Last Update: January 16, 2026
2026年読書記録
- 「アルカイダ ビンラディンと国際テロ・ネットワーク AL-QAEDA」ジェイソン・バーク(Jason Burke)著 坂井定雄・伊藤力司訳 講談社(ISBN4-06-212476-9, 2004.9.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。著者については、「1970年ロンドン生まれ。英国の『ロンドン・オブザーバー』紙、チーフ・リポーター。取材記事での受賞歴もある気鋭のジャーナリスト。10年にわたって中東、南西アジアを取材した成果をまとめた初の著作。」とある。現地での丁寧な取材が、ビンラディン、アルカイダ、イスラム過激派を丁寧に描いている。ほとんど、詳細を知らなかったが、評価はあまり書かないことで、かえって説得力もある。オバマ大統領のときに、ビンラディンは、殺害されているが、そのビデオ中継に違和感を持ち、しっかりと背景を理解しないといけないと感じた。むろん、背景には、ソビエト連邦共和国のアフガニスタン侵攻の失敗。人々の注目を集めた、2001年9月11日のニューヨークでのテロ、その後の、アメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻、タリバンを政権から追い出すが、結局、アメリカは、アフガニスタンから撤退、すぐタリバンが政権を取り戻す。このような歴史の背景を理解するのにも、基本的な本だと思う。ビンラディンという一人のひとに焦点を当てるのは間違っているのだろう。それゆえに、今後も、様々な形で、イスラム過激派のテロは起こるのだろうと思った。難しい問題の最初の部分を学ぶことができた。と言っても、一回読んだだけでは、まったく不十分である。この本ももう一度読みたいし、他の本からも学びたい。以下は備忘録。「月日が経つにつれて、『反テロ戦争』やその対象について発表された無数の記事や本も、私の疑問 に答えるものは何もないことが分かった。私は当時の主流になりつつあった、ある誤解のことが次第に気になっていた。その典型はビンラディンが『アルカイダ』と呼ばれる団結した構造的組織を率いているという考え方だった。私がこの仕事をしながら見つけた証拠はどれも、『悪の帝国』であるアルカイダが邪悪な首領を頭に据えているという概念と一致しなかった。こうした概念は、その首領と子分たちをやっつければ問題は解決するという意味では結構な考え方だが、これが正しくないことは明白だ。正しくない結果、現行の『反テロ戦争』を進めるための討議の本筋がねじ曲げられた。反テロ戦争の戦略論は、イスラム過激派再生の根本原因についての筋道の通ったまともな視点が排されて、ハイテク兵器、軍事優先、根絶といった用語を操る『対テロリスト専門家』によって、ほぼ全面的に支配されてしまった。対テロ専門家は症状をいやすには有用かもしれないが、病原はなくせない。」(p.24)「まずアルカイダとは何か?消息に通じた西洋人に、アルカイダは何と思うかと尋ねるとする。多くはこう答えるだろう。一〇年以上前に、サウジアラビアのある富豪で宗教的狂信者が設立したテロ組織で、それが、訓練を受け、覚悟を決めた何千人ものテロリストを抱えるネットワークに急成長した。テロリストはどの大陸、どの国、どの市でも、首領ウサマ・ビンラディンの命令を待って待機しており、かれらの大義のために人を殺し、人を傷つけるのだと。良いニュースとしては、このようなアルカイダは存在しないことだ。悪いニュースとしては、今日世界が直面している脅威は、忠実な幹部に囲まれた軍団を擁する一人のテロ指導者より、もっとはるかに危険だということである。今日われわれが直面する脅威とは、新しくてそれぞれ異なり、複雑で多様、ダイナミックで変幻自在、その特徴を定義するのは実に難しい。」(p.29)「アブダラー・アッザーム(1987):いかなる主義主張もそれを前進させるためには、また重い任務と大きな犠牲を高く掲げるためには、前衛を必要とする。地上ぬも天上にも、勝利を得るためには持てる全てを投じられる前衛を・・・・・必要としないようなイデオロギーは存在しない......。厳しく、終わりのない、困難な道のりが目的地に到達するまで、前衛は旗を掲げ続ける。何となればアラーが、前衛は前衛たるべきこと、前衛であることを身を以て示すべきことを、命じているからである。こうした前衛が、将来あるべき社会のための基盤(アルカイダ・アルスルパ)を形成するのである」(p.30)「アルジェリアのGSPC、エジプトのイスラム聖戦、ウズベキスタン・イスラム運動、リビア戦闘集団などは、正当化されない誤った指導を受けているかもしれないし、恐ろしい、倫理的に許されない行為を犯しているかもしれない。しかしこれらグループが解決したいと願っているもろもろの苦しみは決して形而上のものではない。かれらの苦しみの感じ方は極端かもしれないが、現実に根ざしていることも事実だ。