聖書を一般信徒向きに解説した本は、たくさん出版されていますが、世界で広く読まれているもののひとつに、スコットランドの神学者 William Barclay (1907-1978) によるものがあります。
バークレー「マタイ福音書 上・下」松村あき子訳 ヨルダン社 1967.日本語訳も早い時期に出版されていますから、ご覧になった方もいるのではないかと思います。この本の最初の部分から、まずは、共観福音書についてまとめてみると次のようになります。
共観福音書(William Barclay による上記の本による)
著者について(William Barclay による上記の本による) マタイは、Mtt 9:9 によると、収税人で、多くの記録を残したと考えられている。 教会史家のパピアス(1世紀から2世紀)は「マタイはイエスの生誕をヘブル語で収録した」と証言している。マタイ自身が書くのであれば、マルコを参照する必要はなかったと思われるが、マタイが収録したヘブル語の資料、とくに教説を多く取り入れて書かれ、マタイの名がつけられたと考えられる。
大体の学者は、マルコが最初に書かれ、マタイと、ルカはあとから書かれたこと、マルコの福音書以外にも、イエスの説教を書き留めたものがあったと思われること。そしてそれは、マタイによってヘブル語(またはアラム語)で書き留められたと考えているということだと思います。その説教集を大幅に取り入れて、ギリシャ語で書かれたのが、マタイによる福音書ということでしょうか。パピアスの「断片集」については、ネット上に日本語訳が出ています。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.htmlこの、2:16 をバークレーは引用しているものと思われます。 また、最初から、何何による福音書とタイトルのついた四つの福音書が並んでいたわけではありません。おそらくは、パピルスまたは羊皮紙に書かれた巻物が別々に存在していたわけです。ある時代的背景と要請のもとでまとめられたと考えるのも自然だと思います。しかし何と言っても、イエスのメッセージ(語録 ロギア)がたくさん記されているということは、興味をそそりますね。イエスは何を語り、そして、マタイや、初代教会の人たちは、何を伝えようとしたのでしょうか。
通読は、じっくりと時間をかけて読むことは難しいですが、イエスのメッセージと、そして、旧約聖書とのつながり、すなわち旧約聖書の預言の成就としての救い主に注目して読むのもよいかもしれません。また、聖書を続けて読むのははじめてというひとは、四つの福音書を通して、イエスはどんなひとだったのか、イエスに注目しながら、イエスに出会って頂ければと思います。
プログレッシブ英和中辞典
http://eow.alc.co.jp/sp/search.html?q=testament&pg=1
(1)では、バークレイからの引用で、マタイによる福音書の特徴の一つは 「ユダヤ人に王として生まれたことを示す」 と書きました。確かに、旧約聖書の成就を証言する箇所は多いですね。また、ユダヤ教の背景を知っている人に理解しやすい記述も多いように思います。しかし、それでは、ユダヤ人のため、またはユダヤ人の救いについて書いてあるのでしょうか。
注意して読んでいくとそうでも無いことに気づきます。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(新共同訳)と言っています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(新共同訳)と言っています。なにかこのへんにユダヤ人のため? 異邦人は?という問いの答え、旧約聖書との繋がりと断裂があるのかも知れませんね。この段落は、次の言葉で終わっています。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(新共同訳)これはどういうことなのでしょうか。最後の言葉は20節ですが、わたしは高校生のとき、この聖句の説明を聞いてもどうしてもよく分からず、この聖句を理解したいと思って、聖書を真剣に読み始めました。いまは何らかの説明はできると思いますが、本当にはまだよく分かっていないと思っています。
新約聖書を読んでいると、ユダヤ教を、イエスが批判している、ファリサイ派や、サドカイ派の宗教として見てしまいがちですが、キリスト教もそのあと、いろいろの歴史を経て神学が構築され、かついくつもの派に分かれていったように、ユダヤ教も様々な歴史を経験し、キリスト教にも応答する機会を持ち、かついくつもの派に分かれていっています。この本を読んで、現代のユダヤ教との対話に開かれていくことが大切だなと強く感じています。
実は、イスラム教も旧約聖書、新約聖書を啓示の書としていますが、扱いはユダヤ教やキリスト教とはすこし異なっています。ユダヤ教とは、旧約聖書を介しての理解について語り合うことは、十分できますが、イスラム教との間でその基盤を持つことは難しいように思われます。むろんそれでも、対話は是非必要ですが。印象的な言葉を一組だけ引用しておきます。
「すべての真正な生き方は出会いであり対話である。」(M.ブーバー)皆さんは、いま、新約聖書を読み始めました。まずは、イエスが、何を語り、どのように教え、行動し、一人一人と接したか、いままでちょっと知っていることにとらわれず、聖書自体から、読み取っていただきたいと思います。そしてここで語られている、イエスと出会い、イエスをはじめ出てくる人たちと対話をしてほしいと思います。もしかすると自分の価値観が揺さぶられる危険を冒す事になるかもしれませんが。
「すべての真正な宗教的生き方は危険を冒すものである。」(J.マゴネット)
マタイによる福音書4章17節に次の言葉が出てきます。
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。これは、3章の3節にあるバプテスマのヨハネといわれている、ヨハネのメッセージと全く同じです。ヨハネのメッセージの内容については、詳細までは分かりませんが、イエスのメッセージについては、まず、5章から7章にまとめられています。山の上で語られたので、山上の説教とか山上の垂訓などと言われています。イエスが言った、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とはどういう意味なのか、まずは、5章から7章の教えの中で、そしてその後に書かれている、イエスのなした事によって、考えてみてください。
梗概を引用していますが、むろん、いろいろなまとめ方があります。一般的に、単なる時系列で書いているのではなく、あるまとまりをもって書いていることは確かですから、みなさんも、ここでは、何を言っているのだろうかと考えながら読んでいけるとよいと思います。
いのちのことば社「新聖書注解」増田誉雄
梗概
メシヤの福音
「ところでマッタイオスは、ヘブル語で〔イエスの〕語録(logia)を編集し、これをそれぞれのひとが可能な仕方で翻訳した」。これによるとマタイが記録したイエスの語録集があったようで、それを複数の人がギリシャ語に翻訳したとあります。マタイによる福音書は、それがまとめられたものなのかも知れません。さてマタイとは「主の賜物」という意味で、マタイによる福音書には、2回出てきます。一箇所は12使徒の名前が記されている箇所 10章2節から4節です。新共同訳で引用します。
2:十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ここに「徴税人マタイ」と記されています。もう一箇所は、9章9節です。13節まで引用します。
3:フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
4:熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
9:イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。対応するルカによる福音書5章27節には「レビという徴税人」となっています。本来の名前はレビで、ニックネームとして「主の賜物」とつけられたのかも知れません。もしこのレビがレビ族に属することをも意味しているとすると、代々神殿に仕える仕事をするような家に育ったことになります。当時ローマの統治下にあり、税金を納めていました。マタイのいた、ガリラヤ湖畔の町カファルナウム(カペナウム)にも税関があったとの記録がありますから、ローマに委託されて税金を集めていた一人ということになります。ユダヤ人からは、異教徒の手先とみられ、異教徒との交流が多いことからも、汚れた仕事とされていました。しかし、一方ローマ人からは信頼され、教養もある程度ないとできない仕事で、ローマという大きな権力を後ろ盾にもつ請負であったため、かなりの利益を得、お金持ちだったようです。詳細は、不明ですが、そのようなマタイが、「わたしに従いなさい」とイエスに言われ、立ち上がってイエスに従いました。職を失ったことはほぼ確実でしょう。それでも、マタイのことを人は10:3のように「徴税人マタイ」と呼んでいました。マタイでは明かではありませんが、ルカによるとマタイがイエスのために宴会を催したと書いてあります。上の箇所は、そのような宴会での出来事です。
10:イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
11:ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12:イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
13:『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ひとくせもふたくせもあるような人たちが、そこにたくさんいたようです。最後に引用されているのは、ホセア書6章6節です。なぜ、イエスは、このような引用をされたのでしょうか。みなさんは、この宴会から、どのような印象を受けられるでしょうか。
マルコによる福音書の著者がマルコであることを疑う学者は殆どいないようです。マルコはギリシャ語の発音ではマルコス(語尾変化もします)となり、聖書には、マルコスという名前の人も出てきますが(ヨハネ18:10)新共同訳、口語訳、新改訳とも福音書名では、マルコとしています。新共同訳はカトリックとの共同訳で、最初はなるべく言語の音に近い方をとるという取り決めでマルコスで進んでいたようですが、日本語で最も受け入れられているマルコに最終的にはなったようです。最初に出たのは「ルカスによる福音書」でそこに出てくる人の名前になじめないと批判が出て、今の訳になったとのことです。カトリック、プロテスタントで、使われてきた訳語をある程度統一しようとしたわけですが、なかなか難しかったと言うことでしょうか。
さて、このマルコは、上に引用したヨハネ18:10のマルコスではなく、マルコという名前で8回、ヨハネという名前で1回出てくる、ヨハネ・マルコと呼ばれている人です。使徒言行録に記述されている、最初の異邦人伝道旅行に、バルナバ、パウロ二人のリーダーについていった人で、バルナバのいとこだと書かれています。
マルコ:使徒 12:12, 12:25, 15:37, 15:39, コロサイ 4:10, 第1テモテ4:11, ピレモン24, 第1ペテロ5:13
最初にでてくるのは、使徒言行録 12章 12節
エルサレムでの集会所として有名な家の子どもだったようで、学者によっては、最後の晩餐もこの家でされたのではないかと考えています。
聖書の最後に出てくるのは、ペトロの手紙一 5章 13節
ペテロとの近い関係が表現されていますが、ペテロの通訳として伝道旅行に同行し、それをもとにこの福音書を書いたとされています。根拠の一つは、前回も引用した、パピアスの証言です。これは、それより少し後の教父といわれているキリスト教指導者が書き残した物です。
パピアス「断片集」2.15.
