Last Update: November 16, 2024
2024年読書記録
- 「新約聖書の奇跡物語」川中仁編 リトン(ISBN978-4-86376-092-9, 2022.10.3 発行)
目次情報。新約聖書の奇跡物語について、最近考えていることがあり、書名をみて、手にとった。正直、期待したことについては、なにも触れられていなかったが、解釈について、いくつかの見方について整理されており、基本的なことを確認することはできたように思う。最後に、編者が、カトリックの解釈の歴史について書いており、公会議やさまざまな文書との関係について書かれている部分がわかりやすく、よかった。以下は、備忘録。「合理主義的な解釈が自然科学的な世界像を唯一絶対のものとしたのは、はたして正当かつフェアな態度であったかと、文化人類学的なアプローチは問う。(中略)科学哲学における『操作の知 Verfuegungswissen』と『方向定位の知 Orientierungswissen』の区別が(J. ミッテイルシュトラース)最初のヒントになるかもしれない。『操作の知』とは、実験にもとづき、望んだ変化を制御可能な仕方で実現する技術の知(テクネー)である。これに対して『方向定位の知』とは、人が生活世界の中で自分が何者であるかを知り、何のために生き、また何に意味を見出すかについて省察を巡らせる知恵(ソフィー)である。」(p.21)「文学類型上の特徴 (a) 奇跡物語は、実際に生じた(とされる)できごとについて報告する物語であり、(b) 奇跡行為者による、知覚可能ではあるものの、容易に説明しがた変化を引き起こす行為が、場面構成とストーリーを備えた物語の形式で報告され、(c) そのできごとは、直接的また文脈的に神の力の働きに記される。(d) 奇跡の伝承行為には、できごとの報告と並んで、読者に驚嘆と反感が引き起こすことで、認知や現実理解の革新を促す機能が含まれる。」(p.23)「新約聖書に描かれているイエスの『奇跡』については、とかく歴史的事実か否かという『奇跡』の史実性の問題関心に陥りがちである。だが、『奇跡』は、何よりも神の救いのわざを掲示するイエス・キリストの出来事全体に位置付けて理解すべきである。すなわち、新約聖書に描かれている『奇跡』は、イエス・キリストの出来事をとおして開示された神の救いのわざの『しるし』ととらえるべきである。」(p.160)「J.フライは、ヨハネ福音書の読解について、①神学的読解、②歴史化する読解、③文献批判的もしくは編集史的読解、④歴史的読解、⑤物語論的読解とい五つのパラダイムが存在する。」(p.181)「新約聖書の奇跡物語の中心的な関心事が、ただ単にイエス・キリストが自然法則も凌駕するような超人的能力をほじしているということにあるのではないのは確かである。むしろ、第二バチカン公会議『啓示憲章』四項1にあるように、イエス・キリストの現存と罪と死の闇からの解放、すなわちイエス・キリストが人々とともにあって、人々を罪と死の闇から解放するということである。このイエス・キリストの現存と罪と死の闇から解放することこそが、『奇跡』の革新である。」(p.204)
(2024.1.12)
- 「地図でみる 世界の地域格差 OECD地域指標 2022年版 都市集中と地域発展の国際比較 OECD Regions and Cities at a Glance 2022」OECD編著、中澤高志監訳、鋤塚賢太朗・松宮邑子・甲斐智大・申知燕訳、明石書店(ISBN978-4-7503-5634-1, 2023年9月26日初版第1刷発行)
出版社情報:内容紹介・目次情報。OECD Regions and Cities at a Glance 2022 の日本語訳。データサイエンスの授業で、Choropleth Maps を扱うこともあり、その例として、確認するために、図書館で手に取った。データの見せ方や、指標の作り方など、丁寧に説明もされていて、学ぶこともあった。ただ、同時に、気になったのは、日本のデータが無い項目が多いこと。韓国のデータはあるのに、日本のものがないものもある。部分的に欠落しているものは、他の章にもあるが、章全体で欠落しているもののみ記す。2章、5章、9章、19章、20章、22章、24章。
(2024.1.15)
- 「ランキング世界地理 統計を地図にしてみよう」伊藤智章著、ちくまプリマー新書436(ISBN978-4-480-68460-8, 2023.9.10 初版第1刷発行)
目次情報。高等学校の教師が、さまざまなトピックについて、ランキングと、世界地図(塗り分け地図)で、情報をつたえる書である。よくできている。ただ、このようなものは、紙媒体ではなく、Web 上で提供し、できれば、ある程度、インタラクティブに、見られるようにすべきだと思っていす。わたしは、そんなものを作っていきたい。この方のブログへのリンク。重要なのは、情報のソースに簡単にアクセスできことかと思う。それがまとまっていないのが少し残念。以下に、今後とのことも考えて書いておく。データの引用元:国際サッカー連盟(FIFA)World Ranking, 理科年表, Wikipedia "List of Longest moutain chains on Earth", GRDS世界河川流量データセンター, Wikipedia List of weather records, UNEP "World Atlas of Desertification: Second Edition (1997)", 国連食糧農業機関(FAO)世界の森林と森林面積率, アメリカ・国立氷雪データセンター(NSIDC), 内閣府防災白書, 国際連合経済社会局 "World population prospects", 世界銀行 "Fertility rate", 国連児童基金(UNICEF)"Child Mortality Estimates", 国連食料農業機関(FAO) "FAO STAT", UNESCO, UIS Stat, WHO, "The Global Health Observatory", World Urbanization Prospects 2018, International Migrants Stock 2019, The State of World Fisheries and Aquaculture 2020, FAO: Forest product statistics, British Petroleum: Statistical Review of World Energy 2021, IEA: Coal 2020, 世界原子力協会 WNA, IAEA PRIS, USGS: Iron, Ore Statistics and Information, World Steel Association, アメリカ商務省貿易局 International Trade Administration、USGS: Aluminum Statistics and Information, USGS: Copper Statistics and Information, United Nations Commodity Trade Statistics Database, UNWWTO: Tourism Statistics Database, World Bank: International Union of Railways, CIA: The World Factbook 2021, ACI: The top 10 busiest airports in the world revealed, IRF: Data Warehouse, UNCTAD: UNCTAD STAT, ILO: ILO STAT, Numbeo: Cost of Living, OECD: OECD Affordable Housing Database, 日本新聞協会:世界主要国・地域の有料日刊紙の発行部数, Wikipedia: Books published per country per year, WIPO: The Global Publishing Industory in 2021, ITU: MobileCellularSubscription_2000-2021, World Data.info: Spread of Christianity, World Population Review: Muslim Population by Country 2023, World Population Review: Buddhist Countries 2023.
(2024.1.26)
- 「古代アメリカ文明 マヤ・アステカ・ナスカ・インカの実像」青山和夫編、講談社現代新書2729(ISBN978-4-06-534280-0, 2023.12.20 第1刷発行)
出版社情報。マヤ・アステカ・ナスカ・インカのことは、ほとんど知らなかったのと、一次文明という視点からは、メソポタミヤ・エジプト・インダス、黄河流域、メソ・アメリカ(マヤ・アステカ)、アンデス(ナスカ・インカ)の四つという視点がスッと入ったので、手に取って読んでみた。これら、四つの順番も、時代もほとんど知らなかった。実際、日本の学者が、これらの文明研究に関わったのは戦後ということで、一般人としては、なかなか伝わってこなかったのだろう。印象に残ったのは、「アメリカ大陸の先住民は、前8000年頃から、100種以上の野生植物を栽培化・改良した。これは数千年にわたる先住民の努力の賜物であり、世界各地の社会発展に大きく貢献した。アメリカ大陸原産の栽培植物は、世界の栽培種のじつに6割を占める。ヨーロッパ人が略奪し尽くした先住民の『贈り物』が、結果的に旧大陸に住む大勢の人の命を救った。トウモロコシは、メソアメリカの人々の主食であり続けている。トウモロコシやアンデス高地原産のジャガイモは、旧大陸原産の小麦やイネを栽培できない、痩せた土地でも高い収穫量をもたらした。南米で栽培化されたキャッサバ(マニオク)は熱帯アフリカの主要産物になっており、何度かブームになったタピオカの減量でもある。」(p.13)とあり、他にも、トマト、ズッキーニ、トウガラシ、カボチャ、サツマイモ、バニラ、パイナップル、パパイア、カカオ、アボガド、インゲンマメ、落花生もそうだそうである。さらに、タバコやゴム、コスモス、ポインセチア、ダリア、サルビア、マリーゴールドなども南アメリカ原産。(p14)しかし、文字文明が発達しなかったこともあり、ある程度以上には、深くはならないようにも思う。「メソアメリカ文明とアンデス文明のデータは、文字、技術や自然環境をはじめとして西洋中心史観を相対化する。『文明は乾燥した大河の流域で生まれた』という考えは、高地と低地のきわめて多様な自然環境で文明が発達したメソアメリカとアンデスにはあてはまらない。またメソアメリカは、大型家畜なき人力文明であった。旧大陸の一次文明では、青銅器・鉄器や文字が文明の指標とされる。メソアメリカとアンデスでは基本的に石器が主要利器である、鉄器は用いられなかった。一方で、アンデス文明は無文字文明であった。また、絶対的な権力を行使する王を戴く統一国王はメソアメリカとアンデスには誕生しなかった。古代アメリカの二大文明は、人類の文明とは何かをより深く考える上でも重要である。」(p.287)同感である。
(2024.1.12)
- 「統計シミュレーションで読み解く 統計のしくみ R でためしてわかる心理統計」小杉考司・紀ノ定保礼・清水裕士著、技術評論社(ISBN978-4-297-13665-9, 2023.9.26 初版第1刷発行)
出版社情報・目次情報。本書で使われているコード、練習問題の解答例の、GitHub リンクが与えられている。第1章 本書のねらい、2章 プログラミングの基礎、第3章 乱数生成シミュレーションの基礎で、基本的な事項の解説の後、第4章 母数の推定のシミュレーション、第5章 統計的検定の論理とエラー確率のコントロール、第6章 適切な検定のためのサンプルサイズ設計、第7章 回帰分析とシミュレーション それぞれについて、シミュレーションを用いて解説している。統計的手法で、なにが仮定されているかがあまり明らかではないように、思っていたので、シミュレーションをするということは、それを明確にせざるを得ないので、本書の内容を追いながら、大体理解できた。実際の応用において、仮定を適切に、確認しているかどうか、正直不明だが、個人的には、整理ができてよかった。データサイエンスでは、統計的手法より、探索的な方法の方が適しているとも思った。以下は備忘録:「統計分析に使う数式を確立モデルと呼ぶことがありますが、このモデルとは理論的な形式、抽象化されたパターンという意味です。統計的検定ではあまり強調されることがありませんが、実はその背後にもモデルを仮定するという考え方が使われています。帰無仮説というモデルと、対立仮説というモデルのどちらを選択するか判定するというのが、帰無仮説検定のやっていることだからです。そのほかの分析の実践においても、データを取得してから分析や検定をするという『データが先、分析が後』という形式を取ることが多いですが、そもそもモデルの考え方があります。データを生み出すメカニズムについて理論的な仮定があり(データ生成モデル)、それに基づいてデータが生まれたと考えて、分析モデルを当てはめていくのです。データを生み出すメカニズムに、数式的構造を仮定することをモデリングと呼び、回帰分析や平均値差の検定などはデータ生成モデルの数式的構造としてごう単純な線形モデルを想定していることになります。」(pp.2-3)「R Package extraDistr」(p.69)「独立分布に従う(i.i.d.: independently, and identically distributed)」(p.77)「中心極限定理:平均がμ、分散がσ2である、母集団分布にしたがう、i.i.d の確率変数 X1, ..., XN があるとき、サンプルサイズ n が大きくなるにつれて、標本平均の標本分布は、平均μ、標準偏差(標準誤差)σ/√n の正規分布に近づく。」(p.144)「標本平均を変換した量が、t 分布に従うためには、標本平均が、正規分布に従う必要があります。」(p.156)「上の F の式の分母が間違っている。」(p.208)「1標本t検定のサンプルサイズ設計:1. 小さめの(最低でもこれぐらいはとる)サンプルサイズ n を適当に定める。2. 見積もった効果量δ_0 とn から非進度λを計算、3. n から帰無分布(t 分布)の自由度を計算し、定めた αから、臨界地を計算する。4. 2で求めた臨界値と悲心度からタイプIIエラー確率を計算する。5. タイプII エラー確率が定めた、β を下回っていればそこで終了。上回っていれば、n = n+1 そてぃえ、2に戻る。」(p.239)「問題のある研究実践(QRPs: questionable research practices)、結果を見てから、帰無仮説を変更する(HARKing: Hypothesizing Afer the Results are Known)」(p.225)「回帰分析はある変数を目的変数、別の変数を説明変数として、説明変数を使った関数で目的変数を表現する方法です。」(p.255)「残差 e_i が偶然生じる傾向のないゆらぎ(偶然誤差)であるなら、平均 0、標準偏差 σ の正規分布に従う確率変数だと仮定できます。」(p.256)「慎重に考えるなら、そもそも複雑な文脈の中で発生するデータに対して、単純な線形モデルの仮定が成り立つことなどあり得ない様に思えてきます。理論的な必然性があって線形モデルになるのであればよいのですが、線形モデルしかしらないので仮定を満たしていると考えよう、というのは本末転倒です。できるだけ丁寧にデータ生成プロセスをモデル化して、事前にいろいろシミュレーションするよう、準備もしっかり時間を割くべきです。」(p.304)
(2024.3.2)
- 「苦悩への畏敬 ラインホルト・シュナイダーと共に Reinhold Schneider, 1903-1958」下村喜八著、YOBEL, Inc. (ISBN978-4-909871-95-4, 2023.10.1 初版発行)
出版社情報・目次。大学図書館に新しく入った図書として並んでいて、最近考えている「個人の尊厳は、一人ひとりの苦悩にある」と近いものを感じて、手に取った。ラインホルト・シュナイダーにも興味を持ったが、直接的に、シュナイダーについて書いてある箇所は少なく、その意味では、少し残念であった。著者は、共助会に長らく関わっておられる方で、本書に収録されているものも、かなりが「共助」が初出となっている。ほかに、北白川通信など北白川教会に関連するものが多い。京都大学哲学系の流れのドイツ文学が専門の方である。本書81ページには次の様にある。「シュナイダーはシュヴァイツァーが彼の家を訪れら時に、この『苦悩への畏敬』という言葉を漏らしているため、シュヴァイツァーの『生命への畏敬』を意識して使っているものと思われる。『生命への畏敬』はわかりやすいと思われるが、『苦悩への畏敬』はわかりやすいとは言えない。しかし、シュナイダーの信仰と行動の根底にある思いであり、考え方である。」とある。以下は備忘録として記す。「第二次世界大戦後の日本とドイツの歩みは、よく比較して論じられるが、その際に戦中と戦後を切り離して論じられるために、大事な点が見落とされがちである。それは、戦争中に抵抗運動があったかどうかということ、それが戦後の歩みとどう関わっているかという点である。」(p.15)「人間は父に似るよりも、その時代に似るー歴史的なものと主体的なものとの間に境界線はないー時代は我々の内で生じる。」(p.19)「1934年1月ベルリン:放送局から送られてくる集会の様子が地下室から漏れ聞こえてくる。がなりたてる声だ。怪物が勝利の雄叫びを上げている。他の声とは混同することのない声、絶えず嘘をついていながら一度も嘘をついていない声だ。なぜなら、その声の中で語っているのは、ふつふつと湧き立っている権力だからである。私にはまったく理解できない。どうして人々は、その声に耳を傾けるという苦痛に自ら進んで身をさらすのであろうか。どうして部屋の中で一人きりであの声を聞くなどということができるのだろうか。どうしていくつもの家族が、あの単調で、すべての共同体を粉砕する闇の唸り声を聞きながらテーブルを囲むことができるのだろうか。まったく理解できないことである。」(p.20)「正義に基づかない国とは何であろうか。そのような国は必ず滅びるに違いない。国を獲得するために罪が手助けすることがあるであろうが、しかし何よりも確かなのは、罪は再び必ず償われなければならないということである。」(p.22)「永遠のために時代と戦う人間は、時代が彼を打ち殺そうとしても、それに甘んじなければなりません。(「カール5世の前に立つラス・カサス」の中の主人公の言葉)」(p.27)「シュナイダーにとって真理とは、ここでは端的にイエス・キリストのことである。キリストは具体的な人間の姿をとって、歴史の時間の中に降りてきた真理である。それは人間が発見したり認識したりする科学的真理とは次元をことにする真理である。この『主の姿の内なる真理』は、人間はいかにいきるべきか、あるいは社会はいかにあるべきかと言った倫理・善悪の問題と関わるものである。それに対し科学的真理は、ひとたび発見されると、それを発見した人間が誠実であろうと不誠実であろうと、そのようなことはいっこうに問題にならない。発見された真理そものものは、人間的態度や生き方とは無関係に成り立っている。しかしキリストの内に啓示された真理(Wahlheit)は、人間に『真実な(wahr)』生き方を求めてくる。それは、先に引用した詩にもあるように、『人間が作り上げたものでも、経験したものでもなく』人間の創造、活動、認識、共感、経験の能力を超えたところから、恵として啓示されたものである、」(p.29)「ボンヘッファーは、今や、かつて倫理上の判断を可能にした理性・原理・良心・自由といった尺度がまったく使いものにならない時代になってしまったために『善か悪か』という単純な二者択一はもう不可能であると考えた。そして国家がそのあるべき姿から逸脱して人々の権利を奪い、暴虐を働いた時、教会のなすべき最後の可能性として『車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるだけでなく、車そのものを停める』行動に出ることがありうるとした。そして、巨大な歯車を停めるために、ヒトラー暗殺という悪(殺人の罪)を選択した。」(p.51)「抵抗の声を上げ続けることができた理由:第一に、苦悩の体験を通して、キリストに出会い、苦しむ人と共に苦しむ人に変えられたこと。そして弱者の立場から歴史と時代を見る視座が与えられたこと。第二に、信仰によってキリストに従い、自分の生をキリストの生と同じ形にすることを祈り勤めたことである。そしてキリストの生は、単に個人的な次元の生ではなく、愛に基づく交わり(神の国)を作り出す生である。第三に、キルケゴールのいうキリストとの同時代性(同時性)を生きようとしたことである。」(p.68)「エミール・ブルンナー:苦しむことができない存在は、愛することもできない存在である。愛にもっとも満ちている存在はもっとも苦しみを感じうる存在である。」(p.137)「メルケル:わたしたちは財政を強化しなければなりません。未来の世代に負担をかけながら生きるわけにはいかないからです。未来の世代に負担をかける生活は、社会進歩とはいえません。一つの世代のことだけ考えて次の世代を考慮しないのは、まったくのナンセンスです」(p.235)「『大山定一:ドイツ語で書かれたキリスト教関係の書物の翻訳は間違いが多く、ずさんであるから注意しなさい。』宗教改革時代のある有名な信仰問答の翻訳にはたくさんの間違いが認められる。そして、その翻訳をもとにして考察された講解・講話では間違いが増幅されることになる。この場合、知的手続として三つの過ちを指摘できる。まず原文を正確に読むという手続、次に、既刊の翻訳を用いる場合、訳が正確かどうか検証する手続が必要である。しかし何よりも、原文によらず翻訳をもとに解釈するという手続きが一番の問題である。」(p.247)「私は、戦争をなくすることができる、地上の血の流れを鎮めることができると考えている平和主義者たちをうらやましく思う。しかし、私は知っている。戦争や戦争の叫びがますますどぎつくなり、ついには自然界の諸要素が熱のために熔け、地とそこで造りだされたものは燃え尽きてしまうであろうことを。この不変、不滅の現実を前にしてキリスト者は平和を生きなければならない。」(p.250)
(2024.3.14)
- 「ダーウィンの呪い」千葉聡著、講談社現代新書 2727 (ISBN978-4-06-533691-5, 2023.11.20 第1刷発行)
出版社情報・目次。わたしがしっかりと学んだことがなかった分野なので、手に取ったが、予想以上の内容で、非常に学ぶこと、考えることが多かった。ダーウィンの進化論について言われる、自然選択、適者生存などの意味を自分の思想に合わせて理解したり、進化を進歩とすることなど、さまざまな誤解からはじめまり、優生思想の広がりや形を変えたかたちで進展して行くなど、現代にも、将来にも色濃く存在する、課題を含めて、取り扱っている。宗教的な考え方との軋轢も多少は登場するが、その面でも、非常に公平に書かれている。著者にも興味を持った。いずれ、この方の他の著書も読んでみたい。一回では、十分理解できたとは言えないが、いくつかのことについて整理できたことと共に、統計学を切り開いた人たちが、優生学に深く関わっていたことにも興味を持った。このような本の英語版もあれば読んでみたい。いろいろなひとと語り合うために。最後には膨大な文献リストもついている。できれば、そのような論文もいくつか読んでみたい。以下は備忘録:「生物学的進化の意味は、遺伝する性質の世代を超えた変化である。現代のそれは発展や発達、進歩の意味ではない。生物進化は一定方向への変化を意味しない。目的も目標も、一切ないのだ。そのプロセスの要は、ランダムに生起した変異が自然選択のふるいにかかって起きることである。まずはダーウィンの背雨t名から見てみよう。『.. どんな原因で生じたどんなわずかな変異でも、ほかの生物や周囲の自然との無限に複雑な関係の中で、その変異が何かの種の個体にとって少しでも有益であれば、その個体の生存につながる。そしてその変異がその個体の子孫に受け継がれるのが普通である。さらにその子孫も生き残る可能性が高くなる。なぜなら、どんな種でも、定期的に生まれる多くの個体のうち、ごくわずかしか生き残らないからである。このわずかな変異でも有用であれば保存されるという原理も、わたしは「自然選択」と呼んでいる。それは人間による選択の力との関係を示すためである。』」(p.12)「ダーウィン:『ある動物が他の動物より高等である、と語るのは馬鹿げている。』フッカーに宛てて、神よ、『進歩する傾向』というラマルクの馬鹿げた考えから、わたしをお守りください。(1837)」(p.14)「ダーウィンの主張の要点:第一に生物の種は神が創造したものではなく、共通祖先から分化、変遷してきたものであり、常に変化する、という主張。第二に、生物の系統が常に変化し、枝分かれする以上、種は類型的な実体ではなく、科や属や亜種と同じく、形のギャップで恣意的に区分される変異のグループに過ぎないという主張。第三に、そうした変化を引き起こした主要なプロセスは自然選択である、という自然選択説の主張である。そして、この三つに基づいて、生物の進化は何らかの目的に向かう進歩ではなく方向性のない盲目的な変化である、とう主張が導かれる。」(p.14)「個体の出生率と生存率の積を適応度(絶対適応度)としよう。表現型を体サイズとしよう。(1)体サイズがより大きい個体がより適応度が高い場合、それに関与する対立遺伝子の割合が世代の経過とともに増えるので、集団のメンバーは大型化して行く。(2)もし中間的な体のサイズの個体の適応度が低い時、集団のメンバーは大型と小型に二極化する。(3)逆に中間的な体サイズの個体の適応度が高い時、集団のメンバーの平均的な体サイズは変化せず、ほぼ一定に保たれる。これらすべての自然選択の効果である。この3タイプの自然選択やそれぞれ、方向性選択、分断性選択、安定化選択と呼ばれる。」(p.38)「ハクスリー:進化論が道徳の基礎を提供できるという考え方は、『適者生存』という用語の『適者』の曖昧さから生じた幻想であると考えられる。私たちは通常、『適者生存』を『最良』というわかりやすい意味で使う。そして、『最良』は倫理的な意味で捉えがちである。しかし、生存競争の中で生き残る『適者』は、倫理的には最悪な者である可能性があり、実際その場合が多い。」(p.51)「ダイアン・ポール:適者生存による進化は、進歩には自由放任主義の経済が必要なことを容易に示唆した。