Last Update: September 30, 2007
2007年読書記録
- 「代表的日本人」内村鑑三著、鈴木範久訳、岩波書店(ISBN4-00-007164-5, 1997.9.16)
内村(1861-1930)の英文による日本を発信する著作である。代表的日本人として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の5人をあげている。日清戦争の始まった1894年に書かれた本書は、日本を西洋社会に紹介したものであり、時代的背景も影響している。西郷隆盛の征韓論の記述など、内村自身が、日清戦争以後、非戦論に急激に傾いていくその途上にあり、一貫性に欠ける部分もある。それがまた、興味深い点でもある。5人については、このような書物としては仕方がないが、かなり美化して書かれているように思われる。これら5人について、私が知らなかった部分を知ると共に、内村の思想についてその変化を考えさせられる興味深い書であった。
(2007.1)
- 「いいたかないけど数学者なのだ」飯高茂著、NHK出版(ISBN13-978-4140882085, 2006.12)
4章からなるが、圧巻はやはり第2章 S君の読書ノート。これは、新谷卓郎という37歳でなくなられた飯高先生と東大で同じクラスの親友の残されたもので、1959年7月22日(16歳)「憂愁夫人」(ズーデルマン)に関して「人間にちっとも心配がなかったら、なんのために生きているかわからなくなるでしょう???」との書き出しからスタートしている。新谷先生は数学者としてごく短い人生でしたが、数学において多くの道を開かれた方でもあり、その数学の展開を主題とした研究集会も開かれている。私も修士の一年のときに、ほんの少し新谷先生の理論を勉強しました。しかし、その日記を見ると、超天才のこの先生もなかなか分からないといいながら悶々としたり、時間を無駄に使ってしまったと嘆きながら数学を学んでいる姿がいたいほど伝わってきます。1961年8月11日(大学1年)「吉田洋一『関数論』を一週間ほど前から読み始めていたが今日「積分公式の変形」の節まで読んで、余りにも読む速さが遅く、また興味が連続的に湧かないのでファイトが無くなってしまった。こういう殆ど例題をあげないで、バリバリ進んでいく本を入門書として読むのは僕には骨なのか。『解析概論』を所々再読しつつ、練習問題をじつにのろのろとやっている。一回目に読んだときの吸い込まれるような魅力を感じない。」1963年4月8日(大学3年)「弟の借りてきた手塚治虫の『鉄腕アトム』 etc. これに驚くなかれ4時間をつぶす。つくずく自分に精神統一の作用のないのを感ずる。」数学に限らず研究者をめざす人は是非この2章を読んで欲しいです。私もこの本を学生のころ読んでいたらもっと真剣に勉強ができたかなと思う。学問に真摯に向き合う人生は本当に素晴らしいと思います。私は人生の一時期しかそのような時を持たなかったと思いますが。これからでもまだチャンスがあるかな。
(2007.1)
- 「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」横浜開港資料館編、明石書店 (ISBN4-7503-2329-2, 2006.4.26)
Felice Beato (1834-1908?) は現在はギリシャ領となっているイギリス領のイオニア海のコルフ島でうまれ、報道写真家として、クリミア戦争、インド反乱(セポイの乱)、アロー号事件を取材、1963年に来日、横浜を拠点に幕末・明治初期の数年間、精力的に各地の風景や日本人の風俗・習慣を撮影、1864年の下関戦争に従軍、芸術性豊かな風景写真や彩色を施した風俗写真を残している。写真集1があるようで基本的にはそれとの重複がないように編集されている。当時の日本人の日常の生活をうかがい知ることのできる写真であふれている。色が付けられているものもあり、美しい写真がたくさんある。日本人の体系の変化を感じさせたり、自分の小さいころと殆ど違わない光景が映し出されたり、これほどのスナップ写真とも言えるものがこれだけ残っていたとは知らなかった。かなりの時間をかけて撮影する記念写真のようなものだけだと思っていたので非常に驚きである。是非第1集も見てみたい。Pierre Joseph Rossier (1829-1872) が開港とともに日本に来たカメラマンだそうだが、その写真も機会があればみてみたい。