マルコによる福音書は、大体次の区分に分けられます。
神の子、神の聖者との証言は、天から、そして、汚れた霊の証言によってもなされます。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
マルコによる福音書で、イエス自身は自分をどう呼んでいたのでしょうか。それは、人の子という言葉です。なにか変な言葉ですよね。
この人の子という言葉をつかってイエスは自分自身をどのようなものと言っているでしょうか。一箇所だけ引用してみましょう。
最後に少しだけ、ペテロ由来としての、マルコによる福音書の特徴を書いておきます。
いのちのことば社「新聖書注解」山口昇
梗概
メシヤの福音
前回マルコによる福音書「梗概」を引用しましたが、それを見てみても、全体16章のうち、11章からの6章が最後の1週間にかけられています。8章の終わりで、エルサレムでの受難のことが語られ、それからは、エルサレムへの道であることが強調されていますから、ほぼ半分が十字架への最後の数週間についてかかれているともとれます。その起点を、8章27節とすると、ピリポ・カイザリアというガリラヤよりかなり北の町での出来事です。27節から33節まで口語訳で引用します。
ルカによる福音書は、批判的な学者もルカによって書かれたと考えているようですが、ルカとはどのような人でしょうか。聖書には、3回出てきます。マルコによる福音書の著者マルコも出てきますから、三つとも引用してみましょう。引用はすべて新共同訳です。
もう一つ、重要なことは、ルカによる福音書の書き出しです。それと、使徒言行録の書き出しを比べてみましょう。
使徒言行録を読んでいくと、途中から「わたしたち」という表現があらわれ、いったん途切れ、またそれが復活し、最後まで続きます。疑問を呈する人もいるようですが、ルカが、ある時点から使徒パウロに同行し、途中で一旦わかれ、また行動をともにしていたと考えられています。その意味で、使徒パウロ(パウロについては、今後、どこかで書くことがあるでしょう)の語っていた福音、イエス・キリスト伝が元になっているのではないかと言われています。上の考えのもとでは、パウロに同行してエルサレムにも1回は行ったことになりますし、イエスの母マリアに会ったかどうかは不明ですが、イエスの直接の弟子達の多くと会った可能性は大きくなります。医者として、当時の教養人として、奇蹟物語の実態も含めて、いろいろと調べ、記録したことが書かれているのでしょう。ルカの表現に注意して読むのも良いと思いますよ。
ルカによる福音書成立の経緯については、2C の後半大体AD170頃ののムラトリ断片(The Muratorian Fragment)に記されています。(http://www.bible-researcher.com/muratorian.html) 和訳も田川健三訳を参考にしたと書かれたものが以前はネット上にありましたが。今は見つかりませんでした。わたしが勉強した頃は、ベッテンソンの「キリスト教文書資料集」が日本語でかつコンパクトにまとまった唯一の資料集だったので、それで最初に読んだ記憶があります。今調べましたら、この本は、版切れでした。聖書を勉強するときは、残念ながら、日本語だけでは、十分な情報が得られないことが多いですね。
ルカによる福音書は、たとえが豊富な福音書でもあります。ルカのきめ細かな表現とともに、味わって頂けたらと思います。ルカによって描かれているイエスにみなさんと一緒に出会いたいですね。
以下に、ルカによる福音書を読んでいて印象にのこった「信仰」について少し書いておきます。この言葉は新共同訳で検索すると、福音書の中では、マタイに 14, マルコに 9, ルカに 16 現れます。ヨハネには現れません。その中で「あなたの信仰」と書かれているものを見てみると、口語訳聖書では、マタイに 2, マルコに 2, ルカに 5, 現れます。新共同訳でも大体同じですが、ルカには 4 で、22:32 は少し違う訳になっています。マタイ、マルコ、ルカ共通に現れるのは、12年間長血をわずらっていた女(新共同訳では「十二年間も患って出血が続いている女」)が癒された記事です。病が癒された時にイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。口語訳で列挙してみます。
そして最後は、ペテロに対してです。
ひとつひとつ見てみると、これがイエス様が称賛される「信仰」なのだろうかと疑ってしまうような印象もうけます。「いわしの頭も信心」とどこが違うのだろうかと。しかしイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言うのです。信仰の不完全さとか十分でないことをとがめるのではなく、信仰による応答をたたえる、または、信仰によった部分を気づかせ、それこそがあなたを生かすものだと告げるのです。そして、嵐にあったときおろおろする弟子達に「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25)」信仰を増して下さいと願うと「からし種一粒ほどの信仰(ルカ17:6)」があれば十分と言われます。そして「安心して行きなさい(ルカ7:50, 8:48)」わたしは、この言葉になんども力を与えられました。そして、このような言葉を語ることができたら良いなといつも思っています。みなさんは、どのように受け取りますか。
いのちのことば社「新聖書注解」榊原康夫
梗概
前にも書きましたが、章の区切りは後代のもので、記者がつけたものではありませんし、キリスト教全体の会議で決まったものでもありませんから、区切り方は、読みながら考えてくださればよいと思います。とはいいつつ、やはり章の区切りは便利ですから、通読では一日2章としていますが。
今回選んだ区切りの最後の7章1節には次のようには書かれています。
12, 13節を見てみましょう。
このあと12人が紹介されていますが、17節後半から引用すると次のように書かれています。
さて、大勢の弟子と、おびただしい民衆とあります。イエスのもとに来た目的は何でしょうか。ここに書かれているのは、「教えを聞くため」「病気をいやしていただくため」「汚れた霊に悩まされていた人」が「いやしていただく」ためでした。それも、イエスに触れることによってイエスから力がでて、いやしていただいていたようなのです。こんな信仰で大丈夫なのか心配になってしまいますが、イエスはこのようなひとを受け入れ、いやしておられたと書かれています。ルカによるとこのとき、イエスのメッセージが始まります。6章20節です。
みなさんは、どのように思われますか。イエスの祝福。だれにたいして、どんなひとにたいして。福音書を読みながら、ぜひ、それを考え、できたら、みなさんがよみとったことを分かちあってください。ここに中心的なイエスのメッセージがあるのだと思いますよ。
ヨハネによる福音書 21章 24-25節
ひとつ、追加して書いておくと、まさにこの言葉のように、証しすべき「イエスのなさったこと」は、たくさんあるが、その一部を記しているという事実は、他の福音書を読むときと同様、そして、この書ではなおさら大切だと思います。イエスの活動の殆ど最初から四六時中一緒にいたと考えられるヨハネがこの書の証言者だとされているのですから。ということは、たくさんの事の中から、どうしても伝えたいことを記していることになります。さらに、ヨハネによる福音書には、この書が書かれた目的も書かれています。
ヨハネによる福音書 20章 31節
これほど、明確に執筆意図が書かれていることには驚かされます。しかし、著者については、自分のことを主の愛しておられた弟子(ヨハネ21:20) と書くことは不自然なことから、主の愛しておられた弟子の影響のもとで書かれたとするのが安全なのかも知れません。実際に書き記したのがだれかは、議論があるようですが、イエスの弟子の一人のゼベダイの子ヨハネを意識して(またはその証言をもとに)書かれたこと、他の福音書にはなく、かなり詳細なそこに居合わせたものだけが語れるような証言、ユダヤや、ユダヤ教に関する豊富な知識は、各所で認められると思います。12弟子と呼ばれるイエスに近い弟子たちについても、他の福音書には、一回も登場しなかった弟子の記述が現れたりもしていますし、名前が記されていなかったひとの名前が明かされたりもしています。
四福音書のなかでは、一番遅く書かれたとされています。おそらく、大切なのは、そのころのキリスト教の中心は、すでにユダヤにはなく、エルサレムは破壊され (AD70)、異邦人キリスト者が中心だったと言うことでしょう。異邦人キリスト者の社会、つまり背景にギリシャ、小アジアの文化などが入り込んで来ていることから来る問題もあったでしょうし、脱ユダヤ的なキリスト教、つまり、ユダヤ教徒にならずに、ユダヤ教の習慣とは独立に、直接的に救いが得られるかは重要な問いだったでしょう。みなさんが、どのように読まれるか、楽しみです。共観福音書とは違った、このヨハネによる福音書は、イエスの実際の行為や言葉という「事実」よりその意味すること「真理」が語られているのかも知れません。
ヨハネ以外の三つの福音書を見てみると、マタイとルカは、基本的にイエスの降誕からはじめています。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とはじめ、15節にある
6節から9節には、簡単にバプテスマのヨハネの紹介があり、10節から14節には、「この言(ことば)が世にあった」こと「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ことを証言しています。では、言(ことば)がこの世に宿られたことによる影響はどんなことだと書いてあるでしょうか。ここからは、細かくは、書かないことにします。
18節には「この方が神を示された」とあります。そして「律法はモーセを通して」「恵みと真理はキリスト・イエスを通して現れた」とあります。律法をとおして、神が何を望んでおられるかが示され、「恵みと真理」という神様の本質が、キリスト・イエスによって表されたと書いてあります。神と直接接する機会がなければ、神が望んでおられることを少しずつ知って、それを通して、神について推察することがベストでしょう。しかし、直接接する機会、または、その方がどんな方であるかを直接知ることができれば、神が望まれることも、その本来的意味にまでさかのぼって知ることができますよね。ヨハネは、キリスト・イエスを通して、そのように神を知ることができるようになったと言っているのではないでしょうか。それが「神の子となる資格」の内容ではないでしょうか。聖書を読み、福音書を読みながら、みなさんが、聖書で言っている神は、どのような神なのか、その神と直接出会えると良いですね。
いのちのことば社「新聖書注解」村瀬俊夫
その時期の記事からすこし引用してみましょう。2章23節-25節です。
3章に戻ると、ファリサイ派のひとりのニコデモとの会話が記されていますが、3節で、
ルカによる福音書についてに書きましたが、ルカによる福音書と使徒言行録は双子のようなもので、二巻本といっても良い形式になっています。ルカによる福音書 1章 1‐4節と、使徒言行録 1章 1‐2節を見比べてみて下さい。後者は「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」となっていますから、天にあげられた日以降についてが、使徒言行録となっています。1章を読むとそのいきさつが繰り返されています。著者は聖書に三回名前の出てくる医者ルカ(コロサイの信徒への手紙 4章 14節、テモテへの手紙二 4章 11節、フィレモンへの手紙 24節)だとされています。医者であることは、コロサイの箇所にも書かれていますが、ルカ4:35で「けいれんする」という医学用語をもちい、ルカ9:38では「医者が診察する」時に使う言葉を用い、さらに、ルカ18:25 では「針の穴」という言葉も、マタイ、マルコでは、通常の縫い針を意味する言葉を使っているのに対して、ルカは外科医がもちいる針ということばを使っていることからもわかるそうです。(William Barkeley, "The Daily Bible Study")
使徒言行録でまず目をひくのが1章6-8節です。引用してみましょう。
単に、遠くまで伝わるということだけではありません。
もう一つは、多様な人たちに福音がとどいていくことによりその中味が明らかにされていく様子の記述、とも言えるかも知れません。これは、イエスがすでに地上にはおられないときに、イエスの弟子達に投げかけられたむずかしい問いに答えていく営みとも言うことができると思います。使徒言行録を読みながらわたしも考えさせられた問いを書いておきます。
まず、はじめて、サウロが登場する場面、7章58節です。引用は新共同訳聖書からとします。
中心部分とはずれてしまいましたが、バルナバと「サウロ、またの名はサウロ」について少し書いてみました。みなさんが、すこし親近感を持って、使徒言行録や、この後の書簡を読むことができればと願って。
このグループのリーダーはどのような人たちだったのでしょうか。4章13節には次のように書かれています。
実際に読んでいくと、問題だらけであったことがわかります。しかし、同時に、ひとくぎりひとくぎりのまとめのように、次のようなことばも添えられています。問題と、それにどのように対していったかの記録と共に、まとめたことばにも目を向けて頂ければと思います。
いのちのことば社「新聖書注解」斎藤篤美
早い段階で、教会運営の共同責任者(通常「執事」と呼ばれますが)に選ばれた「“霊”と知恵に満ちた評判の良い(使徒言行録6章3節)」7人の一人のステファノがユダヤ人たちに石で撃たれて殉教の死をとげます(使徒言行録7章54節-60節)。さらに、イエスの弟子たちの中でも、つねに筆頭に名前が出、特別な機会にイエスのお供をしたペテロとヤコブとヨハネの三人のうち、ヤコブがヘロデ王(ヘロデアグリッパ I 世)によって剣で殺されます(使徒言行録12章1節,2節)。ペテロやヨハネも何回か投獄されます(使徒言行録4章3節、12章3節-19節)。
教会の中でも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有して(使徒言行録4章32節)」いましたし、続く34節には「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」とも書かれていますが、5章には土地を売った代金をごまかしていた夫婦のことが書かれています。上に書いた教会運営の共同責任者が選ばれたのは「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。(使徒言行録6章1節)」と書かれています。
ここにも書かれているように、弟子の数が増えていったことも確実なようで、この章の7節には「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」とも書かれています。ユダヤ教の指導者の中にも「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』(使徒言行録2章38節,39節)」や「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。(使徒言行録3章17節-20節)」というメッセージに応答した人たちがたくさんいたと言うことです。
しかし問題は、続きます。この上に引用した「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」は、本当に誰でもなのだろうかということです。早い時点から、世界中に広がっているユダヤ人で、エルサレムに上ってくる人たちの中には2章にあるように、信じる人たちが起こされますが、ユダヤ教の人たちが似て非なるもの、正統ではないとしていたサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人との混血が中心)にも広がります。「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(8章25節)」イエスもサマリヤ人といろいろな形で接触していましたから、これには、あまり違和感がなかったものと思われます。ユダヤ教への改宗者の入信記事が8章26節-40節に書かれています。しかし、完全な異邦人、異教徒が「わたしたちの神である主が招いてくださる者」に入るのかどうかはおそらく考えられていなかったのではないかと思います。異教徒とは極力関係を持たない。家に入らない、食事を共にしないのがユダヤ人の慣習だったからです。
このことの大きな変化が段階的に書かれています。10章に記されているコルネリオの回心とバプテスマ、11章のその弁明、アンテオケ教会でのギリシャ人への宣教、13章から14章に記載されているバルナバ、パウロによるキプロスとトルコ伝道、そして15章のエルサレムでの会議です。ここで異邦人も「わたしたちの神である主が招いてくださる者」に含まれ、ユダヤ教徒にならなくても、神の霊である聖霊を受けることができることが共有されていくのです。このあとパウロを中心とした宣教は、ローマまで届きます。
それぞれの段階での発展は、単純ではありません。最初サマリヤに広がっていくときも、実は、ステファノの殉教に端を発した迫害から逃れるために、エルサレムを離れたためでした。その後も、ユダヤ教との様々な問題からエルサレムでは十分な活動ができず、シリアのアンテオケ教会や、後には、トルコ西部(小アジアとよばれる地域)のエペソやコリントなどが中心となっていきます。一般的には、問題ととらえられるようなことが「わたしたちの神である主が招いてくださる者」の範囲をひろげ神がすでに清くしてくださり(10章15節, 28節)愛してくださるものへの理解が広がっていったことは、使徒言行録を読みながら、考えさせられることです。ペテロの言葉が次のように記されています。
すでに書いたことと殆ど同じ問いですが、この C や D に対する問いかけでもあると思います。
パウロがローマに手紙を書いた頃のローマ教会についてはあまりよく分かっていないようですが、1章7節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」とありますから、すでにイエスを救い主と信じるクリスチャン達がいたことが分かります。
また12章14節には
信仰によって義と認められるとすると、割礼を受け、ユダヤ教徒となる必要はないことになります。ガラテヤの信徒への手紙 3章26節から29節にはつぎのように書かれています。
パウロはイエスの死後、10年後から25年後ぐらいの期間活躍したと思われますが、ユダヤ教の一派であったキリスト教が「律法から自由な福音」としてその期間に急速に世界宗教へと当時のローマ帝国に広がっていったことは確かです。おそらく、その鍵をにぎるのが、このローマ人への手紙に書かれていることだと思います。
信仰による義とは何なのか、パウロはそれをどのように説いているのか。それは小泉先生の言われるように万人救済の福音なのでしょうか。読み取っていただければと思います。二箇所ローマ人への手紙から引用します。
1章1節は、次のように始まります。
少し、8章について書きます。8章は次のように始まります。
最後に、梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から書いておきます。
いのちのことば社「新聖書注解」尾山令二
皆さんは2節をどう思われますか。「この人たち」とは誰でしょうか。宛先は「コリントにある神の教会」です。教会はエクレシアという言葉で「呼び集められたものの集い」という意味です。そのあとの言葉からもわかるように、組織を表すのではなく、人々、それも「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」です。このあとに続く「このひとたち」はおそらく「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」でしょう。「聖なるものとされた人々」と二回もでてきますね。使徒言行録26章やヘブライ信徒への手紙10章にも出てきますが「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」という言い方はちょっと気になりますが、みなさんはどうですか。
(1)に例によって「新聖書注解」から梗概を抜き書きしましたが、これをみても、いろいろな現実の問題が並んでいます。問題をひとつひとつ語る前に受け取るひとりひとりにこのことばによって語りかけているのではないでしょうか。
以前にも書きましたが、新約聖書の書簡ほとんどすべてに書かれている「恵みと平和(口語訳は平安)」のいのりが3節についています。(「憐れみ」が入る場合もあります)そして以下のことばが続きます。
コリントの信徒への手紙二 8・9章には、エルサレム教会への献金のことが書かれています。ユダヤ教の中心であるエルサレム、ユダヤ教徒でイエスを救い主と信じるようになった群れは、エルサレム周辺ではこの当時もモーセの律法をしっかり守って生活していたと思われます(使徒言行録21章17節-26節)。そのようにして、信仰を守りつつも、ときどき起こる熱心なユダヤ教徒からの反対の中で、使徒や、長老といわれる人たちも生活的には、かなり困窮を極めていたようです(ローマ信徒への手紙15章26節等)。AD70 にはローマ軍によってエルサレムが完全に破壊され、エルサレム教会は事実上指導的な役割を終えますが、この手紙の書かれたときには、発展しつつある異邦人教会が、エルサレム教会とひとつであることを示す、その大切な役割を担った献金が、パウロの祈りでもあったでしょう。ミッション(使命)が違うと、別々に行動することもできたかも知れませんが、パウロの信仰の中にある、キリストにある一致、キリストの体なる教会がひとつであるという真理からすれば、一致をたもちながら共に生きることは、キリストのいのちに生きるものたちにとって最も重要な課題だとパウロが考えたのはとても自然だと思います。現代にも通じる問題提起ではないかと思わされます。
コリント信徒への手紙二の梗概をいのちのことば社「新聖書注解」から引用しておきましょう。
いのちのことば社「新聖書注解」尾山令二
弟子たちのもとを去るにあたり、イエスの祈りも一致でした。
いのちのことば社「新聖書注解」から、ガラテヤ信徒への手紙の梗概(村瀬俊夫)を引用しておきましょう。
25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
