Last Update: December 28, 2019
2019年読書記録
- “ISLAM - A Short History - REVISED AND UPDATED”, by Karen Armstrong, A Modern Library Chronicles Book The Modern Library New York (ISBN 0-8129-6618-X, 2000, 2002)
Quote: No religion in the modern world is as feared and misunderstood as Islam. It haunts the popular imagination as an extreme faith that promotes terrorism, authoritarian government, female oppression, and civil war. In a vital revision of this narrow view of Islam and a distillation of years of thinking and writing about the subject, Karen Armstrong’s short history demonstrates that the world’s fastest-growing faith is a much more complex phenomenon than its modern fundamentalist strain might suggest. (Back Cover) 和訳(「イスラームの歴史 1400年の軌跡」カレン・アームストロング著、小林朋則訳、中公新書 2453)があり、2018年はじめに読んだ。今回は、原著を読むことにした。List of Key Figures と Glossary も巻末にあるが、それが常に傍らにないと読みにくい。 少しずつ慣れる必要がある。Memo: "In Christendom, people who held beliefs that were different from the establishment were often persecuted as heretics. In Islam, these potential dissidents kept quiet about their ideas, and usually died in their beds." (p.66) "Like Judaism, Islam is a religion that requires people to live in a certain way, rather than to accept certain credal propositions. It stresses orthopraxy rather than orthodoxy." (p.66) "They are all in full agreement with the shahadah, the brief Muslim confession of faith 'There is no God but Allah, and Muhammad is his prophet.'" (p.67) "There had been six great prophets (Adam, Noah, Abraham, Moses, Jesus and Muhammad) who had each reversed this downward trend." (p.69) "There were, he believed, three sorts of people: those who accept the truths of religion without questioning them; those who try to find justificagtion for their beliefs in the rational discipline of kalam; and the Sufis, who have a direct experience of religious truth." (p.88) "This colonization was experienced by the agrarian colonies as invasive, disturbing and alien." (p.144) "They (local people of all classes of society) felt that they had severed all connections with their roots, and experiencxes a sinking loss of identity. (p.144) "Western people are often bewildered by the hostility and rage that Muslims oftern feel for their culture, which, because of their very different experienxce, they have found to be liberating and empowring. (p.146) "They would not be able to come to modernity as successfully or as smoothly as, for example, Japan, which had never been colonized, whose economy and insitutions had remained intact and which had not been forced into a debilitating dependency on the West." (p.146)
(2019.4.2)
- 「ヴァイツゼッカー」加藤常昭著、清水書院 (1992.6.1, ISBN 4-389-41111-X)
著者は、1929年生まれの、東京大学文学部哲学科、大学院修了後、ドイツで研究生活をした、日本基督教団鎌倉雪ノ下教会牧師。日本のキリスト教会で、現在生きておられる牧師で最も有名な方といっても過言はないだろう。ドイツでの研究歴が長いこともあり、Richart von Weizsaecker との親交もあり、1985年5月8日の有名なものを含め、演説文などを、原文で読み「言葉の力に生きる大統領」として、コメントをしている。生い立ちについても、詳しく、それが「歴史の重荷を負いつつ」にも反映している。次は、もう少し、じっくりと、Weizsaecker のことば自体を読みたい。ひとこと書いておくと、一つのヨーロッパを意識して、ベルリンの壁の崩壊、ドイツ同一をキリスト者として見てきた、Weizsaecker がヨーロッパの外からの移民問題に揺れている、ヨーロッパをどう見ているのかも知りたい。以下は、備忘録:「ある意見や思想が正しいかどうかの最良の基準は、それが世の中で受け入れられるようにするそれ自身のちからである。(Oliver Wendell Homes Jr.)」(p.80)「われわれが東と西との間にあって出会うのは、失敗した人間存在と成功した人間存在のみであり、悪人として、また前任としてであるなどと勝手に考えるのは、馬鹿げたことでもあり、非人間的なことでもあります。成功したかしなかったで計られるのは体制だけであって、人間そのものではありません。西側が数十年の間与えられてきたのと同じチャンスが、これまでのDDRに生きてきた人たちにも与えられた今日、そのことは明らかなことになるでしょう。」(p.91) 「毎日を、それが最後の日であると思いつつ生きること、しかし、大いなる将来を信じ、その将来に対する責任をもって生きること。(ボンヘッファー)」(p.130) 「基本的価値を決定する最も大切な尺度は、人間理解である。」(p.134) 「正義は、ただ地獄にしか存在しない。行動する愛は、天にあってわれわれを待つ。地にあるのは、苦悩のみ。(ゲトルート・フォン・フォール)」(p.136) 「私の活動の中核において私が繰り返し出会ってきたこと、それは福音と政治的秩序の緊張関係である。」(p.156) 「東ドイツは社会的道徳を体得した人間を育てようとした。階級の敵を憎悪することができる人間を作ろうとしたのである。具体的には軍事教育における敵意、憎悪の心の育成である。キリスト者は、そこでどうしても政治的秩序に対決せざるを得なくなったのである。」(p.160) 「第一に、キリスト者は、他の人びとよりも賢いわけではなく、またより道徳的というわけでもありません。ただ、キリスト者であるがゆえに、われわれが知っていること、それは、人間は、誰でも過ちを犯し、罪を負うものだということであります。人間は罪に堕ち、危険な存在となり、破壊的な働きをさえ無し得るのです。われわれは、自分自身に対しても他者に対しても守らなければなりません。義が働いて、秩序を整えてくれることを頼りにせざるを得ないのです。社会的倫理、規則・規範なしで、人間が平和にいきることは不可能です。まさしく平和のためにこそ、共に生きるための諸制度を必要とします。それがないと混沌に見を任せることになってしまうでしょう。」(p.164) 「そしてわれわれ自身の両親も助けてくれるおかげで、日ごとに新しい解決の道を尋ね求め、しかもそのことについて神の前で自分は責任をもつことができるのだとのぞみを持つことが許されるものであります。」(p.170)
(2019.4.12)
- 「焚き火を囲んで聴くー大頭眞一と焚き火を囲む仲間たちー神の物語・対話篇」大頭眞一著、YOBEL, Inc.(ISBN978-4-907486-46-4, 2017.6.1)
日本イエス・キリスト教団の牧師・神学者の著者が、12人の仲間を焚き火のまわりに呼んで語る形式をとっている。基本的には一人ずつ。大頭先輩(この本では、先輩を敬称としている)が、書き、それに応答の形で、その回に招かれた先輩が語る形式をとっている。5人の先輩がこの本についての祝辞を述べている。12人の先輩の一人に勧められたがなかなか読む機会がなく、やっと読むことができた。祝辞を述べている先輩のひとりも知り合いである。背景から、聖めをどう考えるかについても、特に後半で詳しく述べられ、最後には、著者の論考「栄光から栄光へーニュッサのグレゴリオスの動的聖化論」で終わっている。以下は備忘録。「神学が個人の業績として扱われるようになったのは、いったいいつの時代からなのだろう。(平野克己)」(p.12)「アーミッシュは共同体の生活の中で、何世代にも渡って赦すことがもたらす祝福を体感してきた。赦せないことは加害者に『支配』されていることであり、赦すことは赦すものをいやす。そして赦すことは加害者とその家族を人間として遇して、世界に生じたほころびを繕うことになる。」(p.108)「愛は人格を持った存在の自由な選択によって初めて可能になります。(山崎ランサム)」(p.142)「オープン神論は、この世に悪が存在するのは、愛が可能な世界を創造するために神が冒されたリスクである、と考えます。(山崎ランサム)」(p.143)「アブラハム・ヘッシェル、二十世紀のユダヤ人宗教哲学者:預言者の力は『神の熱情(パトス)』、神の痛みを共有することにある。」(p.155)「人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティを自分に向けてたえず語り続け、語りなおしていくプロセスだと言える。(鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』)」(p.180)「N.T.ライトは、『クリスチャンとは』の答えを『真の人間として生きることである』と『みこころが、天になるように、地にもなさせたまえ』と祈る私達の責任としている。(上沼昌雄)」(p.227)「カウンセリング:自分がどのような世界に生きている自分であると思っているかをそのまま知ろうとする。(小林純一)」(p.261) 「ゲシュタルト療法(の祈り):私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。」(p.262)「共同体に対する理想を愛する者は共同体を破壊する。共同体のメンバーを愛する者は共同体を建てあげる。(ボンヘッファー)」(p.270)「改革派:聖書の言葉によって絶えず改革され続ける教会。ウェスレー:完全とされていく完全」(p.320)「ギリシャ教父にとって原罪とは『人間を神から離反させた自由意志の決定』」(p.341)「グレゴリオス:我々の受容しうるだけの完全性から全く離脱してしまうことなく、人間的探求に可能な限りでの完全性に達することができるように、最善を尽くすべきである。それはつまり、人間的本性にとって完全性とは、恐らく、善(美)により多く与ることを絶えず意志し、思考することに存するからである。」(p.345)「グレゴリオス:生命の終局が死の端初であるのと同様、アレテーの道行きにあって停止してしまうことは、悪しき道行きの始まりとなってしまうのである。」(p.349)
(2019.4.20)
- 「福音は何を変えたか - 聖書翻訳宣教から学ぶ神のミッション」福田崇著、いのちのことば社(ISBN978-4-264-04039-2, 2018.4.30)
1971-72年度、Hi-B.A. 高校生聖書伝道協会に通っていたころの、スタッフの著者から送られてきた。東京学芸大学を出て、1976-1990年、ウィックリフ聖書翻訳協会の働きで、フィリピンで活動した方である。ある時近くにいた方が、その後どのような歩みをされ、そのことを通して、どのようなことを学んでおられるのか興味を持ちながら読んだ。少数民族であっても、その母語に聖書を翻訳し、母語での書き言葉も作って教え、それによって聖書を読むという営みの評価は、これまでも様々だったろうが、unsupervised な、機械翻訳が極端に進む中で、さらに難しくなってくるだろう。しかし、ことばでの交流は、変わらない価値があるようにも思う。以下は備忘録。「地区では様々な事柄ー田植え、稲刈り、取り入れた稲の村への搬送、病人の搬送、死体の搬送、森から材木の搬送などーで協力が欠かせません。ですから、いろいろな教派の教会が村にあることは分裂をまねき、マイナスとなるとリーダーたちには映っていたのです。」(p.37)「『フマフィアチャンサン(いつも助ける人の意)』という現地の伝統的な名前を与えてくれ、一員として迎え入れる祈るをささげてくれました。これは日本とガダクラン民族との平和条約にあたると言われました。」(p.40)「宣教とは、父なる神の働きであり、神がまず働いておられる。私たちも神とともに働くものとしてくださる。だから私たちも働くのである。神がすでに働いておられるから、その働きのあとを、私たちが追っていく。神の国建設という希望が与えられている。福音は、魂の面、肉の面、体の面等すべての面を含む。コンプレヘンシブな福音を与えられているのだから、全生活の問題を解決したもう神様であるのだから、私たちも、人々の全生活を扱う、福音を宣べ伝えていこう。(有賀寿)」(pp.41-42)「福音は『翻訳可能性』を秘めています。世界中のすべての地域で、文化で、言語で、民族で、福音の種が蒔かれ、そこに根付き、成長し、花を咲かせることができます。(イスラム教から改宗したラミン・サネー)」(p.68)「andare verso le periferie 街外れに行く(教皇フランシスコ)」(p.69)「世界(国際)ウィクリフ同盟『2025年までに、聖書翻訳を必要としているすべての言語において聖書翻訳プロジェクトを始める。』683言語:聖書全巻がある。1534言語:新約聖書はある。1133言語:分冊のみ。2422言語:聖書翻訳プロジェクトが進行中。2163言語:聖書翻訳プロジェクトを始める必要があると思われる。(日本ウィクリフHP)」(p.70)「ベルビン方式:1. プラント、2. 資源探索者、3. コーディネータ、4. 形作る人、5. チームワーカー、6. 実行者、7. 補完的完成者、8. スペシャリスト、9. モニター(戦略的判断力を持つ人)」(pp.86-87)「用・善・美・豊・知」(p.93)「ローラ・マエ・ガードナー:1. 痛みや楽しみに対する態度、2. 欠乏への態度、3. 中毒にならない、4. 権威に対する新しい見方、5. 視点、6. 自己認識、7. 部分的な責任、8. 与える人、9. 希望の人、10. 創造的、11. 部分を使える、12. 次善の策を楽しむ」(pp.97-99)「教職者の平均年齢 67.8歳、60歳以上の教職者 72%、約一万人の教職者のうち 7200人、50代 1800人、50歳以下 1000人、40代 800人、30代 200人。日本基督教団では、信仰者の平均年齢は 62.9歳。70歳以上が 40%、50歳以上が 78%(第6回日本伝道会議)」(pp.101-102)「as we go あなたがたは行きながら・行くことによって(人々と関わりをもち、福音を伝え、証しし)、(中略)彼らがわたしの弟子となるように助けなさい。(マタイ28章19-20節)」(p.106)
(2019.4.27)
- 「『凡庸』という悪魔 - 21世紀の全体主義」藤井聡著、昌文社(ISBN978-4-7949-6819-7, 2015.4.30)
著者は、京都大学大学院理工学研究科教授(1968年生)。保守の論客と言われる。第二次安倍内閣内閣参謀6年間。新自由主義のもとでの、グローバル全体主義(21世紀の全体主義)を支える「凡庸(取り柄のない banality)」な大衆の「思考停止」に抗うために、まず必要なのは「理性に基づく議論」(p.271)だとする。そのあかしとして、ヒトラーのナチス・ドイツのを分析した、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を下敷きとして、その復習をしてから、現代における状況の相似性を、学校でのいじめ、民主党政権の仕分け、小泉政権の郵政民営化について分析し、最後は大阪都構想についても言及している。大衆・一般の人の理解(たいせつにしたいこと)、教育方法、全体主義に陥らない、基本的な考え方・方策が示されているわけではない。新古典経済学など、経済学についての批判的考察があり、学ぶことが多かった。以下は備忘録:「全体主義:『兎に角、全体に従うべし』という考え方、およびそれに基づく社会現象」(p.16)「テロル:従わぬ者に対して仕向ける、あらゆる暴力(およびそれに対する恐怖)」(p.16)「『思考停止』が『凡庸』な人々を生み出し、巨大な悪魔『全体主義』を生む。人間の思考停止に導かれる現象は、マクロな社会的側面から見れば『全体主義』と呼ばれ、ミクロな心的側面から見れば『凡庸な人間』と呼ばれる。」(p.20)「全体主義の二重の特殊性:従うべき内容が含まれていない(ニヒリズム:真理や道徳的価値の客観的根拠を認めようとしない)、主義であるにもかかわらず『社会現象』という意味を持っている。」(p.27)「大衆社会の背景:『民主主義』『資本主義』の進展による影響で階級社会や地域共同体が崩壊して、人々がバラバラになってしまったことで、それまでに各階級やそれぞれの地域共同体の中に埋め込まれていた人々が、それまでの居場所を失い、一気に『大衆』が生まれていったという歴史」(p.45)「人間というものは、アナーキックな偶然と恣意に為す術もなく身を委ねて没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直し狂気じみた首尾一貫性に身を捧げるかという前代未聞の選択の前に立たされたときには、必ず後者の首尾一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう。(ハンナ・アーレント)」(p.55)「チェスタトンは『狂人は理性(悟性:科学的思考力、あるいは、理屈をこねる力)以外のすべて(理性:真偽・善悪を識別する能力)を失った人』と指摘しましたが、ここでの理性はアーレントの悟性。」(p.57)「アーレントのアイヒマンへのメッセージ:君が大量虐殺組織の従順な道具となったのはひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては、服従と支配は同じものなのだ。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかも唯一の理由である。」(p.70)「政治とはそもそも、めまぐるしく移り変わる状況の中で絶えざる判断と実行を繰り返していく営為」(p.73)「人間として生まれ、そして人間として他者と関わるにもかかわらず、『凡庸』であるということは、それ自身が罪である。」(p.91)「『全体主義』現象における特徴:1. 思考停止、2. 欲情、3. テロル、4. 似非科学、6. プロパガンダ、7. 官僚主義、8. 破滅」(p.118)「官僚主義とは、マックス・ウェーバーが論じたように、様々な局面で自身の裁量と責任の範囲で是々非々で『考え』ながら判断するのではなく、規則や前例や命令等を根拠に、画一的、形式的な対応をし続ける態度」(p.166)「『自己責任論』は、完全情報仮説のさらに背後にある、新自由主義(あるいは新古典派)経済学の大きな前提である『効用最大化仮説』(あるいは『合理的選択理論』)に裏打ちされたものです。これは、私たちの振る舞いはすべて『自分自身の満足感(効用)を最大化する、という基準で決定されている』という仮説。」(p.214)「ケインズ経済学は、それぞれの国民の安寧のためには、失業率が低く、かつ、国民所得が一定程度確保されているべきであると考えると共に、そうした経済状況を創出するために『政府』が重要な役割を担うべきだと考えるもの。」(p.226)「ノーベル賞の公式ホームページにも "The Prize in Economic is not a Nobel Prize" と明記されています。」(p.228)「虚栄心と、自己認識の欠乏と、および批評的能力の更にそれ以上に欠乏せること。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人において特に目立って滑稽な風に現れる。従って、主として『学者』といわれ、『指導者』と呼ばれる人たちにおいて認められるのである。(ロシア出身哲学者ケーベル博士)」(p.236)「教会は弱者救済を(ローマ法王 2013.11.27)」(p.253)「『世界の99%を貧困にする経済』ジェセフ・スティグリッツ」(p.253)「ワシントン・コンセンサス批判の論客:エマニュエル・トッド、ハジュン・チャン、トマ・ピケティ、ジョゼフ・スティグリッツ、ダニ・ロドリック、ワルデン・ベロ、ジェームズ・ガルプレイス、ナオミ・クライン、中野剛志、柴山桂太」(p.259)「日本人は今、これまでの歴史の長さ、その文化的豊穣さ、そして、国際的責任の大きさにもかかわらず、自分たちのとめどなき陳腐さ、凡庸さ故に、滅びようとしている。」(p.263)「万人にとって絶対にできない事の一つは、自身の理性に基づく主張が正しいということを自身の理性だけでもって証明することです。なぜならその主張は彼の理性の『全て』を投入した上でなされたからです。」(p.273)
(2019.5.6)
- 「男が痴漢になる理由」斉藤章佳著、イースト・プレス(ISBN978-4-7816-1571-4, 2017.8.25)
