Last Update: April 6, 2025
2025年読書記録
- 「源氏物語 全8巻+別冊付録 第二巻」上野榮子訳 日本経済新聞出版社(ISBN978-4-532-17086-8, 2008.10.30 第一刷)
出版社情報。昨年9月に第一巻を読んでから、第二巻を読み始めるまでにかなりの時間がかかってしまった。その間に、NHK 大河の「光る君へ」も終了。正直にいうと、第一巻を読んで、次々と読む魅力をあまり感じなかった。もしかすると、個人出版であり、注などが充実していないことも関係しているのかもしれないが、正直よくわからない。この第二巻は、読むのに時間もかかってしまった。紅葉賀(もみぢのが)・花宴(はなのえん)・葵(あおい)・賢木(さかき)・花散里(はなちるさと)・須磨(すま)・明石(あかし)。人の死や、最初に逢瀬をもったときや、大きな変化があるときなどの、場面の転換点の記述が非常に簡素で、その前後、とくに後の記述がさまざまに表現されている。当時の出家についての考え方もよくわからなかった。現代語訳とはいえ、馴染みのないことばで描かれている物語が、なかなかスッと入ってこないのは、わたしの側の問題なのかもしれない。また間があくことになるが、ゆっくり、第三巻へと進んでいこうと思う。
(2025.1.17)
- 「ゆとろぎ - イスラームのゆたかな時間」片倉もとこ著 岩波書店(ISBN978-4-00-025406-9, 2008.5.28 第1刷発行)
出版社情報・目次。ある方が、この本の紹介をしておられ、著者のイスラームへの愛が伝わってくるとあったので、読んでみた。著者は、自分は、イスラームではないと書いておられるが、たしかに、その中に入って行って、生活をともにする、感覚がとてもやさしく、違和感がない。目次は、リンクにあるが、最初の二つの章「ゆとろぎとの出会い」「ラーハの世界」を読むと、これは文化的には、乾燥地における遊牧民についてで、イスラームについてではないようなイメージをもった。しかし、他の章では、アルゼンチンや、中国や、インドネシアも、取り上げられており、興味深い感覚と接することができたことは確かである。このかたの、他の本「イスラームの日常生活」(岩波新書)なども読んでみたい。ただ、ひろくはあるが、やはり、薄い感じもした。長期間、ある地点で、生活をしているというかたではないのだろう。また、子どもについてのことと、詩についてのことは、十分理解できなかった。わたしは、結局、まだ何もわかっていないのかもしれない。以下は備忘録:「『ゆとろぎ』とは、『ゆとり』と『くつろぎ』を足して『りくつ』を引いたもの。イスラームの日常のなかで大事にされている『ゆとろぎ』、ラーハは、どのように日々実践されているのでしょうか。毎日の会話のなかで、子育てのなかで・・・。追われる毎日が変わる、人生の知恵。いままでのイスラーム観もかわります。」(表紙裏から)「クルアーン(コーラン)のなかには、『あなたが、東から上る太陽を西からのぼらせてみることできますか。それができるなら神をしんじなくていいでしょう』とあります。天体の動き、生態系の様相の中に、アッターの存在を認識するということです。アッラーとは、神のことをさす普通名詞のアラビア語です。アッラーという固有名詞をもった神様がおいでになるわけではありません。エジプトにもイラクにも中東地域のあちこちにあるキリスト教会には、『アッラーは愛なり』とあります。キリスト教会の玄関にアッラーと書いてあるのを、はじめてみたときは、驚くにあたらないのに、わたしも驚いしてしまいました。人間が生まれ、死んでいくという現象は、他の生物と同様、たいへん自然なこととみなされます。死は悲しむべきことではないというのです。もちろん近しい人などが死ぬと悲しいので、やっぱり泣いてしまいます。が、泣きじゃくりながらも、『泣いちゃあいけない。泣くべきではない。自然現象、神のご意志を受け止めねばならない。どんなことがあっても、「アッラーは偉大なり」』と、おごそかに、いましめあいます。墓をつくることもお墓参りも原則的には奨励されません。日本でも大流行りになった『千の風』の歌のような感じもあります。」(p.viii-ix)「イルム、なかでもイスラームに関する知識を豊富に持っている人のことを、イルムと同じ語源のウラマーといい、イスラームでは、もっとも敬意をもってみられます。(中略)『目に見えないもののほうが大事なんですよ。そのためにはヒクマ(叡智・知恵)をもたなくてはね。』(中略)『あの人はアーティフィー(感情的)な人だ』は『心やさしい』という意味で使われる。」(p.24-25)「『急ぐとシャイターン(悪魔)につけこまれる』『のどかさは神からあたえられたもの』」(p.155)「チャールズ皇太子:イスラーム文明を研究しなければ、西洋文明も滅びるであろう。」(p.159)「『資本主義かて、純粋なもんは、どこにもあらへん。福祉の考え方やその他もろもろ、社会主義、共産主義的な考え方も、のみこんださかい、資本主義の寿命はのびてはる。共産主義の中国は資本主義をのみこんだよって、えらい気勢をあげはる。』『ちがう文化にとにかく、ちかづいてみる。さわってみる。だいてみる、おもいきって、のみこんでしまう、と、案外おいしかったりする。』」(p.183)「イスラームの世界では『人生は学ぶこと、学んだら、それを周りの人にわけなさい。』『なににつけ淀まないのは、いい気持ち、さらさら流れる「ゆとろぎ」のせせらぎ』」(p.194)
(2025.1.23)
- 「聖母マリアとともに歩む 十字架の道行」彫刻 船越保武 ドン・ボスコ社(ISBN4-88626-394-6, 2003.2.28 初版発行)
出版社情報・内容。熱心なカトリックの方から、いただいた小冊子。船越保武の代表作には長崎の『二十六聖人殉教者像』(1962)などがある。ことばは、引用した「内容」に書かれている。黙想をたいせつにされているのだろう。聖書から、イエスの実像を読み取ろうとする、わたしとは、視点がかなりことなるが、伝わってくるものは十分にある。瞑想を通しての信仰告白であろうか。裏表紙には「尊いあなたの子イエスを旅路の果てに示してください。」サルヴェ・レジーナよりとある。
(2025.2.4)
- 「教皇ヨハネ・パウロ2世の詩 黙想/ローマ三部作 THE POETRY OF JOHN PAUL II」木鎌安雄訳 聖母文庫(ISBN4-88216-252-0, 2004.12.1 初版発行)
図書情報。熱心なカトリックの方から、いただいた小冊子。タイトルそのままである。I. 小川、II. システナ礼拝堂入り口での創世記の黙想、III. モリアの地の山。最後に解説があり、全71ページ。非常に自然で正直な詩である。やはり黙想的なものなのだろうか。帯にも引用されているものを、一つ記す。「神とは誰か。神は創造主。はじめあるがごとく絶えず無からすべてが実在するように呼びかけ、それを抱きかかえている。」(教皇の詩)システナ礼拝堂は行ったことはないが、最近訪問した、大塚国際美術館に、システィーナ礼拝堂の天井画と正面壁画「最後の審判」を再現したシスティーナ・ホールがある。
(2025.2.4)
- 「アンナ・カレーニナ(上)」トルストイ作 中村融訳 岩波文庫 赤617-1(ISBN4-00-326171-2, 1989.11.16 改訂第1刷発行, 2012.11.5 第21刷発行)