また、より富裕層の出生率を高める社会生活の必要性も示唆した。経済の自由主義は、主力産業の成功を保証したかもしれないが、生物学的な個人の将来に関しては、災いをもたらすことになる。なぜなら19世紀から20世紀初頭にかけての進化論者(ダーウィンを含む)ほぼ全員にとって社会的成功と繁殖成功が相関しないことが明らかだったからである。」(p.52)「結局のところ社会にとっての進化論とは、すでに定着していた自然と社会の進歩的変遷の見方を言い換えたものであり、それまでの自然と社会を支配する融通無碍な一般法則、つまり神の摂理を、科学に基づく自然法則で置き換えたものであった。別の言い方をするなら、神の代役ー『科学』による正当化が、『ダーウィンによれば...』である。」(p.75)「『最も強い者が生き残るのではない。最も賢いものが残るのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である。』(ダーウィンのことばではない)『そうした本能は、すべての生物を発達させる一つの普遍法則、つまり増殖、変化、そして「最も強い者」を生かし「最も弱い者」を死なせることの、小さな結果だと考える方がずっと納得できる。』(種の起源7章サマリー)」(p.90)「ジェームズ・レイチェル:人々が可能な限り幸福であるとともに、日々の生活をよりよくし、すべてのひとの利益が同じであるための人間関係の原則が道徳の基準である。」(p.111)「多くの生物学者や哲学者は、重篤な遺伝性疾患の治療を除けば、個人の生殖細胞系列の遺伝的な改良を許容しない立場である。例えば哲学者マイケル・サンデルは、それが人生を贈り物とみなすことを脅かし、ありのままを大切にする意志を損ない、自分の意思の外にある者を見たり肯定したりできなくなるとして反対している。また、この問題の本質は、子の設計を企図する親の傲慢さ、出生の神秘を支配しようとする衝動にあると主張する。」(p.119)「進化の問題は、二つの違う方法で、研究できる。第一に、様々な生物の過去の歴史の中で実際に起きた進化的事変の順序をたどる。第二に進化的変化をもたらすメカニズムを研究する。」(p.147)「ブラント(絞首刑の直前)ありとあらゆる人体実験を主導して来た国が、その実験方法を真似ただけの他国を非難し、罰せるのか。それに安楽死でさえ!ドイツを見よ、その苦境は操られ、わざと引き延ばされて来た。人類の歴史上、広島と長崎の罪を永遠に背負わなければならない国が、誇張された道徳を隠れ蓑に自らを隠そうとするのは当然で、驚きではない。方を捻じ曲げるな。正義は絶対そこにない!全体を見ても個々を見ても。支配しているのは権力である。そして、この権力は犠牲者を欲している。我々はその犠牲者だ。私はその犠牲者だ。(米国の強制不妊手術プログラムが、他ならぬ最高裁判所が公認したものであるなら、ナチス・ドイツの強制不妊手術プログラムを、果たしてどれくらい悪い者だったと言えるのだろうか。)」(p.185)「優生学は事実上、人々の優劣を特定の階級の人々が決めた上で、その階級の社会的地位と偏見をよりいっそう反映する社会を作るために使う応用科学だった。」(p.207)「フィッシャー:社会的な人間にとっては、努力で勝ち得た成功は、社会的地位の維持や獲得と不可分である。ところが社会的地位が低い職業ほど繁殖力が強いのだ。つまり私たちは、生物学的な成功者が、主に社会的失敗者であるというパラドックスに直面しなければならない。また同様に、社会的に成功した富裕な階級は、生物学的にほぼ失敗者、つまり生存闘争に不適格なものであり、おおむね速やかに人類集団から根絶される運命にある階級だということになる。」(p.208)「ジョサイア4世:この法案の裏に書かれている精神は、博愛の精神でもなく、人類愛の精神でもない。この法案は、労働者階級を家畜のように育種しようとする恐ろしい郵政学会の精神を示すものである。労働者階級の品種改良に執着する人々は、魂の存在を思い出すべきだ、そして人々を金儲けいの機械に変えたいという願望は、H.G.ウェルズの恐ろしい悪夢でしかないことを思い出した方がよい。『タイムマシン』の中で描かれた数千年後の社会は残念ながら完全体には脳がなく、労働者階級は猛獣以下の闇の労働者となる。」(p.218)「個人の人生、結婚、家庭、育児、教育に対する国家の介入と強制は、スペンサーの進化論に従えば、社会を弱体化させる最も由々しきモラルハザードであった。」(p.219)「科学者が思想を生み出したというより、思想が科学者を宿主とし、科学を武器に利用したのである。」(p.253)「1980年代後半の生命倫理の専門家:遺伝子疾患を持つ子孫は、後続の世代ごとに体細胞遺伝子治療で治療されるだろうが、特定の機能不全遺伝子が子孫に伝わるのを阻止できるなら、その方が効率的だろう。フリードマン:効率的な疾病管理や、発生初期などの難易度の高い細胞での損傷を防ぐため、生殖細胞系列の遺伝子治療が最終的に正当化される可能性がある。」(p.290)「(1)重度の遺伝的状態(主に単一遺伝子疾患)に関連する遺伝的変異の伝達を防ぐ。(2)一般的な疾患(主に多遺伝子疾患)のリスクを低減し、人間の健康増進や機械平等に役立てる。(3)統計的に正常な機能の範囲を超えて能力を高める。(4)現在の人間が持つ能力をはるかに超える能力を与え、それによって人間の限界を克服する。」(p.294)「おそらく近い将来、トランスヒューマニズムはすくなくとも部分的には実現するだろう。長い目で見てなにが起きるかわからないからという理由で、こうした実験が長く先延ばしにされることはないからである。」(p.301)「ジョン・デュプレ:還元主義は複雑な系の振る舞いの説明はできるが、正確な予測はできない。」(p.304)「デヴィッド・ヒューム:何が真実かという前提から直接どうすべきかという価値判断や道徳律など規範的命題は導けない。私たちがなすべきことを科学で決定できるのは、科学が得た経験的な情報を、価値観に基づく推論や道徳的な推論の連鎖で演繹的に組み込める場合に限る。例:命を守るべきである。治療すべきである。」(p.308)「人間が持つ知性と美徳の輝きは、確かに生命の進化がもたらして奇跡のひとつかもしれない。だが私には、生命、そして人間の美しさ、素晴らしさは、明暗入り乱れ混沌としたまま、どこまでも果てしなく広がり、かつ進化していく。無限の可能性にあるのではないか。という気がするのである。そんな矛に満ちた人間の一員として、私もあえて最後にこんな『呪い』の言葉を吐こうと思う。だってほら、あのダーウィンもこう言っている。『生命は、最も美しく、最も素晴らしい無限の姿へと、今もなお、進化しているのである』。」(p.319)
(2024.3.30)
- 「ケアと家族愛を問う 日本・中国・デンマークの国際比較」宮坂靖子編著、青弓社ライブラリー105(ISBN978-4-7872-3502-2, 2022.3.14 第1刷発行)
出版社情報・目次知人の本で、3カ国それぞれに興味があり、内容にも興味があったので手にとった。特に、家族社会学というジャンルで、家族愛をどのように扱うのかにも興味をもった。しかし、あまりにも、わたしがこの分野に学問として無知であることが大きな理由であろうが、比較においても、重要な部分をしっかり捉えることができず、正直消化不良となった。他の本も少しずつ読んでいきたいと思う。ケアと家族愛とあるが、後者について、明確に定義することが難しいだけではなく、文化的、社会的背景のもとで、なにを家族愛として認識するかに、大きな差異があり、それを、実際の活動と結びつけて、質問票から、本質を浮かび上がらせるのは難しいように感じた。価値観が形成されるには、さまざまな社会的要因、そこで行われている施策などが深く関係するのだろう。以下は備忘録:「不要让孩子输在起输跑线上(我が子がスタート地点で負けないように)」(p.23)「子育ち(ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィとクリステン・コル):学校教育の目的は、こどもが将来国の担い手として、民主主義の実践者になることにある。競争的な教育評価はなく、一人一人の個性にあった発達が大切にされる。自己表現や創造性を高め、自分のことを自分で決める力や人と協議して物事を決定する力、決めたことに責任を持つ自律性などを身につけることが目指される。」(p.28)「辣妈辣妹(Freaky Friday)」(p.104)「子不教父之过(子を養いて教えざるは父の過ちなり)」(p.106)「子育ての責任:① こどもを養う経済力、② こどもの身体的ケア、③ こどもの社会化に必要なしつけと知識や技能の伝授」(p.108)「ネットワークでのソーシャルサポート(ジェラルド・キャプラン):家族や友人、あるいは隣人などの個人を取り巻くさまざまな人々からの有形無形のサポート」(p.156)「九〇七三(北京市では九〇六三)老後自宅で暮らす人九十%、コミュニティを基盤に暮らす人七%、施設に入所する人三%」(p.74)「注(1) 世界保健機関(WHO)の定義では、総人口で、一般的に高齢者とされる65歳以上の人口の割合(高齢化率)が七%を超えると、高齢化社会、十四%を超えると高齢社会、二十一%を超えると超高齢化社会とされている。日本は、1970年に高齢化社会、1994年に高齢社会、2007年に超高齢社会に突入した。」(p.178)「上野千鶴子:家事は世帯内で生命・生活を維持するなくてはならない活動のうち、自分以外の他者に移転できる活動。ケアは依存的な存在である成人またはこどもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとで、満たすことに関わる行為と関係」(p.223)
(2024.4.8)
- 「人新世の『資本論』」斎藤幸平著、集英社新書1035A(ISBN978-4-08-721135-1, 2020,9.22 第1刷発行)
出版社情報・目次。わたしの若い頃は、経済学はマルクス経済学(マル経)と近代経済学(近経)に分かれて対立し、東大など中心的な大学のほとんどで、マル経が優位だったと聞く。それが、1991年のソ連崩壊以後、マル経はなりをひそめ、近経では、資本主義(自由な市場の)経済の勝利を謳う。実際、最近、Mankiw の教科書を読んだり、edX での経済の講義を聞いたり死たが、そこでも、その正しさをかならず主張していた。それにも違和感を感じ、マルクス経済学はどうなってしまったのだろうと思っていたら、それは歴史経済学という名前で続いているとも聞いた。新しいマルクス理解・環境問題の視点も取り入れたものとして、若手のホープともいわれているという著者の本を手に取った。公立図書館で予約したが、多くの予約がついていたようで、手元にとるまでに時間がかかった。よく読まれているようだ。しかし、実際、手にとって読んでみると、怒りのようなものが込みあげてきた。1960年代後半からの学園紛争時代に引き戻されるようで、結局、分断と正統性の主張が背後にあると強く感じたからだろう。いくつかの重要な指摘(特に事例)もあるが、後年のマルクスに引き寄せてそれを絶対的に正しいものとして、都合の良いところだけ他の考えを例示し、他の考えに反論を加える。昔に引き戻される感覚が辛かった。「左派の常識からすれば、マルクスは脱成長など唱えていないということになっている。右派は、ソ連の失敗を懲りずに繰り返すのか、と嘲笑するだろう。さらに『脱成長』という言葉への反感も、リッべラルの間で非常に根強い。それでも、この本を書かずにはいられなかった。最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候危機と資本主義の関係を分析していく中で、晩年のマルクスの到達点が脱成長コミュニズムであり、それこそが『人新世』の危機を乗り越えるための最善の道だと確信したからだ。」(p.359 おわりに)この「確信」に問題があるように思う。そして、最初から分断を仮定しての議論。ひとは、ほとんど何もわかっていないことを認めなければ、協働はできないだろう。残念ながら、人の欲望についての考察などはせず、唯物論的史観での科学的思考万能主義、帰納的に得た個別の事実から、すぐに演繹するという乱暴な論理展開が多すぎるように思う。科学者はもっと謙虚である。無知であることを知っているから。障害者支援や老人介護、児童養護施設などの「(著者も重視している)ケア」の現場で生活し、ときをすごすことが大切なように思う。以下は備忘録。「かつてマルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる『宗教』を『大衆のアヘン』だと批判した。SDGs はまさに現代版『大衆のアヘン』である。」(p.4)「グレタ・トゥンベリ:あなたたちが科学に耳を傾けないのは、これまでの暮らし方を続けられる解決策しか興味がないからです。そんな答えはもうありません。あなたたち大人が、まだ間に合うときに行動しなかったからです。」(p.40)「ヨハン・ロックストローム:地球システムには、自然本来の回復力(リジリアンス)が備わっている。だが一定以上の負荷がかかると、その回復力は失われ、極地の氷床の融解や野生動物の大量絶滅など急激かつ非可逆的な、破壊的変化を起こす可能性がある。これが『臨界点(tipping point)』である。もちろん、臨界点を超えてしまうことは、人間にとっても非常に危険である。そこで、その閾値を九領域において、確定しようとした。気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、大気エアゾルの負荷、化学物質による汚染からなる。『緑の経済成長という現実逃避』 2019」(p.63)「バーツラフ・シュミル:継続的な物質的成長は不可能である。脱物質化(より少ない資源で、より多くのことを行うことを請け合うが)も、この制約を取り除くことはできない。」(p.96)「Daniel W.O'Neill et al. "A good life for all within planetary boundaries," Nature sustainability 1 (2018)」(p.107)「労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を越え、自由、平等、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。」(p.137)「マルクス:この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有を作り出す。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有を作り出すのである。」(p.143)「マルクス像:資本主義の発展とともに、多くの労働者たちが資本家たちによって酷く搾取されるようになり、格差が拡大する。資本家たちは競争に駆り立てられて、生産力を上昇させ、ますます、多くの商品を生産するようになる。だが、低賃金で搾取されている労働者たちは、それらの商品を買うことができない。そのせいで、最終的には、過剰生産による恐慌が発生してしまう。教皇による失業のせいでより一層困窮した労働者の大群は団結して立ち上がり、ついに社会革命を起こす。労働者たちは開放される。『共産党宣言』1848」(p.149)「マルクス『ザスーリチ宛の手紙』資本主義の危機は、資本主義制度の消滅によって終結し、また、近代社会が、最も原古的(アルカイック)な累計のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰することによって集結するであろう。」(p.191)「ローダデール:公富とは人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなる。私財は、私個人だけにとっての富のことで、それは、人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなるが、一定の希少性を伴って存在するもの。」(p.244)「資本論:自由の国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。(中略)この領域における自由は、ただ、社会化された人間、アソシエートした生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって、ーー盲目的な支配力としてのそれによって、ーー支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、(中略)この点にだけありうる。しかし、それでも、これはまだ依然として必然の国である。この国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の国が、ーーといっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然の国の上にのみ開花死うるのであるが、ーー始まる。労働日の短縮が根本条件である。」(p.270)「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」(p.328)「経済モデルの変革:既存の経済モデルは、恒常的な成長と利潤獲得のための終わりなき競争に基づくもので、自然資源の消費は増え続けていく。こうして、地球の生態学的バランスを危機に陥れているこの経済システムは、同時に、経済格差も著しく拡大させている。豊かな国の、とりわけ最富裕層による過剰な消費に、グローバルな環境危機、特に気候変動のほとんどの原因があるのは間違いない。」(p.330)
(2024.4.16)
- 「ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門」トーマス・レーマー著 白田浩一訳 新教出版社(ISBN978-4-400-11908-1, 2022.3.25 第一版第一刷発行)
出版社情報・目次。知人の翻訳で、家にあったので、手に取って読んだ。旧約聖書の解説で、護教的なものは多いが、この本は、まさに不都合な記事について、正面からうけとめ、歴史的な背景理解から、解説している。旧約聖書の豊かさを語っているとも言え、新約聖書との関わりにおいても、さまざまな問いに、完全に答えるというよりも、多面的な見方を聖書本文を忠実に読みながら、読者に問いかけている。旧約を読み解くほどの学識がわたしにはないが、まさに、このような読み方が学びたかった。つづけて、学んでみたいと思う。以下は備忘録。「第二次世界大戦後、特にユダヤ教に親近感をもっている一部のプロテスタントにおいて、キリスト教が旧約の神に対して持つイメージが大分良くなったことは確かである。」(p.24)「旧約聖書の神には歴史があり、それを無視してはならない。仮に今、神について描かれたテクストの選集を作り、教会教父、中世のスコラ哲学者、宗教改革者、啓蒙主義者、無神論の哲学者、そして現代の偉大な神学者の作品を収録するとしよう。収録された作品をすべて同じ時代に描かれたものと考えて、歴史的な背景を考慮に入れずに読む人などいない。むしろ、読者は個々の作品を、特定の時代や環境の産物として読むだろう。」(p.25)「モーセの歌:いと高き方(エル・エリオン)が国々を割り当てた時、彼が人類を分配した時、彼は神(エルの息子)の数に従って人々の境界線を定めた。主の(ヤハウェ)自身の取り分は彼の民、彼が引いたヤコブがその取り分。」(p.27)「イマヌエル・カント(1724-1804)の問い:人間はどのようにすれば、聖書のテクストを通じて語りかけてくるものが神であると確信できるのか。この問いに対して、カントは確実な答えはないと信じていた。それどころかある条件の元では、語りかけてくるものが神ではないことはわかるとも考えていた。」(p.84)「カントは次のように応答すべきだったという。『私は、息子を殺すべきではないということ、このことは全く確実です。しかし、私の前にあらわれているあなたが、本当に神であるということ、このことに、わたしは、確認がありません。』」(p.85)「二つの避けるべき危険:最初から神を擁護してしまう危険。たとえば、神は神を信じるものに害を与えることなど決してないと主張し、問題があると思われているテクストと真剣に向き合わないといった具合である。もう一つは、それらのテクストが何を言わんとしているのかを真剣に検討せずに、神の『性質』に関する一般論に没頭してしまう危険である。」(p.87)「列王記下3:26-27 イスラエル(およびユダとエドム)と戦い、策に窮したモアブの王が、息子をモアブ人の神ケモシュに捧げたということである。元のテクストでは、その生贄がイスラエルの民に対するケモシュの怒りを引き起こした子となっていたに違いない。その結果、イスラエルの民は引き上げざるを得なかったのだ。しかし、現在のテクストは人身供養を非難している。従って、イスラエルの民はモアブの王の行為に嫌悪感を抱いたあまり、引き揚げて国へと帰ったことを示唆しているのであろう。」(p.88)「エゼキエル20:31 『わたしもまた、良くない掟と、それによって生きることができない方を彼らに与えた。』書き手は人間を生贄に献げることと、ヤハウェ礼拝の関連を否定してはいない。」(p.100)「神は残忍なのだろうか。神は人類の敵であるかのように行動しているのだろうか。ここまでに検討した四つの物語は、いずれも残忍な、あるいは、破滅的な人間の行為がもたらしたものであった。つまり原理主義的な考え方と幼児供犠である。今日、私たちの目に残忍に見える神の行為は、人間の残忍さについて問いを投げかけている。別の言い方をすれば、これらのテクストは実のところ人間の残忍さのものであって、神の残忍さについてのものではない。従って、神の残忍さとは、単に神へと転嫁された人間の残忍さに過ぎないのではないかと問うことができよう。だが、これは心理的な、そしていささか安直な解釈ではある。」(p.118)「ヨセフ物語は、エルサレムの正統的な宗教や、さらにはバビロンの宗教よりも、リベラルなユダヤ教を提示している。この物語は普遍的な神学を展開しており、ヤハウェよりもエロヒームという名を好んで用いる。ヤハウェに対する信仰はヘブライ人だけのものであるというような特殊性は強調されていない。それどころか、ファラオとヨセフは何の問題もなく神学的な議論を行なっている。」(p.148)「個人の自由を支持する多くの現代人にとって、旧約聖書の神は人間にとても守れないような多数の方を与える独善的な神と映る。(中略)人間は最初から罪人であり、そうであるのは、最初の人間のカップルが罪を犯したからだという考え方である。しかし、パウロが展開したこの原罪という考え方(ローマ5:12-21, 7:13-23)は、本当にヘブライ語聖書に存在するものだろうか。」(p.152)「自由意志の問題。どの程度まで、人間は自らの運命の自由で絶対的な支配者であるのか。そしてどのようなかたちで、人間の自由は神に依存しているのだろうか。」(p.158)「トーラーの権威者もトーラーを続けて研究するように求めている。『法』は常に再創造されなければならない、それこそイエスが山上の説教で行っていることであり、法の再解釈を推し進めたのだ。」(p.164)「神はカインに対して父親のように語りかけ、罪に陥ることがないように勧告している。創世記4:7で罪ということばが初めて聖書に登場する。従って、聖書のテクストによれば、『原罪』とは『りんごの物語』つまり創世記3章に記された神の命令に対する過ちの物語ではない。真の罪とは、暴力に好き勝手させてしまうことなのだ。」(p.180)「本書の目的はこのような神学的複合体を強化することではなく、ヘブライ語聖書の読者が戸惑い、あるいは排除したいと思うような神の側面に光を当てくることであった。」(p.225)「言い過ぎを承知で言えば、多くの新約文書はユダヤ教のミドラシュ(ヘブライ語の聖書のテクストを実践や解釈によって書き直したもの)の伝統に沿って構成されているのだ。ゆえに、マタイによる福音書はモーセ五書のミドラシュとして読むことができる。マタイによる福音書は五部構成であり、イエスを新しいモーセとして表しているのだ。」(p.227)「私が所属する国際基督教大学教会の礼拝でトーマス・レーマー教授の説教を聞いたのは、2014年5月のことでした。私たちの判断基準で聖書を評価してはならないと明快に語った説教は、私だけでなく多くの教会員を魅了しました。こんな素晴らしい説教をする方の本を読んでみたい。そう思って買い求めたのが本書の英語版です。」(p.244)
(2024.4.24)
- 「人口で語る世界史 The Human Tide: How Population Shaped the Modern World」ポール・モーランド著 渡会圭子訳 文春文庫 モ-5-1(ISBN978-4-16-792006-7, 2023.2.10 第1刷)
出版社情報・目次情報。統計的にも重要な人口についての基本について学びたいので手に取った。ある地域の人口が、その土地で生産される農作物で養える以上に増えると、食料供給が不足して、過剰な人口増加は抑えられるというマルサスの罠を、19世紀の産業革命以後、農業生産量の増加、輸送機関の発達、公衆衛生環境の向上などにより、乗り越えた国が現れるようになった経緯が、歴史や地域に焦点を当てながら丁寧に物語られている。基本的な部分は、理論通りに進み、驚くようなことがそれに加わる、それを読み解くのはとても楽しい。本書の欠点といえば、グラフが全く含まれていないことだろう。データから、自分で一つ一つ確認していきたい。世界人口統計2022(United Nations World Population Prospects 2022)も確認したいと思った。さらに、もう少し学び、自分の思考回路に含まれるようにしたい。以下は備忘録:
「紀元前47年、ジュリアス・シーザーが共和制ローマの終身独裁官になったとき、彼の領土は現在のスペインからギリシャまで、北はフランスのノルマンディー、そして地中海沿岸地域大半、現在の30カ国以上を含む地域に広がっていた。この広大な土地の人口は約五千万で、世界の人口二億五千万の約二十パーセントを占めていた。それから千八百年以上がたち、ビクトリア女王が即位した千八百三七年、世界の人口はおよそ十億人と、ローマ時代の四倍となった。しかしビクトリア女王の戴冠後二百年たたないうちに、世界の人口はさらに七倍に増えた。十分の一の時間で増加率は約二倍になったのだ。これは驚くべき速度であり、世界を大きく変える影響を与えた。」(p.23)「ナポレオンいわく、一番愛する女性は『いちばん多く生む女』、ローマ時代の歴史家で政治家であるタキトゥスは、ローマ人のこどもの数が少ないのは、多産のゲルマン人との比較を考えると好ましくないと述べている。アダム・スミス『国を問わず、最も明確な繁栄のしるしは住んでいる人間の数が増えることである。』」(p.34)「1980年代にアフガニスタンを支配しようとしたロシア、そして二十一世紀初頭にイラクとアフラにスタンとイラクの平均年齢が二十歳以下である一方、ロシアとアメリカのそれが、三十歳をゆうに超えていたからだ。」(p.35)「イラクの死亡率がUKの死亡率より低いと聞けば、ほとんどの人が驚くだろう、これは、イラクの人口が全体的に若いこと、そして画面で見る暴力が何万人、とくに何十万人にも関わる一方、栄養状態と医療の進歩は何百万人にも影響するという事実を裏付ける証拠である。1920年代、ヨーロッパが第一次世界大戦に突入し、ひどいインフルエンザが流行した時でも大陸の人口が増加し続けたのもそのためだ。」(p.48)「粗出生率と死亡率の利点は、シンプルで人口がどのくらいの速さで増加あるいは減少しているかわかることだ。欠点ー出生率と死亡率に”粗”がつく理由は、一国の年齢構成を考慮していないことだ。(中略)これを調整するために、人口統計学者は合計特殊出生率(total fertility rate)と平均余命を調べる。これらの指標は、平均的な女性が産むと予測される子供の数、一定の人口に対して若い女性が年人いるかに関わらず、ーと平均的な人があと何年くらい生きられるかー人口全体の年齢は関係なくーを示す。」(p.49)「著者の見解:第一に人間の命は本質的に善である。命を救って寿命を伸ばそうとすることには価値がある。一人の子の命を救うのが良いことなら、何百万人もの子の命を救うのはなお良いことだ。それが可能になると乳児死亡率が下がる。健康で文化的で長い人生は、不健康で暴力にまみれた短い人生よりはるかにいい。暴力や悲惨な大量死は、根本的に悪である。一人の人間の命が失われたことを悔やむなら、何人もの命が失われたら、もっと悔やむべきだ。自分の家族や友人に起きてほしくないことは、他人にも起きてほしくないと思うべきである。平等や環境主義、その他のの抽象的な目標の名を借りなくても、それ自体に価値がある。第二に女性が自分の妊娠についてコントロールできれば、集団として賢明な決定が行われる。女性が教育を受けて避妊ができるようになれば、養える以上の子供を産まなくなり、経済で見えざる手が動くように、人口にも見えざる手が働くようになると思われる。強制的な産児制限は間違っているだけでなく、そもそも不必要なのだ。人口問題も、他の多くのことと同じように、教育と技術のツールが与えられていれば、普通の人々が、社会や世界全体のたえには一番望ましいい決定を行うはずなのだ。」(pp.57-8)「マルサス(サリー州の田舎の牧師)人口論(1798):人口増加はそれを養う土地の能力をいつか必ず追い越し、そうなれば悲惨な状況と大量の死が待っている。」(p.64)「十九世紀の間にディケンズ的と考えられている状況ー下水溝、工場で働いたり煙突掃除をしたりする子供たちーが変わり始めた。1914年には、公衆衛生も大きく向上し、清潔な水と基本的な社会保障までが提供された。1858年に起きた大悪臭と、それに先立つコレラの流行のような事態は、下水道と公衆衛生が確立された50年後のロンドンでは想像もできなくなった。」(p.107)「乳児死亡率が低下し始め、十九世紀末には千人当たり百五十を超えていたのが、1914年には千人あたり百程度になった。パストゥール、コッホ、リスターらによる研究、病気についてや食事を用意するときや医療行為を行うときには特に清潔さが必要であると理解することは、死亡率を低下させる役に立ち、特に若い人の命を救うという恩恵をもたらす。このときから、乳児死亡率は、千人に百人が一歳の誕生日を迎えられない状況から、二十世紀半には、千人あたり三十人、そして現在は千人あたり四人まで下がった。」(p.108)「全国公共倫理委員会による、全国出生率委員会(National Birth Rate Commission)の設立。1911年マニフェスト。三人の下院議員、ケンブリッジ大学の二つのカレッジの校長、七人の主教、その他の指導者(救世軍ウイリアム・ブース将軍、フェビアン主義の先駆者、ベアトリス・ウェブ、未来の労働党党首など)により承認、」(p.132)「連合国千六百万人を動員、同盟国は二千七百万人」(p.143)「ヒトラー:10年のうちにドイツ人が今より一千万から一千五百万人は増えていて欲しい。将来のためには、多くの子が生まれることが不可欠だ、帝国に一億三千万人、ウクライナに九千万人、それに加えて他の新ヨーロッパの人口を合わせると、われわれは四億人になる。それに対してアメリカは一億三千万人だ。(中略)今日読んだものに、インドの人口は現在三億八千三百万人とあった。つまり過去十年で五千五百万人も増えたということだ。これは恐ろしい。ロシアでも同じ現象が見られる。我が国の医師はなにを考えているのか。ワクチン白人に与えれば十分ではないか。」(pp.148-9)「ケインズ(1919)歴史上の大きな事件は、人口増加とその他の根本的な経済的原因が、時間がたつにつれて変化することで起こる。その時代の観察者たちは、それらの要因に気づくことなく、愚かな政治家たちのせいにする。」(p.150)「ヨーロッパから出ていく移民は、第二次世界大戦前の数年間で、年間に十万人に減少した。(中略)1920年代は、チャンスと経済成長の時代であり、よい生活を求めて大陸を越えたいと思う人は減った。不謹慎かもしれないが、戦争で何百万人もの若者の命が失われたことで、母国に残った少年たちに出世の道が開け、配偶者探しの機会が多く与えられることになった。」(p.161)「『背く女』1977年 何年もの間、おむつについてウンチをキッチンナイフでこそげたり、さやまめ位置ポンドが二セントやすい店を探したり、頭を使うことといえば、男たちの白シャツにアイロンをかけたり、キッチンの床をそうじしてワックスをかけたり、家や子どもの世話をしたいするのに、いちばん効率的で時間のかからないやりかたを考えること、こういうことをするには、エネルギーと勇気と頭脳がいるだけでなく、生活のまさに基盤になってしまうことがある。わたしはあなたがそうであるように、こういう汚くてこまごましたことが大嫌い。」(p.210)「特に出生率が低い社会は、近代化、個人主義、女性解放が進み、晩婚化が進む一方で、婚外子を伝統的に好まない社会であるようだ。」(p.218)「現在のポピュリズムは、疎外された人々や、グローバリゼーションの結果によって失敗した人々の叫びではなく、世界における支配者の地位から後退しつつあり、いまや国内でも数が減っている単一な民族集団の異議申し立てであることが示唆されている。」(p.231)「ここで教訓として引き出せるのは、人口の潮流は独りよがりのエンジニア気取りの権力者よりも、普通の人々に任せるのがいちばんいいということだ。教育、避妊法を入手するある程度の機会を与えれば、たいていの男女、特に女性は自分自身のためになる、そして社会の要求にもかなった決定を行う。少なくとも出生率の低下については、そうだ。アダム・スミスの言う見えざる手は、経済だけでなく人口にも働きかけるのだ。」(p.315)「歴史と社会科学では因果関係がよく問われる。国家政策はどうあれ、人口動向は外的な因子として、外部から社会に持ち込まれて一方的に影響を与えるものではない。むしろ、社会そのものから現れるもので、その環境に起因すると同時に環境によって形成されるものだ。それでも、因果関係は人口動向のパターンから、世界の動き方とそこで起きる出来事へとたどることができる。そして人口の潮流が歴史の流れを決めることはないが、その形を作る。そして、たいていの場合、人口の動きが違えば異なる結果が生じる。」(p.342)「中東と北アフリカの問題点:人口開発指数(HDI 教育・健康・収入を重視)には欠点もあるが、個人の尺度を見ると同じ状況が浮かび上がってくる。」(p.344)「南アフリカデズモンド・ツツ師:(イスラエルとパレスチナの問題が解決できないなら)他の問題すべてを諦めなさい。核軍縮もテロとの戦いに勝利することも断念しなさい。ともに親しく友好的に生きると言う希望も捨てなさい。これこそが問題であり、それは私たちの手の中にある。」(p.356)「サハラ以南のアフリカいついては、人口学上の最後の未開拓地といえる。いまだ人口転換のまっただなかにある、地球上最後の広大な地域だ。アフリカがこの転換を通過するペースは、地球全体の未来に大きな意味を持つだろう。人口転換がいずれ起こるのはほぼ確実だが、正確にいつ起こるかは、今の段階ではわからない。」(p.371)「スリランカはいったん合計特殊出生率が置換水準を下回っても、その後ずっと回復しないわけではないことを示す例。バングラデシュは女性中心政策を推し進め、悲惨なレベルの貧困から脱した。」(p.380)「平均余命の計算のしかた」(p.411)「解説:トマス・マルサス『人口論』(1798)幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により発生する人口過剰すなわち貧困問題は、社会制度の改良では回避できない。」(p.464)「①乳児死亡率、②出生率、③移民」(p.466)「①増加するグレー(人口の高齢化)②増加するグリーン(環境にやさしい世界)③減っていくホワイト(白人の減少)」(p.466)
(2024.5.7)
- 「被造物ケアの福音 創世記から黙示録のエコロジー 神が創造した世界で私たちに問われる賢明な務めとは」デイブ・ブックレス著 石原謙治・石原香織訳 いのちのことば社(ISBN978-4-264-04481-9, 2024.4.20 発行)
出版社情報。Planetwise" by Dave Bookless の翻訳。著者は、arocha の神学ディレクターをしておられる。翻訳者のご夫妻から頂いた。環境問題にどのように向き合うかを、福音派キリスト者に語りかける書である。ある一定の背景をもったクリスチャンには、読みやすく、わかりやすく書かれているのではないかと思う。最近は、環境問題に関する神学の本がたくさん出版されているようだが、キリスト者がどのような問題として考えるかなど、基本的な部分は、まだ、未整理で、特に、日本にように、クリスチャンが少なく、かつ、なかなか共に語り合えるような状態ではないところでは、平易なことばで語る書は、ほとんどないように思う。個人的には、クリスチャンへの内向きな語りかけには、多少違和感があるが、このような書がたいせつであることは、確かである。わたしは、もう少し、包摂的に、神様にとってたいせつな人、たいせつなこと、たいせつなものは何ですか、という問いぐらいから始めるのがよいように思うが、どうだろうか。以下は、備忘録。「私が『プラネット・ワイズ』を、書いたのは、私が長年教会で、『福音は私たちがよく口にするよりもずっとおおきなものだ』という聖書のメッセージについて語ってきた結果です。福音は、わたしたちだけのものではありません。福音は被造物全体、つまり神が喜びのうちに造り、憐れみのうちに支え、愛のうちに贖う世界に与えられたのです。」(p.3)「神は私たちに、『みことばの書物』(聖書)だけでなく、『みわざの書物』(被造物)を与えてくださいました。その両方を読まなければ、私たちはバランスが崩れたクリスチャンになってしまいます。クリスチャンは不健全はカウチポテト(怠け者)になっています。」(p.8)「有名な天文学者であるコペルニクスが、地球が太陽の周りを回っていることを初めて認識した時と似ています。当時の人々は、コペルニクスの考えを脅威と感じ、彼を異端視しました。聖書が『地球はすべての中心に位置している』と記していると誤解していたからです。」(p.37)「ジェームズ・ジョーンズ司教:口蹄疫に関して、長年にわたるさまざまな農業危機は、被造物を侵害したやり方に対する神の裁きかもしれない。」(p.80)「私たちに何夜も必要なのは、深い心の変化です。個人としても集団としても、私たちは(ライフスタイルを変えることなく環境問題を解決できるという楽観的かつ)不可能な夢を見て生きてきました。私たちは地球を大切にするという、神から与えられた神聖な信頼を裏切ってきたことを認めなければなりません。私たちは、悔い改める必要があります。」(p.81)「W: 神の被造物への驚き Wonder at God's Creation, O:被造物を通して語られる神に心を開く Openness to God speaking through creating, R: 神が置かれた場所に根ざす Rootedness in the place where God puts us, S: 安息日に休息とレクリエーション Sabbath rest and re-creation, H: 被造物との実践的な関わり Hands-on involvement with creation, I: すべての関係性の統合 Integration of all our relationships, P: 神の国のための祈り Prayer for God's kingdom」(p.167)「ラビンドラナート・タゴール:クリスチャンの生き方からイエス・キリストが見られるそのとき、私たちヒンズー教徒は、鳩が餌場に群がるように、あなたがたが信じるキリストに群がるでしょう。」(p.195)「LIVING LIGHTLY 24.1, Wild Christian, Creation Care」(p.203)「これまで多くのクリスチャンは、この世界は暴走列車のように制御不能であり、神から与えられた指名は滅びゆく地球から死にそうな人々を救い出すことだと考えてきました。イエスが与えた教会という脱出計画は、暴走列車が崖という破滅に向かって突進する中、車両の連結を解いて安全な方向に向かう客車のようです。つまり宣教とは、手遅れになる前に人々を正しい車両に乗せるための時間との戦いと考えられてきました。しかし、聖書が根本的に言う神の使命は、これよりもはるかに大きく、はるかに胸が高まるものです。世界という列車、そしてそのすべての乗客は確かに破滅に向かって暴走しているのですが、希望はあります。神の救いは、一部の乗客のためではなく、列車そのものにあるのです。聖書のことばに戻ると、神が造り、愛し、気にかけ、イエスを通してご自分との関係性を取り戻されたのは、人間だけでなく被造物全体なのです。」(p.227)「宣教の5つのしるし:御国の福音を述べ伝える。新しい信者を教え、洗礼を授け、育てる。愛に満ちた奉仕によって人間の必要に応える。不公正な社会構造を変えようと努める。被造物の統合を守り、地球を維持し、新しくするよう努める。」(p.228)
(2024.5.19)
- 「われら主の僕 リベラルアーツの森で育まれ」ICU伝道献身者の会編 新教出版社(ISBN978-4-400-51769-6, 2024.2.29 第一版第一刷発行)
出版社情報・目次。寄稿者のお一人が出版早々に送ってくださった。ICU開学(1953年)の入学生、一期生から、三十五期生までのなかの、伝道献身者の証が中心である。最後に、並木氏と有馬氏の特別寄稿が付属している。さまざまな背景の方々が、なぜ現在までの歩みをしてきたか、そこに、ICUでの教育や出会いがどのように関わってきたかが中心に証しされている。その方々の背景・召命・活動分野などの多様性を見ると、この方々には、ICUでのキリスト教、そして教師や仲間との出会いが、重要な意味をもっていることが、母校愛とともに伝わってくる文章で埋め尽くされている。しかし、ICU卒業生ではないが、ICU に身を置き、歩んできた自分から見ると、現在の世界や、日本のキリスト教、または、福音に対する重荷や、痛みがほとんど感じられなかったのは残念である。日本の大学で活動するキリスト者のかなりの割合を、教員として、刈り集め、特別な使命をICUが担っていることの責務、そして、最後に、「主よ、どうかこの僕が地上の生涯を終えるまで貴方に従うものとして奉仕することをお許しください。」というエミール・ブルンナーの祈りや、「明日の大学」にかけた、湯浅八郎の「明日への奉仕」があまり感じられなかったと思うのは、私だけだろうか。それは、単に、ICUを卒業しなかったものの、遠吠えなのだろうか。以下は備忘録。「マックリーン師の提言:ナザレのイエスの教えと同じぐらい愚かな、A suggestion-As foolish as the teaching of Jesus of Nazareth」(p.3)「原崎(前田)百子:我が礼拝:わがうめきよ わが賛美の歌となれ わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ わが涙よ わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ 我が病む肉体から発する すべての吐息よ 呼吸困難よ 咳よ 主を賛美せよ わが熱よ 汗よ わが息よ 最後まで 主をほめたたえてあれ」(p.22)「那須斐(あや)子:主人は宣教師ビル・ヒンチマンに出会った時、早稲田大の新聞科でジャーナリズムを学んでいて、彼の自宅近くの宣教師館に Dr. アキスリングご夫妻と一緒に住んでいたヒンチマン宣教師の日本語学習を助けていました。」(p.34)「那須斐(あや)子:よく Brunner 先生は、responsive being という言葉を使っておられ、人間の姿を表現しておられました。その意味は、人間は応答する存在だけではなく、責任を伴う存在であることを自覚させてくださいました。」(p.34)「並木浩一:私のキリスト者活動の出発点には在学時代にブルンナー先生から教えられた平信徒殿堂の理想があります。ICU教員としては多様な仕事をしましたが『キリスト教概論』を講ずることは使命と思い、最後まで受け持ちました。絹川元学長が編集執筆した『リベラルアーツのすべて』にはこのクラスの実践体験を寄稿しました。」(p.47)「長沢道子:『喜びは分かち合えば倍に、悲しみは分かち合えば半分に』の歩みが続くよう願っています。」(p.70)「山村慧:GHWブッシュ『私たちは過去の過ちを完全に是正し償うことはできません。しかし、第二次世界大戦中に日系アメリカ人に重大な不正義がなされたことを認めます。償いをなす法律を制定し且つ心からの謝罪を表明し、あなたがた仲間のアメリカ国民は、自由、平等、正義というアメリカの伝統的理想に邁進する決意を新たにしました。』」(p.79)「青野太潮:原典が動いているのであるから、その原典から再構成されるイエスの現行の確定作業も、残念ながらまったく相対的なものに留まる他ない。そもそもイエスの語った人間の『救い』とは何なのか、という大問題からして、決定的に確定的ではない。解釈学の大家ボール・リクールの『神は死に値する罪のために、人間に贖罪を要求し、この贖罪を父なる神の子がわれわれの「身代わり」となって死ぬことを見出すのか。わが論証エネルギーの大部分は、この供犠理論への抗議に費やされると言わねばならない。私は供犠理論に、信仰の最悪の用法を見る』死ぬまで生き生きとー死と復活についての省察と断章より」(p.102)「中島孝宏:マザーテレサの働きとアジア保健研修所(AHI)の共通点は、両者とも社会の『最も小さくされた人びと』のための働きであるということです。私の理解では社会の中で構造化されている不平等の結果、否応なしに社会の周辺に置かれた人々が『最もちいさくされた人びと』になります。彼らも私たちと同様に健康である権利をもっていると、AHIは考えてきました。」(p.151)「ウイリアムズ郁子:斎藤和明先生のことば『郁子さんが今やっていることを続けていってください。つまり、このイギリスの社会で出会わされる一人一人に誠意を込めて接し、信頼に基づく関係をコツコツと築いていってください。それで良いのです。それが大事なのです。もし、何か他にやるべき時がきたら、それは神様が示してくださいます。』これは、非常に大事なアドバイスでした。」(p.185)「並木浩一:教養学部と伝道より。リベラルアーツ教育は、学生の個々人が自分の無知と狭い経験から解放されること、加えて内外の社会のために自分が寄与できる道を見定めることを理想とします。その出発は、入学時になされる『世界人権宣言』への署名によってなされています。人権感覚は他者を重んじて養われます。学生たちには、在学中に自分と意見を異にする人たちと『出会い』、『対話する』ことが期待されます。異質な他者との対話を重ねてこそ、人は自分を相対化することができ、変わることができます。」(p.250)
(2024.6.2)
- 「日本文化の核心 『ジャパン・スタイル』を読み解く」松岡正剛著 講談社現代新書 2566(ISBN978-4-06-518773-9, 2020.3.20 第一刷発行)
出版社情報・目次。正直、このようなタイトルの本には、疑念もあり、著者も知らなかったが、講談社現代新書の紹介の Podcast を聞いて借りて読むことにした。わたしが十分理解できた訳では無いが、秀逸である。背景にある、古典や、現代の文書もいくつも読んでみたいと思った。このようなタイトルのもとで、語り尽くすことは無論、不可能であるが、視点などは、いくつも提供されていて、考えさせられた。もともとは、フランス文学もされていたようで、海外のものも、ある程度吸収したうえで、語られている。この方のものを、もう少し読んでみたいと思った。内容については、備忘録として記す。「藤原公任『和漢朗詠集』こうしたスタイルはのちにまとめて『和魂漢才の妙』というふうに呼ばれます。『和魂』と『漢才』というふうに、あえて『魂』と『才』を振り分けたのも独特です。」(p.49)「私は日本の生活文化の基本に、この『しつらい』『もてなし』『ふるまい』の三位一体があると確信しています。私はかつて平安建都1200年のフォーラムのディレクターを担当したことがあるのですが、このときはまさに『しつらい・もてなし・ふるまい』をコンセプトにしてみました。」(p.50)「イザナギ・イザナミは最後にカグツチ(火の子)を産み、そのためイザナミは陰部を焼いて死んでしまいます。妻を失ったイザナギは悲しんでイザナミのいる黄泉に会いに行く。そこには汚物にまみれた異様なイザナミの姿があったので、イザナギはほうほうのていで逃げ帰り、清い水で身を禊ぎます。これが『黄泉返り』、すなわち『蘇り』の語源です。」(p.87)「津田左右吉『日本の神道』日本人がどういうものを『カミ』や『神祇』や『神道』とみなしてきたか。①古くから伝えられてきた日本および日本人の民族的風習としての宗教性。②神の権威、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの。③民族的風習としての宗教になんらかの思想的解釈を加えたもの。たとえば両部神道、唯一神道、垂加神道など。④特定の神社で長く宣伝されているもの。たとえば伊勢神道、山王神道など。⑤日本に特殊な政治もしくは道徳の規範を示している意義に用いられるもの。⑥近世以降の宗派神道、あるいは新宗教、たとえば天理教、金光教、大本教。日本人は、神様の正体をあえて明示的にしたくはなかったのだろうと推測できます。明示的ではないということは、あえて暗示的にしておくということです。そこで、神様のことを『畏まるもの』『畏れ多いもの』『説明しがたいもの』『憚るもの』『説明してはならないもの』『指させないもの』などと、つねに遠回しに言ってきたのではないかと思います。一番遠回しに言うと『稜威(いつ)』というふうになります。恐れ多いもの、近寄りがたいものという意味です。庶民にとっては、西行が『かたじけないもの』呼んだ言い方が一番近いかもしれません。『かたじけない』は漢字では『忝い』あるいは『辱い』と綴ります。『忝い』は『おそれ多い』『もったいない』という気持ち、『辱い』はそれを指摘するのは『はずかしい』というニュアンスです。『難し気なし』から転じた言葉です。」(p.92,93)「日本人は『惻隠』と『辞譲』をたいせつにする傾向をもったのだろうと思います。とくに何らかのいきさつで不都合や不首尾におわった者たちを不憫に思う心を、私たちは忘れないようにしてきた。『方丈記』には、地震や辻風で倒壊した家や変わり果てた風景の話が出てくるのですが、長明はこれを不憫なものとして綴っています。そしてそのような気持ちをもつことの前提に無常観があったのです。」(p.138)「私は青年神職の全国大会の構成演出を頼まれて二回惹きつけたことがあるのですが、このとき海外のゲストスピーカーに神事の作法を説明するのがいかに困難か思い知りました。三十代のときには同時通訳のカンパニーを十年にわたって預かり、しばしば海外アーティストや海外の文化人と日本文化とをつなげる役目を引き受けてきたにもかかわらず、型の話は一番むつかしかったです。」(p.147)「日本人は多くのものを『器』とみなしてきました。この器は入れ物としての器ではなく、何かの気持ちを乗せる乗り物としての器です。日本人には扇も箸も雛人形も『器』だったのです。現代風に言えば『メディアとしての器』だと言ってもいいでしょう。つまり『ちいさきもの』には日本人の本来の器用と器量がのせやすかったのです。扇子や手ぬぐいがいまなお挨拶や贈答に使われるのは、そういうせいでした。」(p.172)「明治政府が近代日本を構想するにあたって選んだ方針には、二つの達成目標がありました。『新しい日本をつくること』と『古い日本を自慢すること』です。新しい日本は統治力と産業力と軍事力を備えた新日本である。これは、文明開化・殖産興業・富国強兵のスローガンにあらわれた。古い日本の自慢は、万世一系の天皇とともに変遷してきた歴史を日本の国民として誇ることでした。そのためには、新しい学問で日本を説明できなければいけません。(中略)結論からいつと、西洋の学問を急速に採り入れつつ、一方で『教育勅語』に見られるような日本的な道徳観や国民観を植え付けていこうと決めたのです。しかし、これがいささか『ねじれ』を呼びました。(中略)貞永式目や武家諸法度に代わる『道理』の中身を明治臣民向けのものに入れ替えてしまったのです。」(p.188)「『守・破・離』は、茶道や剣道がたいせつにしてきた学習心得のようなもの、まずはしっかり型を守り、ついでは型を破って応用に進み、やがて型から離れて自在になれるというプログラムの目処を表します。」(p.228)「私は二十一世紀の日本文化を活性化させるには、一方では伝統文化や伝統芸能の『バサラっぽいもの』『歌舞伎っぽいもの』を溢れ出さることと、他方では近現代日本の表現力の中から過剰なものや密度の濃いものやパンクアートや大胆な劇画や過激なアニメのようなものをふんだんに並べてみることがかなり重要なことだろうと思っているからです。」(p.232)「ドイツ代表は森と風が講演の主人公だと言い、カナダ代表は公園は子供の目で作るべきだと言い、イスラム圏のガーデンデザイナーは『中庭は閉じていない』といっていた。韓国ではマダン(広場)は家族のためで、アメリカ人にとってはパークは個人をフリーダムに扱うところでした。日本からは桂離宮などの巡回型の庭園がいろいろと映し出され、『全貌が見渡させないのが日本の庭だ』という説明がなされました。」(p.239)「日本には『庭』のアーキタイプというべきもの(元型)が三つありました。『神(こう)庭』神が降りてきて、そこで何かを告知したり、そこに臨むものの心を鎮めたり高揚させたりする。『斎(いつき)庭』浄めたり裁いたりするところ。斎場やお白州、身を整えるところという意味。『市庭(いちば)』読んでその通り、まさに市場のこと。マーケット。さまざまなものが交換され、商われます。」(p.240)「文化(culture)とは、その時代の、その民族やその地域のライフスタイルや文物のすべてのことです。エドワード・タイラーの定義は『知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行その他、人が社会の成員として獲得した能力や慣習を含むところの複合された総体のことである』」(p.260)「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下:知を致すには、物に格(いた)る(万事万象の物の出来具合を弁別)ことをおそろかにしてはいけない。物に格れば、しかる後に知に致る。知に致ってのちに意(こころ)が誠になり、そののちに心が正しくはたらく。心が正しくはたらけば、身が修まるところがわかる。身が修まれば、家が斉(ととの)う。そうやって家が斉って初めて、国が治まる。国が治まれば必ず天下は平らかになるだろう。」(p.319)「経世済民:経はタテの糸のことです。このタテの糸が世の中を治める基軸になるので、経は『おさめる』と解釈されます。したがって『経世』は世を経(おさ)めることになる。済は救済などの済で、『すくう』という意味ですから、『済民』は民衆を救うことです。つまり経世済民は国が国を保ち、国が世を治めるコンセプトそのものでした。本来のナショナル・インタレスト(国益)のために、国をどうすればいいのか、それを考え、実行することが経世済民ということだったのです。(中略)今日では経世済民は政府の経済政策の代名詞になってしまっています。その中身は財政のプライマリー・バランスを黒字にする。規制を緩和するか強化する、公共政策を拡大するか縮小する、増税するか減税する、自由貿易と保護貿易の対比を決めるといったことで、かつての経世済民というものではありません。」(p.322,323)