二人の娘が読んでいて、わたしも手にとった。正直内容としては、少ないように思われるが「依存症とその治療」の視点で、治療している現場からの本は初めてであろうと考え、最後まで読み通した。男性である著者が「多くの男性には、痴漢行為に関する潜在的願望がある。」(p.273)といい、また「男性は、痴漢被害への想像力が欠如している。」(p.270)というのは、わたしも同意である。すると、性に関するパワーハラスメント、人間の尊厳の理解の希薄さの問題とも言えるかもしれない。以下は備忘録。「平成28年中、強姦は約140件、強制わいせつは約800件、痴漢(迷惑防止条例違反)は約1800件、発生しました。(警視庁「こんな時間、場所がねらわれる 2016」)」(p.20)「ひとりひとりに名前と人格があり、家庭では役割を持ち、会社でも肩書があるはずですが、混雑をきわめた車内では満員電車を構成しているその他大勢のひとりにすぎません。自分が誰か、他者が誰かわからなくなると責任の所在が不明瞭になる、痴漢にとって、非常に魅力的な空間となります。」(p.30)「精神に作用する化学物質の摂取や、快感・高揚感を伴う行為を繰り返し行った結果、さらに刺激をもとめる抑えがたい渇望が起こる。その刺激を追求する行為が第一優先となり、刺激がないと精神的・身体的に不快な症状を起こす状態。(WHO 世界保健機関)」(p.44)「痴漢を含めた性的嗜好障害:リスクを承知しているのに、自分の性的欲求や衝動をコントロールできない。または精神的、身体的、社会的な破綻をきたしているにもかかわらず、それがやめられない状態。」(p.49)「痴漢行為は彼らにとって『ストレスへの対処法』なのです。」(p.71)「自暴自棄になったときに、自分より弱い存在を支配したり、押さえつけたりすることで自分を取り戻すー悲しいことですが、この社会にはそういう者たちが確実にいます。それを行動化したのがたとえばDV加害であり、痴漢行為なのです。」(p.78)「『遅くまで出歩いているから』『そんな危ない男性についていくから』『もともと男性関係が派手だったから』など女性の『落ち度』をあげつらい『だからあなたにも責任はある』と自己責任を求める行為(中略)をセカンド・レイプといいます。」(p.98)「痴漢行為をやめて失ったもの『生きがい』」(p.106)「ひとりの性犯罪者が生涯に出す被害者数は平均380人(アメリカの研究者、エイブル)」(p.156)「加害者は自分がしたことを都合よく忘れる」(p.170)「加害者にとって最大限の謝罪は、被害者にとって最小限の謝罪である」(p.181)「性犯罪者処遇プログラム(コアプログラム)1.性犯罪のプロセス、2.認知の歪みの歪み、3.自己管理と対人関係スキル、4.被害者への共感、5.再犯防止計画」(p.191)「再犯防止における三本の柱:再発防止(リラプスプリベンション)・薬物療法(SSRI:選択的セロトニン再取り込み阻害薬など)・性加害行為に責任を取る」(pp.200-206)「加害者家族:Hidden Victim、SFG:Sexual addiction family group meeting」(p.246)
(2019.5.15)
- 「よくわかる高齢者の認知症とうつ病ー正しい理解と適切なケア」長谷川和夫・長谷川洋著、中央法規(ISBN978-4-8058-5243-9, 2015.8.1)
痴呆から認知症に変えることにも尽力した長谷川和夫氏の著書。人柄がよく現れていてとてもやさしい感じを受けるが、情報量としては多くない。実際のものを改変していてもよいので、もっと事例が多いとよいとも思った。事例が少ないと実感をもって理解しづらい。以下は備忘録。「1.記憶の障害:聞いたこと、行ったことが記銘できない(短期記憶障害)、大切なことを思い出せない(長期記憶障害)、体験全体を忘れる(エピソード記憶の障害)2.認知障害:単語やことわざの意味がわからない(抽象思考の障害)、言葉のやり取りができない(失語)、時と場所の見当がつかない(失見当)、親しい人を認識できない(失認)、簡単な道具の操作ができない(失行)、手順がわからなくなる(実行機能障害)、あれかこれかの判断ができない(判断の障害)、3.生活の障害:今までの職業、社会生活に支障をきたしてくる(日常生活の障害)、周りの人とトラブルをおこす(対人関係の障害)」(p.53)「長谷川式認知症スケール:1.お歳はいくつですか?(記憶力)、2.今日は何年の何月何日ですか?何曜日ですか?(時の見当識)、3.私たちが今いるところはどこですか?(所の見当識)、4.これからいう3つの言葉を言ってみてください。あとでまた聞きますので、よく覚えておいてください。(即時記銘力)、5.100から7を順番に引いてください(記憶力注意力)6.わたしがこれから言う数字を逆から言ってください。(記銘力・注意力)、7.先程覚えてもらった言葉をもう一度言ってみてください。(遅延再生力)(ミニメンタルステート検査の類似)」(p.57)「認知症ケアにおける5か条:1.プライドを失っていません、2.過去と現実を混同しています、3.介護する人の気持ちが伝わり、それが病状にも反映されます、4.感情がストレスに出ます、5.自分をもどかしく思い、心理的にも不安定です。」(p.87-89)「質の高いケアとは:1.自分の価値観で判断しない、2.相手を批判せずそのまま受け入れる、3.相手に関心をもっているという姿勢を示す、4.相手のペースに合わせる、5.相手の気持ちを大切にする、6.相手が事実と違うことを言ったとしても訂正しない、7.相手の話を遮らない、8.秘密や約束は守る、9.話したくないといった内容は重要であってもそれ以上は聞かない、10.つらい体験や苦悩が語られるときには深く共感しながら傾聴する。」(p.90-91)「うつ病という病気は『うつ気分』と『体調不良』があり、マイナス思考、悪いこと、つらいことばかり繰り返し思い出し、気にし過ぎて、死のうとしてしまう病気。」(p.100)「自殺予防の10か条:1.うつ病の症状に気をつけよう、2.原因不明の身体の不調が長引く、3.酒量が増す、4.安全や健康が保てない、5.仕事の負担が急に増える、大きな失敗をする、職を失う、6.職場や家庭でサポートがえられない、7.本人にとって価値あるものを失う、8.重症の身体の病気にかかる、9.自殺を口にする、10.自殺未遂に及ぶ。」(p.159)「うつ病の本質は『過去の肥大と未来の萎縮』(笠原嘉)」(p.176)「認知症のケアに必要なこと:なぐさめ(安定性)、結びつき(絆)、共にいること(仲間に入りたい)、たずさわること(役割意識)、自分であること(物語性)」(p.192-193)「死にたいと口にする人への対応:死にたいくらいつらいのはわかりました。でも、死んでほしくない。なんとか死ぬ決断はしないでください。約束してもらえませんか。」(p.219)「認知症サポータ」(p.233)
(2019.5.16)
- 「理性からの逃亡」フランシス・A・シェーファー著、有賀寿訳、いのちのことば社(ISBN4-264-00105-6, 1971.7.10)
有賀寿氏の思想を理解するために、まずは、大学図書館に入っていた訳書を古い方から読むことにした。原著は、Francis A. Schaefer, "Escape from Reason" あとがきには、著者についての略歴が書かれている。ラブリに到達するまでの経緯は知らなかったので、興味を持った。また、訳者が1966年のベルリン世界伝道会議で、シェーファーの言葉についてコメントをし、それが報告書にも記録されたが、その記録は意がずれていたことにもふれ「本書が著されたいま、キリスト者が真の理性主義の立場にたつとき、どんなに力強くなれるかが、明白になったであろう。」(p.126)とし、また「彼は単なる宗教や信仰、単なるイエスやキリストをではなく、アンチテーゼを要求する真理を、聖書の真理として説いた。」(p.126-7)としている。以下は備忘録。「人々を真に理解しようとするならば、(中略)その人は、もう一つの言語、つまり自分が話をしようとする相手の思考様式を学ばねばならない。それを体得してはじめて、人々と語り合い、意思を疎通し合うことができるのである。」(p.7)「ルネサンスの思想が、自然にたいし、それまでよりは正当な位置が与えられた。」(p.11)「今日の教育課程は、諸分野の学問の間に当然の結びつきがあることを、十分に理解していない。」(p.13)「ダ・ヴィンチは、自律的な理性を出発点とするかぎり、人間がゆきつくのは数学(計量可能な世界)であるが、数学が扱えるのは、普遍ではなく、個別でしかないことを見抜いていた。」(p.21)「現代の情報文化や言語研究に対する関心のなかで、人間がすべてを窮め尽くしても真理に到達できないが、聖書から、私の意味する『真の真理』を得ることができるとするのは、含味すべき重大な原理である。」(p.26)「『先生、なんで私にそんなにていねいなあいさつをしてくれるのですか。』『それは、あなたが神のかたちに造られていることを知っているからですよ。』それからわれわれは、とても貴重な話し合いの時を持った。」(p.27)「ギリシャ以降の西欧哲学の原則:合理主義と、人間は理性的であることを基盤に、知識の統一の場が構成されるとすること。」(p.43-44)「閉じられた体系内で、自然的原因の斉一性を求めれば、それは自由の拒否につながっていく。実際、そこには愛も存在しない。また、人間が求めている、古い意味での人生の意義も存在しない。」(p.46)「現代人は、統一性への希望を捨てて、絶望ー人間が常に渇望してきたことを、もはや可能と考えられなくなってから直面した現実ーに生きるようになったのである。」(p.57)「楽観主義:非理性的でなければならない。悲観主義:すべての理性能力」(p.58)「理性や論理に関するかぎり、人間は常に、死んだ存在である。たとえ死んではいないと考えたとしても、それはむなしい希望なのである。」(p.60)「福音派のクリスチャンも注意する必要がある。重要なのは教理を立証や反証することではなくて、イエスに出会うことであると主張する者がいるからである。」(p.98)「今日『キリストにならう』ことであるといわれる行為は、単に教会や社会の通念として、ある特定な時点で好ましいとされるだけのものとなる。上と下に世界が二分してからは、人間は現実世界で真の道徳を持つことは望めない。持ちうるのはせいぜい、関連のある道徳観程度のものである。」(p.102)「キリスト教の答えー神は意義ある人間を意義ある歴史のなかに創造されたが、悪はサタンと人間の歴史的な時空での反逆の結果生じたーなくしては、われわれはボードレールのことば『神が存在するとするなら、神は悪魔である。』に涙しながらも肯定する以外にはない。」(p.104)「キリストはすべての存在ー全生活の主権者である。もし、キリストが、私の全生活を統括する知的生活において主でないとすれば、キリストがアルファであり、オメガであるとか、初めにして終わりであるとか、いっさいの主であるとか言っても、それは無意味である。」(p.106)「人間としてのしるしは、愛、理性的行為、意味の探求、無への恐れなどに見ることができる。これは、そんなものは存在しないという非キリスト教的な思想の人々にさえも見られる。これらそこが人間を、動物や植物、機械から区別するものなのである。」(p.112)「合理主義者は、断固として、自己を宇宙の中心に置き、自分に蓄積できる知識だけを手がかりに自律性を主張する。そして、結局は自分が無意味な存在であることを見出すのである。これでは仏教の禅となんら異なるところがない。事実、禅ーみずのなかにはいっても、さざなみ一つたてないーは、現代人の見解をまことに的確に表現している。しかし、聖書は人間は尽きることなく波紋を起こす存在だと語っている。罪人である人間は、その意義を選び取ることができない。そこで、善が歴史にしるされると同様に、悪もあとに残るのである。しかし、確かに人間は無ではない。」(p.115)
(2019.5.23)
- 「地の塩 世の光 - キリスト教社会倫理叙説」ジョン・ストット著、有賀寿訳、すぐ書房(0016-399974-3739, 1986.4.12)
有賀寿氏の思想を理解するために、まずは、大学図書館に入っていた訳書を古い方から読むことにした。原著は、John Stott, "Issues Facing Christians Today - Introduction and Part I - Christians in a non-Christian society" 「私は小さな集団に名をつらねる人々が、正義と洗練された新しい世界にたいするビジョンをいだくとき、その意義を過小評価してはいけないと考えている。日本では、それこそひとつまみのプロテスタントのキリスト教徒が、政治問題に倫理的要素をからませて、彼らの数をはるかに上回る大きなインパクトをあたえることがある。このキリスト教徒たちは、女性運動の創始者であり、労働運動、社会主義政党、その他、実質的にあらゆる改革運動の中心勢力を形成していた。ひとつの文化の質は、人口の二パーセントが新しいビジョンをいだくときに、変化のきざしを見せ始めるであろう。」(p.171)と最後に締めくくっている。わたしの考え方とは、異なる部分が多かったが、示唆に富む部分も多かった。わたしのことばで語れるようになりたいと思った。以下は備忘録。「『ファンダメンタルズ』と銘打った十二の小冊子が出版されたのは1910−15年のことである。福音派は信仰の根本問題の弁明に携わっている限り、社会的関心と取り組む時間はないと考えたのだ。」(p.18)「ラウシェンブッシュ著『キリスト教と社会的危機』:問題は個人個人を天国にいれることでなく、地上の生活の型を変革して天国と調和させることである。」(p.19)「救いに高い価値を認めるのは保守的な人々で、現状の維持をねがい、黒人や貧者の置かれている窮状に同情的でなく、無関心である。(中略)自分の魂の救いに心をもちいすぎ、彼岸の生を志向し、それゆえ、同時に、社会的不平等と不義を永続させる社会体制に無関心をよそおうか黙認する人たちである。(デヴィッド・O・モバーク)」(p.22)「広義の『政治』は、都市生活と市民的責任を、大きく包み込む用語であり(中略)人がある共同体のなかでともに生きるための技術のことである。」(p.27)「出獄者の社会復帰を超えた所に収監制度の改革を、工場の作業条件を超えた所に労働者参加の役割増大の保証を、貧しい人にたいする配慮を超えたところに経済体制および政治体制の改善をーそして必要ならば改革をーそのことが貧困と抑圧からの解放を促進するにいたるまで追求してゆく。」(p.29)「神の関心は、『聖』だけでなく『俗』にも、宗教だけでなく自然にも、契約の民だけでなく全人類にも、義認だけでなくあらゆる共同体の社会正義にも、その福音だけでなく律法にも、むけられているのである。われわれの都合で、神の関心をわずかなことだけに限ったりしてはいけない。さらに、われわれの関心事も、また、神とおなじ大きさにまで、押し拡げられなければならない。」(p.42)「考えもなしに主義や運動に献身する人は、狂信的行動に走るだけである。とはいえ、献身しないで考えるだけの人は、あらゆる行動を麻痺させる結果をみることになろう。(ジョン・マッケイ)」(p.65)「教会は、事はこのように行われるべきだとは、いわない。ただ、そうしたことがおこなわれるべきである、と公言するように、召されているのである。」(p.67)「必要なのは(1)ともに祈ることを学び(2)互いに他の人の立場、および、その立場の背後にある重大な関心事に注意深く耳を傾け(3)自分とちがう意見に心をひらくことをためらわせる、文化的なさまざまな偏見に、自他ともに気づくことを助ける、誠実なグループ・スタディの場を持つことである。」(p.69)「プルーフ・テキスティング(聖句引用ですべてを証明しようとする愚)とは、あらゆる教理的・倫理的問題を、なんらかの聖句を、その前後の文脈かが該当問題と直接かかわりがなくても引用し、引用できさえすれば、解決される、とする考え方のことで、それが愚だというのは、神はわれわれにその啓示を、より重厚で包括的なものとしてあたえておられることにもとづく。」(p.76)「キリスト教信仰と根本的に矛盾する俗受けする生き方:進歩にたいする盲目的進化的理解、芸術・科学・教育における人間の自律性に対する信念、また、歴史は偶然の所産であり人生は不条理であるという主張など。」(p.81)「科学が計量することのできるものは、人間として知りうる事柄のごく一部分にすぎない。ところがわれわれの認知能力は、神聖さを抱擁するところまで、手をやすめようとはしないのである。」(p.83)「マルクス主義とのちがいは、いうまでもなく、人間にはなんらかの絶対的価値があるゆえに尊重されなければならない存在なのかどうか、あるいは、人間は社会のなかで相対的価値をもつだけなので、搾取されることもゆるされる存在なのかどうか、という点にある。」(p.90)「人間の正義にたいする能力こそは民主主義の基盤である。そしてただ、人間の不義にむかう性向だけが、民族主義を不可欠なものにするのである。(ラインホルト・ニーバー)」(p.92)「わたしたちは、地上にユートピアを築くことが人間にできるとする考えを、高慢な自己にたいする信頼を増長するだけの夢想として拒否する。(ローザンヌ世界伝道会議)」(p.95)「人間は、愚かさにおいてほとんど無限の可能性をもつとはいえ、なおかつ理性的に行動できる動物なのである。」(p.96)「個人は、行為のあり方を決めるにあたって、自分以外の人たちの関心事に考えをむけることができるなら、道徳的な人と言える。(『道徳的個人と非道徳的社会』ラインホルト・ニーバー)」(p.130)「疎外とは自分がみずからの力では何ともなしえない盲目的経済支配力の犠牲になっていると感じている人々の叫びである。それは、意志決定の過程から自分が排除されていると思う、平凡な挫折感を表現したことばでもある。(ジミー・レイド)」(p.139)「ルーカスは民主主義のことを『選挙制度利用の独裁主義』とよび直している。それが『人を愚弄するていどにしか、人々に政治参加への門を開いていない』からである。」(p.141)「1Cor 1:27,28 の引用のあと:神はいまもなお、この世界を変えるのに、人に気後れを感じさせるぐらい取り柄のない人間をもちいて、ご自身のために、未来を創出させようと、その方針を定めておられるのである。」(p.170)「われわれにも、伝道および社会活動を通して神の栄光が現わされるように、社会に法外の影響をおよぼすことは、できなくはないのだ。われわれが、しらけの気分にひたっていてよい理由は、どこにもないのである。」(p.171)
(2019.5.23)
- 「コペルニクス-人とその体系」アーサー・ケストラー著、有賀寿訳、すぐ書房(0023-200000I-3739, 1977.10.20)
コペルニクス(ポーランド名:ミコワイ・コペルニク、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者とされるが、新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳、Novum Instrumentum を著した、エラスムス(1466年10月27日 - 1536年7月12日)の6歳年下、宗教改革者ルター(1483年11月10日 - 1546年2月18日)の10歳年上で、この二人と同じくカトリック司祭。 なお、ケプラー(1571年12月27日 - 1630年11月15日)、ガリレオ(ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)の100年程度前の人である。1510年「コメンタリオールス(Comentariolus:ニコラウス・コペルニクスの天体の運動にかんする仮説の短い概要)」死の直後の 1543年「天体の回転について」で地動説を公にしている。物理学を学んで、その後、職が得られず、近東で様々な職につき、その後ジャーナリストになり、科学に関する本も著した異色の著者が、丁寧に一人の偏屈者を描いている。さらに、訳者の訳注は圧巻。その遥かに上を丁寧に読み解いて注を付けている。有賀寿氏の本を続けて読んでいるが、科学史家としても、十分な力量を感じる。科学史家の定義に依るのかもしれないが。有賀氏は、この最後に引用した、毎日の記事をあげて、「こういう誤解がひろまっているだけ本書は、なお日本に紹介されなければならない本と言えるだろう」としている。人間についての理解が残念ながら薄っぺらなひとが多いということを嘆いておられるように聞こえる。以下は備忘録。「第一に、科学と宗教は二本のより糸であると言いたい。この二つは、ピタゴラス派兄弟団のなかでは、神秘主義者と学者を、不可分な一つのものとしていたが、時代とともに分裂や結合を繰り返し、もつれて結節をつくったりどこまでも平行して進むだけの関係を続けたりしながら、最後には、今日見られるように、『信仰と理性という(階段のない)二階屋』という、礼儀正しくはあるが、救われようのないものになってしまった。」(p.3)「1543年5月24日に司教座聖堂参事会員ミコワイ・コペルニクスは、脳溢血でたおれ、臨終の床にふせっていた。そのよわい70路に達した彼は、生涯をかけて科学書をたった一冊著しただけだった。『天体の回転について』というのがそれであるが、彼はそれがいたって根拠の薄弱な本であることを、十分に承知していた。それで彼は、自説の出版を、30年の長きにわたって延引させてきた。完成して印刷所から送られてきた初版の第一冊が彼の手許に届けられたのは、その死に先立つ数時間前のことであった。」(p.13)「まことお国(プロシア)の殆どすべての方は、善意のひととして、これら学芸の研究者に可能なかぎりあらゆる便宜と助力を惜しまないのです。真の知識と学問が善意や親切と決して無縁でないとすればこれは当然のことと言えます。(ヴィッテンベルグからやってきたレテッィクス)」(p.87)「地球は高貴な星の一つである。地球の領域が他の諸星の領域にくらべて、より大いなる完全性をもつとか卑賤であるとかいうことを確信することは、人知を越えたことがらで、できない。(『知識のある無知について』クザーヌ 1514)」(p.190)「わたしは、現代の天文学者一般が、何でもあたまから信じ込んでしまうような女たちとそっくりそのまま、いろいろな書物・天文表・注解書の中に書いてあることを、神的で、変更可能な真理でもあるかのように信じようとする知的惰性には、唖然とさせられざるをえない。彼らは著者たちを信じているが、真理は無視するのである。(レギオモンタヌス)」(p.193)「ちょうど誰かが馬車か船で運ばれていくと、そのひとには自分が静かに止まっていて、陸地や樹木が歩きさり、動いていくように見えるのとまさに同じく、大空や太陽や月でなく、じつは地球がうごいているのだということを、ある新しい占星学者が証明しようとしている、ということが話に出た。するとルーテルが『けれど、これこそ現代的というものだ。要するに、賢くありたいと思う者は、ほかの人が喜ぶようなことをしないで、自分だけの特別な(変わった)発明をするというわけだ』だから、その男も、天文学の学芸をいっさいがっさいくつがえしたいのなら、そうすればよい。しかし、わたしは、ヨシュアが地球に向かってではなく、太陽に向かって、止まれと命じたと記す聖書の方を信じる。」(p.224)「人類の精神の養いとなるおおくの、そして種々なる学芸のうちで、最大の熱意をもって追求されるべきものは、知識の最美にして最高のものに関する研究である。(それを)ある人びとは天文学と呼び、ある人々は占星術と予備、古代人の間では数学の成果と呼びならわしていた。精神のあらゆる技巧の第一のものであり、自由な学芸の最高のものといえるこの天文学は、殆どあらゆる種類の数学を頼りにしている。(コペルニクス)」(p.224)「神はあらゆる時代のあらゆる人々に神の啓示を理解させようとしておられ、したがって神はご自分をわれわれのレベルにまで下げ、われわれの理解にご自分を適応させようとしていたという考えに立脚する聖書観から導き出した結論である。聖書は『市井の無学なひとたちから学びの道を取り上げてしまうよりは、どもりながらであるにしても、学習する道をすすむ可能性の方を選択されたのである』だから『天文学を学んだり、その他の深遠な学芸の蘊奥(うんおう)をきわめたりしたい者は、聖書以外のところにいくが良いのだ。』(カルヴィンの言葉を引用して)」(p.230)「ケストラーはすでに1949年作の『見識と視野』において、科学史を発見の心理学の見地に立って見直すべきであると説いていた。(本書が第三部『内気な参事会員 The Timid Canon』)『夢遊病者たち(The Sleepwalkers)』(1969)がこの観点から取り組まれた研究所であることは明らかで、そのことは殊に、コペルニクスを扱った第三部に続く、ケプラーの研究に著しく現れ出ている。」(p.252)「彼(ケストナー)は科学的業績に注目するだけでなく、その背後にある方法論を追求し、そのため多量の私的通信文のたぐいにも目を通し、彼がえがく偉大な思想家たちを、その時代の人間として、しかも、現代のわれわれに(彼らのことを)古びた考えの変則的あるいは寄せ集めてき存在ででもあるかのような印象を与えることなく、無意味な存在とすることもなく、かえって丹念に統一性を追い求め、織目を明らかにしつつ、その背後にある思想構造のもっともらしさと首尾一貫性を納得させてくれるのである。」(p.254)「もっと重要なことは、地動説が明らかにキリスト教の聖書の教えに反し、ローマ法王庁と対決しなければならないことであった。とくに、コペルニクスが僧職にあり、フラウエンブルグ司教座聖堂の責任者の一人であったことを考えると、死の直前にしか発表できなかった苦悩が思いやられる。異端を宣告さえることは、当然予想された。コペルニクスは、古代の権威に挑戦するとともに、中世の権威をも否定したのである。(毎日新聞、1973年2月19日号(神戸大学教授湯浅光朝氏の記事よりの引用))」(p.256)