(2007.3.4)
- 「太平洋戦争新聞」歴史記者クラブ昭和班、廣済堂出版 (ISBN4-331-51114-6, 2005.12.25)
「大本営発表は、史実とこんなに違っていた! 歴史的事実が新聞形式でありありとわかる。当時の新聞キリヌキと比較しながら読める。」が表紙に書かれたうたい文句である。問題なのは、実際のことが報道できない状況になっていたことだろう。それは、現代でもいくらでもある。政府の規制によることは少ないと期待するが、売れない、読者がこのまない、危険、との理由から、報道が自粛されている項目は非常に多いと思われる。このような報道の問題とはべつに、この一冊は非常に興味深く読んだ。実際すべての記事を読めたわけではないが、事実のある記述の羅列としても、決断に関して日本はどれほど民主的ではないか、批判的・科学的に物事を判断し、それが決断に生かせないかが嫌と言うほど実感させられる。最近、石原東京都知事の監修の特攻隊の映画が封切られたようである。広告のみで内容はわからないので批判はできないが、上記のようななかで判断がくだされていき、現場ではそれをなんとか納得する便宜的な理由付けが一人一人に強制されていった。それは決して美化してはならないものである。人は人を殺すことを強いられ、自分も死んでいくとき、その死にすら積極的な意味を見つけようとする。その行為を批判はできない。批判すべきは、人を殺すことを強いる決断を、自分自身は安全なところにいて、していく人たちである。これでもかこれでもかというほどの間違いを犯し続ける政府。初期にはそれに対して声を上げた人もいたようだが、その名誉すら回復されず、間違いを犯し続けた人自体が、あれは当時仕方がなかったと、戦後も政府の中心に居座る。それを正当化するその子孫が総理大臣。それが体制としては民主化された国でおこる。我々の責任も重大であることを思わされる。ひとつひとつの戦い、一つ一つの決断をじっくりと検証すべきである。無論、アメリカなどの無差別爆撃も含めて。
(2007.3.5)
- 「怠け数学者の記」小平邦彦著、岩波書店(岩波現代文庫 社会19, ISBN4-00-603019-3, 2000.8.17)
著者の小平邦彦先生(1915-1997) は一高から東大、数学科と物理学科を卒業、プリンストン高等研究所などを経て、ジョンズ・ホプキンス大学、スタンフォード大学、東京大学教授などを歴任、複素多様体、代数幾何が専門で、1954年に日本人ではじめてフィールズ賞を受賞した数学者である。内容は大体章ごとに、数学について、数学教育について、回顧録、プリンストンだよりとなっている。重複する記述も多く、また肩が凝らない内容であるが、同時に考えさせられることの多い内容豊かな本である。数学教育についての考え方は特に考えさせられることが多い。プリンストン便りは、1949年から1951年2年間の奥様への手紙を集めたもの。日本人で登場する主たる人は、湯川秀樹氏、朝永振一郎氏、それと角谷氏、Weyl に呼ばれ渡米、Veil との交友、共著の多い、Spencer との関係の始まり、などなど興味深い記事が多い。「数学は論理ではない。」「数学も自然現象を対象とする。」数学教育について「何のため、だれのために急ぐのか。」など考えさせられる。最後に1980年に書かれた「21世紀の主役へ、世界100人のメッセージ」と題した文の最後を引用する。「このような不気味で奇怪な世界をつくってしまったわれわれ現代の大人には、21世紀をになう子供たちにメッセージを送る資格はないと思うのであるが、それでもメッセージをといわれるならば、ただ子供たちが、21世紀の世界の政治機構を、もう少し理性的なものに改めるよう努力することを望むのみである。」
(2007.3.12)
- 「ITに殺される子どもたちー蔓延するゲーム脳」森昭雄著、講談社 (ISBN4-04-212475-0, 2004.7.15)
