Last Update: November 28, 2017
2017年読書記録
- 「『新約聖書』の誕生」加藤隆著、講談社学芸文庫 (2016.11.10, ISBN978-4-06-292401-6)
単純に「『新約聖書』の誕生」をもう一度考えてみたいと思い手に取った。「全体の流れについてある程度の筋の通ったイメージができるように、思いきった判断をしながら記述を進めた。さらに本書では、権威の問題を中心にしながら、キリスト教運動の展開との関連において、新約聖書の成立について考えることにした」(p.337)とあるように、何を「権威」としたかを軸に書かれている。根拠資料の引用が殆どなく、著者の考えを押しつけられる感じが否めないが、「なぜすべてギリシャ語で書かれているのか」や「なぜ旧約引用が偏っているか」など問いとして持っていたことも正面から扱われていて興味深い面と、キリスト者はそうは考えないのではないかと思考の方向に違和感を持った面とがあった。個人的には、ボウカム氏の目撃証言を残そうとした面は重要だと再確認した。しかし本文の最後が「新約聖書は、新約聖書に書かれている文字によって殺されるべき面を超えて『生きる』とうことのための読書のありかたを読者に示すという機能を持っているのかもしれないのである。」(p.333)となっているのは、著者の姿勢を見る気もして、うれしかった。以下は備忘録:「300年ほどの間(アタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)、「ヒッポ会議」(393年))ほどのあいだ存在しなかったものが、大きな権威のあるものとして存在するようになったのである。したがってキリスト教徒にとって新約聖書の存在は当然のことではなく、いわば特殊なことなのである。」(p.9)「エッセネ派の立場がつまるところ『集団的自己中心主義』である」(p.39)「敬虔主義やピューリタン主義の流れは、アメリカで大きな勢力となり、これが明治以降の日本に伝えられた『プロテスタント』の主流になってしまった。彼らは、神の大きな神の計画を無視しているので、政治的には寡黙であり、また無知である。(中略)ルカ11章52節でイエスによってパリサイ派に向けられた批判は、ユダヤ人社会におけるファリサイ派のありかただけにあてはまるものではない。」(pp.41-42)「ファリサイ派の流れ『ユダヤ教の民族主義派』、キリスト教の流れ『ユダヤ教の普遍主義派』」(p.187)「『読んで解釈する者』『読んでも解釈できないもの』『読んでも解釈しようとしない者』の序列」(p.310)「歴史を跡づけるということは、こうした『忘却』の壁の向こう側をのぞくおとでもある。歴史研究の入門書には、私たちの現在のありかたは歴史によって条件づけられているといったことがよく記されている。(中略)しかし私たちの現在のあり方は、歴史の『忘却』によって成り立っている面もかなり存在する。したがって歴史の研究は、現在の平和や安定にとって、時として危険なことでもある。『忘れない』こと、『思い出す』ことは、忘れてもよいかもしれない問題を現在化することにつながる可能性があるからである。」(p.332)
(2017.1.7)
- 「キリストによるマグマ爆発 - 人生、これからが本番 -」矢澤俊彦著、日本基督教団庄内教会 (2016.6.1)
お送り頂いたので読ませていただいた。ご子息は知っている。著者には大学教会一度お会いしたことがある。1942年生まれ。長野高校から国際基督教大学に進み、東京神学大学を経て牧師となり、1977年から鶴岡の庄内教会で牧会。教会には、80人の園児を預かる保育園が併設されている。近年は、網膜色素変性症で視力を失いつつある。2015年度に5人受洗とある。活動報告もあるが非常に活発である。居心地のよい『心のレストラン』を目指しておられる。著者の誠実さと情熱と真摯さが伝わってくるエッセー集である。しかし宣教は非常に困難なのだろう。日本全国、そして、殆どの先進国では、先進国病のようなものに犯されている現状で、わたしも何を伝えていくのか、問われていると強く感じた。
(2017.1.16)
- "The abolition of man, or, Reflections on education with special reference to the teaching of English in the upper forms of schools", by C.S. Lewis, Collier Books, New York 1955
This book starts with the following quote from Confucius, Analects II. 16:
The Master said, "He who sets to work on a different strand destroys the whole fabric."
It was challenging for me to understand even this first quote, as I get a different impression from Japanese translation. 子曰 攻乎異端 斯害也已。(子曰、異端を攻むるは斯これ害あるのみ(解釈も多数あり)) 為政第二16
This small book consists of three parts; Men Without Chests, The Way, and The Abolition of Man followed by Appendix-Illustrations of the Tao. C.S. Lewis Foundation provides a study guide to this book. It begins with the following: The Abolition of Man was first given as a series of lectures in 1943. The lectures dealt largely with the dangers of moral relativism – a subject that increasingly was to occupy Lewis’ mind as he noted the destructive trends emerging in the modern world-view.
I understood a rough idea described above, but it was too difficult to me.
