15分ぐらいのお話ならどうにかなるかと思いますが、2時間弱あるわけですから、まず、私が、今までどのように聖書を読んできているかという、どちらかというと、How-to のお話を少しさせて頂き、そのあとで、タラントのたとえを通して以前教えられ、励まされたこと、そして、最近、考えさせられていることについて話させて頂きたいと思います。
先日、前回の講師の、北原先生とお話しましたら、「原稿を作っていって話したら1時間で終ってしまったんだけど、そのあと、出席者の皆さんといろいろと話すことができて、とても良かった。」と言っておられました。わたしも、どのようになるか、わかりませんが、宜しくお願い致します。
聖書は何の為に書かれ、何の為に読むのですか、と言う問いに対して:
聖書の言葉は、御言葉などと言われますが、これは、神様の言葉と言う意味ですね。先程のテモテ第二の手紙3:16にある「霊感」をどのように解釈するかは、いろいろ議論もあるようですが、ともかく、聖霊が介在して書かれたわけです。
コリント人への第一の手紙2:11には、「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の霊以外には、知るものはない。」とあります。これも平たくいうと、「人の心は、その人にしか分からないように、神様の心も、神様しか分からない。」といった意味ですね。しかし、その次の節には、驚くべきことが書かれています。「ところが、私達が受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵を悟るのである。」つまり、神様の心「聖霊」を私達が頂いたのでそれによって神様の心が分かると言うのですね。神様の心を持って理解できれば、聖書もさぞかし、良く分かるでしょうし、楽しいはずですよね。皆さんは、この聖霊、神様の心を頂いて聖書を読んでおられますか。
正直言うと私も、まったく自信がありません。でも、このような事、すなわち、神様の心である聖霊の助け無しには、聖書の言葉を理解できないことを肝に命じて、神様の前にへりくだって、まずお祈りしてから聖書を読むようにしています。
もう一つは、聖書の言葉との接し方に5通りありそれぞれに重要だと言うことです。
皆さんは、聖書を通して読んだことがありますか。
「新約聖書」を最初から最後まで読んだことがある方はどのくらいおられますか。
では、「旧約聖書と新約聖書」通して最初から、最後まで読んだことがあるかたは、どうでしょうか。では、2回以上通読された方。5回以上。
おそらく、何回読んだかはっきりとは覚えていない。というかたもおられるのではないでしょうか。また、何回も読み始めたけれど、一回も読み終ったことはないというかたもおられるかも知れません。特に、旧約聖書は、「レビ記」あたりで止まってしまったとか、「歴代誌」あたりで止まってしまったとか。たしかに、良く分からなくなると止めてしまうのが普通ですよね。
実は、私は、高校の受験に受かったときに、2ヵ月ぐらいかかって、「旧約聖書と新約聖書」をすべて読んだ(もしかするとページをめくっただけかも知れませんが)記憶がありますが、そのあとは、読んだと思うのですが、実は、記録もなく良く覚えていません。しかし、1982年からはここに記録があります。
脇道にそれてしまいました。通読の話ですが、 旧約・新約「イイヤク」といって、聖書は全部で、1189章あります。ちなみに、旧約929章、新約260章です。じつは、訳によってこの章の数も違うのですが、出入りで結局合計は、私の持っている聖書は、皆この数になっています。このあたりも並木先生などがはなされると止まらないと思いますが、私は、専門家ではないですし、今日の目的でもありませんから省略します。ともかく、1189章ですから、平日3章、日曜5章読むとすると、1月1日から始めて、クリスマスを過ぎたころに読み終ります。1982年ごろから一年で一回読んでいたときは、このペースで読んでいます。最近は、量を減らしています。一日2章読むと、2年間で旧約聖書1回と、新約聖書2回が読み終ります。今は、この程度の時間をとるのが、毎日続けるためには私にとって丁度良いので、このペースが気に入っています。
先程の記録についてですが、実は、1982年から聖書の読み方が大きく変わったのです。この年の秋、新約聖書を読み始めたころからルーズリーフノートを使って聖書の一章に対して一ページずつ、ノートをつけはじめたのです。読んだときに、感じたこと、学んだこと、良く分からなかったこと、なんとなく印象に残った聖句をそこに書いています。ほんの2、3行のこともありますし、かなり長く書くこともあります。その聖書の箇所とは関係ない、日記のような記述になったり、「今日は集中できない」と書いてあるだけのこともあります。しかし、ともかくなにか書くことにしています。 これを続けてみて良かったと思うことは次のようなことです。