出版社情報。冒頭の「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」は、データ・サイエンスの授業などで何回か引用し、アンナ・カレーニナ原理(AKP)と紹介してきたが、今回、初めて読む機会を得た。本書(上)には、第一編と第二編となっており、扉には「復讐は我にあり、我これを酬いん」と書かれている。それぞれの心理が微細に表現されていて、いろいろな思いとその変化を感じながら読むことができる。まさに、これぞ、小説なのだろう。登場人物一覧と解説に、人間関係図がある。最初は少しずつ読んでいたので、この図も参考になった。名前のカタカナ表記は、岩波文庫のものではないが。描かれる中心人物が変化していき、それも興味深い。個人的には、第二編の後半の、キチイの温泉療養の地で、ワーレンカと出会い、そこに、父、シチェルバーツキィが来るあたりが興味深かったが、三冊本の中・下も楽しみである。上だけでも、441ページあるが、あまり長いという感じがなく読めるのも、すごい小説だということだろう。ただ、あまり若い頃に読んで、理解できるのかは不明である。個人的には、徳富蘆花が訪ねて行ったという、ロシアの文豪、レオ・トルストイ自身にも、興味がある。少しずつ、長編も読んでいきたい。多少、備忘録として記す。「己れの富に満足するものなし、己れの頭脳に満足せざるものなし」(p.252)「温泉場での彼女のおもな、精神的な興味は、いまでは自分の知らない人たちを観察したり、憶測したりすることになっていた。もって生まれたその性格から、キチイはいつも人々の中に、ことに未知の人々のなかにあらゆるもっとも美しいものを思い描いていた。で、いまも、あれはどういう人かしら、あの人たちはどういうあいだがらなのかしら、どういう人たちかしら、などど推測しながら、キチイは実に驚嘆すべき、美しい性格を心に描いては、自分の観察に裏付けを見出そうとしているのだった。」(p.397)「キチイはシタール夫人とも近づきになった。そしてこの交際はワーレンカへの友情と共に、彼女の上に強い影響をあたえたばかりでなく、彼女の傷心をもなぐさめてくれることになった。彼女はそのなぐさめを、この交際のおかげで過去とはなんらつながりもない、まるであたらしい世界が眼の前にひらかれたということの中に見出したのである。キチイには、これまで、自分が身をまかせていた本能的な生活のほかに精神的な生活もある、ということが啓示された。この生活は宗教によってひらかれたものだったが、しかしその宗教というのは、キチイが幼少のころから知っていたような、知人たちと会えるミサとか、『寡婦の家(慈善院)』での終夜祈祷とか、神父についてスラヴ語の聖書の文句を暗誦するとかいう形式で表現されていたそれとは似つかぬものであった。それは、崇高な、神秘的な、一連の美しい思想や感情と結びついた宗教で、命じられたから信じられるというだけでなく、愛することもできる宗教だった。」(p.414)「このワーレンカによってキチイが悟ったのは、ただ自分を忘れて、他人を愛しさえすれば、ひとは平安に、幸福に、そして美しくなれるものだ、ということだった。そして、キチイもそうなりたいと思った。」(p.416)「敬虔主義者(ピエチスト:17世紀末に起こったドイツの改革教派)」(p.424)「キチイにとっては、彼女が住んでいた世界はことごとく一変してしまった。彼女は自分が知ったことのすべてを決して否定はしなかったが、自分がなりたいと思うものになれると考えていたのは自らを欺くものだった、と悟ったのである。それはあたかも蘇生したような思いだった。作為や慢心なしに、達したいと願った高所にふみとどまることの難しさを痛感させられた。のみならず、彼女には、自分もそこに身をおいていた悲しみや、病気や、瀕死の人々のこの世界がいかに重苦しいものであるかということもしみじみと感じられた。彼女にはこの世界を愛そうとして自分自身の上に払ってきた努力も苦痛としか思えなくなってきて、もう一刻も早く、すがすがしい空気を求めて、ロシアへ、エルグショーヴォ村へ帰りたくなった。そこへは、手紙によると、姉のドリイも子供たちをつれて、もう移ってきている、とのことだった。」(p.440)
(2025.2.4)
- 「アンナ・カレーニナ(中)」トルストイ作 中村融訳 岩波文庫 赤617-2(ISBN4-00-326172-0, 1989.11.16 改訂第1刷発行, 2011.7.25 第17刷発行)
出版社情報。三巻本の二巻目、第三編、第四編、第五編が収められている。580頁あり、三巻本の中でも一番長い。表紙裏には「激しい恋のとりことなったアンナは、夫や子どもを捨て、ウロンスキイとともに外国へと旅だった。帰国後、社交界の花形だったアンナに対する周囲の眼は冷たい。一目愛児に会いたいという願いも退けられ、ひそかに抱くひとときがアンナに与えられるのみだった」とある。心から、すごい小説だとおもうが、それは、非常に多くのひとの人物像や心の動きが丁寧に、緻密に描かれているからであるが、同時に、男性のそれは、すばらしいと思うのと同時に、女性のそれは、ほんとうにそうなのだろうかと、不安も感じる。わたしよりは、トルストイは、十分、深く理解しているのだろうが。描かれている、性差は、当時の社会的役割の違いに由来するものであり、かつ、それが貴族社会という、わたしが想像しにくい社会であるからもあるだろうが、女性のこころを軽く描き過ぎているように、感じてしまう。わたしが、個人的に、女性のこころはなかなか理解し得ないものと思っているからかもしれないが。話が非常に進んでから、アンナとカレーニンが結婚するようになった経緯がかかれていたり、セリョージャ視点の母親のこと、周囲から、母親は死んでしまったとか、とても悪い女だと言われても、母親を信じ続ける子供のきもちなども、描かれている。しばらくしてからになるだろうが、トルストイの他の長編も読んでみたい。ほんのすこしだけ、抜書きを備忘録として記す。「ーあたくしは、なんにも変えるわけにはまいりませんわ、ーと彼女はささやくように言った。ーわたしがここに来たのは、明日、わたしはモスクワへ発って、もう二度とこの家へは戻ってこないから、わたしの方の決定は、これから離婚の手続きを一任する弁護士を通じて承知してもらいたいということを言うためだったんだ。それからわたしの息子は姉の方へひきとらせることにするから、カレーニンは息子について言おうとしていたことをむりに思い出しながら、そう言った。ーあなたには、あたくしを苦しめるのにセリョージャがお入り用なんです、ーとひたい越しに良人を見つめながら、アンナが言った。ーあなたはあの子を愛していらっしゃらないじゃありませんか。・・・セリョージャだけは残しておいて下さいまし!ーいかにも、わたしは息子への愛情まで失ってしまったよ。それというのも、あなたへのわたしの嫌悪感があの子にもつながっているからだ。が、とにかく、わたしはあの子は連れてゆくよ。じゃ、ご機嫌よう!そして彼は出てゆこうとした、が、今度はアンナの方が彼をひきとめた。ーアレクセイ、セリョージャを残していって下さいまし。ーと彼女はもう一度つぶやいた。ーもうこれ以上はなにも申し上げませんから。セリョージャだけは残して下さいまし、あたしのあれまで・・・あたくしはもうじきお産をするのです。あの子だけは残して下さいまし!カレーニンはかっとなった、そして妻の手を振りはらうと、ものも言わずに部屋から出てしまった。」(p.342-3)「あれほど男性的な人間である彼が、アンナに対してはついぞさからうことうことをせず、私心を去って、ただひたすら彼女の望みを先廻りして察知することにのみ心をつかっているように見えた。そして彼女のこれをありがたく思わずにはいられなかったが、しかも自分に対する彼のこのひたむきな気持ち、彼が自分のまわりにはりめぐらせてくれている心づかいのふんいきを、時としてわずらわしく思うこともあった。一方、ウロンスキイのほうは、自分があれほど長い間望んでいたことが完全に実現されたにも拘わらず、十二分に幸福ではなかった。彼はこの望みの実現は自分が期待していた幸福の山に比べればほんの一つぶの砂をもたらしたにすぎないことをやがて感じるに至ったのである。この実現は、希望の実現こそ幸福なのだと思いこんで世間の多くの人々がおかしている、永久につづくあやまちを彼に思いしらせたものだった。」(p.425-6)
