Last Update: December 25, 2016
2016年読書記録
- 「それでも神はいる - 遠藤周作と悪」今井真理、慶應義塾大学出版局 (2015.8.27, ISBN978-4-7664-2254-2)
遠藤周作に伴って取材活動を手伝っていたこともある文芸評論家が書いたまさに、タイトル通りの評論である。文学自体をあまり読まず、文芸評論に興味がないわたしがこの本を手に取ったのは、タイトルに惹かれたからだと思う。エッセイを別として、遠藤周作の著作も、海と毒薬、沈黙、深い河以外、私は読んでいないように思われる。さらに、この本を読んでいて、海と毒薬については、殆ど覚えていないことも露見してしまった。しかし、一通り、タイトルについて、考えることはできたのではないかと思う。以下は例によって備忘録。「父とともに労働力として選別され、宿舎に向かって歩かされていたエリが眼にしたものは、地中に掘られた大きな穴だった。穴の中には焔が揺れていた、ナチはエリと父の目の前で、赤ん坊や幼児を、生きたまま穴に放り込んだ。それでもなお、祈りを唱える父に憤りを感じたエリが次に見たものは、母と妹たちが焼かれ、煙突から空に向かって立ち上る煙だった。その夜、エリはこう綴った。『私の<信仰>を永久に私から焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、けっして私は忘れないであろう。生きていこうという欲求を永久に私から奪ってしまった。この夜の静けさのことをけっして私は忘れないだろう。私の神と私の魂とを殺害したこれらの瞬間のことを、また砂漠の相貌を帯びた夜ごとの私の夢のことを決して私は忘れないであろう』」(p.8-9)「当時ジュネーブの赤十字ですら、ドイツ占領地域における難民救済が困難になることを恐れ、ユダヤ人殺害を公然と批判することは出来なかった。しかし、そのときに法王庁は1941年、42年にわたって少数民族を圧迫することは許されない、とのメッセージを出している。さらに数千人のユダヤ人を修道院に匿った。ナチはその報復として、まずはじめにカトリック信者のユダヤ人を見せしめに収容所送りにした。」(p.14) 「遠藤はイエスの復活について、二つの意味づけをしている。一つはイエスが神の生命の中で永遠に行き続けること。そしてもう一つはイエスの教えが人々の心のなかに何時までも再生することである。」(p17)「人間凝視の欲望と信仰との相克」(p.48)「肉欲と残酷との秘儀(それ故にぼくはサドにひかれ始める)はこの短い小説の中であきらかである。ぼくの場合、モーリヤックの影響の下に、肉欲と罪とは切り離せない。ドストエフスキーの影響の下に、罪は人間を啓示する最も大いなる深淵である。そしてこの戦争の影響の下に、罪と残酷とは僕から切り離せなくなった。ぼくは今日、情欲と残酷との関係を調べる事に心ひかれているのである。」(p.60)「イエスが孤独なままで捕われ、苦しみ、死ぬかもしれぬと考えたのは彼だけだった(「イエスの生涯」におけるユダの叙述)」(p.99)「いつかイエスが捕えられ、死ぬかもしれないことは他の弟子たちも感じていたかもしれない。しかし孤独なまま、誰にも真意を理解されずに死んでいくことを予感していたのはユダだけだったと遠藤は捉えた。」(p.99)「私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」(p.101)
「カールバルトによれば、この供述(『臓腑(スプラッタナ)』)『ユダが自分自身の内部から崩壊していったことをはっきり言い表している』」(p.128)「先に『影の世界は暗闇の世界』と述べた河合隼雄は、こうも述べている『人間にとって影とは不思議なものである。それは光のあるところには必ず存在する』と。影は光のあるところに必ず存在するなら、ひかりはまた人間が生み出す影、そして闇のあるところに存在するに違いない。つまり、そこに存在するものは、決して消えることのない悪の世界とそれ故人間が求め続ける光の世界である。」(p.167)
(2016.1.1)
- 「Rによるデータマイニング入門」山本義郎・藤野友和・久保田貴文共著、Ohmsha (2015.11.20, ISBN 978-4-274-21817-0)
第一部 R を使ったデータマイニングの準備、第二部 データマイニング手法、第三部 データマイニングの実践例 と三部構成になっている。第二部は様々な分析手法の紹介があり、第三部には、第二部で紹介したいくつかの手法の評価、株価データを用いた総合指標の作成と、Twitter API をつかい、形態素解析まで解説している。このような種類の他の本と同様に、データやスクリプトもホームページで提供している。入門ではあるが、データマイニングは実際どのようなことをするのか、その可能性もふくめて紹介する本としては、適切であると思われる。複数著者の利点かもしれない。学生にそれぞれの手法を勉強して発表してもらうのにもよいかもしれない。
(2016.2.7)
- 「若者と生きる教会-伝道・教会教育・信仰継承」大嶋重徳著 (2015.9.20, ISBN 978-4-7642-7398-6)
2014年11月17-18日に開かれた日本基督教団中部教区教師会での講演に加筆・修正をしたもの。著者は1974年福知山市生まれ、京都教育大学、神戸改革派神学校で学ぶ。KGK副総主事、鳩ヶ谷福音自由教会協力牧師。講演1 若者と生きる教会ー失敗につきあう大人たち 講演2 若者に伝える教会ー教会教育と信仰継承 資料:若者の教会に対する意識調査。意識調査は有効回答数308通。「きちんと悩もう」(p42)「超教派」(p43)「何をどのように考えればよいのかを考える力」(p52)「若者と人格的な交わりを持ってくれる大人の存在」(p59)「日本福音自由教会:教会学校出席数:1980-85, 1989-48, 1995-28, 2014-18(61教会平均、会員数、礼拝出席数は横ばい5000弱)」(p65)主眼が教会や教会学校の人数をいかに増やすかに終始しているとことにさびしさを感じたが、それが現実、牧師の一番の関心事なのだろう。技術的なことばかり続いていたのも寂しさを感じた理由かもしれない。しかし、伝統的教団では高齢化はさらに悲惨であろう。キリスト教会がかたる福音が現代の問題に答えられていないということだろう。これは、日本に限らないと思われる、人数的には成長している国地域においても。
(2016.3.19)
- 「一流はなぜシンプルな英単語で話すのか」柴田真一著、青春新書 (2016.3.15, ISBN 978-4-413-04479-0)
知人の著者から献本でいただいたので、読ませていただいた。著者は、みずほでドイツ、イギリスで20年働いたビジネスマンで現在は、大学教員、NHKラジオ講座「入門ビジネス英語」講師。Communication for International Business, by Bob Dignen, Collins からの引用として、Native Speaker への指針として、 • Slow down and stay slowed down • Speak more simply • Check understanding • Speak less • Avoid humour • Take turns • Avoid sudden change of subject • Native-to-native: be careful, Native 同士で話したときは、概要を説明するなども重要があげられていた。これは、逆の立場でもあることで、国際的に生きる上で必須のことでもある。取り上げている表現は、個人的にもよく使うフレーズが多い。ただし、いくつか自分が使ったことがない表現・語用があったので、あとで備忘録として記す。特に、Column は国際ビジネス一年生向けの、先輩からのメッセージとしても興味深い。「(コミュニケーション力は)国際ビジネスの社会では、自分の意見を伝えると同時に、相手の意見に耳を傾けて理解を示しながら、異なる意見・立場・文化などを超えて話をまとめていく説得力・折衝力」(p.6)しかし、fulfilling and rewarding (p.26) のように、個人的には好まず、使わない表現も含まれている。ビジネスの世界と、わたしのようなものが好きな表現を選んで使う世界とは異なるのであろう。以下は私は知らなかった表現の、備忘録。edge 強み、優勢 (p.79)、terms and conditions (契約上の)条件 (p.101)、outstanding issues 未解決の問題 (p.114)、pencil in 仮の予定を入れる (p.126)、touch wood 英=knock on wood 米 うまくいきますように (p.139)、cherry pick たくさんある候補の中から選ぶ (p.140)