(2024.6.11)
- 「『10の数字』で知る経済、少子化、環境問題 人口は未来を語る TOMORROW'S PEOPLE: The Future of Humanity in Ten Numbers」ポール・モーランド(Paul Morland)著 橘明美訳 NHK出版(ISBN978-4-14-081953-1, 2024.1.25 第一刷発行)
出版社情報、目次情報。「人口で語る世界史」を読んだが、魅力的な内容が含まれるにも関わらず、グラフも無く、説得力ももう一つという感じで、次の本として書かれた本書を手に取った。非常に改善され、グラフも多くはないが含まれており、また、エピソードもいくつも含まれていて、全体的な動きとともに、それが、ひとびとの生活にどのように影響しているのかを、パラレルに見せようとする試みが一部に見られ、伝え方としても学ぶ点があると思う。訳者あとがきに「本書で著者は、10の象徴的な数字を通して人口動態のストーリーを語っている。重要なのは、著者がインタビューやTEDトークで強調しているように、これらの数字が互いに密接に関連していて、全体で一つのシステムのように動くという点である。このシステムは、大雑把にいえば、『多産多死→多産少死→少産少死』という、いわゆる『人口転換』の道をたどってきた。ところが近年、多くの国で、少産少死からそのまま出生率の低下がとまらなくなり、人口減少へ向かうという、『第二の人口転換』が起こっている。この第二の人口転換について著者は、『経済ではなく文化の問題』になりつつあると述べている。もはや物質的条件では説明できず、文化、価値観、個人の選択の問題になっていて、それだけに予測が難しく、対応も難しい。」と上手にまとめている。だれもよくはわからないが、全体的な傾向もみながら、丁寧に、なにをたいせつにするかの議論をしつつ、進んでいく課題なのだろう。最後の、『第二の人口転換』の先頭集団にいる日本についても、取り上げられていて興味深い。先頭集団にいると予測はつきにくいが、開拓者としての、責任と面白さもあるように思う。高慢にならず、学んでいくことができればと思う。以下は備忘録。
「トマス・マルサス『人口論』(1798)人口は制限されない限り等比級数的に増加するが、食料生産の増加は、はるかに遅いので人口過剰になり、抑制されることになる。」(p.14)「10のテーマ:乳児死亡率、人口増加、都市化、出生率、高齢化、高齢者の増加、人口減少、民族構成の変化、教育機会の拡大、食料入手可能性の向上」(p.20)「パキスタンの親:ヒンドゥー教徒がワクチンに豚の血を混ぜて、わたしたちを地獄に送ろうとしているんです。」(p.41)「チャールズ・ダーウィン『人間の由来』(1871):いずれほぼ間違いなく、人類のなかの文明化して諸民族が、世界中の野蛮な諸民族を滅ぼして取って代わるだろう。」(p.62)「イタリアの首相シルヴィオ・ベルルコー二:ときどきミラノの一部の地区で、非イタリア人の存在があまりにも目立ち、イタリアでもヨーロッパでもなくアフリカの都市にいるような気がするというのは、受け入れがたい。さまざまな肌の色の多民族社会を望む人も少しはいるようだが、わたしたちは賛成できない。」(p.65)「ゴードン・チャイルド(都市の特徴):①人口が多くかつ密集している。②専門化した職人がいる。③資本の集中が見られる。④大型の建造物がある。⑤肉体労働から開放された社会経済的階級が存在する。⑥記録管理と知識の創造が行われている。⑦文字が使われている。⑧芸術家がいる。⑨長距離交易が行われている。⑩血縁関係よりも居住に基づいた保障が行われている。モーランド:『みればわかる』ぐらいしかいえない。」(p.93)「文化大革命:灼けつくような日差しをしのぐ日陰はどこにもない。朝4時頃起きると、蚊の大群が容赦なく襲ってくる。うだるような暑さのなか、蚊の攻撃から逃れる術さえない。ここの畑仕事では自分の腹を満たすこともできないのに、こうして自分の体を差し出してゴビ砂漠の虫たちの腹を満たしてやっているというわけだ。」(p.100)「文明(civiliation)という言葉は、ラテン語の町(civil)から来ている。最高の創造と革新は、人々が肩を寄せ合い、話し合い、アイデアを交換することから生まれるが、そのような場を提供してくれるのが町である。」(p.101)「都市デザイナー、ピーターカルソープ:都市は人間の集住形態として環境に最もやさしい。低密度居住地域の住民よりも、都市住民のほうが、一人当たりの土地の専有面積が小さく、エネルギー、水の消費量が少なく、汚染物質の排出量も少ない。」(p.105)「リー・クアンユー:さらに政策を修正し、人口構成の調整を試みて、高学歴の女性が今より多くの子どもを持つように、その意思が適切に代表されるようにしなければなりません。次の世代に優秀な人材が不足することがないように、なんらかの策を講じる必要があります。国の政策は人の能力における後天的な部分を高めてきました。しかしながら、人の能力の先天的な部分を政策で高めることはできません。その部分を決定できるのは若い人々の意思であり、政府ができることは、ただ彼らを助け、彼らの負担をさまざまな方法で軽くすることだけです。」(p.124)「シンガポールの例からわかるのは、政府の努力で出産を抑制することはできるかもしれないが、出産を奨励するのはかなり難しいおちうことである。政府がどんな政策を打ち出していたとしても、1980年代までのシンガポールの経済発展と人材開発のスピードを考えると、シンガポール人女性が20年前のように5人の子どもを持つことなど考えられなかった。シンガポール政府が1960年代なかばから80年代前半にかけて出生率を下げようとした試みは歴史の流れにそったものだったので成果が出たのだが、その後の出生率を上げようとする試みは、最初から不可能に挑戦するようなものだった。」(p.125)「テンポ効果(タイミング効果とも言われる):女性の生産年齢が上昇するタイミングでは出生率が下がったように見え、その後上昇するタイミングでは、出生率がわずかに反転上昇したように見える。だが、それは全局面での歪みの修正でしかない。」(p.128)「ヨーロッパの低出生率の国々の多くに共通しているのは、女性の教育機会は大いに拡大しているのに、その一方で伝統的な価値観がそのまま残っているという点で、この二つの組み合わせは出生率にとって致命的である。女性の教育を奨励していながら、女性が仕事と家庭を両立させようとすると眉をひそめるような社会においては、女性は興味のある仕事か母親になる喜びという二者択一を迫られ、多くの場合前者を選ぶことになるからだ。」(p.129)「今、わたしたちが生きているこの世界では、個人の目標や一定の生活水準の達成が規範になっているが、その規範は大家族を持つこととは折り合いをつけるのが難しいのだと。突き詰めれば、それらの達成を望む場合、そもそも家族を持つのは無理だということになりかねない。」(p.142)「注意すべきなのは、前述のように、近代後の出生パターンのひとつはすでに現れているということだ。保守的な価値観と宗教的信仰は高い合計特殊出生率を伴うのが常であり、それは人口置換水準をわずかに上回るレベルの場合もあれば、ペンシルバニア州の宗教集団アーミッシュのような非常に高い出生率の場合もある。もしかしたら、そうした強力な多産奨励主義の集団だけが生き残り、その他の集団は子孫を残せず消滅するような世界がやってくるのかもしれない。だとすれば、わたしたちは『空っぽの地球』に向かっているのではなく、社会学的には似通っているが、イデオロギー的には異なる集団がひしめき合う世界に向かっていることになる。そうした集団は出生率は高いが、多くは絶対主義的な考え方を持ち、現代科学を嫌うのだから、それが支配的になれば、社会を動かすうえでの政治的・技術的課題はいっそう困難なものになるだおる。日本が人口動態の近代の先駆者だとすれば、人口動態の近代後の先駆者はイスラエルということにあるかもしれない。」(p.148)「重要なのは、その国の若者の人数ではなく、若い世代と中高年の世代の相対的な規模である。Stveteig, Sarah, 'The Young and Restless'」(p.157)「生物的差異:人間の脳は思春期から中年期までのあいだ生物学的に変化する(これは進化上の理由がある)。10代の子供を持つ親なら、思春期の若者が大人よりも情緒不安定で衝動的に振る舞いがちなことをよく知っているだろう。科学者の説明によれば、思春期にはテストステロン(男性ホルモン)、エストロゲン(卵胞ホルモン)、プロゲステロン(黄体ホルモン)の分泌料が増えるため、感情的で気まぐれな反応を示すという。また若者は両親の抑制的指導よりも、ほかの若者から感化を受けることのほうが多い。Indepandent, 18 February 2016, 'Adolescent Maturity and the Brain'」(p.158)「グナル・ハイゾーン:若者たちは彼らの野心と、彼らのために社会が提供するポジションの数が釣り合うまで、互いを排除しようとしたり、戦争で命を落としたりする傾向にある。(アルジェリアおよびレバノン内戦について)戦闘が終結したのはもはや新しい兵士が生まれてこなくなったからだ。(モーランド:ただし、年若い人々を戦場に向かわせるのは、多くの場合、年老いた人々であるということを忘れてはならない。)」(p.163)「若年層が犯罪に巻き込まれやすい理由:生物学的に言えば衝動的だからであり、社会学的に言えば失いものが少なく、むしろ何かしら得るものがあるからだ。(中略)年齢中央値が高いのに殺人率が高い国は存在しない。中高年層が多い国はだいたい豊かだが、それが理由で犯罪率が低いというわけではない。バングラデシュをはじめとする多くの国が、それこそマラウイからベトナムまで、必ずしも相対的貧困が暴力を生むわけではないことを実証している。どうやら暴力の予測因子としては、貧困よりも若さのほうがはるかに強いようだ。」(p.172)「ドナヒュー・レヴィット仮説:人工中絶を合法化するともっとも犯罪を起こす率の高い子供の出生率が減るため長期的には犯罪が減少するという主張。」(p.173)「ダリル・ブリッカー、ジョン・イビットソン『2050年世界人口大減少』(2019):都市化、女性の権利向上、そしてリベラルな考え方の一般的導入が地球全体に進んでいるので、すでに低い出生率は今後さらに下がり、しかも広がり、その結果人口減少に至る。」(p.230)「ポール・エーリック『人口爆弾』食べている人、見ている人、寝ている人、誰かを訪ね、口論し、叫ぶ人々。排便する人、排尿する人。バスにしがみつく人、家畜の群れを追う人。人、人、人、人(エーリックによるインドのスラム街の描写)そして、今わたしたちは、もうじき、あの人たちはみんなどこへ行ってしまったんだろう?ととまどうことになると考えている。」(p.231)「アメリカの人口構成(ビュー研究所)1965 白人 83%、ヒスパニック 5%、アフリカ系 11%,アジア系 1%未満、2015 白人 62%、ヒスパニック 18%、アフリカ系 12%、アジア系 6%、その他 2%、2065(予測)白人 46%、ヒスパニック 24%、アフリカ系 13%,アジア系 12%、その他 3%」(p.246)「チャールズ・ダーウィン:『文明化した諸民族』ヨーロッパ人がいずれはほかの民族をすべて滅ぼすだろうと考えていた。[再述](モーランド:そのような考えが思い上がりであることは、今日のカリフォルニアの学校の人口のデータを見れば明らかだ。)」(p.248)「テルトリアヌス:人類の繁殖力を示す決定的な証拠は、わたしたちがこの世界にとって主にになり過ぎていることである。自然の力はわたしたちを支えるには十分とは家ず、もはやわたしたちに生活手段を提供してくれないので、物の不足が切実な問題となり、ますます多くの人が不満を募らせるようになっている。こうなると実際のところ、疫病や飢饉や戦争を国家のための解決策、人類の過剰な増殖を抑制するための手段と見なさざるをえなくなる。『人口爆弾』より。」(p.306)「動物と人間の違いはこういうことだ。アザラシも人間もサケを食べるが、アザラシがサケを一匹食べるとサケが一匹減るので、アザラシの頭数があるレベルを超えるとサケは減少してします。一方、人間はサケの産卵条件を整えるなどして餌を増やすことができ、しかも自分たちが食べる以上に増やすことができるので、人間がいくら増えてもサケが足りなくなることはない。『進歩と貧困』より」(p.320)「このトリレンマ(経済力・民族性・エゴイズム)を説明するのに、最適な国として、日本、イギリス、イスラエルを取り上げる。いずれも、三つの選択肢のうちの一つを犠牲にして残りの二つを享受している国である。まず、日本は、経済力を犠牲にして、民族性(日本人の大多数は多文化を歓迎しておらず、大規模な移民を受け入れる準備ができていない)とエゴイズム(子供を持つことに消極的な日本人は少なくない。子供を持ちたいと思っても、仕事と子育ての両立を思いとどまらせようとする文化、家事と介護の殆どを女性に押し付けようとする文化に行く手を阻まれてしまう。このような状況では、多くの女性が結婚や子育てより自立を優先させるのはむしろ当然のことだろう。)を維持している。日本は、世界にも例がないペースで政府債務を積み上げてきた。生産年齢人口の減少と、それに続く総人口の減少が経済成長の重い足かせとなっていて、どのような経済介入をもってしても修復の見込みがない。」(p.321)
(2024.6.18)
- 「刑務所しか居場所がないひとたち 学校では教えてくれない、障害と犯罪の話」山本譲司著 大月書店(ISBN978-4-272-33093-5, 2018.5.15 第一刷発行、2018.7.25 第三刷発行)
出版社情報・目次・試し読みリンク。社会福祉にいくつかのチャンネルで関わってきたので、ある程度は知っていると思っていたが、本書は衝撃的だった。実際に刑務所で服役した元衆議院議員で、特にセーフティネットなどの関わっていた著者が受けた衝撃ほどは、まだ、受け取っていないのだろうが、実態例を知るという意味で、多くを学んだと思う。本来は、他の人の本も読むべきだろうが、まずは、この著者の他の本も読んでみたいと思った。いずれは、このような問題に関わりたいとも強く思わされた。以下は備忘録。
「刑務所に入るときは、みんなかならず知能検査を受ける。一般的にいって、知能指数が69以下だと、知的障害があると見なされる。(世界保健機関の基準)2016年に新しく刑務所に入った受刑者約2万500人のうち、約4200人は知能指数が69以下だった。つまり、受刑者10人のうち二人ぐらいは知的障害のある可能性が高いということだ。」(p.16)「実は2006年、僕もメンバーの一員になって、厚生労働省の研究事業として『罪を犯した障害者の地域生活支援に関する研究(厚生労働科学研究成果データベース)』という研究班を立ち上げた。そこで法務省にも協力してもらい、調査をしたんだけどその結果を示してみよう。2007年の一年間、出所者全体では57%が仮釈放なのに、知的障害者だけをみると、20%に過ぎなかった。65歳以上の高齢者も似たような境遇だ。仮釈放になった人は27%しかいない。あとの人たちは、刑期をすべて終える『満期』まで服役することをよぎなくされていた。」(p.50)「山本さん、俺たち障害者は生まれたときから罰を受けているようなもんだ。だから、罰を受ける場所はどこだっていいや。また刑務所の中ですごしてもいい。」(p.53)「視力が弱い人は、めがねをかける。足の不自由な人は杖をつく。そうやって、ひとそれぞれが自分の弱いところを補っている。障害があって罪を犯しちゃった人も、ある意味で同じなんだ。彼らが困らないように、もう犯罪をせずにすむように、人という支えが必要だ。そう、社会全体で支えていくことが欠かせないんだよ。」(p.56)「国は『障害者手帳の発行数=障害者の数』としてカウントしている。厚生労働省の発表(2018)によれば、身体障害者・知的障害者・精神障害者を合わせて、日本の全人口の7.4%だ。それに対し、WHO(世界保健機関)と世界銀行が発表した『障がいについての世界報告書』(2010)では、世界人口の15%がなんらかの障害があるとしている。この地球上の6〜7人に一人は障害者なんだ。」(p.85-86)「療育手帳をもらえば、すべて解決というわけではない。僕と同じ刑務所に服役していたGさん(20歳・男性)はみずから療育手帳を破り捨てた。『これは、俺がバカだっている証明でしょ』っていいながら。」(p.91)「日本では、2003年に福祉の基本スタンスを『措置制度』から『支援費制度』に大転換した。『措置』っていうのは、『弱い人に、行政が施しを与えますよ』みたいな、上から目線のニュアンスがある言葉。措置制度の時代は、障害者が福祉サービスを利用するとき、行政が利用先や内容などを決めていた。それが支援費制度になってからは、障害者が自分で福祉サービスを選び、事業者と個別に契約を結ぶことになった。自分で利用するサービスを決められるのはいいけれど、行政が仲立ちしてくれなくなったことで、問題が起きている。」(p.97-98)「検察・警察:約3兆7293億円、裁判所:約3153億円、刑務所:2317億円、更生保護(刑務所や少年院を出た人などをサポートする活動):約253億円(いずれも2016年の予算額)」(p.119)
(2024.6.21)
- "NOISE" - A Flaw in Human Judgement, by Daniel Kahneman, Olivier Sibony and Cass R. Sunstein, William Collins(ISBN978-0-00-853444-8, 2021, Great Britain)
Publisher Information, Internet Archive。 イスラエル・アメリカの心理学者、行動経済学者の、 Danial Kahamenan の本を読んでみようと思い、英語の原著を手に取った。一般向けにかかれていて、難しいことはないが、内容をしっかり理解できたかは定かではない。一回ですべて受け取ることはできないのだろう。ただ、本の書き方として、各章ごとに、まとめがあり、最後に、Review and Conclusion もついているので、理解を確認しながら、進んでいけるスタイルも良かった。基本的には、判断(Judgement)に伴う、bias と、noise を例などで、確かめ、理論的に、定義してから、そのうちの、NOISE に焦点をあわせて、さらに、いくつのも種類にわけて、分析、それらがなぜ存在するかや、機械的に減らそうとすると、可能ではあるが反発も大きいこと、また弊害も分析し、その上で、NOISE を減らすにはどのようにしたらよいかも、議論している。Internet Archive でも読むことができ、また、日本語訳も出版されているので、詳細は省略する。わたしは、NOISE を減らすことよりも、抗うことにも、興味があるが、いろいろと考えさせられる、非常に質の高い本だった。このようなものに出会えるなら、英語の本にどんどん挑戦していきたいとも思った。
(2024.7.11)
- 「ダニエル・カーネマン心理と経済を語る Nobel Prize Lecture and other essays」Daniel Kahneman著 友野典男監訳・山内あゆ子訳 楽工社(ISBN978-4-903062-48-5, 2011.3.18 第1刷)
出版社情報・目次。リンクにあるように、第一章 ノーベル賞記念講演 限定合理性の地図、第二章 自伝、第三章 効用最大化と経験効用、第四章 主観的な満足の測定に関する進展 となっている。記念講演は受賞の背景となった研究についてわかるが、同時に、共同研究者などへの記述も多く、エイモス・トヴェルスキーだけでなく、多くの人が関係していることを丁寧に述べているのが印象的である。Noise を読んでいて、どのようなことを経験してこられたのか、扱う広さに驚いたが、自伝を読んで、納得することが多かった。自身の様々な経験がこの方の人格を形成し、研究の土台になっているのだろう。ユダヤ人的思考の自由性などということばは、定義も、根拠も曖昧だが、なんとも感嘆せざるを得ない、思考の自由さも感じた。同時に、研究としては優れているが、このようなバイアスが多い、人間の決断に対して、調査や質問などにおいて、そのバイアスが出にくいようなものを作成することもある程度は可能なのかと思った。おそらく、それよりは、バイアスをついて、利得を得ようとする人が多いのだろうが。以下は備忘録:「1. 時間の使い方を変えなさい。時間は研究の希少資源だから、そうであるように使うべき。2. 人生を悪くするようなことではなく、人生を豊かにするようなことがらに注意を向けるべき。3. 注意を払い続けるような活動に時間を投資すべき。新車を買って運転しても、車にはそれほど注意を払わなくなる。しかし友人と社交しているときには、その活動に注意を払っている。そのような活動に従事すべきだ。」(p.13)「われわれは他者がよくやったときに褒め、しくじったときに罰を与えがちであるということ、それと同時に、平均への回帰(平均から極端にはずれている値は、次回はより平均に近い値をとること。)という現象があることの寄って、統計的に見ると、他者を褒めたことによって罰を被り、逆に他者に罰を与えたことによって報われるということが人間の条件の一端だということです。」(p.86)「読者が引き出した結論は、しばしばあまりに極端なものでしたが、それは、伝達されていく間によくあるように、数理論理学でいうところの存在記号が失われてしまったからです。われわれは、不確実な事象に関する判断(のすべてではなく、いくつか)においてはヒューリスティックスが媒介として作用し、それによって予測可能なバイアス(いつもではなく、時には)生じることを示しただけなのに、人間というものは理路整然と考えることができないと主張したと誤解されることがしょっちゅうでした。」(p.100)「反射(reflection)一組の賭けの結果の正負をすべてひっくり返すと、ほとんどの場合選好リスク回避からリスク追求へ、またはその逆へと変わったのです。たとえば、われわれはどちらも1000ドルもらえる確率が90%であるか、もしくは、何ももらえないよりも、確実に900ドルもらえるほうが選んだ一方で、確実に900ドルを失うよりも、1000ドルうちナウ確率が90%であるほうを選んだのです。」(p.112)「フレーミング:助かる命の助からない命:ある伝染病が流行って600人の人の命が危険にさらされており、これについて2つの公衆衛生プログラムのどちらかを選ばなければならない、という問題です。一方のプログラムでは200人が確実に助かり、もう一方では、600人全員が助かる確率が三分の一、全員が死ぬ確率は三分の二。このバージョンでは、多くの人は200人の命が確実に助かる方を選びます。もう一つは、600人全員が死ぬ確率が三分の二、一人も死なない確率が三分の一です。こちらの場合は、ほとんどの人がギャンブルに出る後者を選びます。」(p.117)「フレーミング効果の回避:1. すべての結果および確率に対する反応が厳密に線形であれば、フレーミング効果を作り出すためにわれわれが使った手順は間違いである。2.もしある人が自分の出した答えについていつも正しく包括的な一つの見解を保ち続けるとすれば、真に等しい問題は、いつも等しく扱われるはずだ。」(p.118)「効用を最大化する選択にとっての一つの必要条件:選べる選択肢からどんな満足な結果が得られるかを、正確に、あるいは少なくとも先入観に左右されずに予想する経済主体の能力についてだ。われわれが調べた研究では、この条件は満たされない。人は必ずしも自分の好みがわかってはいないし、選択の結果をしての未来の経験を予想するにあたって、系統的なエラーを犯すこともしょっちゅうで、その結果、経験効用を最大化することに失敗してしまう。」(p.149)「焦点を絞ることによる錯覚(focusing illusion):あながたそのことについて考えているときに重大だと思うほど、人生において重大なことは何もない。人は意識を集中させるとき、それが生活のどんな面であっても、その重要性をあまりにも誇張してしまう傾向が強烈にあるということ。」(p.166)「1.投影バイアスの場合と同じように、ある結果のある属性に注意が集中しているときに下す予測は、もし将来の肝心なときに、同じ属性に注意が「向けられない」のであれば、結局間違いになってしまいがちである。2.ほとんどの場合、感情予測は、注目の焦点でありつづけるはずのない結果を扱うものだから。」(p.167)「一日再現法:DRM Day Reconstruction Method」(p.191)「1958年から1987年にかけて日本人の実質所得は五倍にまで上昇したのに、自己申告された幸せの平均値は上昇しなかった。1994年から2005年にかけて中国では目覚ましい速さで経済成長が起き、この間に国民一人あたりの実質所得は、2.5倍にも跳ね上がった。この成長は、物質的満足には大きな影響を与えた。しかし、満足度は伸びていない。(ギャラップ社)」(p.200)「U指数:不快な状態ですごす時間」(p.210)「U指数は、自己申告された感情のたった一つの特徴だけに焦点をあてるものではあるが、エピソードレベルにおける感情の序数的指標にmとうついたものであるから、人によって尺度の使い方にばらつきがあることの影響をへらすことができるし、基本的には、時間配分と結びついたものだ。したがって国をまたいだ、比較に適している。」(p.215)「Prospect Theory」(p.227)「Framing of Decision」(p.228)
