わたしが今回学んだ戦争は、第二次世界大戦とか、日本のアメリカとの戦争に焦点をあてて、太平洋戦争とか呼ばれているものです。実際には、アジア侵略(価値観を取り除いて、進出と言っても構いませんが)が背景にありますし、多くの戦いが、アジアで行われましたから、アジア・太平洋戦争と呼ぶほうが適切だとわたしは思います。すると、いつから始まった戦争を考えるかなどの問題も生じます。満州事変あたりからは、一連の戦争とする考えかたもあるでしょう。名称はどのような戦争と認識するかとも関係しているので、重要な問題でもありますが、ここでは、そのような議論はせず、漠然と、この「先の戦争」を想定しつつ、一般的に、戦争がわたしのいる国で起こったらということについて、考えてみたいと思います。(読み始める前に、戦争の名称によって立場を色分けすることによる先入観を少しでも減らして、みなさんにも、一緒に考えていただきたいからです。)そんなことは、起こってほしくありませんが、過去について学び、世界の課題・問題・戦争・紛争を考えると、自分の問題として「もし戦争になったら」と考えることは、たいせつだと思うからです。
実際、歴史を学べば学ぶほど、そして、現在の世界の紛争や戦争について学べば学ぶほど、その中をどう生きればよいかは、とても難しい問題で、そう簡単には、答えられないと思います。以前、さまざまな背景から、良心的兵役拒否について、考えたことがあります。それが制度化されていたら良いなと考えた時期もあります。日本には、現在、徴兵制はありませんし、良心的兵役拒否の制度もありません。そのようなことを考える土台もおそらく欠如しているでしょう。また、女性の方は、まだ、徴兵制が女性にも適用される国が少ないこともあり、異なる感覚を持ち、距離のある問題と考える場合もあるかもしれません。しかし、そうであったとしても、「戦争」の問題はそれほど簡単ではないように思います。(さらに、わたしは1953年生まれ、現在72歳ですから、わたしのような年齢の者が徴兵されることは現実的ではないでしょう。そのことを、踏まえつつも)問題を明確にするために、わたしが徴兵されたらどうするかを考えたいと思います。
あまりに現実的ではない問題を考えることは意味がないと考えられる方もおられると思いますが、世界各地の、戦争や紛争をみるとき、自分の生きている世界と切り離し、他人事にせず、わたしは、その場にいたら、そこにいる一人であったらを考えます。実際、わたしの周囲にも、たまたま働いている国で、戦争や紛争が起こったり、配偶者の関係で、こどもが徴兵されるといった場合もあります。歴史を見ると、実際にわたしの身近にもそのような状況があったことがありましたから、その中にいるひとたちの葛藤も、学べば学ぶほど、感じてくるからです。わたしは、現在、戦争や、紛争が起こっている地域に、知人・友人が何人もいますが、そうであっても、その場にいる人たちと「共にいる」などということは、簡単に言えることではありません。しかし、すくなくとも、想像できる範囲で、その人たちの苦悩を、自分の問題として聞きたいとも思うのです。このことも、この問題を考える上で、たいせつなことだと思っています。さらに、戦争を欲する人はいないと言われますが、しかし、現実には、各地、各時代に戦争があり、戦争が始まると、なかなかそれを止めることはできませんし、戦争を無くするための解決策をわたしたちは持っていないように見えます。しかし、そのことを考える責任もあるように思うのです。一般的に、ひとは、よくない状況を認識することはできますが、そこに現れている一面を取り出して議論することはあっても、その状況を本質的に改善する方法は、知らない、わからない、または、持っていない場合がほとんどではないでしょうか。
戦争が問題な、一番大きな理由は、人間の尊厳としても最も重要だと多くの人が考える、一人一人の「命」が武力闘争によって失われることでしょう。さらに、自分の命だけでなく、たいせつな他者の命が失われる、大きく傷つくことによってその人の人生も大きな変更を余儀なくされることも、同様に、重大なことだと思います。むろん、さまざまな破壊、収奪もあり、生きて行くために必要な、基本的なものが奪われることも、あるでしょう。
