Last Update: February 23, 2026
2026年読書記録
- 「アルカイダ ビンラディンと国際テロ・ネットワーク AL-QAEDA」ジェイソン・バーク(Jason Burke)著 坂井定雄・伊藤力司訳 講談社(ISBN4-06-212476-9, 2004.9.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。著者については、「1970年ロンドン生まれ。英国の『ロンドン・オブザーバー』紙、チーフ・リポーター。取材記事での受賞歴もある気鋭のジャーナリスト。10年にわたって中東、南西アジアを取材した成果をまとめた初の著作。」とある。現地での丁寧な取材が、ビンラディン、アルカイダ、イスラム過激派を丁寧に描いている。ほとんど、詳細を知らなかったが、評価はあまり書かないことで、かえって説得力もある。オバマ大統領のときに、ビンラディンは、殺害されているが、そのビデオ中継に違和感を持ち、しっかりと背景を理解しないといけないと感じた。むろん、背景には、ソビエト連邦共和国のアフガニスタン侵攻の失敗。人々の注目を集めた、2001年9月11日のニューヨークでのテロ、その後の、アメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻、タリバンを政権から追い出すが、結局、アメリカは、アフガニスタンから撤退、すぐタリバンが政権を取り戻す。このような歴史の背景を理解するのにも、基本的な本だと思う。ビンラディンという一人のひとに焦点を当てるのは間違っているのだろう。それゆえに、今後も、様々な形で、イスラム過激派のテロは起こるのだろうと思った。難しい問題の最初の部分を学ぶことができた。と言っても、一回読んだだけでは、まったく不十分である。この本ももう一度読みたいし、他の本からも学びたい。以下は備忘録。「月日が経つにつれて、『反テロ戦争』やその対象について発表された無数の記事や本も、私の疑問 に答えるものは何もないことが分かった。私は当時の主流になりつつあった、ある誤解のことが次第に気になっていた。その典型はビンラディンが『アルカイダ』と呼ばれる団結した構造的組織を率いているという考え方だった。私がこの仕事をしながら見つけた証拠はどれも、『悪の帝国』であるアルカイダが邪悪な首領を頭に据えているという概念と一致しなかった。こうした概念は、その首領と子分たちをやっつければ問題は解決するという意味では結構な考え方だが、これが正しくないことは明白だ。正しくない結果、現行の『反テロ戦争』を進めるための討議の本筋がねじ曲げられた。反テロ戦争の戦略論は、イスラム過激派再生の根本原因についての筋道の通ったまともな視点が排されて、ハイテク兵器、軍事優先、根絶といった用語を操る『対テロリスト専門家』によって、ほぼ全面的に支配されてしまった。対テロ専門家は症状をいやすには有用かもしれないが、病原はなくせない。」(p.24)「まずアルカイダとは何か?消息に通じた西洋人に、アルカイダは何と思うかと尋ねるとする。多くはこう答えるだろう。一〇年以上前に、サウジアラビアのある富豪で宗教的狂信者が設立したテロ組織で、それが、訓練を受け、覚悟を決めた何千人ものテロリストを抱えるネットワークに急成長した。テロリストはどの大陸、どの国、どの市でも、首領ウサマ・ビンラディンの命令を待って待機しており、かれらの大義のために人を殺し、人を傷つけるのだと。良いニュースとしては、このようなアルカイダは存在しないことだ。悪いニュースとしては、今日世界が直面している脅威は、忠実な幹部に囲まれた軍団を擁する一人のテロ指導者より、もっとはるかに危険だということである。今日われわれが直面する脅威とは、新しくてそれぞれ異なり、複雑で多様、ダイナミックで変幻自在、その特徴を定義するのは実に難しい。」(p.29)「アブダラー・アッザーム(1987):いかなる主義主張もそれを前進させるためには、また重い任務と大きな犠牲を高く掲げるためには、前衛を必要とする。地上ぬも天上にも、勝利を得るためには持てる全てを投じられる前衛を・・・・・必要としないようなイデオロギーは存在しない......。厳しく、終わりのない、困難な道のりが目的地に到達するまで、前衛は旗を掲げ続ける。何となればアラーが、前衛は前衛たるべきこと、前衛であることを身を以て示すべきことを、命じているからである。こうした前衛が、将来あるべき社会のための基盤(アルカイダ・アルスルパ)を形成するのである」(p.30)「アルジェリアのGSPC、エジプトのイスラム聖戦、ウズベキスタン・イスラム運動、リビア戦闘集団などは、正当化されない誤った指導を受けているかもしれないし、恐ろしい、倫理的に許されない行為を犯しているかもしれない。しかしこれらグループが解決したいと願っているもろもろの苦しみは決して形而上のものではない。かれらの苦しみの感じ方は極端かもしれないが、現実に根ざしていることも事実だ。かれらはマニフェストの中で、七世紀の闘いの時や中世の思想家と同じように、現実の出来事、現実の人民、現実の問題と見なされるものに取り組んでいる。ビンラディンの説明は、イスラム史の一つの解釈をベースにしているようだが、かれの力の源泉は、ムスリム世界が現在抱えている社会、経済、政治の諸問題のためにかれが果たしている役割にある。学卒者の雇用がない、きちんとした住居がない、社会的流動性も食料も何もない····こうしたないない尽くしの原因は宗教のせいだと説明されても、それは宗教上の苦情ではない。それはあくまで、特定の宗教的世界観によって誇張された政治的な苦情である。」(p.63)「『コーラン』と預言者のスンナ(善行・範例)への回帰に基づく改革運動は、イスラム史を通じて何度も繰り返されるパターンであった。次から次へと不和と分裂の波に見舞われたが、いずれも特定の社会的、政治的文脈に根ざしたものだった。初期に起きた分裂の例は、ムハンマドの死と同一の世紀に起きたスンニ派とシーア派の分裂である。それはイスラム共同体の指導者であるカリフーカリフには大きな軍事・政治権力が付与されるが、固有の宗教的権威はない――の指名に当たり、預言者の直系子孫がイスラム共同体にとって望ましい候補者として、指名されるべきかどうかをめぐって起き分裂である。分裂の起源は政治的かつ個人的なものだったが、後年は分裂が教義にまで及んだ(また多くの学者はペルシャ人とアラブ人の民族的差異も指摘している)。シーア派は、預言者の子孫以外の者をカリフに指名することが預言者の理想からの逸脱したがって腐敗だと考えた。やはり初期分派の例として、ハリジットすなわち『出て行った者たち』(アラビア語のハラジャが語源)もあった。このグループは急進的で厳格な平等主義を主張し、ムハンマドの後継者たちはムハンマドの真のメッセージを逸脱したと非難した。シーア派の過激派グループである暗殺教団も分派の一例だ。何世紀にもわたって多くのムスリム反体制派は、イスラムのメッセージの腐敗にウラマーが関わってきたと非難してきた。西洋ではイスラム聖職者の影響力は軽視されがちだが、一般に聖職者は、邪悪な世俗エリートに取り込まれた利己的なパートナーと見られる場合が多い。現代の急進思想家にとって重要な反体制思想家として、ビンラディンやその他現代イスラム過激派がよく引用する一四世紀の保守的イスラム学者、タキ・アルディン・イブン・タイミーヤがいる。イブン・タイミーヤは現代スンニ派革命思想の父と見なされている。一二五八年バグダッドがモンゴル人によって陥落したことは、当時の信心深いムスリムにとって大変なショックだった。何世紀にもわたるイスラムの軍事的拡張と政治的・文化的優越性が続いたあと、カリフ帝国やイスラムが、不信仰者に征服されるなどということは考えられないことだった。同様なショックは、それから五世紀以上経ってからナポレオンによるエジプト侵略の時にも体験することになる。イプン・タイミーヤはバグダッドの敗北を、イスラム共同体すなわちウンマが、イスラム初期の聖典の教えを適切に守らなかったせいだと論じた。その結果、イブン・タイミーヤはダマスカスへの亡命を余儀なくされ、生涯の大半をダマスカスの獄中で過ごすことになる。イスラムが内包するいくつかの重要な概念が、今日も強く鳴り響いている。世界をいくつかのカテゴリーに分けること、例えばダル・ウル・ハルブ(戦争の領域あるいは戦争の家)とダル・ウル・イスラム(イスラムの領域)に分けることがその一例で、ビンラディンは何度もこの分割に言及している。もうひとつの重要な概念はマリーズ・ルースベンが指摘したムハンマドのパラダイムである。ムハンマドはメッカの富裕な支配者たちにメッカを追われた。それはムハンマドが唯一絶対神の権威を掲げて支配者たちの権威を認めなかったからであり、メッカの重要神殿だったカアバ神殿に収められた偶像類を崇拝しなかったからであった。それらの偶像は巨富を生む支配者たちの巡礼産業の象徴だった。イスラムを実践することができなくなったムハンマドは秘かにメッカを離れ、小人数の信者とともに当時はヤスリブと呼ばれていたメディナーに向かった。六二二年に行われたこの逃亡はヒジュラ(遷都)として知られているが、イスラム暦がムハンマドの誕生日や最初の啓示ではなく、ヒジュラを起源にしていることでもこの事件の重要性が分かるだろう。弾圧に直面した時には、コーランは逃亡することをはっきり勧めている。それに続く何年かの間、メディナ市民の疑惑とメッカの軍事力にはさまれたムハンマドは苦しい時期を送った。しかしかれは、六二四年のアルバドルの戦いでメッカを破り、その結果ついにメディナの人々を信服させて勢力を拡げた。かれは六三〇年にメッカへ凱旋し、その二年後に死亡する。ハリジットから暗殺教団やビンラディンに至るムスリム改革派は意識的にヒジュラを真似、『真の』ムスリムとして生きるためにかれらを迫害する社会から逃れ、ムハンマドのようにいつの日か勝利を目指して運動を進めるのである。」(p.69-70)「モハメド・ビンラディンは、建設請負業者として身を立てるために懸命に働いた。一九三〇年代の初期アラビア半島で石油が発見されたことは、新国王アブドゥル・アジズが使える膨大な資源が入ることを意味した。国王はその多くを支配的エリート用、外国の賓客用、宮廷用の宮殿建設に使った(相当な額を宗教的施設の建設にも回した)。モハメド・ピンラディンは一九五〇年代初期までに、小さな建設会社を成功させていた。かれは地元の競争会社より大幅な値下げをして、急速にビジネスを拡大した。ある外国企業がメディナ・ジッダ間高速道路建設の仕事から撤退したことで大きなチャンスが訪れ、かれはその仕事を請け負った。一九六〇年代初期までに仕事は溢れるほどに舞い込み、ビンラディンは大富豪となり、ビンラディン・グループは成長し続ける巨大な建設複合企業グループになった。文字が読めないままで死んだモハメド・ビンラディンは、英国南アラビア保護領にあるタリムとい聖地の近くで生まれた。タリムはサラフィズムの根拠地である。かれはサウジアラビアで、この国の厳格なワッハーブ主義に改宗したようだ。かれは世界中のウラマーやイスラム指導者多数を、ジッダやメッカやリヤドの自宅に招いてもてなした。時には、アラビア半島巡遊の旅やアラビア半島に来て帰るウラマーたちに旅費も支給してやった。かれはイスラム慈善団体やイスラム運動団体に多額の寄付をした。また自家用ヘリコプターを使うことで、一日のうちにイスラムの三大聖地、メッカ、メディナ、エルサレムのアルアクサ・モスクで礼拝することができる、というのがかれの自慢だった。とりわけメッカとメディナを訪れることは、特別な満足をかれに与えたに違いない。というのは、巡礼者や礼拝者のために行った二大聖地の施設修復と拡張の工事契約が、中東一帯に広がるかれの会社の名声の源であり、それがまたサウド王家お抱えの建設業者であることを確認し、さらにかれをとてつもない大金持ちにしたからである。どれくらい金持ちであるかが、一九六四年に王位継承の争いでファイサル皇太子が勝利した時に明らかになった。国庫の管理がひどく杜撰で、新国王が役人のサラリーを払うことができないと判明した時、モハメド・ビンラディンが介入し、六ヵ月間の賃金を国王のために立て替えたのである。ウサマ・ビンラディンの母親、ハミダ・アリア・ガヌームはサウジ人でもワッハーブ派でもない。教養ある美しいコスモポリタンの女性で、シリア商人の娘である。彼女はサウジアラビア伝統のベールを嫌い、シャネルのパンタロンスーツが好みである。こういう姿勢と、外国人であり、モハメド・ビンラディンの一〇番目か一番目の妻であることなどから、ファミリーの中でのステータスは高くなかった。ハミダは夫の死後億万長者の大物と再婚したが、モハメド・ビンラディンは死後もハミダがジッダのパレス(宮殿のような邸宅)に住むことを許していた。モハメドの一七番目の息子であるウサマは、このパレスで大勢のファミリーや金の銅像、古代のタペストリー、ベネチア様式のシャンデリアに囲まれて成長した。ハミダや息子のウサマがファミリーに排斥されたという話はたぶんに誇張されているようだ。ウサマ・ビンラディンは一九五七年三月一〇日リヤドで生まれ、ほとんど会ったことのない父親がヘリコプター墜落事故で死んだのは、ウサマが一〇歳の時だった。ビンラディン家の内情について特色のあるレポートがある。それは一九九八年アメリカの公共放送PBSテレビに『ピンラディンに近い匿名の筋』から寄せられたものだ。それは多少びくびくした表現まじりだが、ウサマの子供時代の内面を良く伝えている。『父親はとても専制的な人物で、子供たち全員をひとつの屋敷で育てることにこだわった』『父親は厳しい家訓をつくり、子供たち全員に厳格な宗教的、社会的規律を守らせた・・・・・・同時に父親は海や砂漠への家族連れの旅を楽しんだ』『父親は子供たちを大人として扱い、若い時から自信を持つことを望んだ』ウサマ・ビンラディンは一九六八年から六九年にかけて、ジッダの西洋スタイルのエリート校、アルサーグ学校で一回一時間の英語レッスンを週四回受けた。教師たちはウサマについて『シャイで引っ込み思案だが上品で礼儀正しい』少年と形容し、『とてもきちんとした正確で良心的な』勉強ぶりだったと、褒めている。ローティーン時代のピンラディンがひどく宗教に凝っていたという材料はないが、ベイルートのナイトクラブで酒を飲んだり、バーガールをめぐってけんかしたとか、若さのあまりのご乱行というエピソードはほぼ間違いなく偽りだ。確実な情報を総合すれば、静かで真面目なこの若者が、よく言われるベイルートのクレイジーホース・ナイトクラブへ女遊びに行った、などということはあり得ない。ピンラディンが父の死亡に当たり、父の個人的資産をいくら相続したかは定かではない。非常に高い額がよく引き合いに出されるが、言われている三億ドルよりはずっと少ない額だったろう。サウジアラビアでは一家の資産を家族で分割しないのが普通である。父の死に当たり、通常は長男が家族全体のために資産を管理する。ビンラディン家の場合も、現金が分配された可能性はまずない。拡大し続けるビンラディン・グループの資産の大半は、株式や装備やビルや土地などの形をとっており、簡単に現金化することはできない。ウサマ・ビンラディンの取り分としては、せいぜい数百万ドルを使うことができる権利が割り当てられた程度であろう。」(p.90-92)「ビンラディンが大学を卒業した一九七九年は、大変な出来事が相次いでムスリム世界を揺さぶった年だった。イスラエルとエジプトとの和平取引、イランにおけるイスラム革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、急進的ワッハーブ派によるメッカの大モスク占拠などである。それぞれの出来事は、ビンラディンのような人物には非常に大きな意味合いがあった。サダト(エジプト大統領)のユダヤ国家との和平取引は、アラブ民族主義政権の退潮(特に一九六七年と一八七三年の恥ずべき敗戦を経て)を集約する出来事だった。イランのシャー(王)モハメド・レザ・パフラビの退位は、この種の政権に何がなされるかを明白に示す例示だった。ソ連のアフガン侵攻は無神論の西洋からの脅威が迫っていることを強調するものだった。特にサウジアラビア国民にとって、この年一一月に起きた、強硬派の説教師ジュハイマン・イブン・サイド・アルウタイバと四〇〇人の急進派による、イスラムで最も神聖な神殿の占拠は、リヤドの王室に全く新しい光を投げかける出来事だった。」(p.108)「若きビンラディンのこうした姿には、なるほどと思わせるものがある。こうした寛大さはたぶん父から学んだものだろう。父はいつも貧しい人に渡す札束を持ち歩いた人物だった。かれの周辺でともに戦った人は皆、ビンラディンがこういう父の話をするのを聞いている。中東では地位と身分のある人が多額な金を分配するのは予想の範囲内だが、ビンラディンの古い仲間は皆かれの恵み深さを口にする。ある者は、結婚のお祝いにビンラディンが一五〇〇ドルを差し出したという話をするし、靴や時計やお金を必要とする親族に、かれがすぐ現金を支払ったと話す者もいる。ビンラディンは中断を交えたペシャワール滞在中に、少なくとも一人のアフガン戦士に若干のアラビア語を教える時間を確保した。元戦士たちは、グループ討論の時にビンラディンが宗教的な物語をしたり、宗教的な歌を歌ったと言っている。ほとんどの者は、ビンラディンが一〇年前に先生たちから言われたように、シャイで静かな若者だったと口を揃える。しかし(神から与えられた)任務の感覚が芽生え始めていたことを示す兆候もあった。かれは会話の中でよくサラファッディンのことを口にした。サラファッディンとは一二世紀のクルド人将軍で、中東の全イスラム派閥を統一して十字軍を破った人物である。またかれはコーラン三六節の『スラヤシン』をよく引用した。それはコーランの心臓とも言われ、人間の道徳的責任と復興および審判の確実性を示している個所である。」(p.112)「しかし近代化の一分野だけは一定の成功を収めた。それは教育の分野である。かなり低いベースからのスタートだが、教育の機会は急速に増えた。一九三三年のアフガニスタンでは国立学校の学生数は全部で一三五〇人、国立大学は存在しなかった。一九六一年までには国立学校生徒は二三万三八〇九人となり、約二〇〇〇人が上級学校に進んだ。五〇年代の一〇年間で高等教育卒業者は三倍増となった。アメリカからの援助はほとんど学校建設に使われた。ソ連はポリテクニック(技術専門学校)を、フランスはリセ(七年制の国立高等中学校)を運営した。これと同時に官僚と軍隊が拡大した。新しい学校制度の卒業生に職を与えるためと、政府が国民に保護を与える機会を増やすためだった。さらにソ連から学んだ中央集権型、国営型管理方式は多数の役人を必要としたという事情もある。」(p.121)「長文で時として散漫なこの文書は、ビンラディンの目標と方法論を打ち出すため、それから九ヵ月間にわたって発表された一連の公開声明やインタビューの第一号だった。ビンラディンの短期目標はすぐ明確になった。この宣戦布告の大半はサウド家に対する、長文の厳しい非難であった。それは実は、約一年前にロンドンでビンラディンの仲間が発表したコミュニケ一七すなわち『ファハド国王への公開書簡』を書き直したものだった。唯一違っていたのは、サウジアラビア以外の読者にアピールするために、ビンラディンが初期ワッハーブ派の事績を多数引用したことである。
