Last Update: August 13, 2006

2006年8月13日 国際基督教大学教会主日礼拝メッセージ

この幼な子をわたしの名のゆえに受け入れる者

Whoever Receives This Little Child in My Name

鈴木 寛(教会員)


聖書:ルカによる福音書 9章46ー50節

弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取り上げて自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでもこの幼な子を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして、私を受け入れる者は、私をおつかわしになったかたを受け入れるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。

するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人は私たちの仲間でないので、やめさせました。」イエスは彼らに言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである。」

導入

ICU

まず簡単に自己紹介をさせて下さい。私は13年前にICU に移ってきました。学内住宅に入り、同時にICU教会に転入してからも、もう少しで 10年になります。

ICU に移ってくる前は大阪にある国立大学で13年間教えていました。そこでは、聖書研究会の顧問もしていて、家内とはそこで出会いました。教員は300人を少し越すぐらいいましたが、そのなかで、クリスチャンの教員は私一人だけだったと思います。

いろいろな理由から他の大学に動くことを考えていた頃、ICUの公募を見ました。条件に基督者とあるのを見て、応募する責任のようなものも感じ、応募しました。他にもっと適切な方がおられればそれで良いと正直思っていました。 %それは、私がいなくなった後の聖書研究会のことも考えましたし、 すこし傲慢かもしれませんが、キリスト教主義の大学以外で私がすべきことがあるのではないかと考えたからもあります。しかしICUに関する案内を読むうちに神様が導いておられるのではないかと考え、期待に夢をふくらませて、ICU に移ってきました。

クリスチャンの割合が人口の1パーセントに満たない日本において、教授会メンバーが基本的にすべてクリスチャンとの条件を持っている大学には、日本のキリスト教会全体に対する責任と、特別な使命があるはずだ。その特別の使命に私はどのように応えていったらよいのだろうかと13年前も問い、今も自分自身に問うています。ICU に移ってきてから今まで、その緊張感は常に持っているつもりです。

この大学にうつって

さて、ICU 住宅に住むようになってから、教員がキャンパスに住むという前の大学では考えられないような理想的な環境で、なるべく学生を家に招くように努めました。そして、聖書を学ぶ会を我が家で是非したいと何度か試みましたが、なかなかメンバーが集まらず継続できませんでした。学内では、キリスト者学生会の聖書研究会も週に何度か持たれていますし、皆さんもご存じのように、ICU教会の聖書の学びの会も日本語・英語で毎週もたれています。それにわざわざ一つ加えなくてもという気持ちもありましたが、教員と学生が共に聖書を前に語り合うことに勝る霊的チャレンジの場はないと思い、どうにかチャンスを作りたいと考えていました。

2002年度の冬学期に教えた一般教育科目の授業の最後に、「希望者が2人以上いたら、聖書を読む会を始めたい」と伝えましたら、丁度二人の受講生が応答してくれ、2003年度の春学期から、学期中だけですが、毎週一回夜7時半から9時、我が家で聖書を読む会を持っています。

ちょうど、その春にタイ・ワークキャンプに参加し、そのときのキャンパーも何人か参加してくれたこともあり、それ以来、ずっと今まで続いています。続いていると言っても、現実は、細々とと言う表現がよくあっていると思います。結局だれも現れずキャンセルしたことも二度程ありますし、一人と言うことも何回かありました。しかし、この春からは、毎週、大学の学内ホームページに広告を出すようにしている関係でしょうか、新しい人が何人か来てくれています。

聖書の学びは、聖書の一章を2回から4回ぐらいで学び、わたしがあらかじめ、質問をいくつか用意しておいて、その問いについて一緒に考えながら学んでいく形式を取っています。疑問が多くまとまらないときも、あまり、私が結論的なことは言わないようにして、疑問は疑問として残し読み進めるようにしています。私が一信徒に過ぎないということもありますが、時間をかけ、問いを持ちながら、聖書を読み進めて欲しいと願っているからです。

家内がいつもおいしい紅茶やケーキなどを用意してくれますので、もしかすると、聖書よりそちらを楽しみに来ている学生さんもいるかも知れません。これからも聖書を前にした問いかけ、チャレンジを、学生と共に受けていきたいと思っていますので、お祈り下されば幸いです。

