1995年10月11日大学礼拝

タイトル:小事に忠実なもの

聖書:ルカによる福音書 第16章10ー11節 (口語訳)
10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富をまかせるだろうか。

1.序章

私は、ちょうど2年前の10月1日付で、ICU に移って参りました。昨年のC-Week には、早朝礼拝で、私の信仰経歴について証させていただいたので、きょうは、最近考えていること、また今大切にしたいと思っていることを、少しお話しさせていただきたいと思います。

2.聖書解釈

 さて、先ほどお読みいただいた聖書の箇所は、不正な家令のたとえにでてくる箇所ですが、このたとえは難解で、イエス様の本意を理解するのが難しい箇所といわれています。このたとえの解釈については、今年の C-Week で、行政学の西尾隆先生が、行政学からの理解も含めて興味深いお話をしておられましたので、私は、そこには立ち入らず、簡単に、10節、11節について見てみたいと思います。
 11節に、不正の富と、真の富という言葉がでてきますが、これは聖書では一般的に、この世の富と、天国の富を意味します。すなわち、不正の富とは、この世で与えられ、一時的で、やがては消え失せてしまう富のこと、真の富とは、神様から与えられる、さびることもしみが付くこともない永遠の富を表すものと思っていいと思います。そう考えてみますと、小事とは、この世で私たちにゆだねられている宝を用いてする仕事、大事とは、天国でまかせられる、または、神の国に直接関係する仕事ということになると思います。私たちは、この小事に忠実に生きているでしょうか。  少し、理屈っぽくなりますがお許しをいただいて、「小事」ということについてまず確認しておきたいと思います。この「小事」は、神様からこの世で委ねられた宝を用いてするこの世での私たちの仕事であり、ここで、私たちが忠実であることが求められているものですが、それと同時に、主を待ち望むものたちにとってはあくまでも、「小事」であり、「大事」ではないことを忘れてはいけないということです。「小事」を絶対化してはいけないということです。

3.タラントのたとえ

 この世で私たちに委ねられている宝といいますと、聖書をよくご存知の方は、イエス様が十字架にかかられる2週間ぐらい前に語られたのではないかと思われる、マタイによる福音書25章のタラントのたとえや、ルカによる福音書19章のミナのたとえを思い出されるのではないかと思います。
 マタイによる福音書25章14ー31節の方で見てみたいと思います。
 「また天国は、ある人が旅にでるとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、あるものには5タラント、あるものには2タラント、あるものには1タラントを与えて、旅にでた。5タラントを渡されたものは、すぐにいって、それで商売をして、ほかに5タラントをもうけた。2タラントの者も同様にして、ほかに2タラントをもうけた。しかし、1タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。」 というものです。

4.いいわけ作りからの脱却

 今から5年と少し前のことですが、ある研究集会で久しぶりに私の大学院時代のアドヴァイザーと同じ宿に泊まりゆっくり話すときがあったのですが、先生は、「君は最近数学を何かやっているのか。」と聞かれました。少し自分のその当時やっていたことを説明しますと、先生は、「君はそのことに人生を賭けてやっているか。」といわれました。私が黙っていると、「君は、数学に人生を賭けたことがあるか。」と聞かれました。私は、「数学者として、成功することに自分は人生を賭けていないし、自分が大事にしているのは、人間として、また、キリストを信じる信仰者として、立派に生きることで、それを目標としているつもりだし、これからもそう生きていきたい。」とこたえました。その後の沈黙の中で、私の心の中には激しい葛藤があり、それは、それから、何カ月か続きました。数学の研究も、ある程度していましたし、また、キリスト教会においても、ある超教派の宣教団体でそれなりの活動もし、聖書研究については、人一倍熱心で、また、神学校にも聴講に行ったりしていました。しかし、私は何かに賭けていることはないことも気付いていました。もちろん、数学に人生を賭けてもいませんでしたし、特別な神様の仕事に人生を賭けていることもありませんでした。私が、高校生の時に、イエスキリストを自分の救い主として、歩み始めて以来、何十年かの間、振り返ってみると、私のしてきたことは、「キリスト教会の中での評価として、信仰深く、ある貢献をしながら恥ずかしくない生活を送ること。」であり、少なくともそのことを心がけていた気がします。しかし、いったん、神様の前にたつと、私は、自分の人生をどのように弁解しようか、その、弁解の種作りのためにのみ働いていることがよく分かっていました。
 結局私は、自分が神様から委ねられていることに全力を尽くすのではなく、神様の前では何の効果もない、いいわけ作りをしていたことを私は気付かされたのです。自分が属するある社会で認められることのみを人生の目的とするなら、神信仰などは単なる飾りものに過ぎないでしょう。
 タラントのたとえの箇所では、5タラント、2タラント渡されたものは、すぐに行って、それで商売をしています。商売というのはもちろん、土に埋めておくのとは違って、得をすることもありますが、損をすることもある、すなわち何かに賭けることをしないと出来ないことだと思います。私は、自分の回りを見て、自分はどのくらいもらっているのだろうかと、自分のもらっているタラントを値踏みしたり、どのくらいにしておかないと主人におこられるかその計算をしたりしていた気がします。