ビンラディンは宗教用語を使い、初期イスラム史やコーラン、ハディースを引用して、非常に特殊な、非常に現代的な苦痛を表現した。その中の四つの文章により、イスラム前史時代のアラビアにおける軍閥間の戦い、一九九三年のソマリアの戦い、一九八三年ベイルートの米軍に対する自爆攻撃、六二四年のバドルの戦いに触れている。かれは『ホラサン』の高いヒンドゥークシ山脈に帰ってきたと発表している。ホラサンとはアッバース朝期イスラムが拡張した偉大な時代に、現代のアフガニスタンの地をそう呼んでいた旧名である。ここで『世界最大の不信仰者の軍事力(ソ連軍)が破壊され、ムジャヒディンのアラー・アクバルの叫び声の前に超大国の神話は力を失った』とビンラディンは記している。ビンラディンは続ける。かれの母国が正しいイスラムの『道』を踏み外していることは『不正義』であり、『民間人、軍人、治安要員、政府当局者・・・・・・学生・・・・・何万人もの学卒失業者にも』不正義の影響が及んでいる。さらにビンラディンは言う。この『不正義』が及んでいるのは、賃金の低い者、借金を抱えた公務員、通貨リアルの切り下げ、『悲惨な状態にある公共サービス』特に『水道サービス』、『大商人や請負業者』に政府が勘定を支払わないこと等々である。ビンラディンによれば、政府は平和的手段による抗議を無視してきた。そのため唯一の代替策は暴力である、と。衛生設備に対する苦情と問題解決の要求とを混ぜこぜにし、しかも悪魔や専制に非難を浴びせるのは、全く自己を意識していないからだ。これは社会的不正義感に根ざした政治的マニフェストである。不正義は悪い政府の責任だとのマニフェストを、宗教上の神話を使って宗教用語で表現したものである。」(p.255-256)「注意すべき重要な特徴は訓練基地内部の構造が、第一章で述べた『アルカイダ』現象と現代政治的イスラム主義内部に起きた三層分割を映し出していることだ。第一層は中核グループである。少数の固い決意の活動家たちで構成され、その多くはアフガン戦争の経験者であり、ビンラディンの周辺に集まっている。かれらは専門化した訓練基地の管理ポストや、専門基地を卒業した者たちを指揮する70役割に就いている。その次のグループは『ネットワークスのネットワーク』に結び付いている男たちで、かれらはそれぞれの国の個別グループに属していたか、あるいはその募集に応じて、訓練のためアフガニスタンに送られてきた。この連中の多くはボスニア紛争などの経験者だった。かれらのうち一部は、第一つまり中核グループによって『殉教作戦』に選抜される。その他の者は国に帰される。第三は、ハルダンなどの訓練基地を埋め尽くしている広範な大衆的志願者のグループである。圧倒的に若い男たちで、次第に恵まれない社会階層の出身者が増えている。かれらはアッザームの檄文や血の気の多い地方聖職者の説教、ビンラディン自身のメッセージなどに鼓吹されてやって来た、大砲の餌食(一般兵士)たちだった。かれらは『ある種の絶望的栄光に燃えて』訓練基地への道を発見した男たちである。」(p.269)「声明文:民間人であれ軍人であれ、アメリカ人とその同盟者を殺すことは、ひとりひとりのムスリムに課せられた義務である。ムスリムはそれが可能な国ならどの国でもその義務を果たすことができる。それはアルアクサ・モスクと(メッカの)聖なるモスクを解放するためであり、かれらの軍隊をイスラムのすべての地から追い出し、敗北させ、いかなるムスリムをも脅かすことができないようにするためである。」(p.276)「アメリカ政府に税金を払っているアメリカ人は誰でもわれわれの標的である。なぜならば、かれはムスリム国家に対するアメリカの戦争マシーンを助けているからだ・・・・・・抑圧者、犯罪人、泥棒、盗人に恐怖を与えるのは、人民の安全とその財産を保護するために必要なことだ。」(p.277)「かれらと別れるとき、ラーマトゥラーは米国がアフガニスタンを爆撃するだろうかと訊いてきた。私はびっくりした。私は、ノー、かれらはそんなみっともないことはしないだろう、と答えた。かれが私の答えをもう一度確かめたあとー。事務所に戻った私は果物を買いにバザールに行った。もちろん、私は完全に間違っていた。私がそう答えたとき、米国の軍艦はペルシャ湾で攻撃態勢にあった。現地時間午前一〇時三〇分、米国はトマホーク巡航ミサイル約八〇基を発射した。うち三基がスーダンの薬品工場を破壊、残りは米国の情報機関がビンラディンと結びつけた、ホスト近郊ザワールヒリ周辺のアルバドルにある六ヵ所の訓練キャンプを攻撃した。」(p.281)「かれらは、変化を求める人々の最前列にいることが多い。たとえその変化が、『正しい』黄金の時代をノスタルジックにイメージした、復古的な主張によって正当化されるとしてもである。かれらは、言語明瞭で、知性的で、やや国際的な男たちだ。かれらは大志を持ち、その大志が満たされないときに深い憤激を経験する。自分の希望を実現できないとき、かれらはそれを不正義だと思う。これらの問題を、国家の中で許されている政治的、社会的活動の枠内で解決する効果的な方法がなければ、かれらは別な道を探すことになる。急進的なイスラム過激主義がその一つである。」(p.419)「私は現代イスラム・テロリズムの本質と、それを生み出すいくつかの原因を説明しようと試みてきた。すべては歴史的過程の結果であり、避けられなかったことは一つもないし、正しく判断され、正しく実行された政治によって、すべて対応できたはずのことだった。テロリズムを生み出す原因に次のように対応しなければならない――。・穏健なムスリム指導者たちとかかわりを持ち、支持しなければならない/・イスラム世界の信頼される、正統な政府には、イスラム主義者の有力な代表者が含まれることを、認めなければならない/・イスラムの硬直した傾向が、寛容な、複数受容的な傾向の代わりに拡がることに対しては、巻き返さなければならない/・抑圧的な政府は改革をしなければならない/・西側が好戦的な敵ではなく、相互繁栄のためのパートナーであるとイスラム世界を説得する、大規模なキャンペーンをしなければならない/・すべての政策は、どの段階でもその効果を注意深く検討し、イスラム世界の若者たちに与える逆効果を考慮しなければならない/『反テロ戦争』の長期的な成功は、過激派に対する強まる同感への対抗に成功できるかどうか、にかかっている。重要な最初のステップは、現在われわれすべてが直面している脅威が理解され、対応されたことを示す、一つの、本質的な、模範となるべき変化である。脅威は一人の人間、一つの組織から来るものではないのだ。』(p.433-434)
(2026.1.4)
- 「十五年戦争小史」江口圭一著 ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-51006-8, 2020.10.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。著者による愛知大学での長年の授業のテキストとして、まとめたもの。二十四回の講義を想定して、コンパクトにまとめいる。何度も手を加えて取捨選択したあとが見える。天皇への批判も明確に描かれており、そのこともあって、「十五年戦争」ということばに、反対をするひともいるのだろうと推察される。これは、ひとつの見方であり、本来は、中国や、東南アジア、南西諸島、そして、米国、英国、オランダ、オーストラリアなどの視点もなければいけないのだろうが、それは、また、他の書になるのだろう。何冊か読んできていることもあり、非常によくまとまっているという感じをうける。以下は備忘録。「すでに一九一六年代表的な膨張論者徳富蘇峰は「日本帝国の使命は、完全に亜細亜モンロー主義を遂行するにあり.....亜細亜モンロー主義は、即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也」と述べて、「白閥の跋扈を蕩掃する」ことを主張し、一九一八年近衛文鷹はベルサイユ講和会議に際して、「英米本位の平和を排す」と題する論文を発表し、おなじ華族であっても西園寺とは対照的な立場を表明した。」(p.31)「一月八日、関東軍の「果断神速」の行動を全面的に賞讃し、「朕深ク其忠烈ヲ嘉ス」とする昭和天皇の勅語が発せられた。関東軍の謀略と独断の累積のうえに展開された軍事行動は、ここに不可侵の承認をあたえられた。関東軍への勅語は対米英協調路線とアジアモンロー主義的路線との抗争における後者の勝利を象徴した。柳条湖事件は日本が対米英協調路線からアジアモンロー主義的路線へ針路を変える転換点となった。」(p.58)「前年末の国際連盟理事会で現地派遣が決定された調査委員会は、委員長リットン(英)および米・仏・独・伊の委員で構成され、二月三日ヨーロッパを出発し、二九日東京に到着した。関東軍はリットン調査団の現地到着前に既成事実をつくりあげてしまうことを急ぎ、三月一日東北行政委員会により「満州国」の建国宣言をおこなわせた。」(p.64)「前年末の国際連盟理事会で現地派遣が決定された調査委員会は、委員長リットン(英)および米・仏・独・伊の委員で構成され、二月三日ヨーロッパを出発し、二九日東京に到着した。関東軍はリットン調査団の現地到着前に既成事実をつくりあげてしまうことを急ぎ、三月一日東北行政委員会により「満州国」の建国宣言をおこなわせた。宣言は、満蒙三千万民衆は張学良政権の「残暴無法」のもとで死を待つのみであったが、「手を隣師に借りて茲に醜類を駆」ったとし、「新国家建設の旨は一に以て順天安民を主と為す」と述べ、領土内にあるものは漢・満・蒙・日本・朝鮮の五族をはじめすべて平等であるとうたった。満州国の国首は執政、年号は大同と定められ、領域は奉天(三一年一一月二〇日、遼寧省を改称)・吉林・黒竜江・熟河の各省、東省特別区、蒙古の各盟旗(清朝設けた蒙古族の統治組織)であるとされた。また三月九日には奉天・黒竜江・熱河三省の蒙古地域を省域とする興安省が新設された。第一次天津事件に乗じて天津を脱出した溥儀は、営口から旅順に移されて軟禁された。溥儀は自分に用意された地位が大清帝国皇帝ではないことを知って憤激したが、板垣参謀に恫喝されて屈伏した。三月六日溥儀は板垣の用意した一つの文書に調印させられた。それは大同元年三月一〇日付の執政溥儀から本庄関東軍司令官にあてた書簡で、一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し、其の所要経費は総て満州国に於て之を負担す。二、弊国は黄国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理並新路の敷設はて之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。三、弊国は貴国軍隊が必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す。四、貴国人にして識名望ある者を弊国参議に任じ、其の他中央及地方各官署に貴国人を任命すべく、其の選任は貴軍司令官の推薦に依り、其の解職は同司令官の同意を要件とす。五、右各項の趣旨及規定は将来両国間に正式に締結すべき条約の基礎たるべきものとす。という内容であった。この書簡は柳条湖事件以来の関東軍の軍事行動の成果を集約するものであった。」(p.64)「(五一五の結果)一九二四(大正一三)年以来の政党内閣は八年間で閉幕した。対米英協調路線からアジアモンロー主義的路線への変針とならんで、天皇制立憲主義の政治体制も、その立憲主義的側面を痛撃されて、変質を開始した。」(p.68)「東亜勧業会社(満鉄の傍系会社)は「本買収は軍部の命令に基き、軍部に代って之を行ふものにして、地券の提供に応ぜざる者は厳罰に処する」旨告知し、実際の買収に当りても武器を所持せる自警私兵約二十名以上を買収地区内に滞在せしめ、其の指示に従はざる農民三名を銃剣にて突き刺し傷害を与へ、又農民の飼育せる牛、犬、鶏等を殺生せり。という暴力的収奪がなされた。」(p.117)「一九三八年度の日本の輸入に占めるアメリカの比率は、総額三四・四%、石油類七五・二%、鉄類四九・一%、機械および同部品五三・六%に達した。」(p.177)「第三次近衛内閣総辞職→東条内閣成立過程から確認されるように、第一に、駐兵問題の固執すなわち日中戦争の成果をあくまで護持しようとしたことが日米交渉決裂させ対米英開戦を導いた最大の要因であった。その意味でアジア太平洋戦争は日中戦争の延長であった。」(p.215)「これにたいして、二六日乙案への回答としてハル・ノートが野村・来栖に手交された。ハル・ノートは、四月一六日の会談でハルが提示した四原則を基調として、「日本国政府は支那及印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及警察力を撤収すべし」、「合衆国政府及日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府若くは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし」、「両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しおる如何なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及保持に矛盾するが如く解釈せられざるべきことを同意すべし」など、事態を満州事変前の状態に戻すことを求める強硬なものであった。アメリカ側はこのような最後通告的なハル・ノートによって、日本を最後の行動にむかわせようとしたのであった。ハル・ノートは、満州事変以来東アジアで際限もない膨張をつづけてきた日本帝国主義にたいして、アメリカ帝国主義が全面的・根底的な対決にでたものであった。アメリカ帝国主義は日本帝国主義にたいしてアジアモンロー主義的路線とその獲得物を清算し、対米英協調の立場に回帰することを迫った。しかし同時に、ハル・ノートには「大西洋憲章」にもうたわれた反膨張主義・反ファシズムの理念が反映されていた。ハル・ノートはその意味でポツダム宣言の原型であり、ポツダム宣言はハル・ノートを発展させたものであった。日本は、二〇〇〇万人以上の諸国民・民族と三一〇万人の自国民を死に追いやり、国土を焦土と化し、原爆まであびた挙句、ポツダム宣言を受諾して、ハル・ノートよりさらに広範な要求に服することとなる。そのような結果からすれば、ハル・ノートを受諾したほうが日本にとってはるかに賢明であり、歴史に栄誉を残す選択であったことは明らかであろう。日本の戦争指導者にとってもそれが得策であり名誉であったことは、戦争犯罪の訴追を逃れえたという一事をとっても明白であろう。しかし日本の戦争指導者にはそのような洞察と英断をなしえたものは皆無であった。」(p.219)「『彼ら〔日本人がフィリピン人に語ったことは、彼らは、フィリピンを西洋の抑圧から解放するためにやってきたということ、彼らとフィリピン人は兄弟であるということであったが、彼らは街を尊大な「スーパーマン」のように闊歩したり、ちょっと気にさわることがあると、人々の顔を叩いたり、散々になぐったりした。彼らはこの国を略奪し、男を日本軍の事業に強制的に働かせ、女を凌辱し、多くの罪のない民間人を虐殺した。......すべての鉱坑と工場は日本人の手で運営された。フィリピンの土地の大部分は、日本が綿花を緊急に必要とするために、綿の栽培にあてられた。・・・・・・あの占領の暗黒時代に、日本軍はこの土地に住み、米、カモテ、果実、野菜その他の食料を大量に消費して・きびしく反日的になっていた。当然、国民は飢え、ぽろをまといーーーきびしく反日的になっていた。』またたとえばインドネシアのアリ『わが民族の歴史』(小学校五・六年用、一九六二年)はつぎのように記述している。『ニッポン人はインドネシアの「支配」をはじめた。オランダの物資は日本の保有するところとなった。オランダの富は没収された。さらにすべてのニッポン人は「日本の旦那様」とよばれるにいたった。まさに日本は、オランダがそうだったように、インドネシアの主人になろうとしたのである。······日本はインドネシアに、多くの要塞を建設した。われわれは要塞作りの労働を強制的にやらされた。······われわれは「ロームシャ」(労務者)にされた。「ロームシャ」とは日本人によって強制労働させられた人のことである。農民、労働者はあたかも奴隷のように家屋敷をすて、他の地方、つまりジャワ、スマトラ、イリアン(ニューギニア)、ビルマ、タイなどに連れていかれた。彼らはジャングル、沼沢地、海岸などで働かされた。わが民族の苦しみはきわめて大きかった。コメを日本軍に強制供出させられて、われわれは飢えた。着物も、薬も不足した。不足しないものはなかった。人びとは恐怖と不安の日々を送った。日本に反抗しようとする気配をみせれば、逮捕され、拷問にかけられ、そして投獄されるか殺されるかしたものである。老若男女の区別はない。学校の生徒たちは「奉仕作業」に狩りだされた。子供たちはまた、日本の歌を歌えなければならず、日本語でしゃべれなければならなかった。同様に日本式の服装まで奨励された。あたかもインドネシア人は日本人に変化しなければいけないかのように。』」(p.255)「一方、内務省は新体制運動に対抗して四〇年九月一日「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」を道府県に通達し、精動運動の下部組織として各地に設けられていた部落会・町内会・隣保班(隣組)を全国的に整備した。一〇戸内外でつくられる隣保班およびそれを単位とする部落会・町内会の組織は、内務省・警察の指導下におかれ、定期的に開催される常会で政府の方針の伝達をうけ、国債消化資源回収・勤労奉仕・防空演習その他の国策協力をおこなう機構とされ、住民の相互監視の機能ももたされた。またこの組織は生活必需品の配給ルートともされたので、全国民は否応なくこれに参加しなければならなかった。」(p.279)「日本の陸海軍兵器生産指数は一九三七年を一〇〇として、四一年六五三、四二年七一三、四三年九五〇、四四年一二一九に達した。しかし、一般鉱工業のそれは四一年一六九をピークとして、四二年一四二、四三年一一四、四四年八六と低下しており、特に繊維・食料品などの民需生産は、激減した。日本の総合的経済力は一九三九〜四〇を頂点として、アジア太平洋戦争下には衰退に向かったが、それにもかかわらず軍需生産が激増しえたのは、いとえに国民生活を犠牲にしたからであった。国家財政に占める軍事費の比重は、一九三一年三〇・八%であったが、三七年六九・二%、四一年七五・六%、四二年七七・二%、四三年七八・五%となり、四四年には八五・三%に達した。」(p.286)「東京裁判にあたって昭和天皇を訴追すべきであるとする意見は少なからずあり、ウエッブ裁判長は判決の「別個意見」で、「天皇は進言に基づいて行動するほかはなかったということは証拠と矛盾している。かれが進言に基づいて行動したとしても、それはかれがそうすることを適当と認めたからである。それはかれの責任を制限するものではなかった。しかし、何れにしても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲的君主でも赦されるものではない」と指摘した。天皇が免責されたのはアメリカの政略の結果にすぎない。」(p.334)「コール首相(1989年):ドイツ人の名で、ドイツ人の手で、人類と諸国民にもたらされた形容できない災禍に対し、われわれは謝罪する。真実を語ることだけが戦争の傷をいやし、和解をもたらすことができる。・・・・・・西独の若い世代は独裁と大戦について、世代としても個人としても非難されることはない。彼らは若かったからだ。しかし、過去はわれわれとともにあり、若い世代も責任を負っている。いかなるドイツ人も(ナチス犯罪の責任を逃れることはできない。...今世紀の歴史を知る者の目は、現代の危機と誘惑に対しても鋭くなる。」(p.338)
(2026.1.16)
- 「雪とパイナップル」鎌田實著 唐仁原教久画 集英社(ISBN4-08-781307-X, 2004.6.30 第一刷発行)
出版社情報・紀伊國屋書店:目次情報など。ICU教会礼拝説教で、北中晶子牧師が引用されたので手に取った。チェルノブイリ原発事故のあと、風向きの関係で、北にあるベラルーシに黒い雨とともに、放射性物質が降り注ぎ、そこで、多くの子どもたちが白血病になり、それを支援に出かけた、諏訪中央病院の鎌田實医師のが書かれたものである。作家としてもいくつもの本を出版されているとのことである。医療が遅れていたが、ちょうどゴルバチョフ書記長のもとで、改革開放が進み、ソ連崩壊の直前1990年に、隣国のベラルーシ(しろいロシアの意味)で支援活動に入る。アンドレイくんの話が中心で、どうしてもたべたいというパイナップルを求めて雪の中をさまよったヤヨイさんという支援のかたと、それを聞きつけて、缶詰を提供してくださったかた、そして、それをたべて一時回復したつながりのことなどが書かれている。1996年6月にゴメリ州立病院に急性リンパ性白血病で入院、2000年7月にアンドレイくんは、亡くなっているが、しばらくたって鎌田医師がその家を訪ねたときのエピソードで終わっている。以下は備忘録:「「遠い旅のはじまり:新しい世紀になったのに/地球では戦争がくり返されています。/イラクで悲しい戦争が始まった日/ぼくはひとりのおかあさんの言葉を思い出しました。/ベラルーシ共和国という貧しい田舎の町で/出会った言葉たち/ぼくにとっては、予想していなかった/意外な言葉でした。/一番大切なものを失ったときでも/人間は感謝することができることを知りました。/言葉が違っても/歴史が違っても/文化が違っても/人間は理解しあえると・・・/悲しみや/苦しみや/喜びをわかちあえることを/雪の中のパイナップルから教えられました。」(p.4-5)「ひとりの子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)」(p.10,22)「本来、守られるべき家庭や国家のなかで、子どもたちの命の灯火が消えかかっていた」(p.22)「家族って、むずかしい。人間は、ひとりでは生きられない。いい家族があるといいなあ。人は家族がなければ生きられないか。家族なんかなくてもいい。いや、あったほうがいいけど、なくてもいい。でも、家族のようなつながりは欲しい。家族のようなもの。わかりにくいけど、これが大切なんだ。血がつながっている本当の家族なのに、両親が小さな子どもを虐待して殺してしまう。家族は偶然できあがるもの。だから、家族はこんな悲しい事件を起こしてしまう。『家族のようなもの』は、その空間にかかわる人々が作りあげていくもの。だから、家族のようなつながりをつくるのには、時間がかかるんだ。家族のような絆をつくるためには、お互いの歩み寄りと、重なり合いが必要だ。わずかな絆があれば、人間は生きていける。」(p.23-26)チェルノブイリの子どもたちが人間の絆を結ぶことが、果たしてできるのだろうか」(p.26)「希望を組織することが大切なんだと思った。希望はあるものではなく、作るものなのかもしれない。希望があれば絶望のなかを人は生きていけると思った。」(p.45)「新しい治療を、わたしたちの手で、できることが証明されました。入院している子どもたちにとって、将来に希望を見出せる重要な一日となりました」(p.54-55)「雪のなかを、パイナップルを探して歩いてくれた、ヤヨイさんのことが忘れられません。わたしはアンドレイが病気になってから、なぜ、わたしたちだけが苦しむのかって、人生をうらみました。原子力発電所の事故のことを秘密にしたこの国の指導者をうらみました。放射能のことを知っていたら、黒い雨のなか、アンドレイをわたしは外に連れ出さなかった。人生は意地悪だなって思った。わたしたちは、ささやかに、つつましく生きてきました。何も悪いことをしていないのに。生きている意味が見えなくなりました。でも、ヤヨイさんのおかげで、わたしのなかに、わすれていたものがよみがえってきました。それは感謝するこころでした。人間と人間の関係はまだ壊れていない。わたしたち家族の内側に、新しい希望がよみがえってきました。(エレーナかあさん)」(p.82-83)「パイナップルのカン詰をかん切りでヤヨイさんがあけたとき、プシューッと音がして、いろんなものが飛び出したように見えました。真心や希望が見えたような気がしました。人間のことも、命のことも、世界のことも、少しみえたような気がしました。本当にうれしかった。かん詰のなかのなにかから、アンドレイの命をもらったのかもしれません。パイナップルが育つ南の国の太陽が見えたような気がしました。(エレーナかあさん)」(p.84)「人間は、悲しいこと苦しいことの連続でも、幸せだなあと思うことができる。大切な人を失った悲しみのなかにいるのに、仕方がなかったっておもうこともできる。ヒントは人と人のつながりの中に存在する。ひとりぼっちで生きるとき、幸せも不幸せも感じるのはむずかしい。孤独に生きることに慣れてしまうと、不幸せすら感じずに、流されていきていくことができる。人とのつながりのなかで生きるとき、幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのではないか。少年の言葉を受けとめてくれた、日本人の若い女性がいたことが、母親の悲しみを少しだけ小さくしていた。悲しみや、絶望のなかですら、人は感謝できることを知った。」(p.88-89)「今も、ぼくらの心はアンドレイとつながっていると信じています。(妹のマリーナ)」(p.91)「ドクターたちのことはもちろんですが、マイナス二十度の雪の町をパイなプルを探して歩いてくれた日本の女性のことを、わたしたち家族は一生忘れないでしょう。パイなプルは、アンドレイにとっても、わたしたち家族にとっても、希望そのものでした。短い命でしたが、幸せな子だったと思います。(エレーナかあさん)」(p.91-92)「パイナップルを探して雪の町を歩いた日本の女性のことを/おかあさんが忘れていなかったという事実に/新鮮な感動を覚えました。/ちかごろ、世界は/許すこと、感謝すること、ほほ笑みあうことを/わすれてしまっていることに、/おかあさんの言葉から気がつきました。/悲しくて、切なくて、美しい話でした。/こんなジャンルがあるかわかりませんが、/大人が読む絵本というカタチにしました。/かつて、子どもだった大人たちに読んでもらいたい。/ジワジワと若い人にひろがっていって/大人から子どもたちに手渡され/本の好きな子どもたちがいつか読んでくれるようになったら/こんなうれしいことはありません。/命の切なさや、大切さを考えることのできる/未来の日本を支える人たちにこの本を贈ります。/ぼくは希望を信じています。」(p.100-101)