(2024.7.22)
- 「エクサスケールの衝撃 次世代スーパーコンピュータが壮大な新世界の扉を開く The Singular Impact of Exa-Scale Computing on Us」齊藤元章著 PHP(ISBN978-4-569-81892-4, 2015.1.28 第1版第1刷発行 2016年10月31日 第1版第5刷発行)
出版社情報。目次:序章 人類の未来を変える可能性を秘めた半導体、第1章 急速に近づく「前特異点(プレ・シンギュラリティー・ポイント)」、第2章 「エクサスケール・コンピューティング」によってすべてが変わる、第3章 まずエネルギーがフリーになる、第4章 生活のために働く必要がない社会の出現、第5章 人類が「不老」を得る日、第6章 新しい価値観が生まれる、終章 我々日本人が次世代スーパーコンピュータを開発する。ちょっと古いが、わたしが AI に関して考えているようなことと近い路線、すなわち、世界がどのように変わっていくかを論じた本である。全体で、587ページ。著者は、放射線科の医師で、診断装置開発のベンチャーを立ち上げ、その後、世界コンピュータ・ランキング消費電力性能部門「Green500」で独自技術により世界第2位を獲得した研究開発者である。PEZY(Peta = 1015, Exa = 1018, Zetta = 1021, Yotta = 1024 から取っている)社長。目次にあるような一つ一つの項目については、どのぐらい、どのような程度で実現するかについては、ほとんど論じられていないが、未来学の本としては、本人も書いているように、"The Singularity Is Near" by Ray Kurzweil の路線なのだろう。この本も読みたいと思う。以下にも引用するが、日本で開発するのがよいとの強い意識を持っておられるが、それほど、単純な問題ではないことは、明らかだろう。非常に広い範囲のことについて書いておられ、それらの項目のリストとして価値があるかもしれない。以下は備忘録:「世界人口展望(2012年改訂版)1. 世界人口がこれまでと同様の速度で増加し続けるシナリオ、2. 人口増加の速度が大きく減じるシナリオ、3. 2045年頃の82億人程度をピークに、世界人口が初めて減少に転ずるシナリオ。」(p.31)「1. エネルギー問題の解消、a. 高性能蓄電池システムによる全電力のピークシフトの実現、b. 各種の発電効率の大幅な改善、c. 様々な新しいエネルギーの創出方法の確立 2.基本的な生活の安定と長期の保障、a. 食料がフリーに、b. 衣料がフリーに、c. 住居がフリーに、d. 新しいお金による税金のない世界 e. お金自体を不要にする社会、f. 公正・公平・平等で安全な社会、3. 病気と寿命、老化から開放 a. 病気の予防、診断、治療を突き詰めて「不病」を実現、b. 人体が技術によって部分的に置き換えられ、技術を融合していく、c. 進化を制御して、「不老」が実現」(p.95)「Top500」(p.107)「ポスト『京』で取組む9つの重要課題」(p.118-9)「NewYork Times 2012.6.1 How a Secret Cyberwar Program Worked (stuxnet)」(p.145)「熱核融合発電を先進7カ国合同で研究開発:重水素と三重水素を融合させてヘリウムと中性子を生成」(p.244)「1. 現在の管理通貨制度を維持、2. 管理通貨制度に変わる、新しい貨幣を創造、3.お金を使わなくても良い社会を、新しい『お金というシステム(観念)』として創出」(p.349)「理想の社会:1. 個人の尊厳と基本的人権と生活が守られ、夢と希望と生きがいと持って生活できる社会、2. 自由に知的探求や創造活動や哲学的思考などを行え、自由な思想を持てる社会、3. 戦争や諍いがなく、他の人や他の民族、他国民とも有効的な関係を維持できる平和な社会、4. 公平で公正、不平等がない社会、5. 犯罪や事件、事故がない社会、6. 地球環境と地域の自然に負担をかけず、人類を含む動植物の多様性を維持できる社会、7. 人類が、健全な成長と進化を遂げられる社会、8. 人類が人智を超えた天災や未知の危険から逃れて、将来に生き延び繁栄できる社会」(p.351)「生活が保障され、必要なものが得られて、好きなことをする自由と時間と物資が与えられ、そして戦争と諍いから無縁の時代が到来したとき、人々は他の人や他の民族や、他の国の人々の生活と自由を尊重して、有効的な関係の維持を思考することになるのは、至極当然のことであると思われる。」(p.355)「BeeCam:1. 所有者の頭上の一定の高度を飛び続け、常に所有者を加増と各種センサーでモニターし、監視および保護、2. 所有者が使用するモバイル・デバイスや、INAID の無線ネットワーク接続を補助す、3. 搭載した高解像度ビデオカメラの画像や各種センサーの情報を所有者に送信、4. 所有者の状態の変化を即時検出、注意喚起、5. 所有者の状態の変化を即時対応、6. 関係部署に通知、7. 所有者に対する各種の個人エージェント機能」(p.362)「日本における公的医療費約38兆円、国民総所得の10.7%、国内総生産の 7.8%」(p.380)「我々日本人こそが次世代スーパーコンピュータを開発し、新世界を創出しなくてはならない。」(p.551)
(2024.8.9)
- "Thinking, Fast and Slow", by Daniel Kahneman, PENGUIN Psychology(ISBN978-0-141-003357-0, 2011, Great Britain)
Publisher Information, Internet Archive。イスラエル・アメリカの心理学者、行動経済学者に大きな影響を及ぼしたとされる、 Danial Kahamenan の Prospect Theory などについて言及した名著とされる、本書を杉並区図書館で予約し、手に入ったので、読んだ。少し前に読んだ、"NOICSE" よりこちらが先で、本来は、この本から読むべきなのだろうが、入手が遅れたので仕方がない。これら二冊の重複もたくさんあり、それぞれの特徴もあるが、二冊目だということで、多少は理解も深まり読めたように思う。基本的には、直感による人間の判断は、専門家も含めて、誤ることがあることを、実験結果とともに示している。間違いの傾向、そのように考える傾向について示しているとしたほうが、より正確かもしれない。何度も登場する、WYSIATI = What You See Is All There IS(あなたがみているのは、眼の前にあるものだけ)(p.85)は、この訳が良いかどうかは別として、玄妙で深いことをも示唆しているが、こころに留めておくべきことだろう。確率による期待値と、重み付けは必ずしても一致しないということが登場するが、期待値は、あくまでも、それを無数に繰り返した場合の到達予測点の確立であって、一回に限れば、ひとの決断には、あまり効力を持たないということだろう。期待値については、Utility とも表現されているが、すこし、比較として疑問ももった。他の箇所にはあるていど、そのことも、書かれて入るが、読みてにとっては、やはり、Misleading であるように思われる。本書中で言及されている、Amos Tversky の "Mathmematical Psychology" や、Richard Thaler の "Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness" なども読んでみたいと思った。以下は備忘録:「By and large, though, the idea that our minds are susceptible to systematic errors is now generally accepted. Our research on judgment had far more effect on social science than we thought possible when we were working on it.」(p.10)「System 1 operates automatically and quickly, with little or no effort and no sense of voluntary control. System 2 allocates attention to the effortful mental activities that demand it, including complex computations. The operations of System 2 are often associated with the subjective experience of agency, choice, and concentration.」(p.21)「order of questions matters: How happy are you these days? How many dates did you have last month?」(p.101,p.102)「Amos and I called our first joint article “Belief in the Law of Small Numbers.” We explained, tongue-in-cheek, that “intuitions about random sampling appear to satisfy the law of small numbers, which asserts that the law of large numbers applies to small numbers as well.” We also included a strongly worded recommendation that researchers regard their “statistical intuitions with proper suspicion and replace impression formation by computation whenever possible.”」(p.113)「Your inability to reconstruct past beliefs will inevitably cause you to underestimate the extent to which you were surprised by past events.
Baruch Fischh off first demonstrated this “I-knew-it-all-along” effect, or hindsight bias, when he was a student in Jerusalem. 」(p.202)「Speaking of Hindsight: “The mistake appears obvious, but it is just hindsight. You could not have known in advance.” “He’s learning too much from this success story, which is too tidy. He has fallen for a narrative fallacy.”」(p.208)「It is wrong to blame anyone for failing to forecast accurately in an unpredictable world. However, it seems fair to blame professionals for believing they can succeed in an impossible task. 」(p.241)「Other scholars, in a paper titled “Bad Is Stronger Than Good,” summarized the evidence as follows: “Bad emotions, bad parents, and bad feedback have more impact than good ones, and bad information is processed more thoroughly than good. The self is more motivated to avoid bad self- definitions than to pursue good ones. Bad impressions and bad stereotypes are quicker to form and more resistant to disconfirmation than good ones.”」(p.302)「As we have seen, prospect theory differs from utility theory in the rel Bmun q rel Bmuationship it suggests between probability and decision weight. In utility theory, decision weights and probabilities are the same. The decision weight of a sure thing is 100, and the weight that corresponds to a 90% chance is exactly 90, which is 9 times more than the decision weight for a 10% chance. In prospect theory, variations of probability have less effect on decision weights. An experiment that I mentioned earlier found that the decision weight for a 90% chance was 71.2 and the decision weight for a 10% chance was 18.6. The ratio of the probabilities was 9.0, but the ratio of the decision weights was only 3.83, indicating insufficient sensitivity to probability in that range. In both theories, the decision weights depend only on probability, not on the outcome. Both theories predict that the decision weight for a 90% chance is the same for winning $100, receiving a dozen roses, or get」(p.326)「The term utility has had two distinct meanings in its long history. Jeremy Bentham opened hisIntroduction to the Principles of Morals and Legislation with the famous sentence “Nature has placed mankind under the governance of two sovereign masters, pain and pleasure. It is for them alone to point out what we ought to do, as well as to determine what we shall do.” In an awkward footnote, Bentham apologized for applying the word utility to these experiences, saying that he had been unable to find a better word. To distinguish Bentham’s interpretation of the term, I will call it experienced utility.
For the last 100 years, economists have used the same word to mean something else. As economists and decision theorists apply the term, it means “wantability”—and I have called it decision utility. Expected utility theory, for example, is entirely about the rules of rationality that should govern decision utilities; it has nothing at all to say about hedonic experiences. Of course, the two concepts of utility will coincide if people want what they will enjoy, and enjoy what they chose for themselves—and this assumption of coincidence is implicit in the general idea that economic agents are rational. Rational agents are expected to know their tastes, both present and future, and they are supposed to make good decisions that will maximize these interests.」(p.377)
(2024.8.25)
- 「イエスとその目撃者たちー目撃者証言としての福音書」リチャード・ボウカム著 浅野淳博訳 新教出版社(ISBN978-4-400-11180-1, 2011.4.30 第1版第1刷発行)
出版社情報・目次。"Jesus and the Eyewitnesses -- The Gospels as Eyewitness Testimony" by Richard Bauckham の翻訳。現在、パピアスの引用から、ペテロの通訳だったマルコが「ペテロ由来」の福音書として書き記したということの内的証拠を確認しながら、読むことをしているが、本書は、そのような読み方をも学問的に裏付けるような内容で、分厚い本であるにもかかわらず、最後まで、非常に興味をもって読んだ。ただ、ヨハネについては、記者は長老ヨハネであり、ゼベダイの子ヨハネではないことを丁寧に論証しており、ゼベダイの子説が自然と考えていた、わたしの理解を大きく覆すものだった。個人的には、内的証拠に頼る面が多いが、ボウカム氏の議論は、非常に興味深い。二度ばかり、それほど長い時間ではないが、お目にかかって話したこと、そのときに感銘を受けたボウカム氏の人柄もわたしが素直に読めたことに影響しているのだろう。同時に、それこそが、信頼を基盤として、理解しようとし、だからといって、批判的な見方を排除するものではないという、本書で説いている証言としての福音書をどう読むかというボウカム氏の論とも、つながっていると思う。また、もう一度丁寧に読み、できれば、また、機会を得て、ボウカム氏とも話したいと思った。以下は備忘録。「ここでわたしは、福音書が証言記事であるという意識をもつことの重要性を強調しよう。しかし、それは福音書が『歴史でなく証言である』ということではない。証言という種類の歴史記述なのである。そして証言記事という形態には、読者(聴衆)からの信頼が求められるという特徴が欠かせない。これは、無批判の信用を前提としているということではなく、第三者の証拠による裏付けが可能な場合にのみ信頼を置くことができる、という扱いを拒むのである。ある証言を信用するか信用しないかの判断には、十分に合理的な理由が存在しなければならない。証言を信頼することがすなわち合理的批評を介せず『信じる』という非合理的な行為なのではない。合理的に適切な方法で、証言を真正と認めることは可能である。証言記録としての福音書は、わたしたちをイエスの歴史的現実性に導く媒体として適切である。現代における歴史批評学には明確な傾向がある。それによると、証言を信頼するという行為は、歴史学者が独自におこなう検証をとおして真理に到達するうえでの妨げとなされがちである。しかし、すべての歴史がーじつに歴史をも含むすべての知識がー証言に依拠しているという事実に目を向けるものは少ない。特にある種の歴史的事象に関しては、証言の重要性は否定しがたい事実である。本書の最終章では現代史に刻まれたホロコーストという出来事について考えるが、この歴史的出来事の真実に迫ろうとする場合、証言が不可欠な役割を果たしている。わたしたちは次のことを認識しなくてはならない。すなわち、証言とはある事柄の歴史的現実性にいたるための媒介であり、この点で無類の価値を備えているということである。」(p.16)「彼ら(パピアスが『主の弟子たち』とよぶ目撃者)は、イエスの公生涯をとおして、その弟子として従い(使徒1:21)そして初代教会にあっては教師として重要な役割を果たした。十二弟子がこのなかに含まれることは当然だが(使徒6:4)それ以外に、多くの弟子がいたことをルカ文書は記しており(ルカ6:17, 8:1-3, 10:1-20, 19:37, 23:27, 24:9, 33, 使徒1:15, 21-23)これらの人物がルカへの情報提供者であったことは十分に考えられる。」(p.42)「イランに基づいたボウカムによる統計:シモン(243)、ヨセフ(218)、エリエゼル(166)、ユダ(164)、ヨハナン(122)、ヨシュア(103)。女性名では、マリア、サロメ、シュラム、マルタ、ヨアンナ、サッフィラ、ペレニケ、インマ、マラ、キプロス、サラ」(p.72)「ペテロのよるイエス拒絶物語をその文脈から深く理解しようとするならば、これはイエス・キリストの使徒として召命を受ける以前のパウロが教会を迫害していたことを躊躇なく告白する様子と比べられよう。(ガラテヤ1:13,1コリ15:9, 1テモテ1:12-14)」(p.167)「正典福音書のテクストはイエスの言動を報告する目撃証言に近い、という本書の議論は、近年一般的な新約聖書研究への異論を唱えるものである。福音書形成に関するもっとも一般的な理解は、目撃者証言と福音書記者が入手するイエス伝承との間には、教会による長い継承期間が横たわっているというものである。そして当然、目撃者が口述伝承プロセスのスタート・ラインにいるが、この伝承は何度も何度も語り直され、再構築され、敷衍され、こうして福音書記者の手元に届いたものが、今度はこれらの記者によって編集された、という理解が一般的である。」(p.232)「福音書物語はその終結部分の視点から書かれている、とは非常に言い古された表現だが、これはすなわち、福音書記者が復活し高挙された共同体の主を伝えんがためにイエスの物語を記した、という意味である。」(p.347)「エイレナイオスはポリュカルポスに関する記憶を重要視した。なぜなら、それは二人の仲介過程(プリュカルポスとヨハネ)のみを経てイエス自身にたどり着くものだからである。これは、ポリュカルポスとヨハネ両者が長く生きたから可能なのである。エイレナイオスによると、ヨハネはトラヤヌス帝の治世(AD98-)時期まで存命であり、ポリュカルポスはスミルナで156-67年の期間に殉教したときに86歳であった。」(p.457)「『他者の証言を信じる傾向は、わたしたち人類にとって基本的な行為である。これは知識に関する他の手段(独立機能)によって正当化されるべきではない。』というリードの理解が近代の哲学者によって受け入れられてこなかったもっとも大きな理由、そしてその結果として哲学研究の題材として証言が注目されてこなかった理由は、啓蒙主義による哲学が個人主義をいまにいたるまで引きずってきたこと、その結果、個人的認識論が他者に依拠する個人の知性という側面を過小評価してきたためである。出発点としての個人的認知という問題が認識論において何よりも重要であり、それが共通的認知(何がわたしたちの知識を特徴づけ、わたしたちは以下に知るようになるか)という課題に対して優先されてきたのである。個人の独立した知識のみを知識として正当化しようとする欲求は、証言を問題視視がちである。」(p.472)「歴史学上の厳密性は歴史証言への根本的懐疑主義と同じではない。」(p.482)「これは文字とおり、あまりにも境界外の経験であることと関係しており、共通の理解のもとで教育を受けた聴衆の受容力の限界を超えている。理解とは、状況、感情、思考、行動など人間の共通性を基礎として成り立っている。しかしこの経験は、標準的な人間の経験値を外れた非人間的な経験の継承である。この意味において、それは境界外の経験である。(リクール)」(p.489)
(2024.9.5)
- 「棋士とAI ー アルファ碁から始まった未来」王銘琬著、岩波新書1701(ISBN978-4-00-431701-2, 2018.1.19 第1刷発行)
