエスが自分のこころとしているからか。
Jn6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
当然の人間の感覚だが、いつも私たちを愛し、私たちの欠乏を補い、働いておられる神様が見えていない。神様への信頼がないと言う方が正しいかもしれない。それを、信仰がないと言うのかもしれない。
Jn7:52 彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。
41節には「ほかの人たちは『このかたはキリストである』と言い、また、ある人々は、『キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。』」 との議論が記されている。異邦人のガリラヤは、ユダヤ人からは見下されていたのかもしれない。ヨナは、ガテヘベル(2King14:25)の出身でガリラヤの出身、他にもいると言われている。
Jn8:29 わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」。
これこそが神の子の証なのだろう。これを支えるのは、知識もあるのかもしれないが、遣わされているという使命、神から与えられているという確信がある。わたしたちは、何をよりどころにするのか。神から愛されていることと、イエス・キリストを賜ったということが対応しているのか。それによって、みこころにかなう事をしていればだが。
Jn9:7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
8章には、イエスが遣わされたものであるこが書かれている。(8:42 など、基本的に8章全体)その意味でも、このシロアムは印象的である。
Jn10:14,15 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
この知るは、ギノースコーが用いられている。学び知る。to learn to know この知るはやはり特別な感覚である。経験を通して深く知る。もう少しよい表現を探したい。
Jn11:22 しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。
これは、信仰告白であろう。個人的には、神様のこころを心としているから、イエスの願いはかなえられるのだとおもう。
Jn12:42,43 しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
Rm10:9,10 を思い出す。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」そしてこの次の11節は「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。」と続く。どのように、言葉で表現したらよいかわからないが、真理と現実がよく現れている。
Jn13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
Mt23:1-12 と対応しているだけでなく、同じ時だったかもしれないとさえ思う。水曜日の夜。イエスが望んでいたもの、それはこのようなものか。
Jn14:5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
これに対するイエスの答えが「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』。」である。このあともトマスとのちぐはぐな会話は続く。いろいろな事がつながっていないのか。これをすべて聖霊を受けていないからとするのは、問題なのだろう。
Jn15:12,13 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
わたしがあなた方を愛したように、ここにつながっている。そして、それは、友のために命を捨てる事につながっている。弟子達は、特にヨハネは、これをどう理解したのだろうか。
Jn16:2 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。
ひとの考える正しさでは、判断できない事がある。では、その判断の根拠は何に置けば良いのだろうか。それとも、ある普遍性からある程度判断できるのだろうか。
Jn17:21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
みんなの者が一つとなる。これが一番の願いとすると、ヨハネによる福音書が書かれた時点で、すでに、難しかったのかもしれない。この祈りを共有したい。
Jn18:22 イエスがこう言われると、そこに立っていた下役のひとりが、「大祭司にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
同様の箇所が、Acts 23:1-5 にある。ここではパウロは、4節で「すると、そばに立っている者たちが言った、『神の大祭司に対して無礼なことを言うのか』。」に答えて、「パウロは言った、『兄弟たちよ、彼が大祭司だとは知らなかった。聖書に『民のかしらを悪く言ってはいけない』と、書いてあるのだった』。」イエスの答えは、「イエスは答えられた、『もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか』。」この比較が、パウロの答えをよりテクニカルと思わせてしまうのだろう。
Jn19:10,11 そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
イエスの自由さは、この権威に関する信仰に依っているように思う。すると、それは、私たちも同様である。その自由さをもって互いに愛しあう生き方をしたい。
Jn20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
なぜこの時点で、マリヤは、イエスだと気づいたのだろう。ここでは、イエスの「マリヤよ」ということば、これは、日常的に接していたイエスがよみがえってきたと言うことだろう。そしてこのこともイエスの側からの語りかけによって得られている。
Jn21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
イエスに従うこと、すなわち神を愛すること、そして、兄弟を愛すること、すなわち隣人を愛することが私たちに求められていること。しかし、隣人が神を愛するかどうかは、神とのどのような関係にあるかは、重要ではないと言うことか。も少し考えたい。


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使徒言行録

使徒言行録(1)

使徒言行録は日本聖書協会の新共同訳の名前で、同じ日本聖書協会ものでも口語訳では使徒行伝となっています。日本聖書刊行会の新改訳を読んでおられる方は使徒の働きとなっています。英語では Acts と呼ばれます。この書を何と呼ぶかで、その方がその聖書の訳を読んでいるかが大体わかるとも言えます。

ルカによる福音書についてに書きましたが、ルカによる福音書と使徒言行録は双子のようなもので、二巻本といっても良い形式になっています。ルカによる福音書 1章 1‐4節と、使徒言行録 1章 1‐2節を見比べてみて下さい。後者は「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」となっていますから、天にあげられた日以降についてが、使徒言行録となっています。1章を読むとそのいきさつが繰り返されています。著者は聖書に三回名前の出てくる医者ルカ(コロサイの信徒への手紙 4章 14節、テモテへの手紙二 4章 11節、フィレモンへの手紙 24節)だとされています。医者であることは、コロサイの箇所にも書かれていますが、ルカ4:35で「けいれんする」という医学用語をもちい、ルカ9:38では「医者が診察する」時に使う言葉を用い、さらに、ルカ18:25 では「針の穴」という言葉も、マタイ、マルコでは、通常の縫い針を意味する言葉を使っているのに対して、ルカは外科医がもちいる針ということばを使っていることからもわかるそうです。(William Barkeley, "The Daily Bible Study")

使徒言行録でまず目をひくのが1章6-8節です。引用してみましょう。

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエスによるこの宣言がローマにまで至る経過を記録したものが使徒言行録だとも言うことができます。まだ先があることの、最初の部分と言うことができるかも知れません。

単に、遠くまで伝わるということだけではありません。
C. H. Turner による6つの区分として知られているものに次のものがあります。

  1. 1:1-6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
  2. 6:8-9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
  3. 9:32-12:24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。
  4. 12:25-16:5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。
  5. 16:6-19:20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
  6. 19:21-28:31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
引用したのはすべてそれぞれの区分の最後の節です。つまり、神のことばの進展の様子が書かれているとも言うことができると思います。

もう一つは、多様な人たちに福音がとどいていくことによりその中味が明らかにされていく様子の記述、とも言えるかも知れません。これは、イエスがすでに地上にはおられないときに、イエスの弟子達に投げかけられたむずかしい問いに答えていく営みとも言うことができると思います。使徒言行録を読みながらわたしも考えさせられた問いを書いておきます。

  1. ユダヤ人に与えられた律法を守らなければ、ひとは救われないのか。
  2. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。
  3. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。
  4. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないのか。
これらの問いは、使徒言行録の中でも問われていると思いますが、今の私たちにとっても単純な答えが用意されているわけではない問題だとも言えるのではないでしょうか。そして、人々の平和、それぞれの共同体に関わる、日常的な営みに対する問いともなっています。

使徒言行録(2)

サウロという人が、使徒言行録7章58節に初めて登場、9章に回心記事があり、その後9章中頃から一端姿を消します。11章で再登場、それ以降は、このサウロが使徒言行録の中心的人物となります。このサウロが使徒言行録13章4節ー12節の出来事以来、パウロという記述に変わります。そしてそのパウロ由来の書簡が、使徒言行録のあと続きます。そこで、この「サウロ、またの名はパウロ」(13章9節)についていくつか引用しておきましょう。

まず、はじめて、サウロが登場する場面、7章58節です。引用は新共同訳聖書からとします。

(ステファノを)都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
ステファノは、イエスの弟子の最初の殉教者と言われている人です。そして、回心記事です。実は、この回心記事は、使徒言行録に3回記載されています。1回目は9章、あと二回は、22章と26章のパウロの弁明の中に現れます。9章の最初1節から6節を引用します。
1:さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 2:ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 3:ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 4:サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 5:「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6:起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
次は、再登場の箇所です。11章22節から26節。
22:このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。 23:バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。 24:バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。 25:それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、 26:見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
バルナバというひとが重要な役割を果たしていることが分かります。バルナバについては、4章36節、37節に記載されています。
36:たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 37:持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
このあと、13章から、サウロと一緒に海外伝道旅行に出ます。その最初の訪問地は、バルナバの出身地でもある、キプロス島です。そこに「地方総督セルギウス・パウルス」の回心記事が書かれ、その直後に、最初に引用した、「サウロ、またの名はパウロ」の記述があり、このあとは、ずっとパウロとなります。そして、この記事以降「バルナバとサウロ」だった記述が「パウロとその一行」(13章13節)または「パウロとバルナバ」(13章14節)に変わります。特に何も記されていませんが、パウルスというのは、ギリシャ語名で、パウロと書かれてる名前と同じですし、サウロは、パウロの属するベニヤ民族でイスラエルの最初の王となったひとの名前、パウロは「ちいさい」または「小さき者」という名前だということを考えると、いろいろと想像してしまいますね。

中心部分とはずれてしまいましたが、バルナバと「サウロ、またの名はサウロ」について少し書いてみました。みなさんが、すこし親近感を持って、使徒言行録や、この後の書簡を読むことができればと願って。

使徒言行録(3)

わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(新共同訳 ヨハネによる福音書17章 11節)
上に引用したのは、ヨハネによる福音書17章に書かれている、イエスの祈りのことばです。イエスが十字架にかかる前に弟子たちと食事を共にしたときの一コマです。使徒言行録は、イエスが十字架上の死と復活の後神のみもとにもどり、残された弟子たちの物語です。イエスが弟子たちと共にいたときは、なにか問題がおこったり、だれかからか非難を浴びれば、イエスが答えて下さいました。弟子たちは、それを通して学んだことは多かったでしょう。しかし、使徒言行録でみてもわかるように、あたらしい問題がどんどん発生し、弟子たち、そして弟子の弟子たち、いろいろな形でイエスを救い主と信じるようになった人たちは、その問題に自分たちで対応し、解決していかなければならなくなったのです。使徒言行録は、その記録だともいえます。使徒言行録を読みながら、問題を理解し、それに弟子たちは、クリスチャンたちはどのように対応していったのかを読み取るのも一つの方法ではないでしょうか。

このグループのリーダーはどのような人たちだったのでしょうか。4章13節には次のように書かれています。

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
口語訳では「無学な、ただの人」だと記されています。イエスと一緒にいたこと以外、あまり取り柄のない、「無学な普通の人」がリーダーでした。

実際に読んでいくと、問題だらけであったことがわかります。しかし、同時に、ひとくぎりひとくぎりのまとめのように、次のようなことばも添えられています。問題と、それにどのように対していったかの記録と共に、まとめたことばにも目を向けて頂ければと思います。

44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46:そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(新共同訳 使徒言行録2章44節-47節)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
(新共同訳 使徒言行録9章31節)
他にもいくつもあります。見つけて下さいね。

いのちのことば社「新聖書注解」斎藤篤美
使徒の働き 梗概

  1. エルサレムにおける宣教 1:1-5:42
    1. 40日間とその後 1:1-26
    2. ペンテコステ 2:1-47
    3. 最初の奇蹟 3:1-4:31
    4. 教会における信仰と財産 4:32-5:11
    5. 二度目の逮捕 5:12-42
  2. サマリヤへの伝道 6:1-9:31
    1. 執事 6:1-7
    2. ステパノの宣教 6:8-8:1a
    3. ピリポの宣教 8:1b-40
    4. サウロの回心 9:1-31
  3. アンテオケ教会の設立 9:32-12:25
    1. 西パレスチナのペテロ 9:32-43
    2. コルネリオ物語 10:1-11:18
    3. アンテオケ 11:19-30
    4. ヘロデ・アグリッパ1世 12:1-25
  4. パウロの第一回伝道旅行 13:1-15:35
    1. 国外伝道 13:1-12
    2. ピシデヤのアンテオケ 13:13-52
    3. イコニオムからデルベへ 14:1-28
    4. エルサレム会議 15:1-35
  5. 第二回伝道旅行 15:36-16:5
    1. 伝道旅行へ 15:36-16:5
    2. ピリピ 16:6-40
    3. テサロニケからアテネへ 17:1-34
    4. コリント 18:1-17
    5. 帰途へ 18:18-22
  6. 第三回伝道旅行 18:23-21:26
    1. エペソ 18:23-19:20
    2. マケドニア 19:21-20:6
    3. エルサレムへ 20:7-21:16
    4. エルサレムのパウロ 21:17-26
  7. ローマへ 21:27-28:31
    1. パウロの逮捕 21:27-23:30
    2. カリザリヤ 23:31-25:12
    3. パウロとアグリッパ 25:13-26:32
    4. ローマへ 27:1-28:15
    5. ローマにて 28:16-31

使徒言行録(4)

使徒言行録の著者のルカは温厚なひとのようで、問題を際立たせて書くことはしませんが、使徒言行録を読んでいくと、キリスト教会は、最初から様々な問題に直面し、乗り越えていかなければならなかったことが分かります。

早い段階で、教会運営の共同責任者(通常「執事」と呼ばれますが)に選ばれた「“霊”と知恵に満ちた評判の良い(使徒言行録6章3節)」7人の一人のステファノがユダヤ人たちに石で撃たれて殉教の死をとげます(使徒言行録7章54節-60節)。さらに、イエスの弟子たちの中でも、つねに筆頭に名前が出、特別な機会にイエスのお供をしたペテロとヤコブとヨハネの三人のうち、ヤコブがヘロデ王(ヘロデアグリッパ I 世)によって剣で殺されます(使徒言行録12章1節,2節)。ペテロやヨハネも何回か投獄されます(使徒言行録4章3節、12章3節-19節)。

教会の中でも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有して(使徒言行録4章32節)」いましたし、続く34節には「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」とも書かれていますが、5章には土地を売った代金をごまかしていた夫婦のことが書かれています。上に書いた教会運営の共同責任者が選ばれたのは「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。(使徒言行録6章1節)」と書かれています。

ここにも書かれているように、弟子の数が増えていったことも確実なようで、この章の7節には「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」とも書かれています。ユダヤ教の指導者の中にも「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』(使徒言行録2章38節,39節)」や「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。(使徒言行録3章17節-20節)」というメッセージに応答した人たちがたくさんいたと言うことです。

しかし問題は、続きます。この上に引用した「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」は、本当に誰でもなのだろうかということです。早い時点から、世界中に広がっているユダヤ人で、エルサレムに上ってくる人たちの中には2章にあるように、信じる人たちが起こされますが、ユダヤ教の人たちが似て非なるもの、正統ではないとしていたサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人との混血が中心)にも広がります。「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(8章25節)」イエスもサマリヤ人といろいろな形で接触していましたから、これには、あまり違和感がなかったものと思われます。ユダヤ教への改宗者の入信記事が8章26節-40節に書かれています。しかし、完全な異邦人、異教徒が「わたしたちの神である主が招いてくださる者」に入るのかどうかはおそらく考えられていなかったのではないかと思います。異教徒とは極力関係を持たない。家に入らない、食事を共にしないのがユダヤ人の慣習だったからです。

このことの大きな変化が段階的に書かれています。10章に記されているコルネリオの回心とバプテスマ、11章のその弁明、アンテオケ教会でのギリシャ人への宣教、13章から14章に記載されているバルナバ、パウロによるキプロスとトルコ伝道、そして15章のエルサレムでの会議です。ここで異邦人も「わたしたちの神である主が招いてくださる者」に含まれ、ユダヤ教徒にならなくても、神の霊である聖霊を受けることができることが共有されていくのです。このあとパウロを中心とした宣教は、ローマまで届きます。

それぞれの段階での発展は、単純ではありません。最初サマリヤに広がっていくときも、実は、ステファノの殉教に端を発した迫害から逃れるために、エルサレムを離れたためでした。その後も、ユダヤ教との様々な問題からエルサレムでは十分な活動ができず、シリアのアンテオケ教会や、後には、トルコ西部(小アジアとよばれる地域)のエペソやコリントなどが中心となっていきます。一般的には、問題ととらえられるようなことが「わたしたちの神である主が招いてくださる者」の範囲をひろげ神がすでに清くしてくださり(10章15節, 28節)愛してくださるものへの理解が広がっていったことは、使徒言行録を読みながら、考えさせられることです。ペテロの言葉が次のように記されています。

使徒言行録10章34節, 35節 34:そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
35:どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
この使徒言行録のテーマとも言うべきものは、1章8節に書かれています。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
聖霊は神の霊、力をもって働き、神のこころをも理解させるものと書いておきます。その働きが随所に現れます。先ほどのペテロの告白のあとには、このように付け加えられています。10章44節-47節です。
44:ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
45:割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
46:異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
47:「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
エルサレム会議では、15章1節
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
や、5節
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
が議論されますが、最後まとめとして、文章が作られます。23節-29節ですが、
27:聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
28:すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
なにか中途半端に感じる人もいるかもしれませんが、
18:それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
19:ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
20:モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」
とも書かれています。ユダヤ教から信仰に入った人への配慮もあったのでしょう。次の問いの一つへの対応でもあります。

すでに書いたことと殆ど同じ問いですが、この C や D に対する問いかけでもあると思います。

A. ユダヤ人に与えられた律法や言い伝えを守らなければ、ひとは救われないのか。
B. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。
C. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。
D. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないのか。
いまも、この問いかけは、ある意味で続いています。みなさんは、どのように答えますか。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Acts 1:15 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていたが、ペトロはその中に立って言った。
正確な数ではないだろう。なんとなく、十二人の十倍という数を暗示させる。しかし、おおよそという意味では、正確なのだろう。十二人をイエスが選ばれたときとは、おそらく状況が異なっている。しかし、イエスの死と、復活という出来事を通して、残り、呼び集められた人たちであることは確かだろう。「きょうだい」と書かれている。そのなかで、くじを使うことになった。人間のできることには、限りがある。その意味で、新しい、一歩だったとも言えるかもしれない。むろん、その方法を絶対化するわけではない。しかし、ゆだねつつ、自分たちで決めなければいけないことがいくつも世の中にはあるのだから。主はそれを信頼して見守ってくださっているのだろう。
Acts 2:36 だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
この二章のメッセージはとても重要であると思う。しかし、わからないことも多い。ここでは、メシアとなさったと言っている。イエスはそのような方なのだろうか。復活の証人ということばが出てくるが、この時点で、弟子たち皆の合意ができていたのだろうか。ルカが、少しあとから、聞き取ったことを、振り返って、描いているのだろうが、ここから、一つ一つ確認していくのは、難しいように思う。あまりにも証言が少ない。
Acts 3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
「あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。」(15)にある復活と、引用句にある、再臨信仰が固まっている。やはり、大分、時間がたってからのことのように思われる。しかし、事実を確認して、イエスまで戻ることは難しいように見える。どうしたら良いのだろうか。
Acts 4:19-21 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。
やはり、状況をみると、たとえ一方的な記事ではあっても、「大祭司(たち)、議員、長老、律法学者たち」(5)のかたくなさに目が行ってしまう。しかし、この「人々」の側に立ってみると、ひとりの足の不自由なひとがいやされたことが、世界をかえるようなしるしとして受け入れられないと考えても不思議はないとも思った。同時に「人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。」(13)からも、目をそらしてはいけないとも思った。謙虚さだろうか。守りたいものがあると、柔軟にはなれないのは、確かである。そしてそれは、だれでも持っている。
Acts 5:30-32 私たちの先祖の神は、あなたがたが木に掛けて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはこのことの証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、そのことの証人です。」
非常にまとまっている。そのように証言させているのだろう。実際のペテロやヨハネの証言を知りたいが、同時に、ヨハネは、このような証言を受け入れてもいたのだろうとも思った。すくなくとも、キリスト教会に、これが書かれた当時には受け入れられていたということか。イエスの死後、50年ぐらいだろうか。この急成長には、驚かされる。
Acts 6:9 ところが、「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」と呼ばれる会堂の人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などが立ち上がり、ステファノと議論した。
どうも、なぜ、この人たちが「また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。」(12)ここまでするのかよくわからない。しかし、一つわかるのは、パウロが「私は確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの町の市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」(使徒21章39節)と言っていることである。すなわち、ここには、サウロ(後のパウロ)もいたということか。でも、どうも、他のグループもいたようである。もう少し背景を理解したい。
Acts 7:51,52 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。
怒らせたのは、ここだろうか。イエスのことは、まだ、ほとんど述べていない。かなり衝動的に見える。これを止めることはだれもできなかったのか。恐ろしい状態である。
Acts 8:15-17 二人は下って行って、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った。
ステファノ殉教後の迫害で「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」(5)から始まっている。そして、魔術師シモンの事が書かれ「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした。」(14)に続いて書かれているのが引用句である。フィリポでは、聖霊は降らなかったようである。使徒と使徒以外で、差が表現されている。つまり、常に、聖霊が下ったわけではないのだろう。同時に、多少、魔術的な感じをうける記述にもなっている。全体としては、シモニアを諫める記述にはなっているが、すでに、伝説化しているとも言える。正確に理解するのは、難しいと感じた。
Acts 9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」
聖霊が降るかどうか、興味をもって読んでみた。しかし、明確ではない。聖霊の働きがたいせつであることを主張しているとともに、アナニアが手を置き祈った結果については書かれていない。これからも、丁寧に読んでいきたい。
Acts 10:44,45 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
ペトロという使徒のもとでは、聖霊が直接的に降る。そして、それが大きな証拠となる。それが、使徒言行録のひとつの論理なのだろう。おそらく、難しい判断を、この特別啓示にゆだねているのだろう。「それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファのきょうだいも何人か同行した。」(23)ともあり、ことが慎重に、しかし、信頼関係を築きつつ行われたことがうかがわれる。サマリヤ人への宣教とともに、ここは、特別に重要な転機だとしているのだろう。
Acts 11:15 私が話しだすと、聖霊が最初私たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
ここでも、聖霊による認証が行われたことが書かれている。さらに、バルナバについても、立派であることの証拠として、聖霊に満ちたという表現をしている。「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。」(24)上からの啓示に頼る以外に、方法はなかったとも言えるが、イエスが地上で、神の国は近いといったこととは、少しずつズレてきているようにも見える。
Acts 12:12 そうと分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
使徒言行録にマルコは四回(引用句と、12:25, 15:37, 39)登場するが、ここが最初である。ルカの時代にも、重要なひとだったと思われる。引用句は、ヤコブがヘロデ王に剣であっけなく(何の説明もなく)殺され、ペトロにも矛先が向けられて、捕まり、そこから、逃げ出すことができ、行った先として、マルコの母の家がで登場する。この時点では、様々なところに信徒がいたのではないだろうか。このときの番兵について聖書協会共同訳では「ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで連行するように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在した。」(19)とあり、以前の「処刑するように命じ」から変わっている。ἀπάγω(to take off (in various senses):—bring, carry away, lead (away), put to death, take away.)
Acts 13:48,49 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を崇めた。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
ここに、「異邦人のほうへむかう」(46)との記述があるが、聖霊がくだったという記述はない。パウロとバルナバ、またはパウロの宣教で、いつから聖霊が降るようにかかれているかは注目して見ていきたい。ルカはどう考えていたのだろうか。
Acts 14:16,17 神は過ぎ去った時代には、すべての民族が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」
「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(15b)と語りだしている。創造は、すべてのひとに関わるということ、そして引用句では、一般恩寵について語っている。しかし、それと、イエスが神の子キリストであることを結びつけるには、かなり大変であるようにも見える。創造についても、現代では、様々な考え方があり、単純には、受け入れられないだろう。
Acts 15:22 そこで、使徒と長老たちは、教会全体と協議して自分たちの中から人を選び、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することにした。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの間で指導的な立場にいた人たちである。
お目付け役の指名である。パウロが議論に強いことは、十分知られていただろう。すると、シラスは、ある程度の年齢で、パウロにも、しっかりと意見ができるひとだったのかもしれない。同時に、人格的にも優れて、皆の信頼が得られる人だったのだろう。そのようなシラスとの旅、そのことをあまり意識していなかったので、シラスについても、注意して少しずつ学んでいきたい。
Acts 16:37 ところが、パウロは警吏たちに言った。「高官たちは、ローマ市民である私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ったあげく投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ。」
看守の感動的な話が書かれているあとの記事である。わたしは、ローマ市民であることを、このように使うことにあまり良い感情をもたないが、その社会を理解していないということなのだろう。ここは「わたしたち」と書かれている箇所が多く(11,16)ルカも一緒にいたと思われる。ルカはどのように感じていたのだろうか。まだ、ほとんどキリスト者がいない状況で、どのようにしていくことがよいと考えたのだろうか。
Acts 17:16,17 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て、憤りを覚えた。それで、会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合った。
パウロを責めることはできないが、パウロの特質と、キリスト教の未熟さも感じてしまう。そして、それは、現代にまで続いているのかもしれない。神様が他者を愛することを受け入れることは、そう簡単ではないのだろう。難しい。
Acts 18:4,5 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。
「メシアはイエスである」と証しするということは、相手はユダヤ教に十分な知識を持っていたことがわかる。すると「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。」の部分も、ギリシャ人で、ユダヤ教に改宗したり、または、それに近い人達ということになるように思われる。コリントだけでなく、エフェソでも(19)「一行がエフェソに到着すると、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。」ユダヤ人または、ユダヤ教に近い人達に語っている。実際、アテネで経験したように(17章)まったくの異邦人に語ることは難しかったのかもしれない。それにしてもパウロは我が道を行く。「人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロは聞き入れず、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って、別れを告げ、エフェソから船出した。」このようなひとと話すのは、疲れただろう。
Acts 19:5-7 人々はこれを聞いて、主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。
エペソでのこの経緯は興味深い。「何人かの弟子」と言われており、ヨハネのバプテスマを受けているが、聖霊については知らないという。そして、ここで、聖霊が降る。このときが最初ではないかもしれないが、人数など詳細が書かれており、これまで、明確に書かれていたのは、十二使徒であったもの(ほとんどペトロ)に、パウロが加わる。パウロはこのことを明確には語らないが、聖霊によるバプテスマとういことでは、使徒にしかできないかもしれないと思われていたことに道が開かれたのだろう。ここでは、コリントなどとは異なり、異邦人にも語っているようである。それ故に、デメトリオら、銀細工人の反発を買っている。
Acts 20:24-26 しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと、私には分かっています。私はあなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。
ルカが同行していたと思われるので、ほぼこのようなことをパウロは語ったのだろう。しかし、正直、これを、主のみこころとするかどうかは、わからない。パウロは、確信していたのだろうし、それを、間違っていると言うこともできないが。ただ、現代でも似たことは起こる。そのときに、自分であっても、近くにいる人であっても、どう対応したら良いかは非常に難しい。そして、宗教の怖さでもある。絶対化が図られてしまう。しかし、直接啓示を否定することもできない。主のみこころがはっきりしないなかで、主に従っていく。そこに信仰があるように思うが。
Acts 21:20,21 人々はこれを聞いて、神を崇め、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセに背くように教えているとのことです。
非常に微妙な問題で、パウロは、もっといろいろと言いたいことがあり、議論もしたかったろう。「あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して」とすることで、これは、間違いだとできるのだろうが、微妙なケースは、ルカもたくさん知っていただろう。異邦人の間にいるユダヤ人、このひとたちが、キリスト者になったときは、異邦人でキリスト者になった人の側も、ユダヤ人でキリスト者になった人にも、多くの難しい問題があっただろう。特に、ユダヤ人でキリスト者になった人たちにとっては、家族や、同族などに、なかなか理解されないことも多かったろうから。その中で、ともに、食卓を囲むのは、たいへんだったろうと、想像もつく。
Acts 22:21,22 すると、主は言われました。『行け。私があなたを遠く異邦人のもとに遣わすのだ。』」パウロの話をここまで聞いていた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
「ここまで聞いていた人びとは」の「ここまで」が、直前のことばを意味するかは不明だが、まずは、そこから考えてみることにした。ユダヤ教でも、異邦人に伝えることは、ある程度されていたようである。ただ、それは、律法を受け入れて、契約をもって「ユダヤ人」に成ることである。しかし、パウロは、この証で、二回の啓示について語っている。ダマスコ途上(6-11)と、エルサレムでのこと(17-21)。背景になっていることは、ユダヤ人は理解できていたはずである。それが、これらの啓示で変わり、かつ、ユダヤ人がなかなかできなかったことを大々的に行い、「成功」をおさめ、ユダヤ教で大切にしていることを変更している。そのことに脅威を感じたか。もう少し、ユダヤ人の気持ちになって、考えてみたい。
Acts 23:14-16 彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も口にしないと、堅く誓い合いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところに連れて来るように、最高法院と組んで大隊長に願い出てください。私たちは、彼がここに来る前に殺してしまう手はずを整えておきます。」しかし、パウロの姉妹の息子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。
パウロの姉妹たちも、エルサレムにいたこと、おそらく、キリスト教(ナザレ人の分派(24章5節))に改宗していたことがわかる。それにしても、血気盛んである。おそらく、パウロもそうだったのだろう。日本にいると、なかなか理解できない。どう考えればよいのだろうか。
Acts 24:14,15 ただ、このことははっきり申し上げます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道に従って、先祖の神に仕え、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。さらに、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
微妙な言葉だと感じた。前半も、「先祖の神」とし、「律法に則したことと預言者の書に書いてあること」と書きつつ、守っているとはせず、「信じています。」としている。微妙に、争点をずらしている。さらに、後半、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」も、誰の希望なのか、微妙だが、「この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」ということで、ユダヤ人の中に、分断を生じさせている。同時に、ルカは、注意深く、言葉を選んでいるようにも思える。
Acts 25:10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのように、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。
このあとに、皇帝に上訴している。明らかに、ユダヤ人との対話に背を向けている。自分が正しいということを、絶対化しているように見える。わたしには、このような生き方はできない。イエスは、これを良しとはしなくとも、受け入れておられるのだろう。難しいが、イエスの道を求めていきたい。
Acts 26:22,23 ところで、私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる、と述べたのです。」
アグリッパの前での弁明である。ここで、要点は、二つ。一つは「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。」と「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」ということ。後者が、パウロの信仰の核心であることは、理解できるが、前者は、訴えた者たちや、ユダヤ教の伝統を否定しているわけではないということだろう。パウロなら、ここからスタートして、様々な議論ができるのだろうが、あまりにも、膨大で、やはり、人間の知恵に属することのように思われる。どうなのだろうか。極力公平に見ていきたい。
Acts 27:43,44 百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船にある物につかまって行くように命じた。こうして、全員が無事に上陸した。
百人隊長がどの程度、このことによって、パウロを信頼したかを確認しておきたい。それは、おそらく、ローマについてからの、パウロにも大いに影響をきたしたと思うからである。「船にいた私たちは、全部で二百七十六人であった。」(37)とあり、ルカも同行していると思われることから、概ね、(真実の告白というより)事実と考えてよいだろう。パウロは「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」(24)と告げられた天使の声を根拠としている。これが、神の御心かどうかは、確認できないが、パウロがエルサレムで捕らえられてから、または、その前から、望み、御心と確信していたことではあろう。「かなりの時がたって、すでに断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。」(9)このパウロの助言に従っていればと語っているが、これは、特別啓示ではないように思われる。その意味では、パウロの知識と勘だとも言える。様々なことが混在している。しかし、引用句から、百人隊長の信頼が増していたことは、確かなように思われる。ただし、「アグリッパ王はフェストゥスに、『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに』と言った。」(26章32節)の重さがわからないので、やにわに(時間をかけないで)は、判断ができない。百人隊長は、下級管理職であり、彼の判断が、直接、皇帝に伝えられることはおそらくないだろうから。継続して、考えていきたい。パウロのローマ到着後について、考えたいからである。
Acts 28:18,19 ローマ人は私を取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何もなかったので、釈放しようとしました。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、私はやむなく皇帝に上訴しました。これは、決して同胞を告発するためではありません。
ルカが書いていて、パウロの意図とまったく合致しているかどうかは不明だが、このような証言があり、それが受け入れられていれば、パウロは釈放されたのではないだろうか。百卒長の進言が聞き入れられる訳では無いにしても、そのあたりの合理性は、大きな危険がない限り、認められた可能性も高いように思う。その後のパウロが書かれていないのは、このあたりに、原因があるのではないかと思う。もう少し丁寧に継続してみていきたい。もう一つ「時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、癒やしてもらった。それで、彼らは私たちに深く敬意を表し、船出のときには、私たちに必要な物を持って来てくれた。」(8-10)ここにも、ルカの存在があるように思う。ここには「私たちに」と書かれている。医者のルカが、なにもしないで、眺めているだけという方が、異様である。ルカも最善を尽くしたろう。

BRC2023(2)

Acts 1:20 詩編にはこう書いてあります。/『彼の住まいは荒れ果て/そこに住む者はいなくなりますように。』また、/『その職は、他人が取り上げるがよい。』
ユダについての記述として、書かれている。1つ目は「彼らの宿営は荒れ果て/その天幕に住む者はいなくなりますように。」(詩篇69:26)「私を苦しめる者」についてである。もう一つは「彼の人生の日々は僅かとなり/仕事は他人が取り上げるがよい。」(詩篇109:8)とされる。こちらも、「私の愛に憎しみをもって報い」るものに対しての言葉である。いずれも複数形「彼ら」であり、ユダに結びつける必然性はないが、ある時を経て、そうなっていったのだろう。このユダについても考えたい。
Acts 2:41,42 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
場所は、エルサレムである。数に誇張があるかもしれないが、エルサレムには、弟子も何人もおり、アリマタヤのヨセフのように、「弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(19:38)もいただろう。さらに、あるときに躓いて、イエスに従わず、去っていった弟子もいたかもしれない。それを、歓迎したということだろう。詳細な経緯はわからないが、弟子たちにも、イエスを捨てたという意識があったのかもしれない。
Acts 3:16 そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。
完璧な、おそらく、ルカに創作による「ペテロの説教」が書かれている。いくつもの要素があるが、当時の、ルカ周辺のひとたちの、パウロ周辺かもしれないが、の信仰の核心が書かれているように思う。イエスの復活についての解釈について、すこし偏りすぎていると感じる面はあるが、力強く、印象的でもある。イエスを見捨て、殺した罪のことも書かれ、「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(19)と促している。丁寧に、学んでみたい。自分の信仰に照らしても。
Acts 4:21,22 そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。
捉えたのは「祭司たち、神殿の主管、サドカイ派の人々」(1)であり、「翌日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。」(5)とあるので、サンヘドリンの決定であろう。「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、その数は五千人ほどになった。」(4)ともあり、あまり強いことはできなかったのだろう。状況がどの程度正確かはわからないが、引用句に「四十歳を過ぎていた」ともあり、ルカが調べたあとが見て取れる。目撃者かどうかはわからないが、証言者がいて、そのことを書いているのだろう。
Acts 5:12-14 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。ほかの者は誰一人、あえてその仲間に加わろうとしなかったが、それでも、民衆は彼らを称賛していた。そして、主を信じる者が男も女もますます増えていった。
バルナバがもっていた畑を売り、代金をささげたことが、4章の最後にあり、5章に入って、アナニヤ、サフィラの話が書かれ、その直後にかかれている。様々な状況があったことをルカは表現しているのだろう。皆が持ち物を共有しも、べつに共産制を完璧に実施していたわけではないことを示しているのだろう。引用句でも、誰一人仲間に加わろうとしないと書いた直後に、主を信じるものがますます増えていったとしている。
Acts 6:13-15 そして、偽証者を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私たちは、彼がこう言っているのを聞きました。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
ここから、ステファノの説教が始まる。このように、批判された時、ひとはどうしたらよいのだろうか。語っていたことに関連していることで批判されていることは、おそらく、確かだろう。そしてもちろん、正確でもない。ただ、完全に間違って伝えているわけでもない。どのように、話すかはとても難しい。正解はないのかもしれない。
Acts 7:17-19 神がアブラハムになさった約束の時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。やがて、ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに現れました。この王は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐げて乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。
このあとには「この時、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、」(20)と続く。ヨセフ物語は、美しく、多くの人々に、好まれる。今回は、ステファノの説教を読みながら、どのような背景のもとでヨセフ物語がいまの形になったのか考えた。むろん、答えはでない。そして、もともと伝承はあったのだろう。しかし、様々な背景のもとで、異国の地で生活し、ある場合は、成功し、しかし、その後、ある人たちが「同胞を欺」き、迫害を受けるようになった。その中で、信仰の覚醒が起こるというようなことが何度となく起こっていたのではないだろうか。そこで培われたアイデンティティーそれが、ユダヤ人を形成し、ヨセフ物語をも、すばらしい文学にしたのかもしれないと考えた。根拠は、ないが。
Acts 8:18,19 シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して、言った。「手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。」
シモニア(Simony:聖職売買)と言われる行為の起源が書かれている。しかし、この背後には、聖人の基準に奇蹟をおこなったとか、特定のひとにこのような賜物が宿るという「信仰」があったことも考えられる。そう考えると、特に、ルカから、使徒言行録へと受け継がれる、いやしの記録と、聖霊との関連は、注意して学ぶ必要があると感じさせられる。ルカが医師であったことも、関係するのか。しかし、それよりも、おそらく、そのようなものをもとめる人間のこころに起源があるのだろう。
Acts 9:36,37 ヤッファにタビタ――訳すとドルカス――と言う女の弟子がいた。数々の善い行いや施しをしていた人であった。ところが、その頃病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。
ルカ文書には、女性が多く登場し、女性の働きも多く書かれている印象がある。それは、なぜなのかと考える。一つには、他の3つの福音書がユダヤ人由来であるのにたいして、ルカはギリシャ人由来ということだろうか。文化的に、女性の働きがより多様で、認知されていたのかもしれない。もう一つは、キリスト教会の中での女性の地位もあるかもしれない。書かれた時期をあわせて考えると、少しあとになってくるに従って、女性の弟子、信徒のかずが男性に比して多いことが歴然としていたのかもしれない。夫婦を考えると、女性が多いということは、妻のみが信徒であるケースがたくさんあったということを証言しているようにも思う。これは、現代にも引き継がれていることでもあり、興味深い。
Acts 10:13-15 そして、「ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」
「イエスは言われた。『あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、…』」(マルコ7:18,19)と強く関係しているのだろう。ペテロが、イエスの言葉を思い出し、それが実践と結びついた箇所である。そのエピソードを、異邦人宣教に欠かせないとして、ルカが記述しているのだろう。来たことであっても、それが意味をもつのは、そう簡単ではないのだろう。いろいろなことを考えさせられる。
Acts 11:19-21 さて、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語っていなかった。ところが、その中にキプロス島やキレネから来た人がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスの福音を告げ知らせた。主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった。
「ギリシア語を話す人々」をどう理解すればよいか明確ではない。しかし文脈からは、異邦人を指しているのだろう。「信じて主に立ち帰る者」という表現がある。異邦人にも使っているということだろうか。あまり、経緯もはっきりしないが、ギリシャ語を話す、ユダヤ人のなかには、さまざまな人達がいて、異邦人との交流を自然にしていたひとも多かったということだろうか。気をつけて描いてあることも感じられ、ここだけからは、わからないようにも見える。
Acts 12:18,19 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロは一体どうなったのかと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで連行するように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在した。
聖書協会共同訳では「連行するように命じ」となっている。別訳「処刑するように」と注がついている。ἀπάγω (to lead away, esp. of those who are led off to trial, prison, or punishment) をどう翻訳するかの違いのようである。おそらく、いろいろな議論があるのだろう。KJV では処刑、NIV でも、処刑のようである。
Acts 13:24,25 ヨハネは、イエスが来られる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『私を何者だと思っているのか。私はその方ではない。その方は私の後から来られるが、私はその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
パウロのメッセージである。気になったのは、イエスが来られる前という表現と、その生涯を終えようとする時という表現である。すくなくとも、ヨハネの記述とはかなり異なる。また、引用句の直前には「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」(23)とあるが、キリスト論は、パウロにおいては、完成していたのだろう。実際には、詳細において、さまざまな議論があったと思われるが。ヨハネ・マルコの離脱(13)も、個人的には、記述に違和感を感じる。
Acts 14:27,28 到着すると教会の人々を集めて、神が彼らと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
通常、パウロの第一回伝道旅行と言われるものである。このときは、アンテオケ教会から、バルナバとともに、派遣されているが、ルカはまだ一行にいない。ただ、このときからすでに、大きな反対があったことが記録されている。少しずつ、ルカの目撃証言に近くなっていくのだろうか。
Acts 15:39-41 そこで、激しく意見が衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島に向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、きょうだいたちから主の恵みに委ねられて出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って諸教会を力づけた。
分裂について記録されているのは、注目に値する。通常は、そのようなことは、記録することを避けるであろうから。分裂の理由を、十分な理由がないまま議論することは、不適切だと思われるが、バルナバとマルコも、キプロスへと向かう、新たな道を歩み始めている。どのように、ペトロと出会い行動をともにするかは不明だが、このあとのたいせつな出会いにも興味がある。
Acts 16:18,19 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると、霊は即座に彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて行った。
これも奇蹟物語のようなものだが、これが適切かどうか、わたしには判断できない。ほかの方法はなかったのか。イエスなら、この女と、もしかすると必要ならばこの主人とも向き合ったのではないだろうか。現象としての問題を取り去ることは解決にはならないのだから。このあとの、動きも、正直、イエスとは異質なものを感じる。Be available, stay vulnerable!
Acts 17:2,3 パウロは、いつものように、会堂へ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」と説明し、論証した。
このあとには、ギリシャ人にも「先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(31)と、復活について語っていることが描かれている。まずは、旧約聖書から、メシアが復活することになっていることを論証するのは、不可能とはいえないまでも、難しいだろう。ひとつの、説でしかないように思われる。ましてや、異邦人にこのように語って、ある程度うけいれられるということは、どのようなことが働いたのだろうと考えた。不信仰だろうか。
Acts 18:7,8 パウロはそこを去り、神を崇めるティティオ・ユストと言う人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家を挙げて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた。
これは、とても、大きなことだったろう。会堂長は、ユダヤ人社会では、有力者で、会堂で引き続き、勝たれたかどうかは別としても、そこに、ユダヤ人はたくさん集まってきたろうし、異邦人にもある信用をもって、語れたのではないだろうか。むろん、ユダヤ人自体に対する違和感、反感もあったのだろうが。
Acts 19:3,4 パウロが、「それでは、どんな洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」と言うと、彼らは、「ヨハネの洗礼(バプテスマ)です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けたのです。」
悔い改めのバプテスマと、聖霊によるバプテスマの区別がされている。同時に、バプテスマのヨハネによって信仰に入ったものと、密接な関係が続けられていたと考えられることも書かれている。実際には、様々なケースがあったと思われるが、興味深い。ヨセフスなどには、なにか書かれているのだろうか。
Acts 20:7 週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
この節から「私たち」(使徒言行録には117件検索であるので、いつか丁寧に調べてみたい)が始まる。ただし、16章の「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。」(9,10)からは、丁寧に見たほうが良いかもしれない。ルカは、マケドニアの人だと思われるが、その関係は、あとからの振り返りとして、このように表現されているのかもしれない。
Acts 21:20,21 人々はこれを聞いて、神を崇め、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセに背くように教えているとのことです。
ユダヤ人における律法遵守の問題は、エルサレム会議(使徒15章)では、解決していないということだろう。これも、時代とともに、少しずつ、キリスト者は、ユダヤ教徒であったものも、生活を変えていったのだと思う。しかし、拙速は、問題になるだろう。律法を守る自由も、ある部分、守らないで、自由の律法のもとに生きること、それを選択できるということだろうか。おそらく、現代にも通じる問題でもある。
Acts 22:25 パウロに鞭を当てようとその手足を広げたとき、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ市民を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」
’25ὡς δὲ προέτειναν αὐτὸν τοῖς ἱμᾶσιν, εἶπεν πρὸς τὸν ἑστῶτα ἑκατόνταρχον ὁ Παῦλος· εἰ ἄνθρωπον Ῥωμαῖον καὶ ἀκατάκριτον ἔξεστιν ὑμῖν μαστίζειν;’ 別訳として「彼を縛り付けた時」となっている、προτείνω (to stretch forth, stretch out) の訳し方なのだろうか、理解はできない。いすれにしても、なにかをしようとした時ということであることは、確かなのだろう。ギリギリのときに、ローマ人であることを、パウロが言ったということか、市民と訳されているが、ことばとしては、「ひとが、ローマ人であり、判決を受けていないときに、あなたが、ムチを打つのは法に適っているか。」ということだろうか。
Acts 23:1,2 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。
引用句以降のやりとりは、わたしは、適切だとは思わないが、パウロと一緒にいたと思われる、おそらく、ルカによる目撃証言として、非常に生き生きと活写されている。パウロは、昔の仲間達の顔も、眼の前にしながら、かなり興奮していたのかもしれない。同時に、パウロが歩んできた道も、振り返っているのかもしれない。それを責めてはいけないのかもしれない。
Acts 24:10,11 総督が発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が長年この民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。お調べになれば分かることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっておりません。
1節にあるように「五日の後、大祭司アナニアは、長老数名とテルティロという弁護士を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。」ときの記録である。引用箇所を見ても、その場で聞いていたような記述になっている。公開ではなかったにしても、傍聴が可能だったのかもしれない。最後に「さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。」(27)とあり、ゆっくりと、パウロ自身の口から、このときのことを聞くことができたのかもしれないが。
Acts 25:15,16 私がエルサレムに行ったとき、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。私は答えました。『被告が告発されたことについて、原告の前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。
パウロの状況はどのようなものだったのだろうか。ここで、有罪とされた場合は、どのような刑が考えられたのだろうか。総督が判決を下すか、皇帝に決めてもらうかのようだが、それが常に行われていたのだろうか。上訴権がつねに被告にあれば、皇帝のしごとが大変になってしまう。裁判制度については、おそらく、わかっているだろう。少し学んでみたい。
Acts 26:22,23 ところで、私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる、と述べたのです。」
本当にそうなのだろうか。もし、そうであれば、パウロに対する反対が大きくなることはなかっただろう。また、ここに、「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」とあるが、この内容についても、議論はいろいろとあり得るだろう。さらに、それが、イエスかどうかは、正しさでは示されないことに思う。神が送られるメシアとはどのようなものか、と考えれば、神がどのような方かの理解がまずは必要になるからである。むろん、ここに書かれていることが文字起こしをしたかのように、パウロが語った正確なことばではないのだろうが。
Acts 27:33,34 夜が明けかけた頃、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
「船にいた私たちは、全部で二百七十六人であった。」(37)とあり、当時としては、十分大きな船だったのではないだろうか。パウロは、なぜここまで確信をもって、このように語れたのだろう。それは、正直わからない。しかし、このような行為が、このあと、無事に、全員が助かり、ローマでもおそらく厚遇を受ける理由にもなったと思われる。パウロの、皇帝の前で証をするということは、わたしには、適切かどうかはわからないが、このような信仰者の歩みが、わからないで終わるのは、正直、適切ではないとも思う。
Acts 28:18,19 ローマ人は私を取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何もなかったので、釈放しようとしました。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、私はやむなく皇帝に上訴しました。これは、決して同胞を告発するためではありません。
このことは、ある程度検証できただろう。個人的には、不自然に感じる。釈放しようとしていたものを、ローマに送るのは、あり得ることなのだろうか。最近、ルカによる福音書や、使徒言行録は、ルカの著作だと考える学者はほとんどいないと読んだが、そうなのだろうか。もし、そうだとしたら、ルカが書き残したものをまとめた可能性はあるということだろうか。書き残した断片が、この章で終わっていたのかもしれない。それは、理解できる。パウロと同行したと考えられるルカはこのあとのことを書けても、断片をもっているだけでは、ほとんどなにも書けない。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Acts 1:21,22 ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
直前には「その職は、他人が取り上げるがよい。」(20b)が詩篇109篇8節「彼の人生の日々は僅かとなり/仕事は他人が取り上げるがよい。」から引用されているとなっている。「私の愛に反して、彼らは私を訴えます。/私は祈るばかりです。」(詩篇109篇4節)に対応しているのだろう。引用句の条件に適合した人が何人かいたことになる。ここにあげられた二人以外にもいたのかもしれない。ここには、120人ほどのきょうだいたち(15)が集まっているとされるが、最初から共にいた人たちも何人かいたのだろう。その人たちにとっては特に、ユダの事件は大きかったはずである。痛みを伴う、選択である。
Acts 2:38,39 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
少し違和感を感じた。罪の赦しと、それによる聖霊の賜物は、パウロによって表現されたことのように思うこと、さらに、やんわり「遠くにいるすべての人」と表現はしているが、世界的な広がりは、その後の歴史の中で示されたことのように思う。この五旬節のときの出来事は、教会の起点として、様々な解釈が加えられていったのかもしれない。ダビデに関する部分も、イエスが語る同様の引用とはかなり印象が異なる。それを、ペトロが言うだろうかと思ってしまう。わからないということで、止めておこう。
Acts 3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
使徒言行録の前半は、ペトロが語ることが多い。ここまで饒舌に語ったとは思えない。聖霊降臨がペトロを変えたと通常は考えられているが、ヨハネは語らない。使徒言行録が書かれたときにも、ヨハネは生きていて、特別な存在だったことが考えられる。生き証人である。さらに、引用句の部分、再臨思想は、イエスがどう伝えたかは、丁寧に見ないといけないが、多分に、パウロの影響が強いように思う。ルカは、福音書においては、他の福音書も参考にしつつ聞き取りをして書いたと思われるが、使徒言行録は、よく知っており、自分も同行したパウロを中心とし、その時までの連接を重視してまとめられているのかもしれない。わからないということで、止めておいたほうがよいだろうが。
Acts 4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(使徒2章44,45節)と二箇所に「共有」のことが書かれている。初期において、このことは、特徴的なこととして、ルカが記しているように思われる。この章の最後には、バルナバと呼ばれたヨセフのことが書かれており(36,37)、次の章の最初には、アナニアとサフィラのことが続く。持続可能ではなかったのだろうか。教会の形ができていく、最初をこのように表現しているのかもしれない。
Acts 5:17,18 そこで、大祭司とその仲間たち、すなわち、そこにいたサドカイ派の人々は皆、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
ここでは、大祭司とその仲間たち、すなわち、サドカイ派の人たちに限定している。ファリサイ派については、ガマリエルの発言について34-40節までに述べられているが、ファリサイ派の出身のパウロの影響、または、詳細な情報があるのかもしれない。サンヘドリンでの権威を考えると、サドカイ派と限定することは、ある程度理解できるとともに、疑問も湧く。何らかの意図があったのかもしれない。
Acts 6:8,9 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」と呼ばれる会堂の人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などが立ち上がり、ステファノと議論した。
この前には、ステファノを含む7人の執事が選ばれたことがあり「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(7)が続く。様々な変化が記録されている。特に、ギリシャ語を話すユダヤ人が目立つ。多様かつ特別な思いがあったのかもしれない。「解放奴隷とキレネ人とアレクサンドリア人の会堂」もとても興味をひく。様々な体験から、特別な思いがあったのかもしれない。ステファノの殉教へとつながっていくのはとても悲しい。ちょっと違った人同士が結びつくことは困難なのだろうか。
Acts 7:52 一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。
ステファノは全体としては、ユダヤの歴史を語っている。おそらく、それほど、違いを感じる人はいなかっただろう。しかし、この最後の部分に立ち至っては、「激しく怒る」(54)避けることはできなかったのだろうか。聞く耳を持っていないように思う。どうしたら良いのだろう。正直、わたしが現場にいたら、同仕様もないと思う。本当に難しい。
Acts 8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して激しい迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
「使徒のほかは皆」が気になった。迫害が起これば、通常、危険なのは、まず使徒だろう。なぜ、使徒は残ることができたのだろうか。全く、推測に過ぎないが、「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(2章43節)「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。」(4章33節)「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。」(5章12節)この後には「公の牢」(5章18節)に入れるが「主の使いが、彼らを連れ出し」(5章19節)「そこで、神殿の主管は下役を率いて出て行き、使徒たちを引いて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。」(5章26節)その後には、ガマリエルの意見(5章33-40節)など、が書かれている。これらが、影響している、または、ルカは、これらを、使徒たちがエルサレムに留まったことの理由として、記していたのかもしれない。12章12節にある、ヤコブの殺害があまりにもあっけなく書かれているのも、これらが関係しているのかもしれない。
Acts 9:40,41 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい(Ταβιθά ἀνάστηθι)」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。
「群衆を外に出すと、イエスは中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。」(マタイ9章25節)「そして、子どもの手を取って、『タリタ、クム(Ταλιθα κοῦμι)』と言われた。これは、『少女よ、さあ、起きなさい(Τὸ κοράσιον σοὶ λέγω ἔγειραι)』という意味である。」(マルコ5章41節、参照:ルカ8章54節)この記事を彷彿とさせる。タリタとタビタの音の近さも印象的である。ルカは、ギリシャ語を使っているが、もしかすると、ペトロは「タビタ、起きなさい(Ταβιθά κοῦμι)」と言ったのかもしれない。いずれにしても、弟子が、イエスと同じようなことをすることの一つの描写であることは確かだろう。イエスがなさったことは、エリヤ・エリシャのような大預言者の再来と人々の目にうつり、さらに、恵みとして受け入れられたように。
Acts 10:34-36 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。
異邦人宣教に関する弁証的な記述が多い。しかし、引用箇所は印象的である。コルネリウスから送られた人たちによって「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、ユダヤの全国民に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」(22)と証言されている。「神を畏れて正しいことを行う人は」は、条件のような印象も受けるが、このような人がまずは最初に受け入れられることが大切だったのだろう。反対者の批判を避けるためか。原則的なことは盛り込まれている。「神は人を分け隔てなさらない」「どの民族の人であっても、(上記の部分省略)神に受け入れられる」「このイエス・キリストこそ、すべての人の主」また、イエスについて表現「神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。」も印象的である。神のみ言葉を送ったことと、平和を告げ知らせたことか、ここでいう「平和」とはどのようなものだろう。
Acts 11:2,3 そこで、ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
批判するポイントが理解しにくいが、日常生活に密着した敬虔さと考えれば、信仰生活・宗教がより実質的なものだったと考えられる。ペトロも自分の中での葛藤と、そのような批判が起こることも想定して「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました。」(10章28節)と丁寧に語ったように、ルカも記している。生活に結びついた、宗教生活を変更することはとても困難である。キリスト教主義の公益法人((認定)特定非営利活動法人 NPO)に関係していると、このことは、常に難しい課題でもある。礼拝や祈りをもってはじめ、賛美することなどと、公益法人としての働き、さらには、キリスト者以外のひとが関わる時のその人達への配慮も関係するからである。「キリスト者としてのわたしたちの奉仕」と「様々なひとたちと共に人々への奉仕に預かること」とのせめぎあいだろうか。このことは、一人ひとりの中で適切に位置づけていかなければならない。ここで起こっていることも、似た面を持っているように思われる。
Acts 12:1,2 その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
ヤコブの死があまりに簡単に記されていることに違和感を感じていたが、今回、このことに焦点を絞って考えてみた。この章では、このあと、ペトロが捉えられ、天使によって奇跡的に、牢から救い出される記事の詳細が書かれている。さらに、主の天使に打たれたとして、ヘロデの死について書かれている。奇跡的な出来事、神の介入(God's Intervention)である。使徒たちがエルサレムに残っていること(8章1節)は不思議であるが、ヤコブとペトロがエルサレムにいたことはこの章の記述からも分かる。一つには、ペトロとパウロに焦点をあわせて、使徒言行録が書かれているとして、周辺のヤコブについては、詳細を書かないとも考えられるが、ヤコブが最初からの弟子であることを考えると、やはり不思議である。奇跡的な主の救(たす)けを強調したかった面はあるのだろう。そう考えると、ヤコブが剣で殺されたことに関しては、なぜ、ヤコブは殺されたのかと、因果関係や理由を考えたくはなる。今回考えたのは、上の考察からも、ルカは、ヤコブのことを書かなくても良かったということ。それでも、ヤコブの死を書いたということである。科学的とまでは言えないが、天使などによる神の関与による奇跡的な救済だけではなく、わからないことがあることをルカが書き残したことに感謝すべきだと思った。聖書の解釈に対しても、我々に、たいせつな問を投げかけてもいるように思う。
Acts 13:30,31 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは今、民に対してイエスの証人となっています。
復活についてパウロによって語られている。38-39節には、罪の赦しと信仰による義認について書かれている。パウロの基本的なメッセージが早い時点からこのように語られていたことを証言しているのだろう。ただ、復活の証人に自分を加える(1コリント15章8節以降)かどうか、イエスの死が罪の贖いであったことなどは、語られていない。神学的な整備がこのあと進んだのか、ルカの焦点の当て方が異なるのか、いろいろな理由は考えられるだろう。他者の受け取った語られたメッセージの理解の限界もあるのかもしれない。
Acts 14:21,22 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にした後、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
この直前には「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」(19)とある。13章13節以降と14章に、アンティオキア、イコニオン、リストラ宣教のことが書かれている。歓迎と反対である。19節の状況を見て、危険は十分承知で、引き返す必要性を感じたのだろう。最初の引用句には、苦しみのことが書かれ、力づけて語ったことが書かれている。当初から、福音に踏みとどまるように励み、神の国に入ることは大きなチャレンジがあったことが分かる。ここまでの反発は正直驚かされる。現代はどうなのだろうか。
Acts 15:10,11 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
ペトロのことばとして語られている。「ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った。」(5)を起点としている。明らかな違いが認められ、ルカのまとめ方であることも、忘れてはいけないが「先祖も私たちも負いきれなかった軛」には、おそらく、ペトロの生活実感が表現されているだろう。ファリサイ派の人たちは、ある程度感じていても、否定していたことのように思われる。さらに「あの弟子たち」ということばで、弟子として認めているだけではなく、弟子として自分と同じ位置において見ている。さらに「神を試みようとするのですか」は、かなり厳しい糾弾である。その対極にあるのが「主イエスの恵みによって救われる」という確信である。ここでも「私たち」と「彼ら異邦人」が同じであることが強調されている。正しさの主張は自分を神の側におくこと、恵みとして受けることは、神の憐れみの前に隣人と共に自らを置くことだろうか。
Acts 16:11,12 私たちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスに着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
アジア(小アジア今のトルコ)から、ヨーロッパ(マケドニア・バルカン半島)に入ったことが「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」との幻を見たこととともに、書かれている。その頃は、コンスタンティノープルも建設されておらず、橋もなかったと思われるので、黒海の北を回るということでなければ、船を使って渡っていたのだろう。そして、その船は頻繁に往来していたと思われる。しかしそれでも、ここにある境界が存在したのだろう。そのほぼ最初の宣教地がフィリピである。町の規模はわからないが、商業都市として繁栄したいたように思われる。フィリピ教会が、パウロの金銭的な必要を満たしていたことが、手紙(フィリピ4章15節)に「会計を共にしてくれた教会」とある。このあと、何回か現れる、パウロが「ローマ市民」(37,38)であったことも、ここで記されている。特に、ローマの植民地では、そのことは重要だったろう。さらに、重要と思われるのは、アジア州では、ユダヤ人からの反対が主だったようだが、ここでは、「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16)のことを通して「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」(21)と批判されたことが記され、ギリシャ人の偶像礼拝をパウロが批判したと思われることに起因する反対が記されている。いろいろな意味で、新たな章(Chapter)が始まったように感じる。
Acts 17:30,31 さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
アテネでパウロは偶像礼拝に憤りを感じ(16)毎日論じあっていた(17)ようだが、ユダヤ教の背景を持っていない人たちに「知られざる神に」(23)を引用して語っても、一般的には理解は得られないと思う。特に、頭である程度理解できても、それが、生活実感を伴い、まさに、方向転換をする悔い改めに到るには、相当のことが必要であるように思う。それでも、信じていることをはっきりと伝えることは必要かもしれないが、正直、このパウロの宣教姿勢が、キリスト教が関わる歴史に悪影響をもたらしたようにも感じてしまう。イエス様なら、どうされただろうか。イエスに学ぶ道を歩んでいきたい。
Acts 18:19 一行がエフェソに到着すると、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。
この章の最初の方には「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚く罵ったので、パウロは衣の塵を振り払って言った。『あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ。私には責任がない。今後、私は異邦人のところへ行く。』」(5,6)とあるが、引用句では、二人(プリスキラとアキラ)が、騒動に巻き込まれないようにとの配慮は伺えるものの、また、論じあっている。テント造りをやめ、パウロが集中したのは、ユダヤ人に御言葉を語り、結局分裂していくことである。パウロがこのことにどれほど熱心であったかが伝わってくる。自分が正しさ(キリスト論の教義)を手に入れていることを確認し、かつ、それを得ていないユダヤ人に伝えたかったのだろう。これが教義が洗練されていく重要な背景になっていることは確かで、弁証論的な整備がこれによって可能になったことは確かだが、どうしてもある距離をおいてしまう。12節から16節に記されているガリオンの発言などをみると、ローマの宗教に関する寛容な姿勢も見て取れる。基本的構造は、こうだったのだろう。公平にみるのは困難であるが、難しい問題が多い。
Acts 19:35,36 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。これを否定することはできないのだから、冷静になるべきで、決して無分別なことをしてはならない。
わたしは高校で学園紛争を経験したことから、ずっと自分の中にある偏見(他者の見方を受け入れられない自分中心の考え方)と戦ってきたように思う。ひとは、偏見から自由になることはできない。しかし、クリスチャン側からみた世界観では見えないことがとても多く、そこに大きな世界があることは自覚してきたように思う。引用した町の書記官のことばをどう受け取るかは様々だろう。しかし、エフェソのひとたちの生活に密接に結びついたこと、すなわち、そのひとたちの、悲しみや苦しみや喜びを、無視することはできない。この言葉には、そのようなものが貼り付いているように思う。愛について、隣人を愛すること、イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うことを考えると、この偏見から、ほんの少しだけ、自由になれるように思う。
Acts 20:1,2 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、
このあと「そこで三か月間過ごした。」(3a)と続く。「励まし」と「言葉を尽くして」が印象に残った。パウロの行くところ、常に、論争と、批判の嵐である。自分でそれを招いて居る面もあり、正直すべてを肯定はできないが、この精神力と、丁寧さには、敬意を表したい。励ましは、単なるパフォーマンスではない。力を得る根拠も、しっかり伝えていったのだろう。たんなる、精神主義ではない、そして単なる論理でもない。おそらく、わたしには、見えていない、パウロの活動があるのだろう。
Acts 21:4 私たちは弟子たちを探し出して、そこに七日間滞在した。彼らは霊に促され、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
ルカは「霊に促され」とも表現している。「そして、私たちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」(11)とここでも告げている。むろん、異邦人の手にわたすことを言っているので、エルサレムに行くことが主のみ心ではないと語っているわけではない。しかし、それは、ルカの書き方でもある。正直、このような場面に、何回か出会ってきたが、困難なときで、制止することは、できない。宗教の弱さでもある。これからも、考えてみたい。
Acts 22:14,15 アナニアは言いました。『私たちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人々に対してその方の証人となる者だからです。
9章の回心のときの記述とは少し異なる。アナニヤが告げられたのは「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」(15,16)、アナニヤがパウロ(当時サウロ)に告げた言葉は「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」(9章17節b)26章12-18節にも回心記事が記されているが、そこはまた異なる記述になっている。むろん、アナニヤがパウロに告げたことは様々にあるだろうし、さらに、ここまでの歩みで、告げられた言葉の真意・たいせつな部分がパウロの中で醸成されていったのだろう。おそらく、それだけでもなく、それぞれの場で、一部分を選択して伝えているようにも思われる。引用句では、パウロが「見聞きしたことについて、すべての人々に対してその方の証人となる者」であることが強調されている。ここでは「すべての人々」に焦点を当てているように思われる。本質とも言えるし、パウロの話術であるとも思う。
Acts 23:12,13 夜が明けると、ユダヤ人たちは集まって、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。共に誓いを立てた者は、四十人以上もいた。
このあとには、祭司長たちや長老さらに最高法院も巻き込んでの陰謀が企てられている。違和感を感じるとともに、この熱さには正直圧倒される。単なる民族的な特性とするのは誤りだろう。わたしにはよく見えていない部分が背後にあるのだろう。ローマに征服され税を収める状況にあり、司法権も行使できる範囲が限定されているなかで、必死に守るものが宗教的正義になっているということだろうか。現代の社会科学や自然科学が関係する、経済・社会・自然・環境などとの関係には、口を出せない中で、宗教の関与する範囲がどんどん狭くなっているということだろうか。おそらく、それだけではない。このひとたちの、苦しみ・悲しみ・痛み・喜びがわからなければ、理解することはできないだろう。もっと考えてみたい。
Acts 24:5,6 この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、ナザレ人の分派の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので、逮捕いたしました。✝
底本に欠けている部分には「そして、私どもの律法によって裁こうとしたところ、大隊長リシアがやって来て、この男を無理やり私どもの手から引き離し、告訴人たちには、閣下のもとに出頭するようにと命じました。」(6b-8a)とある。いずれにしても、これが訴えである。全体的に、誤りではない。しかし、ローマの司法裁判で判断を受けるには「騒動」の部分を適切に立証することが必要である。このあと、パウロの弁明、そして皇帝への上訴が書かれている。ルカによるキリスト教弁護・護教の立場からの記述という面も否定できないだろうが、今回は、パウロの上訴が不適切であるように思われた。公的な資源を私的に適切ではない目的のために利用しているように思われるからである。それが、避けられない、神様から与えられた特別の使命であるとも、個人的には受け取れなかった。むろん、情報が少ないために、判断できない面もあるが。ルカも、パウロの上訴の理由を明確には把握できていなかったように思う。ルカと一緒に理解に苦しみながら読み進めてみよう。
Acts 25:6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らのところに滞在してから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命じた。
カイサリアは、名前からもわかるように、ローマが整備した海岸の町である。おそらく、大きな船も停泊することができたのだろう。占領地を支配するときは、反乱のときに、適切に退避できることは肝要である。おそらく、フェストゥスも、エルサレムに上るときは緊張し、ここではリラックスしていただろう。「そこで、フェストゥスは陪席の人々と協議してから、『皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように』と答えた。」(12)この記述も穏やかである。どのような人が陪席していたかは不明だが、ユダヤの事情に詳しいもの、司法に精通したものがいたのだろう。このような決断の背景には、パウロがローマ市民であったことが強く影響しているだろう。わたしがこの一連のパウロの行動に好意的ではないのは、そのような特権を利用している、すくなくとも、それが影響する結果になっているからもあるだろう。フェストゥスや異邦人に対する神の愛の理解が未発達だったとも言えるかもしれない。むろん、わたしの考えや感じ方も、ひどい偏見に依っていることは確実だろうが。
Acts 26:27,28 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」アグリッパはパウロに言った。「僅かな言葉で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」
このあとには「言葉が少なかろうと多かろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」(29)と続けている。パウロが上訴した理由がよくわからないし、公的資源の濫用(みだりに用いること)ではないかと考えても居るが、この章を読んでいて感じたことがある。パウロは社会的権威を尊重し、権力をもっているものが「パウロのようになること」イエスを救い主とする人生の転換を経験することが大切だと考えたのかもしれない。たしかに、歴史的には、コンスタンティヌス帝(Gaius Flavius Valerius Constantinus)のキリスト教への帰依が歴史を動かしている(313年ナントの勅令)。公会議の開催など、正統と異端議論にも関与し、キリスト教の政治と宗教の関わりの課題を抱え込んだ一歩でもあったようだが。パウロはキリスト者を捕らえることも「祭司長たちから権限を委任され」(12)行っており、「上着の番」をした(8章1節、20章20節)のも、殺すことには賛成していても、正統な権威の許可なしに殺すことには躊躇があったのかもしれない。「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」(5章34節、22章3節)たのも、権威が関係しているかもしれない。「学問のしすぎで」(24)も、パウロがローマの制度や学問に精通していたことを表現しているのかもしれない。今後も、この問題を考えていきたい。ルカは、ローマでパウロが皇帝の前に立ったのか、立ったとしてもそこで何を語ったのかについて言及しないが、ルカが陪席したか、または、情報を十分入手できたと思われるアグリッパ王の前での証言を丁寧に描いていることは確かである。
Acts 27:17 小舟を船に引き上げてから、綱で船体を縛り、シルティス湾に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるに任せた。
天使の「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」(24)は少し、行き過ぎのように感じた。それは別として、この章には船の運行に関する専門的とも言える記述が多い。「かなりの時がたって、すでに断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。」(9)断食日は9月終わりから10月にかけての期間(ユダヤの太陰暦による)だが、10月の終わり頃から西風が強くなるとのこと。西に進もうとしているので障害となると思われる。「海錨」は、普通の錨とは異なり、「大きな凧のような形をしていて、船首から海に流します。激しい風に襲われているとき、これを海に沈めると、水が抵抗となって船首が風上に向います。こうする横波を避けることができます。横波に倒されることや、浸水を防ぐことができるのです。」とのこと、これは、家から8分程度で歩いていける本郷教会の9月12日の礼拝説教で出てきた解説である。わたしも高校生のころ貨物船(7200噸(トン))に乗っていて台風に巻き込まれたときのことを思い出す。強烈な、横揺れ(rolling)と縦揺れ(piching)を繰り返しても、船は復元力をもって体勢を整えられるように設計されているが、三角波(三方以上からの波がぶつかってできる波)は注意しながら、それを避けるように航行すると、一等航海士の方が教えてくださった。あの揺れはいまでも体で覚えているように感じる。ルカもいろいろな知識を持っていたと思われる。
Acts 28:8,9 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、癒やしてもらった。
引用句には、癒やすが二回現れるが、最初(8節)は、通常病気を治すイアオマイ(ἰάομαι: 1. to cure, heal, 2. to make whole, to free from errors and sins, to bring about (one's) salvation)が使われ、後(9節)の方は、therapy の語源でもある、テラペウオー(θεραπεύω: 1. to serve, do service, 2. to heal, cure, restore to health)仕えるが用いられている。プブリウスの父親については、病気が治ったことが記されていると思われるが、特に、他の病人たちについては、奇跡的な病気の癒やしかどうかは、不明ではないかと思う。たいせつなのは、これに続く「それで、彼らは私たちに深く敬意を表し、船出のときには、私たちに必要な物を持って来てくれた。」(10)である。28章の最初にはパウロが「毒蛇」(他の訳では「まむし」注には「クサリヘビ」とある。原語は ἔχιδνα: a viper, offspring of vipers, addressed to cunning, malignant, wicked men 小さな動物と書かれたものもある)を振り払い害を受けなかったことを、土地の人に奇跡のように思われたことが書かれている。そのような状況下で、奇跡的な記述が多くなるのは自然だろう。背後に何があったか、現代的な意味で(ある程度の)科学的知識のもとで書かれているわけではない。「私たちに深く敬意を表し」とあり、魔術的な力ではなく、仕える態度が評価されたと考えられ、また「私たち」にルカや他の同行者も含まれていると思われる。通常、医者であれば、パウロが祈ったあと、適切な治療や手当、回復のための助言をするのが自然である。そして神様はまさにひとの回復力(免疫力など)を造られ、全体を見守っていてくださるのだから。現代では、奇跡的な記述がかえって、不信を招くことも多いと思うので、少し考察を書いた。

BRC2021(2)

Acts 1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた。
12人にすることは必要だったのだろうかと考えた。12人は、イエスが選ばれたことは、おそらく共通理解として確立していただろう。しかし、一人が欠けることとなった。わたしが、そこにいたら、おそらく、両方の考え方ができたと思う。一人欠けたままにしておいて、われわれの一人が、このような結果になったことについて、主の御心を理解することに、集中すること。二人組みにして、派遣していたこともあるので、やはりパートナーを見つけよう、そして、12人以外にも、70人など、他のひとたちもいたようなので、核となるひとたちが、しっかりと組織されるべきだということ。しかし、こう考えてみると、どうも、決めない方にすこし分があるように思われる。するとこれは、少し長い間をかけて組織が決まっていったということなのだろうか。12人のその後についての伝説はあるようだが、使徒言行録には、12人が果たした特別の役割については、記されていない。たいせつなのは、自分たちで、祈り、主のみこころを求めながら、決めていくことだったのかもしれない。その作業の最初が、ここに記されていると考えるのが良いのかもしれない。
Acts 2:14 そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。
聖霊降臨の物語である。この使徒言行録にしか記録や記述はない。1章で12人のことについて考えたが、引用句にその記述がある。ベトロのメッセージについては、詳しく調べないといけないが、二つ印象に残った。「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」(32)として復活の証言が重要な役割を示していること。そして「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)神が、十字架につけられたイエスをメシア(キリスト、油注がれたもの)とされたことを証言していること。ルカは、共観福音書とパウロ書簡をつなぐ重要な役目を担っていると思うが、このメッセージの中に、すでに、パウロ神学が根を深くおろしているように思われる。ルカには、その分断を避けようとする意図もあったのかもしれない。使徒言行録1章、2章をどう理解するかは、そう簡単ではないのかもしれないと今回思った。
Acts 3:6 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
4章(4章9節、14節・22節)に関連の記述があるので、おそらく、ルカが聞いて確認したエピソードだったのだろうが、いくつか気になることがある。1つ目は、このひとは歩けるようになることを望んでいるかどうか不明であること。イエスのアプローチの仕方と異なるように思われる。そして、すぐ、宣教に入り、「祭司たち、神殿の主管、サドカイ派の人々」(4章1節)との議論となり、拘束されること。そちらに重きがあって、癒やされた人については、記述上登場するだけである。イエスによるいやしの記述においては、ルカによる福音書においても「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ7章50節、8章48節、類似表現:17章19節、18章42節)など、そのひととの直接的な関わりが重視されているように思われる。ルカによる編集が感じられる。
Acts 4:18-20 そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
弁証論や、弟子たちの集まりの様子などが記述されているが、すこし、記述に違和感もある。福音書においては、マルコなどをすでに読んでいて、他の記録を参考にしたり、証言などを聞き、まとめたのだろうが、使徒言行録は、証言を聞いたとしても、書いたものは、これが最初だったかもしれない。ここでは「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族」(6)との議論も噛み合っていないように見える。「見たことや聞いたことを話」すことが「神に聞き従う」ことの根拠としては、弱いように思われる。
Acts 5:11,12 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。
このあとには「ほかの者は誰一人、あえてその仲間に加わろうとしなかったが、それでも、民衆は彼らを称賛していた。そして、主を信じる者が男も女もますます増えていった。」(13,14)と続き、さらに癒やしのことが続く。この前には、アナニヤとサフィラの記事がある。引用句の一つの例証なのだろう。しかし、ちぐはぐさも感じられる。仲間に加わろうとしないが、主を信じるものが増えるとはどういうことだろ。「また、エルサレム付近の町からも、大勢の人が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らず癒やされた。」(16)これが事実で、仲間に加わろうとしないなら、説明が必要である。おそらく、伝えたいことはそうではないのだろう。イエスが行っていた癒やし(奉仕)を弟子たちもしていたこと、そして、すでに、内部にも、様々な緊張があったということだろうか。初期のキリスト教コミュニティについての記録はほとんどないので、まったくの推測以上のものではないが。使徒たち、教会全体、民衆、エルサレム付近からの大勢のひとたち、そして、民の指導者たち、評価についても混乱があったのかもしれない。
Acts 6:13,14 そして、偽証者を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私たちは、彼がこう言っているのを聞きました。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(6)との、驚くべき記事もある。祭司は、社会的地位もあり、律法に詳しく、神殿を守ることこそが役割だったろう。引用句は、ステファノについてであるが「この聖なる場所と律法をけなし」ともある。同時に、これらのことばは、具体的に何を意味しているか明らかではないが、反論なしに、さらりと書いていることから、異邦人キリスト者の意識が強いだろうことも感じる。様々な論理を使い、反論をしたり、律法や神殿での礼拝を擁護することも可能だろうが、そうではないことも、すでに動いているように感じる。ルカは、どのように理解していたのだろうか。
Acts 7:52 一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。
どこに人々が反発したかは、正確にはよくわからない。神殿に関する「いと高き方は人の手で造ったものにはお住みになりません。」(48a)なのか。それとも、引用句のように、イエスを殺したとする部分か。おそらく、この背後に、様々な議論があり、それと関する部分に至って「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」(54)このようなことに至ったと考えたほうが良いのだろう。もう一つ興味を持ったのは、ルカは、旧約聖書の創世記、出エジプト記などの、記述をしっかり把握していることである。ギリシャ語聖書などで、理解を得ていたのだろう。どのようなものを読んでいたのかにも興味を持つ。
Acts 8:18-20 シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して、言った。「手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と共に滅びるがよい。神の賜物が金で手に入ると思っているからだ。
シモニア(Simony:金銭など対価を以て聖職者の位階や霊的な事物を故意に取引する聖職売買)に関する記述である。ただ、この記述において「人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。」(16)と背景を説明しているが、現代的にこのことを正確に理解することは困難である。シモンが、魔術のようなものと感じたのは、あながち間違っていないようにも思う。神の賜物として理解していたことは、重要であるだろうが。使徒言行録は、理解が難しいように思われる。
Acts 9:16 私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」
印象的なことばである。「また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。それを知ったきょうだいたちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ送り出した。」(29,30)これがおそらく最初の苦しみだろう。すぐ活躍できると思っていると、反発も起こり、出身地のタルソスに戻ることになる。苦しみの内容として迫害のようなことを考えるが、おそらく、それほど単純ではないだろう。使徒たちとの違い、イエスと共に生活をした経験が無いこと、自分の理解や活動が必ずしても、キリスト者も含めて、多くの人に理解されるわけではないこと等など。その中で、イエスや神様の苦しみを悟っていったのだろうか。
Acts 10:44,45 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
聖霊の働きが異邦人の回心の目に見える証拠となっているようである。聖霊の賜物については、ルカも、他の使徒や信徒たちも、同様のことを見ていたのだろう。それがここでも起こったことが記されている。しかし、今の時代に通じるかというと、微妙である。共通のものがあるとも言えるし、そうでないとも言える。証拠として共有できるかどうかは、時代とともに変化するのであろうか。聖霊の働きについての理解は難しい。
Acts 11:25,26 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて、大勢の人を教えた。このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。
バルナバという人の性質についてはこの直前に「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」(24a)かかれている。また、バルナバはレビ族でバルナバ「慰めの子」という意味だとも書かれているので(4章36節)そのような名を体現する人物で、「皆を励ます」(23)存在でもあったのだろう。なにかのきっかけがあったのか、バルナバはサウロを捜しにタルソスまで行く。聖霊の働きとも言えるが、バルナバなどが、祈りの中で、しばしば覚えていたのかもしれない。おそらく、サウロは知るよしもないだいろうが。サウロにはサウロの特別なときが、この期間を通して定められていたのだろう。
Acts 12:20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の領地から食糧を得ていたからである。
ティルスとシドンの誇りは感じられない。ネブカドネザル王の攻撃に、10年間耐えた、海洋貿易の起点は、このあと、滅亡し、ある程度復興しているようだが、以前の輝きは無いのだろう。ここでも「定められた日に、ヘロデが王の衣を着て座に着き、演説すると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。」(21,22)こころにも無いことのようにも聞こえる。そうであっても、このように語る、そしてそれを喜ぶ人がいる。虚構の世界である。とても、悲しい。しかし、キリスト教会にも同様なことはあるようにも思われる。
Acts 13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
伝道旅行が始まる起点となった記事である。おそらく、サウロがタルソスにいた間に、その地のユダヤ人との交流だけでなく、異邦人との交流の中で、福音の可能性について考えられていたろう。ただし、使徒言行録には、一行がタルソスに行ったことは書かれていない。バルナバはキプロス島生まれ(36)で畑も持っていたので、キプロスに、ある時期までは土着していたことが考えられ、様々な知り合いも居ただろう。その土地を売ってしまったわけだが。この章の最後には、すでに、パウロとバルナバが「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている。そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます。主は私たちにこう命じておられるからです。/『私は、あなたを異邦人の光とし/地の果てにまで救いをもたらす者とした。』」(46,47)この転換点を記した章だとも言える。この章の記述を丁寧にみることも、いずれしてみたい。
Acts 14:19 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
前の章からサウロが名前をパウロとあらため、この一行の中心になっているように見受けられるが、宣教の最初の時期から、暴力的な反発が起こっていることの理由は明確ではない。この章の前半のイコニオンでも「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人を辱め、石を投げつけようとした」(5)とあり、すでに、大きな問題になっていることがわかる。現代の宣教においては、軋轢は起こったとしても、初期段階から「町の人々」(4)が分裂するような大きなことはおこらない。パウロはなにを説き、なにがこのような争いを引き起こしたのだろうか。ひとつは、正しさを主張する議論に強かったということかもしれない。ほんとうに、それで良かったのだろうか。バルナバはこの状況をどのように見ていたのだろうか。わたしなら「あなたのことをおしえてください」と、互いに愛することを考えるだろうが。パウロの働きについても、もっと理解すべきなのだろう。
Acts 15:39-41 そこで、激しく意見が衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島に向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、きょうだいたちから主の恵みに委ねられて出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って諸教会を力づけた。
エルサレム会議の決定「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けること」(29)は、ユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者の分裂をさけるためだったと考えられるが、ここでは、福音主義キリスト者の分裂がすでに起こっている。バルナバも、サウロも結局、馴染みのある地域に向かっていったことを考えると、召しの違いとも言えるが、大きな課題を教会が担ったことも確かである。「激しく意見が衝突し」とあるが、すでに、何が主目的かに関しても、差異が認識の差異が生じていたのかもしれない。マルコによる福音書の成立はまだまだ先だろうが、パウロ書簡との違いをも考えると、そこまでも繋がっている分裂という意味もあるのかもしれない。
Acts 16:22,23 群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剝ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
ローマの直轄の都市となり、ローマ市民権をもっている市民が、二人をユダヤ人とし、「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです。」(20b,21)そして、鞭打つのは、非常に自然である。しかし、この町にも、ユダヤ人であっても、市民権を与えられているひともいただろう。冷静にはなれなかったのだろう。パウロたちは、後に市民権のことも伝え、堂々と、このまちを出ていくわけだが、一般的には、市民権を持っているものは希少であることを考えると、この行動は気になる。議論に強く、正しさ(義)に生きるパウロの特徴が現れているとも言えるが、支持することには、躊躇がある。
Acts 17:2,3 パウロは、いつものように、会堂へ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」と説明し、論証した。
このような論証もこの時代にはたいせつだったのかもしれないが、パウロの宣教はつねに争いを生み出している。正しさによる伝道だからだろう。互いに愛し合うことによって、イエスにつながる弟子であることを証する道とはかなり異なるように思われる。しかし、ヨハネも、このような期間を通して、次第に、イエスから受けたことを理解していったのかもしれない。また、互いに愛し合うことを第一とすることは、とても時間がかかることだから。
Acts 18:12,13 ガリオンがアカイア州の総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神を崇めるようにと、人々を唆しています」と言った。
世界史を学んでいると、どこでもユダヤ人の存在が重要な位置を占めているように感じる。ここでは、総督ガリオンが登場するが、一つ一つ、ユダヤ人の中の争いに、口を突っ込むことは、避けていたのだろう。訴える側も、総督に訴えつつも、ユダヤ教の中の問題を語っている。まだ、整理できていない時代なのだろうか。世界に散らされているユダヤ人の歴史、その地域での政府との関わりなどについても、いつか学んでみたい。
Acts 19:8,9 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国について堂々と論じ、人々の説得に努めた。しかしある者たちが、かたくなで信じようとせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノと言う人の講堂で毎日論じ合った。
ユダヤ人つながりではなく、ギリシャ人との関係に移っていく。しかし、ここでも結局騒動が起こる。最後には、町の書記官(35)が登場してことを収めたことが書かれている。そこでは「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。」(36)と宗教と文化との強い結びつきを述べ、その後、裁判(38)と、正式な会議(39)で解決すべきだと述べる。ユダヤ人の地位とギリシャ・ローマ社会の関係も背景にあると思われ興味深い。正直、一方的に、パウロを擁護する気にはならない。
Acts 20:13,14 さて、私たちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。そこからパウロを乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示していたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、私たちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。
まず著者もそこにいたことを想起させる「私たち」の表現は、マケドニアに向かう直前の16章から始まるが、17章以降はとぎれ、この20章になってから(6)始まり、21章まで続く。そのあと、27章、28章にも多くある。この間は、詳細には、見ていないが、調べる必要があるように思う。引用句を見ると、パウロと、同行者の、微妙な関係も見て取れる。丁寧に見ていくことが必要であるように思う。
Acts 21:12 私たちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。
「彼らは霊に促され、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」(4b)この時点では「彼ら」だが、引用句では「私たち」となっている。背景にある問題としては「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセに背くように教えているとのことです。」(21)が、議論はあるにしても、冷静な評価であるように、思われる。この時代には、非常に重要だったろう。普遍性をもとめるあまり、律法に忠実なユダヤ人にどう語るかは、簡単ではないのだから。現代の教会同士の相克も、似た問題を含んでいるように思う。「主の御心が行われますように」(14)とわたしも言うかもしれないが、もう少し、深く関わることも必要だったようにも思う。
Acts 22:21,22 すると、主は言われました。『行け。私があなたを遠く異邦人のもとに遣わすのだ。』」パウロの話をここまで聞いていた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
パウロの個人的な証が語られている。これを、この場で、話しても、どのような効果があるかは、わからない。私たちには、ある情報を提供してくれているが。このような、分裂が起こってしまったのは、個人的には、もっとずっと前に、問題があるように感じる。キリスト者「長老たち」(21章18節)や、バルナバなどと、もう少し早い時期に、十分協議することが必要だったのかもしれないが、主イエスの歩みを辿ろうとするものと、イエスがキリストであることを論証するパウロとが、共通の場で、対話するのは、難しいのかもしれない。
Acts 23:7,8 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、議会は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。
このことだけが議会分裂の理由かどうかは不明だが、ルカは、極力冷静に書こうとしている。パウロの、喧嘩を売るような発言(3-5)、紛争を誘発するような発言(6)なども記している。ルカにとっても、手に負えない状況だったのかもしれない。周囲のパウロに対する評価はそれなりに、多面的だったのかもしれない。パウロを批判したくもなるが、パウロへの愛も、見逃せない。複合的な理解が大切であるように思われる。
Acts 24:1 五日の後、大祭司アナニアは、長老数名とテルティロという弁護士を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。
大祭司もカイサリアへ下っていることをみると、パウロのことにかなりの力を入れていることがわかる。テルティロという名前が登場するが、ギリシャ人の名前だと思われる。おそらく、ユダヤ人で、ローマ帝国で、弁護士の働きをしていたひとなのだろう。訴えと、パウロの弁論、フェリクスとドルシラとの会話など、かなり詳細にかかれており、ルカ、または、仲間が、同行していたのだろう。それは、互いに愛し合うことのひとつの表現なのかもしれない。むずかしい、仲間との関係こそが、互いに愛し合うことにおいて試されることである。
Acts 25:19 パウロと言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。
ルカは、パウロの主張として、復活のイエスのことを中心として書いている。おそらく、パウロの原点であり、それを起点として、イエスがキリストであることを説いていたのだろう。福音書をも著したルカであれば、キリスト教について、もう少し異なる記述の仕方もできたはずである。パウロというひとを描き出すこと、そして、パウロも重要な存在であることを示そうとしているのかもしれない。あれかこれかではなく、あれもそれもでもなく、ルカの理解したものを丁寧に記述しているように思えてきた。
Acts 26:19,20 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私はこの天からの啓示に背かず、ダマスコにいる人々をはじめとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、さらに異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。
まず、ここに「ダマスコにいる人をはじめとして」とあるのには、驚く。前章のフェストゥス、そして、アグリッパの前での弁明は、詳細である。ルカが近くにいただけではなく、ヘブル語での弁明ではなく、ギリシャ語で語ったと思われるので、近くにいれば、容易に理解でき、人から伝え聞くにしても、理解が簡単だったのだろう。もしかすると、これらの記録が、この使徒言行録全体の大本にあったのかもしれないとすら思う。あくまでも、推測に過ぎないが、生き生きとした表現が印象的である。
Acts 27:25,26 こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたとおりになります。
盲(迷)信(思い込み)と無神論の間を信仰と希望をもって埋めるのは難しい。「学問のし過ぎ(異訳:博学)」(使徒言行録26章24節)のパウロもおそらくそのこともよく知っていたろう。「あの人(船員)たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」(31b)とか、「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。」(34a)には、そのことも感じられる。謙虚さは、感じられないが、それは、激励が必要なこの場に免じて、理解しよう。
Acts 28:30,31 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者は誰彼となく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
使徒言行録の最後のことばである。囚人としての生活としては異例・異常である。このあとどうなったかは、どうしても気になる。むろん、この二年間住んだころに、この使徒言行録が書かれたという可能性も無いことはないが、それなら、追記する可能性もあるので、おそらく、そうではないのだろう。ルカは、ここでおしまいとするのが適切だと考えたのだろうと思う。皇帝に上訴したパウロ。しかし、難船時の働きなど、パウロを重い刑には、できない背景もあり、さらに、「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟の誰一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありません。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」(21b,22)もこの当時の状況を映しているのかもしれない。ローマのような皇帝のお膝元、大きな町では、簡単に、ユダヤ人が騒乱を起こすことはできなかったろうから。

BRC2019(1)

Acts 1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
土地を購入したことが書かれている。何のためなのだろう。家族がいたのではないだろうかと考えてしまう。どのような将来を思い描き、希望をいだいたのだろうか。お金として、手元に置いておきたくなかったのかもしれない。「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタイ27章5節)マルコには、ユダのその後の記述がないことを考えると、ルカはマタイによる福音書の存在を知らなかった可能性がある。マタイとルカ(使徒言行録をふくめた)の成立年代はどちらが先か不明のようだが、ほぼ同時期、または、ルカのほうが早いことの傍証なのかもしれない。ルカのほうが早いとすると、すくなくともマタイによる福音書を編集してまとめたひとたちは、ルカ文書を読んでいたとしても、マタイ証言をたいせつにしたのかもしれない。収税所に関わったものとして、お金の管理について、ユダとの交流も多かったかもしれないので。いずれにしても、この不一致について、もうすこし考えてみたい。
Acts 2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
中心的な証言は「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」だということである。このあと「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」(23)「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(24)と証言している。使徒たちのイエスについての証言のひとつの形式だったのかもしれない。イエスのメッセージはどのように伝えられたのだろう。「奇跡と、不思議な業と、しるし」とあり、福音の内容は、語られていない。福音書を記したルカはどのように考えていたのだろう。43節以降にあるような、実際の生活による証が核だと考えていたのだろうか。異邦人にとっては、重要な、新しいことだったかもしれない。
Acts 3:15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
「美しい門」に置かれていた生まれながら足が不自由な男のいやしに関する記事である。これは「イエスの名」「その(イエスの)名を信じる信仰」「イエスによる信仰」(16)と続けて証言している。このあと、イエスがメシアであること(18, 20)モーセが予言した「わたしのような預言者」(22)また「ご自分(神)の僕」(26)と証言している。イエスがどのような方であるかを証言することがまず第一なのだろう。イエスの名だろうか。
Acts 4:33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
使徒たちはどのような証言をしていたかに関心を持った。直前の祈りの中で「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(29,30)と言っている。しかし、御言葉については、あまり記されていないように思われる。それと比較して、イエスの名が述べ伝えられること、それも「病気がいやされ(iasis)、しるしと不思議な業」によって。証言は「復活の証」なのか。福音書の内容と異なっているように思われるが、どうなのだろうか。ルカは、使徒の行為を中心に描いたからだろうか。イエスがどのように、この地上で行動され、語られたかは、使徒たちによって、ていねいに伝えられていなかったのだろうか。
Acts 5:17,18 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
「ねたみ」と表現されている。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(マタイ27章18節、参照:マルコ15章10節)使徒言行録には「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」(13章45節)「しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。」(17章5節)ねたみを引き起こすものはなんだったのか。「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」(13,14)しかし、この背景には、やはり力ある業、しるしがあったように思われる。これらこそが不可欠なのだろうか。現代ではどうなのだろう。
Acts 6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
ここでも、不思議な業とある。「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。」(9)とあるが、これも、ねたみだった可能性が強い。最初の殉教者となるステファノ、衝突は避けられなかったのかもしれない。いつのことだかは、記されていないが、それほど時がたってからではないように思う。難しい。
Acts 7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(52)とは、言っているが、イエスの証言には至っていないと言ってもよいかもしれない。おそらく、このあとに、続くのだろうが、なぜ、イエスのことを中心に語らなかったのか。イエスが示したしるしについて、語らなかったのか。不明である。礼拝の場所については、何回か述べている。正直よくわからない。
Acts 8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
福音がどのように伝えられたかに興味がある。ここでは「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」とある。イエスについての福音である。この章から、少し拾ってみると「福音」(4)「キリスト」(5)「しるし」(6)「人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(17)「主の言葉を力強く証しして語った」(25)すでに多様なことが書かれている。これだけでは、主要なことを決めるのは、困難である。
Acts 9:18,19a すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。
このあとにも「しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。 」(22)とある。画期的であると同時に、不自然でもある。わたしには、サウロの中での正しさと、価値観が大きく変わったことは認められるが、ひとが創り変えられるには、やはり時間がかかるのではないかと思わされた。「食事をして元気を取り戻した」は、非常に現実味がある。「うろたえさせた」(22)も理解できるように思う。
Acts 10:28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
明確な啓示をうけたことを証している。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(15b)をより明確に表現している。さらに、応答としてコルネリウスは「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。」(31)と祈りの中で聞いたことを伝えている。コルネリウスについては「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」(2)とあるが、これが何を意味しているかは、明確ではないように思う。しかし、おそらく、ユダヤ教シンパだったのだろう。神学的にどう理解するかはわたしには、わからないが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」(34)に本質が有るように思われる。天の父のみ心を行うひたとちが、イエスの兄弟姉妹なのだから。そして、その根拠として、知識に基づいた判断基準を持ち込むときは、気をつけなければならない。イエスの名も、信仰告白であるように、思われる。
Acts 11:15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
あまり厳密に考えて、神学を作り上げるよりも、ここでの喜びをうけとることがたいせつなのではないだろうか。異邦人のルカはおそらくそのことを描写しているだろう。そして、現代は、包摂性など、ひとの考え方も、すこしずつ深まっている。それを通して、神様のみこころを理解することがたいせつであると思う。キリスト教とはことなると言われるかもしれないが、それはそれでよいのではないだろうか。真理を求め続けていきたい。
Acts 12:1,2 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
このあとの、ペトロが捕まり、主の天使に導かれて牢から奇跡的に出てくることができたこと(7-10)を記述することが主なのではあろうが、唐突である。「ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。」(19)とあり、ヤコブ以外にも、「番兵たち」も殺されたことが記録されている。理不尽である。最後には、「ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。」(20)ことと、「ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。」(23b)ことが記されている。ヘロデの行動の背景にあるものは何なのだろうか。「主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。」(23a)と記録されている。さらに、ルカは「神の言葉はますます栄え、広がって行った。 」(24)と締めくくっている。冷静に、神の働きを認めているのだろう。この世のことを相対化しているからだろうか。難しいテーマだが、また考えてみたい。
Acts 13:9-12 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
個人的には、やはりアナニアとサフィラの記事(5章1節から11節)も、この記事も、嫌いである。わたしは、イエス様は、そうはされなかったと思う。律法学者などを批判はされても、メッセージを語り続ける。サウロも目が見えなくなった時期があったので、「時が来るまで」に期待を寄せるが、結末は書かれていない。攻撃をしない唯一の武道と言われる合気道の達人の塩田剛三は「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたと、ネット上の各所に書かれている。イエスはそうは答えなかったろうが、互いに愛することは、正しさでは実現しない。共に喜び、共に泣くことは、裁きによっては得られない、どうすればよいか、むろん、わたしは、その答えも鍵も持っておらず、塩田のような技の習得もできそうにないが。
Acts 14:4-7 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、そして、そこでも福音を告げ知らせていた。
どこでも、反対にあい、暴力である。イエスも、反対に会い、最終的には殺されている。しかし、やはり、イエスの行動とは、異なるものを感じる。教えることと、癒やすことだろうか。人々に仕えることと言っても良いかもしれない。それは、福音の本質的な部分ではなかったのか。「徴税人や罪人」と共にいること。罪人を招くことである。これは、異教の偶像礼拝を直接的には意味していないように思う。イエスは、このような状態を望んでいたのだろうか。ひとつのステップとして許容していたのだろうか。もっと広い視野に立って。本当にそうだろうか。
Acts 15:29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
20節にある、ヤコブの提案とほぼ同じである。ヤコブの指導力が強かったことが推測されるとともに、ヤコブが同意していることを示すことも、重要だったのだろう。このように明確に記されていることからすると、使徒言行録が書かれた頃には、この条件が生き続けていたのだろう。完璧ではないにしても、ユダヤ人キリスト者との交流を考えると、重要な要件であったことも、ある程度残った理由であるように思う。律法主義が残っているとも言えるが、律法主義からの解放だけに縛られてもいないともいえる。
Acts 16:26,27 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
看守の価値観からすれば、囚人が逃げないように見ている責任を担っており、そこに、人生をかけ、それによって、家族も、人生の目的もあると考えていただろう。非常にまっとうな人間である。その責任が果たせないとすると、自分の存在の価値もないと考えたのかもしれない。責任を自分が負うことで、家族には及ばないことを願ったのかもしれない。しかし、ここから人生が変わる。人生の目的が、神様のもとに引上げられたということだろう。神様のみこころをしっかりと求め続け、一日一日を生きる人生でありたい。神のこころを心として生きたい。
Acts 17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
「これ」はおそらく「創造」にかかわる「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」(26)であろう。ローマ人への手紙1章20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」が視野にあるだろう。しかし、本当に神を見出すことができるのだろうか。イエスによって、示されたとわたしは信じているが。ここでも、偶像礼拝排斥に至っている。相手に敬意を表す語り口であるが、下心も透けて見える気がしてしまう。謙虚にていねいに読んでいきたい。
Acts 18:11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
使徒言行録に記録されているパウロの滞在期間としては、長い方である。(「一年」11章26節「二年」19章10節「三年」20章31節「二年」28章30節)宣教の初期において、少しずつ、居を移して、伝道することが重要だったのだろう。イエスも、公生涯は、一年半から三年と言われる。しかし、ひとが成長する期間としては、まったく不十分である。考えたいことがたくさんある。学ぶということの重要さだろうか。そしてそれは、一生続くものである。
Acts 19:26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。
おそらく、偶像についてパウロが厳しく語ったことは事実だろう。「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」(17章16節)「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(17章24節)偶像の問題は、ていねいに考えるべきである。そのひとがたいせつにしている、生活の一部、文化でもあるから。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 」(14章15節)もパウロの言葉であるが、「生ける神に立ち帰る」ことが宣教の内容だったかもしれないが、神の御心に生きるものとなることのほうが普遍的であるように思う。
Acts 20:20,21 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
標準的であるとも言えるが、気になることもある。それは、わたしたちがしていることへの振り返りでもある。まずは、役に立つことから始めていること。イエスはそのように説いだだろうか。二番目に、神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰。このような表現が他にもあるのかは不明だが、これが、福音なのだろうかということ。しかし、パウロの宣教によって、多くのユダヤ人、ギリシャ人が、イエスをキリストとして信じるようになったことは確かだろう。イエスの福音との差異を考えてみたい。
Acts 21:4 わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
「“霊”に動かされ」が印象に残った。ルカは重いことばとして記しているのだろう。使徒言行録は、ローマでの生活で終わっており、その後、パウロがどうなったかについては書かれていない。もし、このあと次のチャプターがあり、たとえば、イスパニアに行って宣教するようなことがあり、それを、ルカが知っていたとしたら、このように書いただろうか。パウロのその後について、ルカは知らないか、または、やはり、ローマで一定期間の後、「丸二年間」(28章30節)だろうか、これは、家に住んだ期間だから、それよりは少し長いだろうか、不明ではあるが、そのあと、殉教の死を遂げたのではないだろうか、と考えた。
Acts 22:14 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。
「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』」(9章17節)と多少変わっている。むろん、食い違っているわけではない。前は、聖霊によって生きていくことに、焦点があっているが、ここでは「御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるため」としている。使命が明確になったことを伝えているのだろう。おそらく、ここまでの長い時間の間で、その時のことが、明らかにされていったのだろう。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。 」(4)と証言している。その償いはないのかと、考えてしまうが、それを償ってあまりあることをしているということだろうか。このように、パウロたちに、殺された人の家族は、ゆるせたのだろうか。問を持ち続けたのだろうか。後者のような気がする。
Acts 23:11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
正直に言って「ファリサイ派とサドカイ派との間に論争」(7)を生じさせるパウロのやり方は支持できない。しかし、それは、パウロも一人の人間であったということである。パウロには、ローマで、できれば、皇帝の前で、証することこそが、神の御心だと固く信じていたということだろう。個人的には、たとえ、皇帝の前で証言したとしても、そして、皇帝が、改心したとしても、それが、神の前に、善しとされるこのなのかどうかわたしには、わからない。それは、わたしが、そのあとの歴史を見ているからだろうか。そうかもしれない。しかし、そうであったとしたら、神の御心を、どのようなものとして、受け入れるかも、少しずつ、変わっていくことも当然だろう。個人がそうであるように、ひとびとも、達し得たところにしたがって、歩み、成長ばかりではないだろうが、理解が深まることもあるだろうから。
Acts 24:14,15 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
これが、異邦人キリスト者すべてにも共通かどうかはわからないが、すくなくとも、タルソ出身のユダヤ人であるパウロは、このように証言したと、異邦人キリスト者のルカは書いている。『分派』と呼んでいるこの道のある説明であることは確かである。「(ユダヤ人の)先祖の神を礼拝」「律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ」「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いている」三番目は、パウロの原体験に基づく、核となる部分であると同時に、この弁明に関することでもあるが「彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだ」(21)、一番目と二番目については、おそらく、現代のキリスト者は、表現を変えるか、修正するであろう。「則した」と少し弱めた訳を使っているあたりに関係しているだろうか。他の訳はいろいろなようである。
Acts 25:25 しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。
かなり詳細にかかれており、ルカの目撃証言なのかもしれない。むろん、護教的な面を排除することは困難であろうが。最後に「囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」(27)とあるが、護送という経費もかかることを実行するために、常識的に考えて、これは、当然のことだろう。被告の希望だけで、皇帝に上訴できるというのも、不思議である。ある判決に対する(現在のことばでいうと、上級審への)上訴であろうから。パウロの上訴も、わたしには、理解できない。それが神にみこころだと、どのように理解したのだろうか。直接啓示に根拠を置くのも、不自然である。
Acts 26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
サウル回心記事の三つ目である。(9章・22章)ここでは、主からの啓示としての、パウロの使命が語られている。一つ目が引用箇所である。ここには「見たこと」とともに「わたし(復活の主イエス)が示そうとすること」の二つが書かれている。後者をどう理解するかは幅もあるだろうが、パウロ書簡の内容も含まれるのかもしれない。疑問が起こるのは、聖書が神のことばだと証言するときに、このことばを根拠(の一つ)とすることである。証人としての正当性にも、問題がある。内容が、この節に続けて書かれているが、それも、直接啓示なのだろうか。正直よくわからない。
Acts 27:24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
神からの天使が告げたとしている。26章24節の「これからわたしが示そうとすること」が確かであることを立証する意味も持っているのかもしれない。むろん、危険性も感じるが。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださった」これを受け取ることは、大きな責任を担うことではある。これが、あるカリスマ性をうんでいくのかもれしれない。宗教には、危機におけるとくべつのリーダーシップは、このようにして育まれるのかもしれない。そう考えると、それ自体を云々することはできないようにも思う。
Acts 28:18,19 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。
パウロ側の理由を、ルカが記しているが、これが、上訴の理由だったのだろうか。当時の裁判がどのように行われたかはわからないが、総督として着任したばかりのフェストゥスの判断が揺れていたのかもしれない。(25章)少なくとも、パウロを支援する弁護団は組織されなかったことは確かである。エルサレムのキリスト者たちにとって、パウロはどのような存在だったのだろうか。(21章17-26節)まだ、キリスト教会は、力不足だったとはいえ、そのあたりも、影響していることになる。現代では、どうだろうか。戦争中の困難なときに思う。

BRC2019(2)

Acts 1:3-5 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
ルカは、エルサレムで、この時代を知る何人もの人達に会って、情報を集め、それを集約して記していると思われる。「四十日」が明記されているのは、ここだけである。また「エルサレムを離れず」とある。これは、四十日間全てではないかもしれないが、すくなくとも、最後の期間は、エルサレムにいたとしている。8節の「エルサレムばかりでなく」と関連しているとは思うが、ガリラヤでの顕現を中心とする、マタイとは異なるイメージを与える。ヨハネ21章がどの時点かも不明であるが、この期間のかなりの期間、ガリラヤにいたのではないかとの推測もできる。もう少し情報を整理したい。
Acts 2:1,2 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
五旬祭(ペンテコステ)は、過ぎ越しの祭りから五十日後である。1章3節の四十日間から考えると「昇天」の十日後である。あまり長い期間待たなかったことがわかる。かつ、このときのペトロのメッセージを見ると、聖霊降臨の意味(14-21)「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」(22)であること、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」との証言をとともに、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)と断言している。聖霊によってこのように語ることができた「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21章14,15節)が、実現したときだと言えるかもしれない。驚かされるとともに、この50日間について、もう少し学びたい。
Acts 3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
このひとを強くしたのは「イエスの名」だとしそれは「その名を信じる信仰(直訳は『その名の信仰(pistis)』または『その名の信頼』)」「イエスによる信仰(直訳は『彼の名と信仰(pistis)』)」「完全にいやした(直訳は『完全さ(holokleria: completeness, soundness おそらく wholeness)を与えた』または『完全にした』)」となっている。いやすことと、信仰の解釈が難しいために、原語を確認してみた。実際にいやされたのだろうが、歩けるようになったことをどう表現しているかにも興味があった。そして、このひとのしたことは何なのだろうと。「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』 」(6)にある、イエスの名を信頼したということなのだろう。無論、教理を受け入れたと信仰告白をしたり、洗礼を受けたりということとは、異なる。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節)
Acts 4:29,30 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
「今こそ」と言っていることに興味をもった。「今」は、まさに、「思い切って大胆に御言葉を語」り、「イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われ」たときである。願う前から叶えられているとも言えるが、主が働かれたことを、讃美し、そのことを(すでに起こっているにも関わらず)願うなかで、主のみこころとシンクロナイズされ、主と共に働くことになるのかなと思う。「共に」の意味についても考えさせられる。御心の一部を見せて頂く、そしてその御心自体を信じる、その名に信頼することだろうか。からしだねひとつぶほどの信仰であっても。
Acts 5:41,42 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
「メシア・イエス」という書き方に驚いて、調べてみた。新共同訳聖書では、ここだけに使われている。メシア単独を翻訳語として使ってある場所は多く、使徒の中にも、この箇所を含めて10箇所ある。むろん、キリスト・イエスという訳はたくさん現れる。なぜここだけ、メシア・イエスと翻訳したのだろう。すこしだけ、ギリシャ語を調べてみたが、キリスト・イエスとなっている箇所もすべて調べないとはっきりしたことは言えないので、確定的なことは書けない。NA28(ネストレーアーラント新約聖書28版)では τὸν χριστὸν Ἰησοῦν(ton christon Ieesuun)とあることのみを記しておく。いずれ調べてみたい。
Acts 6:1,2 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
いま、考えている公平性の問題である。十二弟子は、ヘブライ語を話すユダヤ人であったろうから、ギリシャ語が堪能なひともいただろうが(参照「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。 」(ヨハネ12章20,21節))議論や案内などでも言語の問題も生じたのかもしれない。「やもめ」を顧みることは、重要なこととされていたから、それをあげて訴えたのだろうが、おそらく、多くのコミュニケーション・ギャップ、ソーシャル・ディバイドがあったと思われる。適切に対応することは困難である。選ばれた7人は立派なひとだったようだが「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」(3)だが、十二弟子が「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(4)とした判断が良かったのかどうかは、今にまで影響があるように思われ、注意して考える必要があるように思われる。公平性は、御言葉の奉仕に直接関わることだと思うので。
Acts 7:7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
「この場所」が気になったので、引用箇所を調べてみた。対応しそうなのは「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』 」(出エジプト記3章12節)であるがこれは「この山」であり、ホレブ(シナイ山)を指す。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」(歴代誌下3章1節)では、アブラハムがイサクを献げたモリヤ山に神殿を作ったとしている。(この関連性をのべているのはこの箇所のみ)ステファノの説教の何がユダヤ人たちを怒らせたのかは、明確とは言えない。可能性のあるのが、「いつも聖霊に逆ら」(51)い、「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(52)と、「正しい方(イエス)」を殺したと述べたことだろう。それに加えるとすると、礼拝する場所をエルサレム神殿に特定しないことと、思われるので、気になったのである。「この場所」「この山」を特定の場所に限定するのは、困難だろう。エルサレムの神殿の場所を特別視するのは根拠薄弱である。
Acts 8:4,5 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1章8節)の第三段階、サマリアの全土への広がりが書かれている。またこの章の最後にはエチオピア人の宦官が洗礼をうけたことが記されている。(26-40)第四段階の地の果てに至るまでの証の片鱗が見えているのかもしれない。とくに、サマリヤはイスラエルでは偏見・差別と不和・没交渉が一般的であったようなので、そこに自然に入っていったことに興味がある。イエスの活動でサマリアに自然に入りやすい背景ができ上がっていたのかもしれない。イエスのサマリアにおける活動や発言については、いつかまとめて考えてみたい。偏見・差別と不和・没交渉をどう克服するかの鍵もあるのかもしれない。
Acts 9:13,14 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
「ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」(2)とあり、アナニアも見つけ出されたら、エルサレムに連行され、殺される可能性もあったはずである。そのようなひとにどのように対するのか、大きなチャレンジだったろう。記されているのは「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(15,16)このことを受け取ることができたことについて考えてみたい。基本的に、(理解しづらい)相手にも、まったく知らない面、特に、神様がどのように、その人に働いているかは、見えないことを自覚することだろう。見えるとしてしまう、傲慢を悔い改めるとも言えるかもしれない。
Acts 10:28,29 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 (15)この主のことばを三度聞いたとある。この言葉自体は、マタイ15章11節など直接的にではないが、口に入るものが汚すのではないことをペトロは知っていただろう。また、イエスはその意味としてこの15節のことばを語り、それも聞いていたかもしれない。それがここで蘇るだけではなく、そのことが、外国人との交流にも当てはめることには、ギャップもあったろう。その理解をたすけたのは、聖霊の働きと言っても良いかもしれない。イエスはおられなくても、イエスをとおして受け取ったことが生き生きと神の言葉として宿るようになったのだから。このような部分はおそらくメカニズムを完全に解明することは、できないだろう、さらに「なぜ」については答えられない。怪我をしたとき自然に治るようになっているのは、メカニズムはある程度わかっても、なぜかはわからないだろう。科学はなぜかという問には答えない。ナイチンゲールが「主は恵み深い」と言っていたゆえんだろう。
Acts 11:19,20 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
このあとには「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」(21)と続く。「ギリシャ語を話す人々」がどのようなひとたちかが不明である。異邦人なのか、ユダヤ教徒に改宗した異邦人または、コルネリオのような人たちなのか。このあと、(キプロス出身の)バルナバが調査に出かけるが「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」(23)とあるだけで、状況は不明である。ギリシャ語でも語っただけだとも言える。アンティオキアには、様々な人達が集まっていたと思われ、ユダヤ人であっても、ヘレニストが多いのだろう。カテゴリーわけはあまり意味がないが、異邦人宣教の経緯を理解するためにも、理解しておきたい。
Acts 12:15,16 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
「天使」について考えてみたい。基本的には、神の使いだと思うが、ここでは、ペトロを守る天使ということばが登場する。カトリックで使われる「守護聖人」と近いのだろうか。すくなくとも、ルカが理解している、当時の(ユダヤの一般の)人達の一般的思考について披瀝していると考えられる。書かれていないことをなんでもこじつけて合理的な解釈をすることは、望ましくないが、仮説の検証は、可能性としてありうるかを確かめることなので、誤っているとは言えない。この場面では、番兵である。一般的には、番兵は、囚人を逃がすと、その囚人の受けるはずであった刑を受けることになると言われる。ここでは「夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。」(18,19)とある。このあと、20節以降の、ヘロデの傲慢と残忍さを表すエピソードとも取れるが、取り調べた上でとあり、過失ではなく、ペトロを番兵が逃した可能性もある。キリスト教会では、そのことを知らなかったか、または、家族などにまで影響が及ばないように、天使としていた可能性もある。不思議な物語であるが、この時代、すでに、いろいろな信徒がいただろう。断定的に、超自然的な神の直接介入と証明することも、困難であると思われる。
Acts 13:35,36 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。
復活の議論であるが、これだけでは、詳細にはわからない。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイ22章32節、参照:マルコ12:17、ルカ20:38)「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14章19節)などとの関係を明確にすることは、ここだけでは簡単ではない。復活における、イエスと、信仰者の違いである。天のお父様とよぶときの、わたしたちの命についてである。いずれゆっくり考えたい。
Acts 14:27 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
異邦人にどのように「信仰の門」が開かれたかは、使徒言行録の重要な要素だが、必ずしも明らかではない。エチオピア人の宦官、コルネリオなど以外にも、おそらく、何人も、異邦人で「弟子」となったひとはいただろう。しかし、それがあるスケールで起こったのは、このパウロの伝道それも、キプロス島をを出て、パンフィリアのペルゲ、ピシディア州のアンティオキア(13章14節)以降なのではないだろうか。それがここに「異邦人に信仰の門を開いてくださった」と記述されている。無論、それは、ルカの記述で、15章のエルサレム会議への段取りだとも解釈することもできる。実際には、どうだったのだろう。少なくとも、エルサレムやユダヤでは、異邦人信徒との関係が大きな問題にはなっていなかったらしいことも、15章で伺い知れる。サマリア人についてもどの程度の信徒がいたのかも、興味があるが。サマリア人は、混血などだけでなく、すくなくとも、ユダヤ人とは認められていないひとたちばかりだったようなので。
Acts 15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
エルサレム会議の背景がまとめられている。(5節参照)十字架からこのときまでにどのくらいの時間がたっているか不明であるが、明らかにことなる集団がすでにキリスト者として形成されていたことがわかる。ユダヤ人にとって、信仰生活とユダヤ人であること、そして割礼はきっても切れないもので、それが、異邦人とを区別する重要な要素だったろう。それを「救われるためにモーセの慣習に従って割礼を受ける必要はない。」という一団が形成されていたのだから。おそらく、問題は、その一団と、やはり割礼は必要だとする一団が分裂するかどうかだったのだろう。それで「この件について使徒や長老たちと協議する」(2)ことになる。「さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。」(3)とある。フェニキアやサマリアの人たちについては詳細はわからないが、すでに、多様な背景の多様なキリスト者がおりその交流が重要だったことを意味している。パウロやバルナバにとっては、使徒会議の結論はたいせつではあっても、この大きな流れを変更するものではないとの確信があったのではないだろうか。その意味でも、フェニキアや、サマリアの人たちの改宗の土台は大きいと思われる。
Acts 16:14,15 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
これは一日に起こったことではないかもしれない。「注意深く(prosechoo: 1. to bring to, bring near, 2. to turn the mind to, attend to be attentive, 3. to attend to one's self, i.e. to give heed to one's self, 4. to apply one's self to, attach one's self to, hold or cleave to a person or a thing)」ということばが印象に残った。ベレアでのこと(17章11節)も思い出させる。神をあがめる生活を送っている人が、聞いたこともない新しいことを信じるようになるには、いろいろな経緯があるだろうが、注意深さが、しっかりとした信仰を育むことは、普遍化するつもりはないが、多くの人にとって鍵となることだろう。
Acts 17:26,27 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
アテネでの説教であるが「神は、一人の人からすべての民族を造り出し」「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」いずれもアテネのひとたちに届いたのだろうか。「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り/我々の先祖の契約を汚すのか。」(マラキ2章10節)が最初の引用箇所として上げられているが、この信仰が明確になったのは、いつ頃なのだろうか。ひっかかったのは「民族(ethnos: a multitude (whether of men or of beasts) associated or living together, a tribe, nation, people group)」これは、日本語においては特に問題のあることばで、人種による区別ではなく他のことばを使って日本人を特徴づけようとしたなかで生まれたとも言われているためでもある。第二番目も難しい。特に、アテネのひとたちは、「神」を見出しているとは言っていないからである。「知られざる神に」(23)について語っているのだから。さらに、三番目、ギリシャでは、おそらく、もっと神々が近い存在だったろう。語ることはほんとうに難しいと感じた。
Acts 18:9,10 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
「わたしの民」はなにを指すのだろうか。神が造られた人間とは、独立の定義があるのだろう。イエスの「兄弟・姉妹」として「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12章50節)は開かれているように思われる。わたしの民は開かれているのだろうか。それとも、予定説のように、最初から定められているのだろうか。引用したことばは、後者を支持しているように思われる。しかし、「わたしの民」とそれ以外を分ける意図はないだろう。パウロにとっては、語るべき相手がという程度の意味に取るべきなのだろう。大きな問題なので、また考えたい。
Acts 19:1,2 アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
「聖霊」は「弁護者」などと訳されているパラクレートスのように、ヨハネによる福音書でイエスが約束している(ヨハネ14章26節、16章4節)。マタイでは、マリアが身ごもったこと(マタイ1章18節・20節、ルカ1章15,35,67節、2章25,26節、ヨハネ1章33節)、バプテスマのヨハネがバプテスマについて語る場面(3章11節、マルコ1章8節、ルカ3章16節、22節)、また「聖霊に言い逆らう」ことについて12章32節(マルコ12章36節、マルコ12章10節)に、そして、大宣教命令の中で(28章19節)語られている。マルコではこれ以外に証言について(マルコ13章11節、ルカ12章12節)。ルカではこれ以外に、悪魔の試みの場面(4章1節)、イエスが神をほめたたえる場面(10章21節)祈りの答えとして(ルカ11章13節)聖霊が与えられることが語られている。ヨハネによる福音書の20章22節の「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」も印象的である。引用箇所では、「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」とあり、聖霊が当時の人たちにとってどのように理解されていたかが気になった。もう少し、パウロ文書などを調べないとわからない。使徒言行録の記述も詳細にみる必要がある。いずれにしても、キリスト教において、ユダヤ教と大きくわける重要なようそであったことは確かなのだろう。
Acts 20:31,32 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
模範として生きること、そして、神とその恵みの言葉に委ねることが、記されている。キリスト者の生き方のたいせつな部分なのだろう。ひらたいことばでは、ひとりひとりが永遠のいのちを生きることの価値の大きさと、それを誇大評価しないこと。ここでは「その恵みの言葉」と語られていることも注意を引く。これは、旧約聖書なのだろうか。聖霊を通してかたられることばなのだろうか。イエスを通して語られた言葉なのだろうか。どれに重きが置かれているのだろう。
Acts 21:20,21 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
ホームページの使徒言行録に書いている4つの問の三番目「ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。」の問題である。ここには、この問に対する、パウロの見解も、教会の見解も書かれていない。おそらく、簡単ではなかったのだろう。ここでもこの人々のことばの最後は「また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」(25)で結ばれ、これは、エルサレム会議(15章)で解決済みとして、別の問題であることを明確にしている。わたしが掲げている二番目の問「ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。」とも深く関わっていると思う。それは、共に生きる存在だからである。律法の問題は聖書をどのような神のことばと受け取るかとの問題とも関係しており、難しい。パウロが皆に止められながらも、それを振り切って、エルサレムに行ったことの評価とともに、信仰生活と神のみこころに関わるとてもおおきな問題であるように思う。
Acts 22:12 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。
使徒言行録9章のサウルの回心の場面では「アナニアという弟子」(10)と紹介され、記述からも、イエスの弟子であることが明確である。しかし、ここでは「律法に従って生活する信仰深い人」とパウロに語らせている。エルサレムの兄弟たちの助言の背後にある懸念をうけとっていることがわかる。それは「そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。」(21章26節)からも見て取れるが、この四人との関係はあまり明確ではない。22章に記されているパウロのメッセージは途中で遮られていることもあるが、パウロがなにを伝えようとしていたのかはよくわからない。パウロがエルサレムにどうしても来ようとしたことの理由とともに謎である。
Acts 23:12,13 夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。
混乱が激昂も生んでいる。多少の民族性・時代性もあるのかもしれない。冷静に考えて、この四十人以上の人たちは餓死してしまったのだろうか。おそらく、そのようなことはないだろう。目標達成が絶対化しいのちをかける程になる一つの例だとも思うが、「パウロを殺す」という目標自体に、いのちをかける絶対的価値はない。たんに、自分の目標を正しいと主張するための道具であるにすぎない。冷静さはない。ここまで考えると、このような状況を生じさせた、パウロにも問題があるように思えてくる。パウロがエルサレムに戻った目的は何なのだろうか。達成しようとしていたことは何だったのか。こちらも、正直、異常に思えてしまう。ある使命を絶対化してしまっているとすると、他者が評価はできないかもしれないが、模範にはならない。謙虚に、主のみこころを求め続け、達し得たところに従って一日一日、いっときいっときを歩んでいきたい。目標は、あくまでも、道具であることを、覚えつつ。
Acts 24:17 さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。
ここにパウロがエルサレムに帰ってきた目的が書かれている。しかし、それだけなら、他のひとに届けさせることも可能なはずである。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9章3節)「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」(ローマ11章14節)とあるが、ほんとうに、パウロはそう考え、そのように行動しようとしていたのか疑問をもってしまう。エルサレムで争いを起こすことが、他の地域でも、紛争を生じさせることがほんとうに、同胞の救いを求めることなのか。正直よくわからない。パウロさん、教えて下さい。あなたにとってたいせつなことはなにだったのか。
Acts 25:10,11 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」
パウロの目標が皇帝の前に立つことだったのではとも言われる。明確にはわからないが、そうかもしれない。もし、少なくとも、この時点で、それが目標になっていたとしたら、パウロはなにを目指したのだろうか。(当時の)世界が、ローマ帝国下にあり、ユダヤ地方もそのもとに置かれている状況を、武力ではなく、霊的に変えようと思っていたのかもしれない。その達成の道として、皇帝への上訴を選択したのかもしれない。いずれにせよ、パウロがどうしてもエルサレムに行くと主張し、捕らえられ、死ぬことすらも恐れなかった理由は不明である。状況証拠やルカの証言からもはっきりしておらず、本人の書いたものからも判断できないからである。
Acts 26:8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。
「復活」について最初に述べている。パウロの中心にあったことなのだろう。その前に、「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」(6,7)とあり、復活を「神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現」「望み」と関連させているように思われる。このあたりの論理も、ここだけからは、はっきりしない。
Acts 27:23,24 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
使命がここでは目的重視を引き起こしている。「何かに対して使命を感じるとはいったいどいう言うことなのでしょうか?それは、あなた自身の掲げる、何が正しく何が最善であるかという高い理想の実現を目指して、自分の仕事をするということではないでしょうか。」これは Florence Nightingale のことばだが、「何が最善であるか」という理想は、パウロにとって何だったのだろう。個人的には「皇帝の前に出頭」することがそこまで重要だとは思わない。使徒言行録もそこまで書かれていない。たとえ皇帝に大きな影響を与えたとしても、地で御心がなることとは、ほとんど関係がないと考えてしまう。パウロはなにをたいせつにしていたのだろうか。神の声を聞いたと確信していれば、なにをしても良いのだろうか。それは、自分の中にある(自分が受け取ったと信じる)ものに、希望を置いていることではないのか。パウロは何度も「わたしに倣う者になりなさい。 」(1Cor4:16, 11:1, Phil 3:17, 1Thess1:6,2:14)と書く。しかし、イエスに倣うものにはなることは目指したいが(WWJD, WWNJD)、正直、パウロの書くことばは示唆にとんだ恵みのことばが多く学ばされるものの、パウロに倣うものにはなりたいとは思わない。
Acts 28:28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
異文もあるようだが、使徒言行録の流れにはあっている。しかし、これがテーマ、パウロが伝えたかったこととするのは、あまりに悲しい。この前のイザヤ書6章9・10節の引用も、ここで他者にむけて言うことなのかわたしには承服できない。また「ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。」(18,19)とあるが、結局、皇帝に上訴した理由もはっきりとはしない。ルカの苦労が浮き彫りになっているといまは考えることにしよう。ルカも正直、明確には書けなかったのかもしれない。もしかすると、パウロ自身の中でも揺れていたことがあったのかもしれない。受け取ることは困難であるが。端切れのわるい(使徒言行録の)終わり方であることは確かである。

BRC2017(1)

Acts 1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 
明確な書き方ではないが、「オリーブ畑」に泊まっていたのではないだろうか。そして、これは、ゲッセマネの可能性もある。ルカの記述によると「そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、」(Lk19:29)「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。」(Lk21:37)と他に二箇所「オリーブ畑」が出てくる。ゲッセマネは、マタイとマルコで、ルカは「オリーブ山」「いつもの場所」(Lk22:39,40)である。同一ではないかもしれないが、近隣であったり、関連はあるのだろう。弟子たちの思い出の場所である。同時に、イエスの死後も、この持ち主との信頼関係が続いていたこと、さらには、安息日を守っていたと思われることもわかる。13節の「泊まっていた家の上の部屋」も、最後の晩餐の「二階の広間」(Lk22:12)を想起させる。「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」(Acts 12:12)と結びつけるには、情報が足りない。
Acts 2:46,47 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。 
すばらしいと、ずっと思ってきたが、これでは、生活は続かないだろう。最初は「財産や持ち物を売り」である程度、維持できたであろうが、エルサレムという場所も、このことを続けるには限界がある。「神殿に参り」もまだ新しい礼拝形式が確立していないことを意味している。「パンを裂き」はある確立した形式を表現しているのだろう。おそらく、表現したい部分は、仲間が増えていったことと「一つにされた」ことだろう。あまり、厳密に考えない方が良いかもしれない。
Acts 3:7,8 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 
「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。」(4章22節)とある。右手をとったところは、多少不自然に感じるが、ゆっくりと起こったことではないのだろうか。ルカは、おそらく、ペトロから直接聞いたのではないだろう。ヨハネにはどこかで会っていたかもしれないが、おそらく会っていないのではないか。すると詳細の部分は、無視される。いやされたことは、確実だろう。このようにして歩き出したことも、そうなのだろう。なぜ「たちまち」に疑問を抱くかは、弟子たちのこのひとへの仕える態度が見て取れないからである。奇跡的な働きを誇張しているように見える。わたしの単なる読み込みなのかもしれない。また、ここに戻ってこよう。使徒言行録ではとても重要な事件の記述だから。
Acts 4:14 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。 
この前に、明確に救いはイエスによると述べるメッセージが記され「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」と続いている。つまり、無学な普通の人であることを理由に、さげすもうとしたことがわかる。それをうけて「しかし」とつながる。3章からつづく、この話は、ベトザタ(口語:ベテスダ)でのいやし(ヨハネ5章)を思い出させる。大きな証だったのだろう。どのようにして治ったのかは記されていないが。
Acts 5:12-14 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 
これを整合性をもって理解するのは難しい。多少、祭司、民の長老たちから村八分にされないようにとの意思は働いたかもしれないが。直接経験したものは、もう少しなにか書けたかもしれない。ルカはしかし、聞いた現実を記録することに、忠実である
Acts 6:11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 
「彼ら」とあるのは「キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たち」(9節)である。つまりディアスポラ、ギリシャ語を話すユダヤ人であろう。ステファノも名前からして、また、1節などの背景からして、ギリシャ語を話すユダヤ人だったろう。パウロ登場以前だから、異邦人の救い、イエスの教えとユダヤ教の律法などとの関係などが整理されていなかったと考えるのが自然だろう。13節を見ると実際に批判しているのは、ステファノが「この聖なる場所と律法をけなし」ているとこの人たちが受け取ったことだろう。サドカイ派中心の最高法院に引っ張られていったのは、普遍的ユダヤ教とはことなる、民族主義的ユダヤ教に訴えたということか。「神を冒涜する言葉を吐」いたとして死刑へと向かう。このときは、ローマ総督などが近くにはいなかったのかもしれない。いろいろと考えさせられる。
Acts 7:46-48 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、 神のために家を建てたのはソロモンでした。 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 
口語訳では「ヤコブの神のため」となっている。Nestle-Aland を見ると、確かにヤコブの家となっており、神は入っていない。写本による本文研究からこうなったようで、わたしの持っている26版には異読が書かれている。ステファノは普遍的なつまりエルサレム神殿に限定されない礼拝の場所について述べており、これがある人たちの怒りを買ったことは確かだろう。しかし、ステファノの説教はイスラエルの歴史の大切な部分について(旧約聖書にない記述も含まれ、詳細は多少議論の余地があるが)すばらしいと感じる。おそらく、ペトロなどはこのような説教はできなかったのではないか。多様性の豊かさがすでにある。十二弟子からなる使徒集団とは異なる権威が生まれ始めているともとることができるかもしれない。
Acts 8:17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 
「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。」(16節)と前置きがある。さらに「二人(ペトロとヨハネ)はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」(15節)ルカにとっても、聖霊の働きは神秘的だったのかもしれない。いずれにしても、聖霊の働きは目に見えるものであったことが分かる。それを、強調しすぎるのは問題があるが、それを無視することはできない。ただ、具体的な内容も書かれていないことも事実である。ヨハネによる福音書の parecretos の働きを確認をしたい。(ヨハネ14:16, 26, 15:26, 16:7, 1ヨハネ2:1)ここだけに書かれている。福音書における弟子たちや、一般の人々についての聖霊の教えはやはり「弁護者」に近い。真理を教えて、助けるものである。
Acts 9:15-17 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 
アナニアのような僕でありたい。サウルを神が選んだ器であることを伝えられて受け入れている。しかし同時に「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」は、共に生きるものであることを、アナニアに伝えたのではないだろうか。共に生きるものは、共に苦しむ者である。それは、同じ「聖霊」が注がれている者なのかもしれない。神の霊によって、神と苦しみを共にして生きるものである。神が、その人の内にあり、その人が神の内にある、イエスの内にある、そのようなものとして、一つとされたのかもしれない。
Acts 10:44-46 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 
聖霊が降った。として、そのあとにその結果、驚いたことが書かれ、そのあとで、なにが起こったかその様子が続いている。しかし、実際には、ほぼ逆の進行であったろう。これは、聖霊が降った以外には考えられない。まさにそうなのだ。と共に確信する状況があったのだろう。そこであげられているのが「異言」である。現代では、異なる聖霊の賜物となるかもしれない。さらに、目に見えない世界が重要だと認識されていた頃とはことなるかもしれない。
Acts 11:20,21 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。 
アンティオキアについても学びたい。非常に古い町であるダマスコとは異なって、様々な人たちがクラス文明の交差点のような町だったようである。ここでの記述もそのような背景があったように思われる。そのような町では、人々の思考に柔軟性があるとともに、統率性がない弱点もある。しかし、そのような町こそが、主イエスの福音の普遍的な面が受け入れられていく場となったのだろう。ルカは「主がこの人々を助けられたので」と記述している。ルカの信仰告白でもある。
Acts 12:4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。 
「しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」(マタイ25章5節、参照:マルコ14章2節)むろん、この祭りはイエスが十字架にかかる過越の祭である。引用した記事はそれとの類似性を感じる。意識はしなくても、混乱を避けるためなどという人の思いとは別に、ことはなっていく。神様の働きとして、そこで終わることもできるが、正直に生きること、それでよいのだというメッセージも感じる。一つ一つの困難にも真摯に向き合っていきたい。
Acts 13:1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
シリアのアンティオキアは紀元前4世紀にアレキサンダー(Alexander the Great)の将軍の一人のニカトル(Seleucus I Nicator)によって立てられいまは、シリアとの国境にあるトルコの町アンタカ(Antakya)の近くの廃墟となっている場所らしい。いずれにしても、ヘレニズム文化をもつ、当時の国際都市で、リベラルな、コスモポリタンがたくさん居た町である。このリストをみても、ある程度うかがい知ることができる。迫害があり、エルサレムから追われたひとたちの行き着いたところではあるが、新しい動きは、このような町からスタートするのかもしれない。一つのキーワードは普遍性。しかし、残念ながらそれは、神を真摯にもとめる敬虔さとは相反する場合もある。このあとの教会の動きも、イエスからは、離れて行く面もあるように思われる。それは人間イエスから距離を置くおそらく良い面と、イエスから学ぶという根本的な部分の喪失と両方を含んでいるように思われる。おそらく、ICUでも同じだろう。
Acts 14:1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 
ユダヤ人の会堂でも、おそらく、様々なユダヤ教徒がいただろう。福音によって分裂が生じる。分裂だけではなく、敵対、憎悪である。イエスの宣教でも同じようなことが生じて、最後は弟子にも裏切られ、十字架につけられる。似ているとも言えるが、似ていないともいえる。イエスは、一般の人たちに悔い改めは迫っていても、攻撃は、基本的には、律法学者とファリサイ派の人々である。ただしヨハネではユダヤ人として代表されている面もある。イエスはどうしても語らなければいけない相手があったように思われる。いま、わたしが考えているように、仕えることをしない、愛することをしないひとたちと言えるだろうか。もう少し丁寧に聖書を読んでいきたい。
Acts 15:29 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。
「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。」(20節)と比較すると、順番以外は、「偶像に供えて汚れた肉」の部分のみが異なる。おそらくこれらもいずれ議論のまとになったろう。しかしユダヤ教から改宗した人と共に食事をするときには、重要な要素であったことは、確実だろう。さらに、他の宗教・文化背景を持った人が、イエスを主としたとき、その文化・宗教的行為を捨てなければならないかというより普遍的な問題とも関係している。ムスリムの改宗を考えたり、Contextualization を考えると、重いテーマでもある。このことは(旧約)聖書をどのように理解するかの問題とつながっているだけではなく、引用した部分が、ここに書かれることによって、この書かれた御言葉とどのように向き合うかも問われている。
Acts 16:3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 
パウロがそんなことをするはずがないという議論すらあるところである。しかし、ユダヤ人の世界で、割礼のないものとは、ともに食卓につかないとしていた人たちが多かったことを考えると、パウロの同行者が同じ食卓につけないことは問題である。他にも、割礼のないものとともにできないと考えていた項目はあったろう。他の文化・宗教のもとにいるひとが、イエスを主としたとき、その文化・宗教を捨てなければならないか、という普遍性のある問いとも関連している。むろん、パウロもテモテも、異邦人からの改宗者に、割礼は求めなかったろう。あらゆる人に仕えることは、困難ではあるが、その困難を乗り越えようとするところに、この聖書の箇所の大切さもあるように思われる。
Acts 17:2,3 パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。 
パウロが「いつものように」していることが書かれている。この時点のパウロをルカが直接知っていたかどうかは別として、そのように表現できる根拠を持っていたろう。それがその内容にもつながっている。ここには目撃証言もある。基本的な内容は、イエスがメシアであることと、方法は、旧約の苦難のメシアであることの旧約聖書からの論証である。このような手法と「ここ(ベレア)のユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」(11節)も関連しているだろう。この手法はルカが書くイエスの手法の一つでもある。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカ24章27節)
Acts 18:2,3 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。 
アキラとプリスキラとの同労の開始である。同業と言うことで、住み込むことが楽だったかもしれない。しかし、ここコリントでも、パウロは強い反対にあったことが書かれていることを考えると(4節から6節)この二人との関係はどうだったのだろうかと考える。「パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。」(7節)とあるので、それまでは、一緒にいたと思われる。二人はすぐ受け入れたのだろうか。その辺の事情はまったく記されていない。ユダヤ人退去命令については、よくは分からないが、熱心なユダヤ教徒ではあったのかもしれない。
Acts 19:26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。 
社会問題に発展している。人々の文化や宗教そして経済も破壊している、という懸念である。このことについて、どう考えられば良いのだろうか。正しさから、それで全く問題無いとしてきたのが、多くの宣教であったように思われる。さらに、植民地政策が関係するときは、乱暴になり得る。仕えることから始めることで、このことを変えることができるだろうか。正しさの主張「手で造ったものなどは神ではない」ではなく。そうでなければ、その人たちのこころは変わらず、抵抗ばかりしてしまうだろう。聖霊も働きにくくなるのかもしれない。しかしとても大きな問題のようにも思う。ゆっくり考えたい。「イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネ18章36節)
Acts 20:2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、 
使徒言行録の著者とされるルカが「わたちたち」を主語として書いている部分である。16章10節から17節、20章5節から15節、21章1節から18節、27章1節から28章16節までが「わたしたち」を主語として書いてある部分だとされている。特に最初に現れるところは、その前の9節には「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。」とあり、その応答のように記録されている。二回目に現れるのがこの20章である。引用した2節にある「言葉を尽くして」は口語訳では「多くの言葉で」となっている。このあと、同行者が詳細に書かれてもいる。反論もあるようだが、ルカの目撃証言が多くつまっている箇所に思える。4節以後の書き方である。あまり目撃証言にだけこだわるのも問題があるかもしれないが、調べて書いている、知識人で批判的思考も必要な医者のルカにとって、目撃証言は重要だったに違いないと思えるからである。
Acts 21:37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。
千人隊長は「ギリシア語が話せるのか。」と聞いている。エルサレムできれいなギリシャ語を話す人は多くはなかったことも意味しているだろう。通常は通訳を入れていた可能性が高い。するとイエスはどうだったのだろうか。ピラトとのやりとりなども記録されている。新約聖書は基本的にギリシャ語で書かれている。エルサレムでの日常語はアラム語、聖書はアラム語の方言といわれるヘブル語、しかしアラム語だけを知っている人には理解できない。そして地中海沿岸ではギリシャ語が国際語である。そう考えると、やはりイエスはアラム語で話していたと考えるべきだろう。それを裏付けるのが、引用した箇所であるように思う。この章の最後は「パウロはヘブライ語で話し始めた。」となっており、22章2節には「パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。」とある。言語のことも興味深い。
Acts 22:14,15 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。 
後半の15節の「見聞きしたこと」は何を言っているのだろう。イエスに会って、その口からの声を聞いたことだろうか。うがって考えると「イエスの復活の証人」だろうか。さらにうがって考えると「御心を悟らせ」に込められている、聖書の記述だろうか。神がどのように用いられるかはひとにはわからない。特にある時点では。
Acts 23:2 すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。 
このアナニアはだれのことだろう。アンナスとは区別されている。「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。」(4章6節)すると、AD46-52に大祭司をつとめた Ananias ben Nebedeus であると思われる。ここでの弁明は、その期間であると考えてよいだろう。ルカが同行または同行しているの準じる情報を有していると思われるので。総督フェリクス(Marcus Antonius Felix, AD52-58, Wikipedia)の時代であるので、年代的には少し微妙である。フェリクス着任で大祭司が代わったとは考えやすいが、そのあと2年ほどで、フェストゥス(Porcius Festus, 59?-62?, Wikipedia, Acts 24:27)が着任するとすると、年代はもう少し調べないと分からないことも分かる。ルカが間違えるとすると、大祭司の方かもしれない。
Acts 24:2,3 パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。 
テルティロは大祭司と長老の雇った弁護士である。サドカイ派の考えと大きくは違っていないと思われる。フェリクスは残忍で非道徳的な総督で、民衆からは嫌われ頻繁に混乱を引き起こしていたと言われる。告訴人の弁護士がこのように訴えることは、体制におもねる態度が強かったことの証拠でもある。パウロは、この場で総督を批判することは差し控えているが、おもねることはしない。本質的な立場の違いが背景にあったことも認めるべきだろう。そう考えると「疫病のような人間」(5節)と呼ばれるパウロについては、一旦置くとして「ナザレ人の分派」(同)は、この人たちにとっては、望ましくないものだったのだろう。その理由をもう少し具体的に知りたい。
Acts 25:19 パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。 
ここまで詳細な発言が記録されると、根拠を問いたくなるが、その後の会話記録などから、ルカが、このようにまとめたのであろう。注目すべき点は、復活のことである。正直、裁判にはなじまない項目であると思われる。しかし、まさにこれこそが、パウロが証人として証言し続けたことなのかもしれない。そのために、立てられたとの確信のもと。パウロは冷静ではあるが、皇帝に上訴する段階で、皇帝の前で、このことを証しすることを願っていたのかもしれない。
Acts 26:6 今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。 
「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」 (23章6節)からすると「約束」「望み」は「復活」であろうか。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(1コリント15章9節)「だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」(使徒28章20節)パウロが一番望んでいたこと、パウロの希望について、じっくり考えたい。彼が語っている「復活」の希望とはどのようなものなのだろうか。彼が復活の証人というとき、それは何を意味しているのか。それを理解したい。
Acts 27:23,24 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 
キリスト教会でこのような言葉の理解について意見を言うことは許されていない。パウロが皇帝の前に立ったのか、実際それはどのような意味を持っていたのか。聖書は沈黙している。伝説を一つ一つ丁寧に検証することもある程度は可能かもしれないが、(聖書に書かれているパウロの証言なので絶対に正しいという教義を受け入れなければ)皇帝の前にたつことの意味を神様がどのように考えておられたかは明らかではない。皇帝に上訴し、皇帝の元に送られ、ローマに到着したことは確実であろうから、皇帝の前には立ったであろう。しかし、それは、パウロの自己満足だったのではないか。パウロの望みの側に神のみこころを引き寄せようとしていることではないのか。しかし同時に、パウロの中にイエスと歩んできた実も感じる。「一緒に航海しているすべての者」に心を向けることである。ピリピでの大地震(使徒16章25-34節)のときのことなど。パウロの生き方に周囲の人が大切な神の民(がいるかもしれない)という意識があったように思われる。
Acts 28:8,9 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。 
ここで二回「いやした」という記述があるが、8節の方は、iaomai(1. to cure, healto 2. make whole; to free from errors and sins, to bring about (one's) salvation)9節の方は、therapeuoo(1. to serve, do service 2. to heal, cure, restore to health) が使われている。調べられる限りの7つの和訳では、いずれも同じことばでいやしている。この部分を、奉仕したとか、仕えたとか、手当てをしてもらったと訳することは、難しいと思ったのだろうか。責めて、治療してもらったぐらいには、訳しても良いのではないだろうか。いずれにしても、ルカが使い分けていることは興味深い。

