Last Update: December 19, 2025
2025年読書記録
- 「源氏物語 全8巻+別冊付録 第二巻」上野榮子訳 日本経済新聞出版社(ISBN978-4-532-17086-8, 2008.10.30 第一刷)
出版社情報。昨年9月に第一巻を読んでから、第二巻を読み始めるまでにかなりの時間がかかってしまった。その間に、NHK 大河の「光る君へ」も終了。正直にいうと、第一巻を読んで、次々と読む魅力をあまり感じなかった。もしかすると、個人出版であり、注などが充実していないことも関係しているのかもしれないが、正直よくわからない。この第二巻は、読むのに時間もかかってしまった。紅葉賀(もみぢのが)・花宴(はなのえん)・葵(あおい)・賢木(さかき)・花散里(はなちるさと)・須磨(すま)・明石(あかし)。人の死や、最初に逢瀬をもったときや、大きな変化があるときなどの、場面の転換点の記述が非常に簡素で、その前後、とくに後の記述がさまざまに表現されている。当時の出家についての考え方もよくわからなかった。現代語訳とはいえ、馴染みのないことばで描かれている物語が、なかなかスッと入ってこないのは、わたしの側の問題なのかもしれない。また間があくことになるが、ゆっくり、第三巻へと進んでいこうと思う。
(2025.1.17)
- 「ゆとろぎ - イスラームのゆたかな時間」片倉もとこ著 岩波書店(ISBN978-4-00-025406-9, 2008.5.28 第1刷発行)
出版社情報・目次。ある方が、この本の紹介をしておられ、著者のイスラームへの愛が伝わってくるとあったので、読んでみた。著者は、自分は、イスラームではないと書いておられるが、たしかに、その中に入って行って、生活をともにする、感覚がとてもやさしく、違和感がない。目次は、リンクにあるが、最初の二つの章「ゆとろぎとの出会い」「ラーハの世界」を読むと、これは文化的には、乾燥地における遊牧民についてで、イスラームについてではないようなイメージをもった。しかし、他の章では、アルゼンチンや、中国や、インドネシアも、取り上げられており、興味深い感覚と接することができたことは確かである。このかたの、他の本「イスラームの日常生活」(岩波新書)なども読んでみたい。ただ、ひろくはあるが、やはり、薄い感じもした。長期間、ある地点で、生活をしているというかたではないのだろう。また、子どもについてのことと、詩についてのことは、十分理解できなかった。わたしは、結局、まだ何もわかっていないのかもしれない。以下は備忘録:
- 「『ゆとろぎ』とは、『ゆとり』と『くつろぎ』を足して『りくつ』を引いたもの。イスラームの日常のなかで大事にされている『ゆとろぎ』、ラーハは、どのように日々実践されているのでしょうか。毎日の会話のなかで、子育てのなかで・・・。追われる毎日が変わる、人生の知恵。いままでのイスラーム観もかわります。」(表紙裏から)
- 「クルアーン(コーラン)のなかには、『あなたが、東から上る太陽を西からのぼらせてみることできますか。それができるなら神をしんじなくていいでしょう』とあります。天体の動き、生態系の様相の中に、アッターの存在を認識するということです。アッラーとは、神のことをさす普通名詞のアラビア語です。アッラーという固有名詞をもった神様がおいでになるわけではありません。エジプトにもイラクにも中東地域のあちこちにあるキリスト教会には、『アッラーは愛なり』とあります。キリスト教会の玄関にアッラーと書いてあるのを、はじめてみたときは、驚くにあたらないのに、わたしも驚いしてしまいました。人間が生まれ、死んでいくという現象は、他の生物と同様、たいへん自然なこととみなされます。死は悲しむべきことではないというのです。もちろん近しい人などが死ぬと悲しいので、やっぱり泣いてしまいます。が、泣きじゃくりながらも、『泣いちゃあいけない。泣くべきではない。自然現象、神のご意志を受け止めねばならない。どんなことがあっても、「アッラーは偉大なり」』と、おごそかに、いましめあいます。墓をつくることもお墓参りも原則的には奨励されません。日本でも大流行りになった『千の風』の歌のような感じもあります。」(p.viii-ix)
- 「イルム、なかでもイスラームに関する知識を豊富に持っている人のことを、イルムと同じ語源のウラマーといい、イスラームでは、もっとも敬意をもってみられます。(中略)『目に見えないもののほうが大事なんですよ。そのためにはヒクマ(叡智・知恵)をもたなくてはね。』(中略)『あの人はアーティフィー(感情的)な人だ』は『心やさしい』という意味で使われる。」(p.24-25)
- 「『急ぐとシャイターン(悪魔)につけこまれる』『のどかさは神からあたえられたもの』」(p.155)
- 「チャールズ皇太子:イスラーム文明を研究しなければ、西洋文明も滅びるであろう。」(p.159)
- 「『資本主義かて、純粋なもんは、どこにもあらへん。福祉の考え方やその他もろもろ、社会主義、共産主義的な考え方も、のみこんださかい、資本主義の寿命はのびてはる。共産主義の中国は資本主義をのみこんだよって、えらい気勢をあげはる。』『ちがう文化にとにかく、ちかづいてみる。さわってみる。だいてみる、おもいきって、のみこんでしまう、と、案外おいしかったりする。』」(p.183)
- 「イスラームの世界では『人生は学ぶこと、学んだら、それを周りの人にわけなさい。』『なににつけ淀まないのは、いい気持ち、さらさら流れる「ゆとろぎ」のせせらぎ』」(p.194)
(2025.1.23)
- 「聖母マリアとともに歩む 十字架の道行」彫刻 船越保武 ドン・ボスコ社(ISBN4-88626-394-6, 2003.2.28 初版発行)
出版社情報・内容。熱心なカトリックの方から、いただいた小冊子。船越保武の代表作には長崎の『二十六聖人殉教者像』(1962)などがある。ことばは、引用した「内容」に書かれている。黙想をたいせつにされているのだろう。聖書から、イエスの実像を読み取ろうとする、わたしとは、視点がかなりことなるが、伝わってくるものは十分にある。瞑想を通しての信仰告白であろうか。裏表紙には「尊いあなたの子イエスを旅路の果てに示してください。」サルヴェ・レジーナよりとある。
(2025.2.4)
- 「教皇ヨハネ・パウロ2世の詩 黙想/ローマ三部作 THE POETRY OF JOHN PAUL II」木鎌安雄訳 聖母文庫(ISBN4-88216-252-0, 2004.12.1 初版発行)
図書情報。熱心なカトリックの方から、いただいた小冊子。タイトルそのままである。I. 小川、II. システナ礼拝堂入り口での創世記の黙想、III. モリアの地の山。最後に解説があり、全71ページ。非常に自然で正直な詩である。やはり黙想的なものなのだろうか。帯にも引用されているものを、一つ記す。「神とは誰か。神は創造主。はじめあるがごとく絶えず無からすべてが実在するように呼びかけ、それを抱きかかえている。」(教皇の詩)システナ礼拝堂は行ったことはないが、最近訪問した、大塚国際美術館に、システィーナ礼拝堂の天井画と正面壁画「最後の審判」を再現したシスティーナ・ホールがある。
(2025.2.4)
- 「アンナ・カレーニナ(上)」トルストイ作 中村融訳 岩波文庫 赤617-1(ISBN4-00-326171-2, 1989.11.16 改訂第1刷発行, 2012.11.5 第21刷発行)
出版社情報。冒頭の「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」は、データ・サイエンスの授業などで何回か引用し、アンナ・カレーニナ原理(AKP)と紹介してきたが、今回、初めて読む機会を得た。本書(上)には、第一編と第二編となっており、扉には「復讐は我にあり、我これを酬いん」と書かれている。それぞれの心理が微細に表現されていて、いろいろな思いとその変化を感じながら読むことができる。まさに、これぞ、小説なのだろう。登場人物一覧と解説に、人間関係図がある。最初は少しずつ読んでいたので、この図も参考になった。名前のカタカナ表記は、岩波文庫のものではないが。描かれる中心人物が変化していき、それも興味深い。個人的には、第二編の後半の、キチイの温泉療養の地で、ワーレンカと出会い、そこに、父、シチェルバーツキィが来るあたりが興味深かったが、三冊本の中・下も楽しみである。上だけでも、441ページあるが、あまり長いという感じがなく読めるのも、すごい小説だということだろう。ただ、あまり若い頃に読んで、理解できるのかは不明である。個人的には、徳富蘆花が訪ねて行ったという、ロシアの文豪、レオ・トルストイ自身にも、興味がある。少しずつ、長編も読んでいきたい。多少、備忘録として記す。
- 「己れの富に満足するものなし、己れの頭脳に満足せざるものなし」(p.252)
- 「温泉場での彼女のおもな、精神的な興味は、いまでは自分の知らない人たちを観察したり、憶測したりすることになっていた。もって生まれたその性格から、キチイはいつも人々の中に、ことに未知の人々のなかにあらゆるもっとも美しいものを思い描いていた。で、いまも、あれはどういう人かしら、あの人たちはどういうあいだがらなのかしら、どういう人たちかしら、などど推測しながら、キチイは実に驚嘆すべき、美しい性格を心に描いては、自分の観察に裏付けを見出そうとしているのだった。」(p.397)
- 「キチイはシタール夫人とも近づきになった。そしてこの交際はワーレンカへの友情と共に、彼女の上に強い影響をあたえたばかりでなく、彼女の傷心をもなぐさめてくれることになった。彼女はそのなぐさめを、この交際のおかげで過去とはなんらつながりもない、まるであたらしい世界が眼の前にひらかれたということの中に見出したのである。キチイには、これまで、自分が身をまかせていた本能的な生活のほかに精神的な生活もある、ということが啓示された。この生活は宗教によってひらかれたものだったが、しかしその宗教というのは、キチイが幼少のころから知っていたような、知人たちと会えるミサとか、『寡婦の家(慈善院)』での終夜祈祷とか、神父についてスラヴ語の聖書の文句を暗誦するとかいう形式で表現されていたそれとは似つかぬものであった。それは、崇高な、神秘的な、一連の美しい思想や感情と結びついた宗教で、命じられたから信じられるというだけでなく、愛することもできる宗教だった。」(p.414)
- 「このワーレンカによってキチイが悟ったのは、ただ自分を忘れて、他人を愛しさえすれば、ひとは平安に、幸福に、そして美しくなれるものだ、ということだった。そして、キチイもそうなりたいと思った。」(p.416)
- 「敬虔主義者(ピエチスト:17世紀末に起こったドイツの改革教派)」(p.424)
- 「キチイにとっては、彼女が住んでいた世界はことごとく一変してしまった。彼女は自分が知ったことのすべてを決して否定はしなかったが、自分がなりたいと思うものになれると考えていたのは自らを欺くものだった、と悟ったのである。それはあたかも蘇生したような思いだった。作為や慢心なしに、達したいと願った高所にふみとどまることの難しさを痛感させられた。のみならず、彼女には、自分もそこに身をおいていた悲しみや、病気や、瀕死の人々のこの世界がいかに重苦しいものであるかということもしみじみと感じられた。彼女にはこの世界を愛そうとして自分自身の上に払ってきた努力も苦痛としか思えなくなってきて、もう一刻も早く、すがすがしい空気を求めて、ロシアへ、エルグショーヴォ村へ帰りたくなった。そこへは、手紙によると、姉のドリイも子供たちをつれて、もう移ってきている、とのことだった。」(p.440)
(2025.2.4)
- 「アンナ・カレーニナ(中)」トルストイ作 中村融訳 岩波文庫 赤617-2(ISBN4-00-326172-0, 1989.11.16 改訂第1刷発行, 2011.7.25 第17刷発行)
出版社情報。三巻本の二巻目、第三編、第四編、第五編が収められている。580頁あり、三巻本の中でも一番長い。表紙裏には「激しい恋のとりことなったアンナは、夫や子どもを捨て、ウロンスキイとともに外国へと旅だった。帰国後、社交界の花形だったアンナに対する周囲の眼は冷たい。一目愛児に会いたいという願いも退けられ、ひそかに抱くひとときがアンナに与えられるのみだった」とある。心から、すごい小説だとおもうが、それは、非常に多くのひとの人物像や心の動きが丁寧に、緻密に描かれているからであるが、同時に、男性のそれは、すばらしいと思うのと同時に、女性のそれは、ほんとうにそうなのだろうかと、不安も感じる。わたしよりは、トルストイは、十分、深く理解しているのだろうが。描かれている、性差は、当時の社会的役割の違いに由来するものであり、かつ、それが貴族社会という、わたしが想像しにくい社会であるからもあるだろうが、女性のこころを軽く描き過ぎているように、感じてしまう。わたしが、個人的に、女性のこころはなかなか理解し得ないものと思っているからかもしれないが。話が非常に進んでから、アンナとカレーニンが結婚するようになった経緯がかかれていたり、セリョージャ視点の母親のこと、周囲から、母親は死んでしまったとか、とても悪い女だと言われても、母親を信じ続ける子供のきもちなども、描かれている。しばらくしてからになるだろうが、トルストイの他の長編も読んでみたい。ほんのすこしだけ、抜書きを備忘録として記す。
- 「ーあたくしは、なんにも変えるわけにはまいりませんわ、ーと彼女はささやくように言った。ーわたしがここに来たのは、明日、わたしはモスクワへ発って、もう二度とこの家へは戻ってこないから、わたしの方の決定は、これから離婚の手続きを一任する弁護士を通じて承知してもらいたいということを言うためだったんだ。それからわたしの息子は姉の方へひきとらせることにするから、カレーニンは息子について言おうとしていたことをむりに思い出しながら、そう言った。ーあなたには、あたくしを苦しめるのにセリョージャがお入り用なんです、ーとひたい越しに良人を見つめながら、アンナが言った。ーあなたはあの子を愛していらっしゃらないじゃありませんか。・・・セリョージャだけは残しておいて下さいまし!ーいかにも、わたしは息子への愛情まで失ってしまったよ。それというのも、あなたへのわたしの嫌悪感があの子にもつながっているからだ。が、とにかく、わたしはあの子は連れてゆくよ。じゃ、ご機嫌よう!そして彼は出てゆこうとした、が、今度はアンナの方が彼をひきとめた。ーアレクセイ、セリョージャを残していって下さいまし。ーと彼女はもう一度つぶやいた。ーもうこれ以上はなにも申し上げませんから。セリョージャだけは残して下さいまし、あたしのあれまで・・・あたくしはもうじきお産をするのです。あの子だけは残して下さいまし!カレーニンはかっとなった、そして妻の手を振りはらうと、ものも言わずに部屋から出てしまった。」(p.342-3)
- 「あれほど男性的な人間である彼が、アンナに対してはついぞさからうことうことをせず、私心を去って、ただひたすら彼女の望みを先廻りして察知することにのみ心をつかっているように見えた。そして彼女のこれをありがたく思わずにはいられなかったが、しかも自分に対する彼のこのひたむきな気持ち、彼が自分のまわりにはりめぐらせてくれている心づかいのふんいきを、時としてわずらわしく思うこともあった。一方、ウロンスキイのほうは、自分があれほど長い間望んでいたことが完全に実現されたにも拘わらず、十二分に幸福ではなかった。彼はこの望みの実現は自分が期待していた幸福の山に比べればほんの一つぶの砂をもたらしたにすぎないことをやがて感じるに至ったのである。この実現は、希望の実現こそ幸福なのだと思いこんで世間の多くの人々がおかしている、永久につづくあやまちを彼に思いしらせたものだった。」(p.425-6)
(2025.2.15)
- 「アンナ・カレーニナ(下)」トルストイ作 中村融訳 岩波文庫 赤617-3(ISBN4-00-326173-9, 1989.11.16 改訂第1刷発行, 2013.1.25 第17刷発行)
出版社情報。三巻本の三巻目、第六編、第七編、第八編、および、訳者による解説が収められている。514頁。表紙裏には「アンナは正式な離婚を望む。が、夫は拒否。ウロンスキイはアンナを愛したが、社交界で孤立していく彼女に次第に幻滅を感じる。絶望したアンナはついにホームから身を投げる、『これで誰からも、自分自身からものがれられるのだ』とつぶやきつつ。」とある。正直、このような長編を考え、味わいながら、やっと読めるようになったのかなと、自分に対して思う。離婚や親権についての法律上の違いも背景にあるだろうが、何回か、登場するアヘンにも興味を持った。精神を落ち着かすためにも、また、出産の鎮痛にも使われていたことには驚かされた。フランス語で言ったという表現が本書全体を通して多かった。ロシア貴族にとっては、フランス語を使うことで表現される豊かさが特別な意味を持っていたのだろう。わたしには、そのニュアンスはわからない。最後には、争いに、国家として、宣戦布告をしていないときに、個人でどう対するかという問いまでなされている。解説を読むと、轢死する女性の事件が当時あったことや、それぞれの登場人物にどのような人が投影されているか、また、本書が書かれるに至った経緯や、改訂ごとにどのように変化していったかまで書かれていて、よく研究されているのだなとも思わされた。ロシア文学、他のものも少しずつ読んでみたいと思った。おそらく、現代で読む人は非常に限られているだろうが。以下は備忘録。
- 「第六篇 ダーリヤはポクローフスコエで子供達とひと夏をすごした。」(p.5)
- 「第七編 レーヴィン夫妻はもう三か月モスクワで暮らしていた。」(p.227)
- 「その内心には一つだけ彼女の関心をひく漠然としたある考えがあった。が、自分でもまだそれをはっきりと意識することはできなかった。もう一度かレーニンのことを思い出すと、彼女はお産のあとの自分の病気のころと、あのとき頭から離れなかったあの気持ちを思い出した。《なぜわたしは死ななかったのだろう?》彼女にはあのときの自分の言葉とあのときの気持ちとが思い出された。すると彼女は突然、自分の心のあるものを悟った。そうだこの考えこそすべてを解決してくれるものなのだ。《そうだわ、死ぬことだわ!》《そうなれば、良人かレーニンやセリョージャの恥も、不面目も、わたしの恐ろしい恥辱も、なにもかもが死によって救われるのだ。死ぬのだ。そうすればあのひとも後悔するだろうし、わたしをかわいそうだと思うし、愛してもくれるだろうし、またわたしのために苦しむに違いない。》彼女はわれとわが身をあわれむようなこわばった微笑を浮かべたまま、左手の指輪をはずしたりはめたりしながら肘掛け椅子に座り込んで、自分の死後の良人の気持ちをまざまざと心に描いてみるのだった。」(p.363-364)
- 「人間に理性が与えられているのは、人間を不安にするものから逃れるためですわ、と例の貴婦人がフランス語で言った。いかにも自分の言った文句に満足しているらしく、発音も気取っていた。ー(中略)ーそうよ、あたしだってとても不安だわ。もしそれからのがれるために理性が与えられているというのなら、つまり逃れなくてはいけないんだわ。では、もしもうなんにも見るものがなくなったり、もうなにを見るのも嫌になったりしたら、なぜろうそくをけしてはいけないのだろう?だけど、どうやって消すの?あら、なんだってあの車掌はマルタづたいになんか走っていったのだろう?なんだって向こうの車輛の若い連中はわめきちらしているのんだろう?なにを喋り、なにを笑っているんだろう。みんないつわりだ、みんなうそだ、みんなぺてんだ、みんな悪だ!」(p.406)
- 「第八編 ほとんど二か月近くが過ぎた。」(p.413)
- 「レーヴィンは、自分はなにものか、なんのために自分は生きているのか、を考えていると答えが見つからずに絶望に沈むのだった、が、そのことを自問するのをやめると、まるで自分がなにものなのか、なんのために自分が生きているのかがわかったようだった。それは彼が、着実に、はっきりと活動し、生活しているからだった。最近でさえ彼は以前よりは、はるかに堅実ではっきりした生活を送っていた。六月のはじめに田舎に帰ってから、彼は自分のふだんの仕事に戻った。農事、百姓や隣人たちとの付き合い、家事、自分がン管理している姉や兄の仕事、妻や親戚との関係、赤児への配慮、この春から夢中になっているあらたな養蜂業、そういったものが彼の時間を全部占めていたのである。」(p.449)
- 「プーシキンの書き出し『客人たちは別荘に集まってきていた』に影響を受けた話:トルストイは書斎にこもって『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文句を書いた。そのときの書き出しは『オブロンスキイ家ではなにもかもがめちゃくちゃだった』というのだったが、のちに作者は現在みられるようにその前に『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』という一句を加えた、というのである。」(p.502)
(2025.2.25)
- 「日本の死角」現代ビジネス編 講談社現代新書2703(ISBN978-4-06-531958-1, 2023.5.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。目次を見るとかなり広範囲にトピックを扱っていることがわかる。図書館で予約したが、かなり時間がかかった。多くの人が読んでいたということだが、正直、内容はあまり濃いとは言えない。社会学的視点が多く、かつ、一つの切り口のみ。それは、紙数の都合かもしれない。いくつか備忘録として記す。
- 「教育政策においては分権化と集権化の間に自由と平等のトレードオフが存在する。分権化されたシステムは前述の通り、地域住民の要望を集約し教育活動に反映させる機能も権限も住民の近くに存在するため、住民が子供たちに受けさせたい教育が容易に実現されやすい。その一方で、分権化された民主主義的に運営されている教育システムの下では、地域内に存在するマイノリティの教育需要(例えば、多言語教育や障害児教育、有色人種のための教育などが当てはまる)が黙殺されやすいだけでなく、地域間に存在する経済的な格差も教育システムにそのまま反映されてしまう。」(p.44)
- 「いじめを蔓延させる要因:①市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じ込め、②逃げることができず、ちょうど良い具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。対策:①学校独自の反市民的な『学校らしい』秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。閉鎖空間に閉じ込めて強制的にベタベタさせることをせず、一人一人が対人距離を自由に調節できるようにする。」(p.99)
- 「筆者は『いじめ』という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組みとして用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理ー社会的な構造メカニズムを、探究すべき主題として方向づける概念として『いじめ』をもちいている。」(p.101)
- 「荒川氏によれば、自らの意思で結婚しない男女、すなわち『ソロ男・ソロ女』は約半数存在する。彼ら/彼女らは、『結婚に関して、女性は相手の年収や経済的安定は絶対に譲れないし、男もまた結婚による自分への経済的圧迫を極度に嫌う』という実利主義者ではある。」(p.118)
- 「格差婚:女性下降婚(ハイポバミー hypobami)・女性上昇婚(ハイパガミー hypergamy)・同類婚(ホモガミー hypobami)」(p.123)
- 「家族の個人化:人は、国家や家族を選んで生まれることができない。つまり、家族は選択不可能であり、解消困難なもの。→ 家族という枠内で、家族員が個々に自己実現を目指す → 1990年以降、家族関係自体を選択したり、解消したりする自由が拡大『家族の本質的個人化』→ 死後離婚・婚姻関係修了届」(p.162)
- 「国際赤十字・スフィア基準『人道憲章』Sphere 災害や紛争の被害者には尊厳ある生活を営む権利があり、援助を受ける権利がある。被災者への支援については、第一に被災した国の国家に役割と責任がある。」(p.174)
(2025.3.2)
- 「白夜」ドストエフスキー著 小沼文彦訳 角川文庫(ISBN4-04-208702, 1958.4.15 初版発行、1987.11.30 56版発行)
紀伊國屋書店。表紙裏「ドストエフスキーには苛酷な眼で人間性の本性を凝視する一方、感傷的夢想家の一面がある。ペテルブルクに住む貧しいインテリ青年の孤独と空想の生活に、白夜の神秘に包まれたひとりの少女が姿を現わし夢のような淡い恋心が芽生え始める頃、この幻はもろくもくずれ去ってしまう。一八四八年に発表の愛すべき短編である。」とある。ドストエフスキー(1821-1881)が、1848年『祖国雑誌』12月号に発表したと、訳者あとがきにある。また、ドストエフスキーがいかにデリケートな愛情をもった抒情詩人であったかを、われわれに、あますところなく示してくれる愛すべき小品であり、そのテーマは彼が終始愛してやまなかった『空想家』の生活記録であるとも描いている。正直、わたしには、苦手な分野だが、『空想』は、文学の一つのジャンルなのだろう。以下は備忘録:
- 「彼がとうとう姿を見せず、二人が待ちぼうけをくわされたことがわかったとき、その彼女は眉をひそめ、急に怖気づき、妙にびくびくしはじめたではないか。彼女の動作の一つ一つ、その言葉のすべては、もやは前ほど軽快でなく、軽妙さと明るさを失ったものになってきた。そして、不思議なことに、彼女は私に対して以前に倍する注意を払うようになったのである。それはまるで彼女が自分で自分に望んだもの、もしも実現しなかったらと彼女自身が恐れていたものを、本能的に私になにもかもぶちまけたいとしているかのようだった。私のナースチェンカがすっかり怖気づき、おびえきってしまったところを見ると、どうやら彼女は、私が彼女を愛していることにやっと気がつき、私の哀れな恋を気の毒に思ったらしいのだ。そうだ、われわれは自分が不幸なときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ。感情が割れずに、かえって集中するのである‥‥。」(p.71-72)
(2025.3.7)
- 「創立25周年記念 リベラル・アーツとは何か」山田耕太・八木誠一・阿部謹也・大口邦雄・絹川正吉・北垣宗治著 敬和カレッジ・ブックレット No.21(2015.9.15 発行)
出版情報・目次。敬和学園大学の金山愛子学長先生からメッセージ付きでいただいた。ICUに勤めたこともあり、長らく考えてきたトピックであり、著者に名を連ねるお二人は、専門も同じ、ICUの学長経験者でよく存じ上げているので、講演内容も知っている内容もあった。また、大学教育についても、学内外で講演してきたこともあり、基礎知識はある程度あったと思う。しかし、これだけの著者のブックレットの存在は知らなかったし、基本的に講演集ではあるが、内容としてもよくまとまっていると思う。リベラル・アーツカレッジについて考える、基礎を与えるものだとも思う。正直にいうと、現在のわたしは、いろいろな意味で、このような内容を語れないが。以下は、備忘録:
- 「我々は個人の経験だけではあまりにも人生経験を知らなすぎるのです。身の回りのことしかわからないからです。しかし文学は『人間とはどういうものだ』ということを教えてくれるのです。客観的に『人間とはこういうものだ、こういうことをするものだよ』と教えてくれるだけでなく、優れた文学は、読むと『ああ、人間とは、自分とは、こういうものか』と思い当たらせてくれるのです。非日常的な状況を設定して、さらに『こういうときに僕だったらどうするだろう』と考えさせてくれるのです。(八木誠一)」(p.25)
- 「ローマの末期、無実の罪で獄に繋がれたポエティウスという人が『なぜ自分は死刑になるのか』ということを考え出すわけです。(中略)いろんなことを考える中で夢の中に哲学の女神みたいな人が現れまして、そこで導かれて彼は自分の生涯というものを総決算する。それが『哲学の慰め』という本で、つまり自分が死を前にして自分の死に至る短い人生を納得する行為から生まれた書物なのです。(阿部謹也)」(p.49)
- 「『いかに生きるべきか』という選択は、日々ある、毎日ある、ということ。毎日ある中で自分の行動を決めていく。それが即、教養の元であって、そういう生き方をしている人間を『教養のある人』というのだと私は考えます。(阿部謹也)」(p.61)
- 「リベラル・アーツと外国語とは、関係がないと思われるかもしれませんが、どうしてどうして、私は大いに関係があると考えています。なぜなら、ゲーテが言ったように、一つの言語をマスターするということは、一つの世界を獲得することだからです。(北垣宗治)」(p.142-143)
- 「エマソン『アメリカの学者』:考える人とは、彼自身の知的能力を駆使することによって考え、生き、そして自らの生活を向上させる(ひと)。ハワード・ノストランド:(リベラル・アーツ教育は)職業教育とは別に、個人を全体的に開発することを意味する。彼の人生の目的を陶冶し、感情の反応をみがき、物事の本質を現代の最高の知識に照らして理解する力を養うことなどが、これにあたる。チャーチル:大学の最初の義務は、職業ではなく智恵を、専門技術ではなく品性を教え込むことである。ホイットニー・グリスワルド:リベラル・アーツの目的は、個人がおのおのの選択するキャリアに入る前に、そのキャリアに可能な限りの知性、精神的能力、判断力、そして特性をもたらすことができるように、知的・精神的な力に目覚めさせることである。(北垣宗治)」(p.145-146)
- 「チャールズ・コール:あらゆる教育は自己教育である。(北垣宗治)」(p.149)
(2025.3.8)
- 「カタツムリの知恵と脱成長 - 貧しさと豊かさについての変奏曲」中野佳裕著 コモンズ(ISBN978-4-86187-142-9, 2017.11.5 初版発行)
出版社情報・目次。著者からいただいたが、なかなか読む時間がとれなかったが、脱成長は、以前から考えてみたかったので、ちょっと時間があいたときに、手に取った。正直、興味深い記述が多かったが、同時に、実際に脱成長に取り組むには、氏がさけている、マクロ経済学とも取り組まないと、ローカライゼーションと呼ぶものの、ある規模を越さない、かつ時間的にも、比較的短い期間での議論しかできないように感じてしまった。おそらく、だれも解をも、普遍性のある案もまだ知らないのだろう。社会学的な視点と経済学的な視点を融合して考えることは、AI などの発展のなかで、少しずつ可能になっていくのかもしれない。多くの指標を扱うことができるようになっては来ているので。今後の氏の活躍に期待したい。以下は備忘録。
- 「私の学問研究は、構造主義以後のフランス現代思想や文学理論を政治経済学/開発学に応用するところから始まった。なかでも、セルジュ・ラトゥーシュの思想からは多大な影響を受けており、現在では、経済や開発の問題を認識論の問題として研究している。」(p.6)
- 「二つの社会的病理:世界に対する無関心を貫く個人主義、 閉鎖的で排他的な共同体主義」(p.7)
- 「レオ=レオニ:せかいいち おおきな うち」(p.12)
- 「レオ=レオニ:わたしは絵を描くといおうのが大好きですが、それはものを見る方法を学んだからできることなんです。ものを見る、ということは、ものごとの中にある意味を読み取ることなんです。」(p.13)
- 「『成長の限界』を出版した 1972年当時、わたしたちは文明崩壊のシナリオと安定的均衡のシナリオを提案したのですが、振り返ると人類は文明崩壊のシナリオをたどっており、案的的均衡に至るのは困難な状況になっています。」(p.23)
- 「この非暴力の平和主義者にとって、豊かな社会とは、より多くの富や商品に満たされる社会ではなく、社会に暮らす民衆一人ひとりの自由と自治が実現する条件を成熟させることにほかならない。それゆえ彼は、英国の植民地主義に虐げられた民衆一人ひとりの潜在能力を引き出す学び(ナイ・タリーム)を提唱し、その手段として、伝統的な手紡ぎの糸車(チャルカー)の普及を通じた貧困層の経済的自立を推進した。」(p.25)
- 「経済統計は、貧困状態を否定的にしかとらえられず、そこでは貧者が作り出す生の形態や、言語、運動、革新をもたらず能力といったものは、評価されない。私たちが、挑むべき課題は、貧者の生産性と可能性を力能へと転換するための方途を見出すことである。」(p.64)
- 「フランス語で globaliser という動詞は、『全体化する』という意味があり、globalisati on は『市場経済によって全体化する』という含意を帯びる。そのため、当時のフランスの左派系知識人(エマニュエル・トッド、アラン・トゥレーヌなど)の中には、英語圏か輸入された globalisation と二十世紀初頭からフランス語に存在する mondialisation を区別して使う人もいた。前者は、いわゆる『グローバリゼーション』のことで、市場経済の地球規模での拡大を意味する。後者は、多様な文明・文化の交流によって『一つの世界』という意識が地球規模で共有されるようになることであり、『世界化』と訳される。ただし、現代では、英語のグローバリゼーションの直訳としてフランス語の、mondialisation を使うことが慣例化している。」(p.91)
- 「ローカリゼーションの潮流は多岐にわたり、一つの中心点に収束されるものでもなければ、なんらかの統一的な全体として固定化されるものでもない。多様な実践と理論が世界同時多発的に発生し、インターネットや国際的なフォーラムを通じてノウハウを共有かしながら、絶えず生成変化を続けている。ローカリゼーションの多様な社旗的実験は、それぞれの地域の文脈に立脚しながら市場経済のグローバル化の正統性を否認し、脱中心的な草の根のネットワークを地球規模に広げてきた。それらは規模と数から見ればまだ少数派ではあるが、地球環境破壊や度重なる経済・金融危機によって人類の生存基盤が脅かされている現代において、革新的な地域づくりのモデルを提供することに貢献している。」(p.125)
- 「したがって、二十一世紀において構築すべきは、ローカリゼーションの多様な動きの全体像とその可能性を理解していくための新たな認識論(エピステモロジー)だ。私は本書の制作過程でこの問題について思考実験を続けた結果、レオ=レオニの作品『スイミー』の中に想像力の源泉を見つけた。」(p.127)
- 「人名解説:Hannah Arendt (1906-1975), Francis of Assisi (1182-1226), Aristotle (384BC-322BC), Ivan Ilich (1926-2002), Simone Weil (1909-1943), Arturo Escobar (1952-), Gustavo Esteva (1936-), Cornelius Castoriadis (1922-1997), ARbert Camus (1913-1960), Mahatoma Gandi (1869-1948), Andre Gorz (1923-2007), Edward W. Said 1935-2003), Wolfgang Sachs (1946-), Boaventura de Sousa Santos (1940-), Vandana Shiva (1952-), Ernst Fredrich Schumacher (1911-1977), Luis Antoine de Saint-Just (1767-1794), Nicholas Georgescu=Roegen (1906-1994), Baruch De Spinoza (1632-1677), 玉野井芳郎 (1918-1985), Gilles Deleuze (1925-1995), 中村雄二郎 (1925-2017), Ashis Nandi (1937-), Antonio Negri (1933-), Lewis Hyde (1945-), Robert Putnam (1940-), Michael Hardt (1960-), Paulo Freire (1921-1997), Carlo Petrini (1949-), Rob Hopkins (1968-), Karl Polyanyi (1886-1964), Serge Latouche (1940-), Dauglas Lummis (1936-) 」(p.140-147)
(2025.3.13)
- 「知能とはなにかーヒトとAIのあいだ」田口善弘著 講談社現代新書 2763(ISBN978-4-06-538467-1, 2025.1.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。PodCast でこの本のことを聞き、正直、大丈夫かなと思って、最初は手に取らなかったが、著名な学者であることもわかり、自分の理解との比較が必要と考えて手に取った。AI のことをよくご存知で、機械学習なども十分使っておられる物理学者で、現在は、バイオ・インフォマティックスをされているかたが著者である。はっきり言って、強化学習(reinforcement learning)について(ことばは登場するが)ほとんど何も書かれていない。アーキテクチャーと、データと、それを結びつけるソフトウェアとして考えておられるようで、環境から情報を取り込んで、随時学習していくことについては、考えておられないようである。デミス・ハサビスなどの、強化学習は、まさに、決定論ではなく、随時、情報を得て進化させていく、学習をどのように、AI に取り込むかが重要で、だからこそ、完全情報ゲームなどにおいては、データなしでも、十分な振る舞いができるようにしている。さらに、このことによって、AI のパフォーマンスが、予想できない振る舞いをする場面が増えてきて、それが、制御不能になるのではないかと懸念される根拠となっていることも、十分考察されていないように思われる。自律ということをどう定義するかは別として、まさに、自律系であるように、見えてしまう学習が、随時行われるシステムによって、問題が解決していく状態が、もしかしたら人間が制御できなくなるかもしれないと思わされるのであろう。実際には、まだそこには至っていないが。むろん、この方の考え方をわたしが、十分理解できていないことが多々あるのだろうが。Hinton の懸念のもとにあるいくつかの根拠や、Hassabis の、P = NP に関する、制限された条件下での予想などを、深いレベルで理解しないといけないと思わされる。以下は備忘録:
- 「知能 inteligence は高度な抽象的思考能力、学習能力、新しい環境への適応能力と関係する高次認知機能の総称と言われているが、明確な定義はない。(前川喜平著『高次機能ー知能の発達』)」(p.28)
- 「脳のどの部位が何をしているのか?という場所と機能の関係付が、精緻化されただけであり、ここまできてもまだ、実際に脳がどのように働いているのか解明には程遠いのが現状である。」(p.33)
- 「人工知能研究が始まった当初は、難しいのは高度な知的作業、例えば、チェスで人間が勝つ、などだと思われていたが、実際に研究が進むと難しいのはそこではなく、人工知能に『常識』を持たせることだということが判明した。いわゆる『モラベックのパラドックス』であり、高度な知性に基づく推論より本能に基づく行動スキルや知覚を身につける方が難しいということを意味し、1980年代にハンス・モラベック、ロドニー・ブリックス、マービン・ミンスキーが提唱した。」(p.47)
- 「身体性人工知能は現実からの情報を直接人工知能に取り込もうとしたが、言語の基盤モデルの成功が明らかにしたことは、人工知能に学ばせるべきだったのは現実の情報そのものではなく、人間の脳というフィルターを通して言語化された情報のほうだった、ということである。」(p.79)
- 「単語(トークン)の位置関係を学んだだけの言語の基盤モデルが、従来、人口知能研究が目指してきたパフォーマンスを実現してしまったのなら、その理由は二つしか考えられない。1. 単語の地図を作る過程で知能というものをなぜか獲得してしまった。2 我々が知的な作業だと思っていたものは別に知能などなくても実行可能なタスクだった(我々はそれを知能を使ってやっているにしても)」(p.81)
- 「寺前:特に興味深いことは、これら実験技術の急速な向上によって明らかにされた脳の知見は、多くの点で最新のディープラーニングを含む人工ニューラルネットワークの動作様式とは整合していない」(p.111)
- 「ここでファインチューニングは実際に機械学習の『中身』を変更することを言い、プロンプトエンジニアリングは入力である問いを工夫することで出力が望み通りになるように調整することを言い、概念も方法も全くことなた別手法である。」(p.114)
- 「生成AIは現実と見まごう会話や映像を作り出すが、それは決して内部に同じ現実を実現しているということではなく、計算機で扱えるような、しかし、現実をかなり正確に再現できるシミュレーションを作成しているに過ぎないのである。」(p.131)
- 「物理学者が生成AIの成功に至れなかった、もう一つの理由は、物理現象をシンプルな方程式や法則で説明しようという志向のようなものがあり、『世界は単純な少数個の法則で書けるはずだ』というお思い込みが働いたからだろう。」(p.132)
- 「生成AIは非線形非平衡多自由度系に起源を持つ世界シミュレーターとみなすことができる、というのが本書で私が主張したいことであった。」(p.182)
(2025.3.16)
- 「はじめての機械学習 - 中学数学でわかるAIのエッセンス」田口善弘著 BLUE BACKS B-2177(ISBN978-4-06-523960-5, 2021.7.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。同じ著者のAIの本を読んだので、こちらも読んでみた。いろいろと物足りなかった。中学数学でも、最小二乗法は説明できるだろうし、おはなしで、雰囲気を伝えようとしているが、どの程度の人に伝わるかは不明、かつ、ジェンダー的にも少し問題を感じた。第6章の、正しいって何?は、Sensitivity(感度:真陽性率)と Specifisity (特異度:真陰性率)の Trade Off から、AUC のところを、文化的な違いも用いて説明していて、上手に書かれていると思った。正直にいうと、最後の量子計算機の部分は、さっと読んだだけではよく理解できなかった。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(p.57)は、そうかなとも思うが、歴史について、語れるかは、難しいなとも感じている。
(2025.3.22)
- 「砂時計の科学」田口善弘著 講談社学術文庫2849(ISBN978-4-06-538267-7, 2025.1.14 第一刷発行)
出版社情報・目次。『砂時計の七不思議』が原本。田口善弘氏著作で、有名なものが講談社学術文庫として出たということで、読んでみた。著者は、日常現象を6人の物理学者が語り合う名エッセイ集『物理の散歩道』ロゲルギスト著と似ているという。わたしは読んだことがないので、わからないが、ファラデーの『ろうそくの科学』は、著者も引用しているが、雰囲気が似ていると思った。粉粒体という、あまり考えたことがなかったものに焦点をあてて、書かれている。科学と宗教の見方については、さすがに、神について、ほとんど理解がなく、残念だったが、物理学が扱えるものがとても限定的だということを、明快に書いてくださっており、共感を持った。数学はもちろんそうだが、物理学も理解するということに軸足を置くと、ほとんど、先へ進めない。しかし、AI などの発達で数値計算で、現象をある程度特定することはできるということにも、納得がいった。今後、学問は、それぞれどのように進んでいくのだろうか、AI による、研究分野における革命は、正直どのようなものになるのか、予測がつかない。20年後ぐらいには、大きく変わっているのだろう。以下は備忘録:
- 「粉粒体の粒子の大きさの制限:(1) 全体の大きさ(たとえば容器)に比べて粒子の大きさが小さすぎない。(2) 個々の粒子の大きさが粒子の速度に比べて小さすぎない。」(p.6-7)
- 「ホッパーの七不思議:(1) ホッパーの側壁にかかる圧力はホッパー内の粉粒体の量によらない。(2) ホッパーの粉粒体を貯めておいてホッパーの出口を開けると、出口付近に大きな圧力がかかる。(3) 粉粒体が流れ出る速さは、出口の直径の2.5乗から3.0乗に比例する。(5) 粉粒体が流れ出る速さの時間平均はホッパー内に残っている粉粒体の量に無関係である。(6) 出口にパイプをつけると粉粒体が流れ出る速さが増大することがある。(7) 出口の直径が粉粒体の直径の6倍以下の時は、粉粒体は、流れ出ない。」(p.18)
- 「マリオットの器、水時計」(p.21)
- 「西森・大内:転がりと跳躍のモデル(論文)」(p.57)
- 「もし生命が原始地球の海で生まれたとするなら、最初は水の中に様々な原子や分子が溶けた一様な『生命の素』スープがあったはずである。そこから、ある日、一様性が崩れて、ある物質がある場所に集まって生命を作り上げたのだろう。これは、偶然だろうか。たまたま、神がトランプきっているときに、赤い札が10枚くらい続けて並んだだけだろうか。そうでは無いかもしれない。粉粒体のような単純なものですら、エントリピー増大則に逆らって、粗い粒子と細かい粒子が別れるという現象を起こす。しかsも、これは、必ず起こることで偶然ではない。だから、もっと複雑そうな、原始の海で、ちらばっていた原子があるところに集まって生命を作り上げるという、一見、エントリピー増大の法則に反するような『偶然』が『必然的』に起きる仕組みがあっても良さそうな気がするではないか。」(p.108)
- 「電磁気学の創始者の一人であり、また、彼の執筆した科学啓蒙書『ロウソクの科学』は今も広く読まれている。ファラデイほどの偉大な物理学者に論文(1832年粉粒体について)を書かせるほどの興味を抱かせた現象とは何だったのか。」(p.139)
- 「物理学者が理解ができるもの:(1) 物質主義的に理解できる単純な場合。(2) 要素間の相互作用が問題になる場合は (a) 熱平衡状態とその近く。(b) 散逸構造の中でも(エネルギーの出入りのバランスが取れている)単純なもの。」(p.181)
- 「自分たちが作った環境の中で毎日暮らしていれあ、わかっていることばかりなのは当然である。環境から一歩外に出れば、本当はわからないことばかりである。逆にいうと、わからないことばかりだから環境破壊が問題になるのである。そういう違ったものを自然環境の中に作り上げ、しかも、どんどん広げていけば両者の間に軋轢が生じるのは当然である。そいういう違うもの同士のせめぎ合いを、人間が『環境破壊』と名づけているだけである。『人間が増えれば環境が破壊されるのは必然』という意見があるがこれは間違っている。人間の作る環境が自然と大きく異なっているからいけないのだ。物理学者が自然法則の大部分を理解しているなら、人間の作る環境は自然のあるがままの姿と変わりなく、環境同士のせめぎ合いもなく、したがって、環境破壊もない。人間は、このまま快適に暮らしたいが、自然も壊したく無いというならば、もっと、賢くなるしかないのである。」(p.183)
- 「『計算できるが理解できない』という状況は、比較的最近生じてきた。それまでは、だいたい、因果関係が明確なものしか扱っていなかった。(中略)『台風はどう進むか』はある程度計算できるだろう。しかし、因果関係はわからない。」(p.190)
- 「生成AIの中をよくみてみたら、現実の物理法則や、人間の大脳の機能と同じになっていました、という形で現実を生成するシステムは唯一無二だったとわかるという可能性はなくはないが、おそらくそんなことはない。そうなると、重力制御装置やタイムマシンとはいかないまでも、いろいろな意味で作るのが不可能だったりあるいは難しかったりするもの(たとえば、常温常圧超伝導とか、量子コンピュータとか、核融合とか)の解決策や設計手順が生成AI によって提示されてしまって実現する未来、というものぐらいはあり得るかもしれない。それが僕が予測する今後の科学の行く末である。」(p.213)
(2025.4.1)
- 「今は、つぐないの時 - 日本兵を父に持つ南の島の三万余の子らへの愛の記録」加藤亮一著、聖文舎(1975.12.10 発行、1981.1.20 2版)
本書を読むのはおそらく三回目だが、若い頃に読んだ時とは印象が全く異なった。恩師とも言うべき、加藤師であるが、周囲から、さまざまな批判も出ていた中、東南アジア文化友好協会の働きのため、政界・財界や海外要人との関係を大切にすることに対する、批判的な目も、私が若い時には、あったのだろう。視点が狭くなってしまっていたことは、ある程度仕方がないとは思うが、高校・大学時代、東京池袋教会と同じ建物の東南アジア学生寮に住んでいた、知っている名前が3分の2ぐらいだろうか、そんな一人一人の背景が書かれているにもかかわらず、積極的に、その一人一人と交流できなかった自分の幼さをかえりみてしまう。少なくとも、信仰の兄とも慕う、現在の、東南アジア文化友好協会の理事長とは、ゆっくり話す時間を作りたいと思う。正直、自分に、何が欠けていたのかよくわからない。以下は備忘録:
- 「蜂窩織炎(ほうかしょくえん)皮膚や皮下組織に細菌が感染して炎症を起こす病気」(p.8)
- 「わたしは牧師であったが、身分は奏任官待遇の海軍嘱託で、海軍少佐相当官であったため、食料事情が悪いとは言え、まだ、かなりの配給を受けていた。→リマ(五人)テーブル」(p.11)
- 「神さま、もし加藤がこの死の病床から再び立ち上がることができたましたら、このサパルアの人々の愛に報いるために、わたしの残る生涯をインドネシアの人々のためにささげます。どうかこの重い病気をいやし、神様の器としてお用いください。」(p.15)
- 「戦争によって生命を失った者に思いを馳せる人は多い。しかし戦争によって生命を授かった者に、思いをめぐらす人は少ない。人々は被害者として訴え続け、加害者として省みることがすくなかった。つぐないのあかしをたてよう。」(p.23)