(2017.1.31)
- 「ソクラテスの弁明」プラトン著、納富信留訳 光文社古典新訳文庫(ISBN978-4-334-75256-9, 2012.9.30)
久しぶりに、ソクラテスの弁明を新しい訳で読んだ。「無知の知」や「より善く生きる」とはについて学びたかったからだが、そう簡単ではない。やはり聖書と同じくゆくりとプラトンの著作を読んでみたい。「アテナイの皆さん、私はあなた方をこよなく愛し親しみを感じています。ですが、もはやあなた方よりもむしろ神に従います。息の続く限り、可能な限り、私は知を愛し求めることをやめませんし、あなたがたのだれかに出会うたびに、勧告し指摘することをけっしてやめはしないでしょう。いつものようにこう言うのです。『世にも優れた人よ。あなたは知恵においても力においてももっとも偉大でももっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは』と」(p.61-62)「徳について、また私が対話しながら私自身と他の人々を吟味しているのを皆さんが聞いているような他の事柄ついて、毎日議論をすること、これはまさに人間にとって最大の善きことなのです。そして、吟味のない生は人間にとって生きるに値しないものです。」(p.90)「人間たちよ、ソクラテスのように、知恵という点では本当はなににも値しないと認識している者が、お前たちのうちでもっとも知恵ある者なのだ。」(p.124)「たとえば3辺が3:4:5の比をなす三角形が直角三角形であることは、『見ればわかる』とか『たまたま経験で知っている』とか、『学校で習った』と言うだけではなく、自分で『3平方の定理』を使って証明できなければ、本当に知っていることにはならない。答えが誤っている場合ばかりでなく、その根拠をきちんと把握していない状態も『知る』にはあたらないのである。それは単に『思う』という状態に過ぎない。」(p.127)「真に配慮すべきなのは、思慮が働き真理が求められる場、つまり『魂』(pushuke)とでも呼ぶべき地平ではないか。そこでは、量の多い少ないではなく、善い悪いの価値が問題となり『できるだけ善くなるように』という配慮がなされる、そこで配慮が向かう魂が『自分自身』であり、その善いあり方が『善』(アレテー)である。」(p.149)「ルールに則って議論するのがより適当ではないか。なによりもそうしてこそ、論者の自由と安全が保証され、結果としており真理に近づけるはずなのであうr。こうして創られた対話の空間が『学園アカデメイア』であった。」(p.183)
(2017.3.24)
- 「日本プロテスタント伝道史」小野静雄著、日本基督改革派教会西部中会文書委員会(ISBN4-88077-034-5, 1989.4.30)
2009年にも読んでいるが、今回、キリスト教週間で、多磨霊園ツアーの案内をすることになり、時間の関係で、新入生リトリート中に簡単に読めるものを選び再読した。前回読んだとき殆ど理解できていなかったこと。今回も十分には、理解できていないことを発見した。読み取りたい内容が、2009年から深化したのか、前回は、あまりにも、不注意だったかは不明である。以下は備忘録。「多くの士族が『異教』であり『外教』とされたキリスト教に入信した背景には、徳川政権による宗教政策があると思われます。徳川幕府は、民衆の中にある宗教的エネルギーを抑えこもうとして、諸宗教のもつ社会変革的、ないしは倫理的活力を奪ってきました。つまり、仏教も神道も一種の風俗習慣としての位置に矮小化され、信仰が社会的・倫理的なはたらきをすることは阻害されたのです。その結果は、庶民の宗教的無関心、さらには、宗教そのものへの蔑視を生んだわけです。」(p.13-14)「1881年大阪『耶蘇退治馬鹿のしんにゅう番付表』」(p.17)「自給、合同、教職養成、この三つは彼(植村正久)が生涯の課題として実践したことがらです。」(p.26)「彼(海老名弾正)の信じるキリストは受肉した神の子ではありません。イエスはただの人にすぎないが、非常に発達した神の子意識をもっていたので、父なる神と一致融合し、その結果、神的な精神を宿した、というのです。」(p.41)「(概括)日本においては、宗教は人間の生き方を探求する姿勢。超越者なる神との出会い、受肉者キリストの贖罪という、キリスト教本来の中心が、周辺に追いやられる、これを、丸山真男は『実感信仰』と呼ぶ。」(p.141)いつかしっかりと学習する形で、日本キリスト教史を学びたい。
(2017.5.13)
- 「Apology ソクラテスの弁明」By Plato, Retold by Nina Wegner, IBCパブリッシング(ISBN978-4-7946-0200-8, 2013.4.2)
英文で Apology を読もうとして手に取ったのが、簡単な英語で書かれた本書だった。読むかどうか迷ったが、短い時間で読めることもあって、電車の中で読んだ。1600 word level とあり、さすがに、すらすら読める。しかし、わたしが話すときに使っている語彙数とはほぼ同じではないかと思った。したがって、わたしが、本書について、英語で議論するときには、このレベルで十分である。そう考えると、このレベルの本をある程度読むことの意義もあるように思えてきた。Memo: "Fearing death is another way we imagine we are wise, although we really are not wise. It is us pretending to know the unknown. Maybe death , which men fear as the greatest evil, is actually the greatest good. Nobody knows for certain. It is useless and arrogant to fear death - it is how we imagine we know what we don't actually know. This is how I am different from many men: I do not suppose that I know anything about death. But I do know that disobying the gods is certainly evil. On the other hand, death is a possible good, and I will never fear a possible good." (p.41) "Some