出版社情報・目次。正直、驚いた。わたしが、まさに、アルファ碁がイ・セドルに勝利したときから、責任者である、デミス・ハサビスについてなど、いろいろと調べ、AIが人間社会に及ぼす影響について考えたようなことが、しっかり言語化され、書かれていた。著者は、プロの囲碁棋士であり、囲碁AIの開発にも携わっていたこともあり、AIに関する専門的な知識についても、聞くことができる人が周囲にいたようである。ここで、提示されている問題は、すべての人が考えるべき課題だとわたしは思っている。「人間らしさ」とはなにか、なにを大切にするか、そのようなことなしには、AIと向き合うことはできない。国民党政権独裁下から日本に来た著者が、日本では人間の基本とは「他人を傷つけてはいけない」ことだと日本人から聞いて、そんな考え方もあるのかと驚いたことを踏まえて、倫理の共通認識はあるのかとも問うている。まさに、人間についての、基本的な問題に、向き合わざるを得なくなった、ひとが、ここにいることをしること、それだけでも、素晴らしい書だと思う。最近、読んだ本の中で、一番、感動を覚え、さらに考えたいと思わされた。
以下は備忘録。「閉会式でハサビスさんは『この結果はアルファ碁の勝利ではなく人間の勝利です』と話しました。その時強く感じたのは、AIを制作する側が一番警戒しているのは、AIの能力が人間を超えることによって、AIが人間から敵意を持たれることなのだということです。そのためAIの能力をアピールしながら、つねに『それは人間のお手伝いをするものである』という『消毒』を忘れません。報道陣もそれについてはおおむね好意的にとらえ、『人間とコンピュータが競わない時代』に入った、そのようなメッセージが浸透したイベントになったと思います。アフファ碁は以後で人間を完全に超えたことを示すことに成功しました。AIが人間より高い能力を示す分野はほかにもありますが、誰でも納得するようなはっきりした形で示せるものは、やはり囲碁でした。」(p.17)「『予想できない』と『理解できない』は別なものです。『肩つき』は決して人間が受け入れられない手ではありません。納得すれば、自ら囲碁観のバランスを少し調整すればいいものです。『肩つき』の手はそのときアフファ碁の囲碁観を示す一手であり、人間の選択肢を広めてくれた一手でもありました。それをもってアルファ碁の強さが異次元である、または人間かんお理解を超えるものとするのは、行き過ぎになるでしょう。」(p.40)「しかし人間の翻訳がなければ、アルファ碁の打つ手がわからないとする見解には『機械の振る舞いは人間がすべて把握するのが当然である』と『人間の着手の意味は、理解しようと思えば完全に理解できるものである』という2つの前提があるのではないでしょうか。」(p.46)「水平線効果:アルファ碁が正しく打ちますと、読みの届く範囲に都合の悪いことが起こる局面になったとします。そのとき正しい手は悪い結果を招きますので、評価は高いものになりません。逆に良くない手を打っても、相手がそれに応じる必要があるなら、手数がかかりますので、都合の悪いことが起こらないので、悪い手の評価値がかえって高くなり、選ばれることになります。都合の悪いことを視界の範囲、つまり『地平線』の外へ無理やり追い出すため、明らかに悪い手を打つ現象、それが『水平線効果』です。」(p.59)「人間の『都合の悪いことを解決しないまま、いつかなんとかなるかもしれない』行為を指摘しても、先ほど紹介したように、有効な場合がありますので、間違いだとなかなか断定できないのです。そのため水平線効果は欠陥とは言い切れず、アルファ碁ですら、その解決に手をつけていません。」(p.62)「過学習:人間は昔から見たくないものは見ないようにするのが得意でしたが、ネット社会になり、好きなことだけして好きな人とだけ話すのが、ますます簡単にできるようになりました。『リアル』しかなかった時代では、日常の生活が人間の偏りを修正してくれましたが、ネット環境でやれることが多くなってきて、自分と好みや意見が違うものとの接触が、どんどん少なくなってきています。そうなりますと、個人の思い込みや偏見などが一層強固なものになていきます。今の時代は人間にも適度な自己対戦や敵対学習のような認識のかたよりを是正する仕掛けが必要かもしれません。」(p.71)「アルファ碁はすでに人間より置き石三子強いのです。人間でトッププロより三子弱いところになりますと、アマの県代表のレベルぐらいになります。県で一番になるくらいですから、かなり強いのですが、もしプロの手を論評しようとすれば的を得るのは難しい。トッププロから見たら、たぶん『好きなように言って楽しそうだな』としか思わないでしょう。人間がアルファ碁について話していても、実は自分の囲碁観について語っているだけかもしれません。」(p.87)「ディープラーニングよりも、ゾーンプレスをやってほしい、という気持ちも影響していたかもしれませんが、やはり専門家としての傲慢が最大の原因でした。囲碁なら私が一番よく知っている、コンピュータしかしらないあなたたちに何が分かる、その感覚に支配されていたのです。そもそもモンテカルロ法時代に入ってから、囲碁ソフトの開発は棋力と関係ないことはよく知っていました。そもそもモンテカルロ法時代に入ってから、囲碁ソフトの開発は棋力と関係ないことはよく知っていました。そのことも忘れて、先入観をもったまま、悔いが残る判断をしてしまいました。」(p.154)「囲碁からの推測ではありますが、仕事を結果だけで見るなら、人間にできてAIにできないことは思い当たりません。AIは芸術や、分野をまたぐものにまだ弱いとされているのあh,『うまくやる』基準がはっきりしないので、まだ開発が進んでいないところがあるからではないでしょうか。ディープラーニング技術だけ見ても始まったばかり、AI全体がどこまで能力が高くなるのか、見当もつきません。いまできないことでも、そのうちできるようになると考えるべきです。AIのもたらす変化は棋士だけではなく、すべての分野に訪れることになるでしょう。」(p.167)「人間とAIの作品を同じ取扱にしますと、人間の作品は技術的な完成度が低ければ、淘汰されかねません。それは作品の価値がなくなっていくだけではなく、人間の経験、想像や感情の価値がなくなっていくことも意味しています。そのうち人間動詞だけで築き上げたすべてに価値がなくなっていくおそが大いにあるのです。AIによって仕事がなくなることも大変ですが、AIがもたらす表現、価値観の混乱も憂慮すべき事態だと考えています。」(p.175)「『どうして』の中にこそ、人間ならではの価値があります。『どこ』と『どうして』がセットになることに依って、初めて人間の碁の価値が明らかになると思います。」(p.181)「いまのAIは汎用型AIではないから怖くないとも言われていますが、棋士からすれば、いまの特化型AIでも十分怖いと思います。人間がアルファ碁に負けたことは、すなわち人間の敗北であるとは思っていないし、『AIも人間が作ったものですから、やはり人間の勝利です』という言い方にも納得いっていません。人間が人間らしさという価値を捨て、効率のみを追求するAIの答えに合わせると決めたときにこそ、人間の敗北だと思っています。」(p.192)「ディープマインド社がグーグル傘下に入る時『倫理委員会を作る』のが一つの条件でした。開発する側も、AIのもたらす影響を大いに意識していることがわかります。AIの活動には国境がなく、AIを規制する倫理は世界共通のものでなければ、意味はありません、しかし、倫理に対する最小限の共通項が今の人間社会にあるのでしょうか。(中略)なとか共通する倫理の規範を作るため頑張っている人がたくさんいらっしゃいます。人間はAIを発展されるのと同じぐらいのエネルギーを、AIと付き合うことになった自分自身について考えることにも使うようになれば、と願っています。」(p.194-5)「デミス・ハサビスさんは、囲碁の次には、『脳の可視化』に挑戦すると話しています。脳の動きがわかれば、AIはもっと人間を理解できてもっと人間を幸せにする、という流れが当然のように示されました。(中略)脳の動きは囲碁のように自明なものではないのは明らかです。かりにAIが人間の本音を覗けるところまでになったとしても、その裏に隠れている、建前を守ろうとする葛藤が見えるのだろうか、そう思ってしまいます。」(p.200)
(2024.9.11)
- 「源氏物語 全8巻+別冊付録 第一巻」上野榮子訳 日本経済新聞出版社(ISBN978-4-532-17086-8, 2008.10.30 第一刷)
出版社情報。編集者が有名な数学者で知人の上野健爾先生で、そのお母様が、主婦業と、後半は、介護をしながら18年かけて完成された口語訳である。別冊付録には、ご夫君の佑爾氏の、「『源氏物語』口語訳 自費出版の完了に当たって」の一文からはじまり、健爾氏の「『源氏物語』の校正を終えて」が続き、最後に、出版の責任を持たれた和泉昇氏の「『源氏物語』上野榮子訳 私家版・覚書」が含まれている。最初は、平成16年12月30日に、お節をぶら下げて、ご長男の、健爾氏と、ご次男が、眞資氏が、おせちをもって、現れて、自費出版をしようと提案するところから始まる。眞資氏は、ご事情から、編集を続けられなくなり、基本的には、健爾氏がすることになったとのこと、英語版を出版された、サイデンステッカーとも親しい和泉昇氏と出会い、自費出版。新聞紙上でも紹介され、読みたいという方がたくさんおられたこともあって、日本経済新聞社から出版されることになったと経緯が語られている。この別冊付録も、感動を持って、読ませていただいた。今回、読み終わったのは、この別冊付録と、第一巻である。『源氏物語』全54帖のうちの最初の6帖が含まれている。桐壺・帚木・空蝉・夕顔・若紫・末摘花である。他の本を読む予定もあるので、第二巻は、すぐには読めないが、数年前にいただいて、やっと手に取ることができてとても嬉しかった。わたしは、古典の素養が全く無いので、しばらく前から、枕草子とそれに関わるものを読み、源氏物語も入門のようなものや、源氏物語についての本を読み、準備をし、今年、たまたま、大河で「光る君へ」が放映されているので、よい機会と思い、読むこととした。是非読ませていただきますと言って、上野先生からいただいて、やっと読み始めることができて、そのことも嬉しい。簡単な概要は知っていたものの、読み始めると、それなりに手強い。口語訳といっても、どうしても、昔のことばがたくさん出てくるからもあるだろう。しかし、文体としては読みやすい。日本最古の長編小説と言われるが、男性目線からすると、光る君(光源氏)には、いくら高貴な生まれとの設定があるにしても、違和感を感じてしまう。官職ももっていながら、仕事のことはなにも書かれておらず、女性だけを追いかけているように見えるところに違和感があるのだろう。女性との関係も、人生の様々な背景のもとで、存在することで、それが切り離されていることから、不自然さを感じしてしますのだろう。また、ある部分「雨夜の品定め」で男たちが女性について語る箇所が、背景となって、物語が進むが、男性から見た女性についての視点は、この程度で、あとは、様々な女性について書かれているという表現が適切であるように思う。その意味で、描写は、美しいが、女性の特徴はある程度表現されているものの、男性の人間味が伝わってこないということだろうか。時代的なものもあるのだろうか。全8巻の第一巻を読んだだけなのだから、少しずつ、受け取ることがあるのかもしれない。あまり、期間をおかず、読みたいと思う。
(2024.9.21)
- 「アルファ碁Zeroの衝撃 竜虎vs最強AI - 囲碁界の新星が最強AIを斬る」芝野龍之介・虎丸著 マイナビ(ISBN978-4-8399-6570-9, 2018.5.11 初版第1刷発行)
出版社情報。紀伊國屋書店:目次など。経緯は、この上の「棋士とAI」に詳しいが、アルファ碁(リー)が、2016年に、イ・セドルを4対1で破り、その後、(アルファ碁)マスターが、ネット碁界を席巻、当時の最強棋士、柯潔にも3対0で完全勝利してから、人間の棋譜を学習データとして使わない、アルファ碁Zero を発表、そのときに、棋譜をある程度公開した。「そのAIの棋譜は、従来のアルファ碁の2つのバージョンとの対戦を20局ずつ、自己対戦を40局、合計80局公開されました。人間の培ってきた考え方、概念などを一切取り入れずに作られたものなので、発想にまるでないような手がたくさん出てきます。アルファ碁ゼロに対しては、既存の価値観は通用しないと言えるでしょう。この本は、そのアルファ碁ゼロの棋譜80局を私たち兄弟で検討し、それをなるべくそのままの形で文に起こしたものになっています。」(まえがきより)となっています。公開されてから、半年程度で、この本は出ています。現在までも、いろいろな形で、YouTube などで、この兄弟は、囲碁の普及活動に貢献していますが、そのような貢献のおそらく、最初のものが、本書なのでしょう。読みやすく構成されているとは到底言えませんが、まえがきにあるように、公開されたものをすべて、なるべくそのままの形で書き上げたものとなっています。そのような AI によって、世界が変わってしまったとも言える、囲碁界に対する、とても大きな貢献であると思います。いまは、いくつも、アルファ碁ゼロのアイディアを汲む、AI碁が開発され、検討もできる有用なものが出ていますから、本書で勉強する必要はなくなっています。しかし、公開直後から、このように取り組んだ記録としても、とても価値のあるものだと思います。すくなくとも、現時点での、囲碁界における、二人の貢献は、異なりますが、今後とも、この兄弟の活躍に期待し、賛辞を送りたいと思います。
(2024.9.27)
- 「ユダとは誰か〜原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ」荒井献著 講談社学芸文庫(ISBN978-4-06-292329-3, 2015.11.10 第1刷発行)
出版社情報・目次。原本は、2007年5月、岩波書店より刊行、とある。筆者は、東京大学教授名誉教授で、新約聖書、とりわけその外典の研究者(p.274)とご自身を位置づける。2006年、「ダ・ビンチ・コード」が人気を博したことも背景にあるようだが、正典に含まれる、四つの福音書に加えて、同じ年に、「ユダの福音書」のコプト語本文と英語訳が公開されたこともあり要望に答えて、ユダについていくつか書いたものをもとに、まとめたものとのことである。本年8月16日に亡くなられたが、この方の本は読んだことがなかったので、「ユダの福音書」への興味と、マルコによる福音書を学んでいて、しばらくすると、ユダのことについても深く学ぶ必要があると思って、手に取った。荒井氏は、恵泉女学園大学の学長を努めたこともあり、その大学の石原綱成氏の「ユダの図像学」が最後についている。どのような考え方で、研究しているか、基本的なことは、理解できたが、正直、期待したほどのものは得られなかった。1コリント15:5には、復活のイエスが12人に現れたとあり、ここには、当然ユダも含まれていることになると書かれていることには、興味をもったが、パウロがそれを意識していたか、確証はないとも思う。「人が神にならないために」や「ユダのいる風景」など、もう少し、他の本も読んでみたいと思う。以下は備忘録。「以下の叙述には新約聖書学ですでにほぼ定説となっている、いわゆる『二資料仮説』が前提とされている。すなわちそれは、マタイとルカがそれぞれの福音書を編むにあたって①マルコによる福音書と、②(マルコの知らない)イエスの語録文書(いわゆる『Q』文書)を資料としたという仮説である。その際に、マタイとルカは、上述二資料以外にも、それぞれに独自の伝承資料を用いている。これをわれわれは『マタイ特殊資料』『ルカ特殊資料』と呼ぶ。」(p.4)「マルコによる福音書:著者は紀元後70年代に、それまで言い伝えられてきたイエスの言行に関する伝承を編纂して、史上初めて『福音書』を著した。成立地はおそらく、ガリラヤに隣接する南シリア。思想的特徴:①著者は、福音書成立以前にすでにまとまった形で伝承されていた(その一部はすでに文書化されていた?)イエスの受難・復活物語(14-16章)と、受難以前のイエスの言行に関する伝承とを統合して編集することにより、イエスの受難・復活の意味をイエスの生涯全体との関わりにおいて捉えなおした。②ガリラヤからイエスの十字架刑に至るまで、彼に従い仕えることのできない弟子たちに対して、マルコ福音書のイエスは極めて批判的である。それに対して、十字架刑に至るまでイエスに従い仕えた『女性たち』は積極的に評価されている。(15:41)③人間がイエスに対して『神の子』と告白するのは、イエスが超自然的な力をもって奇蹟行為をした時点においてではなく、十字架上で悲惨な死を遂げた直後であった。(15:39)④マルコ福音書は、神の使いがイエスを見捨てた弟子たちに対して、ガリラヤにおいて復活のイエスに再会することを約束する場面で終わっている。(16:7-8)」(p.63)「マタイによる福音書:おそらく紀元後80年代に一ユダヤ人キリスト者によってシリアで著されたと思われる。思想的特徴:①イエスの言行は総じて旧約聖書における預言の成就とみなされている。②『神への愛と隣人への愛』に要約されるイエスの掟に旧約聖書のすべてが掛かっており(22:40)、それは旧約の律法にまさって実践されるべきである。(5:20)③使徒たち、とりわけその筆頭のペトロは、イエスにより『教会』の礎石(『岩』)として(16:18)、高く評価されている。④生前のイエスは、使徒たちによる宣教の対象を『イスラエルの失われた羊』(10:6)に限定したが、復活後ガリラヤに顕現したイエスは、彼らの宣教対象を『あらゆる異邦人たち』(28:19)に拡大している。」(p.82)「ルカによる福音書:続編として著した使徒行伝の成立を90年代とすれば、おそらく80年代に著された。著者も想定している読者も、おそらく主として『神を畏れる者』(ユダヤ人と同調する異邦人)成立地は、地中環沿岸地域の大都市。思想的特徴:①イエスが宣教する福音は、ローマ帝国に対して政治的に無害であることを積極的に強調している。②イエスの言行を世界史の枠組みの中に位置づけようとする。③神による救済の歴史が3つの時期(救済史『イスラエルの時』『イエスの時』『教会の時』)に分けられ、『イエスの時』は『時の中心』として、他の『時』とは質的に区別される。④イエスの福音を宣教する『使徒たち』が理想化され、彼らと共にイエスに従った『女性たち』は、彼らに『仕えていた』(8:3)⑤イエスの十字架の死は、殉教者の理想像として描かれている。(3:46)⑥復活後、エルサレムで使徒たちに姿を現したイエスは、使徒たちに向かって、とりわけ諸国民に対する『悔い改め』の宣教を命令し(24:47)、ベタニヤの近くで天に昇る。」(p.100)「ヨハネによる福音書:1世紀末に、ユダヤ教の勢力が強い、エフェソか、アレクサンドリアか、パレスチナとシリアの境界領域かで成立。思想的特徴:①著者は、著作目的を『あなたがたが、イエスが神の子キリストであると信じるようになるためであり、信じていることにより、その名のうちにあって命を持ち続けるためである。』(20:31)と明示している。②イエスは彼をキリストと信じる者のもとに今神の子として生きていることを強調している。こうして著者は、生前のイエスの時と、彼が福音書を著作している時とを重ね、彼の教会共同体の中に『神の子』キリストが『霊』として臨在していることを前景に出す。③イエスははじめから神のもとに、神の『ことばとして先在しており、このことばが肉体を持つ人となって、父である神によりこの世に『子』として遣わされた』彼はその言葉と徴(奇蹟)によって、その『神の子』性をこの世に啓示するが、『ユダヤ人』によって迫害され、弟子たちに『兄弟愛』の戒めを遺して十字架につけられ、天に挙げられる。こうして、イエスの使命は十字架上に『成し遂げられた』(19:30)④イエスの母をはじめ、サマリヤの女(4:7-)、マルタとマリヤ(11:17-),マグダラのマリヤ(20:1-)など、女性が高く評価されている。⑤『ユダヤ人』が総体として拒否されている。⑥『光と闇』『真理と偽り』『生命と死』など二元的に相対立する原理を用いて思想を展開するいわゆる二元論的思考形態が見出される。」(p.117)「愛弟子:この人物は伝統的にはヨハネといわれているが、最近の聖書学では、ヨハネ共同体を象徴する人物と想定されている。」(p.131)「使徒教父文書とは、新約聖書と教父文書の中間の時代に、ただし、新約聖書のうち比較的後期に成立した処分書と、教父文書のうち初期に成立しhた諸文書と一部重なる時代に、キリスト教の正統的立場を何らかの意味で代表する人々によって著され、その多くが、伝統的には、時代的にも思想的にも、新約聖書に次ぐものとみなされた諸文書」(p.143)「新約聖書外典とは、正統的教会による『正典』(現行『新約聖書』所収の17文書)結集の過程(3-4世紀)において、正典から排除された、あるいはその中から正典に採用されなかった諸文書であるが、内容的には正典と同一の価値を持つとの要求を掲げ、伝承様式・文学形式上正典に類似するか、あるいはこれを補足する傾向を有する諸文書のことである。」(p.143)「もしも『ユダ福音書』がエイレナイオスによって反駁の対象とされた福音書であるとすれば、これは『異端反駁』の著作年代(180頃)よりも前には公にされていたことになる。」(p.161)「ユダの告白:あなたが誰か、どこから来たのか、私は知っています。あなたは不死のアイオーン(すなわち)バルベーローからやってきました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません。」(p.167)「ユダ:だが、お前はすべての弟子たちを超える存在になるであろう。なぜなら、お前は真のワタシを担う人間を犠牲にするであろうから。」(p.183)「イエスは至高神『バルベーローに由来』する『本来的自己』としての『霊魂』と、創造神に由来する『非本来的自己』としての『肉体』から成っている。ユダはイエスの『肉体』を犠牲にすることによって『肉体』から、『霊魂』を解放し、イエスを人間の元型たらしめるであろう、とイエスによって予告されている。」(p.193)「もし『ユダの福音書』のユダの『復権』に歴史的意味があるとすれば、正統的教会が自らの罪を追わせ、『スケープゴート』として教会から追放しようとしたユダを、イエスの『愛弟子』として取り戻したという一点にあるのではなかろうか。」(p.194)「『ペトロによる福音書』にも、その成立年代は二世紀中期以降ではあるが、イエスの死後『十二人の弟子たちは泣き悲しんでいた』と報告されている。(14:59)」(p.203)「マルコ福音書では、私見によればユダは、ガリラヤにおける復活のイエスとの再会を予告されている弟子たち(14:28,16:7)から排除されていない。その限りにおいて、イエスを裏切ったユダは、師を『見捨てて逃げていった』他の弟子たち(14:50)と共に、究極的にはイエスによって赦されているということになろう。もちろん、『復活のイエス』には、信仰が前提とされており、そのイエスとのガリラヤにおける再会の約束もマルコの神学的設定である。したがって、これを歴史的レベルに置くことはできない。しかし、このような神学的設定は、生前のイエスの『愛敵』の勧め(マタイ5:43,ルカ6:27-28,35a-36)に事柄として対応しているのではないか。」(p.203)
(2024.9.27)
- 「クレムリンの魔術師 - LE MAGE DU KREMLIN」ジュリアーノ・ダ・エンポリ(GIULIANO DA EMPOLI)著 林昌宏訳 白水社(ISBN978-4-560-09468-6, 2022.11.25 印刷, 2022.12.15 発行)
出版社情報。裏表紙に「皇帝の帝国は戦争から誕生した。よって、この帝国が最終的に戦争に至るのは道理だった。」とある。1999年12月31日に、プーチンが首相に任命されるその少し前から、プーチンのもとにいて、後にロシア大統領補佐官をつとめたウラジスラフ・スルコフをモデルとしたヴァディム・バラノフの物語である。最初に「作者は、事実や実在の人物をもとに自身の体験や想像を交えてこの小説を執筆した。とはいえ、これは紛れもないロシア史である。」とあるように、正直、どこの部分が創作だかは不明だが、少なくとも、プーチンが首相となり、大統領となり、ウクライナに攻め入る直前までのロシア史を赤裸々に語っている。こんなすごい本があることを知らなかった。リンクから情報も得られるので、詳細は書かないが、著者も素晴らしい。比較政治学者と訳者あとがきにあるが、まさに、当を得た表現である。個人的に、1993年夏のソビエト崩壊のときに、赤の広場のそばにたまたまいたこともあり、その後の混乱、急成長、そして、ウクライナ侵攻を非常に興味をもって、見守って来たが、そのある部分については、政治家の立場からだろうが、ある程度理解できたように思う。乱暴な皇帝の政治とともに、西欧の政治の問題点も浮かび上がらせている。これから、世界はどこに向かっていくのだろうか。それを考えさせられる書でもあった。秀逸である。訳者あとがきには、「ウラジスラフ・スルコフ(1964年生まれ)プーチン政権下でロシアの伝統を重視して国民の権利よりも国益を重視する『主権民主主義』を提唱し、プーチン政権のイデオロギーを築き上げた人物だ。数数の政界工作にも関与し、プーチン政権を長期化させた立役者だ。本書のエピソードにもあるように、2022年のロシアのウクライナ侵攻の足がかりになった2014年に始まったドンバス地方での武力衝突は、スルコフの画策だと言われている。2020年にクレムリンを去り、その後の消息は自宅軟禁状態にあるなど、謎に包まれている。」他に、ミハイル・ホドルコフスキー、ボリス・ベレゾフスキー、イーゴリ・セーチン、エフゲニー・プリゴジン、アレクサンドル・ザルドスタノフ、および、著者についての解説がついている。以下は備忘録。
