Last Update: August 13, 2010
2010年読書記録
- 「リー代数と量子群」谷崎俊之著,共立出版 (ISBN4-320-01692-0, 2002.4.15)
目次は以下のようになっている。第1章 リー代数の基礎概念、第2章 カッツ・ムーディ・リー代数,第3章 有限次元単純リー代数,第4章 アフィン・リー代数,第5章 量子群,付録A 本文補遺,付録B 関連する話題。生成元と基本関係によって定まるリー代数を第1章の最後の節で導入し、その線にのっとって一般のカルタン行列からカッツ・ムーディ・リー代数を定義し、その特殊な例として、有限次元単純リー代数、アフィン・リー代数と進み、その背景のもとで、量子群を定義している。267ページという紙面の制限にもかかわらず、一応 self-contained な形で書かれ、有限次元表現についても基本的な結果が紹介されている。いままでなかなか基本事項ですら勉強することのできなかったカッツ・ムーディ・リー代数、アフィン・リー代数、量子群について基本的なことを短期間(1ヶ月余り)で学ぶことができ、個人的には非常に満足である。目次からもわかるように、コンパクトにするために、様々な工夫がされている。アフィン・リー代数までは、殆どすべてに証明も加えられており、量子群の部分も努力すれば、証明を埋めることができるようになっている。そのいみでも良い導入となっていると思う。この付録Bからもわかるように、特にアフィン・リー代数や量子群は、他の分野との関連で急速に注目されてきたこともあり、全体的な教科書を書くのは難しいのかも知れない。個人的にも十分理解できたとは言えないが、特に初期において、日本人数学者が様々な形で関わった分野でもあり、特色のある幾つかの本が日本語で書かれているのは喜ばしい。次は神保道夫著「量子群とヤン・爆スター方程式」を読んでみたい。時間が取れれば村上順著「結び目と量子群」脇本実著「無限次元リー環」R. Carter "Lie Algebra of Finite and Affine Type" にも挑戦してみたいものである。奥の深い面白い分野に一歩足を踏み入れることができて感謝。
(2010.1.10)
- 「出逢い - 人、国、その思想 -」武田清子著,キリスト出版社 (ISBN978-4-87395-544-5, 2009.6.20)
帯には「日本人として、女性として初めて世界教会協議会(WCC)の会長を務めるなど、戦後のキリスト教界をリードし、世界的に活躍した一キリスト者の自分史」とある。武田清子先生は1917年6月20日伊丹市郊外の伝統的で600余坪の家屋敷をもつ大きな地主の家に生まれ、神戸女学院入学、交換留学生として、アメリカのミシガン州のオリヴェット大学で交換留学生として学び、卒業後、ニューヨークのコロンビア大学と、ユニオン神学校で学ぶが、太平洋戦争勃発で帰国、YWCAで働き、国際基督教大学名誉教授で1953年の開学以来(実際には1953年3月YWCAを辞し国際基督教大学着任)1988年まで教鞭を執る。1939年7月24日から8月2日アムステルダムでの第一回世界キリスト教青年会議出席を皮切りに、キリスト教関連の世界会議に出席、交友も広くそのなかでキリスト教と日本文化の出会い、相剋、相互浸透をテーマに数々の論文、著書を出版している日本思想史研究者である。国際基督教大学に私が着任したときは、すでに定年で辞めておられたが、母や姉と同じ教会に所属していることもあり、大学だけでなくお会いする機会が多い。この本を読み、歴史上の人物としてしか認識していなかった、多くの神学者、思想家、政治指導者たちとの交友を持たれていることに今更ながら驚かされた。「未来を切り拓く大学」など少数の著書しか読んでいないので、是非、ご専門の著書に挑戦してみたい。バルトなどとのやりとり、最後のご主人との別れの場面なども心打たれる。以下は備忘録。p.104 ロマン湖→レマン湖、p.136-7 北京大学の学生「苦しみは人に先立って苦しみ、楽しみは人に送れて楽しむ、これが我々の信念だ。」p.143 「彼(丁光訓)は宣教師のもたらした教派的教会や神学を拒否し、純粋に聖書からキリストのみことばを受け取り...」p.167- 「対決型」と「接ぎ木型」。
(2010.1.13)
- 「教育の力 - 『教育基本法』改定下で、なおも貫きうるもの -」岩波ブックレットNo.715,安積力也著,岩波書店 (ISBN978-4-00-009415-3, 2007.12.5)
著者は、国際基督教大学および同大学院を卒業後、敬和学園で社会を教え後に教頭、日本聾話学校校長、恵泉女学園中学・高等学校校長を経て、現在独立学園校長。1年前の著者からの年賀状でこの本の出版を知っていたが、読む機会が無く、一年を経てしまった。2007年2月12日に持たれた日本基督教団西東京教区社会部委員会主催の「信教の自由を守る日」の集会での講演を元に加筆したものとある。旧教育基本法は「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とはじまり、「教育は人格の完成を目ざし」と始まる第一条からなる。これが改定され、2006年12月15日に改定教育基本法が国会で可決成立した直後の危機感が感じられる中で、語られたものである。しかし、その中で、それでもなおも貫きうるものがある、として教育にかける信念を語っているものである。p.49 にある表現を用いると「われわれに求められていることは、たぶん、単純です。