(2019.6.13)
- 「文明の死/文化の再生」村上陽一郎著、岩波書店(ISBN978-4-00-028083-X, 2006.12.7)
図書館で村上陽一郎の本を眺めていて冒頭にある「文明は必ず死ぬが、人間の存在する限り、文化は死なない。これが本書のテーゼだ。」「現代日本社会は、社会共同体としての本来の働き、つまり、その成員を『人間』たらしめるノモス的な力がきわめて弱体化した状態にある、と私は診る。」が、最近考えている「ノモス」と「アノミア(不法、ノモスが無い状態)」、価値多元主義のもとでの「ノモス」、さらには、人間の文化や文明を動的なもの本来変化するものととらえつつどう理解するかという課題との関連を感じ、手にとった。わたしが、十分読み取れていない面が多いと思うが、いくつかのヒントは得られたのかもしれない。以下は、備忘録。「『寛容』とは、互いに異なる歴史・文化・アイデンティティーをもつ人びとの集団の平和共存(『寛容について』M.ウォルツァー)」(p.ix)「『頑固さ』は、(『自由人のための知』『伝統とその役割』ファイヤアーベント)『伝統』のこと、たがいに異なる歴史・文化・アイデンティティーをもつ人々の集団とほぼ同義。」(p.)「遵守すべき『規矩』を照らすべき相手としての、『お天道様』、『今日様』」(p.5)「他人に迷惑をかけるなという、『他者危害回避』の原則は、『規矩』としての役割を果たさない。」(p.4)「『観察者』は、自らのの帰属する伝統の枠組みを働かせて、他の伝統を観察するという宿命を免れない。このことをわきまえないで、あたかもすべての伝統を平等に評価できるような『純粋客観的観察者』の立場があるかのように振る舞う近代主義者や科学主義者に対して、反省を促す。」(p.8)「ある共同体の中で、ある伝統が『一つの伝統 a tradition』として働いている間は、それが如何なるものであっても、許容されなければならない。しかし、それが一旦『唯一の伝統 the tradition』となったり、あるいはそうなろうとしたとき、共同体の成員は、それを拒否することができる。(ファイヤアーベント)」(p.9)「第一に、自己が一つの選択肢としての、ある伝統に依拠していることを自覚することができ、それに基づいて、第二には、伝統に関して他の選択肢の可能性を認め、かつそれに依拠する他者の存在を認め、またその可能性を検討できる、という二つの能力を有するとき、その個人、あるいは共同体は『寛容』であると定義できるのでは無いか。」(p.15)「心身症:身体的疾患ではあるが、その発生に、社会、心理的因子が強く関与していると考えられるものをいう。(村上:『身体的』と『精神的』に二分されるという、デカルト的な心身二元論のような前提が置かれている。)」(p.53)「われわれの認識は、多かれ少なかれ、論点先取りの『誤り』によって支えられている、人間の認識の宿命ではないだろうか。」(p.70)「カルチャー・ショックとは、自分の属する文化とは異なる、『別』の文化の制御力があることを気づくことではない。むしろ自分がある特定の制御力の影響下にあって、ある特定の平衡点に安定していたことを発見することにあるのではないか。」(p.96)「『文化の生』というものは、すでに述べたような、共同体のアニマのエネルギーとそれが共有する制御力との揺動的平衡であり、またそこに常に新しい制御力が加わったり、創成されたりすることによって起こる揺動的平衡である。文明というものをそのような文化の生に対して加えられる留保と考えてみようというのが、ここでの主張の眼目である。」(p.98)「文明にはアニマがないからだ。自らの制御力を絶えざるダイナミズムの揺動に巻き込み、緊張と変化とを時間の証言として立てられるような、わきあがるエネルギーを持たないからだ。」(p.101)
(2019.6.16)
- 「科学的自然像と人間観ー現代において宗教は可能か」P.M. マッカイ著、池田光男、有賀寿訳、すぐ書房(0023-200038-3937, 1978.9.5)
"The Clockwork Image, a Chrisitan perspective on science", by Donald M. MacKay, Inter-Versity Press, Leicester, 1974 の翻訳。池田が5,6,7章、残りと全体の統一を有賀が担当とある。「かつて科学は永遠の発達を続け、それがそのまま人間の幸福につながると考えられていた。さほど遠い過去のことではない。その『科学』は、いま現代の窮境の責任をほとんど一身に負わされている。本書はそこに、科学における機械論的思考と機械志向的思考の混同を見出す。前者は科学に固有な特質であるが、後者は人々が科学から間違って引き出した決定論で、それが人々をむしばむと著者はいう。ついで著者は、この機械志向的思考が過去において宗教否定の大きな動因になったことを指摘しながら、機械論的科学そのものは最近のサイバネティックス、大脳科学、情報工学のいかなる研究の成果にてらしても宗教の存立を脅かすようなことをしなかったのみか、宗教の必要が可能とされる根拠を示唆する本書は、万人の期待に真の満足と喜びをもって応えてくれるといえよう。」(扉裏)著者は、キール大学教授、理論物理学者、現在は大脳科学を専攻している。科学的思考はキリスト教となにも衝突することはないとする。何回か引用されている「信仰と科学」誌、すぐ書房、については、調べてみたい。以下は備忘録。「もしれっきとした選択にもとづく行為をしている人間をとらえ、たまたまその決定が『反社会的』だったということで、かれを『病人』とみなすとすれば、この人物の道徳的尊厳は、はなはだしく傷つけられざるを得ない。」(p.22)「科学的ヒューマニズムを解く人々によると、人間はいっさいの主である。また、種となる権威を遂に人間にもたらしたのは、科学である。そして科学は、いまなおその働きを続行し、神をその座から追い出し、ひきずりおろそうとしているのである。」(p.29)「科学者に共通することは、自然の世界は、学問の対象とされて当然という、自然的世界に対する敬意である。(中略)物的世界を軽視したプラトンなどとは抽象的に、神が自然という書物のうちにお書きになったことは、当然読み取られるべきであるという、燃える確信を共有していた。」(pp.32-33)「どんなに異常と思われる現象であっても、科学者ならば、それはなにか合理的な説明がつけられるはずだと見当をつけながら、それに注目し、その事象のメカニズム(構成する各要素間の因果関係を説明するパターン)をおしはかる。」(p.33)「アリストテレスの体系からは経験という観念が原則的に排除されていた。」(p.34)「ガリレオやその同僚が諸事実の力におされて自分の考えを変更したのにくらべ、他の気むずかしがりやは、多くの場合、自分の思弁的考えに事実をはめ込もうとするのである。力の向かう方向が逆なのである。」(p.36)「科学者は、(公平な態度の故に、)人間が人間として関心を寄せるであろう重要な諸問題の多くに、科学的言語と使って問いかけをすることができなくなるのである。」(p.53)「科学者は、自分に偉大な目標があることを自認している。それは、公平な見物人の観点から、神秘につつまれた宇宙をもっとよく知り、ふかく理解するということである。同時に、科学者は、現実の多くの側面のなかには、自分自身が巻き込まれるかたちになったときにのみ知りうるものもあることを、認める必要がある。そのとき、科学者でも、自分が守ると決めた『事実に対して心をひらいておく』という原理にまさにしたがって、科学的公平をも放棄しなければならない。」(p.58)「科学の結論は、原則的に、実験を通して取捨選択される。しかし、典型的な『キリストは、われわれを父なる神と和解させるために、我々の身代わりとなり、死なれた』などという神学的表現は、それも実験的吟味の対象にならない。」(p.61)「実在論的還元主義者 nothing-buttery(でしかない屋)」(p.66)「絶対的に自由だが盲目的な、純粋に偶然といえるもの、これが進化の巨大な構築の基礎にはある。したがって、人間は、自分が無感覚な無限の宇宙の空間に、ただひとりでいることを、ようやく知ったのである。かれの運命もかれの義務も、なにかに書きとめられていた、というようなことはないのである。(ジャック・モノー)」(p.85)「二つの問『われわれのドラマはそもそもどこからきたのか。そういうドラマが存在するということはどいういうことなのか』と『われわれの世界の物語は時間空間の奥行きのどこでどのようにして始まったのか。このドラマにおける最初の出来事はなんであったのか。』」(p.101)「聖書が人間性について述べるところを正しくとらえたければ、聖書の人間概念が全体であることを見て取ることに努めなければならない。全体的とは、からだと知性と霊性がひとつに結び合っていることである。」(p.145)「揺りかごの時代にはやくも気づき、長じてからももっと切実に痛感させられる処世訓のひとつは、価値ある目的をともなわない自由はのろいとなるということである。目的なき自由が不幸をまねくばかりであるということは歴然としている。」(p.163)「神が掲示して下ったみ心に従って生きようとする所に、聖書は『なんのための自由か』という問にこたえをもたらす。まさに、隣人のために、変わることのない責任を負って行きていく。これがわれわれの自由の目標であり、その責任を果たしていくときに、われわれは尽きぬさちと満足を味わうのである。」(p.175)
(2019.6.20)
- 「人間にとって科学とは何か」村上陽一郎著、新潮選書、新潮社(ISBN978-4-10-603662-0, 2010.6.25)
「純粋な知的探究から発して二百年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは? 地球環境、エネルギー問題、生命倫理――専門家だけに委ねず、『生活者』の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。」と裏表紙にある。プロトタイプの科学、ネオタイプの科学など、歴史的なことも踏まえ書かれているが、一番力が入っていると思われるのは 「5.生命倫理をめぐる試論」である。アシロマ会議、クローン、ES(胚性幹細胞),iPS細胞などの比較も詳しい。この本自体が、語ったものを、文章とし、それを校正していることも影響していると思われるが、丁寧に書かれている。しかし、第三者もふくめ、語り合いながら決めていくということは、ある限定的な状況では可能としても一般的には、深くは関与していないものの参画も必要となり、個人の負担も大きく難しいように思われる。以下は備忘録:「科学の定義:1.知識の進歩のための科学、2.平和実現のための科学、3.持続的発展のための科学、社会のための、そして社会の中の科学(『科学と科学的知識の使用』UNESCO, ICSU 国際科学者会議主催の「世界科学会議」)」(p.9)「scientist: 1834 ウィリアム・ヒューエル」(p.15)「ノーベルの遺言:(前の年に)人類に対して最も偉大な貢献をした人に(研究成果の利用価値を評価する目的はない)」(p.30)「On Being a Scientist; Responsible conduct in research, NAS: the National Academy of Sciences of the United States, 1989」(p.34)「文化の進捗の度合いに見合った疫病構造の変化:消化器系の感染症、呼吸器系感染症、生活習慣病、社会的不適合」(p.59)「シンパシー=痛みの共有」(p.63)「lay expert 専門知識や技術を持った非専門家」(p.68)「科学的合理性:少なくとも自分の知識の中にある限りのすべてが満たされたときに初めて白か黒かが言える」(p.71)「シナリオという言葉は、本来は自然科学の世界には絶対ありえない話です。自然科学では、原因が結果を生み、その結果が原因となって、その原因が再び結果を生み、という原因と結果の連鎖という形で記述が行われます。」(p.82)「『ヘラクレイトスの火ー自然科学者の回想的文明批判』エルヴィン・シャルガフ(村上陽一郎訳)」(p.92)「『絶対的解は何か』と問いを立てること自体が困難。『相対倫理』『状況倫理』」(p.101)「そもそも倫理というのは、宗教を離れても存在し得るものです。昔、バテレンが日本にきた時、キリスト教が支配していない社会で、これほど高い道徳が人々の行動を律していることに驚いた、とある意味では僭越なことをローマに書き送っています。」(p.109)「PSA, Probability Safetly Assessment 確率的安全評価」(p.117)「1992年の国際環境開発会議(リオ・サミット)環境を保護するため、警戒的方策(precoutionary approach)は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害の恐れがある場合には、安全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならない。」(p.134)「CBPTA: Community Based Participatory Technology Assessment」(p.138)「ダーウィンが信じた道(A.デズモンド、J.ムーア)」(p.146)「NIMBY: not in my back yard」(p.158)
(2019.7.7)
- 「奇跡を考えるー科学と宗教」村上陽一郎著、講談社学術文庫2259、講談社(ISBN978-4-06-292269-2, 2014.12.10)
「奇跡の捉え方をヨーロッパの知識の歴史にたどり、また宗教と科学それぞれの論理と言葉の違いを明らかにし、奇跡の本質にせまる試み」(裏表紙抜粋)とある。「結び」に著者自身が「本稿は、『奇跡』を宗教的な文脈から論じたものではない」また「科学思想の歴史を拙い足取りながら学んできた私として、(略)ときに現れる奇跡の問題は、扱い難いものとして、いつもひっかかり続けてきた。そして、科学思想史という側面から多少整理ができないか、という思いはずっと消えることがなかった。」しかし「何を、どう書けば、とにかく纏まったものとして、世に問うことができるのか。それが判らなかったし、今でも判らないままである。」「ただ、『奇跡』を議論するときに、考慮すべき本質的なことの幾つかは織り込んだつもりであるし、今後こうした問題が深められる小さな礎石の一つを積んだという、思いはある。」わたしは、一部、今まで考えていない論点を含んでいたため、二度読んだが、この著者の記述がそのまま、この本の性格をあらわしていると思う。村上氏が、その西洋思想史・科学史の理解の上に、この問題にある切り口で論じてくれたことに感謝する。以下は備忘録:「科学は現在、科学を知識体系として取り入れている地域に話を限ってみても、それらの地域での「常識」とは言えないはずである。われわれは、科学を信頼しよう、という『常識』は持ち合わせているが、科学そのものは、われわれの『常識』からかなりの隔たりをもって存在する、非常に特殊な知識体系になってしまっている。にもかかわらず、われわれは、科学を非常に強い基準として採用し、科学の中で説明・記述できない現象は、いかさまか、幻影か、さもなければ、いずれ科学によって十分説明できるものであるか、そのいずれかに分類してしまうことになれている。」(p.5)「科学においては、『奇跡』を支える宗教的背景は、一切考慮されないから、この基準の下では、『奇跡』も魔術も『超常現象』も区別なく扱われることになる。」(p.5)「パウロのしごとは、イエスの教えをどう理解し、人間の間にどうやって伝え、どうやって生きていくことのなかで実践するか、という指針の提供に集中していた。」(p.25)「プラトンに至って、この言葉(アレテー)は、倫理的に高く評価される徳をさして使われるようになった。賢慮、節制、勇気、公正を人間の倫理的徳目として挙げているのもプラトンである。」(p.27)「宗教において、もし『奇跡』が真に意味のあるものであるとするならばその理由は、実は、人間の理性や悟性、あるいは知性の働きの範囲を超えて、ある種の神的なもの、超越的なものを感得することができるというところにあることになる。」(p.37)「われわれの常識が魔術を否定するよりも、遥かに強い意識で、宗教は魔術を否定するのである。その点では、科学が魔術を否定し、もっとありように言えば、軽蔑するのと非常によく似ている。」(p.42)「宗教の立場からすれば、奇跡は、神が時に応じて、本来の因果的な連鎖の流れを越えた現象を、この世に出現せしめ、それを通じて、人間たちに自分の意思を的確に伝える、ということであり、しかも、その点を容認する限りは、神の力に拠らないで、それに一見類似しているような現象を起こさせる魔術は、断固排撃し、否定しなければならない、という事情が、そこに生まれてくる。」(p.44)「アウグスティヌス:自然のものは一切が、神にその存在を依存している。そして神は、それらを司るために、被造物どうしの間に、調和のとれた整合性と相互の間の平和的秩序を与えられた。そして、同じように人間の間にもそのような秩序を与えられた。」(p.47)「もしカトリック(普遍的)信仰の真理が、本当に人間全体にとって『普遍的』なものであるとすれば、それがイエスの出現する以前には、全く共有されたものではなかったということ自体が、むしろおかしいとも言える。」(p.71)「土着化(aculturation)が inculturation に置き換わる。」(p.75)「『近代科学』は、自然を物質の運動だけで記述し去ろうとする努力と定義してもよいとさえ思われるからである。」(p.96)「デカルトの信じたカトリック信仰とその制度を『専横を恣いままにしていた権力』として弾劾し、否定するのに、デカルトが信頼した理性を使う、これが『自由思想家』たちの姿勢だと言って良い。」(p.105)「ガリレオ:聖書の言葉と自然の言葉とが本来一致していないはずはなく、もし外見上両者が食い違うように見えることがあったとしても、それは聖書の言葉が比喩や修辞を凝らしているのに対して、自然のなかに書き込まれた神の言葉は、直接的に神の言葉を刻み込んであるのだから、それに一致するようによむべきなのだ。」(p.128)「自然の掟に冷厳に従うのが自然の本性である以上、これはほとんどトートロジーではあるが、自然は、自然を越えることがないのであり、『超自然』は論理的に排除されることにもなる。」(p.134)「そこから得られる一つの結論はこうなる。聖書に書かれてあることは、多義的で、象徴的で、如何ようにも解釈できるから、信頼することができない。これに反し、自然の言葉は、人間の言葉のように多義性や象徴性を持たない『数学』であるから、それによって記述される自然の姿(科学的世界)は明証的で信頼がおける。」(p.136)「cogito ergo sum 我思う ゆえに 我あり。物質とならんで『二元』の一つであるはずの『こころ』は、実は『我』つまり第一人称単数現在にのみ保証されているという、極めて狭いものになってしまうのである。」(p.137)「しかし、ここでわれわれは、人間が神を描写し、神について語るときに、常に、人間の言葉で、もっと正確に言えば、人間を描写し、人間を語るときに使うのと同じ言葉を用いるという事実に否応なく気付かされる。」(p.141)「『奇跡』の成立要件のなかでもっとも基礎的なものは、人間を超越した存在を認めるところにある。そして、そうした超越から自然(人間も含めた)への直接的な働きかけの存在を認めることである。」(p.148)「補遺:科学が宗教になる。」(p.164)「科学は、人間にはどうにもならないもの、人間の根拠にできない唯一のものとして、社会のなかに座を得た。『ヨーロッパ近代では、科学が神の代替物となった』というような言説が、しばしば聞かれるのは、故なきことではない。」(p.182)「聖俗革命」も読んでみたい。
(2019.7.22)
- 「今日から使える統計解析ー理論の基礎と実用の”勘どころ”」大村平著、BLUE BACKSB2085、講談社(ISBN978-4-06-514793-1, 2019.2.20)
1. 数の群れに何が隠れている?(統計解析ことはじめ)、2.ノーマルとアブノーマルの世界(正規分布に親しむ)、3.ウナギ捕りから推測統計へ(推定という知的な作業)、4.実力か、まぐれか、いかさまか(検定という決着のつけ方)、5.不良品からあなたを守る術(標本調査による保証)、6.じょうずな実験教えます(分散分析と実験計画法のダイジェスト)。Data Science を大学で文系に学生もふくめて教えるにはどうしたらよいかを考えていて、MOOCs を勉強しているが、まったく他の方法として、図書館でこの本を手にとった。実に説明が上手である。教える経験の為せる技か。むろん。これで、分析できるようにはならない。しかし、英語での、MOOCs などを使う場合、やはりこのようなもので、補うことも大切だろう。考えさせられた。以下は備忘録:「男 N(170,(6)2)、女 N(160,(5)2) において、女性のほうが、男性より高い確率。pnorm(1.28)」(87)「長さが異なる2つのブロックの長さを正確に測る法」(p.88)「ポアッソン分布:1/e = 0.368, P(r) = 0.368/r! が N 回中に r 回起こる確率。0: 0.368, 1: 0.368, 2: 0.184, 3: 0.061, 4: 0.015, 5: 0.003」(p.178)「t検定:ある集団の平均値についての検定、χ2検定:ある集団の値のばらつき(標準偏差)についての検定、F検定:二つの集団のばらつき(分散、標準偏差の二乗の比についての検定)」(p.210)「異質のデータが混在したままで相関を調べると、本来ないはずの相関がみえてしまうこともある。」(p.244)「データの一部が消滅しているようなときは、相関があるのにないように見えたり、ないのにあるように見えたりすることがあるので、注意を要する。」(p.247)
(2019.7.24)
- 「知るをまなぶーあらためて学問のすすめ」村上陽一郎著、河出書房新社(ISBN978-4-309-24570-6, 2011.12.20)
