Last Update: December 26, 2009
2009年読書記録
- 「ビジネスを支える聖書の言葉 - 苦境を乗り切った31人のその時 -」イーグレープ(ISBN978-4-903748-19-1, 2009.1.17)
インターナショナルVIPクラブ ([HomePage]) につながりのある方々の証集である。それぞれが2ページという限られた紙面の中で、神様と向き合って応答し活かされている証が記されている。ひとりひとりに神様はことなる時に、さまざまな方法でのぞまれ、聖書を通しての神様の意思を示し、応答を待っておられる、そしてその応答こそが、その人を生き生きと生きさせる元となっていくことが確信させられる。「安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と主イエス・キリストが応答され、これらの苦境をのり切った後も、一人一人が、日々応答を続けながら、導かれていく様子を活き活きと読み取ることができる。
(2009.4.11)
- 「「学歴孤児」と『伊豆の踊子』- 学徒兵佐々木八郎はのレクイエム」立川明著、国際基督教大学最終講義 2009年2月23日(月)午後3時ー4時半 本館316号室(2009.3.31)
伊豆の踊子の映画二点、野村芳太郎監督、美空ひばり・石浜朗主演版 (1954年) と、西河克己監督、吉永小百合・高橋英樹主演版(1963年)をとりあげ、下田での分かれにいたる背景を考察したものである。最後に、英語による要約がついている。立川先生は、踊り子と別れて去っていく一高生を「学歴貴族」としてとらえ、社会的階層の違いが生んだ踊り子側の一方的悲劇として表現する「小百合版」にはもの足りず、一高生を「学歴孤児」という言葉で表現し、特攻隊で死んでいった学徒兵佐々木八郎と二重写しにしてその心情を考察している。近代資本主義の中でお金を儲けることに中心的価値をおく父親から離れ学歴孤児として学問の道を進む一高生が、社会的弱者との連帯の中に、悲劇をもいとわない自分の置き所を求めるところに、主人公の一高生と学徒兵の共通性を見いだしている。おそらく、立川先生は、高学歴で、世の中そして戦争自体もある程度見ていた、学徒兵が数多く特攻隊として死に向かっていった事における、ある謎解きのヒントを伊豆の踊子の中に見いだしておられるのだろう。命を捧げる理由付けは、個人個人で異なり、かつ意識下のものも意識しての事もあるであろう。学徒兵が命を捧げていった理由の解き明かしとして非常に興味深い文書であった。小説および映画を立川先生を思いながら、そして可能なら学徒兵の心情を思いみながら鑑賞してみたくなった。苦しいときに何度も支えて下さった、立川先生に心よりの感謝を持って。
(2009.4.15)
- 「使徒パウロ - 伝道にかけた生涯 新版」佐竹明著、新教出版社(ISBN978-4-400-11021-7, 2009.11.15)
東京大学卒業後、ハイデルベルグ大学などに学び、青山学院大学、広島大学などを経て、フェリス女学院大学に移り 1996-2004年同大学学長、パウロ書簡などの注解もいくつも出版している著者が、1976年4月から一年間 NHKラジオ第二放送の「宗教の時間」で話したものを土台に新しく書き直したものである。パウロについて一次証言としての「ガラテヤ人への手紙」「コリント人への手紙」「ローマ人への手紙」「ピリピ人への手紙」などを中心として、「使徒行伝」については、編集者の意図から批判的に扱い、再構成したパウロについての書である。「使徒行伝」についての執筆意図はいくつか明らかなものがあるとしても、ここまで批判的に扱う必要はないと思われるが、それがある実験であり、研究者として譲れないところなのだろう。書簡から読み取れる時期、たとえばアンティオキアの衝突以降書簡が途絶えるまでの、第二伝道旅行、第三伝道旅行については、読み応えがあるが、それ以前は、かなり推測の域を出ないとも言える。特に、回心直後については、あまりに資料が少ないのに、「使徒行伝」を信用できないとしているため、困難を極める。この部分についえも「ガラテヤ人への手紙」の記述を中心としているが、回心という精神生活上非常に大きな出来事については、本人の証言が必ずしも、事実とはずれることはよくあることである。後の意味づけの部分が大きくなるからである。中間のエルサレム会議、第一伝道旅行、アンティオキアの衝突は、「ガラテヤ人への手紙」を中心としており、一つの論として興味深い。「使徒行伝」をあまり信用しないのであれば、ルカとパウロの接点についての証言についても最初に十分検証する必要があるのではないだろうか。もう一つ気になったのは、ユダヤ主義が強くなってきた頃の、ユダヤ人ユダヤ教徒と、ユダヤ人キリスト教徒との考え方の違いについての検証である。たしかに、エルサレムにおける使徒集団などの影響は弱まっていくものの、ペテロやヨハネの影響はその後も続いていると思われる。主の兄弟ヤコブが重要視されていたことは確かとして、ペテロ、ヨハネとの関係、考え方について、さらなる検証を織り込んでほしかった。
(2008.4.20)
- 「青銅の基督」長与善作著、岩波文庫(緑96, 1927.12.5 第一刷、1974.4.30版)