かれらはマニフェストの中で、七世紀の闘いの時や中世の思想家と同じように、現実の出来事、現実の人民、現実の問題と見なされるものに取り組んでいる。ビンラディンの説明は、イスラム史の一つの解釈をベースにしているようだが、かれの力の源泉は、ムスリム世界が現在抱えている社会、経済、政治の諸問題のためにかれが果たしている役割にある。学卒者の雇用がない、きちんとした住居がない、社会的流動性も食料も何もない····こうしたないない尽くしの原因は宗教のせいだと説明されても、それは宗教上の苦情ではない。それはあくまで、特定の宗教的世界観によって誇張された政治的な苦情である。」(p.63)「『コーラン』と預言者のスンナ(善行・範例)への回帰に基づく改革運動は、イスラム史を通じて何度も繰り返されるパターンであった。次から次へと不和と分裂の波に見舞われたが、いずれも特定の社会的、政治的文脈に根ざしたものだった。初期に起きた分裂の例は、ムハンマドの死と同一の世紀に起きたスンニ派とシーア派の分裂である。それはイスラム共同体の指導者であるカリフーカリフには大きな軍事・政治権力が付与されるが、固有の宗教的権威はない――の指名に当たり、預言者の直系子孫がイスラム共同体にとって望ましい候補者として、指名されるべきかどうかをめぐって起き分裂である。分裂の起源は政治的かつ個人的なものだったが、後年は分裂が教義にまで及んだ(また多くの学者はペルシャ人とアラブ人の民族的差異も指摘している)。シーア派は、預言者の子孫以外の者をカリフに指名することが預言者の理想からの逸脱したがって腐敗だと考えた。やはり初期分派の例として、ハリジットすなわち『出て行った者たち』(アラビア語のハラジャが語源)もあった。このグループは急進的で厳格な平等主義を主張し、ムハンマドの後継者たちはムハンマドの真のメッセージを逸脱したと非難した。シーア派の過激派グループである暗殺教団も分派の一例だ。何世紀にもわたって多くのムスリム反体制派は、イスラムのメッセージの腐敗にウラマーが関わってきたと非難してきた。西洋ではイスラム聖職者の影響力は軽視されがちだが、一般に聖職者は、邪悪な世俗エリートに取り込まれた利己的なパートナーと見られる場合が多い。現代の急進思想家にとって重要な反体制思想家として、ビンラディンやその他現代イスラム過激派がよく引用する一四世紀の保守的イスラム学者、タキ・アルディン・イブン・タイミーヤがいる。イブン・タイミーヤは現代スンニ派革命思想の父と見なされている。一二五八年バグダッドがモンゴル人によって陥落したことは、当時の信心深いムスリムにとって大変なショックだった。何世紀にもわたるイスラムの軍事的拡張と政治的・文化的優越性が続いたあと、カリフ帝国やイスラムが、不信仰者に征服されるなどということは考えられないことだった。同様なショックは、それから五世紀以上経ってからナポレオンによるエジプト侵略の時にも体験することになる。イプン・タイミーヤはバグダッドの敗北を、イスラム共同体すなわちウンマが、イスラム初期の聖典の教えを適切に守らなかったせいだと論じた。その結果、イブン・タイミーヤはダマスカスへの亡命を余儀なくされ、生涯の大半をダマスカスの獄中で過ごすことになる。イスラムが内包するいくつかの重要な概念が、今日も強く鳴り響いている。世界をいくつかのカテゴリーに分けること、例えばダル・ウル・ハルブ(戦争の領域あるいは戦争の家)とダル・ウル・イスラム(イスラムの領域)に分けることがその一例で、ビンラディンは何度もこの分割に言及している。もうひとつの重要な概念はマリーズ・ルースベンが指摘したムハンマドのパラダイムである。ムハンマドはメッカの富裕な支配者たちにメッカを追われた。それはムハンマドが唯一絶対神の権威を掲げて支配者たちの権威を認めなかったからであり、メッカの重要神殿だったカアバ神殿に収められた偶像類を崇拝しなかったからであった。それらの偶像は巨富を生む支配者たちの巡礼産業の象徴だった。イスラムを実践することができなくなったムハンマドは秘かにメッカを離れ、小人数の信者とともに当時はヤスリブと呼ばれていたメディナーに向かった。六二二年に行われたこの逃亡はヒジュラ(遷都)として知られているが、イスラム暦がムハンマドの誕生日や最初の啓示ではなく、ヒジュラを起源にしていることでもこの事件の重要性が分かるだろう。弾圧に直面した時には、コーランは逃亡することをはっきり勧めている。それに続く何年かの間、メディナ市民の疑惑とメッカの軍事力にはさまれたムハンマドは苦しい時期を送った。しかしかれは、六二四年のアルバドルの戦いでメッカを破り、その結果ついにメディナの人々を信服させて勢力を拡げた。かれは六三〇年にメッカへ凱旋し、その二年後に死亡する。ハリジットから暗殺教団やビンラディンに至るムスリム改革派は意識的にヒジュラを真似、『真の』ムスリムとして生きるためにかれらを迫害する社会から逃れ、ムハンマドのようにいつの日か勝利を目指して運動を進めるのである。」