BRC2017(2)

Acts 1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
ユダについてと、ユダの代わりを選ぶ記事が書かれている。詩篇からの引用はあるが、ユダのことを直接的に預言しているわけではない。「彼らの宿営は荒れ果て/天幕には住む者もなくなりますように。」(詩篇69篇26節)「彼の生涯は短くされ/地位は他人に取り上げられ 」(詩篇109篇8節)12人の一人を補充する必要性も明確とは言えない。さらに、マティアについても。しかし、12使徒は、おそらく特別な意味を持っていたのだろう。引用箇所は、ユダに任務が割り当てられていたことと、仲間であったことが率直に書かれている。会計の任務以外にもあったかどうかは不明であるが、12弟子の中でその任を担ったひとがこのあといたのだろうか。不明なことばかりであるが、いずれにしても「仲間」の表現は、重い。
Acts 2:6-8 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
言語について語られているのだろうが、自分たちの故郷にも当てはまる、普遍的な言葉ということも伝えているのかもしれない。イエスの教えには、普遍性があるのだから。この五旬節のできごとは、どこでおこったのか、明確ではない。ひょっとすると、一回の出来事ではなかったのかもしれない。パウロたちが宣教に出かけたときではなく、このときが、メッセージが世界に開かれたときであることを伝えていることは確かだろう。それは、世界に通じる、世界の人たちへのメッセージとして受け入れ始められたときだったとも言えるかもしれない。
Acts 3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
「完全にいやした」は holokreria (of an unimpaired condition of the body, in which all its members are healthy and fit for use) で聖書では、ここだけで使われている。ルカは足の不自由たっだことひとが、その足で躍り上がって立ち、歩き出したことを根拠にこのように書いている。その根拠を「イエスの名」と「その名を信じる信仰」としている。その名に「信頼する」ことだろうか。「強くした」は stereoo(to make solid, make firm, strengthen, make strong)これは、三回使われているが(3:7, 3:16, 16:5)すべて使徒言行録である。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」(17節)と続いている。ルカが伝えたかったことをうけとりたい。
Acts 4:13,14 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。
福音書記者の記述は、印象的である。「大胆な態度」「無学な普通の人(口語は『ただの人たち』)」そして、決定的なのは「イエスと一緒にいた」。さらにそこに、明らかな証人がいた。しかし、見方を変えると、それでも、ひとは、受け入れられないと言うこと。なぜなのだろうか。やはり「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)だろうか。
Acts 5:38-40 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
マタイ13章の「毒麦のたとえ」から考えると、人間(または世)から出たものであっても、最後の時まで残ることを神様は、許されることもある。また、このように言っておきながら「鞭で打ち」「イエスの名によって」話すことを禁じたりを批判することもあるだろう。しかし、ガマリエルの考え方が正しいかどうかを議論するよりも、ひとりの神の前に誠実に生きようとする信仰者として、このことばからは、わたしたちには、わからない、見えない部分がおおきいのだから、神の手にゆだねて待ちましょう、という謙虚さは十分伝わってくる。最後の部分も、この場が混乱しないためには、許容できることだと考えたのかもしれない。
Acts 6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
単なる言語背景だけでなく、文化的な相違、もしかすると、生活環境の相違もあったかもしれない。ある人数が弟子となっただけでなく、ひとの行き来が活発ななかで、現代に通じる問題が浮上したのだろう。非常に興味深い。やもめ、社会弱者が、社会的にも受け入れられるのは、単純な仲間意識だけでは、不可能なのかもしれない。また、単純に弟子と呼んでいることも注意をひく。
Acts 7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
「そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。」(5a)は多少、反発を覚えて人がいるかもしれないが、ここまでは問題が無かったのではないだろうか。信頼を得ることができる内容だったのではないかと思われる。おそらく、引用した部分も、一般的には受け入れられたいたことだろうが、神殿と律法(6章13・14節)が争点だったろうから、聞く側が厳しさを増した箇所だったかもしれない。しかし、記録されている、ステファノの話自体は、もしこのままであれば、最後まで、当時のユダヤ教と分ける内容はないのではないだろうか。このあと、人々が激しく怒り、ステファノが「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(56節)というまでは。問題は、正しさではなかったのではないだろうか。
Acts 8:11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
シモンは、人々をだましていたことを知っていたことになる。だましたとは思っていなかったかもしれないが。自分の偉大さがひとからの空しいものであることは知っていたろう。
Acts 9:22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
これが結果である。サウロには、時間が必要だったのだろう。復活のイエスに出会っての大回心であることを否定するものではない。しかし、このサウロを受け入れるには、時間がかかったろう。サウロも、自分自身がどのように、生きていったら良いか、はっきりは分かっていなかったろう。しかし、このサウロが受け入れられたことは、大切な事実だったとは言える。サウロと、他の弟子たちについて、学んでみたい。
Acts 10:31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。
「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」(2節)このようにあるにもかかわらず、神の前で覚えられる確信をもつためには、様々なことが必要だったのだろうか。現代からは理解できないとも言えるし、そうであっては、決していけないとも言える。祈りと、施し、これが鍵なのだろうか。
Acts 11:1-3 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
非常に簡潔に書かれているが、言外に様々なことが考えられる。異邦人が改宗することは非常に喜ばしいことである。ユダヤ教でもそうであったようだ。しかしここには、注意深く「受け入れた」として、割礼を受けて、ユダヤ教徒になったとは、書かれていない。10章47節で「聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼をうけるのを、いったいだれが妨げることができますか。」とある。さらに、割礼を受けることを強要することも、薦めることも、おそらく考えられない現実があったのだろう。しかし、世の問題としては、そう簡単には、いかない。ここで反対を受けている。おそらく、最初のキリスト者の群れにとって、弟子たちにとって、ユダヤ教徒の一派として活動するかどうかの大きな分かれ目となる出来事だったと想像できる。実際、このような問題は現代でも多く起こるように思われる。神を愛し、隣人を愛するとは、イエスさまが、私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うためには、原則論ではなく、私たちに日々問われている。
Acts 12:12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
マルコはこのとき、いくつだか不明だが、このあとの経緯から、小さなこどもではなかったろう。この事件は、祈りのなかにいたかいなかったかは別にして、非常に大きな記憶としてあったように思われる。そのようなマルコも、信仰をもって成長して行くには、長い年月がかかるのだろう。ひとを単純化してみてはいけない。
Acts 13:9-11 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
わたしには、こんなことはできない。これが、パウロがどうしても、好きになれない理由でもある。たしかに、この魔術師は、神の働きを妨げる、反キリストに見える。しかし、赦されることのない、聖霊を欺いているかどうかは、この時点で分かるのだろうか。このひとのうちに、聖霊の働きをみることはできないのか。そうであるなら、互いに愛し合うことは、飾り物でしかない。少しずつ、神によって明らかにされていった途上にあるとは、考えられるが。これを正当化して理解しようとすることは、わたしには、絶対にできない。
Acts 14:16,17 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
神の恵み、まだわたしには、観念的にしか理解できていない。一般恩寵として、このことを、私は知り、創造を神に帰しているが、具体的に、神の働きを、わたしは、言えないように思える。神を信じることと、どのようにつながっているのだろうか。
Acts 15:1,2 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
手紙の中に「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」(28節)とあるように、決まっていなかった。合意がなかったことは確実である。もっと早くに考えるべきことだったことは確かである。コルネリウスのようなユダヤ人にも信頼されている人ばかりではなく、不道徳なひともおそらくいただろう。激しい意見の対立(satsis: 1. a standing, station, state 2. an insurrection(反乱, 暴動, 謀反) 3. strife, insurrection)と論争(suzeeteesis: mutual questioning, disputation, discussion)の、対立はかなり激しい。避けて通ることは、できなかったろう。平和裏には解決できないこともある。しかし、これによる分裂はなかったのだろうか。
Acts 16:37 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
「パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。』 」(28節)という、パウロは、尊敬するが、引用したような言葉を言う、パウロがわたしは、どうしても好きになれない。しかし、パウロとシラス以外に、(牢にいたかどうかは不明だが)テモテもいたことなどを考えると、私たちには、分からないことも多いのだろう。「あなたのことを教えてください」という気持ちで接したい。
Acts 17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
パウロにとって「死者の復活」なしに、キリストに出会うことも、キリスト信仰はありえない者だったろう。しかし、本当に、この伝え方で良かったかは、疑問ももつ。教育において、教育から学習と言われるが、宣教は、宣言でもあるとして、理解されることの優先順位を高くしない場合が多しばしば存在する。それは、愛の行為だろうか。互いに愛し合うことにつながるだろうか。このあとにコリントに向かうが「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(コリント二2章3節)パウロにもかなりの打撃があったようである。
Act 18:26,27 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
ここで、分裂とならなかったことは、幸い。プリスキラとアキラの存在は大きかったろう。最初の2節を除いて、プリスキラが先に書かれている。(18,27, Rm 16:13, 2Tim 4:9 ただし、1Cor 16:19はアキラが先、使徒以外は、プリスカ)分裂ではなく、結びつけるためにも、この女性の丁寧な働きはとても重要だったのだろう。特に分裂を回避するときに、女性の働き・存在は大きいように思われる。
Acts 19:8,9 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。
このことは「諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。」(26節)に表現されていることとも関係している。「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」(1ヨハネ3章23節)ではいけなかったのか。偶像礼拝から離れることは、神の子イエス・キリストの名を信じれば当然のことである。偶像礼拝から離れられないのは「偽り者」である。旧約時代も、イスラエルに向かっては偶像礼拝が罪であることを教えているが、議論をして、異教徒を「説得(peithoo)」することは中心ではない。互いに愛し合うことによって、わたしたちがイエスの弟子であることが分かるはずなのだから。同じ真理に立っていながら、パウロとヨハネが伝えるものは、大分異なるように思われる。回心して、あまり時間がたっていないと、そして、育った環境から、パウロのように語ることは十分理解できるが。
Acts 20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
パウロが珍しくイエスの言葉を引用している、または、ルカが福音書記述のないイエスの言葉をパウロに語らせている箇所である。しかし、ここでも、力点は「わたしはいつも身をもって示してきました。」としてイエスの生き様、地上でどのように生きられたかには、注意を促していない。パウロが徹底していたことは、ルカは知っていたのだろう。イエスがキリストであることを伝えることでは無く、キリスト・イエスを、救済そのものを伝えることがパウロの使命だったのだろうか。どうしても、人間的な動機が背後にあり、そのことによって神の御心の普遍性を失っているのではないかと考えてしまう。むろん、わたしが間違っているかもしれないが。
Acts 21:21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
20節から「この人たち」は、信者になったユダヤ人であることがわかる。これに対する、パウロの反論は、記されていない。表現は異なっても、これに近いことは、教えていた可能性もある。イエスキリストを信じるようになった場合、その習慣・文化とも言えるものを変えるのかという、とても難しい問題が背後にある。特にこれらは、集団の中で価値があり、子供たちに引き継がれていって意味があることだからである。15章のエルサレム会議と言われるものから、次の段階の問題が浮上している。ここでは、ルカは結論は、出していない。おそらく、現代においても、まったく簡単ではない、問題なのだろう。その習慣・文化が神が本当に望まれないことなのかは、様々な解釈を含み、簡単には判断できないからである。
Acts 22:22 パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
相手を愛したいと考えていれば、イエスさまが愛しておられることを知って、互いに愛し合うよう招かれていることを受け入れていれば、正しさに立脚して、相手を裁こうとする、自分を抑え込もうとするのではないだろうか。まずは「あなたのことを教えてください」と、愛を持って互いに仕え合うように、一人一人と接したい。
Acts 23:1 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」
「あくまでも良心に従って神の前に生き」ることは、わたしもまさに求めていることである。しかし、それを客観的に判断するのは、簡単ではない。現在の学びからは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)を追い求めることが、神の前に良心に従って生きることなのではと考えている。むろん、その基準だけで、判断できないこともあるかもしれないが、気になることはある。このあとの、パウロの行為である。それを、聖書に書いてあるから、パウロのしたことだからと、肯定するようなことはしたくない。「良心(suneideesis: 1. the consciousness of anything 2. the soul as distinguishing between what is morally good and bad, prompting to do the former and shun the latter, commending one, condemning the other)」とは何なのだろう。
Acts 24:25,26 しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。
決めつけてはいないだろうが「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3章19節・20節)を思い出してしまう。自分は、どうなのだろうか。「正義や節制や来たるべき裁き」自体に、違和感の感じることも確かだが。フェリクスをみていると「良心に従って神の前で生きている」とは言えないと即断してしまう。それで良いのだろうか。
Acts 25:12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。
適切に対応しているように見えるが「わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。」(16節)も「囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」 (27節)も、まともに、司法権を行使しているとは見えない。良心も問題のように思われる。
Acts 26:22,23 ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
どうも、よく分からない。「つまり」以下を、「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと」とできないことはないが、自然ではないことは、確かである。
Acts 27:10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」
パウロの行動を、ルカは、丁寧に記している。ここは、経験から判断していることを表現しているのだろう。24節「こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」は、パウロの強い使命感を忠実に表現している。しかし、それは、皇帝の前に立つことである。それをどう考えるかは、簡単ではないだろう。ルカは冷静である。
Acts 28:28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
マルタの人たちの素朴さと、パウロの宣言を忠実に描いているように思われる。これを、最後に記したのは、ルカの編集と言うより、パウロの強い意思の表れを表現しているように思われる。このあとの、2000年近いキリスト教の歴史がここに凝縮されているように見えてしまうのは、あまりに、偏った見方だろうか。正しさは、多くの前提と推論規則の上に成り立っている。神は、人間がどのように、それを利用して生きているかを見ておられるように思う。ヨハネのように「愛する者たち、互いに愛し合いなさい」と言い、そのように生きたい。

BRC2015(1)

Acts1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 
マルコ1章8節では「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マタイ3章1節・ルカ3章16節参照「聖霊と火」)ヨハネ1章3節では「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」となっている。いずれも「間もなく」はない。イエスは聖霊による洗礼を授けたのだろうか。わたしには、そのように思える。つまり認識が後になっているだけだと。おそらく、これにも様々な面が存在するのであろう。
Acts2:38,39 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 
神の賜物は、聖霊である。ルカ11章13節でも「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」与えてくださるのは聖霊である。ヨハネ4章10節の「イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」」における神の賜物も一義的には、聖霊なのであろう。神の霊である。
Acts3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 
慰めの時である。サマリアの女もその慰めを受けたのだろう。それは、その時一回限りのことではなく、神がどのような方であるか、慰めを与えてくださる方であることを、知ったのだろう。経験を通して、内省に導かれて。悔い改めも、神の導きによる。
Acts4:28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 
「御手と御心によって」はここにしか現れない表現だろう。「御手によって」は旧約聖書に創造のわざと関連させて何カ所かある。(Ex15:17,Jb34:19,Ps9:7, 95:5)「御心によって」は新約のみ。不思議な印象をうける。
Acts5:9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 
このアナニアの妻サフィラに対する言葉(の記録)には違和感を感じる。死(神の働き)を予告している。これが、戒規の実行とするなら、さらに問題が大きくなるように思われる。イエスの言葉「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』」(ヨハネ18章36節)が鍵であるように思われる。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4章24節)
Acts6:13,14 そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 
「礼拝する場所と、律法」に関しては、確かに、イエスの説いたことと、伝統的なユダヤ教の考え方は異なる。神を喜ぶ、神の御業を行うことを直接説き、行動すると、衝突が起こる。これは、現代のキリスト教会においても同じだろう。イエスの働きはそれに対しても、兄弟愛という鍵を与えている。これを第一において行動することだろうか。
Acts7:59,60 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
私たちは常に主の御手のなかにいる。そして、私たちの霊を受けてくださる信仰をもっている。またはそのことに希望を持っている。その素直な表現である。しかしそれはまた、イエスと一体になることでもある。最後のことばは、それを表している。すなわち、この言葉が発せられることによって、イエスがステパノの霊をお受けになったことが証言されているともいえる。
Acts8:5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 
サマリアはヨハネ4章でイエスが宣教した地でもある。抵抗がなかったのだろう。25節には「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。」とも書かれている。サマリヤでの宣教は、イエスが種をまかれた地における、刈り取りだったかもしれない。
Acts9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。 
8章には、サマリアの様子が書かれている。キリスト者は、サマリア宣教には、ほとんど抵抗がなかったようだ。それは、イエスの働きがあったからかもしれない。それこそが、和解の始まりだったのだろう。善きサマリア人のたとえも、意味を持っていたかもしれない。
Acts10:34,35 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 
非常にすっきりとしている。本質を大切にしているからだろう。そして、些末なことは、人間の知識の限界を考えると、不確かでもあるのだから。差別をしないことは、兄弟愛の始まりでもある。自由を共に享受し、自律的な行動を始めることだから。
Acts11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。 
シリアのアンティオキアでのことである。明確ではないが、すでに、異邦人がアンティオキアでは、信仰に入っていたのだろう。その調査に赴いたバルナバ、まず、神の恵みについて書かれていることにまさに恵みを感じる。おそらく、問題も感じたであろう。それを「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。」と表現しているのだろう。その空間を想像すると、学ぶことが多い。
Acts12:18,19 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。 
長年この事件に理不尽さを感じてきた。このあとの、16章のフィリピでのパウロらの投獄との比較も考えてみた。しかし、その背景には、神がすべてコントロールしているとの仮定があったように思われる。自立性とは、ボンヘッファーの言うように、神の前に神と共に神無しに生きることなのかもしれない。主に従う者よ、主の前に毅然とし雄々しくあれ。神の栄光を見るために。
Acts13:45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 
肉の欲と同じであろう。人は、神のことを考えられない。ここに本質的な罪があるように思われる。そしてこの罪が、イエスを十字架につけた。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(マルコ15章10節)
Acts14:16,17 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 
神の豊かさに基づく一般恩寵と、自立性の保証だろうか。たしかに、聖書という視点でとらえても、異邦人に知らされていたことは、非常に少ない。その事実をどう考えるかは、難しい。
Acts15:11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」 
神の恵みに達するのは、どれほど困難なことか。しかし、普遍性も大きい。その価値観を見失わないこと、そこに本質があるように思われる。
Acts16:20,21 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」 
原因は「この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまった」(19節)と説明されている。20, 21 節は虚偽の証言ともいえるし、異質のものに混乱させられている、ローマ市民である自分たちの価値について、正確に述べているともとれる。実際、現代に起こる問題にも、同種類のものを感じる。しかし、これを乗り越えた家族もいる。看守の家族である。異なる価値に生きている人に出会ったためだろうか。
Acts17:31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 
イエスのメッセージ、福音は、この表現とはかなり異なるのではないだろうか。神の御心を求めて霊によって生かされ共に生きる生活、互いに愛し合うことにより神に栄光を帰す喜びに生きる。それ以外の生き方が裁かれることは確かであるが、ヨハネのことばをとれば、裁きになっているのである。もう少し深く学びたい。
Acts18:2,3 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。 
コリントでの出会いである。ここから同労がはじまる。神の配剤について考えてみる。アキラとプリスキラはそしておそらくパウロも神の配剤(神の特別な配慮もとでおこったこと)と考えたのではないか。そして、現代でもそのように信仰者は考える。しかし、一方、神は、歴史にすべて介入してことを導いているのだろうか。もしそうすると、人間の自立性は失われ、神はすべての責任をになうことになる。個人の神に従う十字架と認識するかどうかと理解すべきだろう。普遍性があるわけではないという理解で良いだろうか。もう少し考えてみたい。
Acts19:12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。 
とても危険なものを感じる。福音書は、たしかにまとめて病気が癒やされることは記すが、ひとつひとつ丁寧に記すこと、いやしの本質も語ろうとする。使徒言行録も3章での足の不自由な人を癒やす記事などにおいて、それを踏襲しているが、ここはとても乱暴である。魔術と変わらない。魔術性の強い地域での行為としては、さらに危険を感じる。ルカはなにを伝えたかったのだろうか。心配になる。
Acts20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。
パウロは、どこにいっても議論をし、問題を起こし、ある場合は、分裂を引き起こしている。そうであっても、12使徒以外で、中心的な働きをできたのは、むろん、学識もあったろう。しかし、ここに表現されている精神ではないかと思う。ここには、排他性はない。幸いを知っていたように思われる。
Acts21:21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。 
ここで問題とされているのは、律法の問題であるが、二通りあるように思われる。ユダヤ教の信徒に一般的に、律法を守ることを禁止または価値がないとすること。もう一つは、イエスをキリストと信じるようになったユダヤ人がユダヤ教の習慣に従うべきかということである。前者は、キリストの教えが、ユダヤ教の内部のものとみるか、独立したものとするかという当時の大きな問題を背景としているだろう。また同時に、異なる信仰、他の宗教を信じる人の宗教生活に対して、どのような態度をとるかという意味では、現代性のある問題である。後者は、信仰のとらえ方が、人によって異なることをどのように理解し、受け入れていったら良いかという問題で、後者は、より現代性の強い問題である。
Acts22:29 そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。 
ローマ市民権については、いずれ十分な情報を得たい。市民権は、ギリシャの都市国家からだろうか。もっと前からの系譜があるのだろうか。基本的な権利と尊厳が守られる。これが地球市民に拡大されることの普遍的価値は、一時的な宣言の採択とその承認さらに個々の国と地域での批准、さらに、その実質化へと進む人間の営みとする理論構築と、その整合性について考えたい。その中で、キリスト者の役割は何なのであろうか。
Acts23:3 パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」 
ここでのパウロは乱暴な感じがする。すでに、対話を考えてない、ローマに心が飛んでいるのではないのか。少しそれは言い過ぎかもしれないが。なにか、パウロの弱さを感じる。
Acts24:15 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 
1節には「大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。」とあるので、サドカイ派が中心だったと思われるが、この希望は持っていたのだろうか。すこし違う形なのかもしれない。希望は、ただしく裁かれるということだろうか。それとも、神の国が来るという希望だろうか。キリスト者におけるこの希望についても、わたしは十分理解できていないように思われる。
Acts25:11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」 
ここに至る部分も不明なところはあるが、パウロは、皇帝のもとにいくことを最初から願っていたのではないだろうか。少なくともとらえられてからは、それを考えていたように思われる。ここでの発言は、思いつきではないだろう。
Acts26:32 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。 
アグリッパはフェストゥスに技術的なあやまりを指摘しているように聞こえる。またもしかすると、これは、キリスト者の無罪宣言を記録したものなのかもしれない。しかしその次元で受け取ったとしたら、パウロの意図からは、外れてしまうことだろう。たとえ、パウロに悲劇的ヒロイズムがあったとしても。
Acts27:24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 
そこまで皇帝の前に出ることが重要だったのか。わたしには、そうは思えない。何世紀かの後、基督教は国教となる。しかしそうであっても、わたしには、このパウロの語っていることが素直に受け入れられない。一つのステップとして、当時考えられる種まきのひとつなのかもしれないが。イエスが語られる神の国はこの世のものではない。「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』」(ヨハネ18:36)
Acts28:2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。 
島の住民の愛、神の愛を感じる。ここでのパウロの働きも、相互の愛を無視してはいけないだろう。10節には「それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。」と締めくくっている。信じる者が多かったかどうかなどは記載されていない。そのように単純に判断できることではない、神の働きを見たのかもしれない。

BRC2015(2)

Acts1:4,5 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
この時点でどれだけの弟子たちがこのあとに起こることを予想していただろうか。ある平安は得ていただろうが、聖霊については、あとになって、あれがそうだったと、確信したのではないだろうか。ほとんど理解していなかったのではないだろうか。
Acts2:38,39 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
後半「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」は条件ではないのだろうか。口語訳では「われらの主なる神の召しにあずかるすべての者」となっており、条件のようには受け取れない。神は皆を招いておられる。しかし応答するのがすべての人というわけではない。この問題は難しい。じっくり考えてみたい。
Acts3:17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
ルカ23章34節のイエスの祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」からの連想で目にとまった。17章30節にも「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」とある。エフェソ4章18節には「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、」に続けて「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」とある。2テモテ2章23節は「愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。」無知は一生抱えることなのだから、無知とどのようにつきあうかの問題なのだろうか。ヘブル5章2節「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」を最後に引用する。無知を自分の中だけの問題とするのではなく、思いやりと愛に開かれることこそが、鍵なのだろうか。
Acts4:12,13 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
「無学な普通の人」の確信に満ちた言葉は、普通は受け入れられない。語るのは聖霊だからだろうか。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13章11節)3章12節に「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」のように語ることと、14節の「しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。」によって、聞く者、見る者に、くもりはできないだろう。それがおそらく大切で、確信と無知を対比して調べる事ではないのかもしれない。「無知なる者よ。」
Acts5:3,4 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
「なぜ」と問われているが、すでに本質は述べられているように思われる。「サタンに心を奪われ」「聖霊を欺いて」神に心を向けず、周囲の人間に心が行ってしまったのだろう。それは神の業をするように招かれているものとしては、まさ「神を欺いた」ことである。神の業は「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(2コリント9章7節)とあるように、自由意志によって為されもの、ここでも「自分の思いどおりになった」とされている。そこに、罪の重さがあるのだろう。アナニアは、その重さに気づかされたのかもしれない。それが裁きである。自らが滅びを確信する。神の憐れみと恵みと救いを、このアナニアに対して祈る。
Acts6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」(1節)と問題の起点が語られている。そしてこの節がその解決策である。名前を見る限り、選ばれたのは、すべてまたは殆どが「ギリシア語を話すユダヤ人」であるように見える。意図は理解できるが、長続きするかは不明である。このあとのエルサレム教会については、よく分からないが、少なくとも20年程度はキリスト教会の中心で居続けたであろう。「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」と表現されている。霊のことは、そのあとの、知恵と評判、特に評判には関係していたであろう。評判は信頼でもある。知恵は実効性と持続可能性も含むだろう。あまり、霊的なものに限定するのは問題があると思われる。神はすべてを用いられるのだから。教会役員会のことを考える。これが召命とも結びつくのだろうか。
Acts7:52,53 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
ステファノに対する批判は「偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」(6章13,14節)であった。48節では「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」と証言している。批判は、おそらく、ヨハネ2章19節などの「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と関連していると思われるが、48節の証言も関係しているかもしれない。神殿と律法についての考え方が異なっていたことは、たとえ、偽証によってねじ曲げられていたにしても、鍵だったのかもしれない。
Acts8:14,15 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
「行かせた」という使役表現が気になるが、いずれにしても、サマリア宣教は、1節にあるように「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」という背景があるにしても、スムーズに支援もえられている。ヨハネ4章にあるイエスのサマリヤでの活動など、イエスと弟子たちが共にいた時期のイエスの行為と発言・態度が弟子たちを自然に受け入れる方向に進ませたように思われる。異邦人宣教には、大きな障害があったようだが。
Acts9:17-19 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 食事をして元気を取り戻した。
パウロの回心については使徒だけで9章以外に2回(22章・26章)書かれているが、最初の場面の記述など少しずつ違っている。2人以上の証言を人間社会で確実な(または客観性のある)ものとするなら、上に掲げた節がそれに対応するだろう。様々な経験を通して暗闇でもだえていたパウロに、アナニアの手が差し伸べられ、視界が開け、少しずつ見えるようになる経験をし、従順に洗礼をうけ、食事をして元気を取り戻した、ということなのだろう。その背景には、イエス・キリストがおられると証言している。アナニアにおおきな働きがあったこと、そして神様がアナニアを用いられたこと、パウロが真摯に向き合った姿などが伝わってくる。
Acts10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
これがペトロの生活である。イエスの弟子となってからも、ユダヤ教徒として、律法を守っていた。26節では「ペトロは彼を起こして言った。『お立ちください。わたしもただの人間です。』」と異邦人に対しても心を開き、34節では「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」と告白できたのは、それまでにイエスを通して学んでいた神の性質だったのかもしれない。日常を通して学ぶことは山ほどあったろう。イエスを通して学んだ原則の上に立っても。
Acts11:27,28 そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。 その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。
同じ人物かどうか不明であるが、アガポは21章10節にも「幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。」とあり、パウロに「異邦人の手に引き渡される」と警告している。しかし、記述の仕方から、キリスト者ではないのかもしれない。実際、11章では、大飢饉の預言であるから、多くの人に関わることでもある。神を畏れるひと全員に伝える役目もあったろう。神の言葉に預かる人には、そのような役割と責任がある。キリスト者はそれをになっているだろうか。
Acts12:19 ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
番兵の死刑について考えてしまう。そして、16章にあるフィリピでのパウロ、シラスの投獄記事と比較してしまう。一般的には、犯罪人を逃がすとその犯罪人がうけるはであったのと同等の処罰をうけると物の本には書かれている。そこから逆に考えると、死刑が予定されていたのかもしれない。12章1節-3節の記述「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。」から考えると否定はできない。しかし、未決囚であったことは確実であろう。このあとに、ヘロデの急死が記録されている。その意味でも、この箇所は淡々と描かれているのだろう。ある程度、ヘロデ王の残忍性と傲慢に焦点が当てられていると考えて良いのかもしれない。
Acts13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
「予定説」と通常いわれる神学と関わる部分である。むろん、批判して受け入れないまたは強調しない教派もある。榊原康夫牧師が「選びの教理」について「ヨハネによる福音書(中)」(p.301)に次のように書いている。「私たち人間がナザレのイエスを前にして『イエスよ、あなたがキリストなら、はっきりそう言え。そういえば分かるのだ』というふうに、イエスと自分とが対等に同じ平面の上に立って、イエスがキリストであるかどうかを我々が認識したり判断することができるわけではないということーーこれを教えるのが選びの教理であります。」表現が適切か少し気になる部分はあるが、「予定説」も「選びの教理」も、自分で選んだかのように、判断することができるかのごとく考えるかもしれないが、そういうわけではないのだよ。ということを教えていることは、確かかもしれない。そして、このひとはどうなのですかと、ひとについて聞くことも、そのひとを誘導することとも、別次元に救いはある。
Acts14:4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。
1節以降イコニオンでの記事を読むと、自分はそれに加わりたくないという人も出てくるだろう。それは十分理解できる。イエスの宣教から学んでいると、まさにそれこそが裁きであると言われている。その通りであろうが、なにか、大切なものを失ってしまうのではないかとの危惧も感じる。乱暴な言い方だが、日本人の良い特性を失ってしまうように思う。この状況を、良しとするのは、単純にできないことをまずは、心しておくことだろうか。いやしの宣教の中での選びと裁きであることから離れてしまうと、単なる分裂となってしまうのかもしれない。
Acts15:16-18 『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。 それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』
アモス9章11節・12節からの引用のようである。「その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃虚を復興して/昔の日のように建て直す。 こうして、エドムの生き残りの者と/わが名をもって呼ばれるすべての国を/彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。」10節には「わが民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。」とあり、復興は単なる国家についてではないように思われる。しかし14節には「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。」とあり、イスラエル復興という民族的なものとの関連を弱めることはできないであろう。旧約預言者の限界なのだろうか。そして、ここでの引用は七十人訳などと関係しているのだろうか。使徒15章11節にある「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」と明確に告白するには、時間がかかったことだろう。
Acts16:30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
この人は何を求めていたのだろうか。すぐに自殺をするような、いさぎよさ、29節に「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し」から分かることとして、部下がいること、すぐひれ伏していること、この人の背景に興味をもつ。大切にしていたものがあったのだろう。しかし、その価値観がまったく変わってしまうようなことが起こったことにすぐ気づいている。この人とその家族のその後についても、知りたい。フィリピ教会の中心的なメンバーとして、このあと、ずっとパウロたちを支えたのだろう。むろん想像でしかないが。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」(フィリピ4章15節)
Acts17:11-13 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。
この章には、ユダヤ人宣教のベレアでの成功例と、ギリシャ人宣教のアテネでの失敗例が書かれている。むろん、後者も16章34節にあるように、ある実を得ており、他にも収穫といえることもあるので、失敗と断定するのは、むろん表面的な部分でであるが。上のベレヤのユダヤ人たちのテサロニケのユダヤ人との比較は興味深い。テサロニケのユダヤ人の行動を見ていると、反論ではなく、群衆の扇動であることを見ると、聖書を調べる事もしていなかったと思われる。「非常に熱心に御言葉を受け入れ」という部分は重要であろうが、あまり、順序にこだわる必要は内容に思われる。まずは、こころに訴える部分を、たいせつにして、信じるに足るかどうか、それまで自分たちが根拠にしていたと考えていた聖書を読み直したのだろう。そしてその影響は、ユダヤ人にとどまらない。ここには、ギリシャ人の上流婦人についても書かれている。おそらく、その議論を理解する程度の、教養は必要だったのだろう。学んだ者(基本的な人間的教養人)と聖書を調べる機会を持つ者の責任も考えさせられる箇所である。まだ「そのうちの多くの人が信じ」とあり「非常に熱心に御言葉を受け入れ」た人の中にも、信じなかった人がいることを暗示していることも覚えたい。
Acts18:8-10 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
アテネのあとに滞在したコリントはおそらく大きな転換点となったであろう。アキラとプリスキラとの出会いと同労(2-3,24-28)、シラスとテモテの合流(4,5)そして、引用の記事である。コリントは大きな町で、ユダヤ人の会堂も複数あった可能性もあるが、ここでは会堂長のクリスポとあり、このあとのユダヤ人の行動を見ると、一つだったかもしれない。その会堂長が家族とともに「主を信じるようになった」ことは、コリントのユダヤ人社会にとって、重大なことだったろう。「主を信じ」という表現に興味をもって使徒を調べてみると、この箇所以外に、3回使われている。5:14, 9:42, 16:15 である。ルカが書いた時期とも言えるが、主を信じることが、すでにキリスト教信仰を意味し、ユダヤ教の信仰とは区別されていたことが見て取れる。
Acts19:33 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。
アレクサンドロという名前は、新約聖書に何回か現れるが、ここに現れるアレクサンドロと同一人物の可能性があるのはテモテ二4章14節「銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。」であろうか。エフェソでの騒動(23節)は、アルテミスの偶像を作っていた銀細工人のデメトリオ(24節)の訴えから始まっている。アレクサンドロが銀細工人であったかどうかは確実にはわからないが、34節をみるとユダヤ人であったことは分かる。偶像を作っていたとは考えにくいし、そのようなひとにユダヤ人が弁明を任せるとは考えられないので、おそらく、単なる銀細工人だったと思われる。さらに、ユダヤ人は偶像を忌避していたろうから、議論はあわない。結局、25節から27節のデメトリオの演説からも分かるように、生活に関わることとしての訴えである。35節に町の書記官、31節には「パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たち」も登場して複雑である。しかし当時の社会状況を知るのには非常に興味深い。ルカも公平に記述しているように思われる。1世紀半ばでほぼ2000年も前の事であるが、現在の状況もそれほど変化していないことにも驚かされる。人のこころはあまり変わっていないという事だろうか。
Acts20:20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
35節で「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」とイエスの言葉を引用しているが、全体的に、パウロは教師であり、リーダーである。イエスに従ってきた弟子たちとの大きな違いがここに現れているように思われる。むろん、弟子たちの誘惑は、人間イエスに惹かれすぎて、神の救いの計画を見失うことかもしれない。牧会については、ある型がパウロの行動とその記録、手紙によって、示されたことは確かで、その功罪もあるように思われる。パウロ書簡やその関連文書と、福音書から読み取れるイエスの記録とにどうしても、差をもうけたくなる。聖書の学びを、書簡全体に広げることが困難なわたしの年齢的制約も考えると、これは今後も変わらない可能性が高い。良い意味でも、悪い意味でも。「役に立つこと」にイエスの教え方との大きな差を見てしまったからだろうか。
Acts21:23,24 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。
問題の発端は20節・21節に書かれている。すなわち、イエスをキリストと信じた(キリスト教徒となったと表現する)ユダヤ人たちが、ユダヤ教の終えや習慣を守るべきかどうかである。いくつかの難しい問題をはらむ。ユダヤ教の人に限らず、現代でもある習俗に従って生きていた人の生活という問題もあるだろうし、また、ユダヤ教とキリスト教の本質的違いも背景にあり、さらには、信仰の理解が深まり自発的に変化していく部分もあるだろう。また、その習俗に従って生き続けることで、まさにインサイダーとして証しするものとなることも可能である。それを技術的なことと捉えるのは問題があるだろう。しかし、この場での、提案は、多少技術的に感じる。ほかに良い案がない逼迫した状況であったかもしれないが。
Acts22:5 このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
周囲の人たち、大祭司や長老会全体は、ダマスコまで行って捕らえ処罰することまでは、考えていなかったのではないか。自分たちの生活が脅かされることがないことが、目的であったろうから。サウルにとっては、そうではなかった。正しさ故だろう。だからこそ、その後ろ盾から離れた地で、イエスと出会う。不思議なものである。バランスが崩れ、catastrophe が生じたのだろう。神業以外の表現は見つからない。
Acts23:29 ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。
ルカの記述も、千人隊長の判断もギリシャ・ローマ的なのかもしれないが、上質の人間の知恵に基づいている。21章31節に「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。」とあり、これが千人隊長が行動を起こした起点である。このあとの、ユダヤ人の分裂、9節の記述「そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、『この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか』と言った。」をみると、宗教を信じているもののだらしなさが浮き彫りになっているように思われる。パウロにも分裂を扇動したことなど、批判したいことがいくつかある。いろいろと考えさせられる。ダビデよりもヨアブ、パウロよりもクラウディウス・リシア(26節)を支持したくなるのは、やはり神様の御心にかなっていないのだろうか。
Acts24:14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。
「律法に則したことと預言者の書に書いてあること」は何を意味しているのだろうか。特に、前半はよく知りたい。口語訳では「律法の教えるところ」となっている。「分派」がお互いに、相いれなくなるのは、どのあたりからなのだろうか。最近、特にリベラルなユダヤ教とは、対話が始まっているようだが、継続的に、語り合う場を持っていけないだろうか。それを拒否する人たちが、ユダヤ教会にも、キリスト教会にも多くいるだろうが。
Acts25:5,6 「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。
この前の2,3節には「祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。」とある。総督フェストゥスが着任して三日後にエルサレムに上り、そこで会ってすぐに出たのが、この話である。上の引用箇所からも、フェストゥスの提案にすぐ応じ、カイサリアに下ったことが分かる。近親の憎さと同時に、この当時には、かなりの影響力を持ち始めている実体があったのだろう。しかし、おそらくそれだけではない。他のキリスト者ではなく、パウロをターゲットとしたことには、いろいろな背景があったと思われる。ひとつは、他の人たちは、無学なただの人と批判して終わることができ、自分たちの地位を確保することができると思ったのかもしれない。
Acts26:13 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
福音について語られているのはここだけであるように思われる。ルカの記述によっていることは確かだが、パウロが福音を語るしかたは、十分理解していたろう。現在学んでいるヨハネと比較すると、矛盾はまったくない。しかし、差異も感じる。整理してみたい。
Acts27:9,10 かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」
コリント二11章25節には「鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。」これが、ローマ行きの航海の前に書かれたとすると、パウロはすでに、三回も難船を経験していることになる。聖書に記録されているのは、27章のみであるが、かなりの経験もあったのだろう。あまり、人間の知恵と経験を神様からの啓示と分けるのは、峻別が難しい背景を考えると適切とは言えないかもしれないが、10節の忠告の霊的背景は記されてはいない。このあとに計画されていることの伏線とするのがよいのだろう。あまりうがった解釈は避けた方がよい。
Acts28:7,8 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。
医者ルカが同行しているとすると何をしていたのだろうか。廃業だろうか。失業だろうか。このあとには「このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。」とある。様々な活動において、同行者が、働いたのだろう。あまり、奇跡的ないやしに傾斜することも、それをほかの通常の行為で消し去ることも適切では無いだろう。記述されているのは、よい関係が築かれたことである。

BRC2013(1)

Acts1:2 お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。
ルカが伝えたかったことのなかで、復活、昇天、聖霊降臨が、使徒の働きが始まるために必須の事であったことが分かる。区切り以上の大きな意味があったのだろう。
Acts2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
聖霊降臨のできごとは、聖霊が注がれたことによって、そこにいた人たちひとり一人が、それぞれのことばで、福音が語られるのを聞いて理解することができたことを伝えるものと考えて良いのだろうか。すばらしい祝福の時、新しい時代の到来である。
Acts3:19,20 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。
本心に立ち返って、はじめてキリストなるイエスを神がつかわしてくださるとある。なんと意味深い、めぐみのことばだろう。イエスの死と復活のあとのキリスト者の神学であるが、信仰告白ともとれる。イエスが理解されない現実、それは、イエスもよくご存じだったが、イエスを理解することを妨げる罪をぬぐい去っていただくために、我々が求められているのは、悔い改めて、本心に立ち返ることである。
Acts4:16 言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。
キリスト者による多少の脚色はあるだろう。しかし、歴然としたしるしが示されたことは、多くの人にとって明らかだったのだろう。あとは、メッセージに耳を傾けるだけである。
Acts5:40 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。
なぜ「むち打った」のだろう。自己正当化のためだったのではないだろうか。しかし、それはますます、使徒たちを喜ばせる。41節「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。」
Acts6:14 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。
この訴えは正確ではない。しかし、これらに、弟子たちが望みを置いていないことは確かである。希望・価値観の衝突といえるかも知れない。かえって、このように訴えることで、本質が浮き彫りになるのかも知れない。ステパノは、何を考えていたろう。
Acts7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
このことばは唐突であるようにも思われる。こころを向けるべき場所を指摘しているのだろうか。ここは、もう一度、学んでみたい。たしかに、律法を取り次いだ、モーセについて、全体像をあきらかにし、神殿についても、神殿のない時代についても語り、信仰において、必要不可欠のものではないことを、伝え、より本質的な者を提示しようとしているとは言えるかも知れない。
Acts8:33 彼は、いやしめられて、/そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、/彼の命が地上から取り去られているからには」。
32節は明らかにイザヤ53:7の後半なので、33節は8節と思われる。「彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」七十人訳としても、余りに文意がかけ離れていて、困惑する。このしもべた断たれたという点に集中されているのか。七十人訳も丁寧に調べることをいずれしてみたい。
Acts9:16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
アナニヤや信徒たちへの配慮としてこのことが伝えられたことも考えられる。しかし、パウロにイエスの弟子となること、使徒となることの意味の全体像を示すことという方が正しいように思われる。パウロもそのことをしっかりと受け取るにはある時間がかかったろうことは、想像に難くない。
Acts10:28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
アーメン。これこそが、キリスト教のユダヤ教から分離しての出発地点であると言えるかも知れない。しかし、実質化は、日々の営みの中にある。
Acts11:17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。
ペテロは、イエスと共にいて Mt15:11 や、イエスがどのように、ひとびとと接していたかを十分知っていたろう。しかし、他の人々のためには、奇跡(聖霊が見える形で働かれること)は必要だったろう。そしてこの告白にいたる。18節は「人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、『それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ』と言った。」と続く。
Acts12:12 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。
この節は、25節を意識しているのだろう。使徒行伝ではどうみても良くは扱われてないマルコ登場である。使徒行伝が書かれた頃、生きていたのは、マルコぐらいだと思われるが、するとあまり悪いことは書きたくない。しかし、パウロなどを通して、若い頃のマルコのことは、隠す必要のない、周知の事実だったのかも知れない。
Acts13:12 総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。
クプロの地方長官セルギオ・パウロの改心である。最初の海外宣教における、非常に大きな成果だったろう。サウロがここから、パウロとなる。9節「サウロ、またの名はパウロ、は聖霊に満たされ、彼をにらみつけて」
Acts14:4 そこで町の人々が二派に分れ、ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒の側についた。
分裂が起こることは避けられない。イエスの宣教活動においても、つねにそうであった。しかし、イエスのように、つねに、反対者にも、粘り強く問いかけ続けただろうか。分裂が目的ではないのだから。パウロたちの宣教には、正直違和感を感じる。
Acts15:21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。
明らかに、ユダヤ教の一部として活動していることを証言した文章である。70年のエルサレム陥落までこのような状況だったのだろうか。
Acts16:14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
祈り場にはユダヤ教の信徒を探しに行ったのであろう。しかし、そこで出会い、パウロたちを招き入れたのは、ルデアであった。15節にあるように「主を信じる者とお思いでしたら」とあるが、ルデアがずっと求めていたかた、敬っていたかた、そしてパウロが宣教していたかたが一致していることに、何も疑いもなかったのだろう。
Acts17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
これが神が伝えようとされているメッセージなのだろうか。明らかに、アテネでの宣教は成功していない。福音をどのように伝えるべきか、真摯に考えたい。
Acts18:25 この人は主に道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。
「アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人」(v24) である。種々の情報がここに込められているが、この時点でも、おそらく、使徒行伝が書かれた時点でも、弟子たちは、正統派ユダヤ教と考えていたろう。そして、バプテスマのヨハネの教えとの連接は、難しくなかったことも、伝えている。それが「主の道」という用語か。
Acts19:9,10 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。
エペソでのこと。かたくなにしたことがかえって多くの人が福音を聞いたことにつながったとも取れる記述である。興味深い。
Acts20:11 そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。
2:42, 46, 20:7, 11, 27:35 にパンをさくということが書かれている。当時、パンをさくことはおそらくとても大切なこととしておこなわれ、このように表現されていたのだろう。
Acts21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。
このころ異邦人キリスト者の数はどの程度だったのだろう。しかし、伝道者の数を考えると、万単位ではいなかったろう。その中で律法の問題は、とても複雑な問題だったろう。
Acts22:2 パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。
パウロはよく知っている。ユダヤ人を。そして、ローマ人にとって大事なことも。「わたしは生れながらの市民です」(v22) しかし、やはり、イエスが伝えようとしていたメッセージとの差を感じてしまう。補完的としてしまって良いのだろうか。すべてのひととしっかり向き合った、イエス。その本質が失われていないか。
Acts23:29 ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、なんら死刑または投獄に当る罪のないことがわかりました。
ルカは、この証言は大切だと核心したのだろう。福音書に書かれている、イエスの言葉だけからすべてを結論しようとするのは、原理主義、そこから得られる、整合性のあることに根拠を持とうとする考え、そして現状をみて、それがもっとも適切になると人間が修正を加えることは世俗主義か。真ん中のものをどのように言ったらよいかは分からないが、それも、問題が無いわけではないだろう。信仰が関係した実際の問題の解決または決断は難しい。
Acts24:15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。
ユダヤ人と最も対立したのは、イエスに対する理解なのだろうか、それとも、ユダヤ人と異邦人に対する考えか、異邦人がどんどん加わっていたためのねたみか。神殿とか、律法といったものの解釈の違いなのだろうか。いずれにしても、共通の土台の上にたって、お互いを受け入れることができない、本質的なことを含んでいたと言うことなのだろう。
Acts25:25 しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。
やはり不合理に思える。ユダヤ人の手前、赦すわけにはいかないという、フェストの背景によるねじれがあるからか。ルカが、キリスト教徒の弁明として脚色しているとすると、やなりなにか問題があったことになる。それは、何だったのか。
Acts26:7,8 わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。
この希望は23:6にもあるように、復活だったのだろう。それは、正しい裁きをも意味する。信仰深い生活は、そのため、と考えると、イエスの福音と少し違うようにも思う。神の国に信仰により神の子として生きること、そしてその神の国が近いということを、この復活の時と同一視するのには、疑問を感じる。
Acts27:35 彼はこう言って、パンを取り、みんなの前で神に感謝し、それをさいて食べはじめた。
ここでもパンを割いている。穀物は、海に捨てるほどあったようだが、14日間なにも食べなかったのは、十分無かったことは明らかである。しかし、神は、恵み深く「十分に食事をした」と言えるほどのものは、あったのだろう。
Acts28:21 そこで彼らは、パウロに言った、「わたしたちは、ユダヤ人たちから、あなたについて、なんの文書も受け取っていないし、また、兄弟たちの中からここにきて、あなたについて不利な報告をしたり、悪口を言ったりした者もなかった。
17節によるとこれはローマのユダヤ人たちに語った言葉である。「ユダヤ人」ということばの使い方が気になるが、この時点では、まだ、ユダヤ教の一部としての意識が強かったと思われる。これに対する、ユダヤ人の応答をみると、パレスチナから遠く離れた、ローマでの状況は少し異なることも分かる。気になるのは、これが書かれたときであるが、70年からあまりたっていなかったのであろう。エルサレム崩壊後の人の動きも調べないといけないが、かなりの時間がたっていて、このように冷静に書くのは難しいだろう。

BRC2013(2)

Acts1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
何を言っているのだろう。この時にも弟子達は、政治的な復興を望んでいるのか。それとも、イエスは、神の国の到来により、それと変わらない状況になるとして、そのまま受け入れているのか。
Acts2:45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
これはすばらしい後継だが、サステイナブルではない。このあとどうしていったのだろう。神の国がすぐに来ると考えていた事はあるだろう。
Acts3:25 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。
預言者の子とまで言っている。26節に「神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである。」とあるように、悔い改めを促す為か。このメッセージは、十分勉強していない。いつか、ゆっくり学びたい。
Acts4:17 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。
1節-3節によるとペテロとヨハネを捕らえたのは「祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たち」であったから、少なくとも命に危害を加える事はできなかったのだろう。実効性はないこともわかっていたかもしれない。
Acts5:11 教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。
アナニヤとサッピラの事件は理解に困難もある。しかし、かならず神を欺く罪は侵入する。それにどう対応するかを、Mt18:15-20 とあわせて学びたい。
Acts6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。
この問題の解決は興味深い。そして「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人」は絶対かという問題が残る。愛で結ばれた共同体の問題解決には、外部の能力があるひとには、任せられない。しかし、同時に、ここに普遍性があるのであるとすれば、適切な分配が確立される方向に進むのが望ましい。信頼される、知恵に満ちた神を畏れる人がおこされてほしい。
Acts7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
ステパノの説教はここで遮られている。おそらく、49節まではほとんど違和感はなかったろう。52節で、預言者が預言していた者としてイエスを示し、それを殺したことに結びつけたからか。そうだとすると、この背景とする議論をうけて、遮ったという事だろう。
Acts8:39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。
聖書の理解を根拠として、信仰を告白し(37節が無かったとしても信仰の表明はしている)、バプテスマを受けている。ここに記されているという事は、生活も変化し、喜びが持続したのであろう。
Acts9:11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
アナニヤというひとが与えられたことは重要。アナニヤはどのようなことを考えたのだろう。一つ分かることは、人の思いよりも、神からのメッセージに答えたこと。
Acts10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
28節で繰り返されている。神がきよめた者という観点では、差はないということだろう。
Acts11:16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。
天からの声、御霊の導き、聖霊の特別な働き、そして、イエスの言葉が根拠だったという事か。それだけ、みことばを伝える対象を、異邦人に広げる事には、弟子達は、慎重であり、かつ、神は様々な形でみこころを示されたということだろう。
Acts12:29 集まった人々は、「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫びつづけた。
保身のために、ヘロデに対してこのような偽りのことばをもって賞賛したツロ・シドンの人たち、それをおそらく喜ばしい事として受け入れたヘロデと「人間に従うよりは、神に従うべきである。」といって、信じることを語り続け、ひれ伏すコルネリオに対して「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」と応答したペテロとの本質的な違いに目をとめて生きていきたい。
Acts13:38,29 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。
この「だから」がよくわからない。神がよみがえらせ、朽ち果てることがないイエスを信じると、なぜ罪のゆるしが与えられるのだろう。もう少し理解したい。
Acts14:27 彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。
パウロとバルナバの報告の中心は「神が彼らと共にいて働いてくださった事」である。このように純粋に、しもべとして働きたい。
Acts15:5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。
この人たちへのペテロの応答は10節の「しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。」全体を代表したヤコブの応答は19, 20節に「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。」とある。そしてこの後半は、この人たちへの配慮も含まれているように思われる。インクルーシブな共同体のために。
Acts16:33,34 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、 さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。
このあと、どうなるかを考えるより、自分自身を主にゆだねたのだろう。これが、信仰。
Acts17:26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
この部分は、歴史の背後におられる神をかたり、偶像礼拝から神礼拝へと導く為のメッセージの一部分ではあるが、承服できないとも感じてしまう。それは、わたしが読むときにも、人間の善悪の価値観がまず全面にあるからか。少しずつ、このような部分も集めていきたい。
Acts18:24 さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。
このアポロと、プリスキラとアクラとの接触をみると、ユダヤ教との境はなかったことが感じられる。特に、エルサレム以外においては、聖書を基盤として、イエスがキリストである事が自然に語られていたのかもしれない。
Acts19:28 これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。
32節には「中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。」とある。こうならないため、このような群衆に加わらない為には、ひとり一人の教育が重要になってくる。それは、いま、十分になされているであろうか。
Acts20:26 今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。
なぜ「主とその恵みの言」なのか。背後でつねに働いておられる主、その御心とシンクロナイズする為には、御言葉を通して主のこころを知る必要があるのだろう。
Acts21:20,21 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
クリスチャンになったユダヤ人にとって律法を遵守する事は重んじられるべき事か、それとも、重んじなくてもよいことか。25節に「異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」と確認されている。しかし、共に一つのフェローシップを保つ為には、どちらを選んだとしても問題はおこる。これをユダヤ人としてのアイデンティティの問題としてよいのか。それとも、信仰に大きく関わる事なのか。
Acts22:11 わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。
パウロがイエスに出会い、目が見えなくなった理由が書かれている。光の輝きで目がくらんだのである。光に照らし出されれた世界をみて、すべてが見えなくなってしまったのだろう。それだけの変化を伴う経験を表現している。
Acts23:27 本人のパウロが、ユダヤ人らに捕えられ、まさに殺されようとしていたのを、彼のローマ市民であることを知ったので、わたしは兵卒たちを率いて行って、彼を救い出しました。
22:29には「そこで、パウロを取り調べようとしていた人たちは、ただちに彼から身を引いた。千卒長も、パウロがローマの市民であること、また、そういう人を縛っていたことがわかって、恐れた。」とある。このときの挽回であったかもしれない。ローマ市民を保護することが、大きな責任であったことがうかがえる。
Acts24:26 彼は、それと同時に、パウロから金をもらいたい下ごころがあったので、たびたびパウロを呼び出しては語り合った。
市民権の保護とは別に、賄賂文化も、ローマの世界で根付いていたのかもしれない。倫理基盤も知りたい。
Acts25:8 パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明した。
護教的背景を指摘する面はあるだろうが、このように主張できるのは幸い。そのように生きたい。正々堂々と。たとえそうでなくても、非難される事は良心の自由に本質的に関係するようなことだけでありたい。
Acts26:18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。
パウロを遣わす理由として書かれている部分である。目が開かれ、やみ(悪魔の支配)から光(神のみもと)へとうつり、罪のゆるしを得、イエスを信じる信仰によって、神様の民となるため。ということか。
Acts27:44 その他の者は、板や舟の破片に乗って行くように命じた。こうして、全部の者が上陸して救われたのであった。
このように全部の者が救われる事が、わたしの願い。神様も願っているのではないだろうか。それは、できない事なのだろうか。人にはできないが、神にはできるとは言えないのだろうか。その道は備えられていないのだろうか。
Acts28:24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。
なぜ信じようともしなかったのだろう。そして、信じなければ、救いの道はもう閉ざされているのだろうか。もっとよく知りたい。神様のご計画と、御心を。


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ローマの信徒への手紙

ローマの信徒への手紙(1)

使徒言行録の最後は、パウロがローマに着いたところで終わっています。ローマ信徒への手紙1章13節には、
兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。(新共同訳)
とありますから、パウロは、まだ一度も、ローマに福音を携えては行っていないことが分かります。

パウロがローマに手紙を書いた頃のローマ教会についてはあまりよく分かっていないようですが、1章7節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」とありますから、すでにイエスを救い主と信じるクリスチャン達がいたことが分かります。

また12章14節には

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(新共同訳)
とありますから、すでに迫害もあったのでしょう。その状況を考えながら12章9節から最後を読むとこれは単なる倫理的な教えではないことが分かるのではないでしょうか。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(新共同訳12:15-18)
最後は口語訳では「できるだけ」となっていますが、どこにいっても、紛争が絶えなかったパウロの言葉だと思うとさらにいろいろと考えさせられます。9節には「愛には偽りがあってはなりません。」とあり、この章は最後「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(21節)」と締めくくられています。一日一日偽りのない愛をもって、善をもって神の支配に委ねていきたいと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」がイエスの説いた福音ならば。

ローマの信徒への手紙(2)

手元に、小泉達人著「ローマ書新解 - 万人救済の福音として読む-」(キリスト新聞社 2008.6.6 刊)がありますが、その最初には、つぎのように書かれています。
ローマ書は、宗教改革者マルチン・ルター以来、信仰義認の書、すなわちわたしたちは信仰によって義とされ救われる。と説く書物として理解されてきた。しかしローマ書はむしろ万人救済の福音、すなわち、信仰の有無にかかわらずすべての人が救われる、と説く書物ではないのか、というのがこの本の主題である。「ローマ書新解」という生意気な題を付けたのも、そのためである。
ローマの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒への手紙1章14節に「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」と書いたパウロによって書かれました。同じガラテヤの信徒への手紙2章16節にはつぎのように書かれています。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
ユダヤ教の人たちは、旧約聖書の最初の五書、律法(トーラー)と呼ばれるものと、その解釈の集大成である「タルムード」に書かれていることを実行していくことに心血を注いでいました。パウロも現在のトルコ南東の町タルソのユダヤ人の家に生まれ、エルサレムで律法の訓練を受け「ユダヤ教に徹しようとしていた」のでした。使徒言行録にもあるようにキリスト教徒を迫害していたパウロが、あるときイエス・キリストを信じるようになりました。上で引用したガラテヤの信徒への手紙によれば「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないから」とのべ「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と記しています。これが最初にのべた「信仰義認」です。

信仰によって義と認められるとすると、割礼を受け、ユダヤ教徒となる必要はないことになります。ガラテヤの信徒への手紙 3章26節から29節にはつぎのように書かれています。

26:あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
27:洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
28:そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
29:あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
では、この信仰とは何なのでしょうか。信仰とか、愛とはなにか、直感的で感情的な要素が強く、行いより、かえって抽象的で、「イエス・キリストへの信仰によって」などと言うことで、差別的にならないでしょうか。信仰がある人は救われ、無い人は救われないのでしょうか。キリストを救い主と信じるひとが救われ、キリスト教以外の人は救われないのでしょうか。その信仰について上の文章のようにどこまで論理的に語れるのでしょうか。

パウロはイエスの死後、10年後から25年後ぐらいの期間活躍したと思われますが、ユダヤ教の一派であったキリスト教が「律法から自由な福音」としてその期間に急速に世界宗教へと当時のローマ帝国に広がっていったことは確かです。おそらく、その鍵をにぎるのが、このローマ人への手紙に書かれていることだと思います。

信仰による義とは何なのか、パウロはそれをどのように説いているのか。それは小泉先生の言われるように万人救済の福音なのでしょうか。読み取っていただければと思います。二箇所ローマ人への手紙から引用します。

21:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22:すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23:人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24:ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙3章21節-25節(新共同訳)
31:では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32:わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33:だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34:だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
35:だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36:「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37:しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38:わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39:高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8章31節-39節(新共同訳)
いのちのことば社「新聖書注解」泉田昭
ローマ人への手紙 梗概
  1. まえがき 1:1-17
    1. あいさつ 1:1-7
    2. 手紙の目的 1:8-17
  2. 人間の罪 1:18-3:20
    1. 異教徒の罪 1:18-32
    2. ユダヤ人の偽善 2:1-29
    3. 人間はみな罪人 3:1-20
  3. 神の義 3:21-5:21
    1. キリストによる義 3:21-31
    2. アブラハムと義 4:1-25
    3. 信仰義認の結果 5:1-21
  4. キリストによる勝利 6:1-8:39
    1. キリストとの合体 6:1-7:6
    2. 罪との戦い 7:7-25
    3. キリストによる勝利 8:1-29
  5. イスラエル問題 9:1-11:36
    1. イスラエル問題 9:1-11:35
    2. イスラエルの不信仰 10:1-21
    3. イスラエルの救い 11:1-36
  6. キリスト者の倫理 12:1-15:13
    1. 倫理の基礎 12:1-23
    2. 社会の倫理 13:1-14
    3. 教会の倫理 14:1-15:13
  7. 私信 15:14-16:27
    1. パウロの伝道計画 15:14-33
    2. 紹介とあいさつ 16:1-27


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Romans 1:18-20 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
一般啓示・恩寵をどう理解するかは、特別啓示・恩寵をどう受け入れるかと同時に難しい課題である。本当に、明らかなのだろうか。多様性が受け入れられ、そこにも、神様の御心が現れていると考えられている現代では、そう簡単に、結論はできないのではないだろうか。様々なこと、自然界のこともふくめて、そこから、神様の御心を知ろうとすることは、たいせつで、そのようなことを通して、神様が御心をしめされないとするほうが、特殊だからである。しかし、そうであっても、そこから読み取る御心を、御心と確信することは、簡単ではない。まして、それがみ心だと断言することは。
Romans 2:19-21 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それなら、どうして、他人には教えながら自分には教えないのですか。盗むなと説きながら盗むのですか。
1章の終わりには「そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。」(24)とし、そのあとに、様々な「してはならないこと」(28)のリストが続く。引用句では、律法をもっているユダヤ人の罪が書かれているが、どのレベルで語っているか不明でもある。イエスの述べるレベルであれば、律法を守ることは難しい。どうも、わたしは、しっかり理解していないようだ。いつか、ローマ人への手紙も、しっかり読む必要があるのだろうか。
Romans 3:27,28 では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ここで核心に至る。このあとに述べられているように、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」(29,30a)に根拠を委ねている。この根拠は、大切だろう。しかし、それが、信仰の法則に至るわけではない。これも、単純化バイアスのようにも見える。少しずつ理解していきたい。
Romans 4:13 世界の相続人となるという約束が、アブラハムとその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるのです。
アブラハムのころにも律法はあったと考えているのだろうか。一般的には、モーセによって律法が与えられたとしている。いずれにしても、アブラハムが、割礼の前に義と認められたというのは、たいせつだとは思うが、人間の論理には限界がある。それに頼ることには、個人的には躊躇がある。
Romans 5:15,16 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。
論理的に理解するのは困難である。結局、啓示とする以外にないのではないか。すると、やはり分断を生じる。数学のような厳密な論理を使えばある程度の普遍性は確保できるが、多くの人が納得できるわけではない。神の意思なのだろうか。人の間に、それが理解でき、受け入れられる共通のものがないといけないだろう。難しい。
Romans 6:6-8 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。死んだ者は罪から解放されているからです。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
この元となっているのは、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。」(3)である。しかし、その根拠があるわけではない。また、イエスの(弟子たちが授けていた)バプテスマが、イエスと共に生きるバプテスマと言われればそうかも知れないが、少なくとも、福音書からは「キリストとともに十字架につけられた」とは、証言されない。ということは、特別啓示ということになる。正直、わからない。また、実感としても、異なる。同じ状態であるとは思わないが、罪の力が無力にされたり、罪の奴隷ではないとは、やはり言い切れない、と思う。
Romans 7:18-20 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
パウロの論理を、ゆっくり整理して考えないと、自分自身が混乱してしまう。「罪の体が無力化された」(6章6節)とあり、かつ「自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいない」。やはり、イエスは、その名を信じるものに、神の子となる権威(イクスーシア:そのことを選択する自由)を与えられたとするヨハネの書き方のほうが、実際とも近いように思う。神の子としていきましょう。私とともに。わたしに従ってきなさい。それが、共観福音書のみかたでもあるように思う。いつか丁寧に考えられるときが来るだろうか。
Romans 8:14,15 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
わたしはこのことを望んでいる。しかし、このことの確信はない。わたしのなかに、さまざまなものが混在しているからである。神の霊に導かれることは、イエスも約束したことなのだろうが、なにか、もう、ワンステップあるように思う。単純に盲信するのでも、拒否するのでもなく、少しずつ丁寧に理解していきたい。
Romans 9:24-26 神は、私たちをこのような者として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました。ホセアの書でも、言われているとおりです。/「私はわが民ではない者をわが民と呼び/愛されなかった女を愛された女と呼ぶ。『あなたがたはわが民ではない』/と彼らに言われたその場所で/彼らは『生ける神の子ら』と呼ばれる。」
ホセア2章25節「私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬもの)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民ではない)に向かって/『あなたはわが民』と言う。/彼もまた言う。『わが神よ。』」ホセア1章9節「主は言われた。/『その子の名をロ・アンミ(わが民ではない)と呼べ。/あなたがたは私の民ではなく/私もまた、あなたがたのものではないからだ。』」ホセア2章1節「イスラエルの子らは数を増し/海の砂のように/量ることも数えることもできなくなる。/彼らは『あなたがたはロ・アンミ(わが民ではない)』/と言われる代わりに/『生ける神の子ら』と言われる。」ホセア2章3節「あなたがたは兄弟に向かって/『アンミ(わが民)』と/また姉妹に対しては/『ルハマ(憐れまれるもの)』と言え。」かなりの意訳になっている。丁寧にみないとわからない。
Romans 10:2-4 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。
非常に大胆である。確信が背後にあるのだろう。しかし、正直、それは、特別啓示によるとしないかぎり、所詮、人間の論理である。正しい知識に基づいていないと言い切っているが、それは、パウロが、正しい知識のものとで裁く以外に成立しない。しかし、神の義をそれほど簡単に語れるのだろうか。最後には、キリストは、信じる者すべてに義をもたらしてくれると言い切っている。たしかに、それは、望ましいことである。しかし、それが現実ではないことは、ヨハネ2章23,24節からも見て取れる。イエスの行動は、人びとが、信じるといっても、神の国を求めることにはつながっていないことに、苦悩をもって対抗し続けたことにあるように思う。
Romans 11:25,26 きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。/「シオンから救う者が来て/ヤコブから不敬虔を遠ざける。
どうしても、わたしは、パウロに批判的になってしまう。おそらく、直接啓示を、限定したいという気持ちがあるからだろう。パウロへの直接啓示を際限なく認めてしまうことは、パウロを、わたしたちとは異なる存在にし、パウロが望むような、パウロに倣うものも、遥かに遠くなってしまうからである。イスラエルの問題は、今日も大きな問題になっている。それを、ここにあるパウロのことばのように、受け入れるのは、非常に困難である。直接啓示の秘義として受け入れない限りは。イエスは、神の子として生きることを生き抜いたかただと思っている。それをそうではないとするのは、ひとつの生き方である。しかし、わたしは、この福音書を通して伝えられているイエスの生き方に従っていきたいと思う。
Romans 12:1,2 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
長く親しんできたことばだが「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」の表現を考えてみたくなった。「理に適った」は「なすべき」(口語訳・新共同訳)「霊的な」(新改訳1965年)「ふさわしい」(新改訳2017)λογικός(1. pertaining to speech or speaking, 2. pertaining to the reason or logic, a. spiritual, pertaining to the soul, b. agreeable to reason, following reason, reasonable, logical. STRONGs: rational (Vulg.rationabilis); agreeable to reason, following reason, reasonable)用例をしらべないと分からないが、理に適ったもひとつの訳としては適切だと理解した。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」これをどう実行するかが難しい。このあとの部分を読むと、「自分の体」は、日常生活を意味しているように見える。
Romans 13:4,5 権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるからです。だから、怒りが恐ろしいからだけではなく、良心のためにも、これに従うべきです。
一般論を教科書的に語っていると考えてもよいように思う。あまり、聖書の絶対的権威から、これこそ神の御心とする必要はないということである。様々な背景の人達が、キリスト者になるなかで、このような一般論を伝えることも、必要だったのだろう。個別には、そう単純ではないことを、わたしたちは、歴史の中で見てきている。もう一つは、この章の最後にもあるように「夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、主イエス・キリストを着なさい。欲望を満足させようとして、肉に心を向けてはなりません。」(12-14)この終末的意識が、背景にあることも無視できないであろう。このことに集中すべきというような考え方である。これも、現代では、相対化されることでもある。ひとつの原則として考えるべきだろう。
Romans 14:4 他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。
最初に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)とある。信仰の弱い人と書いているが、それは、わからないというのが私の見方である。そのように判断してしまうところに、ひとの弱さがある。たしかに、ある部分、合理的ではない、整合性がないようなことはあり、それが、その人には見えないことはあるだろう。しかし、それが、その人を判断する基準になってはいけない。主に委ねることなのだろう。同時に、互いに成長していくことができると良いのだが、それも、なかなか難しい。互いに愛し合うことはなんと難しいことか。
Romans 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
パウロも、このことを言い切っている。神の栄光、それが、互いに受け入れる、受け入れがたい人を受け入れることにかかっていること、つまり、愛について知っているということだろう。共通の信仰の上に立っていると告白できる根拠である。ひとは、ほんとうに、欠けがある。それは、その神のみこころを、このことについては、知っていると思ってしまうことなのだろうと、わたしは、考える。これも、間違っているかもしれないのだろうが。難しいということを受け入れつつ、御心と信じることを、少しずつ行っていきたい。
Romans 16:25,26 〔神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、代々にわたって隠されていた秘義を啓示するものです。その秘義は、すべての異邦人を信仰による従順へと導くようにとの永遠の神の命令に従い、今や預言者たちの書物を通して明らかにされ、知らされています。
括弧に括られた部分である。聖書協会共同訳には巻頭の凡例に新約聖書のこの記号について以下のように説明されている。「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す。」多くの研究の後にたどり着き、聖書協会共同訳の出版において、合意されたということなのだろう。翻訳によって、扱い方は多少異なるのかも知れない。たしかに、本文とのつながりにおいても、文体においても、内容においても、異なるように見える。断定するには、さまざまな難しさが伴うのだろう。そのような、営みにも敬意を払いたい。聖書を信仰の唯一の基準とするのであれば、この営みは、重要なのだろう。わたしは、もう少し、広く考えているが。

BRC2023(2)

Romans 1:20 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
何回、この言葉を読んできただろう。正直、神の永遠の力と神性を、人々が認められるとは思わない。パウロにはそう思えたのだろう。ひとのこころは複雑、かつ、ひとはそれぞれ多様である。先天的なものと、人生における痛みを通して、個が形作られていく。そのなかで、その背後に神様がおられることを信じるものと、そうではないものとが現れ、その神様の認識も多様だろう。個人的には、イエスはとても魅力的なかただが、それが皆にとってそうなのか、わたしには、確信がない。共有して、共に、イエスを見ることができればとは願っているが。
Romans 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを行う者が義とされるからです。
しかし、それはできないとして、信仰義認に向かうのかと思うが、やはり、御心をおこなうことに、中心があることは、変わらないと思う。文字に書かれていることを行っていればよいということとは、異なるということだろう。丁寧に、理解していきたい。
Romans 3:24,25 キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。
正直、パウロの論理に感動しない。この箇所を読んでいると、パウロは、贖い主である神様の働きと、イエスの死を結びつけ、律法から解放されることで、ユダヤ人から、すべての人に救いの範囲を広げたのだろう。しかし、神様の御心に生きるのは、結局のところ、このことでは、不十分であるように思われる。やはり、信じることなしには、成立しないだけではなく、見ないようにすることも、必要なのではないだろうか。文字に書かれた律法が不完全だとの理解に立つのは、たいせつなステップだが、贖いにすべてを委ねるのでは、十分ではないと思われる。むろん、パウロは反発するだろうが。
Romans 4:19-21 およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。
約束をどう考えるか、特別の約束と、神の恵みとして普遍的なものとするかという問題と、背後にある確率をどう考えるかということだろうか。希望を失わないたいせつさは、あるだろう。同時に、それとは、違う道を選び取ることが必要な場合もある。すなわち、プラスにもマイナスにもなりうるということではないのか。もうすこし、違うみかたが必要なように感じてしまう。あまりに、ひねくれているのだろうか。ある真実ではなく、普遍的なものを求めすぎているのか。
Romans 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
この章の内容をどのように信じればよいのだろうか。個人的に、是認することは、可能かもしれない。しかし、他者と共有することは不可能である。特に、聖書について異なる考えを持っている人との間では。また、ここに書かれていることが、神からの直接啓示だとしても、個人的には、その神様を全面的には信頼できない。すべてのひとの創造主だとは考えられないからである。
Romans 6:22 しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。
神の奴隷となることは、個人的には、それが、神様の願いならそうしたいと思うが、本当に神様の御心なのかなとおもう。神様の御心も正直よくわからないことがほとんどである。それを真摯に求め続けること、そして、それに生きようとすること以外に、ないのではないだろうか。それを、神の奴隷と表現するなら、それは、そうなのかもしれないが。
Romans 7:18-20 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
有名な箇所である。ここでパウロは、「それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」と言っているが、まさに、それが現実で、このことを含んで、自分なのだろう。いろいろなレベルがあるので、簡単には、書けないが、ズレ(バイアス)と、ユレ(ノイズ)も人間に自然にともなっていることであるだけでなく、基本的に、善については、ある感覚はもっていても、全体像は把握していないのだから。そしてこれは、一人ひとりにおいても異なる。痛みや傷や悲しさが、その人一人ひとりを形成しているのだから。すこしまとめて書けるようにしていきたい。
Romans 8:20,21 被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
この希望の表現が伝わる人は、幸せだったろう。しかし、実際には、わからないという難しさを含んでいる。どうなのだろうか。この時代、大きな反対が各地であったのだろう。特に、パウロの周辺では。パウロを単純に批判できないが、そのなかで、地上以外に、完全な救いを求めることは理解できる。現実は、どうなのか、わたしには、わからないとしか言えないが。
Romans 9:30-32 では、何と言うべきでしょうか。義を追い求めない異邦人が義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです。イスラエルはつまずきの石につまずいたのです。
この章では、いくつか旧約聖書からの引用は、事例が書かれているが、適切かどうかは不明である。パウロは、いずれにしても、この最後の部分を言いたかったのだろう。すこし、乱暴に感じる。信仰のたいせつさは、理解できても、このように書かれて、すんなり理解できるユダヤ人はどれほどいたのだろうか。異邦人にしても同じかもしれないが。わたしは、この論理では語ることができない。
Romans 10:17 それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。
しかし、これは、パウロの使命で、イエスは、同じように考えられただろうか。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハネ13:35)に心が向かうのは、分裂が最大の課題だと感じるからだろうか。イエスの教えは、「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)に凝縮されているように思うが、そうでもないのだろうか。
Romans 11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。
ユダヤ人について騙っている箇所である。キリスト者にとって、ユダヤ人にどのように対するかは簡単ではないのだろう。特に、ここでは書かれていないが、キリスト者に対する反対もすくなくとも、パウロの時代には、強かったと思われる。いまは、どうなのだろうか。聖書を仲介としてわかり合うことは可能なのだろうか。そのような交わりもしてみたい。いままでに、機会はあったかもしれないが、これからは、難しいのかもしれない。
Romans 12:18-20 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
パウロが言いたいことは伝わってくるように思うが、このような感覚では、すべての人と平和に過ごすことはできないだろう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」(2a)も理解はできるが、キリスト者以外から学ぶことは多い。その人達に、神様が示してくださっているものからも、学びたいと思う。
Romans 13:6,7 あなたがたが税金を納めているのもそのためです。権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
このあとには「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8)と続く。引用句で「神に仕える」とあるが、もう少し説明が必要であろう。普遍的価値、一般恩寵を支持するものではあるように思う。そのために、税金や関税も基本的には用いられる。むろん、邪悪なことが入り込む余地はあるが、それを見つけて、だから、これらは不必要だとはならない。
Romans 14:7,8 私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
これらのことばをどう読むかも重要なのかもしれない。神のもとで生きることを、神のためと言っているかもしれない。ついつい神のためという意思が必要だと考えてしまう。そしてそう生きることが立派だと、しかし、神様の立場で考えると、それほど狭いものではないのかもしれない。すべてのものが神によって創造されているのだから。限定的であっても、自由をひとは与えられていることは確かだが。
Romans 15:3 キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、私に降りかかった」と書いてあるとおりです。
「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし/あなたをそしる者のそしりが/私の上に降りかかっています。」(詩篇69:10)ダビデの詩とされている。この引用が適切なのかどうか不明である。パウロの時代には、書かれた福音書がまだないのだから仕方がないが、伝承だけだったのだろうか。それとも、定型の物語はあったのだろうか。
Romans 16:17,18 きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えている。そして、甘い言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心をだましているのです。
分裂やつまづきが、当時からたくさんあったのだろう。ここでは、その原因は、自分の腹に仕えている人によるとあるが、どう対応するかはとても難しい。特に、対立が顕著になってしまうと、修復は困難である。どうしていったらよいのだろうか。最大の課題だと思う。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Romans 1:2-4 この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。
最後の4節が気になった。この記述によれば「死者の中からの復活によって神の子と定められた」とあり、それまでは神の子ではないと取れる記述になっている。パウロは、イエスの生涯やことばや行動についてほとんど引用しない。その理由はいくつかあるだろうが、このように断定する理由は何なのだろうか。「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3章17節、参照:マルコ1章11節, ルカ3章22節)「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」(マタイ17章5節, 参照:マルコ9章7節, 2ペトロ1章17節)をどう解釈するのか。確かに、イエスも、自分が神の子であることは、明言を避けているように思える。しかし、それは、死後も明確に変化しているわけではないように思う。総じて、パウロの解釈。神の子たるキリストは、死者からの復活により、それ以前の上記のような証言は、それを予見したものに過ぎないと言うことだろうか。パウロ神学に疑念を持っていることもあり、極力丁寧に見ていきたい。
Romans 2:12,13 律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを行う者が義とされるからです。
全人類ではないが、ユダヤ人にもギリシャ人にも公平な神の裁きについて書かれている。いくつか疑問に思うことがある。まず、ギリシャ人という言い方。タルソでパウロの近くにいたひとは、ギリシャ人だったのかもしれないが、ローマ人への手紙の受け取り手で、ローマにいるひとたちは、ギリシャ人ではなく、主として、ローマ人ではないのか。こんな基本的なことも、わたしは理解できていないことに気づいた。この章では頻繁に「律法」が登場するが、その意味するところが不明。何をもって律法としているのか。一般的な用語として神の御心を表すものか。その中身によって、内容の意味するところは変わってくる。ユダヤ人も納得できないだろうと思った。裁きについては、マタイ7章などの、イエスの説教との違いも感じた。また考えてみよう。
Romans 3:23,24 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。
ギリシャ人もユダヤ人もない救いについて前の章で書かれ、まず、引用句で、罪の中に人がいることと、キリストの贖いの業を通して、恵みにより義とされることが書かれている。そしてこのあと「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(28)と信仰義認へと進む。まだ、ここでは、行いによるのではないことは明確だが、信仰について明確には、書かれていないように思われる。いずれにしても「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。」(29)この普遍性への一歩は、パウロが明確にした最も大きな貢献だと思う。我々の罪・キリストの贖いの業・恵みよる義・信仰による義というキーワードで良いかどうかは、正直疑問がある。少なくとも、イエスが語った福音とは異なる印象を受ける。「悔改めよ、神の国は近づいた」だけを見れば、つながるようにも思われるが、イエスのことば、教え、生き様は、これらには、表現されていない。少しずつ考えていきたい。
Romans 4:20,21 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(3, 創世記15章6節)や「どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前です。」(10)に気づいたときは、パウロも目が開かれたと感じたのではないだろうか。旧約の信仰との接続点も見出したと感じたかもしれない。そして信仰の中身も、引用句のように表現している。とても印象的なことばである。しかし、同時に、冷静に読むと、気になることもある。「同じようにダビデも、行いがなくても神に義と認められた人の幸いを、こう言っています。」(6)に続く引用は、このことを表現している箇所かどうかは、不明である。また、この章の最後「しかし、『それ(引用句をさす)が彼の義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、私たちのためでもあります。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、義と認められるのです。イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」(23-25)を結論するのは、乱暴である。最初は普遍化。たしかに、そこに真理があることを否定しないが、それが誰に対しても適用できるものであるかは、神様のみがご存知である。そして、その要素があるにしても、そこだけに集中する解釈が適切であるかは、不明である。最後の部分は、まさに、パウロのキリスト論であるが、それを受け入れるには、パウロへの神の啓示が前提であるとともに、ひとつの信仰告白とすることの違いも問題となる。イエスをキリストと信じるのは、生身のイエスの生きた証拠が伝えるメッセージがあるからではないのだろうか。それを語らないで、これらを帰結するのは、違和感を感じる。
Romans 5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
イエス様はこのことばをどのように受け取られるだろうか。その存在・尊厳を受け入れ、信頼関係(信仰も同じ)を築く基礎となることは、そのひととどのように関わっているかその量と質であるように思う。確かに、パウロにとっては、復活のキリストによって示されたことが絶大だったのだろう。そして、聖書を再解釈していく中で、到達した結論が、このことばに凝縮されているのだろう。しかし、信頼関係は、それぞれの存在が、様々な出会いと経験を通して、築かれていくものだろう。さまざまであって問題はないはずである。正しさの観点にたつと、そうはいかないことがあるのかもしれない。神の義を理解したいことが強かったのかもしれない。わたしは、それを、ある時点で、相対化してしまっているので、響かないのかもしれない。むろん、わたしのような見方がよいのかは不明である。ただ、パウロのような認識でなければいけないともいえないように思うがどうだろうか。
Romans 6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
キリスト・イエスにあずかるバプテスマをうけたことは確かであるが、それによって、キリストの死と復活、そのいのちにもあずかることになるかは、明らかではないのではないだろうか。たしかに、そうなのかもしれないし、それは、恵みであると同時に、新たな民族主義、すなわち、ユダヤ人と異邦人を選民思想で分離していたように、バプテスマを受けたキリスト者と受けていない非キリスト者とを分離することになる。イエスの言葉を行おうとして、イエスに従っていくもので、十分なのではないだろうか。イスラム教のなかで、イサ(イエス)に従うものとして生きる。それでなにも問題ないのではないだろうか。むろん、主が、神が最終的に、わたしたちをどのようのされるかはわからない。しかし、わたしは、分離しないで、生きていくものでありたい。それは、自分も分離されないためというより、ひとつを目指すためだろうか。
Romans 7:21-23 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
この両方が自分である。わたしは、そんな自分であることに背を向けない。複雑系であることは、恵みでもある。単純に、良いか悪いかの世界ではない。それが、キリスト者か非キリスト者かの区別ではないことともつながっている。一つの切り口、指標でひとは測ることはできない。それで良い。そして、それがひとりひとりの違いであり、尊厳のもとである。そこにこそ、神様が一人ひとりに働かれ、一人ひとりを愛しておられることが表されているのだから。灰色の世界を、明るい方向を目指しながら、歩いていくものでありたい。
Romans 8:5-7 肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
なぜ、パウロの手紙を素直に受け入れられないか考えてみた。引用句では、霊・肉二元論を利用して論理を組み立てている。現在では、ひとの思いや行動はそれほど単純ではないこと、さらに、二元論的な思考・論理が分裂を生み出し、害悪があることが唱えられ、わたしもそのように考えている。それは、ある時代背景のもとでの、ひとつの説明の方法にすぎない。説明しようとしている内容を受け取るべきだとの説明もそのとおりである。それでも、なお、素直に受け入れられないのは、霊・肉二元論のようなものを文字通り受け入れ、そこから演繹して、世界の分裂を生じさせる解釈が、現代でも多く、それに、抗わなければいけないと考えているだけでなく、このような原理主義は、宗教の性(さが)のようなもので、それこそが偏見をうみ、この性向が変化しない限り、人々の心の内奥(ないおう)には届かないと考えているからだろう。しかし、同時に、そのことに、エネルギーを使うあまり、わたしも、パウロの伝えたかった本質から遠い部分に留まってしまって、理解できていないことも確かである。真理を求める純粋なこころから、わたはあまりに遠い。難しい問題である。
Romans 9:15,16 神はモーセに、/「私は憐れもうとする者を憐れみ/慈しもうとする者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。
「私はヤコブを愛し/エサウを憎んだ」(13)ことについて述べている。このあとには「ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。」(19)と神義論の中で扱われる問題も提示している。パウロは、ここで「神の恵みと憐れみ」から説明しているようである。それでも、多くの議論がされるのは、それでは、ひとは納得できないということだろう。すくなくとも、神と共に生きることはできない。神を超然とした存在としておくなら、それも可能だろうが、イエスによって啓示された神様は、このようなことばで説明できる方ではないように思う。わたしたちと共に悩み苦しんでくださる神様のイメージのほうが強い。おそらく、そのように言い切ってしまうとそれでは表現できない部分が生じてしまうのだろうが。やはり難しい。
Romans 10:8 では、何と言っているでしょうか。/「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。
「信仰による義」(6, 9章30節)について説明している。まず、「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない。」(6, 申命記30章12節)と「『誰が、底なしの淵に下るだろうか』と言ってはならない。」(7,申命記30章13節)に対し、引用句(申命記30章14節)が続く。律法についての、モーセのことばの引用である。構造を「律法による義」(5)と揃えて、「信仰による義」(6)について述べているのだろう。引用句に続けて「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」(9,10)とあり、これこそ信仰による義の確信と考えてきた。いまは、それほど単純ではないのではないか、イエスは、少し違うことを伝えているのではないかと考えているが、そうであっても「神の国は近づいた」(マルコ1章15節)や「神の国はあなた方の中にある」(ルカ17章21節)ととても近いとも思う。パウロなりの解釈のように思う。
Romans 11:19,20 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「私は、民ではない者のことで/あなたがたに妬みを起こさせ/愚かな民のことで、あなたがたを怒らせる」と言っています。イザヤも大胆に、/「私を求めない者に/私は見いだされ/私を尋ねない者に現れた」と言っています。
ここで展開されている接ぎ木論は構造的にも、実際の接ぎ木との関係性も理解が難しい。もし、あるオリーブの木の幹の途中から切り、その上に、野生のオリーブを接いだとすると、基本的には、野生のオリーブの性質が引き継がれる。根がしっかりしていることは重要であるが、根の性質が引き継がれるわけではないはずである。困難なのは、この接ぎ木の比喩は適切であるかとの問いである。上に述べた接ぎ木の原理がパウロが意図したものであったかということと同時に、信仰による義は、このような枝を切り、それに接ぐような行為なのかということもある。パウロは、ユダヤ人の中で育まれたものの恩恵を受けていることを伝えたかったのだろう。この説明によってかえって混乱を引き起こしているように感じる。どのような説明がよいのだろうか。考えてみたい。
Romans 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
抽象的な「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(1)に続いている。少し具体性を増しているのが、引用句のように思う。「この世に倣わない」ことは、常に頭に置くことであることがわかる。世がなにを求めなにを基準とするかではなく、神がなにを求め何を基準にするかを理解し行動せよと言っているのだろう。日常生活においても、わきまえたいことである。このあと、具体的な教えが続く。強調点や言い回しについては、個人的に、受け入れ難いこともあるが、通常キリスト教主義として語られる美徳が並べられていると思う。「私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。」(5)「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(10,11)ただ、これらが何を意味するかは、単純ではなく、これらのことばが独り歩きすること(これらの言葉を絶対的なものとしてそれから演繹すること)で、混乱が起きている現状についても、考えさせられる。基本原理は、引用句のレベルで、止めておきたい理由でもある。より具体的でないと、人の行動には結びつきにくいのだろうが。
Romans 13:1,2 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。
これまでにもこの言葉について考えてきたが、もう一回考えてみたい。パウロはユダヤ人でユダヤ教を信じてタルソで育ち、ローマ市民である。この段落の最後に「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7, 6節参照)とあり、税を納めることが背後にあることが分かる。おそらく、パウロも権力の様々な理不尽さを知っていたろう。しかし「権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです。」(6b)と言い切っている。その機能が神に仕える務めとしてあることを確信しているからか。そして、それが、ひとが神に仕えるように、そう簡単ではないことも知っていたのかもしれない。ここでも、ローマ帝国のような、異教の権力であっても、神に仕えていることを明言していることには、驚かされる。パウロは、いつからこのように考えるようになったのだろう。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8)は、次の段落の冒頭に位置しているが、つながっているのかもしれない。権力に従うことと、互いに愛し合うこと、それが、律法を全うする、すなわち、神の御心に生きることと言っているように思う。引き続き考えていきたい。
Romans 14:15 食べ物のために、きょうだいが心を痛めているなら、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません。キリストはそのきょうだいのために死んでくださったのです。
この最後のことばは単純だがとても魅力的な言葉である。他者にとってのキリスト、神様の恵み、赦し、愛と、自分にとってもそれを公平に受け入れることができない弱さがひとにはある。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)とこの章は始まるが、実は自分がこの「信仰の弱い人」であることがなかなか見えない。さらに、引用句では「キリスト」が何を望んでおられるか、そして「神の御心」に行き着くことのたいせつさを説いている。この章には、このことばに近い言葉がいくつもある。(1-4, 7-8, 17, 21, 参照15章1,2節)どの表現がいちばん、そのひとに響くかは別だが。「だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」(19)わたしはこのようなことばも心に響く。そして、このことに日々の営みに集中していきたい。これは神様が与えてくださる平安をもたらすのか、すなわち、神様が喜ばれるか、悲しまれるのか、そして、わたしも他者も、神様を喜ぶ生き方をすることができるようになるのかどうか。
Romans 15:7-9a だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。それは、先祖たちと交わした約束を揺るぎないものとするためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえに崇めるようになるためです。
パウロはイエスの死と復活以外はほとんど語らない。引用句の、最初の前半はどちらを意味しているかはわからないが、「割礼のある者に仕える者」となったことは、イエスの公生涯に光を当てているように思われる。ただ、福音書を通して見えてくるイエス像は、割礼のある者に仕えることを主としながら、それに制約されたり、留まったりする様子は見られない。ユダヤ人に仕えられたことは確かだろうが。パウロは、十字架の死と復活が起点となったと整理したいのかもしれない。イエスの生涯、その活動について、パウロがどう考えていたか、知りたい。
Romans 16:3-5a キリスト・イエスにあって私の協力者であるプリスカとアキラによろしく。命懸けで私を守ってくれたこの二人に、私だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家の教会にもよろしく。
この章は挨拶が続く。何人か特に、気になる人が登場する。最初にケンクレアイにある教会の奉仕者である女性のフェべが紹介されている。正確にはわからないが、この手紙は、コリントやケンクレアイあたりで書かれたものか。フェべに手紙が託されたかどうかは不明だが、ローマに向かっていくことが記されている。「主にあって選ばれたルフォスと、その母によろしく。彼女は私の母でもあります。」(13)も気になる。マルコ15章21節にはルフォスという名前が書かれ、その父のシモンが主の十字架を担ったとされているからである。同一人物なのか、そして、どのような関わりなのだろうか。引用句は、プリスカとアキラについて書かれているが、プリスカが女性である。そして「命懸けで私を守ってくれた」とある。どこでのどの事件のことが言われているのかわからないが、そのときのこの二人の行動がなければ、ローマの信徒への手紙も書かれなかったのかもしれないと思うと、たいへんなことだと思う。何箇所かで、この二人は登場するが、すばらしい支援者であったのだろう。

BRC2021(2)

Romans 1:11,12 あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです。というよりも、あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです。
このあとには「それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(15)ともあり、福音を告げ知らせることが、パウロの「果たすべき責任」(14)と書かれている。宛先は、ローマにいるキリスト者(6,7)と思われるので、引用句は、キリスト者同士の望みなのだろう。「霊の賜物を分かち与えて力づけたい」と述べたあとで「共に励まし合いたい」としているところも興味深い。そして、このあとに、福音について、詳細に語られる。
Romans 2:9-11 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。
一章の最後(1:28-32)に、かなり広い範囲のしかし(ユダヤ人の宗教に直接関係してはいない)一般的な「してはならないこと」(28)のリストを掲げた後の議論である。普遍性をもつものとして「神は人を分け隔てなさいません。」としているが、原理的に考えるのはおそらく問題が生じる。引用句に続く「律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、律法によって裁かれます。」(12)とはあるが、教えられたものと、教えられていないものを同じように考えるところにすでに無理があるように思われる。自然法的なものがある程度あるにしても、教えられなければ理解できない問題・課題、他者視点、公平性に則ったものは、なかなか、理解できず、わからないのだから。
Romans 3:23,24 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。
何度も聞いてきた箇所である。そうかもしれないが、やはり、ここに神様のみこころがあると考えるのは、啓示として受け入れるしかないように思う。それも、イエスが教えられていたことがここに集約されているとは、少なくとも福音書を読んでいる限りにおいては考えられない。ただ、パウロを通して、そして、キリスト者もヨハネの働きなどをとおして、そのように理解していったということであれば、それも、人間の理解の方法であるようにも思う。「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(28)この表現からも、そのような印象をうける。心配なのは、この考え方でよいかどうかではなく、これによって、イエスが伝えたことの大切な部分が失われているのではないかということである。ひとつの考え方が、絶対的な教義となり、それを信じるかどうかをもって、キリスト者とするかどうかには、疑問を感じる。すくなくとも、弟子たちはそうではなかったろうから。
Romans 4:21,22 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。
「人が義とされるのは、信仰による」(3:28)の説明として、アブラハムの例を取り上げ、義と認められたのは、割礼の前であったことも確認して、信仰によるとしている。たしかに、神を信じたことで関係が築かれことは確かなのだろうが、信仰と切り取ってしまうと、どのような信仰か、なにを信じるのかも置き去りにしてしまっている。これも、やはり、一部分のことのように思われる。重要なことが、原則になっていく。これも、古典的な世界観なのかもしれない。だからといって、わたしが、答えを持っているわけではないので、難しいが。「律法の行いによるのではない」ことの論証としては、これでよいように思うが「信仰による」とするには、もっと考察が必要である。わたしは、信仰によって神様とつながることが、神を愛し、神が愛される隣人を愛し、互いに愛し合う関係を築く基盤、または、最初のステップだと表現するわけだが。これも、ひとつの説明に過ぎないのだろう。
Romans 5:1,2 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
この章の記述は論理的ギャップも多く、理解に苦しむ。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(12)ここに普遍性をもたせるのは、聖書の全体を受け入れてからではないと難しい。そして、旧約聖書をすべて受け入れたとしても、他の理解もあるように思われる。引用句は、信仰義認のよる神との間の平和から、神の栄光にあずかる希望へと結びつけている。信仰という名詞ではなく、ヨハネのように信じる、または主との交わり、それも、イエスにならうものとしてのいのちのいとなみによるダイナミズムが必要なのではないだろうか。批判的にばかりならず、みこころを求めていきたい。
Romans 6:12 ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
「あってはならない」のだろうが、現実は、教会のひとびとを見ていても、教会の歴史を見ていても「あってはならないことが存在する」ことを否定できない。やはり、子となる権能(ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases)が授けられたと考えたほうがよいだろう。解放されたのかもしれない。しかし、その後の責任をどう考えたら良いのか。それは、主との交わりのもとで生きながら学んでいくことなのだろう。パウロ書簡よりも、あとに書かれたとされるヨハネ文書、キリスト教会は当時もひとつのまとまりではなかったと考えられるが、そうであっても、理解は進んでいるのではないかと思う。
Romans 7:15,16 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
この段落は「私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。」(14)と始まっている。印象的なのは、引用句の後半、「望まないことをしているとすれば、律法をよいものとして認めている。」構造は複雑で、律法は霊的なものと同時に、実際には、肉にあるものを支配する(1)ものであるということなのだろう。おそらく、肉の下にいるものにとっては、律法は、ある価値があると言っているのだろう。まったく、霊的な律法のもとに生きているわけではない、存在については、しっかり理解しておくべきなのだろう。
Romans 8:3,4 律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。
興味深い表現である。肉により弱くなっていたためになしえなかったことをしてくださった。霊に従って生きることは、どのようになされるのか。やはり、権能があたえられたということのように思う。ヨハネ文書の理解の上で、ローマの信徒への手紙を丁寧に読むことは、わたしにとって、必須であるように思う。
Romans 9:18 このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。
これはとてもむずかしい問題に見える。神の主権を絶対のものとすれば、論理的になにも問題はない。しかし、イエスによって示された父なる神は、愛の神、神を信じ、互いに愛し合うことを望んでおられる神である。信じるという意思を示さず、応答しないものと、頑なにされたものは、似ているが、主体がことなる。同時に、意思がすべてを決定するのかという疑問も残る。それは、個人の意思と、神の意思。そして、互いに愛し合うことを望んでいるときに、相手の意思はどうなるのか。やはり、整合性が十分にとれるとは言えないように思う。いまの、わたしには、わからないとしか言えない。そして、憐れまれているかどうかも、ひとがわかるわけではないのかもしれない。難しい。
Romans 10:9,10 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。
神の憐れみと人の応答の問題の答えは、ここにあると考えてよいのだろうか。キリスト教会という地上の組織にとっては意味があると思われるが、このように明確に、わたしは、言えない。それは、イエスがどう考えていたか、明らかではないからである。ある意味で、このような形式を最終的な原理とするのかという問いである。結婚の誓約などと同じとして、神の前の約束が地上においても、それぞれの人にとっても価値があるとも考えられる。もう少し、結論を出さずに、考えていきたい。神学者の議論も学ぶときなのかもしれない。
Romans 11:26,27 こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。/「シオンから救う者が来て/ヤコブから不敬虔を遠ざける。これが、彼らの罪を取り除くときに/彼らと結ぶ私の契約である。」
引用はイザヤ27章7節のようだがそこには「それゆえ、ヤコブの過ちがこのようにして覆われ/その罪が取り除かれるなら/結果はすべてこのようになる。/すなわち、祭壇のすべての石を/粉々に砕かれた石灰のようにするなら/アシェラの像や香の祭壇は再び立つことはない。」とあり、共通の言葉はあるが、どうも、引用は適切であるとは思えない。聖書以外の文書なのだろうか。意図にあったものが、明確に示されている聖書の箇所はあるのだろうか。「こうして全イスラエルが救われることになる」という、ことを主張しているので、慎重に決定すべきである。時間をかけてしらべないとわからないだろうが。
Romans 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
短絡かもしれないが、正直、ほとんど明確には理解し得ないなかで、このことばをわたしは追いかけているように思う。この前には「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」(1)とあるが、正直、この部分を素直には受け入れられなくなっている。敬虔さが失われたのか。しかし、よくわからないにしても、神様、真理の源によりすがり、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるよう」なることを望みながら、造り変えていただく、人間主体の言葉を使うと、学びながら変わっていくことができればと願っている。
Romans 13:1,2 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。
「上に立つ権力」は ἐξουσίαις ὑπερεχούσαις で、ここでも、exousia (power of choice, liberty of doing as one pleases) 選択する力が使われている。力、権能、権力。hyperechō (to have or hold over one) が上に立つであるが、上に持っている。12章から、神の御心に生きる生活について書かれているが、その一部として、引用句が言われている。この章には「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8)も登場するが、イエスに倣うものは、強調されていない。律法で教えられているとの理解が強いのだろうか。
Romans 14:3,4 食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。
「神がそのひとを受け入れてくださっている」ことが書かれている。これが鍵なのだろうが「信仰の弱い人」(1)を信じない人と考え、差別することがあるように、思う。「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(7,8)この章では「きょうだい」が対象であり、それ以外はやはり含まれていないようである。すぐ結論をださずに、ゆっくり読んでいこう。
Romans 15:1,2 私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。
「私たち」とある。つまり、ローマの信徒への手紙の読者は「強い者」である。「互いを築き上げるため」と「善を行い、隣人を喜ばせる」とあり、これらが関係していることが書かれていることも興味深い。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(7)も、愛の本質が表現されていると思う。パウロが特別のミッションと考えていたことがあるのだろう。その通時制はないかもしれないが、その働きを通して、互いを築き上げることになればと願う。パウロは、その後のキリスト教会の歩みをどう見ているだろうか。
Romans 16:17,18 きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えている。そして、甘い言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心をだましているのです。
この章の記述は少し気になる。あまりに、多くの名前が書かれているからである。それは、ローマの信徒への手紙の書き出しや、内容とあまり整合性がないように思う。追加があったのかもしれないとさえ思う。引用句も、現代の教会に語りかけられているように感じる。この、16章が完結した時点では、「様々な分裂や、つまづきを引き起こす者たち」の存在があったのだろう。いろいろなことを考えさせられる。

BRC2019(1)

Rm 1:10,11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
これこそが動機だというのは、励まされる。正しさによって、説得することではない。むろん、パウロのこれまでのあゆみから、それこそが、パウロができる貢献だったろうが。ローマの信徒への手紙がいつ頃書かれたかは、明確ではないが、あるていど、遅い時期であったろう。通読では、困難ではあるが、丁寧に、いくつかのことを学ぶことができればと願う。
Rm 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
ここで「律法を実行する者」は何を意味しているのだろうか。この章は「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(1)とあるが、内容は明確とは言えない。パウロの論旨は「律法を持っているというだけではだめだよ」ということだろうが。ヨハネは「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(1ヨハネ3章23節)とこれだけでよいのと思うぐらい凝縮しているが、パウロはそうではない。異邦人の中で宣教していると、眉をひそめたくなるような行為がたくさんあったのかもしれない。しかし、それは、裁くことでもある。やはり、律法がなにかを明確にする必要があるように思う。それは、現代の教会においても、おそらくそうだろう。ヨハネのことばも、それが文字としての律法になってしまうと、問題を生じるのだろう。ゆっくり考えたい。
Rm 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
これが神の義であると、パウロは示している。福音書で、語られているイエスは、このことについて、特に、共観福音書では、非常に限定的にしか語っていないこと、ヨハネでは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 」(ヨハネ15章13節)と、愛こそが中心にあることを示しており、表現はかなり異なる。説得的ではあるが、この解釈のかなりの部分を、パウロへの直接啓示に根拠をおかずを得ず、問題も残るように思う。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(31)とあるが、律法の確立が、何を意味するか、明確とは言えない。
Rm 4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
この章には、多くのことが語られている。しかし、それでも、「彼(アブラハム)の信仰に従うもの」として、異邦人も加えることで、あいまいさも取り込むことになっている。アブラハムの信仰を別に、規定しなければいけないからである。それは、それほど、重要ではないとするのも一つの見方である。ここでは、「律法に頼る者(律法に立つもの(口語))」以外について書かれているのだから。信仰については「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(21)とあるが、信頼、神にこそ希望をおくという表現のほうが近いかもしれない。
Rm 5:5,6 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
希望の根拠が、まず「神の愛」であるといい、その根拠だろうか、もとにあるのは、キリストが死んでくださったこととしている。イエスではなくキリストと表現している。パウロにはひととしてのイエスの地上での生活は頭にないのだろう。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(18)は、啓示以外の根拠は見いだせない。パウロはこのように納得したのだろうが、それを動かすことのできない(これに反することは異端とする)教義としてしまうことには、問題をも感じる。イエスが、死に至るまで、わたしたちを愛してくださったという証言は、確かなものとして伝わってくるが。
Rom 6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
厳密にではないのかもしれない。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 」(1)という問に、わたしは、別の説明の仕方をするかもしれない。厳密性は、問うてはいけないのかもしれない。神様との関係が新しくされたものとして、御心にいきること、神のこころを心とすることこそが、本質なのだから。1節の疑問は、ひとつの議論のねたに過ぎないのだから。
Rm 7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
パウロは「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(15b)とのべ、その理解として、心と肉を分離する、二元論に向かっている。ギリシャ哲学的背景があるのだろうか。危険である。ひとは、トータルな、全人的なものであるはずだからである。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、 」(22)とあるが、人間とは元来複雑なものである。人のことを理解できないだけでなく、自分のことも、理解は困難である。
Rm 8:22,23 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。  被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
この章は霊肉二元論の背景があるように、思われるが、完全に分離しているわけでも無いようである。この節では、被造物と霊の初穂という表現が使われている。パウロの宣べていることを正確に理解する努力はたいせつなことであっても、それを絶対化することの危険性を感じる。ひとつの説明なのだから。
Rm 9:19-21  ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
古典的な問題である。神が全知全能なら、ひとの責任は何なのか。神の責任を問い、全能の神が、人に責任をもとめる理不尽さを訴えることができないことは、ある程度は、理解できる。ここでは、焼き物師の例を挙げている。「貴いことに用いる器」「貴くないことに用いる器」は、表現としても問題があるように思う。さらに、焼き物師は、ひとつひとつを端正をこめて作るという方が、適切なのでは無いだろうか。
Rm 10:17,18 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
それほど、二分してしまうものであるなら、信仰による義は、キリスト以前から、知らされていなければいけないのではないかとの問いへの応答である。しかし、キリストの言葉を聞くことにより、と福音の確信を語ると、やはり、最初の問いの答えにはならない。イエス以前は、どうなるのだろうか。直前の「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(16)からすると、神に信頼する道はつねに開かれていたともとれる。すると、「キリストの言葉を聞くことによって始まる」はどう解釈すれば良いのか。福音書にある、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3章35節)のほうが、ずっとすっきりしているように思われる。
Rm 11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
ユダヤ人がすべてでは無いが、残されて者がいること、異邦人の救いも、ユダヤ人のねたみをおこさせることとなったこと、最終的には、イスラエルが救われるにいたることが書かれ、最後に、この節で結ばれている。ひとつの説明・理屈ではあっても、人々に、受け入れられたのだろうか。最後の節に対しては、おそらく、多くのひとがアーメンと答えたと思われるが。ダライ・ラマは次のように言っているらしい。「キリスト教の創造や神の概念は、仏教とは違う。その違う面を理屈の上でなんとか一緒にしようという努力がすべて無駄であるとは言えないが、それよりも、違いにこだわらずに棚上げして、合致するところを尊重して世界の苦しんでいる人々のために前進していくべきだ。」わたしは、いま、このダライ・ラマに同意する立ち位置にいるように思う。すでに、キリスト教ではないと言われれば、そうかもしれない。
Rm 12:15,16 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
「自分を過大に評価してはなりません。」(3b)とはじまっている。おそらく、そうではない状況を想定しているのだろう。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(5)としているが、それを、実現させる鍵が問題である。それを、この引用箇所が示しているように、思う。簡単ではないが、原則と、どのようにすべきかと二段階で示している。表現が現代的に適切かどうかは別として、考えさせられることが多い。
Rm 13:8-10 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
学ぶことが多い。これらのことばで、ヨハネの福音書とつながっているように思われる。他の、パウロの、ここまでの議論に圧倒されない方がよいのだろう。論理的に考えられることばで書かれているために、それを論理的に理解することにはまってしまうのかもしれない。いつか、丁寧に、学んでみたい。
Rm 14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
このようにして、ひとり一人が、主のしもべであるのだから、誰も裁いてはいけないと続く。ひとり一人、達し得たところに従って、生きている。しかし、勝手に、自分のために生きているのではなく、主のために生きているのであれば、そのような個人を裁くことは、主の僕を裁くことと、続いている。すこし、理解してきたように思う。ただ、危険性も感じる。自分勝手か、自分のためかは、客観的にはわからない。独立性をつよくしすぎている心配も感じる。
Rm 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
ヨハネ13章34節を思い出させる。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ここでは、「愛した」が、「受け入れてくださった」と言い換えられている。「愛した」を Welcome 歓迎してくださったととれば、ほとんど同じ意味である。おそらく異なるとすると、ヨハネは「新しい掟」として、注目を促し、パウロは、一連の関係するテーマの中で述べていることだけだろう。もう少し、丁寧に理解していきたい。いつか、ローマの信徒への手紙も聖書の学びとして取り組んでみたい。
Rm 16:17,18 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
具体的に、どのようなことが背景にあるかわからないが「不和やつまずきをもたらす人々」は、少し理解できる気がする。そのようなひとたちを「自分の腹に仕えている」と表現している。わたしも、不和や、つまずきをもたらすこともあるように、思われる。自分を省み、自分の腹に仕えているのかどうか、うまい言葉や、へつらいの言葉を使って、ひとを欺いていないかを、自らに問いたい。

BRC2019(2)

Romans 1:26,27 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
LGBTQ に対して批判的なひとたちが、引用すると思われる箇所である。パウロの限界ととることもできるが、文脈をまずは理解する。「それで」とあり、前とつながっていることがわかる。直前は「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(24,25)とあり、神を、神以外のものと取り替えたこと、すなわち、偶像礼拝、そして、その背景は欲望に身を、任せたことだとある。パウロが指摘しているのはそのことであり、現代では、様々な表現ができるだろう。しかし、その上で、偶像礼拝の問題点と、神を礼拝することがわからなければ、理解できないことでもある。個人的には、背景に、ひと、および自分の存在と活動の理解の全体性に欠けた軽薄さがあると思うが、それが全てであるかどうか、わたしにもわからない。神について考えるのが先なのか、神理解は、これらを考えることを通して得られるのかも、不明である。神について知りうることは明らか(19,20)とパウロは主張しているが、すでにここが人々には響かないだろう。また、当時、適切にそれが知りうる状態だったかもわからない。同時に、現代において、自然の神秘などから、神の存在と働きを演繹する Intelligence Theory も問題を抱えているようにも思う。実際の問題に触れずに、背景に戻っていってしまったが、LGBTQ の問題だけではなく、課題を適切に理解することは、ほんとうに難しい。
Romans 2:7,8 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
律法を守ることを、異邦人にも適応することの中で、パウロが定義する律法の本質が表現されているようである。「栄光と誉れと不滅のもの」と表現されているものの内容はあきらかではないが、自己完結型の人間や社会や自然を含めた環境理解とは異なるものが表現されているとは言える。しかし、善はどうなのだろうか、共通理解を持てるのだろうか。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節)のほうが多少わかりやすいが「名を信じる」部分を丁寧に理解する必要がある。イエス・キリストのことを知らないひとを排除し、普遍化を妨げる要素にもなりうる。神にとっての、公平性は何なのだろうか。おそらく、簡単に普遍化せず、一人ひとりに応答を求めているのだとは思うが。やはり難しい。
Romans 3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
裁きと関連して「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」(5)について述べている。3章は「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」(1)からスタートするが、納得できるものではなく、明確とは言えない。しかし、信仰義認へと進み「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。」(29)を背景としている以上、どうしても考える必要がある問いである。ユダヤ人はキリスト者と変えても同じ問が成立するだろう。裁きによって、神の真実が明らかにされるとするのは、人間的な見方に思われる。時代性(一部のひとに真実が語られる、時の流れ)と、すべての人の救いを説く、この両面に、整合性のある説明を加えたからといって、背景にある、問題が解決されるとは思われない。おそらく、問の答えが納得のできるかたちで示されなければ、神を信じられない、受け入れられないというひとの態度に問題があるのだろう。未知のものに囲まれているからこそ、みえないものがあるからこそ、信仰の価値があるのだから。
Romans 4:20,21 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
アブラハムの信仰に関して記した箇所である。信仰とは何なのだろうとやはり考える。ここでは、神の約束を信じ続けたことのようである。神の約束を受け取ったのが、アブラハムだとすると、アブラハムは、それが神からのものだと確信した部分をも含むことになる。聖書を通した約束であれ、教義として絶対化しないかぎりにおいては、同様である。わたしには、もっと素朴な、イエス様が、その生き方として示してくださり、最後に新しい戒めとして伝えた、仕えるものとなり「互いに愛し合いなさい」に希望を置きたい。いまは、それが、わたしの信仰告白の基盤で、信仰告白自体は、そのことばを日々生きることだろう。それを、目指して、生きていきたい。完全にできなくても、求め続けて。
Romans 5:12,13 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
パウロ(を通して語られる)の論理に抵抗があるが、ここでは、ここで語られている、原罪と、罪の問題を考えてみたい。律法の問題を適切に理解し説明する必要は高かったろうが、律法が与えられていることがユダヤ人の優れている点(3章1節)としながら本質は律法を守るかどうかで、律法を知らなくてもそれがこころに記され、それを行えば同じたと語る。(3章14,15節)ここで、律法がなければ罪は罪と認められないとも言っている。死の問題は復活を語るときにはどうしても語らなければならないと考えたのだろうが、死の原因を、アダムの罪に求め(旧約聖書からは、全く否定することはできないだろうが)それがすべての人の死の理由だとする。原罪の問題である。それを納得するのは、かなり難しいだろう。科学的にも立証は困難であるだけでなく、個人として、そう言われたから、原罪を抱えていると理解することはできるのだろうか。それを恵みと結びつけると、恵みはもともと理解しにくい概念であるが、ますます、抽象化されてしまう。論理の限界を感じる。わからないと言うことのたいせつさをパウロの言説を理解しようとすると強く感じる。真理の探究者ではなく(パウロはそのような面を示しているにも関わらず)真理をもっているものの宣言になってしまっている。そしてそれは、パウロだけではなく、教会も教義を根拠として結びついている以上、逃れられない。わたしがここに書いたような議論が聖書を文字通り絶対化する反動を生み出すのかもしれない。やはり難しい。
Romans 6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
パウロにとっては、イエスの復活と、それに結びついて我々も復活することが中心にあり、永遠の命もそのときに与えられるものであるようだ。イエスとともに歩んだヨハネにとっては、そうではない。この世でも、永遠の命を生きることを求めることができるものなのだろう。それを示したのがイエス。ここにも、Objective Driven か、Value Driven か、目標の達成、実をむすぶことがたいせつなのか、目標をめざして、どう生きるかこそが、いのちを生きることなのかの重点の置き方の違いが現れている。おそらく、前者は論理による理論化、正しさに親和性があり、後者は、日々の生活の中で神の御心を生きようとすることと親和性が高いように思う。苦しむ人が、正しさの宣言によって、平安を与えられることはあるだろう。しかし、生き生きと生きることは、できないように思われる。これも、わたしの中にある、正しを示すための論理なのだろうか。
Romans 7:19,20 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
正しさだけでは、解決しないことがあると告白しているようにも見える。自分の中に矛盾があることから、その部分を分離してしまい、罪と呼ぶ、ある二元論に立つ一つの限界であもる。論理において、正しさの議論において、二元論から、離れることは、困難を生じる。しかし、現実が、不透明・不確定・不分離な世界であることは、単に、見分けようとするわたしたちに限界があるからではなく、それこそが実体で、二元論的論理の、限界でもあることを指摘しているように思われる。しかし、思考を整理するためには、有効な面もある。罪の起源をこのように定めることに、まずは、限界も提示しておきながら、意思と反することをなぜするのかについて考えてみたい。個人的には、邪悪な考えも、やはり自分の意思の一部であり、聖なると思えることも、自分の意思であると同時に、単純に神の御心とはいえないことも認めざるをえないと思うが。
Romans 8:1,2 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
恵みによる平安を感じるとともに、危険性も感じる。危険性は、むろん、これが、実際に「キリスト・イエスに結ばれている」ことではなく、信仰告白をし、聖餐にあずかるというようなことと取り替えられたときの問題性である。イエス様のことばと生き方を通して示された、神様のみこころを生きようとする営みに、付け加えるのは、問題を感じる。「キリスト・イエスに結ばれている」確信はいつまでも、得られないかもしれないが、それこそがたいせつな基盤であるように、思われる。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」(24)とあるように、確信してしまえば、それは、もう信仰ではないのだから。イエスに従ってともに生きていきたい。
Romans 9:31,32 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」それが、異邦人に与えられ、イスラエル人が「神から見捨てられたもの」(3)でもあるかのように(3節はパウロ自身がそうなってもよいと語っている箇所だが)なっていることにたいし、パウロが「深い悲しみと絶え間ない痛み」(2)をもって語っている。その理由は、根本にあるのは「約束」(8)であること、約束は神の「自由な選び」(12)によること、そして神の本質は「憐れみ」(24)であることが語られ、引用箇所につながっているようだ。「(パウロは)真実を語り、良心も聖霊によって証ししている」(1)としているが、自分に与えられている知力を使って、考え、思考実験を行っている。わたしには、やはり人間の思考の枠を出ることはできないと思うが、学ぶことは多いだろう。引用箇所では、人間の性質からか、義を求めながら、それは、明確にはわからないので、律法の中で示されていると確信する、方法論を絶対化したということだろうか。求めて、(目標に)達し得ないときに、どうするか、ということのように思われる。一生をかけて求め続けることの難しさについて思う。
Romans 10:9-11 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
今まで、何回も読み、引用もしてきた箇所である。「信じ」「口で公に言い表す」ことが書かれているが、ことばの使い方から「行うこと」は登場しない。混乱を避けるためであり、基本は、「信じたことを他のひとと共有して生きる」ことを意味しているととっても良いのかもしれない。言うだけで、実行しなければ、明らかに「偽り者」であり、そのひと自身が崩壊している。行うこと、生きることは含めず、このように表現しているのかもしれない。あまりに表現が異なるので、二者択一を迫られるように感じるが「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」(ヨハネ一3章23節)と食い違うものではないのかもしれない。この章の最初には、問題点を「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」(3)としている。自分の義(正しいと信じていること)を、(求めている)神の義と取り替えないことだろうか。
Romans 11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
「ねたみ」によって、ユダヤ人が悔い改めに至ることが期待されているようだが、それは、おそらくとてもむずかしいだろう。特に、この時代のユダヤ人にとっては、神の恵みの根本が覆されたと考えただろうから。反感のほうが強かったのは、頷ける。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(32)このあとでパウロは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(33)と続けているにも関わらず、神の道を解説している。「すべての人を憐れむ」ことは、普遍性からも、そうであるように思うが、実際に、そのように進むことは、非常に困難であるとも思う。
Romans 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
何度も考えてきたことばだが、心を新たにして自分を変えていただく営み自体に目を向ければ、変わることが底流にあることもわかる。一回の変化で、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」わきまえることなどできないのだから。このあとに、その生活が書かれている。奉仕や善行に励むことだけでなく「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(10)「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(14)とあり次には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(15)と、互いに愛することがどういうことなのかにも言及されている。むろん、ここだけで答えが得られるわけではないだろうが。
Romans 13:1,2 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
議論のある箇所でわたしも何回も考えてきたが、現時点どのように思うかを書いておく。イエスはほとんどこのことに関して語っていないように思う。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイ22章21節b)「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 (ヨハネ18章36節、「わたしの国」についてはルカ22章30節参照)のように、地上の権威と神の権威を分けているように思われる。そして、神の支配・国を語る。このことからも、地上の権威を否定してはいない。語らないだけである。その意味で語ることは困難である。しかし、パウロがこのパラグラフで述べているように、地上に生きる以上、権威が適切に行使されるように、協力することがたいせつであろう。同じ舟に乗っていることも、これに引き続いて語られている「互いに愛し合う」(8-10)こととも密接に関係しているのだから。積極的に関わることについても考えていきたい。
Romans 14:1-3 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
パウロの時代にはこの問題はとても大きかったろう。律法をどのように考えるかではなく、日々の生活の中で、生きていくかと関係しているからである。正しさではなく、隣人を愛すること「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(7,8)さらに「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(15)にも特徴的に現れている。優先順位のものだろうか、おそらく、もう少し適切に表現されるべきだろう。
Romans 15:30-32 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。
なぜ、パウロはエルサレムに向かい、さらに皇帝に上訴してローマに向かったことが不明だった。ここにも、ローマに向かうことが書かれているが、今回気になったのは「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」という言葉である。エルサレムに帰らず、ローマを目指すことも可能だったろう。前へ、前へと。しかし、パウロは、エルサレムのキリスト者、聖なる者たち(おそらくその中心にはイエスの弟子として行動した人たちがいただろう)のために、献金を集め、それを届けることを重要なことと考えていた。エルサレム使徒会議(使徒15章)で原理的なことは合意があっても、イエスの地上での生き方、教えに魅了されそれを根拠に、イエスをメシアと固く信じている人と、パウロが異邦人中心に語っている、キリストとの乖離が、キリスト者の間で不協和音を奏でる可能性は十分にあり、多少のことはすでに生じていたと思われる。正しさではなく、互いに受け入れるため、分裂ではなく、ひとつであるために、エルサレムに(愛の)奉仕としてエルサレムに向かったのではないだろうか。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 」(7)
Romans 16:7 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。
16章のリストは、「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェべ」(1)から始まるが、はっきりと女性とわかる名前も多い。プリスカ(3)、マリア(6)、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」(13)このルフォスは、マルコ15章21節にある十字架をイエスのかわりに背負ったシモンの子と考えられている。ネレウスの姉妹(15)、家族ということばも何度か現れる。引用箇所は、パウロより前にキリストを信じるようになり、かつ、パウロの同胞、一緒に捕らわれの身となったとの修飾がされているアンドロニコとユニアスがローマにいる。ローマに多くのキリスト者がいるということは、パウロもすぐローマに向かおうと思えば、できたこともわかる。最後には「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。」(22)も登場する。この手紙は、パウロの単独の手紙とされているが、筆記したのは、別人であり、そのことばも書かれていることも興味深い。

BRC2017(1)

Rm 1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― 
「使徒」は遣わされた者(apostolos)である。遣わしたかたがおられ、それは、キリスト・イエスである。それが、この手紙の権威の根拠になっている。しかしそう考えると二つの事について疑問がわき、心配になる。一つは、パウロが使徒であることの根拠。聖書には、回心と召命の時にアナニアが登場するが、アナニアが証人であるとの記述はない。パウロの原体験である。もうひとつは、その後の、様々な召命と、パウロのものは異なるのかということである。他の人も権威を与えられるのか、使徒として、という問いである。おそらく、明確な答えはないだろう。権威から考えるのは不毛かもしれない。
Rm 2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 
前の節で「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」とあり後の節では「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」としている。パウロにとっては、永遠の命は最終的に与えられる者であり、おそらく「復活」にあずかることとつながっているのだろう。その意味で、裁きの結果である。ヨハネはしかし違っている。共観福音書で語られるイエスもやはり少し違うように思われる。パウロは、キリスト論として捕らえるからだろう。もう少し丁寧に見ていきたいが。
Rm 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」(1,2節)と対応している。矛盾しているとも言える。いずれにしても、ひとはみな、律法のもとでは罪人であることが確認され、信仰による義へと進む。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(22節)しかし、罪人とするところに、すでに多様な価値観のもとでは、同意がえられないだろう。複雑な世界をどう生きるかがよい重要になっているように思われる。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」「そこには何の差別もありません。」といった普遍的視点には、惹かれる。
Rm 4:14,15 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 
後半から考えたい。律法、それは、神が望む正しさだろうか。しかし、詳細な部分に言及すれば、状況によって変化しうるし、それをすべてにおいて与えられていると考えるのも、傲慢である。神の啓示としての聖書をどう捕らえるかにもよるが、神の正しさが、モーセ五書または聖書に本質的な部分において、すべて完全な形で含まれているということをスタート地点に置くこと自体が、律法主義なのではないだろうか。信仰をもって生きてきた人たちが神の御心として書き記したもの、その意味で、聖書につながると言い切るのは、多くの問題を生じさせることも理解できる。しかし、信仰か、律法かの二者択一を迫る、パウロの論理の危うさは、感じる。たんなる議論に感じてしまう。続けて考えたい。
Rm 5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 
「原罪」と「死」の関係を、ここまで明確に捕らえて善いものかは、わからない。そう言い切り、恵みと罪の比較をする。これは、権威を認めなければ、成立しない飛躍した論理である。自分の聖書の読み方も不安になる。いつか整理したいが、哲学者になることへの怖れもある。避けたいとも願っている。自分の力に限界があることだけは、知っているから。
Rm 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 
この死と生に関する希望は、現代人には救いとしては受け入れられないのではないだろうか。死ととなりあわせの現実のなか、いつ死ぬか分からないと思って生きていた時代と、いつまでも生かされ、それも、年をとり自由がきかなくなってからながく生かされることに、つらさを感じている現代人、長寿社会との違いだろうか。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(22節)と述べられているが、罪と聖についても、明確には言えない、相対的な世界のなかで、行き着くところとしての永遠の命を求める希望は強くないのではないだろうか。福音書のように、特にヨハネのように、今をどう生きるかに中心はあるように思われる。イエスのメッセージに。
Rm 7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 
最初は、掟により罪の意識が芽生えたということかと考えたがおそらく、そうではないだろう。ここで言っているのは、意識的に神に反抗する罪ではないだろうか。掟が神の御心として示されることにより、それにあらがう意思が生まれる。それは、だだっ子のような反抗もあるだろう。どこまでなら、反抗しても他のひととあまり違いなく生きられるのかというようなものもあるかもしれない。それがむさぼりだろうか。興味深いが、このような言葉で、世を裁いてしまうこと自体が心配になる。もう少し考えたい。
Rm 8:5,6 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 
肉に従って歩むか、霊に従って歩むか、この二元的な考え方が、パウロにはある。それが、光にこようともせず、すでに裁かれている状態と、神の内にいきる、いのちに移っているとヨハネが表現していることに対応しているのだろうか。それぞれ、その状態から落ちてしまうことも、想像できる。だからこそヨハネは留まっていないさい。menoo を使うのだろう。そこで保証をもとめる。なにか、それは、人の世界の話のように思われる。いずれにしても、ローマ書もじっくり味わってみたい。
Rm 9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 
神の選びに関する箇所である。「自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められる」(11,12節の一部)まず「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』」(15節)(出エジプト記33章19節からの引用)をあげ、その後の解説が、引用箇所である。人はやはり因果応報に縛られる。神はそうではない。とはいえ、やはりひとは何かを訴えたくはなるだろう。
Rm 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 
このあとには13節に「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」とある。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7章21節)も思い出す。パウロはこれを知らなかったのだろうか。公同性を考えると、現在のキリスト教会の基盤はこのことばの上にあるとも言える。そして、復活信仰が、パウロの信仰の中核であったことも確かである。福音書のメッセージはかなり違うようにも思われる。
Rm 11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
あまりにも人間的な表現である。だからよいとすることも考えられる。しかしそのような理解の仕方はおそらく殆どないだろう。これに当てはまる例を引いて、たしかにその通りである、と神を讃美することはあるだろうが。consistency に欠ける部分をどう考えたら善いのだろうか。普遍性だけを追求してよいのだろうか。正直わたしにも分からない。
Rm 12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 
9節から具体的なしかし恵みに満ちたことばが続く。これらは、1節の「礼拝」、2節の「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことの具体的な教えなのだろう。特に、この14節は、イエスのことば「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)を思い出す。すこし気になるのは、パウロはイエスのこの世の活動を語らない。イエスの言葉の引用も直接引用としては殆どしない。使徒20章35節をすぐ思い出すが、これも本人ではなく、ルカの記述である。もう一つは「迫害する者のために祈りなさい」ということは、当時のラビたちも言っていたことなのかどうかである。これは調べてみないとわからない。もし、イエス独特な言葉であれば、イエスの言葉と言わなくても、伝わったのかもしれない。
Rm 13:7,8 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 
この章は「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(1節)から始まっている。12章3節の「自分を過大に評価してはなりません。」とともに「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。」(箴言12章7節)も思い出す。つまり自由でいること、自由をもって神に仕えることのために、権威に従うことも、義務を果たすことも、借りをつくらないことも言っているように思われる。すこし技術的な感じもうけるが。確かに賢さも必要である。その上で、得られた自由をもってどう生きるか、生きられるのかがやはり本質であろう。
Rm 14:14,15 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 
「イエス」のことばを通して学んだことが、パウロにもあったことを示している。パウロがイエスに出会う一つのきっかけであったかもしれない。しかし、すぐ「キリスト」に戻っている。パウロの信仰、宣教は、このキリストにすべてがかかっている。イエス、主イエス、キリスト・イエス、イエス・キリストのパウロの用法もいずれ調べてみたい。ローマの信徒への手紙では、主イエスで、主イエス・キリストではないのは、この場所以外に二箇所「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(4章24節)と「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」(16章20節)だけである。
Rm 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
受け入れるは proslambanoo(to take to, take in addition, to take to one's self, to receive, i.e. grant one access to one's heart, to take into friendship and intercourse)が使われている。マタイ16:22, マルコ8:32 ではペトロがイエスの受難告知に対していさめるところで使われている。使徒言行録では、28:2 でマルタの島の人たちの歓迎に使われている。ローマではこの場所以外は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(14:1),「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(14:3)である。パウロ書簡では、あとは「わたしの心(splagchnon)であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。」(フィレモン1:12)と同じくフィレモン1:17 だけである。
Rm 16:25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。 
個人的には、危険に見える。「わたしの福音」とし、それが「世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するもの」だとされている点である。「わたしの福音」はここ以外にもう一箇所「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2章16節)にあるだけで、聖書全体をとおして他にない。「啓示」という以上、権威付けが必要である。それが神から来たという。パウロが主イエスに派遣された使徒だと認めたとしても、それはあくまでも、遣わしたものから出ていることとそれを示すことが必要なのではないだろうか。ユダヤ人との議論と、異邦人宣教におけるパウロの孤軍奮闘は理解できるが、心配になる。

BRC2017(2)