5.国際基督教大学へ

 私は、先生と会って何カ月かしてから、ともかく私が与えられている、数学のタラント、それは、回りの優秀な数学者と比べると少ないかも知れない、また、主は、ほかの方向に私を導いておられるのかも知れない、しかし、ともかく、ほかのことはすべてやめて、この数学に賭けてみようと決断しました。その直後に、4人目の長女が生まれ、しばらくして、5人目の次女が生まれましたが、片手に、哺乳壜を持ち膝のうえの子供にミルクを飲ませながら、数学を続けました。周りからあきれられてもかまわずに。それから、2年、私が研究を始めた分野の特殊事情と、幸運も重なり非常に順調に研究を楽しめるようになった頃、国際基督教大学の公募を目にしました。正直に言うと、ちょうど、研究も順調になり、何人か非常に優秀な学生の修士論文の指導もして、博士課程へと進む中、私も、博士課程のある研究中心の大学に移りたいと思っておりましたから、正直な気持ちは、私よりもっと優秀なそして、国際基督教大学によりふさわしい方が他に与えられればいいなと思いつつも、キリスト者の責任として、また、自分は、現在数学に賭けているが、最終的には、神様に賭けているはずだとの確信の元、この公募に応募することにしました。
 そして、1993年10月1日付けで、国際基督教大学に赴任し、現在に至っています。正直にいって、様々な忙しさから、研究環境がいいとはとても言えないと思います。しかし、それにもかかわらず非常ないごごちの良さを覚えています。それはいくつかの理由によっていると思いますが、私にとってとても重要なのはこの大学が、キリスト教主義だということです。前の大学では、教員304人中、キリスト者は私一人でした。今は恐らくゼロだろうと思います。ICU では、水曜日には大学礼拝に出席することが許され、また、大学内の方々とも信仰に基盤の元に、大学の将来について、様々なことについて、議論することが出来る。会議においても、私利私欲のみによっては簡単には決断されない。正直、私の前の大学と比べると、意志決定において、明らかなる違いがあると思います。もちろん、それが十分だとは思っていませんが。
 私は、この居心地の良さを、自分のために使ってしまうのだとしたら、私は、前の大学にいた方が良かったと思っています。私に与えられていること、今委ねられていることは、小事だと思います。私たちの望み見ることは、永遠のものであり、現在のことは、数学であれ、大学のことであれ、いずれは過ぎ去るものだからです。しかし、私たちに求められていることは、その小事に忠実であることだと思います。みなさんにとって、その小事とは何でしょうか。タラントのたとえでもそうであるように、タラントは神様が与えて下さいますが、何に賭けるかは、わたしたちに委ねられているのです。