(2016.3.22)
- 「イエス伝」若松英輔著、中央公論社 (2015.12.10, ISBN 978-4-12-004803-6)
著者は、1968年生まれの批評家で、カトリックの信者。おそらくリルケについても書いておられるのだろう。リルケで卒業研究をした学生からプレゼントされた。文芸批評家らしい文体で、わたしには、とうていこのようには書けないが、正直、内容に新鮮さは感じなかった。わたしも詳しくはないが、アラム語、ヘブル語の知識をどの程度踏まえているのかも、不明で所々違和感があった。以下は備忘録「もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません。あなたご自身こそ非難しなさい。あなたがまだ本当の詩人ではないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言い聞かせることです。(リルケ『若い詩人への手紙』)」(p.117)「神がみずからに等しくかたどり創造した人間の魂こそがこの神殿である。(『エックハルト説教集』より)」(p.178)「そうした人々を前にしてエックハルトは、たとえ、善き行いであったとしても、それと引き換えに神に何らかの義務を課そうとするものは、誰もが『商人』であり、神殿から追放されるというのである。」(p.184)「日本における宗教哲学の草分けとなった波多野精一は、『将来』と『未来』を峻別した。『将来』とは、将に来たりつつあることであり、『未来』とは未だ、あるいは永遠に来たることのない事象をさすと言う。」(p.198)「この一節(使徒1:16-19)の一節にふれながらバルトは、『はらわた』が流れ出るとは、人間の分際を超え、破滅的な運命を生きなくてはならなかったものの境涯をしめしている、と言う。ユダは、すべての弟子たちが束になっても背負いきれないなにかを一身に引き受けて生きた。」(p.238)
(2016.5.3)
- 「地球はひとつ ONE EARTH, OUR EARTH アートによる世界人権宣言」アムネスティ・インターナショナル日本支部 編、金の星社 (1998.11, ISBN 4-323-07006-3)
世界人権宣言 (Universal Declaration of Human Rights) が、1948年12月10日にパリで開かれた国際連合の総会で当時加盟していた56カ国によって採択されてから50周年を記念して、アムネスティ・インターナショナル日本支部で呼びかけ、22人のアーティストが無償で提供したアートに、これも、ボランティアで翻訳を担当した谷川俊太郎の訳をそえて刊行したもの。表紙はアムネスティ・インターナショナルのシンボル、有刺鉄線にまかれたろうそくである。「暗闇をのろうより、一本のろうそくに灯をともせ(なげくだけでなにもしないより、小さなことでも何かをすべきである)"Better to light a candle than to curse the darkness" (one should do something, however small, instead of just lamenting and doing nothing)」とのメッセージをこめて。イギリスの弁護士ピーター・ベネソンによって始まったアムネスティ・インターナショナルの活動についての説明、日本支部長のイーデス・ハンソンのメッセージ、さらに、いくつかのメッセージがそえられている。以前から谷川俊太郎訳は知っていたが、この絵本はコンパクトによくまとまっている。日英両語で読めるようになっている。英語にも、谷川俊太郎訳のようなものがあるのだろうか。また探してみよう。「第一条(みんな仲間だ)わたしたちはみな、生まれながらにして自由です。ひとりひとりがかけがえのない人間であり、その値打ちも同じです。だからたがいによく考え、助け合わねばなりません。」最後の助け合い、ピアサポートが鍵であるように思われる。心に残った一文「自由になりたい 魏京生(ウェイ・ジンシェン)わたしがだれかほかの人のことを心配したり、だれかがわたしのことを心配してくれるのは、ごくふつうのことです。でも、奴隷の所有者は、ほかの人が奴隷のことを心配するのが許せません。他人が関わることではないといいます。人権を守らず、国民に自由に言わせないようにする国の姿勢は、まるで奴隷所有者そのものです。I WANT MY FREEDOM Wei Jungsheng "That I worry about someone, or someone worries about me, these things are only natural. However, slave owners cannot stand someone worrying about a slave. They say taht it is none of a stranger's business. The attitude of a country that neigher protects the human rights of its people nor allows them to speak their opinion freely has entirely the attitude of slave owners themselves.」
(2016.5.7)
- "ELEANOR ROOSEVELT - Democrat and Humanitarian", Introductory Essay by Matina S. Homer, President, Radcliffe College, TOOR, in Series of American Women of Achievements, Chelsea House (1989, ISBN 1-55546-674-5)
Theodore Roosevelt の弟の Elliott Roosevelt と 美貌の Anna Hall Roosevelt の間に、1884年に生まれる。やはり、Roosevelt 家で遠い親戚の Franklin Delano Roosevelt と結婚、FDR は 13年間大統領をつとめた、First Lady である。世界人権宣言 (Universal Declaration of Human Rights, 1948年12月10日) の起草をした UN Commission of Human Rights の座長をしたことぐらいしか知らなかった。絵本のような体裁の本で気軽に手に取ったが 111page は十分に濃い内容が書かれている。1章は、Concert in Washington で、すでに世界的に有名だった Marian Anderson のコンサートが、黒人であるという理由で、Constitution Hall の使用が拒否されたことに抗議して、the Daughters of American Revoluton (DAR) を脱会した 1939年のエピソードから始まっている。このコンサートはリンカーンメモリアルで 75,000人を集めて開かれた。不遇な幼少時代、イギリス留学での Marie Souvestre 先生との出会い、夫の、Lucy Mrecer との不倫(結局夫の死まで続く)や、夫の母との確執、夫がポリオで歩くのも困難になり、その足となって全米や、世界を回ったことや、何人もの彼女の批判者のことも書かれている。 行動の人でもある。77歳のときの interview "I know I should slow down, but I think I have a good deal of my uncle Theodore in me, because I could not, at any age, be content to take my place in a corner by the fireside and simply look on. Life was meant to be lived. Curiousity must be kept alive. The fatal thing is the rejection. One must never, for whatever reason, turn his back on life." はよくその生き方を表していると思う。もう少し、勉強してみたい、この人のことを。