of you might say, `Yes, Socrates, but can't you simply hold your tongue? Then you may go into any foreign city and no one will bother you.' But you see, it is very difficult to make you understand why I cannot do this. You do not believe me when I say that it is God's command for me to continue to speak and think and to look into the nature of man. If I held my tongue, I would be disobeying God's command. And if I say again that talking and thinking about virture every day is the greatest thing man can do, and that a life devoted to anything else is not worth living, then you are even less likely to belive me." (p.55)
(2017.5.16)
- 「アイヌ伝道等をめぐって 日本宣教の光りと影 信州夏期宣教講座編」宮島利光、岩崎孝志、山口陽一、辻浦信生著、いのちのことば社(ISBN4-264-02295-9, 2004.9.1)
多磨霊園ツアーの準備で日本宣教について調べていて出会った。目次:はじめに、アイヌ民族と宣教、アイヌ民族について、日本的キリスト教の陥穽(かんせい)ー内村鑑三とその時代、山室軍平の平民説教、内村鑑三の説教。地道な検証を批判的に行っている人たちがいることに驚かされた。これも、日本基督教の一つの系譜なのだろう。印象に残った言葉を列挙する。備忘録である。「我が子に『お前もアイヌなんだよ』と恐ろしくて言えなかった母親」(p.10)「アメリカの市民宗教:1. 一神教であるキリスト教・ユダヤ教を前提とするが、個別の宗教・教派を超越した国民的宗教心 2. アメリカ的価値観・生活様式(文明・民主主義) 3. 国家を正当化する宗教ナショナリズム・国家への忠誠、基本的に教会は国家と対峙する存在ではありません。」(p.44)「基軸として宗教の代わりに天皇制(伊藤博文)」(p.48)「法律と教育とで日本國を改築しようと思うた薩長の政治家の浅薄さ加減、今に至りてわらうに耐えたりである。(内村鑑三の日記)」(p.49)「(教育勅語に関して)われわれは単に臣民たるに留まらない。市民でもある。しかも単に日本の市民であるばかありでなく、世界共同体の市民でもある。(新渡戸)」(p.55)「内村の言っている『無教会』主義とは、1. 教会によらず、聖書本来の信仰のあり方を目指すキリスト教、2. 教団組織・会堂・聖職者をもたず、信徒の指導者が個人の責任で集会を主宰、3. 教会における礼拝・説教とは異なり、聖書の講解・講義を中心に集会がもたれる、4. 洗礼・聖餐などの聖礼典を廃し、信仰信条・教会法をもたない、のようです。」(p.56)「絶対平和は、最終的にはキリストがとられた道で、無抵抗主義(内村)」(p.64-5)「しかし私は、内村が逃げ込んだところに、また私たちが逃げ込みかねないという怖れを持っています。ですから、今日申し上げた問題の多くは、現代の私たち自身の問題なのだと考えています。(岩崎)」(p.76)「山室→植村:今度私の目的は主として砲兵工廠あたりの職工労働者に伝道するつもりですから、若し余り小六つかしい理屈を言う人が来たら、名刺を持たせて先生のところへよこしますからよろしくお願いいたします。」(p.84)「救世軍における清潔とは、第一にすべての罪から潔められること、第二に神を愛し人を愛する全き愛の人となることで、とりわけ第二のことが具体性を持つところに特色がある。」(p.86)「内村の不敬事件への三つの対応:組合教会、植村の公的立場、植村の私的立場」(p.92)「信仰は神学となって死するものである。神学は信仰の死体である。(内村)」(p.95)「余輩は実験的無教会信者なり、論理的無教会主義者にあらざるなり。(内村)」(p.101)
(2017.5.27)
- 「女性の宣教 女性が福音を宣教する権利」カサリン・ブース著、"Female Ministry: Women's Right to Preach the Gospel” by Catherine Booth, Originally published in 1859、救世軍出版供給部(ISBN978-4-87685-025-9, 2016.8.1)
救世軍の友人から頂いた。まさにタイトルの課題に正面から立ち向かっている。今日まだ、女性の牧師を認めない教派があるが、救世軍創始者の夫人が聖書から説き起こし、丁寧に論じている。34ページということもあり、続けて二度読んだ。このような書に出会えたことに、こころから感謝している。ただし、論文として書かれてはいないので、引用などの普遍性がない。誰のことなのか、どこで述べられたことなのかなどが不明である。まず、1コリント11:4,5「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。 」と使徒2:17,18「神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 」をあげ、男も女も預言するようにされたことを述べ、1コリント14:34,35「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」について何がここで命令されているかを丁寧に論じ, 1テモテ2:12,13「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。 」についても述べ、聖書の中の女預言者や女性伝道者について、奉仕者について述べている。原語の考察もあり、これだけの議論で断定的とは稲井が十分なものである。個人的には、パウロの書簡の目的を考えると普遍性を持たす場合にはとくに気をつけないと考えているが。ぜひ、皆さんに読んでいただきたい。
(2017.6.3)
- 「ボランティア もう一つの情報社会」金子郁容(いくよう)著、岩波新書 235(ISBN4-00-430235-8, 1992.7.20)