(2026.1.19)
- 「源氏物語 全8巻+別冊付録 第三巻」上野榮子訳 日本経済新聞出版社(ISBN978-4-532-17086-8, 2008.10.30, 第一刷発行)
出版社情報・目次。第二巻を読んでから、一年が過ぎてしまった。この第三巻は、十四帖 澪標(みおつくし)・十五帖 蓬生(よもぎう)・十六帖 関屋(せきや)・十七帖 絵合(えあわせ)・十八帖 松風(まつかぜ)・十九帖 薄雲(うすぐも)・二十帖 朝顔(あさがお)・二十一帖 少女(おとめ)・二十二帖 玉鬘(たまかずら)が含まれている。実は、今まで気づかなかったのだが、別冊付録として「源氏物語登場人物系図」が各帖ごとに作成されていて、非常にわかりやすい。今までは、ネット上の人物相関図などを印刷して参考にしていたが、この別冊付録の方がわかりやすいと思う。むろん、全体像は、もっと複雑なリンクがついていないとわからないだろうが。生誕の秘密が明かされたり、交わったりあたりのところが、深く入らず描かれており、よくわからなくなることもあるが、それが女性が著者の奥ゆかしさだろうか。ネット上に、あらすじなども書かれており、どこまで正しいかちょっと疑わしいが、続けて、読んでいきたい。
(2026.1.25)
- 「『昭和』という国家」司馬遼太郎著 NHKBOOKS [856] 日本放送協会(ISBN4-14-001856-9, 1999.3.20 第1刷発行, 1999.4.10 第2刷発行)
出版社情報・昭和デジタル・アーカイブ 目次情報。1986年5月19日からNHK教育で放送された12回のシリーズをまとめたものである。最後に、田中彰氏の「雑談『昭和』への道」のことなどが付されており、歴史的な考証からの注意が書かれている。これからも、司馬遼太郎は、歴史家ではなく、小説家で、歴史上の人物一人ひとりから、歴史を考えるひとであることがわかる。学問的な考証とは、異なるが、学者にはない視点もいくつもあり、興味深く読んだ。司馬遼太郎は、1923年の生まれで、1996年2月12日に亡くなっている。戦車連隊に属し、敗戦のときが、22歳。大阪外国語学校蒙古語科卒業、その後、産経新聞社に努めている期間もある。基本的に、江戸時代は、多様性に富み素晴らしい時代、明治もよいが、大正はとばして、昭和の前半、敗戦の20年までは、魔法にかけられたような日本ではないような時代だったと何度も語っている。論理的なことを求めてはいけないのだろう。以下は備忘録。「このショックはちょっと説明しなければなりませんが、なんとくだらない戦争をしてきたのかとまず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろとしてきた国に生まれたのだろうとおもいました。敗戦の日から数日、考え込んでしまったのです。昔の日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後の私の日本史への関心になったわけですね。」(p.8)「しかし,明治のイデオロギーは貧しかったけれど、明治の国家をつくったひとびとはしっかりとしていました。なにしろ自分で作った国家なのです。よくわかっていました。自分たちは果物でいうとジュースの多いリンゴのようなものだ、尊王攘夷といっても一つのかけ声のようなものであり、元気を出せというようなものだと、当事者たちはよくわかっていたと思います。ですから、ヨーロッパのいいものを入れるそして、国の精神を少しずつふとらせていくという方向に向かったのだろうと思うのですが、その人たちの多くが死んでしまったのが明治四十年(1907年)ごろでした。日露戦争の勝利します。そこから試験制度の官僚が国の全面にでくるわけであります。」(p.23)「皆さん、きちんとしていらっしゃたのでしょうが、地球や人類、他民族や自分の民衆を考える、その要素を持っていなかった。繰り返し申し上げておきます。」(p.44)「だいたい日本の陸軍は侵略用の軍隊ではありませんでした。明治維新成立そうそうに大村益次郎(1824-69)がつくった、そして徴兵令によってつくった日本陸軍は、あくまで国内向けの、つまり明治政府を守るというだけの軍隊です。それ以外の思想は、陸軍の中に入っていませんでした。だんだん成長していって多少は大きくなていましたが、それでも海外へ出兵するというような、だいそれたことはーー日清戦争において試みられてはいますがーー抑制されていました。ところが、日露戦争後、それが野放しになってしまった。」(p.50)「何に向かって先鋭化していったのでしょうか。東北の飢饉や教皇があり、二・二六事件(1936)もありました。左翼的な言い方をしますと、日本の資本主義が矛盾をきたしていた。」(p.138)「孫文はまず、いまから三十年前はアジアに一つとして独立国はなかったと話します。この講演は大正十三年、一九二四年の話です。その三十年前といいますと明治二十七年(一八九四年)、日本は独立しているではないかと思いますが、明治二十七年は日清戦争の年であります。そして、日清戦争の直前に条約改正が行われて、日本は不平等条約を、うまく解消してしまったわけです。」(p.216)「真心は日本人が大好きな言葉ですが、その真心を世界の人間に対して持たなければいけない。そして自分自身に対して持たなければいけない。相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかのごとくに感じることが大事ですね。」(p.229)
(2026.2.2)
- 「プログラミング知識ゼロでもわかる プロンプトエンジニアリング入門 第2版」掌田津耶乃著 秀和システム新社(ISBN978-4-7980-74504 2025.4.6 第1版第1刷発行)
出版社情報・目次。OpenAI, Google AI Studio, Vertex AI Studio, Anthropic Console, Cohere などの playgroud を使っての、プロンプトの書き方、そして応用として、Perplexity の space による簡単なアプリのようなものの作り方まで書かれており、勉強になった。最後には、プロンプト攻撃とその対策や、ハルシネーションの対策も書かれていて、ノートを作って読んだ。arXiv からの引用されている論文なども多く、深く学ぶこともできるようになっている。すこし、それに頼りすぎて、その紹介のようになっている面はあるが、基本は、説明されているように思う。すこし、自分で、プロンプトエンジニアリングをしてみようという気になった。つぎは、Google AI Studio についても学んでみたい。
(2026.2.2)
- 「リベラルなアメリカの『失われた魂』たち 福音派とスコッツ・アイリッシュの世界」山本貴裕著 彩流社(ISBN 9784779130861, 2025.11.25 第一刷発行)
出版社情報・目次。トランプ派を支える人たちの謎を問いていく一つの方向性としてある、福音派。アメリカで、およろ五年間、その中にいたこともあり、報道には、納得できないものを感じていた。ただ、明確には答えられない。福音派も一筋縄ではくくれないからである。具体的に、いろいろな人の顔を思い浮かべながら、考えてきた。また、私よりもさらに、近くにいるある日本人が、福音派のなかにも分断があり、トランプ支持者かどうかで、分裂が起こり、なかなか難しい状況にあるとも聞いた。それを解き明かす、一つの道として、本書に提示されている、スコッツ・アイリッシュの世界の理解はたいせつだと感じる。同時に、アンナ・カレーニナ原則からも、そう単純ではないだろうことも、感じる。知性派の議論は、あるいみ、クリアだが、ドロドロとした部分を、解き明かすことからは程遠いことも感じる。そうであっても、森本あんり著『反知性主義』(新潮選書)も読んでみたくなった。以下は備忘録:「これらの試みは、心理学者カール・グスタフ・ユングのいう『個性化(individuation)』の過程にも似ている。『個性化』とは、個人が社会的に機能するためにかぶることを覚えた『ペルソナ(外的仮面)』に覆い隠された、自らの『シャドウ(影)』の部分を認識し、受け入れ、それとの対話を通して本来の自分のすべてを取り戻す統合の過程である。個人の場合と同じように、リベラルが主流を形成してきた二〇世紀のアメリカ宗教やアメリカ社会から追放された魂たちがいた。一九二〇年代のファンダメンタリスト対モダニスト論争に敗れた『ファンダメンタリスト』たちの魂である。それは、『寛容』で『進歩的』なリベラルが支配する二〇世紀アメリカ社会の影で、『非寛容』かつ『反動的』なシャドウとして存在し続けた。さらに、『ファンダメンタリスト』は、二〇世紀後半に『福音派』や『原理主義者』や『宗教右派』などに形を変えて、アメリカ社会の表舞台に再び姿を現したが、今度はこれらの新しい呼称に括られ、彼らがもともと有していたそれぞれの個性が再び覆い隠された。つまり、これらの魂たちの本来の姿は、アメリカ社会から二重の意味でみえにくくなっているのである。」 s(p.6)「だが、この年、スコッツ・アイリッシュの存在を最もアメリカ社会に印象づけたのは、おそらく、トランプ勝利の数ヵ月前に出版され、ベストセラーになった『ヒルビリー・エレジー』であろう。アパラチアのスコッツ・アイリッシュの家系に生まれ、その独特の文化のなかで育った主人公が、貧困と暴力に満ちた環境から這い上がり、成功するストーリーが人々を惹きつけた。また、この本はトランプを支持する労働者階級のことを理解しようとする主流メディアによっても大きく取り上げられた。この本の著者は、J・D・ヴァンスである。彼はこの本で一躍有名になり、二〇二三年には政界に進出し、オハイオ州選出の上院議員となった。この頃の彼は『反』トランプ派であったが、二〇二四年の大統領選挙ではトランプによって副大統候補として選ばれ、現在はトランプ政権で副大統領を務めている。『ヒルビリー・エレジー』は二〇一六年六月二八日に発売され、『USAトゥデイ』紙のベストセラーリストに四九週間掲載された。二〇一七年六月二五日にNBCの『サンデーナイト・ウィズ・メーガン・ケリー』で特集されると本の売り上げが急増し、その直後に同リストでトップに達した。二〇二〇年にはNetflixで映画化もされた。二〇二四年七月一八日の『タイム』誌の記事によれば、『ヒルビリー・エレジー』は発売以来、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラーリストで六〇週以上首位を記録していると報告されている。』(p.10)「『ファンダメンタリスト』という語を初めて用いたのは、アメリカの北部バプテスト教会の牧師カーティス・リー・ローである。一九二〇年、彼はこの語を初めて用い、キリスト教の「ファンダメンタルズ(根本原理)を守るためにバトルロイヤル(大論争)を繰り広げる用意のある者たち』と定義した。この際の『ファンダメンタルズ』とは、キリスト教が伝統的に有していた『ストーリー』を構成する諸要素である。そのストーリーとは『神は人間を愛するあまり、一人息子のイエスをこの世に遣わされ、そのイエスは人間の罪を背負って十字架にかかり、彼を信じる者が永遠の命を得ることができるようになった』というそれである。このストーリーは『福音(Gospel)』と呼ばれる。』(p.26)「当調査によると、二〇一四年現在、『福音派プロテスタント教会』は合衆国の一八歳以上人口の二五・四%を信者として抱えており、カトリックの二〇・八%や主流派(リベラル)プロテスタント教会の一四・七%などを抑え、アメリカ最大の宗教的伝統を形成している。」(p.59)「一九九〇年代に社会学者ナンシー・アママンが、南部バプテストをその信条と自己アイデンティティの組み合わせにもとづき五グループに分類している。この分類法はこの章の最後で触れるように、現在においてもかなりの程度、有効性を保っていると考えられる。(a)自称ファンダメンタリスト――南部バプテストの一一%は強いファンダメンタリスト的信条(聖書の無謬性・前千年王国説など)を持ち、自らを『ファンダメンタリスト』と呼ぶ。運動指導層の大半がここに属すが、彼らは自らをPRする際には『ファンダメンタリスト』という語を用いない。(b)ファンダメンタリスト的保守派二二%は強いファンダメンタリスト的信条を持ちながら、自らを『保守派』と呼ぶことが多い。神学においては無謬性支持者だが、教派に対して強いアイデンティティを抱く。(c)保守派——五〇%は保守派の信条をもち、彼らのほとんどが自らを『保守派』と呼ぶ。神学的にはかなり保守的であるが、ファンダメンタリストの信条を完全には共有していない。昔ながらの保守的教派に対して強い忠誠心を持つ。(d)穏健的保守派-八%は穏健派の信条をもち、聖書理解においてファンダメンタリストの方法のほとんどを拒否する一方で、自らを『保守派』と呼ぶ。教派エスタブリッシュメントの多くがこの範疇に属する。(e)自称穏健派-九%は穏健派の信条をもち、かつ自らを『穏健派』と呼ぶ。彼らは聖書についてのファンダメンタリストの信条を共有せず、ファンダメンタリストのやり方は間違っていると躊躇せずに言う。」(p.67)「一方で保守派は、彼らがSBCの誕生から二〇世紀半ばまで維持されてきたと主張する保守的神学の伝統との連続性によって、バプテストのアイデンティティを定義する。モーラーは保守派を『真理派』と呼ぶ。真理派は自由派と同様に信教の自由や魂の能力を支持するものの、こういったバプテスト派特有の強調点は『国家の強制力』に対する防御として発展したものであり、『自発的団体の自己定義』に対する防御として発展したものではない(つまり、SBCが自らの神学的境界線を定めることを妨げるものではない)と付け加える。モーラーの分析は保守派の一人のそれとしての限界を持つが、複数のグループからなる穏健派と保守派を統一している思想を端的に表している点で、大変有用である。」(p.68)「一九二五年テネシー州デイトンで開かれたスコープス裁判(通称『サル裁判』では、公立学校で進化論を教えることを禁止したテネシー州の法律(バトラー法)に違反して進化論を教えたかどで高校教師のジョン・スコープスが有罪判決を受けた。[スコープス裁判に関する神話] (1)宗教vs科学という神話(2)反進化論運動は南部の田舎者の運動であるという神話」(p.79)「そのうち『オンリー・イェスタデイ』では、スコープス裁判は『科学と宗教の戦い』として描かれ、科学が宗教に勝利した歴史的瞬間として強調されている。だが、実際の裁判は、進化論そのものの是非よりも『教育の自由』や『憲法修正第一条の州法への適用』に関する法的論争が中心だった。」(p.80)「この点について、クロスは、興味深いことを述べている。クロスによれば、一八三七年の恐慌とともにウルトラ主義の運動は急速に崩壊し、ファンダメンタリズム(現在の福音派のルーツ)とモダニズム(現在のリベラルのルーツ)この点に分極化した。ファンダメンタリズムの方向に進んだ者たちは、聖書の字義通りの解釈を重視し、個人の魂の救済に重点を置くようになる一方で、社会改革への情熱を失った。それに対して、モダニズムの方向に進んだ者たちは、聖書解釈を柔軟に考える一方で、宗教的な救済よりも社会改革に重点を置くようになった。クロスが前者の例として挙げた運動には、キリストの再臨が一八四三年三月二一日と一八四四年三月二一日のあいだに起こると予言したミラー派が含まれ、後者の例として挙げた運動には、伝統的な『三位一体』を否定し神は一つであると主張したユニテリアンや、理性よりも内なる直感を重視した『超絶主義者(Transcendentalists)』が含まれる。」(p.109)「エドワーズによれば、リバイバルはまず、人間の罪深さと、罪深い人間によるあらゆる行為の卑しさを自覚し、神の裁きの正当性を確信することからはじまる。エドワーズはこのように人間の罪深さの現実を強調すると同時に、そんな彼らにも、キリストを通して真の安らぎがもたらされるという神の救済の現実も強調した。エドワーズは回心者の変化についても典型的なパターンを記述する。かつて神の怒りを恐れ、罪悪感のなかで絶望していた者たちは、聖霊の働きにより突如として目を開き、神の恩寵の偉大さを知り、救済の確信を得て、心が歓喜に満たされ、涙と笑いが同時にあふれ出す――。とくに、エドワーズが詳細に記した若い女性と四歳の少女の回心物語は、多くの人々にとって霊的な探求の手本となった。」(p.120)「メイチェンが『モダンな国家』における『個人の選択』の領域の縮小傾向を象徴するものとして、当時、とくに憂慮していたのが、教育の分野における動向であった。メイチェンは『功利主義的教育』の弊害を次のように告発する。モダンな国家の教育の目的は『最大多数の最大幸福』にあり、それは多数派の意思によって決定される。したがって、そこでは『特異性』は忌避され、学校の選択は親から取り上げられ、国家の管轄下に置かれる。」(p.136)「ハートによれば、アメリカ宗教史における最も重要な分類法は、社会的救済に関心を持つ『リベラル』と、個人的救済に関心を持つ『保守派』という二分法ではなく、宗教は公的領域において役立つべきであると考える『敬虔主義者(pietists)』と、教会は社会の公的領域とは一線を画し、教会という私的領域内で信仰の諸形式(信条、儀式、教会統治など)を守ることに専念すべきであると考える『告白主義者(confessionalists)』という二分法である。敬虔主義者は『聖』の領域と『俗』の領域を区別しないのに対して、告白主義者はそれぞれの領域をコンパートメント化し、区別する。(Hart, The Lost Soul of American Protestantism (American Intellectual Culture))」(p.141)「第一に、スコッツ・アイリッシュ自身が自らの民族的アイデンティティを強調しなかった。彼らはアメリカ社会に溶け込むことを優先し、他の移民集団のように『スコッツ・アイリッシュ系』としての強いアイデンティティを保持しなかった。また、他の民族と頻繁に通婚し、文化的にも排他的ではなかったため、次第に独自性が薄れていった。第二に、スコッツ・アイリッシュはしばしば『WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)』や『イギリス系アメリカ人』としてひとまとめにされ、彼ら特有の文化や歴史が無視されてきた。彼らが、ニューイングランドのピューリタンや、バージニアのジェントリーとは異なる文化背景を持っており、白人でありながら黒人と同様の貧困状態にあったにもかかわらずである。第三に、スコッツ・アイリッシュは、単に『アイリッシュ(アイルランド系)』と分類されることが多い。実際には、スコッツ・アイリッシュはアイルランドに渡ったスコットランド系プロテスタントであり、後のアイルランド系移民(多くがカトリック)とは異なる歴史を持つ。第四に、現代のアメリカでは『政治的正しさ(political correctness、以下『ポリティカル・コレクトネス』)』ゃ人種・民族問題に関する意識の高さ(最近の言葉で言えば『ウォーク(woke)』であること)が要求されるなかで、公立学校でスコッツ・アイリッシュの歴史や功績を公に称えることが難しくなっている。(ウェッブ James Webb が二〇〇四年に著した『ボーン・ファイティング Born Fighting』)」(p.152)「一七世紀に、イングランド国教会関連の英語の語彙に興味深い変化がみられた。イングランド国教会は『エスタブリッシュメント(establishment)』と呼ばれるようになり、国教会の教会員は、自らを『コンフォーミスト(conformist)』(形を合わせる人々、体制に従う人々)と呼ぶ一方で、国教会の礼拝の形式や祈祷書の使用を義務づけた『礼拝統一法(Act of Conformity)』(一六六二年)に従うことを拒否した者たち、たとえば長老派やピューリタンなどは、『ノンコンフォーミスト(nonconformist)』(形を合わせない人々、体制に従わない人々)と呼ばれはじめた。再びウェッブの言葉を借りれば、『アメリカにおけるスコッツ・アイリッシュの政治的・社会的貢献を表現するのにこれ以上ふさわしい言葉は見つからない。なぜなら、彼らはアメリカ初の急進派となったからである』。」(p.184)「ジャクソンが『銀行戦争』を生き延びたのは、この問題をマスコミや政治家の密室に留めることなく、直接、人民に訴えかけたからだった。ジャクソンが拒否権行使の際に議会に送った次のメッセージは、ジャクソン流民主主義の最も強力な表現であった。才能や教育、富の平等は、人間の制度によって生み出すことはできない。すべての人には、天の恵みと勤勉さ、節約、美徳の果実を十分に享受するうえで、法による平等な保護を受ける権利がある。