Rm 1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
「まかせられ」をひとつの裁きとして受け入れてきたが、本当にそうなのだろうか。神様は、そのような方なのだろうか。たしかに、何にでも介入される方ではない。しかし、ここで記述されていることにおいても、共におられ、傷つき、苦しんでおられるのではないだろうか。共におられる神だから。
Rm 2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
基本が勧善懲悪であること、永遠の命は将来的に与えられるものであることが書かれているのだろう。いずれも、ヨハネの福音書の記述とはずれている。それは、神の御心が少しずつ、それぞれに知らされていると理解して良いだろうか。いまは、鏡に映して見るようにおぼろげに見ているのだから。
Rm 3:1,2 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
9節ではユダヤ人の優れた点は全くないと否定している。優れたがどのような意味を持っているのか調べないと分からないが、ユダヤ人に神の言葉がゆだねられたことは、とても大きな意味を持っていることは確かである。長い年月をかけて、神の御心を求め、それに応答しようとし、失敗を続けたこと、そのなかで、神は忠実に民を導こうとされたことが歴史のなかで記されているからである。確かに、優れていたから、選ばれたわけではない。神の言葉をゆだねられたことは、やはり大きな恵みである。
Rm 4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
「律法に頼る」は律法をそのとおりに事項するかどうかが神の約束を受け継ぐかどうかの鍵であることを意味しているのだろう。しかし、神の約束を信じることは、信仰として残るのではないだろうか。ここで言わんとしていることは、日常的な活動のなかで、神を信頼することとして良いだろうか。それならば、たしかに、このように言えるかもしれない。基準が律法によって決まるのであれば、すでに与えられた者であり、求め続けることは、かなりの制限をうける。神に信頼することも減るだろう。ここも、絶対的なものとは、とらない方が良いのかもしれない。
Rm 5:8,9 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
違和感がある。弟子たちは、すくなくともヨハネによる福音書の証言によれば、イエスが、弟子たちを愛し抜かれたことを知っていたろう。その最後の死が、愛の大切な部分、または、最も大切な部分だと理解したことは確かだろう。しかし、イエスの地上での生活を切り離して、十字架の死のみから、キリストを理解しようとするパウロは、あまりに、論理にこだわりすぎていないか。イエスが日常的に言われていたこととは、かなり違うように思われる。いのちを自分ひとりのものとしない、そこに愛があることは確かだろう。
Rm 6:17,18 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
「罪の奴隷」から「神に従順に仕える奴隷」(16節)は「分かりやすく説明している」(19節)とあるが、混乱のもとである。イエスの生き様ではなく、神にもとめたり、パウロにならうものとなるという示し方では、結局、律法主義に陥る。現在の多くのキリスト教会の状態である。イエスによって示された、神の御心につながりたい。
Rm 7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
このように感じることは、実際にあり、それを否むことはできないが、そのような理解で良いのだろうか。地上にあっても、成長させて下さっている、ある意味で進化を続けている、それが、いのちのはぐくみであると、してはいけないのだろうか。永遠の命は、死後や、裁きの日に与えられるものではなく、イエスを通しての神の愛を受け取ったときから、命に生きることが始まっていると。むろん、完全に、御子のようになるのは、この肉体をもってではないのだろうが。
Rm 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
神を、パウロはどう見ているのだろうか。御子が神の本質を表すのであれば、神も苦しみ、死に渡されたのではないだろうか。神概念が、確立している、パウロには、それは、受け入れられなかったのだろう。イエスの地上での生活、その日常が神の日常と切り離してしか理解できなければ、そうだろう。また、逆に、わたしは、イエスを通して示された真理を神として受け入れ、結局神を独立の存在とは、みなしていないと言うことだろうか。とても、難しい。
Rm 9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
律法が与えられたら、それを守ろうとするのは当然ではないだろうか。律法主義は、とても自然な帰結とも言える。特に国が滅び、すべてを失ったとき、その理由を、自らの落ち度に見いだそうとすることは、信仰者にとって、とても自然なことだから。ただし、自分は、その正しさの基準を持ってしまったと考えるかどうかは、大きな違いを生むことは確かだろう。求めることがどうしても、おろそかになるから。正しさの根拠を求めることは、おそらく、問題無いのであろうが。本当に難しい。
Rm 10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
そうなのだろうか。確かに、自らを低くして、求めて続けたかどうかはよく分からないが、結局、正しいか、誤った知識によるものかの、違いなら、同じように、正しい認識に基づくものではありませんと言われることをはらんでいる。イエスが弟子たちに教えたことは、結局のところ、愛を持って、互いに仕えることであるように、思われる。それで良いのではないだろうか。
Rm 11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
ユダヤ人に対する、パウロの瞑想は、愛の故であろうが、自分の痛みが、望みとなり、それを、神の計画に発展させている。真実については、不明としか言いようがないと思うが、少なくとも、最後だけをとって、それが神の計画と理解するのは、大きな間違いを犯すことになろう。民族の救いが常に語られ、個人との区別が未発達であるとも言える。すべて個人の救いに結びつけるのは、おそらく、誤りであろうが、神様の霊(行動を引き起こすもとにある神様の本質)に生かされる生活を思い描くと、それを肉による血筋による民族と結びつけることは、パウロ自身が否定していることであることは確かだろう。
Rm 12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
賜物について書かれたあとに、この言葉に行き着いている。兄弟の範囲については、今は問わないことにしよう。互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思う。仕えることと同じである。神の働きを見ようとすることだろう。
Rm 13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
愛の名の故に、悪が行われることがある。少なくとも、上から目線のものでの愛の施し。愛ということばを使うとき、注意が必要である。同時に、愛を教義から定義するのでは、実際とどんどん離れてしまうように思う。自分を低いものとして、仕える心をもってひとと接する、イエスを模範とするところから、始まるように思う。サービス・ラーニングの学生は「サービスとは、目の前にいる人に対していま私ができることを精一杯する」と表現していた。わたしも、そこから、始めたい。
Rm 14:22,23 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
何か少し危険な感じがする。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5節)とも呼応している。「心の確信」とは何なのだろうか。はっきりとはしない。しかし、主体的に、そうだと考えるまでは、その人を尊重して待つことは、その人に仕えることと関係しているように思う。確信を持っている人の「信仰」を尊重することも、同じ軌道にあるのだろうか。これは、なかなか難しい問いである。
Rm 15:31 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、
「しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく」(23節)など、パウロの働きに疑問をもつ箇所もあるが「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。」(16-21参照)と言い切るだけのことをしていたのだろう。しかし、不安として、書かれているのが、引用箇所である。単なる、人間関係ではない、背景を連想させられる。パウロが、自分の使命を狭く、限定していたと、ポジティブな意味で、理解することもできるかもしれない。後代の人は、広く取り過ぎたのかもしれない。パウロを責めるのは酷なのだろう。
Rm 16:19 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
従順(hypakoee:1. obedience, compliance, submission 2. obedience rendered to anyone's counsels, an obedience shown in observing the requirements of Christianity)についても学んでみたい。直前には「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」(17,18節)とある。神への従順と、他者への服従を区別するのは、特に、仕える心をたいせつにすると難しいから。

BRC2015(1)

Rm1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
罪にある状態について書かれた箇所である。LGBTをどう理解するか、性同一性障害をどう理解するかとも関連して引き合いに出される箇所である。ヨハネ3:18-20「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」と「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ(ぱparadidomi)」とは対応している。パウロには目にあまるものが眼前にあり、それを取り上げたのであろう。しかし、誤解を招いていることも確かである。普遍性については、もう少しよく考えたい。
Rm2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。 
その通りではあるが、割礼や「律法の要求する事柄」(15節)が問われなければ、無意味である。「内面がユダヤ人である者」も同様。これが、意味を持っているとすると、当時のユダヤ人に共通の価値観が前提とされていると思われる。本当に、それで十分なのだろうか。それでは「この世のもの」から離れられないのではないだろうか。
Rm3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 
おそらくこの表現はそのとおりであろう。しかし「イエス・キリストを信じる」は何を意味するのだろうか。パウロの言うように「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(24節)このことだろうか。たとえば、ヨハネ4章のサマリヤの女や、王の役人は、本当にこのようにして、義とみとめられ、永遠の命が与えられたのだろうか。わたしには、そうは思えない。そして、それは、イエスの十字架の前だからだとも思えない。イエスの説いた「神の国」「いのち」とは少しずれているように思われる。もっとあたたかい、イエスとの関係をとおして示された、神様に希望をおくことのように思われる。
Rm4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 
この表現は、その通りだろう。パウロの論理は、人間の論理で、整合性も十分ではないと思われる。律法と信仰どちらによって義と認められるかも、問題提起として適切かどうかわたしには、確信がもてない。しかし、律法に頼る者は、律法を行っているその行為を積み上げて、神に義と認められると考える人をさすのであろう。それは、自分に望みを置く人である。神に望みを置く人ではない。自分の中から救いが来るのであれば、それは、すでに救いではない。そのようには、得られない救いをこそ求めているのであろう。
Rm5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。 
ヨハネによる福音書に描かれている人々が生きたいのちとこのいのちは同じなのだろうか。おそらく、そうなのだろう。たとえ、そのひとたちが、この言葉に異質なものを感じたとしても。神様を正面から見ることができるようになること、それは義と表現されるものなのだろうか。橋渡しが必要であるように思われる。
Rm6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 
「律法の下ではなく恵みの下にいる」(15節)私たちの生活について述べている。罪に仕えるか、神に仕えるかの違いと表現している。これこそが、律法と恵みの下の表現として適切なのだろう。光を求めて、自らを光の中において生きる生活である。パウロの表現をヨハネの表現と重ねながら、イエスの説いた神の国に生きることを学んでいきたい。
Rm7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 
事実の表現としては、その通りであるが、新たな問題を生じる。そして、それに反する完全聖化の教理も生まれる。肉の法則によって行動するなら、やはりそれは、罪人である。二つのこころとしか表現できないのかもしれないが、それを一つに表現する必要がある。よく考えてみたい。
Rm8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 
4節には「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」とあるが、その保証は、神の霊、聖霊をいただいていることなのだろう。根拠を自分の中に求めることはできないとしても、やはり不安になる。本当に霊に生きることができるのだろうか。「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」(7:15)状態でありながら。
Rm9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 
選びについての箇所である。自由意志と選びの間に整合性をとることは不可能であるように思われる。神が何をおできになるかを問うのではなく、何をなされるのかを問うべきだろう。19節「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」が完全に解決されたとは思えない。しかし、神の憐れみによってそのような状態に置かれていることは事実だろう。もっとよく考えたい。
Rm10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 
申命記30:14「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」からの引用である。ここでは、これに9,10節が続く。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」口と心にある。だから行うことができる。確かに、イエスにとっては、そうでるように思える。しかし、わたしはどうだろうか。口は、パウロの言うように「信仰告白」なのだろうか。
Rm11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
イスラエルの再興について秘められた神のご計画について語られている箇所である。この当時ではすべての人の救い、すべてのイスラエル人の救いは語られるが、ひとり一人、人間ひとり一人の尊厳は全面にでない。あくまでも、集団である。神はどう見ておられるのだろうか。ひとり一人として扱うことが、まったくの個人主義に堕してしまうとしたら神の意図されたこととは異なるだろう。しかし、ひとり一人を強調することは、困難な道でもあると思う。教会の歩んだ道、それぞれの賜物を考えると、恵みの使い方はとても難しい。
Rm12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 
慎み深く(v3)行動をし、愛すること、ここにすべてが詰まっている。賜物のついては、丁寧に学ぶことをしてみたい。
Rm13:12,13a 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。
バプテスマのヨハネとイエスの中間のイメージを感じる。いずれにしても「神の国は近づいた」ということばが、背景にあるのだろう。中間または、ヨハネよりと書いたのは、神の国が近づいたことの意味を、裁きによってとっているからである。神の完全な支配を共に喜ぶ方向にシフトしたい。
Rm14:5,6 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 
個人の尊厳が尊重されている。そこにあるのは「自分の心の確信に基づいて決める」ことと「主のために生きること」である。それが、批判となると、1節にあるように「主のために生きる」ことから逸脱すると言うことか。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」
Rm15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 
何か本質を感じる。神を愛することと、隣人を愛することも、ここに根拠がある。受け入れるとはどのような行為だろうか。神が受け入れてくださったひとりの神が愛されるひととして自分も愛することだろうか。もう少し言葉を選びたい。
Rm16:1,2 ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。 
ケンクレアは使徒18:18に、パウロがエルサレムへ向かう前に誓願を立てて髪をそった地として記されているコリントの東の港町である。フェベが最初に紹介されていることから見ると、この手紙と同時期にまたはこの手紙を持参するグループと共にローマに行ったのかもしれない。当時の移動の活発さと、女性が重んじられていることが見て取れる。

BRC2015(2)

Rm1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
「わたしたち」が誰を意味するのは、明確ではないが、正直、福音書のイエスにすべてをかけたいわたしには、パウロが説くことに違和感を覚える。しかし、最初から「すべての異邦人を信仰による従順へと導く」ためと、イエスと共に生活した弟子たちとは異なる使命を担っている。ヨハネ10章16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」を積極的に理解した方がよいのかもしれない。神のひとり一人へのアプローチはことなる。「この囲いに入っていないほかの羊」を主の羊では無いと軽々に決めてはいけない。「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことを願って。
Rm2:14,15 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
ここでいう律法とは何なのか。モーセ五書をさし、そこに書かれている、一つ一つの掟を守ることを意味するならば、律法を持たない異邦人には、不可能である。そう考えると、ここでパウロが言っている律法は、霊的な律法、神が望むことの本質を意味していると考えて良いだろう。パウロはそれをどのようなものと理解していたのだろうか。イエスのように「神を愛することと」「隣人を愛すること」などと単純には、言わないだろうから。
Rm3:21,22 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
理解が難しい。口語訳は「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。」となっている。本質は、律法と預言者によってあかしされたものと変わるものではないが、律法を守ることによって得られる義ではないという意味だろうか。もう少し詳しく書いてほしい。羊飼いの声を聞き分けることは簡単ではないと思われるから。特に人が語るときには、注意が必要である。
Rm4:17 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
アブラハムもイエスをみて、イエスが神から来たことを悟るのだろう。そして、このように、イエスの教えの中にはないことばを語る、パウロのことばも同じ羊の群れとなる。それがヨハネ10章6節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」の背景にあることだろうか。ある程度理解できるが、声を聞き分ける基準をもう少し明確にしたい。聖書全体のメッセージと、真剣に日々の生活を通してもとめ続ける信仰者の経験を通して教えられていることだろうか。特に後者の理解をもっと深めたい。
Rm5:7,8 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
他人のため死ぬことだけを意識していたが、自分の正しさも入るかもしれない。gal huper dikaiu, huper gal agatu となっている。自分の正しいものであるために、自分が善いものであるために、そう考えると、急に身近に感じられる。キリストは、私たちと同じ、罪人となるために、神様から呪われた罪人であるために死なれたのだろうか。友のために命を捨てたのだろうか。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15章13節)「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネ一3章16節)
Rm6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
17節・18節には「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。」とある。続く19節aには「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。」とあり、説明に過ぎないのだろうが、考えさせられる。「神の恵みによって、義の奴隷となった今は、罪に対しては自由の身」なのだと言いたいのだろう。奴隷であっても、義を行うことがあるように、義の奴隷であっても、罪を行うこともある。しかし、その奴隷ではない。自由なのだということか。しかし、まさに「肉の弱さ」の故にこの二つは、明確に分けられるものではないようにも思われる。救いは単なる約束ではなく、今の時をも生きる命を与えることであることを否定するわけではないが。
Rm7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
20節には「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」とさらに説明している。このように断定的に言えるのだろうか。非常に深い問題が横たわっているように思われる。これを、パウロが聖書に書いているからとして、受け入れるのがよいのだろうか。
Rm8:29,30 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
正直、キリスト教の危うさも感じる。このように書かれたことが、神のことばとして教義となっていくならである。書かれていることは、おそらく、すこし広く解釈すると、イエスのメッセージとなにも矛盾しない。それを支持するものとして問題ないだろう。しかし、心配なのは、一人歩きである。演繹的論理である。ある部分を絶対的真理として受け入れると、そこを基盤として導かれることも、絶対的真理となっていく。しかし、その確実性は、異なるはずである。特に、最初が、上に書いたように「すこし広く解釈すると、イエスのメッセージとなにも矛盾しない。それを支持するものとして問題ない」という解釈から超越する瞬間である。いずれまた考えてみたい。宗教の根幹でもあるから。
Rm9:15,16 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
約束の子の救いと行いによらず信仰による義について説明には、神の選びと予定の教理が支えとなる。人が選ぶものではないことは、素晴らしいとも思う。しかし、これで、よいと納得する訳ではない。もう少し考えたい。イエスは、理由は説明していないように思われる。
Rm10:19,20 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
申命記32:21「彼らは神ならぬものをもって/わたしのねたみを引き起こし/むなしいものをもって/わたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって/彼らのねたみを引き起こし/愚かな国をもって/彼らの怒りを燃えたたせる。」イスラエルの不従順に対して語られた言葉。イザヤ67章1節「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。」一般的に(おそらくイスラエルに向けて)言われており、異邦人に限定されているわけではないが、それが良いのかもしれない。イスラエルへの警告は常になされ、上にあるような特別なことばも語られていると言っているのだろう。悔い改めを求めて。
Rm11:1,2 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
ユダヤ人については、パウロにとっては、冷静ではいられないことであったろう。しかし、このあとの接ぎ木も含めて、冗長で、実際の接ぎ木によって生じる事実とも異なり、神の言葉とするには、問題を感じる。受け入れることは、できるとしても。パウロの肉的な悩みと苦しみといても立ってもいられない気持ちは、十分に伝わってくる。そのパウロから、こころが離れないようにしていたい。離れることは、裁くこと、それによって神様の心からも離れてしまうだろうから。
Rm12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
この章の論旨を考えると、まず、霊的な礼拝として自分の体を献げることが語られ、神のみこころを求めることが次のステップであること、その中で3節「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」体が多くの部分からなっていることを確認し、引用した言葉につながっている。それなしに、賜物を十分に活用するところに向かうのはどんなもんだろうか。互いに愛し合うこと、仕え合うこと。そこに向かうところに本質があるのだろう。
Rm13:1,2 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
このように言い切っていることに感銘を覚える。パウロがローマ市民だからではないだろう。たくさんの理不尽も見てきたろう。権威も選び取るものではないとこころから思う。神からのものは、善いものとするのが、基本である。わたしの行動は、明らかに、上に立つ権威に逆らっていることを証明している。苦しみを担っているものと友となることが、権威に逆らう結果を招いている。どう考えたらよいのだろう。3節の「善を行いなさい。」は、常に意識している。神の御心がなることを祈ろうお。
Rm14:22,23 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
確信をもって行動することに、またそのような人に、何か恐ろしさも感じる。この前の節には「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」とある。神の国について集中しているのだろう。17節には「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」とあり、本質は15節にあるように「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」であるように思われる。しかし、ここまで肉の問題についてかみ砕く前、または、他の困難な問題について考えると、やはり最初に書いた懸念が頭をもたげてくる。まずは、神の国と神の義を求めることを優先したい。
Rm15:26,27 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。
パウロの関心は、ユダヤ人と異邦人、特に異邦人クリスチャンが受けいられることであることは、この章を読んでも理解できる。その意味で偏った目的意識で書かれていることも注意すべきである。上に引用した箇所の後半も、その意識が色濃く見える。ローマ書は「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」と書き出しており、聖なる者は、8章27節、12章13節にも使われており、特に、15章と16章にはそれぞれ3回と2回使われている。これらの言葉によって、神との関係において認識することをパウロは意識していたのかもしれない。実質的な献金の事だからこそ、かもしれない。
Rm16:7 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。
15章冒頭のフィベは紹介しているが、そのあとには、ローマにいると思われる人たちへあいさつを送っている。プリスカとアキラ(3-5)、エパイネト(5)、マリア(6)、引用したアンドロニコとユニアス(7)、アンプリアト(8)、ウルバノとスタキス(9)、アペレ(10)、アリストブロ家の人々(10)、ヘロディオン(11)、ナルキソ家の中で主を信じている人々(11)、トリファイナとトリフォサ(12)、ペルシス(12)、ルフォス、およびその母(13)、アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たち(14)、フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同(15)。これら殆どに、形容がされていることにも驚かされる。この手紙を共有してもらうことも、意識していたのかもしれない。

BRC2013(1)

Rm1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
これが、パウロの福音に関する表現である。すらばしい本質を表現しているとともに、イエスの福音の全体を表現するものではないとの違和感も感じる。神の僕としての、パウロの働きのすばらしさと、人としての限界、その影響の大きさ故の、困難を感じる。この点を、すこしずつ解明し、言語化していきたい。
Rm2:14,15 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
ユダヤ人に対する命題である13節の例証としてはよいが、本当にこのようなことがあるのであろうか。そして、ここでいう律法の要求とは何か。論理的にもあいまいである。議論のための論理であるように思えてしまうのは、まだ十分理解できていないからか。
Rm3:21,22 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
「律法とは別に、しかも律法と預言者とによって」として、ユダヤ教の外のものではないことを明言している。ただ、イエスは「律法とは別に」という意識は持っていなかったのではないか。最初から神信仰(ここを言語化することが難しいが)に集中している。言語の制約だろうか。
Rm4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
働きか、信仰かと二者択一で議論するのは、ユダヤ人をアブラハムの例を取って、説得するためだろう。しかし、イエスは、そうはしていない。神と心をひとつにする信仰を第一としつつも、それは、行いと不分離なことだったろう。パウロを徹底的に学べばまた変わるかも知れないが。
Rm5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
このことは、イエスには明らかではない。イエスの死は、ひとにいのちを与えることはたしかだろう Mt20:28, Mk10:45。それは、罪のあがないという要素を含まざるを得ないとかんがえるのが、パウロ。しかし、いつまでも死なないいのちに生きることは、他のようにも表現できるし、イエスは違うように表現してきたのではなかったか。難しい。謙虚に、求め続けたい。
Rm6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
「信じる」とあるが、イエスのような権威をもって、このように証言できるのだろうか。神のみこころを求めて生きることは永遠である。他の説明もある、ということだろうか。
Rm7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
自由になっても、肉体をもって生きているわれわれは、罪を犯さないことはないということなのだろう。もう少し理解したい。
Rm8:13,14 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
14節は美しいが、13節は疑問をももつ。肉体と肉とは異なるだろうが、ここまではっきり分離することには、違和感を感じる。このように、考えることでわかりやすくはなるのであろうが。神の霊に導かれることを求めたい。神の完全な支配のもとに自分を置くことができたらと望む。しかし、それは、わたしが無くなることではないとも思う。
Rm9:32 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。
これは、単に悪いくじをひいてしまったと言うことだろうか。神が、それを選ばなかったと言うことだろうか。ひとが選んだのではないとは、どのように理解したら良いのか。もうすこし、ゆっくり追求したい。やはり、福音書だけでは、分からないのだろうか。
Rm10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
これはその通りだと思う。しかし、同時に、儀式的に、これが、条件になってしまう危険性も感じてしまう。この時代に、このような告白が殆ど成文化されているのは、驚かされるが。
Rm11:31 それと同じように、彼ら(イスラエル人)も、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
神がどれほど憐れみ深い方であるかを知ることが、そしてそこに救いがあると信じることが、信仰なのだろう。そのいみで、いつでも悔い改め派あり得る。
Rm12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
この節と次の節に引用する言葉が発展途上であることを感じる。イエスが弟子たちに伝えてはいたが強調しなかったことで、教会としてとても大切になってきたことがこの章の「愛の具体的実践」と「キリストの体としての部分と全体的一致」ではないだろうか。最後に、この復習のことが書かれている。誤りではないにしても、イエスが語られた本質にはまだ至っていないように感じる。傲慢な判断だろうか。
Rm13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
この本質にすでに行き着いている。しかし、この次の節をみると、まだ「隣り人」として表されるひとのことがイエスの説かれたところに、至っていない感じがする。これは、批判かもしれない。しかし、やはりイエスの教えの重要さを感じさせられてしまう。パウロの手紙をまったく同列に扱うことには、抵抗がある。
Rm14:4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。
本質をしっかり言い切っていることばだと感じる。この章の最初は「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。」から始まる。これも、主のもとで生かされているひとりひとりを意識することにつながっているのだろう。感謝。
Rm15:4 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
最後の言葉は、希望を与える。「聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるため」わたしが学んできたことは、このことであったように思われる。パウロの書くことに、多少の限界は、感じるが、このことばは、真実、わたしもこの言葉のように、聖書の与える忍耐と慰めに信頼に希望の根拠をおきたい。
Rm16:1 ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フィベを、あなたがたに紹介する。
ケンクレヤは、コリントの東の港町だろう。ここの一人の女性信徒に委ねて、この手紙を送っている。コリントの西の港から出れば、ローマはそう遠くなかったかも知れないが、2節によると、ある程度の財を有していた女性が、国際的に、活躍し、信頼されて、重要な職務に当たっていることがわかる。どのような社会だったのだろう。

BRC2013(2)

Rm1:18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
この不信心と不義は、神の力と御心に対して抗うことと表現しても良いかもしれないが、内容を理解することは難しい。24節, 26節, 28節の、任せられたは、パラディドーミの Aorist, Active, Imparative パレドーケン。新約に2319回。
Rm2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
悔い改めが鍵なのであろうか。神のあわれみに、身をゆだねること。それが簡単ではないのかもしれない。
Rm3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
原罪である。これは、イエスの教えにあるのだろうか。悔い改めは、重要な要素で、神からはなれている、迷える子羊であることは、確かとしても、それを、普遍的なものとし、それを根拠とすることをイエスはなされなかったように思われる。論理を強調しすぎてはいないか。
Rm4:13 なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
イエスはこのように明確には言われなかった。言葉に依存する事をさけたのかもしれない。大筋でイエスはこれらの言葉を承認されるだろうが。私がいま取り組もうとしている事は、無謀な事なのだろうか。
Rm5:10,11 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
8節の「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」から続いている。論理的には、よくわからない部分もあるが、最終的に神を喜ぶところに導かれる。そのような者でありたい。それが天の国に生きる事だろう。
Rm6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
この章のはじめから展開される死といのちの実際が適切に表現されているかどうかは、不明であるが、キリスト・イエスにあって神に生きるという表現は、しっくりくる。新共同訳では「神に対して生きている」とある。もう少しわかりやすい表現が欲しいが。
Rm7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
この矛盾とも言える状況を、イエスはどう考えておられたのだろう。イエスにとっては、神のこころとシンクロナイズして、希望をもって生きる事で十分だとしていたのだろうか。あとは、神様にゆだねて。
Rm8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
おそらく、パウロを支えていたものは、教義だけではなかったろう。神にある確信。神に対して生かされる確信であとうか。
Rm9:18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
このことを受け入れる事は、基本である。同時に、憐れみに富む神に信頼する事。
Rm10:2,3 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
非常に的確であると感じる。しかしもう少し掘り下げたい。神の義を知らない。自分の義を立てるよう努める。神の義に従わない。この三つを。
Rm11:6 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
恵みは、神の主権のもとにある。9:15,16 には「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 」しかし、どうしても、人の努力による結果にしたいという強い願望があるのだろう。さらには、結果を教会への所属と行った見えるもので判断したいという願望か。望んでいる事自体は、それほどずれていないかもしれないが、知りうる事は非常に限られているにもかかわらず、神ではなく、自分の力の影響のもとで、自らが生きているとしてしまう事。これは、罪だろう。
Rm12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
このあとに「賜物」をもちいて奉仕することへと続く。そしてさらに「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。」ここにつながっていることこそ、主が望まれる事であろう。この賜物を生かすところで止まってしまっていては、パリサイ人や律法学者と同じように。「うーん、ぼくは、悲しいよ。君たち、とても、残念だな。」となってしまう。
Rm13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
「権威に従うこと」に続いてこのことばが述べられている。イエスの「最も大切な戒め」と比較するとたとえば、Mt22:34-40 では「神を愛する」があり、Mt19:16-22 では十戒が含まれているが、ここでは、それらよりも、Lv19:18 の隣人を愛する事が中心に置かれているように思われる。
Rm14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
「彼」には「食べるもの」も「食べないもの」も含まれている。そして「さばいてはならない」根拠を、4節で「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」としている。この根拠は一般の人には、修正して伝えるべきかそれともこのままがよいのか。このような問題も詰めていきたい。
Rm15:1,2 わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
強くないものとは14章からの続きで、食べものや特別な日を守る事を大切にしている人たちである。兄弟姉妹として生きるため。弱さを担う事は、仕える事だろう。Mt23:11,12
Rm16:17,18 さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。 なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。
自分の腹に仕えるひと。(ピリピ3:19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。)これをどのように、見分ければ良いのだろう。分裂を引き起こすかどうかだろうか。これは、どちらが問題なのか、わからない場合がある。


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コリントの信徒への手紙一

コリントの信徒への手紙一(1)

コリントは、使徒言行録に記されているところ(18章)によると、パウロが第二回伝道旅行で、アテネの次に訪ねた場所です。地図をみると一目瞭然なのですが、ギリシャの最南端のペロポネソス半島の根元のくびれたところに位置し、使徒言行録18章18節にも出てくるケンクレアイが東の港で、現在のトルコにあたる小アジアに通じ、西にはレカイオンの港でアドリア海を通してローマにつながっている交通の要所です。一番近いところは6kmといわれ、小さな船は、陸路をローラーに載せて運んだと言われています。BC44ユリウス・カエサルによってローマの植民都市として開かれてから非常に栄えますが、当時はかなり退廃した、不道徳の町だったと言われています。使徒言行録の記述によれば、パウロは、少なくとも三回コリントに滞在、少なくとも1年半の滞在も含まれています。伝道者のアポロもコリントに滞在し、ペテロも滞在したと言われています。そんななかで、このコリントの信徒への第一の手紙は、パウロが長く滞在したもう一つの町小アジアのエペソから書いたとされています。(コリント信徒への第一の手紙16章7,8節)読んで頂ければわかりますが、いろいろな問題を抱えていた教会であることが分かります。ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ一度も行ったことのない、ローマの信徒の群れにあてて教義を中心に書いていますが、コリントの信徒への手紙は、よく知っている信徒達に対して具体的な問題について書いています。

1章1節は、次のように始まります。

神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
このソステネは、使徒言行録18:17に出てくる会堂司だと思われます。会堂司は、その地のユダヤ人にも信頼されていた長老ですから、コリントの信徒については、かなり詳細に知っていたでしょう。 このコリント信徒への手紙では、現代にも通じる問題が多く語られています。

少し、8章について書きます。8章は次のように始まります。

偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。(新共同訳 8章1-4節)
わたしはコリント信徒への手紙一の中で、13章とこの8章を大切にしています。いろいろな人と会い、いろいろな人と関係をもち、共に働き、あるときは衝突し、あるときは心配になり、あるときは、この立派な人には神様の救いなど必要ないのではないかと思ったりもします。そのたびに、わたしは、次の聖句の後半を唱えることにしています。(ガラテヤ2:21を唱えることもありますが)
そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(新共同訳 8章11節)
わたしたちは理性が与えられ、自分で考えることができることは本当に恵みであり感謝です。しかし、わたしたちの行動が私たちの知識や、思考に依存して、もし愛がないのなら、たとえ、聖書のことばをたくさん引用して正当化しようとしても、かみさまが与えて下さった、自由を汚れたものにしてしまうと思うからです。イザヤ書64:5 の表現と似た感じを持ちます。
わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
この章の結び、パウロは次のように言い切ります。キリスト者の自由について決然としてこのパウロの潔さに撃たれます。
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(新共同訳 8章13節)
愛によって造りあげられたいものです。

最後に、梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から書いておきます。

いのちのことば社「新聖書注解」尾山令二
コリント人への手紙 第一 梗概

  1. 序言 1:1-9
    1. あいさつ 1:1-3
    2. 真実な神への感謝 1:4-9
  2. 教会の一致についての願い 1:10-4:21
    1. 願いの要約 1:10
    2. 願いの動機 1:11-17
    3. 福音の本質 1:18-2:16
    4. 宣教者と教会 3:1-4:13
    5. パウロの願いの伝道 4:14-21
  3. 不品行について 5:1-6:20
    1. 不品行に対する態度 5:1-5
    2. 古いパン種を取り除け 5:6-8
    3. 現在のさばきこそ恵み 5:9-13
    4. 訴訟問題 6:1-8
    5. 新しい存在 6:9-11
    6. 新しい存在の責任 6:12-20
  4. 結婚と独身 7:1-40
    1. 一般的原則 7:1-7
    2. 結婚していない男とやもめ女 7:8-9
    3. 結婚している人々 7:10-16
    4. 召された状態で 7:17-24
    5. 独身について 7:25-38
    6. 未亡人の再婚について 7:39-40
  5. 偶像にささげた肉について 8:1-11:1
    1. 愛と知識についての原則 8:1-6
    2. 弱い兄弟に対する配慮 8:7-13
    3. パウロの使徒職実行に見る実証 9:1-27
    4. 悪霊の食卓にあずかるな 10:1-22
    5. 飲み食いを通しても神の栄光を現わせ 10:23-11:1
    6. 公同礼拝における乱れ 11:2-34
    1. 礼拝における女のかぶり物 11:2-16
    2. 主の晩餐について 11:17-34
  6. 御霊の賜物について 12:1-14:40
    1. 御霊の賜物と教会の一致 12:1-31
    2. さらにまさる道 13:1-13
    3. 預言と異言 14:1-25
    4. 公同礼拝の秩序 14:26-40
  7. 礼拝の基盤ー復活の事実 15:1-58
    1. 最もたいせつなもの 15:1-11
    2. 死者の復活を否定する結果 15:12-19
    3. キリストの復活の結果 15:20-28
    4. キリスト者の経験からの論証 15:29-34
    5. 死者のよみがえり 15:35-50
    6. 勝利の確証 15:51-58
  8. 礼拝の実践 16:1-24
    1. 聖徒たちのための献金 16:1-4
    2. パウロの宣教計画 16:5-12
    3. 最後のことばとあいさつ 16:13-24

コリントの信徒への手紙一(2)

コリントの信徒への手紙一は次のように始まります。
1:神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2:コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3:わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
パウロは自分のことを「使徒」と呼んでいます。ルカによる福音書6章13節には「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」とあり、弟子と使徒とははっきりと分けられています。弟子の中で、特別に福音の使者として遣わされたものが使徒です。パウロの改心については、特に使徒言行録の9章、22章、26章に少しずつ違った形で語られています。22章21節には「すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」と書かれていますが、9章や26章にも改心とあわせてパウロを派遣することが書かれており、パウロもそのことを強く意識していたのでしょう。1節に出てくるソステネは使徒言行録18章17節にある「会堂長のソステネ」ではないかと思われます。

皆さんは2節をどう思われますか。「この人たち」とは誰でしょうか。宛先は「コリントにある神の教会」です。教会はエクレシアという言葉で「呼び集められたものの集い」という意味です。そのあとの言葉からもわかるように、組織を表すのではなく、人々、それも「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」です。このあとに続く「このひとたち」はおそらく「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」でしょう。「聖なるものとされた人々」と二回もでてきますね。使徒言行録26章やヘブライ信徒への手紙10章にも出てきますが「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」という言い方はちょっと気になりますが、みなさんはどうですか。

(1)に例によって「新聖書注解」から梗概を抜き書きしましたが、これをみても、いろいろな現実の問題が並んでいます。問題をひとつひとつ語る前に受け取るひとりひとりにこのことばによって語りかけているのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、新約聖書の書簡ほとんどすべてに書かれている「恵みと平和(口語訳は平安)」のいのりが3節についています。(「憐れみ」が入る場合もあります)そして以下のことばが続きます。

4:わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
5:あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
6:こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
7:その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
8:主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
9:神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
このコリントの信徒への手紙を読むとき是非、この1節から9節を覚えて読んで下さい。おそらくそれは、パウロの願いでもあったのではないかと思います。戻ってくる場所は、この1節から9節です。わたしたちにも、しっかりとした戻ってくる場所があると良いですね。いくら問題だらけの社会に住んでいても。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

1Corinthians 1:21 世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
どのように受け取るか困難な言葉である。知恵を排除しているともいえ、知恵によって神(神の御心、真理)を見出すことではなく、宣教という啓示の宣言によったというのが、基本的な理解だろう。同時に、これは、「さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10)以降、分裂の問題を解決することが、背景にある。すなわち、知恵に頼った知恵の宣言が、分断を産んでいるという理解だろう。たしかに、そのことは、理解できる。文脈と、演繹に注意することだろうか。丁寧に読んでいけると良いのだが、手紙の理解は、背景の理解が必須であるにもかかわらず、それがほとんどわからないので難しい。
1Corinthians 2:1,2 きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
このあとには「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。」(3)と述べ、使徒言行録18章にある程度書かれている、コリントに最初に入ったときの経緯に触れている。アテネでの落胆、その反省も背景にあるのだろう。ここには、復活が書かれていないことも気付かされた。また、秘儀は、聖霊によって与えられることが、6節以降にかかれている。それだけに限ることの危険性も感じる。霊的啓示を排除しては、神の御心、真理を語れないのだろうが。
1Corinthians 3:22,23 パウロもアポロもケファも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
党派を作って分裂しているコリントの教会についてのメッセージで、最後にここに至っている。その前には、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。/『神は知恵ある者を/その悪だくみによって捕らえる』と書いてあり、また、/『主は知っておられる/知恵ある者の議論が空しいことを』とも書いてあります。」(19,20)ともある。むろん、世の知恵が無用のものというわけではないだろう。霊的啓示とともに、世の知恵を用いなければ、霊的啓示が独り歩きしてしまう。どう判断すればよいかは、難しい。
1Corinthians 4:17 このことのために、テモテをそちらに遣わしたのです。彼は、私の愛する子で、主にあって忠実な者であり、至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方をあなたがたに思い起こさせることでしょう。
イエスがキリストということは、真理として天にあげてしまい、地上では、自分にならうものになって欲しいというのがパウロの言っていることのように思われる。イエスに倣うことは、難しい。当時は、まだ福音書は書かれていないと思われるが、伝承として聞くものも、イエスは神だからできるというように受け取ることが多かったろうから。これが、ある程度、キリスト教に継続性が付与されることになった要因なのかも知れない。たしかに、わたしが求めるような真理探求の道は、一般の人の中で広がることは難しい。
1Corinthians 5:10,11 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を礼拝する者と一切交際してはいけない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かなければならないでしょう。今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
これも非常に困難な問題である。教会は開かれていなければならない。つねに、Welcome するのが、神様の基本的姿勢ではないのか。これは、分断を作り出してしまう。しかし、同時に、受け入れることは、技術的には難しい/一人ひとりは、それほど強くないから。どちらにしても、難しい状況にあることは、確かである。
1Corinthians 6:1,2 あなたがたの間で、仲間の者ともめ事になった人が、それを聖なる者たちに訴え出ないで、よりによって、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのでしょうか。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな争いすら裁く力がないのですか。
状況がよくわからない中で、判断は難しいが、一般的には、ここに書かれていることは、問題を起こす可能性もある。パウロは、この前にも、コリントに手紙を書いているようだし(5章9節)、このあとに書かれたコリント後書で、前の手紙で悲しませたことが書かれている。これについても、手紙が他にもあったかも知れず、不明であるが、手紙で、引用句のようなことを書くのは、慎むべきだと思う。とくに、後半の「聖なる者たちが世を裁くのです。」のような断言的なことばは、とても危険である。
1Corinthians 7:20,21 おのおの召されたときの状態にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。
この後半は、別訳では「自由の身になれるなら、自由になりなさい」であるという。自然ではない方を、原文に近いとして選択することがなされたのだろう。最初の「召されたときの状態にとどまっていなさい。」との整合性を取ったのかも知れない。しかし、このあとに「人の奴隷になってはいけません。」ともあり、それとの整合性は、崩れている。いずれにしても、パウロの中では、主の日が近いということが、あったのだろう。それが大きく影響しているように見える。人間の限界でもある。
1Corinthians 8:5,6 現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、私たちには、唯一の父なる神がおられ/万物はこの神から出/私たちもこの神へと向かっています。/また、唯一の主、イエス・キリストがおられ/万物はこの主によって存在し/私たちもこの主によって存在しています。
唯一の神としつつ、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしてもとしている。そのあとにあるのが、信仰告白だろう。普遍的真理だろうか。むろん、それを確かめる手段があるわけではない。その状況のなかで、何を大切にするかだろうか。
1Corinthians 9:1,2 私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなたがたは、私の働きの実ではないか。他の人々にとって私は使徒でなくても、あなたがたには使徒です。主にあるあなたがたが、私が使徒であることの証印なのです。
使徒とは何なのか。主イエスに直接派遣されたということだろうか。個人的には、弟子として、イエスに従うものだと思っているが、そこに食い違いがあるのだろう。「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。」(19)とあるように、宣教を最大の目的としている。わたしには、それはできない。ともに学ぶことしか。特別啓示に対して、特別な注意を払っているからだろうか。互いに愛し合うこととのずれを感じているからだろうか。正直よくわからないが、パウロとともにはいられない。
1Corinthians 10:4,5 皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
キリストだとどうして断定できるのだろうか。これも、特別啓示だろうか。滅ぼされてしまったことも、正直よくはわからない。本当に、カレブとヨシュア以外は、主に信頼しなかったのだろうか。そこまではわからないように思う。歴史を理解するのは難しい。評価するのはさらに難しい。
1Corinthians 11:27 従って、ふさわしくないしかたで、主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
聖餐についてのことばである。この前をみると、「第一に、あなたがたが教会に集まるとき、互いの間に分裂があると聞いており、私もある程度はそれを信じています。あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、分派争いも必要でしょう。しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることになりません。」(18-20)から繋がっているようである。ただ、この章には、被り物のことなど女性に対する規定もあり、最初には「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」(1)ともあり、完全に納得できる状況にはない。パウロにとっては、キリストに倣うものなのだろうが、やはりわたしにとっては、イエスに倣うものである。そこも、大きいように思う。むろん、この時点では、マルコによる福音書も書かれていないのだろうが。
1Corinthians 12:1 さて、きょうだいたち、霊の賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい。
このあとには、「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。」(27)へと続く、一つの体、多くの部分へと続く。まだ、頭で考えられているようだが、11章までと違って、少しずつ、普遍的になっている。パウロの手紙の特徴でもあるのだろう。頭が勝っている部分は、時代を超えることは難しいが、普遍性をもとめ、本質を求めると、時代を超えることができるのかも知れない。しかし、キリストの体のことなども、イエスの考えとはおそらく異なるだろう。どう判断するかは、難しい。
1Corinthians 13:8,9 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
パウロにとって、愛とはどのようなものだったのだろう。ここに、書かれているはずだが、正直概念的で、あまり伝わってこない。しかし、この手紙の前半が不十分であることは、パウロは認識していたのだろう。「また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。」(3)ともあり、通常、チャリティといわれるものとも異なるのだろう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。」(4)は、愛の性質を規定しているが、愛について語っているわけではない。パウロは、愛はどのようなものだと考えていたのだろうか。
1Corinthians 14:1 愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
このあとに、異言と預言について書かれているが、パウロは、なぜ、13章に愛の章を入れたのか、そして、パウロにとっては、愛とは何だったのか考えたいと思った。たしかに、ローマの信徒への手紙でも、ガラテヤの信徒への手紙でも、後半には、愛について書かれている。しかし、それが、中心にはなっていない。当然だったからだろうか。パウロが戦わなければならないことが、他にあったからだろうか。なかなか、繋がらないように感じる。わたしが、理解できていないだけかも知れないが。
1Corinthians 15:3-5 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。
わたしは、まだ、これが最も大切なことだとは思えていない。死を克服すること、それが、罪を克服することであり、それには、復活が是が非でも必要となるのだろう。それがパウロの論理である。しかし、イエスは、そのために生きたのだろうか。と考えてしまう。イエスは、死んで、復活するために、生きたのか。おそらくそうではないだろう。一人ひとりが、神のみこころに生きるために、その希望をもって、生きるために、生き、そして、死なれたのではないだろうか。そして、そのイエスは、今も生きていて、わたしたちの模範となっていてくださる。わたしには、それしか言えない。
1Corinthians 16:12 兄弟アポロについては、きょうだいたちと一緒にそちらに行くようにと、何度も勧めましたが、彼には今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在するつもりです。」(8)とあり、パウロは、エフェソに居ることがわかる。「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。彼も私と同じように、主の仕事をしているのです。」(10)とあり、テモテがこの手紙を持っていったと思われる。さらに、分争が起こっているところで名前が上がっている、アポロとパウロが連絡を取っていることがわかる。エフェソに居るかどうかは不明だが、おそらく、小アジアに居るのだろう。このように、独立に思考するひとの考えを聞きたいと思う。資料は残っていないのだろうが。公開文書のたいせつさを感じる。

BRC2023(2)

1 Corinthians 1:2 コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主です。
「聖なる者」ということばに今まであまり違和感がなかったが、最近、分断について考えているので、この分けるが語源と思われる、聖とすることも危険なことを含んでいると思った。あるものは聖、あるものは汚れている。たしかに、そのことは否定しない。神様が望まれることを求めることはわたしののぞみである。しかし、それは、人間には明確にはわからない。それを自分が理解した範囲の根拠で、分ける。それが分断を生む。ある正しさによる分断である。コリントの教会の問題も、そこにあったのかもしれない。まずは、互いに愛し合うこと、異質な、汚れていると思われるような、他者をも歓迎すること、それが大切なのではないか。神様は、まさに、汚れたものをも受け入れてくださったのだから。
1 Corinthians 2:1,2 きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
パウロの信仰告白、そして、そのように生きようとしたことは素晴らしいと思う。しかし、文書として、圧倒的に多く、キリスト教の中心に置かれてしまった、パウロ由来の書簡の影響が圧倒的であることは、問題もあるように思う。すこしずつ、福音書から、掘り起こさないといけないことがある。むろん、完全には、イエスのことばと行動によるメッセージを受け取ることはできないだろうが。
1 Corinthians 3:10,11 私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。
わたしには、ここまで明確なものはない。イエスという方にであったことが、わたしにとってどれほど大きかったかは、いくらでも告白できるが、出会い方は、様々だろうし、そこにキリスト(神に油注がれたメシア)と、ある普遍性をともなって告白することはできない。わたしにとっては、そのような方だと言いたいと思うが。他者にとっても、それが真理だとは、そう思いたい希望はあるが、わたしがあまりに何も知らないこと、理解できていないことを、日々感じ、聖書を読んでいても、毎回そのように思うので、ほかの人が真理だと受け入れてくだされば嬉しいが、それ以上のものではない。わたしは、そのようにしか生きられない。しかし、おそらく、パウロのようなひとは、大切なのだろう。神様は、どう考えておられるだろうか。
1 Corinthians 4:15,16 あなたがたに、キリストにある養育係が無数にいたとしても、父親が大勢いるわけではありません。キリスト・イエスにあって、福音を通して、あなたがたを生んだのは、私なのです。そこで、あなたがたに勧めます。私に倣う者となりなさい。
こどもを思う愛が表現されている。しかし、たとえ、そのような面がわたしにあったとしても、このようには表現できない。まして、わたしに倣うものになりなさいとは誰に対しても言えない。自分には、肯定できることとともに、肯定しがたい闇の部分がたくさんあり、それらが相互に関わり合っていると考えているからだ。肯定できる部分をつまみ食いのように、受け入れて、よいことが得られるとは思えない。誠実に、一人ひとりが、神様の前を歩むしかないのだろう。神様はほとんど見えないけれど。日々一日一日、顧みながら、悔い改めて、見えない神を見ようとしながら、生きる生活でありたい。
1 Corinthians 5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。
具体的な状況については不明である。ただ、いくつか気になったことがある。1つ目は「異邦人にさえみられない」と言っている点である。この批判をされているひとが、ユダヤ人キリスト者なのか、異邦人キリスト者かは不明だが、どちらにしても、異邦人を不道徳なやからと決めつけている。分離主義である。さらに、この説明のなかで、「新しい生地のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。」(7)とも言っている。これも一つの解釈だとしても、ユダヤ教の祭りに引き寄せた解釈である。ユダヤ教の一派と認識していたことはある程度理解できるが、神様が愛される、コリントの人たちを愛することからは離れてしまっているように思われる。最初の状況はよくはわからないが、少なくとも、手紙で批判することではないのではないだろうか。危険である。
1 Corinthians 6:9,10 それとも、正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけません。淫らな者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に溺れる者、人を罵る者、奪い取る者は、神の国を受け継ぐことはありません。
5章11節にも同様のリストがあるが、順序が変わっているものを除くと、新たに、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、盗むものが加わっている。おそらく、冷静にみるとこれらがパウロのうちにあるリストで、前の章は、まだ整理できない中で書かれたのかもしれない。丁寧な校正がされてはいないだろうから。ただ、この章の最初にある「あなたがたの間で、仲間の者ともめ事になった人が、それを聖なる者たちに訴え出ないで、よりによって、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのでしょうか。」(1)は状況が正確にわからないので判断はしにくいが、すべての権威は神様によって建てられたと公的な制度を是認しているパウロが、具体的なことについては、そうはできないというチグハグな面も見られる。時代的なものが背景にあるとしてしまえば、それまでだが。
1 Corinthians 7:15,16 しかし、信者でない相手が離れて行くなら、離れるに任せなさい。こうした場合、信者である夫あるいは妻は、結婚に縛られてはいません。神は、平和な生活を送るようにと、あなたがたを召されたのです。妻よ、あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かるのですか。夫よ、あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かるのですか。
興味深い。「信者でない相手が離れて行くなら」と始めながら、「妻よ、あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かるのですか。」と発展させている。このような状況が多かったのだろう。すなわち、妻がキリスト者で、夫がそうでない場合。妻が非常に熱心で、夫が救われることを願うが、かならずしも、そうはならないような場合。ここの章にすべての答えが書かれているとは思わないが、当時から、同様の状況があり、同様の問題が存在したことはなにか救われる気にもなる。
1 Corinthians 8:8,9 食物が、私たちを神のもとに導くのではありません。食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません。ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい。
この時代にこれだけ、きっぱりと言えることには驚かされ。同時に、そうはっきりと言えることでもないという謙虚さも、今は持つべきだとも思う。一般的に、すべての人のことを考えれば、食べるものがたいせつだと考えている人は、それなりに、現代でも多いからである。分析的に、論理的、科学的に考えることの大切さとともに、ただしさよりも、たいせつなものがあることも心に刻みたい。それが、後半の、「あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように」の鍵であるように思う。
1 Corinthians 9:1 私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなたがたは、私の働きの実ではないか。
「私は自由な者ではないか。」と始まっているのに驚いた。まず、「私たちには、食べたり飲んだりする権利がないのですか。私たちには、他の使徒や主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、私とバルナバだけには、働かずにいる権利がないのですか。」(4,5,6)とある。様々な自由について書かれているが、正直、本心はよくわからない。もてなされるなど、ある程度批判を浴びていたのかもしれない。おそらく、後半にある、この自由を何のために使うかがたいせつだと伝えたいのだろう。「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。」(19)前半のことと、しっくりと結びついて受け入れられたのだろうか。
1 Corinthians 10:31-33 だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私が、何事につけ、すべての人を喜ばせているようにです。私は、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めているのです。
自由についての続きなのだろう。このようなパウロの姿勢に感銘を受けて、ついて行ったひとも多いのではないだろうか。同時に、ついていけなかったひとも。多様な、キリスト者としての生き方が、周囲にあることは、幸せである。そのなかで、自分が主に従って生きるのはどう生きることかを考えることができる。最終的には、自分の責任のもとで、日々を生きることだが。神様の恵みのうちに。
1 Corinthians 11:3 しかし、あなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であり、キリストの頭は神であるということです。
批判される箇所である。パウロは、「いずれにせよ、主にあっては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。女が男から出たように、男も女から生まれたからです。そして、すべてのものは神から出たのです。」(12,13)とも言っており、原則はわきまえているのだろう。しかし、引用句や、このあとにもたびたび登場する男尊女卑と思われることを書かざるを得ないとパウロが考えた背景もあるのだろう。推測に過ぎないが、キリスト教会は、イエスの時代から、ずっと女性が多く、妻は信徒だが、夫はそうではないなどの例がたくさんあったと思われる。そのなかで、正しさを主張する女性がおり、かつ、学識やリーダーとしての経験を積む訓練は十分ではないこともあったのだろう。それをどう整えるかは、時間がかかり難しいことでもある。字面で批判するのではなく、神様が愛をもって仕えてくださる公平性をたいせつにするとともに、御心を真摯にもとめるものでありたい。
1 Corinthians 12:23-25 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。
難しい問題である。たとえはあくまでもたとえであって、厳密に考えるのは問題がある。基本的には、最後にある、互いに配慮し合うためにむすびつかなければいけない。自分の能力、役割は、いくらそれぞれに大切だと言われても、さまざまな比較が行われてしまうと、補い合うとは言いにくい面もある。しかし、配慮、互いに愛し合うことは、神様が喜ばれる、神様がひとりひとり別け隔てなく、してくださっていることなのだろう。み心に生きるものでありたい。
1 Corinthians 13:2,3 たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
おそらく、前章の続きなのだろう。たとえでは、カバーできないものがあることを思い、ここに愛の賛歌が入ったのだろう。前の章だけでなく、もっと前からのことを、ここで、本質的に愛に結びつけようとしたのかもしれない。パウロのうちに起こされた懸念の発露だったかもしれない。引用句のように始めるのは、ほんとうにすごい。一つ一つを見ると、具体的な意味は明確とは言えないが。パウロ書簡の背後にも、この愛の大切さが通底しているととらないと適切に理解できないのだろう。
1 Corinthians 14:34,35 女は、教会では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように、服従しなさい。何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。女が教会で語ったりすることは、恥ずべきことです。
パウロには腹に据えかねることがあったのだろう。パウロは、ユダヤ教の訓練をうけている。ユダヤ教のラビはおそらく例外なく男性で、女性が人前で語ることはなかっただろう。しかし、福音は、キリスト教においては、そのような原理的籬(まがき)は取り去られ、かつ、ギリシャ社会では、教養のある、訓練をうけた女性、交易と言われるような、商売をする女性もたくさんいただろう。社会も、背景もことなり、キリスト教の普遍性もともなって、パウロには、簡単には、受け入れられないものとなっていったのかもしれない。ピリポの娘たちのようなひとたちが活躍するまでは、まだ、ほんの少しだけときが必要だったのだろうか。
1 Corinthians 15:3-5 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。
私は、このように福音を語れないが、この前にある節も、文章が興味深い(翻訳の関係か)「きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。」(1,2)。今もしっかり覚えていればの話ですが。とまで言うのは、現実をよく把握しているというべきか。引用句の最後には、「それから十二人に現れたこと」となっており、十二人は、ユダも含むという言説を最近学んだ。この証言がキリスト教会に残されているものとして最も古い復活の証言であるとすると、とても重要である。むろん、パウロは、十二人は、マティアだと考えていたかもしれないが。(使徒1:26)いずれにしても、ここに書かれている基本的なことを、もうすこししっかりと考えてみたい。イエスの福音と同じなのだろうか。もし、違うとすると、どう考えたら良いのか。
1 Corinthians 16:12 兄弟アポロについては、きょうだいたちと一緒にそちらに行くようにと、何度も勧めましたが、彼には今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
アポロはパウロも一目置いていることがわかる。ヘブルの信徒への手紙が関係しているかもしれないが、このアポロについてもっとよく知りたい。イエスの活動と、ユダヤ教と、散在するユダヤ人、そして異邦人の信仰がどのように、形成されていったか、福音をどのように受け入れていったかは、非常に重要な問題だと思うので。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

1Corinthians 1:29,30 それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
第1章は、コリントの信徒が聖なるものとされていることとともに、分派による争い(11,12)が書かれている。パウロは引用句からも分かるように、聖なるものとされたのは、神の恵みによることを、しっかりとこころに刻みつけることが、争いにならないために、たいせつであることを言っている。分派、争いは自分たちの正しさを主張することに依拠しており、自分が恵みを受けている理由、その本質が見失われていると言っているのだろう。おそらく、生活に結びついた損得・不具合・不条理と思われることも伴っており、簡単には受け入れられないことが背後にあるのだと思われる。たとえそうであってもとパウロは言いたいのだろう。「さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10)ここに戻ってくる。これは、異邦人のそしりをうけないためか、福音の前進のためか、または、ここにキリスト者が召された本質があるのか。わたしは、本質があるのだと思うが、パウロはどう考えていたのだろうか。わたしも、もう少し深く理解したい。
1Corinthians 2:2,3 なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。
ここで明確に「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」との決意が書かれている。アテネでの議論(使徒17:16-34)のあとで、このように「心に決めた」のだろう。ルカの使徒言行録における記述がどこまでパウロが受け取ったことと同じことを表現しているかは不明だが、偶像礼拝から真の神、イエス・キリストを死の中から復活させた方を宣べ伝えたが、復活のことが語られると人々は去っていったことが書かれている。おそらく、それなりに、ギリシャの学問にも精通していたパウロが、どのように語ったらよいのか考えたのだろう。弁証論だろうか。背景には、生前のイエスを直接は知らないこと、自分が経験したことを通して語ろうとしたことも含まれているように思う。しかし、この決断に基づいたと思われるパウロが語るイエスから、活動とことばが抜けてしまったのは、とても、残念である。もう少し、パウロの心をうけとれるようにしたい。
1Corinthians 3:21-23 ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
現実社会は、どうしても、立派な信仰者、または、説教者・論者などを誇り、それが分派を生んでしまう。その人の心に、強く響いたメッセージによって、その人が造り変えられたと感じるからだろう。それは、ひとの弱さ、理解力の足りなさもある。しかし、この章を読むと、原因はリーダーにもあるように思う。「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」(6)このような謙虚さは、おそらく、すべての影響力のある指導者が持っているだろう。しかし、同時に「私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」(10)と述べ、自分が確信をもって伝えた福音以外を持ち込むことを「この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。」(12,13a)としている。この判断は、とてもむずかしい。自分が受け取れていないことを伝えているのか、それとも、誤りなのか。矛盾が見え隠れする中で、寛容さと謙虚さを維持して、対することはとてもむずかしい。
1Corinthians 4:1,2 こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘義の管理者と考えるべきです。この場合、管理者に求められるのは、忠実であることです。
「秘義」は、あるいは「神秘」と書いてある。どちらにしても、分かるわけではない。「忠実」は πιστός  pistos(trusty, faithful, easily persuaded, believing, confiding, trusting)信仰や信頼とも約される言葉である。管理者に求められるのは、忠実さということばは自然だが、ここでは、神の秘義の管理者とある。まったく理解できない。ただ、その前に、キリストに仕える者ともあるので、キリストに仕えるものとしての忠実さと理解することもできる。それは、どのような意味だろうか。委ねられたことに忠実というのであれば、こちらが受け取ったことを基準にすればよいので、少しは理解ができる。そう理解して良いのだろうか。そこからはじめ、キリストを通して示された、神の神秘のような御心を追い求めることだろうか。難しいが、それは、できるかもしれない。わたしの考えに引き寄せて理解しようとしている。それで良いのだろうか。パウロは、なにを伝えようとしたのだろうか。もう少し丁寧に理解したい。
1Corinthians 5:11 今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
引用句のあとに「外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。あなたがたが裁くべき者は、内部の人々ではありませんか。外部の人々は、神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪人を除き去りなさい。」(12,13)と続いている。自らを律するという意味であれば理解できるが、このことにより、内部分裂を生むことも多いように思われる。それほど、簡単なことではない。しかし、では、自分だけに判断をかぎることが正しいのか。それも、自分を裁くことの問題も感じるとともに、そして、互いに、ある群れを検証することの必要性も感じる。正直、結論は出ない。このような、議論をもっと深めなければ、いけない。もう少し深く考えたいが、正直今はよくわからない。
1Corinthians 6:6,7 きょうだいがきょうだいを訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前でそうするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、あなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、奪われるままでいないのですか。
自然科学的な考察とともに、社会科学的考察、それも、批判的考察をしないと、すばらしいものを育んできたキリスト教コミュニティは再生しないのではないかと考えている。ここでは、司法が問われている。教会の中の問題は、教会で解決ができるはずで、解決の一つの鍵として、キリスト者の価値観によって、争いを回避する方法が語られている。そうなのだろうか。非常に小規模なグループの中では、可能なのかもしれない。しかし、ある程度大きくなってきたときには、様々な混乱を招いていることは確実であると思われる。また、キリスト者、非キリスト者とはっきりと分けず、神が愛しておられる一人ひとりと考えると、その人達を公平に裁くシステムが整っていることは、幸いなこと、それは、協力して構築していくべきことも必要不可欠だと思う。イエスをとおして学んだことが社会に生かされることを望むことだろうか。それが地の塩として歩くこと、神の愛をもって仕えることではないのだろうか。引用句から極端に問題を大きくしているようにも思われるが、パウロのことばにとらわれず、その背景と意図を理解することを通して、この問題についても考えていきたい。
1Corinthians 7:38,39 ですから、相手のおとめと結婚することは差し支えありませんが、結婚しないほうがもっとよいのです。妻は、夫が生きている間は結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主にある人に限ります。
男女関係、婚姻、結婚関係の中で「義務」(3)と書かれている性的行為などについても、社会学的にも、さらに、信仰生活を考える上でも、十分検討する必要がある。信徒同士以外の結婚が、価値観の違いによって、多くの困難を引き起こすことをたくさん見てきた。同時に、その中で、多くを学び、相手がキリスト者になるかならないかは別としても、互いに成長し、隣人にとっても、すばらしい模範となるような関係も多く見てきた。肉体的・性的欲求も、男女でおそらく異なり、個人差もかなりあるように思われる。簡単に語れることではないことは、よく理解しているつもりである。しかし、あえて、わからないから、パウロが語っていることにできるだけ従うということとも異なるように思う。神の御心がここに、すべて開示されているとは考えないからである。いまのときに、どのようにして、神のみ心に生き、互いに愛し合い、共に喜び共に悲しむものになるか考えたい。
1Corinthians 8:1,2 偶像に献げた肉について言えば、私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。
「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」は私の好きな言葉である。引用句のあとには「しかし、神を愛する人がいるなら、その人は神に知られています。」(3)と続いている。真実であるが、これを持ち出して、正しさからの裁きに向かうこともある。「愛」は神を愛することを基盤としているとは思うが、やはり隣人愛、互いに愛し合うことがたいせつだと思う。この章の最後の方に偶像に捧げられた肉を知識のゆえにたべ、弱いものを躓かせるならとして「そうなると、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。しかし、このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。」(11)とある。このような配慮を徹底させることが、律法的になり、別の裁きが発生することもあり、単純ではないが、尊厳を表現するとわたしが考える、11節後半はつねに心に留めたいことである。最初の引用句の後半には「知らねばならないように」は知っていないことが書かれている。知ることは、正直、自分は知っていないことを経験することだと思う。知らなかったことがたくさんあることを発見する営みでもあるのだから。
1Corinthians 9:6,7 あるいは、私とバルナバだけには、働かずにいる権利がないのですか。一体、自費で兵士になる者がいますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳からできたものを食べない者がいますか。
わたしは、専業の福音宣教者は必要ないとは思っていない。しかし、他の仕事をしながら、神のことばに仕えるひとがもっともっと必要だし、それが、基本だと考えている。仕事も多様化している現代では、それが可能になっているとも思う。わたしのような特殊な歩みをしたものにとっただけそれが可能なのだろうか。それを否定することは、難しい。違う人生を生きることはできないから。しかし、生活の糧を得ながら、神の恵みを伝える、専心したキリスト者が、福音をより深く理解するためには必要である。現状では、あたまでの理解を教え込むことが中心となり、それぞれのひとが学ぶことには、なかなかつながらない。学ぶ主体は多様である。その一人ひとりに適したことばで語り、ともに生きることは、教義を教え込むことではできないと思うからである。「教育から学習へ」教師から学ぶ者に視点を移し、指導から支援に注力する対象を変える必要を強く感じているからである。それが、一人ひとりを大切にすることであるから。むろん、解答を得ているわけではないが。
1Corinthians 10:32,33 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私が、何事につけ、すべての人を喜ばせているようにです。私は、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めているのです。
なかなか大変なことを言っている。おそらく、すべてのひと、ここでは、ユダヤ人とギリシャ人だが、その人達の利益、祝福された存在となり、神に栄光を帰すようになることだろうかを求める中で、このような思いが強くなっていったのだろう。それは、神様の心を心とする、World Vision を持つこととも言い換えることができる。とくべつに、大きなことではなく、それは、隣人を自分のように愛すること、互いに愛し合うこと、共に喜び、共に泣くことのなかに、本質があるのだろう。
1Corinthians 11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の諸教会にもありません。
女性の被り物が(今、まさにアフガニスタンで、そして、正反対の課題としてフランスで)議論となっている。この章は「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」(1)から始まっており、そのパウロの考え方として「自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れなのです。長い髪は、覆いの代わりに女に与えられているからです。」(14,15)が語られ、引用句に続いている。世界を見て判断していることは、ある意味で科学的判断だとも言える。しかし、見ている範囲は、とても狭い。パウロの当時であっても、世界とは言わず、近隣に目を向ければ、ことなる習慣をもっている人たちはいただろう。前の章で、すべての人を喜ばせるためと言いながら、すべての人を理解することはできていないことが背景にあり、問題なのだろう。むろん、批判ばかりしていてはいいけない。パウロの生きた世界で、1節にあるような、模範を自分自身に求めざるを得なかったのだろう。イエスの生き方、ことばをまずは学びたい。
1Corinthians 12:4-7 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
様々な働きがこのあと語られている。教会内の分業とも言える記述や、どうしても賜物のあるなし、能力の高い低いに結びつきやすい、これらの記述に問題を感じていた。それは、これらの弊害であって、このようなことがなにもない時代にある程度の整備が必要だったとしてパウロが語っていることとは、別のようにも今回思った。しかし、このように書かれているということを、そのまま受け取り、それから演繹して、正しい、正しくないを決める教会の弊害について見てきたために、わたしは、上に書いたような負の面を考えるようになったのだろうとも思った。書かれた背景を考えることで、一歩進めるようにも思う。Bias(偏見)を持たずに、自由に思考することはなんと難しいことか。
1Corinthians 13:1-3 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
今回読んでいて、これは、ここまで書いてきた、パウロの自戒を込めた、言葉なのかなと思った。様々な、具体的な問題・課題について書いてきて、突然、愛に関することが始まる。「最も優れた道」(12:31b)ということばでつながってはいるが、本当にたいせつなことから離れてしまっているかもしれない、普遍性・通時性の乏しいことを並べ立ててしまっているのかもしれないと反省して、それらに優って、鍵となることを書こうとしたのかもしれない。最初に書いたように、それは、自戒の面も含んでいるかもしれない。パウロの文書をなかなか素直に読めない自分についても、反省し、その背後にあるものを考えながら、これからも、読んでいきたい。
1Corinthians 14:29-31 預言する者も、二人か三人が語り、他の者はそれを検討しなさい。座っている他の人が啓示を受けたら、先の人は黙りなさい。皆が学び、皆が勧めを受けるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
この章では、異言について厳しく戒め、預言を推奨しているが、女性には厳しい。かなり、教会の中で混乱する状況があったのだろう。したがって、普遍化は気をつけるべきである。ここでは、預言について語られているが、何人かが語ることが推奨されている。預言は説教のようなものだと思っていたが、一人ひとりがうけた恵みのメッセージを分かち合う証に近いものなのかもしれない。いずれにしても、皆が学び、皆が勧めを受けるように、何人もが語ることが行われ、かつ推奨されていることは、確実なようで、正直すばらしいと思う。このあとに、女は教会で語るなとしているが、そのようなことが拡大して、語る人は特定の知識を持った人になっていったのかもしれない。母教会で、稚拙ではあっても、恵みをうけ、感動もする、信徒の証を毎週聞くことができた経験は、わたしにとって、とても、素晴らしい経験であった。牧師のリーダーシップと忍耐、見識だろうか。
1Corinthians 15:5,6 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。
このあとに、ヤコブ、すべての弟子、そしてパウロと続く。しかし、最初とは書かれていないが、ケファ(ペトロ)が最初に書かれていることに、前章からのつながりとして、違和感を持つ。最初には、女達、または、マグダラのマリアに現れたのではなかったのか。それを、なかなか受け入れないような状況こそが、問題だったのではないだろうか。福音書は、女性の働きを多く描いている。そして、イエスの活動に、女性が従い、仕え、イエスが、一人ひとりに丁寧に接している様子が生き生きと描かれている。パウロが教会の運営を指導するとき、それは、邪魔だったのだろうか。イエスの活動とはことなり、社会の仕組みを保持することも、キリスト教会にとっては、重要だったのだろうか。そのような時代性はあったようにも思う。
1Corinthians 16:12 兄弟アポロについては、きょうだいたちと一緒にそちらに行くようにと、何度も勧めましたが、彼には今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
「あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。」(1:12)に始まり、3章・4章は、パウロの役割とアポロの役割を説明している。パウロとアポロはコリントの教会にとって、非常に大きな存在だったのだろう。それが分派を生むような状況について、パウロは非常に憂え、その解決のためには、この機会に、アポロがコリントに行くことが望ましいと望んでいたのだろう。(パウロは行かないことにしたようだ。(2コリント1章23節))しかし、アポロには別の考えがあったようである。興味深い。わたしたちは、アポロの心のうちを知ることはできないが、パウロは、アポロを信頼し、この件について、神様に委ねているように見える。聖書の背景について、わたしたちには、知らされていない部分が多いということは、解釈において、謙虚にさせられ、こころに留めるべき大切なことであると思う。

BRC2021(2)

1 Corinthians 1:10 さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
このあとには「あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。」(12)とある。党派的な行動が考えられるが、おそらく、より具体的な問題が背景にいくつもあるのだろう。それらについてどう解決するかを考える中で、対立が起こってくる、明確には、どの解決方法がよいか不明なときには、このように、単純な党派的対立が起こるのではないかと思う。どうしたら良いのだろうか。この章には「それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(29)とある。たしかに、知識・知恵による判断が分裂を生むということなのだろう。互いに愛し合うことの本質を学ぶことにあるような気がするが、それは、さらに難しことなのかもしれない。
1 Corinthians 2:11 人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
これは確かである。しかし、わたしたちが、神の霊を受けることは、恵み・約束として理解することはできるとしても、「私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。」(13)とあるが、どちらから出た言葉か、判断できるのだろうか。おそらく、それは、客観的にはわからない。明確な基準を与えることはできないが、ここに、重要な問題の判断を委ねるのは危険でもある。わからないことを意識することは出発点ではあろう。そのうえで、基準を設けて、少し長期間を通して判断することだろうか。実際には、解決方法は、だれにも見えていない場合が多く、それぞれの考えの中に真理がある場合もある。その中から、少しずつ、修正しながら、解決へと向かえると良いのだが。実際の課題に関しては難しいのだろう。
1 Corinthians 3:19,20 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。/「神は知恵ある者を/その悪だくみによって捕らえる」と書いてあり、また、/「主は知っておられる/知恵ある者の議論が空しいことを」とも書いてあります。
知恵の愚かさ、誰も、人間の知恵を誇れない(21)ことが書かれている。前半は「知恵ある者を彼ら自身の悪だくみによって捕らえ/曲がった者のたくらみは破綻する。」(ヨブ5章13節)後半は「主は知っておられる、人の思いを/その空しいことを。」(詩篇94篇11節)からの引用である。パウロは、旧約聖書を全巻持っていたのだろうか。「パウロもアポロもケファも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(22,23)なぜ「あなたがたのもの」なのか不明である。「アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。」(5)を受けているのだろうか。
1 Corinthians 4:16,17 そこで、あなたがたに勧めます。私に倣う者となりなさい。このことのために、テモテをそちらに遣わしたのです。彼は、私の愛する子で、主にあって忠実な者であり、至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方をあなたがたに思い起こさせることでしょう。
この前の「あなたがたに、キリストにある養育係が無数にいたとしても、父親が大勢いるわけではありません。キリスト・イエスにあって、福音を通して、あなたがたを生んだのは、私なのです。」は気になる。イエスに倣うものでないことが以前から気になっていた。パウロは、イエスのことについては、十字架での贖罪以外ほとんど書かないことと関係している。しかし、ここでは、おそらく、「キリスト・イエスにある私の生き方をあなたがたに思い起こさせる」テモテの派遣に重点があるのだろう。福音書とパウロ書簡の記述の差異、焦点の当て方は気になるが、それを強調することは、分断を生じさせることになるのだろう。それぞれの適切な評価と扱いがたいせつである。
1 Corinthians 5:11 今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
外部の人ではなく、内部の人に限って交際をたつべきことを言っている。それは、内部と外部が明確になっていること。さらに、基準がはっきりしていることが重要であるが、基準が内部と外部の境界と連動していなければ明確にはならない。しかし、項目としてあげたことが、内部と外部の境界であれば、これもまた問題となる。イエスをキリストと信じ、そのことを告白し、従っていく者が、もし分けるとすると、内部と外部を分けるものであるはずだからである。おそらく、不道徳にどうむきあうかということをともに考えるべきなのだろう。しかし、それぞれのひとの文化的背景が多様である場合は、非常に困難である。「今度はこう書きます」とあるが、これは、修正し続けなければならないように思う。
1 Corinthians 6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな争いすら裁く力がないのですか。
「仲間のもめ事」(1)の解決について述べている。しかし、引用句にあるように、教会で裁くことは、一般的には、難しい。おそらく、パウロの中には、ユダヤ人コミュニティの中で行われていた経験があるのだろう。それがどのようなものかは、明確にはわからないが、まだ、未発達の教会組織において、このことを実行するのは、難しい。そして、ローマ帝国では、その中での問題解決がある程度できていたろうから。原則を述べていると考えたほうが良いように思う。おそらく、倫理的な問題で、教会の中で処理できるものと理解していたのだろう。そうであっても、実際には、その手続などが公平・公正に確立するのは、あまり簡単ではないが。
1 Corinthians 7:39,40 妻は、夫が生きている間は結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主にある人に限ります。しかし、私の考えによれば、そのままでいるほうがずっと幸せです。私も神の霊を受けていると思います。
結婚について非常に具体的に書かれている。同時に、引用句も含めて「もっとも、私は譲歩のつもりで言うのであって、命令するつもりはありません。」(6)「さらに、既婚者に命じます。妻は、夫と別れてはいけません。こう命じるのは、私ではなく、主です。」(10)「これを言うのは、主ではなく、私です。」(12b)「未婚の人たちについては、私は主の命令を受けていませんが、主の憐れみによって信任を受けた者として、意見を述べます。」(25)などと、自らの考えについても、注意をはらって語っているように見える。そして、引用句にもあるように、「召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」(24)を基本としている。おそらく「時が縮まっている」(29b)が鍵なのだろう。そして、おそらく、この状態を、パウロは自分の身にひしひしと感じていたのだろう。判断は難しい。今の情況をパウロがみたらどう感じ、考えるだろうか。その判断も簡単ではない。難しい。
1 Corinthians 8:11,12 そうなると、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。しかし、このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。このように、きょうだいに対して罪を犯し、その弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
パウロ書簡に、この考え方が時々現れるように思う。(ローマ14章15節)「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3章16節)にもつながることのように思う。他の表現で、同じ考え方を表現している箇所もあるように思う。もう少し調べてみたい。「たいせつな方の、たいせつなひと」の考え方である。
1 Corinthians 9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらそうではありませんか。しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を妨げないように、すべてのことを耐え忍んでいます。
この章を読んでいても、背景が明確にわかるわけではない。どんな問題があったのだろうか。しかし、おそらく、パウロは使徒ではない。(1,2)と使徒より一段低くみる人がいたり、自費ではなく、支援を受けることに対してそのような権利があるのか(4-6)などの批判があったのだろう。「節制」(25)について最後に述べているが、多くの批判の中で生きることはたいへんである。多くの場合、本質的ではない場合が多いのだから。苦労はある程度わかるように思う。
1 Corinthians 10:23 すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが人を造り上げるわけではありません。
最初には「この岩こそキリストだったのです」(4b)など比喩的解釈が気になった。引用句は、これまで何度も印象に残った箇所だが、「子となる権能」(ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases)を考えると、とても、たいせつに思う。すべてのことが許されているが、すべてのことが益になるわけではない。そのなかで、どのように生きていくかが求められている。これがキリスト者の自由なのだろうか。もう一度、読んでみたいとも思う。
1 Corinthians 11:12,13 女が男から出たように、男も女から生まれたからです。そして、すべてのものは神から出たのです。女がかぶり物を着けずに神に祈るのがふさわしいことかどうか、自分で判断しなさい。
この章の後半には、主の晩餐、聖餐式のことが、すでにある程度形式として定まったものとして記されている。そして、この聖餐式をどう理解するかに、キリスト教会の各教派分裂の大本があるともされる。引用句は、イスラム圏で現在再燃している、ブブカやヘジャブを女性は付けなければいけないかという議論にも関係している。引用句では、「すべてのものは神から出た」と、男女の差は、基本的に無いとしつつ、このあとでは「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の諸教会にもありません。」(16)とある程度、一方の考え方を切り捨てている。さまざまな背景のひととともに、食事をし、礼拝を持ち、生活をともにするときには、これまでも、起こり、そして、これからも、起こることなのだろう。おそらく、それを、止めることは、完全に排除することは、できない。聖霊(神様)の導きをと求めながら、自分で判断しつつ、異なる考えのひとと共に食事をし、礼拝をし、生きていくために、互いに仕え合い、愛し合い、平和に過ごすものでありたい。
1 Corinthians 12:23 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。
このあとには「神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。」(28)とあり、主眼は、キリスト教会の中での役割が想定されているようだ。しかし、コリント前書は、分裂が各所にある教会における一致が目的とされているように思う。そう考えると、引用句も、広く考えるのが適切だろう。「私たちは(中略)見出します」となっているが、見いだせない場合もあるだろう。神様はどう見ておられるか、それがわからないということもふくめて、自分の見方が絶対的ではないことを、自分がつまらない部分だと思う人も、自分は尊い部分だと思い、つまらないと思える部分を見るときも「実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしている」ことを覚え、神様は違う見方をされるかもしれないと自戒したいものである。これも、それほど簡単なことではなく、大きなチャレンジだが。
1 Corinthians 13:4-7 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
表現は美しい。完全な愛はと「愛」を読み替えれば、そのようなものかと思うが、このことにどのように向き合うかを考えると、自分の足りなさ、不完全さの理解は進むかもしれないが、力が与えられるわけではない。飛躍かもしれないが、正しさは、喜びを与えないとも思う。現在、テーマとしている「互いに愛し合いなさい」の「互いに」を求めていくことは、時間がかかり、進展が見えないようにすら感じるが、ときどきに、喜びは感じることができるようにも思う。むろん、無力さを感じることもあるのだが。やはり難しいとしか言えない。「真理」と言われるものを、このように示されても、それは、その元である、神様との交わりを深くするわけではないということだろうか。
1 Corinthians 14:19 しかし、教会では、異言で一万の言葉を語るよりも、他の人たちを教えるために、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります。
まず「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(1)と語ってから、異言について語り、そのあとで「しかし、預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語っています。」(4)神に、自分の霊性を承認していただくよりも、教会できょうだいにたいして語り、仕えることが価値が高いことを言っている。ひとが何に向かえばよいか「愛」に向かうことのひとつの方法をこのように述べているように見える。価値を示しているのだろうか。丁寧に学んでいきたい。
1 Corinthians 15:1,2 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
このあとに、最も大切なこととして伝えたのは、キリストが死に、三日目に復活したことだと語り(3,4)、さらに、復活がなければ、希望はない(19)とする。背景に、しっかりとした教義、そして、旧約聖書理解があるのだろう。しかし、やはりあやうく感じる。パウロにとっては、まさにそうだろうが、たとえば「イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始めたマルコや「わたしがあなた方を愛したように」と説く、ヨハネは、おそらく、福音について、異なる表現をするだろう。わたしは、それでよいと思うが、それではいけないとして、教義を整備する人もいる。なかなか難しい。たいせつにすることは、みな、すこしずつ違うように思う。それこそがひとりひとりが神様に愛されているという尊厳でもあると思う。引用句の「今もしっかりと覚えていればの話しですが」が印象的だったので書いてみた。
1 Corinthians 16:1 聖なる者たちのための募金については、私がガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも行いなさい。
募金、寄付の文化は、「施し」という形で、ユダヤ人社会には根付いていたのかもしれないが、現在の日本をみても、一般的とは言えないだろう。いちばん大切なこととして伝えた「復活」とは非常に遠いように思う。また、この募金は、貧しい人たちとして、エルサレムの使徒など、信徒への贈り物である可能性が高い。ていねいな説明、それがほんとうにたいせつなことだとするには、パウロの論理では難しいように思う。一般的ではないのだから。パウロも自分の背景に大きく依存した論理だてになっているということだろう。

BRC2019(1)

1Cor 1:8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
この前の節で「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(7)となっている。この希望が完全なものにしてくださるといっているのだろう。フィリピ1章6節の「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」ともつながっている。成長がここに書かれているのだろう。「完全なもの」「非のうち所のないもの」は「神の子」と言えるものなのかもしれない。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(1ヨハネ3章2節)
1Cor 2:16 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
聖霊は、神の霊であるから、聖霊を受けていれば、神の霊によって、神の心を知ることができる。すなわち、神のこころを心とすることができるのである。しかし、現実には、正直、そうは言えない。ということは、聖霊を受けていないと言うことだろうか。当時の人々はそれをどう考えたのだろうか。これも、からしだね一粒ほどの信仰なのだろうか。一部、与えられているのだろうか。
1Cor 3:21-23 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
わかりやすいとは言えない。「あなたのもの」とは何を言っているのだろうか。すべては、あなた方のために、キリストに捧げられたものだということだろうか。ここでは、パウロ、アポロなどの名前をあげて、優劣争いをしているように、思われる。分派だろうか。すべて、神のものであるならば、本当にばからしいことである。しかし、おそらく、現実の問題があったのだろう。分派をおこすほどのことが。なにかは、わからないが。
1Cor 4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
パウロとアポロ(6)がまず想定され使徒について書かれているようだが、引用したことばは、かなり強いように思う。「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」としている。神の計画をひとのことばで伝える者だろうか。ゆがめられてはいけない。それが「管理者に要求されるのは忠実」(2)に現れているのだろう。そして「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」(9)と述べている。ある程度は理解できるが、委ねられている範囲をどのように受け取るかまで自己決定できると言っているようで、委託とはなにかについて考えさせられる。責任を大きく取り過ぎているのではないか。使徒がそれだけ特殊なのか。みことばに仕える者はすべてそうなのか。ここでは、パウロとアポロと言っているところからすると、後者を否定することは難しいだろう。
1Cor 5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
絶対的基準はあるのだろうか。当時の理解について、わたしは何もわからないので、コメントできないが、「父の妻をわがものとしている」ことが「みだらな行い」かどうか、絶対的なものなのだろうか。一夫多妻制など、クリスチャンに迫害されたモルモン教徒の場合などを思い出す。旧約聖書の基準からは、明らかな律法違反である。しかし、その律法には、族長たちにも見られた行為も含まれている。引用句にあるように「異邦人の間にもないほど」と言っているが、当時として、異常だったのだろう。ある相対的な価値判断の中での強い言葉なのか、普遍的なものなのか、おそらく、パウロは、そのような比較はしなかったのだろう。全体として、この問題がどのように扱われたが、問われるべきだろう。すべてが、ここからわかるわけではない。
1Cor 6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
口語でも「正しくない」ということばが使われている。「教会では疎んじられている人たち」(4)とも言い換えられている。世のことと、霊的な問題を分離している、福音は、信仰は、特定の部分のみに、関係するとする人たちを戒めているのだろう。しかし、拡大解釈すると問題も起こる。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。」(5b)とも言われているが、複雑な問題が多く出現するなかで、そして、専門化が進む中で、どんどんこの状態が広がっているようにも思う。どうすれば良いのだろうか。おそらく、切り分けることではなく、両面をていねいに対応していくことなのだろう。もしかすると教会の外と中と分けるのではなく、トータルな考え方も必要なのかもしれない。
1Cor 7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。
興味深い。これは、夫婦間のみにあることなのだろうか。キリストとつながっている交わりに入ることで、聖になるということは、ないのだろうか。この節の論理も明確とは言えないと考えると、注意して議論したほうがよい。しかし、その前に、「聖なる者とされている」とはどのような意味なのかを確認することだろう。主との交わりが許されているということであれば、最初から制限がないのではないだろうか。主によって。
1Cor 8:11,12 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
徹底している。偶像に捧げられた肉の問題は、他の見地もあるだろう。しかし、パウロは、人の義と神の義を自由人としての行動を通してここで説明しているように思う。明確な言葉では書けないが、限定的な人の義は、ひとを生かすものではなく、神の義は、ひとを救い、解放し、自由を得させ、他の人への愛をとおしての、他者の救いへと向かわせるものなのだろうか。
1Cor 9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
使徒言行録だけを根拠に考えると、パウロがコリントを訪問したのは、エルサレム会議のあとの、第二回伝道旅行であったはずである。そのときには、すでに、バルナバとは別れて行動したことが、15章に書かれている。しかし、ここでは、「わたしとバルナバだけ」と、バルナバを特別に例示している。背景は、いくつか可能性があるだろうが、この手紙の時点でも、ある信頼関係があったと思われる。使徒言行録に記録としての不正確さがある可能性もあるが。
1Cor 10:16,17 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
出エジプトの民の例をあげ、その人達も皆、「同じ霊的な食物を食べ」(3)「同じ霊的な飲み物を飲みました。」(4)とし、その上で「偶像を礼拝してはいけない」(7)と戒めている。わたしたちは、キリストの体にあずかっているのだから、偶像に献げられた肉に関しても、キリストと一つでとされているものとして、考えなさいと言っているのだろう。この中で13節「逃れる道をも備えていてくださいます。」については、わたしは、よく理解できていないようだ。いつか、じっくりと学んでみたくなった。ここは、何を伝えたいのだろうか。
1Cor 11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
当時の背景を理解しないといけないだろう。それだけではなく、おそらく、このように書くのは、背景にコリントの人たちの間に混乱と問題が生じていたことがあるのだろう。手紙の難しさは、そのことを、当事者(差出人と受取人)はある程度共有しているが、わたしたちは、正確には理解し得ないことである。パウロのことばとしても、論理的整合性が高いとは言えない。「というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、」(8)と言っている一方「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」(11,12)ルールとして語っているのではないからだろう。あるメッセージを伝えようとしている。結局の所、問題は、これをどのように、我々がうけとり、どのように、解釈するかの問題であろう。
1Cor 12:19,20 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
教会の全体主義に進んでいってはいけない。ここで言われていることは、wholeness だろうか。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(26)と表現されるものである。原理主義的に考えず、共に苦しみ・泣き、共に喜ぶことに、キリストの体をつくっているというパウロの原点があるのだろう。そこを失ってしまうと、単なる全体主義に陥ってしまう。「全体」という架空のものに「部分」が従属するということに。この次にある、愛が働いていなければ、すべては虚しい。
1Cor 13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
「どのようなことであったとしても-愛がなければ無に等しいのか」を考えた。おそらく、この前の12章につながっているのだろう。「教会がひとつになっていたとしても」「それぞれが賜物をもって、立てられていてもだろうか。」パウロの思考の中でも、伝えたいメッセージを明確にするために、誤解をさけるために、いろいろなことを述べていく中で、この13章が生まれているように思われる。「愛がなければ、わたしに何の益もない。」(3)
1Cor 14:13-15 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
これだけ、異言について書かれているということは、おそらくかなりの問題が生じていたのだろう。そのことを、多少割り引いて読むべきなのかもしれない。霊と理性が対比されている。解釈までも求められれば、異言が語れなくなる場合もあり、困惑する人も出てきたろう。ただ、パウロの論理も、明確とは言えない部分があるように思う。「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。」(22)と書きつつ、同時に「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。」(23)とし、ここでも、預言を推奨している。現代にも通じる教えではあるが、あまり強調しないほうがよいかもしれない。大きな問題を生じるまでは。預言も理性の部分も同様に、問題を生じるだろうから。
1Cor 15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
かなり丁寧に、「キリストが復活しなかったのなら」の帰結を、書いている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」(3)とキリストの死からはじめる、パウロにとっては、たしかにそのとおりだろう。これは、アテネで受け入れられず、コリントに来て、そこで語ったときから、「最も大切なこととして」伝えたことなのだろう。イエスの地上での生活に目を向けない。「地の塩、世の光」のメッセージはない。しかし、フィリピの信徒への手紙では、イエスの謙虚さを丁寧に述べており(フィリピ2章5節-8節)十字架の死に至るまでのイエスにも、多少光を当てている。パウロの中でも、変化がある程度はあったと、見るべきなのだろう。
1Cor 16:1 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。
正確にこの手紙がいつ書かれたかは不明であるが、宣教後、ある程度早い時期にエルサレム教会のための、募金を指示しているようだ。宣教の途中でも、エルサレム教会の支援が大切であることを、折に触れて語っていたのだろう。パウロの負い目、戦略とも言えるが、コリントの人たちにとっては、それが可能なだけではなく、とても、重要と考えていたのだろう。実際に、どの程度の献金が送られたかは、不明であるが。

BRC2019(2)

1Corinthians 1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
直前の19節は「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」(イザヤ29章13,14節)からの引用のようだ。「すでに、人間が書いた戒めを覚えて、御心に近づくことはできない」ということだろうか。広い意味では「律法」も「聖書」も「人間が書いた戒め」なのかもしれない。同時に、神が「驚くべき業を重ねて」いるにも関わらず、そこから学ばないこともあるように思う。「反知性」的な動きである。しかし「宣教の愚かさ」は難しい。(人間が語った)神のことば・みこころの宣言を覚え込むだけで、心は遠く離れていることも十分起こりうるからである。パウロが自分の知恵を十分に発揮していることも事実である。十字架の死と復活という内容限定で述べている可能性が大きいが。
1Corinthians 2:2,3 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
使徒言行録17,18章によると、アテネで「復活」を語ると嘲笑され、あまり信じるひとがいなかった直後にコリントに行ったことが記されている。「十字架につけられたキリスト以外」には二通りの意味があるように思われる。ひとつは、十字架の死による贖罪(神様との交わりができるようになること)の強調。もうひとつは、パウロがおそらく貫いてきた人間イエスの活動ではなく、イエスがキリスト(救い主)であることの宣言の二つである。イエスをキリストと信じるようになった人々には「隣人を愛すること」など、イエスの教えから引き継いだことが含まれていたのだろうが。パウロはアテネでのことを挫折と考えていたのかもしれない。本人の博学をもって証明できると考えていた復活のキリストが受け入れられなかったのだから。経験から学び「衰弱死、恐れに取りつかれ、ひどく不安」ななかで、ひとは変えられていくのだろうが。難しい。
1Corinthians 3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
ひとと人との交流はたいせつである。しかし、往々にして、その背後におられる、神様を見逃してしまっている。Florence Nightingale のいうように、医師が外科手術でたいせつな役割を果たしたとしても、その傷口をふさぎ、その人を回復させることはできない。回復はそのように造られ守っておられる神様の恵みである、と語っている。聖書の会は、いろいろな意味で、おおくのひとにとってたいせつなものになったと思うが、それも、背後におられる神に目を向けるためであったと言える。ある時期、ひとりひとりの背後におられる神様の働きを見せていただくこと、それを喜ぶことが会を続けていくたいせつな要素だと言っていたが、まさに、そのとおりだと思う。このあとには「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」(10)ともあり、わたしも、ついつい、最後の頃に来てくれた人数などに目が行ってしまう。しかし、自分もそこで働いておられる神様に向けることとともに、他のひとにも、それを指し示すことができるようになればと願う。
1Corinthians 4:15,16 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
パウロはコリントの人たちにとって特別な存在であることを強調している。それが、分裂の根となった可能性は十分にある。「父」としての思い、愛情の大きさとともに、情熱が強すぎるのだろう。おそらく、パウロを「父」としないひともすでにいただろう。正直「わたしに倣う者になりなさい。」の問題を感じる。しかし、同時に、本当に、パウロは、、最初にコリントに福音を携えて行った人であり、孤軍奮闘していたのだろう。そう考えると同情もする。しかし、また、神様は、パウロが来られる前から、一人ひとりに働いておられたとも信じる。パウロが宣教したときであっても、そのひとが受け入れ、信じるかどうかは、それほど単純なことではないことも、われわれは経験的に知っている。現代の宣教においても、たくさん見て問題点として思ってきたことでもある。模範となろうとしていたことは理解できるが、やはり、イエスの地上での生き方を模範として指し示していない部分に、問題を感じる。
1Corinthians 5:11-13 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
「ある人が父の妻をわがものとしている」(1)と問題を表現している。列王記上2章のアドニヤがアビシャグをもとめたことを思い出させる。おそらく、ある文化のもとでは「みだらな行い」とは考えられていなかったかもしれない。たしかに、内部の人々について判断せざるとえないことはあるだろうが、教会の戒規も含め、これがひとつの線引、差別、分裂を生じさせることもある。裁きについても調べてみないといけないが、組織にとっては、困難な問題である。一般論は述べられない。最近考えている言葉では、ひとりひとりの尊厳(神様が造り・導き・愛し・この兄弟のためにもイエスが十字架にかけられた存在であること)をたいせつにし、担保することとともに、公平性(互いに愛し合うことに根ざし、特に社会的別け隔てをしないこと)をたいせつにし、担保することである。この原則が絶対的なものであるかどうかは、まだわからないが、この基準をしばらく意識して、考えていきたい。
1Corinthians 6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
この問題も慎重に議論すべきである。「それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。」(4)とあるような目にあまる状態が背景にあったのだろう。しかし、それを、一般化して、引用箇所のようにし「わたしにならうものに」といえば、混乱が起きることは必然である。そして、それは、現代の教会にも問題として、引き継がれているように思う。科学と信仰の問題とも、世の権威と神の国の関係とも、裁くことはなにを意味するのかとも関係し、困難な問題である。早とちりして、語ることは慎むべきだろう。聖書の文字を絶対化することとも関係しており、難しい。
1Corinthians 7:25,26 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。
結婚について「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。」(1,2)とあり、このことに応答するかたちでこの章が書かれている。また、応答者と応答の権威について、引用箇所に書かれている。「こどもが聖なるものとされている」(14)ことや「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(16)なども含め、わからないことについても、述べてはいるが、少なくとも、わたしの答え方とは異なる。これらのパウロのことばを神のことばである聖書に記されているとして権威をもって受け取る人たちが多いことも考えると、問題をも感じる。むろん、パウロは自分の書いたものがそのように使われることは考えていなかったろうが。
1Corinthians 8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
引用句は「わたしたちにとっては」と始まり「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。」(7)と続けている。この章の最初には「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」(1)とある。なにを目指しているか、たいせつにして生きているかを考えること、そのように求め続けて生きる人たちと共に歩むことをたいせつにしたいとわたしは理解したい。共に、食卓につくことの、たいせつさも、忘れてはならない。同じ舟に乗っていることも。引用句は、信仰告白ではあっても、そこから演繹する根拠にすることは、たいせつなことをたいせつして生きることから外れてしまうということだろう。
1Corinthians 9:22,23 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
この章は最初から攻撃的とも言える議論で始まる。パウロたちを批判するひとがたくさんいたことがわかる。(3)以前は、引用句などはとてもすばらしいと思っていた。今は、異なる感覚を持っている。「福音のため」という目的達成による価値判断、また、神の御心の理解は自分の解釈が正しいとしてしまう点、互いに愛し合う状態を阻害する事態が広がっていると思われる…である。特に、最後の部分、わたしもそれこそが神の御心だと絶対化はしたくないが、すくなくとも「福音のため」の理解に幅があるとは思う。キリスト教会において、世の中において、これらの問題から、神様は喜んでおられないのではないかと思われる事態がたくさん起こっていると思うからである。弱い人に対しては、弱い人のように。これは、弱い人をも神様が愛しておられることを、学び、自分も変えられていくためではないのだろうか。
1Corinthians 10:28,29 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
すばらしいと思ってきたが、いまは多少違う。「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。」(33)に違和感を感じるからである。引用句はとても親切、優しく見える。しかし、その裏には、自分が与えられていると信じている使命を全うするためという「下心」が見えている。これは、パウロを批判するというより、キリスト教会でも頻繁に見られることである。イエス様が、私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことをたいせつにしたいからで、そのこととは、明らかな違いがあると思えるからである。「互いに」むろん、簡単なことではない。しかし、次善の策を絶対化してはいけない。
1Corinthians 11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
2節から16節まで問題となる箇所である。ヘブル語を丁寧に調べないといけがいが「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2章18節)とあり、また、1章27節にあるように「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」が前提であるから、人に合う(ふさわしい)助け手が必要であるとも理解されている。パウロもこのあと「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」(12)と書いている。本質的な部分を考えれば、女が男のために造られたとか、「男は神の姿と栄光を映す者」(7)などという結論は出てこないはずである。また髪の長さも、女性ホルモンの影響があるとしても、統計的差異が生じるだけで、文化的な影響も強いものだろう。それを「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。」(16)のように断言してしまう。やはり人間の限界でもある。おそらく、ほかの聖書の箇所と同様に、それを絶対的な神のことばとして受け入れるべきと演繹してしまう、人間の弱さと限界もあるのだろう。もっと学ぶこともありそうだ。
1Corinthians 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
還元論の問題点を述べていると理解すればよいが、27節以降の教会組織論の全体を是認するところに適用していると考えると、おそらく問題も生じるだろう。これも、聖書をどのような書だと理解するかにも関係するだろうが。おそらく、ここにあるキリスト教会の組織の記述を絶対的なものとして、パウロが書いてはいないだろうから。一つの霊の働きとしても、天で行われているように、地でも行われていないことを考えると、「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(3)は、原則であって、これから演繹することは、困難である。人間の論理を絶対化することの問題だろうか。
1Corinthians 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
「それゆえ」とある。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」(1,2)から続いている段落が先行している。突き詰めて考えると、信仰は、何に信頼を置くかに懸かっているが、それが不完全な理解であれば、価値のある部分があり、いつまでも残るにしても、完全とは言えないのだろう。特に、信仰の核心はというような議論になると、正確には述べられないのだから。希望もにているかもしれない。将来が不明だからこそ持つもので、希望をもって生きることは尊重されるべきであろう。愛はどうなのだろうか。これは、評価が難しい。愛の動機は不純なものが混じっているだろうし、継続的に愛することが求められるところでも、続かなかったりする。しかし、されど、愛、なのだろうか。自分の中に対象がない、完結しないことは確かである。おそらく化学反応的な部分もあり、愛が愛として存在するためには、何らかの相互性も関係しているのだろうか。応答性である。いつまでも残る理由は、愛とはなんだろうか。
1Corinthians 14:2,3 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(1)から始まっているが、愛の正体にも関係するが、パウロの願いは、キリスト者のあつまり、教会のなかで、人々が造り上げられ、励まされ、慰められることだったのではないだろうか。愛は、それを可能にするが、異言は、神に向かって語るだけで、人々を造り上げることには寄与しないかもしれないと。もう一歩進んで、神のみこころ、神の国、神の支配によって、人々のなかになされることに、関心があったということだろうか。「天におけるように地の上にも、御心が行われること」が、愛と密接に関係しているとも言えるかもしれない。父なる神と、イエス様の関係が想定されているのだろうか。難しいが、すこしまた考えが進んだように思う。
1Corinthians 15:3,4 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
パウロはこれがもっとも大切なこととして「福音」(1,2)としている。イエスの言われたこと、ヨハネが伝えていることとは少なくとも、表現上は非常に異なる。それを、認識せず、すぐ、その整合性を説こうとするのは、正面から「最も大切なこと」に向き合わないことだと思う。復活(あたらしい命に生かされること)について「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(44)とある。蒔かれたものにいのちの元(素)がなければ、そこから芽はでない、背後におられる神様についての認識も不可欠だろう。簡単に折り合いをつけるのではなく、これからも、最も大切なこととしてなにを受け取るのか考えていきたい。それを「福音」として「永遠の命」として生きていくのであれば。
1Corinthians 16:3,4 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。
この「聖なる者たちのための募金」(1)を届けることが、実際に、パウロがエルサレムに向かった時と一致しているのかは不明である。そのようなことが何回かあった可能性も大きいからである。しかし、このような機会を通して、自分が行くべきかどうか、つねに考えていたことは確かだろう。「聖なる者たち」という表現をあえて使っていることも意味があるように思う。15章の復活証言でも、ケファや、十二人、(同時に)五百人以上もの兄弟に現れ、ヤコブやすべての使徒に現れた(15:4-8)としている。イエスの活動や教えではなくても、パウロが最も大切なこととしている、贖いの死と復活(15:3,4)には「聖なる者たち」欠かせない存在だったのだろう。復活には、死の前のいのちと、復活した命の両面からの証言が必要だからだろうか。

BRC2017(1)

1Cor 1:20,21 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」は理解できる。しかし、それが宣教に結びつくのだろうか。まずは、神が示される。イエスがなければならない。それも十字架だけだとはとても思えない。そうならば、イエスの生きた意味は何なのだろうか。心配になる。
1Cor 2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 
この背景はよくはわからない。しかし、使徒言行録に頼ると17章でのアテネ訪問のあとに、コリントに行ったことが記されている。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。」(使徒言行録17章32-34a節)とある。復活の証言こそが福音の中心であり自分の使命と考えてきたパウロがそのことを語る困難を痛烈に感じたときだったかもしれない。それが「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(2節)の背景だったかもしれない。変化について正確に語ることはおそらく不可能であろう。しかし考えさせられる点ではある。
1Cor 3:22,23 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。 
この章の最初には「霊の人」「肉の人」について語られている。霊の人はキリストが神のものである確信をもってキリストのものとして生きることだと言っているのかもしれない。ヨハネの言葉を借りると「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(17章21節)これが現実のものとなっていることを信じて生きることだろうか。ちょっと危険な意味も含まれるので、もう少し丁寧に記述してみたい。
1Cor 4:1,2 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 
管理者ということは、秘められたことを伝えられ、それを担っていることだろうか。その委任に忠実であること。少し危険であるように思われる。正しさの根拠が問われていないから。それは、仕方が無いのだろうか。キリストに仕える者とされており、イエスに倣うものではない。イエスに学ぶものではなく「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(16節)という表現に至る。イエスが神から遣わされたことを信じ、そのイエスをとおして、神を知ることとは、やはり異なるように思われる。
1Cor 5:11,12 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 
「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(ローマ14章10節)との違いは何なのだろうか。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(マタイ7章1節)教会の内部の問題を考えると、この内部の人々を裁くことこそ問題であると感じる。パウロ自身も「自分の兄弟を裁くのですか。」といっている。兄弟かどうかを判断するところにこそ問題が入り込むのではないだろうか。「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」(1節)から始まっている。詳細は書かれていない。確かに目に余ることだったのだろう。しかし、様々な文化・習慣を考えると、それほど、問題は単純ではない。何でもよいわけではない。しかし「兄弟と呼ばれる人」を分けて「その人たちとつきあうな」とうのは、少なくとも、普遍的な教えだとは言えない。あくまでも、書簡での限定的な個別事項として捉えるべきではないだろうか。
1Cor 6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。 
よく考えると意味は分からない。特に「何事にも支配されはしない」とはどのような意味だろうか。奴隷ではなく、自由であると言うことだろうか。単に、自由をどのように用いるかの問題だと捉えて良いのかがわからない。このあとには、肉体関係について書かれている。
1Cor 7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。 
この言葉をうけとめないと、正しくは理解できない。パウロがどこに居たかはわからない。エペソだろうか。いずれにしても、パウロには常に危機が迫っていたことは確かだろう。そして、それが信徒にも及ぶと予見したことは、正しい判断だろう。そう考えると、ある限定的な状況の下では正しい。しかし「聖書のみ」とするときに、律法主義に陥ることも確かである。パウロを責めるのはお門違いかもしれない。
1Cor 8:11,12 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」(1b)のことばは印象的である。この11節はさらに説得力がある。むろん、よく考えると「兄弟」の範囲などが、よくわからない。パウロがすべての人ひとり一人を意識しているようには思われないからである。キリストを主とするようになった人たちのことであろう。パウロの判断基準、厳しさと愛について考えたい。判断が、難しいようにも思われる。
1Cor 9:2 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。 
このことは十分に理解できる。しかし「使徒」が普遍的な、特別な意味を持ち、その書かれたものが権威をもつためには、これでは不十分であろう。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。」(1節)の「わたしたちの主イエスを見たではないか。」は主観的。結局、使徒の根拠を求めることはできない。そして、共にいた、弟子たち、イエスに直接派遣された使徒たちを「使徒」と限定することは、可能かもしれないが、それをイエスは望まないように思う。権威の問題は難しい。霊的なものであるはずだから。
1Cor 10:27,28 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。 
これは、明らかに、整合性(inconsistency)がないことである。そして、それは愛の故である。天災、人災に対して、あるときは、神の介入で救われたとし、あるときは、それを受け入れる。それも神への愛の故なのかもしれない。実際にどのような判断がよいのか、簡単ではない。正しさは分からないからだろうか。だから、愛と思われることを選択する。「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」(24節)利益も本当に利益かどうかは判断はできない。しかし、自分の利益を求めないことはある程度判断できるかもしれない。その背後にも、偽善は忍び寄るが。
1Cor 11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 
主の聖礼典の規定が23節から26節に書かれそのあとに「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」(27節)が続く。そこを中心に読むことが多いが、枠組みはどうもそうではない。11章で「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」(23節)から愛の故に、正しさによる行動に対する注意が述べられ、いくつかの項目について議論されている。そして、ここに至っている。その枠組みで読まなければいけないだろう。しかし、一つ一つ、痛みを感じる。それでよいのかもしれないが。
1Cor 12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 
我々がどの程度神のみこころを知っているかにかかっているように思われる。わたしは、これに続く「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(7節)を前提として、そのために、人間が賜物を見極め、全体の益のために、それを運用するように考えることに、疑問を感じているのかもしれない。ひとり一人の違いと、それを人間が益になるように使うこととに大きな差があると思うからである。仕え合う交わりの中で、一つの可能性として示すことはできるようにも思われるが。
1Cor 13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 
幼子は neepios (1. an infant, little child 2. a minor, not of age 3. metaph. childish, untaught, unskilled) が使われている。福音書では、「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11章25節)以外には、マタイ21章16節、ルカ10章21節に使われているのみである。(Rm 2:20, 1Cor 3:1, Gal 4:1, 3, Eph 4:14, Heb 5:13)マタイ18:4 などの子供のようにとは異なる。これもいつか学びたい。
1Cor 14:37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。 
この前に「婦人たち」が語ることについて書かれている。これは、使徒の教えとして現代でも維持し、婦人牧師の任職が認められない場合がいくつもある。「使徒」の権威故である。現代でもと書いたが、当時も違和感があったのではないだろうか。「翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。 この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。」(使徒21章8,9節)のような記事もあり、他にも、いくつかの例が記録されているのだから。違和感を感じると言うことは、背後に何かがあると言うことだろう。パウロの個人的なこともあるかもしれないが、コリントの特殊事情かもしれない。手紙を、普遍的な権威のあるものとすることに、問題があるのではと考えてしまう。
1Cor 15:44,45 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
これを真理として提示するには権威の問題もあるが、同時に、それぞれの言葉の解釈もある。この章を読んでいると「復活」の定義が明確ではないことと、パウロにとって、やはり「復活の証人」であることが、召命の第一にあるのだろうと言うことを感じる。そのことに、違和感はない。しかし、そこから教義を組み立てることには、どうしても違和感を感じてしまう。もうすでに、異端となっているのかもしれない。
1Cor 16:12 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
なぜアポロがコリントに行く意思がないのか不明である。直前には、テモテのことが書かれている。兄弟アポロと書いてあるし、表現の仕方らかも、パウロは、良好な関係を持っていたと思われる。しかし「彼は今行く意志は全くありません。」と書いている。パウロとは独立に行動している。それを可とすることは、パウロもできていたのだろう。このアポロに会ってみたい。アポロはどのような人だったのだろう。コリントにも多大な影響をもった人であったことは間違いない。「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。」(使徒18章24節)この節以外に、アポロのことが書かれている。コリント前書以外は、テトス3章13節にあるのみである。

BRC2017(2)

1Cor 1:30,31 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
背景には分裂がある。分裂の背景は不明であるが「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。 」(12節)を見ると、それぞれのグループの福音解釈の正しさの主張があったと思われる。パウロは、アテネでの経験から知恵による議論ではないものの大切さをある意味で確信していると思われる。それが、この1章からも見て取れる。しかし、そのことへのパウロのことばは、やはり知恵のことばであるように見える。わたしには、イエスの地上での生き方から学ぶところに行き着かなければいけないように思うのだが、丁寧に、パウロ文書を学んで行きたい。
1Cor 2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
パウロはこの知恵に行き着いた根拠を、神の霊が宿っていることに求めているようである。聖霊をひとりひとりが受けたと言うことである。しかし、それは、少し危険でもある。聖霊を受けたことは、ヨハネでは、互いに愛し合うことを思い起こさせることに求めているように思われる。正しさの危うさをやはり感じる。
1Cor 3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
パウロが巻き起こす騒動と、この人たちの争いを一緒に考えてしまいがちだが、もう少し、背景を考えた方が良いかもしれない。異邦人キリスト者たちの問題は、ユダヤ人キリスト者からの反論を買い、異邦人宣教や、教義にも影響したかもしれない。それが「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(1節)と書いている背景かもしれない。今の、日本のような状況だったとしたら、パウロはどう行動しただろうか。本質的には、変わらないだろうが、日常的には、モラルが高い。考えてみたい。
1Cor 4:16,17 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
なぜイエスを指し示さないのかばかり気になっていたが、テモテへの信頼の大きさに、今回は、驚かされた。語ることを似た内容にすることは、ある程度可能である。しかし「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」で「思い起こさせる」ことは、簡単ではない。それが「愛する子」と表現されることの意味なのだろうか。テモテ自身についても、学べるなら学んでみたい。興味を持つ。
1Cor 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」(1節)何もないところから、霊に生きる生活の形態を普遍的に確立することはできるのだろうか。それは、おそらく、できない。イエスの生き方に見習い、互いに愛し合うこと、を基準としても、おそらく、難しい問題ばかり生じるだろう。ここでは「古いパン種」と表現しているが「肉の思い」だろうか、新しい神の霊に生かされる生活と、この世の価値観に引きずられる生活は、どのように区別されるのだろうか。倫理の問題だろうか。信仰の問題だろうか。正直よく分からない。
1Cor 6:19,20 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
「自分自身のものではない」は良いとして、本当に「買い取られた」のだろうか。イエスはご自身の血によって、わたしたちを、買い取るために、この世にこられたのだろうか。父と御子との愛の交わりに招き入れるためとは、言えるかもしれないが、パウロ神学を突き詰めるとそうなるかもしれないが、違和感も感じる。それが互いに愛し合う生き方につながるのだろうか。特別に召しを受けたひとと、そうでないひとを、分断するだけではないのか。あまりに分からないことが多い。いつか、わかるようになるのだろうか。
1Cor 7:8,9 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
結婚するのは、情欲を満たすためのように表現されている。一般的には「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。」(28節)などから、迫害下、かつ「定められた時は迫っています。」(29節)との認識から、信仰生活に集中すべきと言っていると解釈される。しかし、引用箇所のような、表現は、誤解を生むばかりでなく、表現として適切だとは思えない。パウロは、一時期結婚していたのではないかとの憶測もあるが、おそらく、この箇所から見ると、結婚していないか、非常にその期間は、短かったのではないかと思う。結婚の奥義は、ずっと深い。
1Cor 8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
それは、究極のもの、本質ではないと言っている。神の命、永遠の命と直接的に関わっているわけではないということだろう。その感覚を大切にしたい。「いのちにかかわることかどうか」という判断だろうか。むろん、これは、肉体的ないのちではない。主イエスとの交わりの中に生かされるいのちである。
1Cor 9:17,18 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
興味深い論理である。パウロは自分の報酬は無報酬だと言っているようである。一つは、この世的な報酬を受けることを拒み、神からの報酬を受けようとしていること。もう一つは「そうせずにはいられないことだからです。」(16節)ということを、純粋に受け入れ、そのようにできることを価値のあることとすることか。わたしの今の活動を支えているのは、この後者のように思われる。”(When I do my activities,) I cannot boast, since I am compelled (to do so)” (v16, NIV, Cf "I have nothing to boast of, for necessity is laid upon me” (NJKV)) これが神からの付託であれば、幸い。確かめる方法があるわけではないが。
1Cor 10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
素晴らしい。しかし、現実は遠い。何が必要なのだろうか。ひとつの体が現実のものとなるためには。やはり「互いに」Welcome し合うことのように、思われる。兄弟姉妹として。だれかを問うてはいけない。兄弟姉妹となること、互いに愛し合うことによって。
1Cor 11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
この章は「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(1節)から始まっている。そのときの状況を考えると、福音書はなく、文書としてあるのは、これらの手紙のみ。パウロの背景を差し引いても「イエス(キリストとパウロがいう背景も重いが)に倣うものになれ」と教えることは、少なくとも、異邦人社会では、困難だったろう。旧約聖書の知識もなく、旧約聖書から教え始めることは、混乱も引き起こす可能性も含んでいただろうから。しかし、そこで「わたしに倣うものに」と取り替えたあと、引用箇所になる。Contextualization を丁寧にすると、普遍性・本質も失われかねないということを懸念する。むろん、時代の経過、文化背景の違いという、様々な違いのなかで、キリスト教会が、パウロの手紙を普遍性の高いものとして読みそこから(神の教えとしての)教義を引き出そうとすることに問題があるというのが、本質だろうが。
1Cor 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
一つの体は、教会の組織論につながっていく。そして「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」(31節)で、終わっている。神の霊・心(pnuma: 行動を引き起こすもとにあるその方の本質)によってつながっているとすると、苦しみの背後にあるもので、つながっているのだろうか。もう少し考えてみたい。霊による一致。
1Cor 13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
このあとも「愛がなければ」が2節・3節と続く。すべての行動を引き立たせる味付けではないだろうが、パウロが「愛」をどのような位置づけとして考えていたのか「愛」とは何なのか、これだけではよく分からない。「神の愛」は旧約からのものともいえるが、やはり鍵は「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5章8節)、そして、それを「キリストの愛」(ローマ8章35節)にも結びつけていることだろうか。さらに「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(ローマ13章8節(9節・10節参照))と兄弟愛(ローマ12章10節)へと進んでいる。構造的には、ヨハネとそう変わらないが「愛」が何なのかは、パウロ文書からは、まだよく読み取れない。これも学んでみたい。
1Cor 14:17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
何回も「他の人が造り上げられる」(3, 4, 5, 12, 17, 26)ことが語られている。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」(8章1節参照)この前には、異言で祈ること、霊で賛美すること、などに対する注意が書かれている。そのようなことが多かったのだろう。鍵は愛なのだろう。他者が、神が愛されている存在として、たいせつに接することか。
1Cor 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
何度も励まされてきた聖句である。しかし、主の業が分かっていなければ、主の望まれることが分かっていなければ、やはり、空しい。ヨハネでは「主に結ばれている」は「留まっている」と表現されている。主の掟「互いに愛し合う」ことだろう。この句が「わたしの愛する兄弟たち」で始まることも印象的である。ヨハネであれば「愛する(愛されている)者たち」だろう。「子たちよ」かもしれない。パウロは、何を「主の業」と考えていたのだろう。
1Cor 16:24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」(22節)にある。直後には「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」(23節)があり、この句につながるが、いくら最後のあいさつの言葉だとしても、正しさが勝ち、自分を前に出す部分が強すぎると思ってしまうのは、わたしのパウロへの厳しい目故に、公平さを欠いているのだろうか。おそらく、そうなのだろう。パウロも、ただひとりの教師(マタイ23章10節)キリストに教えられ、成長をつづけていると考えるから。わたしの批判は、パウロにではなく、不変の絶対的なものとして、字義通り聖書を読み、神の言葉として受け取ることに向けられているのだろう。「聖書のみ」が狭く考えられることは、周囲にとても多いから。

BRC2015(1)

1Cor1:8,9 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 
この箇所は4節からの段落の中にあり5節では「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」となっている。8節の「非のうちどころのない者」をすべてにおいて神のみこころを行う神の子と考えると無理があるように思われる。キリストに結ばれ、キリストとの交わりに招き入れられ、それに応じて、その交わりの中に生きていることが表現されているように思われる。それが聖霊の働きであり、神の支配のうちに生活することか。これも、危険性がないわけではない。もう少しじっくり考えたい。
1Cor2:11,12 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 
この箇所を「聖霊は神のこころのこと」とわたしは表現している。わたしたちが、神からの霊を受けたとどのように知ることができるのだろうか。おそらく、その証拠をわたしたちの中に求めることはできない。神の約束であること。そして、復活のときに、それが明らかになるのだろう。まずは、傲慢にならないため。それをいただいていることを信じるのも信仰か。もう少しよく考えたい。
1Cor3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 
たしかにそうなのでしょう。でも不安。自分の中に根拠を持ちたいという、弱さだろうか。自然であるようにも思う。それを放棄することも、幸せなのかもしれない。それが、神のものとなること。
1Cor4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。 
自分のものという言い方をせず「あなたがたの持っているもの」と表現している。管理を委ねられているものという意味だろう。我々は、委ねたかたがおられる、与えた方がおられる、という信仰に生きているのだから。
1Cor5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 
過越の祭には、除酵祭(種入れぬパンの祭り)一週間が続く。過越祭の準備の日には、徹底的に麹が取り除かれるという。単に、出エジプトのときに忙しくてイーストを入れることができなかった以上のものがここにあるのだろうか。もう少し、じっくり学ばないと一つのフレーズすら理解できない。
1Cor6:5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 
コリントの教会の規模と、コリントの人口はわからないが、現代にも通じる問題である。たしかに、まずは、教会内で解決すべきであろうが、そしてその問題を、教会外に持ち出すことは恥でもあるが、そうであっても、教会内で解決することに普遍性があるわけではないと思う。党派心である。イエスの言葉にも聞きたい。
1Cor7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。 
最初に「そちらから書いてよこしたことについて言えば」となっている。様々な問題がパウロのもとに持ち込まれたのだろう。そしてその中で、適切な生活のアドヴァイスをしていかなければいけなかった。一つ一つおそらくその場面場面にあったアドヴァイスであったろう。しかしそれが普遍的なものかどうかは、不明である。聖書が文字として固定されてしまうと、律法化の危険が高まる。このことも、十分理解すべきである。
1Cor8:1-3 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。 
まさにその通りである。そして、その根源は、この3節にあるように、神に知られていることを、大切なこととすることだろう。へりくだることはなんと難しいことか。
1Cor9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 
これが目的になってはいけない。しかし共に生きることの一つが、お互いの励ましとなる生活だろう。希望をもって生きる証人となることは、このことを含むように思う。教会生活の一つの大切な役割である。
1Cor10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 
自由にされたものは何をすべきか。とても難しい問いである。イエスのように「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(ヨハネ5:19)と、いのちを与え、裁きをすることできればよいが、関係はしていても、私たちがすべきことは、そのことを行うことではないだろう。31節にあるように「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」そして、「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」と33節にあるように、神と人とに仕えることなのだろうか。
1Cor11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。 
厳しい言葉である。いのちとさばき、これが常にあることは、事実である。たとえ、イエスが来られたのが、命を得させるためであったとしても。恵みとしての聖餐であることを忘れないことともに、イエスの言葉が両刃の剣であることにも向き合いたい。
1Cor12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 
教会が一つのキリストの体を形成しているという解釈は、未発達な部分があるように思われる。パウロの書簡が完全ではないと考える一つの理由でもある。本質は、この節であるように思われる。しかしイエスはあまりこのことを強調されていないようにも思われる。互いに愛するという表現の他には。
1Cor13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
この12節は8節・9節の「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」そして、ここで表現されているのは、愛であるはずだが、この節では「はっきり知られている」と表現されている。むろん、この部分は、8節・9節との関連ともいえる。しかし、完全な愛、そう呼ばれるものについて、わたしは表現できないが、の背後には、知られている、知っていることがあるのかもしれない。人の子としてのイエスが、私たちを裁かれるように。
1Cor14:33,34 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。 
なかなか問題な箇所である。他の教会の慣例を重視し、ここでは、律法を根拠としているが(14:23参照)どこを示しているかは不明である。おそらく、礼拝について語っていることを締めくくる、33の前半のことばを受けているのだろう。しかし、ここで普遍性を問うのは不可能である。
1Cor15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 
復活は、天に属するその人の似姿になるとある。その人とはキリストだろうか。イエスは、ここまでは明確に語っていない。それは、今、永遠の命をもって生きることに集中しているからではないだろうか。今が、その時です。
1Cor16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。 
やはり、ヨハネで書かれている終末とは、多少異なる。集団として、教会としては、このような方向に動くことは、自然なのかもしれないし、必然なのかもしれない。しかし、やはり違和感も感じる。いまがその時だと言われる主の声を聞きたい。それが福音だから。

BRC2015(2)

1Cor1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
ユダヤ教の背景を持つパウロにとっては「聖なる者とされる」ことが義とされることであり、救いである。その上で、わたしたちとこの人たちが共に、同じ主のもとで一つになることが、福音である。しかし、福音書を学んでいると、特に、ヨハネを学んでいると、感覚はずれている。イエスは、そのように分けることをされなかったように思われる。「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」というまとまりのもとで、イエスを通して神が望まれることを知り、その命に生きることに福音の中心がある。パウロの異邦人宣教の貢献とともに、課題も残したように思われる。宗教としての枠である。
1Cor2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
1章22節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、」1章24節b「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」とある部分を思い出す。人々が、求めるものと、語るものが異なる。これは、イエスの福音宣教においても、ずっとそうだったろう。しかし、普遍性のある癒しによる宣教も同時に行っていた。愛の業によって、命を与える業によって、イエスが神から来たことを示していた。神のいのちを生きることが、主のものとされたことの証であろう。神様の命を生きる中で、希望を語ることが宣教なのだろうか。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(ペトロ一3章15節)
1Cor3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
イエスはずっとこのことを知っておられた。求めるレベルが違うというのは、詭弁である。霊の人かどうかは、神の霊に生きているかどうか。イエスが求めておられたことと同じだから。では、どうすればよいのだろう。十字架上の死によっても、なにも変わっていないのだろうか。たしかに、肉体をもって生きる我々については、変わっていないのかもしれない。罪からの解放、罪の奴隷ではないことは、なにを意味するのだろうか。それを、求めてしまうところに問題があるのだろうか。じっくり考えてみたい。イエスはどう言っておられるのかも区別して確認しながら。
1Cor4:16,17 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
マタイ23章8節「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」マタイ23章10節「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」これらと、16節の違いは深刻である。しかし、17節は興味深い。背景にはガマリエルの薫陶もあったろうし、テモテ二2:2「そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」のような考え方もあるのだろう。しかし、このあと何世代も過ぎた今のキリスト教会を考えると、イエスの教えをそのまま受けることの困難さと、パウロの言葉から生じる弊害とその双方について考えてしまう。やはり、わたしは、イエスの教えに永続的な本質を見る。キリスト者はあくまでも、イエス・キリストの弟子である。
1Cor5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
ここでは、異邦人と聖徒(キリスト者)との区別から出発している。9節には「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、」とあり、これは「兄弟と呼ばれる人」の中でのことを意味していると続く。異邦人宣教をしている中で(むろん中にはユダヤ人改宗者もいるわけだが)改宗者とそれ以外の区別が意識されている。そこに弱点があるようにも思われる。本質的には神が裁かれることを、人に委ねられているとしているから。おそらく、これを変更することは、キリスト教を否定することになるのだろう。「人の心の中にあることを知っておられる」イエスはどう言われるだろうか。本質的には、皆がインサイダーとして、この世に生きているはずなのだが。外に共同体を作ってしまっているところに問題があるかもしれない。無教会の立場と近くなる。
1Cor6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
パウロの時代と現代との違いも考える。社会的な公正さを人間社会は長い苦闘の中で学び取っている。実際に社会正義が獲得されたわけではないが、その困難さ、注意すべき事などは集積されている。かえって、素人集団のキリスト者の社会では、基本的なことも実行されない。そこには、キリスト者が神に委ねる無責任さもあるように思われる。この問題も整理したい。
1Cor7:28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。
このあと29節には「定められた時は迫っています。」が続く。迫害が波状でおしよせ、終末は近いと認識していた時、さらに、成熟した信仰者は少なく、様々な理由で脱落していくものが多かったのではないだろうか。聖書の全体的な理解が大切であることを思う。7節のことば「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」はパウロの信仰の寛さも表しているが、具体性が高い教えは、人間的な教えにも感じてしまう。主はなんと言われるだろうか。御心を求め続けたい。
1Cor8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
神を愛すること、神が愛しておられるひとたちを愛すること、そしてその人たちが神を愛するようになることによって、互いに愛し合うようになることを願いたい。8章は偶像に献げられた肉を食することについて書かれている。このような記述に至ることができたのは、愛を基盤におき、神がすべての人を愛しておられることに基づいているように思う。
1Cor9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
9章のかなりの部分がパウロの使徒性とこの問題に関わっている。基本的情報としては二つのことが書かれている。「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」(14節)とそれに続く「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。」(15節)専業の伝道者は、殆どいない状況での議論である。ユダヤ教の律法の教師ラビは、自分の職を持っていたとされており、レビ人なども、祭儀を助ける仕事の他に、牧畜もしていたようであるから、社会的にもどう考えるかが問題だったのであろう。イエスの教えは以下のものを指すだろう。「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」(マタイ10章10節、ルカ10章7節も同様)パウロは天幕職人として働き、フィリピ教会以外からは援助を受けなかったようである。(フィリピ4章15節)社会の中で働くことの積極的意味とともに、もう少し整理したい。
1Cor10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
自由人として神の掟に生きる。互いに愛し合う生活。それを目指すことがこの背景にある。23節「『すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」は象徴的である。愚弟的な指針は「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」(24節)「その人のため、また、(その人の)良心のために食べてはいけません。」(28節)これらが31節につながっている。31節は標語としては良いが、その背後にあるもの、具体性をともなったものにこそ、真実が宿ると考える。
1Cor11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
わたしが問題視している点である。「わたしがキリストに倣う者であることを常に目指しているように、あなたがたもキリストに倣う者となりなさい。」でありたい。これは、単なる言葉の問題ではない。牧師や宣教師もこのパウロの意識が少し変形したものを持つことが多い。モデルを示すことが自分の使命であると考え、またそのモデルに従うことを求める。自分がキリストに倣うことを目指すことはその通りであるが、それは、まったくの方向違いであったり、倣い方は、その人には適していなかったり、まったく違った方向性に導かれることもある。旧約聖書をふくめ、我々は、神のみこころを行おうとした人たちに囲まれている。その人たちから学び、自分の十字架を負って、キリストに倣う者として、神の素晴らしさを証していきたい。19節「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」のような場面でも、パウロに倣うものになる従順さはとても危険である。
1Cor12:20,21 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
ここにつながっていくにはどうしたらよいのだろうか。キリスト者の中でも、なかなか困難である。まず、キリストにつながる、神の国の一員としての、意識だろう。では、キリスト者以外は、どうだろうか。自分と同じように他者をみることだろうか。それが、他者の尊厳をみとめ、自分の尊厳を認めることにもつながる。世界共同体は、どのようにして実現するのだろうか。その方向に人間は進むことができるのだろうか。
1Cor13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
なぜだろうか。預言と神秘(異言;14:2参照)と知識がここでは語られている。これらは、神に関するものであっても、神様の本質ではないのだろう。神の命を生きていることでもない。神の命に生きることは、神を愛し、その愛によって、隣人を愛すること。これに尽きるのだろう。このあとを見ると「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」(8a, 9)とある。まさに移ろいゆくこの世のものなのだろう。それをしっかり受け止めたい。すべてアガペー(love, goodwill)で統一されている。
1Cor14:19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
「理性(logos)」は「預言」や「啓示や知識」(6節)とも対応させられており、教会や他の人が造り上げるため(5節、17節)とある。何を意味しているのだろうか。パウロは何を伝えているのだろうか。文字通り、理性のことばと考えて良いのだろうか。
1Cor15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
わたしが危険を感じる、人文学の論理である。ここでパウロが語っているように、論理は単純ではない。特に、キリストは特別と考える人は多いだろう。根拠としては十全とはいえない。26節・27節「最後の敵として、死が滅ぼされます。 『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。」これは演繹を使っている。しかし、そのあとで自ら書いているように、論理的矛盾も内包している文章で「すべて」は文学的表現でもある。「すべての敵」と呼べば、後半の説明はいらないかもしれない。しかし、イエスの教えには反する。その部分で伝えられている内容を丁寧に読み取ることは重要であるが、論理、特に、演繹は特別に気をつける必要がある。「すべての人は死んだ。イエスも人として死んだ。いま生きていないことは明か。」というときに使われている、帰納法もあくまでも、帰納的に結論づけられる蓋然性でしかない。
1Cor16:14 何事も愛をもって行いなさい。
NKJV は "Let all that you do be done with love.” である。ギリシャ語では en agape であるから、in の方が訳としても圧倒的に多い。なお、done は genomai が使われており、生じさせよとなっている。今回、ここで前置詞を調べたのは、中島みゆきが歌の最後に時々英語の指文字で WITH LOVE としているからである。信仰的背景は分からないが(ネット上で書かれている情報はある)、糸のフレーズが新渡戸稲造の東京女子大学開学講演にも出てくるなど、キリスト教の背景の人が思い浮かぶ言葉が多いからだ。NKJV の聖書を読んでいるのではと考えるのはまったく憶測の域を出ないが。なお、NRSV では、コロサイ3章14節が次のように訳されている。”Above all, clothe yourselves with love, which binds everything together in perfect harmony.” 新共同訳は「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」である。

BRC2013(1)

1Cor1:1 神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
「そこで、みんなの者は、会堂司ソステネを引き捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオはそれに対して、そ知らぬ顔をしていた。」(Acts18:17) 発信者の一人、ソステネは、このコリントの会堂司ソステネだろう。会堂司という役割を持っていたものが、いまは、おそらくエペソにいる。ソステネは、コリントの特にユダヤ人を非常によく知っていたろう。この手紙もパウロは、ソステネに相談して書いたと思われる。
1Cor2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
10節の「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」と比較してもやはりよく分かるとは言えない。御霊を「神のこころ」と説明してはいるが、最初に神を神と認めるときどのように御霊が、自分の霊が働いているのだろう。脳に働きかけるのではないのかも知れないとしても、よく分からない。
1Cor3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
こころから、このように言えるものでありたい。成長させることは、神様以外だれもできないにもかかわらず、ひとはどれほど傲慢なのだろうか。わたしも気を付けたい。
1Cor4:20 神の国は言葉ではなく、力である。
すばらしい言葉だが、具体的に何を意味していると考えたら良いのだろう。神の国は、神学上の事ではなく、神の支配の力を認めることができると言うことだろうか。単に感覚として受け入れるのではなく、熟慮したい。
1Cor5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。
パン種は、不純物の象徴のようだが、その効用も十分理解されていはずである。「バン種」という言葉がでてきたとき、どう考えればよいのだろう。
1Cor6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
コリントの人にとっては、不品行から脱出することは本質的、しかしこれをもって、性同一性障害のひとを批判するのは、間違っているだろう。それは、原理主義。本質をどう理解すればよいのだろうか。おそらく、具体例をひとが見分けることはできない。信仰の問題だから。とはいえ、もう少し深く神様からのメッセージを探りたい。
1Cor7:10 更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。
この言葉については、聖書全体のメッセージから確信があったということだろう。絶対とはいえなくても、確信に満ちた言葉、このような聖書の読み方を大切にしたい。
1Cor8:1-3 偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
最初の「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」の説明が、2, 3 節にあると考えてよいだろう。知識獲得の活動は、人間個人が中心で、その届く範囲に限られる。それがどの程度制限の強いものかは、ひとは知っている。しかし、それが世界全体だと考えてしまう危険性が常に潜んでいる。神の前に謙虚にいきること、神が求めておられることはなにかを、求め続けること。それは、なんと、神に知られていることだと言われている。神とのギノースコー(知る)関係だからこそだろう。「神との交わりのうちに生かされているから」ぐらいが良いかも知れない。
1Cor9:16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。
このことから離れないことが、悪臭をはなたない鍵のように思われる。むろん、神の前に謙虚に。それが、19節をも産む。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。」
1Cor10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
これはどのような根拠によるのだろうか。神からの特別啓示として受け取るべきなのか。この出エジプト時の事実自体も、継続的にそうであったとは書かれていないのではないか。
1Cor11:19 たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。
このあとに、聖餐式のことが書かれている。主にある一致は、本当のものが明らかにされることにつながるのかも知れない。
1Cor12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
なにか違和感を感じる。教会の一致をこのように解くことに。それは、良い面とともに、人間の世界においては、問題も引き起こすからである。御霊の表れをなかなか知ることのできない人、教会での役割を感謝できない人、それをそのひとの責任にすることは、あまりに、酷であると感じるからである。
1Cor13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」ることはあり得ないのと同じように「山を移すほどの強い信仰」があることはない。かえってそのようなものを理想とすることに問題があるのだろう。最初から、それを求めず、愛をもとめることを勧めていると取るのが自然である。
1Cor14:6 だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。
「役に立たない」ことを理由にしている。人の目から見ての判断に違和感を感じる。それとも、これは、神の目なのだろうか。このあとの、33節からの女性の発言なども、単に時代背景をもとに、秩序を乱すという部分を理解するのでは、不十分であろう。
1Cor15:56,57 死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
復活が鍵であることをここまで語るのは、論理的帰結であろう。しかし、キリストの勝利は、それ以上に決定的なのではないだろうか。復活がその証拠だから、勝利は明らかと論理を紡いでいるのであろうが。
1Cor16:13,14 目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
少し唐突に感じる。つねに、語られていた言葉なのかも知れない。ひとつひとつの意味を考えたい。ここで言われている「男らしく」はなにを意味しているのだろうか。

BRC2013(2)

1Cor1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
なにかあっさりしている。考えたい問題として、世界人権宣言の基本にあるような考え方は、神の啓示によって得られた事か。それとも、そこにある合意として、人がたどり着いた事なのか。
1Cor2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
神と霊を共にするのであれば、たしかにそうかも知れない。しかし、独断に過ぎないのではないか。これでは、だれも、霊の人ではなくなってしまう。しかし、イエスが善しとされたのは、信仰による応答ではないだろうか。そしてそこに希望を見いだす生き方。
1Cor3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
普通の人間の歩き方が求められている訳ではない。神の国の希望を持って、兄弟姉妹として互いに愛し合う生き方は、神のもとでは普通の生き方。しかしこの世においていは、普通ではない生き方である。
1Cor4:15 たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。
このような肉的愛が「パウロにつく」という人を起こすのではないだろうか。むろん、非難する事は、適切ではないかもしれないが。愛は、この世で生きる以上、肉的な部分を伴う。そして、それゆえに、愛が不完全であることをも表してしまう。
1Cor5:12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。
内の人をさばくことは、古いパン種を取り除く事と関係して、この章の主要テーマであるが、実際は、困難である。いっさい裁いては行けない。兄弟なのだから。Mt18:15-20 を丁寧にしてもまだ不十分であるように思われる。もう少し学びたい。
1Cor6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
こうはイエスは言われないだろう。しかし、それは、良いとしても、継続性に疑問も感じる。この問題は、どうしていったら良いのだろうか。
1Cor7:40 しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。
これについては、異議がある。おそらく、時が切迫していると強く感じていたこと。自ら、ユダヤ人からの様々な迫害に会った事も関係しているのではないだろうか。
1Cor8:11 するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。
兄弟とはなにかと、定義している。キリストが死んでくださったそのひとたちである。それは、すべての人であるように思われる。もう少し言葉を練りたい。
1Cor9:23 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
ここには、パウロの情熱がよく現れている。そして、おそらく、この情熱によって神様の道具となったのだろう。しかし、やはり疑問が残る。情熱でできる事は、その人のわかる範囲のみ。非常に限られた価値判断のもとでの、限られたことだけ。あまり批判的になってはいけないのだろうが。わたしは、どう生きるべきだろうか。
1Cor10:33 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
大きくずれてはいないが、やはり多くの人が救われることに、すべての価値がかかっている。イエスにとって、神様にとって、それが望みだったろう。しかし、それが最優先事項ではなかったと思う。これをどう表現したら良いのだろうか。
1Cor11:`4 自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。
社会的背景が強い事実である。社会によっては、長い髪が男の光栄となっていたり、長い髪が女の恥となる場合もあるかもしれない。どう考えるべきか。社会的な価値観をすべて排除するように努めるべきか。それとも、社会的な価値観も判断の重要な根拠とすべきか。それには、まず峻別が必要となるが。この章の最初に出てくる、「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」 (v1) に違和感を感じる。自ら教師と自称している訳であるから。難しい。
1Cor12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
すべての人に賜物が分け与えられていると考える事には、無理がある。賜物探しを、本人も、教員もするのは、普遍的価値がないように思う。では、それを見つける事は良い事だろうか。それも疑問であるように、思われる。
1Cor13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜ、天地は滅びても、愛はいつまでも絶えることが無いのだろう。神が、天地を作られた目的も、ここにあったからではないだろうか。預言や、異言や、知識は、一時的なものである。永遠のものに、エネルギーを注ぎたい。
1Cor14:26 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。
何のために集まるのかがわからなくなってしまっているとき、その集団は、危険である。大学も同じだろう。ここで預言は出てこない。教えに含まれているのか。
1Cor15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
このような論理は個人的には、空虚に感じる。論理にもいろいろとあり、絶対的なものではないからである。イエスの権威をもって教えられた、そのことで十分とすべきなように思われる。ひとには、できないが。Mt7:28, 29 「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」
1Cor16:13,14 目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。 いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
第二世代だろうか、パウロの信仰者としての生き方、熱情、その知的深さについては、驚かされる。しかし、同時に、このような言葉にも、文化的・社会的背景が強く、限界を感じる。それは、あら探しなのだろうか。そうかもしれない。しかし、この事こそが、現代、キリスト教が受け入れられない、原因として増大しているのではないだろうか。もうすこし、丁寧に、見ていきたい。