『個としての生徒』を大切にする教育を、いままで通り、なおも、どこまでも、貫くこと。生徒の心のなかまで画一化しようとする教育が強化され、すべてを効率性と単一価値の下に括ろうとする巨大な潮流の只中にあって、なおも『ひとり』という人間の持つ多様性と尊厳を、他のいかなるものよりも大切にする教育を貫くこと、なのだと思います。それしかないし、それでいいのだと思います。」p.17- には「心のノート」に関する記述もある。わたしも同じ思いで、学生と対している。この本にも書かれているように、戦時下でもこのことを貫き通した先生がいた反面、この潮流にさおさすことを、特に、人の尊厳がもっとも傷付く殺人をともなう戦争へと向かう中で、危険を冒して為さなければいけないのではないかという気持ちが、個人的には、強いということです。そうしなければ、大切にできない、次の世代に示すことができないものがあるのではないか。戦争へと向かう中、キリスト者は基本的に、これに抵抗しなかった。この歴史的事実をどう受け止めるのか、自分はどうするのかが、やはり大きな問いである。
(2010.1.22)
- 「先生と友人と書物に恵まれて - 私の受けた教育と仕事 -」中野照海(国際基督教大学教育学研究科)著, 2002.2.26
中野先生が45年間勤めた国際基督教大学を退職された時に最終講義をされずに、そのかわりに書かれたものである。先生は 1931年6月1日岡山県倉敷市に生まれ、倉敷青陵高等学校卒業後、京都大学教育学部入学、同研究科を修了後(教育方法学専攻、教育心理学専修、教育学修士)、米国オハイオ州マイアミ大学大学院教育研究科に学び、その後、インディアナ大学大学院教育学研究科へ進み、1963年6月、同研究科修了、教育学博士を得ている。この間、1956年、国際基督教大学教育研究所助手、1959年社会科学科講師、1964年同助教授、1975年教授。教育学科長、大学院部長なども歴任。専門の話はあまりよくわからないが、アメリカへの留学の話は、私とは、二回りも違うにもかかわらず、共通部分も多く、興味深かった。
(2010.1.24)
- 「数学的センス」野崎昭弘著、安野光雅装画、ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-09056-0, 2007.3.30)
2007年にちくば学芸文庫として出版されたときに一度読み、読書記録にも感想が書かれている。おそらく、同じ本について、二度目の読書記録を書くのは初めてだろう。大学一年生に薦める本の原稿を書くときに、わたしが一番最初に思いついた本である。そこで、もう一度、読んでみることにした。この本には、本当に様々な魅力がある。しかし、2007年の読書記録にも書いているように、おそらくそれは、著者である、野崎先生の魅力なのだろう。野崎先生の他の本も是非読んでみようと思う。今回ひとつだけ、備忘録として書き加えておくとすると、文章を書くときにわかりやすく書くために野崎先生が努力しておられることという項がある。p.84。 (1) ごく一部の読者しか知らないような言葉を、話の本筋の中で、説明なしに使うことは避ける。 (2) 新しい用語・記号については、具体例による説明をなるべく早く入れる。(3) 新しい用語・記号については、形式的な定義もきちんと述べる。最後に、p.44-45 にデカルト(1596-1650)の「方法序説」から分析についても引用しているのでそれも書いたおく。(1) 問題をいくつかの小部分に分割する。(2) 単純な場合から始めて、少しずつ複雑な認識へと進む。(3) すべての場合をもれなく列挙して残飯的な再検討を行う。
(2010.1.29)
- 「オイラー入門」W.ダンハム著、黒川信重・若山正人・百々谷哲也訳、シュプリンガー・フェアラーク東京(シュプリンガー数学リーディングス 第1巻、4-431-71079-5, 2004.6)
この本も2006年の読書記録にある。正直に言うと、数学以外の部分の訳には問題があると思う。正確な訳を意識しすぎて日本語としておかしくなっていたり、誤訳もあるようだ。原著は、William Dunham 著 "Euler: The Master of Us All" the Mathematical Association of America。むろん、この本の魅力はオイラーの数学にあるのだから、その魅力が十分伝えられている本書は、やはりお薦めの本だと思う。Dunham はたくさんの本を書いており、他の本にもあたってみたい。
(2010.1.29)
- 「ガンマ関数入門」E. アルティン著、上野健爾訳・解説、日本評論社(はじめよう数学6, ISBN4-535-60846-6)
この本も2003年の読書記録にある。上野先生も「本書のように基本的な定理を縦横に駆使してガンマ関数の基本的な性質を導き出していく議論を勉強することによって、基本的な定理の持つ意味を理解することが容易になってくる。」(57頁) と書いておられますが、厳密な議論も、基本定理を復習しながら時間をかけて読めば決して難しいものではないことも理解できるのもこの本の魅力でしょう。それには、この本で上野先生がされたような、努力が、数学を楽しむ人の裾野を広げるためにも、高校や中学の先生になったひとが、数学の魅力を語るためにももっともっと必要だと思わされる。
(2010.1.29)
- 「賀川豊彦を知っていますか - 人と信仰と思想 -」阿部志郎・雨宮栄一・武田清子・森田進・古屋安雄・加山久夫 共著, 教文館 (ISBN978-4-7642-6027-6, 2009.4.20)