すでに読み終わった、ローマの信徒への手紙と、コリントの信徒への手紙一、二、そして、ガラテヤの信徒への手紙は、いろいろな意味で特別な位置をしめており、四大書簡などとも呼ばれています。エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)、フィレモン(ピレモン)への手紙は、獄中から書かれたと記されている(エフェソ3:1, 4:1, フィリピ 1:13, 14, コロサイ4:10, フィレモン1)ので、獄中書簡と呼ばれています。フィリピ4:22 には「カイザルの家の者たちからよろしく」などという言葉もありますね。おそらくローマの獄にいたのでしょう。テモテへの手紙一、二、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれることもあります。テモテについては、使徒言行録16章などにも書かれていますね。使徒言行録を思い出しながら読むと良いかも知れません。
どの書簡も短いので、通読ではどんどん進んでいきます。ここでも細かな解説などはできません。しかし上にも書いたように基本的に、これらは、先輩のクリスチャンから、若い教会や信徒や、リーダー達への手紙です。実際の生活に関係することがたくさん書かれています。また、当時の問題についても知ることができると思います。すこし考えると、それらは、ちょっと違った形であっても、現代にもある問題を扱っている場合が多いと思いますよ。みなさんは、どのような事を読み取るでしょうか。
いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙の梗概(小畑進)を引用します。
書き出すときりがないのですが、いくつかだけ、書かせて下さい。引用は上にも書いたように、すべて日本聖書協会口語訳です。
いのちのことば社「新聖書注解」から、エフェソ信徒への手紙の梗概(尾山令仁)を引用します。
聖書では、このあと、フィリピとして出てくるところはあまりありませんが、マケドニアの教会としては、たびたび現れます。このフィリピの信徒への手紙にも現れますが、それは、パウロに対し定期的に経済的援助をしたことが分かります。フィリピの信徒への手紙4章15節16節を引用します。
パウロにとって特別な教会であったことは確かだと思います。パウロには厳しい批判的な手紙が多いですが、この手紙はしっかりとした信頼関係のある人たちであることを感じさせられます。ぜひゆっくり読んでいただきたいと思います。
このような背景の人たちに書かれたコロサイの信徒への手紙となります。さて、どのようなことが書かれているのでしょうか。
コロサイ人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宇田進
テサロニケの信徒への手紙一は次のように始まっています。1章1節-5節を見てみましょう。
テサロニケ人への第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
テモテへの第一の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
11節に、
テモテへの第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
そのテトスに託された福音、テトスへの手紙3章3節から7節を引用します。
テトスへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」中沢啓介
このフィレモンへの手紙は、8節から読むとわかるように、オネシモというフィレモンの奴隷を送り返すときの手紙であることが分かります。12節と、15節から17節を引用します。
15:恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。
先ほど、アルキポのところで、コロサイの信徒への手紙を引用しましたが、4章7節から17節には、この手紙の背景と思われることが書かれています。7節から9節を引用します。
フィレモンへの手紙を読んでいると、このころすでに、奴隷制とは、異次元の交わりが、信徒の交わりとしてあったことも分かります。その時代としては、驚くべき事だったのではないでしょうか。
フィレモンへの手紙は、口語訳や、新改訳では、ピレモンへの手紙と呼ばれています。皆さんは、どのような発見があるでしょうか。
ピレモンへの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」尾山令仁
みなさんは、このヘブライ人への手紙からなにを読み取られるでしょうか。
ヘブル人への手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(村瀬俊夫)を引用しておきます。
聖書で語られている「いのち」は「肉体的な死をも相対化するいのち」とも言えるのではないかと思います。コリント信徒への手紙一15章26節には「最後の敵として、死が滅ぼされます。」とあります。わたしはそのような神学的意味づけよりも、いま生きているいのちがずっとつながっていることを意識して生きることは、わたしたちのちっぽけであっても多くの苦しみや喜びのなかで生み出される日常的営みたいせつにしてくださるイエスの教えにつながるのではないかと思っています。わたしの好きな聖書の箇所を引用します。ここで「不正の富」と言われているのは、通常は、この世で神様から管理を任せられているもののことだと思います。ルカによる福音書16章10節・11節を口語訳で引用します。
最後に、ペトロの手紙一 3:15, 16a を口語訳で引用しておきます。わたしの研究室の机の左にいつも見えるところに貼ってある聖句です。
確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
この節には、いろいろなことが込められていると思いますが、驚きませんか。最後に13章1節から3節を引用します。
著者がそれぞれ誰なのかなども、ひとつひとつ難しい問題を含んでいるようですが、ここでは、簡単に、著者として想定されている有力なひとについて記しておきましょう。
ヤコブは、通常、主の兄弟ヤコブといわれる、エルサレム教会の長老(マタイ13:55, マルコ6:3, 使徒12:17, 15:13, 21:18, ガラ1:19, 2:9, 12, 1コリ15:7)。つまりイエス・キリストの兄弟のヤコブです。この書は英語では、James と呼ばれています。旧約のヤコブはそのまま Jacob と呼ばれていますから、これは、King James のもとでの英語聖書欽定訳以来の習慣ではないかといわれています。アメリカでわたしは、新約聖書の一巻として、Jacob といっても、通じないので困った経験があります。
ヨハネの手紙第一は、12弟子の一人のヨハネ、ヨハネの福音書の著者、しかし第二と第三は、それとは違うヨハネだともいわれています。長老と呼ばれているからで、マルコ、ヨハネといわれている、マルコの福音書の著者が想定されているのではという説もあります。ペトロはむろん、12弟子の一人のペトロが想定されています。ユダも難しいですが、ヤコブの兄弟(1節)といわれているので、主の兄弟ユダ(マタイ13:55, マルコ6:3)が想定されているといわれています。
1522年に宗教改革者マルチン・ルターが、新約聖書のドイツ語訳を出版したことはよく知られていますが(新旧約聖書完全版は1533年頃)、そのヤコブの手紙の序言に、次のように書かれています。(いのちのことば社「新聖書注解」からの引用)
イエス様なら、このような問題にどのように答えられるでしょうか。ヤコブの手紙を読みながら、ゆっくり考えてみましょう。
ヤコブの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(中島守)を引用しておきます。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
ペトロの手紙一 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(松木祐三)を引用しておきます。
1章3節には「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」とあり、さらに4節には、「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。(中略)神の本性にあずからせていただくようになるためです。」
この当時、聖書の無理な解釈から、偽預言者と呼ばれている、似て非なる教えがたくさん出てきているようです。そのことを受けてでしょうか、聖書の解釈に関係する記述があります。二カ所引用します。
ペトロの手紙二 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(上沼昌雄)を引用しておきます。
ヨハネの福音書にも20章30節、31節にその福音書を書いた目的が書かれていますが、この手紙にも3節、4節にこの手紙の目的が書かれています。読者が著者たちとの交わり、すなわち、父なる神と、御子イエスキリストとの交わりを持つため。そして、喜びが満ちあふれるようになるため、とあります。
口語訳では「交わりにあずかる」となっていますが、この交わりとは何なのでしょうか。このヨハネの手紙一には、冒頭の部分にもある瞑想的なことばが多くありますが、同時に、実際的なことば、実質を表すことばも多く含まれています。
皆さんは、このヨハネの手紙一から何を学ばれるでしょうか。最後に、4章19節から5章5節を引用します。
ヨハネの手紙一 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。
9:だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
ヨハネの手紙二 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。
ユダの手紙の最後17節から20節を引用します。
教会暦では、降誕節は、東方の博士たちがイエスをたずねる(マタイによる福音書2章の記事)または、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をうける(例えばマタイによる福音書 3章13-17節参照)公現節(公現日)(英語:Epiphany)1月6日までとなっています。この1月6日はユリウス暦の12月25日にあたるので、ロシアではこの日にクリスマスを祝うそうです。
そもそも教会暦は、待降節、降誕節、受難節、復活節と一年のいくつかの特別な日・期間を記念してイエスの生涯を覚えるものです。その決め方はキリスト教の宗派によっても異なります。そして、聖書に正確な日付が残されているわけでもありません。アメリカに渡った厳格な清教徒たちは、クリスマスを異教のものと見なし、祝わなかったと言われています。実際、州によってはクリスマスを祝うことを禁止されていた時期もあるようです。アメリカで、今でも収穫祭 Thanksgiving の方が一般的で重要視されているように見えるのは、そのへんも影響しているかも知れません。
ヨハネ黙示録は伝統的には、イエスの12弟子の一人でヤコブの兄弟として記されているゼベダイの子ヨハネといわれています。これについても、議論はあるようです。いままでこのような著者に関する議論をさけてきました。ここでも深入りしませんが、個人的には、特別な古文書が多量に発見されない限り、科学的な方法で著者を確定するのは難しいと考えています。わたしはこのことに関しては全くのしろうとですが、新約聖書の最後にきているので、感じていることを書いておきます。「科学的な方法で著者を確定するのはとても難しい」と私が書く理由は以下の通りです。それは、1世紀から2世紀初めにかけての聖書の背景を示す文書が聖書以外に少ないこと、かつ迫害期もあり、ひとつの文書の完成に時間がかかった場合もあるだろうこと、そして、さらに大きな理由として、当時の習慣として筆記者が介在したことが多いと推察され、また筆記者の関わり方も様々なようで、どこまで実際に語った人の言葉や文体が残っているか判断が難しいこと、最初から最後まで一回で語ったものかどうかも不明であること、さらに複雑なのは、語った言語がギリシャ語なのか、ヘブル語やアラム語なのか不明であること、語った人のギリシャ語レベルがどの程度であったかも不明であること、筆記した人にどの程度の権威があったか不明で、最終的な筆記が、語った人の生前であったか死後であったかも関わってくると思われるからです。ある程度英語が読み書きできるみなさんが、日本語で語り、それをより英語が上手な人が筆記したとします。どのようなことが起きるでしょうか。なかなか難しい状況です。議論をさけたのは、そのような理由です。わたしが数学を専門とする者であることも関係しているかも知れません。数学でいう論拠と、聖書学者の論拠とは性格が違うということでしょうか。べつに批判的な意味合いで書いているわけではありませんが。
このヨハネの黙示録には新共同訳で5回著者としてヨハネの名前が出てきます。
ヨハネの黙示録 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(山口昇)を引用しておきます。
このヨハネの黙示録が書かれた年代は明確ではありませんが、1世紀であってもかなり遅い時期でしょうから、すでに70年にエルサレムはローマ軍により破壊され、キリスト教会も、エルサレムから中心を移したと思われます。その中心の(少なくとも一つ)がエフェソ(アジア州の州都)を中心とした、アジアの諸教会です。使徒言行録によると、パウロの二回目の伝道旅行のときに、はじめてこの地域の伝道をしています。この時期には、キリスト教会の中心となる人たちの多くがこの地域にいたと思われます。
4章からは幻が記されています。みなさんはどのように読まれるでしょうか。なかなか難しい箇所で、正直わたしにもよく分かりません。難しいのは、実際の歴史とどの程度関連づけて理解するか、他の言い方をすると、神の国に関してこれから起こることを、われわれのタイムラインにそって理解して良いのかが分からないと言うことです。無理して具体的な事象と対応づけをして解釈しないほうがよいのでしょう。最後に「新天新地」について21章に書かれていますから、その冒頭を引用します。
スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。(2章8節)
ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。(2章12節)
ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。(2章18節)
サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。(3章1節)
フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。(3章7節)
ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。(3章14節)
これら7つの教会の場所を確認したい方は、下のリンクの地図をご覧になることをお勧めします。
一つの解決(?)は、そのように疑問を持つことをやめてしまうことです。キリスト教会にはそのような立場をとる人たちもたくさんいます。もう一つのグループはひとのなせるわざとして、その当時の必要からペテロやパウロの名前を利用したりすることは当然だとして、純粋に学問として合理的な理由を提案する人たちです。いずれにしても、歴史的証拠は非常に少なく、決定的な結論を出すことは難しいように思われます。正直に書くと、わたしは、このどちらの立場にも疑問を感じます。
混乱したまま終わるのは適切ではないと思うので、最後にわたしの考えを簡単にまとめておきます。
まず、著者に対する最初の疑問は、まったくお門違いだということです。キリスト教会は最初のころも、一枚岩とはいえなかったと思いますが、いまとは比較にならないほど、一致が守られていたと言うことです。それは、現代のキリスト教会が数え切れないほどの宗派に分かれている状態から推察されるべきではなく、多くのことが、信仰共同体の共通知、またよく使われていた表現だということです。以前「ICUの一般教育」という文章をまとめたことがありました。書き下ろしといっても良いものですが、おそらく7割程度の文章は、いままですでに何かに書いてあった文章の焼き直しになりました。かつ書いてからだれの文章にしようか考えるのです。大学の名前にするか、学長の名前にするか、教養学部長の名前にするか、一般教育委員会の名前にするか、わたしの個人の名前にするか。なんらかの承認は大学では必要ですが、目的に応じて著者をきめています。
次に注意すべき事は、聖書から教義が出てくるのであって、それも、いろいろな問題を背景として、その問題を整理するために、教義ができるのであって、教義をもとにして聖書を読むのは、本末転倒だということです。読むのは、聖書自体であって、聞いたことのある教義を読み取ろうとするのは、誤りだと思います。それぞれの巻がなにを伝えようとしているかに、向き合うべきです。
三番目に、現在の聖書は、キリスト教の歴史のなかでかなり早い時点で、確定していたということです。その時期は多少議論があるので、ここには書きませんが、歴史的に、現在の聖書が他の書物とは異なるとして特別なものとされてきた、そのように告白されてきたということです。それが聖書ですから、その聖書をわれわれが読んでいるわけです。この過程が完璧であったかどうか、わたしにも分かりませんが、この聖書をしっかりとまずは読みたいですね。
最後に、聖書は、そして特に新約聖書の書かれた目的は、次の、聖句に要約されているということです。
ヨハネの手紙一1章3節
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マルコによる福音書
マルコによる福音書(1)
マルコによる福音書は共観福音書の二巻目です。
ヨハネ:使徒 13:13
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
「これも長老が言っていたことだ。マルコスは、ペトロスの通訳者(hermeneutes)であって、記憶しているかぎりのことを、精確に書いた、ただし、主によって言われたことにしろ為されたことにしろ、順序立ててではない。なぜなら、主から〔直接〕聞いたのでもなく、これに付き従ったのでもなく、〔彼が付き従ったのは〕わたしが謂ったように、後になって、必要のために教えを広めたペトロスであって、主の語録のいわば集成のようなことをしたのではなかった、その結果、マルコスはいくばくかのことを思い出すままに書いたが、何らの過ちも犯さなかった。というのは、聞いたことは何ひとつ取り残すことなく、あるいは、そのさいに何らか虚言することもないよう、その一点に配慮したからである」。
以上が、パピアスによって記録されたことである。マルコスについて。
最後の一週間の重みが大きいですね。(以下引用はすべて日本聖書協会新共同訳)この福音書の最初は、
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
となっています。最初から「神の子」と宣言しています。イエス・キリストの福音 Good News の始めとしているのです。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
そして、最後には、百人隊長(ローマ軍の下士官)の証言として書かれています。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
この福音書の最後は、空の墓証言となっています。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
マルコによる福音書の最後を見てみると、なにか不思議な感じがします。いくつかの結語が書かれていたり、注がついていたり、括弧に入っていたりするのです。これは、写本によって、異なることを意味しています。その部分を抜いて考えると、最後は、空の墓となると言うことです。
2:10, 2:28, 8:31, 38, 9:9, 9:12, 9:31, 10:33, 34, 10:45, 13:26, 29, 14:21, 41, 62
これは、旧約聖書のダニエル書(7:13, 10:16)で特別な意味を持った言葉として出てきています。エゼキエル書には、多数使われており、預言者自身を表しています。(エゼキエルが多用する人の子 2:1, 3, 6, 8, 3:1, 3, 4, 10, 17, 25, 4:1, 16, 5:1, 6:2, 7:2, 8:2, 6, 8, 12, 15, 17, 11:14, 15, 12:2, 3, 9, 18, 22, 27, 13:2, 17, 14:13, 15:2, 16:2, 17:2, 20:3, 4, 27, … )
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、神の子なのか、どのような人の子なのか、マルコはイエス自身をどのように描いているのか、読み取って下さい。
マタイのときにも書いたように、福音書として最初に書かれたとされる、マルコによる福音書、素朴とも言えますが、イエスの行動が生き生きと描かれていると思います。
マルコによる福音書(2)
通読は、それなりに、進みますが、それでも、たとえば、福音書の場合、イエスの生涯のどのあたりにいるのかが分からず読み進めることもあります。梗概を記していますが、それは、全体の流れの中で、通読箇所の位置づけを大体でよいですから、把握して読んでいただきたいからです。もちろん、分け方はいろいろとあり、マルコによる福音書も以前引用した「パピアス断片集」にあるように「順序立ててではない」とありますから、Chronological Order だとして読むことにも注意が必要ですが。
マルコによる福音書(3)
マルコによる福音書は話しの展開も軽快で、たとえば「すぐ」「すぐに」ということばだけでも、新共同訳で調べても31回あらわれます。口語訳ではさらに多くなっています。パピアスの断片集から判断すると、イエスの弟子であるペテロの通訳としてペテロが語ったことを記録したようですから、語り口調で書かれているのかもしれません。マルコによる福音書1章でも、21節から34節まで一続きの一日のこととして記されています。ある一日が眼前によみがえる効果があるのかもしれません。
27:さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
28:彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
29:そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
30:するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
31:それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
32:しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
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ルカによる福音
ルカによる福音書(1)
ルカによる福音書は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の最後におかれています。ルカによる福音書を読みながら、これは前に読んだことがあると感じる箇所が多いのではないでしょうか。また、このルカによる福音書が一番好きだという方もいるのではないかと思います。みなさんが、どのような感想を持たれるか、楽しみです。
これから分かることは、医者であること、テモテへの第二の手紙にはその著者とされるパウロと一緒にいること、フィレモンへの手紙では、(獄中にいたパウロの)協力者とよばれ、おそらく(囚人とはなっていないようですが)一緒にいた人の一人として書かれていることです。また、マルコとも知り合いだったと思われます。
愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
以下のことが分かると思います。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
マタイ、マルコ、ヨハネは、または、これらの福音書の背景を考えると、これら三つの福音書は、ヘブル語を理解し、ユダヤについて十分に詳しい人たちが書いたと思われますが、ルカは、ギリシャ人と考えられており、ギリシャ語は非常に美しいが、おそらくヘブル語は話せなかったと思われます。異邦人クリスチャン向けの福音書と言うことができるかも知れません。献呈の相手のテオフィロは「神を愛する」という意味ですが、歴史上の特定の人なのかどうかは分かっていません。
ルカによる福音書(2)
10章には「善きサマリヤ人のたとえ」15章には「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる有名なたとえがあります。それ以外にも、みなさんも聞いたことがある話がいくつも出てきているのではないでしょうか。
マタイ15:28 には、ルカに記されていない ツロ・シドンの地方でのカナンの女の娘の癒しのところでもこの言葉が使われています。
しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。
しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
ルカによる福音書(3)
新約聖書の最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書(共感と書く人もいます Synoptic Gospel)と呼ばれ、共通の記事がたくさんあふれています。現在では、マルコが最初に書かれ、マタイとルカは、マルコの流れを基盤として他の独自資料をもとに編集したと言われていますが、同じ記事または似た記事を比較してみると、取り上げる場所・背景が違っていたり、強調点が違ったり、新たなことが付け加えられていたり、修正されていたりしていることにも気づきます。通読で比較して読むことは時間の関係でなかなかできませんが、それぞれの箇所が簡単に行き来できるとよいと思うことも多いと思います。聖書には、対応箇所が見出しと共に書かれていたり、引照箇所が記されているものもあり、助けとなりますが、対照表があるのも便利です。わたしが主催している聖書の会では、下の Life of Christ サイトの Gospel Harmony を参照しています。個人的には、よくまとまっていると思います。キリスト教の牧師や宣教師になる勉強をする神学校にいくと、この対応表を自分で作成することがよく課題とされます。この対応についての本もたくさん出版されているぐらいですから、自分で作成しようとしてみるとなかなか大変であることも分かりますよ。
四福音書対観表(西日本福音ルーテル教会)
この下の英語のサイトには、他にも、奇蹟や、たとえ、イエスの説教などについてまとめた表も掲載されています。最後に、ルカによる福音書の梗概を引用します。
ルカによる福音書(4)
わたしは、この BRC サポートレターを書くこともあるので、みなんより少し先を読むように心がけています。今回は、ルカによる福音書6章12節から7章1節から通読でわたしがどのようなことを感じながら読んでいるかひとつの参考として書こうと思います。わたしは、ここ何年かは、通読は口語訳を使っていますが、以下の引用は主として新共同訳とします。
イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
カファルナウム(口語訳などではカペナウム)は、ガリラヤという地方にあるガリラヤ湖の北の湖畔にある町で、イエスが宣教の拠点とした町で、わかっているだけでも、14節から16節で「使徒」と呼んでいる12人の弟子たちのうち「イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ」「マタイ」は、この町の出身または、この町の周辺の地を拠点として働いていた人たちです。この節では「民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから」とあります。そのイエスの説教、おそらく記録されているのは一部でしょうが、それが、20節から49節に書かれています。「すべて」(口語訳では「ことごとく」)は強調している印象をうけますね。イエスの中心的説教と言ってもよいと思います。書かれていることは、マタイによる福音書5章から7章の通常「山上の垂訓」とか「山の上の説教」と言われているものと、共通の言葉が多いので、おそらく、何度もイエスはこのようなメッセージをしたのだと思いますが、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とあるので、マタイによる福音書の記事と対比して「平地の説教」などとも言われます。
12:そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
徹夜で祈りこの12人を選んだことが書かれています。使徒言行録もルカが書いていますから、その1章にあるリストとは同じですが、他の福音書にあるリストとは多少名前が違っていますが、ニックネームや、ヘブル語・アラム語の名前と、ギリシャ語の名前とを両方持っていた人も多いようですから、12人のリスト自体に食い違いがあるとはいえないのだと思います。マタイによる福音書10章のはじめにも似た表現がありますが、マルコによる福音書から対応する箇所を抜き書きしてみます。3章13節から15節です。
13:朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
13:イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
「使徒」の英語名は、Apostle です。ICUのアメリカンフットボールチームの名前でもありますね。わたしはあまり詳しくありませんが、アメリカンフットボールは11人のようですね。ここには、イエスの任命であること。そばにおくため(生活を共にするため、おそらく教育と訓練のためでしょう)、派遣して宣教させるため、そして、悪霊を追い出す権能を持たせるためとあります。つまりこの時点からは、イエスだけが教えるのではなく、チームで宣教する、かつ、常に訓練をし続けることが書かれているわけです。
14:そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15:悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
17b:大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
17b と書きましたが、これは、17節後半という意味です。エルサレムはユダヤの山地にある町で、イスラエルの中心都市、カファルナウムからは、150km 以上南です。ティルスやシドンは、カファルナウムから北北西70kmから100kmにある海岸の町で、地中海貿易で栄えた町です。地図は、BRC のホームページにリンクがありますが、Bible Atlas のサイトには、いろいろなものがあり、わたしはまずそのサイトの地図を利用しています。
18:イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19:群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
マタイによる福音書でも大体同じようになっていて、中心的に語りかける相手は、弟子たち。聞いているのは、もっと多くの人々です。(マタイによる福音書 5章1節、7章28節)「貧しい人々」とは、どのような人なのでしょうか。そして、「あなたがた」とは誰なのでしょうか。
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ヨハネによる福音書
ヨハネによる福音書(1)
ヨハネによる福音書以外の3つの福音書は、共観福音書とよばれ基本的に似た記述が多く含まれ、イエスの活動時期の記述も、中心部分は、バプテスマのヨハネが捕らえられてから以降になっていますが、ヨハネによる福音書はことごとくといっても良いほど違っています。それは、読めばすぐわかることだと思います。なお、この書のヨハネは、通常バプテスマのヨハネと呼ばれている、イエスにバプテスマ(洗礼)を授けたとされる、ヨハネとは別の人です。ルカによる福音書(2)で、信仰の事を書きましたが「信仰」ということばが含まれていないのも四福音書でヨハネだけです。逆にヨハネによる福音書に多い言葉もあります。たとえば「真理」。新共同訳聖書では、マタイ、マルコ、ルカには1箇所ずつですが、ヨハネには20箇所出てきます。また、ヨハネ福音書には、この書の著者について書かれています。以下、新共同訳からの引用とします。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
ヨハネによる福音書(2)
ヨハネによる福音書の冒頭の部分はつぎのようになっています。新共同訳で引用します。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
「言(ことば)」はギリシャ語でロゴスです。AD70年にエルサレムが破壊されてから、キリスト教も、ユダヤ人が中心のエルサレムから、異邦人社会、ギリシャ文明の強い影響を受けた地域、人々にその活動の中心が移ってきていましたから、この福音書が書かれた1世紀末から2世紀はじめにかけて、ギリシャ的な概念を大切にして書かれたことは確かでしょう。その意味でも「ロゴス」という言葉を用いて、ヨハネは何を伝えたかったのかを考えることは大切でしょう。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
をマルコによる福音書のほとんど最初に持ってきています。ヨハネも「さいしょ」「はじまり」について考えたのではないでしょうか。ヨハネは、イエスの弟子たちの中でも、ほとんど最初から、イエスに従った弟子でしたから、ほとんど最後の初代キリスト者として、マタイ、マルコ、ルカや、他の文書には、書かれていないことで、書き残すべきだと考えたことがあったでしょう。確かにヨハネによる福音書には、他の福音書に書いてあることとの重複は極力避け、書いていないことを独特の筆致で書いている傾向があります。ここでは、最初にしぼって考えてみたいと思います。
1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ここに出てくるヨハネは、バプテスマのヨハネと言われている人で、著者のヨハネとは違います。
そのヨハネを通して「言(ことば)」についての証言をし 4節では「言(ことば)の内に命(いのち)があった。命は人間を照らす光であった。」としています。さらに「言(ことば)があった」からはじめ、それは「神と共にあった」としているのです。「どんなひとか」ではなく「なにをしたか」に中心をおくのでもなく「なんであるか」を語っているように思えます。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6:神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7:彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8:彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10:言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11:言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書20章31節
どのような命(いのち)が受けられるのでしょうか。「神の子となる」こととあわせて考えながら読んでいただければと思います。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
ヨハネによる福音書 梗概
ヨハネによる福音書(3)
ヨハネによる福音書は、いろいろな意味で、他の三つの福音書と違った印象をうけます。いろいろな理由がありますが、一つは、他の福音書には、書かれていない時期のイエスの活動について書かれていることです。以下は、新共同訳から引用します。たとえば、マルコによる福音書 1章15-16節にあるように、
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
三つの福音書では、イエスが福音宣教を始めたのは、(バプテスマの)ヨハネが捕らえられた後としていますが、ヨハネによる福音素3章22節から24節には、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
22:その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
とありますから、ヨハネが捕らえられる前から、活動していた記録があること、そして、2章をみると、この時期に、過越の祭りのためにエルサレムに行ったことも記されています。
23:他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24:ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
23:イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
13節から22節までエルサレムでのことが書かれていますが、そこには、驚くべき奇蹟がいくつも行われたとは、書かれていません。しかし「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあります。それに続けて「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」ここは、口語訳では「イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」となっています。これは、どういうことなのでしょうか。マタイ、マルコ、ルカにも、奇蹟について、だれにもいわないように注意した箇所が出てきますが、ここは、その理由を書いているようにも思われます。6章26節, 27節には、次のように書かれています。
24:しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25:人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
26:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
では、これは、霊の世界について語っていて、現実の世界のこととは関係ないと言っているのでしょうか。
27:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
と言っていますが、そのあとの12節で、
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
ということは、先ほどの3節は地上の事のようです。イエスが語っておられるのはどのようなことで、人々を信用されなかったのは、何故なのでしょうか。そして何を我々に求めておられるのでしょうか。ヨハネはこの福音書をとおして何をわれわれに伝えようとしているのでしょうか。
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使徒言行録
使徒言行録(1)
使徒言行録は日本聖書協会の新共同訳の名前で、同じ日本聖書協会ものでも口語訳では使徒行伝となっています。日本聖書刊行会の新改訳を読んでおられる方は使徒の働きとなっています。英語では Acts と呼ばれます。この書を何と呼ぶかで、その方がその聖書の訳を読んでいるかが大体わかるとも言えます。
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエスによるこの宣言がローマにまで至る経過を記録したものが使徒言行録だとも言うことができます。まだ先があることの、最初の部分と言うことができるかも知れません。
C. H. Turner による6つの区分として知られているものに次のものがあります。
引用したのはすべてそれぞれの区分の最後の節です。つまり、神のことばの進展の様子が書かれているとも言うことができると思います。
これらの問いは、使徒言行録の中でも問われていると思いますが、今の私たちにとっても単純な答えが用意されているわけではない問題だとも言えるのではないでしょうか。そして、人々の平和、それぞれの共同体に関わる、日常的な営みに対する問いともなっています。
使徒言行録(2)
サウロという人が、使徒言行録7章58節に初めて登場、9章に回心記事があり、その後9章中頃から一端姿を消します。11章で再登場、それ以降は、このサウロが使徒言行録の中心的人物となります。このサウロが使徒言行録13章4節ー12節の出来事以来、パウロという記述に変わります。そしてそのパウロ由来の書簡が、使徒言行録のあと続きます。そこで、この「サウロ、またの名はパウロ」(13章9節)についていくつか引用しておきましょう。
(ステファノを)都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
ステファノは、イエスの弟子の最初の殉教者と言われている人です。そして、回心記事です。実は、この回心記事は、使徒言行録に3回記載されています。1回目は9章、あと二回は、22章と26章のパウロの弁明の中に現れます。9章の最初1節から6節を引用します。
1:さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
2:ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
3:ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4:サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5:「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6:起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
次は、再登場の箇所です。11章22節から26節。
22:このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
23:バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
24:バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
25:それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
26:見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
バルナバというひとが重要な役割を果たしていることが分かります。バルナバについては、4章36節、37節に記載されています。
36:たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
37:持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
このあと、13章から、サウロと一緒に海外伝道旅行に出ます。その最初の訪問地は、バルナバの出身地でもある、キプロス島です。そこに「地方総督セルギウス・パウルス」の回心記事が書かれ、その直後に、最初に引用した、「サウロ、またの名はパウロ」の記述があり、このあとは、ずっとパウロとなります。そして、この記事以降「バルナバとサウロ」だった記述が「パウロとその一行」(13章13節)または「パウロとバルナバ」(13章14節)に変わります。特に何も記されていませんが、パウルスというのは、ギリシャ語名で、パウロと書かれてる名前と同じですし、サウロは、パウロの属するベニヤ民族でイスラエルの最初の王となったひとの名前、パウロは「ちいさい」または「小さき者」という名前だということを考えると、いろいろと想像してしまいますね。
使徒言行録(3)
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(新共同訳 ヨハネによる福音書17章 11節)
