神へのかけ橋
コリント人への第二の手紙五章
再び愛する新生教会で、皆さんと共に礼拝を守ることのできることをとても嬉しく思います。
一九四八年十二月十九日、一人の日本人女性がサンフランシスコから日本に向かう小さな貨物船に乗っていました。彼女は黒布で包んだものを大事そうに抱えていました。私が彼女とその船で会ったとき、彼女はそれが父親の骨であると説明しました。それは私ども夫婦が最初に日本に赴任する時のことでした。その女性は私に悲しい話を聞かせて下さいました。
彼女のお父さんは若いとき、アメリカに渡り、ケンタッキー州のルイベル市のバプテスト神学校で勉強して、牧師になってカルフォルニア州の日本人教会で働いていました。やがて、日本とアメリカの関係が悪化し、その後起こった太平洋戦争によって、彼女の父親の苦悩は増して来ました。彼は自分の国、日本を愛していましたが、アメリカも同じように愛するようになっていましたので、心痛の余り病気になり、ついにアメリカの地で亡くなりました。死に臨んで彼は、「自分の遺骨はアメリカでもなく、日本でもない、二つの国の中央の海に葬って欲しい」と言ったのでした。
私はその女性に自己紹介をしました。私もまた彼女の父親と同じバプテストの牧師、偶然にも同じ神学校の卒業生であり、宣教師として日本へ行くところであると聞いて、彼女は非常に驚いたようで、私の話を聞き終わって、「これこそ神のご摂理です」と叫びました。彼女の依頼によっ て、私は彼女の父親の遺骨を海に流す葬りの儀式を執り行いました。
クリスチャンであったその船の老船長は、太平洋の中央の一八〇度線、東でもなく西でもない ところで船のエンジンを止め、乗船していたすべての人に、デッギに出てこの葬送の式に加わるように伝えました。それはまだ完全に夜の明けきらないときでしたので、そこにしつらえられた葬壇の上の白い十字架もほとんど見えないほどでした。私がその遺骨を太平洋の海に流したとき、 私は彼と一体感というか、何か不思議な運命的結びつきを感じました。彼は二つの国を心から愛した人でした。世界でもそのような人は少ないと思います。彼こそは日本とアメリカの仲立ちとなる永遠のかけ橋になった人です。その瞬間、「私もあの人のように、日本とアメリカのかけ橋になりたい」と深く感じたのです。
私は子供の時から、「橋」というものが好きでした。美しいサンフランシスコのゴールデンゲイトブリッジや横浜に最近できたベイブリッジ、四国の瀬戸大橋のような橋、また小さくて何の特徴のない橋まで、すべて橋は二つのものをーつに結び合わせる役を持っています。
キリスト教の信仰の真髄はイエス・キリストがその十字架上の死によって、神と、神に背く人間の、更に人と人とを結ぶ大きなかけ橋になられたことであります。
今日、私たちはコリント人への第二の手紙五章から読みましたが、その一五節が今日のテキス トの鍵となるものです。パウロは「一人の方がすべての人の為に死んでくださった」(一四節)と言っています。私のために、あなたのために、イエス・キリストは十字架の上に死んで下さいました。これはパウロの伝える福音の中心をなすものであります。そして、これこそ新約聖書の、 また聖書全体を貫く真理である、と言えます。
十字架におけるイエスの死によって、私たちは、私たちが信じる神とは、どのような方であるかを、知らされました。それは、神がどれほど、私たちを愛して下さっているか、また、どれほど私たちの罪のために苦しまれたか、ということにつきます。
十字架につけられるすぐ前、イエスさまは十二人の弟子に「これから私は父のもとに行かなければならない」と言われました。しかし、弟子たちはまだ、イエスの死ぬこと、また、復活のこと、ペンテコステのことなど、そのような素晴らしいことは全然知りませんでした。
イエスさまが殺されることを知って非常に寂しく思い、その時、弟子の一人が「主よ、私たちに父を示してください。そうしてくだされば、私たちは満足します」と言いました。それに対して主は、「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私がまだ分からないのですか。私を見た者は父を見たのだ」と答えられました。