切支丹宗徒迫害が苛酷を極めた時代に、長崎において死刑となった、踏み絵を鋳た南蛮鋳物師萩原裕佐を主人公にした物語である。裕佐は切支丹の女性モニカに恋をするが、切支丹ではない男には嫁がせられないと父親に拒否され、モニカとうり二つの遊女君香を慕いもとめ、身請けをしようとする。この君香は人のこころを知り尽くした自由人。この裕佐が踏み絵を鋳ることとなるが、そのできばえの良さに、法官曰く「こんどの踏み絵の調査においてじゃ、君の傑作がもしわれわれの不吉な想像を裏切らなかったら、君は自分の仕事の成功の証明に免じて瞑してくれなければならぬ。が、反対にもしわれわれの想像を裏切ったとしたらじゃ。君は生命の無事を大いに祝すべきじゃ。」モニカは「ひざまずき、まずその像を手にとってじっと打ちながめた。『あああなたは、やはり信心をもっていらっしゃったのですね。ありがとう。』役人にも聞こえぬほどの低い声で彼女はこうつぶやいた。そして急にそれを抱きかかえるごとくひしと胸に押し当て、接吻し、またそれをうやうやしく台の上におくと手を合わせて拝んだ。」君香は、「『あたしは信者ではないのよ。それはほんと。だけどあたしにはこのお像を踏むことはできないわ!人間としてそんなことはできないわ。さあお縄をおかけなさい。地獄の犬殺しさんたち。』そして彼女は引き立てられながらいった。『ああうれしい!あたしは今日の日をどんなに長くまっていただろう!』」こうしてみな処刑される。最後に、長崎で生まれ育った著者が長崎弁を使わなかったことについてつぎのように書いてある「切支丹の史実というものは実に日本歴史のなかでもある意味で最も日本国民の頼もしい美点を発揮した事柄であり、また世界史の一端として見ても重大なポイントをなす貴い資料である。」それゆえに方言を使わず「自分はわざとその反対な正面的な書き方をした。」とある。特に、君香の人を知り尽くした自由さに掘れてしまう。秀逸な作品。
(2009.5.3 アメリカ出張の帰りの飛行機の中で)
- 「この定理が美しい」数学書房編集部、数学書房(ISBN978-4-903342-10-8, 2009.6.1)
「美しい定理、美しい見事な証明、魅了される理論… などの表現を数学者は好み、よく使います。それぞれの美の基準は、時代、地域、文化によってことなるかも知れません。一方、人間および数学者の感性として、ある普遍性がそこにはあるように思えます。」"はじめに" より。20名の数学者が自分で選んだトピックについて書いている。だれでも、簡単に読めるものもあるが、かなり難しい理論の雰囲気を伝えるもの、証明の中の核となる部分の美しさを伝えようとするもの、そして、描かれた美しさも多様である。数学は、常に普遍的な理論・結果を求めるものの、美しいと感じるものは、数学の中に生きる数学者の原体験と深く関わるやはり主観的なものであることを感じさせられる。しかし、同時に、その真理の前に、美しいとしてしか表現できないものに出会ったものの証といういみでは、美しさにも普遍性があるのかもしれない。最後に私も一般教育科目のレポート課題についての記事「みなさんなら何を選ぶ? 学生が選んだ美しい定理」を書かせてもらっている。ほかの19とは、かなり違ったものになってはいるが、だれにでも読めるという点では、価値があるかもしれない。もととなっている、レポートを書いてくれた学生さんに感謝しつつ。その学生さんたち、この本に書かれている、20のうち、どの程度、その美しさを多少なりとも、共有してくれるのだろうか。
(2008.6.25)
- 「CDエクスプレスドイツ語」小塩節著、白水社(ISBN4-560-00478-1, 1999.5.25)
春から海外出張が多く、iPod にいれて、中国語、タイ語、英語、韓国語、そしてドイツ語と語学のCD を聞いている。ドイツ語は、大学時代に授業で3年間勉強したが、大学院時代少し、数学書と論文を読んだ以外はまったくご無沙汰、ドイツ語を話したことは一回もない。しかし、さすがに、この程度の入門書では、単語は忘れているものの、かなり聞き取ることもでき、最後まで通すことができた。語学は使わないと上手にならないことは事実であるが、使わなくても若い頃に勉強するのがやはり効果があるのかもしれない。ドイツについてのことがコラムで書かれていて、これから旅行をする国に思いをはせることができた。上記の他言語のものと異なり、ともかく、文法解説が圧倒的に多い。大学でも殆ど文法を学んだ記憶しかない。おそらく、動詞変化、格変化などがしっかりしている、ヨーロッパの言葉としての、ドイツ語の特色なのかもしれない。それでも、話すだけなら、あまり気にしないで、話せるようになりたいと思うのも、確か。言語による、教育方法の違いを学ぶのも面白いのかも知れない。英語圏や、フランス語圏では、違った教育方法をとっているのだろうか。語学にも興味をそそられる。記憶力が殆どなくなってしまった現在、深入りはできないが。
(2009.7.2)
- 「日本プロテスタント伝道史」小野静雄著、日本基督改革派教会西部中会文書委員会(ISBN4-88077-034-5, 1989.4.30)
