Last Update : July 13, 2001

高校以上の数学は何のためか

2001 C-Week Open Lecture

鈴木寛
2001年5月22日

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C-Week Open Lecture?

今回、キリスト教週間のオープンレクチャー担当の学生から公開授業を頼まれた時は正直言って当惑してしまいました。C-Week のオープンレクチャーであること、そしてテーマが「光」だということ。どちらも、この「数学の方法」の授業とはかけはなれていると思えたからです。しかし、私がこの大学に8年程前に移ってきたのは、この大学がキリスト教主義大学で、かつ、教授会メンバーはクリスチャンという「キリスト教条項」とよばれる一般大学としては「異常」な方針を掲げているということが主たる理由でした。それゆえに、キリスト教週間の行事は、赴任した最初の年から極力すべて出席するようにしてきました。何か頼まれれば、もちろんお引受けする以外に私には選択肢はないように思われました。

そこで選んだのが本日のテーマです。「高校以上の数学は何のためか?」このコースの内容は、集合と論理、線形代数、微分積分で、このテーマは最初の予定に入っていなかったものですが、最近、私がおりに触れて考えているテーマでもありますし、「ICUにおける数学教育は何をすべきか」とも密接に関わる問題ですから、皆さんにも一緒に考えていただきたいと思います。実は、このコースは今年から始まった新しいコースですが、私が是非、このようなコースを作るべきだと主張してつくっていただいたコースですから、このテーマはこのコースと切っても切れない関係にあることも確かなのです。

今朝 C-Week の早朝礼拝のあとで、宗務部長の森本あんり牧師から「先生のオープンレクチャーのテーマは、C-Week のテーマと関連があるのですか。」と聞かれてしまいました。「関係があると良いのですが、ともかく努力します」とお返事しました。どうなりますか。正直心配です。

Motivation

ICUに来てからのことですが、ある時、ある大学院生から「先生たちの殆んどはそれぞれの授業で何を教えるべきかを考えていないのではないか。特に、一般教育科目でそれぞれの分野で何を教えるべきなのか真剣に考えている先生がたくさんいるとは思えない。」と言われてしまいました。ICU生らしいなかなか辛口のコメントですね。実はそのころ私は、はじめてそう言った問題を考えはじめたところだったのですが、「その通りかも知れない」としか言えませんでした。情けないことですね。私は、数学を教えはじめてから23年ほどたっています。アメリカで3年、大阪で13年、ICUで7年です。それでいて何を教えるか考えていなかったというのですから、悲しいことです。まず、今まで私は何をしてきたかを振り返り、皆さんにお話することは、ざんげ録的な意味合いもあり、C-Week にある意味でふさわしいのかと思っています。

しかし、まず皆さんにお話しておきたいのは、今までの私の歩みは今から考えると大分間違っていると思っていますが、それぞれの時に真剣に歩んできたということです。

今週の日曜日のICU教会では、山本香織先生のメッセージでしたが、新約聖書のピリピ人への手紙3章12節から14節の箇所から話されました。

12: わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者とな っているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めている のです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
13: 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべ きことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14: 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得る ために、目標を目指してひたすら走ることです。
私のホームページからもリンクがある理学科のホームページにメッセージが載っていますから、興味のある方は読んでみて下さい。内容には触れませんが、「自分はまだとらえてはいないが、目標を目指してひたすら走っているのだ。自分をそのように駆り立てるのは、自分がキリストにとらえられているからだ」という箇所です。私は、現在数学の先生をしていますが、数学を教えるものとして生きるこの私を神様が善しとして下さることを願い、神様の善しとされることをもとめつつ、いきていきたいと願っています。

前任校で

私の前任校は教員養成大学でした。今は、教員になることが簡単ではありませんが、当初はこの大学に入ってくる学生は、ほとんどが教員を目指していました。私が属していたのは、数学の教員を養成する学科でしたから、学生はほとんどが中学や高校の教員として一生数学と関わっていく学生たちでした。

