Last Update: April 18, 2026
2026年読書記録
- 「アルカイダ ビンラディンと国際テロ・ネットワーク AL-QAEDA」ジェイソン・バーク(Jason Burke)著 坂井定雄・伊藤力司訳 講談社(ISBN4-06-212476-9, 2004.9.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。著者については、「1970年ロンドン生まれ。英国の『ロンドン・オブザーバー』紙、チーフ・リポーター。取材記事での受賞歴もある気鋭のジャーナリスト。10年にわたって中東、南西アジアを取材した成果をまとめた初の著作。」とある。現地での丁寧な取材が、ビンラディン、アルカイダ、イスラム過激派を丁寧に描いている。ほとんど、詳細を知らなかったが、評価はあまり書かないことで、かえって説得力もある。オバマ大統領のときに、ビンラディンは、殺害されているが、そのビデオ中継に違和感を持ち、しっかりと背景を理解しないといけないと感じた。むろん、背景には、ソビエト連邦共和国のアフガニスタン侵攻の失敗。人々の注目を集めた、2001年9月11日のニューヨークでのテロ、その後の、アメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻、タリバンを政権から追い出すが、結局、アメリカは、アフガニスタンから撤退、すぐタリバンが政権を取り戻す。このような歴史の背景を理解するのにも、基本的な本だと思う。ビンラディンという一人のひとに焦点を当てるのは間違っているのだろう。それゆえに、今後も、様々な形で、イスラム過激派のテロは起こるのだろうと思った。難しい問題の最初の部分を学ぶことができた。と言っても、一回読んだだけでは、まったく不十分である。この本ももう一度読みたいし、他の本からも学びたい。以下は備忘録:- 「月日が経つにつれて、『反テロ戦争』やその対象について発表された無数の記事や本も、私の疑問 に答えるものは何もないことが分かった。私は当時の主流になりつつあった、ある誤解のことが次第に気になっていた。その典型はビンラディンが『アルカイダ』と呼ばれる団結した構造的組織を率いているという考え方だった。私がこの仕事をしながら見つけた証拠はどれも、『悪の帝国』であるアルカイダが邪悪な首領を頭に据えているという概念と一致しなかった。こうした概念は、その首領と子分たちをやっつければ問題は解決するという意味では結構な考え方だが、これが正しくないことは明白だ。正しくない結果、現行の『反テロ戦争』を進めるための討議の本筋がねじ曲げられた。反テロ戦争の戦略論は、イスラム過激派再生の根本原因についての筋道の通ったまともな視点が排されて、ハイテク兵器、軍事優先、根絶といった用語を操る『対テロリスト専門家』によって、ほぼ全面的に支配されてしまった。対テロ専門家は症状をいやすには有用かもしれないが、病原はなくせない。」(p.24)「まずアルカイダとは何か?消息に通じた西洋人に、アルカイダは何と思うかと尋ねるとする。多くはこう答えるだろう。一〇年以上前に、サウジアラビアのある富豪で宗教的狂信者が設立したテロ組織で、それが、訓練を受け、覚悟を決めた何千人ものテロリストを抱えるネットワークに急成長した。テロリストはどの大陸、どの国、どの市でも、首領ウサマ・ビンラディンの命令を待って待機しており、かれらの大義のために人を殺し、人を傷つけるのだと。良いニュースとしては、このようなアルカイダは存在しないことだ。悪いニュースとしては、今日世界が直面している脅威は、忠実な幹部に囲まれた軍団を擁する一人のテロ指導者より、もっとはるかに危険だということである。今日われわれが直面する脅威とは、新しくてそれぞれ異なり、複雑で多様、ダイナミックで変幻自在、その特徴を定義するのは実に難しい。」(p.29)
- 「アブダラー・アッザーム(1987):いかなる主義主張もそれを前進させるためには、また重い任務と大きな犠牲を高く掲げるためには、前衛を必要とする。地上ぬも天上にも、勝利を得るためには持てる全てを投じられる前衛を・・・・・必要としないようなイデオロギーは存在しない......。厳しく、終わりのない、困難な道のりが目的地に到達するまで、前衛は旗を掲げ続ける。何となればアラーが、前衛は前衛たるべきこと、前衛であることを身を以て示すべきことを、命じているからである。こうした前衛が、将来あるべき社会のための基盤(アルカイダ・アルスルパ)を形成するのである」(p.30)
- 「アルジェリアのGSPC、エジプトのイスラム聖戦、ウズベキスタン・イスラム運動、リビア戦闘集団などは、正当化されない誤った指導を受けているかもしれないし、恐ろしい、倫理的に許されない行為を犯しているかもしれない。しかしこれらグループが解決したいと願っているもろもろの苦しみは決して形而上のものではない。かれらの苦しみの感じ方は極端かもしれないが、現実に根ざしていることも事実だ。かれらはマニフェストの中で、七世紀の闘いの時や中世の思想家と同じように、現実の出来事、現実の人民、現実の問題と見なされるものに取り組んでいる。ビンラディンの説明は、イスラム史の一つの解釈をベースにしているようだが、かれの力の源泉は、ムスリム世界が現在抱えている社会、経済、政治の諸問題のためにかれが果たしている役割にある。学卒者の雇用がない、きちんとした住居がない、社会的流動性も食料も何もない····こうしたないない尽くしの原因は宗教のせいだと説明されても、それは宗教上の苦情ではない。それはあくまで、特定の宗教的世界観によって誇張された政治的な苦情である。」(p.63)
- 「『コーラン』と預言者のスンナ(善行・範例)への回帰に基づく改革運動は、イスラム史を通じて何度も繰り返されるパターンであった。次から次へと不和と分裂の波に見舞われたが、いずれも特定の社会的、政治的文脈に根ざしたものだった。初期に起きた分裂の例は、ムハンマドの死と同一の世紀に起きたスンニ派とシーア派の分裂である。それはイスラム共同体の指導者であるカリフーカリフには大きな軍事・政治権力が付与されるが、固有の宗教的権威はない――の指名に当たり、預言者の直系子孫がイスラム共同体にとって望ましい候補者として、指名されるべきかどうかをめぐって起き分裂である。分裂の起源は政治的かつ個人的なものだったが、後年は分裂が教義にまで及んだ(また多くの学者はペルシャ人とアラブ人の民族的差異も指摘している)。シーア派は、預言者の子孫以外の者をカリフに指名することが預言者の理想からの逸脱したがって腐敗だと考えた。やはり初期分派の例として、ハリジットすなわち『出て行った者たち』(アラビア語のハラジャが語源)もあった。このグループは急進的で厳格な平等主義を主張し、ムハンマドの後継者たちはムハンマドの真のメッセージを逸脱したと非難した。シーア派の過激派グループである暗殺教団も分派の一例だ。何世紀にもわたって多くのムスリム反体制派は、イスラムのメッセージの腐敗にウラマーが関わってきたと非難してきた。西洋ではイスラム聖職者の影響力は軽視されがちだが、一般に聖職者は、邪悪な世俗エリートに取り込まれた利己的なパートナーと見られる場合が多い。現代の急進思想家にとって重要な反体制思想家として、ビンラディンやその他現代イスラム過激派がよく引用する一四世紀の保守的イスラム学者、タキ・アルディン・イブン・タイミーヤがいる。イブン・タイミーヤは現代スンニ派革命思想の父と見なされている。一二五八年バグダッドがモンゴル人によって陥落したことは、当時の信心深いムスリムにとって大変なショックだった。何世紀にもわたるイスラムの軍事的拡張と政治的・文化的優越性が続いたあと、カリフ帝国やイスラムが、不信仰者に征服されるなどということは考えられないことだった。同様なショックは、それから五世紀以上経ってからナポレオンによるエジプト侵略の時にも体験することになる。イプン・タイミーヤはバグダッドの敗北を、イスラム共同体すなわちウンマが、イスラム初期の聖典の教えを適切に守らなかったせいだと論じた。その結果、イブン・タイミーヤはダマスカスへの亡命を余儀なくされ、生涯の大半をダマスカスの獄中で過ごすことになる。イスラムが内包するいくつかの重要な概念が、今日も強く鳴り響いている。世界をいくつかのカテゴリーに分けること、例えばダル・ウル・ハルブ(戦争の領域あるいは戦争の家)とダル・ウル・イスラム(イスラムの領域)に分けることがその一例で、ビンラディンは何度もこの分割に言及している。もうひとつの重要な概念はマリーズ・ルースベンが指摘したムハンマドのパラダイムである。ムハンマドはメッカの富裕な支配者たちにメッカを追われた。それはムハンマドが唯一絶対神の権威を掲げて支配者たちの権威を認めなかったからであり、メッカの重要神殿だったカアバ神殿に収められた偶像類を崇拝しなかったからであった。それらの偶像は巨富を生む支配者たちの巡礼産業の象徴だった。イスラムを実践することができなくなったムハンマドは秘かにメッカを離れ、小人数の信者とともに当時はヤスリブと呼ばれていたメディナーに向かった。六二二年に行われたこの逃亡はヒジュラ(遷都)として知られているが、イスラム暦がムハンマドの誕生日や最初の啓示ではなく、ヒジュラを起源にしていることでもこの事件の重要性が分かるだろう。弾圧に直面した時には、コーランは逃亡することをはっきり勧めている。それに続く何年かの間、メディナ市民の疑惑とメッカの軍事力にはさまれたムハンマドは苦しい時期を送った。しかしかれは、六二四年のアルバドルの戦いでメッカを破り、その結果ついにメディナの人々を信服させて勢力を拡げた。かれは六三〇年にメッカへ凱旋し、その二年後に死亡する。ハリジットから暗殺教団やビンラディンに至るムスリム改革派は意識的にヒジュラを真似、『真の』ムスリムとして生きるためにかれらを迫害する社会から逃れ、ムハンマドのようにいつの日か勝利を目指して運動を進めるのである。」(p.69-70)
- 「モハメド・ビンラディンは、建設請負業者として身を立てるために懸命に働いた。一九三〇年代の初期アラビア半島で石油が発見されたことは、新国王アブドゥル・アジズが使える膨大な資源が入ることを意味した。国王はその多くを支配的エリート用、外国の賓客用、宮廷用の宮殿建設に使った(相当な額を宗教的施設の建設にも回した)。モハメド・ピンラディンは一九五〇年代初期までに、小さな建設会社を成功させていた。かれは地元の競争会社より大幅な値下げをして、急速にビジネスを拡大した。ある外国企業がメディナ・ジッダ間高速道路建設の仕事から撤退したことで大きなチャンスが訪れ、かれはその仕事を請け負った。一九六〇年代初期までに仕事は溢れるほどに舞い込み、ビンラディンは大富豪となり、ビンラディン・グループは成長し続ける巨大な建設複合企業グループになった。文字が読めないままで死んだモハメド・ビンラディンは、英国南アラビア保護領にあるタリムとい聖地の近くで生まれた。タリムはサラフィズムの根拠地である。かれはサウジアラビアで、この国の厳格なワッハーブ主義に改宗したようだ。かれは世界中のウラマーやイスラム指導者多数を、ジッダやメッカやリヤドの自宅に招いてもてなした。時には、アラビア半島巡遊の旅やアラビア半島に来て帰るウラマーたちに旅費も支給してやった。かれはイスラム慈善団体やイスラム運動団体に多額の寄付をした。また自家用ヘリコプターを使うことで、一日のうちにイスラムの三大聖地、メッカ、メディナ、エルサレムのアルアクサ・モスクで礼拝することができる、というのがかれの自慢だった。とりわけメッカとメディナを訪れることは、特別な満足をかれに与えたに違いない。というのは、巡礼者や礼拝者のために行った二大聖地の施設修復と拡張の工事契約が、中東一帯に広がるかれの会社の名声の源であり、それがまたサウド王家お抱えの建設業者であることを確認し、さらにかれをとてつもない大金持ちにしたからである。どれくらい金持ちであるかが、一九六四年に王位継承の争いでファイサル皇太子が勝利した時に明らかになった。国庫の管理がひどく杜撰で、新国王が役人のサラリーを払うことができないと判明した時、モハメド・ビンラディンが介入し、六ヵ月間の賃金を国王のために立て替えたのである。ウサマ・ビンラディンの母親、ハミダ・アリア・ガヌームはサウジ人でもワッハーブ派でもない。教養ある美しいコスモポリタンの女性で、シリア商人の娘である。彼女はサウジアラビア伝統のベールを嫌い、シャネルのパンタロンスーツが好みである。こういう姿勢と、外国人であり、モハメド・ビンラディンの一〇番目か一番目の妻であることなどから、ファミリーの中でのステータスは高くなかった。ハミダは夫の死後億万長者の大物と再婚したが、モハメド・ビンラディンは死後もハミダがジッダのパレス(宮殿のような邸宅)に住むことを許していた。モハメドの一七番目の息子であるウサマは、このパレスで大勢のファミリーや金の銅像、古代のタペストリー、ベネチア様式のシャンデリアに囲まれて成長した。ハミダや息子のウサマがファミリーに排斥されたという話はたぶんに誇張されているようだ。ウサマ・ビンラディンは一九五七年三月一〇日リヤドで生まれ、ほとんど会ったことのない父親がヘリコプター墜落事故で死んだのは、ウサマが一〇歳の時だった。ビンラディン家の内情について特色のあるレポートがある。それは一九九八年アメリカの公共放送PBSテレビに『ピンラディンに近い匿名の筋』から寄せられたものだ。それは多少びくびくした表現まじりだが、ウサマの子供時代の内面を良く伝えている。『父親はとても専制的な人物で、子供たち全員をひとつの屋敷で育てることにこだわった』『父親は厳しい家訓をつくり、子供たち全員に厳格な宗教的、社会的規律を守らせた・・・・・・同時に父親は海や砂漠への家族連れの旅を楽しんだ』『父親は子供たちを大人として扱い、若い時から自信を持つことを望んだ』ウサマ・ビンラディンは一九六八年から六九年にかけて、ジッダの西洋スタイルのエリート校、アルサーグ学校で一回一時間の英語レッスンを週四回受けた。教師たちはウサマについて『シャイで引っ込み思案だが上品で礼儀正しい』少年と形容し、『とてもきちんとした正確で良心的な』勉強ぶりだったと、褒めている。ローティーン時代のピンラディンがひどく宗教に凝っていたという材料はないが、ベイルートのナイトクラブで酒を飲んだり、バーガールをめぐってけんかしたとか、若さのあまりのご乱行というエピソードはほぼ間違いなく偽りだ。確実な情報を総合すれば、静かで真面目なこの若者が、よく言われるベイルートのクレイジーホース・ナイトクラブへ女遊びに行った、などということはあり得ない。ピンラディンが父の死亡に当たり、父の個人的資産をいくら相続したかは定かではない。非常に高い額がよく引き合いに出されるが、言われている三億ドルよりはずっと少ない額だったろう。サウジアラビアでは一家の資産を家族で分割しないのが普通である。父の死に当たり、通常は長男が家族全体のために資産を管理する。ビンラディン家の場合も、現金が分配された可能性はまずない。拡大し続けるビンラディン・グループの資産の大半は、株式や装備やビルや土地などの形をとっており、簡単に現金化することはできない。ウサマ・ビンラディンの取り分としては、せいぜい数百万ドルを使うことができる権利が割り当てられた程度であろう。」(p.90-92)
- 「ビンラディンが大学を卒業した一九七九年は、大変な出来事が相次いでムスリム世界を揺さぶった年だった。イスラエルとエジプトとの和平取引、イランにおけるイスラム革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、急進的ワッハーブ派によるメッカの大モスク占拠などである。それぞれの出来事は、ビンラディンのような人物には非常に大きな意味合いがあった。サダト(エジプト大統領)のユダヤ国家との和平取引は、アラブ民族主義政権の退潮(特に一九六七年と一八七三年の恥ずべき敗戦を経て)を集約する出来事だった。イランのシャー(王)モハメド・レザ・パフラビの退位は、この種の政権に何がなされるかを明白に示す例示だった。ソ連のアフガン侵攻は無神論の西洋からの脅威が迫っていることを強調するものだった。特にサウジアラビア国民にとって、この年一一月に起きた、強硬派の説教師ジュハイマン・イブン・サイド・アルウタイバと四〇〇人の急進派による、イスラムで最も神聖な神殿の占拠は、リヤドの王室に全く新しい光を投げかける出来事だった。」(p.108)
- 「若きビンラディンのこうした姿には、なるほどと思わせるものがある。こうした寛大さはたぶん父から学んだものだろう。父はいつも貧しい人に渡す札束を持ち歩いた人物だった。かれの周辺でともに戦った人は皆、ビンラディンがこういう父の話をするのを聞いている。中東では地位と身分のある人が多額な金を分配するのは予想の範囲内だが、ビンラディンの古い仲間は皆かれの恵み深さを口にする。ある者は、結婚のお祝いにビンラディンが一五〇〇ドルを差し出したという話をするし、靴や時計やお金を必要とする親族に、かれがすぐ現金を支払ったと話す者もいる。ビンラディンは中断を交えたペシャワール滞在中に、少なくとも一人のアフガン戦士に若干のアラビア語を教える時間を確保した。元戦士たちは、グループ討論の時にビンラディンが宗教的な物語をしたり、宗教的な歌を歌ったと言っている。ほとんどの者は、ビンラディンが一〇年前に先生たちから言われたように、シャイで静かな若者だったと口を揃える。しかし(神から与えられた)任務の感覚が芽生え始めていたことを示す兆候もあった。かれは会話の中でよくサラファッディンのことを口にした。サラファッディンとは一二世紀のクルド人将軍で、中東の全イスラム派閥を統一して十字軍を破った人物である。またかれはコーラン三六節の『スラヤシン』をよく引用した。それはコーランの心臓とも言われ、人間の道徳的責任と復興および審判の確実性を示している個所である。」(p.112)
- 「しかし近代化の一分野だけは一定の成功を収めた。それは教育の分野である。かなり低いベースからのスタートだが、教育の機会は急速に増えた。一九三三年のアフガニスタンでは国立学校の学生数は全部で一三五〇人、国立大学は存在しなかった。一九六一年までには国立学校生徒は二三万三八〇九人となり、約二〇〇〇人が上級学校に進んだ。五〇年代の一〇年間で高等教育卒業者は三倍増となった。アメリカからの援助はほとんど学校建設に使われた。ソ連はポリテクニック(技術専門学校)を、フランスはリセ(七年制の国立高等中学校)を運営した。これと同時に官僚と軍隊が拡大した。新しい学校制度の卒業生に職を与えるためと、政府が国民に保護を与える機会を増やすためだった。さらにソ連から学んだ中央集権型、国営型管理方式は多数の役人を必要としたという事情もある。」(p.121)
- 「長文で時として散漫なこの文書は、ビンラディンの目標と方法論を打ち出すため、それから九ヵ月間にわたって発表された一連の公開声明やインタビューの第一号だった。ビンラディンの短期目標はすぐ明確になった。この宣戦布告の大半はサウド家に対する、長文の厳しい非難であった。それは実は、約一年前にロンドンでビンラディンの仲間が発表したコミュニケ一七すなわち『ファハド国王への公開書簡』を書き直したものだった。唯一違っていたのは、サウジアラビア以外の読者にアピールするために、ビンラディンが初期ワッハーブ派の事績を多数引用したことである。
ビンラディンは宗教用語を使い、初期イスラム史やコーラン、ハディースを引用して、非常に特殊な、非常に現代的な苦痛を表現した。その中の四つの文章により、イスラム前史時代のアラビアにおける軍閥間の戦い、一九九三年のソマリアの戦い、一九八三年ベイルートの米軍に対する自爆攻撃、六二四年のバドルの戦いに触れている。かれは『ホラサン』の高いヒンドゥークシ山脈に帰ってきたと発表している。ホラサンとはアッバース朝期イスラムが拡張した偉大な時代に、現代のアフガニスタンの地をそう呼んでいた旧名である。ここで『世界最大の不信仰者の軍事力(ソ連軍)が破壊され、ムジャヒディンのアラー・アクバルの叫び声の前に超大国の神話は力を失った』とビンラディンは記している。ビンラディンは続ける。かれの母国が正しいイスラムの『道』を踏み外していることは『不正義』であり、『民間人、軍人、治安要員、政府当局者・・・・・・学生・・・・・何万人もの学卒失業者にも』不正義の影響が及んでいる。さらにビンラディンは言う。この『不正義』が及んでいるのは、賃金の低い者、借金を抱えた公務員、通貨リアルの切り下げ、『悲惨な状態にある公共サービス』特に『水道サービス』、『大商人や請負業者』に政府が勘定を支払わないこと等々である。ビンラディンによれば、政府は平和的手段による抗議を無視してきた。そのため唯一の代替策は暴力である、と。衛生設備に対する苦情と問題解決の要求とを混ぜこぜにし、しかも悪魔や専制に非難を浴びせるのは、全く自己を意識していないからだ。これは社会的不正義感に根ざした政治的マニフェストである。不正義は悪い政府の責任だとのマニフェストを、宗教上の神話を使って宗教用語で表現したものである。」(p.255-256)
- 「注意すべき重要な特徴は訓練基地内部の構造が、第一章で述べた『アルカイダ』現象と現代政治的イスラム主義内部に起きた三層分割を映し出していることだ。第一層は中核グループである。少数の固い決意の活動家たちで構成され、その多くはアフガン戦争の経験者であり、ビンラディンの周辺に集まっている。かれらは専門化した訓練基地の管理ポストや、専門基地を卒業した者たちを指揮する70役割に就いている。その次のグループは『ネットワークスのネットワーク』に結び付いている男たちで、かれらはそれぞれの国の個別グループに属していたか、あるいはその募集に応じて、訓練のためアフガニスタンに送られてきた。この連中の多くはボスニア紛争などの経験者だった。かれらのうち一部は、第一つまり中核グループによって『殉教作戦』に選抜される。その他の者は国に帰される。第三は、ハルダンなどの訓練基地を埋め尽くしている広範な大衆的志願者のグループである。圧倒的に若い男たちで、次第に恵まれない社会階層の出身者が増えている。かれらはアッザームの檄文や血の気の多い地方聖職者の説教、ビンラディン自身のメッセージなどに鼓吹されてやって来た、大砲の餌食(一般兵士)たちだった。かれらは『ある種の絶望的栄光に燃えて』訓練基地への道を発見した男たちである。」(p.269)
- 「声明文:民間人であれ軍人であれ、アメリカ人とその同盟者を殺すことは、ひとりひとりのムスリムに課せられた義務である。ムスリムはそれが可能な国ならどの国でもその義務を果たすことができる。それはアルアクサ・モスクと(メッカの)聖なるモスクを解放するためであり、かれらの軍隊をイスラムのすべての地から追い出し、敗北させ、いかなるムスリムをも脅かすことができないようにするためである。」(p.276)
- 「アメリカ政府に税金を払っているアメリカ人は誰でもわれわれの標的である。なぜならば、かれはムスリム国家に対するアメリカの戦争マシーンを助けているからだ・・・・・・抑圧者、犯罪人、泥棒、盗人に恐怖を与えるのは、人民の安全とその財産を保護するために必要なことだ。」(p.277)
- 「かれらと別れるとき、ラーマトゥラーは米国がアフガニスタンを爆撃するだろうかと訊いてきた。私はびっくりした。私は、ノー、かれらはそんなみっともないことはしないだろう、と答えた。かれが私の答えをもう一度確かめたあとー。事務所に戻った私は果物を買いにバザールに行った。もちろん、私は完全に間違っていた。私がそう答えたとき、米国の軍艦はペルシャ湾で攻撃態勢にあった。現地時間午前一〇時三〇分、米国はトマホーク巡航ミサイル約八〇基を発射した。うち三基がスーダンの薬品工場を破壊、残りは米国の情報機関がビンラディンと結びつけた、ホスト近郊ザワールヒリ周辺のアルバドルにある六ヵ所の訓練キャンプを攻撃した。」(p.281)
- 「かれらは、変化を求める人々の最前列にいることが多い。たとえその変化が、『正しい』黄金の時代をノスタルジックにイメージした、復古的な主張によって正当化されるとしてもである。かれらは、言語明瞭で、知性的で、やや国際的な男たちだ。かれらは大志を持ち、その大志が満たされないときに深い憤激を経験する。自分の希望を実現できないとき、かれらはそれを不正義だと思う。これらの問題を、国家の中で許されている政治的、社会的活動の枠内で解決する効果的な方法がなければ、かれらは別な道を探すことになる。急進的なイスラム過激主義がその一つである。」(p.419)
- 「私は現代イスラム・テロリズムの本質と、それを生み出すいくつかの原因を説明しようと試みてきた。すべては歴史的過程の結果であり、避けられなかったことは一つもないし、正しく判断され、正しく実行された政治によって、すべて対応できたはずのことだった。テロリズムを生み出す原因に次のように対応しなければならない――。・穏健なムスリム指導者たちとかかわりを持ち、支持しなければならない/・イスラム世界の信頼される、正統な政府には、イスラム主義者の有力な代表者が含まれることを、認めなければならない/・イスラムの硬直した傾向が、寛容な、複数受容的な傾向の代わりに拡がることに対しては、巻き返さなければならない/・抑圧的な政府は改革をしなければならない/・西側が好戦的な敵ではなく、相互繁栄のためのパートナーであるとイスラム世界を説得する、大規模なキャンペーンをしなければならない/・すべての政策は、どの段階でもその効果を注意深く検討し、イスラム世界の若者たちに与える逆効果を考慮しなければならない/『反テロ戦争』の長期的な成功は、過激派に対する強まる同感への対抗に成功できるかどうか、にかかっている。重要な最初のステップは、現在われわれすべてが直面している脅威が理解され、対応されたことを示す、一つの、本質的な、模範となるべき変化である。脅威は一人の人間、一つの組織から来るものではないのだ。』(p.433-434)
(2026.1.4)
- 「十五年戦争小史」江口圭一著 ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-51006-8, 2020.10.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。著者による愛知大学での長年の授業のテキストとして、まとめたもの。二十四回の講義を想定して、コンパクトにまとめいる。何度も手を加えて取捨選択したあとが見える。天皇への批判も明確に描かれており、そのこともあって、「十五年戦争」ということばに、反対をするひともいるのだろうと推察される。これは、ひとつの見方であり、本来は、中国や、東南アジア、南西諸島、そして、米国、英国、オランダ、オーストラリアなどの視点もなければいけないのだろうが、それは、また、他の書になるのだろう。何冊か読んできていることもあり、非常によくまとまっているという感じをうける。以下は備忘録:- 「すでに一九一六年代表的な膨張論者徳富蘇峰は「日本帝国の使命は、完全に亜細亜モンロー主義を遂行するにあり.....亜細亜モンロー主義は、即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也」と述べて、「白閥の跋扈を蕩掃する」ことを主張し、一九一八年近衛文鷹はベルサイユ講和会議に際して、「英米本位の平和を排す」と題する論文を発表し、おなじ華族であっても西園寺とは対照的な立場を表明した。」(p.31)
- 「一月八日、関東軍の「果断神速」の行動を全面的に賞讃し、「朕深ク其忠烈ヲ嘉ス」とする昭和天皇の勅語が発せられた。関東軍の謀略と独断の累積のうえに展開された軍事行動は、ここに不可侵の承認をあたえられた。関東軍への勅語は対米英協調路線とアジアモンロー主義的路線との抗争における後者の勝利を象徴した。柳条湖事件は日本が対米英協調路線からアジアモンロー主義的路線へ針路を変える転換点となった。」(p.58)
- 「前年末の国際連盟理事会で現地派遣が決定された調査委員会は、委員長リットン(英)および米・仏・独・伊の委員で構成され、二月三日ヨーロッパを出発し、二九日東京に到着した。関東軍はリットン調査団の現地到着前に既成事実をつくりあげてしまうことを急ぎ、三月一日東北行政委員会により「満州国」の建国宣言をおこなわせた。」(p.64)
- 「前年末の国際連盟理事会で現地派遣が決定された調査委員会は、委員長リットン(英)および米・仏・独・伊の委員で構成され、二月三日ヨーロッパを出発し、二九日東京に到着した。関東軍はリットン調査団の現地到着前に既成事実をつくりあげてしまうことを急ぎ、三月一日東北行政委員会により「満州国」の建国宣言をおこなわせた。宣言は、満蒙三千万民衆は張学良政権の「残暴無法」のもとで死を待つのみであったが、「手を隣師に借りて茲に醜類を駆」ったとし、「新国家建設の旨は一に以て順天安民を主と為す」と述べ、領土内にあるものは漢・満・蒙・日本・朝鮮の五族をはじめすべて平等であるとうたった。満州国の国首は執政、年号は大同と定められ、領域は奉天(三一年一一月二〇日、遼寧省を改称)・吉林・黒竜江・熟河の各省、東省特別区、蒙古の各盟旗(清朝設けた蒙古族の統治組織)であるとされた。また三月九日には奉天・黒竜江・熱河三省の蒙古地域を省域とする興安省が新設された。第一次天津事件に乗じて天津を脱出した溥儀は、営口から旅順に移されて軟禁された。溥儀は自分に用意された地位が大清帝国皇帝ではないことを知って憤激したが、板垣参謀に恫喝されて屈伏した。三月六日溥儀は板垣の用意した一つの文書に調印させられた。それは大同元年三月一〇日付の執政溥儀から本庄関東軍司令官にあてた書簡で、一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し、其の所要経費は総て満州国に於て之を負担す。二、弊国は黄国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理並新路の敷設はて之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。三、弊国は貴国軍隊が必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す。四、貴国人にして識名望ある者を弊国参議に任じ、其の他中央及地方各官署に貴国人を任命すべく、其の選任は貴軍司令官の推薦に依り、其の解職は同司令官の同意を要件とす。五、右各項の趣旨及規定は将来両国間に正式に締結すべき条約の基礎たるべきものとす。という内容であった。この書簡は柳条湖事件以来の関東軍の軍事行動の成果を集約するものであった。」(p.64)
- 「(五一五の結果)一九二四(大正一三)年以来の政党内閣は八年間で閉幕した。対米英協調路線からアジアモンロー主義的路線への変針とならんで、天皇制立憲主義の政治体制も、その立憲主義的側面を痛撃されて、変質を開始した。」(p.68)
- 「東亜勧業会社(満鉄の傍系会社)は「本買収は軍部の命令に基き、軍部に代って之を行ふものにして、地券の提供に応ぜざる者は厳罰に処する」旨告知し、実際の買収に当りても武器を所持せる自警私兵約二十名以上を買収地区内に滞在せしめ、其の指示に従はざる農民三名を銃剣にて突き刺し傷害を与へ、又農民の飼育せる牛、犬、鶏等を殺生せり。という暴力的収奪がなされた。」(p.117)
- 「一九三八年度の日本の輸入に占めるアメリカの比率は、総額三四・四%、石油類七五・二%、鉄類四九・一%、機械および同部品五三・六%に達した。」(p.177)
- 「第三次近衛内閣総辞職→東条内閣成立過程から確認されるように、第一に、駐兵問題の固執すなわち日中戦争の成果をあくまで護持しようとしたことが日米交渉決裂させ対米英開戦を導いた最大の要因であった。その意味でアジア太平洋戦争は日中戦争の延長であった。」(p.215)
- 「これにたいして、二六日乙案への回答としてハル・ノートが野村・来栖に手交された。ハル・ノートは、四月一六日の会談でハルが提示した四原則を基調として、「日本国政府は支那及印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及警察力を撤収すべし」、「合衆国政府及日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府若くは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし」、「両国政府は其の何れかの一方が第三国と締結しおる如何なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確立及保持に矛盾するが如く解釈せられざるべきことを同意すべし」など、事態を満州事変前の状態に戻すことを求める強硬なものであった。アメリカ側はこのような最後通告的なハル・ノートによって、日本を最後の行動にむかわせようとしたのであった。ハル・ノートは、満州事変以来東アジアで際限もない膨張をつづけてきた日本帝国主義にたいして、アメリカ帝国主義が全面的・根底的な対決にでたものであった。アメリカ帝国主義は日本帝国主義にたいしてアジアモンロー主義的路線とその獲得物を清算し、対米英協調の立場に回帰することを迫った。しかし同時に、ハル・ノートには「大西洋憲章」にもうたわれた反膨張主義・反ファシズムの理念が反映されていた。ハル・ノートはその意味でポツダム宣言の原型であり、ポツダム宣言はハル・ノートを発展させたものであった。日本は、二〇〇〇万人以上の諸国民・民族と三一〇万人の自国民を死に追いやり、国土を焦土と化し、原爆まであびた挙句、ポツダム宣言を受諾して、ハル・ノートよりさらに広範な要求に服することとなる。そのような結果からすれば、ハル・ノートを受諾したほうが日本にとってはるかに賢明であり、歴史に栄誉を残す選択であったことは明らかであろう。日本の戦争指導者にとってもそれが得策であり名誉であったことは、戦争犯罪の訴追を逃れえたという一事をとっても明白であろう。しかし日本の戦争指導者にはそのような洞察と英断をなしえたものは皆無であった。」(p.219)
- 「『彼ら〔日本人がフィリピン人に語ったことは、彼らは、フィリピンを西洋の抑圧から解放するためにやってきたということ、彼らとフィリピン人は兄弟であるということであったが、彼らは街を尊大な「スーパーマン」のように闊歩したり、ちょっと気にさわることがあると、人々の顔を叩いたり、散々になぐったりした。彼らはこの国を略奪し、男を日本軍の事業に強制的に働かせ、女を凌辱し、多くの罪のない民間人を虐殺した。......すべての鉱坑と工場は日本人の手で運営された。フィリピンの土地の大部分は、日本が綿花を緊急に必要とするために、綿の栽培にあてられた。・・・・・・あの占領の暗黒時代に、日本軍はこの土地に住み、米、カモテ、果実、野菜その他の食料を大量に消費して・きびしく反日的になっていた。当然、国民は飢え、ぽろをまといーーーきびしく反日的になっていた。』またたとえばインドネシアのアリ『わが民族の歴史』(小学校五・六年用、一九六二年)はつぎのように記述している。『ニッポン人はインドネシアの「支配」をはじめた。オランダの物資は日本の保有するところとなった。オランダの富は没収された。さらにすべてのニッポン人は「日本の旦那様」とよばれるにいたった。まさに日本は、オランダがそうだったように、インドネシアの主人になろうとしたのである。······日本はインドネシアに、多くの要塞を建設した。われわれは要塞作りの労働を強制的にやらされた。······われわれは「ロームシャ」(労務者)にされた。「ロームシャ」とは日本人によって強制労働させられた人のことである。農民、労働者はあたかも奴隷のように家屋敷をすて、他の地方、つまりジャワ、スマトラ、イリアン(ニューギニア)、ビルマ、タイなどに連れていかれた。彼らはジャングル、沼沢地、海岸などで働かされた。わが民族の苦しみはきわめて大きかった。コメを日本軍に強制供出させられて、われわれは飢えた。着物も、薬も不足した。不足しないものはなかった。人びとは恐怖と不安の日々を送った。日本に反抗しようとする気配をみせれば、逮捕され、拷問にかけられ、そして投獄されるか殺されるかしたものである。老若男女の区別はない。学校の生徒たちは「奉仕作業」に狩りだされた。子供たちはまた、日本の歌を歌えなければならず、日本語でしゃべれなければならなかった。同様に日本式の服装まで奨励された。あたかもインドネシア人は日本人に変化しなければいけないかのように。』」(p.255)
- 「一方、内務省は新体制運動に対抗して四〇年九月一日「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」を道府県に通達し、精動運動の下部組織として各地に設けられていた部落会・町内会・隣保班(隣組)を全国的に整備した。一〇戸内外でつくられる隣保班およびそれを単位とする部落会・町内会の組織は、内務省・警察の指導下におかれ、定期的に開催される常会で政府の方針の伝達をうけ、国債消化資源回収・勤労奉仕・防空演習その他の国策協力をおこなう機構とされ、住民の相互監視の機能ももたされた。またこの組織は生活必需品の配給ルートともされたので、全国民は否応なくこれに参加しなければならなかった。」(p.279)
- 「日本の陸海軍兵器生産指数は一九三七年を一〇〇として、四一年六五三、四二年七一三、四三年九五〇、四四年一二一九に達した。しかし、一般鉱工業のそれは四一年一六九をピークとして、四二年一四二、四三年一一四、四四年八六と低下しており、特に繊維・食料品などの民需生産は、激減した。日本の総合的経済力は一九三九〜四〇を頂点として、アジア太平洋戦争下には衰退に向かったが、それにもかかわらず軍需生産が激増しえたのは、いとえに国民生活を犠牲にしたからであった。国家財政に占める軍事費の比重は、一九三一年三〇・八%であったが、三七年六九・二%、四一年七五・六%、四二年七七・二%、四三年七八・五%となり、四四年には八五・三%に達した。」(p.286)
- 「東京裁判にあたって昭和天皇を訴追すべきであるとする意見は少なからずあり、ウエッブ裁判長は判決の「別個意見」で、「天皇は進言に基づいて行動するほかはなかったということは証拠と矛盾している。かれが進言に基づいて行動したとしても、それはかれがそうすることを適当と認めたからである。それはかれの責任を制限するものではなかった。しかし、何れにしても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲的君主でも赦されるものではない」と指摘した。天皇が免責されたのはアメリカの政略の結果にすぎない。」(p.334)
- 「コール首相(1989年):ドイツ人の名で、ドイツ人の手で、人類と諸国民にもたらされた形容できない災禍に対し、われわれは謝罪する。真実を語ることだけが戦争の傷をいやし、和解をもたらすことができる。・・・・・・西独の若い世代は独裁と大戦について、世代としても個人としても非難されることはない。彼らは若かったからだ。しかし、過去はわれわれとともにあり、若い世代も責任を負っている。いかなるドイツ人も(ナチス犯罪の責任を逃れることはできない。...今世紀の歴史を知る者の目は、現代の危機と誘惑に対しても鋭くなる。」(p.338)
(2026.1.16)
- 「雪とパイナップル」鎌田實著 唐仁原教久画 集英社(ISBN4-08-781307-X, 2004.6.30 第一刷発行)
出版社情報・紀伊國屋書店:目次情報など。ICU教会礼拝説教で、北中晶子牧師が引用されたので手に取った。チェルノブイリ原発事故のあと、風向きの関係で、北にあるベラルーシに黒い雨とともに、放射性物質が降り注ぎ、そこで、多くの子どもたちが白血病になり、それを支援に出かけた、諏訪中央病院の鎌田實医師のが書かれたものである。作家としてもいくつもの本を出版されているとのことである。医療が遅れていたが、ちょうどゴルバチョフ書記長のもとで、改革開放が進み、ソ連崩壊の直前1990年に、隣国のベラルーシ(しろいロシアの意味)で支援活動に入る。アンドレイくんの話が中心で、どうしてもたべたいというパイナップルを求めて雪の中をさまよったヤヨイさんという支援のかたと、それを聞きつけて、缶詰を提供してくださったかた、そして、それをたべて一時回復したつながりのことなどが書かれている。1996年6月にゴメリ州立病院に急性リンパ性白血病で入院、2000年7月にアンドレイくんは、亡くなっているが、しばらくたって鎌田医師がその家を訪ねたときのエピソードで終わっている。以下は備忘録:- 「「遠い旅のはじまり:新しい世紀になったのに/地球では戦争がくり返されています。/イラクで悲しい戦争が始まった日/ぼくはひとりのおかあさんの言葉を思い出しました。/ベラルーシ共和国という貧しい田舎の町で/出会った言葉たち/ぼくにとっては、予想していなかった/意外な言葉でした。/一番大切なものを失ったときでも/人間は感謝することができることを知りました。/言葉が違っても/歴史が違っても/文化が違っても/人間は理解しあえると・・・/悲しみや/苦しみや/喜びをわかちあえることを/雪の中のパイナップルから教えられました。」(p.4-5)
- 「ひとりの子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)」(p.10,22)
- 「本来、守られるべき家庭や国家のなかで、子どもたちの命の灯火が消えかかっていた」(p.22)
- 「家族って、むずかしい。人間は、ひとりでは生きられない。いい家族があるといいなあ。人は家族がなければ生きられないか。家族なんかなくてもいい。いや、あったほうがいいけど、なくてもいい。でも、家族のようなつながりは欲しい。家族のようなもの。わかりにくいけど、これが大切なんだ。血がつながっている本当の家族なのに、両親が小さな子どもを虐待して殺してしまう。家族は偶然できあがるもの。だから、家族はこんな悲しい事件を起こしてしまう。『家族のようなもの』は、その空間にかかわる人々が作りあげていくもの。だから、家族のようなつながりをつくるのには、時間がかかるんだ。家族のような絆をつくるためには、お互いの歩み寄りと、重なり合いが必要だ。わずかな絆があれば、人間は生きていける。」(p.23-26)チェルノブイリの子どもたちが人間の絆を結ぶことが、果たしてできるのだろうか」(p.26)
- 「希望を組織することが大切なんだと思った。希望はあるものではなく、作るものなのかもしれない。希望があれば絶望のなかを人は生きていけると思った。」(p.45)
- 「新しい治療を、わたしたちの手で、できることが証明されました。入院している子どもたちにとって、将来に希望を見出せる重要な一日となりました」(p.54-55)
- 「雪のなかを、パイナップルを探して歩いてくれた、ヤヨイさんのことが忘れられません。わたしはアンドレイが病気になってから、なぜ、わたしたちだけが苦しむのかって、人生をうらみました。原子力発電所の事故のことを秘密にしたこの国の指導者をうらみました。放射能のことを知っていたら、黒い雨のなか、アンドレイをわたしは外に連れ出さなかった。人生は意地悪だなって思った。わたしたちは、ささやかに、つつましく生きてきました。何も悪いことをしていないのに。生きている意味が見えなくなりました。でも、ヤヨイさんのおかげで、わたしのなかに、わすれていたものがよみがえってきました。それは感謝するこころでした。人間と人間の関係はまだ壊れていない。わたしたち家族の内側に、新しい希望がよみがえってきました。(エレーナかあさん)」(p.82-83)
- 「パイナップルのカン詰をかん切りでヤヨイさんがあけたとき、プシューッと音がして、いろんなものが飛び出したように見えました。真心や希望が見えたような気がしました。人間のことも、命のことも、世界のことも、少しみえたような気がしました。本当にうれしかった。かん詰のなかのなにかから、アンドレイの命をもらったのかもしれません。パイナップルが育つ南の国の太陽が見えたような気がしました。(エレーナかあさん)」(p.84)
- 「人間は、悲しいこと苦しいことの連続でも、幸せだなあと思うことができる。大切な人を失った悲しみのなかにいるのに、仕方がなかったっておもうこともできる。ヒントは人と人のつながりの中に存在する。ひとりぼっちで生きるとき、幸せも不幸せも感じるのはむずかしい。孤独に生きることに慣れてしまうと、不幸せすら感じずに、流されていきていくことができる。人とのつながりのなかで生きるとき、幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのではないか。少年の言葉を受けとめてくれた、日本人の若い女性がいたことが、母親の悲しみを少しだけ小さくしていた。悲しみや、絶望のなかですら、人は感謝できることを知った。」(p.88-89)
- 「今も、ぼくらの心はアンドレイとつながっていると信じています。(妹のマリーナ)」(p.91)
- 「ドクターたちのことはもちろんですが、マイナス二十度の雪の町をパイなプルを探して歩いてくれた日本の女性のことを、わたしたち家族は一生忘れないでしょう。パイなプルは、アンドレイにとっても、わたしたち家族にとっても、希望そのものでした。短い命でしたが、幸せな子だったと思います。(エレーナかあさん)」(p.91-92)
- 「パイナップルを探して雪の町を歩いた日本の女性のことを/おかあさんが忘れていなかったという事実に/新鮮な感動を覚えました。/ちかごろ、世界は/許すこと、感謝すること、ほほ笑みあうことを/わすれてしまっていることに、/おかあさんの言葉から気がつきました。/悲しくて、切なくて、美しい話でした。/こんなジャンルがあるかわかりませんが、/大人が読む絵本というカタチにしました。/かつて、子どもだった大人たちに読んでもらいたい。/ジワジワと若い人にひろがっていって/大人から子どもたちに手渡され/本の好きな子どもたちがいつか読んでくれるようになったら/こんなうれしいことはありません。/命の切なさや、大切さを考えることのできる/未来の日本を支える人たちにこの本を贈ります。/ぼくは希望を信じています。」(p.100-101)