母が、著者の一人である武田清子先生からいただいたものを読んだ。「死線を越えて」も読んだことはあるし、父からも母からも賀川豊彦のことは聞いていたので、比較的良くしっていた。しかし、神戸市葺合区の新川地区というスラムに入ったのが 1909年12月24日でそれから 100年ということは知らなかった。神戸生活協同組合では今も賀川豊彦を創立者として大切にしていて、活動をマンガにして配布したり、賀川について知らせる活動はそれなりにされていると思う。しかし、賀川の知名度が低いのは、日本のキリスト教会において、武士階級からの知識人クリスチャンが主流であったこと、それとも関連してドイツのバルトなどの神学の信奉者が多く、賀川などの働きを一段低くみる傾向が強いことによるだろう。しかし、日本のキリスト教会の歩みを考えてきたとき、わたしは、賀川豊彦をしっかりと捕らえることは非常に重要だと思う。たしかに「宇宙意思」などを、自然科学をあるいみでは乱暴に用いて証明したり、詩的な人生として、神学的な面を言語化するときに注意を払わなかったりはあるとしても、欠点をあげてはきりがない。自然選択の原理で、進化の過程で強者がのこっていくということは、神の意思ではないと言い切る。そのいさぎよさには、感銘をうける。普通の学問としての進化論の中では、そう単純ではないが、人間の世界でそうであってはいけないと言うことを明確にすることは、素晴らしいと思う。現代でも、賀川が始めたさまざまな運動は軌道のったとはいえ、人格をみとめられていない労働者、ひとは多く存在し、それゆえに様々な問題を露呈している面では、賀川の時代とかわっていないだろう。パウロ神学・ルター・バルトなどへとつながっていく組織神学の系譜は、キリスト教を世界宗教とするときの思想史的意義付けとして大きいが、イエスの愛はそれだけでかたられるものでは無いことは確かである。特に一つめの加山氏が語っている賀川についての話は良くまとまっていて、すばらしいと思う。もういちど、「死線を越えて」を読み考えてみたい。
(2010.2.4)
- 「量子群とヤン・バクスター方程式 (シュプリンガー現代数学シリーズ)」神保道夫著,シュプリンガー・フェアラーク東京 (ISBN-10: 4431705945, ISBN-13: 978-4431705949, 1990.12)
著者は、量子群の産みの親の一人である。谷崎氏の「リー代数と量子群」を大体理解できたことに勇気を得て、本書を読んでみることにした。量子群の一般的教科書ではなく、表題にもある、ヤン・バクスター方程式の解の構成をめぐる話題として量子群を紹介している。本質的な部分を見せたかったのだと思うが、やはり仮定することが多く、この本が出版された時点では、この本だけで概観をつかむのは、難しかったのではないだろうか。基本的な部分について、教科書や、論文の引き写しはしたくなかった様だが、もう少し、証明を書いてくれた方が理解できたと思われる。しかし、ホップ代数としての見方もある程度取り入れられていて、ごちゃごちゃしたことを書いていないだけ、スッキリしている。もう、遅いのかも知れないが、この分野に十分な興味を持った。20年前、それはわたしが他のことを勉強し始めた頃ではあるが、量子群ももう少し早く勉強したかった。P*Q 多項式型スキームや、TD対の研究も、量子群において展開されている議論を見直すことで、もっと理解が広がることは確かであろう。一回目はざっとしか読むことができなかった。二回目は大分計算もフォローして半分程度まで読むことができたが、ここで、きりにして、次に進まなければならない。また、量子群の勉強に戻ってくることができることを期しつつ。
(2010.2.6)
- 「CDブック 中国語表現の基礎・ポイント88」上野恵司著,NHK出版 (ISBN4-14-039380-7, 2003.10.25)
何年かかっただろうか。CDは何回も何回も iPod (shuffle - nano - touch とレベルも上げながら)で聞いたが、読む時間がとれなかった。ということは、聞いても殆どわからないまま、過ぎる部分も多かった。それでも続けることができたのは、基本的な言い回しがよくまとめられていて、簡単な表現はある程度わかり、まったくわからないということは無かったからだろうか。練習の部分で問題を日本語で言ってくれるのも助けになった。今回、北京で6週間すごすことになり、こちらに来る前から、少しずつ読み始め、こちらに来て、2週間で最後まで読み切ることができた。到底、この表現が使えるとは言えないが、一つのステップをクリアした気がする。他の本で学んだり、こちらに来てから中国語に触れる機会が多くなったりで、pinyin を見なくても読める漢字が格段に増え、スピードが上がったこともあるだろう。たくさん中国語の教科書を知っているわけではないが、わたしには、良い本だったと思う。これから第二段階として、pinyin を見ずに正確に読めること、訳を見ずに意味がわかること、聞いて、意味がわかること。ここをクリアできる希望が見えてきた。簡単にこの本の紹介をしておくと、基本的な表現が88.それが8部に分かれている。その大きな区切りに特別な意味は無いかも知れないが、区切りがあることは勉強しやすい。一つ一つの単元は、まずは、基本表現があり、解説付きで沢山の例が出てくる。最後に和文漢訳が2問ついている。11課ごとに答えがまとめられている。非常にコンパクトで、それ故に、説明が十分ではない部分もあるが、簡潔で取っつきやすい面もある。第三段階として、この表現が使えるようになる日がくることを祈る。東アジアに住む者(教養人とあえて書く)は、中国語・韓国語・日本語・英語の4カ国語は必須であるように最近考えている。わたしには、もう年齢から言ってもこれらである程度意思疎通ができるようになるのは無理であることはわかるが、その大切さをこれからも自分の身で感じながら一生これらの言葉を学び東アジアの人を中心に世界の人と語り合っていきたい。
