Last Update: November 26, 2012
2012年読書記録
- 「科学的とはどういう意味か」森博嗣著,幻冬舎新書 219 (ISBN978-4-344-98220-8, 2011.6.30)
著者は、作家、工学博士(建築)大学教員。科学的とはどういうことかを、哲学的に論じているわけではない。基本的には、一般の人にむかって、科学的なものの見方の大切さを説いている。「科学から無理に自分を遠ざけないこと」「数字を聞いても耳を塞がず、その大きさをイメージしてみること」「ものごとの判断をすくないデータで行わないこと」「観察されたことを吟味すること」「勝手に想像して決めつけないこと」「自分の判断がどのような根拠に依っているかを認識すること」(p.114) などと平易に解いている。特に、原発事故を背景に、報道においても、科学的にものをみることから人々を遠ざけようとするようなことの問題を指摘している。おそらく、今回の原発事故の報道、その後の議論で、科学にたずさわる殆どすべての人が感じたであろう事を代弁もしている。ただ、正直、ことばが練れていない。思考も乱暴。科学者、エッセイイストとしては、いかがなものかと書きたくなる面もあるが、それも上と同じ頁に「スコットランドの羊」のたとえが記されており、わたしは数学を生業とする者であるから、これ以上は書かない方が身のためでもあろう。本書は「ひとりの工学系のエッセイイストがかたる『科学的ということ』」である。教育に関する議論は、丁寧におこないたいものである。
(2012.1.22)
- 「理系のための クラウド知的生産術 - メール処理から論文執筆まで」堀正岳著,BLUE BACKS B1753 講談社 (ISBN978-4-06-257753-3, 2012.1.20)
著者は、独立行政法人海洋研究開発機構の理学博士で、ブログも充実している。「メール処理や事務作業で奪われ研究する時間が十分にとれない、論文執筆をもっと効率的に進めたい、そんな悩みを解決するのがクラウドサービス。効率的な情報整理で時阿kんを生みだし研究の可能性を広げる活用法を豊富な実例とともに紹介。」(裏表紙より)として、Google, Dropbox, Evernote の基本的利用法から、Google Mail の活用法, Mendeley と Dropbox を結びつけての論文整理へと進み、Social な研究者の勧めとして、Google Document を利用しての共同執筆、Skype, SlideShare, MindMeister を通しての情報共有と共同作業, さらに Backup としての、Carbonite, Backblaze などなどを紹介している。基本的に、わたしの考え方と近く参考になる技術、考え方が多い。ここまでわたしが柔軟になれるかは分からないが、丁寧に一つ一つ試してみてもよいと思わされた。「理系の」とする必要はないかも知れないが、ある人達には受け入れられないことは確かだろう。Security に関する基本的考え方 (p.42) ジョナサン・アイブのアイディアの弱さについてのことば (p.106)、デービッド・アレンの GTD (Getting Things Done) による整理と行動計画 (p.118)、リメンバー・ザ・ミルク (RTM) によるタスク管理、Vimeo による動画共有など、知らないことも多かった。
(2012.3.20)
- 「ニコライ堂小史 - ロシア正教受容150年をたどる」長縄光男著,ユーラシア・ブックレット169 東洋書店 (ISBN978-4-864596-012-9, 2011.6.30)
著者は、一橋大学出身でいくつもの大学でロシア語、ロシア史、ロシア文化史などを教えた横浜国立大学名誉教授。1836年生まれのニコライ(本名イヴァン・カサトキン、後1906年に大主教)1861年函館に領事館付きとして着任してから、正教会の日本宣教を志し、1884年から1891年に建てたニコライ堂を中心として、ロシア正教会の日本での宣教について記されている。正教会については正直殆ど知らなかったので、特に日本における正教会の歩みについて考えさせられた。興味深かったのは、以下の記述である。「『教育勅語』の封建式でご真影に深々と首を垂れることをしなかったキリスト教徒内村鑑三の免職事件に対しては、プロテスタントのみならずカトリックの側からも内村擁護の声があがったが、ただ正教会のみが『世論』に与して内村批判にまわった。