6.World Vision

 Navigators という、宣教団体を作った、Dawson Trotman という人は、いつも、「World Vision を持ちなさい」、と周りの人を激励していたそうです。ある時、「では、World Vision とはどういうものでしょうか。」との質問に、「World Vision とは、神様の心を、自分の心とすることだよ。」といったそうです。最近、終末論とか、世紀末の兆候とかが、よくいわれますが、確かに、この小さな、地球のうえで生活している私たちの未来は、余り明るいものには見えないのは確かだと思います。昨年の C-Week に来られた、総務庁の増島事務次官は、「2020 年か 2025 年頃世界の人口は、約80億に達し、それが、様々な意味で、地球が支えることの出来る人口の最大数だといわれている。」といっておられました。また、先日の NS Forum で、著名な、ロシア人物理学者も、その講演の中で、簡単な計算をすると、2020 年には人口は発散する。すなわち、無限大になるといっておられました。人口増加の推移の予測、また、本当に、その数が地球が支えることの出来る最大かの議論は別として、生活環境が困難な状態になっていくことは、確かにその通りで、かつ、この危機は私たちの近い将来に迫っていることもそれほど、誇張したことではないのではと思います。一応、2025 年を考えることにしましょう。それは、今から、30年後、ここのかなりの方々がまだ生きておられ、また、今学生の方々は、世の中の中心となって活躍しておられる頃ではないでしょうか。その危機に予測されるのは、世界各地での紛争の拡大、貧富の格差の更なる増大、一人一人の愛が冷えることではないでしょうか。このことをふまえたうえで、「小事」、私たちに託されたもの、「World Vision」を考えなければ、無益だと思います。
 もちろんこのことは、私たち一人一人が考えることですが、私が考えるのは、様々な分野での専門家の必要性、それも、「神様の Vision 」をもった人ではないかと思っています。「My Home, My Church Christian」は、必要ありません。私たちが、「自分たちさえよければ、自分の家族さえよければ、自分の教会さえよければ、自分の大学さえよければ、自分の国さえ良ければ、自分と気の合う人がどうにかなれば、」というような価値観から解放されうるかどうかが鍵なのではないでしょうか。自分たちさえという価値観の元でしか、実際行動できなければ、2025 年の危機は、本当に、人間自らが、自分自身を滅びに導く以外の何物でもないと思います。しかし同時に私たちには、希望があります。もちろんそれは、神様から来ることです。神様を信頼し、喜び、「神様の心を心としつつ、私たちに今日委ねられている小事に、忠実であること、それも、それが、小事であるとの認識を持ちつつも、その小事に忠実であること。」が、今日求められているのではないでしょうか。
 ICU 変革の時期に当たって、ICU さえ良ければではなく、もっと大きな視野、神様の Vision に立って、21 世紀を生きる若者たちと共に生き、共に、新しい世界を創造していく毎日であればと願っています。自分に与えられている「小事」に忠実でありつつ。

祈り

 天の父なる神様、罪の中で死んでいたわたしを、御子イエスキリストの血によって購い取って下さり、生きるようにして下さいましたことを感謝します。どうか、私たちを導き、貴方からこの世において委ねられている、宝を、十分に、用いることが出来るようにして下さい。そして、この大学も、貴方から委ねられているものに忠実でありますように。この大学、この大学の教員、職員、学生が、様々な方々から祈られていることを、感謝します。どうぞ、私たちに委ねられているものを、自分たちだけのため、大学のためだけ、この国のためだけに用いるのではなく、主の思いを求めつつ、用いることが出来るようにして下さい。このときにも、病の床にいる人、苦しんでいる人、悩みつかれているひと、戦争、抗争の中にいる人たち、飢えに苦しんでいる人たち、ものに満たされつつも、やすらぎを得られない人たちがいると思います。主よ、貴方は、傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことのない方であることを感謝します。私たちの、将来を考えますと、明るいものには見えませんが、私たちが、貴方に、希望を持って、喜びを持って、貴方の御国を求め続けることが出来るようにして下さい。この大学は、開学以来、42年間貴方に守られ、また、貴方に愛される方々によってはぐくまれてきました。今、一つの曲がり角に来ているようにも見受けられます。今は、次の学長を決める、とても大事なときでもあります。主よ、どうか、学長を選任される方々が、知恵と、霊とによって、この大学に委ねられた、小事を、忠実に、かつ、リーダーシップを持って果たすことの出来る適切な方を、選ぶことが出来ますように。おひとりおひとりを、助け導いて下さい。また、私ども、教員、職員、学生、そして、行政の任を負っておられる方々が、信仰の働きと、愛の労苦と、望みの忍耐とによって、この大学に委ねられものに、忠実であることが出来ますようにお祈りします。
 私たち、一人一人のため、そして、全世界の罪のために、十字架にかけられて、死に、そして、よみがえり、今も、生きておられる、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

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