著者は脳神経科学が専門の医師で日本大学教授。主張は明確で「テレビゲームや、コンピュータでは、脳のほんの一部しか使われず、かつ、その活性度も低い。特に子供のときには、このような脳の使いかたは、成長に大きな問題を生じる。」ということである。自分自身の脳も心配になってきた。α波とβ波比や、脳内の興奮を1/500秒ごとに調べたデータを使っていてわかりやすいが、データはすくない。定性的な論拠が多く定量的なものは少ない。主張が強く、科学的な本としては少し弱いが、大部分は十分説得力があるように感じる。
(2007.4.7)
- 「永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編」カント(Immanuel Kant)、中山元訳、光文社 (ISBN4-334-75108-3, 2006.9.20)
「永遠平和のために」は学生との議論のなかで出た小論で、ちょうど図書館にこの本が新刊で入ったこともあり、少し読み始め感激し、買って読むこととした。他3編は「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的起源」「万物の終焉」そして年譜と訳者による解説が続く。最初の「啓蒙とは何か」には「『啓蒙とは何か』とう問いに答える」という副題が付いている。その最初で啓蒙は次のように定義されている「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気を持て」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」印象に残った言葉はいくつもあるが、自分の頭で考え、自分の言葉として発することがカントの望むことであろうから、ここには書かない。啓蒙主義などというと、中世の暗い時代からの脱出と、授業で習ったようなことを唱えてしまうが、カントの「啓蒙」の定義のように、まさに、現代に生きる我々に与えられているチャレンジだと認識することができた。自分の頭で考えることの次として、すなわち、続けて学びたいこととして、解説にあったハンナ・アーレントの言葉を記録しておく。「我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともないばかりか、他者が理解できる仕方で話すこともないであろう。」(p.294-5, ハンナ・アーレント「カント政治哲学の講義」からの引用)。
(2007.4.8)
- 「夜は近きにあり」最上敏樹、国際基督教大学宗務部 (2007.4.1)
国際基督教大学の2006年のキリスト教週間に行われた、スペシャル・キリスト教概論の講演録で、20ページからなる小冊子である。講演者は、国際法が専門で、平和研究所の所長でもある最上敏樹教授である。今まで、ゆっくり講演を聴く機会も無かったが、この小冊子からは、最上先生の精神的な基盤をなしていると思われるいくつかの言葉と出会うことができたと同時に、私自身、生について純粋に向き合う姿勢いついても問われる思いを強くした。いくつかの糸で紡がれているが中心をなすのは、原口統三著「二十歳のエチュード」の森有正による序文「立ち去る者」である。「自己の罪性を意識するものは、決して自ら己を殺すことはできない」し「罪人は自ら手を下して死ぬことはできない」(p.11) 「同じ死ぬにしても、戦いに敗れて殺されて死んでもらいたかった」(p.12)。ハマーショルドの言葉と生き方がもう一つの糸として紡がれているが、この最後の言葉は、いまなお甘えをもって空虚なものに寄りかかりながら生きようとする自分への挑戦状のように思われた。高校生のころ信仰をもち、学生時代に、I have erased the line of no return! などと告白しても、つねに神信仰においてのみ得られる希望以外のものから片足を抜くことのできない自分。まさに「夜は近きにあり」と告白できない自分の姿を再発見したと言うことであろうか。
(2007.4.29)
- 「生き抜くための数学入門」新井紀子著、理論社 (ISBN978-4-652-07823-5, 2007.2.5)