(p.69-70)「モハメド・ビンラディンは、建設請負業者として身を立てるために懸命に働いた。一九三〇年代の初期アラビア半島で石油が発見されたことは、新国王アブドゥル・アジズが使える膨大な資源が入ることを意味した。国王はその多くを支配的エリート用、外国の賓客用、宮廷用の宮殿建設に使った(相当な額を宗教的施設の建設にも回した)。モハメド・ピンラディンは一九五〇年代初期までに、小さな建設会社を成功させていた。かれは地元の競争会社より大幅な値下げをして、急速にビジネスを拡大した。ある外国企業がメディナ・ジッダ間高速道路建設の仕事から撤退したことで大きなチャンスが訪れ、かれはその仕事を請け負った。一九六〇年代初期までに仕事は溢れるほどに舞い込み、ビンラディンは大富豪となり、ビンラディン・グループは成長し続ける巨大な建設複合企業グループになった。文字が読めないままで死んだモハメド・ビンラディンは、英国南アラビア保護領にあるタリムとい聖地の近くで生まれた。タリムはサラフィズムの根拠地である。かれはサウジアラビアで、この国の厳格なワッハーブ主義に改宗したようだ。かれは世界中のウラマーやイスラム指導者多数を、ジッダやメッカやリヤドの自宅に招いてもてなした。時には、アラビア半島巡遊の旅やアラビア半島に来て帰るウラマーたちに旅費も支給してやった。かれはイスラム慈善団体やイスラム運動団体に多額の寄付をした。また自家用ヘリコプターを使うことで、一日のうちにイスラムの三大聖地、メッカ、メディナ、エルサレムのアルアクサ・モスクで礼拝することができる、というのがかれの自慢だった。とりわけメッカとメディナを訪れることは、特別な満足をかれに与えたに違いない。というのは、巡礼者や礼拝者のために行った二大聖地の施設修復と拡張の工事契約が、中東一帯に広がるかれの会社の名声の源であり、それがまたサウド王家お抱えの建設業者であることを確認し、さらにかれをとてつもない大金持ちにしたからである。どれくらい金持ちであるかが、一九六四年に王位継承の争いでファイサル皇太子が勝利した時に明らかになった。国庫の管理がひどく杜撰で、新国王が役人のサラリーを払うことができないと判明した時、モハメド・ビンラディンが介入し、六ヵ月間の賃金を国王のために立て替えたのである。ウサマ・ビンラディンの母親、ハミダ・アリア・ガヌームはサウジ人でもワッハーブ派でもない。教養ある美しいコスモポリタンの女性で、シリア商人の娘である。彼女はサウジアラビア伝統のベールを嫌い、シャネルのパンタロンスーツが好みである。こういう姿勢と、外国人であり、モハメド・ビンラディンの一〇番目か一番目の妻であることなどから、ファミリーの中でのステータスは高くなかった。ハミダは夫の死後億万長者の大物と再婚したが、モハメド・ビンラディンは死後もハミダがジッダのパレス(宮殿のような邸宅)に住むことを許していた。モハメドの一七番目の息子であるウサマは、このパレスで大勢のファミリーや金の銅像、古代のタペストリー、ベネチア様式のシャンデリアに囲まれて成長した。ハミダや息子のウサマがファミリーに排斥されたという話はたぶんに誇張されているようだ。ウサマ・ビンラディンは一九五七年三月一〇日リヤドで生まれ、ほとんど会ったことのない父親がヘリコプター墜落事故で死んだのは、ウサマが一〇歳の時だった。ビンラディン家の内情について特色のあるレポートがある。それは一九九八年アメリカの公共放送PBSテレビに『ピンラディンに近い匿名の筋』から寄せられたものだ。それは多少びくびくした表現まじりだが、ウサマの子供時代の内面を良く伝えている。『父親はとても専制的な人物で、子供たち全員をひとつの屋敷で育てることにこだわった』『父親は厳しい家訓をつくり、子供たち全員に厳格な宗教的、社会的規律を守らせた・・・・・・同時に父親は海や砂漠への家族連れの旅を楽しんだ』『父親は子供たちを大人として扱い、若い時から自信を持つことを望んだ』ウサマ・ビンラディンは一九六八年から六九年にかけて、ジッダの西洋スタイルのエリート校、アルサーグ学校で一回一時間の英語レッスンを週四回受けた。教師たちはウサマについて『シャイで引っ込み思案だが上品で礼儀正しい』少年と形容し、『とてもきちんとした正確で良心的な』勉強ぶりだったと、褒めている。ローティーン時代のピンラディンがひどく宗教に凝っていたという材料はないが、ベイルートのナイトクラブで酒を飲んだり、バーガールをめぐってけんかしたとか、若さのあまりのご乱行というエピソードはほぼ間違いなく偽りだ。確実な情報を総合すれば、静かで真面目なこの若者が、よく言われるベイルートのクレイジーホース・ナイトクラブへ女遊びに行った、などということはあり得ない。ピンラディンが父の死亡に当たり、父の個人的資産をいくら相続したかは定かではない。非常に高い額がよく引き合いに出されるが、言われている三億ドルよりはずっと少ない額だったろう。