だが、法がこれらの自然で正当な優位性に人為的な区別を付け加え、富める者をより富ませ、力ある者をより強くしようとするとき、私たちの社会の謙虚な成員である農民や職人、労働者たちは、自分たちの特権を確保する時間も手段も持たないとはいえ、政府の不正に対して抗議する権利を有している。」(p.247)「だが、ジャクソンが守ろうとした諸州の連合は、彼の死後、崩壊に向かう。一八六一年から一八六五年まで続いた『南北戦争(Civil War)』第1章で言及した映画『シビル・ウォー』の英語の原題は、もともと『南北戦争』を表す言葉であり、現在のアメリカも同じような分断状況にあるという強烈なメッセージが込められている――では、サウスカロライナ率いる南部の連合がアメリカ合衆国から離脱し、それを力づくで阻止しようとした北部とのあいだで激しい戦闘が繰り広げられた。戦死者の数は約六二万人に達し、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争となった。南北戦争の戦死者の多さは、第一次世界大戦の約一一万、第二次世界大戦の約三二万と比べると顕著である。南北戦争はまた、スコッツ・アイリッシュにとって大きな転換点となった。これ以降、現在に至るまで、『レッドネック』(彼らの蔑称)が、南部の人種差別と強く結びつけられ、黒人が置かれている差別的状況の主な原因とされるようになる。また、彼ら自身、実際にこのような見方の正しさを証明するような言動を示すようになった。だが、南北戦争の際に彼らが置かれていた状況は、それほど単純ではなかった。南部の白人エリートが支配する奴隷社会のなかで、スコッツ・アイリッシュの大多数は、白人でありながら、黒人の奴隷と同じような位置に置かれていた。彼らは支配者ではなく、被支配者であった。」(p.250)「ウォルター・ラッセル・ミードは二〇〇一年の著『特別な摂理―アメリカの外交政策とそれが世界をどう変えたか』において、一八世紀以来、アメリカの外交とそれに呼応する内政の組み合わせには四つの伝統があると指摘した。第一の伝統、『ハミルトン派』は、国内の安定と効果的な外交のために、国の政府と大企業の強力な連携を重視し、国民を有利な条件でグローバル経済に統合する必要性を説いてきた。第二の伝統、『ウィルソン派』は、アメリカの民主的・社会的価値観を世界中に広めることが、アメリカの道徳的義務であり重要な国益であると信じており、法の支配にもとづく平和な国際社会の創造を目指してきた。第三の伝統、『ジェファーソン派』は、アメリカ政府は海外での民主主義の普及よりも、国内での民主主義の保護に重点を置くべきだと考え、アメリカを海外の望ましくない同盟国と関わらせたり、戦争のリスクを高めたりするハミルトン派やウィルソン派の政策に懐疑的な態度をとってきた。第四の伝統、『ジャクソン派』は、対外政策と国内政策の両方において、アメリカ政府の最も重要な目標は、アメリカ人の身体的安全と経済的福祉を守ることであるべきだと考えてきた。ジャクソン派は、アメリカは外国の紛争に進んでかかわるべきではないと考える一方で、他国がアメリカに戦争を仕掛けてきた場合には、勝つこと以外に選択肢はないと考える。スコッツ・アイリッシュの伝統は、第四のジャクソン派の伝統である。」(p.271)「他の三派と同様に、ジャクソン派の外交政策は国内政策における彼らの価値観と目標に関連している。ジャクソン派にとって、アメリカ政府が追求すべきは、ハミルトン派の商業・産業政策でも、ウィルソン派の道徳的価値でも、ジェファーソン派の自由でもなく、中産階級の人々の政治的・道徳的・経済的な福祉を促進すること[トランプの『アメリカ・ファースト?』]である。」(p.278)
(2026.2.9)
- 「愛し愛されて=継承の小径」阿部志郎著 株式会社クーインターナショナル(ISBN978-4-9910505-0-3, 2016.6.20 初版発行, 2018.10.20 第2刷発行)
日本キリスト教奉仕団の1958年開設時から1988年までの理事で、最初から、社会福祉委員会、身体障害者福祉委員会の委員長などを務めた方で、日本を代表する社会福祉実践家。学校法人明治学院理事長、東京女子大学理事長、日本社会福祉学会長、日本キリスト教社会福祉学会会長等を歴任。キリスト教功労者(2004年)とある。1926年(大正15年)2月1日生まれで最近、100歳のお祝いをされたと伺った。最初に「妻 律を想う」とプロローグがあり、そのあと第一章は歩みが書かれ、そのあとに、お嬢様たちのことばなどがある。発起人が、賛同者をあつめ、出版したという形式になっていて、最後にその名前が記されていいる。最後に本人も書いているが、奥様の律さんと社会福祉法人横須賀基督教社会館の宣教師エベレット・トムソンの影響が強いと書いておられる。地域から、社会福祉の仕事をはじめ、さまざまに拡大調整していった、日本の社会福祉を代表する方の一代記である。以下は備忘録:「妻の名は律(りつ)。一九二九年一月九日、神戸市に生まれました。自律〉と〈律〉、すなわち『自分の足でまっすぐに立ちなさい』(聖書詩編)『主よ、命のある限り、わたしの音楽を共に奏でるでしょう』(聖書)を兼ね、両親の願いがこもった名前をもらい、大切に育てられました。そこからの八十四年を、律は〈律〉にふさわしい生涯を努め、私、阿部志郎の伴侶としても全うしてくれたのです。神戸では祖父の代から孤児院・神戸真生塾を営み、キリスト者として四代目になる水谷家に育ちました。父親央は教会音楽を使命とし、戦後、関西で最初のオーケストラによるメサイア上演の指揮をとったのです。その折、兄と姉はソロを、律は合唱隊の一員として唱っています。母親愛子は乳児院、養護施設で子どもたちの福祉に生涯を献げましたが、母校神戸女学院の同窓会長や家庭裁判所調停委員も勤め、身を粉にして働きました。兄と姉は音楽家として一家をなしました。律は初め医師を目指しましたが、家の事情から、両親が努力をしている福祉の分野を選びました。後に音楽でも才能を発揮するようになったのです。聖公会の松陰女学院、キリスト教旧組合系の神戸女学院専門学校に学び、母親のかたわらで働き、保母、看護婦の資格を取得したのです。この頃、神戸真生塾と改称していた施設を見学に訪れた私と初めて出会ったのです。律は、その後上京、キリスト教奉仕団で障害者福祉部門を担当しましたが、その委員会の委員長が私であったのは奇遇ということになるのでしょうか。私は明治学院大学の専任講師という肩書でした。二人は親しさを増し、律は私のプロポーズを受け入れてくれました。一九五五年、私の母校青山学院のチャペルで、両家と交遊のあった真鍋頼一牧師(青山学院理事長)の仲人で結婚式を挙げました。律の兄はパイプオルガンを奏し、姉は独唱で花を添えてくれました。」(p.vi)「そのほかの律の努力は、横須賀基督教社会館、神戸真生塾、日本キリスト教会奉仕団、横浜市保健所(臨床心理判定員・非常勤)などの勤務の他、ボランティア活動では、横浜『いのちの電話』相談、善隣園での保育の心理相談、衣笠病院の手伝いとホスピス、横須賀小川町教会のヌーンサービスなど、休みなく働き詰めの毎日を過ごしていました。また、律の独唱は高い評判でした。」(p.xiv)「『過去を顧みるな現在を頼め未来を迎えよ』ロングフェローの詩です。このことばは、ここに本をまとめようと入院中のベッドの上でノートをとり始めた時、すーっと浮かび上がってきたのです。二〇一五(平成二十七年十一月のことでした。」(p.xxv)「浄土宗の僧正長谷川良信師は、私が尊敬する宗教人のひとりですが、老いて後、ブラジルにまで二度にわたって開教師として出掛けて教えを開きました。生涯は、社会事業家として各方面で業績を挙げ、教育者としても淑徳大学を創設して学長としこの長谷川師は、一九六六(昭和四十一)年八月四日に千葉の大巌寺で入滅されましたが、その寺の境内には漢詩が刻まれた石碑が建てられていす。その結びに、『何嘆事業竟無成」(何ぞ嘆ぜんや事業のついに成るなきを)」(p.xxviii)「私たち子どもは六人で、女二人、男四人ですが、両親が亡くなった時には、全員が元気で伴侶を入れると十二人がそろうことができました。長男は、トーヨーカネツ、三男は住友の子会社、義兄は電機会社、義弟は日本航空、それぞれ重役になり、次男は慈恵会医科大学の学長になりました。両親が元気な時には、孫も入れてみんなで集まることができました。三人の兄は戦地に赴いていますが、激動の太平洋戦争の時代を超えて、両親も入れて全員が無事で、元気で、仲良しなのを喜びあい、親に何よりの恩返しができたとも思えました。しかし、戦争直後は、息子を戦死で失った家は多かっただけに、私を含め、男兄弟四人全員が軍隊から無事復員できたのは、かえって肩身の狭い思いをさせられた時代でした。」(p.9)「一言で言うと、家系は東北系の士族でジョッパリ『根性』のキリスト教者でした。妻の家は四代前から、阿部家は二代目になるキリスト教者でした。父は青山学院を二番で卒業したと自慢げに言うので、『それはビリというのでしょう』と、みんなで大笑いしたことがあります。私もビリで卒業したので、ビリが親子二代というのも遺伝子でしょうか。小学生の時から教会に通い、中学校の時に洗礼を受けたのです。『長い人生の間には、いろいろなことが起こる。どんな時にも教会にしがみついていなさい』牧師にそう言われ、今日まで教会にしがみつき教えを守ってきたことになります。」(p.10)「シュバイツァーは、『人間の文化は進歩しているか。戦争で文化が崩壊したという。しかし、そうではなくて、文化が衰弱したから戦争を起こしたのだ』『個人が社会に働きかけるより、社会が個人に働きかける方が大きくなると文化は没落する』それまでは、戦争が大切な文化を壊滅すると思っていた理解が、まるで逆転して理論づけされるのです。」(p.22)「ユダヤ系のベルジャイェフは、『自分のパンを心配するのは物質的、人のパンを心配するのは精神的』と、自分ではなく、他人をどうするかと言っています。」(p.23)「戦時下で抑留されている時に、大きな問題が起こりました。日系人は一世。そして、一世は死ぬと、墓をふる里に向けてつくるほどの望郷心がありました。アメリカではそこまでのことはなかったけれども、南米ではひどい状況でした。勝ち組・負け組に分かれて、殺人まで起こしました。アメリカの一世たちは、日本は勝つ、勝たせたいという思いが、日本人ですから強かったのです。ところが息子たちは違いました。子どもの二世は、アメリカ生まれで、アメリカの学校に通っ収容されている時、その息子の二世たちが、アメリカ軍に志願しました。親は大反対でした。ここで葛藤が起きました。トムソンは、この問題に巻き込まれたのです。一世と二世の親子で価値判断が違うのです。トムソンは本部に、『自分ではとても一世・二世の間の争いを調整できない』と相談をしたのです。ディッフェンドルファーという責任者が、教会にいました。この人は戦後、日本にICU(国際基督教大学)をつくるときの責任者でしたけれども、彼は、悩むトムソン夫婦にニューヨークへ出てこいと強く誘ったのです。ニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャルワーク、社会事業大学院に入りなさいとすすめたのです。その理由は、『日本は、いずれ戦争に負ける。負けた日本が困るのは、社会問題である。今からそのために準備をしなさい』ということでした。それでトムソン夫婦は、大学院に入るのです。修了した時、すでに五十歳でした。それにしても、アメリカの教会にはそういう先の見通しというか、ストラテジー(戦略)、敗戦後の日本までを考える戦略が、あったのです。しかも、トムソン夫妻にも、そうした戦略・展望を飲み込んで、自分たちの道を歩みきる信念があったのです。」(p.57,58)「日系人収容所から出て職もない時に、敗戦後困窮している母国、日本人への救援物資(ララ物資)のために多くを献げ、血の滲むような尽力をした人々のことを忘れてはならないと思います。」(p.60)「しかしながら、ともかく社会館は、民間の力ですっきりとして発足をしたのです。このときの責任者はジョージ・アーネスト・バットというカナダの宣教師で、ソーシャルワーカーでした。この人が、戦後の救済機関ララの責任者です。米国の教会に敬意を表するのは、救援物資は米国の善意ですから、米国の本部がきちんと現地に人を送って、監督するのが普通です。米国の教会はそれをしないで、現地のバットとミス・ローズという普連土学園の園長で、ヴァイニング夫人という皇太子の英語の先生を斡旋した人と、それからもう一人、フェルセッカーというカトリックの神父、この三人を選出し、バットを救援機関の代表にしました。米国の本部は、アメリカ人ではなくカナダ人を代表に立てたのです。私は米国に留学したときに、バットが所属していたキリスト教の団体から船賃をもらったものですから、バットのところに挨拶に行きました。これが、私がバットに会った一度限りの機会でした。留学から帰ったら、もういませんでした。まだ五十九歳でしたが、過労のため脳溢血で亡くなっていたのです。飢えた日本人の、まずは子どもだけにでも成長の力を与えたいというララ物資の善意の努力で、学校給食も始まったのですが、中心で尽力したバット宣教師は過労で亡くなったのです。」(p.77)「社会館は、バットが横浜に荷揚げされたララ物資の倉庫として活用したところに始まったのです。そして、アメリカからやってきたトムソンを、横浜の港で、バットがつかまえたのです。トムソンは、戦前に長崎にいて、鎮西学院という学校で教えていました。その鎮西学院が長崎の原爆で被曝し、たくさんの生徒が死んだのです。トムソンが、なぜ日本に帰ってきたかというと、鎮西学院を復興させるという、トムソンの戦争責任のためだったのです。トムソンが長崎に行くというのに、バットは、『横須賀で、日本人のための福祉活動を実践するため、デッカー司令官が福祉の専門家を迎えたい。ぜひ人を送ってほしいとわれわれに依頼してきている。あなたにぜひ行ってほしい』と言い張ったのです。トムソンは、結局妥協して、『では、一か月だけ横須賀に行きましょう』と、一か月の約束で横須賀に来て、デッカー司令官と会い、それから一か月の間に、横須賀市長、警察署長、小学校長、教育長、町内会長、婦人会長など、いろいろな人に会っています。そして社会館のイメージをつくって、社会館を発足させたのです。社会館が発足したとはいえ、全部ボランティアの仕事で、まだ職員もいませんでした。ボランティアがトムソンを助けていましたが、だんだんと職員が入ってきました。最初の職員の名前はもちろんわかりますが、もう生きている人はいなくなりました。トムソンは、約束の一か月間、横須賀の田浦にいて、その後はトムソン夫人にまかせることにして、長崎に行ったのです。」(p.78)「精神障害は心の病。しかし、魂は美しいのです。魂は清い。これが私どもには理解できない。それが、スピリチュアリティの問題なのです。日本の福祉の大きな問題です。そのスピリチュアリティを、私はこう定義しているのです。『自己の存在を超える深みから、人を根源的に支え、生きる意味を内発的に問いかけてやまない、霊的、精神的な見えざるエネルギー』。スピリチュアリティは、魂の問題と理解するのです。ところが、日本では、大和魂というように、魂と精神の区別が明瞭ではありません。霊的精神的見えざるエネルギー。精神にしても、『精識視魂』すなわち『魂』という語義をもつことに注意したいものです。最近、親子間の殺りく、虐待、自殺が続発しています。いのち=心・身・魂を大切に生きる姿勢を広げることが緊急課題と思いませんか。ひとりひとりが、いやまず自分自身が、人のいのちと幸せを願う心をもたねばならないのでしょう。医学では、ライフを(命)ととらえ、命を一日でも長くのばすことが医学の仕事。福祉はライフを(生活)ととらえたのです。家庭生活、地域生活。それが福祉の理解です。しかし、ライフは、何よりも人生です。生病老死の人生を、医学も福祉も今まで考えたことがない。人の魂がなぜ美しいか、ここにペルソナが出てくるのです。パーソナリティの原語は、ペルソナ、ペルゾーンです。ペルソナは、神の姿を宿しているという意味なのです。神の形を人間が宿しているからパーソナリティ、人格になるのです。ここが動物との違いであり、それが人格の尊厳になるのです。戦後、人権という言葉が定着しました。人間には権利がある。社会権もある。権利を主張する。しかし、人間を権利たらしめる主体ととらえなかった。権利たらしめる主体が人格、ペルソナなのです。それを権利だけ考えている。要するに、人格の尊厳こそが、本当は人権という意味なのです。人格の尊厳があってこそ、権利主体になるのです。そこが一つの問題点だと思うのです。」(p.123)「二十世紀は戦争の世紀でした。地球上で二億人、戦争のために死にました。しかし、その二十世紀の中頃に国際連合が成立し、福祉国家ができ、社会保障の充実がすすんできました。NPO(民間非営利組織)が生まれ、ボランティアが盛んになりました。二十世紀に、愛が芽生えたのいしずえです。この愛を礎とした『平和の世紀』を二十一世紀につくりたいと思います。ヨーロッパの格言に、『人間は社会に、社会は人格に従う』ということばがあります。国家は、この人格を守るために存在するのではないでしょうか。私は戦後、フィリピンに行きました。空港で迎えてくれた友人が、『決して一人で表へ出るな。誰か人をつけるから』と言ってくれました。そして、その友人が、『日本語を三つ知っているよ」と言うのです。『何を知っているの?』ともちかけられ、と聞いたら、『おい』『ばか』『こら』でした。対日感情の厳しさを思い知らされました。そして、教会の本部に挨拶に行きましたら、『今度の日曜日に、君、教会で話をしてくれ』『いたしましょう』と答えました。すると、『それでは言っておくけれども、君に行ってもらいたい教会は田舎にある。その村は、戦争中に日本軍に破壊され、村民が虐殺された村だよ。いいね』と言いました。私も軍隊にいた人間ですから、私の中に戦慄が走りました。しかし、一度引き受けたからには、『まいります」と頷きました。その教会は、マニラからジープで二時間半のバターン半島にありました。バターン半島は、戦争中に日本の占領軍が、捕虜を炎天下百キロメートル歩かせて、二万人が死ぬという事件を起こした所でした。これを『バターンの死の行進」と呼び、フィリピンではこの事件を忘れないため今でも毎年行進が行われているのです。七十年以上経た二〇一五年でも三千人が参加したと報道されました。この事件を忘れてはいないということです。講壇に立って、まず、そのバターン半島にある、サンタ・カタリナという村へ行きました。貧しい村でした。村には竹で編んだ教会が建っていました。窓はありましたが、ガラスは入ってはいません。そこに会衆が座っていて、一番後ろの席から牧師に先導されて講壇の前のほうへ進んで行くのです。みんなが振り返って、私の顔を見ました。私はにらまれていると感じました。『日本から来たアベです』と自己紹介をしました。私の英語を牧師が、現地のパンパンガ語に訳してくれました。そうしたら、会衆がニコッと笑いました。なぜ笑っているのかはわかりませんでしたが、気分的に大変楽になりました。私は戦争責任をみんなの前で詫びました。話し終わってから、牧師がみんなの前で私にこう言いました。『あなたは、戦後この村に来た最初の日本人です。私たちが会う軍服を着ていない最初の日本人です。あなたがこの村へ来るというので、何か起こらなければいいがと内心、心配したのですよ。しかし、あなたのアベという名前は、パンパンガ語でフレンド(友人)という意味です。今朝は、あなたを日本からのアベとして歓迎します』と言ってくれたのです。スタンディングオベーションといいますが、会衆がみんな総立ちになって拍手をして、私を迎え入れてくれました。礼拝が終わって、竹で編んだ床の上に車座になって、その土地の料理をごちそうになり、青年たちが汗をかきながら、ホワイト・クリスマスを歌ってくれました。雪を見たことがない青年たちの歌声は、心に響きました。そういう私も、雪の中のクリスマスは一度しか経験したことがありませんでしたが、心を合わせた百人ほどの、一人ひとり全員と握手をしてから別れました。帰りの車で友人が、『お前の名前はラッキーだったな』と言ってくれました。私は、『中学の時から、名簿はアルファベットのABC順で私の名ABEはまず一番で、しかも外国へ行ってもだいたい一番。一番だと、教師が入ってきて、『はい、アベ。立って本を読め」といったことになり、ろくなことがない。嫌な名前だと思っていたんだよ。しかし、今日は、アベは世界で一番祝福された名前だと思ったよ』と、友人に答えることができました。私は、そこで、和解を経験しました。和解とは、日本の裁判用語では、原告と被告が条件を出し合って妥協することです。しかし、和解の意味は、加害者が罪を告白して赦しを乞うこと。被害者がそれを受け入れること。そして、被害者と加害者が新しい理解に立って信頼関係をつくり上げること。これが和解の意味です。私たちの国は、戦後、アジア諸国と本当の和解をしたでしょうか。私はこの時から、福祉とは、和解の業だと理解するようになりました。アーノルド・トインビーは、スラムで労働者大衆を前にして、『われわれ知識階級は、今まで諸君を無視し、愛情の代わりに施しと無益な忠告しか与えようとしなかった。この誤りと罪をここに告白し、諸君の赦しを乞いたい。諸君がわれわれの誤りを許してくれると否とにかかわらず、われわれは生涯を諸君に捧げ、諸君に仕える』と告白しました。ここからセツルメントは始まったのです。」(p.156)「そんな私の目をまず開かせてくれたのはA・シュワイツアで、新しい平和の文化の形成に立ち上がる勇気を与えられた。また、ベルジャエフと上田辰之助に刺激を受け、学び直すことへの指針を与えられた。勉強をし直そうと決意して大学への進学を心に決め、東京商科大学(一ツ橋大学)で学び、さらに、アメリカへの留学の機会を得て学びの道を歩んだのだった。戦争とは何だったのだろうか。戦争を起こす要因は、自己防衛、産業・貿易・経済の拡張、植民地の拡大、不安定な政治など多様であり、暴力を否定する宗教ですら、時に戦争を肯定する矛盾を犯すことがあるということが頭の中をめぐった。戦争を起こすのは易く、おのれは戦わないという選択肢は厳しいものだった。思考を閉ざされ、憎しみの枠をはめられ、何の疑いも持たない心のままで過ごしてきた、国家・国民意識のみにくさ、怖さ。私は自責の念にさいなまれた。戦後になって、様々な米国の情報が伝えられたが、最も衝撃を受けたのは、conscientious objection(良心的兵役拒否)だ。以前にも述べたことだが、アメリカの徴兵制度はこれを認め「人を殺すな」という絶対平和主義を信じているクェーカーやメノナイト、セブンスディ・アドベンティスト等の人たちの徴兵拒否を認め、たとえ入隊しても銃は持たない衛生兵にしたりしたのだ。徴兵を拒否すると実刑になった日本の軍隊との違いが強く心に響いた。生涯その良心を貫こうとする人を認め、良心を尊びそれに従うという、想像を超える政策が、米国で実行された歴史的事実には深く考えさせられるものがあった。」(p.166)「英国の看護婦エディス・キャベルは、第一次世界大戦中、ドイツ軍に占領されたベルギーで、味方が皆退却した後もブリュッセルの野戦病院に残り、敵味方の区別なく負傷者の看護に当たっていたところ、スパイの嫌疑を受けて逮捕・起訴され、銃殺処刑された。ロンドンのトラファルガー広場にある彼女の銅像の台座には、刑執行前夜に語ったとされる『愛国心だけでは十分ではない。私は誰に対する憎しみも恨みも持ってはならない』という言葉が記されている。この言葉には、良心の片鱗もなく国の権威に服従し、愛国心のみで動いていた自分に気づかされ恥じ入ったことだった。今から三年前の二〇一五年十月、ベルギーのブリュッセルで、悲劇の看護師エディス・キャベルの胸像が建造され、英国アン王女とベルギーのアストリッド王女によって除幕されたというニュースが流れた。エディス・キャベルは日本ではあまり知られていないが、この除幕式のちょうど百年前の一九一五年十月十二日、この地で銃殺処刑されたのだ。私はこのニュースに、平和を求める人間愛の神髄を呼び覚まされた。戦争による悲劇に対する心の痛みもさることながら、さらに感動させられたのは、年齢的に考えて、実際には直接この戦争に接していない世代の人びとが『百年前のこの事件を決して忘れてはいけない』と、改めて胸像を建て社会に提示したことである。人間として最も大切な生命尊重の思いをここで確認しよう、そこにある真理を守り貫こうとする意志に、いっそう目を覚まされた思いであった。そして私も、自らの戦争責任をもう通り過ぎたことと思い込まない覚悟のもとに、悩み抜いたことを忘れないようにして、今という時期をおろそかにせず、さらに「戦争と平和」についてしっかり考えてみたいと強く思ったのだ。」(p.168)