(2010.2.21)
- 「中国人の機智ー『世説新語』の世界」井波律子著,講談社学術文庫 (ISBN978-4-06-291975-3, 2009.12.10)
中国の後漢末ー東晋末(2C末から5Cはじめ)を舞台とした貴族達の機智にあふれたかつ諧謔性に富んだエピソード集を5C中頃の南朝の劉宋 (420-479) とその文学サロンに集う文人たちがまとめたもの、と前書きにある。著者によると、この中国的な機智表現の特色は魯迅や毛沢東へと受け継がれているという。35page には孟子のことば「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす」という個人のモラル「独善」と政治倫理「兼善」という儒家の道徳的・政治的人間像「君子」から一線を画し、それに対する反措定として表現されたものだそうである。しゃに構えた、竹林の七賢人、例えば阮籍やけい(unicode 5D46)康の系統を引く者たちのエピソードである。主流ではない人たちといっても貴族かつ知識人だがのこの時代の文化をかいま見るだけでもおもしろいが、著書ほどに入れ込むことはできなかった。しかしおもしろかったことをいくつか備忘録として記す。「小さいとき、頭が良くても、大人になって立派になるとはかぎらないさ」「あなたは小さいころ、きっと頭がよかったのでしょうね」(p.17) 聡明なこどもの軽いジャブ。「理性的な論評表現ではなく(論評者の)感覚や印象に根ざした圧縮表現の中に論理的な正確さを付与する技法」(p.219 paraphrase) 魯迅が自分に似ているとした「けい康」の自認する二つの「非常に悪い癖」(1) 常に殷の湯王、周の武王を非難し、周公旦や孔子を軽蔑しており、世間に出てこの態度を改めないならば、社会道徳上容認されないであろうこと。(2) 強情で不正を憎悪し、軽率で思ったことを口に出し、何か事があると、すぐに自分の意見を申し立てること。」(p.226) 魯迅が他の世説新語の人たちを受け入れず彼ら二人を評価した理由「自己懐疑や自己否定をへた内的葛藤をへた攻撃性」(p.229) そして最後は「しかり、中国人の機智は生存のための武器なのである」(p.248) として、著者は世説新語のひとびとをくくっている。こう書いてみると、つぎは、魯迅について学んでみたい気になった。正直、魯迅、そして薬漬けの「けい康」、酒漬けの阮籍、とくに、「けい康」の非常に悪い癖は私によくあてはまることに驚いてしまう。
(2010.2.21)
- 「若者に伝えたい - 中国の歴史 - 共同の歴史認識に向けて」歩平・劉小萌・李長莉著,鈴木博訳,明石書店 (ISBN978-4-7503-2840-9, 2008.8.31)
中国社会科学院近代史研究所研究員の3人の執筆による。第1部は中国の歴史と文化。第2部は中国と日本の文化交流となっている。この二点だけでも特徴的な歴史書である。しかし同時にこの二点だけでもかなりの偏りが感じられる。近代史研究所においては、中日関係の研究は中心課題であり、その背景も散見される。また日本語としては一般的とは言えない用語もふりがなぬきでいくつも現れる。これは翻訳の問題なのか、考えさせられてしまった。北京に6週間滞在したおりに読んだ一冊で、中国の歴史を復習する意味では有用であったが、特に近代にいたるまでの過程の掘り下げ方が浅く感じられた。重点もその時代の英雄的人物についての一般的人物評伝で、科学的とは言えないように感じられた。他方で中日関係では、特に近代の種種の人物の係わりが記述されていて、私が知らない人も多く登場した。しかし、これに関しても、リーダー的存在の人物評伝のみでかつ批判的・科学的評価とは言えず、物足りなく感じた。それが日本の若者に伝えたいことなのだろうか。おそらく、一方でこのような本が中国・日本からいくつも出版され、他方では、共同の研究が進み、かつ政治・経済・文化・科学技術・庶民生活・民族や国家間の軋轢・融合などの様々な面からの考察が深められていく必要があるのだろう。北京滞在の最後に、学生の案内で 頤和園を見学したが、知っているのは物語のみで、私の方が知っていることもあり中国でも十分な歴史教育がされているとは感じられなかった。日本の歴史については、殆どなにも知らなかったことを考えると、中日の共通理解が庶民レベルまで浸透するにはかなりの時間がかかりそうである。しかし中華思想が、あるときに屈辱的な経験をしたことが、これからの中国の底力となっていくことも確かだろう。続けて、中国の歴史について学んでみたい。
(2010.3.19)
- 「本気で学ぶ中国語 = 発音・会話・文法の力を基礎から積み上げる」趙玲華著,ベレ出版 (ISBN978-4-86064-247-1, 2009.11.25)