私のしていたことは、トップの何人か数学の研究ができそうな能力を持っているものを見い出すこと。あとの学生には、与えられた科目はしっかり教えるが、中心的には課外活動で、人生を共有する。そして何人かは研究者となりました。ある意味で、自分が教えている数学は、ほとんどの学生にとって、必要ではないのではないかとの恐れを持っていたのかも知れません。学生に「教員になるなら、自分で数学のカリキュラム全体を作れるぐらいの教員になって欲しい、そのためには、大学での数学を学ぶことは必ず益になる。」とか「教える次のレベルの数学を勉強して始めて、教壇に立てるものだ」などとは言っていましたが、偉そうに言いつつも正直、自分でも大学レベルの数学を教える意義をよく考えていたわけではありませんでした。もちろん、学生も大学レベルの数学を学ぶ意義について十分理解してはいなかったでしょう。そのような学生が、今、中学、高校の教員になっているわけです。今でも親しくしている卒業生がたくさんいて、時にはアドバイスを求められたりもしますが、現場で教えている彼らから教えられることの方がずっと多いと同時に、当時の自分の無知と、無力さ、無責任さを思い、個人的にとても責任を感じます。

楽しい思い出はたくさんあります。旅行、スキー、ゼミのあとはいつもなにか一緒にして遊んでいた気がします。数学以外ではなかなか濃い関係を持っていました。それはちょっとおかしいと思いつつも。この大学に来てからあまり学生は遊んでくれませんね。学生も、教員も忙しい大学です。ともかく、教壇で私が何を教えるべきか、良くは考えませんでしたし、当然分かっていなかったと思っています。今も実はよくわからないのですが。

もう一つ私には、数学教育という分野に対する、抵抗感がありました。学生は卒業研究で純粋数学か、数学教育を選ぶのですが、純粋数学はよくわからないし大変そうだから、これ以上苦しみたくないから数学教育を選ぶという学生が実際何人もいました。私のような教員が数学の楽しみを教えられず、何のために難しいことをそれも実際使うと思えないことを苦労して勉強するのかという問いに答えられなかったのですから、当然かも知れませんが。そして数学教育という分野でやっていることも、なぜ数学を勉強するのか、数学では何を教えるべきかというより、どう教えるかという技術論と国際教育比較が中心に見えたからです。これは、多分に私が真剣に求めていなかったから、また、私の無知によることだと知ったのはずっと後のことです。また、数学の専門家が数学教育について語るとき、数学者となるための基礎教育にしか目が行っていないことにもなんとなく違和感を感じ、数学教育という分野自体がなんともちぐはぐな近寄らない方がよい分野にみえたというのが偽らざる気持だと思います。

高校以上の数学は何のためか

そろそろ本題に入りたいと思います。「高校以上の数学」についてまず問題点をあげてみましょう。

問題点:

繰り返しになりますが、結局数学の魅力を教えていない。また、自分の通ってきた道における数学しか視界に入っておらず人間にとって基本的な営みにおける「数学」について見直しがされていない。この大学の言葉を使うとリベラル・アーツとしての視点が欠けているということでしょうか。