著者は、一橋大学法学部卒業、イリノイ大学数学科博士課程終了、現在国立情報学研究所および東京工業大学教授で、本学でも利用している NetCommons の開発者でもある。著者からいただいた本を読むことができた。子供3人と一緒にハイキングに行った行き帰りの電車で大部分を読んだが、ちょっと中味を紹介したら「数学なんか学校の教科から無くなればいい」と言っていた中学2年の末娘が、興味津々で横からのぞき込み「つぎ読ませてね」とのこと。それだけ書けばこの本の紹介は十分かもしれない。新井さんの17回の授業という形でおそらく中学生対象に話している形で進んでいく。授業の前の前書きのようにして書かれている「そもそも、それってなーに?」が秀逸。3回目までの内容はよく練られていてただただ感心する。人に考えさせる、なぜと問う出発点を与え、興味を持たせる事に関しては、他の同種の本と比較してもぬきんでていると思う。ただ、対象は、これが一般向きか、この延長線上に数学教育が発展できるかと考えると、まだまだ困難が多いと思わされる。いずれにせよ、数学的思考の面白さ、大切さを上手に伝えている良書である。直接、新井先生の授業を聞いてみたくなった。10項目のうち、半分以上が Yes だとしたら、中学校以降で数学を勉強したことが人生に生かされていない可能性大と新井先生が言われる10の質問を引用させて頂く(p.53-54)1. 宝くじを買う。特に、ジャンボ宝くじは必ず買う。2.献立を思いつかなくて、スーパーでうろうろする。3.テレビで紹介された健康法は必ず試して、たいてい三日坊主で終わる。4.「なぜ?」と聞くと「うるさい!」と答える。5.安い、と評判のスーパーまで遠出をして、疲れて外食して帰ってくる。6.ゴールデンウィークに入ってから突然どこかに行くことを思いつく。そして渋滞に巻き込まれる。7.ベストセラーに出てくるフレーズを使って説教をする。8.映画を見ると泣いているか、寝ているかのどちらかだ。9.1年前にはまっていたことを思い出せない。10.貯金がない。
(2007.5.5)
- 「論語 珠玉の三十章」ユハズ和順著、大修館書店(ISBN978-4-469-233301-8, 2007.4.10)
論語の全体像は学んでいないので専門的なことは何も書けないが、充分楽しめる内容だった。30章にわかれ殆どが同じ構成、タイトル、書き下し文、漢文、現代語訳、注、解説、他の解釈、それに、英語訳、現代中国語訳がつき、これとは独立に絵とその説明が一つずつついている。現代中国語訳は私の中国語の実力では理解できなかったが、多少の発見はあった。英語も良くできてはいるが、これで内容が充分伝わるのかは難しいと感じた。ということは、日本語の現代語訳も限界があることをよく理解すべきだと言うことだろう。人間の智が今から二千五百年も前からこのような立派な形で語られ、かつそれが今の真理であり得ることが多いにもかかわらず、当時そうであったように、現代でも実際には実行されないのは、人間が本質的な部分でかわっていないことん証なのかも知れない。もう少し、論語は続けて勉強してみたい。「学びて思わざれば罔(くら)し。思いて学ばざれば殆(あやう)し。」などは、人生にも学問の研究にも、充分生かさるべき言葉だと感じる。
(2007.6)
- 「二十歳のエチュード」原口統三著、光芒社 (ISBN4-89542-186-4, 2001.10.5)
上記「夜は近きにあり」に引用されていたもので、図書館で探し、「現代日本記録全集16ー青春の記録」筑摩書房に収録されていることを発見したが、森有正の序文「立ち去る者」が収録されていなかったため、娘に東京都立図書館から借りてもらった。「立ち去る者」は最初に読んだが、正直理解できなかった。この本には、一高生で、19歳10ヶ月で自殺した原口統三の残っている文章がすべて収められている。その中心部分をなす「二十歳のエチュード」は訣別の辞に代えてと、Etudes 1, Etudes 2, Etudes 3 からなっている。特に Etudes 3 などから見ると、原口統三の文学の才能と、純粋さ、そして暖かさが充分みて取れると思うが、やはり私には文学の世界にとっぷりつかりつつ、自己表現を試み、自己表現の純化の中で、自殺へと向かっていく著者を身近には感じられない。