今回の6週間の北京滞在の後半で学んだ中国語の初級教科書である。わたしは十分調べたわけではないが、一般書店で市販されているものの中ではよく書かれているのではないだろうか。労作であることは、確かである。しかしある部分を説明し始めるとそこを完璧にしようとする姿勢から多少冗長になり、他の重要な部分が抜けているのではないかとすら感じさせられた。教科書は、取捨選択が重要であるが、その意味では、著者が次に同種の本を出版するときにはさらに良いものになっていると期待したい。この本でも、発音をまず基本においている。中国語を学ぶためには、これは非常に大切だと思う。少なくとも日本人にとって、文法や読解から入るのは問題である。ある程度の中国語の語彙は日本語と共通だからである。しかし漢字とその発音・文章の読み、そして会話へとつながる部分が必須である。文法はどの言語を学ぶときも難しいのであるから、少しずつ学んでいけば良いだろう。25課あり、わたしは、それを30日程度の期間で、実質26日程度(1日30分から2時間)で学んだことになる。それは、基本的には発音基礎ができており、内容的にも8割以上知っている事柄だったからだろう。これからも何度か読み返し、ひたすらCDを聞いて、このレベルを自分のものとしていきたい。この次のレベルの教科書・参考書の紹介や一般的に中国語を勉強するときの教材・ウェッブサイト・辞書についての情報がなかったのは、残念であった。著者の意気込みが感じられると同時に、学習者には様々な背景があること、そして、いずれ、この本の目指すレベルに到達するにしても、他の様々な道を紹介することも重要だと思うからである。出版社やご自身のホームページなどを利用して情報発信するのも良い方法だろう。この本が改訂されていくことを期待する。
(2010.3.19)
- 「モンスター 群のひろがり」原田耕一郎著,岩波書店 (ISBN4-00-0065055-4, 1999.3.26)
1999年10月25日に恩師である著者からいただいたにもかかわらず、今年まで読むことができなかった。ちょっと敷居が高かったのと、興味が十分持てなかったからだろう。しかしやっとこの二つとも克服できて、この本に到達できたと思う。この本の前に「大阪大学数学講義録 Vol. 2 - Vertex Operator Algebraの構成について」宮本雅彦述・小川明彦記 (1995) を読み、すべて計算を終えたわけではないが、Vertex Operator Algebra が理解可能なものになってきたことも助けとなった。さてこの本は、第1章 群論入門、第2章 群の表現、第3章 モンスター、第4章 モンスターとムーンシャイン、第5章 頂点作用素代数、第6章 頂点作用素代数の自己同型。第7章 物理学から群論へとなっている。第1章では CA群は可解かまたは単純であるという定理の証明を概観しながら、有限群論の精緻な議論の一部を例示している。第2章はアダムス作用素の話、第3章はモンスターに関する導入、第4章は著者の講義録からの内容を含む保型関数とモンスターの表現の間の類似性として指摘されたムーンシャイン予想の話、第5章はその予想の解決で出てきた頂点作用素代数とボーチャーズの理論、第6章は、頂点作用素代数の自己同型として定義される宮本自己同型とそれに関係する理論の紹介、そして最終章は、頂点作用素代数が生まれた背景としての超弦理論の紹介である。証明が厳密に書かれているわけではない。それが読みやすくもあり、よみにくくもある。しかし第5章後半から第6章をのぞいては大体理解できたつもりでいるので、理論自体がより解明されれば、この部分もこの書き方で、もう少し読みやすく記述されるのかも知れない。しかし、これで十分理解できるとはわたしは言えない。次はやはり、原論文にあたることだろう。それは、つぎの特別研究期間の時だろうか。本にいろいろな種類があるのと同様に、読み方にもいろいろな方法があり、また人によって得意な読み方があるのかも知れない。いろいろな読み方で本を読める達人もいるのだろうか。本の内容とは直接関係のないことを考えてしまった。
(2010.3.27)
- 「中国語を歩く - 辞書と街角の考現学」荒川清秀著,東方書店 (ISBN978-4-497-20909-2, 2009.10.20)
裏表紙より「旅行者も街角で目にする身近な看板の文字は、日中で異なる漢字文化を考える恰好のヒント、一方、辞書をじっくり読めば、中国ならではの個性的な用例のほか、語義・文体・音声・文字の記述の広がりにも出会う。入門・初級者にすぐに役立つ基本語に関する知識をはじめ、中・上級者がぜひ知っておきたい文法概念や工具書も紹介、コミュニケーションの道具としてだけでなく、知的な探求心をもちながらことばを学ぶ楽しみを教えてくれる。研究・教育の場で長く中国語をみつめてきた著者ばらではの観察眼が光る、好奇心いっぱい、軽快な中国語エッセイ。」とあるのに、ひかれて読んでみた。295頁中、最初の45頁は、確かに街角の考現学が辞書との絡みで書かれていて軽い気持ちで読めるが、それ以降は、最後のあとがきにも書かれているように、この書の成り立ちからして、辞書作成者による、辞書にまつわる話。それもある程度専門的な興味の元での話しである。最後の電子辞書に関わる部分など、一般の人でも自然にわく興味と合致する部分もあるが、やはりこの書は、言語または辞書に関する特別の興味がないと、通して楽しむのは難しいであろう。まあ、中国語学習者のわたしとしては、興味もそれほどとぎれず、最後まで読むことができたが、残念ながら、残っているものは少ない。しかし、中国語関連ではなくても、ことばおよび辞書に興味のある人には、おすすめのエッセー集かもしれない。
(2010.5.16)
- 「『無限と連続』の数学 - 微分積分学の基礎理論案内」瀬山士郎著,東京図書 (ISBN978-4-489-00708-8, 2005.9.25)