(2026.1.19)
- 「源氏物語 全8巻+別冊付録 第三巻」上野榮子訳 日本経済新聞出版社(ISBN978-4-532-17086-8, 2008.10.30, 第一刷発行)
出版社情報・目次。第二巻を読んでから、一年が過ぎてしまった。この第三巻は、十四帖 澪標(みおつくし)・十五帖 蓬生(よもぎう)・十六帖 関屋(せきや)・十七帖 絵合(えあわせ)・十八帖 松風(まつかぜ)・十九帖 薄雲(うすぐも)・二十帖 朝顔(あさがお)・二十一帖 少女(おとめ)・二十二帖 玉鬘(たまかずら)が含まれている。実は、今まで気づかなかったのだが、別冊付録として「源氏物語登場人物系図」が各帖ごとに作成されていて、非常にわかりやすい。今までは、ネット上の人物相関図などを印刷して参考にしていたが、この別冊付録の方がわかりやすいと思う。むろん、全体像は、もっと複雑なリンクがついていないとわからないだろうが。生誕の秘密が明かされたり、交わったりあたりのところが、深く入らず描かれており、よくわからなくなることもあるが、それが女性が著者の奥ゆかしさだろうか。ネット上に、あらすじなども書かれており、どこまで正しいかちょっと疑わしいが、続けて、読んでいきたい。
(2026.1.25)
- 「『昭和』という国家」司馬遼太郎著 NHKBOOKS [856] 日本放送協会(ISBN4-14-001856-9, 1999.3.20 第1刷発行, 1999.4.10 第2刷発行)
出版社情報・昭和デジタル・アーカイブ 目次情報。1986年5月19日からNHK教育で放送された12回のシリーズをまとめたものである。最後に、田中彰氏の「雑談『昭和』への道」のことなどが付されており、歴史的な考証からの注意が書かれている。これからも、司馬遼太郎は、歴史家ではなく、小説家で、歴史上の人物一人ひとりから、歴史を考えるひとであることがわかる。学問的な考証とは、異なるが、学者にはない視点もいくつもあり、興味深く読んだ。司馬遼太郎は、1923年の生まれで、1996年2月12日に亡くなっている。戦車連隊に属し、敗戦のときが、22歳。大阪外国語学校蒙古語科卒業、その後、産経新聞社に努めている期間もある。基本的に、江戸時代は、多様性に富み素晴らしい時代、明治もよいが、大正はとばして、昭和の前半、敗戦の20年までは、魔法にかけられたような日本ではないような時代だったと何度も語っている。論理的なことを求めてはいけないのだろう。以下は備忘録:- 「このショックはちょっと説明しなければなりませんが、なんとくだらない戦争をしてきたのかとまず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろとしてきた国に生まれたのだろうとおもいました。敗戦の日から数日、考え込んでしまったのです。昔の日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後の私の日本史への関心になったわけですね。」(p.8)
- 「しかし,明治のイデオロギーは貧しかったけれど、明治の国家をつくったひとびとはしっかりとしていました。なにしろ自分で作った国家なのです。よくわかっていました。自分たちは果物でいうとジュースの多いリンゴのようなものだ、尊王攘夷といっても一つのかけ声のようなものであり、元気を出せというようなものだと、当事者たちはよくわかっていたと思います。ですから、ヨーロッパのいいものを入れるそして、国の精神を少しずつふとらせていくという方向に向かったのだろうと思うのですが、その人たちの多くが死んでしまったのが明治四十年(1907年)ごろでした。日露戦争の勝利します。そこから試験制度の官僚が国の全面にでくるわけであります。」(p.23)
- 「皆さん、きちんとしていらっしゃたのでしょうが、地球や人類、他民族や自分の民衆を考える、その要素を持っていなかった。繰り返し申し上げておきます。」(p.44)
- 「だいたい日本の陸軍は侵略用の軍隊ではありませんでした。明治維新成立そうそうに大村益次郎(1824-69)がつくった、そして徴兵令によってつくった日本陸軍は、あくまで国内向けの、つまり明治政府を守るというだけの軍隊です。それ以外の思想は、陸軍の中に入っていませんでした。だんだん成長していって多少は大きくなていましたが、それでも海外へ出兵するというような、だいそれたことはーー日清戦争において試みられてはいますがーー抑制されていました。ところが、日露戦争後、それが野放しになってしまった。」(p.50)
- 「何に向かって先鋭化していったのでしょうか。東北の飢饉や教皇があり、二・二六事件(1936)もありました。左翼的な言い方をしますと、日本の資本主義が矛盾をきたしていた。」(p.138)
- 「孫文はまず、いまから三十年前はアジアに一つとして独立国はなかったと話します。この講演は大正十三年、一九二四年の話です。その三十年前といいますと明治二十七年(一八九四年)、日本は独立しているではないかと思いますが、明治二十七年は日清戦争の年であります。そして、日清戦争の直前に条約改正が行われて、日本は不平等条約を、うまく解消してしまったわけです。」(p.216)
- 「真心は日本人が大好きな言葉ですが、その真心を世界の人間に対して持たなければいけない。そして自分自身に対して持たなければいけない。相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかのごとくに感じることが大事ですね。」(p.229)
(2026.2.2)
- 「プログラミング知識ゼロでもわかる プロンプトエンジニアリング入門 第2版」掌田津耶乃著 秀和システム新社(ISBN978-4-7980-74504 2025.4.6 第1版第1刷発行)
出版社情報・目次。OpenAI, Google AI Studio, Vertex AI Studio, Anthropic Console, Cohere などの playgroud を使っての、プロンプトの書き方、そして応用として、Perplexity の space による簡単なアプリのようなものの作り方まで書かれており、勉強になった。最後には、プロンプト攻撃とその対策や、ハルシネーションの対策も書かれていて、ノートを作って読んだ。arXiv からの引用されている論文なども多く、深く学ぶこともできるようになっている。すこし、それに頼りすぎて、その紹介のようになっている面はあるが、基本は、説明されているように思う。すこし、自分で、プロンプトエンジニアリングをしてみようという気になった。つぎは、Google AI Studio についても学んでみたい。
(2026.2.2)
- 「リベラルなアメリカの『失われた魂』たち 福音派とスコッツ・アイリッシュの世界」山本貴裕著 彩流社(ISBN 9784779130861, 2025.11.25 第一刷発行)
出版社情報・目次。トランプ派を支える人たちの謎を問いていく一つの方向性としてある、福音派。アメリカで、およろ五年間、その中にいたこともあり、報道には、納得できないものを感じていた。ただ、明確には答えられない。福音派も一筋縄ではくくれないからである。具体的に、いろいろな人の顔を思い浮かべながら、考えてきた。また、私よりもさらに、近くにいるある日本人が、福音派のなかにも分断があり、トランプ支持者かどうかで、分裂が起こり、なかなか難しい状況にあるとも聞いた。それを解き明かす、一つの道として、本書に提示されている、スコッツ・アイリッシュの世界の理解はたいせつだと感じる。同時に、アンナ・カレーニナ原則からも、そう単純ではないだろうことも、感じる。知性派の議論は、あるいみ、クリアだが、ドロドロとした部分を、解き明かすことからは程遠いことも感じる。そうであっても、森本あんり著『反知性主義』(新潮選書)も読んでみたくなった。以下は備忘録:- 「これらの試みは、心理学者カール・グスタフ・ユングのいう『個性化(individuation)』の過程にも似ている。『個性化』とは、個人が社会的に機能するためにかぶることを覚えた『ペルソナ(外的仮面)』に覆い隠された、自らの『シャドウ(影)』の部分を認識し、受け入れ、それとの対話を通して本来の自分のすべてを取り戻す統合の過程である。個人の場合と同じように、リベラルが主流を形成してきた二〇世紀のアメリカ宗教やアメリカ社会から追放された魂たちがいた。一九二〇年代のファンダメンタリスト対モダニスト論争に敗れた『ファンダメンタリスト』たちの魂である。それは、『寛容』で『進歩的』なリベラルが支配する二〇世紀アメリカ社会の影で、『非寛容』かつ『反動的』なシャドウとして存在し続けた。さらに、『ファンダメンタリスト』は、二〇世紀後半に『福音派』や『原理主義者』や『宗教右派』などに形を変えて、アメリカ社会の表舞台に再び姿を現したが、今度はこれらの新しい呼称に括られ、彼らがもともと有していたそれぞれの個性が再び覆い隠された。つまり、これらの魂たちの本来の姿は、アメリカ社会から二重の意味でみえにくくなっているのである。」 s(p.6)
- 「だが、この年、スコッツ・アイリッシュの存在を最もアメリカ社会に印象づけたのは、おそらく、トランプ勝利の数ヵ月前に出版され、ベストセラーになった『ヒルビリー・エレジー』であろう。アパラチアのスコッツ・アイリッシュの家系に生まれ、その独特の文化のなかで育った主人公が、貧困と暴力に満ちた環境から這い上がり、成功するストーリーが人々を惹きつけた。また、この本はトランプを支持する労働者階級のことを理解しようとする主流メディアによっても大きく取り上げられた。この本の著者は、J・D・ヴァンスである。彼はこの本で一躍有名になり、二〇二三年には政界に進出し、オハイオ州選出の上院議員となった。この頃の彼は『反』トランプ派であったが、二〇二四年の大統領選挙ではトランプによって副大統候補として選ばれ、現在はトランプ政権で副大統領を務めている。『ヒルビリー・エレジー』は二〇一六年六月二八日に発売され、『USAトゥデイ』紙のベストセラーリストに四九週間掲載された。二〇一七年六月二五日にNBCの『サンデーナイト・ウィズ・メーガン・ケリー』で特集されると本の売り上げが急増し、その直後に同リストでトップに達した。二〇二〇年にはNetflixで映画化もされた。二〇二四年七月一八日の『タイム』誌の記事によれば、『ヒルビリー・エレジー』は発売以来、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラーリストで六〇週以上首位を記録していると報告されている。』(p.10)
- 「『ファンダメンタリスト』という語を初めて用いたのは、アメリカの北部バプテスト教会の牧師カーティス・リー・ローである。一九二〇年、彼はこの語を初めて用い、キリスト教の「ファンダメンタルズ(根本原理)を守るためにバトルロイヤル(大論争)を繰り広げる用意のある者たち』と定義した。この際の『ファンダメンタルズ』とは、キリスト教が伝統的に有していた『ストーリー』を構成する諸要素である。そのストーリーとは『神は人間を愛するあまり、一人息子のイエスをこの世に遣わされ、そのイエスは人間の罪を背負って十字架にかかり、彼を信じる者が永遠の命を得ることができるようになった』というそれである。このストーリーは『福音(Gospel)』と呼ばれる。』(p.26)
- 「当調査によると、二〇一四年現在、『福音派プロテスタント教会』は合衆国の一八歳以上人口の二五・四%を信者として抱えており、カトリックの二〇・八%や主流派(リベラル)プロテスタント教会の一四・七%などを抑え、アメリカ最大の宗教的伝統を形成している。」(p.59)
- 「一九九〇年代に社会学者ナンシー・アママンが、南部バプテストをその信条と自己アイデンティティの組み合わせにもとづき五グループに分類している。この分類法はこの章の最後で触れるように、現在においてもかなりの程度、有効性を保っていると考えられる。(a)自称ファンダメンタリスト――南部バプテストの一一%は強いファンダメンタリスト的信条(聖書の無謬性・前千年王国説など)を持ち、自らを『ファンダメンタリスト』と呼ぶ。運動指導層の大半がここに属すが、彼らは自らをPRする際には『ファンダメンタリスト』という語を用いない。(b)ファンダメンタリスト的保守派二二%は強いファンダメンタリスト的信条を持ちながら、自らを『保守派』と呼ぶことが多い。神学においては無謬性支持者だが、教派に対して強いアイデンティティを抱く。(c)保守派——五〇%は保守派の信条をもち、彼らのほとんどが自らを『保守派』と呼ぶ。神学的にはかなり保守的であるが、ファンダメンタリストの信条を完全には共有していない。昔ながらの保守的教派に対して強い忠誠心を持つ。(d)穏健的保守派-八%は穏健派の信条をもち、聖書理解においてファンダメンタリストの方法のほとんどを拒否する一方で、自らを『保守派』と呼ぶ。教派エスタブリッシュメントの多くがこの範疇に属する。(e)自称穏健派-九%は穏健派の信条をもち、かつ自らを『穏健派』と呼ぶ。彼らは聖書についてのファンダメンタリストの信条を共有せず、ファンダメンタリストのやり方は間違っていると躊躇せずに言う。」(p.67)
- 「一方で保守派は、彼らがSBCの誕生から二〇世紀半ばまで維持されてきたと主張する保守的神学の伝統との連続性によって、バプテストのアイデンティティを定義する。モーラーは保守派を『真理派』と呼ぶ。真理派は自由派と同様に信教の自由や魂の能力を支持するものの、こういったバプテスト派特有の強調点は『国家の強制力』に対する防御として発展したものであり、『自発的団体の自己定義』に対する防御として発展したものではない(つまり、SBCが自らの神学的境界線を定めることを妨げるものではない)と付け加える。モーラーの分析は保守派の一人のそれとしての限界を持つが、複数のグループからなる穏健派と保守派を統一している思想を端的に表している点で、大変有用である。」(p.68)
- 「一九二五年テネシー州デイトンで開かれたスコープス裁判(通称『サル裁判』では、公立学校で進化論を教えることを禁止したテネシー州の法律(バトラー法)に違反して進化論を教えたかどで高校教師のジョン・スコープスが有罪判決を受けた。[スコープス裁判に関する神話] (1)宗教vs科学という神話(2)反進化論運動は南部の田舎者の運動であるという神話」(p.79)
- 「そのうち『オンリー・イェスタデイ』では、スコープス裁判は『科学と宗教の戦い』として描かれ、科学が宗教に勝利した歴史的瞬間として強調されている。だが、実際の裁判は、進化論そのものの是非よりも『教育の自由』や『憲法修正第一条の州法への適用』に関する法的論争が中心だった。」(p.80)
- 「この点について、クロスは、興味深いことを述べている。クロスによれば、一八三七年の恐慌とともにウルトラ主義の運動は急速に崩壊し、ファンダメンタリズム(現在の福音派のルーツ)とモダニズム(現在のリベラルのルーツ)この点に分極化した。ファンダメンタリズムの方向に進んだ者たちは、聖書の字義通りの解釈を重視し、個人の魂の救済に重点を置くようになる一方で、社会改革への情熱を失った。それに対して、モダニズムの方向に進んだ者たちは、聖書解釈を柔軟に考える一方で、宗教的な救済よりも社会改革に重点を置くようになった。クロスが前者の例として挙げた運動には、キリストの再臨が一八四三年三月二一日と一八四四年三月二一日のあいだに起こると予言したミラー派が含まれ、後者の例として挙げた運動には、伝統的な『三位一体』を否定し神は一つであると主張したユニテリアンや、理性よりも内なる直感を重視した『超絶主義者(Transcendentalists)』が含まれる。」(p.109)
- 「エドワーズによれば、リバイバルはまず、人間の罪深さと、罪深い人間によるあらゆる行為の卑しさを自覚し、神の裁きの正当性を確信することからはじまる。エドワーズはこのように人間の罪深さの現実を強調すると同時に、そんな彼らにも、キリストを通して真の安らぎがもたらされるという神の救済の現実も強調した。エドワーズは回心者の変化についても典型的なパターンを記述する。かつて神の怒りを恐れ、罪悪感のなかで絶望していた者たちは、聖霊の働きにより突如として目を開き、神の恩寵の偉大さを知り、救済の確信を得て、心が歓喜に満たされ、涙と笑いが同時にあふれ出す――。とくに、エドワーズが詳細に記した若い女性と四歳の少女の回心物語は、多くの人々にとって霊的な探求の手本となった。」(p.120)
- 「メイチェンが『モダンな国家』における『個人の選択』の領域の縮小傾向を象徴するものとして、当時、とくに憂慮していたのが、教育の分野における動向であった。メイチェンは『功利主義的教育』の弊害を次のように告発する。モダンな国家の教育の目的は『最大多数の最大幸福』にあり、それは多数派の意思によって決定される。したがって、そこでは『特異性』は忌避され、学校の選択は親から取り上げられ、国家の管轄下に置かれる。」(p.136)
- 「ハートによれば、アメリカ宗教史における最も重要な分類法は、社会的救済に関心を持つ『リベラル』と、個人的救済に関心を持つ『保守派』という二分法ではなく、宗教は公的領域において役立つべきであると考える『敬虔主義者(pietists)』と、教会は社会の公的領域とは一線を画し、教会という私的領域内で信仰の諸形式(信条、儀式、教会統治など)を守ることに専念すべきであると考える『告白主義者(confessionalists)』という二分法である。敬虔主義者は『聖』の領域と『俗』の領域を区別しないのに対して、告白主義者はそれぞれの領域をコンパートメント化し、区別する。(Hart, The Lost Soul of American Protestantism (American Intellectual Culture))」(p.141)
- 「第一に、スコッツ・アイリッシュ自身が自らの民族的アイデンティティを強調しなかった。彼らはアメリカ社会に溶け込むことを優先し、他の移民集団のように『スコッツ・アイリッシュ系』としての強いアイデンティティを保持しなかった。また、他の民族と頻繁に通婚し、文化的にも排他的ではなかったため、次第に独自性が薄れていった。第二に、スコッツ・アイリッシュはしばしば『WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)』や『イギリス系アメリカ人』としてひとまとめにされ、彼ら特有の文化や歴史が無視されてきた。彼らが、ニューイングランドのピューリタンや、バージニアのジェントリーとは異なる文化背景を持っており、白人でありながら黒人と同様の貧困状態にあったにもかかわらずである。第三に、スコッツ・アイリッシュは、単に『アイリッシュ(アイルランド系)』と分類されることが多い。実際には、スコッツ・アイリッシュはアイルランドに渡ったスコットランド系プロテスタントであり、後のアイルランド系移民(多くがカトリック)とは異なる歴史を持つ。第四に、現代のアメリカでは『政治的正しさ(political correctness、以下『ポリティカル・コレクトネス』)』ゃ人種・民族問題に関する意識の高さ(最近の言葉で言えば『ウォーク(woke)』であること)が要求されるなかで、公立学校でスコッツ・アイリッシュの歴史や功績を公に称えることが難しくなっている。(ウェッブ James Webb が二〇〇四年に著した『ボーン・ファイティング Born Fighting』)」(p.152)
- 「一七世紀に、イングランド国教会関連の英語の語彙に興味深い変化がみられた。イングランド国教会は『エスタブリッシュメント(establishment)』と呼ばれるようになり、国教会の教会員は、自らを『コンフォーミスト(conformist)』(形を合わせる人々、体制に従う人々)と呼ぶ一方で、国教会の礼拝の形式や祈祷書の使用を義務づけた『礼拝統一法(Act of Conformity)』(一六六二年)に従うことを拒否した者たち、たとえば長老派やピューリタンなどは、『ノンコンフォーミスト(nonconformist)』(形を合わせない人々、体制に従わない人々)と呼ばれはじめた。再びウェッブの言葉を借りれば、『アメリカにおけるスコッツ・アイリッシュの政治的・社会的貢献を表現するのにこれ以上ふさわしい言葉は見つからない。なぜなら、彼らはアメリカ初の急進派となったからである』。」(p.184)
- 「ジャクソンが『銀行戦争』を生き延びたのは、この問題をマスコミや政治家の密室に留めることなく、直接、人民に訴えかけたからだった。ジャクソンが拒否権行使の際に議会に送った次のメッセージは、ジャクソン流民主主義の最も強力な表現であった。才能や教育、富の平等は、人間の制度によって生み出すことはできない。すべての人には、天の恵みと勤勉さ、節約、美徳の果実を十分に享受するうえで、法による平等な保護を受ける権利がある。だが、法がこれらの自然で正当な優位性に人為的な区別を付け加え、富める者をより富ませ、力ある者をより強くしようとするとき、私たちの社会の謙虚な成員である農民や職人、労働者たちは、自分たちの特権を確保する時間も手段も持たないとはいえ、政府の不正に対して抗議する権利を有している。」(p.247)
- 「だが、ジャクソンが守ろうとした諸州の連合は、彼の死後、崩壊に向かう。一八六一年から一八六五年まで続いた『南北戦争(Civil War)』第1章で言及した映画『シビル・ウォー』の英語の原題は、もともと『南北戦争』を表す言葉であり、現在のアメリカも同じような分断状況にあるという強烈なメッセージが込められている――では、サウスカロライナ率いる南部の連合がアメリカ合衆国から離脱し、それを力づくで阻止しようとした北部とのあいだで激しい戦闘が繰り広げられた。戦死者の数は約六二万人に達し、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争となった。南北戦争の戦死者の多さは、第一次世界大戦の約一一万、第二次世界大戦の約三二万と比べると顕著である。南北戦争はまた、スコッツ・アイリッシュにとって大きな転換点となった。これ以降、現在に至るまで、『レッドネック』(彼らの蔑称)が、南部の人種差別と強く結びつけられ、黒人が置かれている差別的状況の主な原因とされるようになる。また、彼ら自身、実際にこのような見方の正しさを証明するような言動を示すようになった。だが、南北戦争の際に彼らが置かれていた状況は、それほど単純ではなかった。南部の白人エリートが支配する奴隷社会のなかで、スコッツ・アイリッシュの大多数は、白人でありながら、黒人の奴隷と同じような位置に置かれていた。彼らは支配者ではなく、被支配者であった。」(p.250)
- 「ウォルター・ラッセル・ミードは二〇〇一年の著『特別な摂理―アメリカの外交政策とそれが世界をどう変えたか』において、一八世紀以来、アメリカの外交とそれに呼応する内政の組み合わせには四つの伝統があると指摘した。第一の伝統、『ハミルトン派』は、国内の安定と効果的な外交のために、国の政府と大企業の強力な連携を重視し、国民を有利な条件でグローバル経済に統合する必要性を説いてきた。第二の伝統、『ウィルソン派』は、アメリカの民主的・社会的価値観を世界中に広めることが、アメリカの道徳的義務であり重要な国益であると信じており、法の支配にもとづく平和な国際社会の創造を目指してきた。第三の伝統、『ジェファーソン派』は、アメリカ政府は海外での民主主義の普及よりも、国内での民主主義の保護に重点を置くべきだと考え、アメリカを海外の望ましくない同盟国と関わらせたり、戦争のリスクを高めたりするハミルトン派やウィルソン派の政策に懐疑的な態度をとってきた。第四の伝統、『ジャクソン派』は、対外政策と国内政策の両方において、アメリカ政府の最も重要な目標は、アメリカ人の身体的安全と経済的福祉を守ることであるべきだと考えてきた。ジャクソン派は、アメリカは外国の紛争に進んでかかわるべきではないと考える一方で、他国がアメリカに戦争を仕掛けてきた場合には、勝つこと以外に選択肢はないと考える。スコッツ・アイリッシュの伝統は、第四のジャクソン派の伝統である。」(p.271)
- 「他の三派と同様に、ジャクソン派の外交政策は国内政策における彼らの価値観と目標に関連している。ジャクソン派にとって、アメリカ政府が追求すべきは、ハミルトン派の商業・産業政策でも、ウィルソン派の道徳的価値でも、ジェファーソン派の自由でもなく、中産階級の人々の政治的・道徳的・経済的な福祉を促進すること[トランプの『アメリカ・ファースト?』]である。」(p.278)
(2026.2.9)
- 「愛し愛されて=継承の小径」阿部志郎著 株式会社クーインターナショナル(ISBN978-4-9910505-0-3, 2016.6.20 初版発行, 2018.10.20 第2刷発行)
日本キリスト教奉仕団の1958年開設時から1988年までの理事で、最初から、社会福祉委員会、身体障害者福祉委員会の委員長などを務めた方で、日本を代表する社会福祉実践家。学校法人明治学院理事長、東京女子大学理事長、日本社会福祉学会長、日本キリスト教社会福祉学会会長等を歴任。キリスト教功労者(2004年)とある。1926年(大正15年)2月1日生まれで最近、100歳のお祝いをされたと伺った。最初に「妻 律を想う」とプロローグがあり、そのあと第一章は歩みが書かれ、そのあとに、お嬢様たちのことばなどがある。発起人が、賛同者をあつめ、出版したという形式になっていて、最後にその名前が記されていいる。最後に本人も書いているが、奥様の律さんと社会福祉法人横須賀基督教社会館の宣教師エベレット・トムソンの影響が強いと書いておられる。地域から、社会福祉の仕事をはじめ、さまざまに拡大調整していった、日本の社会福祉を代表する方の一代記である。以下は備忘録:- 「妻の名は律(りつ)。一九二九年一月九日、神戸市に生まれました。自律〉と〈律〉、すなわち『自分の足でまっすぐに立ちなさい』(聖書詩編)『主よ、命のある限り、わたしの音楽を共に奏でるでしょう』(聖書)を兼ね、両親の願いがこもった名前をもらい、大切に育てられました。そこからの八十四年を、律は〈律〉にふさわしい生涯を努め、私、阿部志郎の伴侶としても全うしてくれたのです。神戸では祖父の代から孤児院・神戸真生塾を営み、キリスト者として四代目になる水谷家に育ちました。父親央は教会音楽を使命とし、戦後、関西で最初のオーケストラによるメサイア上演の指揮をとったのです。その折、兄と姉はソロを、律は合唱隊の一員として唱っています。母親愛子は乳児院、養護施設で子どもたちの福祉に生涯を献げましたが、母校神戸女学院の同窓会長や家庭裁判所調停委員も勤め、身を粉にして働きました。兄と姉は音楽家として一家をなしました。律は初め医師を目指しましたが、家の事情から、両親が努力をしている福祉の分野を選びました。後に音楽でも才能を発揮するようになったのです。聖公会の松陰女学院、キリスト教旧組合系の神戸女学院専門学校に学び、母親のかたわらで働き、保母、看護婦の資格を取得したのです。この頃、神戸真生塾と改称していた施設を見学に訪れた私と初めて出会ったのです。律は、その後上京、キリスト教奉仕団で障害者福祉部門を担当しましたが、その委員会の委員長が私であったのは奇遇ということになるのでしょうか。私は明治学院大学の専任講師という肩書でした。二人は親しさを増し、律は私のプロポーズを受け入れてくれました。一九五五年、私の母校青山学院のチャペルで、両家と交遊のあった真鍋頼一牧師(青山学院理事長)の仲人で結婚式を挙げました。律の兄はパイプオルガンを奏し、姉は独唱で花を添えてくれました。」(p.vi)
- 「そのほかの律の努力は、横須賀基督教社会館、神戸真生塾、日本キリスト教会奉仕団、横浜市保健所(臨床心理判定員・非常勤)などの勤務の他、ボランティア活動では、横浜『いのちの電話』相談、善隣園での保育の心理相談、衣笠病院の手伝いとホスピス、横須賀小川町教会のヌーンサービスなど、休みなく働き詰めの毎日を過ごしていました。また、律の独唱は高い評判でした。」(p.xiv)
- 「『過去を顧みるな現在を頼め未来を迎えよ』ロングフェローの詩です。このことばは、ここに本をまとめようと入院中のベッドの上でノートをとり始めた時、すーっと浮かび上がってきたのです。二〇一五(平成二十七年十一月のことでした。」(p.xxv)
- 「浄土宗の僧正長谷川良信師は、私が尊敬する宗教人のひとりですが、老いて後、ブラジルにまで二度にわたって開教師として出掛けて教えを開きました。生涯は、社会事業家として各方面で業績を挙げ、教育者としても淑徳大学を創設して学長としこの長谷川師は、一九六六(昭和四十一)年八月四日に千葉の大巌寺で入滅されましたが、その寺の境内には漢詩が刻まれた石碑が建てられていす。その結びに、『何嘆事業竟無成」(何ぞ嘆ぜんや事業のついに成るなきを)」(p.xxviii)
- 「私たち子どもは六人で、女二人、男四人ですが、両親が亡くなった時には、全員が元気で伴侶を入れると十二人がそろうことができました。長男は、トーヨーカネツ、三男は住友の子会社、義兄は電機会社、義弟は日本航空、それぞれ重役になり、次男は慈恵会医科大学の学長になりました。両親が元気な時には、孫も入れてみんなで集まることができました。三人の兄は戦地に赴いていますが、激動の太平洋戦争の時代を超えて、両親も入れて全員が無事で、元気で、仲良しなのを喜びあい、親に何よりの恩返しができたとも思えました。しかし、戦争直後は、息子を戦死で失った家は多かっただけに、私を含め、男兄弟四人全員が軍隊から無事復員できたのは、かえって肩身の狭い思いをさせられた時代でした。」(p.9)
- 「一言で言うと、家系は東北系の士族でジョッパリ『根性』のキリスト教者でした。妻の家は四代前から、阿部家は二代目になるキリスト教者でした。父は青山学院を二番で卒業したと自慢げに言うので、『それはビリというのでしょう』と、みんなで大笑いしたことがあります。私もビリで卒業したので、ビリが親子二代というのも遺伝子でしょうか。小学生の時から教会に通い、中学校の時に洗礼を受けたのです。『長い人生の間には、いろいろなことが起こる。どんな時にも教会にしがみついていなさい』牧師にそう言われ、今日まで教会にしがみつき教えを守ってきたことになります。」(p.10)
- 「シュバイツァーは、『人間の文化は進歩しているか。戦争で文化が崩壊したという。しかし、そうではなくて、文化が衰弱したから戦争を起こしたのだ』『個人が社会に働きかけるより、社会が個人に働きかける方が大きくなると文化は没落する』それまでは、戦争が大切な文化を壊滅すると思っていた理解が、まるで逆転して理論づけされるのです。」(p.22)
- 「ユダヤ系のベルジャイェフは、『自分のパンを心配するのは物質的、人のパンを心配するのは精神的』と、自分ではなく、他人をどうするかと言っています。」(p.23)
- 「戦時下で抑留されている時に、大きな問題が起こりました。日系人は一世。そして、一世は死ぬと、墓をふる里に向けてつくるほどの望郷心がありました。アメリカではそこまでのことはなかったけれども、南米ではひどい状況でした。勝ち組・負け組に分かれて、殺人まで起こしました。アメリカの一世たちは、日本は勝つ、勝たせたいという思いが、日本人ですから強かったのです。ところが息子たちは違いました。子どもの二世は、アメリカ生まれで、アメリカの学校に通っ収容されている時、その息子の二世たちが、アメリカ軍に志願しました。親は大反対でした。ここで葛藤が起きました。トムソンは、この問題に巻き込まれたのです。一世と二世の親子で価値判断が違うのです。トムソンは本部に、『自分ではとても一世・二世の間の争いを調整できない』と相談をしたのです。ディッフェンドルファーという責任者が、教会にいました。この人は戦後、日本にICU(国際基督教大学)をつくるときの責任者でしたけれども、彼は、悩むトムソン夫婦にニューヨークへ出てこいと強く誘ったのです。ニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャルワーク、社会事業大学院に入りなさいとすすめたのです。その理由は、『日本は、いずれ戦争に負ける。負けた日本が困るのは、社会問題である。今からそのために準備をしなさい』ということでした。それでトムソン夫婦は、大学院に入るのです。修了した時、すでに五十歳でした。それにしても、アメリカの教会にはそういう先の見通しというか、ストラテジー(戦略)、敗戦後の日本までを考える戦略が、あったのです。しかも、トムソン夫妻にも、そうした戦略・展望を飲み込んで、自分たちの道を歩みきる信念があったのです。」(p.57,58)
- 「日系人収容所から出て職もない時に、敗戦後困窮している母国、日本人への救援物資(ララ物資)のために多くを献げ、血の滲むような尽力をした人々のことを忘れてはならないと思います。」(p.60)
- 「しかしながら、ともかく社会館は、民間の力ですっきりとして発足をしたのです。このときの責任者はジョージ・アーネスト・バットというカナダの宣教師で、ソーシャルワーカーでした。この人が、戦後の救済機関ララの責任者です。米国の教会に敬意を表するのは、救援物資は米国の善意ですから、米国の本部がきちんと現地に人を送って、監督するのが普通です。米国の教会はそれをしないで、現地のバットとミス・ローズという普連土学園の園長で、ヴァイニング夫人という皇太子の英語の先生を斡旋した人と、それからもう一人、フェルセッカーというカトリックの神父、この三人を選出し、バットを救援機関の代表にしました。米国の本部は、アメリカ人ではなくカナダ人を代表に立てたのです。私は米国に留学したときに、バットが所属していたキリスト教の団体から船賃をもらったものですから、バットのところに挨拶に行きました。これが、私がバットに会った一度限りの機会でした。留学から帰ったら、もういませんでした。まだ五十九歳でしたが、過労のため脳溢血で亡くなっていたのです。飢えた日本人の、まずは子どもだけにでも成長の力を与えたいというララ物資の善意の努力で、学校給食も始まったのですが、中心で尽力したバット宣教師は過労で亡くなったのです。」(p.77)
- 「社会館は、バットが横浜に荷揚げされたララ物資の倉庫として活用したところに始まったのです。そして、アメリカからやってきたトムソンを、横浜の港で、バットがつかまえたのです。トムソンは、戦前に長崎にいて、鎮西学院という学校で教えていました。その鎮西学院が長崎の原爆で被曝し、たくさんの生徒が死んだのです。トムソンが、なぜ日本に帰ってきたかというと、鎮西学院を復興させるという、トムソンの戦争責任のためだったのです。トムソンが長崎に行くというのに、バットは、『横須賀で、日本人のための福祉活動を実践するため、デッカー司令官が福祉の専門家を迎えたい。ぜひ人を送ってほしいとわれわれに依頼してきている。あなたにぜひ行ってほしい』と言い張ったのです。トムソンは、結局妥協して、『では、一か月だけ横須賀に行きましょう』と、一か月の約束で横須賀に来て、デッカー司令官と会い、それから一か月の間に、横須賀市長、警察署長、小学校長、教育長、町内会長、婦人会長など、いろいろな人に会っています。そして社会館のイメージをつくって、社会館を発足させたのです。社会館が発足したとはいえ、全部ボランティアの仕事で、まだ職員もいませんでした。ボランティアがトムソンを助けていましたが、だんだんと職員が入ってきました。最初の職員の名前はもちろんわかりますが、もう生きている人はいなくなりました。トムソンは、約束の一か月間、横須賀の田浦にいて、その後はトムソン夫人にまかせることにして、長崎に行ったのです。」(p.78)
- 「精神障害は心の病。しかし、魂は美しいのです。魂は清い。これが私どもには理解できない。それが、スピリチュアリティの問題なのです。日本の福祉の大きな問題です。そのスピリチュアリティを、私はこう定義しているのです。『自己の存在を超える深みから、人を根源的に支え、生きる意味を内発的に問いかけてやまない、霊的、精神的な見えざるエネルギー』。スピリチュアリティは、魂の問題と理解するのです。ところが、日本では、大和魂というように、魂と精神の区別が明瞭ではありません。霊的精神的見えざるエネルギー。精神にしても、『精識視魂』すなわち『魂』という語義をもつことに注意したいものです。最近、親子間の殺りく、虐待、自殺が続発しています。いのち=心・身・魂を大切に生きる姿勢を広げることが緊急課題と思いませんか。ひとりひとりが、いやまず自分自身が、人のいのちと幸せを願う心をもたねばならないのでしょう。医学では、ライフを(命)ととらえ、命を一日でも長くのばすことが医学の仕事。福祉はライフを(生活)ととらえたのです。家庭生活、地域生活。それが福祉の理解です。しかし、ライフは、何よりも人生です。生病老死の人生を、医学も福祉も今まで考えたことがない。人の魂がなぜ美しいか、ここにペルソナが出てくるのです。パーソナリティの原語は、ペルソナ、ペルゾーンです。ペルソナは、神の姿を宿しているという意味なのです。神の形を人間が宿しているからパーソナリティ、人格になるのです。ここが動物との違いであり、それが人格の尊厳になるのです。戦後、人権という言葉が定着しました。人間には権利がある。社会権もある。権利を主張する。しかし、人間を権利たらしめる主体ととらえなかった。権利たらしめる主体が人格、ペルソナなのです。それを権利だけ考えている。要するに、人格の尊厳こそが、本当は人権という意味なのです。人格の尊厳があってこそ、権利主体になるのです。そこが一つの問題点だと思うのです。」(p.123)
- 「二十世紀は戦争の世紀でした。地球上で二億人、戦争のために死にました。しかし、その二十世紀の中頃に国際連合が成立し、福祉国家ができ、社会保障の充実がすすんできました。NPO(民間非営利組織)が生まれ、ボランティアが盛んになりました。二十世紀に、愛が芽生えたのいしずえです。この愛を礎とした『平和の世紀』を二十一世紀につくりたいと思います。ヨーロッパの格言に、『人間は社会に、社会は人格に従う』ということばがあります。国家は、この人格を守るために存在するのではないでしょうか。私は戦後、フィリピンに行きました。空港で迎えてくれた友人が、『決して一人で表へ出るな。誰か人をつけるから』と言ってくれました。そして、その友人が、『日本語を三つ知っているよ」と言うのです。『何を知っているの?』ともちかけられ、と聞いたら、『おい』『ばか』『こら』でした。対日感情の厳しさを思い知らされました。そして、教会の本部に挨拶に行きましたら、『今度の日曜日に、君、教会で話をしてくれ』『いたしましょう』と答えました。すると、『それでは言っておくけれども、君に行ってもらいたい教会は田舎にある。その村は、戦争中に日本軍に破壊され、村民が虐殺された村だよ。いいね』と言いました。私も軍隊にいた人間ですから、私の中に戦慄が走りました。しかし、一度引き受けたからには、『まいります」と頷きました。その教会は、マニラからジープで二時間半のバターン半島にありました。バターン半島は、戦争中に日本の占領軍が、捕虜を炎天下百キロメートル歩かせて、二万人が死ぬという事件を起こした所でした。これを『バターンの死の行進」と呼び、フィリピンではこの事件を忘れないため今でも毎年行進が行われているのです。七十年以上経た二〇一五年でも三千人が参加したと報道されました。この事件を忘れてはいないということです。講壇に立って、まず、そのバターン半島にある、サンタ・カタリナという村へ行きました。貧しい村でした。村には竹で編んだ教会が建っていました。窓はありましたが、ガラスは入ってはいません。そこに会衆が座っていて、一番後ろの席から牧師に先導されて講壇の前のほうへ進んで行くのです。みんなが振り返って、私の顔を見ました。私はにらまれていると感じました。『日本から来たアベです』と自己紹介をしました。私の英語を牧師が、現地のパンパンガ語に訳してくれました。そうしたら、会衆がニコッと笑いました。なぜ笑っているのかはわかりませんでしたが、気分的に大変楽になりました。私は戦争責任をみんなの前で詫びました。話し終わってから、牧師がみんなの前で私にこう言いました。『あなたは、戦後この村に来た最初の日本人です。私たちが会う軍服を着ていない最初の日本人です。あなたがこの村へ来るというので、何か起こらなければいいがと内心、心配したのですよ。しかし、あなたのアベという名前は、パンパンガ語でフレンド(友人)という意味です。今朝は、あなたを日本からのアベとして歓迎します』と言ってくれたのです。スタンディングオベーションといいますが、会衆がみんな総立ちになって拍手をして、私を迎え入れてくれました。礼拝が終わって、竹で編んだ床の上に車座になって、その土地の料理をごちそうになり、青年たちが汗をかきながら、ホワイト・クリスマスを歌ってくれました。雪を見たことがない青年たちの歌声は、心に響きました。そういう私も、雪の中のクリスマスは一度しか経験したことがありませんでしたが、心を合わせた百人ほどの、一人ひとり全員と握手をしてから別れました。帰りの車で友人が、『お前の名前はラッキーだったな』と言ってくれました。私は、『中学の時から、名簿はアルファベットのABC順で私の名ABEはまず一番で、しかも外国へ行ってもだいたい一番。一番だと、教師が入ってきて、『はい、アベ。立って本を読め」といったことになり、ろくなことがない。嫌な名前だと思っていたんだよ。しかし、今日は、アベは世界で一番祝福された名前だと思ったよ』と、友人に答えることができました。私は、そこで、和解を経験しました。和解とは、日本の裁判用語では、原告と被告が条件を出し合って妥協することです。しかし、和解の意味は、加害者が罪を告白して赦しを乞うこと。被害者がそれを受け入れること。そして、被害者と加害者が新しい理解に立って信頼関係をつくり上げること。これが和解の意味です。私たちの国は、戦後、アジア諸国と本当の和解をしたでしょうか。私はこの時から、福祉とは、和解の業だと理解するようになりました。アーノルド・トインビーは、スラムで労働者大衆を前にして、『われわれ知識階級は、今まで諸君を無視し、愛情の代わりに施しと無益な忠告しか与えようとしなかった。この誤りと罪をここに告白し、諸君の赦しを乞いたい。諸君がわれわれの誤りを許してくれると否とにかかわらず、われわれは生涯を諸君に捧げ、諸君に仕える』と告白しました。ここからセツルメントは始まったのです。」(p.156)
- 「そんな私の目をまず開かせてくれたのはA・シュワイツアで、新しい平和の文化の形成に立ち上がる勇気を与えられた。また、ベルジャエフと上田辰之助に刺激を受け、学び直すことへの指針を与えられた。勉強をし直そうと決意して大学への進学を心に決め、東京商科大学(一ツ橋大学)で学び、さらに、アメリカへの留学の機会を得て学びの道を歩んだのだった。戦争とは何だったのだろうか。戦争を起こす要因は、自己防衛、産業・貿易・経済の拡張、植民地の拡大、不安定な政治など多様であり、暴力を否定する宗教ですら、時に戦争を肯定する矛盾を犯すことがあるということが頭の中をめぐった。戦争を起こすのは易く、おのれは戦わないという選択肢は厳しいものだった。思考を閉ざされ、憎しみの枠をはめられ、何の疑いも持たない心のままで過ごしてきた、国家・国民意識のみにくさ、怖さ。私は自責の念にさいなまれた。戦後になって、様々な米国の情報が伝えられたが、最も衝撃を受けたのは、conscientious objection(良心的兵役拒否)だ。以前にも述べたことだが、アメリカの徴兵制度はこれを認め「人を殺すな」という絶対平和主義を信じているクェーカーやメノナイト、セブンスディ・アドベンティスト等の人たちの徴兵拒否を認め、たとえ入隊しても銃は持たない衛生兵にしたりしたのだ。徴兵を拒否すると実刑になった日本の軍隊との違いが強く心に響いた。生涯その良心を貫こうとする人を認め、良心を尊びそれに従うという、想像を超える政策が、米国で実行された歴史的事実には深く考えさせられるものがあった。」(p.166)
- 「英国の看護婦エディス・キャベルは、第一次世界大戦中、ドイツ軍に占領されたベルギーで、味方が皆退却した後もブリュッセルの野戦病院に残り、敵味方の区別なく負傷者の看護に当たっていたところ、スパイの嫌疑を受けて逮捕・起訴され、銃殺処刑された。ロンドンのトラファルガー広場にある彼女の銅像の台座には、刑執行前夜に語ったとされる『愛国心だけでは十分ではない。私は誰に対する憎しみも恨みも持ってはならない』という言葉が記されている。この言葉には、良心の片鱗もなく国の権威に服従し、愛国心のみで動いていた自分に気づかされ恥じ入ったことだった。今から三年前の二〇一五年十月、ベルギーのブリュッセルで、悲劇の看護師エディス・キャベルの胸像が建造され、英国アン王女とベルギーのアストリッド王女によって除幕されたというニュースが流れた。エディス・キャベルは日本ではあまり知られていないが、この除幕式のちょうど百年前の一九一五年十月十二日、この地で銃殺処刑されたのだ。私はこのニュースに、平和を求める人間愛の神髄を呼び覚まされた。戦争による悲劇に対する心の痛みもさることながら、さらに感動させられたのは、年齢的に考えて、実際には直接この戦争に接していない世代の人びとが『百年前のこの事件を決して忘れてはいけない』と、改めて胸像を建て社会に提示したことである。人間として最も大切な生命尊重の思いをここで確認しよう、そこにある真理を守り貫こうとする意志に、いっそう目を覚まされた思いであった。そして私も、自らの戦争責任をもう通り過ぎたことと思い込まない覚悟のもとに、悩み抜いたことを忘れないようにして、今という時期をおろそかにせず、さらに「戦争と平和」についてしっかり考えてみたいと強く思ったのだ。」(p.168)