期待して手にとったが、人文学や芸術を含む広い教養にどのように触れてきたかという著者の回顧録のような調子で、内容も、他の著書との重複も多かった。全体として、主題について自分の考えを述べているのであろうが、若いものについては、圧倒されるだけで、指針は与えられないように思う。その奥ゆかしさが、著者を表していると言っているのかもしれない。個人的には、著者の個人的な履歴を知ることができて、興味深かった面はある。以下は備忘録:「明治政府は、日清戦争で得た賠償金のほとんどを、学校制度の整備に回した、ということですが、それでも、なかなか初等教育さえ、すべての児童に行き渡ることはなかったわけです。」(p.1)「メッセージの主題は、世間の『通説』を簡単には受け入れず、ものごとをできるだけいろいろな点からみては、ということの『すすめ』を目指していると書いておきます。」(p.4)「認識:epistemorogy, episteme vs sophia vs techne」(p.11)「tabula rasa 何も書かれていない白い板に『経験』を書いていくという、アリストテレス(およびロック)などの『経験論(empiricism)』に対してプラトン(およびカント)に代表される『先見論』の立場では、人間はなんらかの形で、知識の外枠の如きものを生来備えており、知識や経験は、それを助ける役割しか持たない。知識や経験は、それを助ける役割しか持たない、あるいは、先験的なものがもしなければ、経験は単なるカオスであって、纏まった知識として積み重ねられることはありえない、ということを主張します。」(p.23)「人間がこうして、外部共同体の与えるノモスに完全には制御されず、そこからはみ出る力、あるいは余裕を備えている、という事実を、わたしは『機能的寛容』という言葉で表現したいのです。」(p.32)「エリートの資格に関しては、先に述べたオルテガの定義は、全く正しいのではないでしょうか。他人と同じで満足することなく、自らに、他人に求める以上のことを求め続ける、それこそ、エリートと呼ばれる人々の基礎資格ではないか、私はそう思います。」(p.45)「知識人である限り、学識を備えていることは基礎資格でしょう。その学識を、たとえ相手が子どもであっても、きちんと伝えることができる能力を持っていなければ、知識人の資格はないのでは、と思います。」(p.52)「文系人間が、科学的トピックスに関して無縁では居られない社会、それが私たちが行きている社会なのです。そうだとすれば、何とか、文系人間の素養として、科学への関心と総合的判断力とを培う方法を講じなければならないということになりましょう。」(p.80)「ホワイト(Lynn White, Jr.)は、アシジの聖フランチェスコにおいては、自然は、私たち人間から引き離され、その手による管理を待っている客観的な対象なのではなく、人間も他の自然と同じ地平に立つ仲間なのだ、という発想を汲み取ろうというのです。」(p.89)「『創世記』の『神が人間に自然の支配を命じた』ということが、自然破壊の直接的原因ならば、キリスト教がヨーロッパ世界に対して最も強い強制力を発揮していた『中世』に、なぜ深刻な自然破壊が起こっていないのでしょうか。むしろ、ヨーロッパ社会に対するキリスト教の影響力が、かなり弱まった十八世紀以降に、生態学的危機と呼ぶべきものが、徐々に深刻化していった、という事態を、どう説明すればよいのでしょうか。」(p.89)「トランス・サイエンス:科学に問を立てることはできる、科学もある程度はそれに答えることが期待されるにしても、決定的には答えることができない、ような問題をかかえているもの。」(p.96)「近代科学の定義:この世界に生起するすべての現象を、時間・空間の枠組みのなかで、『もの』の振る舞いとして記述すること。」(p.115)「科学においては、客観的に調べることが可能な『もの』だけを対象とし、『心』のように、自分以外には、把握の仕様のないものは、扱わないというタブーができあがってきたように思います。」(p.118)「科学者である限り、脳の特的の状態を安易に『心』と結びつける、もっと安直に言えば、『脳がわかれば、心も判る』などという発言はしないはずです。」(p.122)「プラトンは、ソクラテスを殺したその民主制に絶望して、哲人王の政治体制を理想とするにいたったわけですから、プラトンとアリストテレスを最大の思想家と仰ぐ欧米社会が、長らく『デモクラシー』なるものを忌避してきたことも、頷けないことではないことになりましょう。」(p.135)「トクヴィルは、そうした欠陥だらけの個人主義と、その上に立つと思われるデモクラシーが、アメリカでは、彼らの特有の工夫によって、良い方向に転換させられているとみるのです。その工夫とは、一語でっ表現すれば『協会』ということになります。一人ひとりの個人が積極的に他人と手を結ぼうとし、結ばれた絆をもとに、人々の集まり、つまりアソシエーションを形成している、というのがトクヴィルの観察でした。」(p.137)「輿論=public opinion、世論=popular sentiment」(p.140)「十字架にかかったおどろおどろしい半裸のイエスの像に出会うことのない、教会は自分の心の中にのみあるのであって、常に、自分とイエスの間を正しくしていれば、それでよい、という清潔な信仰の形がとても気に入っていました。」(p.168)「たとえば、その方(カリスマ)がなくなるだけで、あるいは、何か信頼を裏切るような行為があればなおさら、たちまちそのコミュニティが瓦解してしまう。」(p.169)「キリスト教は、イエスという一人の『人間』への絶対的信頼で結ばれたコミュニティから始まった」(p.171)「わたしは、平成十四年4月から、平成二十二年2月まで、経済産業省 原子力安全・保安院保安部会 部会長をしていました。」(p.208)
(2019.7.29)
- 「新しい科学論」村上陽一郎著、講談社(ISBN4-06-117973-X, 1979.1.20)
古い「新しい科学論」である。副題は「『事実』は理論をたおせるか」となっている。クーンや、ファイヤアーベントの科学理論の変換を「進歩」としてではなく「革命」として捉える背景を、ある意味では、構造主義の立場から、単純な科学に対するイメージを変革するとともに「科学の人間性」という言葉を用いて、新しい視点を提供している。「結核や肺炎を駆逐し、原爆を作り出した科学について、その全ての責任を今わたくしどもが引き受けることを通じて、人間の道具としての科学ではなく、科学を自らの身の内に引き受ける認識を通じてのみ、私どもは、自己を変革することができましょう。もし必要ならば...。」(p.201)と書いており、いろいろな証拠からそれを論証しているが、残念ながら、個人的には、ひとつの見方としてしか受け入れられなかった。ひとにぎりの「教養人」のひとつの「科学認識」のように思われるが、どうだろうか。以下は備忘録:「戦争終結当時の竹槍と原爆との対比があまりに深刻かつ鮮明であったこともあって、敗戦は科学戦の敗北の結果であり、日本の『非科学的精神主義』への論難と、『正しい科学技術振興政策』とは、敗戦という結果を残念がる立場の人々も、あるいは敗戦を日本の『民主化』の好機として歓迎するような人びととも、つまりは日本のあらゆる層の人びとすべてが等しく持った『反省』であり『将来への期待』だったのです。そこでは、科学は人間を救う一種の魔術にさえ見えたのです。」(p.16)「確証と反証の非対称性。否定の力は肯定のちからよりも強い。」(p.58)「このように外界の認識に際して、自らのもつ偏見や先入観をすべて捨てることが大切なのだ、という信念は、今日のわたくしどもの間にも広く広がっています。例えば、正統的なマクルシズムが強くその信念を主張しています。」(p.88)「科学を、『われわれはこの現実の世界を観念論者の気まぐれや先入観をもつことなく、それに近づくものにはだれでも、それ自らをあるがままの形で姿を表すものとして把握しようとする(エンゲルス)』働きと考える、という立場ともよく適うものだったと思われます。」(p.91)「自分たちは無神論の立場に立つことによって、宗教的な桎梏(しっこく)から逃れることができた、とすれば自分たちの先輩たちの仕事もまた、そうした桎梏から開放してやるのが至当ではあるまいか。こうして、コペルニクスやガリレオやケプラーやデカルトやニュートンの共通の前提であり『先入観』であったキリスト教信仰は、すっかり邪魔者として取り払ってしまった上で、彼らの仕事の結果の部分だけを、これこそほんとうの科学だ、として再提示してみせてくれたのが、フランスの百科全書派のひとたちだった。といっても、それほど大きな間違いにはなりますまい。」(p.118)「influence < fluent < 占星学的解釈」(p.123)「ことばの問題:『唯名論』vs『理念(イデア)』」(p.167)「事実の客観性:ここにメソン(中間子)があります。この写真には肺がんの病巣があります。」(p.177)「科学についての常識的な考え方に従えば、理論は、データから、帰納によってつくられることになっていました。しかし、ここに至って事態は完全に逆転したからです。『事実』が科学理論によって作られるものと考えられることになりました。この逆転こそ、わたくしがこの本でもうしあげようとしていることの一つの中心となるものです。」(p.180)
(2019.8.6)
- 「<死>の臨床学ー超高齢社会における『生と死』」村上陽一郎著、新曜社(ISBN978-4-7885-1561-1, 2018.3.12)
ご自身の病や、ご親族の、死についても、かなり詳細に記述しながら、判断の困難な問題についての詳細について述べている。ここでは、詳細は語られていないが、何をもって死と判断するかは、ますます、困難な状況になっているように思われる。胎児の問題、保険制度との関係、終末期鎮静、生きるに値する命、そして、ささやかな、ささやかな提案と、他の書籍にも書かれている、村上氏が取り組んでいる、課題についても、ある程度語られている。むろん、いのちについて語ることとも関わっているわけで、ここに書かれていることはほんの一部であるとともに、その一部については、ていねいに書かれていると思う。以下は備忘録:「我が国の刑法には堕胎罪があるが、その適用除外の措置として、母体保護法が存在する。受胎後一定期間(法律上は『胎児が、母体外において、生命を保続できない時期』としか定めがないが、厚労省の次官通達によって、現在の取り決めでは22週未満)は、中絶が許されるわけだが、容認されるのは2つの場合に限られる。第一は、妊娠の継続が、母体の健康、もしくは、経済状況に顕著な障害となる場合であり、第2は暴行など、本人の意志に反する強制的な妊娠である場合である。『経済的理由』は、『貧乏人の子沢山』などという言葉が実質的な意味を持っていた、戦後直後極めて貧しい状況にあった頃の日本社会において、必要とされた条項であるが、それが未だに残っているのは、この条件を外すと、現在日本で行われている人工中絶のほとんどが、違法になるからである。言い換えれば、胎児異常が見つかって、両親が中絶を決意したときにも、中絶の合法性の根拠は、この経済条項しかない、という極めて欺瞞的な事態にある。」(p.42)「如何に自らの遺伝子が保続プログラムを持ち、(中略)連続性のプログラムに従っているにしても、なお、人間は自らの死ということを、決定的な不連続のように解釈することになれている。それは『体質』が滅びることだけではなく、一人の人間の意識、想念、感覚、意志、技能などが、死によって断絶するという、死の理解によって支えられた、抜き難い発想があるからであろう。」(p.89)「死によって生まれる非連続性、断絶を乗り越えようとする、このような(死を知る)人間の二次的な生産物の相対を、わたしたちは『文化』とよぶのではないか。言い換えれば、文化は、『死』のなかから生まれてきたことになる。」(p.90)「『老い』は間近に迫った死へと足早に進む過程に他ならない。一般の動物の場合は、この過程に要する時間は極めて短い。おそらく人間だけが、この過程にかかる時間を引き延ばしてきたのだろう。」(p.92)「キヴォアキンは、聖アウグスチヌスの次の言葉を引く。『国家の権力を仮託されたものが、死刑囚を殺す場合には、<汝殺すなかれ>の立法に抵触しない。』」(p.114)「ヒトラーが1939年に発した文書の中で『生きるに値しないような生命』を終わらせるのは『慈悲(あるいは恩寵)(Gnadentod)』である、と述べていることに留意しておこう。」(p.117)「アメリカにおける PAD (Physician's Assistance of Death) 容認 - 『政治的な正当性』(political correctness) の関係。」(p.121)「人間の尊厳という概念は、人間が存在するだけで自らそこに認めなければならない固有の価値として、ヨーロッパ中世からルネサンス期に、例えば、ピコ・デッラ・ミランドラ(1463-94)らの手で提唱され始めた。カントは、むしろ『人間の尊厳』は、価値的な議論を越えた『絶対的な』概念として認めるべきだと捉えた。」(p.131)「権力側にない、弱い立場の一人ひとりの人権の侵害に対して、常に留意しなければならないのも確かで、とりわけ、医療場面では、患者は本質的に弱者である点を考慮すれば、こうした国家政策上のあるいは、経済政策を優先的に考えた議論が、最終的には病に苦しむ一人ひとりの患者にとって、その存在を賭けた現場である医療の本質に対する重大の攻撃とみなされる、ということの重要性は、これも、決して否定することはできない。」(p.152)「自殺幇助や安楽死を望む人々の大部分は、基本的には、現下の痛みや苦しみよりは、将来自分の身に起こってくると思われるものへの恐怖に動機づけられている。H. Hendin, Seduced by Death」(p.173)「『未来』にあるかもしれない災いを怖れて、それを回避するために、今命を断つ、という形で、安楽死やPADを捉えた時、それらへの願望は、必ずしも『合理的』とは見えなくなる可能性がる。実際ヘンディンは、そうした怖れはしばしば、『鬱状態』に基づいており、場合によっては、精神医学的に治療が可能であり、実際に治癒することがある、と書いている。もちろん、そうした可能性を最初から斥けることは、正しくないであろう。ただ、すべてのケースについて、そう言い切ってしまうことも、また、現実を見ないことになる可能性が生まれるのであはないか。」(p.174)「言いかえれば、医療は『患者の死』と戦うのではなく、『患者の苦しみ』と戦うことである。という、ある意味では当たり前の、しかし、ときに忘れがちな解釈があらためて浮上する。だから、とここでせっかちに消極的・積極的安楽死を認めよ、と主張するつもりはないが、何故、かくも長い間、日本の公共社会のなかでは、問題にされずに放置されてきたのか、を問うことはできよう。わたしたちは霊性に、あらゆる角度から、議論を進め、少しでも、建設的な方向に歩み始めなければならないのではないか。」(p.175)
(2019.8.16)
- 「中学生からの大学講義3 科学は未来をひらく」桐光学園+ちくまプリマー新書編集部・編、筑摩書房(ISBN978-4-480-68933-7, 2015.3.10)
著者は、村上陽一郎(科学哲学者)、中村桂子(生命誌研究者)、佐藤勝彦(宇宙物理学者)、高藪縁(気象学者)、西成活裕(数理物理学者)、長谷川眞理子(進化生物学者)、藤田紘一郎(免疫学者)、福岡伸一(生物学者)である。初出がそれぞれあり、それを編集し「若い人たちへの読書案内」をつけたものである。いずれ、その読書案内に紹介された本も読んでみたい。「トランス・サイエンスの時代」「科学の現在を問う」「アル・ゴア未来を語る」「宇宙と人間 七つのなぞ」「生命を探る」「二重らせん」「不思議の国のトムキンス」「宇宙のたくらみ」「ソロモンの指輪」「怒りの葡萄」「イワンデニーソビッチの一日」「三国志」「日本人の英語」「アマゾン河探検記」「マリー・キュリー(1・2)」「ダークレディと呼ばれてー二重らせん発見とロザリンと・フランクリンの真実」「極限の民族」「未来いそっぷ」「ミトコンドリアが進化を決めた」「ワンダフル・ライフ」「人間の測りまちがい」「パンダの親指」「利己的な遺伝子」「粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う」機械論的世界観、機械的生命誌、生命論的世界観、相利共生、人間は自然の一部、など、いろいろと考えさせられた。以下は備忘録:「佐藤:物理学の大きな目的は、わたしたちが生きている世界がどういうものかを説き明かすことである。」(p.73)「アインシュタイン『私は神がどのような原理に基づいてこの世界を想像したのか知りたい。そのほかのことは小さなことだ』『私の最も興味を持っていることは、神が宇宙を創造しとき、選択の余地があったかどうかである。』」(p.74)「佐藤:皆さんは、勉強をしていろいろな新しいことを知ると、そのうち知らないことなどなくなって、すべての物事がわかるようになると思っているかもしれない。しかしそれは大きな誤解で、知れば知るほどおもしろくて深いさまざまな問題に出会い、むしろ何もしらないということを知るようになる。特にそれは科学の常だ。一つの発見によってどんどん知識の世界が広がっていく。」(p.92)「長谷川:ヒトの定義とは、脳が大きく、大人は複雑な文化的行動をとる。分業し相互扶助する社会を形成。子どもが一人前に成長し、社会の輪の一つになるまでに大変な時間がかかる(皆で共同作業)。こどもの生産と文化の継承という2つの柱がある。」(p.165)「前頭前野は『自分を客観的に見る』感覚を司っていることがわかってきた。自分が何をして、何を感じているか。そして他人がなにを思い、どう感じているか。自分の気持ちを参照しながら、相手が何を感じ考えているかを知るための器官なのだ。また自分が何を欲しているかということもモニターしているので、それと連動して、目標を達成するために、次に何をしなければいけないかといった物事の優先順位を決める役割もある。」(p.170)「福岡:大学で学生を見ていると、一所懸命自分探しをしている。自分が何者なのか、何ができるのか、と必死で模索している。みなさんもそうかもしれない。しかし、いくら探してもその答えは、自分自身の中にはない。答えは、自分と周りとの関係性の中にだけ存在している。細胞たちを見ていると、これが至って自然な考え方に思える。」(p.221)「福岡:『脳死』『脳始』の線引がされるようになったのは、先端医療にとって好都合だからだ。脳が死ねば、その時点から死体とみなされ、臓器を取り出せる。一方、脳始に至っていない状態は細胞の塊だから、再生医療に使う材料をえることができる。まだ、人ではないから殺人にはあたらないというわけだ。結局のところ、先端医療はわたしたちの寿命をのばしているわけではなく、むしろ両側から縮めてくれているわけだ。脳が始まるずっと前から動的平衡としての生命は始まり、脳が死んでもまだ動的平衡は止まらない。生命の始まりと終わりを決めるのは、本当は非常に難しいことなのだ。脳死と脳始のような考え方は、機械論的生命観がはらんでいる問題とも言える。」(p.224)「福岡:生命は、流れながら、自分自身を分解し、つくりかえ続けている。その理由は、生命という秩序を維持するためだ。変わらないために、絶え間なく、変わる。一見逆説的にも思えるこの状態こそが、生命の本質だ。そして生命だけでなく、私たち個人の一生についても、言えるし、さらに、生命の長い進化の歴史についても同じことだと思う。地球上で、奇跡的に生命現象が立ち上がってから、現在に至る38億年もの間、少しずつ変わりながら、平衡状態を保っている。」(p.231)
(2019.8.21)
- 「科学史からキリスト教をみるー長崎純心レクチャーズ第5回」村上陽一郎著、創文社(ISBN4-423-30114-8, 2003年3月1日)
三回連続の講義をそのまま本にしたものである。第一回 近代科学の成立をどう捉えるか、第二回 聖俗革命、第三回 環境問題とキリスト教。一般的に唱えられている「科学革命」の本質を捉え直し「聖俗革命」という視点を著者は本書で提示している。第一回は、その背景説明である。第二回目まで一日で行われ、一日あけて第三回で、少し離れたトピックであるが、「聖俗革命」のもたらしたものとして、現在と将来への視点につなげているとみることができる。最後に大江健三郎に対して批判したことが書かれているが、現代の問題をどう捉え、どう生きていったらよいのかは、正直判然としない。以下は備忘録:1636年11月1日付けカプア枢機卿ニコラウス・シェンベルグのコペルニクス宛の手紙日本語訳(p.11)「地動説に有利な科学的データの恒星の年周視差があるが観測されたのは、1830年代」(p.14)「現代の科学は宗教的に中立。価値自由 wertfrei(M.ウェーバー)」(p.34,35)「ナポレオン『お前(ラプラス)の本は面白かった。けれども、この宇宙のことについて論じたお前の本でひとつだけ、私は根本的に不満なポイントがある。それは、この宇宙を語るについて、宇宙の造り主である神という言葉に一度もこの本の中で言及しなかったではないか。それは一体どうしたことなのだ』ラプラス『閣下、私の宇宙論の体系にはもやや神はいらないのです。』」(p.68)「『百科全書』の相当部分は、いわゆる技術、職人のギウうつについての知識の描写です。」(p.70)「デカルト的思想:非常によくできた猿ロボットと猿とを区別する手段はわれわれには全く存在しない。しかし、いかなる愚鈍な人間といえどその人間と人間ロボットとを区別する方法は我々にはある。」(p.86)「蹴飛ばすと『痛い、止めてくれ』なでなでしてやると『もっとやって』という機械を作ることはできるだろう。しかし、いかなる愚鈍な人間といえども、機械と人間を区別するもう一つの方法は、人間の行為はその意志に基づいて組み立てられている。デカルト」(p.88)「諸君に科学史の専門家になってもらいたいと思ってこの講義をするのではない。もちろん、この僕の講義を聞いてくれた学生の間に、科学史に関心をもつようになり、科学史の専門家になりたいという学生が育ってくれれば、その事自体はうれしいことには違いないのだけれども、このクラスの目的は全くそこにはない。」(p.97)「『この時代(暗黒の中世)は、もうどうしようもなくキリスト教が支配していて、抑圧されて真理なんて何もない、自然科学なんて何もないひどい時代だ。で古代はまだましだった。近代はすばらしい、古代と近代と比べて点数をつけをしたらどっちがいいだろうか、古代の人はこれをやっていた。われわれもこれをやっている。古代の人はこれはやっていなかった、われわれはこれをやっている。じゃ、やっぱりわれわれのほうがすごいな』というのが啓蒙主義の歴史観なのです。そういう接し方ではなくて、過去には過去の、ある一つのコンテクストがあって、このコンテクストの中で人々はなにを考え、何を見て、どういうふうに理解し、行動したのかということを、できるだけ、その中に入って考えようとする。ちょうど、文化人類学者のように。」(p.99)「士族の割合が50パーセントを越えているのは(東京大学で)工学系だけなのです。」(p.110)「あんた(日高敏隆)、国立大学の先生として恥ずかしくないかい?サラリーは税金でしょ?研究費も税金でしょ?それで蝶々がとどんなふうに飛ぶかなんていうことをやっていて恥ずかしくないかい?ー100メートルのオープンスペースを飛び越せない。」(p.113)「ゲーテ:考える人間にとってもっとも素晴らしい喜びは、理解できるものを理解しつくすことである。しかし、理解できないものの前に静かに跪くことでもある。」(p.117)「ラウダミルク:第十一戒の提案『汝、聖なる大地を、忠実なしもべ(steward)として神より相続し、世代を継いでその資源と生み出す力をもって守るべし。汝、沃野を浸食から守り、湖川を枯渇から守り、森林を後輩から守り、丘の緑を過放牧から守るべし。そうすれば、汝らの子孫また永久に豊かたるべし。もし、汝らこの大地の僕たることを得ずんば、沃野は、不毛の石の原野、不毛の谷となり、汝らの子孫の殖ゆること能わず。貧困のうちにこの大地のもとより姿を消すにいたらん』」(p.131)
(2019.8.28)
- “Open and Distance Education Theory Revisited - Implication for the Digital Era”, edited by Insung Jung, Springer Briefs in Open and Distance Education, Springer (ISBN 978-981-13-7739-6, 2019)