(2016.5.14)
- 「エリノア・ルーズベルト」デイビット・ウィナー著、箕浦万里子訳、偕成社 (ISBN978-4-03-542180-1, 1994.2.1)
「Eleanor Roosevelt アメリカ大統領夫人で、世界人権宣言の起草に大きな役割を果たした人道主義者」と表紙にある。伝記、世界を変えた人々18。文章にすべてルビがついており、若い読者を意識していることがわかるが、日本語を学ぶ人にも有効であるし、多くのひとにとっても読みやすいことを考えると、特にティーンエイジャーやその若い世代を意識することもないかもしれない。ただ、批判的な記述は少なく、偉人伝的な色彩が強いことは確かである。コラムに多くの人のことばが書かれていたり、写真も多く、読みやすい。以下は備忘録。「彼女は、外から見ると夢をみているような理想主義者でしたが、たいへん実際的で、タフな人でした」(p.8)「スペスター先生は、生徒に『人間というのはだれもが、この世をよりよくするために生まれてきました』と教え、当時の強い国が弱い国を従えるという政治の考え方も、批判していました。先生は、イギリスやアメリカの植民地政策に反対し『権力はかならずしも正義ではありません。大国は小国が自分の力で国を治めることを許すべきです』と考えていました。」(p.26)「西側諸国では、『人権』とは、まず政治的迫害、投獄、拷問などから人々が守られる権利と考えていました。(中略)逆にソビエト代表は、『人権』を、雇用、医療、教育の権利や、飢餓からの自由と考えていた」(p.126)「普遍的な人権とは、どこからはじまるのでしょう。じつは、家の周囲など、小さな場所からなのです」(p.132)「1966年、世界人権規約、1976年国際憲章、1989年『こどもの権利条約』」(p.134)「人生とは新に生きるためのものです。好奇心を失ってはいけません。どんな理由であれ、人生に背を向けてはならないのです。」(p.156)「世界人権宣言を差作セ作成する小委員会、ルネ・カサン博士など9人」(p.183)UNでの講演などのビデオ
(2016.6.26)
- 「ITエンジニアのための機械学習理論入門」中井悦司著、技術評論社 (ISBN978-4-7741-7698-7, 2015.11.15)
リンク:サポートサイト (目次を含む PDF や、ダウンロードサイトへのリンクあり)。ツールとしては、NumPy, SciPy, matplotlib. pandas, PIL, scikit-learn, IPython を用い、IPython のためには、開発環境の canopy を紹介している。機械学習とはどのようなものを言うのかを理解するために読んでみた。プログラムをすべてチェックしたわけではないが、実際にプログラムを動かすこともでき、理解のたすけになる。数学徒の小部屋として背景の数学もある程度紹介されているので個人的には理解しやすい。Christopher Bishop の "Pattern Recognition and Machine Learning" (和訳あり)など基本的な参考図書も紹介されており、わたしの期待したことはすべて得られたと思う。パラメトリックモデルの三つのステップ (1) パラメターを含むモデル(数式)を設定する。(2) パラメターを評価する基準を定める。(3) 最良の評価を与えるパラメターを決定する。(p.72, 86, 119, 206 と4回掲載)をテーマのように記している。まだよく見ていないが、IPython のプログラムはそのままでは動かないものがあるように思われる。
(2016.6.26)
- 「ヨハネによる福音書」カールバルト著、吉永正義、木下 量煕 訳、日本基督教団出版局 (1986.6.20)
バルトによるヨハネによる福音書1章から8章までの講解である。聖書研究の準備で1年半ほどかけて読んだ。一文一文が長く、内容が詰まっている文章であるので、ゆっくり読まないと理解できない。おそらくそれは訳の問題ではないのだろう。バルトの著作を読んだのは初めてであると思う。内容は詰まっているが、講解ということで、新鮮みを感じる部分とそうではない部分とがあった。1925-6 ミュンスター大学での講義を 1933年に推敲して書いた文章である。緒論では、416年2月にヒッポの司教アウグスティヌスが書いた講解説教の引用からはじめ、福音書の読み方を説いている。一部引用する。「私の兄弟よ、私は次のように言いたい。多分ヨハネ自身もあるがままに話したのではなく(ヨハネ自身も語り得なかったのであるが)一人の人間が、なるほど神から照らされているが、常に一人の人間が、神について語ったがゆえに語ることができたように、ヨハネは話したのである(なぜなら人間が神について語ったからであり、彼は確かに神に霊感を与えられてはいるが、しかもなお人間であったからである。)彼は、照らされたが故に、あることを語った。もし彼が照らされなかったら、彼は何も言わなかったであろう。しかし、照らされた人間であるがゆえに、彼は現にあるものすべてを語ったのではなく、一人の人間が、恵みによって語ることのできるものすべてを語ったのである。」(p.17-18)「耳は私に向け、心はあの方に向けよ」(p.19)「見よ、あなたがたは、あなたがたの目と、あなたがたの体の五感とを我々に上げよ。しかもなお、我々にではなく(なぜなら我々はあの山々(詩篇72:3)には属していないから)福音と福音書記者に上げよ、そして満たされるべき心は主に上げよ。」(p.19)「福音書を読み注解する時には、教師であるのではなく生徒であり、すでに知っている者ではなく、未だに知らない者であろうとする良き意志、まだ未だに聞いたことのない告知に対すると同じように、福音書が、そしてそれを通して神の知恵そのものが、我々に語ろうとすることに対して我々を自由にしておこうとする良き意志が出会ってゆくと言うことである。そういう準備は、要請の対象でありうる。人は、そういう準備を欲することができるし、それは習得しうるし、またそういう準備は可能なのである。それは最後的な言葉ではないし、信仰と同一視もできない。しかし最後よりひとつ前の言葉として、この準備の要請は適当なものである。我々がおかれている状況では、その状況の現実の不可欠な契機として、その状況へおもむく人にはだれも聞き流し得ない仕方で、『あなたがたの心をあげなさい』が妥当するのである。」(p.28)
(2016.6.26)
- 「新渡戸稲造・南原繁と現代の教養」新渡戸・南原賞委員会シンポジウム、新渡戸・南原賞委員会 (2015.3.31)
2014年9月23日、学士会館で開かれたシンポジウムの記録であり、この会を最後に、十回の表彰を行った、新渡戸・南原賞は終わることとなった。第一部 シンポジウム 新渡戸・南原と現代の教養、開会のあいさつ 草場克豪、「センモンセンス」と「コモンセンス」新渡戸の教養観 草場克豪、新渡戸稲造と砂本貞吉ー日本キリスト教女子教育を支えた男たち 湊晶子、南原繁の今日的意義ー平和・教育・宗教・現実的理想主義 山口周三、南原繁のリーダーシップに学ぶー時代を動かすリーダーの胆力 樋野興夫、閉会のあいさつ 松谷有希雄。 第二部 新渡戸・南原賞の記録(2004-2015)以下は備忘録。「婦人が偉くなると国が衰えるなどと云うのは意気地のない男子の云う事で、男女を織物に譬うれば、男子は経糸で女子は緯糸である。経糸が弱くても緯糸が弱くても織物は完全とは云われませぬ」(p.16, 東京女子大学開校式での新渡戸の式辞、中島みゆきの「糸」の背景にあると思われる)「新渡戸にとって、『大学は偉大な人格に接する所』でした。学問の第一目的は、心をエマンシペート(解放)することであり、精神をリベラライズ(自由化)することでした。そうした視点から、彼はアメリカやドイツにおいても大学が職業教育を重視するようになってきていることを指摘し、批判しています。」(p.26)湊晶子の話は、東京女子大学、広島女学院の学長をしただけあって、資料も多く詳細。話のなかの砂本貞吉(1856-1938)は広島女学院(最初は広島女学会(1868),広島英和女学校(1887))の開設者。サンフランシスコ近くのオークランドのメソジスト教会で受洗。ホームページなどもあるが省略。受賞者に知人も何人かおられるが、殆ど知らなかった。