(2026.2.16)
- 「西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか」エマニュエル・ドット著 大野舞訳 文藝春秋(ISBN978-4-16-391909-6, 2024.11.10 第1刷発行)
出版社情報・目次。ウクライナへのロシアによる侵攻を中心に、西洋で何が起き、その背景には何があるのかを、フランスの歴史人口学者・家族人類学者が、国・地域ごとの家族システムの違いや人口動態に着目して解き明かしており、西洋では不人気のようだが、日本では注目されているようで、図書館で借りられるまでにかなりの時間がかかった。様々なできごとを紡ぎ合わせるさまは、興味深く、今後の世界情勢を考えるヒントにはなっている。ただ、宗教ゼロ、ゾンビ化、アトムまたはブロッブ化などの捕え方が、この方の専門なので仕方がないが、分野外の者にとってはすこし説明が乱暴であると感じた。このような視点も大切にしながら、世界で起きていることを見ていきたいと思う。以下は備忘録:- 「二〇二二年三月三日、戦争が始まってわずか一週間後、シカゴ大学の地政学教授、ジョン・ミアシャイマーは動画を配信し、一連の出来事の分析を行った。この動画は公開後すぐに世界中を駆け巡った。彼の分析の興味深い特徴は、ウラジーミル・プーチンのビジョンと極めて高い整合性があった点と、ロシアの考え方は知的かつ理解可能だという公理を受け入れた点にある。ミアシャイマーは、いわゆる地政学では『リアリスト(現実主義者)』と呼ばれる立場だ。現実主義において国際関係とは、互いに自己中心的な国民国家間の力のぶつかり合いだと考えられている。彼の分析は次のように要約できる。ロシアは何年もの間、ウクライナがNATOに加盟することは許容できないと言い続けてきた。その一方でウクライナの軍隊は同盟国、つまりアメリカ、イギリス、ポーランドの軍事顧問たちによって軍備強化が進められ、NATOの『事実上』の加盟国になろうとしていた。だから、ロシアは以前から予告していた通りに戦争を始めた、というわけだ。ミアシャイマーに言わせれば、ウクライナに侵攻したロシアに私たち西洋人が驚いたこと自体がまさに驚きなのだ。」(p.29-30)
- 「国民国家のロシア的概念を最もうまく定義するのは『主権』の概念だ。『主権』とは、タティアナ・カストゥエヴァ=ジャンが説明するように〈国家が外部からの干渉や影響を受けることなく、独立して国内政策と対外政策を決定する能力として理解される〉。この概念は継続するウラジーミル・プーチン大統領政権下で特別な価値を持つようになった〉という。それは〈政治体制や政治的志向がどうであれ、国が保持する最も貴重な財産として、数多くの公式文書や演説で言及されている〉。また〈主権はアメリカ、中国、そしてロシア自身を筆頭とする数少ない国家だけが手にしている稀少な財産だ。一方で、最も公式的な文書や演説では、ワシントン、つまりアメリカによるEU諸国の『属国化』は侮蔑的に表現され、ウクライナはアメリカの『保護国』と表現されている〉。」(p.31-32)
- 「国際関係の『実践者』プーチンが『うその帝国』という表現を使うことで感じ取りつつも完全には定義できていないこと、また、その一方で国際関係の『理論家』としてのミアシャイマーが断固として見ようとしないこととは何か。それは、『西側諸国にはもはや国民国家など存在しない』という非常に単純な真実だ。本書では世界の地政学の、ある意味で『非ユークリッド幾何学』的な解釈を提案する。この解釈では、『国民国家で形成される世界』という公理を当然視しない。そうではなく、西洋における国民国家の消滅という仮説を用いることで、西洋諸国の行動を理解可能にするのだ。」(p.33)
- 「国家に注水し、栄養を供給する強力な中流階級があってこそ機能する国民国家という考え方は、アリストテレスの均衡の取れた『ポリス(Cité)』を強く想起させる。アリストテレスは『政治学』の中で、中流階級についてどのように述べていただろうか。〈しかし、立法者はその憲法の中に、常に中流階級のための場所を設けなければならない。もしその法律が寡頭政治的であれば、中流階級を見失うことはない。もしその法律が民主的であれば、法律を通じて中流階級を融和させなければならない。中流階級に属する人々が、富裕層と貧困層の双方の合計、あるいは富裕層、貧困層のどちらか一方に対して数的に上回っているならば、安定した政治を行える。富裕層と貧困層が協調して中流階級に対抗する恐れなどいっさいないからだ。富裕層と貧困層のどちらのグループも、相手の奴隷になることは受け入れないだろうし、富裕層と貧困層が共通の利益によりよく仕える政府の形態を探るとすれば、この形態以外にないだろう。相互不信から、交代で指揮を執ることに耐えられなくなるからだ。どこでも、最も信頼を集めるのは審判である。ここでの審判は、真ん中にいる者なのだ〉」(p.35)
- 「『西洋』をいかに定義するか。二つの方法がある。一つは、教育の離陸と経済発展から見た広義の『西洋』だ。この『西洋』は、大国だけに限定した場合、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、日本が含まれる。これこそが政治家やジャーナリストたちが考える今日の『西洋』で、日本という〔アメリカ〕保護国にまで拡大した『NATOの西洋』である。もう一つはより狭義の『西洋』だ。自由主義的かつ民主主義的革命を成し遂げたかどうかが基準となる。すると、より厳選されたクラブとなり、イギリス、アメリカ、フランスだけになる。一六八八年のイギリスの『名誉革命』、一七七六年の『アメリカ独立宣言』、一七八九年の『フランス革命』が、この狭い意味での『自由主義的西洋』の誕生のきっかけとなった出来事だ。広義の『西洋』は、歴史的に見て『自由主義的』ではない。イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、日本の軍国主義を生み出しているからである。これら三カ国は(それなりに正当な理由から)『今は変わった』とされている。他方で今日の西洋の言説は、ロシアだけはツァーリの独裁主義とスターリンの全体主義の間を行き来する『永続的な専制主義』という枠組みの中に閉じ込めている。プーチンを悪魔と同一視しない場合でも、彼は新たなスターリンあるいは新たなツァーリとされている。ロシアの進歩を否認する歴史的考察を欠いた基準を(広義の)西洋にも適用してみると、自らの『西洋』のイメージが現実からかけ離れていることに気づくだろう。単にファシズム、ナチズム、軍国主義に由来しているわけではなく、イタリアの歴史、ドイツの歴史、日本の歴史をほぼ永続的に突き動かしている謎めいた文化的要素に起因する暴力を、程度の差はあれ常に保持していることがわかる。家族構造の分析が、それぞれの国の歴史に一貫する諸要素(特に直系家族や共同体家族の権威主義)の特定を可能にしてくれる。もちろん、現在のイタリアがムッソリーニのイタリアではないことは明らかで、今のドイツはヒトラーのドイツではない。同様に、今のロシアは共産主義あるいはツァーリのロシアとはまったく異なっている。私はここからは広義の『西洋』の定義を使用する。理由は単純だ。それがアメリカの覇権システムに対応する『西洋』だからである。ただし、そこには『自由主義的西洋』と同時に『権威主義的西洋』も含まれていることは留意しておきたい。一九九〇年から二〇〇六年にかけてのロシアの発展がきちんと認められていたならば、ロシアをこの『権威主義的西洋』に含めることができただろう。広義の『西洋』においてこそ、世界のその他の地域より早期に経済発展が起きており、これについては、イタリアのルネッサンスとドイツのプロテスタンティズムという二つの文化的革命が説明してくれる。つまり私たちの近代は、権威主義的地域で最初に開花したというわけだ。マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムとヨーロッパの経済発展の間に関係性を見出した。しかし彼は、微妙な神学的ニュアンスに西洋の経済的離陸の理由を求めるうちに道に迷ってしまったようだ。本質的な要因はもっとシンプルで、プロテスタンティズムは支配下にある人々を常に識字化する、という点にある。プロテスタントの信者は、誰もが聖書に直接アクセスできなければならないからだ。そして読み書きできる人々の存在が技術および経済の発展を可能にする。こうして、プロテスタンティズムは、意図せずして、非常に有能な労働力を形成したのである。もちろん産業革命が起きたのはイギリスで、最も目覚ましい最後の経済的飛躍はアメリカで起きたが、西洋の発展のそもそもの中心は、ドイツにあったというわけだ。さらにそこに、プロテスタント国で早期に識字化したスカンジナビアを加えると、『第一次世界大戦前夜の先進諸国』を表す地図ができあがる。西洋のプロテスタンティズムの中心は、『自由主義』と『権威主義』という二つの構成要素にまたがっていると言えるだろう。一つの極はアングロサクソン世界、もう一つの極はドイツ(三分の二がプロテスタント)にあるからだ。フランスはカトリックの国だが、その地理的な近さから、(基本的にプロテスタンティズム圏の)西洋の最も発展した先進地域の内に居続けることができたのである。社会に対する見方として、プロテスタンティズム圏は、全体として程度の差はあれ、予定説の教義を受け継ぎ、「選ばれし者と地獄に落ちる者がいる』、つまり『人間は平等ではない』という人間観を共有している。ドイツのあからさまな不平等主義と、オランダ、イギリス、アメリカのより和らいだ不平等主義は、いずれも『洗礼によって原罪から清められた人間はみな平等である』というカトリック(あるいは正教会)の根本的な考えに対立した。その結果として、人種差別が最も激しく、最も強固な形で現れたのがプロテスタンティズムの国だったことには何の驚きもない。ナチズムはドイツのルター派の地域に根づいた。一九三二年のナチス党の得票を示す地図は、プロテスタンティズムの地図と見事に重なり合うのである。アメリカ人が黒人差別に固執するのも、プロテスタンティズムと深く関係している。ナチス・ドイツ、一九三五年から一九七六年までのスウェーデン、一九〇七年から一九八一年までのアメリカにおける優生学と強制不妊手術についても最後に触れておこう。これは、基本的人権をすべての人に認めるわけではない、というプロテスタンティズムの本質の論理的帰結なのである。こうしてプロテスタンティズムは、二つの意味で西洋の中心に位置している。プロテスタンティズムの良い側面には、教育と経済の発展があり、悪い側面には、人間は不平等だという考え方がある。さらにプロテスタンティズムは、国民国家の最初の発展の原動力にもなった。フランス人は、『国民』を発明したのは自分たちのフランス革命だと考えているが、それは間違いだ。プロテスタンティズムこそが、こうした自己表象、つまり特殊な集団意識の形態を各国民に最初に与えたのである。聖書は土着の言語に訳されるべきだとしたことで、ルターとその弟子たちは国民文化の形成と、好戦的で明確な自己認識をもつ、強力な国家の形成に大きく貢献した。すなわちクロムウェルのイギリス、グスタフ・アドルフのスウェーデン、フリードリヒ二世のプロイセンである。プロテスタンティズムは、聖書を読みすぎたことで「我こそは神に選ばれし者』という自己認識に至った人々を出現させたのだ。原初のプロテスタンティズムは、権威主義的な気質を備え、ルターは国家に対する個人の絶対的従属を説いた。しかし、ドイツにプロテスタンティズムの権威主義的な形態が根づいたのは、そこに人類学的な資質が存在したからだ。この点に関してドイツの直系家族構造は、ロシアの共同体家族とほぼ同様の資質を有している。そこでは息子たちの一人だけが父親と暮らすよう求められる(ロシアのようにすべての息子たちではない)。このメカニズムがより安定した社会秩序を生み出したのだ。そこに「兄弟間の平等』や『父に対する兄弟間の連帯』といった価値観はなく、(ツァーリや神に反抗する)いかなる過激な革命的願望もなく、安定した社会秩序を崩壊させるものは何もなかったのである。一方、イギリスのプロテスタンティズムは、議会と報道の両方において自由を開花させた点で正反対だった。自由民主主義がイギリスにおいて他よりも早く誕生したという事実は、人類学者を驚かせるものではない。絶対核家族構造では、一組のカップルとその子どもたち以外の者との同居はあり得なかった。青年期に達した時点で子どもたちは家を離れ、経済水準にかかわりなく)他の家に使用人として送り出された。このようなシステムは、自由に対する心構えを個人に持たせ、『リベラルな無「意識」まで吹き込んだ。これをイギリスの入植者たちがアメリカ大陸に持ち込んだというわけである。フランス、少なくともパリ盆地では、核家族構造は平等主義で、遺産相続に関して兄弟姉妹は皆平等だった。一方、アングロサクソンの世界には、この子ども同士の平等のルールは存在しなかった。家族構造の人類学こそが、なぜ、またいかにして、イギリス、アメリカ、フランスが自由民主主義を競い合うように生み出したのかを明らかにしてくれる。核家族の基盤は、天性の自由主義を育むことができた。一七八九年、フランス的平等主義の基盤が突如として顕在化したことに直面したイギリスは、当初、恐れおののいた。しかしフランスがいったん落ち着きを取り戻すと、イギリスはそこに独自の普通選挙を実現させるための促進剤を見出した。アメリカに関しては、インディアンや黒人を社会的劣位に閉じ込めることで、家族生活における平等主義の不在を早い時期に乗り越えた。しかし、『白人同士の平等主義』は『人類全体の平等主義』より脆弱な原則であることが露わになる。これについては後ほど検討する。ドイツを含む広義の『西洋』の定義からすると、少なくとも『西洋とロシアの根源的な対立』という見方自体が奇妙なものに見えてくる。むしろ全体主義の誕生(直系家族がナチズムを、共同体家族が共産主義を生み出した)に関して言えば、ドイツとロシアは、むしろイトコ同士の関係、あるいは部分的な歴史的共犯関係にある印象を受ける。自由民主主義発祥の地という、より狭義の『西洋』の定義にこだわるとしても、やはり一つの不条理に直面する。今日の西洋は、(たとえば)『ロシアの専制体制』に対抗する『自由民主主義』を体現するのは自らだと主張しているが、自由民主主義の発祥地であり、核心部であったイギリス、アメリカ、フランスにおいて、その自由民主主義が危機に陥ってしまっているからである。」(p.154)
- 「ここで『民主主義の退化』の理念型を抽出してみよう。そのためにはまず『自由民主主義』の理念型を定義する必要、あるいはそこまでしなくとも、『自由民主主義』をかいつまんで描出する必要があろう。自由民主主義は、枠組みとして国民国家を有し、常にではないが、多くの場合、共通言語があることで市民同士が一定程度理解し合えている。また普通選挙が行われ、多党制で、表現の自由と報道の自由が保証されている。そして重要な特徴として、少数派の保護が保障されつつ、多数決の原則が適用される。ただし、ある国が自由民主主義であるためには、明文化された法律が単に存在するだけでは不十分である。その法律が、民主主義的な慣習によって、活性化され、体現され、経験されなければならない。普通選挙によって選ばれた代表者は、あくまで自分たちを選んだ国民の代表者であることを必ず自覚しなければならない。こうした法律と慣習の一致は、二〇世紀における大衆の識字化によって初めて可能になったのだ。私が読み書きの能力に民主主義の基盤を見出しているのは、単にそれによって新聞を読み、投票用紙の解読〔フランスでは候補者名が印刷された紙を選んで投票するが、日本のような手書き(自書式)は世界的に見て例外的〕が可能になるからというだけではない。いわば『すべての市民の間での平等』という観念が育まれるからだ。読み書きは聖職者の独占物だったが、今やすべての人のものとなった。しかし二一世紀に入ると、民主主義的平等の基礎となる感情そのものが渇してしまったようなのである。高等教育の発展は、一世代の三〇%か四〇%の人々に『自分は真に優れている』という感覚を与えるようになってしまったのだ。『大衆化したエリート』という矛盾した表現がこの状況の異様さを物語っている。」(p.161)
- 「ウクライナ戦争以前、西洋の民主主義は、ますます深刻化する害悪に蝕まれていると見られていた。この害悪によって、思想面と感情面において『エリート主義』と『ポピュリズム』という二つの陣営が激突するようになる。エリートは、民衆が外国人嫌いへと流されることを非難する。民衆は、エリートが『常軌を逸したグローバリズム』に耽っているのではと疑う。民衆とエリートが、ともに機能するために協調できなくなれば、代表制民主主義の概念は意味をなさなくなる。すると、エリートは民衆を代表する意思を持たなくなり、民衆は代表されなくなる。世論調査によれば、『西洋民主主義国』の大部分において、ジャーナリストと政治家は、『最も尊敬されていない職業』だという。いま陰謀論が蔓延しているが、これは、『エリート主義対ポピュリズム』、すなわち社会の相互不信によって形成される社会システムに特有の病理なのだ。民主主義の理想は、『すべての市民の完全なる経済的平等』という夢にまでは至らなくとも、『人々の社会的条件をなるべく近づける』という観念を含んでいた。第二次世界大戦後、民主主義が絶頂にあった時期には、アメリカを始め多くの国で、『プロレタリア』と『ブルジョワ』が『大規模になっ中流階級』の中に溶け込むことすら想像できたのだ。ところがここ数十年、国によって程度に違いはあるが、私たちが直面してきたのは、格差の拡大である。自由貿易によってもたらされたこの現象は、既成の諸階級を粉砕したが、同時に物質的生活条件も悪化させ、労働者階級だけでなく中流階級の雇用へのアクセスまでも悪化させた。繰り返すが、私のこうした考察は、誰もが同意するはずの至極平凡なものにすぎない。今日の民衆の代表者、つまり、高等教育を受けた大衆化したエリートたちは、第一次産業および第二次産業に従事する人々を尊重しなくなり、どの政党に属していようが、根底では、自らが高等教育で身につけた価値観こそが唯一正当なものだと感じている。彼らにとっては、自分はエリートの一員であり、その価値観こそが自分自身であり、それ以外は何の意味もなさず、虚無でしかない。こんなエリートなら自分以外の何かを代表することなど絶対にできないだろう。」(p.162)
- 「『みんなのための結婚』の合法化をめぐる論争を再度取り上げることがここでの目的ではもちろんない。同性婚の制度化を優れた人類学的指標として冷静に検討することが目的だ。これこそが、社会的勢力としてのキリスト教の完全なる終焉を明確にしてくれるからである。同性婚が合法化されたのは、オランダでは二〇〇一年、ベルギーでは二〇〇三年、スペインとカナダでは二〇〇五年、スウェーデンとノルウェーでは二〇〇九年、デンマークでは二〇一二年、フランスでは二〇一三年、イギリスでは二〇一四年(ただし北アイルランドは二〇二〇年になってから)、ドイツでは二〇一七年、フィンランドでも二〇一七年だった。アメリカに関しては、二〇〇四年にマサチューセッツ州が合法化したが、全国規模で合法化されたのは二〇一五年である。こうした、明確で揺るぎない方法によって、西洋におけるキリスト教の実質的な意味での消滅の時期は二〇〇〇年代だったと確定できる。カトリックとプロテスタントが、キリスト教自体が消滅するなかで融合しつつあることも指摘できる。ただし東ヨーロッパはこの動きに関わっていない。またバチカンが存在するイタリアは、まだ同性婚を認めない従来の民事婚の段階にある。」(p.171)
- 「一九六〇年代(イギリスとアメリカにおける性の革命とフランスの五月革命を含む)の重大な幻想の一つは、『集団を超越することで個人はより大きくなれる』と信じてしまったことだろう(私の誤り、最大の誤りを認めよう! meq culpa, meq maxima culpa!)。それはまったく逆なのだ。個人というのは集団においてのみ、また集団を通してのみ大きくなることができる。単体としての個人は自ずと小さくなる運命にある。あらゆる集団的信仰―根源的または派生的な形而上学的信仰にしろ、共産主義的信仰にしろ、社会主義的信仰にしろ、国民的信仰にしろ――から一斉に解放された私たちは今、空虚さを経験し、小さくなっている。もはや敢えて自分の頭で考えることもなく模倣を繰り返す小人の群れと化している。ただそれでいて、不寛容の度合いにおいては、かつての宗教の信者に劣っていないのである。集団的信仰とは、人々がともに行動するために共有している考え方というだけにとどまらない。集団的信仰は個人を形成するのである。他人に認められた道徳規律を個人に教え込むことで、集団的信仰は個人を変化させる。個人の内部で機能するこうした『社会』を精神分析では『超自我』と呼ぶ。今日、この概念は評判が悪いが、それは、『自己成長』を抑圧して妨げる『感じの悪い監視装置』を想起させるからだ。しかしフロイトやその他の専門家にとって、『超自我』は『理想の自我』をも意味する。目前の欲望を超克することを可能にし、より良い自分になるために現在の自己の超克も可能にしてくれるものだからだ。フロイトが『理想の自我』と名づける以前にも『良心』と呼ばれるものが存在し、これは他者の尊重を含むものであった。良心に耳を傾け、自分の良心に問うことは、キリスト教に由来する教えだった。宗教ゾンビ状態でも、理想の自我を社会が個人に刷り込むことがまだ可能で、『良心』もまだ完全に機能していた。まだ緩やかな変化の過程にあるものを完全に変化を遂げた形で示すことで、ここで私は、誇張し、図式化しすぎていることは認めよう。宗教ゼロ状態は、『空虚』を、また傾向として『超自我の欠如』を示す。それでも存在し続け、自らの有限性に苦悩を感じ続ける人間存在に対して、宗教ゼロ状態は、『無』あるいは『虚無』をはっきりと提示する。こうしてこの『無』、この『虚無』も、あらゆる方面において何かを生み出す。すなわち反動を生み出す。生み出されるものには尊敬に値するものもあるが、愚かなもの、下劣なものもある。そのうち『無』を崇めるニヒリズムは最も月並みなものだろう。ニヒリズムは、ヨーロッパにもアメリカにも存在し、西洋の全域に遍在している。個人主義的核家族型の人類学システムであるフランス、特にイギリスとアメリカ家族的枠組みの残滓すらないにおいて、ニヒリズムは最も完成した形で広がっている。一方、直系家族・ゾンビ(ドイツと日本)あるいは共同体家族・ゾンビ(ロシア)の『痕跡』は、個人主義的核家族の『虚無』に比べると、まだ『何か』ではある。これからすぐに検討するが、『絶対核家族におけるプロテスタンティズム・ゼロ状態』というイギリス・アメリカ社会が、ニヒリズムの明白な舞台となっていることに何の驚きもない。しかしまずは、より複合的な家族構造が残っている大陸ヨーロッパが、この戦争を前にして、いかに主体的な意思を失ったのかを検討しよう。」(p.171-173)
- 「残念なことではあるが、アメリカに対するヨーロッパ人の卑屈さを説明するには『恐怖』という概念を取り入れなければならない。恐怖だけがアメリカへの同調の要因ではない。しかし、一〇〇%に近い服従率を誇るこの完全防備の絶対権力システムは、全体主義的な雰囲気がその上層部を支配していることを示唆している。ウラジーミル・プーチンなら、次のように皮肉ることができる。もしアメリカがヨーロッパの指導者たちに首を吊るように要求したら、彼らは従うだろう。しかし、ヨーロッパ製のロープで吊るされることを懇願するだろう。しかし、アメリカの繊維産業を守るために、この要求すらも拒否されてしまうだろう、と。これほど極端な服従にはこれほど極端な説明が必要となる。」(p.205)
- 「ジョン・ロールズは、黄金時代が終わりつつあった一九七一年に、かの有名な『正義論』を著した。今日、この本は正しく読めば、ロールズによる弔辞とみなせるが、それをこれから証明しよう。ルーズベルトの一世代半後の一九二一年に生まれたロールズは、WASPの中でも下位のカテゴリーに属していた。グロトン校よりかなりランクが下のケント・スクールの生徒だったロールズは、ハーバード大学ではなくプリンストン大学に進んだ。そして太平洋戦争に出征し、強い道徳的懸念に取り憑かれて帰還した。米国聖公会の信者だった彼は、広島への原爆投下による惨状を目の当たりにした後、無神論者になった。その結果、恵まれた時代のWASP上流階級の慣習を理論化した『正義論』が生まれたのである。ロールズが定義する『正義』とは、最貧層の幸福に寄与する限りは不平等を容認することである。皮肉なのは、ロールズがこうした『社会的な賭け』に出たのは、格差の拡大が貧しい人々に恩恵をもたらすどころか、まさに彼らを殲滅し始める直前だったことだ。」(p.273)
- 「徹底的な批判を始める前に、公平さを保つためにもまずアメリカ経済の議論の余地のない強みを指摘しておこう。近年、最も重要な技術革新がシリコンバレーからもたらされたことは論を俟たない。シリコンバレーの通信・情報技術の進歩は、世界中とまでは言えないとしても、少なくとも同盟国への支配力を著しく強めた。これも近年のことだが、アメリカの石油、特に天然ガスの生産国としての大いなる復活も私たちは目の当たりにした。一九四〇年に日量四〇〇万バレルだったアメリカの石油生産量は、一九七〇年には九六〇万バレルまで上昇し、二〇〇八年には五〇〇万パレルに落ち込んだが、戦争直前の二〇一九年には、水圧破粋技術のおかげで一二二〇万バレルにまで達している。主要輸出国ではないが、アメリカは石油の純輸入国ではなくなったのである。天然ガス生産量は、二〇〇五年の年間四八九〇億立方メートルから、二〇二一年には九三四〇億立方メートルに増加している。天然ガスの分野でアメリカは、ロシアに次ぐ世界二位の輸出国だ。戦争のおかげで、特にロシアからの天然ガス供給を突然遮断されたヨーロッパの同盟諸国に供給できるようになったアメリカは、世界最大の液化天然ガスの輸出国となった。エネルギー分野は、この戦争の明らかな不条理の一つを浮き彫りにしている。アメリカの目的は、ウクライナを守ることなのか。あるいはヨーロッパと東アジアの同盟国を支配し、搾取することなのか。GAFA、天然ガス、シリコンバレー、テキサスというアメリカ経済の強みは、人間の活動範囲の両極端に位置している。プログラミングのコードは『抽象化』に向かうが、エネルギー資源は『原材料』である。この両端の間にこそ、アメリカ経済の弱みと困難さが存在する。つまり、モノの製造、伝統的な意味での『工業』に当たる部分である。NATOの標準兵器である一五五ミリ砲弾すら十分に生産できないという極めて陳腐な事態を通じて、この戦争が明らかにしたのは、アメリカに産業基盤が欠落していることである。さらに種類を問わず、いかなるミサイルも十分に生産できなくなっていることが少しずつ明らかになった。物事の正体を暴く戦争は、私たちの(そしてアメリカ自身の)アメリカに対する認識とアメリカの真の実力の間にあるギャップを明らかにしたのである。二〇二二年、ロシアのGDPは、アメリカのGDPの八八%(ベラルーシと合算すると、西洋陣営のGDPの三・三%)でしかなかった。GDPで見れば、ロシア側をこれほど圧倒していたにもかかわらず、なぜアメリカはウクライナが必要とする砲弾すら生産できなくなってしまったのか。」(p.292-293)
- 「チャールズ・ライト・ミルズの言うWASPエリートは消滅した。現在のアメリカ政府を一瞥すればそれは明らかである。特にウクライナ戦争を司っている重要人物の中に、WASPは一人もいない。ジョー・バイデンは、アイルランド系カトリックである。国家安全保障問題担当大統領補佐官ジェイク・サリバンも同様だ。国務長官、つまり外務大臣のアントニー・ブリンケンは、ユダヤ人である。ヨーロッパとユーラシア(つまりウクライナ)担当の国務次官ヴィクトリア・ヌーランドは、ユダヤ人の父とイギリス系の母を持つ。国防長官のロイド・オースティンは、黒人でカトリックだ。アメリカの刑務所における黒人比率は、四〇%と異常に高いが、同じようにバイデン内閣においても黒人は高い比率を占めている。黒人はアメリカ全人口の一三%にすぎないのに、バイデン内閣ではい二六%にも上る。下院では一三・三%(つまり人種的比率に合致)で、上院では三%を占めているにすぎない(上院は歴史の変化のスピードにブレーキをかけるための存在なので、不自然ではない)。厳密な意味での政治機関以外では、黒人はジャーナリストの六・四%、超富裕層の〇・五%のみを占めている(最も裕福な四〇〇人のアメリカ人のうち黒人はたった二人だ)。しかし政権幹部に関しては、ワシントンにも、ロンドンのような『カラー(有色人種)』が見られるのである。指導者層の未来は、大学を見ればわかる。名門大学のうちハーバード、イェール、プリンストンという将来の寡頭制のメンバーを輩出する『聖なる場所』の学生人種別割合を見てみよう。白人はまだアメリカ全人口の六一%を占めているが、三大大学においては、わずか四六%である。こうした白人の低比率は、イギリスのように、知的分野における白人の優位性がいずれ消滅することを示している。一方、黒人の割合は、全人口比に比べると若干低いままである。全人口に対する黒人比率は一三・三%だが、イェール、ハーバード、プリンストンにおける黒人比率は一〇%でしかない。同様の傾向はラティーノ(ヒスパニック系)にも見られる。ラティーノは全人口の二〇%を占めているが、権威あるこの三大学においては一六%しか占めていない。このように白人、黒人、ラティーノは、いずれも全人口比に比して過小であるのに対し、それらの過小分を補い、全人口比に比して際立って過大な割合を示すカテゴリーがある。アジア人人口である。彼らは全人口の六%にすぎないが、この三大学の学生の二八%を占めている。政権からWASPが消えたのは、意図されたことではなかった。共和党政権が誕生すれば、それがたとえトランプ政権であっても、形の上ではWASPは復活するだろう。ただしプロテスタンティズム・ゼロのそれでしかない。つまり『似非WASP』である。そもそもバイデンからして、誰から見ても白人のアメリカ人というだけで、それ以上でも以下でもない。『アイルランド系カトリック』という彼の出自は特に意味を持っていない。ケネディがアメリカ史上初のカトリックの大統領になった時、それは一つの事件であり、転換点だった。今はそうではない。バイデンの側近にWASPが完全に不在であることで、彼自身がWASPではないことは誰の関心も引かない。この現象は簡単に説明できる。宗教ゼロ状態は、宗派だけでなく、人種と教育の差異も消し去ったのだ。カトリシズム・ゼロとプロテスタンティズム・ゼロの違いはあるのか。プロテスタンティズム・ゼロの状態において、黒人と白人の違いはあるのか。この新しい用語をさらに突き詰めてみれば、『地獄落ちという黒人への罰・ゼロ状態』ということになる。プロテスタンティズムの消滅は、この宗教に非常に強く結びついたアメリカの伝統的な人種差別の消滅をもたらしたのだ。大学におけるアジア系学生の高比率は、人種差別主義の反転の結果ではなく、彼らの教育に対する大きな活力に起因している。子どもをあまり囲い込まない絶対核家族構造という人類学的背景がある中で、プロテスタンティズムの消滅とともに、『教育重視』や『努力尊重』の気風が消滅したことから、白人の学力は崩壊した。こうして、プロテスタントとカトリックの子孫たちに差異はなくなり、SATと平均IQのレベル低下という同じ方向に向かっていったのである。一方で日本、韓国、中国、ベトナムからの移民の子どもたちは、一世代から二世代の間、こうした学力崩壊から守られてきた。それは権威主義的な家族構造によるだけでなく、教育を神聖視する儒教の伝統に負うところが大きいが、この伝統はそれ自体が『家族継承』に根づいている。イギリスやフランスでも同様の現象が見られる。誤解はしていただきたくない。イギリスのように、アメリカでもカトリックとプロテスタント、さらには白人と黒人の差別が終わりを告げた歴史的偉業をまずは称えなければならない。しかし次の段階で、WASPの消滅が社会学的に何を意味するのかを考察しなければならないのである。道徳ゼロ状態での権力エリートの消滅は、指導者集団が共有していたあらゆるエートスの消滅を意味した。WASPエリートは、向かうべき方向や道徳的目標(善悪を含む)を体現する存在だった。現在の指導者集団(エリートと呼ぶことは憚られる)は、こうしたものを何も体現していない。残っているのは、純粋な権力のダイナミズムだけで、それが対外政策に投影されることで、軍事力と戦争への偏愛として現われたのだ。この重要な点については後ほど詳述する。まず私は、バイデン政権の外交政策の立案におけるユダヤ人の役割を位置づけるために、基本となる社会学的要素について言及しなければならない。」(p.310-313)
- 「まず、さらなる誤解を避けるために、私自身がユダヤ系で、ブルターニュ人でもあり、イギリス系の先祖ももっていて[Toddは古英語で『狐』の意]、この三つの出自に十分満足していることを述べておく。アメリカ全人口におけるユダヤ人の割合は一七%である。バイデン政権、特に外交政策に携わるメンバーの中で、ユダヤ人の比率が非常に高いことはすでに見た通りだ。外交問題の分野で名高いシンクタンク『外交問題評議会』の『理事会 (Board of Directors)』においても同じようにユダヤ人の割合が高い。三四人のメンバーのほぼ三分の一がユダヤ人なのである。二〇一〇年の『フォーブス』誌の番付によると、アメリカの最も裕福な一〇〇人のうち三〇%がユダヤ人だった。まるで一九三〇年代のブダペストを見ているようである。こうした現象は、前述したのと同じように解釈できる。つまり、ある社会の上層部においてユダヤ人の比率が非常に高い理由は、多くの場合、その社会の人口全体の教育水準の低さにある。ユダヤ教の教育熱心さがこうした社会では特に完全な形で際立つわけだ。この状況は、これまで見てきたように、一八〇〇年から一九三〇年にかけての中央ヨーロッパと東ヨーロッパと同様に現在のアメリカに見事に当てはまる。近年のアメリカにおけるユダヤ人勢力の相対的な台頭は、プロテスタントの教育的関心が衰退したことの帰結の一つなのである。一九六五年から二〇一〇年にかけてのアメリカにおいてプロテスタントという競合相手がいなくなることで、ユダヤ人の教育への執着心は、ユダヤ人の存在感を大きくすることにつながった。それは、まだ識字化が進んでいなかった一九世紀の中央ヨーロッパと東ヨーロッパにおいて、ユダヤ人が大きな影響力を持ったのと同じである。歴史、特にアメリカのユダヤ教の歴史はここで終わるわけではない。アジア系アメリカ人の教育熱が勢いを増すことで、ユダヤ人にとっての競合相手の不在という一九六五年から二〇一〇年まで続い状況に終止符が打たれたのである。オンライン雑誌『タブレット(Tablet)』(ユダヤ系雑誌)の驚くべき記事は、今日、ユダヤ人の重要性の消失という傾向がいかに強いかを示している。二〇二三年三月一日付のヤコブ・サベージの『消失(The Vanishing)』は、極端に悲観的な記事だ。彼曰く、『ユダヤ系アメリカ人がこれまで重きをなしてきたハリウッド、ワシントン、ニューヨークなどの大学界において、今やその影響力ははっきりと後退している』。いくつもの驚くべき事例がこの主張を例証する。ベビーブーム世代のユダヤ人たちは、最も権威のある大学で二一%を占めていたが、三〇歳以下を見ると、わずか四%でしかなくなり、アイビーリーグ大学では七%となっている。つまり、一九五〇年代に廃止されたヌメルス・クラウズス制度が課していた上限一〇%を下回っているのである。『ハーバードでは一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけてユダヤ人が二五%を占めていたが、今日では一〇%に満たない』とサベージは嘆く。衰退は大学以外にも見られる。『ニューヨークというユダヤ系アメリカ人の政治権力の中心地でも、権力を握るユダヤ人はほぼいなくなった。今から一〇年前、同市には五人のユダヤ人議員、一人のユダヤ人市長、二人のユダヤ人行政区長、一四人のユダヤ人市議会議員がいた。現在はユダヤ人議員が二人と一人のユダヤ人区長しかいない。五一人の市議会議員のうちユダヤ人は六人だけである』。サベージ曰く、歴史を振り返ると、連邦判事もユダヤ人の比率が高かったのだという。ユダヤ人は全人口の二・五%しか占めていなかったが(私は一・七%だと思うが、彼の一連の統計を否定するつもりはない。そもそも誰がユダヤ人かという厳密な定義は難しい)、連邦判事の少なくとも二〇%はユダヤ人だったという。しかし、この記事が書かれた時点でバイデンに指名された一一四人の判事のうち、ユダヤ人は八人か九人だけだった(つまり七%から八%で、それでも高比率ではある)。ハリウッドでも衰退は見られる。スティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・グレイ、ジェリー・セインフィールドのような一世代前の偉大な人々を除けば、ユダヤ人の偉大な監督あるいは脚本家はもういない。この記事は、現在の状況を鑑みると特別な意味を帯びてくるような結論で締めくくられている。『もし、プーチンやオルバンが大学のユダヤ人人口を五〇%減らしたら、ADL(ユダヤ人差別の撤廃を支援するNGO)は大騒ぎするだろう。しかし、ハーバード大学やイェール大学は、まるで魔法のように、一〇年も経たないうちにユダヤ人学生をほぼ半減させることに成功したのだが、このことに関して私たちは何も言わずにいる』。こうしてサベージは、ユダヤ人に対する差別の復活を告発している。しかしそんな差別が復活しているとは私には一瞬たりとも思えない。白人がユダヤ人よりアジア系を好む理由などないからだ。最もありうる解釈は、次のとおりである。長い間、教育を優遇する宗教によって優位に立ってきたユダヤ系アメリカ人たちは、アメリカ社会にあまりにうまく同化した結果、彼ら自身も、アメリカにおける宗教と知性の衰退の影響を被ってしまったのだ、と。同化は混合婚の比率から確認できる。一九八〇年以前に結婚したユダヤ人のうち、非ユダヤ人と結婚したのはわずか一八%だったが、二〇一〇年から二〇二〇年の間に結婚したユダヤ人のうち、非ユダヤ人と結婚した人は六一%に達している。アメリカの衰退は、残りの三九%の内婚カップルにも何らかの影響を与えずにはいなかっただろう。私はプロテスタンティズム・ゼロ状態、カトリシズム・ゼロ状態について述べてきたが、アメリカの場合(そして別の場所についても)、ユダヤ教・ゼロ状態も検討できるのではないだろうか。この概念は、ユダヤ人自身における教育衰退の分析に役立つだろう。私がこの記事を長々と引用したのは、新たな研究領域が開けるからだ。ただし、サベージが示す数字と結論は完全には信頼できないことも付け加えておこう。いずれにせよ、現在の指導者集団、特に戦争担当部署におけるユダヤ系アメリカ人の割合は、いまだに過度に高いままだが、これは、キャリアのピークにはある程度の年齢になって達するという理由による。」(p.313-317)
(2026.2.17)
- 「み翼のかげに - 大宮恵里の思い出」大宮チヱ子編著(1975.11.15)
急性白血病で1974年4月26日11歳で天に召された、大宮溥・チヱ子牧師夫妻の長女、恵里さんを記念して作られたもの。告別式での弔辞、溥牧師の説教などとともに、恵里さんの書かれたもの(作文や手紙)、そして、チヱ子牧師の「恵里のことども」から構成され、チヱ子牧師の注が加えられている。全体で123頁。チヱ子牧師が支えられた記録と言っても良いが、恵里さんの立派な生涯・闘病生活が記録されている。大宮溥牧師の葬儀式辞を引用する。聖書:ヨブ記1章20〜22節・ヨハネ福音書15章1〜11節 「大宮恵里は昭和三七年(一九六二年) 五月二九日、わたくしども大宮・チヱ子の長女として、新潟大学附属病院で誕生いたしました。色が白く、大きな澄んだ目をした子でした。そのころわたくしどもは、この新潟の教会に、神の御導きと信じて赴任したばかりであり、またこの子は神様の恵みによって新潟の里に生まれたとの思いから、恵里と名づけました。
満三才になった四月から三年間、東中通教会附属のみどり幼稚園で育てていただき、昭和四四年春、新潟大学教育学部附属新潟小学校に入学させていただいて今日に至りました。
昨年九月はじめから、紫斑と出血の徴候があらわれ、わが家のホーム・ドクターの小出先生と教会員の千原先生のおはからいで、県立ガンセンター新潟病院に入り、急性白血病と診断され以来最後に至るまで、主治医の内海先生、小児科部長の布施先生、原、千原両先生方の実に手厚い治療をいただきました。
こうして四カ月の療養の結果、緩解状態となり、念のため頭部に電気照射をしたために髪の毛が抜けて薄くなりましたが、やがて学校にも行けるという希望をもって、年末の三十日に喜びあふれて退院いたしました。しかし本当に楽しかった家での生活も二ヵ月半で、三月一五 日、視力が急速におとろえ、再入院となりました。
それからの病状は、まるでやまいの一斉攻撃を受けたようであり、二九日には完全に失明、腫れや出血や囁き気に悩まされ、先生方の必死の治療をうけつつも次第に悪化し、ついに一九七四年四月二六日午後一時十分、天に召されたのであります。
この間三十名にあまる有志の献血、学校や教会につらなる方々の数知れぬお見舞、教会の主にある兄弟姉妹の熱き祈りとお助けを頂きましたことを、心から御礼申し上げます。
この子は整理好きのきちょうめんな子でした。今だに幼稚園時代からの持ち物をていねいに 整理して持っています。きちょうめんなだけに、人のずるいのに対しては相当きびしかったの ではないかと思います。記憶が大へんよく、親の方が不正確なところを正されることもあるほどでした。運動はきらいではありませんでしたけれど、運動神経の敏捷でないことは親ゆずり でした。
元来背は中位でしたが、最近は非常に大きくなり、また精神的にも、少女なりに自我に目覚 め、自分らしく生きようとしていたようです。 昨年三月七日の日記に「ひとりごと」という女 を書いています。
「みんなは、わたしのことをまじめだという。
どうするとまじめといわれるのだろう? どうしてまじめというのだろう?
わたしだって、ふつうの女の子とかわらないのに。
マンガ本だって読むし、歌よう曲だって絵だって、おしゃべりだって、ふつうの人とかわら ないのに。
『まじめ』とはどういうことなんだろう。」
ひとと自分の違いを気にして、わたしも普通の女の子なんだ、普通の女の子になりたいんだと いう心が伝わってくるようであります。
恵里の八ヵ月の闘病生活は、本人にとっても家族にとっても、厳しい試練の生活でありました。わたしは折にふれてイザヤ書五〇章一〇節を思い起しました。
「あなたがたのうち主を恐れ、
そのしもべの声に聞き従い、
暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、
おのれの神にたよる者はだれか」。
しかし、この暗やみの中で目をこらしていると、やみの中にも光が輝いていることを知らされました。ここで与えられた慰めと教えの一、二を、申しのべさせていただきます。
その一つは、困難な人生を耐えさせ生きぬかせる力は、信頼の力だということであります。恵里の闘病期間、特に最後の一ヶ月は、ほんとうに、生命と死とのすさまじいばかりの戦いでした。妻が、こんな苦しみは大人の自分でも耐えられるかどうか自信がないと言ったほどでし た。それを十一才の女の子が頑張りぬきました。四月一九日の妻の日誌にこう書かれていました。
「一一時三〇分から輸血、一五時三〇分に薬液にかわり、一七時一五分終了。
七時半にカルピスをのんで、ママが朝の仕度をしていると、一人でベッドのライトのスイッチを必死の様子でさがしているので、どうしたのとたずねたが、返事をしない。電気をつける のときくと、うんとうなずいたので、スイッチを手渡して、手伝ってつけさせた。すると、手を真直ぐ上にあげて、手さぐりする様にまさぐりつづけ、『ない、ない、光がない』と異様な感じで叫ぶのでびっくりする。光がみえないの、と問うと、うん、全然みえないといって、がくっとしている。
もうしばらくしたら見えるようになるからね、といって、聖書を読もうかというと、うんと うなずく。そして、らい病人の話を読んでくれというので、開こうとしていると、たくさんの子供がいて、金持だったけれど、みんななくなってしまい、自分もらい病になって、かわらのかけらで体をかいていた人の話、という。ヨブのことだなと思って、説明しながらきくと、そうだというので、ヨブ記一章一節から二章一〇節までを読む。祈った後、どうしてヨブの話をよもうと思ったのときくと、『その人は、とても苦しかったのに、神様をのろわないでがんば った人だから』という。ああそう、恵里ちゃんもがんばっているね、というと、うん、ヨブの 事や聖書のいろんな人の事を思い出しているの、というので、それにしてもよくがんばってい るよ、というと、『ママがいるからよ、何でも治療をうけるから、ついててね、よくなったら 恩返しをするからね』と。『恩返しなんかしなくてもいいのよ、恵里ちゃんはママの大事な子供だから、お世話をするのは当り前でしょ』というと、『うん』と答えてから、『神様は今日ま でいろいろよくして下さったんだから、のろう事はないし、必ずこれからもよくして下さるよ』と。これは驚くべき神信頼、信仰告白ではないか」。
このような素直さが生まれた一つの理由は母親の愛からでした。身内のことを申して恐縮で すが、妻は子供の病院生活の間、自分のからだをそこねた時も一日もかかさず病院に通いつづ けました。最後の日々においては、恵里の目であり、手であり、足でありました。わたしは母 の愛という本当に尊いものをまのあたり見る思いでした。恵里はこの母にたより切り、そしてこの母の信ずる神を信じたのです。