日本数学会(MSJ)の Symposium on Data Science Education で「教養としてのデータ・サイエンス教育〜Moocs の活用を視野に入れて〜」の表題で講演することになり、Open and Distance Education (ODE) の枠組みで、MOOCs について確認しておくべきだと考えて、手にとった。Editor は、個人的にもよく知る ICU の同僚である。個人的には、OCW の流れから、MOOCs に 2012年に出会ったが、それは殆どが、xMOOCs に分類されるもので、いまは、cMOOCs とも言われる最初のコースは、2008年であることも初めて知った。感想として、2012年からはじまった xMOOCs について様々な特徴や、OCW との関連での研究がほとんど認められなかったこと。教育学の中での議論で、実験系を含む自然科学や、最近非常によく利用されている、医学・看護学系、技術習得のための MOOCs などその広がりと、それぞれに適した、ODE についての、個別分野の議論がなかったことは、残念であった。University of Leads など、様々なレベルでの、ODE の提供を試行している大学など、組織としての動きもほとんど認められなかった。しかし、ODE の枠組みでは、教育一般について、大学で教えてきたものとして、心配になったり、考えてきたことが、適切にまとめられて、議論されていたことは、確かである。Revisited というタイトルの用語が示すように、年々進展している分野で、その分野の人達にとっても Update としての価値は十分あると思われる。Memorandam: ”Keyfactors: Openness, learner autonomy, dialogue, structure", "Emerging Theories: Connectivism, The community of inquiry model (CoI), An extended spatial model of e-education, A pedagogy-andragogy-heutagogy continuum", "The correct analogy for the mind is not a vessel that needs filling, but wood that needs igniting - no more - and then it motivates one towards originality and instills the desire for truth. On Listening to Lectures, by Plutarch", "Independent study", "Peters (2008) added that: “The Open University … became famous for its open entrance policy, its focus on teaching adults, and for its extraordinary success in producing more graduates than all other universities of the country put together” (p.277) - Open University in the YK (OUUK) 1969", "Three distinct variables: dialogue, structure, and autonomy (personal trait?). These variables are further affected by one’s sense of autonomy, and it is possible that a highly autonomous learner may not actually need a high level of dialogue to reduce TD (Transactional Distance)." (p.32), "Moore (1993): This definition to include the impact of dialogic exchange within a group that contribute to the construction of knowledge individually and within a group." (p.33), "Learner centered approach", "Structure increases then dialogue decreases", "SDG No.4: Ensure inclusive and equitable quality education and promote lifelong learning opportunities for all"「すべての人々に包摂的かつ公平で質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する」
(2019.9.7)
- “When Science Meets Religion”, Ian G. Barbour, HarperOne (ISBN 978-0-06-060381-6, 2000)
日本語訳はすでに読んでいたが、理解できない箇所が多かったため、原本を手にとった。「科学と宗教とわたしたちの未来」と題して、入門的な内容の講義をした。そのときにも、この枠組は利用したが、この書で議論されていることは、ずっと深く、非常に興味深い。宗教も、科学的認識も、世界観に影響されることは確かであること。科学が的知見が進んでも、専門化も進み、十分理解することは困難であること、そのなかで、ある世界観で、考える。とても困難な作業になっていると感じる。ましてや、多くの人が合意できるところには至れないだろう。理解できてはいないことと、正しさ以外の価値観を大切に、しかし、丁寧に思考していきたい。また、Ian G. Barbour の他の本を読んでみたい。村上陽一郎氏の本を何冊も読んだように。以下は、備忘録:"But Galileo introduced a qualification that opened the door to Conflict. He said that we should accept a literal interpretation of scripture unless a scientific theory that conflicts with it can be irrefutably demonstrated." (p.8) "In classical Christian thought, human beings were set apart from all other creatures, their unique status guaranteed by the immortality of the soul and the distinctiveness of human rationality and moral capacity. But in evolutionary theory humanity was treated as part of nature. No sharp line separated human and animal life, either in historical development or in present characteristics." (p.9) Religion beliefs offer a wider framework of meaning in which particular events can be contextualized." (p.14) "In the twentieth century, the Roman Catholic church and most of the mainline Protestant denominations have held that scripture is the human witness to the primary revelation that occured in the lives of the prophets and the life and person of Christ." (p.15) "I claim only that the architecture of the universe is consistent with the hypothesis that mind plays an essential role in its functioning." (p.30) "Theological doctorines must be consistent with the scientific evidence even if they are not directly implied by current scientific theories." (p.31) "The Newtonian outlook was deterministic in holding that, in principle, the future course of any system could be predicted from accurate knowledge of its present state. It was reducionistic in holding that the behaviour of a system is determined by the behavior of its smallest parts. And it was realistic in assuming that scienetific theories describe the world as it is in itself, apart from the invovement of the observer. All three of these assumptions have been challenged by quantum physics in the twentieth century." (p.66) "Heisenberg does not accept the Aristotelian idea that entities strive to attain a future purpose, but he does suggest that the probabilities of modern physics refer to tendencies in nature that include a range of possibilities. The futre is not simply unknown; it is 'not decided.'" (p.69) "He (Gould) rejects the attempts of sociobiologists to ground moral judgments in the adaptive value of moral behavior in evolultionary history. He points out that Darwinism has been misused to defend war, colonialism, ruthless economic competition, and eugenics." (p.100) "Peacocke write that 'the natural causal creative nexus of events is itself God's creative action.' He holds that processes of nature are inherently creative. This might be interpreted as a version of the idea that God designed a system of law and chance through which higher forms of life would slowly come into being, which would be a sophisticated from of deism. But Peacocke also says that God is 'at work continuously creating in and through the stuff of the world he had endowed with those very potentialities.'" (p.115) "There is not contrast between the body and the sould such as the terms instinctively suggest to us. Oscar Cullmann agrees, noting that 'the Jewish and Christian interpretation of creation excludes the whole Greek dualism of body and soul.'" (p.129) "Original sin is not an inheritance from Adam, then, but an acknowledgment that we are born into sinful social structures, such as those that perpetuate racism, oppression, and violence. Every group trend to absolutize iteself, blind to the rationalization of self-interest. Social injustice as well as indivisual greed is contraty to God's will." (p.134)
(2019.10.10)
- 「99%ありがとうーALSにも奪えないもの 99% THANK YOU… THINGS EVEN ALS CAN’T TAKE AWAY」藤田正裕(HIRO FUJITA)著、ポプラ社(ISBN978-4-591-13681-2, 2013.11.20)
ALS関連で三冊を借りたが、最初に読んだもの。ホームページ、ブログ などでも発信している。1979年11月30日生まれ、東京・ニュージャージー・チューリッヒ・ロンドン・東京・ハワイ・東京と移り住み、日本でも、アメリカン・スクールに通い、本人いわく90%英語、10%日本語の生活。2010年11月にALSと診断される。2013年1月気管切開、顔と、左手の人差し指しか動かないとある。2004年国際広告会社マッキャンエリクソン入社、アイトラッキングで週一日の出社と在宅勤務で仕事を続けている。青年時代までは、かなり豪放な生活をしていたようだが、ICUにも、似た学生はたくさんいるので、身近に感じた。治療方法が確立し治るまで戦い続ける姿勢を持っている。英語が小さく書かれているが、英語が原文のように思われるので、極力英語を記録する。以下は備忘録:「本当の仲間は、そいつの気が済んで振り返るときまで待って、笑顔で迎えてくれる。But a true friend will be there with a smile, when you turn around after you’re satisfied and done with whatever you needed to do...」(p.55)「正直にお互いの違いを認めて笑い合えてこそ、本当の平等があると思う。国連のコンセプトでもいいぐらいだ。True equality can only exist when we can accept our differences and laugh about it. This should even be the concept for the U.N.」(p.60-1)「(小さな13歳の女の子が、腕をサメに食いちぎられて言った言葉)他の人じゃなくて私で良かった。I’m glad it was me and not anybody else.」(p.68)「『サービス業に間違いは付き物。それをどうフォローするかが勝負』生きるってそういうことだと思う。"Mistakes are part of the service industry."」(p.69)「ゆっくり全身麻痺になり死ぬ。そして治療薬はない。Your body will slowly become paralized and you will die. There is no cure.」(p.101)「死ぬための思い出づくりや準備をするつもりはない。I don’t plan on making memories or preparing myself to die.」(p.104)「松岡修造:(弱気になって泣いている小学生に向かって、松岡さんは目を充血させながら、ラケットを地面に叩きつけ、大声で)できるって言え! Say that you can do it! Say it!!」(p.106-7)「僕のトビー:パソコンを打つことが難しくなって、視線とまばたきで操作できるトビー社のアイトラッキングシステムを使い始めた。一言、素晴らしい。I started using the Tobii eye tracking system and it’s pretty much awesome. From surfing the Internet to making PowerPoint. Easy..」(p.115)「ある夜、中学時代の仲間たちと集まって飲んでた。一人に付き合ってくれと言って、外まで車椅子を押してもらった。みんなといたせいで気が高ぶっていたのかもしれない。外で大泣きした。するとそいつは少しも動かず、一言も話さず、10分ぐらい、ただ立って同じ方向を見ていた。そのとき一番必要としていた、最高のなぐさめだった。My buddy didn’t move an inch, and didn’t say a word. Just stood by me for about ten minutes, staring into the distance, in the same direction. It was one of the deepest and most heartfelt “words” of support that I needed to “hear” at that time...」(p.116)「『死』って人間のなかでもっともおおげさで、ドラマチックに捉えられているコンセプトなのかもしれない。これは残される人たちにとっては違うけど、ただ『逝く』人間にとってはとてもあっさりとしていて、シンプルだ。冷たくてドライ、悲しみもなく、恐れもない。ただ『死ぬんだ』という事実だけ。It’s hard to explain, but I did experience death a little bit. When I was slipping in-and-out of consciousness, I remember it was very cold and dry. There was no emotion, nothing was scary or sad, just the cold truth that I was dying. I now think that death is probably one of the most over-rated concepts. People have built it up to be something very dramatic. It may be so for the people who are left behind, but for the people who go, it’s plain and simple.」(p.121)「きっと『生』と『死』は紙一重なんだ。生きているからこそ、今こう思う。僕は生死の狭間で『死』を少し騙せたのかもしれない。There’s a fine line between living and dying. I’m still trying to settle these thoughts in my mind. I kind of feel that I cheated death. Since then I’ve been trying to cheat more out of life every day.」(p.122)「もし、途中で呼吸器をはずす選択肢が認められれば、ほぼ全員、気管切開するのではないでしょうか?ということは、今の法律、人を殺してませんか。もっと父親と『会話』したかった娘、母親の手を握ってあげたかった息子、この法律で無理な選択を迫られ、無念。法律、規制に化けている殺人、残酷すぎます。If we were given that option, to take it off, don’t you think about 100% of people would choose to try it out. If this is true, doesn’t this mean that the law is kicking people?」(p.136-7)「『迷惑をかけるのだけは恐れない!』ようにしてる。お許しを。"I’m not going to be afraid to be a burden." Sorry... I hope you can forgive me.」(p.149-50)「狂いそう:絶対、勝つ!って言いながら死んだ人どれぐらいいるの?奇跡は起きる!ってなくなった人にどんな奇跡がおきたの?絶対諦めない!って言いながら『もう殺してくれ』と祈る人はどれぐらい?俺なら耐えられる!って言って耐えられた人いるの? I’m gonna go crazy. “I’m gonna win!” How many people died saying that? “Miracles happen!” What miracle happened to the dead? “I’m not giving up” But how many people died begging for mercy? “I can handle this!” But I know not even the strongest can.」(p.160)「気づいた:『あなたはしゃべれるからって、しゃべりすぎ』不必要なことばが多い。『あなたは動けるからって、動きすぎ』不快感を感じるのが早すぎる体。『あなたは食べすぎ、飲みすぎ、快感を求めすぎ、そして文句言いすぎ』僕もそうできるのが楽しみ。それが『生きる』だからね。I notice… “You talk too much … because you can.” Too many unnecessary words. “You move too much … because you can.” Because your bodies are too quick to find discomfort. “You eat too much, drink too much, and pleasure yourself too much and then complain too much” I can’t wait to do the same because that’s living.」(p.169)「僕は夢を見る。毎日、考える。『治療法が見つかったよ!』って言っている、100通のメールや、100個のフェイスブックの投稿があったらどうしよう、って。ま・い・に・ち、欠かさず。いつかきっと、あなたのメールから、僕の人生は変わるだろう。I DREAM. Every day, I think, what if, I have 100 emails, 100 posts on Facebook, etc. all trying to notify me that a cure has been discovered! EVERY-SINGLE-DAY.. One day I’m sure, my life will change… from your emails.」(p.172-3)「一秒も休んでない。人に一番伝えにくい、わかってもらえにくいことは、『毎秒』戦っているということ。毎日神経が張っている。毎秒。Not 1 second. What’s most difficult to explain and for people to understand is that my fight is constant. It’s every second. I’m tense, every second of every day.」(p.186-7)「常に死にたいと思う、そして生きたいと思う。その繰り返し。それが闘い。I constantly have the desire to die, then the desire to live. It’s an eternal cycle. And that’s the battle.」(p.192)「4歳の甥っ子が来た。お盆だからと、2階にある仏壇に向かった。小さい手を合わせて『ヒロが早くなおりますように』といったら、その後、1階にいる自分に、『かみしゃまが、ヒロもうすぐ治るっていってたよ。』と。嬉しくて、悔しくて、涙が止まらなかた。そしたら『あっ、ヒロ泣いてる』だって。オメーのせいだよ。いつもオマエのそばにいるからな。My 4 year old nephew came over. He went upstairs to our family altar to pray, cus it’s “Obon,” an ancestral holiday in Japan. He put his little hands together and apparently said “Please let Hiro get better.” Then he came downstairs to me, “My God said you’re going to get better soon.” It was so happy and so ... angry, that tears overflowed and kept pouring. It’s your fault, you punk-ass.. I’m always behind you buddy.」(p.200)