(2016.7.10)
- 「ナウエンと読む福音書 Jesus: A Gospel レンブラントの素描と共に」ヘンリ・ナウエン(Henri Nouwen)著、マイケル・オラーリン(Michael O'Laughlin)編、小渕春夫訳、あめんどう (ISBN978-4-900677-16-6, 2008.4.30)
ナウエンと福音書の結びつきから読むことにした。翻訳者は知人。訳者あとがきにも説明があるが、ことばも丁寧に選び、美しい言葉でかつ語り口調で書かれている。備忘録「わたしはイエスを愛していますが、自分の友人もしっかり確保しておきたい。たとえ彼らが、私をイエスに近づけないときも。私はイエスを愛していますが、自分の独立性も確保しておきたい。たとえそれが、真の自由をもたらさないものであっても。私はイエスを愛していますが、私の専門分野の同僚からの尊敬を失いたくない。たとえその尊敬が、私を霊的に向上させないことがわかっていても。私はイエスを愛していますが、自分の執筆計画、旅行計画、講演計画を捨てたくはない。たとえその計画が、神の栄光を帰すより、もっぱら自分に栄光を帰すものであっても。ですから私は、ニコデモに似ています。彼は夜、人目を忍んでイエスのもとにやって来ましたし、身の危険を招かない安全な仕方で同僚に話しました。」(p.45-46)「宣教とは、神に対するあなたの愛と、同じ仲間へのあなたの愛があふれ出ることです。」(p.50)「イエスは、自分を責めたり、他人を責めたりする問題解決をお許しになりません。彼が突きつけたチャレンジは、私たちの置かれた闇の中で、神の光を判別することです。イエスの目からすればすべてが、たとえ最も悲惨な出来事でさえも、神の業が現れる機会となります。」(p.59)「神の国とは、いつかは到着するだろうと憧れる遠い国のことではなく、死後の生活や理想郷のことでもありません。神の国とは何よりも私たちの内に、神の霊が活き活きと臨在していることであり、私たちが真に願っている自由をもたらします。」(p.62)「人生での経験にじかに触れて初めて、また、解放と新しい命とを渇望する自分の内なる声を聴くことができて初めて、イエスは口で話しただけでなく、私たちの最も個人的な必要に手を差し伸べる方であることに気づくことができます。福音は、記憶すべき価値ある思想を含むだけではありません。私たち個々の状態に応じたメッセージなのです。」(p.69)「今や問題となるのは、救いの杯をどのように飲むかです。自分に与えられた杯をゆっくり飲まなければなりません。一口一口味わいながら、すべてを飲み干すまで!人生をまっとうして生きるとは、杯が空になるまで飲み干すということです。神がそれを永遠の命で満たしてくださると信じつつ。」(p.97)「苦難にあるとき、どんな人であっても、たった一人で取り残されることはありません。神がイエスにおいて、イエスを通してインマヌエル、共におられる神になられたからです。神は信頼に足る方であり、私たちを決して一人に捨て置かない神、すなわち、人間のすべてを理解(understand=to stand under=下に立つ)したいと願っておられる神です。それこそ、私たちの信仰の中心です。それゆえ福音の良き知らせとは、神は私たちの苦しみを取り去るためではなく、その一部になりたいがために来られた、ということですが。」(p.128)
(2016.7.10)
- 「悲哀の人 矢内原忠雄 没後五十年を経て改めて読み直す」川中子義勝著、かんよう出版 (ISBN978-4-906902-65-1, 2016.4.20)
著者は、矢内原(1893-1961)が基礎づけた東京大学聖書研究会で顧問もしている、東京大学教授、専門はドイツ文学・キリスト教思想史。内村鑑三は1930年に亡くなっているが、内村から直接様々な影響を受け、新渡戸稲造が国際連盟事務次長に着任するときに、住友別子鉱業所から呼ばれて、1920年東京帝国大学植民政策講座助教授となる。1925年帝大聖書研究会設立(戦争中一次途絶える)1932年、柳条湖事件についての政府からの調査を断り単身調査旅行をし、軍の自作自演であることを確信、軍と政府とさらに浮き立つ社会を預言者的視点から発言を繰り返し、1937年辞職、戦後復職、1948年 経済学部長、1951年 総長。以下は備忘録。倉田百三の矢内原批判後「霊的実験のない、真の祈りをしない、罪人と称して罪人の友となり得ざる者はのんだくれよりも嫌いである」と石本恵吉から言われ覚醒。(p.21)「矢内原:父と母は救われないのだろうか。内村:わたしにもわからない。」(p.24)「斯かる混沌の中にあって事の真実を見徹し、真実を語る人は実に悲哀の人であります。悲哀の人とは自分自身のことを悲しむ人ではありません。」(内村鑑三没後三周年記念講演「悲哀の人」)「心だに真の道にかなひなば祈らずとても神やまもらん」(菅原道真の引用 p.43)「今の学校は職業的技術教育の機関としては立派である。しかし真理探究の香気はますます失われて来た。そこで私は試みに自分の学校を開いてみようと思う。その特色は基督教の信仰による人格教育であることと、哲学科学文学の諸領域に亘る万有学の講義であることとに置きたい」(土曜学校 p.54)「悔改ということは、罪を知って責任を取るという態度であります。昔の武士で言うならば恥を知って腹を切ることである。」(p.57)「『神の国』は信仰であると共に、事実である。理想であると共に、現実である。我らは世の民としてでなく、神の国の民として生活しよう。神の国の立場と標準とに於いて我らの歩み方を定めよう。これは私自身がこの講習会にて学んだ教訓であった。」(p.69)「人を教える者は、神の前には己が罪と無力を自覚せざるを得ない。その自覚がなければ教育は虚偽となる。ただ、罪の自覚が罪の赦しの信仰となったときに、それは、教育の正しい基礎を形成するのである。」(p.97)「内村鑑三が、最後に神様に対して、ただ祈るだけ泣くよりほかにことばなき赤子としてこの世をお去りになった。これが彼の力の秘密でありました。彼の戦闘力の秘密でありました。彼の愛の秘訣であり、そして彼がわれわれに残した最大の教訓であると私は信ずるのであります。」(p.110)「現代の基督教は社会意識の時代精神を体現する点においてマルクス主義におよばず、従って現代の指導精神としてマルクス主義にとって代えらるできものであろうか。現代の基督教は余りに個人主義意識に没入せる観を免れない。」(p.128)
(2016.7.17)
- 「ルワンダ 闇から光へ 命を支える小さな働き」竹内緑著、日本キリスト教団出版局(ISBN978-4-8184-0895-1, 2016.4.20)