(2025.2.15)
- 「アンナ・カレーニナ(下)」トルストイ作 中村融訳 岩波文庫 赤617-3(ISBN4-00-326173-9, 1989.11.16 改訂第1刷発行, 2013.1.25 第17刷発行)
出版社情報。三巻本の三巻目、第六編、第七編、第八編、および、訳者による解説が収められている。514頁。表紙裏には「アンナは正式な離婚を望む。が、夫は拒否。ウロンスキイはアンナを愛したが、社交界で孤立していく彼女に次第に幻滅を感じる。絶望したアンナはついにホームから身を投げる、『これで誰からも、自分自身からものがれられるのだ』とつぶやきつつ。」とある。正直、このような長編を考え、味わいながら、やっと読めるようになったのかなと、自分に対して思う。離婚や親権についての法律上の違いも背景にあるだろうが、何回か、登場するアヘンにも興味を持った。精神を落ち着かすためにも、また、出産の鎮痛にも使われていたことには驚かされた。フランス語で言ったという表現が本書全体を通して多かった。ロシア貴族にとっては、フランス語を使うことで表現される豊かさが特別な意味を持っていたのだろう。わたしには、そのニュアンスはわからない。最後には、争いに、国家として、宣戦布告をしていないときに、個人でどう対するかという問いまでなされている。解説を読むと、轢死する女性の事件が当時あったことや、それぞれの登場人物にどのような人が投影されているか、また、本書が書かれるに至った経緯や、改訂ごとにどのように変化していったかまで書かれていて、よく研究されているのだなとも思わされた。ロシア文学、他のものも少しずつ読んでみたいと思った。おそらく、現代で読む人は非常に限られているだろうが。以下は備忘録。「第六篇 ダーリヤはポクローフスコエで子供達とひと夏をすごした。」(p.5)「第七編 レーヴィン夫妻はもう三か月モスクワで暮らしていた。」(p.227)「その内心には一つだけ彼女の関心をひく漠然としたある考えがあった。が、自分でもまだそれをはっきりと意識することはできなかった。もう一度かレーニンのことを思い出すと、彼女はお産のあとの自分の病気のころと、あのとき頭から離れなかったあの気持ちを思い出した。《なぜわたしは死ななかったのだろう?》彼女にはあのときの自分の言葉とあのときの気持ちとが思い出された。すると彼女は突然、自分の心のあるものを悟った。そうだこの考えこそすべてを解決してくれるものなのだ。《そうだわ、死ぬことだわ!》《そうなれば、良人かレーニンやセリョージャの恥も、不面目も、わたしの恐ろしい恥辱も、なにもかもが死によって救われるのだ。死ぬのだ。そうすればあのひとも後悔するだろうし、わたしをかわいそうだと思うし、愛してもくれるだろうし、またわたしのために苦しむに違いない。》彼女はわれとわが身をあわれむようなこわばった微笑を浮かべたまま、左手の指輪をはずしたりはめたりしながら肘掛け椅子に座り込んで、自分の死後の良人の気持ちをまざまざと心に描いてみるのだった。」(p.363-364)「人間に理性が与えられているのは、人間を不安にするものから逃れるためですわ、と例の貴婦人がフランス語で言った。いかにも自分の言った文句に満足しているらしく、発音も気取っていた。ー(中略)ーそうよ、あたしだってとても不安だわ。もしそれからのがれるために理性が与えられているというのなら、つまり逃れなくてはいけないんだわ。では、もしもうなんにも見るものがなくなったり、もうなにを見るのも嫌になったりしたら、なぜろうそくをけしてはいけないのだろう?だけど、どうやって消すの?あら、なんだってあの車掌はマルタづたいになんか走っていったのだろう?なんだって向こうの車輛の若い連中はわめきちらしているのんだろう?なにを喋り、なにを笑っているんだろう。みんないつわりだ、みんなうそだ、みんなぺてんだ、みんな悪だ!」(p.406)「第八編 ほとんど二か月近くが過ぎた。」(p.413)「レーヴィンは、自分はなにものか、なんのために自分は生きているのか、を考えていると答えが見つからずに絶望に沈むのだった、が、そのことを自問するのをやめると、まるで自分がなにものなのか、なんのために自分が生きているのかがわかったようだった。それは彼が、着実に、はっきりと活動し、生活しているからだった。最近でさえ彼は以前よりは、はるかに堅実ではっきりした生活を送っていた。六月のはじめに田舎に帰ってから、彼は自分のふだんの仕事に戻った。農事、百姓や隣人たちとの付き合い、家事、自分がン管理している姉や兄の仕事、妻や親戚との関係、赤児への配慮、この春から夢中になっているあらたな養蜂業、そういったものが彼の時間を全部占めていたのである。」(p.449)「プーシキンの書き出し『客人たちは別荘に集まってきていた』に影響を受けた話:トルストイは書斎にこもって『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文句を書いた。そのときの書き出しは『オブロンスキイ家ではなにもかもがめちゃくちゃだった』というのだったが、のちに作者は現在みられるようにその前に『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』という一句を加えた、というのである。」(p.502)
(2025.2.25)
- 「日本の死角」現代ビジネス編 講談社現代新書2703(ISBN978-4-06-531958-1, 2023.5.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。目次を見るとかなり広範囲にトピックを扱っていることがわかる。図書館で予約したが、かなり時間がかかった。多くの人が読んでいたということだが、正直、内容はあまり濃いとは言えない。社会学的視点が多く、かつ、一つの切り口のみ。それは、紙数の都合かもしれない。いくつか備忘録として記す。「教育政策においては分権化と集権化の間に自由と平等のトレードオフが存在する。分権化されたシステムは前述の通り、地域住民の要望を集約し教育活動に反映させる機能も権限も住民の近くに存在するため、住民が子供たちに受けさせたい教育が容易に実現されやすい。その一方で、分権化された民主主義的に運営されている教育システムの下では、地域内に存在するマイノリティの教育需要(例えば、多言語教育や障害児教育、有色人種のための教育などが当てはまる)が黙殺されやすいだけでなく、地域間に存在する経済的な格差も教育システムにそのまま反映されてしまう。」