サウジアラビアでは一家の資産を家族で分割しないのが普通である。父の死に当たり、通常は長男が家族全体のために資産を管理する。ビンラディン家の場合も、現金が分配された可能性はまずない。拡大し続けるビンラディン・グループの資産の大半は、株式や装備やビルや土地などの形をとっており、簡単に現金化することはできない。ウサマ・ビンラディンの取り分としては、せいぜい数百万ドルを使うことができる権利が割り当てられた程度であろう。」(p.90-92)「ビンラディンが大学を卒業した一九七九年は、大変な出来事が相次いでムスリム世界を揺さぶった年だった。イスラエルとエジプトとの和平取引、イランにおけるイスラム革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、急進的ワッハーブ派によるメッカの大モスク占拠などである。それぞれの出来事は、ビンラディンのような人物には非常に大きな意味合いがあった。サダト(エジプト大統領)のユダヤ国家との和平取引は、アラブ民族主義政権の退潮(特に一九六七年と一八七三年の恥ずべき敗戦を経て)を集約する出来事だった。イランのシャー(王)モハメド・レザ・パフラビの退位は、この種の政権に何がなされるかを明白に示す例示だった。ソ連のアフガン侵攻は無神論の西洋からの脅威が迫っていることを強調するものだった。特にサウジアラビア国民にとって、この年一一月に起きた、強硬派の説教師ジュハイマン・イブン・サイド・アルウタイバと四〇〇人の急進派による、イスラムで最も神聖な神殿の占拠は、リヤドの王室に全く新しい光を投げかける出来事だった。」(p.108)「若きビンラディンのこうした姿には、なるほどと思わせるものがある。こうした寛大さはたぶん父から学んだものだろう。父はいつも貧しい人に渡す札束を持ち歩いた人物だった。かれの周辺でともに戦った人は皆、ビンラディンがこういう父の話をするのを聞いている。中東では地位と身分のある人が多額な金を分配するのは予想の範囲内だが、ビンラディンの古い仲間は皆かれの恵み深さを口にする。ある者は、結婚のお祝いにビンラディンが一五〇〇ドルを差し出したという話をするし、靴や時計やお金を必要とする親族に、かれがすぐ現金を支払ったと話す者もいる。ビンラディンは中断を交えたペシャワール滞在中に、少なくとも一人のアフガン戦士に若干のアラビア語を教える時間を確保した。元戦士たちは、グループ討論の時にビンラディンが宗教的な物語をしたり、宗教的な歌を歌ったと言っている。ほとんどの者は、ビンラディンが一〇年前に先生たちから言われたように、シャイで静かな若者だったと口を揃える。しかし(神から与えられた)任務の感覚が芽生え始めていたことを示す兆候もあった。かれは会話の中でよくサラファッディンのことを口にした。サラファッディンとは一二世紀のクルド人将軍で、中東の全イスラム派閥を統一して十字軍を破った人物である。またかれはコーラン三六節の『スラヤシン』をよく引用した。それはコーランの心臓とも言われ、人間の道徳的責任と復興および審判の確実性を示している個所である。」(p.112)「しかし近代化の一分野だけは一定の成功を収めた。それは教育の分野である。かなり低いベースからのスタートだが、教育の機会は急速に増えた。一九三三年のアフガニスタンでは国立学校の学生数は全部で一三五〇人、国立大学は存在しなかった。一九六一年までには国立学校生徒は二三万三八〇九人となり、約二〇〇〇人が上級学校に進んだ。五〇年代の一〇年間で高等教育卒業者は三倍増となった。アメリカからの援助はほとんど学校建設に使われた。ソ連はポリテクニック(技術専門学校)を、フランスはリセ(七年制の国立高等中学校)を運営した。これと同時に官僚と軍隊が拡大した。新しい学校制度の卒業生に職を与えるためと、政府が国民に保護を与える機会を増やすためだった。さらにソ連から学んだ中央集権型、国営型管理方式は多数の役人を必要としたという事情もある。」(p.121)「長文で時として散漫なこの文書は、ビンラディンの目標と方法論を打ち出すため、それから九ヵ月間にわたって発表された一連の公開声明やインタビューの第一号だった。ビンラディンの短期目標はすぐ明確になった。この宣戦布告の大半はサウド家に対する、長文の厳しい非難であった。それは実は、約一年前にロンドンでビンラディンの仲間が発表したコミュニケ一七すなわち『ファハド国王への公開書簡』を書き直したものだった。唯一違っていたのは、サウジアラビア以外の読者にアピールするために、ビンラディンが初期ワッハーブ派の事績を多数引用したことである。