上に引用したのは、ヨハネによる福音書17章に書かれている、イエスの祈りのことばです。イエスが十字架にかかる前に弟子たちと食事を共にしたときの一コマです。使徒言行録は、イエスが十字架上の死と復活の後神のみもとにもどり、残された弟子たちの物語です。イエスが弟子たちと共にいたときは、なにか問題がおこったり、だれかからか非難を浴びれば、イエスが答えて下さいました。弟子たちは、それを通して学んだことは多かったでしょう。しかし、使徒言行録でみてもわかるように、あたらしい問題がどんどん発生し、弟子たち、そして弟子の弟子たち、いろいろな形でイエスを救い主と信じるようになった人たちは、その問題に自分たちで対応し、解決していかなければならなくなったのです。使徒言行録は、その記録だともいえます。使徒言行録を読みながら、問題を理解し、それに弟子たちは、クリスチャンたちはどのように対応していったのかを読み取るのも一つの方法ではないでしょうか。
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
口語訳では「無学な、ただの人」だと記されています。イエスと一緒にいたこと以外、あまり取り柄のない、「無学な普通の人」がリーダーでした。
44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46:そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
(新共同訳 使徒言行録2章44節-47節)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
他にもいくつもあります。見つけて下さいね。
(新共同訳 使徒言行録9章31節)
使徒の働き 梗概
使徒言行録(4)
使徒言行録の著者のルカは温厚なひとのようで、問題を際立たせて書くことはしませんが、使徒言行録を読んでいくと、キリスト教会は、最初から様々な問題に直面し、乗り越えていかなければならなかったことが分かります。
使徒言行録10章34節, 35節
34:そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
この使徒言行録のテーマとも言うべきものは、1章8節に書かれています。
35:どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
聖霊は神の霊、力をもって働き、神のこころをも理解させるものと書いておきます。その働きが随所に現れます。先ほどのペテロの告白のあとには、このように付け加えられています。10章44節-47節です。
44:ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
エルサレム会議では、15章1節
45:割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
46:異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
47:「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
や、5節
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
が議論されますが、最後まとめとして、文章が作られます。23節-29節ですが、
27:聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
なにか中途半端に感じる人もいるかもしれませんが、
28:すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
18:それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
とも書かれています。ユダヤ教から信仰に入った人への配慮もあったのでしょう。次の問いの一つへの対応でもあります。
19:ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
20:モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」
A. ユダヤ人に与えられた律法や言い伝えを守らなければ、ひとは救われないのか。
いまも、この問いかけは、ある意味で続いています。みなさんは、どのように答えますか。
B. ユダヤ教以外の人がイエスを救い主と信じたときに、ユダヤ人に与えられた律法を守らなければいけないのか。
C. ユダヤ教徒がイエスを救い主として信じたときに、もう律法を守らなくてもよいか。
D. ほかの宗教共同体にいたものが、イエスを救い主と信じたときに、その共同体から離れないといけないか。
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ローマの信徒への手紙
ローマの信徒への手紙(1)
使徒言行録の最後は、パウロがローマに着いたところで終わっています。ローマ信徒への手紙1章13節には、
兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。(新共同訳)
とありますから、パウロは、まだ一度も、ローマに福音を携えては行っていないことが分かります。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(新共同訳)
とありますから、すでに迫害もあったのでしょう。その状況を考えながら12章9節から最後を読むとこれは単なる倫理的な教えではないことが分かるのではないでしょうか。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(新共同訳12:15-18)
最後は口語訳では「できるだけ」となっていますが、どこにいっても、紛争が絶えなかったパウロの言葉だと思うとさらにいろいろと考えさせられます。9節には「愛には偽りがあってはなりません。」とあり、この章は最後「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(21節)」と締めくくられています。一日一日偽りのない愛をもって、善をもって神の支配に委ねていきたいと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」がイエスの説いた福音ならば。
ローマの信徒への手紙(2)
手元に、小泉達人著「ローマ書新解 - 万人救済の福音として読む-」(キリスト新聞社 2008.6.6 刊)がありますが、その最初には、つぎのように書かれています。
ローマ書は、宗教改革者マルチン・ルター以来、信仰義認の書、すなわちわたしたちは信仰によって義とされ救われる。と説く書物として理解されてきた。しかしローマ書はむしろ万人救済の福音、すなわち、信仰の有無にかかわらずすべての人が救われる、と説く書物ではないのか、というのがこの本の主題である。「ローマ書新解」という生意気な題を付けたのも、そのためである。
ローマの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒への手紙1章14節に「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」と書いたパウロによって書かれました。同じガラテヤの信徒への手紙2章16節にはつぎのように書かれています。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
ユダヤ教の人たちは、旧約聖書の最初の五書、律法(トーラー)と呼ばれるものと、その解釈の集大成である「タルムード」に書かれていることを実行していくことに心血を注いでいました。パウロも現在のトルコ南東の町タルソのユダヤ人の家に生まれ、エルサレムで律法の訓練を受け「ユダヤ教に徹しようとしていた」のでした。使徒言行録にもあるようにキリスト教徒を迫害していたパウロが、あるときイエス・キリストを信じるようになりました。上で引用したガラテヤの信徒への手紙によれば「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないから」とのべ「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と記しています。これが最初にのべた「信仰義認」です。
26:あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
では、この信仰とは何なのでしょうか。信仰とか、愛とはなにか、直感的で感情的な要素が強く、行いより、かえって抽象的で、「イエス・キリストへの信仰によって」などと言うことで、差別的にならないでしょうか。信仰がある人は救われ、無い人は救われないのでしょうか。キリストを救い主と信じるひとが救われ、キリスト教以外の人は救われないのでしょうか。その信仰について上の文章のようにどこまで論理的に語れるのでしょうか。
27:洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
28:そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
29:あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
21:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22:すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23:人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24:ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙3章21節-25節(新共同訳)
31:では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
いのちのことば社「新聖書注解」泉田昭
32:わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33:だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34:だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
35:だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36:「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37:しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38:わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39:高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8章31節-39節(新共同訳)
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コリントの信徒への手紙一
コリントの信徒への手紙一(1)
コリントは、使徒言行録に記されているところ(18章)によると、パウロが第二回伝道旅行で、アテネの次に訪ねた場所です。地図をみると一目瞭然なのですが、ギリシャの最南端のペロポネソス半島の根元のくびれたところに位置し、使徒言行録18章18節にも出てくるケンクレアイが東の港で、現在のトルコにあたる小アジアに通じ、西にはレカイオンの港でアドリア海を通してローマにつながっている交通の要所です。一番近いところは6kmといわれ、小さな船は、陸路をローラーに載せて運んだと言われています。BC44ユリウス・カエサルによってローマの植民都市として開かれてから非常に栄えますが、当時はかなり退廃した、不道徳の町だったと言われています。使徒言行録の記述によれば、パウロは、少なくとも三回コリントに滞在、少なくとも1年半の滞在も含まれています。伝道者のアポロもコリントに滞在し、ペテロも滞在したと言われています。そんななかで、このコリントの信徒への第一の手紙は、パウロが長く滞在したもう一つの町小アジアのエペソから書いたとされています。(コリント信徒への第一の手紙16章7,8節)読んで頂ければわかりますが、いろいろな問題を抱えていた教会であることが分かります。ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ一度も行ったことのない、ローマの信徒の群れにあてて教義を中心に書いていますが、コリントの信徒への手紙は、よく知っている信徒達に対して具体的な問題について書いています。
神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
このソステネは、使徒言行録18:17に出てくる会堂司だと思われます。会堂司は、その地のユダヤ人にも信頼されていた長老ですから、コリントの信徒については、かなり詳細に知っていたでしょう。
このコリント信徒への手紙では、現代にも通じる問題が多く語られています。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。(新共同訳 8章1-4節)
わたしはコリント信徒への手紙一の中で、13章とこの8章を大切にしています。いろいろな人と会い、いろいろな人と関係をもち、共に働き、あるときは衝突し、あるときは心配になり、あるときは、この立派な人には神様の救いなど必要ないのではないかと思ったりもします。そのたびに、わたしは、次の聖句の後半を唱えることにしています。(ガラテヤ2:21を唱えることもありますが)
そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(新共同訳 8章11節)
わたしたちは理性が与えられ、自分で考えることができることは本当に恵みであり感謝です。しかし、わたしたちの行動が私たちの知識や、思考に依存して、もし愛がないのなら、たとえ、聖書のことばをたくさん引用して正当化しようとしても、かみさまが与えて下さった、自由を汚れたものにしてしまうと思うからです。イザヤ書64:5 の表現と似た感じを持ちます。
わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
この章の結び、パウロは次のように言い切ります。キリスト者の自由について決然としてこのパウロの潔さに撃たれます。
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(新共同訳 8章13節)
愛によって造りあげられたいものです。
コリント人への手紙 第一 梗概
コリントの信徒への手紙一(2)
コリントの信徒への手紙一は次のように始まります。
1:神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
パウロは自分のことを「使徒」と呼んでいます。ルカによる福音書6章13節には「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」とあり、弟子と使徒とははっきりと分けられています。弟子の中で、特別に福音の使者として遣わされたものが使徒です。パウロの改心については、特に使徒言行録の9章、22章、26章に少しずつ違った形で語られています。22章21節には「すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」と書かれていますが、9章や26章にも改心とあわせてパウロを派遣することが書かれており、パウロもそのことを強く意識していたのでしょう。1節に出てくるソステネは使徒言行録18章17節にある「会堂長のソステネ」ではないかと思われます。
2:コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3:わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
4:わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
このコリントの信徒への手紙を読むとき是非、この1節から9節を覚えて読んで下さい。おそらくそれは、パウロの願いでもあったのではないかと思います。戻ってくる場所は、この1節から9節です。わたしたちにも、しっかりとした戻ってくる場所があると良いですね。いくら問題だらけの社会に住んでいても。
5:あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
6:こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
7:その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
8:主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
9:神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
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コリントの信徒への手紙二
コリントの信徒への手紙二(1)
コリント信徒への手紙は、ローマ信徒への手紙とちがい、教理的なものよりも、具体的な問題についての言及が多いこと、そして、パウロが感情をおさえきれないという感じで、配慮をしつつも率直に書いていることが、印象的です。ローマ信徒への手紙はパウロがまだ訪ねたことのないローマの教会に宛てて書かれたものであるのに対し、コリント信徒への手紙は、パウロが開拓伝道をし(使徒言行録18章)、その後も何回も訪れ、かつ長く滞在した教会に宛てた手紙ですから、コリント教会の人たちについても、コリントやそこの人たちの問題についても、したがって起こりうる状況の可能性についてもかなりよく知って書いている点が大きく違います。さらに、こころがつながっているコリントの人たちを思うと、ある意味では冷静ではいられない、いとおしくかつ心配な、霊的なこどもたちに対する思いが書かれています。同時に、すでに、アポロなどパウロ以外の影響を受けたグループもいくつもあったようですから、そのような背景から来る複雑さもあったでしょう。コリントは、すでにアテネよりも大きくなっており、商業的に栄えていた町です。この当時は大きな劇場などを使うことは困難なことも多かったでしょうから(エペソで「ティラノという人の講堂で議論した」という記事はあります(使徒言行録19:9))、いくつも集会があったとも思われます。この複雑な状況のなかで、「最高の道(新共同訳、口語訳では「最もすぐれた道」コリント信徒への手紙一12:31)」として愛をパウロは語ります。そのような背景を想像して読むとより豊かに読むことができるかも知れませんね。
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(コリント信徒への手紙二9章12-15)
コリント人への手紙 第二 梗概
コリントの信徒への手紙二(2)
コリント信徒への手紙の一・二を読んでいると、まだ長くても生まれて数年しかたっていないコリントの教会に様々な問題があったこと、そして、その一つの中心問題が分裂、一致がむずかしいことを感じます。パウロが一番気にかけていた問題でしょう。そして、パウロが気にかけていたのは、コリント教会の中での一致だけではなく、パウロたちや、他の地域の「すべての聖なる者たち」の一致であり、そのことをつねに意識して語られていると思います。信仰の核となる部分が、個人と神様の関係であるなら、信徒の一致はなにを意味するのでしょうか。
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(ヨハネによる福音書17章11節)
コリント人の信徒への手紙二の1章4節から7節では、
4:神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
ここでは、苦しみと慰めを共にしていると書かれています。一方でたくさんの問題を抱えているコリント教会ですが、1章24節では
5:キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
6:わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
7:あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。
では、一致させるものは、何なのでしょうか。この世、私たちが現実に生きている世界では、強制なしにどのように連帯がうまれ、一致を経験することができるのでしょうか。とても難しいテーマだと思います。しかし、聖書では、その鍵は、聖霊(御霊)であると言っています。同じ霊によって生きることです。
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。
(コリントの信徒への手紙二 1章20節21節)
今日の聖書の箇所は、上にも書いたように、コリント信徒への手紙一11章・12章ですが、そこからも御霊の働きが読み取れるのではないでしょうか。
12章は、賜物について書かれていますが、その中心は、それは、一つの御霊の働きだということです。わたしは、神の霊によって、神が働かれるその働きを、われわれの日常のなかに認められればと願っています。そして、様々な働きが一つの御霊の働きとの告白に至ることを望みながら。
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ガラテヤの信徒への手紙
ガヤテヤの信徒への手紙(1)
ガラテヤは今のトルコの中部の地名です。ガラテヤの信徒への手紙には「福音の真理とキリスト者の自由」キリスト教の核心が書かれていると言われています。少し引用してみます。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙 2章16節(新共同訳))