サービス・ラーニングセンター長となり、考え始めたトピックにおける参考図書の一つを、タイ、インドでの、学生のサービス・ラーニング視察の旅の前半で読んだ。自発性に結びつけられたボランティアについて多方面から考えることができた。「ボランティアは近寄りがたい、矛盾、偽善、企業のありかたに疑問を持っている人に」(p.1)「ボランティアは不安にさせる。規則によってコントロールされていない、限度が定まっていない、権限によって管理できないものは恐ろしい『仕事だから、言われたことだから、みんなそうしているから』とのいいわけが使えない」(p.4)「ボランティアは『助ける』ことと『助けられる』ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのか区別することが重要でないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセス」(p.6)「ボランティアとは、切実さをもって問題にかかわり、つながりをつけようと自ら動くことによって新しい価値を見いだす人」(p.7)「ロレッタ・シュワルツ・ノベル『最後のメッセージーニュープアの出現と二十一世紀への希望』」(p.11)「子どもであろうと、大人であろうと、老人であろうと、自分で興味をもち、自分から進んで何かをするときは『無限の力』を発揮する。しかし、自発性は、ほうっておかれるとすぐにしぼんでしまう。とくに、子どもの自発性は、周りの大人が見守り、支援してはじめて動かしうるものだ」(p.35)「福祉施設にとって致命的なのは地域から隔離し、入居者が孤立することだ(岸田孝三、青梅療育園施設長)」(p.37)「ボランティアとは、その状況を『他人の問題』として自分から切り離したものとはみなさず、自分も困難を抱えるひとりとしてその人に結びついているという『かかわり方』をし、その状況を改善すべく、働きかけ、『つながり』をつけようと行動する人である。」(p.65)「『宇宙船地球号』的発想は、個と全体に関する新たな考え方ー新しい価値観といってもよいだろうーをもたらしているのではないだろうか。」(p.87)「自発性パラドックスーボランティアが経験するつらさ」(p.105)「その人がそれを自分にとって『価値がある』と思い、しかも、それを自分一人で得たのではなく、誰か他の人の力によって与えられたものだと感じるときその『与えられた価値あるもの』がボランティアの報酬である。」(p.150-1)「財団法人世田谷ふれあい公社『V切符制度』」(p.159)「リスクを冒すことの尊厳、それが『自立生活』が目指すものそのものである。失敗の危険性がなければ、障害者は真の自立を得たとはいえないし、人間性の本質の印ー結果が良きにつけ悪しきにつけ自分で選択するという権利ーを持っていないことになる。」(p.175)「編集工学研究所ーオペラ・プロジェクト」(p.210)
(2017.7.17)
- 「こんなとき英語でどう切り抜ける?」柴田真一著、青春出版社(ISBN978-4-413-04515-5, 2017.6.15)
知人の著者から献本していただいた。海外に視察・協議に行くときに持って行き、タイからインド移動中などに読んだ。著者の本は何冊となく見ており、そのうちのいくつかは読んでいるが、著者が一番伝えたいことがこの本の背景に詰まっていると感じた。つまり、英語を使うビジネスの世界で生きてきた著者が、英語でのコミュニケーションを中心におきつつ、多様な背景の人たちとビジネスをするときに、心がけてほしいことを説いている。メンターのような役割を演じており、著者のこころも入っていると思う。体験談は、考えさせられることが多かった。
備忘録:序章にあげている注意点。1. 自分の意見をはっきり言うとはいっても、直接的な言い方はさけ、あくまでも丁寧な言い方をすることが重要です。(polite but firm 丁寧にはっきりと p.54) 2. 自分たちの bottom line をきめておき、相手の bottom line を探りながら、お互い納得がいく結論を導くのが、win-win の状況を演出することなのです。3. ビジネスにおける信頼関係の構築とは、お互いを尊重し合いながら、対等な利害関係を築いていくプロセスだと思います。Support the person, attack the problem. (pp.1-7) ビジネス英語の三要素「clear, concise, constructive」(p.127) Perhaps I should play devil’s advocate. (Basically I agree to the conditions, but let me play devil’s advocate.) = Let me challenge your view so we can have a good discussion (simply for the sake of argument). (p.152, 153, p.168) Shall we search for common groud? That may help keep us on track here. (p.173) cautiously (慎重ながら)optimistic vs carefully (問題はあるが)optimistic (p.202)
(2017.7.18)
- "Learning Through Serving: A Student Guidebook For Service-learning Across the Disciplines", by Christine M. Cress, Peter J. Collier, Vicki L. Reitenauer, Stylus Publishing, LLC (ISBN 1-57922-119-X, 2005)