(p.44)「いじめを蔓延させる要因:①市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じ込め、②逃げることができず、ちょうど良い具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。対策:①学校独自の反市民的な『学校らしい』秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。閉鎖空間に閉じ込めて強制的にベタベタさせることをせず、一人一人が対人距離を自由に調節できるようにする。」(p.99)「筆者は『いじめ』という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組みとして用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理ー社会的な構造メカニズムを、探究すべき主題として方向づける概念として『いじめ』をもちいている。」(p.101)「荒川氏によれば、自らの意思で結婚しない男女、すなわち『ソロ男・ソロ女』は約半数存在する。彼ら/彼女らは、『結婚に関して、女性は相手の年収や経済的安定は絶対に譲れないし、男もまた結婚による自分への経済的圧迫を極度に嫌う』という実利主義者ではある。」(p.118)「格差婚:女性下降婚(ハイポバミー hypobami)・女性上昇婚(ハイパガミー hypergamy)・同類婚(ホモガミー hypobami)」(p.123)「家族の個人化:人は、国家や家族を選んで生まれることができない。つまり、家族は選択不可能であり、解消困難なもの。→ 家族という枠内で、家族員が個々に自己実現を目指す → 1990年以降、家族関係自体を選択したり、解消したりする自由が拡大『家族の本質的個人化』→ 死後離婚・婚姻関係修了届」(p.162)「国際赤十字・スフィア基準『人道憲章』Sphere 災害や紛争の被害者には尊厳ある生活を営む権利があり、援助を受ける権利がある。被災者への支援については、第一に被災した国の国家に役割と責任がある。」(p.174)
(2025.3.2)
- 「白夜」ドストエフスキー著 小沼文彦訳 角川文庫(ISBN4-04-208702, 1958.4.15 初版発行、1987.11.30 56版発行)
紀伊國屋書店。表紙裏「ドストエフスキーには苛酷な眼で人間性の本性を凝視する一方、感傷的夢想家の一面がある。ペテルブルクに住む貧しいインテリ青年の孤独と空想の生活に、白夜の神秘に包まれたひとりの少女が姿を現わし夢のような淡い恋心が芽生え始める頃、この幻はもろくもくずれ去ってしまう。一八四八年に発表の愛すべき短編である。」とある。ドストエフスキー(1821-1881)が、1848年『祖国雑誌』12月号に発表したと、訳者あとがきにある。また、ドストエフスキーがいかにデリケートな愛情をもった抒情詩人であったかを、われわれに、あますところなく示してくれる愛すべき小品であり、そのテーマは彼が終始愛してやまなかった『空想家』の生活記録であるとも描いている。正直、わたしには、苦手な分野だが、『空想』は、文学の一つのジャンルなのだろう。以下は備忘録:「彼がとうとう姿を見せず、二人が待ちぼうけをくわされたことがわかったとき、その彼女は眉をひそめ、急に怖気づき、妙にびくびくしはじめたではないか。彼女の動作の一つ一つ、その言葉のすべては、もやは前ほど軽快でなく、軽妙さと明るさを失ったものになってきた。そして、不思議なことに、彼女は私に対して以前に倍する注意を払うようになったのである。それはまるで彼女が自分で自分に望んだもの、もしも実現しなかったらと彼女自身が恐れていたものを、本能的に私になにもかもぶちまけたいとしているかのようだった。私のナースチェンカがすっかり怖気づき、おびえきってしまったところを見ると、どうやら彼女は、私が彼女を愛していることにやっと気がつき、私の哀れな恋を気の毒に思ったらしいのだ。そうだ、われわれは自分が不幸なときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ。感情が割れずに、かえって集中するのである‥‥。」(p.71-72)
(2025.3.7)
- 「創立25周年記念 リベラル・アーツとは何か」山田耕・八木誠一・阿部謹也・大口邦雄・絹川正吉・北垣宗治著 敬和カレッジ・ブックレット No.21(2015.9.15 発行)
出版情報・目次。敬和学園大学の金山愛子学長先生からメッセージ付きでいただいた。ICUに勤めたこともあり、長らく考えてきたトピックであり、著者に名を連ねるお二人は、専門も同じ、ICUの学長経験者でよく存じ上げているので、講演内容も知っている内容もあった。また、大学教育についても、学内外で講演してきたこともあり、基礎知識はある程度あったと思う。しかし、これだけの著者のブックレットの存在は知らなかったし、基本的に講演集ではあるが、内容としてもよくまとまっていると思う。リベラル・アーツカレッジについて考える、基礎を与えるものだとも思う。正直にいうと、現在のわたしは、いろいろな意味で、このような内容を語れないが。以下は、備忘録:「我々は個人の経験だけではあまりにも人生経験を知らなすぎるのです。身の回りのことしかわからないからです。しかし文学は『人間とはどういうものだ』ということを教えてくれるのです。客観的に『人間とはこういうものだ、こういうことをするものだよ』と教えてくれるだけでなく、優れた文学は、読むと『ああ、人間とは、自分とは、こういうものか』と思い当たらせてくれるのです。非日常的な状況を設定して、さらに『こういうときに僕だったらどうするだろう』と考えさせてくれるのです。(八木誠一)」(p.25)「ローマの末期、無実の罪で獄に繋がれたポエティウスという人が『なぜ自分は死刑になるのか』ということを考え出すわけです。(中略)いろんなことを考える中で夢の中に哲学の女神みたいな人が現れまして、そこで導かれて彼は自分の生涯というものを総決算する。それが『哲学の慰め』という本で、つまり自分が死を前にして自分の死に至る短い人生を納得する行為から生まれた書物なのです。(阿部謹也)」(p.49)「『いかに生きるべきか』という選択は、日々ある、毎日ある、ということ。毎日ある中で自分の行動を決めていく。それが即、教養の元であって、そういう生き方をしている人間を『教養のある人』というのだと私は考えます。(阿部謹也)」(p.61)「リベラル・アーツと外国語とは、関係がないと思われるかもしれませんが、どうしてどうして、私は大いに関係があると考えています。なぜなら、ゲーテが言ったように、一つの言語をマスターするということは、一つの世界を獲得することだからです。(北垣宗治)」(p.142-143)「エマソン『アメリカの学者』:考える人とは、彼自身の知的能力を駆使することによって考え、生き、そして自らの生活を向上させる(ひと)。ハワード・ノストランド:(リベラル・アーツ教育は)職業教育とは別に、個人を全体的に開発することを意味する。彼の人生の目的を陶冶し、感情の反応をみがき、物事の本質を現代の最高の知識に照らして理解する力を養うことなどが、これにあたる。チャーチル:大学の最初の義務は、職業ではなく智恵を、専門技術ではなく品性を教え込むことである。ホイットニー・グリスワルド:リベラル・アーツの目的は、個人がおのおのの選択するキャリアに入る前に、そのキャリアに可能な限りの知性、精神的能力、判断力、そして特性をもたらすことができるように、知的・精神的な力に目覚めさせることである。(北垣宗治)」(p.145-146)「チャールズ・コール:あらゆる教育は自己教育である。(北垣宗治)」(p.149)