(2019.10.11)
- 「科学者はなぜ神を信じるのかーコペルニクスからホーキングまで」三田一郎著、ブルーバックス B-2061、講談社(ISBN978-4-06-512050-7, 2018.6.20)
「科学者はなぜ神を信じるのか」というタイトルで、BLUE BACKS にあるとなれば、手にする人も多いと思い、内容を知っておくべきぐらいの気持ちで手にとった。著者は、素粒子の物理学者で、カトリックの助祭でもあるかたで、内容は、秀逸である。このタイトルでの推薦図書を聞かれたら、現時点では、躊躇なく、この本を第一とするだろう。Biblical Literalism(聖書絶対主義とは正確には異なるが)は、現在は熱心な保守的な福音派に多いとされるが、本書では、ルターや、カトリックにおいても、この傾向から、結果的にではあるが、過ちを犯しているという指摘もあり、非常に冷静である。科学的知見に対して、宗教界が是非についてコメントすることについても、いずれの場合も、冷静であるべきとの態度をしっかり持っておられる。最後に、ご本人の考えとして、法則こそが神の定めたものという部分は、おそらく、わたしが十分受け取れていないのだろうが、割り切り過ぎな感じを受ける。しかし、一つの表現なのかもしれない。できれば、話してみたいものである。このあとにつづく、わたしたちの未来について。以下は備忘録。「オッカム(1285-1349)の剃刀:ある事柄を説明するために、必要以上に多くを仮定するべきではない。」(p.53)「カトリックの後ろ盾となっている天動説を、プロテスタントのルターが擁護するのは不思議な気がします。これは、ルターが教会の権威化と堕落を批判して、神の言葉である聖書の文言のみに従おうとする聖書絶対主義を掲げたいたからでした。」(p.58)「コペルニクスには、敬愛する神はどのような宇宙を創ったのかを少しでも、知りたいという純粋な欲求がありました。彼の神への思いは、神が創った宇宙に複雑な仮定が入り込むことを許しませんでした。宇宙はもっと美しいものであるはずだ。この確信が、地動説を生む原動力となったのです。」(p.61)「オジアンダーの前書きは、コペルニクスの思いをあまりにも矮小化するものでした。しかし、皮肉なことにこの前書きのおかげで、出版された『天球の回転』はを教会は『計算のための方便』と考えて、ことさら問題視はしませんでした。」(p.62)「ガリレイ(複数形『家』)ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)」(p.64)「哲学は、宇宙という壮大な書物のなかに書かれている。この書物は、いつもわれわれの前に開かれている。しかし、まずその言葉を学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することはできない。それは数学の言葉で書かれているのであって、その文字は、三角形、円、その他の幾何学的図形である。これらなしには、人間はその一部たりとも理解することはできない。これらなにしは、人は暗い迷宮のなかをさまようばかりである。」(p.78)「本:『ガリレオ裁判ー400年後の真実』」(p.80)「火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600):地球が宇宙の中心でないばかりか、太陽もその中心ではない。この宇宙は無数の宇宙からできている。そして神はこの無限の内にある。変わらないものは何もなく、すべては相対的な存在で、常に変化している。したがって、人間が宇宙で特別の価値がある存在ではありえない。『私よりも宣告を申し渡したあなたのほうが、真理の前に恐怖に震えているじゃないか』」(p.84-85)「卓越した物理学者としての直感と、種々の方法を実際に編み出したガリレオは、なぜ太陽だけが、当時知られていた、いわば天文体系としての世界の中心として機能するかを理解していた。地球が中心であることを主張したときの、当時の神学者たちの誤りは、物理的世界の構造についての私たちの理解が、ある意味で聖書の文字通りの意味によって決められている、と考えたことだった。」(p.93)「ガリレオ:聖書と自然はともに神の言葉から生じたもので、前者は聖霊が述べたものであり、後者は神の命令の忠実な執行者である。二つの真理が対立しあうことはありえない。したがって、必然的な証明によってわれわれが確信した自然科学的結論を一致するように、聖書の章句の真の意味を見出すことは注釈者の任務である。」(p.94)「教皇ピウス(1950年8月12日):進化論の教説に関して、それが人間の身体の起源をそれ以前に存在していた生物から生じたとして探求する理論であるかぎりにおいて、研究と議論が行われることを禁じてはいません。というのも、カトリックの信仰は人間の霊魂が天主によって直接に創造されることを信じるよう命じるからです。」(p.96)「宇宙全体を『地』科学では不可解な霊魂などにかかわるところなのが『天』であるなら、『創世記』の天地創造の記述は、『初めに、神は天国と宇宙を創造された』という読み方をすべきだるということになります。」(p.99)「ヨハネス・ケプラー(1571-1630)科学の最終目的は、人間を神に近づかせることである。天文学者は自然の聖書をもとに、神に仕える牧師である。幾何学は唯一永遠の学問であり、神の考えを写す鏡である。私は神学者になりたかった。だが私の発見により天文学を通して神に栄光が与えられた。」(p.110)「同じ初期条件さえ与えれば必ず同じ結果が起きる空間と時間を、ニュートンは『絶対空間』『絶対時間』と名付けました。われわれはそのような空間と時間を生きているーこれがニュートンが確立した『ニュートンの力学』の基本となる考え方です。」(p.121)「神学者としてのニュートンは三位一体を否定する『ユニテリアン』という一派にいました。ローマ・カトリック教会全盛の時代であれば異端とされて、どんな扱いを受けたかわからないところですが、イギリスにはすでに、さほど教義に厳格ではないイングランド国教会がカトリック教会と袂をわかって成立していました。このことは、ニュートンにとって、信仰の面でも科学の研究の面でも、幸いだったのかもしれません。」(p.124)「ニュートン:(模型を誰が作ったかと食い下がる無神論者に)これは偉大な太陽系を模して作った、単なる模型だ。この模型が設計者も制作者もなく、ひとりでにできたと言っても、君は信じない。ところが君はふだん、本物の偉大な太陽系が、設計者も制作者もなく出現したと言う。いったいどうしたら、そんな不統一な結論になるのかね?」(p.126)「私は浜辺で遊ぶ少年のようなものだ。ときどき、滑らかな小石や可愛い貝殻を見つけて遊んでいる。その一方で、真実の偉大な海はすべて未知のままに私の前に広がっている。」(p.128)「『スピノザの世界ー神あるいは自然』上野修、講談社現代新書」(p.145)「ジョルジュ・ルメール(1894-1966):聖書の執筆者はみな『人間の救済』という問題についてなんらかの答えを得ていた。しかし、それ以外の問題については、彼らの同時代人たちと同程度に賢明、あるいは無知だった。だから、聖書に歴史的・科学的な誤りがあるとしても、それは何の意味もない。不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれにあたえられたのかを正しく理解していない人が陥る誤解である。」(p.167)「キリスト教の創造や神の概念は、仏教とは違う。その違う面を理屈の上でなんとか一緒にしようという努力がすべて無駄であるとは言えないが、それよりも、違いにこだわらずに棚上げして、合致するところを尊重して世界の苦しんでいる人々のために前進していくべきだ。」(p.172)「ニールス・ボーア(1885-1962):自然がいかにあるかを見出すことが物理学の任務であること考えることは、誤りである。物理学とは、われわれが自然について何を言いうるかに関するものである。」(p.207)「ポール・ディラック(1902-1984):基本的な自然を理解させる基本的な物理法則は、偉大な人力をもつ数理的な理論によって記述されている。それを理解するためには、かなり高いレベルの数学が必要と考えられる。なぜ自然はこのように創られているのだろうかと、あなたは疑問におもうかもしれない。しかし私たちは、単にそれを受け入れなければならない。それは次のように説明できるかもしれない。神はきわめて高度な数学者であり、彼は宇宙の構築に、この非常に高度な数学を用いたのだ、と。われわれの微妙な数学の試みは、われわれが宇宙を少しだけ理解することを可能にする。そして、より高次の数学を発展させることで、宇宙をより理解することを望むことができる。」(p.221)「スティーブン・ホーキング(1942-2018):私が語ったことを教皇がご存じなかったのには、ほっとしたよ。私はガリレオと同じような運命をたどりたくはないからね。」(p.234)「ホーキング:宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。宇宙はただ単に存在するのである。だとすると、創造主の出番はどこにあるのだろう?」(p.237)「ホーキング:なぜわれわれと宇宙は存在するのだろうか。もしそれに対する答えが見出せれば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう。なぜならそのとき、神の心をわれわれは知るのだから。」(p.247)「ジョン・ホール司祭長:(ホーキングがウエストミンスター寺院に埋葬されることになったことに関して)われわれは生命と宇宙の大きな謎に対する回答の探求のために、科学と宗教がともに、活動することが重要だと考えている。」(p.250)「私自身は、科学法則の創造者を『神』と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在することだ、と考えるのです。」(p.259)
(2019.10.13)
- 「『超』入門 相対性理論ーアインシュタインは何を考えたのか」福江純著、BLUE BACKS B2087、講談社.(ISBN978-4-06-514908-9, 2019.2.20)
著者は大阪教育大学の教員で私が出席した最後の人事の委員会で採用が決まったと覚えている。大和書房「アインシュタインの宿題」が元本、それにマンガ・図版に加筆修正をほどこしたものである。アインシュタインの言葉を、各章の最初に書き、内容を説明していく。感激は多くはなかったが、丁寧に書かれている。福江さんという人物についても、多少知ることができたように思う。以下は、備忘録:「主なる神は老獪だが、意地悪じゃない。この言葉の意味するところは、自然が自らの秘密を隠すのはあくまでも自然の本質的な高貴さによるものであって、策略(意地悪)によるものではないと伝えられている。」(p.5)「もしも高速で光を追いかけたなら、私の眼の前には時間とは独立な『絶対静止の』波動場があるのであろうか。」(p.25)「マックスウェルの方程式を言葉で表すと:1. 電荷のまわりには、他の電荷に影響を与える力の場(電場)が存在する。2. (単独の磁荷は存在しないが)磁極の間には磁気の場(磁場)ば存在する。3. 電荷が移動して電流が流れると、そのまわりに磁場が生まれる(アンペアの法則)。4. 磁場が変化すると電流が生じる(ファラデーの電磁誘導の法則)」(p.35)「この光を伝える仮想的な媒質は当時『エーテル』と呼ばれていた。ちなみに、『エーテル』というのは、ギリシャの自然哲学で、地上のものを作っていると考えられていた空気・土・火・水という4大元素に対し、天界を満たしていると考えられていた5番目の元素につけられていた名前である。」(p.38)「実は、この根本的な質問には、ニュートン自身も含め、誰ひとりとして答えていないのだ。重力が『どのように働くか』は知っているのだが『なぜ働くか』は知らないのである。そう、光と同じく重力も『どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんなしっている』というたぐいの者で、実のところ重力の正体は誰も知らないのだ。」(p.50)「光も自由落下する」(p.58)「量子力学は大いに尊敬します。ところが、内なる声が、これは本当のヤコブではないと告げるのです。この理論は多くのものをもたらしますが、神の秘密にはさっぱり近づけません。いずれにしても、神はサイコロ遊びをしないと確信しています。」(p.63)「正常なおとなは決して時空の問題で頭を悩ませたりしない。正常なおとなの意見では、考えるべきことはすべて、小さな子どもだったころにすでに考えてしまっているのだ。私ときたらこれとは反対に、成長があまりにも遅かったので、大きくなってしまってからやっと空間と時間について不思議に思いはじめた。その結果、普通の子どもならしないくらい深く、この問題を探ることになったのである。」(p.80)「原子の力を解き放ったことで、私たちの思考様式を除いて、なにもかもが変わってしまった。かくして、私たちは前例のない破局に向かってふらふらと流れていく。」(p.119)「しかも、太陽や星の中心で起こっている核融合反応は、きわめて安定に持続している。もし、中心の核融合反応が暴走しかけて、温度がカーッと熱くなると、圧力が上昇して中心部分が膨張するだろう。その結果、中心は、断熱膨張で温度が下がって、反応が下火になる。逆に、温度が下がりすぎると、圧力が減少して中心部分が収縮し、その結果、断熱圧縮で温度が上がって、反応を盛り返すのである。便利な仕組みになっている。」(p.137)「場の方程式は宇宙構造の中心対称的な解として、静的なものだけでなく動的なもの(すなわち時間に関して変動するもの)も許すことが明らかになった。」(p.193)「世界について最も理解できないことは、世界が理解できるということだ。」(p.221)
(2019.10.15)
- 「生きる力―神経難病ALS患者たちからのメッセージ 」生きる力編集委員会編、岩波ブックレットNo.689、岩波書店(ISBN4-00-009389-4, 2006.11.28)
筋萎縮側索硬化症の患者さん(とその家族)からのメッセージである。この病気にかかっている友人を訪ねる旅の途中で読んだ。すべての筋肉が衰えていくということは、肉体が死んでいくとも言える状況であるが、脳は問題なく働いている。そのときの、ひとの姿は、非常に前向きで、すばらしい。そして、それを支える人たちの描写がまた秀逸である。そして私はどんなときに涙するのだろうと考えてしまうほど、何回も泣いた。いつもは、筋肉(体)に頼ってしまって、たいせつなことは考えないからだろうかと、考えてしまう。ここにメッセージを寄せた人が特別だとは、思えない。正直、『新しいALS感』『新しい命感』を考えさせられる驚きの記録である。以下は備忘録。「大変過酷な言い方ですが、ALSになったら手足、舌、喉、肋間と横隔膜の筋肉がだんだん痩せていき、しだいに手足が動かなくなっていき、食べ物の飲み込みがむずかしくなり、呂律もまわらなくなって、やがて寝たきりになって話すことも食べることも、呼吸もできなくなって、人工呼吸器が必要になる。これは厳然たる事実であり、現実であります。」(p.30)「最後には精神科を紹介され『うつ病です』といわれました(不思議なことに神経内科に行きなさいとは誰にも言われなかった。また、これだけ悩めば、うつ病にならないほうがおかしい。)」(p.34)「私は人工呼吸器をつけて延命措置を施してもらったとき、今後は呼吸器をつけての生活のなかで目標、目的を持って生きたいと考えていました。これからも『朝に希望、昼に努力、夜に感謝』をモットーに『行動せよ、しかる後に考えよ』を座右の銘として進みたいと思っております。」(p.41)「障害は不便ではあっても不幸ではない。」(p.46)「最近、私には、『難病患者』、『病人』という意識はなくなり、どちらかというと『障害者』との気持ちをもっています。これは、呼吸器をつけたおかげかもしれません。」(p.57)「とりあえず住宅金融公庫の窓口へ行き、重度身体障害者になった場合、何か制度的なものはありませんか、とたずねました。ところが、担当者は『困っているのは、あなただけではありません』と話を聞こうともしません。私と妻はあきらめて家に帰り、やはり手放すしかないかと、手もとの書類を読み返したところ、団体生命保険の書類が目につきました。読んだ瞬間、救われた、でも、やはり治らない病気なのか、と複雑な気持ちでした。高度障害は死亡と同じ扱いで、保険会社が支払うということでした。早速、手続きを終えました。住宅金融公庫の担当者はこのことは知っているはずですが、その不親切には残念でなりません。」(p.62)「私は手続きのことは、だれにも教わったわけではありません。医療保険、雇用保険、障害年金のことは、前もって調べていましたので多少の知識はありました。家族の生活を守るのに必死でした。しかし、保険関係、とくにローン保険の知識はありませんでした。前もってアドバイスを受けていれば、心労がひとつ減ったのは確かです。こんな思いをしたのは、私だけではないでしょう。」(p.63)「ALSで呼吸器をつけると『長時間・長期間』の介護ですから、患者は介護者(ホームヘルパー)を思いやり、介護者は患者を思いやり、お互い思いやりながら歩み寄らないと楽しい在宅療養生活をできないと思います。しかし、ALSを理解してくださる介護者が少ないのが悩みです。」(p.72)「私たちには三人の子どもがいるのですが、小学生の末娘がある日『お父さんが病気になって動けないし、話せなくなったことはつらいけれど、学校から帰ってきて「ただいま」って家に入ったら、いつでもお父さんがいてくれるのが嬉しい』と言った言葉がいまでも忘れられません。」(p.75)「二年前に夫は亡くなりましたが、私たち家族にたくさんのことを残していってくれました。それは『人にたいして思いやる気持ち』と『感謝の気持ち』です。これはALSという病気を通していろんなかたと出会い、教えてもらえたことだと思います。そして私にとって一番嬉しかったことは長男と末娘が『理学療法士』になりたいと言い出したことです。訪問リハビリに来ていただいていて理学療法士の先生と夫とのやりとりを見ていて『自分もお父さんみたいに苦しんでいる人たちのために役立つことができたらいいな』と考えていたようです。」(p.76)「私だけではない、私は独りじゃない、周りに助けてくれるひとがいる。助けようとしてくれる人たちが。そう思えるようになったとき、気持ちが少しずつ変わってきました。」(p.80)「思い悩んで、つらい思いをしたり、へこたれたり、後ろを振り返ったり、他人と比べてみたり。でも、立ち直り、前向きになったり、感謝したり、思いやったり。そういう気持ち、心は、決して失われない。」(p.81)「思うに希望とは、もともとあるともいえるし、ないともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(p.86)「吉田松陰:親思う子の心にまさる親心、今日の出来事いかに聞くらむ。」(p.88)「1.人と会うこと、2.人生の目標を根本から書き直すこと、3.患者にできることは何かを自分なりに模索すること、それは、人と人との架け橋になること、それは人を助け、人に助けられる人々をつなぐ架け橋。それは優しさの連鎖をつくること。」(p.89)「存在感を保つように」(p.93)「私は65歳、35年にわたってテレビ報道の分野で仕事をしてきました。戦争や紛争に関わる取材が多く、実に多数の人間が何の意味もなく爆撃や戦闘の砲火の中で殺され、略奪される実体を見てきました。また、その取材中に、私の同僚や多くの友人たちが命を落としているのです。そんな彼らのためにも、この世界が、この先21世紀にはどうなって行くのかを見届ける義務があると思ったのでした。久しぶりにこの夜は生きるためにと、胸が熱くなった夜となりました。しかしこの決断は、長い公務員生活を退職し、これから第二の人生を楽しむ予定だった矢先の妻にとってはとんでもない事件で、夢を壊してしまい本当に申し訳なく思いました。」(p.100)「二つの転機:一度目は1945年8月15日、二度目がALSとの出会いの時でした。この病は身体の機能を奪い、仕事も社会生活も奪い取る残酷なものですが、決して恐ろしい病気ではありません。心や精神の自由は侵されませんでしたし、むしろ『生きる力』に試練を与えてくれました。障害者や社会的弱者の観点に立って、認識や発想をむしろ改めねばと思うようになりました。」(p.103)「お父さんが死んでしまったら、残った家族は幸せになれない。どんなことをしても生きていてほしい。」(p.106)「あなたは一家のあるじなのよ。もっと介護者の気持ちも考えて、介護し甲斐のある人になってよ!」(p.109)「人間(私たち難病患者)は死ぬにも勇気がいるが、いきるにはもっと勇気がいります。生きていればつらいときも多々あると思いますが、頑張って生きていたら楽しいこととか嬉しいことが、きっといっぱいあると思います。みなさん、これからもお互い挫けずに頑張りましょう。」(p.117)「『筋力低下』だが、『思考力低下』ではない。自由に考えることができてたっぷりの時間が与えられる。なんとありがたいことでしょう。」(p.126)「『照る日かげる日』全人類にとってALSは『神からの贈り物』かもしれないと思うことがあり、これからの心の持ち方(プラス思考)を教えてくれた。」(p.132)「つい最近まで、No cause, No cure, No hope」(p.133)「人工呼吸器=わたしの体の一部・わたしの友だち」(p.133)「『医の倫理』明らかに生命を助ける手段がある時には助け、生命を大切にして与えられた生命を精一杯行き亭k留用に考えていく」(p.134)