Introduced by staff at Service-Learning Center of International Christian University, I read through the book while I was traveling in Thailand and India visiting ICU students engaging in service-learning activities. Very useful to overview service-learnig as a part of curriculum at a college. Service-Learning is defined as "Students engage in community service activities with intentional academic and learning goals and opportunities for reflection that connect to their academic disciplines" (p.7) making distinction from volunteerism, internship, practicum, community service and community-based learning even if authors use service-learning, community service, or community-based learning relatively interchangeable. Memorandum: "Democracy is the attempt to balance differences in individual values, beliefs, and experiences with collective ideals of justice, equity, and security." (p.11) "Putting who you are and what you know into practice will change who you are and what you know and enlarge your understanding of yourself and the world of others who are both differect from and similar to you." (p.33)
"Actions increase trust in groups: Openness to others' views, even when those views are not initially understood, flexibility in the face of rapidly changing conditions and different working styles, willingness to take responsibility, ability to endure times of ambiguity and frustration with the group, and capacity to disagree while maintaining loyalty to the group." (pp.55-56) "Reflection is a person's intentional and systematic consideration of an experience, along with how that person and others are connected to that experience, framed in terms of particular course content and learning objectives." (p.84) "Reprocity: A prime source of learning is the community agency itself. Community professionals have a variety of knowledge and skills drawn from their experiences that are uniquely distinct from what can be provided in a college classroom." (p.118)
(2017.7.27)
- 「この世の富に忠実に - キリスト教倫理と経済社会」大谷順彦著、すぐ書房(ISBN4-88068-243-8, 1993.10.11)
著者は神戸大学経済学部卒、ミネソタ大学大学院(Ph.D)、ミネソタ大学、パーデゥー大学、カンサス大学などで教えた後、執筆当時は、筑波大学教授、土浦めぐみ教会会員とある。現在は、志学会会長。志学会を通して2002年頃から存じ上げており、この本についても、いつか読みたいと思っていた。経済学の基本的な考え方を丁寧に説明しながら、経済学者としてキリスト教倫理の現代的意義を説明している。バランスのとれた学問的考察が中心をしめているので、単に信仰書として読むと理解するのは困難であると思う。個人的には、ナイーブに価値判断をしていた、経済現象、市場経済についての評価について考えさせられる機会となった。いずれ経済学もこの本も学び直してみたい。以下は備忘録「市場経済とは、それぞれの経済主体が自由で自発的な選択をしながら、競争を原理として、あるいは競争原理に支配されて、それぞれの個別の利害(self-interest)を追求するような社会組織です。」(p.17)「アロー(Kenneth J. Arrow)の問題:社会の優先順位(社会厚生基準)についての不確定性定理」(p.139)「タマリ(Meir Tamari)があげるユダヤ人が国際通商と金融業に従事した他の理由:通商についての認識・教育レベル・自立的法規制度・ネットワーク・ヨーロッパ、イスラムの橋渡し・封建王国の壁と無関係」(p.211)「市場組織、非市場組織(家庭・企業・労働組合・産業団体・社会団体)、公共部門(政府組織・司法制度)からなる、市場経済社会における、市場経済は、個人的情報の有効利用、価値の多様性の尊重、動機付けの容易さといった特質を持っているが、効率性と分配の公正という側面で不備をもっている。公共政策にも不備と限界があり、副作用の危険が存在する。」(p.286)
(2017.8.6)
- 「進化をめぐる科学と信仰〜創造科学などを考えなおすわけ」大谷順彦著、すぐ書房(ISBN4-88068-281-0, 2001.4.5)