この幼な子を私の名のゆえに受け入れる者

背景・概要

今はルカによる福音書を読んでいます。夏休み前には第9章を読んでいましたので、今日は、その9章から、一つの箇所を選んでみました。

まず、9章46節から48節では、だれが一番偉いかとの議論が弟子たちの間で始まったとあり、続いて「イエスは彼らの心の思いを見抜き」と書いてありますから、誰が偉いかと言う議論は、イエスには分からないようにしていたのでしょう。そのときイエスは、幼な子を自分のそばに立たせて、「だれでもこの幼な子を私の名の故に受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。そして、わたしを受け入れる者は、私をおつかわしになったかたを受け入れるのである。」と言い、そして「あなたがたみんなの中でいちばん小さいものこそ、大きいのである。」と結んでいます。

だれが一番偉いかという問いは、聖書のなかで、ここだけではなく何回か記されています。このルカによる福音書に限ってみても、この9章以外に、22章24--30節の最後の晩餐と呼ばれるところにも書かれています。特徴的なのは、どちらも、イエスが受難と死のことを話された直後に記されていることです。すなわち、イエスがどのような救い主キリストかが語られ、弟子たちの理解があまりにイエスの思いとかけ離れているということが明らかにされるような出来事として「誰が一番偉いかという議論」が記されています。

ルカによる福音書第9章を開いてみて下さい。この9章では1節から6節で、弟子たちに悪霊を追い出す権威がさずけられ、実践訓練も受けますが、37節から43節では霊にとりつかれ引きつけを起こす少年を弟子達はいやすことができず、イエスが「なんという不信仰な曲がった時代であろう。いつまで、私はあなた方と一緒におられようか。また、あなたがたに我慢しておられようか」と弟子たちに対して嘆く記事が記されています。そして二度目の受難の告知と呼ばれることが記され、今日の箇所に続いています。

20節ではペテロがおそらく弟子たちを代表してイエスを「神のキリストです」と告白しています。弟子たちがイエスが栄光を受けるときを思いめぐらし、だれが一番偉いかと議論しあったのかもしれません。しかし、おそらくイエスの側から見ると、救いに関して理解していない弟子たちに対する大切な教育の最初が今日の箇所だったのではないでしょうか。すなわち、神様が立てられた救い主であることを告白しつつも、何が救いなのか、救いに関する神様の御心について理解していない弟子たちに、その価値観の根本に一撃を加えるようなチャレンジをしているのが今日の箇所だと思います。弟子たちの価値観を根本から問い直すため、ここでは、実物教育として、幼な子をみなの前に立たせて、「この幼な子を私の名の故に受け入れるものは」と言われたのです。目の前に立たせて。

わたしは、幼な子や、こども、そのほかいろいろな人を前にして、ふと、この言葉を思い出すことがあります。というよりこのシーンを思い描くことがあります。単に言葉で、「幼な子を私の名のゆえに受けいれなさい。」とは言わないで、幼な子を皆の前に立たせて「この幼な子」と言われたのです。もちろん、イエスが立たせたその幼な子が特別な幼な子だということではないでしょう。私は、このシーンを思い浮かべながら、自分の前にいる、幼な子や、こども、そのほかいろいろな人を前にして「この人をイエスの名の故に受け入れるものは、イエス・キリストを受け入れるのだ。」とはどういう意味かを考えることにしているのです。一般論は簡単に受け入れられても、具体的に、一人の人が前にいると、意味は強烈です。

受け入れる対象

ここでは、幼な子の特質については、ふれていません。だれが偉いかとの議論に対して、受け入れる対象として幼な子をそこに立たせているのです。

弟子たちにとって、かなり強烈な印象があったことでしょう。誰が一番偉いかと話し合っていたときです。おそらく、自分が一番大切なことをしている、主イエスに自分が一番愛されている、自分が一番主のために働いていると思い、直接そう言ったかどうかは分かりませんが、弟子はそれぞれ、自分が一番偉いと主張したかったのではないでしょうか。

私たちも、そこまであからさまではなくても、この人よりは、自分の方が偉いとか、この人より重要な仕事をしているとか、他の人たちより自分は苦労してこの仕事をしているのだとか、主のために大変な思いをしているとか、思うことがあるのではないかと思います。正直、わたしもそのような思いをいだくことがあります。そのときに、主イエスは、幼な子を皆の前に立たせたのです。イエスは何を伝えようとしたのでしょうか。弟子たちは、どう受け取ったでしょうか。みなさんは、どう思われますか。