その論法の根底にあったのは、東ローマ帝国を経てロシアに引き継がれた『国家と教会』のあり方についての『正教』の伝統的な考え方であった。それによれば、教会と世俗権力との関係は、互いの職分を尊重してあった相互不可侵の関係こそが理想の姿であった(実質的には教会は俗権に従属し、あたかも侍女のような役割を演じていたのだが)そうした目から見れば、新教各派の『内村擁護』論は護教の名を借りた政治活動に他ならず、それは宗教者の分を越えた行為だったのである。」(p.33) 大津事件、日露戦争、そして、関東大震災でのニコライ堂崩壊(その後再建)、大変な歴史を考えさせられた。目次から、序、第一部 ニコライ時代 (1861-1912)、第二部 セルギイ時代 (1912-1945)、エピローグ、あとがき。以下備忘録。「正教会でで聖歌隊がとりわけ重要視されるのは、その教義そのものに由来する。つまり、多様な声(男の声、低い声と高い声、太い声と細い声)をまとめてひとつのハーモニーを作り出す(アカペラ)(楽器による伴奏のない合唱)は、多様な個性をもった人々をその個性のままに一つの共同性(ソボールノスチ)をつくりあげつという教会の使命そのものの象徴なのだ」(p.29-30) 「1907年(明治40年)の資料によれば、新教各派(組合教会、日本基督教会、メソジスト、聖公会)の1人あたりの年間の献金額は、それぞれ7円69銭、5円28銭、2円50銭、6円29銭であったのに対して、正教会はわずか27銭であった。」(p.39)「キリスト教の他の各派と異なり、司祭、輔祭、伝教者など教役者がいずれも日本人から成っていることは、かねてよりニコライの自慢するところであった。ここには『日本人の手による日本人のための教会を』というニコライの理想が如実に示れていたのである。ニコライの死後身の回り品の整理にあたった大使館の者たちは、その質素な生活ぶりに驚嘆した。純粋に彼の所有に属する私物は、誇張なく、「弊衣数点」に過ぎなかったのである。」(p.41)
(2012.3.20)
- 「老人と海」ヘミングウェイ著,福田恒存訳、新潮文庫 1729 (1979.8)
内容については、書くことはないだろう。次女が読みたいということで借り、タイ・ワークキャンプへの途上で読み終わった。以下は抜き書き。「希望をすてるなんて馬鹿な話だ、そうかれは考える。それどころか、罪というものだ。いや、罪なんてこと考えちゃいけない。ほかに問題がやまほどある。それに、つみなんてことは、おれにはなんにもわかっちゃいないんだ。」(p.95)
「舟が潮流の内側にはいったらしいことが感じられる。浜ぞいに並んでいる部落の燈火が見えた。かれには、いまどこにいるかわかっている。家に帰りつくなど訳もない話だ。
とにかく風はおれの友だちだ、とかれは思う。そのあとで、かれはつけくわえる、ときによりけりだがな。大きな海、そこにはおれたちの友だちもいれば敵もいる。ああ、ベッドというものがあったっけ、と彼はおもう 。ベッドはおれの友だちだ。そうだ、ベッド、とかれは思う。ベッドってものはたいしたもんだ。打ちのめされるというのも気楽なものだな、とかれは思う、こんなに気楽なものとは知らなかった。それにしても、お前を打ちのめしたものはなんだ。『そんなものはない』かれは大声でいった、『おれはただ遠出をしすぎただけさ』」(p.110)
「老人はライオンの夢を見ていた。」(p.116) 最後の訳者による『老人と海』の背景は秀逸。
(2012.3.20)
- 「賀川豊彦」隅谷三喜男著,岩波現代文庫 1020 (ISBN978-4-00-603230-2, 2011.10.14)
「あとがき」によると、明治学院大学における賀川記念講演を出発点とし、日本基督教団出版局から 1966年に出版されたものが、岩波から出版されたもの。これほどの賀川豊彦研究を読んだことがなかった。新たな挑戦が始まった気がする。ゆっくり再読すると共に、横山春一著「(増訂)賀川晴彦伝」を読んでみたい。「著者の隅谷三樹男(1916-2003)は労働経済学の研究者であり、東京大学教授、東京女子大学学長などとして社会的に大きな活躍をし、『日本賃金労働史論』にはじまる著作は現在では『隅谷三樹男著作集』全9巻(岩波書店2003年)にまとめられている。