もう一つの理由は、教会学校の教育であります。わたしは、ヨブの信頼について恵里に話して下さった先生に、何とお礼を言ってよいかわからないほどの感謝をいたしております。
最後の日のことでした。容態が急変して死期が迫りました時、かねて予感はしていたようで ありましたが、異常を感じて「こわい」と申しました。この不安に答えてやろうと思い、「恵里ちゃん、今まで先生方は一生懸命つくして下さったけれど、この病気は大変むつかしい病気だから、イエスさまがもういらっしゃいとおっしゃってる。恵里ちゃんはイエスさまのことを信じているし、パパもママもイエスさまを信じているから、決してこわがることはないよ。ママのむねで眠るときみたいに、イエス様におまかせすればいいんだよ」と、一言一言さとすよ うに言うと、うん、うんと素直にうなずきました。「それではイエスさまの子供だというしるしに、洗礼をうけるかい」とたずねると、はっきりうんと答え、病床受洗をいたしました。
最後まで意識ははっきりしており「恵里ちゃんはいい子だった、 優等生だったよ」と言うと、ちがうと首をふっていました。覚悟ができたのか、酸素吸入器を取ってくれという意味で、「もういい、もういい」と言いましたが、この方が楽だからねというと、そのままにしました。「イエスさま、イエスさま、と言っているんだよ」という声にうなづき、「ママ、最後までそばにいてね」という言葉を残し、家族の見守る中で息を引き取りました。
わたくしどもは、恵里の不安に正しく答えてやることができ、平安のうちに主のもとに送ることができましたことに、本当にやすらぎを覚えております。
今回の経験を通して、わたくしどもは、イエス・キリストが人間を救うために十字架につかれた意味と有難さを、身にしみて知らされました。キリストは若さのさかりに十字架上で死ぬ という、人生の最も苦しい経験をされました。しかも、三日目によみがえって、死をも克服する勝利の力、復活の生命を獲得されました。それゆえ、われわれの人生の苦しみ悩みをことごとく自分のこととして覚え、必要な助けを与えて下さいます。 わたくしどもも、この主を仰いで慰めを得つつ歩んできました。
ヘブル人への手紙に、こう書かれています。「さて、わたしたちには、もろもろの天をとお って行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時期を 得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(四章一四〜一六節)。これこそわれわれの生きるよりどころであります。
恵里は気分がよい時、母親に聖書を読んでもらっていました。「今朝も聖書を読もうというので、二人で礼拝、恵里の好きなさんびか『いつくしみふかき友なるイエスは』を歌う。 詩篇百篇、ヨハネ福音書一〇章、今日はずっと調子よく、本当に感謝」(四月五日)。「礼拝、『まぶねの中にうぶ声あげ・・・・・・』 (星の希望)、ヨハネ福音書六章三二-五九節。今日も聖書 を読んでと、恵里の方から言う」(四月六日)。この子も、苦しみの日々を、ぶどうの木につらなる実のように、苦しむ者の友なる主イエスに結びついて、生かしていただきました。そして、わたくしどもは、この経験を通じて、われらのためにしのばれた主の苦しみがいかほどで あるかを、身をもって知らせていただいたのであります。
もう一つ。わたくしどもは、このような苦しみを受けている人間が、どんなに多いかを改めて知らされました。人間の「底辺」をかいま見たように思います。そして、このような不幸を取り去るために尽力しておられる医師の先生方、看護婦の方々などの働きがどんなに尊いものであるかを知りました。どうか、このような悲しみを誰も味わわないですむ日が一日も早く来 ますように、心から祈っています。そして、われわれみんなが、この世の「底辺」にある人を 思いつつ、連帯して生きなければならないと思わされています。
恵里が死んで、枢とともに家に帰りました時、弟の謙が、「ぼく一人っ子になったね」と申しました。しかし、わたしはそうは思いません。
「家には人を減じたり、
楽しき団欒は破れたり。
愛するいつもの席に見えぬぞ悲しき。
さは天に一人を増しぬ、
清められ救われ全うせられしもの一人を」。
(S・G・ストック、植村正久訳)
One less in home,
One more in heaven.
天と地との所こそちがえ、わたしたちの家族は、主イエス・キリストにとりなされて、今も四人であります。
恵里が小さかったころ、迷子になったことがあります。小出夫人が、交番に保護されていたのをつれて帰ってくださった時、恵里は案外おちついていて、「よかった」といいました。自分のことを言っているのかと思っていると、「ママがよかった」というのです。ママが安心しただろうからよかったというわけです。主のみ翼のかげにある恵里のことで、わたくしどもがあまり悲しむことは、恵里の本意ではないでしょう。目を上げて主を仰ぎつつ、主に支えられて、これからの歩みをつづけたいと存じます。」
(2026.2.18)
- 「Google AI Studio 超入門」掌田津耶乃著 秀和システム(ISBN978-4-7980-7257-9, 2024.6.10 第1版第1刷発行)
出版社情報・目次。基本的に、Google AI Studio(参考:Google AI Studio HOME)(「Gemini Pro を利用する」という点だけに機能を絞って作られた AI 利用サービス。アクセスしてその場で Gemini Pro を使ってプロンプトを実行できるだけでなく、Gemini Pro を利用したプログラム開発を簡単に行えるようにしてくれる。(p.11))の(Python, JavaScript, Node.js, Dart (Flutter), Go, Android, iOS などから利用できるライブラリを通した)利用の仕方が書かれており、サンプルコード(Source Code) も入手できるので、入力は最小限で、実行可能である。(Google AI Studio は、一日あたり 50リクエストまで無料。)わたしは、実際には、一部しか実行していないが、今後、少しずつ理解しながら、実行していこうと思う。リンクから目次を見ることができるが、簡単な紹介が1章にあり、2章では、Terminal から curl を使って、AIPI を動かす方法、3章では、pytyon で、googlegenerative-ai を動かす方法、4章では、Webpage から動かすために、まずは、css を簡単に使える bootstrap の説明とともに、Google AI JavaScript SDK を使う方法が書かれている。5章では、Node.js で、GoogleGenerativeAI を使いこなす方法が解説され、6章では、Express サーバーを構築し、REST で AI にアクセスすることなども書かれている。7章では、マルチモーダルとして画像編集のことが少し書かれ、8章では、Embedding について書かれている。Code Editor も、Google Colab で、Python を動かしたり、Visual Studio Code で、編集するので、簡単にできる。使いこなすのは、自分で勉強しないといけないことも多いが、何を勉強すれば良いかもわかるという意味で、よい本だと思う。予備知識は、Shell, HTML, Python の基礎ぐらいだろうか。
(2026.2.23)
- 「自由(下)FREIHEIT」アンゲラ・メルケル Angela Merkel 著 長谷川圭・柴田さとみ訳 KADOKAWA(ISBN978-4-04-113633-1, 2025.5.28 初版発行)
出版社情報・目次。リンクにもあるが、扉裏から本書について引用する。「アンゲラ・メルケルは16年にわたりドイツ政府の首長としての責任を担い、その行動と態度で、ドイツ、ヨーロッパ、そして世界の政治をリードしてきた。メルケルは本書を通じて、1990年までの旧東ドイツ、そして1990年からの再統一されたドイツというふたつの国家における自身の半生を振り返っている。東ドイツ出身の彼女が、どうやってCDUトップの座に躍り出て、統一ドイツ初の女性首相になれたのか? なぜ西側諸国で最も影響力の強い政府首脳のひとりに数えられるようになったのだろうか? 彼女はいったい何をしたのか?本書のなかで、アンゲラ・メルケルは首相府での日常に加え、ベルリンやブリュッセルやほかの場所で過ごした、極めて重要かつドラマチックな昼や夜について言及している。国際関係における長い変化の流れを描写し、グローバル化された世界で複雑な問題を解こうとする現代の政治家がどれほどの重圧にさらされているのかを明らかにする。読者を国際政治の舞台裏に招待し、個人間の会話がどれほどの影響力をもち、どこに限度があるのかを示す。アンゲラ・メルケルは対立が激化する時代における政治活動の条件を振り返る。彼女の回顧録を通じて、読者はほかにない形で権力の内側を垣間見ることができるだろう。本書は「自由」への重要な意志表明だ。」さらに、裏扉に、本人の紹介がされている。「アンゲラ・メルケル ANGELA MERKEL ドイツ連邦共和国の最高権力の座に就いた最初の女性として2005年から2021年まで連邦首相を務める。1954年にハンブルクで生まれ、ドイツ民主共和国で育った彼女は物理学を専攻し、博士号を取得したのち、1990年にドイツ連邦議会入りを果たした。1991年から1914年までは女性および青少年問題担当大臣、1990年から1998年までは環境・自然保護・原子力安全担当大臣、2000年から2018年まではドイツ・キリスト教民主同盟の党首を務める。2021年に政治活動から引退した。」とある。非常に賢い、人間的に立派な人物であるが、同時に、それでも多くの批判を浴び、世界の舵取りの評価は難しく、歴史的評価については、これからということなのだろう。知的な視点だけではないが、やはり見える世界は、限られているのかも知れないと感じる。以下は備忘録:- 「1989年11月9日のベルリンの壁崩壊によって生まれたものは、今こうして20周年を迎えた。だが、解決すべき新たな問題はじゅうぶんすぎるほどに山積している。前夜にベルリンのホテル・アドロンでの会議の席で、ヘンリー・キッシンジャーはいみじくもこう言ったものだ。『しかし、どんな問題の解決にも、必ず新たな困難への切符がついてくる』」(p.42)
- 「翌朝は、朝食のため7時半に集まった。私はいくぶん落ち込んだ気分で席についた。これから先どう進めばいいのか、わからなかったからだ。朝の挨拶を交わしたのち、ヴァイトマンがこう切り出した。『もう一度よく考えてみました』。彼は前の晩に、ギリシャ、ポルトガル、スペイン、イタリアの国債のうち今後2年間で償還期限の延長が必要になるものの総額を計算したのだという。この総額をちょうどカバーできるだけの『救済の傘』を広げればいいというのが、ヴァイトマンの意見だった。彼はその総額を7500億ユーロと見積もった。この傘を出る分については、被救済国の側が構造改革を行うという義務を負うことと引き換えに支援を行えばいい。私は顔に笑みが広がるのを感じた。これなら解決策になりそうだ。コルセピウスが口を開いた。「イェンス、そいつはたしかに筋が通っているように思えるな」。私たちはすばやく話し合い、ヴァイトマンのこの提案を欧州の主要関係者と、何よりもショイブレ財務相に伝えることで合意した。まずはECBのトリシェ総裁に電話をして、この提案に賛成かどうかを探るべきだ、私はヴァイトマンにそう提案した。トリシェ総裁からは、私がクレムリンに向けて発つ前に前向きな返事が返ってきた。おかげで、出発前にさらにショイブレに電話をかけることができた。7500億ユーロという甚大な額に短い驚愕のため息を漏らしたのを除けば、ショイブレもこの案に納得してくれた。」(p.57-58)
- 「私たちは誰もがこの4年間、市場の投資家からの圧力に嫌と言うほどさらされ、それに抗ってきた。私はほぼ毎日のように、政治的に理にかなった行動をとることの難しさを経験させられた。市場の投資家のように、得にならないと思ったらさっさと投資をやめればいいというわけにはいかない。もちろん、これに関して言えば、私が早々に譲歩して、ギリシャやポルトガルやスペインやイタリアに厳しい財政緊縮策や経済改革を要求するのを諦めればよかったのではないかという疑問はつねに存在する。これらの国々、特にギリシャでは、私の評判は完全に地に堕ちた。さまざまな改革によって特に苦しむのは、低収入の人々だ。それは疑うべくもないことだった。しかし、困窮した国々に財政規律と競争力強化を求めることを諦めたら(そうしなければ自党や連立政権のあいだで過半数を確保することは不可能だったという点を除いても)、私は心から納得してこの救済策に合意はできなかっただろう。共通の通貨を望むのであれば(私もそれを望んでいた)、そして同時にユーロ圏各国がそれぞれ独自の税制、経済、社会政策を営むのであれば(リスボン条約はそう定めている)、共同で定めたルールをすべての国が守るのだと互いに信頼し合えなければならない。私はそのために力を尽くしてきた。多くの時間もかかった。だが、そうしなければ、残る選択肢は被救済国への無条件の保証で、それはユーロ圈の債務を共同で負担することへの第一歩となりかねない。法的な問題を別にしても、そうなれば遅かれ早かれ通貨ユーロへの支持は失われていただろうと、私は深く確信していた。言い換えれば、私の決断した道と比べて、そのほうがユーロはより大きな危機に瀕していたということだ。さらに言い換えて、かつて起こったあの言葉の解釈をめぐる論争を再び持ち出すならば、それは私がドイツ連邦共和国の連邦首相として責任をもって選べるような『合理的な』選択肢ではなかった。そうした選択は、2005年11月28日と2009年10月28日に行った就任宣誓に対する私の理解と、けっして相容れなかっただろう。」(p.65-66)
- 「2019年1月10日、私はギリシャのピレウスのシーフード・レストランで、チプラス首相と夕食をとっていた。そして、あの2015年7月の出来事をあらためて振り返った。当時リシャがユーロ圏にとどまれるかどうかは、まさに紙一重のところだった、そう言う私に対して、チプラス首相はこう説明した。あのときは、新政府は憎きトロイカから逃れるために、あらゆる手を、本当にありとあらゆる手を尽くしたのだということを、国民に納得できる形で示す必要があったのだ、と。そのうえでユーロ圏の他の国々からの支持が得られなかったことで、結局これは通貨ユーロに対するギリシャの姿勢の問題だということがはっきりした。そして、ギリシャ国民の大多数は支援プログラムには反対でも、通貨としてのユーロは失いたくなかったのだ。チプラス2015年9月に前倒しで行われた総選挙で再選を果たしたことも、その表れだった。ユーロの力が勝ったことが、証明されたのだ。」(p.77)
- 「記者会見用の発言メモを手に、私はベアーテ・バウマンのオフィスに向かった。いくつかの点について彼女とふたりで話し合うためだ。私が会議用の丸テーブルの前に座ると、デスクで書類を処理していた彼女もこちらにやってきて傍に座った。『ようやくギリシャの問題を片づけたと思ったら、またすぐに次の難題がやってくるなんて』、私は不満をぶちまけた。『でも、まあいいわ!今回だって、私たちはどうにかしてやり遂げます。私たちならできる、別の件でもできたのだから』バウマンはじっと私の言葉を聞いていた。そして、こう言った。『そのとおりです。今おっしゃったとおりのことを、記者会見でも伝えればいいのでは?』私は彼女を見つめ、そして考えた。物事はときにとてもシンプルだ。たしかに、彼女の言うとおりだった。このメッセージを発信すれば、人々を勇気づけることができるし、同時に、私自身がこの課題の重大さを理解していると示すことができる。そうでなければ、こんなことを言う必要はないのだから。私は重要な表現だけを手書きで発言メモに書き入れた。『ありがとう。では、またあとで』。私は彼女に別れを告げ、自分の執務室に戻った。記者会見の場で、私は自分の考えを述べた。ハイデナウでの事件を受けて、まず、人間の尊厳は不可侵であると定めたドイツ基本法第1条の意義について強調する。『ドイツ国民であるかどうか、どういった理由でどこからこの国にやってきたのか、最終的に難民申請が承認される見通しがあるかどうかにかかわらず、私たちはすべての人に対して、その人の人間としての尊厳を重んじます。他者に暴言を吐いたり、攻撃したり、宿舎に放火したり、暴力をふるったりする人々に対しては、法治国家として断固たる姿勢で立ち向かいます。憎悪を煽るデモを呼びかける人々と戦います。他者の尊厳を疑問視するような人々を、けっして許しません』。続いて私は、政府が計画続行のために取り組み、7月にすでに閣議で合意された数々の措置について説明した。国内において最も重要なのは、難民申請の処理の迅速化、申請を却下された難民の母国への早期送還、地方自治体への支援、連邦、州、地方自治体間での公正な費用配分、そして、住まいや就労の長期的な展望と統合のためのより良いサービス提供だ。一方、欧州および国際的な観点からは、欧州内で難民の受け入れを公平に分担すること、そして難民を生み出しているそもそもの原因に対処することの重要性を強調する。その前に、私は強くこう主張した。『端的に申し上げます。ドイツは強い国です。私たちはこれまでにも多くのことを成し遂げてきた、だから、私たちならできる!この思いを、これらの事柄に取り組むうえでの原動力としていかねばなりません。私たちならできます。そして、たとえ困難が立ちはだかろうと、これに立ち向かい、乗り越えていかねばなりません。連邦政府はまさにそれをやり遂げるため、州および自治体と力を合わせて、できることはすべて行っていきます』この『Wir schaffen das (私たちならできる)』というたった3語の平凡なフレーズによって、私がその後何週間、何か月、何年にもわたって――それどころか、一部からは今に至るまで批判されることになるなどと、もし当時誰かに言われていたら、私はきっといぶかしげに相手を見つめ、『なんですって?』と訊き返していただろう。『私たちならできる』という表現は、まるで私が世界中のすべての難民をドイツに受け入れようとしているかのように誤解される可能性がある、だからそんなことは言うべきではない? 私には、そんなふうにはとても考えられなかった。これまでの人生でいったい何度、さまざまな事柄について、言い方は多少違えど自分たちならできると口にしてきたことだろう。その点で、2015年8月31日のこのとき、私はもちろんはっきりと理解していた。この3語の言葉を口にしただけで今目の前にしている問題を解決できるわけではないことも、自分には助けが必要なこともだ。けれど、この3語は、私の深い信頼を示す言葉だった。この国には私と同じように考え、感じる人々がほかにも大勢いると信じ、その人たちを勇気づけようとする言葉だった。そして結局、私のこの信頼は裏切られることはなかったのだ。」(p.147-148)
- 「その襟元には『Refugees welcome (難民歓迎)』と書かれたバッジが付けられていた。彼もまた明らかに、ある感情に胸を満たされていたのだ。その感情はやがて『Willkommenskultur (歓迎する文化)』という言葉で表現されるようになる。政府と野党のあらゆる相違にもかかわらず、この日の連邦議会での討論を貫いていたのは、まさにその感情だった。」(p.158)
- 「CDU/CSU連邦議会議員団長のフォルカー・カウダーとCSU同州議員団長のゲルダ・ハッセルフェルトは、私のこの意見にはっきりと賛意を示してくれた。フォルカー・カウダーは2018年秋に公職を去るそのときまで、自会派内のあらゆる反対にもかかわらず、難民政策に関して私の最も精力的な支援者のひとりであり続けた。プロテスタントのキリスト教徒である彼にとって、CDUのC(『キリスト教』)は、私たちのもとにやってきた人々を尊厳ある人間として扱うことを義務とし、心からそれを重視することを意味していた。そのことに対して、私は今日に至るまで彼に感謝している。」(p.158)
- 「続いて私は、自分が真に懸念している点について切り出した。アメリカがパリ協定離脱を通告したことについてだ。具体的な名前は挙げずに、私は尋ねた。ある重要人物の一団の中で根本的な意見の隔たりがある場合、猊下ならどうなさいますか、と。教皇は私の言わんとするところをすぐに理解し、簡潔にこう答えた。『曲げて、曲げて、曲げて、けれど折れないようにすることです』。私はそのイメージが気に入った。教皇に向けて、言われた言葉をくり返す。『曲げて、曲げて、曲げて、けれど折れないようにする、ですね』。この精神を胸に、私はハンブルク・サミットでパリ協定とトランプをめぐる問題の解決に取り組むことになる。ただ、それが具体的にどのような形をとることになるのか、このときはまだ明確にはわかっていなかった。」(p.242-243)
- 「政治面では、気候変動に関して『1対1』と呼ばれる決議が採択された。18の国々とEUは首脳宣言の中で、『我々は、パリ協定から離脱するというアメリカ合衆国の決断を承知する』としている。これに続いてアメリカの立場が記されたのち、次の段落にはこう記された。『それ以外のG20諸国の首脳は、パリ協定が不可逆的なものであることを宣言する』。私たちは、ドナルド・トランプとそれ以外の世界との隔たりを包み隠すのではなく、はっきりとそれに言及する声明を全会一致で採択することができた。このような決議文書は今までになかったものだ。これまでであれば、共同決議には各国が共通して合意できる最小限の内容が記されるのが普通だったからだ。私は今回のこの結果を、悪いなりにベストの解決策だと考えていた。私たちはすべてが完全に『折れて』しまって首脳宣言も出せないような状況になる前に、『曲げる』のをやめたのだ。気候変動対策というテーマの重要性を、圧倒的多数の国々はしっかりと認識していた。」(p.244-245)
- 「倫理委員会の示した意見のうち、私にとって特に印象深いものがふたつあった。第一に、彼らは日本における津波とその影響について、『問題の中心となるのは想像できる物事ではなく、むしろ想像できない物事である』と結論づけている。これはまさに、この地震によって私の中で揺るがされたものを的確に言い表していた。第二に、倫理委員会は、リスク評価は単に健康および環境リスクだけに限定されるものではないとして次のように論じている。『ドイツ国内で当然問題となるであろう、社会的雰囲気の汚染によって生じるさまざまな結果もまた、倫理的判断の対象とする必要がある』。ここで主題に挙げられているのはまさに、私が環境大臣時代にエネルギー・コンセンサス対話で取り組んできたことだった。」(p.255)
- 「この本の執筆中、私は当時保管していたある記事を見つけた。2019年1月2日付の『南「ドイツ新聞」紙に掲載されていたもので、偶然にも、私が展示会でカイロスの像を手に入れた3日後の記事ということになる。当時その内容に胸を打たれた私は、記事をとっておいたのだ。「退場のとき」と題されたそのエッセイの中で、著者のライナー・エアリンガーは、ふさわしいタイミングで何かをやめることがいかに難しいかを論じている。彼もまたカイロスについて触れ、こう問いかけていた。「政治家にとって、やめることは特に難しいのではないか?」。エアリンガーは、ハンナ・アーレントが1958年に発表した代表作『人間の条件』を紹介する。アーレントはこの著書の中で、「労働」「仕事」「活動」を人間の3つの基本的行為であると説明した。労働は生計を立てるための行為、仕事は何かを制作する行為、そして活動は「人間どうしの相互のやりとり」であるとエアリンガーはまとめ、こう書いている。したがって、活動は政治的行為のまさに本質なのだ』。彼は最後にこう締めくくる。『政治の世界に限らず、やめることもまた活動なのだと認識することが、なおさら重要になる。やめるという活動は、終わりを迎えることになる任務の一部であり、自らの人生の一部なのだ』。あのころの私も、まさにそのように感じていた。」(p.318)
- 「エピローグ:私にとっての自由とは? 私は、個人としても、政治家としても、生涯この問いについて考えつづけた。私にとっての自由とは、自分の限界がどこにあるのかを知り、その限界に挑むことを意味する。私にとっての自由とは、学ぶことをやめず、立ち止まることもなく、政治の世界を去ったあとも、前進しつづけられる状態を意味する。私にとっての自由とは、人生において新しい章を始められることを意味する。本書の執筆もその一部であることが、創作に要した2年という年月で明らかになった。私は新たな限界に挑むことになった。5年や10年程度でも、過去の出来事を表面的になぞるだけでなく、真剣に思い出し、確かなあるいは不確かな記憶を事実と突き合せながら検証しようとしたことがある者は、人間の記憶がいかにあいまいで、現実ではなく自らの期待や希望、あるいは願いを反映しているかを知っている。記憶をたどるだけで、すでに大変な作業だった。しかも私の場合は5年や10年ではなく、数十年をさかのぼる必要があった。DDRで生きた最初の35年、幼少時代と青春時代を振り返るのは、刺激的な経験だった。同時に、1990年までは独裁と不自由と不正の条件下で暮らし、1990年からは民主主義と自由のなかで生きることが、私にとって何を意味していたのかを説明する言葉を見つけなければならなかった。執筆を通じて、私は自分の新しい側面に出会った。たとえば、本来の私は人との結びつきが必要な人間であるにもかかわらず、本書を書くためには、誰にもそして何にもじゃまされたくなくて、一時的に完全に引きこもらなければならなかった。自由には、それまで知らなかったことに取り組む勇気が必要であることを、他人に対して、そして何より自分自身に対しても、正直でなければならないことを、今回改めて理解した。この認識を、私はすでに2019年にハーバード大学での名誉博士号授与式でも、未来ある学生たちに伝えていたのだが、今回、新たな形で身をもって経験したのである。自由には、何かを手放さなければならないことも、何かを手放すことが許されることも含まれる。本書の執筆は、私にとってはこの“手放す”という行為のひとつの形だった。まるで今まさに経験しているかのように過去を振り返りながら、同時に今の視点からそれらの出来事を分類し評価するのは、ときに難しい試みだった。そうかと思えば、執筆しながら心の充実を感じることもあった。そんなとき、私は何かを手放して、新しい何かを始めたと感じられた。まるで、退任式典の2曲目として演奏された曲の一節にあるように、『まったく新しい奇跡が起こって、私を古いものから引き離し、新しくしてほしい』と思えた。この本を書きながら、私はいま一度、言葉について考えた。特に、私も含め、政治家が使う言葉について。政治家は、次の厳しい質問が飛んでくる時間をなくすために、質問をはぐらかしながら時間を埋めようとするきらいがある。理解しやすい文章の代わりに、不完全なフレーズを頻繁に口にする。もちろん、ほかのあらゆる職業と同じで、政治にも専門用語がある。これは避けられないことであり、どうすることもできない。それでもなお、今の私はインタビューに応じる、あるいはそのほかの公的な機会で発言する政治家たちの言葉を聞くのが難しいと感じることがある。彼らはたくさんの言葉を発するが、何も言わない。改めて指摘しておくが、私も以前は同じようなことをしていた。しかし今、政治活動を離れ、本書のためにさまざまな状況や文言を振り返ってきた私は、特に若い政治家たちに、具体的な質問に具体的に答える勇気をもってもらいたいと思う。そうすることで、自分が伝えたいと思っているメッセージは確かに広がることだろう。このことは、デジタルの可能性ならびにいわゆるソーシャルメディアの影響で、かつてないほどに真実が嘘と、嘘が真実と呼ばれ、この状況が民主主義社会においても指導的な立場にある人々から悪用されている現在において、特に重要になる。しかし真の自由とは、自分個人の利益だけのためではない。自由は遠慮や自責を知っている。真の自由は、独裁者や不正などといった何か"から"の解放だけでなく、隣人、コミュニティ、公共などといった何かの“ため"の責任とも結びついている。自由には民主的な条件が欠かせない。民主主義なくして、自由も、法治国家も、人権の尊重もありえない。自由の下に生きたいのなら、対内的にも、対外的にも、民主主義を脅威から守らなければならない。私たち全員が協力すれば、力を合わせて立ち向かえば、必ず守れる。一人ひとりが自分のために、そして、みんながみんなのために。ひとりのための自由など存在できず、自由はすべての人のためでなければならないのだから。」(p.370)
(2026.2.23)
- 「外務官僚たちの大東亜共栄圏」熊本史雄著 新潮選書 新潮社(ISBN978-4-10-603926-3, 2025.5.20 第1版発行)
出版社情報・目次。違う視点から、大東亜共栄圏について迫ると思われるタイトルに興味を持ち読んでみた。いくつも賞をとった本のようだし、裏表紙にも「小村寿太郎から幣原喜重郎、重光葵まで、国際派エリートたちが陥った「失敗の本質」を外交史料から炙り出す。」(上記出版社情報参照)とあり、あとがきには新潮選書編集長の「つまりそれは、日本版の『ベスト&ブライテスト』ですね」ということばも記されているが、あまりに軽すぎると思った。まだ、国際派エリートが育っていない時代、それも内容も、デービッド・ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』になぞらえるのはいかがなものかと思った。すくなくとも、多様な視点からは、書かれていない。受賞は、外務省の文書を丁寧に掘り起こしたことに対するものなのだろうが、裁判にかけられたひとがいろいろな背景のもとで一言二言言ったことを記録したレベルをこえないように思ってしまった。おそらく、わたしがそのように感じたのは、わたしの好みと合わなかったというだけなのかも知れないが、職業軍人の視点からだけでなく、外務官僚のトップの人たちの視点を提供したということであろうが、今後、さらに深められ、かつ、様々な視点から検証がなされることを望む。情報としては、登場人物の何人かについての紹介情報が興味深かった。このような情報がたいせつな世界なのだろう。小村寿太郎(一八五五年生/八〇年司法省・八四年外務省出仕)、小村欣一(一八八三年生/一九〇七年第一六回外交官及領事官試験合格)、幣原喜重郎(一八七二年生/九六年第四回試験合格)、重光葵(一八八七年生/一九一一年第二〇回試験合格)、有田八郎(一八八四年生/一九〇九年第一八回試験合格)、松岡洋右(一八八〇年生/一九〇四年第一三回試験合格)。以下は備忘録:- 「『まえがき』で述べたように、本書でいう『大東亜共栄圏』とは、権益の拡張・確保・維持をめぐって外務官僚により模索・継受された思想のうちにある、最大公約数的な秩序観(東アジア世界観)のことである。あるいは、別な言い方をすると、〈国益〉追求に邁進した外務官僚たちの思想的営為が、様々に折り重なり多くの要素をまといながら最終的に辿り着いた価値観、ということになろう。本書では、さしあたって、『大東亜共栄圏』をこのように定義づけたい。それは、次のような系譜をたどった末に、一大アウタルキー圏の建設理念となり、一九四三年の大東亜会議の開催理念にまで至った。源流は、日露戦後の満蒙権益の取得である。これまでも述べてきたように、日露戦勝によって満洲に権益を得たことが、日本外交にとって最初の画期となった。たしかに日清戦争の勝利によっても、台湾、澎湖諸島という領土を獲得して版図が拡がり、賠償金も得た。だが、前述のとおり、日本外交にとって大きな障壁となったのは、権益擁護と対英米協調という二つの外交課題の両立を迫られたことである。それは、日清戦後ではなく、日露戦後になって初めて、日本外交が味わった試練だった。本書が、日露戦争勝利による満洲権益の取得を重視して、そこから話を説き起こすゆえんである。」(p.18)
- 「遼東半島を取るのは当然だし、満洲は施政改革及び善政の保障の下に支那に還附するのだと云うような事柄は、ちゃんとルーズヴェルトに吹込ませてある。償金も取るのが本当と思うと、之はいけないぞとル氏に言わせないようにした。和戦何れの段階に於ても飽迄露西亜と日本だけに限る。そうして置いて日本に都合の好い時には、外部の勢力を巧に我が目的貫徹に利用しよう。而して其の利用の目的を十二分に達したのが小村さんの外交である。」(p.45)
- 「むろん、言説や思想としての『地域主義』は、なにも一九三〇年代になって初めて唱えられたわけではない。三谷太一郎が指摘しているように、日清戦争前にはアジア諸国との『水平的統合』を志向し、西洋列国への対抗概念として唱えられていた地域主義があった。それが、日露戦争、さらには満洲事変を経るなかで、日本を覇権とする『垂直的統合』を追求した地域主義へと変異していったとされる。有田の主張は、以下で確認するように、国際市場がブロック化に向かっていることを踏まえ、自国で市場や資源をまかなえない小国こそ国家生存のため経済ブロックを形成する必要がある、これでたから、国家生存に向けて、中国、満洲国との間で経済ブロックたる広域経済圏を形成する必要がある、というものだった。それは、『東亜新秩序声明」を、外相としての立場から有田なりに捉え直した、国家生存を企図した戦略論でもあったのである。」(p.184-185)
- 「有田が日満支経済ブロック建設に積極的だったのには、もうひとつ別の理由がある。それは、在オーストリア公使時代に『汎ヨーロッパ主義』と出会っていたことだった。『汎ヨーロッパ主義』とは、南北アメリカ、イギリス帝国およびソ連等と対等に競争するために、ヨーロッパ諸国がこれまでの一切の行き掛かりを捨て、ひとつの大きな地域として結束しなければならないという思想のことである。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Coudenhove-Kalergi)の唱えた、この『汎ヨーロッパ主義』は、国際連盟に代わる何らかの国際機関を模索する点に特徴があった。そのため、『地域主義』論者のなかには、それをアジアに適用し、『汎アジア主義』を構想した者もあったとされる。それは、『モンロー主義』を認めた国際連盟規約第二一条を手掛かりとして、連盟の改組を図り、日本を『東亜の安定力』とする国際的承認に基づいて新しい地域的『平和機構』を東アジアに作り出す、というものだった。クーデンホーフの論文『日本のモンロー主義』が一九三二年一月の『国際知識』に翻訳・転載されたことは、日本のアジア・モンロー主義論者へのある種の安堵感と自信を与えたと思われる。なぜなら、クーデンホーフは、日本の『東亜モンロー主義』を、アメリカの『モンロー主義』、英帝国の自決権に次ぐ『第三のモンロー主義』と位置づけ、それが『汎ヨーロッパ主義』と両立すると述べているからである。有田も、これに刺激を受けたひとりだった。有田は、一九四〇年五月に行なわれた、汪兆銘政権の立法院長だった陳公博との会談で、クーデンホーフの論に賛意を示して、次のように述べている。すなわち、『余も右の[クーデンホーフの引用者註]説には賛成にして、今次事変に於て日本が所謂東亜新秩序の建設を主張し、日満支の互助連環関係を樹立せんとするは即ち東亜の連合を図らんとするに外ならず』と。そうした有田によって構想された広域経済圏とは、世界を米・英・ソ・欧州・日満の五つのグループに分け、このグループ間での経済や文化の交流を通じて、国際的な協調関係を構築しようというものだった。要は、五グループで棲み分けながら世界市場を管理しあうことによって、共存可能性を担保しようとしたのである。それは、かつての『東亜新秩序声明』が依拠した『共同防共』という外交上の価値とは異なる、地政学的な価値観から唱えられた新たな秩序論だった。ただし、この棲み分けにはある前提が必要だと、有田は考えていた。その前提とは、1. 日中関係を改善して経済提携を図ることであり、2. そのために、中国市場から英米を排除することだった。有田が中国市場からの英米排除を訴えたのは、英米による中国支援が中国国民政府の反日的態度を促している、と考えたからである。この点は、重光の『東亜』概念と近似していた(第五章参照)。『主義』との遭逅は、有田が外務次官に就任する約一年前のことだった。外務次官として外交の舵取りを担う前段階で、すでに中国市場から英米を排除することを前提とした広域経済圏構想を抱いていたことになる。『門戸開放』『機会均等』主義を放棄し、それを英米に認めさせることが可能だという見立てが、有田の広域経済圏構想を支えていたのである。」(p.191-193)
(2026.2.25)
- 「Hillbilly Elegy - A Memoir of a Family and Culture in Crisis」J.D. Vance著 Harper(ISBN978-0-06-230054-6, 2016)
出版社情報・目次。光文社から日本語訳も出版されている。J.D. Vance は、第二期トランプ政権の副大統領で、自分でも、Scots-Irish で、rust belt 出身だと述べている、アメリカの白人貧困層の出身で、高校卒業後、海兵隊の非常に厳しいといわれている Bootcamp で訓練を受け、四年勤め、イラク戦争にも従軍している。その後、わたしが学んだ場所でもある、Ohio State で学び、Yale University の Law School に、貧困層枠で入り、弁護士として働いてから、オハイオ州選出の上院議員となったひとで、上院議員になる前に、この本を書いている。New York Times のベストセラーになった本である。トランプ氏を支える労働者階級にも興味があったので、「あなたのことをおしえてください」との気持ちから手に取った。最後は、現在進行系のような書き方になっているが、そこまでは、本当によく書けていると思う。あとからの振り返り、自分にとってのトラウマのことなども、書かれており、おすすめの一冊である。久しぶりの英語の本で、俗語も多いので、完全に読めたとは思えないが、原語で読むこともできるだけ続けたいと思う。これは、大学の図書館から借りたが、杉並区図書館にも、英語版も日本語版も入っていた。以下は備忘録:- 「We tend to overstate and to understate, to glorify the good and ignore the bad in ourselves. This is why the folks of Appalachia reacted strongly to an honest look at some of its most impoverished people. It's why I worshipped the Blanton men, and it's why I spent the first eighteen years of my life pretending that everything in the world was a problem except me. The truth is hard, and the hardest truths for hill people are the ones they must tell about themselves. Jackson is undoubtedly full of the nicest people in the world; it is also full of drug addicts and at least one man who can find the time to make eight children but can't find the time to support them. It is unquestionably beautiful, but its beauty is obscured by the environmental waste and loose trash that scatters the countryside. Its people are hardworking, except of course for the many food stamp recipients who show little interest in honest work. Jackson, like the Blanton men, is full of contradictions.」(p.20-21)
- 「At that time, as the post-World War II euphoria wore off and people began to adjust to a world at peace, there were two types of people in Jackson: those who uprooted their lives and planted them in the industrial powerhouses of the new America, and those who didn't. At the tender ages of fourteen and seventeen, my grandparents had to decide which group to join.」(p.25)
- 「Despite the setbacks, both of my grandparents had an almost religious faith in hard work and the American Dream. Neither was under any illusions that wealth or privilege didn't matter in America. On politics, for example, Mamaw had one opinion-"They're all a bunch of crooks"-but Papaw became a committed Democrat. He had no problem with Armco, but he and everyone like him hated the coal companies in Ken- tucky thanks to a long history of labor strife. So, to Papaw and Mamaw, not all rich people were bad, but all bad people were rich. Papaw was a Democrat because that party protected the working people. This attitude carried over to Mamaw: All pol- iticians might be crooks, but if there were any exceptions, they were undoubtedly members of Franklin Delano Roosevelt's New Deal coalition.」(p.35)
- 「I was born in late summer 1984, just a few months before Papaw cast his first and only vote for a Republican-Ronald Reagan. Winning large blocks of Rust Belt Democrats like Papaw, Reagan went on to the biggest electoral landslide in modern American history. "I never liked Reagan much," Papaw later told me. "But I hated that son of a bitch Mondale." Reagan's Democratic op- ponent, a well-educated Northern liberal, stood in stark cultural contrast to my hillbilly Papaw. Mondale never had a chance, and after he departed from the political scene, Papaw never again voted against his beloved "party of the workingman.' "Jackson, Kentucky, would always have my heart, but Mid- dletown, Ohio, had most of my time. In many ways, the town where I was born was largely the same as the one my grand- parents had migrated to four decades earlier. Its population had changed little since the 1950s, when the flood of migrants on the hillbilly highway slowed to a dribble. My elementary school was built in the 1930s, before my grandparents left Jackson, and my middle school first welcomed a class shortly after World War I, well before my grandparents were born. Armco remained the town's biggest employer, and though troubling signs were on the horizon, Middletown had avoided significant economic problems. "We saw ourselves as a really fine community, on par with Shaker Heights or Upper Arlington," explained a decades-long veteran of the public schools, comparing the Middletown of yore to some of the most successful of Ohio's suburbs. "Of course, none of us knew what would happen."」(p.47)