著者は1954年鳥取県生まれの看護師、1992-2010 日本国際飢餓対策機構から、アフリカ緊急救援チームの一員として派遣される。殆どの機関アフリカで働き、一時、親の介護のために日本に帰国、自身の二次トラウマの癒やしのために、イギリスに滞在、学びのために、アメリカの大学に在学、2014年からはルワンダで心に傷をおった人たちを支援する働きをはじめる。ソマリアやルアンダでの壮絶な状況での支援の記録でもあるが、同時に、本人も二次的なトラウマに陥りながら、生き方を探し求める記録でもある。最後に、自身も難民でありながら、虐殺の起こったルアンダで、償いと赦しによる和解を模索するカリサ牧師に対するインタビュー記事が収録されている。vulnerability の大切さを考えている身として、二次的トラウマなどにどう向き合っていくのかについても考えさせられた。正直、ルアンダでの大虐殺の時に起こったレイプの結果として妊娠、出産したこどもが森に捨てられ、それを保護し、多量の孤児の収容しているという事実は、非常にショックだった。以下は備忘録。「この赤ちゃんを救命することができない。しかし、そうであっても私にできることはなにか。それは、やがて、愛しい幼子を失うことになる家族への配慮ではないだろうか。『手を尽くした』と家族が思うことによって、喪失後の悲嘆を幾分かでも軽減することができるのではないか、と考え赤ちゃんを病院へ移送することにしました。」(p.69)「生きている愛は傷つきます(マザーテレサの言葉の引用)」(p.72)「難民の人たちが貧しいから、可愛そうだから助けてあげる、のではないのです。人間としての尊厳を何としても守らなければいけないのです。(緒方貞子の言葉の引用)」(p.75-76)「REACH (Reconciliation Evangelism and Christian Healing) とはルワンダで平和と持続可能な開発、赦しを推進するために活動しているクリスチャンの非営利団体です。1996年の設立以来、宗教指導者、政府、他の団体と共に活動しています。」(p.86)「カリサ:『何がわれわれに分裂をもたらしたのか』『何が虐殺へと導いたのか』セミナーではこれを問いますが、実は、私自身、明確な回答を持っていません。各自異なる見解があり、それぞれの背景があるのです。」(p.88)「トラウマは人間の機能において生物学的な面から社会的な面まで全ての面をおかすものなので、その治療は総合的でなければなりません。(久留一郎)」(p.97)
(2016.7.17)
- 「インドネシア語のしくみ」降幡正志著、白水社 (ISBN4-560-06758-9, 2005.5.5)
マレーシアをほんの少し訪ねる機会があり、マレーシア語(Bahasa Melayu)に近い、インドネシア語の本を借りて旅立つことにした。以前、インドネシアを旅したときに、ほんの少し学んだことがある。しかし、最近、記憶力は殆ど存在しないので、使うことは全く想定せず、この本にした。旅の行き帰りに、楽しく、読み通すことができた。文法に近いが、もっと平たく、少しずつ進めるように書かれていて、素晴らしい。著者は東京外国語大学准教授。英語など西洋系の言語などを持ち出さず(持ち出すとわかりやすいところも多いと思われるが)日本語との類似点に注目し、違いを少しずつ述べながら進めていく筆致は、著者の技量によると思われるが、他の言葉の「しくみ」も知りたくなった。次は、もう少しゆっくり、インドネシアか、マレーシアを旅するときに、一つレベルの上のものを学んでみたい。
(2016.7.25)
- 「増補改訂版 20人にひとりの遺伝子 色弱の子を持つすべての人へ」栗田正樹著、北海道新聞社 (ISBN978-4-89453-827-6, 2016.5.13)
デザイナーで色覚はP型弱度の著者が、P型強度の岡部正隆東京慈恵会医科大学教授の監修の元で書いた入門書である。私は現在の名称は知らないが色盲であるので、興味を持って手に取った。第一章 私の体験にある、話はあまりに私の経験と酷似しているので、著者履歴をみると、生年は一緒であった。著者の方が一学年上のようであるが。血液型ABと同じようなものとの表現には、正直首をかしげたくなるし、C型と著者が書いている色覚正常者の感想は、非常に自然に思われるが(p.90-93)情報がまとまっていて、最新の研究成果もあり、非常に興味深い。著者が副理事長をしている、北海道CUDOのホームページなどに情報があるので、詳細は書かない。CUDOのホームページ、色覚ナビのホームページにも情報が多い。色覚に関する指導の手引き・資料として文部科学省から出ている資料もある。増補改訂版だけあって、よくまとまっている。
(2016.7.25)
- 「CDエクスプレスドイツ語」小塩節著、白水社 (ISBN4-560-00478-1, 1999.5.25)
南ドイツを旅行するに当たって学生時代以来久しぶりにドイツ語を復習してみた。このシリーズからは多くの言語について出版されている。学生時代と現在の違いは、個人的な記憶力(覚える力)の喪失と、ある程度英語が使えるようになったことだろうか。ゲルマン系言語であるため、英語と近い部分が多く、そう考えると、確かに、あまり難しくない。ドイツ人が英語が上手なのも、頷ける。最後まで、読み通し、CD を何度か聞き、聞き取れないところは本でチェックした。練習問題の答えも載っているので学習しやすい。次にドイツを旅行するときは、もう一つレベルの上のものを選ぼうと思う。確かではなくても、学生時代に学んだ原理はある程度覚えているものである。
(2016.8.10)
- 「ボンヘッファー」村上伸(ひろし)著、清水書院 (1991.2.10, ISBN4-389-41092-X)
序 ボンヘッファー(1906-1945)とは何者か、I. 牧師が暗殺計画に加わるまで、II. ディートリッヒ・ボンヘッファーをめぐる人々、III. ボンヘッファーが残した思想的インパクト、エピローグ、あとがき、と続く。目次からも推測できるように、概要を述べた後、まず、暗殺計画に加わるまでを、衝撃的な問題、「キリスト者」としてのボンヘッファー、「同時代人」としてのボンヘッファー、国防軍情報部(Abwehr)に入ったボンヘッファー、ボンヘッファーの逮捕と獄中生活と分けて述べている。おそらくここを中心として著者は書きたかったのだろう。それを肉付けしていく形で、II が続き、そこまで準備した後に III を置いている。意欲的な本だと思う。父の蔵書に含まれており、鉛筆で何カ所かに線が引いてあった。ボンヘッファーと比較すると、12歳ほど下の父が何を考えながら読んだかはわからない。話を聞いてみたかったとは思う。以下は備忘録。「バルメン宣言(Barmen Declaration, 1934, p.54)」「『まさに真実の愛のゆえに、逆の行動をとる義務がある。つまり暴力に対しては暴力を用いなければならない。それは、悪の侵入に抵抗するためである』とし『個人的な倫理』と『職務上の倫理』を区別するルターの考えに反対した」(p.60)「イエス・キリストに注目する者は、実は神と世界とを一人の方において見ているのである。今からはもう、世界を抜きにして神を、また、神を抜きにして世界をみることはできない」(p.81)「われわれは、イエス・キリストにおいてわれわれに向けられた神の言葉に対して応答しながら生きるのである。」(p.82)「責任的な生の構造は、二重の生き方によって規定される。すなわち、神と人とに生を結びつけること(Bindung、代理と現実に即すること)と、自己の生の自由(Freiheit 自己吟味と具体的決断という冒険)とによって」(p.83)「人間の歴史的実存の中で責任的に行動する者として、イエスは罪ある者となる。」(p.89-90)「私は何者なのか」(p.132-135)「車にひかれた犠牲者に包帯をまいてやるだけでなく、車そのものを止める行動に出る」(p.160-161)「暴力や蛮行に対する我々の沈黙を、福音そのものが欺瞞として罰することをみとめること、である。(ヒルデブラント)」(p.166-7)「キリストの受肉に示されている人間の尊厳と、十字架に示されている人間の罪性と、復活に示されている生命の力とを、彼(ヒットラー)は拒否した。それが罪なのだ。彼のやっていることを自分には直接関係がないと言って見逃す人も罪を犯しているのである。」(p.184)「四つの委任:労働・結婚・政治的権威・教会」(p.188)「キリストにおいて神の現実が世界の現実に出会っている。」(p.190)「究極のことをいよいよ強く述べ伝えることによって究極以前のことを強め、また究極以前のことを維持することによって究極的なことを守る、ということが大切なのである。」(P.191)「僕(ボンヘッファー)を絶えず動かしているのは、そもそもキリスト教とは今日の我々にとって何であるのか、また、キリストとは誰であるか、という問題なのだ。」(p.192)「人間は、『神という作業仮説』の助けを借りることなしに自分自身を処理することを学んだ。ボンヘッファーはこれを肯定。」(p.199)「ボンヘッファーは、まさに十字架につけられ絶望の叫びを洩らして死んでゆくキリストの中に神を見たのであった。『神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるに任せる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、また我々を助けるのである』」(p.202-3)