それだけに本書では、特に賀川の労働運動、農民運動などとの関わりについては極めて的確で明解な論述がなされている。特に賀川の『救貧運動→労働運動→農民運動→協同組合運動』という時間的な力点の変遷と、その理由については、その大要は十分に把握することができる。」(p.236 小林正也氏による解説より) あとは基本的にページ数のみ書き、一部抜き書きする。「神が自らの位を捨てゝ、ナザレの労労働者イエスとして、人間生活に入り込んだといふのならば、われわれが貧民靴へはいって生活する位は何でもないことである」(p.7「イエスの宗教とその真理」p.150より) 「今日は物質があまりに尊重される時代である。商利の目的たる貨物は人よりも尊重されて、人は物よりも軽んぜらるゝ時代であります。」(p.37「賀川豊彦氏大講演集」p.76-77より), 労働者が必然的に貧民に墜ちていく5つの理由。飲酒、病気、負傷、生活の不安定、労働者が奴隷ではなく自由であること。 (p.48), 「我等は動労者として、世界を支配する力は兵力でもなく、金力でもなく、ただ智力ばかりではなく、誠誠にそれは労働と愛であることを宣伝する責任を思ふ。此意味に於て、無産階級の出現は、愛と光明の世界の世界の創造を意味し、略奪と征服の野心者の追放を意味する。」(p.59「労働新聞創刊号」より), (p.68), (p.98), (p.99), (p.126), (p.158), (p.167), (p.169), (p.172), (p.176), (p.195), 「ひとりの人物を評価する場合に、単にその思想の表皮のみによって、判断するのは正しくない。人人物はその人格の独自性によって、苦しみ、悩み、戦い、十字架を負った、その全人格の在り方そのものによって、評価されなければならない。思想の体系はその不完全な表現にすぎない。」(p.204),
(2012.3.20)
- 「現代に語るイザヤ書 鷲のように翼をかって」鍋谷堯爾著,いのちのことば社 (ISBN4-264-00687-2, 1984.11.26)
この本が出版されたのは、わたしが丁度、神戸ルーテル神学校の聴講生のころだったろうか。鍋谷先生が校長をしておられた。イザヤ書が専門と聞いていたが、ルターやカルビンなどについても深い知識を持っている。そのような専門書の翻訳はかなりある、聖書学者である。しかし、本書は、クリスチャン新聞の連載をまとめたもののようで、信徒向けに、イザヤ書を通して、日常的な問題と向き合うものとなっている。イザヤ書をイザヤ一人の著作として、統一的に読むことを中心においている。わたしが、そのようなことに口出しができるほどイザヤ書については、理解できていないが、イザヤの預言書としての一貫性があるということは、この本を読んでいても感じる。分析的研究を否定しないが、すくなくともイザヤ書全体としてのメッセージを読み取ることは、重要であろう。死海写本では、7.5メートルあるという。イザヤという預言者にも、語られたメッセージの奥深さにも驚かされる。自国がいくら病んでいると言っても、やがて滅ばされることを預言し、さらに、主の僕の四つの預言のすごさ。イザヤの行動力と理解できない預言もそのまま受け入れて語るイザヤから学ぶことは多い。
(2012.5.5)
- 「リベラル・アーツと現代」斎藤和明・村上陽一郎,敬和カレッジ・ブックレット No.18 (2012.4.1)
2007年4月7日敬和学園大学新入生歓迎公開学術講演会における学校法人明星学苑理事長 斎藤和明氏による「リベラル・アーツの土壌の上に咲く花」と題した講演と、2011年4月8日敬和学園大学新入生歓迎公開学術講演会における東洋英和女学院大学学長 村上陽一郎氏による「科学・技術とキリスト教 その現代的意味」と題した講演の記録である。二人ともある時期同時に国際基督教大学教授であった。
斎藤氏は、本や人との出会いからリベラル・アーツについて語り、その起源 (Trivium: grammar, rhetoric, logic
Quadrivium: arithmetic, music, geometry, astronomy) について述べてから、Oxford で新入生達にかならず語る「リベラル・アーツは "activity of mind"(マインド(すなわち考えること)の生き生きとした行動性) と "percetivity of beauty"(美しさの感受性)にまとめられる」を引用している。.