戦後まもない昭和21年、活字と自己表現、その中で真に純粋なものをもとめていったこと自体を私には理解できないのだろう。しかし、言葉自体に目を向けると、その鋭い洞察力と、自分の中の矛盾と向き合いながらも、暖かさを失わず、かつ超然として純粋なものを求めていく姿勢にはただ、驚かされる。最後にもう一度「立ち去る者」を読む。少し理解できるのを感じた。「ただかりに私が原口統三の死ぬ前に話し合う機会があったとしたらこんな事をいったのではないかと思われることを書き留めてみたのである。」として書かれた文、さらに、「もし実際にそういう機会があったとしたら、私の考えは相手の言葉によって非常に変容したであろうと思う。」とまでいう森有正と、原口統三が対話へと発展できなかったことが惜しまれる。本という一方的なもの、そして受け取る側にも自由な解釈を許容する媒体ではなく、実際に格闘するような対話の可能性が、すぐ近くにあったにもかかわらず実現しなかった、少なくともそのときを原口に待って欲しかったと願ってしまう。同時に私は、原口とどのように向き合うことができるかと大きな問いかけとして残る文章だった。
(2007.6.24)
- 「数学的センス」野崎昭弘著、安野光雅装画、ちくま学芸文庫(ISBN978-4-480-09056-0, 2007.3.30)
「数学セミナー」に20年ほど前「確率のふしぎ」という題で連載されたものを「空間のセンス」「美的センス」「知的センス」といった一般的な話題を中心にまとめ直したものである。最後に驚かされる確率の話で結び、全体として、非常に読みやすくなっている。各話の扉の本からの引用の言葉も秀逸で、野崎先生の教養の高さと心の広さ・深さから充分な感動が得られる。奇をてらったような話題はほとんど無く、しかしある程度の深さまで、また話の展開も安心できるものでありながら、予想がつかないもので、知的好奇心を充分に満足させ、かつ一方の偏ることなくすばらしいバランスも取られている。私は何回生まれ変わっても、野崎先生の、このような話はできないとつくづく感心してしまう。しかし、それも野崎先生の専有物ではなく、本の形でお裾分けして頂ける喜びは充分味わうことができたと思う。かなり幅広い読者にお勧めできると思う。野崎先生とお話しをする時を大切にしたい。
(2007.7.11)
- 「いま平和とは ー人権と人道をめぐる9話ー」最上敏樹著、岩波書店(岩波新書[新赤版]1000, ISBN4-00-431000-8, 2006.3.22)
同名のタイトルで2004年10月から11月にかけて放映された「NHK人間講座」のテキストに加筆されたものである。ICUの一般教育科目で著者が担当する「平和研究」の教科書の一つでもある。平和を築き上げるために国連や国際法そして市民には何ができるのか。いかにすれば、人間は対立を超えて真に和解できるのか。人権と人道の時代を迎えるための条件が9話にまとめられている。1.尽きぬ武力紛争(「新しい戦争」の時代) 2.未完の理想(国連による平和) 3.平和のための法(国際人道法と国際刑事裁判) 4.平和を再定義する(人間のための平和) 5.人道的介入(正義の武力介入はあるか) 6.平和と人権と市民たち(市民社会の世界化へ) 7.核と殲滅の思想(人間の忘却としての平和破壊) 8.絶望から和解へ(人を閉じこめてはならない) 9.隣人との平和(自分を閉じこめてはならない) そして最後に、もっと知りたいかたの為に、として、参考文献がついている。グループなどでの、学習用にも適している。p.211 おわりにの項で、著者は次のように述べている「平和を語るのは理想主義だという言い方があります。「理想」がまだ実現していないことを望むものだという意味において、それはそのとおりかも知れません。しかし、まだ実現していないが誰もが欲し、誰もが失いたくないものであるなら、やはりその希望について考え続け、語り続けなければならないのではないでしょうか。」として「希望が失われたら生命は終わりを告げたことになる」というエーリッヒ・フロムの言葉をついでいる。論理と、方法論においては、まったく単純ではないが、みなが望むもの、それが何であるかをとうところからはじめる平和、短いなかに、よく整理され、且つ、現在進行中の問題も扱った良書だと思う。