- 「The other reason most still call it Armco is that Kawasaki was a Japanese company, and in a town full of World War II vets and their families, you'd have thought that General Tojo himself had decided to set up shop in southwest Ohio when the merger was announced. The opposition was mostly a bunch of noise. Even Papaw-who once promised he'd disown his children if they bought a Japanese car-stopped complaining a few days after they announced the merger. "The truth is," he told me, "that the Japanese are our friends now. If we end up fighting any of those countries, it'll be the goddamned Chinese."」(p.53)
- 「Mamaw and I used to open the win- dows on one side of her house so we could hear the substance of the explosive fights between her neighbor Pattie and Pattie's boyfriend. Seeing people insult, scream, and sometimes physi- cally fight was just a part of our life. After a while, you even notice it. 」(p.73)
- 「I consumed books about social policy and the working poor. One book in particular, a study by eminent sociologist William Julius Wilson called The Truly Disadvantaged, struck a nerve. I was sixteen the first time I read it, and though I didn't fully understand it all, I grasped the core thesis. As millions migrated north to factory jobs, the communities that sprouted up around those factories were vibrant but fragile: When the factories shut their doors, the people left behind were trapped in towns and cities that could no longer support such large populations with high-quality work. Those who could generally the well edu- cated, wealthy, or well connected-left, leaving behind com- munities of poor people. These remaining folks were the "truly disadvantaged"—unable to find good jobs on their own and sur- rounded by communities that offered little in the way of connec- tions or social support. Wilson's book spoke to me. I wanted to write him a letter and tell him that he had described my home perfectly. That it resonated so personally is odd, however, because he wasn't writing about the hillbilly transplants from Appalachia-he was writing about black people in the inner cities. The same was true of Charles Murray's seminal Losing Ground, another book about black folks that could have been written about hillbillies-which addressed the way our government encouraged social decay through the welfare state.」(p.144)
- 「I'm not saying ability doesn't matter. It certainly helps. But there's something powerful about realizing that you've undersold yourself—that somehow your mind confused lack of effort for inability. This is why, whenever people ask me what I'd most like to change about the white working class, I say, "The feeling that our choices don't matter." The Marine Corps excised that feeling like a surgeon does a tumor.」(p.177)
- 「If Mamaw's second God was the United States of America, then many people in my community were losing something akin to a religion. The tie that bound them to their neighbors, that inspired them in the way my patriotism had always inspired me, had seemingly vanished. The symptoms are all around us. Significant percentages of white conservative voters--about one-third-believe that Barack Obama is a Muslim. In one poll, 32 percent of conservatives said that they believed Obama was foreign-born and another 19 per- cent said they were unsure which means that a majority of white conservatives aren't certain that Obama is even an American. I regularly hear from acquaintances or distant family mem- bers that Obama has ties to Islamic extremists, or is a traitor, or was born in some far-flung corner of the world.」(p.190)
- 「The Pew Economic Mobility Project studied how Americans evaluated their chances at economic betterment, and what they found was shocking. There is no group of Americans more pes-simistic than working-class whites. Well over half of blacks, Latinos, and college-educated whites expect that their children will fare better economically than they have. Among working- class whites, only 44 percent share that expectation. Even more surprising, 42 percent of working-class whites---by far the highest number in the survey-report that their lives are less economically successful than those of their parents'. In 2010, that just wasn't my mind-set. I was happy about where I was and overwhelmingly hopeful about the future. For the first time in my life, I felt like an outsider in Middletown. And what turned me into an alien was my optimism.」(p.194)
- 「Mom's bout with addiction ended as they always did in an uneasy truce. She didn't make the trip to see me graduate, but she wasn't using drugs at that moment, and that was all right with me. Justice Sonya Sotomayor spoke at our commencement and advised that it was okay to be unsure about what we wanted to do with ourselves. I think she was talking about our careers, but for me it had a much broader meaning. I had learned much about law at Yale. But I'd also learned that this new world would always seem a bit foreign to me, and that being a hillbilly meant sometimes not knowing the difference between love and war. When we graduated, that's what I was most unsure about.」(p.234)
(2026.3.8)
- 「The Lost Soul of American Protestantism」D.G. Hart著 Rowman & Littlefield Publishers, Inc. Lanham-Boulder-New York-Oxford(ISBN0-7425-0768-8, 2022)
出版社情報・目次。「リベラルなアメリカの『失われた魂』たち 福音派とスコッツ・アイリッシュの世界」 に引用されていて興味を持って読んでみた。最近の議論まで含まれているわけではないが、アメリカにおける、福音派 vs リベラルという対比ではなく、敬虔派(pietists)vs 告白派 (confessionalists) との対比で議論が進み、最後には、長老派、改革派、ルター派などの、告白派系で、アメリカのなかで、社会や政治と調和してい生き残るのは難しいとの結論も導いている。それぞれの発生の時代や歴史的背景、どのようにして、アメリカにたどり着いたかにも依存しており、告白の基盤をなす部分が、精緻になりすぎていて、新しい、信仰・信条の自由を憲法第二修正で保証したアメリカの多様な文化のなかで、社会と政治との関わり方を調和させるのが難しいということなのだろう。一方、敬虔派は、19世紀からの信仰覚醒から、個人の信仰という形で受け継がれているが、信仰とは何なのかが明確ではなく、他との差別化、区別はできなくなりつつあるようにも見える。英語であり、アメリカにおける、歴史的背景なども、十分理解しているわけではないので、十分理解できたかははなはだ疑問だが、ひとつのヒントを得たことは確かだと思う。日本の状況は、同じではないが、アメリカのキリスト教に強い影響を受けていることは確かで、少しずつ整理してみたいと思う。以下は備忘録:- 「Even though the fires of religious zeal would burn less intensely as British colonists in North America fought a war for independence and established a new nation, the revolution and its political settlement would how brilliant Whitefield's achievement had been. When the United prove States ratified the Constitution, the First Amendment prohibited Congress from making any law that established or restricted religion. This left the United States free from the taint of the Old World's ecclesiastical establishment. Ironically, this measure, which was a hard-fought victory for Enlightenment political philosophy, also played directly into the hands of the sort of religion that Whitefield had made successful. The First Amendment made religion a private matter. And even though many states would continue to use taxes to support established churches, the model of the federal government would eventually become the norm for all religious bodies in the United States. American political philosophy taught that government had no right to interfere with private matters of conscience. People were free not only from the tyranny of the king but also of the bishop or pope. As such they were free to choose their own religion. The result of religious disestablishment was a free-market approach to questions of faith and the consequences were far-reaching. Churches that had previously been assigned parishioners in a particular locale were now forced to compete for adherents. In other words, the separation of church and state put an end to the welfare state for religious bodies and in turn made churches dependent on the people for support. Not surprisingly, the primary means that churches used in their search for members was something akin to revivalism. It is no wonder that in this setting the churches that grew the fastest-namely, Methodists and Baptists--were the ones least encumbered by tradition and formalism and most willing to use revivalist techniques. According to Roger Finke, religious markets inherently cater to individuals and make faith "an individual decision." Although Christianity was still a group phenomenon and relied on "the support, control, and rewards" of a local congregation, the American system of disestablishment inevitably stressed "personal conversion and faith." Conversion, Finke writes, "is an individual decision set in the context of a religious market with a wide array of diversity. The religion of the unregulated market is of the people, by the people and for the people."」(p.12)
- 「The Democratization of American Christianity, by Nathan O. Hatch」(p.17)
- 「Some persons, not understanding our church life and customs, foolishly think that we confirm our young people no matter what their state of mind and heart is, and that we do not believe in conversion. This is a great mistake. We require a high degree of fitness for confirmation, namely, an intelligent, sincere, and unreserved taking of three most searching and far-reaching vows in the name of the holy Trinity.」(p.51)
- 「But the forces of industrialization, the discoveries of modern science, and the demands of international politics undermined the old absolutes of church and theology. Urban Christians assimilated the outlook of modern society and "realized the church could not continue its aristocratic policy." As such, the conflict between liberals and conservatives was one of two competing Christian cultures, one southern and rural, the other northern and urban.18 In the words of H. Richard Niebuhr, who wrote the article on fundamentalism for the Encyclopedia of Social Science, conservative Protestantism in its more aggressive forms was most prevalent in isolated communities where "the traditions of pioneer society had been most effectively preserved" and were "least subject to the influence of modern science and industrial civilization."」(p.65)
- 「"Protestants in the progressive era relied instinctively on the Bible to provide their ideals of justice. They believed in the power of Christ to expand the Kingdom of God through the efforts of faithful believers. They were reformists at home and missionaries abroad who felt that cooperation among Protestants signaled the advance of civilization. They were thoroughly and uncritically patriotic. On more specific issues, they continued to suspect Catholics as being anti-American, they promoted the public schools as agents of a broad form of Christianization, and they were overwhelmingly united behind prohibition as the key step toward a renewed society." To be sure, during the period from 1925 to 1965, a distinct form of millennialism colored evangelical political thought, especially in the way they viewed international politics. But domestically this theology only reinforced a prior suspicion of big government and centralization.50 What is more, life in the United States for white Protestants, whether evangelical or liberal, was usually comfortable. In fact, whatever plausibility Moberg's thesis about a "great reversal" has, conservative Protestants during the middle decades of the twentieth century benefited from the Christian culture that the Protestant establishment patched together. The schools included prayer and Bible reading, abortion was illegal, federal officials were not proposing to bus children far from home for schooling, and domesticity was still an ideal for most American women. Consequently, even if mid-twentieth-century evangelicals were not politically active, they did not need to be.」(p.78)
- 「The book that vaulted Machen into the public eye was Christianity and Liberalism, which appeared in 1923, about the time that northern Presbyterians were preparing for combat. Prior to this highly polemical work, Machen had been mainly content to pursue teaching and writing, having produced a well-received study of the apostle Paul in 1921 and a New Testament Greek grammar for seminarians a year later. Because Christianity and Liberalism came out during the fundamentalist controversy and because he argued candidly that liberalism was an altogether different religion from Christianity, readers then and since have readily cataloged the book as a work of the right wing, no matter how much more learned and plausible it was than the ordinary fundamentalist polemic. For instance, in Richard Hofstadter's stinging critique of fundamentalist anti-intellectualism, he was forced to clarify that he was only treating these Protestants "as a mass movement," not "the more thoughtful critics of modernism" such as Machen.10 As Hofstadter detected, something more was going on in Machen's argument, and that extra ingredient was Presbyterian confessionalism.」(p.89)
- 「Part of the reason why Machen could be persuasive with some of America's secular pundits was that he was willing to admit to a proposition that nonreligious Americans knew to be true--churches were intolerant. He drew on his earlier scholarship and cited the example of the apostle Paul who condemned rival preachers in the region of Galatia because their preaching was false. It was not a case of whether the apostle had a nice or tolerant personality. The issue was "the objective truth of the gospel."15 The dogmatism of the early church was the model for twentieth-century Christianity, in Machen's estimate. And this is why he believed liberals needed to leave the existing creedal churches and either found new denominations or join the Unitarians who provided "just the kind of church that the liberal preacher desires."16 Liberals, he argued, had denied the truth of Christianity by cutting and trimming its doctrinal content according to the reigning intellectual fashions. This was not necessarily a bad thing. Machen admitted that one of the pressing questions facing the modern church was whether the Christian faith could be “maintained in a scientific age." Liberals said it could, and in doing so they were simply trying to defend the faith with the best of intentions. The problem, from Machen's confessional perspective, was that their apology for Christianity involved abandoning "the particularities of the Christian religion" for religious abstractions. Consequently, liberals regarded the specific affirmations of Christian creeds as "mere temporary symbols" of the faith, and such general principles as the fatherhood of God and the brotherhood of man as “the essence of Christianity.17 By making Christianity into a religion of ideals that transcended the historical particularities of the Bible, liberalism was able to do justice to modern thought. The problem, however, was whether what was left in liberal verities resembled historic Christianity.」(p.90-91)
- 「Machen: You cannot expect from a true Christian Church any official pronouncements upon the political or social questions of the day, and you cannot expect cooperation with the state in anything involving the use of force. Important are the functions of the police, and members of the Church, either individually or in such special associations as they may choose to form, should aid the police in every lawful way in the exercise of those functions. But the function of the Church in its corporate capacity is of an entirely different kind. Its weapons against evil are spiritual, not carnal; and by becoming a political lobby, through the advocacy of political measures whether good or bad, the Church is turning aside from its proper mission.」(p.94)
- 「Protestant critics of the NCC were no less prone to resort to politics, such as when the evangelical Presbyterian J. Howard Pew chided the politically liberal efforts of council leaders for not being sufficiently supportive of big business or adequately alarmed about communism.10 Even so, despite opposition to the council from political conservatives, the fusion of national and religious ideals were clearly evident in the remarks of the NCC's first president, Henry Knox Sherrill. According to Marty, Sherrill made clear the NCC's purposes: it "marks a new and great determination that the American way will be increasingly the Christian way, for such is our heritage.... Together the Churches can move forward to the goal-a Christian America in a Christian world."II The mainline Protestants who championed Christian unity and the churches' responsibility to the needs of the nation and the world were clearly not guilty of the sort of tribalism that withdrew from public life in pursuit of a religiously homogenous ghetto. Still, a Protestant cosmopolitanism that assumed churches in the United States had the world's best interests at heart could appear to be a bit tribal when American Protestant ideals had a direct influence on the policies of one of the world's mightiest and wealthiest governments.」(p.118)
- 「A standard way of parsing the effects of Stob's logic is to note the narrowness, and hence the sectarianism, of this episode in the CRC's history. After all, if a church that forsook membership in the FCC could not even find a home in the right-wing interdenominational body of American evangelicals, then it had taken the principle of separation to an altogether new level.69 But such interpretations of the CRC and its reckoning with American Protestantism rest on the assumption that liberalism and evangelicalism are the only options and fail to see that considerations about ecumenical relations are much broader than the rather confining categories of the FCC's doctrinal affirmation of Jesus Christ or the NAE's seven-point statement of belief. For confessional Protestants, being a member of a church involves a series of teachings and a host of practices that the reduced versions of Christianity articulated by evangelical and liberal forms of ecumenism do not address. But according to common American notions about religious cooperation and ecumenicity, church bodies that refuse to depart from fuller expressions of the faith practiced by previous generations of saints and clergy are narrow and sectarian. In contrast, from the perspective of confessional Protestantism, as CRC leaders pointed out, the terms of fellowship outlined by mainstream American Protestants, whether evangelical or mainline, were fairly narrow when compared to the breadth of teachings and practices of historic Christianity.」(p.134)
- 「As one Lutheran minister put it, "For confessional Lutherans, liturgy is not about human activity, but about the real presence of the Lord.... The liturgy does not exist to provide edifying entertainment, motivation for sanctified living or therapy for psychological distresses, but the forgiveness of sins."」(p.162)