(2026.2.16)
- 「西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか」エマニュエル・ドット著 大野舞訳 文藝春秋(ISBN978-4-16-391909-6, 2024.11.10 第1刷発行)
出版社情報・目次。ウクライナへのロシアによる侵攻を中心に、西洋で何が起き、その背景には何があるのかを、フランスの歴史人口学者・家族人類学者が、国・地域ごとの家族システムの違いや人口動態に着目して解き明かしており、西洋では不人気のようだが、日本では注目されているようで、図書館で借りられるまでにかなりの時間がかかった。様々なできごとを紡ぎ合わせるさまは、興味深く、今後の世界情勢を考えるヒントにはなっている。ただ、宗教ゼロ、ゾンビ化、アトムまたはブロッブ化などの捕え方が、この方の専門なので仕方がないが、分野外の者にとってはすこし説明が乱暴であると感じた。このような視点も大切にしながら、世界で起きていることを見ていきたいと思う。以下は備忘録:「二〇二二年三月三日、戦争が始まってわずか一週間後、シカゴ大学の地政学教授、ジョン・ミアシャイマーは動画を配信し、一連の出来事の分析を行った。この動画は公開後すぐに世界中を駆け巡った。彼の分析の興味深い特徴は、ウラジーミル・プーチンのビジョンと極めて高い整合性があった点と、ロシアの考え方は知的かつ理解可能だという公理を受け入れた点にある。ミアシャイマーは、いわゆる地政学では『リアリスト(現実主義者)』と呼ばれる立場だ。現実主義において国際関係とは、互いに自己中心的な国民国家間の力のぶつかり合いだと考えられている。彼の分析は次のように要約できる。ロシアは何年もの間、ウクライナがNATOに加盟することは許容できないと言い続けてきた。その一方でウクライナの軍隊は同盟国、つまりアメリカ、イギリス、ポーランドの軍事顧問たちによって軍備強化が進められ、NATOの『事実上』の加盟国になろうとしていた。だから、ロシアは以前から予告していた通りに戦争を始めた、というわけだ。ミアシャイマーに言わせれば、ウクライナに侵攻したロシアに私たち西洋人が驚いたこと自体がまさに驚きなのだ。」(p.29-30)「国民国家のロシア的概念を最もうまく定義するのは『主権』の概念だ。『主権』とは、タティアナ・カストゥエヴァ=ジャンが説明するように〈国家が外部からの干渉や影響を受けることなく、独立して国内政策と対外政策を決定する能力として理解される〉。この概念は継続するウラジーミル・プーチン大統領政権下で特別な価値を持つようになった〉という。それは〈政治体制や政治的志向がどうであれ、国が保持する最も貴重な財産として、数多くの公式文書や演説で言及されている〉。また〈主権はアメリカ、中国、そしてロシア自身を筆頭とする数少ない国家だけが手にしている稀少な財産だ。一方で、最も公式的な文書や演説では、ワシントン、つまりアメリカによるEU諸国の『属国化』は侮蔑的に表現され、ウクライナはアメリカの『保護国』と表現されている〉。」(p.31-32)「国際関係の『実践者』プーチンが『うその帝国』という表現を使うことで感じ取りつつも完全には定義できていないこと、また、その一方で国際関係の『理論家』としてのミアシャイマーが断固として見ようとしないこととは何か。それは、『西側諸国にはもはや国民国家など存在しない』という非常に単純な真実だ。本書では世界の地政学の、ある意味で『非ユークリッド幾何学』的な解釈を提案する。この解釈では、『国民国家で形成される世界』という公理を当然視しない。そうではなく、西洋における国民国家の消滅という仮説を用いることで、西洋諸国の行動を理解可能にするのだ。」(p.33)「国家に注水し、栄養を供給する強力な中流階級があってこそ機能する国民国家という考え方は、アリストテレスの均衡の取れた『ポリス(Cité)』を強く想起させる。アリストテレスは『政治学』の中で、中流階級についてどのように述べていただろうか。〈しかし、立法者はその憲法の中に、常に中流階級のための場所を設けなければならない。もしその法律が寡頭政治的であれば、中流階級を見失うことはない。もしその法律が民主的であれば、法律を通じて中流階級を融和させなければならない。中流階級に属する人々が、富裕層と貧困層の双方の合計、あるいは富裕層、貧困層のどちらか一方に対して数的に上回っているならば、安定した政治を行える。富裕層と貧困層が協調して中流階級に対抗する恐れなどいっさいないからだ。富裕層と貧困層のどちらのグループも、相手の奴隷になることは受け入れないだろうし、富裕層と貧困層が共通の利益によりよく仕える政府の形態を探るとすれば、この形態以外にないだろう。相互不信から、交代で指揮を執ることに耐えられなくなるからだ。どこでも、最も信頼を集めるのは審判である。ここでの審判は、真ん中にいる者なのだ〉」(p.35)「『西洋』をいかに定義するか。二つの方法がある。一つは、教育の離陸と経済発展から見た広義の『西洋』だ。この『西洋』は、大国だけに限定した場合、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、日本が含まれる。これこそが政治家やジャーナリストたちが考える今日の『西洋』で、日本という〔アメリカ〕保護国にまで拡大した『NATOの西洋』である。もう一つはより狭義の『西洋』だ。自由主義的かつ民主主義的革命を成し遂げたかどうかが基準となる。すると、より厳選されたクラブとなり、イギリス、アメリカ、フランスだけになる。一六八八年のイギリスの『名誉革命』、一七七六年の『アメリカ独立宣言』、一七八九年の『フランス革命』が、この狭い意味での『自由主義的西洋』の誕生のきっかけとなった出来事だ。広義の『西洋』は、歴史的に見て『自由主義的』ではない。イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、日本の軍国主義を生み出しているからである。これら三カ国は(それなりに正当な理由から)『今は変わった』とされている。他方で今日の西洋の言説は、ロシアだけはツァーリの独裁主義とスターリンの全体主義の間を行き来する『永続的な専制主義』という枠組みの中に閉じ込めている。プーチンを悪魔と同一視しない場合でも、彼は新たなスターリンあるいは新たなツァーリとされている。ロシアの進歩を否認する歴史的考察を欠いた基準を(広義の)西洋にも適用してみると、自らの『西洋』のイメージが現実からかけ離れていることに気づくだろう。単にファシズム、ナチズム、軍国主義に由来しているわけではなく、イタリアの歴史、ドイツの歴史、日本の歴史をほぼ永続的に突き動かしている謎めいた文化的要素に起因する暴力を、程度の差はあれ常に保持していることがわかる。家族構造の分析が、それぞれの国の歴史に一貫する諸要素(特に直系家族や共同体家族の権威主義)の特定を可能にしてくれる。もちろん、現在のイタリアがムッソリーニのイタリアではないことは明らかで、今のドイツはヒトラーのドイツではない。同様に、今のロシアは共産主義あるいはツァーリのロシアとはまったく異なっている。私はここからは広義の『西洋』の定義を使用する。理由は単純だ。それがアメリカの覇権システムに対応する『西洋』だからである。ただし、そこには『自由主義的西洋』と同時に『権威主義的西洋』も含まれていることは留意しておきたい。一九九〇年から二〇〇六年にかけてのロシアの発展がきちんと認められていたならば、ロシアをこの『権威主義的西洋』に含めることができただろう。広義の『西洋』においてこそ、世界のその他の地域より早期に経済発展が起きており、これについては、イタリアのルネッサンスとドイツのプロテスタンティズムという二つの文化的革命が説明してくれる。つまり私たちの近代は、権威主義的地域で最初に開花したというわけだ。マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムとヨーロッパの経済発展の間に関係性を見出した。しかし彼は、微妙な神学的ニュアンスに西洋の経済的離陸の理由を求めるうちに道に迷ってしまったようだ。本質的な要因はもっとシンプルで、プロテスタンティズムは支配下にある人々を常に識字化する、という点にある。プロテスタントの信者は、誰もが聖書に直接アクセスできなければならないからだ。そして読み書きできる人々の存在が技術および経済の発展を可能にする。こうして、プロテスタンティズムは、意図せずして、非常に有能な労働力を形成したのである。もちろん産業革命が起きたのはイギリスで、最も目覚ましい最後の経済的飛躍はアメリカで起きたが、西洋の発展のそもそもの中心は、ドイツにあったというわけだ。さらにそこに、プロテスタント国で早期に識字化したスカンジナビアを加えると、『第一次世界大戦前夜の先進諸国』を表す地図ができあがる。西洋のプロテスタンティズムの中心は、『自由主義』と『権威主義』という二つの構成要素にまたがっていると言えるだろう。一つの極はアングロサクソン世界、もう一つの極はドイツ(三分の二がプロテスタント)にあるからだ。フランスはカトリックの国だが、その地理的な近さから、(基本的にプロテスタンティズム圏の)西洋の最も発展した先進地域の内に居続けることができたのである。社会に対する見方として、プロテスタンティズム圏は、全体として程度の差はあれ、予定説の教義を受け継ぎ、「選ばれし者と地獄に落ちる者がいる』、つまり『人間は平等ではない』という人間観を共有している。ドイツのあからさまな不平等主義と、オランダ、イギリス、アメリカのより和らいだ不平等主義は、いずれも『洗礼によって原罪から清められた人間はみな平等である』というカトリック(あるいは正教会)の根本的な考えに対立した。その結果として、人種差別が最も激しく、最も強固な形で現れたのがプロテスタンティズムの国だったことには何の驚きもない。ナチズムはドイツのルター派の地域に根づいた。一九三二年のナチス党の得票を示す地図は、プロテスタンティズムの地図と見事に重なり合うのである。アメリカ人が黒人差別に固執するのも、プロテスタンティズムと深く関係している。ナチス・ドイツ、一九三五年から一九七六年までのスウェーデン、一九〇七年から一九八一年までのアメリカにおける優生学と強制不妊手術についても最後に触れておこう。これは、基本的人権をすべての人に認めるわけではない、というプロテスタンティズムの本質の論理的帰結なのである。こうしてプロテスタンティズムは、二つの意味で西洋の中心に位置している。プロテスタンティズムの良い側面には、教育と経済の発展があり、悪い側面には、人間は不平等だという考え方がある。さらにプロテスタンティズムは、国民国家の最初の発展の原動力にもなった。フランス人は、『国民』を発明したのは自分たちのフランス革命だと考えているが、それは間違いだ。プロテスタンティズムこそが、こうした自己表象、つまり特殊な集団意識の形態を各国民に最初に与えたのである。聖書は土着の言語に訳されるべきだとしたことで、ルターとその弟子たちは国民文化の形成と、好戦的で明確な自己認識をもつ、強力な国家の形成に大きく貢献した。すなわちクロムウェルのイギリス、グスタフ・アドルフのスウェーデン、フリードリヒ二世のプロイセンである。プロテスタンティズムは、聖書を読みすぎたことで「我こそは神に選ばれし者』という自己認識に至った人々を出現させたのだ。原初のプロテスタンティズムは、権威主義的な気質を備え、ルターは国家に対する個人の絶対的従属を説いた。しかし、ドイツにプロテスタンティズムの権威主義的な形態が根づいたのは、そこに人類学的な資質が存在したからだ。この点に関してドイツの直系家族構造は、ロシアの共同体家族とほぼ同様の資質を有している。そこでは息子たちの一人だけが父親と暮らすよう求められる(ロシアのようにすべての息子たちではない)。このメカニズムがより安定した社会秩序を生み出したのだ。そこに「兄弟間の平等』や『父に対する兄弟間の連帯』といった価値観はなく、(ツァーリや神に反抗する)いかなる過激な革命的願望もなく、安定した社会秩序を崩壊させるものは何もなかったのである。一方、イギリスのプロテスタンティズムは、議会と報道の両方において自由を開花させた点で正反対だった。自由民主主義がイギリスにおいて他よりも早く誕生したという事実は、人類学者を驚かせるものではない。絶対核家族構造では、一組のカップルとその子どもたち以外の者との同居はあり得なかった。青年期に達した時点で子どもたちは家を離れ、経済水準にかかわりなく)他の家に使用人として送り出された。このようなシステムは、自由に対する心構えを個人に持たせ、『リベラルな無「意識」まで吹き込んだ。これをイギリスの入植者たちがアメリカ大陸に持ち込んだというわけである。フランス、少なくともパリ盆地では、核家族構造は平等主義で、遺産相続に関して兄弟姉妹は皆平等だった。一方、アングロサクソンの世界には、この子ども同士の平等のルールは存在しなかった。家族構造の人類学こそが、なぜ、またいかにして、イギリス、アメリカ、フランスが自由民主主義を競い合うように生み出したのかを明らかにしてくれる。核家族の基盤は、天性の自由主義を育むことができた。一七八九年、フランス的平等主義の基盤が突如として顕在化したことに直面したイギリスは、当初、恐れおののいた。しかしフランスがいったん落ち着きを取り戻すと、イギリスはそこに独自の普通選挙を実現させるための促進剤を見出した。アメリカに関しては、インディアンや黒人を社会的劣位に閉じ込めることで、家族生活における平等主義の不在を早い時期に乗り越えた。しかし、『白人同士の平等主義』は『人類全体の平等主義』より脆弱な原則であることが露わになる。これについては後ほど検討する。ドイツを含む広義の『西洋』の定義からすると、少なくとも『西洋とロシアの根源的な対立』という見方自体が奇妙なものに見えてくる。むしろ全体主義の誕生(直系家族がナチズムを、共同体家族が共産主義を生み出した)に関して言えば、ドイツとロシアは、むしろイトコ同士の関係、あるいは部分的な歴史的共犯関係にある印象を受ける。自由民主主義発祥の地という、より狭義の『西洋』の定義にこだわるとしても、やはり一つの不条理に直面する。今日の西洋は、(たとえば)『ロシアの専制体制』に対抗する『自由民主主義』を体現するのは自らだと主張しているが、自由民主主義の発祥地であり、核心部であったイギリス、アメリカ、フランスにおいて、その自由民主主義が危機に陥ってしまっているからである。」(p.154)「ここで『民主主義の退化』の理念型を抽出してみよう。そのためにはまず『自由民主主義』の理念型を定義する必要、あるいはそこまでしなくとも、『自由民主主義』をかいつまんで描出する必要があろう。自由民主主義は、枠組みとして国民国家を有し、常にではないが、多くの場合、共通言語があることで市民同士が一定程度理解し合えている。また普通選挙が行われ、多党制で、表現の自由と報道の自由が保証されている。そして重要な特徴として、少数派の保護が保障されつつ、多数決の原則が適用される。ただし、ある国が自由民主主義であるためには、明文化された法律が単に存在するだけでは不十分である。その法律が、民主主義的な慣習によって、活性化され、体現され、経験されなければならない。普通選挙によって選ばれた代表者は、あくまで自分たちを選んだ国民の代表者であることを必ず自覚しなければならない。こうした法律と慣習の一致は、二〇世紀における大衆の識字化によって初めて可能になったのだ。私が読み書きの能力に民主主義の基盤を見出しているのは、単にそれによって新聞を読み、投票用紙の解読〔フランスでは候補者名が印刷された紙を選んで投票するが、日本のような手書き(自書式)は世界的に見て例外的〕が可能になるからというだけではない。いわば『すべての市民の間での平等』という観念が育まれるからだ。読み書きは聖職者の独占物だったが、今やすべての人のものとなった。しかし二一世紀に入ると、民主主義的平等の基礎となる感情そのものが渇してしまったようなのである。高等教育の発展は、一世代の三〇%か四〇%の人々に『自分は真に優れている』という感覚を与えるようになってしまったのだ。『大衆化したエリート』という矛盾した表現がこの状況の異様さを物語っている。」(p.161)「ウクライナ戦争以前、西洋の民主主義は、ますます深刻化する害悪に蝕まれていると見られていた。この害悪によって、思想面と感情面において『エリート主義』と『ポピュリズム』という二つの陣営が激突するようになる。エリートは、民衆が外国人嫌いへと流されることを非難する。民衆は、エリートが『常軌を逸したグローバリズム』に耽っているのではと疑う。民衆とエリートが、ともに機能するために協調できなくなれば、代表制民主主義の概念は意味をなさなくなる。すると、エリートは民衆を代表する意思を持たなくなり、民衆は代表されなくなる。世論調査によれば、『西洋民主主義国』の大部分において、ジャーナリストと政治家は、『最も尊敬されていない職業』だという。いま陰謀論が蔓延しているが、これは、『エリート主義対ポピュリズム』、すなわち社会の相互不信によって形成される社会システムに特有の病理なのだ。民主主義の理想は、『すべての市民の完全なる経済的平等』という夢にまでは至らなくとも、『人々の社会的条件をなるべく近づける』という観念を含んでいた。第二次世界大戦後、民主主義が絶頂にあった時期には、アメリカを始め多くの国で、『プロレタリア』と『ブルジョワ』が『大規模になっ中流階級』の中に溶け込むことすら想像できたのだ。ところがここ数十年、国によって程度に違いはあるが、私たちが直面してきたのは、格差の拡大である。自由貿易によってもたらされたこの現象は、既成の諸階級を粉砕したが、同時に物質的生活条件も悪化させ、労働者階級だけでなく中流階級の雇用へのアクセスまでも悪化させた。繰り返すが、私のこうした考察は、誰もが同意するはずの至極平凡なものにすぎない。今日の民衆の代表者、つまり、高等教育を受けた大衆化したエリートたちは、第一次産業および第二次産業に従事する人々を尊重しなくなり、どの政党に属していようが、根底では、自らが高等教育で身につけた価値観こそが唯一正当なものだと感じている。彼らにとっては、自分はエリートの一員であり、その価値観こそが自分自身であり、それ以外は何の意味もなさず、虚無でしかない。こんなエリートなら自分以外の何かを代表することなど絶対にできないだろう。」(p.162)「『みんなのための結婚』の合法化をめぐる論争を再度取り上げることがここでの目的ではもちろんない。同性婚の制度化を優れた人類学的指標として冷静に検討することが目的だ。これこそが、社会的勢力としてのキリスト教の完全なる終焉を明確にしてくれるからである。同性婚が合法化されたのは、オランダでは二〇〇一年、ベルギーでは二〇〇三年、スペインとカナダでは二〇〇五年、スウェーデンとノルウェーでは二〇〇九年、デンマークでは二〇一二年、フランスでは二〇一三年、イギリスでは二〇一四年(ただし北アイルランドは二〇二〇年になってから)、ドイツでは二〇一七年、フィンランドでも二〇一七年だった。アメリカに関しては、二〇〇四年にマサチューセッツ州が合法化したが、全国規模で合法化されたのは二〇一五年である。こうした、明確で揺るぎない方法によって、西洋におけるキリスト教の実質的な意味での消滅の時期は二〇〇〇年代だったと確定できる。カトリックとプロテスタントが、キリスト教自体が消滅するなかで融合しつつあることも指摘できる。ただし東ヨーロッパはこの動きに関わっていない。またバチカンが存在するイタリアは、まだ同性婚を認めない従来の民事婚の段階にある。」(p.171)「一九六〇年代(イギリスとアメリカにおける性の革命とフランスの五月革命を含む)の重大な幻想の一つは、『集団を超越することで個人はより大きくなれる』と信じてしまったことだろう(私の誤り、最大の誤りを認めよう! meq culpa, meq maxima culpa!)