数学を学ぶ意義

では、数学はなんのために学ぶのでしょうか。この授業の最初に皆さんに書いて頂いた「高校以上の数学は何のためか」を重複は適当に省いて、列挙してみましょう。

学生からのメッセージ:AY2001

  1. 哲学と同じで、考える愉しみを味わうためのもの。
  2. ロジカルに物事を考える手段ではないでしょうか(文系にとって)。
  3. 自分の職業の基礎に数学が必要ならばその基礎のため。その他の人には論理的思考の涵養が主だと思う。もちろん、ひたすら学ぶこと自体が目的であるということもありだろう。
  4. 高校までは小中の延長。ただもっと理論的なことから入ってもいいと思う。
  5. 抽象的なことがらを理論立てて考える訓練。
  6. わからない。生活上(日常)あまり高校以上の数学は使わないので。興味のため?
  7. “高校以上の数学”の概念がよくわからないのでなんとも言えないが、社会が発展するためのtoolなのではないでしょうか。それは、論理的思考という面もあるし、技術発展のベースという側面があると思います。
  8. 実際に科学技術などに応用するためのもの。
  9. 論理的思考力を磨くもの。また、社会科学などその他の学問にも応用したい。
  10. 日常で数学を使うことは計算くらいしかないので、教養だと思う。
  11. わかりません。脳の訓練?
  12. NSの人:研究のため。以外の人:楽しみ。
  13. 専門分野で使う数学の学習。
  14. 以前も書いたようにも思えますが、より実践的なものに用いられるように学ぶ。
  15. 世の中のしくみなどをより分かりやすくとらえるための道具として使えれば良いと思います。
  16. 高校までの数学がなんのためだったという前提なのかが謎ですが、自分は教養、論理的思考の訓練だと解釈しています。
  17. 数学を学ぶ意味、目的を見つけたいです。一体何のためにこんなことをしなきゃいけないの!役に立たないし!と思いがちでした。
  18. 現象を数式であらわすためのもの。
  19. 世界平和のための道具。
  20. 必要。自分自身、大学で数学嫌いが数学好きになったから。
  21. 知識、社会で働きに出たとき、数学と向き合う機会は多いはずなので。また、いろんなことを分析していくのに役立つはず。
  22. 知的な遊び・楽しみの増幅。
  23. 理系を専攻する人には将来その知識を用いて、世の中へ利益をもたらす為。それ以外の人は社会生活を送る上での必要あるもの。
  24. 思考の訓練のため。というのも1つの目的だと思う。
  25. 実生活への応用。思想としての数学を学ぶため。
  26. 正直よく分かりません。
  27. 高校の数学も何のためだかわかりませんが(日常生活においてあまり必要性がないと思っています)、高校以上の数学は人類の科学技術発達のため、より豊かな生活のため、問題解決のため、意思決定のために必要だと思います。けれど、高校以上の数学が、一体どんなものかわからないので何とも言えません。
  28. 世界をより深くみるため。
  29. 理系や経済、経営学の分野においては基礎であり学問を助けるもので、実際には数学と関連しない文系の分野では、知的好奇心の対象であったり思考能力を育成するための良い場であったりすると思う。
  30. 様々な考え方ができるようになるための1つの手段としての数学。
  31. 高校以上は、“頭の体操”としての数学であって欲しい。楽しく自分の思考回路を磨くことができるものと思う。
  32. どの学問に応用できるように論理的思考能力を養うため。そして、数学的思考を他の学問の媒体として使えるようにするため。
  33. 数学という一つの分野への限りない追及のため。
  34. 特に目的は無いと思う。高校以上は自主性に任されているのだから、本人に興味があれば良く、それ以上でも以下でもない。目的が欲しければ勝手に創ればよい。
  35. 論理的思考を身につけるため。でも必ずしも高校以上の数学を学ばなければならないとは限らないと思います。
  36. 頭の訓練。物事の原理をよりよく知るため。
  37. 論理的な思考の訓練のため。
  38. 脳の活性化。
  39. 抽象的な思考(ある種の非日常)に出会うため。
  40. 思考力を高める。現状の高校教育では数学や物理などでしか、それが期待できない。
  41. 理論を実際にいかに利用するか。数学的考えを、応用する方法を学ぶためにあると思います。
  42. 新しい考え方を身に付けるため。
  43. 考えて解くものが多いから(公式があるにせよ、考えなければ出来ない)考える力をつけるというか数学的思考で何か他のことを考えるようにできるためか? 正直なところよくわかりません。
  44. 時々、数学をやってハッとするような感動を覚えることがある。その感覚を知るため、とは言っても、僕の場合高校ではそんな体験はなく、予備校もしくは中学の頃読んだガモフ・シリーズなどで感動を経験した。
  45. やることによって論理的思考力をつける為。スキルの獲得。
  46. 知的探究。
  47. 自分の可能性を広げる為。
  48. 数学は、論理的に考える事が必要で、それは他の学問をする時も、必要だから、思考力を養うためだと思う。
  49. 教養のため、かな?(実際に社会で役立つこともあるだろうし)論理的な思考力を養う為。副産物的なものとしては忍耐力がついたりするのかもしれない・・・。私の個人的な理由はやりたい学問に必要で、なかなかおもしろいから、です。
  50. 別に高校以上も以下も同じ。論理的思考を非文系的考察方法で行うことに価値があると思う。
  51. 高校までは受験のためにやってきた気もするので、これからは楽しめて、かつ実社会で応用できるような数学、考え方を身につけることを目標としたいです。
  52. 論理的思考というか、いろんなものごとの考え方とかそういうのを身につけるため・・・でしょうかねえ。
  53. 役に立つ役に立たないとかではなく、好きだったらやればいいと思う。日常生活で微積ができないとこまることはないから。日常生活は四則演算がこなせればなんとかなるし。
  54. 数学で飯を食っていくわけではないので問題が解けた時の喜びを味わうため。
  55. 研究のため。
  56. 日常の生活には必要ないと思う。しかし、大学とかで行うたぐいの学問をする上で、いろいろな問題解決の糸口となるために、必要不可欠なものだと思う。
  57. 論理的に物事をとらえることができるようになるため。
  58. 頭を使うため。趣味。
  59. 高校では受け身だったけど、数学を使った様々な方法に触れて形にはまらずに色々な場で数学的思考を利用して問題を解決することができるようになるため。解くことよりもどうやって答が出せるか考える。おもしろさを追及(問題に取り組むための!)。数学の点とかはテストでよくなかったけど興味はあるので期待しています。
  60. 各専門分野において必要だから。数学の中に美を求める。
  61. 応用的に他の分野で使う。純粋に楽しむため。
  62. やりたいことをやるために必要なもの。
  63. 論理的思考の養成と論理が通用しないこともあるということをあえて知ること。
  64. この社会をもっとよりよく知るため。 %
  65. 趣味。よくわからない。
  66. 論理的思考を身に付ける手段。他にもあると思いますが・・・
  67. 探究心を満たすため。
  68. 社会人として知っておくべき教養のため(?)(もちろん、将来的にそれを用いて仕事をする人もたくさんいますが・・・。またそれを知らない人も・・・。
  69. 何のためかではなく数学そのものの論理性が好きだからやっているので特に目的はない。強いて言えば数学が目的。
  70. 受験や、化学・物理の計算のためではなく、自分の周囲に常に存在する数の世界を計算するため。
  71. 生活の基盤かな?
  72. 高校以上の数学はもしかしてSSに必要かもしれないし、そうでなくても幅広い知識を身につけるのに役立つと思う。
  73. 数学を用いる専門を学ぶため。受験数学に疑問を持つため。
  74. 高校以上に続けるのはただの数字や記号の操作だけでなく、そこから何かを見出すため。
  75. 興味。
  76. 自分の知識欲。

