私たちは、ミルトンが「アレオパジティカ」で述べた「真理は、裁判のような、限りない討論のなかで、ちゃんと見つけ出される」という偉大な考えを尊重する。 (トルーブラッド著「キリストのユーモアから抜粋」)
もう少し寛大な心、つつましい配慮、もう少しの相互に対する忍耐、それにもうほんのわずかな愛があるならば、これらの勤労の努力を結びつけ合い、ともに真理へ向かって、真理を探求し続けるという一つのまとまった兄弟にふさわしい一致が生み出されるであろう。(ミルトン「アレオパジティカ」から抜粋」)
いろいろな分派があるけれども、一つのまとまった一致へ向かいたいというのが、ミルトンの願でした。そのためには、「愛の数粒 (some grain of charity)」でもいいからと考えて、ミルトンは教会で、政界で、市民社会で、そして文学の世界で活動を続け、それに命を賭けたのです。こういう愛の原理をイエスから学んだミルトンは、虐げられ、貧しさと病に悩んでいる人々一人ひとりを愛する心を持った人でした。少しでもイエスを見習いたいという気持になったのです。それだけイエスの愛には、迫力があるのです。
これらの言葉の引用を見ると斎藤先生がこのとるに足らない私のような者の発言にも非常に暖かい眼差しをもって見守っていて下さるその基盤をみる感じがする。私には、何年たっても心からそのように生きて行くことができるか、まったく自信がない。そのような力が私の内には無いことは明らかな気がする。
I think the Principle of Wa is very strong in Japan. And it actually has many merits, but it does make the society very conservative about change and very easily managed by inner circles of elites.
One of the activities in the field of Intercultural Communication and Relations is human resource development training in global organizations, basically how to enable people of many different backgrounds to work together effectively. I feel I am living in the middle of a training simulation in which the task is to reconcile the Principle of Principle with the Principle of Wa. To do this we have to create an inclusive paradigm, but we have to do that mutually, and I just do not know how to do that any other way than to talk with each other, hopefully respectfully, through a whole series of difficult discussions about when each principle should be applied.
この最後の部分に現れる "I just do not know how to do that any other way than to talk with each other, hopefully respectfully" には、この先生の謙虚さと、愛に溢れた人格が現れ、私も見習うことができればと学ぶ点が多かった。最近たくさんの難しい会議の中で素晴らしい方達と、素晴らしい形で接することができることを感謝している。ひょっとするとこんな私も少し成長することができるかも知れないと予感しながら。
「〈日本人が集団を構成するとき、どこでも常に唱えられるのは「和」である〉〈大臣、村長、社長、医師会長、そしてヤクザの親分が声をそろえて、「和を大切にしなければいけない」と訓示する〉。この前提は、あまり異論のないところだろう。
〈「和」は「やわらぎ」であり、「なごやか」であり、「平和」であり、「調和」である〉と論は進む。和が達成された集団は、もちろん居心地がいい。〈和せば、仕事は容易になり、場合によってはろくに仕事をしなくてもよい〉。人びとは、互いに甘え合い、血族のような気分になる。
そうした集団では当然、あらゆることに和が優先する。〈人びとは無意識のうちに、和に最高の価値を与え、「和は正義」であるとすら考えるようになる〉。こうなれば、集団の外のことには無関心になる。外部からどう見られようと、内部の人間にとってはすべて意味を失い、意識から消えてしまう。
和は正義だ。正義を実現するためには、集団に対する忠誠心第一でなければならない。忠誠を尽くすには、全精力がいる。外部のことなど、ますますどうだっていい。だから、集団内部の人間には〈「反省することを止め、倫理を忘れ、自制心を失う危険」が常にある〉」
実は、前の日の会議で、Communication の教授が、「自分がもっとも大切なこととして学生に伝えているのは、たとえそれが痛みを伴うことであっても、意見、考えを言い合うこと、そして、小数者の意見であってもそれをしっかりと聞くことです。お互いに、痛みを伴うことは言うのを止める、または、それを言わせないようにする等と言うことがこの大学であっては絶対にいけないのです。」と言っておられ、正直感動した。日本人はあたかもそれが、正義として使われる程に、和を尊んできた。これは、民主主義から大きく外れた行為である。特に、様々な人がいて始めて成り立つ人間社会。多様性のみが、この人間社会を成長させてきたと言っても過言ではない社会において、日本人には、大変な痛みを伴うことであっても、 Communication をして行く決断。そして、知らず知らずのうちに、「和」と言う名のもとで、正しさを求めることすら止めてしまっていないか、自らを顧みる努力が意識的に行われなければいけないことを考えさせられた。
新聞のこの記事を読んで、この後更迭の原因となった「核保持の是非論議を国会で」の発言より、「強姦」云々の発言の方がひどいのではないかと思い、私はこの問題についてどう答えられるだろうか、人間は、動物はと考えてみたが、(www.asahi.com) に載っていた「西村氏の発言要旨」を見て、何も書く気が起きなくなった。発言全てがひどすぎる。こういう人を選挙で選ぶ国民の一人として、もっと他の事を考えなければいけないという思いになり、文章すらまとまらなくなってしまった。人間の定義から、問い直さなければなるまい。
これは、年齢の違いによるのだろうか。私は、若いころも一生かけられるものを探し続けていたと思う。しかし、今は、乙武さんのようなことを一生求め続けるのもそれなりに素晴らしい人生かなと思えるようになってきている。何が変わったのだろうか。しかし、私は、もう一度人生をやり直しても、やはり一生をかけられることを探すのではないだろうか。私は、それほど強くはないから。それとも神様からの召命 (calling, vocation) の私の理解が狭いからか。
久しぶりに深く考えさせられた。このドストエフスキーのことば、そして、苦悩にふさわしく生きることの重さ、そしてその人生が人に与える希望。このような人生を歩むことが、内村のいう「後世への最大遺物」なのであろう。
私をあなたの平和の道具としてお使い下さい。この祈りは、ダイアナ妃のお葬式のときにも英国教会が歌ったとのことです。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、
もたらすものとして下さい。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、私が求めますように。
なぜなら私がうけるのは与えることにおいてであり、
許されるのは許すことにおいてであり、
我々が永遠の命に生まれるのは死においてであるからです。