(2016.8.28)
- 「運命としての戦後50年ーICUと日本ー」大木英夫氏講演、国際基督教大学宗務部
1995年度の「キリスト教週間」特別講演として5月24日に大学礼拝堂でおこなったものと、当時の宗務部長、森本あんり氏の序がついている。1945年を境とした非連続として日本をとらえることを主張し、戦後の日本には「現実と意識の分裂」があり(p.8)欺瞞の中で1995年の阪神大震災を、キルケゴールのトラジコメディーの状態にある。” Our age is a tragicomedy. Tragic because it has failed a long time ago; comic because it still exists.” と述べている。戦後50年をかろうじて生きてきたわたしは、大木氏の言うことのある部分は理解できるが、1995年に学生である若者へのメッセージとしてのインパクトは殆どないのではないだろうか。「ICUへの遺言」と言われているが、ICUへの構成員へのメッセージとしては弱い。「明日の大学」は「今日」生きるものに対しての「明日」であるべきであると思う。
(2016.8.28)
- 「プラハの異端者たち 中世チェコのフス派にみる宗教改革」薩摩秀登著、現代書館 (1998.8.20, ISBN4-7684-6735-0)
フスは1370年頃、ボヘミヤ南西部のプラハチツェ近郊のフシネフで生まれとされる。プラハチツェの学校に通った後、プラハ大学(アルプスの北の最古の大学)の自由学芸学部に学び、1396年に自由学芸のマギステルとなり、二年後には、教授として大学で教え、1400年に叙階をうけて聖職者となっている。聖職者の不道徳を批判するとともに「教会とは目に見える組織としての教会ではなく、救済を予定されたものの共同体である」(p.87)とし、聖書を第一とすると共に、贖宥状販売を批判し、教皇の権威に対する批判へと進んでいった。また後にフス派の中心的な教義となる二種聖餐(聖杯派)を支持する。アビニョンとローマと独立にたてた教皇を一本化することが中心であったコンスタンツの公会議で、異端とされ、1415年7月8日に火刑に処せられる。その後、フス派がプラハを中心に、1621年頃、ハプスブルグ家によるカトリック以外認めない政策が勝利するまで続く。プラハ中心の歴史を特に、200年間ほどを中心に描いており、非常に興味深かった。特に、フス派が穏健派や過激派、隠遁派などさまざまに別れ、上級貴族、下級貴族、市民、農民それぞれが関わる形で、歴史に関わっていく様子が様々な想像をかき立てる。歴史にとても興味をもった。以下は備忘録。「教会改革を説くフスたちの教えは、教会の権威よりも人間の理性を重視し、教会をあるべき姿に戻し、社会を是正することを強く求めたという点で、一世紀後のドイツやスイス、フランスの宗教改革に通じる先駆的な精確を持っていた。そしてそれに続いたフス派の運動は類例をみない広範な闘争へと拡大しており、国民的闘争という表現も、必ずしも不適当とは言い切れない。」(p.78)「1404年のある説教では『現在の教会の悲惨な状況の原因は聖職者の不道徳である。このサタンの軍勢はまやかしと中傷で人々を使徒の教えとは逆の方向に導いている。本当の聖職者は、教皇や司教が承認したかどうかではなく、神の讃える言葉を伝えるかどうかで判断されるのである。』」(p.87)「ジクムントの罪:二種聖餐を異端と呼び、十字軍を呼びかけ、フスを処刑した」(p.124)「ベトル・ヘルナッキー:戦争の悲惨さから、理由はどうであろうと、暴力の行使をみとめず、農民たちとともに労働し、祈る生活に徹した。」(p.135)「バーゼル協約:一種聖餐と二種聖餐のどちらを選ぶかは、その人に任せられる。形式的とはいえ、個人が主体的に向き合う態度の萌芽がそこにはある。」(p.160)「ルターは、最初フスのことも知らなかったようだが(1519年夏、ライプチッヒで開かれた神学者えっ婦との討論で)フスを断罪した公会議の決定は誤りであり、教皇も公会議も完全に無謬とは言えないことを主張した」(p.212)「キリスト教世界の政治的・精神的統一を維持し、宗教分裂を回避し、オスマン帝国の脅威からヨーロッパを守ろうとする不変主義的運動があった。(コスモポリタン的傾向)」(p.254)「フス派もカトリックも、チェコ人もドイツ人もユダヤ人も、国王も貴族も市民も、ハプスブルク派も反ハプスブグク派も、どれも等しく、この国を作り上げた重要な要素であった。ヨーロッパ大陸のまっただ中で、常に外の世界と関わりつつ、多様な人々が交錯し、その思いや主張をぶつけ合いながら時代を乗り越えていく。そんな歴史がここにはある。」(p.275)これが、著者の一番言いたかったことであろう。
(2016.9.2)
- 「共に生きる生活」ボンヘッファー著、森野善右衛門訳、新教出版社(1016-525651-6100, 1975.8.31)
Dietrich Bonhoeffer, GEMEINSAMES LEBEN, 1939 の翻訳。1935.2-1937.4 の告白教会の牧師研究所所長として若い研修生との交わりの実践がもとにある。「(一つとされるときまで)神の民は、散らされたままで、ただイエス・キリストにおいてのみ結びあわされており、不信仰者の間に散らされながら、遠い国でイエス・キリストを思うという形で一つにされているのである」(p.5)と語り、また「キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものである。」 (p.7)を読むと、ボンヘッファーはすでに、自分の行く道を決断し、この期間を過ごし、それを本としても残すことを考えていたのだと思わされる。備忘録をルターの言葉の引用から始める。「汝の敵のただ中に、神の支配がある。そこで、そのことに耐えない者は、キリストの支配を願わず、友人たちのただ中にいようとし、ばらとゆりの中に坐っていようとし、悪人と共にいることを願わず、敬虔な人たちと共に、いようとする者である。ああ、汝ら、神をけがし、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、一体誰が救われたであろうか。」(p.4)「キリスト者は、彼の救いと解放と義とを、もはや自分自身に求めず、ただ、イエス・キリストのもとにのみ求める人間である。」(p.9)「キリスト者は、救いのおとずれを持ち運ぶ者としてお互いに出会うのである。」(p.10)「ひとりのキリスト者は、ただ、イエス・キリストを通してのみ他のキリスト者に近づく。」(p.11)「こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。 」(ローマ15:7, p.13)「第一に、キリスト者の兄弟関係は、理想ではなくて、神的現実であるということ、第二に、キリスト者の兄弟関係は、霊的な現実であって心理的な現実ではないということである。」(p.14)「誰かが、自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとするときに、初めて飢えが始まる。」(p.62)
(2016.9.18)
- 「改訂版 初級簿記」齋藤正章, NHK出版(ISBN978-4-595-31629-6, 2016.3.20)
会計業務の基礎知識が必要になって、放送大学の教材でもある本書を手に取った。最初はすぐ頭に入ってこなかったが、実際に関わっている機関の財務諸表を読む経験を少ししてから読むと、すっと理解できた。むろん、十分できたとは言いがたいが、次回また、決算と関わるときにもう一度学べば、あるレベルには達することができるように思われる。現在人の教養としても、簿記はもっと学ばれてよいものだと思う。本書p.14では「簿記は、循環過程における資本の変動を、その事実に基づいて貨幣価値的に把握し、勘定という計算形式によって記録・計算し、一定期間における経営成績と一定時点における財政状態を明らかにすることである。」説明している。いくつかの基本等式を理解すれば、理解は難しくない。「資産=負債+純資産」「(財産法)期末純資産ー期首純資産=純損益=収益ー費用(損益法)」「9資産表等式)期末資産+費用=期末負債+期首純資産+収益」決算に関係する用語も丁寧に説明されていて、基本を学ぶことができる。練習問題も確認しながら進むことができ、よくできている。是非、放送大学のオープンコースウェアに公開していただきたい。