現在では、民主的な法治国家(より正確に、立憲・民主制の価値を基本とする場合もあるでしょう)が、たいせつだとされていると思います。むろん、これにもいろいろな議論があるでしょうが、このもとで考えると、敵国の人や財産には、そのような価値は適用せず、裁判にもかけず、合議もせずに、人のたいせつなものを奪って行く行為が付随するのが、戦争だということでしょう。すなわち、民主的な決定の主体も法の元の平等の原則も国民に限定され、憲法も国民に関するもので、国際法や権利憲章などは、たとえ国としては批准しても、それは、憲法の下位に置かれ、国法が、それに適合しているかどうかは、十分には議論されないということのように思われます。
SDGs(持続可能な開発目標)もいろいろな評価があるでしょうが、そのひとつには、次のようにあります。
SDG16: 持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し、すべての人々に司法へのアクセスを提供し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する(Promote peaceful and inclusive societies for sustainable development, provide access to justice for all and build effective, accountable and inclusive institutions at all levels)[外務省リンク]平和の項目で、すべての人々への司法へのアクセスが掲げられています。戦争で人の尊厳を犯し、人を殺していく行為は、司法へのアクセスがない状態で、裁判にかけず、弁護も反論もうけつけず、死刑にしていくような行為だということだと思います。凶悪犯罪であっても、それを犯した人にも、司法へのアクセスを保証し、裁判で裁くことを基本としていこうということでしょう。戦争は、自国民以外には、それは適用しないということになります。
そう考えると、世界は、包摂的ではなく、自国と他国という分断・区別が背後にあり、それが戦争の大きな背景であることになります。戦争は、国家間の武力闘争としましたから、つまりは、国家(通常、States と呼ばれるもの)の価値が、個人の価値よりたいせつにされる状況が仮定されていることになります。もし、個人の尊厳が国家の利益よりも、たいせつにされるなら、または、国家の利益は、個人の尊厳が守られるという条件のもとに成り立っているとすれば、(言い換えると、国家の利益と、個人の尊厳を守ることの関係性が適切に合意されていればということでしょうか、)さらに、たいせつにされる価値観に包摂性があり、自分たちにだけでなく、他者にもたいせつにされるものであるとの認識があれば、戦争は起こらないのかもしれません。包摂的な社会を促進することが、平和のためにも、鍵となるのであれば、戦争と平和と二つにわけるのではない、問題設定が必要で、日常の中で、このことについて、考えることが基本だと言えるのかもしれません。そのように考えられているかというと、おそらく、わたしも、まったく怪しいと言わざるをえないと思いますが。
「あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する。」とあります。わたしの理解を少しだけ、書いておくと、包摂性に含まれていると思いますが、たとえば、外国人や、さまざまな少数者グループを受け入れているようでも、制度として、公平にはなっていないということがさまざまなレベルであるのではないかと思います。特に、その国民や、多数をしめるグループの人や、特定の能力に優れているために、政治的な力を有している人からは、歪みや不公平さは見えない場合があると思います。また、まったく同じには、制度上できない場合もあるかもしれません。もしかすると徴兵制などもそうかもしれません。公平性を考えるのは、どのような時にもたいせつだと思いますが、そうできない場合、時間がかかる場合、そうしないほうが適切だと考えられる場合には、説明責任のある制度にしましょうということなのでしょう。包摂性をたいせつにしていると言いながら、ある人々にとっては、排他的な制度のなっていることは往々にしてあります。包摂的に一人一人をたいせつにすることは、常に、学んでいかないといけないことなのでしょう。