今年は日本プロテスタント宣教150周年ということで行事も行われている。以前 Why are Japanese Christians so few? を書いたとき、自分の信仰および思考の背景に自分が生きた歴史が強く反映していることを強く感じた。日本宣教について特に戦争に向かった歴史について探ってみたいと考えていた。書棚に読まずに残っていたこの本をまず読むこととした。著者は、改革派名古屋教会牧師で「日本プロテスタント教会史、上下」1986年も著している。調べてみるとこの種類の本はかなりの数出版されている。「福音は特定の歴史・社会・民族の中でのべ伝えられ、信じられ、そして教会形成に到ります。」聖書に書かれている普遍的真理とともに、人の心に届く福音という意味で、上の言葉の意味は重い。日本では宣教の初期において中心的信徒は士族層が中心であったことは、よく知られている。しかし、それ故に仁愛・忠孝といった聖書の倫理主義的解釈が強く、日本の社会においても、反社会的・反国家的ではないとの弁証が強くなっていったのではないのか。外国のミッションからの独立を早い時期から目指し、特に、1839年(明示26年)の田中直臣牧師の「日本の花嫁」Japanese Bride の記事に対して起こったキリスト教批判に対し、日本宣教を妨げるものとして、免職処分としている。(p33) 田村が、日曜学校運動に積極的だったことを考えると、日曜学校で接する女子の将来に対して、悲観的でキリスト教倫理の観点からも、日本社会を批判的に表現せずにはおられなかったことが理解できる。国家主義への批判ではないが、まさに、その背景にあるものへの危惧が込められていたことは確かだ。この事件について、さらに調べて見たいと感じた。田村の批判者の中心的な人物に植村正久もいる。そのことも、この事件の検証が疎かになっている原因ではないのか。一つの事項のみ記したが、学術的ではないが、考えさせられる点が多かった。できれば「日本プロテスタント教会史」も読んでみたい。
(2009.7.5)
- 「はじめてのルター」S。ポールソン著、湯川郁子訳、教文館(ISBN978-4-7642-6676-6, 2008.11.5)
単なる人物伝ではない。ルターの時代に、ルターがどう考え、どう弁証したか、ルーター主義と呼ばれるものの根幹にかかわることの入門書である。教会や教皇、司祭などではなく、神を真正面からとらえ、神そのものに目を向けさせようとしてルター、正直にルターの天才ぶりを感じさせられる。その天分が地に埋もれてしまわなかったのは、時代的な背景もあるだろうが。第5章の「神にとって、語ることは行うということ」は特に新しい視点が与えられた。プロテスタント神学の基本としてどうしても、ルターの神学については、理解しなければならないと感じた。しかし、同時に、このルターの説いた福音は、現代の日本人に届くのだろうか、やはり確信がもてない。やはり、当時のカトリックの背景の中で、聞く新鮮さとは、違うのではないだろうか。いずれにせよ、もっとルターにいて学びたいと思わされた。
(2009.7.20)
- 「数学者のアタマの中」D.ルエール著、冨永星訳、岩波書店(ISBN978-4-00-005532-1, 2009.4.23)
数理物理学者のルエールが解き明かす数学者のアタマの中。極力抽象論にならないように、具体的な表現に徹しようとしている。そのために、数学自体にも入り込んで説明を試みている。一般の読者に読める部分から、かなり難解な部分まで含む。しかし、それを丁寧に、巻末中で補う努力もなされていて、全体的に丁寧に書かれていると言って良い。例証であるため、本質論ではない。そのために、散漫になっているきらいがなくもない。しかし、数学の思考に正面からいどみ、それをあるバランスをもって、かなり広い範囲に渡って、記述しようとする取り組みは、すばらしい。訳者はこのあたりを次のように書いている 「実に多岐にわたる素材にひらひらと舞う蝶のように触れながら、ひとつひとつの物事に精一杯厳密に対処しようとしているその姿は、まさに数学者の誠実と、禁欲を絵に描いたようだ。しかもその姿勢は、数学について述べるときも、(グロタンディークをはじめとする)数学者について述べるときも、決して揺らいでいない。」(p223) 以下は、単に、備忘録。p.19 で胡蝶定理をとりあげ、問題を考えるときに、数学の構造に注目することの大切さを説いている。p.89 「ところが数学者たちは、昔ながらのチョークと黒板を好む。こういった道具を使った方が、聴衆が単位時間あたりに受け取る情報の量が制限できて継ごうがよい。つまり、猛烈なスピードで複雑な式を映し出したり、一時間ではなく、二時間もしゃべり続けたところで、結局たいして役には立たず、みんなの頭をくらくらさせるだけで終わってしまう。p.217「数学がかくも美しいのは、この学問が課す厳格で論理的な枠組みのなかに、ともに潜んでいる単純さと複雑さが明るみに出るからではないだろうか。」「わたしの妻によると、数学者は確かに普通の人たちに比べて卑劣漢や詐欺師がすくないよな気がするが、愉快な人も少ないような気がするとのことだった!」(appendix p.4)
(2009.8.4)
- 「ことばの宇宙への旅立ち2 - 10代からの言語学 」大津由紀雄編、ひつじ書房(ISBN978-4-89476-429-3, 2009.2.20)