。それはまったく逆なのだ。個人というのは集団においてのみ、また集団を通してのみ大きくなることができる。単体としての個人は自ずと小さくなる運命にある。あらゆる集団的信仰―根源的または派生的な形而上学的信仰にしろ、共産主義的信仰にしろ、社会主義的信仰にしろ、国民的信仰にしろ――から一斉に解放された私たちは今、空虚さを経験し、小さくなっている。もはや敢えて自分の頭で考えることもなく模倣を繰り返す小人の群れと化している。ただそれでいて、不寛容の度合いにおいては、かつての宗教の信者に劣っていないのである。集団的信仰とは、人々がともに行動するために共有している考え方というだけにとどまらない。集団的信仰は個人を形成するのである。他人に認められた道徳規律を個人に教え込むことで、集団的信仰は個人を変化させる。個人の内部で機能するこうした『社会』を精神分析では『超自我』と呼ぶ。今日、この概念は評判が悪いが、それは、『自己成長』を抑圧して妨げる『感じの悪い監視装置』を想起させるからだ。しかしフロイトやその他の専門家にとって、『超自我』は『理想の自我』をも意味する。目前の欲望を超克することを可能にし、より良い自分になるために現在の自己の超克も可能にしてくれるものだからだ。フロイトが『理想の自我』と名づける以前にも『良心』と呼ばれるものが存在し、これは他者の尊重を含むものであった。良心に耳を傾け、自分の良心に問うことは、キリスト教に由来する教えだった。宗教ゾンビ状態でも、理想の自我を社会が個人に刷り込むことがまだ可能で、『良心』もまだ完全に機能していた。まだ緩やかな変化の過程にあるものを完全に変化を遂げた形で示すことで、ここで私は、誇張し、図式化しすぎていることは認めよう。宗教ゼロ状態は、『空虚』を、また傾向として『超自我の欠如』を示す。それでも存在し続け、自らの有限性に苦悩を感じ続ける人間存在に対して、宗教ゼロ状態は、『無』あるいは『虚無』をはっきりと提示する。こうしてこの『無』、この『虚無』も、あらゆる方面において何かを生み出す。すなわち反動を生み出す。生み出されるものには尊敬に値するものもあるが、愚かなもの、下劣なものもある。そのうち『無』を崇めるニヒリズムは最も月並みなものだろう。ニヒリズムは、ヨーロッパにもアメリカにも存在し、西洋の全域に遍在している。個人主義的核家族型の人類学システムであるフランス、特にイギリスとアメリカ家族的枠組みの残滓すらないにおいて、ニヒリズムは最も完成した形で広がっている。一方、直系家族・ゾンビ(ドイツと日本)あるいは共同体家族・ゾンビ(ロシア)の『痕跡』は、個人主義的核家族の『虚無』に比べると、まだ『何か』ではある。これからすぐに検討するが、『絶対核家族におけるプロテスタンティズム・ゼロ状態』というイギリス・アメリカ社会が、ニヒリズムの明白な舞台となっていることに何の驚きもない。しかしまずは、より複合的な家族構造が残っている大陸ヨーロッパが、この戦争を前にして、いかに主体的な意思を失ったのかを検討しよう。」(p.171-173)「残念なことではあるが、アメリカに対するヨーロッパ人の卑屈さを説明するには『恐怖』という概念を取り入れなければならない。恐怖だけがアメリカへの同調の要因ではない。しかし、一〇〇%に近い服従率を誇るこの完全防備の絶対権力システムは、全体主義的な雰囲気がその上層部を支配していることを示唆している。ウラジーミル・プーチンなら、次のように皮肉ることができる。もしアメリカがヨーロッパの指導者たちに首を吊るように要求したら、彼らは従うだろう。しかし、ヨーロッパ製のロープで吊るされることを懇願するだろう。しかし、アメリカの繊維産業を守るために、この要求すらも拒否されてしまうだろう、と。これほど極端な服従にはこれほど極端な説明が必要となる。」(p.205)「ジョン・ロールズは、黄金時代が終わりつつあった一九七一年に、かの有名な『正義論』を著した。今日、この本は正しく読めば、ロールズによる弔辞とみなせるが、それをこれから証明しよう。ルーズベルトの一世代半後の一九二一年に生まれたロールズは、WASPの中でも下位のカテゴリーに属していた。グロトン校よりかなりランクが下のケント・スクールの生徒だったロールズは、ハーバード大学ではなくプリンストン大学に進んだ。そして太平洋戦争に出征し、強い道徳的懸念に取り憑かれて帰還した。米国聖公会の信者だった彼は、広島への原爆投下による惨状を目の当たりにした後、無神論者になった。その結果、恵まれた時代のWASP上流階級の慣習を理論化した『正義論』が生まれたのである。ロールズが定義する『正義』とは、最貧層の幸福に寄与する限りは不平等を容認することである。皮肉なのは、ロールズがこうした『社会的な賭け』に出たのは、格差の拡大が貧しい人々に恩恵をもたらすどころか、まさに彼らを殲滅し始める直前だったことだ。」(p.273)「徹底的な批判を始める前に、公平さを保つためにもまずアメリカ経済の議論の余地のない強みを指摘しておこう。近年、最も重要な技術革新がシリコンバレーからもたらされたことは論を俟たない。シリコンバレーの通信・情報技術の進歩は、世界中とまでは言えないとしても、少なくとも同盟国への支配力を著しく強めた。これも近年のことだが、アメリカの石油、特に天然ガスの生産国としての大いなる復活も私たちは目の当たりにした。一九四〇年に日量四〇〇万バレルだったアメリカの石油生産量は、一九七〇年には九六〇万バレルまで上昇し、二〇〇八年には五〇〇万パレルに落ち込んだが、戦争直前の二〇一九年には、水圧破粋技術のおかげで一二二〇万バレルにまで達している。主要輸出国ではないが、アメリカは石油の純輸入国ではなくなったのである。天然ガス生産量は、二〇〇五年の年間四八九〇億立方メートルから、二〇二一年には九三四〇億立方メートルに増加している。天然ガスの分野でアメリカは、ロシアに次ぐ世界二位の輸出国だ。戦争のおかげで、特にロシアからの天然ガス供給を突然遮断されたヨーロッパの同盟諸国に供給できるようになったアメリカは、世界最大の液化天然ガスの輸出国となった。エネルギー分野は、この戦争の明らかな不条理の一つを浮き彫りにしている。アメリカの目的は、ウクライナを守ることなのか。あるいはヨーロッパと東アジアの同盟国を支配し、搾取することなのか。GAFA、天然ガス、シリコンバレー、テキサスというアメリカ経済の強みは、人間の活動範囲の両極端に位置している。プログラミングのコードは『抽象化』に向かうが、エネルギー資源は『原材料』である。この両端の間にこそ、アメリカ経済の弱みと困難さが存在する。つまり、モノの製造、伝統的な意味での『工業』に当たる部分である。NATOの標準兵器である一五五ミリ砲弾すら十分に生産できないという極めて陳腐な事態を通じて、この戦争が明らかにしたのは、アメリカに産業基盤が欠落していることである。さらに種類を問わず、いかなるミサイルも十分に生産できなくなっていることが少しずつ明らかになった。物事の正体を暴く戦争は、私たちの(そしてアメリカ自身の)アメリカに対する認識とアメリカの真の実力の間にあるギャップを明らかにしたのである。二〇二二年、ロシアのGDPは、アメリカのGDPの八八%(ベラルーシと合算すると、西洋陣営のGDPの三・三%)でしかなかった。GDPで見れば、ロシア側をこれほど圧倒していたにもかかわらず、なぜアメリカはウクライナが必要とする砲弾すら生産できなくなってしまったのか。」(p.292-293)「チャールズ・ライト・ミルズの言うWASPエリートは消滅した。現在のアメリカ政府を一瞥すればそれは明らかである。特にウクライナ戦争を司っている重要人物の中に、WASPは一人もいない。ジョー・バイデンは、アイルランド系カトリックである。国家安全保障問題担当大統領補佐官ジェイク・サリバンも同様だ。国務長官、つまり外務大臣のアントニー・ブリンケンは、ユダヤ人である。ヨーロッパとユーラシア(つまりウクライナ)担当の国務次官ヴィクトリア・ヌーランドは、ユダヤ人の父とイギリス系の母を持つ。国防長官のロイド・オースティンは、黒人でカトリックだ。アメリカの刑務所における黒人比率は、四〇%と異常に高いが、同じようにバイデン内閣においても黒人は高い比率を占めている。黒人はアメリカ全人口の一三%にすぎないのに、バイデン内閣ではい二六%にも上る。下院では一三・三%(つまり人種的比率に合致)で、上院では三%を占めているにすぎない(上院は歴史の変化のスピードにブレーキをかけるための存在なので、不自然ではない)。厳密な意味での政治機関以外では、黒人はジャーナリストの六・四%、超富裕層の〇・五%のみを占めている(最も裕福な四〇〇人のアメリカ人のうち黒人はたった二人だ)。しかし政権幹部に関しては、ワシントンにも、ロンドンのような『カラー(有色人種)』が見られるのである。指導者層の未来は、大学を見ればわかる。名門大学のうちハーバード、イェール、プリンストンという将来の寡頭制のメンバーを輩出する『聖なる場所』の学生人種別割合を見てみよう。白人はまだアメリカ全人口の六一%を占めているが、三大大学においては、わずか四六%である。こうした白人の低比率は、イギリスのように、知的分野における白人の優位性がいずれ消滅することを示している。一方、黒人の割合は、全人口比に比べると若干低いままである。全人口に対する黒人比率は一三・三%だが、イェール、ハーバード、プリンストンにおける黒人比率は一〇%でしかない。同様の傾向はラティーノ(ヒスパニック系)にも見られる。ラティーノは全人口の二〇%を占めているが、権威あるこの三大学においては一六%しか占めていない。このように白人、黒人、ラティーノは、いずれも全人口比に比して過小であるのに対し、それらの過小分を補い、全人口比に比して際立って過大な割合を示すカテゴリーがある。アジア人人口である。彼らは全人口の六%にすぎないが、この三大学の学生の二八%を占めている。政権からWASPが消えたのは、意図されたことではなかった。共和党政権が誕生すれば、それがたとえトランプ政権であっても、形の上ではWASPは復活するだろう。ただしプロテスタンティズム・ゼロのそれでしかない。つまり『似非WASP』である。そもそもバイデンからして、誰から見ても白人のアメリカ人というだけで、それ以上でも以下でもない。『アイルランド系カトリック』という彼の出自は特に意味を持っていない。ケネディがアメリカ史上初のカトリックの大統領になった時、それは一つの事件であり、転換点だった。今はそうではない。バイデンの側近にWASPが完全に不在であることで、彼自身がWASPではないことは誰の関心も引かない。この現象は簡単に説明できる。宗教ゼロ状態は、宗派だけでなく、人種と教育の差異も消し去ったのだ。カトリシズム・ゼロとプロテスタンティズム・ゼロの違いはあるのか。プロテスタンティズム・ゼロの状態において、黒人と白人の違いはあるのか。この新しい用語をさらに突き詰めてみれば、『地獄落ちという黒人への罰・ゼロ状態』ということになる。プロテスタンティズムの消滅は、この宗教に非常に強く結びついたアメリカの伝統的な人種差別の消滅をもたらしたのだ。大学におけるアジア系学生の高比率は、人種差別主義の反転の結果ではなく、彼らの教育に対する大きな活力に起因している。子どもをあまり囲い込まない絶対核家族構造という人類学的背景がある中で、プロテスタンティズムの消滅とともに、『教育重視』や『努力尊重』の気風が消滅したことから、白人の学力は崩壊した。こうして、プロテスタントとカトリックの子孫たちに差異はなくなり、SATと平均IQのレベル低下という同じ方向に向かっていったのである。一方で日本、韓国、中国、ベトナムからの移民の子どもたちは、一世代から二世代の間、こうした学力崩壊から守られてきた。それは権威主義的な家族構造によるだけでなく、教育を神聖視する儒教の伝統に負うところが大きいが、この伝統はそれ自体が『家族継承』に根づいている。イギリスやフランスでも同様の現象が見られる。誤解はしていただきたくない。イギリスのように、アメリカでもカトリックとプロテスタント、さらには白人と黒人の差別が終わりを告げた歴史的偉業をまずは称えなければならない。しかし次の段階で、WASPの消滅が社会学的に何を意味するのかを考察しなければならないのである。道徳ゼロ状態での権力エリートの消滅は、指導者集団が共有していたあらゆるエートスの消滅を意味した。WASPエリートは、向かうべき方向や道徳的目標(善悪を含む)を体現する存在だった。現在の指導者集団(エリートと呼ぶことは憚られる)は、こうしたものを何も体現していない。残っているのは、純粋な権力のダイナミズムだけで、それが対外政策に投影されることで、軍事力と戦争への偏愛として現われたのだ。この重要な点については後ほど詳述する。まず私は、バイデン政権の外交政策の立案におけるユダヤ人の役割を位置づけるために、基本となる社会学的要素について言及しなければならない。」(p.310-313)「まず、さらなる誤解を避けるために、私自身がユダヤ系で、ブルターニュ人でもあり、イギリス系の先祖ももっていて[Toddは古英語で『狐』の意]、この三つの出自に十分満足していることを述べておく。アメリカ全人口におけるユダヤ人の割合は一七%である。バイデン政権、特に外交政策に携わるメンバーの中で、ユダヤ人の比率が非常に高いことはすでに見た通りだ。外交問題の分野で名高いシンクタンク『外交問題評議会』の『理事会 (Board of Directors)』においても同じようにユダヤ人の割合が高い。三四人のメンバーのほぼ三分の一がユダヤ人なのである。二〇一〇年の『フォーブス』誌の番付によると、アメリカの最も裕福な一〇〇人のうち三〇%がユダヤ人だった。まるで一九三〇年代のブダペストを見ているようである。こうした現象は、前述したのと同じように解釈できる。つまり、ある社会の上層部においてユダヤ人の比率が非常に高い理由は、多くの場合、その社会の人口全体の教育水準の低さにある。ユダヤ教の教育熱心さがこうした社会では特に完全な形で際立つわけだ。この状況は、これまで見てきたように、一八〇〇年から一九三〇年にかけての中央ヨーロッパと東ヨーロッパと同様に現在のアメリカに見事に当てはまる。近年のアメリカにおけるユダヤ人勢力の相対的な台頭は、プロテスタントの教育的関心が衰退したことの帰結の一つなのである。一九六五年から二〇一〇年にかけてのアメリカにおいてプロテスタントという競合相手がいなくなることで、ユダヤ人の教育への執着心は、ユダヤ人の存在感を大きくすることにつながった。それは、まだ識字化が進んでいなかった一九世紀の中央ヨーロッパと東ヨーロッパにおいて、ユダヤ人が大きな影響力を持ったのと同じである。歴史、特にアメリカのユダヤ教の歴史はここで終わるわけではない。アジア系アメリカ人の教育熱が勢いを増すことで、ユダヤ人にとっての競合相手の不在という一九六五年から二〇一〇年まで続い状況に終止符が打たれたのである。オンライン雑誌『タブレット(Tablet)』(ユダヤ系雑誌)の驚くべき記事は、今日、ユダヤ人の重要性の消失という傾向がいかに強いかを示している。二〇二三年三月一日付のヤコブ・サベージの『消失(The Vanishing)』は、極端に悲観的な記事だ。彼曰く、『ユダヤ系アメリカ人がこれまで重きをなしてきたハリウッド、ワシントン、ニューヨークなどの大学界において、今やその影響力ははっきりと後退している』。いくつもの驚くべき事例がこの主張を例証する。ベビーブーム世代のユダヤ人たちは、最も権威のある大学で二一%を占めていたが、三〇歳以下を見ると、わずか四%でしかなくなり、アイビーリーグ大学では七%となっている。つまり、一九五〇年代に廃止されたヌメルス・クラウズス制度が課していた上限一〇%を下回っているのである。『ハーバードでは一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけてユダヤ人が二五%を占めていたが、今日では一〇%に満たない』とサベージは嘆く。衰退は大学以外にも見られる。『ニューヨークというユダヤ系アメリカ人の政治権力の中心地でも、権力を握るユダヤ人はほぼいなくなった。今から一〇年前、同市には五人のユダヤ人議員、一人のユダヤ人市長、二人のユダヤ人行政区長、一四人のユダヤ人市議会議員がいた。現在はユダヤ人議員が二人と一人のユダヤ人区長しかいない。五一人の市議会議員のうちユダヤ人は六人だけである』。サベージ曰く、歴史を振り返ると、連邦判事もユダヤ人の比率が高かったのだという。ユダヤ人は全人口の二・五%しか占めていなかったが(私は一・七%だと思うが、彼の一連の統計を否定するつもりはない。そもそも誰がユダヤ人かという厳密な定義は難しい)、連邦判事の少なくとも二〇%はユダヤ人だったという。しかし、この記事が書かれた時点でバイデンに指名された一一四人の判事のうち、ユダヤ人は八人か九人だけだった(つまり七%から八%で、それでも高比率ではある)。ハリウッドでも衰退は見られる。スティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・グレイ、ジェリー・セインフィールドのような一世代前の偉大な人々を除けば、ユダヤ人の偉大な監督あるいは脚本家はもういない。この記事は、現在の状況を鑑みると特別な意味を帯びてくるような結論で締めくくられている。『もし、プーチンやオルバンが大学のユダヤ人人口を五〇%減らしたら、ADL(ユダヤ人差別の撤廃を支援するNGO)は大騒ぎするだろう。しかし、ハーバード大学やイェール大学は、まるで魔法のように、一〇年も経たないうちにユダヤ人学生をほぼ半減させることに成功したのだが、このことに関して私たちは何も言わずにいる』。こうしてサベージは、ユダヤ人に対する差別の復活を告発している。しかしそんな差別が復活しているとは私には一瞬たりとも思えない。白人がユダヤ人よりアジア系を好む理由などないからだ。最もありうる解釈は、次のとおりである。長い間、教育を優遇する宗教によって優位に立ってきたユダヤ系アメリカ人たちは、アメリカ社会にあまりにうまく同化した結果、彼ら自身も、アメリカにおける宗教と知性の衰退の影響を被ってしまったのだ、と。同化は混合婚の比率から確認できる。一九八〇年以前に結婚したユダヤ人のうち、非ユダヤ人と結婚したのはわずか一八%だったが、二〇一〇年から二〇二〇年の間に結婚したユダヤ人のうち、非ユダヤ人と結婚した人は六一%に達している。アメリカの衰退は、残りの三九%の内婚カップルにも何らかの影響を与えずにはいなかっただろう。私はプロテスタンティズム・ゼロ状態、カトリシズム・ゼロ状態について述べてきたが、アメリカの場合(そして別の場所についても)、ユダヤ教・ゼロ状態も検討できるのではないだろうか。この概念は、ユダヤ人自身における教育衰退の分析に役立つだろう。私がこの記事を長々と引用したのは、新たな研究領域が開けるからだ。ただし、サベージが示す数字と結論は完全には信頼できないことも付け加えておこう。いずれにせよ、現在の指導者集団、特に戦争担当部署におけるユダヤ系アメリカ人の割合は、いまだに過度に高いままだが、これは、キャリアのピークにはある程度の年齢になって達するという理由による。」(p.313-317)
(2026.2.17)
- 「み翼のかげに - 大宮恵里の思い出」大宮チヱ子編著(1975.11.15)
急性白血病で1974年4月26日11歳で天に召された、大宮溥・チヱ子牧師夫妻の長女、恵里さんを記念して作られたもの。告別式での弔辞、溥牧師の説教などとともに、恵里さんの書かれたもの(作文や手紙)、そして、チヱ子牧師の「恵里のことども」から構成され、チヱ子牧師の注が加えられている。全体で123頁。チヱ子牧師が支えられた記録と言っても良いが、恵里さんの立派な生涯・闘病生活が記録されている。大宮溥牧師の葬儀式辞を引用する。聖書:ヨブ記1章20〜22節・ヨハネ福音書15章1〜11節 「大宮恵里は昭和三七年(一九六二年) 五月二九日、わたくしども大宮・チヱ子の長女として、新潟大学附属病院で誕生いたしました。色が白く、大きな澄んだ目をした子でした。そのころわたくしどもは、この新潟の教会に、神の御導きと信じて赴任したばかりであり、またこの子は神様の恵みによって新潟の里に生まれたとの思いから、恵里と名づけました。
満三才になった四月から三年間、東中通教会附属のみどり幼稚園で育てていただき、昭和四四年春、新潟大学教育学部附属新潟小学校に入学させていただいて今日に至りました。
昨年九月はじめから、紫斑と出血の徴候があらわれ、わが家のホーム・ドクターの小出先生と教会員の千原先生のおはからいで、県立ガンセンター新潟病院に入り、急性白血病と診断され以来最後に至るまで、主治医の内海先生、小児科部長の布施先生、原、千原両先生方の実に手厚い治療をいただきました。
こうして四カ月の療養の結果、緩解状態となり、念のため頭部に電気照射をしたために髪の毛が抜けて薄くなりましたが、やがて学校にも行けるという希望をもって、年末の三十日に喜びあふれて退院いたしました。しかし本当に楽しかった家での生活も二ヵ月半で、三月一五 日、視力が急速におとろえ、再入院となりました。
それからの病状は、まるでやまいの一斉攻撃を受けたようであり、二九日には完全に失明、腫れや出血や囁き気に悩まされ、先生方の必死の治療をうけつつも次第に悪化し、ついに一九七四年四月二六日午後一時十分、天に召されたのであります。
この間三十名にあまる有志の献血、学校や教会につらなる方々の数知れぬお見舞、教会の主にある兄弟姉妹の熱き祈りとお助けを頂きましたことを、心から御礼申し上げます。
この子は整理好きのきちょうめんな子でした。今だに幼稚園時代からの持ち物をていねいに 整理して持っています。きちょうめんなだけに、人のずるいのに対しては相当きびしかったの ではないかと思います。記憶が大へんよく、親の方が不正確なところを正されることもあるほどでした。運動はきらいではありませんでしたけれど、運動神経の敏捷でないことは親ゆずり でした。
元来背は中位でしたが、最近は非常に大きくなり、また精神的にも、少女なりに自我に目覚 め、自分らしく生きようとしていたようです。 昨年三月七日の日記に「ひとりごと」という女 を書いています。
「みんなは、わたしのことをまじめだという。
どうするとまじめといわれるのだろう? どうしてまじめというのだろう?