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コリントの信徒への手紙二

コリントの信徒への手紙二(1)

コリント信徒への手紙は、ローマ信徒への手紙とちがい、教理的なものよりも、具体的な問題についての言及が多いこと、そして、パウロが感情をおさえきれないという感じで、配慮をしつつも率直に書いていることが、印象的です。ローマ信徒への手紙はパウロがまだ訪ねたことのないローマの教会に宛てて書かれたものであるのに対し、コリント信徒への手紙は、パウロが開拓伝道をし(使徒言行録18章)、その後も何回も訪れ、かつ長く滞在した教会に宛てた手紙ですから、コリント教会の人たちについても、コリントやそこの人たちの問題についても、したがって起こりうる状況の可能性についてもかなりよく知って書いている点が大きく違います。さらに、こころがつながっているコリントの人たちを思うと、ある意味では冷静ではいられない、いとおしくかつ心配な、霊的なこどもたちに対する思いが書かれています。同時に、すでに、アポロなどパウロ以外の影響を受けたグループもいくつもあったようですから、そのような背景から来る複雑さもあったでしょう。コリントは、すでにアテネよりも大きくなっており、商業的に栄えていた町です。この当時は大きな劇場などを使うことは困難なことも多かったでしょうから(エペソで「ティラノという人の講堂で議論した」という記事はあります(使徒言行録19:9))、いくつも集会があったとも思われます。この複雑な状況のなかで、「最高の道(新共同訳、口語訳では「最もすぐれた道」コリント信徒への手紙一12:31)」として愛をパウロは語ります。そのような背景を想像して読むとより豊かに読むことができるかも知れませんね。

コリントの信徒への手紙二 8・9章には、エルサレム教会への献金のことが書かれています。ユダヤ教の中心であるエルサレム、ユダヤ教徒でイエスを救い主と信じるようになった群れは、エルサレム周辺ではこの当時もモーセの律法をしっかり守って生活していたと思われます(使徒言行録21章17節-26節)。そのようにして、信仰を守りつつも、ときどき起こる熱心なユダヤ教徒からの反対の中で、使徒や、長老といわれる人たちも生活的には、かなり困窮を極めていたようです(ローマ信徒への手紙15章26節等)。AD70 にはローマ軍によってエルサレムが完全に破壊され、エルサレム教会は事実上指導的な役割を終えますが、この手紙の書かれたときには、発展しつつある異邦人教会が、エルサレム教会とひとつであることを示す、その大切な役割を担った献金が、パウロの祈りでもあったでしょう。ミッション(使命)が違うと、別々に行動することもできたかも知れませんが、パウロの信仰の中にある、キリストにある一致、キリストの体なる教会がひとつであるという真理からすれば、一致をたもちながら共に生きることは、キリストのいのちに生きるものたちにとって最も重要な課題だとパウロが考えたのはとても自然だと思います。現代にも通じる問題提起ではないかと思わされます。

なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(コリント信徒への手紙二9章12-15)

コリント信徒への手紙二の梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から引用しておきましょう。

いのちのことば社「新聖書注解」尾山令二
コリント人への手紙 第二 梗概

  1. はじめのあいさつ 1:1-11
    1. 書き出し 1:1
    2. 祝祷 1:2
    3. 頌栄 1:3-7
    4. パウロの身辺の事情 1:8-11
  2. パウロの弁明 1:12-2:11
    1. パウロの誠実さ 1:12-14
    2. 計画の変更について 1:15-22
    3. 訪問が遅れたことについて 1:23-2:4
    4. 違反者の処置について 2:5-11
  3. パウロの使徒としての務め 2:12-6:10
    1. マケドニアへの最近の旅行 2:12-13
    2. キリストのおける勝利 2:14-17
    3. 推薦状 3:1-3
    4. 旧約と新約 3:4-18
    5. 使徒の務めの公明さ 4:1-6
    6. 器とその中味 4:7-15
    7. 外なる人と内なる人 4:16-18
    8. キリスト者の希望 5:1-10
    9. 強く迫るキリストの愛 5:11-15
    10. 新しい創造 5:16-17
    11. 和解の務め 5:18-21
    12. 福音をのべ伝えるものとしてのパウロの経験 6:1-10
  4. パウロの訴え 6:11-7:4
    1. 心をひろくするように 6:11-13
    2. この世からの分離 6:17-7:1
    3. 信頼をもって 7:2-4
  5. パウロの慰めと安心 7:5-16
    1. 慰めと喜びの理由 7:5-12
    2. コリント教会への信頼 7:13-16
  6. エルサレム教会への献金 8:1-9:15
    1. マケドニアの教会の模範 8:1-7
    2. 献金の動機 8:8-15
    3. 献金のための使者 8:16-9:5
    4. 惜しみなく捧げる人に対する祝福 9:6-15
  7. パウロの使徒権の擁護 10:1-13:10
    1. 戦いの武器 10:1-6
    2. パウロの首尾一貫性 10:7-11
    3. パウロの働きの範囲 10:12-18
    4. コリント教会の忠実さについて 11:1-6
    5. コリント教会に負担をかけなかったことについての誇り 11:7-12
    6. にせ使徒の真相 11:13-15
    7. 福音のための数々の苦しい経験 11:16-33
    8. パウロの見た幻と肉体のとげ 12:1-10
    9. 前回の訪問時におけるパウロの行動 12:11-13
    10. 次回の訪問時におけるパウロの行動 12:14-21
    11. 戒規を再度行使することの決定 13:1-10
  8. 結び 13:11-13
    1. 終わりのあいさつ 13:11-12
    2. 祝祷 13:13

コリントの信徒への手紙二(2)

コリント信徒への手紙の一・二を読んでいると、まだ長くても生まれて数年しかたっていないコリントの教会に様々な問題があったこと、そして、その一つの中心問題が分裂、一致がむずかしいことを感じます。パウロが一番気にかけていた問題でしょう。そして、パウロが気にかけていたのは、コリント教会の中での一致だけではなく、パウロたちや、他の地域の「すべての聖なる者たち」の一致であり、そのことをつねに意識して語られていると思います。信仰の核となる部分が、個人と神様の関係であるなら、信徒の一致はなにを意味するのでしょうか。

弟子たちのもとを去るにあたり、イエスの祈りも一致でした。

わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(ヨハネによる福音書17章11節)
コリント人の信徒への手紙二の1章4節から7節では、
4:神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
5:キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
6:わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
7:あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
ここでは、苦しみと慰めを共にしていると書かれています。一方でたくさんの問題を抱えているコリント教会ですが、1章24節では
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。
では、一致させるものは、何なのでしょうか。この世、私たちが現実に生きている世界では、強制なしにどのように連帯がうまれ、一致を経験することができるのでしょうか。とても難しいテーマだと思います。しかし、聖書では、その鍵は、聖霊(御霊)であると言っています。同じ霊によって生きることです。
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。 (コリントの信徒への手紙二 1章20節21節)
今日の聖書の箇所は、上にも書いたように、コリント信徒への手紙一11章・12章ですが、そこからも御霊の働きが読み取れるのではないでしょうか。 12章は、賜物について書かれていますが、その中心は、それは、一つの御霊の働きだということです。わたしは、神の霊によって、神が働かれるその働きを、われわれの日常のなかに認められればと願っています。そして、様々な働きが一つの御霊の働きとの告白に至ることを望みながら。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

2Corinthians 1:23,24 私は、神を証人として、命にかけて誓いますが、私がコリントに行かなかったのは、あなたがたに情けをかけたからです。私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰にしっかり立っているからです。
なにか、人間の思いに感じる。状況を、自分は、しっかり把握していると思っているように見える。会って話すことによる深い理解と交わりをわたしは大切にしたいと思う。
2Corinthians 2:8,9 そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。私が前に書き送ったのも、あなたがたが万事にわたり従順であるかどうかを確かめるためでした。
手紙の難しさを感じる。パウロが書いた手紙をすべてはもっていないと思われるからである。部分的な情報から判断すると、どのようにも、理解できる。引用句のようなパウロの言葉も、かなり傲慢に聞こえてしまう。詳細を理解すれば、そうではないかも知れない。同時に、手紙で、微妙な問題について指示することの難しさも感じる。この前には、「その人には、大多数の者から受けたあの処罰で十分です。むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。」(6,7)とあるが、これも、そう簡単に判断できるわけではないだろう。わたしは、ただ、黙するしかない。
2Corinthians 3:16-18 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。
「モーセが、やがて消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません。」(13)から繋がっている。モーセは霊を見ていなかったのだろうか。霊を受けていなかったのだろうか。それは、わからない。「主に向く」ことも、かなり観念的なもので、それから、簡単に導かれるものではないように見える。謙虚に、主を求めたい。
2Corinthians 4:2 かえって、恥じて隠したりせず、謀によって歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにし、神の前で自分自身をすべての人の良心に推薦します。
このあと「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(7)としているが、さらに「『私は信じた。それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです。」(13)としており(引用は「私は信じる/「とても苦しい」とあえぐときも。」(詩篇116:10)とあるが、文脈など不明。)受け取ったこと、信じたことを、伝えずにはおられない面が強いのだろう。正しさでもある。この章には、弱さについて書かれているが、正しさ故に、その弱さを奮い立たせている。共通の感覚を持ちつつも、距離を感じてしまう。ゆっくり語り合う時間も必要なように思う。
2Corinthians 5:14,15 事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
このあとには「それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16)と続く。地上で完全なひととして生きたイエスについて語らないことも、含まれているように見える。パウロとしては、そうなのかも知れないが、パウロとは違う方法で、主と出会った人、主に従うことを決心した人もいただろう。ただ、この手紙の受領者には、ほとんどいなかったかも知れない。引用句の論理など、危険にも感じるが。
2Corinthians 6:12,13 私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
正直、心に響いてこない。相手が、受け入れられない、こころを閉ざしていることにこころを向けるべきではないのだろうか。自分は、正しい、安全な地に居るように見えてしまう。このあたりにも、価値多様性に関するポストモダンの考え方に、わたしが囚われているからかも知れないが。今日の箇所でも、「なぜなら、/『私は恵みの時に、あなたに応え/救いの日に、あなたを助けた』と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(2)のようなことばに、ひかれているのでよいのかと考えてしまう。あまりに、わたしは批判的になりすぎているのかも知れない。パウロ書簡、もう少し丁寧に読んでみたい。
2Corinthians 7:8,9 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです。
原文を丁寧に読まないとわからないし、わたしがそれで十分理解できるかは不明だが「今は」ということばから、以前は、後悔していたように受け取れる。全体として、結果オーライのような雰囲気を受ける。他者を、悲しませることは、日常的に起こる。それに、一喜一憂はできないが、正しさは、自分の理解が不十分であることを考えれば、非常に限定的なものであることもわかる。しかし、おそらく、パウロは、小さい愛するこどものように、コリントの人たちを見ているのだろう。それを批判はできないが、コリントの人たちの応答も聞きたい。
2Corinthians 8:20,21 このような手順を踏んだのは、私たちが携わっている豊かな寄付について、人にとやかく言われないようにするためです。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大に振る舞うように心がけています。
パウロは、当時としては、十分な教養人であったこともわかる。一般の信徒がその基本的な知識を持っていないなかで、パウロが、小さい愛する子供に対するように、対応するのは仕方がなかったのかも知れない。「人の前でも公明正大に振る舞うように」のことも、どのように考えていたのか、受け取りたい。わたしが「たいせつなかたをたいせつにすることは、たいせつなかたのたいせつなひとたちをたいせつにする」と言っている論理なのだろうか。
2Corinthians 9:12 なぜなら、この奉仕の業は、聖なる者たちの欠乏を補うだけでなく、神への多くの感謝で満ち溢れるものになるからです。
他者の欠乏を補うことと、聖なる者たちへの奉仕は異なるかも知れないが、この背後にある、パウロの論理を受け取りたい。それが神への感謝で満ち溢れるものになる。このことを理解したい。どのような論理なのだろうか。縦の軸と、横の軸と両方の考え方があると思うが、パウロはどう考えたのだろうか。
2Corinthians 10:10,11 「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者がいるからです。そのような者は心得ておくがよい。私たちは、離れていて書き送る手紙の言葉どおりに、一緒にいるときも同じように振る舞うのです。
前半は有名なことばだが、この章全体としても、背景が理解できず、評価するのは難しいと思った。最後には「『誇る者は主を誇れ。』自己推薦する者ではなく、主に推薦される人こそ、適格者なのです。」(17,18)で終わっているが、途中も、「私たちは自分の範囲を超えたところで誇ることはしません。あなたがたのところまで行くという、神が割り当ててくださった尺度の範囲内で誇るのです。」(13)いたって常識的なことが書かれている。さらに、困惑するのは、判断の基準、たとえば「神が割り当ててくださった尺度の範囲」なども、確定しにくい。しかし、背景にある事情を知れば、なるほど、それで、このような書き方になったのかとわかることもあるのだろう。手紙の難しさである。
2Corinthians 11:9,10 あなたがたのところにいて生活に困ったときも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。私の内にあるキリストの真理にかけて言います。私のこの誇りがアカイア地方で封じられることは、決してありません。
少しだけ、具体的なことが書かれている。アカイア地方の宣教は、まさに、パウロによってなされたと言えるのだろう。この手紙のころまでには、他の宣教者も、キリスト者も入り、交流は拡大しているが。そのなかで、パウロの個人的な思いが強くなっているようにも思う。同時に、かなり低劣な批判もあったのだろう。しかし、そこから学ぶことはあまりないようにも見える。パウロ学者たちのことばを、学んでみたいと思う。わたしが考えるものとは、ことなった見方があるのだろう。
2Corinthians 12:19 あなたがたは、私たちがあなたがたに対し弁明をしていると、またもや思うことでしょう。しかし、私たちは神の前で、キリストにあって語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。
パウロ書簡をどう理解するかは、難しいと感じる。一人の伝道者の苦悩ということであれば、理解できるが。パウロの、小アジアやマケドニア、アカイアでの存在があまりにも大きかったことからくる、特殊状況もあったのだろう。しかし、この手紙のころまでには、他の人も、コリントに入り、交流を持ち、パウロを知らない人も増えてきていることもうかがい知ることができる。引用句のようなことばが適切に伝われば良いのだが。
2Corinthians 13:2,3 以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に、二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。そちらに行ったら、今度は情けはかけません。なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方です。
怖い。こんなひとに三度目に来てほしくはない。そう思うのは、私だけだろうか。ただ、最後は恵みの言葉で閉じる。「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者たちがあなたがたによろしくと言っています。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」(11-13)このような言葉だけでは通じないことがあることは確かだが、手紙という媒体の限界も感じる。難しい。

BRC2023(2)

2 Corinthians 1:19 私たち、つまり、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
シルワノについて調べてみたくなった。この手紙自体は「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカイア全土にいるすべての聖なる者たちへ。」(1)とあり、シルワノは差出人になっていない。しかし、パウロが最初に書いたとされる書簡には「パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」(1Thess 1:1)と差出人に入っている。テサロニケ後書(1:1)も同様。こちらは、前書に合わせただけかもしれないが。さらに「わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。」(ペトロ前5:12)ともあることも気になった理由である。ペトロとパウロを結ぶ存在であるためには、同一人物でないといけないが。使徒言行録に登場するシラスと同一人物であると思われてもいる。(15:22,27,32,34,40,16:19,25,29,17:4,10,14,15,18:5)もう少し情報を集めたい。
2 Corinthians 2:7-9 むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。私が前に書き送ったのも、あなたがたが万事にわたり従順であるかどうかを確かめるためでした。
内容ははっきりしない。持っている資料だけからは、コリント前書5章1節「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。」が一番厳しく言っている箇所だが、おそらく違うのだろう。他にもパウロが責めている箇所はいくつかあるが、引用句の表現がピッタリ当てはまる箇所がどこかは、わたしには、わからない。他にも手紙があったと考えたほうがよいのだろう。このことも、手紙を読む難しさでもある。
2 Corinthians 3:17,18 主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。
「神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。」(6)ともあり、霊に仕えることが中心にかかれている。しかし、これらを共有するのは難しい。スピリチュアルを否定することはできないし、それは誤りであるが、これを通して、あることを共有することには、危険も感じる。ひとからでたものかを区別するのがとても難しいからである。天からのものか、ひとからのものか。
2 Corinthians 4:13 「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです。
この前には、「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(7)ともあるが、判断は難しい。謙虚に生きたいが、どこかで、このような判断をしなければならないこともある。イエスの方法からも学ぶようにしたい。
2 Corinthians 5:2 私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。
この前には、「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。」(1)とあるが、わたしには、そのことはよくわからない。しかし、引用句の感覚はある。それが現実を生きることで、それから逃れることを考える必要はないとも思っているが、みなが、そう生きるわけではないのだろう。地上の幕屋に未練はないが、まだ、すべきことはあるのかもしれないと思っている。それが毎日増えているようにも見える。
2 Corinthians 6:16-18 神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。/「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。/私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。/だから、彼らの中から出て行き/彼らから離れよ』と主は言われる。/『汚れたものに触れるな。/そうすれば、私はあなたがたを受け入れ/あなたがたの父となり/あなたがたは私の息子、娘となる』/と全能の主は言われる。」
どうも、旧約聖書の何箇所からかの引用を一つにしたようである。それが適切なのかどうか、わたしには不明である。最初の部分は、理解できるが、二番目は、よくわからない。それが三番目に結びつけられていることには、不安すら感じる。わたしの信じている神様、イエス様の神様とは違うのだろうかと。
2 Corinthians 7:3 あなたがたを責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは私たちの心の中にいて、共に死に、共に生きるのです。
すこし驚くような表現だ。一体感や、共にいることの証言にはなっても、支配的に受け取る人もあると思う。実際にコリントでどのようなことがあり、どのようなやり取りがあったか不明だが、「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです。」(8,9)と書いている以上、問題があったのだろう。しかし、「あの事件に関しては、あなたがたはすべての点で自分が潔白であると主張しました。」(11)ともあり、いくつか問題があったのか、これが最大の問題だったのか不明だが、正直、背景が不明である。勝手な推測も良くないだろう。
2 Corinthians 8:19 そればかりではありません。彼は私たちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主ご自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが携わっている、この恵みの業に加わるためでした。
テトスとともに行く人のことが語られている。以前、シルワノ(またはシラス)が同伴したように、寄付に関しても、同行したひとが居たのだろう。パウロが必ずしも、完璧に信頼されていなかったことを著してもいるのかもしれない。また、お金のことでもあり、このあとに書かれているように、「私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大に振る舞うように心がけています。」(21)このような態度は必須だったろう。これには、人間としての誠実さだけでなく、社会的訓練も必要である。
2 Corinthians 9:9,10 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与え/その義は永遠に続く」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
「幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。」で始まる詩篇112篇9節「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」からの引用のようである。喜捨は、ユダヤにおいては、美徳として根付いていたと思うが、アカヤや、ギリシャ世界ではどうだったのだろうか。日本でもあまり根付いていないように思う。もう少し根本的な神と人との認識が根付かないと難しいのかもしれない。
2 Corinthians 10:16-18 それは、あなたがたを越えた地域にまで福音を告げ知らせることであって、他の人々の領域ですでになされた働きを誇ることではありません。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主に推薦される人こそ、適格者なのです。
誇りについてここまで書かれていることに少し違和感を感じる。誇り高いひとだったのだろうか。単に、わたしが、人前ではそのように振る舞わないだけで、自尊心のようなものは、パウロと同じようにあるのだろうか。よくわからない。パウロも自分に語りかけている面があるのかと思った。
2 Corinthians 11:4,5 なぜなら、あなたがたは、誰かがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたがかつて受けたことのない異なった霊や、受け入れたことのない異なった福音を受けているのに、よく我慢しているからです。あの偉い使徒たちに比べて、私は少しも引けは取らないと思います。
最初の宣教のときとは、状況が替わっていることが見て取れる。混乱をパウロは心配しているのだろう。たしかに、自分が教えた人たちに、特別の感情を持つことは自然だが、危険でもある。状況がよくわからないのであまり書けないが、あの偉い使徒たちがどのような人たちを示すのかには、とても興味がある。当時の状態を知るためにも。
2 Corinthians 12:6,7 もっとも、私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。しかし、誇るのはやめましょう。私について見たり、聞いたりする以上に、私を買いかぶる人がいるかもしれないからです。また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。
背景にあることが十分理解できるわけではないが、ここに「あまりに多くの啓示を受けた」とあることに目がとまった。たしかに、パウロが書いていることで、啓示以外には是とできないことが多い。それは、啓示なのだろう。むろん、確かめることはできない。そして、わたしは、留保をもって受け入れることとなる。一般の人とも共有するために。
2 Corinthians 13:2 以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に、二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。そちらに行ったら、今度は情けはかけません
何度も厳しい。7章などにある、ある理解とはかなり異なる。コリント後書は、いくつかの手紙がひとつに纏められたのではないかと言われているが、その影響なのかもしれない。あとには「私たちは、神があなたがたをいかなる悪にもお定めにならないようにと、神に祈っています。それは私たちが、適格者と見られたいからではなく、失格者と見られていても、あなたがたが善を行うためです。」(7)とも書かれている。この意味も明確にはわからないが、コリントの人たちを思っていることは確かなのだろう。限界もあるが。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

2Corinthians 1:8,9 きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
アジアでは、かなりの困難があったことがわかる。使徒言行録にも書かれている。エフェソスの例などを見ても(使徒19章)、ユダヤ人からも、地元の人からも反対があり、かなりの騒動が起こっている。マケドニアやアカイアとは状況が異なっていたものと思われる。この困難、パウロにとっての苦難は、政治指導者による迫害ではない。パウロの宣教が、ユダヤ人にとっては、伝統とは異なる教えと生活様式というユダヤ人がたいせつに受け継いできたことの変更、土地のひとにとっては、偶像礼拝への非難から始まるたいせつにしていたことの変更を伴う宣教だったからだろう。古くからの友人のアメリカ人の宣教者(わたしも設立の準備からかかわった International Friendships Incorporation の設立時のリーダー)が、今は、アフガニスタンの難民を受け入れるために、募金をして、中古の家を何軒か購入している。彼もかなり原理的な福音派だが、愛の奉仕をたいせつにしている。どちらがよいとは言えないが、単純ではないことを思わされる。
2Corinthians 2:4 私は苦悩と憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている溢れるばかりの愛を知ってもらうためでした。
この手紙がコリント信徒への手紙一かどうかは不明である。しかし「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。」(1Cor 5:1)を指すとも考えられている。もし、この記述であったとすると、パウロが考えていたこととは、少し違っていた可能性もある。すくなくとも、大きな問題にはならずに、解決したのだろう。パウロの影響は大きいゆえに、具体的な課題の解決は簡単ではない。個人的な問題に入り込んで、どの程度、情報を得ることができたのだろうか。今となってははっきりしないが、公開の書簡での、やりとりで、このような問題(もし上の通りであったなら)を取り扱うのは、謹んだほうがよいように思う。
2Corinthians 3:16,17 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。
この主はキリストではないのか。覆いは、「キリストにあって取り除かれる」(14)であっても、主とキリストは、区別されているのかもしれない。このあとには「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。」(18)と続く。わたしは、これは、イエスを見ていて、実現することだと考えており、おそらく、パウロとは異なるのだろう。それで良いのだろうか。
2Corinthians 4:4 彼らの場合、この世の神が、信じない者の心をくらまし、神のかたちであるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
このあとには「なぜなら、『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。」(5)と書かれている。あまりにも、ポジティブで心配になる。確かに、頻繁に、この世の神(価値観・これは変更できないとされる絶対的に思える原則)によって、自由が奪われ、神様の働き、神の国が近くにあること、イエス様によって示された神の子として御心に生きる生き方が、見えなくなってしまうことがある。イエス・キリストのみ顔から目をそむけなければなのか、イエス・キリストによってなのかは、不明だが、そのような状態にはならないと言っているようにも聞こえる。このあとの文章を見ると「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(7)ともあるので、自分が目をそむけなければではないのだろうが、根拠をそう簡単には、受け入れられないように思う。心がくらまされ、よく見えない場合が多く、それによって苦しむことが多いのだから。
2Corinthians 5:4,5 この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。
肉体を持って生きることを、弱さ、矛盾とパウロは捉えている。聖となるはずなのに、そうは生きられない現実があるからだろう。そして、引用句では、今は死ぬべきものを伴って生きているが、いずれは、命に飲み込まれてしまうこと、そして、その保証が霊だと言っている。おそらく、多くのキリスト者が、2000年の後、この幕屋に住み、生きること自体を命に生きることと捉えているように思う。わたしもそうである。求めて生きること、それこそが、肉に従ってキリストを知っていたことの中から、真理を求める姿勢のように思う。「それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16)少しずつ、価値観を変えられていくことを望みつつ。
2Corinthians 6:11-13 コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
コリントの人たちに対して「神と共に働く者として」(1)「この奉仕の務めについて、とやかく言われないように、どんなことにも人につまずきを与えず)」(3)あらゆる困難に耐えてきたことが書かれ、引用句に至る。「心を広く開き」「広い心で受け入れ」などの寛容さが印象的である。しかし、このあとには「あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。」と厳しいことばが続く。整合性は取れると思うが、教会の運営など、この世での活動を考えると、混乱のもとでもあると思う。背景には二分法と、自分が根本的なことについては示さなければとの責任感があるように思われる。わたしは、このどちらも、問題だと考えている。ゆっくり考えていきたい。
2Corinthians 7:10 神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。
コリントの信徒への手紙一・二に深く関係した、問題が背後にある。正確にはわからないが「現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。」(1Cor5:1)が背後にあると思われる。引用句の直前には「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。」(8a)とある。さらに、直後には「あの事件に関しては、あなたがたはすべての点で自分が潔白であると主張しました。」(11b)とある。詳細は不明であるが、やはり、パウロの取り越し苦労だったと考えるのが自然であると思う。コリントの教会は、自分たちの正しさを主張してパウロを批判するのではなく、似たケースで問題はないかと徹底的に自らを省み、悔い改めるべきことを悔い改めたようである。前の手紙では、男女関係について、パウロ独特の、かなり厳しいことが書かれており、そのような一つ一つについても、丁寧に受け取ろうとしたのかもしれない。引用句は、それらのことを表現した、美しい言葉であると思う。上の理解が正しければ、わたしなら、ごめんなさいと自分が不正確な情報によって、不適切な判断をしたことを謝るように思うが、それは、謝ることで、自分の正しさを確保することに視点があり、すべての人の徳を高めること、パウロの言葉を使えば「すべては教会を造り上げるためにすべきです」(1Cor14:26b)にはなっていないということだろう。
2Corinthians 8:12,13 その熱意があるなら、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。それは、他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようというのではなく、平等にするためです。
おそらく、「マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」(ローマの信徒への手紙15章26節)にある、エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々への援助と思われる。1節-6節にはマケドニアの人たちの熱心が書かれており、コリントはアカイアの大きな商業都市である。この献金の問題を、平等の課題とし「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」(出エジプト16章18節)を引用している。これは、マナについて書かれた箇所だが、対応すると思われる、5つのパンと2匹の魚で五千人を養う四福音書すべてに書かれている箇所を見ると、皆が満腹になったことと、残ったパンくずのことしか書かれていない。わたしは、平等ではなく、公平が大切だと思っているが、もしかすると、それは、まだ、ほんとうに大切なことに行き着いてはいないのかもしれないと思った。まだ、それが何かは理解していないが、寄付・献金のこととあわせて、ゆっくり考えていきたい。細かい部分では、やはり、パウロのことばは棘もあり、なかなか受け入れられないが、あまり、それをあげつらうのは、それこそ大切なことを見失うことになるようにも思った。
2Corinthians 9:9 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与え/その義は永遠に続く」と書いてあるとおりです。
献金に関して、また、奉仕に関して、この前に書かれている箇所が幾度となく引用され、わたしもそれを是認し、自分自身を鼓舞してきた。「つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(6,7, 参照:詩篇126篇6節)しかし、引用句はすこし方向性が異なるように思う。「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」(詩篇112篇9節)この詩篇は「ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。」(詩篇112篇1節)と始まっており、旧約の一つの価値観なのだろう。人の徳に目を向けるのではなく、恵みの主に目を向けるべきだとわたしは考えているのだろうか。まだ、整理ができていない。献金・寄付のことは、引き続き考えていきたい。いくつも、課題があり、ヒントがあるように思う。
2Corinthians 10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロが、キリストの優しさと公正さとをもって、あなたがたに願います。
この評判に対してパウロはかなり怒っているようだ。「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10)も同じことを表現しているのだろう。どんなひとなのか会ってみたい。ただ「私たちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦っているわけではありません。」(3)と言い切るパウロには、正直近づきたくない。このあとの「私たちは、さまざまな議論を破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち砕き、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたが十分に服従したとき、不従順な者をすべて罰する用意ができています。」(4b-6)などを聞くと正直怖い。議論の強さであって、パウロに向き合いたいとは思わないが、神様の働きはこのようなものなのだろうか。イエス様は、律法学者やファリサイびとを批判はしているが、悔い改めを促しており、そこに本質がある。パウロは、キリストに服従させとは言っているが、これで、神の恵みとして信仰を受け入れることができるのだろうかと思ってしまう。
2Corinthians 11:5,6 あの偉い使徒たちに比べて、私は少しも引けは取らないと思います。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。私たちは、事ごとに、さまざまな機会に、このことをあなたがたに示してきました。
どう見ても称賛されるべき態度ではない。この偉い使徒たちについては、不明だが、使徒ということばを大切にしているパウロが使っているところを見ると、十二弟子または、それに近い、イエスのことを直接知っている人たちの可能性が高い。そのひとたちと比較して知識では引けを取らないと言っている。おそらく、イエスのことばや活動ではなく、神の計画の中での救い、キリスト論についてなのだろう。パウロの中では整合性が取れているのだろうが、問題が多いと思う。ただ、パウロのような存在が周囲の寛容や、支援によって支えられてきたことは、恵みでもある。そのなかには、バルナバや、ルカ、プリスカ、アクラ、テトス、シラス、テモテなどとともに、アポロなどもある役割を果たしていたのかもしれない。パウロから多くを学んだ人たちだろう。そのような人たちの存在の大切さを感じる。
2Corinthians 12:11,12 私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。本当は、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。私は、たとえ取るに足りない者だとしても、あの偉い使徒たちに比べて、少しも引けは取らなかったからです。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、しるしと不思議な業と奇跡です。
パウロは使徒たちに対してかなり強いコンプレックスと対抗意識を持っていたようだ。パウロの活動時期の、12弟子などの働きについては、ほとんど伝えられておらず、不明である。特に、異邦人宣教に限れば、パウロの働きは、あらゆる面で、突出していたのだろう。しかし、同時に、イエスと共にいた弟子ではないことで、一段低く見られていた面もあったのだろう。おそらく、わたしも、そのように見ている。それは、誰が偉いかではなく、イエス自身について、その行動とことばについて、もっと知りたいからだが、パウロは、それがたいせつだとは考えていなかったのだろう。そう考えないことにしていたのか、それは不明だが。難しい。冷静に、公平に見ていきたい。真理に少しでも近づくために。そして神様に愛されているものとして、互いに愛し合い、たいせつにするために。
2Corinthians 13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられるからです。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に生きるのです。
パウロはつねに強く生きる人、だからこそ、弱さについて、12章で書き、この章でも、強さと弱さについて、何度も語っている。そのモチーフのもとで書かれているので、批判的になるのは、いかがなものかと思うが、キリストが、弱さのゆえに十字架につけられたとの表現は、正直なかなか納得できない。さらに、それと同様な表現を使って、「私(パウロ)たち」について語ることには、違和感を感じる。支配関係すら感じてしまう。おそらく、そのような関係が、現代においてすら、教会で根強く存在するからでもあろう。教会は、難しい。主にある交わりでよいと思うのだが、ある人数を越すとやはり組織化が必要なのだろう。

BRC2021(2)

2 Corinthians 1:6 私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。
パウロの思いが伝わってくるようである。このあとには「私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。」(7)ともある。「共に」と「互いに」の違いが最近気になっている。「共に」が「互いに」より劣っているというのではない。しかし「新しい戒め」としてイエス様が最後に私たちに委ねられたように「互いに」を求めていきたい。もしかすると、イエス様も、神様との関係の中で、相互性をたいせつだと思いつつも、どうしたらよいか、答えを持っておられなかったのかもしれない。おそらく、引用句のような「他者への思い・愛」が「共に」を生み出し、「共に」の中で「互いに」が育まれていくのだろう。しかし、それは、必然ではないということは、むずかしいということなのだろう。
2 Corinthians 2:7,8 むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。
背景には、1コリント5章1節にある「父の妻と一緒になっている」との指摘があるのかもしれない。いずれにしても、ある倫理的なことについて糾弾し「交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない」(1コリント5章11節)などと述べたことが、予想以上の影響を及ぼしたのではないかと思う。離れた場所から、手紙で、重要なことを指示する難しさ、危険性が背後にあるように思われる。しかし、ここで、赦しと慰めに向かっていることは喜ばしい。全体的な配慮はほんとうに難しい。これも、経験なのだろうか。正しさの危険性とも言えるように思う。
2 Corinthians 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。
「文字は殺し、嶺は生かす」はとても印象的なことばである。しかし、これを根拠に、演繹することも、問題があるように思う。冷静に考えてみたい。「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです。」(3)を受けている。このあとも、霊の働きが重視されているが、おそらく、それが霊の働きかどうかは、全体的に判断すべきことで、直後にはわからないように思う。これは、おそらく、宗教共通の難しさであるように思う。いろいろと調べてもみたい。
2 Corinthians 4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。
パウロの信仰がよく現れている。しかし、パウロの信仰告白だとも言え、これが力になるひとと、そうではない人がいるように思う。苦難をどうとらえるか、困難とどう向き合うかについてパウロは述べているが、それは、個人個人の向き合い方で、かならずしも、他の人の向き合い方や、確認はできない真理と言われるものによって、解決することではないように思う。しかし、そうであれば、どうすればよいのだろうか。信頼関係のもとで、ひとと共にいること、ある種の共感は力になるが、時間稼ぎのようにも思う。自分と神様との関係以外にないと言えるだろうか。本当に苦しみ、悩んでいる人がいるとき、わたしに、できることはほとんどない。I am available, though what I can do is limited. ということだけのように思う。それがいましていることなのだが。
2 Corinthians 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
パウロがこのように、十字架を理解したのだろうが、それがたしかにそのとおりだとは、啓示によるとするのだろうか。おそらく、他の理解のしかたも当時からあったろう。「わたしたちのために、愛のゆえに死なれた」と表現するひともいただろう。正直よくわからない。この直前には「つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」(19)とある。神との和解、美しいことばである。ただ、中身がよくわかるわけではない。神のみこころに従っていきることはできるのだろうか。その権能が与えられたとしても。
2 Corinthians 6:12,13 私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
パウロのどうにかしたいという必死さと熱情は伝わってくるが、内容が、受け手に伝わるかどうかはよくわからない。「神の恵みをいたずらに受けてはなりません。」(1b)に核心があるのだろうが、これが生活にどのように結びつくかは、簡単ではないように思えてしまう。しかし、共通理解にいたらなくても、互いに平和を保ち、愛し合うことはできるのかもしれないとも思う。それでも、長く続く持続性のためには、ある共通理解はひつようなのかもしれないが。難しい。もっと深く読まないといけないのかもしれない。
2 Corinthians 7:16 私は、万事につけ、あなたがたを信頼できることを喜んでいます。
正直にいうと、この書の内容からして、パウロが本当に、コリント教会のひとたちを信頼しているとは思えない。しかし、この段では、テトスからの報告を受け、それが慰めとなったのだろう。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです。」(8,9)コリント前書5章の内容が、背景にあるのか、明確でなく、正確な情況はわからないが、信頼されていないという感覚が、この悲しみの背景にあるようにも思う。それを、引用句によって、打ち消そうとしているように感じる。情況を十分理解せず、調査もせずに、起こっている表面的なことから、パウロが叱責した可能性も否定できない。
2 Corinthians 8:6,7 そこで、私たちはテトスに、この恵みの業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは、信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛など、すべての点で満ち溢れているのですから、この恵みの業にも満ち溢れる者となってください。
この手紙の背景には、ユダヤの貧しい聖徒たちのための、募金があるように見える。倫理的で無いことに関しては解決しているように思われるが、その解決において、パウロとコリント教会の人達の間に、ギクシャクした関係ができていたのかもしれない。それも、募金が進まない原因だったように思われる。それを、パウロが前の章と、この章で説明し、お願いしている。やはり、背景を理解することが重要であるように思う。むろん、正確にはわからないだろうから、その理解を決定的にすることはできないかもしれないが。
2 Corinthians 9:4 そうでないと、マケドニアの人々が私と一緒に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたについてはあえて言いませんが、私たちはこの計画のことで恥をかくことになりかねません。
この章は「聖なる者たちへの奉仕について書くのは、もうこれで十分でしょう。」(1)と始まるが、そのあとも、寄付のことが続いている。それだけ、パウロは重要な案件だと考えていたということだろう。9節には、詩篇112篇の「ハレルヤ。/幸いな者、主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人。」(詩篇112篇1節)から「貧しい人々には惜しみなく分け与え/その正義はいつまでも続く。/彼の角は栄光の中、高く上げられる。」(詩篇112篇9節)を引用している。「施し」はユダヤ教において社会の一員としておそらく最もたいせつなことだったのだろう。それをキリスト者の社会においても、根付かせるという普遍性があるように思うが、それ以上に、エルサレムの貧しい人たち、すなわち、使徒たちや、ユダヤ人キリスト者に対するこの働きがたいせつだと考えていたように見える。分裂を避け、一体であることの鍵だと考えていたのかもしれない。実際にどのくらいの寄付を届け、それがその後どうなっていったのかは不明だが。
2 Corinthians 10:1,2 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロが、キリストの優しさと公正さとをもって、あなたがたに願います。私たちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に振る舞うつもりです。そう確信していますが、私がそちらに行くときには、強気にならずに済むようにと願っています。
具体的な内容は不明だが、かなり厳しい言葉が続く。「『パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者がいるからです。」(10)とも言っている。読んでいて辛くなるが、子をただす父親のような気持ちがあるのだろう。ただ、このようなアプローチで、みなが成長できるかについては、現代的な感覚かもしれないが、疑問をもつ。
2 Corinthians 11:1,2 私の少しばかりの愚かさを、我慢してくれたらよいのですが。いや、我慢してほしい。私は、神の妬みをもって、あなたがたを妬んでいます。私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたのです。
この章の内容は、実質的なコミュニケーション・教えのためにはなくてもよい部分であるが、おそらく、弱さを語ることに意味があるように思った。最初から見てみると「私の愚かさ」とあり、さらに「妬み」が二回登場する。妬み ζηλόω(zēloō:to burn with zeal; to be heated or to boil with envy, hatred, anger, to desire earnestly, pursue, to envy)はよくわからない。「熱情による心の高まり」だろうか。日本語の感覚とは異なるのかもしれない。論理的には考えられないが、強い思いを持って語っているということなのかもしれない。それは、弱さの現れであるかもしれないが、それは、共に共有することにプラスになるのかもしれない。やはりよくわからないが。
2 Corinthians 12:14 今、私はそちらに三度目の訪問をしようと準備していますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。
経済的なことに気を使っている。パウロの性格なのかよくわからないが。世話になることも、信頼関係を築く上で大切なことだと思うのだが。この章には、パウロの弱さについて書かれており、病についても書かれていると考えられているが、わかりやすいからであり、個人的には「このほかにもまだあるが、その上に、日々私に押し寄せる厄介事、すべての教会への心遣いがあります。」(11章28節)が、日常的に疲れさせているのではないかと思う。こちらは、多くの人たちも共感する部分があるように思う。これ以外は、パウロにしか本質的には理解できない痛みである。
2 Corinthians 13:2,3 以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に、二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。そちらに行ったら、今度は情けはかけません。なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方です。
正直に言って怖くなってしまう。おそらく、この背景にあるのは、コリントの信徒への手紙一5章にあるような倫理的な問題ではないのだろう。コリントの信徒への手紙二は、たしかに、いくつかの手紙をまとめたものかもしれない。啓示かどうかの部分についても、強く述べている。それが宣教者なのかもしれないが、わたしは、やはり違和感をもつ。このあとで「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(11)と書いても、残るのは、分断、パウロを支持する人たちの一致であるように、思ってしまう。難しい。

BRC2019(1)

2Cor 1:5,6 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」これが、パウロの苦しみの解釈なのだろうか。表現のしかたは、すこし気になるが、神の技、キリストの命に与ることは、苦しみにも与ることと理解していたのだろう。すべて、直接的な神からの慰めなのだろうか。この書では、コリントの人たちを通しても、慰めをうけたのではないだろうか。ていねいに読んでいきたい。
2Cor 2:4 あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。
1コリント5章1節から8節にある「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。」(3)のことであるかは不明である。第一と第二の手紙の間に悲しみの手紙があるとする説もある。第二はいくつかの手紙を編集したものだという説もある。引用した段落の背景にあることは、1コリントの内容からは、しっくりこないからであろう。問題の解決、裁きと赦しは本当に難しい。手紙が書かれたのが、パウロの宣教の最後の方ではないだろうこと、手紙という媒体だけでは、理解できないことが多いことを十分加味しないと単なる憶測となってしまう。聖典の一部となっていることの危うさを感じる。
2Cor 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです
正直、通読で理解するのは困難であるが、12節の「希望」がここにあるように思う。「主と同じ姿に造りかえられてい(く)」は、創造のわざと区別する場合と、その一部と考えることもあるだろう。しかし、主が働いておられることはたしかなのだろう。「神の子とされる」(ローマ8章23節)「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(1ヨハネ3章2節)「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(1コリント1章8節)これは、希望であることに、間違いがない。
2Cor 4:10,11 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
イエス・キリスト、キリスト・イエス、主イエス以外で、パウロ文書には「イエス」単独では、殆ど現れない。しかし、この4章には引用箇所以外に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(14)にも登場する。すべての用例を、原語にもどって確認してみたいが、ひととして現れ、肉体をもったイエスを表現しているようであるが、死と復活に偏っており、公生涯全般はやはり登場しない。パウロにとって、イエスの地上での生涯はどのようなものだったのだろうか。「神の似姿」(4)を肉体をとって地上を歩まれた、イエスを通して表わされたこと、そのイエスに似たものにと、なぜ、パウロは言わないのだろうか。彼独自の「使徒」召命の特異さからだろうか。
2Cor 5:15,16 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
なぜ、キリストを肉によって知らないかの根拠として書かれているようである。しかし、ひとつの解釈、説明としてしか、わたしには、受け取れない。具体的な生き様に、その実体があると思い、そのことを突き詰めたいからである。そして、福音書を通して垣間見ることのできる、イエスから、学ぶことは、とても大きいからである。キリストのこころを心とするために、イエスが地上を歩まれたその歩み(こそ)が鍵であるように思う。
2Cor 6:1,2 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
「恵みに無駄にしない」とはどのようなことだろうか。この結果として「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」(4)を意味しているようである。神のみ心を行う、み心に生きることに集中することなのかもしれない。「恵みのとき」とは、イエスによって真理が明らかになり、神の働きが顕されたことによるのだろうか。パウロは、もっと具体的なイメージを持っていたかもしれないが。いまの、わたしの告白である。
2Cor 7:7 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。
パウロは「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」(5)と告白している。その中で、一番、こころを捉えていたことではないが、コリントの状況をテトスが知らせてくれたことなのだろう。これは、6章2節にある「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」の背景でもあるかもしれない。パウロ自身ではなく、テトスであったことも良かったのかもしれない。同労者の目は、あたらしい視点を与えてくれる。実際の悲しみの手紙については、不明であるが、コリントの信徒への手紙一にあるようなこころを痛める事態が様々に存在したのだろう。神が様々な方法で、様々な人を通して働かれることを認めることは、めぐみに与ることでもある。
2Cor 8:3,4 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
マケドニア州の諸教会(1)とあるが、フィリピ、テサロニケ、べレアだろうか。他にもあったかもしれない。使徒言行録16章11節から17章15節に開拓時のことが書かれている。また、「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」(フィリピ4章15節)ともあり、中心は、フィリピだったかもしれない。ユダヤ人の会堂はなかったと思われるので(使徒言行録16章13節)異邦人キリスト者がほとんどだったろう。なぜ、これだけの熱心さがあったのだろうか。自分のいのち自体が、ここにあるとまさに、献身していたのだろう。多く愛されたものは多く愛するのだろう。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7章47節)
2Cor 9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
献げ物のすすめは、単純ではないだろう。「喜んで与える」(7)ようになるには、どうしたら良いのだろうか。論理でできることではない。喜びは、恵みをうけとるところから来るのだろうか。神様の信頼である。そして、神様の御心の忠実であることを、確認することだろうか。自らを欺かないように。最終的には、自発性を保てるかどうかだろうか。
2Cor 10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
この章には気になる表現が多い。引用句の前半も、2節以降も心配になってしまうが、「そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。」(11)も、14節以降の論理も、適切だとは個人的に思えない。このようなパウロを神はお用いになったことは、重要としても、すべて正しいとして、議論の中で聖書の権威をもちだし、教義の一部とすることに、疑問を感じる。そうすると、教義とするばあい、峻別することが必要であるが、その基準が明らかであるとは言えない。教父を含め、宗教改革者も、議論のために、聖書の箇所を取捨選択することもあり、同様の問題に陥る可能性があるからである。聖書をどのようなものだとするかは、難しいし、問題の大本にあるようにも思われる。最後に、パウロは、このように、聖書の一部として、彼の手紙が扱われることを望んだり予想したりしたのだろうか。
2Cor 11:32,33 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。」(使徒言行録9章23-25節)のことを述べていると思われる。この記事と、様々な困難を経験し、抱えていることを述べた箇所の間に「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(30)が挟まっている。どんどん、書いてしまったのだろうか。パウロの精神状態に同情はするが、学ぶことは多くはないと思ってしまう。なにか、悲しい。
2Cor 12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
これも、パウロのことではないのか。すると、一人の人を、この世の体と、霊的なものとを区別していることになる。これが、夢のようなものだったとすると、ここで語られることが適切なのか、よくわからない。ただ「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。」(7)とあり、パウロが受けた啓示との関係も暗示されている。どう理解したらよいのだろうか。パウロは、何を伝えようとしているのだろうか。
2Cor 13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
パウロたちも、イエスとともに、十字架につけられた、その意味で「弱い」しかし、あなた方と共に対しては、神の力によって生きておられるキリストと共に生きているので強い、と言っているのだろう。ただ、一つ心配なのは、ここで「あなた方に対しては」と言われていることである。コリントの人たちは、十分プレッシャーを受けていただろう。強いと表現されるものは、キリスト共に生きるとは、何なのだろうか。

BRC2019(2)

2Corinthians 1:7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
苦しみと慰め。難しい課題である。それぞれ、一人ひとりが振り返りの中で、苦しみの中に、慰めを受け取るもので、普遍性は求められない。押し付けることはできない。自ら、それを受け取ることができれば、幸いであるが。パウロにしても、慰めは、自分が受け取ったと信じている、使命と関連して、受け取ることもあるだろう。それを他者に適用することはできないのだから。難しい問題である。他者に耳を傾けるものでありたい。
2Corinthians 2:5-7 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
このことが何をするのか、明らかではない。しかし、1コリント5章1節の「ある人が父の妻をわがものとしている」事かもしれない。もし、そうだとすると、パウロの手紙の指摘の影響がとても大きかったことを意味するだろう。「あなたがたすべてを悲しませた」「多くの者から受けたあの罰」など、詳細は不明である。しかし「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。」は、たいせつなことである。どのようなことが起こっていたにせよ。なにを、目的に戒めるのか、内部の人を裁くのか、神様はなにを喜ばれるか、イエス様はどう行動されるだろうか。ていねいに、考えて行動し、あとから、その行動を正当化するのではなく、それぞれの時点で、問いながら、神様の御心を求めていきたい。人間の義は虚しいものだから。
2Corinthians 3:2,3 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
推薦状かどうかは不明であるが、本質的には、一人ひとりが、キリストがお書きになった手紙として公にされているということだろう。ヨハネの表現を使えば、イエスさまによって愛されたその愛によって「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章35節)とも通じている。パウロが書きつけられていることがどのようにしてわかると考えていたのかは不明であるが(「自由」(17)は一つの特徴かもしれない)、「地の塩・世の光」(マタイによる福音書5章13節)を考えても、単に、そのひとが何かを信じているかどうかではないことは明らかである。
2Corinthians 4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
内容は不明であるが、結果として「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(8,9)を証言しているようだ。まだ当時は殉教は多くなかったかもしれないが、殉教者が増える中で、どのように理解するか、深化が求められたろう。困難ではあっても「互いに愛し合う」ことを求める、共に生きることの価値を考えながら生きることがたいせつであるように思うが。
2Corinthians 5:9,10 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
前半は理解できるが、後半には、人間の通常の思いに引きずられているように思われる。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(19)とも書いている。キリスト論に個人的に距離を置いてしまう理由でもある。和解と裁きをわける根拠を議論することは、虚しく感じる。ひとの論理であり、日常生活を本質的に変える力にはならないように思えてしまうからである。論理ではなく、ひたすら主に喜ばれるものであるために、みこころを求め続けながら謙虚に歩んでいきたい。
2Corinthians 6:16,17 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
最後の部分は、イザヤ52章11節、エレミヤ51章45節 が引用箇所としてあげられるが、前者は祭具を運ぶときに関するもの、後者はバビロンへの預言の中である。文章もかなり異なっている。神殿と偶像に結びつけているとはいえ、これらを「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」(14)の根拠とすることには、問題がある。分離主義(separatists)への道を是とする方向性につながるからでもある。本音と建前のように、複数の基準をそのばその場で使い分けることにもなりかねない。グレーな場合もふくめ、また、自分自身も揺れることを真摯に受け入れ、御心を求めて生きるものでありたい。
2Corinthians 7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。
この段落は「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」(5)と始まっている。それがテトスが到着して、報告を聞くことで、慰められた(6)とある。さらに「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。」(8)とある。「あの手紙」については不明であるが、1Cor 5:1 にある不道徳の指摘や、1Cor 1 にある分裂のことであるかもしれない。または類似の問題があり、それを指摘した別の手紙があるのかもしれない。新約聖書の成立にも問を投げかけるものであるが、それはさておき、引用句は、それらが問題ではなく、パウロの誤解であったかもしれないことを臭わせている。このあとに悔い改めについて書かれているが、それも、たとえ誤解であったとしても、正すべきところがあるとして、悲しみ・生活を変えたのかもしれない。確実とは言えないが「ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。」(12)を見ると「誤解」の部分が大きかった可能性が大きいことを感じさせる。強いリーダーシップの問題点・課題でもある。わたしは、パウロに厳しいかもしれないが、キリスト教会のリーダーシップの模範とされていると思われるので、考察を書いておく。
2Corinthians 8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
めずらしく、イエスについて言及している。おそらくフィリピ2章6-8節のようなことかもしれない。キリスト論の部分である。ここでは、募金・(おそらくエルサレム・ユダヤの)貧しい人たち(聖徒)への献金について述べている。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(7)マケドニアの諸教会に見習うように勧めているようである(フィリピ4章15,16節)。現在もこのようなことが起こるが、やはり目的達成が価値を決めているように思えてしまう。他方、この募金が、とてもパウロにとって重要であったことも分かる。
2Corinthians 9:9,10 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」(詩編112編9節)からの引用のようである。この詩編は「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は」(詩編112編1節)と始まり、主語は「主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人」だろう。最初の引用箇所では、「神」(8)のように思われ、異なっている。七十人訳など、丁寧に確認する必要がある。しかし、主を畏れることは、主に倣うことでもあり、引用として問題とは言えないだろう。また、この後半(10)が重要である。主の働きを確認することが、信仰であろうから。自分や特定のひとの功績として見ることは慎まなければならない。
2Corinthians 10:13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。
パウロは誇り高い人である。誇っている箇所が多いように思う。慎みを美徳とし、こころの中では誇るひとではないようである。しかし、個人的には、これもパウロであるが「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(1コリント4章7節)のほうがこころに響くそして、「誇る者は主を誇れ。」(18)自らを誇ることなく、忠実なしもべとして、恵みの管理者として生きていきたい。物欲・肉欲は制御できても、名誉欲は人間にとっておそらく最も難しいものだから。「仲間どうしで評価し合い、比較し合(う)」(12)のではなく、神とともに、隣人とともに、喜ぶものでありたい。
2Corinthians 11:9 あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。
「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」(フィリピ4章13-16節)と対応していることが書かれている。「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」とあるように、支えることは、共に生きることの重要な部分なのだろう。いのちを分かちあることと同じだから。それは、神の恵みを分かち合うことでもある。それが、強制や、圧力によってではなく、自発的であることも、おそらく、重要である。しかし、現実は、自発性だけでは、成り立たないように見える。目的達成によって決めるのではなく、どのように生きるかに価値があるとすることとも、関係しているように思われる。それで本当によいのかどうか、まだ自信はないが。囲碁の名人に返り咲いた井山裕太が「今後の目標は」と聞かれ「最近は具体的な数字や目標は設定せず、自分の中でどれだけできたかということに重きを置いている。30代になったからこういう戦いを、という風には考えていない。今まで通り、少しでも成長していけるようにということに尽きる。」と答えている。(朝日朝刊2020年10月16日)プロも驚くような手を打ったときも「無理気味な仕掛けかなと思ったが、ほかの手で自信があったわけでもないので、やってみたという感じ」(同)と、わかってそうしているわけではないことを認め、答えている。わたしの感覚にとても近い。
2Corinthians 12:7-9 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
何度も考えてきた有名な箇所である。今回は、弱さの中で気付かされたのだと思った。つまり、恵みは常に十分である。神様は常に働いておられる、もしかすると、どのような場合にも、主が共におられることを認めて歩んでほしいのかもしれない。しかし、ひとは、自分でやって行けているように思ってしまっている。悲しい。共に歩むことは、どのようなときにも、いつもだろう。イエスと共に。
2Corinthians 13:11-13 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
この手紙の最後の三節である。三位一体の神の祝福を祈っている。パウロの願いが、ここにまとめられているのだろう。しかし、これだけでは、終われない。細かいことについて、どうしても書かざるをえなかったことが、この手紙を成り立たせているのだろうか。ほとんどが、互いの関係のことである。完全なものになることも、喜ぶことも、一人だけでは意味のないことかもしれない。パウロのメッセージをていねいに受け取りたい。

BRC2017(1)

2Cor 1:24 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。 
やはり手紙は難しい。むろん、会って話しても、相互理解が得られるかどうか不明であるが。全人格とまでは言えないまでも、いろいろな角度からのコミュニケーションは可能であろう。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」(23節)これは、難しい表現である。反論を拒否している。コリント後書は成り立ち自体も複雑だとも言われるので、単純ではないが、このあとの内容が前書のどの部分を指しているかも、あまり明らかではない。問題に感じることは多々あったろうから。こころを落ち着けてまずは、パウロを通して聞いてみよう。
2Cor 2:7 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
パウロの強いリーダーシップが感じられる。そして、それで良いのかどうかも、わたしにはわからない。1Cor 5 にある不道徳について言及しているのか、まったく別の件なのか、他の手紙で言及していることなのかも不明である。しかし、その結果は「多数の者から受けたあの罰」(6節)と書かれている、何かを引き起こしている。悔い改めはあったように思われる。しかし、何があったにせよ、間違いを、責めることの難しさを感じる。特に教会において。
2Cor 3:7,8 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 
このあとに展開される、顔の覆いの議論は、正直よくわからない。啓示として、受け止めるべきなのか。パウロの一つの解釈なのか。旧約の預言者の勤めと、教会のリーダーの勤めをどのように考えるかも、難しい課題である。単に、神に仕える、兄弟とはとれないのだろうか。神の前に、神と共に生きる同志として。
2Cor 4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 
この章の最後「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)などは、本当に上手な表現である。パウロの言葉に触発される人が多いのは、当然に思える。引用した箇所は、その「みえないもの」に関係する部分であるが、再創造または、創造の業の継続を感じさせる。このことについては、聖書全体から一度、丁寧に学んでみたい。重要だが、難しい課題でもあろう。
2Cor 5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。 
良心(suneizeesis: 1. the consciousness of anything 2. the soul as distinguishing between what is morally good and bad, prompting to do the former and shun the latter, commending one, condemning the other, the conscience)に惹かれた。姦淫の現場で捕らえられたという女の記事(John 8:9)など、新約聖書の30節で32回使われている。いつか学んでみたい。おそらく、道徳に関する良心の問題は、とても難しいだろう。引用箇所の前半は分かりやすい。後半は「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたい」この解釈は難しい。
2Cor 6:12 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 
何を伝えようとしているのだろうか。この章は「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 」(1節)から始まっている。おそらく4節aの「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」につながっている。「恵みの時、救いの日」(2節)として生きること、そこに中心を置いて生きることが「広い心で(コリントの信徒たちを)受け入れる」ことだと表現されているのだろうか。あらゆる問題につながっていくようで、いまここだけでは、議論できないように思われる。
2Cor 7:2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。 
この章の最後は「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。 」(16節)どうも、ここには、ギャップがあったようである。「信頼して下さい」とか「心を開いて下さい」とはお願いすることではない。それをしているということは、十分な違和感があったのであろう。むろん、わたしには、その原因はわからない。離れているときには、よく起こることである。テトスを送っているが、それで、ある程度解決した部分と氷解しなかった部分があるのだろう。「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。 」(15節)も少し心配になる言葉でもある。神に信頼し、委ねること、神の働きに任せることだとわたしは思う。パウロの熱は熱すぎる。
2Cor 8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」ことが「恵み」だとされている。「主の貧しさ」によって「あなたがたが豊かになるため」雰囲気は十分伝わるが、具体的にはどのようなことであろうか。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2章6節-8節)をまずは思い出すが、それ以上に、主が愛し、僕のように仕え続けられた具体的な生き方が、わたしには強く迫ってくる。それは、単に、「神と等しい者」が「僕の身分になり」という外面ではないなかに、大きな意味があると感じているからだろう。パウロはなにを伝えたかったのだだろうか。
2Cor 9:7,8 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 
基本は後半に述べられている信仰、つまり、神様をどのような方として受け入れるか、愛するかにかかっているように思われる。それがあってはじめて「こうしようと心に決めたとおりに」献げることができるのである。そのように生きていきたい。献金だけでなく、わたしの人生を、与えられている一日一日の生き方を、与えられたいのちを神様の望まれることを追い求め、精一杯生きて。
2Cor 10:8 あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。 
この章のパウロはかなり感情的に感じる。その中でここで「権威」について述べている。興味があるのは目的が明示されていることである。「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるため」これが明確になっていることが、神様がまさに神様を求める人たちをパウロの働きによって「造り上げ」ていった理由なのかもしれない。不完全さは、だれにもあること。むろん、目的がよければ、すべて許されるわけではないことも事実であるが。
2Cor 11:28,29 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 
わたしの場合は「あらゆる教会についての心配事」ではないが、「日々わたしに迫るやっかい事」と「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。」とは関係していると思う。そのあとに、パウロは「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。 」(30節)と書いている。このあとの12章につながる大切なメッセージである。だれかが弱り、それによって自分も弱る。これが奉仕する者の、自然な姿なのだろう。弱ってしまう、自分の弱さに感謝しよう。神様に仕えるものとして、神様の痛みをもほんの少し感じられるかもしれないから。
2Cor 12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 
この章の最初に「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 」(1節)と書き、啓示があまりにも素晴らしいことであったことを述べている。回心のときとはことなるのだろうか。それはよく分からないが、特別な体験、おそらく、客観的には判断しかねる経験をしたのだろう。しかし同時に、一つのとげについて語られている。そして10節では「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 」と記している。自分とキリストとの関係、自分の弱さ、弱さの受容は、キリストの受容でもあることを素直に認めるパウロに、多くの人が惹かれるのだろう。それは、私たちひとり一人にも同様なことが人間として認められることだから。
2Cor 13:3 なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。 
わたしが最近考えている聖書の権威の問題、それを問うことに対することばだろうか。確かに、権威を問うことは、一義的な問題ではないように思われる。しかし、二義的にはやはり重要である。ここで「キリストはあなた方の間で強い方」だと書かれている。これは、何を意味しているのだろうか。「今度そちらに行ったら、容赦しません。 」(2b節)をキリストが強く指示すると言うことだろうか。愛から出ていることは感じるが、正直恐ろしい。このあとにあったであろう三度目の訪問はどうだったのだろうか。興味を持ってしまう。本質ではないだろうが。

BRC2017(2)

2Cor 1:12 わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。
「良心」については、いつか考えてみたい。言語は、suneidesis で、その元は、sunorao で、共に知る(sun+eido)から来ているようだ。心という言葉は原語にないが、心に分裂がない状態なのか、他の人とも分かち合うことができる心なのか。やましい心があったわけではなく、まさに真実な「純真と誠実」によることを意味しているのだろう。それは、伝わってくる。「神から受けた」と判断するのは、難しいが。わたしも、そのような「良心」をもって常に行動したい「神の恵みの下」に。
2Cor 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
恵みのことばは、滅びる者にとっては「死から死に至らせる香り」なのだろう。「滅びる者」と「救われる者」を、はっきりとさせる務めだと言っている。イエスの宣教にその面があることは、確かである。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 』」(ルカ2章34節)「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』 」(ヨハネ9章39節)しかし、中心的な業、そして目的は「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10章10b節)このことに集中したい。いのちを与えるのが神の業なのだから。
2Cor 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
直前には「主の霊のおられるところに自由があります。」(17節)とある。聖霊の働きについて述べている内容は、ヨハネとは、違うように思われる。パウロは、この世での主の創造のわざをどのようにとらえていたのだろう。ヨハネではイエスのようであることを、互いに愛しある現実に映し出しているように思われ、永遠のいのちに生きる生活が、そのような生活であり、この世を後の世と切り離してはいないように思われる。そしてイエスが再び来られるときにイエスのように変えられる信仰を持っている。パウロによる引用箇所の表現は、似た部分もあるが、パウロの語るなかでどのように位置づけられているのか、わたしには、まだよく分からない。
2Cor 4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
わたしは、そのような栄光を求めていないように思う。そして、わたしが受けた福音は、生かしてくださる福音で、将来の栄光のためのものでは、ないように思う。同時に、将来の姿を夢見ることは、生き生きと生きようとすることと密接に関係していることも事実だろうが。少なくとも損得ではない。
2Cor 5:14,15 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
「すべての人も死んだ」は何を言っているのだろうか。事実として受け入れることはできないだろう。真実としてもどうだろうか。しかしその目的は、少し理解できる。「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」それは、神が愛であるように、わたしたちも、互いに愛し合うためとも言い換えることができる。ただ、これが正しいこととして宣言されると抵抗のあるひとは多いだろう。
2Cor 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
世の価値観とは、異なる生き方をしているということに尽きるのかもしれない。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)これが永遠のいのちをもっていきる生き方なのかもしれない。
2Cor 7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
「神の御心に適った」という部分の証拠をいくつかあげることは、おそらくできるだろう。悲しみが「悔い改め」へと至ったこと、「潔白」さが証明されたこと、テトスの「喜び」だろうか。背景の事柄についての詳細は分からないが「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」(コリントの信徒への手紙5章1節)のたぐいに対する教会の対応のことだろうか。問題は、いくらでも、噴出するだろう。本当に難しい。「神の御心に適った悲しみ」「取り消されることのない救いに通じる悔い改め」わたしには、そこまではっきりとは言えない。
2Cor 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
列挙されているものをみると「すべての点」とは書かれているが「愛」に富んではいないように感じる。パウロも注意深く表現しているのかもしれない。互いに愛するものでありたい。「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、(他者から)受ける愛」は、すべてかなぐり捨ててでも。
2Cor 9:12 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
後半は何を伝えているのだろう。このようにして感謝を通して、互いに仕え合うことが、ますます盛んになるということだろうか。Serving One Another は、一度ていねいに調べてみたい。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5章13節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 」(エフェソ5章21節)「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(ペテロ一4章10節)
2Cor 10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
その通りであるが「主から推薦される」ことの判断は、この世では、難しいというより、おそらく不可能である。主が大切にされることを求め続ける以外にはないだろう。「誇る者は主を誇れ。」(17節)こそが力強く響く。わたしは、どれほど、聖書から、いや、主に心から従おうと「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、自らが従う神である主を愛」し続けた人たちの証言から学んで来ただろうか。教えられて来ただろうか。このことに感謝し、これからもそのように歩んでいきたい。
2Cor 11:29,30 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
パウロが自分が使徒として行ってきたことの実際について語り、そしてこの句に至っている。パウロにしても、人に適切に伝えたいと願い書いてきたことが、自分の信仰告白、心の奥底にある真実と少しずれていることに気づいていったのかもしれない。そこで告白している部分が引用箇所であるように思われる。それは、12章へと続く。自分ではなく、このことにより、神のすばらしさが現れること。しかし同時に、神様の働きのたいせつな部分も表現しているのかもしれない。愛するが故の「神の弱さ」について。
2Cor 12:12 わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。
驚くべきことが二つある。ひとつは、パウロが「しるしや、不思議な業や、奇跡」によって「使徒であることを」「実証しています。」と証言していること。もう一つは、それでも、パウロに対する批判は、たくさんあるようだということ。おそらく、どちらも、簡単には、語れないことがあるのだろう。ひとりひとりにゆだねられていることは異なるのかもしれないし、神様のすばらしさは、一言で表現するのは、かえって問題なのかもしれないから。
2Cor 13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
パウロの熱心さが伝わってくるようだ。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(4節)からもひしひしと伝わってくる。しかし、できることは、限られているだろう。わたしに、何ができるのだろうか。いま、頭に浮かぶ、苦しんでいる一人ひとりのために何ができるか、祈ってみよう。「あなたがたが失格者なら別ですが……。」と書いたら、自分は「失格者ですから」と応答することが予想できる一人ひとりを覚えつつ。

BRC2015(1)

2Cor1:24 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。 
ともに喜びたい。しかしそれがとても難しい。他者の隣人の喜びのために、協力するものとしてください。
2Cor2:7,8 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。 
パウロは、なかなか難しい人である。しかし、それでも、使徒として、キリスト教会で中心的な役割をし得たのは、このような愛のこころを失わなかったからだろう。激しく糾弾するとともに、ゆるすこころを持つ。それは、長く共にいる人には、十分受け入れられていたのだろう。主の働きに感謝しつつ。
2Cor3:16-18 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
パウロは、肉ではなく霊、律法ではなく信仰によってと言いたいのだろう。神の霊によって神の栄光を見、主と同じ姿に変えられていく。それが永遠の命をもって生きるとヨハネが表現していることなのかもしれない。ヨハネでは「主の方に向き直れば」は「光を愛し、光に来る」(ヨハネ3:19-21)ことであり「霊と真実によって礼拝すること」(ヨハネ4:23)で、その方向にあるのは、イエスである。
2Cor4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 
過ぎ去らないものに目を向けたい。それは単に、何かを残したいからではなく、大切なものは、変わらないものだからであるように思われる。それは、永遠の命、いまそれによって生き、それによって生き続けることのできる命である。神からのものに目をとめたい。
2Cor5:20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 
ヨハネ3:20「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」すなわち、光ではなく闇を好んだ生活を悔い改め、光を求める生活に変わること。それが、和解の土台だろうか。その転換点は、しかしながら、簡単に得られるものではない。イエスとの出会いだろうか。
2Cor6:12 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 
このあと14節以下に「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」とある。まるで反対のことを言っているようにも感じるが、連続して語られていることに意味があるのかもしれない。ここでの広さ、狭さをもう少しよく理解したい。
2Cor7:5 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。 
何回目のマケドニアか、またどのような状況かは不明である。このあとには、悲しみの手紙について言及されている。11節には「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」とあるが、パウロの糾弾は当たっていなかったのかもしれない。身に覚えのないことについて責められたとき、わたしたちは、どうするのだろうか。10節には「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」とある。不安の中にいた、パウロたち、そして、パウロから糾弾の手紙をもらい、おそらく多少事実と反していた批判をうけたコリント教会の人たち、このような弱い群れの慰めこそが、神の働きであろう。
2Cor8:22 彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。 
コリントに募金に関してテトスとともに派遣する三人目についてである。厚い信頼は英語では great confidence となっている。この信頼ということばは、日本語と英語でニュアンスが違うように思われる。この場合は、何を意味しているのだろうか。どのような信頼だろうか。このギリシャ語は pepoitheesis である。訳は trust, confidence, reliance となっている。ローマ14:18「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。」こちらは、well pleasing, acceptable という意味の、euarestos である。
2Cor9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 
この神様の豊かさに目を向けること。これこそが、大切である。神と同じビジョンを持つことは、イエスがどう生きたかを見れば理解することができる。その重要な点が、この豊かさにあるように思われる。それを見ることができる目を持ちたい。
2Cor10:4,5 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、 
このように表現することは間違いとはいえないだろうが、危険もはらんでいる。福音書でのイエスのことばとは、違うように思われる。そのように感じるのは、主体性にまで立ち入っているからだろう。神は、そのことをおできになっても、それをなさらない。高慢の背後にある、主体性まで破壊してしまうと、神を愛することができないからだろう。難しい。
2Cor11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 
これは、一般論ではなく、そこに、弱っている人が実際におり、そこで、躓いている人がいたとしたときに、わたしの心が燃えないことはあろうかと言っているのだろう。一般論ではなく、ひとり一人である。そこに神の働きがある。
2Cor12:9,10 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 
神の豊かさの故に、すべてを享受したいと願うかもしれないが、必ずしも、そうはならない。神の豊かさに預かることが、究極の目的ではないと言うことなのだろう。神の心を心として生きること。ここに真実がある。永遠のいのちがある。
2Cor13:3 なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。 
ここでも証拠が求められている。パウロはそれをどのように示すのだろうか。ヨハネ5章31節以降を思い出す。キリストを証しするもの。その本質に到達しようと求めなければいけない。

BRC2015(2)

2Cor1:13,14 わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
パウロはあくまでも教師である。学習者のことを考えてはいるが、学習の本質の理解は、人間のものであるように思われる。イエスの教え方と、比較してしまうが、質の違いを感じる。おそらく、聞いた者は、どちらも、理解できなかっただろう。しかし、普遍的なもののゆえに、イエスの語られたことが、現代に至るまで、輝きを失わないのではないだろうか。
2Cor2:5 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
神のそして主イエスの苦しみに目を向けることが最初なのではないだろうか。主の苦しみを知り、それ故に、自分たちの悲しみ、苦しみと受け取る頃ができる。それは、自分を省み、神様に自分を献げることにも、さらに、隣人を赦し受け入れることにもつながる。
2Cor3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙」とあるが、自律性が尊ばれるべきだろう。ひとり一人が神のみこころをもとめ、キリストに倣うものとなることを願いながら、自分の十字架を負って生きていく。そのような生き様が「推薦状」それも、キリストの推薦状になっていくのだろう。しかし、ここには、時代的な人間の側の変化がある。一般的には、受け入れられないのかもしれない。
2Cor4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
イエスがみていたものの中心は、おそらく肉ではないだろう。しかし、肉に生きる苦しみも知っておられた。イエスの活動の多くがいやしに費やされたことからも明かだろう。そしてむろん、病の癒やしが最終目的でもない。見えるもの、見えないものを区別してはいなかったのではないだろうか。人間を総体として見ておられた。
2Cor5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、 自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること なのです。
明確に書かれている。しかし、イエスはこのように表現しただろうか。イエスのように、もっと主体的に神のみこころを行うことを望んでいたのではないだろうか。むろん、パウロの言いたいことも理解できる。主体的自由で、神の御心に生きることはできないからである。もう少し整理したい。
2Cor6:1,2 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
イザヤ45章8節「天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それ を創造する。」からの引用とされ、また詩篇69篇14節「あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/わたしに答えて確かな救いをお与えください。」が引用箇所とされる。しかし、かなり異なるように思われる。パウロが使っていたのは、七十人訳なのだろうか。ガマリエルのもとで訓練をうけたものは、ヘブル語でかなりの部分暗唱し、パウロであればそれを、ギリシャ語に直すことも、それほど難しくなかったと思われるが。恵みを無駄にしないことは重要である。好きな聖句にヘブル12章16節がある。「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないよう に、気をつけなさい。」もう少し整理して「時(kairos)」について考えたい。
2Cor7:7 ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けたその慰めをもって、慰めて下さった。すなわち、あなたがたがわたしを慕っていること、嘆いていること、またわたしに対して熱心であることを知らせてくれたので、わたしの喜びはいよいよ増し加わったのである。
「わたし」が何回も登場して、正直心配になる。このあとの10節・11節「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。」を見ると「処罰に至らせた」との言葉もあり、信徒の問題行為に対する、実際的な処罰が為されたことが分かる。このことを行ったコリント教会の人たちの苦しみと悲しみに人間敵にまずよりそうことが、最初の「わたし」に現れているのかもしれない。しかし、そうではあっても、パウロへの同着または、パウロの助言に従ってよかったのかとの、こころの揺れなど、人間的な思いが支配することにならないだろうか。自分は、なるべく、表にでないように、人々の関心もつねに、イエスを通しての神様の御心を知りそれに従おうとすることに向かうように努力することに集中したい。非難はあっても、イエスを通しての関係であることをお互いに見失わないようにするために。
2Cor8:2-4 すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、 聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
マケドニアの諸教会についての記述である。(v1)すぐ思い浮かぶのは、パウロを経済的に支援したフィリピの教会である。(フィリピ4:15、使徒16章および17章前半参照)命を得たひとたちが、何でもしたいとこころかが願ったのだろう。そこに偽りはないが、全体としては、危険も入り込む。全員が同じ経験をしたわけではないから。
2Cor9:9,10 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
詩篇112:9「貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。」からの引用とされる。この詩篇は「ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。」と始まる。この内容が歌われている。基本的には、神の性質こそが「惜しみなく与え」「貧しい人に施し」「慈しみが永遠に続く」だから、これを「主を畏れる人」、「主の戒めを深く愛する人」は、そのように生きるのだろう。イエスが言っておられるように、やはり基準を神様に持つ方が普遍性が高いと思われる。パウロが教師ではなく、教師は神を表した、神の子イエス・キリストである。
2Cor10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
パウロへの批判に対する、批判が続く。イエスも同じように批判され、それに対して、反論をしている。しかし、それが異なることにわたしには思える。イエスは、つねに、人々の意識を神に向け、神の業をおこなっているかどうかに、判断基準を置くようにもとめ、その場では、裁かない。裁きを委ねているというよりも、イエスを受け入れないこと自体が、裁きになっていると宣言している。神の言葉とは何をいうのだろうか。このパウロの言葉は、どのような意味で神の言葉と捉えたら良いのだろうか。個人的には意見がすでに固まっているが、それは、伝統的キリスト教信仰とはかなり離れているようにも思われる。
2Cor11:2,3 あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。
あまりにも、パウロは自分と信徒とくに、パウロの宣教によってイエスをキリストと信じるようになったひととの個人的な関係を重視しているように感じるが、三つのことをここから読み取れる。一つ目は「神と同じ思い」であること。二つ目は「キリストと婚約させたこと」、三つ目は「キリストの思いについて心配している」こと、おそらく、三つ目は愛だろう。人的な関係ではないことが表現されている。書簡においては、三つ目の部分が微に入り細に入り、強く出てしまうのだろうが。
2Cor12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
前の章で、様々な困難に遭ったことを書いた後の30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」このことは、まさに、そのような困難のなかで、神様の働きを見ることができたと証言しているのではないだろうか。ここでは、「キリストのゆえに満足している」と表現している。「弱いときにこそ強い」は信仰体験に基づく信仰告白であろうが、「キリストのゆえに満足している」は素朴に、アーメンと、わたしも告白したい。
2Cor13:2 以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。
恐ろしい。パウロの厳しさには、驚かされる。パウロの言いたいことは、5節a「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」であろう。人間的な思いが何度も語られ、このようにも語られるのは、コリント教会は、パウロの考えていた聖徒の交わりとあまりにも違っていたのかもしれない。律法によりあるモラルが守られていた、ユダヤ教社会とは異なっていたのかもしれない。しかし、わたしには、分からない。わたしは、このような情熱で語れない。

BRC2013(1)

2Cor1:21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
「油を注いでくださった」はこの次の節にあるように「御霊」だろうか。別のような記述でもある。はっきりしているのは、神の働きであり、我々が選び取ったのではないことだろう。
2Cor2:10 もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。
パウロは模範をしめし、神の赦しをより身近な経験となることを願っているのだろうか。ひとは、そこまでできるのだろうか。
2Cor3:17,18 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
覆いなしに、神の霊にふれることができる。それが自由と言うことか。しかし、ここまで実感することは、難しいようにも思われる。
2Cor4:2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
わたしも「恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦する」生き方をしたい。少しずつ、そのような生き方に、神様に変えていっていただきたい。新しい創造のわざとして。
2Cor5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
イエスは、ここまで確信していただろうか。イエスの地上の教えと、異なってはいないが、中心をずらしているようにも思えてしまう。はっきりはいえないが、謙虚に、真理を求め続けたい。
2Cor6:12 あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。
コリント人は責められている気持ちがして、パウロの言葉に心を開かず、拒否反応を起こしていることの表現だろうか。ことばの真意が伝わるかが、鍵であろうが、人間界では、難しい。伝える側も、受け取る側も、不完全だから。神のみこころがなりますように。
2Cor7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
この二つの悲しみの違いは何だろうか。神様に愛されているとの信仰による希望をもちつつ、ほとんどそれが信じられない状況で神に委ねて自らを悲しむことと、神の愛を認めず、自分の置かれた状況と、自分自身の無力さの自覚から、自暴自棄となり、絶望へと向かう差だろうか。「悔いのない救を得させる悔改め」もじっくり考えたい。
2Cor8:14 それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。
Ex16:18 からの引用。神様は豊かに祝福してくださっている。これは、疑いようがない。しかし、人間のレベルでどのように実現されるのだろうか。無理をしてはいけないのだろう。神と人との共同作業。そしてその意味をしっかり受け取ることか。
2Cor9:8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
単に豊かな恵みではなく、すべての良いわざに富ませる力のある方。これを疑ってはいけないのだろう。
2Cor10:10,11 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。
パウロのことばには、やはりおどしの強迫性を感じる。愛するこどもたちにたいする気持ちと、愚かな行為に対する怒りとが背景にあるのだろう。メッセージを伝えることの難しさもあるが、ひとの霊的成長をうながすことの本質的難しさを感じる。
2Cor11:29,30 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
この背景には愛を感じる。神の愛とはやはり本質的に違う様に思われるが、パウロの愛と情熱は、神から与えられた召命からきているのだろうか。
2Cor12:6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
十分意味は理解できるが、多少違和感を感じる。「すぐれた啓示をうけている」という部分だろう。これは、パウロだけなのだろうか。それとも、みことばをとりつぐ者にそれなりに共通することだろうか。
2Cor13:10 こういうわけで、離れていて以上のようなことを書いたのは、わたしがあなたがたの所に行ったとき、倒すためではなく高めるために主が授けて下さった権威を用いて、きびしい処置をする必要がないようにしたいためである。
パウロの愛と厳しさを感じる。神に委ねつつも、自分のつとめの大きさを自覚していたと言うことか。なかなか難しい。

BRC2013(2)

2Cor1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
兄弟として生きる為。このことは、こころからアーメンと言いたい。感謝。
2Cor2:10,11 もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。 そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。
サタンの策略。サタンの目的をしらなければならない。それに対抗する事は、わたしたちの責任である。
2Cor3:3 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
2節にある、「あなたがた」が「わたしたちの推薦状」を受けている。「墨」は、推薦状を意識しており、「石の板」は、十戒を意味していると思われる。「心の板」には神の霊によって書かれたことが、このあと続く。本当にそのようなものであったら、うれしい。
2Cor4:2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
1節の最後「落胆せずに」から続いている。このように、「すべての人の良心に」推薦できるような生き方をしたい。神様、わたしを憐れんでください。力を与えてください。あまりに、弱い者ですから。
2Cor5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
2節にある「そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。」この葛藤をどのように受け止め、そのもとで、どのように生きるかが、大きな課題である。これについても、信仰告白として言語化していきたい。
2Cor6:8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
この前には、どんな艱難・苦難のなかにあっても「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、」(6,7節)とある。もう少し単純にしたいが、わたしの信条に近い。この続きの9節10節「人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」と一緒にまとめてみたい。並木先生がいわれた、マイノリティーとして誇りを持って生きる。Rackham 先生が言われたように、つねに、神様の高嶺を歩き続ける。
2Cor7:10,11 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。
これが真実であるとすると、これこそが求める方向性であると思う。「悔いのない救いを得させる悔い改め」このようなものを得たい。
2Cor8:8 こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。
ちょっとあぶない感じも持つが、このようなこともあるのかもしれない。
2Cor9:11 こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。
施しによって豊かになる。このことは、わたしも考えた事があるが、もう少し深く理解したい。この節によると、最終的な結果は、神に感謝するに至るである。それが豊かさを享受する、あずかる事ではないだろうか。神様の御心を知るに至る、神様とともに喜ぶ事かもしれない。
2Cor10:12 わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。
ひとは、同列のひとと比較する。まさに、知恵のないわざである。同列つまり、兄弟姉妹として、互いに愛し合う事を覚えたい。
2Cor11:6 たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。
10:10 「人は言う、『彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない』。」をみると、実際、話は上手ではなかったのかもしれない。Acts20:7-12 のユテコの逸話からも、ある程度想像できる。情熱の強さ、それに、配慮からあまりはっきりとは言わず、励ます事を中心にしたのかもしれない。ここで「知識はそうでない」とあるが、これも、限定的な気がする。周囲の人と比較するとおそらくそうであったろうが。
2Cor12:18 わたしは、テトスに勧めてそちらに行かせ、また、かの兄弟を同行させた。テトスは、あなたがたからむさぼり取ったことがあろうか。わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。
ここは、コリントのひとたちに、負担をかけなかったことの論証として、書かれているが、最後が心に響く。「わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。」このように真実をもって、ともに歩きたい。
2Cor13:11 最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。
パウロが望んでいた生活は、これだろう。伝道ではない。まずは、平和に過ごす事である。愛と平和の神がともにいてくださるように。


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ガラテヤの信徒への手紙

ガヤテヤの信徒への手紙(1)

ガラテヤは今のトルコの中部の地名です。ガラテヤの信徒への手紙には「福音の真理とキリスト者の自由」キリスト教の核心が書かれていると言われています。少し引用してみます。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節(新共同訳))
神様に正しいと認めていただくのは、律法の実行ではなく、信仰によると言っているのですが、さらに進んで、
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙2章19,20節(新共同訳))
このように言い切っています。これは、おそらく、当時のユダヤ人キリスト者にとっては、戸惑いとも言えるようなものだったのではないでしょうか。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節(新共同訳))
ここに到達していたパウロにとっては、「律法のもとにはいない」ことは自明だったのかも知れません。ユダヤ人の中で生活している、特にユダヤのユダヤ人キリスト者は、当時も、おそらく、ユダヤ教徒として生きていたでしょうから、生活の根底を揺さぶられることだったでしょう。一方、ユダヤから離れて住んでいた、ユダヤ人でキリストによる救いのメッセージを受けた者には、ある程度自然に受け入れられたかも知れません。そして、異邦人キリスト者にとっては、これほどの福音は無かったでしょう。そう考えると、多少の混乱も感じられますが、ガラテヤの信徒への手紙のすばらしい点は、このあと、自由を得た、キリスト者がどう生きるかを丁寧に書いている点ではないかと思います。特に5章・6章。一カ所だけ引用しておきます。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤの信徒への手紙5章13-14節(新共同訳))
みなさんは、何を読み取られるでしょうか。

いのちのことば社「新聖書注解」から、ガラテヤ信徒への手紙の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきましょう。

  1. あいさつ 1:1-5
  2. パウロの使徒職の独自性 1:6-2:21
    1. 弁明を必要とした事情 1:6-10
    2. 回心と召命 1:11-17
    3. エルサレムの承認と無関係 1:18-24
    4. エルサレムの会議における確認 2:1-10
    5. アンテオケでの衝突事件 2:11-14
    6. 根本的主張 - 律法かキリストか 2:15-21
  3. 教理的弁証 3:1-4:31
    1. 経験への訴え 3:1-5
    2. アブラハムへの信仰 3:6-9
    3. 律法ののろい 3:10-14
    4. 約束と律法 3:15-18
    5. 救済史における律法の役割 3:19-25
    6. キリストにある自由と一体性 3:26-29
    7. 未成年から成年へ 4:1-7
    8. 逆行への警告 4:8-11
    9. 個人的な訴え 4:12-20
    10. ハガルとサラの比喩 4:21-31
  4. キリスト者の自由 5:1-6:10
    1. キリスト者の自由を奪う律法主義 5:1-12
    2. 自由の正しい行使 5:13-15
    3. 御霊による歩み 5:16-26
    4. 御霊による助け合い 6:1-10
  5. 結び 6:11-18

ガヤテヤの信徒への手紙(2)

ガラテヤの信徒への手紙1章4節、あいさつの直後に次のように書かれています。
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
非常に簡潔に、通常「贖罪(しょくざい、つみのあがない)」とよばれることが表現されています。パウロはイエスの地上での生活の間の弟子ではありませんから、他の12使徒のような使徒としての任命の仕方とは異なりますが、他の手紙と同様、ガラテヤの信徒への手紙にも、1章1節にもあるように、自分をキリストと神に直接任命された使徒だとしています。
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
イエスとずっと一緒に生活した弟子たちには、かえって、イエスの死を一言で表現するのは難しかったかもしれません。しかし、福音書にも少しは書かれています。マルコによる福音書10章45節(マタイによる福音書20章28節)
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
ガラテヤの信徒への手紙では、このあと、ガラテヤの信徒たちが「ほかの福音に乗り換えようとしている」(1章6節)と指摘し、パウロ自身のことがかかれていますが、その福音の核となることが2章16節に書かれています。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
2章19節から21節にはさらに強く次のように書かれています。
19:わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
20:生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
21:わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
神様に義としていただく「その生き方で良いよ」と認められた存在として生きるためには、律法の実行、神様がこうあるべきとして示してくださったことすべてをそのとおり行うことだと信じてきたけれど、それを完全に行うことはだれにもできない。「イエス・キリストへの信仰」によって「安心しなさい、その生き方で良いよ」と言われ、神様の前に生きる者は、律法に対して死んだもので、キリストに生きるものだ、と言っています。このことを忘れてはいけないとパウロは、ガラテヤの信徒たちに語りかけています。「ほかの福音」と言っていたのは、このような生き方から離れることです。
このことによって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(3章26節)
そして、そのようにされた目的を次に様に書いています。5章13節14節、25節です。
13:兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
14:律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

霊の導きに従って生きる生き方についても書かれています。非常にコンパクトにまとまって書かれています。宗教改革者のマルティン・ルターは「わたしは、ガラテヤ書と結婚した」と言ったそうですが、パウロのメッセージ、あたなはどのように受け取りますか。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Galatians 1:11,12 きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。
冒頭にも「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、」(1)と直接的な召命によって使徒とされたとし、引用句でも、「イエス・キリストの啓示を通して受けた」としている。このあとも、「私よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行き、そこから再びダマスコに戻った」(17)など、誰かに、教えてもらった、誰かからか伝えられたということを拭い去るような記述が続く。とはいえ、「神の教会を徹底的に迫害」(13b)していたということは、かなり、「福音」について知っていただろう。理解していたとは言えないのしても。イエスについても、いろいろと知ってはいだだろう。しかし、それらを、切り捨てているように見える。それを、啓示ということばで強調しているように見える。
Galatians 2:16 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
ここに核心がある。そして、これこそが、啓示によると言われていることなのだろう。このことは、特にプロテスタントにおいては、中心的教義をなしている。異邦人にも共通に適応できる、普遍性が基盤としてあることが、重要であろう。パウロが行き着いた真理である。そこには、イエスの地上での活動は、関係していないということなのだろう。ただ、全体として捉えると、イエスが伝えたこととの整合性をとり、どのように、イエスの活動に関連付けるかが重要になるのは自然だろう。一定の時間がかかるとしても。
Galatians 3:2,3 あなたがたにこれだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。あなたがたは、どこまで愚かなのですか。霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとするのですか。
真っ向から、間違っているとは言わないが、福音書に書かれている、イエスと出会った人たちで、なんとなく距離を感じる人は多いのではないだろうか。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」。(マルコ5:34)と言われた、長血の女はどうだろうか。このように、イエスから言われても、到底、信仰に聞き従ったから、救われたとは言えないだろう。イエスとの出会い、そして、交わりによって、命が与えられ、イエスは、非常に貧弱な信仰をも是としてくださったことがおおきなものとして残ったことが、その後、イエスに従っていこう、神様に従っていこうと求めたと思われるが。神様の御心がはっきりとは分からなければ、まずは、律法を守ろうとしただろう。パウロは一つの論理を示しているだけで、普遍的な真理を述べているわけではないように感じられるのは私だけだろうか。
Galatians 4:6,7 あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。
ここも、少し、ベクトルの方向が違うように感じる。神の子として生きようよ、一緒にそうしよう、とイエスに言われて「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」(ヨハネ1章12節)神の子として生きていいよ、そのように選択して良いと、言われており、イエスに従っていくということだと思う。ただ、パウロが間違っているとは言わない。分裂を招くことは、望んでいない。しかし、普遍的で、これこそが神の御心とするのには、大きな抵抗を感じる。
Galatians 5:13-15 きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句において全うされているからです。互いにかみ合ったり、食い合ったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。
少し前に「キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」(6)とある。この内容が、引用句なのだろう。ただ、これを実際にどのように生きるかを考えると、やはり、イエスに従うことになるのではないだろうか。それなしに、パウロに倣うと言われても、難しいように思われる。むろん、このガラテヤ書が書かれた頃には、福音書もなかったのだが。
Galatians 6:11,12 御覧のとおり、私はこんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
自筆の部分に、厳しい言葉がある。たしかに、そのような人たちもいただろうと想像もつくが、非常に悩んでいる人もいると思われる。それを、一刀両断するようなことをわたしにはできない。それだけ、パウロが、特別に大切にしていたことが、ここに詰まっているのだろう。ただ、この表現の中に「強いている」も気になる。それが、迫害を受けたくないからなのだろうか。

BRC2023(2)

Galatians 1:17,18 また、私よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行き、そこから再びダマスコに戻ったのです。それから三年後に、エルサレムに上ってケファを訪ね、彼のところに十五日間滞在しました。
混乱と思われる時期について書かれている。興味深いのは、すぐには、エルサレムで使徒たちには会わなかったこと、アラビアでしばらくときを過ごし、ダマスコに戻ったこと、三年たって、ペテロなど少数の使徒と会ったことが書かれている。混乱を整理するためか、人として歩まれたイエスについて知る前に、自分に起こったことと、神の御心について、整理するためだったか。このときに、ペテロなどとの交流が持てたことは良かったが、ペテロたちは、これらの期間、どうしていたのだろうか。キリスト・イエスについてどう考えていたのだろうか。イエスの思い出については、整理して語っていたかもしれない。そして、受難週について、処刑された理由などについては、議論もし、情報が共有されたかもしれない。ペテロたちにとっても、すぐに受け入れられたかどうかは不明だが、キリスト・イエスについての理解において、とても重要な出会いだったのではないだろうか。
Galatians 2:15,16 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
このあとには、罪人としてとどまっているのではなく、「私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。」(19)と書かれている。律法の行いを完全に守ることができないことは、良いとして、また、キリスト・イエスを信じる信仰に導かれることも素晴らしいと思うが、それによって義とされる、キリストと共に十字架につけられ、キリストに生きるというのは、パウロが受けた啓示によるのだろう。イエスは本当にそのように考えていたのだろうか。イエスの生を超越するものを信仰として捕らえるのは、飛躍にすぎるのではないかと思う。
Galatians 3:19 では、律法とは何でしょうか。律法は、約束を受けた子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられ、また、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものにすぎません。
そうなのだろうか。マタイのような、律法徹底または、その完成にイエスの教えがあると考えていた人たちには受け入れられなかったろう。マタイのようなものも、完璧ではないと思わされるが、マタイの中にも多くの真実を見出す。マタイのような内容を大切にする人たちと、パウロはどのように共に生きていったのだろうか。ここにあるように、分裂していくのか、興味がある。他のひとたちの考え、信仰がそれをつなげたのだろうか。いくつかの福音書があることにまずは感謝しよう。
Galatians 4:25,26 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、ちょうど今のエルサレムに当たります。エルサレムは、その子どもたちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは自由な身の女であり、私たちの母です。
この章には「そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。」(14)も書かれている。パウロの弱さをも受け入れてくれたこと、そして、天使のように受け入れたとある。引用句も説明としては、素晴らしいと思うが、これがつまづきとなって、先に進めなくなる人達もいたかもしれない。原始キリスト教会の多様性はどのように、生まれていったのだろうか。やはり、キリスト教誕生の時代に興味を持つ。
Galatians 5:22,23 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
この前には「肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。」(ガラテヤ4:19-21)と対比されている。わたしがパウロのメッセージを十分理解できているかはわからないが、霊に関しては、「神様の霊との関係で生み出すものは」ぐらいの意味なのかもしれない。すると肉は難しいが「神様の霊と離れようとすると」だろうか、あまりに一般化してしまい、パウロが伝えたいことからは離れているように思われるが。
Galatians 6:2-4 互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。何者でもないのに、自分を何者かであると思う人がいるなら、その人は自らを欺いているのです。おのおの自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分だけには誇れるとしても、他人には誇れなくなるでしょう。
この背後には、様々な具体例があるのだろう。個人的に、このようなことばはとても好きである。自分を律することをそれぞれがある程度し、お互いに弱さを担い合わなければ、結局は、お互い幸せにはなれない。わたしにできることはなんだろうか。それを探して、そこに生きて、重荷をすこしずつ担い合って生きたいものであろる。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Galatians 1:11,12 きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。
「福音は啓示により受けた」としている。これは、素晴らしいとともに、危険でもある。「啓示」をどのようなものとするかとともに、おそらく、そうとしか言えない状況での信仰告白的な要素が多かったのだろうが。イエスの行動とことばなど、ケファ(ペトロ 19節)からも聞いただろうし、以前から聞いていたこともあっただろう。しかし、パウロが語る福音に行き着いたのは、啓示によるということか。「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。」(4)たしかに、このことばも、イエスの活動とことばとは、深く関係しているものの、それらに根ざしているとは言えないように思う。正直、わたしが受けた福音がそのようなものなのか、また、それでよいのか、疑問が残る。
Galatians 2:16 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
この章は「その後十四年たってから、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。都に上ったのは、啓示によるものでした。私は、異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に示しました。私が走り、また走ってきたことが無駄だったのかと尋ねたのです。」と始まっている。使徒言行録15章のエルサレム会議のことを言っているのだろう。ここでも「啓示」が登場する。そして、パウロの信じていたこと、走ってきたこと、福音の内容について書いているのが、引用箇所である。たしかに、この内容は、啓示によるとしか言えないのかもしれない。一つの解決方法は、福音はひとつであっても、それぞれのひとにとっての福音は異なりうるということである。しかし問題も生じる。それを自分が受け取った福音とするのは、啓示によるのかということである。直接啓示かなど、整理する必要もあるが、宗教の難しさを感じる。
Galatians 3:1 ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。
「律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」(2:16b)の「律法ではなく」は、理解できる。しかし、「律法によっては、誰も神の前で義とされないことは明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」(11)とある、信仰は、あまりよくわからない。引用句からは「十字架につけられたイエス・キリスト」に希望を抱くことが、救いをもたらす、そのような信仰を伝えているように思われる。しかし、それは、何なのだろうか。ある事実を真理として受け入れるということだろうか。それが、救いや平安とどう関係するのだろうか。パウロが受けた啓示をただ、信じることだろうか。やはり、イエスの言葉にしたがって、イエスを手本に生きてみることのほうに中心があるように見えてしまう。それが、律法の行いの本質であり、それが的外れになってしまっていることが、問題なのではないのだろうか。
Galatians 4:5-7 それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。
引用句の前には「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(4)とある。それだけではなく、神の子として生きることがどういうことか、神の国はすぐそこにあると信じて、生きることはどのような生き方かを示してくださった。さらに、そのように、神の子として生きる生き方に招いてくださったのが、イエス様だと思い、このイエス様についていきたいと願っている。それが、わたしが信じていることである。その背後に、「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊にあることを否定するものではないが、そこから、演繹して「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。」とはいかないと思うし、それをわたしは、望んでいない。謙虚に、生きていくのみである。
Galatians 5:16,17 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
単に霊肉二元論のような単純化を拒否し批判してはいけないのだろう。しかし「割礼を受けるすべての人に証言しますが、そのような人には律法全体を行う義務があります。」(3)などは、背景を無視した単純化のように見える。愛の故に、割礼を受けるひともいると思われるから。しかし、おそらく、パウロが批判しているのは、そのような人ではないのだろ。字面だけから判断してはいけない。パウロが戦っている現実があるのだろう。批判している相手は、異邦人なのかどうかがまず気になるが、パウロの意図を考えるとそうなのだろう。やはり、割礼も必要なのかもしれないとして、完全な救いを得ようと、割礼を受けている人がいたのかもしれない。パウロは「僅かなパン種が生地全体を膨らませるのです。」(9)と批判するだろうが、そうであっても、そのような人の悩みと苦しみと弱さを受け取るべきだろう。この兄弟のためにも、キリストは死なれたのだから。背景について、もう少しよく考えたい。
Galatians 6:1,2 きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。
割礼に関して「割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。」(16)とも言っているが、前の章での過激なことばと、引用句は、同じパウロから出たものとは思えない。割礼も選択することは「過ち」ではないのだろうか。「愛をもって互いに仕えなさい」(5:13b)と、パウロの批判との整合性がどうしても取れない。あわてず、ゆっくり考えたい。

BRC2021(2)

Galatians 1:17 また、私よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行き、そこから再びダマスコに戻ったのです。
パウロ自身の証言では、ここに書いてあるように、回心>アラビア>ダマスコ>エルサレム(ケファ・ヤコブなど少人数とのも会う)>シリア・キリキアとなる。使徒言行録9章の記述には、様々な省略と簡易化があると言っているように思える。このあとに「キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていませんでした。」(22)とある。辻褄をあわせようとすると(それが正しいかどうかは不明だが)エルサレムで会った少人数の中に、バルナバがいたのかもしれない。シリアと書いてあるのは、アンテオケ、キリキアと書いてあるのは、タルソス。福音を語ったのは、初期には、上に書いた行程の一部ということだろうか。この内容とは異なるが「私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。誰であれ、あなたがたが受け取った福音に反することをあなたがたに告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです。」(9)は、やはり恐ろしくなる。これも真理・特定の正しさを確信した人のひとつの性質なのかもしれないが。
Galatians 2:10 ただ、私たちがこれからも貧しい人たちを顧みるようにとのことでしたが、私はこのことのためにも大いに努めてきたのです。
使徒言行録15章にある使徒会議(通称エルサレム会議)周辺のことを語っていると思われる。「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことにしました。すなわち、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。では、お元気で。」(使徒15章28,29)この記述が正確かどうかも検証が必要かもしれないが、似た文章を二度記しており(引用句は手紙の文中)歴史的考察もして記したのだろうから、十分信頼できるものと思う。そこには、上の引用句は書けなかったろう。そのころから欠乏があったと思われるが。もう一つは、食事に関する付帯事項である。ガラテヤ書では「というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。」(12)とある。これは、上の付帯条件の意図が十分共有できていなかったことを意味するように思う。浅はかな考えかもしれないが。
Galatians 3:25,26 しかし、真実が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。
普遍的な真理に行き着いてしまうと、不完全なものを受け入れられなくなるのだろうか。このように、きっぱり書かれると、反論するのは、難しいだろう。たとえ、それが愛に根ざすものであっても。わたしがこの時代に生きていたらどうしただろうか。難しい。
Galatians 4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。
神の子、神の相続人ということばは、おどろくようなものである。しかし、考えてみると、それは、神の苦しみを共にする、またはその責任を受け継ぐものという意味もあるように思う。たしかに、御心を受け取ることは素晴らしいことである。しかし、人々が互いに愛し合うことが、その御心であれば、神様は、現在の情況を悲しんでおられることは確かだろう。奴隷のときの方が楽だったのかもしれない。神の子として生きることはなにを意味するのだろうか。
Galatians 5:13,14 きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句において全うされているからです。
神の子となる権威(ἐξουσία(exousia: power of choice, liberty of doing as one pleases))が与えられているなら、そのように生きるべきであることは確かである。しかし、世の中をみると、そのようにはなっていない。まさにこの自由へと召されたが、この自由で愛を持って互いに仕え合うことができないことのように思う。なにが、問題なのだろうか。自由を使う方向が間違っているのだろうか。それであれば、律法のもとにいたときと、そう変わらないようにも思う。この問題をどうすればよいのか、わたしには、はっきり言ってよくわからない。どう考えたら良いのだろうか。
Galatians 6:1,2 きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。
りっぱな言葉だが、一般的には、過ちかどうか、過ちだったとしてもその背景も関係しており、互いに重荷を担うのは困難である。さらに「それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(10)とあり、これも素晴らしいが「善」の判断も難しい。すなわち、神様の御心かどうかを判断するのは、書かれた文字で判断することは可能としても、御心を受け取るのは困難である。誠実に、求め続けるものでありたい。御心を、そして、それに従っていく勇気と、謙虚さを。

BRC2019(1)

Gal 1:8,9 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
ことばが非常に強い。これがカリスマ性であり、キリスト教は、パウロのこのような性質に依っていることが多いことは確かだろうが、イエス様とは、だいぶ異なるとも思ってしまう。「わたしたち」の正しさが前提である。イエスは、ことばと業とを信じるように促し、そのように生きられたように思う。「呪われるがよい。」が二回繰り返され、ここに愛は、感じられない。
Gal 2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
この前の段落で、ペトロやバルナバへの批判が書かれている。「なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」(12)ここには、理解の違いがあったろう。そして、愛することが何なのか、正しい福音として伝えることは何なのか。ケファがそのことについて、明確に意識できていなかったことはあるだろう。しかし、行動原理は、律法を守ることをたいせつにする、イエスを主とするユダヤ人をたいせつにするものとして、相互理解を育むべきではなかったのか。おそらく、パウロも、少しずつ、そのことを理解していくのだと思われるが。
Gal 3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。
これは、かなり際どい問いである。パウロは、福音書でのイエスのメッセージをどう考えているのだろうか。「律法の実行に頼る」のではなく、信仰によって「神のみこころを行う」ことをどう考えているのだろうか。前の章にある、ケファのことの実態は不明であるが、信仰によって「神のみこころを行っている」可能性も否定できない。しかし、パウロはそれがゆるせなかったのだろう。一番の核を、再確認したかったことは確かだろう。律法を行うことから、離れないことを勧めれば、パウロは、そこまで迫害されなかったろうから。難しい。山上の説教もそのような問題意識も持って、学んでみたい。
Gal 4:24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。
この比喩も理解が困難である。おそらく、これも啓示なのだろう。しかし、このことが、人種差別をも産むとは言わずとも助長することも確かである。受け取り手には、ユダヤ人でイエスを主とした人たちと、異邦人でこの道に加わった人がいたようである。(8-11節)そう考えると、律法の扱いは、より複雑である。パウロは、それを単純化すべきだと考えたのかもしれない。しかし、それは、イエスの教えと変わってしまっているのではないだろうか。心配でもある。
Gal 5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
これがパウロの伝えたいことであるはずだが、そこには、とどまらず、強い言葉を言う。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 」(2)そして、12節。「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」(使徒言行録16章3節)この節との関係が取り沙汰され、使徒言行録の記述が誤っているのではないかとも言われる。それは、議論しないこととするが、2節以降の議論は、パウロの一つの論法であると取るほうが自然であるように思う。「愛の実践を伴う信仰こそ大切」なのだから。
Gal 6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
パウロが自分で書いている形式をとっている。これまでに書いたことの背景が書かれているのだろう。だからこそ、言葉が厳しくなっているのだろう。パウロのいないところで、混乱させるものが、動機も、ここに書いてあるようなことで、割礼を勧める。パウロはやりきれなかったろう。しかし、同時に、これを、教義として理解したり、他の聖書解釈にまで影響することは、冷静に対応すべきだと思う。パウロの苦しみを共有しよう。

BRC2019(2)

Galatians 1:11,12 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
たいへんなことが書かれている。神からの啓示であることの根拠はない。「なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」(2コリント13章3節)を思い出した。おそらく、その根拠はひとことで表現できるものでは、ないのだろう。ひとつには、その啓示に基づいて生きているパウロの人生による証、もうひとつは、他の証言との整合性だろうか。この問いは、難しい。
Galatians 2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
いくつか問題を感じた。最初にある「福音の真理」。パウロは、旧約聖書と照らして十字架と復活について考え、思考実験も多く行って、ことばを紡ぎ、この「福音の真理」をことばにしていったのだろう。しかし、共に生きることがなければ、互いに愛し合うことはできない。わたしにも、経験がある。神様が、少しずつ、群れを導いてくださるのを待たないといけないのである。「啓示」(2)復活のイエスから特別の使命を与えられたことも含め、パウロは「啓示」について語ることがある。それは、信仰告白として、否定するものではないが、やはり、共に生きることには障害になることが多い。さらに、この章でも語られている、エルサレム使徒会議について、使徒言行録のときにも述べているように、実際には、困難な問題が、絡み合っている。ここでは、パウロの主張が認められたように記述されているが(6)、神様の認識はどうだったろうか。前途多難と思っておられるのではないだろうか。「貧しい人たちのことを忘れないように」(10)このことの意味も、パウロは生涯かけて学ぶことになるように思われる。ここに現れる「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。」(9)が真の一致を生み出すのは、簡単ではない。ひとの世界に働かれる神様を認めないといけない。
Galatians 3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
パウロはアブラハム以外のひとたちをどう考えていたのだろうか。旧約の時代のひとたち、そして、パウロが説く福音を聞いていない人たち。神様のその人達への慈愛は、恵みは、さらに、その人達の信仰は。パウロにとっては、わたしが最近、時々語る「信仰とは『真理を事実と認識すること』ではなく『達し得たところに従って真理だと認識することに、自分の人生を委ね、それに忠実に生きること』」で、わたしが否定している「真理を事実と認識すること」に重きを置いているように思う。付け加えておくと、信仰には、そのような面もあり、完全に否定できない。自分の人生を委ねるために、真理だと認識することには、その真理がそのとおり、疑いようのない事実と信じる面が多く含まれているからである。信頼・信仰・忠実、いずれも同じギリシャ語のことばであるように、これらは、響き合っていることも確かである。上のことばは、わたしの今の生き方の指針とでもいうべき、信仰告白なのだろう。
Galatians 4:13,14 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。
具体的には背景はわからない。しかし、「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。」(12a)など、理不尽とも言えることが書かれている。おそらく、それだけ、パウロは必死だったのだろう。ガラテヤの信徒に起こっていることに対する危機感が強いのだろう。引用句のように、パウロの弱さの中での宣教が重要な意味を持っていたとも言えるかもしれない。現代のキリスト教会の問題に照らして、パウロに批判の矛先を向けてしまうが、実際のパウロは、このような苦しみの中で、生かされ、導かれて行っていたのかもしれない。
Galatians 5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
だんだん論理的に破綻を来していく。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(3,4)表面的な行為で、決まるわけではない。私は、幼児洗礼で悩み、信仰告白式をどうするか悩んだが、恵みとして受け入れたことを思い出す。正しさよりも、豊かな恵みの世界がある。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(16)と正論に戻ってきている。パウロの時代は、文章校正を入念にすることは難しかったろうから。いろいろと考えることがある。
Galatians 6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
このあとには「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(5)ともある。わたしが考えること、望むことととても近いと思った。さらに「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」(12,13)ともある。割礼の問題も、正しさの問題として、考えない方がよいかもしれない。そのあとでパウロは「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(15)と語っている。割礼の有無、割礼を受けるか受けないかの背景まで見ていかないと、混乱を招くように思われる。

BRC2017(1)

Gal 1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 
パウロにとって、直接的にキリストと出会い、使徒とされたこと、そして、キリストが神に復活させられたからこそ、パウロは会うことができた。つまり原点にキリストの復活とキリストによる召命があることがこの冒頭の文章からも見て取れる。ここにすべてが凝縮されているといっても、過言ではない。
Gal 2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 
復活のイエスに会って召命を与えられたパウロにとっては、自分が迫害に加わっていたことと、イエスの死が最大の問題だったろう。さらに、ファリサイ派の門徒として当時の最高のラビであるガマリエルのもとで学んだことと対決しなければならなかったろう。1章17節のアラビア行きは、その整理だったかもしれない。むろん、不明なことがあまりにも多いが。
Gal 3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
単純化は、あることの説明にとって分かりやすいのかもしれないが、危険でもあるように思われる。ここで言われているのは、旧約聖書であるが、新約聖書が固定され「聖書のみ」として、唯一の基準とされることは、やはり律法主義に陥らせる可能性をもつ。律法は「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたもの」(19節)と書かれている。ひとつの解釈ではあるが、これも、絶対的な解釈とすると、一人歩きが始まる。なかなか難しい。
Gal 4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 
背景がよくは分からない。「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。 」(10節)のことは、指しているだろう。9節の書き方からは、異邦人が中心の教会であろう。その人たちが、異教徒のときの祝祭日を大切にしているのか、または、ユダヤ教の祝祭日を大切にしているのかも不明である。しかし、日常生活をどうおくればよいのか、安心できるものがほしいことは確かだろう。どうしても、目に見えるものに頼ってしまう。引用箇所では、神に知られていることも書かれているが、それは、今、神を知っている、それ以前からのことだろう。知られていることを知った今、どう生きていくかはひとり一人に委ねられているのだろうが、やはり難しいことは確かである。
Gal 5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 
口語訳は「愛をもって互いに仕えなさい」ギリシャ語では「しかし」からこの文章ははじまっている。愛をもって互いに仕え合うことが、自由な生き方なのではないだろうか。イエスの生き方から、そして、メディアには登場しない、愛をもって互いに仕えることの大切さを知っている人から学びながら、生きていきたい。よいことばに出会ったと思う。パウロはこの節につづけて「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(14節)ここに神を愛することは出てこないが、すべてが詰まっているのかもしれない。
Gal 6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 
5節には「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。 」ともある。自分の重荷を担い、そして互いに重荷を担う。ここに深さがあるように思う。パウロは、その生き方が「キリストの律法を全うすることになる」といっている。キリストの律法とは「互いに愛し合いなさい」であり「愛によって互いに仕えなさい」であり「隣人を自分のように愛しなさい」なのだろう。そのような関係をたいせつにすること、これこそが神様を愛することなのだろう。キリストを知り、キリストを愛することと同じなのかもしれない。

BRC2017(2)

Gal 1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
内容について議論するわけではない。このような言葉をどう理解するかである。「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。」(コリント信徒への手紙一1章14節)と「もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。」(同16節)記憶間違い、不正確などは、人間だから当然あること。聖書は神の言葉で、絶対に正しいと仮定して、演繹することは、かえってその背後にある真実を曲げることになる。そのうえで、引用箇所で、パウロが伝えたかったことに思いを馳せる。いつかじっくり考えてみたい。使徒との交わりを殆ど持たず、アラビアに行きそれからダマスコに戻ったと書いていることについて。
Gal 2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
エルサレムには「おもだった人たち」がいたことが分かる。(主の兄弟)ヤコブがどのような立場にいたかは、明確ではないが、律法の遵守を続けていたユダヤ人たちであろう。その人たちが、異邦人と一緒に食事をすることが困難であることは、すぐに分かる。異邦人にとっては、何の問題はないが。二つの考え方があるだろう。「律法を遵守していたユダヤ人がイエスを神の子メシアであると信じる信仰に導かれた場合、律法および律法に関わるとして守ってきた習慣を変えなければいけないかという問いには答えが出ていない。」「主イエスに愛されたものとして、共に食卓につくべきで、それが互いに愛し合うことでもある。」後者がより普遍性はあるのだろうが、正しさの主張であるとも言える。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(ローマの信徒への手紙14章1節)この立場にパウロが立てないのはその人たちが「おもだった人たち」の問題があったからに思われる。わたしにも、そのような思考パターンがあるので。なかなか難しい。
Gal 3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
律法についてここまで明言できたのは、異邦人の救いと関わり、そこに神の働きを見てきたからだろう。しかし、神のみこころをどのように求めるのか、神は何を求めておられるのか、それも律法の大きな基礎であることを考えると、これだけで受け入れられないひとは多いだろう。律法にもいろいろな意味があるから。
Gal 4:25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
とても乱暴な議論に感じる。これがいままで、イシマエルの子孫として同じアブラハムにつながるとしているアラビア人イスラム教徒との反目につながっている面もある。「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」(29)とあるが、逆もまたしかり。そのことは、見えていないのか。象徴的にあつかうときの危険性でもある。これらが、引用した「今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっている」という認識にもかかわらず論理構成されていることも、気になる。わたしが十分理解できていないこともあるだろうが。いずれにしても、悲しい歴史にこころが痛む。
Gal 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
割礼の禁止を訴えている。正確にはよく分からないが、ここまではっきり言うとすると、ユダヤ人であってもイエスを神の子メシアだと信じる人には、割礼を受けないように言っていたと思われる。それが使徒言行録(16章3節)のテモテに割礼を受けさせたことに懐疑的であるという学者の説にもつながっているのだろう。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(3)ともある。「愛によって互いに仕え」(13)ていればそれで良いのではないか、とも思う。おそらく「自由」を「不自由」な肉体をもった人間が持っていることに関係しているのだろう。完全に自由ではあり得ない。そこで、パウロは「愛の実践を伴う信仰」(6)から引き離し「割礼の有無」(6)をたいせつにしてしまうことに抗っているのだろう。難しい。論理的に説得しようとしているパウロの論理が破綻しているようにも思えるし、人間の弱さ故に、仕方がないようにも思える。
Gal 6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
自分の霊ではないのだろう。霊は神の霊である。このあとに「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」とあるが「特に信仰によって家族になった人々」「兄弟」を愛することが、最も大切なのだろう。そおらく、霊に蒔くこととつながっている。

BRC2015(1)

Gal1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 
啓示によるとどのように確信でき、それを他者にも伝えることができたのであろうか。一つには、神との交わりのなかで知り、確信に至ったということであろうが、それには、聖書および神との交わりが前提されている。つまり、ユダヤ教時代との継続性である。しかし、同時に以前は得ていなかった新たな真理に触れたとすると、それを保証するものは何なのだろうか。旧約における啓示との整合性であろうか。これを、聖書の背景のない人にどのように伝えるのだろうか。普遍的真理だろうか。神の業の背景にある普遍性だろうか。
Gal2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 
罪人は「生まれながらに神から離れているもの」としてよいだろうか。上の 1:12 の解釈からしても、神の言葉が委ねられ、神に導かれてきた歴史を持つことは、特別である。しかし、それで罪が赦され、永遠の命をもって生きるわけではない。そこを明確にしないといけないのであろう。ヨハネ4:22「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」は無視できない。神の言葉は確かに委ねられているのだから。
Gal3:12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。 
7節の「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」と比較するとどちらにも「生きる」という言葉がある。命をえることと、その後の生活をわけ、律法の役割はそのあとのこととすることも可能なように思われるが、いのちそのもの、生きることが本質的に関わっているならば、そのように、分けることはできない。これがパウロの主張なのだろう。ユダヤ人はキリストを受け入れたら、律法を守らなくても良いか。異邦人から、キリストを受け入れるようになった人たちにとって、律法はどのような意味があるのか。その一部について、答えている。しかし、やはり、全部ではないように思われ、疑問が残る。
Gal4:21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。 
どのような状況下明確にはわからないが、イエスを救い主と信じる人たちが、信じたあとも、律法を守ることに熱心だったのかもしれない。それが、異邦人キリスト者には、困難をもたらしていた。しかしこれは、特にユダヤ以外に住むユダヤ人キリスト者にとって、コミュニティから離れない重要な鍵だったのではないだろうか。難しい。
Gal5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 
肉ではなく、霊によって生きるものの生活である。イエスの説いた福音と矛盾はないが、強調点はかなり異なるように思われる。神のみこころに生きること、これがイエスのメッセージであるのだから。信仰義認をどう評価するか、次のステップが必要であるように思う。
Gal6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
当時の困難さが見える気がする。急成長したキリスト教会にもたくさんの問題があったのだろう。いまこのときの問題を考えたい。

BRC2015(2)

Gal1:3 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
このような表現は、いつごろ成立したのだろうか。福音書(書かれた時期はパウロ以後)に記録されたイエスのことばは、矛盾はしないが、明確に読み取るのは難しいように思われる。1節には「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、」と自己紹介し、復活のことが書かれているが、死と復活を信仰の中心としていったのは、パウロ以前だったのだろうか。もう少しよく理解したい。
Gal2:9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。
ガラテヤ書は信仰義認に関する主要な書であるが、当時のキリスト者の多くにとっては、おそらくかなり受け入れることが困難な書だったろう。様々な立場に身を置いて読んでみると、考えてしまうことが多いだろう。パウロの観点と、他の使徒たちの観点、さらに、ユダヤ教の背景をもって、イエスをメシアと受け入れた人たちの間に、生活に根ざした大きな差異があったと思われるからである。パウロが生まれながらに、異邦人社会のユダヤ教徒であったことは、おくことにして、ユダヤ教徒から弟子となった者たちが、旧約聖書の律法を行うことを神のみこころにかなうことと信じ実行し、そうではない生き方をしていた人たちと食事ですら一緒にできない状態だったであろう事は容易に想像がつく。主要な弟子は、一致の大切さを知っていたろうが、配慮、愛よりも、正しさを主張するパウロにどう対するかは難しかったろう。宣教の方向も、パウロのいうように、完全に分けられるものでないことは、すでに明かだったろう。福音書の登場などによって、信仰の幅が広がったことは恵みである。
Gal3:19,20 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
「違犯」がこの漢字で書かれていることを初めて確認した。口語は「違反」である。人文学における論理は怖い。律法をこのように規定し、そこから出発する。これだけの役割ではない可能性が高いにもかかわらず。そのあとの主張にあうように、定義する。難しい。せめてこのように定義するならばとしてほしい。
Gal4:8-10 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
この書き方からして、異邦人キリスト者に対して語っている。以前から気になっている、(宗教的習慣も含め、文化的・社会的には)インサイダーとして生きることができないのかという問いがある。我々は旅人であり寄留者なのだから。パウロにとっては、それは実際上あり得ない選択だったのだろう。それは、福音の内容とも関係していると思われる。教会とは何かという問いとも関係している。持続可能な形態としての宗教も考えに入れなくてはいけないだろう。わたしに答えはない。正しさだけで押し切るつもりはない。じっくりと考えたい。
Gal5:13.14 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
この章では割礼のことが論じられている。わたしには書きたいこともあるが、12節のなんとも激しい言葉から、急にはじまる、この13節・14節に注目してみたい。当時は、今のように何度も何度も校正して手紙を書くことはできなかったろう。パウロ自身と、受取手の心の行き先を慮(おもんぱか)って、この言葉を書いたのではないだろうか。その行動自体から学ばされる。ただ、やはり気になるのは、律法全体はという語である。イエスは、このようにはまとめなかった。キリストを通して、神様とつながること、これがまず第一である。そして、第二も同様に重要なのである。キリストを特別な贖罪の犠牲としての存在とすることで、生身の人としての生き様を示したイエスからは距離を取る。それがかえって、この表現に結びついているのではないだろうか。キリスト教の様々な論争の一部でもある。
Gal6:4,5 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
最後の言葉にアーメンと言いたい。自分の戦い、神様の前で、どのように生きるかである。それが、自分に対しては誇れることがあるかもしれない内容だろう。日々、自分の十字架を負うて、イエス様に従っていきたい。常に、手本として。

BRC2013(1)

Gal1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
たしかに、キリストは、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられた。これは、福音書との接続または、対比でも調和がとれている。しかし「今の悪の世から救い出そうとして」はどう考えれば良いのだろうか。罪によって神のみこころを行えない状態をこのように読んでいると解釈して良いのだろうか。この世から取り出す感じがあり、多少違和感がある。
Gal2:10 ただ一つ、わたしたちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのである。
一般的な意味も含んでいるだろうが、エルサレムのキリスト教徒のことを直接的には指しているかも知れない。この人たちは、宗教的にも、経済的にも、社会的にも苦しい状況に置かれていたと思われる。律法を重んじることも、そのなかから出てきている事だったかもしれない。戦争中の日本のキリスト者と同じだったかも知れない。その中で、そのような人たちによって書かれた文書はないのだろうか。AD70 で消滅してしまったのだろうか。興味がある。
Gal3:24-26 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
このことは、基本的にはその通りであろう。しかし、ユダヤ人キリスト者、律法を厳格に守るユダヤ人キリスト者から信仰に導かれた人にとっては、神に従うことを追い求めて、律法を厳格に守ろうとしてことは、とても自然である。とても、難しい背景があったように思われる。このことが明確に受け入れられたのは、皮肉にも、AD70の神殿崩壊だったかもしれない。
Gal4:15 その時のあなたがたの感激は、今どこにあるのか。はっきり言うが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしにくれたかったのだ。
なかなか難しい。福音に生きることの難しさも感じる。いろいろな背景の元で、キリストに出会ったのだから。そしてその背後には、ひとり一人の人生を通しての、神の導きがある。
Gal5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
自由をどう使うか、本当に本質的なことに、行き着いている。次の学期は、聖書の会でも、そのことについて考えたい。
Gal6:4,5 ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
本当にその通り。自分には「頑張ったね」と言ってあげたいことはあっても、それは人に誇れることなのだろうか。ひとはそれぞれ神様のしもべとして、それぞれの重荷を背負っている。ひとに誇れるものではない。互いに重荷を負い合うことができれば、どれほどすばらしいだろうか。もう少し、丁寧にガラテヤ人への手紙を読んでみたい。

BRC2013(2)

Gal1:10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
わたしは、このように言い切れるだろうか。正直、言えない。つねに、人の歓心を買おうとしているのかどうかの狭間で戦っている。望みは、神に喜ばれる事であるにも関わらず、正直にいって、生き方においてはそれを否定している。Rm7;15 「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」と同じだ等とは言えない。
Gal2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
ここまで言い切る事ができたのは、パリサイ人としてのパウロ故か。もし、そうであれば、イエスのマタイ23章などの、パリサイ人と律法学者への批判は実を結んだ事になる。しかし、おそらく、そのように単純には、考えない方が良いのだろう。
Gal3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。
信仰によって御霊を得たのであれば、信仰によって生まれたもの。その救いを完成させるのも信仰による。ここには論理の飛躍がある程度ある。信仰体験によるパウロの言説は説得力がある。しかし、論理は、多少危険である。途中に多くの仮定が介在しているから。そしてその仮定は、この世の限定的な真理からの類推である事が多いから。
Gal4:25 ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。
この記述を確かめる事はできなかった。ハガルは、ヘブル語では、flight の意味。アブラハム物語の中でも「逃亡」するかいなかで描かれている。これに続く説明も、問題を含んでいると思う。少なくとも問題を歴史的に引き起こしたとは言えるのではないか。
Gen5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
福音書でイエスが語っているときとは、少し違う。十戒のことばのみ示している場合もあるが、基本的には、神を愛すること、シェマの冒頭が含まれている。愛する行為を絶対化しないことがあるのではないだろうか。「自分を愛するように」という部分も、議論をすると、複雑なものを含むのだから。ヒューマニズムではない。さらに、その二つに聖書の本質が入っていると言っているのであって、それだけで良いという事でもない。
Gal6:2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
イエスは、仕えるもとなる事を言っている。Mt23:11 など。このあと5節には、「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」自分の十字架を負って歩む事だろう。


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エフェソの信徒への手紙

エフェソの信徒への手紙からフィレモンへの手紙まで

ローマの信徒への手紙から、ピレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。パウロが書いたものかどうか議論のあるものもいくつもありますが、それを議論することは、ここではあまり有益だとは思えませんし、わたしが確信をもって、みなさんに説明することもできませんから、パウロ由来としておきたいと思います。基本的には、使徒言行録からも分かるように、パウロ達が伝道旅行をした地域の教会に書いた手紙がいくつもあり、それが集められたものです。テサロニケの信徒への手紙一は、テサロニケ伝道の後、コリントへ行ったパウロがテサロニケの信徒へ宛てて書かれたもので、これらの書簡の中で一番最初に書かれたと考えられています。

すでに読み終わった、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で特別な位置をしめており、四大書簡などとも呼ばれています。エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、フィレモン(ピレモン)への手紙は、獄中から書かれたと記されている(エフェソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, フィレモン1)ので、獄中書簡と呼ばれています。フィリピ4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」などという言葉もありますね。おそらくローマの獄にいたのでしょう。テモテへの手紙一、二、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれることもあります。テモテについては、使徒言行録16章などにも書かれていますね。使徒言行録を思い出しながら読むと良いかも知れません。

どの書簡も短いので、通読ではどんどん進んでいきます。ここでも細かな解説などはできません。しかし上にも書いたように基本的に、これらは、先輩のクリスチャンから、若い教会や信徒や、リーダー達への手紙です。実際の生活に関係することがたくさん書かれています。また、当時の問題についても知ることができると思います。すこし考えると、それらは、ちょっと違った形であっても、現代にもある問題を扱っている場合が多いと思いますよ。みなさんは、どのような事を読み取られるでしょうか。

エフェソ人への手紙(1)

1章1節には、
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。
とあり、また、つぎのように書かれています。
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。(3章1節)
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、(4章1節)
このようなことから、エフェソの信徒への手紙はパウロが書いた獄中書簡のひとつとされています。使徒言行録には、パウロがエフェソに何回も訪ねたことが記されています。獄につながれることになる、そして、おそらく最後のエルサレム訪問の直前に、旅の途中でエフェソから教会の長老たちを呼び寄せて最後の別れをしたことが書かれています。使徒言行録 20章17節から38節です。パウロがどのようにエフェソで宣教をし、生活したかが述べられたあと、このあとエルサレムでどのようなことが待ち受けているかを予期していることをのべ、エフェソ教会の長老たちに、注意を与え、32節にはつぎのようにあります。
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
そしてつぎのような別れが書かれています。使徒言行録20章36節-38節
36:このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
37:人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
38:特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
エフェソの信徒への手紙も、長い関係をもった顔なじみも多くいる教会のひとたちに書いているのでしょう。その意味でも、なにかテーマを絞って書かれているわけではありませんが、深みのあることば、具体的な問題に対する教えなどなど、このひとつの書簡から非常に豊かな内容を読み取ることができると思います。

いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙の梗概(小畑進)を引用します。

  1. 序 1:1-2
  2. 教会の成立 1:3-1:14
    1. 父なる神によって 1:3-6
    2. 御子にあって 1:7-12
    3. 聖霊をとおして 1:13-14
  3. 教会の自覚 1:15-1:23
    1. 召されて抱いている望みについて
    2. 聖徒たちのつぐべきものについて
    3. 力の偉大さについて
    4. キリストの統御について
  4. 教会の創造 2:1-2:10
    1. 材料 - 怒りの子たちから
    2. 手段 - 恩寵によって
    3. 目的 - よき働きをなすために
  5. 教会の一致 2:11-2:22
    1. キリストにある異邦人とユダヤ人の結合
  6. 教会の召し 3:1-3:21
    1. 神の召しを啓示するため 3:1-13
    2. 神の満ちているものを経験するため - 祈り 3:14-21
  7. 教会の行い 4:1-6:9
    1. その使命 - 一致のうちにある個人差 4:1-16
    2. その道徳的基準 4:17-5:14
    3. この世に対する共同の行動 5:15-21
    4. 過程における基準 5:55-6:9
  8. 教会の闘争 6:10-6:20
  9. 結論 6:21-6:24


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Ephesians 1:17-19 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。
気になったのは、「知恵と啓示の霊(πνεῦμα σοφίας καὶ ἀποκαλύψεως )」特に「啓示(ἀποκάλυψις: i) laying bare, making naked, ii) disclosure of truth, instruction, concerning things before unknown, b) used of events by which things or states or persons hitherto withdrawn from view are made visible to all, iii) manifestation, appearance)の霊」である。啓示は辞書によると、1) 明らかに表し示すこと。2) 人の力では知り得ないことを神が教え示すこと。とある。わたしは、2 の意味のみを想定したので、違和感があったのか。なるほどと、気付きが与えられることまでも含むのであれば、良いようにも思うが、やはりちょっと気になる。神に教えられたと、色々な人が言い出すと、多くの人々に、混乱を引き起こす。
Ephesians 2:20-22 あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であり、キリストにあって、この建物全体は組み合わされて拡張し、主の聖なる神殿となります。キリストにあって、あなたがたも共に建てられ、霊における神の住まいとなるのです。
キリスト教として、成熟した姿が描かれている。一つは、パウロがこの時代まで生きていたのかどうか。もう一つは、使徒が、この時代までに、預言者以上に重要な土台となっていることをどう理解するかだ。パウロは、自らが使徒であることを、示す努力をいろいろとしている。ここでは、神格化とまでは言わないが、預言者と同列になっている。マタイや、ルカを見ると、すでに、十二弟子を特別扱いする様子が見て取れるが、それは、ほとんど、または全員が、死んでしまったということのようにも思う。不可能と思いつつも、この手紙の、背景を知りたくなる。
Ephesians 3:5,6 この秘義は、前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続する者、共に同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるということです。
ここにも、「今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」という言葉が登場する。パウロを含めた、使徒による啓示(神から特別に伝えられたことまたは、解き明かし)が確立していたということだろう。パウロは、使徒と預言者と同列に並べて語ることをするだろうか。この章の最初には「このようなわけで、私パウロは、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっています。」(1)となっている。処刑されたことが、皆に、共有されていれば、このようなことばは書かれないだろう。そう考えると、パウロがどうなったか、明らかではない時代がある程度あったようにも思う。やはり、謎である。
Ephesians 4:26-29 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。
平易な言葉で書かれている。このような基本的なことを、パウロの権威のもとに伝えることが必要だったのだろう。初代教会は、様々な困難ななか、使徒の次の世代が育っていったのだろうか。もう少し、実情を知りたい。
Ephesians 5:1-3 ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません。
このような形で、キリストの愛が継承されていったのだろう。しかし、イエスの愛を通して、神の愛を知ることは、薄くなっていったのではないだろうか。概念的なものとして、愛の宗教を形作っていったようにも思う。むろん、わたしが受け取り、喜びを持って、学び続けている、イエスの生き方だけが、神の御心というわけではないだろう。どのように、全体を把握すればよいのか、牧会書簡などで、理解していくことができればと願う。
Ephesians 6:23,24 父なる神と主イエス・キリストから、平和と、信仰を伴う愛とが、きょうだいたちにありますように。恵みが、私たちの主イエス・キリストを変わることなく愛する、すべての人と共にありますように。
わたしが、聖書の学びで、毎回驚きを持って、イエスから学んでいることとは、少し方向性が異なるが、このような言葉を共有するキリスト教会が、成長していったことは、理解できるし、それで良かったのだろうなとも思う。わたしの理解は、どうしても、時代を超えなければいけないために、知的営みが大きくなってしまう、そして、そこから得ることも、多様になってくるだろうから、共有することが困難なように思う。自分の歩む道についても、ゆっくり考えていきたい。

BRC2023(2)

Ephesians 1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいるキリスト・イエスを信じる聖なる者たちへ。
ガラテヤ人への手紙は「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と共にいるきょうだい一同から、ガラテヤの諸教会へ。」(ガラテヤ1:1,2)とあり、最後には、「御覧のとおり、私はこんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラテヤ6:11)がある。エフェソの最初の書き方と、最後にガラテヤのようなものがないことは気になる。中身を見ても、やはり、すこし年代が経ってからの文章のように思う。決定的な根拠ではないが。パウロ由来とはできるかどうか、丁寧に読んでいきたい。
Ephesians 2:10 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
否定はしないが、もっと複雑だと思ってしまう。現実の様々な問題・課題に目をむけると「善い」かどうか判断できない、なにが「善い」のだろうかと困惑してしまうことが多い。ましては、自分のことではなく、他者のこととなるとさらに難しい。現状が適切ではないことは理解できても、どうすれば「善い」かは、わからないとしか言えないことがほとんどであるように思う。しかし、決断をして進んでいかなければならない。謙虚に、神様に求め続け、学びながら、修正もしつつ、歩み続けるものでありたい。
Ephesians 3:18,19 すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。
わたしも、私の隣人たちとともに、愛を知りたい、そして神様からの善いもので満たされたい。願いはあっても、やはり叶えることよりも、求め続けることに集中したいと願っている。ことばも観念的にならず、丁寧に紡いで。
Ephesians 4:14,15 こうして、私たちはもはや子どもではなくなり、人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすることなく、愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していくのです。
「キリストの満ち溢れる成熟した年齢」について書かれている。まず書かれているのが「人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教え」にも惑わされず「愛をもって真理を語」るあることに興味をもった。情報があふれる中で、このように生きることは難しいし、おそらく、わたしは真理を語るところまではいけないだろう。しかし、惑わされているかもしれないと注意していきたいものである。絶対惑わされないと、それだけに、固執するのではなく、愛をもって語ることはどのようなことかも、少しずつ学んでいきたい。
Ephesians 5:15−17 そこで、知恵のない者ではなく、知恵のある者として、どのように歩んでいるか、よく注意しなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代だからです。だから、愚かにならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
いつも悪い時代なのかなと思った。しかし、愚かにならずとあるが、これは難しい。そして、愚かにも、主のみこころから離れて生きているように見えるひとがどれだけ多いことか。それも若くして、そのような道に陥り、そこから出られずに一生を送ることも多いように見える。といって、なにかできるわけではないように見える。どうしたら善いのだろう。
Ephesians 6:7−9 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたが知っているとおり、奴隷であっても自由人であっても、善いことを行えば、誰でも主から報いを受けるのです。主人たち、奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
現実的には、とても難しいことであることは容易に想像がつく。主人にとっても、そう単純ではない状況があったことも考えられるが、奴隷は、なおのことだろう。奴隷として生まれることもあったのだろうが、神様の前には、同じはずである。社会体制の中では、このような問題がなくならないことも確かだろうが。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Ephesians 1:17 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、
感謝のあと、とりなしのいのり、願いが書かれている。とても長い。この訳では、19節の終わりまで一つの文章になっている。なにかとてもありがたいことばには感じるが、一つ一つ見ていくと、そう簡単ではない。引用句は「神を深く知ることができる」が目的で、それは素晴らしいが「知恵と啓示の霊」が与えられるとはどのようなことか、考えてしまう。知恵と霊の関係はどうなっているのだろうか。ヨハネによる福音書にある霊(弁護者、訳によっては助け主、パラクレートス)「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(13)だろうか。理解を助けてくれるものなのか、それとも、新たに、一人ひとりが神について深く知る啓示が与えられるということか。このあとも、ことばは美しいが、正確にはわからない。しかし、このような言い回しがすでに、定着していたのかもしれない。キリスト教会で。すこしずつ理解していきたい。
Ephesians 2:10 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。
この前には、8,9節に行いによってではなく、恵みと信仰により救われたことが書かれている。これを一つの表現として受け取ることは問題がないが、信仰生活、恵みによって生きることを通して、「神の作品として生きることはどのようなことか」を求め続けることに本質があると、わたしは考えている。ある時点でそうなったと理解すると、行き詰まるからである。つまり、プロセスとして恵み、信仰、救いを捉えることだろうか。このような考えは、エフェソの信徒への手紙が書かれたころには、未発達だったが、それが、長い年月を経て、啓示され、または、人々が、少しずつ神を深く知るようになっていると表現して良いのだろうか。そう言い切ってよいかは、心配である。
Ephesians 3:16-19 あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。
とても美しいことばである。このようなことばに魅了されていたときもあった。しかし、いまは、あまりに、具体性を欠くように思う。実際の生活において、これらが何を意味しているのか、人間の社会の具体的な課題に対して、どんなメッセージを送っているのかがよく見えない。たしかに、信仰により、キリストが住んでくださり、わたしたちが、愛について学び、愛に根ざして生きるものとなり、そのなかで、その愛の素晴らしさが、さらに、よく分かるようになったらすばらしい。神秘主義的、観念的なものが受け入れられないのだろうか。さらに、差出人は、パウロとされているが、パウロのことばと結びつかないからだろうか。イエスのことばと生き様ともなかなか結びつかない。そう考えてしまう、わたしに問題があるのだろうか。わたしが過去にそうであったように、これらのことばを感動して受ける人もいるだろうから。
Ephesians 4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。
わたしは、ここでも、悪い言葉を語っているのではないだろうか。探求といいつつ。このようなことばを読んで、学ぶひとが、そして、慰めを受ける人もいるのかもしれない。しかし、その人を造り上げる善い言葉だとは、言えないだろう。そのような、わたしの言葉よりは、エフェソの信徒への手紙のことばのほうがずっと善いように思われる。本当に、これでよいのだろうか。わからない。
Ephesians 5:1-3 ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません。
内容ではなく、背景について考えた。エフェソの信徒への手紙は、牧会書簡と呼ばれるが、特に後半は、教会内部の人へのメッセージが中心となる。使徒言行録にあるようなパウロが宣教していた時代とは異なるように見える。さらに、これだけ、牧会的なメッセージの中で、倫理的な言葉が多くなると、別の問題も生じるように思う。内向き、そして、内部での分裂の可能性である。引用句では、パウロは常に自分に倣うものにと書いていたが、ここでは、神に倣う者ということばが使われている。「神に倣う」はここだけなので、判断は難しいが。ただ、「キリストがご自分をいけにえとして献げ」たことば、「愛の内に歩むこと」につながっているのか、「神に倣う者」につながっているのか不明である。このあとは、倫理的な教えが続く。
Ephesians 6:5-7 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人の機嫌をとろうと、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
奴隷制度自体を変更する動きはまだ見えない。これも、当時の社会的状況を考えると、そして、キリスト者がほんの一部だったろうことを考えると、当然に見える。同時に、文字通りの解釈にとどまってはいけないことも、注意を要する。また、被支配民が奴隷となっていたことを考えると、通常、わたしたちが、奴隷として思い浮かべるアメリカの黒人奴隷とは、異なることも、認識すべきである。いつか、奴隷について、その歴史についても学んでみたい。引用句を見ていると、現代社会においても、奴隷のような生活を強いられているひとは、多いように思うからである。背後には、なにが自由か、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、主に仕えるとはどういうことかを知ることなのかもしれない。キリストの奴隷ということばが適切かどうかは不明だが。