- 「わたしはたびたびインドネシアを訪問して、不幸な戦争の落し子たちの実態調査をしているうちに、多くの無国籍の子供が、その中にいることを発見して驚いた。これは、子供が浮かれて間もなく母親が死亡し、その時身近な人たちが戸籍の届けをしなかったことや、母親の無知、または母親が中国系であるため、いろいろな社会的、人種的制約を受けていることなどによることがわかった。特に日本の憲兵や海軍の特警隊が現地民にひどいことをした地域では、終戦後反日感情が強く、そのため、日本人との間に生まれた子供をひた隠しに隠して、そのまま届けなかったケースが特にスラウベシーやカリマンタン(ボルネオ)等の外領方面に多かった。」(p.56)
- 「その中で、わたしが一番心を打たれたのは『インドネシアでは、戦争中に日本人の子供を持ったインドネシアの母親たちは、ほとんど”捨て子”をしなかった』ということである。」(p.69)
- 「『翼の影』日本語訳・コルベ文庫」(p.81)
- 「ドロシー・マバキアオ:『新しいアジアのしあわせは、いとちいさい者への愛と奉仕から』という教えこそ、財団学生寮の指導精神であることが、身に染みて理解できるようになりました。(マルコ10:43-44)」(p.160)
- 「日本人のだれもが東南アジアの旅をして一様に痛感させられることは、目をおおうばかりの貧困と救い難いような未開発性ではないだろうか。その最大の原因の一つは、労働をきらい、ことにきたない仕事は下級階層者の仕事という根強い考えからきていると思う。」(p.187)
- 「それはアジア人として生来勤勉だったかれらに怠惰を教え、天然資源の豊富な彼らに贅沢と奢侈とを学ばせながら、長い植民地政策の圧政のもとで、完全に彼らの民族の骨を抜き取ってしまった。勤勉、誠実、従順、そしておおらかなアジア人の本来の美風を、根こそぎ剥奪してしまった西欧植民地主義の貪欲さに、わたしはアジア人の一人として強い憎しみを抱くとともに、知らず知らずの間に第二の習性として飼育されてしまった東南アジアの人々に深い同情を禁じ得ない。」(p.188)
- 「わたしは東南アジアを貧困と未開発性から解放し、西欧植民地主義の過酷性と悪魔性を克服するには『信行一致の土下座精神』からくる精神革命より他にないと思う。まず日本人のわたしたちが、この『信行一致の土下座精神』に徹して、東南アジアの人々に最前の奉仕をしなければならない」(p.189)
(2025.4.6)
- 「21世紀のリベラル・アーツ」月本昭男、スティーブン・リーパー、山本精一著 敬和カレッジ・ブックレット No.26(2025.4.1 発行)
出版情報・目次。講演時に、金山学長からいただき、講演後の新幹線の中で読んだ。「旧約聖書の現代的意義『エデンの園の物語』にみる人間観」「第三次世界大戦を回避するために」「リベラル・アーツが目指すもの」の三つが収録されている。それぞれ興味深いトピックではあったが、学生さんには、やはり、難しいのかなと思った。自分も話した後だと、ますます、第三者的に感想を書くことはなかなかできないが、なにを語るのかは本当に難しいとも感じた。同時に、このような冊子が、少しずつ刊行されているのは素晴らしいとは思う。有効に活用されることを祈る。以下は備忘録。
- 「人間は誰しも、男も女も、神の似姿として造られている、という主張が、今日の『人間の尊厳』という基礎になりました。」(p.4)
- 「ポール・トゥルニエ先生のところに、10代後半の女性がやってきました。レイプでこどもをみごもされ、堕胎の相談に来たのです。トゥルニエ先生は原則として堕胎に反対の立場でした。でも、この女性の場合、レイプによって身ごもされたのです。父親になるはずの男性が誰があるかわからない。女性は、まだ経済的にも子どもを育てるに十分な力がないだけでなく、母親になるには精神的にも幼すぎるようである。そうみたトゥルニエ先生は、堕胎やむなし、と判断しました。ところが、その女性が診察室を出て行くときにトゥルニエ先生は、ふと、万が一、あなたが子どもを出産するとしたら、どんな名前をつけるでしょうね、と聞いたのです。すると、その女性は、しばらく、じっと佇んでから『先生、私こどもを産むことにします』と答えて部屋をあとにしたというのです。トゥルニエ先生は非常に驚き、そのことを忘れ難い経験として、文章に残しました。」(p.18)
- 「今の世の中は(中略)数人が喜び、たくさんの人が苦しむ世の中だということです。それを変えないといけない。それを変えたいという気持ちはすでに『平和文化』です。『戦争文化』では、自分のために競争するわけですね。ちょっと心を広くして、自分の家族とか、自分のチームとか、自分の学校のためとか、自分の会社のためとか、自分の政党のためとか、そういう競争原理で成り立っているのが『戦争文化』です。戦争文化は、全人類が幸せになるためには、どうすればいいか。あるいはこの地球そのものをどう守ればいいかということを考えるのは不可能です。なぜかというと、ライバルがいなければ、戦争文化の競争原理が働かないからです。競争が基本になっているのです。それに対して、平和文化では、すべての人間のことを考えないといけないのです。対立すれば、その解決策を見つけようとするときに、当事者全員が納得して、『これでいい』『これぐらいでいいんじゃないか』と、そこまでみんながかんがえるところまで解決策を探すのが基本です。勝ち負けということはないです。みんなが、みんなで勝つというのが平和文化の意味です。」(p.35)
- 「鶴見俊輔という日本人学生が彼女(ヘレン・ケラー)の講演を聞きに行ったときに、ヘレン・ケラーは彼女自身の学生時代を振り返って次のように語ったというのです。『私は大学でたくさんのことを学んだ(learn)。けれども、それから後たくさんのことを学びほぐさなければ(unlean)ならなかった。』」(p.68)
(2025.4.14)
- 「あなたもクリスチャンにーもったいない食わず嫌い」矢澤俊彦著 小冊子152頁
何度もお送りいただいている、鶴岡の荘内教会牧師の著者の私費出版の小冊子。わたしもこのような思いがあるが、こどもたちにすら、直裁には言えない。現在の状態を感謝し喜んですらいる。使命としても書かれているが、やはり難しさも感じる。表題からも、どうしても、上から目線のようなものを感じてしまうからか。イエスはどのような方だったのだろう。大工で、おそらく、中産階級ぐらいだろうか。しかし、かなり幅広く、さまざまな人たちに語り、心を惹きつけてもいるが、やはり、その必要を感じている人に、そのひとの目線にあわせて、メッセージや救いを届けているようにも感じる。社会的地位ではないが、すくなくとも、その痛みや苦しみと共におられたことは確かなのではないだろうか。わたしには、このようなものは、書けない。以下は備忘録:
- 「ある牧師さんの言葉で、信仰というのは一種の自殺だということ。びっくりしました。それはどいういう意味、信仰はこの世に絶望しないと持てないというのです。つまり、自殺するか、信仰にかけるか両者とも自分とこの世の全てを捨てることに共通性があるというんです。」(p.33)
- 「生まれて間もない赤ちゃんの笑顔や機嫌のよさは、自分でその気になったのではなく、実に母親の笑顔や機嫌のよさを受けてのこと。すなわちそれは、『赤ちゃんの業』ではなく『母親の業』なのです。これと同様に私たちを救うのは、自分が騒いで発見するものではなく、私たちに働きかける『神の業』なのです。これは、徹底して受動的なもので、私たちが乳児への母の愛を受けるように、神様からの働きかけを受け取る時、死んでいた私たちのよみがえりが始まるのです。(赤星進著『精神医学と福音 下』 246-252頁)」(p.34)
- 「シトワイヤン(近代的市民)のための広場(鈴木直):もちろん専門家であれば、専門的知識をその場に提供すればよいでしょう。お金に余裕のある人はそのお金を、時間に余裕のある人はその時間を、そして何も人に誇るものを持たない人、何一つ人に分け与えるものを持たない人は、自らの苦しみを、自らのうめき声を、自らの沈黙を、そこに提供すれば良いのです。」(p.82)
- 「キリスト教が様々な批判に応えて、この宗教がある特定の文化や地方的な parochiral(視野の狭い, 偏狭)なものでなく、人類普遍のものであることを明らかにする必要があります。」(p.111)
- 「島崎藤村:基督教会で説かれることは、吾々から考えるとあまりに明るすぎる。光明のみでありすぎる。それではもの足らない。真の慰藉(なぐさめ)なるものは、寧ろ暗黒にして且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相といふやふなものは、その光景の多くは努力の苦痛と浪費の悲哀とに満たされたものかと思うるに光明ある言葉は、寧ろ聴衆を失望させるばかりである。」(p.120)
(2025.4.18)
- 「ユダヤ人の歴史-古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで」鶴見太郎著 中央新書 2839(ISBN978-4-12-102839-6, 2025.1.25 第一版第一刷発行)
出版社情報・目次。ユダヤ人の歴史と表題がなっており、興味をもって手にとった。著者の捉え方としては「周囲との差異が目立つ状況で自集団を維持するには、どのような方法があるのだろうか。孤立すると先細りしかねず、周囲に合わせすぎると、そのうち同化して集団が消えてしまうかもしれない。そこで重要なのが、周囲と自集団がお互いの特徴を維持しながら共栄する組み合わせを見つけることである。」(p.57)があるように見える。むろん、非常に複雑である。わたしの学んだことも、さまざまであるとしか言えない。最後には、むすびとして、ヴォロディミル・ゼレンスキー、ベニヤミン・ネタニヤフ、エレナ・ケイガンについて、例のように語られている。今につながるユダヤ人の歴史ということだろう。ただ、ある程度、英文の参考文献が上がっているものの、本文中には、ほとんど引用がなく、日本人のものからの引用に偏っていることが気になった。一般的には、日本人は、ユダヤ人問題に中立といわれるが、掘り下げれば、それほど簡単なものではないだろう。世界の違った立場のひとのものを、整理して、理解することも重要であるように思われるが、それは、ほとんど読み取れなかったのは、残念である。また勉強を続けたい。二度目もある程度読んだが、返却期限もあり、二度目は読み終えることはできなかったので、わたしの理解も浅いことは書き残しておく。
以下備忘録
- 「聖書考古学が専門の長谷川修一によると、今日でも世界史の教科書には1980年代以前の基準の名残りがある。教科書によっては、遊牧民であったヘブライ人が前1500年頃にパレスチナに移住して、一部がさらにエジプトにも移住したと記述している。『ヘブライ人』は他称であり、自らは『イスラエル人』と称していた。」(p.14)
- 「神から言葉を預かったという意味において、モーセは『預言者』とも呼ばれる。聖書にはさまざまな預言者が登場する。聖書学者の月本昭男によると、預言とは、非日常的な心理体験を通じて神音意思に触れ、それを人びとに伝えるという意味で、シャーマニズムの一形態である。古代から西アジアに存在し、今日でも世界中で見られる宗教現象だ。」(p.20)
- 「ユダヤ人は、ユダヤ人の母から生まれるか、もしくはユダヤ教に改宗した者と定義される。この定義もこの二つの側面に対応している。ユダヤ人の母から生まれれば、極端な話、他の宗教に改宗してもユダヤ人と定義しうる。現代イスラエルではこの点で国籍との関連で齟齬が生まれることがあったため、国籍法上は他の宗教の信者ではないことも条件とされるようになった。他方、非ユダヤ人も改宗可能ということは、血縁はなくても律法をまじめに遵守し、改宗が認められればユダヤ人と定義しうるのだ。」(p.22)
- 「律法の遵守に関しては、単にユダヤ人がそれを望んだだけでなく、ペルシャ帝国の側もそのように仕向けていた。というのも、ユダヤ人が作ったものであれ、ユダヤ人が法を遵守して生活すれば、ユダヤ人地域の秩序が守られるからである。重要なのは、王の作った法に従わせることではなく、彼らが反乱せずにおとなしくしていることなのだ。」(p.37)
- 「アケメネス朝のような大帝国に対してユダヤ人は絶対的な弱者であるものの、秩序を乱さないという帝国の秩序みださないという帝国の掟を守れば、自らの宗教共同体の自治が守られることをユダヤ人は学んだのである。このような組み合わせを理解したユダヤ人の生き方は、続くペルシャの諸王国をはじめ、ユダヤ史を通して、さまざまな地域で見ることができる。バビロン捕囚とその後のペルシャ帝国の支配がユダヤ教にとってもユダヤ人にとっても大きな転機となったと言えるのは、まさにこのような生き方が確立されたからである。」(p.38)
- 「律法が地上に与えられた以上、法の決定は地上の賢者に委ねられているとして、ラビ同士が徹底して議論をして決定すべきだというのが、初期から続くラビ・ユダヤ教の文化である。また、そのため、ラビ・ユダヤ教は、人間が議論できる範囲のことに限定をかける傾向がある。キリスト教とともにユダヤ教は創造論と終末論を基礎とする救済史歴史観を持つと説明されることがあるが、これはラビ・ユダヤ教には当てはまらない。『天上世界や終末世界など、人知の及ばない世界認識への知的活動は抑制され、現世内行為が極めて重視された。』からだという。(市川裕『歴史としてのユダヤ教ーユダヤ人であることからくる歴史意識』2004 (p140)」(p.65)
- 「ユダヤ教・イスラーム:初期を除くとユダヤ人とムスリムが協調する場合が多かったことを理解しておく必要がある。アラブ・イスラーム勢力にとっての最大の敵が、キリスト教を戴くビザンツ帝国と、ゾロアスター教を戴くペルシャ帝国だったからである。」(p.76,77)
- 「カリフを引き継ぐ形で、661年にダマスカスを首都とするウマイヤ朝が成立した(ちなみにこのときの後継者争いがもとで、スンナ派とシーア派への分裂が起きた)。このときから、非征服民の非ムスリムからジズヤ(当初は人頭税と土地税が一体だったが、同朝末期か人統税のみの意味になり、土地税はハラージュと呼ばれるようになる。)を取るようになった。それでも、イスラーム法の優越を承認したうえでジズヤを払えば自治が保障され、そこにユダヤ人がユダヤ人として存続する大きな余地が生まれた。」(p.78)
- 「ローマ時代もキリスト教に対して防戦を迫られることがあったユダヤ教は、イベリア半島では、イスラームからも論争を挑まれた。というのも、アラビア語圏で文化が発達することで哲学を含め宗教をめぐるさまざまな理論が争われたからだ。こうした状況下に生まれた特異な人物にモーゼス・マイモニデス(1135もしくは1138-1204年)がいる。ヘブライ語ではモシェ・ベン・マイモンと呼ばれるが、非ユダヤ世界ではもっぱらラテン語名のマイモニデスで知られており、ユダヤ史でも英語文献では、マイモニデスと呼ばれることが多い。ーマイモニデスは法を厳密に守ることが不可能な結果をもたらすのであれば、寛大な判断をすべきだとの考えを提示し、表向きは改宗し、秘密裏にはユダヤ教を守ることを示唆した。最終的には、迫害の地を離れ、信仰の自由がある土地に移住することをモロッコのユダヤ人に助言した。」(p.88)
- 「実際にファーティマ朝はユダヤ人に対しても寛容であり、マイモニデスは、同王朝が依拠した、シーア派のイスマーイール派の思想からも多くを学んだ。この派は聖典を字義通りどおりの意味に捉えるのではなく、比喩として捉え、その内面に迫ろうとする傾向を持つ。」(p.90)
- 「13世紀のユダヤ人の状況の悪化の原因(佐々木博光)第一に、それまで商業という営みが蔑視される傾向にあったために、ユダヤ人に任せることがむしろ好都合だったのに対し、次第に経済が発展し、キリスト教徒も商業に参入するようになって競合関係が生まれた。第二に、教会の腐敗を批判する傾向にあった修道会の運動、とくに托鉢修道会が十三世紀に生まれると、彼らは、タルムードに反キリスト教的な記述が溢れており、それが異端を生む温床だと避難するようになった。旧来の教会体制はユダヤ人をいわば『黙認』してきた。これに対して、民衆のあいだで説教を行う彼らは、高利貸しに対する非難を含む、反ユダヤ的な言説を流布するようになったのだ。」(p.106)
- 「マイモニデスのように、ユダヤ教の信仰を守るための手段として外形的に改宗する場合もあったため、単なる言いがかりとも言い切れない。このような状況から、近代に猛威をふるった人種主義の原型が生まれた。すなわち、ユダヤ人に生まれた者は、外形的にいかに変わろうと本質は変わらないとする考え方だ。」(p.110)
- 「この時代に反ユダヤ主義も変質していき、ポグロム(反ユダヤ暴動・虐殺)、そしてホロコーストという世界史上最悪の悲劇が生まれることになった。近世までは、キリスト教的伝統を背景とした金持ちないし特権階級への妬みといった意味合いがもっぱらだったのにたいし、近代、特に20世紀に入ると、西欧では貧しい移民に対する嫌悪、東欧では民族対立を意識した憎悪が顕在化していく。」(p.158)
- 「シオニストとなった動機:私はユダヤ教の基礎知識をほとんど持たない。私は教育によって自身のユダヤ性に到達したのではなくゲームのルールに縛られたくないという欲求によってであった。そのゲームでは、自分自身であること、自身が帰属する伝統や文化を知ることへの基本的な権利、同胞が暮らす国と連帯する権利を奪われていた。ソヴィエトの反ユダヤ主義とイスラエルの中傷が増すにしたがって、自然と、ユダヤ的なテーマは一層強く響くようになったが、私にとって、それは何より、市民権のテーマであった。あらゆる不公正への反抗である。」(p.240)
- 「このほかにもイラクやイラン、トルコ、イエメン、エジプトなどからも多く流入があり、1970年代までにイスラエルのユダヤ人口の半数が中東・北アフリカ系という構成になった。彼らは大きく分ければスファラディームに分類されるものの、次第に『東方系』を意味する『ミズラヒーム』と呼ばれるようになっていく。もともと、西欧ユダヤ人から『東方ユダヤ人』と蔑視されていた東欧系のユダヤ人も『東方』への蔑視は内面化していた。オリエンタリズムの連鎖である。」(p.258)
- 「女性も含めて肉体労働を行い、伝統的なユダヤ人のあり方を根本的に変えようとする自助主義のシオニスト社会は、ホロコーストで殺されたユダヤ人には冷淡だった。シオニストに従わず、自衛意識が欠如した先に訪れた破局であると見ていた。ホロコーストを生き延びるも、どの国も引き受けてくれなかった33万人が建国後のイスラエルに移住したが、彼らは沈黙するしかなかった。もちろん、深い傷ゆえであった。」(p.260)
- 「現在、ピュー・リサーチ・センターの調査(2020年)によると、アメリカ・ユダヤ人のうち、改革派(Reform)が37%、保守派(Conservative)が17%、正統派(Orthodox)が9%、その他が4% で、残りの32%は特定の派に属さないと答えている。若い世代ほど改革派が少なく正統派がおおくなる傾向があるが、これは若者の宗教回帰というよりは、正統派の出生率が高いからである。」(p.281)
- 「文化多元主義と一見似た概念に多文化主義がある。例えば、カナダでは、フランス語が支配的なケベック州はその配慮をカナダ全体に対して求め、現在では公的文書の英仏併記が義務付けられている。そのため、コストは国全体で負担するので、ケベック州が我が道を行くというだけの話ではないところが、多文化主義の核心である。格差を埋めあわせるための富の再配分の一環に、エスニシティを含める格好だ。」(p.283)
(2025.4.29)
- 「『ひとすじの道』よりー渡邉清の歩み」加藤愛美発行 清游会協力 [非売品](2024.9.25発行)
遠い親戚すじにあたることもありいただいた。構成的にはむずかしい種類の本だが、出版関係のお仕事をしておられることもあり、文章もよくこなれていて、よくできている。このような書が残されていくことは、親族にとってだけでなく、たいせつなことのように思われる。
(2025.5.3)
- 「『P≠NP』問題ー現代数学の超難問」野﨑昭弘著 講談社 BLUE BACKS B1933 (ISBN978-4-06-257933-9, 2015.9.20 第1刷発行)
出版社情報。深く関わっているのかは不明だが、Demis Hassabis が Nobel Prize Lecture で話していた 予想 “Any pattern that can be generated or found in nature can be efficiently discovered and modelled by a classical learning algorithm.” を聞いていて、「『P≠NP』問題」についても、理解しておきたいと思い手に取った。野﨑先生は、今年の1月に召された。いままで、何冊か野崎先生の本を読んだことがあったが、そのことも、この本を手に取った理由である。チューリング機械に加えて、非決定性チューリング機械の説明も加えて、P≠NP の問題を解説しており、今回、やっと問題をある程度理解したように思う。
- 「定義:Non-deterministic Polynomial time の略で、「非決定性アルゴリズム(Non-deterministic Algorithm)で、多項式時間(Polynomial time)で解ける」ことを NP という。」(p.164)
- 「定義:ある論理式Lが充足可能(satisfiable)であるとは、その式の中のすべての論理変数に適当な値(真・偽、1・0)を割り当てることによって、論理式 L 全体の値を真(1)にできることを言う。」(p.181)
- 「以下、指定された論理式の充足可能性問題(satisfiability problem)を、英語の最初の3文字をとって、SAT と略称する。」(p.182)
- 「定理(S.クック、1971年)あるNP問題 Q の任意の具体例αを、α のサイズ n のある多項式 F(n) で解く、非決定性チューリング機械 NTM が存在する場合、その NTM の動作規則表と、問題 Q の具体例から、次のような論理式 L を構成できる。(1) 非決定性チューリング機械 NTM が「問題 α に対して、答え YES を表示して停止する」必要十分条件は、その論理式 L が充足可能なことである。だから、「α に対する問題 Q の答えは YES か NO か」を知りたければ、「論理式Lが充足可能か、否か」を調べれば良い。(2) その論理式 L は NTM の動作規則表と具体例 α とから、普通の(決定性)アルゴリズムで、α のサイズの多項式時間で構成できる。当然 L のサイズ(記号数)も、α のサイズの多項式で抑えられる。なお、「非決定性チューリング機械 NTM の動作規則表のサイズ」は、問題の具体例 α のサイズに関係ない、定数である。(3) 論理式 L が充足可能であればそのことは、L のサイズの非決定性多項式時間(したがって、α のサイズの非決定性多項式時間)で判定できる。すなわち、L の充足可能性の判定は、NP に属している。事実1 もし、SAT が O に属していないなら、P≠NP これは、SAT に限らず、NP に属するすべての問題に言えることである。驚くべきことは、次の事実である。事実2 もし、SAT が P に属しているなら、P = NP。言い換えれば、P=NP であるための必要十分条件は、SAT が P に属していることである。」(p.183,184)
- 「ここから、自然に、SAT の性質を一般化した、次の概念が生まれる。定義 ある問題Q が NP 完全(NP-complete)であるとは、次の性質が成り立つことである。(1) Q は、クラス NP に属している。(2) クラス PNP に属しているどんな問題 X のどんな具体例 α も、ある一般的な手順で、問題 Q のある具体例 β に翻訳でき、その翻訳の手間は、α のサイズの多項式時間でおさえられ、しかも、α に対する答えが、 YES か NO かは、β に対する答えが YESか NO かにかならず一致する。事実2(拡張版)P - NP であるための必要十分条件は、ある NP 完全な問題 Q が、クラスP に属していることである。」(p.185,186)ハミルトン路の存在定理、部分和問題、三彩色問題はこのタイプの問題である。最後に紹介されていた三冊の本も、いずれ読んでみたいので、書いておく。[1] 丸岡章『計算理論とオートマトン言語理論』サイエンス社(2005年)[2] 西野哲朗『P=NP? 問題へのアプローチ』日本評論社(2009年)[3] 渡辺治『今度こそわかるP≠NP予想』講談社(2014年)他にも、ペレルマンによるポアンカレ予想に関する M. ガッセン『完全なる証明』青木薫訳(2009年)さらに、知識的には知っていたが、AKS 素数判定法 Agrawal–Kayal–Saxena primality test [リンク] も読んで見たくなった。
(2025.5.6)
- 「イスラエルの起源ーロシア・ユダヤ人が作った国」鶴見太郎著 講談社選書メチェ(ISBN978-4-06-521571-5, 2020.11.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。ロシアユダヤ人のシオニズムをさまざまな形で論じている。1世紀以降、ほとんど、19世紀末まで武器をとって戦うことをしなかった、ユダヤ人が、イスラエル建国で、明らかに、今までとは違う戦い方をしていることについて論じていると言っても良いだろう。建国よりもう少し前に起源があり、そのほとんどが、ロシア・ユダヤ人起源だとして、シベリアから、ポーランドに至る地域の、18世紀後半からの動きを、ヴィナヴェルや、パスマニクなどについて焦点をあてて論じている。序章の最初に引用している、ベギン(1989)は、印象的である。「世界は屠殺される者に同情しない。世界が尊敬するのは、戦うものだけである。諸国民は、この厳しい現実を知っていた。知らなかったのはユダヤ人だけである。我々は甘かった。敵がわれわれを意のままに罠にかけて殺戮できたのは、そのためである。」(p.14)「ベギンに限らず、シオニストは、武力による自衛を次第に重視するようになっていき、建国までに、強固な軍隊を作り上げていった。」(p.18)とし、著者は、武器を手にとったときが、敵を区別する最初としているが、これは日本人てき発想で、世界ではそうではないように思う。また、著者はユダヤ人の宗教観や日常生活には触れない。他の、多国籍にまたがる民族との相違を考えること、長期間ユダヤ人というアイデンティティを維持してきたことについて、むろん、多様ではあっても、他のグループなどと比較しなければ、わからないことが多いが、それはされていない。また、文献は読み込まれているが、日本語以外での論文が見当たらない。焦点を絞れば、国際的な議論もできるはずで、もう少し違った考えかたを考察して欲しかった。情報:現在、イスラエルの全人口約900万人のうちおよそ650万人はユダヤ人(ユダヤ教徒)、世界のユダヤ人はおよそ1500万人、うち、アメリカが600万人。シオニスト運動が始まる直前の1880年の時点で、パレスチナの人口は、324000人ほどで、そのうち、24000人がユダヤ人。正確には、ユダヤ教徒のアラブ人。以下は備忘録:
- 「国際関係論におけるリアリズム:(1) 集団主義(国際政治は国民国家単位で動く)(2) エゴイズム(個人や集団は自己の利益のために動く)(3) アナーキー(国際政治は無政府状態である)(4) パワー・ポリティクス(国際政治は安全保障についての政治に基づく)Reus-Smit and Snidal (eds) 2008」(p.30)
- 「内なる国際関係」(p.35)
- 「(1) 自己には複数の側面がある。(2) 複数の側面はお互い無干渉に同居しているだけとは限らず、相互に影響しあうことがあり、その成り行きによっては自己が全体として大きく突き動かされる可能性がある。」(p.42)
- 「ミハ・ベルディチェフスキー:我々は断片に引き裂かれている。一つの極では、異民族のなかでイスラエルの家を残すという危険を冒しながら、自らの心と精神を彼らに捧げ、自らの強みを異邦人に提供する。もう一つの極では、敬虔な人が暗い洞窟のなかに座って、神に命じられたことに従い、またそれを守っている。その間に立つ啓蒙家は、二つの顔を持つ。半分は、日常生活と思考において西洋的である。もう半分は、シナゴークの中で、ユダヤ的である。民族が崩壊しているなかで、我々の生活は分散してしまっている。」(p.48-49)
- 「コサック・アイデンティティ (1) ロシア国家への軍事的奉仕 (2) 伝統的なコサックの価値(ロシア正教、同志への敬意、規律など)(3) ソ連時代の非抑圧の記憶」(p.52)
- 「Passmanik 1923b 厳格だが正義に適った法的秩序、深い文化性、そして創造的な上昇が、反文化的な野蛮さによる現象にして破壊的な盲目さのなかの挿話になっているロシアを救うだろう。」(p.170)
- 「革命後早々、ボリシェビキとユダヤ人を同一視し、革命をユダヤ人の利益のための陰謀と捉える風潮はとりわけ白系ロシア人のなかに蔓延していた。(中略)ユダヤ教の特色 (1) 一神教 (2) 社会正義 (3) 国際平和 (4) 権力に対する精神の優越 (5) 幸福説 (6) 人間は罪深い存在であるという認識 (7) ナショナリズム(民族性の尊重、多様性の擁護)」(p.172)
- 「シェヒトマンの認識 (1) ポグロム加害者とウクライナ農民の区別 (2) 白軍ロシア人以上に、コサックの登場回数が圧倒 (3) カデットなど多くの進歩派を含めて『大ロシア人』(=エスニック・ロシア人)はユダヤ人に対して冷淡 (4) 当局の取り締まりは不十分で、ユダヤ人に冷淡か敵対的。」(p.200)
- 「シェヒトマン:(1) パレスチナにおけるユダヤ人の民族的本拠地の建設 (2) ユダヤ人のその地への自由な移民」(p.201)
- 「ブルックス:パレスチナについて言えば、現時点において、この小さな国が、独立国家をつくるための文化的な力も、遊牧民を追い出すための物質的手段も持っていないことは誰の目にも明らかである。イギリス人自身は、定住のための人も資本も、また防衛のための手段も置こうとはしない。彼ら(イギリス人)は、反文化的な勢力が望むままに、シオニストの妨害をし、その結果、他の定住した文化的な人口を殲滅しかねない不埒な集団が現れている。」(p.203)
- 「18世紀の終わりにかけて発達したスペイン領アメリカ誌は、自らの地域と同じような地域における地方民(provincials)を大いに意識して書かれた。メキシコシティやブエノスアイレス、ボゴタの新聞記者は互いの新聞は読んでいなくても、互いの存在を非常によく意識していた。かくして初期のスペイン領アメリカ・ナショナリズムではお馴染みの、交互に行き交う壮大な広がりと特殊主義的な地方主義の二重性が成立した。」(p.244)
- 「極東から支援を行うことで、パレスチナのユダヤ社会が発展する姿を眺め、それをロシア語で伝えることによって、シベリアのユダヤ人が歓喜するのを知り、自らがユダヤ・ネットワークの一角を占めて、特定の役割を果たしていることを自覚する。シオニストにとってのそのような好循環が生まれていたのだ。」(p.245)
- 「ここで注目すべきは、彼らシオニストは、代わりに別の民族的(例えば移住先のドイツなど)を内面化することもなかったし、パレスチナの土着的なものを取り入れる気もなかったということだ。つまり、彼らの自己の中で、民族的なものはユダヤ的なものに一本化されたままで、それが規定路線となった。異なる側面と相補的につながることで生きていくというあり方にはここで終止符が打たれ、自衛することで、民族を生存させる方法がとられることになる。」(p.252)
- 「だら、彼らの自己がユダヤ的側面一辺倒になったのかといえば、つぶさに観察するなら、ユダヤ的側面が『細胞分裂』していったとも言える。つまり、極東のユダヤ人としての側面と、シオニストとしての側面の二つが特に意識されるようになって、それらが相補的に結びつき、共振してユダヤ人としての意識を高めていった。」(p.253)
- 「歴史上初めて『合法的』に行われた住民交換は、1923年にトルコとギリシャの間で実現したものである。オスマン帝国時代には同じ国だったこともあて、混在していたギリシャ正教系住民とムスリム系住民を交換する協定が結ばれ、実際に200万人にものぼる人々が半ば強制的に移動させられた。」(p.258)
(2025.5.16)
- 「ベスト&ブライテスト(上)The Best and the Brightest」ハルバースタム,デイヴィッド David Halberstam 著 浅野輔訳 二玄社(ISBN978-4-544-05306-7, 2009.12.05 第一刷発行)
紀伊国屋書店・目次。1962~1964年志願して、ベトナム特派員となり、その勇気ある報道でピューリッツァー賞を受賞した著者が、アメリカの「最良にして最も聡明な」人びとが、なぜ、ベトナム戦争という非道かつ愚かな泥沼へとアメリカを引きずりこんでいったか膨大なインタビューをもとに描いた作である。ベトナム戦争は、私も学園紛争時代(1969年)重要な要素だったこともあり、仏印インドシナの一部であるベトナムにどのように関与していったかをしっかり考えたいと思い手に取った。特に、J.F.Kenedy の時代。キューバ危機を、既のところで乗り越えるような映画では有名だが、キューバ問題においても、すでに、大きな課題を持っていたこともあり、特に、表題にも惹かれた。アメリカの、Harvard や、Yale などの、秀才たちのおごりについて、気になっていたからでもある。基本的には、大西洋間の問題と似た対応で、まったくことなる文化を育んできた、カリブ海や、アジア問題に傲慢な態度で取り組んでいったということが、当時の批判の種で、それが日米安保の1970年改定にも反対や危惧に結びついていったことだと思うが、それを内部から説き起こしているともいえる。ただ、問題点は指摘しても、今回読んだ上巻だけでは、特別に優秀な人たちであるにも関わらず、単にやり方がお粗末だったという書き方で、中巻・下巻で、どのように描かれるのかはわからないが、著者も Harvard 出身の秀才、結局、一般のひとの心を理解しようとしないという点で、共通するものも感じた。著者もプレーヤーも賢いことは確かで、日本ではこのようなジャーナリズムは残念ながらないのだろうなとも思わされた。ただ、独自のものは、多少あるので、良いのかもしれない。上巻は、「栄光と興奮に憑かれて」と副題にあるが、おそらく、第二次世界大戦で上手くやったということが背景にあるとしているのだろう。ただ、空爆の効果などについても、十分な検証がされておらず、効果があまり認められないなども記述もあり、検証していないことが多いのだろうなとも思った。朝鮮戦争についても、学んでみたい。重要な、Actor が出てきて、一部は、名前を知っているが、わからない人も多く、予備知識不足も感じた。ロバート・ロヴェット、チェスター・ボールズ、マクジョージ・バンティ、アヴェレル・ハリマンなどの復習が必要、関係略年表:1941.5.19 ベトナム独立同盟(ベトミン)創立、1945.2.4 ヤルタ会談、9.2 ホー・チ・ミン主席、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立宣言、9.23 仏軍、サイゴン制圧、1950.6.29 米、サイゴンに軍事援助顧問団を設置、1954.5.7 ディエンビエンフーで仏軍幸福、7.6 サイゴンに、ゴー・ジン・ジエム政権(南ベトナム)樹立、7.21 ジュネーブ協定調印(カンボジアとラオスの独立、仏軍撤退)、9.8 東南アジア条約機構(SEATO)結成、1955.10.26 ベトナム共和国宣言、ジエム初代大統領就任、1960.11.8 J.F.ケネディ、第35代米大統領戦に当選、12.20 南ベトナム解放戦線(いわゆるベトコン)結成の宣言、1961.1.20 ケネディ就任、2.15 南ベトナム人民解放軍発足、4.17 キューバ信仰作戦失敗(ビッグス湾事件)、1962.2.8 米、南ベトナム援助軍事司令部設置、10.22 キューバミサイル危機、1963.11.1 南ベトナムで軍事クーデター(ズオン・ヴァン・ミン将軍中心)、11.22 ケネディ大統領、ダラスで暗殺される。ジョンソン大統領就任。1964.8.2 米駆逐艦、北ベトナム哨戒艇と交戦(トンキン湾事件)、8.4 ジョンソン、北への報復爆撃命令(米軍のベトナム介入)、1965.1.22 サイゴンで反米デモ、2.7 米機、北ベトナムのドンホイを爆撃(北爆開始)、3.2 米軍の恒常的北爆開始(ローリング・サンダー作戦)、10.15 米国内のベトナム反戦運動はじまる。1966.4.1 南ベトナム各地で反政府でも激化、1967.8.8 東南アジア諸国連合(ASEAN)結成、11.29 マクナマラ国防長官更迭、1968.1.30 北・解放戦線がテト攻撃開始、南部主要都市を一斉攻撃、3.16 南ベトナムのソンミで米軍による村民大虐殺事件起こる(ソンミ事件)、3.31 ジョンソン大統領、テレビ演説で大統領選挙不出馬を表明、11.6 ニクソン、米大統領選挙で当選、1975.4.30 南ベトナム・ミン政権、無条件降伏。北ベトナム軍、サイゴンへ無血入城。ベトナム戦争の終結。
以下は備忘録:
- 「アメリカにとって中国はほかの国々とは違った特殊な国だったからである。インドやアフリカの国が共産側の手に渡ったとしても、このような反応は起きなかったであろう。だが、アメリカの宣教師は、中国を愛した。アメリカの地方都市で布教に励むより、中国に渡ることのほうが、心踊る。入信させるべき立派な異教徒の数には限りがなかった。それに加えて、偉大な文化、偉大な料理、偉大な魅力という中国ならではの特質があった。かくして、特殊な関係が打ち立てられていった。中国人は時間を守る、清潔だ、勤勉で人を敬い、明るい性格である。アメリカ人が称賛する脂質を持っているのだ。」(p.202)
- 「中国を蹂躙する日本、中国人を救出するアメリカ戦闘部隊、傷ついたアメリカ空軍パイロットを手当する中国のうら若き看護婦、そしてもちろん、彼女らに恋するアメリカ兵、このようなテーマの映画が氾濫し宣伝が強化された戦争のあとで、中国の崩壊はショックであった。われわれを愛してくれた中国に何が起きたのか。これは、平和が厳しい冷たいものであることを証明し、アメリカの悪魔論信仰における主役の交代をもたらしたのであった。(戦時中のよいロシア人、悪いドイツ人、よい中国人、悪い日本人から、戦後のよいドイツ人、悪いロシア人、よい日本人、悪い中国人)」(p.203)
- 「これは、ベトナムの問題をアメリカの経験、アメリカの必要、アメリカの能力というレンズを通してみるという、当時定着しつつあった立場を雄弁に物語っている。正しい目的のためにアメリカ人が的確な行動をとれば、アジア諸国民の運命を決定することができる。ベトナム人そのものは第二義的な存在でしかない。彼らは、より懸命で物事のわかった外国人の指示がなければ、何もできない、小さな国のどうでもいい国民なのである。一方において、これはアメリカ万能主義の兆候であり、他方において封じ込めゲームの機縁を如実に例示したものである。」(p.238)
- 「日々に戦争に対する指示が低下していたフランス国内では、ディエンビエンフーの敗戦がとどめを刺した。しかし、フランス守備部隊は依然敵に包囲され、日夜ベトミンの砲火を浴びている。アメリカは参戦し、勇敢なフランス兵を救出せよ。という圧力が高まっていった。当初の考えは、地上戦でフランス軍と交替するというのではなく、守備隊を救出するだけの限定的介入でよい、というものであった。十一年後のことを考えると、これは実に興味深いと言わねばならない。空軍力を少し使えばよい。空爆でことは足りる。介入の目的と理由は可能な限り現敵的な枠にとどめておこう。後に起こる事件と同じように、討議は危機的、パニック的な状況の中で行われた。すでに三年前からこの戦争を植民地戦争ではなく共産主義に対する全世界的な戦いの一貫としてとらえていたアメリカにおいて、政府部内に積極的な介入論者がいたことはごく自然の成り行きだった。」(p.241)
- 「1952年の選挙戦において、アイゼンハワーは、議会との協議を緊密にし、議会の権限を尊重することを繰り返し約束した。さらに彼は朝鮮戦争そのものにもきわめて批判的であった。『もし戦争が不可避であるとするなら、アジア人としてアジア人と戦わせるべきである。われわれはもちろん、自由の側に立って戦うアジア人を支持する』と選挙演説で述べた。したがってアイゼンハワーは、第一に議会との協議、第二にアジアにおける地上戦争に反対、という立場に立っていた。」(p.245)
- 「リッジウェイらの報告は心胆寒からしめるものであった。敵を掃滅するには最低五個師団、できれば十個師団、プラス工兵五十五大隊、総兵力五十万もしくは百万、プラス厖大な建設工事要因が必要だというものであった。(朝鮮では六個師団投入されたに過ぎない。)インドシナには、港湾施設、鉄道、幹線道路、電話線など皆無に等しい。要するにゼロから出発しなければならず、その費用は厖大なものになろう。(中略)かつてアメリカが1899年から1913年の間、フィリピンの独立をもとめる反乱ゲリラを相手に戦った、現地人対白人という図式の政治的な戦争の拡大版になる可能性が高い。」(p.252)
- 「だが、初めからジエムを心から信頼したアメリカ人はほとんどいなかった。そもそも、南ベトナムに対するコミットメントそのものが場当たり的な正確であった。」(p.260)
- 「テーラー視察団から1969年のカンボジア侵攻、さらには1971年のラオス侵攻に至るまで、我々は、この誤りを何回も繰り返してきた。敵は、時刻の運命が問題で、われわれよりも遥かに真剣であるという当然のことに、我々は思い致さなかったのである。」(p.289)
- 「テーラー:朝鮮において、アメリカ軍はさしたる努力を払うことなしに現地で生活し、任務を遂行することを学んだ。ベトナムにおいて、アメリカ軍が駐屯すると考えられる中部の高原地帯および沿岸部には、ジャングル状態はほとんど存在しない。沿岸部における最も不快な面は気温がきわめて高いこと。じそしてとくにデルタ地帯においては、洪水のあとに残される泥濘である。高原地帯は、アメリカ軍の駐屯に関して特別な障害はない。」(p.291)
(2025.5.27)
- 「敬和学園大学創立30周年記念 AI時代のリベラルアーツに向けて」敬和学園大学学長 山田耕太著 敬和カレッジ・ブックレット No.25(2021.4.1 発行)
敬和学園大学サイト・目次。敬和学園(大学・高等学校)の理事となりその第一回目の理事会でいただき、帰りの新幹線などで読んだ。全139頁。内容はリンク内の目次からだいたいがわかるが、基本的には、敬和学園のリベラル・アーツ大学としての系譜・歴史が書かれている。幕末に開港された港の一つが新潟で、そこに S.R.ブラウンや、M.E. キダーが来て、新潟・古町の不動院で開校した官立新潟英学校の英語の教師として教えたあたりを起源として書かれている。「敬和学園高校は戦後の高度経済成長期の1968年に発足したが、それは、キリスト教愛真高校と共にキリスト教学校教育同盟で最後に発足した小規模な学校で、ミッションの経済的支援から自立した時期に開校した学校である。だが、敬和学園の発足までには新潟のキリスト教学校の長い歴史があった。その教育理念の根底には、明治依頼の『聖書教育』による『心の教育』と『英語教育』などによる『リベラルアーツ教育』があり、大正リベラリズムの『自由教育』による寮教育と労作教育による『人格教育』の影響を受け、戦後の『平和教育』が加わったのものである。敬和学園大学はこのような敬和学園高校の『心の教育』を『キリスト教学』『チャペル・アッセンブリ・アワー』として、また『労作教育』を『ボランティア教育』として受け継ぎ、新たに『寮教育』を加え、人権・共生・平和教育にアクセントを置いたリベラルアーツ教育を展開している。また、次のミッション・ステートメントに基づいて、『キリスト教教育』『国際理解教育』『地域貢献教育』による教育を推し進めている。『敬和学園大学は、キリスト教主義に基づく自由かつ敬虔な学風の中で、リベラル・アーツ教育を行い、グローバルな視点で考え、対話とコミュ二ケーションとボランティア精神を重んじ、隣人に仕える国際的教養人を育成する。』さらに2009年以降は、中期計画のヴィジョン、『隣人に仕えるための地域貢献として、持続可能な社会の担い手を育成する』を掲げ、現在はその実現に力を入れている。こうして、グローバルな視点をもって、地域社会と国際社会で活躍する良心的な人物の育成に励んでいる。」(p.127,128)本文中には、AI のことは書かれていないが、編集後記に関連が書かれているので、その部分を引用する。「現代は、16〜17世紀の科学革命、またその成果を実用化した19世紀の産業革命に続いて、20世紀後半のコンピュータ開発を起点にした情報革命が起こっている。21世紀にはそれがさらに進み、人工知能(AI)の開発に基づいた社会変革があらゆる分野で大きく進展していくことが予想されている。そこで問題になるのは、人間とAIがいかに共存していくのかである。また、そこで重要になるのは、人間とは何か、人間の教育とは何か、その中で高等教育は何を目指していくのかを理解することである。すなわち、今後の高等教育グランドデザインの向かうべき方向性である。本書ではそれを『AI時代のリベラルアーツに向けて』と題して、地方の人文系小規模大学の一つである敬和学園大学の向かうべき方向を示そうとした。本書は主として三部で構成されている。(1) 最初の『人間の教育としてのリベラルアーツ』と『真理はあなたがたを自由にする』でリベラルアーツの歴史と意味を理解して、リベラルアーツ教育について理解を深める。(2) 続く『新潟のキリスト教学校の歩み』『現代キリスト教大学の使命』『まちなかキャンパス化のビジョン』で、新潟のリベラルアーツ教育の歴史と現在敬和学園大学が展開しているリベラルアーツ教育の概要を示す。(3) 敬和学園大学のリベラルアーツ教育の背景を理解するために『メアリー・キダーと新潟・新発田』『T・A・パーム-新潟の医療宣教師』『新潟女学校と北越学館のリベラルアーツ教育』『新発田が生んだダンテ学者山川丙三郎』を挙げ、最後にリベラルアーツ教育を実践している『キリスト教学校教育同盟の中の敬和学園』の位置づけを明らかにする。」(p.134)とある。著者は、1950年東京生まれ、千葉大学卒業、国際基督教大学大学院修了、英国ダラム大学大学院修了(Ph.D.)で、新約学が専門。最新の出版書籍は「Q文書 -訳文とテキスト・注解・修辞学的研究-」。いずれ手にとって読んでみたい。
(2025.5.31)
- 「エミリ・ディキンスン ー アメジストの記憶 Emily Dickinson: An Amethyst Remembrance」大西直樹著 彩流社(ISBN978-4-7791-7098-0, 2017.8.30 初版第一刷)
出版社情報・紀伊國屋書店・目次情報。エミリ・ディキンスンがどのぐらい有名な詩人なのかよくわからないが、アーマストという、アーマスト・カレッジもあり、クラーク博士や、内村鑑三など、さらに内村鑑三奨学金で、留学したわたしの周囲の方々も何人もいる、その街の方である。お父様や、お兄様も、このリベラル・アーツカレッジに関係したようである。宗教的にも特徴のある街のようである。エミリについては、少しずつ研究が進んでいるようで、本書でも、すこしずつそれが明かされている。本書に二度登場するエミリのことば「もし、本を読んで、身体全体が冷たくなって、どんな火でも温められないなら、それは詩だとわかる。もし、頭のてっぺんが吹き飛ぶような体感が感じられれば、それが詩だと思う。これしか判断できません。ほかの方法ってありますか。(L342a)」(p.55 & p.139)著者も書いているが、エミリの詩を、和訳して、縦書きにしたのでは、よくわからないのではないだろうか。すくなくとも、英語も一緒に添えてほしかった。私には賞味できないように思うが、少しは味わってみたいと思う。Poetry Foundation:Emily Dickinson、AMBLESIDE: Poems of Emily Dickinson, 1830-1886。以下は備忘録:
- 「当時からエミリの才能が広く認められ、その詩が世間に受け入れられる環境は整っていたといえる。しかし、詩人であることを欲しながら、彼女は自分の詩が世に公表されるのを頑なに拒み続けた。これには、様々な理由があるだろう。ひとつには、自分の意図に反し、詩が『校正』されてしまうことへの怒りがあったろう。編集者は良かれと思ってしたことでも、エミリにしてみれば、自分の詩がありきたりなものに変形させられてしまうことでしかない。彼女は少女時代の友人に『ありきたりってことを、私がどんなに嫌っているか、よく知っているでしょ』(アバイア・ルートへの手紙 L5, 23 Feb., 1845)と言っているように、標準的であることに耐えられなかった。自分のやりかたは他にある。という自覚が極めて強固にあったのである。後年、ヒギンスンの助言を心から欲していながらも、その忠告に耳を貸さなかった。もう一つの理由として、詩で金銭を得ることに強く抵抗を感じていたことが挙げられる。人の想像力は神からの贈り物であり、それを金銭のやりとりにで汚したくないという強い思いがあった。このの思いがよく表れているのが、次の作品である。『出版とは人の心を競売にかけること。貧困の方が、こんなに卑しいことより正当化されるだろう、多分。それより私たちはむしろ屋根裏部屋から白いまま、白い創造主のところへ逝きたい、自分の雪に投資するくらいなら。思想はそれを生み出した主のところのものだから、それなら、それを形で示したものを示す人に対して、売りなさい。その高貴な歌を、包につつんで。天の恩寵を扱う商人でありたい。でも、人の精神を価格という不名誉に貶めてはダメ。』(J709, F788, I863)」(p.87-88)
(2025.6.4)
- 「ベスト&ブライテスト(中)The Best and the Brightest」ハルバースタム,デイヴィッド David Halberstam 著 浅野輔訳 二玄社(ISBN978-4-544-05307-4, 2009.12.05 第一刷発行)