神様に正しいと認めていただくのは、律法の実行ではなく、信仰によると言っているのですが、さらに進んで、
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙2章19,20節(新共同訳))
このように言い切っています。これは、おそらく、当時のユダヤ人キリスト者にとっては、戸惑いとも言えるようなものだったのではないでしょうか。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節(新共同訳))
ここに到達していたパウロにとっては、「律法のもとにはいない」ことは自明だったのかも知れません。ユダヤ人の中で生活している、特にユダヤのユダヤ人キリスト者は、当時も、おそらく、ユダヤ教徒として生きていたでしょうから、生活の根底を揺さぶられることだったでしょう。一方、ユダヤから離れて住んでいた、ユダヤ人でキリストによる救いのメッセージを受けた者には、ある程度自然に受け入れられたかも知れません。そして、異邦人キリスト者にとっては、これほどの福音は無かったでしょう。そう考えると、多少の混乱も感じられますが、ガラテヤの信徒への手紙のすばらしい点は、このあと、自由を得た、キリスト者がどう生きるかを丁寧に書いている点ではないかと思います。特に5章・6章。一カ所だけ引用しておきます。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤの信徒への手紙5章13-14節(新共同訳))
みなさんは、何を読み取られるでしょうか。
ガヤテヤの信徒への手紙(2)
ガラテヤの信徒への手紙1章4節、あいさつの直後に次のように書かれています。
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
非常に簡潔に、通常「贖罪(しょくざい、つみのあがない)」とよばれることが表現されています。パウロはイエスの地上での生活の間の弟子ではありませんから、他の12使徒のような使徒としての任命の仕方とは異なりますが、他の手紙と同様、ガラテヤの信徒への手紙にも、1章1節にもあるように、自分をキリストと神に直接任命された使徒だとしています。
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
イエスとずっと一緒に生活した弟子たちには、かえって、イエスの死を一言で表現するのは難しかったかもしれません。しかし、福音書にも少しは書かれています。マルコによる福音書10章45節(マタイによる福音書20章28節)
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
ガラテヤの信徒への手紙では、このあと、ガラテヤの信徒たちが「ほかの福音に乗り換えようとしている」(1章6節)と指摘し、パウロ自身のことがかかれていますが、その福音の核となることが2章16節に書かれています。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
2章19節から21節にはさらに強く次のように書かれています。
19:わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
神様に義としていただく「その生き方で良いよ」と認められた存在として生きるためには、律法の実行、神様がこうあるべきとして示してくださったことすべてをそのとおり行うことだと信じてきたけれど、それを完全に行うことはだれにもできない。「イエス・キリストへの信仰」によって「安心しなさい、その生き方で良いよ」と言われ、神様の前に生きる者は、律法に対して死んだもので、キリストに生きるものだ、と言っています。このことを忘れてはいけないとパウロは、ガラテヤの信徒たちに語りかけています。「ほかの福音」と言っていたのは、このような生き方から離れることです。
20:生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
21:わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
このことによって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(3章26節)
そして、そのようにされた目的を次に様に書いています。5章13節14節、25節です。
13:兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
霊の導きに従って生きる生き方についても書かれています。非常にコンパクトにまとまって書かれています。宗教改革者のマルティン・ルターは「わたしは、ガラテヤ書と結婚した」と言ったそうですが、パウロのメッセージ、あたなはどのように受け取りますか。
14:律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
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エフェソの信徒への手紙
エフェソの信徒への手紙からフィレモンへの手紙まで
ローマの信徒への手紙から、ピレモンへの手紙まで、13の書簡は、パウロ書簡と呼ばれています。パウロが書いたものかどうか議論のあるものもいくつもありますが、それを議論することは、ここではあまり有益だとは思えませんし、わたしが確信をもって、みなさんに説明することもできませんから、パウロ由来としておきたいと思います。基本的には、使徒言行録からも分かるように、パウロ達が伝道旅行をした地域の教会に書いた手紙がいくつもあり、それが集められたものです。テサロニケの信徒への手紙一は、テサロニケ伝道の後、コリントへ行ったパウロがテサロニケの信徒へ宛てて書かれたもので、これらの書簡の中で一番最初に書かれたと考えられています。
エフェソ人への手紙(1)
1章1節には、
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。
とあり、また、つぎのように書かれています。
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。(3章1節)
このようなことから、エフェソの信徒への手紙はパウロが書いた獄中書簡のひとつとされています。使徒言行録には、パウロがエフェソに何回も訪ねたことが記されています。獄につながれることになる、そして、おそらく最後のエルサレム訪問の直前に、旅の途中でエフェソから教会の長老たちを呼び寄せて最後の別れをしたことが書かれています。使徒言行録 20章17節から38節です。パウロがどのようにエフェソで宣教をし、生活したかが述べられたあと、このあとエルサレムでどのようなことが待ち受けているかを予期していることをのべ、エフェソ教会の長老たちに、注意を与え、32節にはつぎのようにあります。
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、(4章1節)
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
そしてつぎのような別れが書かれています。使徒言行録20章36節-38節
36:このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
エフェソの信徒への手紙も、長い関係をもった顔なじみも多くいる教会のひとたちに書いているのでしょう。その意味でも、なにかテーマを絞って書かれているわけではありませんが、深みのあることば、具体的な問題に対する教えなどなど、このひとつの書簡から非常に豊かな内容を読み取ることができると思います。
37:人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
38:特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
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フィリピの信徒への手紙
フィリピの信徒への手紙(1)
わたしにとっては、ピリピ人への手紙(その当時、そして今もそうですが、わたしが読む聖書は日本聖書協会口語訳が中心でしたので、この項は口語訳の言葉で書かせてください。ほかは、中心的には同じ日本聖書協会の新共同訳の名称、引用を使っています。)は特別です。高校生のころから好きでしたが、1982年(これは、結婚する前の年、今の形式で聖書ノートをつけて聖書を読み始めた年でもありますが)約6ヶ月かけて、ピリピ人への手紙を全文暗唱しました。暗唱は若い頃は難しくはありませんが、なんといっても、忘れないようにする復習が大変で、一週間に三回ぐらい、復唱していました。一番よかったのは、やはり瞑想/黙想をたくさんすることができたことでしょうか。いまは、残念ながら復唱できません。いつかまたやってみたいですが。もう無理かもしれませんね。
フィリピの信徒への手紙(2)
フィリピの信徒への手紙は次のように始まります。(1章1節)
キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
パウロは使徒言行録によると二回目の伝道旅行で、フィリピを初めて訪問しますが、その次第が次のように記されています。6節から8節に出てくる地名は、すべていまのトルコ(小アジア地方)の地名です。使徒言行録16章6節から12節を引用します。
6:さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
ギリシャの北半分が、マケドニア州で、ここにはフィリピや、テサロニケがあります。南半分はアカイヤ州で、アテネやコリントがあります。この使徒言行録16章の11節から40節までフィリピでのいくつもの印象的な出来事が書かれています。もう一度お読みになることをお勧めします。フィリピの教会は、このような背景のもとでできたと考えると、なにか特別なものを感じます。
7:ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
8:それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
9:その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
10:パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
11:わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、
12:そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
15:フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
このフィリピの信徒への手紙も、2章25節, 26節にあるように
16:また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
25:ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
ローマでとらわれの身となっているパウロの元に援助を携えてきてくれたエパフロディトが、瀕死の病気になったがいやされ、テモテと一緒に、フィリピに送り返すときに託した手紙となっています。
26:しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
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コロサイの信徒への手紙
コロサイの信徒への手紙(1)
コロサイの信徒への手紙は次のように始まっています。1章1節, 2節
1:神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、
コロサイは、ヨハネの黙示録(1章11節および3章14節から22節)にも現れるラオディキアの近くのアジア州の町ですが、使徒言行録でのパウロの宣教においても、また他の聖書の箇所にも出てきません。おそらく、使徒言行録19章10節にある
2:コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
この時点では、宣教はなされていたでしょう。また1章7節, 8節には次のようにも書かれています。
7:あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
ラオディキアについては、コロサイの信徒への手紙でも、何回か出てきますので引用しておきましょう。
8:また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。
コロサイの信徒への手紙2章 1節
さらに4章12節から16節
わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
12:あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
おそらく1章7節にも出てきたエパフラスはコロサイ出身だったのでしょう。ラオディキアとは地理的に近いだけでなく、様々なことを共有していたと思われますね。ルカによる福音書や使徒言行録を書いたのと同一人物と思われるルカも出てきますから、ルカもおそらく、コロサイの信徒を何人も知っていたのでしょう。
13:わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
14:愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
15:ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
16:この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
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テサロニケの信徒への手紙一
テサロニケの信徒への手紙一(1)
テサロニケの信徒への手紙一は、パウロが書いた手紙のなかでも最初に書かれたものだと言われています。
1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
シルワノは、使徒言行録に出てくるシラスと同一人物だと考えられています。1節にあるパウロとシラス(シルワノ)とテモテで、フィリピのあと、テサロニケに伝道したことが使徒言行録17章に書かれています。テサロニケは当時ローマ統治のマケドニア州の州都で良い港ももち、大きな町でした。フィリピには、ユダヤ人の会堂はなかったようですが(使徒言行録16 章13節)テサロニケには、会堂があったことが使徒言行録17章1節に書かれています。
2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。
当時は、10家族以上ユダヤ人家族がいると会堂をもつように定められていたようですが、「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」(使徒言行録17章4節)ことからユダヤ人のねたみを買い、争乱となったことが書かれています。
しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。(使徒言行録17章5節)
上で引用した、テサロニケの信徒への手紙一第1章3節では、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」と、信仰の働き・愛の労苦・希望の忍耐と三つが並べられています。コリントの信徒への手紙一第13章の有名な愛の賛歌の最後13節に書かれている、
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
を思い起こさせます。このテサロニケの第一の手紙には、その具体的な生き方についていくつもの勧めがなされています。
みなさんは、テサロニケの信徒への手紙のどのような言葉が印象に残りますか。
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テサロニケの信徒への手紙二
テサロニケの信徒への手紙二(1)
テサロニケの信徒への手紙二は次のように始まっています。1章1節を見てみましょう。
パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
このあいさつのことばは、テサロニケの信徒への手紙一の1章1節と殆ど同じで、「父」が「わたしたちの父」に変わっただけです。2節には、新約聖書の殆どの書簡にしるされている「恵みと平和」の祝祷があり、3節には、テサロニケの信徒たちの信仰と愛についての感謝を、4節には、迫害下の苦難の中での忍耐と信仰を誇りに思っていることが述べられています。しかし、このあとに続くメッセージはかなりトーンが変わっています。
5:これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
6節には、迫害している人たちには、報復ともいえる裁きが行われることが書かれているようです。終末において裁きを受けることは、聖書に一貫して書かれていることですが、なにかすこし違和感を感じます。終末・主の日については、テサロニケの信徒への手紙一にも関われています。5章1節2節を引用してみましょう。
6:神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7:また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8:主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
1:兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
テサロニケの信徒への手紙の2章1節-3節を見てみましょう。
2:盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
1:さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
この部分を読むと、テサロニケには、主の日に関してかなりの混乱があったことが分かります。迫害の中で、主の日のことを聞き、それを希望として生きる。しかし、迫害下のあまりに苦しい状況のなかで、このような混乱が起こってきていたのではないでしょうか。1章のわたしが違和感を感じると書いた箇所も、そのような中で、まずは、さばきについてはっきりさせ、同時に、2章で主の日のまえにあるべきことについて語り、テサロニケの人たちを落ち着かせているのかもしれません。そして、2章の後半への勧めに結びつけています。2章13節、14節を引用します。
2:霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
3:だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
13:しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
そしてこのあと、いくつかの具体的な勧めをしています。一つは本質的なこと。3章5節を引用します。
14:神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
そしてもう一つは、生活態度です。おそらく、主の日が近いとの信仰の中で、日常的なはたらきでなく、たとえば、聖書の言葉を語り合い、祈り合う、それだけしていればよいのではないかとの考えの人もでたのでしょう。みなさんは、明日天地が滅びるとしたら、今日、何をしますか。もう少し正確な問いは「ひょっとしたら明日かもしれない近い将来に主の日が来るというときに、あなたは今日どのように生きますか。」この手紙では「えー」と驚くぐらいふつうのことが書かれています。3章10節から13節を引用します。
10:実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
テサロニケ人への第二の手紙 いのちのことば社「新聖書注解」宮村武夫
11:ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12:そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13:そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
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テモテへの手紙一
テモテへの手紙一(1)
テモテへの手紙一は次のように始まります。1章1節、2節を引用します。
1:わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
「使徒パウロ」から「信仰によるまことの子テモテ」へとなっています。テモテについては、使徒言行録をはじめ記述も多いので、いろいろと知ることができます。まずは、テモテへの手紙二第1章5節を引用します。
2:信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
テモテの祖母と母が熱心な信者だったとあります。また、使徒言行録第16章1節、2節によると、テモテはリストラにいたようです。
2:パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
このことから、父親はギリシャ人、母親はユダヤ人であることが分かります。おそらく、祖母もユダヤ人だったのでしょう。16章は、使徒言行録の記述から、パウロの第二回伝道旅行と呼ばれていますが、一回目の訪問について使徒言行録 14章8節から23節に書かれています。19節から引用します。
3:パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
19:ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