BRC2021(2)

Ephesians 1:21 この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました。
「支配、権威、権力、権勢(ἐξουσίας καὶ δυνάμεως καὶ κυριότητος)」について調べてみたくなった。しかし、まず、キュリオテートス(κυριότητος < κυριότης: dominion, power, lordship)が支配、ドゥナメオース(δυνάμεως < δύναμις: strength power, ability)が力、エクスーシアス(ἐξουσίας < ἐξουσία: a. power of choice, liberty of doing as one pleases, b. the power of authority (influence) and of right (privilege), c. the power of rule or government (the power of him whose will and commands must be submitted to by others and obeyed))が、権威・権勢なのだろうか。やはり、実体はよくわからない。これを厳密に定義するのは難しいだろう。ともかく、すべてのものの上ということなのだろう。そのような感覚的な表現がエフェソの信徒への手紙には多いように思う。キリスト者の中で相互に厳密には精査せずに使う言葉である。そのようなものがすでに教会の中ででき上がっていたのだろう。この前の三書とは異なる。
Ephesians 2:19,20 ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であり、
このように書くということは、ユダヤ人として書いているのだろうか。ユダヤ人キリスト者が中心をなしていた時代なのだろうか。やはり、内と、外の区別があったのだろうか。内部での分裂があったのかもしれない。エフェソの信徒への手紙を理解するには、その当時のひとたちが理解していた世界観・キリスト教社会について知ることが必要なように思う。説明なしに使われることばが多いからである。
Ephesians 3:1 このようなわけで、私パウロは、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっています。
獄中書簡と言われる。「だから、私があなたがたのために受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(13)とも書かれているが、使徒言行録の最後の情況とはおそらくかなり異なる。一旦は、釈放され、その後の、獄中生活なのか。なぜ、はっきりとした記録がないのかも不思議に感じる。パウロは、最初は、恩赦を与えられても、周囲に争いは絶えなかったのかもしれない。パウロの後半生が知りたい。本書を全くの創作だという説も考えられないこともあるが。
Ephesians 4:25 ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。
エフェソの信徒への手紙は、美しい、洗練されたキリスト教用語が並ぶ。ただ、キリスト教会の外のひととこれでコミュニケーションができるのか、疑問も生じる。引用句を取り上げたのは、「隣人」「体の部分」に目が止まったからである。隣人は、すべての隣人だろうか。イエス様が「隣人となったのはだれか」と語った、普遍的な存在の隣人だろうか。そして、体はキリスト教用語としては、キリストの体を意味すると思われるが、神様に愛された存在としてという普遍性を持つだろうかと考えたからである。ひとびとと共に語り合うことを考えれば、教会の内外の区別はないはずである。それは、共有はできないのだろうか。
Ephesians 5:1,2 ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。
一般的なことばで書かれている。神は、ある子を愛し、ある子を憎まれる方なのだろうか。おそらくそんなことはない。ありえない。「私はキリストの体の一部なのです。」(30)も、人々全部を考えなければいけないはずである。それが「私たち」はだれを意味するかにつながるはずである。なんでも普遍化してはいけないのかもしれない、丁寧に、ていねいに進んでいきたい。それには、書簡も学ばないといけないのかもしれない。むずかしいけれど。
Ephesians 6:21,22 私がどのような様子か、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて報告するでしょう。彼は、主にあって愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためです。
エフェソの信徒への手紙は、18世紀頃から、疑パウロ書簡(Deutero-Pauline epistle)とされている。実際には、確実な証拠があるわけではないが、たしかに、エフェソの信徒への手紙を呼んでいると、通常考えられるように、パウロがエフェソスの長老たちと分かれてから数年後、ローマに囚人として送られていた頃と考えるのは、困難だと思われる。教会組織が確立していること、パウロの福音に関する考え方が述べられていないことなどが理由である。文体や論理展開もかなり異なるように思われる。一方、引用句には、具体的な名前も登場する。使徒言行録20章4節にアジア州出身として登場するパウロの同行者ティキコである。パウロは、一旦、釈放された、または、かなり自由に行動できた可能性もあり、やはり成立状況を確定するのは、難しいようにも思われる。

BRC2019(1)

Eph 1:17,18 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
このあとも続くが、牧会祈祷のようなものなのだろうか。「あなたがた」「聖なる者たち」そして「わたしたち信仰者」(19)について語り、最後には、「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(22)と教会にまとめ上げている。イエスのメッセージにおいて、これがどの程度明確なのか、確かめてみたい。もう少し、素朴に「わたしの天の父の御心を行う人」(マタイ12章50節)でよいように思うのだが。いまは、それに「達し得たところに従って」と付け加えておきたい。
Eph 2:14,15 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
「二つのもの」とは何だろうか。「双方」とも言われている。このあとには「両者」(16)「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも」(17)「わたしたち両方の者」(18)このあとも含めて、「外国人、寄留者」(19)と、「イスラエルの民」(12)を意味しているようである。「敵意」が理解できなかったために、確認したわけだが、そのような枠組みに置かれていると理解していたのかもしれない。結びつけるのは、イエス・キリストである。なかなか、すっとは受け入れられないのは「敵意」という言葉のゆえか、キリストをイスラエルの民と異邦人を結びつけるとすることへの抵抗感か、もうすこし、ゆっくり考えてみたい。
Eph 3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
この節に限らず、特に、14-19節の段落は、詳細はわからないが、とてもいまの教会に適合した、美しいことばであると感じる。同時に、イエスのことばではないだろうなとも思う。イエスは、このようなメッセージを伝えたかったのかどうか、正直よくわからない。福音の内容がだいぶん変わってきていることも感じる。どうしたらよいのだろうか。ていねいに、ひとつずつ読んでいきたい。
Eph 4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
やはり著作者について気になってしまう。1章1節には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。 」と、この手紙がパウロからであることが書かれ、共同執筆者のような、他の名前は現れない。3章8節aには「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」とも書かれている。また、囚われの身であることも引用箇所以外にも、3章1節にも「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」と現れ、ここでもパウロと明言している。しかし、同時に、批評家の分析を待たずとも、あまりに、文体が、ほかのものと異なる。特に、ローマ、コリント、ガラテヤといったものとは、かなり異なっている。メッセージ自体が、大きく異なるかどうかは、感想としてしか言えないが、それも、かなり異なっているように思うだけでなく、キリスト教会が、何十年かたったあとのような感じを受ける。いまは、このようにしておこう。パウロの名前を冠したことは、よいとして、なぜ、著者がパウロであるように、脚色されたのだろうか。それとも、どこかで直接ではないにしても、パウロとつながっているのだろうか。イエスの教えとだいぶん、異なる感じを受けることとともに、さらに、雰囲気として、現在の教会で利用している言葉と近いことも含めて、どう受け取ったら良いのか混乱してしまう。
Eph 5:1,2 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
ガラテヤ書までは、パウロは「わたしに倣う者になりなさい。」と繰り返し述べているように思う。(1Cor4:16, 11:1, Phil 3:17, Cf Rm 12:2, 15:5, Col 3:10, 2Thess 3:7, 9)しかし次のようなものもある。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」(1Thess 1:6)ここでは、神に倣う者と言っている。パウロが述べてこなかった言い方である。エペソは、少しあとでは、ヨハネの影響もある程度あると思われ、愛が教義の重要部分になってきたのだろうか。表現の詳細も含め、正直よくわからない。
Eph 6:20,21 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
著者については、本当にわからない。おそらく、重要ではないのだろう。初代教会文書であることは、確かなのだから。なぜ、パウロ文書かどうか、知りたいのだろうか。ひとつは、ここで引用したことなどが確かなのかが他の部分にも影響するのではないかと考えるからだろうか。それとも、パウロが特別と考えるからだろうか。どちらからも自由でよいのかもしれない。

BRC2019(2)

Ephesians 1:13,14 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
救いの確かさ、「約束されたものの相続者とされた」(11)ことの保証が、聖霊による証印だとある。しかし、それを客観的に、確かめる方法はない。その保証を求める、ひとり一人に答えることが「ひとつにまとめられる」(10)教会の一致に不可欠になってきているのだろう。み言葉を生きることだけでは、組織としての一致は得られないと言うことかもしれない。まだ、よくはわからないが、とても大きな問題を秘めているように思う。ゆっくり言語化して考えたい。
Ephesians 2:1,2 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
死から命はメッセージとしては素晴らしいが、実際は、それほど、単純ではない。このあとには「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 」(3)ともある。これも、そう言い切れるのか、また、続いて「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 」(4,5)とある。なぜ、愛しているなら、全員を救わないのかと、一般的に言われる批判に、どう答えたとしても、しっくりこない。二分、二元論からはじまっているところに問題があるように思う。個人的に、以前とは、違った状態になったと信じることは、理解できるが。
Ephesians 3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
それを、わたしも願っている。自分の心の内に、そして、隣人の心の内に。愛に根ざし、愛にしっかりと立つは、実際どのようなことを表現しているのか、わからないが、魅力的なことばでもある。今は、集中して考えられないが。
Ephesians 4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
この章は「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、」(1)と始まる。引用箇所では「一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じ」としている。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(32)も、その根幹となるものがあるということだろう。ただ、詳細はわからないことが多い人間社会で、赦しあうことをさきにすることがよいのではないかと考える。もし、このことが救い、栄光をうける、復活するなど、パウロがいう招きへの途中にあるものであるなら、それと取り替えてしまうことは間違いであるが、一体であるように思う。むろん、赦すことによって、赦されるわけではなく、そこに本質があるということだろう。
Ephesians 5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(8)「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 」(11)パウロの筆致とはかなり異なる。パウロ由来と考えていたが、すでに、時間だけでなく、空間的にも、関連性からも、離れているのかもしれない。あと一歩で、イエスに従うところに行き着く。ただ、そのようには表現しない。福音書記者たちとは、ある程度の距離があるのだろうか。実際、どうなっていたのだろう。不思議である。
Ephesians 6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
子どもが両親を敬うべき事、奴隷が主人に従うべき事、主に仕えるように仕えるべき事が書かれている箇所である。奴隷に対して主人には「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(9)とあり、尊厳のもととなることが書かれているが、なにか公平ではないように思っていた。しかし、その一つの答えが、引用箇所にあるように思う。主のように、WWJD、WWNJD である。イエス様ならどうするだろう。イエス様ならこうはしないかな。

BRC2017(1)

Eph 1:11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 
教会を形成するキリスト者の選び、予定が非常に色濃い文章になっている。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 」(4節)からはじまり、5節、7節と続く。同時に、引用した節の次には「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 」(12節)があるように、目的とキリスト者の使命も書かれている。否定するつもりは全くないが、キリスト者はこれを読むと、自分たちが特別の存在だと考えるのは当然だろう。ユダヤ教の選民思想と同じである。律法主義と、民族主義は、おそらく人間にとって普遍的な傾向であろうから。
Eph 2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
「行いによるのではありません。」と続く。恵みとしてうけることにより、因果応報、自力本願といってもよいかもしれないものを断ち切ることだろうか。しかし「信仰」をどう解釈するかにより、変わって来るだろう。この信仰を「神の忠実さ」と解釈することもできるのだろうか。「信仰」について少しずつ学んでいきたい。いまからでも遅くないだろう。
Eph 3:12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。 
ここで言われる「キリストに対する信仰」とは何を意味しているのだろうか。「主キリストに結ばれて」いるのは、約束によっているのだろうか。人間の側になにが求められているのだろうか。「忠実さ」ととるなら、キリストを求め続けることへの忠実さだろうか。闇から光、不信仰から、信仰、その起点となるのは、なになのだろうか。ローマ10章9節10節は起点なのだろうか。起点はないのだろうか。完全他力について考えてしまう。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 」(16節・17節)の主語は、神様である。そこで言われている「信仰によって」は、何をさすのだろうか。我々の信仰・忠実さか、それとも、神様の側の忠実さだろうか。あるいは、どちらでもない、独立の存在なのだろうか。
Eph 4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 
神からの「招き」は自然に受け取れる。それを受け、受け取って生きることに忠実であることが、信仰だろうか。恵み深い、憐れみに富む、神様のもとにある、永遠の命に生きることだから。それを、同じように受け取って生きるものも、キリストのものだとして、共にいきることだろうか。では、受け取ることをしないひとは、どうなのだろうか。それは、やはり明確には、わからないのではないだろうか。客観性のあるものを、判断基準にすれば、区別はできるが、それは、見えないものなのではないだろうか。神様がご存じである。しかし、神様のすばらしさと、互いに愛し合い、仕え合うすばらしさを伝えることはできる。分かち合うと言う言葉の方が適切かもしれない。もう少し考え続けたい。
Eph 5:8,9 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 
光の内をあゆむ。光の子として歩む。それが「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 」(10節)へとつながり、主に喜ばれる生き方をすることである。神様に、イエス様に捕らえられていると信じているが、そこに委ねること、やはりある意思が信仰者に必要なのだろうか。意志とは少し違うのだろうか。ヨハネがつかう「留まる」が保たれるのは、簡単ではないだろう。神に感謝しつつ、謙虚に生きたい。主イエスに結ばれ、光の子として生きることを願いながら。
Eph 6:23,24 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。
最後にパウロが願っていることととして書かれている。ただし、エフェソ書は、偽書、パウロの名をかたっていると言われている書簡である。するとよけい、これが初代教会における、一般的な祈りであったとも言える。「変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人」が1章1節の「聖なるものたち」だろう。おそらく、この言葉は排他的には使われていない。このひとたち、そして私たちに求められていることは「平和と、信仰を伴う愛」を持ち続けるように。そして、それは、個人の努力によってなされることを超えたところにあることの表明だろうか。そこが、ひとの信仰と神の忠実さの出会うところと言ってもよいだろうか。

BRC2017(2)

Eph 1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
教会もすでに確立していることを感じさせられる。コリントのような状況とはことなる。そして、キリスト教用語も確立しているように思われる。著者問題は、難しい。おそらく、それは、考えないで読んで良いのだろう。パウロであろうと、他の人であろうと、一人のキリスト者が神との交わりの内に、御心を真摯に求めて、書いたのだろうから。
Eph 2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
「二つのもの」(14)「双方」(15)ここでは「両者」が明確には何だか判然としない。「ユダヤ人」と「異邦人」であるように思われるが。「敵意」は何を意味するのだろうか。誰の誰に対するものだろうか。「神」と「両者」のように思われるが、まったく間違っているかもしれない。「実に、キリストはわたしたちの平和(eireenee)であります。」(14)から始まるパラグラフ、今まで考えずに読んでいたようだ。「平和」についても、いつかじっくり考えてみたい。
Eph 3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
14節から21節は、美しい言葉が続き、わたしが何度も暗唱した箇所である。しかし、あまりよく分からない箇所でもある。まず最初の「信仰」は何を意味するのだろうか。この前の節は「御父が」から始まっており「神の忠実さ」である可能性もある。「愛に根ざす」「愛にしっかりと立つ」とは何を意味しているのだろうか。キリストを通しての神の愛を中心におくということだろうか。じっくり考えたい箇所がたくさんある。いずれ、学ぶ時があるのだろうか。
Eph 4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
隣人に対して、真実な存在であることの根拠を、ここでは、互いに体の一部だとしている。同じ父から生まれたとも言えるし、イエスさまに愛されたとも言える。それが「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(32節)につながっているように思われる。自らも赦すことも含まれているかもしれないが、互いに体の一部だという表現は、好ましい。
Eph 5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
ここでの「畏れ(fobos)」はなんだろう。キリストの歩を畏れおののきつつ学びそれにならうことだろうか。「仕える(hupotasso)」このことと「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(33)愛することも、敬う(fobeoo)こともつながっているように思われる。自らを低くして、指示に従うようにすること、すなわち、仕えること、確かに、イエスが自ら示したことである。
Eph 6:8,9 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
「同じように」は「主のように」ということであろうか。「人を分け隔てなく」であろう。この真理に、奴隷制度時代、立っていたのだろうか。同時に、どのような契約であれ、雇用者、被雇用者の間でも、同様のことがなされるべきであることを示唆している。主への愛だろうか。

BRC2015(1)

Eph1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 
聖霊の働きに期待すること、これは、ペンテコステ以来、非常に強かったと思われるが、問題も引き起こしたように思われる。今の時をどのようにとらえるかという問題である。終末に完全に解決されるとしても、いまはそうではない。ヨハネ14:16,17「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」この約束の意味すること、すなわち、この世でおこることの限界を、イエスと共にいた弟子たちは理解できたのだろう。このことばが、一人歩きすると、止めることはできない。
Eph2:14-16 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 
イエスは十字架の死について何度も証言している。しかし、それが常に神の国(支配)を説いておられたことと、独立に、瞬時に、世の中が変化するとは言っておられなかったと思われる。パウロを中心として形成されたキリスト教は、十字架による購いを決定的なものとするために、その時から、世の中自体が、日常的な生活にいたるまで、すべてが変化したような感覚を与えてしまったことによる誤解が大きいのかもしれない。しかしこれは、キリスト教のまさに本質に関わるともいえる。
Eph3:16,17 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 
聖霊の内在によって、すべてが解決するかのように、理解した人がいることも、確かだろう。聖霊は助け主であるが、この世では、自律的な信仰による応答こそが、重要であるように思われる。この課題は大きい。しっかり学びたい。
Eph4:17,18 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 
この感覚に大きなずれを感じる。パウロを取り巻く世界では、目に余る現実があったのだろう。その中で、目に見える覚醒が明らかだったろう。それを否定するわけではないが、いま、周囲には、キリスト者ではなくても、立派なかたはたくさんおられる。道徳的なことにおいて、キリスト者と異なる部分が皆無であるとは、言わないが、かえって、キリスト者が批判されなければならないことも多い。しかし、そのような人たちと共に生きる中で、地の塩・世の光となることがキリスト者の召されていることである。
Eph5:1,2 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 
神に倣うものは、イエスに倣うものである。ここでも、神に愛されていると、キリストに愛されているが、並置されている。そして、神に倣うことと、愛によって歩むことが並んでいる。キリスト者は、そのように考えたのだろう。それから、派生したことは、ある程度、時代的な制約を受けていることも含まれるが。
Eph6:21 わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。 
「忠実な」は pistos: objectively, trustworthy; subjectively, trustful:—believe(-ing, -r), faithful(-ly), sure, true. (by Strong’s) マタイ24:45「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。」およびそのあとに続くタラントのたとえに出てくる言葉である。さらにルカの16:10「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」ヨハネ20:27「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」2テサロニケ3:3では「主は真実な方です。」と訳されている。この忠実さを学びたい。
 

BRC2015(2)

Eph1:4,5 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
予定である。これは、何のためにあるのだろうか。キリスト者とそれ以外を区別するものか。おそらくそうではないだろう。ただ、恵みによることを表現することのはずである。そうであれば、誇ることはなにもない。知ることは感謝なのだろうか。確かさが、自分にないことをしることは、恵みであろうが。
Eph2:14-16 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
二つのものは何だろうか。文脈からすると、ユダヤ人と異邦人であるように思われる。ヨハネ10章16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」を思う。これがキリストの平和です。しかし、この律法についての記述によって、分裂も引き起こしてしまっている。こころを見る方に委ねるのが、イエスの取られた方法だったと思うが。
Eph3:17-19 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストが住んで下さる。これは、聖霊ではないのか。いずれにしても、それは、イエスにならうものとなること、そしてそれによって愛について学ぶことだろう。愛が人の知識をはるかに超えることを学ぶこと、すなわち、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することができるように祈る。これが、キリストが心の内に住んで下さることによって引き起こされるのだろう。
Eph4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
私は、このように生きたい。しかし、私の肉はそれを許さない。聖霊の働きによって、それが実現するのだろうか。忍耐をもって神の創造の御業に託したい。同時に、語った言葉を神が用いてくださることをもとめるのも、大切なのだろう。
Eph5:15-17 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
本質的には、主の御心を悟りたい。しかし、それは、簡単ではない。主観に陥る可能性が大きいからである。「無分別なものとならず」は、謙虚さも表現しているように思われる。かたくなな心ではなく、謙虚に求め続けたい。しかし、あらゆる機会を捉えるよう招かれている。それが「時を用いる」に表現されているのだろうか。口語では「あなたがたの歩き方によく注意をして」となっている部分が「細かく気を配って」に表現されているのだろうか。中身と、生活との結びつきをもう少し理解したい。
Eph6:1-3  子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
出エジプト記20章12節「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」の引用である。十戒は、神を神とすること、神に信頼すること、神以外のものに頼らないことを中心とした旧約聖書の基本的な掟である。両親は神が与えるもので、自分で選ぶものではない。神が与えられたものとして感謝して受けることが基本なのだろう。この十戒の精神が信仰の基本であるが、行動規範としては、適用が困難な場合が多い。私たちが知ることは限られており、なすことができる選択肢も限られる場合が多いからである。そのときに、どのように生きていったらよいのか、そこにイエスの語られる、第二もそれと同様であるという、愛の掟があるように思われる。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22章39節)

BRC2013(1)

Eph1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
神の栄光をほめたたえる。すばらしさを表す。具体的に、何を意味しているのだろうか。賛美をすることだろうか。おそらく、それ以上のものが含まれているだろう。
Eph2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
救いが、神の賜物。本当にそうだと感じる。しかし、少し違和感がある。それが与えられない人のことを考えてしまうからだろう。どう受け取ったら良いのだろうか。自分と他者を比較することでは、絶対ないとしても。
Eph3:5 この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。
パウロは、この使徒のひとりであると、従来から主張している。3節にも「すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。」とあるが、パウロが語るどの部分が啓示なのか、判断が難しいこともあろう。使徒はイエスに直接使わされた者、イエスを通して奥義を知らされた者。異邦人宣教をしているパウロにとって、その内容だけでは足りなかったのだろう。これは、新しい問題がたくさん生じている現代にも当てはまるが、啓示の範囲は非常に難しい。
Eph4:25 こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。
「真実」を語ろうとしている。しかし、それが通じないことが多い。語り方が問題なのだろうか、それを、続けるべきだろうか。むろん、自分の中から 31節にある「すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。」との戒めをこころして。
Eph5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
5章には、さまざまな教えが書かれているが、その基盤となっているのは、この節だろう。神の子として生きるために、神にならうものとなる。それは、神を表してくださった、イエスにならうものとなる。ということだろう。そのように、生きたい。
Eph6:5 僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
「キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて」徹底している。信仰によって、このことが可能なのだろうか。わたしもそのように、仕えたい。

BRC2013(2)

Eph:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
選びは難しい。しかし、だれが選ばれているのでしょうか。と問えば、Mt24:16「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と同じように答えられるのではないだろうか。「あなた方のうちだれが神の民として選ばれているのかは、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」関心が無いという「知らない」という言い方は興味深い。
Eph2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
無条件の愛、報酬を求めない善行、これらは、本当にそうなのだろうか。やはり自分は偉いと主張しているように思われる。結果的にそのようになることがすばらしく、神からの報酬が豊かにあるのみ。そして、何を求めるかのほうが重要なのだろう。
Eph3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
これが信仰生活の表現だろうか。神様への信頼、これが最も基本的であることは、確か。
Eph4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
やはりこれが難しいのだろう。当時から。パウロは、それを、「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、」と、1a, 2 で補っている。少し表面的な事に思われる。
Eph5:33 いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
なにか、この言い方は、モラルのような気がする。もっと本質的なことがあると思われる。
Eph6:23 父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。
「平安」と「信仰に伴う愛」。この「信仰に伴う愛」とは何だろうか。神が望んでおられる事を知って、神と兄弟とを愛する事だろうか。もう少し深く考えたい。


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フィリピの信徒への手紙

フィリピの信徒への手紙(1)

わたしにとっては、ピリピ人への手紙(その当時、そして今もそうですが、わたしが読む聖書は日本聖書協会口語訳が中心でしたので、この項は口語訳の言葉で書かせてください。ほかは、中心的には同じ日本聖書協会の新共同訳の名称、引用を使っています。)は特別です。高校生のころから好きでしたが、1982年(これは、結婚する前の年、今の形式で聖書ノートをつけて聖書を読み始めた年でもありますが)約6ヶ月かけて、ピリピ人への手紙を全文暗唱しました。暗唱は若い頃は難しくはありませんが、なんといっても、忘れないようにする復習が大変で、一週間に三回ぐらい、復唱していました。一番よかったのは、やはり瞑想/黙想をたくさんすることができたことでしょうか。いまは、残念ながら復唱できません。いつかまたやってみたいですが。もう無理かもしれませんね。

書き出すときりがないのですが、いくつかだけ、書かせて下さい。引用は上にも書いたように、すべて日本聖書協会口語訳です。

  1. 「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(1:2)」この「恵みと平安」すくなくとも、パウロ書簡に分類されている、ローマからピレモンはすべてこの言葉での挨拶で始まっています。テモテは「恵みとあわれみと平安」ですが。
  2. 「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(1:6)」英語で Please Be Patient. God Is Not Finished With Me Yet. という言葉があり、PBP GINFWMY などと書いたバッジが売られていたりしますが、今、まさに、神様の創造のわざのもとにあるというのは、大きな希望だと思います。そしてそれをふまえて、次のような祈りが記されています。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。(1:9-11)」
  3. 「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。(1:15)」複雑なものを感じますよね。しかしこうもいうのです。「すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。(1:18)」なぜと聞きたくなりますよね。それに続いて「なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。(1:19)」
  4. そしてこの行き着く先が、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。(1:21)」です。透明なこころ、ふた心でなく清いこころですね、そのこころをもって、生きていきたいと願っています。マタイ5:8 にあるように、神を見、そして神に似た者とされることを願って。
  5. 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(2:3,4)」こんなことも書かれています。「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(2:21)」澄んだ心でみていたものは、このような現実でもあったのでしょう。
  6. それと対比するように自分の姿勢も書かれています。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(3:12-14)」
  7. そして「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(3:18-20)」「彼らの神はその腹」ですよ。そのように生きていたら悲しいですが、もしかすると紙一重かもしれません。
  8. 最後に、勧めが書かれています。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(4:4)」これが恵みと平安の生活なのではないでしょうか。
  9. そして「最後に」と書かれた勧めは、「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。(4:8)」東京女子大学は、ICUが設立されるための委員会が作られた場所でもありますが、その本館に「QUAECUNQUE SUNT VERA」と刻まれています。これは、すべて真実なこと。東京女子大学の学園祭は、ベラ祭と呼ばれているそうです。謙虚に、「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめ」て生きたいですね。

いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙の梗概(尾山令仁)を引用します。

  1. 初めのあいさつ 1:1-11
    1. 書き出し 1:1
    2. 祝祷 1:2
    3. 感謝と祈り 1:3-11
  2. パウロの身辺の事情 1:12-1:26
    1. 教会外からの問題 - 投獄とその結果 1:12-14
    2. 教会内の問題と第一に重要なこと 1:15-18
    3. 生と死におけるパウロ 1:19-26
  3. 福音にふさわしい生活についての勧め 1:27-2:18
    1. 教会外の敵に対する一致した戦いの勧め 1:27-30
    2. 教会内における一致した思いの勧め 2:1-4
    3. キリストの模範による勧め 2:5-11
    4. 救いの達成についての勧め 2:12-18
  4. 二人の模範 2:19-30
    1. テモテの模範 2:19-24
    2. エパフロデトの模範 2:25-30
  5. 救いの達成についての別の説明 3:1-3:21
    1. ユダヤ教主義者についての警告 3:1-3
    2. パウロの失ったものと得たもの 3:4-11
    3. 前進の一事 3:12-16
    4. パウロ自身の模範 - 国籍を天に持つ者の生き方 3:17-21
  6. 具体的な問題についての勧め 4:1-4:20
    1. 主にあって堅く立つことについての勧め 4:1-20
    2. 二人の婦人の和解についての勧め 4:2-3
    3. 喜びと寛容と思い煩わない生活についての勧め 4:8-9
    4. 贈り物に対する感謝 4:10-20
  7. 結び 4:21-4:23
    1. 終わりのあいさつ 4:21-22
    2. 祝祷 4:23

フィリピの信徒への手紙(2)

フィリピの信徒への手紙は次のように始まります。(1章1節)
キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
パウロは使徒言行録によると二回目の伝道旅行で、フィリピを初めて訪問しますが、その次第が次のように記されています。6節から8節に出てくる地名は、すべていまのトルコ(小アジア地方)の地名です。使徒言行録16章6節から12節を引用します。
6:さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
7:ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
8:それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
9:その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
10:パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
11:わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、
12:そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
ギリシャの北半分が、マケドニア州で、ここにはフィリピや、テサロニケがあります。南半分はアカイヤ州で、アテネやコリントがあります。この使徒言行録16章の11節から40節までフィリピでのいくつもの印象的な出来事が書かれています。もう一度お読みになることをお勧めします。フィリピの教会は、このような背景のもとでできたと考えると、なにか特別なものを感じます。

聖書では、このあと、フィリピとして出てくるところはあまりありませんが、マケドニアの教会としては、たびたび現れます。このフィリピの信徒への手紙にも現れますが、それは、パウロに対し定期的に経済的援助をしたことが分かります。フィリピの信徒への手紙4章15節16節を引用します。

15:フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16:また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
このフィリピの信徒への手紙も、2章25節, 26節にあるように
25:ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
26:しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
ローマでとらわれの身となっているパウロの元に援助を携えてきてくれたエパフロディトが、瀕死の病気になったがいやされ、テモテと一緒に、フィリピに送り返すときに託した手紙となっています。

パウロにとって特別な教会であったことは確かだと思います。パウロには厳しい批判的な手紙が多いですが、この手紙はしっかりとした信頼関係のある人たちであることを感じさせられます。ぜひゆっくり読んでいただきたいと思います。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Philippians 1:12-14 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
根拠は明らかではないが、この投獄は、使徒言行録にかかれている、皇帝に上訴し、ローマに護送されたときのものとは、異なるように思う。ルカの書き方と、パウロがどう理解しているかの差もあるだろうが、この、フィリピの信徒への手紙における、入獄は、ローマ帝国世界における、いわゆる皇帝による迫害、弾圧の結果であるように見える。「主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得」の受け止め方で、使徒言行録の記述における投獄とすると、このような確信が得られるようには思えないからである。ただ、同時に、使徒言行録がローマ到着で終わっている謎は、残る。
Philippians 2:20,21 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
今朝気づいたのは「親身になってフィリピの信徒を心にかけている」ことが「キリストのこと」を追い求めていることに、結び付けられていることである。テモテの働き、一つ一つの行為が、キリストのことに結びついていると、パウロは伝えている。それがどのような根拠によっているかは不明だが、尊いことのように感じる。
Philippians 3:2-4 あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者に気をつけなさい。神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。
このあとに、肉の頼みについて書き、「キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。」(8)としている。潔いが、みなに、それを押し付けることはできないように思う。パウロの真実が、なかなか皆の真理にならない、葛藤も書かれているように見える。その表現が、「きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。」(13)なのかもしれないと思った。
Philippians 4:6,7 何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
ここにも思い煩うなが書かれている。おそらく、この前の「主は近いのです」にも結びついているようにみえるが、イエスの教えは、そのような理由にはよっていないように見える。丁寧に学んでみたい。思い煩いについて。

BRC2023(2)

Philippians 1:21,22 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
わたしは、すでに、実りある働きは、できていないだろう。以前、できていたかどうかも、不明だが。それでは、死ぬことのほうが益なのだろうとも考える。しかし、おそらく、それほど単純でもないのだろう。実りある働きができないときにこそ、み心に生きることはどのようなことなのか、求め続けることが、ずっと求めてきた、共に生きることのように思う。命が主に取られるまで、与えられた命を生きること、これは、だれにとっても、一生をかけた挑戦なのだろう。そして、それこそが、生きることはキリストといえる営みなのかもしれない。
Philippians 2:3-5 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
このあとにキリストの謙虚さを歌った詩が続く。前には、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」(2)とあるが、ある程度大きな集団になってくると困難が増し、不可能と思われるようになる。ここでは、キリスト・イエスの模範を示している。大切にすべきことを中心におけば可能だと言うことだろう。そのとおりだが、いまは、大切なことの多様さも本質になり、たいせつにしなければいけない時代である。構造的に、ここに引用したことは不可能なのだろうか。自分のことばかり考え、分断を生み、それがことばが通じないほどに大きな溝となり、相手を非難し、殺し合いすら始まる。難しい。
Philippians 3:10,11 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
パウロの確信とわたしがそのように確信できないことの違いは何なのだろうか。このあとに、「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。」(12)と続く。感覚的には近いものがあるが、キリストの復活の力に絶大な信頼をおいていることだろう。わたしには、信頼し、学んでいる、イエス・キリストの神、その神のもとで、イエスが生きていると信じる限りにおいては、イエスの復活を信じているが、「何とかして死者の中からの復活に達したい」との希望までは持っていない。いまを、イエスに従うものとして生きたいと願っているのみである。表現の違いだけで、実は本質的な違いはないのかもしれない。
Philippians 4:21,22 キリスト・イエスにあるすべての聖なる者によろしく。私と一緒にいるきょうだいたちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです。
印象的な箇所である。皇帝の家の人たちが具体的にどのような人たちを意味するのか不明だが、ある程度皇帝に関係した人なのだろう。そのなかに、私と一緒にいるきょうだいたちとよべる人たちがいたのだろう。そしてそれは、ともに、聖なるものたちとよべるひとたちだったのかもしれない。パウロは牢獄にいると思われるが、その影響力には、驚かされる。このころの活動についても、もっと知ることができればよいのだが。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Philippians 1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。
3節から5節には私の好きな言葉が書かれている。「私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(3,4)で始まり「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。」(5)までである。その間に挟まっているのが、引用句である。聖書の会の仲間など、いままで共に聖書を読み、真理について語り合った人たちを思い浮かべるのであるが、正直、引用句については、わたしの喜びの内容とズレがある。一般的な意味で、その仲間達が、キリスト教徒とは言えないことではなく、わたしには、「福音にあずかっている」とパウロがいい、そして、キリスト教会で通常信じている内容と、私の受け取り方と異なるからだと思う。もしかすると、そうではなく、パウロのメッセージをうけとったひとたちが、そこにとどまり、聖書の書いてあることだけに、真理があるとして、聖書を読んでいることに違和感があるからなのかもしれない。多くの人達からも、社会状況や、自然・環境からもまなぶことが多くある。その真理探求の営み、歩みこそが、イエス様から学んだことのように思う。キリスト・イエスの日までと、わたしは、言えないが、世界にとっても、そして私にとっては確実に、いつか終わりはある。その日まで、丁寧に生きていきたい。
Philippians 2:3,4 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
パウロのこのことばは、こころに響く。フィリピの信徒への手紙を書いた頃のパウロが何歳ぐらいかはわからないが、晩年と言われており、パウロが書いたと多くの学者が考えているものの中では、最も遅く書かれたものかもしれない。そのパウロにとって、フィリピの信徒たちは、経済的なことだけでなく、様々な形で支えてくれた、同労者との意識が強かったのだろう。引用句からも、そのような気持ちが読み取れるように思う。真理を求め、真理に生きようとし、共に働き、共に学ぶ、そのようなグループを意識できること、それも、排他的に、このひとたちがとするのではなく、インクルーシブなゆるやかな帰属意識をもって、このことをなしていきたい。このひとたちは、いくらなんでも違うだろうというような、意識をもたず、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、他者の苦しみを理解はできなくても、共に苦しみを持つものとして生きていくことができればと思う。共に喜べると嬉しいな。(17,18)
Philippians 3:7-9a しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
「キリストの内にいる者と認められるため」という最後の部分が気になって、考えてみることにした。このあとには「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」(9b)が続く。キリストの内にいることにより、自分が神から与えられる義、義と認められるものであることが、すべてだと言っているようだ。1か0、または、二元論的な価値観なのだろう。わたしには、神の義をそのようには考えられないが、パウロの必死さも伝わってくる。その前には、損失とみなすようになったことが書かれている。キリストのもとに来るために自分ではどうすることもできない部分であるように思う。それを誇る必要はないだろうが、屑とすることに、違和感を感じる。パウロの巧みな修辞(言葉を効果的に使って,適切に表現すること。また,美しく巧みな言葉で飾って表現すること。rhetoric)なのかもしれないが。背景は多様で、人は平等ではない。しかし、それを知ることを通して、公平さを求める営みをすることがたいせつだと個人的には思っているが、正直、まだよく理解できていないとも感じている。その難しさも、このパウロのことばの背後にあるように思う。
Philippians 4:2,3 私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。
聖書には女性協力者の名前が多いように思う。具体的にどのように奉仕していたのかは、不明である。かえってだからこそ、重要なのかもしれない。日常的に、常に奉仕していた人たちなのだろう。ここには、「命の書に名を記されている」と出てくるが、おそらく、すでに天に召されたひとなのだろう。名前からして、クレメンスは男性だろうが、パウロと共に戦ってくれたと表現している。最初に戻ると「主にあって同じ思いを抱きなさい」とあるが、これは、何らかの懸念材料があったことを示しているのかもしれない。フィリピ教会は「会計を共にしてくれた」(15)と表現されており、実質的な支援が日常的に行われていたのだろう。その尊いはたらきの背後には、同じ思いを抱くことが必ずしも、完全にはいかないことがあったのではないだろうか。それは、当然おこることであるが、それを「主にあって」乗り越える。鍵はなになのだろうか。難しさも感じる。

BRC2021(2)

Philippians 1:25,26 こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。
13節の「獄」「兵営」などのことばを見ると、使徒言行録の記述とはことなるように思われる。やはり、一旦釈放され、そのあとでのことのようにも思われる。いずれにしても、引用句では、釈放されることも視野に入れて、フィリピを訪問することをかなり確信しているように見える。パウロのローマ到着後のことについては、ぜひもっと知りたいものである。なすべきことが山ほどある中で、パウロはなにを大切にしたのだろうか。
Philippians 2:8,9 へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
「このため(διὸ: therefore, wherefore)」となっており、帰結として記述されている。最初は「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず」(6)とあり、最初から特別な存在であったことも書かれている。これを統一的に理解しようとすると難しい。そして、このような表現がキリストを表現する上で適切なのかも本来は検討を要する。しかし、引用句からひとつわかることは、イエスの生涯の生き様によって、変化も生じているということである。まさに、権能があたえられたことと、それを生きることには、違いがあるということなのだろう。
Philippians 3:10,11 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
観念的なことばのようにも見える。パウロの中には、このような生き方の実体があり、その一部が、この前に書かれている、「肉を頼みとしない」ことのように、思われるが、それは、ある意味で捨てることで、生きることではない。このあとには「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(17)と書いている。このことばで、当時の人達は、生き方を理解できたのだろうか。たしかに、パウロは特別な生き方をしている。特にユダヤ人と議論をし、信仰による義を説いているように思われる。生き方、これは、人生との向き合い方も含むように思う。パウロに倣うことで、得られるのだろうか。
Philippians 4:9 私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。
エフェソ5章1節に「ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、」とあるが、パウロはイエスに倣うことは語らない。コリント一11章1節に「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい。」とはある。少なくとも、わたしは「私に倣うものになりなさい」とは言えない。パウロはなぜこのように繰り返して言うのかは、じっくり考えるのがよい。パウロの時代には、イエスの思い出を持っている人がいて、そのことや、イエスに会った人が絶対化されることを避ける、自分はそうではないこともあり、距離を置く面はあったろう。彼の神学においても、イエスに倣うことは登場しない。キリスト論に終始する。それゆえに福音書が書かれたのだと思うが、信仰においても、つねに重要な位置づけを持つ問のように思う。

BRC2019(1)

Phil 1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(コリント信徒への手紙一1章8節)と近いと感じたが、ここでは「始められた」「成し遂げる」と、この世での進行中の神の業が記されており、やはり少し異なるのかもしれない。ゆっくり考えたほうがよいかもしれない。成長をどのように、聖書では語っているかで、教派によっても、理解が異なることなのかもしれない。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(3章16節)にあるように、変化し続けていることは、誰にとっても、真であると考えるが。
Phil 2:29,30 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。
フィレモンへの手紙は似ているが、他の確実にパウロ書簡だと言われているものとは、異なる印象を受ける。書いた時期の違いだろうか、囚人としてのパウロの状況からだろうか。テモテにしても(19-24節)、引用したエパフロディトについても、ポジティブなことをたくさん書き、推薦している。また、この章の最初にも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 」(2)と勧めている。パウロは、正しさで説得していくスタイルだと考えるのが間違いなのだろうか。ひとつの見方に囚われず、理解していきたい。
Phil 3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
このあとに、リストが続き「律法の義については非のうちどころのない者でした。」(6)としている。フィリピの信徒たちは、おそらく知っていることだろう。これほど、強く、パウロが書くのは、背景に割礼の問題があるのだろう。(2)このことこそ、パウロが注力してきたことだから。ただ、みなは、他のことで苦しんでいるのではないだろうか。福音は、肉に頼れるものがないようなひとへのものではないのだろうか。完璧主義が見え隠れしてしまう。パウロの伝えたいことはそこではないのだろうが。
Phil 4:4,5 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
7節までの部分は、パウロの心情なのかもしれない。囚人として、ローマにいると思われる、パウロ。ここで「広い心(口語は寛容)」と言っている。自分の活動がままならないなかで、神のみ心をひろくとらえることにつながるのかもしれない。そして、主が近くにおられると告白している。このあとに続く「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(6,7)パウロが生き抜いたひとつのいのちを思う。

BRC2019(2)

Philippians 1:9-11 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
パウロの晩年の祈りである。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(6)のように、ある特定の一時点での救いではなく、神の継続している創造の業と、「あなたがた」の成長をたいせつなこととしている。不完全なものが、どのように神の栄光と誉れをたたえることができるのだろうか、そのためには、(神と人とに対する)愛が豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようになることだと言っているのだろう。わたしも、似たような考え方をするようになっているのは、やはりある年月のなせる技かもしれない。
Philippians 2:14,15 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
最後の文章は「命の言葉をしっかり保つでしょう。」(16)と次の節で閉じられている。不平はあまり言わないが、わたしは理屈は多いように思う。最近感じているのは、自分も他者も社会も完全ではない以上、批判は簡単であるということである。神さまの御心が天で行われるように、この地上でも行われるように願い、自分もその神さまの業に加わらせていただくためには、なにができるだろうか。そのことに、集中したいと思うようになった。考えることは山ほどあり、わたしが担うこともいろいろとありそうだ。
Philippians 3:10,11 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
この直前には「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 」(9a)とある。フィリピの信徒への手紙は、これらを説くことを中心にはおいていないが、やはり、「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」によって「何とかして死者の中からの復活に達」することが、パウロの中心にあるのだろう。そして、それを、伝えることを宣教としている。少し違和感を感じる。自分が達し得たところでも、希望するところでもなく、わたしを生かすものでもないように思えるからである。
Philippians 4:8,9 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
ふたつのことが並べて書かれている。後者は、イエスに倣うものではなく、パウロに倣うものという表現が、ここでは「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。」となっているのだろう。個人的には、問題だと思うが、当時の教師のスタイルだったのかもしれない。学ぶことが、まねぶ、まねをするところからくるのは、自然な事だから。ただ、ここには、引用した箇所の前半も付属している。獄中書簡と言われるこの手紙の中で、パウロの死後、パウロのことを直接知らない人についても、ある配慮をしているのかもしれない。(善い)神さまからのメッセージは、様々なところから来るのだから。

BRC2017(1)

Phil 1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。 
17節には「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 」とある。キリストのために苦しむことを、たくさん、経験していたのだろう。これで「キリストが宣べ伝えることを喜」ぶことは、わたしにはできないが。判断ができない、様々な事が、苦しみとなっている。わたしには、そう思える。それがよいと思っていることであってしていることでも、正直、確信があるかといわれると、わからない。そして、責められる。弱さをまとっているからだろう。しかし、それで良いのかもしれない。できれば、キリストのためにではなく、キリストと共に苦しみたい。キリストの苦しみをほんの少しでも理解するために。今の、わたしの苦しみが、キリストと共なる苦しみであるとはとても言えないが。
Phil 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 
そうかもしれない。神のみ心をおこない、その業を成し遂げることが、イエスの食べ物、生きる糧なのだから。「イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』 」(ヨハネ4章34節)ヨハネの「成し遂げる」について、調べてみたい。同時に、それが、従順なのかとも問いたい。それは喜びだったと思うから。
Phil 3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 
この直前には「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 」(3章10節・11節)とある。「復活」がつねに、パウロの中心にある。復活の主にあったこと、使徒としてのが召命があたえられたことが根幹にある。しかし、パウロにとって「復活」の結果はどのようなことをイメージしているのだろうか。この世でのいのちの生き方については、考えられるが、それ以外を期待するのは、難しい。引用したことばのように生きること自体に価値があるのではないだろうか。自己目的的になるのは、問題だろうが。
Phil 4:4,5 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 
このあとには「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」広い心、それは、主の心なのかもしれない。主は、苦しみをも、父なる神のみこころとして喜んで受けたのではないだろうか。広い心は、イエス様が愛しておられるひとり一人をこころに思い描くこと、自分では想像できなくても、そこに神様が働いておられることを感謝して受け、神様の業を喜ぶことなのだろう。苦しみの意味が分からないときは多い。そのようなときにも、主において常に喜びたい。

BRC2017(2)

Phil 1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
Please Be Patient. God Is Not Finished With Me Yet. (PBP GINFWMY) を思い出す。これは、聖書のメッセージ、イエスのメッセージとして、その通りなのだろうか。ヨハネのように、神とキリスト、そして、兄弟姉妹との、交わりを中心においても、深めるや、完成と、優劣、完全・不完全と区別することは、必要ないのかもしれない。それは、かえって問題を生み出すから。同時に、私たちが、互いに愛し合うとき、神の愛が実現する一方、御子と同じ姿に変えられるのは、この世ではないことも心に留めるべきだろう。創造の継続という、このテーマは大きい。簡単には、結論ができないのかもしれない。
Phil 2:1,2 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
キリストが与えてくださった霊に生きるもの、永遠の命にあずかる者として生きることを、このように表現しているのだろう。同じや、一つが印象的である。一致は、一人の主、同じ霊、同じ命に生きるものが分かち合うことなのだろう。その中身をより具体的に表現することも考えてみたい。
Phil 3:13,14 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
ここでは「神の賞与」と表現されているが、わたしは、なにを、求めているのだろうか。おそらく、目指しているのは、イエスさまが生きたいのちに、日常を生きることではないだろうか。それが、永遠のいのちであれば、その命によって生かされたい。それが望。背景には、イエスさまのように生きたいと表現するものがある。それは、福音書を中心として語られている、イエス像だろうか。そのような実体を追い求めている。イエスさまは、このように生きたのではないかと考えて、生きてみて、聖書の記述を読み返す。聖書の理解も自分の人生、そしてわたしが見ている世界の人々の人生に照らして、修正を加えながら。それを、パウロは、この言葉のように表現しているのだろうか。
Phil 4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
「そうすれば」の内容は4節から書かれている。「主において常に喜びなさい。」(4)から始まり「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(6)と、感謝をもって、祈りによって、神とつながる生活が書かれている。その間にあるのが「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(5)である。口語では「広い心」は「寛容」となっている。すべてつながっているのであろう。喜ぶことも、感謝を持ってゆだねることも、主への信頼と主の愛に根ざした「寛容」なのかもしれない。そしてそれこそが「平和」によって守られる鍵である。

BRC2015(1)

Phil1:21,22 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 
これを選んで生きているのだろうか。おそらくそんなことはない。主の導きの下で生きるのみである。そうであれば、生きていることも、死ぬことも同じ土台で考えるのがよいように思う。つねに、神に委ねるということによって。それが、available であること。
Phil2:20,21 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。 
パウロもテモテも自分のことではなく、イエス・キリストのことを追い求めているのだろう。それが、親身になって、兄弟を心にかけることにつながるのかもしれない。しかし、本当にイエス・キリストのことを追い求めているかどうかは判断が難しい。
Phil3:6,7 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
気になるのは、律法の義と信仰による義についての比較である。対比のなかで、より良いものとして、示されているようにとらえてしまう。おそらくイエスが教えたのはそうではないだろう。パウロもそうではないかもしれない。しかし論理的に正当性を示すという形式が、比較と優劣になってしまう。人間のことばによる限界であるとも感じる。
Phil4:5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 
再臨が近いと読んでいた。口語では「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。」となっているからかもしれない。再臨とはある距離をおいて考えると、神のみこころとも近いとも読むことができる。パウロがどのような意図でこう書いたかはわからないが、再臨も含め、実体は、神の望まれることに近いことなのかもしれない。

BRC2015(2)

Phil1:9-11 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
どうも、自分も含めているのではなく、フィリピの信徒のために祈っているようである。いずれにしても、わたしも、このことを願うが、そうなるとは思っていない。その方向に神が導いてくださることを願うこと、その願いを知っていただくことだろうか。それを、霊によって完全にそのようになると信じること、その信仰的態度に、懐疑心を持ってしまっていることも確かである。信じて求めることは全く否定しないが。もう少し言葉を選びたい。
Phil2: 1,2 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
とても失礼に感じるが、どうなのだろうか。これがパウロなのだろうか。フィリピにはパウロを支えた人たちが何人もいたはずである。それでも、一般的には、問題だらけだったのだろうか。むろん、このあとにつづく「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(3節・4節)は簡単ではない。コミュニケーションの仕方の違いだろうか。
Phil3:10,11 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
ここでパウロは終わりの日の復活を言っているのだろうか。それとも、今日を生きる復活の姿、神に義とされ勝利を得たことの象徴としての復活を言っているのだろうか。それとも「死に至る病」である「絶望」を克服し「いのちのうちに引き起こされる(アニステーミの語源)」いのちに生きることを意味しているのか。これらは、一つだろうか。ヨハネ11章をじっくりと学びたい。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネ11章25節・26節)わたしは上の問いとは関係なく、このイエスが問われた信仰に生きたい。
Phil4:6,7 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
神に心をむけること。神にすべてを打ち明け、自分のこころの中にあることを出しつくこと。これは、自分自身と向き合うことでもある。神と向き合い、自分と向き合うことによって、神様の心とのシンクロナイゼーションを図る、そこから得られるものは、まさに、人知を超える神の平安である。それは、単なる感情的な平安ではなく、心と思いを守ってくださるものである。そこにおられるのは、仲保者なるキリスト・イエスである。感謝。

BRC2013(1)

Phil1:18,19 すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。
「わたしの救」と言っている。党派心や、虚栄であっても、キリストが宣べ伝えられることが、パウロの使命で、それがなされることが、自分自身の救いと言っているようにもとれるが、そのあとは、神にゆだねているととるのが良いのだろう。
Phil2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
これは、大変なことである。イエスは、どの時点で、神の子であことを自覚したのだろうか。もしかすると神に子としていきることが、神に従うことだと信じて、生き、神が、それを、わたしの愛する子と認めたのかもしれない。このことは、だれも分からないのかもしれない。
Phil3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
最後の「キリストのうちに自分を見いだす」とはどういうことだろうか。キリストにある、信仰による「いのち」に自分自身の「いのち」または自分自身を見いだすということだろうか。もう少し考えたい。
Phil4:2 わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。
Acts16:14 の関係からも、女性の働きは重要だったのではないだろうか。そのなかで、そのリーダーの一致が、パウロの気にかかっていたことかも知れない。そして、次の節へと続く。「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。」

BRC2013(2)

Phil1:29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
生きることに伴う、様々な喜びや悲しみを分離して生きる事はできない。信仰によってキリストイエスにあるいのちに生きたい。
Phil2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」に続いている。救いの達成とは何だろうか。神様のみこころと少しでも近いことを自分の願いそして生き方とすることと言ってよいだろうか。神を愛し、隣人を自分自身のように愛する人間になりたり。
Phil3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
ひとは、名誉欲の方向は変える事ができるが、それ自体を捨てる事はできない。19節で「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」と言われているが、正直わたしも自分の腹を神としていないとは言い切れない。
Phil4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
喜ぶことが困難なときもある。しかし、そのときこそ、喜ぶことが大切なのだろう。それは、神様に目を向けること。神様からの惠を感謝する事だから。そしてそのもとで自分の状況をもう一度見る事ができるから。


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コロサイの信徒への手紙

コロサイの信徒への手紙(1)

コロサイの信徒への手紙は次のように始まっています。1章1節, 2節
1:神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、
2:コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
コロサイは、ヨハネの黙示録(1章11節および3章14節から22節)にも現れるラオディキアの近くのアジア州の町ですが、使徒言行録でのパウロの宣教においても、また他の聖書の箇所にも出てきません。おそらく、使徒言行録19章10節にある
このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
この時点では、宣教はなされていたでしょう。また1章7節, 8節には次のようにも書かれています。
7:あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
8:また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。
ラオディキアについては、コロサイの信徒への手紙でも、何回か出てきますので引用しておきましょう。
コロサイの信徒への手紙2章 1節
わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
さらに4章12節から16節
12:あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
13:わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
14:愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
15:ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
16:この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
おそらく1章7節にも出てきたエパフラスはコロサイ出身だったのでしょう。ラオディキアとは地理的に近いだけでなく、様々なことを共有していたと思われますね。ルカによる福音書や使徒言行録を書いたのと同一人物と思われるルカも出てきますから、ルカもおそらく、コロサイの信徒を何人も知っていたのでしょう。

このような背景の人たちに書かれたコロサイの信徒への手紙となります。さて、どのようなことが書かれているのでしょうか。

コロサイ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宇田進

  1. 序文 1:1-1:12
    1. あいさつ 1:1-2
    2. 感謝 1:3-8
    3. コロサイ人のための祈り 1:9-12
  2. キリストの人格とわざ 1:13-1:23
    1. 神、宇宙、教会との関連における御子の一と意義 1:13-23
    2. コロサイ美とに対する神の御旨 1:21-23
  3. 神の計画を遂行する上の使徒パウロの役割 1:24-2:7
    1. 苦難の宣教 1:24-25
    2. キリストの奥義 1:26-29
    3. 読者い対するパウロの牧会的配慮 2:1-7
  4. 異端思想に対する警告と論駁 2:8-2:23
    1. だましごとの哲学とキリストの人格 2:8-9
    2. キリストにある新しい人 2:10-15
    3. キリスト者の自由 2:16-23
  5. 期待される生活像 3:1-4:6
    1. 新しい人の生活目標 3:1-4
    2. 古い自己に死ぬ 3:5-11
    3. 新しい人を着る 3:12-17
    4. 新しい人の家庭生活と社会生活 3:18-4:1
    5. 祈りとあかし 4:2-4
    6. キリスト者とこの世 4:5-6
  6. 結び 4:7-18
    1. 同労の仲間たち 4:7-14
    2. 別れのあいさつ 4:15-18


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Colossians 1:4-6 キリスト・イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖なる者たちに対してあなたがたが抱いている愛について、聞いたからです。その愛は、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています。
とても、概念的になっている。むろん、現実世界の投影であろうが、同時に、表現のことばが定型になっているようにも感じる。一つ一つ見ていくと、疑問も生じる。愛の範囲は、聖なるものたちに限られるのだろうか。それも、希望に基づくと言われている。そうなのだろうか。やはり、仲間内の宗教になってしまっているように感じる。迫害下(または、いつ迫害が怒るかわからない状況)であることを考えると、仕方がないのかもしれない。
Colossians 2:20-22 あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。
このようなことは、どの世界でも起こるようにおもわれる。ただ、ここでは、「使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくもの」としている。少し興味深いが、ほんとうに、それが問題なのかとは、考えてしまう。最後には、「このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。」(23)とある。「肉体を満足させるだけ」は、当を得ているように感じる。
Colossians 3:12,13 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
このあとに「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。」(14)が続く。美しい言葉だが、一つ一つが具体的な場面で、何を意味するかを考えると、単なる一般的出発点を与え、道徳的(ある社会で,人々がそれによって善悪・正邪を判断し,正しく行為するための規範の総体。)なものを感じる。イエスは、それを説いたわけではないように思う。同時に、後半は、主に目線が向けられている。パウロ的な教えだろう。イエスは、本当に、そのことを中心的なメッセージとして伝えたのだろうか。むろん、否定するものではまったくないが。
Colossians 4:10 私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
現在、聖書の会で、マルコを読んでいるので、マルコのことは、気になる。聖書での記述は、使徒12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ4:10, 2テモテ4:11, ピレモン24, 1ペテロ5:13。パウロの著作が確実だと思われているものの中では、ピレモンがあるがその記述は「私の協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」となっている。非常に簡単な記述である。明らかに、パウロではないものとしては、ペトロの第一の手紙「共に選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、よろしくと言っています。」これも、著者は、ペトロではないと考えられているようだが、「私の子」という、近い関係が際立っている。ペトロの著作でなかったとしても、ペトロとの近さを人々は認識していたのだろう。コロサイの引用句はどう読めば良いのだろうか。

BRC2023(2)

Colossians 1:26,27 永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。
秘儀はキリスト、このキリストにおける希望だと言っているようだ。美しい言葉が並んでいるが、内容的にはよくわからない。具体性をもって新たな教えや、教えを深めることがいわれているようには見えない。コロサイは、パウロ由来とはいっても、パウロが書いたのではないだろうと考えているからそう考えるのだろうか。冷静に、いくつかのたいせつなことを読み取るようにしていきたい。当時の教会の状況を考えながら。
Colossians 2:20-22 あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。
この章には他にも「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月や安息日のことで、誰にも批評されてはなりません。これらは、来るべきものの影であり、実体はキリストにあります。」(16,17)さらに「空しいだまし事の哲学」(8a)などという言葉も登場する。確かにそうなのだろう。しかし、それらを見極めるのは難しい。ある人達から見ると、ほんとうにくだらないことと見えてしまうのかもしれないが、ある人たちにとっては、その判断すら難しい。そして、実際に、人間には、見極めがつかないようなものも存在する。本当に大切なことと、枝葉末節のことを分けることができればよいのだが、それはだれにとっても難しく、判断能力の違いもあることもこころしないといけないだろう。それが結局のところ、謙虚に求め続けるとしか、わたしが表現できないことでもある。それでよいのかも、難しいが。
Colossians 3:16 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
「キリストの言葉」は、何を意味するのだろう。パウロは、これまでほとんど「キリストの言葉」について記していない。では、パウロ以降のこととして、すでに、マルコなどの福音書や、「Q」などと呼ばれている資料が流布していたのだろうか。不明である。ただ、キリスト論が語られても、イエス自身について知りたいという欲求が起こることはとても自然で、それを求めた人たちは多いのではないかとも思う。そう考えると、かなり早い時点で、イエスの言葉が書き留められ伝えられたことは考えられるように思われる。聖書文献批評学では、コロサイ書はいつごろ書かれたものと考えられているのだろうか。
Colossians 4:10,11 私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。ユストと呼ばれるイエスもよろしくとのことです。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、私にとって慰めとなった人々です。
以前にも、ここにマルコが含まれていることについて書いたことがあるが、もう一度考えてみたいと思う。コロサイ書は獄中書簡と呼ばれ、パウロが獄中から書いたという設定になっているが、多くの学者が、著者はパウロではなく、パウロの死後に書かれたものではないかと考えている。真偽は不明だが、内容的には、あきらかに、コリント書などが書かれた時代と比較すると、だいぶ時間がたっているように思われる。著者にパウロが含まれていないとすると、なぜ、このような節が含まれたいるのかを考える必要がある。パウロとマルコの不仲を解消することはあったかもしれない。しかし、ここには、一緒に捕らわれの身となっていると書かれ、ヨハネ・マルコだと特定ができるように、バルナバのいとこと説明もされている。同じころに獄中にいたことは、否定できないし、そこで、関係が変化していった可能性もある。しかし、いずれにしても、二人のコミュニケーションの場があったとすると、それは、とても貴重なときでもあったと思う。または、その場を仮想空間上でも設定することにも意味があったのかもしれない。キリスト者の一致のために。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Colossians 1:14,15 私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。
どの部分からかは明確に言えないが、この14節からか、15節からかに、定型の信仰告白が書かれているようだ。この形で唱えていたのだろうか。御子について書かれているが、引用句では、この御子において贖い、罪の赦しを得ていることがまず書かれ、御子は、見えない神のかたちだとしている。信仰告白で、真理なのかもしれないが、正直、そこに、自分自身を委ねることには、躊躇も感じる。生身の人間の日常生活から、その痛み、辛さ、悲しみ、そして喜びから、離れてしまうように思うからだろうか。おそらく、それは、自分のこととともに、イエスの地上の生活からも、離れてしまうように思うからもあるだろう。見えない神のかたちを表してくださったのなら、イエスの生涯、ことばや活動から、学ぶことは当然のように、思えるのだが。当時は、それを知る手立てが、とても限られていたということだろうか。当初は、すくなくとも、十二弟子は、エルサレムまたはパレスチナに留まっていたように思われるから。正直、わたしにとって、大きな謎である。
Colossians 2:6,7 あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。
「キリストにあって、キリストの内に、その上に」と、キリスト教会でも、よく使われる言い回しが、ここにある。今回は、当時、このことはどのように、解釈され、実践されていたのかということである。このあとには「空しいだまし事の哲学によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。」(8a)と続くので、教義、キリスト論を意味しているように、思われる。この章の最後には「このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。」(23)節制のようなことで、信心深そうな生き方をすることではないとしていたのだろうが、実質は理解されていたのだろうか。それは、わたしにとっても、難しい問いで、そこを離れては、単なることば、教義に留まってしまうように思うからでもある。また考えてみたい。
Colossians 3:5 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
当時のキリスト者の目指したものが見えてくるように感じる。そして、それは、現代のキリスト者にも、すべての教派ではないかもしれないが、引き継がれているように思う。おそらく、わたしも、地上の体に属するものを相対化している。これらを、殺してはいないが。コロサイの信徒への手紙の著者がパウロかどうかは、見解が分かれているようである。おそらく、真筆ではないと主張するほうが多いのだろう。内容からは、パウロと直接結びつけることは難しいのかもしれない。上に述べた、キリスト教文化と言われるものについては、美しいことばが多く、わたしが好んで引用するものも多い。教義より、実際に、キリスト者が何をたいせつに生きてきたかなのだろう。その意味では「貪欲は偶像礼拝」と言い切っているところは潔い反面、排除が働く可能性もあり、課題も感じる。
Colossians 4:9,10 あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモも一緒に行かせます。こちらの事情はすべて、彼らが知らせてくれるでしょう。私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
オネシモは、フィレモンへの手紙に現れる奴隷で、獄中で信仰をもった人である。本書とフィレモンの手紙の近さが現れているとも取れる。マルコについては、判断が難しい。使徒言行録15章36-40節にあるように、バルナバと別行動を取ることになった起因として書かれている。使徒言行録が書かれた時点でも、そのことは、忘れることができない重要な要素だったのだろう。すると、コロサイ書の記述は、それより、だいぶん後ということになるが、コロサイ書は、獄中書簡ということもあり、その可能性は薄いように思う。さらに、マルコは、ペトロの通訳であったことが、記録されており、パウロとの関係は強くなかったと思われる。少し後の時代に書かれ、マルコの名を、いれることが重要だったと勘ぐってしまうが、それも特に根拠があるわけではない。パウロは、マルコによる福音書を読んだ、もしくは内容を知っていたのだろうか。

BRC2021(2)

Colossians 1:5-6 その愛は、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています。
愛が「希望に基づくもの」であるとはどのような意味だろうか。さらにこの「希望を福音という真理の言葉を通して聞いた」ともある。実体がよくわからない。抽象的すぎるように思うが、どうだろうか。説明しようとすればできないことはないが、これだけで実質的な意味が伝わったのだろうか。4節には、その愛とともに信仰についても書かれており、パウロが、希望を含めたこの3つを好んで使ったことは理解できるが、このコロサイ書では、すでに独り歩きしているように感じる。
Colossians 2:2,3 それは、彼らの心が励まされ、愛によって結び合わされ、溢れるほど豊かな洞察を得て、神の秘義であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。
「苦闘」(1)の内容について述べている。このあとに実際の背景や問題について語られている。まず「巧みな議論」(4)で騙されないようにと書き、引用句にもあるように「キリストにある」ことがすべてにおいてたいせつであることを主張するように「キリストにあって」(聖書協会共同訳では、ローマ3回、コリント一4回、コリント二6回、ガラテヤ1回、エフェソ7回、コロサイ4回(すべて2章)、テサロニケ一1回、テサロニケ二1回、フィレモン2回)が連続する。他にも、ともかく、「キリスト」(コロサイ全体で33件中2章に15回)が頻発する。これで、伝わっているのだろうか。わたしは、メッセージを受け取っているだろうか。不安になる。
Colossians 3:13,14 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。
実際の問題について、どのように生きることが、愛に生きることなのかが、やはりいちばん難しいのではないか。社会の問題は、とても大きく、今は、多くの情報を得ることも可能である。教義では、解決できないことばかりのように思う。互いに耐え忍び、赦し合う生活、すべてのことに、愛を着けること。それは、難しいだけではなく、すべてのひとにとって大切な課題で、普遍性も高い。ことばをもう少し整理したい。
Colossians 4:10 私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っています。マルコについては、そちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
やはりマルコが気になる。マルコは、ペトロの通訳ではなかったのか。なぜ、ここに、パウロと一緒に居るのか。それも、バルナバのいとこと、明確に書いている。他のひとと比較すると、このように書かず、マルコと書くだけで良かったようにも思う。やはり、問題があったのではないかと感じる。コロサイ書の真筆性というより、この部分がどうなのだろうかと疑ってしまうのは不適切なのだろうか。

BRC2019(1)

Col 1:14,15 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
定型文化されているのだろう。おそらく、御子による贖いが、すべてに優先し、そのことから、見えない神の姿だと考え、そうであれば、すべてのものが造られる前に生まれたと、つながっていくのだろう。この論理では。しかし、イエスと共に生活した人たちにとっては、論理は逆だったのではないだろうか。というのが、わたしの、長年の問いである。イエスの生き様、教えから、この方こそ、神のもとからこられたこと、神の本質を表していると考え、その生き様から、十字架の死は、わたしたちが神と共に生きるようにしてくださるためだったと確信する。最後の部分の繋がりは、上と同じだろうが。パウロの神学と、ヨハネのを対立させようとは思わないが、大きな違いを感じることは確かである。
Col 2:6,7 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
キリストが象徴化、概念化(ことばは正しくないかもしれない)されて、イエスという実体、肉体をもって地上を歩まれたことは、失われているように思う。しかし、その実体を継承することはできないのかもしれない。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章35節)は、継承不可能なのだろうか。おそらく、ヨハネは(イエスがと書くことは躊躇があったが)そのことを伝えたかったのだと思われるが。律法主義は、必要悪か、教義によっては、形骸化しないことが可能なのだろうか。本当に難しい。「キリストに結ばれて歩」むことは「互いに愛し合うこと」だと理解して「造り上げられ」成長させていただくことを願いつつ。
Col 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
ここで地上のものとして「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(5)と述べている。しかし、地上的なものは、もっと様々だろう。当時は、一般の人は、関わらなかったのだろうか。なにが違うのだろうか。社会的なさまざまな問題に、ひとは、関わることになる。その中で、上にあるものにこころを留め、地上のものにこころをひかれないことは、やはり鍵となるだろう。上にあるものと、地上のものについては、もうすこし、深く考えてみたい。
Col 4:2,3 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。
実際には、これは何を伝えているのだろうか。このような証言をもし、疑わしいものとするのだとすると、他の部分についても、判断は、非常に難しい。同時に、考えさせられることばも多い。「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(4,5)むろん、どのように理解するかも、簡単ではないが。

BRC2019(2)

Colossians 1:25,26 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
啓示をどのように理解すればよいかわかっていない。御言葉を余すところなく伝えるということは、それを持っているということだろうか。さらに「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」が明らかにされたという。福音は、たしかに、この範疇にはいることだろうが、そのすべてを受け取ったとしてよいのだろうか。危険を感じる。ただ、この手紙では、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(15)ともあり、ヨハネによる福音書に近い面も持っている。中身(地上で神の姿をどのように現したか)はやはり語っていないが。
Colossians 2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
わたしはこのようには表現しないが、ひとの知恵から学ぶとしても、完全な真理では、ないのだろうなとは考えている。「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」(17)と近い感覚だろうか。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(コリントの信徒への手紙一13章12節)「人間の言い伝えにすぎない哲学」を絶対化しないということだろうか。
Colossians 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
「復活させられた」と書かれている。新しいいのちに生きているということだろう。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(2)と続く。その通りだと思う。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(ペトロの手紙一4章10節)恵みの管理人として生きていきたい。イエス様を通して神さまから与えられたいのちに生きる者として。
Colossians 4:18 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。
エフェソス書・コロサイ書・テサロニケ書二は、疑似パウロ書簡(Derutero-Pauline Epistles)の可能性があるとして議論されている。文体・内容、教会の整備状況、様々な理由のもとで議論されており、わたしには、わからないとしか言えないが、気になっているのが、結びとも言える部分についてである。様々な人々との関係が書かれている。おそらく、当時、パウロの手紙にどう表現されているかは、重要だったと考えるからである。コロサイ書で一番気になるのは、マルコの事である。もし「この三人(アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス)だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。」(11)とある。使徒言行録の記事と比較すると、何らかの説明が必要であり、唐突であるとも思われる。むろん、今後もわからないのだろうが。

BRC2017(1)

Col 1:21,22 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 
ここに当時の集約された信仰告白があるのだろう。神との敵対の状態にあった私たちと神様との間に、キリストの死によって和解がもたらされ、神の前にでることができるものとされた。ということだろうか。立派な信仰告白である。しかし、信仰告白とするならば、その主体によって、変化しうるものである。主体が生きている時代のなかで告白するものだから。一方、これを真理と宣言すると、そうはいかなくなる。ここに宗教や教理の難しさがある。
Col 2:21,22 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。 
「使えば無くなってしまうもの」という表現が面白い。「人の規則や教えによるもの」とともに、不変ではないもの、普遍的ではないものを意味しているのだろう。しかし、特に、この時代なら旧約聖書を考えると、そこに書かれている掟についてどう捕らえるかは、大きな議論となるだろう。同時に、言葉通り「使えば無くなってしまうもの」とうけとれば、霊の世界ではないものととることもできる。二元論に陥る危険性もあるが。そして、旧約聖書の記述も含め「人の規則や教えによるもの」とすることもできる。神からのものであったとしても、ひとを一回介している以上、このように表現することも可能だからである。ここでわたしが考察しているのは、権威の問題なのかもしれない。「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 」(コリント前書13章9節)わたしは、ここに立つ。
Col 3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 
多くの恵みのことばが語られ、さらに「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」(16節)とも書かれている。「キリストの言葉」の内容は不明であるが、それが十分に共有されていたことは確かだろう。そしてこのような言い回しは、パウロはあまりしていないように思われる。引用箇所には「イエスの名によって」「イエスによって」と繰り返している。何を意味しているのだろうか。それも、不明である。しかし、この言葉で通じる実体がなにか共有されていたのだろう。これらは、福音書のようなものを想起させる。
Col 4:3 同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。 
「キリストの秘められた計画」はなにか不安をかき立てる。何をいっているのだろうか。イエスは基本的に常に公に語り、それ以外にも弟子たちに伝えてきたことが、福音書に書かれている。この「秘められた計画」はそれ以外のものなのだろうか。当時は理解できなかった弟子たちに、謎に思われたことは、たくさんあったろう。それが明確になってきたとして共有された可能性はあるが、危険性も感じる。心配でもある。

BRC2017(2)

Col 1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
このあと「十字架」と「和解」が続く。しかし、その中身はとても豊かなものであることを、この19節は言っているように思われる。神との平和の「解」がそこにあるという、正しさだけの主張ではないのかもしれない。同時に、曖昧さは、混乱をも引き起こす。「満ちあふれるもの」は何なのだろう。「行動を引き起こすもとにあるその方の本質」である聖霊の働きにより、御子イエス・キリストの生き方を通して父なる神がどのような方であるかを、示してくださったことにつながっているのだろうか。抽象的ではある。
Col 2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
このことばも難しい。われわれの日常の価値観は、特に、産業革命以後の、効率重視の価値観に、とらわれてしまっている。おそらく、キリスト者もそれ以外も同じだろう。発展途上国でとくに、農村に住んで生活すると、まったく異なった価値観に出会う。「キリストに結ばれ」(6)た生活は、これらとは、次元が異なるものかもしれないが、価値観の違いという視点から考えると、まったく無縁ではないように思われる。「キリストに従う」とは、どのようなことなのだろう。考えさせられる。
Col 3:10,11 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
たしかに、この価値観には、民族の違いや、宗教的背景の違いはないだろう。「造り主」ということばが使われている。彼を造った(ktizoo)という表現である。「真の知識」もよくはわからない。しかし「イエスの生きられたように」ならば分かる気がする。そのことにあまりに、依存してはいけないのだろうか。
Col 4:10,11 わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
「三人だけ」という言い方が気になる。事実であるなら、かなり、割礼を受けた者たちにおいては、パウロ支援者グループは、危機的な状況だったのだろう。パウロ著者説に、疑問を呈する学者が多い書簡でもあるが、そう考えると、人々への、配慮の足りなさを感じることより、実際の状況は深刻であるように思われる。アリスタルコ、マルコ、イエス。ここにいる、マルコの存在も気になる。難しい。

BRC2015(1)

Col1:9,10 そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。 
めざすところは「神の御旨を深く知り、 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ること」である。これは、旧約聖書から、そして、イエスを通しても受け継がれていることである。ここに「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって」がついている。この部分をどのように理解するのかは難しい。
Col2:2 それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。 
キリストを知るに至る。それは、神のみこころとわざをしることなのだろう。それをこれからも、求めていきたい。
Col3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
ここでは「キリストと共に復活させられた」となっていて、時制は現在の受動態だろうか。死んでいた状態のものに、いのちが与えられたことを表現するものだろう。いま、すでに、復活させられたことは確かだろう。
Col4:5,6 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
とても難しいことを言っているように思われる。特に、まず「いつも、塩で味付けされた快い言葉(口語:やさしい言葉)で語りなさい。」と言ってから「そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」となっている。外部の人だけでなく、内部の人に対しても、本当に賢くふるまうことは、むずかしい。2節にあるように「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」神のみこころとのシンクロナイゼーションを求め続けなければ、これはとてもできない。励まし合いながら。3節には、自分たちのための祈りのリクエストが書かれているが、こころからそれを求めているのだろう。とても簡単とはいえないことなのだから。

BRC2015(2)

Col1:26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
ここでも「神の聖なる者たち」と言われている。予定説を表現しているのだろう。神が全知であることに、由来しているのかもしれない。しかし、神は、ひとり一人全員が救われることを願い、求めておられるのではないだろうか。そのときには、誰が救われるかを知ろうとはしない。人を信頼するとはいえないだろう。しかし、期待しておられるとは、いえるのではないだろうか。そして、わたしたちの心の中にあることをご存じである。
Col2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
洗礼を「キリストと共に葬られる」こととし「キリストを死者の中から復活された神の力」を信じる信仰によって「キリストと共に復活させられた」というのがパウロの論理である。さらに20節には「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もない」としている。イエスはそのようには表現していなかったろう。だからといって、むろん間違いとは言えない。しかし、一つの表現、解釈として、全体を表していないのではないかとの不安を持つ。ことばで表現することの限界と、象徴ではない、イエスの生き様のリアリティのすごさを見るからである。キリストにつくものとなりたいことは、確かであるが、わたしはやはりイエスがキリストであるとは表現しても、キリストが一人歩きする書き方にはなじめない。
Col3:3,4 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
難しい表現である。後半を見ると、隠されているという意味がわかる。今生きる命をどのように理解するかが問われているように思われる。「死んだときに失った命」と、「キリストと共に神の内に隠されている命」そして、「今生きている命」これなしには、語れないし、これこそが重要であろう。パウロの主張することをもう少し理解したい。
Col4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。
自分と主との関係を基本として、他者と関わる。その姿勢がここでも現れている。主との関係を基本にすれば、雇い人であれ、部下であれ、奴隷であれ、ひととき関わりをもつひとであれ、ぞんざいに扱うことはできない。主人の僕であり、僕仲間だから。公平には、社会的公平と、公正さも含まれているだろう。奴隷は、その主人の責任のもとにある。主のもとにあり、主がどのように自分を扱って下さるかを考えて、その奴隷にも、対するべきであることも教えている。

BRC2013(1)

Col1:9,10 そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。
「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り」わたしが求めているのは、このことであると思う。簡潔に表現されている。そしてその目的は、それに続く文章である。
Col2:16,17 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。
このように、本質を知り、かつ、愛によって行動できたら。そのように生きることを願う。
Col3:13,14 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
神のゆるしは、愛とおなじ。しかし、人のゆるしは、愛へと段階を踏む必要があるのかもしれない。ゆるしが、解放には、つながらず、たんなる拘束にとどまることがあるかもしれないから。「Forgiveness is to set a prisoner free, and realize that prisoner was you. (赦しとは、囚人を解放することであり、その囚人とは自分であったと気づくことです)」Corrie Ten Boom(オランダ、「隠れ家」の著者)自由にされた者が愛することができる。
Col4:11 また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。
アリスタルコ、マルコ、イエスだろう。生まれつきのユダヤ人で、パウロの同労者となって、異邦人宣教をしたひとは、多くなかったと言うことの表現だったろう。理解が得られず、とても困難な仕事だったことがわかる。

BRC2013(2)

Col1:4,5 これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。 この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。
ここにも、信仰と、希望と愛がでてくる。この望みを適切に表現することができるだろうか。わたしには、まだできてないような気がする。しかし4節にある兄弟愛はその望の表現に含まれていると思う。
Col2:6,7 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
イエス・キリストにあって歩くとはどのようなことだろう。いろいろな解釈があるだろう。パウロが伝えたかったこともすこし想像できるようにも思う。わたしは、主イエスのことばを考えながら、そのことばに生きようとすることに、この一生をかけてみたい。そこに、真理があると信じるから。
Col3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。
神を愛する。自分を愛するように隣人を愛する。この二つをつなぐ帯がここにあるかもしれない。イエスだと思って愛する、ことだろうか。
Col4:1 主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。
「わかっているのだから」に惹かれる。わかっていながら、その立場に自分をおいて考えない。考えられないのではないのだろう。わたしも、このような状態に注意していたい。明らかに神様への反逆だから。


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テサロニケの信徒への手紙一

テサロニケの信徒への手紙一(1)

テサロニケの信徒への手紙一は、パウロが書いた手紙のなかでも最初に書かれたものだと言われています。

テサロニケの信徒への手紙一は次のように始まっています。1章1節-5節を見てみましょう。

1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
シルワノは、使徒言行録に出てくるシラスと同一人物だと考えられています。1節にあるパウロとシラス(シルワノ)とテモテで、フィリピのあと、テサロニケに伝道したことが使徒言行録17章に書かれています。テサロニケは当時ローマ統治のマケドニア州の州都で良い港ももち、大きな町でした。フィリピには、ユダヤ人の会堂はなかったようですが(使徒言行録16 章13節)テサロニケには、会堂があったことが使徒言行録17章1節に書かれています。
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。
当時は、10家族以上ユダヤ人家族がいると会堂をもつように定められていたようですが、「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」(使徒言行録17章4節)ことからユダヤ人のねたみを買い、争乱となったことが書かれています。
しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。(使徒言行録17章5節)
上で引用した、テサロニケの信徒への手紙一第1章3節では、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」と、信仰の働き・愛の労苦・希望の忍耐と三つが並べられています。コリントの信徒への手紙一第13章の有名な愛の賛歌の最後13節に書かれている、
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
を思い起こさせます。このテサロニケの第一の手紙には、その具体的な生き方についていくつもの勧めがなされています。 みなさんは、テサロニケの信徒への手紙のどのような言葉が印象に残りますか。

テサロニケ人への第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫

  1. あいさつ 1:1
  2. 福音の力ある事実への感謝 1:2-10
    1. テサロニケ教会の現実 1:2-3
  3. 神の選びの事実 1:4-10
  4. 使徒と教会 2:1-3:13
    1. テサロニケ教会形成の第一歩 2:1-16
    2. パウロがテサロニケを去って後 2:17-20
    3. テモテ派遣 3:1-5
    4. テモテがもたらしたよい知らせ 3:6-10
    5. パウロの祈り 3:11-13
  5. 根本的願いと勧告 4:1-5:11
    1. キリスト者生活の一般原則 4:1-3
    2. 弱い者に対する助け 4:3-8
    3. 兄弟愛について 4:9-10
    4. 気ままな者に対する戒め 4:11-12
    5. 小心な者に対する励まし 4:13-5:11
  6. 教会に関する種々の具体的勧告 5:12-22
    1. 相互の間で 5:12-15
    2. 根本的な態度 5:16-22
  7. 結び 5:23-28
    1. パウロの祈りと、祈りの訴え 5:23-25
    2. 最後の願いと祝祷 5:26-28


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

1Thessalonians 1:9,10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。
この前には「そしてあなたがたは、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちと主に倣う者となりました。」(6)ともある。パウロが伝えた福音の原型を知りたい。それには、新約聖書の中で、最初に書かれたとされる、テサロニケ信徒への手紙一は、最良だろう。ただ、最初に、キプロスや、小アジアで宣教したときのことまではわからない。ここからキーワードをひろうと「偶像から神に」「再臨信仰」「神が復活されたイエス」となるだろうか。後では、キリストの使用が増え、「私に倣う」に変化しているように思うが、いつか丁寧に見ていきたい。
1Thessalonians 2:18 そこで、あなたがたのところに行きたいと願いました。ことに、私パウロは何度も行こうとしたのですが、サタンが私たちを妨げました。
サタンは「中傷する者」、ひとを誘惑して、神に逆らうようにさせるもの。だそうだが、その線で、このことを理解できるだろうか。パウロは、テサロニケに行くことが様々な理由で妨げられたことを言っているのだろうが、それは、神が止めていることという面もあるのかも知れないし、単に、パウロたちの活動を静観しているのかもしれない。価値判断は、それほど、簡単にできるものではないのだから。サタンの働きかどうかは、冷静に見極めたいものである。パウロのこのことばは、ひとつの、慣用句だったのかも知れない。あまり、例が多くないので、わからないが。
1Thessalonians 3:5 そこで、私も、これ以上我慢できず、試みる者があなたがたを試みて、私たちの労苦が無駄になることがないように、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。
「労苦が無駄になることがないように」人間的な思いとしては当然だろう。そして、そのために、できることは、それなりにある。同時に、信仰生活を深めることは、それぞれのひと、神様の働きに委ねなければならない面もある。とても、難しい。評価基準を単純化すれば、いろいろと考えられるかも知れないが、私たちの知るところは、ほんの一部にすぎないのだから。
1Thessalonians 4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように神から教えられているからです。
ここでは、互いに愛し合うことは、兄弟愛の範疇におさめられている。イエスの新しい掟も「わたしがあなた方を愛したように」(ヨハネ12:34)から判断すると、その愛に触れたひとを想定しているように思われる。しかし、それが、限定と排除になっていくと、愛とはいえなくなるのだろう。愛し得ないもの、歓迎できないと思えるようなものをたいせつにすることが、愛なのだから。開かれていないといけないと思うのだが、とても、難しい。そしてそれは、兄弟愛から始めるものでもあるのだと思う。
1Thessalonians 5:1,2 きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
主の再臨が重要なトピックだったことがわかる。このあとの論理「しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(4)として、「夜にも闇にも属してい」ない「光の子、昼の子」として生きる(5)ことについて、その生き方について述べている。内容自体は、すばらしいが、やはり、イエスさまがどう生きたかには、結びついているわけではない。批判することではないが、正直、主の日については、イエスのメッセージの誤解だと思う。そのようなことが、たくさんあるのではないだろうか。丁寧に、見ていきたい。主に従い、その生き方に倣いながら。

BRC2023(2)

1 Thessalonians 1:7,8 こうして、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったのです。主の言葉が、あなたがたのところから出て、マケドニアやアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところに伝わっているので、私たちはもう何も語る必要はありません。
マケドニアは理解できるが、アカイアにまで影響を及ぼしているというのは、驚くべきことである。パウロの誇張もあるのだろうか。マケドニアの教会、フィリピやテサロニケ、大きくはないのだろうが、ベレアなどの信徒たちが、アカイア宣教を支援したことは、可能性として高いように思われる。
1 Thessalonians 2:1,2 きょうだいたち、あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした。それどころか、知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。
使徒17:1-9 にテサロニケでの宣教のことが描かれている。我々が知る限りにおいて、これがテサロニケにおける最初の宣教である。 三回の安息日に亙って会堂で語ったこと、神を崇めるギリシャ人や、貴婦人が信じるようになったこと、それを妬んだユダヤ人たちがヤソンと数人のきょうだいたちを訴え、騒動が起きたことが書かれている。記者と考えられているルカはまだ同行していないようなので、正確さは不明だが、引用句での記述とどのように関係しているのかよくわからない。使徒言行録では、事件性の高いことを書くが、宣教の内実、ひとりひとりに起こった事実を書くことは難しいということだろうか。丁寧に読んでいきたい。
1 Thessalonians 3:6,7 ところが、今テモテがあなたがたのもとから私たちのところに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、良い知らせをもたらしました。また、あなたがたがいつも私たちのことを良く思っていて、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっていると伝えてくれました。それで、きょうだいたち、私たちは、あらゆる困難と苦難の中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められました。
テモテの報告について書かれている。使徒言行録をそのまま受け取り、ヤソンなどが訴えられた事件をうけて、テサロニケから出てきたとすると、それは不安だったろう。ただ、このあと、テサロニケの人たちがどのような教会を作っていったかを知りたい。信じるよりも信仰を継続させ、成長することのほうがずっと難しいのだから。使徒言行録19:29, 20:4, 27:2 によると、「テサロニケ人アリスタルコとセクンド」、「テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコ」とあり、このアリスタルコと同一人物かどうかは不明だが、コロサイ4:10には「わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコ」ともある。ピレモン24の挨拶にも登場していることを記しておく。
1 Thessalonians 4:13,14 きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
自分がどうなるかも、復活があるかもしれないが、復活信仰も、このように眠りについたひとたちへの思い、愛が背後にあるように思う。そのひとたちの愛にどう答えるか。最後には「ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。」(18)と結んでいる。実際には、死後の世界、それも、わたしたちの復活についての記述は、少なくとも福音書では、一定しない。しかし、このような人々の愛にこたえることは、たいせつだと思う。わたしも、「主イエスに信頼しましょう」というように思う。
1 Thessalonians 5:12,13 きょうだいたち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。
この章の前半は、最後の日の復活のときのことが書かれている。しかし、おそらく、それを述べつつも、パウロの願いは、べつのところにあるのだろう。ただ、問題は、そのパウロの願いよりも、最後の日のほうに、人々の感心が行ってしまうことだろう。イエスの言葉に対する反応にも似たものが会ったように思う。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

1Thessalonians 1:9-10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。
テサロニケ宣教については、使徒言行録17章1節9節に書かれており、マケドニアでフィリピの次の宣教地で、ここでも、トラブルがあったことが記されている。また、新約聖書の中で最も早く書かれたと考えられている。「信仰」(8)の中身が引用箇所に書かれていると考えて良いだろう。3節には信仰・愛・希望(1Cor 13:13 参照)について書かれているが、全体的に、希望が中心にあるように思われる。希望の内容がどうであれ、やはり信仰の中心には、希望があるように思われる。どのようにしても、解決し得ない理不尽さ、不自由さがこの世にはあり、その中にあっても、希望を持ち続ける拠り所としての信仰という面が最後に残るように、思うからである。希望の内容の表現は、少しずつひとによって異なるかもしれない。その人が置かれている状況にも依存するのだから。わたしはそれをどのように表現するだろうか。
1Thessalonians 2:7,8 私たちはキリストの使徒として重んじられることができたのですが、むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました。母親がその子どもを慈しみ育てるように、あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
「幼子のように」が気になったが、今回読んでいる聖書協会共同訳には「異」(その他の写本)「優しく振る舞った」と注にある。ここには、他に、「母親がその子どもを慈しみ育てるように」が登場し「父親が子どもに対するように」(11)も登場する。パウロが、人として、できる限りのことをしようとしたことが伝わってくる、おそらく、それは同行している、シルワノとテモテにも強烈に伝わったことだろう。人間臭さも感じられるが、それがパウロのできる限りのことであり、尊い働きだと思う。それがどのように用いられるかは、主に委ねることなのだろうが。「この神の言葉は、信じているあなたがたの内に今も働いているのです。」(13b)にも表現されていることかもしれない。
1Thessalonians 3:6 ところが、今テモテがあなたがたのもとから私たちのところに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、良い知らせをもたらしました。また、あなたがたがいつも私たちのことを良く思っていて、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっていると伝えてくれました。
ここにも、信仰と愛が書かれており、後半には、お互いの希望について述べている。パウロにとっては、これら三つはこの手紙を書いた時点で「いつまでも残るもの」(1Cor 13:13)だったかどうかはわからないが、つねに意識していたように思われる。この章の終わりの方(10-13節)に、パウロの希望・祈りが書かれている。そして「私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。」(12)とある。わたしの、希望、祈りはなんだろうか。おそらく、それなしには信仰はなく、それが愛に結びついていなければ、虚しいものなのだろう。
1Thessalonians 4:16-18 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。
「生き残っている私たち」とあり、パウロは、明らかに、自分の生きている間、つまり、ほどなく、このことが起こると信じていたようである。そうではなく、あまりに、厳しい迫害にあったり、信仰を持ったがゆえに、トラブルに巻き込まれている人たちに、希望を持ってもらうために、すぐ起こるかのように伝えていたのだろうか。引用箇所は、あまりにも、リアルにかかれている。おそらく、イエスが伝えたことではなく、パウロが啓示として受け取ったことなのだろう。すくなくとも、その時代には起こらなかったことをみると、すこし危うさも感じる。
1Thessalonians 5:23,24 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。
前章の最後にすでに眠りについた人たちについて述べてから、主の再臨のことを書き始めているが、かなり具体的な表現をしている箇所があるものの、パウロも、そこに本質がないことを感じていたのではないかと今回読んでいて思った。引用箇所は、通常、聖化と呼ばれる場所であるが、本質は、お招きくださった主を信頼して、霊と心と体(すべて)において、神に喜ばれるものとなっていくこと、そのような日常を送ることを勧め、願っているように思ったからだ。厳しい迫害下では、その苦しさから開放されるときの現実味が、たいせつだったのだろう。本質を見失わないようにしたい。

BRC2021(2)

1 Tessalonians 1:4,5 神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからです。私たちがあなたがたのところで、あなたがたのためにどのように振る舞ったかは、ご存じのとおりです。
わたしは、自分が神に選ばれたことを知っているだろうか。だれかに、あなた方は神様に選ばれていると言えるだろうか。正直、自信がないというより、できないと思う。まず、「選び」という概念がよくわからない。神様は、そのような方なのだろうか。そして、ひとが複雑であることも知っている。神様に委ねることはできるが、このように確信することは、できないように思う。やはり、不信仰なのだろうか。
1 Tessalonians 2:7,8 私たちはキリストの使徒として重んじられることができたのですが、むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました。母親がその子どもを慈しみ育てるように、あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
「幼子のように」は不明である。異文として「優しく振る舞った」とあり、写本による違いもあるようである。「母親」の部分も「乳母」のような言葉である。こちらは、わかりやすいものをとったのだろうか。NKJV では "But we were gentle among you, just as a nursing mother cherishes her own children." となっている。この段落では、このあと「あなたがたが知っているとおり、私たちは、父親が子どもに対するように、あなたがた一人一人に、神にふさわしく歩むように励まし、慰め、強く勧めました。神は、あなたがたをご自身の国と栄光へと招いておられます。」(11,12)とあり、意図は伝わってくるように思う。
1 Tessalonians 3:12 私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。
わたしの願いはここにある。それ以上でも、それ以下でもない。互いの愛と、すべての人への愛とええ、豊かに満ち溢れる。これほどのことはない。わたしがその模範になることができるかはわからないが、自分もまずは、そのように生きていきたい。「互いの愛とすべての人への愛」良い言葉である。
1 Tessalonians 4:15 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。
復活と再臨について書かれている箇所である。テサロニケの信徒への手紙の特徴でもある。今回、目にとまったのは「主の言葉によって言います。」これは、何を意味するのだろうか。「主」は神様で、旧約聖書を意味するのだろうか、それともキリストを意味して、口頭でイエスが語られたことを聞き及んで言っているのだろうか。引用箇所を見ると「主の言葉によって」のことばが用いられた例(列王記一13:17,18, 20:35など)が書かれているが、このこと自体ではないようだ。イエスの言葉として論拠とともに書いているわけでもないのだろう。パウロが、固く信じ、これ以外にないと考えていたことは想像できるが、ほんとうに、それが動かせない真理となるのだろうか。
1 Tessalonians 5:16-18 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。/これこそ、キリスト・イエスにおいて/神があなたがたに望んでおられることです。
様々な具体的な勧めをしたあとで、ここに行き着いている。そうであっても、パウロは、真理、自分が受け取ったとする、真理について語らざるを得なかったのだろう。それがどのようなものかを理解するのは難しい。真理は、絶対的なものなのか。これは、とても、大きな問題である。日常的な生活の指針は、より、普遍性があるのかもしれない。


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過去の聖書ノート

BRC2019(1)

1Thess 1:9,10 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
おそらく、ここに記述されていることが、パウロが語り、彼らが受け取り、それによって、変わったことなのだろう。それを「どのように迎えられたか」と表現している。内容は「偶像から離れて神に立ち帰(った)」「生けるまことの神につかえるようになった」「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」かであり、特に、最後の部分が「どのように」と内容まで示唆するように書かれており、御子がどのような方であるかが最後に述べられ「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」と、再臨のキリストによる最終的な救いについて述べられている。これが、パウロの語った「福音」だったのだろう。
1Thess 2:4 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
ここまでの確信をもって、現代に至るまで宣教が行われて来たのだろうか。パウロの、ここまでの確信は真実なのか。この二つの問いが出る。パウロの特殊性なのだろうか、わたしには、理解できないことなのか。そう簡単ではない。この背景のもとで「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 」(13)の表現が生じる。愛によってこれらが証しされていないと、虚しい。たんなる危険な、独りよがりの宗教になってしまうように思う。
1Thess 3:12 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。
つねに、苦難の中にいることがわかる。(3, 4, 7)同時に、ここで、お互いの愛と、すべての人への愛とが書かれている。福音を伝えること自体が、すべての人への愛につながっているのだろうが、違和感も感じる。まずは、愛を示すことはできなかったのだろうか。これは、現代でも、いろいろな形で現れていることである。わたしは、正しさよりも愛と考えるが、それは、歴史を見ているからか、正しさの正しい意味が理解できていないからか。難しい。
1Thess 4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
兄弟愛が強調されている。おそらく、ここに鍵があるのだろう。最初から、すべての人を愛そうとする人は、兄弟を愛することはできない。兄弟とは誰かとという人も、同じかもしれない。隣人を、兄弟だと、受け入れることだろうか。学ばなければならない、基本がたくさんある。
1Thess 5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
「非のうちどころのないものとしてくださいますように」との祈りである。このことばが使われている箇所がある程度多い。コリントの信徒への手紙一1章8節、フィリピの信徒への手紙2章15節・3章6節、テサロニケの信徒への手紙一3章13節、ユダの手紙24節、これらは、この祈りが背景としてある箇所である。(これ以外に、人物の紹介として、「非のうちどころのないもの」と紹介されている箇所がある。サムエル記下14章25節、ルカによる福音書1章6節、テモテの手紙一3章2節)テサロニケの信徒への手紙は特に、再臨が中心的テーマであり、このことばもそれに付随しているのだろう。パウロの初期の宣教で響いたのも、再臨のことだったかもしれない。

BRC2019(2)

1Thessalonians 1:5-7 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによった」とする根拠は何なのだろう。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」以下は一つの答えかもしれない。ただ、さらに興味をもったのは「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者」という表現である。「わたしたちに倣う」は 2Thess 3:9 にもあるが、「主に倣う」という表現はここにしかない。「キリストに倣う」は、1Cor11:1、「神に倣う」は、Eph 5:1、「造り主の姿に倣う」Col 3:10、「神の諸教会に倣う者」1Thess 2:14 とあるが、他は、すべて、「わたし(パウロ)に倣う」である。パウロは主に倣うで、なにを表現しているのだろう。苦しみの中で従う姿だろうか。
1Thessalonians 2:8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
パウロたちのテサロニケの信徒たちへの思いが漲っている。この前には「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、」(7)とあり、「幼子のように」「母親のように」とあり、少しあとには「父親のように」(11)とある。愛着という表現がぴったりするような状態である。そしてこの章の最後は「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」(19,20)とある。ありがたいと思う人もいるかもしれないが、多くの人にとって重すぎるだろう。パウロたちの人生の目的、神を讃美する道具になってしまっているようで。パウロたちの喜びと、思いの深さが痛い。そのような気持ちを持つことはある程度理解できるが。
1Thessalonians 3:2,3 わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。
おそらくあまり長い時間がたっているわけではないだろう。苦難が具体的にどのようなものかはわからないが、使徒言行録17章1節〜9節の記述によると、ユダヤ人たちの反発があったようだが、町の当局者に群衆と共に訴えたともあり、使徒言行録19章にあるような騒動と似たこともあったのかもしれない。パウロが書いているように「苦難を受けるように定められている」と理解することもできるが、問題もあると思う。パウロには激怒されてしまうだろうが。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」(12)と祈ることはできなかったのだろうか。お互いの愛の範囲は限定的で、「隣人になる」(ルカによる福音書10章36節)は中心ではあり得なかったのだろうか。おそらく、イエスの弟子たちの中には、違和感を持っていた人もいたのではないかと思う。ステファノの殉教を端緒とする迫害に対する対応は詳細は書かれていないが、パウロのようなものとは異なるとも思われるので。
1Thessalonians 4:3-5 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
このあとには「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。」(6)と続く。異邦人社会において、情欲におぼれることが一般的で、目に余ることだったのだろう。ただ、神の御心をここに集中して説くことで、兄弟(キリスト者)の中での道徳になってしまっているようだ。救いと裁き、復活と滅びの二元的な考え方から、兄弟とそれ以外と分ける考えが強く、イエスの自由さ(without bias)が欠けてしまってきているように思う。時代的なまた当時の状況を考えると、方策としては受け入れられるが、歴史的には困難な方向に進んでいると思う。
1Thessalonians 5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。
ここで「すべての人」は、兄弟をさすのだろう。しかし、そうであっても、共に生きることにおいて、おそらく最もたいせつなことだろう。そして、それは、兄弟と共に生きることであると共に、主と共に生きることでもある。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(10)とある通りである。

BRC2017(1)

1Thess 1:9,10 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。 
パウロの宣教内容が読み取れる。テサロニケの手紙一は聖書に含まれているパウロ書簡の最初のものとされているのでよけい興味をもつ。マケドニアでフィリピの次の訪問地であることが使徒17章に書かれている。引用箇所から、中心は、ギリシャ人または非ユダヤ人で、再臨信仰が中心で、根拠がイエスの復活である。ある程度メッセージの内容も伝わってくるように思われる。6節「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 」から見ると、最初から特異な状況であったことがわかるが、同時に「わたしたちに倣うもの」「主に倣うもの」と書かれていることに興味をもった。パウロ書簡ではこの表現はないからである。ただし「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。 」(コリント一11:1)とあるように「わたしに倣うもの」との表現ばかりであるからである。(Cf エフェソ5:1)
1Thess 2:19,20 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。 
パウロが召しに忠実であるのは理解できる。しかし、この文章は、なにか、パウロの召しのための信仰のように感じられる。パウロに結びつけるのであって、キリストに結びつけられているのかどうかが不安になる。初期の手紙ということで、許容すべきなのかもしれないが。福音が狭く感じられる。
1Thess 3:4 あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 
パウロの経験からも当然予測できただろう。新たな創造の業が始まったのだから、その意味でも当然だといえる。具体的な心配事が多く、なかなか普遍的な問題に入っていけないように見えるがひとこと「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。 」(12節)と祈りを加えている。これが、宣教の実だとは、パウロはまだおそらく考えていないだろう。1章にあるように、正しさの宣教が全面に出ていたと思われるから。これは、パウロの問題というより、福音理解が進化している、救いの計画が進化していると考えることもできる。神のみこころが聖書の中に閉じられたものとしてあると考えると、それ以上進むことはできないが。
1Thess 4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。 
パウロは主の再臨が非常に近い将来であることを確信していたのだろう。その上で、すでに眠りについた人との比較をしている。パウロの書簡でも、少しずつ変化して行くのだろうが、これは、パウロの強い期待と信仰だったのか、十二使徒たちも、同じ信仰をもっていたのか気になる。おそらく統一はされていなかっただろう。7節に「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。 」とあり「兄弟愛」について9節に書かれている。かけらはすでにあるが、体系的にはまだなっていない。
1Thess 5:6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 
他のひと(キリストを主としていない人)との区別の問題である。真理を持っていると信じているものの、それとは違った見解に立つ者に対する姿勢である。おそらく、行動においては、そのひとたちを大切にしているのだろう。しかし、ここに区別がある以上、そのひとたちからも分かってしまう。愛すること、互いに仕え合うことに、集中することはできないのだろうか。正しさは、限定的にしか私たちには理解できず、ひとには、排他性、民族主義的な傾向が強いのだから。

BRC2017(2)

1Thess 1:6,7 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
通常の理解では、はじめてのマケドニア伝道とその混乱からほどなく、アカイア州から書かれたことになっている。そして、おそらく、新約聖書に含まれている、最初のものでもある。ここから、初期のパウロの伝道で大切にされたことが伝わってくると思われる。具体的には、8節・9節であるが「わたしたちに倣うもの、そして主に倣うもの」という言葉が気になった。なぜこの順序になっているのだろうか。このあと、パウロの書簡では「わたしに倣うもの」という表現が多くなる。(1Cor 4:16, 11:1, Phil 3:17)「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、」(Rm 15:5)はおそらく例外であろう。パウロには、イエスの生涯を語る動機付けはなかったのか。語りたくなかったのか。パウロがキリストに倣うというとき、何を意味しているのかも、興味をもつ。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(1Cor 11:1)
1Thess 2:13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。
私が時々問題視することばである。教会での説教が「神のことばの宣言」であることとし、解釈も含めた正しさを主張することとなっていることが、説教者依存、神に、イエス・キリストに聞くことではなく、説教者に聞くことになり、逆に「人のことばの宣言」になってしまっているのではないかと感じているからである。この後半は力強い「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」そして次の節「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。」へと続いている。前半は、この現実を証言しているともとれる。実体の検証は、やはり必要であるが、前半も、信仰告白的な意味合いが強いことばなのかもしれない。そこから「教理」として演繹すると問題が生じる。
1Thess 3:5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
これは「友愛」だろうか。パウロの心は、テサロニケでキリストを信じたばかりの人たちに結びついている。「わたしたちの労苦」とあるが「わたしたち」がとても多いことに気づかされる。父なる神と、御子イエスキリストとの交わりに、わたしたちがいることは、寸分も、疑っていなかったということの現れでもあろうか。うらやましくも感じるが、恐くもある。
1Thess 4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(3節、7節参照)とあり、これが「御心(神が望まれること)」として、パウロが伝えていたことである。そして、引用箇所がある。この手紙の場合もそうであるように「短い期間」では、そうかもしれないが、一番、困難、問題が生じるのが「兄弟愛」「互いに愛し合う」ことだろう。しかし興味深いのは「神から教えられている」とある点である。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(ヨハネの手紙一5章1節)この当然のことが、なぜ、一番難しいのだろうか。ヨハネの手紙一には「神の掟は難しいものではありません」(3節)とあるのだが。
1Thess 5:12,13 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
このあとには「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(16-18a)などと「神があなたがたに望んでおられること」(18b)が続く。その最初が引用句である。この人たちはむろん完全ではない。批判すべきこともあるだろう。「そのように働いてくれるのですから」からは、この役割を神からゆだねられていることが感じられる。背後におられる神の働きをおもい、表面の flaw (欠陥・不備・瑕疵)に目をとらわれてはいけない、と言っているのかもしれない。それが可能になるのは、しかし「愛をもって心から尊敬しなさい」なのだろう。それが平和にも、喜びの生活にもつながる。

BRC2015(1)

1Thess1:3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
テサロニケの信徒への手紙は、書簡の中でもおそらく最初に書かれたといわれているが、すでに、信仰・愛・希望が標語化されていたのだろうか。福音書記者たちの中では、おそらく、そのような言語化はされていなかったろう。イエスの生きられたありさま、その言葉がすべてであったろうから。それを相対化させることも、パウロの役目だったのかもしれない。
1Thess2:13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。
聞くものが、取りつがれるメッセージを、神の言葉として聞くこと、それによって生かされていることを、信仰告白としてすることは、素晴らしいこと、そして、そのことにアーメンと唱えたい。しかしこのことは、その面だけではない。神学校でも「わたしは、こう考える」「このように読む」ではなく、神の宣言として、語ることが教えられる。しかし、その影響を考えると、適用範囲はとても難しい。しっかり学びたい。問題点はいくつかあるだろう。神の言葉とどのように判断するのか。そして、牧師・宣教師のどのように語った言葉が神の言葉となるのか。聖書のことばには、ひとつの解釈しかないのか。明らかに誤った解釈の場合はどうなるのか。神が働かれることをどのように認めるのか。
1Thess3:2,3 わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。
信仰ゆえの苦難の問題をどう考えたら良いのだろうか。たしかに、イエスが迫害をうけたのだから、当然とすることはできる。しかし、パウロのように「苦難を受けるように定められている」というのは、焦点がずれているのではないだろうか。それとはべつに、現代はどうだろうか。たしかに、宗教間紛争でキリスト者がキリスト者であるが故に殺されることは、頻繁にニュースとして伝えられる。しかしそれは他の宗教にも当てはめられることだろう。もう少しよく考えたい。
1Thess4:16,17 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
これは、啓示によるのだろうか。イエスもここまで具体的には語っていない。それよりも「今がそのときです」のメッセージが強烈である。パウロの時代の人々の必要に合わせて語られている面が強いだろう。しかし負の面も感じてしまう。今の時をより積極的に生きる「地の塩・世の光」として。それが終末にむけて、福音が伝えられることなのだから。希望を、終末に委ねてはいけない。
1Thess5:5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。
イエス様はこうは言わなかったろう。人々の心の中にあることをご存じだったから。10節に「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」とあるように十字架から完全に変わったのだろうか。イエスの言葉を聞いたときからではないのか。その論理ゆえに、かえって教義の危なさを感じる。
 

BRC2015(2)

1Thess1:10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
このイエスとつながることで、来たるべき神の怒りから逃れて、救われる。それが、信仰であると言っている。そして、それは、キリストが再臨するときに、明確になるということであろう。いまも、その命に生きる。しかし、それでも、完全に理解できているわけではない。信仰によって、そのことを信じるのである。
1Thess2:8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
肉的な結びつきのことを言っているのだろうか。いとおしさは、十分理解できる。しかしそれをここで持ち出すのは、問題を複雑にもする。もし、これが肉的な結びつきでないとするならば「愛する者となった」という表現はどうだろうか。わたしがこのように書くのには、パウロの激しさに抵抗感を感じるからかもしれない。そして教会での牧師と信徒の関係を考えても、このような愛情が問題を引き起こすと考えているからかもしれない。整理したい。
1Thess3:12 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。
ここでは、お互いの愛と、テサロニケの人たちの全ての人への愛と、パウロたちのテサロニケの人たちへの愛が語られている。キリストを愛することを通して、神を愛するが故に、隣人を愛するという言い方ではない。しかし、一方に、キリストの愛を実感し、それゆえに、この愛の大切さを訴えることは、強いのだろう。神が愛して下さった故に、愛されている者として、愛する。愛されているものも、同じように愛する。最後のフレーズに行き着く鍵が欠けているとわたしは感じているのだろうか。パウロがこの手紙を書いた状況を使徒言行録から考えると、人との関係としての愛が色濃くあるのは、当然かもしれないが。わたしの学生たちとの間の関係を考えているからだろうか。
1Thess4:3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
このあと、倫理的なことばが並ぶ。確かにそれらは、神の御心に沿ったことだろう。しかし、現代の世界を見るともっと難しい問題が山積している。「主イエスに結ばれた者として(略)神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」(1節)これは、複雑な問題になってきている。確かに、倫理的な問題が解決しているわけではない。しかし、倫理性の意味も簡単ではなくなってきている。わたしの単なるねじれた思い過ごしなのだろうか。わたしには、この故に、キリスト教が壁にぶち当たり、特に先進国において、凋落の一途をたどっているように見える。
1Thess5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。
11節の「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」にも惹かれる。共に生きることは、共に考え、共に感じ、共に労苦し、共に悲しみ、共に苦しみ、喜ぶことを含んでいる。それは、励まし、戒め、助け、忍耐強く接することとつながっている。それは、神の道、神の喜ばれる道であると思う。
 

BRC2013(1)

1Thess1:3 あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。
「信仰」と「愛」と「望」はこのようにはっきりとは分けられないかも知れない。しかし、おそらくひとの生活において、この三つを意識することは大切であるように思われる。神様の行為とことなり、どうしても不完全だから。
1Thess2:12 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。
これこそ、イエスの教えといえる。天の父なる神のように完全となること。
1Thess3:6 ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。
Acts17:10 には「そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。」とある。このような分かれ方をしたときには、なおさらであろう。
1Thess4:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。
キリストによる救いにふれたばかりの人たち、そのひとたちに、もっとも適切な助言なのだろう。パウロたちのように、それを見習うようにと続く。そのようなモデルがとても大切である。
1Thess5:8 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
第一テサロニケは、パウロの最初のマケドニア宣教の直後、コリントから書かれたと思われる。そのときに、すでに「信仰・愛・望」が何カ所もこの組み合わせで出てくることには驚かされる。(1:3, 3:6, 5:8) 一度、ゆっくり学んでみたい。

BRC2013(2)

1Thess1:4 神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。
神に愛されていると見えるところから、選ばれていると根拠づけているのだろうか。それとも、激励なのだろうか。選ばれているかどうかは、わからないはずなのに。この言葉の効果だろうか。
1Thess2:4 かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。
これは、当然である。しかし、だからといって簡単なわけではない。なぜ、栄光を求めてしまうのだろう。つねに、自らを省みて、謙虚でいたい。
1Thess3:12 どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。
すべての人に対する愛とは何だろうか。そのようなものは、存在するのだろうか。少し、自分に対する部分が不足しているように思われる。自分をまず省みたい。
1Thess4:6 また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。
罰せられるのが恐ろしいからではなく、1節にあるように「あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。」このためだろう。神のみこころとシンクロナイズさせることを願って歩いていきたい。
1Thess5:14,15 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
こころからこのように生きたいと思う。神様に対する信頼があってはじめてできること。そして、それは、神の子らとして、兄弟姉妹として生きる為に、ひとに仕えて生きる道でもある。だから、これは、よく生きる技術ではなく尊い道なのだ。


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テサロニケの信徒への手紙二

テサロニケの信徒への手紙二(1)

テサロニケの信徒への手紙二は次のように始まっています。1章1節を見てみましょう。
パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
このあいさつのことばは、テサロニケの信徒への手紙一の1章1節と殆ど同じで、「父」が「わたしたちの父」に変わっただけです。2節には、新約聖書の殆どの書簡にしるされている「恵みと平和」の祝祷があり、3節には、テサロニケの信徒たちの信仰と愛についての感謝を、4節には、迫害下の苦難の中での忍耐と信仰を誇りに思っていることが述べられています。しかし、このあとに続くメッセージはかなりトーンが変わっています。
5:これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
6:神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7:また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8:主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
6節には、迫害している人たちには、報復ともいえる裁きが行われることが書かれているようです。終末において裁きを受けることは、聖書に一貫して書かれていることですが、なにかすこし違和感を感じます。終末・主の日については、テサロニケの信徒への手紙一にも関われています。5章1節2節を引用してみましょう。
1:兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
2:盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
テサロニケの信徒への手紙の2章1節-3節を見てみましょう。
1:さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
2:霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
3:だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
この部分を読むと、テサロニケには、主の日に関してかなりの混乱があったことが分かります。迫害の中で、主の日のことを聞き、それを希望として生きる。しかし、迫害下のあまりに苦しい状況のなかで、このような混乱が起こってきていたのではないでしょうか。1章のわたしが違和感を感じると書いた箇所も、そのような中で、まずは、さばきについてはっきりさせ、同時に、2章で主の日のまえにあるべきことについて語り、テサロニケの人たちを落ち着かせているのかもしれません。そして、2章の後半への勧めに結びつけています。2章13節、14節を引用します。
13:しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
14:神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。
そしてこのあと、いくつかの具体的な勧めをしています。一つは本質的なこと。3章5節を引用します。
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
そしてもう一つは、生活態度です。おそらく、主の日が近いとの信仰の中で、日常的なはたらきでなく、たとえば、聖書の言葉を語り合い、祈り合う、それだけしていればよいのではないかとの考えの人もでたのでしょう。みなさんは、明日天地が滅びるとしたら、今日、何をしますか。もう少し正確な問いは「ひょっとしたら明日かもしれない近い将来に主の日が来るというときに、あなたは今日どのように生きますか。」この手紙では「えー」と驚くぐらいふつうのことが書かれています。3章10節から13節を引用します。
10:実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11:ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12:そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13:そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
テサロニケ人への第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
  1. あいさつ 1:1-1:2
  2. テサロニケ教会の現実と将来 1:3-12
    1. 迫害と艱難の中における教会の成長についての感謝 1:3-4
    2. 神の正しいさばき 1:5-10
    3. パウロの祈り 1:11-12
  3. 終末についての教え 2:1-12
    1. 主題と目的 2:1-2
    2. 教えの内容 2:3-12
  4. テサロニケ教会の人々の救い 2:13-3:5
    1. 恵みの事実 2:13-15
    2. パウロの祈り 2:16-17
    3. 真実な神に祈れ 3:1-5
  5. 気ままな者に対する戒め 3:6-15
  6. 結び 3:16-18


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

2Thessalonians 1:6,7 実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。
「それゆえ、私たち自身、あなたがたがあらゆる迫害と苦難を受けながらも、忍耐と信仰を保っていることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」(4)ともあり、迫害下、苦難が続く中で「主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるとき」のことを思うことが、多くの信徒にとって、唯一の希望だったのだろう。それは、本道ではないように思うし、イエスの教え、生き方に立ち返るべきだと思うが、それは、一般的ではないことも確かだろう。わたしが、当時生きていたら、どうしただろうか。自分についでではなく、他者にどう語るかは、非常に難しい。最初には「パウロとシルワノとテモテ」(1)とあり、テサロニケの信徒への手紙一からは、シルワノが加わっている。シルワノが関係しているのだろうか。
2Thessalonians 2:7,8 不法の秘密はすでに働いていますが、それは、今抑えている者が退くまでのことです。その時、不法の者が現れますが、主イエスはご自分の口から吐く息で彼を殺し、来られるときの輝かしい光によって滅ぼしてしまわれます。
不法の問題は、難しい。ここに書かれている内容も、よくはわからない。特に、「今抑えているものが退く」はわからない。おそらく、「まず、離反が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が現れなければならないからです。この者は、神と呼ばれたり拝まれたりするものすべてに反抗して高ぶり、神の神殿に座り、自分こそ神であると宣言します。」(3b,4)について言っているのだろう。そのような時が来ると。しかし、そのあとに、書かれている、主イエスの魔術のような撃退については、驚かされる。わたしが、知っている、イエスが、することのようには思えない。当時の混乱も少しずつ理解していきたいと思う。
2Thessalonians 3:13-15 きょうだいたち、あなたがたは、たゆまず善を行いなさい。もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者があれば、その人とは関わり合わないように気をつけなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。そして、その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい。
ここに書かれているものは、善良な一キリスト者の生活として、違和感がない。といっても、イエスが大切にしたことと、同じというわけではないだろう。しかし、キリスト者の中に受け継がれたものとして、特に、最後にあるような「その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい。」は、親近感を感じる。イエスの表現とは、少し違っているかも知れないが、喜んでおられるのではないだろうか。

BRC2023(2)

2 Thessalonians 1:6-7 実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。
どうも、パウロのことばとは違うように感じてしまう。むろん確信はない。差出人と宛先についての記述「パウロとシルワノとテモテから、私たちの父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ。」(1)は、テサロニケ前書とまったく同じである。パウロではないように感じるのは、引用句のような言葉だろうか。具体的な内実なしに、裁きについて書くだろうかと考える所以である。判断は難しいが。
2 Thessalonians 2:2,3 霊によってであれ、言葉によってであれ、あるいは、私たちから送られたという手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言う者がいても、すぐに理性を失って動揺したり、慌てふためいたりしないでほしい。誰がどのような手段を用いても、だまされてはなりません。まず、離反が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が現れなければならないからです。
火消しに回っているようである。主の日についてのことに、感心があつまり、それについての議論が様々な方向に発展してしまったのだろう。これは、非常に難しい状態である。主の日については、これからも何回も考えるチャンスがあると思われるので、結論をいそがずに、丁寧に考えたい。
2 Thessalonians 3:13-15 きょうだいたち、あなたがたは、たゆまず善を行いなさい。もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者があれば、その人とは関わり合わないように気をつけなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。そして、その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい。
この前にも「きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないすべてのきょうだいを避けなさい。」(6)とあるが、ある程度人数が増えてくると、これは難しい。このようなひとが一定度いることは、受け入れないといけないのだろう。それだけではなくその一人ひとりを愛することをも学ばなければならない。これはとてもたいせつであるが、困難なことであもる。そして自分自身も老いたり、様々な理由から、勤勉さがうしなわれることを自覚することも大切だろう。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

2Thessalonians 1:3 きょうだいたち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがた一同の間で、互いに対する一人一人の愛が豊かになっているからです。
最も基本的なこととして書かれているのが「信仰」と「互いに対する一人一人の愛」である。「私たちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。」(1Thess 3:12, 参照:1Thess 4:9)他にもテサロニケの信徒への手紙一には「互いに」ということばが多い。(1Thess 4:18, 5:11, 13, 15)ここでは、「互いに対する一人一人の愛」である。最近「互いに」に注目して考えることが多いのは、自分の努力だけではできないからである。そして、多くの場合、自分は問題ないと考えることから紛争が起こるからである。「互いの愛とすべての人への愛」も素晴らしいが、ここでは「互いに対する一人一人の愛」である。実際には「豊かになっている」という言葉が暗に示すように、そうではない、十分ではない現実があるのだろう。それが当然にも思える。しかし、そこにこそ目を向けたい。これこそが「あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいことの証拠です。」(5)
2Thessalonians 2:4,5 この者は、神と呼ばれたり拝まれたりするものすべてに反抗して高ぶり、神の神殿に座り、自分こそ神であると宣言します。私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことを繰り返し話していたのを覚えていないのですか。
テサロニケ第二はパウロの真筆性に議論があるようだが、それは、置いておいても、再臨の教えが、混乱を招いており、火消しを余儀なくされていることが見て取れる。再臨を否定するものではないが、パウロの宣教において、反対・迫害が多い中で、命の危険もあり、再臨信仰を中心的なものとして伝えたことの弊害であるとも思う。揺らぐひとたちが多い中で、仕方がなかったように思う。ひとの為せる業の難しさで、わたしも、同様の経験をたくさん持っている。御心だけを求めることがどれほど難しいことか。
2Thessalonians 3:11,12 ところが、聞くところでは、あなたがたの中には、怠惰な生活を送り、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、主イエス・キリストにあって命じ、勧めます。落ち着いて働き、自分で得たパンを食べなさい。
再臨信仰を強調したことの二つ目の弊害が、これだったように思う。つまり、再臨が近いということから、日常生活が乱れることである。しっかりとした信仰をもっているひとにとっては、問題ではないことが、信仰が広まっていくと、そうはいかない。ある人数を超えると困難の種類が増えるひとつの例かもしれない。普遍性(universality)や、ひとりも取り残さない、すべてのひとをという Inclusive はすばらしい。しかし、同時に、とても、難しいことを背負い込んでいることを忘れてはいけない。学ぶことが多い。

BRC2021(2)

2 Tessalonians 1:6-8 実際、あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。それは、主イエスが力ある天使たちと共に天から現れるときに実現します。主イエスは、燃え盛る火の中を来られ、神を知らない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
わたしは、このような箇所を今まで素通りしていた。自分が正しいかどうかはわからないが、とても、残念である。わたしには、このような記述は、神様のみこころとはとても遠いように思われる。さらに、このあとには「彼らは、主の御顔から、またその御力の栄光から退けられ、永遠の滅びという裁きを受けるのです。」(9)と続く。受け入れない人、裁きをうけることに至る人がいることは、福音書の記述などとも、矛盾はないのだろう。しかし、ここにある記述は、すでに、意図がずれてしまっているように思う。神様は、このような手紙を喜ばれるだろうか。わたしには、そうは思えない。
2 Tessalonians 2:7,8 不法の秘密はすでに働いていますが、それは、今抑えている者が退くまでのことです。その時、不法の者が現れますが、主イエスはご自分の口から吐く息で彼を殺し、来られるときの輝かしい光によって滅ぼしてしまわれます。
このようなことが書かれていることにも驚かされる。論理的にも、整合性がないように思われる。テサロニケの信徒への手紙二を読むと、このあとにも、「私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。」(16,17)とある。批判するような点はないが、パウロのメッセージとは、かなり異なるように思うだけでなく、イエスのメッセージの中心も外してしまっているように思われる。この書き手を裁くわけではないが、聖書の取り扱いの難しさを感じる。
2 Tessalonians 3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、私たちは、「働こうとしない者は、食べてはならない」と命じていました。
子供の頃、文語体で暗証した聖句である。「働かざる者食うべからず」しかし、今回とても気になった。排除の論理が、色濃くあるからである。まず「また、私たちがよこしまな悪人たちから逃れられますように。すべての人に信仰があるわけではないからです。」(2)この「悪人」がどのような人たちをさすか不明だが、「悪」を遠ざけなければいけないことは確かだが、「悪人」と決めつけることは御心なのだろうか。神様は、その人をも愛しておられるのではないのか。「きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないすべてのきょうだいを避けなさい。」(6)きょうだいたち、と呼びかけながら、仲間内をさばいているように見える。その延長線上に、引用句があるようだ。

BRC2019(1)

2Thess 1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。
成長とは、神の招きにふさわしいものとなることなのだろう。しかし、それも、父なる神と主イエス・キリストと、隣人・兄弟姉妹との交わりのなかで、主に育んでもらうものなのだろう。同時に、それが目的化してはいけない。招かれた日から、おそらく、地の塩、世の光なのだろう。わたしは、まだよくわかっていない。
2Thess 2:2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
表現自体が混乱しているように思われるが、再臨は非常に大きな関心事であったこと、そして、かなりの混乱があったことがわかる。続いて「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」(3)と再臨の前に起こることが書かれているが、かえって混乱を来す内容でもある。解釈の幅を許しているから。内部でも、明確な応答がはっきりしていなかったのではないだろうか。それ背景としては、再臨(恐れ)を説く、布教が行われていたことも考えられる。恐れや不安から信仰を持つ、人の弱さは、どの時代にも、あるのだから。現代でも、それが根強く底流としてあるように思われる。「自己中心的な執着、欲望、 恐怖の絆から、できるかぎり人類を解放することが、宗教の目標の一つ(アインシュタイン)」
2Thess 3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
再臨信仰も背景にあるように思われる。しかし、一番のことは、ユダヤ教的背景の倫理は、異邦人の間では基盤としてなかったことだろう。すると、ちょっとしたことから、放銃へと向かう。当時の異邦人宣教の難しさも、このあたりにあったように思われる。むろん、地域ごとの倫理について、学ばないといけないが。もうすでにキリスト教信仰とは、独立のように思われるが。

BRC2019(2)

2Thessalonians 1:6,7 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
本当にそうだろうか。そしてパウロがこのように書くだろうかとも考えてしまう。まあ、この手紙では、このようなことを伝えて励まそうとしているのかもしれないが。苦しめているものも、苦しんでいるものも、神のみ手のうちにあり、かつ、それぞれのひとの人生は、その苦しみに関することで終わるものでもない。ただ、同時に、自分もその苦しみを共にすることをいとわず、苦しんでいる人に寄り添い、苦しめているひとへの神さまの愛をも、理解しようとして、そのひととどのように生きて行くかを試行する、そのような者でありたい。神は正しいことを行われても、わたしたちはそれがどのようなことかはわからないのだから。
2Thessalonians 2:5 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。
「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(2)とあり、かなりの混乱が起こっていたようだ。パウロ(たち、送り手はパウロ、シルワノ、テモテとある(1:1))の名を語って「主の日は既に来てしまった」かのように語る輩にたいして、それを否定している手紙とすると、それもまた、パウロたちの名前をかたって出されているとするのは、たいへんな混乱になる。しかし、そのような権威をもっての、手紙合戦があったのかもしれない。主の日という日常生活にも大いに関係することに、ひとは特別の興味を持つだろうから。主の日は今日の生き方を考えるためであると思うが。
2Thessalonians 3:10,11 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
このような問題をどう考えたら良いのだろうか。最もたいせつにすることではないように思う。自ら気づいて、行動を変える事を望むか、その人の背景を理解しようとすることなどの方法を個人的にはとってきた。しかし、おそらくそれでは本人が気づくことも遅らせることになったり、分断がおこったりもするのだろう。公平さを担保しながら、個人の尊厳を守る。ほんとうに難しい課題で在る。そのことのために、ひとり一人は召されていると言っても良いかもしれない。

BRC2017(1)

2Thess 1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。 
こんなことがどのようにしたら書けるのだろうか。イエスはそのような表現をするだろうか。したとすると、それは、そうならないように、どう生きるかということだったろう。それが愛のメッセージのはずである。それは、誰に対しても同じであるはずである。区別の問題は、考えさせられる。
2Thess 2:3 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。 
これは簡単ではないと言わざるを得ない。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。 」(2節)「霊や言葉によって」が何を意味しているのか不明であるが、それを見分けることはできるのであろうか。おそらく、できることは、落ち着いた生活をし、互いに仕え合い、互いに愛し合うことだけのように思われる。しかし、それこそが、父のもとに迎えてくださる、主をまつ姿勢なのではないだろうか。混乱とならないために。
2Thess 3:12,13 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。 
かなりの混乱があったのだろう。テサロニケの信徒への手紙一では、見られないことである。再臨信仰だけが、一人歩きしてしまった結果かも知れない。訓練をうけた、指導者がいなかったからかもしれない。落ち着いて仕事をし、たゆまず良いことをする。単純な、少し稚拙さを感じることばではあるが、書き手の純朴さが伝わってくるとも言える。そのような群れのためにも、祈りたい。共に、主を待ち望む者として。

BRC2017(2)

2Thess 1:6,7 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
テサロニケの信徒への手紙二は、パウロの著作性に関して議論がある書簡だと言われる。議論の内容はとても複雑で、わたしは分からないとしか言えない。しかし、たとえば、この箇所で指摘されている「正しさ」は、イエスの中心メッセージとわたしが受け取っている「愛」を希薄にしてしまうように感じる。書簡を深く学べばそうではないのだろうか。確信が、他者への裁きに向かい、二分と排除が起こっている。ある信仰者の書簡であれば、おそらく、受け入れることができるであろうに。神のもとに真理があることは、何の疑いもない。しかし、信仰者が「神の正しさを自分は手にしている」と主張すると「分裂を引き起こし」「互いに愛する」ことから離れてしまうのではないのか。
2Thess 2:10 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3章19節)を思い出す。共有している部分があることをもって、同じ神を礼拝し、そのもとにある真理を求めている兄弟姉妹だと受け入れるのだろうか。たとえそうでないように見えても、よいように思われるが。真理を求めて、真理に生かされていきたい。
2Thess 3:13-15 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。
「死に至らない罪」(ヨハネ一5章16・17節)について言っているのだろうか。そのように解釈する人もいるかもしれないが、本質的な違いがあると思う。引用箇所では、現実的な対応を述べているのであり、交わり、いのちとの関わりまでは、意識されていない、モラルの問題のように、読んでしまうのは、偏見だろうか。「どうか、主が、あなたがた(わたし)に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」(5)

BRC2015(1)

2Thess1:3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
お互いは信徒同士、信仰の兄弟姉妹を表すのだろう。神様の故にそれが広がっていくことはまだないのだろうか。イエスのサマリヤ人のたとえは、もう死んでいるのだろうか。もう、想定を超え、逆に制限をしなければいけない状態なのだろうか。本質が失われていると感じてしまう。
2Thess2:15 ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。
この確信はどこから来るのだろう。危険も感じる。こどものように見ているその愛情は伝わってくるが、やはりわれわれは、イエスを通して神様を指し示すことに尽きるのではないだろうか。わたしは、そのことに、集中したい。たとえわたしのこんなところを見習ってほしいと思う部分があったとしても、それは、非常に限定的かつ一時的で普遍性を持たないものだから。
2Thess3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
このあと 3:9b に「あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。」と続く。おそらく、再臨と関連して、日常生活が乱れ、異教徒からも非難されるような危機的な状況があったのだろう。そのなかで、模範を示し、自分にならうものにと強く勧めている。異教世界で、福音を信じた人たちを受け入れて、膨張していった教会の苦悩もうかがい知ることができる。

BRC2015(2)

2Thess1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
4節からも「迫害と苦難」が大きかったことが分かる。5節には「神の国のために苦しみを受けている」とあり、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれている」(1節)ことに対する迫害であることもわかる。それゆえ、3節では「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」と肯定的に励ましている。この中で、死(休息)と主の再臨が最大の慰めとされている。迫害が熾烈を極めたことも見て取れる。現代はどうだろうか。キリスト教はもう不要なのかもしれない。しかし、イエスと共に生きる者が増えていくこともない。私の独善の故にそう思うのだろうか。
2Thess2:16,17 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
15節には「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」とあり、特に17節の部分は、つけたしのように感じる。しかし、イエスの教えは、そうではないのではないだろうか。今生きることと、永遠に生きることがつながっている、神の命に生きることである。その命に生きることは、神の喜ばれるように生きることである。
2Thess3:2 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。
理不尽な状況で何を求めるか。悪に対する裁きを求める。回避できる道を探る。ここでは、具体的には、何を求めているのだろう。受け入れることもできるかもしれない。自分の価値判断が神様のものと一致しているとは限らないから。
 

BRC2013(1)

2Thess1:8,9 その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。
当時の福音の伝え方なのかもしれないが、違和感を感じる。終末において、隠されているものが、光に照らされ明らかにされることはたしかで、そこに、裁きも存在する。しかし、福音は、あくまでも救いである。神様の忍耐と恵みのもとでの悔い改めを説くことであるはずである。
2Thess2:2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。
大きな混乱があったことがわかる。確かに福音書から読み取れるイエスによる終末に関する情報は具体的判断がしにくいものである。天変地異や、迫害、戦争、弟子の死などのときに、混乱があったことが予想される。この克服は難しかっただろう。
2Thess3:8 人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。
天幕張をしていたのだろうか。単純にピリピからの援助で活動していたとは思えない書き方である。模範という意味は、もちろんあったろうが、それ以外にも、その生き方が好きだったのだろう。それも理解できる気がする。

BRC2013(2)

2Thess1:4 そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。
ここで言われている迫害と艱難は具体的に何を意味しているのだろう。全国的なものか、それとも、地域的なものか。ユダヤ人によるものか、ローマによるものか。
2Thess2:16,17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、 あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。
16節の表現を、もう少し丁寧に理解したい。よくわからない面もある。
2Thess3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。
なぜこうなってしまうのだろう。ひとは、基本的に怠惰だからか、つまり、自分がどのように生かされているかを知らないからか。何のために生かされているかを知ろうとしないからか。それとも、単に、肉体と精神が弱いからだろうか。ここでの勧めは「こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。(v11)」となっている。


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テモテへの手紙一

テモテへの手紙一(1)

テモテへの手紙一は次のように始まります。1章1節、2節を引用します。
1:わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
2:信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
「使徒パウロ」から「信仰によるまことの子テモテ」へとなっています。テモテについては、使徒言行録をはじめ記述も多いので、いろいろと知ることができます。まずは、テモテへの手紙二第1章5節を引用します。
そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
テモテの祖母と母が熱心な信者だったとあります。また、使徒言行録第16章1節、2節によると、テモテはリストラにいたようです。
2:パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
3:パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
このことから、父親はギリシャ人、母親はユダヤ人であることが分かります。おそらく、祖母もユダヤ人だったのでしょう。16章は、使徒言行録の記述から、パウロの第二回伝道旅行と呼ばれていますが、一回目の訪問について使徒言行録 14章8節から23節に書かれています。19節から引用します。
19:ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
20:しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
21:二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
22:弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
23:また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
テモテは、このように、なかなか大変な事件の起こった、リストラ出身のおそらくかなり若い青年だったようです。それを伺わせる箇所をテモテへの手紙一第4章12節から引用しましょう。
あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
パウロがテモテを信頼していたことを伺わせる箇所を引用しておきます。フィリピの信徒への手紙第2章19節から24節です。
19:さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
20:テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
21:他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22:テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
23:そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
24:わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
テモテへの手紙一、二およびテトスへの手紙は、すでに宣教と牧会の働きをしていた、テモテ、テトスにその牧師としての務めについて書いているので、牧会書簡とも呼ばれています。ただし、整った教会制度への言及が多いことから、かえって、パウロ著者説を否定する人たちも多くいます。さて、このテモテへの手紙一には、何が書いてあるのでしょうか。