(2007.8.1)
- 「話し言葉で読める『蘭学事始』」長尾剛著、PHP文庫 (ISBN4-569-66735-X, 2006.12.18)
1774年に世に出た「解体新書」の翻訳者として知られる、杉田玄白の、蘭学のおこりから、解体新書翻訳の始終、その発展を書いた原稿用紙70枚ほどのものを長尾氏が読みやすい形に書き直したものである。正直、非常に面白かった。蘭学事始は、出版という形で世に出たのは福沢諭吉により明治に入ってから、福沢諭吉の推薦文から評価が上がったとされる。しかし、何よりも、オランダ語が単に通詞が必要最小限に使うものだったものから、西洋の学問を学びたい、特に医療の発展を吸収したいとの願望から何もないところから、それもある意味では、幕府からもおとがめがあるかも知れないような時期に、スタートし、それが一大ブームになる。前野良沢や、中川淳庵、大槻玄沢、宇田川玄真の人物評など面白い。学問をきりひらく意味でも、蘭学第一世代、第二世代の人たちの生き様は感動を与えられる。読みやすいようになっていなかったらおそらく私は一生、蘭学事始には出会わなかったであろう。
(2007.8.7)
- 「蘭学事始」菊池寛著、青空文庫
青空文庫に菊池寛のものがあるのをみつけ早速読んでみた。腑分けに行くところから始まっている。たしかに、長尾著のものとくらべると、あっさりしすぎているが、こちらが、原文の内容に近いのであろう。これだけでも充分触発されるものがある。
(2007.8.8)
- 「狐になった奥様」ガーネット著、安藤貞雄訳、岩波書店(岩波文庫 赤297-1, 2007.6.15)
カバーには、「テブリック氏の夫人シルヴィアはまだ23歳。立ち居ふるまいは上品で人並み優れた美形。いつものように二人で散歩に出かけるが、突然、夫人が狐に変身してしまう。次第に内面も野生化してゆく妻をあくまで愛しぬこうとする夫…。『一切の批評を寄せつけない佳品』とウエルズに絶賛された、イギリスの作家ガーネット (1892-1981)の代表作。」となっている。解説 (p.158) によると処女作。「相手を愛するには相手と同化しなければならない。」と解説にもあるように、自らを狐と同化させていく。突如何かの理由で、まったく人格が変化してしまった相手を、以前、自分が愛していた相手ではなく、今目の前にいる、相手に同化し、愛し続ける。その一筋さに、世の常ではないものを感じる。しかしそれでいてやはり自己中心的なところは哀れである。時間的にも限界があることを知りつつ、その時に浸ろうとする、テブリック氏を描ききっていることにも驚きを感じる。ガーネット著の「ポカホンタス」もあると知り、是非読んでみたくなった。
(2007.8.13)
- 「ヴェニスの商人」シェイクスピア (William Shakespeare)、安西徹雄訳、光文社(光文社古典新訳文庫, ISBN978-334-75130-2, 2007.6.20)
何回か演劇を見たことがあった、かなり昔であったように思う。学校の劇でも、テレビで放映されたものも見た記憶がある。「人肉一切裁判」という言葉と、ユダヤ人蔑視が背景にあるから最近は演じられる機会が減ったとか、その程度しか知識がなかった。どのような戯曲が当時好まれたのか、シェイクスピアと他の違いは何なのかなど多少考えながら読むことができた。一人一人の登場人ぶつに込められた役回りが単純ではないことは、シェイクスピアの作品の厚みとなり、現代で何の見劣りもしないものとなり、かつ言葉の一つ一つに味があるということであろう。ユダヤ人蔑視の問題はしかしながら、見逃すことはできないだろう。まだ共生を模索するということが、現在も無論その方向に進んでいるとは言えないまでも、人の意識には頭の一部にも存在しなかったのではないかと思う。訳者は同時代の他の有名な戯曲「マルタ島のユダヤ人」と「ヴェニスの商人」を二つ同時に公演を繰り返した企画のときの訳出をした人とのこと。最後のこの違いの考察をのせた解説は面白い。またチャンスを見て、シェイクスピアの作品を読んでみたい。
(2007.9.30)