テモテは、このように、なかなか大変な事件の起こった、リストラ出身のおそらくかなり若い青年だったようです。それを伺わせる箇所をテモテへの手紙一第4章12節から引用しましょう。
20:しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
21:二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
22:弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
23:また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
パウロがテモテを信頼していたことを伺わせる箇所を引用しておきます。フィリピの信徒への手紙第2章19節から24節です。
19:さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
テモテへの手紙一、二およびテトスへの手紙は、すでに宣教と牧会の働きをしていた、テモテ、テトスにその牧師としての務めについて書いているので、牧会書簡とも呼ばれています。ただし、整った教会制度への言及が多いことから、かえって、パウロ著者説を否定する人たちも多くいます。さて、このテモテへの手紙一には、何が書いてあるのでしょうか。
20:テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
21:他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22:テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
23:そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
24:わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
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テモテへの手紙二
テモテへの手紙二(1)
テモテヘの手紙二はつぎのように始まります。1章1節、2節。
1:キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
「命の約束」とあるのは、聖書でここだけです。旧約聖書も新約聖書もいのちの約束について書かれているとも言われますが。2節に、「恵み、憐れみ、そして平和」とありますが、この「憐れみ」が入っているのは、テモテへの手紙一、二だけです。特に、この「憐れみ」ということばを入れたかった背景があるのかもしれません。
2:愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
とありますが、この書は、宣教者、使徒、教師から、宣教者としての弟子テモテへのメッセージともなっています。少し拾ってみましょう。まずは、続く1章12節からです。
12:そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
自分のことを、自分の言ったことを手本にせよ、とは、なかなかいえませんね。2章2節には、
13:キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14:あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
これは、よく福音、教えの継承として引用されるところですが、「わたし(パウロ)」「テモテ」「忠実な人」「ほかの人々」と4世代のひとがこの短い聖句にはいっており、さらに、それが「多くの証人の面前で」と書かれています。さらに、15節には、
あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
この箇所は、口語訳では、
あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。
とあります。「練達した働き人」個人的な経験ですが、この2章2節と15節、わたしが若い頃暗唱していた聖句です。このテモテヘの手紙二は、このようにするには、どうしたらよいかが書かれている気がして、よく読んでいたのを思い出します。かつ、よく例も出てきます。ひとつひとつの勧めの言葉に背景があるのだなとも思わされます。3章の1節には、
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
とあり、このあと、「そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。」から、5節の「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」へと続きます。これは、一般の人のことではなく、おそらく信者、キリスト者の中でのことを言っているのです。困難な時代にあって、実際にそのようなことも起こっていたのではないでしょうか。そして、3章の14節から17節の言葉に続きます。「真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人にな」る鍵として、述べられているように思います。
14:だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
さらに続きます。4章1節から
15:また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
16:聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
17:こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
1:神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
この次の節には、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」とありますから、最後の引き継ぎのメッセージなのでしょう。
2:御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
3:だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、
4:真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
5:しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
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テトスへの手紙
テトスへの手紙(1)
テトスへの手紙の冒頭は、他の手紙と比較するとかなり長いものになっています。1章1節から4節まで引用します。
1:神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
テトスについては、聖書に何回か記されています。ガラテヤの信徒への手紙2章1節から3節
2:これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
3:神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――
4:信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。
1:その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。
これがいつのことか正確には分かりませんが、文脈からは使徒言行録15章に書かれているエルサレム会議とも呼ばれているときの事かもしれません。すると、パウロとバルナバによる一回目の伝道旅行の後と言うことになります。ここからテトスはギリシャ人であり、割礼を受けていなかったと書かれていますから、パウロたちの伝道の最初のころにはすでに、キリストを信じるようになっていた非ユダヤ人ということになります。上に引用した4節には、まことの子とありますから、パウロを通して、信仰を持つようになったのかもしれません。テトスについては、コリントの信徒への手紙二にも何回か出てきます。コリントに遣わしたテトスがよい報告をもって帰ってきたこと、それによってとても慰められたことが書かれています。(コリントの信徒への手紙二 7章5節から16節)また、同じ手紙の8章23節には、次のようにあります。
2:エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。
3:しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。
テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。
パウロが信頼をおいている、同志テトスにあてたとされているこの手紙も、テトス宛としながらも、もっと一般的なことが託されているのでしょう。
3:わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
皆さんは、テトスへの手紙のどんなことばが印象的ですか。
4:しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
5:神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
6:神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
7:こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
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フィレモンへの手紙
フィレモンへの手紙(1)
フィレモンへの手紙は、次のように始まります。1章1節から3節を引用します。
1:キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、
フィレモンは、聖書の中でここにしか出てきません。アフィアも出てきませんが、アルキポは、コロサイの信徒への手紙4章17節に「アルキポに、『主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように』と伝えてください。」と出てきます。
2:姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
3:わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
12:わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。
おそらく、オネシモは主人であるフィレモンのもとから逃亡したのでしょう。「キリスト・イエスの囚人」パウロはローマの監獄にいたのではないかと思われますが、少なくともこの時点で、オネシモも信者になっていたことが分かります。
16:その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17:だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。
7:わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
このときと、フィレモンの手紙の書かれた背景とがまったく一致しているかは分かりませんが、オネシモについて「あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟」と書かれていることからすると、オネシモも、コロサイの教会の一員だったのかもしれません。
8:彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
9:また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
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ヘブライ人への手紙
ヘブライ人への手紙(1)
コリント信徒への手紙以降、短い書簡が続きましたが、ヘブライ人への手紙は、13章あります。特徴的なのは、最後は書簡的な書き方になっていますが、最初には、宛先も自己紹介も書いてないことです。古い伝承もこの書について一定していないことから、誰が書いたかなどは、諸説がありはっきりしません。基本的なことをまとめておきましょう。
パウロがローマ人への手紙で、旧約の歴史から救済について書いていますが、このヘブライ人への手紙の論理立ては、大分異なるようです。使徒言行録の18章24-28節にアポロという人が登場します。
24: さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。
25: 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
26: このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
27: それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
28: 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
このアポロが、ヘブライの信徒への手紙の著者である証拠はありませんが、このアポロのような人が著者でないかとは、思われます。
ヘブライ人への手紙(2)
ヘブル人への手紙(日本聖書協会、口語訳)では祭司としての神の御子イエス・キリストについて書かれ、このイエスによる救いに対する私たちの信仰による応答をうながしています。ローマ人への手紙15:16 には
このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
と書かれており、また、ペテロ第一2:5, 9 にも、私たちが神の祭司であること、ヨハネの黙示録1:6, 5:10, 20:6 にも似た表現があります。ここから万人祭司という言葉もうまれていますが、イエスが祭司だということを明確に述べているのは、このヘブル人への手紙以外は、ありません。その意味でも特徴的ですね。また、ヘブル人への手紙に書かれている大祭司としてのイエスの性質も特徴的です。たくさんありますから、いくつかだけ拾ってみましょう。
この救いにあずかれない理由としてあげられているのが不信仰です。3:12-19。そして信仰者の例を11章ではたくさんあげています。最初を引用しましょう。
11:1-2 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
ヘブライ人への手紙(3):寄留者
皆さんは、sojourner という英語の単語を知っていますか。日本語でいうと寄留者、口語訳聖書で使われています。新共同訳では「仮住まいの者(身)」です。アメリカで勉強していた頃に、この単語を知って、好きになりました。アブラハムなど族長といわれる人たちは、その地の寄留者でした。アブラハムはカナンの地を与えるとの約束をうけましたが、実際に手に入れたのは、サラを葬るために買った、畑とその畑の中にある墓だけでした。(創世記23章)この言葉は、新約聖書にも二箇所出てきます。
ヘブル人への手紙 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 (新共同訳)
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(口語訳)
ペトロの手紙一2:11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(新共同訳)
この世での生活は仮住まいの生活だから、いいかげんでよいなどと言っていることではありません。本質的な決断をしなければいけないときの、信仰告白だと思っています。「神の国は近づいた」として、いまは地の国にいるが、神の国の(神様の完全な支配のもとにある)ものとして生活する、地の塩として。そんな意味合いでしょうか。
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 (口語訳)
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。
ヘブライ人への手紙(4):天使
聖書で「天使」についてたくさんの記述があるのは、ヨハネの黙示録で、それ以外は、使徒言行録と、マタイの福音書を中心に福音書にありますが、それほど多くはありません。使徒言行録23章8節に「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」とありますから、ユダヤ教でも扱いが一定していなかったのでしょう。さて、ヘブライ人への手紙ではどのように記述されているでしょうか。1章1節から9節を引用しましょう。
1:神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
ここでは、御子が天使とは異なる優れた方だということ、言い方によれば、異次元の方だということが書かれています。このあとの、13節、14節では、次のように書かれています。
2:この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
3:御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
4:御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
5:いったい神は、かつて天使のだれに、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、/「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。
6:更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。
7:また、天使たちに関しては、/「神は、その天使たちを風とし、/御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、
8:一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。
9:あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
13:神は、かつて天使のだれに向かって、/「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、/わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。
天使は「奉仕する霊」だとあります。2章5節から11節を引用します。
14:天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
5:神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
5節では、来るべき世界を、天使たちに従わせることはなさらず、人の子、御子に従わせたということでしょう。さらに、11節を見ると、救われた人たちが、兄弟となるというのです。そして、16節には次のようにあります。
6:ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
7:あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
8:すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
9:ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
10:というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
11:事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
1:兄弟としていつも愛し合いなさい。
明確には分からなくても、天使、興味を持ちませんか。どうも、羽の生えたエンジェルとはちょっと違う感じを受けますね。ヘブライ人への手紙から、なにか新しいことを学ばれることを願っています。
2:旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
3:自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
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ヤコブの手紙
ヤコブの手紙からユダの手紙まで
ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、二、ヨハネの手紙一、二、三、ユダの手紙、これら七書は「公同書簡」「公同の手紙」(Catholic Epistles(Catholic はギリシャ語のカトリコスからきており、普遍という意味です、使徒信条とよばれ多くの教会で唱えられる信仰告白の中に「聖なる公同の教会」ということばが出てきますが、これも英語では、Holy Catholic Church で、プロテスタント教会でもこの言葉で唱えられます), General Epistles)とも呼ばれています。特定の地域の人たちや、グループにあてられたのではなく、信徒全般に対して書かれ、回覧が想定されているものだからです。
ヤコブの手紙(1)
上で述べたように、ヤコブの手紙以下ユダの手紙までの七書を一般に「公同書簡」と呼びます。書簡の宛先が、特定のひとではなく、信者全般を対象としているからです。このヤコブの手紙1章1節は、次のように始まります。
神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