分類してみると大体以下のようになります。

学生へのメッセージ

では、わたしがこの問題に現時点でどのように考えているかをすこし話させて下さい。

1 趣味

大学院生のころ数学は何のために勉強するのだろうかと考えたことがあります。専門家を目指そうとしていたわけですから、重要な問いです。いろいろとその重要性を考え、論理的に証明しようとしたあとで、しかし、自分が数学をする理由は、面白いから、知的好奇心のゆえだというところに行き着きました。このこと自体を誤魔化してはいけないと思っています。この意味では、高度の数学をするのは、「趣味でしょう」というのは当たっていますね。人間がその生の営みの中で感動するものに命をかけるのは、どんな分野でも素晴らしいことですが。

先日、アラムナイ・オープンレクチャーでソニーコンピューターサイエンス研究所の 北野宏明氏が話されました。1984年の理学科卒業生です。ソニーでアイボの開発にたずさわり、2050年にはサッカーのワールドカップの優勝チームとサッカーの試合をするロボットを開発するプロジェクトをだしている人です。面白い話が沢山ありましたが、一つだけお話すると、アイボの開発のとき大事にしたコンセプトは「役に立つものはつくらない」と言うことだったそうです。「役に立つ」ロボットをつくってもそれは必ず淘汰されますし、「人が熱中するのは、役には立たないこと。」だからだと言っておられました。わたしもそのとおりだと思います。人間はそんなものです。それは役にたつかなどとよく問いますが実際自分が打ち込むもの、いくらでもエネルギーを注ぐものは役に立たないものばかりです。私の場合はそのとおりです。皆さんはどうですか。

2 科学における有用性

そうは言ってももちろん有用性は非常に大きいですね。まず「科学」という言葉を復習してみると

大辞林第二版 (三省堂)

(1) 学問的知識。学。個別の専門分野から成る学問の総称。「分科の学」ないしは「百科の学術」に由来する。
(2) 自然や社会など世界の特定領域に関する法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み。実験や観察に基づく経験的実証性と論理的推論に基づく体系的整合性をその特徴とする。研究の対象と方法の違いに応じて自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。狭義には自然科学を指す。

このために数学が必要不可欠なことはいまさら私が述べる必要はないでしょう。しかし確認しておきたいのは、この「論理的推論に基づく体系的整合性」こそは、数学が一番大切にしているもので、この意味で「科学」といわれる全てにおいて数学は必要なはずです。