こどもの魅力

私は、一般教育科目の授業などで、小テストの一番最後に、メッセージ欄を設け、指定したトピックについて受講生に書いてもらい、それにわたしからのメッセージを添えて返しています。わたしは、これを、前の大学で教えていることから続けていますが、1998年からは、学生の許可をとって、学生からのメッセージをすべてホームページに残しています。最近使っている問いの一つに「どんな大人が魅力的ですか。子どもの魅力は何でしょう。」というものがあります。「どんな大人が魅力的ですか。子どもの魅力は何でしょう。」一人前の大人になりつつある学生さんたちが目標とする魅力的な生き方を問うと同時に、ついこの間の自分かもしれないこどもについても目を向けて欲しいと願っての質問です。みなさんはどう応えられるでしょうか。もちろんいろいろな答えがあるでしょう。この問いに関する学生さんのメッセージが、わたしのホームページに出ていますので、興味のある方は、ご覧になって下さい。

メッセージを読んでいて、このひとは、こどもをよくみているな。おそらく、身近にこどもがいるのだろうな、とか、この人は子どもとはまだ出会っていないのかな、と感じることもあります。

さて、弟子たちはどう感じたでしょうか。おそらくはてなマークがいくつもついたのではないかと思います。我が家の五人の子供達ももう大きくなってしまいましたが、幼な子と言われる年頃の時にも、純真・無邪気などと、そう単純に表現できる存在ではありませんでした。幼な子ということばから受けるイメージと、実際の目の前の幼な子とは違うのではないかと思います。

聖書では、幼な子(おさなご)は重要なキーワードで、いろいろな意味で使われますが、ここでは、どうでしょうか。文脈からすると、一般的には偉そうには見えないという意味があるように思います。 未熟・未発達・未完成、または、仕事の役には立たない、十分な仕事ができない。同時に、次の世代への希望、また、受け入れるには、主への信頼が必要な対象かもしれません。傷つきやすい・完全になっていない・成長の途中にある存在ということから、謙遜の象徴として、イエスご自身を意味しているとも考えられます。また、何も理解できていない弟子たちという視点でみると、幼な子は、弟子達自身をあらわしているのかも知れません。

価値観に対するチャレンジ

私は、ティーン・エイジャーのころ、自分は、なんの役にも立たないのではないか。わたしは多くの人を必要としているけれど、自分はだれからも必要とされていないのではないかと考えていました。

大学に入り、しばらくした頃、私が所属していた教会の副牧師で養護施設の園長をしていた先生から、福祉の仕事をしないかと誘われました。「福祉の仕事に、君が必要だ」と言われたのです。私を必要としている人や、私を必要としてる仕事はないのではないかと思っていたこともあり、正直、嬉しかったですが、同時に、ショックでもありました。

それは丁度数学が面白くなってきていて、大学院に行って勉強を続けたいという気持ちが強くなっていた時期でもありました。そのとき、勉強していたことをすべて捨てて、福祉の仕事を一から勉強することへの恐れもありました。しかし、今考えてみると、数学で新しい定理を証明すると言ったことと比べて、福祉に携わることが素晴らしい魅力的な仕事に見えなかったことも事実です。教会の幼稚園を手伝い、その養護施設にもボランティアで行っていましたから、こどもと一緒にいることは嫌いではありませんでした。しかし、一生をかける事として、魅力が感じられなかったのです。

暫くして、自分には、したいことがすでに決まっているからと、その副牧師にお断りしました。今、その決断を後悔しているという訳ではありませんが、今日の聖書の箇所を読むたびに思い返す出来事であることも事実です。神様の目からみて大切なこととは何だろうということです。

寛容

わたしたちの味方

今日は、49節以降の、続きの箇所も読んで頂きました。49節には「すると」と書いてありますから、ヨハネは、「わたしの名」ということでピンと来たのかも知れません。ともかく、続いて起こったこととして記録されています。

ヨハネは「ある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人は、私たちの仲間でないので、やめさせました。」と言います。するとイエスは「やめさせないがよい。あなた方に反対しないものは、あなた方の味方なのである。」と言われました。なぜやめさせようとしたのでしょうか。弟子たちのこころを考えてみて下さい。あなたの周りで、または、キリスト教会で似たようなことはないでしょうか。

この聖書と似た箇所で、すこし違った表現の箇所を思い出しておられる方もあるかも知れません。同じルカによる福音書の中で見てみましょう。11章23節に「私の味方でないものは、私に反対するものであり、私と共に集めないものは、散らすものである。」とあります。「味方でないものは、反対するもの」とあり、今日の箇所では「反対しないものは味方なのである」となっています。