ビンラディンは宗教用語を使い、初期イスラム史やコーラン、ハディースを引用して、非常に特殊な、非常に現代的な苦痛を表現した。その中の四つの文章により、イスラム前史時代のアラビアにおける軍閥間の戦い、一九九三年のソマリアの戦い、一九八三年ベイルートの米軍に対する自爆攻撃、六二四年のバドルの戦いに触れている。かれは『ホラサン』の高いヒンドゥークシ山脈に帰ってきたと発表している。ホラサンとはアッバース朝期イスラムが拡張した偉大な時代に、現代のアフガニスタンの地をそう呼んでいた旧名である。ここで『世界最大の不信仰者の軍事力(ソ連軍)が破壊され、ムジャヒディンのアラー・アクバルの叫び声の前に超大国の神話は力を失った』とビンラディンは記している。ビンラディンは続ける。かれの母国が正しいイスラムの『道』を踏み外していることは『不正義』であり、『民間人、軍人、治安要員、政府当局者・・・・・・学生・・・・・何万人もの学卒失業者にも』不正義の影響が及んでいる。さらにビンラディンは言う。この『不正義』が及んでいるのは、賃金の低い者、借金を抱えた公務員、通貨リアルの切り下げ、『悲惨な状態にある公共サービス』特に『水道サービス』、『大商人や請負業者』に政府が勘定を支払わないこと等々である。ビンラディンによれば、政府は平和的手段による抗議を無視してきた。そのため唯一の代替策は暴力である、と。衛生設備に対する苦情と問題解決の要求とを混ぜこぜにし、しかも悪魔や専制に非難を浴びせるのは、全く自己を意識していないからだ。これは社会的不正義感に根ざした政治的マニフェストである。不正義は悪い政府の責任だとのマニフェストを、宗教上の神話を使って宗教用語で表現したものである。」(p.255-256)「注意すべき重要な特徴は訓練基地内部の構造が、第一章で述べた『アルカイダ』現象と現代政治的イスラム主義内部に起きた三層分割を映し出していることだ。第一層は中核グループである。少数の固い決意の活動家たちで構成され、その多くはアフガン戦争の経験者であり、ビンラディンの周辺に集まっている。かれらは専門化した訓練基地の管理ポストや、専門基地を卒業した者たちを指揮する70役割に就いている。その次のグループは『ネットワークスのネットワーク』に結び付いている男たちで、かれらはそれぞれの国の個別グループに属していたか、あるいはその募集に応じて、訓練のためアフガニスタンに送られてきた。この連中の多くはボスニア紛争などの経験者だった。かれらのうち一部は、第一つまり中核グループによって『殉教作戦』に選抜される。その他の者は国に帰される。第三は、ハルダンなどの訓練基地を埋め尽くしている広範な大衆的志願者のグループである。圧倒的に若い男たちで、次第に恵まれない社会階層の出身者が増えている。かれらはアッザームの檄文や血の気の多い地方聖職者の説教、ビンラディン自身のメッセージなどに鼓吹されてやって来た、大砲の餌食(一般兵士)たちだった。かれらは『ある種の絶望的栄光に燃えて』訓練基地への道を発見した男たちである。」(p.269)「声明文:民間人であれ軍人であれ、アメリカ人とその同盟者を殺すことは、ひとりひとりのムスリムに課せられた義務である。ムスリムはそれが可能な国ならどの国でもその義務を果たすことができる。それはアルアクサ・モスクと(メッカの)聖なるモスクを解放するためであり、かれらの軍隊をイスラムのすべての地から追い出し、敗北させ、いかなるムスリムをも脅かすことができないようにするためである。」(p.276)「アメリカ政府に税金を払っているアメリカ人は誰でもわれわれの標的である。なぜならば、かれはムスリム国家に対するアメリカの戦争マシーンを助けているからだ・・・・・・抑圧者、犯罪人、泥棒、盗人に恐怖を与えるのは、人民の安全とその財産を保護するために必要なことだ。」(p.277)「かれらと別れるとき、ラーマトゥラーは米国がアフガニスタンを爆撃するだろうかと訊いてきた。私はびっくりした。私は、ノー、かれらはそんなみっともないことはしないだろう、と答えた。かれが私の答えをもう一度確かめたあとー。事務所に戻った私は果物を買いにバザールに行った。もちろん、私は完全に間違っていた。私がそう答えたとき、米国の軍艦はペルシャ湾で攻撃態勢にあった。現地時間午前一〇時三〇分、米国はトマホーク巡航ミサイル約八〇基を発射した。うち三基がスーダンの薬品工場を破壊、残りは米国の情報機関がビンラディンと結びつけた、ホスト近郊ザワールヒリ周辺のアルバドルにある六ヵ所の訓練キャンプを攻撃した。」(p.281)「かれらは、変化を求める人々の最前列にいることが多い。たとえその変化が、『正しい』黄金の時代をノスタルジックにイメージした、復古的な主張によって正当化されるとしてもである。かれらは、言語明瞭で、知性的で、やや国際的な男たちだ。かれらは大志を持ち、その大志が満たされないときに深い憤激を経験する。自分の希望を実現できないとき、かれらはそれを不正義だと思う。これらの問題を、国家の中で許されている政治的、社会的活動の枠内で解決する効果的な方法がなければ、かれらは別な道を探すことになる。急進的なイスラム過激主義がその一つである。」(p.419)「私は現代イスラム・テロリズムの本質と、それを生み出すいくつかの原因を説明しようと試みてきた。