包摂的な社会を促進し、このような課題を日々、考え、議論できる環境があり、それが適切に説明・共有され、実効性があれば、戦争には、向かわないかもしれません。しかし、それをしていなければ、やはり、望まない、戦争に突入してしまう可能性は、十分あるということでしょう。そして、上にあげた問いとして、自分の身に降りかかってくる。上にあげた、外務省リンクにも、SDG16 のための、ターゲットや、グローバル指標など、細分化された、より具体的な項目についても書いてあります。
また、別の機会に議論したいと思いますが、上で使った「国家」という概念も、時代とともに変化しており、「政府(Governments)」「国家(States)」「国(Countries)」「民族(Nations)」などの概念などを把握し、定義して、それぞれの視点から議論しないといけないことのように思います。国際法や、国際政治の課題なのでしょうか。国境なども、かなり最近になって、できたものが多いこと考えると、何気なく使っている言葉についても、専門家にだけ任せてしまうのではなく、わたしたちのような一般人も、考えなければならないことが多いように思います。
『行って、憎い敵を殺せ。日本の町や家々を破壊するがよい。自分の国のことではないのだから心配することはない』との声に『イエスは私の心の中に生きておられるのだから、イエスが日本人を愛される限り、私もまた日本人を愛することができるはずだ』と断固として答えたのでした。そして、その時、私の心のうちに生き給うキリストが私を勝利に導かれたことを神に感謝したのでした。さもなければ、私は広島か長崎に原子爆弾を落としていたかもしれません。と書いておられます。この方は、良心的兵役拒否(Conscientious Objection)を申請され、戦争が終わってから、日本に宣教師としてこられたとのことです。
良心に従って、決断をすることができる、良心的兵役拒否の制度が確立することは、とてもたいせつなことだと思います。この制度は、再洗礼派といわれる派、とくに、メンノ・シモンズ(Menno Simons)というひとがおこした、メノナイト(Mennonite)というキリスト教の教派から出てきた考え方だと言われています。アメリカ政府のサイトには、Selective Service System(選択的兵役制度)について書かれており、そのような選択をする場合は、登録をしてくださいとあります。
わたしは、詳細は学んでいませんが、このような制度を一つの選択肢として、国家として認めるということは、むろん、まだ一般的ではないと思います。このような制度を、国民が理解し、共有している中で、この制度のもとで、登録をすることは、一つの選択肢であるように思います。
わたしは、高校生のころ、メノナイト派の教会の祈祷会に出席していたので、そのころは、わたしも、良心的兵役拒否を選択したいと考えていましたが、現在は、そのような制度があったとしても、それを選択するかどうか、正直わかりません。
状況によるかもしれませんが、誰かが、武器をもって攻めてきて、自分を殺そうとしている。さらに、わたしの周囲には、共に生きてきた、さまざまな人がいる。この状態で、武力(暴力)であっても、それに抗う手段があったら、どうするだろうかと考えると、答えは簡単ではありません。私個人については、ある年齢になっているからと言われたらその面を否定しませんが、死は、どうしても避けるべきものだとは考えていません。どのような状態でも、甘受したいと思っています。しかし、それを望んでいない、多くの人たちが周囲におり、かつ、攻撃してきているひとたちにも、さまざまな背景があることを思うと、ただ「殺したければ殺してください」ということが、よいとは思えないのです。平和は、ただ、殺されることによって到来するものではないように、思います。みなさんは、どうでしょうか。殺す、殺されるではなく、そのような状況を生んでいる、背景の問題を考えなければいけないと思うのです。同時に、そのように考えることで、現に、殺されるひとたちを、見捨ててしまっていると非難する方もおられるかもしれませんね。