「たとえ敬虔な信仰者であっても、罪人で道徳的に完全ではありえないし、信仰のみで聖書を正しく解釈することも不可能です。また、科学の領域外の真理を否定し、科学知識のみが真理で、科学が真理を独占するものだということもできません。人間であるかぎり科学者の能力には限界があり、誤りを犯す可能性ももっています。このような人間の限界を認めれば、信仰者にも、科学者にも、おたがいに寛容で、独断を避けた、オープンな(開かれた)姿勢が要求されることは明らかです。このように人間性の限界を認めたうえで、当書は、科学と信仰を正しく理解すれば、この両者はけっして衝突する必然性をもつものでなく、むしろ両者の正しい理解によって人間の世界観は広くなり、認識が深化され、宇宙や自然についての理解が豊かなものとなるという視点にもとづき、科学と信仰、とりわけ進化論と信仰の問題について考察しようとするものです。」(はしがき (i))わたしが思いつくような視点・論点は、網羅されており、詳細に資料もあげて丁寧に論じられている。膨大な文献を読みこなしておられるだけでも、敬服する。力作ということばは適切ではないかもしれないが、経済学者である著者が使命感と研究者としての粘り強さをもって、さらに、自然科学に近い社会科学者・信仰者としての謙虚さをもって書かれたすばらしい本である。このような任を負ってくださった著者に感謝すると共に、自分のこれからについての責任についても考えさせられた。以下は備忘録(短くするなど多少改編してある)「科学の主要目的を反証にあるとするのは、科学の目的を限定しすぎであり、反証可能性はそれほどうまく科学と非科学を区別できません。」(p.9)「一般に科学を実践している研究者は、理論的概念がなんらかの実在に対応するという信念に忠実であろうとして、ふつう科学的探求にたずさわります。また、自然現象の背後にある、直接観察できない構造、過程、要因を発見し、それらにうったえて現象を説明するのが、科学者の基本的な姿勢だとします。」(p.13)「実在主義」(p.14)「科学の一分野で確立された知識を評価するうえで必要とされるのは、科学を実践する研究者がどのように科学研究を実際に遂行し、その成果を実際に評価しているかを確認することです。」(p.19)「価値基準:(i) 実証的に正確 (ii) 斉合性 (iii) 他の理論と比較して斉合性がある (iv) 複雑なものより単純なもの (v) 新規性 inovative (vi) 十分に根拠がある形而上学的な考えと矛盾しない。職業的価値基準:(i) 職業的技術 (ii) 職業的清廉性」(p.25)「科学と信仰の領域が分離しているかどうかを議論することなく、人間活動の一部をなすものとして科学研究や信仰をとらえ、実践的に科学と信仰を分離・独立させるのが社会秩序にとって健全。」(p.31)「キリスト教的世界観のもとでの科学の前提:(i) 被造物は、神のみこころと属性を反映し、合理的な秩序と構造をもっている。(ii) 自由な神の創造的み業を反映し、ダイナミックで恐るべき多様性をもっている。(iii) 宇宙や自然は contingent な秩序であるゆえに、実験や観察など実証的方法と考察を求める。(iv) 「神のかたち」に似せて創造されている人間が許された範囲で理解できる。(v) 宇宙や自然のパターンとシンクロナイズできる。(vi) 研究者間の情報交換が可能である。」(p.46)「長期予測のような虚飾は断念すべき。最良の行動がどのような結果をもたらすかは知り得ない。理解と潜在的な理解の規模に限界があることを認めざるをえない。(Stuart Kauffman)」(p.78)「モアランド:有神論的科学は、(i) 全知・全能の人格者で、超越者である神は直接の一時的な作用者としての原因によって、また間接的な二次的な作用者としての原因によって、目的をもって世界を設計した。また、様々な時期に、世界が生成される道程に直接干渉された。(ii) 科学の実践と科学的方法を利用する枠組みの中に、設計者なる神を適切に組み込むことによって (i) に表現されている主張を明らかにすることができる。」(p.97)「奇蹟:限界のある人間の知識では説明できない、通常の成り行きを逸脱した意味であって、自然法則に反した出来事だと理解する必要はありません。(神は真実で忠実なかた)」(p.154)「女の創造に関するユーモア」(p.157)「Stott: ホモ・ディヴィアヌス、宗教人」(p.158)「アーカンソー裁判:Judge, William Overton: Decision of the Court, p.365-397, Ashley Montagu ed. Science and Creationism, Oxford University Press, 1984」(p.197)「英米の差」(p.208)「まどみちお(阪田寛夫著「まどさん」p.161)」(p.223)「The Center for Theology and the Natural Sciences, http://www.ctns.org」(p.229)
(2017.8.12)
- 「確率・統計」篠原昌彦著、朝倉書店(ISBN978-4-254-11468, 1989.7.10)
数学サマーセミナーの教科書。セミナーでは、4章1節まで読み、あとは、大学院生が残りの部分を解説してくれた。行きに4章まで、帰り道で残りをほぼ読み終えた。大学一年次の微積と線形代数のみを仮定し、ルベーク積分が必要な箇所は、結果のみという形式で、確率論をていねいに論じ、統計への橋渡しについて、ある程度ページ数をさいて説明し、そのあと、基本的な統計の事項について解説している。簡単な部分に証明をつけ、少し難易度の高いものを練習問題にしているなど、気になる部分はあったが、確率論からはじめ、統計への橋渡しについて述べるという著者の意図は一応、達成していると思われる。参考文献を見ても古典と言われるものが多く、初学者にとって読みやすいかは多少疑問が残る。少なくとも本文の理解に関係する部分については、もう少し、練習問題の解答を丁寧につけるなどが必要と思われる。朝倉書店のホームページの紹介は以下の通り:“チャンスの神様”が織りなす世界をエレメンタルに明示。〔内容〕ランダムな現象と確率空間/確率変数とその分布/平均値,分散,共分散/正規分布/ランダム・サンプリング/推定/検定/分散分析/線形回帰論
(2017.8.30)
- 「聖書を読んだ30人 夏目漱石から山本五十六まで」鈴木範久著、日本聖書協会(ISBN978-4-8202-9247-0, 2017.5.1)
岩波書店の「内村鑑三全集」の編集もしている著者は、これまで多くのキリスト者について著述があるが、この書は、キリスト者に限らず、それぞれが読んだ聖書について記録している。気軽に明治以後の人たちに与えた聖書の影響について垣間見ることができ興味深い。30人は以下の人たちである。「夏目漱石 / 田中正造 / 荻野吟子 / 内村鑑三 / 石井亮一 / 太宰治 / 井口喜源治 / 高村光太郎 / 市川栄之助 / 川端康成 / 山室軍平 / 倉田百三 / 新島襄 / 石坂洋次郎 / 新渡戸稲造 / 芥川龍之介 / 西田幾多郎 / 長谷川保 / 吉野作造 / 中勘助 / 野村胡堂 / 坂田祐 / 賀川豊彦 / 音吉 / 堀辰雄 / 山本五十六 / 萩原朔太郎 / 斎藤勇 / 八木重吉 / 鈴木大拙」(日本聖書協会ホームページより)以下は備忘録。「内村鑑三:『真理を証しする三者』『自然(または『天然』Nature)・人間(または『歴史』Man)・聖書(Bible)』」