(2025.3.8)
- 「カタツムリの知恵と脱成長 - 貧しさと豊かさについての変奏曲」中野佳裕著 コモンズ(ISBN978-4-86187-142-9, 2017.11.5 初版発行)
出版社情報・目次。著者からいただいたが、なかなか読む時間がとれなかったが、脱成長は、以前から考えてみたかったので、ちょっと時間があいたときに、手に取った。正直、興味深い記述が多かったが、同時に、実際に脱成長に取り組むには、氏がさけている、マクロ経済学とも取り組まないと、ローカライゼーションと呼ぶものの、ある規模を越さない、かつ時間的にも、比較的短い期間での議論しかできないように感じてしまった。おそらく、だれも解をも、普遍性のある案もまだ知らないのだろう。社会学的な視点と経済学的な視点を融合して考えることは、AI などの発展のなかで、少しずつ可能になっていくのかもしれない。多くの指標を扱うことができるようになっては来ているので。今後の氏の活躍に期待したい。以下は備忘録。「私の学問研究は、構造主義以後のフランス現代思想や文学理論を政治経済学/開発学に応用するところから始まった。なかでも、セルジュ・ラトゥーシュの思想からは多大な影響を受けており、現在では、経済や開発の問題を認識論の問題として研究している。」(p.6)「二つの社会的病理:世界に対する無関心を貫く個人主義、 閉鎖的で排他的な共同体主義」(p.7)「レオ=レオニ:せかいいち おおきな うち」(p.12)「レオ=レオニ:わたしは絵を描くといおうのが大好きですが、それはものを見る方法を学んだからできることなんです。ものを見る、ということは、ものごとの中にある意味を読み取ることなんです。」(p.13)「『成長の限界』を出版した 1972年当時、わたしたちは文明崩壊のシナリオと安定的均衡のシナリオを提案したのですが、振り返ると人類は文明崩壊のシナリオをたどっており、案的的均衡に至るのは困難な状況になっています。」(p.23)「この非暴力の平和主義者にとって、豊かな社会とは、より多くの富や商品に満たされる社会ではなく、社会に暮らす民衆一人ひとりの自由と自治が実現する条件を成熟させることにほかならない。それゆえ彼は、英国の植民地主義に虐げられた民衆一人ひとりの潜在能力を引き出す学び(ナイ・タリーム)を提唱し、その手段として、伝統的な手紡ぎの糸車(チャルカー)の普及を通じた貧困層の経済的自立を推進した。」(p.25)「経済統計は、貧困状態を否定的にしかとらえられず、そこでは貧者が作り出す生の形態や、言語、運動、革新をもたらず能力といったものは、評価されない。私たちが、挑むべき課題は、貧者の生産性と可能性を力能へと転換するための方途を見出すことである。」(p.64)「フランス語で globaliser という動詞は、『全体化する』という意味があり、globalisati on は『市場経済によって全体化する』という含意を帯びる。そのため、当時のフランスの左派系知識人(エマニュエル・トッド、アラン・トゥレーヌなど)の中には、英語圏か輸入された globalisation と二十世紀初頭からフランス語に存在する mondialisation を区別して使う人もいた。前者は、いわゆる『グローバリゼーション』のことで、市場経済の地球規模での拡大を意味する。後者は、多様な文明・文化の交流によって『一つの世界』という意識が地球規模で共有されるようになることであり、『世界化』と訳される。ただし、現代では、英語のグローバリゼーションの直訳としてフランス語の、mondialisation を使うことが慣例化している。」(p.91)「ローカリゼーションの潮流は多岐にわたり、一つの中心点に収束されるものでもなければ、なんらかの統一的な全体として固定化されるものでもない。多様な実践と理論が世界同時多発的に発生し、インターネットや国際的なフォーラムを通じてノウハウを共有かしながら、絶えず生成変化を続けている。ローカリゼーションの多様な社旗的実験は、それぞれの地域の文脈に立脚しながら市場経済のグローバル化の正統性を否認し、脱中心的な草の根のネットワークを地球規模に広げてきた。それらは規模と数から見ればまだ少数派ではあるが、地球環境破壊や度重なる経済・金融危機によって人類の生存基盤が脅かされている現代において、革新的な地域づくりのモデルを提供することに貢献している。」(p.125)「したがって、二十一世紀において構築すべきは、ローカリゼーションの多様な動きの全体像とその可能性を理解していくための新たな認識論(エピステモロジー)だ。私は本書の制作過程でこの問題について思考実験を続けた結果、レオ=レオニの作品『スイミー』の中に想像力の源泉を見つけた。」(p.127)「人名解説:Hannah Arendt (1906-1975), Francis of Assisi (1182-1226), Aristotle (384BC-322BC), Ivan Ilich (1926-2002), Simone Weil (1909-1943), Arturo Escobar (1952-), Gustavo Esteva (1936-), Cornelius Castoriadis (1922-1997), ARbert Camus (1913-1960), Mahatoma Gandi (1869-1948), Andre Gorz (1923-2007), Edward W. Said 1935-2003), Wolfgang Sachs (1946-), Boaventura de Sousa Santos (1940-), Vandana Shiva (1952-), Ernst Fredrich Schumacher (1911-1977), Luis Antoine de Saint-Just (1767-1794), Nicholas Georgescu=Roegen (1906-1994), Baruch De Spinoza (1632-1677), 玉野井芳郎 (1918-1985), Gilles Deleuze (1925-1995), 中村雄二郎 (1925-2017), Ashis Nandi (1937-), Antonio Negri (1933-), Lewis Hyde (1945-), Robert Putnam (1940-), Michael Hardt (1960-), Paulo Freire (1921-1997), Carlo Petrini (1949-), Rob Hopkins (1968-), Karl Polyanyi (1886-1964), Serge Latouche (1940-), Dauglas Lummis (1936-) 」(p.140-147)
(2025.3.13)