すべては歴史的過程の結果であり、避けられなかったことは一つもないし、正しく判断され、正しく実行された政治によって、すべて対応できたはずのことだった。テロリズムを生み出す原因に次のように対応しなければならない――。・穏健なムスリム指導者たちとかかわりを持ち、支持しなければならない/・イスラム世界の信頼される、正統な政府には、イスラム主義者の有力な代表者が含まれることを、認めなければならない/・イスラムの硬直した傾向が、寛容な、複数受容的な傾向の代わりに拡がることに対しては、巻き返さなければならない/・抑圧的な政府は改革をしなければならない/・西側が好戦的な敵ではなく、相互繁栄のためのパートナーであるとイスラム世界を説得する、大規模なキャンペーンをしなければならない/・すべての政策は、どの段階でもその効果を注意深く検討し、イスラム世界の若者たちに与える逆効果を考慮しなければならない/『反テロ戦争』の長期的な成功は、過激派に対する強まる同感への対抗に成功できるかどうか、にかかっている。重要な最初のステップは、現在われわれすべてが直面している脅威が理解され、対応されたことを示す、一つの、本質的な、模範となるべき変化である。脅威は一人の人間、一つの組織から来るものではないのだ。』(p.433-434)
(2026.1.4)
- 「十五年戦争小史」江口圭一著 ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-51006-8, 2020.10.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。著者による愛知大学での長年の授業のテキストとして、まとめたもの。二十四回の講義を想定して、コンパクトにまとめいる。何度も手を加えて取捨選択したあとが見える。天皇への批判も明確に描かれており、そのこともあって、「十五年戦争」ということばに、反対をするひともいるのだろうと推察される。これは、ひとつの見方であり、本来は、中国や、東南アジア、南西諸島、そして、米国、英国、オランダ、オーストラリアなどの視点もなければいけないのだろうが、それは、また、他の書になるのだろう。何冊か読んできていることもあり、非常によくまとまっているという感じをうける。以下は備忘録。「すでに一九一六年代表的な膨張論者徳富蘇峰は「日本帝国の使命は、完全に亜細亜モン ロー主義を遂行するにあり..... 亜細亜モンロー主義は、即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也」と述べて、「白閥の跋扈を蕩掃する」ことを主張し、一九一八年近衛文 鷹はベルサイユ講和会議に際して、「英米本位の平和を排す」と題する論文を発表し、お なじ華族であっても西園寺とは対照的な立場を表明した。」(p.31)「一月八日、関東軍の「果断神速」の行動を全面的に賞讃し、「朕深ク其忠烈ヲ嘉ス」と する昭和天皇の勅語が発せられた。関東軍の謀略と独断の累積のうえに展開された軍事行 動は、ここに不可侵の承認をあたえられた。関東軍への勅語は対米英協調路線とアジアモ ンロー主義的路線との抗争における後者の勝利を象徴した。 柳条湖事件は日本が対米英協 調路線からアジアモンロー主義的路線へ針路を変える転換点となった。」(p.58)「前年末の国際連盟理事会で現地派遣が決定された調査委員会は、委員長リットン(英) および米・仏・独・伊の委員で構成され、二月三日ヨーロッパを出発し、二九日東京に到 着した。関東軍はリットン調査団の現地到着前に既成事実をつくりあげてしまうことを急 ぎ、三月一日東北行政委員会により「満州国」の建国宣言をおこなわせた。」(p.64)「前年末の国際連盟理事会で現地派遣が決定された調査委員会は、委員長リットン(英) および米・仏・独・伊の委員で構成され、二月三日ヨーロッパを出発し、二九日東京に到 着した。関東軍はリットン調査団の現地到着前に既成事実をつくりあげてしまうことを急 ぎ、三月一日東北行政委員会により「満州国」の建国宣言をおこなわせた。宣言は、満蒙三千万民衆は張学良政権の「残暴無法」のもとで死を待つのみであったが、 「手を隣師に借りて茲に醜類を駆」ったとし、「新国家建設の旨は一に以て順天安民を主と 為す」と述べ、領土内にあるものは漢・満・蒙・日本・朝鮮の五族をはじめすべて平等で あるとうたった。満州国の国首は執政、年号は大同と定められ、領域は奉天(三一年一一 月二〇日、遼寧省を改称)・吉林・黒竜江・熟河の各省、東省特別区、蒙古の各盟旗(清朝 設けた蒙古族の統治組織)であるとされた。また三月九日には奉天・黒竜江・熱河三省の 蒙古地域を省域とする興安省が新設された。第一次天津事件に乗じて天津を脱出した溥儀は、営口から旅順に移されて軟禁された。 溥儀は自分に用意された地位が大清帝国皇帝ではないことを知って憤激したが、板垣参謀 に恫喝されて屈伏した。三月六日溥儀は板垣の用意した一つの文書に調印させられた。 