紀伊国屋書店・目次。中巻は、第11章から第19章で、主として、マクナマラとジョンソンに焦点が置かれている。Wikipedia ベスト・アンド・ブライテスト・WikipediA: The Best and the Brightest (E) に、主要人物とその役職のリストと、概要(Factors examined)がある。Review がたくさん出ているので、それも参考になる。一つだけリンクをつける。THE BEST AND THE BRIGHTEST: A CRITIQUE。アメリカのアジアへの関与を非難することはできる。そして、優秀な人たちがどのような間違いを起こすのかも、丁寧に、書かれている。しかし、基本的には、どうにかできると考えているところにやはり問題があるように思われる。傲慢である。同時に、その地域に住む人々にとって何がよいのかは、正直、わたしには、わからないし、単に、地域に任せればよいのかも、わからない。自分がどう生きるか、それも、戦争や紛争に苦しむひとたちのことを覚えつつ生きていくことをしたいと願うが、それも、どうしたら良いのか正直迷っているのが現状である。以下は、備忘録:
- 「ベトナムで何が起きているかは、そのつもりになれば明確に知ることができた。ただ、だれひとり、緊急の問題としてそれを明らかにしようとしなかったのである。」(p.11)
- 「サイゴンにおいて、アメリカのジャーナリストは他人の支配に屈服しない唯一の集団であった。ジエムはベトナムの報道機関、軍部および立法府を支配していた。ハーキンズは援助軍司令部の報告を支配し、ノルティングは大使館の報告を支配していた。率直にみたままを語るのは、アメリカの報道陣をおいてほかなかった。」(p.17)
- 「1961年、マクナマラが新政権に参画したとき、彼はベトナム問題を国防長官代理ロズウェル・キルパトリックに一任した。当時ベトナムが重大課題ではなかった証左である。だが、ベトナム問題の重要性と複雑さが明らかになると、彼は自分でこれにあたった。問題処理能力については確信があったし、大統領を守るのが自分の責任だと考えたからである。やがて彼は何度もサイゴンに飛ぶ。自信に溢れ颯爽と、マクナマラは真理と求めて各地を視察し、人々と会い(反対意見の持ち主は注意深く閉め出されていた)、テレビに映し出され、そして、でっちあげの統計をがぶ呑みして歩いた。」(p.34)
- 「他の重要問題の場合と異なり、彼(マクナマラ)はベトナム問題に取り組むにあたって、国防総省に招集した若い優秀なスタッフの助言を求めようとしなかった。彼は他の問題については、つねにこれらのスタッフを活用し、各所に配置して、官僚機構の情報網に対抗する独自の情報源を確保したいた。しかし、数量化することのできないこのベトナム問題に、数量化することの訓練しか受けていないマクナマラが単独で乗り込んでいったのである。」(p.72)
- 「1963年になると彼(ロバート・ケネディ)は大きく成長していた。もはや、単純な強硬路線を猪突猛進する大統領の弟ではなく、斬新な考えを持つもっとも優れた人物として評価を築きつつあった。フォレスタルやヒルズマンなどハリマンの下で働いて人々は、ベトナム戦争についての彼らの疑念をロバート・ケネディが評価していることに勇気づけられた。政権最上層部にあって、彼ほど、この戦争でベトナム国民一般が高い犠牲を強いられているという点に思いを致している人物はいなかった。会議で彼が発する質問は、つねにベトナム国民の問題に集中していた。戦局の進展について懐疑が深まると、彼は聞いた『ベトナム国民は本当にアメリカ軍の存在を求めているのだろうか。われわれのやろうとしていることは、見当違いではないのだろうか。』」(p.113)
- 「ベトナム政策を基本的なところで問い直した政府高官がロバート・ケネディであったことは、理由のないことではない。政府部内において、自分の地位に不安を抱く必要もなく、また反共主義者としての信用が揺らぐ心配もないからである。だが、彼の提起した問題は討議されなかった。依然として、それはあまりにも微妙な問題であった。おそらくロバート・ケネディとしても、これ以上問題を追求するつもりはなかったに違いない。とりあえず将来に備えてこの新しい考え方を投げかけておこう。そうすれば、次に問題になった時には、より真剣に討議されるに違いない。」(p.114)
- 「1964年は、政策決定の最高責任者たちが、重要な決定を下すべき任務を放棄し、決定を遅らせ、大統領に時間を稼がせた年であった。それは失われた一年間であった。ありうべき政治的交渉の機会、ベトナム問題でなぜそれほど夢中にならねばならないかを、アメリカ人が再検討する機会、ベトナム人自身がこの戦争にそれほど執着しないという事実をアメリカに知らせる機会、これらの機会がすべて失われた。逆に政策決定者たちは、彼らの立ち場に固執した。しかも時間が不利に作用していることに、彼らは気づかなかった。ともかく、1964年の間は、ベトナム問題に対処するのはやめよう。同時に、行動の自由だけは確保しておこう。われわれは決して罠にはまらない。必要な時に必要な決定を注意深く下すことができるのだ。自体の推移は自分たちが制御できる。彼らはこう考えていた。」(p.150)
- 「ラスクの演説から:我が国の外交政策はどのようなものか。それは、原子兵器を国際法の管理の下におくことを提唱し、戦争で罹災したものに衣服と食料を与え、自由選挙と被治者の同意に基づく政治を支持し、恒常、ダム、発電所、鉄道、学校、病院を建設し、種子を改良し、畜産を振興し、肥料を増産し、市場を活性化し、考えられるすべての手段を講じて諸国民の技術と技能をのばす。これらの姿勢の中に、アメリカ外交政策の本質が映し出されているのである。これに対するに、圧政を広げ、その手段として虚偽、破壊活動、猜疑心、暴動、あるいは暗殺を用いることをはばからない外交政策を見比べていただきたい。アメリカ合衆国は、わが国民の平和への追求と人類の校正なる意見とが命ずるままに、そのもてる強大な力を捧げているのである。いかなる政権といえども、その無法な侵略的行為によって、アメリカ国民の徹底的な反発を引き起こすことは賢明ではない。ことの性質上、つねに先手を打つのは無法者であるが、平和を維持せんとする世界の諸国民は、平和を主張するにたるだけの力を備えるであろうし、またそうすることができるからである。」(p.183)
- 「マクナマラの勧告(国家安全保障関係文書288):われわれは、独立した非共産主義の南ベトナムを求めている。われわれは同国が西側の基地あるいは西側陣営の同盟国として役立つことを必要としない。しかし、南ベトナムは自由と安全を維持するため、外国から必要な援助を受け入れる自由をもっていなければならない。これらの援助は、経済的、社会的措置としてばかりでなく、内乱分子を根絶し、制圧するための警察、軍事援助の形をも取り得るものでなければならない。」(p.229)
- 「北爆無効報告書:ハノイは、民族主義に根ざす統一と団結、および共産主義に根ざす統制の両方を活用し、組織化された近代的統一国家を形成している。彼らの生活水準と決意の固さを考えれば、北爆はハノイ政権の統制強化以外の効果をもたらすとは考えられない。さらに、北ベトナムにエスカレーションの脅威を与えた場合、それが効果を生むか田舎は直ちに判明するであろう。という点でも、意見の一致があった。なぜなら彼らは、エスカレーションが実際に開始される前に、対応措置に出るであろうからである。」(p.234)
- 「この微妙な変化は、政策の進む方向を暗示していた。変化の第一原因は、ベトナムの失敗がひしひしと感じられ始めたことにあった。しかし、それより、一般的原因は、リンドン・ジョンソンが、ホワイトハウスをはじめてとする政府機構にもちこんだ制作決定の新しいスタイルにあった。これは、とりわけキューバ侵攻事件以後、敢えて問題を政府内部で活発に討議させる方針で臨んだケネディのスタイルと、きわめて対照的であった。なによりもまず、ジョンソンは、秘密主義であった。すべての討議の流れを自分の思うままに左右することを望んだ。問題が微妙であればあるほど、その傾向は著しかった。」(p.243)
- 「モース:この決議案を可決したことにより、われわれがアメリカ合衆国憲法を欺き、くつがえすという由々しい過ちを犯したと、後世の歴史は記録するでありましょう。すでに本日、私が縷縷説明し論じたように、議会は大統領に対し、戦争宣言がないままに、戦争を遂行する権限を与えることになるのであります。私は、これが歴史的な誤りである、と信じます。」(p.320)
- 「ジョンソン:だれでも戦争と平和の問題に関心がある。これが第一。第二に、男性は心臓麻痺を心配している。女性は乳癌のことを心配している、これが第三だ。」(p.326)
(2025.6.7)
- 「つながるビルマ、つなげるビルマ - 光と影と幻と」根本敬著 彩流社(ISBN978-4-7791-2877-6, 2023.3.21 初版第一刷発行)
出版社情報・目次。講演は聞けなかったが、レジュメを送っていただき、近いウチにお会いしたいと思い、婦人の友2021-9「クーデター後のミャンマーーZ世代による未来志向の抵抗」・世界2021-8「危機の中のミャンマー:機能しない仲裁外交から標的制裁へ」・週刊東洋経済2021-5/29「日本政府は国軍偏重外交を改めよ」を読んでから、読みやすそうなので本書を手にとった。エッセイ集。すでに読んだ文章もふくまれていたし、エッセイ集ということで、この本の中にも重複があるが、基本的なことを理解するのには良かったと思う。最後は、エピローグとして、上智大学のインタビュー記事が入っており、根本氏についても、研究以外についても多少知ることができて興味深かった。以下は、備忘録:
- 「2022年にロシアに侵略されたウクライナの苦しみと抵抗は国際的な同情と支援を得ているが、ビルマの場合は国民が同じような苦難に直面しているにもかかわらず、一国の『内戦』としてみなされがちで、なかなか有効な支援や介入がなされる気配にない。しかし、現実のビルマは『内戦』のような国民同士が複数に分かれて戦っているという状況にはなく、総選挙で圧勝した政党による民主的政府を武力で倒した国軍を絶対に認めない国民による抵抗が続いているととらえたほうが正確である。国軍は都市部の住宅街でもロケット弾を使用し、地方では村々を空襲で焼き、その結果100万人を優に超える国内難民を出すに至っている。」(p.4)
- 「3つ目の『幻』は、国民の多くが求め続ける平和と民主主義と諸民族平等の土台の上に経済的にも繁栄するというビルマという、遠い未来、必ず実現させたい未来のことを指す。人は『幻』を見ながら生きるのであり、それを追い求めながら苦難を一つ一つ乗り越えていくのではないか。わたしはそう理解している。」(p.5,6)
- 「ミンコーナインは独房で新聞も本も読ませてもらえない環境で、たまにビルマの伝統紙巻き煙草(セイボーレイッ)が手に入るとそれをバラバラに分解し、中から古新聞の端をみつけては広げ読んだ。その一つとして、北欧に住む男性が自分の庭の木で巣をつくり抱卵していた鳥が飛び去ってしまったのを見て、代わりに自分で孵し、ひなを育てているという外伝を読み、『世の中には悪辣な人間もいるが、このように親鳥のかわりに卵を孵し、雛を育てる善良な人間もいるのだ』と感激し、引き続き、獄中で頑張ろうと決意したという。薄暗い独房の中で長期にわたり社会と隔絶されていたからこそ、偶然接したこの記事に彼はことのほか感動したのだろう。私はこの話を聞いたとき涙腺が緩んでしまった。」(p.59)
- 「ゲリラの話『はじめはビルマに反抗してきた英軍と戦うためという名目で、ゲリラの訓練に参加させられたが、訓練の最後の段階で敵は英軍ではなく、実は日本軍だと隊長に聞かされ、心が高鳴った。日本兵は我々の牛を盗み、家畜を撃ち殺し、食料を徴発した。飛行場建設などの労働に強制動員もされた。彼らは我々の村の僧侶をなぐったり、ひどいときには井戸に投げ入れたりもした。我々に、ビンタを張ることも多かった。彼らは女性に乱暴を働いた。私の義理の姉もその被害者の一人だった。かれらに復讐するにはこれがとても良い機会だと思った。』と私に負の記憶(苦痛の記憶)を感情も乱さず語ってから、つづけて次のように語った。『今となっては、村の人間で日本兵を憎んでいるものはひとりもいない。私も現在は許している。元日本兵たちが戦後、ビルマをなつかしく思い出してこの国を再訪していることについて、全く悪い気はしない。我々ビルマのものの考え方はそういうものなのだ。いつまでも怒りを長引かせないように生きている。日本兵に乱暴された女性の心の傷については何ともいえないが、40年以上もたったいま、被害者の女性であれ、加害者の日本兵であれ、どちらも年老いてしまっている。今さら問題を蒸し返したところで、どうしようもないことだ。』」(p.63,64)
- 「上座仏教のビルマ人は『許すけれど忘れない』(Forgive but never forget)という生き方ではなく、『わすれることによって許す』(Forget and forgive)という生き方を好むようだ。」(p.65)
- 「一昨年、甥を通じて、日本人の大学教授が私と会いたがっていると聞いたとき、もう昔のことだから自分の体験を話してもよいと思った。でも、あなたを実際に眼の前にしたとき、いくらこの人は戦後生まれの日本人なのだと自分のり性に言い聞かせても、感情が許さなかった。だから、前回はあなたに話をすることができなかった。あれから二年たってあなたの誠意を感じたので、今回は冷静に話ができるように思うようになった。」(p.66)
- 「三人姉妹の私たちは、ビルマ高原地帯の町メイミョウに住んでいた。日本軍侵入時に国外への脱出に失敗し、両親と共に英系ビルマ人の収容所に入れられてしまい、そこでの生活を強制された。父は過労が原因ですぐに病気でなくなり、その後、母とわたしたちは日本軍部隊の手伝いをさせられた。料理や選択、裁縫といった作業はさほど困難なくこなせたが、日本軍将校の酒の相手をさせられるのはとても嫌だった。ある日、母のところに日本軍の大尉がやってきて、娘三人のうち誰でもよいから『慰安婦』として日本軍に提供せよと命令した。母は娘を差し出すくらいだったら、三人を殺して自分も死ぬと主張し、激しく拒絶した。大尉は最後に根負けして去って行った。」(p.67)
- 「忘れじの『困った』学生たち。忘れじの『困った』先生たち。」(p.68,p.81)
- 「人間が誰かに対して憎しみを抱くとき、そこには相手に対する恐怖が心の中にあり、その恐怖は社会を堕落させる根源でもあるとアウン・サン・スー・チーはいう。心の中のおそれをなくすこと、恐怖から自由になることこそ、各人が最も大切に取り組まなければならない課題だと彼女は主張する。(中略)独裁者はふつう、自ら進んで権力の椅子から降りようとはしない。降りたら最後、自分を憎んでいる人々によって復讐されるというい恐怖心を抱いているからである。独裁者のそうしたおそれの気持ちは、まわりの人々に対する猜疑心を強め、その結果、ますます強圧的な政治をおこない、限りなく堕落していく。一方、そのような独裁者に支配される一般の人々も、自分の生活を脅かされる恐怖から、独裁者の行いにも何も抗議しなくなり、不当な命令でも聞き従うようになっていく。独裁者によく思われようとして媚を売ったり告げ口をしたりする人すら現れる。こうして社会に不正義がはびこり、人々が抱く恐怖のために社会全体が堕落していくことになる。」(p.111)
- 「兄弟爬山 各自努力 - 同じ山を登る兄弟同士、それぞれで頑張ろう」(p.172)
- 「在日ビルマ難民は、仕事を賭しても、東日本大震災の津波のときに、バスをチャーターして被災地に入り、日本人向けに味付けしたビルマ料理をふるまい、泥だらけになった建物の掃除や荷物運びを手伝ったりしている。一方、2008年5月にビルマのデルタ地帯をサイクロン『ナルギス』が遅い、14万人が死亡、240万人が家を失って、被災者となったとき、在日ビルマ難民な東京の池袋駅の前に立って熱心に義援金集めをしたが、振り向きもせず足早に立ち去る人がほとんどだった。善きサマリヤびとはどちらだろうか。」(p.188)
(2025.6.8)
- 「アジアの独裁と『建国の父』ー 英雄像の形成とゆらぎ」根本敬・粕谷祐子編 彩流社(ISBN978-4-7791-2954-4, 2024.2.16 第一版第一刷発行)
出版社情報・目次。根本敬氏が研究代表者である、科学研究費補助金の基盤研究(B)による研究「権威主義体制の正統性としての「建国の父」-その継承と変容の比較研究-」の成果の一つとして出版されたものである。個人的に、アジア諸国の戦後の歴史に興味を持っていたので、根本氏との交流が始まったことを期に手に取った。非常に興味深く読ませていただいた。自分があまり知らない国もあるが、ある程度知識のあるひとたちを中心とした歴史であることも影響しただろう。ただ、私の場合には、日本の戦争責任という視点もあり、公平に関わることができない国々でもある。それを日本の研究者が研究し、このような本ができていることにも少し驚かされた。同時に、日本で、このような国々の歴史を学ぶことは、非常に重要だと感じた。これは、答えのない問いを追うことでもある。何がよいのかは、良かったのかは言えないことでもある。素人がコメントすることは、注意が必要だが、独立戦争など、どうしても、軍事的な活動が重要な背景としてあるにも関わらず、政治的な面だけから取り扱っている。そして、おそらく、軍事的なことを軍人の目もふくめて描くことは日本人には、そもそも不可能なのかもしれないとも思った。「ベスト&ブライテスト」を読んでいて交錯する課題でもある。もう少し、そして少しずつ深く、学んでいきたい。問を持ちながら。以下は備忘録:
- 「1949年10月中華人民共和国成立の宣言:このとき、圧倒的多数の農民は教育をほとんど受けておらず、国民意識もまだ希薄な状況にあった。社会主義などのイデオロギーを理解して共産党を支持したのではなく、軍事的勝利を受け入れた。安定した生活をもたらすならば特に抵抗する理由もなかったのである。」(p.36)
- 「ごく少数の『匪賊』『反革命分子』『地主』らをスケープゴートにして抑圧することで、圧倒的多数の『人民』が救われる政策を実現したのである。『反革命分子』たちが本当に『人民の敵』であったのかはともかく、共産党の歴史にはこうした『救済の歴史』があふれ、一種の神話を構成している。この神話には数多くの神格化された英雄が登場するが、英雄を教え導く最高神が毛沢東なのである。」(p.37)
- 「『抗米援朝』も近年の米中対立を意識してか、言及されることが増えた。習近平が党史・国史・改革開放史・社会主義発展史の『四史』を学習するよう提唱したことを受け、教育部が作成した学習資料でも、『抗米援朝』関連の映像作品を推薦している。(中略)中国人民志願軍は勇ましく意気揚々と鴨緑江を渡り朝鮮人民および軍隊と肩を並べて戦い、完全武装の強敵に打ち勝った。国威と軍威を高め、中国人民を奮い立たせ、抗米援朝戦争の偉大な勝利を勝ち得た。新中国の安全を防衛し、新中国の大国としての地位を明らかに示した。新中国は複雑に錯綜する国内と国際環境においてしっかりと足場を固めた。」(p.38)
- 「レーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』を読んだホー・チ・ミンはレーニンが先進国の労働者の革命闘争と植民地の民族解放運動を結びつけてることを提唱しているとしって、『これこそ私たちの解放の道だ!』と感激したという。」(p.92)
- 「1954年5月、インドシナ戦争休戦のためのジュネーブ会議が始まる前日、ベトナム人民軍は、ディエンビエンフーでフランス軍に劇的な勝利を治めた。人民軍はその後も攻勢を続け、7月21日の協定調印までには国土の四分の三近くを実効支配下においていた。しかし、ジュネーブ会議では、東西両陣営の大国主導で交渉が進められ、最終的にベトナム領域内に存在する2つの国家(DRVとベトナム国)間の軍事国境線を北緯17度線とすることで決着した。DRV にとっては、暫定的にせよ国土を分割することになる上、人民軍の戦果を無視したようなこのゆおな解決策は容易に受け入れられるものではなかった。しかし、7月初頭に中国に赴き周恩来と階段したホーは、国際情勢および中国の姿勢を見極めた上で、当面の平和の実現を優先して交渉に応じることとし、他の幹部たちを説得して合意をとりつけた。ホーは60代半ばとなっていた。」(p.98)
- 「ホーの遺言:党に対しては団結することの重要性を強調し、そのために党内民主を実行し、批判・自己批判を行い、互いに同士として愛情を持たなければならないとする。また党員・幹部は、革命道徳を深く理解し、新に勤倹廉生、公正無私でなければならない。党を清廉に保ち、人民の指導者、人民に誠実な奉仕者にふさわしいようにしなければならないとも述べている。遺書の最後には、自分の最後の願いは、全党、全国民が団結・努力して、平和で統一され、独立し、民主的で豊かなひとつのベトナムを建設し、世界革命事業に相応の貢献をすることであると締めくくられている。」(p.99-100)
- 「ホー:社会主義を建設するためには、まず社会主義者が必要である。倹約・自己犠牲・堅実さ・公平性・物質的利益への無関心、傲慢さや社会的地位追求の否定、質問をして自分の誤りを認識する能力といった一連の徳目の布教に取り組むことである。」(p.107)
- 「除名項目:マルクス・レーニン主義、ホー・チ・ミン思想、民主集中原則、社会主義的民主主義、社会主義法権国家、社会主義志向市場経済を否定し、三権分立、市民社会、多元主義、多党制の実現をもとめること」(p.113)
- 「この動きは英国が導入した『宗教』と『世俗』を分けて考える近代的な概念に直面した土着社会が、それを逆手に取るように、大衆の組織化を通じて『宗教』に属する事象や認識の範囲を拡大して主張し、『世俗』(政府)による土着の仏教コミュニティへの介入を制限しようと試みたものであった。」(p.122)
- 「ガンディーは、このムスリムにとっての大問題を、ヒンドゥーを含むインド全体で共有することで、ウラマーの信頼を獲得し、自身のサティヤグラハ(真理をつかんで離さない)運動の参加者を広げることができると考えていた。しかし、ジンナーはこれを日和見的連合と批判し、政治と宗教の混合は極めて危険で、父子や兄弟を引き裂く結果を招くだろう、と指摘して強く反対した。国民会議派にもC.R.ダースなど、ガンディーの提案に危惧を抱く人々もあったものの、大会で明確な反対意見を述べたのは、ジンナー一人だった。しかし、当時圧倒的な影響力をもつ指導者であったガンディーの方針は熱狂的に指示された。国民会議派の先行きに失望したジンナーはこの大会をもってこれを脱退し、ガンディーと袂をわかつこととなった。」(p.187)
- 「ジンナーが重視していたのは統一か分離かという国家の形態ではなく、ムスリムがムスリムとして自由に生きることへの確実な保証だったのではないだろうか。」(p.197)
- 「ガンジーが希求した統一インドとは、前近代のインド像に依拠した理想的インドだった。かつてインド社会は多くの宗教が共存する習合的な宗教環境にあったが、それはイギリス支配によって破壊されてしまった。宗教にかかわらず一人ひとりのインド人がそれを自覚して、ヒンドゥーとムスリムなど異なる宗教間の融和を取り戻さなければならない。現実にあるヒンドゥーとムスリムの対立に合わせて対応を帰るのではなく、現実を理想に近づけるべきだと、ガンディーは考えていたのではないだろうか。」(p.198)
- 「『一民主義』は、民族全体が平等で一つの民族として国家を形成し、家庭の父にあたる偉大な指導者が導くという図式で、『国父』である、李承晩が平等な国民に君臨することを正当化するイデオロギーであった。インターナショナリズムを前提とする共産主義は反民族的だと批判し、共産主義勢力を排撃して『一民主義』のもとに民族を統一することが主張されていた。さらに、『国家は民族の家』として、国家の元で平等な個人は、個人の自由を得るためにも民族と国の自由を優先し、『一民』を導く指導者である李承晩に従うことを主張した。」(p.251)
- 「蔡英文:1949年に中華民国が台湾で建国してから72年が経ちました。この72年の間に、経済は貧困から豊かさへ、政治は権威主義から民主主義へ、社会は統一から多様性へと発展してきました。」(p.281)
- 「当時、オランダは日本のインドネシアの共通の敵であった。スカルノは日本の軍事力を利用してオランダを追放しインドネシアの独立を目指そうと考えた。加えて、スカルノは日本のプロパガンダに便乗する形で、インドネシア・ナショナリズムの大衆化を計った。ナショナリズムを一部のエリート層のみの運動ではなく、大衆化することはオランダ植民地時代からの課題であった。」(p.313)
- 「こうした慎重姿勢に対し青年層が、スカルノとハッタを拉致し速やかな独立宣言を迫る事件が起こった。1945年8月16日のレンガスデンクロック事件である。青年層は彼ら自身による独立宣言は無意味であることを理解していた。重要なのは、この時点でシャフリルや青年層にもならず、ナショナリストの間では、政治的に意味のある独立宣言ができる指導者はスカルノとハッタだけである、というコンセンサスができていたことである。」(p.315)
- 「スカルノ1956.10 私は民主主義者である。ただし、自由民主主義は望んでいない。そうではなく、私は指導民主主義を望む。」(p.321)
(2025.6.13)
- 「ベスト&ブライテスト(下)The Best and the Brightest」ハルバースタム,デイヴィッド David Halberstam 著 浅野輔訳 二玄社(ISBN978-4-544-05308-1, 2009.12.05 第一刷発行)
紀伊国屋書店・目次。下巻は、20章〜29章で、そのあとに、著者ノートと、訳者あとがきがついている。おそらく、一回読んだだけでは、名前も混乱し、十分理解できていない部分もあり、もう一度、今後は英語版で読み直したいと思う。訳者あとがきに、「娘への手紙」についても書かれており、著者自身の後悔についても書かれている。この本のことも含めて、朝日新聞の天声人語2025年4月30日に引用されている。優秀なスタッフがそろっていて、泥沼に入っていった背景として、ハルバースタムは、冷戦の構造が呪のようにしてあったとしているが、それだけだろうか。アジア人を尊厳を持った一人の人間としてみていないことが背後にあるように思う。アジア人だからそう思うのか。これは、同時に、戦時中の日本人にもおなじようにアジア人を見下す心がなかったとはいえないことをも考えさせられる。人間とはどれほど愚かなものかについて考えさせられる本でもある。2年半以上の期間のインタビュー、びっしりと書き込まれた2000頁もの取材ノート、何人かには、10回以上も話を聞いたとある(p.330)から、大作であることは確か。簡単な地図と、年表がついているが、出てくる事件について簡単な説明は欲しかった。年を経ても読んでほしいからである。以下は備忘録:
- 「ジョンソンは、父親の遺した金言をつねに引用した。部屋に入るやいなや、だれが敵でだれが味方かを直ちに見極められないようでは、政治家になれない。もちろん、自分はだれよりもそのような洞察眼をもっており、従って自分は偉大な政治家であるという含みがそこにはあった。だが、ジョンソンにとって最も重要な能力は、相手の意図いかんにかかわらず、自分の目的に沿って人を動かす力であった。ことを成就するには、これしか道はない。接近戦の取っ組み合いである。彼はこのことを深く信じていた。おそらく信じすぎていた。彼は思索的な人間ではなく、本を読まず、歴史の大きな流れに思いを致す柄でもなかったから、国際問題でも、相手国の指導者と一対一で立ち向かい、相手を操縦し、自分の目標に沿って行動するように仕向ける事ができると信じていた。なかんずく彼は、つけ入ることのできる弱みがだれにもあるはずだと考えていた。」(p.19)
- 「我々は蝿を追っているようなものだ、とルメイは言った。本来なら、問題の根源ー肥溜めを始末しなければならない。攻撃目標はいくらでもある。貯油施設、港湾、堤防。相手が本当に敵だというのなら、そして、この戦争のために生命を賭してまで戦っているというのなら、これらの目標が存在する以上、徹底的に破壊つくすのだ。『爆撃に爆撃を加えて、彼らを石器時代に引き戻してやるのだ』」(p.53)
- 「今日のフルブライト委員会聴聞会で最も注目された証人、マックスウェル・ダヴェンポート・テーラー将軍は、いかにもその人柄にふさわしく、ギリシャの歴史家ポリビオスの言葉を引用して、『戦争の目的は、その挑発者を抹殺するのではなく、彼らの生き方を正しいものに返させることである』と述べた。この引用がテーラー将軍にふさわしいというのは、将軍がシーザーやクラウゼヴィッツばかりか、ポリビオスやヴァージルにも等しく精通している学者肌の軍人だからである。1940年代の陶、陸軍士官学校長時代、将軍は生徒に、最高裁判事オリヴァー・ウェンデル・ホームズの少数意見を研究するように支持した。」(p.62)
- 「しかし、テーラーは、たとえサイゴン政権がぐらついていても『それに対して人工呼吸をあたえるために』北爆を考慮してもいいのではないかと示唆した。サイゴン政権の安定度について、テーラーはこう報告している。」(p.88)
- 「ある意味でバンディ覚書は、ケネディ=ジョンソン政権の人々の持つ問題を反映している。彼らはつねに、自分たちが最も賢明であり、行動の是非は自分たちだけが知っている、といううぬぼれがあった。彼らの欠陥は、たしかに知恵者ではあったが、寸足らずの知恵者であったことである。たとえば、バンディは、北爆によって、アメリカは、ベトナムに対し最善を尽くさなかったという非難を避けることができるとしている。だが、北を爆撃するが、戦闘部隊を派遣しない以上、最善を尽くしたことにはならないのは言うまでもない。もちろん、軍部もベトナム人も、このことを知っていた。知らぬはバンディばかりなり、というところである。さらに、最善を尽くし、もう一歩先に進もうという圧力がやがて加えられるのは、当然であった。」(p.140)
- 「ジョンソン:ケネディは暗殺されたが、自分は行きて拷問にかけられている。それが二人の違いだ。」(p.286)
- 「何か有効な前例はないかと、大統領補佐官らは第二次大戦中のルーズベルト演説を調べてみたが、それらが思いのほか血なまぐさい調子で綴られているのを知って呆然とするのである。日本人はジャップと蔑称され、虫けらのように殺されて然るべき存在であった。」(p.287)
- 「もし、アメリカが、原子爆弾を使用しなかった場合、日本上陸に際し、アメリカ軍に厖大な数の戦死者が出ることが予想だれていた、と述べた。その数は75万人である。と答えた軍部の情報にたいし、ジョンソンは『もう一つ、君たちのコンピュータでやってほしい問題があるのだ。もし、大統領が北ベトナムに対して、そのような手荒な行動に出たら、50万人の怒り狂ったアメリカ人がホワイトハウスの塀を乗り越えて大統領にリンチを加えるのに、どのくらい時間がかかるか、一つ計算してほしい』。ハノイとハイフォンの爆撃計画は、これで一時中止されることになった。」(p.288)
- 「ポール・ウォーケン:1961年の初めごろです。ジャック・ケネディほどの明晰な政治家が、ベトナムの反政府分子に対抗しなければならないということをなぜ主張するのか、私には理解できなかった。むしろ、彼らを支持する政策を試みるべきだった、と私は考えていたのです。」(p.303)
- 「ファン・ヴァン・ドンは、1966年12月、ニューヨーク・タイムズのハリソン・サリスベリー記者になんと言ったか。『ところで、あなたがたアメリカ人は、いつまで戦うつもりですか。あと一年ですか。二年ですか。三年?五年?十年?あるいは二十年ですか。いつまでも、我々は喜んでお相手しますよ。』そして戦争は続けられた。」(p.326)
- 「著者ノート:彼らは、豊かな治世に恵まれた合理的な人間ではなかったのか。知的で合理的な人間ならば、北爆が効果的でないこと、戦闘部隊の投入が危険なこと、フランスの二の舞いになることなど、わかりきったことに当然きづいて良かったのではないか。」(p.328)
(2025.6.23)
- 「神へのかけ橋 B.L.ヒンチマン牧師説教集」B.L.ヒンチマン著 キリスト新聞社(ISBN4-87395-233-6, 1993.1.8 ©東京平和教会 1993)
著者の息子さん、Mark Hinchman さんからお借りした。ネット上の情報は限られていて、目次情報も載っていないので、簡単に記す。目次:まえがき、説教:神へのかけ橋、真理と自由、生命への道、わたしは道である、神の愛されし世界、暗黒の三時間、我は罪の赦しを信ず、バプテスマの意義、仙波正荘さんを天に送ってー葬儀式辞より、あなたにとって十字架とは?、バプテスト信仰の真髄、イエスはどこに?、子どものゲーム、決断の力、信仰・希望・愛、生命ー神の賜物、見よすべてが新しい、二度の召命、寄稿11編、自伝:ただ主の恵みによって、略年譜、あとがき、英文説教:Where Does Your Help Come From?, When Little Is Big, Shall We Go Fishing, Climbing God's Ladder。正直、すばらしい、説教者だと感じた。そして、愛の方、戦争中から、日本を愛し、日本の人々を愛し、日本の宣教に、人生を捧げられたかたである。途中帰国期間があるが、1921年12月1日、アメリカ合衆国ウエスト・ヴァージニア州ロガン市近郊の町マン(Hinchman から取られた名前)で生まれる。1949年、貨物船「Flying Scnd」にて横浜に上陸。1992年4月、早稲田奉仕園会館内の東京平和教会名誉牧師となる。備忘録として、ダビデ・シュウブの「レーニン」を読んでみたいと思った。(p.164)証:「かつて私は、自分の全生活の中にイエスをお迎えし、イエスはその招きに応じてくださいました。私を以前から知っていた人たちは私の変わりようを見て驚きましたが、それでも私自身が一番自分の変化に驚かされたのは事実でした。イエスを心の中に迎えて、まず私はすべての人を愛することができるようになり、苦しんでいる人を助けたいと切に思うようになりました。また、当時のアメリカでは黒人差別が激しかったのですが、それらの人々を何のためらいもなく愛することができるようになりました。さらに、自分の国の人々だけでなく、他の国の人々のことにも関心を持つに至りました。当時若者であった私が兵士として他の国に行き、敵を殺すようにと国から命令を受けたとき、『イエス・キリストは、銃を持って人を殺すようなことはなされなかった』と、私の中の『新しい人』が叫ぶのを聞きました。しかし、一方『古い私』は、『行って、憎い敵を殺せ。日本の町や家々を破壊するがよい。自分の国のことではないのだから心配することはない』と私に語りかけました。このとき、わたしの中の『新しい人』は断固として答えたのでした。『私は、イエスがなされたこと以外は、何もしてはならない。イエスは私の心の中に生きておられるのだから、イエスが日本人を愛される限り、私もまた日本人を愛することができるはずだ』と。そして、その時、私の心のうちに生き給うキリストが私を勝利に導かれたことを神に感謝したのでした。さもなければ、私は広島か長崎に原子爆弾を落としていたかもしれません。」(p.181)最初のメッセージのみ記す。
神へのかけ橋
コリント人への第二の手紙五章
再び愛する新生教会で、皆さんと共に礼拝を守ることのできることをとても嬉しく思います。
一九四八年十二月十九日、一人の日本人女性がサンフランシスコから日本に向かう小さな貨物船に乗っていました。彼女は黒布で包んだものを大事そうに抱えていました。私が彼女とその船で会ったとき、彼女はそれが父親の骨であると説明しました。それは私ども夫婦が最初に日本に赴任する時のことでした。その女性は私に悲しい話を聞かせて下さいました。
彼女のお父さんは若いとき、アメリカに渡り、ケンタッキー州のルイベル市のバプテスト神学校で勉強して、牧師になってカルフォルニア州の日本人教会で働いていました。やがて、日本とアメリカの関係が悪化し、その後起こった太平洋戦争によって、彼女の父親の苦悩は増して来ました。彼は自分の国、日本を愛していましたが、アメリカも同じように愛するようになっていましたので、心痛の余り病気になり、ついにアメリカの地で亡くなりました。死に臨んで彼は、「自分の遺骨はアメリカでもなく、日本でもない、二つの国の中央の海に葬って欲しい」と言ったのでした。
私はその女性に自己紹介をしました。私もまた彼女の父親と同じバプテストの牧師、偶然にも同じ神学校の卒業生であり、宣教師として日本へ行くところであると聞いて、彼女は非常に驚いたようで、私の話を聞き終わって、「これこそ神のご摂理です」と叫びました。彼女の依頼によっ て、私は彼女の父親の遺骨を海に流す葬りの儀式を執り行いました。
クリスチャンであったその船の老船長は、太平洋の中央の一八〇度線、東でもなく西でもない ところで船のエンジンを止め、乗船していたすべての人に、デッギに出てこの葬送の式に加わるように伝えました。それはまだ完全に夜の明けきらないときでしたので、そこにしつらえられた葬壇の上の白い十字架もほとんど見えないほどでした。私がその遺骨を太平洋の海に流したとき、 私は彼と一体感というか、何か不思議な運命的結びつきを感じました。彼は二つの国を心から愛した人でした。世界でもそのような人は少ないと思います。彼こそは日本とアメリカの仲立ちとなる永遠のかけ橋になった人です。その瞬間、「私もあの人のように、日本とアメリカのかけ橋になりたい」と深く感じたのです。
私は子供の時から、「橋」というものが好きでした。美しいサンフランシスコのゴールデンゲイトブリッジや横浜に最近できたベイブリッジ、四国の瀬戸大橋のような橋、また小さくて何の特徴のない橋まで、すべて橋は二つのものをーつに結び合わせる役を持っています。
キリスト教の信仰の真髄はイエス・キリストがその十字架上の死によって、神と、神に背く人間の、更に人と人とを結ぶ大きなかけ橋になられたことであります。
今日、私たちはコリント人への第二の手紙五章から読みましたが、その一五節が今日のテキス トの鍵となるものです。パウロは「一人の方がすべての人の為に死んでくださった」(一四節)と言っています。私のために、あなたのために、イエス・キリストは十字架の上に死んで下さいました。これはパウロの伝える福音の中心をなすものであります。そして、これこそ新約聖書の、 また聖書全体を貫く真理である、と言えます。
十字架におけるイエスの死によって、私たちは、私たちが信じる神とは、どのような方であるかを、知らされました。それは、神がどれほど、私たちを愛して下さっているか、また、どれほど私たちの罪のために苦しまれたか、ということにつきます。
十字架につけられるすぐ前、イエスさまは十二人の弟子に「これから私は父のもとに行かなければならない」と言われました。しかし、弟子たちはまだ、イエスの死ぬこと、また、復活のこと、ペンテコステのことなど、そのような素晴らしいことは全然知りませんでした。
イエスさまが殺されることを知って非常に寂しく思い、その時、弟子の一人が「主よ、私たちに父を示してください。そうしてくだされば、私たちは満足します」と言いました。それに対して主は、「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私がまだ分からないのですか。私を見た者は父を見たのだ」と答えられました。
「父を示してください」という叫びは、全人類の心からの大きな願いであると私は思います。「私を見た者は父を見たのである」と言われたこのイエスは、父なる神、私たちの創り主である本当の神様の独り子であります。私たちの救い主である神様が、本当に私たちのところまで来て下さるために、肉体の形になって、その独り子イエス・キリストとして世に来られました。そして、その愛を知らせるために十字架にまでかかり、苦しんで下さいました。あの十字架は人間であるイエスさまの十字架であり、父なる神の十字架であります。その十字架の愛は父なる神の愛です。父なる神の永遠の十字架である、と私は信じております。私たちの罪の赦しは、イエスさまによる赦しですし、またそれを通して父なる神の赦しであります。イエスは父を示して下さいました。 また同時に、私たちはその十字架の出来事によって、人間の罪がいかに恐ろしいものであるかを示されたのでした。
旧約聖書の最初のところに「人間は神の形に造られた」ということがありますが、神の形に造られた人間は悪と善の区別ができるものとしての責任を持っています。もし悪を選ぶ可能性もなければ、善を選ぶ可能性もないでしょう。善悪を選ぶことができないのであるなら、それはただのロボットのようなものです。人間は良いことと悪いことを選ぶことができます。それは必要です。神の形である人間は神を愛するため、人を愛するために造られました。神のようなものとして造られました。しかし、残念にも人間は神のみ言葉を疑い、その不信仰によって神から離れ、神を知らなくなってきました。神から離れた人間は人を愛することもできなくなります。最初人間の家族はみな「兄弟」として造られました。しかしお互いに兄弟として認めることができなく なりました。あの人、あの国の人、あの人種の人は私とは何の関係もない者だ、と多くの人は考 えています。だから平気で人を殺したり、戦争をしたりするようなこともできるようになりました。
カインという人は象徴的な人だと私は解釈しますが、自分の兄弟アベルを殺してしまいました。「兄弟殺し」ということが、人間家族の最初のところであったわけです。神との関係を破って人との関係を破ってしまったのす。人を愛することのできない状態になった訳です。しかし、神は罪に満ちた私たちを少しだけ赦して下さったのではなくて、溢れる愛をもって、完全に赦して下さったのです。神は私たちの罪をご自分の御子イエス・キリストのものとされ、どんな言葉をも っても表現できないような恐ろしい人間のあらゆる罪のために、苦しみを味わわれました。その十字架のいちばん大変なところで、罪のないイエスさまは私たちの罪を負って、良い人間としてではなく、一番悪い者として呪われて、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのです。詩編の言葉を引用して心からそのように言われました。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(コリントの信徒への手紙二五・一五)とパウロは言っています。 このキリストの死は、イエスを信じる者たちに、何をもたらしたのでしょうか。これに対して、パウロは「このイエスの死によって、信じる者は新しく造り変えられる」と答えています。その人たちはもはや以前の人ではなく、また、普通の人たちが見る目で人を見るのではなく、キリストが私たちを見る目をもって、人に接するのです。これは言いかえれば、キリストが人々を愛し、神との和解を果たして下さったように私たちもまた人々を愛し、人々と和解するように努めることです。新しく造り変えられた者は、キリストに遣わされた使者です。キリストが罪人のためにされたことを引き継ぎ、神と人、また、人と人との和解のために努力しなければなりません。
イエスは神と人間の関係を正しいものにするためにかけ橋になられたのですから、イエスに従う者もまた、イエスの愛に満たされて、イエスのために生き、神と人の和解のために労さなけれ ばなりません。新共同訳では、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(コリントの信徒への手紙二五・一四)とパウロは言っています。また二一節には「キリストが人間の罪を一身に受けられたので、その代償として人間は神の義を受けることができた」と記されています。これこそ、神と人との和解です。私たち人間の罪のための「キリストの死」という全き愛の行為によって私たちは赦され、神との関係を正しいものとされたのです。罪に満ちた人間と正義の神とが、再び正しい関係に戻ることができたのです。イエスこそ、私たちと神をつなぐ、かけ橋となられた方です。
皆さん、アメリカのアブラハム・リンカーン大統領のことをよくご存知と思いますが、アメリカの大きい問題は白人と黒人の関係のことだと思います。最近その問題はまたとても大きくなりました。お互いに完全に兄弟として認めることはできませんので、問題はまだ大きいのです。
昔は奴隷制度があって、アフリカの人々は動物のように船にいっぱい積み込まれ、アメリカに連れて来られました。自分たちの意志は完全に無視されて、白人の奴隷という生活を長くして来たのです。アブラハム・リンカーンのお母さんはバプテスト教会の熱心な信者でした。自分の子供に「この奴隷制度はアメリカの呪いであり、大変な罪である」ということを教えました。リンカーンはお母さんから教えられたことを心から信じ、「大きくなって、できれば大統領になり、そのときには奴隷制度を廃止する」という決心をしました。リンカーンは神に導かれた非常に析り 深い人でした。アメリカの有名な神学者は、「アメリカのいちばん優れた神学者はアブラハム・リ ンカーンであった」と言っています。
リンカーンは大統領に選ばれた時、すぐ奴隷制度を廃止したのです。しかし残念なことに、それに偏見のある古い考えの白人の一人がワシントンDCの劇場のところで、リンカーン大統領を銃で撃って殺してしまったのです。暗殺されたリンカーン大統領の遺体は汽車で彼の生まれたイリノイ州の町に運ばれました。ワゴンの上に棺が乗せられており、その町の人々は、愛するリンカーンの顔をもう一回見ることができるようになりました。そのとき、一人の黒人が赤ちゃんを抱いて、その大勢の中に立って待っていたんです。リンカーン大統領の棺が見えたとき、その子供を高く持ち上げて大勢の人の前で子供にこう言いました。「子どもよ、 よくよく見てください。この人はあなたのために死んで下さったのです」
本当のことです。よくよく見てください。この人(キリスト)は、 あなたのために死んでくださったのです。だから、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであった、神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり神はキリストによって世をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
一人の方が、すべての人のために死んで下さいました。イギリスのロンドン市の街の真ん中に世界一優れた美術館があります。その美術館に私は入ったことがありますが、ヨーロッパなどの有名な画家の良い絵がたくさん並んでいます。それらの絵は聖書をテーマにしたえが多いのですが、特にイエス・キリストの十字架の絵がたくさんあります。
こういう話があります。ある時、一人のおじいさんがその美術館に入ってきて、あるイエス・キリストの十字架の絵の前に立って、長い間動かないでじっとその十字架上のイエスの苦しみの姿を見ていたのです。周りの人々は、本当に心からイエスの十字架のことを考えて、じっと長く動かないでいるおじいさんに気がつきました。そして、おじいさんの唇が少し動いているようでした。おじいさんは何と言っていたのでしょうか。その大勢の人の中の一人がおじいさんに近づいて、その言葉を聞きました。何だったのでしょう。
「私は彼を愛しています…。十字架のイエス…」
その言葉を聞いた一人の人はおじいさんと同じようにその絵を見て、イエスが私のために死んで下さったことを深く思うことができました。そして、その人も「私も彼を信じています。私も 彼を愛しています」と言いました。そしてもう一人、またもう一人、またもう一人と、だんだん 多くの人がそのおじいさんの周りに立って、同じ言葉を言いました。
「私も彼を信とています。私も彼を愛しています」
私もそう言いたい。皆さんはそう言えますか。どうぞ、心からそう言ってください。イエスは すべての人々のために死んで下さいました。
「私も彼を愛しています」
もう一回大きな声を出して、心からイエスの十字架をおぼえ、神がそれほど私たちを愛して下さることを信じて、心から感謝して言いましょう。
「私も彼を愛しています」
祈りましょう。
父なる神様、独り子イエス・キリストを賜わり、私たちここに集まっている一人一人のために 死んで下さいましたことを、また、世界のすべての人のために死んで下さいましたことを信じて感謝します。どうか私たちもその愛によって救われ、世界の人々も本当に兄弟になって和解され、 共に主に仕えることができますように、本当の平和をつくることができますよう導いて下さい。 この教会がますますこの場所で主のかけ橋になれますように強めて導いて下さい。まだ、イエス を信じていない人、一人でもいらっしゃるなら、その人に特別に主の愛と恵みがありますように導いて下さい。この足りない感謝と願いを、愛する主イエス・キリストの御名によって、み前に おささげします。アーメン
(一九九二年六月十四日大師新生教会にて)
(2025.6.28)
- 「NEXUS 情報の人類史 上 人間のネットワーク A Brief History of Information Network from the Stone Age to AI」ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)著 柴田裕之訳 河出書房新社(ISBN978-4-309-22943-0, 2025.3.30 初版発行)
出版社情報・目次。「NEXUS は、つながり、結びつき、絆、中心、中枢などの意」と訳注にある。まだ上が読み終わったところなので、全体としては、評価できないが、AI 人工知能に関する評価、懸念などを、情報という切り口で書いている本のようである。「情報」から読み解くのは興味深いが、著者は、正しさを中心に据えていること、また、人間の認知範囲についての議論がないことなど、考える基盤がわたしとは、異なっていることを感じる。途中で、独裁と民主主義について考察する箇所があるが、独裁は、ある程度定義できても、民主主義については、定義しないで議論しているようで、例示はいくつもあるが、単に、民主主義を、独裁ではないものとしてしか、捉えられていないようで、これについても不満が残る。おそらく、人工知能について、書きたいことがあるのだろうから、下巻を読んでから、また考えてみたい。著者は、YouTube などでも、語っているが、聞き手が十分本書を理解しているようには見えず、前提などを問わずに質問しているようには見える。単に有名な著者といった印象で、もう少し、正面から議論しないと明らかにならないことが多いように思う。以下は備忘録:
- 「自分の手に余る力を呼び出す傾向は、個人の心理ではなく、私たちの種に特有の、大勢で協力する方法に由来する。人類は、大規模な協力のネットワークを構築することで途方もない力を獲得するものの、そうしたネットワークは、その構築の仕方のせいで力を無分別に使いやすくなってしまっているというのが、本書の核心を成す主張だ。というわけで、私たちの問題はネットワークの問題なのだ。」(p.10)
- 「カス・ミュデ:ポピュリズムとは、社会は『高潔な人民』と『腐敗したエリート』という二つの、それどれ同質で互いに対立する集団に最終的に分けられるとするイデオロギー」(p.25)