テモテへの第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-2
  2. テモテへの励まし 1:3-20
    1. 偽教師(論争主義)に対して 1:3-11
    2. パウロのあかし 1:12-17
    3. テモテへの勧告 1:18-20
  3. 合同の礼拝について 2:1-15
    1. すべての人のための祈り 2:1-7
    2. 礼拝の場での男女 2:8-15
  4. 教会役員の資格 3:1-16
    1. 監督について 3:1-7
    2. 執事について 3:8-13
    3. 執筆事情 3:14-16
  5. 牧会上の諸問題 4:1-6:2a
    1. 偽りの教え(禁欲主義)4:1-5
    2. 長老テモテへの勧め 4:6-16
    3. いろいろな年齢の人に対して 5:1-2
    4. やもめについて 5:3-16
    5. 長老について 5:17-25
    6. 奴隷に対して 6:1-2a
  6. 種々の勧め 6:2b-6:21
    1. 偽教師(利得主義)に対して 6:2b-10
    2. 神の人テモテへの命令 6:11-16
    3. 富める人々に対する忠告 6:17-19
    4. 最後の忠告 6:20-21


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

1Timothy 1:8-10 私たちは、律法はふさわしく用いるならば良いものであると知っています。すなわち、律法は、正しい者のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のためにあり、そのほか健全な教えに反することがあれば、そのためにあると知っています。
この前には、系図のことが書かれ、「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」(5)とある。「この命令」がよくわからない。「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に、異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように命じなさい。」(3-4)だろうか。引用した、律法についてのこともふくめて、混乱があるように、思われる。パウロの名を使っているが、権威がなくなり、いろいろなひとが様々なことを語り、それを統率できない状況になっていたのかも知れない。アナーキーな状態だろうか。指導者が次々と亡くなっていく段階では、考えられることでもある。
1Timothy 2:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と清さを保ち続けるなら、子を産むことによって救われます。
ここにあるような、ジェンダー関連の当時の考え方、聖書としての言説について、整理して、考えてみたい。イエスがどう考えていたかも、同時に調べてみたいが、背景まで、理解するのは、おそらく、困難なのだろう。ただ、普遍主義だけで、単純に理解することでは不十分だとも思う。最近、学んでいることに、影響されているのかも知れないが。
1Timothy 3:1,2 この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり、冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。
このような記述から、教会の監督(長老)は、男性に限るとしているところがある。教会組織が、このように整っていくのはいつ頃なのだろうか。整備されていくのは、適切なことだが、硬直すると、問題が起こるように思う。また、様々な文化背景のもとで、実質的な整備がされていくことを考えると、柔軟性が大切であると思う。しかし、それをまったく自由にしてしまうことも、おそらく課題があるのだろう。人間社会ではなくならない問題なのだろう。
1Timothy 4:14 あなたの内にある賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちが手を置いたとき、預言を通してあなたに与えられたものです。
テモテ前書は、若い頃から親しんできた手紙である。しかし、いま、落ち着いて読んでみると、いくつも、課題を内包しているように思う。ここにも、賜物について、長老たちが手を置いたときに、預言を通して与えられたとの記述がある。司式の方法も確立し、ある意味では、魔術化(神様の働きから分離されて、人の行為が神の働きを誘発するような変化の表現)が生じているようにも思う。この前には「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(13)とある。日常は、変わらないのかも知れないが、心配にもなる。
1Timothy 5:9-11 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、良い行いによって認められている人でなければなりません。子を育て上げたとか、旅人をもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善行に励んだ者でなければなりません。若いやもめは除外しなさい。情欲に駆られてキリストから離れると、結婚したがるようになり、
大きな組織の中の公助ではなく、共助の段階であろうが、このようなことを丁寧に決めていくのは非常に難しい。教会や、宗教団体でも起こる問題である。なにを基準にすればよいか難しい。極力、主観的な条件を排除すること、さらに、元々の理念である、苦しみを共有し、助け合い、互いに愛し合うことを実践することだろうか。このような責任を担うのは、難しい。
1Timothy 6:3-5 異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、敬虔に適う教えにも従わない者がいれば、その人は気が変になっていて、何も分からず、議論をしたり言葉の争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、妬み、争い、冒瀆、邪推、果てしのないいがみ合いが生じるのです。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の道と考える者たちの間で起こるものです。
この問題も難しい。そのようなひとを理解することは、基本的には困難である。あまり、断定しないほうが良い。あなたのことを教えてくださいと、そのひとの行動や思考の背後にあるものを、少しでも理解すること、愛を持って、としか言えない。互いに愛し合うことは永遠の課題である。

BRC2023(2)

1 Timothy 1:15,16 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
現在は、このことばを読むと、このように書かれた背景を考えてしまう。分析的な読み方をするようになったからか。むろん、それだからよく分かるわけではない。といって、不信仰になるわけでもないと思う。定型として、パウロのことばが様々な形で伝えられていたことは確かだろう。とすると、たしかに、著者について問うのはとても難しい作業になってしまうことも確かである。どのようにうけとるか、ひとりひとりにとって難しい課題である。
1 Timothy 2:4-6 神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方は、すべての人のための贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです。
ここに書かれていることがどのように形成されてきたかに興味を持ち始めている。最初にすべてのひとが救われることを唯一の神が望んでおられるとして、その神との唯一の仲保者としてイエスが挙げられている。さらに、このイエスが、すべてのひとのあがないとして自身をささげたという構造である。唯一性も論理的に鍵なのだろう。しかし、ここに書いてあるようなことは、共観福音書では明確になっていない。どのような経緯のもとで受け入れられていったのかということである。(マルコ10:45・12:28-34参照)
1 Timothy 3:16 まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘義です。すなわち、/キリストは肉において現れ/霊において義とされ/天使たちに見られ/諸民族の間で宣べ伝えられ/世界中で信じられ/栄光のうちに上げられた。
「敬虔の秘義」として書かれている。当時はすでに、このようなことばが、確定していたのだろう。ただ、断片的なものが合わせられた感じがする。そして、意味がよくわからない、またははっきりしない部分もある。このテモテへの手紙記者のもとでは、偉大となっていた言葉なのだろう。明らかにイエス由来ではない、このような言葉が確定していった経緯はよくわからない。
1 Timothy 4:8,9 体の鍛錬も多少は役に立ちますが、敬虔は、今と来るべき時の命を約束するので、すべてに有益だからです。この言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。
当時も、体を鍛えることに時間を使っていたひとがいるのだろうか。ここでの「敬虔」は何を意味するのだろうか。英語では、Godliness が使われ、ギリシャ語は εὐσέβεια: i. reverence, respect, ii. piety towards God, godliness. これは、かえってむかしい。神を大切にするということだろうか。
1 Timothy 5:16 信者の女性で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば、教会は本当にやもめである人の世話をすることができます。
いくつかの難しい問題を考えてしまう。しかし、一般論として、女性が男性より長寿であること、結婚において、生理的にも成熟する年齢が女性の方が低いことも考えると、妻のほうが年齢がひくいことも、統計的差異としてあらわれるのは、必然であるように思う。すると、やもめ(寡婦)が多くなり、かんぷ(鰥夫)が比較的少ないことになる。社会的支援の仕組み(それが教会の役割だったのだろう)が十分でないときには、身内の女性が世話をすることになるのだろう。そのような負担が生じることは、必然でもあるので、それに丁寧に対応する仕組みとともに、男性・女性と簡単にはわけない支援の仕組みも必要なのだろう。少し考えても、難しい問題である。
1 Timothy 6:1,2 軛の下にある奴隷は皆、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは、神の御名と教えとが冒瀆されないためです。主人が信者である場合は、きょうだいだからといって軽んじることなく、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その良い行いを受ける主人は信者であり、愛されている者だからです。
当時は、宗教がすべてだったのだろうか。宗教ですべてを解決しようとすることは限界もあるが、それが求められたのかもしれない。同時に、簡単な解決がないことは確かで、革命のようなことは、指導者は考えていなかったろう。そうではあっても、この教えだけで、平安が得られたか考えると、おそらく否定的であったろう。神の義を人の義で置き換えてはならない。わたしならどう書くだろうか。これも難しい。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

1Timothy 1:6,7 ある人々はこれらのものからそれて、空論に走り、律法の教師でありたいと思いながら、自分の言っていることも、何を主張しているのかも分かっていないのです。
「これらのもの」は「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」(5)だろうか、または、「信仰による神の計画を実現させるもの」(4)だろうか。しかし、わたしも、律法、神の御心について、正直よくわかっていない。このあとに「律法は、正しい者のためにあるのではなく」(9)とあるが、それなら、聖書を熱心に読むことはなくなる。テモテへの手紙一には、いくつも、好きな聖句があるが、それほど単純ではないのかもしれない。しっかり読んでいきたい。
1Timothy 2:1,2 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。
「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。」(ロマの信徒への手紙13章1節)を思い出す。しかし、意図が必ずしも同じだとは思えない。ローマの信徒への手紙では、世の中の構造について述べているが、ここでは「私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るため」としている。わたしは、どちらも、完全には、受け入れられないが、特に、テモテへの手紙のほうは、社会の喧騒から離れて、信仰的な生活を送ることを目指しているようで、問題があると思う。しかし、当時の状況は、それほど容易いものではなかったのだろう。権力の問題は、難しい。しかし、日常的な課題でもある。信仰と政治、そして、日々の生活における命の営み。しっかり考えていきたい。
1Timothy 3:2 ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり、冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。
8節からは「奉仕者」について書かれている。当時の教会で、求められていたリーダーとしての資質が書かれている。教会制度が整ってきているとともに、課題も噴出していたのだろう。結婚については、当時と今とで社会的状況がことなるので、単純に理解することは問題があるが、他の性質はどうだろうか。イエスが、招いた人たちとは、少し違っているように思われる。維持には、必要とすることはできるが、教会はつねに、混乱を引き受けなければならないところのように思う。同時に、リーダーシップはとても大切であることは確かだが。
1Timothy 4:4,5 神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされるからです。
「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」(使徒言行録10章15節)を思い出す。コルネリウスに会いに行くまえにペトロに示された言葉である。ここでは「神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされる」としている。なぜ「執り成しの祈り」がはいっているのだろうか。「結婚を禁じたり、食べ物を断つよう命じたりします」(3a)からつながっている。コミュニティでの営みが常に大切にされたということだろうか。「この偽りを語る者たちは、自分の良心に焼き印を押されており」(2b)も含め、よくわからない。
1Timothy 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、 良い行いによって認められている人でなければなりません。子を育て上げたとか、旅人をもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善行に励んだ者でなければなりません。
福祉の概念が未発達で、かつ、共同体が財政的にも苦しかったろうと考えると、批判することはできないが、当時から、様々な問題があったことが推測できる。もしかすると、この程度の対応で、良かったのかもしれない。規模はつねに重要な課題なので。しかし、苦しんでいるひと、悲しみを背負っている人を受け入れ、仕え合い、互いに愛し合うことは、別途できていたと信じたい。文字で書かれた聖書を絶対化することの、課題は多い。
1Timothy 6:1 軛の下にある奴隷は皆、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは、神の御名と教えとが冒瀆されないためです。
たいせつな教えだったのだろう。しかし、同時に、奴隷制度は、いけないとして、戦い、ある場合には、死んでいったひとたちの、愛の大きさも感じる。そして、その時代にも、この聖句を上げて、奴隷制度反対に対して、聖書には、こう書いてあると唱えた宗教家もいるだろう。おそらく、今の時代にも同様なことはある。たいせつなのは、神の御心を求め続けること。聖書のことばであっても、絶対化せず、互いに愛し合う道を探ることだろうか。少しずつ、整理していきたい。

BRC2021(2)

1 Timothy 1:15,16 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
「限りない寛容」が「罪人の頭」に示された。このことは、パウロが強く意識していたことだろう。あまり、自分のことばでは、そのようには語らないが。この、テモテへの手紙一が、どの程度、パウロに近いかも、考えながら読んでいきたい。
1 Timothy 2:12-14 女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜなら、アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。また、アダムはだまされませんでしたが、女はすっかりだまされて、道を踏み外しました。
時代的なものなのだろう。ということは、神様が愛されたいろいろな人との交流を通して、神様の理解が進んでいることを意味しているとも言える。このような言葉に対する、聖書批判とも、しっかりと向き合わないといけない。むろん、これを見て、これこそたいせつなことと、このことを、実際にそのとおりとする考え方や、この書もパウロの直筆によるものとして、他の箇所たとえばコリントの信徒への手紙一11章7-16節などを引用して、引用箇所に難しい解釈を付与することも考えられるが。
1 Timothy 3:16 まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘義です。すなわち、/キリストは肉において現れ/霊において義とされ/天使たちに見られ/諸民族の間で宣べ伝えられ/世界中で信じられ/栄光のうちに上げられた。
この前には、監督と奉仕者(訳によっては、執事)の記述がある。上の箇所も、すでに定型文になっているのだろう。かなり時代的は下っていると思われる。フィリピ2章のようなものなのだろうか。これが「敬虔の秘義」と呼ばれている部分が興味深い。フィリピ2章のしもべの賛歌の部分とはかなり異なるが。「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリピ2章2-8節)
1 Timothy 4:3,4 結婚を禁じたり、食べ物を断つよう命じたりします。しかし食べ物は、信仰があり、真理を認識している人が感謝して受けるようにと、神がお造りになったものです。神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。
「偽りを語る者たち」(2)の記述である。まず、食べ物について「信仰があり、真理を認識している人が感謝して受けるようにと、神がお造りになったものです。」と書かれているが、これも、食べ物についての一般的な理解を言っているのではなく、食べ物を断つということに限定して語られていることをまずは確認すべきである。食べ物は、神様が造られた、人間(動物もあらゆる生き物)だれにとっても大切だからである。そのあとに続く部分「神が造られたものはすべて良いものであり」は、一つの信仰告白、神様がどのような方かの理解を表現したものであるが、それほど簡単に、評価できないように思う。二元論では、解決できないことがほとんどなのだから。
1 Timothy 5:4 やもめに子や孫がいるなら、まずこの人たちに、自分の家族を大切にし、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神に喜ばれることだからです。
「本当にやもめである人」について書かれている。これは、分離につながり、公平性は担保できない。現代につながる問題が、すでに、ここに書かれている。どのようにすればよいのか、そして、キリスト者コミュニティなど、仲間内ですべきことなのか、どのように、仲間や教会が関わるべきなのか、いずれも、とても、難しい問題である。こどものことも、やもめや老人などの福祉などの課題は、その社会のありかたと深く関係しており、分離していくことでは解決に至らないことは、当然であると思う。それは、聖書をどう読むかにも関係してくるように思う。引用箇所のような考え方から自由に、課題を整理することが、推奨されるかどうか、ひとの対応は分かれてしまうのも当然であると思われるからである。難しい課題である。
1 Timothy 6:1,2 軛の下にある奴隷は皆、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは、神の御名と教えとが冒瀆されないためです。主人が信者である場合は、きょうだいだからといって軽んじることなく、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その良い行いを受ける主人は信者であり、愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。
ここまでであれば、ある真実が含まれていると思う。互いに愛し合うこと、神様が、その主人の背後にもおられることを受け止めることだから。ただ、これに続く部分は、受け入れがたい。「異なる教えを説き、私たちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、敬虔に適う教えにも従わない者がいれば、その人は気が変になっていて、何も分からず、議論をしたり言葉の争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、妬み、争い、冒瀆、邪推、果てしのないいがみ合いが生じるのです。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の道と考える者たちの間で起こるものです。」(3-5)kこれを「満ち足りる心を伴った敬虔」(6)と呼ぶのだろうか。わたしには、できない。

BRC2019(1)

1Tim 1:4,5 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
このあとには、律法の問題も取り上げられている。混乱を引き起こす種はいろいろと存在したのだろう。作り話については、わからないが、系図は、イエスの系図に関係することかもしれない。マタイとルカの二つの系図も不明確であるので。ここでは、それらについては、語らず「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛」に目を向けるように伝えているようである。しばらくのときがたつと、無意味な詮索がおこるのは、理解できる気もする。疲れから保身をもとめるのかもしれない。
1Tim 2:13,14 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
多くのつまずきを引き起こしてきただろう。このようなことを根拠にしてしまう、人間の弱さ、そのゆえに、真理を求めなくなってしまう性向。同時に、このようなことについて、どう対応すれば良いかも、大きな課題である。一人ひとりが、神に愛される個人として、その尊厳が尊ばれると同時に、さばきあうのではなく、互いに、人々の中で、それがたいせつにされることを求めていくために。
1Tim 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。
信仰告白の核だろうか。いくつか、気づくことがある。受肉は理解できるとして、霊において義とされるとはどのようなことだろうか。霊と肉を区別するまたは二元論が背景にあるようである。特に気になるのが「天使たち」12弟子のような親しい弟子のことを証言に加えていない。弟子たちを天使と呼んでいるわけではないだろう。関連は否定できないが。「栄光のうちにあげられた」が最後に来ていることも気になる。原型なのだろうが、おそらく、パウロ起源のものとして興味深い。
1Tim 4:7,8 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。
具体的な教会運営のことに関わると、どうしても、How-to が増えてくる。方法論である。すると、山上の説教などで、イエスが述べた、天の父なる神の御心をもとめる、神の子としての直接的な神への信頼と服従から離れ、律法主義に陥る危険性を持つことになる。律法主義にならない、つまり方法論が絶対化しない方法はあるのだろうか。ここで方法と書いてしまった。方法論をわたしも求めているようである。イエス様のように、神の子として生きることは不可能なのだろうか。
1Tim 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
制度の難しさを感じる。共同で支援するため、公平性から基準が必要となり、それも、客観性が要求される。しかし、困窮を計測するのは困難ではない。多くの指標が必要となる。おそらく、どの場合にも適切と言えるものはできないだろう。このあたりにも、人工知能利用の課題が生じうる。限定的に、ある責任集団の判断に任せるような仕組みも必要なのだろう。このあとにある、11節以降の「年若いやもめ」に対する批判は辛辣である。困ったケースが実際にいくつかあったのだろう。しかしだからといって、本当に困っている「年若いやもめ(困窮者)」を放置はできない。
1Tim 6:6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
多くの混乱が生じていることがわかる。霊長類の脳の大きさと群れの大きさの相関から導いたとされる「ダンバー数:人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限」がどの程度、ここで適用されるか不明であるが、あるていど共通の基準をもっていても、相互に配慮できるグループのサイズには、上限があるのだろう。そのことは、否定できない。神の子として、神の恵みをともにうけとることができればと思うが、この「共に」はどのようにして可能になるのだろうか。神秘的な聖霊の働きなどに依存し、結局、問題がおこることもある。正直、わたしには、わからない。

BRC2019(2)

1Timothy 1:4,5 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
正しさより愛とわたしが表現することとも関係しているが、おそらく、ひとは保身・自分は正しく安全であることを保証することを求める傾向があるのだろう。それを罪とは呼びたくないが、性(さが)だろうか。むろん、だからどうしようもないことでもない。どのように、互いに仕え合い、互いに愛し合うことに進んでいったらよいのだろうか。よくわからない。世の中で起きていることをみながら考える。わたしも、自分だけ正しければ、良ければという性からこのように毎朝考え祈っているのかもしれないと思う。本当に難しい。
1Timothy 2:11-14 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
問題になる箇所である。当時は、今とは背景が異なるとして説明されることもあるが、このように書くということは、女性の働きが大きく、かつ、おそらく目にあまると思われることも多かったのではないだろうかと思う。明確な統計は示されていないが、キリスト者に女性が多かったことは、ほぼ間違いないだろう。普遍性は公平性に価値がおかれ、それと異なる状況に対して、変化をも求めることになるのは自然なことである。女性が十分たいせつにされていなかったことは確かだろう。その中で、キリスト教社会では、女性の活動が顕著になってくる。現代と同じである。その状況に対するおそらく男性だけが著者となっている聖書の言葉としてこのようなことが残されているのも自然である。謙虚にさせられる。背景には、識字率など教育格差もあるだろうし、知的価値偏重ということもあるのだろう。
1Timothy 3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。
信仰告白の定型(またはひな形)のひとつなのであろう。基本的にキリスト論であるが、キリストに、焦点が当てられ、十字架についても復活についても、また贖罪についても述べられていない。「信心(eusebeia: 1. reverence, respect 2. piety towards God, godliness)」の秘められた真理ということばは、不明である。栄光のうちに上げられたは、昇天を意味しているのではなく、高い・偉大なものとされたということだろう。「真理」と言われている以上、おそらく、ある程度支持するひとが多かったと思われるが、どの程度、普及していたのだろうか。
1Timothy 4:14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。
なにか、特別なことが、按手によって起こったような印象をうける。「預言によって」は、按手が主のみこころによって起こっていることを示すものなのだろうか。おそらく魔術のようなものではなく、按手をうけた者(この場合想定されているのはテモテ)がそれを、主からのもの受け取り、それに応答する関係の中で、賜物となっていくのだろう。受け取ったものの信仰の働きと、主の導き(客観性のあるものではないかもしれないが)を、テモテの働きから認めることの、ひとつの表現として受け取れば良いのだろうか。
1Timothy 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
課題がありそうだ。支援は、たいへんなひとたちを支えるもので、困難は多様だからである。"Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way. - Leo Tolstoy” 最近読んでいる、Data Science の本に "Tidy datasets are all alike, but every messy dataset is messy in its own way. - Hadley Wickham" とともに書いてあった。本当にその通りである。「アンナ・カレーニナ」の冒頭の表現のようだが。支援、混乱に対応するものが、常に心しておかなければいけないことである。「教会に負担をかけてはなりません。」(16)とあるが、教会は、このような背景もしっかりと受け取らなければ、教会の働きにはならない。"To understand God's thoughts we must study statistics, for these are the measure of his purpose. - Florence. Nightingale"
1Timothy 6:1,2 軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒瀆されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。これらのことを教え、勧めなさい。
このような記述が社会変革を遅らせるとも言われ、関連して「宗教はアヘンである」というマルクスのことばが引かれる。最近、日本共産党の機関誌「赤旗」ホーページでその原文を引用して説明している箇所を読んだ。原文は「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」とのことで、アヘンは鎮痛剤など有効にも使えるが、そうではなくなる場合もあるとの主張だとある。25歳の時ともあり、驚かされる。テモテの手紙を見ると、すでに、そのときの状態が理不尽、不公平、unfair であり、神さまの御心ではないという認識が背景としてあったことを示しているとも読める。その状態を、マルクスの時代までひとは、そしてキリスト者は変えることができなかった。人間の弱さ故だろうか。そして、現代でも続いている問題はあまたある。

BRC2017(1)

1Tim 1:6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。 
4節には「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。 」とある。実際にどのような議論があったかは分からないが「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。 」(テトス3章9節)にも「系図の詮索」とある。自分たちの系図か、イエスの系図かは不明であるが、いずれにしても「無益な議論」であることを、記者は述べている。そして「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。 」(5節)このことは、理解できる。ここから離れてしまうことがいかに多いことか。
1Tim 2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
「願いと祈りと執り成し」とあるが、印象的なので「すべての人々のためにささげなさい」とあることである。これがどこまでにかかっているかは不明であり「願いと祈り」についても同様かはわからない。しかし、これに続き「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 」(4節)となっていることからも、すべての人々がつねに意識されていることがわかる。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 」(2節)とあるので「すべての人々」は、信仰を持っているかいないかに関わらずであることは、確かである。「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 」(3節)まだ練れたことばになっていないとも感じるが、その素朴さからよけい、愛に根ざした平穏で落ち着いた生活の様子が伝わってくる。
1Tim 3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。 
なにも問題がない言葉であるが、これが律法化され、一人歩きし始めると、問題が生じるのだろう。同時に、そうならなければ、神への信頼・信仰という、主観的になりやすい基準に依存することになってしまう。普遍性のある教えに留まった、イエスの教えとの違いでもある。イエスはそのことも知っておられたのだろうか。
1Tim 4:14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。 
テモテへの手紙一、二は、高校生のころ好きな書簡だった。若いテモテに書いているということが、身近に感じられたからだろう。しかし、いまは批判的にも見てしまう。引用している節の後半は何を意味しているのだろうか。按手の祈りを意味しているように思われる。このような表現が用いられることは、問題ではなく、それをどう解釈するかが問題なのかもしれない。しかし、聖書のみと聖書を律法化して言葉通りにうけとることが程度の差こそあれ、一般的なキリスト教会においては、魔術的でやはり問題となりうる表現である。
1Tim 5:8 自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。 
「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。 」(3節)から始まっている。しかし、実際には、様々なケースがあったのだろう。それを丁寧に、すべて書くことはできない。だからこそ、主旨を読み取らなければいけないのだろう。同時に、書簡が聖典になることの危険性をやはり強く感じてしまう。
1Tim 6:20 テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。
ゆだねられているもの、わたしは何になのだろうか。何だったのだろうか。それから、迷い出て、関係の無いことに、時間とエネルギーを使ってきたのだろうか。すくなくとも、それをつねに、考えながら生きていくことは、これからもしていきたい。いま、生かされていることの意味を考えながら。

BRC2017(2)

1Tim 1:9,10 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
基本的に、罪を認識させるためと言っているようである。つまり、正しさの議論に用いてはいけないということだろう。そのまま受け入れることが適切かどうかは不明であるが、一つ示唆に富んでいる。「作り話や切りのない系図」(4)「無益な議論」(5)に迷い込み、互いに愛し合うことができなくならないために。おそらく「正しさは道具じゃない」(中島みゆき)
1Tim 2:12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。
この前の節にも「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。」(12)とあり、この根拠として、これに続けて「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(13,14)とある。さらに「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(15)どのように解釈しても「アダムはだまされませんでしたが」を本質的に正しいと言い切ることは困難だろう。そして「アダムが最初に造られ」たことには、記されたときの神理解が反映していることは否めず、それも神の御心とすることはできないことはないが、旧約聖書の記載目的の中心は、どちらが先かには、なかったことも、共有できるだろう。問題は、これが書かれている、新約聖書と、それが神の言葉であることをどのように理解するかに依っている。しかし、さらに、わたしは前提条件と、推論規則が規定されていない、自然言語のなかで、演繹の結果を絶対化することの、問題も見逃してはいけないと思う。ただ気をつけなければいけないのは、おそらく、12節の主張が先にあったと思われるのと同様に、聖書は神の言葉であるという意味の私の理解が先にあり、それから、上の議論を組み立てているのであれば、結局同じだと言うことである。正しさとは方向が異なる、互いに愛し合う、兄弟姉妹を愛することにおける、御心の価値観を大切にして理解することなのかもしれない。
1Tim 3:1 この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
「監督」は使徒20章22節では、エフェソ教会の記述に現れ、フィリピ1章1節では、監督が 宛先の一つになっている。テモテの手紙一以外は、テトス1章7節にあるのみである。監督(episkopee)は、investigation, inspection, visitation を意味する言葉のようだが「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペトロの手紙一2章25節)から考えると、牧者と近く、ペテロが託された「わたしの羊の世話をしなさい」(ヨハネ21章16節)「わたしの羊を飼いなさい。」(同17節)と似た役割なのか。監督教会での定義づけも学んでみたい。
1Tim 4:16 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
4章は1-5節に一般的なことが書かれており「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」(6) から具体的なことが書かれ、引用句で終わっている。具体的なことは、絶対的ではなく、普遍性も乏しい場合があるが、有効である。それら、一つ一つに、わたしも、教えられてきたように思われる。おそらく、具体的な教えを絶対的なものとするのではなく、そのようなたいせつなことを、分かち合うこと自体が、御心なのかもしれない。互いに愛をもって仕え合うことだから。
1Tim 5:9,10 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
やもめとして登録することが具体的に何を意味するのか不明であるが、福音書でも弱者の象徴として「やもめ」が登場するし(マルコ12:40, 42, 43)使徒言行録6章1節でも「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」ことがことの発端であったことを考えると、やもめを支えることは、聖書に描かれている初代教会の社会では、慈善の基本だったのだろう。それが、この書が書かれているころには、問題も生じているようである。しかし、明らかに、厳しくすること、引用句のように制限することが、よいとは思えない。どの時代にも、難しい判断が迫られる問題があったということだろう。しかし、そこで決まることは、やはり、御心なのか、問われることでもあるように思う。謙虚に、御心を求めて生きたい。
1Tim 6:20,21 テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。
「ゆだねらているもの」と抱えている。それが何かはわからないが、後半は十分想像がつく。知識に基づく、議論が生み出すものは、殆どな。知識を、議論や、正当性の主張に用いてしまうのだろう。Dual Use の問題ともとれる。神様の御心、たいせつなものを、求めたい。

BRC2015(1)

1Tim1:3-5 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。
このあと清いこころとそれに根ざした行為について書かれており、11節には「祝福に満ちた神の栄光の福音に一致」していることが書かれている。問題がたくさんあったことを意味すると同時に、目指すところがずれることへの警告を発しているのだろう。熱心からも、細かな議論にとらわれることがある。ひとの知る範囲は限られているのだから、その謙虚さをもって、行動しなければならない。
1Tim2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
この根拠のようなものとして、4節「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」がある。確かに、すべての人が真理を知るようになるわけではない。しかし、神がそれを望んでいるのであれば、わたしたちも「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげ」よう。それがみこころなのだから。神業のような、神の働きを見るためにも。
1Tim3:15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
教会での実際の活動についての指針が2章のはじめから書かれている。内容は、実際的で必ずしも普遍的ではない。これを神のことばとして硬直して受け入れるのは、問題があると思われる。しかし、同時に、愛弟子のテモテに教えていると考えると、そこには、人の知恵も十分に入っていると考える方が適切であろう。簡単に却下するわけではないが、そのことを理解した上で、読むことは必要だろう。これは、テモテにあててかかれたという設定にあるのだから。
1Tim4:5 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
神のみこころを知る二つの手段である。ひとつは聖書、そして、もう一つは祈り。後者は、聖書で指摘される自分自身の中にあるものを神の前に出して、まさに、神様のこころとのシンクロナイゼーションを図るものだろう。おそらく、受け取るだけでは、本当の意味はわからない。主体的自由だろうか。
1Tim5:11,12 年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、 前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。
当時の一般的な知恵だったのだろう。ある一部の真理は含んでいるだろうが、正直に言ってこれが神の知恵だとはいえない。聖書の読み方として、気をつけるべき点である。これは、愛弟子テモテにむけて十分な理解力をもって、修正をしながら実行してくれる信頼を持っていたと思われること、パウロがこのような実際の問題について理解していた部分は、一部分に過ぎなかっただろうこと、そうではあっても、教会内の問題に、自分たちで解決することが適切だと考えていたことなどを適切に評価しつつ、実際の対応に関しては、イエスのように、ひとり一人に目を向けることをたいせつにすべきこと、などであろうか。クリスチャン以外にも、神は働いておられることに関して、積極的な理解をえることも大切であろう。
1Tim6:17,18 この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 
これは、この世で富んでいるひとに限ったことではないのではないだろうか。「不確かな富に望みを置く」はすぐ他のことに置き換えることもできるから。まさにこれに続くように、神にこそ望みを置くべきであろう。

BRC2015(2)

1Tim1:4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。
本質ではないことでも、分かると思うことに根拠を持とうとすることが背景にあるように思われる。イエスはダビデの子か、ナザレから何の良いものが出ようかなども、そのたぐいのことだろう。議論できることの中には神の救いの実現に寄与することはないのかもしれない。神学論争はどうなのだろうか。いろいろと考えてしまう。
1Tim2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
6節に「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」とあるが、それとあわせても、万民救済を神が望んでおられることを述べた聖書の箇所としてはすこし弱いように思われる。基本的な文脈としては、「わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれること」(3節)として「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」(2節)が基盤としてあるようであるからである。パウロはどのように考えていたのだろうか。
1Tim3:16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。
当時の信仰告白の定型文なのだろうか。パウロが推奨したものだろうか。キリスト信仰の形式としては整っているが、イエスと実際に生活をした弟子たちには違和感があったのではないだろうか。これでは、イエスの愛と行動、生き様に表された、神のご性質が読み取れないから。別の囲いにいる群れとして寛容を持って受け入れたであろうが。福音書からよみがえるイエス様にわたしが惹かれると言うことは、当時も、そのようなグループが十分な数いただろうと思わされる。このころをもっと理解したい。
1Tim4:7 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。 
信心について書かれているが「信心のために自分を鍛える(訓練(口語))」事が何を意味しているのかは、不明である。信心は8節にあるように「この世と来るべき世での命を約束する」ものであること、10節にある「すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いている」は信心を説明してはいるだろう。1節にあるように「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。」ことが背景にあることも確かだろう。11節に「これらのことを命じ、教えなさい。」とあり、それ以降に書かれていることが、鍛える事なのだろうか。「信心のために自分を鍛える」ことについて、もう少し考えたい。
1Tim5:24,25 ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。 同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。
神の前にかならず明白になるとの認識はよいとして、このように、言うことで、悩みが増す人が多くはならないのか。これらのことにまで、明言することが、心配になってしまう。やはり本質的なことを説き、あとは、どのように信仰に生きるかを共に考えるべきではないだろうか。
1Tim6:6,7 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
口語訳では「しかし、信心があって足りることを知るのは、大きな利得である。」となっており、印象が異なる。しかし、信仰自体が、信心ということばが良いかもしれない。神様が素晴らしい方で、神様において不足することはないことが基本とあり、それが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6章33節)につながっていると考えると、基本的な意味は十分理解できる。7節もヨブ1章21節「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 を思い出させる。
 

BRC2013(1)

1Tim1:9,10 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
罪の自覚を促すためであり、罪を責めるためではないと表現してもよいだろうか。律法主義は、それによって救われると信じる信仰より、それによらなければ救われないと裁くところに問題があるのかもしれない。
1Tim2:14 またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
よくもこんな事が書けると思うが、それが、パウロまたはこの書の著者の限界でもあったのか。わたしも、明らかと思っていることで、同じように感じさせられることを言い、なしているのだろう。
1Tim3:15 万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。
この当時「いける神の教会」とはどのように捉えられていたのだろう。すくなくとも一つのもので、かつ組織ではなかったろう。もう少し勉強したい。
1Tim4:13 わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。
このときの聖書は旧約聖書だから、全体として、多少保守的にも思われる。しかし、それがパウロがテモテに望んだことなのだろう。キリスト教会の成立は、興味深い。
1Tim5:6 これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない。
かなり手厳しい。この地域の福祉が当時どのようになってたかが関係するが、教会が福祉を担う最初の種々の問題がでているように思われる。
1Tim6:17 この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
まったく現代に通じることである。このような富から自由に生きたい。

BRC2013(2)

1Tim1:19 ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。
18節にある「正しい良心をすてた」とはどういうことだろうか。自己正当化だろうか。局所的な価値観、つまり、神様の働きを認めない事か。これは、どのように判断することができるのか。
1Tim2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
それなら皆を救えば良いということは、おそらく違う。愛はそのようなものではないのだろう。神の痛みを感じる。
1Tim3:7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。
この理由が考えさせられる内容である。悪魔のわなとは何であろうか。自己正当化におちいり、神に栄光を帰さなくなる事であろうか。他者の批判に向かう事であろうか。もうすこし、考えたい。
1Tim4:14 長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。
この恵みの賜物はなにを意味しているのだろうか。預言によって与えられもよくわからない。神の言葉を通して確信をもって、与えられた、召命だろうか。
1Tim5:3 やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。
やもめに対する勧告が長い。具体的な問題がたくさんあったのだろう。しかし、具体的な問題だから仕方がないが、普遍的な対応とは言えないように思われる。また、表現にも単純に受け入れられない面がある。
1Tim6:7,8 わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。
このように告白したい。住からも自由でありたい。このことが、10節につながっていると思う。「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」最後の言葉は考えさせられる。ユダのことも思い出す。


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テモテへの手紙二

テモテへの手紙二(1)

テモテヘの手紙二はつぎのように始まります。1章1節、2節。
1:キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
2:愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
「命の約束」とあるのは、聖書でここだけです。旧約聖書も新約聖書もいのちの約束について書かれているとも言われますが。2節に、「恵み、憐れみ、そして平和」とありますが、この「憐れみ」が入っているのは、テモテへの手紙一、二だけです。特に、この「憐れみ」ということばを入れたかった背景があるのかもしれません。

11節に、

この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
とありますが、この書は、宣教者、使徒、教師から、宣教者としての弟子テモテへのメッセージともなっています。少し拾ってみましょう。まずは、続く1章12節からです。
12:そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
13:キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14:あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
自分のことを、自分の言ったことを手本にせよ、とは、なかなかいえませんね。2章2節には、
そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
これは、よく福音、教えの継承として引用されるところですが、「わたし(パウロ)」「テモテ」「忠実な人」「ほかの人々」と4世代のひとがこの短い聖句にはいっており、さらに、それが「多くの証人の面前で」と書かれています。さらに、15節には、
あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
この箇所は、口語訳では、
あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。
とあります。「練達した働き人」個人的な経験ですが、この2章2節と15節、わたしが若い頃暗唱していた聖句です。このテモテヘの手紙二は、このようにするには、どうしたらよいかが書かれている気がして、よく読んでいたのを思い出します。かつ、よく例も出てきます。ひとつひとつの勧めの言葉に背景があるのだなとも思わされます。3章の1節には、
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
とあり、このあと、「そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。」から、5節の「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」へと続きます。これは、一般の人のことではなく、おそらく信者、キリスト者の中でのことを言っているのです。困難な時代にあって、実際にそのようなことも起こっていたのではないでしょうか。そして、3章の14節から17節の言葉に続きます。「真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人にな」る鍵として、述べられているように思います。
14:だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
15:また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
16:聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
17:こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
さらに続きます。4章1節から
1:神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
2:御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
3:だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、
4:真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
5:しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
この次の節には、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」とありますから、最後の引き継ぎのメッセージなのでしょう。

テモテへの第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-2
  2. テモテへの励まし 1:3-1:14
    1. テモテのための感謝 1:3-5
    2. 働き人テモテへの勧め 1:6-14
  3. 背教と愛の奉仕の実例 1:15-1:18
  4. 熟練した働き人 2:1-26
    1. 働き人の姿勢 2:1-6
    2. 働き人の苦難 2:7-13
    3. 偽教師の中のテモテ 2:14-26
  5. 危険に立つ正統的信仰 3:1-4:8
    1. 真理に逆らう偽教師 3:1-9
    2. 正統的教義の基礎 3:10-17
    3. 伝道者テモテへの命令 4:1-5
    4. パウロの勝利の告白 4:6-8
  6. 終わりに 4:9-22
    1. テモテの来訪を待つ 4:9-15
    2. パウロの現況 4:16-18
    3. あいさつ 4:19-22


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

2Timothy 1:10 今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。
命と不死、永遠の命というのであれば、わたしも、求めているが、一般的には、肉体的な死後の世界、または、復活を意味して、それを求める宗教としてキリスト教は広がったように思われる。このことばを読めば、そう取るのが自然だろうから。難しい。
2Timothy 2:11-13 次の言葉は真実です。/「私たちは、この方と共に死んだのなら/この方と共に生きるようになる。耐え忍ぶなら/この方と共に支配するようになる。/私たちが否むなら/この方も私たちを否まれる。私たちが真実でなくても/この方は常に真実であられる。/この方にはご自身を/否むことはできないからである。」
信仰告白の一形態だったのだろうか。最初の一文は、パウロ的であるが、二番目は、不明、三番目もよくわからない。四番目は、五番目に続いているが、「神の真実」は、通常用いられた用語なのだろう。最初と、最後に、キリスト教の真理が入っているようであるが、それを「次の言葉は真実です」として、定型の信仰告白とするのは、問題を感じる。
2Timothy 3:6,7 彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女たちをとりこにしている者がいます。その女たちは多くの罪を重ね、さまざまの情欲に駆り立てられており、常に学んではいるが、いつになっても真理を認識することができません。
文脈から、これは、ある特定の人々を表現しているようだ。それが、この章の最初にある、終わりの日の困難の一般的表現に結びついている。しかし、何を意味しているのだろうか。キリスト者の中に、そのようなことをする人たちが、ある程度いたということだろうか。不明である。終わりの日の困難な時期は、見方によっては、どの時代にもあるように思われる。
2Timothy 4:16 私の最初の弁明の際には、誰も助けてくれず、皆私を見捨てました。どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。
ここには、ある真実が含まれているように思う。なにを表現しているのだろうか。パウロの、使徒言行録以降については、あまり資料がないのだろうが、調べてみたい。キリスト教の拡大においては、とても重要だったろうから。今読んでいる本からすると、コンスタンチヌス帝の頃にも、キリスト者の割合は、それほど高くはなかったようだが、ローマ帝国で、10パーセント程度は越していたとすると、やはり大きなことであり、その最初の一歩は、パウロに帰する部分が多いのだから。

BRC2023(2)

2Timothy 1:9,10 神が私たちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、私たちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにあって私たちに与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。
文章の完結してない前半は暗記するほどよく読んだ。しかし、後半は、あまり丁寧に読んでいなかったように思う。丁寧に、全体を理解しないといけないとまずは思う。さて、後半は、キリストは死を無力にしと始まる。どのようなことを言っているのだろうか。たしかに、このようなことをイエスが語ったとも言えるが、12節にも登場する「かの日」と関係すると、難しい。パウロが語り始めたことに、どんどん尾鰭がついたこともあるように思う。それを一部のみ抜き出すのは、本当に問題である。
2Timothy 2:16,17 俗悪な無駄話を避けなさい。それによって人々は、ますます不敬虔に陥り、彼らの言葉が悪性の腫れ物のように広がるからです。ヒメナイやフィレトはその一味です。
ときどき、「俗悪な無駄話」というようなことが出てくるが、丁寧に調べてみたい。「俗悪な」は、テモテ前書1:9, 6:20 とこの箇所と、ヘブル12:16 のみ、「無駄話」は、テモテ前書6:20 とここだけである。つまり、テモテ書簡の用語なのかもしれない。このあとには、「復活はすでに起こった」と言っていると続くので、正統信仰に関係する議論なのかもしれないが、いろいろな問題が生じてきていることはあらわしているのだろう。どの時代でもそうなのかもしれない。人間のいるところでは、つねに起こる問題だろうか。
2Timothy 3:1,2 このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。その時、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒瀆し、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。
このあとにも、ずっとこのような表現が7節まで続く。大変な状態だったのだろう。それを納める必要があった指導者が、パウロの名で、書いたのだろうか。よくはわからないが、少し、この時代の背景も学んでみたい。
2Timothy 4:3,4 誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。
これは現代を表現しているように考えてしまうのは、わたしが、この社会からはみ出してしまったからなのかもしれない。しかし、現代は、AI の recommendation 機能で、個人の好みにあわせた情報が送られてくるようになっている。ネットにおいても、そうである。それは、あきらかに、自分にとって耳障りの良い話、好き勝手に情報源を集めていることでもある。真理から耳を背けることに成っているのではないだろうか。真理と向き合うことはだれにとっても難しい。しかし、その機会がどんどん失われていくように思われる。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

2Timothy 1:6-8 こういうわけで、私はあなたに注意したいのです。私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください。
テモテへの手紙二は不思議な手紙である。パウロの真筆説が薄いが、パウロと、テモテの関係とともに、他にも具体的な名前が含まれている。しかし、引用箇所を読むと、なにか、受信者(テモテ)は、何からの信仰的危機にあるように伺える。ここからは、想像でしかないが、テモテが過去に、おそらく、パウロが囚われている頃に、無気力になり、大胆に働くことがなかった時期があったのかもしれない。そして、同様なことが、この手紙のころにも起きている。そして、この手紙を書いている人は、そのようなネガティブなことを持ち出すだけの、力があった人なのだろうということである。ゆっくり読んでみたい。
2Timothy 2:22,23 若い頃の情欲を避け、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。
昔、若かった頃は「そのとおり」と思って読んでいたが、これは、無理なことを求め、若者の危なっかしいが、素晴らしい部分をそいでいるようにもいまは感じている。情欲はエネルギー源であるとともに、このことを通して多くのことを学ぶことも確かである。そして、苦い経験も。同時に、そのようなときに、「正義と信仰と愛と平和を追い求め」ることも、素晴らしいことだと思う。愚かな議論と言っているが、たしかにあとになってみれば、愚かだと思うことも多いが、そこを通って初めて、愚かさがわかるのではないだろうか。そして、大人も、やはり愚かである。殻を打ち破る力は、若い頃のほうが強いように思う。なにをわたしは書こうとしているのだろうか。おそらく、わたしは、若い人に、もう少し違った関係の持ち方をしたいということなのだろう。考えさせられることは多い。
2Timothy 3:15-17 また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
聖書については、この箇所が引用される事が多い。私も、幼い頃から日々の聖句カレンダー、日曜学校などで、聖書のことばに親しんできた。そして、たしかに、神様の御心、真理の緒(いとぐち)を与え続けてくれたように思う。教派による解釈の違いはあるが、聖書を書いた人たちが、神の御心を求め、祈り、これこそ、神が言われていることだと確信したことを、書き、それを、神様も良しとされていると考えている。私が、祈り、探究的に聖書を読んでいるのと同じように。これなしには、私の一日一日は、整えられないとも思う。ここに書かれた言葉のとおりであるが、それが教義となり、そこから演繹が始まると、途端に拒否感を感じてしまう。探究的ではなくなるからだろう。探究的とは、自分はまだほとんど神様からのメッセージを受け取っていないという告白でもある。わざとらしい謙遜ではなく。本当に、わからないのだから。そしてそのもとで生きていくことが信仰生活ではないかと思う。
2Timothy 4:16 私の最初の弁明の際には、誰も助けてくれず、皆私を見捨てました。どうか、そのことで彼らが責められることがありませんように。
「私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。」(6)などから見ると、パウロの最晩年の記述になっていると考えて良いだろう。すでに亡くなっているかもしれないが。するとこの「最初の弁明」は何を意味するのだろうか。使徒言行録を見る限り、パウロは何度も法廷弁明をしている。おそらく、その最初ではなく、ローマでの最初の弁明ではないだろうか。状況は、推測しかできないが、パウロが望んでいた状況ではなかったことはうかがい知ることができる。「ルカだけが私のところにいます。」(11a)は興味深い。ルカは、おそらく、使徒言行録の終わりよりも先まで書くことができたのだろう。しかし、書かなかった。とても、興味深い証言である。

BRC2021(2)

2 Timothy 1:13,14 キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたに委ねられた良いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
「こういうわけで、私はあなたに注意したいのです。私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。」(6)ともあり、まさに「愛する子テモテへ。」(2a)と題する手紙である。しかし、テモテも、この時点では、幼子ではなく、霊的乳飲み子でもない。すでに、多くの人との交わりを通して神様から学んでいるはずである。親子の関係においても、霊的な師弟の関係にあっても、そのことを、軽くみてはいけないと思う。「私から聞いた健全な言葉」も、課題を含むことを、学んでいくことこそが、御心(聖霊によって)に従って生きることではないのだろうか。時代的・社会的な背景もあるだろう。パウロや、テモテとともに、御心を求め続けていきたい。
2 Timothy 2:8 イエス・キリストを思い起こしなさい。私の福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されました。
「愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。もしかすると、神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれません。」(23-25)テモテへの手紙は疑似パウロ書簡(Pseudo-Pauline Epistles)とされ、真筆性が低いとされている。そのことはおいておいても、パウロの議論も、ある部分、愚かで無知な議論だったように思われる。当時の、キリスト者、ユダヤ教の信者、そして、ギリシャ文化の中のひとたちにとって、いくら立派な議論であったとしても。このような文書から、様々なヒントを得る。しかし、一人ひとり、少しずつ学んでいく過程におり、知っていることは、ほんの限られた部分なのだから。
2 Timothy 3:5-7 見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女たちをとりこにしている者がいます。その女たちは多くの罪を重ね、さまざまの情欲に駆り立てられており、常に学んではいるが、いつになっても真理を認識することができません。
たしかに、このようなことは、あるように思う。そして、おそらく、自分も、多かれ少なかれ、このような状態にも近いとも思う。ここでは、どうも女性のことを言っているようだが、むろん、女性に限ったものではない。男性にとっては、女性のほうが、上手に、敬虔を装っているように見えるのかもしれない。いずれにしても、本質的ではない。「常に学んでいるが、いつになっても真理を認識することができない。」まさに、わたしのことを表現しているように思われる。
2 Timothy 4:13 あなたが来るときには、トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください。
「羊皮紙のもの」とある。このように言えばそれがどれであるかわかるのだろう。パピルスよりも、ずっと高価で、長持ちすることは容易に想像がつくが、これは、何だったのだろうかと考えた。旧約聖書であれば、おそらく、そのように書くか、または、パウロが常に携帯していたろう。(疑似パウロ書簡(Pseudo-Pauline Epistles)であるかどうかは置いておいて)可能性があるのは、それ以外の、ヘブル語で書かれたものかもしれないと思った。テモテは理解できない可能性も高いので。もし、ギリシャ語で書かれたものであれば、それだけ、特別だったのだろう。どの程度普及していたかも気になる。そのようなこともいずれ学んでみたい。

BRC2019(1)

2Tim 1:1 キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
「神の約束」は多くあらわれるが、「命の約束」は聖書中ここだけである。近い表現としては「これ(初めから聞いていたこと)こそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」(ヨハネの手紙一2章25節)だろうか。内容は、どのようなものだったのだろうか。少し時間をかけて、約束の内容を学んでみたい。
2Tim 2:11 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマの信徒への手紙6章8節)「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙一5章10節)にも現れている。パウロが中心的なメッセージとして伝えたことでもある。イエスと同じ様になる、神の子となる、というメッセージから、死と復活に焦点をあてて、パウロが表現した救いのそしてキリスト者の生活の表現なのだろう。実体は、もう少し考えないと不明である。
2Tim 3:1,2 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
このあとにもリストが続く。世を愛し、神を畏れなくなることが表現されているようである。しかし、どの時代にも、一般には、同様なことは、起こるように思う。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタイによる福音書24章12節)を思い出す。「ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。」(8)とあるように、信仰者の中での問題と理解したほうが良いように思う。「困難な時期」もそれを表現しているのだろう。現在は、どうなのだろうか。終わりの時を生きているという認識は、常に必要なのかもしれない。ただ、ここでは、どうも、特定の人々が想定されているようで、本当に「終わりの時」の一般的現象を記述しているのかは、不明である。
2Tim 4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
「パウロから」と1章1節にある。このあと、多くの名前が並ぶ。当時の人達は、ここにあげられて人をよく知っていただろう。おそらく、それだけではなく、この当時のなかで、有名な人たちなのではないだろうか。そう考えると、テモテへの個人的な手紙だとすると、これだけ書く必要はないようにも思う。なにか別の目的があったのかもしれない。一人ひとりについては、丁寧に調べないといけないが、どの程度わかるかは不明である。

BRC2019(2)

2Timothy 1:15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
「アジア州の人々は皆」はある程度誇張はあるだろうが、なにかとても大きな変化があったことは推測できる。そう考えると「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(6,7)も、この危機的な状況を背景としているのかもしれない。ただ、もしかすると、アジア州に、ヨハネがエフェソスあたりに移ってきて、パウロの解釈とはことなるイエス・キリストが重視されるようになったのかもしれない。信仰から離れたとは書かれていないこともあり、想像だけではいけないが、いろいろな可能性が考えられる。パウロ著作説を疑う学者も多く、パウロが亡くなったあとだとすると、十分混乱は理解できる。全体的な考察を信仰をもって行う教父の出現を待つ時代だったのかもしれない。
2Timothy 2:6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
マタイ20:1-16 の一デナリずつの譬えとは異なるように思う。実際、神さまの御心のままにが信仰者として受け入れるべき態度であると思う。因果応報とは異なる世界である。神さまにとっては、公平さの担保は、人間が考えるものとはことなるようである。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」(8)この記述も「ダビデの子孫」であることをイエスは強調しなかった。注意を要するように思われる。
2Timothy 3:10,11 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
前半は「あなたは」とし後半は「わたしは」となっている。パウロは、耐えたという感覚があったのだろうか。神さまを信頼しただけではないだろうか。テモテにとっても「迫害と苦難をいとわなかった」という表現が当たっているのか。ていねいに見ていくと、違和感を感じる表現がいくつもある。一般論として、否定するわけではないが、パウロ著者説を否定する学者がいることは、理解できる。むろん、わたしに、判定はできないが。わたしの知りたち事は、神さまのみこころ、そして、イエス様によって示された、真理である。
2Timothy 4:11 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。」(コロサイ4章10節)「愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。」(コロサイ4章14節)このように、コロサイの信徒への手紙にもルカとマルコについてここにも書かれている。コロサイの手紙の記述からも、ルカはパウロと共にいることが表現されている。それをことさら強調することで信用度を高めるというような可能性もないわけではないが、おそらく、ルカは、パウロの人生の後半ずっと共にいたのだろう。「愛する医者」の表現以上のなにも書かれていないことがより信頼性を高めているように思う。愛するものが共にいることは、とてもおおきな力となり、その記録は、おおきな意味を持つと思われる。

BRC2017(1)

2Tim 1:12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 
構造が複雑でよくわからない。「わたしにゆだねられているもの」は「わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」(10節)「福音」(11節)と言ってよいものだろう。しかし最後の「その方がかの日まで守ることがおできになる」とはどのようなことだろうか。かの日におこるとされる約束の成就をいっているのだろうか。救済史が念頭にあるのかもしれない。
2Tim 2:24,25 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、 反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 
この前の節には「愚かで無知な議論を避けなさい。」とある。「愚かで無知な議論を避け」すべきことがここにあるのだろう。教えること、忍ぶことができるように、なっていきたい。最後に悔い改めさせるのは神であることが明言されていること、そしてそれが「かもしれない」という可能性に対する信仰でもあることが書かれている。わたしもそのように生きたい。争わずに。
2Tim 3:9 しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。 
「ヤンネとヤンブレ」は不明である。引用には、出エジプト7:11, 12, 9:11 にあるエジプトの魔術師があげられており、ユダヤ人の伝承によるらしい。興味深いのは、そのようなまやかしはいずれは、わかるようになるということである。しかし、そうであっても、真理には向かわないのだろう。現代の状況に近いように思われる。
2Tim 4:5 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 
16節には「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。 」とあり、一人奮戦している様子がある。3章10節には「しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、 」とあるが、パウロの個人的な思いの強さが感じされる。正直、パウロの手紙かどうか、もし、そうでなければ全体をどう理解すれば良いのか。また、当時なにが問題で、どのような信仰告白をもち生きていたのか、いずれも、よく分からなくなる。どのように読めば良いのだろうか。いずれ、聖書の会での質問のようなものを、作ってみたい。それが作れる程度には、じっくり学んで。

BRC2017(2)

2Tim 1:15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
もし、この手紙が、パウロが書いたものでないなら、なぜ、このようなことが書かれているのだろうか。このあとの記述からすると、パウロはローマの牢獄にいる。それが、マイナスであると、考えたと主張しているのだろうか。このようなこと一つ一つを考えてみたい。
2Tim 2:24-26 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。
「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。」(ヨハネ一5章16節)を思い出した。今朝は、ラジオでフィンランド発の心理療法「オープン・ダイアローグ・セラピー」について話していたが、問題を抱えているひとと向き合うのは、ゆっくりと聞くことがまずはたいせつなのだろう。神の働きをみせていただこうすること。つまり、自分で解決または、裁いてしまわないことである。それが仕えることなのかもしれない。
2Tim 3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
「神の霊の導き」これをどう理解するかがひとによってわかれてしまうのだろう。そしてそれによって、人と人が裁きあう。霊とは「行動を引き起こすもとにあるその方の本質」と辞書から理解しているが、聖書について、わたしならどう表現するだろうか。「神様のこころ(霊)にうごかされて、どのように生きていったらよいかを求め続け、実際に行動してきた、その人のいのちのいとなみそのものが、神様のこころと響き合って書かれた」ということだろうか。ここでの「いのち」こそ「永遠のいのち」であると信じたい。そしてそこには、無理な演繹を持ち込まなければ、正しさによる裁きはない。
2Tim 4:13 あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。
手紙の最後の部分は、とても興味深い記述が続く。著者や成立経緯にも関わることにも思えるが、少なくとも、この部分は、パウロ由来なのだろう。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」(6)や「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。」(16)の前半も、背景を暗示させる。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」(7)が実際に、パウロの手で書かれたかはわからないが、最後の瞬間には、興味をそそられる。特に「外套」と「羊皮紙の書物」。わたしは、これから、どのように、生きていくのだろうか、生きることが許されるのだろうか。楽しみでもある。

BRC2015(1)

2Tim1:15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
苦悩が見て取れる。これが、テモテに対しても、6節にあるように「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」と激励しているのかもしれない。テモテ第二はパウロが書いたかどうか疑われているもののようだが、背景は何なのだろうか。個人名も書かれているので、ある程度特定できる事件が背景にあったのだろう。書簡もいつかは、学んでみたい。
2Tim2:13 わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」
この言葉(11-13節)はどこからの引用なのだろうか。以前は非常に燃えて学んでいた書簡が、基本的には信仰をもって生き抜いた人の知恵としてしかうつらない。これで良いのかどうか、自分でもよくわからない。しかしこの言葉のように、信仰者の真実の告白または、神が与えたことばといえるようなものにも出会う。聖書の読み方は難しい。聖書についての理解も真実と事実の使い分けで説明がつくのだろうか。やはりそれだけでは誠実に向き合うことができないようにも思われる。イエスさまから学びたい、そのことばと行動から。それも、それらの証言でしかないが。
2Tim3:1-5 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
はじまりは、イエスのメッセージを思い出させる。しかし、おわりは「こういう人々を避けなさい。」イエスのメッセージとは異なるように思われる。不法がはびこる。多くの人の愛が冷える。その中でどう生きるのか。希望をなにに置くかによって変わるように思われる。
2Tim4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
わたしは決してこのようには、いえないだろう。確信をもてず、しかし、神様にゆだねる。そのような信仰生活を歩みたい。それは、個人の性格の差なのだろうか。イエス様のゲッセマネの園の祈りを考えると、そこには、最後まで神のみこころを求め続けた、そして委ねていく謙虚さがある。わたしはその姿勢に倣いたい。

BRC2015(2)

2Tim1:6 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。
なにか魔術のような記述がされている。口語訳では「こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。」とあり違う印象をうける。按手は1テモテ4章14節には「長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。」(口語)こちらの新共同訳はあまり違和感がない。「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。」原語をもう少し理解したいが、そこまで行き着けるだろうか。
2Tim2:2 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
このことばを大切に訓練を受けてきた時期もある。多くの証人がおり、パウロがおり、テモテがおり、忠実なひとたちがおり、ほかの人々がいる。このように、伝えていくことの重要性である。しかし、実践的なこの表現が先行し、キリストと直接つながる、困難であり、一見抽象的に見えるが、本質的かつ、日常的な営みがおろそかにされる。その危険性である。特に、個々の聖句をひといあつめて綴り合わせる信仰形態においては、大きな問題となりうる。
2Tim3:14,15 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
だれから学んだのだろう。パウロだと言いたいのではないだろうか。正統な系統を残そうとしているのではないだろうか。それでは、新しい問題に立ち向かうことができない。聖書への親しみ方が鍵であろう。むろん、簡単ではないが。謙虚さだろうか。簡単には、言えない。
2Tim4:3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
自分の都合、自分の得、好みをまず優先する時代である。それで、基本的なことは満たされているのかもしれない。目に見える部分は。そこに無いもの、自分自身と向き合うこと、神様と向き合うことがない世界なのかもしれない。作り話はなにを意味しているのだろう。現実と乖離したということだろうか。社会・世界の現実、自分のありのままの姿からの逃避だろうか。なにを伝えようとしているのだろうか。

BRC2013(1)

2Tim1:4 わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。
どのような涙かは記されていない。パウロと別れることについてだろうか。それとも、最初に、パウロと同行することを哀願したときだろうか。他の信徒についての涙だろうか。ここからは分からない。しかし、涙を覚えていると言うことから、深い体験を共有していることが感じ取れる。わたしにもそのような時があるように思う。何人かとの体験として。
2Tim2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
これがパウロの考えをパーフェクトに表現したものであるなら、救済史の中のキリストが中心なのであろう。そして、死人のうちからのよみがえりが鍵となっている。神の子として神の全き支配の中に生きることを通して、神を示してくださったイエスにならって生きることと、やはり差を感じる。
2Tim3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
聖書の位置は、この表現では、現在のプロテスタントで言われているものと比較して、あまり高くないように感じる。「聖書のみ」を強調する余り、論理的に強く聖書の価値を主張するようになった、歴史的背景があるようにも思われる。人間世界の難しさ、言葉の限界も感じる。
2Tim4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
終末を思って今を生きることは、イエスの教えの中で重要な柱であると思う。しかし、すぐにでも主は来られるとして、現在の生き方を変えることには、性急さを感じる。もう少し、この問題も考えたい。

BRC2013(2)

2Tim1:7 というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
このように言い切れるのは、神への信頼の故だろうか。力と愛と慎み、もう少し良く考えたい。
2Tim2:2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
単なる受け渡しであれば、イエスの直接の弟子が受けた真理が減衰していく。ひとり一人がゆだねられたものをもって生きることで、自分自身がその真理の証人となり、直接の証人として、受けたものをゆだねていかなければならないと思う。
2Tim3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
まず「神の人」からスタートする。わたしたちは、神の人、しかし、十分な準備ができておらず、整えられてもいない。完全に整えられたものになりたい。良いわざは、そのような準備ができているものができるのかもしれない。
2Tim4:3,4 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
Mt24:23からの終末預言にも近い。わたしは、そのようにならないように気をつけよう。しかし、閉鎖的・排他的な価値観に留まってしまう事や、年とともに頑固になることとどのように区別したら良いのか。教える者としても、それを聞く者としても、神の前に謙虚に真理を求める者でありたい。


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テトスへの手紙

テトスへの手紙(1)

テトスへの手紙の冒頭は、他の手紙と比較するとかなり長いものになっています。1章1節から4節まで引用します。
1:神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
2:これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
3:神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――
4:信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。
テトスについては、聖書に何回か記されています。ガラテヤの信徒への手紙2章1節から3節
1:その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。
2:エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。
3:しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。
これがいつのことか正確には分かりませんが、文脈からは使徒言行録15章に書かれているエルサレム会議とも呼ばれているときの事かもしれません。すると、パウロとバルナバによる一回目の伝道旅行の後と言うことになります。ここからテトスはギリシャ人であり、割礼を受けていなかったと書かれていますから、パウロたちの伝道の最初のころにはすでに、キリストを信じるようになっていた非ユダヤ人ということになります。上に引用した4節には、まことの子とありますから、パウロを通して、信仰を持つようになったのかもしれません。テトスについては、コリントの信徒への手紙二にも何回か出てきます。コリントに遣わしたテトスがよい報告をもって帰ってきたこと、それによってとても慰められたことが書かれています。(コリントの信徒への手紙二 7章5節から16節)また、同じ手紙の8章23節には、次のようにあります。
テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。
パウロが信頼をおいている、同志テトスにあてたとされているこの手紙も、テトス宛としながらも、もっと一般的なことが託されているのでしょう。

そのテトスに託された福音、テトスへの手紙3章3節から7節を引用します。

3:わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
4:しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
5:神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
6:神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
7:こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
皆さんは、テトスへの手紙のどんなことばが印象的ですか。

テトスへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介

  1. あいさつ 1:1-4
  2. テトスへの勧め 1:5-2:10
    1. 長老について 1:5-9
    2. クレテの偽教師 1:10-16
    3. 各層の教会員に対して 2:1-10
  3. 倫理の神学的基盤 2:11-3:11
    1. 救いの目的 2:11-14
    2. 教会員全体への勧め 2:15-3:2
    3. 勧めの根拠 3:3-8
    4. 偽教師に対する処置 3:9-11
  4. 終わりに 3:12-3:15


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Titus 1:7-9 監督は、神の家の管理者として、とがめられる点があってはなりません。わがままでなく、すぐに怒らず、酒に溺れず、乱暴でなく、恥ずべき利益を貪らず、客を手厚くもてなし、善を愛し、慎みがあり、正しく、清く、自制心があり、教えに適った信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。それは、健全な教えによって人を励まし、また、反論する人たちを正すことができるためです。
この前には「長老は、とがめられる点がなく、一人の妻の夫であり、その子どもは放蕩を責められたり、反抗的であったりしない信者でなければなりません。」(6)ともある。引用句にはその理由も「健全な教えによって人を励まし、また、反論する人たちを正す」ためと書かれている。たしかに、ここは、クレタで町ごとに長老をたてることが主たる仕事であったようなので、ある程度理解できるが、一般化するのは、難しい。神の前に共に、謙(へりくだ)るものだろうか。そうはいっても、やはり、群れ全体に、気を配れる人が必要であることも確かである。祈って、わたしの役割について、考えたい。
Titus 2:14 キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです。
高校生の頃に、覚えた聖句でもある。いまの、わたしのことばで表現するとどうなるか、考えてみた。「キリストがわたしたちを愛するゆえに、十字架上で死なれたのは、わたしたちを、神のみこころにあらがうすべてものから、解放され、みこころをもとめ、それを生きる民と共に、生きるためだと、わたしは信じています。」だろうか。難しい。しかし、(みこころを行う)神の子として共に生きるように、招かれていることは確かで、その模範を示されたのだとは思う。
Titus 3:7 こうして私たちは、イエス・キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
ヨハネによる福音書を読んでいると、永遠の命は、今を生きるもののようにも思う。丁寧に、聖書全体について、永遠の命について、調べてみたい。まずは、マルコから「イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」(マルコ10:17)「今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:30)これが一番、原始的な福音書における永遠の命についての言及だろう。来るべき世での永遠の命である。

BRC2023(2)

Titus 1:10,11 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を欺く者が多いのです。特に、割礼を受けた人々がそうです。彼らの口を封じなければなりません。彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、すべての家庭を壊しています。
正直、恐ろしいことが書かれている。このように考えていくと、どうしても、敵と味方に分けることになっていくように思われる。まず、最初には、抽象的なことばが続き、選別が難しい。それにもかかわらず、割礼を受けた人びとがそうだと、その種別に言及している。そして、厳しい命令が、口を封じるように与えられている。この手紙をうけとって適切に判断するのは、とても難しいと思う。
Titus 2:1-3 しかし、あなたは、健全な教えにふさわしいことを語りなさい。年を取った男性には、冷静で、気品があり、慎み深く、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。同様に、年を取った女性には、聖なる者にふさわしく振る舞い、人をそしらず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように勧めなさい。
健全な教えの全貌は明らかではないが、ここにあるように、年を取った男性や、女性で、ここに書かれているような状態ではないことがあったのだろう。だから、教えている。冷静でなく、気品がなく、慎み深くなく、信仰と愛と忍耐においても、問題がある、ということか、あまりよくはわからないが、どれも、徹底するのは難しいように思う。
Titus 3:1,2 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権力者に服し、これに従い、あらゆる善い行いをするよう心がけなさい。また、誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。
政教分離、政治にタッチするなと言っているように思う。当時は、なるべく波をたてないことが重要だったのかもしれない。それは、変化していくのだろう。おそらく、絶対的なものはない。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Titus 1:1,2 神の僕、イエス・キリストの使徒、パウロから――私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、敬虔にふさわしい真理の認識へと導くためです。それは、永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
書き出しは、他の書簡とはかなり異なる。他の使徒などのメッセージとの関係もあるようで、興味深い。すでに、いくつかの教えが、統合されていっていたのかもしれない。「永遠の命の希望」という言葉はここだけだが、パウロの影響が強いのかもしれない。「こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。」(ローマの信徒への手紙5章21節)テトスは、クレタに行っていたことがあるのだろう。
Titus 2:12,13 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教え、また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
伝えたいことが迫ってくる。「慎み深く、正しく、敬虔に生きる」ことをもって「私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」として、再臨信仰の表現の仕方が修正されているように思われる。テサロニケの信徒への手紙一・二の時代を経て、教会の中で、集約されていった一つの方向性なのかもしれない。そう考えると、興味深い。
Titus 3:1,2 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権力者に服し、これに従い、あらゆる善い行いをするよう心がけなさい。また、誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。
当時は、これが大切だったのかもしれない。これこそが証だったのだろう。ローマの支配の中で、階級があり、貧富の差も大きく、小さな反乱などはあったろう。いずれ、学んでみたい。現代での状況を考えては、いけないのだろう。しかし、ここに書かれていることは、なにも悪いことはない。基本的な姿勢としては、これこそが、神の恵みと憐れみのもとに生きるものの日々の生活なのかもしれない。

BRC2021(2)

Titus 1: 6 長老は、とがめられる点がなく、一人の妻の夫であり、その子どもは放蕩を責められたり、反抗的であったりしない信者でなければなりません。
このあとには、監督を立てることについての注意事項が続く。基本的に基準は品行方正である。まあ、そのような人のほうが望ましいことは確かだろう。少し気になったのは、子どもについて書かれている部分である。たしかに、子供の素行は、親の影響である可能性はあり、通常は見えていない部分が、子供に現れる面はあるが、これが基準とするのは、注意を要する。現代の教会でも、にた状況は起こるので、難しいと思う。特に、キリスト者が減っている日本、特に地方の教会のようなところでは。
Titus 2:1,2 しかし、あなたは、健全な教えにふさわしいことを語りなさい。年を取った男性には、冷静で、気品があり、慎み深く、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。
このあと通常のモラルに属することが並ぶ。おそらく、「健全な」社会を志向していればほとんどのものが、当然・自然なことだろう。同時に、社会・時代によって、多少基準が異なったり、重点の置き方も変化する。それをすべて聖書の中に基準を見つけようとすることには、問題がある。むろん、といって、信仰「健全な教え」の関わる範囲を限定してしまうのも問題があるのだろう。「健全な教えにふさわしいこと」神様の御心を求め学び続けること。ここに尽きるように思う。
Titus 3:1,2 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。
前章では、個人または小規模なグループ内での倫理について語っているが、ここでは、社会的責任に関する、おそらくキリスト者以外のひととの関係も視野に入れられている。ただ、その部分は少ないように思われる。まだ、よく理解されていなかった可能性も高い。迫害も波状的にあり、どう生きるかには、様々な課題もあったろう。それが「あらゆる善い行いをするように心がけなさい」の背後にあることなのかもしれない。このことは、考え始めたばかりだから、結論を急がず、ゆっくり考えていこう。

BRC2019(1)

Tit 1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。
割礼を受けている人たちは、直接的には、ユダヤ人をさすのだろう。近いひとたちが、問題だと言っている状態になっている。この問題については、考えてみたい。異教徒と、異端において、異教徒には、寛容になれても、異端には、不寛容となることが多い。ひとからの評価を恐れているようにも思われる。異端ではなくても、少し教理的に離れた教派にたいしては、寛容になれない場合が多い。なぜなのだろうか。やはり、自分の正しさを求めているからだろうか。
Tit 2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
神の子として生きる生き方を自ら示されたことは、たしかだろう。それが、このように表現されることも理解できるが、単に、人間社会のモラルを解いたと理解されてはいけないように思う。福音は、どのように理解されていたのだろうか。考えさせられる。
Tit 3:9 愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。
これらの議論が、初代教会にもたくさんあったのだろう。詳細の内容については、わからないが、これらのキーワードで現代で議論になることがあることも事実である。直前には「そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 」(8b)とある。山上の垂訓の基準とは異なるように思うが、良いことであり、人々に有益であることは、確かなのだろう。

BRC2019(2)

Titus 1:15,16 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。
長老任命における注意点に引き続き「実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。」(10)とあり、そこから続いている。分断を生じ、人の世界での裁きが止められなくなるように思われる。判断基準が明確でないだけでなく、互いに愛することにおいても懐疑的になり支障が生じると思われるからである。引用句がたとえ真実であるにしても、行動の基準に採用しないことはたいせつであると思われる。
Titus 2:9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。
奴隷が自分で主をあがめようとすることと、教えることには、差があるように思う。神さまの権威のもとにあるものが、謙虚さをもって、神さまを讃美することと、神さまが愛しておられるひとりひとりをたいせつにすること両方を考えることだろうか。簡単ではないのかもしれない。キリスト者院生会で話すことになり、いろいろなことばをまとめる必要性を感じている。ていねいに対応していきたい。
Titus 3:8 この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。
「この言葉」は直前の「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(7)だろうか。その少し前には「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(5)とあり、次の節では「この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」とある。しかし、このことと、「神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようにな(る)」には隔たりがある。5節がたいせつな真理を証したことばであるにしても、それですべてが魔法のように、解決するわけではないと言うことだ。謙虚に、真理を求めていきたい。

BRC2017(1)

Tit 1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。 
ユダヤ人の作り話は実際にあっただろう。イエスの死体を盗んだということに関する「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。 」(マタイ28章15節)などである。他にも調べてみたいが。「真理に背を向けている者の掟」は不明である。様々な律法の遵守なのか、ほかのことなのか。実際に、不明のことが多い時に、判断は難しい。「互いに愛し合うこと」はたいせつな証言かもしれないが、基準といえるのだろうか。
Tit 2:11-14 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 
定形文に近いものであると思われる。信仰告白とも言える。「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」とまずあり、ユダヤ人に限らない普遍性が述べられている。「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と生き方を教え「イエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」と未来に関する、再臨信仰を教えている。それぞれをどう表現するかは、差があったかもしれないが、この世での生き方と、この世の終わりに関する希望が、救いそして神の恵みの内容として語られている。この世での生き方が、どのように恵みと結びついているかは語られていないが。
Tit 3:7 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 
いくつか、救いに関して鍵となる言葉が書かれている。「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた」(4節)ここには、「神が救い主」だということと、人間に対する愛が明らかにされたときについて書かれている。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって」(5節)とある。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」(5節)と表現されている。この部分を理解するのは難しい。どのようにして、造り変えられるのだろうか。この次には、聖霊が豊かに注がれたとあるが、あまりに観念的でどう理解したらよいのか分からない。

BRC2017(2)

Tit 1:15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
わたしは、これを否定しているのだろうか。よく考えると、そうでもないのかもしれない。まずわたしがたいせつにしているのは、誰が清いか、だれが汚れているかは、ひとには、よくわからないということである。「こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。」(16)この状況の中で考えるのは、神の恵みと忍耐に、希望を持っているものとして、生きることだろうか。そしてそれは「神の恵みと忍耐に希望をもって」他者を見ることでもある。判断は、神様にお任せして。神様は、おそらく「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している」ひと、そしてその周囲のひとをみて、苦しんでおられる。愛が冷えることのないようにと祈る。
Tit 2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
この章には、具体的な日常的な教えがならぶ。このあとで書かれていると「良い行い」はそれらをさすと考えるのが普通だろう。しかしこの時代には、普遍性を考えたり、普遍的なことや、文化的なことを区別したりはしなかったろう。ここでも不法は anomia (the condition of without law: a. because ignorant of it b. because of violating it)が使われている。その意味では、普遍的なものが根底にあるとも言える。イスラエルの民を型として認識する、本質も考えられているのかもしれない。
Tit 3:3 わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
実際、このような状態だったのかもしれない。しかし、ここを起点とすると、日本とは書きたくないが、多くの場合、受け入れられないのではないだろうか。これではいけないと、真剣に努力している人たちが多いのだから。もう少し、他の表現が必要である。神様の恵みを語るときに。

BRC2015(1)

Tit1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
この節は7節の「監督は」からつながっている。倫理的なこと、救いの根拠をそこに求めているのではない「教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人」はイエスのことばにとどまる(ヨハネ8:31,32)実質的な意味だろう。すなわち、神のこころをこころとして生きようとする、永遠のいのちを生きること、それは、日々自分の十字架を負って生きることでもある。それをなす側も、周囲も違った方向に理解してはいけない。
Tit2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
すべての人に救いをもたらすことと、すべての人が救われることは異なるのだろう。とはいえ、受け取ること、それは、だれにでも、本当にできるのだろうか。主体的自由は、それほど大きい天賦のものなのか。この主体的自由も、神の恵みの一部なのだろう。しかし、最後のステップは残っている。もう少し、罪の赦し、主体的自由の付与について考えたい。
Tit3:5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
霊によって生まれること、そして、霊によって生きることがヨハネによる福音書などからも、見て取れる。しかし、なにかこのように、その事実が救いとして分離された形で提示されると、その実体について問いたくなってしまう。共観福音書の記者は、どの程度、このことを共有していたのだろうか。

BRC2015(2)

Tit1:12-14 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。
この言葉の続きかたに、興味をもち、考えてみることにした。最初の部分は「彼らのうちの一人」と言っているので自己矛盾を含んでいる。真偽が決定できない。発言者とは独立に、記者が「この言葉は当たっています。」と言うことによって、真であると断定している。第三者が判定することで、論理を保っている。それは置くとして、後半には、ユダヤ人の「作り話」も出て来て興味をもった。迷わすものは、多いのだろう。そのなかで、神信仰に目を向け集中する。謙虚に。そのようなものでありたい。
Tit2:9,10 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。 
奴隷状態を受け入れて、主人に服従すること、この先に、神様の喜ばれることがあるのかもしれない。神の栄光をみることを、どのように考えるかは、困難である。しかし、すこし広い見方もしてみたい。すくなくとも、自分の生き方において。
Tit3:1,2 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。
神が与えてくださるものは、善いもので、感謝して受けることによって、神様からの恵みを豊かに得、かつ、神の栄光を見ることができることを言っているのだろう。そうではないのではないか、と考えるよりも、このような道を通して、神様はどのように、御栄光を表してくださるのだろうかと考える方がよいのかもしれない。

BRC2013(1)

Tit1:1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、
パウロが使徒とされた目的が、ここでは「神に選ばれた者たちの信仰」の訓練となっている。これは、テトスとの関係において言われているのだろうか。「神に選ばれた者」を予定的に広くとっているのだろうか。このような表現は興味をひく。
Tit2:2 老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、
わたしは、このようでありたい。若者に、信仰と愛と忍耐において健全であるように勧めたい。自らを制して。
Tit3:12 わたしがアルテマスかテキコかをあなたのところに送ったなら、急いでニコポリにいるわたしの所にきなさい。わたしは、そこで冬を過ごすことにした。
1:5 によるとテトスはクレテにいる。ニコポリはギリシャの南西の町で, BC31に、オクタビアヌスが、アントニーとクレオパトラにアクティウムの戦いで勝利したことを記念して立てた町で、意味は「勝利の町」。いつ、ここにパウロがおり、クレテにはテトスがいたというのだろうか。

BRC2013(2)

Tit1:15 きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。
この節だけで理解するのは問題だろう。14節の「ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。」が背景にある。真理に対する戦いの中にあった、パウロの言葉として読まなければいけない。しかし、考えさせられる。良い木と良い実の話等、真剣に考えてみたい。イスカリオテのユダのことも含めて。
Tit2:2 老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、
忍耐は「わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐」(1Thess1:3) だろうか。謹厳は何だろうか。ここは新共同訳では「節制し、品位を保ち、分別があり」となっている。ギリシャ語は neephalios = abstain from wine, semnos = august(威厳のある・堂々とした), venerable(尊敬に値する), soophroon = of a sound mind となっている。
Tit3:7 これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
恵みによって義とされていても、永遠のいのちを望まなければ、御国をつぐものとはなれない。望むという言葉は不十分かもしれないが。もう少し、しっかりと、理解したい。


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フィレモンへの手紙

フィレモンへの手紙(1)

フィレモンへの手紙は、次のように始まります。1章1節から3節を引用します。
1:キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、
2:姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
3:わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
フィレモンは、聖書の中でここにしか出てきません。アフィアも出てきませんが、アルキポは、コロサイの信徒への手紙4章17節に「アルキポに、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』と伝えてください。」と出てきます。

このフィレモンへの手紙は、8節から読むとわかるように、オネシモというフィレモンの奴隷を送り返すときの手紙であることが分かります。12節と、15節から17節を引用します。

12:わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。

15:恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
16:その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17:だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

おそらく、オネシモは主人であるフィレモンのもとから逃亡したのでしょう。「キリスト・イエスの囚人」パウロはローマの監獄にいたのではないかと思われますが、少なくともこの時点で、オネシモも信者になっていたことが分かります。

先ほど、アルキポのところで、コロサイの信徒への手紙を引用しましたが、4章7節から17節には、この手紙の背景と思われることが書かれています。7節から9節を引用します。

7:わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
8:彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
9:また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
このときと、フィレモンの手紙の書かれた背景とがまったく一致しているかは分かりませんが、オネシモについて「あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟」と書かれていることからすると、オネシモも、コロサイの教会の一員だったのかもしれません。

フィレモンへの手紙を読んでいると、このころすでに、奴隷制とは、異次元の交わりが、信徒の交わりとしてあったことも分かります。その時代としては、驚くべき事だったのではないでしょうか。

フィレモンへの手紙は、口語訳や、新改訳では、ピレモンへの手紙と呼ばれています。皆さんは、どのような発見があるでしょうか。

ピレモンへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁

  1. 初めのあいさつ 1-3
    1. 書き出し 1-2
    2. 祝祷 3
  2. 感謝と祈り 4-7
  3. 愛の懇願ととりなし
    1. 愛の懇願 8-11
    2. オネシモ送還をめぐる「福音と律法」の問題 12-14
    3. 愛のとりなし 15-17
    4. 愛の計算 18-19
  4. 愛のしめくくり
    1. 最後の訴え 20-21
    2. 愛の表れ 22
    3. 愛のあいさつ 23-24
    4. 愛の結語 - 祝祷 25


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Philemon 7 兄弟よ、私はあなたの愛から多くの喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心が、あなたのお陰で元気づけられたからです。
パウロがフィレモンの活動、そして、愛についての評価をしている。互いに、愛し合い、慰め合う交わりがあるように思う。実質的な内容は不明だが、このような交わりを大切にしたい。自分も、相手も、元気づけられるような交わりを。

BRC2023(2)

Philemon 1,2 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する協力者フィレモン、また姉妹アフィア、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家の教会へ。
この短い手紙がどうして残って、聖書に加えられたかを考えた。まずは、フィレモンがこれを大切に保管したこと、自分のところから逃亡した奴隷であるオネシモに関することを他のひとに知られることも恐れず、共有したことも関係しているかもしれないと思った。ここでは、受け取り側は、家の教会で、個人ではない。その人達もパウロからの手紙を大切にしたのだろう。そのような営みにも感謝したい。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Philemon 1:15,16 彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、恐らく、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。オネシモは、とりわけ私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
美しい言葉である。奴隷以上の者。愛する兄弟。永久に取り戻すため。単なる、普遍化、普遍的な愛を考えるのは、適切ではないのだろう。もう少し、丁寧に、この言葉とその背後にある、愛とを味わいたい。背後に、十分な信頼関係もあるのだろう。

BRC2021(2)

Philemon 7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
愛が、関係性に本質があることがよく表現されている。かつ具体的である。このあとにも「その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」(16,17)にも、愛の本質が語られているように思う。神様が愛される存在として、歓迎すること。そのような関係性こそが大切であるように思う。

BRC2019(1)

Phlm 16,17 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。
「愛する兄弟として」「一人の人間として」「愛する兄弟」「オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」感動を覚える箇所である。ここに、奴隷と、自由人の違いがないるだけでなく、互いに愛し合う者たちの間に違いがないのだろう。そして、その関係はキリスト者の外にも開かれている。

BRC2019(2)

Philemon 1:6,7 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
最近 Dignity and Fairness に多少の問題を感じている。アメリカ大統領選挙での僅差の争いを見ていても、同様のことを感じる。公平さを強調することから来る、ひとの寂しさだろうか。囚われの身(1)と思われるパウロが(この書はパウロが書いたとするものがほとんどのようである)求めている・祈っていることが書かれている。それは「あなたの信仰の交わりが活発になる」こととあり、自らが「慰めを得」「元気づけられた」ことに言及している。また自らを「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロ」(9)とも表現している。「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、」(12,13)これらからも、他のパウロの手紙とはすこし違うものを感じる。さびしさを表現することに躊躇しなくなっているのかもしれない。ほかの箇所もまたていねいに読んでいきたい。違う面を学ぶことができるかもしれない。ルカ、マルコなどの名前の出ている24節についてもまた考えてみたい。

BRC2017(1)

Philemon 14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 
自発的は ”hekousios” (voluntary, willingly)が使われているが、ここにしか使われていない。ただしこの言葉は、”hekoon”(unforced, voluntary, willing, of one’s own will, of one’s own accord)から来ており、こちらは「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 」(Rm 8:20)の「自分の意志によるものではなく」に否定形でもちいられているのと「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。  」(1Cor 9:17)に用いられている。いずれも、あまり積極的な表現ではないように思われる。

BRC2017(2)

Phil 16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
この文章から、やはり、奴隷を差別しているととることはできる。普遍的価値に行き着いていない、これが、当時の限界だったのかもしれない。しかし、そのような状況の中で、それに縛られずに、解放され、神が望んでおられることを求めることは、どの時代においても、普遍的価値と言われるものだろう。肉体だけでなく、社会・文化背景の中に生きているのだから。様々なものと、関係し合って。

BRC2015(1)

Phlm17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。
このことばは、当時の状況を考えると、本当にすごいことなのではないだろうか。オネシモは奴隷。後の、アフリカからの奴隷などとは、異なっていただろうが、それでも、自由市民とは、人としての認識として、大きな差があったのではないだろうか。もう少し、そのような事情についても、学んでみたい。ローマ人の物語でも読んでみたい。

BRC2015(2)

Phlm20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。
人との交わりのを喜びたい。それが、キリストによって元気づけられることであれば、永遠の価値があるように思われる。主観だろうか。主からの贈り物だろうか。実際、それがまれだから願うのだろうか。それは、わからない。しかし、今のわたしにとって、または、わたしが求める平安と喜びは、このことである。特定のではなく、ある場合は思いがけないひととの、交わりの喜びである。キリストから直接いただくプレゼントに思える。

BRC2013(1)

Phlm1,2 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する同労者ピレモン、姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
たくさんの名前を並べている。プレッシャーと言うより、まさに、同労者として、この手紙を受け入れて欲しい願いと、愛による協働が背景にあったように思われる。

BRC2013(2)

Phlm16,17 しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう。そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい。
自分とオネシモそしてピレモン、この三人が愛する兄弟、信仰の友として、受け入れ合うこと、奴隷が社会にたくさんいた時代においては、想像を超える困難だったろう、もし、この世に生きる者として判断すれば。神の国に生きるもの、神の子として生きるものとしての自己と他者を受け入れる事によって、それが乗り越えられるのかもしれない。


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ヘブライ人への手紙

ヘブライ人への手紙(1)

コリント信徒への手紙以降、短い書簡が続きましたが、ヘブライ人への手紙は、13章あります。特徴的なのは、最後は書簡的な書き方になっていますが、最初には、宛先も自己紹介も書いてないことです。古い伝承もこの書について一定していないことから、誰が書いたかなどは、諸説がありはっきりしません。基本的なことをまとめておきましょう。
  1. 著者は、ユダヤ教やその礼典についてよく知っており、それを本質的な意味において、大切にしていること。
  2. これは、わたしは専門的には証言できませんが、ギリシャ語として非常に美しい洗練された散文で書かれていること。
  3. 「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、(2:3b)」[b はその節の後半であることを意味します] とありますから、主の直接の弟子ではない。
  4. 「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。(13:23)」テモテとの近い関係が主張されている。
パウロがローマ人への手紙で、旧約の歴史から救済について書いていますが、このヘブライ人への手紙の論理立ては、大分異なるようです。使徒言行録の18章24-28節にアポロという人が登場します。
24: さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。 25: 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。 26: このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。 27: それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。 28: 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
このアポロが、ヘブライの信徒への手紙の著者である証拠はありませんが、このアポロのような人が著者でないかとは、思われます。

みなさんは、このヘブライ人への手紙からなにを読み取られるでしょうか。

ヘブル人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。

  1. この終わりのとき 1:1-2:18
    1. 御子による神の究極的啓示 1:1-4
    2. 御使いよりすぐれた御子 1:5-14
    3. 第一の警告。すばらしい救い 2:1-4
    4. 御使いより低くされたイエス 2:5-9
    5. 救いの創始者、大祭司 2:10-18
  2. 神の民の安息 3:1-4:13
    1. モーセより偉大なイエス 3:1-6
    2. 第二の警告。不信仰になって生ける神から離れるな 3:7-19
    3. 神の安息はまだ残っている 4:1-10
    4. 神の安息に入るように務めよ 4:1-13
  3. 大祭司キリスト 4:16-6:20
    1. 大祭司神の子イエス。信仰の奨励 4:11-16
    2. 大祭司の資格 5:1-4
    3. 大祭司に任命されたキリスト 5:5-10
    4. 第三の警告。初歩の教えにとどまるな 5:11-14
    5. 初めからやり直すことはできない 6:1-8
    6. 最後まで堅く立ち続けよ 6:9-12
    7. 神の約束の不変性 6:13-20
  4. メルキゼデク系の祭司 7:1-28
    1. 祭司 = 王、メルキゼデク 7:1-3
    2. メルキゼデクの偉大さ 7:4-10
    3. アロン系祭司職の不完全性 7:11-14
    4. 新しい祭司 7:13-19
    5. 誓いによって立てられた祭司 7:20-22
    6. 永遠の大祭司、キリストの卓越性 7:23-28
  5. 契約、聖所、いけにえ 8:1-10:18
    1. さらにすぐれた務め、契約の仲介者 8:1-6
    2. 古い契約と新しい契約 8:7-13
    3. 古い契約時代の聖所 9:1-5
    4. 幕屋の祭儀 9:6-10
    5. 永遠の贖い 9:11-14
    6. 契約の血 9:15-22
    7. 完全ないけにえ 9:23-28
    8. 実物の影としての古い秩序 10:1-4
    9. 有効ないけにえ - イエスのからだ 10:5-10
    10. 神の右の座についた大祭司 10:11-18
  6. 信仰の道 10:19-12:29
    1. 神に近づく新しい生ける道 10:19-25
    2. 第四の警告。故意の背教 10:26-31
    3. 忍耐の勧め 10:32-39
    4. 昔の人々の信仰 11:1-40
      1. 信仰の本質 11:1-3
      2. 洪水前の人々の信仰 11:4-7
      3. アブラハムとサラの信仰 11:8-12
      4. 信仰者の故郷である神の都 11:13-16
      5. 族長たちの信仰 11:17-22
      6. モーセの信仰 11:23-28
      7. 出エジプトとカナン征服のときの人々の信仰 11:29-31
      8. その他の信仰者の例 11:32-40
    5. 信仰の創始者・完成者なるイエス 12:1-3
    6. 父の懲らしめ 12:4-11
    7. 聖められることを求めよ 12:12-17
    8. 天に属するもの 12:18-24
    9. 天からの声を拒まないように注意せよ 12:25-29
  7. 戒め、祈り、結びのことば 13:1-13:25
    1. 隣人愛、不品行、食欲の戒め 13:1-6
    2. 模範 13:7-8
    3. 神に捧げるキリスト者のいけにえ 13:9-16
    4. 指導者への服従、祈りの要請 13:17-19
    5. 頌栄、結びのことばとあいさつ、祝祷 13:20-25

ヘブライ人への手紙(2)

ヘブル人への手紙(日本聖書協会、口語訳)では祭司としての神の御子イエス・キリストについて書かれ、このイエスによる救いに対する私たちの信仰による応答をうながしています。ローマ人への手紙15:16 には
このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
と書かれており、また、ペテロ第一2:5, 9 にも、私たちが神の祭司であること、ヨハネの黙示録1:6, 5:10, 20:6 にも似た表現があります。ここから万人祭司という言葉もうまれていますが、イエスが祭司だということを明確に述べているのは、このヘブル人への手紙以外は、ありません。その意味でも特徴的ですね。また、ヘブル人への手紙に書かれている大祭司としてのイエスの性質も特徴的です。たくさんありますから、いくつかだけ拾ってみましょう。
  1. 2:17-18 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。
  2. 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
  3. 9:25-29 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
この救いにあずかれない理由としてあげられているのが不信仰です。3:12-19。そして信仰者の例を11章ではたくさんあげています。最初を引用しましょう。
11:1-2 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

ヘブライ人への手紙(3):寄留者

皆さんは、sojourner という英語の単語を知っていますか。日本語でいうと寄留者、口語訳聖書で使われています。新共同訳では「仮住まいの者(身)」です。アメリカで勉強していた頃に、この単語を知って、好きになりました。アブラハムなど族長といわれる人たちは、その地の寄留者でした。アブラハムはカナンの地を与えるとの約束をうけましたが、実際に手に入れたのは、サラを葬るために買った、畑とその畑の中にある墓だけでした。(創世記23章)この言葉は、新約聖書にも二箇所出てきます。
ヘブル人への手紙 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 (新共同訳)
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(口語訳)
ペトロの手紙一2:11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(新共同訳)
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 (口語訳)
この世での生活は仮住まいの生活だから、いいかげんでよいなどと言っていることではありません。本質的な決断をしなければいけないときの、信仰告白だと思っています。「神の国は近づいた」として、いまは地の国にいるが、神の国の(神様の完全な支配のもとにある)ものとして生活する、地の塩として。そんな意味合いでしょうか。

聖書で語られている「いのち」は「肉体的な死をも相対化するいのち」とも言えるのではないかと思います。コリント信徒への手紙一15章26節には「最後の敵として、死が滅ぼされます。」とあります。わたしはそのような神学的意味づけよりも、いま生きているいのちがずっとつながっていることを意識して生きることは、わたしたちのちっぽけであっても多くの苦しみや喜びのなかで生み出される日常的営みたいせつにしてくださるイエスの教えにつながるのではないかと思っています。わたしの好きな聖書の箇所を引用します。ここで「不正の富」と言われているのは、通常は、この世で神様から管理を任せられているもののことだと思います。ルカによる福音書16章10節・11節を口語訳で引用します。

小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。

最後に、ペトロの手紙一 3:15, 16a を口語訳で引用しておきます。わたしの研究室の机の左にいつも見えるところに貼ってある聖句です。

ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。

ヘブライ人への手紙(4):天使

聖書で「天使」についてたくさんの記述があるのは、ヨハネの黙示録で、それ以外は、使徒言行録と、マタイの福音書を中心に福音書にありますが、それほど多くはありません。使徒言行録23章8節に「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」とありますから、ユダヤ教でも扱いが一定していなかったのでしょう。さて、ヘブライ人への手紙ではどのように記述されているでしょうか。1章1節から9節を引用しましょう。
1:神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
2:この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
3:御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
4:御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
5:いったい神は、かつて天使のだれに、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、/「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。
6:更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。
7:また、天使たちに関しては、/「神は、その天使たちを風とし、/御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、
8:一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。
9:あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
ここでは、御子が天使とは異なる優れた方だということ、言い方によれば、異次元の方だということが書かれています。このあとの、13節、14節では、次のように書かれています。
13:神は、かつて天使のだれに向かって、/「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、/わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。
14:天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
天使は「奉仕する霊」だとあります。2章5節から11節を引用します。
5:神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
6:ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
7:あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
8:すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
9:ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
10:というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
11:事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
5節では、来るべき世界を、天使たちに従わせることはなさらず、人の子、御子に従わせたということでしょう。さらに、11節を見ると、救われた人たちが、兄弟となるというのです。そして、16節には次のようにあります。

確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

この節には、いろいろなことが込められていると思いますが、驚きませんか。最後に13章1節から3節を引用します。

1:兄弟としていつも愛し合いなさい。
2:旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
3:自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
明確には分からなくても、天使、興味を持ちませんか。どうも、羽の生えたエンジェルとはちょっと違う感じを受けますね。ヘブライ人への手紙から、なにか新しいことを学ばれることを願っています。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Hebrews 1:3,4 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。
直接的に読むと、イエスは、後に、天使たちよりも優れたものとなったと証言している。罪の清めを成し遂げられたからか。天使については、「天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。」(14)とも書かれている。地上では、人々に奉仕するために遣わされたのだろうか。そうかもしれない。
Hebrews 2:8 万物をその足元に従わせられました。」「万物を彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、私たちはいまだに、万物がこの方に従っている状態を見ていません。
冷静である。この前に書かれている部分は、詩篇8:5-7 のようだが「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ/栄光と誉れの冠を授け、御手の業を治めさせ/あらゆるものをその足元に置かれた。」ここでは「人とは何者なのか/あなたが心に留めてくださるとは。/また、人の子とは何者なのか/あなたが顧みてくださるとは。あなたは彼を僅かの間/天使たちよりも劣る者とし/栄光と誉れの冠を授け、万物をその足元に従わせられました。」(6b-8a)となっており、微妙に、異なる。特に、ある程度一般的と思える表現を、特定の人に変えているように見えるが、そうではない読み方もできるのだろうか。
Hebrews 3:2-4 モーセが神の家全体にわたり忠実であったように、イエスは、ご自分を任命した方に忠実であられました。家を建てた者が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。
分かりにくい。ここでは、イエスは、ご自身を任命した方に忠実であったことが書かれており、それは、神様なのだろう。また、家よりも、家を建てたものの、建てたものも、神なのだろう。「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。」(6)からすると、私たちが神の家ということになる。モーセと、イエスの関係、および、それぞれの役割、分かりやすいとは言えない。
Hebrews 4:12,13 神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。神の前にあらわでない被造物はなく、すべてのものは神の目に裸であり、逃れることはできません。私たちはこの神に弁明しなければなりません。
なんとなく理解できるとも言えるが、感覚的で、あまり内容がないようにも見える。「だから、神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたのうちから出るなどということがないように、注意しようではありませんか。」(1)「したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。」(9)とあるように、信仰告白で終わりではないことを言っているのだろう。これで、通じたのだろうか。
Hebrews 5:7 キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
やはり「あばたもえくぼ」なのだろうか。聖書を読んできて、好ましいと思ってきたことが、批判的な目で読むと、問題をさまざまに感じる。イエスの生き様だけは、いまでも、感銘をうけ、学ぶことが多いと感じているが、その周囲に付け加えられたことに対する感覚は、変わってきている。引用句も、やはり、ヘブライ人への手紙記者の個人的感想なのだろう。イエスが、そして、主がどのように考えておられるかは、別のことに見えてくる。このまま受け入れると、これを根拠に、誤った演繹に導かれるような不安に駆られる。
Hebrews 6:18 それは、この二つの不変の事柄によって――この事柄に関して、神が偽ることはありえません――目の前にある希望を手にしようと世を逃れて来た私たちが、力強く励まされるためです。
はっきり言って、何を言っているのかよくわからない。主を信じる信仰に導かれたものの希望について書かれ、そのひながたとして、アブラハムへの約束が書かれているのだろうが、二つの不変の事柄も、目の前にある希望もよくわからない。また、アブラハムについてかかれていることも「私は必ずあなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」(14)非常に抽象的である。「永遠にメルキゼデクに連なる大祭司」も正直、旧約聖書の証言も非常に限定的で、感覚的なものしかわからない。
Hebrews 7:17 こう証しされています。/「あなたこそ永遠に/メルキゼデクに連なる祭司である。」
旧約の祭司職との関係は、わたしには、正直理解できない。そのような議論が必要かも含めて。しかし、ユダヤ人にとっては、避けて通れないものだったのかもしれない。引用句は、詩篇からの引用である。「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110:4)この詩篇は、「ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/『私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。』」(詩篇110:1)から始まる有名な詩篇である。全体を読んでみたが、正直、よくは理解できない。しかし、メルキゼデクは「また、サレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。」(創世記14:18)にある以外は、旧約聖書では、この詩篇の1箇所のみである。ヘブル書記者が、なぜここまでメルキゼデクについて展開するかは、最初に書いた、祭司職についての理解が不可欠だからなのだろう。
Hebrews 8:7,8 もし、あの最初の契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は彼らを責めて、こう言われました。/「『その日が来る。/私はイスラエルの家、およびユダの家と/新しい契約を結ぶ』と/主は言われる。
ここから、エレミヤ31:31-34の引用が続く。「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」ほぼ、同じである。ヘブライ人への手紙記者は、ヘブル語聖書を持っていることの証拠でもある。契約の更新の真偽がどうしても、必要だったのだろう。
Hebrews 9:9,10 この幕屋とは、今という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえが献げられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
幕屋について書かれている。これは、十分に論理的であるとは言えないが、至聖所に関する理解も、完璧になされなければいけなかったのだろう。おそらく、このような、ヘブライ人への手紙の努力によって、多くのユダヤ人が、キリスト教に招かれたのだろう。そのことを無視して語ってはいけないと思う。わたしには、とうてい理解できないが。理解できないからと言って、不要としてはいけない。
Hebrews 10:11-13 すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。
いけにえ、贖罪まで到達した。パウロが語り、キリスト教の中心的教義となったこの贖罪について、ユダヤ人にわかりやすく語ったのだろう。ただ、細部を見ると、パウロも考えなかったようなことが入っているようにも思う。この最後の部分である。どのような根拠なのだろうか。ヘブライ人への手紙を、集中して学ぶことは、これからもないだろうが、切り捨てることはしたくない。
Hebrews 11:39,40 この人たちは皆、信仰によって神に認められながらも、約束のものを手に入れませんでした。神は、私たちのために、さらにまさったものをあらかじめ用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。
微妙な表現である。いいたいことは、みな、共に、約束のものを受け取るということだろうか。約束のものは、明確だったのだろうか。ここまでのリストは、一つ一つの行動が、信仰に酔っているということだろう。しかし、信仰とは、信頼関係で、一生続くことではないのだろうか。一人の人の生き様、それも、自分の人生を振り返ることがたいせつなように思う。謙(へりくだ)って。
Hebrews 12:14 すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。
この章では、主による鍛錬が語られ、次に、引用句から始まる、聖なる生活の勧めが語られている。どちらも、重要であるが、なにか、あまり心に響かない。以前は、いろいろと学んでいたことなので、わたしの側の問題なのかもしれない。神様に信頼して、御心を求め続けて、生きること、その表現は、一人ひとりに少しずつ、違っているのかもしれない。謙虚に求め続けたい。
Hebrews 13:1,2 兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気付かずに天使たちをもてなしました。
マタイ25章の羊と山羊のたとえを思い出させる。それよりも、ヘブライ人への手紙も最後に、兄弟愛のこと、この前の章には、聖なる生活(12:14)について書かれていることを考えると、さまざまな言説・解説はヘブライ人への手紙の特徴だとしても、共通、求めることとして、この兄弟愛があったのではないかと思う。それが、キリスト教を支えていたのではないだろうか。パウロの手紙然りである。

BRC2023(2)

Hebrews 1:3,4 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。
マルコ12:35-37 の「ダビデの子についての問答」を思い出す。イエスが、そのような地位であることが共有されていたのだろう。ただ、詩篇110篇やマルコ等の共観福音書では、『主はわが主に仰せになった、/あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、/わたしの右に座していなさい』となっており、期間が限定されているように見える。もう少しよく学ばなければならない。
Hebrews 2:6 ある箇所で、こう証しされています。/「人とは何者なのか/あなたが心に留めてくださるとは。/また、人の子とは何者なのか/あなたが顧みてくださるとは。
このあとの、2:8a までが詩篇8:5-7 からの引用であるようだ。「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。/人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ/栄光と誉れの冠を授け 御手の業を治めさせ/あらゆるものをその足元に置かれた。」謙虚さは伝わってくる。しかし、事実を表現しているものではないように思うが。
Hebrews 3:12,13 きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。あなたがたのうち誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。
ヘブル人への手紙は、理解が難しい。このような手紙も、ある権威をもって受け入れられていたという理解で良いのだろうが、ついつい、神の言葉として絶対化してしまうからか。不信仰はだれにでもあり、定義も難しいように思う。罪に惑わされることは好ましくないとしても、それを見極めることも困難である。励まし合うことは、むろん、大切だが、よくは理解できない時に、つまり、完全な正しさを確保できない、この世で、励まし合うことを絶対化しにくい面もあるように思う。難しい。
Hebrews 4:3-5 信じた私たちは、この安息に入ります。こう言われているとおりです。/「私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは決して私の安息に入ることはない。』」もっとも、天地創造の時に、神の業は終わっています。なぜなら、ある箇所で七日目について、「神は七日目に、そのすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、先の箇所では、「彼らは決して私の安息に入ることはない」とあります。
詩篇からの引用のようだ。「あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。/私の業を見ていながら、私を試した。四十年の間、私はその世代をいとい/そして言った。/『彼らは心の迷える民/私の道を知らない。』私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは私の憩いに入れない』と。」(詩篇95:9-11)安息はまだ残されていることを言っているのだろう。ただ、このように語れるのかどうかについては不明。やはりこれも啓示をうけたということか。
Hebrews 5:5,6 同じようにキリストも、大祭司となるという栄誉をご自分で得たのではなく、こう言われた方がお与えになったのです。/「あなたは私の子/私は今日、あなたを生んだ。」また、他の箇所で、こう言われています。/「あなたこそ永遠に/メルキゼデクに連なる祭司である。」
この後半は、詩篇110篇からの引用のようだ。これはメシア預言に関する有名な箇所で、次のように始まる。「ダビデの詩。賛歌。/主は、私の主に言われた。/『私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。』」(詩篇110:1)そして「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110:4)とある。正直、詩篇の文面からは、どのような意味で、ここで、メルキゼデクが登場するのかわからない。何らかの伝承や、外典があるのだろうか。メルキゼデクは聖書では、創世記14:18 と、上で引用した詩篇と、ヘブル書5:6, 10, 6:20, 7:1, 10, 11, 15, 17 だけに出てくる名前である。
Hebrews 6:1-3 ですから私たちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼(バプテスマ)についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の裁きといった教えを今さら学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を後にして、完成を目指して進もうではありませんか。神のお許しを得て、そうすることにしましょう。
前の章から続いているテーマのように見えるが、真意がよく理解できるわけではない。最初に挙げられたことを学び直すことも大切だろう。おそらく、もっと、次のステップに向かっていくべきだと言っているのだろう。それが、これらの基本をも全うするのであれば、それで良いわけである。しかし、それは、まだ明らかではないように見える。
Hebrews 7:24,25 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それで、ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです。
祭司職のことがこの章では書かれているが、ユダヤ人にとっては、それがどうなっているのか、重要な問題だったのだろう。その枠組の中で、イエスが永遠の大祭司であることを語っている。ユダヤ人以外にはあまり伝わらないかもしれないが。
Hebrews 8:13 神は「新しい契約」と言われることによって、最初の契約を古びたものとされたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
この前の引用はエレミヤ31:31-34 からの引用のようだ。「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」旧約からの引用が多い。聖書を完全に信頼しているということだろう。ひとつの完全な書として、わたしは、そうでもない味方も受け入れているが。しかし、同時に、著者は、「消え失せる」とも言っている。
Hebrews 9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。
神様の論理をこのように表現しているのだろう。実際には、イエスは、神様とともに、人々に「かみさまのあがない」の業をなされたのだろう。それは、愛の業である。それがどのような意味を持っているかなどは、わたしには、よくわからない。キリスト者たちがこのように書いていることを否定はしないが。
Hebrews 10:19,20 それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。
わたしには、ここまでの確信はない。ただ、イエスについていきたいと願っている。生き方において。確証をもとめることはしない。
Hebrews 11:39,40 この人たちは皆、信仰によって神に認められながらも、約束のものを手に入れませんでした。神は、私たちのために、さらにまさったものをあらかじめ用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。
約束されたものとは何なのだろう。すぐには、答えられない。それが何であれ、わたしも求めるものなのだろうか。わたしには、わからない。いま、求めるものを求めていきたい。
Hebrews 12:14,15 すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。神の恵みから漏れる者がないように、また、苦い根が生え出て悩ましたり、それによって多くの人が汚されたりすることのないように、気をつけなさい。
この二つの節はつながっている。本当に、そのとおりだと思う。すべての人と共に平和をもとめ、神様の恵みから漏れないようにしたい。そのなかで生きることを願う。ひとに押し付けることはできないが。
Hebrews 13:1,2 兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気付かずに天使たちをもてなしました。
このように生きたい。恵みに生きることとつながっているように見える。その祝福が得られればと願う。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Hebrews 1:3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。
わたしには、ひとつの信仰告白、真理の一断面としか告白できない。根拠を求めるとすると、啓示としか言えないからである。しかし、わたしも「神は、終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。」(2)と信じている。今回、もう一つ気づいたのは、引用句に続いて「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちにまさる名を受け継がれたからです。」(4)とあり「天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。」(14)とつながっている。天使がリアルな存在だったのだろう。神から遣わされた者と取ると、神の特別な働きをする者とは、御子は異なるとしているとも言え、それは、わたしの信じるところと一致している。その意味では、ヘブライ人への手紙の記者はわたしにとって「天使」である。そしてパウロも。
Hebrews 2:2,3 天使たちを通して語られた言葉が確かなものとなり、あらゆる違反や不従順が当然の報いを受けたとすれば、私たちは、これほど大きな救いをないがしろにして、どうして報いを逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々が私たちに確かなものとして示しました。
ここでは「天使たちを通して語られた言葉」と「主が最初に語られ」「それを聞いた人々が示した」となっている。主は置くとして、「天使」と「主から聞いた人々」が並置されている。わたしも、とても似た印象を持っている。それで良いように思う。
Hebrews 3:13 あなたがたのうち誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。
罪と書かれていて、そこに限定することに抵抗があるが、日々励まし合うことには、共感する。それが、希望となり、あらたなダイナミズムを生み出すのではないかと思う。では、何について、どう励ますのかは、難しい。相手の状態を理解することは、基本的に難しいから。同じ弱い、完璧にはできない状態であること、的外れで、修正が必要な存在だということを、共有することだとすると「罪に惑わされないよう」は、ピッタリしているのかもしれない。
Hebrews 4:3,4 信じた私たちは、この安息に入ります。こう言われているとおりです。/「私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは決して私の安息に入ることはない。』」もっとも、天地創造の時に、神の業は終わっています。なぜなら、ある箇所で七日目について、「神は七日目に、そのすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
このあとに、このゆえに、「安息に入る機会は人々に残されている。」(6)論理がとても、飛躍しているように見える。天地創造のときに、神に技が終わっているとも、思えないし、わたしたちの安息を、ここに結びつけることも無理があるように思われる。一つの解釈なのだろう。安息を、神の安息と結びつけ、この箇所に至ったのだろう。それは、理解できるように思う。
Hebrews 5:7 キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
「人として生きておられたとき」のことを根拠にしており、パウロ神学とは明らかに異なる。このあとには「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。」(8)「メルキゼデクに連なる大祭司」(10)はこの著者の神学で「このことについては、話すことがたくさんありますが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」(11)とあるので、もっと詳しく聞かないとわからないが、個人的には、やはり人間的な解釈のように思う。否定しようがないものが、福音書を通して、わたしたちにも届いている、引用句の「深く嘆き、涙を流し」の部分のように思う。この嘆きと悲しみは「弱さ」(3 等)とも言えるが、神様の嘆きとの同調とも言えるように思う。自分の弱さではなく、この世の様々な混乱、理不尽さ、互いに愛することができない、難しさだろうか。
Hebrews 6:14,15 「私は必ずあなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。
アブラハムは約束のものを得たのだろうか。おそらく、完全な形ではなく、その一部を得ることにより、希望の信仰のうちに死んだのではないだろうか。祝福、希望の約束は、神様の御心、平安につながるもので、いろいろな形で表現されても、それを通して、神様との交わりのうちの完全な平安を得るものなのではないかと思う。そして、それは、この世では得られないが、その一部を受け取ることによって、その素晴らしさをも、味わうことができるのではないだろうか。
Hebrews 7:16,17 この方は、肉の戒めの律法によらず、朽ちることのない命の力によって祭司となられたのです。こう証しされています。/「あなたこそ永遠に/メルキゼデクに連なる祭司である。」
メルキゼデクについては、創世記14章18-20節にアブラハムを祝福したサレムの王、祭司と、短く記されているだけである。「メルキゼデク」で検索すると、ヘブライ人への手紙以外ではもう一箇所、引用箇所の元となっている「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110篇4節)がある。これだけである。律法と祭司職という、モーセとアロンを起源とする、ユダヤ教の根幹について、論じていて、ユダヤ教信徒にとっては大切な箇所なのだろう。しかし、聖書の解釈としては、ひとつの見方でしかなく、霊感によるとして、「聖書は誤りなき神のことば」と告白することの内容は、不安定な解釈に則り、根拠は脆弱であると思う。ひとりの信仰者が受け取ったことの証言とすればなにも問題はない。すばらしい、一つの奨励である。聖書をどのように理解するかはとても、難しい。
Hebrews 8:8 しかし、神は彼らを責めて、こう言われました。/「『その日が来る。/私はイスラエルの家、およびユダの家と/新しい契約を結ぶ』と/主は言われる。
12節まで続く引用は、エレミヤ書31章31-34節からのもので、聖書協会共同訳では、微妙に異なる部分もあるが、日本語で使用されていることばも、とても近いものになっている。ヘブライ人への手紙の写本については勉強したことがないが、すくなくとも、我々が手にしているものはギリシャ語で書かれ、エレミヤ書は、ヘブライ語であるので、訳を合わせたのかもしれない。ヘブライ人への手紙の記者は、エレミヤ書を引用することができたのだろう。もしかすると、ユダヤ教の十分な訓練をうけていたのかもしれない。引用箇所の「新しい契約」は印象的である。特に最後の部分「彼らは、自分の同胞や兄弟の間で/「主を知れ」と言って教え合うことはない。/小さな者から大きな者に至るまで/彼らは皆、私を知るからである。私は彼らの不正を赦し/もはや彼らの罪を思い起こすことはない。』」(11,12)は、エレミヤ書を読んでいても、立ち止まる箇所である。しかし、正直、キリストによってこれが成就したとは、わたしには言えない。主を知ることには、もっともっと長い道のりがあると思う。
Hebrews 9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。
「多くの人」と表現されていることと、再臨が「ご自分を待ち望んでいる人々に救いをもたらすため」と書かれている。キリストの贖罪と、再臨信仰が、少し違った形で表現されていて興味深い。ヘブライ人への手紙では、神殿のことなどと結びつけて語られる部分が多く、おそらく、異邦人には、理解し難いことだったろう。ユダヤ教からキリスト者となったひとへのメッセージであることは確かだが、ユダヤ教にとどまっている人たちにも響いたのかは不明である。伝えることは難しい。特にユダヤ教の共同体の背後には、文化といってもよいような考え方が、複雑に絡み合っていただろうから。それは、日本人のように、他の文化のもとに、育ってきたひとにとっても同じなのだろう。
Hebrews 10:19-21 それで、きょうだいたち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。さらに、私たちには神の家を治める偉大な祭司がおられるのですから、
ここではイエスの肉を、神殿の垂れ幕としている。「さらに」のあとにつづく「偉大な祭司」は、イエスだと思うが、他のとり方もあるかもしれない。また「新しい生ける道を私たちのために開いてくださった」も興味を持つ。このあとに「信頼しきって、真心から神に近づこう」(22)「希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう」(23)「互いに愛と前項に励むように心がけ」(24)「互いに励まし合いましょう」(25)が、その「新しい生ける道」なのだろうか。引用句における論理的つながりは明確ではないが、素晴らしい表現である。「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(25b)としている。これも、論理的な説明はないが、それが、希望をもって生きる新しい道であれば、そのように生きたい。ただ、実際の課題を前にすると、やはり地上でのイエスの活動から学ぶことが中心であるように思う。
Hebrews 11:1 信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
"Ἔστιν δὲ πίστις ἐλπιζομένων ὑπόστασις, πραγμάτων ἔλεγχος οὐ βλεπομένων." (academic-bible.com) 「実質(ὑπόστασις: 1. a setting or placing under, 2. that which has foundation, is firm)」「確証する(ἔλεγχος: 1. a proof, that by which a thing is proved or tested, 2. conviction)」訳に少し驚いた。しかし、これで良いのだろう。私が暗唱していたのは長く親しんでいた口語訳「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」このあとに「昔の人たちは信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(2,3)とあり、そのあとに、例示が始まる。特に「望んでいる事柄の実質」は、印象的な言葉である。例を見ながら、このことを一つひとつ考えていきたい。私なら「望んでいる事柄の表現」ぐらいにしか告白できない。「信仰」にこそ実質があるとの主張なのだろうか。いつか、ゆっくり考えてみたい。
Hebrews 12:2 信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。
このあとには「あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。」(3)と続く。パウロは、イエスに倣うことを説かないが、ヘブライ人への手紙記者は、イエスの地上での生涯「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた」ことを取り上げている。しかし、私なら、イエスの生涯をこのような部分の表現には、使わないように思う。引用句にもどって「信仰の導き手であり、完成者」は、「神の子として生きること」「神の国(神様の支配、神様自身)がすぐそこにあるとの信仰をもって、課題に見えることを通して神の働きを見ること」と、最近わたしは、表現しているが、「望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの」(11:1)の表現としてもよいのかもしれない。
Hebrews 13:5,6 金に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神ご自身、「私は決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、私たちは、はばからずにこう言うことができます。/「主は私の助け。私は恐れない。/人間が私に何をなしえようか。」
とてもわかり易い、奨励の言葉である。ヘブライ人への手紙は、10章18節あたりまでだろうか、ユダヤ教の背景のもとでの、解釈が続く。この章にも多少は登場するが、10章19節以降の奨励は、素直に受け入れられる部分が多い。(根拠をもった論理的)正しさは、多くの条件のもとで語られる。この場合は、ユダヤ教の背景である。しかし、神様の御心として大切なことは、普遍性のあることのように思う。引用句では、「主は私の助け。私は恐れない。/人間が私に何をなしえようか。」を単なる教義や引用(詩篇118篇6節)としてではなく、非常に具体的な、実質をともなった日常的な信仰告白へと導いている。こちらは、恵みの言葉であるとともに、根拠は、明確ではないのかもしれない。

BRC2021(2)

Hebrews 1:2-4 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
わたしは「互いに愛し合いなさい」をたいせつにし、このような「大きな物語」にあまり重きをおいていない。大きな物語を知りたい気持ちはひとにはあるが、イエス様が大切にされたのは、福音書を読んでいると、それではないと考えるからだ。しかし、他方、安定して、継続するためには、このような「大きな物語」が重要であることも理解はできる。それを絶対化しないこと。そして、そこから演繹するときには、注意することだろうか。それを、心したいと思う。
Hebrews 2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヘブライ書の核となる印象的なことばである。しかし、わたしには、十分には理解できない。大祭司の役割ということに実感が持てないのだろう。それよりも、イエスの苦しみに、神様の苦しみも投影されているように感じる。そして「『(続き)すべてのものを、その足の下に従わせられました。』『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」(8)まだ、完全に、神の御心のようにはなっていないのだから。
Hebrews 3:12,13 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
「信仰」と「励まし合い」の2つのことばがこころに響いた。信仰は、神の御心を求め続ける「敬虔」だろうか。しかし、それだけではなく「励まし合い」という我々の相互性が書かれていることもたいせつであるように思う。それがどのように、関係しているか、言葉を選んで表現できるようにしていきたい。
Hebrews 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
この章には「安息にはいる」約束に関して書かれている。しかし、いくつか気になる点がある。引用句では詩篇95篇11節を引用しているようだが、ここでの彼らは「心の迷える民」(詩篇95篇10節)であり、出エジプトの荒野でのことが書かれている。象徴的に取ることはできないことはないが、文脈として適切とは言えない。安息とはなにかも考えた。引用句の流れでいくなら、安息とは、約束の地での生活を意味している。「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」(10)とあることを考えても、神の安息の意味は、明確とは言えない。引用句の最後の記述「神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」も解釈によっては、古典的世界観・科学観、機械じかけの神をも想起させ明確とは言えない。
Hebrews 5:7,8 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
このあとにも「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」(11)とあり、ヘブライ人への手紙著者が非常に大切にしていた点であることが想像できる。単なる贖罪で終わるものはなく、キリストの従順が特別の価値を持っているということだろうか。パウロの晩年の記述(フィリピ2章)にも見られる点である。従順は、敬虔とも信仰とも関係し、重要なことばだが、あまり深く考えたことはないので、味わってみたい。
Hebrews 6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。
「この希望」が何かは明確ではない。「希望」は、11節にもある。おそらく15節にある「約束のもの」が対応しているのだろう。この章は「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」(1-2)とあるので、「成熟」、そして「完成」(3)を意味するのだろうが、明確ではない。共有されていることではあるのだろう。
Hebrews 7:17 なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
「主は誓い、悔いることはない。/『あなたは、メルキゼデクに連なる/とこしえの祭司。』」(詩篇110篇4節)からの引用である。ダビデの詩として、メシヤ預言の詩篇とされるものである。ヘブライ人への手紙では、このことを鍵として論を展開しているように思われる。この章でも、イエスが「ユダ族の出身であることは明らか」(14)とし、「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。」(12)と書いている。適切な論理展開だとは思うが、詩篇からの引用から、このように演繹していくことには、違和感も感じる。ヘブライ人への手紙の著者にとっては、律法の変更をどう理解するかが、決定的に重要だったのかもしれない。
Hebrews 8:10-12 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
「その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」(エレミヤ31章33節)の引用だと思われる。しかし、かなり改編されており、他の箇所があるもかもしれない。そして、これこそが、「希望」なのかもしれない。「心に書き記す」としても、自由意志との関係はどうなるのか、互いに愛するようになるのか、やはり不明な点は多い。イエスは、このように言われたのだろうか。
Hebrews 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
聖所・遺言などについて語り、ここでは、贖罪について書かれている。「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(22)この後半は、22b として暗証していたが、十分意味もわからず、前後関係も無視していた。正直、よくはわからないが、律法のもとに生き、すべてを律法をもとに考えてきた人達にとって、整合性は、絶対に失うことのできないものだったのだろう。そのことは、理解できるように思う。
Hebrews 10:12,13 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。
一度だけ唯一のいけにえによって、完全なあがないとなることについて書かれているようだ。2つ感想をもった。1つ目は、パウロが律法と信仰との関係を解き明かしても、ユダヤ教を背景としてもった人達には、解決すべき問題がたくさんあったのだろうということ。もう一つは、引用句の後半。キリストが待ち続けておられるということ。これは、単なる時間的なものなのか、何らかの働きが完成することを待っておられるのかよくわからなかったということである。
Hebrews 11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
この前には、おぞましいほどの迫害を受け、さまよったとの記述があり、さらに「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」とある。正直、よくわからない。キリストを信じる信仰によるひとたちを、待っていたということだろうか。旧約聖書の記述が多いが、このあたり、明確には書かれていない部分も多いように思われる。
Hebrews 12:7,8 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
人間の考え方、それも、現代においては(おそらく書かれた当時も痛みを感じた人はいるだろう)、普遍性は十分ではないと思われる考えかたに基づいて説明をしている。神様との関係の中で、個人的に受けたメッセージを分かち合うことは素晴らしいことだ。それを、わたしは、信仰告白と呼んでいる。しかし、真理として受け取ったことと、真理とを同一視したり、そこから、演繹したりすることには、とくべつな注意が必要である。真理が何であるかを、求めることはたいせつだが、決定することに急ぐあまり、互いに愛し合うことが脇に押しやられてしまうからである。他者の信仰告白を敬意をもって、受け取るとともに、つねに謙虚に求め続けるものでありたい。
Hebrews 13:1,2 兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
感謝するのは、難しい手紙、その方が受け取った真理を確信をもって伝える手紙であっても、おおくの場合、最後は、愛について語られることである。おそらく、キリスト者のコミュニティでは、そこにもどることができていたのだろう。ここでは、兄弟愛と、旅人をもてなすことが語られている。すこし、狭いように思われるが、迫害も厳しい時代で「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。」(23)とも書かれていることを考えると、仕方がないのかもしれない。いまは、かえって、そのような交わりが減ってきてしまっているように思われる。ヘブライ人への手紙の著者とも、また、ゆっくりと語り合いたいものである。敬意をもって。

BRC2019(1)

Heb 1:3,4 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
地上での生涯については、明確な言明をさけているように、見える。もう一つ気づいたのは、「御子は、天使たちより優れた者となられました。」とあり、最初はそうではなかった印象を受けることである。直前の2節には「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 」とある。終わりの時代なのか、世界すべてを「はじめに」創造されたのか、曖昧である。教義を引き出したり、確認したりするのではなく、ある内容を伝える信仰告白として読むのが適切なのかもしれない。この解釈があたえる影響に関しては、不安もあるが。
Heb 2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
地上での生活を終え、十字架上での「死の苦しみ」ゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」としている。この論理は、ただ、信じるしかないことになる。人生をかけるときには、正しいかどうかも、問われることになる。これがキリスト教なのだろうが。いくつかの要素がいりまじっているとしても、やはり、心配でもある。
Heb 3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
「神の家全体(の中)」と「ご自身を立てた方」に忠実なことの違いは、よくはわからない。委ねられたものと、父なる神ご自身に関わることすべてということだろうか。岩波訳では「彼は、ちょうどモーセも神の家 [全体]の中で〔そうであった〕ように、自分を任命した方に対して忠実であった。」NKJV は "who was faithful to Him who appointed Him, as Moses also was faithful in all His house." となっており、これが原語の直訳に近いので、こだわらないほうが良いのかもしれない。最後の「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」(18)では不信仰となっているが、忠実と同じ語根のことばの否定形である。「主の言葉に忠実・主に信頼」が鍵だと言っているのだろう。
Heb 4:1,2 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
最後のことばが心に残った。「言葉が」「聞いた人々と、信仰によって結びつかなかった。」信仰がなければ、神に信頼しなければ、私達自身とは、永遠に結びつかないのだろう。
Heb 5:7-10 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
ここでも、イエス(キリストとされているが)は、地上の生涯を通して、学ばれたこと、そして、それ故に、完全なものとなられたことが書かれている。ひとのモデルとなりうる大切な言明である。神の子にいつなったか。それは、最初からなのだろう。
Heb 6:16,17 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。
「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、」(14)とある。それが約束なのだろう。誓うことは、神のみができることなのかもしれない。「一切誓いを立ててはならない。」(マタイによる福音書5章34節b)「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書5章37節)
Heb 7:17,18 なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。 その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――
ヘブライ人への手紙記者は、メルキゼデク(創世記14章18節)を非常に強く意識しているようだ。新約では、ヘブライ人の手紙に9回(新共同)現れるのみである。旧約では創世記の記事以外一回「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」(詩篇110編4節)この詩篇は「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』 」とはじまるものである。記者にとっては、旧約聖書の律法の規定、特に祭司規定の変更をどう理解すべきか悩んだのだろう。それで行き着いたのが、メルキゼデクだったのか。引用箇所は「律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。」(19)と希望へと続けている。もう少し、ゆっくり理解したい。このヘブライ人への手紙記者の理解を。
Heb 8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
ヘブライ人への手紙記者にとって、このように明確に書くことは、勇気のいることだったろう。単に内容だけではなく「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。」(10b)「彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。」(11a)と述べて、最後に「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」(13)ここに至るには、多くの葛藤があったことだろう。むろん、そうであっても、現代にも残る課題として、律法の位置づけは難しいが。
Heb 9:9,10 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
第一の幕屋、第二の幕屋の説明があり、第一の幕屋について「今という時の比喩」だとしている。不完全なものなのだろう。だから、改革の時までの規定がたくさんある。ここでは「食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもの」とし、無制限には、拡大していない。いままで、理解しようとして読んでいなかったように思う。いつか、少しでも理解するときが来ることを願って。
Heb 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
この言葉を確信するに至るには、どれぐらい時間が必要だったのだろう。人生の大きな転換だったろう。実体はありません。と言い切っている。多少、表現においては、イデアのようなものの影響があるのかもしれないが、ユダヤ人の前では、大変な批判を受ける言葉だったろう。すでに、ユダヤ教からは、離れ始めているのかもしれない。
Heb 11:39,40 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
「よそ者であり、仮住まいの者」(13)が「天の故郷を熱望していた」(16)とあり、この章の最後に引用箇所がある。「約束されたもの」とは何だろうか。一人ひとりにとって異なるのかもしれない。しかし驚くべきことに「わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」とある。何を意味するのだろうか。神が共におられる、インマヌエルを経験させてくださり、いのちを持って生きるようにしてくださったことだろうか。イエスの名による救いを得させてくださったということだろうか。それが、言葉上のことだけでなく、神様のすばらしさを表す、いのちのいとなみであることを祈り願う。
Heb 12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
22節から24節には「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」とある。雑多な感じをうける。しかし、引用句のように、「よそ者であり、仮住まいの者」(11章13節)としていき「約束されたものを手に入れ」ていなかった信仰者とは、ことなり「御国を受けている」とある。そして「神に喜ばれるように仕えていこう。」と呼びかけている。神の子として、生きていくことが言われているのだろう。
Heb 13:1,2 兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
章は変わっているが「神に喜ばれるように仕えていこう」のあとに一文「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(12章29節)が挟まり、引用句へと続いている。挿入のインパクトが強いが、神に喜ばれる生き方の中心が書かれていると考えてよいだろう。旅人をもてなすことが書かれている。Welcome 歓迎が強く結びついているが、もしヘブライ人への手紙記者が、アポロのような巡回伝道者であったとしたら、日毎に感謝を持って、感じていたことかもしれない。現代では、すこし違った形になっているかもしれないが、移住者、生活困難者、精神的支配や虐待を受けている人、一人の人として尊厳をもって扱われていないと感じている人、さまざまな人達は、わたしたちの身近にいる。互いに愛し合うことと、旅人をもてなすことを覚えたい。

BRC2019(2)

Hebrew 1:2,3 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
事実かどうかはわからないが、これを真実なこととして、わたしは、イエスが神様(真理)の本質の完全な現れだと信じている。この表現も変化するのかもしれないが。ていねいに読んでみると「御子によって語られた」が印象的である。それは、イエス様限定ではないのかもしれない。しかし、それは神の子限定ではあるのだろう。神の子として生きるもの、そのようなものでありたい。一瞬一瞬の積み重ねであったとしても、そのように生きることを願う。その最大のお手本は、イエス様。
Hebrew 2:16-18 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」(8b)とある。確かに、イエスの死によっても、万物がキリストの足の下に置かれておらず、また、御国もまだ来ていない。引用箇所に「アブラハムの子孫」とあるが、信仰の子ということだろうか、ユダヤ人とは言えない。おそらく、地上で生きるひとの子たち、罪の中で、試練を受けながら生き続けている人たちが想定されているように思われる。「天使たちを助けず」も、試練の中におらず、平安のうちに生きる、神の子たちを象徴しているのかもしれない。むろん、実際には、そのようなひとはいないかもしれないが、救いを必要としないと考えている人はいるかもしれない。そう考えると、まさに、イエスは、現時点で、試練を受けている者と共におられるのだろう。
Hebrew 3:12,13 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
わたしはこのように表現はしないが、「今日」という日の内に、日々励まし合うと表現されている内容にひかれる。互いに仕え合い、互いに愛し合うことは素晴らしいことである。しかし、それが実感できる日々でないと、これもやはり正しさに偏ることになってしまう。といって、それを日々感じることを目指してもいけないように思うが。
Hebrew 4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
「安息にあずかるように」歩みましょうと述べている。日々の歩みこそがたいせつであると思う。ここで、安息についてあらためて述べているのは、救われたのだからもう良いという人や、安息は既に与えられていると考えた人たちがいたということだろう。福音の伝え方に問題を感じるが、批判することは、適切ではない。ともに、「安息にあずかるように努力し」て行きたいものである。努力がひとを裁くことにつながらないように。
Hebrew 5:8-10 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
努力ということばはキリスト教会では使わないが、ここにあるキリストについての表現は、そのように表現しても良いものである。しかし、おそらく最もたいせつなことは、われわらと同じように肉体をもって歩まれた方が、多くの苦しみによって従順を学ばれた、そして、そのことを示してくださったことだろう。それは、単なる肉体的な苦しみではなく、神のみこころを行う御子としての苦しみだったのではないだろうか。ここでも、大祭司ということばが使われているが、苦しみを共にして、とりなしてくださるかたなのだろう。もう少しことばを洗練されたものにしたい。
Hebrew 6:18 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。
「二つの不変の事柄」とあるが、これは何なのだろう。正直、全くわからない。約束と希望だろうか。「恵みと憐れみ?」ネットを調べてもいろいろな解説があるようだが、やはりわからない。ヘブライ人への手紙記者のこころに深く根付いている確信があるのだろう。これは、二つと書いてあるから余計気になるが、ほかにも実際には、書かれていなかったり、明確にはされていないことがたくさんあるのだろう。人間のことばで人間が書いているのだから。それを求める続けることもたいせつにしていきたい。
Hebrew 7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
イエスを新しい祭司としてメルキゼデクをその予型としている。ひとが理解し、ひとのことばで語るとすると、そうなるのだろう。イエスは、祭司のようなことは、何も言っていないとおもう。つまり、そのような意識はなかったのではないだろうか。共に、互いに、とりなすことはあるだろう。それは、それ自体が、愛だから。それを形式に載せないと理解できないのは、人間である。そして、形式がないと続きにくいことも、事実なのだろう。教会制度についても、考えさせられる。難しい。
Hebrew 8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
新しい契約などというものがあり得るのかの説明が書かれている。一つは「祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕え」(5)ているということ。そして、引用句で第一の契約は欠けたものであったことが述べられ、つぎに、エレミヤ31:22-34を引用して「心にそれを書きつけ」(10)られた、本質的に「新しい」契約が与えられたのだと述べられている。契約は約束だから、一方が守らなければ履行されない。背後には、そのようなことへの配慮は、神さまにあることが前提とされているのかもしれない。しかし、正直、まだ、「神の律法」が、われわれの「思いに置」かれ、「小さな者から大きな者に至るまで」「(神を)知るようにな」るとは思えない。(10-11)本当に「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」(12)
Hebrew 9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
キリストの贖罪とわたしたちの救いは、究極的かつ完全なものであることが、主張され、この章の最後には「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(27,28)とある。ヘブライ人への手紙記者の深い洞察と信仰はすばらしいと思うが、パウロ書簡で感じたように、やはり人間の理解のように思われる。または、理解しやすいように解き明かしているに過ぎないと思う。完全な解き明かしと求めつつも、謙虚に、一日一日を御心を求めながら歩むことがすべてなのではないかと思ってしまう。
Hebrew 10:5-7 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」
詩編40編6-9節「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」と似ている。しかし、興味深いのは、ここでイエスの言葉として引用されていることである。福音書に書かれていることばとはかなり異なるので、記録がさまざまに残されていたのであることが推測される。内容は、明確とは言えないが、肉体をもってキリストが来られたこと、そして、目的は、御心を行うことであって、祭司のように、動物の犠牲を献げるためではないことである。もう少し、この続きが聞きたい。無理だろうが。
Hebrew 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
この章だけで19回「信仰によって」と書かれている。そして最初と最後に「信仰のゆえに」(2,39)とある。これらはどのような意味だろうか。文脈からは直前の10章にあるように「神の御心を行って約束されたものを受けるという確信をもって喜びをもって耐え忍ぶ」(10:34-36)ことだろうか。「あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともある」(10:33)状態を喜んで耐え忍び、希望をを持ち続けること。その背後には、神への信頼があるということだろう。具体的な救いを求めたということとは多少ずれているようにも思う。引用箇所は、モーセの両親の信仰である。名もなく、個人の背景が明確に記されていないこれらの人においても、そのような信仰の行為が、続いてきたことを書き留めているのだろう。すくなくとも、その人たちを切り捨てることはできない。信仰生活とは、その仲間として、歩むことである。
Hebrew 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
11章に書かれているおびただしい証人とともに、わたしも神さまと共に歩むことを真摯にもとめていきたい。わたしが聖書を通読するのも、このことを確認しながら読んでいるように思う。ヘブライ人への手紙の著者にとっても、いろいろな苦労があったのだろう。重荷も、絡みつく罪も、そして、忍耐が求められることも。その一歩一歩をていねいに歩んでいきたい。この地上のいのちあるかぎり。
Hebrew 13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
このあとにも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」(2,3)とつづく。これが、この書における、「互いに愛し合いなさい」の表現なのだろう。背景の記述がほとんどないことが著者不明とされる理由でもあろうが「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。 」(23)とあり、牢に捕らわれている人たちが、実際に身近にいたのだろう。同時に、隣人も、互いに愛し合う対象も、キリスト者に限られているようにも思われる。迫害下だからだろうか。