暴力を使うまでしなくても、批判をしたり、中傷をしたりしてくる人は、歓迎できません。そうであっても、自分はそうはしないと言って、距離を取り、無視のようなことで良いのでしょうか。相手にしないということで良いのでしょうか。わたしは、極力、歓迎(Welcome)することを基本とし、歓迎できないときは「あなたのことを教えてください」という態度で、ほんの少しずつでも、信頼関係を築いていく、そして、完全ではなくても、共に立つ土台を少しずつ築きながら、公平性を求めて行く。そのように生きたいと願っています。むろん、道半で、殺されたり、それができない状態になることの方が多いかもしれません。そうであっても、それを、求め続けたいということでしょうか。
ユダヤ人に対するポグロム(「破滅させる、暴力的に破壊する」という意味を持つロシア語。歴史的にこの言葉は、ロシア帝国のユダヤ人以外の市民が地元のユダヤ人に対して行う暴力的な攻撃を意味する。)の中で、単に祈っていて、多くの人たちが殺されたり凌辱されているときに何もしなかった宗教指導者たちに対する批判から、イスラエルでは、学校の教科書にも、それに関するビアリク(H.N. Bialik)の詩が掲載され、どうすべきかを考える教育が行われているようです。詳細は理解していないので、そのことについてはこれ以上書きませんが、このような状況の中でどう行動するかは、もっと深く考えるべきことのように思います。すなわち、
私は、高校生の時に、学園紛争を経験し、第三の道を考え始めました。その時に突きつけられた問いは、今でも考えています。
1つ目は、学校や、社会に問題を感じ、訴える手段として、バリケード封鎖で授業を止めることに訴えたことの是非に関する問いですが、戦争(だけでなく、一般的に紛争は、理不尽だと思われることが背景にあるでしょう)に訴える場合も、似た状況があると思います。つまりは、戦争・武力行使に訴える(ことを正当化する)条件はなにか、と言う問いです。2つ目は、わたしが、キリスト者だから、こう考えるというようなことを発言した時に、問われた言葉です。他の環境に生まれていても、同じように考えるのかと問われたのです。自分が正しいと考えることだけでなく、共有できるものが生み出されなければ、包摂には、向かえないでしょう。自分が正しいと考えることを主張し続けることでは、いけないように思います。人間は、不完全ですから。第三の道はどのような道なのでしょうか。
まず「兵役を拒否し、戦争に反対する。」は、「良心的兵役拒否」の場合も、おそらく、その選択だけで、「徴兵を受け、兵隊になる」を選択した人からは、批判を受けることでしょう。その人たちは、ある意味で、命をかけているわけですから、当然かもしれません。批判は、個人に向けられるだけでなく、その人の周囲の人に対しても、起こるでしょう。
戦争の時には、いつでも起こることだとも言えます。おそらく、現代でも、戦争の時に、戦争に反対して投獄されたり、殺された人たちの名誉回復のようなことも問題になることもあります。このひとは、(現代的に考えると)まったく正当な理由で、戦争に反対していたのだから、名誉を回復、保証をされるべきだというようなことも唱えられます。しかし、これも、あまり単純なことでありません。多くの場合、たとえば「共産主義者」とのレッテルを貼られて、投獄されているからです。時のリーダーが一番心配していたのが、共産主義革命だとも言われています。このことばのもとで、たとえ問題がある組織であっても、それに対抗するグループを支援することで、これを阻止するようなことが行われてきました。しかし、同時に、批判はしても、経済的な利益のために、ある時点まで支援していた共産主義に反対していたグループの支援を捨て、現在の中華人民共和国とは、国交を結び、その利益を拡大するようなこともあります。「共産主義者」に限らず、特定の理念のもとに反対していたような人を排除するようなことをしてよいのかという問題は、考えておくべきだと思います。