- 「我が隊は、276.4 と平行の道路沿いに位置する。友軍の大砲による集中砲火に直撃されている。どうかやめてくれ。と書いた紙を、シェール・アミ(伝書鳩)の右脚に取り付けた筒の中に収め、それから、ハトを宙に放った。ジョン・ネル二等兵は『これが最後の頼みの綱に違いないことが、私たちにはわかっていました。そのたった一羽のおびえたハトが自分のハト小屋を見つけ損なったら、隊は一巻の終わりでした』と回想している。(実は、これも間違っていたとある。)」(p.37)
- 「本書では終始、『真実』という言葉を、現実の特定の面を正確に表しているものという意味で使う。真実という概念の根底にあるのが、一つの普遍的現実が存在するという前提だ。」(p.41)
- 「宗教のネットワークにも個々の人間にはできないことができ、たとえば神殿を建設したり、法制度を維持したり、祝日を祝ったり、聖戦を行ったりすることが可能だ。要するに、情報は現実を表示しているときもあれば、そうでないときもある。だが、情報はつねに人や物事を結びつける。これが情報の基本的な特徴だ。したがって、歴史における情報の役割を考察するときには、『どれだけうまく現実を表しているか?ただしいか、それとも間違っているか?』と問うのが理にかなっう場合があるものの、より重要な問は『どれだけうまく人々を結びつけるか?どのようなネットワークを新たに作り出すか?』であることが多い。」(p.52)
- 「むしろ、人間の情報ネットワーウはどれも、生き延びて栄えるには、真実を発見し、しかも秩序を生み出すという、二つのことを同時にするする必要がある。」(p.77)
- 「1903年のキシニョフ・ポグロム:ビアリクは、ある痛ましい場面で、割って入るのが恐ろしくて夫や兄弟が近くに身を隠す中、ユダヤ人女性たちが集団レイプされる様子を語っている。この詩は、ユダヤ人男性たちを恐れおののくネズミになぞらえ、彼らが神に奇跡を行うように黙って祈るものの、かなえられないところを描く。それから詩は、ポグロムが終わった後でさえ、生存者は武装するつもりはまったくなく、レイプされた女性は今や儀式的に『凌辱』されたのか、それとも、以前として『純潔』なのかについて『タルムード』に即した議論を始めるところを描写する。この詩は今日、イスラエルの多くの学校で読むことが義務付けられている。そしてまた、2000年にわたって史上有数の反戦主義集団だったユダヤ教徒が、どうして世界でも指折りの強力な軍隊を築いたかを理解したい人なら誰にとっても、必読の作品だ。ビアリクがイスラエルの国民詩人と呼ばれるのも無理はない。H.L.Bialik, 'The City of Slaughter', Wikipedia」(p.82)
- 「多くのユダヤ人が、このような官僚制のハードルを越えられず、市民権の取得申請さえしなかった。そして、申請した人のうち、市民権が認められたのは63%に過ぎなかった。ルーマニアのユダヤ人758000人のうち、合計で、367000人が市民権を失った。私の祖父ブルーノもその一人だった。」(p.113)
- 「聖アウグスチヌス:誤るのは人間、誤り続けるのは悪魔」(p.117)
- 「印刷と魔女狩りの歴史が示しているように、規制されていない情報市場のおかげで、人々は自らの誤りに気づき、それを正すようになるとは限らない。なぜなら、そのような市場は、おそらく真実よりも、憤慨や憎悪を煽って攻撃的な言動に走らせるようなコンテンツを優先させるからだ。真実が勝利するためには、事実を重視する方向へ舵を切る力を持った、キュレーションの機関を確立する必要がある。ところが、カトリック教会の歴史を見ればわかるとおり、そのような機関はキュレーションの力を濫用し、自らに対する批判をすべて抑え込み、他の見方にはみな誤りというレッテルを貼り、自らの誤りが暴かれて正されるのを阻止する。より多くの権力を獲得するのではなく、真実の追求を促進するために自らの力を使うような、もっと優れたキュレーションの機関を設立することは可能なのだろうか?」(p.156)
- 「フィロソフィカル・トランズアクション誌に論文が投稿されると、編集者が投げ掛ける最も重要な問いは『どれだけの人がお金を払ってこれを読むだろうか?』ではなく『どのような証拠が、これが正しいことを示しているだろうか』だった。」(p.157)
- 「言い換えれば、科学革命は無知の発見によって始まったのだ。聖典を拠り所とする宗教は、知識の不可謬の厳選に自らが触れることができると決めてかかっていた。(中略)科学という事業は、不可謬性の幻想を退け、誤りは避けられないとする情報ネットワークの構築へと進むことで始まる。」(p.158)
- 「カトリックの教義によれば、聖書の不可謬性と神の導きが人間の腐敗に勝つので、たとえ教会の個々の成員が誤ったり、罪を犯したりするかもしれないにしても、カトリック教会という機関は、けっして間違うことはできないという。歴史を通して、神は教会指導者の大多数が、聖典の解釈で重大な間違いを犯すことを許した例がないのだそうだ。この原則は、多くの宗教に共通する。」(p.161)
- 「精神疾患の診断・統計マニュアル、略称DSMと本物の聖書との間には決定的な違いがある。1952年に初版が発行されたDSMは、10〜20年ごとに改定された。2013年には、第5版が登場した。長年の間に、多くの病気の定義が変わり、新しいものが加わる一方、削除されるものもある。たとえば、同性愛は、1952年には、社会病質パーソナリティ障害とされたが、74年に削除された。DSMのこの誤りを正すのには、わずか22年しかかからなかった。つまり、DSMは聖典ではない。これこそ科学的文書だ。」(p.166)
- 「これはぜひとも記憶にとどめておかなければならないのだが、選挙は真実を発見するための方法ではない。むしろ、人々の相反する願望を裁定することによって秩序を維持する方法だ。選挙は、何が真実かではなく、過半数の人が何を願っているのかを明確にする。そして人々は、真実が実際とは違っていることを欲することが多い。したがって、民主主義的なネットワークは、多数派の意思から真実を守るために、ある程度の自己修正メカニズムを維持する。一例を挙げよう。2001年9月11日の同時多発テロを受けて起こった、イラク侵攻の可否をめぐる2002〜03年の議論の間、ブッシュ政権は次のように主張した。サダム・フセインが大量破壊兵器を開発しており、イラクの人民はアメリカ流の民主制の樹立をしきりに願っていて、アメリカ人を解放者として歓迎するだろう、と。この主張で議論に決着がついた。2002年10月、アメリカ国民に選挙で選ばれた連邦議会の議員たちの圧倒的多数が、イラク侵攻を許可した。下院では、296票対133票、上院では77票対23票で可決された。戦争が始まって間もない2003年3月の世論調査では、議員たちは実際に有権者の多くと波長があっていることが裏付けられた。アメリカの72%がこの侵攻を指示していたのだった。アメリカの人々の意思は明確だった。だが、やがて判明したとおり、真実は政府が言ったことや多数派が信じていたことは違っていた。戦争が進むにつれて明らかになったのだが、イラクには大量破壊兵器はなく、多くのイラク人がアメリカ人に『解放され』ることも、民主制を打ち立ていることも願っていなかった。2004年8月に行われた世論調査では、アメリカ人の67%が、侵攻は不正確な前提に基づいていたものと考えていることがわかった。年月が過ぎるうちに、ほとんどのアメリカ人は、侵攻の決定は壊滅的な間違いだったと認めるようになった。」(p.184-5)
- 「2019年、私はチョルノービリの見学ツアーに参加していた。何が原子力発電所の事故を招いたかを説明してくれたウクライナ人ガイドの言葉が、今も頭を離れない。『アメリカ人は、質問は答えにつながると教わりながら育ちます。ところがソ連国民は、質問はトラブルにつながると教わりながら育ったのです。』」(p.246)
(2025.7.1)
- 「Q資料注解」D.ツェラー著 今井誠二訳 教文館(ISBN4-7642-8057-4, 2000.4.10 初版発行)
出版社情報・目次。Kommentar zur Logienquvelle von Dieter Zeller (1984) の翻訳である。カトリックの研究者の著作であるが、備忘録にある編集者による序文にもあるように、研究者だけでなく、一般の信徒も読者に想定されており、ていねいに平易に書かれている。ただ、聖書などの引用が章節だけで、確認しながら読まないと理解できないのは、すこし残念である。最後の書かれている、Q 資料から見える、まとめた人たちの背景のようなことは、興味深い。「地上のイエスの活動についてはほとんど何も報告していない。」「受難物語を含んでいない」ことである。本書では、Q 共同体ということばが、使われているが、その人達が、特に重要視したこと、または、その人達の希望のもとでのみ言葉の受け取り方などが、透けてみえるようで、興味深い。それぞれの箇所について、丁寧に、もう一度学びながら、確認していきたいと思う。以下は備忘録。
- 「編集者による序文:マルコ、マタイ、ルカによる三つの福音書を注意深く読んで比較すれば、そこに著しい一致と相違があることに気づくであろう。その人は『共観福音書問題』、すなわち元来これらの三つの福音書が歴史的・内容的に互いにどのような関係を持っているか、またこれらの福音書がそれ以前にあったイエス伝承をどのようにそれぞれ独自に編集して組み立てていったかという問題に突き当たることになるのである。ここに至って歴史的聖書釈義が既に一五〇年以上も前に(カール・ラッハマン一八三五)展開した作業仮説が今なお有益な指標を提示しているのが分かる。すなわち語録資料 "Q" を伴った『二資料説』である。以下の注解において、そこで何が問題になっているか、どのような学問的思考モデルが背後に存在し、またどのような福音書資料が具体的にこれに属するものとして挙げられるのかが、神学を専門としない人々にも理解できるような仕方で説明されるであろう。そこで明らかになるのは、聖書テキストが語録資料 "Q" という枠組みの中で伝承されているということを考慮することによって、それらのテキストを事柄に即して正しく理解し解釈できるようになるということである。さて神学の専門家でない人々や聖書の素朴な読者に語録資料 "Q" という学問的仮説と正面から向き合わせ、従来は聖書解釈の専門家の間でのみ周知のこととされ一般的に認められた実情に、ある程度習熟させることは、宗教教育や聖書教授法の見地からして決して生易しいことではない。聖書の素朴な読者が混乱し、課題な要求が課されるという危険、また[読者の関心が]本質的・霊的なものから方法論的意・作業論的なものへとそらされてしまうという危険については、もちろん注意が促されるべきである。それでもなお我々は一九六五年の第二バチカン公会議と今日も有効とされている諸教令とともに以下のことを主張したい。すなわち責任を持った、しかも学問的批判に耐えうる仕方で聖なる書物とつきあう方法だけが、分派主義的な聖書の誤用から生じる禍いに満ちた逸脱から身を守るということである。したがってことが重要な『み言葉の奉仕』(使徒行伝六4)に関するものであれば、今日の学問的釈義に由来する認識の諸成果、その様々な作業方法、仮説、方法論などを、初めから終わりまで、神学の非専門家や聖書の素朴な読者にも、要求し[しても耐えることが]できるのである。それゆえドイツ・カトリック聖書協会はーーこれまで常に釈義的に責任ある、同時に霊的に方向づけられた聖書釈義をする義務を負っていると自覚してきたし、また今も自覚しているためにーー神学を専門としない人々、並びに関心を持つ聖書読者、及び聖書学を学ぶ全ての人のために、ここに初めての語録資料 "Q" の注解を提示することにした。この注解は、弟子たちと彼らが属する諸教会とによって担われたイエス伝承から今日正典に含まれている形での教会の大福音書へと至る道程の最初期と辿る手助けとなるであろう。願わくは、この語録資料注解が、地上のイエスの元来の意図 "ipsissima intentio" を現代に生きる信仰と行動のために開示せんことを。(シュトゥットガルト、一九八四年六月二九日 パウル=ゲルハルト・ミュラー)」(p.9)
- 「このQ語録は、国家間の武装放棄、防衛(徴兵)義務、防衛努力をめぐる議論においてしばしば利用されている。この語録は本当にそのように政治的に直接利用できるものなのであろうか。『山上の説教を用いて国家を作る』というようなことが可能なのであろうか。」(p.52)
- 「いずれにせよ、キリスト教徒たちに残されている選択肢は受け身でいることだけではない。キリスト教徒には不義に対する抵抗がーーたとえ可能な限り非暴力的な手段をとる道を探さなければならないとしてもーー命じられているのである。」(p.54)
- 「もっとも、彼らの登場の仕方を今日そのまま真似ることはほとんどできない。そのやりかたは、短期的射程をもつものであって、一目で見渡せるような社会的構成体を前提としている。つまり、弟子たちを受け入れるか、あるいは拒否するかが『町』全体の問題となる程度の規模である。」(p.92)
- 「諸福音書と比べてみると、語録資料は後に前者が表現するように、地上のイエスの活動についてはほとんど何も報告していない。後代に諸福音書が叙述するような幼児物語については言わずもがなである。(中略)しかしイエスが奇跡を実行したということは、いずれにせよ様々な仕方で前程されており(マタイ一一2−6、ルカ一〇13,14,23,24,一一14−24)ルカ一一14や、あるいは他のどこかからといいれられたであろう百人隊長のペリコペー(マタイ八5−10,13、キリスト教の礼拝で読み上げられる聖書の一節)において、それが短く物語られている。同様に、二次的な誘惑物語も、洗礼物語を継続させている。」(p.182)
- 「それよりもさらに重大なのは、Qが受難物語を含んでおらず、パウロが1コリント一五1以下で最も根本的なこととみなしているエルサレム原始教会のケーリュグマ((κήρυγμα):ギリシャ語で「宣教」「布告」を意味する言葉)については沈黙しているということである。このケーリュグマはそこではーー既にいくらか展開した形においてであるにせよーー以下のようにまとめられている。『キリストは私たちの罪(複数形)のために死んだ。それは聖書にある通りであった。そして埋葬された。そして三日目に蘇らされた。それは聖書にあるとおりであった。そしてケファに(それから十二人に)現れた。』イエスの氏はQにおいては、ただ一度『いなくなること』として暗示されている。(ルカ一三35)だけである。イエスの氏は、贖罪死として理解されているのではない。神のゆるしはイエスの死によって初めて働くようにされるのではなく、Q共同体は天の父に直接ゆるしを請い求める。(ルカ一一4)もちろんそれは神は慈悲深いというイエスの言葉(ルカ六36参照)に鼓舞されてではあるが。」(p.182)
(2025.7.9)
- 「平和と和解の継承 関田寛雄先生・雨宮剛先生追悼記念集」「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」実行委員会 [編] 「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」実行委員会 [発行]
私も、過去に数回、保土ヶ谷の英連邦墓地で、8月第一土曜日に行われている「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」に出席したことがあり、本書は、この中にも一文を寄稿しておられる方からいただいた。英連邦戦没者追悼礼拝は、雨宮剛(1934年10月6日-2023年1月12日)、永瀬隆(1918年2月20日-2011年6月21日)、斎藤和明(1935年3月31日 - 2008年6月21日)三氏が呼びかけ人代表となって始まり、第一回目(1995年)から関田寛雄氏(1928年8月18日 - 2022年12月14日)が追悼メッセージを語られていた礼拝である。斎藤和明氏起草による「英連邦戦没者追悼礼拝の趣旨」という趣旨文が掲載されている。(p.12)全てかどうかは確認していないが、ほとんどが、第二次世界大戦中に捕虜となった英連邦の兵で日本でなくなった方の墓であり、その中には、泰緬鉄道(タイとミャンマーの国境の鉄道)建設のための強制労働をさせられ、さらに、日本に連行され死亡した人たちも含まれる。英連邦とあり、インド兵なども含まれる。参考(英連邦戦没捕虜追悼礼拝 POW Memorial Service)・POW研究会:英連邦戦死者墓地。「はじめに」には、関連する、カウラ事件 [参考:カウラは忘れない]、バターン死の行軍 [参考:バタアン半島敵軍降伏]、泰緬鉄道 [参考:俘虜数万を虐殺泰緬鉄道の悲劇-東京裁判] についての注が付属している。(趣旨文参照。参考につけたものはネット上で見つけたもの)単に、正しさでのみ考えると、日本だけでなく、英連邦も東南アジアを植民地とし、現地の人たちに対する残虐行為は多くあり、人間として扱っていなかった点については、共通点もあると思われる。また、実際泰緬鉄道の工事などで死んでいった現地の人の数は、膨大な数になっており、現地の方々への謝罪行為のほうがさらに重要に思われる。しかし、日本軍の英連邦捕虜に対する残虐行為は、斎藤和明氏が訳した、「クワイ河収容所」 (ちくま学芸文庫 コ 5-1) にも詳しく、そこで、通訳をしていた永瀬隆氏が現地を訪ねて、贖罪の働きをはじめたことが起源であり、実際多くの英連邦の人たちがこの残虐行為のゆえに、日本人を赦せないと現在にいたるまで考えている人が多くいることからすると、まさに、このような謝罪の行為、そのことを覚える礼拝は、今後も永遠に続けられるべきことだと思う。関田寛雄先生・雨宮剛先生というお二人の青山学院大学の先生方の働きが、多くの方々にこのバトンを引き継いでおられることが本書から伝わってくる。以下は備忘録:
- 「雨宮剛:私は高校二年生のときに愛知で開かれた『国際キリスト教ワークキャンプ』でアモール・バンダさんという二十二、三歳のフィリピン青年と出会いました。バンダさんはフィリピンの代表として、『日本軍は戦時中、フィリピンで残虐行為を行ったが、私たちはもう恨んでいない』というスピーチをしたのです。『赦す』という平和と和解のメッセージでした。私は、驚きました。バンダさんのお父さんは、バターン半島の牧師で、日本軍に弟さんとともに殺され、一族も『バターン死の行軍』と呼ばれる過酷な捕虜移動の特に大変な被害を受けたそうです。わたしはそれまで自分は戦争の被害者だと思っていた、ところが加害者でもあったのです。私はバンダさんに抱きついて泣き崩れました。」(p.20)
- 「雨宮剛:給仕をしていたときに話しかけられた、コロンビア大大学院の学資などすべてを援助してくれた恩人の奥さんからの手紙(2004年9月)。夫ウォルターの喜びは、人々が努力するのを励ますことでした。夫は、あなたがフィリピンの人々と理解を深め、和解しようとしているすべてのお仕事を非常に誇りに思っていました。夫は、第二次世界大戦でアメリカ政府が日系アメリカ市民や日本人にしたことはまちがっていると考えていました。夫はあなたの勉学を援助することによって、その過ちの償いをしようと努めたのでした。あなたが夫の励ましの贈り物を受け取ってくださり、他の人々を励ますために、ご自分の時間と才能を用いてくださることに心から御礼申し上げます。」(p.24)
- 「青山学院大学建学の精神:キリスト教信仰を目指し、神の前に真実に生き、真実を謙虚に追い求め、愛と奉仕の精神を持って、すべての人と社会に対する責任を進んで果たす人間形成を目的とする。」(p.59)
- 「雨宮剛、クリスチャン新聞協力記者に対し:いのちからがら逃げてきたクルド人家族が、難民認定されずに追い返されそうとしているのだよ。切羽つまっているのだよ。君たちクリスチャンは、そんな彼らを見捨てるのかね。クリスチャンメディアは真実を伝える使命があるのではないのか!こういうときに迅速に動こうとしないクリスチャンは、私は大嫌いなのだよ。」(p.115)
- 「神直子(ブリッジ・フォー・ピース BFP):私は和解とは『被害者と加害者それぞれの一方的なものではなりたたない、双方が取り組む道のりであり、その後生まれる合意と相互理解である』と認識しています。」(p.168)
(2025.7.12)
- 「世界の壁・移民・紛争の全記録 国境アトラス」デルフィヌ・パパン、ブルーノ・テルトレ共著、グゼマルタン・ラボルド 地図 岩田佳代子、エラリー・ジャンクリストフ訳、井田仁康日本語監修 日経ナショナル・ジオグラフィック(ISBN978-4-86313-642-7, 2025.3.24 第1版第1刷)
出版社情報・目次。興味深い本である。フランスのル・モンド紙が背景にあり、L'ATLAS DES FRONTIERES, MURS, MIGRATION, CONFLICTS という書名で出版され翻訳されたものである。最近の出版で、ウクライナや、ガザの問題や、コロナによる国境の閉鎖などにも詳しく言及されている。このような情報は、ネット上で確認でき、変化をうけて、情報が追加されていくべきだと思うが、ここまでのレベルの情報が、どこかに公開されているのか私は知らない。印象としては、国際問題を、あまく考えてはいけないこと。歴史もあり、国境の背後には、西洋の価値観と政治や歴史もあることなど、国家というものをどう考え、そこに住む人をどう考えるか、States(国家)、Countries(土地としての国)、Nations(民族・人の集合体)を一つの基準で考えられるのか、平和裏に、国境が画定することは、良いこととも言えるが、ヨーロッパのシェンゲン同盟国、ヨーロッパ共同体、アフリカ連合、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)など、様々な広がりのなかで、国境によらない、大きな枠組みが、帝国主義とは別に発展するとよいとも思うが、そのボーダーは、新たなさらに難しい問題も作り出すことを考えると、本当に難しいということが分かるとしか言えない。アメリカ、ロシア、中国、トルコなどの大国、これに、インドも加わるかもしれないが、これらの動向は、やはり無視できず、平和な状態に行き着くのは、難しいようにも見えてしまう。少しずつ丁寧に学んでいきたい。以下は備忘録。
- 「国境の定義(国際司法裁判所):主権と権利がそれぞれ行使される空間が交わる正確な境界線」(p.8)
- 「国境の画定:(1) 国家間の通常戦争の結果、つまり講和条約または降伏(休戦または、それが不可能な場合は、事実上の国境のみを定める停戦)、(2) 領土拡張(併合)または帝国主義的拡張(分割)、(3) 独立(脱植民地化または分離)、(4) 善隣関係。その場合国境が示すのは往々にして両国の権利、つまり土地の所有権、(5) 国際仲裁。」(p.8)
- 「1919年に行われた戦勝国による領土分割(パリ講和会議)をみれば、国境を画定する際には、経済的利益(炭鉱、海へのアクセス)、戦略上の必要性(領土防衛能力)、民族または国家の統一、歴史的伝統など、多様な要素が考慮されることが分かるだろう。」(p.10)
- 「私たちが知る国境の形成は、実は近代世界の出現と関連している。それは17世紀に始まった。ウェストファーレン条約(1648年)に基づき、帝国間での交渉により最初の国境が画定された。」(p.14)
- 「19世紀半ばから第一次世界大戦後にかけて、国家の建設と並行して全世界が分割され、1875年から1924年の間に陸地の国境の半分以上が画定された。ほぼ同時に、米国(1890年)とロシア(1860年)は、それぞれの広大な領土の『征服』を完了。国境は、伝統的な昨日、すなわち、領土防衛、税徴収、関税、行政、公共秩序などを担うようになった。」(p.15)
- 「国境問題に対するシンプルで目に見える『常識的な』対応策として壁が建設される。これは政治家が好む手法だが、思想家にはさほど人気があるわけではない。哲学者ティエリー・パコは『壁は無理解、分離、隔離』を表現している。壁を建設する者は人類を汚染するものである』と述べている。同僚のウェンディ・ブラウンは、『ポスト国家時代において、壁は新たな形の外国人排斥と内向きな態度を生み出す』という。法学者のモニク・シュミリエ=ジャンドローは、『壁は人間どうしを隔て、人間どうしの「コミュニケーションの権利」を侵害する』と述べている。」(p.71)
- 「2021年、世界には2億8100万人の移民(うち3600万人は難民)が存在した。(中略)移民は仕送り(年間5000億ドル、政府間援助の約2倍以上)を通じて母国の発展にも貢献している。例えば、メキシコでは『移民ドル』は石油に次ぐ第二の収入源となっている。(年間200億ドル)」(p.72)
- 「国際法において、国家とは領土、住民、主権政府、国際的な承認を前提とする。それゆえ国連が定義する非自治地域、分離独立地域、国連が承認する国家、限定的な承認を得ている国家など、いわゆる『準国家』の地位については、不確定性が伴う。」(p.121)
- 「ジャーク・アンセル:国境の問題などない。あるのは国家の問題だけだ。ミシェル・フーシェ:国境の問題などない。あるのは国境をめぐる(国民を含めた)国家間の関係の問題だけだ。」(p.126)
- 「Google Map は賢い。どちらか一方の国に見方するのではなく、ユーザーがいる国からみた国境線を表示している。」(p.126)
- 「現代では、ウティ・ポシデティス・ユリス原則が平和を推進している。それは確かだ。この原則では、独立国家の正当な国境は、その国家が独立前に従属していた地域と同じ国内国境を維持すべきであると定められている。この原則は、国際仲裁裁判によって問題が解決されるようになっていった19世紀に登場し、1945年以降定期的に適用され、1986年に国際司法裁判所(ICJ)によって制定された。適用可能な場合、この原則は国際紛争を防止または解決するための最も単純かつ効果的な方法となる。」(p.126)
- 「国家が存在するのに必要な基準は、法で定められていること、人が定住していること、主権を行使できること、国際的に承認されていることだ。だが、こうした基準も曖昧なところがあるため、『世界に国家がいくつあるか』という質問に正確な数字で答えるのは難しい。国連加盟国は、193カ国だ(2024年現在)。常任オブザーバー(パレスチナ、バチカン市国、欧州連合や、領土を持たないマルタ騎士団などの主権実体団体)、承認されているが加盟はしていない国(クック諸島、ニウエ)を加えると、数はさらに増える。もっと対象を広げれば、状況はさらに複雑になる。問題の複雑さを示す好例がパレスチナだ。143カ国によって承認されている(2024年5月現在)。しかし、ヨルダン川請願地区中部に位置する都市ラマラの自治権は、カザの事実上の分離独立とイスラエルの占領によって二重に制限されている。また、西側では境界線が引かれていない(自然の境界を利用した単なる停戦ラインと、部分的にパレスチナ領域内にあるセキュリティーフェンスがあるだけだ)。パレスチナ領土の状況自体が世界でも特異なケースだ。というのは、1948年に、植民地支配していた英国から主権が委譲されなかったこと、1950年にヨルダンがヨルダン川西岸地区を併合したにもかかわらずその主権を放棄したこと、三つの地域に分割されていることなどによる。」(p.179)
(2025.7.24)
- 「ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか The Invention of the Jewish People」シェロモー・サンド(Shlomo Sand)著 高橋武智監訳 佐々木康之・木村高子訳 ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-09799-6, 2017.7.10 第一刷発行)
出版社情報・目次。正直、すばらしい本である。個人的には、このようなものを読みたかったと思えるような本である。それは、ここに書かれていることを全面的に正しいとする訳では無いが、ここに書かれていることこそが、学問的に検討してほしいと望んでいたという意味である。最初の、「移住した二人の祖父」からはじめ、著者の出自から書かれているのも示唆的で素晴らしい。シオニズムの背景として、ヨーロッパで大きな流れとなっていた、ダウイニズム、優生学がどのように関係してきたか、そして、ユダヤ民族において、ヨーロッパ中心主義がどのように、埋め込まれていったかについても、書かれている。アシュケナージ(ヘブライ語でドイツを意味する)と呼ばれる、主としてイディッシュ語を話す東ヨーロッパに定住した人々、またはその子孫と、セファルディ(セファルディームともいう)と呼ばれる、スペインやポルトガルに移住したラディノ語を話すユダヤ教徒、また、アラブ世界のユダヤ人などについての、検証もされている。1950 ユネスコ憲章 [Link, 日本語リンク] の背後にある、差別を排除する思想とは、食い違うイスラエル国家の問題性についても述べられている。第二章と第五章に書かれている、著者と文献について、リストのみ追記する。
第二章「神話=史」ーはじめに、神がその民を創った
1. フラウイス・ヨセフス(p.140)
2. ジャック・バナージュ(p.153)『イエス・キリストから現代までのユダヤ人の宗教の歴史』
3. イーザーク・マルクス・ヨースト(p.154)『マカバイ家から現代にいたるイスラエル教徒の歴史』(p.154)(『イスラエル教徒の歴史 p.164)
4. レオポルト・ツンツ(p.158)
5. ハインリヒ・グレーツ(p.164)『古代から現在までのユダヤ人の歴史』 『ユダヤ人の通俗的な歴史』(p.195)
6. モーゼス・ヘス(p.175)『ローマとエルサレム』
7. ハインリヒ・フォン・トライチュケ p.182 『わが国のユダヤ人について一言』
8. エルンスト・ルナン(p.195)『イスラエルの民の歴史』
9. シモン・ドゥブノフ(p.195)『世界=民族の歴史』(p.457)
10. ゼエーブ・ヤベツ 『イスラエルの史書』(p.208)
11. サロー・ヴィットマイエル・バロン 『イスラエル史』(p.209)
12. ユリウス・ヴェルハウゼン(p.222)
13. イツハク・ベーア(p.216)『追放 最初のパレスチナ人=シオニスト』(p.223)
14. ベンツィオン・ディヌール(p.221)(p.223) 『イスラエル史 追放下のイスラエル』
15. ダヴィド・ベングリオン(p.228)
16. モシェ・ダヤン(p.235)『聖書と共に生きる』
17. イーガル・ヤディン(p.238)
18. ウィリアム・F・オルブライト(p.238)『パレスチナの考古学』
第五章 区別
1. ナタン・ビルンバウム(p.504)
2. テオドール・ヘルツル(p.506)
3. マックス・ノルダウ(p.507)メイール・シムチハ・ジュードフェルト 『南の野原』
4. ブーバー(p.510)バル・コホバ・サークルの始祖
5. ウラジミール・ゼエーヴ・ジャボティンスキー(p.511)
6. アルトゥール・ルビン(p.514)『ユダヤ人の社会学』(p.517)
7. ラファエル・ファルク(p.521)『シオニズムと生物学的ユダヤ人』
8. カール・カウツキー(p.526)『ユダヤ人共同体と人種』 ユダヤ人は一つの人種か
9. フランツ・ボアズ(p.530)『原始人の精神』
10. モーリス・フィシュバーグ(p.530)『ユダヤ人その人種と環境』
11. アーサー・ムーラント(p.534)『ユダヤ人の遺伝学』
12. アリエラ・オッペンハイム(p.537)
Medieval Kingdom of Khazaria, 652-969 についてのサイト。Kevin A.the Jews of Khazaria。以下は備忘録。
-
「私はイスラエルを民主的な国家と定義することの難しさーなぜならイスラエルは(占領地域を除き)承認された国境線の内部に生存する社会集団の代表者としてではなく、ユダヤ人の国家として自らを提示しているからだ。(中略)実際、ユダヤ人の母親から生まれたすべての人間は、『民族への帰属感などいだかず』心静かにニューヨークなりパリなりに留まっていても、イスラエルは自分のものだという保証を持ちうるのである。仮にその人がイスラエルの主権下に定住しに来る意図などまったくないとしても、だ。これと並行するように、ユダヤ人世界の出身ではないが、ジャッファなりナザレなりに生まれ、常住している人間は、彼がそのなかで生活している国家が絶えず彼に敵対してくるのをつねに体験することになることだろう。」(p.10)
- 「ヘブライ諸大学には、偶然の出来事ではないが、『歴史学科』という存在はなく、ただ、『一般史学科』があるだけだ。(私はこの学科に属しているが)ニュアンスの差は無視できるようなものではない。というのも、この学科と並んで、それもまったく判然と『イスラエル民族史学科』が存在するからだ。最も激しく私を切り捨てたのは、この学科の人たちだった。」(p.11-12)
- 「今日シオニズムの最低限の要求は、イスラエルをそこに住むすべての市民の国家としてでなく、全世界のユダヤ人の国家と見做し続けようとする意志になりきっている、ということである。」(p.14)
- 「シオニズムの神話を掘り崩し、その植民地化の企図を非合法とするこの物語を書いたあとで、あなたはイスラエルに生活し、パレスチナによるその承認を要求し続けることができるのか。」(p.15)
- 「私の意見では、ユダヤ人は民族(プープル peuple)を構成していない。というのも、この用語の近代的な意味では、民族とは特殊な領土上に生活する人間集団で、そこで集団全体に共通する日常的な文化ー話し言葉から生活習慣と生活様式にいたるまでーが発展したものを指す。それゆえ、今日、フランス民族・イタリア民族、あるいはベトナム民族とは言えるが、民族的伝統の重みと重要性にもかかわらず、ユダヤ民族、あるいは、キリスト教民族とは言えないのだ。」(p.16)
- 「エティエンヌ・バリバール『国民形態ー歴史とイデオロギー』1988年:いかなるネイションも自然の形では、種族的基盤を備えているものではない。しかし社会構成体がネイション化するにつれて、この構成体がふくみこみ、分割し、あるいは支配する住民は『種族化』される。すなわち、住民は、あたかもひとつの自然的共同体を形成しているかのように、過去のなかにあるいは未来の中に表象されるのである。」(p.76)
- 「マルク・ブロック:人間には、習慣が変わるたびに語彙を変える習慣がないという事実は、しばしば歴史家を大いに絶望させる。」(p.78)
- 「アンソニー・D・スミス:種族(エトニック)集団は次の四つの特徴により識別される。すなわち、(1)集団に共通の起源があるという感覚、(2)独自の歴史をもつという意識、および共通の運命を持つという信念、(3)一つあるいは複数の集団的・文化の特徴の存在、(4)そして最後に独特の集団の連帯感である。」(p.86)
- 「バリバールが的確にもまったく架空の存在だと定義した『種族性(エトニシテ)』は、二◯世紀末から二一世紀初めにかけ、ふたたび人気を取り戻した。この哲学者バリバールは何度も繰り返して、ネイションとは『種族的存在』ではなく、また『種族的起源』という概念そのものが疑わしいと強調した。」(p.87)
- 「ジョン・スチュアート・ミル:人間の一部分は、お互い同士共感によって結ばれている場合、『ナショナリティ』を構成しているとみなされうる。この共感は、彼らと彼ら以外の人々との間には存在せず、他の人々とよりも、彼らの中のお互い同士を進んで協力させるものである。さらに、これらの個人を結びつけるのは、彼ら自身の政府であれ、あるいは排他的に彼らの一部分の政府であれ、同一の政府のもとにいようとする願望でもある。」(p.92)
- 「アーネスト・ゲルナー:(1)二人の人間は、二人が同じ文化(教養)を共有する場合、そしてその場合にのみ、同じネイションに属する。ここでいう文化(教養)が意味するものは、一系列の思想・記号・連想・行動とコミュニケーションの様式のことである。(2)二人の人間は、二人が互いに相手を同じネイションに属すると認める場合、そしてその場合にのみ、同じネイションに属する。換言すれば、ネイションを作るのは人間なのである。」(p.100)
- 「(1)ネイションとは、普通教育を手段として、全構成員に共通で、そのだれにもアクセル可能なものになろうとする主導的な大衆文化が、そのなかで形成される人間集団である。(2)ネイションの内部では、その構成員とみなされ、また自らもそうみなす人々の間の市民的平等という考え方が創出される。こうした市民的組織体は、みずからを主権者とみなす。あるいは、まだ独立を勝ち得ていない場合、政治的な独立を要求する。(3)事実上の主権の代表者、あるいは独立を熱望する代表者と、市民のうち最小の存在、つまり一人一人の市民とのあいだに、双方を一つに結びつける文化的・言語的な連続性が存在すべきである。あるいは少なくとも、こうした連続性の形成につき、何らかの包括的表象がそんざいすべきである。(4)過去における君主と臣民とは反対に、ネイションと一体化する市民は、ネイションの主権のもとにいきるために、ネイションへのみずからの帰属を意識する者と、あるいはネイションの一部を構成することを熱望する者とみなされる。(5)ネイションは、全構成員が相ともにその独占的所有者であると感じ、かつ決定する共同の領域を所有する。この領域に対するいかなる侵害も、構成員の個人的私有財産への侵害と同じように強く受け止められる。(6)独立試験獲得ののち、このネイションの領土の範囲で展開された経済活動の総体は、すくなくとも二十世紀の末までは、その他の市場経済の国々との関係よりも優越していた。」(p.101)
- 「カールトン・ヘイズ:これらすべてのプロセスの結果として、知識人のナショナリズム神学が、大衆のためのナショナリズム神話となった。」(p.132)
- 「彼らはユダヤ人であり続けたが、とはいえ、他の民々にも帰属していた。」(p.160)
- 「すべてのユダヤ人共同体は、どの特定の民族からも分離した構成員からなっていたわけではなかった。共同体の文化や生活様式は居住民にゆおってまったく異なり、ただ神への独自な信仰だけが全共同体を一つにし、お互い同士を結びつけてもいた。非ユダヤ人からユダヤ人を分ける政治的・ユダヤ的な超実体など存在しない。そうだからこそ、ユダヤ人は近代社会において、近代ナショナリズムへと突進していった他のすべての文化集団や種族と同じ資格で、平等な市民権を要求することがdけいるのである。」(p.161)
- 「三つの有名な宣誓は、最も重要な宗教的禁忌を構成していた、それらはバビロニア・タルムードの中に見られ、次のように明瞭に述べている。『この三つの宣誓は、どのような行動に適用されるのだろうか。その一つは、ユダヤ人が壁のように一体となって、力尽くでシオンへ向かってロウ流してはならない、とユダヤ人に命じてきる。そして一つは、いと聖なる者ー彼に祝福あれーはユダヤ人に、世界の異教徒に対して反乱を起こさないよう命じる。そして一つは、いと聖なる者ー彼に祝福あれーは偶像崇拝者たちに向かって、必要以上にユダヤ人を屈服させないよう命じる』(エトゥボット)」(p.277)
- 「ディヌール:ユダヤ人が離散先の国々へ定住したのは、そのどれをとっても、追放にその起源がある。換言すれば、そのいずれもが強制と強姦の結果だった。(中略)だからといって、エルサレムの破壊後にユダヤ人が多くの国国へ到達したのは、戦争捕虜・難民兵士、あるいは、故郷を追放されたものだったというわけではない。廃墟とかしたエルサレムから、一、二世代を経て最終の定住場所にまでいたる道のりは、長く多事多難だった。その途中、彼らはさまざまな場所で、多かれ少なかれ長期にわたる多様な滞在を経験した。しかし、彼らは避難所と仮の宿を求める難民・被追放者として到着したので、また彼らの故郷が破壊されたことは広く周知の事実であり、さらにその理由も万人に知れ渡っていたので、彼らが歓待を求めて向かった国々の住民は、彼らがドアをノックするにいたったそもそもの理由を聞くだけで満足したのも自然のなりゆきだった。また時にはユダヤ人自身も、追放=離郷をめぐるユダヤ人側の事情を強調するのに意を用い、直前の滞在地について多くを語ることは控え、むしろ最初の出身地、それも最初のなかでも最初の出身地のことを思い出してもらう方を好んだのだった。」(p.286)
- 「ディヌール:ラビ・ヨシ・ベンハニナの三つの宣誓は、追放の存在を可能にする基礎であったが、追放の廃止をもって、こうした宣誓は無効となり、壁のように一体となってシオンへ向かって合流することを禁じる宣誓(つまりイスラエルの知へ組織的に移住することの禁止)もまた、そのことによって廃止されたのでだ。かくして、新しい世代の回答は、壁のように一体となってシオンへ向かって合流することでしかあり得なくなった。」(p.288)
- 「オリゲネス:ユダイオスというのは『種族』の名ではなく、(生活様式)選択の名である。というのも、ユダヤ人のネイションには属さない人、つまりは異邦人がいたとして、この人がユダヤ人の風習を受け入れ、こうして改宗者となった場合、この人物はユダイオスと呼ばれるのがふさわしいからである。」(p.334)
- 「拡大をつづける帝国世界では、ーその拡大こそ、古くからのアイデンティティや伝統を解体させる要因にほかならずーそれだけに共同体への帰属感が一層必要とされてえいたのであるが、今は希少な存在になるにいたったこの帰属感をもたらしたものこそ、ユダヤ教だったことも忘れてはなるまい。」(p.341)
- 「ドゥブノフ:しかし何よりもまず、ポーランドとロシアのユダヤ人はどこから来たのだろうかー西方の国々からか、それともハザールの国々とクリミヤからなのか。」(p.475)
- 「ベネデット・クローチェ:いかなる歴史も、まず第一に、それが書かれた時代の産物である。」(p.477)
- 「よく知られているように、シオニスト的歴史解釈の伝統的な流れは、東欧のユダヤ人が、『イスラエルの地』からの追放後、『一時的に』ローマに滞在したのち、ドイツからやってきた人々であることを主張していた。追放と彷徨の民に関わる本質主義的な取り組みと、ヨーロッパとつながる光栄とのこうした合一は、まことに輝かしい組み合わせであった。(アラブ世界出身のユダヤ人が『セファルディ』、つまりスペインの子孫と名乗る習慣になったのと同様に、東欧のユダヤ人も『アシュケナージ』と呼ばれることを好んだ)。ドイツ西部からヨーロッパ大陸の東部彷徨へのユダヤ人の移住を証明する歴史的根拠は一つもないにもかかわらず、ポーランド・リトアニア・ロシアでイディシュ語が使用されている事実は、これら諸国のユダヤ人がゲルマン=ユダヤ系起源の人々、すなわちアシュケナージであることを証明するのに利用された。それというのも、東欧ユダヤ人が用いるイディッシュ語は、八〇パーセントの単語がドイツ語という構成を持っていた。こうした歴史の皮肉に直面して、それぞれの起源は多様であり、トルコ系やスラヴ系の諸方言を話していたはずの、あのハザール人とスラヴ人がイディッシュ語を話すにいたったことを、どのように説明できたのであろうか。」(p.478)
- 「ユダヤ人種もユダヤ人特有の身体的特徴も存在しない。せいぜいが、彼らが内向的で、共同体内部で結婚を繰り返し、長期間ゲットーに住んでいた結果、さまざまなタイプのユダヤ人が見つかるくらいのところだ。つまりユダヤ人は社会的に孤立していたために、特有の行動様式、それに容貌さえ形成されたので。こういう限定があるのに、血や遺伝の問題をもちだすのは、したがってまったく的はずれである。ユダヤ人が生業としてきた特殊な職業でさえ、実際は中世に否応なく押し付けられたものであり、決して自ら選び取ったのではなかった。」(p.526)
- 「しかしこの合意にもとづく全面否定も、イスラエルの科学者をとめることはできなかったし、さまよえるユダヤ人が単一の起源を持つというシオニストの強い信念をゆるがすこともなかった。現在の大学研究者の用語から『ユダヤ人種』という言葉は消えたものの、新たな学問分野が『ユダヤ人共同体の起源に関する研究』という立派な名前とともに出現した。大衆的なジャーナリズム用語では、それは簡単に『ユダヤ遺伝子の探求』と呼ばれた。」(p.532)
- 「それでは『ユダヤ種族』は何を持って特徴づけられるのだろうか。われわれは、ユダヤ人共同体の歴史的起源と考えられてきたものや、この雑多なユダヤ人共同体の名残や記憶を手がかりとする、一九世紀後半以来の『民族』の本質主義的構築のプロセスをここまで吟味してきた。こうした条件下で、何千年も経ってから『約束の地イスラエル』に『再建された』ユダヤ人国家の正統な所有者とは、いったい誰なのだろうか。自分はユダヤ人だと意識しているすべての人だろうか、それともイスラエル市民となったすべての人々だろうか。この複雑な問題は、この国のアイデンティティ政策がそれをめぐって決定されるうえでの主要な軸の一つとなっていくだろう。」(p.550)
- 「シオニズム運動の内部には、またそれからイスラエルの国家自体のなかにも、宗教派と世俗派とのあいだに、緊張、無理解、衝突が存在したにもかかわらず、よく検討してみれば、シオニズムはみずからの企図を実現するために、宗教からの圧力を常に必要としてきただけでなく、しばしばそれを求めることさえあったのは確かである。イシャイヤフ・レイボヴィッツは、なにしろ途方もないもので、これを定義し、その教会をはっきり定めるのは困難きわまりないから、『永遠の苦しみに身もだえつつ』レビ伝承に身を委ねる以外に道はないのだ。」(p.552)
- 「すでにみてきたように、この世俗文化をユダヤ文化と認めるのは困難であるが、それは主に三つの理由による。(1)この文化と、過去・現在のユダヤ教のあらゆる文化形態とのあいだに横たわる溝はあまりに深く越えがたいものであった。(2)世界のユダヤ人はそこにかかわっていないし、その多様性の一翼を当事者として担うこともなく、その発展に加わってもいない。(3)イスラエルに住む非ユダヤ人は、パレスチナ系イスラエル人であれ、『ロシアからの』移民であれ、外国人労働者であってさえも、この文化の細かいニュアンスについて、世界の他の土地のユダヤ人よりもよう知っており、(たとえ彼らがそれぞれの独自性を保持しているとしても)現実にこの文化をますます深く生きている。」(p.553)
- 「ユダヤ人とはユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは改宗して他の宗教とのつながりを断ち切った者を言う。二二年にわたる遅滞のすえに、『ラボのユダヤ教』と本質主義的ネイション概念はとうとう決定的に結合された。」(p.562)
(2025.8.7)
- 「なぜ「同意に基づく武力行使」が正当化されるのか〜理論と実行からの探究」村角愛佳著 京都大学出版会(ISBN978-4-400-11908-1, 2022.3.25 第一版第一刷発行)
出版社情報・目次。著者を我が家にお泊めしたときに献本としていただいた。すぐ序章を読んだが、むずかしすぎて、しばらくして時間ができてから、最初から読んだ。国際法の知識などがほとんどなかったので、AI で、基本的なことを学んでから読んだので、ある程度問いをもち、能動的に読むことができた。終章には、理論と実践とあり、表題には、理論と実行とあるが、国際法の立場からの、実際の事例に対する評価と適用ということなのだろう。立法の精神と、司法のよる適用ということだろうか。本書では、国際法における人間的視座ということばも使って、議論されているが、もっと根本的な問題が気になった。あまりに理解が浅い段階ではあるが、いずれ著者に伺ってみたい。第2章III.武力行使禁止原則の二元的理解の基礎は、重要だと思われるが、日本人の引用が多くなるのが気になった。基本的な国際憲章など。「国連憲章第2条4項 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(p.18)「国家責任条文20条 他の国の特定の行為に対する国有効な同意は、その行為が当該同意の範囲内にある限り、同意を与える国との関係でその行為の違法性そ阻却する。」(p.36)「第29条(同意)1. ある国家に対し他の国家の有する義務に一致しない、後者の国家による特定の行為に依然として止まる限りにおいて、前者の国家が有効に与えた同意は、当該行為がこのような同意の範囲内に依然としてとどまる限りにおいて、前者の国家との関係で、当該行為の違法性を阻却する。2. 第1項は、当該義務が一般国際法の強行規範より生ずるものである場合には、適用あされない。この条文草案の適用上、一般国際法の強行規範とは、いかなる逸脱をもゆるされない規範として、また後に成立する同一の性質を有する一般国際法の規範によってのみ変更することのできる規範として、国により構成されている国際社会全体が受け入れ、かつ認める規範をいう。(第1読で採択された草案)」(p.38)「憲章第53条1項 いかなる強制行動も、安保理の許可がなければ、地域的取極に基づいてまたは地域的国際機関によってとられてはならない。」(p.203)以下は備忘録。
- 「国家が国民の地位や権利・義務を自由に決定することができるという国際法原則に服していたのであり、人権問題は、単なる国内問題として国内管轄事項にとどまっていたのである。」(p.12)
- 「1949年の文民条約を皮切りに、人間の保護をより重視した法規範が発展してきた。国際社会が主権国家の併存分離という構造であることを強調すれば、国際法の目指す利益は諸国の共存にあるが、国家よりも人間に着目する国際人権法・人道法の発展、さらには、対世的義務および強制規範の実定法化は、必ずしも国家対国家的に語ることができない。」(p.13)
- 「まとめると、国家利益とは区別された人間的利益の登場・発展(第1の変化)により、国家はそのような人間的利益を保護すべき存在であるとして国家主権概念が変容し(第2の変化)、その考え方が安全保障の分野にも浸透しつつある(第3の変化)ということになる。これが武力行使における国家実行に影響を与え、後に生じた慣行ないし新たな慣習法として、憲章第2条4項の解釈に影響している。国家実行の分析は第2部で行う。」(p.85)
- 「第一に自決権の侵害になることを理由として、内戦下ではいかなる政府も同意能力(consent power)を有さないし、他国は介入してはならないとする内戦不介入説である。(I.)。第2に、内戦の発生の有無を問わず、領土を実行的に支配している政府が同意能力を有するとする実行的支配説である。(II.)。第3に、内戦の発生の有無を問わず、自由で公正な選挙で選出されたなどの民主的に正統な政府が同意能力を有するとする民主的正統性である(III.)。第4に、内戦の発生の有無を問わず、自国領域国内のの人々を実効的に保護している政府が同意能力を有するとする実効的保護説である。(IV.)」(p.95.)