(p.34)「山室軍平:経典余師(他の先生)実行的又心霊的教訓」(pp.68,69)「新渡戸稲造:バイブルに書いてあろうとなかろうと、自分で考えて善いとみ、正しいと思ったことは実行すべきである。」(p.90)「芥川龍之介:世におけるキリストの孤独、寂寥(せきりょう)に芥川が強く惹かれていたような気がしてならない。」(p.98)「内村鑑三:『父よ、この時より我を救い給え(ヨハネ12:27)』ここは、ek であって apo ではない。」(p.106)「吉野作造:『デモクラシーの本質』は『人格主義』であり『我々は総ての人類を神の子として総ての人類に一個の神聖を認め、固くキリストに結んで居る』こと。」(p.111)「坂田祐(たすく):『(関東学院)人になれ、奉仕せよ』『おのれの心を治むる者は城を攻め取る者に愈(まさ)る』(箴言16章32節)」(pp.129,130)「八木重吉:聖書を読むようになってから『自分には善い考へが何もないこと』がわかり、人とは論じなくなった。かわって聖書には『私よりずっとよいことが書いてあるから見て下さいと云って黙ってしまひます』」(p.168)「八木重吉:聖書をよんでも、いくらよんでも感激がわかなくなったら、聖書を生きてみなさい、ほんのちょっとでもいいから」(pp.170,171)
(2017.9.2)
- 「旧約聖書の誕生」加藤隆著、ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-09411-7, 2011.12.10)
以前に同じ著者の「新約聖書の誕生」を読み、特に旧約聖書の成り立ちについてもう一度、ある視点からまとめてあるものを読んでみたいとおもって手に取った。学問的な視点は常に刺激的である。しかし、不明な点も多い中、学術論文としてではなく、入門として書かれているので、もう少し根拠を知りたくなる部分が多かった。以下は備忘録。「近代以降は科学的探求が極端に進展し、またその効果が目覚ましいために、科学的態度を養うことが教育であるような錯覚が存在するようである。しかし、科学は理性を駆使した自然への一つのアプローチに過ぎない。また共同体生活の俗的な面で秩序だって暮らすための手段ないし心構えを身につけることだけが教育だとされてしまっている傾向がある。このような観点においては、人間存在のひろがりの重要な部分が忘れ去れてしまっている。人間は科学者でもあり得るし、社会の中での穏当な生活者でもあり得るが、人間がそれだけではないことは明らかではないだろうか」(p.100)「王に関する四つの原則(1)ダビデの子(2)即位式(3)油注がれたもの(4)神の子」(p.137)「祝福:相手との肯定的な関係を受け入れること」(p.144)「神は因果応報の論理に従ったり、何らかの善悪の基準に従ったりして世界を動かしているのではない。」(p.150)「Gen 2:15『人は地を耕す(ハーラシュではなく、アーバド(仕える))』神の僕『エベド(アーバドの名詞形)・ヤーヴェ』で、この節の意味は『地に、僕として、奴隷として仕える』」(p.156)「愛とは捨てないこと」(p.202)「閉じていないことに意味があるものとして制定された律法を、どんな歴史的事情があるにしても閉じたものとしてしまうのは、もしかすると律法そのものの根本的精神の裏切りになってしまっているのかも知れない。」(p.384)「ミドラシュ(解釈)・ハラカ(付け加えながら生活に密着した)とミドラシュ・アガダ(教訓的エピソード)。」(p.388,p.391)「文書の一部が黙示的なもの:Is 24-27, Ez 38-39, Zech 9-14, Mk 13, 2 Thess 2」(p.492)「『エクソドス』(Lk 9:31) 生からでること、死ぬことも意味する。」(p.540)資料:academic-bible.com(p.581)「『少年老いやすく、学なり難し』『学』の行き着く先は『老』であり『死』である。これに対して『生』の背後には『神』がある。世俗化した今に合うように言うならば『人』がある。『神』『人』の世界には『生』がある。聖書中心主義にならず『老』『死』ではなく、『人』『生』の側を学ぶできではないかと示唆して、本書を終えることにする。」(p.584)特に最後の言葉は素晴らしい。
(2017.10.15)
- 「うしろめさたの人類学」松村圭一郎著、ミシマ社(ISBN978-4-903908-98-4, 2017.10.5)
贈り物と、お金で交換できるものについて書いてあり手に取った。エチオピアにも興味を持った。異質のものと出会うと、自分自身について理解が進むことは確かだが、むずかしさ、複雑さがさらに際立っていくだけのようにも思われる。以下は備忘録だが、この本の中で引用されている言葉が中心となっている。「自分の『こころ』が人間の性格をつくりあげている。誰もがそう信じている。でも、周りの人間がどう向き合っているのかという、その姿勢や関わりが自分の存在の一端を作り出しているとしたら、どうだろうか。ぼくらは世界の成り立ちそのものを問い直す必要に迫られる。ある人の病や行いの責任をその人だけにおわせるわけにはいかなくなるのだから。」(p.11)「カナダの哲学者であるイアン・ハッキングは、構築主義者の多くが社会の現状に批判的なので、(1)Xのあり方には必然性がない。→(2)Xは悪い。→(3)Xを排除すればましになる。といった論理構成をとる、と指摘する。」(p.16)「モースは言う。『贈り物というのは、与えなくてはならないものであり、受けとらなくてはならないものであり、しかもそうでありながら、もらうと危険なものなのである。それというのも、与えられるものそれ自体が双方向的なつながりを作り出すからである。そのつながりは取り消すことができないからである。』(贈与論)」(p.19)「アーヴィング・ゴッフマンは、人はコミュニケーションのなかで状況の定義を投企し合う、と表現した。ふたりがどんな関係なのか、そのありうる選択肢のなかから、ある定義を相手に投げかけ、それが受け入れられるか、あるいは相手から投げかけられた定義でしっくりするのか、つねにお互いに調整しあっているのだ。」(p.75)「ぼくたちは、どうやって社会を構築しているのか。いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか。」