大津由紀雄「ことばに魅せられて」(認知と言語)、酒井邦嘉「脳に描く言葉の地図」(脳と言語)、日比谷潤子「書を捨てて町に出る言語学」(言語の変異)、池上嘉彦「ことば・この不思議なもの - 説明されない美は私をいらだたせる」(認知と言語)の四編からなる。「ことばの宇宙への旅立ち 」(2008年 ひつじ書房)の続刊である。前書のはじめにに「この本では、ことばについて研究している5人の方々に、ご自身の体験や研究内容について、できるだけわかりやすく書いてもらいました」とある。本書のあとがきをみると、インタビューをし、そのご校正という手順でこの本ができたことがわかる。第三著者、国際基督教大学言語学教授・学務副学長から頂いて、読む機会を得た。上で引用したように、体験が書かれてあり、興味深い。それぞれ優秀な研究者で、背景とともに、言語へのセンシティビティーや、嗜好が研究の方向性を決める重要な要因となっていること、また、4人の方に共通な基本的な(頭の)体力の大きさとエネルギーも印象的だった。言語学に興味があるが、どのようなことを勉強するのかがよくわからない、または決めかねている人には、おすすめの一冊。研究を実際にする研究者について垣間見るという意味では、もっと広い読者にお勧めである。
(2009.8.13)
- 「ことばの宇宙への旅立ち - 10代からの言語学 」大津由紀雄編、ひつじ書房(ISBN978-4-89476-393-7, 2008.2.14)
大津由紀雄「ことばの宇宙への誘い」、上野善道「母は昔はパパだった、の言語学」、窪薗晴夫「神様の手帳をのぞく」、今西典子「古語の文法とニュートン・リングの先に開けた言語研究の世界」、西村義樹「文法の意味の接点を求めて」、今井邦彦「人は、ことばをどう理解するのか」の六編からなる。編者の大津氏による最初は、そのあとの5編のイントロのような位置づけとなっており、以下の5人の特徴について以下のようにまとめている。1.強い好奇心の持ち主である、2.自分自身のことばとは異なったことばとの出会いが、ことばについて知ろうとするきっかけとなった、3.自分の関心事に関連する資料を収集し、それとじっくり向き合うことによって、その背後にある規則性や、仕組みを解明してみたいと思う気持ちの持ち主である、4.規則性や仕組みを解明することに成功した場合の発券の喜びはなにものにも代えがたい。それぞれに、体験、言語学またはそれぞれの分野を研究するに到った経緯が書かれているのは、興味深い。しかし、こうして、二冊を読んでみると、どうも、みなさんに共通性があるように感じられる。皆、かなり頭が良く、かつ、英語が得意だった。文学部に入学するが、その中でおそらく唯一、科学的探求心を満足させうる、言語学に出会う。そのいみで、言語学が文学部の中にあったことが、幸いしているのだろう。背景として科学探究に興味のあったひとなかった人、それは様々であるように思われる。論理の展開を緻密に、謙虚にしていく方、論理の展開は雑だが、そこは、知的ひらめきと頭のよさでカバーしていく人、研究集団としての人間関係の難しさを感じてしまうのは、数学を学んでいる私だけだろうか。
(2009.8.20)
- 「図説 聖書物語 旧約編 」山形孝夫=著・山形美加=図説解説、河出書房新社(ISBN978-4-309-72660-1, 2001.6.30)
多くの絵画とその解説を含む聖書物語である。特に、絵画に興味のある人には、楽しんで読み進めることができるかも知れない。聖書については、独自にパラフレーズした文章も含み、読みやすくはなっているが、解釈が含まれていることはたしか。歴史考証が入っており、歴史の側面からの解説が多く、聖書が何を言おうとしているかという、キリスト教の理解の側面からの記述は少ない。絵画を通して、それぞれの時代のひとがどのように解釈してきたかを考えさせられるのは、興味深い。純粋に、旧約聖書の解説をしたものではないと考えれば、このようなものも面白いのかも知れないが、これを読んで、聖書を一通りながめたと考えられるのは、やはりクリスチャンとしては、問題を感じる。その書物が、何のために書かれ、そこで言おうとすることを受け取ることは基本だと考えるからである。その視点なしには、聖書物語とは、言えないのではないだろうか。しかし、p.3 にあるように「聖書は、確かに文字に書かれた言語(エクリチュール)であった。だが、その長い歴史からすると、聖書は読まれるよりも、それぞれの民族の様々な言葉で物語として語られ、絵画として眺められ、彫刻として触れられることをとおして人々の心に浸透していったのだ。」と考えると、一つの読み方なのかも知れない。
(2009.8.25)
- 「シンメトリーとモンスター - 数学の美を求めて 」マーク・ロナン著・宮本雅彦=宮本恭子訳、岩波書店(ISBN978-4-00-005459-1, 2008.3.19)