村上氏は、リン・ホワイト(Lynn White Jr. "Machina ex Deo", MIT Press 1968)からはじめ、ディドロ(D. Diderot)たちの百科全書や、カント(1784 E. Kant, "Was its Aufklaerung?")に言及し、最後には、ラウダーミルク(Walter Clay Lowdermilk)の第十一戒に言及している。最後に、その村上氏の訳を引用して備忘録とする。
汝 聖なる大地を忠実なる僕として神より相続し、世代を継いでその資源と産出力とを守るべし、沃野を浸食から、森林を荒廃から、丘の緑を過放牧から守るべし。さすれば汝の子孫もまた永久に豊かなるべし。もし汝らよくこの大地の僕たることを得ずんば、沃野は不毛の石音原野、不毛の谷となり、汝らの子孫増ゆること能わず。貧困のうちに姿を消すべし。(p.52-53)
(2012.6.24)
- 「証言 水俣病」栗原彬編 岩波新書 658 (ISBN4-00-430658-2, 2000.2.18)
環境教育の先生の講演でこの書の緒方正人氏の話が引用され、読むことにした。1953年ごろから発症者が出た水俣病は、今月末をもって認定打ち切りということで、その問題も含めて新聞紙上でも最近よく扱われる。この書は、1996年に行われた「水俣・東京展」での10人の証言をもとにできている。「死者と未生の者のほとりから」栗原彬、「幼い妹が『奇病』に」下田綾子、「一家全滅の淵から」荒木洋子、「漁を奪われて」荒木俊二、「故郷をはなれて」大村トミエ、「一人からの闘い」川本輝夫、「苦渋の選択」佐々木清登、「水俣の海に生きる」杉本栄子、「部落に救われて」中村妙子、「魂のゆくえ」 緒方正人、「本書の成り立ち」石黒康。公害被害とは、そしてその加害者は、そして公害とは何なのか、その本質を考えさせられた。この書を読み、これらの問いとともに、では、われわれはどのような社会を望んでいるのか、その問いと正面から向き合わなければならない責任をも強く感じた。これは、昨今紙上を賑わしているいじめや、原発や、基地や、経済格差などすべての根幹に関わる問題のように思われる。以下に備忘録として、緒方正人氏のいくつかのことばを抜き書きする。他の証言をじっくり読んだ後で、向き合いたいことばである。
「そしてチッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気づいたのが、巨大な『システム社会』でした。」「私は、チッソとはいうのは、もう一人の自分ではなかったのかと思っています。」「『近代化』とか『豊かさ』を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかと言うことが大きな問いとしてあるように思います。」「水俣病事件の責任が、非常にあいまいなまま処理されようとしている動きの中で、患者それぞれにとっても、どこかで一度、一人の人間としての『個』に帰るということが今、必要な気がします。」「そのときに一番大きな問題は、当事者である患者の人たちが帰る場所、どこに帰って行くのかということです。」
(2012.7.24)
- 「こころをよつくすることば」武田双雲 日本出版社 (ISBN978-4-7984-1104-0, 2012.2.25)
東京理科大学理工学部卒の書家(書家 武田双葉 は母)NHK大河ドラマ「天地人」や映画などの題字も手がける。副題は「常識をくつがえす双雲流ことば辞典」表紙裏には「ことばの解釈を変えてみると人生が楽しくなる」となっている。Podcast の「ラジオ版学問のはじめ」で知り読んでみることにした。ひとつひとつのことばの書がそえられていて美しい。Podcast によると病気も経験したようだが、自分をふくめ人を楽しませる、明るくする、力づけることを楽しんでいる姿勢に惹かれた。以下のことばについて書かれている。