BRC2017(1)

Heb 1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 
2節がよく引用されるが、その次の箇所を考えてみたい。一つ一つのギリシャ語を調べないと分からないが「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」は「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14章9節)などヨハネ福音書を思い出させる。「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」は理解できないが、ロゴスの概念がこの言葉にはあるのだろうか。安易に「救済史」ということばを出したくないが、御子イエスによって語られた神様のご計画が背景にあるように思われる。そしてあがないの記述のあとに神の右の座につかれたことが書かれている。いまは、何をしておられるのだろう。
Heb 2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。 
購いが明確に証言されている。パウロとも、ヨハネとも異なることばで証言されている。このあと統一が図られるのであろうが、生き生きとした信仰が表現されているように思われる。多様さは、自分で受け取ったものの、告白だから起こることだろう。しかし、同時に、自分には、十分に理解する力が備わっていないことも確かである。信仰告白の多様性と神理解の進化、非常に難しい問題に向き合い始めているように思われる。
Heb 3:5,6 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。 
忠実は pistos であるが、確信は parresia (拘束されず確信をもって包み隠さず)が使われている。忠実さは、日本語の感覚と違うのかもしれない。確信もである。キリストの忠実さと、われわれの「確信と希望に満ちた誇り」は、どのように関係しているのだろうか。言葉も、多く、まだよくわからない。
Heb 4:3b,4 もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
機械仕掛けの神を連想させる記述でもある。すべて神は業を終え、あとは自動的に信仰しているという考え方である。むろん、それは「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』 」(ヨハネ5章17節)とは食い違うように思われる。ここでは、安息のご計画について言っているとするのが妥当だろう。「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。 」(9節)安息に入る道が残されていると述べられている。それが「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。 」(10節)に続いている。しかし、やはり一つの解釈の域を出ないように思われる。
Heb 5:14 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。 
「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人」とはどのような人のことなのだろうか。6章2節に「成熟を目指して進みましょう」とあるが、それを妨げるものがあるからだろう。それは何だろうか。この世への執着だろうか。こころを明け渡していないことだろうか。抽象的になり、簡単には表現できない。しかし、日々、それが神からのものかどうか、すなわち、善悪を見分けることを祈り求めながら、聖霊の働きによって、それを見分けることができるようになることを求め続ける歩みだろうか。謙虚に。
Heb 6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。 
少し混迷している。そのような過去があれば、必ず救われることを言っているのだろうか。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。」(11節)は理解できるが、ひとの思いのように思われる。
Heb 7:18,19 その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。 
メルキゼデクのことを持ち出し(6章の終わりから7章冒頭)、イエスがユダ族で、レビ族ではないことを確認してから(14節)、イエスの祭司としての働きについて述べている。ここでは、そのことを正当化するために、律法について書かれている。ユダヤ教の背景のもとに育った人たちにとっては、これらは、重大なことだったのだろう。しかし、イエスのことばや、論理的理解のための根拠については、明らかとはいえず、やはり啓示を持ち出さざるを得ないことも事実だろう。
Heb 8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 
祭司に関連して、律法に言及してから、ここでは、幕家に及んでいる。律法と神殿は特に、捕囚帰還後のユダヤ教にとって核となるものだったろう。ステファノが告発され(使徒6章13,14節)、弁明したのもその点だった(使徒7章)。ここで幕屋について議論されているのは、エルサレム陥落(70年)以後に書かれているのかもしれない。一つ一つ覆いが除かれ、普遍的なものが見えてくる面と、啓示についてどのように理解すれば良いのか、聖書のみというときに、それは何を意味するのか、問われていることも確かである。しかし、個人的には、イエスのことばには特別なものを感じる。むろん、これとても、受け取った弟子たちというあるフィルターを通していることは確かであるが。
Heb 9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。 
購いについて、どう考えたらよいか、よくわからない。イエスさまもある程度、弟子たちに伝えていたと思われるが、明確とは言えない。詳細がだんだんと共有され教義となる。そこから出発して、世界観も決まっていく。神の愛が示されたことは残ると思うが。
Heb 10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 
ここまでの、論理をみると、ヘブル人への手紙を受け入れるには、ユダヤ教の背景が必要なのかもしれない。おそらく、書かれていることは一部であろうから。引用した言葉を表面的に理解することはできる。しかし「御心を行う」「約束のものを受ける」が私が想像できるものと同じなのか、といってもそれも明確ではないが、分かち合うことができるのか正直自信がない。
Heb 11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 
確かに「この世界が神の言葉によって創造され」たことは、信仰によって分かるのです。それを、目に見えるものから、分かるかどうかを、議論することは、できるかもしれないが、聖書が主張していることまでは、言わなくても、ヘブライ人への手紙の記者がここで述べていることとは異なる。他の聖書の言葉、たとえば創世記を根拠にするとすると、歴史的事実を記述していったことではなく、啓示によって書かれたことも明らかである。そう考えると、創世記の記述を根拠にするかどうかも、信仰によってとなる。信仰は、確かなことがわからないなかで、神様に信頼することだろう。または、神様と人との関係と、わたしと神様との関係に平行関係があり、類似性が高いことを信じることと言って良いだろうか。
Heb 12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 
「揺り動かされることのない御国」ということばは印象的である。約束を信じること、信頼すること、その約束を下さった、神様が忠実な方であることを日々知ること、そのなかで、神に喜ばれるように仕えて生きたいものである。
Heb 13:3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
23節には「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。 」と明るい知らせもある。しかし、テモテだけではなく、牢に捕らわれていたり、虐待されている人たちが実際にいたのだろう。現在も、もちろん、信仰の故に捕らえられ、虐待されている人たちもいる。しかし「自分も一緒に捕らわれているつもりで」「自分も体を持って生きているのですから」が信仰の友だけに関係することではないことは、明らかである。ヘブライ人への手紙の著者はそこまで意識しなかったかもしれないが、普遍的な真理がそこにはある。「自分を愛するように」と考えれば、世界は広がる。

BRC2017(2)

Heb 1:1,2 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
前半は、旧約との継続性とも表現できるが、その時代が終わったこと、御子によってすべて語られたことに中心があるのだろう。後半、相続者と、創造について書かれている。創造からはじめずに、このような形に表現されていることに、かえって、真実味を感じる。つまり「御子によって世界を創造」したことは、信仰告白なのだということである。特別啓示なしに、このようなことを真実として書くことはできないし、同時に、御子が「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられ」(3)るのであれば、世界のデザインそのものが、御子によっていると言えるのだから。
Heb 2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
詩篇8篇5-7節からの引用のあとの節である。「御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」(同7節)は「人間」(6)について語られていると思われるがそれを「彼」に変えている。「彼」はヘブライの手紙のこの箇所では「御子イエス・キリスト」を指していると思われるので問題も感じる。「人間」の代表として考えることにして、引用箇所を見ると、とても重要なテーマを扱っていることがわかる。引用箇所に続けて「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」(9)と書かれている。おそらく「栄光と栄誉の冠を授けられた」ことは明らかで、その意味において「すべてのものを彼に従わせられた」ということばが実現しているのだと主張されているのだろう。そこで取り上げられたことが「死の苦しみのゆえ」であることは注目に値する。それが神の「栄光」(素晴らしさ)を表すことだと言っているようだ。「神の本質の完全な現れ」(1章3節)であるなら、神こそが苦しまれたことを意味しているのだろう。
Heb 3:12,13 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
6節によれば、わたしたちは「神の家」御子はその忠実な管理者である。しかし、我々には「神の家」に属するものとして、すべきことがある。それが書かれているのが引用箇所なのだろう。「日々励まし合」うことである。それは「神の家」のメンバーを守るというより、その本質なのかもしれない。神の御心とも表現される。
Heb 4:2 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
このあと約束が残されていることを、論理的に説いている。正直、旧約聖書からの引用「わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」(詩篇95篇11節)や「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2章2節)がこのことを示すために、適切かどうかは、疑問がある。おそらく、約束はイスラエルの民のみという理解があったのだろうか。それとも「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(11)の後半へと結びつける意図なのか。「努力(spoudazoo: 1. to hasten, make haste 2. to exert one's self, endeavour, give diligence)」の内容についてもよく分からず、消化不良である。
Heb 5:8-10 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
理解するのは難しい。最初は理解できるが「従順である」ことが「永遠の救いの源」なのだろうか。であるとすると「従順」とは何を意味するのだろうか。「神から与えられたものに従う」ことだろうか。たしかにそうなのかもしれないが、それがどのように「メルキゼデクと同じような大祭司」に結びつくのだろうか。
Heb 6:1,2 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
「基本的な教え」について、わたしは疑問をもっているのだろうか。わたしにとっては「イエスが生きられたように生き、イエスがわたしたちのために命を与えてくださった救い主であることを覚えること」に集中したい。「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。」(3)もそのために使いたい。なにか、ここであげられていることは、中心ではなく、そこへと導くための手段であるように、思われる。そして、それが、時に、愛を冷えさすことになってはいないか。「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」(ヨハネの手紙二9節)をもって、自分を省みながら。
Heb 7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
当時の人、特に、ユダヤ教の伝統の中で生きてきた人たちにとって、このことが鍵で、最も納得のいく説明だったのだろう。背景によって、説明は異なるのかもしれない。「ひとの言葉」で表現されるのだから。しかし、この説明が、現代の多くの人たちに理解しにくいことは確かだろう。そのとき、どうすれば良いのだろうか。ヘブライ人への手紙は、主要な部分からはずれるのか、それとも、現代的な説明で補ったもので、理解するのか。ひとの「神」理解の進展の中で、語られることは、絶対的に必要だろう。
Heb 8:8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。
8-12節は、エレミヤ書31章31-34節からの引用である。「人は自分の罪のゆえに死ぬ。」(同30節)と、個人への言及と「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(33節)とあるように、文字で書物に書かれたものから、心に記されたものへと、二つの特徴があるように思われる。それらは、確かに、福音の中にある程度表現されているが「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知る」(同34節)は、果たしてこれは実現したのだろうか。エレミヤが真摯に求め、受け取った神からのメッセージの凄さと共に、旧約聖書とは何なんだろうという疑問も抱く。神様の御心の啓示が、神を真剣に求める者たちと通して、受け取られていくこと、神様の理解が少しずつ進んでいくその記録なのだろうか。多様であり、常に「進む」という言葉は使いづらく、さらに、今の時代をどう考えたら良いか宿題は残るが。
Heb 9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
正直、明確に理解できてはいない。「最初の契約の下で犯された罪の贖い」のために、キリストが死なれたのであれば、最初の契約のもとにいない異邦人には、関係はない。「既に約束されている永遠の財産」は、個人的には「永遠の命」だと思うが、何が意識されているのか不明である。祭司としてのイエス・キリストを説くことで、福音を余すことなく語れるのだろうか。理解できるのだろうか。限界があるように思われる。契約が背後にある以上、どうしても、対象がユダヤ人に限定されるので。
Heb 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
「影」ばかりで「実体」はないとは、はっきり言っている。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4章10節、同2章2節参照)「いけにえ」は、なかなか理解しにくい。しかし、その実体は、「神に近づく人たち」の「罪を贖」い「完全な者にする」「神の愛」なのかもしれない。たしかにそれは犠牲であるが「神からの愛」として受け入れることが普遍性が高いのかもしれない。ひとが申し訳ないなどと言っても、何にもならないのだから。
Heb 11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
「信仰(pistis)」とは何なのだろう。まずは「なんらかの真理の確信(conviction of the truth of anything)」それがキリスト教信仰においては「イエス・キリストが救い主であり、この方を通して、永遠の救いとしての神の国に入れられることを喜んで受け入れること(1. a strong and welcome conviction or belief that Jesus is the Messiah, through whom we obtain eternal salvation in the kingdom of God)」であると辞書にはある。ここにも welcome が現れるが「喜んで受け入れ(愛し)表面的には、確実ではないが、確かなものとして(イエス・キリスト)に賭けること」とも、表現できるかもしれない。「忠実さ(fidelity, faithfulness)」の意味も含むとすると、それに「賭けて」そこから離れないことも意味しているかもしれない。「不都合な状況に追いやられる可能性があったり、そこから離れることは不可能であったとしても賭ける」というやはり恐ろしい面も含んでいるが。
Heb 12:12,13 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
天の父なる神から与えられる「鍛錬」について書かれ、そのあとに、引用句がある。「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐに」することは人にできるのだろうか。それこそ、神業で、自分で自分を鍛錬することは、ある程度できるかもしれないと思ってしまう。わたしたちの側ですることがある、それは、「自分の足でまっすぐな道を歩」くこと。手をまっすぐに伸ばし、立ち上がろうとすることだろうか。
Heb 13:1-3 兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
最初の「愛し合う」ことの例と内容と言ってもよいようなことが続いて書かれている。「すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」(マタイ25章37節から39節)を思い出す句が続く。ここでは「自分も体をもって生きているのですから」と説明されているが「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章12節)の黄金律が背後に浮かび上がる。それゆえに、気づかずにもてなすこともできるのかもしれないし「いつも愛し合う」ことにつながるのかもしれない。

BRC2015(1)

Heb1:8,9 一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。 あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」 
詩編45:7,8「神よ、あなたの王座は世々限りなく/あなたの王権の笏は公平の笏。 神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」からの引用である。二つの違いがある。一つ目は「義」「神を愛すること」もう一つは「あなたの仲間に注ぐよりも多く」「あなたに結ばれた人々の前で。」七十人訳との関連も調べてみたいが、一つ目は、意訳として興味深い。二つ目も意訳の一種であろうか。印象はだいぶん異なる。いずれにしても、御子については、あらかじめ決められていたという面と、特別な従順さの故に、(神の)喜びの油を注いだということとの両面があることだろう。
Heb2:8,9 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
「わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」この状況をどのように理解するかは大きな課題である。ここでは、それがイエスの死によって「栄光と栄誉の冠を授けられた」とし「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(17節・18節)と結んでいる。とりなしをしてくださっているということだろう。もう少し、ここを学びたい。
Heb3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
7節から11節の詩編95からの引用から始まっている。結局、信仰の問題なのだとすると、我々の側に何か変化があるのか。もし、それがないなら、同じような間違いを犯すことになる。それがあるとすると、イエスによる神のみこころの啓示だろうか。これは、おそらく、とても大きな問題とつながっている。聖霊の働きの範囲、主体的自由の問題。
Heb4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
この章の最初から書かれている、安息に入るものが残されているという論理は、受け入れがたく感じられる。旧約時代も、そして、異邦人の中にも、安息に招かれているものはいると考えるからである。しかし、最後のこの16節は力強い。神に目を向けることに集中すること、それが、恵みの座に近づくことではないだろうか。わたしは、そのように生きたい。
Heb5:7, 8 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
最初に大祭司の三つの特徴が書かれている。1. 自分自身も弱さを身にまとっている、2. 自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げる、3. 神から召されて受ける。2番目は、弱さを担うことに関連しているので、独立に扱わなくても良いのかもしれないが、イエスにおいてどのように実現されているのかを考えるために分けてみた。ここであげた7,8節は、その2に対応しているのかもしれない。いずれにしても重要な特徴である。前半は、ゲッセマネを思い出すが、もしかすると、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」祈ることは、日常的なことだったのかもしれない。
Heb6:7, 8 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
この前の5, 6節との続きで、理解すべきだろうが、難しい箇所でもある。実を結ぶことだろうか。具体的なこととの対応についても考えてみたい。
Heb7:19 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
イエスが「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」詩編110:4「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」のメルキゼデクと同じような祭司とされた結果である。律法の廃止、しかし希望である。この表現は適切かもしれない。イエスにこそ希望がある。
Heb8:13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
たしかにイエスさまとの生活が始まれば、あらゆるものが古くなる。わたしは、いままで何を求めていたのだろう。
Heb9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
キリストを待ち望むものに、救いをもたらすため。希望は、このときとつながって、いま、我々を生かすもの。それも、罪が赦されている確信の’故だろうか。わたしには、しかしながら、確信まではない。
Heb10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
忍耐は主体的な生き方である。単に我慢することではなく、その生き方を選び取っていくこと。そこには、すでに苦しみばかりがあるわけではない。しかし同時に、粘り強く、耐えることが必要である。
Heb11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
報いるの意味にもよるが、確かにその通りだろう。応答してくださるということだろうか。沈黙もあり得る。しかし神の支配の内にいることは、信じていなければならない。同表現したら良いのだろうか。
Heb12:25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
なかなか難しいことばに思われる。人の言葉を神のことばとして聞く。そこに信仰があることは確かだが、主体的自由は、信仰の鍵だとも思われる。もう少し、信仰・神様への信頼と、主体的自由の関係を明確にしたい。
Heb13:1,2 兄弟としていつも愛し合いなさい。 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
「兄弟として」は、キリスト者の間でのことなのだろうか。もしそうであるなら、衰退はすでに始まっていることになる。2節を見ると、もう少し広かったのではないかとも思わされる。そのような希望を持つ。善きサマリヤ人のたとえのように、兄弟の範囲が拡大していくこと、または限界を取り去ること、自分が神様に愛されているように、他者を、神様が愛しておられるひととして受け入れること、それが兄弟としてそしていつも愛し合うことでありたい。
 

BRC2015(2)

Heb1:1,2 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
預言者によって先祖に語った時代(ある部分は聖書に記録されている)と御子によって語られた(この)終わりの時代とみると、時間の前後である面が色濃く表れる。しかし、御子の働きに目をとめると、御子になったのか、最初からなのかとの疑問も現れる。それは、おそらく重要ではないのだろう。役割を演じた時の違いなのかもしれない。
Heb2:14,15 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
死を滅ぼすという論理は、すでに確立していたのだろう。パウロ的にいうと「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38節・39節)死については、もう少しよく理解したい。死が恐怖である人は多いのだから。わたしは、単に向き合っていないのだろうか。
Heb3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
はっきりいって、ヘブル書をしっかり理解できない。いつか、時間をとって、理解することができるだろうか。13節は神の御心にそう、神様の喜ばれることのように思われる。兄弟愛である。隣人愛である。共に祈りたい。
Heb4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 
新約聖書で「弱」について調べてみた。弱さは、人間の特性である。その弱さを身にまとわれた神の子イエスに圧倒される。ローマ15章1節「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」パウロのように、強い者とは言い切れない。しかし、神の子イエスのことを思うと、それこそが神が求められることである。もう一つ、人間の弱さとは異なる箇所を見つけた。2コリント13章2節「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」十字架上の死は既定路線のように考えてしまうこともあるが、まさに「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」イエスの生涯が凝縮されたものなのだろう。
Heb5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
これが基本である。しかし、人間の大祭司は、その本質的役割を果たすことができない。このあとの記述は圧巻。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(7,8節)本来の大祭司になられたことを、書いているのだろう。
Heb6:18,19 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。
すばらしい。でも二つの不変の事柄とは何なのだろう。14節でのアブラハムへの約束「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」なのだろうか。おそらく違う。1節から書かれている「キリストの教えの初歩」を学び続けなければいけないように思う。
Heb7:24,25 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
永遠に生きることと、常に生きていることをわけて書いてある。キリストを通して神に近づくという表現をしている。完全に救ってくださるのは、この大祭司以外には、ないのだろう。
Heb8:11-12 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
8節に「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る」とある「新しい契約」の内容であり、8節から12節はエレミヤ31章31節から34節の引用である。これは、イエスによる新しい契約をさしているのだろうか。そう読むのは自然ではない。ここでは、イスラエルの家とユダの家が対象であること、そして、引用した、11節・12節が成就している、またはここで表現されている契約と考えるのは、困難であるからである。聖霊の働きを考えても、別のものだと考える。ただ、新たな契悪が必要という論理立てで引用されており、それは、十分な意味がある。
Heb9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
意味がよく分からない。キリストが、まことのものの写しなのだろうか。では、ほんとうのものとは、何なのだろうか。キリストにおいて、まことのものが現れたと理解していた。もうすこし、ここで言っている内容を理解したい。
Heb10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。 
ステパノが訴えられたのは「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。」(使徒6:13)だった。偽証人をたててとも書かれているので、具体的に何を意味しているかは不明であるが、この記述は、神殿での犠牲は必要ないことを宣言している。書かれたのが、70年の神殿破壊より前か後かは不明であり、それは、読む人にとっての影響としてかなり異なるように思われるが、本質的には、この聖句は真理であろう。そして、祭司にとっては、やはり大きな問題である。さらに、罪と不法の赦しとあることは、ファリサイ派の教えも無に帰することも事実である。最初から対立しているのは、本質を突いているのかもしれない。愛と赦しをうけ、愛をもってゆるしあい仕え合うのがイエスの教えなのかもしれない。
Heb11:39,40 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
信仰による活動は、種々多様である。それは、神に喜ばれるという共通点をもつ。しかし、この世においては、約束されたもの、これは、永遠のいのちであろうか、は手に入れられない。しかし、ここでは「更にまさったもの」について書かれている。これは、何なのだろうか。こちらが、永遠のいのちに生きることで、前者は、最後の日の復活なのだろうか。あまりそのように考えることに意味がないのかもしれない。
Heb12:14 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
平和と聖なる生活。具体性はどのようなものなのだろうか。最後の主を見るとあるので、清さだろうか。自分の欲にひかれてはいけないことが、16節に「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」とある。しかし、正直よくわからない。
Heb13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
前半は十戒にも反映されている。神様に寄り頼む基本だろう。後半も、イエスの約束である。しかし、なにか唐突な感じがする。これでよいのだろうか。論理性が弱いし、普遍性も高くないように感じてしまう。イエスの教えでも、パウロの書簡とも異なるからそう思うのだろうか。

BRC2013(1)

Heb1:3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
おそらく、これは、目撃者が著者ではないだろう。目撃者は、これだけの言語化に抵抗があるのではないか。言葉で明確に表現されることには、限界があるから。
Heb2:11 実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。
Mt12:15 「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」これは、驚くべき事である。論理は、不思議である。「きよめるかたも、きよめられるものたちも。」おそらく、きよめるものは、イエスであろう。
Heb3:13,14 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
キリストにあずかるとはどういう意味だろう。KJV では "For we have become partakers of Christ if we hold the beginning of our confidence steadfast to the end,” となっている。NIV では "We have come to share in Christ” 日本語は新共同訳もあまりかわらない。英語では現在完了。partake は聖餐式を思い起こさせる。キリストにあずかる。もう少し考えたい。
Heb4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
この章の論理は、一度確認したいが、わかりやすいとは言えない。安息の意味をまずは十分理解しないといけないのかも知れない。安息に入れることは、希望であるにしても。
Heb5:7 キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
これは、ひとつの解釈であるように思われる。十字架の死と復活の意味は、当時、幾通りにも解釈され、表現されていたのかも知れない。
Heb6:18 それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。
今回、ヘブル人への手紙を読んで感じるのは、いままで真剣に読んでいなかったと言うことである。理解しようとしていなかったのだろう。ていねいに、読む時を持ちたい。
Heb7:25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
ヘブル人への手紙の論理がこのような複雑なものだとは、知らなかった。おそらく、ヘブル人以外の基督者には、理解できなかったであろう。そして、ヘブル人からも反発があったろう。
Heb8:7,8 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。 ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。
これは、確かである。初めの契約が完璧なら、新しい契約について述べはしなかったろう。しかし、それがイエスによるものかどうかは、どうやって知るのだろう。
Heb9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
わかりやすい説明ということだろう。再臨の意味は、どのように弟子たちは受け取っていたのだろうか。
Heb10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
ヘブル人への手紙における論理に対する違和感は、おそらくイエスが登場しないことであろう。アポロのように、ユダヤ教の雄弁家が、パウロを通して、贖罪に関するキリスト論をうけた結果なのかもしれない。もう少していねいにみてみたい。
Heb11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
これが1節にある「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」で言われている信仰によって生きることの具体的な意味なのであろう。地上では寄留者であることを自認し、16節の「もっと良い、天にあるふるさと」を望み見て生きたということだろう。
Heb12:26 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
ハガイ2:6「万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。」文脈を考えると、なにを意図した引用なのだろうか。
Heb13:5 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
神様がつねに一緒にいてくださること以上の安全はない。神様の「あなたを捨てない」という約束を信頼していきたい。

BRC2013(2)

Heb1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
終わりのとき、御子によって語られる。御子をとおして神様を示されたという事だろう。わたしたちは御子を通して、神を知る。
Heb2:17,18 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。
「兄弟と同じようになる」「試練を受けて苦しまれた」はまさに、神のへりくだりと、神の苦しみが現れている。罪を負うという究極の和解と愛の犠牲の背後にあるものである。
Heb3:6 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
神の家とよぶのはすごいが、まだ十分理解できている訳ではない。1節から5節を学びたい。
Heb4:12,13 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
「神の言は(中略)心の思いと志とを見分ける」そして「すべてのものは、神の目には裸」となっている。与えられている神の言に真剣に向き合いたい。
Heb5:8 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、
さまざまな苦しみは何を意味するのだろうか。十字架上での苦難とともに、弟子の不信仰や裏切り、群衆の無理解などはあげられるだろうか。主の苦しみは、まだよく理解しようとしていない。
Heb6:11,12 わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、 怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
最後まで望みを持ち続けるために。希望を失わない人生でありたい。
Heb7:22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
何を言っているのであろうか。これが新しい契約であろうか。保証とはなにを意味するのか。
Heb8:11 彼らは、それぞれ、その同胞に、/また、それぞれ、その兄弟に、/主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、/彼らはことごとく、/わたしを知るようになるからである。
この実質的意味を知りたい。聖霊が与えられる事が背景にあっても、少なくとも、この世では、キリストを信じることによる新しい契約によっても、このようにはなっていないと思われるからである。この引用は Jer 31:31-34 であるが、その34節を併記する。「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。」
Heb9:14,15 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。
Mt26:28「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」を想起させる。単なる論理ではなく、約束が背景にある。永遠の国を受け継ぐ者となりたい。
Heb10:39 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
この前には、ハバクク2:3,4 の引用が挟まっている。その前の36節は「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」そしてこの節。これだけきっぱり言えるのには、驚かされる。そのような信仰に立ちたい。
Heb11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
10章からの続きを十分意識していなかった。もう少しじっくり学びたい。
Heb12:2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
わたしはつねに主をわたしの前に置き、イエスに従って生きていきたい。「喜びのゆえに、恥をもいとわない」これがここでは信仰に生きる事をあらわしている。罪を担う事は、大きな恥であったろう。神から見捨てられたものとなるのだから。
Heb13:3 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。
ここで想定されているのは、おそらく、兄弟である。1節に「兄弟愛を続けなさい。」しかし、マタイ25章は、それに限らないところにすごさがあると思う。


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ヤコブの手紙

ヤコブの手紙からユダの手紙まで

ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、ユダの手紙、これら七書は「公同書簡」「公同の手紙」(Catholic Epistles(Catholic はギリシャ語のカトリコスからきており、普遍という意味です、使徒信条とよばれ多くの教会で唱えられる信仰告白の中に「聖なる公同の教会」ということばが出てきますが、これも英語では、Holy Catholic Church で、プロテスタント教会でもこの言葉で唱えられます), General Epistles)とも呼ばれています。特定の地域の人たちや、グループにあてられたのではなく、信徒全般に対して書かれ、回覧が想定されているものだからです。

著者がそれぞれ誰なのかなども、ひとつひとつ難しい問題を含んでいるようですが、ここでは、簡単に、著者として想定されている有力なひとについて記しておきましょう。

ヤコブは、通常、主の兄弟ヤコブといわれる、エルサレム教会の長老(マタイ13:55, マルコ6:3, 使徒12:17, 15:13, 21:18, ガラ1:19, 2:9, 12, 1コリ15:7)。つまりイエス・キリストの兄弟のヤコブです。この書は英語では、James と呼ばれています。旧約のヤコブはそのまま Jacob と呼ばれていますから、これは、King James のもとでの英語聖書欽定訳以来の習慣ではないかといわれています。アメリカでわたしは、新約聖書の一巻として、Jacob といっても、通じないので困った経験があります。

ヨハネの手紙第一は、12弟子の一人のヨハネ、ヨハネの福音書の著者、しかし第二と第三は、それとは違うヨハネだともいわれています。長老と呼ばれているからで、マルコ、ヨハネといわれている、マルコの福音書の著者が想定されているのではという説もあります。ペトロはむろん、12弟子の一人のペトロが想定されています。ユダも難しいですが、ヤコブの兄弟(1節)といわれているので、主の兄弟ユダ(マタイ13:55, マルコ6:3)が想定されているといわれています。

ヤコブの手紙(1)

上で述べたように、ヤコブの手紙以下ユダの手紙までの七書を一般に「公同書簡」と呼びます。書簡の宛先が、特定のひとではなく、信者全般を対象としているからです。このヤコブの手紙1章1節は、次のように始まります。
神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
このヤコブは、上にも書いたように、イエスの兄弟でユダヤ人の間にも信望があつく、エルサレム教会の中心人物だったヤコブであるとされています。宛先は「離散している十二部族の人たち」となっていますが、これは、一般的には、ユダヤ人をさすことばです。

1522年に宗教改革者マルチン・ルターが、新約聖書のドイツ語訳を出版したことはよく知られていますが(新旧約聖書完全版は1533年頃)、そのヤコブの手紙の序言に、次のように書かれています。(いのちのことば社「新聖書注解」からの引用)

「要するに、ヨハネの福音書ならびに彼の手紙第一、パウロの手紙群、特にローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、そして、ペテロの手紙第一、これらは、あなたにキリストを示し、必要なすべてのことを教え、たとえその他の書や教理を見たり聞いたりしなくても、あなたに幸いとなる書である。それゆえ、これらの書に比べるなら、ヤコブの手紙は軽い藁(わら)の手紙である。なぜなら、これは、福音的性格を何ら持っていないからである。」「私は、この書を聖書の真に主要な書の中には数えないが、人がそれに位置を与え、高く評価することを妨げはしない。」
ローマカトリック教会と戦っていたルターにとっては、秘蹟の一つ「終油」の根拠ともなり得る節 (5:14) を含んでいたり、なによりも、アブラハムの義認は、イサクを献げた行為によると書かれている (2:21)、に抵抗があったことは確かでしょう。確かに、パウロの書簡などとは、かなり異なる印象を受けます。
ヤコブの手紙2章21節
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
背景として次のような問題があったのではないでしょうか。
Q. 信仰義認を大切にし、行いによる義の実践が弱いキリスト者は、ユダヤ教徒からみると倫理的にも劣るようにみえるが、それで良いのか。
イエスを救い主と信じてからも、律法を守り、高い倫理を保って、義を実践していた人たちにとって、特にユダヤ人キリスト者の生活の変化について、ユダヤ教徒から非難を受けることが耐えられなかったのではないでしょうか。おそらく問題の行為もあったでしょうから。似たことは、歴史上に何度もあり、日本にもあるように思います。高い倫理観をもつ教育をうけた人が、キリスト者の行為をみて非難する。高い倫理観をもつ教育をうけ、その上でキリスト者となった人たちが、問題のあるキリスト者を見て、キリスト教とはそのようなものではなく、一般的な社会倫理としても高くないといけないと反論し、非キリスト者からの非難を避けるためにも、キリスト者の倫理観を高めようとする。

イエス様なら、このような問題にどのように答えられるでしょうか。ヤコブの手紙を読みながら、ゆっくり考えてみましょう。

ヤコブの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(中島守)を引用しておきます。

  1. あいさつ 1:1
  2. 信仰生活の諸相 1:2-1:27
    1. 試練 1:2-4
    2. 知恵を求める 1:5-8
    3. 真の富 1:9-11
    4. 試練と誘惑 1:12-15
    5. 良い贈り物
    6. 聞くことは行うこと 1:19-27
  3. 信仰と行ない 2:1-26
    1. 偏見を除く 2:1-7
    2. 最高の律法 2:8-13
    3. 信仰と行い 2:14-26
  4. 教師に要求される資質 3:1-3:18
    1. 舌を制すること 3:1-12
    2. 二つの知恵 3:13-18
  5. 種々の危険に対する警告 4:1-4:17
    1. 世か神かの二者択一 4:1-14
    2. 悪口を言うこと 4:11-12
    3. 生意気な自己過信 4:13-17
  6. 警告と勧め 5:1-5:20
    1. 金持ちに対する警告 5:1-6
    2. 再臨を思い堪え忍ぶこと 5:7-11
    3. 誓いについて 5:12
    4. 祈りの能力 5:13-18
    5. 迷える者たちを助けること 5:19-20


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

James 1:25 しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。
この段落は「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。」(22)と始まる。完全な律法、自由の律法の意味は、明確ではないが、イエスがさし示した律法なのかもしれない。議論の余地は、はばは広すぎるかもしれないが、真理もあるように思う。互いに愛し合いなさいも、この、完全な律法、自由の律法の中核にあるのかもしれないと思った。聞くだけの人、聞いて忘れてしまう人ではなく、そのように生きるものとなりたい。
James 2:20-22 ああ、愚かな者よ、行いのない信仰は役に立たないということを知りたいのですか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義とされたではありませんか。あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。
「信仰が行いにより完成された」と宣言できるかどうかは別として、信仰が行いによって現れることは当然だろう。ただ、信仰義任の問題は、ファイリサイ派のパンだねに関係したことのように思う。単に、信仰か、行いかという二者選択になってしまう可能性を拭い去ることは難しいことも確かなのだろう。御心を行うものになりたい。
James 3:8 しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
舌を制することは難しい。しかし、同時に、この舌の言葉によって、励まされること、励ましを与えることも確かである。むろん、励ましのことばがどのように働くかは、簡単には、見定めることはできず、暴力となることがあることも確かだが。舌を治めることができる人はひとりもいないことは、しっかりと受け取りたいメッセージではある。
James 4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
このように生きられれば良いなと思う。人生にたいして、神様の招きに対して、available ということだろうか。しかし、同時に、計画性がないと、なにもなし得ない。それを考えながら、準備することも、やはりたいせつなように思う。おそらく、その間には、矛盾はないのだろう。あと少しの人生、その両面をたいせつに、生きていくことができればと願う。
James 5:14 あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
まさに、これが治療であり、癒しであり、奉仕だったのだろう。テラペウオー(θεραπεύω)である。語源から、どのように、用法が変化していったかも、調べられるのだろうか。どこまで、詳細がわかるのだろうか。難しいのかもしれない。Wikitionary によると、1. to wait on, attend, serve, 2. to obey, 3. to flatter, placate, 4. to consult, 5. to cure, heal, restore, 6. to cultivate, till (of land), 7. to protect とのことである。用法も含めて歴史を知りたいが。

BRC2023(2)

James 1:1 神と主イエス・キリストの僕ヤコブが、離散している十二部族に挨拶いたします。
ユダヤ人キリスト者に当てて書かれたのではないかと思われる。ヤコブが特別に信頼されていた、または、ヤコブが発信すべき対象はそのような人たちだったのだろう。だから、「離散している十二部族」ということばを選んだのだろうか。しかし、キリスト者が対象とすると、これをどのように理解するかは、おそらく、説明が必要だったろう。神の僕、主イエス・キリストの僕と書かれているヤコブ(この手紙はむろん、ヤコブが書いたかどうかは不明だが)複雑な思いや経験も入り混じっていたことだろう。信頼されていたということは、キリスト者になる前の人生も彼なりの大切な生き方があったのだろうから。
James 2:21,22 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義とされたではありませんか。あなたの見ているとおり、信仰が彼の行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたのです。
この表現は議論になったろう。しかし、行動なしに信仰はないとわたしは思う。切り離せることではないだろう。わたしは、御心を行うことを大切にし、そのなかで信仰を学んでいきたい。
James 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
おそらく、ヤコブは、知恵と分別がそれなりにあり、知恵に適う柔和な行いと良い生き方を示していたのだろう。だから書けることなのかもしれない。しかし、そうはできない人たちが多い。そのことは、どう考えればよいのか。そのひとたちは、悪だとしてよいのか、遺伝子的な生来受け継いだ特性も、育った背景などもあるだろう。そのようなひとたちにどのようなアドバイスをし、どのように、共に生きるのがよいのか、非常に難しい。
James 4:2-4 あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、求めないからです。求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。神に背く者たち、世の友となることは神の敵となることだと知らないのですか。世の友になろうとする者は、自らを神の敵とするのです。
わたしは、このようには語れない。それほど簡単なのだろうか。たしかに、欲望が背後にあるのだろう。しかし、神に求めると言う行為で、それが解決するのだろうか。これも、自助努力で達成できると言っているのと同じである。ひとのむずかしさは、それほど簡単ではない、と思わされる。だからといって、わたしが違った助言をできるわけでもないのだが。このような助言で、変わることができる人もいるのだろうし。
James 5:1-3 さて、富んでいる人たち、自分に降りかかる不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣は虫が食い、金銀もさびてしまいます。このさびが、あなたがたを訴える証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの日々にありながら、宝を蓄えたのです。
ヤコブの手紙の著者は不明だが、ヤコブ由来と考えると、ヤコブが「エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々」(ローマ15:26)の一人だったのかなとも思う。このような生き方を、大切にしたのだろう。ヤコブ(書で表現されている)的な信仰に批判もあるが、このような信仰も十分理解できる。ひとはみな欠けがあり、神様とのそれぞれの関係の中に生きているのだから。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

James 1:25 しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。」(22)は、信仰義認と比較されるが、実際に御言葉を行い、生きてみることの大切さが、語られている言葉だと思う。このあとには、「御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は、自分の生まれつきの顔を鏡で映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。」(23,24)とあるが、まさに、学習は、実際に行い、それを、修正し、少しずつ、長い時間をかけて理解していく過程なのだろう。神のことばは、一瞬にして理解できるものではない。信仰義認なども、ひとつの信仰告白なのだろう。その背後にあるもの、パウロなどは、ユダヤ教の背景・学びの上で、特別な経験や、おそらく啓示を通して、得たことだろうが、他の人が、同様なことを告白することを、ことばなどで、説得されることではできない。わたしも、行う人になりたい。むろん、完全に行うことはできない。しかし、それを経験し、自らの姿を鏡で確認しながら、少しずつ修正していきたいものである。
James 2:14 私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。
わたしは、基本的に、ヤコブの手紙を支持しているが、この節のようなことが独り歩きすると、やはり裁きに至ることは、確実だろう。ここには「役に立つか」「人を救うか」との判断が書かれている。価値あるものとするのは、神が喜ばれるかどうかで、これらの基準ではないことをこころに留めるべきである。そして、さらに、なにが神に喜ばれるか、わたしたちには、明確には、わからない。それを、これらの条件に置き換えることは慎みたい。しかし、全くわからないわけではない。特に、これは、神様は喜ばれないだろうということは、ある程度わかるように思う。でも、やはり難しい。
James 3:18 義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。
正確にはわからないが、響きの良い言葉である。義は、神様のみこころだろう。神様の御旨がなるのは、とも読めるかもしれない。その一つの特徴が書かれている。すなわち「平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれ」れば、それが義の実、神様のみこころにかなったこととは言えないが、神様のみこころは、このようにしてなるということである。平和も、正確にはよくわからないが、平和ではない状態はわかるように思う。平和をもたらすものでありたい。
James 4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。
仏教の「煩悩を滅すること」を思い出す。一度、ゆっくり学んでみたいと思った。今までは、似た教えに出会うと、それと、聖書は何が違うか、何が優れているかを考えていた。もしかすると、近い真理をいっている場合もあると思った。ただ、この箇所は、前の章の最後「義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。」(3章18節)とつながっている。おそらく、真剣に考えないと、解決不可能なことが多いのだろう。その中で、これかもしれないということに突き進んでいく。このあとには「求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。」(3)ともある。それは、たしかにあるだろうが、「神に背く者たち、世の友となることは神の敵となることだと知らないのですか。世の友になろうとする者は、自らを神の敵とするのです。」(4)には疑義もある。やはり、難しい。仏教には答えがあるのだろうか。おそらく、聖書と同じくヒントはあっても、解決策があるわけではないのだろう。難しい。
James 5:7 それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。
待つことがひつようなことは多い。そしてそれが難しいことも多い。特に、いつまで待てばよいかわからない場合である。主が来られるときまでと、言えば、それは、終わりを仮定している。それも、速やかにこのことが起こると信じることは、救いでもある。しかし、これを疑い始めると、実際には、難しい。やはり、忍耐はそう簡単ではない。ここでは「農夫」があげられている。わたしが、ほとんど、経験していないことを農夫は知っているのだろう。それも、求めてみたい。

BRC2021(2)

James 1:2,3 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
真実であっても、そのまま伝えることが適切ではないこともある。試練に出会ている人に、このことだけを伝えることは適切だとは思わない。互いに愛し合うことは、正しさではなく、関係性の中で育まれ、共感を大切にしながら、そこに働くダイナミズムに価値をおくことのように思う。試練に出会ったひとが語る、信仰告白としては、素晴らしいものであることは確かであるが。
James 2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
この前の節には「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」(1章27節)とある。別け隔ての例も、金持ちと貧しい人の対比となっている。ヤコブの手紙の著者・著者グループは、実際にも「貧しい人々」(「エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々」(ローマ15:26))の代表だったのかもしれない。パウロも特に配慮しなければいけなかった人たちである。そのことが「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(14)の根拠であり「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(24)とパウロが語る信仰義認とは、相容れないような表現に結びついているように思う。パウロが特に気を使った理由も、理解できるように思う。
James 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
この章は「私のきょうだいたち、あなたがたの多くは教師になるべきではありません。知ってのとおり、私たち教師はより厳しい裁きを受けるのです。」(1)と始まる。そして生き方が書かれている。個人的には、とても好きである。特に、最後「しかし、上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。」(17,18)このように生きられればと思う。具体的に考えると、そう簡単ではない。それは、個人の任せられているのだろうか。
James 4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。
基本的なこと。このことは、自分でできているかどうかは別として、こころに沁み込んでいることは確かである。ユダヤ教の中でも、確立されていたことなのだろう。それは、教義は違えども、人それぞれにとって大切なことでもあるように思う。「しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖書はこう語るのです。/『神は、高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる。』」(6)は、引用箇所には詩篇138篇6節「主は高くおられ、低くされた者を顧みる。/遠くから、高慢な者を見抜かれる。」と箴言3章34節「主は嘲る者を嘲り/へりくだる人に恵みを与える。」とあるが、後者のほうが近いようである。旧約からの引用はできるだけ、確認していきたい。
James 5:7,8 それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。あなたがたも忍耐しなさい。心を強く保ちなさい。主が来られる時が近づいているからです。
この章は「さて、富んでいる人たち、自分に降りかかる不幸を思って、泣き叫びなさい。」(1)と始まる。また「あなたがたは、地上で贅沢に暮らし、快楽にふけり、屠られる日のために自分の心を肥やしたのです。」(5)につながっている。そして、引用句である。富の不公平の一挙解決をも、主の再臨にゆだねているように見え、それまでは、我慢・忍耐と説いているように読めてしまった。それだけ、苦しかったのだろう。その中では再臨信仰が強くなる。それが、御心からはずれているように思われるが、非難することはできない。不公平 Inequality に、どのように向き合っていったらよいかは、どの時代にも、大きな課題なのだろう。

BRC2019(1)

Jas 1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
ヤコブの手紙からは、神の子として生きることがなかなか伝わってこない。しかし「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(22)から、引用句まで「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」(25)と表現されているなかに、ヤコブの理解があるのだろうと思う。イエスから受け取ったものは、少しずつみな異なるのだろう。それで良いのかもしれない。「父である神の御前に清く汚れのない信心」をたいせつにしたい。
Jas 2:21-23 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
ヤコブの手紙記者は、ローマの信徒への手紙4章のアブラハムは信仰によって義と認められたという議論を十分理解していただろう。ここでは、「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」と表現されている。完成は plhrow (to make full, to fill up) という言葉が使われている。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 」(マタイによる福音書5章17節)で使われていることばと同じである。
Jas 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
この章には、舌について始め、実についての記述もある。(1-12)山上の垂訓の内容を熟知していたことが伺い知れる。イエスの語った内容のすべての面に光を照らしていないかもしれないが、丁寧に読む必要を感じる。単なる受け売りではないのだから。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(18)
Jas 4:11,12 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
この論理は興味深い。マタイによる福音書5章17-26節の一つの解釈である。また「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」(8)も心の清さが、心の定まらない者のことであることを証言している。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(17)は、不法を的確に表現している。興味深い。
Jas 5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。
これほど、山上の垂訓との類似があるとは、知らなかった。確かに、イエスのメッセージとは、少し異なる印象をうける。しかし、ひとつの解釈、実践例であることも、確かであるように思う。ことを定めることや、裁きをすることは、天の父なる神様にあることを、告白しているのだろう。そして「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(16)互いに祈り合うことも、述べられている。この前には赦しもある。批判はいくらでも言えるし、違いも述べられるだろう。しかし、もっとじっくりと学んでみたい。

BRC2019(2)

James 1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
この前には「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」(23,24)の鏡のたとえがある。完全に理解しているわけではないが、みことばは、それを生きてみて、少しずつ理解できているもののように思う。行うことで止まっていては問題かもしれないが。行うとその先が生じる。鏡に映すようにながめているだけでは、なにも生じない。
James 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
この前には「あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」(16)とある。これは、直接的な効用がなければ、無意味だと言っており、功利・効用を生活の究極基準とする、ひとつの功利主義である。イエス様が、みことばを行うことを強調されたのは、おそらくこれが根拠ではないのだろう。それをとおして、学ぶことができるからであると、わたしは思う。まさに、Service Learning である。神さまとの関係は、それを通して深くされていくので、行うことがなければ、学ぶこともない。信仰はそれだけでは、死んだものなのだと言えると思う。
James 3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
舌を制御することは困難であることが書かれ、引用句に至る。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ7章17節)などを思い出させる。舌によって、つまり自らの発言によって多くの罪を犯す、失敗してしまうことを、ヤコブは十分理解しているのだろう。しかし、行き着く先は、それはおかしいというところである。イエスのメッセージは、その根っこ、ことばを発する主体に目を向けなければいけない。全人格的な悔い改めのもとで謙虚に生きることがたいせつで、舌の制御方法を考えていてはいけないと言っているようである。ひとは、やはり表面的な解決を求めてしまうのだろう。または、表面的矛盾を解決する説明を求めるのだろう。しかし、へりくだって、神さまに信頼し、イエスを神の子キリストと信じて、主の招きに答えていく歩みに本質があるように思う。
James 4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
困難な問題である。結局、欲望のところに行き着くのだから。遺伝子にすり込まれている、人間の本質にかかわることであるとも言えるかもしれない。そのようなものが「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(15)として生きる者とされることは、基本的には不可能である。これは、わたしが使っている、available に近いが。この章の最後にある「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(17)も、stay vulnerable と言いうるかと関係している。厳密にみると、地上でそれを達成することは不可能だろう。しかし、イエス様を知ることを通して、神さまとの交わりを持つ、永遠のいのちを生きること(ヨハネ17:3)、自らを振り返りながら、みことばを生きようとすること集中したい。同時に、ここに欠けたものがあることも、最近感じている。自分が「ただしい側にいる」ことを求めている姿である。共に喜ぶこと、隣人・他者がその人生の中に、有機的に組み込まれることを考えたい。さらに大きな課題である。
James 5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。
これは単に我慢しなさいと言っているに過ぎない。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」(7)我慢よりは「忍耐」ということばのほうが響きはよいが。わたしは、苦しんでいる人にこのようには言えない。1節から6節をみると、具体的な問題がたくさんあったようである。社会的不正である。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」(8)再臨を待つ、キリスト者の心構えとして、これでよいのだろうか。神さまから様々な方法を通して、御心を知らせようとしておられるなら、そのことをしっかり受け取るべきである。たしかに、忍耐は必要だろう。しかし、それだけではないのではないだろうか。

BRC2017(1)

Jm 1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 
前の節には「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 」とある。確かに、神は試練を良しとされることはあっても、誘惑されるのではないのだろう。ここには、人間の側の責任がある。責任ある行為の主体者と言って良いかもしれない。絶対王制、ファシズム(独裁的国家主義)のころには、そうは言えなかったかもしれないが、社会的にもある自由が与えられている世界が広がっている。そのなかで誘惑についても、より理解が深まるのかもしれない。
Jm 2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 
とてもインパクトがある。貧しくかつ信仰に富んだ人たちがたくさんいたのだろう。この章は「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 」からはじまる。普遍性からいえば1節の方が簡明であるが、力強いのは、上の5節である。信仰に富むとはどういうことだろうか。世の宝に富んでいることの対比であろう。すると、天の宝、神様の心と結びつくことだろうか。信仰についてよく考えたい。
Jm 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 
わたしのことばとは異なるが、誠実な生き方、そこに神様からの知恵とそれをわきまえた分別をもって生きたい。知恵にふさわしい柔和な行いとは、どのようなものだろうか。
Jm 4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。 
おそらくそうだろう。しかしその見極めが難しい。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。 」(1節)の答えがほしい。問題が多い教会が多い。そして、おそらく、それは、初代教会においてもそうだったのだろう。イエス様も、多くの人たちから非難され、そして、十字架上で死なれた。どう考えたら良いのだろうか。祈りつつ。
Jm 5:19,20 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。 
これがヤコブの手紙の結語である。ヤコブの手紙から、または、ヤコブから学ぶことはあるが、やはり問題の本質とその解決に迫っていないようにも思ってしまう。むろん、私がその答えを持っておらず、それを、聖書に求めながら読んでいるからかもしれないが。本当に罪人などと見極めることができるかどうかは、わからないが、真摯にそのひととも、問題とも向き合って、語り合うことができればと願う。祈りつつ。

BRC2017(2)

James 1:9,10 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
「貧しい兄弟」に対して「富んでいる者」を対比している。富んでいる者が「自分が低くされることを誇りに思う」とはどのような意味だろうか。訳し方から、終わりの日が想定されているようにも思われる。しかし「日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。」(11)をみると、「人生の半ば」におこることも想定しているのかもしれない。これに続く「試練」「神からの贈り物」にも関係しているのかもしれない。しかし「兄弟」と「者」とわけるなど、違った要素も加わっているようにおもわれる。直接「御心」をもとめるには、普遍性が十分ではないのかもしれない。ヤコブの祈りと神との交わりをまずは、学ぼう。
James 2:9,10 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
ここからも、律法がさばきの中心にあることが明確になっている。つまり、これに関する四つの問いの特に二つ目「B. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。」を考えると、大きな問題に突き当たる。イエスをどのような救い主として信じるかと、普遍性の問題である。後者は異邦人に関わることでもある。ユダヤ教の背景のもとで、忠実に神に仕えようとしてきた人が、神に仕え続けようとしたときには、当然のことだろう。だから、余計、難しい。
James 3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
「義の実」とはなになんだろう。それも「義の実」が蒔かれるとある。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」(17)の「上から」は「神から」であろうから「義の実」も「神がもたらしてくださる実」であろう。すると「平和を実現するひとたち」を神は用い「平和のうちに」という性質を伴ってなされることだ、と言っているように思える。国や民族間の争いに対する平和においても、ひとと人との間、神と人との間においても、そうだと言っているのだろう。
James 4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。
「兄弟に対して悪口を言ったり、裁いたりする」ことが「律法に対して悪口を言ったり、裁いたりする」ことときっぱりと言うことには驚かされる。旧約聖書のどのような部分を背景としているのか、または、それから離れ、福音の世界にいるのか不明であるが、おそらく、この手紙の全体から伝わっていることを考えると、前者なのだろう。しかし「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネの手紙一4章21節)とあるように、後者につながっているものを見る。そして「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする」ことは「平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」こととは対極にあるように思われる。自分をも戒めたい。
James 5:1-3 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。
このあとを読んでも非常に厳しい。呼びかけのことばを見ると「兄弟たち」と始まる7節の前までが「富んでいる人たち」に関わる部分なのだろう。「正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(6節)などを見ると反発も感じる。むろん、それは、自分が世界においては、富裕層に属することを認めざるを得ないからである。貧困層に属する人たちを「罪に定める」と読むと、たしかに、様々な場面で、自己責任や、因果応報の思想が入り込む危険性が高い、さらに、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(4章17節)まで言われてしまうと「自分を罪に定めず」とも読めるわけで、考えさせられる。

BRC2015(1)

Jas1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
信仰義認によって、すでに人が自由になっているわけではない。これは、ローマ7:15「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」で表現されている状態だともとることができる。ここでは「自由をもたらす完全な律法」と言われている。そして、それは、聞くことだけでは、ひとを自由にしないのだろう。その律法に生きることと強く結びついている。なぜなら、それは、神とその子キリスト、すなわち神のもとにある完全な律法とを知るいとなみと同じだからだろう。そしてひとのことばは完全ではなく、行為を通してもまなぶ面があるからではないだろうか。神のもとにある完全な律法と結びつくとき、ひとは幸せになるのです。
Jas2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
この章は「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」(25節)で終わっている。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(17節)もあり、それを一つ一つ例証している。信仰とその実を切り離して考えているようにうつるパウロや宗教改革者の考え方には、違和感もある。当時の重要な問題に答えるためだったと思われるが。本質を直視することは難しい。簡単に誤解も生じるので。
Jas3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
知恵にふさわしい生き方。議論が単に、紛争をもたらすのではなく、継続的な平和をもたらすために生きたい。そのような生き方に導かれるように。
Jas4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
どのような争いがあるのかは記されていないが、私たちのうちに起こる争いは、どんなに正当性があっても、自分の内部で争い合う欲望が原因であることは否めないだろう。神様が愛されるひとりのひととして、他者を愛することができれば、神様にとってたいせつなひとを、たいせつにすることができれば、それも、そのひとにとってたいせつなもの(ひと)をたいせつにすることができれば、戦いや争いは起こりにくいと思われる。さらに、vulnerable であるならば、神にかえていただくこと、他者の傷を負うことをよしとしていれば、争いは減るだろう。私の中には、明らかにまだ、争い合う欲望がある。しばらくたってわかることが多い。それを単に罪と切り捨てず、希望に目を向けて、神のみこころに、近づけていきたい。
Jas5:14,15 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
病人がいやされるとは書かれていない。しかし主がその人を起き上がらせてくださる。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハネ5章8節)の主の声を聞くのかもしれない。そして罪も赦していただける。神のこころと一致していくことを求めて祈りたい。

BRC2015(2)

Jas1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
まずは自覚だろうか。2節の「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」も、5節の「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」も、自分が知恵が欠け、成長が必要であることを前提としている。神の前に貧しい者であることを覚えることが、豊かさへの入り口なのだろう。誇りに思うかどうかは別として、希望を持つことができるのだから。
Jas2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 
ある解釈を施すことは可能かもしれないが、宗教改革者たちがヤコブの手紙を低いものとしたように、律法の解釈がパウロのそれと異なること、ある意味では、イエスの教えを突き詰めて行き着くところを考えると、矛盾が生じるところに立っているように思われる。イエスはどう言われるだろうか。おそらく、このことには、言及せず、権威ある教えをされるのではないか。その声を聞きたい。
Jas3:17,18 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
上からの知恵を見極める要素が書かれているのだろう。ヤコブが神に従ってきた経験からの信仰告白とも言えるものかもしれない。困難に陥るとき、自分の進む道を見極めるにも善いように思われる。わたしにもヤコブと似た感覚があるように思われる。ただ、そこに真理があると確信があるわけではない。
Jas4:8-10 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
ヤコブの経験に根ざした信仰告白だろう。神に近づくこと、それは、手を清めること、悪から離れることなのだろう。この章の前半では、平和に過ごせない、争いの根源が欲望であると書かれている。まず、自分の惨めな状態をしっかり見つめること、そして、神の前にへりくだることなのだろう。神に信頼して。
Jas5:7-9 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。
ヤコブは、再臨信仰は共有していたようである。しかし、再臨も中心は裁き。ユダヤ教の影響が強く残っているように思われる。いずれにしても、当時も、そして現代も、いろいろな信仰があったことも確かなのだろう。初代教会は、一つの信仰と考えることにも、問題があるのだろう。イエスの弟子たちの信仰も、様々だったかもしれないし、パウロや、また、ユダヤ教から改宗した、ヤコブなどの信仰、他にも、アポロなどは、また違った理解を持っていたかもしれない。女性たちはどうだろうか。ひとつにまとめ上げない方がよいだろう。信仰は個人的な神様との関係の部分が大きいから。

BRC2013(1)

Jas1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
ありのままの姿、神様の前の自分が明らかにされる。それを受け入れて生きることは、今を生きるにも、とても幸せなことだと思う。そのように神の前に立つものでありたい。
Jas2:12,13 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
ここで言われている「あわれみ」は、「自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行」うことと関係があるようだ。「愛」ととても近い行為のように思われる。自由の律法のもとのものとしてどう生きるか。
Jas3:1 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
このあとずっと「舌」のことがつづく。つねに適切な言葉を発することはとても難しい、いや不可能である。ということが背後にあるようだ。わたしも同様のことを感じて謙虚にさせられるが、神に信頼するしかない。相手にも神様が働いておられること、相手にも信仰があること、その意味での相手の尊厳を通して神を畏れることが鍵であるように思う。
Jas4:2,3 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
神様のこころとのシンクロナイゼーションこれが祈り。ここには、人殺しまで書かれている。ひとの尊厳を無視すること、ストーカーや、マイノリティーの無視、排斥などは、すべてこれにあたるだろう。
Jas5:4 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。
「賃金」を「正当な報酬」にということばに置き換えれば、より身近な例が思い出されるであろう。雇用関係以外にもあるかもしれない。「正当な方法以外で得たもの」とか「正当な価格より安く得たもの」などとすると、さらに広がるかも知れない。じっくり本質を読み取っていきたい。

BRC2013(2)

Jas1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
ヤコブの手紙はなにも間違ってはいないが、やはり中途半端な感じがする。ここに書いてある事が、なぜ「神のみまえに清く汚れのない信心」であるかが書かれていない。本質が書かれていないように思われる。御霊の実は書いてあっても、御霊がどのように働かれるかがわからないという事だろうか。
Jas2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
行いと信仰に分けるのが問題なのではないだろうか。行いを、限定的にとれば別だが、御霊の実が現れなければ、たしかに信仰は死んだものである。木はどの実によってわかるからである。
Jas3:1 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
マタイ23:10「また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」とは根拠がことなる。イエスは、みな兄弟で仕えるものとなるべきである事を言っている。
Jas4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
世を友として、同時にイエスの友にはなれないという事だろう。価値観、生き方を整理したい。イエスを友とし、世を敵とする生き方か。世を敵とする生き方がどのようなものかも明確にしなければならない。
Jas5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
先の雨は秋、後の雨は春のようだ。春と秋の間が乾期(4月から10月ごろ)先の雨で地を耕し、後の雨で実りを得る。日本とは逆のようだ。もう少し調べたい。この雨を信じて、耕し、種をまき、成長を待つ。これは、経験と信頼か。


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ペトロの手紙一

ペトロの手紙一(1)

ペトロの手紙一は次のように始まります。1章1節を引用します。
イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
宛先は、今のトルコ、小アジアの地域です。またこの手紙の最後 5章12節、13節にこの手紙に関する手がかりが書かれています。
12:わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
13:共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
シルワノは、パウロと共に伝道旅行をした人で、テサロニケの信徒への手紙一、二の著者としても登場します。バビロンは、文字通りの場所ではないと思われます。文体も洗練されたギリシャ語で書かれ、全体的に、パウロの書いた手紙と近い印象をうけます。内容は充実しており、好きな聖句がたくさんあると思われる方も多いのではないでしょうか。
ペトロの手紙一1章15節、16節
15:召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
16:「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
16節の引用は、レビ記11章44節、45節、19章2節からの引用ですが、マタイによる福音書5章48節も関係しているように思われます。

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

ペトロの手紙一1章21節-23節
21:あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
22:あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
23:あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
ペトロの手紙一2章 5節
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
ペトロの手紙一2章16節
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
ペトロの手紙一3章9節
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
ペトロの手紙一 5章6節、7節
6:だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 7:思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
皆さんは、どのようなことばが心に残りましたか。

ペトロの手紙一 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(松木祐三)を引用しておきます。

  1. あいさつ 1:1-2
    1. 著者 1:1a
    2. 読者 1:1b-2a
    3. 祝福の挨拶 1:2b
  2. 賛美 1:3-5
    1. 神への賛美 1:3a
    2. 神の憐れみによる新生 1:3b
    3. 生ける望み 1:3c
    4. 大いなる資産 1:4
    5. 神の守り 1:5
  3. 救い 1:6-12
    1. 苦難を喜びに変える救い 1:6
    2. 苦難を栄光に変える救い 1:7
    3. キリストへの愛に至らせる救い 1:8-9
    4. 多くの者の関心事である救い 1:10-12
  4. キリスト者生活の特権と義務 1:13-2:10
    1. キリスト者の望みと聖い生活 1:13-21
    2. 兄弟愛の勧め 1:22-25
    3. 霊的成長の勧め 2:1-3
    4. 神の民の特権 2:4-10
  5. 実際的な勧め 2:11-3:12
    1. 信者と異教社会
    2. 信者と国家 2:13-17
    3. 信者であるしもべ 2:18-25
    4. 信者の妻と夫 3:1-8
    5. キリスト者生活の一般的な教え 3:8-12
  6. 苦難の中のキリスト者生活 3:13-4:19
    1. 不当な苦難の中での勝利 3:13-17
    2. 模範的キリスト者の苦しみ 3:18-22
    3. 苦難と聖い生活 4:1-6
    4. 終末時における倫理 4:7-11
    5. 苦難に対する準備 4:12-19
  7. 教会全体への勧め 5:1-11
    1. 長老たちへの勧め 5:1-4
    2. 若い人たちへの勧め 5:5a
    3. すべての信者への勧め 5:4b-11
  8. 終わりのあいさつ 5:12-14
    1. シルワノ 5:12
    2. 婦人(教会)とマルコ 5:13
    3. 祝福 5:14


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

1Peter 1:15,16 あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。
「私は主、あなたがたの神である。私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい。地を這い、群がるどのようなものによっても、あなたがた自身を汚してはならない。私はあなたがたをエジプトの地から導き上り、あなたがたの神となった主である。私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。」(レビ記11:44,45)「イスラエル人の全会衆に告げなさい。聖なる者となりなさい。あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。」(レビ記19:2)「あなたがたは身を清めて聖なる者となりなさい。私は主、あなたがたの神だからである。」(レビ記20:7)イエスがこのようなことを語っていたのかと思ったが、レビ記のようだ。19章18節bには、「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」ともある。しかし、聖なるものとなるとの意味をどう解釈するかにより、だいぶ変わってくるように思う。「あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」(22)どのようにして、ここに行き着くか、それは、論理的にも、生活の中のこととしても、示されてはいない。
1Peter 2:12 また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。
「悪人呼ばわり」されていたのだろう。そのゆえにこそ、「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。」(13a)も実質的な意味があり、大切なことだったのだろう。どのような理由で、悪人呼ばわりされたいたかは、わからないが、多くの場合、誤解、無理解があっただろう。さまざまな理由によって。解決は、それほど簡単ではない。心を痛めている人たちと共に、祈りたい。
1Peter 3:21 この水は、洗礼(バプテスマ)を象徴するものであって、イエス・キリストの復活によって今やあなたがたをも救うのです。洗礼(バプテスマ)は、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。
ノアの時代の洪水のことを言っているが、それが、洗礼だとどうして言えるのだろうか。ここでは、肉の汚れを取り除くことではなくとも書かれている。ノアの洪水は、救いのためではなく、滅びのためというのが、旧約聖書の一貫したメッセージではないのか。
1Peter 4:1,2 キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです。
「肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っている」とどうして言えるのだろうか。背後には、迫害があったのだろうと想像する。それを、よいものと理解する必要があったのだろう。しかし、なにか、イエスが、神の国が近づいたと説いた福音とは、異なる方向に向かっているように感じざるを得ない。神の国は、終末を待ち望むことによって、来ると変化していったのだろうか。もう少し、考えてみたい。
1Peter 5:12,13 私は、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたに短い手紙を書き、勧め、これこそが神の真実の恵みであることを証ししました。この恵みの内に踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、よろしくと言っています。
ここにシルワノとマルコが登場する。短い手紙とあるが、おそらく、ペトロは、文盲だったのだろう。そして、それは、よく知られたことだったのではないだろうか。マルコも、ペトロと共にいたことが、このように表現されているのではないだろうか。むろん、このペトロの手紙は、ペトロが書いたのではないとされている。少し時代が降っていると思われていることもあるだろうが、ペトロが書くはずがないとも理解されていたのではないかと思う。しかし、パウロとは異なる権威の文書の価値も大きかったように思う。経緯は正確にはわからないが。

BRC2023(2)

1 Peter 1:1,2 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散し、滞在している選ばれた人たち、すなわち、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。
宛先が長い。アジア州の地域、ペトロが巡回した地域なのだろうか。この手紙の最後には、「私は、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたに短い手紙を書き、勧め、これこそが神の真実の恵みであることを証ししました。この恵みの内に踏みとどまりなさい。」(5:12)と書かれている。代筆者がいることが書かれており、それをシルワノに帰している。使徒言行録や書簡に登場するシラスと同一人物であるかは不明だが、このような書き方はそれほど、珍しいことではなく、最初は使徒ペトロからとなっている。ただ、同時に、ペトロはすでに高齢になっていたのかもしれないが、おそらく、アンデレの兄で結婚もしており、家庭を守るために、ずっと漁師をしていたと思われ、読み書きが流暢ではなかったのかもしれないとも思う。
1 Peter 2:23,24 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
これは、難しいが、少し理解はできてきたように思う。まずは「正しく裁かれる方に委ねる」ことなのだろう。ただ、他者との関係はここでは表現されていない。ひとはそれほど強くない。委ね、傷を身に受け続けることは、あるときに、限界に達して、自分では判断できなくなるように思われる。疲れ果ててしまうように思う。イエスの十字架上の死も、神様の憐れみの故に、半日で終わったのかもしれない。それだけのものを担ってくださったのだろうが。
1 Peter 3:13,14 もし、善いことに熱心であるなら、誰があなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けることがあっても、あなたがたは幸いです。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはなりません。
神に委ねることが背景にあるのだろう。善いことに熱心であることはよいことだが、だからといって、害を受けることがないというわけではない。しかし、それを害と受け取らないことはできるのかもしれない。それが後半なのだろう。しかし、肉体は弱い、限界があるようにも思う。心配な人たちがたくさんいる。一人ひとりを覚え祈ろう。自分についても、神様の憐れみを願い祈りつつ。
1 Peter 4:1,2 キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです。
あまりよくわからない。迫害で、傷をうけたようなことが考えられるがそうなのだろうか。ヒントになるかもしれないのは、この章の最後に、「ですから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。」(19)とあることである。最初の部分も神様に従いつつ、肉体に苦しみを受けていることが想定されているように思われる。明確には書かれていないのは、そのような危険が実際にあり、書けなかったということだろうか。
1 Peter 5:12,13 私は、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたに短い手紙を書き、勧め、これこそが神の真実の恵みであることを証ししました。この恵みの内に踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、よろしくと言っています。
シルワノとマルコが登場する。シルワノは、コリント後書、テサロニケ前書、後書にも登場するが、これらは、使徒言行録15-18章に登場するシラスと同一人物であると思われる。しかし、このペトロ前書のシルワノがこれらのシラスと同一人物であるかどうかは不明である。しかし、なにも書いていないということは、それが意識されているのかもしれない。そして、「私の子マルコ」が登場する。このマルコがヨハネ・マルコなのかこれだけを根拠に、ペトロとマルコの近しい関係、通訳であることなどを想定するのは難しい。あまり、エウセビオスが信頼していないと思われるパピアスの文書をどう理解するか、別れてしまうのも、理解はできる。わたしには、マルコによる福音書のエルサレム入城までの部分は、マルコがペテロの通訳として聞いたことを書き記したように考えているのだが。難しい。


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

1Peter 1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
この兄弟愛はなにを意味するのだろうか。ここでは、「きょうだい」とはせず「兄弟」としている。「姉妹愛」がことばとして一般的ではないなら、「きょうだいの間の愛」とすることも可能だったはずである。それよりも、清めと、限定的な範囲の愛について、語っているようで気になった。いろいろな背景があるのだろうが、以前のように、素直には読めなくなっていることは確かである。
1Peter 2:23,24 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
これがキリストにおいて、なぜ、成立するのかは、啓示以外にないように思う。このあとにも、多くのキリスト者が殉教している。それと何が違うのだろうか。それは、イエスを神の子とするからだろう。しかし、そこもすでに、信仰告白であり、イエス自身がそれを、どう考えたいたかも明確とは言えない。イエスは、何を望んでいたのだろうか。単純に、わたしたちが、神のみこころに生きること、そのような生き方を示してくださったのではないだろうか。それでは、宗教にはならないということだろうか。難しい。
1Peter 3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです。
このあとには、キリストの受苦「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。」(18)について書かれている。正直、よくわからなくなっているが、なにが「神の御心による」のかは、普遍的な判断基準はないように思われる。信仰の問題だろうか、しかし、それを共有できるかは、どう考えたら良いのだろうか。ここで内と外、帰属と帰属しないものの線が引かれるのだろうか。わからない。
1Peter 4:12,13 愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。
むずかしい。「キリストの苦しみ」なのかをどう判定するかもだが、この論理も、根拠はほとんどない。キリストのように生きること、愛すること、苦しむこと、死ぬことが、共有されていなければならないが、それが難しい。信仰とは何なのだろうか、いつか、少しは理解できるようになるのだろうか。
1Peter 5:2 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。
ヨハネ21章15-19節のイエスとペトロのやり取りを思い出させる。しかし、これは、そのほんの一部である。そして、もし、ペトロの手紙一がペトロ由来のものとしても、ペトロが著者ではないとするとということを考えた。ひとつは、主イエスからうけとったことをどのように委ねていくかの問題と、それを自分だけにではなく、他のひとにとっても大切な教えとして、普遍化とは少し異なるだろうが、敷衍(ふえん:1. おしひろげること。展開すること。2. 意義・意味をおしひろめて説明すること。また,わかりやすく詳しく説明すること。)することである。演繹(1. 〔deduction〕諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。普通,一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。2. 一つの事柄から,他の事柄に意義をおしひろめて述べること。)に注意しているからである。まず、イエスのメッセージをしっかり受け取ることが基本であると思う。そのことばの解説ではないにしても、当時、どの程度、真剣にしっかり受け取ろうとしていたのか心配になる。敷衍は、受け取ったものを委ねていくときには、ある程度必要なのだろう。ペトロというより、この著者というひとりの信仰者を通して、受け継がれるたいせつなことなのだから。

BRC2021(2)

1 Peter 1:17 また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。
この前には「あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。」(15)とあり、レビ記11章44,45節、19章2節、20章7節などの「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」(16a)と述べ、引用句につながっている。わたしは、どのように生きるかがたいせつだと考えているが、それは「行い」とも通じるものである。行いによる義ではなく、聖なる方を求め、聖になるようにと生きることが背景にあるのだろう。わたしは、それを御心をもとめて生きると表現しているわけだが。
1 Peter 2:4,5 主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです。
「生きた石」「隅の親石(λίθον ἀκρογωνιαῖον)」(6,7)は、キリスト教会でよく使われる表現であるが、いずれも「捨てられた」部分がついていることに今回目が止まった。特に「生ける石(λίθον ζῶντα, λίθοι ζῶντες)」にも、主が「人々からは捨てられた」ことが書かれている。また「あながたが」については、複数形が用いられており、隅の親石イエスと、霊の家に造り上げる石の一つということも、対比されていることも初めて考えさせられた。イエスのようにが、いろいろな面を指していること、それも、ここでは「いけにえ」という面も示しているということであろう。
1 Peter 3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。
この時代にも、女性信者のほうが多かったのではないかと思う。現代の教会では、女性が2倍のように思われるが、厳密なデータはない。いつか調べてみたい。そして、それは、なぜ、女性が多いのかも考えさせられるからである。男性は、力による支配にたよる傾向が高いからだろうか。その中で、そのようなものに抗って生きる力が福音にあるのかもしれないと思う。このことも、考えてみたい。
1 Peter 4:19 ですから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。
この章は「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。」(1)と始まり、引用句は最後のことばである。「肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。」を普遍化するのは、難しいが、各所に、試練についての記述がある。「愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。」(12)その背景のもとで書かれていることを無視することはできない。安易に普遍化を求めず、丁寧に読んでいきたい。
1 Peter 5:2,3 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。割り当てられた人々を支配しようとせず、むしろ、群れの模範になりなさい。
長老の一人としての長老への勧めである。(1)ペトロの手紙ということで、ヨハネ21章を思い出すが、ヨハネ書が書かれた頃は、ペトロはすでに亡くなっていると考えられているので、あまり直接的な関連を求めないほうがよいかもしれない。制度が、整ってきていることが伺い知れる。現代ではどのようにしていったらよいか、わたしは、問いたいと思うが。

BRC2019(1)

1Pet 1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」(17)とも書かれている。父の子ら、つまり、神の子らが兄弟として愛し合う。そう考えると、やはり重い。丁寧に、このことを考えたい。
1Pet 2:16,17 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
なぜ、自由人としてということばが、ここに登場するのだろう。 「旅人であり、仮住まいの身」(11)であるわたしたちは「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」とあるが、自由人として、制度に従うのだろう。そして「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」に惹かれる。よくは分からなくても。
1Pet 3:8,9 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
当時の信仰者の生活目標が簡潔にまとめられていると理解して良いだろう。キリスト者が迫害の中で、内向きになっている可能性はあるが、兄弟愛が中心に置かれていることは分かる。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(22)のような教義も固まっていったのだろうか。前半は、福音書に記されているイエスの言葉としても存在するが、後半は、より具体的になっているように思われる。
1Pet 4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
キリストと共なる生活、父なる神と御子イエスキリストの交わりに生きると考えると、苦しみに預かることも、その中で理解できる。それによって、さらに、神様のすばらしさが、表されることになるのだろう。正しさから、表面的な喜びを表すのではなく、心から、喜ぶ生活を送りたい。
1Pet 5:1,2 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
ペトロ由来の証言である。長老としていることも、このあとの(5)謙虚さの見本かもしれない。受難の証人とあるが、十字架を決定的なものとしつつ、それに至る苦難も見てきたろう。そして、「わたしの小羊を飼いなさい・世話をしなさい」(ヨハネによる福音書21章15節〜17節)を思い出させる。卑しい利得に走らないことは、このあとにある「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(7)にあるように、マタイによる福音書6章25節〜34節を思い出させる。

BRC2019(2)

1Peter 1:22,23 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
キリスト者を表現する言葉として、ここでは、「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」としている。「真理」はイエスの名(1John 3:23)としても良いかもしれない。「魂を清め」は何だろうか。「兄弟愛」は「わたしの兄弟とは誰のことですか」(Luke 10:29)と聞くのでは、イエスの名を信じることにはならないかもしれない。兄弟は「神の子として生きるものたち」を表しているのだろうが、差別的に働く可能性も十分にある。「魂を清め」は不明であるが、常に、真理に、主イエスに、こころを向けることだろうか。父なる神とイエスさまのように、兄弟と互いに愛し合うことだろうか。「深く愛し合う」は、真心から?もしかすると日常的な生活を通してだろうか。それは、朽ちる種ではなく、朽ちない種から生まれたことの証になるのかもしれない。
1Peter 2:1-3 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
このあとには「この主のもとに来なさい。」(4)と続いている。11節には「旅人であり、仮住まいの身」であることが書かれ「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(12)さらに「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」(13)と続け「皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 」(14)とある。この手紙が書かれた当時のキリスト者をとりまく社会の様子がわかるように思う。その背景のもとでの、引用句なのだろう。基本的に「神を知る」ことである。そのためには、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」は障害になるということだろう。わたしも主が恵み深い方であることを味わいながら生きて行きたい。
1Peter 3:16,17 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
最近考えていることと関係しているように思うので、ことばにしてみる。キリスト者は偽善者と呼ばれることがある。それは、自分が正しい側にいるというこころが強いからではないだろうか。引用句も、そのようなニュアンスが表現されている。それは、他者理解にはつながらないように思う。人間の社会で、これぞという真理を受け取ってしまったものの弱さと言えるかもしれない。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8)真の同情と憐れみと謙虚さをみにつけたい、それが真の愛かどうかを計る指標のように思う。常に探求者でありたい。
1Peter 4:18,19 「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
引用は聖書には見つからない。イエスの言葉なのだろうか。歎異抄の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」を思う。このことばの主や、親鸞はどのようにここに行き着いているのだろうか。また、これらのことばの背景は異なるのだろう。その違いも理解したい。親鸞は他力本願を徹底しようとしたことは確かだろう。たしかに、この親鸞のことばの背景には、そのことがあるように思う。善い行いをしているまたは、不信心な人や、罪深い人を嫌うこころには、自力本願の闇が広がっているからである。引用箇所は、正しい人は余裕をもって救われることを目指しなさいと言っているようである。正直イエスがそのように言ったとは思えないが、不信心な人や罪深い人の救いが考えられていることは確実だろう。当時、どの程度のひとたちがこれを受け入れていたのだろうか。
1Peter 5:8,9 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
自制は不可欠である。しかし、それは、ひとを傲慢にすることも確かだろう。恵みのみといいつつそれを否定し、悪魔の側にたつものとして、ひとの尊厳を否定したり、といったことである。だからこそ、愛に目をむけるべきなのだろう。しかし、ひとは、知らず知らずのうちに、愛から離れてしまう。わたしの日常でもある。だからといって、そういうものだとすることも、受け入れられないように思う。ひとは、とくべつな存在というより、すくなくとも、ひとは、そこで悩む存在であることは、確かだと言えるから。

BRC2017(1)

1Pet 1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 
何を信じているかについてこの章では言及されているが、論理的とはいえず、中心が何なのかも読み取りにくい。兄弟愛、互いに愛し合うことも、含まれているが、ヨハネのように、根拠も明白とはいえない。民を共通に支えていたものは何なのだろうか。それを読み取りたい。
1Pet 2:11,12 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。 
24節以降には、十字架における罪のあがないも書かれているが、やはり何が中心メッセージなのかははっきりしない。しかし、実践的な教えの集大成はあったのだろう。それは、異教徒の間で、少数者として生きていく上で、どのように生活していったら良いかと言うことだったかもしれない。それが他者との区別ともなっていた。迫害化では、指導者のもとで結束することも、中心的なリーダをおかなかった、初期キリスト教においては、難しかったのかもしれない。
1Pet 3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。 
おそらく当時としては画期的なことだったろう。そして、これも、掟としてではなく「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬」することは当然との理由もついており、また「自分よりも弱いものだとわきまえて」はイエスがどう生きられたかを思い出させることも含んでいる。わたしもそのように生きたいが、それが簡単ではない。なぜだろうか。祈りつつ。
1Pet 4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。 
この直前には、裁きのことが書かれている。この背景には、それぞれの行いによって裁かれるとの理解があるだろう。おそらく、解釈にも、揺れがあったと思われる。しかし、忠実に神の御心に従って生きること、そして「真実であられる創造主に自分の魂をゆだね」ることは、同じなのだろう。
1Pet 5:2-4 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。 
ヨハネ21:15-19 が意識されていると思われる。しかし、あまり内容を感じない。ペトロがイエスのことばをどのように受け取ったのかを知りたい。多少、使徒言行録に記述があるが、ペトロの活動についても、学んでみたい。

BRC2017(2)

1Peter 1:21,22 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
新共同訳では引用した二節の間で段落が切れているが「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(ヨハネの手紙一3章23節)を思い出させる。注目するのは、ここでは、前半で神に焦点を合わせていること、後半では「深く愛し合う」と言っていることである。ただし口語では「互いに心から熱く愛し合いなさい」となっている。興味深い。「互いに」はやはりヨハネ文書由来では無く、イエス由来なのだろう。
1Peter 2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
「旅人であり、仮住まいの身(寄留者 parepideemos: one who comes from a foreign country into a city or land to reside there by the side of the natives, a stranger, sojourning in a strange place, a foreigner)」として世に住むことが語られている。ただそれを「愚かな者たちの無知な発言を封じる」と表現することは、迫害下などの外的状況はあるのかもしれないが、気になる。正直、ペトロはこのようにいうだろうかと疑いをもってしまう。著者は問わなくて良いのかもしれない。世の中で「旅人として、寄留者として」生きることについては、十分な理解と実践を考えたい。
1Peter 3:8,9 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
「何のために」わたしたちはいのちを賜り生きるのか、ここでは「祝福を受け継ぐため」と表現されている。わたしは、どのように表現するだろうか。いまは「イエス様を通して神様が愛してくださったように互いに愛し合うこと」それが神様の栄光(すばらしさ)を感謝し、他の人にも表されることだからだろうか。まだ、しっくりこない。考えていきたい。
1Peter 4:1,2 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
わたしたちが「肉に苦しみを受けた」とは何を意味しているのだろうか。「イエスを救い主とする」ことが関係し「罪との関わりを絶っ」ていることは理解できるが。「同じ心構え」ということか。「病や痛みを負い」(イザヤ53章4節)さらには「罪を負う」(同6節)を意味しているのだろうか。もう少し深く理解したい。
1Peter 5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
「神の羊の群れを牧しなさい。」(2)に続いて語られている。ペトロ由来の手紙にこのことが書かれているのは、より意味があるように思われる。ヨハネの福音書21章のイエスとの対話を思い出すからである。そこで思い出されたのは、おそらく、イエスの模範だろう。三度目には、ペトロのことばにあわせて「ヨハネの子シモン、わたしを慕っているか。」(17節:日本聖書協会共同訳)と聞いたイエスが。そして、足を洗われたイエスが。

BRC2015(1)

1Pet1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
この兄弟愛は内向きなのだろうか。もし、兄弟愛が内向きに語られ、終末が自分たちだけの希望とするなら、神のみこころとは、かなり離れたものになってしまうだろう。
1Pet2:16,17,18 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
もう少し、違った言葉を使えば、より伝わるかもしれない。しかし、すべての人と、兄弟とを分けていることにやはり多少の違和感を感じる。ただ、これに続いて、無慈悲な主人についても、言及されている。もう少し落ち着いて、しっかりと、この書を読んでみたい。
1Pet3:16,17 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
キリストと結ばれていること、永遠のいのちに生きていることの実体をもってそしてそれを信じて生きていきたい。しかし、この後半は、もう少し違った表現をしたい。神様から受けるものであれば、それ自体喜びなのだから。
1Pet4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
Available であることの鍵がここにあるように思う。日常生活において、神様の導きは見えない。神様の導かれる方向に確認をもてないことばかりである。しかし、自分の欲望、このような道筋で神様に仕えたいという自分の欲望の道ではなく、そうではない道に公平に目が開かれることである。そこに神の道を発見することができるかもしれないから。日々の決断は、わたしたちが責任をもってすべきこと。しかし、まさに、神のご計画が立つことを信じると共に、神様のみこころに従うことを第一とすること。それが、いま、わたしが表現できる、available であることである。
1Pet5:2,3 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
長老に対するメッセージである。しかし、わたしたちが、ひとに対するときに、大切なメッセージが込められているとも思う。大学教員として、そして、年長のおとなとして。ひとつひとつのことばをかみしめたい。

BRC2015(2)

1Pet1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
この書でも裁きがまず背景にある。しかし、同時に「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」(21節・22節)とより普遍的なキリスト信仰に目を向けている。わたしの希望はどこにあるか。そして、その鍵は何なのか。ここでは、兄弟愛と言われている。隣人愛との違いは何だろうか。本質は同じなのかもしれない。しかし、兄弟と兄弟以外を分けるようになったとしたら、同じだと言わない方が良いかもしれない。
1Pet2:4,5 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 
神に喜ばれる霊的ないけにえ、ローマ12章1節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」やヨハネ4章24節「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」を思い出す。この生ける石はなにか心地よいが、文脈からは「人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた」こととも関連するものである。価値観が異なり、世からは捨てられることも覚悟する必要がある。
1Pet3:18,19 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
ここから霊肉二元論と非難することに、どのような意味があるのだろうか。ペテロの手紙記者が伝えたいことは、おそらくそうではないだろうし、霊についての考え方も様々だろう。論理を持ち込むことの危険性を感じる。
1Pet4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
7節には「万物の終わり」の記述があるが、常に、肉体的な苦しみが語られている。おそらく、迫害が背景にある、または、想定されているのだろう。その中で、愛し合うことが語られている。旧約から、イエスの教えにある「あなたの隣人を愛しなさい」という教えとともに、新約では「互いに愛し合いなさい」「兄弟愛」のことばが多い。これは、変化なのだろうか。それとも、当然の帰結なのか。または、迫害下だからか。「敵を愛する」こととともに、ゆっくり考えてみたい。
1Pet5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
神に愛されている。このこと以外に、本質的な救いはないのだろう。神のものとされていると言うことだろうか。ハイデルベルグ信仰問答1「問い:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答え:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

BRC2013(1)

1Pet1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
イエスと共にいて愛しているペテロにとって、このことは気がかりだったろう。「信仰の結果なるたましいの救 (v9)」によってこのようにできるかどうかについて。それこそが、ペテロにとって、聖霊の働きを見ることだったかも知れない。
1Pet2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
「生ける石」「霊の家」「聖なる祭司」「霊のいけにえ」どれもよくは分からない。ペテロとニックネームを与えられたシモンにとって、生きた石となることは、つねに祈り求めていたことなのかも知れない。
1Pet3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
「受け継ぐ」は英語では 「inherit 相続する」。どのような意味だろうか。最終的にいただけるものが、祝福ということか。実感がわかない。
1Pet4:6 死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
この部分はよくわからない。3節の「異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけって」いるひとが「死人」と言われているように思われる。そのひとたちも「霊においては神に従って生きるようになる」のであればすばらしい。焦らず理解していきたい。
1Pet5:2,3 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
長老たちに対する長老の一人として、さらに「キリストの苦難についての証人 (v1)」としての勧めである。この当時も、利得でそれをする人も多かったことがうかがわれる。本心からそれをしたい。

BRC2013(2)

1Pet1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
この現実的意味を、わたしはまだ理解していないようだ。キリストの再臨を決定的なものとしつつも、今の生に関しては、限定的なものと見ることで、信仰の働く範囲を制限しているのかもしれない。
1Pet2:16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
神の僕として生きる事。神のみこころを求めて、神のあいされる神が置かれた隣人を愛する事をとおして、神が喜ばれる事を求める生き方をしたい。
1Pet3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
わたしはどのように説明するだろう。いまは、肉体をもって、神様に完全には従えない自分と格闘しているが、あるとき、キリストがこられ、わたしが、神の霊(こころ)をもってよみがえり、神と喜びをともにするようになる希望を持っています。
1Pet4:10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
タラントのたとえを思い出す。基本は「恵みの良き管理人」Stewardship というのだろう。恵み(神様から頂いているもの、自分の力で獲得したとは言えないもの、おそらくほとんどすべて)の範囲は、様々である。能力も一つであるかもしれないが、それが大きな割合を占めるのは、問題であろう。
1Pet5:7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
ここに信仰の鍵があるのだろう。長老に対する4節の「そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。」も若者に対する、6節の「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」も。このような具体的な希望のことばに支えられ、そして、いずれそのような望みには関心がなくなり、ただ、この7節の信仰が残るのではないか。


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ペトロの手紙二

ペトロの手紙二(1)

ペトロの手紙二は次のように始まります。1章1節を引用します。
イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
3章1節には、
愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
とありますから、ペテロの手紙一を意識しているのかもしれません。

1章3節には「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」とあり、さらに4節には、「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。(中略)神の本性にあずからせていただくようになるためです。」

ペトロの手紙二1章5節-8節
5:だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
6:知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
7:信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8:これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
7節に「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」とありますが、「愛を加え」ようとしていると、このような「神の本性」が与えられるという約束のうちを生きていることが確認できると言うことでしょうか。

この当時、聖書の無理な解釈から、偽預言者と呼ばれている、似て非なる教えがたくさん出てきているようです。そのことを受けてでしょうか、聖書の解釈に関係する記述があります。二カ所引用します。

ペトロの手紙二1章20節
20:何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
21:なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ペトロの手紙二3章15節、16節
15:また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
16:彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。

ペトロの手紙二 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(上沼昌雄)を引用しておきます。

  1. あいさつ 1:1-2
  2. 真の知識 1:3-11
    1. キリスト者の特権 1:3-4
    2. 信仰に備わるもの 1:5-9
    3. 信仰の目標 1:10-11
  3. 知識の確証 1:12-21
    1. 伝達されるもの 1:12-15
    2. キリストの威光の目標 1:16-18
    3. 聖書の預言 1:19-21
  4. 偽教師 2:1-22
    1. 偽教師の教え 2:1-3
    2. 神のさばきの事実 2:4-10a
    3. 偽教師の姿 2:10b-16
    4. 教えのむなしさ 2:17-22
  5. キリスト者の望みと忍耐 3:1-18
    1. 励まし 3:1-2
    2. あざける者の最後 3:3-7
    3. 主の日の到来と備え 3:6-13
    4. 最後の勧め 3:14-18


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

2Peter 1:20,21 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。
ここでいう聖書は、おそらく、旧約聖書だろう。そして、自分勝手にというか、アレゴリカル(寓意的)な解釈がいろいろと出されていたのではないだろうか。難しい状況である。しかし、そのなかで、どのように、正当な信仰が継承されていったのだろうか。それを知りたい
2Peter 2:1 しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。
かなり厳しいことが、少し乱暴に書かれている。書かれたのは、リーダーを失い、混乱していた時期なのかもしれない。ペトロの名を使わなければならず、異端もはっきりとはわからないものも含めて、たくさん、出てきたのかもしれない。教父と言われる人たちが現れるまでだろうか。教会史を学ぶことも必要である。
2Peter 3:3,4 まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、こう言います。「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」
主の再臨によって、すべてが解決するというのは、わかりやすい福音だろう。その希望が、初代教会で、ある程度強かったように思う。それは、おそらく、現代でもある程度存在するのだろう。単純化バイアスである。しかし、それは、イエスが語られたこととは異なるように見える。ゆっくり学んでいきたいが。

BRC2023(2)


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

2Peter 1:5-7 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
美しいことばである。一つひとつ、そしてその並び・順序を考えれば、学ぶことは多いだろう。しかし、今回は、ペトロ由来の文書ということを考えたいと思う。福音書で描かれているペトロ、そして、12弟子はほんとうに素朴である。真理が隠されていたとして、聖霊降臨とともに、ひとが変わったと理解することが、一般的な歴史的解釈である。しかし、それほど単純ではないだろう。12弟子が、いろいろな文書を残していなかったと思われることも、それは、イエスの意図だったかどうか不明だが、残念であるとどうじに、自然なのかもしれないと思う。しかし、たとえばペトロから委ねられた、または受け取ったことが伝えられていることは確かだろう。むろん、その受け取った媒体となったひとの信仰(神様との関係)を通して。しかし、わたしは、あきらかに、聖書に依存して、信仰を受け取っている。イエスは、どのように考えていたのだろうか。12弟子で十分だとは、考えていなかったとは思うが。難しい。あまりに、イエスを神聖なものにしてしまう宗教的な行為に問題があるのだろうか。
2Peter 2:9 主は、敬虔な人々を試練から救い出す一方、正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです。
非常に乱暴な議論が書かれている。ノアやロトの例がまず書かれているが、その例に従うならほとんどだれも救われない。そして「不正を働く者は不正の報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみとしています。彼らは、染みや傷のようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、だまし事にふけって騒ぎます。」(13)などと「正しくない者たち」の記述が続くが、それが我々の姿の投影でもあり、このような人たちにこそ、福音が語られなければならないし、理解しなければならないのではないだろうか。聖書は丁寧に読んでいくと、難しさも増大する。しかし、それこそが信仰者の告白だとも言える。このペトロの手紙二の記者とも、恵みのうちに共に生きることを模索したい。
2Peter 3:14 それゆえ、愛する人たち、これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
おろらく、これが、記者のたいせつにしていたことなのだろう。神の御心の理解は本当に難しいと思う。この章は「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」(4)の問いについて語っているが、その答えが書かれているとも思えないし、論理的にも破綻していると思う。しかし、考えてみると、この方は、パウロの手紙の難解さを曲解しないように、むりな解釈をしないように、自らを制し、引用句にある生活を目指して日々暮らしていたのかもしれない。愛すべききょうだいだと思う。わたしにしても、パウロの手紙がしっかり理解できるわけではないのだから。

BRC2021(2)

2 Peter 1:16,17 私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」
このあとには「私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。」(18)として、この体験を、重要な根拠にしている。神からの啓示のことばとして、イエスが神の子であることを保証しているのだろう。イエスは、しかしながら、ことばとおこないをその証拠としたように思う。「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14章11節)それは、福音書などを通して、わたしたちにも伝わることだから大切なのだと思う。個人的な体験は、個々の違い、ひとりひとりの尊厳を高めるが、普遍性につながることは難しいように思う。
2 Peter 2:20 私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。
つなぎとめることは大切だろうが、正直、わたしの感覚とはことなる。自分も含めて、ひとは、何度も揺れ動くのではないだろうか。揺れ動いていることを正直に認めること、そして、そのなかで、戻ってくることを励ますこと、さらに、そのように何回も脱落する人をも、歓迎すること。そのことのほうがたいせつに思う。ここが教会という、アソシエーションだろうか、団体として確立したときの、難しさなのかもしれない。このことについて、わたしはまだよく理解できていないように思う。会員、メンバー、信徒となるということについて。
2 Peter 3:5,6 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。
洪水によって滅んでしまった世界を心しておくことは大切なのだろう。滅ぼさないと約束されたことばも含めて。(創世記8章21節)これは、バビロン捕囚を通して、国が滅んだことを経験しているユダヤ人の信仰に依拠しているのだろう。「水を元として、また水によって成った」は、気になるが、旧約聖書成立の背景をしっかり捉えることの重要性も感じる。

BRC2019(1)

2Pet 1:5-8 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
ここに実を結ぶ道が語られている。信心と信仰の違い、徳とは何かなど、一つ一つは具体性をもって理解できるわけではないが、それぞれのたいせつさと、最後に、兄弟愛・愛に到達していることには、アーメンと唱えたい。
2Pet 2:4 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。
偽預言者の出現について語り、引用箇所から、滅びについて語り、つぎに、義人ロトの場合を論じている。「しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。 」(7)このような手紙から、教義を引き出すのは危険である。実際に、神の子として生きていた者たちのなかで、それを放棄するものがいることも事実だろう。悔い改める機会があるかどうかは不明であるが、そして、憐れみ深い主の御前に、それを願いたいが、だれでも永遠のいのちに生きるわけではない。
2Pet 3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
何度もこのことばを引用していることだろう。ここには主の憐れみに対する希望と、主の忍耐を思い、わたしたちが忍耐すべきことが書かれているように思う。「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」が、主の御心である告白は、わたしも共有したい。

BRC2019(2)

2Peter 1:20,21 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではななぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ここで言われている聖書は基本的に旧約聖書であろうが、預言のあつかいは、難しい。自分勝手に解釈してよいものではないにしても、どのように書かれたものかの道筋までをすべて同じとすることのほうが、不自然である。聖霊のみちびきのもと、神とともに歩んだものが、神から受け取ったとして記したものが預言だとおもう。基本的には、人間が記したもの。しかし、そこから神のメッセージを受け取るのは、共に歩むものである意識をもっているからだろうか。難しい。(誤って、消去してしまい復元できなかったため後日記したもの。)
2Peter 2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます
直前のロトについての記述は、聖書からではない。信用できる特別な伝承があったとも思えない。引用句にあうように、二分して、自分を安全な側に置こうとすることは、非常に自然な人間の行為だろうが、わたしには、み心ではないようにおもわれる。さらに、ペトロもこのようには書かなかったのではないかとおもう。偽教師についての記述があるが、当時の教会の様々な問題が背景にあるのだろう。わたしには、見えていないことがたくさん。(誤って、消去してしまい復元できなかったため後日記したもの。)
2Peter 3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。
この章では、再臨について議論され、パウロ書簡について語られている。特に、再臨については、おおきな問題だったのだろう。この書の記述については、頷けない部分がいくつもあるが、引用した、この書を締めくくる最後のことばは、ともに歩むものであることを思わされる。イエスを通しての恵みとしての救いを日々の生活で知っていくことと、自分にではなく、神に栄光を帰すこと。それは、日々の生活に鍵があるようにおもう。違いから、排他的になるのではなく、ともに歩んでいくものでありたい。(誤って、消去してしまいあとから近い内容を復元したもの。)

BRC2017(1)

2Pet 1:5-8 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。 
一つ一つのことばについて学ばないと、はっきりとは言えないが、伝わってくるものがある。イエス・キリストの生涯と、ことばを思うこと。これがその裏にあるのではないだろうか。それを、わたしは、私たちの主イエス・キリストを通して父なる神を知る、と表現したい。
2Pet 2:11 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。 
「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」(9,10節)とあり、引用した箇所も「裁きの日まで閉じ込めておく」措置ともとれるが、関与しないともとれないことはない。ヨハネ的には「光に来ようとしない」(ヨハネ3章20節)ものなのだろう。最後の時まで、そのままにしておくこと、それは、寛容ともいえる。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 」(ローマ2章4節)しかし、すべての人が救いに入ることを望んでいるということは、これとは、違う次元のように思われる。
2Pet 3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。 
「早めるようにすべき」にはすこし驚かされる。そのようなことはできるのだろうか。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24章12-14節)から考えると、愛が冷えないように、耐え忍び、愛し合うことだろうか。

BRC2017(2)

2Peter 1:3,4 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
イエスがしたこととして「神を認識させること」と「神の本性にあずからせていただくようになること」と書かれている。よくわかる。このあとに、新共同訳では「だから」とつづき「力を尽くして(中略)加えなさい」と、名詞が連ねられ、その最後は「兄弟愛には愛を」(7)となっている。明確に書かれているわけではないが、最後の「愛」に至り、神の本性へと導かれるようになっているのだろう。途中の「信仰・徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛」も、それに準ずるものなのかもしれないが。
2Peter 2:9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。
「救いと罰・裁き」がここから語られている。それほど単純ではないように思われるが、ここでも、二者をならべて天国と地獄という表現はしていない。興味深いのは最後である「正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておく」。閉じ込めていくがなにを意味しているか分からないが、解放されない、救われない状態を表現しているのだろうか。神の忍耐、招きも感じるが、ここには、それは書かれていない。解放と、自由をもって神に向き直ることは、どのようにして得られるのだろうか。
2Peter 3:6,7 当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
再臨がないことについて批判している人たちへの反論である。まず「彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、」(5)と書き、そのあとに引用箇所が続く。現代的な科学的理解では、いくつか問題がある。おそらく、それゆえに、説教などでは取り上げられず、また、わたしも、あまり注意せず読んでしまうのだろう。ある意味では、避けてしまっていたと思われる。ノアの洪水として表現されるものが、違った形で火によってもたらされるという理解があったことを示している。もしかすると、万物の根源は、水とか火などを含む四元素説や、さまざまな考え方が背後にあるのかもしれない。根源を考えること自体を賞賛する見方もある。世の中がどうなるのだろうと、真摯に考えた人たちにまずは敬意を払いたい。現代は、科学的知識が進んでいるにもかかわらず、殆どのひとたちが、根源的なものを求めることは、殆どせず、表面的なもの、効率的なものに、こころを奪われているのだから。

BRC2015(1)

2Pet1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
神と御子イエス・キリストとを知ること。それによって、命と信心にかかわるすべてのものが与えられる。神の力によって。その理解で良いのだろうか。
2Pet2:11 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。
「彼ら」は9節で「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。」とある「正しくない者たち」、10節の「特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」と批判されている人たちだろう。天使たちは、信仰を持ったひとたちも想定されているのだろうか。神は、悔い改めを求めておられるだろうが、ひとにはそれは見えない。
2Pet3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。
「恵みと知識において」とはどういうことだろうか。英語もほんと同じ表現である。さまざまなことを恵みとして受け止めること、それも、単にお題目のように唱えるのではなく、それが、キリストを深く知るひとつのステップとして、認める日々の生活ということだろうか。それが、神のみこころとのシンクロナイゼーションにつながることを願う。それは、また、イエスが望んだことであり、キリストに栄光を帰すことなのかもしれない。

BRC2015(2)

2Pet1:17,18 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
ペトロの通訳と言われる、マルコでは1章11節バプテスマを受ける下りで「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」9章7節の山の上で「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」と書かれている。この後の方を意味しているのだろう。ちなみに、ルカ、ヨハネには、この記述はない。ヨハネは、違った形で証言されているが。上の言葉に引き続き19節後半には「この預言の言葉に留意していてください。」とありさらに「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。」と20節に続く。一つの証言から一人歩きすることに注意していたのだろう。
2Pet2:18,19 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。
自分がもっていない自由を与えることはできない。たとえ持っていたとしても、頂いたものを頂いた方から離れて与えることはできない。しばしの自由を、自分自身がえたものと考えてしまうのだろうか。謙虚でありたい。自由は、世界人権宣言のように「生まれながらにして」持っている(与えられている)ものであっても、自分で生成できるものではない。キリストとつながっていたい。
2Pet3:14,15 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
論理的には、わかりにくい。しかし、分かることは、パウロの手紙の難解さが分からない人に、平易に語っていること、そして、パウロの教えとの主にある一致を求めていることである。考えさせられる。

BRC2013(1)

2Pet1:5-7 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
心からそのように行きたいと思う。これを日常として成長していきたい。
2Pet2:4 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。
この2章は深く読めなかった。正直、意味が分からず、そのまま受け入れられない。
2Pet3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
よくわかる。しかし、論理的には、flaw も感じられる。ひとりひとりを考えたとき、いつまで待つのか。死んでもさらに、救いはあるのか。おそらく、少しこのような解釈はずれているのだろう。

BRC2013(2)

2Pet1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
前半は、神が背後におられるととることができる。聖霊に感じる部分も、信仰の営みである事が表現されている。しかし「最後の神によって語ったもの」の部分は、注意して受け取る必要があるのだろう。わたしは、これをどう考えるだろうか。これ自体を、ペテロ第二の手紙の著者のことば(応答・信仰告白)とするのか。
2Pet2:17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。
にせ教師といわれるひとの表現が続くが、興味深い。決定的とは言えないだろうが。
2Pet3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
イエスがどのように答えたか、Mt24章, 25章を背景に理解したい。大切なのは、「終わりのとき」(3節)「主の来臨の約束」(4節)の時期ではない。その希望を持ちつつ、神の喜びを喜びとして生きる事。


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ヨハネの手紙一

ヨハネの手紙一(1)

冒頭1章1節から4節を引用します。
1:初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
2:この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
3:わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
4:わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
他の手紙と異なり、著者も、宛先もありません。新約聖書に収められている手紙といわれるものでは、このヨハネの手紙一と、ヘブライ人への手紙だけです。名前はありませんが、書いた人について暗示させるものはあります。1節には「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とありますが、この「命の言葉」はイエス・キリストでしょう。すると、1節は、このイエス・キリストと生活を共にしたことを表現しているように思われます。書名は、すこし後に付けられたものですが、伝統的に、第4福音書を書いた12弟子のひとり、ゼベダイの子ヨハネを著者としています。

ヨハネの福音書にも20章30節、31節にその福音書を書いた目的が書かれていますが、この手紙にも3節、4節にこの手紙の目的が書かれています。読者が著者たちとの交わり、すなわち、父なる神と、御子イエスキリストとの交わりを持つため。そして、喜びが満ちあふれるようになるため、とあります。

口語訳では「交わりにあずかる」となっていますが、この交わりとは何なのでしょうか。このヨハネの手紙一には、冒頭の部分にもある瞑想的なことばが多くありますが、同時に、実際的なことば、実質を表すことばも多く含まれています。

皆さんは、このヨハネの手紙一から何を学ばれるでしょうか。最後に、4章19節から5章5節を引用します。

19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
1:イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
2:このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
3:神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
4:神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
わたしたちにとってたいせつな神様にとってたいせつなわたしたちの兄弟を愛すること、互いに愛し合うこと。これが神様の掟です。それは、まず、神様が、私たちを愛してくださったからです。そして、この掟を守ることは、難しいことではないと、ここで宣言されていますね。それは、なぜだと書いてありますか。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の中で生きていきたいですね。

ヨハネの手紙一 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。

  1. 序文 1:1-4
  2. 光の中を歩むこと 1:5-2:6
    1. 神の特質とそれにふさわしい歩み 1:5-2:2
    2. キリストのように歩むこと 2:3-6
  3. みことばにとどまること 2:7-29
    1. 古くて新しい命令 2:7-11
    2. 信者の現在の立場 2:12-17
    3. キリストにとどまること 2:18-29
  4. 神のこどもであること 3:1-4:6
    1. 神のこどもと悪魔の子ども 3:1-12
    2. 神のこどもの証拠 3:13-24
    3. 真理の霊 4:1-6
  5. 互いに愛し合うこと 4:7-21
    1. 神の愛 4:7-12
    2. 互いに愛し合うこと 4:13-21
  6. 信仰の勝利 5:1-17
    1. 信仰の勝利 5:1-5
    2. 神のあかし 5:6-12
    3. 霊的確信 5:13-17
  7. 結び 5:18-21


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

1John 1: 7 しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
ヨハネの手紙は、真理として受け取られたものが凝縮しているように感じる。一つの表現ではあるのだろうが、ここでは「わたしたちが光の中を歩むなら」としている。そうではない選択肢もあるのだろう。しかし、その選択をすることは、「互いに交わりを持つ」ことに結びついているという。そして「罪から清められる」ということは、神との交わりに入れられるということなのだろう。教義的にとらなくても、実質的にすばらしいものが受け取れるように思う。逆に、教義として理解しようとすると、緻密さに欠け、まわりからこぼれ落ちるものが多くなってしまうのだろう。そのように感じる、ヨハネの手紙である。
1John 2:14 子どもたちよ、あなたがたに書き送ります。/あなたがたが御父を知っているということを。/父たちよ、あなたがたに書き送ります。/あなたがたが、初めからおられる方を/知っているということを。/若者たちよ、あなたがたに書き送ります。/あなたがたが強く/神の言葉があなたがたの内にとどまり/あなたがたが悪い者に勝ったということを。
12節から続いている。抽象的なことばで表現されており、厳密には理解しにくいが、なにか、励ましをうけるようには思う。それで良いのかもしれない。光の中を歩き続けるには、励ましが必要である。それを求め続けることは、あまり簡単ではないのだから。わたしは、すでに、脇道にそれてしまっているのだろうか。多少不安になる。
1John 3:23,24 神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです。神の戒めを守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。
ヨハネの手紙は、ヨハネ由来だと考えてきたが、もしかすると、少し関係性は弱いかもしれないと、今回読んでいて思った。ヨハネの近くにいた人が関与していたことは確かだと思うが。引用句を見ると、前半は、ヨハネが語ったメッセージに非常に近い。しかし、後半は、特に、最後、神が私たちに与えてくださった霊によってわかります、とあり、ヨハネ14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」 が引照箇所にあるが、霊によってわかるということとは、異なるように思う。丁寧に読んでいきたい。
1John 4:18,19 愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。恐れには懲らしめが伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。
「恐れ」について考えてみたいと思った。当時は、迫害もあったろう。この「完全な愛は、恐れを締め出します。」は、無謀な行動を誘発する可能性もあり、また、他者を批判することにつながる可能性もあるように見える。「恐れる者には愛が全うされていない」本当にそうなのだろうか。恐れとの葛藤の中で、主に従う。主ならどうされるだろうか。御心に従うには、どうしたら良いだろうかと迷うのではないだろうか。「神がまず私たちを愛してくださったから」とあるが、イエスがどう生きたか、単に、十字架をみるのではなく、イエスがそれぞれのときに、どう生きたのか、どのように、神の国が近いことを示されようとしたのかを受け取りたいと思う。よくわからない。それを大切にしたい。
1John 5:10-12 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しを持っています。神を信じない人は、神を偽り者にしています。神が御子についてされた証しを信じないからです。この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。御子を持つ人は命を持っており、神の子を持たない人は命を持っていません。
神秘的というか、明確にはなっていないように感じてしまった。この前には、「証しするのは三者で、霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。」(7,8)とあるが、どれも、具体性に乏しい。これでは、感覚的に、理解しようとするしかなく、実際の生活の中で、どう生きれば良いかは伝わらない。なんとなく、これらがたいせつだということ以外は。この手紙の著者は、より具体的なものを持っているのだろうか。ひとに伝えること、分かち合うことはほんとうに難しい。

BRC2023(2)


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

1John 1:3,4 私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。
2つのことを考えた。1つ目は、「この交わりが永遠の命を生きることと同じなのか、またはどのように関係してるか」ということ、そして、2つ目は「後半の二回の私たちは、同じ私たちだろうか」ということである。つまり、これらのことを書くのは、受け取り手を含まないわたしたち、しかし、喜びが満ち溢れるのは、受け取り手を含めた私たちではないのかという問である。この区別のある言語をいくつか知っているが、ちょっと見ただけでは区別がなかった。前半にも「私たちとの交わりを持つようになる」とあり、私たちは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」を持っていると言っているようなので、可能性は高い。ここだけで永遠のいのちについて定めることはできないが、いのちは、あたらしい別の命をもらうというより、ともに生かされるエネルギー源のような感覚があるからである。そのような交わりを考えていきたい。
1John 2:18 子どもたちよ、今は終わりの時です。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。このことから、今が終わりの時であることが分かります。
終わりが来ることではなく、ここでは、今が終わりのときであることが書かれている。おそらく、初代キリスト教の世界において、再臨についての議論がいろいろとあったのだろう。それを否定するわけではないが、イエスが教えられたことを解釈して、このように言っているのだろうと考えた。むろん、終わりのときの意味は、あまりよくわからない。しかし、そのときを経て、主が再び来られるときがあるのだろう。成熟を感じる。今も、やはり、終わりのときなのだろう。
1John 3:2 愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。
「今すでに神の子どもである」ことと、「どのようになるかは現されてはいない」というこの2つのことが印象的である。この前には「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。」(1a)ともある。この三つだろうか。神の子どもをどう考えるかは幅があるだろう。しかし、神の子どもは、神ではないのだろう。または、神にはなっていない。他の言い方では、神の遺伝子を受け継いだだけで、それは発現していないとも言えるかもしれない。どういきるかがこのあと書かれている。イエスは神の子として生きてくださったと信じているが、わたしたちも、神の子として生きること、遺伝子が発現することはどのようなことで、それはどのようにもたらさせるのかを考えることなのかもしれない。難しいが、この明確とは言えない部分に真実を感じる。
1John 4:7 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。
ここまで言い切ることには、驚かされる。愛するものは皆、神から生まれた者。神を知っている。そうなのかもしれない。これが真実だと確信するために、愛の定義を厳格にしていくことは、適切ではないだろう。それは、愛を別のものにしてしまう。それよりも、神から生まれた、神を知っていることの定義を緩やかにしていくことなのかもしれない。愛を中心においているのだから。そして、互いに愛し合いましょう。このことばに、すべてがかかっているように思われる。ヨハネが一番つたえたかったことを、しっかりと受け取りたいものである。
1John 5:5 世に勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
「イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(1)は力強い。キリスト者とそれ以外を分けていると見る必要はないだろう。引用句では、世に勝つものが宣言されている。急に、イエスが神の子であると信じるものとなっているが、そこにすべての希望があると言っているのだろう。イエスがキリストであると信じることは、イエスが神の子であると信じることと、大きな違いはないのだろう。このあとに、霊と水と血について書かれている。明確にはわからないが、イエスについてのひとつの象徴なのだろう。すこし、上に書いた考察は乱暴かもしれない。謙虚に、また、考えたい。

BRC2021(2)

1 John 1:1,2 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。――
受ける印象は、ヨハネによる福音書冒頭とは少し異なる。より、具体的に、命のことばが生き生きと、単なる理念や哲学的なものではなく、人格を持っているように感じる。初めからあった、だけでなく、聞いた、見た、よく見て手で触った、このように表現する背後にあることを考えさせられる。おそらく、すでに、イエス個人ではないようにも思う。難しいが、急がず、少しずつ理解していきたい。
1 John 2:1,2 私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。
贖罪について書かれている。引き続いて「私たちは、神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります。」(3)ともある。興味深いのは、罪を犯しても赦されることが書かれていること。そして、それは、「戒めを守る」ことと関係していることである。個人にとって、一回限りの贖罪ではなく、神の戒めを守って生きていく自由をあたえる贖罪である。パウロが強調するものよりも発展しているように感じる。
1 John 3:8,9 罪を犯す者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にとどまっているからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
罪を犯すとは何を言っているのだろうか。2章1節のように「罪を犯しても」という記述もあり、ひとは、神の御心とは反することをする、このことは、自由をもった人であれば、当然起こることである。そうであっても、御心を行おうとすることが、キリスト者の自由としてたいせつだろう。そう考えると、ここで罪を犯すと言っている内容は、2章1節とは異なるのかもしれない。
1 John 4:19,20 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。
何度も引用している言葉である。またここに戻ってきてしまった。神の愛を受けないと、やはり、愛することはできないのだろうか。それとも、愛の深さ、たいせつさに気づくことによって、神を知っていることができるのだろうか。正直、贖罪に行き着く道だけが正解だとは、思えない。その中で、きょうだいを愛することを学んでいくのだろうか。ひとによって、いろいろなストーリーがあるのかもしれない。
1 John 5:1 イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
イエスがキリストであると信じるものは、神から生まれたもの、神を愛するものは、神から生まれたものを愛するとなっているが、それが簡単につながるかどうかはわからない。だから、まずは、愛するかたの愛するものを愛する、たいせつなかたのたいせつなひとをたいせつにする。とわたしは、説明している。しかし、その前提として、神を愛することが不可欠になる。それは、どうすればよいのだろうか。イエスがキリストであることを信じることがやはり出発点として不可欠なのだろうか。

BRC2019(1)

1John 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
この段落は「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(5)と始まる。その前の「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3)で、交わりについて述べている。あとに続くように、不完全なわたしたちが、罪の中にいることは、確かである。しかし、それを言い表すことにより(9)イエスによって、その罪を清めていただくことが、交わりに入ることを可能にしているといっているのだろう。光のなかにいないのであれば、神との交わり「御父と御子イエス・キリストとの交わり」(3)にいることはできない。
1John 2:4-6 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
神を知る、それは、御心を知っていることで、当然、神の掟を守ることになる。神の愛が実現することにより、神のうちにおり、イエスが歩まれたように歩むようになる。これが「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7章21節)につながっている。「わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。」(21)この確信を持ちたい。しかし、つねに謙虚さを失わず。
1John 3:10,11 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(4)とあり、「法に背く」は「不法」とも訳されている、anomia(lawlessness)である。法がないこと、なにが神の御心か分からない状態とも言える。引用箇所では「神の子たちと悪魔の子たちの区別」とし、それは「正しい生活をしない者、兄弟を愛さない者」そして「互いに愛し合うこと」につないでいる。ヨハネの手紙記者は、このことが中心であることを、頻繁に述べている。単純すぎるかもしれないが、おそらく、ヨハネがイエスから受け取ったことは様々でもこれこそが「すべて」と言えるものなのだろう。
1John 4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一には、とくに「とどまる」が多い。meno が使われていると思われる。この手紙での最後の使用が引用箇所である。新共同訳でこれが最初に使われているのは「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。」(2章19節)とどまっていないひとがいたことがわかる。何にとどまるかその中心として、ここでは、愛であるとし、神は愛であると断言している。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(8)単純過ぎるように見えるが、とても深く、重い。
1John 5:11,12 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
御子に結ばれているかどうかによって、永遠の命があるかどうかが決まると書かれている。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネによる福音書14章6節)このことを、証するのは「“霊”と水と血です。この三者は一致しています。」(8)といっている。正直、実体は見えてこないが、永遠の命をもって生きることと、御子に結ばれていることと、神を愛すること(3)と神の掟を守ること(2)と神のこどもたちを愛すること(2)がみな、つながっていることに関しては、理解できる。それが、本書の目的であろう。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13)

BRC2019(2)

1John 1:8,9 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
罪なしに生きることを求めていない。罪の自覚と、それを公に言い表すことが求められている。公はむずかしい。ある機能になってしまう可能性もある。本質は何だろうか。生き方ではないだろうか。自分は、罪人であることを自覚して、(神のもとにある)光の中をあるくことだろうか。その一見矛盾とも言えることが可能になるのが救いなのだろうか。まだ、よく理解できていないことがわかる。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3)ここに、希望をおいて歩んでいきたい。わたしたちの交わり、御父と御子イエス・キリストとの交わり。
1John 2:7,8 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
「古い掟・新しい掟」よくわからなかった。もしかすると、日々あたらにこの掟を受けることを言っているのかもしれないと今日思った。最初に「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1章3節)があり、この章の最初には「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(1)とある。罪(神さまと引き離された状態)では、交わりをできず、光の中を歩むこと(1章7節)はできない。そして「神を知るものは、神の掟を守るもの」(3)とある。罪を犯してしまう、神さまから離れてしまうわたしたちが、イエスによる罪の贖いによって、罪を告白し、イエスの名を信じることによって、罪赦されたものとして歩むことができる。少なくとも、地上では、この繰り返しの中で生きて行くのだろう。今日も、主の掟を、新しい掟として受け取りながら。
1John 3:10,11 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(23,24a)と「掟」の定義がここにある。引用箇所では、互いに愛し合うことを「初めから聞いている教え」としている。ヨハネの周囲のひとたちは、いやというほどこのことを聞いていたのだろう。神に属する者の属性、それは、掟を守ること、その掟とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ」「互いに愛し合うこと」である。正しい生活とあるが、文脈からは、倫理的な生活をこまごまと言っているのではなく、「罪を犯さない」(5)生活なのだろう。そんなことは、できるのかと思ってしまうわたしたちに、掟を簡単にまとめている。イエスによらなければ、罪の中に留まるからだろう。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(2章2節)論理的にそうなのではなく、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(16)ということに含まれている、これを通して「イエス・キリストの名を信じる」ことなのだろう。
1John 4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
確信を生み出す「霊」(13, 3章24節など)のことも考えたかったが、それは又としよう。よくわかっていないから。恐れのことが書かれている。わたしが Be available, stay vulnerable というとき、この恐れを締めだそうという気持ちが強いことは確かだと思った。いままで、何度か、そのようなことがあった。非難されるのではないか、仕事も取り上げられ、いままでしてきたこと、生きがいを感じていたことも、できなくなるのではないか、生活が奪われ、友も失うのではないかとの不安があったことは確かである。そのときに、それを恐れないことにした。傷つくことを怖がらず。無謀とも言えるかもしれないが、それでも、その生き方を選んだのは、愛をたいせつにしたかったからのように思う。動機を、みつめることが、やはり大切である。ここには、「恐れは罰を伴う」ともある。まだ十分は理解できないが、たいせつなことをしない、自己保身は、的外れの罪なのだろう。
1John 5:11,12 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
このあとには「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13)と続く。これも、目に見えるものではないだろう。しかし、互いに愛し合うことにより、確認できるものなのかもしれない。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」(1,2)ひとの尊厳の根拠があり、互いに愛し合うように招かれていることが、神の子どもとして愛することと関係し合っていることもわかる。目に見えるものに依らないで、この命に生きていきたい。ヨハネからは、もっともっと学びたい。初期のキリスト教をずっと見てきて、最初から受けたもの、たいせつなことに、純化されていったのだろう。イエスを直接知って、教えをうけ、それを生き抜いたひとりのひとの証言をしっかり受け取りたい。

BRC2017(1)

1Jn 1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 
ヨハネだけが書けるような言葉である。はじめから、そして、触れた。それが、「いのちのことば」とかかれ、2節では「いのち・永遠の命」と書き換えられている。その目的が、次に書かれている。それは、自分たちの交わりに入ること、そして「その交わりは、父なる神と、イエスとの交わりである」こと。すべて、ヨハネの福音書に書かれていることである。どちらが先か、特定することは可能なのだろうか。個人的には、福音書が先のように思われる。この文章だけで、その背景を理解することは困難だからである。しかし、同時に、常に語っていたことが、福音書の内容ならば、逆の順序も可能性はあるだろう。
1Jn 2:1,2 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。 
「罪を償ういけにえ」とされている。「神の子羊」はそのことを表現しているだろう。それによって、神との交わりに入ることも想定しているのかもしれない。パウロの神学との違いはあるように思われる。ヨハネにとっては「過越の羊」という歴史に結びつくイエスの死が特に強いのかもしれない。その重さが理解しづらい、私たちには、頭で理解はできても、完全に、ヨハネと同じように受け入れることはできないのだろうか。救いは「全世界の罪」といっていることである。
1Jn 3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。 
この問題を、ヨハネの手紙一を学ぶときに、解決するのだろうか。いろいろな考えがあることは、わかるが、わたしには、いまは、どうしても、このことがわからない。ヨハネでは、罪を、掟に背くこと、すなわち、兄弟を愛さないこととしている。しかし、そうであっても、やはり、罪を犯さないと言い切れるのだろうか。いつか、ヨハネの言う意味がわかるようになりたい。
1Jn 4:16,17 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 
神の愛を知り、その愛にとどまることは、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる。それは、愛が全うされていることで、この世で、私たちも、イエスのようである。ここに、ヨハネの信仰告白があるのだろう。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 」(ヨハネ15章9,10節)そしてこの掟は「互いに愛し合うこと」だろう。
1Jn 5:4,5 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)を受けている。だからこそ、この「イエスが神の子であると信じるもの」が世に打ち勝つ、それが信仰だと言っているのだろう。世とは何だろうか。神の愛から目を背けさせるもの、互いに愛し合うこととは、異なる価値観に引き込むものだろうか。もう少し、丁寧に言語化していきたい。

BRC2017(2)

1John 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3章21節(19,20参照))を思う。「まことの光」(ヨハネ1章9節)がイエス・キリストである。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3)で描かれている交わりが表現されている。観念的にも見えるが「罪=法に背くこと、不法(anomia, lawlessness)」(3章4節)とすれば、交わりのなかで、神のみこころが分かってくると共に、そのように生きる生活に導かれることを意味しているのかもしれない。「罪とは律法に反すること」からはじめると、終わりはない、そして、救いはない。Negative なことをしないことではなく、Positive なことに召されて生きることに希望がある。それは、神の掟に反することという意味での罪を否定することではない。神の掟に反することを、光に照らされて知り、悔い改めながら、掟として「神の子イエス・キリストの名を信じ、互いに愛し合う」(3章23節)そのような生活、それが、互いに交わりを持ち、あらゆる罪から清められることなのかもしれない。
1John 2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
イエスの名を信じ、互いに愛し合うように召されている(3章23節)からだろうか。なにが神の御心かをイエスを通して教えられたからだろうか。ヨハネの中には、Positive なことが詰まっている。それが、神の愛が実現しているということばにつながっているように思われる。負のものが清算されるという罪の赦しだけを説いているのでは、やはり福音とは言えない。
1John 3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
「命(psukee)」は、「霊」と同じで「行動を引き起こすもとにあるその方の本質」である。そして「捨てる(titeemi)」は「置くこと」である。大分印象が異なる。神様の行動を引きおこすもとにある本質を、自分のものとして留めておかず、わたしたちのために、そこにおいてくださった。その本質は、愛なのだろう。そして、愛に生きることは、命を、自分のものとして、留めておかず、そこに置くこと。なにか、震えが来るほど、心に迫る福音がそこにある。
1John 4:7,8 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
本当にはっきりしている。「愛する者は皆、神を知っている」この前に「どの霊も信じるな」(1)とあるが、それを見分ける方法にも使われることは、想定できる。このあとに、御子のことが続くが、条件付きにはしていない。「互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」(12)とまで言い切っている。驚かされるとともに、その深さも味わいたい。
1John 5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
とてもはっきりしている。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(3章23節)ここでは、前半が取り上げられているが、分離して終わっていない。「生んでくださった方から生まれて者をも愛する」ことを付け加えている。イエスをメシアと信じることでは、問題が起こるからだろう。キリスト者のあつまりでは、そうでないひとの集まりと同様に、問題が起きるものだから。それをわけるものがあるとするば、それは、兄弟を愛することだけ。

BRC2015(1)

1Jn1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
実際的なことから本質的なこと「わたしたちの交わり」から「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に向かって書かれている。そしてそれがここで伝えたいことだとしている。しかし「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」と言い切ることに衝撃をうける。それを目指すのではないのだろう。一人歩きすることに、危険を感じるが、記者が伝えたい本質なのだろう。
1Jn2:15-17 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
最近よく使っている「今だけ、金だけ、自分だけ」に近い表現である。永遠は、神に属すること、神に属することは永遠なのかもしれない。それが今だけの対極にある。肉の欲、眼の欲、生活のおごりは、金ということばに表現されている。自分だけには、神を思う心はない。
1Jn3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
復活についても、このことが重要であるように思われる。イエスと似たものと変えられる。1Cor 13:12「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」ヨハネとともに、1ヨハネを合わせて学んでみたい。
1Jn4:7,8 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
自分が招かれたことを背景に、ここで記者は、読者を招いている。互いに愛し合いましょうと。論理のどちらが根拠でどこが結論ということは、あまり考えられたいないのかもしれない。互いに愛し合うこと、そこに信仰があり、神を知ることでもあることを伝えている。
1Jn5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
「神から生まれた者」という用語の背景には「上から」「霊によって」があるだろう。そうすると、これは「イエスがメシアであると信じる人」に限定されることになる。これらは同じである。すると、後半も「イエスがメシアであると信じる人」を愛するとなる。このことと「神が愛される人」すべてを愛することとは同じなのだろうか、それとも、異なるのだろうか。重要な問いである。

BRC2015(2)

1Jn1:1,2 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
ヨハネの福音書の冒頭が彷彿とされる。特に印象的なのは、聞いた、見た、触ったという実感である。その証言をしている。あまりにも奇異に感じられるかもしれない。しかし、証言せざるを得ないのだろう。これは、キリストというより、神の子イエスである。
1Jn2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 
「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。」(9節)自分がどうかに集中すべき。神の掟を守るものとなりなさい。及第とはだれか。この人は永遠の命に生きているのかは、関係ない。 それは、神の仕事を取ることでもあるから。そして、神の願いに反することでもあるから。
1Jn3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
「兄弟とは誰か」と聞くことは「兄弟である」「兄弟となる」ことの対立軸にあるように思われる。カインは創世記4章9節で「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』」と答える。すでに、兄弟では居続けていないことが分かる。ルカ15章30節「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」兄のことばである。考えさせられる。
1Jn4:20-22 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
非常に単純である。神を愛する根拠は、愛されているからか。あまり、明らかではない。しかし、兄弟を愛するのは、神を愛するからということは、明らかなようである。もう少しじっくり理解したい。
1Jn5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
難しくないのかもしれない。神の掟を守ることは、神を愛すること。それは、神の掟を守ること。互いに愛すること、それが掟だと考えてよいのだろうか。

BRC2013(1)

1Jn1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
イエスに関する直接証言によって、父ならびに御子イエス・キリストを知るようになり、交わりにあずかるようになるということであろうか。
1Jn2:10 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。
「新しい戒」「古い戒め」が7節、8節に書かれているが、それがこの「兄弟を愛する」ことだとして良いだろうか。
1Jn3:20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。
これは18節の「行いと真実とをもって愛し合おう」につづく19節の「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。」を受けている。とても大切なことが言われていると思う。
1Jn4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。
これほど単純ではないが、わかりやすい。ひとが陥りやすい欠陥を如実に表している。そして、自分を省みるためにも、とても大切なことばだろう。
1Jn5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
1節を見ると、戒めを守ることはあまり簡単だとは思えない。しかし信仰がそれをなす事ができると言っているようだ。この信仰は、自分の中の信心の力などと考えないほうがよい。神との強い結びつきに生かされているという日常とでも言った方がよいだろうか。

BRC2013(2)

1Jn1:3,4 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
この書の目的とさらにその結果が書かれている。まず注目を引くのが「わたしたちの喜びが満ちあふれるため」という最後の部分である。共にシェアしたい。その喜び、そしてそれは、キリストとの交わりを楽しんでいる、実体が強いのだろう。
1Jn2:27 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
油は、聖霊か。しっかりした根拠が欲しい。1Cor 1:21,22 には「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」Is61:1「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」もそうだろうか。
1Jn3:24 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。
神と共なる生活。それは聖霊によって決まる。しかし、その確証は、どのように、与えられるのだろう。御霊を持っている事を。
1Jn4:13 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
約束を与えられ、それを信じた事によって、それが与えられたという事か。実感がわかない。確かめる事はできないのか。しかし、神に自分を明け渡す事で、御霊に生きる事ができるのかもしれない。
1Jn5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
神の子たちを愛している事をも知るなど、驚かされる。神と同じになるという事だろうか。


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ヨハネの手紙二

ヨハネの手紙二(1)

ヨハネの手紙二は次のように始まっています。1節を引用します。
長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
著者も、宛先も明確ではありませんが、この文章から個人的な手紙であることが、分かります。そして、この女性は、とても、すばらしい人のようですね。また、当時の問題も分かります。7節と9節には、次のようにあります。
7:このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。

9:だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。

7節は、イエスは神の子であるが、完全な人ではなかったいう人たちがいたこと、9節では、キリストの教えを越えて、これにとどまらない人たちがいたことが書かれています。初代教会の人たちは、このような問題をたくさん持っていたのでしょう。もしかすると、いまは、それをあまり真剣に議論しなくなったかもしれません。

ヨハネの手紙二 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。

  1. あいさつ(緒言)1-3
  2. メッセージ 4-11
    1. 奨励 - 愛のうちを歩むこと 4-6
    2. 警告 - 偽りの教師 7-11
      1. 偽りの教えの性質 - 受肉の否定 7
      2. 注意する勧告 - 自己吟味 8-9
      3. 接待への警告 10-11
  3. 結語(あいさつ)12-13
    1. 訪問の計画 12
    2. 読者の姉妹の子どもたちからのあいさつ 13


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

2John: 5,6 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい戒めではなく、私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということです。愛とは、御父の戒めに従って歩むことであり、この戒めとは、あなたがたが初めから聞いているように、真理の内に歩むことです。
ヨハネの手紙は難しいと感じている。このヨハネの手紙二は、一よりもさらに難しいかもしれない。しかし、それでも、少しずつ理解していきたい。ここでは、婦人よと語りかけ、ヨハネの福音書からの引用(ヨハネ13:34)が書かれている。しかし、その次には、「愛とは、御父の戒めに従って歩むこと」「真理の内に歩むこと」とあり、互いに愛し合うことの具体的なメッセージは伝わってこない。しかし、「選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」(13)とあり、この手紙の背後に、女性や、こどもたち(若い人たちかもしれない)が、たくさんいたと思われることは、引用句とも相まって、興味深い。

BRC2023(2)


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

2John 7,8 なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。よく気をつけて、私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。
ヨハネの手紙二・三は、ヨハネ由来かどうかはっきりしないようである。今回読んでいて感じるのは、内部的証拠から、議論するのは限界があることである。引用されている部分は、使徒ヨハネは書かないように思うが、あるときには、具体的な問題があり、促されて書いたかもしれない。おそらく、それよりも大切なのは、内容自体を丁寧に、批判的に理解することなのだろう。そして、不明なことは不明とすること。使徒を特別扱いすることも、程度をわきまえることだろうか。初代教会にも、難しい問題がたくさん生じていたのだろう。おそらく、内部から。

BRC2021(2)

2 John 9,10 先走って、キリストの教えにとどまらない者は皆、神を持っていません。その教えにとどまっている人は、御父と御子とを持っています。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
これは、自分で判断することが困難な人たち、その弱さを考えて、助言しているのだろう。単なる、分断を作り出すのであれば、互いに愛し合うことはできない。どうやって乗り切るか。このことが難しい。ここでは「なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。」(7)と表現している。たしかにこのような問題は、議論を引き起こすだけで、解決は非常に難しい。しかしだからこそ、神様の苦しみを苦しみとすることが、キリスト者、イエスの弟子の使命であるように思う。

BRC2019(1)

2John 6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
短い手紙で判断をすることは困難であるが、ヨハネの手紙一との類似性は高い。「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」(9)の内容については、正確に知るよしもないが、次のような背景の中に実体があるのかもしれない。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」(7)

BRC2019(2)

2John10,11 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
この書は、12弟子の一人のゼベダイの子ヨハネのものかどうかを考えながら読んでしまった。それを確定することはできず、ヨハネ由来かどうか程度でよいと思っているにも拘わらずである。やはり気になるのかもしれない。最初の「長老」はヨハネ著作説に反する項目にあげられるが、そうでもないように思う。12弟子の一人や使徒というほうがかえって不自然に感じる。掟や互いに愛し合うべき事についての記述4−7は、ゼベダイの子ヨハネが著者であることが、明らかに想定されている。そのあとの、8-11節がむずかしい。8,9 はヨハネによる福音書やヨハネの手紙一に関係があることばがつかわれているが、引用箇所は、かなり印象が異なる。書かれた背景がことなるのだろう。興味を持つのは、ヨハネにとって、互いに愛し合う他者はどのようなひとが想定されていたかということである。おそらく、隣人となったのは誰かというイエスのことばの方に、本質的解を求めるべきだと思うが。いずれにしても、上の議論は、あまり重要な意味をもたないと思われるにもかかわらず、そのことを考えてしまう、自分の発見のひとときでもあった。

BRC2017(1)

2Jn 5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。 
背景は「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。 」(7節)と説明されている。いわゆるグノーシス主義や、仮現説が強い時代だっのだろう。それに対して、批判ではなく、ここで婦人に求めているのは、互いに愛し合うことである。ここから出発したことも書かれている。ここから離れないように。わたしも、そうありたい。

BRC2017(2)

2John 2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。
真理に対する確信がはっきりしている。それは、何なのだろうか。神の御心は、その掟をまもること、掟は、互いに愛し合うことと知っていると言うことだろうか。そこまで、単純化してしまってよいのだろうか。しかし、互いに愛し合うとすると、真理は、そのひとの内に留まるのかもしれない。

BRC2015(1)

2Jn1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
女性にあてて書かれたのだろうか。このヨハネ第二の手紙の位置づけはよくわからない。どのような経緯で聖書に含まれたのだろうか。殆どわたしは知らないように思われる。長老ということから、おそらく、ヨハネではないと言うことぐらいだろうか。

BRC2015(2)

2Jn9-11 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
具体的な背景については、不明である。しかし、完全な排他的態度には、驚かされる。どう考えたら良いのだろうか。

BRC2013(1)

2Jn5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。
何度書いても書き足りないのがこのことだったのだろう。そして兄弟に限定して書かれることが多いのは、当時の社会のなかでの教会の位置によったのかも知れない。

BRC2013(2)

2Jn6 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。
悪用される事を危惧するが、このような結論に至ることには「アーメン」といいたい。一部しかわからなくても、たいせつなことを、大切にしていきたい。


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ヨハネの手紙三

ヨハネの手紙三(1)

ヨハネの手紙三は次のように始まります。
1:長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
こちらの手紙でも、問題が書かれていますが、親近感も感じます。どの時代にもこのような人がいるのかもしれません。
9:わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
10:だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
ヨハネの手紙三 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。
  1. 緒言 1-4
    1. あいさつ 1
    2. 祈りと喜び 2-4
  2. ガイオへの賛辞 5-8
    1. 彼の接待への賛辞 5-6
    2. 接待の継続に関する奨励 7-8
  3. デオテレペスの批判 9-10
  4. デメテリオの推薦 11-12
  5. 結語 13-15
    1. 訪問の計画 13-14
    2. あいさつ 15


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

3John: 4,5 私の子どもたちが真理の内に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。
この「よそから来た人たち」については、このあとに少し書かれている。「彼らは、教会の集まりであなたの愛について証ししました。どうか、神にふさわしいしかたで、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅立った人たちで、異邦人からは何ももらっていません。」(6,7)しかし、これだけでは、よくはわからない。もしかすると、微妙な立ち位置なのかもしれない。しかし、誠実を尽くしていることが、「真理の内に歩んでいる」という表現と結びついているように思われる。宛先は、ガイオとなっているが、少し広い範囲の人たちへメッセージなのかもしれない。