お手元に、サンプルとして、「マタイによる福音書25章」と書いたノートをお配りしました。強制ではありませんが、読んで気づいたことなど書いてみて下さいませんか。聖書をお持ちの方は、25章全部読まれて、書かれても良いですが、一応、タラントのたとえの14ー30節は印刷しておきました。
読まれたときに、感じたこと、学んだこと、新しい発見、良く分からなかったこと、なんとなく印象に残った聖句、一言でも構いませんから書いてみて下さいませんか。
14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。16五タラント渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントもうけた。17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を堀り、主人の金を隠しておいた。19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰って来て、彼らと計算をしはじめた。20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました。』。21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました。』。23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰って来て、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。28さあ、そのタラントをこの者から取り上げて、十タラントを持っている者にやりなさい。29おおよそ持っている人は与えられ、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。30この役に立たない僕を外の暗いところに追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。(口語訳聖書:日本聖書協会)
1タラントというのは、お金の単位でおおよそ当時の労働者の16年分の給与に匹敵する金額だということです。これは、英語の Talent の語源で、この聖書の箇所から転じて英語では、「(神から人間に託された) 才能、天分」を意味するようになっています。
この箇所を読むときの背景としては、この記事は、キリストの生涯の最後の部分に挿入されていると言うことです。マタイによる福音書は、28章までですから、あと、3章しかありません。そして、この25章では、3つのたとえ、「十人のおとめのたとえ、タラントのたとえ、羊と山羊のたとえ」とこの世の終り、または、天国、神の国に関するたとえの中に置かれていると言うことです。背景は、この程度とします。
私は、数学が専門で、確かに数学が面白くて始めましたが、いつも経験するのは、劣等感ばかり。特に、大学院の修士課程のころ、そして、博士課程のころは、何度も自分は数学を続けて行けないと思いました。身近に非常に優秀な人が何人もいたせいもありましたが、あることが、理解できる、理解できないが数学の場合はっきりと出てしまうわけです。優秀な人が1時間考えて分かることを、1週間考えて分かれば、それはそれで良いのですが、1ヵ月考えても分からず、説明をしてもらってその解説を1週間ぐらい何度も誤解を繰り返しながら、そのひとに教えてもらってそれでも良く分からないときがある。自分は力がないから、人の倍勉強しよう、などというレベルではできないわけですね。本当にどうしたら良いか分からない苦しい日が続きました。修士論文は書けそうになく、そのころ、アメリカで博士号を取りたい学生がいないかと、私の指導教員のもとに、アメリカの大学で教えておられた日本人の先生から手紙が来たので、奨学金がもらえるということもあり、留学しました。英語が大の苦手で、また、誰か外国から帰って来たような人が、日本語のなかでも英語の言葉を使ったり、また、Oops などと言ったりした日には、殴ってやりたいと思っていましたから、近しい友人にはあまり知られないようにして留学しました。そのときに、一緒に行くことになったのが、東大に行っていた A君だったのですが、この彼が、抜群に優秀で、それも数学だけでなく、音楽でもピアノはセミプロ、吹奏楽では、コンサートマスターをしており、合唱団にも入っている。ほかにもいろいろ、彼とのアメリカでの生活は、本当に劣等感の中での、毎日でした。なかなか、彼に愛を持って接することができないことも、非常に苦痛でした。そして、楽しかったはずの数学も楽しめない。そんなおりに、このマタイによる福音書25章を読んで、自分は、二タラントを預けられている者として、委ねられているものの大きさ比べをするのではなく、忠実な僕として生きて行こうと励まされました。
実は、アメリカでの3年3ヵ月の留学生活は私にとって様々な意味で一番大変だった時で、正直に言うとこの聖書の言葉で全てが解決したわけではありませんでした。今は、それなりに、自分の人生の一時期として受け入れてはいますが、しばらくは、その当時の自分を知っている人にあうのが嫌な時もありました。実は、この大学にも、その当時、同じ大学の大学院生の寮に殆んど同じ期間いた人がいるので、ちょっとこわいのですけれど。