わたしだって、ふつうの女の子とかわらないのに。
マンガ本だって読むし、歌よう曲だって絵だって、おしゃべりだって、ふつうの人とかわら ないのに。
『まじめ』とはどういうことなんだろう。」
ひとと自分の違いを気にして、わたしも普通の女の子なんだ、普通の女の子になりたいんだと いう心が伝わってくるようであります。
恵里の八ヵ月の闘病生活は、本人にとっても家族にとっても、厳しい試練の生活でありました。わたしは折にふれてイザヤ書五〇章一〇節を思い起しました。
「あなたがたのうち主を恐れ、
そのしもべの声に聞き従い、
暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、
おのれの神にたよる者はだれか」。
しかし、この暗やみの中で目をこらしていると、やみの中にも光が輝いていることを知らされました。ここで与えられた慰めと教えの一、二を、申しのべさせていただきます。
その一つは、困難な人生を耐えさせ生きぬかせる力は、信頼の力だということであります。恵里の闘病期間、特に最後の一ヶ月は、ほんとうに、生命と死とのすさまじいばかりの戦いでした。妻が、こんな苦しみは大人の自分でも耐えられるかどうか自信がないと言ったほどでし た。それを十一才の女の子が頑張りぬきました。四月一九日の妻の日誌にこう書かれていました。
「一一時三〇分から輸血、一五時三〇分に薬液にかわり、一七時一五分終了。
七時半にカルピスをのんで、ママが朝の仕度をしていると、一人でベッドのライトのスイッチを必死の様子でさがしているので、どうしたのとたずねたが、返事をしない。電気をつける のときくと、うんとうなずいたので、スイッチを手渡して、手伝ってつけさせた。すると、手を真直ぐ上にあげて、手さぐりする様にまさぐりつづけ、『ない、ない、光がない』と異様な感じで叫ぶのでびっくりする。光がみえないの、と問うと、うん、全然みえないといって、がくっとしている。
もうしばらくしたら見えるようになるからね、といって、聖書を読もうかというと、うんと うなずく。そして、らい病人の話を読んでくれというので、開こうとしていると、たくさんの子供がいて、金持だったけれど、みんななくなってしまい、自分もらい病になって、かわらのかけらで体をかいていた人の話、という。ヨブのことだなと思って、説明しながらきくと、そうだというので、ヨブ記一章一節から二章一〇節までを読む。祈った後、どうしてヨブの話をよもうと思ったのときくと、『その人は、とても苦しかったのに、神様をのろわないでがんば った人だから』という。ああそう、恵里ちゃんもがんばっているね、というと、うん、ヨブの 事や聖書のいろんな人の事を思い出しているの、というので、それにしてもよくがんばってい るよ、というと、『ママがいるからよ、何でも治療をうけるから、ついててね、よくなったら 恩返しをするからね』と。『恩返しなんかしなくてもいいのよ、恵里ちゃんはママの大事な子供だから、お世話をするのは当り前でしょ』というと、『うん』と答えてから、『神様は今日ま でいろいろよくして下さったんだから、のろう事はないし、必ずこれからもよくして下さるよ』と。これは驚くべき神信頼、信仰告白ではないか」。
このような素直さが生まれた一つの理由は母親の愛からでした。身内のことを申して恐縮で すが、妻は子供の病院生活の間、自分のからだをそこねた時も一日もかかさず病院に通いつづ けました。最後の日々においては、恵里の目であり、手であり、足でありました。わたしは母 の愛という本当に尊いものをまのあたり見る思いでした。恵里はこの母にたより切り、そしてこの母の信ずる神を信じたのです。
もう一つの理由は、教会学校の教育であります。わたしは、ヨブの信頼について恵里に話して下さった先生に、何とお礼を言ってよいかわからないほどの感謝をいたしております。
最後の日のことでした。容態が急変して死期が迫りました時、かねて予感はしていたようで ありましたが、異常を感じて「こわい」と申しました。この不安に答えてやろうと思い、「恵里ちゃん、今まで先生方は一生懸命つくして下さったけれど、この病気は大変むつかしい病気だから、イエスさまがもういらっしゃいとおっしゃってる。恵里ちゃんはイエスさまのことを信じているし、パパもママもイエスさまを信じているから、決してこわがることはないよ。ママのむねで眠るときみたいに、イエス様におまかせすればいいんだよ」と、一言一言さとすよ うに言うと、うん、うんと素直にうなずきました。「それではイエスさまの子供だというしるしに、洗礼をうけるかい」とたずねると、はっきりうんと答え、病床受洗をいたしました。
最後まで意識ははっきりしており「恵里ちゃんはいい子だった、 優等生だったよ」と言うと、ちがうと首をふっていました。覚悟ができたのか、酸素吸入器を取ってくれという意味で、「もういい、もういい」と言いましたが、この方が楽だからねというと、そのままにしました。「イエスさま、イエスさま、と言っているんだよ」という声にうなづき、「ママ、最後までそばにいてね」という言葉を残し、家族の見守る中で息を引き取りました。
わたくしどもは、恵里の不安に正しく答えてやることができ、平安のうちに主のもとに送ることができましたことに、本当にやすらぎを覚えております。
今回の経験を通して、わたくしどもは、イエス・キリストが人間を救うために十字架につかれた意味と有難さを、身にしみて知らされました。キリストは若さのさかりに十字架上で死ぬ という、人生の最も苦しい経験をされました。しかも、三日目によみがえって、死をも克服する勝利の力、復活の生命を獲得されました。それゆえ、われわれの人生の苦しみ悩みをことごとく自分のこととして覚え、必要な助けを与えて下さいます。 わたくしどもも、この主を仰いで慰めを得つつ歩んできました。
ヘブル人への手紙に、こう書かれています。「さて、わたしたちには、もろもろの天をとお って行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時期を 得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(四章一四〜一六節)。これこそわれわれの生きるよりどころであります。
恵里は気分がよい時、母親に聖書を読んでもらっていました。「今朝も聖書を読もうというので、二人で礼拝、恵里の好きなさんびか『いつくしみふかき友なるイエスは』を歌う。 詩篇百篇、ヨハネ福音書一〇章、今日はずっと調子よく、本当に感謝」(四月五日)。「礼拝、『まぶねの中にうぶ声あげ・・・・・・』 (星の希望)、ヨハネ福音書六章三二-五九節。今日も聖書 を読んでと、恵里の方から言う」(四月六日)。この子も、苦しみの日々を、ぶどうの木につらなる実のように、苦しむ者の友なる主イエスに結びついて、生かしていただきました。そして、わたくしどもは、この経験を通じて、われらのためにしのばれた主の苦しみがいかほどで あるかを、身をもって知らせていただいたのであります。
もう一つ。わたくしどもは、このような苦しみを受けている人間が、どんなに多いかを改めて知らされました。人間の「底辺」をかいま見たように思います。そして、このような不幸を取り去るために尽力しておられる医師の先生方、看護婦の方々などの働きがどんなに尊いものであるかを知りました。どうか、このような悲しみを誰も味わわないですむ日が一日も早く来 ますように、心から祈っています。そして、われわれみんなが、この世の「底辺」にある人を 思いつつ、連帯して生きなければならないと思わされています。
恵里が死んで、枢とともに家に帰りました時、弟の謙が、「ぼく一人っ子になったね」と申しました。しかし、わたしはそうは思いません。
「家には人を減じたり、
楽しき団欒は破れたり。
愛するいつもの席に見えぬぞ悲しき。
さは天に一人を増しぬ、
清められ救われ全うせられしもの一人を」。
(S・G・ストック、植村正久訳)
One less in home,
One more in heaven.
天と地との所こそちがえ、わたしたちの家族は、主イエス・キリストにとりなされて、今も四人であります。
恵里が小さかったころ、迷子になったことがあります。小出夫人が、交番に保護されていたのをつれて帰ってくださった時、恵里は案外おちついていて、「よかった」といいました。自分のことを言っているのかと思っていると、「ママがよかった」というのです。ママが安心しただろうからよかったというわけです。主のみ翼のかげにある恵里のことで、わたくしどもがあまり悲しむことは、恵里の本意ではないでしょう。目を上げて主を仰ぎつつ、主に支えられて、これからの歩みをつづけたいと存じます。」
(2026.2.18)
- 「Google AI Studio 超入門」掌田津耶乃著 秀和システム(ISBN978-4-7980-7257-9, 2024.6.10 第1版第1刷発行)
出版社情報・目次。基本的に、Google AI Studio(参考:Google AI Studio HOME)(「Gemini Pro を利用する」という点だけに機能を絞って作られた AI 利用サービス。アクセスしてその場で Gemini Pro を使ってプロンプトを実行できるだけでなく、Gemini Pro を利用したプログラム開発を簡単に行えるようにしてくれる。(p.11))の(Python, JavaScript, Node.js, Dart (Flutter), Go, Android, iOS などから利用できるライブラリを通した)利用の仕方が書かれており、サンプルコード(Source Code) も入手できるので、入力は最小限で、実行可能である。(Google AI Studio は、一日あたり 50リクエストまで無料。)わたしは、実際には、一部しか実行していないが、今後、少しずつ理解しながら、実行していこうと思う。リンクから目次を見ることができるが、簡単な紹介が1章にあり、2章では、Terminal から curl を使って、AIPI を動かす方法、3章では、pytyon で、googlegenerative-ai を動かす方法、4章では、Webpage から動かすために、まずは、css を簡単に使える bootstrap の説明とともに、Google AI JavaScript SDK を使う方法が書かれている。5章では、Node.js で、GoogleGenerativeAI を使いこなす方法が解説され、6章では、Express サーバーを構築し、REST で AI にアクセスすることなども書かれている。7章では、マルチモーダルとして画像編集のことが少し書かれ、8章では、Embedding について書かれている。Code Editor も、Google Colab で、Python を動かしたり、Visual Studio Code で、編集するので、簡単にできる。使いこなすのは、自分で勉強しないといけないことも多いが、何を勉強すれば良いかもわかるという意味で、よい本だと思う。予備知識は、Shell, HTML, Python の基礎ぐらいだろうか。
(2026.2.23)
- 「自由(下)FREIHEIT」アンゲラ・メルケル Angela Merkel 著 長谷川圭・柴田さとみ訳 KADOKAWA(ISBN978-4-04-113633-1, 2025.5.28 初版発行)
出版社情報・目次。リンクにもあるが、扉裏から本書について引用する。「アンゲラ・メルケルは16年にわたりドイツ政府の首長としての責任を担い、その行動と態度で、ドイツ、ヨーロッパ、そして世界の政治をリードしてきた。メルケルは本書を通じて、1990年までの旧東ドイツ、そして1990年からの再統一されたドイツというふたつの国家における自身の半生を振り返っている。東ドイツ出身の彼女が、どうやってCDUトップの座に躍り出て、統一ドイツ初の女性首相になれたのか? なぜ西側諸国で最も影響力の強い政府首脳のひとりに数えられるようになったのだろうか? 彼女はいったい何をしたのか?本書のなかで、アンゲラ・メルケルは首相府での日常に加え、ベルリンやブリュッセルやほかの場所で過ごした、極めて重要かつドラマチックな昼や夜について言及している。国際関係における長い変化の流れを描写し、グローバル化された世界で複雑な問題を解こうとする現代の政治家がどれほどの重圧にさらされているのかを明らかにする。読者を国際政治の舞台裏に招待し、個人間の会話がどれほどの影響力をもち、どこに限度があるのかを示す。アンゲラ・メルケルは対立が激化する時代における政治活動の条件を振り返る。彼女の回顧録を通じて、読者はほかにない形で権力の内側を垣間見ることができるだろう。本書は「自由」への重要な意志表明だ。」さらに、裏扉に、本人の紹介がされている。「アンゲラ・メルケル ANGELA MERKEL ドイツ連邦共和国の最高権力の座に就いた最初の女性として2005年から2021年まで連邦首相を務める。1954年にハンブルクで生まれ、ドイツ民主共和国で育った彼女は物理学を専攻し、博士号を取得したのち、1990年にドイツ連邦議会入りを果たした。1991年から1914年までは女性および青少年問題担当大臣、1990年から1998年までは環境・自然保護・原子力安全担当大臣、2000年から2018年まではドイツ・キリスト教民主同盟の党首を務める。2021年に政治活動から引退した。」とある。非常に賢い、人間的に立派な人物であるが、同時に、それでも多くの批判を浴び、世界の舵取りの評価は難しく、歴史的評価については、これからということなのだろう。知的な視点だけではないが、やはり見える世界は、限られているのかも知れないと感じる。以下は備忘録。「1989年11月9日のベルリンの壁崩壊によって生まれたものは、今こうして20周年を迎えた。だが、解決すべき新たな問題はじゅうぶんすぎるほどに山積している。前夜にベルリンのホテル・アドロンでの会議の席で、ヘンリー・キッシンジャーはいみじくもこう言ったものだ。『しかし、どんな問題の解決にも、必ず新たな困難への切符がついてくる』」(p.42)「翌朝は、朝食のため7時半に集まった。私はいくぶん落ち込んだ気分で席についた。これから先どう進めばいいのか、わからなかったからだ。朝の挨拶を交わしたのち、ヴァイトマンがこう切り出した。『もう一度よく考えてみました』。彼は前の晩に、ギリシャ、ポルトガル、スペイン、イタリアの国債のうち今後2年間で償還期限の延長が必要になるものの総額を計算したのだという。この総額をちょうどカバーできるだけの『救済の傘』を広げればいいというのが、ヴァイトマンの意見だった。彼はその総額を7500億ユーロと見積もった。この傘を出る分については、被救済国の側が構造改革を行うという義務を負うことと引き換えに支援を行えばいい。私は顔に笑みが広がるのを感じた。これなら解決策になりそうだ。コルセピウスが口を開いた。「イェンス、そいつはたしかに筋が通っているように思えるな」。私たちはすばやく話し合い、ヴァイトマンのこの提案を欧州の主要関係者と、何よりもショイブレ財務相に伝えることで合意した。まずはECBのトリシェ総裁に電話をして、この提案に賛成かどうかを探るべきだ、私はヴァイトマンにそう提案した。トリシェ総裁からは、私がクレムリンに向けて発つ前に前向きな返事が返ってきた。おかげで、出発前にさらにショイブレに電話をかけることができた。7500億ユーロという甚大な額に短い驚愕のため息を漏らしたのを除けば、ショイブレもこの案に納得してくれた。」(p.57-58)「私たちは誰もがこの4年間、市場の投資家からの圧力に嫌と言うほどさらされ、それに抗ってきた。私はほぼ毎日のように、政治的に理にかなった行動をとることの難しさを経験させられた。市場の投資家のように、得にならないと思ったらさっさと投資をやめればいいというわけにはいかない。もちろん、これに関して言えば、私が早々に譲歩して、ギリシャやポルトガルやスペインやイタリアに厳しい財政緊縮策や経済改革を要求するのを諦めればよかったのではないかという疑問はつねに存在する。これらの国々、特にギリシャでは、私の評判は完全に地に堕ちた。さまざまな改革によって特に苦しむのは、低収入の人々だ。それは疑うべくもないことだった。しかし、困窮した国々に財政規律と競争力強化を求めることを諦めたら(そうしなければ自党や連立政権のあいだで過半数を確保することは不可能だったという点を除いても)、私は心から納得してこの救済策に合意はできなかっただろう。共通の通貨を望むのであれば(私もそれを望んでいた)、そして同時にユーロ圏各国がそれぞれ独自の税制、経済、社会政策を営むのであれば(リスボン条約はそう定めている)、共同で定めたルールをすべての国が守るのだと互いに信頼し合えなければならない。私はそのために力を尽くしてきた。多くの時間もかかった。だが、そうしなければ、残る選択肢は被救済国への無条件の保証で、それはユーロ圈の債務を共同で負担することへの第一歩となりかねない。法的な問題を別にしても、そうなれば遅かれ早かれ通貨ユーロへの支持は失われていただろうと、私は深く確信していた。言い換えれば、私の決断した道と比べて、そのほうがユーロはより大きな危機に瀕していたということだ。さらに言い換えて、かつて起こったあの言葉の解釈をめぐる論争を再び持ち出すならば、それは私がドイツ連邦共和国の連邦首相として責任をもって選べるような『合理的な』選択肢ではなかった。そうした選択は、2005年11月28日と2009年10月28日に行った就任宣誓に対する私の理解と、けっして相容れなかっただろう。」(p.65-66)「2019年1月10日、私はギリシャのピレウスのシーフード・レストランで、チプラス首相と夕食をとっていた。そして、あの2015年7月の出来事をあらためて振り返った。当時リシャがユーロ圏にとどまれるかどうかは、まさに紙一重のところだった、そう言う私に対して、チプラス首相はこう説明した。あのときは、新政府は憎きトロイカから逃れるために、あらゆる手を、本当にありとあらゆる手を尽くしたのだということを、国民に納得できる形で示す必要があったのだ、と。そのうえでユーロ圏の他の国々からの支持が得られなかったことで、結局これは通貨ユーロに対するギリシャの姿勢の問題だということがはっきりした。そして、ギリシャ国民の大多数は支援プログラムには反対でも、通貨としてのユーロは失いたくなかったのだ。チプラス2015年9月に前倒しで行われた総選挙で再選を果たしたことも、その表れだった。ユーロの力が勝ったことが、証明されたのだ。」(p.77)「記者会見用の発言メモを手に、私はベアーテ・バウマンのオフィスに向かった。いくつかの点について彼女とふたりで話し合うためだ。私が会議用の丸テーブルの前に座ると、デスクで書類を処理していた彼女もこちらにやってきて傍に座った。『ようやくギリシャの問題を片づけたと思ったら、またすぐに次の難題がやってくるなんて』、私は不満をぶちまけた。『でも、まあいいわ!今回だって、私たちはどうにかしてやり遂げます。私たちならできる、別の件でもできたのだから』バウマンはじっと私の言葉を聞いていた。そして、こう言った。『そのとおりです。今おっしゃったとおりのことを、記者会見でも伝えればいいのでは?』私は彼女を見つめ、そして考えた。物事はときにとてもシンプルだ。たしかに、彼女の言うとおりだった。このメッセージを発信すれば、人々を勇気づけることができるし、同時に、私自身がこの課題の重大さを理解していると示すことができる。そうでなければ、こんなことを言う必要はないのだから。私は重要な表現だけを手書きで発言メモに書き入れた。『ありがとう。では、またあとで』。私は彼女に別れを告げ、自分の執務室に戻った。記者会見の場で、私は自分の考えを述べた。ハイデナウでの事件を受けて、まず、人間の尊厳は不可侵であると定めたドイツ基本法第1条の意義について強調する。『ドイツ国民であるかどうか、どういった理由でどこからこの国にやってきたのか、最終的に難民申請が承認される見通しがあるかどうかにかかわらず、私たちはすべての人に対して、その人の人間としての尊厳を重んじます。他者に暴言を吐いたり、攻撃したり、宿舎に放火したり、暴力をふるったりする人々に対しては、法治国家として断固たる姿勢で立ち向かいます。