このヤコブは、上にも書いたように、イエスの兄弟でユダヤ人の間にも信望があつく、エルサレム教会の中心人物だったヤコブであるとされています。宛先は「離散している十二部族の人たち」となっていますが、これは、一般的には、ユダヤ人をさすことばです。
「要するに、ヨハネの福音書ならびに彼の手紙第一、パウロの手紙群、特にローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、そして、ペテロの手紙第一、これらは、あなたにキリストを示し、必要なすべてのことを教え、たとえその他の書や教理を見たり聞いたりしなくても、あなたに幸いとなる書である。それゆえ、これらの書に比べるなら、ヤコブの手紙は軽い藁(わら)の手紙である。なぜなら、これは、福音的性格を何ら持っていないからである。」「私は、この書を聖書の真に主要な書の中には数えないが、人がそれに位置を与え、高く評価することを妨げはしない。」
ローマカトリック教会と戦っていたルターにとっては、秘蹟の一つ「終油」の根拠ともなり得る節 (5:14) を含んでいたり、なによりも、アブラハムの義認は、イサクを献げた行為によると書かれている (2:21)、に抵抗があったことは確かでしょう。確かに、パウロの書簡などとは、かなり異なる印象を受けます。
ヤコブの手紙2章21節
背景として次のような問題があったのではないでしょうか。
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
Q. 信仰義認を大切にし、行いによる義の実践が弱いキリスト者は、ユダヤ教徒からみると倫理的にも劣るようにみえるが、それで良いのか。
イエスを救い主と信じてからも、律法を守り、高い倫理を保って、義を実践していた人たちにとって、特にユダヤ人キリスト者の生活の変化について、ユダヤ教徒から非難を受けることが耐えられなかったのではないでしょうか。おそらく問題の行為もあったでしょうから。似たことは、歴史上に何度もあり、日本にもあるように思います。高い倫理観をもつ教育をうけた人が、キリスト者の行為をみて非難する。高い倫理観をもつ教育をうけ、その上でキリスト者となった人たちが、問題のあるキリスト者を見て、キリスト教とはそのようなものではなく、一般的な社会倫理としても高くないといけないと反論し、非キリスト者からの非難を避けるためにも、キリスト者の倫理観を高めようとする。
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ペトロの手紙一
ペトロの手紙一(1)
ペトロの手紙一は次のように始まります。1章1節を引用します。
イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
宛先は、今のトルコ、小アジアの地域です。またこの手紙の最後 5章12節、13節にこの手紙に関する手がかりが書かれています。
12:わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
シルワノは、パウロと共に伝道旅行をした人で、テサロニケの信徒への手紙一、二の著者としても登場します。バビロンは、文字通りの場所ではないと思われます。文体も洗練されたギリシャ語で書かれ、全体的に、パウロの書いた手紙と近い印象をうけます。内容は充実しており、好きな聖句がたくさんあると思われる方も多いのではないでしょうか。
13:共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
ペトロの手紙一1章15節、16節
16節の引用は、レビ記11章44節、45節、19章2節からの引用ですが、マタイによる福音書5章48節も関係しているように思われます。
15:召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
16:「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
ペトロの手紙一1章21節-23節
21:あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
22:あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
23:あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
ペトロの手紙一2章 5節
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
ペトロの手紙一2章16節
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
ペトロの手紙一3章9節
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
ペトロの手紙一 5章6節、7節
皆さんは、どのようなことばが心に残りましたか。
6:だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
7:思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
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ペトロの手紙二
ペトロの手紙二(1)
ペトロの手紙二は次のように始まります。1章1節を引用します。
イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
3章1節には、
愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
とありますから、ペテロの手紙一を意識しているのかもしれません。
ペトロの手紙二1章5節-8節
7節に「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」とありますが、「愛を加え」ようとしていると、このような「神の本性」が与えられるという約束のうちを生きていることが確認できると言うことでしょうか。
5:だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
6:知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
7:信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8:これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
ペトロの手紙二1章20節
20:何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
21:なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ペトロの手紙二3章15節、16節
15:また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
16:彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。
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ヨハネの手紙一
ヨハネの手紙一(1)
冒頭1章1節から4節を引用します。
1:初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
他の手紙と異なり、著者も、宛先もありません。新約聖書に収められている手紙といわれるものでは、このヨハネの手紙一と、ヘブライ人への手紙だけです。名前はありませんが、書いた人について暗示させるものはあります。1節には「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とありますが、この「命の言葉」はイエス・キリストでしょう。すると、1節は、このイエス・キリストと生活を共にしたことを表現しているように思われます。書名は、すこし後に付けられたものですが、伝統的に、第4福音書を書いた12弟子のひとり、ゼベダイの子ヨハネを著者としています。
2:この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
3:わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
4:わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
わたしたちにとってたいせつな神様にとってたいせつなわたしたちの兄弟を愛すること、互いに愛し合うこと。これが神様の掟です。それは、まず、神様が、私たちを愛してくださったからです。そして、この掟を守ることは、難しいことではないと、ここで宣言されていますね。それは、なぜだと書いてありますか。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の中で生きていきたいですね。
20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
1:イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
2:このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
3:神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
4:神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
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ヨハネの手紙二
ヨハネの手紙二(1)
ヨハネの手紙二は次のように始まっています。1節を引用します。
長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
著者も、宛先も明確ではありませんが、この文章から個人的な手紙であることが、分かります。そして、この女性は、とても、すばらしい人のようですね。また、当時の問題も分かります。7節と9節には、次のようにあります。
7:このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
7節は、イエスは神の子であるが、完全な人ではなかったいう人たちがいたこと、9節では、キリストの教えを越えて、これにとどまらない人たちがいたことが書かれています。初代教会の人たちは、このような問題をたくさん持っていたのでしょう。もしかすると、いまは、それをあまり真剣に議論しなくなったかもしれません。
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ヨハネの手紙三
ヨハネの手紙三(1)
ヨハネの手紙三は次のように始まります。
1:長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
こちらの手紙でも、問題が書かれていますが、親近感も感じます。どの時代にもこのような人がいるのかもしれません。
9:わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
ヨハネの手紙三 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(伊藤顕栄)を引用しておきます。
10:だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
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ユダの手紙
ユダの手紙(1)
1節は次のように始まります。
イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
このユダは、イエスの兄弟で、ヤコブの手紙の記者だとされるヤコブ(ガラテヤ 1:19)の弟のユダが想定されています。マタイによる福音書13章55節には「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」とユダの名前もあります。(マルコによる福音書6章3節参照)9節、11節、14節をみると、旧約聖書には、書かれていない記事がはいっています。「モーセの昇天」「エノク書」と言われているものです。合本の一冊の聖書を持っている私たちは、偽典ともいわれるものを引用していること自体が心配になりますが、その感覚は、書かれた当時は違ったのかもしれません。
17:愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。
ユダの手紙 いのちのことば社「新聖書注解」から、梗概(上沼昌雄)を引用しておきます。
18:彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」
19:この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。
20:しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。
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ヨハネの黙示録
クリスマス、ヨハネの黙示録(1)
そろそろクリスマスですね。
多くの教会でクリスマス(Christ's Mass) 礼拝がもたれます。ギリシャ語ではキリストはクリストスで X (カイ)から始まるので Xmas などと略することもありますね。Mass はいわゆるミサですが、特にカトリックで聖体拝領(プロテスタントの聖餐式に対応するもので、最後の晩餐に由来しパンと葡萄酒を共に食する儀式(例えばマタイによる福音書 26章26-29節参照))の典礼をうけ、最後に「行け、派遣する」と司祭がのべる最後の言葉のラテン語 missa(派遣)に由来します。なかなか意味深い言葉です。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
(ルカによる福音書2章11節(新共同訳))
イエスの誕生を記録しているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。しかし、神の子が人として幼子としてお生まれになった。このことを覚えるクリスマスは、たとえそれが 12月25日かどうかはわからなくても、聖書の基本的なメッセージを理解する大切な機会だと思います。そしてそのイエスのメッセージは、次の言葉で始まります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコによる福音書1章15節(新共同訳))
宛先は、上の 1:4,5 にあるようにアジア州にある七つの教会で、1:11 によると
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ
となっています。今のトルコ西部の七つの町で、エフェソはその州都でいちばん大きな町です。そして最初の部分は、この七つの教会へのメッセージの形式になっています。黙示文学ともよばれ、神の啓示を述べたものとされています。ヨハネ黙示録は、特に、世の終わりに向けた神の意思を伝えるものと考えてよいと思います。
ヨハネの黙示録(2)
ヨハネの黙示録の最初の3章はローマ帝国のアジア州(現在のトルコの西部)の七つの教会へのメッセージになっています。それらの町について次の箇所に書かれています。
その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」(ヨハネの黙示録1章11節(新共同訳))
2章からそれぞれの町の教会に具体的なメッセージが書かれていますが、とても興味深いですよ。ひとつひとつの教会について良いことと悪いこと、賞賛と叱責が書かれています。当時の教会にも様々な問題があったことを想像するとともに、現代に対しても励ましと警告を与えているように思います。それぞれのメッセージは皆さんが読み取って下さい。おそらく、一人一人によって、印象的な箇所が異なるでしょう。
1: わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
これがヨハネが見た「新天新地」の幻です。地上のエルサレムは破壊されてしまいましたが、霊的なエルサレムを見ていますが、それは、何と人の間にあると言うのです。アルファとオメガは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後です。これが歴史上のある時を意味しているのか、それとも、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17) といわれた意味での神様の支配のもとにある世界を表現し、今でも、その一部を体験できるものなのか、皆さんも考えてみてください。
2: 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
3: そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
4: 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
5: すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
6: また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
7: 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
8: しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
ヨハネの黙示録(3)
ヨハネの黙示録の最初1章1節から5節を引用してみましょう。今回も、基本的に引用は新共同訳からとします。
1:イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
「すぐにでも起こるはずのこと」が、神、キリスト、天使を経由して、神の僕のヨハネに伝えられたと書かれています。そして、宛先は「アジア州にある七つの教会」です。七つの教会の名前は11節に記されています。20節には
2:ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
3:この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
4,5:ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
6:わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
とあります。教会の天使が何を表しているのかはよく分かりませんが、天に輝いているものとしての星と、地でほの暗いけれども、暗闇を照らしている灯火としての教会が対応しているというのは、暗示的です。今回は、七つの教会に対する最初の節を一つずつ見てみましょう。
エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。(2章1節)
みな、それぞれの教会にではなく、教会の天使に書き送っていますね。また神の子と出てきますから、イエス・キリストをこのように表しているようです。「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」とありましたから、ヨハネはキリストの声を天使を通して聞いているのでしょう。しかし、ヨハネからのメッセージではなく、キリストから、ヨハネへのメッセージと同じように、キリストから、キリストの使者としての天使を通して、教会に伝えられているのでしょう。さて一つ一つはどのような意味があるのでしょうか。これらキリストについて表現していることと、それぞれの教会の天使に書き送ったメッセージとは関連しているのでしょうか。少しゆっくり、ていねいに読んでみることができると良いですね。
http://www.swartzentrover.com/cotor/bible/Bible/Bible%20Atlas/127.jpg
この地図は127となっていますが、このサイトには、本当に聖書に関連した地図が本当にたくさんおいてあります。
この BRC のホームページのリンクにも載せてある Bible Atlas です。英語ですが、参考になると思いますよ。
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あとがきに変えて
通読について
聖書記者について
サポートレターでは、それぞれの巻について少しずつ書きましたが、難しかったのは著者です。著者について聖書に書いてないものもありますし、書いてあっても、様々な理由から、それが著者ではないと言われているものも多くあります。わたしは聖書学者ではありませんから、その一つ一つについては論じませんでした。また、聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻となっていますが、この成り立ちについても、ここには、書けませんでした。疑問として考えたことを二つ書きます。
Q1について、アカデミックな世界では剽窃は大変な問題ですが、そのようなことは、聖書においては問題にならないのだろうかという疑問を呈することもできるでしょう。神の霊、聖霊に導かれて書かれたというときによく次の二カ所が引用されます。
テモテへの第二の手紙3章16節
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
ペテロの第二の手紙1章20節・21節
しかし、この二書も、実際の著者は、著者とされているパウロやペテロとは、異なるだろうとされています。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ヨハネによる福音書20章31節
聖書記者が何を伝えたいと思って書いたのかから離れないようにして、今後も聖書を読んでいきたいと思っています。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。