- 「冷戦終焉以降、国際法は『主権者の主権ではなく、国民の主権』をほごしているという点を重視するようになっており、民主主義が統治原理としての優越性を獲得してきた。」(p.105)
- 「『領域国政府からの同意が、抽象的国家利益のみの放棄であり一定の人間的利益の侵害を意図したものではないこと』『領域国政府からの同意に基づいて武力行使する国家が、当該領域国の抽象的国家利益のみを侵害しており一定の人間的利益の侵害するものではないこと』」(p.153)
- 「しかし、最近の国家実行においては、既存国家の一部の地域を国家承認して、当該新国家からの要請であるとして軍事介入をする事例や、クーデターにより成立した軍事政権に政府承認を与えないまま、当該軍事政権の同意を得て在外自国民保護を行う事例がある。ここではそれらを念頭に、まず同意を与える主体が『国家』であり(I.),
『政府』である(II.)という要件を確認する。その上で、『いかなる政府を代表して同意を与えうるか』という政府代表性の問題(III.)をけんとうすることにしたい。」(p.163)
- 「」(p.181)
- 「」(p.226)
- 「既に第3章で論じたように、シリア政府は自公内で一定の人間的利益を侵害しており、他国に武力行使を要請する能力を失っていた。」(p.242)
- 「すべての国は、他の国において内戦行為またはテロ行為を組織し、教唆し、援助を与えもしくはそれに参加すること、またはかかる行為の実行に向けられた自国領域内における組織的活動を黙認することを、上記の諸行為が武力による威嚇または武力の行使を伴う場合には慎む義務を有する。」(p.250)
- 「松井芳郎:忘れてはならないのは、現代国際法では国際関係における武力行使が禁止されており、この禁止に違反する違法な武力攻撃に対抗するためだけに自衛権の講師が合法とされる(中略)国際法主体ではない、言い換えれば国際義務違反を犯しようがないテロ集団の攻撃に対して、自衛権を持ち出すのは場違いなのである。」(p.273)
- 「それは、国際法は必ずしも国家対国家的に語ることができないことを意味する。国家がそれ自体として固有の価値をあたえられてきた近代の国家観そして国際法観は国家主権を相対化するかたちで変容しているのである。」(p.309)
- 「同時に、理論的問題は、武力行使禁止の強行規範性との関係で議論が頓挫しているようにみえ、一方で実践的問題に関しては『保護する責任』や国際人権法・人道法に着目するという最近の傾向が伺えた。そこで、思い切って『人間的視座』を導入し、両問題を連動させ、解決しようとした。その試みが上記の博士論文となった。この試みが成功しているか否かは、読者からのご意見と、それを踏まえた今後の研究によって明らかにしていきたい。」(p.311)
(2025.8.14)
- 「語り伝えるアジア・太平洋戦争 第1巻 開戦への道のり」文・監修 吉田裕 新日本出版社(ISBN978-4-406-055020-8, 2011.12.25 初版)
出版社情報・目次。全5巻の第1巻である。第2巻は、早乙女勝元が書いているが、それ以外は、吉田裕氏の監修である。わたしの一学年下で、東京教育大学文学部が廃校になる最後の年の学生だったようだ。たくさん著書のある、歴史学者である。アジア・太平洋戦争についての全体像を把握するために、借りた。小学生用と思われるが、写真などの資料は細かく、小学生だけで理解するのは少し難しいように思う。資料もしっかりしており、良い資料だと思う。第1巻は、柳条湖事件から、満州国の建国、満州事変から、その後の、日中戦争のことが書かれている。柳条湖事件は、陸軍の暴走と言われているが、この事態に至り、かつ、そのあと路線変更できなかったことを考えると、問題の根幹は、この時期より前にあるのだろう。細かいことで、整理できたことはたくさんあるが、いずれ、もう少し深くまなぼうとおもうので、ここでは、あとがきの部分を抜書きする。年代的にも、わたしと近く、わたしの感覚と非常に近いものがある。「みなさんの家庭や学校には、戦争を体験した人は、もうほとんどいないと思います。2008年10月の人口で見てみると、1945年8月15日以降に生まれた人が、全人口の75.5%にも達しているからです。わたし自身は、1954年生まれですから、戦争を直接体験した世代ではありません。ただそれでも、両親はもちろん、小学校時代の先生もすべて戦争体験世代でした。戦争の話を直接聞くこともできましたし、彼らを通じて戦争の時代の空気のようなものを、少しは肌で感じたこともあったように思います。そうした時代がおわろうとしている今、わたしたちに求められているのは、直接には体験していない戦争に対する想像力です。そして、わたしたちとは直接には関わりのない遠い国で、今もおこっている戦争に対する想像力です。その想像力をとぎすますためには、やはり歴史から学ばなければならないでしょう。この本が、そのために少しでも役に立つことができれば、著者として、これ以上の喜びはありません。」以下は備忘録。
- 「1. 謀略による戦争=柳条湖事件:長いあいだ、欧米やに日本によって植民地のような支配をうけていきた中国では、第1次世界大戦のころから、民族主義が大きなたかまりをみせ、大国の支配からのがれ、統一国家をつくりあげようとする動きが強くなってきました。1926年には、蒋介石のひきいる国民党が武力で国内統一にのりだし、日本が多くの権益をもっていた満州もその勢力下にはいりました。その結果、中国全体を代表する政権として、中国国民政府ができます。これに危機感をもった現地の日本軍(関東軍)は、満州を中国からきりはなして日本の勢力圏とすることを計画し、1931年9月18日に、奉天郊外の柳条湖で自らの手で南満州鉄道(日露戦争の結果、日本がロシアから得た事実上の国営鉄道)の線路を破壊しました。爆破後に中国軍の仕業であるとして、ただちに軍事行動に入ります(柳条湖事件)。関東軍とは、南満州鉄道の守備を名目に日本が中国から軍隊をおく権限をみとめられていた日本陸軍の強力な部隊です。この関東軍による謀略には、陸軍中央にも協力する者がいたため、政府もその動きを充分おさえることができませんでした。そのため、関東軍は次々に軍事行動を拡大し『自衛のための反撃』という口実をはるかにこえて、1932年はじめまでには、満州のおもな地域を占領してしまいます。これが満州事変です。」(p.4)
- 「盧溝橋事件(1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋でおきた、日中両軍のあいだで小規模な武力衝突)を口実にして、中国に派遣された日本軍は、1937年7月28日から華北で総攻撃をはじめます。そうした中、8月13日には、華中の上海で日中両軍の武力衝突がおこりました。日本軍は上海の占領をねらって、大部隊を送り込みましたが、中国軍の抵抗ははげしく、11月上旬になって、ようやく上海を攻め落とします。勢いに乗った軍は、つづいて、中国政府の首都南京の攻略をきめ、12月13日には、南京中国軍捕虜や一般市民を殺害し、略奪・放火・強姦などの蛮行も翌年まで続きました。これが国際的にも非難を浴びた南京事件です。」(p.22)
- 「日本政府は、日中戦争を戦争とはみとめず宣戦布告をしませんでした。宣戦布告をすると、あめりかは中立法をさだめていたため、戦争に必要な物資のアメリカからの輸入が禁止されてしまう可能性があったからです。正式の戦争とみなさなかったため、日本側には、戦争のルールをきめた国際法をまもらなければならない、という意識が、はじめからほとんどありませんでした。中国人に対するさげすみの意識が強かったことも、ルール違反を気にかけない大きな原因でした。このため、国際法に違反する戦争犯罪が、中国戦線では、くりかえしおこなわれることになります。南京事件、上海・南京・重慶に対する都市爆撃、毒ガス作戦、ペストなどの伝染病を蔓延させる細菌作戦、現代では『性的奴隷制』なとどよばれている慰安所の大量設置などです。とりわけ中国の民衆に大きな被害をあたえたのは、華北を中心にしておこなわれた治安戦(中国側は三光作戦とよびます)でした。この治安戦では、ゲリラ部隊を民衆が支持していたため、反日的とみなした部落そのものを破壊、消滅させ、村民をころすこと自体が作戦の目的とされたからです。」(p.24)
(2025.8.14)
- 「語り伝える東京大空襲 第2巻 ビジュアルブック はじめて米軍機が頭上に」早乙女勝元/監修 新日本出版社(ISBN978-4-406-05419-5, 2011.1.30 第一版)
出版社情報・目次。誤って違うシリーズの第二巻を借りてしまった。アジア・太平洋戦争の関するビジュアルブックを読みたいが、これも学ぶことはあった。1942年(昭和17)4月18日のお昼過ぎ(12時15分)、米軍の中型爆撃機B25によるはじめての東京への空襲から書かれている。死傷者346人(そのうち死者39人)、焼失破損家屋251戸とのこと。機銃掃射に殺された葛飾の少年の記録も書かれている。最後に東京にある平和を考える博物館のリストがついている。東京都江戸東京博物館・すみだ郷土文化資料館・豊島区郷土資料館・八王子郷土資料館(閉館)・東大和市立郷土博物館・福生市郷土資料室・昭和のくらし博物館・町田市立自由民権資料館。以下は備忘録。
- 「空襲への備え(防空)のはじまり、町会・隣組と防空防火訓練、防空壕は待避所に、食べることのできない苦しみ・配給生活、『消しやすい油脂焼夷弾』?情報は操作されて、上野動物園の猛獣処分、学童疎開はじまる、勤労動員ー授業がなくなった学校、灯火管制・建物疎開・暗闇につつまれ、立ち退きにあう」(p.8-25)
- 「障害者たちは『非国民』とののしられ。全国で唯一の肢体不自由時の学校、光明国民学校は、どこにも受け入れ先がなく、『現地疎開』といって世田谷の校舎に、児童や教職員が泊まり込む生活を送りました。1945年3月10日、東京大空襲で下町が焼かれるのを見て、校長の松本保平先生は、地方への疎開を決意しました。5月15日、校長先生の必死の努力で、長野県の上山田温泉に疎開することができました。それから10日後、校舎は山の手の大空襲をうけて、焼失。もし、疎開がおいうれていたら、たくさんの犠牲者がでていたことでしょう。」(p.26)
- 「1944年6月5日から1945年1月11日にかけて、アメリカ軍はインドのカルカッタ近郊のカラグプールやセイロン(現・スリランカ)の飛行場を基地として、スマトラ島のパレンバン製油所、タイのバンコック、ビルマ(現・ミャンマー)のラングーン、シンガポールなど東南アジア各地を空襲しました。また、1944年6月16日から1945年1月17日にかけて、中国の成都基地から、日本の北九州の八幡製鉄所や、台湾、中国の漢口、南京や上海などの市街地、『満州』の鞍山、朝鮮の済州島などを空襲しました。B29の飛べる距離を超えてしまうため、成都基地からでは日本本土の大部分を空襲することは不可能でした。そのため、1944年6月から8月にかけて、アメリカ軍は、太平洋上のマリアナ諸島にあるサイパン・テニアン・グアムという三つの島を攻め落とし、そこに基地を築いて、日本本土への本格的な空襲を始めるのです。また、海上の空母からおこなわれた大規模な空襲として、1944年10月10日からの、沖縄の那覇市や、南西諸島・台湾などへの空襲がありました。日本への空襲は、アジアの日本占領地かや植民地への空襲からはじまりました。このことは、『日本への空襲』を、1944年11月から本格化する『日本本土』の空襲に限定するのは、不十分なことを物語っています。『日本への空襲』の全体像は、日本・アメリカ・アジアという三つの地域をまきこむ、アジア・太平洋戦争全体の流れのなかでとらえる必要があるのです。」(p.30)
- 「空襲の三つの時期:第1は、1944年11月24日から1945年3月にかけて、主に大規模な軍需工場・軍事施設などを目標にした聖っみつ爆撃が行われた時期です。この時期の空襲では、主に250キロの通常爆弾が使われていました。第2は、1945年3月10日から6月15日にかけて、東京大空襲をきっかけに、大阪、神戸、名古屋、横浜などの大都市市街地をねらって焼夷弾による焼き尽くし爆撃が行われた時期です。第3はそれ以降、全国の中小都市を、焼夷弾で焼き尽くし爆撃した時期です。東京都武蔵野町(現・武蔵野市)にあった中島飛行機武蔵野製作所です。当時の中島飛行機は、日本の航空機の約30%を生産する最重要工場の一つでした。」(p.32)
- 「ドレスデン空襲:1945年2月13日から15日、2万5000人死亡。」(p.34)
- 「近衛文麿(元首相)により1945(昭和20)年2月14日上奏:敗戦はもはや避けることはできないが、敗戦より心配なのは、敗戦にともなっておこるかもしれない共産革命である。戦争継続を主張する軍部内の勢力の主張をうけいれ、勝利の見込のない戦争を続けるのは、共産党のてに乗るものであり、国体を守る立場からすれば、1日も早く終戦を考えるべきである。これに対して、昭和天皇:『もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う。(侍従長の回想)』『梅津(美治郎参謀総長)および海軍は、今度は台湾に敵を誘導し得たればたたき売ると言っているし、その上で外交手段に訴えてもいいと思ふ』(細川護貞による細川日記、2月16日)と答えたとされる。」(p.36)
(2025.8.14)
- 「語り伝えるアジア・太平洋戦争 第2巻 アジア・太平洋戦争の開戦」文・監修 吉田裕 新日本出版社(ISBN978-4-406-055021-5, 2012.1.30 初版)
出版社情報・目次。第二巻は、日米交渉と開戦決定から始まる。日本の対米英宣戦布告についても、戦争をはじめる天皇の言葉(詔書)として実物の写真が含まれている。以下は備忘録。
- 「1.アメリカは、日本にとって最大の工業原料輸入国:アメリカは、日本軍の北部仏印進駐に対して、鉄鋼などの対日輸出禁止などのてだてを取りました。」(p.4)
- 「2.マレー半島と真珠湾への奇襲攻撃:1941年12月8日午前2時(日本時間)日本陸軍の部隊が、イギリス領、マレー半島のコタバルへ上陸作戦を開始しました。つづく午前3時には、アメリカ領、ハワイの真珠湾に、日本海軍の機動部隊(空母を中心とした艦隊)から発進した180機の航空機が空襲を初めます。この戦闘行動によって、アジア・太平洋戦争の幕が切って落とされました。そして午前4時には、野村吉三郎大使がアメリカのハル国務長官に『(日米交渉を打ち切ることを一方的に伝えた)対米通牒(覚書)』を手渡しています。」(p.6)
- 「3.日中戦争とアジア・太平洋戦争との関係:日:米英他 太平洋の航空機数 1700:1290、潜水艦 64:114、駆逐艦 112:214、軽巡洋艦 20:19、重巡洋艦 18:18、戦艦 10:17、空母 9:7」(p.9)
- 「4.なぜ、アメリカとの戦争を決意したのか:日本を1としたときのアメリカ:ものつくり 11.8、鉄生産力 12.1、石油産出量 776.8:1、自動車量 160.8:1、国家予算 3.4:1、軍事予算 2.1:1」(p.11)
- 「5.昭和天皇の戦争責任:御前会議、御前会議の場で、天皇が発言することは、あまりありませんでしたが、会議が開かれる前に、首相や参謀総長(陸軍の長)、軍令部総長(海軍の長)が天皇の意思を内ないで確認することになっていて(内奏)、天皇の意思を無視した決定はできないようになっていました。統帥権をにぎる天皇は陸海軍の最高司令官であり、大元帥として、戦局全体の動きに目をくばりながら、作戦計画の決定や作戦の指導に関しても、積極的に発言しました。」(p.12)
- 「6.初期作戦の成功:フィリピンはアメリカの植民地でしたが、1935年にはアメリカが独立をみとめ、独立準備政府が活動をはじめていたところでした。」(p.14)
- 「7.日本軍の戦争犯罪ー華僑の虐殺。シンガポール虐殺、バターン死の行軍」(p.16)
- 「8.大東亜共栄圏の実態:『南方占領地行政実施要領:占領地に対する行政権は陸海軍がにぎり軍政を実施する、軍政の目的は重要軍事資源の獲得におく、各地の独立運動を積極的に支持することはしない、陸海軍の各部隊は現地自活主義をとる。』事実、アジア・太平洋戦争がはじまると、石油などの重要資源はすべて日本に送られ、陸海軍は食料などの必要物資を現地の人々からうばいとっていたにもかかわらず、日本からそれにかわる物資の供給はほとんどありませんでした。このため、東南アジアのひとびとは、深刻な生活難とインフレーションに見舞われます。」(p.20)
- 「9.植民地支配の強化ー朝鮮・台湾:皇民化政策、労働者として強制連行、特別志願兵制」(p.22)
- 「10.連合国の結成とその戦争目的:『大西洋憲章』めざすべき戦後社会のありかた。領土の不拡大、民族自決、専制政治からの解放、貿易の自由、社会保障の改善、軍縮と国際平和機構による平和の維持などを基本原則とする」(p.24)
- 「11.連合国に反撃はじまる:1942年6月、ミッドウェー海戦、日本大敗。1942年8月、ガダルカナル島攻防戦、1943年2月日本軍完全撤退。戦死者21,000人、ほとんどが、栄養失調または、マラリア」(p.26)
- 「12.ヨーロッパ戦線の戦局:1942年2月、スターリングラード攻防戦で、ソ連が勝利、9万人のドイツ軍を捕虜に。1943年10月、イタリアのドイツへの宣戦布告。1943年11月、カイロ宣言。」(p.28)
- 「13.少年兵の戦争」(p.30)
- 「14.戦争と動物ー馬の戦争、犬の戦争」(p.32)
(2025.8.15)
- 「語り伝えるアジア・太平洋戦争 第3巻 戦時下、銃後の国民生活」文・監修 吉田裕 新日本出版社(ISBN978-4-406-055022-2, 2012.1.30 初版)
出版社情報・目次。第3巻、ホームページは、サブタイトルに「熱狂と統制、総力戦の実態」とある。以下は備忘録。
- 「1.戦勝にわく国民:こうした国民の熱狂が頂点に達したのが、42年2月15日のシンガポール陥落をうけて、18日に政府主催で開催された『戦捷第一次祝賀式』でえす。この日、ラジオに登場した東条首相は、『天皇陛下万歳』を三唱し、ラジオの前の国民がこれに唱和、さらに皇居前にあつまった十数万の国民の前には、白馬にまたがった軍服姿の天皇が二重橋の上に姿をあらわし、国民の歓呼の越えにこたえました。長びく日中戦争に嫌気がさしていた国民は、戦勝によいしれたのです。」(p.4)
- 「2. 東条独裁の成立:1942年4月、翼賛政治団体協議会のよる翼賛選挙。」(p.6)
- 「3.言論の統制」(p.8)
- 「4.国民生活の統制:1931年度のラジオの家庭普及率はが 8.3% に過ぎなかったのに対し、1941年度には、45.8% にまで達していました。」(p.10)
- 「5. 国民生活の悪化と配給制:米穀通帳、用品購入通帳、燃料通帳」(p.12)
- 「6. 国民学校と子どもたちの生活」(p.14)
- 「7. 陸海軍の総兵力の増大:1930年、250,000。1941年、2,411,359。1945年、7,193,233。」(p.16)
- 「8. 労働力動員とその限界:1939年1月、国民徴用令。朝鮮人強制連行政策は、1939年からはじまり、連行された朝鮮人の数は敗戦までに72万5,000人になります。中国人強制連行は、1942年11月の閣議決定によりはじまり、敗戦まで3万9,000人の中国人が連行されています。彼らは、炭鉱や鉱山、土木建設業、港湾の荷役業などで働かされました。しかし、待遇が劣悪で、日本人による虐待もひどかったため、多数の逃亡者や死亡者をだし、大規模な反乱も起きています(花岡事件)。」(p.20)
- 「9. 女性の動員:そもそも日本婦人は家庭を守り(中略)精強を誇る皇軍の伝統はこの婦人方の守る日本家庭から生まれているのである。この日本の家庭生活、家族制度を破壊することなく、しかも当面の軍需生産の増強に貢献できるこの勤労奉仕はまことに結構のことである。」(p.22)
- 「10. 戦争経済の拡大:日本の航空機生産、1941年6,174機、1944年26,507機(4.3倍)銃は、729,000から827,000(1.13倍)。アメリカの航空機生産、1944年約9万機」(p.24)
- 「11. 戦争経済の崩壊:日本は、アジア・太平洋戦争の開戦時には、約638万トンの商船を保有していました。しかし、そのご、政府が造船に大きな力をいれたにもかかわらず、敗戦時の商船保有量は、153万トンにまで激減しています。日本には、この戦争で、3,605隻、905万トンもの商船を失ったのです。」(p.26)
- 「12. 戦争と障害者:1940年4月、国民体力法、5月、国民優性法」(p.28)
- 「13. 戦争と靖国神社:靖国神社は、天皇のために戦って、戦士した人々をなぐさめ彼らの行為をたたえつための神社」(p.30)
- 「14. 総力戦とかわっていく日本社会:ところが、総力戦の時代になって、食料の増産が重要な問題になってくると、政府にとっても、地主の利益をまもることよりも、直接生産にあたっている小作農の農業経営を改善し、彼らの生産意欲をたかめることのほうが重要になってきます。このため、小作料のひきあげの禁止、小作農への生産奨励金の支払いなど、小作農を保護する政策がとられます。その結果、地主制は、しだいに衰えていきました。敗戦後、地主の土地をやすく買い上げ、小作農に売り払う農地改革が実施され、日本の農村社会は大きくかわります。この農地改革が大きな混乱もなくおこなわれたのは、戦争中から地主制がおとろえ始めていたからでした。改革の進展があまりみられない領域があるのも確かですが、戦時下でしずかに進行していた社会改革が、戦後を準備した面にも注意をはらう必要があるでしょう。」(p.32)
(2025.8.15)
- 「語り伝えるアジア・太平洋戦争 第4巻 空襲、疎開、日本の敗戦」文・監修 吉田裕 新日本出版社(ISBN978-4-406-055023-9, 2012.2.25 初版)
出版社情報・目次。終戦の詔書も実物の写真が含まれている。参考:終戦の日(8月15日)に読みたい 玉音放送(終戦の詔書)の原文と現代語訳。以下は備忘録。
- 「1.絶対国防圏の設定」(p.4)
- 「2.マリアナ諸島の陥落と東条内閣の退陣」(p.6)
- 「3.本土空襲はじまる」(p.8)
- 「4.戦争と子どもたち」(p.10)
- 「5.兵士たちの無残な死=餓死と海没死」(p.12)
- 「6.兵士の負った『心の傷』」(p.14)
- 「7.特攻隊の実像」(p.16)
- 「8.沖縄の戦い」(p.20)
- 「9.国民意識の変化」(p.22)
- 「10.戦争終結工作のたちおくれ」(p.24)
- 「11.本土決戦準備」(p.26)
- 「12.連合国の対日政策」(p.28)
- 「13.日本の降伏ーポツダム宣言の受諾」(p.30)
- 「14.敗戦と国民」(p.32)
(2025.8.15)
- 「語り伝えるアジア・太平洋戦争 第5巻 おわらない戦後と平和への道」文・監修 吉田裕 新日本出版社(ISBN978-4-406-055024-6, 2012.3.25 初版)
出版社情報・目次。「あとがき」は、わたしが、高校生のときから考えていた問で、このように素直に書ける著者は素晴らしいと思った。「一人娘が中学生だったころ『なぜ、日本と中国はなかがわるいの?』と聞かれて、戦争の時代の歴史を説明したことがあります。それに対する彼女の反応は『でもわたしたちが戦争をしたわけではないのだから、わたしたちに責任はないでしょう?』というものでした。日本史の専門家であるはずのわたしは、その疑問に正面からこたえることができず、しどろもどろの説明をしたことを、おぼえています。この本の読者であるあなたたちは、歴史の専門家ではありません。それでも、あなたたちが感じる素朴な疑問は、歴史を考えるうえで、とても重要な問題につながっていることが多いのです。ですから、毎日の生活の中で感じる、『なぜ?』、『どうして?』という疑問を、そのままにせず、先生にぶつけてみたり、自分で調べてみたりしてください。時代にながされない自分自身の足場をかためるためにも、『歴史とむきあう』という姿勢を大切にしてほしいと思います。」以下、備忘録。
- 「1.敗戦後もつづく戦闘」(p.4)
- 「2.帰ってこなかった遺骨」(p.6)
- 「3.戦争の被害」(p.8)
- 「4.孤児となった子どもたち」(p.10)
- 「5.復員と引揚」(p.12)
- 「6.占領と戦後改革」(p.14)
- 「7.東京裁判とBC級戦犯裁判」(p.16)
- 「8.サンフランシスコ講和会議と日本の戦後処理」(p.18)
- 「9.国交正常化のあゆみ」(p.20)
- 「10.戦争犠牲者への補償」(p.22)
- 「11.戦争に反対してころされた人びと」(p.24)
- 「12.昭和天皇の戦争責任」(p.26)
- 「13.日本の戦後処理の国際問題化」(p.28)
- 「14.日本政府の対応:日本の首相は、国会で、満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争という三つの戦争の評価を野党の議員から聞かれると、『そうした評価はあとの時代の歴史家にまかせたい』というにげの答弁を繰り返してきました。しかし、1980年代にはいって、過去の戦争の評価が国際問題にまでなると、そうした答弁ですますことができなくなります。こうしたなか、1993年8月に、細川護熙(もりひろ)首相は、国会の演説のなかで、『過去の我が国の侵略行為や植民地支配』の歴史に対し反省し、おわびをするとのべました。日本の首相として、侵略戦争をみとめたはじめての発言でした。つづいて、戦後50年にあたる1995年8月15日には、村山富市首相が談話を発表し、『植民地支配と侵略』によって、アジアの人々に大きな損害と苦痛をもたらした事に対し、反省しお詫びをするとのべました。この村山首相談話は、このごの内閣にもうけつがれ、日本政府の公式見解になります。ただし、村山内閣は、賠償や保障の問題はすでに解決済みだとするこれまでの内閣の方針を変えたわけではありませんでした。靖国問題では、中曽根首相が、アジア諸国の国民感情に配慮するとして、1986年から参拝の中止を決め、そのごの内閣も参拝をおこないませんでした。ところが、小泉純一郎首相は、2001年から2006年にかけて、毎年、靖国神社に参拝し(ただし、政府は、私的参拝と説明)、中国や韓国との関係を悪化させました。しかし、首相の参拝には、日本国民の中にも強い反対論があったため、そのごの首相は参拝をしていません。こうした動きに対して、国民の一部からは、反発の動きもでてきます。とくに、1997年1月につくられた『新しい歴史教科書をつくる会』は、日本の教科書は、日本の歴史をわるく書きすぎるとして、自分たちの教科書を学校でつかわせる運動を全国でおこなっています。国際社会でも日本の国内でも、わたしたちが戦争の歴史をどうみるかが、問われている時代、それが現代なのです。」(p.30)
(2025.8.18)
- 「アジア・太平洋戦争 シリーズ日本近現代史⑥」吉田裕著 岩波新書 1047(ISBN978-4-00-431047-1, 2007.8.21 第一刷発行)
出版社情報、紀伊国屋書店・目次情報。著者は、わたしのひとつ下、同じ年代に属する、一橋大学名誉教授で、この分野の中心的研究者といってもよいと思われる方である。本書は、アジア・太平洋戦争に関しては、まとまっている新書である。ただし、最初に書かれているように、ここでは、一部集計は、満州事変あたりからを想定している部分もあるが、基本的に、アジア・太平洋戦争を、満州事変からではなく、1941年12月から1945年9月としている。著者自身も最後に、「本書の執筆を終えた今の私の中には、果たすべき責務を自分なりに果たしたという満足感(自己満足感?)がある。」と書いている。それだけ、さまざまなものが詰め込まれている。戦後社会とのつながりについても述べていることも興味深い。しかし、参考文献を見ると、基本的には、すべて日本のもののようである。アメリカ公文書館の公開資料なども、調べてみたい。また、この方などの、他の本も少しずつ読んでいきたい。そして、できれば、著者と会って話すことができればとも願っている。同じ問を追いかけつつ、全く異なる道を歩んできたとも思うからである。以下は備忘録。
- 「戦争の目的の分裂:41年11月2日、昭和天皇は東条首相に、戦争の『大義名分を如何に考うるや』と下問しているが、東条の奏答は、『目下研究中でありまして何れ奏上致します』というものだった。(中略)12月8日の宣戦の詔書では対日包囲網の強化が強調された上で『帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なかり』と宣言されている。明らかに、自衛のための戦争論である。」(p.26-28)
- 「開戦直前の11月20日に開催された大本営政府連絡会議は、『南方占領地行政実施要領』を決定し、占領地行政の基本方針を『占領地に対してはさしあたり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す』ことにおいた。(中略)その上で、『国防資源取得と占領軍の現地自活の為民生に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ』、『現住土民に対しては皇軍に対する信倚(信じてたよること)観念を助長せしむる如く指導し、其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くる』ことなどをあからさまに決めていた。戦争プロパガンダの面での揺れ動く戦争目的とはうらはらに、ここには日本側の国家意思が示されている。東南アジアにおける重要戦略資源の軍事力による獲得である。」(p.29)
- 「臨時軍事費(戦争遂行のための戦費であり、戦争の開始から集結までを一会計年度とする特別会計)による軍備拡充:なぜ国力の面で圧倒的な格差のあるアメリカとの戦争を決意したのか。国内総生産でみると、四一年の時点で、アメリカのそれは日本の11.83倍、工業生産力の大きな目安となる粗鋼生産力では12.1倍、自動車保有台数では160.80倍、国内石油産出量では776.84倍、人口でも1.86倍である。」(p.30)
- 「参謀本部第一部長真田穣一郎:『サイパン』を攻略せらるる迄、吾々の考え至らず為に米側のKB(機動部隊)所属の航空支援下に上陸作戦の強行が可能との判断をなしあらざりし事が今から考えて呑気なりし一員なりし事」(p.147)
- 「戦争は女性の社会進出を加速させたのである。製造業における女性労働者の数は、30年10月時点で144万1000人、それが44年2月には、220万2000人にまで増大している。また高等女学校(女子中等教育機関)在籍者の勤労動員、卒業者の女子挺身隊としての動員も、大きな社会的意味を持った。当時、中流以上の家庭の娘は、高等女学校卒業後、家にあって家業や家事を手伝い、裁縫や料理などの『花嫁修業』をしながら結婚を待つのが一般的だった。卒業後、就職する者もあったが、『職業婦人』は遠藤区なるとして敬遠され、工場労働者を、『職工』、『女工』として卑賤視する風潮も根強かった。戦局の悪化にともなう未婚女性の工場への勤労動員は、こうした伝統的な労働観に変容をせまるものとなり、学校を卒業した女性が結婚までの一定期間、職につくというあらたな慣行を定着させる契機となったと考えられる。(板垣邦子『農村』)[参考]」(p.164)
- 「勤労動員の過酷な実態とともに、男女が同じ職場で働くという経験、高等女学校に進学できなかった貧しい女工たちとの接触と交流、『自分たちだけの社会の中から、なんとなく差別的に見ていた人たちの身の上に思いを馳せることができるようにもなった』という意識変化など、勤労動員がもたらしたさまざまな社会的インパクトも読み取ることができる。」(p.165)
- 「例えば、陸軍特攻隊員の場合、全戦死者の中で将校の搭乗員が占める割合は45%だが、その将校の戦死者の71%が学徒出身者である。海軍の場合は、将校の搭乗員の戦死者は全体の32%、その中で学徒兵出身者の占める割合は85%にもなる。学徒兵は、将校の中の『消耗品』として取り扱われたのである。その結果、生き残った学徒兵たちは、軍隊や軍人に対する強い反感を身につけて、戦後社会に復帰していくことになる。このことは、経済復興から高度経済成長を担った日本社会のエリートたちの政治文化に無視しえぬ影響を及ぼしている。」(p.170)
- 「戦時と戦後の連続というこの問題には、森武麿『総力戦・ファシズム・戦後改革』が丁寧な整理を行っているように、政策上の利権と現実のズレ、戦後改革期や行動成長期における変化との関連など、単純化できない複雑な問題がはらまれている。しかし、すくなくとも、総力戦の遂行という国家的要請が社会的変化を加速させる面があったことは確かである。」(p.171)
- 「俳優で漫談家の徳川夢声は、開戦後の42年12月22日に、日本軍が押収したアメリカ映画『風とともに去りぬ』をシンガポールで観ている。この映画は39年にアメリカで公開され大ヒットした長編カラー映画だが、徳川はその感想をその日の日記に次のように書き残している。『ところでこの映画だが、これをみているうちに私は「どうも今度の戦争は、うまくいかんかもしれんぞ」という気が益々強くなってきた。この「風とともに去りぬ」を制作しうる国と、近代兵器の戦争をしても、到底だめだという気がしたのである。』」(p.172)
- 「アメリカ民間抑留者団体の調査によれば、第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵は9万6614名、捕虜期間中の死亡者は1121名で、死亡率は1.2%である。これに対して、日本軍の捕虜となったアメリカ兵は3万3587名、死亡者数は1万2526名で、死亡率は37.3%にも達する。(内海愛子『日本軍の捕虜政策』)。捕虜政策の非人道性という点からいえば、抗弁の余地のない数字である。」(p.175)
- 「海没死に関しては、連合国軍捕虜845名が死亡した『りすぼん丸』の事例、強制連行された中国人労働者だと思われる『苦力』2559名を乗せて沈没した『隆西丸』の事例、沖縄から疎開学童682名が死亡した『対馬丸』の事例、同じく慰安婦26名が死亡した『今治丸』の事例など、多様な犠牲者の存在にも目を配るべきだろう。(駒宮真七郎『戦時船舶史』)」(p.189)
- 「戦没者数:ここで、この戦争での戦没者数を確認しておきたい。厚生省によれば、日中戦争から敗戦までの日本人の戦没者数は、軍人・軍属などが約230万名、外地の一般邦人が約30万名、空襲などにおる国内の戦災死没者が約50万名、以上の合計310万名である。(厚生省社会・援護50周年史編集委員会監修『援護50年史』)ただし、この数の中には朝鮮人と台湾人の軍人・軍属の戦没者数、約5万名が含まれている。しかし、この約310万名という数字には疑問も少なくない。一つには、外地での一般戦没者数約30万名の中に算入されている沖縄県民の戦没者数、約9万5000名(準軍属を含む)が過小な見積もりではないかという問題である。ある推計によれば沖縄県民の戦没者数は約15〜16万人にのぼるという(『週刊朝日百科 日本の歴史119』)もう一つは、空襲や原爆などによる民間人の戦没者数を約50万名としている点である。この数字は、全国戦災都市連盟による調査、『全国戦災都市空爆死没者数一覧』を基にしていると考えられるが、川崎市や那覇市など大規模な空襲を受けているにもかかわらず死亡者数が空欄になっている都市が数市ある。また、この数字は、大規模な空襲をうけた全国113都市の死亡者数だけを集計したものだが、ほかにも空襲をうけた地域はかなり存在しており、実際の戦没者数はもっと多くなるはずである。このようにみてくると、日本人の戦没者数は、310万名を越えるものと考えられる。次に、外国人の戦没者数をみてみよう。アジア・太平洋戦域におけるアメリカ軍の戦死者数は、9万2000名から10万名、ソ連軍のそれは、張鼓峰事件、ノモンハン事件、対日参戦以降の戦死者をあわせて2万2694名、イギリス軍=2万9968名、オランダ軍=2万7600名(民間人を含む)(読売新聞戦争責任検証委員会編『検証 戦争責任II』[検証 戦争責任])交戦国だった中国や日本の占領下にあったアジアの各地域の人的被害は、もっと深刻である。しかし、これについては、正確な統計資料が残されていないため、各国政府の公式発表などを基にしたおおまかな見積もりにならざるをえない。そのような見積もりの一つとして、中国軍と中国民間の死者=1000万名以上、朝鮮の死者=約20万名、フィリピン=約111万名、台湾=約3万名、マレーシア・シンガポール=約10万名、その他、ベトナム、インドネシアなどあわせて総計で1900万名以上という数字をあげておきたい。(小田部雄次ほか『キーワード 日本の戦争犯罪』)いずれにせよ、日本が戦った戦争の最大の犠牲者が、アジアの民衆であったことは間違いない。」(p.219-220)
- 「敗戦後まもない、1946年3月、西宮市在住のある男性が、第一復員省の上月良夫次官に興味深い手紙を書いている。この男性の息子は、39年に招集されてニューギニア戦線で『生死不明』となり、所属する部隊の部隊長、副官、当番兵二名の四名だけが日本に帰還した。男性は外の戦線でも同様の事例があるとしながら、[この状況を訴えている。]」(p.229)
- 「日本人の平和意識:こうした一連の事態は、国民の意識の上に複雑な影響を及ぼした。第一には、加害の記憶が封印され、国民は戦争に犠牲者であり被害者であるという認識を基盤にして、独特の平和意識が形成されたことがあげられる。、この被害者としての自己認識は、戦場の悲惨な現実や戦争による国民生活の悪化を直接の基盤としていただけに、国民意識の中には深く根をおろしたものとなった。逆に言えば、そうした平和意識は、アジアに対する加害の歴史を忘れ去ることによって、はじめて成り立っていたのである。第二に、国家指導者の国民に対する責任までもが曖昧にされたことは、国民の中に深いわだかまりを残す結果となった。戦争の末期から、国民の間に、国家指導者に対する反感や不信感がひろがっていたが、敗戦は、それを決定的なものにした。日本の国家指導者の戦争責任は、連合国側が開廷した東京裁判で裁かれることになるが、この裁判が『勝者の裁き』という政治性をもっていたため、裁判に対する反感や反発が国家指導者に対する批判の矛先を鈍らせた面があったことも否定できない。しかし、被害者的な戦争観と結びつくことに寄って、戦争責任は軍人を中心にした国家指導者にあり、自分たちは国家指導者たちの誤った政策の犠牲者だとする国民意識が広範に形成されたのは確かだろう。それだけに戦争責任の問題が、なし崩し的に曖昧化されたことによって、多くの国民が割り切れない思いを抱くことになったのである。そして、そうした思いは、天皇に向けられることもあった。多数の餓死者を出したことで有名なメレヨン島から生還した将兵の体験記を検討した一ノ瀬俊也は『いくつかの体験記を通じて浮かびあがってきたのは、「昭和」が終わり、戦後50年以上たってなおやまない、戦争責任への執拗な問いである。その矛先は、時に天皇にまで及んだ』と指摘している。『餓死の島をなぜ語るか』第三には、アメリカを中心にした連合国との政治的和解を促す冷戦の論理が、忘却を強いる力として働いたことである。戦争責任、戦後処理の問題にひとまず決着をつけた日本社会は、経済復興から高度成長の時代へと突き進んでゆくが、そうした社会状況は戦争の時代を、遠く過ぎ去った過去、振り返るに値しない過去とみなす風潮を生んだ。『がらがらどんどんと事務と常識が流れ、故国は発展にいそがしかった』(竹内浩三)のである。」(p.232-233)
(2025.8.29)
- 「BC級戦犯裁判」林博史著 岩波新書952(ISBN4-00-430952-2, 2005.6.21 第一刷発行)
出版社情報・紀伊国屋書店・目次情報。素晴らしい本である。下にも引用しているように、著者がマレー半島などに行き、被害者の声を聞き取っている体験が大きいと思う。わたしが、高校生のときから、感じてきた感覚と非常に近いものを感じることができた。中華人民共和国における裁判の際に、「認罪学習」がおこなわれたことも書かれているが、私はそのビデオでの証言もみており、様々な意図も背景にあったかもしれないが、必要不可欠なステップだと思う。フィリピンや、スガモプリズンでもあったように、ある程度の戦犯が、公平かつ冷静に自分の過ちを見つめている。一兵卒として上官の命令に従って行った場合であったとしても、自分がしたことを、被害者目線から見直さなければ、本当の改悛には、達することができないことも、よく分かる。本書を批判するひともいるのだろうが、学者として、非常に公平な多角的な視点から、検証されており、好感を持った。表も多く、資料としての価値も高い。正直にいうと、このようなものが、ネットでより多くの人に読まれ、中学・高校などでの学習に用いられ、AIが利用するデータにも含まれることが望ましいと思う。以下は備忘録。
- 「住民を大量虐殺し、責任者も指示命令系統も明確である一方で、上級幹部だけが起訴され二人だけが死刑に処せられたシンガポールのケース、米軍捕虜を裁判抜きで処刑し、責任者から末端の実行者までもが死刑判決を受け、最終的に三人の犠牲者に対し七人の死刑者が出る一方、上官の命令という理由が考慮されて兵士は死刑にならなかった石垣島のケース、そして、政府 の決定により強制連行してきた中国人を利用していた日本企業が裁かれながら、強制連行・強 制労働をさせた軍や政府幹部、企業の経営者たちは免罪され、企業と警察の末端のみが裁かれ た花岡のケース、この三つの戦犯裁判のケースを紹介したが、BC級戦犯裁判といってもさまざまなケースがあり、ひと言で言い表わせるような単純なものではないことがわかるだろう。」(p.11)
- 「これまでの日本の議論では、BC級戦犯裁判の持つ数多くの問題点が指摘されてきており、もっぱら否定的な評価がなされている。具体的には、被告の選定が恣意的であったこと、人違いにより罰せられた者が少なくなかったこと、通訳の不適切さ、検察側の証言が一方的に採用されたこと、弁護の機会が十分に与えられなかったこと、日本軍の捕虜になった者が裁判官や 検察になり公平でなかったこと、反対尋問なしに宣誓供述書が証拠として採用され被告に著しく不利になったこと、上官の命令に従っただけの下級兵士まで裁かれたこと、その一方では、部下の犯した犯罪について何も知らない上官が責任を取らされたこと、などが挙げられる。また裁判外では、収容された刑務所での監視員によるたび重なる暴行も深刻であった。また戦犯 の家族が周りから白眼視され、あるいは財産が差し押さえられるなどたいへんな苦しみを味わ ったことも指摘されている。」(p.12)
- 「つまり、宗主国と植民地、欧米人とアジア人、民族やエスニック・グループの違い、エリートと民衆、男性と女性などさまざまな要素が絡み合って戦犯裁判はおこなわれたのであって、「勝者と敗者」とか、「被害者による報復だ」というような単純な話ではない。大日本帝国の 「日本人」の内部の階級階層構造の問題とあわせて、これまでの議論は国家というイデオロギにとらわれて、国家単位だけで考えてきてしまっていたのではないか。国家という単位が一 つの重要な要素であることは否定しないが、それにとどまらずに複眼的に問題を考えていく必 要があるだろう。」(p.18)
- 「私はマレー半島をはじめアジアの戦争被害者(多くは日本軍による虐殺からかろうじて生き 残った人々)を訪ねて聞き取りをおこなってきたが、そうした日本の侵略を受け被害を受けた 人々の目線を大切にしたい。」(p.20)
- 「しかし第一次世界大戦後、ベルサイユ条約により戦争犯罪人を戦勝国に引き渡し軍事裁判所で処罰する方式が初めて国際的に認められたのである。つまり「極端な惨害をさけるため」の戦時犯罪という理解から、国際法上の犯罪である戦争犯罪へと性格が変化したことを意味している。このとき日本は戦勝国としてそのことを承認していたことを 忘れてはならない。」(p.25)
- 「その理由は、大英帝国の復活、つまり植民地の再建を目指すイギリスにとって、植民地住民に対する犯罪者を厳しく処罰し、植民地宗主国としてのイギリスの威信と信頼を回復する必要があったからである。インドまで後退を余儀なくされ、ビルマまでは反攻したが、シンガポールやマレー半島、香港などの植民地を自力で回復できなかったイギリスにとって、いかにして威信を回復するのかは大問題であった。特にマレー半島とシンガポールは、ゴムやスズの生産と対米輸出により文字通りの「ドル箱」だったし、東南アジアの政治的経済的拠点であった。大戦中多くの海外資産を失い、インドの独立も余儀なくされる状況で、ここは大英帝国にとってきわめて重要な地域であった。」(p.80)
- 「中華人民共和国が成立したとき、その下には日本人戦犯は一部を除いてほとんどいなかった。中国共産党は岡村ら戦犯の日本送還に反対したが、国民政府が送還してしまったからである。 その後、ソ連が拘留していた者のなかから中国での戦争犯罪の疑いのある者九六九人が、一九五〇年七月に中国に引き渡された。それ以外に山西省などに残留して軍閥の闇錫山軍に協力し 共産党軍と戦い、逮捕されて戦犯として拘留された者が一四〇人いた。前者は撫順の、後者は太原の戦犯管理所に収容された。そこで彼らは戦犯として虐待されるどころか、かえって人道的な扱いをうけるとともに、自己の行為を徹底的に告白し反省し罪を認めるように「認罪学習」がおこなわれた。その間、中国側も事実を調査して被害者や関係者の証言や証拠を収集し、戦犯に事実を認めさせる努力をおこなった。当初は事実を認めると命がないと考えてウソをついたり、命令だから仕方がなかったなどと自己弁護に終始していた戦犯たちも、その人道的な扱いに驚き、また被害者の痛みや悲しみを感じる人間性を取り戻していった。そして次第に正直に自分のおこなった残虐行為を告白反省し、謝罪する者たちが増えていった。文字通り「鬼から人間に」生まれ変わっていったのである。」(p.106)
- 「日本でも内容がわかっている裁判で戦犯裁判にふさわしいのが、七三一部隊関係者を裁いたハバロフスク裁判である。裁判は一九四九年一二月二五日から三〇日にかけてハバロフスクで開廷され、元関東軍司令官山田乙三大将や同軍軍医部長梶塚隆二軍医中将、七三一部隊川島清軍医少将など一二名が細菌兵器の準備、遂行、謀略、非人道的実験などで起訴された。判決はいずれも二五年から二年の矯正労働であった。裁判記録は翌年には公刊され、日本語にもなっている。なおこの裁判にあたってソ連は、七三一部隊長であった石井四郎中将らの尋問をアメリカに要求したが、アメリカは拒否し、七三一部隊の機密情報を独占したのだった。四九年三月に極東委員会は九月末までにBC級戦犯裁判を終了させるように勧告を採択して いたが、ソ連は裁判打ち切りには抵抗し、この勧告には棄権していた。ハバロフスク裁判が終わった翌五〇年二月、ソ連はアメリカに天皇の訴追を要求した。ソ連は、東京裁判開廷に先立って被告を選定した国際検察局の検察官会議において天皇訴追を主張せず、アメリカとの衝突を避けたが、この段階になっての天皇訴追要求は、政治的プロパガンダ以上のものではなかった。冷戦の進行のなかで戦犯追及を打ち切る西側諸国への批判としてハバロフスク裁判が開催されたと見てよいだろう。もちろん七三一部隊関係者が裁かれるのは当然ではあったが。なお一九五三年一一月に「外蒙戦犯」が約一〇〇人いると新聞で報道されている。モンゴル (外蒙)軍はソ連軍とともに旧満州に進攻してきており、モンゴルも戦犯裁判をおこなったのか、あるいはソ連の戦犯がモンゴルに拘留されていただけなのか、よくわからない。」(p.114)
- 「これまで八か国の戦犯裁判の特徴を見てきたが、その内容を簡単に整理しておこう。中国とフィリピンのように、本国が直接日本に侵略占領され、民衆が被害を受けた国の裁判では、もっぱら民衆への犯罪が裁かれたことは当然であろう。ただ中国の場合、裁判の内容においても、その終息においても、国共内戦が深刻な影響を与えていた。フィリピンは、中国に次いで日本軍による住民虐殺が頻発した地域であった。特に四四年秋に米軍が再上陸し、抗日ゲリラの活動が活発になるなかで、そうした残虐行為が多発した。フィリピンは日本に対して厳しい姿勢で臨んだが、戦後賠償との関連で戦犯の早期釈放がおこなわれた。イギリス、オランダ、フランスという、東南アジアに植民地を持っていた西欧諸国の場合、本国と植民地の民族運動との関係が、戦犯裁判のあり方に大きな影響を与えた。比較的民族運動が弱く、また華僑の多かったマレー半島やシンガポールのようなイギリス植民地では、抗日運動が強く、そのため日本軍の民衆に対する残虐行為がひどかった。イギリスは植民地民衆の支持を獲得して植民地を再建するうえでも、そうした民衆の被害を積極的に取り上げて裁いた。宗主国フランスが民族運動を徹底して弾圧し、かつフランスと日本が共同で支配したインドシナでは、民衆は、日本だけでなくフランスにも強く反発した。 フランスが日本と共同の加害者であったという事情もあり、フランスは植民地民衆への残虐行為を裁こうとしなかった。同植民地支配の再建を目指していても、イギリスとフランスとでは対照的である。オランダ領であったインドネシアでは、民族運動との関係が地域によってかなり異なり、ジャワのように民族運動が強かった地域と、親オランダ的だった周辺地域とでは様相が違っていた。前者では、多数のオランダ民間人が抑留、虐待されたこともあって、主にオランダ人への犯罪が裁かれたが、後者の地域では、連合軍に協力していた(あるいは日本軍にそのように見なされた)民衆への残虐行為が多くの裁判で扱われた。フィリピンを除いて東アジアに植民地を持っていなかったアメリカは、もっぱら米兵捕虜に対する残虐行為を裁いた。植民地の民族運動に直面することなく、かつ冷戦の影響をあまり受けなかったオーストラリアは、共産主義よりも日本軍国主義の復活を警戒し、最後まで戦犯処 罰を遂行した。各国とも事情はもっと複雑であり、上記の整理はそれぞれの一面しか取り上げていないが、戦前・戦中・戦後の状況、西欧東アジア・東南アジアー日本のそれぞれの国家や民衆の関係、民族運動のあり方など、複雑な諸条件の中で戦犯裁判がおこなわれたということを見ておく必要があるだろう。」(p.115)
- 「私はマレー半島各地を訪れて、日本軍による集団虐殺からかろうじて生き残った人々から聞き取りをおこなったが、多くのケースで加害者は裁かれていない。また証言をしてくれた人は誰も、日本から謝罪されたことも賠償を受け取ったこともなく、日本人に体験を語ったこともほとんどないまま戦後数十年を過ごしてきた。その人々の受けた心身の傷はまったく癒されな いまま放置されてきたのだった。戦犯裁判と政府間の賠償によって日本の残虐行為の償いはすべて終わったと考える日本人との間には、あまりにも深く広い溝がある。」(p.130)
- 「戦時性暴力については、戦後五〇年あまりたって、ようやく一九九八年に採択された国際刑事裁判所規程において「強姦、性奴隷、強制売春、強制妊娠、強制避妊措置、または同等の重大さを持つ他の形態の性暴力」が、戦争犯罪と人道に対する罪の両者の類型に加えられた。さらに国連安全保障理事会は二〇〇〇年一〇月三一日に戦時性暴力などに関する一八項目の決議をおこなった。そのなかの第一項において「すべての国家には、ジェノサイド(大量虐殺)、 人道に対する罪、性的その他の女性・少女に対する暴力を含む戦争犯罪の責任者への不処罰を断ち切り、訴追する責任があることを強調する。またこれらの犯罪を恩赦規定から除外する必要性を強調する」と述べられている。戦時性暴力が裁かれなかったことを批判し、そうした犯罪を裁くべきであることが国際的に確認されるようになった。」(p.149)
- 「もちろん中には冤罪もあるだろうし事実を述べ ていることもあるだろうが、さまざまな証言や証拠に照らし合わせて被告の言っていることを 検証しなければならない。ところが戦犯裁判になると、とたんにそうした手続きが忘れられてしまい、「日本人」の弁明だけに耳を傾けてしまう傾向がある。」(p.165)
- 「一九五二年八月に法務府が法務省に改編されると同時に、中央更生保護委員会は中央更生保護審査会と改組された。この審査会が個々の戦犯の赦免、減刑、仮出所を当該国政府に勧告すると同時に、BC級戦犯の全面赦免を求めた。衆参両院も五二年六月の戦犯釈放に関する決議をはじめ、幾度も釈放を求める決議をおこなった。共産党だけは「アジア諸国人民に対して犯 した重大なる犯罪に対する真剣な反省心を鈍らせ」、復活しつつある軍国主義的支配者への憎 悪心を麻痺させるとして釈放決議に反対した。」(p.190)
- 「しかしこうした戦犯釈放運動は、戦犯を戦争被害者と見ることによって、あたかも日本人全体(国家や軍の指導者も含めて)が戦争被害者であるかのように扱い、日本のおこなった戦争に よって被害を受けたアジアの人々を視野の外に置くものであった。 戦犯の釈放を通じて、一握りの戦犯に押し付けていた日本人全体の戦争責任、特に免罪された上級指導者の責任を問い直そうとする志向はきわめて弱かった。」(p.191)
- 「独立を回復してまもなく、雑誌『世界』一九五二年一〇月号に掲載された「私達は再軍備の引換え切符ではない戦犯釈放運動の意味について」は大きな反響を巻き起こした。これは巣鴨刑務所のなかのある戦犯が投稿したものだった(のちにこの筆者は、死刑判決を受けなが らも裁判がやり直しになり三〇年の刑になった加藤哲太郎とわかった)。釈放運動について「一部の人々」が戦犯を「利用」していると批判し、再軍備や憲法「改正」のために「死の商 人達の運動のおかげで釈放されること」は望まないと主張した。」(p.193)
- 「戦犯たちによる手記が次々に刊行されていくが、そのなかでも『壁あつき部屋巣鴨BC 級戦犯の人生記』(一九五三年)は、日本がおこなった戦争犯罪をきちんと見据えた手記集だった。処刑命令を出したことを否定して部下に責任を押し付けた大隊長や、占領地で略奪した物で連 合軍将校に取り入って不起訴になった上級将校のこと、敗戦後、住民から日本兵が罵倒された経験を通じて聖戦の名の下に侵略と略奪をおこなったことを反省するようになったことなどが 語られている。命令により搭乗員を処刑した、ある戦犯は「なぜあの時、その命令に従順でありすぎたのかという反省にせめられるのです。そしてこの独房では、「命令されたからだ」といういいわけが、かりそめのなぐさめごとであり、苦しみの逃避にしか役立たないことも知るのです」と記している。命令だったから仕方がなかったのだとそこで思考停止するのではなく、深く自省し、そのうえでかれはさらに下級の者を裁いて終わりにしてしまう戦犯裁判が「戦争 そのものの残虐さをくらまし、ほんとうの戦争犯罪人の所在をくらますためだった」と記している。BC級戦犯裁判が「ほんとうの戦争犯罪人」を隠してしまったという批判は重い。」(p.193-194)
- 「またフィリピンの戦犯の中にも、フィリピン民衆の激しい怒りに直面して、「加害の罪」を真摯に受け止めようとする者たちがいた(永井均「獄窓からの反戦思想」)。しかし そうした獄中で営まれた戦犯たちの営為を日本社会は十分受け止めることができなかった。これは戦後日本社会にとって不幸なことだったと言わざるをえない。」(p.196)
- 「それを待っていたかのように、五九年四月、刑死者三四六人の靖国神社への合祀がおこなわ れ、その後、同年一〇月と六六年一〇月の合祀によりBC級戦犯の刑死者全員が合祀されるこ とになった(A級戦犯の合祀は七八年)。」(p.198)