3 間接的有用性

数学は、思考の論理性を高める、論証力をつけるといった面があります。皆さんもこのことに異論はないと思います。これらは、数学をすることによって最も力がつくことです。実は、数学を専攻とした場合、一番学ぶのはこの論理訓練です。演習やゼミである証明をしたり、教科書のある部分を学生に説明させますが、私の仕事はその論理的ギャップを指摘することです。私の学生時代も完璧に理解したつもりで説明していて論理的なギャップをつかれギョッとする毎日でした。何が証明すべきことで何が定義から得られることかを明確にして証明して行く訓練が学部の学生の仕事で、ある分野の理論を学ぶこと以上に大切なことです。数学を学んだ学生は数学以外の仕事につくこともたくさんありますが、会社の人事の方が評価して下さるのも、この論理訓練の部分です。論理だけではありません。計算を、それも少し難しい計算をすることにより、ルールを守りながら一つ一つのステップを注意深くこなしていく力もつきます。ほんのちょっとルールを守らないと正しい答えに行き着けません。この訓練も数学でつく部分が大きいと思います。他にも、定義をして、その上で様々な議論を積み上げていく訓練は、同じ環境のもとで育ち、なーなーで何でもやっていける時は問題ないでしょうが、背景の全く違った人たちが理解し合い(例えば国際的に)協力して何かを成し遂げていこうという時には本当に重要な力だと思います。 これらは、すべて数学の本質とは違うかも知れませんが、数学を学ぶことにより得られる人間として非常に大切な力だと思います。

4 真理追求

数学・科学は正直な真理追求の学問です。誤魔化したり、間違ったりする、そのときはそれが受け入れられることもありますが、いずれ、それは明るみに出され正されていく。結果オーライではありません。その意味でも、真理に対する、特別の感情をこの分野の人たちは持っています。ちょっと、持ち上げすぎかもしれませんが。科学者にクリスチャンが多いのも自然なことだと私は思っています。絶対的真理というものの存在を学ぶことは、特に日本では重要だと思います。

これらは、数学を学ぶ理由を個人的な思いをこめてまとめただけで、ここにはいっていないものもあるかも知れません。皆さんはどう思われるでしょうか。

なぜ楽しくなくなっているのか

ではなぜ、数学を学校であまり楽しめないのでしょうか。私も、そのようなことの専門家ではないからわかりませんが、人間の思考の本質に関わるような数学では、理解するのに方法も、時間も、道筋も人によって非常に異なるということです。これは一括の多人数授業で対応することはできないということではないでしょうか。それと、チェックしやすい能力の教育に力と時間を注ぎ、いろいろな方法でじっくり考えることをおろそかにしたり、証明の力を養うことを減らし、共通テストでも証明問題が入れられないシステムにしてしまったりということも関係していると思います。そのような中で育ってきた人がまた教師となり、楽しさを伝えることがなかなかできなくなってきていることも問題でしょう。私は、ICUに来る前は、先程も言いましたように教員養成大学で教えていました。私自身の責任も強く感じています。

本当に文系では不要なのか

最後にこれはコメントしておいた方が良いと思います。 例えばアメリカでは、大学で数学は必修です。大学の入学試験に数学がない学科があるのは日本ぐらいだと言われています。(イギリスの一部で数学を課していな分野があるとある方が言っておられました。) 日本では、文化系といわれる分野では数学は殆んどしません。今までは、高校までのレベルでの数学の必修がある程度ありましたからそれでもどうにかなっていたと思います(実際、アメリカの大学で文化系の人に教えている数学は日本の高校レベルが殆んどです)。しかし、日本でも最近、数学は特に必修の時間が大幅に減り、必修に関しては1/6になったと言われています。これでは、これからの特に文化系の学生さんは大変ですね。外国の大学院に入るような人はどうするのでしょうか。皆さんは是非積極的に数学の授業をとっていって下さい。たとえは、微分積分は、ICUでは高校で、微分積分などを全く勉強していない人用の授業も出ています。(初等微分積分学)今年から社会科学科のすべてと、国際関係の国際経済・国際経営で数学のたくさんの科目が専門科目として認められるようになりました。この NSI の授業のような一般教育科目で満足せずぜひ、理学科の基礎科目の数学も学んで欲しいと思います。そして数学だけでなく、他の自然科学を学ぶことはリベラル・アーツの非常に大切な部分だと思います。

ICUにおける数学教育は何をすべきか

これは、皆さんにお聞きする問題としましょう。時間になってしまいました。皆さんからのコメントを宜しくお願い致します。取りとめのない話になってしまいました。森本先生には怒られそうですが、ここまでとします。どうもありがとうございました。
学生からの提言
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