私は原語のギリシャ語もあまり分かりませんし、さらに、イエスが直接言われたと思われるアラム語については、殆ど知りませんから、この背景にある言語の問題、表現法はよく分かりません。しかし、11章では私の味方でないものつまりは、「イエスの味方でないもの」となっており、今日の箇所9章では、ヨハネは、私たちの仲間ではない、つまり自分たちの仲間ではないことをやめさせた理由にしています。そして、イエスは、あなたがたに反対しないものはあなた方の味方だと言っています。イエスの味方かどうか、神様から来ているかどうかが決定的だが、実際には、イエスの味方かどうかはわかりにくいということもあるのかも知れません。そのゆえに、イエスは寛容を説いているように思えます。

さらに、この箇所では、その人達が、弟子たちも追い出せなかった悪霊を追い出す愛の業を行っていること、イエスの名を唱え、イエスの証をしていることも認めるべきでしょう。

この49節以下の箇所と、先ほどの箇所は関連しているでしょうか。わたしには、関連しているように思えます。全てをなげうってイエスのそばにいる自分たちこそ、正統派。自分たちこそが正しいという判断が、ヨハネに、そして弟子たちに無かったでしょうか。相手は、幼な子ではありませんが、ある意味では見劣りする、仲間ではないものたちの活動を一段下に見て、イエスの名の故に受け入れることができなかったのではないでしょうか。

私たちの日常でもこのようなことはないでしょうか。先ほども言いましたように、私たちの不完全な目では、だれが、イエスの味方かどうか、判断できないこともあります。しかし、不完全な人も、未熟だと見える人も、イエスの名の故に受け入れることをイエスは私たちに求めておられるのです。特に、この場合のように、愛の奉仕をしている人たちに対しては、たとえ、それが完全でなかったとしても。

真の寛大さ

最近、内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」を読んでいましたら、次の様な箇所がありました。

真の寛大さとは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には不屈な確信をもちながらすべての正直な信仰はこれを許容し寛容することである。余はある真理は知ることができるという余自身への信仰と、余はすべての真理を知ることができないという余自身への不信仰とが、真の基督教的寛大の基礎であり、あらゆる善意とすべての人間に対する平和的関係との源泉であるのである。(p.136)

まとめ

誰が一番偉いか

もう一度、今日の聖書の箇所に戻りましょう。弟子たちは、誰がいちばん偉いかと議論していました。自分こそという思いもあったでしょう。大切な仕事をしているようには思われない、少なくとも、自分より劣って見えるそのような幼な子をさして、イエスは、「だれでもこの幼な子を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして、私を受け入れる者は、私をおつかわしになったかたを受け入れるのである。あなた方みんなの中で一番小さい者こそ、大きいのである。」と言われました。

私たちの目の前にいる一人の人を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることだとあります。なぜそうなのでしょうか。この時の弟子たちもそうであったように、私たちは全く未熟、不完全、取るに足らないものなのです。しかし、そのような私たちと同じ形をとって、イエスはまさに、幼な子としてこの世に来られ、そして、取るに足らない私たちを愛しておられるのです。その取るに足らない私たちを受け入れること、それが神様の御心であり、それこそが、イエスを受け入れることなのでしょう。

受け入れることは簡単ではありません。 %そして、この幼な子を受け入れることによって命が得られるわけでもないのでしょう。 しかし、イエスのものとされるとき、自分たちを受け入れて下さったイエスのように、幼な子を受け入れる者に変えられていくのではないでしょうか。

マタイ25章

イエスとして受け入れるという言葉を聞くと、マタイによる福音書の第25章、羊と山羊に分けるたとえを思い出す方が多いのではないかと思います。神様の祝福を受けるのは、知らず知らずのうちに、イエスが空腹なときに食べ物を恵み、乾いているのをみて飲ませ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せ、病気や獄にいるのを見て見舞った人だとあります。そして、最も小さい者にしたことがイエスにしたことなのです。

結語

わたしは、先に引用したホームページにのっている学生さん一人ひとりからのメッセージをこの上ない宝だと思っています。そこには、一人ひとりの心がつまっているから。そして、それは、神さまが愛される一人ひとりがいきいきと生きているいのちのかけらのようにも思えるからです。

この、一人ひとりをイエスとして受け入れること、それがイエスの御心なのではないかと思っています。

もう一度日常生活の中で、大切なものは何かを問い直し、わたしに残された日々、大切なものを大切にする生活を求めたいと思います。 幼な子をイエスの名の故に受け入れることが、イエスを受け入れること、神様の御心だということを心に刻んで。

祈り

お祈りします。

天の父なる神様。

あなたが大切にしておられる私にとっての幼な子をあなたとして受け入れることができますように。 この基盤の上に立った寛容と善意と愛をもち、一人ひとりとの間に平和を築くことができますように。私たちが、信仰と希望と愛を追い求めることができるように導いて下さい。

アーメン。

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