(2019.10.18)
- 「CARE BOOK ケアブック ALS(筋萎縮性側索硬化症)」日本ALS協会編(ISBN4-930909-91-0, 2000.8 改訂新版)
ALS についての、説明が最初にあるが、まさに、ケアに特化した、非常に丁寧に書かれている本である。体験談からの、助言も含まれている。現在は、第二版が出ている(進展もあるのでこれから読む場合は最新版をお勧めする)。内容は、次の、目次から読み取ることができる。第1章 ALSについて 第2章 精神・心理面における問題 第3章 嚥下障害について 第4章 呼吸障害について 第5章 コミュニケーションについて 第6章 リハビリテーション 第7章 日常生活の工夫 第8章 在宅療養の実際(実例報告などの寄稿) 第9章 生活援助の社会資源 以下は備忘録:「A: Anytime and Anywhere, L: Love and Light, S: Support and Sympathy(いつも愛と支えをALSに!)」(p.2)「この10年で変わったこと:患者さんが生きてゆこうとされる上のサポート態勢が向上したことです。人はひとりでは生きられません。共に生きること。支え合うことの幸せを教えられる思いです。」(p.5)「この頃は、真実を知りたい欲求と、それとは逆の気持ちが複雑に交錯する時期であり、患者さんの心理状態をふまえ、告知のタイミングを計る重要な時期でもあります。これまでの経験では、患者さんの体力的・精神的な余力のある “早い時期” に病気の告知を行い、その後の生活設計や闘病生活の相談に応じるのが一番良い結果に結びついているようです。」(p.29)「E. キューブラー・ロス(1)否認(2)怒り(3)取引(4)抑うつ(5)受容、『受容の先につながる「ALSと闘う」といったより積極的な心理状態がしばしば認められます。』」(p.30)「気丈で感情の切り替えも早いこの患者さんのような場合ばかりではなく、告知が困難な例も少なからず存在することも確かです。それでも、特別の高齢者を除き、原則告知をしてから医療を進めるのが今の私たちの方針となっています。今後の人生をどう生きるか、自分の人生の総決算をどうするか、それを、決まられるのは患者さん自身以外にはないからです。」(p.32)「Q. この病気に、患者はどういう心構えで取り組めばよいのでしょう。病気に負けてしまいそうですが、負けない生き方があるのでしょうか。A. 希望を持ち続け、決してもう駄目だとあきらめないことです。そして、どんな状態であっても、一日一日を楽しみながら精一杯生きるという気持ちは何より大切です。そうした前向きの姿勢は、自分の人生を素直に受け入れ、大きな変化にも対応できる心の安心につながりますし、家族や友人にも力を合わせて頑張ろうという励ましを与えることになります。(中略)ALSが人間を死に至らしめるのは、呼吸不全、栄養障害と感染症などの合併症の三つが主な原因とされています。これらを人工呼吸器の使用や経管栄養などで医学的にコントロールすることができれば、あきらめや絶望から自ら土俵を割らないかぎり、ALSといえども、簡単に人間を倒すことはできないのです。ALSと四つ相撲をしながら “ALSに負けない状態” と仮に呼ぶことができるでしょう。この期間をいかに充実して生きるか、いかに延長できるかが問題です。そんな状態はとても耐えられないという人もいるでしょうが、生きる目標をかかげ、人生を楽しみ、堂々とALSに挑戦し続けている患者さんが次々全国で生まれてきているのです。」(p.35-36)「在宅人工呼吸療養(Home mechanical ventilation = HMV)の意義:1. 長期人工呼吸依存患者の自己実現の選択肢を広げる 2. 牽引性のある在宅ケアモデルとなる。3. 呼吸ケアテクノロジーの完成度を計る指標となる。4. 社会の豊かさと成熟度を測る指標となる。5. 『障害と疾病』を背負う人生の意味への問いかけとなる。」(p.63)「ALSでは、どの随意筋群が障害されやすいのか、また障害されにくいのかを知っておくことが大事」(p.111)「頻度は少ないが、すべての随意筋群が麻痺してコミュニケーションが極めてとりくにい状態 (totally locked-in state (TLS)) がおこりうることもわかってきました。」(p.117)「にこにこ いそいそ 呼べば答えて腰軽く(介護人の理想像であり、介護人のモットー)」(p.226)
(2019.10.21)
- 「佐藤文隆先生の量子論ー干渉実験・量子もつれ・解釈問題」佐藤文隆著、BLUE BACKS B-2032 講談社(ISBN978-4-502032-6, 2017.9.20)
量子物理学による科学的認識の問題に興味があり、この本を手に取った。まさにそのことを中心に論じた本ではあるが、十分理解できたとは言えない。おそらく、綺麗には、説明できないのだろう。J.A. Wheeler の絵と言葉を最初に掲げ、それを解いていくところから始めているが、Wheeler は、著者との個人的な関係も深く、その追悼文も含まれている。最近の進展として、いくつかの実験について説明しているが、その部分が本当に基本的な、マッハ・ツェンダー干渉計の部分以外は、KYKS, HOM, ZWM 実験いずれも十分理解できず、EPRエンタングルメントも、GHZ スピン三体エンタングルメントも十分消化できなかった。次に学ぶときには、もう少し理解したい。以下は備忘録。「“Quantum mechanics evidences that there is not such thing as mere ‘observer (or register) of reality.’ The observing equipment, the registering device, ‘participates in the defining of reality.’ In this sense the universe does not sit ‘out there’” 量子力学は『実在の単なる観測者(傍観者)』などでないことを示している。観測装置が『実在の定義に介在』するのだ。この意味で宇宙がボソッとそこに座っているのではない。J. A. Wheeler “Beyond the Black Hole”」(p.17)「測定値に必ず不確定性が伴うというハイゼンベルグの不確定性原理は、人が介在すれば対象を制御できずに乱す必然性を明らかにしている。プランクの作用量子は、この擾乱(乱すこと)の大きさを表しているのだ。」(p.19)「黙って計算しろ!(Shut up and Calculate!)」(p.56)「If, without in any way disturbing a system, we can predict with certainty (i.e., with probability equal to unity) the value of a physical quantity, then there exists an element of physical reality corresponding to this physical quantity. 系をいささかも乱すことがなく、確実に(すなわち1の確率で)物理量の値を決定するならば、この物理量に対応する物理的実在の一部が存在する。(EPR 1935)」(p.148)「1. 観測者と観測者が持つ知識とは無関係に実在がある。2. 測定(観測)の概念は理論において基本の役割を果たさない。3. 理論は、集団だけでなく、個々のシステムを記述できる。4. 周辺外部から孤立した存在を想定できる。5. 孤立したシステムに作用しても、離れたものに影響はない。6. 客観的確率が存在する。量子力学の実験では、項目1と項目2は『シュレーディンガーの猫』や『状況依存性』によって、項目4,項目5はエンタングルによって、一見したところ破綻している。2012年のノーベル賞で顕彰された進展は項目3をクリアしている印象を受ける、(中略)テクノロジーの進展は項目3と項目6のイメージを変え、量子力学も『対処論』の一つと見なすことを促している。」(p.150)「計算問題の正答は一つだが、誤答の種類は無数にあるように、個人により『思い込み』の種類は違っていて無数にある。だからこういうモヤモヤの考察は、自分の『思い込み』を自覚する、自分との格闘なのである。」(p.190)「ファインマンは量子現象を『説明(explain)できないが、宣べ伝える(tell)ことはできる』として『パラドックスは、こうあるべきだとするあなたの実在に対する思い込みと実在の間の衝突に過ぎない。(The “paradox” is only a conflict between reality and your feeling of what reality “ought to be")』」(p.200)「現在、人間を含む自然に関する知識を科学は専一的に支配し、それが人々の生活に影響を与えるために、社会に様々な曲面で軋轢も生じている。『無知の連中に何がわかる!』も現実であるが、このギャップは民主主義の展開にとっての一つの課題である。『自然という実在に従う』という拠り所を外した途端、『知識』探しは浮遊を始めるだろうが、このなかで科学という知識探しの公共性が改めて問われてくるのであろう。」(p.208)
(2019.10.22)
- 「2つの粒子で世界がわかる-量子力学絡みた物質の力」森弘之著、BLUE BACKS B-2096 講談社(ISBN978-4-516041-1, 2019.5.20)
著者は首都大学東京の物理学の教授で物性理論、特に冷却原子の理論研究をしている。タイトルからは内容がわからなかったが、粒子を、ボーズ粒子とフェルミ粒子について分けて、特に物性面から、説明している。量子力学による科学的認識の変化、新たな視点に興味をもって、入門書を探していたが、同時に、ミクロの世界とマクロの世界をつなぐ現象、統計力学の問題などに興味があった。意図していた本ではなかったが、楽しくすらすらと読むことができた。難しいところは避けている面は否めないが、説明はうまいと思う。もう少し、難しい本に進みたかったが、より深い理論に興味を持ってほしいとはあったが、次のステップとしての参考図書などは、示されていなかった。いつか、時間をみつけて、ファインマンの教科書でも勉強するか、Moocs のコースを取ってみるかなどと考えた。殆ど最後に書かれている次の言葉が、おそらく、この書で伝えたかったことなのだろう。「一般的には、量子力学から導かれる結果はミクロな世界で当てはまるものの、目に見えるスケールでは成り立たないことが殆どです。なぜ大きなスケールでは量子力学がそのままで、適用できないのかは、昔からの難問であり、現在でも研究が進められている課題です。その中で、超伝導や超流動は数少ない例外であり、目で見て楽しめる貴重な量子現象です。そしてその根幹にはボーズ粒子とフェルミ粒子という分類が重要な役割を果たしているのです。読者のみなさんに、この分類がいかに物理学の理解を整理する上で欠かせない概念であるかを感じ取っていただだければ、本書の目的は達成されたかもしれません。」(p.218)感じ取ることはできたが、やはり、ボーズ粒子とフェルミ粒子、数個のオーダーまでのことで、専門家には、そして、説明には、重要な意味を持つことは理解できるが「世界がわかる」はいくら物性物理の世界とは言え、大げさすぎる。せめて、100個のフェルミ粒子からなる原子(別に原子でなくてもよいが)と997個のフェルミ粒子からなる同位体の原子では、この偶奇性により、物性的に大きな違いを持つというようなことが示されない限りは。以下は備忘録「物質を作り上げている粒子と、力を伝える粒子」(p.30)「変人たち:パウリは完璧主義者であり、わずかなミスも決して許さず、つねにエネルギッシュで破壊的な人物でした。(破壊的という意味が、二つの意味に使われているようで興味深い。「批判的言説」「(実験装置などを度々壊す)パウリ効果」)ディラックは寡黙な変人。人との接触を極端に嫌い、ノーベル賞受賞の一報を受けたときも、辞退しようとしたくらいです。『はい』『いいえ』『知りません』しか話さないとまでいわれたディラックを巡ってこんなジョークも作られました。『ノーベル賞受賞者のディラックをペラペラ話させることに成功したらノーベル賞だ』『1時間に1語話すことを1ディラックという単位で表そう』」(p.122)Paul Dirac がフロリダ州立大学いたころ、そこで物理学教室主任をしていた同僚からも、Dirac の話を聞いた話や、Illinois 大学の方が、ノーベル賞を二つとった、John Bardeen との交友関係を話してくださった頃、わたしは、全く知らなかったため、調べた記憶も蘇ってきた。(p.172-3 参照)
(2019.10.25)
- 「近代科学と聖俗革命ー新版」村上陽一郎著、新曜社.(ISBN4-7885-0802-8, 2002.7.5)
村上陽一郎氏の主著の一つだろう。初版は1976年。第一部 近代を分かつもの、第二部 近代的人間観の離陸、となっている。第一部は、著者の他の本でも書かれている内容を「聖俗革命」という視点から、近代を分かつものとして、学術的に、論拠を明確にして書かれている。このあとに書かれた本を何冊か読んでから読むと、わかりやすく書かれているとは言えない。第二部は、財団法人「余暇開発センター」による『余暇問題と関連諸科学に関する基礎的研究』というプロジェクトの研究成果の一部とのことである。(p.302) エピロークの終わりに著者は以下のように書いている。「本当の『西洋近代科学』とは、実は、もっとずっと豊富な可能性を秘めており、そうした近代主義的=啓蒙主義的な解釈を乗り越える手立てさえも、自らの中に十分内包しているとも言えるのである。」(p.289)著者の科学観でもあろうが、わたしは、個人的な思いが強すぎ、楽観的すぎるように思う。以下は備忘録。「『ところで、諸学の発見のために私が採る方法は、知力の鋭さと強さに頼ることは少く、知力や知性の優劣の差を、ほとんど無にしてしまうものである。たとえば、直線を引いたり、あるいは正円を描くにあたって、手だけを用いて行おうと思えば、手が確実でしかも熟練している必要があるが、定規やコンパスを用いれば、そうした必要はほとんどないか、皆無であるように、私の方法もそうした必要は皆無なのである。』(F.ベーコン、1561-1626)つまりこうした発想の示すところは、明らかに、知識を、神聖、特殊、特別な領域から、世俗、一般、普遍な領域へ引きずり下すことであり、この移行は、ベーコンの片言隻句が発せられたからといって、具体的に実現されたのではもちろんないが、しかもこの移行の過程こそ、知識における『聖俗革命』の最も大きな一歩であったと考えられる。したがって、バーリンの見解を続けて『(真理は)ただひとりの特権を授かった個人ー予言者、神秘家、錬金術師、形而上学者ーの直観のうちに捉えられるのか、あるいは人々の団体ー敬虔な信者の教団、一部族、一人種、一国家、一社会層の伝統、専門家の学会、あるいは特別な才能ある、または訓練を受けた選ばれた人びとーの集団意識のうちにであるか。それとも、逆に、その人が、汚れなく、誤った説教によって汚染されない限り、どの人の心にも、いつでもあるのだろうか。』」(p.22-23)「教会制度の基礎そのものを危うくしようとしたものは、ガリレイが告げ知らせた新しい真理概念に他ならなかった。啓示の真理と相並んで今や固有で本源的・自立的な自然の真理が出現した。この真理は、神の言葉のうちにではなく神の仕事のうち、神の作ったもののうちに現れる。それは、如何なる時にも、我々の眼に見える形で現れる。自然の真理は、普通の言葉によっては表されない。ただひとつそれにふさわしい表現は、数学的表記、にほかならない。だが、この表記によって自然は自らの完全な形式と整一的な完結性と完璧な明確さを我我に明らかにする。かくの如き明確さと透徹性、かくの如き一義性と精密さの域には、言葉による啓示は決して到達することができない。(カッシーラー(1874-1945))」(p.27-28)「聖俗革命には、大雑把に言って二つの段階がある。その第一は、知識を共有する人間の側の世俗化がそれであった。神の恩恵に照らされた人間だけが知識を担いうる、という原理から、すべての人間が等しく知識を担いうる、とう原理への転換である。F.ベーコンにその最も典型的な発想をみることができる。第二の段階は、知識の位置づけのための文脈の転換であった。神ー自然ー人間という文脈から、自然ー人間という文脈への変化がそれである。その変化の中で、科学と哲学とが、それぞれに独立するというプロセスが付随する。」(p.34)「ごく小さな一例として『デカルトは北オランダの孤独な生活に戻って哲学的瞑想にふけった。その同じ頃、あの偉大なガリレオは、80歳の高齢でありながら、地球の運動を証明したために宗教裁判所の獄舎で呻吟していた。』というガリレオについての一言を挙げてみれば、現代のわれわれは、こうしたガリレオ裁判の見方を採ることはできないし、逆に言えば、未だにこうしたガリレオ裁判に対する見方を打ち破ることの難しさ、言ってみれば、啓蒙主義的な『偏見』にゆがめられた歴史観から脱却することの難しさを今日感じさせられているのである。」(p.76)「インドの老師のことば:ただ、この精神的なものとは、人間が自然と呼ぶのを常としているものに限って考える必要はありません。けれども今日、人間は、たいていこの誤謬に陥っているのですが、この誤謬こそは、自分の小さな自我が究極的なものであり、いっさいのものを生み出さなければならず、何がそしていかにして、すべてものもがなされなければならないか、をひとり決定しうる責任のあるものだと人間が思うほど人間をうぬぼれさせるものなのです。この妄想はこの小さな人間的自我の途方もない膨張という結果になり、比類なき権力妄想になります。」(p.181)「シンガー:我々は、外的事象が特殊の神経症道をひきおこす機構を描くことができるし、また衝動の性質についていくらか知っており、衝動が神経をどのように伝わり、どのようにそれが脳に影響するかについて知っている。これらの一連の事象が、どのようにして我々が感じる何者かを生み出すのか、また、その何ものかが、どのようにしてわれわれに行動を起こさせるのか、これらのことについては、我々は、無知であるばかりでなく、我々が無知ではなくなることがあり得ると信じるのも難しい。」(p.206)「行動主義者が常にその前線に置く規則、もしくは測定の物差しは『今自分の見ているこの一つの行動を、”刺激と反応”の言語を使って記述できるであろうか』ということである。」(p.215)「ウォストニズム:I. 物理学との方法論的アナロジー。 II. 動物一般を記述する用語で人間をも記述する。III. 心理学の科学化、客観化。IV 暗箱主義ー意識なるものの認識的=存在論的否定ではない。(未知のXを、未知のXとして残しておくという態度)」(p.229)「アンリ・ユー:人格とは一つの歴史であり、つまりそれは自我の存在様式を一連の出来事につなぎ合わせる伝記として構成されるものである。だがこの自我の歴史性とは、自我に出来事を生み出させ、この出来事がまた自我を構成するというあの相互的発生(プラディーヌ)の中にある自我のことである。こうして人格の体系は自己に固有な世界の創造として発展し、自我は自己に固有な役割、人物の作者となる。そしてこのような役割、人物は他者に負うと共に他者に対するものでもある。」(p.268)「われわれの科学もまた、一枚岩ではなく、多様な可能性の重ね合わさった、極めて豊富な多岐にわたる複合体の一部である、という点をはっきり認識してみよう。言い換えれば、一枚岩としての近代科学、もしくはその延長としての一枚岩の現代科学などというものは一種の虚構にすぎないのであって、それは非合理的なもの、非論理的なものとの複合体として存在していることを認識してみよう。この認識が達成されれば、その『非合理的、非論理的』なものと思われているものの中に隠されているかもしれない未来の新しい可能性の芽を見出すことも、そして自らを規制する『合理性』という枠組みの、規制の限界を自覚することも、可能になるのではないだろうか。」(p.289)
(2019.11.10)
- 「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」キャッシー・オニール著、久保尚子訳、インターシフト(ISBN978-4-7726-9560-2, 2018.7.10)