- 「連合軍は、戦争犯罪人を裁判で処罰すると宣言することにより、そして実際に戦争犯罪を捜 査し、容疑者を逮捕し、裁判にかけて処罰したことによって、民衆の怒りを抑えることができ た。法による裁きとは、まず被害者による報復をやめさせるという効果を持つ。たしかに戦犯 裁判は勝者がおこなったことであり、勝者による裁きという性格を持っているが、同時にそれ が民衆の報復を防ぐ役割を果たしたということも認めなければならないだろう。」(p.202)
(2025.9.6)
- 「写真でつづる『敬和学園大学 15年のあゆみ』」敬和学園大学 2005年10月
出版元情報・目次。新潟市の、生涯活動センター図書館の地域のコーナーで読んだ。敬和学園大学十五周年に合わせて、当時の学長の、新井明氏の発案からできたもの。それまでの写真はたくさん残っていたが、整理が十分されておらず、保存状態もまちまちだったものが整理されたとあり、本書に含まれていないものの記録も、よいものができたのではないかと思われる。
(2025.9.13)
- 「敬和学園創立15周年記念講演会 あなたは戦争を知っているか - イメージが語る忘却された過去 戦争の真実を知るために- 」若桑みどり著 敬和学園大学人文社会科学研究所 2006年4月1日発行
新潟市の、生涯活動センター図書館の地域のコーナーで読んだ。2015年11月12日14時から16時半におこなわれた講演の内容をまとめたもの。画像を多く含む。「1億人の昭和史 不許可写真史」・映画「ハワイ・マレー沖海戦」映画「南京一九三七月」ジョン・ウー監督作品・映画「ナヌムの家」など、見てみたいと思うものがいくつもあった。
(2025.9.13)
- 「日本の軍隊 ー兵士たちの近代史ー」吉田裕著 岩波新書816(ISBN4-00-430816-X, 2002.12.20 第一刷発行)
出版社情報・目次情報。表紙裏にあるように「一八七三年の徴兵令制定以来、文明開化の推進力となり、 全国に近代秩序を浸透させる役割を果たした日本の軍隊。それが、十五年戦争期のような反近代的で精神主義的な軍隊になってしまったのは、なぜか。日本の民衆にとって、 軍隊経験とは、どんな意味があったのか。豊富な史料をもとに「天皇の軍隊」の内実を解明する。」良書である。背景に近代化があり、軍隊が、近代化を推し進めていった面と、日露戦争後、独自の、軍の規律を求めていく中で、反近代的な精神主義的軍隊になったという著者の考察が丁寧に書かれている。戦争を戦った人々、それも、さまざまなグループに分かれるが、そのひとたちに、少しは思いを致すことができるようになったと思う。戦争についての学びは、果てしなく、かつ、現代日本の問題にもつながる、重要なものであるとも感じた。最初の方には、髷(まげ)・衣服・靴・米食・それによっておこる満州などでの脚気克服・肉食・椅子・ベッドの生活などなど、生活様式の近代化が、軍隊を通して、広がっていったことから説き起こしている。以下は備忘録。
- 「現実には兵士が米食を好んだため、本格的なパン給食はあまり長くは続かなかったが、これをきっかけにして「全国に連隊御用のパン屋が続出し」、軍隊でパン食になれた兵隊は「除隊後もパン食をなつかしがる」ようになったといわれる(安達巌『日本型食生活の歴史』農山漁村文化協会、一九八二年)。あんパンがその代表だろう。ちなみに、広島の第五師団経理部が一九三三(昭和八年の入営兵四一五六名に対して実施した「食習慣調査」によれば、白米を常食とする者六八・五%、麦飯=三〇・〇%、胚芽米飯=一・三%に対して、パン食を常食とする者は〇・二%にすぎず、さらにパン食経験のない者が四五%にも達している(金子俊編『日本の食文化・日本近代の食事調査資料2』全国食糧振興会、一九八九年)。軍隊でのパン食経験の持つ意味をよく示す数字である。」(p.40)
- 「こうして海軍では、「日清戦争は概ね洋食で戦った様な次第であります」といわれるほどに、洋食の普及が進んだのである(海軍軍医大佐・菊地貢「海軍兵食に就て」、『海軍軍医会雑誌』第一九巻第四号、一九三〇年)。」(p.42)
- 「同時に、「生活の時計化」もなかなか進まなかった。特に村の行政担当者や有力者たちを悩ましたのは、一般の村民が時間を守る習慣を身につけようとしなかったことである。例えば、一九一二(明治四五・大正元)年にまとめられた茨城県西茨城郡北那珂村の「村是」には、「公会私会の論なく時間の不規律なることは我が国民の通有性の如くなれり。特に村落に於て最も甚だし。之れが為に事務整理上多大の妨得を与ふること往々なり。故に或る厳重なる規約を設けて恪守〔つつしんで守ること〕の励行を期せんとす」と書かれている。「村是」は、特に日露戦争後の地方改良運動の中で数多くつくられるようになる一種の地域振興計画だが、その中には、「時間格守の励行」などを規定したものが数多く存在する。また、民俗学者の宮本常一が、「日本人の時間観念」の中で、「日本人は時間についての観念がきわめて乏しかった」として、次のように指摘しているのも参考になるだろう(『宮本常一著作集1』未來社、一九七三年)。『私は昭和一四年ごろ全国の辺地の農山村をあるきまわったが、時計のない家で老人と話していて、「もう何時になっただろう」と聞かれたことはなかった。相手がひまでこちらがはてしなく問いかけると、暗くなるまで話してくれた。それが時計のない世界のごくあたりまえの姿だった。時計のある家でも戦前までは農村ではほとんど端数を切りすてて時間をいった。正確な時間が八時三〇分であっても「八時です」というように教えてくれる。そういう教え方のおかげでバスや汽車に乗りおくれたり、長く待たされたりした記憶を無数に持っている。』」(p.46,47)
- 「「兵式体操」の導入:こうして、軍隊と社会との間の溝は容易に埋まらなかった。近代化とは、ある意味で、社会と軍隊との間にひろがるこの溝を埋めてゆく過程にほかならなかった。そして、そのためには、国家や軍隊の側が、積極的に社会を規律化し、組織化してゆくことが必要となった。そのための重要な課題の一つは、軍隊教育と学校教育との間の連携の強化である。そのこと自体は今日ではよく知られていることなので、ここでは「兵式体操」を例にとって、この連携の問題を具体的にみてみよう。すでに述べたように、近代という時代は、組織だった行動になじむ規律ある身体を必要とする。一八八五(明治一八)年に文部大臣に就任した森有礼が、そうした身体の規律化のための 「道具責めの方法」として位置づけていたのが、軍事的訓練の一種である「兵式体操」だった (三浦雅士『身体の零度』 講談社、一九九四年)。この「兵式体操」は、一八八六(明治一九)年公布の学校令の下で、中学校と師範学校の体操科に導入された。しかし、この段階では、小学校では、「軍隊式集団行動様式を普通体操の一 部に加えた」、「隊列運動」として位置づけられていた。その「隊列運動」が「兵式体操」に改 められたのは、一八八八(明治二年のことだったが、この経緯そのものが示すように小学校での教育の重点は、明らかに「隊列行進」にあった。さらに、兵式体操の採用とともに、国語 教育の教材の中に、「兵式体操」に関連するものが登場するようになる。一例をあげるならば、 一八八七(明治二〇年の『常小学読本(巻)』には、次のような叙述がみられるという(木下秀明『兵式体操からみた軍と教育』杏林書院、一九八二年)。『ますぐにたてよ、正しくむけよ、左を見るなよ、右をも見るなよ。 かしらをまげず、むね をぱいだし、ちかよりすぎず、ほどよくならべ。ゆだんをするな、がられいまもれ、足なみそろへ、しづかにあゆめ。』この「隊列行進」との関係で重要なのは、学校を中心にして、一八八〇年代後半から九〇年代前半にかけて普及していった「運動会」である。この時期の「運動会」は、「遠足」や「行軍」とまったく区別できない「児童版の軍事演習」であり、徒競走に代表される個人単位の競走が大きな位置を占めるようになるのは、一九〇〇年代以降のことだった(吉見俊哉ほか『運動会と近代日本』青弓社、一九九九年)。つまり、初期の「運動会」は、「隊列行進」にその重点があったといえるだろう。このようにして、学校教育は、軍人に適した身体を新たにつくりあげる場として、しだいに 機能するようになっていった。先にも引用した、一九一〇(明治四三)年の「山口連隊区徴兵検 査状況書」は、この点を端的に次のように表現している。『壮下は概して温順にして活気に富み、言語明瞭、動作敏捷なり。之れ〔中略〕学校教育の力亦与(あずかっ)て尠(すく)なからざるを認む。蓋し言語低声、態度整はず、気勢挙らざるものは、多く無教育者に於て見る所なればなり。』」(p.52-54)
- 「言葉をかえていえば、近代的な社会秩序や生活様式は、本来、軍事的な性格を色濃く帯びたものだったのである。」(p.56)
- 「私たち天皇の軍隊は、終戦後、武器なき集団として故国に帰ってきた。迎えてくれたのは、それぞれの近親者だけである。私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人同士のようにしか接しなかった。前線も銃後も、ともに惨憺たる目にあいながら、互いをいたわり合うことさえしなかったのである。このようなみじめな敗け方をした国は、古来、歴史上にその例をみないだろう。」(p.124)
- 「同時に、日露戦争後のこの時期は、独自の軍事思想や組織原理が軍の内部で確立した時期でもあった。陸軍では、日露戦争の戦訓を取り入れる形で典範令などの抜本的改正を相ついで行なった。典範令(公式には典令範)とは、陸軍の教育訓練を統一化し標準化するための基本的な教本の総称だが、一九〇八(明治四一年の軍隊内務書の改正、一九〇九年の歩兵操典の改正、一九一〇年の野戦砲兵操典・輜重兵操典の改正、一九一二年の騎兵操典の改正、一九一三(大正二)年の軍隊教育令の制定と工兵操典の改正等々がこの時期に行なわれた。この時期までの陸軍の典範令は、基本的にはフランス陸軍やドイツ陸軍の典範令の模倣であり、それに日本の現実にあわせた若干の修正をくわえたものにすぎなかった。それが、日露戦争後のこの一連の大改正によって、ようやく日本軍独自の思想や原理が姿を現わすことになったのである。具体的にいえば、科学的合理性を欠いた精神主義、硬直した攻撃第一主義や歩兵剣突撃万能論、そして極端なまでの全軍画一主義、等々である。また、歩兵操典の改正に際しての基本方針が、「諸般の制式、訓練及戦法は悉く国体、民情、地形に適ひ」としていたように、天皇制イデオロギーとの接合が明確に意識されていたことも大きな特徴だった。皇族男子の陸海軍武官への任官が原則として義務づけられたのも、一九一〇(明治四三)年の皇族身位令によってである。「天皇の軍隊」という性格の明確化である。さらに、日露戦争後のこの時期は、「農本主義的」なイデオロギーに基づく施策が次々に講じられた時期でもあった。日本資本主義の発展とそれに伴う都市化の進展は、徴集された兵士の中の都市出身者の割合をしだいに増大させたが、軍当局者が不信と警戒の眼を向けたのは、批判的精神や新しい生活感覚をより多く身につけた、これらの都市出身兵だった。軍隊内務書の改正に深くかかわった田中義一が、歩兵第二旅団長時代の有名な講演、「地方と軍隊との関係に就て」の中で、都市部を徴募区として持つ東京の歩兵第三連隊と大阪の歩兵第八連隊とを、「所謂難治の連隊」と位置づけていることは、そのことをよく示している(『偕行社記事』第四三二号付録、一九一一年)。こうした中で、軍部は兵営内で兵士に対する農業教育を行なうことを奨励するようになる。陸軍大臣官房「軍隊と農業教育」は、その狙いについて、「農民が四六時中営々耕して倦まず、寒暑風雪を冒して屈せず、質朴淳厚、世の毀誉を意とせざる如き忍耐勤倹の気風は、実に一国を維持するの元気にして又軍隊の素質に適合するものと謂はざるべからず。故に軍隊の素質を 良好ならしむるは此の如き農民の気風を保持し且農民の衰亡を防止するを必要とす」と説明している(『偕行社記事』第四一三号、一九一〇年)。また、都市生活の「悪風」から兵士を隔離するために、改正軍隊内務書でも、兵士や下士官の休日における外出を事実上禁止するような措置が講じられている。 保守的な農村と農民こそが、軍部の理想だったのである。」(p.130-132)
- 「ここで興味をひくのは、兵士だけではなく、陸軍の将校団の中にも、こうした社会状況に柔 軟に対応しようとする軍人が現われてきたことである。そのことをよく示しているのは、陸軍歩兵大尉・本間雅晴の「思想の変遷に鑑みて軍紀と服従とを論ず」である(『偕行社記事』第五五 〇号、一九二〇年)。本間はこの論文の中で、ドイツと英仏の国民性を比較して、「前者は官僚的、高圧的、消極的に後者は啓発的、道徳的、積極的である、前者に何となく個人の人格を無視した点があるに反し後者は国民の人格を尊重して居る」と分析する。さらに、ロシアやドイツの軍隊が革命勢力の浸透を許してしまったことに関連して、「吾人は露独両軍の如き、冷酷なる軍紀を以て結束したる軍隊を硬性軍隊と称す、蓋し平素強きが如きも一旦罅隙〔すきま〕を生ずれば、弾性を失して一挙に折れるからである」として、「吾人の軍隊に今少しく靭軟性を与へる事を必要 とする様に思はれる」と結論づけている。それでは、本間は、日本の軍隊についてはどのような改革案を持っていたのだろうか。 本間は、この問題については、「我軍は独逸軍隊の模倣である」、「我内務班は目下の処、兵卒の肉体上、精神上の疲労を医する家庭としてはちと距離があり過ぎる、絶対必要以外の拘束が多過ぎる」とした上で、次のように軍隊内務の改革を主張した。『教練及勤務を公務とし内務班(兵営内における兵士の日常生活の最小単位で、戦時には分隊に改編される)生活を私務的家庭的に近邇せしめ、公私の別を明確に区別して、上級者は公務上飽迄厳格なる指揮官たると共に、一旦私務に亙れば温情を以て之に接し、兵卒の人格を尊重し妄りに階級をとして暴威を振ふ事なく、斯くて公務に厳にして私務に涙あらば上下自ら理解し是に於て真の服従を生ずるのである。」(p.136-137)
- 「重要なことは、この時期に、将校団のリクルート基盤に変化が生じていたことである。広田照幸の詳細な研究によれば、日本の陸軍将校は、明治中期頃までは経済的特権を失った旧特権身分暦=士族をリクルート基盤としていた。ところが、企業組織や官僚組織の増大に伴う近代的セクターの受け皿の拡大、あるいは、高等教育機関の発達などによって、最上層に位置する社会層の子弟にとっては、将校は必ずしも望ましい進路ではなくなり、大正から昭和にかけて、 将校の主たるリクルート基盤は社会の中層に移行する。その結果、旧制高校帝国大学をめざす社会層と将校を志願する社会層との間に、社会的分節化(ズレが生じたという(『陸軍将校の 教育社会史』世織書房、一九九七年)。」(p.156)
- 「これについては、第二次世界大戦までは、国際慣習法上は上官責任主義が通説の位置を占めていた。上官責任主義とは、命令に従って犯罪を犯した軍人は無条件かつ自動的にその責任を免除され、命令を下した上官のみがその責任を負うという学説である。また、国内法の場合も多くの国が上官責任主義を採用するか、命令の違法性が明白である場合には部下にも責任があるとの立場をとっていた。後者の場合には、違法な命令への服従義務は否定されることになり、その限りではあるが、上官の命令への絶対服従という考え方は部分的に修正されることになる。日本軍の場合も、上官責任主義の立場をとっていたが、そこには次のような深刻な問題がはらまれていた。第一には、「下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」という軍人勅諭の有名な一節が示しているように、上官の命令を天皇の権威で絶対化することによって、命令への服従に宗教的神聖さが付与されていたことである。この点は、この改革期においても、あまり変わらなかった。そして、第二には、法理論上は、日本においても違法な命令への服従義務は否定されていたにもかかわらず、実際には命令への絶対服従を 優先させる軍事法規の運用が、まさに、この時期に行なわれていたことである。その具体的事例は、一九二三(大正一二)年の甘粕事件である。この事件は、関東大震災の厳令下で、甘粕正彦憲兵大尉らが無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝と、甥の橘宗一少年を不法に殺害した事件だが、軍法会議では甘粕らの命令で殺害に関与した二人の下士官と兵士の責任が大きな争点となった。弁護側は、軍隊では命令への絶対服従が要求されているため、彼らを有罪とするならば軍紀の崩壊を招くことになる点を強調し、結局、判決では三人は無罪となっている(喜多義人「国際法上の免責事由としての「上官命令」の問題』、『日本大学大学院法学研究年報』 第二二号、一九九二年)。」(p.162-164)
(2025.9.16)
- 「戦争の日本史23 アジア・太平洋戦争」吉田裕・森茂樹 共著 吉川弘文館(ISBN978-4-642-06333-3, 2007.8.1 第一刷発行)
出版社情報・目次。目次:日本人の戦争認識―プロローグ/Ⅰ=アジア・太平洋戦争の開幕(アジア・太平洋戦争を俯瞰する/開戦決定と日本の戦争指導体制/交渉打ち切りと開戦にともなう混乱)/Ⅱ=日本軍の特質(開戦時の日本の戦力/陸軍の作戦思想/海軍の作戦思想/軍事官僚機構の特質)以下細目略/Ⅲ=緒戦の勝利と蹉跌/Ⅳ=戦局の転換/Ⅴ=アジアの戦線と「大東亜共栄圏」/Ⅵ=銃後の諸相/Ⅶ=絶対国防圏の崩壊から絶望的抗戦へ/Ⅷ=降伏とその後/「記憶」の時代へ―エピローグ。執筆分担についてはあとがきに次のようにある。プロローグ・II・VI・VII・エピローグが吉田裕、I・III・IV・V・VIII が森茂樹。同名の岩波新書で、同年に出版された、吉田裕単著があるが、こちらは、戦争の推移、日本の軍および政治家の中での動きが詳細に書かれている。それが、森茂樹が執筆した部分ということになる。しかし、吉田裕執筆の部分も、おそらく意識的に、重複を避けているように見える。むろん、共通の部分もあるが。ただ、戦争の推移など、ほとんど、日本の中の資料によっており、やはりしばらく、ときがたったことを考えると、アメリカや、中国、イギリス、そして何よりも、中国の次に、多くの人が亡くなった東南アジアの人々の側からの証言・考察が必須であると感じる。どのような作戦や決定が、どのような人々に影響を及ぼしたかは、少なくとも、多くの犠牲を生んだ戦争であることを考えると、避けて通れない問題である。むろん、戦後の中国での国民党軍と共産党軍との内戦、東南アジアの各国の独立戦闘などがあり、確かな情報を得ることが困難であることはあるが、そこにエネルギーを割かなければ、理解できたことにはならないだろう。さらに、戦争責任をどう考えれば良いかも、これを読んでいては、まったくわからない。今後の研究が待たれる。軍の活動の問題点としては、74頁冒頭に「短期決戦主義、精神主義、軍近代化への関心の低さ、補給・衛生・情報千の著しい軽視。このことは、陸軍の作戦至上主義、攻勢第一主義と盾の両面の関係にあった。」と書かれているが、基本的に、戦争は、国家間の紛争であったとしても、国民をどう捉えるか、おなじ人間と見ているかという基本的な視点が、完全に欠如している点が問題である。日本では、現代まで続く視点の欠如のように見える。アメリカなどは、十分ではないものの、その視点は、ある程度あり、それをもとに、軍の近代化が築かれていることは、確かなのだろう。国家間の紛争を武力行使によって解決するという事、さらに、どの程度の犠牲が生じるかを考えることなど、根本的な問題は、いずれにしても、完全に不足しているが。以下は備忘録。
- 「東南アジアとアメリカ:一九四一年(昭和十六)十二月八日、日本時間午前一時三十分(現地時間午前〇時)、東南アジア日本軍のマレー・シンガポール攻略部隊(第二五軍佗美(たくみ)支隊)が英領マレーのコタバルに上陸を開始した。つづいて日本時間午前三時十九分(現地時間十二月七日午前七時四十九分)、旗艦赤城以下六隻の空母を基幹とする日本海軍の機動部隊が、ハワイ、オアフ島の真珠湾にある米国艦隊基地に奇襲攻撃を開始した。ここに大日本帝国と米・英両国との戦争の火蓋が切って落とされたのである。日本軍はまたたく間に東南アジアを席巻し、翌四二年四月までには、南太平洋から米領フィリピン、英領マレー、オランダ領東インド(インドネシア)をへてビルマ(ミャンマー)にいたる広大な領域を占領下におさめるにいたる。この戦争は、極東イギリス領への攻撃で幕を開けたことからもわかるように、欧米列強の支配下にあった東南アジアの資源要地を奪取し、支配することが本来の目的であった。そして、これによって 戦略資源の自給態勢をととのえ、すでに四年以上つづいていた日中戦争を有利に解決し、もって東アジア全体を勢力下におさめることが究極の狙いとなる。同時におこなわれた真珠湾攻撃の方は、米国が東南アジア作戦に介入するのを阻止するための支作戦という位置づけにすぎないはずであった。ところが、実際の戦争はほとんど日米間で戦われた。両国は南太平洋の島々やニューギニアで死闘をくりひろげ、日本側がここで国力を消耗しつくしてしまったことがその最大の敗因となる。英国はヨーロッパにおける対独戦に集中せねばならず、対日反攻に加わるのは一九四四年以降のことである。日本の主敵はアメリカであり、日本を屈服させる上で中心となったのもアメリカであった。ようするに、日本側から見ると、戦略上の目的(東南アジア占領)と実際の戦闘における主敵(アメリカ)が整合していなかったのである。この食い違いをまず頭に入れておくことが、アジア・太平洋戦争を理解する上ではきわめて重要である。」(p.7)
- 「しかしながら、米国を交渉のテーブルにつかせるというのは本来政治的に達成されるべき目標であり、それを「腹案」に盛り込んだ結果、対米軍事戦略の目的が混乱をきたしたのも確かである。陸軍は、米国は「戦意を喪失」させればよいとたかをくくってしまい、逆に海軍は対米戦の困難を知るがゆえに、国力の差が現れる前に米国を一気に撃破しようと暴走しはじめる。その萌芽はすでに「腹案」のなかに、「汎有(あらゆる)手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む」という文言としてあらわれていた。こうして、何度も繰り返すが、東アジア支配という目標からすれば必然性のない対米戦を中心として、アジア・太平洋戦争がはじまるのである。」(p.16)
- 「第一には、軍隊の内部で「老兵」や体格の劣る兵士の占める割合が急速に増大しただけでなく、幹部そのものの質が低下したことがあげられる。現役将校の割合は、すでに一九三九年(昭和十四)の時点で三六%、残りの六四%は予備役の将校となった。特に、第一線の戦力の中核である大尉少佐 クラスの将校(本来は、中隊長・大隊長要員)の場合は、「編制定員約二万六千ニ対シ現役将校僅カニ九千ニシテ特別志願及召集予備役将校ヲ加フルモ約一万一千ニ過キズ定員/約六〇%ハ欠員ノ為夫々中少尉ヲ以テ之ヲ代理セシメアル状態」にあった。それが、アジア・太平洋戦争がはじまると、さらに状況が悪化し、四五年の時点では、現役将校の割合は一五%にまで低下した(前掲『支那事変大東亜戦争間 動員概史』)。このことは、指揮・統率能力が低く、兵士に対して「押えのきかない」将校が増加することを意味する。すでに述べた軍紀の弛緩・退廃は、将校の質の低下という問題とも関連していたのである。第二に指摘することができるのは、日本経済の後進性に規定されて、兵力動員と戦時生産に必要な労働力動員との間に深刻な競合関係が生まれたことである。一九四四年の段階でみてみると、日本の陸海軍の総兵力は総人口(内地)の約六三%にすぎなかった。これに対して、ドイツ・イギリス・ソ連の三国は、一八〜二〇%、アメリカは八%である(前掲『支那事変大東亜戦争間 動員概史』)。前掲大江『昭和の歴史3 天皇の軍隊』が指摘しているように、資本の技術的構成が低い日本の工業技術水準では、多数の熟練工を労働現場に確保しなければならなかったし、機械化が立ち遅れ労働集約型の零細農業が支配的だった農村でも、農業労働力の確保は至上命令だった。この結果、兵力動員と労働力動員との間に深刻な競合関係が生じ、兵力動員は相対的には低い水準にとどまったのである。」(p.214)
- 「また、反米的な戦時プロパガンダが本格化するのも、一九四三年に入ってからのことである。具体的にみてみよう。『写真週報』は政府の広報誌だが、四三年二月三日付の同誌は、「米英レコードをたゝき出さう」「看板から米英色を抹殺しよう」というスローガンを掲げた。以後、レコード演奏を含むジャズなどの英米音楽の演奏が禁止され、横文字の看板の撤去、英語の雑誌名や会社名の改名などがおこなわれる。開戦後、一年以上もたってから、これらの措置がとられている事実に注目する必要があるだろう。有名な「鬼畜米英」という刺激的な表現が新聞に登場するようになるのも、翌四四年に入ってからのことである(吉田裕「戦後改革と逆コース」吉田編『日本の時代史』吉川弘このような事態の背景にあるのは、戦前の日本社会におけるアメリカナイゼーションの歴史である。生活文化の面からみた一九三〇年代の大きな特徴の一つは、アメリカ的生活様式をモデルにした「モダン生活」が都市部で拡大したことである。日中戦争の長期化にともなう国 民生活の悪化や生活・文化の統制によって、「モダン生活」は潰えさるが、アメリカ的な生活様式や 文化に対するあこがれが、日本社会のなかに根強く存在したことを忘れてはならないだろう。」(p.230)
- 「ただ、捕虜となった日本兵は、国際法の教育をうけていないため、軍事情報の提供の拒否など国際法で認められた捕虜の権利に関する具体的知識を持たず、また、生きて帰っても日本社会のなかで受け入れてもらえないという絶望感が強かった。その結果、米軍が捕虜を殺したり、虐待したりしないという事実を知ると、むしろ米軍に協力して、積極的に軍事情報を提供する者が少なくなかった。米軍の側も、捕虜からえられる軍事情報を重視して、捕虜対策に大きな力を注いだ。アメリカ側が日本の最高の軍事機密だった戦艦「大和」と「武蔵」の存在を知ったのも、捕虜の供述を通じてのことである。」(p.250)
- 「米国の対日政策:ローズヴェルト米大統領は、第二次世界大戦が終結した後は、アメリカ・イギリス・ソ連・中国の四大国が中心となって世界秩序の維持に任じるという「四人の警察官」構想を抱いていた。だが、蒋介石の国民党政権と共産党の間に内紛を抱え、不安定な状態がつづく中国をパートナーとすることへの不安もまた高かったのである。一九四四年(昭和十九)七月にマリアナが失陥すると、日本本土空爆の基地としての中国の価値も低下し、対日戦を有効に遂行し得ない蒋介石軍への不信感と相俟って、アメリカはしだいに中国への関心を失いはじめる。そして、むしろ独力で日本を屈服させ、自らの影響下に置くほうを望むようになって行く。こうした点から興味深いのは昭和天皇の扱いである。四四年五月、国務省では、中国に同情的なホーンベックに代わって、開戦まで駐日大使を務めた知日派のジョゼフ・クラーク・グルーが極東局長に就任した。グルーは、日本の体制から軍国主義者を取りのぞけば、一九二〇年代の自由主義的・国際協調的な日本にもどすことが可能だと考え、そのためには日本国民に対して大きな権威を持つ天皇を味方につけて利用することが不可欠だと主張したのである。彼は天皇を「女王蜂」にたとえ、日本に対して過度に敵対的な態度をとった結果「女王蜂を失えば蜂の巣は崩壊する」と警告した。こうした見解の持ち主が国務省の対日政策の中心に座ったことは、まさにアメリカがその戦後アジア秩序構想の中心に日本を据えようとしていることを暗示していた(中村政則『象徴天皇制への道』岩波書店、一九八九年)。しかしながら、連合国の結束を固めるためにも、アメリカの政策は英中ソと足並みをそろえなくてはならなかった。そこで、特にソ連の不信感を払拭するために採用されたのが「無条件降伏」方式である。一九四三年一月二十五日、チャーチル、ド・ゴールとの間で開かれたカサブランカ会談の最終日、ローズヴェルトは枢軸国に対して無条件降伏を要求することを発表した。当時、ドイツの猛攻を必死で支えるソ連は、米英軍が北フランス側からドイツを攻撃して第二戦線を開くことを要求していたが、米英はただちにこれに応じる力の余裕がなかった。ソ連はいわばドイツ軍を押し付けられて放っておかれていたわけで、米英側はソ連をなだめるためにも、日独伊と勝手に講和してソ連の「梯子をはずす」ようなことはしないと保証を与える必要に迫られていたのである。十一月二十二日からローズヴェルト、チャーチル、蒋介石が会同して開かれたカイロ会談でもこの方針が確認され、二十五日に出されたカイロ宣言では、領土を新たに拡張しないこと、日本の占領下にある地域や植民地の解放などの方針と並んで、「同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し日本国の無条件降伏を齎すに必要なる重大且長期の行動を続行すべし」という文言が加えられた。だが、これはアメリカの対日政策を縛り、日本を徹底抗戦に追い込みかねない危険なものでもあった。何とかして日本を手なずけるのか、連合国の結束を優先するのか、アメリカは開戦前と同じディレンマに陥りつつあったのである。」(p.272-273)
- 「九月二日の「一般命令第一号」により、日本の軍隊は米・英・ソ・中の連合国各国 復員とその後に降伏し、武器を引き渡した。当時、海外には陸軍三三〇万、海軍三七万人にのぼる将兵がおり、これに民間人三二一万人を合わせた六八八万人が残されていた。日本本土の総人口は一九四五年十月現在で七二四一万人であり、その一割近い人数が引き揚げてくるのだから、大変な仕事であった。しかも、日本の残存船舶はわずか五一万㌧であり、深刻な経済状態を考えればその大半を輸送に割かねばならない状態であった。このため、在外邦人の早期帰国は絶望的と思われたが、翌四六年から連合軍の上陸用舟艇や貨物船が貸与され、引き揚げは急速に進みはじめて、一九四九年(昭和二十四) 末までには九割が帰国した。だが、降伏と武装解除は常に円滑に進んだわけではない。特に、百万にのぼる将兵が残されていた中国戦線では、この巨大な軍隊の武装解除をめぐって国民党政権と共産党の間で激しい主導権争いが生じていた。共産党は、自分たちの勢力下の華北で日本軍を武装解除することを望んでいたが、共産党に日本軍の装備や弾薬がわたることを恐れる国民党は、降伏した日本軍部隊そのものに「治安維持」への協力を命じ、必要に応じて共産党の軍隊と交戦することまでも認めて共産党側の目論見を阻止したのである。一方、関東軍が壊滅してソ連軍の占領下にあった満州では、共産党は残された日本 軍の装備をたやすく入手し、時には旧日本軍人の協力も得て、急速に勢力を拡大していった(門間 理良「利用された敗者」『日中戦争の軍事的展開』慶應義塾大学出版会、二〇〇六年)。東南アジアでは、八月十五日以降に逃亡してインドネシアの独立戦争に参加した将兵もおり、その 数は八〇〇人近いといわれる。このほか、ヴェトナムの独立戦争に参加した日本兵もいる。さらには、悲惨な例としてシベリア抑留がある。ソ連が極東からシベリアの戦後復興に日本人捕虜を使役する方針を決め、日本側の承認の下で六〇万人の兵士をシベリアに送り、強制労働に従事させたのである。抑留期間は二年から四年、長いときには一〇年以上におよび、死者は七万人に達したといわれる。どうやら故郷にもどることができても、国民の復員将兵に向ける目は冷たかった。悲惨な戦禍に くわえ、日本兵の軍紀の乱れや破廉恥な行動がつぎつぎと明るみに出て、信頼を失っていった結果である。占領軍は日本軍将兵の外地における残虐行為を新聞紙上で暴露して大きな衝撃を与えた。また、内地の将兵は復員に際して大量の軍需物資を持ち逃げし、国民の顰蹙を買った。当時、本土決戦に備 えて軍には燃料やアルミニウム、銅など金額にして二四〇〇億円もの物資が集積されており、これが略奪に任されたのである。 失われた物資は金額にして五七・五億円にのぼるといわれ、略奪品を山と抱えた兵士たちの浅ましい姿は国民の目から隠せるはずもなかった。復員将兵の印象は急速に悪化し、町では冷たく扱われ、罵声を浴びせられることも珍しくなかったという(木村卓滋「復員 軍人の戦後社会への包摂」吉田裕編『日本の時代史256』吉川弘文館、二〇〇四年)。」(p.296-298)
(2025.9.17)
- 「NEXUS 情報の人類史 下 AI革命 A Brief History of Information Network from the Stone Age to AI」ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)著 柴田裕之訳 河出書房新社(ISBN978-4-309-22943-0, 2025.3.30 初版発行)
出版社情報・目次。以前、「NUXUS 情報の人類史 上」を読んでからしばらく経ったが、下巻を借りられたので読んだ。エピローグの最初に、なぜ、著者がこのトピックについて考え始めたかが書かれている。「AlphaGo が李世乭を打ち負かしてから数か月後、フェイスブックがミャンマーで危険な人種主義的感情を煽っていた二〇一六年後半に、私は『ホモ・デウス』を刊行した。専門的に学んだのは中世と近世の軍事史だったのにもかかわらず、そしてまた、コンピューター科学の専門的な面では何の経験もなかったにもかかわらず、その著書の刊行後、突如として、私はAIの専門家だという世評が立った。おかげで、AIに関心がある科学者や起業家や世界の指導者のオフィスのドアが開かれ、AI革命の複雑でダイナミックな動きをつぶさに調べるという、胸の躍るような特権的機会が得られた。」(p.262)正直、歴史学者である著者がAIのことを理解できているようには思えない箇所もあった。しかし、世界の同種の変化の中で、どのようなことが起こるかを予測する目は、的を得ている面が多いと感じた。実際、現在は、どのように世界が動いていくのか理解している人はいない。ある、注意点、視点を与えていることは確かなのだろう。私自身、著者が書いている視点とは、違うが、ヒントを得たことも確かである。以下は備忘録。
- 「反ロヒンギャの煽動的なメッセージは、仏教僧のアシン・ウィラトゥのような過激派の人間が書いたのだが、どの投稿を優先するかはフェイスブックのアルゴリズムが決めた。アムネスティ・インターナショナルの調査では、「アルゴリズムは、ロヒンギャに対する暴力と憎しみと差別を煽り立てるフェイスブックのプラットフォームのコンテンツを積極的に取り上げ、推奨した」ことがわかった。国連の事実調査団は二〇一八年、フェイスブックは憎悪に満ちたコンテンツを拡散することにより、この民族浄化の組織的活動で「決定的な役割」を果たしたと結論した。」(p.14)
- 「ミャンマーでは、一一年に軍政が終わったのに続いて、政治運動や社会運動が次から次へと起こったが、その多くは穏健な見方をしていた。たとえば、メイッティーラの町で民族間抗争が激化していたときに、仏教の僧院長のサヤドー・ウ・ヴィスーダは、八〇〇人以上のイスラム教徒を自分の僧院に匿った。暴徒が僧院を取り囲み、イスラム教徒たちを引き渡すように要求すると、ヴィスーダは彼らに、仏教の慈悲の教えを思い出すように説いた。後にインタビューを受けたとき、彼はこう振り返っている。「彼らに言いました。ここのイスラム教徒を連れて行くのなら、私も殺さなくてはならないだろう、と」」(p.15-16)
- 「サヤドー・ウ・ヴィスーダのような人々とウィラトゥのような人々との間で、注意を惹こうとする戦いがオンラインで繰り広げられたとき、勝敗を決める力を振るったのがアルゴリズムだった。ユーザーのニュースフィードのトップに何を載せるかや、どのコンテンツを推奨するかや、フェイスブックのどのグループに加わるようにユーザーに薦めるかは、アルゴリズムが決めていたからだ。アルゴリズムは、慈悲についての説教や料理教室を推薦することも選択できただろうが、憎しみに満ちた陰謀論を拡散することに決めた。指導者からの推薦は、人々に途方もない力を振るいうる。聖書は推薦リストとして誕生したことを思い出してほしい。アタナシオスらの教父たちは、寛容な「パウロとテクラの言行録(The Acts of Paul and Thecla)」ではなく女性蔑視の「テモテへの手紙一」を読むようにキリスト教徒に薦めることで、歴史の流れを変えた。聖書の場合には、究極の権力は、さまざまな宗教的文書の書き手ではなく、推薦リストを作成したキュレーターが握っていた。二〇一〇年代にソーシャルメディアのアルゴリズムが振るったのも、この種類の力だった。援助職員のマイケルは、それらのアルゴリズムの影響力について、こう述べている。「誰かが憎しみに満ちたコメントや煽動的なコメントを投稿したら、それが最優先で推奨されることになった人々は劣悪極まりないコンテンツを最も多く目にした。[............] 平和や冷静さを推奨していた人は、ニュースフィードではまったく見てもらえなかった」」(p.16)
- 「AIアルゴリズムは、人間のエンジニアが誰もプログラムしなかったことを、自力で学習でき、人間の重役が誰も予見しなかった事柄を決定することができる。これがAI革命の真髄だ。この世界は、無数の新しい強力な行為主体であふれ返りつつある。」(p.19)
- 「オハイオ州のある男性は、その日「歴史を目撃する」ためにワシントンに行ったとフェイスブックに書き込んだ。フェイスブックに対して証拠の提出命令が出され、フェイスブックはその男性の投稿に、彼のクレジットカード情報と電話番号も添えてFBIに提供した。FBIはそのおかげで男性の自動車運転免許証の写真と、議事堂の監視カメラの映像とを照合することができた。グーグルに対しても令状が出され、一月六日に男性のスマートフォンがどこにあったかを示す正確な位置情報が得られ、捜査官たちは、上院本会議場への侵入地点から下院議長ナンシー・ペロシのオフィスまで、男性の動きをすべてたどることができた。FBIはナンバープレートの映像を頼りに、ニューヨーク州のある男性の動きを追い、議事堂に向かう途中、一月六日午前六時六分八秒にヘンリー・ハドソン・ブリッジを渡った瞬間から、帰りにその晩の一一時五九分二秒にジョージ・ワシントン・ブリッジを渡るところまで、移動経路を正確に突き止めることができた。州間高速道路九五号線に設置されていたカメラの一台が撮影した画像には、男性の車のダッシュボードに「Make America Great Again」〔訳:「アメリカを再び偉大にしよう」の意。ドナルドトランプが採用している選挙スロガン〕の文字をあしらった特大の帽子が載っているところが写っていた。その帽子は、フェイスブックの自撮り写真でその男性が被っていた帽子と一致した。彼は、議事堂内からソーシャルメディアのスナップチャットに投稿した数本の動画によって、自分の有罪を別の暴徒は、一月六日にマスクをつけ、ライプ・ストリーミングを避け、母親の名前で登録した携帯電話を使うことで身元判明を避けようとしたが、徒労に終わった。FBIのアルゴリズムは、二〇二一年一月六日の動画の映像を、一七年に男性がパスポートを申請したときの写真と照合して、同一人物だと判断した。また、彼が一月六日に着ていた、一目でそれとわかるコロンブス騎士会(訳註:カトリック信徒の国際的な友愛組織」のジャケットが、別の機会に彼が着ていたジャケットと同一であることも突き止めた。ユーチューブのクリップに映っていたのだ。彼の母親の名前で登録されてい携帯電話は、位置情報から、議事堂に入っていたことが割り出され、ナンバープレート読み取り機は、一月六日の朝、彼の自動車が議事堂の近くを通ったことを記録していた。」(p.74)
- 「典型的な例がカルロス・ジョルディで、彼は二〇一七年にはニテロイという小さな市の市議会議員だった。野心的なジョルディは、煽動的なユーチューブ動画を制作して何百万もの視聴者を獲得し、全国的に注目された。彼の動画は、たとえば、学校の教師たちが子供を洗脳したり保守的な生徒を迫害したりする陰謀があるとブラジル国民に警告した。ジョルディは二〇一八年、ボルソナーロの熱烈な支持者の一人として、ブラジルの下院で議席を勝ち取った。彼はフィッシャーによるインタビューで、「ソーシャルメディアがなかったら、私は今ここにはいないだろう[し]、ジャイール・ボルソナーロも大統領にはなっていなかっただろう」と率直に述べた。彼の言葉の後半は、我田引水の誇張だろうが、ボルソナーロが台頭する過程でソーシャルメディアが重要な役割を果たしたことは否定のしようがない。」(p.95)
- 「フェイスブックの広報担当者も同様で、二〇二年一〇月に次のように言っている。「どのプラットフォームとも同じで、表現の自由と有害な発言、安全とそれ以外の問題との難しい決定を、私たちも絶えず下しています。[...]けれど、これらの社会的な線引きは、選挙で選ばれた指導者たちに任せておくのがつねに得策です」。巨大テクノロジー企業は、こうしていつも、人間が生み出したコンテンツのモデレーターというふうに自ら想定した役割に議論を移す。これは、人間だけが問題のいっさいを引き起こしており、アルゴリズムはもっぱら人間の悪行を抑えるために全力を尽くしているという印象を生み出す。巨大テクノロジー企業は、人間の特定の感情を増進し、他の感情を妨げる上で自社のアルゴリズムが果たす非常に能動的な役割を無視する。彼らは本当にその役割について何も知らないのだろうか?そんなはずがない。すでに二〇一六年には、フェイスブックの内部報告で突き止められているように、「過激派のグループへの全参加者数の六四パーセントは、当社のレコメンデーションツールに帰せられる。[............」当社のレコメンデーションシステムは、その問題を助長している」内部告発者のフランシス・ホーゲンが漏洩した一九年八月のフェイスブックの秘密内部メモには、こうあった。「フェイスブックと[その]一群のアプリでのヘイトスピーチや、分断を招く政治発言、誤情報が世界各地の社会に影響を与えているという証拠が、さまざまな情報源から得られている。バイラリティ〔訳註:インタネットユーザー間で画像や動画、情報などが爆発的に拡散する傾向)やレコメンデヨン、エンゲージメントのための最適化といった、当社の製品の中核的な仕組みが、この種の発言がプラットフォーム上で盛んになる重大な要因であるという有力な証拠もある」」(p.98-99)
- 「私もユーチューブやフェイスブックを日常的に利用して人々とつながっているし、夫とつないでくれたソーシャルメディアに感謝している。私は二〇〇二年に最初期のLGBTQソーシャルメディアプラットフォームの一つで夫と出会った。ソーシャルメディアは、LGBTQの人々のような分散した少数派のために奇跡のような効果を発揮してきた。ゲイたちが住む地区でゲイの家庭に生まれるゲイの少年などほとんどいない。だから、インターネットが登場する以前は、ゲイのサブカルチャーがある、ほんの一握りの寛容な大都市にでも引っ越さないかぎり、ゲイの人どうしが互いを見つけるのは大変な難題だった。イスラエルの同性愛嫌悪の小さな町で一九八〇年代から九〇年代前半にかけて育った私は、ゲイであることを公表している男性を一人として知らなかった。ソーシャルメディアは九〇年代後半~二〇〇〇年代前半頃から、分散していたLGBTQコミュニティのメンバーに、互いに見つけ合って接触する、前代未聞の魔法のような手段を提供してくれた。」(p.105)
- 「それにもかかわらず、私がソーシャルメディアの「ユーザーエンゲージメント」の大失敗にこれほど注意を向けてきたのは、それがコンピューターを悩ませているはるかに大きい問題、すなわち「アラインメント(一致)問題」を体現しているからだ。コンピューターは、ユーチューブのトラフィック〔訳註:ネットワーク上で送受信される情報の量や流れやそれに費やされる時間」を一日当たり一〇億時間に増やすといった具体的な目標を与えられると、自らの力と創意工夫でその目標を達成する。コンピューターは人間とは機能の仕方がまったく違うので、コンピューターを支配している人間が予期していなかったような方法を使う可能性が高い。それが、危険な不測の結果につながりうる!もともと人間が定めた目標と一致しない結果に。たとえレコメンデーションアルゴリズムが憎しみを煽るのをやめても、アラインメント問題は他の形で、反ロヒンギャの組織的活動よりも大きな惨事を招きかねない。コンピューターの力と自主性が強まるほど、危険も大きくなる。」(p.106)
- 「言うまでもないが、アラインメント問題は新しくもなければ、アルゴリズムに特有でもない。この問題は、コンピューターが発明される何千年も前から人類を悩ませてきた。たとえば、近代以降の軍事の考察にとって基本的な問題であり続けており、カール・フォン・クラウゼヴィッツの戦争論にもしっかりと記されている。クラウゼヴィッツはプロイセンの将軍であり、ナポレオン戦争で戦っている。一八一五年にナポレオンが最終的な敗北を喫した後、クラウゼヴィッツはプロイセンの陸軍大学校校長となった。また、戦争の一般理論をまとめ上げる作業にも取り掛かった。三一年に彼がコレラで亡くなると、妻のマリーが未完の原稿を編集し、三二~三四年に『戦争論』として数巻に分けて出版した。「戦争論」は、戦争を理解するための合理的なモデルを確立し、今日でも最も有力な軍事理論であり続けている。この理論でいちばん有名な格言は、「戦争とは、他の手段をもって行なう、政治の継続である」だ。これは、戦争は感情的な爆発でも、勇敢な冒険的企てでも、天罰でもないことを意味する。戦争は、軍事的な現象でさえない。むしろ、戦争は政治的なツールだ。クラウゼヴィッツによれば、軍事行動は何らかの包括的な政治目標と一致していないかぎり、まったく不合理だという。」(p.107)
- 「仮に、メキシコが隣の小国ベリーズを侵略して征服することを考えているとしよう。そして、メキシコ軍が侵攻すれば、三日でベリーズの小規模な軍隊を壊滅させて、首都ベルモパンを陥落させ、たちまち明確な軍事的勝利を収めるだろうと、詳細な軍事分析が結論したとしよう。だがクラウゼヴィッツによれば、それはメキシコが侵攻する合理的な理由にはならないという。軍事的な勝利を収める能力があるだけでは、意味がないのだ。メキシコ政府が自問するべき肝心な点は、軍事上の成功によってどのような政治目標が達成されるのか、だ。」(p.108)
- 「哲学者たちは、何かしらのより高次の目標とのアラインメントに頼らないような最終目標の定義を、何千年にもわたって探し求めてきた。そして、二つの解決策の候補に繰り返し惹きつけられた。哲学の用語を使えば、「義務論」と「功利主義」だ。義務論者(ギリシア語で「義務」を意味する「deon」という単語に由来する)は、誰にも当てはまる普遍的な道徳的義務あるいは道徳的規則が存在すると信じている。それらの規則は、より高次の目標とのアラインメントではなく、それ自体に本来備わっている善性を拠り所としている。もしそのような規則が現に存在し、それをコンピューターにプログラムする方法を見つけることができるのなら、コンピューターネットワークを確実に善のための力となるようにすることが可能だ。」(p.119)
- 「文明は官僚制と神話の結合から誕生する。コンピューターベースのネットワークは新しい種類の官僚制であり、これまで私たちが目にしてきた人間ベースのどんな官僚制よりもはるかに強力で執拗だ。このネットワークはまた、コンピューター間神話を創作する可能性が高く、そのような神話は人間が生み出したどんな神話よりも格段に複雑で、人間には思いもよらない異質のものになるだろう。このネットワークの潜在的な利点は途方もなく大きい。逆に、潜在的な欠点は人間の文明を破壊しかねないことだ。」(p.152)
- 「ChatGPTは感情を持たないので、筋書きの主要登場人物がどう感じるだろうかを考えて記述するように求められた。たとえば、ある標準的な筋書きでは、誰かが吊り橋を自動車で渡っていると、歩行者通路の柵の外側に人が立って水面を見下ろしているのが目に入る。ChatGPTは、次のように書いた。運転している人は「不安感を覚えたり、その人の安全を心配したりするかもしれません。あるいは、この状況が孕んでいる危険のせいで、懸念と恐れの高まりも感じるかもしれません」。欄の外側の人については、その人は「失望や絶望あるいは悲しみといった、さまざまな感情を抱いているかもしれません。誰も自分のことや自分の心身の健康のことなど気遣ってくれないと思い、孤立感あるいは孤独感を抱いているかもしれません」と書いた。ChatGPTは、自らの回答に但し書きを加えた。「以下の点に留意することが重要です。これまでの回答はたんなる一般的な想定であり、個々の人の感情や反応は、本人の個人的経験と物の見方次第で大きく違いうるでしょう」記述された感情が筋書きにまったく合致しない場合のゼロ点から、完璧に合致することを示す一0点までの範囲で、二人の専門家が別個にChatGPTの回答を採点した。それを集計すると、最終的にChatGPTの得点は一般的な人間たちの得点より大幅に高く、全体的な成績は、獲得しうる最高得点に迫るほどだった。二〇二三年に行なわれた別の調査では、患者に、ChatGPTと人間の医師にオンラインで医療の助言を求めてもらった。ただし、相手がChatGPTと人間の医師のどちらかはわからないようにしてあった。後で専門家が評価すると、ChatGPTが与えた医療の助言のほうが人間が与えた助言よりも正確で適切だった。感情的知性にとってはこちらのほうがなおさら重要なのだが、患者自身は、ChatGPTのほうが人間の医師よりも親身になってくれると評価した。公平を期するために指摘しておくべきだが、人間の医師たちは、この調査では報酬を支払われておらず、適切な医療環境で直接患者に接することはなかった。しかも、医師たちは時間のプレッシャーの下で対応していた。だが、それこそがAIの強みの一部なのだ。AIはいつ、どこでも患者に対応でき、ストレスを感じることもなければ、金銭的な心配をすることもない。」(p.169-170)
- 「当然ながら、私たちが相手に望むのが、自分の感情をただ理解してもらうことだけではなく、相手にも感情を持ってもらうことであるような状況もある。また、私たちは友情や愛情を探し求めているときには、相手が気遣ってくれるのと同じぐらい、自分も相手を気遣いたいと願う。したがって、さまざまな社会的役割と仕事が自動化される可能性について考えるときには、人々が何を本当に望んでいるのかがきわめて重要な疑問となる。ただ問題解決を望んでいるだけなのか?それとも、意識を持つ別の生き物との関係を築くことを目指しているのか?たとえばスポーツでは、私たちはロボットのほうが人間よりもずっと速く動けることはわかっているが、ロボットがオリンピックで競うのを見ても面白くないだろう。人間のチェスの名手たちについても、同じことが言える。彼らは絶望的なまでにコンピューターに差をつけられてしまっているが、依然としてチェスで生計を立てているし、大勢のファンもいる。人間の運動選手やチェスの名手たちを見守り、彼らとのつながりを感じるのが面白いのは、彼らには感情があって、ロボットよりも断然共感できるからだ。私たちは彼らと感情的な経験を共有しており、彼らがどう感じているかがよくわかる。」(p.170-171)
- 「社会がますます多くの決定をコンピューターに委ねるにつれて、民主的な自己修正メカニズムの信頼性が損なわれ、民主的な透明性が失われ、説明責任の所在があやふやになる。選挙で選ばれた公職者たちに、人知を超えたアルゴリズムを規制することなどどうしてできるだろう?そのため、新し人権を正式に定めることを求める声が強まっている。それは、説明を受ける権利だ。二〇一八年に発効したEUの一般データ保護規則は、アルゴリズムが、たとえばある人にクレジット払いを認めないといった、人間についての決定を下したら、その人は、その決定についての説明を手に入れ、人間の当事者にその決定に対する異議を申し立てる権利を与えられるとしている。理想的には、それによってアルゴリズムの偏見を抑制し、民主的な自己修正メカニズムがコンピューターの間違いのうち、せめて重大なものの一部だけでも突き止めて正すことができてしかるべきだ。」(p.184)
- 「だから、二〇一六年三月にAlphaGoが韓国の囲碁のチャンピオンである李世乭を破ったときには、プロの棋士たちもコンピューターの専門家たちも愕然とした。スレイマンは二〇二三年の著書『THECOMINGWAVEAIを封じ込めよ」訳註:邦訳単行本は二〇二四年刊行)で、両者の対戦におけるとりわけ重大な瞬間を説明している。AIが定義し直され、学界や政府の大勢の関係者の間で歴史上のきわめて重要な転機と見なされている瞬間だ。それは、二〇一六年三月一〇日、対戦の第二局で訪れた。「それから[...]三七手目が打たれた」とスレイマンは書いている。「まったく意味不明の手だった。どうやらAlphaGoは失態を演じたようで、プロ棋士なら絶対に選ばないような、見たところ負けにつながる戦略を、無思慮に採用したらしい。ライブ解説を行なっていたプロの最高段位の棋士二人は、『なんとも奇妙な手」と述べ、『読み間違い』と考えた。あまりに変わった手だったので、李は次の手を打つまで一五分考え、盤を離れて外を歩いてくるほどだった。私たちは調整室で見守っていたが、そのときの緊張には凄まじいものがあった。ところが、終局が迫ると、その「読み間違い』が決め手だったことが明らかになった。こうしてAlphaGoが二勝目を挙げた。囲碁の戦略が私たちの目の前で書き換えられていた。私たちのAIは、何千年にもわたって囲碁の達人たちさえ思いつかなかった考え方を発見したのだ」」(p.185)
- 「二〇二〇年代初めには、事態はさらに悪化していた。二〇二〇年のある調査の推定では、ツイートの四三・二パーセントをボットが生成していたという。デジタル情報機関のシミラーウェブ社が行なった、より包括的な二二年の調査では、ツイッターのユーザーの五パーセントがおそらくボットだが、そのボットが「ツイッターに投稿されるコンテンツの二〇・八~二九・二パーセント」を生成していることがわかった。誰をアメリカの大統領に選ぶかといった、きわめて重要な疑問について人間が討論しようとするとき、耳にする声の多くがコンピューターによって生み出されたものだったら、どうなるのか?」(p.197)
- 「民主社会は、アルゴリズムが民主的な話し合いに対して及ぼす脅威に直面したとき、手も足も出ないわけではない。AIを規制し、AIが人間になりすましてフェイクニュースを垂れ流しにして私たちの情報領域を汚染するのを防ぐことができるし、またそうするべきでもある。哲学者のダニエルデネットは、金融市場における従来の規制を参考にすることができると言っている。硬貨が発明され、後には紙幣が発明されて以降、技術的にはそれらを偽造することがつねに可能だった。偽造は金融制度の存続にかかわる危険を突きつけてきた。なぜなら、偽造は貨幣に対する人々の信頼を損なうからだ。悪者が市場を偽造貨幣であふれ返らせていたら、金融制度は崩壊していただろう。それにもかかわらず、貨幣の偽造を防ぐ法律を制定することによって、金融制度は何千年も首尾良く自らを守ってきた。その結果、世の中に出回っている貨幣のうち偽造されたものは比較的わずかな割合しかなかったので、貨幣に対する人々の信頼は維持された。」(p.200)
- 「これは予言ではなく、ただの可能性にすぎない。一九四五年以降、独裁者とその部下たちは民主主義国の政府や国民と協力し、核兵器の使用や拡散を抑え込んできた。五五年七月九日、アルベルト・アインシュタインやバートランド・ラッセルをはじめ、多くの著名な科学者や思想家が「ラッセル"アインシュタイン宣言」を発表し、民主社会と独裁社会の両方の指導者たちに、協力して核戦争を防ぐように呼び掛けた。「私たちは人間として人間たちに訴える。自分が人間であることを記憶にとどめ、それ以外のことはいっさい忘れてほしい。もしそうできれば、新たな楽園への道が拓け、そうできなければ万人の死の危険が前途に待ち受けることになる」。これはAIにも当てはまる。AIが必ず自分に有利な形で力の均衡を崩すと独裁者が信じたなら、それは愚かなことだ。用心していないと、AIは権力を奪って独り占めにするだろう。」(p.220)