「エヴェゲーニイ・ザミャーチン『われら』20世紀初頭に活躍したロシアの作家。」(p.14)「政治闘争と粛清を避ける唯一の方法は、計画された秩序に反抗する個人の特異性を取り入れることだと確信している。」(p.26)「祖父:ロシア革命は未曾有の惨事だった。だが、この革命がなければ、私の人生は公務員か、せいぜい皇帝の取り巻きで終わっていたはずだ。私は共産主義が麗しいとは決して思わないが、お前もわかっているように、われわれはどんな社会体制であっても幸せになれる。ヴァディアよ、われわれは、これから何が起こるのか皆目検討がつかない。お前が、これから起こることを操ろうとしても、それは無理だ。さらに悪いことに、これから起こることが自分にとって良いことなのか、悪いことなのかもわからない。起きてみてはじめて自分の人生が台無しになったと気づく。あるいは、逆に幸せになったと実感する。天がお前の頭の上で崩れ落ちたとしよう。しばらくたってから、それは自分にとって最良の出来事だったと分かることさえある。お前の意のままになるのは、出来事の解釈だけだ。自分たちを苦しめるのは物事でなく、自分たちがそうした物事にくだす判断だと悟れば、お前は自分の人生を御することができる。だが、そうした、考えを持たなければ、お前は大砲で映えを撃つような羽目に陥る。」(p.36)「母なるロシアの英雄はだれかとの投票結果:スポーツ選手や、歌手や、俳優ではなく、彼らの英雄は、イワン大帝、ピョートル大帝、レーニン、スターリンなど、虐殺非道な独裁者だった。我々は調査結果を改ざんせざるを得ず、中世のロシアの戦士で、虐殺者ではなかった、アレクサンドル・ネフスキーがトップにくるようにした。ちなみに、最も多くの票をあつめたのは、なんと、スターリンだった。このとき、ロシアが他国と同じようになることはないと確信した。」(p.70)「ジャーナリスト『今回の一連のテロ事件を受け、あたなはチェチェン共和国のグロズヌイ空港を爆撃するように命じました。こうした軍事行動は、状況を悪化させるだけではないでしょうか。』しばらく沈黙してプーチン『こんなくだらない質問に答えるのはうんざりだ。われわれはテロリストを叩き潰す。奴らが空港に隠れているのなら、空港を破壊する。便所に潜んでいるなら便器までふっとばす。』(中略)唯一の回答は垂直方向の力であり、この力だけが獰猛な世界に閉じ込められた人間の苦悩を鎮めることができる。だからこそ、連続爆破事件後、皇帝の優先事項は当然ながらこの力を復元することだった。このときから、統計資料の折れ線グラフを比較検討する官僚の討論会といった西側諸国のやり方を捨て、人間の根源的な欲求を満たすシステムを構築することが我々の使命になった。連日連夜、国の深部にまで達する政治の確立に専念することになったのだ。」(p.100)「ボリス『だがなヴァディア。お前たちの思うようにはいかない。ヨーロッパ人やアメリカ人がいる。ロシア国民は初めて民主主義を知った。内戦が勃発する。』内戦という言葉に、私はフランスの外交官だったキュスティーヌが語った『他の戦争と違って内戦の良い点は、自宅に戻って朝食を取れることだ。』という一節を思い出し、笑いを押し殺した。」(p.120)「怒りは社会を統御する底流の一つだ。よって、課題は怒りと戦うのではなく怒りを制御することだ。怒りが寝床から逃げ出して周囲を破壊しないように、怒りのはけ口を常に確保して置かなければならない。怒りが社会システムを危機に陥れることなく、自由に駆け巡ることができるようにする必要があるのだ。異分子を抑圧するのは野蛮な行為だ。一方、怒りが蓄積しないように怒りの流れを管理することはより複雑だが、はるかに効果的だ。結局のところ、これが長年にわたるわたしの仕事だった。」(p.142)「会ったのは、勢いのある共産主義青年同盟のリーダー、ロシア正教の復興運動を企てる広報担当者、モクスワのサッカークラブチーム『FCスパルタク・モスクワ』の過激なサポータのリーダー、それにアルタナティブ・ミュージックで最も人気のあるグループの代表者といった面々だ。このような面会を重ね、暴走族、フーリガン、無政府主義者、スキンヘッド、共産主義者、宗教原理主義者、極右、極左などを皇帝の応援団に引き入れた。全員が、ロシアの若者が問う人生の意義について刺激的な回答をもたらす者たちだった。ウクライナでおきた革命を考慮すると、私は彼らの怒りの力を利用すべきだと確信した。強靭な社会システムを構築するには、権力だけでなく破壊力も独占しなければならない。こうした過程においても、現実を素材として、高次元の遊び感覚をつくりあげる必要があった。私の仕事は、世間の逆説と矛盾に対する許容度を推し量ることだった。わたしが演出する政治劇は完成に近づいていた。全員が与えられた役割を快く演じてくれた。彼らのなかには抜群の演技力を持つものもいた。わたしが採用しなかったのは、大学教授、1990年代の社会混乱の責任者であるテクノクラート、ボリティカル・コレクトネスの旗振り役、トレンスジェンダー・トイレの普及を提唱する進歩主義者だけだ。そうした連中は、われわれの反対派で居続けてほしかった。むしろ、反対派はかれらのような面子で構成される必要があった。ある意味、彼らは私の政治劇では最も優秀な俳優であると同時に、出演してもらうために雇う必要もなかった。われわれの支持基盤は、市内からモスクワ三号環状道路を超えた瞬間に異国の地に来たと感じるモスクワの小市民や、椅子一つ動かせないような人人だった。博士号を持つ尊大な経済学者、1990年代の生き残りであるオリガルヒ、プロの人権活動家、狂信的なフェミニスト、エコロジスト、ヴィーガン、ゲイ活動家などの反対派は、われわれにとって天の恵みだった。たとえば、フェミニストのロック集団が救世主ハリストス大聖堂で無許可の演奏を行い、プーチンと総大主教に対して卑猥な言葉を叫ぶと、皇帝の支持率は5%上昇した。」(p.172)「カスパロフ『私は政治学者ではない。チェスのプレーヤーだ。私に言わせれば、君の主権民主主義は多かれ少なかれチェスと正反対の代物だ。チェスでは、ルールは不変だが、勝者は常に変化する。君の主権民主主義はでは、ルールは変化するが、勝者はいつも同じだ。』」(p.175)「アマチュアにとって、政治はゲームではない。だがプロにとって、政治は真剣にプレーする価値のある唯一のゲームだ。」(p.177)「プリゴジン『この(5000ルーブル)紙幣を使って街角で実験してみると面白いことが分かる。被験者となる通りがかりの人物は、この紙幣をもらうこともできるが、50%の確率の賭けに挑むこともできる。賭けに負けると何ももらえないが、勝てば二倍の金額が得られる。この人物は間違いなく賭けに挑むことはせず、5000ルーブルをもらう方を選ぶだろう。では、条件を逆にしてみよう。この人物は5000ルーブルを支払わなければならない。これが嫌なら、コインを投げるという賭けに挑む事もできる。裏表の結果によって二倍の一万ルーブル、あるいはなにも払わなくてよいという選択肢と提示する。この条件ならこの人物は、どちらを選択するだろうか。5000ルーブルを即座に支払うよりも、二倍の金額を支払うことになるリスクをとるはずだ。不条理な話だと思わないか。冷静に考えると、5000ルーブルをもらうものは、これを失うよりもリスクを取る余裕がある。しかしながら人々はこれと正反対の行動を取る。5000ルーブルもらう勝者は慎重な選択をこのみ、これを失う敗者は大きな賭けに出る。』人間の脳にはこの手の欠陥がたくさんある。これらを熟知し、利用するのがカジノ経営者の努めだ。政治だってにたようなものだろう。安定した職業、すてきな家庭、田舎の別荘、海辺でのバカンス、老後の確かな見通しなど、快適にすごしているのなら、何の不満もない。堅実な選択をしてリスクを取ろうとしないだろう。ところが、状況が一変し、失業し、家を失えば、将来の見通しが立たなくなる。そのようなときにどうするか。相変わらず堅実な選択をするだろうか。まったく逆だ。狂ったように賭けを始める。現状を維持するために得体のしれないリスクを選好する。このとき、すべてが根底から覆る。秩序よりもカオスが魅力的に映る。少なくともカオスからは、新たなものが生じる可能性がある。どんでん返しというやつだ。こうして物事は面白くなる。1917年のロシア革命や、ナチズムは、こうして誕生したのではないか。なぜなら、ほとんどの人々は、それまでの惨めな暮らしを続けるよりも、未知の世界に身を投じることを望んだからに違いない。」(p.198)「陰謀論はわれわれにとってありがたい話だ。というのは、陰謀論は、彼らの扱いとは正反対の効果を生み出し、われわれを強力に支援してくれるからだ。彼らは、権力者にも人間的な弱さがあるとみなすのではなく、権力者をどんな陰謀であっても企むことのできる全知全能の尊大だと吹聴していくれる。これは権力者に対する最大の賛辞ではないか。権力者を実際以上に偉大だと流布してくれるのだから。」(p.212)「これまでは出兵するかは任意であり、出兵する人々が売り渡す自由のおかげで、われわれにはガラス玉のような安全が保証された。しかし、新たなウイルス感染症が市場または研究室から拡散する、シアトル、ハンブルグ、横浜が核兵器や生物兵器によって破壊される、貧困にあえぐ哀れな少年が学校で銃をらんしゃするのでなく、街全体を吹き飛ばすことができるようになると、全人類が求める唯一の願いは確かな安全確保だ。どれだけ費用がかかろうとも安全が優先されるようになる。今後、規範から少しでも外れるものは不審者として扱われ、叩き潰すべき社会の敵とみなされるようになる。そのためインフラは整備されつつある。これまで商業的なものだった動員は、政治的、軍事的になる。世間では、終末的な大惨事に対抗する利用可能なあらゆる手段を用いる必要があるという声が高まる。恐怖に直面すると、安全を確保するためなら、どんなことであっても許容されるようになる。」(p.254)
(2024.10.2)
- 「国連と帝国 世界秩序をめぐる攻防の20世紀 The Enchanted Place - The End of Empire and the Ideological Origins of the United Nations」マーク・マゾワー(Mark Mazower)著 池田年穂訳 慶應義塾大学出版会(ISBN978-4-7664-2243-6, 2015.8.5 初版第1刷発行)
出版社情報・目次。新聞に紹介記事があり、手に取った。このような歴史的な見方から、ブール(ボーア)戦争から始め、国際連盟から、戦間期、そして国際連合へとたどる道を書かれていものは、はじめてでとても興味深かった。第1章 ヤン・スマッツと帝国主義的インターナショナリズム、第2章 アルフレッド・ジマーンと自由の帝国、第3章 民族、難民、領土 ユダヤ人とナチス新体制の教訓、第4章 ジャワハルラール・ネルーとグローバルな国際連合の誕生、という構成である。ヤン・スマッツは、国際連合憲章の序文の起草者、アルフレッド・ジマーンは、憲章の条文を起草した人のようだ。特に、スマッツを中心として書かれているが、大英帝国や、その後の、Common Wealth、国際連盟と国際連合両方に国の全権として参加したひとでもある。マイノリティと、個人の人権の問題、国の中の問題への関与の仕方、インドと、南アフリカの関係、アフリカをどうしていくか、そして、国際連合は、51カ国から、四倍以上に膨れ上がったこととその影響、ジェノサイド禁止条約と、世界人権宣言の関係など、興味深いトピックばかりだった。インドの全権として国際連合に臨んだ、ビジャエラクシュミー・バンディト(Pandit, Vijaya Lashmi)がネルーの妹であることも知らなかった。偏った見方なのかもしれないが、この方の本をもう少し読みたいと思った。明らかに、国際関係論から理想的な平和な世界を構想するという立場とは異なり、歴史的背景がどのように関係しているかを丁寧に理解することも大切だと感じた。以下は備忘録:「『タイム』誌が指摘しているように、国連憲章は基本的に世界を『大国の勢力圏』に分かつのを批准するために企画されていたのだ。その点では国連憲章は、1940年に結ばれた日独伊三国同盟の、より実効性があり、イデオロギー上はよりリベラルな翻案といえたし、スマッツが強力な地域ごとのブロックを戦時下で唱えていたのと見事なまでに合致していた。」(p.68)「デュボイスは、『これはユダヤ人の権利についてはたいへんわかりやすい宣言だが、どこを見てもニグロ、インディアン、南洋諸島の住民の権利は考えに入っていない。となるとどうしてそれを『人権宣言』と呼ぶのだろうか』と講義した。かと思えば、サンフランシスコでスマッツの演説があった前後には、もっと辛辣にこう述べている。『われわれはドイツを征服した。けれども彼らの思想は征服していない。ニグロを今の地位にとどめ、植民地にいる七億五千万人の帝国による支配を指して民主主義と嘘をつくのは、依然としてわれわれが白人至上を信じているからである。』」(p.68)「国連憲章:国際連盟規約がそうであったのと同じように、世界規模の組織にはめ込まれた大国間の同盟。ウェブスター:強大国の同盟関係の理論と国際連盟の理論とを調和させる新しい方法」(p.69)「ユージン・クリッシャー『移動するヨーロッパー戦争と人口変化 1917-1947 Europe on the Move: War and Population Changes, 1917-1946』」(p.122)「シェクトマン:平和に必要なのは、民族的マイノリティの移動・交換・徒民政策なのだ。こういった人々は、自分たちと同じ言語を話し、反発しなくて済む習慣を持ち、精神的に忠誠心を持てる、大きな民族集団の一部となれる場所に再定住させられるべきである。」(p.124)「『占領下ヨーロッパにおける枢軸国側の支配ー占領の法、統治の分析、救済の提案』Axis Rules in Occupied Europe: Laws of Occupation - Analysis of Government - Proposals for Redress」(p.135)「レムキン:国際連合の任務は戦後にドイツ人を促して支配人種という理論を支配的道徳、国際法、真の平和という理論に置き換えさせねばならない。という政治的・精神的な条件を編み出すことだった。後者の理論こそ、レムキンを少年時代から突き動かしてきた『道徳的判断』というトルストイ的な理想に仕えるものとしての『国際法』と言えた。」(p.136)「ジェノサイド条約は戦間期の体制の入念な仕上げであり、もう一方の世界人権宣言はずっと弱体な体制へのジェスチャーだった。世界人権宣言の熱烈な道義的意欲の修辞は、幾分かは法の拘束力に代わる役目をはたすとされていたのだが。」(p.139)「ガンジーへの手紙:仮に南アフリカでナチスの支配があったとして、私どもは今よりもひどい扱いを受けることはありますまい。私どもの中には、イギリス人は甘言を弄しつつも飾った言葉の裏側では自身の容赦のない政策を追求しているのだが、ヒトラーは率直なだけだと考えるものがたくさんおります。ヒトラーは少なくとも自分の感じるところをそのまま述べています。こう考えることに真実はありませんでしょうか。ガンジー:イギリスとナチスとの間に選ぶところなんぞあまりないでしょう。とりわけ南アフリカでは、これは明々白々です。そこでは有色人種はあらゆる面ではっきり劣等人種扱いをされているのですから。ナチスとてこれ以上のことを口にしたり行ったりはできないでしょう。イギリスの敗北がナチスの勝利を意味するのなら、再度記しますが、われわれはそれを望んでいませんし、また望んではならないのです。それゆえわれわれは不偏不党でなければなりません。われわれは自身の独立を望んでいます。われわれはそのためにはドイツの崩壊を望む、という理屈にはなりません。われわれは自分たちの力で自由を獲得し維持してゆかねばならないのです。われわれはそのためにイギリスからであれ、それ以外のものであれ、外部からの助けは入りません。」(p.176)「ネルーが戦後のインターナショナリズムを測る指標としたものはすでに明確になっていた。強大国の間での冷戦構造下の対立において中立であることが、仮想としての『アジア』だけでなく世界中の植民地諸民族に替わって鼓吹と相俟って、インドにリーダシップを発揮する最良の機会を与えるのだった。」(p.192)「かくてインドの動議は委員会で投票に付され、いくつかの修正が施されて、結局は総会においても危うい勝利を収めた(棄権7票、賛成32票、反対15票)。インド代表のビジャエラクシュミー・パンディットは『アジアの勝利』を宣言した。」(p.193)「ジャワでオランダ:イギリスはインドで同様ですし、どちらも素晴らしい仕事をやってきたのに追い出されてそうです。そこから想起するのは、ローマ人を追い出した後のイングランドのブリトン人が経験したことと、彼らの状態が以前の野蛮な状態に戻ったことです。けれども、むろん民族が望むのは、他者による優れた統治よりも、質が悪かろうと自治なのです。」(p.195)「矢内原忠雄(1920)国際連盟よりも実態のある国家連合である。それぞれの自治領は国家としての自治を持ち、イギリス帝国は自治領のいずれに対しても植民地的支配をするとはみなされていない。ーこれは基本的にスマッツの観方であり、同時にジマーマンの観方であったし、二人の心中では世界組織の雛形であった。」(p.207)
(2024.10.9)
- 「イエス・キリストの言葉 ー 福音書のメッセージを読み解く」荒井献著 岩波現代文庫 学術213(ISBN978-4-00-600213-8, 2009.3.17 第一刷発行)
出版社情報、目次情報。文献批評研究、特に伝承史的、編集史的観点から、丁寧に福音書から語っている。もともとは、1993年4月から9月までの半年間放送されたNHK「こころをよむ」のラジオ放送で語られた「イエス・キリストを語る」のテキストから大部分が取られているとのことである。「序」の最初に「以下において私は『聖書』のテキストの中に宿されているイエスの問いかけに応える形で、イエス・キリストを語ることとする。資料となるのは『新約聖書』、とくに『福音書』である。その際、『聖書』をどう読むかによって、イエス・キリストを語る際の『語り方』も異なってくる」と書いており、まさに、問いかけに応えよういう姿勢が印象的であった。伝承史の視点として「イエス伝承のレベルとマルコがそれを素材として『福音書』を編集したレベルは、まず時代的に区別されなければならない。それは、時代的のみならず、内容的にも区別すべきだというのが私どもの立場である。」(p.9)とある。本書でも、マルコと、マタイ・ルカとは、伝承史における位置づけも区別し丁寧に扱っているが、マルコとヨハネに関する限り、一次伝承者との距離に関する理解は、私とは異なるように思う。しかし、このように、伝承史的、編集史的観点から、丁寧に読み解いていく手法を学ぶことができたことはとても有意義であった。個人的には、聖書学者における分断が、キリスト教界の分断にもつながっていると思うので、方法論の違いから、議論ができなくなってしまっているように思われるが現状は、非常に悲しむべきことだと考えている。ただ、特に、日本やドイツにおいては、戦争の時代の克服、それは、根拠を一つ一つ疑い騙されないという生き方と、絶対的に正しいものから離れないという生き方が際立ち、対話が難しくなっていたようにも思う。これからは、少しずつ改善していくだろうか。以下は備忘録:「原理主義、あるいはそれに基づく聖書『逐語霊感説』を標榜する『信仰者』は、現代ではむしろキリスト教の少数派である。ただ、始末が悪いのは、とりわけわが国のキリスト教界において、その大半は原理主義をとらないけれども、それはあくまで建前であって、本音のところでは聖書は全体として誤りなく完全であり、その信仰証言の多様性を前提とした上で文献批評的あるいは文学批評的に聖書を読むことには拒否反応を示す。」(p.2)「福音書が編まれる以前の時代に流布されていた伝承あるいは資料のレベルで読むのか、それとも伝承・資料を素材にして福音書を編んだ福音書記者の意図がこめられた編集のレベルで読むのかという問題である。ここで、福音書の成立事情をもう一度思い出していただきたい。先に言及したように、イエスが紀元30年頃に十字架刑に処せられたのち、生前のイエスに従って来た人々の間に、そのイエスが彼らの面前で現れたという体験を媒介としてそのイエスこそ『キリスト』であるという信仰が成立した、この信仰を宣教するために、彼らは生前のイエスの言葉やイエスに関する物語を収集し、それをはじめは口実で、それを次第に文書化しつつ、後世に言い伝えていった。これを私どもは『イエス伝承』と呼ぶ。この伝承には、大きく分けて2つの『様式』がある。一つは『言葉伝承』であり、もう一つは『物語伝承』である。」(p.8)「私は中学3年生の夏に『終戦』を迎えたので、それまっでの小・中学時代は戦時下にあった。その時代、とくに中学校における上級生と下級生の関係は、軍隊における上官と部下の関係のコピーであった。すなわち、下級生は上級生に対して軍隊におけると同様の絶対的服従を強いられた。上級生による度重なる暴力行為に対して、下級生は力による一切の抵抗手段を奪われていた。その上、私の父は牧師で『敵性宗教(キリスト教)』の宣伝者として日頃『特高』によって見張られていた。そのために私はよく『スパイの子』と呼ばれたものである。このこともあって、私は些細な理由付けでしばしば上級生による『鉄拳制裁』にさらされた。理不尽に頬を打たれながら、私は何度、教会の『日曜学校』あるいは子どもの礼拝で当の父親から習ったイエスの教え『だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』を思ったであろうか。わたしは歯を食いしばり、相手を睨みつけ、一方の頬を打たれたら、もう一方の頬を差し出したものである。わたしの振る舞いは、さしあたっては、敵を愛する行為などというものではなく、相手に対する恨みに基づく示威あるいは挑発であった。それは当時の私には唯一可能な手段だったのである。」(p.78)「私にとっての『愛敵』は、この神の恵み、あるいは神の赦しに対する、できうる限りの応答として『敵』への『恨み』を『愛』に転化していくことであろう。こうして、『神の子』となることが許される以外に、宗教的敵対の連鎖は断ち切れない、と私には思われるのである。」(p.98)「ルカに多い『家』のモチーフ:ルカ14:7-14、14:15-24を他の福音書と比較、使徒10:22、11:2、他にも多数」(p.153)「ルカ10:25-37 前半の『神への愛』の勧めは申命記6:5に、後半の『隣人への愛』の勧めはレビ記19:18の後半にあたる。しかし、この2つの勧めは統一されて、それに申命記6:4の前文『聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である』が付加され『シェマの祈り』として、ユダヤの成人男子には日毎朝夕二度唱えることが義務付けられていた。(確認できない by HS)」(p.171)「ガリラヤは紀元前200年ごろから『再ユダヤ化』され、ユダヤ人と共にユダヤ教を奉じていた。」(p.177)「神の国においては、憐れみはそれを受けるに全く値しないものに、その者の様々ないいわけやこだわりを圧倒する形で突如襲いかかる喜びである。(川島重成『イエスの7つの譬え』)」(p.182)「地下にある韓国のキリスト者学生諸氏から私のもとに送られてきたメッセージの中で、彼らはーおそらく歴史的研究の余裕などはほとんどないと思われるのにーイエスの志向するところを的確に言い当てている。イエスの理解の基本は、やはり彼の振舞を現代において追体験することにあることを、私は改めて思い知らされた。ーイエスのどこに視座を据えてそれを追体験するかが問題であろうが。」(p.199)「マルコは、イエスの言葉伝承を収集し、それらを素材にして福音書を編んだ。彼が集めた種々の伝承は、多くの場合一つ一つが独立に流布されていた。マルコは、それらに時間的前後関係をつけ、必要に応じて場面をも設定し、それらを組み合わせ、編集することによって、イエスの生涯を『福音書』の中に描き出したのである。」(p.219)「このいわゆる、『つきもの』信仰は、古代のみならず中世から現代に至るまで、しかも現代の日本においても(きつねつきなど)根強く広がっているだけに、これには『迷信』として一笑に付することができない側面がある。『悪霊』という土俗進行的呼称には、ある種の真実性があるのではないか。つまり、人間の精神に外側から及ぼす『破壊力』を、人間は自力でコントロールできないという真実性である。」(p.224)「ここでまず、イエスを遠くから見ると『走り寄ってひれ伏し』ながら、『かまわないでくれ』と言う、ゲラサ人の矛盾する感情が描写されていることに注意したい。これは、『私の辛さをわかってくれ』という思いと、『わたしの辛さが人にわかってたまるか』という思いとの葛藤であり、再び山本牧師によると『このような矛盾する感情を両面葛藤(アンビバレンス)と精神医学では名付けている』とのことである。」(p.225)「マルコによれば、イエスが人によって『神の子』と認められるのは、イエスが本質的に『神の子』であることを、超地上的存在から開示され、それを自ら奇跡行為により証明したからでは必ずしもない。そうではなくて、何よりもイエスが、地上にあって『律法を知らない』『不浄な民』として差別され『呪われている』民衆の位置に立ち、否、むしろ自ら『呪い』となって十字架にかけられ(ガラテヤ3:10-13)人にも神にも見捨てられ、孤独の中に壮絶な死を遂げががゆえにこそ、『神の子』として受容されたのである。」(p.379)「私は、『研究を踏まえながらも、イエスあるいはイエス・キリスト理解の意味を、現代に生きる読者に伝達しようと願っている。』とすれば、極めて現代的問題の一つである『キリスト教とエコロジー』にかかわるテーマをイエスによせて論ずる必要があるのではないか、と改めて思った次第である。」(p.390)
(2024.10.16)
- 「イエスとその時代」荒井献著 岩波新書909(ISBN978-4-0-0412158-9, 1974.10.21 第一刷発行)