- 「Here it is important to see how confessional Protestant sensibilities dovetail with those that characterize ethnic identity. Unlike pietism, which thrives on the decisions of sovereign individuals who choose to become Christians, confessionalism relies on patterns of inheritance in which the expectation is for believers to come into the faith through birth and Christian nurture. For confessional Protestants the norms of the religious group are passed on from one generation to the next, and church membership presumes following the established beliefs and practices of spiritual ancestors. Even converts are expected to adopt the tradition's ways. To be sure, this understanding of Christian faith has encouraged a kind of ethnocentrism that appears to be at odds with the evangelistic and missionary efforts of the early Christians who established their faith as a world religion. Yet, even the oldest varieties of Christianity-Roman Catholicism and Eastern Orthodoxy-practice a form of piety that is based much more on the idea of inheritance than that of choice. The reason is that these expressions of Christianity stress the importance of participating in the ways of previous generations as embodied in the corporate life and witness of the church. In other words, Roman Catholics and the Eastern Orthodox have historically measured spiritual maturity by the degree to which a believer conforms to the teachings and practices of the tradition, unlike pietist Protestantism, for which zeal and morality are marks of religious health.」(p.172)
- 「According to the sociologist David Martin, the American style of religion is inherently "Methodist" or pietist. He writes that the greatest difference between the United States and England is "the American insistence on sincerity and openness rather than on form and privacy." As a result, ‘enthusiasm' of all kinds, religious, cultural, and personal became endemic in America” compared to England, where it remanded "intermittent and the object of some mild curiosity." To be sure, the explanations for Amerway of faith are numerous, and in the specific case of a comparison with England, the presence or absence of an ecclesiastical establishment is significant. Nevertheless, the American cultural ideals of popular sovereignty and individual freedom, though not inherently opposed to confessionalism, do make faith chiefly a matter of one's personal expression. Consequently, a conversionist understanding of Christianity, one that emphasizes the centrality of the individual's decision and experience, is more plausible in America than a faith based on inheritance in which a son or daughter becomes a member of the religious community by receiving and adopting the ways of the faithful.」(p.174)
- 「"There must be somewhere groups of redeemed men and women who can gather together humbly in the name of Christ, to give thanks to Him for His unspeakable gift and to worship the Father through Him. Such groups alone can satisfy the needs of the soul. At the present time, there is one longing of the human heart which is often forgotten-it is the deep pathetic longing of the Christian for fellowship with his brethren." in Christianity and Liberalism by J. Gresham Machen 」(p.177)
(2026.3.14)
- 「福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会」加藤喜之著 中公新書 2873(ISBN978-4-12-102873-0, 2025.9.19 発行)
出版社情報・目次。話題になっているようで、図書館で予約してもなかなか借りられなかったが、今回読むことができた。ジミー・カーター以降、わたしが実際にキリスト者として生きて、アメリカにも住んで経験した時代、について、よくまとまっていて、人生を辿り直す気持ちで読むことができた。しかし、それ以前の部分については、すこし、粗いようにおもった。そして、現在のトランプの二期についてまで、書かれているが、十分に捉えられているかどうかは不明である。ところどころに、著者の厳しい筆致もあるが、リベラルな福音派については、ほとんど、書かれていない。そして、おそらく、福音派は、ここに現れていなひとたちもおり、ましてや、アメリカのキリスト者を全体として捉えるのは、難しいのだろう。自分史としての福音派については、どこかにまとめてみたいと思う。以下は備忘録:- 「合衆国長老教団の政治組織としては、地域教会の代表が集まる長老会(地方議会のような もの)、さらには全国大会(中央議会のようなもの)を開き、教団の意思決定を行っていた。二五年の全国大会は、オハイオ州コロンバスで開かれていた。議場でメイチェンは、五つの項目からなる信仰告白を教団が受け入れるよう求め、リベラ ル神学を信奉する聖職者の解雇を要求した。この信仰告白は、聖書には一切の誤りがないこ と、イエスは処女から生まれたこと、また、肉体的に復活したこと、そして彼の死は贖罪 の意味をもつこと、さらにはイエスの奇跡は真正だということの五つだった。しかし、教団は、メイチェンの提示する原理主義的な立場にある程度の理解は示しつつも、 論争が組織の分裂を招くことを恐れ、寛容の精神と立場の多様性を認めることを決定した。 それに続くかのように、一九二九年の全国会議では、プリンストン神学校の理事会にリベラ ル神学を信奉する理事を送り込む議案が成立する。こうした決定を神への叛逆だとみなすメイチェンは、二九年に複数の同僚と共にプリン ストン神学校を辞任し、彼らと共にフィラデルフィアに新しい神学校を設立する。 また、教団とも決別し、彼に賛同するいくつかの教会とともに三六年に新しい長老派の教団を立ち上 げることになった。」(p.12)
- 「原理主義者たちが独自の文化圏を構築するうえで一翼を担ったのは新しいメディア、すな わちラジオであった。米国のラジオ放送の草創期と言われる一九二〇年代は、まだ規制や監 査も少なく、連邦政府による介入もほとんどなかった。 また、大学や主流なメディアである 新聞とも一線を画していたため、野に放たれた原理主義者たちにとり、うってつけのメディ アであった。」(p.13)
- 「実際、原理主義者たちのラジオ番組からは、小気味良い讃美歌の調べとならんで、移民排 斥や反ユダヤ主義や反共産主義思想、さらには人種差別やカトリック批判など、憎悪に満ち た言葉がしばしば聞こえてきた。というのも、原理主義者たちが危機感を抱いていたのは、 神学的な問題だけではなかったからだ。彼らは、白人プロテスタントが圧倒的に優位な立場 にあったアメリカ社会の変化にも恐怖を感じていたのだ。例えば、南部を代表する原理主義者J・フランク・ノリスは、白人至上主義団体クー・ク ラックス・クラン(KKK)とも近しい関係にあったし、ボブ・ジョーンズ・シニアは徹底 した人種主義者だった。また、原理主義的なバプテストのウィリアム・ベル・ライリーや、 長老派でメイチェンの支持者であったカール・マッキンタイアは、世界支配を目論むユダヤ 人の計画が記された陰謀論偽書『シオン賢者の議定書』の信憑性を疑わず、ラジオを通し 米国民に注意を促した。さらに複数の原理主義者たちは、ローズヴェルト大統領のニュー ディール政策を、共産主義者によるアメリカ転覆計画の一つだとして糾弾した。」(p.15)
- 「奇しくもイベントが始まる二日前の九月二三日には、ソ連による核爆発実験の成功を大統 領官邸が発表。また、イベント開催中の一〇月一日には、中国で共産党政権が成立。 全米が、 世界に広がる赤化の波に震えていたさなかだった。壇上で自信みなぎるグラハムは拳を振り上げて言う。『共産主義は、たんに経済的な理解に留まらない。共産主義は宗教である。それは、全能 の神に戦いを挑んだ悪魔自身によって鼓舞され、指導され、動機づけられた宗教なのだ』グラハムは激しい言葉で、共産主義の台頭を恐れる大衆に語りかけた。グラハムは続ける。米国はいま内憂外患だという。国内ではキリスト教や道徳が軽んじら れ、国外においては悪魔の操る無神論的な共産主義が跋扈する。 いまこそ人々はキリストの 福音を受け入れ、悪魔との最終戦争に備えなければならない!」(p.27)
- 「新しい時代になり、グラハムの「アメリカの牧師」としての権威を揺さぶる出来事が二つ あった。人種問題とベトナム戦争である。すでに少し触れたが、人種問題に関するグラハムの立場は、南部出身の原理主義者としては革新的なものだったといえる。一九七〇年代まで人種隔離政策を取り続けたボブ・ジョー ンズ大学に短期間の在籍はしたが、五〇年代の伝道集会では率先して隔離政策を批判した。また、連邦政府による南部の公立学校における強制的な隔離廃止を支持した。なによりも公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師に、五七年のニューヨーク 集会での開会の祈りを頼んだのもグラハムだった。しかし六〇年代になり公民権運動が急進化してくると、グラハムは保守的な立場をとり始める。彼によると、あくまで法と秩序は重視しなくてはならず、法に反した行進やデモやボイコットは認められない。むしろ示威運動に突き進むキング牧師など公民権運動の指導者たちを表立って批判し、対話と選挙による法改正を推進するよう促した。 グラハムの周りの 福音派も同じような意見だ。全米中の注目を集めている潮流なのに、この時期の『クリスチ ャニティ・トゥディ』誌は公民権運動をほとんど取り上げていない。六三年四月にキング牧師が、アラバマ州バーミングハムで刑務所に投獄された際も、グラハムは手を差し伸べなかった。むしろ公民権運動の指導者たちに対し、「ブレーキ」を踏んで、穏健な手段での交渉を続けるよう促したほどである。キング牧師は『バーミングハム刑 務所からの手紙』のなかで、こうしたグラハムのような白人聖職者の姿勢を指し、『穏健な 白人は正義より秩序に関心をもち、保護者であるかのように他人の自由についての予定表を 決めたがる』と批判した。 これ以降、二人の聖職者、二つの運動の距離が縮まることはなか った。六八年のキング牧師暗殺の際も、オーストリアでクルセードを開いていたグラハムは、 葬儀に参加しようとしなかった。」(p.36)
- 「福音派が信じていた終末論も、この考えを助長した。 ディスペンセーション主義によると、 イエスの再臨はもうまもなくであり、その時、イエスを信じる者たちは天空に携挙され、信 じていない残された者たちは地上で苦しむ。そのため、イエスが再臨するまでの時間は、で きるかぎりイエスの福音を多くの人に伝え、多くの人を来るべき苦しみの時から救うことに あった。どちらにしても、現世は来るべき世界への準備にすぎないとするのが、 これまでの 福音派の中心的な考えだ。しかしラッシュドゥーニーの終末論は、それと大きく異なっていた。彼によると、終末の 世界はイエスが最初に現世へ来た時にすでに始まっており、キリストの王国は死後の世界で も、携挙の後に確立されるのでもなく、いままさに確立されつつあるという。したがって、 重要なのは、安っぽい恵みを語って、天国へ勧誘するのではなく、神の恩寵によって地上を 一層キリスト教的にならなければならず、法は聖書をもとに打ち立てねばならない。イスラエル建国に関しても、ラッシュ ドゥーニーの立場は、ディスペンセーション主義のように神の預言の成就とはみなさない。」(p.92-93)
- 「オラスキーは、一九九四年に『アメリカ流の思いやりの悲劇 The Tragedy of American Compassion』という著作を刊行した。本書は植民地時代から九〇年代までのアメリカにおける貧困対策の歴史を描く。彼によると、二〇世紀までのアメリカでは慈善団体や教会の事業が効果的に福祉を担っていた。だが、一九三〇年代のニューディール政策以降、アメリカの公共福祉は堕落してしまう。というのも、政府の福祉事業は官僚的であり、困窮している人が必要とする道徳的な改善を与えることができないからだ。そもそも『おもいやり』(compassion)という言葉は、ラテン語に遡ると『共に』(con)『苦しむこと』(passio)という意味がある。この『共に苦しむ』という行為は、単に小切手を送るだけの政府には担えない。したがって現代でも困窮する人々の道徳的な必要に寄り添う用意のある慈善団体や教会に福祉を任せるべきだとオラスキーは主張した。ちなみに、同署は、ポール・ワイリックのヘリテージ財団で客員研究員を務めた一年間に書かれたという。」(p.158)
- 「ブッシュ:現代科学の発見が多大な希望をもたらす一方で、それは同時に倫理的な地雷原を広大な範囲にわたって敷設します。科学の天才たちが人類にできることの地平線を広げるにつれ、我々はなにをなすべきなくについてますます複雑な問いに直面することになりました。いままさに我々は、オルダス・ハクスリーが一九三二年に『孵化場』と呼んだ試験管内で人間が作られる『すばらしい新世界』に到達したのです。(Bush 2000)『創造主からの神聖な贈り物』」(p.165)
- 「サムエル・ペリー、アンドリュー・ホワイトヘッド:キリスト教ナショナリズムとは、神話、伝統、シンボル、物語、価値体系の集合体であり、アメリカの市民生活とキリスト教との融合を理想化し、提唱する文化的枠組みである。」(p.249)
- 「今日のキリスト教ナショナリズムは、過去のそれと大きく異なった性質を持っている。過去の白人キリスト教ナショナリズムは、支配的多数者としての自信に基づき、少数者を差別する形態をとっていた。対して、今日のそれは、社会的影響力の喪失への危機感と、既得権益を奪われつつあるという被害者意識に基づいている。この変化の背景には、白人キリスト教徒の人口比率がアメリカ社会全体の半数を下回るという人口動態の変化がある。」(p.251)
- 「宗教社会学者のデイヴィッド・ライアン著『ジーザス・イン・ディズニーランド, Jesus in Disneyland: Religion in Postmodern Times』」(p.261)
- 「カナダのコンコーディア大学教授アンドレ・ガニェ『トランプを支持する米国福音派ー支配、霊的戦争、終わりの時, American Evangelicals for Trump: Dominion, Spritual Warfare, and the End Times』(2024)」(p.275)
- 「フラー神学校のスーン・チャン・ラ教授による『アフリカ系アメリカ人の福音主義の出現、発展、そして挑戦 In Whose Image: The Emergence, Development, and Challenge of African-American Evangelicalism』」(p.277)
- 「Williams:God's Own Party: The Making of the Christian Right,2010, Defenders of the Unborn: The Pro-Life Movement before Roe & Wade, 2016 Sutton: American Apocalypse: History of Modern Evengelicalism, 2014, REdefining the History and Historiography on American Evangelicalism in the Era of the Religious Right, 2024, Dochuk: From Bible Belt to Sun Belt: Plain Folk Religion, 2010, Anointed with Oil: How Christianity and Crude Made Modern America, 2019」(p.289)
(2026.3.18)
- 「暗黒のアメリカ - 第一次大戦と追い詰められた民主主義」アダム・ホックシールド著 秋元由紀訳 みすず書房(ISBN978-4-622-09804-1, 2025.9.16 第1刷発行)
出版社情報・目次。Adam Hochschild著 "AMERICAN MIDNIGHT, The Great War, a Violent Peace, and Democracy's Forgotten Crisis" の日本語訳である。国際連盟の提唱者で、平和主義国際派の大統領と見られている、ウッドロー・ウィルソン、プリンストン大学の学長を務めた、アメリカ合衆国ではじめての学者の大統領、その時代を中心に描かれている。アメリカで、黒人差別は言うに及ばず、労働組合(特にIWW(Industrial Workers of the World,世界産業労働組合))関係者や、社会党関係者が主として、退役軍人などが中心となったグループに弾圧され、虐殺され、そのことが裁かれずに、戦争へと向かっていき、ウィルソンの提唱したものは、結局、受け入れられなかった背景も書かれている。著者も書いているように、トランプ政権のときに、もう一度学び直すべき、アメリカ史の暗黒の部分が詳細に書かれている。細かいことについては、明確な証拠立てが難しいのか、背後関係が確定できない事件も多いようだが、エマ・ゴールドマン、ケイト・リチャーズ・オヘア、マリー・エクイのような女性の活動も含めて、詳細に書かれている。現在のアメリカについての背景、とくに、どのような人たちが、アメリカを形作っているかを知り、民主主義とは何なのかについても、考えさせられるたいせつな本だと思う。ほぼ百年前のアメリカ、何が変わりつつあり、何は残っているのか、その変化も含めて考えさせられた。以下は備忘録:- 「一九一四年の開戦以降、アメリカに参戦を求める圧力は強まる一方だった。しかし、もしアメリカが参戦すればそれは前例のないことになる。建国以来、アメリカの兵士がヨーロッパで戦ったことは一度もなかった。ジョージ・ワシントンが『われわれの平和と繁栄を、ヨーロッパの野望のための闘争に絡ませる』べきではないと国民に戒めたのはよく知られている。多くのアメリカ人にとって、それはまだ到底考えられないことだった。」(p.18)
- 「ウィルソンを崇拝する人たちのあいだでは、ウィルソンは自分のするべき決断について悩み苦しんでいた、とよく言われる。イーディスが出版費用の一部を負担した公認の伝記本にはこう書いてある。『アメリカ国民を参戦に導かなければならないことは、ウィルソンにたいへんな苦闘をもたらし続けた。······疑念に苛まれ、圧倒されそうだった』。通説によれば、演説を書き終えたウィルソンは本心を打ち明けることのできる頼れる友人を呼びにやらせた。『ニューヨーク・ワールド』紙の編集者、フランク・コブである。コブがようやくホワイトハウスに着いたのは四月二日の午前一時だとされる。そのときウィルソンは書斎でタイプライターに向かっていた。何年も経ってから、コブはウィルソンが『あれほど疲れ切っているのを見たことはなかった』と言ったとされた。『睡眠をとっていないように見えたし、実際とっていないと言った。······幾夜も眠れずに起きていたのだと。彼は目の前にある何枚かの紙をポンと叩き、演説を書き上げてあり、そのまま議会で読み上げるつもりだと言った。ほかの選択肢は見えず、参戦を避けるためにあらゆる手段を試したのだと言った。「ほかに何ができるだろう?」と彼は問うた』それから、コブによればウィルソンはその後の展開を見事に予想した。この戦争は私たちの知る世界をひっくり返すだろうと彼は言った。と彼は言った。『寛容などというものがあったことを国民は忘れるだろう。戦うには残忍で容赦なくなければならず、容赦のない残忍性の精神はこの国の日常の真髄にまでしみ込み、議会や裁判所、巡回中の警官、通りにいる人にまで伝染するだろう..............』彼は、憲法も戦争を生き延びることはできず、表現の自由や集会の権利もなくなるだろうと思っていた。国は戦争に注力しながら冷静でいることはできない、それができたことは一度もないと言った。『ほかに方法があるのなら迷わずそちらを選ぶのに』と彼は声を上げた。ウィルソンを称賛するまた別の伝記作家はこう書いた。『これは、ホワイトハウスで大統領が発したうちでもっとも苦悩に満ちた心の声だったかもしれない』しかしウィルソンは本当にそんな声を発したのだろうか?」(p.24)
- 「その魔女本人が証言する段になった。ゴールドマンは鼻眼鏡を通して自信たっぷりに法廷を見すえ、その時代でもっとも力のあるうちに入る言葉を発した。それは今日にも響くものである。『陪審員の皆さん、私たちは皆さんの愛国心を尊敬しています。······でも、異なる種類の愛国心があってもいいのではありませんか。.........私たちの愛国心は、目をよく開いて女性を愛する男性のものと同じです。男性はその女性の美しさにうっとりとしていますが、彼女の欠点も見えています』」(p.94)
- 「司法省は、ゴールドマンが市民ではないことを利用して彼女を国外追放したかった。しかし強制退去は司法省ではなく、労働省内にある移民局の管轄で、どんな強制送還命令も労働省の高官の承認を必要としたのだが、ゴールドマンの件を担当した高官は承認しなかった。ルイス・F・ポスト次官補は進歩的なジャーナもよかった。ポストは単に、人は政治的見解だけを理由にアメリカから追放されるべきではないと考えていたのだ。強い信念を持つポストは、この暗澹たる時代にもっとも勇気のある人物の一人だったということになる。」(p.95)
- 「『高尚な決意にある今日、私たちの行く手を阻もうとする者どもや集団に災いあれ』とウィルソン大統領は続けた。『私たちがもっとも大切にしているあらゆる原則が正しいことが証明され、諸国の救済のために揺るぎないものにされるのです』。『諸国』とは、これまたウィルソン独特の言い回しだった。ウィルソンの見方では、アメリカは自身のためだけでなく世界全体のための尊い任務に取り掛かったのだった。」(p.98)
- 「徳が高く、優しくてカリスマ性のあるデブズは信心深いキリスト教徒で、支持者たちがデブズに熱情を抱く様子はほとんど宗教的といえた。ある社会主義の作家はこう書いた。『子供たちは、大工のイエスに群がったに違いない子供たちと同じようにデブズに群がった。アメリカ鉄道労働組合のスト参加者が最後に負けるまでデブズについて行ったように、白髪のひげを生やした農民たちが「ジーン、ジーン、もうおれのことを覚えていないのか?」と大声で呼びかけながら彼らを導くジーンのところに走り寄ったのを覚えている。そのジーンは必ずみんなを覚えていて、長い腕を彼らの体に回し、自分の胸に押しつけ、農民たちは愛情とありがたさで目に涙をためた』」(p.215)
- 「六十二歳のデブズの裁判を担当した裁判官は、ウィルソン政権の陸軍長官とかつて共同で弁護士業をしていた。裁判中もデブズの有名な気品と威厳はそのままだった。『よく考えるのは』とデブズは静まりかえった法廷で述べた。『自分の命を守るためにさえ、同じ人間の命を奪うことはできるだろうか、ということです。聖なる戦争という言葉が使われます。そんなものはありません』人は奴隷制や砲弾の餌食以上のものに値する存在である、と私が明言したことが騒がれています。人は実際、奴隷制や砲弾の餌食以上のものに値する存在なのです。......夢のなかで、ヨーロッパにいる兵士たちの悲鳴が聞こえます。私は戦場がどんなところかを想像することができます。その戦場に人間の脚が散らばっているのも見えます。つい昨日までは若い男性としての盛りにあって輝いていた人間の脚が。晩にはその手足が胴体から引きちぎられ、断片が散乱しているのが見えます。陪審は速やかに有罪評決を出した。裁判官は十年の刑を宣告した。」(p.221)
- 「真犯人を突き止めるのは難しいものだが、スケープゴートを見つけるのはいつでも容易である最初かそれを誰にしたいかがわかっている場合にはとくに。爆弾を仕掛けた可能性がもっとも高い集団はガリアニストとして知られ、全国でも多くて五十人しかいなかった。しかしウォブリーは数万人、活動している社会主義者は数十万人、また国を揺るがしている多数のストライキの参加者は数百万人いた。攻撃すれば政治面で有利に働くと今パーマーが考えたのはこれらの人たちだった爆弾事件に結びつく証拠がなくても関係がなかった。その数週間前にまとまった数の郵便爆弾が見つかると、狙われた一人だった野心的なシアトル市長のオレ・ハンソンはすぐにそれをウォブリーのせいにした。そして左派に対するウィルソン政権の『スキムミルクのように薄く、弱く、煮え切らず、一定しない』政策を批判した。新聞の社説も政府に行動を求めた。『これらの者たちは鉄拳で支配されなければならない』と『ワシントン・ポスト』紙は述べた。『電気椅子で何度か無料で施術を受けるのがよい』。パーマーは、自分が訴追者として強気で決断力があることを示したかった。六月の爆弾事件についてのニュースが広まるなか、『原形をとどめない図書室に下院や上院の議員たちと立っていたとき』とパーマーは回想した。『反対の声は一つもなく、みんなは私に強い調子で······こんな非道な行為の裏にいる犯罪者を捕らえろと私に言った』。一人はパーマーにこう言った。『望むものを言ってくれれば手に入れられるようにするから』」(p.287)
- 「翌年に連邦議会で証言したパーマーは、司法省が集めた急進派の顔写真をよく見るよう議員たちに求めた。『このうちの多くの者のずるく狡猾な目からは、強欲と残酷さ、狂気、そして犯罪が飛び出してきます。偏った顔や傾斜する眉毛、歪んだ顔つきからは、紛れもない犯罪人の特徴が見てとれるでしょう』」(p.289)
- 「翌朝、五人がホテルに着くと、大統領の補佐官に『とても大きな部屋に案内された』とキップスは思い出して述べた。『ウィルソンは長く重そうなテーブルの脇に立っていて、左手をテーブルの端に乗せていた』。カッタウェイコートを着て縞柄のズボンをはいたウィルソンは『小さく見えた。もっと背が高いと思っていた。顔は長く、首に乗った頭が重そうだった。そして年を取ってとにかく年を取って見えた。............握手をした。ウィルソンの手は私の手の中で乾燥していて震えているように感じられた』大統領と本当に面会できたことと、その大統領が明らかに具合が悪かったこととで二重に衝撃を受けたウォブリーたちは、いつもは闘争的なのに、どういうわけかろくに口が利けなかった。負傷した退役軍人のウォブリーが最初に話すはずだったのだが、言葉が出てこず、ようやく『ただウィルソンに嘆願書を手渡した。ウィルソンはそれを受け取った。その手はかなりひどく震えていた』キップスの話によれば、何か言うことができたのはキップスだけだった。大統領は返事をしたが、キップスはのちにこう述べた。『何を言ったのかほとんど聞こえなかった。......ウィルソンはかなり具合が悪そうだったが、一同のなかでいちばん落ち着いていたかもしれない」。数分後、ウィルソンはまた全員と握手し、補佐官が五人を部屋の外に案内した。五人のウォブリーたちはあれほど口が利けなかったことに呆然とし、きまりの悪い思いをした。『そのことについて一時間は話せなかった』とキップスは言った。『合衆国の大統領と面会したー大統領はまったくひどい状態だった!顔色の悪い老人が大きな部屋の真ん中、高い天井の下に立って、うなだれていたのだ』」(p.324-325)
- 「プエブロでの演説は、ウィルソンが国際連盟への支持を訴えた演説のなかでもっとも力強いものだった。それを聞いていた人は誰もそれが最後の演説になるとはわからなかった。自分の目的に対するたいへんな熟意と、身体面の弱さとの絶妙な組み合わせが聴衆を感動させたようである。『一般向けの集会では見たことのない、感情の大きな波が』とタマルティはのちに述べた。『円形劇場の全体に広がった』。ウィルソンが話すうちに、『男性も女性も泣いているのが見受けられた」と『ボストン・グローブ』紙は述べた。『直近にあったよりな戦争がふたたび起きるのを防ぐためにアメリカに世界の国々に加わってほしいという大統領の熱い訴えはその妻の心も揺さぶり、彼女も目から落ちる涙を拭っていた。』別の新聞は、最前列にいたネクタイをつけていない『労働者』が完全に取り乱したと報じた。プエブロでの演説は卓越したできばえで、弁論術の本に載っているほどである。けれどもそれはウィルソンの矛盾がもっともあらわになった演説でもあった。国外では、戦争を永遠に止めようと決意し人を奮い立たせる理想主義者でありー国々が戦うよりも交渉するほうがいいことを誰が否定できるだろう?ー国内では移民排斥主義の専制君主だという矛盾である。ウィルソンの最初の面は演説の次のくだりで出てきた。『フランスで息子を亡くした母親たち。......私は、前線でもっとも困難な、死が確実である地域にその息子たちが配置されることを承諾しました。......この条約の却下または制限と私たちとのあいだには、軍服を着たあの男子たちが、戻ってきた男子だけでなく、フランスの戦場にいまだに展開している愛しい亡霊たちも、ぎっしりと並んでいるように私には思われます』。これが、演説を聞いている人たちが涙した部分だった。しかしウィルソンは同時に、自分の気にかけているアメリカ、ウィルソンのアメリカとは、自分と同じく、出身地が外国でもなく外国の訛りもない人のアメリカであることもはっきりさせた。『私が言いたいのはー何度でも言いますが名前にハイフンのついた人はどんな人でも、この国の核心部に短剣を突き刺す用意があることです』。これはほとんど思いつきで言われた一文だったが、間接的にスケープゴートの存在に言及していた!また、パーマーやフーヴァーが始めていた大規模な強制送還を承諾するものでもあった。現代の言い方をすれば、それは犬笛だった。」(p.327)
- 「人が、対立する信念が時間の経過とともに覆されてきたことに気づくと、望まれる最終的な善は、意見の自由なやりとりを通じて到達されるべきであること......真実を試すものとして最善なのは、ある考えが市場の競争を経て受け入れられる力であると。われわれは、自分が嫌う意見の表明を阻止する試みを永遠に警戒すべきである。」(p.350-351)
- 「閣僚たちはルイス・F・ポストのことを熱く議論した。直近の一連のストライキの話がきっかけで言い争いが始まった。パーマーは、労働争議が起きるのはボリシェヴィキとウォブリーのせいであるという、自分が大統領選挙運動でしているのと同じ主張をして議論の主導権を握ろうとした。しかしパーマーは思いがけず別の閣僚からの反発にあった。六週間の休暇を終えてちょうどその日に職場に復帰した労働長官のウィリアム・B・ウィルソンである。ウィルソンの休暇の間、ポストが代行を務めたのだった。ウィルソン長官は元炭鉱労働者で、労働組合の役員を務めた経験があった。ときには自身も共産主義者に対する恐怖を煽ったこともあったが、普段はのんびりとして温厚、消極的ともいえる人物で、強硬な態度をとるよりは交渉するほうを好んだ。しかしパーマーの発言はなぜかウィルソンの気に障り、他方で自分の代理だったポストの高潔な振る舞いが、ウィルソンを反論する気にさせた。ウィルソンはパーマーに反撃し、ストの原因は『経済状況』と、何百万ものアメリカ人が数年前から苦しんでいたこと生活費の高騰に比べてなかなか上がらないことの多い賃金なのだと言った。海軍長官のジョセファス・ダニエルズの日記によれば、ウィルソン労働長官とパーマー司法長官が口論を始めたのはそのときだった。ウィルソン長官は休暇中に代行を務めたポストの行動を擁護し、ポストを全面的に支持した。対してパーマーはポストが『強制送還するべき外国人アナキスト』を自由の身にしたと非難し、解任を求めた。ウィルソン長官は、強制送還されるべき人はすでに政府が送還していると答え、それ以外の人は『政府を変えたいと考えていたけれども無法者だったのではなく、合法な方法で変化を起こそうとしていた』のだと述べた。すると、『パーマーは、ポストが罷免されればストライキはもう起きないだろうと言った』とダニエルズは日記に書いた。ウィルソン長官はそうは思わず、ポストの罷免は状況を『悪化させる』だけだと言い返した。」(p.375-376)
- 「ダロウは、六十四歳のデブズのもとを訪れる大勢の著名人の一人にすぎなかった。デブズに届く郵便が、彼以外の受刑者全員に届く分の倍もあることも多く、このため刑務所の検閲係は時間外も働いた。それでも、『監獄からホワイトハウスへ』というテーマの選挙運動で、デブズは五〇〇語からなる声明を毎週一本出すことしか許されていなかった。ある声明では、デブズはウィルソン大統領の一九一九年の演説から本質をよくとらえている部分を引用した。『現代社会における戦争の種とは産業や貿易面の競争であることを知らない子供などいるのだろうか?』。最近終わったばかりの戦争は』貿易と産業をめぐる戦争だった。政治的な戦争ではなかった』とウィルソンは断言していた。これは、社会主義者たちがずっと前から主張してきたことを別の言葉で言っているのではないか?あの戦争は、張り合う資本主義国家どうしの利益をめぐる戦争だったということを?デブズをはじめとする多くの人たちは、まさにそう言ったために投獄されたのだった。デブズの崇拝者たちは長らくデブズの釈放を願っていた。任期が残り少なくなった今、ウィルソン政権はひっそりと反体制派の一部を自由にしていた。戦争が終わってからまる二年が経っていた一九二〇年十一月の終わりには、ハンガーストライキがきっかけとなり、最後まで獄中にあった三十三人の良心的兵役拒否者が釈放された。ウィルソンは、デブズと同じ刑務所にいた、戦争中にアメリカの貨物船に対する妨害行為をしようとして捕まったドイツ人の秘密工作員までも自由にしていた。大統領選挙から数週間後、ウィルソン大統領がまたもやデブズに恩赦を与えない決定をしたとホワイトハウスが発表すると、デブズはこう言い切った。『恩赦が必要なのは私ではなく彼のほうだ』」(p.406)
- 「一九二七年の戦没将兵追悼記念日にニューヨーク市のクイーンズ区でKKK団員約一〇〇〇人が行進し、そこから警察との乱闘が起きた。KKKの頭巾をつけた数人が逮捕された。そのうちの一人はフレッド・トランプという不動産開発業者だった。九十年後、白人以外の人たちについて父親と似たような考えを持つ息子がホワイトハウスに入ることになる。ドナルド・トランプの任期中、その一〇〇年前にアメリカを損なった勢力がまたもやはっきりと目に見えるようになった。たとえば移民や難民に対する激しい怒り、人種差別、赤狩り、学校での破壊的思想に対する恐怖だが、ほかにもたくさんある。そしてこうしたことすべての裏にはむろん、単純な解決法があるように見え、人の心を引きつける。外国人を強制送還する、批判的な報道を禁止する、人を投獄する、なんでも自分とは違う肌の色や宗教の人のせいにする。これらの衝動はどれもずっと前からアメリカにある。トランプ以外の大統領も、共和党か民主党かを問わず、人種の問題について犬笛戦術を使って支持者に訴えかけてきた。ジョゼフ・マッカーシー上院議員やその模倣者による反共産主義の魔女狩りも、人を投獄したり人のキャリアを台無しにしたりし、数千もの人が国外に出る原因となり、ごく小さいアメリカの共産党よりもはるかに大きな影響をアメリカの政治生活に及ぼすことになる。アメリカにはなんでも邪悪な陰謀のせいにする傾向があり、新しい悪者が攻撃の的になっている。最近は、ローマ教皇やボリシェヴィキではなく、イスラム法、ジョージ・ソロス、悪魔崇拝の小児性愛組織などが悪者扱いされている。APLの会員が徴兵忌避者を探して通りをうろついていた時代が過ぎても、自主義の超愛国者が繰り返し現れてきた。暴力を振るうこともある。一九一七年以降に急に増えた政治的暴力にアメリカ=フィリピン戦争の経験者がかかわっていたように、その後またアジア、具体的にはヴェトナム、イラクやアフガニスタンで行なわれた対ゲリラ戦争の帰還兵が新しくできた民兵組織に加入し、迷彩服を着て武装している。昔から続いてきた企業と組合労働者とのあいだの戦いは、一〇〇年以上前にそうだったほど暴力的になることはめったにないが、なくなってはいない。口がうまく、ソーシャルメディアも使いこなす「組合回避」コンサルタントが州兵や私立探偵に取って代わり、この闘争は今日も続いている。アメリカにある民主主義は完璧からは程遠く、一世代か二世代ごとに私たちはそれがどれほど危ういかをあらためて知る。第一次世界大戦中やその後にアメリカを騒然とさせた軋轢のほとんどは現在も消えていない。それらに火をつけるのは、アメリカの第一次世界大戦への参戦やそれに続いたロシア革命のような急な出来事かもしれないし、徐々に高まっていく圧力かもしれない。そんな圧力のなかには、ますます多くの難民が地球温暖化のせいで北に逃げていることなど、すでに目の前にあるものもある。暗黒の勢力がふたたびアメリカ社会を圧倒しないようにするために、私たちには多くが求められる。一つには、危険信号を目にしたり、煽動行為が行なわれている気配があったりしたらそれとわかるように、自分たちの歴史を知ること。一〇〇年以上前に真実を話し自分の信念を貫いた人たちのような、勇気のある男性や女性。これは政府の内側と外側の両方に必要である。何千万もの人が経済面で遅れをとってスケープゴートを探すことがないように、富がより公正な形で分配されること。一九一七年から二一年にかけてそうだったほど権力者に対して弱腰ではないマスメディア。そして何よりも、私たちがふたたび暗闇に入り込んでしまうことがけっしてないように、市民的権利や憲法上の保護規定を油断なく見守りながら尊重すること。」(p.428)
(2026.3.28)
- 「暇と退屈の倫理学 Ethics of Leisure and Boredom」國分功一郎著 新潮文庫 こ73-1(ISBN978-4-10-103541-3, 令和4年(2022年)1月1日発行、令和4年4月5日7刷)
出版社情報・目次。暇と退屈について論じた哲学書である。パスカルからはじめ、ラッセル、ハイデッガーなどの論考を中心に、それらの論を検討し、ご自身の考えを展開している。個人的に、あまり、哲学書を読まないので、見当外れに成るのだろうが、哲学は基本的に、ことばの定義を明確にし、論理的に、ある正しさを組み立てていくものだと理解しているが、途中での批判で、両面の度合い(相対と絶対の比較)をも論理に入れている。それを許容すれば、度合いの尺度も定義する必要があり、基本的な論理のルールから外れてしまっているように感じた。また、テーマからして、他者との関係は避けて通れないように思うが、哲学では、他者との複雑な関係は避ける傾向もあると思った。おそらく、対等に論じることが難しいとして、思考の中心にいる自分からはなれられないのかも知れない。著者は賢いかたではあるが、個人で思考することの限界も感じた。あまりにも、ナイーブな幼いことを書いてしまっているだろうが、いつか、もうすこし、哲学関係の本の読み方も、深くなっていければ嬉しいと思った。個人的には、パルカルの言う「神なき人間のみじめ」「神とともにある人間の至福」について深められていないのが残念である。おそらく、わたしも、このテーマに関しては、まさに、パスカルのようなことばに向かうように思っていたからでもある。その意味でも、著者の高校時代の思い出からは、ひとつの分岐点も感じた。上に述べた、他者との関係を思考に含めないところが分かれ道なのだろうか。また、マサイ族が定住に移行しつつある原因も垣間見てきたので、読んでいて、そのことについても考えた。また、熊谷さんとの共著などもあるようだが、当事者性は、ご自身の障害のことを通して行き着いたことでもあるが、医師としてなかなか理解できない他者の痛みに注目して考えておられることに触れて、國分氏の考えがどのように変化していくのかにも興味を持ったので、いずれまた読んでみたい。以下は備忘録:- 「退屈と気晴らしについて考察するパスカルの出発点にあるのは次の考えだ。『人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。』パスカルはこう考えているのだ。生きるために十分な食い扶持をもっている人なら、それで満足していればいい。でもおろかなる人間は、それに満足して部屋でゆっくりしていることができない。だからわざわざ社交に出かけてストレスをため、賭け事に興じてカネを失う。それだけならまだましだが、人間の不幸はそれどころではない。十分な財産をもっている人は、わざわざ高い金を払って軍職を買い、海や要塞の包囲線に出かけていって身を危険にさらす(パスカルの時代には、軍のポストや裁判官のポストなどが売り買いされていた)。もちろん命を落とすことだってある。なぜわざわざそんなことをするのかと言えば、部屋でじっとしていられないからである。」(p.42)
- 「おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。」(p.44)
- 「当時、大戦後のヨーロッパでは、近代文明の諸々の理念が窮地に立たされていた。それまでヨーロッパが先頭に立って引っ張ってきた近代文明は、理性とかヒューマニズムとか民主主義とか平和とか、さまざまな輝かしい理念を掲げていた。ところが、そうした理念を掲げて進歩してきたはずの近代文明は、おそろしい殺戮を経験した。第一次世界大戦のことである。もしかしたら近代文明は根本的に誤っていたのではないか?そんな疑問が広がった。」(p.56)
- 「近代文明を信じていた親たちは近代文明でもうすべてが終わっているかのように語っていた。共産主義者たちは今度来る革命ですべてが終わると語る。どちらを信奉しようと、彼ら若者にはやるべきことなどない。それらの世界がどうして若者の心を打つことができようか? 若者たちは緊張のなかにある生だけが本来の生だと考えるようになっていた。言い換えれば、真剣な生だけが望ましい生である、と。彼らにとっての真剣な生とは、『緊急事態、深刻な極限的状況、決定的な瞬間、戦争といったものに絶えず直面している社会』において体験される生のことであった。そこにこそ、自分たちが自分たちの生命を賭けて何かに打ち込む瞬間がある。生きていると実感できる瞬間がある。なぜならそのときに彼らは、『まだ何も終わっていない』と、そして、『自分は何かを作り上げる運動に参加している』と感じることができるからだ。」(p.58)
- 「ラッセルは冒頭で、自分が幸福について考えを述べるにいたった理由を説明している。『動物は、健康で、食べる物が十分にあるかぎり幸福である。人間も当然そうだと思われるのだが、現代世界ではそうではない』取り立てて不自由のない生活。戦争や貧困や飢餓の状態にある人々なら、心からうらやむような生活。現代人はそうした生活をおくっているのだが、しかし、それにもかかわらず幸福でない。満たされているのだが、満たされていない。近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸の空気が漂っている。自分が論じたいのは、そのような現代人の不幸、すなわち、『食と住を確保できるだけの収入』と『日常の身体活動ができるほどの健康』をもち合わせている人たちを襲っている日常的な不幸である、とラッセルは言う。人はそれを贅沢病と呼ぶかもしれない。飢餓や貧困や戦争に比べれば何のことはないと言う人もいるかもしれない。だが、日常的な不幸には、そうした大きな非日常的不幸とは異なる独特の耐え難さがある。何かと言えば、原因が分からないということである。」(p.61-62)