"Symmetry and the monster : one of the greatest quests of mathematics / Mark Ronan" の宮本夫妻による翻訳である。中心は、モンスター単純群というより、モンスターの発見とその不思議に至る、有限単純群の分類と、散在型単純群の発見についての物語、といったもので、「専門的でない方法で、この偉大な数学の探究を説明」(序文より)している。訳者あとがきにある「著者のロナン氏は、この本の話の主流となっている純群論の研究者ではなく、幾何的な要素をもった群を研究している学者です。しかし、氏は有限群の分類研究が巨大な津波のように発展している時期に、その中心となったオックスフォード大学とシカゴ大学で研究をしていました。そのため、ロナン氏はその研究の発展のすさまじさを、善きにつけ、悪しきにつけ、客観的な立場から眺めることができたのです。この本では、数学者たちによる競争によって引き起こされたさまざまな問題も数学の一面として紹介しており、翻訳をしながら私も同じ群論の研究者として楽しむことができました。」は、私も、全く同感である。コンウェイの箇所など、わたしのもっていたイメージと非常に違った話も記されており、ほんの一部群ではあるが、同時代を経験した私にとっては、数学に対する態度について大いに刺激となった。翻訳における語句の選択など、多少気になるところもあったが、是非、多くの方に読んで頂きたい一冊である。むろん、宮本さんや私とは、まったく違った感想を持たれることと思うが。
(2009.9.4)
- 「アキレスとカメ - パラドックスの考察 」吉永良正著、絵・大高郁子、講談社(ISBN978-4-06-214783-5, 2008.7.1)
エレアのゼノンの四つのパラドックス特に、表題のパラドックスの考察が絵本のような体裁になっている。一気に読んでしまった。著者は、京都大学の数学科と哲学科を卒業している。数学教育の会でお話しを伺い、すぐ読んでみることとした。まずは、四つのパラドックス。第一「移動するものは、目的地に達するよりも前に、その半分の点に達しなければならないがゆえに、運動しない」、第二「走ることの最も遅いものですら最も早いものによって決して追いつかれないであろう。なぜなら、追うものは、追いつく以前に、逃げるものが走り始めた点に着かなければならず、したがってより遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである」、第三[飛ぶ矢は飛ばない]「もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応している(それ自身と等しい場所をしめる)ときには常に制しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない」、第四[競争場のパラドックス]「BとCが反対方向に同じ速さで移動し、Aはとまっているとする。あるところでとまったとする。BからAをみれば2ブロック移動しているが、Cをみれば4ブロック移動している。したがって半分の時間がその二倍の時間に等しい」。要点は、二分法で1+1/2+1/4 と行く場合を説明しているのではないこと。よって、1+1/2+1/3+ などというパターンもあると言うこと。1の差があるとして、1の点まで行くのに、カメが1/2 行っており、1/2 行くまでに、カメが 1/3 行っていれば、条件は満たすが、無限の距離を行ってしまうことになるという点である。このあとさらに、収束するところがないかも知れないと、連続性の話をしているが、それは、極限の話からして、この主題ではあるまい。それより、調和級数の例を出すのであれば、アキレスが、x-1/x、カメが x+1 というのはどうであろうか。差が1以下にはならないという方が、良いのではないだろうか。他の説明も実は、あまり良いとは思えない。相対性測度を考えて、視点の位置を示さなければ、スピードを測れないということを明示した方が良いであろう。しかし、時間を含んだ論理はとても難しいという良い例にはなっていると思う。
(2009.9.8)
- 「インターネットとWeb技術 」松尾啓志編著、新インターユニバーシティシリーズ、Ohmu社(ISBN978-4-274-20677-1, 2009.3.15)
工学系・ものづくりに携わる技術者が学ぶべき、インターネットとWeb技術に関する基礎知識となっている。教科書として利用することも想定されているようである。単元名のみ書くと、0. インターネットとWeb技術の学び方、1. インターネットの歴史と今後、2. インターネットを支える技術、3. World Wid Web、4. SSL/TLS、5. HTML, CSS、6. Web プログラミング、7. データベース、8. Web アプリケーション、9. Web システム構成、10. ネットワークのセキュリティと心得、11. インターネットとオープンソフトウェア、12. ウェブの時代からクラウドの時代へ。最初は演習問題も具体的で、興味が持てるが、途中からは、概論的知識の羅列で、内容が薄いように思われる。まだ、教科書的なものの内容が確定していないのであろう。特に、技術系では、もう少し具体性のあるものを実際に障って実習的に進めた方がよいように思う。日本語でのスタンダードテキストができるにはまだ時間がかかるのであろうか。
(2009.9.10)
- 「出会いとしての真理 」E.ブルンナー著、森本あんり・五郎丸仁美訳、教文館/国際基督教大学出版局(ISBN4-7642-7263-6, 2006.9.15)