「父を示してください」という叫びは、全人類の心からの大きな願いであると私は思います。「私を見た者は父を見たのである」と言われたこのイエスは、父なる神、私たちの創り主である本当の神様の独り子であります。私たちの救い主である神様が、本当に私たちのところまで来て下さるために、肉体の形になって、その独り子イエス・キリストとして世に来られました。そして、その愛を知らせるために十字架にまでかかり、苦しんで下さいました。あの十字架は人間であるイエスさまの十字架であり、父なる神の十字架であります。その十字架の愛は父なる神の愛です。父なる神の永遠の十字架である、と私は信じております。私たちの罪の赦しは、イエスさまによる赦しですし、またそれを通して父なる神の赦しであります。イエスは父を示して下さいました。 また同時に、私たちはその十字架の出来事によって、人間の罪がいかに恐ろしいものであるかを示されたのでした。
旧約聖書の最初のところに「人間は神の形に造られた」ということがありますが、神の形に造られた人間は悪と善の区別ができるものとしての責任を持っています。もし悪を選ぶ可能性もなければ、善を選ぶ可能性もないでしょう。善悪を選ぶことができないのであるなら、それはただのロボットのようなものです。人間は良いことと悪いことを選ぶことができます。それは必要です。神の形である人間は神を愛するため、人を愛するために造られました。神のようなものとして造られました。しかし、残念にも人間は神のみ言葉を疑い、その不信仰によって神から離れ、神を知らなくなってきました。神から離れた人間は人を愛することもできなくなります。最初人間の家族はみな「兄弟」として造られました。しかしお互いに兄弟として認めることができなく なりました。あの人、あの国の人、あの人種の人は私とは何の関係もない者だ、と多くの人は考 えています。だから平気で人を殺したり、戦争をしたりするようなこともできるようになりました。
カインという人は象徴的な人だと私は解釈しますが、自分の兄弟アベルを殺してしまいました。「兄弟殺し」ということが、人間家族の最初のところであったわけです。神との関係を破って人との関係を破ってしまったのす。人を愛することのできない状態になった訳です。しかし、神は罪に満ちた私たちを少しだけ赦して下さったのではなくて、溢れる愛をもって、完全に赦して下さったのです。神は私たちの罪をご自分の御子イエス・キリストのものとされ、どんな言葉をも っても表現できないような恐ろしい人間のあらゆる罪のために、苦しみを味わわれました。その十字架のいちばん大変なところで、罪のないイエスさまは私たちの罪を負って、良い人間としてではなく、一番悪い者として呪われて、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのです。詩編の言葉を引用して心からそのように言われました。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(コリントの信徒への手紙二五・一五)とパウロは言っています。 このキリストの死は、イエスを信じる者たちに、何をもたらしたのでしょうか。これに対して、パウロは「このイエスの死によって、信じる者は新しく造り変えられる」と答えています。その人たちはもはや以前の人ではなく、また、普通の人たちが見る目で人を見るのではなく、キリストが私たちを見る目をもって、人に接するのです。これは言いかえれば、キリストが人々を愛し、神との和解を果たして下さったように私たちもまた人々を愛し、人々と和解するように努めることです。新しく造り変えられた者は、キリストに遣わされた使者です。キリストが罪人のためにされたことを引き継ぎ、神と人、また、人と人との和解のために努力しなければなりません。
イエスは神と人間の関係を正しいものにするためにかけ橋になられたのですから、イエスに従う者もまた、イエスの愛に満たされて、イエスのために生き、神と人の和解のために労さなけれ ばなりません。新共同訳では、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(コリントの信徒への手紙二五・一四)とパウロは言っています。また二一節には「キリストが人間の罪を一身に受けられたので、その代償として人間は神の義を受けることができた」と記されています。これこそ、神と人との和解です。私たち人間の罪のための「キリストの死」という全き愛の行為によって私たちは赦され、神との関係を正しいものとされたのです。罪に満ちた人間と正義の神とが、再び正しい関係に戻ることができたのです。イエスこそ、私たちと神をつなぐ、かけ橋となられた方です。
皆さん、アメリカのアブラハム・リンカーン大統領のことをよくご存知と思いますが、アメリカの大きい問題は白人と黒人の関係のことだと思います。最近その問題はまたとても大きくなりました。お互いに完全に兄弟として認めることはできませんので、問題はまだ大きいのです。