- 「知能とはなにかーヒトとAIのあいだ」田口善弘著 講談社現代新書 2763(ISBN978-4-06-538467-1, 2025.1.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。PodCast でこの本のことを聞き、正直、大丈夫かなと思って、最初は手に取らなかったが、著名な学者であることもわかり、自分の理解との比較が必要と考えて手に取った。AI のことをよくご存知で、機械学習なども十分使っておられる物理学者で、現在は、バイオ・インフォマティックスをされているかたが著者である。はっきり言って、強化学習(reinforcement learning)について(ことばは登場するが)ほとんど何も書かれていない。アーキテクチャーと、データと、それを結びつけるソフトウェアとして考えておられるようで、環境から情報を取り込んで、随時学習していくことについては、考えておられないようである。デミス・ハサビスなどの、強化学習は、まさに、決定論ではなく、随時、情報を得て進化させていく、学習をどのように、AI に取り込むかが重要で、だからこそ、完全情報ゲームなどにおいては、データなしでも、十分な振る舞いができるようにしている。さらに、このことによって、AI のパフォーマンスが、予想できない振る舞いをする場面が増えてきて、それが、制御不能になるのではないかと懸念される根拠となっていることも、十分考察されていないように思われる。自律ということをどう定義するかは別として、まさに、自律系であるように、見えてしまう学習が、随時行われるシステムによって、問題が解決していく状態が、もしかしたら人間が制御できなくなるかもしれないと思わされるのであろう。実際には、まだそこには至っていないが。むろん、この方の考え方をわたしが、十分理解できていないことが多々あるのだろうが。Hinton の懸念のもとにあるいくつかの根拠や、Hassabis の、P = NP に関する、制限された条件下での予想などを、深いレベルで理解しないといけないと思わされる。以下は備忘録:「知能 inteligence は高度な抽象的思考能力、学習能力、新しい環境への適応能力と関係する高次認知機能の総称と言われているが、明確な定義はない。(前川喜平著『高次機能ー知能の発達』)」(p.28)「脳のどの部位が何をしているのか?という場所と機能の関係付が、精緻化されただけであり、ここまできてもまだ、実際に脳がどのように働いているのか解明には程遠いのが現状である。」(p.33)「人工知能研究が始まった当初は、難しいのは高度な知的作業、例えば、チェスで人間が勝つ、などだと思われていたが、実際に研究が進むと難しいのはそこではなく、人工知能に『常識』を持たせることだということが判明した。いわゆる『モラベックのパラドックス』であり、高度な知性に基づく推論より本能に基づく行動スキルや知覚を身につける方が難しいということを意味し、1980年代にハンス・モラベック、ロドニー・ブリックス、マービン・ミンスキーが提唱した。」(p.47)「身体性人工知能は現実からの情報を直接人工知能に取り込もうとしたが、言語の基盤モデルの成功が明らかにしたことは、人工知能に学ばせるべきだったのは現実の情報そのものではなく、人間の脳というフィルターを通して言語化された情報のほうだった、ということである。」(p.79)「単語(トークン)の位置関係を学んだだけの言語の基盤モデルが、従来、人口知能研究が目指してきたパフォーマンスを実現してしまったのなら、その理由は二つしか考えられない。1. 単語の地図を作る過程で知能というものをなぜか獲得してしまった。2 我々が知的な作業だと思っていたものは別に知能などなくても実行可能なタスクだった(我々はそれを知能を使ってやっているにしても)」(p.81)「寺前:特に興味深いことは、これら実験技術の急速な向上によって明らかにされた脳の知見は、多くの点で最新のディープラーニングを含む人工ニューラルネットワークの動作様式とは整合していない」(p.111)「ここでファインチューニングは実際に機械学習の『中身』を変更することを言い、プロンプトエンジニアリングは入力である問いを工夫することで出力が望み通りになるように調整することを言い、概念も方法も全くことなた別手法である。」(p.114)「生成AIは現実と見まごう会話や映像を作り出すが、それは決して内部に同じ現実を実現しているということではなく、計算機で扱えるような、しかし、現実をかなり正確に再現できるシミュレーションを作成しているに過ぎないのである。」(p.131)「物理学者が生成AIの成功に至れなかった、もう一つの理由は、物理現象をシンプルな方程式や法則で説明しようという志向のようなものがあり、『世界は単純な少数個の法則で書けるはずだ』というお思い込みが働いたからだろう。」(p.132)「生成AIは非線形非平衡多自由度系に起源を持つ世界シミュレーターとみなすことができる、というのが本書で私が主張したいことであった。」(p.182)
(2025.3.16)
- 「はじめての機械学習 - 中学数学でわかるAIのエッセンス」田口善弘著 BLUE BACKS B-2177(ISBN978-4-06-523960-5, 2021.7.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。同じ著者のAIの本を読んだので、こちらも読んでみた。いろいろと物足りなかった。中学数学でも、最小二乗法は説明できるだろうし、おはなしで、雰囲気を伝えようとしているが、どの程度の人に伝わるかは不明、かつ、ジェンダー的にも少し問題を感じた。第6章の、正しいって何?は、Sensitivity(感度:真陽性率)と Specifisity (特異度:真陰性率)の Trade Off から、AUC のところを、文化的な違いも用いて説明していて、上手に書かれていると思った。正直にいうと、最後の量子計算機の部分は、さっと読んだだけではよく理解できなかった。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(p.57)は、そうかなとも思うが、歴史について、語れるかは、難しいなとも感じている。
(2025.3.22)
- 「砂時計の科学」田口善弘著 講談社学術文庫2849(ISBN978-4-06-538267-7, 2025.1.14 第一刷発行)
出版社情報・目次。『砂時計の七不思議』が原本。田口善弘氏著作で、有名なものが講談社学術文庫として出たということで、読んでみた。著者は、日常現象を6人の物理学者が語り合う名エッセイ集『物理の散歩道』ロゲルギスト著と似ているという。わたしは読んだことがないので、わからないが、ファラデーの『ろうそくの科学』は、著者も引用しているが、雰囲気が似ていると思った。粉粒体という、あまり考えたことがなかったものに焦点をあてて、書かれている。科学と宗教の見方については、さすがに、神について、ほとんど理解がなく、残念だったが、物理学が扱えるものがとても限定的だということを、明快に書いてくださっており、共感を持った。数学はもちろんそうだが、物理学も理解するということに軸足を置くと、ほとんど、先へ進めない。しかし、AI などの発達で数値計算で、現象をある程度特定することはできるということにも、納得がいった。今後、学問は、それぞれどのように進んでいくのだろうか、AI による、研究分野における革命は、正直どのようなものになるのか、予測がつかない。20年後ぐらいには、大きく変わっているのだろう。以下は備忘録:「粉粒体の粒子の大きさの制限:(1) 全体の大きさ(たとえば容器)に比べて粒子の大きさが小さすぎない。