スイスの神学者、ICU創立期 1953年秋から2年間教鞭を執られた Founding Father の一人である。Zuerich の Frau Muenster 教会をこの夏訪ねることができた。実は、そのときは名前を聞いてもピント来ず、帰ってから確認したという恥ずかしい次第ではあるが。最初に「客観主義と主観主義の彼岸」と「出会いとしての真理」というこの二つのフレイズをみてのめり込んでしまった。この主題は、まさに、わたしがおぼろげながら考えていたものだったからである。横軸としての客観主義と主観主義の間でなやみ、信仰とは軸がずれているのではないかと感じていたのである。世界一級の学者でありながら、言葉は容易、翻訳も優れているのであろうが、すんなりと読むことができた。最後に具体的な問題について、書かれているが、一般信徒としては、この真理を土台に、どのように日々の信仰生活、種種の問題を生きていくかが問題である。わたし自身、紆余曲折から小学生時代に、幼児洗礼をうけ、聖書的基盤に悩みながら堅信礼をうけたこともよみがえってきた。しかし、整理していく基盤がことばとして表現され、それがわたしの心の中にしっくりと収まったことだけはたしかだろう。以下は備忘録として抜き書きを残す。「実証主義的な真理理解の特質は、人間を他のあらゆるものと同様に客体として把握することができると、信じている点にある。だが、この人間理解には、限界がある。この限界を認識していないことにこそ、実証主義的認識論の誤謬がある。」P18, L7、「『人間の統一性』というものを見過ごしにしている」P20, L12、「科学は責任や倫理にかかわる問題を根拠づけることができず、自分の行為の意味への問いに答えることもできないからである。」P41, L18、「自己批判的な学、つまり責任性の根拠に関する反省という自己理解をもつ神学と、自己批判的な科学とは、こうして衝突することなくお互いに補いあっている。」P42, L12、「だが、理性の絶対的自律という思想は、不当で致命的な先入観であった。この先入観は、根本的に誤った思惟の営みをいまも支えている。」P60, L8、敬虔主義と合理主義、正統主義と啓蒙合理主義 p91、「神の人間」「人間の神」P106、「教会とは、生ける主キリストとの交わりによって、みずから生ける交わりへと結びつけられた人々にほかならない。」P188, L1。ときをおいてまた読んでみたい。
(2009.9.22)
- 「教育改革 - 共生時代の学校づくり - 」藤田英典著、岩波新書 511 岩波書店(ISBN4-00-430511-X, 1997.6.20)
「個性を生かす教育はどうしたら実現できるのか? いじめ・不登校の克服の可能性は? 山積する諸問題い新たな角度から光をあて、学校完全週五日制や公立中高一貫校の導入などが子供や社会に与える後半な影響を検討する。国家主導の改革が信仰する中、真の改革の指針を提示し、学校・家庭・地域の連携による教育の再生を考える。」(扉裏から。)教育の専門家からは程遠い、またはある一部の教育に関わっている知識人と称する人たちを集めて行われる教育審議会の出す様々な教育改革に踊らされる日本の教育。少なくとも、この程度のことは、知っておいてほしいという願いが込められているように感じる。以下、自分自身も考えさせられた点を箇条書きにする。「エリートとは」この概念を共有するのは難しいだろう。しかし教育制度を考えていく上で避けて通れない鍵であるようだ。ヨーロッパの教育にも種種触れられているが、ボローニャ・プロセス以降についての評価も知りたくなった。クラブ活動の圧縮は重要であるように思われる。あまりのクラブ漬けからの解放がないと、世界が非常に狭くなる。パストラル・ケアなど、カウンセラーの役割と共に議論がほとんど進んでいない項目もいくつもあるように思われる。教育制度改革が本質を捕らえずに迷走を続ける。これを動かすものは何なのだろうか。藤田先生と直接話す機会をもちたいとも感じた。もう少し勉強してからでないと議論にもならないだろうが。
(2009.11.1)
- 「マルチン・ルター - 生涯と信仰」徳善義和著、教文館(ISBN978-4-7642-6903-3, 2007.8.7)
徳善先生は、東京大学工学部から日本ルーテル神学校・立教大学大学院で学び、ハンブルク大学・ハイデルブルク大学留学などの経験を持ち、ルター研究では日本で最高では無いだろうか。話は面白くかつ、心に訴えかけるものを多くもっておられる。この本はFEBCキリスト教放送局でのラジオ放送を元にしたもので、そのためか平易な語り口調で書かれている。しかし、年表もしっかりしていて、ルターを知るには最高の本では無いだろうか。特に前半は、引用も豊富でついついのめり込んでしまった。アメリカ滞在中の 12日間、ちょうど一日1章ずつ楽しむことができた。以下は備忘録。詩編31篇1節「あなたの義によってわたしを解放してください p.45-46」ローマ1章17節「神の義は、その福音の中に啓示される p.48」この二つの聖句から神の義が恐ろしいものではなく福音であることを知る。「「神の義」の「の」は「お父さんのプレゼント p.49」というときの「の」。聖書の読み方「祈り・黙想・試練の中で読め p.62-63」「ある人にとってキリストが何ものかであれば、他のすべてのものは虚しい。ある人にとって他のすべてのものが何ほどかであれば、キリストは虚しい。これがザアカイの場合だ。p.71」「チェックするコンピュータが必要、カトリックにはそれがない p.80」「95箇条の提題の最初 『私たちの主であり師であるイエス・キリストが「あなたがたは悔い改めなさい」と言われたとき、彼は信じるものの全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである』p.83」「人間はあらゆることにおいて、神との係わりにおいてすら自分の利益を求める p.84」「神の愛は、その愛の対象を見いだすのではなく創造する。