Cathy O’Neil の”Weapons of Math Destruction” の訳である。著者は、数学の学位をハーバードでとり、バーナードカレッジでTenure をとってから、データ・サイエンスの道を歩んだ人。大量破壊兵器(Weapons of Mass Destruction (WMD))にかけて、数学モデルを利用(悪用・誤用)した、データ解析、AI 人工知能の問題を、すでに起こっていることを取り上げながら、批判している。AI により、Blackbox 化していることが、問題視されることはあるが、どのデータをどのように利用するか、どのような数学的モデルを利用するかなどは、AI を設計するときに、人間が行うことで、目的が、効率化、それによるお金儲けの場合、はかりにくい、公平性・平等性が犠牲となり、社会的な問題をひきおこすことを解いている。実際のデータを分析して見せているわけではないので、論理の飛躍を感じるが、最後につけた「本書の注」から丁寧にたどれば、ギャップを埋められそうである。AI やデータサイエンスと関わる倫理性が、わたしが現在考えている問題であるので、良い示唆をたくさん与えられた。わからないから、客観性がありそうだということで、単純に泣き寝入りしてはいけない、監査や、基準を議論し続ける組織など、いくつかの仕組みが必要であろう。Dual Use の問題だとも言える。以下は、備忘録。「私が心から愛した数学は、壮大な力をもつがゆえに、テクノロジーと結びついてカオスや災難を何倍にも増幅させた。いまや誰もが欠陥があったと認めるようなシステムに、高い効率性と規模拡大性を与えたのも数学だった。」(p.7-8)「モデルを作成する際、作り手は、最善の意図を込め、良かれと思って洗濯を重ねたかもしれない。それでもやはり、作り手の先入観、誤解、バイアス(偏見)はソフトウェアのコードに入り込むものだ。そうやって作られたソフトウエアシステムで、私たちの生活は管理されつつある。神々と同じで、こうした数理モデルは実体が見えにくい。」(p.9)「統計システムにはフィードバックがなければならない。統計学者はエラーを利用して自分達のモデルを育て、磨いていく。」(p.14)「人種差別主義者は、信頼できるデータの収集に時間をかけるようなことはしないため、偏見によって歪められたかれらのモデルが矯正されることもない。」(p.38)「不透明であること、規模拡大が可能であること、有害であること、この三つが数学破壊兵器の三大要素である。」(p.50)「異議を唱えた人びとは、テクノロジー嫌いの『ラッダイト(Luddite movement)』のように扱われた。」(p.78)「大学ランキングのおかげで、大学は設定された有意義な目標に向かって努力するようになった。卒業率が改善され、少人数クラスが実現されたなら、それは良いことではないのか。(US News & World Report ロバート・モールス)」(p.86)「ジョージ・ケリングとジェイムス・Q・ウイルソンが『割れ窓理論』に関する論文を発表して以来、反社会運動と犯罪の間には関連があるとする考え方が定説になっている。」(p.134)「数学破壊兵器は効率性を重視する傾向にある。その性質上、数えたり測定したりできるデータを重視する。しかし公平性というのは概念なので、捉えようがなく、定量化は難しい。」(p.146)「信頼も定量化するのは難しい。」(p.159)「数理モデルにデータの選別をさせると、犯罪、貧困、教育が原因で大きな問題に直面していると考えられる人を特定できる。この知能を、そうした人びとを拒否して叩くために使うのか、それとも、彼らに手を差し伸べ、不足している資源を届けるために使うのかは、社会に委ねられている。」(p.179)「予測不可能なスケジュールで働く親や通常時間外に勤務する親を持つ若年小児と思春期青年は、認知力と行動成績が通常より低い割合が高いと、EPI はいうが、多くの場合、労働者を不規則なスケジュールの仕事に追いやる貧困こそが、そして、苦しい状況にある家族をさらに苦しめるスケジューリングモデルこそが、問題の元凶である。」(p.195)「『危機に立つ国家』レポートの問題点」(p.205)「データ主義の先駆者。織物屋だったジョン・グラント小児の死亡率(1682)」(p.244)「米国人成人の約3分の2がフェイスブックにプロフィールを登録している。1日あたりの平均閲覧時間は39分。対面での交流に費やされる時間より4分少ないだけ。」(p.269)「『投票しました』という投稿は、友達から流れてきたときの方が、シェアされる割合も高かった。」(p.272)「米国人の73%は、検索結果は正確かつ中立であると信じている。」(p.276)「わたしたちが住んでいる国は、ずいぶんと縮こまってしまったように見える。というのも、米国の行く末は、フロリダ州、オハイオ州、ネバダ州など、全米の中のほんの一部に過ぎない激戦区の有権者が握っているからだ。」(p.294)「この同じテクノロジーを使って、手頃な家賃での住宅供給を最も必要としている人びとを特定し、家探しを支援することもできるのでは。」(p.296)「エマニュエル・ダーマンとポール・ウィルモット:私は、自分は世界を創ったわけでも、自分に与えられた方程式をすべてみたしたわけでもないということを、肝に銘じます。私は、評価測定のために臆することなくモデルを使用するが、だからといって数学に心奪われることはありません。私は、なぜそうしたのかという説明もなく数学的美しさのために現実を犠牲にするようなことは、決して致しません。私は自分が作ったモデルを使用する人びとに対して、モデルの正確さについて偽りの安心感を与えることは致しません。代わりに、モデルが何を前提とし、何を見落としているかを明示します。私は自分の仕事が社会と経済に多大な影響を与えうること、そうした影響の多くは私にも把握しきれないほと広範囲に及ぶことを、理解しています。」(p.308-9)「アルゴリズムを監視しようとする動きは、すでに進行中である。たとえば、プリンストン大学では、研究者らによって『ウェブの透明性と説明責任プロジェクト』が立ち上げられた。」(p.316)本書の注へのリンク
(2019.11.20)
- 「透明に響くアリア」立道桜子著、文芸社(ISBN978-4-286-08762-7, 2010.5.15)
著者の結婚式に出席して、披露宴の引き出物としていただいた。詩はほとんど読まないので評価はできないが、少し変わった印象を受ける。淋しさと、死、そして孤独と正面から向き合っておられることは理解できるように思う。帯には「詩人は生きにくい世の中を知っている/死もまた世の中の生きにくさを知っている/どうして詩は詩のままでいられないのだろう」(77)「芸術家とは寂しさの境地にいる/しかしまた実におどけてみせるのがうまい」最初の詩「雨の嘆き」は、2009年「使徒音楽〜俊太郎への手紙」コンクールにて大賞を受賞とある。
以下はいくつか心に残った詩「私の詩一つ一つには題がない/なぜなら/題という限界に閉じ込めて/自由を失うのが怖いから/もしも私が額縁に/収められた絵だったら/きっと抜け出したがった聾/もしも檻の中のライオンならば/草原で仲間と走るあの日々を/毎晩夢に見るだろう/今のこの世は窮屈だ/型にはまれば楽かもしれぬ/だがしかし/無題の自由が/私は好きだ/生きにくい心の闇は/きっと天が救ってくれる/突如ぽーんと青空に/放りなげられたようなそんな詩を/私はずっと書いていたい」(p.19)「言ってみれば/世の中答えが溢れている/だから迷うんだ/でもだからこそ自分の出した答えが答えだ/それを信じるしかない」(p.35)「心(うら)寂しさ:このいいようもない淋しさは/なくなる時がくるのだろうか/生まれ持った淋しさだろうか/この淋しさは埋められない/なくなりはしない/普段は隠れているだけ/すきさえあればすぐにやってくる/なぜ淋しいのか分からない/私は幸せだからだ/しかし淋しいのだ/『淋しい』と心が泣くのだ」(p.37)「私は寝る前 胸に手を当てる/今日を後悔なく生きたか/今日の命を生ききったか と」(p.44)「失敗も神様の思し召しだと思ったら/心が軽くなった」(p.45)「明日を思って生きろ/しかし/明日があると思って生きるな/遠い未来を思うより/今を確かに生きよう/未来に道を見いだせなくなった時は/とりあえず今を生きればいい/今を生きることは/知らずと未来を生きること」(p.46)「太宰治:彼の作品に触れていると/自分のようなものでも生きていていいのだという/感じになる 夏目漱石:彼の作品に触れる度に/彼と同じ時を生きていきたかったと思う/孤独というものについて一度でいい/話してみたかった 武者小路実篤:生きるということ/死ぬということ/彼の人生の詩は/私の人生の道しるべ 川端康成:彼ほど自然の美しさを/あのような美しい日本語で描く者がいるだろうか/私はまだ知らない」(p.52)「あなたがいなくなってから/現実ではない世界をふわふわと生きていたように/思いました。/今日急に私は現実に引き戻されました。/世の中が普通に流れていたことを/忘れかけていたのです。/時は無情です。/だから人は生きて行けるのでしょう。/こんなに悲しみの淵から上がって来られない私にも/やはり時は流れていたのだと/思い知った今日がありました。」(p.69)「死は平等/生は不平等/しかし死が平等ならば/実は生も平等なのではないかと思いはじめました/生きているとうまくいかないこともあるので/死に一種の憧れを抱いた結果だったのでしょう」(p.70)「私はいつも世の中の透明な場所で生きていきたい/純粋な目でこの世を見ていたい」(p.78)
(2019.11.23)
- 「真空とはなんだろうー無限に豊かなその素顔」広瀬立成著、BLUE BACKS B-1406 講談社(ISBN-4-06-257406-3, 2003.3.20)
背表紙に「『なにもない』ではなかった真空/負のエネルギーが充満している状態/これが現代の物理学が明らかにした、真空の正体だ。物質、空間、力、宇宙・・すべてを明らかにする鍵は『なにもない』はずの真空にあった」とある。宇宙空間の神秘やパルサーや、量子物理学に興味があり、真空について興味を持っていたので手に取った。I.豊かな世界ー真空 II. マクロの真空 III. ミクロの真空 IV. 宇宙と真空、という構成になっている。多くの科学書を著している著者の筆致は、秀逸。分かった気にさせられてしまう。ファインマン図も十分理解できたわけではないが、いままで見ていたにもかかわらず、今回初めて興味が持てた。もう少し、このような入門書を読んでから、いつか、量子物理学についてしっかりと学んでみたいと思わされた。相転移のことなども、いくつか例をあげて、説明している。正直、どこまで正確かは分からないが、数学の世界との違いを感じさせられた。数学では、ここまで分かりやすくは、書けないのではないだろうか。いずれは、Super String Theory も学んでみたいが、同時に、いままで考えてきた、数学における不可能性のように、物理学においても、いくつかの不可能性が見え隠れし始めているように思う。実験で実証するために作り出せるエネルギーの限界、抽象性の深遠さゆえに誰にでも理解できるものではなくなりつつあること、還元論への膠着から統合が困難担ったいることなどであろうか。いつか、仮説段階であっても、統一されたモデルができるのであろうか。
(2019.12.10)
- 「イスラームと科学(Islam and Science)」パルヴェーズ・フッドボーイ(Pervez Hoodbhoy)著、植木不等式訳、勁草書房(ISBN978-4-326-75049-8, 2012.1.25)
著者は、MIT で学位(素粒子物理学)をとった、パキスタン人で、イスラーム圏で、教育・科学の振興のために、活発に活動をしている方である。「前言」として、ムスリムで(アフマディアに属し、パキスタンでは、法的には、ムスリムではないとされる)、無神論者と公言するワインバーグとともに、電磁気力と素粒子間の弱い力の統一理論によりノーベル賞を与えられた、アブドゥッサッラームが書いている。科学と宗教というトピックでは、キリスト教関係のみ考えてきたが、いつかイスラーム圏のことも学びたかったので手に取った。西洋の科学と宗教の記述は、多少短絡な部分もあるように思われるし、イスラーム圏の黄金期の記述は、もう少し詳細にして欲しかったとの感想もあるが、記述も丁寧で非常によく書かれている。加えて、翻訳が秀逸である。大変なエネルギーがかかったと思うが、丁寧に取り組んでいることが伝わってくる。「イスラーム的科学」は「創造科学」とも通じる面が多く、興味深かった。目次:前言 モハンマド・アブドゥッサラーム はじめに 第1章 イスラームと科学は両立しうるか? 第2章 科学──その本質と起源 第3章 科学と中世キリスト教の戦い 第4章 イスラーム諸国の科学の状況 第5章 発展の遅れに対するイスラーム側からの三つの反応 第6章 ブカイユ、ナスル、サルダール──イスラーム的科学の三人の唱道者 第7章 イスラーム的科学はありうるか? 第8章 イスラーム教徒の科学の勃興 第9章 イスラーム教徒の科学と対決する宗教的正統派 第10章 五人の偉大な“異教徒”たち 第11章 なぜ科学革命はイスラーム圏で起こらなかったのか? 第12章 将来に向けての思索 付章 彼らはそれをイスラーム的科学と呼ぶ。以下は備忘録「科学に起因しているとされる人類の未解決の諸問題は、はたして科学の誤用によって起こっているのだろうか。それとも科学の営みが、その本質の中に問題をはらんでいるのだろうか。」(p.12)「(1)中世キリスト教とは、教会が定めた人生の規範集だった。(2)規則と施行する力は旧お買いのドグマを全面的に、無批判に受け入れることに依拠していた。(3)規則の一つでも拒否することは、社会全体の秩序の崩壊・解体をもたらしかねなかった。(4)それゆえ科学と自由な思想は脅威であり、保護の埒外におかれなければならなかった。」(p.40)「ガリレオなどの問題の本質は、聖書を霊験による啓示だとしているキリスト教が、ギベオンでの戦いでのヨシュアの戦術からイエスの昇天にいたる多くの物語を書いたのが、物理的宇宙が本当はどのようなものか知らない何者かであったに違いないという発見がもたらすショックに耐えられるかどうか、それが教会当局が考慮しなければならなかったことだったのである。」(p.41)「科学の四つの姿:(1)社会を持続させるのに必要な生産プロセスの維持と開発。(2)フルタイムの研究に専門的に携わっている実践者(科学者)の組織化された集団をもつ。(3)社会における教育システムの主要な要素。(4)自然界に対する人々の信念・態度を形成するうえでもっとも強力な影響力をもつもののひとつー科学的世界観とは、自然界についての知識を引き出すために、観察、実験、分類、測定からなる方法論的な手順を用いるもの。」(p.54)「ギリシャ人は蒸気動力を発明していたが機関車を作ることはなかった、なぜなら奴隷が使える社会にはその経済的ひつようがなかったから(マルクス)」(p.55)「ヒンドゥー教であれキリスト教であれユダヤ教であれイスラーム教であれ、原理主義とはなんといっても啓示に関わるものである。知識には避けがたい限定がつく。なんであれそれは啓示のなかに存在するものだからだ。原理主義者にとって、知識が増えるということは、ただ聖なる書物の新たな解釈が見つかったということなのである。」(p.121)「スターリン時代のロシアでは、党のイデオローグたちは、量子力学による自然界の不確定性が、政治の世界に横漏れして、ひいてはマルクスが唱えた決定論的な社会進化に反するものになるのではないかと恐れた。」(p.155)「イスラームには科学のための科学、知識のための知識は存在しない。すべてが目的のためのものであり、それは人類全般の善のために科学的知識を用いるのである。(ジア大統領のアドヴァイザーのカジ)」(p.)「伝統的な教育 vs 金江合的な教育、来世志向 vs 近代志向、イスラーム教の中での社会化を目指す vs 個性の発達を目指す、中世から不変のカリキュラム vs 科目の変化に対応したカリキュラム、知識は啓示され疑義をはさめない vs 知識は経験的・演繹的課程から得られる、知識は神の命令によって獲得される vs 知識は問題解決の道具として必要とされる、教示や前提を問うことは歓迎されない vs 教示や前提を問うことは歓迎される、基本的に権威的な教育スタイル vs 生徒の参加を含む教育スタイル、暗記が重要 vs 鍵となる概念の内面かが重要、学生としての心構えは受動的・受容的 vs 学生の心構えは能動的・実証的、教育は総じて未分化 vs 教育は非常に専門化しうる」(p.239)「社会がより複雑なかたちに進化しつつあるときには、過去の単純なパターンに頑固にしがみつくことは不可能である。歴史的・文化的連続性をある程度維持しつつ、進歩の必要な解決策を探さなくてはならない。変化する世界に適切に対処する能力を伝統的教育システムはもっていない。」(p.244)「ブルジョアジーとは生産手段をうまく調整し、技術革新と投資を通じて根本的な構造変化をもたらす能力を備えた階級(マルクス)」(p.245)以下は、訳者あとがきにある、本書が書かれて以降の、イスラーム圏で科学の動向についての、情報である。Knowledge, Networks and Nations: Global scientific collaboration in the 21st century, Nature Middle East, A new golden age? The prospects for science and innovation in the Islamic world。訳者あとがきにフッドボーイの言葉として引用されているように「イスラーム圏の知的体制のなかで、科学的探索に向けて開かれた精神はいまだ『例外的な個人』に託されている」のだろうか。
(2019.6.DD)
- 「相対論対量子論ー徹底討論・根本的な世界観の違い」メンデル・サックス著、原田稔訳、BLUE BACKS B-1268 講談社(ISBN-4-06-257268ー0, 1999.10.20)
"Dialogues on Modern Physics" by Mendel Sachs の翻訳。著者は、NY州、バッファロー校の物理学教授、専門は素粒子論。「はじめに」には、「量子論と相対性理論が本当に科学的真理を表すものであるならば、いずれの側から見ても他方と完全に統合されていなければならないにもかかわらず、現実にはいずれの側からみても根本的な矛盾があるため、数学的にも論理的にも満足しうるかたちで統合しえずに来ているという点である。」とし、その議論を本書では、架空の三人の若手の物理学者の対話というスタイルの議論にゆだねている。訳者あとがきには、以下の様にある:著者は現在少数派に属し「将来の新しい理論は相対論をベースにしたものになるだろうと預言している。この予言は彼の研究成果に基づくものであり、単なる憶測ではない。」(p.186)「ガリレオは、当時の学界の定説という厚い壁に風穴をあけるべく『新科学対話』を書いた。(中略)著者サックスもガリレオにならって、対話というスタイルで自説をアピールすることにしたのである。学界の定説を信じて疑わないマニーとこれに異論を唱えるジャッキーと中間派のモーという三人の理論物理学者が、宇宙論から、素粒子論まで、現代物理学を取り巻く根本問題について、それぞれの立場から議論を展開している。」(p.187)すべての議論をクリアに理解したわけではないが、著者の理解の深さを各所に感じさせられ、名著だと思う。以下は、備忘録。「われわれ科学者は、虚心坦懐でオープンな精神がもたらす偉大な進歩、つまり束縛や抑圧から解放され、あらゆる可能性を考慮した結果生まれる偉大な進歩を体験してきた、疑問を持つことは悪いことではなく望ましいことであり、まじめに考えるに値することであることを教え、さらにそういった思考スタイルを維持するよう、すべての後世の人々に求めることは、われわれ科学者の重大な責務である。(R.P.ファインマン)」(p.12)「物事が証明されたからといって、必ずしもそのことについて理解が進むわけではなく、すべての学者のコンセンサスが得られたとしても、それで信憑性が増すわけではない。逆に、世界中の人が反対していても、信憑性が低いとは限らないのである。(マイモニデス)」(p.12)「宗教的考え方も議論の価値はあるが、科学の議論とは区別する必要があるよ。というのは、一つには科学的真理はいわば条件付きの真理で反駁可能であるのに対して、宗教上の真理は信念に基づくもので、したがって反駁すること自体に意味がないからだよ。科学的真理の実証可能性はもちろんのこと、この条件付き真理とその反駁可能性なしには、宇宙の理解を推し進めるうえで、なんの進歩ももたらすことはないだろうね。」(p.106)「自然界のどんなささいな現象を見ても、最高に優れた理論家でさえ完全に理解することは不可能だ。(ガリレオ『新科学対話』)」(p.136)「きわめて一般的で特別重要な性質をもつ運動が一つある。それは、太陽や月や惑星や恒星(つまり、地球を除く宇宙全体)が二十四時間の間に東から西に一回転するように見える運動である。外見上から判断する限りでは、この運動は地球を中心とする特別な運動になっているが、他の天体から見ても同じような状況に映るはずだから、地球を特別扱いする理由はないことになる。」(p.178)「訳者あとがき:アインシュタインが相対論を発表した当初は学界から強い批判を受け、120人もの物理学者が連名で『相対論は間違っている』と主張する生命が出されたことがあるが、これに対するアインシュタインの反応が傑作で『本当にそうなら教授一人の署名で十分だろう』と言ったという話である。科学理論の価値は多数決で定まるものではないということを示していて興味深い。しかし、真に正しい理論はいずれ学界のコンセンサスを得るわけであろうから、本書の対話によるサックスの考え方が一人でも多くの読者の共感を呼ぶことを心より願うものである。」(p.188)
(2019.12.21)
- 「人間失格」太宰治著、新潮社(青空文庫版、1952.10.30)
知人がこの本についてブログに書いていたので、散歩の時に「声の花束」に入っている朗読の録音版を聞いた。設定としては、作者が「京橋の小さいバアのマダム」から借りた、三冊の手記という形式になっている。最初は三葉の写真の描写から始まり、三冊の手記を記し、最後に背景を記する形式をとっている。手記を記した男(葉ちゃん)が、モルヒネ中毒となり、「脳病院」の独房にはいり、つぶやくことばが「人間、失格」である。最初と最後に書かれている「父」の存在、様々な女性との関わり、特に、信頼の権化のようで、それが仇となったように描かれている、ヨシちゃん、いやな存在の、堀木との「罪のアント(反意語)は?」の議論など、いくつか、背後に流れるものがあるのだろう。個人的には、太宰がどの程度、この男に、自分の姿を重ねていたかに興味を持った。途中では、あまりの優柔不断さに怒りと嫌気さえ感じ、聞く(読む)のが苦痛な時間帯もあったが、最後の廃人に近いような存在の男と、自分も重なっているようにも感じた。昭和初期の時代も、映し出しているのだろう。文学に接したのは、本当に久しぶりなので、興味深さとともに、なんとも言えない、いごごちの悪さも感じたので、この程度とする。
(2019.12.28)
- 「SF小説がリアルになる 量子の新時代」佐藤文隆・井元信之・尾関章著、朝日新書 187 朝日新聞社(ISBN978-4-02-273287ー3, 2009.7.30)
量子力学の世界観を多少でも理解したいと思い、進んでいる技術の世界から理解することができるかもしれないと思い、量子暗号、量子コンピュータの背景の量子情報について書かれた本として選んだ。尾関氏は朝日新聞の科学記者、井元氏は、NTT基礎研究所などで光通信の研究をした人である。正直言って、殆どえることはなかった。佐藤文隆氏の本は何冊かすでに読んでいるが、もう少し読んでも良いのかもしれないが、サックスの「アインシュタインVSボーア」など、その分野のプロが書いたものを読むべきなのだろう。もうすこし、専門的なことがしっかり書かれている物理学の本や量子情報の論文をそろそろ勉強すべきなのかもしれない。以下は備忘録。[運動量]=[質量]x[測度]、[作用]=[長さ]x[運動量]=[長さ]x[速度]x[質量]=[長さ]^2x[質量]/[時間]。プランク定数は、[作用] に最小単位があり、かつ飛び飛びの値をとるということ。(p.208)「(1)物事は、いつも一つに決まっている。(2)物事は、ワタクシが見ていようがいまいが、ずっと継続している。この常識をとりはらい、その代わりに、(1’)物事は、もともといくつもの状態が重なり合っている。(2’)物事は、ワタクシが見るたびに一つの状態として現れる。ワタクシにとって、物事は、見る進館ごとにとびとびに決まっていくのだ。」(p.65,66)「以下、本章では、現代のハイテクを支える量子力学と、これも科学の守護神のようなアインシュタインが絡む歴史秘話を述べる。それにさきだって科学のイメージに触れたのは、この歴史秘話を読み解いていくために、自然・社会・人間・形而上学と経験論、認識論と倫理、対象と法則、理と心、などなどの、科学を相対化する人類の知的営みにまで遡る視野が必要になってくるからである。アインシュタインは『間違っていた』とか『やっぱり一歩さきを行っていた』とか、同一次元でのマルペケの評価にはなじまないものである。『思想としての科学』論議が再び要請されているように思える。」(p.186)、「この難題に立ち向かうには、メタ理論の枠組みを意識しておく必要があろう、というのがわたしのメッセージである。この場合、対象と認識者の二者の関係だけで理論や法則を位置づけるのは無理があると考える。私は、三つの世界というのを提案している。外界(物質とその運動という非人間的な客観世界)と内界(認識者が外界を描く人間の脳の機能など)のほかに、第三の世界(文化、言語、数学など)があると考えるのである。内界と第三の世界は、ともに認識者側の世界ではあるが、内界は生物機能としての認識能力、第三の世界は人類社会に蓄積されてきた認識手段である。たぶん、この第三の世界が肥大化しているのが他の生物と異なる人間の特徴なのであろう。それらは、プレインストールされておらず社会的に後天的に獲得するものであり、慣れれば自由自在に使えるものである。科学の理論はこの第三世界に大きく依存しており、第三世界を拡大させたものとして位置づけることができる。」(p.254-5)「最近、ベイズ統計学とか赤池情報量クライテリアとかいうのを勉強していて出会った言葉がある。それは『真の理論とよい理論』という対抗軸である。科学で要求される理論のタイプはいずれか。『真の理論』というのは、すでに書かれている法則を読み解く発想である。それに対して『よい理論』というのは、上手にすなわち人間の認識機能に合ったように上手に扱うということである。そして『真の』と『よい』の対比は世の東西を問わず、道徳哲学の枠組みとして論理されてきたことであり、科学に閉じていない問題である。」(p.256)
(2019.12.28)