(2) 個々の粒子の大きさが粒子の速度に比べて小さすぎない。」(p.6-7)「ホッパーの七不思議:(1) ホッパーの側壁にかかる圧力はホッパー内の粉粒体の量によらない。(2) ホッパーの粉粒体を貯めておいてホッパーの出口を開けると、出口付近に大きな圧力がかかる。(3) 粉粒体が流れ出る速さは、出口の直径の2.5乗から3.0乗に比例する。(5) 粉粒体が流れ出る速さの時間平均はホッパー内に残っている粉粒体の量に無関係である。(6) 出口にパイプをつけると粉粒体が流れ出る速さが増大することがある。(7) 出口の直径が粉粒体の直径の6倍以下の時は、粉粒体は、流れ出ない。」(p.18)「マリオットの器、水時計」(p.21)「西森・大内:転がりと跳躍のモデル(論文)」(p.57)「もし生命が原始地球の海で生まれたとするなら、最初は水の中に様々な原子や分子が溶けた一様な『生命の素』スープがあったはずである。そこから、ある日、一様性が崩れて、ある物質がある場所に集まって生命を作り上げたのだろう。これは、偶然だろうか。たまたま、神がトランプきっているときに、赤い札が10枚くらい続けて並んだだけだろうか。そうでは無いかもしれない。粉粒体のような単純なものですら、エントリピー増大則に逆らって、粗い粒子と細かい粒子が別れるという現象を起こす。しかsも、これは、必ず起こることで偶然ではない。だから、もっと複雑そうな、原始の海で、ちらばっていた原子があるところに集まって生命を作り上げるという、一見、エントリピー増大の法則に反するような『偶然』が『必然的』に起きる仕組みがあっても良さそうな気がするではないか。」(p.108)「電磁気学の創始者の一人であり、また、彼の執筆した科学啓蒙書『ロウソクの科学』は今も広く読まれている。ファラデイほどの偉大な物理学者に論文(1832年粉粒体について)を書かせるほどの興味を抱かせた現象とは何だったのか。」(p.139)「物理学者が理解ができるもの:(1) 物質主義的に理解できる単純な場合。(2) 要素間の相互作用が問題になる場合は (a) 熱平衡状態とその近く。(b) 散逸構造の中でも(エネルギーの出入りのバランスが取れている)単純なもの。」(p.181)「自分たちが作った環境の中で毎日暮らしていれあ、わかっていることばかりなのは当然である。環境から一歩外に出れば、本当はわからないことばかりである。逆にいうと、わからないことばかりだから環境破壊が問題になるのである。そういう違ったものを自然環境の中に作り上げ、しかも、どんどん広げていけば両者の間に軋轢が生じるのは当然である。そいういう違うもの同士のせめぎ合いを、人間が『環境破壊』と名づけているだけである。『人間が増えれば環境が破壊されるのは必然』という意見があるがこれは間違っている。人間の作る環境が自然と大きく異なっているからいけないのだ。物理学者が自然法則の大部分を理解しているなら、人間の作る環境は自然のあるがままの姿と変わりなく、環境同士のせめぎ合いもなく、したがって、環境破壊もない。人間は、このまま快適に暮らしたいが、自然も壊したく無いというならば、もっと、賢くなるしかないのである。」(p.183)「『計算できるが理解できない』という状況は、比較的最近生じてきた。それまでは、だいたい、因果関係が明確なものしか扱っていなかった。(中略)『台風はどう進むか』はある程度計算できるだろう。しかし、因果関係はわからない。」(p.190)「生成AIの中をよくみてみたら、現実の物理法則や、人間の大脳の機能と同じになっていました、という形で現実を生成するシステムは唯一無二だったとわかるという可能性はなくはないが、おそらくそんなことはない。そうなると、重力制御装置やタイムマシンとはいかないまでも、いろいろな意味で作るのが不可能だったりあるいは難しかったりするもの(たとえば、常温常圧超伝導とか、量子コンピュータとか、核融合とか)の解決策や設計手順が生成AI によって提示されてしまって実現する未来、というものぐらいはあり得るかもしれない。それが僕が予測する今後の科学の行く末である。」(p.213)
(2025.4.1)
- 「今は、つぐないの時 - 日本兵を父に持つ南の島の三万余の子らへの愛の記録」加藤亮一著、聖文舎(1975.12.10 発行、1981.1.20 2版)
本書を読むのはおそらく三回目だが、若い頃に読んだ時とは印象が全く異なった。恩師とも言うべき、加藤師であるが、周囲から、さまざまな批判も出ていた中、東南アジア文化友好協会の働きのため、政界・財界や海外要人との関係を大切にすることに対する、批判的な目も、私が若い時には、あったのだろう。視点が狭くなってしまっていたことは、ある程度仕方がないとは思うが、高校・大学時代、東京池袋教会と同じ建物の東南アジア学生寮に住んでいた、知っている名前が3分の2ぐらいだろうか、そんな一人一人の背景が書かれているにもかかわらず、積極的に、その一人一人と交流できなかった自分の幼さをかえりみてしまう。少なくとも、信仰の兄とも慕う、現在の、東南アジア文化友好協会の理事長とは、ゆっくり話す時間を作りたいと思う。正直、自分に、何が欠けていたのかよくわからない。以下は備忘録:「蜂窩織炎(ほうかしょくえん)皮膚や皮下組織に細菌が感染して炎症を起こす病気」(p.8)「わたしは牧師であったが、身分は奏任官待遇の海軍嘱託で、海軍少佐相当官であったため、食料事情が悪いとは言え、まだ、かなりの配給を受けていた。→リマ(五人)テーブル」(p.11)「神さま、もし加藤がこの死の病床から再び立ち上がることができたましたら、このサパルアの人々の愛に報いるために、わたしの残る生涯をインドネシアの人々のためにささげます。どうかこの重い病気をいやし、神様の器としてお用いください。」(p.15)「戦争によって生命を失った者に思いを馳せる人は多い。しかし戦争によって生命を授かった者に、思いをめぐらす人は少ない。人々は被害者として訴え続け、加害者として省みることがすくなかった。つぐないのあかしをたてよう。」(p.23)「わたしはたびたびインドネシアを訪問して、不幸な戦争の落し子たちの実態調査をしているうちに、多くの無国籍の子供が、その中にいることを発見して驚いた。これは、子供が浮かれて間もなく母親が死亡し、その時身近な人たちが戸籍の届けをしなかったことや、母親の無知、または母親が中国系であるため、いろいろな社会的、人種的制約を受けていることなどによることがわかった。特に日本の憲兵や海軍の特警隊が現地民にひどいことをした地域では、終戦後反日感情が強く、そのため、日本人との間に生まれた子供をひた隠しに隠して、そのまま届けなかったケースが特にスラウベシーやカリマンタン(ボルネオ)等の外領方面に多かった。」(p.56)「その中で、わたしが一番心を打たれたのは『インドネシアでは、戦争中に日本人の子供を持ったインドネシアの母親たちは、ほとんど”捨て子”をしなかった』ということである。」(p.69)「『翼の影』日本語訳・コルベ文庫」(p.81)「ドロシー・マバキアオ:『新しいアジアのしあわせは、いとちいさい者への愛と奉仕から』という教えこそ、財団学生寮の指導精神であることが、身に染みて理解できるようになりました。(マルコ10:43-44)」(p.160)「日本人のだれもが東南アジアの旅をして一様に痛感させられることは、目をおおうばかりの貧困と救い難いような未開発性ではないだろうか。その最大の原因の一つは、労働をきらい、ことにきたない仕事は下級階層者の仕事という根強い考えからきていると思う。」(p.187)「それはアジア人として生来勤勉だったかれらに怠惰を教え、天然資源の豊富な彼らに贅沢と奢侈とを学ばせながら、長い植民地政策の圧政のもとで、完全に彼らの民族の骨を抜き取ってしまった。勤勉、誠実、従順、そしておおらかなアジア人の本来の美風を、根こそぎ剥奪してしまった西欧植民地主義の貪欲さに、わたしはアジア人の一人として強い憎しみを抱くとともに、知らず知らずの間に第二の習性として飼育されてしまった東南アジアの人々に深い同情を禁じ得ない。」(p.188)「わたしは東南アジアを貧困と未開発性から解放し、西欧植民地主義の過酷性と悪魔性を克服するには『信行一致の土下座精神』からくる精神革命より他にないと思う。まず日本人のわたしたちが、この『信行一致の土下座精神』に徹して、東南アジアの人々に最前の奉仕をしなければならない」(p.189)