「幸、優柔不断、悲、優、看、たゆたう、儚、蒔、球、無駄、変幻自在・行雲流水・臨機応変、楽観・悲観、うそ、絆、迎合、仲間、傾聴、にんげん、おもいやり、凄、情報、したためる(認める)、煌(きらめく)、愛・恋、闇・暗、元気、機嫌、あきらめる、自業自得、信、いいかげん、息、否、泣、勅、叶・叫、書道、ありがとう、念、幸運、現実、理解、まぬけ、笑・咲、うるわしい、ほがらか、楽、呼吸、意味、おかげさま、音楽、音色、なまり、理、やんごとない、うららか、文化・文明、働、支配、忍、儲、談、縫、景気、負、玄関、ごきげんよう、狡(ずるい)、卑屈、忙・忘」(目次から)孔子のことばの引用「これを知る者は、これを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(p.120) 以下は備忘録としての引用「楽しいことが招くプラスのスパイラル。1. 楽しいこと思っていることは飽きない。2. 傍目にはものすごく辛そうに見えたとしても、本人にとっては楽しいのだから、連日のように仕事が続いても苦しくない。3. 辛くないから、心にゆとりができる。4. 心にゆとりがあるから他人の話に耳を傾けられる。そこで得た意見を取り入れる。5. 他人の意見を取り入れるゆとりがあるから、自分でも思いもよらない成長がある。6. 成長しているから、周りがどんどん応援してくれる。7. 周りが応援してくれることがパワーとなって、ますます自分のしていることが楽しくなる。」(p.154-155)「どんな仕事でも他人を楽しませられる」「夢は他人に語るものではないという人もいます。(中略)しかし本気で夢を叶えたいと思っているのならば、反対されることがビジョンを改善するきっかけになりますし、プレッシャーがかかることで集中力も高まるものです。さらに、他人に語ることで、他人から応援や伽環的なアドバイスが受けられるようになるわけですから、いろいろな人にしつこいぐらい語った方がいいでしょう。」(p.185)
(2012.7.28)
- 「ラビの聖書解釈 - ユダヤ教とキリスト教の対話 -」ジョナサン・マゴネット、小林洋一編 新教出版社 (ISBN978-4-400-30559-0, 2012.2.29)
ジョナサン・マゴネット:1942年ロンドンに生まれる。ロンドン大学医学部を卒業後、ラビへの転身を志してロンドンのレオ・ベック大学で学び71年にラビに任職、74年にドイツのハイデルベルク大学で旧約聖書学により博士を取得。レオ・ベック大学教授として聖書学を講じ、また同学長を歴任した。宗教間対話に精力的に取り組む。(カバーより)ジョナサン・マゴネットの西南学院での講演とシンポジウムの記録。「十戒の内的関連性」「アブラハムは神のテスト(試み)に合格したのか」「ルツ記のラビ的解釈」「ヨーロッパにおける宗教間対話」「ユダヤ教におけるメシア待望」を中心としている。備忘録「「二つの言葉」安息日と父母を敬えの規定について」p.42, 「エロヒムは神の厳格な正義の属性が働いていることを匂わせる物語の中で、一方のアドナイは愛や慈悲の属性を反映している物語の中にある」p.51, Rashi「どうかあなたの息子をとりなさい。しかし、わたしには二人の息子がいます。あなたの独り子を。しかしそれぞれがその母にとっても独り子です、イサクはサラの独り息子であり、イシュマエルはハガルの独り息子です。あなたの愛するものだ。しかし私は二人とも愛しています。イサクを。」p.52,53「タナハ」p.93「内的・自発的・自己規制」p.97-98, 「宗教間での平和なしに国家間の平和はない。宗教間の対話なしに宗教間の平和はない。宗教のよって立つものを研究することなしに宗教間の対話はない」p.131, 「メシヤ・ベン・ヨセフ、メシヤ・ベン・ダビデ、アガク人ハマン」p.146, 「レオベックのユダヤ教とキリスト教を一つに結ぶ5つの共通の土台。1. 旧約聖書、2. アロンの祝福 num6:24, 3. メシヤ的希望、4. 隣人愛の戒め、5. 神の唯一性への信仰告白」p.174-175.「「すべての真正な生き方は出会いであり対話である。」(M.ブーバー)「すべての真正な宗教的生き方は危険を冒すものである。」(J.マゴネット)」p.137.