憎悪を煽るデモを呼びかける人々と戦います。他者の尊厳を疑問視するような人々を、けっして許しません』。続いて私は、政府が計画続行のために取り組み、7月にすでに閣議で合意された数々の措置について説明した。国内において最も重要なのは、難民申請の処理の迅速化、申請を却下された難民の母国への早期送還、地方自治体への支援、連邦、州、地方自治体間での公正な費用配分、そして、住まいや就労の長期的な展望と統合のためのより良いサービス提供だ。一方、欧州および国際的な観点からは、欧州内で難民の受け入れを公平に分担すること、そして難民を生み出しているそもそもの原因に対処することの重要性を強調する。その前に、私は強くこう主張した。『端的に申し上げます。ドイツは強い国です。私たちはこれまでにも多くのことを成し遂げてきた、だから、私たちならできる!この思いを、これらの事柄に取り組むうえでの原動力としていかねばなりません。私たちならできます。そして、たとえ困難が立ちはだかろうと、これに立ち向かい、乗り越えていかねばなりません。連邦政府はまさにそれをやり遂げるため、州および自治体と力を合わせて、できることはすべて行っていきます』この『Wir schaffen das (私たちならできる)』というたった3語の平凡なフレーズによって、私がその後何週間、何か月、何年にもわたって――それどころか、一部からは今に至るまで批判されることになるなどと、もし当時誰かに言われていたら、私はきっといぶかしげに相手を見つめ、『なんですって?』と訊き返していただろう。『私たちならできる』という表現は、まるで私が世界中のすべての難民をドイツに受け入れようとしているかのように誤解される可能性がある、だからそんなことは言うべきではない? 私には、そんなふうにはとても考えられなかった。これまでの人生でいったい何度、さまざまな事柄について、言い方は多少違えど自分たちならできると口にしてきたことだろう。その点で、2015年8月31日のこのとき、私はもちろんはっきりと理解していた。この3語の言葉を口にしただけで今目の前にしている問題を解決できるわけではないことも、自分には助けが必要なこともだ。けれど、この3語は、私の深い信頼を示す言葉だった。この国には私と同じように考え、感じる人々がほかにも大勢いると信じ、その人たちを勇気づけようとする言葉だった。そして結局、私のこの信頼は裏切られることはなかったのだ。」(p.147-148)「その襟元には『Refugees welcome (難民歓迎)』と書かれたバッジが付けられていた。彼もまた明らかに、ある感情に胸を満たされていたのだ。その感情はやがて『Willkommenskultur (歓迎する文化)』という言葉で表現されるようになる。政府と野党のあらゆる相違にもかかわらず、この日の連邦議会での討論を貫いていたのは、まさにその感情だった。」(p.158)「CDU/CSU連邦議会議員団長のフォルカー・カウダーとCSU同州議員団長のゲルダ・ハッセルフェルトは、私のこの意見にはっきりと賛意を示してくれた。フォルカー・カウダーは2018年秋に公職を去るそのときまで、自会派内のあらゆる反対にもかかわらず、難民政策に関して私の最も精力的な支援者のひとりであり続けた。プロテスタントのキリスト教徒である彼にとって、CDUのC(『キリスト教』)は、私たちのもとにやってきた人々を尊厳ある人間として扱うことを義務とし、心からそれを重視することを意味していた。そのことに対して、私は今日に至るまで彼に感謝している。」(p.158)「続いて私は、自分が真に懸念している点について切り出した。アメリカがパリ協定離脱を通告したことについてだ。具体的な名前は挙げずに、私は尋ねた。ある重要人物の一団の中で根本的な意見の隔たりがある場合、猊下ならどうなさいますか、と。教皇は私の言わんとするところをすぐに理解し、簡潔にこう答えた。『曲げて、曲げて、曲げて、けれど折れないようにすることです』。私はそのイメージが気に入った。教皇に向けて、言われた言葉をくり返す。『曲げて、曲げて、曲げて、けれど折れないようにする、ですね』。この精神を胸に、私はハンブルク・サミットでパリ協定とトランプをめぐる問題の解決に取り組むことになる。ただ、それが具体的にどのような形をとることになるのか、このときはまだ明確にはわかっていなかった。」(p.242-243)「政治面では、気候変動に関して『1対1』と呼ばれる決議が採択された。18の国々とEUは首脳宣言の中で、『我々は、パリ協定から離脱するというアメリカ合衆国の決断を承知する』としている。これに続いてアメリカの立場が記されたのち、次の段落にはこう記された。『それ以外のG20諸国の首脳は、パリ協定が不可逆的なものであることを宣言する』。私たちは、ドナルド・トランプとそれ以外の世界との隔たりを包み隠すのではなく、はっきりとそれに言及する声明を全会一致で採択することができた。このような決議文書は今までになかったものだ。これまでであれば、共同決議には各国が共通して合意できる最小限の内容が記されるのが普通だったからだ。私は今回のこの結果を、悪いなりにベストの解決策だと考えていた。私たちはすべてが完全に『折れて』しまって首脳宣言も出せないような状況になる前に、『曲げる』のをやめたのだ。気候変動対策というテーマの重要性を、圧倒的多数の国々はしっかりと認識していた。」(p.244-245)「倫理委員会の示した意見のうち、私にとって特に印象深いものがふたつあった。第一に、彼らは日本における津波とその影響について、『問題の中心となるのは想像できる物事ではなく、むしろ想像できない物事である』と結論づけている。これはまさに、この地震によって私の中で揺るがされたものを的確に言い表していた。第二に、倫理委員会は、リスク評価は単に健康および環境リスクだけに限定されるものではないとして次のように論じている。『ドイツ国内で当然問題となるであろう、社会的雰囲気の汚染によって生じるさまざまな結果もまた、倫理的判断の対象とする必要がある』。ここで主題に挙げられているのはまさに、私が環境大臣時代にエネルギー・コンセンサス対話で取り組んできたことだった。」(p.255)「この本の執筆中、私は当時保管していたある記事を見つけた。2019年1月2日付の『南「ドイツ新聞」紙に掲載されていたもので、偶然にも、私が展示会でカイロスの像を手に入れた3日後の記事ということになる。当時その内容に胸を打たれた私は、記事をとっておいたのだ。「退場のとき」と題されたそのエッセイの中で、著者のライナー・エアリンガーは、ふさわしいタイミングで何かをやめることがいかに難しいかを論じている。彼もまたカイロスについて触れ、こう問いかけていた。「政治家にとって、やめることは特に難しいのではないか?」。エアリンガーは、ハンナ・アーレントが1958年に発表した代表作『人間の条件』を紹介する。アーレントはこの著書の中で、「労働」「仕事」「活動」を人間の3つの基本的行為であると説明した。労働は生計を立てるための行為、仕事は何かを制作する行為、そして活動は「人間どうしの相互のやりとり」であるとエアリンガーはまとめ、こう書いている。したがって、活動は政治的行為のまさに本質なのだ』。彼は最後にこう締めくくる。『政治の世界に限らず、やめることもまた活動なのだと認識することが、なおさら重要になる。やめるという活動は、終わりを迎えることになる任務の一部であり、自らの人生の一部なのだ』。あのころの私も、まさにそのように感じていた。」(p.318)「エピローグ:私にとっての自由とは? 私は、個人としても、政治家としても、生涯この問いについて考えつづけた。私にとっての自由とは、自分の限界がどこにあるのかを知り、その限界に挑むことを意味する。私にとっての自由とは、学ぶことをやめず、立ち止まることもなく、政治の世界を去ったあとも、前進しつづけられる状態を意味する。私にとっての自由とは、人生において新しい章を始められることを意味する。本書の執筆もその一部であることが、創作に要した2年という年月で明らかになった。私は新たな限界に挑むことになった。5年や10年程度でも、過去の出来事を表面的になぞるだけでなく、真剣に思い出し、確かなあるいは不確かな記憶を事実と突き合せながら検証しようとしたことがある者は、人間の記憶がいかにあいまいで、現実ではなく自らの期待や希望、あるいは願いを反映しているかを知っている。記憶をたどるだけで、すでに大変な作業だった。しかも私の場合は5年や10年ではなく、数十年をさかのぼる必要があった。DDRで生きた最初の35年、幼少時代と青春時代を振り返るのは、刺激的な経験だった。同時に、1990年までは独裁と不自由と不正の条件下で暮らし、1990年からは民主主義と自由のなかで生きることが、私にとって何を意味していたのかを説明する言葉を見つけなければならなかった。執筆を通じて、私は自分の新しい側面に出会った。たとえば、本来の私は人との結びつきが必要な人間であるにもかかわらず、本書を書くためには、誰にもそして何にもじゃまされたくなくて、一時的に完全に引きこもらなければならなかった。自由には、それまで知らなかったことに取り組む勇気が必要であることを、他人に対して、そして何より自分自身に対しても、正直でなければならないことを、今回改めて理解した。この認識を、私はすでに2019年にハーバード大学での名誉博士号授与式でも、未来ある学生たちに伝えていたのだが、今回、新たな形で身をもって経験したのである。自由には、何かを手放さなければならないことも、何かを手放すことが許されることも含まれる。本書の執筆は、私にとってはこの“手放す”という行為のひとつの形だった。まるで今まさに経験しているかのように過去を振り返りながら、同時に今の視点からそれらの出来事を分類し評価するのは、ときに難しい試みだった。そうかと思えば、執筆しながら心の充実を感じることもあった。そんなとき、私は何かを手放して、新しい何かを始めたと感じられた。まるで、退任式典の2曲目として演奏された曲の一節にあるように、『まったく新しい奇跡が起こって、私を古いものから引き離し、新しくしてほしい』と思えた。この本を書きながら、私はいま一度、言葉について考えた。特に、私も含め、政治家が使う言葉について。政治家は、次の厳しい質問が飛んでくる時間をなくすために、質問をはぐらかしながら時間を埋めようとするきらいがある。理解しやすい文章の代わりに、不完全なフレーズを頻繁に口にする。もちろん、ほかのあらゆる職業と同じで、政治にも専門用語がある。これは避けられないことであり、どうすることもできない。それでもなお、今の私はインタビューに応じる、あるいはそのほかの公的な機会で発言する政治家たちの言葉を聞くのが難しいと感じることがある。彼らはたくさんの言葉を発するが、何も言わない。改めて指摘しておくが、私も以前は同じようなことをしていた。しかし今、政治活動を離れ、本書のためにさまざまな状況や文言を振り返ってきた私は、特に若い政治家たちに、具体的な質問に具体的に答える勇気をもってもらいたいと思う。そうすることで、自分が伝えたいと思っているメッセージは確かに広がることだろう。このことは、デジタルの可能性ならびにいわゆるソーシャルメディアの影響で、かつてないほどに真実が嘘と、嘘が真実と呼ばれ、この状況が民主主義社会においても指導的な立場にある人々から悪用されている現在において、特に重要になる。しかし真の自由とは、自分個人の利益だけのためではない。自由は遠慮や自責を知っている。真の自由は、独裁者や不正などといった何か"から"の解放だけでなく、隣人、コミュニティ、公共などといった何かの“ため"の責任とも結びついている。自由には民主的な条件が欠かせない。民主主義なくして、自由も、法治国家も、人権の尊重もありえない。自由の下に生きたいのなら、対内的にも、対外的にも、民主主義を脅威から守らなければならない。私たち全員が協力すれば、力を合わせて立ち向かえば、必ず守れる。一人ひとりが自分のために、そして、みんながみんなのために。ひとりのための自由など存在できず、自由はすべての人のためでなければならないのだから。」(p.370)
(2026.2.23)
- 「外務官僚たちの大東亜共栄圏」熊本史雄著 新潮選書 新潮社(ISBN978-4-10-603926-3, 2025.5.20 第1版発行)
出版社情報・目次。違う視点から、大東亜共栄圏について迫ると思われるタイトルに興味を持ち読んでみた。いくつも賞をとった本のようだし、裏表紙にも「小村寿太郎から幣原喜重郎、重光葵まで、国際派エリートたちが陥った「失敗の本質」を外交史料から炙り出す。」(上記出版社情報参照)とあり、あとがきには新潮選書編集長の「つまりそれは、日本版の『ベスト&ブライテスト』ですね」ということばも記されているが、あまりに軽すぎると思った。まだ、国際派エリートが育っていない時代、それも内容も、デービッド・ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』になぞらえるのはいかがなものかと思った。すくなくとも、多様な視点からは、書かれていない。受賞は、外務省の文書を丁寧に掘り起こしたことに対するものなのだろうが、裁判にかけられたひとがいろいろな背景のもとで一言二言言ったことを記録したレベルをこえないように思ってしまった。おそらく、わたしがそのように感じたのは、わたしの好みと合わなかったというだけなのかも知れないが、職業軍人の視点からだけでなく、外務官僚のトップの人たちの視点を提供したということであろうが、今後、さらに深められ、かつ、様々な視点から検証がなされることを望む。情報としては、登場人物の何人かについての紹介情報が興味深かった。このような情報がたいせつな世界なのだろう。小村寿太郎(一八五五年生/八〇年司法省・八四年外務省出仕)、小村欣一(一八八三年生/一九〇七年第一六回外交官及領事官試験合格)、幣原喜重郎(一八七二年生/九六年第四回試験合格)、重光葵(一八八七年生/一九一一年第二〇回試験合格)、有田八郎(一八八四年生/一九〇九年第一八回試験合格)、松岡洋右(一八八〇年生/一九〇四年第一三回試験合格)。以下は備忘録。「『まえがき』で述べたように、本書でいう『大東亜共栄圏』とは、権益の拡張・確保・維持をめぐって外務官僚により模索・継受された思想のうちにある、最大公約数的な秩序観(東アジア世界観)のことである。あるいは、別な言い方をすると、〈国益〉追求に邁進した外務官僚たちの思想的営為が、様々に折り重なり多くの要素をまといながら最終的に辿り着いた価値観、ということになろう。本書では、さしあたって、『大東亜共栄圏』をこのように定義づけたい。それは、次のような系譜をたどった末に、一大アウタルキー圏の建設理念となり、一九四三年の大東亜会議の開催理念にまで至った。源流は、日露戦後の満蒙権益の取得である。これまでも述べてきたように、日露戦勝によって満洲に権益を得たことが、日本外交にとって最初の画期となった。たしかに日清戦争の勝利によっても、台湾、澎湖諸島という領土を獲得して版図が拡がり、賠償金も得た。だが、前述のとおり、日本外交にとって大きな障壁となったのは、権益擁護と対英米協調という二つの外交課題の両立を迫られたことである。それは、日清戦後ではなく、日露戦後になって初めて、日本外交が味わった試練だった。本書が、日露戦争勝利による満洲権益の取得を重視して、そこから話を説き起こすゆえんである。」(p.18)「遼東半島を取るのは当然だし、満洲は施政改革及び善政の保障の下に支那に還附するのだと云うような事柄は、ちゃんとルーズヴェルトに吹込ませてある。償金も取るのが本当と思うと、之はいけないぞとル氏に言わせないようにした。和戦何れの段階に於ても飽迄露西亜と日本だけに限る。そうして置いて日本に都合の好い時には、外部の勢力を巧に我が目的貫徹に利用しよう。而して其の利用の目的を十二分に達したのが小村さんの外交である。」(p.45)「むろん、言説や思想としての『地域主義』は、なにも一九三〇年代になって初めて唱えられたわけではない。三谷太一郎が指摘しているように、日清戦争前にはアジア諸国との『水平的統合』を志向し、西洋列国への対抗概念として唱えられていた地域主義があった。それが、日露戦争、さらには満洲事変を経るなかで、日本を覇権とする『垂直的統合』を追求した地域主義へと変異していったとされる。有田の主張は、以下で確認するように、国際市場がブロック化に向かっていることを踏まえ、自国で市場や資源をまかなえない小国こそ国家生存のため経済ブロックを形成する必要がある、これでたから、国家生存に向けて、中国、満洲国との間で経済ブロックたる広域経済圏を形成する必要がある、というものだった。それは、『東亜新秩序声明」を、外相としての立場から有田なりに捉え直した、国家生存を企図した戦略論でもあったのである。」(p.184-185)「有田が日満支経済ブロック建設に積極的だったのには、もうひとつ別の理由がある。それは、在オーストリア公使時代に『汎ヨーロッパ主義』と出会っていたことだった。『汎ヨーロッパ主義』とは、南北アメリカ、イギリス帝国およびソ連等と対等に競争するために、ヨーロッパ諸国がこれまでの一切の行き掛かりを捨て、ひとつの大きな地域として結束しなければならないという思想のことである。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Coudenhove-Kalergi)の唱えた、この『汎ヨーロッパ主義』は、国際連盟に代わる何らかの国際機関を模索する点に特徴があった。そのため、『地域主義』論者のなかには、それをアジアに適用し、『汎アジア主義』を構想した者もあったとされる。それは、『モンロー主義』を認めた国際連盟規約第二一条を手掛かりとして、連盟の改組を図り、日本を『東亜の安定力』とする国際的承認に基づいて新しい地域的『平和機構』を東アジアに作り出す、というものだった。クーデンホーフの論文『日本のモンロー主義』が一九三二年一月の『国際知識』に翻訳・転載されたことは、日本のアジア・モンロー主義論者へのある種の安堵感と自信を与えたと思われる。なぜなら、クーデンホーフは、日本の『東亜モンロー主義』を、アメリカの『モンロー主義』、英帝国の自決権に次ぐ『第三のモンロー主義』と位置づけ、それが『汎ヨーロッパ主義』と両立すると述べているからである。有田も、これに刺激を受けたひとりだった。有田は、一九四〇年五月に行なわれた、汪兆銘政権の立法院長だった陳公博との会談で、クーデンホーフの論に賛意を示して、次のように述べている。すなわち、『余も右の[クーデンホーフの引用者註]説には賛成にして、今次事変に於て日本が所謂東亜新秩序の建設を主張し、日満支の互助連環関係を樹立せんとするは即ち東亜の連合を図らんとするに外ならず』と。そうした有田によって構想された広域経済圏とは、世界を米・英・ソ・欧州・日満の五つのグループに分け、このグループ間での経済や文化の交流を通じて、国際的な協調関係を構築しようというものだった。要は、五グループで棲み分けながら世界市場を管理しあうことによって、共存可能性を担保しようとしたのである。それは、かつての『東亜新秩序声明』が依拠した『共同防共』という外交上の価値とは異なる、地政学的な価値観から唱えられた新たな秩序論だった。ただし、この棲み分けにはある前提が必要だと、有田は考えていた。その前提とは、1. 日中関係を改善して経済提携を図ることであり、2. そのために、中国市場から英米を排除することだった。有田が中国市場からの英米排除を訴えたのは、英米による中国支援が中国国民政府の反日的態度を促している、と考えたからである。この点は、重光の『東亜』概念と近似していた(第五章参照)。『主義』との遭逅は、有田が外務次官に就任する約一年前のことだった。外務次官として外交の舵取りを担う前段階で、すでに中国市場から英米を排除することを前提とした広域経済圏構想を抱いていたことになる。『門戸開放』『機会均等』主義を放棄し、それを英米に認めさせることが可能だという見立てが、有田の広域経済圏構想を支えていたのである。」(p.191-193)
(2026.2.25)