「高校とは違う、大学数学のセンスを知る 高等学校の微分積分で学んだ『ロルの定理』は最大値の存在定理を使って証明される。では、この最大値が存在するという事実が成り立つのはどうしてだろうか?数学的にはどう証明すればいいのだろうか?本書はそうした観点から、微分積分学の基礎となる、位相空間論の諸概念まで、読者を誘う。この部分の難しさは、多くの公式や予備知識を必要とするというのではなく、概念じたいの納得の難しさに、まさに直結している。イメージだけでも、論理だけでも、なかなか理解しづらい難関を、ユニークな構成にしたがって一つひとつじっくりと勧説する」(カバーより)[目次] 第1章ロルおn定理を見直す、第2章実数の連続性ということ、第3章数列の極限と四則演算、第4章関数の連続性について、第5章関数の一様連続性と積分の存在、第6章位相空間と連続写像。ICUの数学サマーセミナーの教科書として学生が選び読むこととなった。例年は3年生中心であるが、今年は1年生・2年生中心であることを考えると、適切なレベルだと思う。今は、大学1年生の授業でεーδ論法を使い、微分積分学を押し通すこともほとんど無いだろうから、2年生への橋渡しとして良書であると思う。昔は1年生に、夏休みには高木貞治の「解析概論」の第1章を読んでおくと良い、などと言うことが多かったと思うが、今は、少なくとも、それをすぐ実行に移し、夏休みにどんどん先に進む学生は殆どいないのではないだろうか。p.73 にあるように、デデキントの切断公理から始め、上に有界な集合の上限の存在、有界な単調増加数列の極限の存在、区間縮小法の原理と進み、最後に区間縮小法の原理から、デデキントの切断公理を示すことで、これらがすべて同値であることを示している。そのいみでも、上記解析概論や、他の古典的な入門書と本質的にはあまり変わらない。しかし例ももちいて、このように丁寧に解説する本書の意義は大きいのだろう。このあと、コンパクト性についての解説へと入る。わたしは、本書で扱っているトピックについて、以下の三つを考えている。数学の厳密性、概念理解の困難、厳密性を必要とした背景と厳密化が生み出した数学の世界のダイナミズム。この書もかなり似た思想によって書かれている。学生の理解を基本においている点でも、親近感を感じる。しかし、最初の二つについては、かなり成功しているように思われるが、第三番目には、位相空間への橋渡しをして、そのことを目指してはいるが、ダイナミズムとまでは言えないだろう。丁寧に教科書的に書かれたため仕方がないかも知れない。しかしそうでれば、読者が何となくわかった気になるだけでなく、本当にわかるための、多くの練習問題を加えることは、あるべきだと思う。この次のレベルにいくためには、なんとなくではすまないのだから。
(2010.6.28)
- 「日本聖公会の試練」(社)日本聖徒アンデレ同胞会 東京聖三一教会支部 (2009.8.5)
戦時下の教会合同事件に学ぶ - 松田義夫・教会合同事件に関する手記 - 八代斌助主教・戦時中におけるキリスト教受難史 - 岡村邦輔 の三つの文書からなる。特に八代主教は当時の主教でその証言は重い。具体的には「自治自給」「英米依存」からの脱却を銘打った外国人聖職の国外退去と1939年成立1940年から実施された宗教団体法によって強制された教会合同についての記録である。日本聖公会は前者はある意味で自主的に実施、後者においては、監督会においては合同不参加を決議したにもかかわらず、大阪などの主教区で合同の動きが強くなり、分裂、合同を拒否した監督達は投獄などもされる。この間、合同派による告発、賀川豊彦による合同への説得、また戦後の合同派受け入れの経緯など、考えさせられる問題ばかりである。活動様式を非難された救世軍、日独伊三国同盟のゆえに合同拒否を許容されたローマカトリック、日本の敵国となっていた英・米との結びつきの強い聖公会と国の対応も異なり、翻弄されていく。個人的にはもっと前の時代、「自治自給」「英米依存」からの脱却の段階の前に、普遍的な価値観にたった預言者的発言が不可欠だったと思う。しかし、NHKテレビの「龍馬伝」や「坂の上の雲」を見ても、植民地化にあらがうことがやっとの上状況で、欧米列強の植民地主義に対抗するほどの見識と、普遍的な価値観をもとめて世界に訴えていくことは非常に難しかったであろう。せめてこれからの社会にあって、人間の欲望に流されないより普遍的な価値観をもとめてキリスト者が真剣にみこころをもとめ、一身をなげうっても発言していかなければならないであろう。そのような人間を育む場を創ることに貢献していきたい。
(2010.7.25)
- 「聖公会が大切にしてきたもの」西原廉太著、聖公会出版 (ISBN978-4-88274-211-1, 2010.4.4)
2009年夏、聖公会関連学校の研修会での講演を元にしている。「日本聖公会とはどんな団体なのですか」という問いに答えるような平易で、中高生に語りかけるような形で書かれている聖公会の入門書である。ペリーが聖公会の信徒であったこと、やはり聖公会の信徒の葬式がペリーに随行した司祭のもとで日本の寺で行われたことから、2009年を宣教150周年とする根拠としてのウィリアムズの来日、それより先立つベテルハイムの琉球伝道、アイヌのユーカラの筆記によって伝承に貢献した知里幸恵、製糸工場で働く女工のために、岡谷聖バルナバ教会は建てられ畳敷きにした話、アングリカンのスタートとしてのカンタベリーのオーガスチンのイギリス伝道とカンタベリーの主教座、ヘンリー8世に係わるカトリックとの分離における、信徒中心の英国の宗教改革、ケルト・キリスト教との融合、分散された権威としての「聖書・伝統・理性」、あらゆる絶対主義を否定するヴィア・メディア、主教職の意味、アングリカン・コミュニオンといわれる共同性、公共性の理解とパリッシュ制度、Critial Solidality 批判的連帯の伝統と、基本的なことばわかりやすく説かれている。個人的には、tradition - lifelineと traditionalism の区別、理性の定義などなど、興味深いものばかりであった。より専門的な文章で、勉強してみたいと感じさせられた。いずれも、ICU における問題の整理にも役に立つ考え方である。