(2012.8.20)
- 「野村総合研究所のやる気を引き出すチーム改革」野村総合研究所品質管理本部、アスキー新書172 (ISBN978-4-04-870085-6, 2010.12.10)
野村総合研究所の「エンハンスメント(高める、促進する、改良する)業務革新活動」の紹介である。大学の教育システム改革後の、システム保守・運用の大切さと、難しさを感じていたときに、旧友でもある著者と話す機会があり、この本をいただいた。「システム構築」「システム保守・運用」の後者に関する積極的な取り組みが書かれている。利用者の満足は、このシステム保守・運用に質によって決まること、改善には、システム自体を見えやすくしておくことが大切であること、わたしが日常的に感じていることと通じることが書かれており、興味を持った。以下、備忘録として、目次と印象に残ったことばを記す。
- ITサービスは保守・運用の時代に
- チーム改革の歴史をひもとく
2003-2004 コミュニティづくり、2005 立ち上げ、2006 本格開始、2007 活動は全社へ、2008 活動の定着、2009- 生産革新との融合
- 「原因深掘り活動」で障害を8割削減
- 現場のやる気はこうして引き出された。
チーム運営のポイント:見える化と情報の共有化(ドキュメントの標準化、どこにあるかの共有、定例会の活用)意識の向上(活動の主体は自分たち、自分たちで変える、小さくても成功体験を積み上げる)属人化の解消(問題であるとの認識、見える化、引き継ぎはチーム全体)p.107-108
- パートナー企業にも広がった改革の輪
基本に忠実に。変わったチームの意識。仕事のありかたについて再認識する機会。
- そしてチームは動いた
継続、トップによる活動の動機付け、サポート体制、成果を共有する場
[インタビュー](会長)藤沼彰久「見えないものをいかに見えるようにするかが重要」
(人事ローテーション活性化のための「見える化」)ドキュメントをだれが来てもわかりやすくそろえてあるとか、お客さまやパートナー企業とのやりとりでも、その都度ドキュメントを残して何が決まって、決まっていないか、というのをきっちりやっているか。p.158
エンハンスメントチームの強さというのは、システムの中を知っていることが一番です。しかし、NRIの本当の強さというのはそこではなくて、そのシステムをお客様がどういう使いかたをしているかをよく分かっているかが重要なんですが、そこまでは行っていないですね。p.163
(トヨタのカイゼンとの違い)作り出していくものが見えるものと見えないものという違いがあります。だから見えないものをいかに見えるようにするかが重要なんです。p.166
- 改善活動に「終わり」はない
エンハンスメント業務革新には特効薬はない。特効薬はないけれども、つねに前向きに地道な努力を行うことが重要。そのためには自分の範囲にとらわれず、広い視野をもつことが’重要である。p.174
自分で考え行動することで、人は成長していく。p.175
重要なことは、目先の改善にとらわれすぎず、長期的な視野で考えること。p.175
(2012.11.11)
- 「ローマ書新解 - 万人救済の福音として読む - 」小泉達人、キリスト新聞社 (2008.6.6)
著者は、用賀教会牧師を長く務めた方で、わたしが理事を務めている、児童養護施設のぞみの家の理事長で、2008年2月6日、脳梗塞で急逝された。この本の出版時にご遺族が送ってくださった。ご自身が若くして結核を病み、そのときに簡単に揺らいでしまった経験から「信仰義認」の信仰について自分のような偽物の信仰でも救われるのかとの疑問を抱く。個人的には恵みの主にお任せする信仰にたつが、基本的におおくが非キリスト者の中で、家族や親しい人たちの救いをどう考えるかを、教会員とともになやみ、公開聖餐(礼拝に出席するすべての人が廃酸にあずかる)にふみきる。ローマ書は確かに「信仰義認」について書かれているが、それは「バプテスマ義認」という儀式の実質的意味を宣言するもので、基本的には、ユダヤ人だけでなく、すべての人の救いについて記するとする。ローマ書だけからは、明白とはいえないが、ローマ書が書かれたいた時代に、パウロが何に対して戦ったかを考えると、ある部分に対して明確であっても、他の事に関して、明白ではないこともあることは確かだろう。以後は備忘録。13章の解釈もローマ支配にたいする抵抗運動に簡単しないようにとの配慮としている。11章からの接ぎ木論については、パウロが、都会人で実際の接ぎ木について知らないからだという。最後の三つの付録はもっとも言いたかったことだろう。
(2012.11.23)
- 「生きるための論語」安富歩著、ちくま新書 953 (ISBN978-4-480-06658-9, 2012.4.10)