共産主義は、すこし具体的な問題で、この文章には、そぐわないかもしれませんが、少し書いておきたいと思います。第二次世界大戦、そして、その後の冷戦において、各国のリーダーが恐れていたことのひとつ(もしかすると最大のものかもしれません)は、共産主義革命です。単純に、革命といっても良いかもしれません。特に連合国には、イギリス、フランスなど、広大な植民地を持っている国がたくさんありました。それに対して、共産主義の考え方が生まれたドイツや、ソビエト連邦は、あまり、植民地を持っていない状況で、レーニンなどは、民族自決と、共産主義革命とを結びつけて、資本主義、植民地政策を批判していたようです。つまり、イデオロギーの違いだけではなく、そのときの、植民地問題も背景にあったということです。その枠に入らなかったのが、第一次世界大戦後力をつけてきていたアメリカで、スペインとの戦争で獲得したフィリピンもいずれ独立させることを約束し、植民地主義をきらっていて、大西洋憲章のようなものを策定するリーダーシップをとったようです。そのアメリカも、結局は、ベトナム戦争の泥沼に入って行くので、綺麗事で語れるわけではありませんが。さらに、民族自決もその地の有力民族の自決であって、多くの、少数民族は蚊帳の外で、独立後も、大きな問題として残っているので、なにが正しい・良いかの判断は簡単ではありませんから、注意が必要です。そして、資本主義と、共産主義とか、有神論と無神論とか、そのようなものを表にだし、単純化して、批判することになるわけですから、構図は、それほど単純ではないのです。これらの背景のもとでも、やはり、「あなたのことを教えてください」という姿勢による、他者理解と、包摂の考え方は重要で、かつ、武力を使わない選択や、自らの正しさを全面に出した論理立てについて、注意しなければならないことは、重要であることを、理解するためにも、すこし、書いてみました。
すなわち、行動の根本に武力闘争を掲げていない限りにおいて、排除することには、気をつけなければいけないということだと思います。むろん、現実的に、武力闘争があるのですから、これについても、基本的なことは、考えておくべきだと思います。いずれにしても、第三の道が明確には見えなくても、二律背反の思考にとらわれず、第三の道を考えるということ自体に価値があるとも思うのです。
法律のようなもので、人々を縛るのではなく、憲章のような形で、規範を示し、しかし、国家間においては、もう少し強い形で、国際協調へと向かうことはできないでしょうか。おそらく、そのようなことのために、国際連盟や、国際連合が作られたのだと思います。では、その機能を強化していけば良いということになるのかもしれません。しかし、正直、わたしは、そのことについて、悲観的です。簡単にいうと、第二次世界大戦戦勝国である、大国中心で、設立されたことが、枷となっていると考えるからです。さらに、世界は、第二次世界大戦終結時とは、大きく変化し、多様になってきています。経済的にも、一国またはいくつかの国がすべてを支配する構図は、崩れてきていると思います。
戦争を考えてみると、基本的には、損になる戦争はめったに起こしません。かならず負けることが明らかな場合には、戦争をしないのが、原則でしょう。日本が、アメリカに勝てると思っていたのかは、疑問ですから、ここで、太平洋戦争へと向かっていった、日本についても検証したほうがよいのですが、ある程度、大きな議論になりますから、詳細はさけます。アジアの大国として、中国で築いた利権について、そのことが直接損失とはならない、アメリカが植民地主義と批判したり、経済封鎖をしたりすることを、中国戦線を拡大する時点で、真剣に想定していなかったことと、第二次世界大戦がはじまり、ドイツの攻勢を考えると、太平洋に、アメリカが大きな比重をかけられないとすると、少なくとも、軍事力については、短期決戦なら、優位だろうという、安易な考えが、戦争によってのみ評価されると考えた軍部に強く、民衆の支持も考えると、文民も、それを犠牲をはらっても、止めることはできなかったということだとわたしは考えています。