BRC2023(2)


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

3John 10 だから、私が行って、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は口汚く私たちを罵るばかりか、きょうだいたちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
この前の段落には「愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。彼らは、教会の集まりであなたの愛について証ししました。どうか、神にふさわしいしかたで、彼らを送り出してください。」(5,6)とある。おそらく喜んで迎え、誠実を尽くしてもてなし、そして、(神に)ふさわしいしかたで送り出す。これが推奨されているのだろう。短い手紙で、詳細は、不明なところも多い。5-8節に書いてある人がどのようなひとたちなのか、また「神にふさわしいしかたで」がなにを意味するのか。引用句は、逆といういことばは不適切かもしれないが、それと対する態度ではある。彼は口汚く私たちを罵り、きょうだいたちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をして、教会から追い出す。ここにはおそらく首謀者である彼(ディオトレフェス)について書かれているが、それに追従するひとたちもある程度いるために、これが成り立っていくのだろう。非常に困難な問題である。わたしがそこにいたらどうしたら良いのだろうか。自らがそのようなことをしていないかを省みるとともに、よそから来た人たちを歓迎し、誠実を尽くし、そのひとたちにふさわしい形で送り出す。そこで、あるひとたちと、ぶつかったときにはどうすればよいのだろうか。難しい。正しさを固く保持している人との間も同様に困難を覚える。

BRC2021(2)

3 John 13-15 あなたに書くことはたくさんありますが、インクとペンで書こうとは思いません。すぐにでも会って親しく話し合いたいものです。あなたに平和がありますように。友人たちがあなたによろしくと言っています。そちらの友人たちに名を呼んでよろしく伝えてください。
ヨハネの手紙二と三の著者については、確定できていないようだが、明らかに、この2つの手紙の末尾は似ている。「あなたがたに書くことはたくさんありますが、紙とインクで書こうとは思いません。私たちの喜びが満ち溢れるように、あなたがたのところに行き、親しく話したいと思います。選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」(ヨハネの手紙二12,13)わたしも、似た末尾を使うことが多い。むろん、ここでも、インクとペンが、紙とインクに変わっているなど、少しの違いはある。少しの時期がたてば、このぐらいの変化はあるとも思う。他者が、なりすますために、似せるのであれば、まったく同じ挨拶にするだろう。

BRC2019(1)

3John 9,10 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
互いに愛し合う、お互いに歓迎(Welcome)することと反対の状況がここにある。「指導者になりたがっている」とあるが、ある上下関係を作りだして、支配しようとすることであり「悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしる」は、敬意をはらうことと反対になってしまっている。ヨハネ、または長老を敬うことは、その人生を導いたかたに、従い通してきた人たちに敬意を払うことだろう。おそらく、歳をとり、衰えはあるだろうが。「兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出してい(る)」これこそ、歓迎することの反対の状況を表現したことばだろう。この手紙の記者は「互いに愛し合うこと」の概念が「歓迎」に近い概念として結びついているのだと思う。

BRC2019(2)

3John 7,8 この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
「愛するガイオ」(1)にあてて書かれ「彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。」(5)と書かれている。しかし、その評価の理由とも思える、引用箇所は、気になる。「異邦人からは何ももらっていない」人をもてなしたことが重要なのか。そして、そのことが「真理のために共に働く者となる」ことなのか。背景がわからないので、即断はさけるべきだろうが、なにか、商売をしているように感じさせられる。「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(2)は有名な言葉で、わたしも一時期使っていたが、なにか、色あせて見えてしまった。

BRC2017(1)

3Jn 9,10 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。 
ここで書かれているのは、兄弟たちの交わりを阻害しているのが、一人の人の名誉欲だということである。たしかに、それがすべてを破壊するようにも思われる。排他主義である。どうしたらよいのだろうか。注意はする、しかし、分かれて生活することだろうか。そこで互いに愛し合うことができれば。

BRC2017(2)

3John 5 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。
「よそから来た人たち」を、歓迎しているのだろう。それは、一般的には簡単なことではない。違いがあるから、深い結びつきがあるわけでもないから。だからこそ、価値があるのかもしれない。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」(ローマの信徒への手紙12章13節)「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13章2節)

BRC2015(1)

3Jn9,10 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
この時代にも、ディオトレフェスのような人がいたことを思う。また発見もある。これは、学者たちが言うように、やはり使徒ヨハネがはいた者ではないだろうと言うことである。使徒を受け入れないでは、教会で受け入れられることはないはずだからである。

BRC2015(2)

3Jn1 長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。 
ヨハネの手紙二の冒頭も「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」となっており、非常に似ている。これら二つの書簡の著者が同じである可能性が高い。「真に愛しています」これが口癖だったのかもしれない。特に、ヨハネの手紙三では「愛するガイオへ」とされ、それに加えて書かれている。「愛する」という表現とは区別されていると言うことだろう。

BRC2013(1)

3Jn13,14 あなたに書きおくりたいことはたくさんあるが、墨と筆とで書くことはすまい。 すぐにでもあなたに会って、直接はなし合いたいものである。
人と会って話すことをわたしも大切にしている。コミュニケーションできることの幅・深さが非常に大きいからだろう。はかれることも、簡単にははかれないことも。人は、見えにくいものを、失いやすい。

BRC2013(2)

3Jn2,3 愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。 兄弟たちがきて、あなたが真理に生きていることを、あかししてくれたので、ひじょうに喜んでいる。事実、あなたは真理のうちを歩いているのである。
すべてのことに恵まれることを願う。それが、兄弟であり、父のような心で友をみることだろう。そしてその友の様子を聞いて、喜ぶ。神様の喜びとつながっているのだろう。


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ユダの手紙

ユダの手紙(1)

1節は次のように始まります。
イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
このユダは、イエスの兄弟で、ヤコブの手紙の記者だとされるヤコブ(ガラテヤ 1:19)の弟のユダが想定されています。マタイによる福音書13章55節には「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」とユダの名前もあります。(マルコによる福音書6章3節参照)9節、11節、14節をみると、旧約聖書には、書かれていない記事がはいっています。「モーセの昇天」「エノク書」と言われているものです。合本の一冊の聖書を持っている私たちは、偽典ともいわれるものを引用していること自体が心配になりますが、その感覚は、書かれた当時は違ったのかもしれません。

ユダの手紙の最後17節から20節を引用します。

17:愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。
18:彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」
19:この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。
20:しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。
ユダの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(上沼昌雄)を引用しておきます。
  1. あいさつ 1-2
  2. にせ兄弟たちの出現 3-4
  3. 神のさばきの事実 5-7
  4. にせ兄弟たちの本性 8-16
  5. キリスト者への勧告 17-23
  6. 賛栄 24-25


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Jude:9 大天使ミカエルは、モーセの体のことで悪魔と言い争ったとき、あえて罵って相手を裁こうとはせず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。
聖書には書かれていないことが引用されている。このあとの、「アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。『見よ、主は幾万の聖なる者たちを引き連れて来られる。すべての人に裁きを行うため、神を畏れぬ者たちが犯したすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人が主に対して口にしたすべての暴言とを罪に定めるためである。』」(14,15)も同様である。聖書のみの信仰では、これは、問題になると考えるのも自然だろうが、伝承は、いろいろな形で、聖書に入り込んでおり、それが聖書を成したとも言えるのだろうから、判断は、難しい。ユダの手紙についての聖典性の判断は、他の理由も含めて、難しいとしか言えない。

BRC2023(2)


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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Jude 9 大天使ミカエルは、モーセの体のことで悪魔と言い争ったとき、あえて罵って相手を裁こうとはせず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。
ユダの手紙には、いくつか伝説・言い伝えが含まれている。それ故に、聖典性が疑われたと聞いている。個人的には、なぜ、ユダの手紙を含めたのか理解できない。しかし、同時に、いろいろな言い伝えがキリスト教会でも、重要な役割をしめてきたこと、そして、様々な状況下で、立証困難な奇跡的体験を信仰の最大の基盤としている人もおられる。そのようなことを否定したり、そのような方を排除することの問題も感じる。ユダの手紙によれば「唯一の支配者である私たちの主イエス・キリストを否定している」(4b)が不敬虔、神を畏れるかどうかが判断基準ということだろうか。難しいが、キリスト者かどうかの境界線をはっきりすることは、やはり問題があるように思われる。なにも考えないと、常に崩壊の危機があるわけだが。なにを失ってはいけないのかをしっかり考えたい。

BRC2021(2)

Jude 4 というのは、ある者たちが忍び込んで来て、私たちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の支配者である私たちの主イエス・キリストを否定しているからです。彼らは不敬虔な者であり、次のような裁きを受けると昔から前もって記されています。
直前にある「信仰のために闘うこと」(3)とある内容、または、引用句の「ある者たち」について、具体的な記述を探したが、わからなかった。「昔から」とある例示の内容からは「この者たちは、不平や不満を並べ立て、欲望のままに振る舞い、大言を吐き、利益のために人にこびへつらいます。」(16)あたりが、内容なのかなとは思うが。ユダの手紙は、聖典性が最も疑われている書であるが、そのような証拠を確認することではなく、伝えたい内容をしっかり受け取ろうとしたのだが、今回はそれもなし得なかった。また、挑戦していきたい。互いに愛し合うために。

BRC2019(1)

Jude 3 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。
日常的な交わりは仮定されていないようである。背景が次に書かれている。「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。」(4)ここからは、通常「エピクロス主義=快楽主義」といわれるものが見えるが、エピクロス自体は、自然で必要な欲求で、結果として「幸福」がえられるものを、共同生活の中で追求したのであって、通常言われる、快楽を求めたのではないようである。しかし単純に「みだらな楽しみ」を是とする世界は、神の恵みに生きる世界ではない。ただ、このあとの内容で、説得的にこのことについて書かれているかは不明である。偽文書といわれるものもいくつか引用され、聖書に含まれていることさえ不思議な文章である。キリスト者の仲間の文書として、排除するものではないのだろうが。

BRC2019(2)

Jude 1,2 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
なぜユダの手紙が聖書に含まれたかを考えながら読んだ。5節から16節までは、通常聖書には含まれない者の引用が並び、内容的にも聖書のほかの箇所と整合性があるとは言えないものであると、前から思っていた。聖書に含めるかどうか議論のあるものは、基本的にすべて入れることにした結果だと言われる。ある選別はなされたのだろう。当時の文書で、聖書に含まれてないものも少数あるようだ。しかし、基本的には、切り捨てない。Inclusive 包摂だろうか、をたいせつにしたと思うようになった。このユダの手紙を書いた人や、支持する人がいたとき、排除しない。排除することから起こるであろう問題を避けたとも表現できるかもしれない。それを、いまは、受容できる。わたしが、何回かあった、選別の過程に関わっていたら、最終的には受容したろうから。課題は、今の時代の責任に引き継がれていると考えるべきだろう。聖書をどのようなものとして神のみこころを求めていくかである。

BRC2017(1)

Jude 17,18 愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」 
「ヤコブの兄弟であるユダ」(1節)と、イエスの兄弟のユダが想定されているが、17節のことばからも、実際にそうだとは、考えにくいように思われる。決定的ではないが。「不信心な欲望のままにふるまう。」は理解できる。常に、その中で、我々は生きているのだろう。

BRC2017(2)

Jude 21 神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
なにか、ユダの手紙に愛着がもてない。むろん、いろいろと背景はあるが、書き手を Welcome することは、したい。ともに、生きるために。難しいのは、顔もみえないからだろうか。

BRC2015(1)

Jude9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
現在受け入れられている聖書には書かれていないモーセの昇天に由来する文である。どう考えるべきなのか。それ故に、切り捨てることには、問題もある。聖書正典の取捨選択は、明確な理由を挙げることは難しいこともあるだろう。聖書とは何かの定義の問題になるのかもしれない。そのことの一つの証拠でもある。

BRC2015(2)

Jude1 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」という書き出しの故に、この手紙は、聖書に加えられたのではないだろうか。「モーセの昇天」や「エノク書」からの引用とされる。聖書自体が、儀典と言われている書の引用をしているという、聖典としての自己矛盾とも言える箇所である。当時のキリスト者の中で、人的なつながりは、否定できなかったろう。ヤコブが主の兄弟ヤコブと意味するのであれば、ユダも主の兄弟である。それが、イエス・キリストの僕と自称している、それを信仰告白としてとり、この書を含めることに、反対することは困難だったろうから。内容としても、ユダの書を含める理由は見当たらないが、これも、人間の弱さなのかもしれない。聖書は神の言葉というときの表現を丁寧に考えてみたい。

BRC2013(1)

Jude24 あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、
なにが正しいかを示すのではなく、そのように生きさせてくださるかたの存在の大きさははかり知れない。

BRC2013(2)

Jude1:21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
神の愛の中に自らを保つことが、永遠のいのちにつながっているのかもしれない。イエスキリストの憐れみを待ち望みながら。


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ヨハネの黙示録

クリスマス、ヨハネの黙示録(1)

そろそろクリスマスですね。 多くの教会でクリスマス(Christ's Mass) 礼拝がもたれます。ギリシャ語ではキリストはクリストスで X (カイ)から始まるので Xmas などと略することもありますね。Mass はいわゆるミサですが、特にカトリックで聖体拝領(プロテスタントの聖餐式に対応するもので、最後の晩餐に由来しパンと葡萄酒を共に食する儀式(例えばマタイによる福音書 26章26-29節参照))の典礼をうけ、最後に「行け、派遣する」と司祭がのべる最後の言葉のラテン語 missa(派遣)に由来します。なかなか意味深い言葉です。

教会暦では、降誕節は、東方の博士たちがイエスをたずねる(マタイによる福音書2章の記事)または、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をうける(例えばマタイによる福音書 3章13-17節参照)公現節(公現日)(英語:Epiphany)1月6日までとなっています。この1月6日はユリウス暦の12月25日にあたるので、ロシアではこの日にクリスマスを祝うそうです。

そもそも教会暦は、待降節、降誕節、受難節、復活節と一年のいくつかの特別な日・期間を記念してイエスの生涯を覚えるものです。その決め方はキリスト教の宗派によっても異なります。そして、聖書に正確な日付が残されているわけでもありません。アメリカに渡った厳格な清教徒たちは、クリスマスを異教のものと見なし、祝わなかったと言われています。実際、州によってはクリスマスを祝うことを禁止されていた時期もあるようです。アメリカで、今でも収穫祭 Thanksgiving の方が一般的で重要視されているように見えるのは、そのへんも影響しているかも知れません。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 (ルカによる福音書2章11節(新共同訳))
イエスの誕生を記録しているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。しかし、神の子が人として幼子としてお生まれになった。このことを覚えるクリスマスは、たとえそれが 12月25日かどうかはわからなくても、聖書の基本的なメッセージを理解する大切な機会だと思います。そしてそのイエスのメッセージは、次の言葉で始まります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (マルコによる福音書1章15節(新共同訳))

ヨハネ黙示録は伝統的には、イエスの12弟子の一人でヤコブの兄弟として記されているゼベダイの子ヨハネといわれています。これについても、議論はあるようです。いままでこのような著者に関する議論をさけてきました。ここでも深入りしませんが、個人的には、特別な古文書が多量に発見されない限り、科学的な方法で著者を確定するのは難しいと考えています。わたしはこのことに関しては全くのしろうとですが、新約聖書の最後にきているので、感じていることを書いておきます。「科学的な方法で著者を確定するのはとても難しい」と私が書く理由は以下の通りです。それは、1世紀から2世紀初めにかけての聖書の背景を示す文書が聖書以外に少ないこと、かつ迫害期もあり、ひとつの文書の完成に時間がかかった場合もあるだろうこと、そして、さらに大きな理由として、当時の習慣として筆記者が介在したことが多いと推察され、また筆記者の関わり方も様々なようで、どこまで実際に語った人の言葉や文体が残っているか判断が難しいこと、最初から最後まで一回で語ったものかどうかも不明であること、さらに複雑なのは、語った言語がギリシャ語なのか、ヘブル語やアラム語なのか不明であること、語った人のギリシャ語レベルがどの程度であったかも不明であること、筆記した人にどの程度の権威があったか不明で、最終的な筆記が、語った人の生前であったか死後であったかも関わってくると思われるからです。ある程度英語が読み書きできるみなさんが、日本語で語り、それをより英語が上手な人が筆記したとします。どのようなことが起きるでしょうか。なかなか難しい状況です。議論をさけたのは、そのような理由です。わたしが数学を専門とする者であることも関係しているかも知れません。数学でいう論拠と、聖書学者の論拠とは性格が違うということでしょうか。べつに批判的な意味合いで書いているわけではありませんが。

このヨハネの黙示録には新共同訳で5回著者としてヨハネの名前が出てきます。

  1. 1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
  2. 1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
  3. 1:4,5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
  4. 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
  5. 22:8 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。
宛先は、上の 1:4,5 にあるようにアジア州にある七つの教会で、1:11 によると
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ
となっています。今のトルコ西部の七つの町で、エフェソはその州都でいちばん大きな町です。そして最初の部分は、この七つの教会へのメッセージの形式になっています。黙示文学ともよばれ、神の啓示を述べたものとされています。ヨハネ黙示録は、特に、世の終わりに向けた神の意思を伝えるものと考えてよいと思います。

ヨハネの黙示録 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(山口昇)を引用しておきます。

  1. 序言 1:1-8
    1. 表題 1:1-3
    2. あいさつ 1:4-8
  2. 七つの教会への手紙 1:9-3:22
    1. 手紙を書けとの命令 1:9-11
    2. 人の子のような方の幻 1:12-20
    3. 七つの教会への手紙 2:1-3:22
      1. エペソの教会への手紙 2:1-7
      2. スミルナの教会への手紙 2:8-11
      3. ペルガモの教会への手紙 2:12-17
      4. テアテラの教会への手紙 2:18-29
      5. サルデスの教会への手紙 3:1-6
      6. フィラデルフィヤの教会への手紙 3:7-13
      7. ラオデキヤの教会への手紙 3:14-22
  3. 天の幻 4:1-5:14
    1. 父なる神の幻 4:1-11
    2. 子羊の幻 5:1-14
  4. 七つの封印の幻 6:1-8:6
    1. 第一の封印 6:1-2
    2. 第二の封印 6:3-4
    3. 第三の封印 6:5-6
    4. 第四の封印 6:7-8
    5. 第五の封印 6:9-11
    6. 第六の封印 6:12-17
    7. 十四万四千人の幻 7:1-17
      1. 十四万四千人の幻 7:1-8
      2. 天における大群衆の幻 7:9-17
    8. 第七の封印 8:1-6
  5. 七つのラッパの幻 8:7-11:19
    1. 第一のラッパ 8:7
    2. 第二のラッパ 8:8-9
    3. 第三のラッパ 8:10-11
    4. 第四のラッパ 8:12
    5. わしの幻 8:13
    6. 第五のラッパ 8:1-12
    7. 第六のラッパ 9:13-21
    8. 小さな巻物の幻 10:1-11
    9. 二人の証人の幻 11:1-14
    10. 第七のラッパ 11:15-19
  6. 中間的挿景 12:1-14:20
    1. 女と竜 12:1-18
    2. 海から上ってきた獣 13:1-10
    3. 地から上ってきた獣 13:11-18
    4. 子羊と十四万四千人 14:1-5
    5. 審判の告知 14:6-20
  7. 七つの鉢のさばき 15:1-16:21
    1. 天における準備 15:1-8
    2. 七つの鉢によるさばき 16:1-21
  8. バビロンの滅亡 17:1-18:24
    1. 大淫婦に対する裁きの宣告 17:1-18
      1. 大淫婦の姿 17:1-6
      2. 大淫婦と獣の秘儀 17:7-14
      3. 大淫婦に対するさばき 17:15-18
    2. バビロンの滅亡 18:1-24
      1. バビロン滅亡の宣告 18:1-8
      2. バビロン滅亡の嘆き 18:9-24
  9. 最後の審判 19:1-20:15
    1. 天における勝利の賛美 19:1-5
    2. 子羊の婚園 19:6-10
    3. 王の王の勝利 19:11-21
    4. 先年王国の到来 20:1-6
    5. 最後の戦い 20:7-10
    6. 最後の審判 20:11-15
  10. 新天新地 21:1-22:5
    1. 新天新地 21:1-8
    2. 新しいエルサレム 21:9-22:5
  11. 結語 22:6-21
    1. 御使いのことば 22:6-11
    2. キリストのことば 22:12-16
    3. 御霊と花嫁のことば 22:17
    4. ヨハネのことば 22:18-21

ヨハネの黙示録(2)

ヨハネの黙示録の最初の3章はローマ帝国のアジア州(現在のトルコの西部)の七つの教会へのメッセージになっています。それらの町について次の箇所に書かれています。
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」(ヨハネの黙示録1章11節(新共同訳))
2章からそれぞれの町の教会に具体的なメッセージが書かれていますが、とても興味深いですよ。ひとつひとつの教会について良いことと悪いこと、賞賛と叱責が書かれています。当時の教会にも様々な問題があったことを想像するとともに、現代に対しても励ましと警告を与えているように思います。それぞれのメッセージは皆さんが読み取って下さい。おそらく、一人一人によって、印象的な箇所が異なるでしょう。

このヨハネの黙示録が書かれた年代は明確ではありませんが、1世紀であってもかなり遅い時期でしょうから、すでに70年にエルサレムはローマ軍により破壊され、キリスト教会も、エルサレムから中心を移したと思われます。その中心の(少なくとも一つ)がエフェソ(アジア州の州都)を中心とした、アジアの諸教会です。使徒言行録によると、パウロの二回目の伝道旅行のときに、はじめてこの地域の伝道をしています。この時期には、キリスト教会の中心となる人たちの多くがこの地域にいたと思われます。

4章からは幻が記されています。みなさんはどのように読まれるでしょうか。なかなか難しい箇所で、正直わたしにもよく分かりません。難しいのは、実際の歴史とどの程度関連づけて理解するか、他の言い方をすると、神の国に関してこれから起こることを、われわれのタイムラインにそって理解して良いのかが分からないと言うことです。無理して具体的な事象と対応づけをして解釈しないほうがよいのでしょう。最後に「新天新地」について21章に書かれていますから、その冒頭を引用します。

1: わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
2: 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
3: そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
4: 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
5: すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
6: また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
7: 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
8: しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
これがヨハネが見た「新天新地」の幻です。地上のエルサレムは破壊されてしまいましたが、霊的なエルサレムを見ていますが、それは、何と人の間にあると言うのです。アルファとオメガは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後です。これが歴史上のある時を意味しているのか、それとも、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17) といわれた意味での神様の支配のもとにある世界を表現し、今でも、その一部を体験できるものなのか、皆さんも考えてみてください。

ヨハネの黙示録(3)

ヨハネの黙示録の最初1章1節から5節を引用してみましょう。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。
1:イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
2:ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
3:この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
4,5:ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
6:わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
「すぐにでも起こるはずのこと」が、神、キリスト、天使を経由して、神の僕のヨハネに伝えられたと書かれています。そして、宛先は「アジア州にある七つの教会」です。七つの教会の名前は11節に記されています。20節には
あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
とあります。教会の天使が何を表しているのかはよく分かりませんが、天に輝いているものとしての星と、地でほの暗いけれども、暗闇を照らしている灯火としての教会が対応しているというのは、暗示的です。今回は、七つの教会に対する最初の節を一つずつ見てみましょう。
エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。(2章1節)

スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。(2章8節)

ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。(2章12節)

ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。(2章18節)

サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。(3章1節)

フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。(3章7節)

ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。(3章14節)

みな、それぞれの教会にではなく、教会の天使に書き送っていますね。また神の子と出てきますから、イエス・キリストをこのように表しているようです。「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」とありましたから、ヨハネはキリストの声を天使を通して聞いているのでしょう。しかし、ヨハネからのメッセージではなく、キリストから、ヨハネへのメッセージと同じように、キリストから、キリストの使者としての天使を通して、教会に伝えられているのでしょう。さて一つ一つはどのような意味があるのでしょうか。これらキリストについて表現していることと、それぞれの教会の天使に書き送ったメッセージとは関連しているのでしょうか。少しゆっくり、ていねいに読んでみることができると良いですね。

これら7つの教会の場所を確認したい方は、下のリンクの地図をご覧になることをお勧めします。

http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/127.jpg
この地図は127となっていますが、このサイトには、本当に聖書に関連した地図が本当にたくさんおいてあります。 この BRC のホームページのリンクにも載せてある Bible Atlas です。英語ですが、参考になると思いますよ。


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聖書通読ノート

BRC2023(1)

Revelation 1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。
背景としては「時が迫っている」という意識が強かったのだろう。「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。」(1)とあり「私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(9)と著者をヨハネに帰している。ヨハネがこのように書くことはまずないと思うが。しかし、最後の使徒ともいえるヨハネの名でこの文書をだすことは、重要だったのだろう。時代的なもの、それも、私には、よくは見えない。
Revelation 2:2-4 「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪しき者たちに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者たちを試し、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のゆえに忍び、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。
7つの教会、この章では、エフェソ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラと四つの教会に対して書いている。最初にエフェソについて書いているが、わたしの知る知識では、ヨハネが長く居た街であり、キリスト教の小アジアの一つの中心地でもあったと思われる。最初に書かれていることも、それを表しているかもしれない。「初めの愛を離れてしまった」はなにを意味しているのだろうか。教会が大きくなって、純粋に熱心に求めることは、あまりなくなったということだろうか。「それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改めないなら、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。」(5)を見ると、もうすこし深刻なようにも感じる。背景がわからないと、理解もできない。まして、解釈をして、自らに当てはめることは難しいように思う。
Revelation 3:1-3 サルディスにある教会の天使に、こう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星を持つ方が、こう言われる。「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死に瀕している残りの生活を立て直せ。私は、あなたの行いを、私の神の前で完全なものとは認めないからである。それゆえ、どのように教えを受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように来る。私がいつあなたのもとに来るか、あなたには決して分からない。
この章には、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに当てられた部分が書かれている。しかし、このサルディスについては厳しい。このあとを読むと、少しは、残りのものがいるようだが、危機的な状態だったようである。最後は、目を覚ましていなさいとしている。実際、どのような状態だったかは、想像するしかできない。それは、そこに実際のひとがいるのだから、危険でもある。相手を知らずに、判断するのは、大きな問題である。この著者は、それだけ、完璧に知っていたのだろうか。
Revelation 4:4 また、玉座の周りに二十四の座があり、それらの座には白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。
なぜ、二十四なのだろうか。この長老たちはなにを意味しているのだろうか。すくなくとも、この時代には、使徒はすでに亡くなり、それを受け継ぐ、長老たちが、教会を管理・指導していたのだろうとは思う。十二とすると、どうしても、使徒や、十二部族を考えてしまうので、それより多い数を書いているのかもしれない。それをもって、キリスト教会全体を表しているのだろう。詳細は不明だが。そのリーダーに語られ、リーダーが見るという形式なのだろうか。黙示録は、よく理解できないが、それでも、多少なりとも、理解してみたい。
Revelation 5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を解き、この巻物を開くことができる。」
イエスのことを言っていると思われるが、福音書によれば、ユダ族だということは、明らかではない。なにをもって、ユダ族とするのか。また、ダビデのひこばえ(蘖 - 樹木の切り株や根元から生えてくる若芽)も、イエスが、ダビデに結びつけられることを、極度に注意していたことを考えると、適切とは言えない。未来を覗きたい。神の計画を知りたいという欲求は十分理解できるが、それは、ひとの想いなのではないだろうか。イエスは、そのように、みこころを求めることを願われなかったのではないだろうか。
Revelation 6:6 私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。「小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油とぶどう酒を損なってはならない。」
この章では、七つの封印のうち六個が解かれ、四つのいきものと、白、赤、黒、青白い馬が、それぞれの役目を果たす。第三の封印の最後に引用句がある。コイニクスは、聖書巻末の注によると、1.1リットルとある。しかし、これが、高いのか、安いのかもよく分からない。大麦の方が、安いことは確かで、感覚的には、すこし安いのだろうか。いずれにしても、残虐な役目が果たされる。それを、知らせることがみこころなのだろうか。わたしには、そうは思えない。
Revelation 7:10 彼らは声高らかに言った。/「救いは、玉座におられる私たちの神と/小羊にある。」
「私は、刻印を押された人々の数を聞いた。それはイスラエルの子らの全部族の中から刻印を押された人々であり、十四万四千人であった。」(4)この刻印をおされた十四万四千人の宣言である。信仰告白なのだろう。ただ、このように、声高らかに言うことが、信仰なのだろうかと、思う。福音書のイエスの行動をみていると、まさに、神の国は近いことを、見て取る、その、神様に信頼することのように思われるから。しかし、それは、わかりにくいのだろう。このような信仰告白のほうが、通じやすいことも確かである。
Revelation 8:3-5 また、もう一人の天使が来て、金の香炉を手に持って祭壇のそばに立ち、たくさんの香を受け取った。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇の上に献げるためである。香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に天使の手から神の前に立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷鳴、轟音、稲妻、地震が起こった。
「小羊が第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた。」(1)と始まる。ここに、聖なる者たちの祈りと香が登場するが、そこで起こることは、悲惨な災厄ばかりである。なにを伝えようとしているのだろうか。十分、考えられているのだろうか。わたしには、わからない。祈りへの応答として、災厄があることが言われているのだろうか。悲しい。
Revelation 9:20,21 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった。
黙示文学に精通した記者がキリスト者の中にいたのだろう。そして、それが、聖書に含まれたと言うことだろう。聖書が誤りなき神のことばとして、信仰の唯一の基準とされたのは、それよりも、ずっと後だから、いろいろな乖離が起こっているのだろうとも思った。災厄が続いている。イエスは、気をつけていなさいとは言われたが、神の国は近いというメッセージからは、ここに書いてあることは非常に遠いと感じさせられる。
Revelation 10:2,3 手には開かれた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫ぶと、七つの雷がそれぞれの声で語った。
御心を知りたい。それを受け取りたい。それは自然な欲求だろう。ただ、問題は、それを受け取ったとしてしまうことのように思う。自分は、その巻物を持っている。そう宣言した途端、求めなくなってしまう。謙虚に、神の自立性を犯さず、ひととして、誠実にみこころを求め続けながら生きて行きたい。
Revelation 11:18 諸国の民は怒り狂い/あなたも怒りを現されました。/死者の裁かれる時が来ました。/あなたの僕である預言者、聖なる者/あなたの名を畏れる者には/小さな者にも大きな者にも/報いが与えられ/地を滅ぼす者たちが/滅ぼされる時が来ました。」
滅びが宣言されている。おそらく、当時は、それを待ち望む人たちが多かったのだろう。いつまで、耐えなければならないのだろうと。しかし、それが、御心なのかどうかは不明である。黙示録を記録した人は、これこそ御心だと信じて書き残したのだろうが。
Revelation 12:9 この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
悪魔、神の支配に抗うものだろうか、の存在はリアルなものなのだろう。それをどう解釈するかは、さまざまである。ここでは、巨大な竜として描き、もともとは、天上にいたが、それが、地上に投げ落とされて地上にきたとされている。御心が天で行われるように、地でもとの祈りが背後にあるように思う。しかし、それを、具体的に描写するごとに、本質から離れていってしまうようにも思う。
Revelation 13:7,8 獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。
これも、当時の人たちへのメッセージなのだろう。聖なるものたちも勝つことができないことがある。それも、ご計画の一部で、獣の仕業。それを、聖なるもの以外は、拝む。その獣自体も、特定の人を意味していると言う説さえある。当時のひとたちは、これらの言葉によって、励まされたのだろうか。そして、現代でも、そのように苦しんでいる人がいるのだろうか。それを知らずに批判はできない。
Revelation 14:11-13 その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、誰でも、獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
このような対照を示すことによって、苦しい時を過ごしている信徒を励ましているのだろう。労苦を解かれて安らぎを得る。死は、いまよりも、ずっと近くにあった時代、これは、感謝だったかもしれない。
Revelation 15:6-8 そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。彼らは清く輝く亜麻の衣を身にまとい、胸に金の帯を締めていた。そして、四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。
災いにつぐ災い。これがなかなか終わらない。災いに対する忍耐を説いているように見える。時代性だろうか。簡単に、平和を説くことはできない。しかし、すべて受動的にみえることも、気になる。自分たちがなにをすべきかなど、考えられない時代だったのかもしれない。現代は、人間の責任がどんどん、増してきているように見える。
Revelation 16:15 ――見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――
なにか、ちょっと奇異なことが書かれている。目を覚ましているようにと言う部分は理解できるが。この章では、七人の天使が鉢の中身を注ぎ、災厄が起こることが書かれている。受け身以外、なにもできなかった。その状況での、信仰なのだろう。現代では、災厄のある部分は、人間が自ら起こしたものと思われ、その影響の方が、大きくなってきているように見える中で、行動責任が一人一人のレベルで問われているように見える。それが、黙示録の時代との大きな差異のように見える。本質は、変わらないのかもしれないが。
Revelation 17:12-14 また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、一時の間、獣と共に王のような権威を受けるであろう。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣に与える。この者どもは小羊と戦うが、小羊は彼らに勝利する。小羊は主の主、王の王であり、小羊と共にいる者たちは召された者、選ばれた者、忠実な者だからである。」
最後は、小羊が勝利することが書かれている。しかし、それまでの間に、どれだけのひとたちが、苦しみ、なにもできず、それを受け入れて、死んでいかなければならないのだろうか。そのなかで、ひとは、どのように生きることが神様の御心なのだろうか。そのことを伝えることこそが重要なはずである。それは、黙示録には、ほとんど、出てこないように見える。
Revelation 18:2,3 天使は力強い声で叫んだ。/「倒れた。大バビロンが倒れた。/そこは悪霊どもの住みか/あらゆる汚れた霊の巣窟/あらゆる汚れた鳥の巣窟/あらゆる汚れた忌むべき獣の巣窟となった。すべての国の民が/情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み/地上の王たちは、彼女と淫らなことをし/地上の商人たちは、彼女の度を超えた贅沢により/富を築いたからである。」
黙示録も最後に近づいてきたと感じる。「大バビロンが倒れた」とあり、そのあとに、理由が書かれている。最初には、悪霊、汚れた霊、汚れた鳥、汚れた忌むべき獣とある。これらが、神の支配、地上で御心がなることの阻止しようとする勢力と言うことなのだろう。おそらく、地上で御心がなる勢力を表現するのが、これらなのだろう。その理解のもとで、聖書を読むことはたいせつなように思う。
Revelation 19:1,2 その後、私は、大群衆のどよめきのようなものが、天でこう言うのを聞いた。/「ハレルヤ。/救いと栄光と力は、私たちの神のもの。その裁きは真実で正しい。/神は、淫らな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き/僕たちの流した血の復讐を/彼女になさったからである。」
違和感を感じる。神の御心に抗うものを、擬人化しているからか。この場合は、大淫婦となっている。まず女性とされている。そして、淫婦ということばからうけるイメージも、特定の人たちを指し、その人たちの困難の背後にあるものについて考えてしまうからである。悪霊として、聖霊の働きに抗うものとするのは良いとして、ひとの世界は、複雑である。歓迎しにくいひとをどのように愛すれば良いか。それこそが神様から人間に与えられた課題ではないのか。
Revelation 20:12 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
因果応報。ひとは、これを最初は求める。しかし、問題も生じる。まずは、自分も潔癖ではないと言うこと。これは、自分も罪人であるという自覚、さらには、原罪へとつながる。さらに、その一つ一つの罪を見ていると、実際には、非常に複雑で、背後に、弱さや、社会的背景もあることに気づく。それは、あきらめへともつながる。次に求めるのは、万人救済かもしれない。しかし、救いを示されると、それは求めないということも生じる。本当に難しい。この章の最後には、「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(14,15)とあるが、ほんとうに、これが素晴らしいことなのか、正直、途方にくれる。
Revelation 21:4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
涙を拭い去るとは、悲しみが忘れられると言うことだろうか。または、悲しみがよろこびに変わると言うことだろうか。美しい表現ではあるが、人は、新しい天と新しい地(1)について知り得ないのではないかと思った。そして、神も、それをみることに躊躇があるのではないかと思う。やり直せば良いと言うものではないのだから。人は、分断ではなく、互いに愛し合うことによって、御心を行うことができるようになるのだろうか。いったん、造り替えなければいけないのだろうか。考えさせられる。
Revelation 22:14,15 命の木にあずかる権利を与えられ、門を通って都に入ることができるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬ども、魔術を行う者、淫らな行いをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、都の外に置かれる。
これは、分断である。確かに、結果として、そうなることは、避けられない。しかし、その中でも、希望を捨てず互いに愛し合うことを求めるのではないだろうか。わたしは、これからも、希望を捨ず、そのような世界を求め続けていきたい。

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過去の聖書ノート

BRC2021(1)

Revelation 1:17 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、
この「人の子のような方」はイエスだと言われており、このあとの記述と、キリスト教会のイエス・キリストの認識からは、それは正しいだろう。ただ、著者はヨハネではないことをも、明らかにしていると思う。ヨハネなら、イエスかどうかがすぐに分かったはずである。そして、それを証ししただろう。ヨハネによる福音書における記述とは異なるように思う。ただ、この点も、反論するひともいるだろう。9節にヨハネとあるのだからそれを信ずべきだと。ヨハネによる福音書のヨハネはヨハネであることがほぼ確実であるにも関わらず、自らを明かさない。この章の書き方とは明らかに異なる。しかし、キリスト教会の生み出した文書としては、当時を表す重要な文書なのだろうとも思う。
Revelation 2:24 しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。
ティアティラの人たちへの部分は全くわからない。イゼベルは何を意味するのか。アハブの后の名をつかって象徴的に描いているのだろうが、内容はまったくわからない。何らかの分派を意味しているのか、少なくとも、ティアティラの中で「自ら預言者と称して、私の僕たちを教え、また惑わして、淫らなことを行わせ、偶像に献げた肉を食べさせている。」(20)としており、異なる儀式をおこなっているように思われる。わかりやすくかいていないことも、黙示文学の問題点であると思う。
Revelation 3:21,22 勝利を得る者を、私の座に共に着かせよう。私が勝利し、私の父と共に玉座に着いたのと同じように。耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
7つの教会へのメッセージの最後のことばである。今回、教会の一員の気持ちで読んでみた。しかし、残念ながらあまり響かなかった。具体的な課題がよく見えないからもあるだろうが(時代背景から明確には書けず隠されているとも言われている)教会の課題を個人の課題として受け取ることがさらに難しかった。それぞれの教会を評価する形式だからだろうが。4章からは黙示の部分にはいり、ますます理解困難になるが、当時の人達は、なにを考えたのだろうか。現実の苦しさ、それがなかなか改善しないなかでの希望を持てただろうか。よくわからない。引用句の前の節は有名である。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」(20)これは、個人にむけて語られているようにも見える。信仰の基本は、個人の応答なのだろうか。7つの教会へのメッセージとの関係を、正直読み取れない。
Revelation 4:5 玉座からは、稲妻、轟音、雷鳴が起こった。また、玉座の前には、七つの松明が燃えていた。これは神の七つの霊である。
「七」は「七つの松明」「七つの霊」以外にも、このあとも「七つの封印」(5:1,5など)「七つの角と七つの目」(5:6)「七つのラッパ」(8:2など)「七人の天使」(8:2など)「七つの雷」(10:3など)などなどたくさん現れる。しかし「あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、その秘められた意味はこうだ。すなわち、七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」(1:20)などをみると、七つの教会も、象徴的な意味が強く、具体的な名前が付されているが、それにこだわるのは問題があるのだろうとも思う。同時に、このような光景が幻影として目の前に映し出されたら、書かざるを得なかったのかもしれないとも思った。エゼキエル書も似た状況があるのだろうが、特異な精神状態であるとともに、それも、神に愛されたひとりのひとを通して語られるメッセージとして、しっかりと聞き、うけとることが求められているのだろうとも思った。黙示録は理解できないために、どうしても、素直に読めないが、記者からのメッセージはしっかり受け取りたいと思う。
Revelation 5:12 天使は大声でこう言った。/「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
この章を読んでいて、わたしは、このような賛美の心が欠如していることに気付かされた。イエス様を慕い、イエス様のように生きたいと願い、おそらく、イエス様を通して、神様は、わたしのようなものをも愛してくださっていると信じ、それは、私だけではなく、わたしの隣人も、そしておそらく、神様が造られたすべてのひとを愛しておられると信じている。しかし、賛美歌は好きだが、イエス様をこころから賛美したいと思って賛美してはいない。よくわからない。少なくとも、「力、富、知恵、権威/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方」とは思っていないと思う。それを望むかたではないように思うから。賛美も、イエス様の望まれるように、神様の御心を求めて生きることこそが、賛美だと考えているからだろうか。これからも、考えてみたい。
Revelation 6:10,11 彼らは大声でこう叫んだ。「聖なるまことの主よ、あなたはいつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、「あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と告げられた。
わたしは、黙示録がよく理解し得なかったが、背景にこのような叫びがあるのかもしれないと思った。この前には「そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は『死』と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。」(8)とあり、これが小羊の権威のもとに行われていることが書かれている(7)。現在の、苦しさの意味を問い、さばきを求めるなかで、大きな枠組みの中での幻が示されていったということだろう。それは、将来について預言というより、現在の苦しみの中にいるひとたちに対する、癒やしと励ましなのかもしれない。「あなたのことを教えて下さい」と記者に問いながら、これからも謙虚に、読んでいきたい。
Revelation 7:13,14 すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
「この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。」(9)十二部族からの十四万四千人の次に現れる人たちである。殉教とは書かれていないが、やはり「苦難をくぐり抜け」とされている。最初の十二部族については、そのような理解が当時あったのだろう。このリストでは、ユダ、レビ、ベニヤミンの三部族以外はほとんど不明だったと思うが。そして「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである。」(16,17)と締めくくられている。このような読者にむけて書かれているのだろう。そして、そのような苦難の中にいる人たちを励ますことが、この書の目的だったように思う。どこまで意識していたかは不明だが、それがこのような書として残され、聖書の一巻となったことは、理解できるように思う。
Revelation 8:13 また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのを私は聞いた。「災いあれ、災いあれ、災いあれ、地に住む者たちに。なおも三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」
この章には第一の天使から第四の天使までがもたらされる災厄について書かれている。前の章の最後の言葉があり、それから「小羊が第七の封印を解いた」(1)とある。平安を得たあとに、時系列的には、本当に後かどうかは不明だが、災厄が書かれている。他方では、これだけのものが用意されていることを伝えているのだろう。単に、いまは、災厄の中にいるとは言わない。ある配慮もここにあるように、今回読んでいて感じた。黙示録については、すこし違った読み方が、今回できているように思う。
Revelation 9:20 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。
様々な激烈な災害が書かれた後にこのように書かれている。読者は、現実の世界と照らし合わせて、理解しただろう。しかし、ある距離をおいて。最後のときは、また来ない。それまでをどう耐え忍ぶかがこの背後にあることのように思う。そして、神ではないものを神とすることがその特徴として書かれている。現代ではどうだろうか。そのとおりとも言えるし、わからないとも言える。神からのものかを判断することは、それほど簡単ではないからだろう。当時の人達は、ここからなにを受け取っていたのだろうか。
Revelation 10:7 第七の天使がラッパを吹き鳴らすとき、神の秘義が成就する。それは、神がご自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」
「神の秘儀」はよくわからないが、わたしが求めているのは、それなのかもしれない。しかし、すでに、預言者など旧・新約聖書を通して、啓示されているとは、確信していない。預言者なども、わたしと同じ信仰者と考えているからだろう。すでに、キリスト教の信仰から離れてしまっているかもしれないが、正直な気持ちである。啓示といわれるものをそのままは、受け入れられない。自分が生き、他の人が生きた歴史を見ながら、その本来の意味を考えようとしている。信じていないわけではないと思う。これからも、謙虚に探求者として、真理を神の秘儀を探しもとめていきたい。
Revelation 11:18 諸国の民は怒り狂い/あなたも怒りを現されました。/死者の裁かれる時が来ました。/あなたの僕である預言者、聖なる者/あなたの名を畏れる者には/小さな者にも大きな者にも/報いが与えられ/地を滅ぼす者たちが/滅ぼされる時が来ました。」
第七の天使が「この世の国は、私たちの主と/そのメシアのものとなった。/主は世々限りなく支配される。」(15)と宣言して起こることとして、引用句がまとめられている。裁きと報いである。これが、記者や当時の人が望んでいたことなのだろうか。イエスが説いた「神の国は近い」というメッセージとは、遠いように思ってしまう。同時に、イエスのメッセージを丁寧にうけとるのは、難しかったのだろうとも思う。むろん、わたしも、イエスの伝えようとしたことを受け取っているかは不明であるが。しかし、引用句のような「報い」は残念であるとは、思う。
Revelation 12:10 そして私は、天で大きな声がこう語るのを聞いた。/「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。/神のメシアの権威が現れた。/我々のきょうだいたちを告発する者/我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が/投げ落とされたからである。
天でのミカエルと竜との戦いのあとの光景である。(7-9)地上に落とされてはこまるとまずは思ってしまうが、たいせつなメッセージはこの竜は「我々のきょうだいたちを告発する者/我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者」だと言うことなのだろう。しかし、正確に、これが何を意味しているのかは不明である。ついヨブ記を思い出してしまうが、もっと、一般的なことなのだろう。きょうだいたちとあるので、単純にあら捜しをして、すべての人を裁きのもとに置くということではないのだろう。信仰者の問題点・課題と考えると、すこし、内容が見えてくるが、そこまでは、考えていないかもしれない。しかし、興味深い観点である。
Revelation 13:17 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
このあとには「ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。」(18)と続き、ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)を指すと言われている。たしかに、この箇所は当時の具体的な人物を描いているように読める。しかし、引用句の背景には「地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。」(8)のような二分法がある。ほんとうに、そのような単純化を神様はしておられるのだろうか。わたしには、苦しみの中にいる人に力と安心を与えるための技術であるように思われる。それを、冷笑することも、適切ではないだろう。分断を避けるためにも。現代は、より複雑になっている。「屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者」と思われるひとたちの貢献や、愛の行為が優っていることも頻繁に見られる。学ぶべきこと、考えるべきことは多い。
Revelation 14:13 また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
直前には「ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。」(12)ともあり、具体的な苦難の中にいる人たちを励ましているように見える。そして、引用句の後には、収穫とさばきが続く。それだけ、苦しいときが続いていたのかもしれない。わたしのような、その苦難の中にいないものが、批判的なことばを語ることは、できないように思う。その苦しさのなかで絞り出したことば、それに、共に生きる人たちのこころや思いものせているのかもしれない。
Revelation 15:1 また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである。
引用句に引き続き「獣とその像とその名の数字とに勝った者たちが、神の竪琴を手に」(2b)「神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌った。」(3a)とある。内容は短く、賛美である。モーセの歌とあるのは、興味深い。「あなたの道は正しく、かつ真実です。」(3b)と、正しさを主張するものか。さらに「あなたの正しい裁きが/明らかにされたからです。」(4b)として終わっている。なぜこれが「小羊の歌」なのかはわからない。キリストが、すべての裁きに関係しているということだろうか。このあと「四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。」(7b)とある。伝えたいメッセージはわかるように思うが、本当に、これが、神様の御心を代表するものなのかは、わからない。当時のひとたちは、このような信仰を持っていたのだろうか。置かれている状況が違うので、安易に判断はできないが、その困難をいくら想像してみても、どうしても距離を感じてしまう。
Revelation 16:21 一タラントンほどの重さもある大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々はその雹の災いのゆえに神を冒瀆した。被害があまりにも大きかったからである。
第一の天使から第七の天使までがもたらす最後は、神の冒涜で終わっている。自業自得だと言いたいのかもしれないが、本当に、これが神様が望んでおられることなのだろうかと思う。現代でも、神義論の問を別にしても、一般的に神を呪うことはあるだろう。自分の置かれた状況、この世に起こっている悲惨さ、愛するものの喪失など。この裁きの背景には、このようなひとつひとつのことがあるはずである。それが、ある正しさを主張するため、そして、当時のひとたちの苦しみを和らげるために、用いられても良いのだろうか。神の痛みを痛みとすることは理解できるが、このように、自分たちの痛みの、憂さ晴らしを神に委ねているような記述は、やはり受け入れがたいように思う。引き続き、丁寧に読んでいきたい。
Revelation 17:9,10 ここに、知恵のある理解が必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことであり、また、七人の王のことである。五人はすでに倒れたが、一人は今、王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるべき期間は僅かである。
「一人は今、王の位についている」とあり、また「ここに、知恵のある理解が必要である」とある以上、象徴的にこの世の終わりを描いているわけではないようである。すると、大淫婦の表現など、当時の女性のイメージや、そのようなものが悪の背後にあるという理解など、気になってくる。具体的に理解する人もいるが、あまり、深入りしないほうがよいとも思う。当時のひとたちと、信仰を持ってつながるために。小羊の勝利が宣言されている。(14)ということは、キリスト者が、敗北者のように、痛めつけられていた現実があったのかもしれない。同時に、黙示録とは違う見方をしていた人も、キリスト者の中にいたかもしれない。冷静に丁寧に読んでいきたい。
Revelation 18:21 すると、一人の力ある天使が、大きな挽き臼のような石を取り、海に投げ込んで、こう言った。/「大いなる都バビロンは/このように荒々しく投げ捨てられ/消えうせる。
「大いなる都バビロン」を悪の象徴とし、その滅びを表現している。「彼女(大淫婦・バビロン(17:18))と淫らなことをし、贅沢をほしいままにした地上の王たち」(9)や「地上の商人たち」(11)の嘆き悲しみが書かれている。この人達が、大淫婦に従い、聖なる者たちをしえたげていたと見ているようである。たしかに、この世の価値観の権化という意味では、現代からも想像ができるが、単純化は、むろん、問題も孕(はら)み、イエスの教えから離れていってしまうようにも思われる。しかし、これが、黙示録記者が、人々に仕え、励まそうとしたことなのだろう。単純に批判的に読むことはできない。
Revelation 19:1,2 その後、私は、大群衆のどよめきのようなものが、天でこう言うのを聞いた。/「ハレルヤ。/救いと栄光と力は、私たちの神のもの。その裁きは真実で正しい。/神は、淫らな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き/僕たちの流した血の復讐を/彼女になさったからである。」
わたしが、理解できない、裁きと賛美である。特に17-21には、読みたくもない裁きが書かれている。そして、引用句では、そのような裁きが賛美されている。本当に、神は、それを望んでおられるのだろうか。滅びが存在し、そのような状態になるひとがいたとしても、神はそれを悲しみ、その状態を苦しまれておられるのではないだろうか。主イエスは、まさに、内臓が引き裂かれるように、その状態を憐れみ、悲しんでおられるのではないだろうか。そして、神の国・支配を求める。すべてのひとに平安を。宗教には、信じるものとそうでないものを分け、分離し、正しさによってさばくことを重要な要素とする面がある。それを全く否定はできないが、わたしは、それを求めてはいない。普遍的な、すべてのひとの救いを求めているからか。安易にそれが実現するとは思っていない。しかし、限られた力の人間が、望むのは、求める方向は、そちらではないのだろうか。
Revelation 20:2,3 この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになっている。
この章を見ていると、千年の後、竜はしばらくの間解き放たれるが、それは、さばきを受けるためのように見える。殉教をしたものが栄誉を受け、彼らを迫害したものは、地獄の火にさいなまれる。それが、黙示録記者や、その周囲の人たちの望んだことなのかもしれない。いまの世で、わたしは、それを望んでいない。それは、歴史を通して、人が、神について学んだ結果なのか、単なる、状況の変化か。このひとたちとコミュニケーションができないものではありたくない。相互理解を育むことはできるのだろうか。わたしが、まずは、動かないといけないように思うが、どうしたら良いのか、正直よくわからない。黙示録はそして黙示録記者とその周囲の人達、いつか、わたしは、これらの人々、このような考え方と、和解できるのだろうか。今の世に生きている、黙示録を支持し、このような考えを持っている人ともっと語ってみたい。
Revelation 21:3,4 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
わたしは常々、現状には課題がたくさんあり、どうにかしなければと思う一方、どうなればよいかはわからないと考えている。ここでは、黙示録記者がその最終的な幸いな姿を描いている。神が人と共に住む。まさに、神の国が来た状態なのだろう。しかし、そのあとに「もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。」とある。わたしは、悲しみや嘆きや痛みこそが、その人を他者と区別するものであり、尊厳を形成しているものだと考えている。これに、喜びも加わるだろうが。そして、おそらく、死は、その尊厳に付随するものではないかと考えている。悲しみや嘆きや痛み、そして死から逃れたいということが根本にあり、それが恐怖となり、尊厳をもって生きることができない時代に書かれたのだろう。それをここでは「最初のものが過ぎ去った」と表現している。わたしにはやはり、課題は理解できても、そして目指す方向はすこし見えても、目的地は見えない。
Revelation 22:9 すると、天使は私に言った。「やめよ。私は、あなたや、あなたのきょうだいである預言者たちや、この書の言葉を守っている人たちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。」
ほとんど何の区切りもなく「見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。」(12,13)があり、「私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。」(16)となっている。天使が誰で、どこからどこまでが、イエスなのか不明である。イエスの天使なのだろうが。イエスが遣わした「人」(または「方」)から受け取ったことを記し、それを、イエスの言葉として書き記しているということだろうか。その区別こそ、たいせつだとわたしは考えるのだが、区別はできないものなのかもしれない。宗教の危うさでもある。それを、理解することはできないが、こころに置いて、聖書をこれからも、読んでいきたい。考えることが多かった、BRC2021での新約聖書の通読の一回目の終了である。

BRC2021(2)

Revelations 1:17,18 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。
「私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(9)と書かれているが、どう見ても、他のヨハネ文書との違いが際立って、受け入れられない。著者は別としても良いのだろうが、一応、もう少し考えてみたい。ヨハネだとすると、引用句から、イエスは、地上での生涯のときとは、完全に別人になっていることがわかる。それは、著者の態度からも明らかである。それは、天上でのイエスは、まったく違う形で、地上で生きられたことも意味する。ほんとうに、それで良いのだろうか。別人をどう受け入れるかは難しい。ヨハネでなければ、このようなイエスの位置づけはある程度理解できる。地上で生涯を送られたイエスのイメージを書き換えることは可能なのだから。
Revelations 2:4,5 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改めないなら、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
やりなおし。以前、魅力的に感じたこともある。しかし、反省はたいせつだとしても、もとには戻れないと、いまは思っている。それは、実際、忘れてしまっていて戻ることができないこと、そして、世界も、環境も、自分も、同じではないから。では、どうしたらよいのだろうか。おそらく、新たな出会いをするしかないように思う。前へ前へではないが、過去を反省しつつ、新たな一歩を踏み出していく、そのような日々でありたい。そのことの表現がこの箇所なのかもしれないと思った。
Revelations 3:2,3 目を覚ませ。死に瀕している残りの生活を立て直せ。私は、あなたの行いを、私の神の前で完全なものとは認めないからである。それゆえ、どのように教えを受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように来る。私がいつあなたのもとに来るか、あなたには決して分からない。
諸教会に心配が尽きなかったのだろう。ここでは、サルディスにある教会に対し「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(1b)とはじめている。それに続くのが引用句である。著者の思いは少しわかるが、どのように受け取っただろうかとおもってしまう。さまざまな教会を思い描いても、たしかに、問題・課題は山積しているのだろう。しかし、変われるか、それをどうしたらよいかは不明である。正直、わたしには、よくわからない。
Revelations 4:3,4 その座っている方は、碧玉や赤めのうのように見え、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。また、玉座の周りに二十四の座があり、それらの座には白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。
ひとは、「この後必ず起こること」(1)そして、神の玉座に興味がある。それを見たいと思う人もいるだろう。しかし、それは、神のプライバシーを侵すことでもある。神の自由を制限することとも言える。わたしたちが望むべきは、神の御心、なにを望んでおられるかだけであるように思う。ひとの欲望を抑え込むことだけでは、いけないかもしれないけれど。
Revelations 5:12 天使は大声でこう言った。/「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
ふさわしくとも、それをされるかどうかはわからない。イエスは、このことを望んでおられるのだろうか。そうであれば、地上での生活においても、そのことにも注力されたのではないのか。おそらく、ヨハネの黙示録が書かれた時代、このようなものを求める特別な背景があったのだろう。そのことの方をしっかりと学びたい。
Revelations 6:9,10 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「聖なるまことの主よ、あなたはいつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
ヨハネの黙示録執筆時には、実際にこのような叫びが多くあったのだろう。このあとに応答もある。「すると、彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた。」(11)これでは、いやされないだろう。しかし、何らかの応答は必要だったものと思われる。もしかすると、この黙示録自身がそのような目的のために書かれたのかもしれない。神に問うこと。それは、祈りでもあり、神との対話として、たいせつなのかもしれない。
Revelations 7:14 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
6章9節の「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」とは異なるが、このような「大きな苦難をくぐり抜け」た人々が溢れていたのだろう。そのような人たちに向けて、書かれたと考えてよいのかもしれない。苦難の解釈はいろいろとできるだろうから、自分もそこにいると思えることは、大切である。当時のひとたちとこころをあわせて、読んでいくことができればと思う。
Revelartions 8:1,2 小羊が第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた。そして私は、七人の天使が神の前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。
「大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くした」(7章14節)とある人たちに対するメッセージの直後にあるのが、引用句である。「七人の天使」が次々に災厄を下す。基本的には、平安までは遠いことを思い知らされる。これらの災厄の一つ一つから、考えることもあるのだろうが、このようなことばがどの程度力となるのかは、やはり正直不明である。しかし、それは、私に対してであり、信仰を奮い立たされたひともいるのかもしれない。
Revelartions 9:20,21 これらの災いに遭っても殺されずに生き残った人々は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木で造った、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝むことをやめなかった。また彼らは、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった。
三つの災いで、人間の三分の一が殺されたあとの記述である。イザヤの召命と似たものを感じる。しかし、違和感もある。わたしたちが求めることは何なのだろうか。
Revelartions 10:11 そして、私に語りかけるのを聞いた。「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて預言しなければならない。」
あまりにも単純すぎるかもしれないが、本当の終わりはなかなか来ないというのが印象である。第七の封印が解かれてから、七人の天使が出てくるが(8章1,2節)これは、終わりだと思うと、前章までで、第六の天使が登場、この章では、第七の天使とは言わず「もう一人の力強い天使」(1)と表現され、この章の最後は、引用句に至る。正直、内容には、あまり興味は持てない。難しい。
Revelartions 11:14,15 第二の災いは過ぎ去った。見よ、第三の災いがすぐにやって来る。さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、さまざまな大きな声が天に起こって、こう言った。/「この世の国は、私たちの主と/そのメシアのものとなった。/主は世々限りなく支配される。」
まだまだ災いは続くのだろうか。ここに、第七の天使が登場する、前章で登場した「もう一人の力強い天使」と同じだろうか。災いは続くが、メシアの支配のもとにあることが、引用句で語られている。災いとはなにを言っているのだろうか。「あなたの名を畏れる者には小さな者にも大きな者にも報いが与えられ地を滅ぼす者たちが滅ぼされるときが来ました」(18b)とあるが、なにか、気が遠くなってしまう。どのようなメッセージを伝えようとしているのだろう。
Revelartions 12:7,8 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
天とは、そのような場所なのだろうか。この前には、「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ち、生まれたら、その子を食い尽くそうとしていた。」(4)なども書かれている。天は、御心が行われる場所(マタイ6章10節)と思っていた。いろいろな見方が当時あったのだということだけ受け取っておこう。
Revelartions 13:2,3 私が見たこの獣は豹に似ていて、足は熊のようで、口は獅子のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。獣は頭の一つに死ぬほどの傷を受けたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。
正直、状況がよくわからない。また、この獣がどのように傷を受けたのかも不明である。いろいろと説明はできるかもしれないが、この物語自体が、ある説明なのかもしれない。なかなか集中して読めない。
Revelartions 14:3-5 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていた。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、誰も覚えることができなかった。この者たちは、女によって汚されたことがない。彼らは純潔だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがない。彼らは傷のない者である。
「この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。」には、魅力を感じるが、「女によって汚されたことがない。」には、抵抗があり、さらに、これは、男性だけが意識されていることも気になる。また、「十四万四千人」は当時の感覚でも、少なくはないが、特定の限定されたひとという感覚だろう。そのような、区切りをつけることにも問題を感じる。あとには「初穂として贖われたものたち」(4)ともあるが、やはり、違和感が残る。これが、異端とも言われる教派で、意味づけされることも含めて。
Revelartions 15:1 また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである。
これだけの災いにだれが耐ええようか。様々なことがまだまだあるよということは伝えていると思うが、正直、詳細に理解してもあまり意味がないようにも思ってしまう。当時のひとたちに、辛抱して待つことは教えているのかもしれないけれど。
Revelartions 16:2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地に注ぐと、獣の刻印を押されている者たち、また、獣の像を拝む者たちにひどい悪性の腫れ物ができた。
わたしが、ヨハネの黙示録になかなかなじめない理由を考えてみたい。一つは二分法。「額の刻印」神の名か、獣の名か。ひとは、自分自身の尊厳に関する不安がある。それから逃れるためには、権威のあるひとに、あなたは大丈夫、すでに救われていますと言ってほしい。そのような分け方自体を否定するものではないが、人間の弱さを、人間の思いで、克服しようとしているように感じてしまう。ほんとうにそれが神の思いなのだろうか。もう一つは将来に関する不安。特に、明日はどうなるかわからないという不安は、現代と比較すると、当時はとても強かったろう。いのちのはかなさである。これは、将来どうなっていくかということを知りたいという願望にもつながる。世の終わりについて知りたいと考えるのとも通じている。大きなものがたりは、キリスト教会でも、ときどき語られる。しかし、イエス様は、準備について、いまどのように生きるかについては言っておられるが、明確にすることによって、不安を和らげることはしておられないように思う。背景にひとの弱さにより、もとめることがある。神様がなにを望んでおられるかとは、かならずしも一致していないように思われるからだ。世界観が変わっていく中で、なにをたいせつにするかを、考えるべきときだとも感じている。
Revelartions 17:1,2 さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけた。「ここへ来なさい。大水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女と淫らなことをし、地上に住む人々は、彼女の淫行のぶどう酒に酔いしれている。」
そのように、世の中を見ることもできるかもしれないが、わたしは、それほど単純ではないように思う。わたしが、そのひとつを任せられたとしても、適切なことができるとは、思えないからである。たんに誠実にことに向かっていれば、良い方向にいくのだろうか。難しい問題ばかりのなかで、そんなことは言えない。もうすこしましに言うことはできるが、それとて、ほんの一つのことなら可能かもしれないが、全体としては、正解がわからないのだから。神の目から見れば、簡単なのだろうか。これも、わたしには、否と答えたい。神様も、人々が互いに愛し合うことを望んでおられても、どのようにしたらそうなるか、自由意志をある程度維持して、互いに愛し合うことができるかは、ご存じないのではないだろうか。
Revelartions 18:2,3 天使は力強い声で叫んだ。/「倒れた。大バビロンが倒れた。/そこは悪霊どもの住みか/あらゆる汚れた霊の巣窟/あらゆる汚れた鳥の巣窟/あらゆる汚れた忌むべき獣の巣窟となった。すべての国の民が/情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み/地上の王たちは、彼女と淫らなことをし/地上の商人たちは、彼女の度を超えた贅沢により/富を築いたからである。」
二分法はわかりやすい。善と悪、ここでは、悪を大バビロンにたとえ、そこにすべての悪の根源を押し込めている。そう考えられれば楽だが、そうではないように思う。悪のラスボスを滅ぼせば、皆が幸せになるというのは、問題を矮小化しているように思われる。そう考えてしまうのは、長く生きてきた、所以だろうか。ひとの弱さは、ひとの本質でもある。それを取り去ることは、ひとではなくなること。神様が造られたひとではなくなることのように思う。神様との交わりの中に生きる、御心を求め続ける、そのようなものでありたい。
Revelartions 19:9 それから、天使は私に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言い、また、「これらは、神の真実の言葉である」とも言った。
現在の不条理の世界が、神の栄光に満ちた世界に変えられることを人々は願っているのだろう。それは、そのとおりだが、それがどのように得られるかは、やはりわからないのではないだろうか。イエス様は、このような状態になることを望んでおられるのだろうか。批判的なことを書きすぎているのかもしれない。通読もあと少し。学び続けたいとは思っている。
Revelartions 20:7,8 千年が終わると、サタンは牢獄から解き放たれ、地の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
千年王国と呼ばれるものの記述があり、そのあとに、このことが書かれている。千年王国でも、終わらない。現在は、どこに居るのだろうとも思ってしまう。おそらく、そのような時間軸とはことなるものを描写しているのだろう。このようなときに、どう生きるか、そこにたいせつなことがあるように思う。
Revelartions 21:22,23 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
神殿がなく、太陽も月もない。前者は理解できるが、後者は、よくわからない。このあとに、地上の王たちの記述もあるが、ここは、まだ地上のことなのだろうか。厳密に考えるのは、おそらく適切ではないのだろう。象徴的に表現していることは、ある程度理解できるように思う。
Revelartions 22:20,21 これらのことを証しする方が言われる。「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来りませ。主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。
なにがすぐなのか、よくわからない。しかし、最後の祈りは、理解できる。主イエスの恵みがあながたがすべての者と共にあるように。そして、これに、主イエスよ、来たりませがつながっている。主が、共におられることを、そのようにして、共に、主のみ心が行われ、共に生きること、そのことを、わたしは求めているように思う。

BRC2019(1)

Rev 1:17-19 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。
正直、どう理解したら良いかわからない。このような文書はいくつもあったのではないかと思われるし、そのなかで、そして、たとえ一つであったとしても、この文書の中身をどのような姿勢で理解すれば良いか分からない。真理をもとめ、主に従っていた者が、伝えている一つの真実だろうか。いつか、丁寧に学ぶときが来るだろうか。
Rev 2:4,5 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
ここでいう「愛」は何だろうか。熱情・パッションのような印象をうける。このあとには「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。 」(6)と続く。エフェソは当時有力な教会だったろう。詳細が分からなければ、非常に観念的、抽象的なことしか受け取れない。この手紙を受け取ったエフェソのひとたちは「どこから落ちたか」がわかったのだろうか。徳を高めることに資するものだったのだろうか。「こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。」(ローマの信徒への手紙14章19節)現在のわたしにたいしても、同様のメッセージは来るかもしれない。しかし、どう受け取るかはとても難しい。
Rev 3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
ラオディキアにある教会にあてた手紙には「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15,16)とある。そのような教会に引用箇所を勧めている。このあとには「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(20)とある。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイによる福音書4章17節)が引用箇所でも言われているのかもしれない。「富は天に積みなさい」(マタイによる福音書6章20a節)
Rev 4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
ここから「この後必ず起こること」の記述が始まる。これが「この後必ず起こること」だと信じるのはできるかもしれないが、根拠は不明である。イエスが語る様々なことば「この後必ず起こること」も含めて、を信じるのは、イエスの生き様、教えを通して、この方こそ「生ける神の子キリスト」だと信じるからだろう。この書についてはどうなのだろう。聖書に含まれているからと多くの人が答えるだろう。聖書がどのように成立していったかを考えると、そう単純ではないことを感じる。おそらく、中身が、イエスの教え、聖書全体とも同期している、つながっていることによるのだろう。しかし「この後必ず起こること」に関して、そのことを確認することができるのだろうか。将来についての記述は、どの時代の人にとっても重要な意味をもつ。それゆえに、この問いは重大である。
Rev 5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
巻物の封印について「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。」(3)とあり、続いて「すると、長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」(5)と、イエス・キリストが封印をあけることができるとし、その賛美が引用箇所にあらわれる。ある形式なのだろうが、わたしは、空虚な感じを受ける。天上でも地上でも(地の下があるかどうかわからないが)のイエスの関心事とはかけ離れているように思われるからである。終わりの時について語るとしても、どのようになっていくかではなく、「不法がはびこるなかで、愛が冷えないよう、ひとり一人が最後まで耐え忍ぶように」(マタイ23章12,13節参照)祈っておられるのではないだろうか。
Rev 6:15,16 地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
おそらく、ここに挙げられている人たちは、入れ替わることになるが、エルサレム陥落など、これに対応する状況を経験し、ますます、終わりの時について、さばきについて知りたいという願望が強くなっていたのではないだろうか。それに答える形で、信頼のできる霊的指導者がこれをしたためたのなかもしれない。しかし、ここ以降にあることを、逐一啓示として解釈するひとが増えることは、考えられたであろうにと思う。啓示の問題は難しい。
Rev 7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
白い服は、マタイによる福音書22章1-14節の「礼服」と関係しているのだろうか。ただ「血であらって白くした」は、異様な感じをうける。イスラエルの子らの中からの十四万四千人、そしてあらゆる国民、種族、民族、言語の違う民の大群衆、正直、あるリアリティをもってイメージすることは適切ではないのではないかとすら思う。しかし、黙示録記者の描いた世界として、受け入れることとしよう。信仰の仲間として。
Rev 8:7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。
このあとも、第二の天使、第三の天使が、ラッパを吹き、様々なものの、三分の一づつが滅んでいく。定量的にしにくいものが並んでいる。どのように、理解することが期待されているのだろうか。そして、地上での生活で、何を期待し、どのような生活を送ることが期待されているのか、不明である。少なくとも、イエスの福音とは異なる気がする。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)
Rev 9:4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。
「底なしの淵の穴を開」(2)いて出てきたものである。さばきの一つの形なのだろう。「額に神の刻印を押されていない人」が具体的になにを意味するか分からない。イエスの教えも、神の子として生きることで、さばきについても語られている。しかし、このような形のものは、ある恐怖をかき立てるだけで、形式的なものに堕する可能性が高いのではないだろうか。記されていることを否定はしないが、アーメンとは言えない。世で生きることには、かえって害を及ぼすことを恐れるからである。
Rev 10:1 わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、
創世記9章にある契約の印としての虹を思い出す。「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 」(創世記9章15節)とある契約であるが、それが、ここに登場するのは、なぜなのだろうか。それ以外に虹が現れるのは「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。」(エゼキエル1章28節)と黙示録の「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。 」(4章3節)だけである。栄光の様の表現なのだろうか。創世記の契約はどのように受け取られていたのだろうか。あまり重視するのは、問題があるのかもしれない。環境について発言しているグレタ・トゥンベリさんに、“Don't Worry, God Promised Not to Flood Earth Again”と返す福音派牧師もいるようだから。
Rev 11:2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。
三年六ヶ月に何の意味があるのだろうか。本当のおわりはなかなか来ないことは分かる。しかし、やはり、神殿の内と外を分けている。異邦人と同邦人もわけている。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイによる福音書7章6節)をどのように理解すべきかはわからないが、わたしは、今到達している「歓迎する」ことを貫いていこうと思う。
Rev 12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
天上でまだ争いがあったのだろうか。「天で御心が行われるように」であるはずである。また、それが地上に投げ落とされてはいけない。人々の苦しみが大きくなるばかりであり、神はそのことをよしとされないだろう。それでも、丁寧に読んでいくことができるのだろうか。
Rev 13:17 そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
第二の記述であるが、獣の像に息を吹き込むこともできたりして、どの獣がどのような者かもよく整理しないとよくわからない。しかし、引用箇所のあとに666という数字があり、それは、キリスト者を迫害したローマの皇帝のネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)のことだとも言われる。(Nero Caesar のヘブル語表記を数字として読み、和をとると、666とのこと)ただ、調べると他の解釈もいろいろとあるようだ。正直興味を持てないが、その当時すでに起こっていることとして読んだ人たちがたくさんいることを意味しているのだろう。ただ、引用箇所は別の意味で興味深い。商売の制御について書かれている。かなり現代的なイメージをうける。
Rev 14:12,13 ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
変化が大きく、正確に把握することが困難である。具体的なものに重要さをわたしが感じていないからだろうか。批判するより、いちど、まとめて見てもよいかもしれない。ここでは、安らぎを得ることが書かれているが、わたしにとって、それは何を意味するのかと考えた。わたしは、何を望んでいるのだろうか。
Rev 15:1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。
知りたいのは、怒りの内容である。何に対して神は怒っておられるのか。それは、単純に神に従わないということなのだろうか。それなら、他の宗教となにも変わらない。主イエスが、父なるかみを示してくださったように、父なる神について、生き方とつながるかたちで知りたい。
Rev 16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。
なにが成就したのだろうか。完成したのだろうか。災いが表現されていても、メッセージは受け取っていないように思われる。空虚である。いつか丁寧に読むことができるのだろうか。永遠の命に関わることを。
Rev 17:17 神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。
「ここに、知恵のある考えが必要である。」(9)とあり、「七つの頭と十本の角がある獣」(1)について語られている。黙示の性質から、ある程度、そのときに起こっていることに、対応する出来事があるのだろう。そのことに関するある解釈を述べることで、励ます意味もあったのだろうか。ただ、啓示ということを考えると、やはりとても難しい。どれだけの確信をもって、将来に関係することを明らかにできるのだろうか。わたしには、その価値とともに、やはり、黙示文学自体に懐疑心を抱いてしまう。当時のひとたちとは、つながった者でいたいが。
Rev 18:6,7 彼女がしたとおりに、/彼女に仕返しせよ、/彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、/その倍も注いでやれ。彼女がおごり高ぶって、/ぜいたくに暮らしていたのと、/同じだけの苦しみと悲しみを、/彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、/やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』 
「地上は栄光で輝き」(1)天使は「倒れた。大バビロンが倒れた。」(2)と叫ぶ(宣言する)ところから始まる。そして大バビロンたる「彼女」への仕返しがでてくる。これでは、たんなる抗争ではないのか。戦いがあるにしても、天の父のみこころは本当に仕返しをすることなのだろうか。疑問を抱く。
Rev 19:2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」
倫理的な問題は「みだらな行い」だけでまとめられているようである。物足りない。黙示録記者が伝えたかったことは何なのだろう。希望と忍耐だろうか。しかし、これを希望ととるのは簡単ではない。血の復讐ということばも、ひっかかる。
Rev 20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
いのちの書に名前が書き記される、そこに希望と救いを期待したのだろう。ヨハネの名前が何度か出ていることは、その影響下であることも、考えられる。その多様性か、それとも、最後の弟子の名をかたっただけなのだろうか。いつか、もう少し、深く読み込むことができるようになるのだろうか。
Rev 21:25-27 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
興味深い記述である。入れる入れないとあるが、入ろうとしないことで、目が閉ざされるのかもしれない。常に、門は開いている。しかし、見出す人は少ないのかもしれない。「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7章14節)
Rev 22:20,21 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
本質的には、これだけなのだろう。励ます意味で書いているのだと思う。「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(5)「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)が現実の者となるときなのだろうか。

BRC2019(2)

Revelation 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
わたしが、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一から、想像するヨハネとは別人であると強く感じる。むろん、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一も、ヨハネの強い影響下で書かれたという意味で、現代的な意味で、ヨハネの著作かどうか、厳密にはわからないが。いずれにしても、これら二書も晩年または死後書かれたと思われることを考え合わせると、ヨハネの黙示録の著者は別に考えるべきだろう。このように、明確に名前をあげることで、状況設定をしている。黙示文学という形式で、どうしても、伝えるべき、共有すべき内容があったのだろう。それを、しっかり受け取っていきたい。当時の状況もこの書をとおして、知ることができればと思う。
Revelation 2:6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。
ニコライ派についてはよくわからないが、聖書には「同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。」(15)ともう一回出てくるだけである。ただ引用句のエフェソにある教会へのメッセージは「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。 」(2)と始まっている。このあとにも「忍耐・我慢・疲れ果てない」(3)と出てくる。同時に「初めのころの愛から離れてしまった。 」(4)ともある。少しでも理解するには、この辺に鍵があるかもしれない。安易・平易・単純化し、従うことが簡単な教えだったのかもしれない。同時に、主の教えの本質を見失わせることに関しては、強力な教えだったのかもしれない。そう考えると、現代にも通じることは多い。しかし、「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(4)で理解し得たのだろうか。おそらくそこに戻ればよいものでも無かったはずである。難しい。
Revelation 3:10 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
2章にも「忍耐」が出てきたが、その背景を考えた。一つは迫害だろうか。しかし、それは、断続的なもので、継続的にローマの厳しい迫害があったわけではないと言われている。ローマの公認宗教の一つであったユダヤ教との軋轢は十分考えられるが、ローマという国のなかでは、ある程度以上の迫害は考えにくい。黙示録の基調としてある、終末が一番大きな要素ではないだろうか。そのための忍耐である。そうすると「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15,16)は何を意味しているのだろうか。再臨、主の来臨を待ち望むことに熱心になることだろうか。そこまで言えるかどうかは、この時点では不明である。なにか、二次的なものを求めてしまっているとも思う。ていねいに読んでいきたい。
Revelation 4:1,2 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。
ここから黙示・預言へと向かう。わたしが「聖書のみ」「聖書霊感説」「聖書無謬論」そして、黙示録の預言解釈にも慎重で、そこにわたしの信仰基盤をおかないのはなぜかを考えてみた。基本的には、これらに対する「なぜ」との学生・友人、そして自分の問いかけにしっかりと向き合って答えられないからだと思う。旧約聖書成立、新約聖書成立の歴史を考えると、それらも、明らかになっているわけではないが、そこにひとの営みがあり、真理をもとめて信仰的な営みをしていたと思われる一方、当時の状況も反映され、そこで決められたことを絶対的な基準に採用することは、すくなくとも友人・学生への説明にはできないからである。おそらく、それとともに、現代にいたるまでの教会や教会指導者たちのひととしての営みをみてきて(これも十分わかっているわけではないが)基本的に、謙虚にさせられる以外に無いからである。そうであっても、わたしは、これらを唱える人たちに真っ向から反論しない。これらをたいせつにする人たちもいとおしいからである。友人や学生と同じように。わたしは、福音書で語られているイエスのことばと生き方から学び、それに従ったひとたち、同じように、神をもとめてあゆんだ、そして歩んでいる人たちとともに歩む者でありたい。聖書を読み続け、そこから学んでいる理由も、この願いに依っていると思う。5つのソラ(five solae)を唱えることに反対はしないが、正しさの議論に使うことはわたしにはできない。
Revelation 5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
わたしは讃美をする。ときに、とてもそれを好む。しかし、そこに没頭もできない。その理由を考えてみたい。おそらく、自分が神さまなら、それを望まないと思うからだろう。神さまは、讃美よりも、主の、そして神さまの苦しみ、そして喜びを受け取ろうとする日々の営みを喜ばれるのではないかと思うからである。ともに歩むこと、交わりを持つことである。「おとうさん」をたいせつにすることは、おとうさんがたいせつだとおもうことをたいせつにし、ともに生きること。そのなかで、讃美が生まれるが、讃美自体に留まることには、違和感を感じるからである。ていねいに、考えてみたい。すこしずつ、わたしが謎のキーワード「共に」をどう考えているかの言語化が始まったのかもしれない。
Revelation 6:17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
この章は「また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。」(1)と始まり、隠されたものが明らかになっていく。最初に書かれているのが「神と小羊の怒りの大いなる日」である。わたしは、なかなか関心が向かない。この世が滅びることはあるだろう。そしてその背後には神さまがおられると信じるが、単純に怒りの発現とは見ることができない。様々なできごと、特に災厄を通して、神さまの働きをみることは、自然かもしれないが、わたしが従おうとしている主の性質とは異なるからである。おそらく、わたしが一部しか見ていないために、このように考えるのだろう。ていねいに見ていきたい。まずは、黙示録を。
Revelation 7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
迫害だけではないかもしれないが主とともに苦難を受けたひとを特別扱いすることは、理解できる。しかし、それを裁きの中で語ると、主はどこにおられるのかと考えてしまう。各部族から一万二千人のような記述を好む人もいるだろうが、主の教えとは、かけ離れているように思われるし、パウロの語った福音とも、かなり異なるように思う。その中から、記者とつながるものを持ちたいと思う。
Revelation 8:7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。
このあとにも災厄の記述が続く。わたしが、黙示録を素直に受け入れられないのは、この背後にいるひとと共に生きることを拒否されているような記述のためだろうと思った。これだけのことがあれば、そこで苦しむ人、悩む人、生活が奪われ、家族や友人を失うひとも多くいることだろう。それを無視しての「神さまの計画」「正しさの記述」それを、イエス様は喜ばれるのだろうかということである。WWNJD。イエス様なら、同じことの記述であっても、そのときどう生きるかに焦点があたるように思う。むろん、わたしは、イエス様のわたしがこのむ一部だけを受け取っているのかもしれないが。
Revelation 9:4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。
いなごの害がことしは東アフリカを中心に熾烈であった。そこで苦しむひとたち、知り合いもいる。信徒かどうかを見分けるなどということはあり得ないと思うが、たとえそれが可能であったとしても、現実は受け入れられない。その苦しみのもとにある人との間に、線を引くことはできないからである。それは、自分を正しい安全ながわにおいて、高見の見物をする高慢さとも、重なる。こう書くことで、わたしが、見えなくなっていることがあるのだろうか。このような読み方で盲目にならず、たいせつなことを受け取っていきたい。
Revelation 10:11 すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
預言する目的は何なのだろうか。すでに、滅んでいる人たちのいる。悔い改めて変わるのだろうか。「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」(7)とあるが、預言者がひとつのことを宣べていたというのだろうか。終末論は何のためなのか考えてみたい。そして、そのメッセージが発せられ、受け入れられる社会は、どのようなものなのだろうか。その心も理解したい。
Revelation 11:2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。
異邦人はどのような位置づけなのだろうか。神殿にはいるようである。そして、都を踏みにじる。どうも、そうであっても、神殿は破壊されないようである。異邦人の居る場所が分けられていることから始まっているようだ。異邦人を、神に従う意思表示をして、群れに加わることをしないものとするなら、基本的に、異邦人をどうとらえるか、神さまの御心はどこにあるのかが、鍵であるように思う。イエス様は、どう考えておられたのだろうか。それが知りたい。
Revelation 12:7 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
わたしには、このようなことを知ることの意義がわからないので少し考えてみた。あるストーリーの中にいることを覚え、希望を持ち続け、それが忍耐ともなり、苦難を耐え忍ぶことができるということだろうか。神の御心が天だけでなく、地でも行われることを望むが、善が悪に打ち勝つという種類のものではないように、わたしは考えている。しかし、そのような考え方の方がわかりやすいのかもしれない。真理とは何なのだろう。ひとを活かすもので、正しさとは、ことなるのかもしれない。
Revelation 13:1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒瀆するさまざまの名が記されていた。
この記述が歴史とあっていてもあっていなくても、わたしには、正直興味がない。しかし、おそらく、これが力になる人たちがいるのだろう。あまりに普遍性を強調しすぎず、このような表現によって力づけられる人の存在も認めて、ていねいに理解しようとすることだろうか。あらたな読み方が広がることを期待しよう。
Revelation 14:1 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。
「神の子イエス・キリストの名を信じる」(1ヨハネ3章23節)が鍵であることは、理解できるが、名が記されるとはどのような意味だろうか。名が記されているものと、記されていない者の区別がなされるということだろう。それは、すでに、わたしの信仰告白とはずれてしまっている。神さまがたいせつにされることだとしても、それが完全なかたちで、おこることはあり得ないことを、主はご存じだろうから。神の子として生きることを願い、そのように生きようとするものを、主は嘉(よみ)せられるのであって、それを、区別に使われることとはことなると思う。むろん、実際には、わからないが。わたしの理解も不十分だろうから。わたしが、上のように考えるのは、引用句のようなところからはじめて、世界観を築き上げることの危険性をわたしは考えているからだろうか。
Revelation 15:1,2 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。
「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者」となぜ勝ち負けにこだわるのだろうと思ってしまう。当時のローマ、ローマ人が側、周辺の国のひとたちからみたらそれはどうなのだろうかとも思う。しかし、見方を変えると、そこに信仰に基づいた生き方のすべてをかけ、苦しめられ、あるときは、死んでいく、そのひとたちと共にいることは、このように、勝利に訴えることなのだろうか。世の中は、それほど単純に二分化できないものである。獣と言われるひとたちに、イエス様はどう対するだろうか。善きサマリア人(ルカ10章)として、深く憐れまれるイエス様は、強盗(おいはぎ)に襲われたひとを見て、そのような状態になっていることに深くその身に傷をうけられると思う。強盗(おいはぎ)への憐れみもこめて。わたしのような感覚は間違っているのだろうか。
Revelation 16:7 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。「然り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で正しい。」
イエス様が来られたのは、裁きのためなのだろうか。そのようなものが存在することを、否定しないし「既に裁かれている」(ヨハネ3章18節)だとは思うが「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3章17節)のはずである。ひとのこころに、正しい裁きを望む欲求はある。しかし、それは、自らを正しい側に置くものの考えである。このあとにも、ハルマゲドンの記述があるが、そのような状態に心を痛め、ひとを深く憐れまれるのが、主ではないのだろうか。
Revelation 17:7-9 すると、天使がわたしにこう言った。「なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、七つの頭と十本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。ここに、知恵のある考えが必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる。
「黙示」は解き明かしが可能なことでもあるのだろう。それが、非常に危険でもあると思う。「知恵のある考えが必要」とあることは、「知恵のある考え」があれば、理解できるということだろう。当時の人を悩ませ、ある解釈を得、そして時代と共に、その解釈も変わる。14節にあるように、最終的な勝利は「小羊」にあるとしており、「忠実」であることを促しているのだろうが、本当にそれが本筋なのか、疑いたくなる。しかし、他の読み方もあるのかもしれない。保留としておこう。
Revelation 18:2 天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、/あらゆる汚れた霊の巣窟、/あらゆる汚れた鳥の巣窟、/あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
なぜバビロンなのだろうか。たとえばあるアジアの国で象徴的にせよ「日本」と読み替えたらどうだろうか。太平洋戦争敗戦のときは、受け入れた人がいたかもしれないが、今の時代にもそのことばが残っていたら、強い違和感を感じる人が多いだろう。そして、そのようなことを主張するひとたちと、友人となることは、難しいと感じるだろう。イスラエルにとって、悪の象徴として使う言葉はバビロンだったのかもしれないが、キリスト教でもそうなのだろうか。バビロンの、イラクの、イスラム圏のひとたちは、どのように、この箇所を読むだろうか。少なくとも、他の人がよむよりも、より多くのストレスがかかることだろう。
Revelation 19:19 わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。
具体的な地上の戦いと連動しているようだ。このあとには、「しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。」(20)と続く。もし、これが主のみこころならば、わたしは、信仰を放棄したいと思う。それが、すくなくとも、現時点での信仰告白である。神に従うことをしない、反逆の民を見て、そのさばきの状態をそのままにしておかざるを得ないかもしれないが、同時に、主は、そのひとたちを、深く憐れまれるのではないだろうか。そして、互いに愛し合い、ひとつになって生きることができない状態によって、こころが引き裂かれる苦しみを味わわれるのではないだろうか。
Revelation 20:2,3 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。
このあと第一の復活(5)と、第二の死(14)について書かれている。どうしても、批判的になってしまう。もし、このようにできるのであれば、なぜ、最初からそうしないのか。苦しみの意味は何なのか。神さま、イエス様と共に、そして隣人と共に、苦しむ者となることに、人生の意味があるのではないだろうか。苦しみの原因を、悪や悪魔としてしまうことにも、問題を感じる。イエス様は、そのように説かれていたのだろうか。聖書通読も、あと少しである。また、考えながら、読んでみたい。わからないことが多い。謙虚に、求め続けるものでありたい。
Revelation 21:3,4 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
このような状態をわたしは、のぞみ、そして、すべての人が、そのような状態にはいることを、歓迎してくださることが福音だと思っている。「神の幕屋」が人の間にあるというのも、すごい。御心が天で行われるように地でも行われること、それを希望として持つのだろう。その希望のもとで、どう生きて行くかが、ひとに問われていることのように思う。
Revelation 22:9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」
興味深い言葉である。この書に書かれたことばをある意味絶対化しているが、同時に、それを「示してくれた」(8)天使は、われわれの仲間である。われわれは多くを隣人から学ぶ。天使からも学んでいるのだろう。しかし、あくまでも、天使は、われわれと同じように神に仕える者である。今回も読み終えることができて、感謝。

BRC2017(1)

Rev 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。 
関係が興味深い。ヨハネは、この手紙の受取人たちの、兄弟である。そして、受取人の人たちも、ヨハネもイエスと結ばれ、その苦難、支配、忍耐にあずかっていると述べている。支配にもあずかっているの。驚かされる。おそらく、このときは、島流しの状態であるにもかかわらずである。
Rev 2:20 しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。 
イゼベルは新約聖書ではここだけに現れる。列王紀上から下にかけて現れるアハブの妻の名前であることから、おそらく、象徴的な用法なのだろう。実際に、どのようなことをしているかは不明である。何を教えていたのだろうか。なにか、現代に対応することがあるのだろうか。
Rev 3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 
「ラオディキアにある教会の天使」(14節)に宛てられており、通常、キリスト者と言われる人たちが宛先である。そのひとたちに、このように語りかけられている。何が実際に起こっているは書かれていない。世の中にとどまることに満足しているということだろうか。形式的には、イエスを主と告白しているのかもしれない。それでも「戸口に立って、たたいている。」(20節)とメッセージを送っているのか。
Rev 4:2 わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。 
どのように理解したら良いのか整理した方がよいように思う。神の子イエスを遣わされた神に従っている記者がそのなかで神から与えられたとして受け取ったこと。信仰を共にするものとして、その中から、真理を読み取ろうとする。しかし「この後必ず起こること」(1節)としてどのように受け取るのかは不明である。まずは、何を伝えようとしているのかを、受け取ることであろうか。それには、情報が少なく判断が難しいように思われる。
Rev 5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」 
イエスが屠られた子羊であることは、明らかなこととして、受け入れられていたのだろうか。あまりよくは理解できない。単なる讃美なのだろうか。このあと、長老たちはひれ伏して礼拝している。(14節)
Rev 6:17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。 
裁きの日なのだろうか。それとも、怒りによって多くの人が滅ぼされる日なのだろうか。不明である。黙示録はやはりよくわからない。どのような鍵があるのだろうか。いずれ、丁寧に読むときが来るのだろうか。
Rev 7:4 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。 
このあとに、12部族がならぶ。レビ族が含まれ、ヨセフ族がひとつになっている。この部族と、人数は何を意味するのか。不明である。血筋でないことは、確かだろう。人数が限定されているが、これも、特別な意味はないのか。単にある完全数なのだろうか。ヨハネが見た幻だから、それ以上の詮索は無駄なのかもしれない。同時に、ヨハネが伝えようとしていることを受け取りたいとも思う。
Rev 8:11 この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。 
チェルノブイリが苦よもぎの意味らしい。しかし、この箇所を読む限り、何の関連も読み取れない。大きな苦難を伝えていることは確かだろう。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」 (13節)と叫んでいるのだから。この中でも、希望を持ち続けることを伝えているのだろうか。ひとり一人には目が向けられていないようで、残酷に感じる。
Rev 9:21 また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。 
20節をみるとこの「彼ら」は「偶像を礼拝」するものとある。その悪は「殺人」「不品行」「盗み」。これらは、名誉欲、肉欲、物欲に、それぞれ対応しているように思われる。これらが偶像礼拝である。神を神とすることから離れているのだろう。
Rev 10:7 第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」 
これが最後であろう。しかし、やはり、難しい。どのようにこれらを理解すれば良いのだろう。黙示文学は難しい。
Rev 11:15 さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」 
「そ(主)のメシア」と言うことばは、なにか違和感がある。かつここでは、主と、そのメシアの大きな区別はないように思われる。多少不思議であるが、著者が行き着きたいところに、届いた感じがする。どうなのだろうか。まだ、11章である。
Rev 12:12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」 
世で、サタンが働いているのは、天上では、もう、働く余地がないから。と言う理屈はわからないではないが、不満でもある。私たちは、地上に住んでいるのだから。
Rev 13:1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。 
黙示録が理解できないことには変わらないが、私が理解できない理由の一つはわかったように思う。つまり、わたしは、聖書直解主義(biblical literalism)を批判しつつも、表現形式の一つである、黙示文学については、真剣に学ぼうとしていないことが背景にあるのだろうと言うことである。創世記の1章から10章を読むときに、直解主義では矛盾だらけが出て、科学的理解を否定せざるを得ない状況に陥るのは、表現の形態が一つだけだと考えてしまうからだろう。今の私に黙示文学は理解できないが、いずれ、学んでみたい。
Rev 14:14 また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。 
刈り取りそれは、最終的な救いと裁きを意味するのだろう。それをどのように理解するのか、それを完全に記述することはできない。しかし、そのことについて思い浮かべることがいけないわけではない。その一つの表現なのだろう。少しずつ理解していこう。
Rev 15:8 この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。 
5節には「天にある証しの幕屋の神殿」とある。霊的な礼拝をする場所だろうか。同時に、語られているのは、災いである。なぜ、ここまで災いが語られるのだろう。1節も「わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。 」となっている。神の怒りを表現せざるをえない状況があったのだろう。互いに愛し合いなさいだけでは、語り尽くせない真理があったということだろうか。
Rev 16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。 
成就したについて調べるとここは、ginomai である。イエスの十字架上での最後のことばは teleo が使われており異なる。「また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 」(黙示録 21:6)とあるが、この成就したは、ginomai であるが、終わりであるは、telos が使われている。あまり、ことばにこだわるのは良くないのかもしれない。
Rev 17:8 あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。 
複雑である。神の小羊がささげられても、世に勝たれたイエス様がおられても、様々な事がありうることは伝えているのだろう。「この女を見て、わたしは大いに驚いた。 」(6節)とある。分からないこと、驚かされることの中で、御心を求め続けるものでありたい。
Rev 18:10 彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/強大な都バビロン、/お前は、ひとときの間に裁かれた。」 
17章から書かれている「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」(17章5節、Cf. 14:8, 16:19, 18:2)の裁きが語られている。ただ、高慢などの他、本質的な悪、罪はよく分からない。大バビロンと譬えることも、当時の歴史的な背景が関係しているのか。バビロンに関係する人は、いやだろう。
Rev 19:1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。 
讃美は自然に出てくるもの。「救いと栄光と力」は神のもの、同時に、そうだと、こころから「アーメン」と言いたい実体があらわになったということだろう。それなしに、讃美はできない。しかし、それを、先取りする信仰もあるのかもしれない。讃美については、あまり考えたことがない。すこし、整理してみたい。
Rev 20:3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。 
正直、またか、という感じを受ける。それは、ここで「その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。 」と書かれていることである。なかなか、はい、おしまい。みんな幸せとはならない。もしかすると、それこそが、この書の執筆目的だったのかもしれない。希望を持って、耐え忍ぶことについて共に考えるため。安易に、再臨や、最後の審判を考えないように戒めるため。そこに、ヨハネの見た幻が重なり合っているのかもしれない。そう考えると、すべてを、歴史的事実に結びつけるのは、筋違いである。
Rev 21:26,27 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 」この都には神殿はない。主と小羊が神殿だと言われている。そのような普遍的な都、しかしそのような都でも排他的とも思われる差別の記述がある。それが限界だったのかもしれない。しかし、別の見方をすると、このひとたちは、都に、光に来ようとしない人たちなのかもしれない。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 」(ヨハネ3章20節)
Rev 22:20,21 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 
なんと、偶数章で終わってしまった。全体で、1189章と言う基本ですら、間違っていると言うことだろう。新共同訳は偶数章なのだろう。調べてみたい。謙虚に。(あとで気づいたことですが、ヨブ記で中断して、新約聖書を読み進めているので、1189章を否定しているわけではありません。これも、はやとちり。簡単なことを間違ってしまう者です。ひとは、というより、わたしは。)ヨハネの黙示録は、このように終わっている。それは、様々なことを書いて、では、主の再臨までは、あまりに長い時間があると思われては、意図と異なるからだろう。再臨を適切に理解することは難しい。主に希望をもつその祈りと、待つ姿勢、そして、忍耐だろうか。

BRC2017(2)

Rev 1:1,2 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
引用箇所に「ヨハネ」が二箇所登場するが、これ以外にも、4節・9節と、22章8節に記されている。正直、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一を読んで来た者としては、文体の違い、たいせつにしていることの違いとあわせて、違和感を感じる。しかし、それは、著者がだれかが重要であるということにとらわれているからのようにも思われる。そのことは、いったん、置いておこう。おそらく、著者に関係なく、ヨハネの名前をだして、このように書く必要・重要性があったのだろう。黙示文学という一形体をとったことも、そこに背景をもとめるべきなのだろう。しかし、それにしては、背景もよく分かっているわけではない。迫害が波状的に起こり、教会内部からも、様々な異論がでる。同時に、小アジア地域には、いくつもの、教会があり、中心的なものもいくつかある。静かに、信仰を守っていた人たちもいるなかで、様々な変化とともに、すぐには、終末がこないかもしれないというなかで、そのプロセスを示しつつ、群れを励ますことが大切だったのかもしれない。今回は、何を学ぶだろうか。できるだけ、ていねいに、読んでいきたい。
Rev 2:4,5 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
「エフェソにある教会の天使に」と始まっている。エフェソの教会は、小アジアのこの地域では一番大きかったろう。その教会に対して、このように書くのは、どのような人だったのだろうか。「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。」(6)とあるが、わたしには、引用箇所の重さが大きすぎるように思える。黙示として、または、啓示として、ここまで書けることに驚かされる。当時の教会に、どのような、背景があったのだろうか。
Rev 3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
前半は「わたしから買うがよい」とあるが、後半は、明確には言っていない。神のもとにある「火で精錬された金」に価値があるからだろう。後半は、自分が裸であることすら、見えていないと言っているのだろう。この前の「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(17)を受けているのだろうが、豊かさが、分からないと言うことなのだろうか。これを理解し、さらに伝えるのは、難しい。
Rev 4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
「あの最初の声」は「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。 」(1章10節)をさしていると思われる。そこでは「あなたの見ていることを巻物に書いて(中略)七つの教会に送れ。」(1章11節)とあるので、その内容は、幻として見ている面と、現実とが、混在しているのかもしれない。実際「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」(1章19節)とある。しかし、引用箇所は少し違うように思われる。正直心配にもなる。前者は、神の御心を真剣に求める者にとって、通常の行為だと思われるが、引用箇所で描かれる後者は、純粋に啓示とする以外に、その正しさの根拠はない。しかし、最近感じているように、黙示録は、これが書かれる必要性があったように思われる。それを丁寧に見ながら読んでいきたい。そう考えると、100パーセント特別啓示とする必要もないのかもしれない。宗教的幻影については、もう少し考えていきたい。
Rev 5:9,10 そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
「彼ら」は「四つの生き物と二十四人の長老」(8)である。この彼らについても、具体的にはよく分からないが、「屠られたような小羊」(6)が、登場して、やはり、異様な感じがする。屠られたことが残る状態で、イエスがいることを表現しているのだろう。ついつい復活により、栄光に輝く玉座または、神の右にすわっている姿を想像してしまうが、その傷が、何らかの形で、残り続けているのかもしれない。さらに、後半にも驚かされる。地上を統治する「王・祭司」である。ひとつの単純な解釈は、贖われた者は、すべての束縛から解放され、自由があたえられ、自らが治めることができる者、そして、とりなしをするものということだろうか。わからないことばかりである。
Rev 6:2 そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。
未来に関する預言については、違和感を感じる。このあと、多くの人の死が予告されるが、イエス様は、それを言われないように思われるからだ。世の中が混乱することは、予告されても、それは、その中で、どのように生きるべきか、そして、最後に弟子たちに、互いに愛し合いなさいと告げる。しかし、この著者も、そのようなイエスを救い主として告白する者のひとりなのだろう。幻を書き留めることが、御心だと確信した、ひとりの信仰者なのだろう。その、信仰と愛を、受け止めたい。
Rev 7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
「長老」を「主」と読んでいるのに、多少の違和感があるが、そのような使い方もされていたのだろう。ここで「大きな苦難を通って来た者」について語られている。この書のひとつの目的は、この人たちについての記述だったろう。このあと「神の玉座の前で仕える」(15)ことと共に「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。 」(16・17節)とある。大きな恵みだったろう。そして、このように書いたことを神は善しとされていると信じたい。同時に、人間の弱さも見える。イエス様なら、このときに、どのように、行動され、語られただろうか。
Rev 8:7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。
この章は「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。」(1)から始まっている。ここから、悲惨なことが次々に起こることが書かれている。イエス様は、このようなことを示されるだろうかと、わたしが問うとき、明らかに、四つの福音書から得られる、イエス像をもとにしている。もしかすると、福音書の記述も部分的なのかもしれない。しかし、もう一つは、イエスを通して示された、神の性質との整合性だろうか。この書が、ある目的のために、記されたとすると、理解できるが、ここで表現されているのが、イエスが望まれたことかについては、疑問を持ってしまう。また、考えよう。
Rev 9:20 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。
「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」(3)と「偶像礼拝」批判は呼応していると思われる。新共同訳だけで見てみると「偶像」は福音書には現れない。使徒言行録に7,ローマに1,コリント一に13、コリント二に1、ガラテヤに1、エフェソに1、コロサイに1、テサロニケ一に1、ペトロ一に1、ヨハネ一に1、黙示録に5となっている。広がりと共に、偏りもあることが分かる。ヨハネの手紙一の最後の印象的な終わり方を除くと、異教世界に最初に飛び込んでいって福音を伝えた、パウロに由来するものが多いことに気づく。ひとが見分けが付きやすい「正しさ」である。ヨハネの手紙一は、もう少し広い意味、内面性を加味して使っているように思われる、神は心を見られるから。「子たちよ、偶像を避けなさい。」(ヨハネの手紙一5章21節)
Rev 10:6,7 世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけてこう誓った。「もはや時がない。 第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」
新約では「良い知らせ」はローマの信徒への手紙10章15節に、イザヤ(ナホム2章1節参照)からのがあるだけである。良い知らせはだれに与えられるものなのだろうか。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61章1節)との関連を考えると「正しいもの」ではないように思われる。ここから語られる、良い知らせはどのようなものなのだろうか。福音とはなにかをもう一度問うてみたい。
Rev 11:17,18 こう言った。「今おられ、かつておられた方、/全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。異邦人たちは怒り狂い、/あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、/御名を畏れる者には、/小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、/地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました。」
「神を礼拝するものは報いられ、地を滅ぼす者は滅ぼされる。」結局「勧善懲悪」かつ「善」の定義はとても狭く表現されている。たとえ迫害下で命をかけて信仰を保とうとしている人たちを励ますためであったとしても、これがイエス様が伝えようとした福音、イエス様が生きられた道だったのかと考えると、心配になる。「肉となって来られた」(ヨハネの手紙一4章2節・ヨハネの手紙二7節)の意味を、教義的にではなく、実際にこの世を生きられたととることのたいせつさを感じる。これから派生することは、とてつもなく大きなことだが。
Rev 12:10 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、/昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、/投げ落とされたからである。
「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6章10節)からも、御国では、御心が行われているという理解からすると、引用した箇所は、興味深い。神の側に葛藤があったことを意味しているように思われる。そしてこの勝利は「兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。」(11)とあるように、兄弟たちが戦ったとなっている。いつのことかは、考えないこととし、この結果として、地上に「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(9)が地上に投げ落とされるのでは、ここに御心があるのか、心配になり、問題ではあるが。
Rev 13:8 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。
この状態が、現状だと言っているように思われる。なぐさめにはなったのだろうか。すなおに、これを恵みの言葉として受け入れられない、わたしに、問題があるのかもしれない。予定説は、神の全知に依存している。愛の神は葛藤し、悩み苦しむ。人間的な表現をしてしまっているところは、問題であろうが。
Rev 14:15,16 すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。
刈り入れは、苦しみの時が、短くなる、当時の人たちが望んでいたことなのだろう。「もういいよ」と言っていただくとき、平安に去りたい。これは、だれにもある欲求なのだろう。しかし、そのなかで、available と、主を待つ姿勢の尊さも、思う。神の主権のもとで生きる、喜びを持って。かつ、弱さを担いながら。
Rev 15:3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、/あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。諸国の民の王よ、/あなたの道は正しく、また、真実なもの。
「モーセの歌」と「小羊の歌」この歌で福音を伝えるのか、大きな分かれ道であるように思われる。神の御心と罪をどのように理解するかが、旧約聖書に依拠するかどうかが関わるからである。「互いに愛し合いなさい」を新しい戒めとしても、または、新しい戒めとして受け入れても、結局、旧約聖書の基準に戻るのであれば、ユダヤ教徒にならなければ、福音を真には、受け入れられないことになる。罪の赦しが何であるかが、分からないからである。しかし、正直、罪を、不法(anomia = lawlessness ヨハネの手紙一3章4節) として、それを取り除くことは、掟が何かを知ること、としてよいのか不安も残る。引き続き、学びたい。
Rev 16:1 また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」
「神の怒り」は、旧約の中では、頻繁に登場する。新約では、バプテスマのヨハネの言葉として、マタイの福音書3章7節などにあり、ルカによる福音書21章23節には「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。」とイエスの言葉として記されている。ヨハネによる福音書3章36節には「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」と「とどまる」という表現がされている。福音書はこれのみである。ローマの信徒への手紙には3回現れるが(2:5, 5:9, 12:19)ヨハネの記述に近い。テサロニケ信徒への手紙一2章16節には少し異なる表現があるが、パウロ文書にも非常に少ない。あとはエフェソスに2回、コロサイに1回、そして、黙示録に5回である。イエスの宣教からは、個人的に、嘆きはあっても、怒りは殆ど感じられない。やはり、光が来たのに、光に来ようとしないことへの嘆きが中心であるように、思われる。
Rev 17:14 この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」
ここに一つのメッセージがあるのだろう。「小羊」の勝利は、一貫したメッセージではあるが、どのような戦いで、どのように勝利を収められるかは、様々であり、このような形で記述するのは、教育的配慮なのだろうか。イエスが望んだ、教えた信仰は、このようなものなのだろうか。問いたくなる。このような表現もあるのかもしれないとしておこう。
Rev 18:4 わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、/その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
この警告は「倒れた。大バビロンが倒れた。」(2)と天使が力強い声で叫んだときになされるのではないだろう。この読者に発せられている。「彼女から富を得ていた商人たち」(15)の扱っている商品リスト(12,13)を掲げて、同様に、裁きにあわないように説いている、一つの文学形体なのだろう。むろん、それがリアルに書かれているだけに、実際に起こることとの区別が難しいが。
Rev 19:20 しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
当時の人たちにとっては、重要な警告と、なぐさめだったのだろう。現代の人たちに伝えるなら、どのように表現されるのだろうかと、考える方がよいように思われる。おそらく、本質は不変だろうから。「獣」「獣の像」をあまり具体的にしてしまうと、すぐ陳腐化することになるかもしれないが、まずは、わかりやすい表現を探してみるのもよいかもしれない。
Rev 20:4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
気になることが二つあった。一つは「裁くことが許されていた」という表現である。それが、キリストと共なる千年の間の統治につながっている。判断が任せられるなど、抽象的にとることはできるであろうが、永遠のいのちに生きるものの、それが願いなのだろうか。互いに愛し合うことではない、本質的なものを、わたしは見落としているのであろうか。そして、もう一つが「首をはねられた(pelekizw: to cut off with an axe, to behead)」である。当時、処刑では、首をはねられたひとが多かったのだろうか。受け取り手は、他の様々な迫害による死を思ったであろう。わたしは、何を望んでいるのだろうか。この光景とは、あまりに、異なっているものなのだろうか。
Rev 21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
おそらく、後半に書かれている部分が、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙一で表現されている、福音のように思われる。それを受けられない者として、書かれているのが8節である。「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」表現は、多少異なるが、理解できるように思われる。おくびょうな者から始まることも興味深い。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 」(ヨハネの福音書3章19・20節)
Rev 22:8,9 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」
「このことを示してくれた天使」も「この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。」とある。この書の内容も、兄弟姉妹と、変わらないと言うことだろうか。もう少し、正確に読まないといけないが、不思議にも思われる。今回も、読み終わることができたことを感謝しつつ。

BRC2015(1)

Rev1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
ヨハネは、どのように確信していたのだろうか。神から預かった言葉として、読者がこれらの言葉に聞くことを望んでいたろう。しかし、旧約聖書と同様に、聖典とされることを考えていただろうか。そのようなことはおそらく問えないのだろう。それで良いのかもしれない。もう少しよく考えたい。
Rev2:26 しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。
背景を知りたい。おそらく、異端なのだろう。異なった教えに導いていることを示している。知らないことが聖書には、たくさんある。
Rev3:1 サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
このあと3節後半には「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」永遠の命をもって生きることの影響がここにひとつ書かれている。ヨハネ5章25節「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」が響いてくる。忠実な賢い僕として生きるために。
Rev4:11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」
ヨハネはどこでこれこそ神の啓示だと理解したのだろうか。玉座とその周辺の記述はたしかに伝統的な解釈と新たな要素を含んでいるように思われる。しかし、この11節の言葉を聞いたとき、これは、自分の信じる神様のこととして、自分をその一員の中においたのではないだろうか。聖書記者にとっての啓示としての認識についても、いつかしっかり考えてみたい。
Rev5:5 すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
2節にある「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」への応答である。開くのにふさわしい者であることは、良いとして、気になるのは、勝利を得たという表現である。特定のことを成し遂げたために、それが可能になったと読める。問いが「だれか」であることを考えると、そのことによって「開くのにふさわしい者」になったのだろうか。
Rev6:10,11 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
興味深い問いと、不思議な答えである。答えの前半は、復活の時に完全な救いに入れられる保証が、この人たちに与えられたことを意味しているのだろう。それは、問いを発した者へ平和を与えることでもある。後半には「仲間の僕である者たちの数が満ちるまで」とある。単に数の問題なのだろうか。慈愛と寛容故に待っておられると言うことか。最終的には「しばらく静かに待つように」である。神には、神のお考えがあり、すべては明かされていないのかもしれない。
Rev7:9,10 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
4節の「十四万四千人」が何を意味するのかわからないが、ここに書かれているのは、神に義と認められた人たちだろう。神と子羊のもの。これが表現するものは、何だろう。単に事実を述べているのだろうか。栄光を帰しているのだろうか。
Rev8:13 また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」
たしかに災いが待っている。しかし、神の御手のうちに起こっていることであれば、もう不幸という次元で語られないものではないだろうか。しかし、それですべての災いを受け入れて良いのだろうか。災いの問題は、じっくり考えてみたい。おそらく、そう簡単に答えられるものではないのだろう。
Rev9:4-6 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。 殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。
神が善しとしてくださる人たちが、このように苦しむことがある。そして、それを神は許されている。その理由を問うこと、それを説明することはできないのだろう。神を信じ、キリストに希望を置き、互いに愛し合うこと、そこに尽きるのかもしれない。
Rev10:11 すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
これが「もろもろの国民」「すべての人」の意味なのかもしれない。英語「 Then I was told, “You must prophesy again about many peoples, nations, languages and kings.”」となっている。切り口の違いだろうか。
Rev11:2,3 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」
同じ期間を指しているのだろうか。この二人の証人はどのような人たちを指すのか。いろいろと疑問がおこる。異邦人の庭をこのように表現することにも驚かされる。さらに、7節では「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。」聖書は本当にわからないことだらけ。
Rev12:6 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
この期間も千二百六十日なにか特別な意味があるのだろうか。完全x完全の49週ではないということだろうか。正直、ここにこだわることは、実を結ばないようにも思われる。
Rev13:5 この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
「十本の角と七つの頭」(1節)を持ち、竜に「自分の力と王座と大きな権威」を与えられ「人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。『だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。』」(4節)としている。そしてここでも期間は「四十二か月」とされている。神に、そして御子に希望を置くことができないことが言われているのか。最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
Rev14:9,10 また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。
13章の記述からして、このことに抗うのは、困難である。この段落は「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。」(12節)で結ばれている。このことは、確かであっても、神が救われる基準は、本当にここにあるような者なのだろうか。キリストに似たものとされる基準は、まさに、地上でキリストと似たものでないといけないのか。
Rev15:1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。
最後に至までの災いについてある程度理解できるが、主の御心がすべての人が救われることということとは、やはり反するように思われる。結果もそうであるが、それにいたる中で、神の恵みと救いが明らかであるかが重要であると思われるが、それは、ここには見えない。非常に部分的な叙述のように思われる。どうなのだろうか。
Rev16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。
神の御心がなったのだろう。しかし、わたしには、よくわからない。そして、よく考えたい。
Rev17:13,14 この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣にゆだねる。 この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」
「心を一つにして」は、特に日本人にとってかもしれないが、よい印象をうけるが、ここでは、悪い意味に使われている。似た言葉は、17節には「神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。」とある。背景に神がおられることが証されている。任せられているのか、そのように仕向けておられるのかは不明であるが。
Rev18:19 彼らは頭に塵をかぶり、泣き悲しんで、こう叫んだ。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/海に船を持つ者が皆、/この都で、高価な物を取り引きし、/豊かになったのに、/ひとときの間に荒れ果ててしまうとは。」
価値の逆転を意味しているのだろうか。しかし、善と悪の戦いという表現が、聖書全体と整合性があるのかどうかは不明である。善である神は、悪と戦われる必要はあるのか。完全に善にはなりえない、人間を、善と悪の二つに分けることができるのか。さばきのときは、来る。そしてそこで、主と似たものとされる希望を持っている。光のもとにこようとしない者は、その機会をうしなう。もう少し学びたい。
Rev19:7,8 わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」
花嫁はおそらく単数、衣は、聖なる者たちの行いである。聖書記者の問題はおいても、ヨハネ的に考え、信じることと行為は同義、すくなくとも区別しないで使われている。このあとに天使の宣言「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」が続く。やはり花嫁は特定しにくいが、通常は教会と解釈するのだろう。エペソ5:23-25参照「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」(23節)
Rev20:4,5 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
正直これが決定的な記述なのか、わたしにはわからない。聖書だから正しいという議論は、別のことである。おそらくそのようにして、思考停止にすることが楽かもしれないが。ここで表現されているのは、千年王国といわれるものの前に殉教者が復活することである。そして、イエスとともに統治する。殉教者がどうなるのかが、当時の大きな関心事だったのだろう。しかし、それはまた、殉教を美化することにもつながったろう。このような記述で、神への信仰が正確に表現されるのだろうか。
Rev21:9,10 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」 この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。
妻については、とても興味がある。ここで示されているのは、新たなる聖なる都エルサレムということであろう。豪華な装飾を見て取ることができるが、人はいないのだろうか。小羊と一心同体となる妻について、もっと知りたい。
Rev22:14,15 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
明確ではないが、聖なる都の中にいるのは「自分の衣を洗い清め」た者。その外にいる者は「すべて偽りを好み、また行う者」ということだろう。しかし、ここには、小羊との動的な関係、結びつきは記述されていない。これが、聖書の最後に置かれていることは、少し寂しい。なにか、これこそ人間のなせる業と思わされる。

BRC2015(2)

Rev1:1,2 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
啓示がキリストからであることと、天使を通して、僕ヨハネに伝えられたことが書かれている。2節はおそらく、ヨハネの紹介として書かれたものであろう。しかし同時に、イエス・キリストから来たものであることを証言している文章でもある。むろん、ここに書かれていることが「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになった」ものであることについて、確証を得ることはできないであろうが。
Rev2:1 エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。 
教会の天使に送っておりかつその後にキリストと思われる方の様々な表現が続く。どちらも、十分には、理解できない。教会の天使は、個人あてにではなく、公同の教会の一部として使いから知らされる形式をとっているのか。たしかに、個人や代表宛でもなく、教会宛でもないことに、ある意義があるように思われる。エフェソには「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」という表現が用いられているが、権威と全体を照らす光という意味だろうか。これらは、おそらく、当時の人にとって何らかの意味を持っていたろう。いずれ、学んでみたい。それによって、受け取るものたちの受け取り方も異なるだろうから。
Rev3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
「共に食事をする」ことは何を意味しているのだろう。平和のうちの豊かな交わりのとき、同じ食物、神様からの霊の食物、いのちのパンだろうかをともに食すること。いのちのもとを共有すること。ひとつとされること。神の食卓にあずかること、だろうか。
Rev4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
四福音書が対応しているとして、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順が例としてあげられる。著者の意図はどうだったのだろうか。4節には「また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。」とあり、十二部族の二倍の数がここにある。十二使徒が意識されているのだろうか。異邦人などを含めて、新たなグループが想定されているのか。生き物は、ケルビムを想起させる。これも、二倍の数と言うことか。想像は、この程度にしよう。
Rev5:8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。
巻物と四つの生き物と二十四人の長老。ここまでの重要な要素が並んでいる。そして、香である。香は「聖なる者たちの祈り」。この中で、神の意思が示されると言うことだろうか。そして、ヨハネが代表として、それを受け取る。もう少し、全体的な構図を学んでみたい。
Rev6:17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
「神と小羊の怒りの大いなる日」の記述である。小羊により七つの封印が開かれる。第四までは、様々な色の馬に乗った人が現れ、戦いがあり、平和が奪い取られ、経済危機が起こり、飢えと飢饉によって多くの人が死ぬ。第五・第六では、正義がなく忍耐が求められ、天変地異が起こる。一つ一つ記者が伝えたいことを理解したい。
Rev7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」 
第六の封印が開かれ、第七の封印が開かれる前である。十四万四千人や、大群衆をどう解釈するかはわからないが、導かれる小羊が書かれ、命の泉へと導かれることが書かれている。表現することは、おそらくとても困難だろう。
Rev8:1 小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。
この沈黙は何であろうか。このあと、3節には「また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。」とある。祈りが必要な状態、厳しいさばきのなかで、神の意思を確認することが言われているのかもしれない。同時に、黙示は、どのように理解したら良いか、わたしは、理解できていない共思う。黙示録記者は、何を伝えたかったのだろう。
Rev9:4,5 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。 殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。
裁きの厳しさが述べられているのであろうが、正直よくわからない。もし、これが神の意思であるとすると、神はこの裁きを通して何を願っているのだろうか。この章の終わりには、それでも、悔い改めないことが書かれているが、これで悔い改めが為されるのだろうか。とはいえ、何が解決策なのか、わたしも分からない。
Rev10:8 すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」
正直わたしには、わからない。実際に、このような声を聞いたのだろう。それをどのように客観的に神からの啓示とするのか。内容を検証することはないのか。教会がそれを決めるのか。一つの証として丁寧に読んでいくことは続けたい。
Rev11:1,2 それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。
エルサレムの神殿ではないだろう。霊的な天の神殿である。神殿の外の庭は何を意味しているのだろう。通常、異邦人の庭と言われている場所が想定されているのは確かだろうが、そこは、異邦人に与えられ、踏みにじられるとある。神殿で礼拝している者は、すでに、国籍は問われていないこともあると思われる。小さな巻物と10章にあるものについて、ゆっくり見ていきたい。
Rev12:7-9 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
勝利の様子を伝えたかったのかもしれない。キリストが世に勝っている状態を、わかりやすく説明する効果があるのかもしれない。不明ではあるが。
Rev13:4 竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」
竜が最後の最後まで力をもって戦う現実も示す必要があったのだろう。黙示録が書かれた時点では、かなりの迫害が波状的に起こっていたと思われる。キリストの勝利と、竜が力をもつ現実、これを当時ある程度定式化していた黙示文学という形式を用いて知らせ、苦悩の中にいる人たちを、力づけることが、この書の目的だったかもしれない。
Rev14:13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
12節には「忍耐」について書かれている。忍耐をもって「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続け」るものに与えられる安らぎなのだろう。そのような時まで、忍耐をもって、神が愛してくださったことを覚え、隣人を愛し、主イエスキリストにある希望しっかりもって一日一日を歩んでいきたい。
Rev15:3,4 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、/あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。諸国の民の王よ、/あなたの道は正しく、また、真実なもの。 主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。」 
「神の怒り」が表される「最後の七つの災いを携え」た「七人の天使」(1節)について書かれていると同時に、讃美が書かれている。この時には、まだ災いはあっても、讃美を聞くことができることを述べたものか。希望を与えるものなのかもしれない。非常な苦しみの中にいた人たちも多いだろうから。
Rev16:2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。
「七人の天使」が「七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注」(1節)ぐ、一つ目である。最後の裁きは「獣の刻印を押されている人間たち」に対してである。これも、ひとつのメッセージなのだろう。耐え忍ぶための。いろいろと考えさせられる。
Rev17:16,17 また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。 神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。
正直よくわからない。構造すらも、よく見えない。しかし、複雑なものもあるのだろう。目をさましていよう。それで、見極めることがでいるかどうか、わからないが。
Rev18:6 彼女がしたとおりに、/彼女に仕返しせよ、/彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、/その倍も注いでやれ。
2節にあるように「大バビロン」「悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟」に関するものである。しかし、仕返しに同意できない。このような感情は、簡単に人間に対しても向けられるからである。そのような私の考え方は、間違っているのかもしれないし、ヨハネの時代より福音理解が深化したのかもしれない。それを決めることはできないだろう。おそらく両面があるのではないだろうか。謙虚に求めていきたい。
Rev19:10 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」 
天使についても、いつか学んでみたい。ここで、同じ神に仕える者だとしているのは、重要である。まさに、われわれひとり一人と同じなのである。わたしたちも神に仕えるものだから。
Rev20:4,5 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
千年王国のときの第一の復活について述べられている。そして、それが、幸いな者、聖なる者とされる。まず、第一印象は、なかなか完全な世の終わりが来ないこと。この第一の復活までも非常に様々な行程があることである。それを伝えたかったかどうかは別として、それも伝わったことは確かだろう。世の終わりが切迫していると考えていた人たちにとっては、簡単には理解できない世界だったかもしれない。
Rev21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
「新しい天と新しい地」(1節)の出現、やっと最後に至っているようである。最後に起こることは、この「命の水の泉」から飲むことができる祝福である。これは、神にとってなにを意味しているのだろう。
Rev22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
「病を治す」とあるということは、病はあるのか。肉体があるということなのだろうか。あまり詮索せず、苦しみ続けることはないことの表現ととるのがよいのだろうか。いずれにしても、平和な状態を想像することは、それほど簡単ではない。かえって、重い荷を負いつつ、神様が望まれることを問いながら、目標を定め、一歩一歩足下を確認し、少しずつ修正しながら生きていく幸いのほうがイメージしやすい。それが永遠の命に生きることのように思われる。
2016年12月12日(通読計画では2016年12月25日読了。サポートレターのため先を読んでいるためこの日に読了。)

BRC2013(1)

Rev1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
「御使をつかわして」を十分は理解できないが、啓示を受けたと言うことであろう。理解しにくい場合は、どう考えたら良いのだろうか。おそらく、ヨハネもすべてはその意味を理解していないであろう。
Rev2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
わたしは、最近、イエスを知りたいという情熱が次第に強くなってきているように思う。これが続くように。これが冷えないように祈りたい。
Rev3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
わたしたちがすることは「わたし(主)の声を聞いて戸をあけること」。これは、簡単ではないのだろうか。そして、食を共にする。これが天国の食卓か。感覚ではなく、もうすこしていねいに理解したい。
Rev4:2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
ここが、ヨハネの黙示録の原点なのかもしれない。
Rev5:9,10 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
差別がないことと同時に、選別ではないが、全員でも無いことが、暗示されている。その部分は、しっかりと理解したい。
Rev6:12,13 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
これを解釈することはしまい。全体として何を伝えようとしているのかは知りたい。堪え忍ぶことだろうか。しかし、同時に混乱も助長したのではないだろうか。それは、どの世界、どの時代にもあることか。
Rev7:4 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
これを文字通りにとり、この十四万四千人を特定しようなどとすることは、愚かなことに思える。同時に、なにを意味しているのか、そのメッセージをも読み取りたいと思うが、それができない。
Rev8:13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。
イチローは「自分はまだ苦しみ方が足りない」と言っていた。わたしもまだ十分苦しんでいない、もっと成長したいと願っている。ここで言われている苦しみとは異なるのかも知れないが。神様に鍛えていたたき錬られた品性を身につけたい。
Rev9:20,21 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。 また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。
これも、このうちの幾人かが悔い改めるためであるかも知れない。同時に、人間の罪と悪は絶えることがないことも表している。
Rev10:7 第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。
このときをまっているのか。神の奥義の成就、しっかり理解したい。
Rev11:2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。
異邦人の庭のことを言っているのであろう。しかし、もしかすると、主の名を呼び求める者は、すでに、異邦人ではないのかも知れない。
Rev12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
地に投げ落とされては不都合とも考えてしまうが、7節によれば「ミカエルとその御使たち」が「この巨大な龍」にすでに勝利しているのである。それが今の状態の表現であろうか。
Rev13:16,17 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
ここはネロの時代を語っていると言われているが、このように、信仰から、引き離そうとすることは、あるのだろうか。よく分からない。
Rev14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
忍耐についても、学びたい。互いに愛し続ける、これも忍耐が必要なのだろうか。
Rev15:8 すると、聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ、七人の御使の七つの災害が終ってしまうまでは、だれも聖所にはいることができなかった。
最後の災厄である。いままで、これらは、人々が悔い改めるまで、神が時を延ばしてきたことを表していると考えていたが、そう単純ではないのかも知れない。
Rev16:11 その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。
ここでは、悔い改めないことを確認しているのか。正直、黙示録を理解することは不可能のようにも思われる。いつか、一回は学んでみたいが。
Rev17:15 御使はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。
あまりによく分からない。これを解く鍵を学びたいが同時に、これを無視したときの問題点もさぐりたい。理解できないのは、私だけではないであろうから。
Rev18:7 彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。
「高ぶり、ぜいたく」これが常態化してしまうことが、神に反抗することなのかもしれない。神の真の姿、そして、イエスキリストを知らないことがやはり背景に色濃くある。
Rev19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
この花嫁は、教会、または信徒なのだろうか。子羊は、イエスであろう。とすると、この時までは、結婚はしていないということか。急に花嫁が現れ、よく分からない。読み飛ばしてきたのかも知れない。
Rev20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
いまは、そのときに至ってこないことは、明らか。まだまだ先のことなのだろう。
Rev21:3,4 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
神の国は、このようなものか。しかし、ひととひととがどのような状態にあるのかは、気になる。神との関係の改善によって、人と人との関係も改善されることは、よいとしてどのように表現される世界なのだろう。それが知りたい。
Rev22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
主の再臨は一定の時を言っているのではないのだろうか。まだだけれども、すぐそこにおられる信仰について言っているのか。

BRC2013(2)

Rev1:7 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
「ことに」とある。そして、地上の諸侯がみな胸を打って嘆く。神様の賛美につながるのだろうか。そのような世界を見てみたい。
Rev2:4,5 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
誤った教え、偽預言者との戦いを忍耐して戦い続けた人たち。しかし、愛が冷えてしまう。Mt24:12 実際にそのような状況があったのだろう。
Rev3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
これは信仰による。自分の中に力がなくても、神により頼む事で、それが可能である事を知っている。つねに働いておられる神を信頼する事。このように表現数r事は可能であるが、もう少し理解を深めたい。
 
Rev4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
「後に起こるべきこと」を知ることは、どれほど意味があるのだろう。興味は持っているだろうが。イエスは、違うアプローチをされている。ここでも、「後に起こるべきこと」を知ることによって、いまをどう生きるかを問うているのだろうか。
 
Rev5:6 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
「ほふられたとみえる小羊」は無論、イエスのことだろうが、このように書かれるととても痛々しい。いまも、そうなのだろうか。今も、イエスは、痛みを身に負っておられるのだろうか。勝利と栄光に輝いておられるのかと思ったが、同時に、このようにも表現できるのかもしれない。
 
Rev6:4 すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。
「人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され」なんと悲しい。現在も世界中何カ所でもこのことが起こっている。そして、負の連鎖と言われるように、殺し合いのあとには、相手をゆるすことができない、和解することができない、妥協をゆるせない状況が訪れている。まさに、平和が奪い取られた世界である。それを許されている。ひとには、受け入れることはできない。
 
Rev7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
これが望んでいることの表現だろう。人によって多少異なると言うと、語弊があるかもしれないが。わたしは、何を望んでいるだろうか。
 
Rev8:12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
昼も一部暗くなる、つまり、光を失うことを言っているのだる。10節には「にがよもぎ」のことが書かれている。チェルノブイリなど、様々な想像をかき立てる。光を一部失う中で、希望を持ち続ける。信仰が試されると同時に、そのなかで愛し合うことこそが、光となるのだろう。それが証。
 
Rev9:15 すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。
11節には「わざわい」と書かれている。これはまだ最後のさばきではないのか。何を伝えようとしているのだろう。これが書かれた当時の人たちの忍耐を試す為だろうか。苦難の意味を伝え、希望を持ち続けることを教える為だろうか。よくわからない。
 
Rev10:6 天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った、「もう時がない。
時がないことを喜ぶのは、神様の苦しみを苦しみとしないことなのかもしれない。しかし、よくわからない。この章は。
 
Rev11:4 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。
1260日証をする人たち。打ち捨てられ、死体もさらしものにされる。なにを言っているのだろう。裁きの根拠を明らかにする為か。
 
Rev12:17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。
8節にあるように、天では天使達と戦って勝てなかった龍(サタン 9節)が地上で神の子(神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者)等と戦うという記述である。同じ女の子であるという記述が興味深い。養子ではない。
 
Rev13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
11節から始まる「他の獣」についての記述である。際立っているように思われる。そして、最後は「その数字は六百六十六である。」で終わっている。ネロ皇帝のギリシャ語表記、NEROON KAISAR をヘブル語表記(Nrwn Ksr)し、その対応する数を足し合わせたもの。この迫害が記されているとして良いのだろうか。メッセージはどこにあるのだろう。
 
Rev14:9,10 ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
ここにも「神の怒りの杯」が現れる。イエスは、キリストは、それを飲み干す以外にないことを、ゲッセマネで確認したのか。12節にあるように「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」忍耐が求められる。目を覚ましてイエスとともに祈ることが。(Mt26:34)
Rev15:2 またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。
忍耐をし続けたものたちの姿がここにある。ここに連なることをイメージさせるために、それによって励ましを与えるために、この黙示録は書かれたのだろうか。しかし、この情景表現はむずかしい。
Rev16:8,9 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。 人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
第一の者が杯を傾けるところから、裁きがはじまる。この第四の者と、続く第五の者の記述に、悔い改めることをしなかったことが書かれている。これらの裁きの目的が、幾人かでも救おうとすることと結論するのは、あまりに、ヒューマニステックなように思われる。少なくとも、この聖書の箇所からは、そうはとれないだろう。
Rev17:18 あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。
ここでも都は女性になぞらえられている。マタイ25:21では「シオンの女」が現れる。なにか理由があるのか。単なる習慣か。
Rev18:11 また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。
彼女はバビロンとなっている。神の価値観とは異なるものに、価値をおいてきたものということであろうか。ここでは、彼女と姦淫を行ったもの(9節)ともなっている。もう少し、整理して表現したい。
 
Rev19:10 そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。
彼は9節によると御使である。御使もしもべ仲間。みな兄弟である。預言の霊によって証をするのみ。
 
Rev20:4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
5節にあるようにこれが「これが第一の復活である。」についての記述である。そして6節にあるように「この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。」その直前には「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。」であるが、わたしには、それがわからない。当時の人たちのさいわいについての表現なのかもしれない。そして今もそのように考える人もいるのだろう。聖書が人を通して書かれていることからくる難しさでもある。
 
Rev21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
22節には「わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。」とある。これが本来の姿なのだろう。そして、ここでは「神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかり」さらに26節にあるように「人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。」これらが想像される最高なのだろう。
Rev22:3,4 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
これが、最終的な形であろう。想像はできないが、裁きをも含めて、悔い改めと、神と喜びをともにする生活を求め、それを分かち合っていきたい。感謝のうちに。
 


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あとがきに変えて

通読について

わたしは、読む力がある限り通読を続けたいと思っています。深く考える聖書の学びとは、違う気づきがあります。とはいえ、やはり、いつまで続けられるかなと最近、考えています。

ご意見・リクエストがあれば、お寄せください。

聖書記者について

サポートレターでは、それぞれの巻について少しずつ書きましたが、難しかったのは著者です。著者について聖書に書いてないものもありますし、書いてあっても、様々な理由から、それが著者ではないと言われているものも多くあります。わたしは聖書学者ではありませんから、その一つ一つについては論じませんでした。また、聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻となっていますが、この成り立ちについても、ここには、書けませんでした。疑問として考えたことを二つ書きます。
Q1. 本人とは異なるひとが他の著者を名乗るなどということがあっても良いのだろうか。
Q2. 聖書は神の言葉だというとき、この著者問題はどのように考えたらよいのだろうか。
Q1について、アカデミックな世界では剽窃は大変な問題ですが、そのようなことは、聖書においては問題にならないのだろうかという疑問を呈することもできるでしょう。神の霊、聖霊に導かれて書かれたというときによく次の二カ所が引用されます。
テモテへの第二の手紙3章16節
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
ペテロの第二の手紙1章20節・21節
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
しかし、この二書も、実際の著者は、著者とされているパウロやペテロとは、異なるだろうとされています。

一つの解決(?)は、「聖書は誤りなき神の言葉である」という信仰の表明をこのことにも適用して、信じることにし、そのように疑問を持つことをやめてしまうことです。キリスト教会にはそのような立場をとる人たちもたくさんいます。もう一つのグループはひとのなせるわざとして、その当時の必要からペテロやパウロの名前を利用したりすることは当然だとして、または、純粋に(明確な根拠を問う)学問として合理的な理由を提案する人たちです。いずれにしても、歴史的証拠は非常に少なく、決定的な結論を出すことは難しいように思われます。正直に書くと、わたしは、このどちらの立場にも疑問を感じます。

混乱したまま終わるのは適切ではないと思うので、最後にわたしの考えを簡単にまとめておきます。

まず、著者に対する最初の疑問は、まったくお門違いだということです。キリスト教会は最初のころも、一枚岩とはいえなかったと思いますが、いまとは比較にならないほど、一致が守られていたと言うことです。それは、現代のキリスト教会が数え切れないほどの宗派に分かれている状態から推察されるべきではなく、多くのことが、信仰共同体の共通知、またよく使われていた表現だということです。以前「ICUの一般教育」という文章をまとめたことがありました。書き下ろしといっても良いものですが、おそらく7割程度の文章は、いままですでに何かに書いてあった文章の焼き直しになりました。かつ書いてからだれの文章にしようか考えるのです。大学の名前にするか、学長の名前にするか、教養学部長の名前にするか、一般教育委員会の名前にするか、わたしの個人の名前にするか。なんらかの承認は大学では必要ですが、目的に応じて著者をきめています。

次に注意すべき事は、聖書から教義が出てくるのであって、それも、いろいろな問題を背景として、その問題を整理するために、教義ができるのであって、教義をもとにして聖書を読むのは、本末転倒だということです。読むのは、聖書自体であって、聞いたことのある教義を読み取ろうとするのは、誤りだと思います。それぞれの巻がなにを伝えようとしているかに、向き合うべきです。教義は、全体として、整合性のある、理解をするための面もありますが、同時に、コミュニティないに、様々な問題が生じたときに、その時々に、それらの問題に対応するために、整備されていったものという面が大きいように思います。つまり、(現代とは、かなり異なる可能性も高い)歴史的背景があるということです。

三番目に、現在の聖書は、キリスト教の歴史のなかでかなり早い時点で、確定していたということです。その時期は多少議論があるので、ここには書きませんが、歴史的に、現在の聖書が他の書物とは異なるとして特別なものとされてきた、そのように告白されてきたということです。それが聖書ですから、その聖書をわれわれが読んでいるわけです。この過程が完璧であったかどうか、わたしにも分かりませんが、この聖書をしっかりとまずは読みたいですね。

最後に、聖書は、そして特に新約聖書の書かれた目的は、次の、聖句に要約されているということです。

ヨハネによる福音書20章31節
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネの手紙一1章3節
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

聖書記者が何を伝えたいと思って書いたのかから離れないようにして、今後も聖書を読んでいきたいと思っています。わたしが時折、聖書記者は何を伝えようとしているのかを受け取ることをまずしたいと書く理由でもあります。


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登録人数は以下の通り
BRC 2021から継続: 79人

卒業などで、メールが届かなくなった方は、省いています。私は人数に入れていません。

2022.12.31


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