(2016.9.18)
- 「星が『死ぬ』とはどういうことか よく分かる超新星爆発」田中雅臣, ペレ出版(ISBN978-4-86064-442-0, 2016.7.25)
超新星爆発に関する若手研究者が書いた一般向けの本である。研究第一で移動中の機内で書いたなどとも書かれているが、よくまとまっている。明月記における「客星」の記述も、興味深かった。今まで断片的に知っていた知識をまとめるには、役だったが、数式が出てこないので、限界がどのようにして決まるのかが結局分からなかった。ということは、全体としても、お話しとしてしか理解できない。この手の本の限界かもしれないが、残念。同じことだが、シミュレーションである程度再現できることと、できないことの区別も分からなかった。ただ、完全球体だと仮定すると、爆発は起こらないが、そうでないと、起こりうるとのシミュレーションの結果は興味を持った。シミュレーションである程度実現できても、十分理解でたとは、言えないので、その辺が、理解できているとしている部分も、十分納得できない理由でもある。最新の望遠鏡や、衛星によって、何を見ようとしているのかなどの記述は興味深かった。目次:第一部 超新星爆発の存在が明らかになるまで 1章 星は爆発している 2章 歴史に残る超新星爆発 3章 「超新星」の登場 第二部 超新星爆発のメカニズムに迫る 4章 星の一章 5章 星はなぜ爆発するのか(1)重い星の場合 6章 超新星はなぜ輝くのか 7章 星はなぜ爆発するのか(2)軽い星の場合 8章 元素の起源と超新星爆発 第三部 超新星爆発研究の最前線 9章 宇宙最大の爆発 ガンマ線バースト 10章 金を作る「超速新星」 11章 超新星爆発研究のこれから
(2016.10.9)
- 「ベテルギウスの超新星爆発 - 加速膨張する宇宙の発見」野本陽代, 幻冬舎新書(ISBN978-4-344-98239-0, 2011.11.30)
著者はサイエンスライター、夫は天文学者の野本 憲一氏。オリオン座の中で明るく輝く赤いベテルギウスは星の一生の晩年を迎え、自らを吹き飛ばす超新星爆発をすぐ(2012年)にでも起こす可能性があるということから、急いで書かれたようである。十分な確率が計算されたわけではないことが確認され、多少方向を変えて、もう一つの大きなトピック、宇宙は加速膨張していることの根拠に、超新星爆発の観測結果が使われたことから、話をそちらにつなげて、完結させているように思われる。全体としては、非常の多くの情報が書かれているが、読んでいて、しっかりとした論理で体系的につながっているようには感じられないのは、書き方からか、それとも、わたしの理解が不十分だからか。記述において、年代が前後することが何回もあることも、論理的に理解しにくい背景にあるように思われる。情報には、天文学者についてのエピソードも含まれ、これは、天文学者には、書きにくい部分も含まれているだろう。学問以外の評価をするのは、一般的には敬遠されるであろうから。論理的に理解するには、上の本とこの本をもう一度落ち着いて読む必要があるだろう。しかし、二冊を読んで、大まかな理解を得られたとは思う。また、いずれ天文学の本は、読んでみたい。
(2016.10.17)
- 「南シナ海でなにが起きているのか - 米中対立とアジア・日本」山本秀也, 岩波ブックレット No.956(ISBN978-4-00-270956-7, 2016.8.4)
フィリピン政府が「九段線をはじめとする中国政府の南シナ海への領有権主張は不法」だとして、ハーグ(オランダ)の常設仲裁裁判所(PCA)に、海洋の領土領海に関し「フィリピン、中国双方が批准している国連海洋法条約に従って処理すべきだとして」仲裁を申し立てたのは2012年(p.38)、「この仲裁の最終結果が近づいた2016年5月、フィリピン大統領選で、ダバオ市長出身のロドリゴ・ドゥテルテが当選しました。アキノ時代の対中強硬論を抑え込む転機とみた中国外務省は、同年6月『仲裁手続きの取り下げ』と『二国間会談による事態打開』をフィリピン政府に求める声明を発生しました。」(p.39)その後、仲裁裁定(2016.7)が出た後のASEANの会議でも、相互協力が成立せず、ドゥテルテ氏はアメリカとの関係を見直し、中国との新たな関係を目指すと表明(2016.10 この本の出版後)。このような背景の中で、南シナ海でおきていることを理解したいと願い、この本を手にとった。「2014年5月末のある朝、ホーチミン市中心部にある旧南ベトナム政府庁舎前で、67歳のベトナム人女性が焼身自殺を遂げました。現場に残された鞄からは『中国はベトナムの海から出ていけ』『ベトナム海上警察を応援する』といった横断幕が出てきたと言います。」(p.41)等という、私が知らない事件も書いてあった。領土問題は複雑で理解が難しい。特に、南シナ海問題は、歴史背景と言うより、著者(産経新聞編集委員、論説委員)が、中国の「大統一」vs「法支配」と言っているように、文化の衝突という面も含んでいることを確認できた。
(2016.10.23)
- 「中国語のしくみ」池田功著, 白水社(ISBN978-4-560-00361-9, 2007.3.10)
久しぶりの中国出張の前に、2009年に読んだ「本気で学ぶ中国語」をCDを聞きながらほぼ再読し「インドネシア語のしくみ」がおもしろかったので、この本を手にしてみた。ある程度、中国語を知っていると、確認になることは多少あり、違った方向からの説明という漢字で学ぶことがなかったわけではなかったが、正直、あまり興味を惹かなかった。レベルが低すぎたのかもしれない。ただ「動作のしくみ」はなるほどと思わされることがいくつかあった。入門は完了したといえるレベルで、なかなか次は難しい。
(2016.10.26)
- 「パレスチナ戦火の中のこどもたち」古居みずえ著, 岩波ブックレット No. 928(ISBN978-4-00-270928-4, 2015.6.25)
著者は、1948年島根県生まれのフォトジャーナリスト。1988年にパレスチナのイスラエル占領地に入り、以後、パレスチナの他、ウガンダやインドネシア、アフガニスタンなどの各地の現状、特に女性や子どもたちの日常を伝えている。最後を「私たちにできることは、大人であれ子どもであれ、戦争というものを体験した人たち、被害を体験した人たちの声を聞いて伝えていくことだ、それが私たちにまずできることだと思う。」と結んでいる。まさに、そこだけに集中して、こどもや若い人たちの聞き取り調査を中心に書かれている。2008年から2009年のイスラエルのガザ侵攻のレポートのために2009年以降、ガザに何度も入り、2012年、2014年の侵攻での被害者を中心に伝えている。国際法が整備され、それによった統治が行われる日が期待されるが、大国の利権も関わっており困難なのだろう。わたしがどうしたらよいかはなかなか難しい。備忘録として、モナの言葉を記す。「私は世界に見捨てられたと感じました。誰も私たちのために立ち上がらない。封鎖を終えるためには、世界の支持が必要なのです。流血の侵略を終わらせ、虐殺を終わらせるための助けが必要です。でも、私は、一人だと感じました。世界の誰もが私たちを気にかけないので落胆しました。それから、私には、神様がいることを思い出したのです。神様がたすけてくれるという気持ちを持つことで、私は再び幸せと自分の強さを感じることができました。」(p.27)
(2016.11.2)
- 「いま日本においてキリスト者であること」宮田光雄著, 国際基督教大学宗務部(1986.12.20)