著者は京都大学経済学研究科卒業の、東京大学東洋文化研究所教授。
論語は「学習に基づいた社会秩序」をもっとも明瞭に表現した書物とし、学習のダイナミックスを基調に読み解いている。論語冒頭の小論語と呼ばれる文は、「子曰く、学んで、時にこれに習う。また説(よろこば)しからずや。朋、遠方より来たるあり。また楽しからずや。人、知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや」先生が言われた。何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびをしらない人を見ても、心を波だたせないでいる。それこそ君子ではないか。(p.25)
「子曰く、学んで思わざれば則ちくらし(とらわれてしまう)、思いて学ばざれば則ちあやうし。」(p.16)
「子曰く、由や、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)えんか。之を汁を之を知るとなし、知らざるを知らざるとなす、是知るなり。」(p.32) 先生は言われた。「由よ。おまえに「知る」ということを教えよう。「これを知る」は「これを知る」とし、「知らない」は「知らない」とする。これが「知る」ということだ。(p.47)
「子曰く、君子、重からざれば則ち威あらず。学びても則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざるものを友とする無かれ。過ちては則ち改むるに憚ることなかれ。」(p.50) 先生は言われた。君子たるもの、もったいぶって重々しくなどせず、それゆえ威張ったり威圧したりはしないものだ。学んでも、自分でよく考えて、固陋(ころう)にならぬように。まごころに従い、言葉を心に一致させる人と交わり、ありのままの自分でいないものを友達にしない。過ちがあればそれを改めることに躊躇してはならない。(p.89)「子曰く、過ちえ改めず、是を過ちと謂う」(p.232)
子曰く、恭しくとも、礼でなければ、消耗するばかりである。慎ましくとも、礼でなければ、びくびくとおびえることになる。勇であって、礼でなければ、関係が乱れる。直であって、礼でなければ、関係が絞られる。君子が頼るべき人を大切にすれば、民は安心して人に目覚める。昔からの知り合いを適切に遇しなければ、民もまた人を裏切るようになる。
安富氏自信の学びからガンジー「非暴力は臆病をごまかす隠れみのではなく、勇者の最高の美徳である」「わたしは物を書く時に、自分が前に言ったことを考えたことはない。わたしの意図するのは、与えられた問題について、自分が前に述べたこととつじつまを合わせるのではなく、その時点において、自分にとって、真理であると思われるところに一致させることである。その結果、わたしは真理から真理へと成長してきたと言えよう。」「恐れを知らない気持ちがあると、真理は自然と宿るものです。なんらかの恐れのために、人は真理を放棄するのです」(私の非暴力)、ウィーナー「フィードバックの連理とは、振舞いがその結果に基づいて観察され、その結果の成功失敗に従って、将来の振る舞いが変更されること、を意味する」「学習とは、最も込み入った形態のフィードバックであり、個々の行為ばかりではなく、行為のパターンに影響を与える。それはまた、行動が、環境の要求のなすがままにならないようにする方式である」や、ドラッガー「マネジメントは任務 (task) である。マネジメントは統制 (discipline) である。しかし、マネジメントは人でもある。すべてのマネジメントの達成は、経営者の達成である。そのすべての失敗は、経営者の失敗である。経営するのは、人であって「力」とか、「事実」とかではない。経営者の洞察力、献身、誠実が、マネジメントかミスマネジメントかを決定する。マネジメントは常に組織、つまり人間関係の網の目 (a web of human relation) のなかで行われなければならない。経営者は、それゆえ、常に模範となる。その行い (waht he does) は大切である。しかし同様に大切なことは、その人となり (what he is) である。」「ビジネスとは何かを知るには、その目的から始めねばならない。その目的は、ビジネスそれ自信の外部に存在せねばならない。実のことろ、企業は、社会の機関であるのだから、それは社会の中にあるに違いない。ビジネスの目的の唯一の正しい定義は、すなわち、「顧客の創造」これである。」の引用もあり、それも楽しめる。学習が本質であるのに「儒教」となると、孔子から学習したことを書き記されたことを学ぶという、孔子の謂う、学習とは、異なることになってしまうのは、論語の難しさか。一定の解釈も存在しないこともおもしろかった。
(2012.11.23)