一般的には、強い国家が、弱い国家を侵略して行くという構図だと思います。それを、強い国の側のリーダーシップで止めることはできないと考えるのが自然だと思います。そう考えると、最初から、国際機関を作り直す以外には、ないと思います。しかし、その時に、現在の国際連合を補完する機能を持つものとして、作ることでは、不十分ではないかと思います。しかし、同時に、対立する機関としてつくることは、包摂性に反します。包摂性を保持しながら、新しい国際機関を作れないでしょうか。「すべての人々に司法へのアクセスを提供し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築することを目的として、平和で包摂的な社会構築すること」をめざす機関です。適切な憲章を基盤として、少しずつ、実質的な機能を持たせるようにするということでしょうか。そのようなものは、できないでしょうか。ぜひみなさん、考えていただきたいと思います。できれば、国家という枠を超えて、作ることができないかとも思います。最初は、小さい国や、民族集団や、個人が中心であっても、ある程度の、規模になっていけば、世界への発言権を持つことができるのではないでしょうか。
ひとつ考えておかなければならないのは、そのような組織・機関・連合体が、武力を持つかという問題です。実質的に機能するようになるためには、やはりこのことを考えておかないといけない。現実的問題を考えると、難しいのですが、わたしは、訓練をうけた、警察組織のようなものは、必要だと思います。PKO(Peace Keeping Operations 平和維持活動)のようなものでしょうか。まだ、十分、勉強していませんが、それと、国際的に、平和維持に関わる、ボランティア組織でしょうか。こちらは、(徴用ではありませんが)多くのひとたちが、経験できるものであるとよいように思います。むろん、どのように、PKO のようなものの派遣を考えるかなど、困難な問題が多々ありますが、大国や、強力な武力で圧する国が、リーダーシップをとる組織にしては、いけないと思います。そのような国際社会の構築は可能でしょうか。
わたしは、今のまま生きていたら、徴兵され、戦争に行き、(極限的な場合においては、)人を殺すことになるのかもしれないと思っています。しかし、それは、選択としてはしない。そのためには、第三の道を模索しないといけないと思います。世界のさまざまな課題を学び、理想主義ではなく、実際に機能するものを考え、行動して行くことがひつようなように思います。そして、それが、わたしたちの生きている間に実現するものではなかったとしても、そして、それを構築する過程で、殺されたり、死んでいったりしていったとしても、自衛を掲げて、人を殺したり、目を背けたりではなく、積極的に、平和の問題に関わっていくことが、たいせつなように思います。みなさんは、どう考えられますか。お考えを承ることができれば幸いです。
課題と思われることを書いておきます。個人的に一人一人が考えると、戦争はよくない、しないほうが良いということは、ほとんど自明のように思われます。そうとは言えなくとも、多くの人がそれを支持すると思います。他方、包摂性や、包摂的な社会を求めて行くことは、それほど単純に、支持を得られることではないでしょう。また、より大きな、国家(または民族)レベルで考えると、戦争をしたい場合が生じ、包摂性は、単純に支持できない、包摂的な社会は、国家の存立を危うくすると考える場合が多いのかもしれません。実際に戦争をする段になると、相手の強さとも関係するので、さらに難しくなりますが、強い国家の場合は、戦争をして、受ける損が、多くないとして、戦争に向かうこともあるように思います。戦争や、包摂性の評価は、どのレベルで考えるか、またその強弱によって変わるということです。
民主的な国家における政府であれば、一人一人の考え方が反映されるのが原則ですが、戦争や、包摂性だけで、決めるわけではありませんから、大多数が、戦争を望まず、多数が、包摂的な社会を望んでいても、そうはならないことが多いのかもしれません。さらに、包摂性ひとつをとっても、一つ一つの社会的ルールにおいては、どのような社会の枠組みにするかは、単純ではないかもしれません。移民の問題なども、包摂性のたいせつさを唱え、それをたいせつにしていても、移民の割合があるレベルを越すと、許容できなくなる場合も多いようです。わたしも、ドイツを何回か訪れた時、最初は、多くの国民が、移民に寛容でしたが、目に見えて増えてくると、許容できなくなってきているようでした。日本でも、そのような個人や制度の許容範囲をみながら、少しずつ社会の仕組みを調整して行くことが必要なのでしょう。
難しいからと言って、そこであきらめないで、戦争のない社会を目指していけると良いですね。みなさんに期待しています。