(2010.7.25)
- 「YES! HIROSHIMA NAGASAKI GITEISHO 〜ヒロシマ・ナガサキ議定書を読む絵本」絵 黒田征太郎・発行所 YES! キャンペーン実行委員会 (ISBN978-4-88274-211-1, 2010.4.4)
建築家の安藤忠雄も特別協力となっている。2010年キリスト教週間の特別講演で Steven Leeper 広島平和文化センター理事長が講演したときに購入。議定書を広く知ってもらうための啓蒙のために作られたとある。このような取り組みにむろん反対は無いが、自分がコミットすることではないと考える。核兵器を持とうとする根、ひとがなぜ戦争をするのかという問いが十分考慮されていないと感じられてしまうからだろう。日本はそして世界はなぜ戦争をしたのだろう。だれも望まないハズの殺し合いを。
(2010.7.26)
- 「矢部喜好平和文集 - 最初の良心的兵役拒否」鈴木範久著、教文館 (ISBN4-7642-6331-9, 1996.7.20)
「神は、罪のない人間を殺してはならないと教えています。戦争は人を殺します。人を殺す戦争に参加することはできません。聖書には剣をとるものは剣にてほろぶべしと書いてあります。戦争は戦争によって終わらせることはできません。」(表紙より)1905年(明治38年)3月16日 召集不応の罪に問われ、若松区(福島県会津若松)裁判所で禁固2ヶ月の判決をうけた、20歳の青年の裁判所でのことばである。日露戦争の真っ最中のことである。非戦論の内村鑑三も兵役拒否を唱えるキリスト者を家族のためなどと説得した時代の証言である。矢部喜好はこの2年前に末世の福音教会(SDD)で洗礼を受け、その伝道師となっていた。不明な点もあるが、収監中に自らの罪の大きさを改めて知り、刑期が終わった後は看護兵として応召する。1年ほどで渡米、1907年 Daton の ステイル高校、Chicago 大学、Otterbein 大学で学び、同胞教会の按手礼を受け、帰国後は、滋賀県膳所で伝道をする。1.兵役拒否事件 2.自伝篇 3 平和・信仰篇 の構成からなる。1は、判決文や新聞記事など、価値が高い資料も多く含まれている。2には、聖書やキリスト教書を売って生活していた頃、たまたま知らずに訪ねた家が幸徳秋水の家で「君が耶蘇に降参した顛末を聴かせてくれ」と言われ「まずあなたから社会主義に降参した話しをして下さい」と切り返したり、初陣の初穂の話、オーヴィル、ウィルバー・ライト兄弟の妹のカサリンさんにラテン語をならい、家に呼ばれ、飛行機に根注している兄弟に絶対に飛ばないと反論し、フェア・フィールドでの実験に呼ばれ、貴賓席で見物した話なども含まれ、興味深い。3は、矢部が書いた文章の中から平和・信仰に関するものを集めた物だが、ウィーン平和会議や、ワシントン会議、宗教団体法の成立などに、しっかりとした本質的な問いかけをしている。矢部自身、兵役拒否裁判についてはあまり語らない。神の律法の遵守を前面にだした証言からより福音的な神理解へと変化していった矢部であるが、終生、正々堂々を正論を述べる矢部の原点に、20歳のとき裁かれることをも辞さずきっぱりと言いはなった決断があると思わされる。個人的に、ここ2年ほどで最も感銘を受けた本である。
(2010.8.3)
- 「こどもたちに伝えたい 戦争と平和の詩 100」水内喜久雄編著、たんぽぽ出版 (ISBN978-4-901364-67-6, 2010.7.7)
「こどもたちに平和の願いを伝えたいのです。」と最初に書かれ、100篇の詩が集められている。ほぼ年代順にならべられ、最初は「君死にたまふことなかれ」与謝野晶子である。歌の歌詞としても知られる「さとうきび畑」「イムジン河」「戦争を知らないこども達」、原爆資料館などで有名な幾篇もの詩も含まれる。当時中学生が基地にかかっていた「このまわりをうろつくものは射殺されるかも知れない」との告知板を見て書いた詩なども印象的。95番目の詩が私の従兄弟の作ということで、この本を手にした。戦争について平和について感性に訴えるこのような詩は基本的な価値があると思わされる。感性に訴えるものゆえ、人によって受け取り方は違い、印象に残る詩もことなるが、同時に、民族を越えたひとのこころに訴える力もあると感じる。
(2010.8.4)
- 「闘う牧師 田村直臣の挑戦」梅本順子著、大空社 (ISBN978-4-283-00776-5, 2010.2.18)