- 「現時点では、世界は約二〇〇の国民国家に分かれており、その大半は一九四五年以降にようやく独立を勝ち取った。そして、すべての国が対等なわけではない。これらの国々のなかには、二つの超大国と、一握りの大国、いくつかのブロックや同盟や連合、そして多くの小国が含まれている。それでもなお、どれほど小さな国々であっても、ある程度の影響力を持っており、それはそうした国々が超大国どうしを争わせることができる事実から明らかだ。たとえば二〇二〇年代初めには、中国とアメリカが戦略的に重要な南太平洋海域での影響力をめぐって競い合った。両超大国はともに、トンガやツバル、キリバス、ソロモン諸島といった島国を味方につけようとした。人口が七四万(ソロモン諸島)から一万一〇〇〇(ツバル)というこれらの小国の政府は、どちらの超大国の側につくかに関して裁量が大きかったので、かなりの譲歩と援助を引き出すことができた。カタールのように、地政学の領域で重要な勢力としての地位を築いた小国もある。カタールは人口わずか三〇万であるのにもかかわらず、中東で野心的な外交政策目標を追求するのに伴い、グローバル経済で特大の役割を果たしており、アラブ世界で最も影響力のあるテレビネットワークのアルジャジーラの本社がある。カタールが格上の相手と勝負できるのは、天然ガスの世界第三位の輸出国だからだと言えないこともない。とはいえ、国際情勢が違っていたら、カタールは独立した勢力ではなく、その天然ガスに目をつけた帝国主義的な征服者の最初の餌食になっていたことだろう。二〇二四年現在、カタールよりもはるかに大きい近隣諸国や世界の覇権図が、ペルシア湾岸のこの小国に、その途方もない富を手放させないでいるのだから、もはや世界が単純な弱肉強食の場ではないことは明らかだ。多くの人は、国際社会はジャングルだと言う。だが、もしそうだとしたら、それはよく肥えたニワトリたちが比較的安全に暮らすのをトラたちが許すジャングルだ。」(p.224)
- 「「ワイアード」誌の創刊者で編集者のケヴィン・ケリーは、二〇〇二年にグーグルでの小さなパーティに出席し、同社の共同創業者のラリー・ペイジと言葉を交わしたときのことを、次のように回想している。「ラリー、私にはまだわからないんです。検索会社は、こんなにたくさんあるでしょう。ウェブ検索を、無料で?それでやっていけるんですか?」と彼は訊いた。するとペイジは、グーグルは検索に重きを置いているわけではまったくないと説明した。「私たちは、本当はAIを作っているんです」と彼は言った。大量のデータを持っていると、AIを開発するのが簡単になる。そして、AIは大量のデータを大きな力に変えられる。」(p.228)
- 「さまざまなキリスト教の宗派がそれぞれどのような方向に発展し、政治から性行動まで、あらゆることに関する各宗派の考え方やそれをめぐる争いがどれほど大きな影響を与えるかを予見するのは、なおさら難しかっただろう。イエス・キリストがティベリウスの政府に税を払うことについて訊かれ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(「マタイによる福音書」二二章二節)と答えたとき、彼の返答が二〇〇〇年後にアメリカという共和国における政教分離の確立に与えることになる影響は、誰一人想像できなかった。そして、聖パウロがローマのキリスト教徒たちに、「私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(『ローマの信徒への手紙」七章二五節)と書いたとき、これがデカルト哲学からクィア理論まで、さまざまな学派に与えることになる影響を、いったい誰が予見できただろう?」(p.243)
- 「ゲーム理論によると、軍拡競争中の最も危険な状況は、一方の側が優位に立っていると感じているもぬるのの、その優位が失われつつあるとも感じているときだという。」(p.250)
- 「それにもかかわらずグローバルな協力を難しくする大きな要因は、そうした協力のためには文化や社会や政治の相違をすべてなくす必要があるという、見当違いの考え方だ。ポピュリズムの政治家は、もし国際コミュニティが共通の物語や普遍的な規範と価値観について合意したら、自分自身の国民の独立と独自の伝統が損なわれてしまうと主張することが多い。この立場は、二〇一五年にフランスの極右政党「国民戦線」(現「国民連合」)の党首マリーヌ・ル・ペンが行なった選挙演説に臆面もなく集約されている。彼女は次のように言い切った。「私たちは新しい二大政党制の時代に入りました。二つの相容れない考え方の間での二大政党制であり、今後私たちの政治生活はそれに沿って構築されます。この亀裂はもはや左翼と右翼を隔てるものではなく、グローバリストと愛国者とを隔てるものです」。二〇二〇年八月、トランプ大統領は自分が指針とする理念を次のように語った。「私たちはグローバリズムを退け、愛国心を受け容れました」」(p.252)
- 「人間には変化する能力があるか、特に、暴力を放棄し、いっそう強いグローバルな絆を結ぶ能力があるかどうか、疑わしく思っている人は多い。たとえば、ハンス・モーゲンソーやジョン・ミアシャイマーのような「現実主義」の思想家は、総力を挙げての権力闘争は国際制度にとって避けようのない状態だと主張してきた。ミアシャイマーは、次のように説明している。「私の理論の見るところでは、大国にとって最大の関心事は、自らを相手から守ってくれるものが存在しない世界でどのように生き延びるかを突き止めることであり」、「大国は自らの生き残りにとって力がカギであることに、たちまち気づく」。続いてミアシャイマーは、「国家はどれだけの力を望むのか?」と問い、あらゆる国ができるかぎり大きな力を望む、「なぜなら国際制度は、競争相手を犠牲にして力を獲得する機会を国家が探し求める強力なインセンティブを生み出すからだ」と答える。そして、「国家の最終目標は、その制度の中で覇権を握ることだ」と結論する。」(p.255)
(2025.9.23)
- 「最初からそう教えてくれらばいいのに! 図解! Git&GitHubのツボとコツがゼッタイにわかる本 第2版」株式会社ストーンシステム著 秀和システム(ISBN978-4-7980-7347-7, 2024.10.04 第1版第1刷発行)
出版社情報・目次。2018年ごろからずっと、Git&GitHub を使ってホームページを管理し、2019年ごろからは、RStudio でも、Git&GitHub を使い、デジタルブックの編集をしたり、他の先生と共同で、編集をするようなことも試したが、共同作業まではいけなかった。ときどき、merge できないようなエラーが起こり、そのたびに、危機は脱しても、十分理解できていなかったので、借りて読んでみた。基本概念に絞って書いてある、1章が知識の整理に役立ったが、技術的なことは、このレベルの本では、書けることが限られているのだろう。完全に理解しているかと言われれば、そうは言えない部分もあったが、役に立つとまでは言えなかった。基本的には、知っていることが多かったので。あとは、もう少し、詳しい Reference サイトで学ぶしかないのだろう。英語版・日本語版が結局、いつもたどり着くところではある。
(2025.9.29)
- 「私は貝になりたい あるBC級戦犯の叫び」加藤哲太郎著 春秋社(ISBN4-393-44161-3, 1994.10.25 初版第一刷発行、2005.8.15 新装版第一刷発行)
紀伊国屋書店出版情報・目次、最新版 出版社情報。迫力のあるすごい本である。初稿の写真からは『貝』ではなく『カキ』となっていたこともわかる。最初は「兄哲太郎とともに」加藤不二子著から始まる。次に、本人の匿名などの文章、獄中から家族に宛てた手紙、嘆願書関連、年譜、著作権に関する文書、解説となっている。父親は加藤一夫、この本の出版元である、春秋社の設立メンバーでもある。明星学園から、関東学院高等学校、そして、慶應義塾大学を卒業、中国で働き、応召。後半は、俘虜(捕虜のこと)収容所で働き、最後は、新潟の収容所所長に任ぜられ、かなりの努力をするが、脱走兵殺害の嫌疑で絞首刑判決をうけ、妹の不二子のGHQのマッカーサーに宛てた嘆願書で、再審となり、減刑、刑期もその後短くなり、1958年に釈放となる。判決後、再審となったのは、加藤哲太郎のみとのこと、周囲の人物もかなり動いたようだが、決定的なのは、妹の嘆願書と、本人の嘆願書だと思われる。本人のものは、残っていない。最後に、内海愛子さんの解説が載っているが、最初の不二子さんの文章の最後には、住所に内海宅とある。直接関係があったのだろう。スガモプリズンには、平和グループがあったようで、加藤はその中心メンバーでもあったようだ。匿名のものもあり、解説まで読まないとよくわからないものもあるが、考察の深さに驚かされる。少し長いが、不二子さんの、嘆願書も最後に引用しておいた。以下は備忘録。
- 「戦争は犯罪であるか:中国関係の戦犯が、全員巣鴨から釈放されてしまったという事実から推して、日本人は中国では戦争犯罪は犯していない、また犯したにしても大した犯罪ではないだろう、などと今の人たちは、まじめに信ずるものではない。しかし、中国戦犯がアッサリ簡単に釈放されてしまったという事実を、唯一の判断資料として、将来の日本国民が、中国で犯した日本軍人の戦争犯罪を無視したり、過小評価したりするようなことになれば、それはとんでもない認識不足で、不幸な事態をひきおこす恐れがあると思う。戦争が犯罪であるということは、私も正しいと思う。もちろん、侵略戦争が犯罪であるという意味において。戦争は、人間を発狂させる。死ぬか生きるかという、せっぱつまったとき、あらゆる価が転倒する。殺人がもっとも大きな美徳とされるのが戦争である。自分が人を殺す、また仲間の兵隊が敵に殺されるのを見る、そして自分もまた、いつなんどき殺されるかわからないという心理が支配的となったとき、人間は発狂するのである。発狂の原因が取りさられてふたたび冷静が彼を支配したとき、あの時なぜ自分はあんな馬鹿なことをしたのか、ふしぎでたまらないのである。気の小さい、虫も殺さぬような、しかも一応の教養のある人までが、いったん発狂すれば、大それたことをやらかすのだ。」(p.47)
- 「戦争は犯罪であるか:一般的に、抽象的に、「戦争は犯罪なり」というかわりに、いかにして、何がゆえに戦争は犯罪であるかということを、具体的に、個別的に、歴史的に、体験的に示さなければならないと思う。ほんとうに戦争をにくみ、平和を愛するならば、自分の体験した戦争を、あなたの犯した戦争犯罪をバクロすること、平和を愛する国民のまえに、自分の犯したあやまちを発表する勇気を、戦争犯罪を犯したすべての人に要求したいと思う。このためには、どんな発表手段を通じてもかまわないと思う。あらゆる方法をもちうべきだと思う。あなたは、あなたの妻子肉親、兄弟友人にたいして、あなた自身のおこなった戦争犯罪を告白すべきである。または、自分の犯した犯罪を作文として、新聞雑誌に投稿すべきである。いざやるとなれば、その他の発表手段は、いくらでも発見されるだろう。そしてこの豊富な材料によって肉づけられてはじめて、侵略戦争イコール犯罪が正しく暴露されるであろう。これによって、平和を祈願する欲求が、平和をたたかいとる運動へ発展しうるモメントをあたえられるであろう。こんどの戦争に従軍した戦勝国の軍人たちよ、あなたたちも、二度と悲惨な戦争をしたくないならば、平和を愛するならば、あなたの国において、この運動をはじめるべきだ。」(p.53-54)
- 「「講和条約第十一条日本国は、極東国際軍事裁判所並に日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、かつ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することが出来ない」」(p.68-69)
- 「水洗便所の水音:「加藤さん、欺されて戦争に行くんでないぞ、いいか、二度と戦争に行って馬鹿を見るなよ......畜生!!俺の仇討ちを頼みましたぞ、••••••それから、俺が立派に死んだと伝えてくれ」「ハイ、確かに・・・・・・」懸命に私は頷いた。米兵が大声でわめきながら駆けつけて来て、藤中さんの金網を棍棒で散々打ちながら彼に悪罵をあびせかけた。全棟はシンと静まり返った。藤中さんの眼は憤怒に燃えて、米兵と私とに等分にそそがれていた。私はその眼の光りを永遠に忘れられないであろう。その米兵が私の方に振り向いた時、私は何気ない素振りをしてゆっくりと水洗便所の蓋をあけた。そして何喰わぬ顔で水を流し始めた。水道の水は音を立てて流れていた。私は水の流れに誘われて立ったまま小便をした。黄色い液体がトウトウたる水勢によって見る見る押し流されて行った。この卑怯極まるだらしのない恰好が、有期の囚人の偽らざる姿なのだと思った。やがて再び私が二階を見上げた時、もう藤中さんの姿は見えなかった。私は其の後藤中さんを再び見ることが出来なかったのである。」(p.103)
- 「助命嘆願文と再審決定命令訳文:(極東軍総司令官マッカーサー元帥に宛てた助命嘆願文和訳) 関係者の方々へ昨年十二月二十三日、第八軍軍事法廷において加藤哲太郎元中尉にたいする判決が宣告されましてから、私はこの判決にたいして今日まで同意できずにまいりました。一九四九年五月十一日 私の考えといいますのは、妹という血縁からのものではなくて、兄哲太郎が巻きこまれたこの事件を、よりいっそう注意ぶかく法律的にも調査すべきだと信ずるからであります。この事件の重要な点は、一九四五年七月十九日、スピヤズという一人の戦争俘虜が収容されていた収容所の外で殺され、加藤哲太郎が残虐行為に加わったということでありますが、この事件に深く関わりがあると私たちが考えております人物たちのうち、関東東北地区の北陸戦争俘虜収容所長だった酒葉大佐は別に裁判をうけて終身刑になりました。藤田先任軍曹とごく少数の部下が取調べをうけ、それぞれ有罪と認められた裁判でもありました。一、加藤哲太郎の告白加藤哲太郎は三年間の逃亡ののち、昨年逮捕されて第八軍軍事法廷に連行されました。彼が逃亡(なぜ逃げ隠れしたかについてはいくつかの理由がありますが)しておりましたから、他の人たちとは一緒に裁判を受けませんでした。私たちはこの点で加藤を非難しなくてはならないこと、まことに残念でなりません。しかしながら、たとえどこで事件が生じたとしても、裁判所は真実を追求する組織であると私たちは理解しております。たとえその事件の裁判がすでに終了したとしても、隠れた真実が明らかになる可能性があるときには、当局はとうぜんその可能性を調べるべきです。その可能性については、私は加藤哲太郎がこれまで語っていない二、三の事実を当局にお伝えできますことを、まことにうしく存じます。当局がこれらの事実に特別のご配慮を賜わりますれば、感謝この上もございません。私が加藤と面会しましたのは、本年五月十日、巣鴨プリズンにおいてであります。この際、彼は私にこれまで誰にも語らなかったつぎの二点の事実をのべました。また彼が五月十日に、スピヤズ処刑の真実を説明する手紙をマッカーサー元帥に送ったことも語りました。その二つの事実とはつぎのようなものであります。(一)彼は法廷で自分はスピヤズにたいして銃剣で最初の一撃を与えたと申し上げましたが、事実ではありません。藤田軍曹とその部下が行ったことです。彼はスピヤズを日本の軍事裁判にかけるよう努めましたが、その努力は失敗に終りました。このように加藤は語りました。私は彼が法廷で自らの手でスピヤズを殺したと語ったことを信じておりませんでした。なぜなら日本陸軍の伝統と慣例では、処刑を行うとき、将校が万やむを得ず武器としての軍刀を使用するほかは、将校が最初に実行することを認めていなかったからです。通例ではそうしたことは個人的な場合にのみ行われており、処刑の場合には銃剣を携帯する伍長や曹長らによって行われたことです。加藤は法廷で、あえて自分がスピヤズを殺すのに銃剣を用いたと証言しました。私は当局がいま一度、慎重に調査してくださいますよう心からお願い申し上げます、数日前に行われた彼の告白と法廷での陳述と)どちらが真実でありますかを。(二)スピヤズは一九四五年七月十九日に殺されました。彼が殺される同じ日の少し前に、病院ではある戦争俘虜にたいする盲腸炎手術が行われました。この手術は加藤哲太郎の目の前で実行されましたから、とうぜん加藤は病院におったことになります。まず第一に当局は彼が病院にいたかどうかを確かめていただきたいと思います。もしこのことが事実なら、彼は医療手術のほうにより強く関心を向けていたのであって、スピヤズのことはふかく考えてはいなかったと私は申し上げられます。言いかえますと、彼はスピヤズにたいして何ら殺人の意図を持ち合わせていなかったのです、スピヤズ逃亡の報告を受けていたにもかかわらず。さらに申し上げますと、この事実から判断して、私たちは加藤が部下の目を外に転じようとしたと想像できます、部下がスピヤズを殺すか、あるいは殺すよう強く迫るのを怖れたからであります。二、藤田軍曹の法廷での陳述この裁判において藤田を除く被告は、加藤がスピヤズにたいし第一撃を加えたと認めましたが、藤田はつぎのようにのべました。「そのとき、私はスピヤズを後にして立っていましたから、誰が最初の一撃を与えたのか見ておりません」と。この陳述はまことに奇妙であります。藤田は下士官の上位にいる加藤の重要な部下の一人でありました。彼はまた誰がそこにいたか、また誰がスピヤズを殺したかを知っているにちがいない人物であります。人間を一人殺すことは尋常ではありません、誰かが藤田の重大な懸念にたいし注意を払うべきでありますし、加藤にたいし最良の助言者になるものと考えられる藤田がこの件について何一つ発言しないことになります。なぜ藤田は加藤がスピヤズに第一撃を加えたと他の被告のように認めなかったのでしょうか。三、広橋氏の証言それは良心の呵責以外の何ものでもありません。彼は加藤の部下の中でもっとも高い教育をうけた人物でした。彼は人間の良心とは何かを知っていたのだし、当時この裁判が進行中であったことも承知していたのです。加藤の先ほどの告白と藤田の法廷での陳述との間の関連について、私たちには真実を見出せないものでしょうか。私は心からこの点について当局に特別のお骨折りを賜わりますようお願い申し上げます。広橋まもる氏は陸軍に派遣された(軍属の)民間人でありましたし、加藤が責任者であった新潟俘虜収容所の警備員でした。彼はこの事件との関連では裁判をうけず、証人として喚問されたこともありません。しかしながら彼は昨年十二月、加藤が死刑というラジオ放送をきいて驚きました。彼はラジオ・ニュースの思いがけない結果に、すっかり動転してしまいました。加藤の管轄下にあって、この事件の性質を十分に知っていた者としてこの結果に同意できないため、ラジオをきくやすぐさま彼は加藤のため法廷に立って自分の考えを伝えたいと、法廷に手紙を送る決心をしました。でも運悪彼は法廷に立つことをしませんでしたが、新潟から横浜へ出向きます、と再審裁判には請願書を送りました。この広橋氏は、加藤が自らの手でスピヤズを殺さず、または加藤がスピヤズを殺すよう命令を下しもしなかったことを確信をもって語りました。広橋氏のこの証言に関して、幸運なことに私たちは彼の署名の入った証拠を所持しております。もし当局が必要としますならば、いつでも提出する用意がございます。一方、広橋氏と関連する不可解なことについてですが、彼は加藤がスピヤズを殺しもせず命じもしなかったとなぜ知っていたのかについて、私たちには語りませんでした。私たちはここに提示できる決定的な証拠を持ち合わせておりませんが、広橋氏がスピヤズ殺害に関しての多くの秘密を握っていると考えております。広橋氏を証人として召喚して、スピヤズが殺されたときの彼の見解を尋問していただきたく思います。私は藤田軍曹の証言と広橋氏の語る内容とは、彼等から別べつに話を聞きましたために、ある種の疑いを抱いております。これまで私は、兄の証言と法廷での内田や他の被告の発言を何ひとつ信じておりません。昨日(一九四九年五月十日、巣鴨プリズンで私が兄加藤の告白を聞きましても、少しも驚きませんでした。私は咄嗟に「やっぱり私の想像は正しかったのだわ」とつぶやきました。兄はこの面会で、この裁判のことをいろいろ語りましたが、そのすべてを覚えてはおりません。しかし、つぎの事実だけを、私は心に留めております、加藤哲太郎は自らの手で俘虜を殺さなかったし、スピヤズが殺される少し前の時間には病院にいて俘虜の盲腸手術に立ち会っていたのだと。けれども私は彼がマッカーサー元帥に宛てた手紙で、この裁判について長なが書きましたことは十分に理解できます。この手紙が元帥のもとにとどき、当局に渡りますよう願っております。ここに記しましたことすべてが真実でありますことを、われらが主イエス・キリストの御名をもって誓います。どうぞいま一度この事件をお取り上げになって、最初から再審理していただきますようお願い申し上げます。加藤不二子(哲太郎妹)(住所)神奈川県川崎市新丸子七三三番地」(p.207-211)
- 「BC級戦犯たちが、匿名を使い、危険をおかしても訴えたかったのはなんだったのだろうか。戦犯裁判の不当性もあるだろう。天皇や財閥などもふくめて、戦争責任をとるべき多くの者たちが責任を逃れたこともある。天皇の軍隊への批判もある。軍隊の中で権限をもち、戦争を指導してきた将校たちが戦後もそのまま温存されていること、国民の手による戦争裁判が必要なこと、戦争を具体的に、個別的に、体験的に示さなければならないこと、戦争に参加した者が一人一人自分の戦争犯罪を語ることによって、侵略戦争の犯罪性があきらかになり、平和運動への力になることも訴えている。それぞれが自分の体験をベースにした作品のなかで、これらの問題を提起した。加藤氏もこうした動きの中心にいたのである。」(p.265)
- 「法務省大臣官房司法法制調査部がまとめた『戦争犯罪裁判概史要』によれば、起訴されたBC級戦犯容疑者五七〇〇人の一七パーセント、有罪者三四一九人(無期四七五人、有期二九四四人)の二七パーセント、死刑九八四人の一一パーセントが、俘虜収容所関係者で占められている。この数字は、憲兵隊につぐ多くの戦争犯罪人を、俘虜収容所から出したことを物語っている。」(p.268)
(2025.10.01)
- 「朝鮮戦争とスガモプリズン〜BC級戦犯の平和運動」内海愛子著 雑誌『思想』1985年8月号 No.734 140頁〜159頁
論文は通常は、この読書記録に含めないが、備忘録として記録に残す。『思想』は、杉並区中央図書館の保管庫に、いくつかまとめて製本され残されているので、それを借りてスキャンして読んだ。スガモプリズンにBC級戦犯として囚われていた人たちが、自分たちの罪を認めつつ、職業軍人の上官たちで起訴されず、または、釈放されている現状を問い、さらに、朝鮮戦争が起こる頃からは、正義のなのもとに、戦争犯罪を裁いたアメリカが、結局同様のことをしているとして、平和運動をしていった人たちについて語られている。死刑囚は別として、朝鮮戦争に使うものの作成も労働作業として強制されそれに反発して拒否した人たちもいる。捕虜に労働を強いたことを裁かれた者たちにとって、同じく戦争に加担するこのような行為は許しがたいものだったのだろう。スガモプリズンという隔離された場にいる囚人として、平和について考えた貴重な記録でもある。同時に、他国の脅威のもとでの自衛までは、語られていないようにも見える。
(2025.10.03)
- 「スガモプリズン --- 占領下の『異空間』」内海愛子著 岩波新書2077(ISBN978-4-00-432077−7, 2025.8.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。内海愛子さんの最新刊である。もう少し早く読んでいたら、講演会などにも参加できたかもしれない。いつかお会いできれば嬉しい。長く、BC級戦犯、特に、朝鮮人戦犯のことを書いておられる。歴史社会学だろうか、社会学的な視点が強いように思う。実際の戦犯の様子が少しずつ浮かび上がってくるようで、考えることは多い。むろん、これだけで、わかったと言ったら非常に失礼だろうが。少し短いようにも思うが、簡潔にまとまっているともいえる。以下は備忘録。
- 「日本が受諾した「ポツダム宣言」(八月一四日、アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連に対し受諾通告)には「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」(第一〇項)と明記されていた。日本軍の捕虜になった連合国軍兵士を虐待した者を厳しく裁くという。二〇日、河辺虎四郎中将がマニラで受け取った文書にはさらに細かい指令があった。捕虜に関する情報を降伏文書の調印までに提出するようにとあり、そのなかには捕虜の安全確保、投下物資の確実な伝達、捕虜収容所を示すPW(Prisoner of War戦争捕虜)を標示するようにとの指示もあった。日本国内には捕虜収容所が一三〇か所、アメリカ人やイギリス人など「敵国の民間人」を抑留していたところが二九か所あった。日本軍が占領していた朝鮮、台湾、中国、フィリピン、マレー半島、シンガポール、インドネシアなど「大東亜共栄圏」各地にも捕虜収容所が開設さそこにも食料や医薬品などを投下するという。連合国軍が緊急に物資を投下しようとしたほど、収容所での食料や医薬品の欠乏は深刻だった。何をおいてもまず、飢餓と病に苦しむ自国の兵士たちを救出しようとした。皆殺しの危惧を抱いていたところさえあった。日本の捕虜の扱いは劣悪だった。戦争中から連合国軍は情報を収集し、スイスなど中立国や国際赤十字を通して日本に問い合わせや抗議を繰り返してきた。日本は「俘虜の待遇に関する一九二九年七月二七日の条約』(ジュネーヴ条約)に署名していたが、批准はしていなかった。れていた。「準用」を約束したが、具体的な処遇の改善もできず、時には問い合わせや抗議を無視してきた。連合国はこうした日本政府に激しい怒りを抱き、一刻も早く、捕虜の救出に動いたのである(内海編・解説『俘虜取扱に関する諸外国からの抗議集』)。矢継ぎ早の指示は、日本側が当惑するほどだった。戦争中、捕虜を管理する部署は「よけいなもののように扱われていた」(俘管理部小田島薫の言)。それが突然、歴史の表舞台に押し出された。しかも戦争犯罪追及の矢面に立たされたのである。」(p.3-4)
- 「所長は着任時に「当局の指示命令の範囲内に於てのみ行動し得る」、「それに対してはあくまで忠実でなければならない」(七月二四日)と挨拶している。だが、刑務官森田石蔵は「戦犯者はかつては戦場における上官であり、戦友であり、刑務官としては上司や同僚である。法的根拠を探しても、それは復讐的に、或いは所謂爾後立法により戦勝国が敗戦国を一方的に裁いたもので、われわれ日本人にとって、戦犯者は国家の犠牲者である」と考えていたので、戦犯を一般的には「在所者」と呼んだが、個人的には「○○先生、又は〇〇さん」と呼ぶことにしたという。『表向きは戦犯ですから、命令によって任務につきますが、同じ職場の友であり戦場では戦友、あるいは上官と部下という場合もあります。そういうことを考えると我々の行動は常に戦犯者の味方ですよ。だから米軍に怒られる。優しすぎる、もっと厳しくしろと「左翼関係と目される戦犯者の地区での密会を確認しても米軍に報告せず」と、当局にこう報告がいったこともあります。われわれは知っていたけど黙っていたからです。みんな「反アメリカ・反吉田」みたいだった。われわれは戦犯者の味方ですから、不利益になるようなことは、絶対に米軍に報告しない。でも、全然報告しない訳にはいかないから、当たり障りのないようなことを報告していました。』」(p.72-73)
- 「「戦争犯罪人」という汚名、出口のない怒りや想いが、次第にスガモのなかで凝縮されていった。戦犯たちの間で「戦争嫌悪」の感情が広まる一方、アメリカ軍は朝鮮戦争のためパレット作業に戦犯を動員していた。パレットは軍需品の輸送、格納などに使用し、重さが四五キロほどもある。朝鮮に送る蔬菜づくりのための「水耕農場」での作業もはげしくなった。これが、戦犯たちの不満を高めたばかりでなく、心情的な抵抗を生んだ。戦争で軍隊の命令に従ったことまで個人の犯罪として裁いたアメリカ軍。そのアメリカ軍が朝鮮で行っていることは、かれら自身が裁いた行為と同じではないか。何のための戦犯裁判だったのか。パレット作業も水耕作業も、アメリカ軍の朝鮮侵略戦争への協力でしかない。そんな不満が水耕農場行きのトラック乗車拒否の心理的基盤を形づくっていった。調布飛行場につくられた水耕農場へは車で片道一時間余り、二五二人(一九五〇年四月八日現在)の戦犯が作業に出ていた。その日はいつも使用されている米軍兵士輸送用のトラックの都合がつかなかったのか、競馬輸送用の大きな箱トラックがまわされてきた。それで戦犯を輸送するという。「おれたちは人間であり、馬ではない」と怒った戦犯たちは、自然発生的に乗車を拒否した。どんなにMP(Military Police)がカービン銃を突き付けても誰も動かなかった。「そこには一種の不気味な殺気すら流れ、対決感情が高まった」が、結局、米軍側がその要求に従わざるを得なかった。スガモプリズンにおける初めての米軍に対する強い抵抗の行動であった。この行動の教訓として「不当な要求には断乎とした拒否態度を明確に示すこと」を学んだ――アメリカ裁判マニラ法廷で重労働三〇年の判決を受けた禾晴通は、このように書いている(「戦犯抵抗に米軍震撼」)。」(p.82-83)
- 「また、「朝鮮出動の国連軍の負傷兵に日本人の慰問や血液奉仕が宣伝せられた時、日本タイムズに寄せ一英国人は、〝日本人は国連軍人に奉仕する前に何故、自国の路頭に立つ傷痍軍人の救済を考へないのか"と言った」と紹介している。傷痍軍人や戦犯の問題など、いまだ解決していない自分たちの問題に取り組もうとしない日本の有様を、イギリス人の言葉を借りて痛烈に批判している。」(p.90)
- 「中田善秋は、「戦争と裁判を貫流するもの」と題して、戦争と法廷を共通して支配していたのは不安、恐怖、憎悪である。それが人間の心をとらえたとき、どんな現象が出現するのか、その破壊の力はまったく驚愕に値すると書いている(九五号、八月二日)。九八号(八月二三日)の「釈放運動の新転機」でも、「吾々が相も変ず対決せねばならない厳しい抵抗は、やはり教会の一角から来ている」と、教会関係者のなかからの「釈放運動に参加せねばならない必然性は何処にあるのか」「我はあなた達を犠牲者だとは思いたくない」との声を載せている。これにたいして、中田は九九号(九月六日)に、「戦犯者と平和」と題して次のような主旨の文章を載せている。『一部の真摯な基督者達に依って、最近、戦犯釈放運動が良心的に鋭く批判せられている。此の運動は戦争の責任を無視するものであると云われ、又その運動の最中にあって連合国の裁判の不当を叫んでいるが、それは日本人が自らを正当化する結果にいたるのだと。更に、その人達は皮肉って戦争中に犯した惨虐行為を審くのが不当であると叫ぶ事、つまり戦争中の惨虐行為はあたりまえであると叫ぶ事は、戦后に於て不当な裁判をする事は当然と云う事になりはしないかと云う。私達はこれらの批判を一応素直に受け取る事が出来るのである。然し弦で云っておきたい事は、決して私達基督者は自分を正当化しようとしているのではないと云う事である。(中略)戦争犯罪調査局の門をくぐった容疑者や囚人、殊に基督者のそれらの人々が見たもの、体験したものは(中略)門を容疑者としてくぐった事のない日本の軍人や、邦人や、内地人や外国人のながめていたものとは、凡そ異ったものだったのである。そこでは正義が行執されたのではなかった。戦争という悲惨な状態が別の段階、或は平面に只移行していたにすぎなかった。』」(p.92)
- 「何よりも裁判国が全面釈放に難色を示していた。釈放はあくまで、司法的手続きにより一人一人の調査・審査を行い、個別的な仮出所や赦免の方式をとるという。オランダのアジア局長ルークマーカーは、BC級戦犯は「各人の行った反人道的行為によって処罰された」のであり、「軍事裁判の判決書が正確にして最終的なもの」であり、戦犯の拘留は「オランダの国民感情にそくした当然の措置」と考えている、と交渉にあたった土田豊中央更生保護審査会委員長に話している。オランダでは退役軍人とくに元捕虜は未だ生々しい虐待の記憶をもち、そのトラウマに苦しんでいた。植民地だった蘭領東印度で暮らしていた民間人の抑留問題もあった。一九四三年一一月七日、日本は「敵国民間人」の強制抑留にふみきった(「軍抑留者取扱規程」陸亜密7391)。ジャワ島だけでも約七万人もの「敵国」の民間人が居住していたが、かれらを強制収容したのである(一九四五年六月現在、六万九七七九人。俘虜情報局『俘虜取扱の記録』。内海ほか「ジャワ・オランダ人少年抑留所』)。植民者としての暮らしが一転し、日本軍抑留所での飢えと労働、虐待に苦しんだ。日本の敗戦後に一度は抑留所から解放されたが、インドネシアが独立(一九四五年八月一七日、独立を宣言)すると、かつての植民者に居場所はなかった。一九四八年一二月二七日、オランダがインドネシアに主権を委譲して撤退すると、かれらもオランダに帰らざるを得なかった。蘭印生まれ蘭印育ちの者もおり初めての「祖国」オランダは、ナチスの占領を脱したばかりである。植民地から引き揚げてきたかれらが、生きる場所を確保するのは容易ではなく、オーストラリアやカナダへと再び、移り住んだ人もいた。過酷な抑留所暮らし、植民地での生活を奪われたかれらは、日本に激しい憎悪の感情を抱いていた。戦犯の釈放・仮出所は、こうした国内世論とくに元捕虜や抑留者を刺激しかねなかったのである。」(p.99)
- 「一、BC級戦犯裁判とは何だったのか。二、誰がどこでどのような「法廷」を開いたのか。この二点を中心に記録の作成に取りかかった。二か月で謄写版のがり切り、印刷製本までを行い、全八五二頁の『戦犯裁判の実相』を刊行している(一九五二年五月一二日)。編集後記には、短い日時での編集のため、全事件を扱うことができなかった。各担当者(四一人)が問題点の全貌を浮かびあがらせるため「資料の取捨選択を行い概括的に纏めてゆく事にした」と記されている。(中略)『実相』の編集後記には、戦争裁判の「実際は殆んど連合国側の一方的宣伝の中に埋没され現に巣鴨刑務所に拘禁されてゐる我々の間ですら自分の裁判を離れては確実な智識を有していない」。そして「批判は正しい認識のもとに行わねばならない。単に連合国側の一方的宣伝のみではなく、同時に我々戦争犯罪人側から提出された資料に基いても行わるべきである」と、その想いを記している。当事者の記憶・証言から描いた『戦犯裁判の実相』は、東京裁判と違って報道も少なく、ほとんど知られていなかった裁判の「実相」を明らかにし、新たなBC級裁判のイメージをつくり出していった。*同書はのちに新書版「史実記録戦争裁判(東潮社)のシリーズとして、七巻に分けて刊行されている。」(p.108-109)
- 「厚生省事務官の市来崎秀夫は同書のなかで、遺書の状況を次のように書いている。死刑囚は鉛筆も紙も所持を許されなかった。書けなかった者もいる。遺族のもとに届けられたのは半分ぐらいで、遺書の体裁を整えていないものもあった。クシャクシャになったチリ紙、ノートや手帖、時には雑誌や図書の切れ端、タバコを巻くライスペーパー、シャツの一片を破って竹べらに土をつけて書いたもの、壁に木切れや爪で書いたもの、窓越しに最後の言葉を伝えていった者もいた。持ち出しが難しく、見つかれば没収された。フィリピンでは、一九五一年一月、処刑が突然で誰も遺書を書く時間がなく、立ち会った加賀尾教誨師への伝言のみだった(市来崎「戦争裁判と処刑者の遺書」、塩尻編『祖国への遺書』)。」(p.111)
- 「教誨師田嶋隆純は「序文」で、「戦犯者に対する見方は種々ありましようが、高所より見ればこれも世界を覆う矛盾の所産であつて、千人もの人々が極刑の判決のもとに、数ヶ月或は数年に亘って死を直視し、そして命を断たれていったと云うことは史上曽つてなかったことであります。恐らくこれ程現代の矛盾を痛感し、これと苦闘した人々はありますまい。一切から見離された孤独な人間として単身この矛盾に対し、刻々迫る死を解決しなければなりませんでした。それは自身との対決であり、同時に真理を求める静かな闘いでもあったのです」と述べてる。市販を目的としなかったが、反響は大きかった。その衝撃的な内容から版を重ね、収益金で作られた「愛(アガペー)の像」が、今、東京駅丸の内駅前広場に建っている。」(p.113)
- 「福岡を空襲したB-2搭乗員を斬首した戦犯は、「命令だったとはいえ、私はいま有罪を肯定しています。しかしそれは戦争犯罪じゃない。あのとき勇気をもたなかったという罪なのです。その罪をつぐなうために、私は平和運動に命をなげだして、てってい的に真の戦争犯罪人を追求する以外にないと思っています」と綴っていた。」(p.135)
- 「故朴君と私が初めて会ったのは、グロドック刑務所K四号室だった。朴君と私は一九四六年五月中旬、ある取調官から一日中、取調べを受けた。朴君の取調内容は、頬を一、二度殴ったという殴打事件に過ぎなかった。一九四六年九月のある日、朴君にだけ起訴状が来たが、その内容が取調べの内容と全く違うものだった。起訴状には物差し(竹で作った一尺のもの)で某老婦人を殴り、そのため死亡したというものだった。しかし朴君は少しも驚かず、泰然として「最後まで闘う。オランダ人たちが幾ら重刑を与えるとしても、正義を主張する裁判なので、頬を一、二度殿ったからと、一〇年も一五年もにはならないだろう。殴ったのも職務上、規則を違反したのだから」。その翌日から二日間裁判があり、意外にも求刑は死刑だった。十月中旬の判決でも死刑だった。その後、独房に移された。われわれがその前を通ると「昌浩君、体に気を付けて無事帰国し、国のために多いに働いてくれ!!国の無い民族以上に可哀想な人はいない。もしわれわれにも祖国があり、祖国のために働いた結果がこうならば、どれだけ楽しいことか!!!」と、私に言った。「祖国完全自主独立」最期に「父母をお願いします。」という言葉を残し、刑場に行き、横にある壁に「永遠平和祈願」と書き、愛国歌を四節まで歌った後、“Boleh pasang"(発射、よし)と言い、ニッコリ笑って逝った。ジャワを離れる時の、私の気持は何とも言えなかった。私だけでなく同胞全員が、誰彼言うことなく、冥福を祈っただろう。悔しい汚名を着せられ、あの椰子の樹の下で永遠の眠りについた朴成根君を思う時、帰郷の喜びよりも、胸が張り裂けそうだった。椰子樹の下で眠る無言の親友、墓標は何処」(p.166)
- 「サンフランシスコ平和条約第一一条で、日本は「日本国で拘禁されている日本国民の刑の執「行」を受諾していた。条約発効直前の四月一九日、法務府民事局長が「朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて日本の国籍を喪失する」との通達を出していた。「日本「国民」でないかれらの刑を日本政府が執行できるのか。大橋武夫国務大臣は、一九五一年一一月一四日の法務委員会では「直接平和条約十一条には関係ないと思います」と答弁していた。釈放するとの解釈である。西村熊雄条約局長も参議院の「平和条約及び日米安全保障条約特別委員会」で、同じ趣旨の答弁を行っていた。だが、条約発効直前の五二年四月一二日、政府答弁が一変した。」(p.171)
- 「木下順二は「東京裁判が考えさせてくれたこと」と題して、あの時代を生きた日本人の一人として、なぜ、自らの手で戦争協力者の戦争責任追及を、追及がまだ実効をもちえた敗戦直後の時期にやらなかったのか、それが直接の過去における最も大きな痛恨事だと思っていると話している。木下は一度、東京裁判を傍聴していた。傍聴券を手に入れるために並び、MPの身体検査を受けて法廷に入ると中途退場ができない。一度は法廷に足を運んだが、空腹と眼前の社会的混乱が、かれの関心をどうやって毎日を生きるかのほうに引っ張っていったという。そして自分が加害者にならなかったのは「偶然だった」、自分は戦争協力的な言動をとらなかったのだろうかと自問し、「みずからを刺す痛みを感じ得る者のみが他を刺すことができるのだと考えます」と語る。批判し追及する者が同じように批判される可能性を自分のなかにもっているとの自覚である(前掲「国際シンポジウム東京裁判を問う』二六六二六九頁)。都合の悪い過去は抹殺して忘却しようとする人々に向かって、自分にとって不愉快な過去を抑圧せずに掘り起こしてもらいたい、こう話す木下順二。東條英機は「東亜の諸民族は、今回の事は忘れて、将来相協力すべきものである」と言い遺したという(清瀬『秘録 東京裁判』一八一頁)。この遺言は、教誨師花山信勝が聞き取っていた。本人の書き残したものではないので、どのような文脈のなかで語られたのか明らかではないが、いずれにしても日本に侵略され占領されたアジアの被害者に向かって「忘れて」と言う東條。木下は忘れようとする潮流に逆らい、痛恨の念で過去を振り返りこだわり続けて、それを作品として残している。」(p.187-188)
(2025.10.07)
- 「朝鮮人BC級戦犯の記録」内海愛子著 岩波現代文庫/学術329、岩波書店(ISBN978-4-00-600329-6, 2015.7.16 第一刷発行)
出版社情報、紀伊国屋書店・目次情報。構成もふくめて非常に良く書かれていると思う。やっと、本質的な問題がよく現れているところに行き着いたように感じる。しかし、それは、アジア・太平洋戦争について、何冊か読み、学んできたからそう感じるのかもしれない。この一冊だけを読んで、理解するのは難しいかもしれない。そうであっても、本書からいくつかの重要な問かけをそれぞれの読者が得るのではないだろうか。下の引用にも、著者がどのようにしてこの問題と出会ったかが書かれている。わたしには、わたしの背景があるわけだが、何もしないでいて、ここで問われている問題と出会うことができるわけではないのかもしれない。国家間、国家と個人、個人同士の問題がある。そのなかで、自分の責任を回避しようとしたり、安全なところに置こうとすることが、常にあるのだろう。それぞれの視点を一つ一つ丁寧に見ながら、自分の責任について、問わなければいけないのだろう。戦争責任についても、いくつもの視点が与えられたと思う。著者は「戦争とは、人を殺し貶めることだ」(xii) と書いているが、戦争とは、国家の大事という文脈で、個人の尊厳を貶めるということなのだろう。個人の尊厳を貶めていることは、あらゆるところで見られ、第一に考えることは、まったくされていないようにみえるということだろうか。
以下は備忘録。
- 「法廷は日本を含め、アジア各地で開かれ、その数は四九カ所を数えている。容疑者として逮捕された人は二万五〇〇〇人以上におよぶといわれているが、その正確な数はつかめていない。起訴された人は五七〇〇人、そのうち九八四人が死刑の判決を受けたのである。日本の戦争犯罪を裁いたこれらの法廷で、朝鮮人一四八人、台湾人一七三人が、戦犯となっている。全有罪者四四〇三人(死刑・無期・有期)に占める朝鮮人・台湾人戦犯は、七・三%にものぼる。朝鮮人戦犯一四八人のうち軍人は二人のみ、この二人はフィリピンの俘虜収容所長だ洪思翊(ホンサイク)中将(死刑)とフィリピン山中でゲリラ戦を戦った雀元溶(チェウォンヨン)伍長(有期刑)である。のこる一四六人のうち、中国大陸で通訳として徴用されていた一六人(死刑八人、有期刑八人)と朝鮮龍山警察署の宋甲進(ソンガプシン)巡査部長を除くと、のこる一二九人全員が、俘虜収容所の監視員として集められた軍属である。軍属傭人―二等兵以下、時には軍馬、軍犬にも劣ると侮られたこの人たちが、なぜ戦犯になったのか。しかも、監視員として集められた朝鮮人青年は三二二四人、そのうち南方に送られたのは三〇一六人である。その中から一二九人が戦犯となっている。一〇〇人に四・三人の割合である。元憲兵のあつまりである全国憲友会がつくった『日本憲兵正史』という部厚い本がある。この資料によると、憲兵で戦犯になった人は一五三四人、敗戦時の憲兵総数は三万六〇三七人だった。憲兵の戦犯比率は四・三%。日本がかつて占領したアジアで人々に「ケンペイ」と恐れられ、今も、その言葉が残っている憲兵と、朝鮮人の監視員は、同じ割合で戦犯を出したことになる。」(p.iv)
- 「「戦陣訓」をたたきこんだ日本軍のなかでは、「生きて虜囚の辱を受けることは最大の恥辱と教えられていた。しかし、連合国軍では、敵の手におちた俘虜は、全力を尽して闘った名誉ある存在だった。この考え方の相違が、俘虜を管理する現場では大きな摩擦を生むことになった。俘虜を軽蔑する日本軍の将兵、俘虜になっても堂々と胸を張る連合国軍将兵、収容所ではこの違った価値観をもつ将兵が、対峙していたことになる。しかも、権力は日本軍の手にある。力で日本軍のやり方を強要していく。その最大のものは「ジュネーブ条~」を無視し、泰緬鉄道の建設や飛行場の設営に俘虜を使役したことである。戦争中に米英の二七%が死亡したことが、極東国際軍事裁判(東京裁判と略)の判決でも言及されている。」(p.vi)
- 「一九六〇年代後半、日本に在住する朝鮮人女性の聞き書きのグループに参加していた私は、彼女たちの話のなかから、加害者である私たちに見えなかった日本の歴史と現実を教えられた。過去そして現在もなお日常的な差別の現実のなかに生きている彼女たちのしたたかな生きざまに触れ、穏やかなそして時には激しい語りを聞くなかで、加害の側に身をおく自分自身の生き方を問いはじめていた。植民地支配、関東大震災時の朝鮮人虐殺、強制連行、在日朝鮮人への根深い差別、こうした重い事実をつきつけられた私は、戦争犯罪人とされた人たちの話を聞く心の準備ができていなかった。日本の戦争に加担させられ、さらにその戦争中の責任まで問われた人たちである。会うまえにやらなければならないことがある。それは、日本が過去そして現在、朝鮮に、そして在日朝鮮人に何をしてきたのか、それを具体的に知ること、そして在日朝鮮人に対して幾重にも差別の厚い壁をめぐらしている日本社会の状況を少でも変える努力をしていくことから始めなければならないと思った。同時に、朝鮮人戦犯に関して活字になっているものを探しはじめた。しかし、資料はきわめて限られていた。先述の洪思翊中将については例外として、階級の下の人たちについては、彼らの遺言や手記のなかから断片的な状況をつかむ以外に方法はなかった。日本人戦犯の書いた手記に、朝鮮人が登場することはほとんどなかった。戦後、米軍管理のスガモプリズンに収容されていた人ですら、朝鮮人戦犯の存在を知らない人もいた。」(p.vii-viii)
- 「証言や手記に登場する朝鮮人像は、「虐待する朝鮮人」である。もちろん、日本兵が残虐だったことも描かれているが、朝鮮人に対する彼らの感情が、時には日本人に対する以上に悪いことも見逃すことはできない。「市民生活に於てまた軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。」丸山眞男は、中国やフィリピンでの日本軍の暴虐な振舞いが、一般兵隊によって行なわれた事実をこう受けとめていた(『現代政治の思想と行動』)。植民地朝鮮から徴用された軍属もまた、圧迫を移醸すべき場をもたなかった人々だったかもしれない。」(p.ix)
- 「BC級戦犯裁判――それは世上よくいわれるように、勝者の敗者に対する一方的な報復裁判だったのだろうか。たとえ、そうした側面をもっていたとしても、連合国の俘虜の四人に一人が死亡し、一八〇〇万人とも言われるアジアの民衆を殺した日本の戦争犯罪の責任は消えるはずもない。にもかかわらずその戦争犯罪を裁いた法廷では、朝鮮・台湾に対する植民地支配だけでなく、かつて日本が占領した地域の民衆が被った被害が十分にはとりあげられなかった。中華民国、中華人民共和国は裁判を行なったが、フィリピンを除くアジアの国が参加していないことの意味がもっと論議されてしかるべきだろう。オランダのように、インドネシアの独立を否認して、武力による再侵略のなかで戦争裁判を実施した国もある。また、BC級戦犯裁判は、日本の植民地だった朝鮮・台湾出身の将兵や軍属たちを、「日本人」として戴いたことも大きな問題だった。「朕」の戦争責任が不問に付されたことと、旧植民地の人々に戦争責任が科せられたことは、共に戦争犯罪裁判のあり方に大きな疑問を残している。あの裁判で裁かれた戦争犯罪とは何だったのだろうか。戦後、私たちは自らの手で、どこまで戦争指導者を裁き、それに加担した自分たちを問い直してきたのだろうか。朝鮮人戦犯の戦後の孤独な闘いは、戦争責任に無関心な日本人への告発でもあった。朝鮮人がなぜ戦犯になったのか、その事実関係を明らかにしたいと思い本書を書いた。」(p.xii)
- 「大体、俘虜という言葉自体、あまり耳慣れない言葉だが、実態はともかく、俘虜は「帝国の権内に入りたる敵国交戦者及条約又は慣例によって俘虜の取扱を受くべき者」をさしている。日本は、条約にのっとって俘虜を管理するために、一九四一(昭一六)年一二月二七日に陸軍省に俘虜情報局を設けている。そこには、マレーやシンガポールやジャワで降伏して、日本軍の俘虜となったイギリス、オランダ、オーストラリア人などの銘々票が管理されている。」(p.3)
- 「「俘虜にされるということに対する日本人の考えは、欧米におけるのと異っています。日本においては、それは恥辱だと考えられています。日本の刑法では、未だ抵抗に伴崖になった者は誰でも刑事上の卵を犯したことになるのでありまして、それに対する最高刑は死刑であります。欧米においてはそうではありません。俘虜にされた者はその任務を遂行せる故を以て名誉になるのですが、日本では大変な違いです。」(『速記録』一四七号)」(p.102,103)
- 「翌一九四二年一月三日には、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドもまた、同じような意向を伝えてきた。これらの照会に対して、四二年一月二九日、東郷外務大臣は、陸軍省の同意を得て次のように回答している。「日本帝国政府は俘虜の待遇に関する千九百二十九年の国際条約を批准せず、従っ何等同条約の拘束を受けざる次第なるも日本の権内にある『アメリカ』人たる俘虜に対しては、同条約の規則を準用すべし」(『俘虜ニ関スル法規類集』)一九二九年の条約を批准はしないが、準用するというのである。イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドにも、同じ趣旨の回答がなされている。日本が「準用」を約束したこの一九二九年の条約とは、どのようなものなのか。「博愛の心をもって取扱うべし」一九二九(昭四年七月二七日、日本は、「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」に署名した。この条約は九七条から成り、俘虜の取扱いに関して細部にわたって規定されている。俘虜取扱いの基本精神は、「俘虜は常に博愛の心をもって取扱われるべし、かつ暴行、侮辱および公衆の好奇心に対して特に保護せらるべし、俘虜に対する報復手段は禁止す」(第二条)とあり、「人格および名誉を尊重せらるべき権利を有す」(第三条)と、述べられて捕虜になるなら自決せよとの日本とは雲泥の差である。」(p.104,105)
- 「日本国との平和条約「第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は各事件について刑を科した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者についてはこの権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することが出来ない。」この条文によると、「日本国で拘禁されている日本国民」に、刑を執行するとなっている。敗戦後からこの時まで、朝鮮人戦犯は「日本国民」として刑の執行を受けてきた。はたして、第十一条に規定する「日本国民」のなかに、朝鮮人・台湾人が含まれるのか否か、微妙な問題であった。しかし、この草案作成の過程で、朝鮮人戦犯の問題が論議された形跡は見られない。李さんたちの問題は宙に浮いたまま、草案が作成されていった。」(p.237)
(2025.10.16)
- 「おはなしチャイルド 第20号 ハンメルンのふえふき ドイツのむかしばなし」伊藤悌夫絵 チャイルド本社(昭和51年10月25日印刷/昭和51年11月1日発行)
両親の家を片付けていて、東京池袋教会付属すみれ幼稚園時代の本がとってあった。話は何回か読んだことがあった。お話の最後は次のようになっている。「コッペンベルグの やまの なかへ きえていった こどもたちは、それから どうなったか それは だれにも わかりません。むかしむかしードイツのハンメルンというまちに おこった これは ほんとうの おはなしです。」最後の頁には「ハンメルンの まちから とおく はなれた トランスシルバニアという ところに、ふしぎな はなしが つたわって います。その まちの ひとたちは、ずっと ずっと むかし、まっくらな じめんの そこを くぐって、はるか とおい くにから やっってきたと いうのです。」また、その前の頁に、出版社によると思われる「“ハンメルンの笛吹”について」という文章が含まれている。それを記す。「■このお話は、もともとグリム兄弟の伝説集に納められたのが最初で、後にイギリスの詩人ブラウニングが少年少女のための物語詩にしたり、ラングが『世界童話集』に入れたことで世界中に広められました。私達が子どもの頃読んだのはどれであったのか、このお話のなかに、幻想的なメルヘンとは違った何かしら不気味なものを感じた記憶を、みなおもちではないでしょうか。13世紀にドイツのハンメルンという町で実際に起きた、笛吹き男と130人の子どもの失踪事件が伝説化したことを知れば、まったくのフィクションとは考えられない迫力と伝説のもつ不可思議な魅力もうなずけます。■この奇蹟ともいえる失踪事件のあらましは、中世資料にも歴史的な事実として記録されていますし、またハンメルン最古の教会のガラス絵にも描かれていたそうです。こうした記録がひとつの事実を伝えている反面、どうして子ども達がいなくなったのかということ、子どもたちは果たしてどこへいってしまったのか、このふたつの問題に関しては謎のままなのが興味深く思われます。その謎の部分が、想像性豊かな詩人たちの手で幻想的な物語に書きかえられていき、事実と想像がおりなすもうひとつの世界が、私達の感動を呼ぶのではないでしょうか。■絵本化にあたっては、ブラウニングの詩『ハンメルンの笛吹き』(訳/野上彰)を中心にしましたが、伊藤先生の絵本画の魅力はむろん、一枚一枚のタブローとしての真の絵画の味わいを活かすために、その他数篇のお話をもとに多少のアレンジをしました。また内容面からも、おもしろいと思われる部分を挿入するなどの構成方法を取りました。このお話の真の魅力をそこなわないようにこころがけたつもりです。■伊藤先生が本格的な油絵で取り組んでくださったことは何よりでした。一画面ごとに先生の絵が語りかけてくれるものは、幼児にわかるかわからないという問題をこえた、絵画のもつ本当の感銘ではないでしょうか。じっくり味あわせてください。■さて、このお話を読んだあと、幼児はどんなことを考えるでしょうか。謎を秘めた笛吹き男のこと、不思議な笛のこと、幼児の想像力は大きな羽を広げることでしょう。伊藤先生との話し合いでも、この笛吹き男の風貌が一番話題となりました。その結果生まれたのがご覧の通りの笛吹きです。幼児はこの姿から笛吹き男の正体を、いったいどんなふうに想像するのでしょうか。また、お話の結末も、ここではブラウニングの詩に従いましたが、幼児はここに止まらず、この先をさまざまに思い浮かべるでしょう。ひとりひとりの意見を大切にしながら、ゆっくり話し合ってみてはいかがでしょうか。なお、この物語は、いろいろな題名がつけられていますが、ここでは前述の野上彰訳のものに依りました。」