(2025.4.6)
- 「21世紀のリベラル・アーツ」月本昭男、スティーブン・リーパー、山本精一著 敬和カレッジ・ブックレット No.26(2025.4.1 発行)
出版情報・目次。講演時に、金山学長からいただき、講演後の新幹線の中で読んだ。「旧約聖書の現代的意義『エデンの園の物語』にみる人間観」「第三次世界大戦を回避するために」「リベラル・アーツが目指すもの」の三つが収録されている。それぞれ興味深いトピックではあったが、学生さんには、やはり、難しいのかなと思った。自分も話した後だと、ますます、第三者的に感想を書くことはなかなかできないが、なにを語るのかは本当に難しいとも感じた。同時に、このような冊子が、少しずつ刊行されているのは素晴らしいとは思う。有効に活用されることを祈る。以下は備忘録。「人間は誰しも、男も女も、神の似姿として造られている、という主張が、今日の『人間の尊厳』という基礎になりました。」(p.4)「ポール・トゥルニエ先生のところに、10代後半の女性がやってきました。レイプでこどもをみごもされ、堕胎の相談に来たのです。トゥルニエ先生は原則として堕胎に反対の立場でした。でも、この女性の場合、レイプによって身ごもされたのです。父親になるはずの男性が誰があるかわからない。女性は、まだ経済的にも子どもを育てるに十分な力がないだけでなく、母親になるには精神的にも幼すぎるようである。そうみたトゥルニエ先生は、堕胎やむなし、と判断しました。ところが、その女性が診察室を出て行くときにトゥルニエ先生は、ふと、万が一、あなたが子どもを出産するとしたら、どんな名前をつけるでしょうね、と聞いたのです。すると、その女性は、しばらく、じっと佇んでから『先生、私こどもを産むことにします』と答えて部屋をあとにしたというのです。トゥルニエ先生は非常に驚き、そのことを忘れ難い経験として、文章に残しました。」(p.18)「今の世の中は(中略)数人が喜び、たくさんの人が苦しむ世の中だということです。それを変えないといけない。それを変えたいという気持ちはすでに『平和文化』です。『戦争文化』では、自分のために競争するわけですね。ちょっと心を広くして、自分の家族とか、自分のチームとか、自分の学校のためとか、自分の会社のためとか、自分の政党のためとか、そういう競争原理で成り立っているのが『戦争文化』です。戦争文化は、全人類が幸せになるためには、どうすればいいか。あるいはこの地球そのものをどう守ればいいかということを考えるのは不可能です。なぜかというと、ライバルがいなければ、戦争文化の競争原理が働かないからです。競争が基本になっているのです。それに対して、平和文化では、すべての人間のことを考えないといけないのです。対立すれば、その解決策を見つけようとするときに、当事者全員が納得して、『これでいい』『これぐらいでいいんじゃないか』と、そこまでみんながかんがえるところまで解決策を探すのが基本です。勝ち負けということはないです。みんなが、みんなで勝つというのが平和文化の意味です。」(p.35)「鶴見俊輔という日本人学生が彼女(ヘレン・ケラー)の講演を聞きに行ったときに、ヘレン・ケラーは彼女自身の学生時代を振り返って次のように語ったというのです。『私は大学でたくさんのことを学んだ(learn)。けれども、それから後たくさんのことを学びほぐさなければ(unlean)ならなかった。』」(p.68)
(2025.4.14)
- 「あなたもクリスチャンにーもったいない食わず嫌い」矢澤俊彦著 小冊子152頁
何度もお送りいただいている、鶴岡の荘内教会牧師の著者の私費出版の小冊子。わたしもこのような思いがあるが、こどもたちにすら、直裁には言えない。現在の状態を感謝し喜んですらいる。使命としても書かれているが、やはり難しさも感じる。表題からも、どうしても、上から目線のようなものを感じてしまうからか。イエスはどのような方だったのだろう。大工で、おそらく、中産階級ぐらいだろうか。しかし、かなり幅広く、さまざまな人たちに語り、心を惹きつけてもいるが、やはり、その必要を感じている人に、そのひとの目線にあわせて、メッセージや救いを届けているようにも感じる。社会的地位ではないが、すくなくとも、その痛みや苦しみと共におられたことは確かなのではないだろうか。わたしには、このようなものは、書けない。以下は備忘録:「ある牧師さんの言葉で、信仰というのは一種の自殺だということ。びっくりしました。それはどいういう意味、信仰はこの世に絶望しないと持てないというのです。つまり、自殺するか、信仰にかけるか両者とも自分とこの世の全てを捨てることに共通性があるというんです。」(p.33)「生まれて間もない赤ちゃんの笑顔や機嫌のよさは、自分でその気になったのではなく、実に母親の笑顔や機嫌のよさを受けてのこと。すなわちそれは、『赤ちゃんの業』ではなく『母親の業』なのです。これと同様に私たちを救うのは、自分が騒いで発見するものではなく、私たちに働きかける『神の業』なのです。これは、徹底して受動的なもので、私たちが乳児への母の愛を受けるように、神様からの働きかけを受け取る時、死んでいた私たちのよみがえりが始まるのです。(赤星進著『精神医学と福音 下』 246-252頁)」(p.34)「シトワイヤン(近代的市民)のための広場(鈴木直):もちろん専門家であれば、専門的知識をその場に提供すればよいでしょう。お金に余裕のある人はそのお金を、時間に余裕のある人はその時間を、そして何も人に誇るものを持たない人、何一つ人に分け与えるものを持たない人は、自らの苦しみを、自らのうめき声を、自らの沈黙を、そこに提供すれば良いのです。」(p.82)「キリスト教が様々な批判に応えて、この宗教がある特定の文化や地方的な parochiral(視野の狭い, 偏狭)なものでなく、人類普遍のものであることを明らかにする必要があります。」(p.111)「島崎藤村:基督教会で説かれることは、吾々から考えるとあまりに明るすぎる。光明のみでありすぎる。それではもの足らない。真の慰藉(なぐさめ)なるものは、寧ろ暗黒にして且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相といふやふなものは、その光景の多くは努力の苦痛と浪費の悲哀とに満たされたものかと思うるに光明ある言葉は、寧ろ聴衆を失望させるばかりである。」(p.120)
(2025.4.18)