1994年著書「日本の花嫁」の発禁処分にともない、国内のキリスト教会内から批判が起こり、日本基督教会において教職剥奪がされた牧師田村直臣についての書籍である。以前より調べたかった人物についての本が出版されたことは非常に嬉しい。著者は日本大学教授。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著書が幾つかあり、この本でも両者の比較を行っている。著者がクリスチャンでは無いことから、田村の信条を十分捕らえきれていないように感じられる点もあるが、その分客観的に記述されている利点も十分にある。目次を記す。1章 田村直臣とは 生い立ち、並びにハーンと比較して、2章 留学時代 内村鑑三と比較して 3章 花嫁事件の渦中で 4章 児童文学への貢献 5 青少年に囲まれて 足尾鉱毒問題との関わり 資料 山東問題についての真実(田村直臣)田村直臣年表、田村の闘ったもの あとがきにかえて。田村が「牧師にならなければ軍人になった」と書いていることなど、同じ記述がくり返し、くり返し現れるなど、もう少しコンパクトになるのではとも思われる。上に信条のことを書いたので一言記録しておくと、それは日曜学校でキリスト教を通してこどもと接してきたという点である。この経験は「日本の花嫁」についての批判にたいして田村を代弁したくもなる。いずれにしても日本のキリスト教の歴史を考えても、宣教開始は1860年、切支丹禁令の立札撤去は1973年、宗教として公認されたのは大日本帝国憲法発布1889年、1899年の私立学校令における(公認された)学校における宗教教育の禁止、1929年の宗教団体法の公布と考えると、日本のキリスト教が普遍的真理に立つまでに成長するのは難しかった言わざるをえないが、田村直臣の排斥は、未成熟の日本を象徴しているような事件だったと思わざるをえない。さらに、勉強してみたい。
(2010.8.13)
- 「ダーリンの頭ン中 英語と語学 Inside Darling's Mind」小栗左多恵(おぐりさおり)&トニー・ラズロ、メディアファクトリー (ISBN-4-8401-1226-6, 2005.3.13)
夏の日曜日朝、このところあまりに朝から晩まで集中して仕事をしすぎ少し疲れ気味、その時間にすることも決めていたが、休憩を決め込んで辺りを見回すと、座椅子のそばにあったのがこの本(マンガ)、家族のだれかが買ってきてあったようだ。電車内などの映像でも良く知られた「ダーリンは外国人」の姉妹本である。ハンガリーとイタリアの血を受け継ぎ、アメリカで育ち 1995年日本に来た語学好きのラズロさんとその奥さんの漫画家の共作である。最後に言語学者の町田健氏と、ラズロ氏の対談も含まれる。一気に読んでしまった。内容には触れないが、帯には「日本語と英語の『?』をひもとく!」となっている。自らを知るのに、文化・言語などの背景の違う人と出会うことが如何に画期的な経験か を改めて知らされる。日本語を愛するに到る前に、外から日本を自分を日本語を驚きを持って見ることが必要。そのことが一番日本人にというより人間に欠けていると思わされる良書。
(2010.8.22)
- 「横浜バンドの女性観 -『日本の花嫁』事件をめぐって- 」MICS オケイジョナル・ペーパー2、武田清子、明治学院大学キリスト教研究所 (1997.3.31)
1996年6月21日の明治学院大学キリスト教研究所における公開後援会における「『日本の花嫁』事件をめぐって - ナショナリズムの風圧のもとに-」と題する講演に書き加えたもので、補遺として『日本の花嫁』の原著 (Naomi Tamura, The Japanese Bride, Harper and Broghres Publisher, 1893) が収録されている。(少し気になるのは、これが、scan して、OCR で読み込んだのか、誰かが type したのかと言うことである。タイプミスと、信じられないスペルミスが幾つかある。)ここでは、田村の『日本の花嫁』事件を中心に、その告発側に身を置いた、横浜バンドの中心的メンバー、井深梶之助と植村正久の女性観が語られている。武田先生のお人柄もあるが、田村の牧師職剥奪がわにたったものの、この二人の女性観は、田村が批判している封建主義的女性観とは異なることをのべ、三人の背景などが語れている。井深梶之助と植村正久についても、是非勉強してみたいとは思ったが、田村の『日本の花嫁』事件に関してはあまり新しいことは得られなかった。しかし、何と言っても、補遺にある、Japanese Bride を英文で読めたのは良かった。これを読むと、ある程度予想していたごとく、批判者の殆どは、この原文を読んでいなかったのではないかと思われる。日本語で出版しても売れなかったと思うが、米国での出版物としては十分の価値があり、読み手であるアメリカ人に配慮して記述になっているのみである。出版は1893年、1994年7月4日に日本基督教会第9回大会において、牧師職剥奪の動議が可決されたのである。真理より、政治を好んだとここには書いておくことにする。最後に Japanese Bride の Contents を記す。I. WHY DO WE MARRY? II. COURTING III. THE GO-BETWEEN IV. PREPARATION FOR THE WEDDING V. THE WEDDING CEREMONY VI. THE HONEY-MOON VII. BRIDE AND BRIDEGROOM AT HOME VIII. MOTHER AND GRANDMOTHER この本の最後の文章を記す。Japanese homes are very defective when we take the standard of loving American homes, yet you can see some divine virture in our kindly treatment of old age. THE END
(2010.8.26)