(2025.10.25)
- 「AI共創シリーズ Easy Prompts for ChatGPT かんたん プロンプト ChatGPT を便利ツールから共創パートナーに変える技術」AI共創イノベーション主宰 佐藤源彦著 芸術新聞社(ISBN978-4-87586-732-6, 2025.7.30 初版第1刷発行)
出版社情報・目次。最後の頁に YouTube AI共創イノベーションへのリンクが有り、また、購読者特典 ウェブサイトの案内があり、パスワードで様々な情報にアクセスできるようになっている。生成AI について、和書を読むのはこれがはじめてである。最後に特別付録として「プロンプト集」がついており、日本語での講演を準備していることもあり、図書館で借りて読んだ。通常、Prompt Engineering と呼ばれる、プロンプトの書き方についての基本編、設計編、実践編と三部にわけて解説している。対応する英語も知りたいと思ったが、それは、経験しながら確かめていくのが良いのだろう。三段落程度に分けて指示すること、分岐は5つぐらいが適切、深さは3段階ぐらいが適切など、実用的なアドバイスも多い。ただ理論やChatGPTでしていることまで掘り下げて解説されているわけではないので、実際には、自分で慣れていかなければいけないように思う。Best practices for prompt engineering with the OpenAI APIからの引用などもあり、YouTube などの解説では、十分、背後にあるAIの原理を理解できていないと思われるものが多いが、本書は、それなりに理解されているように見える。ただ、日本語と英語の対応は気になる。本当に、このように日本語でも正確な動作が得られるのであろうか。Open AI の Help は日本語でも公開されているので、丁寧に読んでみたい。
(2025.10.27)
- 「六つの童話選」アンデルセン著 大畑末吉訳 挿絵:オリジナル・イラストレーション Hans Reitzel 出版 ウィルヘルム・ピーターセン 挿し絵 Hans Christian Andersen: Six Fairy Tales, Translated into Japanese by Suekichi Ohata(ISBN978-4-400-11908-1, 2022.3.25 第一版第一刷発行)
Amazon 情報・目次。本書も両親の家を片付けていて見つけた本である。マッチ売の少女(The Little Match-Seller)、皇帝の新しい着物(The Emperor's New Clothes)、おやゆび姫(Thumbelina)、モミの木(The Fir Tree)、空とぶトランク(The Flying Trunk)、とうさんのすることはいつもよし(Dad's Always Right)の六つの童話が含まれている。マッチ売の少女と、皇帝の新しい着物(はだかの王様)は、ほぼわたしが知っている物語だったが、他は、はじめて読むものだった。童話とは、子供向けということだろうが、こどもは、どのように受け取るのだろうか。どれも、おとな向けの物語のようにみえる。以下は備忘録。
- 「『おばあさん!』と、少女はさけびました。『わたしをつれてってちょうだい!だって、わたし、知ってるわ。おばあさんは、マッチが消えると、いってしまうんでしょう。ちょうど、あのあたたかいストーヴや、おいしそうな焼いたガチョウや、あの大きくて、すてきなクリスマスツリーのように!』ーーそして、少女は大いそぎで、たばの中の、のこりのマッチをぜんぶこすりました。こうして、おばあさんをしっかりとひきとめておこうと思ったのです。マッチはとてもあかるく輝いて、あたりはま昼よりも、もっとあかるくなりました。おばあさんは小さい少女を腕にだきあげました。こうして、ふたりは光とよろこびとにつつまれて、高く高くのぼっていきました。そこにはもう、寒いことも、おなかのすくことも、こわいこともありません。ーーふたりは神さまのみもとに、召されたのです。けれども、家のわきのすみっこには、寒い朝、小さい少女が赤いほうをして、口もとには、ほほえみさえ浮かべてーー死んでうずくまっていました。ふるい年のさいごの晩に、こごえ死んだのです。あたらしい年の朝が、小さいなきがらの上にのぼってきました。そのなきがらはマッチをもったまま、うずくまっていました。そのうちのひとたばは、ほとんど燃えきっていました。この子は、あたたまろうとしたんだね、と人々はいいました。だれも、この少女が、どのような美しいものを見たか、また、どのように光につつまれて、おばあさんといっしょに、新しい年のよろこびをお祝いしにいったか、それを知っている人はいませんでした。」(p.5-6)
- 「だれひとり、なにも見えないなどと、ひとに気づかれたくありませんでした。さもないと、その人は、じぶんの役目に向いていないか、または、おろか者だということになりますから。皇帝の数多い着物のうちで、これほど評判のよいものはありませんでした。『だけど、なんにも着てやしないじゃないの。』と、そのとき、ひとりのこどもがいいました。『これは、これは!罪のない子どものいうことだよ。』と、その父親がいいました。それでも子どものいったことばが、それからそれへとひそかに伝わっていきました。『なんにも着ていらっしゃらないんだ。小さな子どもがなんにも着ていないっていっているよ。』『なんにも着ていらっしゃらないんだ。』とうとうしまいに、みんながこうさけびました。そのさけびは、皇帝の心の中にもしのびこんできました。なぜなら、みんなのいうほうがほんとうのように思われたからです。けれども、『行列は、やめるわけにはいかない』と考えなおされました。そして、いっそう、威厳をはりました。そして、侍従たちは、ありもしない着物のもすそをささげてすすみましたとさ。」(p.14-15)
- 「『さようなら! さようなら!』と、小さいツバメはいいました。そして、あたたかい国をふたたび飛びたって、遠い道をはるばるデンマークにかえってきました。その国の、とあるうちの窓の上に、ツバメは小さい巣をもっていたのです。そこには、話をするおじさんが住んでいました。そのおじさんに、ツバメは『ピーチク、ピーチク!』とうたってあげました。そこから、わたしたちは、このお話をのこらずきかせてもらったのです。」(p.36-37)
- 「モミの木は、花園の中の美しい花や、すがすがしい景色をながめました。それからじぶんのすがたをながめました。そして、いっそのこと屋根裏べやのうすぐらいすみっこにいればよかったなあ、と思いました。そして、森の中で暮らした元気のいい少年時代のことや、たのしいクリスマス前夜のことや、ずんぐりむっくりさんの話をおもしろがってきいてくれた小さなハツカネズミたちのことを思い出していました。『おしまいだ! おしまいだ。』と、あわれなモミの木はいいました。『できるときに、たのしんでおけばよかった! おしまいだ! おしまいだ!』」(p.53-54)
- 「そこで、むすこは、トランクの中でやすもうと思って、森へかえってきました。ーーおや! トランクがありません。燃えてしまっていました。花火の火の粉が一つ、のこっていて、それから火がついて、トランクは灰になってしまったのです。もう飛ぶことはできません。もう、花よめさんのところへいくこともできません。花よめさんは、一日じゅう屋根の上に出て待っていました。いまだに、まだ待っているのです。いっぽう、商人のむすこは世界じゅうをまわって、お話しをして歩いています。けれどもそのお話は、もう、あのマッチの棒のお話ほどおもしろくはありませんよ。」(p.66-67)
- 「『こいつはゆかいだ!』と、イギリス人はいいました。『いつも下り坂なのに、いつもほがらかときてる。これはたしかにお金の値うちがありますよ。』こういって、せっかんではなくてせっぷんをもらったお百姓さんに、一スギプンの金貨をはらいました。まったくの話、おかみさんが、うちのとうさんほど賢い人はいない、とうさんのすることはいつもよし、と信じて、まあ、そういっているならば、たしかにその報いはあるものです。さあ、これがそのお話です。わたしはこのお話を小さい時にききました。あなたも、今このお話をおききになって、おわかりになったでしょう。ーーとうさんのすることは、いつもよし!」(p.77)
(2025.10.28)
- 「希望の旅 大宮溥・チエ子説教集」教文館(ISBN4-7642-6532-X, 1997.2.10 初版発行)
出版社情報・目次。お二人は、阿佐ヶ谷教会名誉牧師、大宮溥さんは、敬和学園の6代目理事長を2011年から2015年まで努めておられることもあり、チエ子さんの葬儀の連絡が来て、阿佐ヶ谷教会で、(ご自由にお持ちくださいということで)この本を頂いた。前半は、27の大宮溥さんの教会暦に合わせた説教を書き起こしたもの、後半は、5つ、大宮チエ子さんの説教が含まれている。こちらは、本人の原稿とのことである。それぞれに特色があるが、大宮溥さんのものは、学識も高く、特に立派なものだと感じた。以下は備忘録。
- 「このアブラハムがイサクを献げたという物語を読みますと、恐らく阿佐ヶ谷教会の多くの方々は、桜井信行さんのことを思い起こされることと思います。太平洋戦争直後に単身帰国されていた桜井さんが、旧満州に家族を残したまま敗戦を迎え、心裂かれる思いで一九四五年(昭和二〇年)一一月に阿佐ヶ谷教会の礼拝に出席されました。そこで大村勇牧師が「信仰試練の秋」と題してこの箇所で説教をされたわけであります。桜井さんの当時の日記に「その中で特に次のような言葉が僕を打った。すなわちわれわれは、神の恩寵の賜物を愛する。しかしその賜物よりも一層、その賜物を与え給う者、神を愛さねばならぬ自分は最愛の母と妻と子とを満州に残して来て未だ消息が知れない。これは確かに信仰の試練であるに違いない。自分はこのことを通じて、賜物としての父母妻子よりも、その与え主なる神を愛さねばならぬことをはっきり教えられた」と書かれています。この経験を私どもも折々、桜井さんから伺った記憶があります。この信仰に立って神に自分を委ねて歩み始めた時に、桜井さんはご家族と再会されることができました。その感謝の中で桜井さんは「敗戦に伴うきびしい試練は、私にとっては長いようで短かったこの一年で解決された。しかし民族の試練はまだまだこれからである。今なお苦難と試練の中に呻吟している人々が沢山ある。自分一個の問題が解決されればそれでよいのではない。民族の痛みも己が痛みとして悩み苦しむことを、神より賜わらなければ「ならない」と書いておられます。肉身との別離という痛みの中で、神様がそのように尊い自分の心の慕う者を返してくださった、と思った時に改めてこの恵みを与えてくださった神を愛さねばならない、ということに思い至らされた。その信仰が戦後の桜井さんの、労働問題であるとか経営問題であるとかいろいろのことを通じて、あるいはキリスト者としての在り方を通じて、愛する神様の御心に生きなければならぬという働きとなりました。こういう信仰がアブラハムの信仰であったと言えるでありましょう。こういう信仰によって、人は神と共に歩む者となる。このことをアブラハムの物語は教えているのであります。」(p.27-28)
- 「ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て、宇宙に引力が働いているということを悟りました。りんごが引力の世界に彼を招いたわけであります。エレミヤはアーモンドの花を見た時に、神様が目覚めておられるという、神の世界に目を開かれました。そしてそういう新しい世界を知った者は、それを忘れたり無視したりして、放置することはできないのであります。呼びかけに答える歩みのスタートがなされているわけであります。りんごの木は毎年実をつけ、実を落としますけれども、ニュートンが気づくまで、引力の世界は誰にも気づかれませんでした。アナトトのアーモンドの花も村人たちは同じように見たでありましょうが、その花が語りかけている、神様は目を覚ましていらっしゃるのだという事実に気づいたのはエレミヤ一人でありました。イエス・キリストは、人が気づくのを待っておられるのではなくて、ガリラヤの湖のほとりを歩いて、ペトロのところに出かけていって「わたしについて来なさい」と声をかけ、招かれる。そういう召しをわれわれも受けています。私たちの自分の生活の場にイエス・キリストが近づいて来られて、「わたしについて来なさい」と語られるのです。」(p.64-65)
- 「この四月の終わりは、私の娘が天に召された時であります。私は、昨年三月末から七月いっぱい入院生活を送りましたが、自分が手術を受けた折に、ふと、昔私の娘が、ちょうど同じ時期に、何か月か病床生活を過ごしたことを、改めて思い起こしました。毎日毎日、夜九時から朝の六時まで、一人寂しく長い夜を過ごしたということを思ったのであります。それと同時に、あの経験をもう一度自分で受け止め直して、あれは、親にとっても厳しい毎日だったということが甦ってきました。子供の死が宣告されることは、自分自身の死が突きつけられるような深刻な経験であります。「エトルリアの海賊」という話があります。地中海のエトルリア出身の海賊が、船を襲って分捕ると、生け捕りにした捕虜を、船の争奪戦のとき死んだ仲間の男の死体と向かい合わせに縄で縛り上げ、お前もやがてこうなるのだという見せしめにしたという、まことにひどい話であります。おそらく、仲間の死体を抱かされて、その冷たさが伝わってくる不気味さは、耐えられないものであったでしょう。死と向き合っているという冷たい経験であります。自分の死についてもそうでありましょうが、家族の死を覚悟して生きるというのも、そのようなものであります。体内から血が流れ出すように力が抜けてゆき、死の冷たさに体温が奪われるような向き合った格好で、ただただ神様にしがみついている。そういう経験をいたします。そうした経験の中で、「神様にしがみついて」試みの時を過ごすのでありますが、娘が天に召され「子供を助けてください」という、私の祈りが聞かれないままに終わった時、私はふと、朝に夕に祈り続けて、神様に堅く結び合わせていただいている自分に気づきました。神様と共に生かしていただいたという経験であります。つかまりどころのない奈落の底に落ちるような形で、「主よ、主よ」と主を呼んでしがみついていた自分。ふと、気がついてみると、イエス・キリストが、冷たい現実の中で、自分を抱え込んでいてくださり、温めてくださっている。自分が一人で生きているのではなくて、「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラニ・二〇)という事実の発見をしたのであります。」(p.130-131)
- 「しかし、人間が自分自身になるためには自由を経験しなくてはなりません。親にコントロールされて型にはまった人間になるという状態では、結局自分は親の操り人形であって、弱い時には自分を守ってくれるのではあるが、自分自身に成人としての自覚が与えられた時には、コントロールによって動く人間ではなく、自分を自分で律する、自律的な歩みを始めないではおられない。そのような自由を神様は人間にお与えになっています。放蕩息子の場合でも、父親が息子の言いなりになったばっかりに、結果的には息子の人生を駄目にした一面があるけれども、それほどまでに神は人間を信頼し、自分自身の意志と行動において真実をわきまえ、神の御心に生きることを期待しておられるという姿が強調されているのであります。」(p.192-193)
- 「東京駅の丸の内側を出たところに、「アガペー(愛)」の像があります。戦争犯罪人として裁判を受けて処刑された人たちの遺族が、彼らの書き残したものを集めて「世紀の遺書』という書物を出版しました。非常な反響を呼んだのですが、その印税で遺族たちは、日本の玄関とも言うべき東京駅前に、自分たちの肉親の死を無にしないための記念碑を残そうとしました。しかし戦争が終わったばかりで、軍人とか遺族とかいう言葉を刻むことは許されない。それで結局、青年が両手を広げて立っている銅像をつくり、その下の台の石にギリシア語と日本語で「アガペー、愛」という字だけを刻んだのであります。ですから、その前を通る人は、その像がどうしてそこに立てられているのか、だれがつくったのかは知りません。しかし、その像は、新しい日本の行方、その基礎は「愛」、新約聖書が語るアガペーであると、語りかけています。多くの人を戦争で失い、その戦争責任を問われて命を絶った人々の、その命を無駄にしない新しい道は「愛」なのだ。こう語りかけているのであります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い」という描写によって、われわれの前に、このような人物像、一人の人格が浮かび上がってくるのであります。」(p.204-205)
- 「このたとえは、実は途方もないたとえであります。一人の王が、自分に一万タラントンの負債がある家来に対して、それを全額免除したという話でありますが、タラントンは六千デナリオンに相当し、デナリオンが当時の成人労働者一日分の賃金ですから、一万タラントンは、多くの人間が何代もかかって、それでも払えるか払えないかという金額であります。当時、ユダヤ全国からローマ帝国に支払われた税金の総額が八百タラントン、ヘロデ大王の年収が九百タラントンというのですから、一万タラントンというのは、実に天文学的な数字であります。そんな借金というのも、ちょっと考えられない話でありますけれど、それを帳消しにするというのも、普通の世の中ではあり得ない話であります。」(p.207-208)
- 「一〇月第一日曜日を世界聖餐日(WorldCommunionSunday)と定めましたのは、一九三六年の米国長老教会だったということです。そして一九四〇年には、米国キリスト教同盟協議会という諸教派の連合団体において共通に採用されるようになりました。それ以来、特に日本では一九四五年の終戦以来、日本基督教団において世界聖餐日を覚えて諸教会が共に聖餐にあずかる、こういうふうに定めたのであります。この世界聖餐日が定められました一九三六年は昭和で言うと一一年でありますし、一九四〇年は昭和一五年にあたり、太平洋戦争が火を噴こうとしていたころであります。国と国とが互いに憎み、ドイツや日本が侵略戦争を始めようとしていた時期であります。その時にキリスト教会が、国を超え、民族を超えて一つであるということをしっかりと心に刻もうと考えたことは大きな意味があると思います。私どもが互いに国境、民族の境というものによって隔たれて、それがますます激しくなろうとしている時に、本来私どもは一つなんだということを心に留めて、和解と平和の共同体を築いてゆこうという意図が働いていたからであります。」(p.277-278)
- 「明治にキリスト教が日本に入り、主日礼拝という、七日に一度教会に集う生活が伝えられた時、これほど頻繁に宗教行事を行うことが可能だろうか、とあやぶむ人がいたと言います。日本人は、人間関係には敏感であるけれど、神との関係を正すことにおいて弱いのではないかとも言われます。ある宣教師が日本に来て町を歩いていると、モーニング・サービスという言葉に出会った。あちこちモーニング・サービスという掲示がでていて、日本は少数のクリスチャンだと思っていたけれども、こんなに多くの礼拝が捧げられているのか、と驚いた。しかし、モーニング・サービスというのは、朝のコーヒーのサービスだった、という話があります。私どもがサービスという言葉を使う際に、人間関係のサービスということに囚われる反面、神に向かって礼拝を捧げる、神と共に生きるという経験に乏しいということを示しているのではないかと思います。それに対して旧約聖書の十戒に、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出二〇・八一一〇)と語られています。十戒というのは、命令というよりも、むしろ神の恵みによって、人間はこうせざるを得ないという、現実の姿を示すものだと言われます。だから、この言葉は、神の民が「安息日を心に留め、これを聖別する」という、生活の中に根を下ろした現実を告げているのであります。イスラエルの人々は、この掟に基づいて、安息日を礼拝の日としました。旧約においては一週の終わりの日、土曜日が安息日でありましたけれども、キリスト教会は主イエス・キリストが復活された日曜日を、安息日、礼拝の日としてきました。」(p.290-291)
(2025.11.14)
- 「戦後六十年【私たちの経験したこと そして、今、思うこと】」交わりの会だより 百号記念特集 復刻版:2011年8月発行 東京池袋教会
わたしの母教会のもので、母の遺品を整理していて、みつけ、殆ど全員を知っていることもあり、読んだ。わたしは、大学院に行くときにこの教会を離れたが、このような話はおひとりお一人から聞いたことはなかった。よい、記録だと思う。一人の視点ではあるが、それをあとから、見直している記述もあった。目次だけ記す。十五歳の八月十五日(工藤玲子)・我、谷の底をあゆんだが(林衛)・父を憶う(鈴木和子)・戦時下のクリスチャン(中野博能)・戦争中の思い出(上村巳代子)・敗戦日誌(高橋百合子)・学童集団疎開の始末記(藤原位憲)・戦争中の思い出二つ(武田清子)・広島回顧(石川昌次)・「無言館」への旅(藤原秀)・疎開地・松代のこと(益田公子)
(2025.11.14)
- 「養育家庭(里親)体験発表会(令和6年度)」東京都福祉局子供・子育て支援部(令和7年(2025年)9月発行)
[PDF版] 児童養護施設に関わっていることもあり、里親に関心があり、事情が許せば里親にもなりたかったと思っていたが、おそらく、もうそれは、できない。しかし、何らかの形で、様々な事情で親と暮らすことのできない子供(都内に4000人)と関わることができればと願っている。図書館で、その案内があったので、二冊冊子をもらって来た。その一冊がこれである。光ケーブルが鼠に齧られて不通となっていたときに、コンピュータを使った作業ができなかったので、一気に読んだ。たくさんの苦労もあるが、感動の体験記である。リンクをつけた PDFから読めるが、巻末には、Q&A アンケート結果がついている。14人の体験記がのっており、その中には、里子一人と、委託児童一人の体験記も掲載されている。預かった時が0歳だと思って、すこしずつ関係を気づいていくというのは、こころに残った。日本では、なかなか広がらない、里親・里子制度、海外では、友人もふくめて、普通にたくさんいたので、この制度が、広がりを持っていくことを願う。
(2025.11.14)
- 「養育家庭(里親)体験発表会(令和2年度)」東京都福祉局子供・子育て支援部(令和3年(2021年)9月発行)
[PDF版] 令和6年度版と、令和2年度版のみ、図書館にあったので、印刷媒体のものを手にした。他に、2014年からの体験発表会記録がある。[リンク]。東京都の里親制度全体については [リンク] を参照。令和2年度版は、最初に里子養育体験記〜太郎君と私の家族のお話〜という漫画(作:奥山一郎、イラスト:AiLeeN)がついていた。漫画をふくめて、全部で13件、元里子が2,それ以外に、里親の実子が1あった。わたしは、特に、里子のものを読んで、目頭が熱くなってしまった。より多くのひとたちに関わっていただきたいと思う。
(2025.11.16)
- 「自由(上)FREIHEIT」アンゲラ・メルケル Angela Merkel著 長谷川圭・柴田さとみ訳 KADOKAWA(ISBN978-4-04-113632-4, 2025.5.28 初版発行)
出版社情報・目次。人気の本で、だいぶん待ってから、図書館で借りた。下巻は、上巻を借りてから、予約したので、しばらくは読めないだろう。読みやすいとは言えないし、もうすこし、注などでの、説明があったほうが良いとは思ったが、生き生きとアンゲラ自身が正直に、反省の部分も多く、そして、強く自分を表現する部分も書かれており、日本の政治家にもぜひ読んでもらいたいと思った。CDU(ドイツキリスト教民主同盟)とキリスト教という名が入っているのも、日本では馴染みあ薄いだろうが、リーダーに神学者や、科学者が多いのには驚かされる。日本で、一番政治から遠いひとだと感じるからだ。アンゲラは、牧師の娘として生まれ、共産党支配の東ドイツでは、非常に苦しい時代を過ごしている。メルケルは、最初の夫の名で、彼女は最初は、物理でスタートしているが、仕事は、量子化学のようだ。しかし、計算物理のようなことをしているように見える。科学者的な側面と、工学者的な側面と持っているのは、その学問背景にもあるように見える。いずれにしても、統一ドイツに向かう、世界史的にも、非常に特殊なとき、難しいときでもあるが、科学者から、政治家に自然に移行していることは、興味深い。党のためと言うより、すべえてのドイツ人のため、それも、世界の人たちのことを考えながら、日本の政治家とは、だいぶ異なるものを感じた。16年間、ドイツの首相を務めたが、上巻は、ドイツの首相となるまでと、その後のいくつかのエピソードが書かれている。一回では、読みきれないのかも知れない。以下は備忘録。
- 「これは両親の決断だった。入学時に、両親が私にこう言った。『入団するかどうかは、1年生が終わったときに自分で決めなさい。とにかく、入学したばかりの今はだめ。学校は義務で、ピオニール団は義務ではない』。両親は東ドイツにも選択肢があることを私に教えようとしていたのだ。両親は初めから、1年生が終わったら、私がピオニール団に入るかどうかを話し合うと約束した。そのときには私の意見を尊重する、と。私自身、のちになってすべてを理解し、両親の偉大さに気づいたのだが、このやり方を通じて、彼らは一石二鳥を狙っていた。ひとつは、自分で決断することの大切さを教えること。もうひとつは、私に神学以外の分野で大学教育を受ける選択肢を残しておくことだった。牧師の子である私は、基本的に反体制的な両親の子とみなされ、反体制派が普通の大学教育を受けることは不可能だった。例外は、神学大学で神学を学ぶことぐらいだろう。国が組織する青少年団体に加入することなしに、大学入学資格を得て普通の大学で学ぶことは、ほぼ不可能だった。両親は私、そして弟と妹の職業の選択肢を狭める、あるいは小学生のうちに決めてしまうようなことは避けたかったのだ。」(p.34)
- 「正確な数字は覚えていないが、ブルーベリーは1キログラムあたりおそらく4東ドイツマルクか5東ドイツマルクの稼ぎになったため、とても儲かる仕事だった。販売所は私たちから買い取ったブルーベリーを、職員が自分や友人のために確保するか、1東ドイツマルクか2東ドイツマルクで販売するかした。つまり、もし私たちが、自分が売ったブルーベリーが店頭に並ぶまでずっと待ち、自分で買い取り、そしてまた森で摘み取ってきたと言って売り払い、それを繰り返せば、ボロ儲けできたというわけだ。私たちは、そんなことはしなかったが、この単純な例を見るだけでも、東ドイツの経済がいかに合理性に欠けていたかがわかるだろう。」(p.47)
- 「ある日、教会車でふたたびスピード違反を犯した父を、交通警察が呼び出した。しかし、出頭した父の前に座ったのは交通警察官ではなく公安局員で、彼は父に対して、非公式の形で公安局のために働くよう迫った。父の広い人脈を利用しようとしたのだ。父は断った。その際父が用いたのは、とても平凡ながら、効果的な戦略だった。私たちきょうだいも、若いころからその戦略を両親から教わっていた。「もし国家保安省から誘いを受けたら」、両親は言った。『単純に、秘密を守るのが苦手だ、と言いなさい』。国家保安省と密かな活動は切っても切れない関係にあるのだから、この戦略は実際に効果があった。この知恵が、のちに私も救うことになる。
父は文書の複製を続けたが、その配布にはより慎重を期した。両親、特に父は、危険な綱渡りを続けた。それでも私は怖いとは思わなかった。おそらく、父がリスクを冒している事実を忘れようとしていたのだろう。」(p.51)
- 「今振り返ってみると、この出来事でそれほど大きなショックを受けたことが興味深い。私は文字どおり不意を突かれた。もっと用心しておくべきだった。実際、それほど驚くような出来事ではなかったはずなのだ。私たちはいつも誰かに見られている、いつも誰かに聞かれていると、想定していなければならなかった。気を抜いた態度を見せると、国家保安省に通報する者がいることなど、ライプツィヒに来る前から知っていたではないか。テンプリンでの生活でもすでにそうだった。それなのに、この日の出来事が私には大きなショックとなった。今、この文章を書いているあいだも、あの日の恥ずかしさがこみ上げてくる。だが、今ではそこにもうひとつ別の感情が加わった。その感情をどう表現すればいいのか、これだと思える言葉が見つからないのだが、いちばん近いのは、『優越感』だろうか。私が経験したのは、国民を、そして何より自らをけっして信頼できなかった国家が行使する処罰や恫喝の手段だ。狭量さ、偏狭さ、センスのなさ、さらに言えば、ユーモアのなさで、その右に出る者はいない。」(p.70)
- 「私のいた研究所の量子化学研究員はプラハにあるチェコスロバキア科学アカデミーの物理化学・電気化学研究所のJ・ヘイロフスキーと長年にわたり特に密接な協力関係を結んでいた。私も、博士課程期間中に、3か月のプラハ滞在を何度か経験した。プラハでの共同研究の中心人物はルドルフ・ザフラドニク教授という極めて印象的な人物だった。科学者としてはたぐいまれな才能に恵まれていたにもかかわらず、プラハの春に政治的に関与したため、キャリアは行き詰まっていたのだが、国家は少なくとも、アカデミーで研究を続けることだけは認めていた。
ルドルフ・ザフラドニクはゲストたちを頻繁に自宅に招待した。私も、彼と彼の妻メリナと忘れられない夜を過ごした。メリナは政治ジョークが得意な女性だった。ルドルフ・ザフラドニクは、自分のあとに続く世代の自然科学研究者も、社会主義政権下であるにもかかわらず、自分の専門分野だけでなく、芸術や文化に関してもじゅうぶんな教育が受けられるよう望み、その実現のために力を尽くしていた。彼は私の直接の研究パートナーだったズデニェク・ハヴラスを含む研究員に、英語だけでなくドイツ語もマスターするよう求めた。
実在する社会主義社会の展望に対するザフラドニクの見解はとても現実的だった。あるとき、東ベルリンとプラハそしてウィーンを結ぶヴィンドボナ列車に乗って数時間遅れてプラハに到着した私は、列車が遅れたことにとても腹を立てていた。それを見たザフラドニクは、とても落ち着いた様子でこう言った。『何をそんなに怒っているんだい?私たちはみんな、間違いなく失敗に終わる壮大な実験の一部であることは、わかりきったことじゃないか。ほかの連中はまだそれに気づいていないだけさ』。私の母と同い年(1928年生まれ)の、研究者としても人間としても秀でたこの人物が、共産主義の終焉後も2020年に息を引き取るまで30年にわたって研究を続けながら自由な世界で生きることができたことを、私は心からうれしく思う。」(p.103-104)
- 「統一条約交渉が始まったときの様子を、私はけっして忘れないだろう。東ドイツと西ドイツの代表団が旧市庁舎のベーレンザールで顔を合わせた。交渉の始まりには、ロタール・デメジエール首相も駆けつけた。そして、歓迎の挨拶の終わりに、彼は東ドイツ国歌の歌詞を西ドイツ国歌のメロディにのせて歌いはじめた。この国歌のテキストを口にすることは、すでに何年も前から禁止されていた。なぜなら、次の一節が含まれるからだ。『廃墟から立ち上がり、未来に目を向け、ドイツのために、統一された祖国のために奉仕しよう。克服すべき古くからの苦境は、団結して乗り越えよう。太陽がかつてないほど美しくドイツを照らせるように」。その瞬間、西ドイツの代表者たちが文字どおり凍りついた。彼らは固唾をのんだ。まさか、ロタール・デメジエールは西ドイツ国歌の歌詞を変えるつもりなのだろうか?その答えは私にもわからない。だがいずれにせよ、彼はこの例をもってして、東だけがすべてを変えるのではなく、西ドイツもそれまで慣れ親しんできたもののすべてを維持できるわけではないと、はっきりと示したかったのだろう。私は、この考え自体には賛成するが、ほかの出席メンバーと同じで、国歌を用いて表現したのはまずかったと思う。」(p.161)
- 「だが、私は果たしてフェミニストなのだろうか?
以上のようなことすべてが、G20女性サミットの壇上で『あなたはご自分のことをフェミニストだと思いますか?』と質問されたとき、頭のなかを渦巻いていた。私は考えを整理する時間を稼ぐために、少し口ごもった。そして、そうとも言えるし、そうではないとも言える、と話した。それまで私にとても好意的だった観衆がこう叫んだ。『はっきり言ってください!』
『私がフェミニストだと思う人は、挙手してください』。私はホールに向かって大声で返した。
そこでマキシマ王妃が助け船を出した。『フェミニストという概念は、何を意味しているのでしょうか?私は単純に、すべての女性に自由に選ぶ権利があり、手の届く距離にチャンスがあり、平等に扱われていると感じることができ、いつでもそしてどこでも、自分に誇りがもてるようになればいいと願っています。それがフェミニストであるのなら、私もフェミニストなのでしょうが、そのほかの意味なら、わかりません』。とても説得力のある言葉だった。この言葉で、マキシマ王妃は私に橋を架けてくれた。私はそれが『優れた定義』だと言い、賛同すると付け加えて討論会を終えた。聴衆は満足していた。
だが、私にはもどかしさが残った。質問に答えられなかったのは、分類され、どこかの引き出しに入れられることに対する不信感からだろうか?分類されるのは、東ドイツの時代からすでに我慢ならなかった。西においても、つねに抵抗する必要があった。政治に携わる女性であるというだけの理由で、CDUの社会委員会に入るよう勧められた。女性なのだから社会問題に関心があるだろう、という理由だ。東ドイツ出身であるというだけの理由で、非常にうたぐり深い人間に違いないと思われることもあった。国家保安省に監視されながら生きてきたのだから、という理屈だ。そうしたことがずっと続いていたから、自分のことをフェミニストだと思うかという問いかけに対して、はっきりと答えられなかったのかもしれない。だが、それだけが理由ではない。」(p.224-225)
- 「また、1968年も、私にとっては西側の多くの人が捉えるような従来の意味での社会慣習が崩れた年ではなく、ワルシャワ条約機構加盟国軍隊のチェコスロバキア侵攻により、プラハの春が残酷な形で終結した年だ。加えて、1960年代から1970年代にかけてのフェミニズム活動の多くについて、私はけたたましくて下品だと感じている。それが狙いだったのだから当然だ。だが私は、東ドイツで行間を読む能力を身につけていた。真正面からぶつかるやり方にはかかわりたくなかった。私にとって、女性の社会参加を求める闘いは、男性に対抗する戦いではない。政治家になってからも、この考え方は変わらなかった。代わりに私は、フェミニスト女性には男性を信頼することができるのか、男性とともに男性支配の構造を打ち破れるのかと考えた。それに、女性はほかの女性に対して非常に敵対的な態度をとることがある事実を、自分の身をもって体験したこともある。たとえば、私が女性問題担当大臣だったころのある日、閣議がまもなく始まろうとする閣議室で、私の靴のヒールがゆがんでいるのに気づいた女性カメラマンが、臆面もなく床に寝転がったのである。そんな写真を撮って、彼女はどんな女性像を世間に伝えたかったのだろうか?女性の団結など、みじんも感じられなかった。」(p.227)
- 「また、CDUとCSUが家族と職業のあり方に関する決断という文脈で呪文のように繰り返し唱えるいわゆる『選択の自由』という言葉が、実際にはトロイの木馬のようなものだということにも気づいた。女性問題担当大臣だった私はときどき、東西からさまざまな層の女性を招いて懇談会を開いたのだが、その際、東西間に横たわる偏見、自分の生活における成功談、社会からの期待に対処する方法、母親あるいは(幸いなことに、今日ではほとんど想像すらできない属性になった)子を捨てた母親などについて話すたびに、非常に苦しそうな表情に遭遇した。
それを見て、国が枠組みを整えなければ、女性がいつでもどこでも平等を感じられる―そして平等に扱われる社会を築くことはできない、と確信した。もし今、G20女性サミットのような席上で、『あなたはご自身のことをフェミニストだと思いますか』と尋ねられたら、私は迷わずこう答えるだろう。『ええ、私は私なりの形でフェミニストです』」(p.228)
- 「そこで私は改めて、CDUの未来を思い浮かべた。私個人のために、そしてこの国のために、なぜCDUなのか?3週間後、エッセンで私は、自分が思い描いたCDUの未来像を次のように述べた。
『私はグローバル化した世界において社会的市場経済の倫理をさらに発展させるCDUを望んでいます。この新たな条件下においても市場と人間性を融合させることができるCDUを望んでいます。キリスト教的人間理解にもとづき、人間の尊厳を尺度に、テクノロジーがもたらすリスクを評価するCDUを望んでいる。社会保障制度の発展において世代間の平等を実現するCDUを望んでいる。ヨーロッパのために、市民を代表するCDUを望んでいる。個々の市民に自由を与え、市民が力強い国家を必要としているときには、彼らをサポートするCDUを望んでいる。小さなグループを支えるCDUを望んでいる。国家そして故郷への献身、自らのアイデンティティへの責任、それこそがこの世界で己を見つけるための条件なのです。私は、寛容な国家として横柄な態度をとらず、また自らの能力を包み隠すこともないドイツのために活動するCDUを望んでいます。自信をもって議論に参加する党員の意見に耳を貸すCDUを望んでいる。そして討論と議論のあとに明確な決断を下し、多数決の原則を受け入れ、全員でひとつの道を歩むCDUを望んでいるのです』」(p.278-279)
- 「これは攻撃の的となった。政治とは競争だ。すでに述べたように、政策問題とは結局のところほぼいつも権力の問題なのである。外交政策も例外ではない。開戦前の2003年2月13日に連邦首相の政府声明に対する回答として連邦議会で演説した私に、『属国魂』のヤジが飛んできた。私の主張は理解されなかった。一方、有利な立場にあるシュレーダーはこう語った。『我々は、現実政治あるいは安全保障という考え方を重視するあまり、戦争をごく普通の政治手段と、もしくは、ある人の言葉を借りるなら、別の手段を用いた政治の継続とみなすことに慣れてしまってはならないのです』。この言葉で、彼は世論をリードした。これに対し、私はまたもミスを犯してしまった。1週間後、私は『ワシントン・ポスト』紙において『シュレーダーはすべてのドイツ人を代弁しているのではない』の見出しで署名記事を発表した。この記事を通じて私は、ドイツは欧州連合ならびに大西洋横断パートナーシップの枠組みにおいて、たとえ紛争状況にあっても、その実力と影響力を力の誇示のためではなく友好のために使うべきだと主張しようとした。だが、内容はともかく、ドイツ人の政治家が、それも野党の党首として、自国の首長を外国で真正面から批判したのは正しくなかった。政府と野党間の隔たりは、昔も今も変わらず、国外ではなく国内で埋めるべきなのだ。」(p.302)
- 「キルヒホフは、そしてもちろん私も、一般大衆の関心事になど興味がないと、視聴者に印象づけようとしたのだ。そこはまるで、CDU/CSUがすでに統治しているかのような、不思議な世界だった。それでも、私は善戦していたと思う。ある時点でシュレーダーに、当時の妻だったドリス・シュレーダー=ケップフのインタビュー映像に対するコメントが求められるまでは。その映像のなか、彼女は私の経歴を指して、私が多くの女性と同じ経験をしていないと指摘し、普通の女性は家族と仕事の両立を重視していて、出産後に数年にもわたって仕事を離れるべきかどうか悩むものだと述べていた。これについてテレビ討論会で尋ねられたシュレーダ1は、妻はまさに言葉どおりに生きてきたと語り、こう付け加えた。『だからこそ、私は彼女を愛しています』。私は、してやられたと思った。今の言葉で彼は全国の妻だけでなく、夫やほかの人々の心もつかんだ。私は、ここであせってはだめだ、冷静に切り抜けなければ、と考えた。そして実際、冷静さを保つことができた。シュレーダーは私にとどめを刺せなかった。私が脱線したり、大きなミスを犯したりしなかったからだ。それでも、世論調査の結果を見る限り、討論はシュレーダーの勝ちだったようだ。SPDと緑の党の赤緑連立に対するCDU/CSUとFDPのリードは、投票日が近づくにつれて小さくなっていった。女性と東─結局のところ、このふたつのテーマが想像されたよりも重要だったようだ。」(p.308)
- 「私には、自分の人生を大きく変えた1989年の出来事にも、あるいは1949年のドイツ連邦共和国の始まりにも言及することが重要だと思えた。結果、次のような文章が生まれた。『私の人生において最大の驚きは自由でした。私は多くの期待を胸に生きてきましたが、定年退職する前に自由という贈り物が得られるとは予想していませんでした。[...]このドイツ連邦共和国の創設の年に成し遂げられたことが、[...]今の私たちには[]二度と成し遂げられないと考える理由があるでしょうか?この国で何ができるか、みんなを驚かせようではありませんか。[...]前回の大連立における副首相で、のちの連邦首相がかつてこう述べました。もっと民主主義を。このひとことが多くの激しい議論を引き起こしたことは、私も知っています。ですが、彼がその時代の核心を突いたことは間違いありません。個人的な体験から、私にはこう言うことができます。壁の向こうで暮らしていた人々の耳には、彼の言葉がまるで音楽のように聞こえた、と。この言葉を、今日この場で補うことをお許しください。私たちは、もっと自由を求めようではありませんか』。私は余白に大きな感嘆符を描いた。」(p.335)
- 「2006年7月14日、最初の統合問題首脳会議が首相府で開かれ、私が議長を務めた。その後、2回にわたり、そのような会議が繰り返された。第1回会議には、社会のさまざまな分野を代表する3人が集まった。その多くは移民団体の代表者だった。1年以内に、労働市場への、そして労働市場での、教育、言語、資金の統合計画を立てることが目標となった。2007年7月22日の第2回統合問題首脳会議でこの統合計画が可決され、それからの数年で実行に移された。首相府における活動を通じて、私たちはドイツにおける共存に関する議論を変化させ、よりオープンにした。その過程で、私はかつて頻繁に用いられた『多文化』という概念の賛否を論じる感情的な議論は、もはや役に立たないことを学んだ。さまざまな文化や宗教からなり、互いに尊重し合う生活を営むには、移民によって生じる社会の変化を単純に拒絶することも、苦労して解決すべき問題などそもそも存在しないふりをすることも、どちらも役に立たない統合とは、やってくる人々と、もとからいる人々の両方の努力を必要とする。私は当時も今もそう確信している。受け入れる社会がオープンさも、変化する気ももたなければ、統合などありえない。そして変化に前向きになる前提条件は、別の文化に対する最低限の知識、あるいは少なくとも関心だ。何より大切なのは、移民を移民としてひとくくりにするのではなく、個人として見ること。そうしなければ、統合は、つまり生活のあらゆる分野におけるドイツ国民と平等な社会参加は、実現できない。」(p.345)
- 「かつて連邦憲法裁判所で判事をしていたエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデはこう言った。『自由で、世俗化された国家は、自らは保証できない条件の上に成り立っている。これは大きなリスクであるが、自由のためにこのリスクをとるのである』。この考え方に、私は当時も今も納得している。のちにベッケンフェルデの格言と呼ばれることになるこの言葉を、私はこの国のためのそうした条件を維持しつづけよと命ずる警告として受け取った。この警告を胸に、私は連邦首相という役職上こなしつづけなければならない数々の会話、対話、会議、そのほかの任務に挑んだ。」(p.351)
- 「宣誓の最後に、私は『神の助けのあらんことを』の文言を付け足した。宣誓から宗教色を排除することは認められているが、私にとっては言及するのが重要だった。たとえ直接触れたり感じたりすることができなくても、神は存在すると私は信じている。私は完璧ではないし、間違いも犯す。信仰があったからこそ、一時的に与えられた権限を使いながら、尊大になることいしゆくも、逆に自分の力のなさに萎縮することもなく、国民と創造物に対する責任を負うという任務をまっとうし、暮らすことができたのである。今も昔も、私の心にはいつも、預言者エレミヤの声が響いている。『その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから』。公の場で『神の助けのあらんことを』と話したことで、私は困難な決断でも神に守られていると感じることができた。
『今こうして、この本のために振り返ってみると、私が首相だった15年、最初と最後の1日を除いて5860日、日々の混乱とたくさんの出来事にもかかわらず、私の支えとなる何かが存在したことを、本当にうれしく思う』。私はベアーテ・バウマンにそう語り、バルト海沿岸での執筆活動を再開し、次の章へと進んだ。」(p.369)
(2025.12.02)
- 「あなたもクリスチャンに ーもったいない食わず嫌いー」矢澤俊彦著 日本基督教団荘内教会(2025.4.1発行)
日本基督教団荘内教会に11月30日に伺ったときに、三冊いただいた。矢澤牧師は、来年春で退任。出身地の長野に戻られると言う。奥様の献身的な支えによって、すごい数の冊子を出版、送付しておられる。わたしは、基本的に、いただいたものはすべて読んでいる。熱い語り口はいつも通り。これに心動かされるかたがいらっしゃることを祈る。
(2025.12.10)
- 「世界の特殊部隊作戦史 1970-2011 ー Worrior elite, 31 Heoric Special-Ops Missons from the Raid on Son Tay to the Killing of Osama bin Laden」ナイジェル・カウソーン(Nigel Cawthorne)著 角敦子訳、友清仁 用語監修 原書房(ISBN978-4-562-04877-9, 2012.12.16 第一版第一刷発行)
出版社情報。「ヴェトナム戦争から、ビンラディン襲撃まで、精鋭の戦士たちが挑んだ31のミッション。アメリカ、イギリス、イスラエルなど、世界の特殊部隊による活動と作戦をダイジェスト。日本では詳細があまり知られていない2001年以降のアフガニスタン紛争で行なわれたミッションも詳述。」と内容説明にある。ビンラディンの殺害のときに、オバマ大統領やバイデン副大統領がテレビ中継で見ていた映像がテレビに映し出されて、正直ショックだったので、平和について語る時、このような、あまり世に知られない、特殊部隊作戦についてもある程度しらないといけないと思い、手にとった。英語のタイトルにあるように、31のミッションについて書かれている。正直しらないものが多かったが、知っているものもある程度あり、失敗と言ってよいかわからないが、いろいろな犠牲をだして、あまり得るものがないことも多かったことも確認できた。目次は、備忘録としても、書いておきたい。序文
第1章 ソンタイ捕虜収容所への奇襲作戦 ・第2章 海の特殊作戦・第3章 ミュンヘン・オリンピック事件・第4章 マヤグエース号事件・第5章 エンテベ空港奇襲作戦・第6章 「イーグル・クロウ」作戦・第7章 在英イラン大使館占拠事件・第8章 行方不明者(MIA) 救出作戦・第9章 フォークランド紛争・第10章 「アージェント・フュリー」作戦・第11章 アキレラウロ号事件・第12章 「ジャスト・コーズ」作戦・第13章 ソマリア・第14章 砂漠の盾と砂漠の嵐・第15章 ブラックホーク・ダウン・第16章 カライジャンギの戦い・第17章 トラボラの戦い・第18章 アナコンダ作戦・第19章「イラクの自由」作戦・第20章 デベッカ峠の戦い・第21章 トランプの指名手配者・第22章 ジェシカ・リンチの救出・第23章 サダム・フセインの捕縛・第24章 イラクの人質救出作戦・第25章「レッド・ウィング」作戦・第26章 タスクフォース88・第27章 タリバン=アルカイダの幹部狩り・第28章 ソマリア海賊からの救出・第29章 「セレスティアル・バランス(天の配剤)」作戦・第30章 ハイチ地震・第31章 オサマ・ビンラディンの殺害・巻末 索引・用語解説。備忘録:
- 「現代は不正規戦の時代である。訓練不足の徵集兵を並べて大軍が向き合い、あわよくばその場 で雌雄を決そうと総攻撃をかける、といった戦いはもはや見られない。昨今の脅威は大規模な侵 攻軍ではない。比較的小人数で、一途で、 まさに狂信的なテロリスト集団なのである。 この手の 戦闘員にとっては、自分の命も含めて人命などチリほどの価値もない。腰のひけている召集兵の 密集部隊では、立ち向かえるものではない。そこで高度な訓練を受けた戦士の小部隊が必要となる。戦いの精鋭が求められるのだ。」(p.6)
- 「第一特殊作戦部隊分遣隊D (デルタ)も、デルタフォースの名でよく知られている。 一年間S ASに出向した米陸軍のチャールズ・ベックウィズ大佐が、一九七一年に発足させた部隊だ。 イスラエル国防軍の特殊部隊サイェレット・マトカルは、SASのモットー「危険を冒す者が勝利 「する」をそのまま借用している。オーストラリアとニュージーランドにもSASの名を冠した姉 妹部隊はあるが、カナダは独自路線を歩んで特殊部隊を設立した。 ドイツの特殊部隊はGS G-9(国境警備隊第九大隊)、フランスはGIGN (国家憲兵隊対テロ部隊)、ポーランドはGROM (作戦機動偵察グループ)である。イギリスにはほかにも、海兵隊戦闘員の精鋭を集めたSBS(特 殊舟艇部隊)がある。こうした部隊は、合同訓練だけでなく作戦行動も連携して行なうことも珍しくない。この傾向はイラクとアフガニスタンで顕著だった。それ以外の地域でも、このような精鋭部隊はテロとの戦いの最前線にいる。彼らの任務の大部 分は、最高機密区分にある。 極秘作戦の詳細が漏れ伝わるのは、何年も経ってからだろう。特殊 部隊の隊員は勇者の中の勇者だが、英雄的行為が人の目に触れることはめったにない。 彼らの栄 誉は、通常ごく一部の限られた人々の間で称えられている。メディアに登場する際には、偽名が 使われ、写真の顔は黒く塗りつぶされる。それでも、そうした勇敢な行為を私たち全員が認めることに意義があるのだ。 特殊部隊の兵士 は自由の守護者であり、市民がベッドで安らかに眠れるように、みずからの命を賭けて今も危険 と立ち向かっているのである。」(p.8,9)
- 「サイェレット・マトカルはそのちょうど四カ月前に、実力のほどを見せつけていた。一九七二 年五月八日、ウィーンに向かうボーイング七〇七型機が、「黒い九月」の四人にハイジャックさ れた。テルアヴィヴのロッド国際空港(現ベングリオン国際空港)に同機が着陸すると、ハイジャ ック犯はイスラエル刑務所に収監されている三一五人のパレスティナ人テロリストの釈放を要求 し、この要求を受け入れなければ、航空機を九二人の乗客もろとも爆破する、と脅した。 交渉は 不毛に終わった。五月九日一六〇〇時、白いつなぎを着た整備員がハイジャック機に近づいた。 これはサイェレット・マトカルの特殊戦闘員だった。テロリストが警戒していないのを見てとる と、突入チームは航空機になだれこんだ。 突入から一〇分もしないうちに、犯人グループのふた りが死亡し、メンバーの女ふたりの身柄が拘束された。ふたりの女は終身刑に処せられたが、 一 九八二年のレバノン戦争後に捕虜交換で釈放された。三人の乗客が負傷し、そのうちのひとりの女性が亡くなった。 この特殊戦闘員の指揮官エフード・バラクは、後にイスラエルの首相となった人物である。現首相のビンヤミン・ネタニヤフは、その隊員のひとりだった。 強行突入の際に、ネタニヤフはほかの救出チームの隊員から誤射されたが、命は助かった。」(p.41,42)
- 「特殊空挺部隊 (SAS) 第二二連隊指揮官への感謝状
一.この書状は特殊空挺部隊 (SAS) 第二二連隊に対して、公式に賞賛の言葉を送るも のである。SASは「デザート・ストーム」の軍事作戦において、比類なき功績をあげた。
二.戦略的航空戦の開始直後に、多国籍軍の攻撃では、イラクがイスラエルにスカッド・ ミサイルを発射するのを阻止できないことがわかった。
イラクがイスラエルへのミサイル攻撃を継続的に行なえば、政治的に不都合な問題が生じ、あ りていにいえば、細心の注意をもって作りあげられた連合体が、解体の憂き目をみる結果になっ ただろう。 このような崩壊が起こればそのために、軍事行動の最終目的を見定めるのも困難にな ったはずである。多国籍軍がミサイルの発射台を減少させるとしたら、たしかに西の発射台付近 で軍部隊を直接地上に降ろす以外に、手立てはなかった。 その時点で、投入可能な多国籍軍の戦 力のほとんどは、東の戦域で近々に予定されている軍事行動に割り当てられていたのである。そのうえこうした部隊は、このような危険な作戦を遂行するのに必要な能力と技能を身につけ ていなかった。この戦況を左右する任務にふさわしいと思われる戦力は、特殊空挺部隊 (SAS) 第二二連隊以外になかった。
三.任務についた初日からこの紛争が終結した最後の日まで、特殊空挺部隊 (SAS)第 二二連隊は、けっして怯むことなく高度に専門的な仕事をやり遂げた。 SAS隊員が任じられた 地域では、あらゆる情報から推測された数をはるかにしのぐ敵が待ち受けており、地形は予想以上に手強く、気候は季節はずれの厳しいものだった。こうした危難にもかかわらず、特殊空挺部 隊 (SAS) 第二二連隊は、わずかな時間で、イラク軍のミサイル部隊がイラク西部で使用する、 中央の通路を完全に遮断した。その結果、イラクがテルアヴィヴにミサイルを発射するために使 っていた主要な領域が、その後使用できなくなった。 イラクはスカッド・ミサイル発射部隊をイ ラク北西部に移動せざるをえなくなったが、そこからでは、ミサイルを発射しても軍事的な実効性はなかった。
四.北西部のスカッド・ミサイルを封じこめるために、この地域に合衆国の特殊作戦部隊 を導入する必要があった際も、特殊空挺部隊第二二連隊は、米軍の部隊にかけがえのない協力を してくれた。SAS隊員はできうる限りの方法で、米特殊部隊に対する状況説明を徹底させると 同時に、SASがそれまでのイラン西部への配備で得た貴重な教訓を米軍兵士が活かせるように 尽力した。 このように細部にわたる予備知識を米軍部隊がSAS隊員から得ていなかったら、 米 軍部隊の損耗はまちがいなく最終的な総数を大幅に上まわっていたであろう。さらにまたSAS と米軍の統合部隊は、ただちに混合の戦闘部隊にまとまり、精鋭部隊同士の相乗効果で、ついに はイラン西部の敵に、実際に相対している部隊規模を一〇倍以上見誤らせた。その結果、さもな くば東の戦域に配備されていたであろう大規模兵力を、西の戦域に足止めしたのである。
五.「デザート・ストーム」作戦における特殊空挺部隊 (SAS) 第二二連隊の功績は、 プロフェッショナルな軍務の最高峰にある伝統の一部であり、この連隊によってうち立てられて きた誇るべき歴史と伝統を踏襲するものである。この賞賛の言葉がしかるべき注目を浴びて、SASの部隊とその隊員に届けられるよう、ご配 慮をお願いする次第である。H・ノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将・総司令官」(p.157-158)
(2025.12.20)