そ れは大同元年三月一〇日付の執政溥儀から本庄関東軍司令官にあてた書簡で、一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し、其の所要経費は総て満州国に於て 之を負担す。二、弊国は黄国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理並新路の敷設はて之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。三、弊国は貴国軍隊が必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す。四、貴国人にして識名望ある者を弊国参議に任じ、其の他中央及地方各官署に貴国人 を任命すべく、其の選任は貴軍司令官の推薦に依り、其の解職は同司令官の同意を要 件とす。五、右各項の趣旨及規定は将来両国間に正式に締結すべき条約の基礎たるべきものとす。という内容であった。 この書簡は柳条湖事件以来の関東軍の軍事行動の成果を集約するも のであった。」(p.64)「(五一五の結果)一九二四(大正一三)年以来の政党内閣は八年間で閉幕した。対米英協調路線からアジアモンロー主義的路線への変針とならんで、天皇制立憲 主義の政治体制も、その立憲主義的側面を痛撃されて、変質を開始した。」(p.68)「東亜勧業会社(満鉄の傍系会社) は「本買収は軍部の命令に基き、軍部に代って之を行ふものにして、地券 の提供に応ぜざる者は厳罰に処する」旨告知し、実際の買収に当りても武器を所持せる 自警私兵約二十名以上を買収地区内に滞在せしめ、其の指示に従はざる農民三名を銃剣 にて突き刺し傷害を与へ、又農民の飼育せる牛、犬、鶏等を殺生せり。という暴力的収奪がなされた。」(p.117)「一九三八年度の日本の輸入に占めるアメリカの比率は、総額三四・四%、石油類七五・二 %、鉄類四九・一%、機械および同部品五三・六%に達した。」(p.177)「第三次近衛内閣総辞職→東条内閣成立過程から確認されるように、第一に、駐兵問題 の固執すなわち日中戦争の成果をあくまで護持しようとしたことが日米交渉決裂させ対 米英開戦を導いた最大の要因であった。その意味でアジア太平洋戦争は日中戦争の延長であった。」(p.215)「これにたいして、二六日乙案への回答としてハル・ノートが野村・来栖に手交された。 ハル・ノートは、四月一六日の会談でハルが提示した四原則を基調として、「日本国政府 は支那及印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及警察力を撤収すべし」、「合衆国政府及日 本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府 若くは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし」、「両国政府は其の何れかの一方が第三 国と締結しおる如何なる協定も同国に依り本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和確 立及保持に矛盾するが如く解釈せられざるべきことを同意すべし」など、事態を満州事変 前の状態に戻すことを求める強硬なものであった。アメリカ側はこのような最後通告的な ハル・ノートによって、日本を最後の行動にむかわせようとしたのであった。ハル・ノートは、満州事変以来東アジアで際限もない膨張をつづけてきた日本帝国主義 にたいして、アメリカ帝国主義が全面的・根底的な対決にでたものであった。 アメリカ帝 国主義は日本帝国主義にたいしてアジアモンロー主義的路線とその獲得物を清算し、対米 英協調の立場に回帰することを迫った。 しかし同時に、ハル・ノートには「大西洋憲章」にもうたわれた反膨張主義・反ファシズムの理念が反映されていた。 ハル・ノートはその意味でポツダム宣言の原型であり、ポツダム宣言はハル・ノートを発展させたものであった。日本は、二〇〇〇万人以上の諸国民・民族と三一〇万人の自国民を死に追いやり、国土を焦土と化し、原爆まであびた挙句、ポツダム宣言を受諾して、ハル・ノートよりさらに広範な要求に服することとなる。そのような結果からすれば、ハル・ノートを受諾したほうが日本にとってはるかに賢明であり、歴史に栄誉を残す選択であったことは明らかであろう。日本の戦争指導者にとってもそれが得策であり名誉であったことは、戦争犯罪の訴追を逃れえたという一事をとっても明白であろう。しかし日本の戦争指導者にはそのような洞察と英断をなしえたものは皆無であった。」(p.219)「『彼ら〔日本人がフィリピン人に語ったことは、彼らは、フィリピンを西洋の抑圧から 解放するためにやってきたということ、彼らとフィリピン人は兄弟であるということであったが、彼らは街を尊大な「スーパーマン」のように闊歩したり、ちょっと気にさわ ることがあると、人々の顔を叩いたり、散々になぐったりした。