1986年キリスト教週間における5月27日のチャペルでの説教を、録音テープからおこしたものである。宮田光雄氏は、1928年生まれ、東京大学法学部卒、講演当時は、東北大学法学部教授。専門はドイツ思想史。友人もいたことがある「一麦学寮」に学生を住まわせ、聖書研究などを行っていた。西ベルリンの中心のカイザー・ヴィルヘルム教会(爆撃で破壊されたまま残っている)その傍らの礼拝堂にある、クルト・ロイパーの「塹壕のマドンナ」の絵の話、ゲッペルスが靖国信仰羨んだことば「我々が国民意識と宗教心とを完全に一致させるエネルギーを生み出さなかったということが、我々の国民的な不幸である。我々の望むものが現実にどんなものかは、日本国民に見ることができる。そこでは宗教的であるということと、日本的であるということは一致しているのだ。この国民的および宗教的な物の考え方と感情との一体性から巨大なダイナミズムを持った愛国のエネルギーが沸き上がってくるのだ。」(p.3)「何よりも文化民族にとってふさわしからぬ事は、抵抗することなく、無責任にして、盲目的な活動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。」(p.8)スターリングラードで1943年2月18日にドイツ軍が降伏して間もなくのハンス・ショルとゾフィー・ショル兄妹を中心とする「白バラ通信」からの引用。ヴァイツゼッカーのことばと同じ時の中曽根首相のメッセージの対比が続く。(ヴァイツゼッカーの演説は、英語訳字幕のビデオを見たことがあるが、岩波ブックレットにあるということなので、これも読んでみたい。)さらに、アメリカ大統領ルーズベルトの四つの自由「言論の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」(p.16)これらをつなぎあわせ、ヨハネ8章31節から36節をもとに語られている。さすがに、かなりの迫力である。直接聞くことができなかったのは残念である。
(2016.11.2)
- 「ドイツ語のしくみ」清野智昭著, 白水社(ISBN978-4-560-08656-8, 2014.2.1)
ドイツ語は大学時代にある程度勉強したが、ある時点から殆ど触れることがなかった。基本的な考え方は知っていたので、思い出すことには役だったと思う。ドイツ語の次のステップへは、どのような本がよいだろうか。「文法用語はちょっと難しいかもしれませんが、これを使うことによって複雑な説明が一言で済むことが多いのです。だから、せめてここに挙げたものだけには慣れておいてください。」(p.47)専門用語を使うときの、どの分野にも通じる大切な真理。「Nur bei Grün. der Kindern zum Vorbild. (緑の時だけ。子供たちにとってお手本に(なりましょう))」(p.135)中学の頃に考えた、モラル。同じ事がドイツの標識にあるようだ。参考図書ガイド「基礎ドイツ語文法ハンドブック」三修社「必携ドイツ文法総まとめ」白水社「中級ドイツ語のしくみ」白水社。
(2016.11.18)
- 「ヨハネ福音書講解 中巻」榊原康夫著、小峯書店 (1977.7.25)
ヨハネによる福音書の6章から12章部分の注解。2015年春から聖書を読む会でヨハネによる福音書を学んでおり、基本的な情報源の一つとして、高校時代から、愛読している榊原先生の注解を活用した。上巻は持っていたが、中巻・下巻は大学図書館所蔵のものである。榊原先生は、大阪大学工学部中退で、日本キリスト改革派の牧師となったかたで、私も所属していた甲子園教会牧師から、東京恩寵教会の牧師を長く務められた。理系であることが関係しているかどうかは不明であるが、問いに対して論理的に答えていく形式が、私には読みやすいことが、私が愛読する背景になっているのかもしれない。現在の聖書の会での学び方も、基本的な問いを10程用意し、さらに、50程のディスカッション・クェスチョンを用意しておき、質問として投げかけている。この注解を読んで、質問を加えることも多い。講解説教をほとんどそのまま書き起こしているために、必ずしも、聖書の学びの形式とあわないことも多いが、基本的な問いはカバーされており、情報が多く、助けられることが多い。中巻を利用したのは、2015年11月終わりの万座温泉リトリートから2016年12月22日まで。下巻も楽しみである。
(2016.12.20)
- 「シリコンバレー発 アルゴリズム革命の衝撃」櫛田健児著、朝日新聞出版 (ISBN978-4-02-251412-7, 2016.9.30)
副題:Fintech, IoT, Cloud Computing, AI ... アメリカで起きていること、これから日本で起きること。著者は、スタンフォード大学アジア太平洋研究所リサーチアソシエート、Stanford Silicon Valley - New Japan Project プロジェクトリーダ−、キャノングローバル戦略研究所インターナショナル・リサーチ・フェロー。ASIJ 出身のアメリカ人とのハーフ。スタンフォード大で経済学と東アジア研究を学び、 カリフォルニア大学バークレー校で政治学部博士号取得後現職。1章 アルゴリズム革命とAIのインパクト 2章 クラウド・コンピューティングの本質とは 3章 IoTとビッグデータの進化とは 4章 フィンテックの恩恵は、あらゆる企業に及ぶ 5章 日本企業がこれからすべきこと。仕事が日本企業とシリコンバレーでのビジネスを結びつけることのようで、シリコンバレーでのアルゴリム革命の話よりは、日本企業の問題点と成功例の紹介に重きが置かれている。しかし、クラウドやフィンテックについて基本的なことは、情報を得た。ベンチャーキャピタル(VC)のアントレプレナーへの投資のスピード感を見せつけられると、動体視力の重要性と決断の早さが極端に評価され、富の分配が極端に偏っているひずみがここにあるように思わされる。世界の富が増えていっても、貧富の差は開くばかりで、先進国であっても、給与が下がっていく。この問題をじっくり考えてみたい。それには、もう少し、実際の状況を知る必要がある。ペイン・ポイント、オープン・イノベーションなどの言葉とともに、ビットコインにも興味を持った。
(2016.12.22)
- 「シリコンバレーで起きている本当のこと」宮地ゆう著、朝日新聞出版 (ISBN978-4-02-251399-1, 2016.8.30)
著者は、朝日新聞サンフランシスコ支局長(女性)で、朝日新聞デジタルで「フロンティア2.0」を連載している。シリコンバレーで起きていることを重層的に理解したいと考え手にとった。今後考えていくことに関する方向性を得た意味でも、この本の選択は良かったと思う。以下は備忘録。「ウォール街とシリコンバレーはとんでもない金をもうけていると言う点では一緒だ。ただ、ウォール街は自分たちが金儲けをしていることを隠してもいないし、世界をよくしているなんて言ったこともない。」(pp.92-93)「AIは人間の歴史の中の自動化の延長でしかない。ロボットが人間の仕事を奪う、というとらえ方は間違っている。」(ジェリー・カブラン(フューチャリスト)p.125)「今後、エンジニアは、『右側に三人、左側に二人どちらをよけるべきか』などという功利主義的な選択をAIに入れることで、機械がどう振る舞うかを決めることになる。しかし、その前に、まずはこうした価値判断について十分に考える必要があるのではないか。」(カブラン、p.128)「Killer Robot の実用化 - AIの開発は人類にとって有益なものにするべきだ」(スチュアート・ラッセル、p.131)「ウィキペディアの重要性は、欧米の視点で知識が定義されるのではないということにある。- Wikipedia の NSA による監視」(ジェフ・ブリガム、p.155)「OpenSecrets.org」(p.166)「大学は仕事の上で実践的な知識や技術を身につけるより、研究分野で優れている。理論研究や基礎研究といったことは大学でやる部分。来年始める僕たちの2年間のプログラムは、すぐに仕事を探したい人たちが対象です。」(ジェレミー・ロスマン、MakeSchool, p.181)「最低限の生活が保障されたら、人はどのような行動をとるのか。労働はどう変わり、人の生活の質はどう改善されるのか。この実験(オークランド市の協力を得て、市内のさまざまな所得層・人種・職業の約100人を選び、毎月1500ー2千ドルを無条件にわたします。これによって最低限の生活を保障し、その人たちがどのような経済行動をとるのかを1年にわたって追跡します。最初の1年のプロジェクトが終わったら、本実験に入る。本実験では、対象を1千人に広げて5年間追跡調査をする予定。)では、そうした結果を公表して、政府や自治体などが社会保障のあり方を考える上で役立ててもらいたい。」(マット・クリシロフ、Y Combinator, p.203)
(2016.12.25)