人間の愛は、その愛の対象によって成立する p.89」「皇帝陛下や、諸侯閣下が単純な答えを求めておられますので、わたしも細かいことを抜きで他意無しにはっきり申し上げます。聖書の証言か明白な理由をもって服せしめられないならば、私は私が挙げた成句に服し続けます。私の良心は神の言葉にとらえられています。なぜなら私は教皇も公会議も信じないからです。それらがしばしば誤ったし、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実な事でも得策なことでも無いからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。p.111」「良心宣言 p.112」「あなたが恵みの説教者であれば、作りものの恵みではなく本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪でなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救い給いません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。p.135」「殿下が信仰においてはまだたいへん弱くあられることを私は感じ取っておりますので、どのようにしましても、殿下を私を守り救って下さることのできる方とは見ることができません。p.147」「私たちは皆、死に定められており、誰も他人にかわって死ぬことはありません。各自が自分で死と戦わなければならないのです。なるほど死にかかっている人の耳に向かって叫ぶことはできましょう。しかし、死の時には、各自が自分できちんとしていなければなりません。そのとき、わたしはあなたと一緒にいませんし、あなたも私と一緒にはいないのです。そこでは一人一人がキリスト者であれば求められる信仰の主要な事柄を十分に知って、死に対して準備ができていなくてはなりません。p.149」「私は今日はいつもより余計に忙しいので、三時間余計に祈ろう。p.152」「乞食規程:今から後この町には、貧しい人は一人もいない。物乞いをするものは一人もいない p.164」「読み書き・算術・歴史教育・音楽教育 p.167」「神の霊は神の言葉を媒介として働く。(神の霊が直接に人間に働きかけることを強調すると)神のことばなどはいらない。神のことばなしで神の霊が直接人間の霊に働きかける、というところまでいき、そのような神の霊の直接的な働きかけをうけた人だけが神によって選ばれたエリートという意識もそこに生まれてくることによって、他の人々はそういう神の霊の働きを受けていないという点で、一段階下のひととというエリート主義がでてくる。そしてねばならない主義が出てくる。中世のローマカトリック教会の功績主義と熱狂主義の業績主義はつながっている。顔は違うけれど尻尾が結びついている二匹の狼のようだ。p.173」「ルーテル教会とカトリック教会の義認の教理に関する共同宣言 (JOINT DECLARATION
ON THE DOCTRINE OF JUSTIFICATION) p.213」「絶筆:五年間、牧夫や農夫であったのでなければ、ヴェルギリウスの牧歌や農耕歌を理解できまい。40年間支配尾重要な地位についていたのでなければ、キケロの書簡、たとえば政治哲学の著作は理解できまい。100年間預言者とともに教会を導いたのでなければ聖書を十分に味わったとは思えまい。なぜなら、洗礼のヨハネやキリストの使徒たちの奇跡は驚くほど強力なものだからである。あなたは、神のこの詩を把握しようとしないで、膝をかがめて彼らの足跡を拝するがよい。私たちは乞食である。これはまことだ。p.300」「安心しきったものたちに向かって、律法の声は生のただ中にあって我々は死の内にあると不吉な歌を歌って戦慄させる。しかるに他方福音の声は、死のただ中にあって我々は生の内にあると歌って力づける。p.301」「農民戦争の問題、ユダヤ人についての発言 p.303」「マルチン・ルターはプロテスタントのキリスト者にとっても、カトリックのキリスト者にとっても、共通の信仰の父である。p.304」「私は死ぬことなく、生きて主のみわざを語ろう。Ps.118:17, p.308」
(2009.11.15)
- 「天才音楽家たちの友情記念帳」伊東辰彦著、講談社選書メチエ246, 講談社(ISBN4-06-258246-5, 2002.8.10)