彼らはこの国を略奪し、男を日本軍の事業に強制的に働かせ、女を凌辱し、多くの罪のない民間人を虐殺した。......すべての鉱坑と工場は日本人の手で運営された。フィリピンの土地の大部分は、日本が綿花を緊急に必要とするために、綿の栽培にあてられた。・・・・・・あの占領の暗黒時代 に、日本軍はこの土地に住み、米、カモテ、果実、野菜その他の食料を大量に消費して・きびしく反日的になって いた。当然、国民は飢え、ぽろをまといーーーきびしく反日的になっていた。』またたとえばインドネシアのアリ『わが民族の歴史』(小学校五・六年用、一九六二年) はつぎのように記述している。『ニッポン人はインドネシアの「支配」をはじめた。オランダの物資は日本の保有するところとなった。オランダの富は没収された。さらにすべてのニッポン人は「日本の旦那様」とよばれるにいたった。まさに日本は、オランダがそうだったように、インドネシアの主人になろうとしたのである。······日本はインドネシアに、多くの要塞を建設した。われわれは要塞作りの労働を強制的にやらされた。······われわれは「ロームシャ」(労務者)にされた。「ロームシャ」とは日本人によって強制労働させられた人のことである。農民、労働者はあたかも奴隷のように家屋敷をすて、他の地方、つまりジャワ、スマトラ、イリアン (ニューギニア)、ビルマ、タイなどに連れていかれた。彼らはジャン グル、沼沢地、海岸などで働かされた。わが民族の苦しみはきわめて大きかった。 コメを日本軍に強制供出させられて、われわれは飢えた。着物も、薬も不足した。不足しないものはなかった。人びとは恐怖と不安の日々を送った。日本に反抗しようとする気配 をみせれば、逮捕され、拷問にかけられ、そして投獄されるか殺されるかしたものである。老若男女の区別はない。学校の生徒たちは「奉仕作業」に狩りだされた。子供たちはまた、日本の歌を歌えなければならず、日本語でしゃべれなければならなかった。 同様に日本式の服装まで奨励された。あたかもインドネシア人は日本人に変化しなければ いけないかのように。』」(p.255)「一方、内務省は新体制運動に対抗して四〇年九月一日「部落会・町内会・隣保班・市 町村常会整備要綱」を道府県に通達し、精動運動の下部組織として各地に設けられていた 部落会・町内会・隣保班(隣組)を全国的に整備した。一〇戸内外でつくられる隣保班お よびそれを単位とする部落会・町内会の組織は、内務省・警察の指導下におかれ、定期的 に開催される常会で政府の方針の伝達をうけ、国債消化資源回収・勤労奉仕・防空演習 その他の国策協力をおこなう機構とされ、住民の相互監視の機能ももたされた。 またこの 組織は生活必需品の配給ルートともされたので、全国民は否応なくこれに参加しなければ ならなかった。」(p.279)「日本の陸海軍兵器生産指数は一九三七年を一〇〇として、四一年六五三、四二年七一三、四三年九五〇、四四年一二一九に達した。しかし、一般鉱工業のそれは四一年一六九をピークとして、四二年一四二、四三年一一四、四四年八六と低下しており、特に繊維・食料品などの民需生産は、激減した。日本の総合的経済力は一九三九〜四〇を頂点として、アジア太平洋戦争下には衰退に向かったが、それにもかかわらず軍需生産が激増しえたのは、いとえに国民生活を犠牲にしたからであった。国家財政に占める軍事費の比重は、一九三一年三〇・八%であったが、三七年六九・二%、四一年七五・六%、四二年七七・二%、四三年七八・五%となり、四四年には八五・三%に達した。」(p.286)「東京裁判にあたって昭和天皇を訴追すべきであるとする意見は少なからずあり、ウエッブ裁判長は判決 の「別個意見」で、「天皇は進言に基づいて行動するほかはなかったということは証拠と 矛盾している。かれが進言に基づいて行動したとしても、それはかれがそうすることを適 当と認めたからである。それはかれの責任を制限するものではなかった。しかし、何れに しても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲的君主でも赦 されるものではない」と指摘した。 天皇が免責されたのはアメリカの政略の結果にすぎない。」(p.334)「コール首相(1989年):ドイツ人の名で、ドイツ人の手で、人類と諸国民にもたらされた形容できない災禍に対 し、われわれは謝罪する。真実を語ることだけが戦争の傷をいやし、和解をもたらすこ とができる。 ・・・・・・西独の若い世代は独裁と大戦について、世代としても個人としても非 難されることはない。彼らは若かったからだ。しかし、過去はわれわれとともにあり、 若い世代も責任を負っている。いかなるドイツ人も(ナチス犯罪の責任を逃れること はできない。... 今世紀の歴史を知る者の目は、現代の危機と誘惑に対しても鋭くなる。」(p.338)
(2026.1.16)