出版社情報。荒井献氏の著書の中で最も有名かもしれない。44歳ごろの代表的著書である。下の引用にもあるが、氏の一つの「イエスとその時代に対する歴史的接近」である。基本的な、方法を述べ、時代の基本的な部分を説明してから、始めている。古層に分け入る文献批評的手法、その決め方など、勉強になるとともに、かならずしも同じ結論には行き着かないと感じる部分も多いが、わたしが、聖書を読む時に採っている方法と、共通部分も多く、それらをわかりやすく、かつ理解できるように、伝えることは、とても重要だと感じた。これからも、わたしも努力していこうと思う。わたしの「聖書の学び」にも、特に、時代の部分を抜書きしておいた。いまは、絶版のようである。目的から、マルコを中心にそれを出発点に編集史を見る傾向がつよいが、氏も認めている、ヨハネに史実性が高いものが存在するとしつつ、ヨハネとの違いがなぜおきているのかについての考察が十分ではないように思われる。もしかすると、後の本でそれがされているのかもしれない。いつか、全集にも挑戦したい。ヨセフスや他の史料ををしっかりと学びなおすことも必須だとも感じた。今後の課題としたい。以下は備忘録:「いずれにしても、イエスのような存在に対しては歴史的方法によって接近することができないという人々の多くは『歴史』というものに対して予断と偏見を持っているように思われる。もっとも、このような事態を引き起こした責任の大半は、いわゆる『歴史学者』の側にあることは事実であろう。彼らもまた、史料の積み重ねだけで歴史とはならず、史料に対する歴史家の解釈を通して初めて歴史は再現されることを知ってはいる。しかし彼らの多くが、史料解釈は歴史の法則的因果関係を捕らえるという科学的歴史叙述の目的に仕えなければならないという立場に固執しているように思われる。私見によれば、歴史は、とりわけそれが人間個人の歴史である場合、いかなる意味においても『法則』の中におしこまれうるものではない。なぜなら、人間の固有性は他ならぬ『法則』を踏み越えたところに露わになるものだからである。」(p.2)「重要なことは、どの階級のどのような人間、具体的な人間に焦点をあて、視座を設定するかにある。私は、歴史の最下部によどむ人々こそ、もっともその時代相を刻印された人々ではないか、と考える。皮肉に言えば、この最下層の庶民こそが、もっとも歴史のはかなさを表層の動きとは別の次元で実体験している階層にあたるのではないか、とさえ思う。だが、この最下層から俯仰して歴史を見る姿勢を、史実によってうちかためる作業は、その庶民が無告の群れであることによって、不可能に近い。ここでは、史実の不足とイマジネーションの膨張が要求され、それがためにまた安易な階級的人物として描かれやすい。」(p.4)「勿論、いかなる場合にも、歴史上の人物を現代に再現するためには、それを試みる人の優れた想像力(史料解釈)を必要とする。しかし、少なくともそれが歴史的になされる場合には、緻密な史料批判を踏まえなければならず、その成果によって想像力をいつでもチェックできる用意がなければならない。」(p.5)「実は、今世紀の聖書学のみならず神学一般にとって最大の問題となった「史的イエスの問題」が、右に述べたことと深く関わっているのである。この問題は、ドイツの代表的新約聖書学者R・ブルトマンが、原始キリスト教団の信仰にとって本質的な事柄は、彼らによって宣教されたキリスト、いわゆる「宣教のキリスト」であって、「史的イエス」では必ずしもない、と提言したことに端を発している。」(p.6)「ブルトマンによれば、マルコ(60年代)が採用したイエスに関わる伝承は、その「様式」に従って次のように分類される。A. イエスの言葉 アポフテグマ(イエスの言葉に、伝承の過程で、言葉の語られた史的状況が、物語形式で事後的に付加されたもの)主の言葉(状況描写なしに、単独に伝承されたイエスの言葉)B. 物語資料 奇跡物語 歴史物語」(p.13)「トロクメは次のような順序で『イエス』を挙げいている。『主の言葉のイエス』『アポフテグマのイエス』『物語伝承のイエス』『譬話のイエス』『奇跡物語のイエス』『公人としてのイエス』『イエスは誰か』さらにトルクメの採った方法の新しさは、譬話伝承を担った集団の背後に小市民層を、奇跡物語伝承を担った集団の背後に民間伝承の担い手としての農民層を、それぞれ想定していることである。」(p.16)「ヨハネ7:41-43 では、イエスがキリストならば、ダビデ王の子孫としてダビデの誕生地であるベツレヘムから出てこなければならないのに、イエスの出身地はガリラヤである、と主張されている。」(p.26)「ルカ17:21節の『ただ中に』と訳されている言語は『手の届くところに』という意味であることは、現在学界の一致した見解である。これを踏まえて、私どもの視点からこの言葉を敷衍すれば、次のようになるであろう。『神の国は「いつ来るか」「どこに見出されるか」という問いの対象になるような客観的領域というようなものではないのであって、イエスに出会った人間の振舞の中に可能性として存在しているのだ』このような敷衍がもし正しいとすれば、振舞と無関係な『神の国』という観念はイエスにとって意味はないということになるであろう。」(p.125)「私見によれば、ここでイエスがユダヤ教の戒め、あるいはモーセ律法そのものに対して、徹底命題として提示したのは、律法それ自体を無制限に引き伸ばして、またはそれを徹底的に内面化することにより、自己を立てる手段としての律法を相対化し、人間をして律法の奴隷から解放し、一人の自由な人間として自立せしめようとしたのである。同様に、反対命題は、律法に依って自己を正当化しようとする人間の足元を完全に掬うことになるであろう。私どもはこれらの命題をいかなる意味においても新しい倫理規範として受け取ってはならないのである。もし少しでもそのように受け取ったならば、そこから出てくるキリスト者の偽善はユダヤ教徒のそれよりも、はなもちならぬものになるであろう。」(p.143)「マルコ2:27,28 においてイエスは『安息日は人間のためにあるもので、人間が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は安息日に関しても主なのである。』と言い切っている。そこで『人の子』とは、当時のアラム語のガリラヤ地方における用語法に即して言えば、「私」の婉曲的表現である。とすれば、ここでイエスは、安息日に関する自らの優位性を、安息日に対する人間の自由に、この言葉の状況設定に即してみると、イエスとともにある庶民の生活に自らの振舞をこそ付けていったイエスの姿を見出すことができるのではなかろうか。人間を人間らしく生きえなくする仕方で機能してくるものは、たとえそれが安息日律法であっても犯されてよいのだ。」(p.149)「事実、これまで問題にしたテキストに、ほとんど『神』は登場していないのである。これから私どもは、イエスが自らの振舞を、律法によってはもとよりのこと、神によっても正当化しなかった、という結論を出すことができるのではなかろうか。だからこそ、『人々はその(イエスの)教えにおどろいたものであった。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えていたからである。』マルコ1:22」(p.177)「ここでイエスはまず神を、『善人』『悪人』のごとき、人間の倫理的価値判断に基づく価値付けを止揚する、いわば『相対化の視座』として捕らえている。この視座を失うとき、人間は自己を神として立てるであろう。しかし、もしそれが、相対化の視座にとどまるならば、人間を底なしのニヒリズムに沈み込ませるであろう。それは、人間のすべてを相対化するとともに、人間を現実の過酷さのただ中にある人間を、根源的に支える『存在の根拠』なのである。それは、『空の鳥』『野の花』のごとく、否、それにもまして、人間の一人ひとりを育て育む。」(p.185)「それゆえにイエスのような存在は、政治的に、従ってここではローマ総督の判決によって、抹殺されなければならなかったのである。この意味でイエスはローマ側の『誤解』に身を委ね、政治的な死を自らに引き受けていったのである。しかし、この事実はの重みは、ローマ側の誤解を強調しても、いささかも減じられてはならないであろう。」(p.206)「本書において、私が試みたのは、イエスとその時代に対する歴史的接近である。当然のことながら私はこれを、イエス理解の唯一の方法であるなどとは毛頭思っていない。原に、地下にある韓国のキリスト者学生諸氏から私のもとに送られてきたメッセージの中で、彼らは、ーおそらく、歴史的研究の余裕などはほとんどないと思われるのに、ーイエスの志向するところを的確に言い当てている。イエス理解の基本は、やはり彼の振舞を現在において追体験することにあることを、私は改めて思い知らされた。イエスのどこに視座を据えてそれを追体験するかが問題であろうが。」(p.207)
(2024.10.22)
- 「モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち」楊海英著 講談社現代新書 2749(ISBN978-4-06-536677-6, 2024.7.20 第一刷発行)
出版社情報。紀伊国屋書店サイト・目次情報など。叙事詩『モンゴル秘史』も批判的にではあるが、深く理解して、チンギス・ハーン家の歴史を描いている。西洋や中国から見たものではない、中央アジアの歴史として描いたモンゴル史として、秀逸だと思う。また、これは、日本で学んだモンゴル人が書いたモンゴル帝国史である。「『お母さん(エージ eji)』という言葉を聞いただけで、屈強な遊牧の戦士たちは例外なく涙ぐむ。戦時でも、平和な日常生活の中でも、それほどモンゴルの男たちはみは、『マザコン』なのである。」(p.20)と始まる。男性は、軍事的なことだけで、政治・経済・社会問題は、みな女性が仕切っていたようで、立派な王妃が何人もいたことが書かれている。興味をもって読んだ。チベット仏教、イスラームに加えて、ネストリウス派のキリスト教の影響も強く、それなりにいくつもの宗教が共存している様子も伺われ、このことも興味深い。森での狩りから、森を出て狩りをし、遊牧をし、定住放牧をし、町に住みという流れが、堕落ととらえられていたようで、元として中国を征服してからあとは、遊牧か、定住して中国化していくかで、分裂、文化的に異なる、朝鮮からの貢女によって、衰退していったようだが、最終的には、草原の遊牧民として、モンゴルが統一されたことまでが書かれてある。年代的には、テムージン(チンギス・ハーン)が生まれた、1162年ごろから、ダヤン・ハーンの死去の、1517年までの歴史である。中央アジアの歴史については、全く知らなかったので、さらに知りたいと思った。以下は備忘録:「人間の生き方らか教訓を汲み取り、いわゆる『歴史を学ぶ』方法は、史料内の叙事詩的な表現を理解できるか否かにあるのではないか。主人公たちの感情と深層心理がわからなければ、いわゆる『史事』を再構成しても、歴史の真実に接近するのは到底無理である。本書はモンゴル帝国の女たちの生き方、それも彼女たちの文化的背景と真理を描く目的を帯びているので、『モンゴル秘史』と『蒙古源流』、それに複数種の『黄金史』などの年代記内の記述を重視する。モンゴル語やペルシャ語の年代記、それに漢籍内の記事を正確に理解するには、人類学的な現地調査の成果を生かさなければならない。本書は、文化を以て歴史を解釈する手法で構成されている。」(p.34)「チンギス・ハーン:一つの民族において、もし、こどもが親の教えを無視し、弟が兄の言うことを聞かずに、妻が夫の意思に従わなければ、嫁が養父母を尊敬しなければ、敵を利することになる。このような民族は滅ぶ。(中略)本当の駿馬は肥えているときに走れるだけでなく、痩せたときにも走れる。男と女も同じだ。男は太陽のようにずっと大地を照らし続けることができないので、女の面倒を見きれないときもある。だから、女は男たちが狩りや戦いにいっているあいだに、家の仕事をきちんと運営しなければんらない。客人や使者が訪れた際には食事を提供し、彼らの需要を満たそう。このような女がいてはじめて、男は出世し、大勢のなかでも山のようにそそり立つ人物になれる。人々はみな、女の美徳をとおして、その夫と息子の人徳を見る。妻が無知にして放蕩な生活を送っていたら、その夫も駄目な人間だろう。」(p.119)「私の后と妃たち、娘と嫁たちは頬が陽のように輝き、健康で完備な生活を送るだろう。彼らは頭のてっぺんから足の爪先まで高級な織物と金糸でできた服を着こなし、側対歩(ジョロー)の駿馬に乗り、きれいな水を飲むだろう。私から与えられた草原には無数の家畜が草を食み、道は清掃されてゴミがなく、泥棒もいなくなる。私たち『黄金家族』のメンバーがもし法令を犯せば、遠くか近くを問わず、必ずやすべての親族が集まって審議したうえで、処分を下そう。私の夢ははっきりしている。われわれの子孫たちがずっと金糸(ハバ)を飾った服をまとい、新鮮な食材からなる料理を食べ、駿馬に跨がり、美しい女を抱くようになるだろう。しかし、こうした幸せは祖先からもらった、と彼らは言うのではなく、自分の力で獲得しなければならない。」(p.120-1)「少年時代、敵から迫害されて逃げてきたチンギス・ハーン(テムージン)は、ソルハン・シャラという人の天幕に逃げ込んだ。ソルハン・シャラ夫妻と娘のハダハンは少年の首枷をはずし、新しい服を与えて匿った。1201年秋、ハダハンの夫妻が乱軍に殺された時、テムージンはハダハンを助けた。大ハーンになってから、ふたたびハダハンとその父親の過去を全大臣の前で語って、女性たちの功績を表彰したのである。」(p.124)「チンギス・ハーン(テムージン)の四人の児ら。長男ジョチ:無数の馬群を太らせ、その中から選んだ駿馬にまたがって宮帳(オルド)に到着し、宴会を開くことが幸せな暮らしです。チャガータイ:敵を倒し、その財産を捕獲するのが、男としての楽しみです。オゴタイ:私の幸せは、ハーンたる父の作った偉大な国家が安定し、我々が足手まといにならないで、すべての人々が長く安心して暮らし、政治も安定することです。トロイ:忠実な家臣たちを連れて、訓練されたハヤブサを腕にのせて、深い湖面にとどまっている鳥を捕らせる。駿馬に跨がり、首輪のついた猟犬を連れて狩りにでかけるのが理想的な暮らしです。」(p.168)「二心を抱く男は、男ではなく女だ。一心一意に尽くす男こそほんとうの人間だ。同じように一心一意を持つ女は女ではなく、男だ。二心を抱く女は人間ではなく、イヌだ。息子たちよ。本当の女と家庭を作りなさい。」(p.171)「若くして光を失い、やがては最愛の夫まで義理の兄、オゴダイ・ハーンの『身代わり』として奪われたソルカクタニ・ベキ。オゴタイ・ハーンからは何度も再婚を迫られ、領地と軍隊も分割された。それでも彼女は四人の息子たちに法令(ヤサ)と礼儀(ヨソ)に従って行動し、万事忍耐するよう、との家庭教育を徹底した。」(p.210)「『ソルカクタニ・ベキは、すべてのタルタル人(モンゴル人)の中で皇帝の派は(トレゲネ)を除いて最も名高く、バティ(バド)を除く誰よりも強力である。』とヨーロッパから来たていたカルピニは観察していた。『彼女は世界でもっとも聡明な女性である』とペルシャ人は『集史』で伝えているし、『彼女の叡智は世界中でしられているし、彼女の才気とやさしさがあらゆる人びとを虜にしている』とジュヴァイニは聞いていた。彼女はキリスト教徒であったが、大金を喜捨(ザカト)として投じ、中央アジアの古都ブハラで、イスラームの学校(メスジト)を建てた。また、イスラームの導師イマームや聖者たちにも常に衣類と喜捨を与えていた、と多くの記録が残っている。」(p.211)
(2024.10.30)
- 「国際協調の先駆者たち - 理想と現実の200年 Governing the World - The History of an Idea」マーク・マゾワー(Mark Mazower)著 依田卓巳訳 NTT出版(ISBN978-4-7571-4338-8, 2015.6.15 初版第1刷発行)
出版社情報・目次。著者ホームページ。「国連と帝国 世界秩序をめぐる攻防の20世紀 The Enchanted Place - The End of Empire and the Ideological Origins of the United Nations」を読んでから、ぜひ、この本も読んでみたかった。まとまりとしては、「国連と帝国」の方が、絞られており読みやすいが、本書は、ナポレオン後の体制を決めた 1814年のウィーン会議からの200年の国際協調の歴史をその背後の考え方、どのように進んだか、破綻したかなど、簡潔に書かれている。むろん、それぞれの評価は異なるものもあるだろうが、これだけのものをある連続性をもって見ることができる歴史家がいることにも驚かされた。日本で、個々の部分に関して、詳しい人はおられるだろうが、このマゾワーに近い人はいるのだろうか。国際関係を学ぶ人には是非、この二冊はまず読んでほしいと思う。出版社情報には、主要な登場人物のリストもある。みな、聞いたことがある名前だが、一人ひとりについて語れるかといわれると、難しい。また、著者ホームページには、著者が書いた記事も多く掲載されている。時間をみつけて読んでみたい。印象としては、The History of an Idea と成っているが、すばらしいものも不完全というだけでなく、それぞれの時代の人々にどのように受け入れられ実現されていき、その理想・考えが捨てられていったかが書かれており、複雑であることはだれもが理解できると思う。現実に、また新たな理想・思想・方策が提案されたとき、どのように評価し、どのように実行され、評価されていくのかも考えさせられる。以下は備忘録:「フェリックス・ボダン『未来の小説』1834: 啓蒙の時代から知的生活がどれほど進んだかは、この作品とユートピアを扱った初期の古典を比較してみれば明らかだ。たとえば、1771年に出版された劇作家ルイ=セバスチャン・メルシエの『2440年』。メルシエの夢物語では、軍隊、奴隷、司祭、税金が廃止されることによって平和が実現するが、舞台はパリで、基本的な枠組みは啓蒙が進んだ君主国と理想的な都市国家である。ボダンとちがい、メルシエに国際主義の問題意識や夢はなかった。」(p.21,22)「(メッテルニヒは)おそらく国家の治療医の最後の生き残りである。国の症状だけを見て、日々うわべの治療をほどこすことで満足し、その下で社会制度を苦しめている悪の根源を決して見ようとしない。この政治家的秩序は、彼がいなくなると同時に滅びるだろう。すでに統治の実験室には大量の光が差し込んでいて、もやは人類に古い公式を押し付けることはできないからだ。」(p.36)「自由貿易とは何か・・・なぜ国と国を分ける障壁を壊すのか。その障壁のうしろに、自尊心、復讐、憎しみ、嫉妬といった感情が潜んでいるからです。それがときどきに人々の絆を断ち切り、各国に流血の惨事を引き起こす。」(p.39)「マッツィーニ:人々は感じ始めている・・・地上のすべての国々を結びつける国際的な義務の同盟があると。したがって、たとえ独立国家の境界内であろうと、世界のいずれかの場所でもし明白な悪事がなされているのであれば・・・たとえば、われわれの時代において、トルコ人の支配地域内で万一キリスト教徒の大虐殺が起きるようなことがあれば、他の国家は、ただ悪事の現場から遠く離れているというだけの利用腕心配しなくてすむというものではない。」(p.46)「シャルル・フーリエ『四運動の理論』(1808)怪しげな社会科学の発明者たちよ、なぜ人類のために働くことをためらう?人類のまわりを、六億もの未開で野蛮な者たちが取り囲んでいるとおもっているのか。だが、野蛮な者たちも苦しんでいる。あなたたちがわれわれを幸せにする技を持っているのであれば、その幸せを、地球のほんの一部しか占めていない文明人だけのもたらす代わりに、神の計画を実行しようと思わないのか。神にとって人類は全体でひとつの家族だ・・・人類全体を幸せにするのは神の意思である。さもなくば、誰も幸せになるべきではない。」(p.59)「日本の外交官の皮肉な言葉:われわれは少なくとも科学的残虐行為において、あなたがたと同等であることを示し、ただちに文明人として会議に出席することが認められる。」(p.65)「エルドリッジ・コルビー:高尚な国際法を守ることはいいことだ。しかし、国際法を知らず、守りもせず、守る相手を利用するだけの未開の人民に対しては、別の何かが必要である。『別の何か』とはあらゆる制限の完全撤廃ではない・・だが・・それは別種の戦争だ。フランス人に対して、ノートルダム大聖堂を攻撃すれば・・敵による違法行為となり、国民感情をさかなでして憤怒の嵐を引き起こす・・狂信的な未開人に対しては、彼らの全能の神の聖なる寺院に空から爆弾がおちたとしても、それは神が慈悲をかけなくなったことの印であり象徴だ。難攻不落とされる村の砦を破壊する爆弾は、装備十分な文明国の敵が、非常な力と卓越した技術を発揮したことの表れである。そうなると彼らはたんに怒るより、両手を上げて降参する可能性のほうがずっと高いだろう。『非戦闘員』が多少殺されたとしても、より正々堂々とした作戦を長く遂行した場合に比べて、おそらく人命の損失ははるかに少ない。つまり、非道な行為は現実には非道でなくなるのだ。」(p.70)「ヘンリー・ガボット・ロッジ:(連盟規約は)平和連盟について話し合ったときに、われわれの多くが考えていたものとはちがう。国際法が整備され、連盟の大きな特徴として、そのような法を解釈、策定する強力な国際私法裁判所が設けられ、各国が支援するはずだった。しかし実際には、裁判所はほとんど消え去り、私が思うに国際法にも言及がなく、ただの政治的な同盟になってしまている。」(p.125)「ウイリアム・ポラー:かつて高潔な共和国だったアメリカは『力にもとづく世界支配の計画に加担することになった・・・われわれは世界の四独裁者の一人になるかもしれないが、もはやみずからの精神の主人ではなくなる。』アメリカ人は帝国の腐敗に汚されてしまう。『われわれの自由の行動原理はまもなく血と鉄の支配に置き換わる。』」(p.126)「国際連盟は、外交手段としては失敗だったが、専門知識と国際的活動の源としては、ウイルソンやスマッツやジマーンが信じていた協力関係の有機的発展を注解したり、その受益者になったりした。総会という国際的な合議制は、大国には『機能しない』という価値しかもたらさなかったが、国際的な官僚制、すなわち技術的、知的、科学分野での国際主義においては実績を作って価値を示したのだ。- 常設国際司法裁判所、国際労働機関、国際的な保健機関の新設など」(p.129)「機能主義:制度は現実的な利益を示すことによって、状況の論理から生まれる。」(p.131)「したがって、国際連盟はまたしても別の大国同盟であり、ファシスト党のイタリアや第三帝国など、他の哲学を持った国が力を蓄えてくると、人々がそのルールに注意を払わなくなることによって影響力が弱まるのだった。」(p.164)「FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)はベッドにはいったものの、頭は働き続けていました・・・そして突然思いついたのです。連合国(United Nations)だ!翌朝、彼は朝食を終えるなり車椅子に乗ると、廊下をWSC(ウインストン・スペンサー・チャーチル)の部屋の前まで行きました。ノックをしても返事がありません。そこでドアを開けて入り、椅子に座りました。付き人がドアを閉めました。FDRが呼ぶと、WSCがバスルームのドアを開けて現れました。『ピンクの智天使』(FDRはそう呼んでいました)がタオルで体をふきながら、真っ裸で!FDRは相手を指して『連合国(United Nations)だ!』と叫びました。『けっこう!』とWSCが言いました。」(p.179)「自由フランスのシャルル・ド・ゴール政権の植民地相ルネ・ブレヴァン:フランスがかくてなくヨーロッパの重要性を認識しているこのとき・・・植民地の経営責任を、何十年ものあいだそれにたずさわってきた国家ではなく・・正義、有能、勤勉という基本的な美徳がそなわっていると認定されたなんらかの国際組織に預ける、という新しい方針が検討されている。人民を荒廃させる疾病、無知、迷信、暴政という大きな不幸から未開社会を解放する植民地化の継続を、集合名で行動する管理組織に託す改革では、植民地の人民の利益にならないし、希望も叶えられない。」(p.227)「バンドン会議に出席して帰国したアフリカ系アメリカ人の議員はダレスとアイゼンハワーに、『われわれはすばやく行動しなければなりません。』と進言した。どうすればアメリカはアフリカとアジアへの影響力を強められるかと尋ねられて、アダム・クレイトン・パウエル・ジュニア議員は、『国連で植民地主義の肩を持つのをやめることです。アメリカ国内の人権問題をできるだけ早く片付けて、大きな進歩をとげたことを理解させ、外交政策のポストに黒人をもっと登用すべきです。』と答えた。」(p.236)「そのころアフリカ人がもっとも親しみを覚える大国はどこかと訊かれると、約25%がソ連を一位にあげた。それに対して、アメリカと答えたのは3%だった。彼らにとっては、民主主義より、科学技術や弱者と団結する態度のほうがはるかに大事だったのだ。」(p.246)「1995年にバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議では、世界人権宣言は『世界』と『人権』のことばを用いて国家の文化的統合を損なう新植民地主義の武器だと非難された。会議に出席したレバノン代表は『もし人権が神聖なら、国家の権利も、大国と比べていかにちいさな国であろうとも、同等以上に神聖である』と宣言した。国連総会は西側諸国の抵抗を跳ね返して、世界人権宣言に実効性を与える人権条約の草案に民族自決権を盛り込むことを決定した。その条約が、公民権と政治的権利を扱う部分と、経済、社会、文化敵権利を扱う部分に二分割されることが決まった後、民族自決権は両方の主要な権利となった。」(p.287)「マーティン・ウルフ:『なぜグローバリゼーションはうまくいくか』にも不安が感じられた。資本のグローバリゼーションは行きすぎたのではないか、とウルフは問うた。レーガンと彼の後継者たちは、世界を投資家にとって安全な場所にしたかったが、短期金利と役員報酬の質が変わったことで、投資管理者、ひいては企業国家アメリカ全体がますます短期的にものをみるようになった。システム全体が流動的になり、投資管理者の直近の利益にばかり貢献し、資本の本来の機能である新しい成長と雇用の源を作り出すことを考えなく成っていた。」(p.329)「かくして、帝国主義バージョンの開発・安全保障の結びつきは、イラクとアフガニスタンを除いて活動のチャンスを与えられず、両国とも失敗した。じつのところ、少ない人員と空軍力を好み、リスクを極端に嫌う安全保障重視の現代アメリカには、開発の現場を作り直す持久力も適正もない。国連が活躍する余地はまだ十分にある。ほかのあたらしい組織でもかまわない。よみがえった中国は、アフリカと東南アジアで一連の国家主導のインフラ計画を進めている。そこで約束される『南南協力』は、開発途上国に資本を提供するだけでなく、資本主義に遅れて参加した自国の経験も生かす、中国ならではの開発モデルに基づいている。提供金額はまだ比較的少ないが、急速に増えており、すでに西側がアンゴラなどに貸し出す額に匹敵している。2012年の初めには、中国がラテンアメリカに貸し出す開発資金は、世界銀行と米州開発銀行の合計額を上回った。」(p.337)「コフィ・アナン『主権の二つの概念』(1999)国家主権が、もっとも基本的な意味において再定義されようとしている。とりわけグローバリゼーションと国際協調の力によって。国家はいま、国民に奉仕するための道具として広く理解されており、その逆ではない。同時に、個人の主権ー国連憲章とそれに続く国際条約によって認められた個人の基本的自由ーも、個人の権利についての意識が高まりを広がるにつれて、拡大されてきた。今日、国連憲章を読むと、その目的が個々の人間を守ることであり、彼らを蹂躙する者たちを守ることではないのを、これまで以上に意識させられる。」(p.340)「『神はあながたがの揺りかごとして国をあたえ、母親として人間性を与えた。共通の母親を愛さないなら、同じ揺りかごに入った同胞を愛せないのも当然だ。(マッツィーニ)』すでに見たとおり、国内的なものと国際的なものは基本的に補完し合うという考え方は、国家の連合体を作る理由になる。まず、国際連盟、次いで国際連合は、国内政策が住民の権利を守り、世界組織が国際レベルで国同士の協調を監視する世界をもたらそうとした。その理念は第二次世界大戦を生き延びたが、もちろん民主主義自体は国連の加盟条件ではなかった。国連憲章そのものも、先にあげたコフィ・アナンのことばとはくいちがうかもしれないが、きわめて両義的な文書でもあり、人権と基本的自由を尊重すると同時に、『大小の国家』の平等と、それらが『善き隣人』として互いに平和に暮らす原則を加盟国に認めさせている。」(p.341)
(2024.11.16)