(p.81)「フランスの人類学者ピエール・クライストルは、国家の本質には『多』ではなく、『一』への志向性がある、と言った。国家の領域と国民の範囲がひとつとなり、国家の意思とひとつとなる。『一』なるものへの支配と服従。それが国家に内在する機構なのだと。」(p.112)「沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミスは言う。芋とか、にんじんとか、大豆とか、豆腐とか、日々の生活に必要不可欠なもののコマーシャルはない。コマーシャルは、基本的にいらないものを買うように消費者を説得するためのものだ。と。この誘惑の構造が、誌上を動かす力になっている。」(p.130)「人類学者のイゴール・コピトフは、モノは「いつでも交換できる商品」と「交換不可能なかけがえのないもの」というふたつの極のあいだを揺れ動いている。と指摘した。たとえありふれた商品でも、亡くなった家族が愛用していたら、値段をつけられない貴重な形見となる。ぼくらはこうしたモノの連続的な動きのなかに仮の区切りを入れる。これは売られている商品、こっちは大切な贈り物といった感じで。こうして『市場』の輪郭が浮かび上がる。」(p.148)
(2017.11.17)
- 「2017木陰の物語 見える・見えない」団士郎、ホンブロック
友人からいただいた小冊子である。(116頁)最初に「すべてを分かるとは思わない でも少しでも分かりたいと思う」とあり「旅の効用」「物語の隣人」「くやし涙」「普通のいい子」「三千里」「夢のつづき」「あとがき」と短い文章がおさめられている。発行所:ホンブロック
(2017.11.20)
- 「科学が宗教と出会うとき 四つのモデル」I.G. バーバー著、藤井清久訳(Translation: When Scinece Meets Religion, Ian G. Barbour)教文館(ISBN 4-7642-6649-0, 2004.8.25)
著者は1923年生まれ。アメリカの物理学者・キリスト教神学者。中国で宣教師の子として生まれ、イギリスを経て、アメリカへ。シカゴ大学で物理学者フェルミの助手を務め、1950年物理学の博士号を受ける。1956年には、イェール大学から神学博士の学位を受け、カールトン大学で物理学と宗教学の両学部で教える。訳者は、国際基督教大学キリスト教と文化研究所非常勤研究員。科学と宗教の問題をそれまでの対立と独立の考え方だけでなく、対話と統合を加えた四つのモデルでとらえ、天文学と創造(第二章)、量子物理学が意味すること(第三章)、進化と継続する創造(第四章)、遺伝学、神経科学、および人間の本性(第五章)、神と自然(第六章)とかなり広い範囲において四つのモデルに分けて語っている。よくまとまっているが、その広さの故に、訳者も読者であるわたしも十分理解できているかは不明である。少しずつ学びを深めたいと思う一方、この分野がこのように学問的に語られると、数学と数学基礎論の関係のように、科学と宗教とも異なる1分野、おそらく、科学哲学の1分野という位置づけとなり、人間としての自然な疑問からは、少し離れてしまっているようにさえ感じる。学問とは、そのようなものなのだろう。以下は備忘録。「(手引き書は)じかに接する探求の代用品としてではなく、人々が自分自身の道を見いだすことを手助けするのが、その意図である。」(p.23)「科学は、錯誤と迷信から、宗教を浄化することができる。宗教は、偶像崇拝と誤った絶対化から、科学を浄化することができる。それぞれが、より広い世界に、つまり両方ともが繁栄することができる世界に、他者を呼び込むことができる。(ヨハネ・パウロ二世)」(p.39)「前提や限界問題のような、方法論的かつ概念的平行関係が、それぞれの分野を傷つけることなく、科学と宗教の間に重要な対話の可能性をもたらす。」(p.54)「キリスト教徒の生活の中心は、環境への再適応の体験、破局からの癒やしと新しい全体性の獲得、および神と隣人への新しい関係への表明である。」(p.68)「このような議論は、聖句の中心的な宗教的指針から注意をそらしてしまう。」(p.82-3)「今のところ、他に類を見ないビッグバンが、最も妥当な理論と思われる。そして有神論者は、それを神による創始の瞬間と見ることができる。しかし、我々は、自らの宗教的信仰を、一つの理論に決定的に結びつけるべきではない。」(p.107-8)「ナポレオン『ラプラスさん、宇宙体系についてのこのような膨大な著作を書いても、あなたは一度としてその創造主に言及したことがない、と皆が私に言うのですよ』ラプラス(還元主義)『私には、そのような仮説の必要はありません。』」(p.118)「人間の本性の理念は、二元論ではなく、総合体を暗示する。これらの用語が直感的に示唆するような対照が、身体と霊魂との間にあるのではない。(H.ウィーラー・ロビンソン)」(p.203)「聖書の人間観は、二元論的ではなく、全体論的えある。(中略)つまり人間は、霊魂、身体、肉組織、精神などの統合体であり、すべてがひとつになって人間全体を構成する。」(p.204)「人間は、身体と霊魂の両方をもつ主体者である。」(p.208)「それゆえ原罪は、アダムからの遺産ではなく、人間差別、抑圧、および暴力を永続させる罪深い社会構造の中に、我々が生まれているという認識である。すべての集団は、自己利益の正当化に気づかず、自らを絶対化する傾向がある。個人の貪欲と同様、社会的不正義は、神の意思と正反対である。」(p.210)「購いとは、神との、他の人々との、そして他の被造物との関係の回復である。破局と疎外が、全体性、癒やし、および和解に取って代わるとき、購いが生じる。」(p.211)「責任ある行為の主体者」(p.213)「最近の神学と最近の科学の両方が、生物学的有機体であると同時に、責任能力を持つ自己である、多水準的心身統合体という人間観を指示していると私は信じる。」(p.233)「それゆえ自己は、ばらばらな存在としてではなく、考え、感じ、そして行動する統一された活動のなかの人格と見なすことができる。」(p.233-4)「還元主義的科学は、全能である。科学が乗り越えられない障壁に遭遇したことは一度もなかった。あるいは、科学は乗り越える力を持っているし、また、やがてそうすることができるようになると、考えることが合理的である。宗教は失敗した。そしてその失敗をさらけ出すべきである。知性にとって至高の喜びである。最小のものを認識することを通して、普遍的能力の追求に今や成功した科学が、王者であることを認めるべきである。(ピーター・アトキンズ)」(p.242)
(2017.11.28)