- 「一八世紀の啓蒙主義の時代では、人間は理性的存在として平等であり、平等に扱われねばならないと盛んに論じられた。ロマン主義はそれに対する反動である。そこではむしろ人間の不平等が高く揚げられる。個人はそれぞれ違うのであって、理性とかいった言葉で一様に扱ってはならない。つまりロマン主義は、普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる。他人と違っていること。他人と同じでないこと。ロマン主義的人間はそれをもとめる。いま風に言えばこうなるだろうか―『みんなと同じはいや!』『私は他人と同じでありたくない!』『私らしくありたい!』。ロマン主義が現れる以前の世界では、経済的な不平等、身分にもとづく不平等が社会の全体を覆っていた。したがってそこでは平等の実現こそが至上命題であった。だが、多かれ少なかれ平等が達成されると、こんどは再び不平等がもとめられたわけだ。『他人と違っていたい』とは、だれもがいつでも抱いている気持ちのように思われるかもしれないが、それは大変疑わしい。スヴェンセンによれば、この気持ちはロマン主義という起源をもつ。そして、『僕たち現代人はロマン主義者のように考えている』。さて、こうなるとスヴェンセンが処方する、退屈への解決策もおおむね見当がつく。私たちはロマン主義という病に冒されて、ありもしない生の意味や生の充実を必死に探しもとめており、そのために深い退屈に襲われている。だからロマン主義を捨て去ること。彼によれば、それが退屈から逃れる唯一の方法である。『退屈と闘うただ一つ確かな方法は、おそらくロマン主義と決定的に決別し、実存のなかで個人の意味を見つけるのを諦めることだろう』。」(p.78)
- 「現在、人類の大半は定住生活を行っている。そのために私たちは、定住中心主義とでも言える視点から人類史を眺め、遊動生活について価値判断を行ってしまう。住むことこそが人間の本来的な生活様式であるとそうすると、人類の歴史の大部分は定住したくても定住できなかった歴史とみなされることになる。そして人類史は、どうやって定住生活が可能になったのかしかし、定住する条件さえみたされれば人類はただちに定住するものだろうか?たとえば、私たち定住民が遊動生活を始めることは極めて困難である。私たちはすでに一万年の定住生活の歴史をもち、それに慣れ親しんでしまっているからだ。同じことが定住化についても言えよう。定住生活の条件がそろったからといって、一万年どころか何百万年も続けてきた遊動生活をやめて、おいそれと定住化することなどできるだろうか?既に確立された生活様式があるのに、進んでそれを放棄し、新しい生活様式をもとめるなどということは考えにくい。慣れ親しんだ生活様式を放棄することは大変な苦労を強いられる出来事であるからだ。するとこう考えてみることができるだろう。人類は定住生活を望んでいたが経済的事情のためにそれがかなわなかったのではない。遊動生活を維持することが困難になったために、やむを得ず定住化したのだ、と。」(p.90)
- 「定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを『移動』することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。『退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである』。いわゆる『文明』の発生である。」(p.105)
- 「ヴェブレンによれば、人類はかつて平和のなかで生きていた。だが、その後、何らかの理由で戦争や略奪を好む存在へと変わっていった。有閑階級は戦争や略奪を好む状態とともに発生したと言われている。ヴェブレンはこの野蛮状態への移行を、所有権の発生として説明している。つまり、有閑階級は所有という考えが発生すると同時に生まれた階級だと言っているのである。」(p.123)
- 「いまレジャー産業について述べた構造を、経済学者のガルブレイスは『ゆたかな社会』(一九五八年)でより一般的に論じている。ガルブレイスによれば、『消費者主権』という経済学の最も基本的であったはずの概念が、現代ではまったく通用しなくなっている。消費者主権とは、『経済システムは消費者に奉仕するものであって、その消費者が経済を最終的に支配する』という考えと定義されている。簡単に言えば、消費者に欲しい物があって(需要)、それを察知した生産者がその物を生産する(供給)、こういった構造を当たり前だとするのが消費者主権という考えである。当然ながら、現代ではそうなっていない。消費者の側に欲しい物があって、それを生産者が供給するなどというのはまったくの事実誤認である。」(p.147-148)
- 「そして何よりも重要なことは、ルソーが自然状態について、『もはや存在せず、おそらくはすこしも存在したことのない、多分将来もけっして存在しないような状態』と述べていることである。ルソーは自然状態を、かつて人間がいた状態や戻っていける状態として描いているのでもないし、これからたどり着ける状態として描いているのでもない。ルソーの目論見は、私たちが当然だ、当たり前だと思っている社会状態を遠くから眺めてみることにある。人間はいま社会状態を生きているからそれを疑うことができない。しかし、自然状態の話をもってくれば、『ああ、人より高い場所に自分を置きたいという気持ちは、文明社会だから出てきた気持ちであって、人間の本能なんかじゃないんだよな』と思えるわけである。」(p.207)
- 「ハイデッガーは退屈の諸形式の分析によって、「なんとなく退屈だ」という深い退屈へとたどり着いた。普段、人間はこの声を抑えつけるために、仕事の奴隷になったり、退屈と混じり合った気晴らしに耽ったりしている。しかし、どうしてもこの声は響いてくる。そして『なんとなく退屈だ』という声に耳を傾けたとき、私たちはだだっ広い『広域』に置かれる。あらゆるものが退き、何一つ言うことを聞かない真っ白な空間に置かれる。このゼロの状態は、しかし、人間が自分たちの可能性を知るチャンスでもある。そいや暮らの可能性の先端部に否応なしに目を向けさせられるから。あらゆる可能性が拒絶されているが故に、かえってその可能性が告げ知らされる。ハイデッガーが述べていることを本書の文脈で翻訳すると次のようになる。人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。」(p.283)
- 「しかし、人間に環世界を認めないというのは無理のある主張であった。人間もまたそれぞれの環世界を生きている。ただしここで重要なのは、人間は他の動物と同様に環世界を生きているけれども、その環世界を相当な自由度をもって移動できるということだ。人間は他の動物に比べて相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力をもつ。ならば、ハイデッガーの立論の問題点とは何か?それは、この相対的に高いにすぎない能力を、絶対的なものとみなしてしまったことであるように思われる。そのために人間が、環世界を超越する存在として描かれることになってしまった。たしかに人間の高度な環世界間移動能力は、その『自由』の現れであろう。しかし、それは絶対的なものではない。ましてや、環世界そのものからの絶対的な離脱を可能にするような『自由』ではない。では、ここから退屈について考えるとどうなるか?人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。人間は一つの環世界にとどまっていられないのだ。」(p.332)
- 「ハイデッガーの結論と提案をもう一度まとめよう。それは次の二項目に要約できる。(1)人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだからだ。(2)人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。ハイデッガーは人間について環世界を認めない。これは大変不合理に思えた。なぜハイデッガーがそのような不合理なことを主張したのかと言えば、それは例の深い退屈を描くためであった。つまり、人間が深い退屈のなかで何一つ言うことを聞いてくれない全体へと引き渡される、その様を描くためであった。『何一つ言うことを聞いてくれない全体へと引き渡される』とは、たとえば、何もない、真っ白で、だだっ広い空間に、ぽつんと取り残される、そんな風にイメージしてくれればいい。さて、なぜそんな風に主張できたのかと言えば、人間だけが世界そのものと関わることができるという考えが根底にあったからだ。ハイデッガーによれば、人間はある物をある物として受け取ることができ、物そのものと関わることができる。したがって、世界そのものと関係をもつことができる。それゆえ、逆に、何一つ言うことを聞いてくれない全体へと引き渡されることもあり得る。何とでも自由に関わりをもつことができるのだから、何ものとも関わりをもたない状態があり得るというわけだ。」(p.340-341)
- 「本書は〈暇と退屈の倫理学〉と題されている。倫理学であるから、やはり、何をなすべきかが言われねばならないだろう。倫理学とは、いかに生きるべきかを問う学問であるから。しかし、本書が一つ目の結論として掲げたいのは、こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない、というものである。これは、『あなたはいまのままでいい』とか『あなたはあなたのままでいい』とか『いまのままのあなたを皆が認めるべきだ』とか、そういったことでは断じてない。その正反対である。いまこの結論を読んでいるあなたは本書を通読した。本書を通読することによって、暇や退屈についての新しい見方を獲得した。暇や退屈がなぜ人を苦しめるのかを理解し、それらを人類史のなかに位置づけ、暇や退屈を考えるうえで注意しなければならない諸点について知識を得、暇や退屈について論じられてきたことを知り、〈暇と退屈の倫理学〉が向かうべき方向を見た。それこそが〈暇と退屈の倫理学〉の第一歩である。自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。本書を読むこと、ここまで読んできたことこそ、〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一つに他ならない。だから、正確には、あなたは既に何事かをなしている、と言うべきかもしれない。あなたはいまこれから〈暇と退屈の倫理学〉を実践し始めるのではなく、もうその実践のただなかにいる。」(p.390)
- 「もう少しだけ、新しい概念を導入しよう。熊谷によれば、現在、脳の中に次のような三つのネットワークがあることが分かっているのだという。(1)デフォルト・モード・ネットワーク(default-modenetwork:DMN)(2)前頭頭頂コントロール・ネットワーク(front-parietalcontrolnetwork:FAC(3)サリエンス・ネットワーク(saliencenetwork:SN)ネットワークとはこの場合、脳が或る特定の状態にある時に、連携して活動している部位群のことを指している。今後、脳神経科学の発展にともない、これらのネットワークは再定義されることになるかもしれない。だが、注目されるべきは、これら三つのネットワークの関係であり、また、それら三つの関係が、或る人と成る人とでは異なっているという事実である。(1)のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)は、安静時や何もしていないネットワーク(DMN)は、安静時や何もしていない時に作動する部位群である。自己参照的な過程や、未来の行為に備えた過去の知識の参照を司っていると考えられている。つまり、暇で静かにしている時に作動している(2)の前頭頭頂コントロール・ネットワーク(FPCN)は、短期的な行動制御、無意識の誤差検出を司っている。行動の基礎となる予測モデルに対して小さな誤差が発生した際、人は無意識のうちにそれに対応しているが、その際の調整を行っているのがここである。たとえば、いつもの通り道にちょっとした置物があっても、人はほとんど何も考えずにそれをよけられる。その際に働いているのはFPCNである。(3)サリエンス・ネットワーク(SN)は、まさしくサリエンシーに対応する部位群だ(saliency salienceも同じsalientの名詞形)。すなわち、これは予測モデルと大きく異なる誤差が探知された際に発動し、長期的な目的指向的行動の制御や、意識傷的な予測誤差認知を行う。脳神経科学はいま猛スピードで発展している学問であるから、これらの説明はあくまでも暫定的なものにすぎない。だが、これら三つのネットワークの関係に注目すると、痛みについて新しい事実が見えてくる。実は、PTSDや慢性疼痛など、痛みの慢性化においては次の事態が確認されているという。(1)SNの活動異常。すなわち、サリエンシーに対する過剰な反応。(2)SNとDMNの結合亢進。すなわち、反省作用の激化。職と退屈の倫理学 (3)SNとFPCNの結合低下の傾向。すなわち、自動作用の低下。これら三つをまとめると次のようになる。痛みの慢性化が起こっている場合、人はサリエンシーに反応しやすくなり、物事を無意識のまま自動的にこなすことができず、過剰に過去の記憶を振り返り、自己に対する反省を繰り返してしまう状態に陥ってい特に注目するべきは、DMNの活動である。痛みの慢性化は、自己の反省作用と強く結びついている。DMNが参照するデータとは、もちろん、一人一人がこれまでに蓄積してきた記憶である。そして、記憶とはサリエントだった経験の痕跡であり、すなわち傷跡であった。つまり、痛みの慢性化は、記憶という傷跡の過度の参照を伴っているということである。」(p.490)
(2026.3.31)
- 「『青年の夕べ』感話集 いのちの言葉を交わすとき」飯島信編著 YOBEL.Inc.(日キ販)(ISBN978-4-909871-62-6, 2022.11.7 初版発行)
出版社情報・目次。語った人として名前があがっている人は13名、他に二人が語ったとの記録があるが、その二人も含めて、15名のほとんどは、我が家の聖書の会の参加者である。この会(『青年の夕べ』)のことは知っていたし、飯島先生が福島に移られたあと、しばらく、ICU の Seabury Chapel に場所を移して続いていたことも知っているが(一応、3月21日が最終回なのだろうか)関わってはいなかった。飯島牧師から本をいただいて、読ませていただいた。少し聞いたことのある話もあったが、ほとんどは、初めての内容でもあった。お二人は二篇語ったことが収録されていた。このようなものが、記録されることはとても、意味のあるこtだと思う。わたしも、古いもので、残っているものもあるので、ホームページにでも出しておこうと思う。わたしの場合は、東京池袋協会の祈祷会からだと思う。その祈祷会に集う人たちが、求道者もふくめて、語ることが中心の会だった。聞かれる場、聞いてくれるという信頼、そのような場は、本書にも関われいるが大切なのだろう。今から考えると未熟な話だったが、覚えているのは、加藤亮一牧師が、じっと静かに、聞いていてくれたいたことだけのように思う。我が家の会でも、聖書の学びのあとの感想、短いことばだが、それぞれの感じたことに、口ははさまず、静かに聞くようにしていた。個人的に知っている人がほとんどなので、こうして書かれたものを読むと、心配になってくることもあるが、静かに祈ることにしよう。それが、今までもしてきたことで、これからも、それがよいと思っているので。
(2026.4.2)
- 「あなたがたの島へ-ハンセン病療養所と私」沢知恵著 岩波書店(ISBN978-4-00-061716-1, 2025.9.18 第1刷発行)
出版社情報・目次。ハンセン病の療養所だった、大島青松園の方との交流を描いたエッセー。牧師の父、祖父の代から関わっていた、大島青松園に通うい、ピアノを弾き、歌う、東京芸術大学出身の著者について、新潟教会の礼拝説教で紹介され、3月末に青年を連れて訪れたことを語っておられたので、図書館で見つけて1日で読んだ。YouTube 沢知恵公式チャンネルには、大島青松園でのコンサートや、園の方の詩に、曲をつけたものも含まれている。「胸の泉に」「こころ」「われ問う」「はじらい」など。また日本各地の、ハンセン病の療養所の園歌が修士論文での研究テーマだったこともあり、そのことについても書かれている。以下は備忘録:- 「『通禁(トングム)』韓国の夜間通行禁止令」(p.3)
- 「莫逆の友:心に逆らうものがないほど、互いの気心が知れ渡った非常に親しい友、すなわち「親友」を指します。中国の思想書『荘子』に由来する故事成語で、損得なしで深く通じ合う、かけがえのない友人を表す言葉。」(p.51-52)
- 「関田:『みなさんとの間に隔たりを感じて、どんなにきびしかったことでしょう』とあり『適切な距離ほど真の接近である(ボンヘッファー)』のことばが添えられていました。」(p.158)
- 「あの条件づけられた園外不出の生活の中で、どんな思いで自らの人生の呪いに耐え、その中から悲痛さを経ての歌の言葉を出し得たか、その内的経過を思うと、涙せずにはおられませんでした。その隠された思いを著者が深く察知し、戻って距離を置きて、その心情に共感しつつ、自らの言葉で読者に伝えようとする意図、著者自身の受けた衝撃を読む時、私の心は本当に強く強く揺さぶられるばかりでした。(関田寛雄)」(p.162)
- 「修士論文を書き終えて、歌手に加えて研究者としても歩み始めた私は、日本の植民地におけるハンセン病療養所の園歌も調べておきたいと思いました。台湾の楽生院(現在の楽生療養院)には、園歌のようにうたわれた《楽生院友の会》があったことがわかっています。楽譜もあります。ところが、ソロクトにはそのような歌があったという記録が見当たらないのです。日本の本土以上に厳しい抑圧があったはずの朝鮮の療養所に、園歌がなかったはずはないと思いました。皇民化政策のもとでは、植民地下の人たちを日本人化するために日本語を強制し、ノスタルジアを感じさせるメロディーと軽快なリズムにのせてうたをうたわせ、音楽によって思想を心身に刻みつけたからです。」(p.163)
(2026.4.6)
- 「反知性主義 アメリカが生んだ『熱病』の正体」森本あんり著 新潮選書(ISBN978-4-10-603764-1, 2015.02.20 第1刷発行)
出版社情報・目次。アメリカにおける三つの大覚醒時代の中心的な人物(著者の書記の著作にあるジョナサン・エドワーズや、ホイットフィールドなどか始め)を中心に、アメリカ精神史・宗教史を反知性主義と普遍的平等主義という視点から説いている。ビリー・グラハムなどの、第四期については語っていない。おそらく、また次の機会に、政治との関係とも合わせて書いてくれるのであろう。丁寧によく書かれており、大覚醒時代について整理することができた。また、所々に、ペーパームーン、エルマー・ガントリー、A river runs through it などの映画描写による説明が含まれており、映像としても伝わってくる雰囲気がとても良い。内容については、備忘録や、上のリンクに譲るが、個人的には、A river runs through it で描かれている、第四章 アメリカ的な自然と知性の融合が、South Dakota の田舎に移り住んだ友人一家を家族で訪ねたときのことを彷彿とさせて新しい視点が与えられたように思う。いずれもう一度読んでみたい。以下は備忘録:- 「「反知性主義」(anti-intellectualism) という言葉には、特定の名付け親がある。それは、『アメリカの反知性主義』を著したリチャード・ホフスタッターである。一九六三年に出版されたこの本は、マッカーシズムの嵐が吹き荒れたアメリカの知的伝統を表と裏の両面から辿ったもので、ただちに大好評を博して翌年のピュリッツァー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房から出たのは四〇年後の二〇〇三年であるが、今日でもその面白さは失われていない。訳者の田村哲夫が「あとがき」に記しているとおり、「説得的な歴史観の下で、正確な叙述で表わされた歴史書は、どんな時代にも古くささを感じさせるものではないし、どんな時代にも有益なヒントをあたえてくれる」ものである。だが、もしそんなに名著であるのなら、これが四〇年も訳出されずに放っておかれたのはなぜだろう、という問いも湧いてくる。理由の一端は、この本の内容が日本人には理解しにくいアメリカのキリスト教史を背景としているところにある。この本に言及する人もあるにはあるが、よく見てみると、引用されているのは冒頭の数だけで、内容的な議論の深みへと足を踏み入れる人は少ない。けっして難しい本ではないが、日本人になじみの薄い予備知識が必要なため、本筋のところが敬遠されてしまうのである。その先に続く議論の面白さを考えると、これは実にもったいない話である。アメリカの反知性主義の歴史を辿ることは、すなわちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。」(p.5)
- 「はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は、神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念だった。人間の応答は、それに対する感謝のしるしでしかない。旧約であろうと新約であろうと、聖書の基本的なメッセージは、繰り返される人間の罪と反逆にもかかわらず、神はあくまでも恵みの神であり続ける、ということである。契約とは、当事者の信頼やコミットメントを表すものだったのである。ところが、ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は、神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。神学者のリチャード・ニーバーによると、このような契約理解は現代アメリカ社会にも深く影響を及ぼしている。神学的な契約概念の変化は、人間同士で交わされる世俗的な契約をも変質させてしまった。本来それは、自分自身を縛る信頼と約束の表現であったのに、いつの間にか相手方に義務の履行違反がないかどうかをチェックする言葉になってしまった。ニーバーの解釈は、商売や結婚などを契約の概念で理解する「ドライな」アメリカ社会に対する文明批判である。」(p.23)
- 「多くの場合、そこには「内的な要因」と「外的な要因」の両方が合わさって働いている。禅の教えに「悴啄」(そったく)という言葉があるが、まさにそれである。「悴」は雛が内側から卵の殻を破って出ようと鳴く声で、「啄」は母鳥がそれに応じて外側から卵の殻をつついて割ろうとする音のことである。どちらかだけでは雛は生まれない。その両方が同時に揃うと、新しい事態が生まれるのである。では、この場合の「悴」すなわち内的要因とは何か。それは、ニューイングランドの人びとにくすぶっていた、回心体験への強い希求である。前章で触れたように、ピューリタンは教会の純化を求め、一定の要件を満たした「見ゆる聖徒」だけで教会を構成しようとした。次章で詳しく説明するが、宗教社会学ではこのような集団を「分派」ないし「セクト」と呼ぶ。それは、既存の母集団を批判して、より純粋な別集団を新たに形成しようとする人びとの集まりである。いきおいその成になるハードルは高く、はじめは榊束も闘い。しかし、やがて時が経つと、どうしでも頼みが出る。というのは、その集団もやがて成長し拡大してゆくからである。すると知らぬ間に、母集団を批判して飛び出てきたはずの新集団は、自分が批判してきたその母集団に類似してくる。ニューイングランドでも、同じことが起こった。ピューリタンは、旧世界では既存の体制を批判する人びとであったが、新世界ではみずからが体制を建設しこれを担ってゆく側にある。その矛盾がここに露呈するのである。」(p.62)
- 「信仰復興は、独立革命の三〇年ほど前に起きた出来事である。それは、各人が自分の内面を見つめ、自分に信仰があるかどうかを吟味することを求める。そして、ひとたび確信をもつことができれば、地上のいかなる権威を怖れることもなく、大胆に挑戦したり反逆したりする精神を準備する。このような自主独立の精神が、個の自覚と平等の意識を培い、結果的にアメリカ社会を独立革命へと導き、その後の民主主義の発展を促したことは、容易に想像できるだろう。植民地全体の統一という点でも、信仰復興の果たした役割は大きい。それまでの植民地は、イングランドだけでなく、スコットランド、アイルランド、ドイツ、オランダ、スイスなどと出身国の背景ごとに別々に色分けされており、その上にカルヴァン派、ルター派、カトリック、クエ-カー、バプテストなどという教派の違いが塗り重ねられていた。信仰復興は、こうした出身や教派の違いを容易に乗り越えて伝播する。人びとはそこではじめて「アメリカ」という一体性を感じるようになったのである。「アメリカ」とは、今や彼らがたまたま住んでいる土地の名前ではなく、共に属する一つの国の名前になった。イギリス系植民地人ではなく、「アメリカ人」の誕生である。」(p.92)
- 「政教分離が保障する「信教の自由」により、人はどの教会に属していようとも平等に扱われるようになった。ただし、ここで留意されねばならないことがある。この「信教の自由」には、どこの教会にも属さず、何の宗教も信じない、という自由も含まれている。あまり知られていないことだが、「アメリカ合衆国憲法」やその前例となった「ヴァジニア信教自由法」には、当初から「無宗教」という選択肢の可能性が明確に意識されている。そこまでを含めて、宗教に関しては国民をすべて平等に扱うことを要求するのが、アメリカの政教分離である。「すべての人は平等に創られた」という独立宣言の言葉は、宗教的な少数者の声が少しずつ聞かれるようになっていった植民地時代の歴史を背景にもっている。すでに一七四八年には、この言葉を先取りするかのように、「良心の自由は神に与えられた万人の平等で不可侵の権利である」という主張もなされている。これは、信仰復興運動に触発されて非公認の教会を設立し、そのことで罰せられたソロモン・ペインの言葉である。その兄エリシャ・ペインは、マサチューセッツで巡回説教をした罪で投獄されたが、保釈金を払おうとする友人たちの申し出を断って牢にとどまり、あくまでも投獄が不当であることを訴え続けた。他にも、アイザック・バッカスやジョン・リランドらバプテストが「良心の自由」による平等を掲げて語り続け、広く人びとの心を捉えるようになった。」(p.121)
- 「映画の中の本人でもある原作者のノーマンが伝えようとしていたことは、ラストシーンの静かなモノローグに表現されている。自分は人生でいちばん愛しているものを、弟にせよ、妻にせよ、結局は理解することができなかった。でも、頭が理解できなくても、心が愛するということはある。残された自分は、今は存在しない彼らの記憶を生き続け、その現臨する力を経験し続ける。それが信仰であり、彼の存在理由であり、変わることのない愛なのである。」(p.132)
- 「ここに、エマソン一流の反知性主義が表明されている。『たとい世の老翁や高位高官の者が、世界の終りを告げる大轟音であると主張しようとも、学者は、豆鉄砲にすぎないという信念をすててはいけません。沈黙のうちに、自若として、厳粛な超脱の態度を持って、自らに頼るところがなくてはいけません。自己信頼ということのうちに、すべての徳が含まれています。学者は自由でなければなりません。(中略)自由で勇敢でなければなりません。』これは、「アメリカの学者」という彼の講演の一節である。ここには、明らかにヨーロッパ的な知性に対するアメリカの自己主張が含まれていよう。今日の感覚からすると、「何もそこまで肩肘を張ってヨーロッパを目の敵にしなくともよいのに」と思ってしまうが、これが知的先進国に対するアメリカという、遅れて来た精神の目覚めであった。」(p.138)
- 「エマソンにとり、ヨーロッパとはアメリカがそこから逃れ出てきた「旧世界」であり、不純物の沈殿した堆積物であり、過去の死んだ伝統である。それなのに、アメリカはいつまでも過去を回顧し、祖先の墓場をたて、伝記を書いている。その死んだ当人たち、つまりヨーロッパの知性も、自分たちの目で神と自然を見ていたはずである。ところがわれわれアメリカ人は、いまだに彼らの目を通して見ている。もうこのようなヨーロッパへの知的隷属はやめて、自分自身の目で世界を見ようではないか。これが、エマソンの一貫した主張である。彼が最初に出版した評論『自然』の冒頭から引用してみよう。『なぜ、われわれも宇宙に対して独自の関係をもたないのであろう。なぜ、われわれは伝来のものではなく、直感の詩と哲学をもち、祖先の宗教の歴史ではなく、われわれに啓示された宗教をもたないのであろう。しばらくの間でも自然の胸に抱かれれば、その生命の大河が、われわれの周囲を、またわれわれの中を通って流れてゆき、この大河の力により、われわれは自然に即した活動をするよう誘われるのであるが、なぜわれわれは、過去のひからびた骨の間を手探りしたり、現代人に古色蒼然とした衣装を着せて仮装させるのであろう。太陽は、今日も輝いている。野には、さらに多くの羊毛があり、亜麻がある。新しい土地、新しい人びと、新しい思想がある。われわれ自身の仕事と法則と礼拝とを、要求しようではないか。』」(p.139)
- 「知性にせよ信仰にせよ、旧来の権威と結びついた形態は、すべて批判され打破されねばならない。なぜなら、そうすることでのみ、新しい時代にふさわしい知性や信仰が生まれるからである。その相手は、ヨーロッパであったり、既成教会であったり、大学や神学部や政府であったりする。反知性主義の本質は、このような宗教的使命に裏打ちされた「反権威主義」である。」(p.141)
- 「『ある男がムーディの伝道集会で回心を遂げた。ムーディは彼に忠告をした。「これで悪魔の罠を逃れたと思ってはいけません。明日の朝になれば、悪魔は必ずやってきてあなたに言うでしょう。『昨夜はただの気の迷いを起こしたに過ぎない。神がおまえのような人間を許してくれるはずがないからだ。もしそういう悪魔の囁きを聞いたなら、イエスの約束の言葉を思い出して闘いなさい。『わたしに来る者を決して拒みはしない」(「ヨハネによる福音書」悪魔は思ったよりも早く来た。彼がまだ家に帰りつかないうちに、悪魔は彼にこう囁いたのである。「キリストがそんなことを言っただと?そんなはずはない。それは聖書を翻訳したやつが間違えただけさ。」悪魔はそう言って闇に消えた。哀れな男は真夜中まで悩み抜いたが、ついにある結論にたどり着いた。「まあいいさ。とにかくおれは聖書の言葉を信じる。もしそれが間違いだったら、天国に行った時に言えばいい。いえ神さま、わたしの責任じゃありません。翻訳者が間違えたんです。」そしてぐっすり眠った。』大事なことは、これを語っているのがムーディ自身だ、ということである。彼は、リバイバルによる回心が熱しやすく冷めやすいことを十分にわきまえていた。一夜にして変わったものは、また一夜にしてひっくり返る。リバイバルによって回心を遂げながら、すぐに脱落してしまう輩も少なくなかったに違いない。この話は、あらかじめそういう脱落者が出ることを計算の上で、用心するよう論しているのである。」(p.190-191)
- 「聖書の中でイエスが語った「よきサマリヤ人」のたとえも、ムーディにかかるとこんな話にな『あるメソジストの信徒が、追いはぎに遭った哀れな旅人を介抱して、自分のロバに乗せようとしていた。傷ついた旅人の身体は重かったので、メソジストは通りがかった長老派の信徒に手伝いを頼んだ。すると彼は尋ねた。「あんたはこの旅人をどの教会に連れて行くつもりだね。」メソジストは答えた。「いや、そんなことはまだ考えていない。まず彼を助けてあげなきゃ。」ところが、長老派は言った。「この男がどの教会に行くことになるのかわからないなら、わたしは手を貸さない。」続いて監督派(英国教会)の信徒が通りがかったが、彼はまずその哀れな旅人が堅信礼を受けているかどうかを尋ねた。メソジストは答えた。「いや、そんな暇はなかったからまだ聞いていないよ。まず彼を助けようじゃないか。』」(p.197)
- 「二〇世紀初めの大衆伝道家ビリー・サンデー:そうさ、あんたは五ドルもする百科事典で、おれは二セントのタブロイド紙だ。お高くとまった連中は、そういうのが好みかもしれん。だが、ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義にはうんざりだ。おれは神学も生物学も知らないし、学問は何ひとつ知らない。だがな、大衆は誰も百科事典なんか買わない。タブロイド紙を喜んで買うんだよ。おれがその大衆だ。」(p.222)
- 「平等は人間一人一人の心の中にすべてのものごとを自分で判断しようとする意欲を育てる。(中略)大家の言葉を盲信する気には決してならない。それどころか、大家の理論の弱点を絶えず探そうとしている。学問的伝統は彼らの上にほとんど力をもたない。」(p.237)
- 「一九世紀に大富豪となった鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、教養や知性をこんな言葉で軽蔑している。大学では、ギリシア語やラテン語のような「インディアンの言葉と同じように何の役にも立たない言語」を学んだり、ツキディデスの『ペロポネソス戦争史』のような「野蛮人同士の取るに足らない争いの詳細」を学んだりするが、みなまったくの浪費である。そんな教育は、学ぶ者に誤った観念を吹き込み、現実生活を嫌うことを教えるだけだから、大学など行かずさっさと実業界に出たほうがよい。アメリカの反知性主義は、ここでもヨーロッパを秘かな対抗相手に見立てている。アメリカにとって、ヨーロッパとは過去のことであり、過去とは腐敗の堆積に他ならない。新世界アメリカは、ヨーロッパという過去を逃れ、その腐敗から脱してきて作られたのだから、過去の文化から学ぶものはないし、そんなものを学ぼうとする知的な精神は有害なだけなのである。純粋無垢の「始源に還れ」というピューリタン的なかけ声は、新世界を拓くアメリカ精神によく合致した。事実それは、そのような「たたき上げ」が可能な時代だった、とも言える。フランクリンが科学的な実験を行ったのは、粗末な薪小屋だった。リンカンは丸太小屋から弁護士になり、フィニーは独学で大学の学長になることができた。そういう実例を見ていれば、高等教育はどうしても無益なものに映る。ほとんどの実業家や専門人は、正規の教育を受けることなく立身出世を遂げることができた。カーネギーだけではない。鉄道で財をなしたスタンフォードやヴァンダービルトも、この時代の恩恵にあずかった。だが一九世紀も末になると、こうした「たたき上げ」の理想が徐々に時代遅れになってゆく。産業の規模が急速に拡大して、徒弟の手作業や職人の経験知だけでは間に合わなくなるからである。スタンフォードやヴァンダービルトのような人は、ちょうどその両方の時代を経験したために、自分自身は教育がなくても成功できたが、新しい時代には教育がないことで密かな劣等感を感ずるようになった。だから彼らは、手元にある大金を投じて大学を創ることに精を出したのである。大学をさんざんに揶揄していたカーネギーも、後にはみずから大学を創立し、多くの大学に図書館を寄贈している。」(p.238)
- 「本書の冒頭で、レーガン大統領やピューリタンのウィンスロップに触れたが、ここでもその論理はまったく同じである。つまり彼は、世間的に成功することで、自分が大きく道を踏み外してはいない、ということを実感したいのである。「人びとがこんなに自分のことを評価してくれている。それは、自分が正しいことをしているからだ。神もまた、そういう自分を認めてくれている。」この確信を得たいのである。世俗的成功は、それ自体が目標なのではなく、自分の生き方の正しさを計るバロメーターとなった。彼にとって、信仰とはすなわち道徳的な正しさであり、世俗的な成功をもたらすものである。だから、もし自分が世俗的に成功しているならば、それは神の祝福を得ていることの徽なのである。彼が長老派教会の牧師として正規に任職されることを求めたのも、ことさらに奢侈でおしゃれな服装を好んだのも、そして臆面もなく集会の人数や献金の多さを誇ったのも、みなこの同じ論理に基づいている。何ともわかりやすい感覚であるが、あまりに直接的で、何かしらもの悲しいところがある。」(p.244)
- 「「自助」と「天助」との相即は、アメリカ的なキリスト教の特徴である。この論理は、本書の冒 頭で紹介したように、一七世紀のピューリタン指導者ウィンスロップの時代から、フランクリン が『貧しいリチャードの暦』にまとめたような格言を経て、レーガン大統領の自己慶賀的な退任 演説に至るまで、アメリカ史を一貫して流れている。その点では、高邁な理想を掲げたウィンス ロップの説教も、三百年後の卑俗なサンデーの説教も、本質的にはさほど変わっていない、と言 うべきかもしれない。」(p.256)
- 「まず、知性とは何か。「知性」(intellect)は「知能」(intelligence)とどう違うか。ホフスタッターもこの二つを区別していろいろと説明しているが、いちばんわかりやすいのは、二つの言葉の使い道を見てみることである。「インテリジェント」なのは、人間とは限らない。「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」はある。しかし、「インテレクチュアル」な動物や機械は存在しない。「知能的な動物」はいるが、「知性的な動物」はいないのである。つまり、「知性」は人間だけがもつ能力である。この歴然たる用語法の違いは、何を指し示すか。「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるが「知性犯」はいないのである。」(p.259-260)
(2026.4.9)
- 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」森本あんり著 岩波新書1732(ISBN978-4-00-431732-6, 2018.8.21 第1刷発行)
出版社情報・目次。二〇一六年のドナルド・トランプの大統領就任を踏まえてそれまでに温めていたものを書いたようである。まずは、正統と異端について丸山眞男が書いたものについて議論してから、正典が正統を作るのではないこと、教義が正統を定めるのでもないこと、さらに聖職者が正統を担うのでもないことを論じたあとで、異端について書かれている。人々の祈りのような信仰の現実が背後にあることを語ってはいるが、それについては、深めていない。トランプについても、一期目のときに、どこまで掘り下げられるのかと考えると、あまり批判をしてはいけないと思うが、正直、知的な論理による考察で、おそらく、それこそ(反知性主義)が、トランプ支持者が排斥するものであろうことを思うと、ある程度の頭の整理にはなっても、こころの響くものにはならないように思われる。著者のこのあとの論理期待しておこう。引用されている、アドルフ・フォン・ハルナック著「キリスト教の本質」、ツベタン・トドロフ著「民主主義の内なる敵」、堀米庸三「正統と異端ヨーロッパ精神の底流」はいずれ読んでみたいと思った。以下は備忘録:
- 「かつては、高度な知識や技術、豊富な資源や優れた能力をもつ者だけが入ることを許される特別な集団や分野があった。それが今や、誰もが平等に挑戦する機会を与えられることが望ましい、と考えられるようになっている。『参入障壁』が低下して新しい挑戦者や競争者が増えれば、旧来の権力が既得権を守り切れなくなり、相対的に訴求力を低下させるのは当然である。人びとは権利意識に目覚め、移動と情報の自由を手に入れたおかげで、自分の置かれた状況に満足したままでいなくなった。開拓時代のアメリカ人と同じように、『どこかにもっとよい暮らしがあるはずだ』という期待を抱いて現状批判を募らせるのである。ナイムはこれを『期待感の革命』と呼んでいるが、その批判的精神は反知性主義のもつ批判力とも重なってくる。」(p.11-12)
- 「あらかじめ先取りして『正統』と『正統』の区別を説明しておくと、正統とは権力継承の正閏を問う legitimacy の問いであり、正統とは教義解釈の正邪を問う orthodoxy の問いである。丸山の言葉を直接引用すれば、正統とは『統治者又は統治体系を主体とする正統論議』のことであり、正統とは『教義・世界観を中核とするオーソドクシー問題』のことである(集一一:二五二頁)。」(p.19-20)
- 「ここまでの議論で、丸山が正統の在処を尋ねてゆくと正統ではなく正統に辿り着く、と考えていたことは明らかであろう。そして、日本にはその正統を担うものが少ない。権力闘争はあるが、その権力をもって実現しようとする目的が空虚である。目的合理的に営々と官僚組織を拵えるのは得意だが、それに先立つべき価値合理的な国家形成の理念が存在しない。O正統には何らかの普遍的な原理や理念へのコミットメントが必要だが、日本人にはどこかそれが苦手なところがある。その原理原則のない融通無碍の応力こそが、日本で正統であることの本質である、というのが丸山の理解である。」(p.29)
- 「日本文化の『執拗低音』とは、連続性と非連続性ないし恒常性と変化性の両面をもつ、ということではない。そもそも変化すること自体にある一定のパターンがあり、外の世界に対応する『変わり身の早さ』自体が定常的な伝統となっている、ということである。このことを丸山は、』正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な『正統』の条件を充たさないからこそ、『異端好み』の傾向が不断に再生産される』と表現している(集一二一五四頁)。」(p.29-30)
- 「本書が丸山の正統論を辿りつつも、その系譜からもう少し別の経路を拓きたいと思う分岐点も、このあたりにある。実は、神学史や宗教学の理解からすると、『正統』は丸山が想定したほどには固定的でも普遍的でもない。丸山のいわゆる『正統』は、普遍性主張を擁する教典や信条をもち、それを独占的に解釈する権威を備えた教導職の組織をもち、世俗社会と一線をして明確に外延を定義された信徒集団をもつかのような印象を与える。だが、キリスト教史を詳細に検討する限り、これらの性格づけがあてはまるのは、むしろ異端の方である。正統は、論理的に定義されず、その輪郭も不明確で、そもそも存在の認知すら定かではない。丸山が想定したような正統は、厳密にはキリスト教世界にも存在しないのである。」(p.37)
- 「つまり、異端は弾圧されたから姿を消したのではなく、姿を消したから異端なのである。正統は、他を弾圧したから生き残ったのではなく、生き残ったから正統になったのである。これは、マルキオン派に限らず、初代教会にとってさらに深刻な脅威であったグノーシス宗教一般にも言えることである。彼らのうちでもっとも長いものも、四〇〇年ほど続いた後に、自然に衰退し消滅していった。」(p.59)
- 「教義の正統性を最初に論じたのは、レランスのヴィンケンティウスである。五世紀半ば、南フランスのカンヌ沖にある小さな島の修道院に隠棲していたヴィンケンティウスは、今日のわれわれの問いを先取りして、次のように問うている。『聖書の正典は完全なのに、なぜ教会による理解という権威が必要なのか』。それに対する彼の答えはこうである。『聖書は、その深遠さの故に、一つの同じ意味で万人が受け取っておらず、同じ[聖書の]発言が、あの人この人によって別様に解釈され、人の数だけ異なった意味内容が見出されうるかのようにみなされているからである。••••••それ故、このようなさまざまな誤謬によるこれほどの歪曲のために、預言的で使徒的な[文書の]解釈の筋道は、教会的でカトリック的な意味という規範に則して方向づけられることが是非とも必要なのである(小高編)二〇〇一年:三一一頁)。』では、その正しい『解釈の筋道』とはどんなものか。それが、よく知られた「どこでも、いつでも、誰にでも、信じられてきたこと」(quod ubique, quod semper, quod ab omnibus creditum est) という『正統』の定義である。つまり、• 普遍的なものであること(universitas) • 古代からのものであること(antiquitas) • 合意されたものであること(consensio) という三点が、正統の条件である。『カトリック』という言葉自体が『普遍的』という原義をもつので、これは至極当然の定義と言えるだろう。ヴィンケンティウスが正統の具体的な内容についてはいっさい触れずに、それが満たすべき外面的な条件だけを挙げているところは、後述するように正統のありかたを追う本書にとって非常に示唆的である。」(p.73)
- 「初代教会史に名を残す異端は、みなその出発点においては『啓示の真正な、しかし部分的な一面を熱烈にとらえるもの』であった(小髙 一九八四年一一七頁)。異端は、起点において常に真摯であり、一定の熱量をもつことを共通の特徴としている。その熱量は、全体の一部に集約して消費される。はじめから異端の烙印が押されているわけではない。いや、中身は同じであっても、それが全体とどのような関係に立つか、ということ次第で正統にも異端にもなるのである。それがどちらに転ぶかは、すぐにはわからない。第二章で見たように、『歴史の審判』を経ねばならないのである。だから正統と異端の区別には時間がかかる。」(p.125)