前回の特別研究期間 (2001.9-2002.8) 終了直後に著者からいただいたが、ずっと読む機会が無かった。1792年10月、ヴィーンのハイドンの下で学ぶために故郷の本を離れていこうとしていた、ベートーベン(1770-1827)に親友のフォン・ヴァルトシュタイン伯爵から送られたはなむけのことばを記した一片の紙からスタートしている。「親愛なるベートーヴェンよ、君は今、久しい望みかなって、ヴィーンへ旅立とうとしている。モーツアルト(1756-1791)の天才は、その子の死を未だ嘆き悲しんでいる。涸れることなきハイドン (1732-1809)の下に身を寄せたが、とどまることなく、さらに再び何ものかと一隊にならんと欲しているのだ。たゆまぬ努力によって、モーツアルトの精神をハイドンの手から受け取るように。」(p.5) これは、一片の紙で、それをまとめてベートーヴェンはもっていたようだが、ドイツには、冊子体の友情記念帳 (Stambuch) の習慣があったとして、特に音楽家を中心にその研究を記している。著者の博士論文が主要なソースである。友情記念帳の習慣は、ルターや、メランヒトンのころから始まったようだと記されていて、非常に興味を持った。20世紀に入る頃までのものを分析しているが、その間の変遷なども記されている。文化背景としても、読み書きできる層の拡大、音楽家という特殊な職業の確立なども背景にあるように思われる。J.S. Bach の時代とは、音楽を取り巻く環境も大きく変化していたのだろう。限られた資料であるが、まずは、内容を読むところから、謎解きまで丹念に調べられている。これらを基礎資料として、他の資料との関連を調べることで、さらに広がった世界を理解することができるのであろう。
(2009.11.21)
- 「イエスの七つの譬え - 開かれた地平 -」川島重成著, (有)三陸書房 (ISBN4-921091-02-1, 2000.3.1)
「2000年を経てなお鮮烈な自由と喜びのメッセージ -(中略)- 本書は、一つ一つが珠玉の短編ともいえる有名な七つの短篇を取り上げ、今世紀世界的に盛んになった聖書本文批判と、譬え研究の成果を踏まえながら、福音書記者の編集でがんじがらめにされているイエスの譬えの原型にさかのぼり、それが本来、どのようなメッセージを伝えようとするものであったのか、受け手にどのような反応を促しているのか、発見と創見に富む、世界にも発信しうるあたらしい内容の解釈を提示、柔軟緻密な考察を展開しつつ語り口は平易で、謎解きの興味を引き、目の覚めるような知的衝撃力を持つ。立ち現れてくるイエス像はまた、ことのほか魅力に満ちている。」(表紙裏)福音書記者の編集部分をのぞくことは、十分理解できる。そこから現れるイエスのメッセージを語られた言葉として聞くと、新鮮なまた違ったメッセージが浮かび上がることは確かである。福音を聞くときの自由と喜びがいきいきと読み上がってくることは非常に魅力的である。しかし解釈には限界も感じた。多くの解釈に一つを追加するだけであろう。以下は備忘録。「アレゴリー(寓喩)ががその受け手に要求するのは、その謎解きであり、謎解きが終われば、アレゴリーそのものは無用なものになってしまうのです。こういうアレゴリーはイエス本来の譬えにはない、と追いいきってよいでしょう。(p.27)」「本書でとりあげる七例はすべて譬え話(譬え物語)で隠喩の物語化されたものです。この譬え(つまりたとえ話)は、日常的・規則的なことよりも、むしろ非日常的で、しばしば常識に合わない特殊な事柄を描き、多くの場合物語の時称は、出来事が過去において片づいたことを示す。ギリシャ語文法でいういわゆる「アオリスト形」をとります。(p.30)」強調点「収穫が、全体としてはおおいに祝されるべき(種まき p.33)」中心は神を指し示すこと。
(2009.11.28)
- 「二十一世紀と福音信仰」千葉眞著, 教文館 (ISBN4-7642-6371-8, 2001.1.20)
二十世紀はどのような時代かをふりかえり、ポスト・モダンと言われる時代における福音信仰の意義について語った講演録および論文をまとめたものである。序章:二十一世紀と福音信仰、1章:ポストモダンと福音信仰、2章:ポストモダンと宗教的なるもの、3章:ポストモダンとK・バルト、4章:ポストモダンとD・ボンヘッファー、5章:R・ニーバーと預言者宗教、6章:オーウェル的世界とキリスト教、7章:世界の変容とキリスト教社会倫理、8章:宗教と政治、終章:キリスト教と現代。背景となる哲学・宗教哲学・思想史的なものに疎いわたしには、観念的な議論に思える箇所が多かった。十分な背景のある人にとっては、意味のある言葉が使われているのであろう。二十一世紀の福音信仰を考えたときに、ある示唆があたえられていることは確かであるが、それが太い幹であるのかどうかは不明である。その中における、無教会主義の位置づけについても、肯定できない面が多い。まずは、この背景を学ばなければ語れないのかも知れない。思想史には、ますます興味がわいてきた。あとは備忘録「人間にとって、その安全を脅かす最大の要因は、かつてはいざ知らず、近代以降、人間そのものになった。(村上陽一郎)p.12」「大地は一人ひとりの必要(ニーズ)を満たすだけのものは与えてくれるが、人間の貪欲を満たしてはくれない。(ガンジー)p.13」「ニーバーにあって預言者宗教とは、産業文明の発展によってもたらされた社会と価値観の急速な変容プロセスに対処しうる、精神的活力と社会的有意性を保持するキリスト教を意味した。彼が宗教を見るときには、常に社会生活に対する宗教の倫理的意義という視点を中心においたという事実を念頭におく必要がある。そしてその場合、注目すべきは、宗教の精神的活力と社会的有意性は、ひとえに宗教の社会的方向づけの問題として認識されたのではなく、むしろ人間実存に固有の深みと緊張が宗教的世界館においてどれだけ深く把握されているかにかかっているという彼の基本的認識であろう。p.115」
(2009.12.26)