それは、さておき、このあとも、同じ聖書の箇所から色々のことを学びました。私の聖書ノートを眺めてみると、1984年のノートには、たとえ一タラントであっても非常に莫大なお金だと言うことを実感し、神様に委ねられているものの大きさに身が引き締まる思いになったということが書いてあります。先程も説明しましたように、一タラントは、16年分の給料、今で言うとどうでしょうか。億の単位であることは確かですね。
1990年のノートには、28節の、最後に取り上げられた一タラントが既に十タラント持っている人に委ねられることが良く分からない、なんとなく受け入れられない、と書いてあります。
1996年のノートには、21節、23節の「さあ、おまえの主人と、喜びをともにしなさい」と言った。と言う言葉がそのとき読んでいた、フランシスコ会訳で書かれていて、そのあとに、「一タラント預けられた者に本質的に欠けていたのは、この主人と喜びをともにしたいという心だったかも知れない」と書いてあります。
1998年のノートには、ルカによる福音書19章にあるミナのたとえとの対比が少し書かれていて、タラントという莫大な金額のものについて、マタイによる福音書では、主人は「わずかなものに忠実であったから」と「わずか」といっていること、そして、ルカによる福音書のほうでは、一タラントの六十分の一の価値しかない一ミナをそれぞれが委ねられるわけですが、王位を受けて帰って来た王は、10の町、五つの町を支配させると言うことを言っていることをひいて、この世で私達が委ねられているものは、この世の価値とすると莫大なものであること、しかし、それは、神様にとっては「わずかなもの」であること、そして、天国でまかせられるものは、地上で委ねられていることに比べたら比較にならない程大きなものであることに気づかされたと、記されています。
今回は、さらに、28節を読むと、「十タラント持っているもの」という表現から、最初に、五タラント委ねられた者も、そしておそらく、二タラント委ねられた者も、これで仕事がおしまいではなく、更にたくさんのものを委ねられていること。そして、27節の「返してもらった」という表現から、銀行に預けておいて増やしたとしても、それは、他の二人のしたことと比べると称賛にあたいすることではないと言うことを裏付けているかもしれないと思いました。じつは、この背景には、当時の金貸しの利率は、かなり高かったらしく、19節にあるように「だいぶ時がたってから」帰ってくれば、2倍どころではなく増えていたかも知れないと、ある方が言っていたことが気になっていたということもあります。
何度読んでも、その度に、色々なことに気づかされ、教えられるものです。
皆さんは、この箇所からどんなことを感じ、疑問に思い、どんなことを学んだでしょうか。今、私のノートにあることとしてお話したことは、あまり調べずに書いていることです。その意味で聖書研究というレベルとは違います。通読の中で学ぶ学びは、そこまで高めることは難しいですし、続けることを考えるとこの程度で良いのではないかと思っています。解釈は、非常に個人的で、時には、間違った解釈も登場します。しかし、私は、神様の心を知りたくて、そして、神様からのメッセージを聞きたいから聖書を読んでいるわけですから、最初に書きましたように、大切なのは、聖霊の導きを祈ること。そして、間違っているかも知れないと言うことを謙虚に受け入れることだと思っています。
今回このお話の準備をするために、この箇所をひもといてみて、それぞれの自分の心の歴史を見るような気がしました。
聖書には「永遠の命」と言う言葉がありますね。有名な所では、ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。「永遠の命」とは、何でしょうか。どんなものでしょうか。私の、好きな聖書の箇所にその答えが書いてあります。
同じヨハネによる福音書17章3節です「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」と書いてあります。「永遠の命」が「知ること」というのは、理解できますか。ここで使われている「知る」という言葉は、単に知識と言う形で、自分の認知する範囲に入ると言うのではなく、経験によって知るという言葉だそうです。
カルビンの「キリスト教綱要」にも人生の目的は、「神のすばらしさを知ることを、自分の罪の大きさを知ること」とあります。そのような意味で、キリストの命に預る者になることができればと思っています。そのための一つとして、聖書を読み、そして、これからも心の記録、神様との交わりの記録を残して行けたらと思っています。
この原稿は、ホームページ上に公開してあります。
URL : http://science.icu.ac.jp/~hsuzuki/gospel/lifelong2000/
感謝をもって。