- 「現代の異端者は、どことなく得意げな気配を漂わせている。その気取りやロマンチシズムに嫌気がさして正面から正統たることを掲げ直したのが、二〇世紀初頭に活躍した作家のチェスタトンである。彼によると、みずから異端を任ずる人びとは、自分のことを頭がよくて才気があり、進歩的で旧弊に挑戦する勇気ある人間だと考えている。そのため、彼らは従来のしきたと異なるだけでなく、お互い同士でも異なっており、結局自分だけが所属する新しい単独の教派を創設して終わることになる。それを自由の行為と見る人もあろうが、実は自由の本質はそれとまったく逆のところにある、というのがチェスタトンの見立てである。『アナーキズムの命ずるところに従えば、人間はみな勇気ある芸術家であるべきであって、法則とか限定などには一顧も与えるべきではないという。しかし芸術家でありながら法則や限定を顧慮しないことは要するに不可能である。芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう(チェスタトン 六二頁)。』自由は、あるものに本来的に備わっている法則に従うことによって得られる、ということである。制約なしに自由はない。自由になろうと思う者は、みずからに限定を引き受けねばならない。規則を破り、束縛を逃れれば自由になる、と考えるのは中学生までである。無限定で無定形の自由に実質を与え、具体的で手に取ることのできる現実となすのは、その外周を囲う何ものかなのである。」(p.162-163)
- 「アメリカ第二代大統領のジョン・アダムズは、すでに一八世紀にこれを次のように表現している。『憲法は、理解され是認され愛されていれば規範となり柱となり絆となるが、人びとにそのような知性と愛着がなければ、それは空を漂う凧か気球と同じである』(Haraszti, 221)。この言葉は、当時進行していたフランス革命の成り行きに対する彼の疑念をあらわしている。」(p.175)
- 「その典型が、一六二〇年の『メイフラワー契約』である。権力の空白状態に漂着した彼らは、異なる意思や目的をもちつつも共通の市民社会を形成する必要に迫られていた。この経験は、アダムズの次のような言葉に表現されている。『プリマスの最初の植民者たちは、厳密な意味で「われわれの先祖」であった。彼らは、入植した土地に対する何の特許状も権利書ももっておらず、自分たちの政府を作るのにイギリス議会や王権から権威を引き出すこともしなかった。彼らはインディアンから土地を購入し、自然という単純な原則の上に、自分たちの政府を建てた。その後プリマスの議会で土地の権利書を買ったが、政府の特許状を国王から買ったわけではない。そして六八年間の長きにわたり、独立した個人の間で交わされた当初の契約だけを根拠に、立法、行政、司法という政府のすべての権力を行使し続けてきたのである(Adamns, 4:110)。』言うまでもなく、この回想には自国の神話的な出発点を祝うロマンチシズムが多分に含まれていよう。建国の父祖たちがピューリタンの信仰を自覚的に継承した、という話はあまり聞かないし、建国という一大事業では北部より南部や中部植民地出身の指導者たちの活躍が目立つ。だが重要なのは、本人たちの個人的な信仰心がどうであれ、彼らもまた、アメリカの建国という歴史的な実験の根拠にピューリタニズムがあった、と信じていることである。アダムズには、自分がピューリタンの末裔であるという認識は希薄だったであろう。しかしその彼も、新しい国の礎を据えるに際しては、こうしてプリマス植民地の歴史的経験に言及せざるを得ない、と感じたのである。ここに、人びとが広く承認する正統性の淵源がある。」(p.178)
- 「丸山眞男によると、このような権力二元性の芽生えは日本にもあったが、近世の幕藩体制が徹底的なキリシタン弾圧の上に成立し、仏教寺院勢力の自律性を剥奪してこれを行政機構へと組み入れてしまったため、世俗権力に対する精神の自由はついに確立することがなかった(講 六一八一一三〇頁)。その結果、今日の日本社会では政治以外の文化的な価値がみずから政治の序列へとすり寄って一元化され、国家権力は社会の自発的集団をすべて呑み込んでゆくリヴァイアサンと化してしまった、というのである。丸山の解釈には個別事例による反論もあり得ようが、通史的にはそれで納得のできることも多い。もし権威の軸が単一なら、自由はその軸からの逸脱としてしか成立しない。反逆はその同一の秩序の上下を反転させることでしかなく、自分が上になりたいという下克上やルサンチマンの容貌を呈することになる。つまり、自由は制度や機構の創設という問題として成立せず、正統を担う保守主義の本流も確立することがない。」(p.188)
- 「いったいジェイムズの何がそれほど現代的なのか。それは、彼の講演の題にある「宗教的経験」という言葉がすでに指し示している。ジェイムズによると、すべて宗教というものは、あ特定の個人の内に生じた強烈な宗教的経験に始まる。その経験は、やがて共鳴者を集め、教会組織へと発展し、教義や戒律の制度となる。これらは、後の人びとが創始者の原体験を二次的に模倣し追体験できるようにするための手助けに他ならない。しかし、そうなると『どうしても政治的な傾向と教義的な戒律を好む気持とが入ってきて、本来は無邪気であったものを堕落させてしまいがちである』(ジェイムズ下:一二二頁)。つまり、ジェイムズの言う「宗教」とは、あくまでも原初に感じられた個人の直接的な情熱のことであって、その後に形成される集団や制度のことではない。組織化された宗教は、『仏教徒であれ、キリスト教徒であれ、マホメット教徒であれ、それぞれの国の因襲的儀式』に従って模倣され二番煎じの「退屈な習慣」にすぎないのである(同上:一九一二〇頁)。」(p.193)
- 「『ギフォード講演』は、一九世紀末にスコットランドの法律家ギフォード卿が遺した莫大な寄附金により始められた神学の講演シリーズである。狭義の神学に限らず、広く哲学や宗教学などの思想分野からもっとも顕著な業績で知られる講演者を招くため、今日ではこの分野における最高の栄誉を有する講演とみなされるようになっている。初回一八八八年の講演者に選ばれたのは、オックスフォードでサンスクリット学を教えていた『宗教学の父』マックス・ミュラーである。その後は海外からも講演者を招くようになり、一九〇一年にはアメリカからウィリアム・ジェイムズが招かれている。その講演をまとめたのが、ジェイムズの主著『宗教的経験の諸相』である。ジェイムズからほぼ一〇〇年後の一九九八年、カナダの社会哲学者チャールズ・テイラーがこの同じギフォード講演に招かれた。テイラーの講演は、西洋近代史における世俗化のプロセスとその結果を主題としたものだったが、彼はそこで繰り返し一〇〇年前のジェイムズの講演を意識せざるを得なかったという。テイラーは、この先達の著作が「昨日書かれたものといっでもおかしくない」ほどの強烈な同時代性を有している、と感じていた(テイラー『ギフォード講演』は、一九世紀末にスコットランドの法律家ギフォード卿が遺した莫大な寄附金により始められた神学の講演シリーズである。狭義の神学に限らず、広く哲学や宗教学などの思想分野からもっとも顕著な業績で知られる講演者を招くため、今日ではこの分野における最高の栄誉を有する講演とみなされるようになっている。初回一八八八年の講演者に選ばれたのは、オックスフォードでサンスクリット学を教えていた『宗教学の父』マックス・ミュラーである。その後は海外からも講演者を招くようになり、一九〇一年にはアメリカからウィリアム・ジェイムズが招かれている。その講演をまとめたのが、ジェイムズの主著『宗教的経験の諸相』である。ジェイムズからほぼ一〇〇年後の一九九八年、カナダの社会哲学者チャールズ・テイラーがこの同じギフォード講演に招かれた。テイラーの講演は、西洋近代史における世俗化のプロセスとその結果を主題としたものだったが、彼はそこで繰り返し一〇〇年前のジェイムズの講演を意識せざるを得なかったという。テイラーは、この先達の著作が『昨日書かれたものといっでもおかしくない』ほどの強烈な同時代性を有している、と感じていた(テイラーvi頁)。」(p.215)
- 「アレントの親友であった神学者パウル・ティリヒは、これを「全体の部分として生きる勇気」と表現した。現代人は、『個人として生きる勇気』のことなら十分すぎるほど知っている。だがこの勇気は、単に自分を信頼すれば自然と湧いてくる、というものではない。個人であろうとする意志を捨てることなく、かつ自分がより大きな全体の部分であることを受け入れるには、存在論的な自己肯定が必要である。個と全体を統合する勇気は、自己を超えた存在に与ることによってのみ得られるのである。人はそこで、みずからに固有な本質を肯定し、みずからの運命を引き受けることができる。自分が有限であることを承認し、それを受け入れることができる。」(p.237)
(2026.4.9)
- 「Machines of Loving Grace - How AI Could Transform the World for the Better」Dario Amodei著
Online Version・Google Chrome による日本語翻訳版。Anthropic の CEO の Dario Amodei の書いたものである。だれでも、ネット上で読むことができるが、一般的ではない用語もあるので、翻訳をつけた、翻訳版のタイトルは「愛の恩寵の機械 - AIは世界をより良い方向へ変革する可能性を秘めている」となっている。履歴を見るともともとは物理学のようだが、生物学、神経科学で研究をしてから、Open AI で AI の仕事をして、そこから抜けて、Anthropic を立ち上げ、Claude を開発している。AI の危険性も唱えているが、この文章を読む限り、かなり、楽観的であると同時に、非常に大きな問題が生じないように、大企業のクループなど、力でのコントロールをして、それを回避しようとしているようにも映る。慎重に書いているのと、わたしのような、数学とは考え方はことなるので、評価が大きく異なるのは仕方がないが、人間に何がわかっていて、わかっていないことがどれほどあるかの感覚がかなり異なる。この文章も、主として、5つの項目に分かれているが、専門的な経験からある程度、感覚がある、生物学と、神経科学以外は、稚拙なようにも感じるが、このような議論が大切であることは強く同意する。以下は、メモである。
- why I and Anthropic haven’t talked that much about powerful AI’s upsides, and why we’ll probably continue, overall, to talk a lot about risks.
- Maximize leverage
- Avoid perception of propaganda
- Avoid grandiosity
- Avoid “sci-fi” baggage
- focus
- Biology and physical health
- Neuroscience and mental health
- Economic development and poverty
- Peace and governance
- Work and meaning
- I am fortunate to have professional experience in both biology and neuroscience, and I am an informed amateur in the field of economic development
- powerful AI vs AGI - “country of geniuses in a datacenter”.
- I find AGI to be an imprecise term that has gathered a lot of sci-fi baggage and hype. I prefer "powerful AI" or "Expert-Level Science and Engineering" which get at what I mean without the hype.
- it is smarter than a Nobel Prize winner across most relevant fields – biology, programming, math, engineering, writing, etc.
- it has all the “interfaces” available to a human working virtually, including text, audio, video, mouse and keyboard control, and internet access.
- it can be given tasks that take hours, days, or weeks to complete, and then goes off and does those tasks autonomously, in the way a smart employee would, asking for clarification as necessary
- it can control existing physical tools, robots, or laboratory equipment through a computer; in theory it could even design robots or equipment for itself to use.
- the model can be repurposed to run millions of instances of it (this matches projected cluster sizes by ~2027), and the model can absorb information and generate actions at roughly 10x-100x human speed. This is roughly the current speed of AI systems – for example they can read a page of text in a couple seconds and write a page of text in maybe 20 seconds, which is 10-100x the speed at which humans can do these things. Over time larger models tend to make this slower but more powerful chips tend to make it faster; to date the two effects have roughly canceled out. It may however be limited by the response time of the physical world or of software it interacts with.
- can act independently on unrelated tasks, or if needed can all work together in the same way humans would collaborate, perhaps with different subpopulations fine-tuned to be especially good at particular tasks
- Two “extreme” positions both seem false to me
- there are real physical and practical limits, for example around building hardware or conducting biological experiments
- hundreds of scientific or even social problems where a large group of really smart people would drastically speed up progress, especially if they aren’t limited to analysis and can make things happen in the real world
- a list of factors that limit or are complementary to intelligence includes:
- Speed of the outside world
- Need for data.
- Intrinsic complexity
- Constraints from humans
- Physical laws
- Biology and health
- It is by speeding up the whole research process that AI can truly accelerate biology. I want to repeat this because it’s the most common misconception that comes up when I talk about AI’s ability to transform biology: I am not talking about AI as merely a tool to analyze data. In line with the definition of powerful AI at the beginning of this essay, I’m talking about using AI to perform, direct, and improve upon nearly everything biologists do.
- I think their rate of discovery could be in, creased by 10x or more if there were a lot more talented, creative researchers.
- e.g. CRISPR, microscopy, Genome sequencing and synthesis, Optogenetic , mRNA vaccines, CAR-T, germ theory of disease , a link between the immune system and cancer
- To summarize the above, my basic prediction is that AI-enabled biology and medicine will allow us to compress the progress that human biologists would have achieved over the next 50-100 years into 5-10 years. I’ll refer to this as the “compressed 21st century”: the idea that after powerful AI is developed, we will in a few years make all the progress in biology and medicine that we would have made in the whole 21st century.
- a list of what we might expect:
- Reliable prevention and treatment of nearly all17 natural infectious disease.
- Elimination of most cancer.
- Very effective prevention and effective cures for genetic disease
- Improved treatment of most other ailments
- Doubling of the human lifespan
- Neuroscience and mind
- Hundreds of millions of people have very low quality of life due to problems like addiction, depression, schizophrenia, low-functioning autism, PTSD, psychopathy21, or intellectual disabilities.
- I strongly suspect the details of individual neuron communication will be abstracted away in most of the interesting questions about computation and circuits
- I expect AI to accelerate neuroscientific progress along four distinct routes,
- Traditional molecular biology, chemistry, and genetics.
- Fine-grained neural measurement and intervention.
- Advanced computational neuroscience.
- Behavioral interventions.
- Concretely my guess at what will happen is something like:
- Most mental illness can probably be cured.
- Conditions that are very “structural” may be more difficult, but not impossible.
- Effective genetic prevention of mental illness seems possible.
- Everyday problems that we don’t think of as clinical disease will also be solved.
- Human baseline experience can be much better.
- Economic development and poverty
- “will everyone have access to these technologies?”
- GDP per capita is ~$2,000 in Sub-Saharan Africa as compared to ~$75,000 in the United States
- Ideally, powerful AI should help the developing world catch up to the developed world, even as it revolutionizes the latter.
- I am somewhat skeptical that an AI could solve the famous “socialist calculation problem”23 and I don’t think governments will (or should) turn over their economic policy to such an entity, even if it could do so.
- The challenges facing the developing world are made even more complicated by pervasive corruption in both private and public sectors.
- how I think things may go in the developing world over the 5-10 years after powerful AI is developed:
- Distribution of health interventions.
- Economic growth.
- Food security.
- Mitigating climate change.
- Inequality within countries.
- The opt-out problem.
- Peace and governance
- Suppose that everything in the first three sections goes well: disease, poverty, and inequality are significantly reduced and the baseline of human experience is raised substantially. It does not follow that all major causes of human suffering are solved. Humans are still a threat to each other.
- Again, this will be very difficult to achieve, and will in particular require close cooperation between private AI companies and democratic governments, as well as extraordinarily wise decisions about the balance between carrot and stick.
- For centuries, legal systems have faced the dilemma that the law aims to be impartial, but is inherently subjective and thus must be interpreted by biased humans.
- Some early ideas in this direction have been undertaken by the computational democracy project, including collaborations with Anthropic.
- Work and meaning
- at least one important question still remains. “It’s great we live in such a technologically advanced world as well as a fair and decent one”, someone might object, “but with AIs doing everything, how will humans have meaning? For that matter, how will they survive economically?”.
- In any case I think meaning comes mostly from human relationships and connection, not from economic labor.
- Taking stock
- Through the varied topics above, I’ve tried to lay out a vision of a world that is both plausible if everything goes right with AI, and much better than the world today. I don’t know if this world is realistic, and even if it is, it will not be achieved without a huge amount of effort and struggle by many brave and dedicated people. Everyone (including AI companies!) will need to do their part both to prevent risks and to fully realize the benefits.
- Nevertheless, it is a thing of transcendent beauty. We have the opportunity to play some small role in making it real.
References
- AlphaProteo generates novel proteins for biology and health research: https://deepmind.google/blog/alphaproteo-generates-novel-proteins-for-biology-and-health-research/
- In this essay, I use "intelligence" to refer to a general problem-solving capability that can be applied across diverse domains. This includes abilities like reasoning, learning, planning, and creativity. While I use "intelligence" as a shorthand throughout this essay, I acknowledge that the nature of intelligence is a complex and debated topic in cognitive science and AI research. Some researchers argue that intelligence isn't a single, unified concept but rather a collection of separate cognitive abilities. Others contend that there's a general factor of intelligence (g factor) underlying various cognitive skills. That’s a debate for another time.
(2026.4.15)
- 「暗殺」柴田哲孝著 幻冬舎(ISBN978-4-344-04306-0, 2024.6.20 第1刷発行)
出版社情報。安倍晋三元首相殺人事件をモチーフとした小説で、最初に「この物語はフィクションである。」とある。その後の序文を引用する。「二〇二二年七月八日——。
時刻は午前一一時三一分と記録されている。
日本の、元内閣総理大臣が奈良県の近鉄大和西大寺駅前で演説中に凶弾に倒れ、死亡した。 享年六七だった。
絶対に、起きてはならない事件だった。
おそらく日本の近代史において、国の内外にこれほどの政治的な偉業を成し遂げ、国民に愛 され、世界に信頼された首相は他にいなかっただろう。
日本のみならず全世界に衝撃が疾り、国民は動揺と共に悲しみに暮れた。
この事件には不審なことが多い。
遺体から致命傷となった銃弾が消えてしまったにもかかわらず、警察は深く調べることもな く捜査を打ち切った。 なぜなのかー。
しかも三カ所の銃創の中には、壇上に立つ被害者を低い位置から撃った凶漢によるものとは別に、逆方向の高い位置から右前頸部に着弾したものがあった。この単独犯では有り得ない解剖所見を警察は無視し、事実を握り潰した。なぜなのか――。
政府要人暗殺という重大事件であるにもかかわらず、警察による現場検証は事件の五日後ま で行なわれなかった。なぜなのかー
事件のすべてを知る唯一の人物、四一歳の狙撃犯の男はその場で取り押えられ、警察の管理下に置かれた。だが、動機や事実関係がほとんど明らかにされぬまま鑑定留置がなされ、以後 の情報はおよそ半年間にわたり遮断されてしまった。
なぜなのか――。」
確認してはいないが、ここに書かれていることは事実なのだろう。参考文献には「『改訂新版 統一教会とは何か』有田芳生著(大月書店)、『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』樋田毅著(岩波書店)そのた『朝日新聞』『読売新聞』『日本経済新聞』『毎日新聞』『産經新聞』『週刊文春』『週刊ポスト』『週刊新潮』『週刊プレイボーイ』など、多くの記事を参考にさせていただきました。」とある。さすがに、これだけから、ありそうな筋書きにして、小説として仕上げるのを見ると、この分野も面白いのだろうなと思う。山上被告の単独犯行としているが、どうなのだろうかと、わたしのようなものでも、疑問が湧いてくる。
(2026.4.15)
- 「新なる大学像を求めてー共愛学園前橋国際大学はなぜ注目されるのか」鶴蒔靖夫著 IN通信社(ISBN978-4-87218-461-7, 2019.11.16 第1刷発行)
紀伊國屋書店情報・目次。大学改革について考えていた時に、友人が送ってくださり、早速読んだ。少し古く、この時代は、わたしも、大学改革などに関わっていたので、基本的な情報ばかりで、目新しいことはなかったが、地方の小規模大学、それも、キリスト教系の大学が、大学改革を考えるときには、この程度のことは、まずは知っていて、議論することが必要だと思った。最後の章で、地域に必要とされる大学について書かれていば部分は、わたしがいた大学ではあまりこのような意識はなかったので、考えるスタート地点を与えられたと思う。グローカルは、ことばが使い始められてから、かなり立つと思うが、まだ、まだ、考えるべきこと、工夫すべきことがいろいろとあることも、学んだ。共愛学園は、学童クラブから、こども園、小学校、中学校、高等学校、大学および、短期大学部とすべてそろっている。いつか、訪ねて、いろいろと伺い、また見てみたいとも思った。「地域連携・社会貢献白書2023-2024」を公開とある。文部科学省「私立大学経営改革支援事業」に本学が採択についても、勉強してみたいと思う。
以下は備忘録:
- 「日本の大卒者が即戦力にならない理由:そもそも日本の教育は偏差値を重視しすぎるということは、以前から教育関係者のあいだで問題視されていた。日本の大学入試制度では、受験のために詰め込み式で記憶した知識をペーパーテストによって問い、そのテストでの点数が高い順に、機械的に入学者を決めるという方式が主流となっており、そこに受験生の個性や人柄はいっさい考慮されない。こうした「知識=実力」と考える選抜方法を疑問視する声が、増えてきているのだ。多様な個性や能力を適切に評価するAO入試を導入する大学が年々増加しているのも、そのためだろう。こうした偏差値重視の大学受験では、「大学に合格すること」がゴールになってしまいがちだ。そのためか、日本の大学は「入るのは難しいが、出るのは簡単」と、よく言われる。偏差値の高い難関大学でも、最低限の単位さえ取れば卒業できるから、入学後は満足に勉強もせず、アルバイト三昧、遊び三昧の学生ばかりが増えていく。一方、アメリカなど海外の大学は、入学することよりも卒業することのほうが難しいと言われている。経済協力開発機構(OECD)が公表した「EducationataGlance2019(図表でみる教育2019)」によると、大学を卒業する学生の率は、スウェーデンが5%、オーストリアが58%、フランスが66%、アメリカが68%、オランダが70%、フィンランドが75%、ドイツとスペインが80%、スイスが8%、イギリスが55%となっている。つまり欧米諸国では、大学に入学した学生のおよそ2割4割程度が卒業せずにドロップアウトしているということだ。一方、日本は95%が卒業しており、中退率は1割にも満たない。卒業率のOECD平均が6%~7%(算出方法により少し開きがある)であることを考えると、日本の卒業率93%は突出していると言っていいだろう。その一方で、グローバル企業の人事担当者などからは、海外の大学の学生は卒業して社会人になった途端に即戦力として役に立つが、日本の場合は一流大学を卒業していても即戦力にはならない若者が多いという声を聞く。」(p.22-23)
- 「そうした若者の大きな希望となり、地方の大学にとっても起死回生の一手となっているのが、「地方私大の公立化」である。2009年に高知工科大学が公立化したことを皮切りに、これまでに100を超える地方の私立大学が公立大学へと生まれ変わっているのだ。いずれの大学も、公立化以前の偏差値は低く、地元の高校の教師さえも進学をすすめようとはしないため、長く定員割れに苦しんでいたという。しかし、公立化した途端に入学志願者が急増して倍率が跳ね上がり、その結果、偏差値も急上昇した。なかには偏差値が20近く上がり、県下トップクラスの人気大学へと大化けした大学もあるほどだ。」(p.39)
- 「また、大森は、大学がこれからの時代を生き抜くためには、地域の理解や地域との連携が欠かせないと断言する。『本学は本当に小さな大学ですので、自分たちだけでどうにかしようとしても、なにもできません。ですから、いろんな企業や地元の方々に学内に入ってきてもらう、あるいは、学生たちを学外へ出して育ててもらうということが、必要になってくるのです。大学にできることは本当に限られています。むしろ、できないことのほうが多いということを自覚して、「開かれた大学」をめざすことこそが、地方の大学が生き残る術なのではないでしょうか』」(p.45)
- 「しかし、このような教育とガバナンスの両面での大改革に成功できたのは、同学の教職員だけの力によるものではないと、大森は言い切る。定員割れ時代をともに乗り切った学生たちの力添えがなければ、いまの共愛学園前橋国際大学はなかったというのだ。『定員割れしていたころに比べると、たしかにいまは学力が上がっていますし、すばらしい学生もたくさんいます。でも、開学まもないころの学生たちには本当に感謝しているのです。彼らはいわば、ともにこの大学をつくった仲間だからです。どんな授業があれば大学としての魅力が増すか、どんなしくみがあれば大学生活が適になるかなど、毎晩のように学生たちといろいろな議論を交わした結果が、ようやくいま花開いていると言えます。ですから、いまの本学があるのは彼らのおかげだと言っても過言ではありません』」(p.53)
- 「当時を知る須田は、次のように語る。『新たになにかをつくろうとすれば、最初の10年間は混乱するものです。特に大学の先生には個性の強い方が大勢いますから、全員で同じ方向を見ようと言って足並みを揃えることはなかなか難しかったですね。本学も『学生中心主義』や『教職一体』といった試みが軌道に乗るまでには、ずいぶん時間がかかりました』また、共愛学園前橋国際大学の『学生中心主義』では、学生を大学運営のパートナーと位置づけていることも大きな特徴だ。ときには大学の運営や意思決定に学生が関わることもある。つまり共愛学園前橋国際大学は、学生、教員、職員の三位一体で運営がなされているということだ。」(p.77)
- 「この科目群で身につけられるのは以下の3つだ。
- 自分を見つめ他者と共に生きること(「人間理解」と「人権と共生」)
- 国際的な視野を持ち地域を理解すること(「国際理解」と「地域理解」)
- 社会と共に生きるチカラと自然との共生(「社会への視点」と「自然の理解」)
」(p.93)
- 「共愛12の力
- 識見 共生のための知識:多様な存在が共生し続けることができる社会を築いていくために必要な知識。
共生のための態度:多様な存在が共生し続けることを尊重する考えや行動。グローカル・マインド:地域社会と国際社会の関わりをとらえ、両者をつなぐことで、地域社会の発展に貢献する姿勢。
- 自律する力 自己を理解する力:自己の特徴、強みや弱み、成長を正確に理解する力。自己を制御する力:ストレスや感情の揺れ動きに対処しながら、学びや課題に持続して取り組む力。主体性:人からの指示を待つのでなく、自らやるべきことをみつけ、行動する力。
- コミュニケーション力 伝えあう力:コミュニケーションにおいて、相手の意図を正しく理解し、自分の意図を効果的に伝達する力。協働する力:他のメンバーと協調しながら集団として目標に向けて行動する力。関係を構築する力:さまざまな他者と円滑な関係を築く力。
- 問題に対応する力 分析し、思考する力:さまざまな情報を収集、分析し、論理的に思考して課題を発見する力。構想し、実行する力:課題に対応するための計画を立て、実行する力。実践的スキル:現代社会において必要な基本的スキルと自らの強みとなる実践的スキル。
これら「共愛12の力」は、共愛学園前橋国際大学が定める学位の授与方針と、社会が求める社会人基礎力から導き出した、学修の成果指標だと大森は言う。」(p.95-97)
- 「また、「共愛12の力」はシラバスのなかに組み込まれており、授業との対応が表示されているほか、学修成果を記録して可視化するeポートフォリオシステム「KyoaiCareerGate(KCG)」にも履修情報として自動的に取り込まれるようになっており、学生たちが自らの学修の振り返りと目標設定に活用できるようになっている。「学生たちは毎年、ウェブサイト上に蓄積された学修・活動履歴をもとに、これらの力がどのレベルにまで達したかを基準票に照らして自己評価します。このシステムを導入してから学修成果がわかりやすくなったと好評を博しています」
と、理事長の須田は言う。学生は、このシステムをうまく使えば、自分の体験を単なる体験に終わらせるのではなく、自分の経験したことが社会人基礎力のどのような力と関連しているのかを見極めながら、自分の成長を実感することができるわけだ。教員からの評価ではなく学生自身が主体の自己評価だが、そこには根拠なき自己評価や偏った自己評価を最小限に抑えるさまざまな工夫もなされている。」(p.98)
- 「共愛学園こども園がめざすのは、「げんきな子」「やさしい子」「かんがえる子」の育成だ。そのために、生きる力を育む、心身ともに健やかな体づくりや、与えられた生命を大切に育む、人間形成の基礎となる心づくり、意欲や好奇心をもとに主体性を育む、ともに生きるつながりづくりを心がけた、教育および保育を実践している。その教育・保育方針は次の7つだ。
- かけがえのない存在として、愛されている経験を重ねる保育。
- みんな違ってみんないい、一人ひとりを養護し、寄り添う保育。
- ワクワクドキドキの心動かす実体験を通し、五感を育む保育。環境を整え、子どもたちの主体性の育ちを信じ、待つ保育。
- あそびを通し、共感、協同、共に生きる力を育む保育。
- 様々なできごとを通し、支え合う生活を重ねていく保育。
- 身近な自然の不思議や驚きのなかに、神様の大きな力を感じる保育。
」(p.148)
- 「そうした懸念をよそに大森が選ばれたのは、当時の共愛学園前橋国際大学では、教職員全員が大きな危機感を抱いていたからにほかならない。大学進学者が減少に転じることで大学間の統廃合が加速すると言われた「2018年問題」を、なんとしても乗り切ること。それこそが2016年時点の同学にとって、最大の課題だったのだ。そして、その一点に絞って議論した結果、型破りだが行動力と実行力に優れた大森しかいないという決定がなされた。当初は自身の学長就任に抵抗を示していた大森も、現場の教職員がそこまで問題意識を共有しているのなら引き受けないわけにはいかないと、学長のポストに就く決心をしたという。」(p.189)
- 「ベストセラーになった『ビジョナリー・カンパニー』の著者であるジム・コリンズは、学校や病院など非営利組織のリーダーは第五水準のリーダーであるべきだと述べています。『第五水準とは要するに、正しい決定が下されるようにすることである。どれほど困難であっても、どれほどの痛みを伴うものであっても、長期的に偉大な組織を築き、組織の使命を果たすために必要な正しい決定が、合意や人気とは関係なく下されるようにすることが要点である』(ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリー・カンパニー【特別編】』)と言うのです。」(p.191)
- 「『本学でも開学当初は「地域貢献」という言葉をよく使っていましたが、よく考えてみれば、この言葉はちょっと上から目線なのではないかと思い、やがて「地域連携」という言葉になっていきました。ですが、「連携」だと、別の組織体がたがいに協力するということになってしまい、よい言葉ではあるものの、ちょっと違うと感じていました』と語る共愛学園前橋国際大学学長の大森は、大学はあくまでも地域の一部であり、別々のものではないと主張する。だから「地域貢献」でも「地域連携」でもなく、「地学一体」なのだ。
」(p.198)
(2026.4.18)