昔は奴隷制度があって、アフリカの人々は動物のように船にいっぱい積み込まれ、アメリカに連れて来られました。自分たちの意志は完全に無視されて、白人の奴隷という生活を長くして来たのです。アブラハム・リンカーンのお母さんはバプテスト教会の熱心な信者でした。自分の子供に「この奴隷制度はアメリカの呪いであり、大変な罪である」ということを教えました。リンカーンはお母さんから教えられたことを心から信じ、「大きくなって、できれば大統領になり、そのときには奴隷制度を廃止する」という決心をしました。リンカーンは神に導かれた非常に析り 深い人でした。アメリカの有名な神学者は、「アメリカのいちばん優れた神学者はアブラハム・リ ンカーンであった」と言っています。
リンカーンは大統領に選ばれた時、すぐ奴隷制度を廃止したのです。しかし残念なことに、それに偏見のある古い考えの白人の一人がワシントンDCの劇場のところで、リンカーン大統領を銃で撃って殺してしまったのです。暗殺されたリンカーン大統領の遺体は汽車で彼の生まれたイリノイ州の町に運ばれました。ワゴンの上に棺が乗せられており、その町の人々は、愛するリンカーンの顔をもう一回見ることができるようになりました。そのとき、一人の黒人が赤ちゃんを抱いて、その大勢の中に立って待っていたんです。リンカーン大統領の棺が見えたとき、その子供を高く持ち上げて大勢の人の前で子供にこう言いました。「子どもよ、 よくよく見てください。この人はあなたのために死んで下さったのです」
本当のことです。よくよく見てください。この人(キリスト)は、 あなたのために死んでくださったのです。だから、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであった、神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり神はキリストによって世をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
一人の方が、すべての人のために死んで下さいました。イギリスのロンドン市の街の真ん中に世界一優れた美術館があります。その美術館に私は入ったことがありますが、ヨーロッパなどの有名な画家の良い絵がたくさん並んでいます。それらの絵は聖書をテーマにしたえが多いのですが、特にイエス・キリストの十字架の絵がたくさんあります。
こういう話があります。ある時、一人のおじいさんがその美術館に入ってきて、あるイエス・キリストの十字架の絵の前に立って、長い間動かないでじっとその十字架上のイエスの苦しみの姿を見ていたのです。周りの人々は、本当に心からイエスの十字架のことを考えて、じっと長く動かないでいるおじいさんに気がつきました。そして、おじいさんの唇が少し動いているようでした。おじいさんは何と言っていたのでしょうか。その大勢の人の中の一人がおじいさんに近づいて、その言葉を聞きました。何だったのでしょう。
「私は彼を愛しています…。十字架のイエス…」
その言葉を聞いた一人の人はおじいさんと同じようにその絵を見て、イエスが私のために死んで下さったことを深く思うことができました。そして、その人も「私も彼を信じています。私も 彼を愛しています」と言いました。そしてもう一人、またもう一人、またもう一人と、だんだん 多くの人がそのおじいさんの周りに立って、同じ言葉を言いました。
「私も彼を信とています。私も彼を愛しています」
私もそう言いたい。皆さんはそう言えますか。どうぞ、心からそう言ってください。イエスは すべての人々のために死んで下さいました。
「私も彼を愛しています」
もう一回大きな声を出して、心からイエスの十字架をおぼえ、神がそれほど私たちを愛して下さることを信じて、心から感謝して言いましょう。
「私も彼を愛しています」
祈りましょう。
父なる神様、独り子イエス・キリストを賜わり、私たちここに集まっている一人一人のために 死んで下さいましたことを、また、世界のすべての人のために死んで下さいましたことを信じて感謝します。どうか私たちもその愛によって救われ、世界の人々も本当に兄弟になって和解され、 共に主に仕えることができますように、本当の平和をつくることができますよう導いて下さい。 この教会がますますこの場所で主のかけ橋になれますように強めて導いて下さい。まだ、イエス を信じていない人、一人でもいらっしゃるなら、その人に特別に主の愛と恵みがありますように導いて下さい。この足りない感謝と願いを、愛する主イエス・キリストの御名によって、み前に おささげします。アーメン
(一九九二年六月十四日大師新生教会にて)